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 投稿番号:101726 投稿日:2020年07月19日 06時13分33秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族CXXXZ:137:いよいよ核心に‐5
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101721_73.html
長上郡の服部氏族CXXXY:136:いよいよ核心に‐4
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


酔石亭主さんのご降臨で

     http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101717_51.html
         長上郡の服部氏族CXXXW:134:いよいよ核心に‐2
     http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101718_47.html
         長上郡の服部氏族CXXXX:135:いよいよ核心に‐3
     http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101721_73.html
         長上郡の服部氏族CXXXY:136:いよいよ核心に‐4

古代史の読み解き方を教えて頂きました。
ありがとうございます。


前スレッドのレス<52>で

野洲市中主町虫生154の虫生神社あたりに服部郷があり、
錦織部の人々がここに居住して、虫生社を勧請したと伝えられる

同社の西に錦織寺があり、そこは木部集落で木部神社が鎮座し
浜松の伎倍→木部→(秦)喜平に通じるような構造が近江にもあるのが印象的

日本書紀では仁徳天皇の時代に錦織の人名が見られるものの、
多分斉明天皇から天智天皇の時代、百済から逃げてきた錦織の人々が服部郷に移住したのでしょう。

一方で錦織部が来たから服部郷になった可能性もあり
また錦織姓は出雲が圧倒的に多いのもよく理解できないところです


ということから三つ柏さんが森近辺を探索したところ
伊賀で人を殺めて駿河に出奔した「服部源左衛門」の末裔に行き着いた
という報告がありました。
レス<68><69>
家紋は蔦に近い桐紋。
寺は蔵泉寺と栄泉寺。   
まさに!今川家の重臣の末裔ですね。

遠江の現場に視線が戻って来ましたね。
かなりご先祖さまに近づいているようです。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月19日 15時31分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 水石亭主様、いろいろご指導ありがとうございます。

 さて、森町の服部家の調査、昨日も行って来たわけですが、色々な情報が
ミックスしており、それも口伝ではしかたないこと。とりあえず源左衛門の
後裔とするには、決定打が今のところありません(雑談の話だけですので)。
 今後、現地のお寺調査等をして行くつもりです。
 現地には平家の落人の「友田家」の屋敷があり、服部家とは姻戚関係でつ
ながっているそうですが、これもまた調査してみたいと思っております。

 それにしても、森町の一画・三倉という所、山里ではありますが、近くに
菅原道真の弟子が流れて来た話、平家の落人が流れて来た話、そして家康と
武田方の攻防(家康はこの地で怪我をしている)等、歴史のるつぼであります。
 従って、今暫らくは、ここにフォーカスしてみたいと思っています――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月20日 00時32分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>口伝ではしかたない

いえいえ
口伝でも事実を含んでいるわけで  真実に辿り着きたいものです


ということで

>平家の落人の友田

ありましたよ!



友田氏には3つの流れがあって  結局は  平家がらみですね。

1.
広島の厳島神社関係  もろに平家方ですね 

佐伯郡友田発祥で佐伯一族ですから  
宮司さんの佐伯鞍職(さえきくらもと)の一族である棚守氏・友田氏・小方氏

もう1つが
2.
伊賀の鞆田発祥の服部家の分家

出た!


どっちにしろ平家の落人ですね。

ということで  更に検索!

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8F%8B%E7%94%B0

【名字】友田
【読み】ともだ,ともた,とみだ
【全国順位】 1,406位
【全国人数】 およそ11,900人       結構多いんですねぇ  知らなかった


【名字の由来解説】

@現広島県西部である安芸国佐伯郡友田村が起源(ルーツ)である、佐伯氏

Aほか現三重県北西部である伊賀の服部氏などにもみられる。

B現石川県である加賀藩にみられる。
             これは恐らく北国を支配してた平家の末裔か
             前田利家にくっついて加賀に引っ越した友田さん?



友田さんの多い地域 TOP5

都道府県   人数

大阪府 およそ1,500人
東京都 およそ1,200人
福岡県 およそ880人
熊本県 およそ830人
静岡県 およそ780人                   多いじゃん!


市区町村   人数

兵庫県豊岡市 およそ240人
熊本県熊本市 およそ210人
岡山県浅口市 およそ190人
熊本県玉名市 およそ170人
佐賀県佐賀市 およそ170人


友田さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県   比率

熊本県 0.04711%
佐賀県 0.0466%
福井県 0.03795%
岡山県 0.02335%
山口県 0.02269%


市区町村   比率

静岡県周智郡森町 0.86157%            やっぱり!
福岡県築上郡吉富町 0.77183%
広島県豊田郡大崎上島町 0.56445%
岡山県浅口市 0.55729%
北海道増毛郡増毛町 0.41721%


口伝でも  ホント  にちゃんと伝わってた!
でも数百年後には忘れ去られるでしょうね。
惜しいことです。

でもこうして三つ柏さんが平熱にお書きになったので  永遠にWWWの世界で存続出来ます。
良いことをなさいました。


お墓めぐりをなさってください。
そして般若心経を唱えてあげてください。
[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月20日 10時15分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 友田家についてお調べいただき、服部党と関係することが分かり、びっくり
しています。
 こちらの服部家(源さん)は、祖先が藤原とも名乗ったことがあるということ
で、ひょっとしたら光盛の父である頼盛の母・池禅尼が藤原氏であったことに
よっているのではとチラッと思いました。また、頼盛は平宗清(服部の祖)と主
従関係にありますので、藤原・服部の関係の話はそこらあたりから来ているの
かなとも思いますが、友田家の存在から、その知られざる過去の中にヒントが
あるのかも知れません。近々、友田屋敷に行ってまいります。

 家康・半蔵正成と遠州における戦い、プラス大きな戦いを年代順に整理して
みました。その陰で必死でうごめいている者達が見えて来ませんか? 

1542年 (1歳) 徳川家康・服部半蔵正成生る。
1557年 16歳 服部半蔵参陣(初陣)。
1558年 17歳 寺部城の戦い   徳川家康初陣
1560年 19歳 桶狭間の戦い 織田信長×今川義元 今川義元を討ち取る!
1562年 21歳 上郷城攻め    徳川家康(松平元康)参陣
 
1568年 27歳 掛川城の戦い 徳川家康×今川氏眞 氏眞退城、ほぼ滅亡!
1569年 28歳 堀川城の戦い   徳川家康×堀川一揆 徳川側勝利。
1569年 28歳 天方城の戦い(1次) 徳川家康×山内山城守(今川方) 徳川側勝利。

1570年 29歳 徳川家康、浜松城入城。
1570年 29歳 姉川の戦い    織田+徳川×浅井+朝倉 織田+徳川側勝利。 
1570年 29歳 天方城の戦い(2次) 徳川家康×山内山城守(武田方) 徳川側勝利。
1570年 29歳 天方城の戦い   武田信玄×徳川家康 武田側が奪還。
1571年 30歳 高天神城の戦い(1次)武田信玄×小笠原長忠 信玄城攻め中止。
1572年 31歳 一言坂の戦い   武田信玄×徳川家康 徳川側敗走。
1572年 31歳 二俣城の戦い(1次) 武田信玄×中根正照 武田側勝利。
1572年 31歳 三方ヶ原の戦い  武田信玄×徳川家康 徳川側大敗。
1573年 32歳 天方城の戦い 徳川家康×久野忠宗 武田側から奪還。
1573年 32歳          武田信玄死す!
1573年 32歳 長篠城の戦い   徳川家康×菅沼正負 家康に内応、開城。
1574年 33歳 気田の戦い     天野景貫×徳川家康 家康、天方城へ退散。
1574年 33歳 高天神城の戦い(2次)武田勝頼×小笠原長忠 武田側勝利。
西退組・東退組(小笠原長忠)に分かれる。
1575年 34歳 長篠の戦い    織田信長×武田勝頼 武田軍大敗。
1575年 34歳 二俣城の戦い(2次) 徳川家康×依田信蕃 武田軍退城。
1578年 37歳 天正伊賀の乱(1次) 織田信雄×伊賀衆 織田川大敗。
1581年 40歳 高天神城の戦い(3次)徳川家康×岡部真幸 武田軍壊滅。
1581年 40歳 天正伊賀の乱(2次) 織田信長×伊賀衆 伊賀壊滅。
1582年 41歳 天目山の戦い   織田+徳川×武田勝頼 武田勝頼死す!
1582年 41歳 本能寺の変    明智光秀×織田信長 織田信長死す!
1584年 43歳 小牧・長久手の戦い
1586年 45歳          家康、秀吉と和す。
1587年 46歳          家康、駿府城へ移る。

 徳川家康も半蔵正成も、29歳から46歳までの17年間、浜松城を拠点とし
て戦いの日々を送りました。そして、戦いの相手は、甲斐の武田氏が中心であ
ったことがわかります―― 
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月20日 10時25分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの「1578年」の行の修正:織田川→織田側
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月20日 11時46分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

年表をありがとうございました。

大勢の方が亡くなって  家康の一生が戦いの日々だったんだなぁと  改めて思いました。
亡くなる1年前にやっと豊臣家の始末がついて、安堵の日が来たのだなぁと。



友田家も大変だったのだなと。

地図を見てください。
友田は  湯舟の南で  柘植の西です。甲賀は東北です。山向こうだけど。
ヲイヲイですよ。
https://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.84459789&lon=136.19595710&ac=24216&az=110&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%E4%B8%8B%E5%8F%8B%E7%94%B0


服部源さん宅と友田家は  まさに  平頼盛公のお子さまの平光盛公がらみかもですね。
平頼盛公の家人=家老だった=宗清は頼朝から土地をもらって柘植に移り住んで   結局は  家長に替わって伊賀の主人に納まったのですからね。

                       家長は壇ノ浦の後は荒木に戻らず千賀地に引っ込んで時定と名乗ったそうですから。



服部源さんのお家と平家の滅亡後の関係が知りたいですね。
                       柘植の宗清系なのか?  キイワードは藤原氏と光盛公
                       千賀地の家長系なのか?こっちなら服部保長系でしょうね。半蔵  ⇔  天方氏 @ 遠州森


現在に至る遠州森に戻ったこと。そして家紋を替えたこと。



三つ柏さんのお宅が長上郡なのは政信系か中保次系か  も  新たに浮上し直しますね。


是非また般若心経を唱えてあげてください。
何かご先祖さまからのメッセージがありますように!
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月20日 12時24分07秒 ) パスワード

天方氏ですが  あの事件後2つに分かれて1つは福井藩士にもう1つは旗本で旗本の天方氏は通興の娘婿の青山姓に変えているんですって。
家紋も青山氏の葉菊に。

                      ちなみに服部政信の分家が16葉菊紋も使っています。

                      青山といったら青山成重がいますね服部正信の子で母の実家の青山家に養子にいきました。
                      兄は正尚。西郷局の父です。




http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html
天方氏
一の字/細輪に葉菊
(藤原氏秀郷流首藤氏族)

一の字紋


 
遠江国周智郡天方郷から起こった。
もとは藤原秀郷の後裔首藤氏の一族である。

藤原助清は三河国に住し、首馬頭に任じたことから首藤氏を称した。

後裔にあたる俊通は滝口刑部丞を名乗り、その子が滝口四郎俊綱である。
山内首藤氏とは同族の関係になる。


代々鎌倉御家人であったようで、通隆の代に鎌倉幕府が滅亡。
通隆は北条高時に殉じて鎌倉で自刃した。
以後、世に隠れていたようで、通隆以後2代の実名は伝わっていない。

通秀の代に至って、遠江国天方城に住した。
これより天方の地名をもって家号にしたという。


通興の代に今川氏に属した。
今川義元が桶狭間で信長に討たれ、氏真の代に今川氏は衰退することになる。
通興は、今川氏没落後、石川伯耆守数正について家康に謁え、
以後、徳川氏に仕えた。

                       ここで服部源さんの家と天方家は知り合いだったんでしょうね。
                       そして服部保長や半蔵も絡む?


天正二年、家康が遠江国乾城を攻めた時、
大久保忠世に属して、
案内役を勤めた。


これより、通興は大久保忠世に属して、家康の戦に参加し、数々の戦功を挙げている。

                       天方と半蔵は大久保忠世を挟んでも大いに知り合ってますね。


嫡子の通之は早世し、次男の通綱が家督を継いだ。
通綱は織田信長の嫌疑を受けて、切腹の命を受けた家康の嫡子信康の検視役を命じられ、
同役の服部半蔵とともに遠江二俣城に赴くことになった。

信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、代わって通綱が信康の介錯をした。


通綱はのちに信康介錯のことをはばかって出奔し、家康の次男で信康の弟にあたる越前藩主結城秀康に召し出されて仕えた。

                       ココで福井藩士の天方氏になりました


通綱は、鞍・鎧づくりに優れ、
その作品は彦根井伊家に伝わっている。

                       ここも  ヲイヲイに1票!
                       当然  井伊直政と知り合いだったでしょうし


通綱の子孫は福井藩士として続いた。



通興のあとは、娘婿青山忠成の子通直が継いだ。

                        旗本天方についてはココからです

通直は幼少の時より家康に奉仕し、慶長八年の家康上洛にも随行し、慶長十八年には、すべて二千二百五十石を知行した。
慶長十九年の大坂の陣にも参陣し、秀忠に従って、天王寺の戦いにおいて戦功をはげまし、玉造口の戦いでも大坂方を槍を合わせて甲首一級を挙げている。

寛永二年、上総国武射、下総国葛飾・香取、相模国高座四郡のうちで二千二百五十石の朱印状を賜った。
同三年には従五位下備前守に叙任、同七年十一月に死去した。
旗本家天方氏はのちに青山氏に改姓している。

                       ココです


家紋は、首藤氏ゆかりの「一文字」紋が本来の定紋であったが、
青山氏との関係から「細輪に葉菊」紋の方が後世では定紋となっていった。



青山氏はもとは上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、
その後、三河国額田郡百々(どうどう)村(現・愛知県岡崎市百々町)に土着し、
百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。

             わたしたちは百々を  どうど  と発音してました。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月20日 12時30分14秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F
青山家の系図



見てると泣けて来る。


[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月21日 15時41分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、森町の北東約10qの山あいにある「友田家」に行き、その茅葺の
家や内部を見てまいりました。

 表の案内板には、森町教育委員会による説明書きがありました――

「国指定重要文化財 友田家のなりたちと重文民家
 友田家の所在するここ西亀久保は、かつての飯田荘天方郷内加保村とみられ、
飯田荘は、白河・鳥羽・後白河の三天皇が、伊勢・石清水・賀茂三社に誓って
祈るために寺社に与えた荘園であった。
 文永二年(1265)の「遠江国三代起請地并三社領注文案」では、蓮華王院(三
十三間堂)の所領で、弘安四年(1281)には、備後山内首藤道茂が、飯田荘内の
筥嶋・加保・西俣村の地頭職に任ぜられている。
 「亀久保」は、本来「甕窪」で、吉川渓谷の甕穴(ウォーターホール)が地名
の語源となったのであろう。また、吉川流域は、良質な砂鉄のり産地であり、
古代・中世を通じて砂鉄の採集と精錬、これによる刀鍛冶や鋳物師が居住する
鉄製品の生産の地でもあった。
 重文友田家の祖先は、伊賀国鞆田荘(ともだしょう 現在は柘植)を出自とし、
平清盛の厳島大明神造営に随い、安芸国友田村に移り、その後、清盛の要請に
よって奥出雲で刀鍛冶となった。
 源平の合戦後は、鎌倉に参着すべきところ遠州飯田荘天方郷(鍛冶島本村亀
久保平)に土着し、後に、当所西亀久保の地を草分け開発をして、現在四十七
代目を数える平家の落人と伝えられている。
 重文・友田家住宅は、元禄期に、隣接する本屋敷から現在地に移築し、前身
母屋の部材を残しつつ、三百年余を維持してきた。」

 伊賀の鞆田荘は、正に平家の中心的土地柄で、平家貞が統治しておりました。
 服部氏の一族ともつながっていると考えていいと思われます。
 教育委員会の説明書きは、サラッとしていて、表面的に言葉を拾いつなげた
だけのような感じがいたします。本当は、もっと深いいろいろな歴史や絡みが
あるはずと推察しています。

 家の中には、古文書の写しと別の説明書きが額に入れられて飾られていまし
た。その内容は教育委員会の説明書きとは少し乖離したものでありました――

「先祖 友田傑山 友田家家紋 丸に九曜
 平民良分流の出で、平将所はその姪である。高持王が関東に赴任したのが、
寛平二年。その時友田祖先が一緒に行った。
 藤原氏専横の時代、官軍争いに敗れ、甲賀の国に落人となった。
 高持王が臣籍に下り、関東へ下向した。その後、友田族は戦国期になり武田
方の諜者となり、遠江国樫の木山(山道農水隊)と呼び、武田信玄上落には最も
信頼が寄せられた。秘密の各地方衆であった。」
 
 ちょっと、日本語の文脈として意味不明なところもありますが、武田側に仕
えていたことがあるということだけはわかります。

 もう一つの額縁に入れられた古文書については、写真に撮ってきて解読して
おりますが、字が小さくてまた崩し文字でありますので、もう一度行ってズーム
アップして撮ってきたいと思っています。
 ただ、その冒頭に「友田一統 藤原氏 云々」と書かれていますし、多分私
の推測ですと、伊賀での出自のことが書かれているのかと思っています。
 簡単ではありませんが、友田家が解ると、服部源さんちも解るような気配が
あり、興味深々であります。

 友田家にはお百姓着のおばあさんがいましたので、お墓はどこにあるのか尋
ねたところ、小国神社の入口の小道を西に入った所の一画にあるということで、
行ってみることにいたしました。どうも地元や寺社に多大に貢献をしているよ
うです。
 お墓は、特別区画に確かにありました。友田家ともう二家の墓、総数で五基
ありました。そこで、あを様の分も含めて、般若心経を二巻、唱え捧げてまい
りました――

 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月22日 01時31分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


詳しくココにコピーしてくださって感謝申し上げます。

友田家のお墓に般若心経を詠んであげて  本当に良いことをなさいました。


昨日「ファミリーヒストリー」で鶴見辰吾の家系について紹介してました。

父方は信玄の家来
負けて
信州水野家の馬無しの10石3人扶持の家臣になり
水野家が殿中刃傷沙汰を起こして旗本に格下げになったものの
運良く奉公が続くことになり
やがて沼津で一人前の家臣となって京都奉行にまで出世したのだったかな?

水野家が大名になって幕末に早々と官軍方についたら
幕臣達が駿府に流れて来て千葉の小さな田舎に転封となり・・・


母方は本多家の出で岡崎5万石の城主だった
すごいね
家康の生家の城を預かったんですよ

という紹介がありました。


人生って  分からないものですね。

友田氏も信玄方?


ここで思い出すのは川越の服部家です。
信玄の家来で母衣衆でした。
絵を見たことがあります。

この川越の服部さんは  戦後  敗戦後(笑)武田滅亡のハナシね
商家になって今に至る
です。

家紋はいわゆる伊賀の正統の  車に並び矢紋  です。
信玄の家来ですよ。



ということは  友田家と充分関係しますね。
武田 ←→ 今川 ←→ 北条
この3つの間の同盟関係の中で諜報活動に従事してたのでしょうか?
                        ワクワクして来るな。



我が家もホンヤさんが今川と手を結んで信長を殺そうとした
武田には川越の服部家の先祖がいた


        イマイチ分からないのが蘆田信蕃に行った服部正吉。
        この人は結局は本多正信正純父子に拾われて
        忠長卿に仕えたものの家光に処分されてついでに失職
        その後  綱吉に仕えたものの  徳松君が死んでしまって  田安家の近習に。


すごい時代
人間関係も渦を巻いている


そういう時代に友田家は表に出ずに   何してた?   
隠密?遠州森で隠密の拠点?宿を貸してた?


隠密関係なら世に顕われずヒッソリと続いた?


また戦国時代に戻りましたね。
長上郡の服部家は何をしてたんでしょうね。


やっぱり図書館や博物館など丹念に記録を拾いに行かないといけませんね。
今は遠出自粛時なので   ちょうど  良かったのかもね。
ふふふ        


そうか
もしかすると我が家の親戚の三河服部家が今川方で友田家とも知り合いだった可能性が出て来ました。

                       やっぱりみんな親戚繋がり?
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月23日 14時32分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年に入ってウォーキングをし出しまして、今まで(約200日)で約800q
の距離を歩きました。これは、芭蕉が「奥の細道」で歩いた約2400qの3分
の1に相当しますが、日数的にはもう既に芭蕉のそれに要した約150日をオー
バーしています。でも、距離的には、2400qも走破可能であるという自信が
でき、昔の人の健脚さというものがどういうものであるかも想像できるようにな
ったことは良かったと思います。ま、これからもマイペースで足を痛めないよう
に歩きたいと思っています。

 さて、友田家については、あを様のご指摘で、伊賀の国鞆田荘の出自というこ
とがわかり、鞆田荘等について調べておりました。調べれば調べる程、平氏の内
でも伊勢平氏、即ち平家の基盤の中心となった土地柄であったことがわかりまし
た。また、伊勢平氏といいますが、鞆田荘を中心として、伊勢平氏の基盤は伊賀
にありましたので、伊勢平氏というよりも伊賀平氏であったという認識を新たに
いたしました。そこには服部氏が中心となって存在していました。そして、平正
盛以下が統治し、また当然そのための住居も置いていたはずであります。
 つまり、「伊勢平氏=伊賀平氏=平家」の定理がある意味成り立つということに
なり、改めて、服部氏というものの属性について再認識させられました。
 また、それは「平家・伊賀・服部党・後醍醐天皇・南朝」という定理につなが
っているということ。ここも改めて、再認識させられたところであります。
 森町の奥に、服部・友田家があるということ、「平家・南朝」というキーワー
ドでみれば、それは戦国時代もその流れにあったということで、森町の奥に武田
(北朝)との分水嶺があり、生き残るための微妙なバランスの橋渡りをして来たと
いうことは理解してやりたいと思います(かつて、天正伊賀の乱においても、織
田側についた柘植衆もいたことを思い浮かべます)――

[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月23日 16時50分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしは意を決して5月7日から太陽の下を毎日2時間歩くことにし
今では両腕が真っ黒になっていて
子供の時以来の日焼けによる肌荒れというものを経験しています。

これで北欧の病気であるパーキンソン病と硬化症の発症を免れれば
と願っています。
近年は色白肌を求めて太陽を避け北欧人並みに骨は弱くなりパーキンソンやらALSになる日本人が増えてますから要注意です。

    田植えをやってた時代にはこんな病気は遺伝子を持っていても発症しなかったんでしょうが

最低1日15分紫外線を浴びる=1日2時間あたり=つまり1日で1週間分あたりでしょうか?
既に1年分は紫外線は浴びている計算です。
更に
ついでに骨密度もアップすれば、と願っています。

お互いに健康のために頑張りましょう。


>織田側についた柘植衆もいたことを思い浮かべます

しょうがないです
勝馬には誰でも乗りたいものです
意地なんて

でも後世に誰かが菩提を弔ってくれれば意地を張って死出の途を選んだ者達も満足できるでしょう。


>蘆田信蕃に仕えた服部正吉。
>本多正信正純父子に拾われて
>忠長卿に仕えたものの
>綱吉に仕えたものの  徳松君が死んでしまって

いい線、行ってたのにね
惜しい!

この人物のことは良く分かりませんが  どうして蘆田信蕃あしだのぶしげに仕えたのでしょうね?
    父親は芦田信守で、守護代の大井氏や、諏訪頼重に臣属していたが、後に武田信玄に仕えた。信蕃は後に家康に仕えた。

本多正信に拾われたのは  一向宗がらみだったかも
    本多正信は家康が一向宗を弾圧したので反旗を翻し  出奔し  後に 帰参を許されました
家光の弟に仕官出来て忠長卿は次期将軍の可能性があったのに   涙の失職
綱吉に仕官出来     次期将軍のお側用人になれるはずが  夭逝されてしまって

本当に人の運って、一生って、分かりませんね。
服部正吉の家が一番の出世頭になるのかと羨ましがられていたでしょうにね。
  

正吉の詳しい事情が分かりませんが  蘆田が諏訪家に仕えてたことから考えると  南朝方がらみ?  
さらに  ヒバリさんの家にも繋がる?彼女?彼?の家は元は伊勢の忍者ですものね。

こうやって考えていると  友田家の役割もなかなか奥深いヒミツがあるような気がします。


服部源さんのご先祖が伊賀で人を殺めたのは   どういう経緯からだったのか  興味が出て来ます。誰に仕えるかで喧嘩になったのかな?とか。


>織田側についた柘植衆もいた

しょうがないんです
世の中は刻々と変わって
信長は北畠家を乗っ取ってますから  あ、  神戸家も!
北畠と言ったら南朝方の大人物=北畠親房=の子孫です。伊勢の国守。
その北畠家を信長が乗っ取ったので柘植衆の中にも信長の息子に仕官したのがいたのでしょう。

わたしは一匹狼的でどっちにも属さないから職場で敵対する両者から敵だと思われました。
両方から蹂躙されるんですよ。


宗教戦争の時も  家康は信長と一緒に一向宗を弾圧した。だから半蔵は浄土宗なのかな?浄土真宗=一向宗でないのが不思議です。改宗したのかな?

本多正信は改宗しないで主人にタテついた。けっこう信仰の人だったのかな?
うちの三河の親戚も当然今でも一向宗=浄土真宗西本願寺ですよ。


そういう歴史のハザマの中で三つ柏さんのご先祖さまはどうやって生き延びたのでしょうね?
曹洞宗ということは今川家や吉良家の宗教で、吉良家の菩提寺は萬昌院。
服部正吉も服部源さんのご先祖服部康信もここが菩提寺です。

         今川家の息のかかった土地や人は曹洞宗が多いんでしょうか?


家康は先祖代々浄土宗だったのを頼りにしていた天海大僧正に相談して本人は天台宗。笑
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月26日 13時23分47秒 ) パスワード

友人から:以下コピペ


妖怪ですけど,これ出雲(縄文)の神様が多いのですよ。

口裂け女と山姥は,出雲では豊穣の女神さまです。
一番怖い,ぬらりひょんも出雲では神様です。
ぬらりひょんは,出雲の最後の王、大国主命説もあります。

日本の妖怪は,出雲が競争に敗れた結果,悪霊になったといわれています。
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月26日 17時16分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ずっと雨ばかり、またコロナが蔓延し出し、憂鬱さが増しています。

 さて、昨日は、森の奥の三倉に行って、源さんに村のあちこちをいろいろ
案内してもらいました。山間の村で、植林した杉の木が垂直方向に濃緑のカ
ーテンを引いていて、鬱蒼と昼でも暗く、そして見晴らしのいいところはあ
まりありません。杉の植林が行われた結果こうなってしまったとのことであ
ります。
 源さんの本家は、村の一番いいところ、即ち村全体が見渡せる場所にあり
ました。本家の祖先は、庄屋や村会議員をやっていたとのこと。村のお寺の
一番奥の一番高い一画に、服部家のたぶん江戸時代(それ以前かも知れない)
からの墓石群が苔むして並んでいました。家紋は「葛」でありましたが、も
うひとつは、「丸に三の文字」も使っているとのこと。小笠原氏にもこの紋
を使っている系がありますが、三倉の三を使ったのかも知れません。

 雷がひどいので、中断いたします!
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月27日 02時55分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

>家紋は「葛」

チョー  珍しい紋ですね。
周りにいないです。


でも山の中だったら「葛」がアチコチに生えてるのかな?    山の子じゃないので分かりません。
それとも
桓武平氏の「葛原親王」を記念しているのかな?

謎々ですね
一子相伝でご子孫には家紋の由来は伝わっていたのかもですね。



>「丸に三の文字」

引両紋というと   源氏かな  と想像します。
一本の新田   二本の足利  三本となると

    >新田氏庶子家(里見氏、山名氏、徳川氏、額戸氏)ほかに三浦氏、伊達氏、吉川氏などが用いた。
     松浦氏など源氏を出自とする一族が用いることもある。

という謎なのかな?と。


家紋は分からないですね。名字よりずっと変化してて想像も及ばないです。
4男以下とか庶子とかで  使わせて貰えないから  創出した  勘考した  というのがあるでしょうし。


名字なら
本姓平氏   名字=俗姓=服部   屋号友田
みたいに流れが結構纏まりますが。


こちらはハリケーン・ダグラスが来てるそうで

昨日=土曜日=「仮面ライダー  エグゼイド」を見てたら      古っ!
警報が流れて(しつこく)午前11時から午後5時まで外出しないように、兵糧を2週間分確保しておくように
あ、マスクとハンドサニタイザーも忘れないように
とお知らせがエンエンと流れていましたが

     土曜から月曜朝までの要警戒

午後6時過ぎの東の空は(貿易風だからね)確かにアヤシイ雲の流れでしたが南の空は青空でした。

で、今朝は結構風がヒューヒュー言ってて雨は止んでますが靄ってます
     だいたい7月8月はハリケーン・シーズンで  フツー  こんなもんです


上レスの友人から下記のことを教えてもらいましたが地学はゼロに近いに近い理解力なので意味不明:

ハワイにハリケーン「ダグラス」接近しているそうですね,お気を付けください。
でも,気象学と言うか物理学の常識で,北回帰線付近,トリコリの力が弱いので,
海が高温であっても,台風は出来ないというのが常識でしたけど。
驚きです。


私見ですけど,
トリコリの力の法則は,無くなることはないと思いますので,海水温が高すぎて,ハワイ近海で,一応トリコリの力働いてますけど,その力の限界を超える海水が蒸発しているものと思います。

もしかしたら,オワフ島の海水,温泉のようになったりして。(笑)


_______________________________

今年はインド洋上が暴走しているからの異常気象とイナゴの大群だそうですが
ムカシはエル・ニーニョが暴走してましたよね     最近はおとなしい?

わたしの理解は「地球は生きている」あたりです  人間の力など  あたり。


人口142万人弱のハワイのコロナの感染者累数は  1,620   死者26

ハワイへは  来たら2週間の自主隔離ね  ということで7月の初めにサウスカロライナから一家で観光に来た人が  ハワイの州知事を訴えて
懲罰的慰謝料2万5000ドルぷらす宿泊代の計3万ドルを払えと主張してたけど 
ハワイ州司法は却下したそうです。


人口515万人の サウスカロライナの累計感染者数は 81,199 死者 1,491
自分達の州がヤバイからって  だったらド田舎で安全そうなハワイへ行こう 
なんて安易な発想は止めてくれ!です。


日本だって同じだと思いますよ
岩手は安全だから岩手に行こう!なんて考えないでやってくれ
と思います。

日本の知り合い=わたしのことを【仕事の出来ない無能なあをちゃん】と呼んでたヒト=は福島に先祖のお墓があって墓参りに行きたいけど
行って車を壊されるのもイヤだから
今年も(もともと原発汚染地区だから行けない)行かないと知らせて来ました。


日本人というのは自分で心の折り合いを長年つけて来たものだろうだけど
    自分はコロナに感染したくないから人口の少ない岩手ならいいだろう、与論島ならいいだろう
と、今や、岩手や与論島のヒトの迷惑や困惑を考えない民族に成り果てたようです。


8月の初めにはGO TOの結果が分かりそうですね。

観光産業のハワイは失業率が6割を超えています。
まだまだ日本との航空便は再開していません。
ドンキの日本食コーナーは空っぽです。   昆布の佃煮と梅干しか残ってない。


こんな時でも  どうやって心楽しく日々を過ごすか  遊びを発見する楽しみがある  ってもんです。
[15]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月27日 07時10分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今日は雨という予報でしたが、青空に白い雲となっていて、どうやらいい
天気になりそうです。ひょっとしたら梅雨明けの予感もいたしますが、予報
では8月まで持ち越すとしています。
 昨夜は豪雨、雷、突風で、友人のお宅の倉庫が倒れたという知らせが入り
ました。浜松でねコロナのクラスターが発生し、踏んだり蹴ったりの状況で
あります。台風は、いつもならこの時期には5号〜10号くらいまで発生し
ているのに、未だ発表がないというのも狂った気候現象であります。その内
どでかい台風が来るのでしょう。ハワイには台風が近づいているということ、
直撃しないようにお祈りいたします!

 さて、一つミスがありました。葛(かずら)と蔦(つた)の取り違えでありま
す。蔦紋とかくべきところを、葛紋と書いてしまいました。あを様の「珍し
い」で気が付きました。
 改めて千鹿野茂編の『家紋でたどるあなたの家系』で調べてみますと、び
っくりです。ありました! その紋を使用した服部氏がありました。
 説明には――
「伊賀国阿拝郡服部郷より起こる。服部氏族(『姓氏家系』。『寛政譜』では
未勘源氏。長勝の系の替え紋。定紋は源氏輪に竪矢筈。」
と書かれておりました。

 この説明の内容について、もう少し探ってみたいと思います――
(朝食につき休憩)
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月27日 08時11分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

了解です。

で、未勘源氏について調べて来ました:

https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk02aOpUhJljBv0CnPBaN3YkJ_FYOrg%3A1595802262756&ei=lgIeX423LY3P0PEPlu2m2As&q=%E6%9C%AA%E5%8B%98%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E6%9C%AA%E5%8B%98%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_lcp=CgZwc3ktYWIQDDoECAAQR1DqF1jqF2DqJWgAcAF4AIABqQGIAakBkgEDMC4xmAEAoAECoAEBqgEHZ3dzLXdpesABAQ&sclient=psy-ab&ved=0ahUKEwiN2oLY-uvqAhWNJzQIHZa2CbsQ4dUDCAs#spf=1595802261851

未勘源氏とは”清和か宇多か村上か不明の源氏”の意である。


         ホンヤさんは後醍醐天皇の崩御の前の年に「後醍醐源氏」を賜って  「うちは源氏」  とおっしゃってました。
         このことかな?



>長勝

3人ヒットしました。
市橋長勝と浅野長勝と溝口長勝。
どちらなんでしょうね。


市橋家=大和源氏の祖となった源頼親の末裔。家紋は三つ菱餅。斎藤道三に仕えた。のち信長 → 家康。

浅野家=清和源氏。家紋は丸に違い鷹の羽。浅野長勝は織田信長に仕え弓衆となっており、男子がなかったため、安井弥兵衛重継の子を養子に迎え、これに自分の娘を嫁がせている。その養子がすなわち長政である。
    長勝の後妻が杉原氏で、その姪が秀吉の妻のねねさんで、ねねさんの妹のややさんのダンナさんが浅野長政。



溝口長勝
信濃の清和源氏である小笠原の流れの溝口貞信の三男(系図上で)美作守長友の子が長勝。
(小笠原政長の子孫三郎氏長が伊那郡溝口郷を領し、地名をとって溝口氏を名乗った)

反武田です。

家紋は松皮に井桁と三つ葉柏紋!!!  ヲイヲイですね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/og_mizo.html
の一番下で系図の上。

                        なんか  イロイロ  かすってますね。


小笠原氏に仕えた溝口氏の家紋に関しての一資料としては、『羽継原合戦記』があげられる。

『羽継原合戦記』は別名『長倉追罰記』ともよばれ、永享七年(1435)鎌倉公方持氏が長倉遠江守を追罰した戦記物だが、
そこに全国諸豪が勢ぞろいしたときの陣幕の紋が列挙されている。


これが当時の紋を知るうえで重要な手がかりとなっている。


同記には小笠原氏のことも記され、
二木、望月、西牧、下条、坂西、赤沢、そして溝口氏らの信濃に関係する武士の 家紋が多く取り上げられている。


そして、そこに記された溝口氏の場合、
「溝口は井桁、但し三つ葉柏を打つこともあり」
と記されている。

井桁、三葉柏ともに清和源氏とは比較的縁が少ない家紋と呼べるものだ。  
以下略



>定紋は源氏輪に竪矢筈

これは伊賀の服部氏の紋ですね。
車に矢が2本
というのです。

家長が弓矢のコンペで優勝して車いっぱいの矢を六条院から拝領したのを記念にしていると読みました。


戦国時代あたり「縦」になる前は矢が「横」に寝てましたね。

平和になるに連れ、デザインが洗練されて、「源氏車に竪並び矢紋」に変化していきました。


で、この【矢】を矢筈と呼ぶそうで
我が家は「丸に並び矢」と言ってますが
正式には矢筈と呼ぶべきなのか?
よく分かりません。

    そこまで立派な出自じゃないので微妙な差についてはどうでも良いです。


浜松でもクラスター発生ですか。

「夜の町」とか「なんとか接待」の意味がやっと分かりました。
おっぱいパブとかバーとかでは  毎回消毒するわけじゃないから  前のヒトが舐めた後に次のヒトが舐めるから
唾液感染するわけだ。

感染しない方が不思議だったのかも。
あはは


それで  夜の町で感染した自覚のある人は  正直申告を避けるわけですね。
     「感染経路は分からない」
とは便利な表現ですね。
ふふふ


わたしは一応おしゃべりしたヒトのことはカレンダーに記録しています。
どこで誰と何分喋ったか。

こんな記録  意味無かったかも。
絶対に  おっぱいパブなんて行かないし働かないし。きゃはは


あ、今でもジムには行ってないです。うちのジムは空気がフィルター循環してるだけなので。
[17]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月27日 10時22分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の直感は当たるか、仮に当たらなくても遠くないところ(近く)をか
すめる――これが今までの経験値であり、今回も「服部正吉(まさよし)」が
それでありました。
 私も、正吉を調べると、薦田氏、即ち依田氏(武田臣)の家臣ということで、
武田家滅亡後に、家康に仕えたということ。正吉より数えて4代目(曾孫)に
「長勝」がいた。但しこの系は「未勘源氏」でもなく、家紋も「蔦紋」は使
用していなかった(『寛政重修諸家譜 第18巻』)。
 ということで、次に『寛政重修諸家譜 第20巻』を調べますと、「未勘
源氏」という項目があり、出所のわからない源氏ということで、その中に、
服部家については4系あり、その1つに「蔦紋」を使用した「服部氏」を発見
いたしました。
 その説明には――
「服部 家伝に、伊賀国服部村に住せしより称号とすといふ。
 長勝 治左衛門 慶長9年より御徒をつとめ、のち組頭となる。
 長則 (長勝の子)久左衛門 御徒の組頭をつとむ。
 (以下6代まで記載あり。)
家紋 源氏車の内竪矢筈 蔦」
と書かれておりました。

 「蔦紋」を根拠とするならば、この長勝の系統。「武田臣」を根拠にするな
らば「政吉」、あるいは「源左衛門」となります。
 さて、この中のどの服部氏か、範囲は縮まっては来ました。

 森の天方氏や春野の天野氏と戦った時には、家康が遠江を押さえるという時
期で、服部党の全盛期、つまり服部半蔵正成、服部中保次、服部政光(政秀)、
その他の服部と称する一族=服部党であったと言えます。幾筋かの系統の服部
が家康の下で協力し力を発揮した時代であります。
 服部同士でも姻戚関係が発生したでしょぅし、いずれにしても親近感のある
仲であったと推察されます――
 
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月27日 14時00分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部長勝がいましたか。


この人物で検索したら某ブログを見つけました:三つ柏さんのレス<17>に対応してました。
でも  系図の続きに  本多とか豊田とか横地とか中嶋とか逸見とかに繋がって  謎  でした

https://abrj.web.fc2.com/0018/hattorinagakatsu-naganori.html

                       ブログ主さん
                       勝手にコピペ
                       ごめんなさい



長勝 (治左衛門)
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年


服部長則 (久左衛門)


長? (次左衛門、甚左衛門)


服部長教 (久左衛門、市左衛門、日乗)
−1715 年 2 月 28 日

____________________

意味不明

服部 (伊丹)


意味不明

服部順定 (了伯)
−1656 年 9 月 26 日


服部 (蓬田)清定 (了仙、了伯、高泊)
−1668 年 7 月 17 日
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年





服部清信 (了仙、了伯、元成)
−1724 年 7 月 3 日

                       この名前は記憶があります。
                       ヒバリさんのブログで見ました。

                       麻績城の服部清信・服部加信斎がご先祖さま、というお話です。


________________


本多頭房 (角右衛門、彦右衛門)
−1617 年 8 月 15 日


本多頭直 (覺右衛門、華了)
−1665 年 7 月 10 日


本多頭定 (十右衛門、日?)
−1700 年 4 月 13 日


服部 (本多)
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年



本多頭孝 (十兵衛、權右衛門、日常)
−1733 年 4 月 24 日


横地へ



_______________________________
本多と豊田と服部の関係?

豊田庄大夫
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年


豊田長伯 (七左衛門)


服部 (豊田)長虎 (市之進、日休)
−1758 年 2 月 9 日


服部長喜 (要人、日明)
−1769 年 9 月 19 日



豊田 (服部)長行 (源藏、七左衛門)


他にもいろいろ  永井とか伊藤などに繋がっていくのですが  意味  不明です。


取り敢えずココでアップ。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月27日 15時18分31秒 ) パスワード

ただし  レス<18>の服部清信と妃羽理ヒバリさんのご先祖さまの服部清信は時代がかなり違うと思います。


                       レス<18>のブログについては意味不明なので参考までに留めてください。



で、麻績城の服部清信について書きます。復習ですね。戦国時代麻績は上杉vs武田vs村上の争奪戦の場だったのです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E5%9F%8E
麻績城(おみじょう)は、長野県東筑摩郡麻績村にあった日本の城。


戦国時代に麻績の地を支配したのは服部清信であった。
麻績城の南西の麻績古城(虚空蔵山城)に居を構えていたが、守りを強化するために麻績城を築いた。


しかし、天文22年(1553年)甲斐の武田晴信=信玄です=が筑摩郡に侵入し、
青柳城の青柳清長を従えて服部氏を追い払い、
青柳氏が麻績氏を名乗り、麻績城には青柳氏が移った。


天正10年(1582年)、武田氏滅亡により織田信長麾下の木曾義昌の所領となるが、
本能寺の変で織田氏の軍勢が信濃から撤退すると(天正壬午の乱)、
上杉景勝は旧服部氏の麻績左兵衛清正を入城させた。


                       しかし信濃府中を回復した小笠原貞慶との争奪の地となり、
                       最終的には小笠原氏の支配地となった。



麻績村の歴史
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Nagano/OmiMura/article.html


•麻績はNHKの大河ドラマ「風林火山」で由布姫の母の里としてにわかに脚光を浴びた。

       由布姫は武田信玄の側室にされた女性。諏訪頼重の娘。勝頼の生母。

       つまり由布姫は諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏(太方様おだいぼうさま)の娘。


                       ◦太方様は麻績城から諏訪因幡守頼重の側室となった菊の前御前。
                       ◦2人の間に生まれた娘が後の諏訪御料人(本名は不詳)で、「風林火山」は由布姫として登場する。


•村の伝承によれば、葛尾城(坂城町)城主の村上義清の配下だった服部清信が1508年(永正5)、麻績の地を拝領。

◦没後、子の清長が築いた山城が麻績城。


https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/zhang-ye-xian/ma-ji-cheng
北東に連なる「のろし山」は上杉軍、武田軍も使用したと推定される。


麻績城では天文二十二年(1553年)から天正十七年(1589年)にかけて上杉・武田・小笠原の豪族の間で数度の争奪戦が行われた。
『麻績村教育委員会説明板』より



ヒバリさんのブログ
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/487265366

一部編集してあります。

ヒバリさんは伊賀流忍者の末裔で、
ヒバリさんが継承している麻績服部流忍術は、
鎌倉時代に服部伊賀守という人が三重県の伊賀から長野県の麻績に移り住んでから、
麻績の地に根付いた流派で、
ヒバリさんのご先祖さまは、伊賀ではなく麻績に眠っておられます。



________________________________


三国同盟
今川+武田+北条


この3家の背後に松平家=徳川=があり服部家があり蘆田家=依田=があり村上家があり小笠原家があり松嶋家があり
結局
しっちゃかめっちゃかになって行って


ヒバリさんのお家のことも考えるとホント日本人ってみんな繋がりますね。


勝頼の正妻は信長の姪(父は美濃の遠山直廉で母が信長の妹)で後妻が北条氏康の娘。

勝頼が自害する時、当時19歳だった北条出身の後妻さんも一緒に自害しました。
彼女は上杉景虎の妹になります。
上杉謙信の死後、上杉家では養子達の間で家督争いが起きて上杉景勝が勝って景虎は死にます。

         わたしの中では上杉景虎が好きで北条出身の勝頼の後妻さんが好きです。
         何か分からないけれど  この2人に対して  ものすごく  同情心があります。


たぶん服部家ホンヤさんが今川と手を握っていたし  三国同盟で  武田や北条とも繋がっていたからなんでしょうね。
                       昨日の敵が今日の友、の時代ですから。
単純に武田が嫌いとかは言えない時代があった事をDNAが伝えているのかも。
  

______________________________

木曽義昌が出て来て、  わたしは方向音痴なので  木曽って  どこ?  です。

尾張藩の飛び地だったのは知ってます。エッヘン!愛知県内じゃないのも知っている。ハナタカァ〜!


系図史料には建御名方神の後裔弟武彦命が木蘇国造に任じられたと伝わるが、
木蘇国造やその支配地域である木蘇国の実態は不明。

奈川村、楢川村を除いた大部分は元来、美濃国恵那郡の一部であったが、

鎌倉時代に美濃国から分離され、
信濃国筑摩郡に編入された。


                       こーゆー事があるからワタシが迷子になるのだ。怒


それ以前は鳥居峠及び境峠が信濃国と美濃国の境であった。


江戸時代は奈川、贄川、奈良井の各村とともに尾張藩の領地に入り、
                       うんうん分かる、何度も行ってるし

贄川関所が松本藩と尾張藩の境であった。
                       え?松本がココに出て来る?
                            ほら、ココでまたまた迷子になった。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月28日 16時58分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


最近籠城生活が続いているせいか  友人に会うための外出が出来ないせいか  加齢が進行してて  なかなかイロイロ思い出せず
今日も「ラベンダー」という花の名を思い出すのに20分ほど呻吟してました。

で   本題   上のヒバリさんのお家のことで何を書きたかったのかを  やっと思い出した!ので起きて来ました。


ヒバリさんの家のことを書いたのには
レス<11>に書いた服部正吉の件

                       >蘆田信蕃に仕えた服部正吉。
                       >蘆田信蕃あしだのぶしげに仕えた
                      >父親は芦田信守で、守護代の大井氏や、諏訪頼重に臣属していたが、後に勝者の武田信玄に仕えた


ここの事なのです。


「蘆田家が守護代の大井氏や諏訪頼重方だった」

             ということ

信玄の母は大井の方と呼ばれて  大井の方の父親は今川家と結んで  信玄の父親と敵対してました。
それで彼女は人質として武田信虎の正妻となり信玄を生みました。



      武田のヨメになった大井の方も諏訪御寮人も気の毒な結婚の仕方です。
      大井の方は「人質」、  諏訪御寮人は「戦利品」、  ですからね。


諏訪大社は平安時代末期には平頼盛領で、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給付されました。


服部源さんのお話を思い出します。
ここらへんでヒバリさんのご先祖さまも絡むのでしょう。

平頼盛や光盛。


             つまりヒバリさんのお家と服部源さんのお家と正吉の家が絡んでる?!


人間関係は表面だけでは分からないし何重にも絡むし。


服部正吉という人は一体どういう人物だったんでしょうね。
このヒトも平頼盛系に繋がる家の出身だったんでしょうか?
平宗清の一族でしょうか?

助左衛門(源左衛門)さんも正吉も菩提寺は吉良家の万昌院だし。


          なんとなく助左衛門さんが伊賀でヒトを殺めたハナシが想像できるような気がしてきました。



    正吉さんは通字が「正」だから半蔵系かなとも思うし
    でも  
    伊勢長嶋一揆の敗戦後に信長に詫びを入れた(ホンヤさん=友貞=の弟は)正友という名だったし。

             元々平家は通字に「正」の字があるのは当然です
             例:平正盛   伊勢伊賀平氏の祖です


ヒバリさんのご先祖さまは  壇の浦あたりで  信濃に来たのかな?と。

     記憶によると  ヒバリさんのご先祖が伊賀から信濃に来ることになった背景に「藤原家」が絡んでたような?
     つまり平頼盛がらみなのかな?


諏訪大社は南朝方でしたね。
宗良親王の別名は信濃宮でしたよね。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)

                   大草氏といったら家康の家来を思い出しますね


一本の線で単純に語れないのがもどかしいですね。
逆に
だからこそライフワークに成り得ますね。


もう寝ます。
ワクワクして書かずにはおられませんでした。
アチコチ話が飛んで   ごめんなさい。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月29日 01時33分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

昨夜は突然川越の服部家が武田信玄に仕えていた経緯の裏の謎が分かった気がして
グッスリ眠れました。


                平家系(平頼盛)+南朝方(諏訪大社)+三国同盟が背景にあった  そして  三国同盟の破綻  そして  家康の台頭



先週ハリケーン・ダグラスが土曜から月曜朝にかけてオアフ島を襲うという天気予報があって
2週間分の食料の備蓄とビーチに近いエリアの人は最寄りの学校に避難するようにという勧告があったりして

結局土曜は無事で日曜はフツーのハリケーンより軽い感じで
月曜朝にビーチに散歩に行ったらトイレがほとんどロックされてて(2か所ロックできないトイレは使用可能だった)

                トイレは朝の4時に開錠のはずが
                8時過ぎても開錠にはなってなかった


で、今朝、火曜の朝は風がすごく強くて(6月6日土曜のBLMデモのシュピレヒコールの方がずっと強烈な音だった)
5時半過ぎに大雨の音がして
今は6時で  いつもならビーチへの出動時間なのに  今日はどうするかな  と思案中。

風が強いから傘が壊れるかも知れないので
雨に濡れるのも嫌だし

じゃ、駐車場を歩き回ってテレビでも見ながら室内で軽く運動するかな、という段階です。


                       ハリケーンは土曜から月曜朝までの予定じゃなかったのかっ(怒)でございます。
                       ハワイの天気予報は当たる訳ないレベルの地勢なので  「いつものように」  という枕詞が付きます。


昨日発表のハワイの感染者数は1711人
アメリカの死者数は15万人を超えています。


              Coronavirus Cases:4,450,918
              Deaths:          151,474


そして選挙の年で  マスコミは民主党の御用報道しかしないので
アメリカの民主党系の州では暴動がすごい事になっているのにコーユー民主党に不利なハナシはスルーです。

つい先日まで共和党系の州が早期自粛解除のせいでコロナが大爆発して
なんて言ってたけど
今やカリフォルニアがトップの感染者数でマスコミは騒げなくなっています。

        あ、わたしの支持政党はリバタリアンね
        「課税は窃盗だ」
        という政党です(笑)   課税はしょうがないけどね
        ゴリゴリのリバタリアンは「国連なんてジョークだから撤退せよ」です   (義兄がコレ)
             今回のWHOのテドロス発言で世界的に理解されたと思う


ということで民主党の牙城を気取ってるハワイでは当然マスク使用なんだけど
     これには日本人だから賛成
前回の選挙でヒラリーが負けて  今年の選挙は  郵送式  です。
投票所に行くのが面倒くさいヒトが続出したからヒラリーが負けたというメンタリティです。


笑ったのは
8月に予備選挙があるのですが
自分の支持政党を最初に申告して
自分の支持政党からの候補者にしか投票出来ないことです

選挙って  そういうもん  だったの?

で、わたしの支持するリバタリアンからは一切候補者がいないのでワタシは当然郵送しないです。


11月の本選挙では   元々リバタリアンからの候補者が大統領に選ばれる可能性は1%もアリエナイので  さて  どうしようか  です。


ハワイは民主党支持者が60%超えなので前回は投票締め切りと同時に「ヒラリー  確定!」のテロップが流れました。

開票率0%どころか  締め切ったと同時にで、ですよ。
得票数  ヒラリー 0   トランプ  0  で、ですよ。

アメリカ本土のどこの州のヒトもハワイの投票結果なんて誰も気にしてないのに。時差5〜6時間遅れだからね。
ハワイの投票締切時間にはとっくに本土で結果が出てる(笑)


ハワイは8月4日から学校が始まります。
現在  Back to School の学用品セール真っ只中です。
いつもはワタシも買いに行くけど今年はパス。


北と東の空が明るくなったので  散歩に行こうかな  と思います。
ではでは  
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月29日 14時36分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、森町三倉の北奥の春野町犬居へ行ってまいりました。目的は、天野
氏の墓におまいりすることでありました。お墓は犬居城址の近くの瑞雲寺にあ
るという。このお寺は、かつて知人の御父上の葬儀で一度行ったことがありま
した。また、犬居城跡には、かつて急な坂道をあえぎあえぎ上って見に行った
ことがあります。

 天野氏のお墓は、本堂の裏の斜面の一番高い所にありました。「犬居城主
天野家の墓」という石塔が建てられており、苔むした五輪塔がずっしりと建っ
ており、またその奥には、宝篋印塔や崩れた石塔が十程も建っておりました。

 「気田の戦い」――即ち武田方に降ちた周智郡犬居(乾)城主天野宮内右衛門
景貫を徳川家康が攻めた戦いであります。森町の奥の三倉から山越えして春野
の犬居城を攻める予定が、雨が降り続き、気田川も増水して進めず、兵糧米も
少なくなり三倉を通って天方城へ戻ろうとした。そこを天野軍に攻められ、か
なりの死傷者を出しながらも天方城にたどり着いたという戦い。ここにおいて、
三倉という所がこの戦いの戦場となった。実は、その山あいに源さんの家があ
る。

 天野氏は今川臣から徳川臣になり、武田の南下とともに徳川を裏切って武田
方につき、徳川氏の攻撃を受けたものの、何とか追いはらうことができたが、
再び家康に攻められ、今度は落城。甲斐(没落)→小田原(没落)と落ちて行き、
悲運な消滅となる。
 この天野氏、祖先はバリバリの南朝臣であった。

 そんな悲運の天野氏の墓に向かって、般若心経を二巻、唱え捧げました――
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2020年07月30日 00時18分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


>この天野氏、祖先はバリバリの南朝臣であった。

はい
天野氏は南朝方でした。

さらに!「浪合記」=南朝方の話=を纏めたのは天野信景です。

コピペ:
http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/n_about03.html
浪合記

 「浪合記」は、1997年発行の「日本史広辞典」(山川出版社)では、次のように紹介されています。


なみあいき【浪合記】 
後醍醐天皇の皇子宗良親王の子尹良(ただよし・我が家ではイズヨシ)親王の事績を中心に、
お子さまの良王(よしよき・我が家ではヨシタカ)や
彼らを奉じる南朝遺臣の事績を記した軍記。

尹良親王は1424年(応永三一)八月に信濃国伊那郡浪合で最期をとげたとされる。
著者・成立年代不詳。
現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が1709年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、
      史料としての信憑性には疑いがあり、
      史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。

                       コレはマサに江戸幕府を倒した明治政府による完全否定のタメの横槍だね。

「信濃史料叢書」所収。


浪合記はあまり長いものではありませんし、固いことを抜きにしても、それなりに読んで楽しめる軍記物だと思います。
東海地方から長野・群馬あたりの地名や中世の国人がいろいろ出てくるので、
そのあたりの郷土史に関心のある方は、より一層楽しめると思います。



>そんな悲運の天野氏の墓に向かって、般若心経を二巻、唱え捧げました

ありがとうございました。

わたしには元々天野さんという名字には親近感があります。



https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A4%A9%E9%87%8E
【名字】天野
【読み】あまの,てんの,あめの,あまや,おおの
【全国順位】 233位
【全国人数】 およそ93,700人


@神代以来の旧家天野祝の子孫。
A次に中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家工藤氏流が著名。
Bほか長家流。
などにもみられる。

分布図を見ると  愛知県・静岡県・山梨県に非常に多いですね。



ということで  更に!  三つ柏さんのお書きになった「犬居」の天野氏関係で検索しました:

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-735-9.htm

遠江 天野氏・奥山氏
論集 戦国大名と国衆G

鈴木 将典 編
(駒澤大学非常勤講師/1976年生まれ)

2012年3月刊
A5判・242頁・並製本・カバー装
ISBN978-4-87294-735-9 C3321
4000円 (税別)

                 ご注文サイトも1番下に出てますよ。
                       でも
                       図書館へ GO!
                       4000円だって!




遠江北部の山香荘(浜松市天竜区一帯)域で勢力を拡大し、
戦国期に国衆として盤踞した天野氏と奥山氏。

本書には、天野氏に関する論考3編、奥山氏に関する論考2編、さらに両氏に関する基礎的研究として『佐久間町史』から新行紀一氏執筆分を再録。


巻頭には、編者による現在の研究の到達点をまとめた総論「戦国期の北遠地域と遠江天野氏・奥山氏」を付し、今後の研究の進展をはかる。


天野氏は、安芸・能登の天野氏と同じく伊豆国天野郷(伊豆の国市)を名字の地とし、
山香荘南域の犬居(浜松市天竜区春野町)を本拠とした。

                         ↑
                        ココですね!



一方、奥山氏は能登天野氏の所領を押領しながら、山香荘北域の奥山郷(同区佐久間町・水窪町)に興った一族である。

両氏とも、戦国期に駿河から遠江へ進出した今川氏に服属し、
その下で勢力を維持したが、
永禄11年(1568)末に甲斐の武田氏と三河の徳川氏が駿河・遠江に侵攻し、
翌年に今川氏が没落する中で、新たな対応を迫られた。


天野氏は初め徳川氏、後に武田氏に服属したが、
天正3年(1575)7月に徳川方の攻撃によって本拠地の犬居を追われた。

奥山氏も今川・武田・徳川氏の間で一族が分裂し、
最終的には徳川氏の北遠支配の中で姿を消すこととなる。


【主要目次】

総論 戦国期の北遠地域と遠江天野氏・奥山氏───鈴木 将典
秋本 太二 「犬居天野氏について」(『地方史静岡』創刊号、1971年)
秋本 太二 「中尾生城について」(『地方史静岡』5号、1975年)
新行 紀一 「戦国動乱と在地領主」(『佐久間町史』上巻第4章、1972年)
  遠江の動乱/戦国大名と在地領主
  在地領主と農民/動乱期の北遠
海野 一徳 「北遠天野氏の系譜と今川氏」
(静岡県地域史研究会編『戦国期静岡の研究』清文堂、2001年)
加藤  哲 「遠江の国人領主奥山氏について」(『歴史手帖』5巻10号、1977年)
坪井 俊三 「戦国期の奥山氏―奥山氏の系譜を中心に―」
(『高根城V』静岡県水窪町教育委員会、1996年)


わたし的には   遠江の奥山氏=井伊家の一族   でしたが
いろいろあったんでしょうね。


井伊直政
父:井伊直親、
母:おひよ(奥山朝利の娘)         NHK大河では貫地谷しほりが演じた「しのさん」でしたよね
養母:井伊直虎(井伊直盛娘)
継父:松下清景


_________________________________

我が家の三河の親戚は  やっぱり  本多や天野や鈴木なんかと婚姻してます。
[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年07月31日 16時00分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そろそろ梅雨明けとなります。32℃になりました。これから猛暑に突入と
なります。

 さて、森町の友田家屋敷に行く途中に、「半蔵山」という標高200mくら
いの山があることを知りましたが、その名前の由来がわかっておりません。
 服部半蔵もこの辺で戦っていたと思われますので、半蔵由来なのか、近日中
に行ってみたいと思います。
 この辺は、平安末期、源平、鎌倉、南北、室町、戦国時代の残滓が重層的に
積もっていて、ややこしい情報が多いです。
 三倉の蔵泉寺には「大般若経巻物六百巻」が納められておりますが、これは、
1384年、源氏の落人・源三位光盛公が勧進旦那となり、三倉の多能天王宮
に納めたものと言われており、県の文化財となっております。
 この「源氏の落人・源三位光盛公」とは一体誰なのか、いろいろ調べました
が、時代、地位、落人等に適合する「光盛」はおりません。源三位は、頼政の
トレードマークであります。頼政に光盛という子孫はいないと思われます。時
代的には、南北朝の末期であります。
 郷土史はこういう情報が多いので、解きほぐすのが大変です――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月01日 00時37分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>1384年、源氏の落人・源三位光盛公が勧進旦那となり、
>三倉の多能天王宮に納めたものと言われており、
>県の文化財となっております。

>この「源氏の落人・源三位光盛公」とは一体誰なのか


一体どなたなのでしょうね?


時代的に  南北朝時代ですね。
               で、源氏の落人?
               南北朝時代で源氏で落人?

                    南朝方の新田系で落人なら理解出来ますが。



平光盛:

1172−1229 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。

承安(じょうあん)2年生まれ。平頼盛の3男。
父方の祖母池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝の命をすくったため,平氏滅亡の後も父とともに頼朝の庇護(ひご)をうけ,
右近衛(うこんえの)少将,備前守などを歴任。貞応(じょうおう)元年従二位にのぼった。
寛喜(かんぎ)元年7月20日死去。58歳。通称は池三位(いけのさんみ)。


                       池の三位が
                       源頼朝がらみで源姓を拝領して三位になった   というなら  理解出来ますが
                       この人物では時代がかなり違う

                             だから  このヒトの子孫に当たる人物なのか?



>郷土史はこういう情報が多いので、解きほぐすのが大変です

はい
大変です

情報が錯綜してる、というのですね。


○○の子孫  というのが  「子孫」の部分が落ちて  
                      ○○という人物になった可能性があるし  
                      子孫が先祖の名を名乗った可能性もありますし。



やはり郷土の歴史博物館とか図書館などに足繁く通わないと見えて来ないんでしょうね。




>1384年

これ以前の史実から解き明かさないといけないでしょうね。
           1380年代に何があったのか?
           1370年代に何があったのか?

足利家は義満の時代
北朝方は後円融天皇→後小松天皇
南朝方は長慶天皇→後亀山天皇の時代あたり?

どういう源氏系の落人だったんでしょうね?



「源氏」もいろいろですからね。でも源姓で「盛」を使う人って平賀盛義ぐらいしか分からない。
特に源平合戦の後に「盛」を使うのは避けたんじゃないかな?と思いますが。



>森町の友田家屋敷に行く途中に、「半蔵山」という標高200mくらいの山がある

なんで「半」蔵山なんでしょうね?

「大」蔵山なら、大蔵氏に因むのかな?と思いますが
なぜに「半」蔵山?


                        半蔵がらみなら伊賀の半蔵さんに関係する?
                        謎解きが楽しくなりますね。



32℃というと日本は湿度が高いですから疲れ易くなると思います。
汗もだらだら出るでしょうから汗疹にならないように気を付けてください。
[26]酔石亭主さんからのコメント(2020年08月01日 07時13分18秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん


>なんで「半」蔵山なんでしょうね?

宇都宮にも半蔵山があって、こちらは山の半腹に行基作の傳法寺本尊薬師仏が蔵されることに拠るとの説があるようです。森町の場合も似たような話があるのかもしれませんね。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月01日 08時31分37秒 ) パスワード

酔石亭主さん

静岡の半蔵山について情報を得ようといろいろネットサーフィンしてみましたが
ヒットしませんでした。


友田家が伊賀の服部家の出ということで服部半蔵がらみで名前がついたのかなと想像するようになりました。


検索するうちに面白い情報をゲットしましたよ>三つ柏さん     ビックリの情報です!


深奥山(じんのうざん)方広寺
http://www.houkouji.or.jp/about.html
静岡県浜松市北区引佐町奥山


1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、
奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。

無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。


                         ふむふむ
                         ここまでは  ま、そんなもんか  です   がっ!


無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/1323〜1390)

元亨(げんこう)3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生されました。   註:宗良親王(1311-1385?)とは一回り違いですね
母は昭慶門院と称されます。

7歳の時、乳母が亡くなった事をことのほか悲しまれたと伝えられております。

父後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)された翌年、
暦応(りゃくおう)3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家されました。

貞和(ていわ)元年(1345)、元王朝末期の中国に渡られ、
大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ね、
ここで修行を積み重ね、大悟して、正友禅師の法を継がれました。

観応(かんおう)元年(1350)秋、日本に帰国され、応安(おうあん)4年(1371)、
奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開かれました。


禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと伝えられております。

明徳(めいとく)元年(1390)、閏(うるう)3月22日、方広寺で亡くなられました。68歳でした。


          註:生母については確定されていない。年齢的にムリがあるし
          後宮の憙子内親王?(昭慶門院、1270-1324) - 亀山天皇               皇子:無文元選(1323-1390) - 遠江方広寺開山
               皇女



以下の話はよくある説話かも:

奥山半僧坊大権現(おくやまはんそうぼうだいごんげん)

方広寺の鎮守さま。
伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。
風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。

大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。

そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、
船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。

そして、ここでお姿を消されたといわれます。

禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。

弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、
「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。

以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。

毎年10月に御大祭がおこなわれております。

____________________________________

豪族 奥山六郎次郎朝藤

井伊直政の母方ご先祖でしょうね。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A5%A5%E5%B1%B1
【名字】奥山
【読み】おくやま
【全国順位】 340位
【全国人数】 およそ62,200人       あらあら、結構 フツーの名字でしたか。
【名字の由来解説】

@桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)城氏流、三浦氏流。
A清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。
B中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。
C中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)良門流。
など様々な流派がみられる。

「山」は山の地形を表す。

長くなったので浜松の奥山氏については次のレスに書きます。
いつも長いけど。汗


さわりだけ:笑

奥山氏は、藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥した。
すなわち、井伊盛直の子俊直は赤佐氏を称し、
その曾孫朝清が初めて奥山を称して奥山氏の祖となった。

南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。
[28]酔石亭主さんからのコメント(2020年08月01日 08時40分54秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん    

びっくりです。実は上レスを書いてから思いついた以下の内容を投稿しようと思って掲示板を見たら、あをさんの投稿が先行していました。私の筋は以下の通りです。

鎌倉建長寺の裏山には半僧坊大権現があり、数多くの天狗の像があります。半僧は後醍醐天皇の皇子・無文元選禅師が船で中国から帰国の折嵐に遭い、遭難しそうになったとき出現し禅師を助けた異人で、禅師が浜松に方広寺を開山した際に再び姿を現し、禅師の弟子になりました。(この辺はやや話のつじつまが合わない)そして禅師が彼に、半ば僧に似たる所ありと言ったので、その後半僧と呼ばれたそうです。半僧坊大権現の御真体は鼻高天狗で、鼻高天狗は「僧侶型天狗」に分類されるそうです。つまり異人=天狗なのですが、森町には天狗伝説があります。従って、森町の天狗(半僧)のいる山が半僧山でこれが転訛して半蔵山になったのかも…。(全くの推測です)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月01日 08時51分30秒 ) パスワード

取り敢えず赤佐氏から

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%B5%A4%E4%BD%90
【名字】赤佐
【読み】あかさ
【全国順位】 20,762位
【全国人数】 およそ210人        ま、そんなとこでしょうね

【名字の由来解説】
現静岡県西部である遠江国麁玉郡赤佐郷が起源である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)井伊氏族。

近年、愛知県渥美郡渥美町などに多数みられる。

「佐」は
下野国佐野庄、                   藤原秀郷の本貫地だものね
または左衛門尉(さえもんのじょう)の職名を表す。



赤佐さんの多い地域 TOP5


都道府県   人数

愛知県 およそ110人
滋賀県 およそ30人                   井伊家にくっついて行ったんでしょうね
千葉県 およそ20人
東京都 およそ20人
埼玉県 およそ10人


市区町村   人数

愛知県田原市 およそ80人
滋賀県蒲生郡日野町 およそ20人
千葉県松戸市 およそ10人
滋賀県蒲生郡竜王町 およそ10人
東京都品川区 およそ10人


赤佐さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県    比率

滋賀県 0.00231%
愛知県 0.00152%
千葉県 0.00034%
栃木県 0.00025%
福島県 0.00022%


市区町村    比率

愛知県田原市 0.13154%
滋賀県蒲生郡竜王町 0.08972%
滋賀県蒲生郡日野町 0.0766%
福島県西白河郡矢吹町 0.02458%
埼玉県秩父市 0.01084%


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/i_okuyam.html

奥山氏 (藤原北家井伊氏流)

丸に木瓜紋
*幕紋は剣酢漿草とあり「静岡の名字」には「六角の内橘」とも出ている。


 
奥山氏は、藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥した。
すなわち、井伊盛直の子俊直は赤佐氏を称し、
その曾孫朝清が初めて奥山を称して奥山氏の祖となった。


南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。

そして、建武三年(1336)奥山城に宗良親王を迎え、
至徳元年(1384)には後醍醐天皇の皇子  円明大師  を招いて奥山方広寺を開基した。


朝藤の二男が定則で、井伊氏とともに南朝方に尽くし、延元三年、久頭郷城を築き、尹良親王に供奉した。



乱世を生きる

定則の孫能登守定之には四人の男子があり、

        嫡男の貞益は今川氏に属して久頭郷城主を継いだが、永禄十二年(1569)信濃遠山氏に攻められ落城し討死した。

        二男の定茂は水巻城主、

        三男定吉は大洞若子城主、

        四男定友は小川城主であった。


しかし、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。

                       そりゃあ難しい時代だものね


元亀三年(1572)十月、甲斐の武田信玄の大軍は、信濃と遠江の国境を越し、越えたすぐのところが奥山氏の勢力圏であった。

                        次に   天野氏  出ます!


武田氏は犬居城の天野氏を道案内として遠江に侵攻してきたが、
奥山氏はこの天野氏と密接な関係にあったことから、
定吉の子吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属するようになった。


そして、信玄より感状をもらい、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われた。

もっとも、元亀三年の時点では、まだ遠江が武田領に組み込まれていたわけではなく、ある意味では約束手形のようなものであった。


とはいえ、この結果  奥山氏がかなり広大な土地を支配するようになったことはうかがえる。

そして、奥山吉兼は遠江における有力な在地領主であったことも間違いない。

もっとも、奥山吉兼の勢力は長くは続かなかった。


信玄が死に、今川氏の勢力が衰え、それに代わって次第に力を伸ばしてきた家康の勢力が拡大するにつれ、

武田氏の支援を得ていた奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になってきたのであった。



その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、
有定の孫重定は、相月村に住み大坂の陣に参加し、
のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、
子孫は代々名主を務めた。



小川城主定友の子友久は小川城主を継ぎ、
永禄十二年(1569)、徳川家康より本領安堵され、
子孫は井伊氏に仕えた。





[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月01日 09時06分14秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


>森町には天狗伝説があります。
>従って、森町の天狗(半僧)のいる山が半僧山でこれが転訛して半蔵山になったのかも…。


「半僧坊」という名詞は知っていましたが
意味は初めて知りました。

    >禅師につき従っていた男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、「飯僧」と呼ばれ、
    >のちに「半僧坊」と呼ばれるようになった

        飯炊き寺男の事だったのか。


ありがとうございました。


半僧山は  「はんゾーやま」と濁るでしょうから  はんゾーが  半蔵に化けたのかもですね。



三つ柏さん

井伊家の家系図
井伊(上野)直秀が新田義貞に属した  と書かれてますね。

           「源氏で落人」とは井伊(上野)直秀かも   ですね。

            恐らく   源氏「方」の落人   のことかも。
[31]酔石亭主さんからのコメント(2020年08月02日 08時42分55秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん    

長野県阿南町東條には半僧山(はんぞうやま)があり、森町からは秋葉山本宮から天竜川に出て北上するルート、或いは遠山に北上し天竜川に出るルートで繋がります。やはり半蔵山は半僧山ではないでしょうか?

>「飯僧」と呼ばれ、のちに「半僧坊」と呼ばれるようになった 飯炊き寺男の事だったのか。

上記の元記事は私も読みましたが、奥山方広寺の鎮守の神様である奥山半僧坊大権現が飯炊き寺男ではあまりにもひどい扱いなのであえてスルーした次第。遭難しそうになったとき出現し禅師を助けた話はよくあるパータンのパクリでしょうが、中国から中東系か何かの異人が同行したのかもしれません。奥山半僧坊大権現の由緒は以下を参照ください。

http://www.rinnou.net/cont_03/08houkou/
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月02日 10時20分53秒 ) パスワード

酔石亭主さん

http://www.rinnou.net/cont_03/08houkou

拝見しました。


「異人」とは何者でしょうね。
日本の神話や昔話にはこういう系の説話は多いですね。

     鼻が大きいというと中東系か西アジア系かヨーロッパ系か。恐らく南アジアのインド人?マケドニアの血が入って鼻が大きいから?
     仏教僧の手伝いをするのはキリスト教や特にイスラム教では有り得ないから、ヒンズー教系の人なら、仏教はヒンズー教の一派扱いだから可能かな?


ずっと気になっていた「半僧坊」。

名古屋にもそんなバス停があったような記憶だったので調べたら
名古屋市昭和区広路町字松風園68 。    ←  八事の近くだね   この近所の銀行に行ったことがあるので記憶にあったのかも


宮本武蔵の「新免政名供養碑」があることでも知られる「半僧坊新福寺」は、
現在の静岡県浜松市にある臨済宗方広寺派大本山「方広寺」の名古屋別院。

                        あ、そうだったの


                           わたしは尾張藩の菩提寺の八事山興正寺=高野山真言宗の別格本山=とこんがらがってました。
                           飯田街道を挟んで興正寺さんの反対側か

                           最近興正寺さんはスキャンダルにまみれてるような?


                               やっとチズが見えて来た感じ(かなりウソ800と思う)


https://smtrc.jp/town-archives/city/yagoto/p02.html
以下コピペ:

「半僧坊」の信仰は明治時代に全国に拡がり、
「新福寺」は1885(明治18)年に名古屋城下の南大津町で建立された後、
1910(明治43)年に現在地に移った。

                       明治時代?  ということは  新しい?

                       南大津通りとか、ムカシ、そのあたりに住んでました(栄とか矢場町とか)


「半僧坊」とは「方広寺」の鎮守。
後醍醐天皇の皇子だった無文元選の前に現れた守護神で、
無文元選の生前は元選の弟子となって身の回りの世話などをし、
「姿は俗人で、心は僧」といわれたことに由来する。



>後醍醐天皇の皇子だった無文元選

後醍醐天皇
1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉

無文元選(1323-1390) - 遠江方広寺開山
生母とされる憙子きし内親王?(昭慶門院、1270-1324) - 亀山天皇皇女
の養子かなと思います。

憙子内親王は・・・ 無文元選が生まれたのは・・・彼女が53歳の時になるから
恐らく 世良親王同様 無文元選も後醍醐天皇に頼まれて養子にしたのだと思います。



それで  南朝方の井伊氏から分かれた赤佐氏のちに奥山氏にも分かれるが尾張にも来て  方広寺の末寺 を建て  
明治時代に半僧坊新福寺を建てたのかな?と。
[33]酔石亭主さんからのコメント(2020年08月04日 08時12分24秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん    

>ずっと気になっていた「半僧坊」。

半僧坊は愛知に数か所ありますが秋葉山三尺坊も多いですね。多分全国で見ても多いほうではないでしょうか?名古屋では熱田神宮近くの圓通寺が有名で、一般的な秋葉神社など小さな祠が名古屋のそこら中にあります。そう言えば、屋根神様も秋葉、熱田、津島ですからかつては市内に数多くありました。ただ天狗ランキングでは「秋葉山三尺坊」が東の前頭4枚目、「奥山半僧坊」は同21枚目だそうで、必ずしも上位ではありません。有名なのは大天狗ナンバーワンの愛宕山太郎坊、鞍馬天狗で有名な鞍馬山僧正坊、比良山次郎坊などで、どうしても京都やその周辺になってしまうようです。太郎坊に関しては滋賀県の太郎坊宮が素晴らしく、人の手で造ったかのような三角形の岩山・太郎坊山山腹にあり、参道は見上げるような巨岩が二つに割れたその狭い間を通っています。太郎坊宮で画像検索すれば幾らでも出てきますが、写真では現地での雰囲気を十分感じ取るのはむつかしそうです。機会があれば(とは言ってもコロナが拡大中の現状では無理かもしれませんが)、是非ご訪問ください。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月04日 09時08分26秒 ) パスワード

酔石亭主さん


検索して来ました:

https://ameblo.jp/mtr-blis-3838/entry-12511254052.html
太郎坊宮・阿賀神社(滋賀県東近江市)

画像を見乍ら、天狗の超能力って、あれってヨガ?と思いました。

                       麻原彰晃の空中浮遊(笑)とか思い出します。
                       科学者が彼に傾倒したというのが  何だったんだろうと謎です。

日本人にはあのヨガ者の身体能力には想像を超えるので、
ますますインド系じゃないか、との思いを深めました。



みごとな三角形の山にも驚きますが、パックリ割れた夫婦岩にも驚きます。

古代人が畏怖したのに負けず劣らず、ワタシも驚きの目で拝見しました。
[35]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月05日 18時49分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長い雨期の後は極端な猛暑となり、湿気も伴って、思考力も意欲も消え入り
そうな今日この頃です。

 このところ、森町には毎日のように行き、友田氏、天方氏、半蔵山等につい
て、さらに突っ込んで調べてはおりましたが、なかなか満足の行く情報には当
たりついておりません。半蔵山については、情報皆無の状態であります。

 本日は、森町の図書館で調査の後、思い切って「半蔵山」に登り、どんな山
か、また地元ではどのように伝えられているか…等について調べてみることに
いたしました。

 気温は本日も32℃ですが、強烈な日差しの下では、耐えられない程の厚さ
であります。近年、日本もハワイも変わらないような気候になってきたようで
す。私は日に弱く、すぐに日焼けするタイプなので、最近は皮膚をガードする
ようにしております。

 半蔵山について、あを様にはもちろん土地勘というものはありませんので、
ここで少しその地理について説明させていただきます。
 ――もうすぐ夕食の時間になりますが、本日は「うな丼」であります。半蔵
山に登ったせいで疲れもあり、また暑さも厳しいので、思考力が持続しません。

 地理の説明は、思考力が戻ってからいたしたいと思います。ここでしばらく
休憩といたしたいと思います――

 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月06日 06時52分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

日焼けは子供のうちは良いと思いますが
大人になってからの日焼けは、熱中症で倒れてしまうかも、命に関わるかも、
です。

首に手拭いを巻くとか帽子の下に手拭いを垂らして簾れにして
百姓and/or敗残兵スタイルにしてください。

くれぐれも首を太陽にやられないように。


今年の冬はインフルエンザにコロナの2重攻撃かも知れないので
その前に身体を壊さないように、夏バテしないように、
配慮なさってください。




遠江の歴史はイマイチはっきりしないですね。

井伊直虎さえ女性じゃなかったという井伊家側の話を読みましたし
直政の父親の直親のこともアヤフヤだという話を読みました。


    NHK大河の「おんな城主  直虎」もフィクションがかなり多くて
    ハナシを盛り過ぎぃ〜(怒)
    でした。

           NHKもテキトーにハナシを作るのは今年の「麒麟がくる」が1番ひどいかな
           と思います。

               逆に(ああ、そういう事だったの)と美濃と尾張について分かることも多かったです。

                  道三の子供達が暗殺された経緯
                  尾張の信長の家がトップに立ったこと
                  家康が大高砦(城)から出なかった経緯


「おんな城主  直虎」で
おとわが亀之丞を心配して!心配して!とにかく生きているように!と、どんなに祈ったか
だけど
直親が帰還したら
なんと信濃で子供作ってた!

        絶対こんなの許せないよ!
        わたしだって許せないよ!

そりゃ、信濃で直親は井伊家の御曹司だから旧南朝方の皆さんにちやほや大事にされて
近所の娘達のアイドルだったと思う。

        わたしだって
        直親は信濃で  チャラ男  やってたんだろ〜な〜
        って思うもの。


NHKの大河では  直親の死後に  娘が出現して
さらに!
調子いい事  アッチコッチで言いまくってたことが  直虎や「しのさん」にバレて


直親がオンナにとっての共通の敵に変って
それまでライバルだった直虎と「しのさん」が仲良くなって

        オンナの憎しみも嫉妬も実は紙1枚の薄さだったことが描かれて(笑)

    

でも、実際は直親の死後に娘の存在が明るみになったんじゃなくて
その前に直虎にはバレてたんじゃないかな?

        だから直虎は(命を救ってやったのはワタシなのに  それをよくも裏切って  信濃で亡命生活を愉しんでたわね)と怒って
        直親とは結婚しなかったんじゃないかな?


        だけど直親が謝って来ることなくシャーシャーと「しのさん」と結婚して   (直虎は  ますます  怒  だよね)


あの直親がチャラ男やってた事がバレたシーンにはホントに笑った。
NHKの脚本であんなだから  本当の直親ってどんな人物だったのだろう  と思う。


きっと  もっと  ダメ男だったのかも。



高橋一生の演じた小野政次(鶴丸)もNHKの人物像が  ヤヤこしかった。
子供の時におとわを好きだというのは有り得たと思う。

吹越満の演じた父親同様にワルで通せば分かり易かったのに。


      「おんな城主  直虎」のドラマの人物設定は  なぁ〜んか人物像がグチャグチャだった。



最近567で各県の知事さんの人物像が見えて来て楽しんでいます。
    このヒトは県民の利益を考えているなとか考えてないなとか。
    岩手の知事もなかなかの人物だなと。


ハワイは今でも観光がストップしていて失業率は60%を超えています。
日本からの航空機は3月から止まったままです。
ドンキの日本食の棚は今朝も昆布の佃煮と梅干ばっかりで、あとは売れ残りが少々転がってるだけ。

我が家の近所のバー2件でクラスターが発生し、バーは再び営業停止になりました。
日本のバーとは異なり、レストランやカラオケもやってる「スポーツ・バー」というのです。謎

学校は8月4日(火)からの予定でしたが、陽性者が爆発的に増え続けているので、8月17日からに延期になりました。

近所の白木屋さんのフードコートも3月から閉まったままです。



日本はお盆を控え  GO TO トラブルで  感染者がまたまた激増するかもですね。
くれぐれも567を拾いに行かないよう、媒介しないよう、プレゼントしないよう
気を付けて乗り切ってください。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月06日 11時58分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天方氏を調べていると、表面の下に、深い地下茎があるような気がいたします。
 あまり語られて来なかった天方氏、脇役であった天方氏、でも調べれば調べる
程、主役ではないが助演男優賞を差し上げなければならない程、その存在意味に
は重いものがありそうです。
 従って、天方氏については時間をかけて調査し、歴史の水底から見えない真実
を浮かび上がらせてみたいと考えています。

 そういった意味でも、「半蔵山」については家康の天方攻めに関係するもので
ないかと強い期待を抱いております。地理から言っても、秋葉道とは反れた山中
であり、また神社仏閣があった気配は今のところ見当たりません。
 地理から言えることは、この半蔵山の周りを吉川川が「ひの字」を描いて流れ
ており、さらに山の斜面は険しい断崖に近く、また四方が見渡せる絶好のポジシ
ョンにあります。山城・砦にするにはもってこいかも知れません。現に、天方城
には本城と新城の二つがありましたが、半蔵山から本城までは直線距離で約800
m程、新城までは約1800m程の距離であります。家康の遠江侵攻時には、服部半蔵
を中心とした服部党、同じ半蔵でも渡辺半蔵も活躍しており、天方攻めにも参加
しているはずですので、このどちらかの半蔵に由来した名前なのではないかと推
察しております。地元の人達10人程に当たってみましたが、誰も知らない。
つまりは事実やエピソードが忘れ去られてしまったということなのか、それとも
両者の名前由来ではないのか……?

 いずれにしても、根気よく探求してまいりたいと思っています――

 
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月06日 13時26分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

遠江は今川方になったり松平方になったりの変遷があったから
家康の時代になってからはムカシの記録は残されなかった・語られなくなったのかもですね。

地元のヒトにとって天方氏さえ忘れられたのかもですね。


なぜ半蔵山という名になったか森町のホームページに問い合わせてはいかがでしょう?
一緒に森町の歴史史料も取り寄せてはいかがですか?

郷土の史家のお方と知り合えると良いですね。



京都は38℃などと予報が出てますね。
体感気温は40℃越えでしょうね。
動けないですよね、アタマ痛くなるし。
こういう時は  水風呂  ですね。
スイカみたいに。
[39]酔石亭主さんからのコメント(2020年08月06日 16時18分43秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん    

天方氏に関してはあをさんがレス5で詳しく書かれていますが、ご子孫が現存しておられ、その方は通興の末弟、通秋の子孫になりますので、以下に直接コンタクトされたらと思います。半蔵山や服部源さんとの関係もわかるかもしれません。

https://amagata.com/about/castle.html

[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月08日 19時52分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今週は33℃から35℃くらいの暑さがずっと続きます。あさっては、浜
名湖で船釣りをしようと思っております。ウォーキングや山歩きはちょっと
えらいかな。盆休みといっても人混みには行けない。新型コロナウィルスは、
この一月余りですぐ近くにまで感染が広まってしまいました。政府の無策無能
ぶりに腹が立つのは、私だけでしょうか……!?

 さて、天方氏の後裔にあたる天方さんには、およそ20年前に尋ねて行った
ことがありますが、歴史のことは「花嶋忠左衛門亨」さんが詳しいということ
を教えてくれました。
 花嶋さんは、郷土史家で、天方氏についてはナンバーワンの研究家でありま
した。
 著書には――
 @『郷土史研究資料1 乱世を生きた天方城主』
 A『郷土史研究資料2 遠江国天方郷領主天方氏の歴史』
 ➂『概説 天方城主天方氏の歴史 その1』
等があります。
 私は、服部半蔵には興味を抱いたものの、天方氏には特段のモチベーション
を抱かなかったので、研究が遅れてしまいましたが、今はモチベーションが高
いので、この期間に天方家と青山家や服部党との関係、その他もろもろの秘密
について探求したいと心しております。
 「半蔵山」については、森町教育委員会に質問をしておりまして、近日中に
何らかの返事がくるものと期待しております――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月09日 01時06分44秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>通秋の子孫

まさか浜松で事業を成功なさっていたとは!です。



三つ柏さん

記憶に残ってなかったのですねぇ。
当時はお仕事で一生懸命の働き盛りですからスッカリ忘れていらっしゃったのですねねぇ。

>天方氏の後裔にあたる天方さんには、およそ20年前に尋ねて行った
>「花嶋忠左衛門亨」さんが詳しい



                      恐らく花嶋氏と天方氏とは運命共同体でお互いに血を分け合った親戚でしょうね。
                       天方氏は築山殿信康公事件で名が強烈に残ったけど
                       遠江の花嶋氏は越前にも行かず江戸にも行かず当地に留まった天方一族を息を潜めるように庇護なさったのでしょうね。


ということで「花嶋氏」について調べてみました:

印象としてはご先祖は   恐らく  鹿島神宮系  かな?


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8A%B1%E5%B6%8B


【名字】花嶋
【読み】はなじま,はなしま,かしま
【全国順位】 8,784位
【全国人数】 およそ900人

【名字の由来解説】

      現千葉県北部である下総  及び  現静岡県西部である遠江が起源である。
      現静岡県西部である遠江の豪族に見える。
      近年、千葉県にみられる。

      「嶋」は一定の小区画を表す。


花嶋さんの多い地域 TOP5

都道府県    人数
千葉県 およそ380人
静岡県 およそ180人
東京都 およそ110人
神奈川県 およそ80人
埼玉県 およそ30人


市区町村    人数
千葉県松戸市 およそ130人
静岡県周智郡森町 およそ60人              ココですね
千葉県八街市 およそ40人
静岡県浜松市東区 およそ30人
千葉県千葉市花見川区 およそ30人


花嶋さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県    比率
千葉県 0.00614%
静岡県 0.00504%
富山県 0.00111%                 越前から流れたのかな?
神奈川県 0.00087%
東京都 0.00081%


市区町村    比率

千葉県長生郡長柄町 0.39403%
静岡県周智郡森町    0.35477%
千葉県香取郡神崎町 0.229%
千葉県八街市     0.06054%
茨城県北相馬郡利根町 0.05803%          わたくし的には元はココらあたりの出身なのかな?と



コピペ出来ないのでココの「千葉一族」を参照なさってください。
https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk00uStygy7zUbsmAd9-PptSVZv-OnQ%3A1596898842564&ei=Gr4uX8b-Id-80PEP94q3iAg&q=%E8%8A%B1%E5%B6%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%8A%B1%E5%B6%8B%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&gs_lcp=CgZwc3ktYWIQAzoHCAAQRxCwA1CbGVjpfGDlhwFoBHAAeACAAa4BiAHCCZIBAzAuOJgBAKABAqABAaoBB2d3cy13aXrAAQE&sclient=psy-ab&ved=0ahUKEwjG84Li74vrAhVfHjQIHXfFDYEQ4dUDCAs&uact=5#spf=1596901006363

日暮又左衛門, 秋山大学, 新井郷左衛門, 藤谷修理. 海上隼人, 戸邉靱負, 池田雅楽助, 梅澤兵庫, 布施美作守,<< 花嶋勘解由>>. 斎藤大隅, 林彈正左衛門.
都合1000騎

この部分を詳しく ↓

「千葉一族」  {ひ・ふ}
http://chibasi.net/ichizoku81.htm


●永禄7(1564)年1月2日の第二次国府台の合戦に参戦した高城氏の武士●

高城和泉守胤吉 高城式部少輔胤辰 高城源六胤正 高城四郎右衛門
安蒜但馬守 田嶋兵部少輔 安蒜伊予守 安蒜備前守
血矢次郎右衛門 座間遠江守 鈴木新右衛門 田口因幡守
匝瑳牛五郎 吉野縫殿助 日暮又左衛門 秋山大学 新井郷左衛門 藤谷修理
海上隼人 戸邉靱負 池田雅楽助 梅澤兵庫 布施美作守 <<<花嶋勘解由>>>
斎藤大隅 林彈正左衛門  
都合 1000騎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E5%8F%B0%E5%90%88%E6%88%A6
国府台合戦

国府台城は元々千葉氏の分裂の際、馬加康胤討伐に向かった太田道灌が築いたものとされる。


第二次国府台合戦の激戦地となったのは千葉県松戸市矢切にある西蓮寺と野菊苑の間の坂道「大坂」。


https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4643
第二次国府台合戦〜北条氏康・氏政、鮮やかな逆転勝利


https://www.travel.smileandhappiness.net/konodai-satomi.html
国府台の合戦と里見氏ゆかりの散歩道



こうやって見てると(時間の経つのを忘れます)松嶋氏の家譜に「里見」という文字が書かれていたのを思い出し
歴史は一筋縄では理解出来ないのだなというのをつくづく思い知らされます。


人間って2本の足でどこまでもどこまでも往ったのだなと。

花嶋氏はもともと鹿島神宮ゆかりあたりの家で、千葉氏の一族となり、遠江にも来たのかな?と連想します。
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月09日 07時45分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花島という地名は、春野町にありますので、花島(花嶋)氏は地元より起こっ
たものと思われます。春野町は天野氏の支配でしたので、天方氏が徳川方に降
りて以後は敵対していた可能性もありますが、天方氏に付いていた花島氏もい
たかもしれません。ここのところの調査は、まだ手付かずでありますので、今
後何とか情報を入手したいと思っております。

 天方氏については、まだ頭の中で熟成しておりませんので、もう暫らくお待
ち下さい。もちろんこれは天方氏だけの話ではありません。家康と三人の息子、
大久保氏、服部氏、青山氏、天方氏、吉良氏等……に関係してくる話でありま
す――

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月09日 08時19分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

「花嶋」とはどこか検索したら天竜区にあるんですねぇ。
そして天竜川というより大井川の方?

さらに春埜山大光寺の開山は養老2年=718年=行基菩薩がこの山頂に庵を開いたこと。

          大井川鉄道「家山」駅から東海自然歩道で徒歩約6時間
          (キャンプの必要あり)
          浜松方面からタクシーで約2時間


                    すごい山奥!

          三倉から東に行ったところですね。



https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/culture_art/haruno_rekisiminnzoku_siryo/index.html
浜松市春野歴史民俗資料館

浜松市天竜区春野町宮川1327-1

053-989-1119(春野図書館)
053-989-0200(春野文化センター内生涯学習グループ)


開館時間
午前9時〜午後5時30分

休館日
  毎週月曜日(その日が国民の休日の場合は火曜日)
  国民の祝日
  年末年始(12月29日〜翌年1月3日まで)
  特別整理日毎月第4木曜日


ここからもっと東に行くと島田に行くんですねぇ。
島田の服部氏についても何か見つかると良いのですが。


今は TO GO トラぶル時期なので  地元での地道な研究が一番だと思います。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月09日 11時28分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、今までの情報の中で、友田家、山内天方氏が登場し、友田は伊賀の
鞆田(友田)出身ということでありました。
 伊賀について、特に『伊乱記』(菊岡如幻編著)を見ますと、第二次天正伊
賀の乱の時、上友田には――山尾、喜久永、城一党、服部某が籠り、中友田
には――広岡、深井、竹内、高名が籠り、下友田には――山内左衛門尉、福
見、福森、牧野、和田、稲増が籠ったと書かれています。
 また、氏族ごとに書かれた段を見ますと、服部一族は住人として友田に関
しては、上友田、中友田に住したとあり、下友田には藤原氏が住したとあり
ます。

 森町の鍛冶島の友田家は元は藤原氏であったとの名乗りがありますので、
これらの事実ははそれと照合するものとなっております。

 びっくりするのは、伊賀に「山内左衛門尉」が登場していることでありま
す。この山内左衛門尉は首藤山内氏の一族、つまり天方山内氏とも同族にな
るものと推察いたします(別途、考察)。

 つまり、友田、山内、服部の各氏は、源平の時代から知り合っていた仲で
あり、それが奇しくも遠州の森町あたりで再現されたと推察いたします―― 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月09日 14時53分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

レスを拝見してて、胸が熱くなりました。
ゲンダイからは(他人の関係だとばかり)思っていたら、いえいえ、絆は深く何重にも結ばれていたのでしょうね。

お盆ですから、知らないヨソのお宅のお墓にも般若心経を詠んであげてください。
良いご供養になります。
日本人って本当に何重にも縁があるんですねぇ。



https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=545
山内左右衛門尉?typoかな?  山内左衛門尉で良いと思いますが?

以下コピペ:

天正9年(1581)、天正伊賀乱の際に、伊賀北部の山内左衛門尉を始め、武内氏、福味氏、川合氏、福森氏、藤林氏ら伊賀衆が雨請山に立籠もった。

山内氏の城は北側中腹にあって、四方の土塁と西と南に空堀がある。
地元の人たちは、ここを猫屋敷と呼んでいる。
これは、戦闘の際の山城に対して、平素の麓の館や城を根小屋と呼んだのが訛ったものだろう。

『伊乱記』に、蒲生氏郷軍は鉄砲や矢を飛ばし一度に攻め込むが伊賀勢もこれに忍者得意のゲリラ戦法で応戦した。
氏郷軍には望月猪太郎という屈強の大男がいて伊賀軍を苦しめたが山内左右衛門尉が討取った。

しかし多勢に無勢で徐々に伊賀側が不利となり夕方頃には落城した。

山内氏は永禄11年(1568)に近江元守護の六角承禎が伊賀に逃れた時と天正元年(1573)石部城に籠城した時に承禎より「感状」を受けている。
雨請山登山入口に、山内家石碑と渡来系の石像2体がある。



                  この「渡来系石像」って?



https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?cat=24

伊賀にも  大光寺?https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=4692

伊賀地侍衆の集会場のひとつとされ、南北朝時代には既に開基されていたと伝わっています。
岡山の頂上付近に本堂があり、参道には「三体地蔵」等の石仏が数多く点在。
戦国時代には本堂だけでなく回廊や仁王門、庫裏(くり)があったとされますが、天正伊賀の乱の際に焼失したと伝えられています



そして   西念寺?https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=4491
服部半蔵正成の新宿区の菩提寺も西念寺です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BF%B5%E5%AF%BA_ (%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA)


いろいろ興味深い伊賀の史跡が纏めてあります。
千賀地城跡
花垣神社
その他


さらに!菊岡如幻についても出てます:

https://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=569
菊岡如幻

寛永2年(1615)に生まれるが、出自は清和源氏頼政の流れをくみ島ヶ原菊岡村より起こる。
本名捨松、随性軒とも称した。

如幻は伊賀上野で質商を営む裕福な商家を継ぐ一方、学問を好み北村季吟に師事し和歌をよくした。

文筆家として、延宝7年(1679)の天正伊賀乱の悲劇を伝えた『伊乱記』は、伊賀衆と織田信長との戦いを描いた傑作であろう。

他にも、荒木又右衛門仇討ちの実録『殺法法輪記』、伊賀の地誌『伊水温故』、民話を集めた『茅栗草子』、そして150巻にのぼる大著『世諺一統』などの著書がある。

特筆されることは、如幻は『伊賀国忍術秘法』『伊賀忍者考』という忍者について記述した本も書いている。
そういう意味では初代伊賀忍術研究家と言えるであろう。

墓所は上野市九品寺にあり、戒名は菊岡如幻らしく法號夢如幻居士となっている。


なかなか面白いサイトです。
[47]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月11日 08時56分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天方氏、即ち山内氏の祖先は、また特別な系譜であります。それをこれから
ちょっとまとめてみようと思います。一番のびっくりは、あの鎌田氏が一族で
あったことであります――
[48]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月11日 16時32分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだ体系的に、また客観的に調べ上げたわけではありませんが、田畑泰子氏
の「鎌倉期・室町初期の山内氏と一族一揆 ―国人領主の迎えた南北朝内乱」
という論文を読みますと、びっくりすることがたくさん出てきます。

 @山内(天方)「通興」から数えて15代前が山内「経俊」(つねとし)で、
  1185年から伊勢国の、翌年頃から伊賀国の守護であった(約9年間)。

 Aこの「経俊」の母(俊通の妻)は、源「頼朝」の乳母(4人の乳母の内の1人)
  であった。

 ➂「経俊」の祖父「通義」の兄弟である「通清」の妻は源「義朝」の乳母で
  あった。

 C「経俊」の曾祖父の「資通」の妻は源「為義」(頼朝の祖父)の乳母であっ
  た。

 ➄ 「経俊」の高祖父の「資清」の娘(「通義」・「通清」の叔母)は、源「義
  家」(義朝の曾祖父)の妻であった。

 Eこのように山内家は源氏の家人で乳母役でもあったが、経俊は平家方に加
  わり、源頼朝に弓を射るという失態を演じた。これは乳母である母の懇願
  によって、罪を免れた。

 びっくりすることをちょっと拾っただけでありますが、こんな具合です。
 まだまだたくさんあります。そんな首藤山内家の出身の天方氏、家康や半蔵
はどう見ていたのでしょう?――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月12日 00時02分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当に驚きですね。


>天方氏、家康や半蔵はどう見ていたのでしょう?――

        の  回答の1つになるかも知れないので  下の方にレスしますね。下の方に。てへっ


鎌田が義朝を連れて知多半島の野間=内海=うつみ=に逃げたのは
鎌田次郎正清は源義朝の乳兄弟で妻が長田忠致の娘だったから
源氏勢力下の東国に落ちて行く途中、匿ってもらえると思っていたから

ここら辺りは誰でも「平家物語」を読んだような人は知ってることですね。




田畑女史の解説ほどは詳しくは知りませんでした。
ありがとうございました。


ということで引っ張ってきました:
https://rekisisuki.exblog.jp/tags/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%B8%85/
歴史と素敵なおつきあい


              ブログ主さん勝手にコピペ  ごめんなさい。

鎌田正清 ( 1 )

都筑郡山田村
山田神社は山田城址で城主は鎌田正清である。
鎌田堂都筑区東山田1393

正清の住まいの跡である。

 「堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故 土人 鎌田堂と云う。
 二間に三間なり。     (わたしには意味不明)
  印子の観音を安置しありしが奪われ、 霊元天皇、 寛文十三年、 現在の石地蔵建立さる。


鎌田正清(1123〜1160)
通称鎌田次郎佐兵衛という。
藤原鎌足から8代、藤原秀郷の後裔で源家累代の重臣だった。
正清の祖父 須藤助道は源頼義、父の通清は源為義の側近だった。
正清は源義朝と同い年で乳兄弟である。


義朝は京都六条堀河の源氏の館で育ち13歳で鎌倉に下向し、亀ヶ谷の源氏館に入った。
そのとき行動を共にしたと思われる。


祖父は三河の国、父は駿河の国に所領があった。    ←  へぇ〜
正清が都筑に所領を得たのは鎌倉下向後と思われる。  ←  これもわたしには意味不明

義朝は嫡男悪源太義平に関東をまかせた。           これは知ってる
義平は長男だが遊女の子とされ正当な跡継ぎではなかったようである。
勇猛な武士で強いという意味で「悪」という名がついた。
のちのち石山寺に逃げ込み発見され20歳にして六条河原で打ち首になった。

義朝が京都に戻るとやがて源平合戦がはじまった。
平治の乱で大敗を喫し東国に落ちた。

途中正清の岳父、長田忠致のいる尾張の国知多郡内海荘に立ち寄った。
忠致は恩賞に目がくらみ義朝主従を襲い、義朝、正清ともに38歳で殺害された。

正清の所領は山田村他10カ所に及ぶという。
この都筑で落ち着くことはなかっただろう。
山田城南に熱田社がある。
義朝の妻は熱田神宮大宮司藤原秀範の娘であることと関係しているのだろうか。
今では山田神社に合祀され石宮が残る。



鎌田正清黄金伝説

正清の黄金伝説が愛知県南知多町豊丘字本郷の地に残る。
義朝の命でこの地に館を築き一族郎党が暮らしたという。
現在も山田の地名が残る。
その縁で内海の長田忠致の娘と縁付いたと思われる。


この地で館から800m南の山に軍資金を埋めたという伝説である。
「朝日が最初に当たり夕日が最後までさすところ、金千貫、銀千貫を埋め、大きな松があるという。
未だ発見されていない。」 


         「おっさんがゆく」より (この方は正清の子孫らしい)


どの文献からの話なのかわからないが、地図でみると昔は豊丘という丘だったようだ。
今では役場や畑になっていて少し山林は残っている様子。
正清の黄金伝説のこと知っている方、教えて欲しい!!
しつこく調べたら、「正清黄金伝説」は岩手県田老町にあった。(ミヤペディア真崎海岸正清伝説より)

この話と混同されているのだろうか?!



                       ココから本題です!!!


八王子千人同心

江戸時代中川5ヶ村は旗本領だった。

山田、大棚は八王子千人同心の所領であった。
八王子千人同心は武田の家臣がお家滅亡後家康の命により八王子に住んで
甲州口警備に当たった人々である。

千人頭は千人を10にわけ100人を1組とした。
千人頭は旗本、同心は御家人身分となった。

北山田長泉寺に寛政元年(1789)建立の万霊供養塔に、千人頭河野松蔵、志村造酒之助の名が残されている。


志村氏は清和源氏義光流小笠原支流で、伴野六郎時長の庶流という。
出身地は信濃国志村で武田に仕えた。
3代貞昌のとき千人頭になった。


河野氏は伊予国越智氏末流で、武田信虎=信玄のパパだね=に仕え、4代通次のとき千人頭となった。

                       この話は全く知らなかった
                       うちの母方一族が甲斐にいたのは見当がつくけど、ここまでハッキリは知らなかった



千人頭に慕われた松姫

信玄の娘松姫は、武田滅亡の折、信盛、勝頼、小山田信茂(町田の大泉寺)の娘を
引き取り八王子に落ち延びていた。

                       これは知ってた
                       同母のシスターは上杉景勝の妻
                         https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%9D%BE%E5%B0%BC                     

家臣たちは姫を慕っていたので八王子にきた千人同心たちの心の支えになった。

松姫は織田信長の子信忠と婚約しており政略結婚ではあったが、文もかわす仲であったが、
三方ヶ原の戦いで織田家と武田家は敵対し、婚約解消となった。

その後、信忠との婚姻が再び整う矢先、本能寺の変で信忠は亡くなり、八王子の心源院で出家し、
引き取った姫たちを育てながら、武田家、信忠の供養をした。
会津初代藩主保科正之もこの松姫が育てたという。


                       この人と大久保長安とが後に関わるのですよ
                       大久保長安は甲斐国八王子に8000石を家康から貰ってますから



家康は新田の子孫の源氏ですから
なるほど
天方氏とは先祖繋がりですね。


ややこしくてこんがらがるぅ〜
実際にはどこかで婚姻でも結ばれていたでしょうしね。
日本ですね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月12日 00時30分32秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B8%85

鎌田政清


生誕     保安4年(1123年)

死没     永暦元年1月3日(1160年2月11日)

別名     正清、正家、政家

通称     次郎


墓所     愛知県美浜町の野間大坊

官位     左兵衛尉

主君     源義朝

氏族     藤原北家秀郷流首藤氏庶流鎌田氏

父        鎌田通清

妻        長田忠致

子        盛政?、光政?、正近?、女子


平安時代末期の武将。
名は正清、正家、政家とも。
藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田権守通清の子。

源義朝の第一の郎党。

政清の母が義朝の乳母だったため乳兄弟として最も信頼された。



保元元年(1156年)7月の保元の乱で義朝に従って従軍し、源為朝に挑むがとても敵わぬと見て退いている。


平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。
待賢門の戦いでは義朝の長男・義平と共に平清盛の長男・重盛と戦い活躍する。

六条河原の戦いで源氏が敗れ、
義朝が討死しようとするのを引き止めて、
義朝の子や大叔父の源義隆、従兄弟の源重成と共に東国を目指して落ちた。

途中、近江国の落武者への捜索の苦難に遭いながら、
義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。

           美濃の大垣の青墓から海路を舟で逃げて尾張で舟を降りたところがホンヤさん宅のある場所(笑)


だが忠致の裏切りにあい、
義朝は風呂場で殺害され、
政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、
忠致の子・景致の手にかかって殺された(『平治物語』)。
享年38。

『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。


文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって、義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。

建久5年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。

政清に男子がなかったため、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄(春日井市の北東部から小牧市の東部)、丹波国名部庄の地頭職を与えている(『吾妻鏡』)。

政清夫妻の墓は、主君・義朝と同じ愛知県美浜町の野間大坊の境内に現存する。



鞍野郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%8D%E9%87%8E%E9%83%8E

くらやろうは、鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪。

                       なんだ  水木しげるの創作じゃなかったのか


鞍の妖怪であり、鞍に牙と目が生えた形で、紐状の手には鞭を持っている。


『百器徒然袋』での解説文には、

保元の夜軍に鎌田政清 手がらをなせしも
我ゆへなれば 
いかなる恩もたぶべきに
手がたをつけんと  前輪のあたりをきりつけらるれば
気も魂もきえぎえとなりし

おしみて  唄ふ声  いとおもしろく  夢のうちにおもいぬ


とあり、
策略によって主君共々殺害された源氏の家臣・鎌田政清が使用していた馬の鞍が変化して生まれた妖怪であると考えられている。
また、石燕は鐙口とおなじ見開きに鞍野郎を描いており、
この2体は『徒然草』に鞍など馬具について注意しろとする内容(186段)が登場することをモチーフにして創作されているとも考えられている[1]。
[51]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月13日 20時50分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町教育委員会より「半蔵山」についての返事がまいりました――
「一つの可能性としては、戦国期に天方城を攻略した徳川家康の家臣、渡辺
半蔵盛綱が布陣した山だったのかも知れません。
 ただ、由来の根拠となる資料、伝承等が残っておりませんので、何とも言
い難いです。」
とのことでした。
 
 私は二度登ってみて、その地形からいって小さな砦くらいはあったかも知
れないと思っています。いずれにしても、一つのロマンとして今後も裏付け
の調査をして行きたいと思っています――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月14日 01時52分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

>渡辺半蔵盛綱が布陣した山だったのかも

ありがとうございました。


半蔵は半蔵でも服部半蔵の他に渡辺半蔵の可能性もあるかもという三つ柏さんのご推察通りでしたね。



熱中症に負けないよう気をつけてくださいね。

わたしは来週木曜日に例年通りインフルエンザの予防接種に行きます。
今年は予約制ということで来週になりました。


ハワイのコロナ感染者数は昨日の統計では 3,958 死者数  38
        人口142万人弱  (オアフ島の人口が100万人弱)  で   です。

ハワイ州政府は「人の命が大事だ」という方針がよく分かります。
生きていれば 即 お金が要りますが
お金が大事か命が大事か   の二者択一時代なんでしょうか?
年金生活者と生活保護者が幸運なご時世です。

公的な場所は(公園ビーチなど)立入禁止でシャットダウンです。フェンスした上に布が張ってあって中は覗けない、とかです。
警官がウヨウヨしてるし。


それで?家族から追い出された?人の中には凶暴なのも外にいて 身の危険を  何度も感じました。

昨日も(!)通り魔的なのがいて   機捜車が来て  無事逃げられました。


すごいですよ
こんな世界があるのか
というのをハワイで体験するとは思っていませんでした。


もともと民主党の勢力の強いところでは極左の暴れ者達が略奪などの破壊活動をしてますが  (アンティファとかね)  
民主党系のメチャクチャ強い勢力圏でもハワイでは   ワイキキあたりでは  麻薬系かな?と思います。暴力系はワイキキには無いかも

     ハワイはそこら中に「店」が出てる世界ですから(笑)薬局が閉まった後にお隣で文字通りのドラッグストアが開店するとかね(笑)
     ハワイに来た当初は分からなかったけど

            ラスベガスではバス停が販売所だと夫の主治医が教えてくれた(笑)
            ロスは暗号が書かれてたり看板が電線からブラ下がってたりしてた   ハワイもムカシはコレだった


先週絡まれた時はパトカーの前で絡まれたんですよ  

フツー
誰でも
パトカーって  

簡単に目に入りますよね    


卑怯者が通行人に絡む時って  回りをチェックしてから  自分に安全だと確認してから  絡むんじゃないのかと思ってたわたしは
矢張り平和で安全な国の善良な日本人ってコトか


今は外に人が まず  歩いてないのですよ
コロナがコワイからじゃなくて  脳がやられた人が?通りにいるから!なのかな?  と思い始めています。


ホームレスの人は凶暴性は無いですから。

ということで8月8日(土)から締め出されたワタシはまだ散歩道が見つかっていません。
8月なので定例家事の銀器磨きはしています。
[53]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月14日 08時31分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 コロナ禍というものは、神社占いで言うところの「八方ふさがり」のような
ものであります。おまけに毎日35℃以上の酷暑!!! 家にいても眠くなっ
てしまうだけなので、森の図書館へ行きます。

 山内氏の系譜の中で、一番のヘソが「山内首藤経俊(つねとし)」であります。
山内天方道綱から数えて、15代前の祖先であります。源頼朝とは乳兄弟とい
うことで、同じく平知盛と乳兄弟であった服部家長も思い浮かべてしまいます。
頼朝に近かったということ、また一時平家に加担したということで、頼朝を助
けた池禅尼・平頼盛親子とも交流があったかも知れません。同じ藤原氏の出と
いうこともあります。

 この「経俊」、「三日平氏の乱」には、襲われた伊賀国守護「大内惟義」の
代わりに守護になりましたが、」「三浦盛時」や伊賀の平氏一党や百姓集の抵
抗にあい、逃げ散ってしまったということであります。これは、壇ノ浦の戦い
の19年後、頼朝の死後4年後のことでありました。
 この後、南北朝の時代になり、北畠氏が中核となって行きます。

 山内氏や平頼盛、平宗清は平家と源氏の間においてアンビバレントな関係に
あり、シンパシィが通じていたかも知れません。都と鎌倉のほぼ中間点にある
遠州森町あたりに関係者が隠棲してもおかしくないと考えております――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月14日 11時02分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


森の図書館、クーラー、入ってると良いですね。
良い情報が見つかるといいですね。


>山内氏や平頼盛、平宗清は平家と源氏の間においてアンビバレントな関係にあり、
>シンパシィが通じていたかも知れません。

はい

人間関係は単純には割り切れないので、思わぬところで敵が味方に引っ繰り返りますね。
それに昔は同じレベルの家同士で婚姻するので思わぬ人が思わぬ家と親戚だったりして
我々現代人にはワケ分からなくなりますね。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月16日 09時04分00秒 ) パスワード

「麒麟がくる」

こちらでは有料放送=TVジャパン=と無料放送=KIKU=で  計5回  同じ番組を流していて
今は再開を待っているところです。

    NHKが放送中止の間  わけ分からない再放送の仕方でこんがらがり  

さらに無料放送では  途中  山本耕史の「紀州藩主  徳川吉宗」を放送していました。

     山本耕史  40代初めで  21歳の吉宗役。
     かなりムリがあって   
     (山本耕史ってどんな役でも山本耕史で変り映えしないので  上から目線の役が合うと思う 例:土方歳三と石田三成)
     天一坊事件系の内容が3話放送されて  これで終わりました。尻切れトンボ感  満載で  あのドラマはなんだったの?  でした。

     ちょうど「雲隠仁左衛門 4」も放送されてて  コッチも始まりが天一坊事件で  こんがらがりました。

           今回は藤田富という若手がすごく良かった。苦み走った感じで。笑わない時の片寄涼太とか北村匠海みたいな感じ。



「麒麟がくる」
大河ドラマとして成立するのかな?
です。


ワタシが脚本を書くとしたら主人公の光秀のモノローグ式で
あの時代の英雄達のエピソードを並べたかな?と。
で、
かなり後で光秀を出して来るかなと。


光秀にとっての陪臣になる安田国継という人物
    (斎藤利三の家来で  信長に一番槍をつけたものの蘭丸に反撃され返す刀で蘭丸を討ち取ったとかのヒトで  山崎の合戦の負けから出奔した転職上等!のヒト)
かなり面白い人物ですが  まさか  大河では彼は出番は無いだろう  と残念です。

このヒトが山崎の合戦の負けの後に出奔するのは   光秀には後継者がいないから  だったとか。



いや、光慶がいたんじゃない?とも思うけど  光慶も謎に満ちているんだとか。


     自分の夫とか兄弟とかオジ甥イトコにいたらイヤだけど
     安田国継って  オトコとしては  なかなか面白い。
     最期も面白いし。
     最期は本能寺の15年後の6月2日に顔に出来た腫物の悪化を気にしての自害だったそうです。
[56]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月16日 17時56分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 連日の猛暑、日本一の40℃前後の気温を記録しております。完全にサウナ
状態、というか家が燃え出すのではないかというような怖れを感じる程です。

 昨日は、そんな中、秋葉山を徒歩で登ってきました。急な坂道が続くので、
20メートルごとに休憩、ファンの風で息をつき、また登っては休みの連続。
暑くない季節の2倍半の時間がかかってしまいました。

 秋葉山信仰については、森町三倉の源さんに教えてもらってこの歳になって
初めて知ったことがあります。それについて少し記してみます――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月17日 11時41分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

浜松のどこやらで40.9℃だったとニュースで見ました。
体温でこんなにあったら失神どころか脳がやられるじゃありませんか。
恐ろしい。

すごい気温ですね。
おうちの水風呂でスイカになってた方が良かったんじゃありませんか?
恐ろしい。


秋葉山信仰って  火伏りあたりしか知りませんでしたが
三つ柏さんが「可睡斎」を教えてくださいましたよね、随分前に。
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月17日 12時03分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 森町三倉田能(たの)の源さんから教えられた話でありますが、一般的には、
秋葉山と言えば「秋葉神社」と今の人達は理解していますが、本当は「秋葉
山秋葉寺(しゅうようじ」が「秋葉三尺坊大権現」を祀っており、正にそれが
秋葉信仰の対象であり、火伏せの神として、江戸時代には各地から多くの人
が参拝に訪れ、大いに賑わったということであります。

 ところが、明治維新の「神仏分離令」とその後の「廃仏毀釈」の流れによ
って、寺は破棄され、その跡地に神社が建てられ、京都の愛宕山から御神体
の「カグツチ」を勧請したということであります。

 寺の方は、その後八合目付近に再興されますが、山頂の秋葉神社のみが日
の目をみている形になっています。秋葉寺は皇室ともゆかりが深く、勅願寺
でもあったわけでありますが、この辺の詳しい内容、現状については、さら
に詳しく探求いたしたいと思います。

 もちろん、この秋葉寺、徳川家康とも大いに関係していますので、その辺
の話も進めたいと思います。

 なお、源さんの話によると、源三の家の側を秋葉路が通っており、裏の奥
の方には旅籠や女郎屋もあったという。江戸方面から来る参拝客は、秋葉山
→熱田神宮→伊勢神宮と参るのが一生の夢で、費用的には「講」に加入した
ということであります―― 
[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月17日 12時08分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:源三→源さん
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月17日 13時58分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

今日も暑そうですね。
名古屋は伊勢湾の奥にあるので蒸し暑いのですが
東三河とか遠江とかって負けずに暑い所だったのですねぇ。
知らなかったです。

本当に熱中症には気を付けてください。


「カグツチ」が出て来ましたか。

イザナミが火の神様を生んでアソコの火傷がもとで死んでしまう  それで  怒った父親に殺されて  いろいろな神様が生まれた  あの神様ですか。



>源さんの話によると、源さんの家の側を秋葉路が通っており

修験者が通ったんでしょうね。
忍者も。


遠江って信濃と隣り合わせで  古くから出雲の国や神と関わり  南北朝の戦いの場でもあり  戦国時代にも戦場となって

        遠山氏と奥山氏が戦ったんだろうなとか  

歴史の蔭に隠された話がいろいろあったのでしょうね。


太平洋側を見ていたら気付かないけど山の奥にはダイダラボッチとか天狗とか鬼とかの伝承がたくさんありそう。
そういう不思議な話で一般の人々を寄せ付けなかったのかな、とか?



遠江では曹洞宗がさかんというのもちょっと分かった気がします。 



[62]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月18日 05時48分15秒 ) パスワード

観測記録タイだとテレビのニュースで言ってました。
そして浜松の41度の時の湿度は36%と言ってたのかな?
フェーン現象というのでしたか。


こちらは新聞記事のコピペ:

浜松市中区41.1度 各地で猛暑、原因は「2層」の高気圧
静岡新聞社
8/17(月) 20:09配信

 静岡県内は17日、西部を中心に日中の最高気温が35度を超える猛烈な暑さとなった。浜松市中区では午後0時10分ごろ、国内観測史上最高気温と並ぶ41・1度を記録。同市天竜区船明で39・6度を観測した。気象庁によると、18日も県内各地で猛暑日になる見込みで、熱中症への警戒を呼び掛けている。

 気象庁によると、日中の最高気温はこのほか、天竜区佐久間町で38・7度、磐田市で38度、川根本町37・7度、松崎町35・2度。35度以上を観測した6地点のうち4地点が県西部地域だった。

 静岡地方気象台によると、猛暑の主な原因は列島を覆う「2層」の高気圧。太平洋高気圧の上に大陸から張り出したチベット高気圧が乗るような構造になっている。下降気流が発生して地上の空気が圧縮されることで気温が上がるほか、雲ができにくく、日射が通りやすいことも要因の一つ。県西部では山を越えた暖かく乾いた西風が入り込み、フェーン現象が発生したことでさらに気温が上昇した可能性があるという。

 気象庁によると、向こう2週間は引き続き暖かい空気に覆われ、平年より気温がかなり高くなる予想という。
[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月18日 08時27分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ニュース記事、ありがとうございます。毎年気温が上昇して行くとすると、
今後日本は、また地球はどうなって行くのか心配になります。未来を見通す目
が必要です。独りよがりの文明も、自然環境からしっぺ返しを受けつつありま
すので、抜本的に見直さなければならない緊急性が今あるように思えます……。

 さて、渡辺守綱と服部半蔵は、どちらも槍の名手であり勇猛果敢な武将とし
て、数々の戦闘で活躍します。そういった意味では、同等に比較されていいの
ですが、服部半蔵は伊賀衆(今で言う忍者集団)を引き連れているという点で、
際立った特異性、ある意味非日常的なオカルト性があるのに対して、渡辺守綱
にはそれに対抗するだけの特異性があるのかどうか、ずっと気になっておりま
した。
 かつて、源頼光の妖怪退治について調べていた時、「渡辺綱」という武将が
出てまいりました。この渡辺綱と渡辺守綱、同じ渡辺同士であり、はたしてつ
ながりがあるのかどうか調べましたところ――渡辺綱は渡辺守綱の先祖として
つながっているようであります(まだ系図的には調べていませんが)。

渡辺綱はあの源頼光に仕えており、妖怪=鬼退治で有名であります。つまり、
オカルト的な特異性があり、後裔である渡辺守綱もその背景にオカルト的特異
性を背負っていたと見た方がいいのではないかと推察するのですが、いかがな
ものでしょうか。

 渡辺綱に腕を切られた鬼は、「愛宕山」に飛んで戻って行くというところが
また面白い。秋葉山も愛宕山と同等の所でありますので、西の愛宕山と東の秋
葉山の関係は、渡辺守綱と服部半蔵の関係を暗示させてくれます――
 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月18日 14時45分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

渡辺半蔵守綱は渡辺綱の子孫でしたか。

      渡辺綱の子孫は  1文字を使用するとばかり思っていました。
      渡辺半蔵守綱の家は  下に【綱】をつける家だったようですね。


渡辺半蔵守綱は尾張藩の家老になって
幕末のゴタゴタの時には青松葉事件で
子孫の渡辺新左衛門在綱   (御年寄列、二千五百石、内五百石足高) が斬首になっています。


      わたしのケチ友銀行時代のボスの家も斬首者2人と謹慎者1人を出しています。


また渡辺盛綱は三河一向一揆で一向宗方で家康と戦っています。
      

一向一揆側についた家康家臣をコピペしておきます:


本多正信 - 戦後は出奔。松永久秀に仕えるなど諸国を流浪し、のち大久保忠世の執り成しで帰参し重用され、創業期の江戸幕府の重臣となる。

                      『おんな城主 直虎』では六角精児が演じましたね(当時の身分は鷹匠でしたね)

                       
本多正重 - 兄の正信と共に参加。のち赦免帰参し戦功を挙げるも出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷に仕えたのち帰参。

渡辺守綱 - 赦免帰参。のち徳川義直の附家老となる。徳川十六神将。   

                                              ココですね

蜂屋貞次 - 永禄7年(1564年)に降伏帰参。徳川十六神将。


夏目吉信 - 野羽城(六栗城との説も)陥落の際、松平伊忠に捕縛され伊忠の嘆願により赦免帰参。               
                                              夏目漱石のご先祖さまです

内藤清長 - 蟄居処分。      子の家長は父から離反し家康方として勤めた。

加藤教明 - 戦後に出奔。室町幕府将軍足利義昭に仕えた後、羽柴秀吉に仕える。子の嘉明は秀吉の下で出世した。

酒井忠尚 - 一向一揆勃発より前に、居城に立て籠もっていたとする説もある。また、一揆方と連携していた痕跡が無い。一向一揆収束後も抵抗。

石川康正 - 父の石川清兼は三河の本願寺の信徒総代であったなど、石川氏は一向宗徒と深い関係にあった。

             ただし清兼の妻(の母)は家康母の妹であり、
             康正、家成兄弟は家康の従兄弟である。

             この縁戚関係により康正嫡男の石川数正は改宗して家康方、弟の家成も家康方として参戦。


                           なのに石川数正は秀吉の家来になっちゃったんですよね
                           秀吉の懐に飛び込んだ形でスパイしてたのかなぁ?



こうして見て来ると   三つ柏さんのお家は曹洞宗ですから一向宗の勢力の強い尾張系でも三河系でもない  もともと遠江の在?

          服部半蔵は  浄土宗 =  家康の本来の宗教と同じです


服部源さんとこは  やはり曹洞宗でしょうか?お盆なのでお訊ねする絶好の機会です。 にっ  ^ . ^¥
[65]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月19日 08時34分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 源さんところは、曹洞宗(栄泉寺―蔵泉寺)、私のところは松島系の源長院
(曹洞宗)ではなく、浄土宗(知恩院―定明寺)であります。もう一つの寺、法
永寺(1577浄土宗に改宗)に所属する檀家もあります。同じ村でも氏によって
寺が変わるのは、何か由縁があってのことでしょうが、源長院以外ははっき
りしたことはわかっておりません。但し、定明寺は、南朝系笠井(葛西)氏の
の創建したものであることはわかっております。また定明寺がなぜ当初より
浄土宗なのかについては、今後調査をして行きたいと思っております――

 
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月19日 13時30分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

失礼をば致しました。
浄土宗でしたか。どこかで勝手に曹洞宗だと思い込んでしまいました。


              昨日「陪審員」のお勤めの手紙が来て
              今日は知恵を捻っていかにこの国民の義務を回避するか悩み
              3つぐらい忌避(笑)の理由を回答しました。

              その中の1つが「ヒトのハナシを聴くのに難あり」です。笑
              ホント  わたしって勝手に自己都合でヒトのハナシを解釈してしまうんだからぁ


そうしますと   家康家臣系なんでしょうか?
三河が絡む?
それこそ服部半蔵の家と関わりが深かった?


またまた振り出しに戻りました。



服部権大夫政信の子の菩提寺は市ヶ谷の浄栄寺で  浄土真宗。やっぱり尾張のホンヤさん系の出身ということか?

服部中保次の子の菩提寺は四谷の湖雲寺で  ここは  曹洞宗。
もう1人の子孫のお寺は四谷の勝興寺でやはり曹洞宗。首切り浅右衛門のお墓があるお寺だそうですよ。


伊賀の神職で宇治田原に出て家康に仕えた服部貞信は伏見の円龍院に  (神職なのに?)しかし 現存してるのかどうか宗派も分からない。
子は赤堤の西福寺だから真言宗。   神職の家なのに?  謎


他の服部氏で今川に仕えた系だと吉良家の菩提寺を菩提寺にしていて  万昌院功運寺  だから曹洞宗。


ま、宗教はバラバラですね。
それに時代と共にお寺さん自体が宗派を替えますしね。


遠江で多いのは曹洞宗で  そこに  家康がらみで浄土宗が増えていったという流れ?
[67]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年08月21日 08時41分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、改めて清瀧寺(信康の墓所)を訪ねました。目的は、信康、大久保
忠世の墓参りであります。信康廟の中に忠世の墓もあります。もちろんここ
に葬られたわけではなく、信康事件の起きた二俣城主としてだと思います。
武田に攻められて落城した時の城主であった中根平左衛門正照、そして青木
又四郎、信康と共に殉死した吉良於初(小姓)の墓も、忠世の墓と並んで廟の
入口付近に建てられております。墓はそれぞれ小さく、宝篋印塔や五輪塔と
いったしっかりしたものではなく、形の崩れたものであり、なぜもっと立派
なものを建てなかったのか不思議であり、寂しくもあります。ここで般若心
経を二巻唱え捧げてまいりました。

 清瀧寺のすぐ裏には、本田宗一郎記念館があり、本田宗一郎に関係する諸
々の品々(写真・絵画・図書他)・物品(オートバイ・エンジン他)・説明書き
(生涯・考え方・交友他)を見ることができます。本田宗一郎のDVDも流さ
ており、いつも元気をもらえます。宗一郎も清瀧寺の庭でよく遊んだりした
ということですので、信康・家康のことは頭に入っていた。ものづくりにお
いて天下を取るというモチベーションに影響を与えていたのではないかと推
察しております。親父さんは大工でありました。宗一郎はスケッチや絵が得
意でありました。浜松でアート商会を始めた時、宗一郎は「浜松城跡」の中
にあたる一画に居を構えておりました。

 大久保忠世は、二俣城に1575年から1590年まで居城しておりまし
た。家康が浜松の殿様なら、忠世は二俣の殿様であります。もちろん大久保
一族のその系統も、二俣城下に住んでいたと思われます。
 大久保忠世について、もっと知りたいと思っています。特に服部半蔵との
関係、青山家・天方家との関係……たぶん心情的には同じグループではなか
ったか、また血縁的なつながりも、系譜的なつながりもあった……その辺を
今まとめております――
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月22日 02時11分23秒 ) パスワード

服部家と大久保家の関係といったら  家康の16将のうちのお2人ですね。

2つ
思い出します。



大久保長安事件



小田原藩の家老・服部家が二宮金次郎を財政担当にして財政破綻を免れた件

http://www.zempukuji.or.jp/konjyaku/ninimiya_kinjirou_odawara

江戸に幕府が開かれ、小田原藩の治めるところとなり、途中改易などで他家の舵取りとなる時期はございましたものの、貞享三年(西暦1686年)に初代藩主大久保忠隣の孫にあたる大久保忠朝が入封してからは再び大久保家の治めるところとなっておりました。二宮尊徳が生を受けましたのは、それから藩主六代を数え、大久保忠顕が小田原藩主であった時代のことでございました。

金次郎は、生家を再興し、地主として農園経営をしながら、小田原に出て武家奉公人としても働きはじめることになります。


金次郎のことを知った小田原藩家老、服部十郎兵衛から、服部家の家政立て直しを依頼されることになります。

5年計画でそれを請け負った金次郎は、文化十一年(西暦1814年)には服部家の財務を整理、1000両の負債を償却し、且つ余剰金300両を贈るまでの立て直し成功をいたしましたが、自らは一銭の報酬も受け取らなかったそうでございます。



三河時代に服部家と大久保家の関係がどうだったのかはワタシは直接の内容を知らないです。

             服部家と本多家の関係は個人的なものを知ってる
             でもココには書けない
             わたしなんぞには書く権限が無いから
                       書いたら血の雨が降るな        
[69]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月22日 09時31分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史は調べれば調べる程、その深みがあることに驚きます。つまり、根気よ
くその謎を調べて行けば、必ずといっていい程新たな発見にぶつかる。だから、
ネバーギブアップの精神で歴史の謎に臨むことが、歴史を探求する上で肝要で
あると考える今日この頃であります。

 本日は、少し気温が下がりましたが、湿度のせいで蒸し暑いです。一時の暑
さのピークは過ぎて、これからは台風のシーズンとなりそうです。

 コロナは相変わらずですが、怖いものも慣れてしまえばそんなに感じなくな
るということ、人間の常であります。昨日は葬式がありましたが、三蜜の原則
には沿っていませんでしたが、コロナのことは忘れて故人を偲びました。コロ
ナ対策は、自助努力あるのみです。

 さて、このところの図書館通い等で色々な発見がありました。一つは定明寺
についてであります。また一つは堀江城主中安定安についてであります。その
他にも色々ありますが、郷土史の情報は、そのまま飲み込む訳にもいかず、一
度検証作業を施さないといけないので、少し時間がかかりそうです。

 インターネットの情報では、国立公文書館の『干城録』(かんじょうろく)と
いうものにアクセスすることができました。服部氏については、十六氏の系譜
が原文(結構わかりやすい)で載っております。一度、「干城録」でクリックし
てみて下さい。

 さて、大久保忠世についてですが、忠世も歴戦の猛将で、春野の犬居城主・
天野氏攻めにも参加しており、三倉でも戦っております。服部半蔵正成の記録
が見当たりませんが、家康の参陣する戦いですので必ずいたはずであります。
大久保家と服部家をつなぐ太い絆というものを探しておりますが、歴戦の同じ
釜の飯を食った仲というものは、それだけで太い絆で結ばれているものである
とは考えております。
 一つ気になるのは、大久保忠世の母は、「三条西公条(きんえだ)」の娘であ
り、公条はあの春日局の高祖父にあたるということであります。つまり、紐解
けば、斎藤氏や稲葉氏や明智光秀につながるということであります。

 明智氏は服部氏と姻戚関係でつながっていて服部グループ。 天方・青山氏
も服部グループ。とすると、家康公の次代は「信康」でなく、服部グループの
「秀忠」の擁立の方向に心血を注ぐはずであります。二俣城主の大久保忠世が
服部グループであったかどうかは、信康の生死の結果に反映されるはずであり
ます。結果は、服部系の秀忠、次に斎藤系(永井系でもあり、明智グループで
もある)の家光となった。

 大久保忠世の心境を覗いて見る必要がある。忠世と半蔵、どっちが上の立場
だったのか、どっちが力があったのか? 半蔵は今で言う側近のポンペイオ長
官であったのか――

 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月22日 14時01分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

>国立公文書館の『干城録』

わたしのPCでは行けなかったです。

下記のサイトで服部氏の面々の記録が見られるようですが
わたしのPCでは開けなかったです。


                       パワーが無いのかもね
                       暑いからPCもストライキしてるのかも


恐らくワタシの知ってる家もあるようですが
開けないので確認出来なかったです。

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000051452&ID=&LANG=default&GID=&NO=1&TYPE=dl&DL_TYPE=pdf&CN=1


コロナはすごい事になっていて
8月1日の累計感染者数は  2,111
本日までの累計感染者数は  6,072
3週間で4000人近く増えてるんですよ。

人口142万人弱の州でホノルルのあるオアフ島は人口100万人弱なのに。
感染者数の9割がオアフ島で、です。


死者数は  26人から46人になっています。


それで州政府は5人以上集まらないように
家族以外とは会わないように    親戚もダメ  一緒に住んでる人だけ!
などの命令を出しています。


今日は保険会社から手紙が来て  コロナ疑惑の場合  8月1日から(今日は21日なのに)12月31日まで  無料で医療機関にかかれる  と言って来ました。




三河大久保氏

関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂泰藤が三河国に移住したのが始まりで、その子孫が当時、奥三河の小土豪であった松平氏に仕えたと自称するが、真相は不明である。 宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂または大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。

『柳営秘鑑』の中では、安祥松平家(松平宗家・徳川家)安祥城居城時代からの最古参の安祥譜代7家の1つに挙げられている。

徳川家康の配下として活躍したのは忠茂の孫で、大久保忠員の子である大久保忠世、忠佐の兄弟が主要な合戦で武功を挙げている。


江戸幕府草創期

忠世の子・相模小田原藩の初代藩主・大久保忠隣は徳川秀忠付けとなり、やがて老中に抜擢されるほど重用される。しかし1614年(慶長19年)、忠隣は改易処分となる。身柄は井伊直孝に預けられ、近江国栗太郡中村へ配流された。跡目に期待していた長子・忠常を失って以来、失意の底にあった忠隣は赦免される事なく、その地で没している。


          いろいろ憶測を呼ぶ件が多いのでURLへ
          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%9A%A3


忠隣の次男以下も処分対象であったが、蟄居処分で済んでいる。

忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子で忠職の従弟・忠朝の時に小田原藩主として復帰を果たした。相模守忠隣の改易から、実に70年余の歳月が流れている。また、連座で謹慎していた次男の石川忠総は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げたことから最終的に近江膳所藩主となり、子孫は伊勢亀山藩主となった。



大久保彦左衛門の話では先祖は三河の山奥の松平って痩せたトコロで貧乏生活してたなんて言ってますね。
安城も   当時は安祥ですが  ここも水の無い痩せた土地でしたね  
明治用水が出来て  日本のデンマーク  なんて自賛してました。最近のハナシだ。


            わたしは知らないもんだから
            さすが日本のデンマーク!
            畦道は舗装されてるのか!

            と、畦道のつもりで真ん中を歩いてたら  いえいえ 実は  車道でした。  
            畦道に車が走って来て腰を抜かしそうに驚きました。


今は安城はトヨタのベッドタウンになってて   あ  トヨタの城下町って言うのかな
皆さんトヨタ系の会社にお勤めのようです
安城の人口  今はスゴイことになってるようですよ
ムカシは安城の人は岡崎あたりに働きに出てたのに。岡崎の車の工場で働いてた。


     家康の先祖も  三河の山奥  →  安祥  →  岡崎  に出て行った  その後  曳馬 →  駿府  → 江戸  と大出世  

            Let's go places!
            これはトヨタのCMのフレーズで  「アチコチ行こう!」「遊び回ろう」って意味です。Let's go TO places.  じゃないですよ

            で、本当の意味は   「出世する」  です。

            使い方は未来形や現在進行形で使って  現在形や過去形では使わないんです。

            It's clear to see that the Matsudairas'll be going places.
松平一族が将来出世するのは火を見るより明らかだ
            

                    トヨタの車のCMの  Let's go places! のキャッチコピーを見てると
                        ホントに大出世しちゃったよ
                    と思わずにはいられないです。

  
人間って  一体  なに?
歴史って  なに?
麒麟って  だれ?    家康じゃん!  信長でも秀吉でもなく  家康だったじゃん!  今はトヨタじゃん!って。

なんか泣けて来た。           

安祥ってトコロは今の  北安城とか南安城とか  のようです。
新幹線の駅も出来て
安城の道=畦道   と思ってたワタシには
[71]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月24日 16時44分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の義兄の姓は「中安」であり、義兄の父が書き写した過去帳を調べました
たら、大祖先は天正十七年(1589)に亡くなっております。

 「中安」といえば、堀川城主でもあった「中安兵部定安(豊種)」が初代であ
るようです。姉川の戦い(1570)で討死しております。定安の子は四人いたよう
で、長男は康勝(幼名「萬千代」)、次男が重政(野中三五郎)、三男が重康、四
男が康宣であります。

 次男の野中三五郎は、築山御前殺害に関与しております。背後にはもちろん
家康、大久保忠世、服部半蔵・他のうごめきがあると思われます。
 信康は、天正七年(1579)八月四日に大浜城、九日に堀江城、十日二俣城へと
移された。八月二十九日に母築山午前が佐鳴湖畔で殺害され、信康は九月十五
日に二俣城で自害(二十一歳)ということになっている。

 築山御前や信康殺害の背景に、うごめく者達の影が見えそうです――
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月25日 02時43分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご無事のようで、安堵致しました。




中安氏について  たくさん  出てますね:

https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk02DWO0VtgEp_B0c2YU37Lr88fIZMQ%3A1598289333379&ei=tfVDX77SFoOJ-gSyuaPoDw&q=%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%85%B5%E9%83%A8%E5%AE%9A%E5%AE%89%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%85%B5%E9%83%A8%E5%AE%9A%E5%AE%89%E3%80%80%E3%81%AF&gs_lcp=CgZwc3ktYWIQDDoHCAAQRxCwA1CEE1iEE2DeIWgAcAB4AIAB1QGIAf0CkgEFMC4xLjGYAQCgAQKgAQGqAQdnd3Mtd2l6wAEB&sclient=psy-ab&ved=0ahUKEwj-gNvfq7TrAhWDhJ4KHbLcCP0Q4dUDCAs#spf=1598289338537


中安兵部 - Wikipedia
ja.wikipedia.org › wiki › 中安定安


中安 定安(なかやす さだやす)は、戦国時代の武将。 経歴[編集]. 中安氏は遠江国佐田城主・堀江為清の次男・堀江豊種が中安氏として中安兵部豊種を名乗った ...


安兵部が埋葬されたという茂山塚 | 大河ドラマを追いかけて
shizuka2015.jugem.jp › ...

中安 定安(なかやす さだやす、生年不詳 - 元亀元年(1570年))は、戦国時代の武将。別名を中安兵部。父は佐田城主の堀江清泰。子に彦次郎康勝らがいる。


浜松市史 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブ ...               コレは調べに行く価値ありますね
trc-adeac.trc.co.jp › ...

【堀江城】中安氏『大沢家略譜』によると、大沢基胤の族に中安兵部少輔安定がある。安定は家康の進駐にあた... 中世編 第三章 南北朝時代 第四節 社会と経済 荘園



山村修理と竹田高正の堀川城の話と〜堀江城での中安兵部も ...
senjp.com › yamamura

Apr 28, 2017 - 中安兵部(なかやす-ひょうぶ)は、佐田城主・堀江清泰(堀江新右門清泰)の子ですが、生年は不詳です。 別名を中安定安(なかやす-さだやす) ...


大河ドラマに恋して:中安兵部が埋葬された茂山塚(もさん ...
shizuka0329.blog98.fc2.com › blog-...

中安 定安(なかやす さだやす、生年不詳 - 元亀元年(1570年))は、戦国時代の武将。別名を中安兵部。父は佐田城主の堀江清泰。子に彦次郎康勝らがいる。


長上郡の服部氏族XCV(課題確認36)
www.hikoshima.com › bbs
                             我々のですね

中安 定安(なかやす さだやす、生年不詳 - 元亀元年(1570年)) 戦国時代の武将。別名を中安兵部。父は佐田城主の堀江清泰。子に彦次郎康勝らがいる。


টুইটারে 大岩右衛門丞遠近: "【中安兵部定安】 佐田 ...
twitter.com › ooiwasyuu1615 › status

【中安兵部定安】 佐田城主の堀江新右衛門清泰の子と伝わる今川家家臣。堀江城の大沢基胤に従い家康に頑強に抵抗するも耐えきれなくなり氏真公の許可を得て ...

Images for 中安兵部定安 は


2000.3 - リサーチ・ナビ - 国立国会図書館
rnavi.ndl.go.jp › mokuji_html

8 中安兵部少輔定安. 165. 9 中安から分流した野中氏. 166. 10 中安定安、姉川で討死. 166. 第2節 竹田、山村、尾藤の三将. 167. 1 堀川城の地理的考察. 167.


大河ドラマ直虎 大沢基胤と中安兵部とは?堀江城(浜名湖 ...
samurai-hi.com › ... › 直虎関連

May 27, 2017 - 中安兵部(?〜1570). 名は定安。父は佐田城主の堀江清泰。子は康勝。 浜名湖の東岸に位置する堀江城を有した大沢基胤の家臣。 中安氏は ...

多過ぎるので 以下略




国立公文書館の『干城録』
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000051452&ID=&LANG=default&GID=&NO=1&TYPE=dl&DL_TYPE=pdf&CN=1

に中安氏は出てない?


もう1度確認に行ったのですが出てなかったような?


服部氏系は  本姓服部  になってましたね。平姓でも源姓でもなく服部になってましたね。


服部中服部保次みたいに。



天方氏は
天方山城守藤原通興
天方備前守藤原通直
天方藤十郎通次



「おんな城主  直虎」に「さくら」の夫役で出てた山田裕貴の目張り化粧メークでビックリした庵原さんの本姓が越智だったこと。


庵原助右衛門(いはら すけえもん)
演:山田裕貴

今川家重臣。太原雪斎の一族。桜の夫となる。
縁談にあたり、直虎と面談し直虎が今川界隈で領主として評価されていることを伝え、
また衰退する今川にあっても最後まで忠義を貫くことが庵原としての生き残る道と覚悟を定めていることなどから、
桜の夫として直虎や南渓から好ましい人物と評価されている。
のちに織田家に仕え、その滅亡後は徳川家に仕えることとなり、終盤では直政の配下に任命される。


今川家の家臣の庵原さんといったら  就活中の山本勘助がらみで印象に残ってただけなのに
山田裕貴のお目目パッチリメークに圧倒されて   気になってたけど
母方がらみの越智氏だった?
それでワタシはやたらと気になった?

先祖パワーで「お前の一族だ」と気になってたのかな?


              庵原さんは夜のベッドルームで変な趣味のあるオトコ
              というハナシがちょっと演出されてましたね

                     どんな趣味?
                     知りたかったのにぃ〜


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%89
中安氏
現静岡県西部である遠江の豪族、近年、兵庫県に多数みられる。


お暇な時に  また  お出掛けになって
浜松市史 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブ ... trc-adeac.trc.co.jp › ...

【堀江城】中安氏『大沢家略譜』によると、大沢基胤の族に中安兵部少輔安定がある。安定は家康の進駐にあた... 中世編 第三章 南北朝時代 第四節 社会と経済 荘園


中世の南北朝時代の大沢一族についてお調べになってみてください。


くれぐれもコロナを拾わないように!
[73]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月26日 10時53分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史には表の歴史と裏の歴史があります。つまりある意味白昼のきれいごと
の歴史と、闇のおどろおどろしい歴史であります。
 その闇の部分に真実があるとしたら、表の歴史は虚飾の歴史ということにな
ります。

 神君家康の歴史も、虚飾で固められた歴史なのかも知れません。たぶん、か
なりの部分がそうである可能性があります。

 「築山御前・信康事件」に関しても、どうもまだ腑に落ちません。ただ、堀
江城の中安定安氏の次男・野中重政が信康事件に深く絡んできましたので、こ
この謎について、その背景を探りたいと思い、只今調べております――
 
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月26日 13時08分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


大昔  (場所はヒミツ)  働いてた時に  野中さんとおっしゃる方がいらっしゃいました。
今  考えると  岡崎とか浜松とかに  関係あったような記憶なので
本姓藤原氏俗姓中安屋号野中さんだったのかなと。

すごく立派な方でしたよ。
1年一緒に働いただけですが  お名前をしっかり記憶していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E9%87%8D%E6%94%BF

野中三五郎重政
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川氏の家臣。


天正7年8月29日(1579年)、家康の命を受けた重政らは遠江国小藪村において築山殿を暗殺する。
その後、重政は城を出て故郷の遠江国堀口村に隠棲したと伝えられる。

後に野中家では聾唖の娘が二人も生まれる等、家族に不幸があったため、享保8年(1723年)、
重政の子孫で水戸藩士の野中重羽は築山殿の廟前に石灯籠を寄進し、慰霊に努めた。

この石灯籠は今も築山殿の墓前に残っている。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月27日 12時31分06秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101729.html
長上郡の服部氏族CXXX[:138:いよいよ核心に‐6
のスレッドを立てました。

キリの良いところでどうぞ。
[76]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月27日 13時25分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 1579年、信康が岡崎城から移されるのが、まず@「大浜城」、次にA
「堀江城」、最後に➂「二俣城」であります。

 @大浜城主は長田(おさだ)重元で、実際は「羽城」のことであろうか。長田
重元の子である直勝(翌年、永井と改姓)は、信康に見出されて仕えていた。

A堀江城主は大澤基胤。1570年の姉川の戦いで壮絶な死を遂げた中安定安
はもはやいなかったが、その長男・康勝は居城していたようである。次男であ
る野中重政は、1572年の三方ヶ原の戦いで家康の窮地を救い、召されてい
る。
 
 ➂二俣城主は大久保忠世で、家康の信頼の厚い譜代の家臣であった。

 家康は、信康を殺す気はなかったようである。この3か所に移らせた目論見
はなんだったのだろうか? 信康はこの間に逃亡もできたはずである。ひょっ
としたら逃亡していたのかも知れない。神君となった家康にとっては、歴史の
記録などはいかようにも創り変えるることができたであろう。
 この時、服部半蔵のスタンスはどうであっただろうか?

 次回は、さらに踏み込んで考察してみたいと思います――
 
 
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月27日 15時54分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


築山殿と信康の事件はいろいろな説があって全く分からないです。
信康については浜松の山奥で隠れ棲んでたとの説もあるそうです。


分からないから色々な説が出るわけで。


「おんな城主  直虎」での築山殿は  今川家の中でもたいした存在じゃなかったですよね。
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