服部明子の平家物語研究室

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■ 文覚上人

「もんがく・しょうにん」

生年没年共に不詳。

 遠藤盛遠と名乗っていた青年の武士の頃、袈裟御前という人妻に懸想して 夫を殺すつもりが彼女を殺してしまい出家して真言宗の僧・文覚と称した人物です。 吉川英治の「新・平家物語」では平清盛の出世を妬んで源頼朝に近づいたように 描かれていますね。源頼朝の父・義朝のどくろを持って頼朝に会い、挙兵を勧めたと言われています。 生臭い坊主です。

 頼朝の勝利によって神護寺を再興、東寺の修理をした人物でもありますね。 神護寺には源頼朝の端麗なる肖像画があって有名です。

 文覚上人のお話は「地獄門」という題名で映画化もされています。

 清盛から褒美に何が欲しいと聞かれて袈裟御前との結婚を許して欲しい と言って満座の嘲笑を買い、映画ではあれが清盛憎し、の原因のように描かれていました。 今でいうストーカーですね。 性格に問題があったのは確かでしょうが 怨みを昇華するのに組んだ相手が源頼朝だったから得な挫を引いたってことですね。 でも現在の表現では「フィクサー」というところでしょうか? ストーカー行為と言い、フィクサー行為と言い、尊敬される人物とはされませんね。 でも1人の人間として分析にはなかなか面白い存在です。

 源頼朝に近づいた機会というのは 1173年に後白河法皇に寄進を強請した為に 伊豆に流されて出来たのだそうです。 頼朝の死後にも佐渡に流され、対馬に流され途中で客死したそうで 結局は鎌倉幕府にとっても厄介な人物だったのでしょう。

 性は激越・行はあれど学無き荒聖人と評された人物だそうです。 伝説も出来、謡曲や浄瑠璃にも取り上げられて、 男としては結構面白い生き方をした人物ですね。

 さて、文覚と西行の違い・・・

 同じく女性をめぐる上での出家でも 文覚は生臭く 西行は世俗を超えた人。西行の出家はある女性が2度目の契りを拒否したことからだそうで、 「1度だけなら」との条件だったことに人としての自分を否定され 家も妻も子も捨て漂泊の旅に出たそうです。(23歳)王朝和歌の文学的伝統に揺さぶりを掛け新風を吹き込んだ新しい時代の人ということでしょう。花と月・旅と草庵の歌人・生得の歌人と評されるそうです。

日本は文化人の方が政治の人より上等とされるから 西行の方が人気が良いのでしょうか?


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