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 投稿番号:101630 投稿日:2018年04月10日 09時30分16秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について4

コメントの種類 :その他  パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について
三国氏との関係、井伊氏との関係、別系「平賀氏」との関係など
皆様からの御教示を心よりお待ち致します。

ブログの方で調べた事ですが
『井伊氏の系図で祖と書かれた藤原冬嗣は良峯安世と同母兄弟であり、後世の球磨の平河氏(良峯氏)と井伊氏は遡ると母系「百済永継」で同族となる・・・』
と言う事で、良峯氏と井伊氏の関係も見えました。

さらに藤原冬嗣と同じく良峯安世と同母兄弟である
藤原真夏
異父弟:良岑安世
藤原真夏の妻は・・・三国真人・橘清友の娘

『井伊氏の系図で祖と書かれた藤原冬嗣』の兄『藤原真夏』の妻は
三国真人・橘清友の娘
と言う事で
藤原冬嗣(後裔に井伊氏他多数)と藤原真夏(後裔に日野氏他多数)と
良峯安世(後裔に原氏・前野氏・丹羽氏・他多数、さらに球磨の平河氏等)
と『三国氏』は姻戚関係にあった事も解りました。
ここに(p_-)
『橘氏』が絡んでいます・・・

古代ではありませんが、ちょっと新しい時代?「平安時代」まで遡ると
自分が調べて来た事の方向性は間違っていなかった・・・のでは(p_-)
などと考えています。

今後もしっかりと、勉強をすすめて参ります。
皆様、よろしくお願い申し上げます。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 11時09分19秒 ) パスワード

松葉宗益 後裔 平賀氏について3 コメント93より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_93.html

白石様、皆様、今日は(^'^)

先に書いたブログとは

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12357175102.html

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12357728806.html

です(..)
よろしければ、ご覧ください。

所で・・
私、最近感じている事があります。
球磨には
古代の元祖的「新羅」と
後世の「百済」が
共存しているような気がしています・・・
(妙な書き方になりますが・・何だかそう感じるのです・・)

それと、以前から気が付いていたのですが・・
私の周囲には「R」の付く姓が非常に多いです・・

ローマ字入力をしているとすぐに気が付くのですが・・
宮原(MIYAHARA)・平河(HIRKAWA)・相良(SAGARA)
新堀(SINBORI)・中村(NAKAMURA)等
私は以前から、自分の中では「R」のグループと呼んでいました・・

そう言えば・・白石様
白石(SIRAISI) 白石様も「R」のグループです・・

新羅(SIRAGI) 百済(KUDARA)も「R」が付く・・・

”ら”「RA」とか”り”「RI」の文字が自分の周りに沢山あります・・
何でかなぁ・・???

黒原山(くろばるやま)「KUROBARU」・・「R」が二回も入る・・
何だろう・・「R」の文字が怪しい(p_-)・・と最近妙な感が働いています。

ここ「球磨」は・・
縄文早期の「元祖的日本人」と紀元前の「中国」から来られた人達と(沖縄・久米島経由)と元祖的「新羅」に関わる人達と
三国志時代の「呉国」と「蜀漢」に関わる人達と
後世の「百済」に関わる人達・・他「高句麗」や「伽羅」
等に関わる人達が「共存」した場所のように感じます・・
さらに・・きっと新羅の建国にも何らかの関わりはあると・・
(詳しくは後々・・)

黒原山と白髪岳がそれを示す「証拠」なのかなぁ・・と。

そう言えば(p_-)
椎葉村にも「黒原山」がありました。(やっぱり(p_-))
詳しくはブログの方で書くつもりです。

上記に書いた球磨の「共存」した様々な人達は、出発点?は中国や新羅・百済等ではなく・・
本当の出発点は、もっとアジアの西じゃなかったのかなぁ・・

所で
最近、こちらで「ふと」書いた事により、白石様からのコメントを頂き
一気に中世の「グループ」・「ネットワーク」が見えました。

やはり、地元で聞いていた事や知っていた事は書くべきだ!と痛感したので・・
今日も書きます(p_-)

球磨と中国大陸や朝鮮半島との関わり・・と言う事で気になっていた事が
ありました。
以前も書いたのですが・・平川家について38+1 コメント28
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101590.html

私の家から川(井口川※久米川)を渡り、500m弱の所にある福元寺。
旧岡本村の福元寺は
上村重次氏著「九州相良の寺院資料」によりますと

福元寺 岡原村岡本 黄檗宗 現存
天和元年(1681年)人吉・東林寺天瑞和尚の開基(郡誌)
元禄十一年(1698年)は福元庵(元禄十一年寺院帳)
福眼庵とも書く(生善院蔵分限帳)
明治維新後に寺号にする。

とあります。
人吉・東林寺天瑞和尚については・・実は、以前、私がコメントから抹消した
「王政復古」に関わる方で・・
(やはり、この事はとても重要な事なので追々ブログで書くつもりです)

この福元寺の御住職家は代々「辛島」様でいらっしゃいます。
地元の歴史研究会の方から
『御住職が
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」
とおっしゃっている』
と伺いました。

ちなみに御住職様と私の父は幼馴染の同級生でして・・(..)

御住職がおっしゃている
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」

このお話、以前コメントを書いた時には軽くスルーしてしまったのですが・・
とても重要な事なのだ・・
と最近気が付きました。

古樹紀之房間様 サイト
豊前の辛島勝の系譜 より
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/karashima1.htm

転記させて頂きます(..)

1 豊前の辛島氏は、辛嶋・韓島などとも表記しますが、ここでは「辛島」としておきます。辛島氏は、宇佐郡辛島郷(宇佐神宮の西方近隣、駅館川下流西岸部で、宇佐市の辛島・樋田・中原の一帯)に起こり姓は勝(すぐり)で、宇佐氏(君、宿祢)、大神氏(君、朝臣)や田部(勝、宿祢)などと並ぶ古代宇佐神宮の有力祠官でした(宇佐四姓と呼ばれた姓氏は宇佐・大神・田部・漆島)。
 辛島氏では、欽明朝に大神比義とともに八幡神を祀る宇佐八幡宮の祝になったという乙目をはじめとして、奈良時代頃までは波豆米や与曽女などが祢宜に任じたと史料に見えますから、その有勢ぶりがうかがわれます。ところが、宝亀三年(772)の阿古米が祢宜補任、その翌年の解任を最後に辛島氏の祢宜は終わり、その後も祝や惣検校などの神官としてあったものの、中世までには辛島氏は絶えた模様で、宇佐神官には見えなくなります。宇佐郡辛島郷にはその後、漆島氏(宿祢姓で、樋田などの苗字がある)が居住したため、両氏は一般によく混同されますが、本来別氏で、漆島氏は皇別で多臣一族と称した大分国造大分君の一族です。
 こうした諸事情もあってか、その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残しております。五十猛神からつながる辛島氏の系譜は、宇佐関係史料や大分県史料集などに見えますが、祢宜に任じた女性を主体とする氏族のようで、系図の良本は伝わりません。現在に残るのはきわめて不完全であり、豊都彦・宇豆彦などの歴代の名前や続柄に様々な問題があるものの、それでも、その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられます。
 
2 なぜ辛島氏の先祖の所伝を正しいと判断したかというと、その理由は二つあります。 第一は、五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられることであり、第二に、辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられますが、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられます。豊前の宇佐周辺には辛島・酒井・桑原など多くの勝姓の氏が見られますが、この勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられます。なお、渡来系ということで、なんでも秦氏や東漢氏に結びつけるのには疑問が大きいところです。
 宇佐氏や辛島氏の上古関係の史料が乏しいため、検証するどころか、現状では以上くらいの記述しかできないのが、残念なことです。
========================================

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す
★その先祖を五十猛神とする所伝は正しいとみられる
★五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる
★辛島勝はその発祥地や奉斎神からみて、宇佐国造の初期分岐(具体的な分岐過程は不明)とみられ、宇佐国造家は天皇家や多氏族・物部氏族などと同様に、天孫族の流れを汲むとみられることがあげられる
★勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられ、なお、渡来系ということで、なんでも秦氏や東漢氏に結びつけるのには疑問が大きい

私の地元「旧岡原村」岡本の「福元寺」の御住職家「辛島家」。
御住職は御自分で
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」
とおっしゃっている・・・
上記のサイト様の記述を拝見して本当に、ビックリしました。

★韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖

★「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」

ううん(p_-)
韓地の前は・・中国だったのか・・
御先祖様からの言い伝えを末孫の方が知っていらっしゃる・・
とてもとても重要な事だと思いました!

でも・・何故?私の地元に「辛島氏」は来られたのか・・?

ううん・・
球磨郡久米郷・・

ここって・・やはり「古代」の謎が隠されている場所だと思います・・

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す

家の親戚には本姓「大神氏」が沢山・・
星原家(本姓大神氏)・尾方家(初代”緒方”後尾方。本姓大神氏)
皆・・宮司家である・・・

遡ると・・
藤原氏が台頭する前の球磨に関わるのじゃないのかな?(p_-)
と私は何だか・・そう考えるのでありました・・

しかし・・自分が住んでいる場所、宮原村・岡本村等「旧久米郷」の親戚や父の知人の方々・・
そのまんま・・「古代」に繋がる人達が多くて
やはり、ビックリです(p_-)

ここって・・きっとそう言う「場所」なのでしょう・・

では(..)
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 11時37分53秒 ) パスワード

追記(..)

辛島氏
★その系譜は宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す
★五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる

宮原(MIYAHARA)・平河(HIRKAWA)・相良(SAGARA)
新堀(SINBORI)・中村(NAKAMURA)・白石(SIRAISI)等
「R」のグループ

辛島(KARASIMA)・・「R」・・

辛島氏も「R」のグループ?です!! 先程気が付きました。
あれれっ(?_?)

所で・・
1600年代の球磨の「王政復古」に関わる人物人吉・東林寺天瑞和尚
天和元年(1681年)人吉・東林寺天瑞和尚の開基
福元寺 岡原村岡本(旧球磨郡久米郷) 黄檗宗 現存
住職家は五十猛神(素盞嗚神)の後裔と称する系譜を残す「辛島氏」
五十猛神は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる

1600年代の球磨の「王政復古」
福元寺の住職家は韓地から日本列島に渡来したわが国天孫族の初祖とみられる五十猛神の後裔「辛島氏」

何だか・・スゴイ!!!!

そう言えば・・「王政復古」に関わった東林寺天瑞和尚は
球磨郡久米郷宮原村伊勢本(伊勢元)の皇大神宮内に
「王政復古」を願って書かれた経の入った経筒と共に
「王政復古」を願った「呪文」が書かれた沢山の「石」を埋めていらっしゃいます。
この経塚は「なんびとたりとも触れてはならぬ」そうです・・
恐るべし球磨郡久米郷!!

では(..)・・(p_-)
[3]白石さんからのコメント(2018年04月10日 16時38分29秒 ) パスワード

ひろっぷのブログ - アメーバブログ(アメブロ)|Ameba …
https://ameblo.jp/hirom0211
「続 祖父について

みやちゃん こんばんは
ブログを 読んでいて 姫島の言葉が・・・・

姫島には きつね踊りがあるそうです。
鎌倉時代の念仏踊りから発展したものらしいですが・・
なんで きつね でしょうね?

それは ともかく 
祖父母と探した大分県大在の墓というスレッドで
もともと これは 姫野さんという方が
かいておられたものですが
(ご先祖は平家総大将だったそうです)

みやちゃんの ブログより
※C愛媛県の★佐田岬半島にあたる西宇和郡三崎村は、防衛に関して★西部軍管区・熊本師管区の担任地域とされた。
宮原の一族の先祖「伊予橘氏 橘公長・橘公忠・橘公業」所縁の地です。
伊予灘側の仁田浜から、★縄文時代のものとみられる大分県★姫島産の黒曜石が出土しておりk地は古くから九州方面との交流があったことを裏付けている。

伊予出身の人とパート仲間だったことがありますが
平家の経塚が発見されたのだと言っていました。
[4]白石さんからのコメント(2018年04月10日 17時04分59秒 ) パスワード

何回もすみません
いまさらですが 
みやちゃん とこの おじいさまの兜についている
家紋 (おそらく そうだと思いますが)

私 うかつにも 知りませんでした

紋の名は なんというのでしょうか?
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月10日 18時42分34秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^'^)
今日は私、お休みでした。(家事に追われていました(-.-) )

所で・・
姫野様ですか・・・
姫野氏・・あれっ?ビックリしました。
家とは直接は関係ないのですが、親戚の縁筋に姫野家あります。
何だか・・驚いてしまいました・・

愛媛県(伊予国)と九州の関係は古代から深く繋がっていたようですね。
実は、椎葉村史を購入したのですが、椎葉村の耳川沿いの古代史跡からも
伊予との関係が読み取れる出土品があるそうです。

家の刀掛用の「兜」ですが
写真が上手に撮れていませんで、申し訳ありません(@_@。

家紋は、家の家紋「丸に剣方喰」です。
金色にピカ〜ッと輝いています。
江戸末期製なのに・・今でもピカ〜ッです。
父が
「よっぽど、精巧に造られた”金メッキ”なんじゃろタイ」と言いますが・・
もしや(p_-)・・ピカ〜ッ・・
ムムムッ(p_-)・・・あれっ(゜-゜)・・ニヤ〜ッ(^◇^)
(ー_ー)!!・・・何も考えていません・・・(;一_一)
(じいちゃんに叱られます・・(-.-) )

兜の左側のパキ〜ンと折れてしまった所と同じ位置の右側
其々に「丸に剣方喰」が施されています。

私・・曾じいちゃん(曾祖父)に関係しているような気がしています。
曾祖父の実家の家紋も「丸に剣方喰」ですから・・

後、最近解った事なのですが
うちの宮原家に養女に入られた方(祖父の従姉。曾祖父の姪)の実家「淵田家」
は医者だったそうです。
だから、家にはドラマ「仁」に出て来た、「薬をゴリゴリと造る」機械?が
あったのかもしれません・・

つまり、曾祖父の兄もしくは姉が久保田家から病院を経営する淵田家に
嫁いだ、もしくは養子に入った・・と言う事になります。

この事を教えてくれたのは「親戚の野島家」からお隣に嫁いでこられたおばさんからでした。
親戚と書いたのは・・
実は・・野島家とはめちゃくちゃ繋がっていました\(◎o◎)/!

野島家には、祖母の実家「平川家」に嫁いでこられた高祖母の実家「林田家」から
高祖母の姪が嫁いで来られていました\(◎o◎)/!
さらに、その林田家から、多良木の平川家に嫁いでいらっしゃいます・・
その多良木の平川家を養子に入って継いでいたのは・・曾祖父の実家の久保田家の方でして・・
その林田家にはこれまた曾祖父の兄もしくは姉が久保田家から林田家に
嫁いだ、もしくは養子に入っていた・・と言う事になります。

実の所、その全ては「久保田家」繋がりである事がよ〜く解りました(p_-)。

でっ(p_-) その野島家には、矢立家と姻戚関係にある方が嫁いでいらっしゃいます・・
あと・・平川家についてで書いていた「別府家」とも、
間接的ですが家は姻戚関係にある事が解りました(p_-)

野島家は江戸時代に天草から宮原村に来られています。
別府家も、御先祖様は天草から江戸時代に来られています。
その先は「肥前国」、佐賀県にいらしたそうです(p_-)

野島家も別府家も、私はおそらく「伊予」繋がりだと推測しています(p_-)
日本の苗字七千傑様 《河野氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002

《河野氏(室町期以降)》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#003

「正岡氏」「一柳氏」・・球磨に江戸時代からありますねぇ(p_-)

淵田氏は松浦一族「値賀氏」の家臣・・
値賀氏も、江戸時代、宮原村の宮麓に住されていますし・・
淵田氏は1600年代に建立された宮麓内の庚申塔に名前を残されています・・
(有馬氏もありました・・アリマシモアリマシタ なんちゃって(-.-)・・)
おっ(p_-) 御先祖様が「このおっちょこちょいガッ!」と・・・(;一_一)

ここは(p_-)
伊予橘氏と松浦一族との関係からなのかな?(p_-) と推測しています。

曾祖父の実家の久保田家。
何故?上記の「伊予橘氏のネットワーク」に深く関わっているのか・・?
(゜-゜)

でも、だいぶ見えて来たでしょう〜白石様(p_-)

以前よりは少しは進化?した「ミヤハラ」でございます(p_-)

では(^'^)
[6]白石さんからのコメント(2018年04月11日 07時50分38秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
淵田 ・・・ わたくし 前にも書いたことが
あったと思いますが 就職先で知り合った淵田さん
私がインクをこぼしたとき さっと みかんの汁をしぼって
けしてくれました。
大柄の人で  身長は170位あったようです。
向学心があり 早起きし 勉強していて
大卒の人に見染められて 結婚しました。

鹿児島出身でした。
家紋は おじいさまの家紋と理解してよろしいのでしょうか?

ところで お寺のことですが
うちのお寺 の ページを見ていましたら
不動 観音と なっていました。
真宗は 阿弥陀様ではないのか?と

目をひきました。
不動様は 平江のいる不動尊に
おられ ここは 平重盛 清盛など
また 源為朝 伊勢新九郎など
いたところです

不動尊は
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の
諸派および修験道で幅広く信仰されている

お寺の坊守様は八代から来られ
前住職さまは 佐賀からこられ
山頭火と友達

お寺の山号は 500mほどはなれた
同じ宗派のお寺と同じ
そちらには 高岡がお世話になっています

なんか 広く つながっていたような 感じが・・・

多良木か湯前にも jがつくお寺があり
久米氏の菩提寺として 建てられた。
沙弥浄心(久米三郎真家)の創建
本尊 阿弥陀像 
こちらは 阿弥陀様なのですよね。

私お寺や宗教のことはまるでわかりません
不思議 不思議です。
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月12日 10時31分19秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

家紋は、家の宮原家の家紋。
すなわち祖父の家紋であります(^'^)

でっ(p_-)
何故か?家の集落にはこの家紋を使用する家が多いのです。
椎葉のおじが言う、家の親戚の「固い絆」を表す家紋でもありますが
親戚以外にも、丸に剣方喰紋を使用する家は「宮麓」区内の「侍村(まちむら)」地区には
多々あります・・(p_-)
何故だろう??

元々各家々が、使用していた家紋は何だったのか?は未だ解りませんが・・
家の集落内の親戚は丸に剣方喰以外に
「橘紋」「丸に三つ柏」「三つ柏に剣」「楓紋」「三つ麟」「寄懸り目結」「桐紋」等ですね・・・
遠縁は「丸に梶の葉」の紋でした・・
(最近、お寺に伺うと・・天井の家紋ばかり見つめています・・・)

後、私勘違いしていた事があります。
曾祖母の弟が継いだ「深松家」
集落内や熊野地区に深松家が数軒あるのですが
(集落内だけではなく熊野地区の深松家とも家は親戚です)
深松家の家紋は、「楓紋」だけではなく「丸に三つ柏紋」も数軒ありました!
(他の深松家の家紋も、今度お寺に伺った時に調べます(p_-) )

深松家はもしかしたら・・神社に関わりのある「お家」だったのでは?
などと、最近考えています。

神社と「紋」と言えば・・・
あの・・実は私、気が付いていたのですが意味が解らなくて書いていなかった事があります・・・

家の宮原家の、明治初頭以降の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母が眠るお墓なのですが
今は、宮原家の「名前以外」は全て継いだ「星原家」がお守りして下さっています。
(祖父母が大陸に渡る時に、岡原に残る曾祖母を見てもらう代わりに全てを渡した)

この宮原家のお墓は、星原の先代のおじさんが寄せ墓をして「星原家」の墓として今は大きなお墓を一基建てていらっしゃいます。
銘碑も立派に建ててあって、その中に、私の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母の名前が記されています。
高祖父は名前ではなくて戒名?法名?が書かれていて、何だか読めない難しい字が沢山並び「禅定門」?・・まるで、中世を調査している時に良く見かける戒名?法名?のようでした・・)
星原の先代のおじさんは「岡原村会議員」で議長を長く務められた方で
継いで頂いた「名前以外」の代々伝わるうちの「宮原家」の旧宮原村内の各所に広がる
田畑、山等をしっかりと守って下さいました。
旧宮原城跡の山も星原家所有(一部町所有)となっています
戦後の「改革」で、土地の大半が「別の方々」に渡ったそうですが・・星原の先代のおじさんは、後にかなりの土地を買い戻したと聞いています(..)


この宮原家(今は星原家のお墓となっていますが・・)のお墓の敷地はとても広く(何だか庭みたいで・・(..))
宮原家のお墓敷地入り口の両側には「門」が建てられているのですが(何故か門が・・)
その立派な「門」には「桐紋」が施されているのです・・・

星原家の紋は確か桐紋じゃなかったはず・・??(はず・・と書きましたが今度しっかりと確認します(..))

私、この「門」を見ると、まるで、「神社」みたい・・と感じてしまうのです。

桐紋は岡原霧島神社の御神殿の中の柱にも施されていました。
岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」です。
球磨の神社様の多くは御神紋は「違い鷹の羽」
でも、御神紋が「桐紋」の神社様も御鎮座でした。
人吉の老神神社様です。
以前、歴史研究会で伺って気が付きました。
【人吉市】老神神社(おいがみじんじゃ)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366672.html

この老神神社(おいがみじんじゃ)に深く関わっていらしたのは
江戸時代初期の相良家家老「宮原宇右衛門公全」の後裔「宮原内記」他、球磨村で「岡原の豪族」?と呼ばれた系の「宮原の一族」と
江戸時代に平河氏と何重も姻戚関係を重ねた「宮原権左衛門」の系
だったのです。
以前から調べて理解していました(p_-)

だから・・
家のお墓の入り口に建てられた「門」を見た後に
老神神社様にお伺いしたので、私、本当にビックリした事を記憶しています。
桐紋にも種類?があるようですが、うちのお墓の入り口の門に施された桐紋と
老神神社様の御神紋は全く同じでした。

でも、何故?家のお墓の敷地の入り口の門に「桐紋」が施されているのか?
未だに謎です(?_?)・・(p_-)

ただ・・家のお墓の敷地の下は遠縁の土肥家のお墓の敷地があって
とても立派な古いお墓には「居士」の文字が見えました。
こちらの土肥家は「橘紋」です。

さらに家のお墓の敷地の斜め下の敷地の某家は家紋がやはり「橘紋」でした・・

橘紋に囲まれた家(うち)のお墓の敷地であります(p_-)
そこに「桐紋」の門がある・・
何でだろう(?_?)・・・
と・・ずっと疑問であった訳です。
今回、初めて書きました(-.-)

白石様が「家紋」について何度もお聞きになられた事がきっかけです。
白石様、やはり(p_-)
私の頭の中が見えるでしょう・・?(-.-)
(何か大きな水晶玉か何かお持ちではあ〜りませんかぁ〜(p_-)・・(^◇^) )

でも、やっぱり書いた方が何かしら進展がある(p_-)と考えた次第です
(^'^)

白石様、ありがとうございました(^'^)
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月12日 10時31分23秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

家紋は、家の宮原家の家紋。
すなわち祖父の家紋であります(^'^)

でっ(p_-)
何故か?家の集落にはこの家紋を使用する家が多いのです。
椎葉のおじが言う、家の親戚の「固い絆」を表す家紋でもありますが
親戚以外にも、丸に剣方喰紋を使用する家は「宮麓」区内の「侍村(まちむら)」地区には
多々あります・・(p_-)
何故だろう??

元々各家々が、使用していた家紋は何だったのか?は未だ解りませんが・・
家の集落内の親戚は丸に剣方喰以外に
「橘紋」「丸に三つ柏」「三つ柏に剣」「楓紋」「三つ麟」「寄懸り目結」「桐紋」等ですね・・・
遠縁は「丸に梶の葉」の紋でした・・
(最近、お寺に伺うと・・天井の家紋ばかり見つめています・・・)

後、私勘違いしていた事があります。
曾祖母の弟が継いだ「深松家」
集落内や熊野地区に深松家が数軒あるのですが
(集落内だけではなく熊野地区の深松家とも家は親戚です)
深松家の家紋は、「楓紋」だけではなく「丸に三つ柏紋」も数軒ありました!
(他の深松家の家紋も、今度お寺に伺った時に調べます(p_-) )

深松家はもしかしたら・・神社に関わりのある「お家」だったのでは?
などと、最近考えています。

神社と「紋」と言えば・・・
あの・・実は私、気が付いていたのですが意味が解らなくて書いていなかった事があります・・・

家の宮原家の、明治初頭以降の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母が眠るお墓なのですが
今は、宮原家の「名前以外」は全て継いだ「星原家」がお守りして下さっています。
(祖父母が大陸に渡る時に、岡原に残る曾祖母を見てもらう代わりに全てを渡した)

この宮原家のお墓は、星原の先代のおじさんが寄せ墓をして「星原家」の墓として今は大きなお墓を一基建てていらっしゃいます。
銘碑も立派に建ててあって、その中に、私の曾祖父や曾祖母、高祖父や高祖母の名前が記されています。
高祖父は名前ではなくて戒名?法名?が書かれていて、何だか読めない難しい字が沢山並び「禅定門」?・・まるで、中世を調査している時に良く見かける戒名?法名?のようでした・・)
星原の先代のおじさんは「岡原村会議員」で議長を長く務められた方で
継いで頂いた「名前以外」の代々伝わるうちの「宮原家」の旧宮原村内の各所に広がる
田畑、山等をしっかりと守って下さいました。
旧宮原城跡の山も星原家所有(一部町所有)となっています
戦後の「改革」で、土地の大半が「別の方々」に渡ったそうですが・・星原の先代のおじさんは、後にかなりの土地を買い戻したと聞いています(..)


この宮原家(今は星原家のお墓となっていますが・・)のお墓の敷地はとても広く(何だか庭みたいで・・(..))
宮原家のお墓敷地入り口の両側には「門」が建てられているのですが(何故か門が・・)
その立派な「門」には「桐紋」が施されているのです・・・

星原家の紋は確か桐紋じゃなかったはず・・??(はず・・と書きましたが今度しっかりと確認します(..))

私、この「門」を見ると、まるで、「神社」みたい・・と感じてしまうのです。

桐紋は岡原霧島神社の御神殿の中の柱にも施されていました。
岡原霧島神社の御神紋は「違い鷹の羽」です。
球磨の神社様の多くは御神紋は「違い鷹の羽」
でも、御神紋が「桐紋」の神社様も御鎮座でした。
人吉の老神神社様です。
以前、歴史研究会で伺って気が付きました。
【人吉市】老神神社(おいがみじんじゃ)
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366672.html

この老神神社(おいがみじんじゃ)に深く関わっていらしたのは
江戸時代初期の相良家家老「宮原宇右衛門公全」の後裔「宮原内記」他、球磨村で「岡原の豪族」?と呼ばれた系の「宮原の一族」と
江戸時代に平河氏と何重も姻戚関係を重ねた「宮原権左衛門」の系
だったのです。
以前から調べて理解していました(p_-)

だから・・
家のお墓の入り口に建てられた「門」を見た後に
老神神社様にお伺いしたので、私、本当にビックリした事を記憶しています。
桐紋にも種類?があるようですが、うちのお墓の入り口の門に施された桐紋と
老神神社様の御神紋は全く同じでした。

でも、何故?家のお墓の敷地の入り口の門に「桐紋」が施されているのか?
未だに謎です(?_?)・・(p_-)

ただ・・家のお墓の敷地の下は遠縁の土肥家のお墓の敷地があって
とても立派な古いお墓には「居士」の文字が見えました。
こちらの土肥家は「橘紋」です。

さらに家のお墓の敷地の斜め下の敷地の某家は家紋がやはり「橘紋」でした・・

橘紋に囲まれた家(うち)のお墓の敷地であります(p_-)
そこに「桐紋」の門がある・・
何でだろう(?_?)・・・
と・・ずっと疑問であった訳です。
今回、初めて書きました(-.-)

白石様が「家紋」について何度もお聞きになられた事がきっかけです。
白石様、やはり(p_-)
私の頭の中が見えるでしょう・・?(-.-)
(何か大きな水晶玉か何かお持ちではあ〜りませんかぁ〜(p_-)・・(^◇^) )

でも、やっぱり書いた方が何かしら進展がある(p_-)と考えた次第です
(^'^)

白石様、ありがとうございました(^'^)
[8]白石さんからのコメント(2018年04月13日 16時56分26秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
ばらばらの話ですが また すでにご存じでしょうが

日蓮の出自
『長禄寛正記』によりますと、長禄4年(1460年・聖滅179年)8月18日に日実上人と同年代の久遠成院日親上人が細川勝元に、★日蓮聖人は藤原冬嗣の後裔備中守共資が遠州村櫛に住み、その後、5代の裔赤佐太郎盛直の一男が井伊良直、二男が赤佐俊直、その弟が貫名政直で、政直の孫の重実(真)、重実の子重忠のときに伊勢平氏に与力して安房片海の市河に配流され、その配流先で生まれた子が日蓮聖人であると言上したといいます(『日蓮教団全史』24頁、『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟504頁)。

義経伝説の史跡を巡る 平重衡受戒の地より
平家一門と藤原家成の家系とは深い姻戚関係にあり、
忠盛の後妻の池ノ禅尼が家成のいとこにあたり、
清盛の嫡男重盛は、家成の三男で後白河法皇の近臣の藤原成親の妹
経子を正妻にし、二人の間には、清経・有盛・師盛・忠房がいます。
さらに重盛の嫡男維盛と清経の妻は、成親の娘であり、
清盛の弟の教盛の娘は、成親の嫡男成経の妻です。
このように両家は、二重三重の姻戚関係によって結ばれていました。


家成の系 成親の系 との ドッキングが 清経
清経は 五家荘に来た人ですね


三浦道寸の妻:小網代の森からこんにちはより
三崎の★油壺にある新井城  籠城の末、★伊勢宗瑞に攻めら永正13年(1516)7月11日に落城
城主の★三浦道寸、嫡男の荒次郎義意(よしおき)をはじめ家臣、一族郎党は果敢に戦ったが、力及ばず、450年間続いた相模の名門三浦一族は滅亡した。三浦道寸の奥方は、落城の際に道寸の家臣である★川島吉隆に守られて、新井城から3qほど離れた川島氏の治める、原の里に身を隠した。
奥方は横須賀連秀の娘であった。
横須賀氏は佐原盛連を祖先とする三浦一族
[9]白石さんからのコメント(2018年04月13日 17時05分05秒 ) パスワード

最寶寺中世文書(さいほうじちゅうせいもんじょ)|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/shi...
より
最寶寺は五明山と称し、寺伝によると源頼朝が鎌倉扇ヶ谷(五明は扇のこと)に創建したが、建久6年(1195年)寺地を鎌倉弁ヶ谷に移した。開基は明光で、始め天台宗で薬師如来(県指定重要文化財)を本尊とした(後に浄土真宗に改宗)。大永元年(1521年)の火災で堂宇が焼失したため、現在の横須賀市野比に移った。

天台宗 薬師如来 浄土真宗
なんだか わたくしの故郷の お寺の変転に似ています
[10]白石さんからのコメント(2018年04月14日 18時45分52秒 ) パスワード

突然ですが 高岡に 越王勾践を祖先とする
家系がありました
コピーをするなとあるので
これだけですが

祖父母と探した 大分県大在の墓も
みておられ
その上の書き込みなので 
根拠がおありのようです



[11]白石さんからのコメント(2018年04月14日 18時49分01秒 ) パスワード

突然ですが 高岡について
越王勾践を祖先とする系が
ありました

コピーをするなとあるので
これだけですが
祖父母と探した大分県大在の墓も

みておられ
根拠がおありのようです
[12]白石さんからのコメント(2018年04月15日 19時09分43秒 ) パスワード

私が子供の頃聞いた(えんや)のことば・・・
祖先伝承なのかどうかは子供のことだからわかりませんが・・・
今考えると 高岡はえんや と宇多源氏佐々木氏 富田で
つながっていると思います。

投稿番号:100165 投稿日:2001年09月07日 21時30分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子よりコピーさせていただきます

2001年ですから 大分古いですね。
当然私はこの書き込みをみておりません
大分後で 地域の子供たち向けに
高岡系図より見たことや 平川との
つながり 平貞能のこと 平川の地蔵堂のこと
など 書きました

投稿番号:100165 投稿日:2001年09月07日 21時30分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平 貞能は、平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。

宇津宮に仕えて
★宇都宮佐田氏というのがある。
常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。
その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。
そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

頼朝は貞能を捜索した。
尾張国の、★原の太夫高春が扶助していると耳にして、
原の太夫高春は平川遠祖ですね。

梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。

貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。
景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、
父の生死を知るために鎌倉に下った。
鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、
父のことを祈ること数カ月に及んだ。
その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、
事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。
そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。


一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。
頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。
これが大橋の元祖である。

この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。
貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、★千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、
後に頼朝卿が鎌倉に召して、

一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。
これが真野五郎胤連の母である。

一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。
これは小三郎盛季の母である。

一人を安芸国羽山介宗頼に下された。

そして一人を大友四郎経家に下された。

これは豊前守大友能直の母である。
★大友能直に関与する言葉から 古庄先生が出ました。


尾張の大橋氏は日本史で有名な人物で話すと蜂須賀小六の継母が大橋氏出身です。

大橋氏は伊勢・尾張の南朝方の拠点であっった尾張の津島神社の神官で
後醍醐天皇の皇子を戴いて転戦した家です。浪合記参照
後醍醐天皇のひ孫?に娘を嫁がせています。

[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月17日 14時50分45秒 ) パスワード

白石様、皆様 今日は(^'^)

白石様
中々、パソコンに向かう時間が取れなくて、
お返事遅くなりました。
申し訳ありません(@_@。

沢山の御教示ありがとうございます。

まず(p_-)
〉★大友能直に関与する言葉から 古庄先生が出ました。

白石様の恩師でいらっしゃる「古庄先生」、免田の久鹿(くしか)にお住まいであったと伺いましたが
実は、書こう書こうと思っていたのに遅くなりましたが・・・
家の親戚も免田の久鹿(くしか)にあります。
父の従姉(椎葉家の長女)の嫁ぎ先です(..)

この久鹿(くしか)と言う地名・・前からずっと気になっていたのですよね・・
久鹿(くしか)からちょっと行った所に本目遺跡があります・・
何だか、近い(p_-)
それに地名に「鹿」が付いているし、久鹿(くしか)には「天子」の地名も残っています(p_-)

ここは、以前から「古代に繋がる地名」?かな・・と思っていました。

平 貞能。
球磨にも「ものすご〜く」関わりのある方ですよね。
九州八十八か所百八霊場会様サイトより
http://www.kyushyu88.com/temple52.php

球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。
平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立した山江村山田の高寺院。


(p_-) ここで・・
平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた毘沙門天立像。
現在は国の重要文化財ですが、実は大正時代には「国宝」に指定されていました。

肥後国 くまもとの歴史様 サイトより
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366444.html

人吉球磨地方で最古の寺院。高野山真言。
相良氏が人吉球磨に入国する以前、建久9年(1198) 平家の重臣で人吉城代であった矢瀬主馬祐が平重盛の菩提を弔うめたに建立。
365段の石段を登ると頂上に奥の院があります。高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。その内の2体は、国の重要文化財になっています。

375段の石段を登ると奥之院があり、毘沙門堂(登録文化財)が建っています。球磨地方に現存するもっとも古い瓦葺き建造物。
その中に三躯の毘沙門天立像(二躯は国指定重要文化財)が安置されていましたが、現在はの収蔵庫に移されています。

中央と左の二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

上記の御尊像「毘沙門天立像」がこちら「山江村役場」公式サイトで拝見出来ます。
http://www.vill.yamae.lg.jp/index.php?type=article&mode=articleView&articleid=1716&categoryid=26

高野山真言。宗相良氏が当地に入国する以前の、正徳2年(1198)に平重盛の菩提を弔うために建立されました。高寺院は、球磨郡で一番古い寺院です。375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。
==========================================

球磨は平安時代「王家領」「治天の君が一大荘園領主」であられた土地であり
開発をされたのは「平家一門」の方々。

平重盛公の家人だった平貞能が、追善菩提のため平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を躯内に納めて祀った毘沙門天立像。
この毘沙門天立像は大正時代には「国宝」に指定されて
今は国の重要文化財に指定されている・・・

このお話・・・
「全国には同じような伝承が各地に残っているから・・・」
などと、簡単にスルーすべき「話」ではない! と私は今朝あらためてそう思いました。
(と言うか・・以前から何度も書いていた事なのに・・国宝の件は今朝、初めて気が付きました。おっちょこちょいです(@_@。)

平貞能の妻は良峯姓「原氏」の方。
後裔に「大橋氏」。
「大橋氏」は後に、「井伊氏」と姻戚関係を持った・・・

Weblio辞書より
https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%B0%8F

桓武平氏の流れで、平貞能が肥後国山本郡大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるとされる。 宗良親王の末裔を称する一族。

尾張の大橋氏。姓の由来は、「肥後国山本郡大橋」に始まります。
この事をちゃんと頭の中にインプットしていなければ
鎌倉時代以降の遠江国や尾張国と、肥後国の上記の系の方々との「繋がり・関係」が見えなくなってしまうのだ・・
と私は思うのです・・・(今更ながらですが・・(..))

あらためて、白石様のご教示を拝見してそう感じました。

それと・・今更ですが・・
「肥後国山本郡大橋」

大橋って・・山本郡だったのですね!
平河氏の先祖「安則」と言う方が居城された土地も「肥後国山本郡楠原」
大橋と楠原って近いのかな??
後で調べてみます(p_-)

さらに・・
平安時代にはそもそも「人吉城」は無かったのです(p_-)
人吉にあったお城の名前は「原城」。
あらためて(p_-)・・何で「原」なんだぁ〜???(p_-)
あの辺り「原」って地名じゃないはずですけど・・?
ここも、今まで完全にスルーしてしまっていました・・・

平貞能の妻は良峯姓「原氏」の方。
なんだかなぁ〜・・モヤモヤし過ぎです・・


平頼盛の代官「矢瀬主馬介」。
平河氏と同じく相良氏に滅ぼされたと言われる方・・
この方は本当は何方だったのかな?(p_-)

矢瀬氏の城は「人吉城」ではなく(ー_ー)!!
本当は「原城」・・
やはり・・何だかなぁ・・矢瀬氏の真実が知りたい!と・・思います・・

所で(p_-)
長くなりましたが、私、新たな事実を得ました(p_-)

私の曾祖母の弟(新堀家の方)が継いだ「深松家」。
こちらの曾祖母の弟の妻となられた方は「森家」の娘さんでした。
(曾祖母の実家の新堀家は、宮原公行金兵衛が継がれた可能性が大で、実は宮原公行金兵衛の父宮原長盛と言う方のお墓にまつわる話も解ってきました。
詳しくは後々で・・)

曾祖母の弟の妻となられた方は「森家」の娘さん
こちらの「森家」は代々「茂」の文字が名前に付かれている方がいらしゃるのですが・・
上記の「森家」のおじさんから重要なお話を聞かせて頂きました。
森家。実は、明治初頭に「益城」から岡原に来られたそうです。
御先祖様は士族。元細川藩士です。

岡原に来られた方の娘さんが、私の曾祖母の弟の妻となられていました。
「他所」から来られた「お家」とすぐに姻戚関係を結ぶとは「どう言う事だぁ〜」(p_-)
と私は考えました。
それに、岡原村第六代村長も「森氏」。
(ちなみに、曾祖母の別の弟の方は医者で病院を開業されていました)

家の親戚関係は昭和の初めまで、相良御法度に基づく「姻戚関係」が続いていた・・
なのに・・明治時代に益城から来られた「お家」とすぐに(明治時代に)姻戚関係を結んでいた・・
益城の「森氏」と岡原村の関係って何だろう???と考えながら・・
森氏森氏・・モリ・・?と考えながら、今まで調べていなかった分限帳で「森氏」を見たのですが・・
気が付いていませんでした(p_-)
森氏・・相良藩士「人吉 麓」の相良藩家老家の方々と名前を並べてありました!
「森 茂兵衛」と言う方でした。
この方の次の代の方も「森 茂兵衛」。

あれっ?「茂」の文字が付かれる・・? 親戚の森家は益城から来られたけれども・・
同じく、名前には代々「茂」の文字が付く・・何で(?_?)

相良藩内の「森氏」と益城の「森氏」には其々共通の「茂」の文字・・
森氏と言えば・・宮原一族の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」の夫は
源頼定(森頼定)。「森氏の祖」
※源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。

あれっ(?_?) 何だか妙だぞ(p_-) と思いながら細川藩藩士の「森氏」を調べたのです。

親戚の「森家」との関係は全く不明ですが、以下の記述を見つける事が出来ました。
田辺城籠城衆の子孫について - 肥後細川藩・拾遺様 サイトより
http://www.shinshindoh.com/tanabe-terai.html

「森氏」以外の系の方々の中にも、とても気になる記述がありましたので、勝手ながら転記させて頂きます。(..)

肥後細川藩・拾遺様 サイトより
以下に現在まで判明している籠城衆とそのご子孫の方々について簡単にご紹介いたします。
■中村甚左衛門(東京在住 沢村高志氏)

 元禁裏の士ともいわれ、駿府城主十四万石中村一氏の三男。田辺籠城時には禁裏への密使をつとめ、籠城第一の働きと称せられ、忠興公御自筆の哥と左文字の刀を賜る。又九曜の家紋をも賜る。その後甚左衛門並びに子孫は豊前、熊本と随身し、その間三斎様(忠興公)より名を沢村と改めるよう仰せ付けられ、沢村家として明治ご維新に至っています。

■森四郎次郎(熊本在住 森 茂氏)

 宮津杉之末村の豪族ともいわれ、細川幽齋公の宮津入城時からの知己である。田辺籠城にあたり城外にあって城内と連絡をとり奮戦するも、当主を含め一族十三人が戦死する。又米百俵を十五歳に満たない遺児の裁量で城内に運びいれる。関ヶ原以後細川公よりのお誘いで豊前で家臣となり、熊本へも随身する。肥後釜尾の地に御赦免開きを許される。

■坂井半助(宮津在住 前野幸夫氏 及び 下世屋前野氏)

 前野幸夫氏他のご研究によりますと、前野宗定殿は細川忠興公玉夫人の味土野隠棲警護の責任者であり、その親は一色氏重臣で丹後下世屋城主前野半助宗央です。その後玉夫人が許されて大坂に戻った後、前野宗定殿は、出石藩主の前野長康の馬廻り役に取り立てられます。

 しかし豊臣秀次事件で前野長康が出石藩を返上し自害すると前野宗定殿は農民に戻ります。田辺籠城の時農民に戻った宗定殿が恩を返すためとはいえ、武士として前野を名乗って城へ入ることは出来ず、家臣の坂野と井隼の名を借りて坂井半助と名乗ったとのことです。坂井半助殿は籠城時に亡くなりますが、そのご子孫は丹後半島の下世屋に住み現在に至っています。

■瑞光寺 明誓上人(瑞光寺 楠文範氏)

 瑞光寺開祖の釋明誓様は、俗名を楠源吾といい若狭小浜の京極高次の家臣楠伊賀正重の五男で幼い頃から、京都へ遊学し文武の研鑚に励みました。もともとは天台宗を信仰していましたが、明誓様は京都で本願寺11代顕如上人の阿弥陀信仰にふれて自ら進んで顕如上人から釋明誓の法名を拝受しました。天正八年ごろ明誓様の名を聞いた細川幽齋公は忠興公の文武の指南として丹後田辺に住まわせ、明誓様の願いを受けて瑞光寺を建立しました。

 幽齋公が明誓様を招いたもう一つの目的は、九鬼水軍ともつながりがあったといわれる楠家に田辺城の水際の警護をまかせることにあったともいわれています。幽齋公は明誓様に瑞光寺を開かせるにあたって二つの事を致します。ひとつは明誓様に幽齋公の妹(娘?)さち様を妻として娶らせ、妹の壻明誓様を猶子として処遇しています。さらに瑞光寺に1万3千坪の土地を与え寺の経済的な基盤を作り、寺の寺紋に細川家の九曜の紋を使うことを許しました。田辺城は北側が海に対峙して水城のようであり、南側は湿田でした籠城時には明誓様はこの水城の櫓を守り、楠家に伝わる夜戦の法にて勝利を得たといいます。なお、瑞光寺の表門は田辺城の黒金門を移したものといわれています。
======================================================

肥後細川藩家臣「森氏」
宮津杉之末村の豪族ともいわれ、細川幽齋公の宮津入城時からの知己である。

こちらの「森氏」と、宮原の一族の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」の夫である
「森頼定」の系の「森氏」との関係は?
とても興味がある事なのですが、何せ私・・戦国時代の事は、マダマダ勉強不足で(この時代から歴史に興味を持つのが普通なのでしょうが・・(..))
これから、勉強させて頂きます(..)

他の系の方々の中にコレマタ宮原の一族の先祖「橘公長」にお繋がりの系の方が
いらっしゃった事には驚きました!

■中村甚左衛門 駿府城主十四万石中村一氏の三男。

中村一氏。この方については以前「平川家について22」コメント26で調べていました。
(この時・・主人の御先祖様についてもチョコット書いていました)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html

武家家伝 中村氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakamura.html
大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。
=========================================

所で(p_-)
私、あらためて 武家家伝様サイト中村氏を拝見して鳥肌が立ってしまいました・・
※ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。
武家家伝様サイト中村氏 より

何で・・鳥肌が立ったかと言いますと・・
実は、ブログで書きますが・・宮原の一族が関係した「球磨郡球磨村の遠原」とは・・
和名妙類に書かれた「伴郷」のお隣だったのです!!
めちゃくちゃ近かった!! 山を越えれば「伴郷」でした!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

先日、現地に伺って、本当に本当に驚いたのです!!
(詳しくはブログの方に書きます)

だから・・・太田亮博士が「此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれる」と書かれた「中村一氏」の系の方が
森氏と同様に田辺城籠城衆にいらっしゃった・・と知った時には本当に驚きました。
後裔の方は肥後細川藩士であった・・・

何だろう・・細川藩士の「森氏」がとても気になってきました・・

さらに
■坂井半助  この方は・・
前野宗定殿は細川忠興公玉夫人の味土野隠棲警護の責任者であり、その親は一色氏重臣で丹後下世屋城主前野半助宗央です。

前野氏・・良峯姓・・こちらも肥後細川藩に後裔の方がいらっしゃった・・・

前野氏繋がりのお話・・実は「椎葉村」で発見してしまいました!
詳しくは「平川家について」の方で書かせて頂きます(..)

最後に
■瑞光寺 明誓上人 この方は・・
瑞光寺開祖の釋明誓様は、俗名を楠源吾といい若狭小浜の京極高次の家臣楠伊賀正重の五男。

※京極高次の家臣楠伊賀正重の五男。
楠木氏・・ですか!\(◎o◎)/!

こちらも、宮原の一族と同族の「楠木氏」・・・

しかし・・一体どうなっているのだろう???
田辺城籠城衆の方々は・・・
何だか・・宮原の一族の先祖とめちゃくちゃ繋がりが深いような気がします
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

さらに・・良峯姓前野氏・・
一体どうなっているのだろう???

細川藩を調べた方が・・自分の調査は一気に進展するんじゃあ〜りませんか!?
などと考えてしまいました・・(..)

長々と書きましたが・・
江戸時代まで『わずか3%のネットワーク』の中の「家の親戚関係」には
細川藩士「森氏」も含まれていた・・
と言う事が解りました!(おじさんの話から)
と言うお話でした(..)

しかし・・家の親戚関係は調べれば調べる程・・面白い(p_-) デス。
[14]白石さんからのコメント(2018年04月17日 16時06分41秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは

橘紋のこと
以前 京都のお寺を回った時
お坊様が 「橘紋は 藤原の紋です」
と 言っておられました。
そこには 近衛文麿候の扁額がありました。

そんなこんなしているうちに
日蓮正宗のことで こんな ブログを
見つけました。

近衛家と東京常泉寺&常在寺〜天皇家と日蓮正宗一考| …
https://ameblo.jp/renge20122013/entry-11749885385.html より

近衛家と言えば天皇家を支えた我が日本の歴史に欠かすことのできぬ名家で戦前は近衛文麿首相や戦後は細川護国首相を輩出した家系です!
近衛家から今の日蓮正宗信徒をたくさん出しております!

近衛家は日蓮・日興以来の正統派関係寺院の富士大石寺、京都要法寺、西山本門寺、保田妙本寺、などの本山と歴史的に関係し★近衛家から今の日蓮正宗信徒をたくさん出しております!

後水尾天皇の第一級皇女とそのお子様の近衛照子様のちの六代将軍徳川家宣夫人天英院様、

島津斉彬の養女から近衛家の養女になられ十三代将軍徳川家定夫人になられた篤姫など近衛から徳川家に嫁がれた姫君はすべてが

大石寺に関係されています!

詳しくはブログや関するブログを見ていただきたいと思いますが
富士宮の大石寺
日蓮正宗の総本山

開基檀那は★南条時光

南条氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 南条氏

経歴 伯耆民談記』、『羽衣石南条記』などの説によると、南条氏は出雲 守護 塩冶高貞の二男である南条貞宗(塩冶高秀)を始祖とする佐々木氏流塩冶氏の流れをくむ一族である。なお、南条氏の出自については佐々木流塩冶氏説と ...



なにやら 塩谷がでます。

鹽冶系図をみれば
∴第51代出雲國造義隆と覚日尼(鹽冶頼泰女(覺日尼))の
間の子の系から 尼子経時や南條氏が出る
【世系】尼子氏は佐々木京極流なり。佐々木高氏(道誉)の孫高久が 近江國犬上郡甲良荘尼子郷(現 滋賀県甲良町)を領してより氏と為す。

「大石寺」(富士宮市-寺院(観音/不動)-〒418-0116)の地 …
https://www.navitime.co.jp/poi?spt=00020.A2201640

★観音・不動ですね。

仁和寺の庭園と御朱印(後半)|京都の御朱印もらい隊
https://ameblo.jp/mtr-blis-3838/entry-12129183046.html

近衛文麿公、揮毫の扁額 本尊の★薬師如来を祀る。 霊明殿から続く回廊 黒書院前の庭 障壁画 白書院から宸殿の中には 数々の障壁画があります。 ...

このブログに 近衛文麿候の扁額があることが
書いてありました。
そして
これも 寄り道の話ですが

夫の家の宗派は「古儀真言宗仁和寺御室派」
三つお寺がかわっていますが 皆 一貫して
この宗派です。

そして 家紋屋が教えてくれた紋は
五枚笹 これは 佐々貴神社の紋です。
また 松本藩士戸田家(近衛門流)家臣笹井家に五枚笹 九枚笹を
使う家があります。
[15]白石さんからのコメント(2018年04月20日 08時24分01秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今日も絶好の日よりですね。
お仕事ご苦労様です

私の母は 山口の方 母の母は
離婚後 毛利氏同格の村上水軍の姫
が建てた寺に眠っているという
再婚後かどうかはわかりません。

戸籍にある母の母が死亡後 
佐田の籍に入ったという 平野の親戚に
白石 永田がついています。

村上氏 ?
海部氏同じ族 越智氏・・・三島水軍を指揮
             河野水軍
             村上水軍

    清和源氏源経基・・・村上師清・・・村上氏
   というが
  安波夜別命・・・海部氏と同族の越智氏・・・村上氏であろう。
 いろいろ ウェブを探した結果上のように なりました。

能島村上家・・周防大島へ・・・長州藩の船手組
因島村上家・・・毛利氏の家臣・・・長州藩の船手組
来島村上家・・・越智姓・・・・後に豊後国の玖珠郡に転封

新羅は海部氏の祖が建国
[16]白石さんからのコメント(2018年04月20日 17時33分01秒 ) パスワード

尾張氏系 …
g-village.net/iyasaka369/先代旧事本記系図.pdfで検索すると

十世孫
海部氏系図では
安波夜別命・乎縫命・小止與命・大原足
尼 [亦云、乎縫=小止與]

十世孫
尾張氏系図では
淡夜別命・大原足尼命(筑紫豊
後国造)・大八椅命〔成務斐陀国
造〕・大縫命・小縫命

海部氏系図と尾張氏系図の人物は同じと判断する

越智氏を祖とする歴史上の有名人
・一遍上人(時宗開祖)
・正岡子規
・伊藤博文
[17]白石さんからのコメント(2018年04月21日 11時47分29秒 ) パスワード

平賀源内は、もとは白石源内。
その白石家は ...- Yahoo! …
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/...

平賀源内について最も詳しそうな讃岐の記念館に資料がいくつかあります。

http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/023_tenji.html
家系図があり、その説明はこのようになっています。

「この家系図により、先祖に信州で武田信玄に討たれた平賀源心が居ること、
国家の代に奥州白石に住み伊達輝宗公の家来になり白石姓を名乗ったこと、

伊達政宗の命で伊予宇和島藩赴任したこと、国行の代で同僚の讒言により讃岐小田村に流れて来たこと・・・。」

平賀源内の墓があるお寺は 曹洞宗

信濃源氏平賀氏・大内氏について
www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/sinanogenji.htm

1、平治の乱
 源義家の弟新羅三郎義光の四男である盛義は、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き、平賀氏を名乗った。

佐久地方は良質の馬を生産する地域として古くから知られており、平賀郷の近く

望月「望月の駒」として和歌にも詠まれている。

八島重成は多田満仲の曾孫重実の嫡子。
重実は鳥羽院四天王に数えられた「都の武士」で、
彼の子孫は★山田氏・安食氏など、尾張源氏を形成した。

★★同門の小笠原長清は平知盛に仕えていた

★平賀惟義は大内惟義と称される

義信は比企の尼の三女を妻に迎えている

平賀源内は佐貫・高松藩の藩士・白石茂左衛門の三男として
現在の香川県讃岐市志度にうまれる。

先祖は戦国時代に武田信虎に滅ぼされた信濃佐久の平賀城主
である平賀玄信であるとされる。

[18]白石さんからのコメント(2018年04月21日 11時49分42秒 ) パスワード

自性院(じしょういん)

山号は微雲窟、寺号は常楽寺。本尊は★不動明王。

天正年間に摂津兵庫の豪族である多田和泉守によって復建された。
讃岐(白石)平賀家の菩提寺
[19]白石さんからのコメント(2018年04月21日 12時26分41秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは
良い天気が続きます

うちの白石は明治の頃村役場が置かれた
お寺によっており たくさんある 白石の中で
うちだけです。たくさんある白石はお寺を別に持って
いるそうです。
ここが 同じようで違い 悩ましい!!

また そちらは 所右衛門 ですが
隠岐次郎左衛門広有
服部平左衛門
と もしかしたら
と 思うところは 左衛門
なのですね。
これも悩ましい。

満仲のひ孫・義光
新羅三郎 兵庫介 左衛門尉 右馬允 左兵
衛尉 刑部丞 甲斐伊豆相模常陸信濃等守
★佐竹・武田・平賀等祖
[20]白石さんからのコメント(2018年04月21日 14時11分13秒 ) パスワード

肥後の白石は清和源氏義光流
菊池に仕え菊池が滅んだあと相良氏に仕えた

以前みやちゃんから 相良氏家臣白石の家を教えてもらったと思います。

村役場がおかれた寺は永国寺の流れ
永国寺は相良家中

すれば
うちの白石は清和源氏の可能性がある。
家紋が橘
橘紋は  
清和源氏義光流 三巴、丸に橘
信濃国佐久郡平賀邑、平賀城
主な人物 
平賀惟義・・・平賀義信の長男  
(大内惟義)
平賀朝雅(この人の母が頼朝の乳母の比企尼)

支流や分家に
金津氏(武家)
竹内家(公家)・・・
がある。

松葉宗益後裔 平賀氏とは
ずれているようですが・・やってきた細川家家臣の方の検討は
佐田 から つながっているかも・・・

幕末頃 武士が失職した時 続々とやってきた地にいますが・・・
ただ
その前からいたようなのですよね。?
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月22日 09時14分43秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

沢山の御教示、コメントを頂きありがとうございます。

後ほど、じっくりと拝読させて頂きます。

所で
ついに、「近藤氏」「武藤氏」「少弐氏」「中原氏」「三池氏」「那須氏」「佐藤氏」と
同族であった「系」の方を球磨で発見致しました。

私が、何年もかけて「気になって仕方なかった」上記の各氏に繋がる系の方とは
それは・・平河氏ではなく「槻木氏」でした!!

詳しくは平川家について43 コメント31に書かせて頂きました。
ぜひご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101619_31.html

ただ・・白石様
先日からやりとりをさせて頂いていた
「立花氏」・「三池氏」・「中原氏」・「古庄氏」等のお話ですが・・
系の繋がりが確実に判明したのは「槻木氏」でした・・

私は言葉が出ない程、驚きました・・

白石様・・
平河師高と藤原師高・・やはり・・本当は・・

・・・・・・
では(..)
[22]白石さんからのコメント(2018年04月22日 18時35分13秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
良い天気過ぎて 外を歩くとくらくらします
一日中部屋に閉じこもり 足の運動などしていました

槻木
長兄の嫁が 槻木の町長の娘だったこと
書いたことがあったかと思います。

尾方です。
今は男子がいなくなり どうなっているか
わかりませんが・・・

槻木に四所神社があり
天氏 阿部(安部?)氏のながありました。

丹生津姫など まつっていたのでは
なかったか? と 思っていますが・・・

安部には 阿部磐井の言葉があり
磐井は 白石が磐井を名乗ったということで

また
安部高田姫・・・川津姫
確か 中原に通じていったと思います

三代天皇の頃に手掛かりがあったはず・・・


そして
投稿番号:101230
6 で 高岡と佐田は血縁関係があったと思える。
と わたくし うすうす ではありますが
感じていました。

特に知盛の叔父、平宗清
落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また六人は柳川沖の端に逃れ永住した。

天台宗である清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍
大将平知盛(清盛の子)は、八女市八幡区 平うりあ住みついたそうで、この他にも平家の残党は、八女郡立花町白木など、八女周辺定住したようです。今でも各地に平家の末裔ではないだろうかと言われる人がいるそうです。

上はどこからひっぱってきたか
忘れましたが 
私の故郷のお茶はおいしくて
八女に送られ 八女茶とまぜてうれれていること

八女の近くに 大川家具などあり
よいつくりの 家具で
うりあげの一部は 今でも 真田の里へ送られている
という話をしたことがあったと思います

 
[23]白石さんからのコメント(2018年04月22日 20時36分41秒 ) パスワード

母(佐田)はよく 岩国の錦帯橋に船で繰り出し豪遊したと
話していました。
錦帯橋が創建されたのは岩国藩初代藩主、吉川広家公が関原の戦後、山陰地方のの月山富田城から岩国に移封された73年後 です。

塩冶系図の 出雲国造の妻となった 覚日尼と
兄弟の人の筋から 塩(異字体です)谷周防の守 師高
この系のしっぽに 宮原又右エ門の妻になった人
がいます。

宮原又右エ門
岩国の錦帯橋をつくった人
吉川候のもと 石工棟梁

錦帯橋の近くにある
佐々木小次郎像
錦川畔で柳の枝が燕を打つのを見て秘剣「燕返し」を生み出したと伝わっています
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月23日 07時04分45秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

沢山の御教示ありがとうございました。

佐久地方のお話
こちらも、私、以前調べていましたね・・・
白石様から、あらためて「思いだしなさい(^'^)」と言われたような・・
そんな感じでした・・

望月氏・・相良頼景と共に行動・・
源頼朝の鶴岡八幡宮参拝では許された「高齢の相良頼景」を囲むように望月氏・滋野一族が・・
めちゃくちゃ偶然ですが、私の主人の母方は「望月氏」で縁戚の「中村家」に養子に入られていました。

〉新羅は海部氏の祖が建国

はは〜ん(p_-) ナルホド・・そう言う事か・・
朝鮮半島で「新羅建国」について書かれた国史には「球磨」との関わりが記されていますねぇ〜・・
何だか、見えてくるような・・(p_-)

最近、ネットで書かれた「狗奴国」についての某方の御推論を読んだのですが・・
(支障があったらいけないので、サイト名は伏せます(..) )

「狗奴国」の球磨説に対して、海から程遠い山のまた山奥だから、そこに「狗奴国」の中心は無かったはずだ(ー_ー)!!
国の中心(王の所在)は八代辺りではなかったのか?
との内容の記述がありました。

私、大変失礼ながら・・(..)
おそらく、この方は、球磨に来られた事は無いのでは?・・と思いました(..)
八代=海 と考えれば、確かに球磨は海からは遠い・・
となりますが、球磨に一番近い海は八代ではなく芦北ですね・・
芦北の海までは、車で人吉から30分。
確かに山の奥である「球磨村神瀬」。でもそこから芦北方面に曲がれば・・
突然、、そこまでとは全く別の景色に変わります。
険しい山も無く、スムーズに海まで行けます。
「球磨村神瀬」から芦北の海までは車で15分位かなぁ・・
「球磨村神瀬」からだったら歩いても、半日もあれば行けると思います・・

それと・・
冷静に考えたのですが・・
「狗奴国」や「邪馬台国」の時代って、中国は脅威だったのですよね・・
だから朝貢していた・・
海の側に古代国家の中心があれば、もし、中国から船団でも襲って来ようものなら・・
すぐに攻め滅ぼされてしまいます・・

古代国家の中心地、私が造るとすれば(突拍子もない事を言いますが(..))
大きな川が流れる山で囲まれた要塞のような地が適地かなぁ〜と思うのですが・・
三国志時代の中国の国々も、殆どがそのパターン?だったと思うのですが・・
(分不相応な事を書いて申し訳ありません)

球磨(=久米)には・・私、海神系と言われる方々がいらしたのだと思います・・
その証拠が黒原山の雨引神社ではないのかな・・と。
麻郡神社私考では
雨引山王 宮原中峯山王山 とあり
社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

山の頂上付近に罔象女命ミツハメノミコト様をお祀りする雨引山王(雨引神社)

球磨(=久米)の古代を暗示するような気がするのです・・

所で(p_-)
私、佐田氏について気が付いた事があるのですが・・
今から、バイトですので、明日にでも書かせて頂きますね(^'^)

行ってきま〜す(^O^)/
[25]白石さんからのコメント(2018年04月23日 15時40分51秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは
お仕事ご苦労さまです

地形
昔は 北嶽神社からのびている道が
生活道路でした。
山の上です。確かに海近くなら便利でしょうが
海の風は体にきついですね。

前にも書きましたが
138メートルは海抜があるところに
遺物があります。

ところで
高岡 佐田の接点
ひょんなことですが 塩谷氏

ウィキの塩谷をみれば
塩谷朝業というひとがおり
この人は 宇都宮朝業です。
源義親の子の堀江頼純が下野国塩谷郡に下り創始したのが塩谷(しおのや)氏である。

塩谷朝業
時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 承安4年1月24日(1174年2月27日)
死没  宝治2年10月7日(1248年10月24日)
改名 竹千代(幼名)→塩谷朝業→信生法師→信阿弥陀仏[1]
別名 四郎、五郎(吾妻鏡)
戒名 長興信生大禅定門
官位 従五位下、兵衛尉、周防守、民部大輔
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝
氏族 下野宇都宮氏→塩谷氏
父母 父:宇都宮成綱、母:新院蔵人平長盛女
養父:塩谷朝義
兄弟 頼綱、業綱、永綱、朝業
妻 塩谷朝義女

うちと同紋の豊前宇都宮流佐田氏は 
毛利 黒田 大友 細川と仕え
戦国の世をのりきった

細川にそれらしい形跡はあります
家臣名がある 佐田家当主に教えていただいたとき
熊本にお寺をもとめたということでした

その時点では まだ そことつながっているとは
わかりませんでした。
[26]白石さんからのコメント(2018年04月23日 15時54分30秒 ) パスワード

うちの集落に 堀川と姻戚関係がある荒木があります。
体形は忍者にむかなかったという 大柄のひとです。

ブログから
荒木姓 
現京都府北西部と兵庫県東部である丹波荒木城主は
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる
藤原摂家流がある。

ほか中臣氏、服部氏、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷流など様々な流派がみられる。全国に多いが、特に熊本県、長崎県に多いとされる。
荒城と書く場合もある。

武蔵と戦った荒木又衛門
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
なら再発見
郡山藩士 荒木又右衛門―― 仇討36人斬り 剣豪中の剣豪

荒木又右衛門は、慶長4(1599)年に
伊賀国服部郷(はっとりごう)荒木村で生まれた。
父は、大和郡山城主筒井定次(つついさだつぐ)に仕えた後、
備前岡山藩池田忠雄(ただかつ)に仕官した下級武士だった

荒木又右衛門は三重県伊賀市荒木の出身で、
姓は荒木ではなく、本名は服部丑之助といいました。
荒木村から一山越えた所に服部半蔵一門の集落があり、荒木もその系統に属します。しかし大柄な体格であった為に、忍者の道を諦め ...
あと荒木又右衛門は服部平左衛門の次男に生まれています。
      Yahooより
[27]白石さんからのコメント(2018年04月24日 07時06分40秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
なかなか 松葉氏後裔平賀氏がみつからないと
思っていましたが
今朝 松葉氏で検索してみると

松葉姓研究 | 松葉博雄の社長研究室
mazba.com/matsuba

というのがあり 松葉宗益などの名もあり
この筋のところだろうと
思いました。

平賀氏は 
★平賀から松葉になったようにうけとれました。

松葉資宗は、源頼朝に仕え、平家追討の際、
壇ノ浦の戦功によって、安芸高屋保を賜りました。
松葉氏は藤原氏の太祖、大織冠藤原鎌足より始まる。
★唐家紋が平賀氏の家紋
父の★ 宗益(松葉入道と称する)

と共に源氏に属して軍功あり、出羽の平鹿郡、
安芸の高屋保などに所領を有するという記述があり、この松葉次郎が資宗
この平賀氏から松葉氏が生ずる事となった

大意はこうです。
ただ 
三国真人後裔なのか どうか?
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月24日 17時24分15秒 ) パスワード

白石様 今日は。

出羽の平賀郡。こちらに流れる川が「平川」ですね・・・
現在の平川市もこちらになりますね・・・

出羽かぁ・・・(p_-)

佐田氏。
私が、気が付いた事とは、白石様がお書きであった「宇都宮氏の氏族の佐田氏」についてでした。

日本の苗字七千傑様のサイトを拝見して気が付いたのですが
《豊前宇都宮氏(嫡流)》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02007a.htm#001

宇都宮氏流「佐田氏」の祖の方のお名前は
『佐田 公景』

公景・・「公」の文字です。
わたし・・・いずこかの氏族と姻戚関係があったのでは?と考えたのですが・・

「公」の文字を通字とする一族と言えば・・・もしかして・・

そもそも、宇都宮氏と宮原の一族の先祖「橘公長」・「橘公業」・「橘公忠」の系は姻戚関係がありました。
※宇都宮頼綱の妻は「梶原景時」の娘。
橘公業の妻であり橘公員の母であった方は「梶原景高」の娘。
すなわち宇都宮頼綱の妻と橘公員の祖父「梶原景高」は兄妹です。

さらに、宮原氏系図では
橘公長の兄弟、公清と言う方の項に、以下の記述があります。

公清 父下野佳国之時為宇都宮智■孫號氏家

橘公長の兄弟「公清」と言う方は「號氏家」すなわち「氏家」を名乗られた・・
さらに、記述より「宇都宮智■」と言う方の孫である・・
と言う事が解ります。

「氏家 氏」を調べると、ウィキにすご〜く気になる記述がありましたので
御紹介させて頂きます。
氏家公頼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%85%AC%E9%A0%BC

氏家 公頼(うじいえ きみより)は、鎌倉時代の武将。御家人。
出自
公頼は、氏家氏の祖であるが、その出自については諸説ある。

宇都宮氏出自説
公頼の出自として、最も有力とされているのが宇都宮出自説であり、現在通説となっているが、この説も大きくは二説に分類される。
従来の宇都宮氏出自説[編集]
公頼を宇都宮朝綱の子とし、氏家氏を創始したとするのがこの説で、下野国誌を主として、これまで通説とされてきた説である。朝綱の何番目の子であるかについては、系図や資料によって異なり、次男とする説(宇都宮正統系図など)、三男とする説(下野国誌など)、五男とする説(五郎を名乗っていたため)など諸説あるが、この説においては、宇都宮氏の勢力基盤拡大のため、朝綱の子である公頼が氏家郷に根を下ろし、氏家氏を創始したとする。
紀姓氏家氏養子説
公頼を宇都宮朝綱の子(末男と記す)とする点においては、宇都宮氏出自説とは変わらないが、公頼を氏家氏の創始とはせず、紀姓氏家氏の四代目氏家公広の養子となり、氏家氏を継いだとする。この場合の氏家氏の創始は、氏家公幹(長元元年(1028年)生 - 永長元年(1096年)1月11日没)とし、公幹を紀氏の出自であるとする。七郎と名乗り、始めは公重、次に公頼、次に公綱と名乗り、官途は従五位下美作守であった。これは、相沢家氏家氏系図に記されたものだが、この系図以外に公頼以前の氏家氏について記す文献が無いことから、諸説のひとつという扱いになっている。

★養子説

私が着目しているのは、以下の説です。
橘姓説
現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉橘公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。
しかし、これ以外には、公頼を橘姓とする資料は存在しない。『勝山城 〜氏家氏 栄光の時代〜』での推察によれば、奈良時代に下野国司として赴任した橘氏の子孫の中に『源頼朝の御家人となった橘公長』という者がいて、これが公頼である可能性があるとする。
公長は弓の名人であったが、公頼も鎌倉幕府の行事などで流鏑馬や笠懸で射芸を披露し、将軍の下で流鏑馬の作法を評議する立場であるほどの弓の名人であり、共通項はある。あるいは、公頼が母方の姓を名乗った可能性もあるとする。
但し、公頼については、宇都宮氏の養子である説があるため、これに基づけば、公頼が元々橘姓のいずれかの氏族の出自である可能性もある。

氏家公頼と言う方と「橘氏」を結びつける、鍵となる重要人物として
何故か?宮原の一族の先祖「橘公長」の名前が挙がっています。
ウィキの記述では
銅版曼荼羅にあった「右兵衛尉橘公頼」以外に公頼を橘姓とする資料は存在しない。
とありますが・・・
宮原氏系図には「氏家 氏」は橘公長の兄弟「公清」を祖とする記述があります。
もちろん、この事は、一般にはどなたも・・全く御存じ無い事で・・
もしかしたら・・めちゃくちゃ「重要な事」なのかもしれない・・!
と私は今回考えました。

右兵衛尉橘公頼(氏家 公頼)とは・・もしかしたら・・
橘公長の弟「公清」と言う方ではないのか!!?
もしくは「公清」の子息?
確かに、橘公長の母は一体どなたか不明です・・
橘公長・橘公清 兄弟の母が「宇都宮氏」であれば・・
「宇都宮智■」と言う方の孫である可能性は十分に考えられます・・

『公清 父下野佳国之時為宇都宮智■孫號氏家』

と言った事から・・後世の
豊前宇都宮氏流「佐田氏」の祖の方のお名前『佐田 公景』
橘公長の後裔との姻戚関係が宇都宮氏と発生しても、何ら不思議ではない!・・
と私は考えたのであります(p_-)

白石様
如何でしょうか(p_-)・・・
[29]白石さんからのコメント(2018年04月25日 05時47分37秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今日は雨 恵みの雨でおわりますように
雷雨 暴風が吹き荒れると たまりません

ネットに 渡辺氏の死去が出ていました
うそだということが いくつか 読んだ後
わかりましたが

ネットの弊害ですね
気を付けなければと 思います

ところで
過去に ミヤちゃんの血液型は 
AB型だと お聞きしたと思っていますが

ブログで 
出身地 愛知県
血液型 B型

と ありました
ミヤちゃんは 球磨の人
なんでだろう? と 思います

[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月25日 07時21分26秒 ) パスワード

白石様 おはようございます(^'^)

今日は、バイトなので手短に(..)

私、プロフィールには
出身地とか書いていないはずですけど・・

ご覧になられたプロフィール
私のではないと思います・・・・

後で家に帰って、私も画面を確認してみますね

私の出身地は宮崎県
育ったのは球磨
血液型はAB型です

( ^)o(^ )
[31]白石さんからのコメント(2018年04月25日 14時51分39秒 ) パスワード

ひろっぷのプロフィール|Ameba (アメーバ)
profile.ameba.jp/mrh0528

に B型 愛知県出身とありました。
ほかの人のブログでしょうかねえ。

似たような人がいるものですね。

今日 テレビで アイヌの人 エスキモーの人が
出ていました。

おおむね 耳が大きい人が多くて
耳殻が内側にむいていて
外側の幅が広い

エスキモーの人は 眉毛が大きく 広く
父や兄の眉ににているもんだ
と 思ってみていました。

[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月25日 17時17分43秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

白石様がご覧になられた「ひろっぷ」さんは
私とは別人の方です(^'^)

御紹介頂いたアドレスで拝見したのですが
ブログの内容が・・全く違いますよね・・

もしかしたら・・白石様は・・
私と同じように・・
おっちょ●●●い? (;一_一)

わぁ・・・ ごめんなさい<m(__)m>
気になさらないで下さい。

きっと同じようなDNAが流れているのかもしれませんねぇ〜(p_-)

では(^'^)
[33]白石さんからのコメント(2018年04月25日 20時11分45秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
ほんと わたくし おっちょこちょいですね。

ひろっぷ と あれば みやちゃん と 思い込んでいました。

高岡系図に 一緒に戦っている 奈佐日本之介という人が 書いてあります。
高岡とは 別の氏で
日下部氏のようです。

高槻に 奈佐原という地域があり
関係があるかしらん と 思い あちこち 見てみました。
奈佐氏の資料は 少なく わかりにくいのですが

奈佐原は 山の上の田んぼが広がっていた地域で
山の下が 高槻支庁などある 中心街です。
奈佐原の近くに 南平台 などあり
高級住宅地にかわっています。

摂津峡の桜公園近くには 
戦前までは 皇族の人が 神社でしょう
参拝に来られていたということです。

原 地区もあり 寒天つくりで 有名です。


[34]白石さんからのコメント(2018年04月26日 06時51分09秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます

禁門の変 と 毛利家永代家老増田家上士・増田元祥家臣佐田兼為

私が母から聞いているうちの佐田の ひいおじいさん は
末っ子の甘ったれで 小さいころから人が後ろからついてくる生活で

金銭感覚がまるでなく 請け判をおしてはだまされて 三回も
家土地を手放したような人でした。

二回までは その母がかいもどしてくれたけど
三回目にはとうとう怒られて 勘当の目に・・・

というものでしたが
うちの本家の人が送ってくれた家系図らしきものには
幕末頃とおもわれるときから 院号がついています。

何か 異変があったような・・・
それで 毛利 増田が 関与したことといえば 禁門の変
結果 増田は 切腹の憂き目に・・・
佐田も一緒に切腹だったかも・・・
あとで 毛利は 政府軍になり 佐田も回復したのかも・・・・
本家に聞いても お寺に聞いても 一切知らず ということです

そんな昔のことは誰も知っているものはおりません
と 言いたくないのか 本当に知らないのか
ただ 過去の人をみると キリシタン禁制の頃なのか

原城を攻めた方 守った方どちらにも 久兵衛の母 という人がおります。
うちの過去の人の一番初めにつく人です。

もしもいろいろあったとしても 私は現に今存在しているので 
子供がいたのでしょうね。
そして こことも違うかもしれないのは 系図がない以上わかりません
宇都宮とは ほかのことからも 思っています。


[35]白石さんからのコメント(2018年04月26日 19時02分54秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは

今日は 平江がやってきたという
熊野の宇田森 をみていました。

そしたら
そしたら

ここには 大屋津姫がおられました。

大屋津姫とは すさのお が 韓国に行ったとき
木種を持ち帰ってきたという人です。

この人の母親は誰だろうと 見ていたら

五十猛(いそたける、いたける):古代史探訪
https://enkieden.exblog.jp/21950655 より

すさのおと くしいなだひめ の間の子

大屋津比売と天香山の間の子→→→熊野高倉下
いそたける
つまつひめ

なんと
なんと

母は 出雲の姫で 
子供は 熊野の高倉下です。
尾張連等の祖

先代旧事本紀

『先代旧事本紀』巻5天孫本紀では、
物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連らの祖

天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に
「天降り以後の名は手栗彦命または高倉下命である」
としている。

その後『日本書紀』と同様の内容が記述される
 
大屋津姫神社の神主は
土屋氏(本姓:藤原氏)
五木にも 土屋氏はおられます。

ただし『紀伊国名所図会』では、
江戸時代後期の編纂当時の神主は
大屋彦命の後裔を称する森氏

尾張氏がでてくるのが ・・・(^ 0 ^)
[36]白石さんからのコメント(2018年04月27日 15時16分48秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
過去にも書いたかもしれませんが 高倉下がでたことで
また 球磨郡の良峯師高の墓に書かれた 荒田のことば

これらから

緑野屯倉と上毛野君 ( 群馬県 ) - 七福神の案内人 - …
https://blogs.yahoo.co.jp/minigter/69745775.html より

その孫★彦狭島王(ひこさしまおう)の子御諸別
(もろみわけ)王が東国(あづまのくに)を平定
して、その子孫が東国(あづまのくに)に繁栄して
いると記されている。

また、★荒田別(あらたわけ)★上毛野君の祖とし、
その子には ...

『日本書紀』(にほんしょき):


日本現存最古の史書。
神代の物語から国の成り立ち、
歴代天皇の業績に及び持統天皇(697年)
までを編年体で記す。全30巻・系図1巻。

天武天皇10年(682年)3月に川島皇子
・忍壁皇子・上毛野君三千らに詔して帝紀
・上古諸事を記し定めたのが始まりで、
養老4年(720年)5月に完成した。

記載内容の信憑性が高いのは、
天武・持統記で、時代が遡るにしたがい、
信憑性は弱まり、潤色も多く、
史料批判が必要である。

→→出雲系の人がいるとき
出雲のことは 詳しくわからなかったかも・・・

「上毛野君」という氏族の伝承は、
『日本書紀』によれば、崇神天皇の皇子豊城命
(とよきのみこと)が始祖と伝えられている。

その孫彦狭島王(ひこさしまおう)の子
御諸別(もろみわけ)王が東国(
あづまのくに)を平定して、
その子孫が東国(あづまのくに)
に繁栄していると記されている。

また、あらた山田

別(あらたわけ)も上毛野君の祖とし、
その子には竹葉瀬(たけはぜ)、
田道(たみち)という兄弟がいたことも
伝えている。

これらの伝承はいずれも(16代)
仁徳天皇以前のこととして伝えられており、
人名の上には上毛野君の始祖、
遠祖、租と附記されている。

その後は先述の安閑紀元年にみえる上毛野君
小熊まで、上毛野君についての伝承記事は全く
みられない。

上毛野君の本拠地が★太田市から赤城山南麓に
移動した時期とも一致する。

つまり、武蔵国造の内訌に荷担した
上毛野君が敗北し、本拠地を赤城南麓に
移動することになった。

東国に強大を誇る上毛野君の支配地の一角を、
大和朝廷の直轄領として、
緑野屯倉が献上させられたものと考えられる。
[37]白石さんからのコメント(2018年04月27日 16時47分40秒 ) パスワード

ウィキより
伊予に日蓮宗を広めた大覚大僧正

大覚(だいかく、1297年(永仁5年)- 1364年5月5日(貞治3年4月3日))は、
南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。幼名は月光丸。
近衛経忠の子、あるいは後醍醐天皇の皇子と言われ、
初めは真言宗の僧であった。
備前法華の祖と仰がれる。
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年04月28日 06時45分56秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^'^)

お返事遅くなりまして申し訳ありません(..)

〉宇都宮とは ほかのことからも 思っています。

あらためて、佐田氏を勉強してみたのですが・・

武家家伝様サイトより 佐田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_sada.html

佐田氏は宇都宮系城井氏の庶家で、有力な鎌倉御家人であった。すなわち、宇都宮頼房の第五子公景に始まる。
 宇都宮氏は下野の豪族で、本姓藤原氏で粟田関白道兼を遠祖とするといわれている。「宇都宮佐田氏系図」では中原氏を称していることから、本来は中原氏から出て、藤原氏とは擬制的な関係にあったものとも想像される。いずれにしろ、八田宗綱が宇都宮氏を称し、その弟宗房の子息信房が、豊前国に地頭職を賜り、中津郡城井に居住い、鎮西宇都宮氏の始祖となった。
 正応三年(1290)信房の後裔通房は、足立五郎左衛門大尉遠氏の知行地である宇佐郡佐田荘地頭職を同郡上毛郡安曇村の替わりとして領掌するよう、幕府から命じられた。正和二年(1313)、佐田荘は大和前司(宇都宮頼房)領として確認できる。
 建武三年(1336)、宇都宮公景は足利尊氏の軍事指揮下に属した。公景は初代九州探題一色道猷を支えた有力武将の一人であった。観応二年(1351)道猷は公景に対し豊前国元永村・伊加田荘・肥後国岩部村・木柴村地頭職および豊前国吉田荘地頭職を給与している。また、九州探題が九州に下向する際、必ず宇都宮氏に協力要請しているほどの存在であった。公景は文和三年(1354)戦死、彼はまた筑後国守護代としても確認できる。当時、公景は築城郡城井谷に居を構えていたようである。
 公景のあとの経景は筑後国山崎で戦死。ときの九州探題今川了俊は経景の子息親景に対し、跡目相続を安堵した。ところが、経景の弟氏治が佐田の所領・所職を押領したが、応永七年(1400)九州探題澁川満頼は親景に本領を安堵している。
 応永六年(1399)親景が佐田荘青山に移住して以降、宇都宮を改めて佐田氏を称するようになった。

ここで(p_-)
★観応二年(1351)道猷は公景に対し豊前国元永村・伊加田荘・肥後国岩部村・木柴村地頭職および豊前国吉田荘地頭職を給与している。

※肥後国岩部村
肥後国岩部村とは何処でしょうか・・
今朝、簡単ですが調べて見たのですが、未だ解りません・・(..)

続けて(..)
中略・・・
隆居は豊前宇佐衆の指導者として、大内義隆の豊前守護代杉氏のもとで、宇佐郡代となっていた。大内氏没落後の弘治二年(1556)大友義鎮が豊前制覇のため宇佐郡に進出、翌年、宇佐郡衆は豊後大内氏に従うようになった。このころの佐田氏の被官として、佐田一族をはじめ、加来・永松・高並・平群・小田氏等がいた。
 その後、隆居は宇佐郡衆の中心的存在として、大友氏の命により各地に転戦して活躍。

中略・・・
大友氏の滅亡後、黒田氏が豊前に入部してくると佐田一族は黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行した。  
=======================================

佐田氏系図を見ると
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/ut_sata.jpg

宇都宮貞綱の子息「公綱」「冬綱」兄弟の「冬綱」、この方が
佐田氏の養子になられている事が解ります。

宇都宮貞綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E7%B6%B1

宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子[1][2]。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受け、貞綱と名乗る。

弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた。

(p_-)
父母 父:宇都宮景綱、母:安達義景の娘
子 高綱(公綱)、高貞(公貞・綱世)、冬綱

ここで着目したのが母:安達義景の娘

安達義景 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%BE%A9%E6%99%AF

父母 父:安達景盛、母:★武藤頼佐の娘
兄弟 松下禅尼、義景
妻 正室:北条時房の娘
小笠原時長の娘、飛鳥井雅経の娘

時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、★『長井氏、二階堂氏、武藤氏』など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。建長5年(1253年)5月に出家し、翌6月に44歳で死去。

※佐田氏の御先祖様である宇都宮 貞綱、この方を調べたら
母方の安達氏は『長井氏、二階堂氏、武藤氏』など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を持っていた事をあらためて理解する事が出来ました。

私がここで着目した事は(p_-)
妻 正室:北条時房の娘
小笠原時長の娘、★飛鳥井雅経の娘


★飛鳥井雅経の娘

そうか・・結局・・こうなるのか・・
とあらためて、解りました。

宮原の一族の先祖「橘公綱」と同母兄弟である「平頼綱」
平頼綱の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」の娘でした。
飛鳥井 雅有とは飛鳥井雅経の孫となる方で・・

鎌倉時代初頭まで遡ると
佐田氏の御先祖様と宮原の一族は
色んな角度から見ても縁戚関係があった・・と言う事ですね(p_-)

※宇都宮頼綱の妻は「梶原景時」の娘。
橘公業の妻であり橘公員の母であった方は「梶原景高」の娘。
すなわち宇都宮頼綱の妻と橘公員の祖父「梶原景高」は兄妹。
つまり(p_-) 
※「梶原景時」の娘婿は「武藤資頼」
※佐田氏の御先祖様である宇都宮 貞綱。母方の祖父「安達義景」の妻は★飛鳥井雅経(正室は大江広元)の娘。
※「橘公綱」の同母兄弟「平頼綱」の妻は大江広元のひ孫である「飛鳥井 雅有」(飛鳥井雅経の孫)の娘。

当時はみ〜んな親戚だぁ〜っ!!

佐田氏と宮原の一族との関係。
よ〜く解りました(p_-)

白石様のお父様の御実家「高岡家」の家紋は「橘紋」。

高岡家と姻戚関係が二重にある益城の平江家。
ころも様にお伝えしたお話ですが
平江家と氷川・松橋地方の宮原家とは姻戚関係がありました。

このお話・・白石様とも無関係では無い
そんな気がしてきました・・

所で・・
「荒田」の地名ですが
私・・古代・・古(いにしえ)の肥後アイヌの方々に繋がる「地名」なのかなぁ?・・と
思っています・・

あっ!(p_-) 白石様。
すみませんが(..) 良峯師高のお墓は球磨では見つかっていませんが・・(..)
良峯師高に関係するお寺が「荒田寺」であります(..)
お墓ではございません(..)
一応お伝えしておきます(..)

荒田の地名・・
荒田大王神社・・
私・・平頼盛、この方に関係しているのでは?と妙な感が働いています・・

「福原」の平頼盛の山荘があった場所が荒田村の現在の荒田八幡神社。
荒田八幡神社の御由緒は『池大納言頼盛の領地にして、山荘あり。福原遷都の時、しばらくここに幸(みゆき)あって、仮皇居とした』

ずっと前から存じてはいたのですが・・
初めて、このお話をコメントに書きました・・・

平川家についての方でちゃんと書かせて頂きますので
お待ち下さい(..)

ちなみに・・球磨の荒田大王神社の宮守を代々続けて来られたのは「高田家」です。
「高田家」・・白石様、御記憶されていて下さい・・

今朝もバイトです。
行ってきま〜す(^O^)/
[39]白石さんからのコメント(2018年04月29日 17時15分22秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
今日も暑かったです

昨日から横浜にいる 娘が帰ってきて
家の中は華やいだ感じです

高田家
山の上の萩というところに 高岡 田中 高田 永田
の四軒がありました

父の出どころの高岡
高田は 父の世代の人が 村長を務めていました

萩の言葉は
山田葉木に平河の霊社があったと伝える

細川の家臣だったかどうか
佐田文書をお持ちの佐田家は
信房 公景などの名がみえ

ご当主の話では 熊本が本貫と思い
お寺も熊本に求めたということでした

娘が細川二男と結婚したそうです
高岡系図に榊原のことばがあり

細川によっている家は こういう経緯をもっているのでは?
と思います。

うちの家は 佐田は 山口におり
高岡は 早くに帰農したのか
山の地番は 萩で

ただ 祖先は 武士だったのではないのか?と思わせる
感じはあります

山口の佐田は 吉川に(吉川は毛利の子)
よっていたようで

お寺は 防州最古の真宗寺院 住職香川氏 の 檀家筆頭でした




[40]白石さんからのコメント(2018年04月29日 17時44分39秒 ) パスワード

高田について

城和泉守と小柏氏 - 横浜ケーブルビジョン株式会社
home.catv-yokohama.ne.jp/77/yowa/jyoizumitoogasiwasi.html

甲陽軍鑑・甲斐国志に見る上野国武将 4 古文書の城和泉守昌茂 7 参謀本部編 日本戰史と高田氏 8 ... 越後守と称していた。助永の弟・長茂のときに平家は没落し、同族たる長茂は囚人となり★梶原景時に預けられた。 助永の妹・坂額御前 ...

城昌茂は奏者番、使番、陣中目付の三役を
与えられていた。
この行軍表には初鹿野傳右衛門昌久や
★高田小次郎直政の名前も見付ける事が出来る。

高田小次郎信頼は「甲斐国志」には、
★源頼政の胤であり、高田太郎盛員は
上州菅野庄を世々領した。
 兵庫頭遠春は法名道三・・・

甲陽軍鑑や古戦録等には★菅野大膳亮
なりとされている。・・・

★宮原興蔵寺

陽雲寺
陽雲寺の伝えるところでは、高田小次郎が
同寺を開いたとしている。

同寺には★高田氏の紋章・16弁の菊が、
二重に浮き彫りされた板木が3枚、

今に残されている。約190年前の物で、
大きさは直径67センチもあり旧本堂に
飾られていた物という。

 高田氏が妙義町高田を離れて久しい今、
「高田」の地名と高田川の川名だけが
同地に残り、豪族の痕跡・名残りは全く
失われている。

・・・
★(高山氏と小柏氏もまた縁戚ではある)

ーーーーーーーーーーーー
故郷の川向の山の上 こがしわ というところに
小川君がいました

過去に 小川ということばから
清水 水野など 連想し 家康生母 お大の方 
この方 水野の娘 

出たことがあります

葛城には 高田川 高田邑などあり
大和高田には 金魚で 有名
秀次にまつわる話などあります

高山と 小柏氏は縁せき関係がある
とは 興味深いことです



[41]白石さんからのコメント(2018年04月29日 17時49分31秒 ) パスワード

深田の良峯師高の墓

地名辞書の球磨郡 あたりに書かれていたことで
深田の橋のあたりに 
良峯師高の墓と伝わる 石があり
その 根のところに 荒田の言葉があった

という内容のものでした と 記憶しております
この 地名辞書を書かれた方の 子どもさんが
コメントしておられましたが

その頃は 詳しく 出典など 書かなければと
思っていなくて 書き散らしていたので
また 図書館に行かなければ と 思っています

[42]白石さんからのコメント(2018年05月01日 09時30分25秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
まだ 図書館に行っていないので 荒田神社をみていました。

ネットからひろいましたが
和歌山の荒田神社は

和歌山県岩出市森237
御祭神
高魂命 劔根命(高魂命五世孫、荒田直の祖)
天疎向津姫命 氣長足姫命 誉田別命 大山咋命
大山祇命 天忍穂耳命


「荒田」という名は、天照大神の荒魂の意味であり、
廣田神社と同神とする説があり、祭神もそのように
考えられる場合がある。


『紀伊続風土記』『名所図会』では、「和泉国大鳥郡陶荒田神社」と同神としているが、
この地に陶器生産に関する由来はない。

『和歌山県神社明細帳』には、境内神社として、
丹生神社(丹生都比賣命)、八坂神社(素盞嗚尊)、九社神社(底綿津見命他)、
愛宕神社(香具都智命)、稲荷神社(倉稲魂命)があげられている。
『和歌山県神社誌』には、境内社は丹生神社と八坂神社となっている。

神高魂命は即ち高御産巣日神(古事記)であっ
て、劔根命はその五世孫にあたり、その子孫に
葛城直があ り、荒田直もその一族であって、「
劔根命之後」である。

★我が国歴史開闢いらいの 神をまつり
★荒田はアマテラスの荒魂であり
★陶荒田神社 と すえ のことばが
★葛城もでて
★丹生神社は 球磨の 四所神社にまつられるはずですが
★阿部氏 天氏

★阿部高田姫がおり 三代天皇に関与している
二代目の天皇の宮が葛城高岡宮
★高田 高岡と たか で 通ずる
★菊池の侍長には 高岡 白石 平川 坂本がつき
ほかに 尾方 高田牧宰 がある

★牧宰とは 唐のときの 国主のこと
★山口県の戸籍を取り寄せたとき宰判 とあったので
聞いたところ 江戸時代の行政の形だそうで 全国そうなったいると思って
いたと 係の人の返事でした。

前にしらべたのとあわせ 書きました
今日も暑いです 頑張ってね
[43]白石さんからのコメント(2018年05月01日 09時37分09秒 ) パスワード

220 道主日女と荒田 - 小春奈日和
https://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/db6f1551e668cc71d4fe05...

大国主の誕生220―道主日女と荒田―『海部氏勘注系図』と『先代旧辞本紀』によれば、天村雲神丹波の伊加里姫命との間に生まれた倭宿禰命という神がいますが、この倭宿禰命は倭国造の祖とあります。倭国造とは倭氏のことで、倭氏 ...

葛城直氏の系譜とその行方 | 葛木彦の風まま日記
https://ameblo.jp/katuraki-hiko/entry-11184701794.html

荒田神社 - 玄松子の記憶
www.genbu.net/data/kii/arata_title.

これらの ブログをみました
[44]白石さんからのコメント(2018年05月01日 16時04分41秒 ) パスワード

毛利家 永代家老益田家 と 増野家文書

◆慶長5年(1600)関ヶ原の敗戦いのあと、
益田七尾城主の益田元祥は徳川氏から益田

領をそのまま安堵するという誘いを断って、
報恩のある毛利氏について須佐へ移住し

ました。これに感激した毛利輝元は「毛利家
があるかぎり忘れない」と益田家を毛利一門

とし、 益田家代々を萩藩永代家老をもって
処遇しました。

増野家・・・祖先・平知盛 その子 平知章

佐田・・・・家臣・佐田と書く時 伊勢神宮内宮にある
      藤原道兼ひ孫宗円から出る宇都宮氏・紀氏 紀伊氏・

益田・・・・ 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏実頼流
https://archive.fo/zceDx

鎌倉時代に石見守護として下向した益田氏の
御神本氏族は、藤原姓を称して実頼の後裔を

称する。 【小野宮】実頼 敦敏 佐理 頼房
頼忠 公任 定頼 経家 公定 公通 ...

うちの佐田のことは 書きましたが
ほかに 
例えば 維新のスポンサー 白石

豪商の白石は維新の財力を支えていたが
内続く戦乱に家も傾きかけ 維新がもう少しなるのが
おそかったら 白石の家はつぶれていただろう
という


真木
真木和泉のことは ご存じと思います
白石 真木は 佐田の姻戚にあります

真木和泉の家 白石正一郎という人のいえでは
ありませんけど・・・

佐田の姻戚の家の人は 羽振りよくくらしていたけど
佐田の家に来たときは 土間にはいつくばって
話をしていたそうです

それくらい 格はたかかったと・・・
私が聞いているのは 
醤油をつくっていたけど 

苗字帯刀を許されていた
という くらいですけど・・・


[45]白石さんからのコメント(2018年05月02日 08時15分21秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
かえでと 剣の家紋

なんの脈絡もありませんが 
伊賀の炭酸水という言葉が思い浮かび
かえでと炭酸水とむすびつきました

過去に かえでから 炭酸水をつくる話を聞いたかな?と
思いますが 記憶にありません

伊賀の 強譚散水は どうやってつくるのでしょうね?
秩父では お茶にかえでの茶葉をつかったり

ゼリーをつくったりして いるそうです
ネットからひろった 情報です

【メリット】
1. 消費するエネルギーを増やす
炭酸水を摂取することにより、血管の中に炭酸ガスが入ります。
それによって酸素不足になり、走っている時と同じような状態に
なると言われています。
結果エネルギーの消費増大につながります。

2. 胃腸の状態を整え便通をスムーズに
炭酸水の炭酸ガスが胃に入ると、炭酸ガスの刺激により胃
の粘膜を元気にしてくれると言われています。
そのため消化機能が促進、さらに腸に届くことにより、刺激
によってぜん動運動が行われ消化活動が活発になり、便通の
促進にもつながります。
また、「腸内環境を改善したい!」という目的で炭酸水を購入
するのであれば、硬度の高い炭酸水をおすすめします!

3.疲労回復に良い
身体は使い続けていくと、水素イオンという疲労物質を溜め
込んでしまいます。ですが炭酸にはそのような疲労物質を中
和する効果が期待できるのです。
また、炭酸水は血管を拡張させる働きもするため、血流の促
進が見込めます。

4. 肩こり解消の手助け
肩こりの原因、その多くが血行不良によるためと言われて
います。
そこで炭酸水を飲むことで、二酸化炭素が体内に入り、酸
素の供給が活発化し、結果血行の促進へとつながります。

5. ダイエットのサポート
1〜4をご覧いただいても、十分ダイエットの手助けになると
言えますが、それだけではありません。
それは、炭酸水を飲むことによって得られる満腹感です。
飲むことで胃に入り、胃が膨らむため食欲を感じにくくなり、
空腹感が紛れると言われます。

代表的なメリットとしては、この5つが挙げられます。
また、そのほとんどがダイエットに効果的なものと言えますね。

以上のように 炭酸水はからだによさそうです 

かえでの家紋
かえで 
なんで かえでだったのでしょうね?
[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月02日 18時31分11秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

沢山の御教示ありがとうございます。
お返事遅くなりまして申し訳ございません。
今日は、アルバイトお休みです。
家事が一段落しましたのでコメントを書かせて頂きます(..)

「荒田」地名についてのご検証、大変勉強になりました。

「荒田」の地名は古代に繋がる・・

私、コメントには書いていない古代の球磨について理解出来た事が沢山あります。
白石様の御教示には・・「その事」に繋がる記述が見え隠れしているような気がしています。

多分・・何度か平川家についての方やこちらで、ヒントは書いているとは
思いますが・・
朝鮮半島の古代と古代の球磨の関係についてです。
私が新たに理解出来た「古代の球磨」についての内容は、後日、ちゃんとコメントに書きますね。

上記の件に繋がるのでは・・?と考えている事が一つあります(..)

私の従弟の奥さん。平川家についてにも数回コメントを書いてくれた「アキちゃん」ですが・・
「アキちゃん」の曾おじい様は
「高原(たかんばる)」を明治時代に開拓された方々のお一人で
出雲から来られました。
今まで、深く考えた事など全く無かったのですが・・
最近、冷静に考えてみると・・
球磨の「高原(たかんばる)」の開拓に何故?わざわざ「出雲」の方が来られたのか?

「高原(たかんばる)」はブログの方で書いたのですが、縄文時代から弥生時代にかけての大規模な集落跡が見つかりました。
調査はその一部しか行われず、出土品等の内容はブログの方に書いています。

出雲から球磨の「高原(たかんばる)」にわざわざ開拓に来られた方々がいらっしゃる
この事をちゃんと書いていなかったので、今日、書かせて頂きました(..)

所で・・
お母様の御実家「佐田家」
〉醤油をつくっていたけど 苗字帯刀を許されていた

とのお話。
私、お母様の御実家の「地」の郷土史に何か必ず記載があるような気がします(p_-)

苗字帯刀を許された経緯等、「佐田家」についての記載は必ず何かあるような
気がするのです(p_-)
(すでにご覧になられていらしたら、すみません(..))

地元の名家、老舗の醸造所。
そういうお家の事は、書かれてしかるべきでは(p_-)

郷土史には、知らなかった事等が記されていて、私もとてもありがたいと思っています。
ブログの方には湯前町史に、私の曾祖父の弟の方の事や、祖母の従妹の御主人の事等が詳しく記載されていた事を以前書かせて頂きました。

実は他にも・・・

私事ですみませんが(..)
書かせて頂きます。

私の二人の曾祖母の事は以前から書かせて頂いていました。
祖父を生んだ曾祖母と祖父を我が子として育てた曾祖母(新堀家の娘)
二人の曾祖母は実は親戚関係にありました。

祖父を生んだ曾祖母については、簡単な経緯しか知らなくて
曾祖母の人となり等については、今では知っている人は誰もいません。
しかし、曾祖母が歩んだ道は郷土史である「湯前町史」でかなり理解出来ました。

曾祖母は、私の曾祖父(宮原の曾祖父)の仲立ちで小池家に嫁ぎました。
曾祖母の夫であった方について、実は「湯前町史」に詳しく記載されていたのです。
私の高祖母の実家「永田家」について書かれていたページに同じく、曾祖母の元夫、「小池氏」についても書かれていました。
実は、ブログにこのページの写真をアップしていました。
あえて、コメントを避けましたが、祖父を生んだ曾祖母の元夫の方の「名」には
赤いラインを引いていたのです・・

ブログアドレス
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12306764740.html

画像です(..)
https://stat.ameba.jp/user_images/20170901/09/hirom0211/7d/c5/j/o0604100514017663946.jpg?caw=800

『小池泰吉氏に於いては赤手空拳より身を起こし、独立力行、終始一日の如く奮闘努力して巨万の富を勝ち得た成功家の一人。
二十三歳の時に湯前村に移住し来り、材木業を営み、日清戦争後は焼酎醸造業をはじめ
苦心困難と戦って隆盛を来したが、大正十年、豊永鶴一氏と共同社なるものを起こし、清酒醸造を開始し、本郡酒造界に貢献する所があったが、
大正十二年に一切を豊永氏に譲り、湯前線開通と共に運送業を始め今日に至っているが
実業界の中堅ばかりではなく、村会議員四期、郡会議員二期、村政通としても鳴らしている』云々といい・・

この方が、私の祖父を生んだ曾祖母の元夫の方です。
曾祖母は小池氏との間に娘さん二人を生みました。
私の祖父の「父違いの姉達」です。
曾祖母は、実業家の小池氏の妻をしっかりと務めていましたが
女性としてのプライドからどうしても許せない事が起こり、上の娘さんを残し小池家を出ました。
この方が後に小池家を継いだ、私の祖父の父違いの姉です。
岡原(旧宮原村)に戻った曾祖母と私の宮原の曾祖父との間にどのような経緯があったのかは、解りませんが・・
二人の間に子供が出来ました。
私の祖父です。
そして、祖父は宮原家に引き取られ、宮原家の跡取りとして、もう一人の曾祖母(新堀家の娘)が我が子のように、大事に育てあげました。
祖父を陸軍士官候補生学校に入学させるまで、立派に育てて下さいました。
祖父が生まれた後に、曾祖父と「祖父を生んだ曾祖母」の関係はきっぱりと断たれました。

私の父は、祖父を生んだ曾祖母の事を全く理解していませんでした・・
何となくは聞いているようでしたが、悲しい事に父は曾祖母の事を
”曾じいちゃんのお妾さん”くらいにしか理解出来ていなかったようです・・
だけど、私が、湯前町史の記述に気が付いて父に知らせると
「じいちゃんを生んだばあちゃんは、凄い人生を歩んでいたんだな・・」
と、とても感慨深げでした。

宮原家で撮られた写真には、二人の曾祖母が、私の祖父母の両端に座っています。
二人は親戚関係でした、さらに祖父を生んだ曾祖母の実家と、祖母の実家のお隣の平川家も親戚関係にありました。

郷土史「湯前町史」によって、私は、一人の曾祖母の人生を知る事が出来ました。

だからこそ、私は、心から願っているのです。
何十年も御自分の御先祖様について調べていらっしゃる白石様に
御自分のルーツが解る記述が早く見つかる事を
本当に、心から願っているのです。

お母様の御実家「佐田家」について
何らかの手掛かりが郷土史等に記載されている事を
せつに願って、私も調べてみようと思っています。
[47]白石さんからのコメント(2018年05月03日 09時05分41秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今日は 故郷にお茶を頼みました
毎年楽しみにしています

「水仙茶」
平野さんとこの お茶は 水だし茶で 緑茶です
翌日でも 緑色をしています
よそのは 一日おけば茶色になりますが
平野さんとこのは 緑色をしています
 
水仙茶として 検索したら
烏龍茶がでました その中で
福健省のものが 最高のようです

自然保護区を流れる渓谷は澄みきり、
霧が山々を覆い、マイナスイオンの
計測値は、中国で随一、オオサンショウウオなど
の貴重な生物も生息しています。

★古代人が植えた種から育った究極の
烏龍茶★
<世界遺産で作られる正山水仙>
ながったらしい 広告があり
我慢して 見ていたら

福建省武夷山自然保護区はユネスコ
世界遺産で、正山水仙茶はこの自然
保護区で作られています。

自然保護区には生態系維持のため
人為的に新たな植物を植えること
は禁止されているので、

大きく育った茶樹を根本から
刈り取り茶樹が更新されるだけです。

茶摘みは、山々に点在する茶樹から
全て手で摘み取られ、まるで山菜狩り
のようです。

取り木で栽培されるお茶とは違い、
多種多様な容姿を顕します。
仕上げも古来の製法に従い薪で
焙煎されます。

川辺川の流れも清流として有名

ですが中国の自然保護区を流れる
渓谷は澄みきり、霧が山々を覆い、
マイナスイオンの計測値は、

中国で随一、オオサンショウウオ
などの貴重な生物も生息しています。

この地は、紅茶の元祖といわれる
正山小種が作られた地域としても
有名です。

と お茶には 環境が大事だとわかり
ました
[48]白石さんからのコメント(2018年05月03日 19時51分29秒 ) パスワード

武夷山とは

紀元前
1世紀に作られた★漢城(かんじょう)遺跡、
多くの寺院、廟宇と西暦11世紀からの
★朱子理学と関連ある書院遺跡がある。
ここはまた中国古代の朱子理学が起源する
ところである。

また 前にも出てきた 劉備の話

★関羽を斬られた劉備の復讐線ともいえる夷陵の戦い
荊州の争奪戦から夷陵の戦いに至るまで、

蜀の中枢を担った劉備(玄徳)や関羽は呉の呂蒙や陸遜に
大きくやられてしまいました。

この戦いでは蜀軍は数万規模の死者を出し、馮習や馬良(バリョウ)、
王甫(オウホ)ら優秀な武将を亡くし、諸葛亮にも評価されて
いた黄権が魏に降服するなど

蜀の戦力は大幅に低下してしまいました。
また、劉備(玄徳)は意気消沈してしまい
、病に倒れてしまいます。

劉備(玄徳)
は駆けつけた諸葛亮らに後事を託し、
孫権と和睦して翌223年に死去しました。

赤壁の戦いで げんなりしてしまい
本は読む気力がでませんでしたが・・・(ルーペで 覗き込んで
読むのです)

ひょんなところで 三国志とつながりました
もちろん 平野さんが 三国志の世界の人では
ありません

私の中で つながるのです
[49]白石さんからのコメント(2018年05月03日 19時58分10秒 ) パスワード

宮原

宮原御所。八幡宿から山の方に車で20分
くらいのところでしょうか、
市原市宮原にあります。現在はお寺になってます。

宮原御所は、戦国時代、古河公方足利高基の
息子である晴直が住んだ場所といわれています。


何の時か 上のように 宮原御所の
ことばがありました
市原ですから 横浜では?

[50]白石さんからのコメント(2018年05月03日 20時22分52秒 ) パスワード

真木と白石がセットで出る神社

【延喜式神名帳】★真木山神社 伊賀国
阿拝郡鎮座
   (旧地)★白石神社
前にもご紹介させていただいたと思います

御神体は 白い石だそうです

ご祭神は ものものしく

【祭神】天児屋根命 経津主命 眞木山神
(合祀)菅原道真   伊邪那岐命 応神天皇 大物主命
   健須佐之男命 武甕槌命 大日靈貴命 蛭子命 火之迦具土命
    天手力男命 大山祇命
       『三国地誌』『特選神名牒』
    経津主・武甕槌・天児屋根命

別当寺は、天台宗の光明山東福寺であつて、
社務所西方の高地にあった。

昭和54年11月22日浩宮徳仁親王殿下御参拝。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


神紋は 茶の実 の ようである
この 茶の実紋につき
父と母のおかしな 問答を覚えています

私が 家紋について 尋ねたとき
父「ありゃ 何かなあ 茶の実じゃ なかったかな」
母「バカいいなんな ありゃ 橘ばい」

で わたくしが 高岡に問い合わせたら
橘という返事
坂本に聞いても 橘の図柄を書いてくれました

兄は 白石の祖父が 子供の頃 親を亡くし
家を出て 独立し
ために 丸を二重丸にしたと 聞いていました

なので 橘紋 ということで
父の羽織にも お寺の天井にも 
橘紋がうってあります

母の佐田紋は 本家の人に聞くと
昭和16年ころまでは
男は左三つ巴 女は 蔦紋をつかっていた
ということでした。

母の羽織にも 蔦紋がついています

[51]白石さんからのコメント(2018年05月03日 20時41分56秒 ) パスワード

★厦門(あもい)を代表する観光地「コロンス島(鼓浪嶼)」

★錦町フットパス ー 古代の郷 一丸コース
nsfp.sogographics.com/course01.html

F 天下神社 (あもい じんじゃ)
日本書紀で第12代景行天皇が熊襲親征の時に立ち寄ったと伝えられる。
本殿は三間社流造の瓦葺、拝殿は切妻造、妻入、瓦葺。
祭神は、阿蘇神社同体、又は高千穂神同体とも言われる。

ことばつながりですが 不思議なものですねえ
[52]白石さんからのコメント(2018年05月03日 21時07分07秒 ) パスワード

【贏姓 高丘氏系図1】をみると

高軌
という人がおり その 女子から 
百済武寧王の后になる筋があり
たどると
 若狭彦神主の系があります

男子の筋をたどると
比良麻呂(  -768)がおり

さらに下へたどると 昭慶門院 和泉局がおります

 昭慶門院とは
1270−1324 鎌倉時代,亀山天皇の皇女。

文永7年生まれ。母は藤原雅平の娘雅子。

永仁(えいにん)元年内親王となり,
4年院号をあたえられる。

後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良
(ときよし)親王の養母。

亀山天皇から
甲斐(かい),越前(えちぜん)などの
おおくの荘園を譲与された。

元亨(げんこう)4年3月12日死去。
55歳。名は憙子(きし)。法名は清浄源。
[53]白石さんからのコメント(2018年05月04日 19時37分42秒 ) パスワード

こんなのもみつかりました

神功皇后の父親に当る息長宿禰王は
丹波の★高材(たかき)比売★の子で、

★息長氏の始祖に当り、古代近江の豪族の一人
である。

息長氏は、先述のように、

湖東の坂田郡息長村を中心にして勢力を
もっていたと言われている。
[54]白石さんからのコメント(2018年05月04日 19時44分31秒 ) パスワード

★本山美彦 福井日記 34 若狭の新羅神社 –
消された伝統の …
https://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/56685ccdc06e23830 より

★『新撰姓氏録』は新良貴氏を
瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、
稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。

『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊、
は神武天皇の父とされており、

稲飯命は神武天皇の兄に当る。

今庄町の名前の変遷は面白い。
この地は、元、新羅と言っていた。
これが、白城→今城→今庄となり、
新羅川が日野川に変わった。

下根来という村に「白石神社」がある。

[55]白石さんからのコメント(2018年05月04日 19時59分01秒 ) パスワード

 
若松荘は塩穴荘などとともに
近衛基嗣から
青蓮院宮尊助親王,後嵯峨院,大宮院,

昭慶門院さらに世良親王へと相伝され,

臨川寺に寄進された

世良親王とは
亀山上皇の皇女昭慶門院に養育され、
★北畠親房★
が乳父となった。
[56]白石さんからのコメント(2018年05月05日 06時15分31秒 ) パスワード

55にある 大宮院ですが

西園寺姞子(大宮院、1225-1292。
後嵯峨天皇中宮、後深草・亀山両天皇  の母
この人ですね

ネットでひろった話を 
五枚笹 九枚笹というスレッドで書きましたが。
ひょんな ところで つながってきました。

西園寺実氏 西園寺紋は 巴紋らしい。

常盤井・笹井の祖の西園寺 実氏
福島大神宮の社家の笹井は 
祖先を西園寺実氏にしている
 
建久5年(1194年) - 文永6年6月7日(1269年7月7日)
父は准三宮 西園寺公経 母 一条全子

西園寺実氏の     
男・西園寺公相
(四条貞子・俗姓は鷲尾)
(四条隆房と平清盛女子・建礼門院のすぐ下の同母妹の子が 四条隆衡)

妻:四条貞子(四条隆衡女)
女:西園寺姞子(大宮院、1225-1292。 後嵯峨天皇中宮、後深草・亀山両天皇  母

四条貞子(北山准后.1196〜1302.107歳)は
『とはずがたり』巻3「北山准后九十賀」に、
「俗姓は鷲尾(わしのお)で、大納言隆房の孫、隆衡卿の娘


後白河院の寵愛を受けた清盛娘、彼女との間に儲けた隆衡を嫡男としました。 隆衡の娘である貞子は
西園寺実宗の孫である実氏に嫁ぐ。
[57]白石さんからのコメント(2018年05月05日 09時36分40秒 ) パスワード

昭慶門院 の父 は亀山天皇
昭慶門院 のは母 は藤原雅平の娘雅子

雅子の 父は 法性寺雅平藤原雅長の孫)
雅子の 母は 丹波守〔尊卑分脈顕隆卿等孫作丹後守〕
       藤原光氏女。

雅子は 従三位。亀山院女房中納言典侍。
高倉局〔皇親系〕。昭慶門院母)

昭慶門院の父方
をたどると 道長である。

途中 今上天皇直系につながる
という藤原隆方がいる。

父方はわかるのですが 光氏という人は
光雅という人の息子としか わかりません

又 僧成清というひともでるのですが
この人は 父母はだれでしょうか?

[58]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月05日 17時26分02秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

沢山の御教示ありがとうございます。

実は、新情報がございます。

最近、とても親しくさせて頂いている御方なのですが
御実家は「山江村」の宮原家でした!
(嫁いで来られているので今は別の姓です)

「山江村」と言う事で・・
私は、白石様のお父様の御実家がある「葉木」(漢字は大丈夫かな?)について
伺ったのです。
すると!
この方の御実家の宮原家は、その「葉木」の川を挟んだ向かい側の地区であり
さらに、御実家は、その地区の沢山の山や田畑を所有する「宮原家」である事が
解りました!
その方は
「ハギとは隣同士の地区で、めちゃくちゃ近い!高岡家は存じてはいないけれど・・
近すぎるくらい近い地区だから、昔、葉木地区の方と親戚関係があったとしても不思議ではないよね〜(^'^)」
と言われていました!

さらに、その方は
「山奥だけど、すごく良い所だから●●ちゃん(私)を連れて行ってあげたいなぁ〜」
と言って下さいました。\(^o^)/

と言う事で・・
白石様のお父様の御実家のすぐお隣の地区には「宮原家」がありましたよ(p_-)
と言う新情報でした(^'^)

でも・・
私がこの方とお知り合いになったと言う事は
スゴイ偶然だと思います。

では(^'^)
[59]白石さんからのコメント(2018年05月06日 07時17分36秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
少し 勘違い・・・
うちの萩は 五木に向かう道路の山の上にあります

川辺川をはさんだ集落から
山を越えると 山田に行きます
うちの平川の嫁は

一武から来ています
一武と木上は川をはさんで あちらとこちら
同級生の中には 山田の人と結婚した人もいるので

過去には 通婚していたかもしれません
例えば 恒松 坂本など・・・
山の上の萩に四軒 高岡 高田 田中 永田
中腹に林 小野の集落 宮田 松本 村山 もっと上に恒松 山城etc


山ノ下に 尾方 吉田 松本 堀川 荒木 西 川辺 後藤 小山 etc
川向うに 尾方 木下 福島 丸目 中村 山井etc
そして
嫁は 五木から来ている人が結構います

川向の方から山越えすると 山田です
うちの集落には 宮原家は ありません
山田は カヌー大会など 行われたことが
あるようですね





[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月09日 09時40分56秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

お返事遅くなりまして申し訳ございません<m(__)m>

実は、昨日、先日コメントした、実家が山江村(旧山田村)の「宮原家」である方と
お会いしました(^O^)/

でっ!解った事は、やはり、御実家の宮原家は
山江村(旧山田村)の萩(すみません(@_@。漢字を間違えていました((+_+)))の
お隣の地区でした!\(◎o◎)/!
永田家と高田家は御存じのようでした。

ちなみに、この方のお母様の御実家は「土屋家」だと言われていました。
土屋家から旧山田村の宮原家に嫁いで来られた・・と言う事になります。

私が「家は五木の土屋家とは縁戚になります!五木の旦那家の土屋家です。」と伝えると
「土屋家・・何だか不思議ね・・何かあるのかな・・家の母はもちろんお見合い結婚だけど・・」
と言われていました。

そう言えば・・土屋氏と土肥氏は同族で・・
旧宮原村の土肥家と家は縁戚関係になり・・さらに、その土肥家の家紋は「橘紋」
お墓は家の宮原家のすぐ近く・・・むむむっ(p_-)

萩の高田家と永田家を、旧山田村の「宮原家」の方は良く御存じである・・
お父様の御実家の家紋が「橘紋」である事と
宮原の一族との関係・・私やはり無縁じゃないのでは?と思うのですが・・
違うのかなぁ・・・
勝手に推測してすみません(..)

肥後の橘氏・・

先日、白石様が数回に渡ってコメント下さった全国の「宮原姓」について・・
拝見して、太田亮博士の姓氏家系大辞典. 第3巻に記された「宮原氏」について
あらためて読んだのです・・

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/948

橘姓 宮原氏

橘姓 肥後の名族にして、八代郡宮原邑より起こる。

何だか・・鼻がムズムズ(私は・・他の同族の宮原氏と違って名族にはふさわしくない「おっちょこちょい」ですので・・トホホ)

一つ気になったのですが(p_-)
太田亮博士の姓氏家系大辞典. 第3巻に記されていた
蜂須賀系譜・・? あんにゃっ(?_?)
『治部少輔家親に宮原大宮司道後■役私領田九町分云々』
肥後の道後とは、八代郡宮原邑辺りを指すのですが・・治部少輔家親
この方どなただろう・・???
蜂須賀系譜・・??何故???
何だか・・又、新たな謎が(;一_一)

と・・この話は置いといて・・(ー_ー)!!

高岡氏は肥後細川藩の藩士に名が残っていらっしゃいますよね・・
妙に・・気になるのです・・
細川藩内の宮原氏との関係・・

そう言えば・・平江氏と宮原氏は縁戚関係にありました・・

さらに・・白石様の御親戚に「丸目家」がおありになったはずです(p_-)
この「丸目家」・・丸目蔵人の弟の方の子息はお一人「宮原」を名乗られています。
調べました(p_-)

丸目氏と宮原氏はどうも姻戚関係にあったようです・・
丸目氏は元「山本氏」。
白石様・・「山本家」とは御親戚であったと記憶していますが・・
ちなみに・・家も旧宮原村の「山本家」とは親戚です。
祖父を生んだ曾祖母の母は、相良氏に江戸で仕官した「山本吉兵衛」の後裔です。
実は、この山本家に・・ナント平川の曾祖父の弟が婿養子に入っていました!
(後で離縁していました・・ビックリ新事実が見つかっていました(p_-))

私は、白石様の周囲には、
太田亮博士の姓氏家系大辞典. 第3巻に記されていた『橘姓 宮原氏』の影が
見えている・・と思うのですが・・

白石様・・いかがでしょうか(p_-)

うん(?_?)
白石様がお嫌なら・・それはそれで良いですけれど・・(;一_一)
(;一_一)・・((+_+))・・(@_@。

・・・冗談です( ^)o(^ )

勝手な推測でした(..)
すみません。
[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月09日 10時02分38秒 ) パスワード

白石様 追記です。(p_-)

〉うちの集落には 宮原家は ありません

おっと!白石様。
現代ではいらっしゃらないようですが・・

江戸時代までは違いますよ(ー_ー)!!

四浦外城の役人は江戸末期まで・・
「宮原氏」と「蓑田氏」ですよ!!

相良藩士分限帳より

寛永十年(1798年) 四浦外城
蓑田藤兵衛 宮原又七

天保元年(1830年) 四浦外城
蓑田又左衛門 宮原貞助

安政年間(1854年〜1859年)四浦外城
宮原伴作

四浦は江戸末期まで「宮原氏」と非常に繋がりがあったのです(p_-)

白石様ぁ・・・マテマテェ〜!!!
宮原の一族の包囲網?を駆使して・・
私は白石様との御縁を必ず見つけ出すのだぁ〜!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

では(^'^)
[62]白石さんからのコメント(2018年05月10日 08時14分04秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
コメントありがとうございます

表題から大分はずれてきたなあ とは
思いますが
過去をさかのぼれば 結局皆
つながりつながり

御親戚様になりますもんね
私には なんのなにがしの子孫と
みやちゃんみたいに 名指しで言えないのが
もどかしいですが・・・

うちの集落の川をはさんだお向かいに
平家城跡があり 蓑田さんが
案内説明されたそうです

蓑田さんは 同級生にもいました
あいにく 早世されましたが
背が高いひとでした

宮原家
同級生の上村さんが 川下の宮原家に嫁いでいます
上村は一般的に相良氏族といわれ
何か 縁があったかもしれません

うちの集落から何時頃宮原家が出て行かれたか
わかりませんが
武士が失職したころ 川下に移られたかもしれません

うちの高岡からは 岡原の方に嫁入っている人がいます

市房神宮のお鏡を預かる田山家
御開帳は平成三年だったので 次は五十年後か七十年後か
もしかしたらもっとはやいかわかりませんが

人の一生のうち二度も見ることができる人は たいそうな
幸せな人だ といわれているそうで
私はでませんでしたが 兄は 三年の御開帳にでたそうです

ごくごく 近親のものだけで行われるようで
一般には 広く知られていません
その集落に 恒松があり 恒松は 相良晴弘の側室でしたか

の 名前に出てきます 田代集落があり 田代もここらにからんで
でることばです
山北 山城などもあります

何かの乱をさけて 避難していたのではないか?
と 思われるほど 山の中です
うちの高岡からは 市房が見通せ 

隣の家は永田家 じいさまはまじないをする と
いうことで 医者といって 昔は 
大病院などなく 

高岡だけで 戸籍にいるのは 三十八人くらいなので
一つの家にひしめき合っていたわけで
永田も高田も田中もあわせれば

結構な人がひしめいていたわけです
医者の心得がある人がいれば
手はあるわけです

現在の核家族からは 想像できない話ですね

山田萩
山田の葉木には 平河の霊社があったと伝える
うちの萩は 萩です
山の地番も 萩で書かれます

現在 地図に出る位置は 少し ずれていて
川辺川を五木方面へさかのぼり 東北の
山の上が萩
そのちょうど 川向の右上あたりに 小柏

地図では 小柏が少し 川下にありますが
位置が違います

小柏に 同級生の小川君がいて この人も早世しましたが

背が高く 通学に時間がかかり 不利な中
不思議に勉強ができた人でした

もとから 頭が違うとばい とは
皆がいっていたことでした

A組は美人ぞろいでしたもんね
顔立ちがよく あごがすうっととじて
美人と思う人たちでした

川辺さんもそのなかでした
こうやって思い出すと 結構特徴があるわけで
尾方 は 同級生ではありませんが

肖像画にある 家康の顔のように ぐわっと
した感じです
ところが うちの長兄の嫁は 川辺さんのように

あごが美しくとじて 色白く
まさしく 女女の人です
ある時期まで 閉鎖的だったあかしではないのか?

と思うのです
人吉にでると 年寄り世代の人は だから 生きていれば
百歳はゆうに越している人たちは

四浦は平家んしいのおらいたところじゃもんな
といっていました

足利の頃
はしや茶わんが流れてきて
初めて 上流に人が住んでいることがわかった
というくらいのところですから

外との交流もあまりなく 暮らしていたようです 



 
















[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月10日 18時15分14秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)
今、アルバイトから帰って参りました。

四浦の平家城跡・・
ですね!そうですね!
平安時代末期まで、平家城と言われた「お城」は
球磨郡内には数か所あって
四浦と・・確か・・そうだ!柳瀬辺りにもありました!

所で・・何で?球磨は王家領だったのでしょうね(p_-)

ここを考えると・・実に面白いです(p_-)

古代に繋がるからかなぁ〜

記紀の記述通りだったら・・霧島辺りが王家領であっても
不思議ではないのに・・

あっ!所で(p_-)
マタマタ本題から外れますが・・
私、発見していたのです!

球磨鞍神瀬地区の集落名なのですが・・
其々の集落にはその集落名と同じ姓の方々が沢山住んでいらっしゃるのです。
最近、新聞を見ていて気が付きました。
例えば「小川地区」には小川さんが代々住する・・みたいな・・

でっ!発見とは!
球磨村神瀬地区には松野集落がありました!
そこに住する方々の名には「松野氏」が複数・・

球磨郡内の松野姓は・・ここ球磨村神瀬松野集落に住する方々が殆どです(p_-)
思わず・・みい〜つけたぁ〜と
言ってしましました(p_-)

地図はこちらです
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.37.28.490N32.18.57.880/zoom/8/

縮小地図
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.37.28.490N32.18.57.880/zoom/7/

周辺を見て下さい。
国見山の外に
私がブログに書いていた箙瀬
他、芦北の白木や白石
近いですねぇ〜(-.-)

四浦(球磨弁ではヨ〜ラ)

そう言えば・・球磨村渡には三ケ浦(さんがうら)
伴郷に近い所です・・

四浦に三ケ浦・・何だかなぁ〜
山なのに何故「浦」なのでしょうねぇ〜(p_-)

三ケ浦と三浦って似ていると思いません? (p_-)

取り留めの無い事を書きましたが(バイトで疲れているのかな?)

でも、何か「書いておかなければ!」と言う妙な気持ちが湧いてきて
書きました・・

白石様がおっしゃる通り
遡れば皆親戚ですね(^'^)

私、最近、「隠ぺい」と言う言葉を頻繁に使いますが
「隠ぺい」は何の為に必要だったのか?

それは、「守る為」だと思います・・

結局、古代まで遡れば「同族」「縁者」の人達が
敵や味方、勝った負けたは関係なく・・
何かの意思で、「守る為」に隠す必要があった・・

そう考えています。

きっと、古代からの「絆」がそうさせたのだと・・
思っています・・

本当に取り留めもない事ばかり書いて
すみませんでした(..)
[64]白石さんからのコメント(2018年05月10日 21時36分14秒 ) パスワード

みやちゃん 一日お疲れ様です

高丘系図につく昭慶門院
が養育した 世良親王

ウィキより
世良親王 ときよししんのう
?−1330 鎌倉時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
母は★西園寺(橋本)実俊(さねとし)の娘。

橋本姓は 五木にいて
五木豆腐の製造をしている
以前 テレビで豆腐の紹介をしていて
橋本 平 の言葉がでていました

豆腐は 固豆腐で平家豆腐ともいい
山うに豆腐などともいう

これを書いていて またまた
山うに豆腐が食べたくなりました
平野さんの水仙茶が届いたら
山うに豆腐を注文しようと思っています

夏の暑い季節 もろみ豆腐なんか
お茶漬けにしてながしこむと 食欲が
ますようです。

亀山天皇の皇女昭慶門院に養育され,
北畠親房(ちかふさ)が傅(めのと)をつとめる。

みやちゃんの楓紋をつかう人たちより

西園寺公経の曾祖父である平頼盛。
この方の子息「平光盛(八木光盛)」は八木
氏を名乗り、さらに「平光盛(八木光盛)」
は人吉庄の預所でもあった。 子息は 八木盛定
(薩摩八木氏) 八木宣盛 平川景家(薩摩八
木氏と共に行動) 旧肥後国 球磨郡久米郷宮原村
の宮 ...

世良親王は
大宰帥(だざいのそち),上野(こうずけの)太守。
賢明で父から期待されたが,元徳2年9月18日早世。
遺言で親王の邸宅に臨川(りんせん)寺がひらかれた。
名は「よよし」「つぎなが」ともよむ。

五木と頼盛がつながってきました

西園寺公経と橘公業はおじ おい の間柄
と 本で見たことがあります

まだ なんで おじ おいなのかつかんで
おりませんが
橘も親戚になってくるのでしょうね


[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月11日 13時09分36秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

〉西園寺公経と橘公業はおじ おい の間柄

(゜-゜)・・・(?_?) (?_?) (?_?) (?_?)

なっ・・ナンデストぉ〜!!? \(゜ロ\)(/ロ゜)/

でも・・それって
橘公経と橘公業のお話では・・?
系図で橘公長の弟に飛騨守公経と言う方はいらっしゃいますが・・
確かに飛騨守橘公経は橘公業のおじにはなられますけど・・?

でも・・しかし(p_-)

一つ気になる事はあるのですよねぇ・・(p_-)

橘公業の妻。実は3人いらっしゃって
お二人は「藤原氏女」と記された方々で・・
こちらの「藤原氏女」と橘公業の間に産まれた方が「薬上助局」
森頼定の妻です。
お二人の「藤原氏女」の方々が亡くなった後に後妻となられた方が
梶原景時の孫娘であり梶原景高の娘であられる女性です。

系図には後妻の方の「実家」についてはちゃんと記されているのに
「藤原氏女」この方々の御実家については一切記されていません・・・

何処の「藤原氏」・・「某家」だったのかな??
と、とても気にはなっていました・・・

おそらく・・「藤原氏女」の方々を橘公業が妻としていた時期は・・
橘公長・橘公業・橘公忠が「平知盛」この方の家人であった頃だとは
推測はしているのですが・・

さらに・・橘公長の妻の方も・・解らない・・

妙だと思いませんか?
後妻の方の実家はちゃんと解っているのに(記載されているのに)
先妻の方々の御実家は何も書かれていない・・
と言うか、何と言うか・・あえて書いていない・・

冷静に考えると・・
宮原氏系図・渋江氏系図にも・・何か「隠されている」事がありそうな気がします・・

しかし(ー_ー)!!
白石様の「お言葉」により、色々調べていて
私、一つ気が付いた事がありました!

「西園寺公経」この方が生まれた年は 承安元年(1171年)
曾祖父である「平頼盛」この方は
生誕 長承2年(1133年)
死没 文治2年6月2日(1186年6月20日)

つまり(p_-)
「西園寺公経」この方が生まれた時にはもちろん「平頼盛」この方はお元気であり
さらに承安元年(1171年)当時は平家全盛期の時代であり
承安元年(1171年)と言えば建礼門院徳子様が入内された年でもありました。

鹿ヶ谷事件より6年前の事です。

私ですね・・白石様・・
自分が調べている「先祖の真実」は全て「鹿ヶ谷事件」から始まっているような
気がしてなりません・・

「助かった方々」は皆さん・・関係している・・
書いてはいけない言葉だったのかもしれない・・けど・・
自分は・・何だか直接関係するDNA(祖母方の先祖)を受け継いでいるような気がして・・
ずっと・・胸の中に秘めていました・・
「鹿ヶ谷事件」と宮原の一族の先祖「橘氏」も、何らかの関わりがあるような
気がしてなりません・・
一昨年の大河ドラマをずっと見ていて、小野但馬守、この方の生き方が
強烈に心に残りました。
宮原の一族の先祖は「小野氏」と姻戚関係にあった事は以前からコメントしていますので
御存じの事と思います。
私が強烈に心に残った小野但馬守、この方の生き方とは
「何かを守る為に・・
敵をだます為に、味方も徹底的にだます・・」
小野但馬守、この方は一貫して・・貫き通されましたね。
非常に心に残りました・・

それと・・
私が、宮崎の「高鍋」で産まれて、球磨で育った事にも何か意味があるのかもしれません・・
そうじゃなければ、私は宮崎の「高鍋」に視点を向ける事は出来なかった・・

何だか今日は私、心の内を白石様に素直にお伝えしていますね・・

・・・白石様
私、本当は、白石様や皆様にお伝えしていない事が沢山あるのです・・
調査を始めてからずっと「隠して」いる事が沢山あるのです・・
最近、ようやく書く勇気が出てきて、と言うか書かなければと考える事が出来てきて
少しずつ書かせては頂いていましたが・・

平川家についての方で丸三つ柏服部様から「類は友を呼ぶ」と言うお言葉を頂いて
やはり、書かせて頂こうと決心した事が「二つ」あります。
平川家についての方で書こうか・・とも考えたのですが
私を最初からずっと応援して下さっている「白石様」に直接伝えるような形で
書かせて頂くのが一番かと思い、
こちらに書かせて頂く事にしました。

今日は、かなり長くなっていますが、御了承下さい。

書いていなかった「父や私の御縁」です。

@「秋月姫」さんについて
私が子供の頃、まだ、宮崎に住んでいた時の話です。
父の勤務先に・・実は「日向高鍋藩 藩主 秋月家」の直系でいらっしゃる女性が勤務されていらっしゃいました。
父と同じフロアにいらっしゃって、父や他の同僚の方々はこの方の事を
親しみを込めてニックネームで「秋月姫さん」とお呼びしていました。
以下は大変失礼ながらこの方を「秋月姫さん」とお書き致します。

父の仕事上、職場には全国から「精鋭」と呼ばれる方々が集まっていらっしゃったのですが
父の大親友で今でも交流がある方は「佐久間」さんです。
「秋月姫さん」と「佐久間さん」の事は私もしっかりと覚えています。
写真も家に残っています。
父の「職場」で開催される「航●祭」や催し事には、私は物心がつかない
すごく小さい時から父に連れられて行っていました。
父の話では、私は当時「かわいかった」そうで(自分で書いて恥ずかしい・・)
父の職場の女性達が「宏●ちゃんおいで、抱っこしよう」と皆さん私を可愛がって下さっていたのですが・・
私は、誰にでも抱っこされる事はなく(ー_ー)!!
「おいで」と言われても、父の腕にだっこされていて、すぐに「プイ」と横を向いていたそうなのですが
何故か「秋月さん」が「おいで」と言われると、自分から、秋月さんに腕を伸ばして
抱っこして頂いていたそうです。
この話は、大人になっても歴史を全く知らない時にも何度も父に聞かされていました。
ある年の航●祭の時、私は父の職場の方々に遊んで頂いていて、父が用事でその場を離れて戻ってくると・・
私は「秋月姫さん」の腕に抱かれて「ギャンギャン」火が付いたように泣いていたそうです。
父の姿を見ると「パパのバカ!パパのバカ」と言いながら指をくわえて安心して
秋月姫さんの腕の中で眠り始めたそうです。
「宏●ちゃん、パパの姿が見えなくなったから寂しくなったのね。泣きだしたから、私が抱っこしていました」
と言われたそうで・・
今、考えると・・大それた子供だ・・と恐縮してしまいます(..)

私が抱っこされるのは「秋月姫さん」と「佐久間さん」と「溝口さん」だけだったそうで・・
他の男性の方々が「おいで」と言われてもすぐに「プイ」と横を向いていたそうです。
(何だ・・この子供は・・と私なら考えます・・(;一_一) )

私が、宮崎に住んでいた8歳までは、父の職場の方々に、私は大変お世話になっていました(..)
迷子になった事も数回・・トホホ((+_+))
父と母が離婚して、球磨の祖母の元に預けられた後も、皆さん、私達姉弟を心配して下さり、様子を父に聞かれていたそうです。

私が中学生の時だったと思うのですが・・
歴史が苦手な私に父は
「お前を可愛がって下さった秋月さんは、世が世なればお姫様だったんだぞ」
と教えてくれて、さらに
「秋月さんのお父様にもおじい様にも名前に”たね”と言う字が付いているって秋月さんが言っていた」
と言う事も教えてくれました。
がっ・・私は歴史が苦手だったので、「秋月のお姉さんは本当はお姫様だったんだ・・」と言うくらいしか理解する事が出来ないでいました・・

月日は流れ・・
私が突然「歴史に目覚め」、相良氏の歴史を勉強する事になり「秋月氏」が登場した時の
私の驚き!・・御理解頂けますでしょうか・・\(◎o◎)/!
父から聞いていた「秋月さんのお父様とおじい様、代々”たね”の文字が付くお名前」
この事が、どう言う意味であったのか!ようやく理解出来た時の私の驚き!
でも・・私を可愛がって下さった「秋月のお姉さん」、「秋月姫さん」の事は
どうしても、書く事が出来ませんでした。
書けなかった・・
でも、ようやく書いてもいいかな・・と思う事が出来るようになり
今回書かせて頂きました・・
こちらのスレッドを「秋月姫さん」いえ、秋月様がご覧になられる事はないとは
思いますが、この場をお借りしてお礼を申し上げます。
「私は、このように、ようやく歴史を勉強する事が出来るようになりました
色々ありましたが、無事に成長して、今は父と暮らしています。
子供の頃は大変お世話になりました。 ありがとうございます」

A「相良君」の事。
実は・・私・・
高校の3年間通して「相良君」とはクラスメートだったのです!
本当に初めて書きました。
隠していてすみません(..)
先祖を調べ始めてすぐに「相良氏」が登場した時に、書こうか・・どうしようか・・
と悩んだのですが・・今まで、ずっと隠していました。
白石様、そして皆様、本当にすみませんでした。

球磨に戻り、「相良姓」が球磨・人吉地方には極端に少ない事を知り
尚更、書けなくなってしまいました・・
極端に少ない・・それはそうですよね・・相良藩当主家「相良家」の名を継いだ方々は「嫡男の系」のみで
球磨に居る人達も「相良」を勝手に名乗る事など恐れ多くて、出来るはずがありません・・

相良君はクラスメートから当然の如く、ニックネームは「殿」と呼ばれていました。
私は高校入学の初日、この相良君にとんでもない事を言ってしまったのです・・
偶然にも、席が隣通しで、机をピタッとくっつけた状態となり・・
隣に座っている相良君に対して、私は・・
「ねえ!相良君の御先祖様は私のばあちゃんの御先祖様を滅ぼしたんだよ!」
「家のばあちゃんの実家は平川家だけん!」
と・・
すると相良君は
「そんな事、突然、わたくしに言われても・・」
「でも、滅ぼしたって言うけど・・現に宮原さんはここに居る。おばあちゃんは
”平川さん”なんやろ?・・」
と・・
私はそう言われて、頭が(?_?)・・となり、それ以降「あまり考えないでおこう(^O^)/」
と思うようになりました・・・
それに相良君が自分の事を「わたくし」と言う事に、衝撃を受け
何だかこの人、他の人とは違うな〜と・・
さらに家に帰って「私が相良君に言った事」を祖母に話したら
祖母は「相良さんにはお世話になったのだから、いらん事(失礼な事)を言ったらいけん!」
と叱られました・・

席が隣同士になった事がきっかけで、私は相良君ととても仲良しになりました。
相良君は独特の雰囲気を持った人で、大人しく、地学とか興味を持って積極的に調べていました。
そんな相良君とは正反対のやんちゃなお喋りな私は、
しょっちゅう、相良君の邪魔をして・・
そんな私に相良君はいつも笑いながら「宮原さんうるさい!」と言っていました。
相良君とクラスいえ、学校でも段々目立つ存在となってきた私が仲良しなのを
他のクラスの人達は当然「不思議」がっていました。

相良君のお家にクラスメート数人で遊びに行った事もあります。
甲冑や兜等を見せてくれましたが・・
歴史に関心のない私は・・お母様が出して下さった「お菓子」の方が気になって
仕方ありませんでした・・

クラスでキャンプに何度も行ったりと相良君やクラスメートとの思い出は沢山あります。
そう言えば・・
歴史の担当だった先生は、特別進学クラスだった私の組を
冗談で「相良藩」をもじって「相良班」と呼んでいました・・
相良君以外に家のクラスには
私「宮原」の他、「鶴田」「桑原」「米良」「蓑毛」「東」「上村」「右田」
「上田」「久保田」「北原」「田尻」「別府」「藤原」「大石」等
と言った人達がいて・・
私、実は相良藩内の事をコメント書いている時に・・
何だかクラスメートの御先祖様を調べているみたいだ・・と考えていた事は
度々あったのです・・

でも・・相良君との思い出で強烈に残っている二つの出来事があります。
相良君が高熱を出して、数日学校を休んだ時に
相良君の親友の「鶴田君」と「桑原君」がお見舞いに行くと・・
相良君が「紫のハチマキ?」みたいな物を頭に巻いていた・・
と真顔で言うので、私「本当!?」相良君が元気になったら聞いてみよう(^O^)/
と考えました(p_-)
後日、元気に登校してきた相良君に私は
「相良君!鶴田君と桑原君が、相良君が紫のハチマキ?を巻いていたって言うけど本当?」
と聞くと・・(鶴田君と桑原君は・・バカ宮原言うな!と言っていましたが・・)
相良君は
「うん!ハチマキじゃないけど巻いていたよ。えっ?宮原さんは病気の時に巻かないの?」
と聞くので・・私は思わず
「うん!巻くよ!私はピンク!」と大きな声で答えると
相良君は「えっ?ピンク?」と言いながら、後で笑っていました。
でも(ー_ー)!!この件、すぐに他のクラスに伝わって・・
他のクラスの友達が「ねえ?病気の時にピンクのハチマキ巻くって本当?」と私に聞くので
「嘘に決まっているでしょうが!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
となった事もよ〜く憶えています。

相良君との思い出・・最後に会ったのは高校を卒業してすぐです・・
私、実は嘘を書いていました・・
高校を卒業してすぐに免許取立ての友達と白髪岳の林道に登った話を
かなり前に書いたと思うのですが・・
その時に一緒に行ったのは女子ばかりだったと書いたのですが・・実は嘘です(..)

一緒に行ったのは・・「相良君」と「鶴田君」と「蓑毛さん」と「上村さん」と
私「宮原」でした(..)

以前、コメントにこの時の事を書いた時に、
私が怖がって「高いよ!怖いよ!帰る!!」と叫んだ時に
「うるさい!宮原!静かにして!」と言われた事も書いたと思うのですが・・
言ったのは本当は「相良君」です・・

ようやく、球磨盆地が見渡せる所まで行って、皆で車を降りて
綺麗ね・・来て良かったね・・と感動した事も書いていたと思うのですが
一緒に感動した仲間の一人が相良君でした。

私の親友の蓑毛さんが帰省した時に、
「相良君ね●●ちゃん(私)が学校で問題を起こすたびに
”宮原どうしたんだろう・・”ってすごく心配していたんだよ・・」
って教えてくれました。
私が突然歴史に目覚めた事を知った蓑毛さんは
「今度、相良君に一緒に会おうよ!」
と言いました・
あの「やんちゃ娘」がおばさんになって突然歴史に目覚めたと知ったら
相良君・・きっとビックリするだろうな・・

でも、ずっと会っていないけど、相良君は私の心にずっと、ず〜っと残っている
大事なクラスメートの一人です(^'^)

突然の告白「二つ」の話に
白石様やこのスレッドをご覧下さっている皆様は驚かれた事だと思います。
今まで黙っていて・・すみませんでした。

でも、私にはとても大事な御縁、楽しい思いでの「御縁」があった事を
書いておかなければ・・
と思い、書かせて頂きました。
[66]白石さんからのコメント(2018年05月11日 19時11分15秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
公経
大きな赤い表紙の事典だったと思います

公経が 伊予をほしがり 公業は 幕府に愁訴したけど
公経が 力がある人 確か 幕府の親戚
だったので 幕府は取り合わず
公経に 伊予が与えられた という ような
内容だったと思います

領地については 記憶違いがあるかも・・・
とにかく 公経と公業は おじ おいだと書いてありました

そういう 昔の本は 図書館でも 外にはだしていないようになり
目につかなくなりました


相良さん
相良と直接名乗る家は 故郷でもありませんでしたね
相良氏族がつかった苗字で 名乗っていて

相良さんという家は 大阪で みました
家の近くの古い歴史があるところ 総持寺の近く
それから 私が初めて就職した会社のひと

なつかしい苗字だと思ってよんでいました
ひょんなところで つながってくるのですね

[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月12日 10時31分35秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

〉相良さんという家は 大阪で みました

九州内における現在の「相良家」の多くは
肥前(佐賀県)に戦国時代に移られた「相良氏」の末裔の方々です。
医家として続いてこられたようです。
実は、私も北九州に住んでいる時に「相良さん」とは御一緒に仕事をしていました。
さらに、私が住んでいた所のすぐ近くには「相良クリニック」がありました。
だから、私は「相良さん」は結構沢山いらっしゃるものだと思っていました。

だけど、球磨に戻ってからは球磨・人吉地区の「相良家」は非常に少ない事を知りました。
〉相良と直接名乗る家は 故郷でもありませんでしたね
白石様がおっしゃる通りです。

現在、球磨・人吉地区には「相良家」は4軒しかありません。
この方々がどう言う方々なのかを勉強致しました。

球磨・人吉地区の「相良家」の方々は
江戸時代後期の「相良家当主」の方々に直接繋がる系の方々です。

その4軒の「相良家」の1軒の御子息が、私が高校3年間を通してずっとクラスメートだった
「相良君」です。

だから・・私は、今までコメントに書く事を控え続けてきたのです・・
書こうと何度も思ったのですが書けないでいたのです・・

友人の蓑毛さんと話したように、蓑毛さんが帰省した際には「相良君」と
会って、色々お話しようと考えています。

高校入学直後に私が「相良君」に言った「言葉」もお詫びしなければと考えています。
「平河氏について色々勉強した結果、相良君が私に最初に言った言葉の意味が
理解出来るようになりました」
と伝えなければと考えています。

相良君は私に
「でも、滅ぼしたって言うけど・・現に宮原さんはここに居る。おばあちゃんは
”平川さん”なんやろ?・・」
と言っていました。

確かに・・滅ぼされているのであれば、私やたけぽん様はこの世には存在しません・・

連絡先は蓑毛さんが知っているので
今から「相良君」に会えるのを楽しみにしています。

でも・・
(;一_一) 相良君・・宮原はうるさいから会いたくない・・って言わないでしょうか・・((+_+))

私、相良君に会ったら・・高校の時の歴史を全く理解していない私ではないので・・
思わず・・
「ははっ<m(__)m> 殿、お久しぶりでございます<m(__)m>」
とか・・言いそうな気がします・・

どうしよう・・(@_@。
私、自習している相良君にちょっかいを出して、
消しゴムに♡ハートとか書いて遊んだ記憶が・・微かに・・

松田聖子の物まねを自習時間にしていて・・
「宮原さん、自習せんね!」と言われたような・・記憶も微かに・・ある・・

((+_+))

でも、相良君はいつもそんな私を見て、友人の「鶴田君」達と笑っていました。

相良君の友人の「桑●君」はストレートで「防●大学」に受かっていて・・
相良君と桑●君が勉強している所に私が行くと
桑●君が
「宮原、お願いだから今はじゃませんで・・」と言われた記憶も確かにある・・

そう言えば・・高校の同級会・・私案内が来てもずっと行かなかったから・・
最近は案内すらありません・・

(;一_一)・・・みんな・・うるさい私に会いたくないかもしれない・・

でも(ー_ー)!!
生まれ変わったような私?に皆驚いてくれると思います(p_-)

そう言えば・・先生に一度
「宮原、お前は昔だったら”おしゃもう”(おしとやか)にしとかないかんかったんぞっ!(しておかなければいけなかったのだぞ!)」
と言われた事もあります・・

トホホ・・((+_+))・・(@_@。

でも、「相良君との御縁」、本当の事をコメントに書いて
何だか・・心のつかえが取れました。

我が「相良藩」は相良氏が御殿様でいらっしゃったのですから
殿の末裔の方と御一緒出来て、
その事を私は、今、心から誇りに思っています。

もっと・・学生の時にちゃんとしておけば良かった・・とは反省していますが(..)

では(^'^)
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月12日 15時48分11秒 ) パスワード

あらためまして
白石様、今日は(^'^)

実は、大発見を致しました!

球磨郡に「松葉」の地名を発見致しました!

詳しくは平川家について の「コメント50」で書いています。
どうぞ、ご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101619_50.html

私・・妙な感から発生した「推測の方向」・・「ターゲット」は間違っていなかったような
気がしています。

(..)
[69]白石さんからのコメント(2018年05月12日 17時39分51秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
偶然も偶然!!
数分前まで 深水の早田さんと 話していました
彼女こそ 

私が帯状疱疹にかかった時 なおしてくださった
永田のじいさまの子供さんです
ご主人の早田氏が もともと 深水にゆかりの人かどうか?

今度聞いてみます
というのも 一度五木に住んでいて
あとから 郵便局に勤めていたお兄さんと
近くに住むようになったからです

だから 深水には あとから・・・
でも すごい 偶然ですね。
彼女は 点数がすべての 学生時代は
あまりめだちませんでした

といって 悪い点ではなく 90何点とかけっこう
とっていたと思います
現在はボランティア活動に忙しく
同窓会でも楽しい存在の人です

スコップ三味線なんか みんな
わいわい 盛り上がりました

今度 早田のこと 詳しく 聞いてみますね
[70]白石さんからのコメント(2018年05月12日 20時40分59秒 ) パスワード

追 永田のじい様の娘さん

まちがいです
孫娘です
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月12日 22時20分34秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^'^)

本当に、偶然ですね!

御友人の早田様からのお話、楽しみにお待ち致します。

所で・・
私、今日、立て続けに気が付いた事があります。

平川家についての方で詳しく書くつもりです。

お待ち下さい(^'^)
[72]白石さんからのコメント(2018年05月13日 08時24分13秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
早田の系図 7000傑様サイトで
みていました

そしたら あらあ
木原氏が・・・
木原の先は詳しくありませんでしたが

うちの平江の嫁方に木原氏
貴名氏が高岡 白石に関与しているとき

ヤマグチをとおして
何か かすっているのかも?と思いました
木原は 大蔵氏の方にもおります
岩門氏の方からその先に 天草氏がおり

四郎時貞は こちらの方かと・・・
四郎の養父が 百姓をしていた 益田氏
うちの佐田は山口の方で
おそらく 毛利の永代家老益田氏の上席家臣

ぼんぼんで育って 禁門の変に巻き込まれ
切腹を余儀なくされたか?
ほかには 女をからんでの 刃傷ざたか?
何もわかりません
切腹とは 上級武士に許された作法で

「もう !! おじいちゃん 何やってんのよう もう!!
子孫は どうなるのか?って 考えなかったの?!!」
といっても どうなることでもなく

子供を
お金にあまやかしてはだめですね

宇都宮の佐田文書には 宇都宮が肥後の守護職だったことが
書いてあり
毛利は関ケ原以前は 7か国の太守であり
義兄弟であった 大内氏も6カ国だったか守護であり

細川氏入国以前の話があると思っています
佐田文書の解析がまたれる と 思います
もう できているのかも?

敗戦がわかったころ 特攻が飛び立っていきましたが
この第一陣に 佐田少尉がおります
即席の戦力になりうる人材

つまり 高学歴の人  卒業と同時に
曹長の資格を有して 学鷲との愛称でよばれた
長崎の人とのことです

佐田も結構あちこちにいるわけで
佐田まさしさんも 確か 近くではなかったか?
と思いますが

お顔が つるんとした感じが 溝口君をイメージさせるのです
溝口氏
相良氏に養子に入った 新発田藩主溝口氏

相良氏は みやちゃんも 過去にかいておられたように
佐々木
佐々木は 有名なところでは 沙沙貴神社の宇田源氏佐々木氏
富田でもあり 塩谷でもあります

沙沙貴神社で 女子があととりになった時 清和源氏の男子が婿に入り
それより 系は清和源氏にうつる

とあります

相良役場あたりに石橋があるとのことですが
以前岩国錦帯橋の棟梁を務めた人 宮原氏
石工だったとか 大工だったとかではなく

こういう知識をもち 棟梁をつとめる力量の
人 として考えると 
秀吉がうそぶいた
「上は天文から下は地のことまで」

という さまざまな知識を持った一族が宮原と
理解できると思います

[73]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月14日 07時47分29秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

お返事遅くなりまして申し訳ございません。

実は白石様にぜひご覧頂きたい情報に気が付いて
昨日、あらためて調査致しておりました。

平川家についての方で詳しく記させて頂いております。

白石様・・
お父様は白石様が御存じの「宮原さん」(宮原家)の方に
「菅原氏だ」とおっしゃっていらした事を
伺った記憶があるのですが・・

ぜひ
平川家についての内容をご覧ください。
[74]白石さんからのコメント(2018年05月14日 19時28分01秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
あの 宮原さんは お母さんが 免田の方の
人でした

野原というところから 途中から入ってきたのです
熊本の方へ 移っていきました

ところで 今日は 日蓮宗のことを 考えていました
肥後高岡系図というのに
本能寺 本証坊という言葉があります

なんだろうと ずっと 思っていたのですが
法華経ですね
のち 天台宗 日蓮宗の所依になった

鳩摩羅什の訳が有名
606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。

こうしてみると どうにも 日蓮とはなれられない ようです
(笑)
信仰は自由ですから うちは 真宗です

早田さんは なんだろう?と思いますが

深水の方に 阿部寺があり お雛様をいっぱい飾っています
深水はうちとは違う白石が結構あり 
お寺も別にもっておられます
所右衛門の系のところです

阿部 白石 セットでいますね




[75]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月15日 04時21分39秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

今朝は、主人の出勤が早朝3時でしたので早起きです。
私は今日は、アルバイトに行ってきます。(^'^)

お父様が「菅原氏」とおっしゃった相良村の「宮原家」のお話。
今になって、すごく重要な「鍵」であるのでは・・
と、とても参考になりました。
橘姓の「宮原氏」と菅原氏に近い「宮原氏」が球磨には共存していた・・
と言う事ですね。

私、御質問を書いてから非常に気になって、今までとは「別の視点」で
「橘氏」と「百済」と「古代」のキーワードで調べてみたのですが
様々な「自論」を書かれていらっしゃる方々が沢山いらした事に
気が付いて、とても驚いています・・
平川家についての方で書かせて頂くつもりです。

唐突ですが・・
八代神社の御由緒を・・ちゃんと理解していなかった・・
大反省いたしております。

本能寺は 法華宗(日蓮宗)
高岡氏系図 本証坊

そうでしたね!私、お名前や添え書きの部分のみが気になって調べていましたが・・
確かに 法華宗(日蓮宗)の僧でいらした・・・

所有する書籍「九州相良の寺院資料」をもう一度読み返したいと思います。

私、以前も書いたと思うのですが
相良村の白石様、研究会で御一緒致しております。
今月もお会いすると思いますので
お話を詳しく伺いたいと思っています。

相良藩は浄土真宗を徹底的に「禁制」していましたね。
御法度により「禁制」された、その最たる「理由」を確か私は書いていなかったと思います。
それは・・
一向宗禁制の由来とは・・実は
加賀国(石川県)守護富樫政親、この方が関係しているのです。

肥後国 くまもとの歴史様 サイトで詳しく記されています。
相良藩と一向宗禁制
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364439.html

【一向宗禁制の由来】
江戸時代、一向宗(浄土真宗)を禁じたのは、全国でも相良藩と島津藩だけである。相良領内の禁制は島津藩よりも古く、室町時代に始まる。

天文24年(1555)2月7日に発布された『晴広様被仰定候條々』(相良家文書)の中で初めて『一向宗之事、いよいよ法度たるべく候、すでに加賀の白山もえ候事、説々 然候事・・・』と見える。これによると、すでに一向宗は禁制されていたとも考えられる。

また長享2年(1488)、加賀国(石川県)守護富樫政親が本願寺門徒の一揆勢に攻め滅ぼされた。このことが、戦国大名相良氏にとっては最も脅威となったようである。

===================================================

★『一向宗之事、いよいよ法度たるべく候、すでに加賀の白山もえ候事、説々 然候事・・・』

★長享2年(1488)、加賀国(石川県)守護富樫政親が本願寺門徒の一揆勢に攻め滅ぼされた。このことが・・

私、この件を今まで書く事を控えていました・・
もっと検証してからと・・

しかし、白石様
御記憶して頂けていると思いますが
加賀国(石川県)守護富樫政親・・富樫氏
富樫氏とは・・藤原師高を富樫氏の「一族」と書かれていた「富樫氏」です。

実は
私が椎葉村で発見した事の「一つ」はこの「富樫氏」の影が見えた事だったのです!
詳しくは、後日、平川家についての方でちゃんと書きます。
先月、「書きます」と書いて、その後色々な発見があったので
書くまでに至っていなかったのですが
逆に、今の状況の方が「書きやすく」なりました。
「中原氏」と「球磨」がようやく繋がったからです。
中原氏の後裔である「方々」が球磨の「皆越氏・槻木氏」であった事が
解ったからです。

平河師高と言う方の「真実」に近づいていると思います。

さらに
全国の「平河氏(平川氏)」
平頼盛の系・戸次氏の系・六角氏(佐々木氏)の系・三善氏の系・渋谷氏の系
全て「球磨」との繋がりがようやく見えてきました。
「全て」繋がっているようです・・
この事も含め、これから、順を追って、皆様にお伝えしていこうと
思います。

順を追って書かないと・・中々複雑すぎて「伝わりにくい」と思いますので
文章をまとめながら書かせて頂くつもりです。

少々、お待ち下さい(..)

でも・・私の「妙な感」
調査の「方向性」はおそらく・・間違ってはいなかったと思います。

ここまで成長?出来ました。
私に根気よく歴史を教えて下さった白石様に
心から感謝致しております。
ありがとうございます。

(^'^)


[76]白石さんからのコメント(2018年05月15日 07時49分26秒 ) パスワード

いつき?ああ 鯖街道でしょ!!
運転手さんとの会話です

「おくさん なまりのきつかですね どこですか?」
「五木の子守歌 ごぞんじですか? その 五木の近くです」

で 上の鯖街道がでてきたのですが・・・
「昔ですね 日本海でとれた鯖を塩漬けにして 山越えして
持ち込んできたっですよ。ついたころは塩梅ように味がついて
そりゃあ もう 絶品にしあがったもんですよ おばま いうてですね 秀吉のほら・・・」
「ああ!! おしん」
「そう そう」

と会話らしくもなく 運転手さんの場所の勘違いから
話がすすみましたが
滋賀のおくあたりは 五家荘があり

相楽氏も九州に行くとき 通って行ったと
聞いています
丹波から出雲あたりは 古くの頃の
記憶があるところですね

鞍馬の六芒星
鞍馬寺の案内を見ていましたら
六芒星があるのですよ

このお寺は はるか昔 金星から飛んできた
護法魔王尊がおられるところ
毘沙門天他 三位一体の仏様がまつられる

相良氏に養子に入る(だったはず) 上杉鷹山も毘沙門天の生まれ変わりと
いっていましたよね
鞍馬から山をおりてくると 貴船です

平安の頃の女流歌人もいったところです
伊勢神宮も 六芒星があるのですよね

伊勢神宮は丹後からきている
中原の子孫の富樫氏
中原は 三代天皇から 言葉がでてくる

それと 高岡と高田なのですよね
二代目天皇(葛城の高岡宮)の子供 三代目天皇の后 阿部高田姫
世良親王のときにも 母高岡の次の子供は 高田の子供
なのですよね

阿部高田 阿部郡磐井 白石が磐井を名乗った
高岡がでると 次の世代は高田
からまりは 濃いいと思います


[77]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月16日 09時50分31秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

上杉鷹山
この方のお話を白石様がお書きになっている事を目にして
私は、今朝、本当にビックリしました・・
白石様は、やはり、私の頭の中が見えていらっしゃるのでは?
と、本当に今朝は、失礼ながら・・「ゾクッ」としてしまいました・・
(ごめんなさい)
上杉鷹山の弟の方が相良家に養子にはいられた、江戸時代中期の肥後国人吉藩第9代藩主「相良晃長」。

実は・・父の考えを根底から覆した人物が「上杉鷹山」この方だったのです・・

白石様のコメントとは全く無関係なお話で申し訳ございませんが
「秋月姫」さんと父の御縁を書いた事により
上記の「件」を書く事が出来るようになりましたので書かせて頂きます(..)

私の父は、秋月姫さんの御実家に職場の仲間の方々と伺った事もあります。
秋月姫さんの御実家は高鍋藩舞鶴城城主「秋月家」の直系。
舞鶴城は旧名は「財部城(たからべじょう)」とも言いました。
秋月姫さんの御実家には、御先祖様が描かれた掛軸があり、父も拝見したそうです。

秋月姫さんの御実家のお話は父の勤務する「某所」では有名なお話で
実は、その「某所」の上官でいらっしゃる「大●」(●は「さ」で・・暗号)
の方も、秋月様を親しみを込めて「姫」と呼ばれていらっしゃったそうです・・

その・・私の父なのですが・・
近年、実は私と白石様との調査の中で一つだけ「苦言」を言っていた事がありました。
白石様、本当に、ごめんなさい。
でも、書かせて頂きます。

私と白石様の「会話」の中で、時折出ていた
「●●某氏」と「知人の○○さん」が似ている・・とか
例えば、私の父と叔父が平忠度(平清盛・平頼盛の兄弟)の肖像画に似ている
とか・・
こう言う「類(たぐい)」のお話に関して
父に話すと、父は
「そう言う事を”こじつけ”と言うんだ!根拠の無い話しをむやみにするんじゃ(書くんじゃ)ナイ!」
と、こう言う「類(たぐい)」のお話を父は全面否定!
言うだけで「こじつけだ!」と叱られていました。
白石様、お気を悪くされた事と思います。
本当にごめんなさい(@_@。

しかし、このような父の考えを一変させたのが「上杉鷹山」この方だったのです!
丁度、一年程前だったと思います・・
父と主人と三人であるテレビ番組を見ていました。
某方が尊敬する歴史上の「偉人」数名の方をクローズアップする
そのような内容の番組でした。
その某方が最も尊敬する人物として「上杉鷹山」が登場しました。
番組を見ながら、私はふと
「この方は秋月家の方で弟の方が相良家に養子にはいられた
 肥後国人吉藩第9代藩主相良晃長と言う方よ!」
と父に言うと
番組でも「秋月家」の事が取り上げられて折り、父は
「あ〜この方は姫さんの御先祖様の御兄弟か・・」と
とても嬉しそうに、そして「秋月姫さん」の話をいつものように懐かしそうに
話していました。
確か・・番組でも「肖像画」が出たような・・(そこは記憶に定かではないのですが・・)
父は良く見ていなかったのか(だったかな・・記憶が・・)
私に、「パソコンで上杉鷹山の記述を出して見て!」と言うので
父の目の前で、ウィキの上杉鷹山の記述を出して見せたのです・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2

すると・・父が突然
「あああ!!」と叫びまして・・・

「姫さんに何となく似ていらっしゃる!!」と・・

父の話では「秋月姫さん」のお顔は「上杉鷹山」の輪郭をぐっぐ〜っと小さくして
女性らしくしたような・・
顎がすっとして、さらにお綺麗でとても品のあるお顔立ちだったそうです。

父は「わぁ〜でも、面影が似ている・・似ていらっしゃる・・」と
凄く驚いて・・さらに感動しながら
「宏●(私)!血ってDNAって凄いな!」と言いました・・

(?_?)・・ナンデスト?
今まで、「似ているばなし」を全面否定していた父が
「DNAって凄いな!」って感動している・・(?_?)
私こそ、この時の父には本当に驚きました。

そこで・・私が嫌味を込めて(−−〆)
「今まで似ている話をこじつけと決めつけていたのに・・」と言うと
父は
「このお話はこじつけじゃない、根拠に基づいた事実だ!」と・・
確かに・・

しかし(ー_ー)!!
この番組を見て以降の父は変わりました(p_-)

「そう言えば・・高校時代からの友人の●君(相良氏族姓)も姫さんに何となく似ていた!」
「●氏(相良氏族姓)を調べろ!秋月氏に繋がっていないか!?(p_-)」
などと・・言うようになりました・・
トホホ・・(-.-)

私が、家の一族の遺伝「耳が大きい」を書き出したのも「この件」の後です・・
父が
「お父さんは耳が大きいのをコンプレックスに子供の頃思っていたが・・
きっと、何処かに”耳の大きな御先祖様”がいらっしゃったはずだ!」
と言うからです・・
父いわく、家の遺伝の「耳」の特徴は
『顔が小さく、耳は顔の少し下辺りに付いた大きな耳」
だそうです・・(-.-)

と言う事で
父の考えを根底から覆した人物が「上杉鷹山」この方だったのであります。(..)

私、この事を・・秋月姫さんのお話を書いた後・・ずっと思いだしていたのですが・・
だから!!
今朝、白石様のコメントに「上杉鷹山」の名前が記されているのを見て
本当に「ゾッ」・・と・・
白石様、ごめんなさい(@_@。

でも・・やはり白石様・・
大きな水晶か何かお持ちではありませんか(p_-)
鼻の丸い女が映ってはいませんかぁ〜(-.-)
この鼻の丸い女は最近少し痩せていませんかぁ〜(-.-)

・・・冗談です(^'^)

白石様の思考と私の思考は
やはり繋がっていると思います\(^o^)/

では(^'^)
[78]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月16日 10時29分11秒 ) パスワード

追記です(..)

先程のコメントを書いた後で思い出しました(p_-)

「上杉鷹山」の輪郭をぐっぐ〜っと小さくして
女性らしくしたような・・
顎がすっとして、さらにお綺麗でとても品のあるお顔立ちとは・・

父曰く(p_-)
『女優の「綾瀬はるか」さんの輪郭に少し似ている』

そうでした・・
いつも父が言っていたのに忘れていました・・

では(..)
[79]白石さんからのコメント(2018年05月16日 15時29分28秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
上杉氏 東国の雄藩ですね
伊達とも つながりがあるようです

真木 白石 平野
佐田の縁せきの家です
白石は うちの白石は 別口です

平野・・・佐田へ勝手に籍にはいった人 白石 永田など 戸籍にいる
佐田・・・家付き娘 わたしの実祖母 
山本・・・私の実祖父 佐田といとこどおし

平野は歴史上有名な人に 平野國臣がいます
西郷と月照が入水した時 同じ船におり
西郷を助けたといわれます

この國臣が佐田に関係しているかどうかはわかりませんが
佐田の戸籍に平野はおります

祖母亡き後 佐田が名家であったことを
知って 平野が 勝手に籍に入ってきたそうです

母の姉妹の一人は 親子関係不存続を申し立て勝訴
母は遠く熊本にいて 生活も困難な時期で 
そのままでした

「平野の言葉を佐田では決して口にしてはならない
佐田では 蛇よりきらいな名前だから」
と決して どうして?という部分は教えてくれませんでしたが

後年 歴史をすこしは 勉強するようになり
平野 白石 真木は 核のひとつだとわかりました

真木は 真木和泉がおります
大蔵姓 

白石は伊達の方に 名前があり
肥後の白石は 清和源氏 菊池に仕え
菊池が滅んだあと 相良に仕える
と 太田亮氏辞典にあります

真木 白石は 真木神社 白石神社が阿拝郡の
方にあり 皇太子が 参拝された

又 若狭彦神社に 白石があり
若狭彦は 唐の頃の服をつけているそうです

白石正一郎は 維新のスポンサー
どころか 自身も弟とともに 奇兵隊に入り
維新が終わったら 赤間神宮に入った

近年まれにみる 清廉の士であったと
西郷をしていわしめた
という
ウィキで 平野國臣 白石正一郎 真木和泉のことが
でています


[80]白石さんからのコメント(2018年05月16日 15時40分47秒 ) パスワード

真木 ・・・佐田の現当主
白石・・・父高岡が母と夫婦養子に入った家
     祖父は高校の助教授をしていました
     父は海軍 兵隊さんで 上等兵でした
     旭日章をもらっており
     どんなものなのか あとでしらべたら
     結構価値があり だれでも もらえるものでは
     なかったようです
     まだ 子供子供していた顔の父がいただいた
     のは 海軍華やかりしころなのか
     母は外国にもよう行っていた といっていました


坂本・・・父の義兄弟
しかし
この 三家は歴史的に 
うちのちょくせつのつながりはないけど
坂本竜馬 白石正一郎 真木和泉がいる

真木は 佐田の血が入っている人が
現在 佐田の 当主になっておられます
先代が 母が出て行った家を整理して
過去からの法名 家紋など
教えてくれました
母からも聞いていた 話とあっていました

その人は 中央大学を出て 国税局部長をして
定年後 会社をおこしました
家は防州最古の真宗寺院で
檀家筆頭 墓は 寺の門を入ってすぐのところに

寺と向かい合ってたっているそうです

真木は真木和泉が有名 うちには関係なさそうだけど・・・

又 先日ご紹介した「真木神社 白石神社」は
皇太子がご参拝されました

真木和泉については ウィキに紹介が出ています
平野国臣 西郷隆盛とも交流があり 
何やら うちの平野 真木と同じセットで出てきます
真木和泉は 按察使の局の子孫とのこと

平野 国臣(ひらの くにおみ)は、日本の武士・
福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。


真木和泉
1813年生1864年没
父は真木旋臣、
母は中村柳子。

楠木正成の
崇拝者として知られ、
今楠公と呼ばれた。
大鳥理兵衛は真木の弟で水田天満宮
へ養子に出ていた。
大久保長安は大蔵姓でありますが、
その前は金春姓でありました。→空の青海の青
[81]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月17日 10時52分11秒 ) パスワード

白石様 今日は(^'^)

〉祖父は高校の助教授をしていました

実は・・・
父と祖父は「その高校」の卒業生であります!

でっ!(^'^)
父が所有する「母校」に関する書籍を今朝読んだのです。
明治時代に学校が発足してからの歴代職員(教師)の方々の名前が記されていたのですが
白石氏・・お一人いらっしゃいました!
おじい様、「秀」の字がお付きではありませんか?
昭和3年〜 と記された「白石秀●氏」がいらっしゃいました。
\(^o^)/

でっ・・(-.-)
気が付いたのであります。
昭和3年〜と言えば・・祖父が在学中の時ではなかったのかなぁ・・(?_?)

えっ? あっ(?_?) ああああっ!!!!
もしや! 白石様のおじい様は
私の祖父が全校生徒を引き連れて白髪岳に向かった・・
あの!有名な「ストライキ事件」の時・・・
「宮原!!みやはら〜!!待ちなさ〜い!!全校生徒を連れて何処に行く〜!!」
と・・
追いかけてこられた先生方の中の「お一人」だったのでは???

えっええええっ\(゜ロ\)(/ロ゜)/ ぎゃ〜!!

もしやもしや・・私と白石様の御縁とは
もしや・・私の祖父の時代からの御縁であったのでは「あ〜りませんか!」・・!!

ぎゃああっ!!
そうであれば・・孫の代までお世話になっております<m(__)m>

だけど・・
祖父が陸軍士官候補生学校に合格した事は学校あげて大喜びされたと聞いていますので・・
(^'^)・・白石様のおじい様もお喜び頂いたのかもしれません\(^o^)/

ちなみに(p_-)
この「学校」の歴代校長の方々の中に
親戚の伊藤(秋岡)の先代のおじい様の「伯父」にあたる方が
いらっしゃいます。

よ〜く考えたのですが・・
伊藤の先代のおじい様が球磨に縁を持たれたきっかけは・・
この「伯父さま」にあったのでは・・あ〜りませんかあ〜!!
今頃、気が付きました(p_-)

何はともあれ・・
白石様、私達、本当に御縁がありますね\(^o^)/
[82]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月17日 11時53分04秒 ) パスワード

白石様 追記です。

私の祖父は昭和6年3月に卒業しています。(調べました(p_-) )

と言う事は・・・

白石様のおじい様と私の祖父は・・
あああああっ!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
御縁があったと言う事ですね!!

さらに当時の生徒数は今と比べて少ない・・
もちろんですよね・・
当時(戦前)は・・調べたのですが(p_-)
戦前の学校制度は多少の例外はあるが,小学校・中等学校・「上級学校」・大学の 4 段階から成り,小学校の 6 年間だけが義務教育で,男女共学であった。
その上の中等学校では大部分が男女別学となり,男子の場合は普通教育の中学校と,職業教育を主とする実業学校に大別される。
女子に対する中等学校は,主として普通教育の高等女学校であった。また小学校を卒業しても中等学校に進学しない者のために,高等小学校が
あった(これに対し,普通の小学校は尋常小学校と呼ばれていた)。

小学校6年間 ⇒ 中等学校5年間 ⇒ 「上級学校」3年〜4年間(高等学校・専門学校等)
と言う 形だったのですから・・

白石様
私の後ろで、祖父と白石様のおじい様が
「やっと、孫が見つけましたバイ(^'^) 」とニコニコ笑って話をしているような
気がします・・

所で(p_-)
今朝は、父と祖父の「母校」について調べた事により
腰が抜けるかと思うほどの大発見がありました!!

事のきっかけは(p_-)
明治〜昭和初期にかけての在校生の方々の名前をボ〜ッと見ていた事にあります。

ふと・・祖父の姉の夫になられた(小池家の婿養子)方の名前に気が付いて
あっ\(^o^)/
と思った所、お名前に()が付いている事に気が付き・・
旧姓が「恒松」さんだった事が解りました。
あ〜だから●●地区の恒松家とは、家は親しいんだ〜と納得(p_-)
別の恒松家からは、曾祖父の実家「久保田家」に婿養子に入られた方も
いらっしゃいます(p_-)

()かっこは旧姓かぁ〜・・と思いながら・・
さらにぼ〜っと見ていると・・
コレマタ、大正時代の曾祖父の実家の(曾祖父の甥の系”兄の子の系”)の方の名前を発見。
あれっ?この方も婿養子?だったんだ・・と思いながら
()かっこの中の文字を見て・・
あっ!? ぎゃ〜っ!!
旧姓が・・きゅうせいが・・・
「田原」さんでした!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

マジデスカ!!!!

さらに・・!!
親戚の横瀬家の方の名を発見!
この方も養子で・・
旧姓は「田原」さんでした!!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

マジデスカ!!!!

「田原氏」に囲まれていまったあ〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/


そう言えば・・何故?家のばあちゃん(祖母)の従妹は「田原家」に嫁いだんだあ〜(?_?)・・
(?_?)・・・・(p_-)

やっぱり! あせらなくても「遭遇」致しました!

後・・昨年、聞いていた「牧野家」と「久保田家」と「林田家」の関係も
この「本」で判明致しました(p_-)

さらにさらに・・大正時代
斉藤氏と田原氏・・推測していた通り・・縁戚関係にあったようです(p_-)
やっぱりな(p_-)

私が見たのは明治〜昭和初期の記述・・
相良御法度の延長線でしょうね・・(p_-)

今日も白石様にお導き頂いたようです。(p_-)
ありがとうございました(__)
[83]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月17日 14時35分15秒 ) パスワード

白石様、皆様 再々追記です(..)

私、祖父の事を書いていて「書いていなかった事」があったのを
思いだしました(..)

祖父は陸軍士官候補生学校を受験して合格したのですが・・
実は、曾祖父は祖父が陸軍の将校になる事を希望はしていなかったのです・・
曾祖父の希望は
祖父が大学に進学して、「宮原家」を継ぐ事でした。
当時の曾祖父は様々な事業を展開していて、さらに「地主」でもあり
岡原村会議員でもありました。
曾祖父の希望は祖父の大学進学・・

しかし、祖父は将校になる為の進学を希望して
二人は対立。
この時、祖父は家でめちゃくちゃ暴れたそうで((+_+))
曾祖父は、「平川さん!来て下さい!」と
平川の曾祖父を呼んで、暴れる祖父を二人でなだめた・・
と聞いています((+_+))

でっ、結局、祖父の希望が叶った訳ですが・・
孫の私は、今日あらためて祖父の当時の気持ちを考えたのです・・
祖父は、自分の出生に関して・・ずっと気にしていたのではないか?と・・

家の宮原家は曾祖父母に子供がいなかった為に、曾祖父の姪を養女に迎えました。
夫になられた方は「蓑毛家」の子息。
この方は宮原家の婿養子となりました。
二人の間に、公江(きみえ)おばさんが生まれてた後に
曾祖父は何が理由だったのかは解りませんが
二人に
「お前達に宮原の姓は名乗らせん!子供だけ置いて出て行け!」
と言って、二人を宮原家から追い出してしまいました(@_@。

そして公江(きみえ)おばさんを養女にした曾祖父母は我が子として
おばさんを育てていた・・
そう言う中で・・私の祖父が生まれた・・
祖父は宮原家に引き取られて嫡男として成長。
公江(きみえ)おばさんは、星原家に嫁いで家を出ました・・

そんな中・・祖父は、大学に進学して「宮原家」の様々な事業他を継ぐ事を希望せず
陸軍の将校になる道を選んだ・・
結局、公江おばさんは、姓はそのままで、宮原家に戻る事となりました・・

今日、今まで全く考えていなかった「祖父の気持ち」を考えてみたのですが
孫の私の推測があたっているかどうかは・・解りません(..)

ただ・・一つ、祖父の気持ちを考えている時に
あらためて、祖父が言った「あの一言」を思い出しました。

調査を始めてすぐに私が書いていた「あの祖父が放った言葉」です。

祖父は、進学を祝って、球磨郡中から集まった「宮原の一族」の親戚「宮原衆」(表現が・・)や
平川の一族、久保田の一族、他、親戚一同
さらには、人吉・球磨郡内の政財界の方々の前で

「自分は馬族の長になります!」
と言ったのでした・・

ちなみに・・
馬族は馬賊じゃありませんでした((+_+))
椎葉のおじや親戚にちゃんと聞きました。
私は「賊」だと思っていた事を言うと・・・・
「このバカタンが!盗賊の賊じゃなか!何で、お前のじいちゃんがそんな事を言うか!」
「馬族の”ばぞく”タイ!」
と叱られました(@_@。  トホホ・・

でも、あらためて考えて見ると(p_-)
何故?祖父は皆を前にして
「馬族の長になる!」って言ったのでしょう・・(?_?)

馬族の長って・・ナンダァ???(?_?)

祖父の言葉の意味をやはり調べて見る必要がありそうです(p_-)

・・・・では(p_-)
[84]白石さんからのコメント(2018年05月17日 15時29分42秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
祖父の名前 白石秀蔵です

ドンピシャでしょうね
私は 子供で おじいちゃんの家に
遊びに行き おじいちゃんに会えたうれしさのあまり

座敷に駆け上がろうとして
父がこっぴどく 叱られ「足ば洗わせんかああああ」
という声だけ記憶しています

昭和27年ころ死にました
私はお葬式につれていってもらえませんでしたが
写真をみると 厳格そうなかたでした

前にも書きましたが 若くして親に死に別れ
苦労して教員になったと聞いています
私も卒業の頃 先生から
代用教員の道 奨学金を受ける道 定時制に通う道など

いろいろ薦められました
が 代用教員では 六年間無給である ということで
母は すぐすぐ お金がほしく
幹部候補生として 大手の会社への就職の道をえらびました

お金ももらえず 頑張りぬいて ついに
助教授にまでなったのは おじいちゃん
えらいと思います

定年の感謝状ももらえて つまり
長く勤めているわけで 実子にめぐまれていれば
子孫反映でいうことのない 人生だったでしょうが

あいにく 子供にめぐまれず
父母が 夫婦養子で 家をついだわけです
高岡氏排籍の上とあるので

私の家で 高岡の言葉は つかわなくなり
萩の生家は残ったということです


[85]白石さんからのコメント(2018年05月17日 17時11分30秒 ) パスワード

みやちゃん こんにわ
今日も暑い一日でした
病院に行って帰ると 汗びっしょりでした

二週間後に あと少しレーザーをいれたがよいといわれました
できることなら そうっと後ずさりをして
しなくてよいといわれたら 脱兎のごとく逃げ出したい思いですが

目は大事ですものね
頑張って治療を受けようと思います

話はまるで関係なく このスレッドの平賀氏とも 関係ないのですが

鄭 成功(てい せいこう、
寛永元年/大明天啓4年7月14日
(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日
(1662年6月23日))は、中国★明代の軍人、政治家。
出身は福建省★泉州市。

国姓爺と呼ばれた 鄭成功
明の国号が 朱であり ★朱を名乗ることを許され
たので 国姓爺と呼ばれたということです

元の名を ★森
日本の平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間
に生まれた

父、鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し
平戸藩主★松浦隆信の寵をうけて★川内浦(現在の長崎県
平戸市川内町字川内浦)に住んだ

鄭一族は★泉州府の★厦門島、金門島などを
根拠地に貿易を行っており、政府軍や商売敵と
の抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。
[86]白石さんからのコメント(2018年05月17日 18時01分50秒 ) パスワード

1600年代とは 関ケ原の戦いが終わり 徳川政権が始まった
ころですね
平戸でのみ 貿易が許されていた

明代とは 球磨の善正寺には 明から持ち帰った1000巻の
経典があるそうです

善正寺は 高岡がお願いしているところです
了円寺と山号が同じで 近くです
うちの娘も稚児参りに参加しました

泉州市
我が国の泉州は 堺があり 鉄砲伝来の話や
本能寺の変のおり 家康は 伊賀越えをしたが
堺の商人衆の 協力もあったようです

中国の泉州は貿易の拠点として繁栄し
厦門もあります
元の諱は森。

森です
さまざまな功績から 明の国姓の 「朱」を
名乗ることを許された

出た!! 朱!!という感じです
朱は殷の次后にもおり 古くから 連綿とつづいているのですね

父、鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し
平戸藩主松浦隆信の寵をうけて★川内浦(現在の長崎県
平戸市川内町字川内浦)に住んだ


平戸藩は松浦水軍の系を引いており
松平忠輝の母方は 松浦氏とすくなからぬ縁があるようです

川内
鹿児島にも 川内はあり 西郷どんではよく出る言葉ですね


 



[87]白石さんからのコメント(2018年05月18日 08時17分16秒 ) パスワード

 【肥後 高岡氏系図】
【中興祖】高岡徳左衞門定徳  【派祖】高岡吉右衞門

【世系】肥後高岡氏の祖定徳は、柏原彦兵衞定勝の二男なり。
幼にして本能寺に入り本證坊と称す。天正10年(1582)還俗して
柏原勘四郎と云ふ。 のち高岡氏の養子となり高岡徳左衞門と名
を改め、細川侯に仕へ肥後へ入國す。

この柏原氏とは何?と思いながら なかなか
わかりませんでしたが

楠系図 - 生々流転TOP
tatibanaya.web.fc2.com/kusunoki.html

というのをみますと

★ 楠正眞(柏原正眞)
生没年未詳。楠正勝の男。丹波国に住し、柏原と称す。

と 楠木一族なのですね。
そして

楠正儀という人をみますと

楠正成の三男。左衛門尉・河内守・左馬頭・参議。
兄正行の敗死後、
楠一族を率いた。
★楠木正成の三男・正儀 兄に正行  

正行については 太田亮辞典で 高岡条に
紀国の荘士で 高岡右近の家があり
桜紋をつかう

右近の先祖は正行という
と ただ 正行といえば いわずとしれた
小楠公といわれた人と理解します

楠木と服部のつながり 猿楽

 服部元成妻
楠正成の妹。伊賀の土豪上島元成に嫁ぐ。
上島元成は伊賀忍者の家系である服部家を継ぐ。
子は観阿弥。
[88]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月18日 08時45分28秒 ) パスワード

白石様、おはようございます。

おじい様のお名前「白石秀蔵」氏。

間違いありません!
おじい様は昭和3年11月より職員として、私の祖父そして父の母校に
お務めになられていらっしゃいます。

昨日、私がコメントを書いていた時以上に
実際に白石様からの「お名前」を拝見した時
私は感動して涙が出て参りました。

白石様と私には、私の祖父の代から、しっかりとした「繋がり」が
あったのですね!

もちろん、祖父からみれば、白石様のおじい様は学び舎の「先生」でいらっしゃいますから
祖父は白石様のおじい様を存じていた事は間違いないと思います。
さらに
私の祖父は、「ストライキ」を起こして全校でも有名だったそうですが
そう言う祖父ですが、ブログの方でも書いたように
愚孫の私と違って祖父は、常に成績は学年1位か2位だったそうです。
何事にも、目立つ存在であった祖父ですが
この祖父を白石様のおじい様が御存じ無かったとは到底考えられません。

私と白石様との御縁。
お互いに共通の親戚がある訳ではないのに・・
調査を始めた、最初から
私は、白石様に、ずっと御縁を感じていました。
私は白石様を心からお慕いしています。

白石様と私の御縁が、祖父の代まで遡っていた事が解り
本当に、本当に、心から感動しています。

このような事って本当にあるのですね!
(”本当”と言う言葉が連続する程、感動しているのです)

白石様のおじい様「白石秀蔵」氏は、私の祖父「宮原石蔵」の在学中の「学び舎」の先生であり
「宮原石蔵」の孫である「私」は、
ネット上で偶然にも「白石秀蔵」氏のお孫さんの「白石様」と出会い
歴史に関して全くの無知識であった「私」は
「白石様」から一つ一つ、歴史を学んできました。

二人が「引かれ合う」根底には、DNAの記憶(私が祖父から受け継いだ記憶)も
関係しているのかもしれませんが
でも、この「事」はきっとそれだけでは片づけられないのでは?と
私は感じています。

何故ならば、先のコメントで書いたように
私が、白石様のおじい様と祖父の「御縁」に気が付いた「時」に
不思議なのですが、私の後ろで・・祖父が
「先生、ようやく孫が気が付きました」
と嬉しそうに言ったような・・
そんな感じがしたのです。

白石様
最近、コメントを精力的にお書きでしたので
お身体の調子が良くていらっしゃるのだなぁ(^'^)と安心していました。
しかし、御病気を抱えていらっしゃるのですから
最近の夏と間違うような猛暑の中、あまり、無理をなさらないように、
して下さいね。
レーザー治療、大変ですね。
お嫌でしょうが(@_@。 私も、こちらで「応援(お祈り)」致しますから
怖がらないで(すみません(^'^) )治療をお受けになられて下さいね(^'^)

感動が止まらない宮原より (^'^)
[89]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月18日 09時19分30秒 ) パスワード

追記

白石様、コメントがすれ違ったみたいですね(^'^)

白石様が、以前、私が調べた「楠正眞(柏原正眞)」
この方に着目して下さった事
とても、嬉しく感じています(^'^)
[90]白石さんからのコメント(2018年05月18日 19時36分55秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
宮原石蔵 白石秀蔵
なんだか 蔵蔵ですね

蔵がつくとき 金庫番みたいな職についていた
と 書いた本を読んだことがありますが・・・

はやりででも あったのでしょうか?

秀蔵の先は 佐平 架平が二代 その先はもしかしたら 
秀蔵が子供の頃いた川辺の家に てがかりが
あるかもしれませんが・・・

お寺に箱いっぱいの位牌を預けてあると聞いています
そこが 永国寺の流れの寺で
明治の頃 村役場がおかれたところ

永国寺は相良家中なので
流れから 

肥後の白石は士族で清和源氏佐竹氏族
菊池に仕え菊池が滅んだあと 相良に仕えた
という太田亮氏の辞典に符号しているのでは ないか?

と見当をつけていたのですが・・・
ほかに 蔵は 坂本佐蔵 高岡藤在・・たしかこんな字
があります

柏原氏
前には藤井寺の柏原しか 手がかりを見出すことが
できませんでした
ので そのままになっていたのですが

この氏も楠木一族とわかりました


[91]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月19日 06時54分22秒 ) パスワード

白石様 おはようございます(^'^)

「蔵」の文字。

すごく良い視点だと思います(p_-)

かなり、以前、京都の宮原様からもお話がありました。

京都の宮原様の御先祖様にも「石蔵」と言う方がいらっしゃった
と言うお話からでした。

現在の人吉市である「間村」に京都の宮原様の御先祖様がいらっしゃって
この方が宮原源吾と言う方で
長男の方が「宮原石蔵」※弘化元年(1844年)生まれ
石蔵氏の長男(宮原様の高祖父様)も「宮原熊蔵」
このお話をコメント下さった時に「京都の宮原様」は
『この〜蔵というのは諱ではなく通称だったのでしょうかね?』
とお書きでした。

さらに、人吉宮原家様の御先祖様のお名前も安政年間(1854年〜1859年)分限帳では
宮原節蔵
この方は、人吉宮原家様にお伺いしなければ詳しくは解らないのですが
系図を拝見すると
公敏(用蔵)とおっしゃる方がいらっしゃるので
この御方なのかな?とは推測しています。

「蔵」の文字は確かに「宮原氏の一族」には江戸後期に見えます。

私の曾祖父は「留蔵」です。
曾祖父「留蔵」、祖父「石蔵」となります。

ちなみに、肥後人吉藩の第13代藩主「相良 頼之」の息女「於保」様を妻とした
宮原健吉(幼名 健之助)
この方には「吉」の文字が付きますが
そもそも「吉」の文字は橘氏の通字として使用される事が多い文字です。
こちらの系の宮原氏は戦国時代まで遡ると、通称に「助」の文字が多数見えます。

さらに「ちなみに」ですが・・
私の高祖父(慶應元年生まれの曾祖父の養父)の名前は「蔵吉」です。
「蔵」の文字と「吉」の文字。
何だか・・足して合わせたような「名前」です・・
曾曾じいちゃん、ごめんなさい(..)
あと・・私の父と父の兄(亡くなった長男)、其々「助」が付きます。
家の宮原家で産まれて、養女になったおばさんの名前は「公江」・・「公」

なんだかなぁ〜・・名前って面白いですねぇ〜(p_-)

何はともあれ(p_-)
「蔵」の文字の着目・・私も実はしていました。
白石様と同じです(p_-)

夜にでも新しいスレッドを立てますね(^'^)
昨日は、急に来客があり・・
今日は、旧にバイトが入りまして・・

では(^'^)
[92]白石さんからのコメント(2018年05月19日 19時54分30秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんわ
今日は しばらくぶりに ディサービスにいきました
80代位の人が多く わたくしは若い方ですが

足腰の衰えが気になり 通っています

朱 が気になりウィキを見ていましたら

沛県
中華人民共和国 江蘇省 沛県
国家 中華人民共和国
省  江蘇
市  ★徐州市 
沛県(繁体字: 沛縣、はい-けん)は中華人民共和国
江蘇省徐州市に位置する県。漢朝を創始した高祖★劉邦
の出身地であり、明朝の太祖★朱元璋の祖籍のある場所
でもある。古くから栄え、文化遺産が豊富。

というところが ありました。
厦門は台湾に近い方でしょうから少し位置が ずれているとしても

劉姓というのが 気になります
呉 や 斉 とも かさなるみたいです
このあたり もう少し勉強しなければ ぼんやりしていますが・・・

孫氏なども・・・いるし ・・・
孫氏は 侍女がずらりと武器をもっていならんでいて
あるじ も 女ながらも りりしくて
劉備もびびった というし

我が国の天孫降臨のとき
天鈿女命が先に立ち 猿田彦を先導した(逆かな?)
まるで アマゾネスみたいのと そっくりです

大陸の歴史を我が国に持ち込んで 歴史をつくってきたような・・・

神武天皇が畿内にむけて出立された 美実津縣
湯前あたりも みみつの縣といっていたのですね

 
[93]ミヤハラよりさんからのコメント(2018年05月20日 10時28分14秒 ) パスワード

白石様、今日は(^'^)

中国三国志時代・・・それ以前の古代中国・・
球磨、いえ(ー_ー)!! 九州の古代に無関係だとは
私は思っていません!
(^'^)

また・・(p_-)
「馬韓」「辰韓」「弁韓」も無関係だとは思っていません。

某紙で、日本と朝鮮半島の方々のDNAを調べた記述をあらためて読みました。
(父が所有しています・・)

書かれている事の意味は解るのですが・・
一つ、疑問があります・・

おそらく大多数の方々から
こう言う事を書くのは時代錯誤も甚だしいと言われるのを覚悟で
今日は、書きます(..)

私が調べている事は・・江戸末期において全国に「わずか3%」程しか
なかった「ネットワーク」の繋がりです・・

この・・「わずか3%」の方々のDNAはどうなのか?
ここが・・重要なのではないでしょうか・・

大まかに言う「民族的」なDNAの比較はもちろん「あり」なのでしょうが・・
しかし、DNAを元に「古代の歴史」、「隠された謎」を調べるのであれば
調査対象を限る必要があるのでは?と思うのです・・

もちろん、私の言っている事は「批判」の対象となる事は解りますが
真剣に、日本の古代・隠された謎を知る為には
とても重要な事だと・・思うのです・・

日本では・・
天神族と言われた方々の後裔の方々・・
天孫族と言われた方々の後裔の方々・・
地神族と言われた方々の後裔の方々・・
さらに
皇別と言われた方々の後裔の方々・・(源平橘等他多数の氏族)
等の方々のDNAと
海外では
朝鮮半島における古代国家の王家の末裔の方々、さらには重臣の方々の末裔である方々のDNAを比較する・・
さらには
中国の古代国家の王家の末裔の方々、さらには重臣の方々の末裔のDNAを比較する・・

これぐらいしなければ・・「歴史の真実」は解らないのでは・・?
と私は思うのですが・・

私は差別意識を持っている訳では決してありません。
あくまでも、真剣に日本の古代が知りたい!そう考えているだけです・・

私の意見って・・可笑しいでしょうか・・?バカな事を言っているのでしょうか・・?

ずっと・・考えていた事なのですが
今日、思い切って書いてしまいました・・・

白石様
新しいスレッドを立ち上げました。
今後ともよろしくお願い申し上げます(^'^)

こちらは
松葉宗益 後裔 平賀氏について5 に続きます(^'^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101634.html
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