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 投稿番号:101729 投稿日:2020年08月27日 12時29分48秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXX[:138:いよいよ核心に‐6
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101726_74.html
長上郡の服部氏族CXXXZ:137:いよいよ核心に‐5
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



森町の一画・三倉という所、山里ではあるが、
近くに菅原道真の弟子が流れて来た話、
平家の落人が流れて来た話、
そして家康と武田方の攻防(家康はこの地で怪我をしている)等、
歴史の坩堝である。


服部源さん宅はご祖先さまが藤原とも名乗ったことがあるということ
友田氏は伊賀の北西出身であること
「光盛公」とは藤原光盛?平頼盛の子息の光盛?


天方氏の本姓は藤原氏であること
天方通興は大久保忠世に属して家康の戦に参加し
信康自刃に際し介錯を頼まれた半蔵がその任に堪えきれず、
代わって天方通綱が信康の介錯をしたこと

そして!

本姓藤原氏俗姓中安・屋号野中重政らが遠江国小藪村において築山殿を暗殺。
この中安家は三つ柏さんのご親戚。
中安兵部は佐田城主・堀江清泰(堀江新右門清泰)の子。


歴史の坩堝を覗いたら・・・皆さん・・・繋がっちゃいましたね。

[1]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月29日 11時03分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。まとめ方、秀です。

「中安兵部定安」の父ですが、「爲清」に訂正してください。
長男が「清康」、次男が「定安」、三男が「景誠」となります。

 本日は、中安定安・康勝父子の墓(茂山塚)、及び菩提寺竜泉寺(いずれも
舘山寺から南2q以内)を訪ね、供養をしてまいりたいと思います。

 帰ってから、詳しいことをさらに記したいと思います――

 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月29日 14時09分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「中安兵部定安」の父ですが、「爲清」に訂正してください。
> 長男が「清康」、次男が「定安」、三男が「景誠」となります。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%AE%89
中安 定安(なかやす さだやす)

戦国時代の武将。


経歴​

中安氏は遠江国佐田城主・堀江為清の次男・堀江豊種が中安氏として中安兵部豊種を名乗ったのが始まりという。

佐田城主・堀江新右門清泰の子として誕生。
浜名湖の東岸に位置する堀江城を有した大沢氏の大沢基胤に従っていた。


                        ややこしくて迷子になった


堀江城の戦いで徳川家康に攻められるが、後に和議が成立すると基胤と共に本領を安堵され家康に降る。
その後元亀元年6月28日(1570年8月9日)の姉川の戦いに従軍し、近江国浅井郡姉川河原で戦死したという。

                       現在の滋賀県長浜市野村町付近


堀江村の平に埋葬されたという「茂山塚」 が残る。          ココですね
菩提寺は竜泉寺。
定安より数え12代目の武彦が昭和44年(1969年)竜泉寺において先祖の供養を営み、石灯籠を寄進した。


>舘山寺

地名は記憶にあって行ったことがあるけど  どこに在るか分からないので地図を見たら  浜名湖の東?

竜泉寺の供養用石灯籠をちゃんとご覧になってらっしゃいました? 
[3]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月30日 09時11分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 暑さにはいささかうんざり、心身共疲れてきました。太陽の大きさや地球
との距離は昔も今も違わないのに、この突き刺すような光線の強さは何でな
んだろうと頭を傾げる。オゾン層が薄くなり紫外線が強くなったのか、以前
オーストラリアで言われていたことが、今の日本でも言われるようになった
ように思われます。

 昨日も炎天下、車で舘山寺方面へ向かい、「茂山塚」を訪ね、その墓の前
で鈴を鳴らし、般若心経を二巻唱え、「中安定安・康勝父子及び中安一族」
の供養をしてまいりました。直ぐ近くに農家の温室が取り囲むように迫り、
線香に火を付けることは火災予防のため控えました。
 宝篋印塔は大・中・小とありましたが、それらは崩れており完全なもので
はなく、誰かが整備しなければ、やがては崩れ去ってしまうような危惧を感
じました。

 100mほど東に、「桜塚」と言われる桜の木があり、佐田城(堀江城と思
われる)に送り込まれた今川家の腰元が隠密とわかり、逆さにされて埋められ
た後、桜の木が植えられたという伝説が看板に書かれておりました。

 こういう話を知るにつけ、歴史とは一筋の文章で語られる教科書の歴史が
歴史ではない、無限の筋の歴史が同時に進行しているということを強く感じ
ます。

 竜泉寺には行きましたが、石灯篭はどこにあるのかわかりませんでした。
中安家の墓もないようでした。メジャーな歴史のみが残り、マイナーな歴史
は風化して消え去って行く、そんな桜の花の一弁のような歴史のかけらも大
事にしなければいけないと、心の中で叫んでおりました――
 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月30日 11時25分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。

中安家の人達は浜松を出て先祖のことは忘れてしまっているんでしょうね。

「おんな城主  直虎」を見てたらクレジットで  「あれ?中安姓?」と気付いたと思うのですが
その内に浜松出身だったことさえ忘れ去られてしまうのかもですね。


誰かが伝承していかないと風化しますね。
せっかくの祈念の宝篋印塔や石灯籠  ボロボロにしてしまうんでしょうか?
惜しいですね。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%AD%E5%AE%89

【名字】中安
【読み】なかやす
【全国順位】 3,277位
【全国人数】 およそ3,900人


中安さんの多い地域 TOP5

都道府県       人数
兵庫県        およそ1,400人
静岡県        およそ650人
東京都        およそ410人
大阪府        およそ390人
京都府        およそ110人


市区町村       人数
兵庫県姫路市     およそ670人
静岡県浜松市浜北区  およそ190人
静岡県浜松市東区    およそ140人
静岡県磐田市     およそ120人
兵庫県神崎郡福崎町  およそ100人


中安さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県       比率
兵庫県         0.02638%
静岡県         0.01789%
秋田県         0.00818%
京都府         0.00458%
大阪府         0.00455%


市区町村        比率
兵庫県神崎郡福崎町   0.50662%
兵庫県美方郡香美町   0.26897%
兵庫県加西市       0.20623%
大阪府豊能郡能勢町   0.20546%
静岡県浜松市浜北区   0.19343%
[5]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年08月31日 12時48分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「メジャーな歴史」とは何か、「マイナーな歴史」とは何かを考えた場合、
時の権力を司るものにとって都合のいいことがメジャーな歴史となり、都合の
良くないことはマイナー以下の歴史にさせられる。即ち、小さく扱われるか、
改竄されるか、隠蔽されるということであります。

 中安定安は、遠江の他の城主と同じように今川の支配に従属していた。最初
は抵抗するが、今川義元の桶狭間の死により、織田・徳川のパワー・評価が上
がったこと、及び後継者氏親の能力・信頼度の低さにより、今川方から徳川方
に転じる。他の城主達も同じような経過を取る。武田に攻められて武田側に付
く城主もいた。天方氏と天野氏である。天方氏は徳川方についたが、天野氏は
滅亡した形となった。

 さてこの中安定安と天方道興でありますが、定安は徳川方に付いて後の姉川
の戦いにて、道興は今川方であった時の大高城からの退却の時、それぞれ家康
に対して戦功を上げております。
 具体的には、定安は「敵の勇敢な谷熊之函と同鹿之助兄弟が、家康の陣所へ
切り込んできたので、これと戦って定安は討死した(71歳)」ということです。
 道興は、「元康(後の家康)が大高城から退却の時、殿を務める元康を助け、
追いすがる織田軍をけちらし、この戦いで一番の働きありと称賛された」とい
うことであります。

 その親にしてその子達――中安氏はその次男の野中重政、天方氏は次男(長
男は早世)の天方道綱――には、何とも可哀そうで不可解な事件がふりかかり
ます。
 
 この続きは次回に――
 
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2020年08月31日 13時43分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>定安は「敵の勇敢な谷熊之函と同鹿之助兄弟が、家康の陣所へ切り込んできたので、これと戦って定安は討死した(71歳)」

71?!

うちの母方先祖は68歳で老骨に鞭打って後鳥羽上皇方に馳せ参じたとあるのですが
71で討ち死にですか。


    ではワタクシも70になっても元気でいられるよう頑張らなくては。


定安を検索しててすごいサイトを発見しました!
https://www.daitakuji.jp/ 過去ブログ墓-碑-標等/

ブログ主さま
勝手にコピペ
ごめんなさい。


2020.01.31 中安家菩提寺灯籠
東西から見る富士山 中安定安菩提寺 龍泉寺の灯籠
https://www.daitakuji.jp/2020/01/31/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1-%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%AE%89%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%AF%BA-%E9%BE%8D%E6%B3%89%E5%AF%BA%E3%81%AE%E7%81%AF%E7%B1%A0/

>下記の茂山塚の中安定安の菩提寺はこちら近隣の龍泉寺(場所はURLへ)。
>子孫も健在でこちらには中安定安から12代目の方が昭和44年に法要開催した際に寄進したという灯籠がありました。


紋は三つ葉葵?




2020.01.30 中安定安 茂山塚
姉川戦で討死の中安定安 堀江城が見える丘に
https://www.daitakuji.jp/2020/01/30/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E6%88%A6%E3%81%A7%E8%A8%8E%E6%AD%BB%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E5%AE%89-%E5%A0%80%E6%B1%9F%E5%9F%8E%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%98%E3%81%AB/

>ブログでは宿蘆寺と大沢基胤について記しましたがその大沢家一門配下に中安定安(中安兵部)という人がいます。

>父親はその「堀江」を名のっています。
>大沢基胤は堀江城にあって当初は今川方として家康と対峙しますがうまく立ち回って家康配下になります。

>その後は徳川軍の一軍として江州姉川の戦い(元亀元年1570 野村合戦)に出征しますがこちら中安兵部はそちらで奮戦、討死したといいます。

>勝ち戦とはなったものの遠く近江の地で亡くなった中安兵部がどのように遠江に運ばれたのかわかりません。遺体全てを運ぶ例もありますが戦いは真夏でしたのでそれはムリでしょうし。

>堀江城を北に見る丘に墓地がありますが、その近くのハウスとハウスの間にこんもりとした塚に宝篋印塔が建っています。

>そちらが「茂山塚」との伝承(場所はURLへ)。

>それは彼の法名が「勇将院殿茂山玄栄大居士」。

>その院号「勇将院殿」から推するに余程の「男」だったのでしょうね。

>墓地周辺が農地の開墾があってその存在が危ぶまれた時期があったことが伺える立地ですがその分、地元では大切にされていたことなのかも知れませんね。
>花が添えられていました。

   良かった!

>残欠石塔の大小ありますが、一番大きいものが中安兵部と言われています。
>看板に記されている「三分割」というのは明らかに大きさの違う宝篋印塔であることがわかりますので夫婦墓の類かと。


>今川方から家康に降る際の書状には大沢に次いで二番目に記されているのが中安定安とのことで(岩堀元樹氏)、当家筆頭の重臣だったこともうかがえます。

>@画像の奥が堀江城。観覧車が見えます。


などなど興味深い記事がたくさん出ています。
[7]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年09月01日 10時43分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 渡辺半蔵守綱でありますが、服部半蔵正成とよく間違えられて歴史書に記載
されると言う。それはある意味無理からぬことかも知れない。お互い槍の名手
として、守綱は「槍の半蔵」と呼ばれ、正成は「鬼の半蔵」と呼ばれた。
 調べてみると、何と守綱は1542年生まれで、正成、そして家康と同じ歳
生れでありました。
 守綱と正成の関係がどういうものであったか、大変興味深く思っております。
その関係を記す歴史的資料はあまりないように思われますが、何とか見つけて
みようと思っています。小説では、仁志耕一郎の『二人の半蔵』という秀作が
あります――
[8]丸に三つ柏服部)さんからのコメント(2020年09月02日 12時47分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「築山御前・信康事件」の前に、信康の家臣の「大賀弥四郎事件」というも
のがあった。武田勝頼と内通して岡崎を武田の支配下とするという企てであっ
た。首謀者の中心は大賀弥四郎で、家族共々極刑になった。またその一人、倉
地平右衛門は討ち取られ、もう一人の小谷甚左衛門は「渡辺半蔵」が召し取ら
んと向かうも、逃げられ天竜川を泳ぎ渡って二俣城へ逃げ込み、さらには甲州
へ逃げ去ったという(『改正三河風土記』)。
 この時の渡辺半蔵は、ひょっとしたら服部半蔵ではなかったのか、でも取り
逃がしたとあっては伊賀衆の頭領としての立場がないので、その辺を配慮して
渡辺半蔵と書いてくれたのではないのか……「二人の半蔵」はいい面もあるの
かも知れない……?!
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月02日 13時33分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


家康と渡辺半蔵と服部半蔵の関係
どんなだったんでしょうね。

    天文11年生まれ同士の同級生みたいな絆で結ばれていたんでしょうかねぇ。


>小谷甚左衛門は「渡辺半蔵」が召し取らんと向かうも、逃げられ天竜川を泳ぎ渡って二俣城へ逃げ込み、さらには甲州へ逃げ去ったという

これは全く知らなかったです。


>服部半蔵ではなかったのか、でも取り逃がしたとあっては伊賀衆の頭領としての立場がないので、その辺を配慮して渡辺半蔵と書いてくれたのではないのか

面白い推理ですね。
同じ年齢だし同じ槍上手ですから固い絆で結ばれていたでしょうから  有り得ますね。
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月03日 16時47分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 堀江城のあった庄内の郷土史研究会がまとめた『堀江城物語』という本があ
ります。その中に、「堀江城の実力者・中安氏」ということでその出自が次の
ように書かれております――

「堀江和泉守光真(みつざね 中安定安の高祖父)が、応永年間(1394〜1427)に
越前国から遠江国に来て、初代の佐田城主となった。
 光真の先祖は藤原時国で、越前国で新田氏に属し、度々武功を立てたが、更
に東方の反乱を鎮めようと、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王に従ってむ、伊勢
湾から乗船して遠州灘に差し掛かった時、逆風のため難破して将兵は四散し、
やっとのことで親王と共に福田港に漂着した。
 そこから高部(袋井市高尾)へ行き、行宮(あんぐう)を建てて住んだが、十七
年後親王は薨去した。
 時国は、越前国坂井郡に帰り、堀江の庄七十ケ村を領有したので、堀江と姓
を改め、元中三年(1386)に死去した。
 時国の後は、景経、景重と続いて光真となった。」

とあります。

 郷土史研究書でよく出くわすのは、筋の追えない人物名や、筋の入り混じっ
た人物像であります。上記の「藤原時国」という人物、「南朝」に仕えていた
ということが事実としたら、今まで全く「南朝」の「な」の字も見えなかった
中安家も、実は南朝の糸を引いていたということになるのかも知れません。当
然、宗良親王とも、井伊家とも関係して来ることになります――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月04日 00時46分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

もう驚きでした。

中安家が南朝がらみというのは  越前出身  ということでスグに分かりました。


その上に  越前出身でしたら  南朝方の前の時代には平家との関係もバリバリにあったはずです。


これで  みんな  繋がりましたね。いえいえ  遠慮して  繋がりますね  にしておきますか。


命のやりとりには  血と涙で繋がった仲間  というのは大前提だと思います。


   それでも  命の危機には裏切りが出来しますが  やっぱり細い細い糸を辿って  遠くから馳せ参じるものです。


名前の「時国」「景経」「景重」の名前を見てるだけで  平家だな〜  と空想します。

      平時国   堂上系平氏=貴族の方の=平清盛の後妻さんだった時子さんの実家ってことね
      藤原(伊藤忠清の父親の名前にあやかった?)景経
      藤原(伊藤忠清の父親の名前にあやかった?)景重

                こんな名前を思い浮かべます。



日本の名字は細分化し過ぎていて  繋がりが見えなくなってしまうから  厄介ですね。
             
天皇子孫なら源平藤橘あたりの姓お纏めで分かり易い(謎)けど  俗姓を名乗ったり土地を名乗った屋号になると分かり難い。さらに分化した名字ではワケ分からない。


中安氏が藤原氏出身ならそれぞれ平氏とも源氏とも繋がるから南朝方だったという説が受け入れ易いです。


       足利家の内紛というか内訌は何が何やらワケ分からないです。
          尊氏 vs 直義 vs 高師直


尊良親王は宗良親王の同母兄ですから!!!
我が家にとってもわたくしの父方母方  共に  ココ  大事  です。


建武の戦いで後醍醐天皇が降伏後も越前国で尊氏との戦いを続け、
金ヶ崎の戦いで高師泰・足利高経(斯波高経)に敗北し、
新田義顕(義貞の子)と共に自害。

       「こうやって切腹はするのですよ」と義顕に作法を教えられて死んでいくシーンは有名ですね。


敦賀の金ケ崎には行きましたよ。
すっごく風の強い所でした。

    うちのオットは秀吉の殿軍の戦いを想像してたけど
    わたしは母方一族が金ケ崎を目指しているうちに木の芽峠の北で吹雪の中  道に迷って  という太平記の悲劇のシーンを連想してたけど。


だから  日本人だったら  地名の1つも耳にすれば  その人が自分にとってどういう立場の人か瞬時に分かります。

聞かなくても  なんか  分かるしね。空気感かな?  先祖パワーが働くんだろうな  と思っています。


ということで  中安家が  突然身近になりました。
感謝です。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月04日 15時43分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 6〜7年前に資料を入手したものに『高部の御所の親王伝説を尋ねて』とい
う小冊子があり、後醍醐天皇の皇子に関係したものであり、高部(袋井市)を訪
ねたことがありました。今、改めてその小冊子を読みますと、その当時は理解
が薄かったものが、あを様の解説のおかげで、すべてが理解できました。
 その小冊子には、時国も堀江氏も高永親王、守永親王の名前がでておりまし
たが、各種資料の寄せ集めでゴチャゴチャしており、よく理解できなかったも
のと分析しております。

 用事で一時中断します――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月05日 09時12分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

>各種資料の寄せ集めでゴチャゴチャしており、よく理解できなかった

ホント
この時代は場所も人物も事件も多過ぎて何が何やら分からないですね。
寝返ったりもありましたしね。


      わたしは未だに足利家の内訌がワケ分からないです。


         恐らく  武家を纏める尊氏自身、自分がどうすれば良いのか分かってなかったのでしょうし
              弟の直義が政治方面で纏めようとしたけど
              高一族も口出しするし


                 グッチャグチャ過ぎて理解出来ないです。


南朝方は良くも悪くも強烈な個性の後醍醐天皇がいて   なんとなく  纏まってたのかな?
でも無能なのに政治的動きは得意の公家がクチを出して武家が迷惑して
やっぱりグッチャグチャで


騒ぎは大きかったけど尻すぼみで収束していった  って感じなのかな?


とにかく分からない時代でした。
地方の豪族もワケわからない内に   疲れて  ど〜でもいいや  って萎んでいったんでしょうかねぇ。

その後 足利将軍家や有力大名家の家督相続で  収まってたように見えてた焼けぼっくいに火がついて 日本中の地方の豪族も巻き込まれていった  ってことでしょうかねぇ。


続きをお願いします。
楽しみにしています。
[14]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月06日 13時21分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日・昨日と、友人の通夜・葬儀があり、余裕がありませんでした。
 また、これから史上最強の台風10号の九州への接近、我々の地域でも大雨
が降りそうということで、いやな予感がいたしております。

 さて、錯綜した南北朝の頃の情報を、手元にある各種郷土資料や出版物等を
総合し、点(キーワード)と線(流れ、ストーリー)を整理してみますと、袋井市
にある「慈眼寺」というお寺の由緒書きが一番素直でわかり易いので、それを
記してみます――
 
「慈眼寺開創の由来 
 元弘年中(1331〜1333)山名郡笠西村高部(現袋井市高尾町袋井駅付近)に創ら
れた。当時は那智山観音音堂で、天台宗であった。
 この地には後醍醐天皇の皇子が行宮を建てられ住まわれた。皇子に随従して
いた堀江新右衛門中務大輔時国公が、皇子の死去を歎き、一宇の観音堂を建立
したと伝えられている。
 時国公は、その後、越前堀江の庄に帰り、逝去した。
 当山開基、慈眼寺殿精忠時国大居士(元中三年四月二十九日御寿世七十歳逝去
俗名堀江新右衛門中務大輔時国)が当山の開基である。
 南北朝時代、後醍醐天皇の頃、堀江新左衛門中務大輔時国公は、新田氏に属
し、所々において忠勲を顕す。続いて東夷を誅せんと欲し、帝の皇子守永親王
を護りて、伊勢より航行し、遠州灘にて大風のため、四散し、遠州福田(ふくで)
湊へ皇子と共に漂着す。その時、左衛門佐、高橋等も随従して、高部に行宮を
建立し、十七年間住み給う。その間、守永親王陸奥に移る。正平七年八月、又
遠江に帰り高部の里に住む。同十年二月十四日死去。」

 その時国から数えて四代目の光真が応永年間(1394〜1427)に越前から遠江に
来住し、初代の佐田城主となった。その光真から数えて四代目の清康の弟が、
中安定安であり、さらには定安の次男が野中重政であります。

 つまり、今川氏から徳川氏に鞍替えした中安氏(その子は野中氏)は、八代前
の先祖が南朝の大忠臣であったということであります。
 つまり、徳川家康(新田氏の末裔と称す)の周りの忠臣は、大久保氏を初め、
服部氏もそうですが、祖先が南朝臣であった(子孫はそのDNAを引き継いで
いると思われる)という事実――これをどう歴史的に解釈するのか、興味深い
テーマであります!――
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月06日 14時57分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。


兄)尊良親王・守永親王 (宇津峰宮) ←→ 堀江家(中安家)  

弟)宗良親王・尹良親王  ←→ 井伊家・服部家


大久保家が出てましたが  大久保家って元々は  宇津氏を名乗ってた。 
大久保家家老の服部家の財政を二宮金次郎が建て直し  さらに  大久保家の分家の宇津家の財政を立て直した。


この大久保家がムカシ名乗っていた宇津氏というのが
    藤原姓宇都宮氏から出た宇津なのか?ならば服部家とも親戚になります。
    北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来する宇津峰宮さま由来なのか?
前々から気になってました。


        戦国時代の宇津氏といえば
        土岐家子孫が神護寺領有頭郷を支配して宇津豊後守頼顕を名乗ったのが有名かなと思いますが
        なんか納得できないでいました。


尊良親王・守永親王が宇津峰宮さまを名乗っていたということで
こちらなら腑に落ちるのです。


でも  当たっているのかいないのか  保留  ということで。
        


宇都宮朝綱は  平清盛に仕えていたのを

元暦元年(1184年)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能=母が宇都宮氏の娘で伊賀の服部家長の兄です=のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い、
本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。

同年11月14日)、平氏追討の功で佐々木盛綱等と共に西国に所領を賜る。

元暦2年(1185年)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が頼朝への助命を求めて突如朝綱の元を訪れたため、
朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。

           津島神社の大橋家は平貞能の子孫になります。
           服部家も津島神社の神官です。

           宗良親王の妻は井伊道政の娘で  生まれた子が尹良親王
           尹良親王の妻が大橋の娘で    生まれた子が良王君で  良王君が亡くなったのは服部家。

           

だから  ずっと  大久保家と服部家が一蓮托生なのは   いやいや   刎頸の友なのは  平家時代からの御縁なのかなと。


ホント  日本人って  みんな繋がってしまうでしょ?
三つ柏さんだって  なんとかかんとか  中安家と繋がったわけだし。



それにしても  周りの方達が鬼籍に入っていかれるのは残念ですね。
この暑さですから  体調を崩すと  夏が越えられないということになりますね。
三つ柏さんもくれぐれもお気を付けください。


ワタクシはPCR検査で陰性でしたから  一応  安心です。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月06日 15時26分05秒 ) パスワード

検索したら  有りました!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F# 宇都宮氏族


徳川氏の家臣の三河国の大久保氏も宇都宮氏後裔といい、
大久保系図によると、
宇都宮貞綱の弟の宇都宮泰宗(武茂泰宗)の子の宇都宮時景の子の宇都宮泰藤を祖とするという。

                               え?
                               何?                                      

孫の道意の時に宇津を名のり、

その五代後の宇津忠俊が大久保氏の祖とされる。


『藩翰譜』によると宇都宮泰藤は南朝方で、
新田義貞が討たれた時、
越前国を落ち三河国大久保に住んだことに始まるというが、

         三河土着の大久保氏は宇津宮氏と伝え、
         宇都宮氏とは同音だが別とされる。


              宇津宮とは、
              四国の伊予国喜多郡宇津に住んでいた人物で、

              桓武天皇の第3皇子の伊予親王で、
              宇津宮氏とは伊予親王の子孫と称する一族で、
              伊予の越智氏や伊予橘氏、河野氏、楠木氏などが知られる。


                       なによっ!
                       それじゃ、わたしの母方一族じゃん!




              母方は南朝方でも  特に  直系先祖は吉野にいて  後南朝になっていきます。

              一族は楠正成とも一緒に行動してたグループもあり

              懐良親王に従って九州に行った者もいます。


              一族には北畠親房の息子が来て村上になったり。
  


へぇ〜
母方でも  大久保家と繋がるの?
ビックリ


だから大坂の役で落人になったけど  ちゃんと大坂の武士に戻って  紀州徳川家との関係もあり  明治維新後は士族になってるし。              
 

わたしは稲葉とか堀田とか斎藤と一族だから  そっちの関係で  徳川家に許されたのかと思ってたけど大久保も絡んでたのかな?と。


自分が思ってた以上にアッチコッチ繋がってたのかも。
父と母の結婚した理由も  +1  になりました。あはっ        



[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月06日 16時48分08秒 ) パスワード

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%87%E6%B4%A5%E5%AE%AE


【名字】宇津宮
【読み】うつのみや,うつみや,うつみ
【全国順位】 8,463位
【全国人数】 およそ950人
【名字の由来解説】

宇都宮とかわるがわるもちいられる。

中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流宇都宮氏族。
近年、九州北部に多数みられる。
「宮」は神社を表す。


またまた混乱してしまう。


もう寝ます。
[18]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月07日 13時08分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 中安定安(1499〜1570)とほぼ同世代に近い大久保家の武将としては、大久保
忠員(1511〜1583)がおりますが、定安より12歳年下となります。天方道興は
1517〜1598年であり、定安より17歳年下となります。

 その次の世代になると、大久保忠世(1532〜1594)、野中重政(中安定安の次男
推定1550〜1610)、つまり重政の方が忠世よりおおよそ15歳年下になります。
 天方通綱は1551年生まれということで、重政とはほぼ同年代であります。
  
 服部半蔵正成は1542年生まれですので、忠世よりは10歳年下、重政よりは
8歳年上、通綱より9歳年上となります。
 つまり、忠世は半蔵にとってお兄さん格、重政や通綱は弟分のようなもので
あります。

 その野中重政が築山御前を、天方通綱が松平信康を殺害したということであ
ります。
 この「築山御前・信康事件」における服部半蔵正成の本当の動きを知りたい
と思っています。漫画・劇画のようなシーンは創られたもののような感じがい
たします。大久保家もからんでおりますので、忠世・半蔵・重政・通綱の4人
と家康との関係を洗い出して見なければならないと思っております――
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月07日 13時13分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様
  
 野中重政の年齢は、あくまで私の推定ですので、他との年齢差は、アバウト
なものとご理解下さい!
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月07日 14時36分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

以下  推測:


家康の人間関係を知るのに
今川家での8歳から19歳を誰と過ごしたのかでかなり分かるのかな
と思いましたが   
服部家や大久保家の名は出て来ないようです。

                       ということは服部家や大久保家の者は 基本的には 岡崎にいたのかな?


築山殿とは弘治3年(1557年)正月15日に結婚、
信康は永禄2年(1559年)3月6日生まれなので家康が17歳の年齢の時の子。

ということは下記の人達は信康が生まれた時を知っているから
下記の人達には築山殿や信康の殺害を命じなかったのかなと。

赤ん坊の時から知ってる人に介錯なんて命じられないと思う。


      ヒトラーは軍用犬を育てさせた者にその犬を殺させて犬への愛情を断たせるということをしたそうですけど
      家康には我が子の誕生を共に喜んだ者には介錯も検死も命じられなかったのだろうと思うと  ちょっと  ホッとします。
      

                       
                       築山殿の死は岡本時仲と野中重政によって。






家康の駿府人質時代に随行し一緒に駿府で暮らしていた人達の名前:

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076948

『徳川家康おもしろものしり雑学事典』(樋口清之編 講談社 1982年)p22-23に「竹馬の友はだれか?」の項があり、

「…譜代の家臣のほかに遊び相手をお供に加えることにした」とあり、
遊び相手に選ばれた5人の名が記されている。


遊び相手は次の通り。
         天野又五郎(康景)※5歳年上、
         石川与七郎(数正)※1歳年上、
         阿部徳千代(正勝)、
         平岩七之助(親吉)※同年齢でもっとも仲が良かった、
         松平与一郎 ※1歳年下。



・『家康伝』(中村孝也著 国書刊行会 1988年)の第1章「少年時代」第3項「駿府の生活」には、
当時8歳の竹千代が駿府に向かう際の随行について、
「随行した家臣の氏名は諸書の異同多く、七人小姓とか七人衆とかいう呼称があるけれど、結局明確に知ることはできない」とあり、
次の9名の名が記されている。

        酒井政親(27歳)、
        内藤正次(20歳)、
        安部重吉(19歳)、
        天野康景(13歳)、
        野々山元政(12歳)、
        阿部元次(9歳)、
        平岩親吉(8歳)、
        榊原忠政(8歳)、
        石川数正(年未詳)。

このうち20歳以上の二人(酒井政親、内藤正次)が年長者として護衛の役に任じ、その他の七名が小姓であったのだろうかなどとある。


・「歴史読本」昭和57年12月号(新人物往来社 1982年12月)収載の「少年家康は売られたのか」(神坂次郎著)には

「六歳の竹千代に従うもの

        松平与市忠正、
        石川与七郎数正、
        平岩七之助親吉、
        同助右衛門親長、
        天野又五郎康景、
        同三之助、
        それに遊び相手になる阿部徳千代正勝ら二十八人。
        雑兵五十余人」
と記述がある。



3.徳川家の歴史に関する史料を確認

・『三河物語:三河徳川家の歴史(教育社新書)』上巻(大久保彦左衛門著 教育社 1980年)の「若き日の家康」の部分には関連の記述は見あたらない。

・『国史大系』第38巻 徳川実紀(黒板勝美編輯 吉川弘文館 1964年)の「東照宮御実紀巻一 天文十四年-天文十六年」には、

駿州に向かう際に付いたのは

        「石川与七郎数正。
         天野三之助康景。
         上田万五郎元次入道慶宗。
         金田与三右衛門正房。
         松平与市忠正。
         平岩七之助親吉。
         榊原平七郎忠正。
         江原孫三郎利全
                 等
         すべて廿八人。
         雑兵五十余人。

         阿部甚五郎正宣が子・徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として。御輿に同じく乗せて遣はさる」
         と記述がある。



・「駿府記」「慶長年中卜斎記」には、家康の幼少期については書かれていない。


_________________________________

家康が織田家に売られて住んでたところは織田家の菩提寺の万松寺らしいです。
ムカシの万松寺は今の名古屋城の敷地内になるのかな?  
万松寺の敷地は5万5000坪あって
その後
名古屋城が建てられるために家康によって現在の大須に移されたんだそうです。
        この場所は  古渡城のスグ近くです。


                その割にわたしは迷子になったけど
                全く違う方向に歩いてしまった。


わたしは勘違いして熱田神宮近くの加藤さんの家に預けられていたとばかり思っていたけど
この人は家康の監督者ということで   
家康が住んでたのは古渡城のすぐ近くだったようです。


                方向音痴なので  ヤッパリ  頓珍漢な事を書いてるかも(すまぬ)
[21]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月08日 13時46分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 誤嚥性肺炎も新型コロナによる肺炎も、肺炎という意味では同じようなもの
であります。脳梗塞の後の後遺症にからみ、誤嚥性の肺炎になるというケース
は結構多いと思います。先日の友人も、三年前の友人もそうでありました。
 最近、喉の筋力の衰えか、飲み込む時に気管支に飲食物が少々入りかける傾
向があり、誤嚥をした場合どうしたらいいのか心配の今日この頃です……。

 さて、中世の南北朝の動乱と戦国時代とは、1392年に南北朝の合一というも
のがあった訳でありますが、後南朝(隠れ南朝)というものが続いていたことは
事実でありますので、ずっと尾を引いていたと考えていいのではないかと思い
ます。いわゆるDNAのような本質的違いが南朝臣と北朝臣にはあったのでは
ないか。南北朝の動乱の意味というものを一度総括しなければならないと考え
ております。また、戦国時代の意味というものも、南北朝の流れの果てという
観点から、一度総括しなければならないと考えます。

 「築山殿と信康の事件」も、ひょっとしたらその根底に南北朝のしがらみが
あるのかも知れません。今川=北朝、徳川=南朝と考えると、北朝の血を引く
築山殿・信康は、好まれざる存在と見られていたかも知れません。

 歴史的には、戦国時代は南北朝の観点から説かれていませんが、その要素は
必ずあったのではないかと強く思っております――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月08日 14時42分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

築山殿:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF

父は関口親永(氏純)。
母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。

『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると
井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。

その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。

近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする)もあるが、
そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であり、
家康(当時は松平元信・元康)がその娘婿になるということはその今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。


「おんな城主  直虎」で築山殿の母は「佐名さま」でしたね。
コピペします:
佐名(さな)演:花總まり

井伊直平の娘。
井伊直満と南渓和尚の妹。

今川家家臣・関口氏の妻で、瀬名の母。

直平自慢の美貌の娘であったが、政直の差し金で今川家からの名指しで人質として召し出され、義元の寵愛を受けてのち家臣の妻となる。

娘の瀬名が婿の松平元康の手配した人質交換で駿府を離れる際、今川を手に入れるよう言い残し、その後ほどなくして娘婿の離反の責のため自害して世を去った。



この「おんな城主 直虎」も脚本にかなりムリがあるなと思いましたが
佐名さまが井伊の孫になるなら
瀬名さまが氏真の正妻の座を狙ってたのに早川殿(北条氏康の娘)に取られてしまって  その上に氏真の側室は庵原氏の娘だったそうです。ヲイヲイ
ということは  今川方にすれば井伊の曾孫になる瀬名さまの夫には家康が南朝方同士であり弱小大名の家同士で釣り合うと思われたのかも。


_____________________________

ご友人達は肺炎でしたか。
脳梗塞で誤嚥する危険性というのは避けられないですね。
お正月のお餅とかで窒息するというのも、よく、聞きますね。

加山雄三の誤嚥のニュースが最近ありましたね。
以下コピペ:

加山雄三さんは8月29日夜9時ごろ、自宅でトレーニング後、水を大量に飲んだことが原因で誤嚥(ごえん)を起こし嘔吐。
妻が119番通報し、東京都内の病院に救急搬送された。
その時に強くせき込んだことが原因で、軽度の小脳出血を起こしていたことも公表された。

〈トレーニングしたあとの水がうまくてさ、がぶ飲みしちゃったんだよな。年相応の飲み方をしなきゃね…〉という加山のコメントも合わせて発表された。


西山耕一郎医師が語る。

「誤嚥は、年齢とともに喉の嚥下(物を飲み込む)機能が衰えることで起こります。この時、食べ物や飲み物と一緒に口腔内の雑菌が肺に入り、誤嚥性肺炎を引き起こすこともある。

 加山さんはむせるだけでなく嘔吐を繰り返したそうですが、誤嚥した時に気管から異物を吐き出そうとして嘔吐することは珍しくなく、この際、吐瀉物が肺に入ることで窒息のリスクも高まります。加山さんのように脳出血に至るケースは稀ですが、脳に強い圧力を受けるほどむせかえったということでしょう」

 東京消防庁の統計によれば、2018年の1年間で8436人が誤嚥や誤飲など「のどの詰まり」で救急搬送されている。


「現在、高齢者(65歳以上)の死因の第4位は肺炎で、うち7割が誤嚥性肺炎と言われています」


西山医師によれば、誤嚥は食べ物よりも「飲み物」で起こりやすいという。

「喉は普段、呼吸をするために気道へと通じていますが、飲食物を飲み込む瞬間だけ気道のフタを閉じ、食道が開く。飲み物は喉を素早く通過するため、一瞬でも気道のフタを閉じるタイミングが遅れると誤嚥してしまう。とくに液体は固形物に比べてスルスルと喉を通るうえ嚥下中に小さな雫となるので、気管に入りやすいのです」

 さらに飲み物のなかにも、誤嚥しやすいものがある。

「一番誤嚥しやすいのが普通の冷たい水。一気に飲めてしまうからです。逆に白湯やお茶など温かいものは、一口ずつ飲むことが多く、水に比べて誤嚥しにくい。炭酸飲料も刺激が強く一気飲みしないという点で、水より誤嚥のリスクは低くなる。

 一方でお酒は筋肉を弛緩させ、神経伝達を遅らせるので、誤嚥を招きやすい。実際、お酒好きの高齢者の中で、深酒するとむせるかたは散見されます。個人的にすすめるのはスムージーやヨーグルト系の、とろみのある飲料です。こうした飲料は誤嚥しにくいことが分かっています」(西山医師)


安全に水を飲むためには、どんな点に注意すればいいのか。

「一番やってはいけないのが、ペットボトルのラッパ飲みです。上を向いて水を一気に飲もうとすると、嚥下処理能力を超えてしまい、気管に入りやすくなる。コップで飲むほうが上を向くことがないため安全です。少量を口の中に入れて、軽くお辞儀をするように下を向いて、一口ずつ飲み込むように意識しましょう。背筋を伸ばすのもポイントです」

 毎食後に高血圧など持病の薬(錠剤)を服用する際も、水は「少量でゆっくり」を心がけたい。ゼリーなどを混ぜて水にとろみをつけるのも有効だという。

「口腔から喉にかけて、水分が小さな雫になりにくくなります」(同前)


 高齢者が一日に必要な水分摂取量は1.5リットルとされる。

「誤嚥を恐れて水を飲まなくなるのは避けましょう。脱水症にならないよう、正しい飲み方を知り、適切な水分補給を怠らないようにしてください」

 万一、誤嚥した際に、周囲の人がやってはいけない行動もある。

「よくやってしまうのが、背中をトントンと叩くことです。これにより気管に入った水が肺に入ってしまう。むせかえっている人に水やお茶を飲ませるのもNG。誤嚥を加速させるだけです。

 正しい対処法は、まず座った状態で上半身を前方へ倒し、気管を水平にして咳をさせること。この状態なら背中を叩いても大丈夫。気管に入った水を吐き出しやすくなります」


わたしも水のがぶ飲みをするタイプなので気をつけねば。
[23]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月09日 14時59分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史の個々の真実は、それを完全に証明する証拠がない限り、「藪の中」の
出来事になってしまいます。あるいは、「密室の中」の出来事とも言えます。

 築山殿の出自もそうですが、信康の自害の真相もそうであります。一般に流
布している歴史書も、ほとんどが藪の中や密室の中を覗いたものではないので、
何が本当なのかはわかりません。わかる人はいないと言ってもいいかもしれま
せん。できることは、「推理」しかありません。

 築山殿・信康事件は、一般的には深く突っ込まずに、どちらかと言えば田舎
芝居のように書かれたものが流布しておりますが、どうもその辺があやしい。
 では、真実はどうだったのでしょぅか?……ここに、二冊の本があります。

 @典厩五郎著『徳川家康秘聞 消された後継者』
 A野村武男著『家康長男信康と大久保家の謎』

 この連続する事件のまとめとして、これらの本の中に書かれている推理、あ
るいは事実関係について、次回にはそのポイントを書き出してみたいと思いま
す――

 

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月10日 00時25分39秒 ) パスワード

三つ柏さん

てんきゅうさんの事は最近何かで知りました。
たぶん信玄の弟に典厩信繁がいるから
その人のことが好きなのかな?武田家の中の  好人物  だから
と想像していました。

本名が「宮下さん」ですから  ヲイヲイ  ヒバリさんの一族?  と思いました。

恐らく  武田家に(どういう関係かは分からないけれど)繋がるのだろうな  と。


そういう人物が築山殿と信康の死の真相に迫るというのは
我々のような家康側から見た事件ではなく
武田側から事件を考えたのかな?と。



>野村武男著『家康長男信康と大久保家の謎』

面白そうですね。


     この辺りに  元武田家臣の大久保長安の存在が関わって来るんでしょうか?


@典厩五郎著『徳川家康秘聞 消された後継者』
A野村武男著『家康長男信康と大久保家の謎』

是非是非教えてください。


[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月10日 14時22分38秒 ) パスワード

友人からのレスのコピペ:


痛風は,美食からなんです。
一汁一菜ならまずなりません。

女性ですけど,昔の女性が痛風を発症しなかったのは昔は大体が扶養家族ですから,美食なんか許されず、できません。


痛風の原因,美食と言うのは昔から分かっていたようで,
井伊家家伝書に,
初代の井伊直政が痛風で寝込んだ時,
大久保彦左衛門が,見舞いに来たのですけど,

その時,
「そなた様は,ご出世あそばされ,栄耀栄華を極められた。だから,美食なさったのでしょうが,美食は体の敵でござる。この鰹節を毎食,少しづつかいて,飯の上にのせて,醤油をかけて召し上がれ。三方ヶ原の折,徳川家は貧乏であった。だから美食したくても,出来ませなんだ。だから,痛風患者なぞ,おりませなんだ。だから,貴殿も美食をやめなさって,鰹節を乗せた飯を食いなされ。そうすれば,病魔退散もすぐで御座ろう。もう一度,三方ヶ原で武田方に,突撃したことを思い出され,勇猛心で病魔に立ち向かいなされ。」
と言って,鰹節置いて帰ったと書いてあります。

ローマでは,痛風を「皇帝の病気」と言ったそうです。
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月11日 13時22分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 誤嚥についてお調べいただき、ありがとうございます。私は、誤嚥とはたぶ
んあまり関係はないかも知れませんが、一週間前に肺炎球菌の二回目のワクチ
ン注射を打ちました。打ってから一週間は腕が痛痒さが続き、今日はほとんど
なくなりました。健康が大事ということで、大腸の内視鏡検査の予約もいたし
ました。二か月後に実施となります。
 インフルエンザワクチンも10月早々には打つ予定です。新型コロナワクチ
ンは来年のいつになるのか、それまでは「八方ふさがり」の状態が続きそうで
す。いやになります。

 さて、一連の信康事件ですが、これは徳川家のお家の一大事ということで、
情報を最小限に伏せ、かつ操作された表向きの情報が流されているようです。
 従って、その深層についての謎解きに、たくさんの人が挑んでおります。
『家康長男信康と大久保家の謎』の野村武男氏によりますと、その謎解きに挑
んだ人として、@安西篤子、A奥野高広、➂北島正元、➃史桑田忠親、➄早乙
女貢、E関口正八と柳史朗、F高柳光壽、G谷口克広、H典厩五郎、I中村孝
也、J根岸茂夫、K平野明夫、L村岡素一郎氏等々というから驚きであります。
 もちろん、野村武男氏もその謎解きに挑んでいる訳ですが、結論としては、
通説とは違うものに至っております。330頁ほどの本であり、その中で結論
部分を拾い、まとめて次回に記します――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月11日 14時30分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>一連の信康事件ですが、これは徳川家のお家の一大事ということで、情報を最小限に伏せ、かつ操作された表向きの情報が流されているようです。
>結論としては、通説とは違う

でしょうね。
真相は闇の中に閉じ込められたでしょうね。

でも信康と大久保家の謎など考えたこともありませんでした。
ホントのところはどうだったんでしょうね。

だからこそ  徳川時代に武田家はお家再興にならなかったのかな?


楽しみにしております。



ハワイは本日10日よりビーチや公園などへの立ち入りが許され、久し振りに潮風を浴びて来ました。
ステイ@ホーム・オーダーは9月23日まで更に延長され、同居家族以外とは会うな、など厳しいです。

こちらは大統領選挙が2か月を切り  政治合戦真っ最中で  マスコミは圧倒的に民主党の御用マスコミですから  呆れるばかりです。

今回の選挙は(前回ヒラリーの圧勝ということで民主党支持者が選挙に行かなかったから負けたから)郵便投票になり

これは民主党のインチキ作戦ですけど  コロナのせいで  今回は郵便投票の方が結局は良い選択かも。

さらに  今月中にも  民主党はマリファナ合法化に動きたいのです。
これは完全に大統領選挙を民主党有利に持って行きたい作戦です。
以下の< 。。。。 >の中はワタクシからの補足です。

民主党のなりふり構わぬ大統領選挙大作戦には呆れています。
このマリファナ解禁作戦前にはトランプの地滑り的勝利を確信していましたが
今は   アメリカ人がどう考えるのか  非常に興味深く感じています。

ヨーロッパの動きからヨーロッパ各国はトランプの再選を確信していると思っていましたが
    マリファナを争点にしてきたか!
ということでヨーロッパはアメリカに対して何を感じ始めたのかなと興味津々です。

マリファナを合法化したら次はコカインやヘロインやフェンタニールの蔓延ですよ。既に狂った若者がそこら中にいるのに。


とはいえワタクシはリバタリアン支持者なのでうちの党から大統領は100%出ないことは知っています。あはっ


下院、大麻合法化法案を採決へ
https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20200909-00197487/

<民主党が過半数を超える>米議会下院が9月中にも、大麻合法化法案を採決する見通しとなった。大麻合法化法案の採決は米議会史上初という。仮に可決しても、<共和党が過半数を超える>上院が同様の法案を否決すると見られているため合法化の可能性は今のところ低いが、米国内の大麻合法化の流れを象徴する動きとなっている。


犯罪歴も抹消

通称「モア・アクト」法と呼ぶこの法案は、昨年11月に下院司法委員会を24対10の賛成多数で通過していた。8月末、下院の院内幹事を務める民主党のクライバーン議員が、9月中に採決する予定であることを、メールで関係者に伝えた。

同法案は、薬物を規制する「規制物質法」から大麻を除外し、それによって大麻を合法とみなすという内容。過去に大麻関連で逮捕され有罪となった人の犯罪歴を記録から抹消する内容も含んでいる。


ハリス副大統領候補も支持   (彼女もマリファナやってるからね)

下院は、大麻合法化を支持する議員が多い民主党が多数を占めるため、採決すれば可決の可能性が高いと見られている。ただ、上院は大麻合法化に消極的な議員が多い共和党が多数のため、否決する見通しとメディアは伝えている。

また、下院のモア・アクトに対応する上院の法案は、民主党の副大統領候補であるハリス上院議員が法案の提出者に名前を連ねており、可決は敵に塩を送ることになるため、共和党議員は可決阻止に動くだろうとも伝えられている。


11州ですでに合法

米国では、国レベルでは大麻は非合法だが、州レベルでは合法化の動きが急速に広がっている。大麻を嗜好品として合法化している州は、現在、全米50州中、<ハワイを含めた民主党が圧倒的に強い>カリフォルニアやオレゴン、マサチューセッツなど11州に上っている。医療用に合法化している州はさらに多い。


11月の大統領選挙と同時に各州が実施する州民投票では、ニュージャージーやアリゾナなど複数の州が大麻合法化の是非を有権者に直接問う予定で、結果次第では、合法州が一段と増えそうだ。


黒人差別の象徴

大麻合法化の背景の1つは、「白人も大麻を吸っているのに、逮捕されるのは圧倒的に黒人」という黒人社会の強い不満だ。民主党支持層に大麻容認論者が比較的多いのも、大麻を取り締まる法律が黒人差別の象徴と映っているからだ。

また、米社会には、大麻は若者文化の1つと見る考え方が昔から<1960年代のベトナム戦争反戦時から>あり、<民主党系の人々の間では>大麻の使用には比較的寛容だ。2016年には、当時のオバマ大統領の18歳になる長女が、ロック・フェスティバルの会場で友人と大麻らしきものを吸っている動画が拡散されたが、話題にはなったものの、ほとんど問題視されなかった。


     オバマさんはフクザツな家庭で育って、子供の時から飲酒・喫煙・マリファナその上にコカインまでやってましたからね
[28]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月12日 08時22分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本の男性俳優が大麻で捕まりましたが、その俳優、以前映画で見た俳優I
でした。その映画は、「忍びの国」で天正伊賀の乱を舞台にしたもので、Iは
「日置大膳」を演じていました。宗清の長男系であります。
 伊賀・甲賀の忍者は薬を研究したので、大麻もその対象になりえた可能性も
あります。しかしながらその時代はおよそ450年前であります。現在は法律
で禁止されており、なぜIが一線を越えてしまったのか知りたいところであり
ます。

 さて、大久保家と信康の関係ですが、それは信康事件の13年後に信康の妹・
亀姫と奥平信昌との間に生まれた仙姫と大久保忠世の孫・忠常が結婚したのが
始まです。両家の姻戚関係は、次に忠常の子(忠世の曾孫)・忠職が亀姫の四男
・忠明の娘と結婚、さらに忠世の玄孫・忠増も亀姫の曾孫・千代姫と結婚して
おります。
 これらは、大久保家の対信康親子へのシンパシィから来ているような感じが
いたします。

 ちょっと一休み――
[29]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月12日 08時25分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:始ま→始まり
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月13日 01時55分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。

>大久保家と信康の関係ですが、
>それは信康事件の13年後に信康の妹・亀姫と奥平信昌との間に生まれた仙姫と大久保忠世の孫・忠常が結婚したのが始まりです。
>両家の姻戚関係は、次に忠常の子(忠世の曾孫)・忠職が亀姫の四男・忠明の娘と結婚、さらに忠世の玄孫・忠増も亀姫の曾孫・千代姫と結婚しております。

驚きでした。


忠常は病弱で若死にしているので本多正信・正純父子に暗殺されたという「噂」のある人ですね。
その数年後に長安事件も起きるし。

徳川幕府内のゴタゴタに大久保家が震源地となってるのは信康に関わるのでしょうかね?
なんせ信康は家康の嫡男ですから。


      そこには  第2代将軍秀忠に対して  正統な後継者は信康だった  という大久保家の思惑が透けて見えていたからなのかな?と。



謎が謎を呼ぶ、徳川幕府の内部事情、というのですね。
滋賀県彦根市龍潭寺境内に大久保忠隣幽居之跡の碑があるそうですね。
井伊家にお預けになったのは  南朝方の仲だったからなのかな?

  

映画「忍びの国」は見ました。

でも内容が  ご当地事情  過ぎて   理解出来なかったです。
地元関係者には自分達のドラマですから身近で面白かったのでしょうけど。

登場人物のオオモノについての名前が分かっているだけで  ああ、あそこの家の  あの話か  というのは大筋で分かりましたけど。

                       結局は分からなかったです。


だいたい俳優のメークが土豪レベルなので  区別がつき難くて  顔がハッキリ分かったのは大野君だけでした。  



俳優と言えば
わたしは自分の好きな顔系は区別が  スグに  つきますが   どんなに小さく映ってても年齢が違ってても

好きでもないと区別が付かないという偏見に満ちた趣味なので

仮面ライダーエグゼイドの宝生永夢(エグゼイド)役の飯島寛騎が未解決の女 警視庁文書捜査官の多部和樹役をしていることにガクゼンとしました。

          仮面ライダーの時は20歳そこそこの若者顏だったのに現在は10歳は老けた顔をしたオッサン顏なので。
          先々週見た仮面ライダーの時は正義の味方の顔とゲーマーの今時の若者を演じ分けてて驚いたのですが
          今はスッゴイおっさんになってて  美しさに変わりは無いけど  ただの刑事役を演じてました。



同じく仮面ライダーエグゼイドに出てた瀬戸利樹(鏡飛彩  ブレイブ役)の俳優が知的な外科医役がピッタリなのに
数年前の「偽装不倫」では人妻仲間由紀恵の恋人役の髪の毛がピンクの甘えっ子ボクサーを演じてて  ウッソー  でした。


この2つを最近知って  わたしはヒトを見る目が無いなぁ〜  と自分で自分をグーで殴ってやりたいぐらいの衝撃(ショーゲキの方だ)を受けました。


過去や歴史を見る時にツイツイ色眼鏡で見ているんだな、と反省しております。
「人間」を理解するのに一面だけで判断しちゃいけないんだなと改めて思いました。


例えば本多正信正純父子はワルという印象ですが  そうでもない  というハナシもあったり  いやいや  そこがワルの本領発揮  という説もあったり
たぶんワタシの自分自身の中身の薄さの反映なのかなと反省しています。


三つ柏さんから  この数年  ネットでいろいろ教えて頂いて   すっごく勉強になっています。
感謝です。
いろいろな意味で  自分のことが!!!(赤面)   見えて来ましたから。
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月14日 10時03分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保忠世から数えて十代前の祖先は、泰藤(宇都宮氏)であり、まぎれもな
く新田義貞の忠臣であり、義貞死後、岡崎の上和田に城を構えて再挙を待った
という。その泰藤から数えて八代目の忠茂(忠世の祖父)は松平清康に仕え、山
中城攻めで軍功があったという。山中城の戦いとは、松平昌安の山中城(岡崎城
の支城)を攻めた戦いで、大久保忠茂は「調儀」によって「忍び取り」に取った
ということであります。
 服部半蔵正成の父・保長も清康に仕え、その後も、広忠、家康、秀忠と両家
は同じように使え続けましたので、両家の関係は一心同体で、反目する要素と
いうものは見つかりません。本当は、大久保家と服部家の関係の日々を具体的
に知りたいのですが、今のところそれを詳細に表す資料には出合っておりませ
ん。

 邪魔が入り、一次中断します――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月14日 14時49分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

岡崎の上和田
https://www.mapion.co.jp/m2/34.93233346,137.15259645,19


松平氏が上野国から三河国の山奥に居を構えた後に平地の安祥に出て来て  さらに岡崎に来たけれど、そこに至るにはナカナカのイバラの道ですね
一方
大久保家は越前から追い出されて三河に来て岡崎の上和田に来た

これって地図で見ると  安祥=北安城とか南安城と近いです。  この東が岡崎


時代的に言うと  大久保家の方が先に岡崎に来てて
松平家がずっと後に岡崎に来た  家康の直接の家である松平家はもっと後のこと


岡崎には矢作川が近くにあるから安祥よりは米作りには適しているから松平家も岡崎に引っ越したかったのだなと想像する。


      この辺りにも住んでたことがあるけど方向音痴なので地図を改めて見て  アラアラ  と驚いている

      大久保彦左衛門の屋敷跡とか西郷家の跡とかに行った記憶はあるような?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%9F%8E_ (%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)

山中城



                       築城主    西郷氏

                       築城年    15世紀半ば

                       主な城主   松平氏
                 
                       廃城年    天正18年(1590年)頃


三河国額田郡山中(現在の愛知県岡崎市舞木町・羽栗町)にあった戦国期の愛知県内最大級の山城。

山中城は鎌倉街道(旧東海道)を北に見下ろし、舞木、山綱の両方から南行分岐する鎌倉街道(吉良道)を南の眼下に見下ろす、通称城山、岩尾山、医王山とも呼ばれる標高約195m(比高約100m)の山上一帯に築かれている。

現在残る遺構は、徳川家康の関東移封当時のままの姿をとどめ、東西約400m、南北約250mで、愛知県内の戦国期山城の中で最大級の規模である。



戦国時代、大草(現幸田町)西の坊に室町時代より本拠を置き、三河守護仁木義長の目代(守護代)として勢力をつちかってきた西郷氏の築城(15世紀なかば)によると思われる。

三河西郷氏の青海入道は岡崎明大寺の東矢作にあった仁木義長の館の東に明大寺城(平岩城)を築き、ここにも根拠地を設けた。

次いで乙川北岸の竜頭山の先端に岡崎城(砦)を築いた。

この岡崎城は近世岡崎城の本丸部分(青海堀以西)と言われる。
これによって西郷氏は西矢作と東矢作をめぐる東西交通の要を押さえることとなった。
大草の居館と明大寺城までの直線距離は約8km、明大寺城から山中城までは約9km、山中城から大草までは約6kmの距離である。

『新編岡崎市史』では、山中城を明大寺城、岡崎城の詰めの城としているが、距離がありすぎるので、ある時期西郷氏の本城としての性格をもったとみられる。


この西三河の交通の要所を抑えた西郷氏は、まず岩津を本拠として勢力を拡大しつつあった松平宗家との対立を生んだ。

この軋轢は松平宗家の圧迫を受けた西郷氏が屈服し、松平3代信光の5男光重を養子に迎え自身は大草に引退することで決着をみた。

その後、岩津を本拠とした松平宗家は、今川氏の武将として来攻した伊勢新九郎(後の北条早雲)によって岩津城を落とされ消滅した。

この時期安城に分家していた松平親忠(信光の3男)によって今川勢は追い払われた。

この時期の山中城の状況については不明であるが、岡崎松平は明大寺付近に引き、明大寺城付近で今川勢と対峙したものと思われる。

今川勢追撃の伝承についても、山中城の近くの山綱町中柴付近に残っている。


その後、総領家となった安城松平家は松平本家となり、松平親忠―長親―信忠―清康―広忠―家康へと続くことになる。


しかし、清康の時代になって、岡崎城に本拠を置く岡崎松平家(西郷氏)との対立が顕著になる。

岡崎松平家は光重―親貞―信貞と続くが、東三河と西三河をつなぐ鞍部の道筋を完全に押さえることとなり、松平本家(安城松平)と対立することとなった。

大永4年(1524年)、3代信貞(松平昌安)の時、松平清康の命を受けた、家臣大久保忠茂等の奇襲で一夜にして落城した。

                                          ↑ ココですね


現在本丸に建っている石碑「山中城址」の文字を揮毫した子爵大久保忠言は大久保忠茂の後裔にあたる。

山中城陥落後、清康は最大の功労者大久保忠茂に対して領内17カ所の市銭の徴収権を与えた。

忠茂は市銭を撤廃して楽市楽座とした。
                                             スゴイ!楽市楽座  すごく早いですね   大久保忠茂 なかなかの経済人ですね


時に大永4年(1524年)5月28日、岡崎市はこれを以て「岡崎開市」として忠茂の功績を顕彰している。
大正13年(1924年)5月、岡崎開市400年祭が岡崎城址と岡崎市内で盛大に行われ、記念誌『岡崎の開市』も発行されている。



1535年(天文4年)森山崩れで清康が亡くなると、山中城は今川氏の西三河攻略の拠点となる。

天文17年(1548年)今川義元と織田信秀との2度にわたる小豆坂合戦時、山中城は、岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点となり、これ以後「医王山」として史料上にたびたび登場している。

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると松平元康(後の徳川家康)が久松俊勝とともに攻め落とし、再び松平氏のものとなる。


この時期、対織田、今川に対する戦略上、大給城、岡崎城、山中城、岩略寺城などは大規模な改修がなされたと思われる。


1563年(永禄6年)の三河一向一揆では一時的一揆衆に占領された。


1564年(永禄7年)以後は酒井忠次が山中を領し、酒井氏が維持管理したと思われる。

天正18年(1590年)の家康の関東移封によって廃城となり現在に至っている。

現在の城跡遺構はこの時点の状況をよく残していると思われる。
しかし、現在整備されている「山中城遊歩道」は往時の城道ではなく、多くは大正13年(1924年)5月の「岡崎開市400年祭」の際に整備されたもので、各曲輪間の城道も少なからず破壊され、短絡されている。

現在確認されている城域は東西400m南北200m、愛知県内の戦国期山城としては最大規模のものである。

本丸には「山中城址」の碑が地元領家変成岩の板を使って建てられている。
この裏面には志賀重昂の揮毫になる説明文が刻まれている。

本丸からは西北、北、東に広がる3本の尾根の主要部に曲輪をつらね、西部は二重堀切で尾根筋を断ち切ると共に3段にわたる大規模な帯曲輪で防備を固め、処々に腰曲輪、竪堀を配している。竪堀の多いのも一つの特色である。

平成28年(2016年)地元民を中心に「山中城址保存会」が発足し、曲輪内の立木の伐採、城道の整備が進んでいる。

現在は岡崎市指定史跡。




信長の織田家も家康の松平家も内訌の時代が長かったのだなと   人間  苦労しないといけませんね
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月15日 12時52分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保家と服部家の関係は、同族のように強かったものと私は推測しており
ます。
 
 婚姻関係では――

@服部保長の長男とされる保俊(半蔵正成の兄)から子・保英――孫・元正と下
 って、曾孫・元延(保忠)は、大久保忠佐(大久保忠世の弟)の娘を妻にしてお
 ります(大久保忠世、忠佐と服部半蔵正成は、信康事件に絡んでおります)。

A服部正成の次男・正重は、大久保忠隣の実質的な養子のような大久保長安の
 長女を妻としております。

➂さらに、服部正尚の弟で青山家に養子に入った成重の娘は、大久保長安の三
 男・権之助の妻となっています。

➃また、服部は服部でも服部中家でありますが、服部中保次の次男・保信の子
 保重は、大久保忠世の叔父・忠俊の曾孫・忠重の娘を妻にしております。

 このような関係、そしてその他の協力関係をもっともっと集めたいと思って
います―― 
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月16日 14時13分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大久保家と服部家の関係は、同族のように強かったものと私は推測しており
ます。

はい。
もともと大久保家の先祖と服部家の関係は平家時代にあったようですから。


大久保家は家康の駿府生活には従ってないようですから
岡崎を細々と守っていたのかも、ですね。
岡崎はそもそも越前を追い出された大久保家の落ち着き先だったようですし。


桶狭間の戦いで義元が討ち死にしてから
改めて大久保家と服部家が強固に結びついていったようですね。
人質時代に駿府について行った家々と岡崎残留組との間には軋轢が生まれてたのかも知れないですね。


昨夜長々と書いていたら瞬殺されました。
本日も「ようですから」「ようですから」と書くなんて、恐縮です。



今回の「麒麟がくる」で秀吉役の佐々木蔵之助のメークが  猿  でしたね。
あれには驚きました。
佐々木蔵之助の役者としての覚悟のほどが見えた気がしました。

    でも主役の長谷川博己と似た感じの(細面で長身の)俳優というのがキャストミスじゃないかな?
    とはいえ  これまでの剽軽な秀吉の人物像の繰り返しを破ったところが斬新でした。
    勉強家でしたしね。

それにしても登場人物が皆さん良い人ばっかりで  え?え?  と驚かされてばかりです。
今年知り合った人のご先祖が松永久秀だそうで  この人物も   「麒麟がくる」ではヒール感無しですね。

義昭も良い人、ですし。


こんな歴史物、初めてですよね?主要登場人物が皆さん良い人設定なんて。


わたしは今日見た「未解決の女  警視庁文書捜査官」に飯島寛騎が出てなかったのでガッカリしています。
彼は8月の初めにコロナに感染して13日に回復宣言をしているので来週の回も出ないみたいで今からガッカリしています。


そうそうお駒さんの「何にでも効く薬」ってカナビス入ってるんじゃないの?と
東庵先生の言うことの方が正しいんじゃない?

        Cannabinoids
        向精神作用のあるTHCや、向精神作用のないCBDなど

この原作者はマリファナ合法化推進者なのかな?と。


今回のアメリカ大統領選挙に民主党はマリファナの合法化はどうかという爆弾を投下しましたから。

パーキンソン氏病の遺伝子を持っている身としてはCBDが治療薬になるらしいと聞いたように思うので研究は進めて欲しいと勝手なことを願っているんですが。


とにかく今年の大河は(すごいな)と驚き呆れ感嘆して見ています。
[35]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月17日 12時30分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、ありがとうございます。平家の時代にさかのぼって、宇都宮朝綱と
平貞能の関係を再チェックしてみましたところ、平貞能の母は宇都宮氏出身で、
平忠盛の郎党であった平家貞の妻となり、貞能を生んだということであります。
 貞能の母が宇都宮氏の誰の娘であったかはまだ調べておりませんが、いずれ
にしても貞能と宇都宮朝綱とは親戚であったということ。さらには貞能のいと
こである平宗清にとっても、家貞の妻は叔母さんということになり、これは即
ち「服部(平宗清の末裔)」と「大久保(宇都宮朝綱の末裔)」のつながりの原点
になるのかも知れません。両方とも南朝時代には南朝臣として活躍もしていま
す――
 
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月17日 14時17分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

平貞能の父である家貞は伊賀の鞆田荘を持っていたので        鞆田ですよ!
母が宇都宮氏の出である平貞能も伊賀を治め

そして

宇都宮朝綱は頼朝によって伊賀国壬生野郷の地頭になっていますから


大久保家にとっても伊賀はもともと故郷でもあるんでしょうね。
なるほど  平家方や南朝方   というの   より分かり易いです。


この伊賀国壬生野郷って!!!スゴイ所ですよ!!!

https://www.mapion.co.jp/m2/34.79851546,136.20844671,19
現在の伊賀市川東

柘植の南西
伊賀上野や佐那具の東
ずっと南に行くと喰代!


天正9年、織田信長の伊賀平定の時、伊賀壬生野郷・愛田村・御代村の郷士が壬生野城に集結して織田勢に反抗した壬生野宮川の合戦の舞台となった。



地図をズリズリしてたら猿野あたりに  大山田郷土資料館  というのが そうぞの森近くにありました。 

大山田をずっと東にズリズリしてたら久居に着きました。

            この辺りはワタシの12世紀の前世の哀しい思い出の場所なので泣けて来ました。


やっぱりヒトとヒトはどこかで繋がって血と涙を分かち合い刎頸の友となり後世に於いてもやっぱり信頼し合い続けるのだなと。


武門の家は数少ない人々の小さな世界に生きていたのですから
    大久保家と服部家はモトモト平将門を討つのに結びついた藤原秀郷と平貞盛以来の関係が
戦国時代までずっと続いたんでしょうね。


     今  ワタシの脳内は  12世紀の思い出がグルグルしてて収拾がつかなくなってます。


頼朝にしてみれば自分を救ってくれた平宗清
そして
宇都宮朝綱を伊賀に置いたってことは
平家の本貫地である(伊勢)伊賀を押さえるのに都合が良かったんでしょうね。


因みに  朝綱の<弟>の八田知家は  頼朝の隠し子説のある人物です。
ちなみに生母は朝綱の<娘>だとか。
とにかく  この宇都宮家=八田家は  ヤヤコシ過ぎてワケ分からないです。


とにかく大久保家と服部家は何重にも婚姻を結んだ関係だったんでしょうね。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月18日 11時31分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。鞆田――思い出しました! 友田家と服部家につい
て調べた時、平家貞の本貫地が鞆田荘でありました。友田氏は元々は鞆田氏で
あった。藤原氏の出身といわれる。

 鞆田荘の南東が壬生野郷、宇都宮朝綱が地頭となった。

 家貞vs.朝綱=鞆田vs.壬生郷の関係が、遠江においては、大久保忠世vs.友田・
服部=二俣vs.森・三倉のような感じがしてきました。

 大久保家のルーツは、「泰」または「綱」を通字とした来ましたが、忠茂の
祖父の代より「忠」を通字にしており、これは何か意味があるような気がいた
します。加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』を見ると、富士山浅間宮大宮司・
義利と井伊道政の娘の子・忠尚にどうもつながっているようです。本多氏もそ
の兄弟の忠統につながっているようです。この辺は、隠れ南朝史のヴェールが
かかっておりますので、今それを検証することが難しいかも知れません――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月18日 15時34分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>家貞vs.朝綱=鞆田vs.壬生郷の関係が、
>遠江においては、
>大久保忠世vs.友田・服部=二俣vs.森・三倉のような感じがしてきました。

ですね。

21世紀から過去を文字で読んだだけでは関係無いみたいだったのに  あれ?  実は!  関係があるの?
と何か見えて来るような気がしますね。


>大久保家のルーツは、「泰」または「綱」を通字として来ました

へぇ〜
「綱」がつきますか。
まさに「宇都宮氏」の出ということだったのでしょうね。


>が、忠茂の祖父の代より「忠」を通字にしており
>これは何か意味があるような気がいたします。

謎解きを書きます:

忠茂の祖父は宇津昌忠ですが   
最初の主君は松平長親ですから昌忠で良かった

でも、その次の主君が三河吉良氏の吉良義信の偏諱を受けて信忠と名乗った松平信忠ですから     ←  家康の曽祖父

主君と同じく「忠」の字を下につけては不忠になるので
「忠」の字をアタマにした通字にしたんでしょうね。


             松平信忠
             徳川家康の曾祖父にあたり、安城松平家2代目にして松平氏宗家第6代当主。
             家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲った。

          
             忠茂の父・宇津忠与ただとも
             松平信忠の時代には、信忠の後継者に庶子の松平信定を推す者がいたが、忠与はこれに同じなかった。

             つまり主君は清康に、ということで  
                 清康は家康の祖父ですから
             大久保家は誠心誠意家康の高祖父以来の忠臣ということですね。
             
               
>加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』を見ると、富士山浅間宮大宮司・義利と井伊道政の娘の子・忠尚にどうもつながっているようです。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_huzi.html

出るかな?
義利の祖父は南朝大宮司の義尊で  義利の叔父は宮下姓ですね。
宮下姓というとヒバリさんの実家になるのかな?ココで富士浅間宮と諏訪大社とヒバリさんの家が関係するのかな?

で、さらに宇津家とも絡むのかも、ですね。





>本多氏もその兄弟の忠統につながっているようです。

あらら

よく言われる本多と大久保の仲の悪さは実はシブリング・ライバルリー(同胞抗争)の関係からなのかしら?
[39]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月22日 13時08分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、お彼岸のお中日(秋分の日)であり、また秋の大型連休の最終日でも
あります。お彼岸の頃になると、彼岸花(曼殊沙華)が真っ赤な花を一斉に咲か
せるというのは、偶然としてもドラマチックな現象であります。短い期間では
ありますが、祖先からの赤い血脈を一瞬思い起こさせるようで、はかなくも妙
であります。

 さて、大久保家のルーツについて更に考察をしておりましたが、大久保家の
主だった系譜は大きく分けて次の四つになります――

@宇都宮朝綱―成綱―頼綱―泰綱―景綱―武茂泰宗―時綱(時景?)―Aへ

A武茂泰藤―泰綱(忠綱?)―宇津泰道―泰昌―(昌平)―昌忠―忠與(与)―➂へ

➂忠茂―大久保忠員(長兄忠俊の改姓に符号)―忠世―忠隣―忠常―忠職―➃へ

➃忠朝―忠増―忠方―忠興―忠由―忠顕―忠真―忠修―忠毅―忠礼……

 @の朝綱(ともつな)は、その姉または妹を通じて平貞能とは伯父・甥の関係
になります。貞能は清盛から重盛に仕えます。池禅尼の懇願と頼盛・宗清の支
援、そして重盛の清盛説得によって、捕縛された頼朝は命を助けられ、伊豆に
配流ということで済まされます。後にこのことで、池禅尼・頼盛・宗清は頼朝
の恩人として手厚く扱われ、またその重盛の意に報いるためと、清盛下におけ
る朝綱の危機を救ってくれたのは貞能だという朝綱の頼朝への嘆願により、貞
能は頼朝より許されています。

 Aの武茂泰藤は、新田義貞の首を奪還した上で、岡崎の上和田に隠棲し、南
朝の再興の時を待った。泰藤・泰綱とも、純然たる南朝臣であります。なお、
泰藤の妻は土岐頼直(頼貞の長男)の娘。
 泰藤の孫の泰道は「宇津氏」を名乗ったということでありますので、これは
宇津氏の血が入ったことの証であると推察されます。つまり、泰道の母が宇津
氏であったか、泰道が宇津氏からの養子であったか、泰道が宇津氏への養子で
あったか、泰道が宇津氏の娘を娶って宇津氏を継いだか……色々なケースが考
えられます。
 この宇津氏とは、富士山浅間宮宮司家の富士義利氏の次男・忠尚から発する
もので、宇津氏は宇都氏とも書かれる。富士氏、三浦氏、宮下氏、宇津氏の血
縁関係上のつながりは、南北朝の時代ゆえ、確実な資料が見つけられませんが、
加茂喜三氏の著書『富士"隠れ南朝"史』は、表面的ではありますがかなり食い
込んだ資料を提供しております。宇都氏は一方では天皇家以前より存在する姓
でもあり、富士王朝の存在と関係していると推察しております。

 ここで一段落――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月22日 15時09分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


またまた台風が来てるようですね。
ものスゴイ雨を齎すようで  お気を付けください。

こちらは10月15日から本土からの観光客を受け入れる実験をするそうで
外国からの観光客受け入れはまだまだ未知数です。

本土から来る人はPCR検査の陰性が3日以内の人で
カイザー病院とかCVS薬局とかの指定検査場所で指定のPCR検査でなければいけないそうで
自己負担は  139ドルです。

        PCR検査は何種類もあって
        一応アメリカでは3種類が信頼されて使われているけれど
        1番信頼性の高いNAAT検査で且つCLIA認定のラボからの結果でなければいけないそうです。


        ANAが10月に臨時便を2つ飛ばすなんてハナシがありましたが
        未知数です。


確か浅間神社の神職さんに服部氏がいらっしゃいましたが
どういう関係だったんでしょうね。


外務副大臣が  宇都うと隆史たかし氏だそうですが  鹿児島の出身のようです。
防衛大学を出てるそうですから  超  アタマ良い人なんでしょう。


宇都=うづ=かと思いましたが  副大臣はウトとは  九州にウトとかいう地名があったのを記憶していますが  宇土?鵜戸?
鵜戸なら  宮崎の鵜戸神宮(修学旅行で行きました)から出てるなら  うど → うと   ですね。



富士山の初冠雪の映像を見ましたが山梨側からの物です。
静岡側と山梨側とは  全く  違いますね。ビックリ
富士山もLGBT認定だな  と1人でウケました。笑


ああ、そうそう、もし機会がありましたら破傷風と帯状疱疹の予防接種もお薦めです。
とくに水疱瘡の経験がお有りでしたら帯状疱疹は受けた方が良いです。
   


今回の「麒麟がくる」の出演者には違和感バリバリです。

細川藤孝役の眞島秀和(1976年11月13日)の方が   三淵藤英役の谷原章介(1972年7月8日)よりずっと年上だと思ってました。

30歳の将軍義輝役が向井理(1982年2月7日 38歳)なのに  弟の将軍義昭役の滝藤賢一は1976年11月2日で  いつも笑ってしまいます。


近衛前久役の本郷奏多は  どんな役でも  おんなじだなぁ  と呆れています。ま、役のキャラが似てるからかも。高貴な身分の青年役。

    「キングダム」の 成蟜のせいきょう=嬴政えいせい つまり 始皇帝 の弟役でした。

    吉沢亮が嬴政えいせいと奴隷の漂ひょうを演じたのですが英語字幕の漂が PIAOだったので  でも発音は日本語と同じヒョウだけど

    山崎賢人が亡きがらを抱えて「漂!漂!」と泣き叫ぶシーンで PIAO! PIAO! と字幕が出るので  なんか笑えてしまって
    本郷奏多が出てるとこのシーンを思い出して  この子はこういう路線で行くのかな?  と考えてしまいます。 


光秀はやっぱり京都に生まれて京都で育ったんだろうなと、いよいよ思うようになりました。  
道三が討たれて叔父さんが守っていた明智の庄を失って経済的基盤が無いから諸国を回って越前にいたんじゃないのかなと。

お駒さんの「何にでも効くアヤシゲな薬」の習得シーンは演出しないんでしょうかね?
今回では「ゲンノショウコ」の名は出てましたね。だってヤバイものね、「何にでも効く薬」ってケシとかカナビスとかで作ってるんじゃないか?と思われては。
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月24日 14時16分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南北朝・後南朝の時代を調べていますが、相当ややこしいので頭がパンクし
そうです。が、やはりここは戦国時代を「木」に例えるなら「根っこ」の部分
なので、戦国時代を解くには南北朝・後南朝時代を理解・解明する必要があり
ます。

 宇都宮朝綱の弟・知家(小田氏)から数えて六代目の貞宗の娘は、新田義貞の
妻となり、新田義宗を生んでおります。

 また、知家は源義朝に従い、その猶子であったという。この小田氏は南北朝
の内乱では、後醍醐方につき、1338年に北畠親房を小田城(茨木県つくば市)に
迎え入れ、そこに於いて親房は『神皇正統記』を執筆したということです。

 朝綱の姉または妹は平家貞の妻となり、平貞能を生んでいます。朝綱は家貞
の義兄弟にあたり、かつ貞能の叔父ということであります。

 貞能は肥後の国に住して大橋と名乗り、最後は津島に移居します。その津島
と熱田は近い訳でありますが、大橋貞能は熱田の娘二人を側室にして四人の子
をもうけております。

 貞能から数えて七代目の貞元の娘と尹良親王の子・良王が結婚しております。

 このように、不思議な流れ、ある一定の流れ、ベクトルが流れております。
 その流れとはベクトルとは何なのか?――それを解明したいと思っておりま
す――


 
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月24日 15時13分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>新田義宗

そろそろ徳川家の直接のご先祖の世良田氏に行きますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E7%94%B0%E6%B0%8F

世良田(せらた、せらだ)氏

鎌倉時代に清和源氏の新田氏から分立した上野国新田郡(新田荘)世良田郷(現在の群馬県太田市世良田町)の豪族。

新田義重の四男・義季(新田義兼の同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子の四郎太郎頼有に与え、世良田郷は次子頼氏に継承させた[注釈 1]。頼氏は世良田弥四郎を称し、世良田氏の名を興した。義季は禅寺長楽寺を建立したという。

義季・頼氏父子は世良田近辺の所領の開発を進め、世良田氏は新田一族中の有力者として台頭する。本宗家の新田政義が幕府の禁忌に触れて新田氏の惣領職を奪われると、岩松氏とともに世良田頼氏が惣領職を分担するに至った。頼氏は幕府に重きをなしたが、1272年に失脚して佐渡に流されてしまった。

長楽寺も北条得宗家に奪われて、皮肉にもその支援によって関東十刹(鎌倉十刹)に数えられる繁栄を遂げることになる(北条氏滅亡後に新田一族が奪還する)。

頼氏のあとは嫡男の教氏、その子・家時と継承された。

鎌倉時代末の争乱が始まると、家時の子弥次郎満義は惣領新田義貞に従って鎌倉攻めに参戦し、北条高時以下の北条氏を滅ぼした。

その後の満義は南北朝時代の争乱下においても、一族の江田行義(教氏の弟の有氏の子[1][注釈 2])とともに義貞に従い続き、南朝方として、終始活躍した。



その一方、満義の一族世良田義政[注釈 3][注釈 4]は、下野国を拠点とした。
彼は一族の義周[注釈 5]とともに足利氏(尊氏など)を中心とした北朝方として、功績を残し上総国守護になっている。
その末裔は、四職の山名氏の因幡国・伯耆国の守護に随行したという。因幡徳川氏(後に森本氏)と改め、家老の森本将監などが出たという[2]。



南朝方として

『浪合記』(天野信景の著書とされる)によると、満義の嫡子の政義は信濃国で南朝方を率いた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕えて世良田郷を離れる。

しかし至徳2年(1385年)に、庶長子の親季とともに信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)で戦死してしまったという(浪合の合戦)。

政義の次男の万徳丸(政親)も戦に参加していたが、この時は難を逃れた。
その後、永享8年(1436年)になって三河国松平郷に隠れ住んでいたのを発見され、捕えられたのち出家し四国へ渡った[要出典]。


嘉吉の乱後、上野国万徳寺で修行していたが、文正元年(1466年)10月に没したという。

政親には男子がなく、世良田郷領主の世良田氏嫡流はここに断絶した(政義には庶子の政満(義秋[注釈 6])もおり、ともに浪合の合戦[注釈 7]で散ったという)。
親季の子に、有親がいたという説もあり。


清水昇『消された一族』によれば、<<政親の娘の子・脇屋義則(新田義宗を父とする)>>が世良田の名跡を継いだという。

                                           ココですね

義則の討死ののち、子・新田祐義は下野国真船村に住み、子孫は武田氏などに仕えたが、徳川家康の台頭に伴い真船氏を称した。
真船氏の一部は戦国時代に陸奥国会津郡に移って瀬良田氏を称したとされる。


支族の江田氏は、新田宗家の命により丹波に派遣されていたが、細川氏のちには波多野氏に従うようになり丹波綾部の豪族として安土桃山時代まで命脈を伝えた。


なお、江戸後期に編纂された南山巡狩録(元中二年(1385年)三月条所引『藤沢山録記』)によると、
浪合の合戦には一族の有親(系譜関係は諸説あり)も加わっていたという。『徳川実紀』では、この有親を松平氏の祖としている。

                                           ココも


三河松平氏が世良田氏後裔を称した経緯

三河国の戦国大名松平氏は、松平清康のとき清和源氏世良田氏の後裔と称するようになった。

清康は三河の支配層である守護足利系吉良氏への対立軸として、自身を新田源氏の名門に繋げるために、三河松平郷で没した政親(政義の子、親季の弟)の存在に着目したという[要出典]。

さらに政親の祖先である世良田頼氏は三河守、三河の支配者の先祖として、着眼した清康は自身の安祥松平家の世襲の通称「次郎三郎」を用い、「世良田次郎三郎清康」と称したという。


清康の孫の松平家康は初め清康からの流れとして世良田氏を称していたが、
1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏に三河守叙任の前例はない」と拒否された。


そこで家康は近衛前久に相談した。

                                           出ました!本郷奏多!笑

近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め[要出典]、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。

                                           さすが!本郷奏多!アタマは使うモノ!

豊臣秀吉政権の傘下に入ったころから、再び新田源氏に復姓していたようである。

その頃安房の里見氏(新田一族)に送った書状では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している。

1590年に関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。


この過程で家康が整理させた徳川氏の系譜では、松平氏の祖は、親季の子で、政親の兄の親季の遺児とする有親(長阿弥)ということにされている。

その伝承によると、親季の戦死後、その子の有親も南朝方として戦った(信濃で戦死したとも言う[3])。

有親の子世良田親氏は北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し、流浪した。

やがて三河国に流れつき、加茂郡松平郷の領主 松平信重(左衛門少尉)の娘婿になり、還俗して松平氏の名跡を継ぎ松平親氏(松平太郎左衛門親氏)と名乗ったとする。

また、徳川七代将軍家継も幼少時世良田を称している。



泉沢氏​

世良田満氏の子である経氏に始まり、その子重氏と以後子孫繁栄した[要出典]。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月24日 16時02分49秒 ) パスワード

新田義宗ですが
父・義貞の戦死後、<<越後>>の新田一族に匿われて成長した
<<らしい>>

ということで!越後の新田一族に関して我が家との関わりを書きます。


実はワタクシの母方先祖の<<わたしの34代前になるのかな?>>が14歳で参戦した元寇の役で恩賞として越後の南魚沼郡の上田荘を拝領して
息子の1人がココに移ったのですが

        たぶん令和から地図の目印になるのは  坂戸城あたりで良いと思うのですが


ココで新田方でした。


              ワタシ自身の直接の先祖は吉野で後南朝になっていきますが
              越後に行った我が一族は<<越後の新田方>>と一緒だったということです。

              もちろん伊予の親戚には楠方や越前金ケ崎の新田方だったのもいます。


                    ややこしいですね
                    うちは長子だったのに母親が江戸氏だったので
                    父親が北条氏の母を持つ9男に家督を譲ったので
                    怒って南朝方になって北朝や尊氏方の河野家と戦いました



ま、みんな負けましたが。
ぼろ負け。


で、越後の親戚の後日譚を友人に送っているので  それをコピペします:


わたしの母方一族が元寇の後
南魚沼郡の上田荘
     たぶん坂戸城あたりに
土地を貰って
そこにいたんだけど

           ここからの話が  イマイチ分かってないけど

戦国時代の終わり  堀家が上杉家の後に越後に来た時  たぶん  上杉の残留組と一緒に堀家に嫌がらせをしたんじゃないかな

           と思っています。


わたしの親友の家が木曽義仲の侍大将で
後に越後に移動しているのです
要するに
直江兼継のご先祖と一緒に。   樋口さんだね。
彼女の家は樋口でも今井でもないですけど。

        彼女の家については源平盛衰記に詳しく書かれている。


結局は堀家に負けたから彼女の家は長野に帰ったんだけどね。
佐久です。
勝ってたら上杉を追って会津に行けたんだろうけど。


佐久って所はうちの先祖が後鳥羽方に付いて負けて
息子が1人流されて斬られた所。
伴野って所。

1980年代だったかに甕に入った遺骸が発見された話があった。

  
もう1人の息子は久慈に流されて斬られた。


うちのおじじ様は北上山地の江刺に流されて翌年だったかな、没した。
墓が北上市の稲瀬って所にある。

宇和の人だけど  (名字は河野ではない)
でもワタシと同じ84代目の人が
墓所の碑を建てた。

    北上教育委員会の案内板も立ってる。


上田荘の一族は新田方で  

その後  

長尾とか上杉とかと付き合って
だから  たぶん一緒に  堀家に嫌がらせをした。


ま、堀秀治も怒るわな
収穫前の年貢を持って行かれては。


越後のうちの一族は上杉謙信の時も反信長で共闘してる。
母方は石山寺方だから。
この時も負けたけどね。



ということで  

そうなのです   
   南朝方  
   反信長
と、何重にも何重にも、日本人ってアチコチで共闘しているのです。
21世紀の今はずいぶん忘れられていますが。

                         秋のお彼岸に思い出したということは良い供養になったと思います。




一昨日  友人に  越後の一族が越後の新田さんと一緒に南朝方として戦ってたんだよ  と書いたばかりでした。


まさか三つ柏さんが新田義宗に行き着いてたとは思ってもいませんでした。
[44]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月25日 09時11分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。新田氏関係について、改めて理解を深めました。
 
 本日、新書本と文庫本を送ります。それは――
 @『家康、封印された過去 なぜ、長男と正妻を抹殺したのか』(典厩五郎)
 A『古城の風景U 一向一揆の城 徳川の城 今川の城』(宮城谷昌光)
です。Aの方には、大久保氏についてかなり書かれています。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月25日 12時41分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
楽しみにしていますね。


本土経由になりますから  おそらく  今までの倍以上時間がかかって届くと思います。


[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月25日 22時34分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、送りました。しかしながら、航空便は休止中でありまして、船便とな
りました。船便も通常は二か月くらいのところ、今は四か月くらいかかるそう
で、到着するのは「来年の一月中」がメドと予測します! なんとまあ!
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月26日 01時58分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。
ぺこり


飛行機は3月からずっと  TO/FROM 日本 ↔ ホノルル便は飛んでなくて
封書の郵便物は本土経由で   西海岸か東海岸か  からハワイに来るということで
今月9月10日に日本の友人が送ってくれた封書はまだ届いてないです。
      内容は分かっているので気長に待っているところです。


船便は日本は扱っているけれどアメリカは既に5年ほど扱ってないのですよ。

もともと船便で出したら南米経由で届いたり台湾経由で届いたりのテキトーだったので
アテにしてないです。

それより今は小包は日本からも税関申告書を英語で書いて印刷しないと受け付けないとかで
我が家は窓8にして以降、窓10でもプリントアウトが出来ないので、既に5年以上小包みは日本に送ってないです。
それでルーター?  角が2本生えたヤツ は捨ててやりました。


     今年の大統領選挙は(絶対に今回は大統領を出したい民主党の陰謀で)郵便投票でやるんだそうで
            まだ投票用紙は我が家には届いてないです。

     つまり2016年の選挙の時、ヒラリーが地滑り的勝利で大統領になると、民主党側メディアが宣伝してたのが逆効果になり
     皆さん選挙に行かなかったから彼女が落選したので今回は郵便投票でやるんだそうです。

     今年早々にコレを聞いた時  必死の民主党  インチキやる気マンマンだな  と思いました。

     郵便投票なんて  ホントにカウントされるの?  という不安で一杯です。

     民主党が郵便会社にまたまたイチャモンを付けてますが  
      インチキやりたいのはお前達民主党だろう  
     って、わたし以外のアメリカ人達は思ってる、
     と思います。


     トランプが郵便投票で送っても本当にカウントされたのかどうか不安なら投票所に行って確かめろと言って  
      またまた民主党がイチャモンを付けてます。

          わたしは  あ、そうか  投票所で確かめればいいのか  と分かりましたよ。


     それでマタマタ大騒ぎです
 
      民主党側が言うには   2回も投票するのは違法行為だ  って。


           いやいやいや   
            みんな自分の郵便投票がちゃんとカウントされたのかどうか  確かめたいのだよ!

                 だいたい  このカウントされたかどうかってハナシは2000年の選挙の時に民主党が持ち出した件なのに。

                 民主党って記憶力ゼロだな  コイツら!  です。


あ、わたくしはリバタリアン支持者なので  民主党のインチキぶりには毎度呆れ共和党のやられっぷりには同情しています。

リバタリアンの党是は
      課税は窃盗だ!
      アメリカは国連から脱退せよ!
      外国の内政に関与するな!
です。

     アリエナイから、この先100年後も1万年後もリバタリアンから大統領が出ることは、100%無いことは、確約です。

        今年はどこかの大学の女性講師が大統領候補で副大統領候補はいかにもなユダヤ系の名前の男性です。


選挙は「お祭り」ですから   アメリカ中が毎度のようにキャッキャッ騒いでるだけで  
それをマジメに報道している日本のメディアには  バカか  と思っています。

それも民主党大好き共和党憎しの偏向報道をしているから  もういい加減にしろ  と思っています。

日本のジャーナリスト  レベル  低過ぎ!
日本の  アメリカ通ジャーナリストのレポートにはテレビに向かって  2枚舌!偽善者!  と突っ込んでます。

       彼らの実体  わたしは知り過ぎてますからね。



なので、こういう閑な時には妄想を逞しくしていろいろ空想しています。


11年前?  高嶋政伸が演じた直江兼続のパパ 樋口惣右衛門は   越後<上田>長尾家で勘定奉行を務め、
後に家老となったけど
算盤勘定が得意で「百姓侍」と嗤われてた  ことを思い出したりしましたから。


それで
わたしの一族の越後国南魚沼郡上田荘の皆さん   群馬から越後に入って来た新田軍を迎えた時   どんなだったのかな?
とか
南魚沼郡って群馬と接しているんだよね   越前国金ケ崎へ行軍する新田軍の補給  大変だっただろうな
とか
新田軍が坂戸に城を作った時に一緒にモッコ担いで汗水垂らしたのかな
とか
新田義貞が討ち死にしてお子さまの義宗さまを越後にお迎えした時  どんな気持ちだったのかな
とか


時代が下って


越後国南魚沼郡に長尾家や上杉家が坂戸に入城して   うちの一族はどんな気持ちだったのかな
とか
長尾景虎から上杉謙信になっていく様子をどんな気持ちで見てたのかな
とか
反信長の一向一揆の時の気持ち
とか
御館おたての乱の時は御館まで行ってたのかな

     御館の乱=上杉謙信の養子の上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒のことね

とか
上杉景勝 vs 上杉景虎の争いの時はどうしてたんだろう

     NHK大河の「天地人」の 上杉景虎役の玉山鉄二の美しかったこと!
     本当にビックリしました。

          すごい目張り!
          でも
          「おんな城主  直虎」の庵原助右衛門役の山田裕貴の目張りの方がすごかったけど  
           2人ともホンモノのお目々なんだよね   羨ましい!

とか


わたしの同級生が付き合ってた彼氏君が長尾景虎の子孫で  つまり コレは 上杉景虎の子孫ってコトだったのかな
(だって謙信はおホモダチしかいないもんね   子供がいるわけ無いもの)

とか


    彼女とは今でも親友です
    彼氏さんの家は日本人なら誰でも知っている家です。

         木曽義仲の侍大将の子孫の親友は2歳年下で学年は3つ下です(休学してたから)


越後国南魚沼郡上田の一族については深く考えたことが無かったけど
姉の夫が  この縁で  姉と結婚したのかな



でも姉は「先祖なんて  気持ち悪い」と言う人で
「お姉ちゃま  うちのご先祖さま達って  気持ち悪い人達だったの?」
です。爆笑


わたしには般若心経は唱えられないけど三つ柏さんが詠んでくださるからわたしの先祖にも供養になっているので有り難いです。
感謝
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月28日 11時41分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日は、丸一日、浜名湖で船を操って釣りを楽しみました。ヘダイ、キス、
セイゴ、ハゼ等と、魚種もさまざま、釣りシーズン到来となりました。
 また、彼岸花もこの夏暑かったせいか、一週間遅れでの満開になり、幻想的
風景をあちこちで醸し出しております。
 山歩きも一日おきくらいで実施して「奥の細道」の模擬歩行をしております
が、最近標高200mの山の頂上に捨て猫がいて、人になついているのでかわ
いく、会うのが楽しみになっております。猫って生存能力が高く、不思議な最
強動物だと感心し、最近研究対象の一つになりました。猫のしっぽの振り方も
かわいく意味ありげの仕草ですね。鳴き方にも色々あって、妙にハートをくす
ぐります。

 さて、南朝・後南朝について徹底的に解明したいと思っております。加茂氏
の『富士"隠れ南朝史"』をあを様に送ってあげたいのはやまやまなのですが、
この本、もはや入手することは困難で、国会図書館、富士市図書館他、数か所
でしか見られません。私は、富士市図書館でコピーしてきたのですが、すべて
にわたって濃い情報が満載なので、簡単にまとめることが大変であります。
何回も何回も熟読して理解、そして記憶しないと要約することはできない程で
あります。もちろん断片的に抽出することは可能でありますが、それでは説得
力に欠けてしまうと思うと、なかなか進みません。
 でも、大変重要な情報の宝庫でありますので、必ずお伝えしたいと思います。

 そのほんの一つが、大久保氏の祖の宇都宮庶流・支流の「武茂氏」でありま
す。新田義貞に従った正真正銘の南朝臣であり、義貞死後、首を奪還し、岡崎
へ隠棲。これが「武茂泰藤」で大久保家の始祖。泰藤の孫の泰道が「宇津」を
名乗るということで、この宇津の出どこが「キモ」であります。

 用事ができました(よく横槍が入る)ので、後にします――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月28日 13時13分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

太陽に当たるのは非常に良いことです。
そして身体が暑い寒いを感じることはコレまたとっても良いことです。
ジムで室内運動をして身体を引き締めるより、ずっと有効です。

    わたしは毎日2時間ビーチを歩いて2−3kg体重が落ち体脂肪率は3ポイント減りました。
    減り過ぎなので現在炭水化物を摂取するようにして増やそうとしてるところです。

        でも汗疹が1つ出来てて(掻いたらオワリ)と肝に銘じています。広がりますからね。


        紫外線でウイルスを不活性化出来るのも期待しています。


先日釣りをしてたヒトがフグを釣り上げました。
当然キャッチ&リリースになりますが。
               もったいない!と思いつつ  貰って帰宅するワケにもいかず。



野生の動物は遠くから見ているだけにしてください
まさかとは思いますが野生化した動物のマダニとかに刺されたら大変!
日本にも最近はライム病がありますからね。北海道とか長野に。しっかり後悔することになります。


わたくしは最近「静岡浅間神社」について知りたいと思っているのですが
なかなか求めている情報が得られないです。

家康が戦勝祈願をしたという神社で
そのお蔭で静岡県が「もの作り日本一」に発展して行くことになったそうです。


          静岡浅間神社には何か秘密があるのだろうと思っています。

          恐らく  それが  『富士"隠れ南朝史"』 に関係しているのだろうと思っています。



武茂城
https://tochigi-burg.com/mumo.htm

読み・・・・むもじょう                  タケシゲじゃないの?驚
所在地・・・栃木県那須郡那珂川町馬頭(旧馬頭町)
築城年・・・鎌倉時代
築城者・・・武茂泰宗
主な城主・・武茂氏、太田氏



ちょっとコピペ:


三河大久保氏の祖

 武茂氏の祖、武茂泰宗は宇都宮景綱(7代目)の子で、この武茂氏は多くの支族を輩出した家であった。その中でも有名な家は、徳川家康に仕えた三河大久保氏である。

 武茂氏2代目の時景の子泰藤の時代は、南北朝の動乱期であった。泰藤は弟の氏泰と共に、新田義貞に従って南朝方として各地を転戦し、義貞の戦死後は三河へ行って再起を図った。一方氏泰は武茂に戻り、武茂氏を継ぐ。三河へ行った泰藤の子孫が後に大久保氏となり、松平氏に仕えるようになる。



宇都宮氏の当主に

 1380年、宇都宮氏と小山氏が戦い(「裳原の戦い」)、宇都宮氏の当主基綱(11代目)は戦死してしまう。基綱の跡を満綱(12代目)が継ぐも、満綱は子がいないまま亡くなった。

 そこで、後継者問題が起こり、満綱の娘と武茂綱家の子持綱が結婚し、分家の武茂氏が本家の宇都宮氏を継いだ。

 数ある宇都宮氏の分家の中で、武茂氏が本家を継いだ背景には、南北朝の動乱時、武茂泰藤と氏泰兄弟が活躍した点が挙げられる。つまり、武茂氏は強かった。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%AD%A6%E8%8C%82

【名字】武茂
【読み】むも,たけしげ
【全国順位】 51,536位
【全国人数】 およそ40人    絶滅寸前ですね


【名字の由来解説】

現栃木県である下野国那須郡武茂郷発祥ともいわれる、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流宇都宮氏族。

「武」は竹の字を改めたもの。



土地勘が無いので栃木と群馬がこんがらがってしまいます。ホント言うと埼玉もこんがらがる。

佐野といえば唐沢神社があって藤原秀郷だな、と。
その近所に  北西に足利があって

渡良瀬川を挟んで

群馬の太田に新田さんがいた、と。

これで良いのかな?


で!
ビックリすることが分かりました!

弟の婿の家がなんと新田一族でした。
やっぱり  先祖が引っ張ってるんですよ。
     弟の娘夫婦   なんで  この2人が夫婦なんだろう   と不思議でしたが
     先祖がらみなんでしょうね。
     双方の先祖同士がガッシリ手を組んだんだぁ〜
     と確信しました。


姉の娘も母方一族の者と結婚してますからね。



ホントに驚きです。
宿命で結ばれた運命の出会いをしていたんですね。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月29日 02時05分11秒 ) パスワード

「麒麟がくる」


今回の放送分は、桶狭間から随分経って、美濃が信長の手に入って。。。
    ということで   染谷翔太  の貫禄が凄かった。
    こんなに化ける?って。
    丸顔なのに細面の信長の肖像画の顔の表情に似て来たし。
    へぇ〜  っと感心して見てました。



しかし信じられない展開に戸惑っています。こんな領域にまで踏み込むのか?と。

前回も出て来た「何にでも効く薬」に驚いたけど
     何にでも効く薬?
     やっぱりオピアム(日本語はオピウムかな?)とカナビス(日本語ではカンナビスかな?)が主原料じゃないの?
          手に入れるのにお金のかからない、どこにでもある草だと言ってたから。


今回は「また売り」は  いいんだ  と言ってましたよね。
     転売ヤーはホクソエンダでしょうね。
     ダフ屋も大喜びだよね。

         ワタシは21世紀の人間だから  薬の転売は  特に「何にでも効く薬」の転売は   許されないよっ!
         もうテレビ画面に向かって「ウソだろぉ〜!」と突っ込んだ。

     転売ヤーだってダフ屋だって  ヒト様のお役に立ってるもんね、  一応。


     「何にでも効く薬  (笑)」のまた貸しとかまた渡しとかまた売りなんてワタシの住んでる世界じゃ、後ろに手が回るぜ。


         NHKがこんな内容を放送するのか?
         世も末だ
         貧困児童が15%もいる日本だから  ますます  こーゆー「必要悪」が許されていくのかな?
         その宣伝?
         あ、「洗脳」って言葉の方かな?



              前に聞いたことがある
              「ブランド物を買うお金が欲しくて売春する若い女は許されないけど
               大学に行って勉強するために売春して金を作ってたオンナが逮捕されると  健気さの美談に泣ける」
              と言った人がいた。


結論:

ワタシには  分かりません。
戦後の復興期に頑張った両親を持ち、子供の学費には糸目をつけないと言ってくれた両親を持ったから。


だけど今の日本って実は裕福な国からとっくに転落してるんだよね。
借金して大学に行っても返済できるような職に就けるとは限らないし。


1980年代の初め、アメリカの小学校で朝ごはん?を提供しててビックリした。
今の日本もそうなって来ていると聞いた。

子供に食べさせるってのは親の責任だという州もあって
わたしも子供に食べさせるのは親の責任だと思ってた。


だけど今回の「麒麟がくる」を見てて
実はこのドラマって  今の日本の姿なの?  と。


あ、うちの癌のオット
誰かが「何とかの薬を処方されちゃったよ」と言うと
目の色が変ります。

   自分にも効くんじゃないか
   って一抹の希望を思ってるんだろうね。


今回の「麒麟がくる」は  主人公は一体誰?主題はどこ?  この作品  どうなってるの?です。謎
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月29日 14時35分54秒 ) パスワード

ここ暫くウォーキングしながら「麒麟がくる」を考えていて


麒麟は誰のところに来るのか?
主人公は光秀だから  光秀のところに麒麟がくる  というハナシなんだろう


だけど

光秀は信長を殺す
          弑逆は日本人は受け入れて来なかった
          しかし、今は、そんな時代じゃない?

結局信長の後は秀吉になり

          仇討ちは日本人の好きなテーマの1つ

              敵役はモロ光秀よね
              敵役って日本人の嫌いな人間ですよね
              そうすると光秀を好む人間は  まず  日本にはいない?

秀吉の後は家康になった
そして日本は平穏な国になった
それには天海上人の力があった

              天海は光秀の生き延びた姿?
              だから光秀が天海となって麒麟を家康のところに連れて来た?


「麒麟がくる」は
「だから」
光秀が連れて来るってハナシ?



このドラマを見ていると「造反有理」ってコト?
学生運動の亡霊が現在の日本には必要だってコト?
ベトナム戦争から学生運動に至る  アメリカでは  マリファナが若者達を支えてた  だから  「何にでも効く薬」を描きたかった?


今の日本には「革命」が必要って言ってるのかな?

光秀は革命を起こして失敗したってコト?いや  「失敗したクー・デター」  に過ぎないよね?
「2・26」だって「失敗したクー・デター」よね?


革命は虐げられた民衆が立ち上がって支配者を倒すために起こすものだから「革命」は日本にはアリエナイでしょう
過去も将来も現在も。


結論:
「麒麟がくる」は何が主題かさっぱり分からないドラマ


関係無いけど  蛇足で  ある人がこう喝破した事を書いて置きます:


虐げられている人が起こすのは革命。
虐げられてもいないのに起こすのはただの暴動。
虐げられていると嘘の洗脳をされて暴動を起こしているのがBLM。



B  放火 burning    
L  略奪 looting
M  殺人 murder


在米日本人って玉石混交で、時々、ものすごくカシコイ人に出会います。
[53]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年09月30日 12時26分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武茂泰藤(大久保家の家祖)の孫の泰道が何故「宇津」と名乗ったのか?―こ
こに後の大久保家の出自の謎を解く鍵があります。

 加茂氏によれば、「富士山浅間宮大宮司家」は、「三浦氏」とも「宮下氏」
とも「富士氏」とも「宇津氏」とも称した、ということであります。それは、
皇胤が王妃(妻)の姓を名乗って臣籍に下ったということを物語っております。

 そして、大久保氏の出自でありますが、加茂氏はこう断言しております(要
約)――

「今川氏親が伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を将として、三河(松平長親)征伐
に当たらせた時の戦いで、松平(徳川)方に「宇津甚四郎忠茂」という者が活躍
し、伊勢新九郎の軍を退散させて名を挙げたという。この忠茂という人物は、
実は今川氏に大怨念を抱いて三河に落ちた富士の"隠れ南朝"の中心人物だった
富士山浅間宮大宮司「義利」の子・弥四郎「忠尚」の五世孫であったという。
その子・「忠俊」と共に一族を率いて参戦していた。これが、後に徳川家康に
仕えた「大久保氏」の先祖である。」

 一般的には、忠茂は松平清康に仕えたと解説されておりますが、生没年を調
べてみますと、松平長親とは同年代であり、長親の孫・清康の死後十二年も生
き、七十二歳で亡くなっております。たぶん家康の事情により、南朝との関係
は極力隠蔽され、清康との関係を表に出したものと推察いたします。

 泰藤を初代とすると、忠茂に至るまでにはおよそ五代の当主が存在していま
すが、泰藤の孫が「宇津氏」を名乗ったということでありますので、その妻か、
父母か、祖母が宇津氏の血を引く者であったと推論できます。

 あるいは、大久保氏のルーツは「宇津氏」で、泰藤の系統の宇都宮氏に系図
上つなげた(仮冒)可能性もなきにしもあらずですが、大久保氏の名誉にかけて
宇都宮氏の末裔であると信じたいと思います――

 

 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2020年09月30日 14時36分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

>宇津甚四郎忠茂という人物は、
>実は今川氏に大怨念を抱いて三河に落ちた富士の"隠れ南朝"の中心人物だった
富士山浅間宮大宮司「義利」の子・弥四郎「忠尚」の五世孫であったという。


それで大久保家からは幼い家康に従って今川家に行かなかったのかな?
と思いました。
それより幼い主人の留守中、代々松平家に仕えた三河や岡崎の地を守りたかったのかな?と。




宇都宮氏も南北朝の時にはややこしい時代があったわけで
北条家との義理で北朝方にいて楠正成と戦い
のちに北畠顕家方について南朝方として活躍し
やっぱり武士は公家の犬扱いで不遇のうちに死す
って感じですか。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1

宇都宮公綱(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。
宇都宮氏第九代当主。
父は宇都宮貞綱。
母は長井時秀の娘か[注釈 2]。
子に宇都宮氏綱。
名将・楠木正成に坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。

楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。



千早城攻めなどにも参戦し、活躍したが、
六波羅探題滅亡後、
後醍醐天皇の綸旨を受け、官軍側に降伏し、包囲軍瓦解のきっかけとなった。

幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所の奉行職を務めた。

1335年の中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ(竹ノ下の戦い)、
翌年に尊氏に降伏してその家臣(北朝方)となった。

北朝方になると南朝方の北畠親房の将、伊達行朝、中村経長(中村城主)の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞父子が討ち取られてしまったが、
尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。
   
その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。

しかし晩年は不遇だったと言われている。
正平11年/延文元年(1356年)11月25日、55歳で死去した。


南北朝時代は  グチャグチャ。
   足利家の中も  グチャグチャ。
   宇都宮公綱も  グチャグチャ。     公綱の子は足利方だった。
   楠正成の家も  グチャグチャ。     正儀北朝に出奔



混沌とした時代に今川憎しで一貫出来た大久保氏は幸いだったかも。



日本の名字はややこしくて21世紀から見ようとするとワケ分らなくなりますね。

>「富士山浅間宮大宮司家」は、「三浦氏」とも「宮下氏」とも「富士氏」とも「宇津氏」とも称した、ということであります。
>それは、皇胤が王妃(妻)の姓を名乗って臣籍に下ったということを物語っております。

富士山浅間宮大宮司家は基本的には「富士姓」だと思ってました。
三浦姓は全く知りませんでした。
[55]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月01日 13時21分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「富士山浅間宮大宮司家」と三浦氏の関係ですが、伊集院卿著『富士王朝の
謎と宮下文書』によりますと(要約)――

「平安時代末期、源頼義の曾孫・三浦義顕の長子・義仁は、宮下家に婿に入り、
第49代宮下源太夫義仁となった。彼は、里宮に保存されている古文書(『宮下
文書』)の保護に情熱を傾け、十数年の歳月をかけて予備の写本(副本)を作り、
実父と長男もこれに協力し、写本は山宮に収められた。」

ということであります。

 次回は、宮下家のルーツについて記します――
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月01日 14時34分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「富士山浅間宮大宮司家」と三浦氏の関係

ありがとうございました。



ホントに日本の名称?名字?はヤヤこしい。

レス<38>に出した系図の「福地」はフクチじゃなくてフジで後に漢字が富士に変るらしいですね。



オットの医者の白い巨塔出身の先生のご先祖の(応神天皇のお子様である)大山守皇子さんは
    ウジでは死んでいない
    東国に行った
なんてハナシもありますし。

先生は「うちは長野から大阪に移った」とサイキンのことをおっしゃってましたが
    静岡から長野に移って後に大阪に出て先生が生まれたんでしょ?
    と反論したかったもののコーユー件で時間をもらうのも迷惑だろうと諦めましたが。


徐福は富士山に登っているんでしょうかねぇ?
三つ柏さんの大昔のレスを思い出したりします。



ヒバリさんのご実家の宮下姓は諏訪氏系と思っていましたが
その前は静岡浅間神社に関係してたのかな?とか。


いろいろツラツラ妄想してしまいます。
[60]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月02日 11時17分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久しぶりに小説を読み終えました。その小説は、谷津矢車(やつやぐるま)
氏の『しょったれ半蔵』(2018年2月発行)であります。二人の半蔵、即ち服部
半蔵正成と渡辺半蔵守綱の関係を正に取り扱った小説でもありました。二人
の関係は、しょったれ(武士にも忍びにもなりきれない半端者)の服部半蔵正
成が渡辺半蔵の配下となって武士になるべく修行するというもの。信康事件
と伊賀越えが舞台として出てまいります。
 忍者ものの小説――出来そこないの忍者半蔵正成が最後には一人前の忍者
として完成するというストーリー仕立てでありますが、家康、保長、信康等、
戦国の裏の歴史(ひょっとすると真実?)を垣間見せてくれるようで、久しぶ
りに面白い小説に出会えた感じです!

 さて、宮下家のルーツですが、伊集院卿の『富士王朝の謎と宮下文書』に
よると、以下のようになります――

「宮下家の始祖は、第七代孝霊天王によって阿祖山太神宮の宮守司長(宮司の
長)に任命された尾羽張田彦命(おはばりだひこのみこと)に遡るという。また、
尾羽張田彦命は祖佐男命(すさのおのみこと)の末裔だという。
 そして、この尾羽張田彦命の時代に、秦の始皇帝の命を受けて不老不死の
霊薬を捜しに日本へやって来た方士徐福が、富士山麓の阿祖谷(富士吉田付近)
にたどり着いた。帰化した徐福は、阿祖谷で聞き知った神代以来の事績や各
家に秘蔵されていた系譜や古記録(日本固有の神代文字で記されたもの)等を
自ら録取してまとめた。また、徐福の子孫が録取したものも少なくないとい
う。そして、まとめられたその貴重な記録は、宝物として阿祖山太神宮に収
められ、以来、尾羽張田彦命の子孫(福地氏 ふじし)がこれを守り伝えるこ
とになった。

 尾羽張田彦命を初代として八代目にあたる福地佐太夫命のとき、第十五代
応神天皇の皇子大山守が、徐福の学問を慕って阿祖谷を訪れた。大山守皇子
はそのまま阿祖谷に住み着き、佐太夫の娘を妻に迎えて佐太夫の跡取りとな
り、父応神天皇の命によって阿祖山太神宮の宮守司長に任命されている。大
山守皇子は徐福が残した史書や古老の言い伝えに基づき、自ら史書をまとめ、
これを「徐福伝」に加えて世に伝えた。また大山守皇子は父母を祀る神社を
創祀し、その宮の下に移り住んだので、以後、子孫は宮下姓を名乗るように
なった。」

ということであります。さらに――

「飛鳥時代の第二十二代宮下福地太夫元長は、「徐福伝」を閲覧するために
阿祖谷に来訪した中臣藤原物部麿なる人物の命により、腐朽した古文書と、
腐朽した古文書と、書写しかかっていた古文書を書写し、その副書を作った。
以後、宮下家は腐朽した古文書と、書写した古文書の双方を補完することに
なった。
 ところが、延歴十九年(800年)、富士山の大噴火により、阿祖山太神宮は溶
岩流に呑み込まれ、貴重な史書を収める宝蔵も被災した。そこで、第二十六
代宮下源太夫元秀は、古文書を携えて相模国高座郡に避難、さらにこの地に
寒川神社を祀り、古文書は寒川神社の傍らに建てられた宝蔵に収められるこ
とになった。以後、阿祖山太神宮は山宮、寒川神社は里宮と称され、宮下家
は両宮の宮守を兼務するようになった。」

 そして、三浦氏の婿入りとなった四十九代の宮下源太夫義仁に至り、里宮
に保存されていた古文書(いわゆる「宮下文書」)の保護を行い、副本(写本)
を山宮に収めたということであります――
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月02日 13時41分22秒 ) パスワード

レス<57・58・59>
了解です。



三つ柏さん

長いお話の書き込みをありがとうございました。



>阿祖山太神宮

阿祖山太神宮って何?
と思い  検索したところ  

山梨県富士吉田市大明見に鎮座の不二阿祖山太神宮は富士山信仰の中心として知られる浅間神社の元宮、日本最古の神宮
と出てました。驚
http://fujiasoyama.com/

3柱鳥居です。驚

南朝神社というのもあるんですねぇ。驚



孝霊天皇(わたくしの母方先祖ですねぇ)の御世に徐福が来たというハナシも聞いたことがあります。



いや、もう、驚きの連続で   今日は早く寝ます。
[62]酔石亭主さんからのコメント(2020年10月02日 16時25分38秒 ) パスワード

空の青海のあをさん、三つ柏服部さん

あをさんが参照された不二阿祖山太神宮はつい最近できた単なる新興宗教で、本来の阿祖山太神宮とは何の関係もありません。これは「天住の会」と言う宗教法人が2007年に建てたもので、創始者は聖主(せいす)様という生き神様だとか。このことは2011年秋に私のブログでも書いています。某AKIE夫人も引っ掛かり一時名誉顧問になっていました。詳細は以下を参照ください。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/214250
http://dailycult.blogspot.com/2017/10/blog-post_10.html

こんなものに日本の多数の国会議員までも名を連ねていたとは、本当に腹立たしく思います。
[63]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月02日 23時35分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにいたしましても、宮下文書やそれに基づく古代史、あるいは宗教に
深入りするつもりはございません(また底なし沼にはまってしまいますので)。
 ただ、富士山の麓が大変興味深い所であるということは、頭に入れておく必
要があると思います。ただその入り口に立ったばかりのところでありますので、
何があったのかの確信には至っておりません。半信半疑で進めているという状
況であります。
 それにしても、加茂喜三氏は隠れ南朝に関する情報をどのように収集したの
か、大変気になるところでもあります。ただ、今はその加茂氏の言わんとする
ところを素直に信じてみようと思っております。ただし、おかしなところはチ
ェックしておきたいと考えます――
[64]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月03日 00時05分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もう少しだけ伊集院氏の『富士王朝の謎と宮下文書』の中から引用させてい
ただきます。それは宮下氏についての要約であります――

「南北朝時代には、宮下家は南朝を支持し、南朝系の親王を奉じて奮戦した。
宮下家は先祖に南朝の遺臣がいる家柄であった。が、足利幕府が確立すると勢
力を失い、弾圧を受け、次第に山宮・阿祖山太神宮も衰退していった。」

ということであります。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月03日 00時32分28秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
拝見して来ました。


それで  逆に  驚きました。
実は!
この渡辺氏、知ってる人の親族、みたいです。


     ココに書けないのが残念ですが。


そして連ねる政治家の名前の数々にも  逆の意味で   ビックリです。

     弟が仙台にいた時に  某政治家を「コドモ!コドモ!」と呼んでいたのですが
           弟より何十歳も年上の人ですが
           某有名政治家の   コドモ  になるので   「コドモ」と周りが呼んでいたので  弟も区別の為に「コドモ」と言ってました



いやぁ〜
もう驚いた!
こういうハナシに行き着いたとは。


それでアッキーやらいろいろな政治家が絡んでたのか。


酔石亭主さんの御指摘とは全く方向違いで驚きまくったぁ〜、
でした。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月03日 01時21分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


昨日は久し振りにヒバリさんの家のことを読み直しました。
ヒバリさんの家は麻績服部家で諏訪にヨメに行って(それでオミの方で)その娘が信玄の側室になって勝頼が生まれて  等。

富士山のハナシは出てなかったように思いますが

ヒバリさんの兄上は相模国だったか小田原だったかに住んでて
ああ、三浦半島か〜
と思ってました。

          
     いろいろな意味でヒバリさんに拘るワタシ。


いやぁ〜
日本ですねぇ


      いろいろな意味で。


まさかワタシがこの不二阿祖山太神宮に  全く思わぬ  カタチとバショで   カスッてた   とは。


実はここ数日、友人達と「アル友人」の言ったことでギャーギャーやり合ってたのですよ。
元のハナシは「或る友人」が言った平家の落人の件からですが。

    そのハナシの発端が平貞能なのです。ほっとけないじゃないね、貞能なら。

それで「アル友人」が【平家の落人伝説なんて西の方ならそうだろうけど東の方は仮冒だ】と言ったことで
アホか
とわたしが反論して。


ここから
弟が突然学校を仙台に決めた理由がこの喧嘩から  あれ?  と分かって
そうか!平貞能がらみだったのか!と思い至ったのでした。

     だって名古屋に多くの学校があって、なのになんで仙台?その手前の東京にはもっと多くの学校があるのに。
     母は男子たる者の行く学校は早稲田に決まってるという願いを持っていたのに希望を粉砕されて落胆し
     ワタシはあのバカは冬は(山形側の)蔵王でスキーをしまくるつもりだなと穿った考えを持ち


     ずっと  そう思って来たけど
    「或る友人」の説明で  弟が仙台に突然父と一緒に消えたのは  貞能にヨバレタ?と思い至ったのでした。

     だって弟が選んだ下宿先が  まさに  貞能がらみの所だったのです。

          つい最近弟は住んでたその場所の現実のハナシをしてくれて
          高校生の弟が選んだバショはフツーの人がフツーに住みたいと希望するような場所じゃなかった
          と言ってました。


              平家のオカルトパワーは弟にも及んでいたのか
              と数日前に気が付いたのでした。



これがココ数日のことで
酔石亭主さんの2つ目のURLを見に行って  ヲイヲイ!  となったのでした。


      ここ数日は三つ柏さんとの話題や上記の「或る友人」と「アル友人」で平貞能の亡霊に憑りつかれてました。

           平家のオカルトパワーにはココ暫く全く憑りつかれてなかったんですけどね。


弟の婿の家が新田一族だったことも先週知ったところでしたしね。


いやぁ〜
日本だな〜

『富士王朝』と『宮下文書』も  日本  ってコトなんだろうな。


日本って歴史と神話がこんがらがってるものね。
で、そこに日本人の血と涙が絡みに絡んでるものね。


「コドモ」の件も「或る友人」と「アル友人」に先週書いたところだったんですよ。
まさか酔石亭主さんの御指摘の中にも「コドモ」の名前を見ることになるとは。

   「アル友人」はこーゆー偶然を絶対に否定する人だけど
   戦闘意欲が高まったら  また  激突しに行くかな?笑
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月03日 02時07分52秒 ) パスワード

「アル友人」からの返信:


中国ばかりでなくローマ等でも紙の代わりに陶片や骨に文字を刻んでいますけど,日本は紙とともに漢字が入ってきたので,紙は骨や陶片より長持ちしませんので,古代の記録が無いのだと思います。


最も,最近,縄文土器の文様ですけど,
このパターンがある程度,規則性があるそうですので,
これが縄文時代の文字だったという説もあります。



漢字が入ってくる前の文字を神代文字(神代文字)と言って,
漢字入ってくる前に文字があったとする古伝もあるのですが,
証拠が無いので否定されています。


インカ帝国では,ロープの結び目で文字を作っていたというのが,最近定説になっています。
最も,コロンブス,ピサロ等,完全に,南米の文化を破壊しつくしましたので,解読はされていませんけど,



縄文時代の文字は,縄で土器につけて焼いたともいわれています。
荒唐無稽ではないのですよ。

青森県の三内丸山遺跡は,500名が5000年定住していたので,私は文字の無い方がおかしいと思います。

500名くらいが数千年間住んだ縄文遺跡を縄文の大都会遺跡と言いますけど,北海道から九州まで,日本全国に存在するんですよ。



だから狩猟の時期や作付けの時期等を文字にした可能性はあると思います。


三内丸山遺跡は,特別な遺跡でないので,最近,縄文時代の論文に,土器の縄の文様は,文様でなく文字だと言う説も強くなってきていて,そのような論文もあります。


ただ,ロゼッタストーンのような遺物でも出れば別ですけど,そのようなものないですから,
文字としても解読されていませんが,もし,縄文時代に文字があり,解読されたら,縄文文化の研究はより進むと思います。


ただ,私は卑弥呼は,多分,国書のようなものを魏王朝に持っていったでしょうから,
日本で一部で,漢字を自由に扱える集団が邪馬台国にいたと思います。


多分,漢字が日本に入ってきたのは,弥生時代の渡来人により,もたらされたと思います。


邪馬台国だけでなく,漢倭奴国にも,漢字を自在に扱える集団がいたと思います。
[68]酔石亭主さんからのコメント(2020年10月03日 09時34分36秒 ) パスワード

空の青海のあをさん、三つ柏服部さん

宮下文書は偽書とされ近代の用語も散見されますが、何度も改訂を重ね書き加えられている(最初の改訂が中臣藤原物部麿)ことによるものと思われます。もちろん富士王朝云々の部分はファンタジーではありますが、一方延暦年間頃の話は現実とリンクしており、「富士山麓の秦氏」を書いた際かなり参考になりました。結局宮下文書は偽書かどうかではなく、どう読み解くかが問題になってくると思います。宮下文書に関しては、これを元にして書かれた「神皇紀」のデジタル版があるので、是非お読みください。文章は平易とは言え、かなりの大作なので、コマ番号196大山守皇子の宮下姓改名辺りからでいいのではと思います。コマ217には三浦氏の関係、コマ274には宇津氏に関して書かれ、コマ279から秦徐福になります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674


富士山麓の南朝は「神皇紀」の著者である三輪義熈が「長慶天皇紀略」で書いており以下のデジタル版で見られます。加茂氏の元ネタはこちらかもしれませんね。富士山麓の南朝は三河南朝とも関係するはずなので、別途検討されたら面白いかもしれません。(西尾市岩瀬文庫に「三河吉野朝の研究」、他に「長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣」という書籍があります。残念ながらどちらもまだデジタル化されていません)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019673
[69]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月03日 16時57分32秒 ) パスワード

酔石亭主様

 私の読みたいと思っていた『神皇記』、『長慶天皇紀略』のデジタル版を教え
ていただき、心より感謝申し上げます。富士吉田あたりまで足を延ばしてウロウ
ロしたところで、私には大した成果は得られないだろうと感じておりましたので、
これは大変助かりました。これからじっくりと読んでみます!
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月04日 03時03分07秒 ) パスワード

酔石亭主さん


>結局宮下文書は偽書かどうかではなく、
>どう読み解くかが問題になってくると思います。


はい
そう思っています。


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674

>「神皇紀」
>コマ番号196大山守皇子の宮下姓改名辺りから
>コマ217には三浦氏の関係、
>コマ274には宇津氏
>コマ279から秦徐福になります。


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019673

>「長慶天皇紀略」

助かります。



昨日はあれから散歩に出て妄想しまくりで熱中症になり?フラフラで戻って来ました。
  「子連れ信兵衛」を見てアルバムを2冊断捨離して4時に寝ました。午後4時。
  起きたのは翌朝5時半少し前です。
  今日は散歩に行かないでおきます。


不二阿祖山太神宮の「親族関係」の人といつ知り合ったのだっけ?と思い出したら30年も前でした。

     とにかく色々な意味でスゴイ家の人でした。

     「或る友人」と「アル友人」とには先週この「親族」について書いたところでした。

     酔石亭主さんのお陰で彼女の「親族」の意味が自分が思ってたより遥かにスゴイことだったと知ってビビってるところです。


長慶天皇もアチコチに御陵や墳墓があるけど  それだけ  南朝方がアチコチにいたってコトだろうなと。

長慶天皇は若い時に住吉大社で践祚してるし
わたしも何かあったら住吉大社に庇護を求めるというアタマがあったし
これが「日本人の繋がり」ってコトなんだろうな、と。


だから戦乱の時は、細い細い糸を手繰って、身を寄せ戦いに参加したんだろうなと、シミジミして、熱出して13時間半も眠ってしまいました。
     

30年前の彼女が言った「親族」という意味はhttp://dailycult.blogspot.com/2017/10/blog-post_10.html
「FUJISAN地球フェスタWA」の役員を務めた人々を包括し、更に、越えてるんだぁ〜。
へぇ〜


アメリカに来て   玉石混交!真偽混交(笑)の日本人部落に身を置いて 
 
旧華族世界の人々とも交流し  NY vs LA  ( LAの中でもまたグループがあり)
の面白い世界を見てたけど

    秋篠宮さまから「お目」をかけていただいたり、徳川家の御曹司にも会ったし


http://dailycult.blogspot.com/2017/10/blog-post_10.html の義家弘介さんには「どうして義家姓なの?」と訊いてみたい「源義家の子孫なの?」と。


時々「30年前の【親族】の彼女さん」と連絡を取りたいと思う気持ちが湧き出て来るけど   
こんなの知ってしまっては  本当にワタシとは住む「世界」が違う人だったんだね、です。


とにかく日本って・・・異民族に蹂躙されてないから・・・そのまま今に至る、なんだろうな。
[71]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月04日 06時42分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 10月になり、木の葉も少し色づき始めましたが、日中は暑い日が続きます。
へたをすると、熱中症になる可能性もなきにしもあらずで、日本も熱帯化して
来ているような気持ちになります。季節感が狂ってきております。
 おまけに新型コロナ禍で、心理的に閉塞感―「ステイホーム」症候群に囚わ
れて、ストレスがたまっております。
 アメリカは、この新型コロナにより、弱点をさらけ出してしまいました。も
しこれが細菌兵器であればと思うと、核兵器や武器による戦略も大きく見直し
が必要……つまり物理的破壊なき細菌戦と情報戦が主流になるのではないかな
どと、こちらも妄想している今日この頃であります。

 さて、平貞能・宇都宮朝綱、そして平重盛・池禅尼・平頼盛・平宗清のグル
ープの流れは、源頼朝との関係が保証、または見直され、はからずも生き残り
に成功したと言っても過言ではないと思います。はからずもではなく、はかっ
た、先を読んでいたのかも知れません……。これは平氏と源氏の二極の戦いで
なく、ただ天皇の内紛に関係した結果の戦いと捉えた方がいいのではないかと
思っています。平氏、源氏というレッテルはかえって誤解を生んでいるのでは
ないか……頼朝の父・義朝は当初は平清盛側でありました。
 そもそも源氏をひとくくりに捉えるのは無理なのではないか、源頼朝、足利
尊氏、新田義貞の三者を見るに、足利氏は別物のような気がいたします。

 上記のグループの後裔が、はからずも後醍醐天皇・南朝の流れに乗って行き、
足利氏が北朝となって行くことになりますが、この必然性はあったのかどうか?
 源氏の源頼朝は生きていたら、後醍醐・南朝方に付いていたのではないかと
最近変な勘が頭の隅で目覚め初めております。
 たまたまの内紛に付き合った結果というような単純なものではなく、やはり
南朝現象はもっと何か高尚な精神現象もあったのではないか、それを知りたい
と思っております――



[72]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月04日 08時16分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊集院卿の『富士王朝の謎と宮下文書』によると、『神皇紀』を書いた三輪
義煕は、愛知県一宮むの出身で、生家は南朝の遺臣の流れを汲むと伝えられる
神職の家柄で、そのせいもあって、歴史――特に南朝の史実に詳しく、消滅し
た南朝の後胤に深く哀愁を抱き、並々ならぬ尊信を抱いていたという。

 公証人として山梨県都留市に希望して赴任したのは、富士吉田の地に南朝伝
説があるからであった。それは、護良親王が北朝方の足利氏に討たれた時、親
王の遺臣はその首級を守り奉りて、秘かに富士北麓に落ち延び、神社に葬った
ということで、その神社は富士吉田にある小室浅間神社(富士山の北側中腹、標
高1500m位に位置する)のことだという説であった。

 公務の間に、富士北麓一帯を調べ歩くようになった三輪氏は、その小室浅間
神社を訪れ、そこで宮司の宮下源兵衛と出会い、南朝関係の文書を沢山含んだ
『宮下文書』の存在を知る。宮下家もまた、先祖に南朝の遺臣がいる家柄であ
った。」
ということであります――
[73]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月04日 08時20分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:〜家柄であった。」 ということ → 家柄であったということ
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月04日 10時46分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


夏バテが来ないようになさってください。

わたくしも体調に気を付けねばと自戒中です。
現在おそらく今年2回目の熱中症を体験中でしょうから。
でも2月のに比べたらどうってコトはありません。キッパリ

    ところが今回は吐き気がして吐いたら(吐瀉物が肺に入ったら大変と緊張したせいか)鼻からも吐きましたよ。なんで?激笑


>三輪義煕は、愛知県一宮の出身で、生家は南朝の遺臣の流れを汲む

はい
まさに  南朝方!  です。



     愛知県というか名古屋には三輪姓が多いです。
     そして超優秀なヒトが多かった記憶です。
     でもわたしの中高校時代には三輪姓のクラスメートは1人もいなかった記憶です。
     大学時代には結構いました。


           そうそう!江南の服部兼三郎商店が興和製薬に変っていった話を何年も前に書きましたが
           旧姓堀尾さんが服部家に養子に入り豊田佐吉さんの織機に融資したり  でも 相場に失敗して自裁した)
           その後  三輪家が引き継いで  今は興和製薬など手広くやってる三輪さんの息子さんはMITの宇宙工学を出てハワイに住んでました。
           今はどうしているか知りませんが、日本に帰ったのかな?このMIT出の人とわたしの従兄の顔がソックリで驚いた、と書いた記憶です。



愛知県一宮は尾張一之宮のことですから熱田神宮=尾張三之宮=よりずっと格上です。
尾張一之宮は真清田神社。

ここから書きたいことが  書けるかな?  と不安です。
ややこしいハナシですから。


蜂須賀小六の父上の正妻さんは大橋定広の娘。
大橋といえば  平貞能の子孫。  つまり  津島神社。  つまり  宗良親王のお子様の尹良親王の妻の実家。


で、蜂須賀小六の妻が一宮城主の益田持正の娘で  別にも三輪吉高の娘  というハナシがあって  

この三輪吉高の弟が秀吉の姉  トモさん  のご主人である三好吉房。子供が3人で豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保です。


益田家と真清田神社の関係を聞いたけど忘れた。一族だと思う。地理的にも地位的にも一族でしょう。

で、三輪吉高はもともとは伊勢国守の=伊勢南朝方の大将の=北畠具教の家臣だった。娘が側室だったそうです。つまり蜂須賀小六の奥さん!

      北畠具教と服部家とは関係があって
      服部友定が正月の挨拶に北畠家に挨拶に行く途中で伊勢の藤原で滝川一益に謀殺された。


ややこしいハナシを書きましたがワタシもこんがらがってる。


戦国時代には旧南朝方も零落して   ともさんのご主人のことを百姓なんて言いますが  それだけ大変な日々を耐えた  で良いと思います。


        前から書いていますが
        秀吉の母上は名古屋の御器所の出身で御器所は清盛が父上から相続した尾張の土地です。
            御器所の意味は  熱田神宮で使う土器を作ってた場所のこと。
    
        だから秀吉の母方は平家であり南朝方なんです。


           津島神社のお祭り(南朝方が北朝方の武士を捕まえた話)を信長や秀吉が楽しんだと聞いています。
           もともとが平家であり南朝方だったから。



ということで>>>三輪義煕は、愛知県一宮の出身で、生家は南朝の遺臣の流れを汲む<<<その通りでございます。


尾張北部の妙興寺さんが尾張北朝方の拠点でした。ということは三輪さんは妙興寺の北朝方とバキバキに戦っていたんだなぁ〜、です
尾張南西部の津島の津島神社が南朝方の拠点。


今回このレスを書いてた時に吉野忠臣7名字の1つの氷室家が尹良親王の孫で神職の家になってることを知りました。

知らなかった〜
氷室なんて身近には聞いたことが無かったので不思議でした。


ツラツラ書いてたら元気になって来ました。
明日は軽く散歩に行きます。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月05日 08時37分34秒 ) パスワード

長上郡の服部氏族CXXX\:139:いよいよ核心に‐7
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101734.html
を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
[76]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年10月05日 09時26分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、一足飛びにすべての結論にまで行ってしまいましたね。実は私も尾
張・三河・遠江の南朝史の結論として、最終的には織田・豊臣・徳川は南朝臣
であり、そのベクトルの当然の帰結として、戦国の世の今川(足利)打倒があっ
たと結論づけるべく、毎日ちんたらと南朝掘り起しの旅を続けておりました。
 加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』の結論も正にそこにあり、氏の結論を一
言で言えば、「信長―秀吉―家康の三人は、共に尾張・三河・遠江から起こった"隠れ南朝"であった。」ということになります。

 すべての結論に至ってしまいましたが、加茂氏の本の中にはこの地域の南朝
情報が満載されており、すべてが目からうろこでありますので、今後もポイン
トごとに拾い、まとめて行きたいと考えます――
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月05日 11時46分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。



>今後もポイントごとに拾い、まとめて行きたいと考えます――

よろしくお願い致します。



本日の「麒麟がくる」は逸回でした。
それぞれの登場人物がまことに分かり易く描き切れていました。


榎木孝明が山崎吉家役とはもったいない。先週、阿君丸を溺愛する朝倉義景に(どーしょーもないヤツだ)と絶望しているさまが非常にうまかった。


本日の手塚とおる(いとこの朝倉景鏡役)も良かった。でも、この人、信長に仕えて土橋信鏡になるのよね。評価の難しい最期で気の毒です。


本日も染谷翔太の信長役に見惚れました。すごい俳優だと思う。オーラがスゴイ。ホンモノの信長が降りて来そう。


阿君丸役の男の子、名優ですね。先週「父上、チュー太郎がいなくなりました」と言って泣くのがすっごく上手で驚きました。三淵が暗殺したのでしたか。


二条晴良の人物像がちゃんと描けてたし演じられてたので近衛前久とのバチバチのシーンが楽しめました。近衛前久の負け。能力がもともと無い人だしね。


こうやって登場人物を1人1人丁寧に描き過ぎてて今回も光秀が霞んじゃってる。でもホント皆さん名優揃いでさすがNHKと思います。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2020年10月05日 17時12分50秒 ) パスワード

方向音痴のワタクシなので  木の芽峠を金ケ崎の南(か東南か)と思っていました。
本日の「麒麟がくる」で  え?北(か北西)あたりだったの?と知りました。
     自分1人ではドンドン間違って解釈して迷子になって行きますね



それで我が母方の一族が金ケ崎を目指していた時に木の芽峠の近くで大雪の中を道に迷って遭難して斯波氏の軍と佐々木の軍に遭遇してなで斬りにされてる

この時の母方一族の進軍を南からだったのかと思って来てたのが

あれ?ひょっとして越前の我が家の飛び地から金ケ崎を目指してたの?
と思い始めました。


    ホントに方向音痴
    迷子になるのは母方一族の血かも
    14世紀の日本史に記録されちゃってる


そして越前と言ったら南朝方であり信長のご先祖の地でもあります。
ということは信長の先祖と母方一族は越前同士で実は知り合いだったのかな?と妄想。


信長の先祖は後に斯波氏に仕えて尾張に来ているので
先に尾張で斯波氏に仕えていた父方先祖とは
尾張で出会ったわけですが


このずっと下がった16世紀の時代が「麒麟がくる」で描かれていたわけです。
       我が家が与力してた織田彦五郎さんが信長の陰謀で殺された。 
       斯波義銀が信長に助けられましたね。


       でも義銀は田舎者で家格の低い信長に反発して足利御一門の石橋忠義、吉良義昭、今川義元、そして服部友貞と通じ、
       今川の軍勢を海上から引き入れようとしてバレ

       尾張を追放されたけれど後に信長と和解し、信長の弟の長男に娘を嫁がせて織田家とちゃっかり親戚に。笑

       
       服部友貞はよっぽど信長が嫌いだったんでしょうね。
       だから今川義元と組んで信長を殺そうとした。
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