服部明子の平家物語研究室

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■ 源 義経

 義経ってナーンか明かるいですね。分かってないというか。思慮が足りないというか。ノコノコ奥州迄行ってしまうし。父親が同じなら自分は頼朝と同等の兄弟と思い込んでいるし。頼朝にとって母親が違う上、美貌で父の愛人になった下女の生んだ腹違いの弟なんて「下僕の1人」でしかない、と思っていることが全く分かっていない。こういう明かるさ?「ノーテンキ」ぶりも当時の日本人の感覚には無かったんじゃないかと思います。普通、発想の違う人間って日本では社会から追われるのに(秀吉同様)義経は愛されているから天性の明かるい性格だったのかしら?義経の実際の姿はチビでデッパらしいのにイメージとしては美男子で女にもてるタイプに変わってる。虚像が愛されるスター性では日本1の男なのでしょう。トクな人です。

 結論としては、ヤッパリ性格が壊れていたんだろう、と思うのです。あの明かるさで何をしても許されると思っていたのではないか。秀衡でしたっけ?オヤジさんの方。あの人が生きてた時は大きな態度で居候していられたと思うのですが兄弟間のゴタゴタもあったわけだからオヤジさんが亡くなってからは自分が転がり込むにはマズイんじゃないかと普通の人は考えると思うのですが。自分の兄の頼朝と藤原家が自分の事で争うようになってはマズイと普通の人なら考えると思うのですが。義経という人は人間の心の中の計算は全く思考回路に入っていない人のようです。「弓流し」で弱い弓を使っているのを敵に知られたくないような人物が弓の事には見栄を張って、正々堂々戦うことには頓着せず裏をかく手は次々と考えつく。義経のような人は精神分析学の方ではどういう診断になるのでしょうか?

扇の的の「御状」について

 あの御状は義経からの命令では無いと思っています。

1)伊勢三郎義盛はウサンクサイ男であるから自分の考えでも義経からの命令にしたのじゃないかと思うのです。それにこういうことって私の職場でもありますから。平安時代でも第2次世界大戦の時代でも間に入る人が「天皇からの」だの「上さまからの」と下の者に命令してきたのが日本の歴史の「真実」だから。2)伊勢三郎義盛とあの平家の侍のことを考えると個人的な恨みから「アイツもやってやれ」と那須与一に吹き込んだのだと思います。伊勢三郎義盛はどんな人物だったか誰もご存知の通りだから書かないけれどアノ平家の侍は伊賀の家長の弟でしょ。弟といっても50を過ぎた老人だけど。片や伊賀の名家の人間vs伊勢の馬の骨。そして伊賀の家長は六条院の弓のコンペで優勝した人物で、その弟が誉め讃えて舞をプレゼントしたわけです。もしかすると家長が見ていて「なかなかの腕前だ」と誉めてそれで弟に当たる老人が舞を披露したのかも知れません。その上源氏に付いた伊賀や伊勢の人間は伊賀や伊勢では平家に対して浮き上がれない故の嫉妬や反発や敵意があって源氏に馳せ参じたのだからモトモト伊勢三郎義盛には何とかして平家に対して鼻をあかしてやりたいという本心があったと思います。私はここに伊勢三郎義盛の姑息さを感じ取って「御状」は義経からのものではない、と思いました。

 本当は義経からの御状だったかも知れませんが物語を読む楽しさって行間を読むことでもあると思います。現実には私の職場では自分に納得のいかない命令を受けた時ただちに「命令」したとされる人物に直接問い返しに行きます。「あなたがこんな命令を出す筈が無いと思う」「私はこんなこと自分の信念に対して出来ません」と言う権利があります。那須与一は「御状」と信じて射殺したのかしら?それとも与一自身平家の美意識を解さない別な世界の武士だったのかしら。この章は義経、義盛、与一3人の力関係や心の中を私に考え込ませてしまいます。


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