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 投稿番号:101590 投稿日:2017年05月17日 23時09分12秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について38+1

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、新しくスレッドを立ち上げました。

前スレッド平川家について38では
三つ柏服部様、白石様、たけぽん様、皆様方に
沢山のありがたい御教示を頂きまして、様々な視点・方向から
研究・調査を行う事がいかに大切な事であるか
あらためて勉強させて頂きました。
心より感謝申し上げます。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

こちらは「平川家について38」コメント82より続きます。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月18日 08時06分38秒 ) パスワード

三つ柏服部様
おはようございます。

平川家について38 コメント83で頂いた御教示拝読させて頂きました。
早朝からありがとうございます。
睡眠不足におなりではないか・・私がお力添えをお願いした事が三つ柏服部様御自身の「長上郡の服部氏族」の御調査の妨げになっているのではないか・・
と心配致しております。
申し訳ありません。
お身体は十分にお気を付け下さい。

〉「平川家について」の第一号より読ませてもらい

お恥ずかしい限りです。
私は、調査を始めるまで、全く歴史には疎い、と言うか全く興味を持つ事が無かったので、最初は何が何やら全く意味が理解出来ない状態でした。
少しずつ、勉強を重ねていった遍歴をご覧になられると、きっと私を「滑稽」な人間だと御思いになられるかもしれません。
今、考えると、子供の頃に祖母や祖母の姉兄、他親戚から聞いていた事が頭の中でごちゃごちゃと混ざり合っていたと思います。
趣旨などございませんでした。
ただ・・一心に祖母が伝えたかった事を知りたいと思っていた・・それだけです。
所が、時を重ねて、祖母が伝えたかった事から、結局、自分の故郷「球磨の謎」まで「知りたい!」と思う事がどんどん広がってきてしまいました。
特に、球磨に戻ってきてからは、「球磨の謎」から頭が離れなくなってしまいました。
今では、その「球磨の謎」と自分の先祖がどう関わっているのか、何故?先祖は平安末期から鎌倉期にかけての時代に球磨の地に縁を持つ事になったのか?
「補任」や「替地」と言った事以外に真実が別にあるのではないか?
などと、妄想と受け止められるかもしれない事ですが、今では知りたい事が山積みとなっております。

〉@白村江の戦い(百済救済・再興のための)に派遣された軍団の将軍に
 「物部熊」という人がいました。物部氏で熊という名前。

三つ柏服部様がお持ちの「着眼点」。敬服いたしました。
今回の御教示だけではありません。
様々な視点からの研究。
沢山の書籍をお読みになっていらっしゃるのですね。
私には無い発想をお持ちと先日書きましたが、私の場合は勉強不足です。
痛感しております。

「物部氏で熊という名前」。とても気になる方です。

「熊」と言う言葉に着眼点を持つ事が「球磨」の調査にいかに重要な事なのか、あらためて、理解する事が出来ました。

〉A狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)の古墳ではないかといわれている沼津
にある高尾山古墳

静岡県が狗奴国の参考地である事は、以前、狗奴国を調べた時に知っていました。
しかし「高尾山古墳」については全くの不勉強で、「卑弥弓呼(ひみここ)の古墳ではないか」と言われている事は知りませんでした。

「高尾山古墳」をウィキで見たのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

最初から思わず「え〜っ!」と声をあげてしまいました。

高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳。形状は前方後方墳。史跡指定はされていない。古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造と推定され、築造当時の東日本では最大級の古墳である。

※静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)
「東熊堂」・・「熊」が付く地名です!
またまた、鳥肌がたち始めました。驚いています。

さらに、
記述にあった被葬者・出土品・「武具」に非常に興味を持ちました。
被葬者
副葬品の大半が鉄製の武具であったことから、武人的性格が強いと考えられている。 中国製の鏡や水銀朱が出土したことから経済力が高かったと考えられている。 尾根を2メートル削り、平坦にした上で4メートル高く墳丘をつくりあげたことから優れた土木技術を持っていたと考えられている[15]。
スルガの王 
狗奴国連合の王、有力者
物部氏 伊香色雄命(イカガシコヲノミコト)

副葬品の大半が鉄製の武具・・球磨の古墳や遺跡と全く同じです。
実は、九州では殆ど出土していないと言われる「銅剣」も球磨では見つかっています。
わずか「1剣」ですが、多良木町黒肥地の大久保鎗掛松遺跡からの出土品です。
本来「銅剣」は祭具として祀られている物ですが・・
所が、大久保鎗掛松遺跡から出土した「銅剣」は祭具として祀られていたのではなく、全国でも例が殆どない「住居跡」から見つかりました!
すなわち球磨の大久保鎗掛松遺跡に住していた古代の権力者は「銅剣」を単なるインテリア?として使っていたようなのです!
祭具として祀られていたのは、「鉄剣」です。
「鉄」は「球磨」の古代と深く関わっています。
実は、「かっぱさんの話」と書いた事も「鉄」に関わる話です。

高尾山古墳・・副葬品の大半が鉄製の武具であった

三つ柏服部様、私、ワクワクして参りました!

高尾山古墳にお行きになられた際はぜひ、情報をお聞かせ下さい。
楽しみにお待ち致します。

三つ柏服部様
あらためまして、御教示、ありがとうございました。
[2]白石さんからのコメント(2017年05月18日 13時33分00秒 ) パスワード

皆様 こんにちわ
ミヤちゃんの平川家
名跡をついでおられたと思っております

また 宮原家 
百済辰孫王の系にあるという線が濃ゆいと思います

うちの高岡 白石 平川 平江のかたまりについて
わたくしなりにほかにも系がないか 探しましたが

高丘 ・・・
この系の子孫に辰孫王がおり 火の君は 多氏族
平川の祖父は 定〇
平江は 山口を介して白石 高岡と親戚

市房神宮のお鏡を預かる家が集落にある

市房神宮は若狭彦神社と同体

平江はひらかわ とも 読める
蘇州にゆかりがあるらしく
呉があったところ

呉王夫差のを持つのが松野氏
鹿児島神宮あたりにゆかりで
ここにはににぎの剣がささっている

近江 遠江は ちかつあすか とおつあすか で
あすかとは 百済の言葉で安住の地の意味

遠江は百済の人がいたともいえる
百済とからまった秦人達もいっしょにいたのだろう

彼らがどういう道筋で 大陸西部から半島へやってきたのか
昔の人はいとも簡単に 死ぬ場面が出てくるのですよね
よくぞ いのちつないで 現在にいたっていると 思います
 
[3]白石さんからのコメント(2017年05月18日 19時14分53秒 ) パスワード

すみません
上の高岡のところ 系図は
秦王26代・恵文王・諱駟((BC356-BC311))の子・昭襄王(BC325-BC251)の兄弟の高陵君・諱参の子孫で高軌の女子・真華 ...が がいろ王 に嫁ぎ 出来たこの
子孫 辰孫王です

[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月18日 21時33分36秒 ) パスワード

白石様
沢山の御教示ありがとうございます。

まず・・白石様がおっしゃっている
〉宮原家 
百済辰孫王の系にあるという線が濃ゆいと思います
こちらの件ですが

私の今までの調査に確かに百済姓の宮原氏が多数登場されています。
良峯氏にも百済姓の宮原氏は繋がりがあります。
平河氏(平川氏)は、本姓良峯氏であり良峯安世の子息良峯宗貞の妻は宮原氏の娘です。
しかし・・
今の所の私の推測は平川家について38 コメント82で書いたように
『百済姓の宮原氏に関連する”何か”を継いだ可能性』があるのでは?。
同じ「姓」である事には何らかの意味があるのではないか・・?
という段階であり
ずばり
『百済辰孫王の系にある』という事とはちょっと違っています・・(..)。
祖母からは元は「橘」だったと子供の頃から聞いていますので、
私が知りたいのは『越智氏・伊予橘氏・物部氏』と百済姓の宮原氏との関係・・と言う事になります。
申し訳ありません(..)

きっと何かありそうな予感はするのですが・・・

白石様のお父様の高岡氏の系を白石様が御推測されるにあたって、
やはり、大事な白石様の御先祖様の事になるので、私の今の段階の推測せいで、もしも違う方向に進んでしまっては、私は申し訳がたちません。

これから、広い視野を持ち様々な情報を得るように勉強して、推測が単なる推測にすぎないのか、もしくは推測が当たっているのかじっくり調べて行きたいと思います。

家の(宮原・平川繋がり)方の親戚関係には高岡氏はいらっしゃいませんが、
球磨には宮原姓は非常に沢山ありますから(あさぎり町だけでも60軒以上)何れかの宮原の一族の宮原氏と高岡氏が縁戚関係にあるのか?そこはとても興味があります。

平江氏に関しては
氷川・松橋方面の宮原の一族(同族)の宮原氏と、六殿宮祭主家「平江家」(ころも様の御実家)とは、宮原三宮社の大宮司家、平姓の廣松家を介して縁戚関係におありになる事は調べて理解しています。

すみません白石様。
中々お役にたてないでいますが、球磨の「謎」は古代・中世・近世と繋がっていくように・・あくまでも私の推測ですが感じています。

これからもしっかりと勉強していきますね。
お身体は大丈夫ですか?
無理をなさらないで下さいね(^'^)
[5]白石さんからのコメント(2017年05月19日 08時51分43秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 おはようございます
今日も良い天気で お洗濯ものもよく乾きそうです
 
みやちゃんのおうち もとは 橘氏だった
ということと わたくしの家のつながりと
微妙に重なるようで かさならない

これは わたくし 前に思っていた
高丘は 特殊で 漢王室子孫 坂上一族である という国史辞典 の
記述

7000傑様のご指摘で間違いではないか ということでした
ただ どうしてもかさならないのは なにか がちがうのではないか? とは
思い

球磨の また 肥後の国 いや 大きく九州の歴史は興味があり わたくし古文書原書をよみとく力がなくみやちゃんのご調査をこれからも 読ませていただこうと思います


参勤交代で使う
宮崎へ抜ける道は 古くは 白石の百姓で作った門 久米の道 の二つで 久米の道は 難渋をきわめた と 球磨郡誌に ありました
また
うちの白石の法名は 明治頃 戒名になっています
お寺様の説明では 島津様におさえられたもんで
という ことでした

細川 島津 佐賀 支配層がいりみだれての 時期があったように 思います

[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月19日 09時22分27秒 ) パスワード

三つ柏服部様、白石様、たけぽん様、皆様
今日は(^'^)

昨日、白石様へのコメントを書いた後、百済姓の宮原氏について考えていたのですが・・・
そう言えば・・以前から書いているように、私の住む集落(宮麓)には家の宮原の系とは別の系と言われる「宮原家」がお住まいです。
こちらの「宮原家」については、ネットにも複数書かれています。

御紹介します。
名桜・古桜・一本桜 様 サイトより
http://yutabi.cside4.com/sakura/kyuusyu/kumamoto/miyaharake.html

宮原家は、平安初期から代々切畑神社の宮司を務めてきた。この彼岸桜は、切畑神社が建てかえられたとき植えられたもので、樹齢は400年〜500年といわれている。
彼岸桜の近くには、平景清の息女の墓が祀られてる。平安時代末期、源平の合戦に敗れた平家の一門は、この付近に落ち延びてきたといわれており、 平景清の息女は、父景清を追って岡原村にたどり着いたが、その父の死を知り、自害されたとされる。
宮原家では代々この墓を管理維持され現在に至っている。
=================================================
他にも
敷島一の桜を行く 様 サイト 宮原家のヒガンザクラより
http://blog.ap.teacup.com/sikisima2/430.html

=================================================

私の住む集落の家の宮原家とは別の系と言われている「宮原家」は
※平安初期から代々切畑神社の宮司を務めてきた。
※平景清(藤原景清)の息女景清姫のお墓を代々管理維持され現在に至っている。

切畑神社(切畑大明神)ですが、鎌倉時代に平景清(藤原景清)の母君も御祭神として合祀という記録があります。

こちらの「宮原家」は平安初期にはすでに・・「宮原氏」と言う事になるのですよね・・・
これはっ?!

切畑地区は、同じ集落「宮麓」内でありながら、何故か江戸時代までは「湯前領」の飛地でした。
家の宮原家があった場所はこれも何故なのか解りませんが「久米領」の飛地でした。

ちなみに・・家の宮原家とこちらの「宮原家」との関係ですが、明治時代に私の曾祖父の姪の系を通じて縁戚関係にはあるのです・・
もしかしたら、明治時代より以前にも、こうした縁戚関係が存在する可能性も無きにしも非ず・・かもしれません・・?

こちらの「宮原家」と家の「宮原家」との関係には独特の空気感?が存在していて
例えば、私が子供の頃の祖母とあちらの「宮原家」のおじさんとの会話はまるで
「そちらの宮原家さんこんにちは(^'^)」「あっ!こちらの宮原家は皆元気ですが、そちらの宮原家さんは如何ですか?」
みたいな(極端ですが)雰囲気でした。

現に、私が球磨に戻って来てすぐに、あちらの宮原家のおじさんと久しぶりに会った時には
「あ〜!!良かったね〜!そちらの宮原家に跡取り娘が帰って来られた!本当に良かった!」
と言われました。

「あちら」とか「こちら」とか書いていますが
明らかに記憶しているのは、祖母もあちらの宮原家の方もお互いに尊重し合っているという事が子供心によく解る・・そう言う雰囲気です。

私が調べている事は古代・中世・近代へと続く大きな流れですが
もしかしたら・・その一端は身近な所にも見えているのかもしれない・・
と今朝、黒原山をボ〜ッと見上げながらそう思いました。

取り留めもないコメントになりましたが、
後ほど、先日の「外出」の御報告と「かっぱさん」のお話を書かせて頂こうと
思っています(^'^)

では(..)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月19日 15時36分17秒 ) パスワード

三つ柏服部様、白石様、たけぽん様、皆様
マタマタの登場です。
あらためまして、今日は(^'^)

早速、一昨日伺った
@達卒日羅の故郷、旧坂本村百済来(久多良木)
A球磨郡球磨村神瀬の磐戸熊野座神社
について書かせて頂きます。

@達卒日羅の故郷、旧坂本村百済来(久多良木)
ずっと行きたかった場所の一つである、旧坂本村百済来(久多良木)に行って参りました。
場所は現八代市坂本百済来とあるので、方向音痴の私は球磨川沿いの国道を真っすぐ八代方面に下り(かなり八代に近い所まで)・・
ナビで百済来郵便局をセットしたのですが・・
ナント、球磨川を対岸に渡って、又、球磨方面に逆戻り・・(@_@。
急流球磨川の対岸には、先程まで走って来た球磨郡球磨村神瀬の風景が・・
そう!そうでした(@_@。そもそも「芦北」は急流球磨川を挟んで、球磨村の対岸でした・・(@_@。(いつものおっちょこちょいと方向音痴にこの時ばかりは・・トホホ)
伺ってみたら・・とても球磨郡に近い所に八代市坂本百済来が・・・(@_@。

達卒日羅とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85
日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。
父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。
敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって難波で暗殺された。
物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。
聖徳太子伝暦や今昔物語などでは、聖徳太子が師事した、百済の高僧であるとされている。
墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する

==============================================
ブログに百済来地蔵堂や百済来(久多良木)の風景を写した写真をアップ致しました。
よろしければ、皆様、ご覧ください。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12275818423.html

写真にもある「日羅公事蹟」に記されている事はウィキの記述と少し異なる部分もある為、あらためて一部転記します。

たまたま第三十代敏達天皇十二年七月任那の日本府復興に赴いて召喚され帰朝された。
日羅公天皇の御下問に対し天下の大政を行う為国是の大綱を申し上げ、日本府復興の方策等を申し上げられた。
公が百済国に不理な事を申し上げられたと疑念を招き同行して来た、恩卒参官徳雨?等の為同年大晦日の夜暗殺された。
天皇は公の死を深く嘆かれ給い恩卒等を捕え獄に入れ、芦北の君に使いを遣わされ、公の家族を招かれ之を討たしめ
十三年詔して難波(大阪)の小郡に公を葬り、同年八月屍を再び芦北の地に移葬し給うたもので此の日羅塚は其の移葬基である。

逝去後、其の折申し上げられた事が大化の改新、近江の令、大宝律令の制定となり、明治元年五ケ条の御誓文明治憲法の基本となった。

==================================================
百済来地蔵堂の御由緒書きには
葦北国造・国造刑部靭部 阿利斯登の子日羅は百済にわたり、30余年滞在し、最高官の達率に昇進。
572年百済から父に地蔵菩薩を送る。

=======================================================

そもそも「達率」とはどういう官位だったのかな?と不勉強ですので調べたのですが
百済国 ウィキの記述「官位」の中に書かれていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

官位
佐平(さへい)- 一品官。その担当する職務によって、6種類に種別されている。
@内臣佐平(ないしんさへい) - 宣納(王命の伝達)の担当
 内頭佐平(ないとうさへい) - 庫蔵(財政)の担当
 内法佐平(ないほうさへい) - 礼儀(儀式)の担当
 衛士佐平(えいしさへい) - 宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
 朝廷佐平(ちょうていさへい) - 刑獄(司法)の担当
 兵官佐平(へいかんさへい) - 外兵馬(対外軍事)の担当
A達率(たつそつ)- 二品官
B恩率(おんそつ)- 三品官
※大佐平は全権を委ねられた王世子で摂政のようなものらしい。

※葦北国造・国造刑部靭部 阿利斯登の子日羅は達率となられた・・
うぉ〜!! 思わず声が出てしまいました。
ハハッ!!<m(__)m> 今更ながら、お伺い出来た事を光栄に思います<m(__)m>

しかし・・・
「日羅公事蹟」には『任那の日本府復興』すなわち『任那日本府』について記されていたのですが
『任那日本府』という”言葉”は知っていて・・なお且つ朝鮮半島には『任那日本府』があった!と言う事はなんとな〜く知っている?・・
程度だったのですが、目の前の『任那日本府』の記述を目にした瞬間には
さすがに「うぉ〜っ!!」と妙な大きな声が出てしましました。
なお且つ、この地は芦北国造・芦北の君の本拠地であり、さらに球磨郡にはとても近い場所で・・
あらためて「うぉ〜っ!!」となりました。(私の言わんとするイメージ皆様に伝わっていますでしょうか?・・(..))

達率日羅公のお墓に手を合わせてお参りをさせて頂き、百済来地蔵堂をあとにしたのですが・・
その時、天から
「何じゃ?おぬしは、何も解っていなくてここに来たのか?」!!
と問われたような気がしまして・・
解っているようで全く何も解っていない自分がつくづく恥ずかしい!と思いました(@_@。

百済来地蔵堂から、球磨に戻る為にナビをセットすると・・山を越えてしばらく進むとすぐに球磨方向に渡る橋が見えました。
あらためて・・「近いな!(p_-)」と思いました。ムムッ!
しかし・・芦北と球磨の間には日本三大急流の球磨川の綺麗な水が勢いよく流れています。深さも相当あるようです。
当時はこの川を簡単に対岸に渡る事は難しかったでしょう・・

芦北方面から橋を使って球磨川を渡るとそこは球磨郡球磨村神瀬でした。
神瀬の神瀬(こうのせ)石灰洞窟の入口に御鎮座の磐戸熊野座神社のすぐ近くでした。
ここで・・

A球磨郡球磨村神瀬の磐戸熊野座神社 に伺いました。

球磨郡球磨村神瀬の磐戸熊野座神社は、日本最大の洞口を持つ洞窟「神瀬(こうのせ)石灰洞窟」の入口に御鎮座です。
どれぐらいの大きさの洞口か?皆様にもお伝えしやすい写真が「くまとっぷ」様のサイトに載っていましたので御紹介致します(^'^)

くまとっぷ様 サイト より
http://www.kumatop.com/index.php?%E7%A5%9E%E7%80%AC%E7%9F%B3%E7%81%B0%E6%B4%9E%E7%AA%9F

日本最大の洞口を持つ洞窟

熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト 様
http://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/969

神瀬の石灰岩の洞窟(鍾乳洞)は、中生代の三宝山帯(2億3千5百万年〜1億4千3百万年以前)の石灰岩の地層で出きており、開口部の横が約40m・高さが約17mほどです。手前40mほどは入れますが、奥の「御池」とよばれる水をたたえるくぼ地の部分(幅約25m)には入れません。
熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト 様 記載内容より

==========================================================−−

私はお伺いするのは二度目なのですが、一度目はあまりのパワーと荘厳な空気に圧倒されて写真を撮る事を控えたのですが
今回はどうしても、皆様にもご覧頂きたい!と考えて、写真を撮らせて頂きました。

ブログにこちらもアップ致しました。
よろしければ、ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12275899889.html

鳥居はかなり離れた国道の近くに建っているのですが、鳥居をくぐって100メートル程坂道を登ると、突然別の世界が現れた!ような錯覚に陥ります・・

ブログにも書いたのですが
洞窟の入り口に鎮座の磐戸熊野座神社 御社

観光案内や様々なサイトには磐戸熊野座神社は1427年に創立されたとありますが、
その以前には龍音寺、厳龍寺が建っていたそうです。(麻郡神社私考に記載)
麻郡神社私考(元禄十二年・1699年編纂)には
岩戸権現 神瀬岩戸山
社家傳云熊野神社垂跡之霊窟也
勧請何レノ世ナル事カ不知ラス  と書かれています。
御祭神
伊邪美命、速玉男命、事解男命

※麻郡神社私考(元禄十二年・1699年編纂)には
『勧請何レノ世ナル事カ不知ラス』  と書かれています。

洞窟の中に御鎮座の磐戸熊野座神社(岩戸権現)。
御社の先は進入禁止となっていて、全く底の見えない深い穴が・・
神社内に綺麗な石が一個五円で販売されていて、この石を男性は後ろ向き、女性は前向きに洞穴に投げて、「ポチャ〜ン」と水の音が聞こえれば願いが叶うとの言われがありました。
早速、主人と挑戦したのですが・・石を投げて数秒後に「ボチャ〜ン!」と水の音が聞こえました(^'^)
嬉しかったのですが・・ここで・・ふと・・
「こちらの洞窟・・かなり深い!」と少し怖くなりました・・

洞窟の中は全く電気などなく明かりは太陽の光のみです。
石を投げた辺りから下に向かう洞穴は真っ暗で、何と言うか、荘厳であり、恐怖心も・・

暗闇・暗黒・黒・・・磐戸・・熊野座神社・・「球磨」「熊」・・クマ

三つ柏服部様
写真をご覧頂いて何かお感じになられませんでしょうか?
私は、こちらに伺った事は、何だろう・・偶然ではなくて導かれた?ような気分になりました。
(思いすごしでしょうか・・)
まさしく・・「黒」「暗黒」の信仰だと思うのですが・・

一昨日うかがった
@達卒日羅の故郷、旧坂本村百済来(久多良木)
A球磨郡球磨村神瀬の磐戸熊野座神社
について書かせて頂きました。

では(^'^)
・・・・・・(..)
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月19日 18時49分06秒 ) パスワード

三つ柏服部様、白石様、たけぽん様、皆様
今日は、立て続けですが、精力的に書かせて頂きます。

コメント8では
一昨日うかがった
@達卒日羅の故郷、旧坂本村百済来(久多良木)
A球磨郡球磨村神瀬の磐戸熊野座神社
について書かせて頂きましたが・・

三つ柏服部様から頂いたご教示
「熊信仰」・・黒の信仰
「23」はユダヤゲマトリア数秘術によると「暗黒」という意味。
頭の中で考えていると
ふと気が付いたのですが・・

熊本城・・外観は「黒」です・・
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-kumamoto-kumamoto-castle1-japanese.html

※熊本城の壁の黒色は木材に塗られた黒漆や柿渋の色
※松本城同様黒く塗られた外壁

松本城も「黒」なのですね・・

「黒」の信仰・・
偶然だとは思いますが熊本城の外壁・木材は「黒色」でした・・
====================================================
ふとしたつぶやきです・・
皆様、申し訳ありませんでした。

早速ですが、「かっぱさんの伝承」について書かせて頂きます。

ムー6月号に記載の天草・志岐八幡宮に伝わる「河童の手」の話を読んだのですが
河童の話が何故この地方に伝わっているのかを筆者の方が推測されています。
※「仁徳天皇の時代、中国黄河(あるいは揚子江)流域の河童が東シナ海を渡り日本にやって来た」と言う熊本に伝わる伝承
※中国大陸から来たかっぱ達が天草地方を経由して球磨川流域に入って来た
という伝承が元になっているのでは?と言う推測でした。

確かに「かっぱさん」の伝承は熊本県八代市に残っています。
あさぎり町中部ふるさと会 様 サイト
呉人はかっぱにされた? より
http://asagiri-chubu-furusato.jp/topics/2016/09/post_32.html
その伝説とは八代の河童渡来伝説のことである。そのことを書いてある「河童渡来の碑」を図1に示す。球磨川は八代市内で二つに分かれるが、北側が前川、南側が南川と呼ばれる。その前川にかかる前川橋のたもとに碑はある。
中略・・
 碑には、「この地は千五、六百年前、河童が中国方面より初めて日本に来て住み着いたと伝えられる場所で、碑の石材は、三百五十年来の橋石でガラッパ石と呼ばれ、ある日、いたずら河童が付近の人々に捕えられ、この石がすり減って消えるまで(筆者の試算では石がすり減って無くなるまで約40億年かかる)、いたずらはしないと誓い、年に一度の祭を請うたので、住民はその願を聞き入れて、祭を五月十八日と定め、今でもオレオレデーライタ河祭と名付けて毎年祭を行っている」と記されている。
「オレオレデーライタ」は呪文か経文のような不思議な文句であるが・・
====================================================
以下、サイトでは「呉国」について書かれています。

さらに・・
※江戸時代(延享3年、1746年)の俳人であり作家であった菊岡沾凉という人が書いた「本朝俗諺志」という本には八代の河童のことが次のように記されている。「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになり、一族は繁栄してその数九千匹になった。その頭領を九千坊(くせんぼう)と呼ぶようになった・・

こちらの河童の頭領「九千坊」は筑後川に住みついた・・と言う伝説になります。(時代は新しくなりますが・・)

しかし、球磨川の河童の頭領古代の「九千坊」の末裔?はその後何処に向かったのかと言いますと・・
それは「出雲の日野川」です。
かっぱ共和国様 サイト
✺球磨川と日野川のきずな より
http://tycoon-com.com/kappa/archives/405
※ここ米子を河口とする山陰地方の大河、日野川流域には河童の息づかいが確かに聞こえます。私には格別でしょうか。日野川カワコ(河童)の大親分が球磨川渡来の九千坊(の子孫)という、八代とは切っても切れない関係にあるからです。米子の出版社・立花書院発行の『日野川の伝説』には一番目に載っております。
====================================================
どうやら・・中国から1600年以上前に球磨川に移り住んでいた「かっぱさん」達は久留米の筑後川や山陰地方の大河、出雲の日野川流域にも進出したようです。

しかし・・古代中国から渡って来て球磨川に住んだ「かっぱ」さんは全国に広まっている・・
ふざけた話だ!とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが・・
私は、この「かっぱさん」にも真実が何か隠されているのでは?と思ったのです。
さらに『オレオレデーライタ河祭』・・「オレオレデーライタ」何かの呪文?かな・・確か以前何か書いたような記憶はあるのですが、今は忘れました(..)

そこで、真剣に「かっぱさん」の伝承を私は調べたのですが・・
ついに!見つけました!
「かっぱさん」の伝承は「鉄」に関係していました!

ご紹介致します。
※田中和明氏  http://sciencei.sbcr.jp/archives/2006/04/post_162.html
田中和明氏著 「図解入門よくわかる最新「鉄」の基本と仕組み: 性質、技術、歴史、文化の基礎知識」です。

Web公開されていますのでリンクさせて頂きます。
皆様、よろしければじっくりとお読みください(..)

http://books.google.co.jp/books?id=qsVpawTZBXQC&pg=PA99&lpg=PA99&dq=%E9%89%84%E3%80%80%E7%90%83%E7%A3%A8%E3%80%80%E5%87%BA%E9%9B%B2&source=bl&ots=3uP9OKmhJP&sig=SEk9STtgfBYzZLGqtznHTMJr0Eg&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjuh5fM1-vTAhVEhbwKHcxgDPEQ6AEIRDAF#v=onepage&q=%E9%89%84%E3%80%80%E7%90%83%E7%A3%A8%E3%80%80%E5%87%BA%E9%9B%B2&f=false

田中和明氏著 「図解入門よくわかる最新「鉄」の基本と仕組み: 性質、技術、歴史、文化の基礎知識」を読ませて頂いて、私なりに理解した事をまとめました(..)
99ページの日本の古代鉄鋼史 以降です(..)

製鉄方の伝来について
※鉄は紀元前三世紀頃、中国沿岸部や朝鮮半島から三つのルートで日本へ伝わった。
@朝鮮半島から九州北部に伝わった弁辰鉄資本ルート
弁辰鉄族(九州北部へ進出。鋳鉄・鍛冶。間接製鉄法) ※ニニギ族

A朝鮮半島から山陰地方に伝わった大陸産鉄ルート
大陸産鉄族(出雲地方へ進出。砂鉄製鉄。半溶融直接還元法)

B中国沿岸から九州熊本地方に伝わった海辺産鉄族ルート
海辺産鉄族(熊本球磨川へ進出。湖沼鉄製鉄。直接製鉄法) ※アマ族
※アマ族は水酸化鉄、つまり湖沼鉄を使って製鉄を行う

古代史からの製鉄法の復元
上記の
@朝鮮半島から九州北部に伝わった弁辰鉄資本ルート
弁辰鉄族(九州北部へ進出。鋳鉄・鍛冶。間接製鉄法) ※ニニギ族
ニニギ族の遠征軍が九州を南下、球磨川へ進出したBのアマ族と合流。(高千穂付近?)
※間接製鉄法のニニギ族と湖沼鉄製鉄のアマ族の二つの氏族が合流。
※合流した二つの氏族は鉄の武器を使い進撃開始
※葦の根に付着する水酸化鉄を用いて武器を作る。

球磨に関係する部分をまずピックアップ致しました(..)
後の記述は科学が解らない私でも、とても解りやすく説明されていました。

さらに102ページにはついて「かっぱさん」の伝承もありました!
※湖沼鉄を使って製鉄を行う(起点・球磨川)製鉄技術は兵子神社で担保される。
※兵子神社の一族は海辺や川辺で水酸化鉄を取る。
※水辺で何かを取っている川の童、つまり河童とよばれるようになる。

かっぱさんの由来は「川や海辺で湖沼鉄(水酸化鉄)を取る姿から来ている」!!

やった!!!!

しかし・・球磨郡が鉄鉱石や川で取れる砂鉄の一大産地だと言う事はあまり世の方はご存知ないはずなのに、何故?田中和明氏は御存じなのだ??と疑問が・・

しかし、田中和明氏の略歴を拝見して納得しました(..)
http://sciencei.sbcr.jp/archives/2006/04/post_162.html

新日本製鐵に勤務されていらっしゃったのですね。

世の中に殆ど知られていない事なのですが
第二次世界大戦中まで、八幡製鉄所で生産されていた鉄の原材料の多くは球磨郡球磨村から搬出されていました。
球磨村の芋川流域では今でも川に磁石を入れると砂鉄が沢山付いてきます。
この芋川や他の砂鉄が多く含まれた川の水が球磨川に流れ込み、八代の球磨川河口に沈殿しているのです。
こう言う事は地元の人しか殆ど知られていません。
さらに第二次世界大戦中に国内の「鉄鉱石」が多数掘削されている場所など、外部には絶対に秘密となると思います。

実は・・球磨郡は古代からの「鉄」の産地なのです。
だから・・きっと、古代の人は青銅製の剣にはあまり興味を持たなかったのではないのかな・・
と私は分析していました(..) (素人の推測で申し訳ありませんが・・)

郡内では古代からの鉄鋼炉跡も見つかっていますが、殆どクローズアップされていません。
無視されているのかな・・とも思います・・
「熊曽」を「熊襲」と変えられてしまった権力者の方々が住んでいたと言われる場所だからなのかな・・
「熊曽」の方々がとても御気の毒だと思います・・

しかし!
かっぱさんの伝承は実は「鉄」の伝来に関わる事であった!と言う事に
微力なこんな私も・・勉強させて頂いて気が付いたと言う事は
少しは、「熊曽」の方々はお喜びになられていらっしゃるでしょうか・・
まだまだ微力も良いとこですが・・トホホ

と言う事で「かっぱさん」の伝承についてご紹介させて頂きました。

では(..)
[10]白石さんからのコメント(2017年05月19日 19時45分48秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様こんばんわ
おいそがしいのに 精力的におしらべ
ご苦労様です
私の家のことは ぼっちら ぼっちらで結構です
何せ 頭がついていきません(笑い)

なので 目の前に新しく出てきた言葉にとびついていますが

がらっぱ
田舎でもがらっぱ と いっていました
悪さすれば がラッパに しりばぬかるっとばい
というのが 大人が子供に言っていたことです

さがらっぱ 祭りも していました
これは あとから 新しくはじまったもののようですが・・・
花火もあがり けっこう楽しめました

河童は 相良氏と細川候の戦いで 相良氏に加勢して 勝利
これは 水利権を得たことなのか 

私の
子供のころなど 磁石で川のすなをくっつけて 新聞紙に包み
瓶につめて ひをつけ 爆発させてみたり 花火のように してみたり
して遊んだ記憶があります

また 松脂 レコ−ドをとかして 水中眼鏡のふちに ぬり もりで 魚とり

このもりは 熊襲のもり で 返しがついているものでした

熊襲 
もとは 球磨族 曽於族であったものが 熊襲で ひとくくりになったのでしょうか

景行天皇の平定のみぎりには 球磨族 曽於族平定 とかいてあるそうです

神瀬
このあたりは 白石駅 坂本駅が ちかくでしたね
記憶もおぼろになりましたが 
球泉洞・・・愛媛大学の探検隊がはいって見つけられたと聞いています
このあたりに 石水寺があるのは 鯉料理をだすところでしょうか?
海棠の花がうつくしかったと思っていますが 場所違いかもしれません・・・
川下りは 八代まであったのが 今は 神瀬で 終わりとか 聞きましたが

神瀬あたりになると 少しは 流れも落ち着いているのか 
しかし 雨でも降ろうものなら たちまち 水川が増して 
ごおごお と 恐ろしいほどの 流れになるのでしょう

八代に昔 病人が出ると
物部の船が八代に入った
というので 
少し上流に 物部がいたのかもしれません

ともあれ
あのあたりの 地底をパカット開けてみたら おもしろそうです
ぬけぼおし の 穴に友達が石を投げ込んだれ ずいぶんたってから 音がしたそうです

3億年前の記憶をとどめている球泉洞
やはり 九州は 歴史の宝庫ですね
[11]白石さんからのコメント(2017年05月19日 20時28分48秒 ) パスワード

切畑大明神
切畑という言葉はが
地震があった際 益城のほうで阿蘇に近い場所で ダム(ため池)
があるところでは ないでしょうか?

決壊して水が 出るとか さわがれたような・・・
そのあたりは 天御中主尊をまつる神社があったような・・・

平景清
梶原氏の息女に関係しているとか
ごめんなさい しっかり 確かめながら書けばよいのですが 
根気がなくなって 

梶原氏の子孫に 香川氏がいるのではないか?と思っております

うちの佐田がお世話になっている山口のお寺様は
防州最古の真宗寺院で 住職は香川氏

香川氏は 一般的には 甲陽軍鑑 を あらわした人がいます

うちの佐田は そこの 檀家筆頭で 「正確には本家が」
−マンをしていたようです

毎年かかさず 墓参をしておられるそうです

もう一軒 母の母は 毛利氏と同格の村上水軍の姫が建てたお寺に入っていると聞きました

お寺に聞いたとき
土地の人が呼んでいる呼び方ですよ と すぐに 打ち解けてくださって
私ぶしつけすぎる 海賊だったのではないのか? という問いにも 

塩をつくっていたのですよ という返事
母の話に 浜人の旦那様といわれ 
いつも 人が 何人かうしろからついてきていて
岩国の金タイ橋などに 船でくりだして 遊んできたのだという話もなんとなくなっとくできることでした

その人が 佐田にくると 土
間にはいつくばって 佐田の当主は 座敷から話をしていたそうです

うちの佐田のことなど どこにも資料はないようです
また 戸籍から 祖父母のことなどは わかりません
祖父は 山本
ふたりは いとこどおしで 若いころ 手に手を取って半島にわたり 祖父はその後下益城郡 別府 と住み 最後は山口県に帰って なくなったそうです

戦後の母の窮状をみかねて 何度か迎えに来たけど ついぞ いかなかったのだといっていました

叔母は おばあさまは 毛利様から 院号をもらったのだよ といっていました
佐田も はじめは 法名で 明治頃から 院号がついた戒名です

一般的には 佐田は 宇都宮氏
三つ巴紋
本家から教えていただいた紋も 男子は三つ巴 女子は蔦紋
母の紋付も蔦でした

蔦は 藤原の紋だったのが 江戸時代ごろからか 一般に広まり みんながつかうようになったのだそうです

佐田は毛利 大友 黒田 細川氏に仕え ており 叔母は 相川に嫁いでいます 
昔 相川という キリシタン大名がいたそうです
銀杏紋ぎょうよう紋

毛里 大友 などから 前に なりまつ という言葉の氏が でてきたことがありますが

姉は 自分のほうの母系をたどれば なりまつ だよ といっていました
廣松家は聞いてなく どこか ずれているのだろうと 思います

でも みやちゃん
ながったらしく わたくしのことばかり書き連ねて ごめんなさい
おかげで
すこしずつ ここらあたりをさがせばよいのかなあ 
と わかってきたようです



[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月20日 06時29分45秒 ) パスワード

三つ柏服部様、白石様、たけぽん様、皆様
おはようございます(^'^)

昨日は、次々と湧きあがるものがありまして
ついつい、長々と積め込んで書いてしまいました。
お読み下さった方々には、とても読みづらい文章となってしまったのだろう・・
と今朝は反省致しております(..)
申し訳ありませんでした。

白石様
御教示ありがとうございます(^'^)

〉神瀬 このあたりは 白石駅 坂本駅が ちかくでしたね

はい!そうです。
実は、以前から白石さらに白木と言う地名が球磨村神瀬の球磨川の対岸「芦北」にある事は気が付いていました。
先日、伺った「百済来(久多良木)」は白木地区とは山をはさんだ近い場所でした。もちろん白石地区にも山をはさんで、近い場所でありました。
白・・白木・・白木は、日本の苗字七千傑様より「新羅」系の地名だと以前御教示を頂きました。

つまり・・人種のるつぼ・・そのものだと言う事ですね。

〉子供のころなど 磁石で川のすなをくっつけて

父や椎葉のおじも磁石を使った川遊びをしていたそうです(^'^)
私も何か理科の授業で、砂鉄を取る遊びを川でした記憶があります。

しかし・・地元に住んでいてそういう遊びをした事が実は『とても深い意味』があったとは、あまり考えませんものね・・

昨日、書いた「球磨と鉄」の関係ですが、「鉄」に関連する事を球磨に戻る前にこちらのスレッドで書いていたのです。
でも・・その時は書いたはいいものの・・深く考える事はありませんでした(@_@。
かなり以前、「鉄と球磨」に関係する話を書いた時に引用した論文を書かれた方とは
実は、今、研究会で御一緒させて頂いています。

昨日のコメントで球磨は古代から鉄が関係していた事を書かせて頂き
おそらく「かっぱさん」と共に(正確には伝承と共に)広がって行った事を理解して、この事(鉄について)は単純に「郡内」の歴史として止まっている内容ではないな!(p_-)
と考えました。
今後も出来るだけ知り得る事は情報発信をして行こう!と思います。

実は、今日、参加させて頂いている研究会で、水上村湯山・岩野地区の探索を行います。
スケジュールは1か月程前から決まっていました。
偶然にも前スレッドで水上村湯山・岩野地区の事を書いて・・さらにムー記載の情報に水上村湯山・岩野地区について書かれており
不思議な縁を感じています。

研究会に参加されていらっしゃる方々は殆どが、進学や就職で球磨を一度離れていらっしゃいます。
離れてみて、外から球磨を見た時に、「自分が育った場所は何か不思議な場所だった」と言う事を感じるようですね・・
もちろん、私もそうですが・・
ずっと住んでいると当たり前の事が、実は外から見ると「当たり前ではない」事が多々あるのだと思います。

先日、百済来に伺った時に実は迷子になりまして・・
ふと見るとかなりレトロなとても良い雰囲気の建物があり、「支所」と言う文字が見えて、
「ここは役場の支所だ!」と、思わず、中に入って職員の方に百済来地蔵堂の場所を教えて頂いたのです。
何も看板とか案内とかは無いそうで、とても御親切に地図まで書いて下さいました。
何故?有名な「日羅」公に所縁の場所が観光案内も何もないのだろう?
と不思議に思って尋ねると
「ここに住んでいる人達は、何だか自分の先祖は百済から来られたらしいバイくらいで、皆、そんなに深くは考えてはいないと思います。それが、日常当たり前の事だからですよ(^'^)」
と笑っていらっしゃいました。

私も・・ああ同じだ・・!と思いました。
『球磨郡久米郷』は久米氏の元祖的本拠地であるという論を先日引用させて頂きましたが
実際に生まれ育って、住んでいる人達はそういう事は深く考えずに日常をすごしています(^'^)そこに居るのが当たり前だからです・・

役所の方に観光パンフレットはありませんか?と伺った所・・

「ここにはありません(ー_ー)!!。ここはJA・・農協です」と・・

あっ!ここで初めて気が付いたのです。
お話を伺った職員の方は・・農協(JA)の方で・・ここは役場の支所ではなかった!!
((+_+))
私を、トラクターに乗ったカッコイイ青年のポスターが笑って見ている!

私は赤面して汗が吹き出しながら
「お仕事の邪魔をしてご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
とお詫びすると
「いえ、いいですよ。百済来を見てきて下さい。景色もとても良い所ですよ(^'^)」
と言って下さいました(..)

御親切なとてもお優しい農協(JA)の職員の方でした。
本当にありがたかったです。

昨日は真剣に皆様に百済来をお伝えしたい!とコメントを書いたのですが
実は、裏ではこういう「真実」があったのです(p_-)
じゃなかった・・トホホです((+_+))

今日は、早朝から出かけます(^'^)
厚くなりそうですから白石様もお身体お気を付け下さい。

では(^'^)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月20日 06時44分56秒 ) パスワード

追記

厚くなりそうですから・・

じゃなくて(ー_ー)!!

暑くなりそうですから・・

です(..)

申し訳ありません((+_+))
私はこぎゃんありますもんね・・(@_@。
[14]白石さんからのコメント(2017年05月20日 15時20分19秒 ) パスワード

こんにちわ
三国志も6巻に進みやっと 曹操 劉備 諸葛孔明 周瑜 孫権 などの言葉がでてきました

しかし 越王勾践はどこへ?

しかたがないのでウィキでみますと
います います
呉と隣通し けんかしてるみたい

そして
ミヤちゃん 私 今興奮しています

赤壁の戦いって 赤い壁って なんで そうなんだろう と 
思ってみると 鉄鉱石を含んでいるのですって

もう みやちゃん
書いて 書いて と いう 気持ちです
私 そういうことを 見ても 時間軸が合わなく 何を見てもぼんやりしてしまいそういえば 学校のころ 鉄鉱石が学校に転がっていたのを かかえてみたら おもかったなあ という 記憶しかありません

ついでに きんきらきん の部分を手でこすって とれないかなあ などと・・・

勾践の剣は 青銅だったと書いてありました
ということは 球磨にある 鉄の剣は 越のものではない?

卑弥呼が 曹操に使いを出したあと 呉のほうへ すりよっていっているみたいで我が国の情報網も すばやいものだと思いますが
ぼうっと した 頭の中は みやちゃんが 書いてくれると整理できて ああ そうだったんだ と なります

曹操は 宦官の家系だったのですね
初めて知りました
[15]白石さんからのコメント(2017年05月21日 07時38分55秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
今日は 図書館があくので
行って調べ物をして来ようと思います

実は 前に聞いていた 八王の鏡
良峰 に 関してのことだったかと思っていますが


ひょっと 八王の乱というのが 出ました

劉備の耳は 以上に大きい
劉備は 漢王室の血を引いている
劉備に 孫権の妹がとついでいる
劉備と孫氏の子孫は 耳が大きくて不思議でない
中山王朝というらしい

彼らも含めた皇族八人が 内乱を起こしたらしい
八王の乱という
晋の姫が東北にのがれてきて 
その姫の動向を始皇帝は気にして 徐福をよこしたらしい

高丘王がついている系は饒速日 が 始祖
饒速日の妹と 神武は 結婚
つまり あまてらす を 冠する系と 
あまにぎし を 冠する系と ドッキング

姻戚関係にあるから 近くにいる
東北には 平川神社もあった

百済は 高句麗とつながっていた
高句麗は チュモン 

朱氏は 三国志前夜という頃 連合軍にいた

この 高丘王がつく系を もう一度 見てこようと 思っています

[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月21日 16時55分38秒 ) パスワード

白石様、三つ柏服部様、たけぽん様、皆様
今日は(^'^)

白石様、沢山の御教示ありがとうございます(^'^)

〉球磨にある 鉄の剣は 越のものではない?

こう言う重要なご質問を簡単に憶測でお答えする訳にはいきません。
そう思い、私は昨日から今日にかけて、球磨の古代の鉄についてしっかりと
勉強させて頂きました。

ご協力頂いたのは求麻郷土研究会の宮广副会長です。
宮广副会長は、実は、私と同じ集落にお住まいで、今朝も貴重な時間を割いて頂き、お話をじっくり伺う事ができました。
宮广副会長は大先輩でいらっしゃるのですが、私は子供の頃から存じあげていますし、普段は宮广さんとお呼びしていますので、今回は失礼ながら「宮广さん」と書かせて頂きます。(..)

宮广さんは数十年に及ぶ球磨の古代の「鉄」について御研究を続けて来られました。
求麻郷土研究会発行の 郷土第34号求麻郷土研究会40周年記念号に
「古代の製鉄再現」と題した論文を載せていらっしゃいます。

私がコメント9で書いた
田中和明氏著 「図解入門よくわかる最新「鉄」の基本と仕組み: 性質、技術、歴史、文化の基礎知識」を
読ませて頂いた事などを、昨日、宮广さんにお話した所
「東征うんぬんの話は抜きにして、球磨・球磨川の古代の”鉄”についてクローズアップされたと言う事は大変うれしい事やね!」
と言われていました。

そこで、今朝は、本格的に宮广さんに球磨の鉄についてお話を伺い勉強させて頂く事にしたのです。
宮广さんには、こちらのスレッドでお名前を出させて頂く事、伺ったお話を書かせて頂く事を御了承して頂きました。

皆様、かなり専門的な用語も出て参りますが、私なりに自分が解るようにまとめましたので、ぜひ、じっくりお読み頂ければと思います。


球磨・人吉盆地は今から約260万年前から約100万年前まで人吉湖と呼ばれる巨大な湖でした。
湖は東西約30q、南北の幅は10q程で、現在の琵琶湖に次ぐ大きさだったそうです。
現在の球磨・人吉盆地の市町村は、太古の昔、約160万年の間、湖の底となっていました。(縄文人は肥薩線に乗って 人吉・球磨100万年の歴史 杉下潤二氏著より)

宮广さんにお伺いした
1.球磨の超古代と鉄の関係

@湖(人吉湖)と火山
人吉湖の周囲を取り囲む山々。現在の人吉市大畑町(人吉市南部球磨盆地内)から球磨村(人吉市北部)にかけて
宮崎県の「加久藤」から続く「肥薩火山帯」があります。
太古の昔、「肥薩火山帯」の火山が噴出した溶岩(安山岩・流絞岩)等は鉄分を多く含んでいました。
鉄分を多く含む溶岩により形成された山々に人吉湖は囲まれていました。
この山々から鉄分を含んだ水が人吉湖に流れ込みます。

A湖(人吉湖)と鉄
人吉湖に流れ込んだ鉄分はやがて湖内の植物・葦等に付着します。
これが「水酸化鉄」つまり「湖沼鉄」と呼ばれる物です。
この水酸化鉄(湖沼鉄)がドロドロした状態を『リモナイト』と呼びます。
さらに水酸化鉄が結晶化して化石化したものを『褐鉄鉱』と呼びます。
約100万年前まで湖であった人吉・球磨盆地の地層に、この『リモナイト』・『褐鉄鉱』が多く含まれる由縁です。
さらに『褐鉄鉱』が多く含まれる地層付近が長年月の雨風に晒されて風化し砂状となって分離したものが砂鉄です。
※水酸化鉄(湖沼鉄)
化石化したものが『褐鉄鉱』ドロドロした状態の物が『リモナイト』
『褐鉄鉱』は通称「ベンガラ」とも呼ばれています。

B古代から近代の球磨における『リモナイト』・『褐鉄鉱』の利用
『リモナイト』・『褐鉄鉱』共に球磨郡内では近年まで採掘されていました。
『リモナイト』・『褐鉄鉱』(水酸化鉄)が取れる場所は郡内には数か所あり
特に有名な場所は
球磨郡球磨村(旧一勝地村)日隠の森近隣(地名は”日隠”です)
日隠の地層から掘り出された鉄鉱石は第二次世界大戦の戦前・戦中と北九州の八幡製鉄所に搬出されていました。
その外、鉄鉱石が取れる鉱山は現あさぎり町の深田にもありました。
他、郡内に数か所確認されています。

砂鉄が取れる川は球磨郡内に非常に多く分布します。

宮广さんは長年かけて、郡内の川と言う川、殆どの川に磁石を持って入り、砂鉄の量を研究されていらっしゃいます。
その中で特に砂鉄の量が多い川は
先にも記述した
球磨郡球磨村(旧一勝地村)日隠を流れる「芋川」及び近隣の川と
「加久藤」にほど近い人吉市大畑(旧大畑村)を流れる鳩胸川だそうです。

古代における『リモナイト』・『褐鉄鉱』の利用法の一つが古墳等の装飾です。
『褐鉄鉱』『リモナイト』は通称「ベンガラ」とも呼ばれていますが、この「ベンガラ」は通常は黄色みがかっていますが、800℃で焼く事によって真赤になります。
この赤いベンガラを使用して、古墳の石室や装飾を古代の人は行っています。
先日、私が伺った京が峰横穴群の装飾が赤い色で塗られていたと書きましたが・・すなわちベンガラが使用されていたと言う事です。

ちなみに県内で同じく水酸化鉄(湖沼鉄)が取れる場所が「阿蘇」(カルデラ)です。
阿蘇(カルデラ地域)はその昔、カルデラ湖でした。
火山と湖と言う条件が整っている訳です。
しかし、阿蘇で見つかる水酸化鉄(湖沼鉄)は化石化した『褐鉄鉱』は殆どなく『リモナイト』の方が大量に採掘されています。
『リモナイト』は装飾には利用出来ますが、製鉄となると非常に難しいようです。
宮广さんは『リモナイト』を使用して、古代の製鉄方法で鉄を自分で作る実験も行われています。

C宮广さんの古代製鉄法を再現した実験
宮广さんは書籍「中世の製鉄法 再現へ炉作り」を読まれ、御自分で古代の精錬(製鉄)用の「炉」を手作りして実験を繰り返されています。
※求麻郷土研究会発行の 郷土第34号求麻郷土研究会40周年記念号の
「古代の製鉄再現」に実験成果を書かれています。

炉の作成法等は、今回、こちらには書かせては頂きませんが
何度も何度も実験を重ねた御苦労が読み取れます。

宮广さんが使用された製鉄の原料となる『褐鉄鉱』は先にも記述した球磨郡球磨村(旧一勝地村)日隠の地層から採取されています。
補足・・実は、私、二年ほど前に完成した「鉄」の大きな塊を拝見していたのです。
あらためて、宮广さんの御苦労が如何許りであったか・・と感動致しました。
しかし、当時、とても重要な事を伺っていたのに、今頃になって、伺った事の重大さに気が付くなんて・・私は本当に自分がバカだった!と反省しています。

つい最近ですが、宮广さんは、「加久藤」にほど近い人吉市大畑(旧大畑村)を流れる鳩胸川で採取した砂鉄を使っての製鉄の実験にも成功されました。
実は、昨日、拝見致しました。

D球磨で見つかった鉄剣の製造・及び製造元について
球磨で出土した鉄剣の幾つかを九州大学にて、成分分析した結果を宮广さんに伺いました。
成分分析した結果、成分は『含韓銅磁鉄鉱』と呼ばれる物である事が解りました。
『含韓銅磁鉄鉱』は日本国内には存在しません。
中国・朝鮮半島でしか採掘されないそうです。
球磨で見つかった鉄剣は、結果
1 中国もしくは朝鮮半島で「作成」された鉄剣が球磨に入ってきた物
2 中国もしくは朝鮮半島で精錬された鉄を輸入して球磨で加工した物
の何れかとなります。

E球磨では古代「製鉄」は行われていたのか?
宮广さんは論文「古代の製鉄再現」の最後、「終わりに」の中で
『私のような素人でも製鉄出来たのだから、古代のプロの製鉄師達は、私達が思うほど困難な事ではなかったかもしれない。
そうだとしたらこの球磨地方(鉄鉱石産地)でも、古代に原始的な製鉄があった可能性は十分考えられる。』
と書かれています。

今日、宮广さんは
『自分で、製鉄したから解る事だけれど
本格的な製鉄にはかなりの人数(人件)が必要となる。さらに大量の木炭も必要。
コストを考えると、中国や朝鮮半島から精錬(製鉄)された物を大量に輸入して、加工を行う方がリスクは少ないと思います』
その為には
『中国や朝鮮半島と外交を行う事が出来る”力”がなければ出来ない』と。

球磨には残念ながら古代の製鉄を裏付ける資料や記録は残っていないそうです。

しかし
『古代のプロの製鉄師達が球磨に何処から来られていた可能性は十分考えられますけどね』
と宮广さんは笑っていらっしゃいました。

最後に宮广さんは
『リモナイト』・『褐鉄鉱』(水酸化鉄)が取れる場所の条件は
『火山帯があり湖・もしくは古代湖があった場所!』
と繰り返しおっしゃっていらっしゃいました。

※『火山帯があり湖・もしくは古代湖があった場所!』

==========================================================
今日、求麻郷土研究会の宮广副会長に伺った「球磨と鉄」について書かせて頂きました。

所で・・
宮广さんは「鉄」以外にも球磨の地で様々は発見をされた方でもあります。
その一つが、古代から球磨に居られた豪族「須恵氏」の「須恵釜」跡です。
本来、鎌倉時代中期までの「須恵氏」の本拠地は現在のあさぎり町須恵ではなく
錦町一武付近でした。
この錦町一武で宮广さんは「須恵釜」跡を発見されています。
そしてもう一か所宮广さんが発見された「須恵釜」跡は・・・

ナント!!私の住む旧岡原村の長岡(旧岡本領)の
「モイノソン」(森園)でした!!
全く知りませんでした!!

以前、日本の苗字七千傑様より
『「モイノソン」(森園)。モイ(森)は百済語のムイから来ている』
と言う内容の御教示を頂いていました!!

「モイノソン」(森園)で「須恵釜」跡が発見された!

今日は、本当に勉強させて頂きました。
私の身近な場所に、真摯にそしてコツコツと努力をなさって球磨と向き合っていらっしゃる方がいらっしゃる事にとても感謝しています。
お話を伺って感動致しました。

リモナイト』・『褐鉄鉱』(水酸化鉄)が取れる場所の条件は
『火山帯があり湖・もしくは古代湖があった場所!』

私の拙い説明で申し訳ありませんでした(..)
皆様、よろしければ、日本中の古代の歴史をお調べになられる上での御参考になればと思い書かせて頂きました。

では(..)
[17]白石さんからのコメント(2017年05月21日 20時11分13秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 こんばんわ
すごい 収穫ですね

私も 目当ての本はもうありませんでしたけど
それなりに 収穫があったと思います

みやちゃんのおうちに 直接関係ないでしょうが
もうすこし がまんして おつきあいください

神奈川のほうで 丸に橘をつかうおうちがあり ここなら むりなさそうなのだけど ・・・ と おもいます

どの本をみたかは とんだ 飛び火をするといけないので ご容赦ください

うちの平江の姻戚に東野 伊津野がありました
東野は 頼朝への筋道があり 伊津野は 藤原のようでしたt

今日見つけたおうちの先祖は 鎌倉から神奈川へ移住
お寺を二つ持っている

男寺を高御蔵㈤明山最宝寺 
女寺を 西来寺という

住宅は武田番城という有名は棟梁の作で現存する
寺の過去帳には 弘仁年間の仏がいるという

開祖は明光上人で母は 頼朝公の姉
父は 鎌足の玄孫右大将従一位内麿公の後胤
泉州の国守信濃の守藤原季平6代の孫 
頼景第4の子なりと



[18]白石さんからのコメント(2017年05月21日 20時27分40秒 ) パスワード

久里浜野比の最宝寺
建久6年1195年 頼朝が鎌倉の弁が谷に天台宗のお寺を建てた

翌年 高御蔵にあった薬師如来を本尊としてまつった
ところが 寺院の開山であった 明光上人がその後親鸞に帰依し 真宗に改宗
ほんぞんを阿弥陀如来にした

薬師如来は 本殿の厨子にまつられている
この薬師如来は 神奈川県の文化財に指定されている

^^^^^^^^^^^^^^^^^
真宗大谷派 西来寺
弘仁年間に 一条寺という天台宗の寺として建てられる
その後 親鸞上人が来られ 住職乗頓が深く帰依した

[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月23日 08時58分59秒 ) パスワード

白石様

お返事遅くなりまして、大変申し訳ありませんでした。
すみません(@_@。

実は、昨日、早朝から合志市の病院の弟に会いに行っていました。
いつもは、高速道路を使うのですが、主人の発案で、通称「球磨川沿岸道路」(国道219号線)を通り八代に抜け、そのまま国道3号線を通る事にしましたので
かなり早朝からの出発で、帰りも遅くなりました。
(しかしこの道を使った事はとても良かったです(p_-)・・理由は後ほど(..))

白石様はご自身の御先祖様の調査において何か”ひらめく”物””収穫”がおありになったのですね!
良かった!\(^o^)/

所で
白石様・・
〉みやちゃんのおうちに 直接関係ないでしょうが
もうすこし がまんして おつきあいください

白石様は、「平川家について」のスレッドを立ち上げた、歴史に関して全く疎かった私に、根気よく御教示をして下さいました。
私は、勉強をさせて頂いて、「歴史は面白い!」と言う事に目覚める事が出来ました。
白石様、そして日本の苗字七千傑様には言葉では表現出来ない程、感謝致しております。(..)

だから白石様
「がまんして おつきあいください」何て書かないで下さい。
悲しくなります(@_@。。

白石様は白石様の「視点」がおありになるのですから、その「視点」はご自身の御先祖調査の「視点」であり、それは何らかの形で「球磨」に繋がる事なのかもしれません。

多方向からの、様々な視点を頂いての調査は、「謎」の真相を究明する
大きな「網・あみ」のような気がします。「包囲網」と言うべきなのでしょうか(p_-)
その「網・あみ」をドンドン中心まで縮めていくと・・
「真実」はきっと見つかるのだと思います。
偉そうにかきました。すみません(..)・・
わぁ〜お!!大漁?だった!\(^o^)/っていつか言えたらいいですね(^'^)

あと・・
私は
「気になる事はコメントに書いてみて、さらに新たな発見が見つかった!」
とか
「一応書いてみると・・後で何故気になっていたのか不思議と理由が見つかる」
と言う事は多々あります。

それと・・「書いておかないと忘れそうだから」これもあります。
多分に、これが一番多いかな・・(p_-)・・最初はそうでもなかったのですが
数年たった今は・・それだけ中年度が高まっていますので(@_@。

でもコメントを書くと言う事は・・楽しいですね!ねぇ白石様!(^'^)

コメント17・18の御調査は、不勉強の私には白石様が御先祖様に繋がる何かをお見つけになったのだろう(p_-)と推測するだけですが
”収穫”は沢山あった方が良いですね(^'^)

うんっ?食いしん坊の私は今、「収穫」と書いて頭の中にイチゴが目に浮かびました(*^_^*) お恥ずかしい・・

白石様
今日も暑くなるようですね。
体調をお崩しにならないようにして下さい。

では(^'^)
[20]白石さんからのコメント(2017年05月23日 10時35分02秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 おはようございます
今日も あつそう わたくしは 部屋の中で 空をながめながら 
若いころは 今頃の季節 あちこち 出歩いたのに・・・となつかしく
思っています

今日は彦根橘紋 と 丸に橘紋のちがい とかの 画像を見比べていました
微妙に違うのでしょうね ・・・ わからないなあ というのが 感想でした

ところで
明光上人のこと
ネットで みたのですが 頼朝の姉は わからず
一条全子 は いるようですが・・・あまり深く考えると また いちから この人はこうで ・・・ となるので そうなのか と おもっています


そして 
前に紅楼夢の話をしたことがありましたが か「西の下貝の字」

この氏は もと 中国の姓で ぎょう の子孫
あの 10個の太陽のうち 9個 射落としたげい と かさなる
らしい人で 
本願は 蘇州か氏 だそうです
 
ネットを見ていると 周武なども出てきて 太子晋なども出ます
前に 北京大学の先生をしている か 氏の話を 見たことが ありますが
良峯は か 氏だったと 書いていました

若いころ見た 本には 扶桑 の ことから ぎょう が 先祖 と 書いていました

熊野の伝説の一つにも しんの ことではないか? というのがありますね
今 読んでいる 三国志は 赤壁の戦いの 圧巻がこれから ・・・ と 思っていたら 一行で 曹操は 戦いに大敗 ・・・で ちょん で

あんれ? 映画の レッドクリフは 超大作だったのに ・・・と 拍子抜けでした



  
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月24日 08時25分31秒 ) パスワード

白石様 皆様 おはようございます。

白石様、御教示ありがとうございました。

白石様のお言葉・・
〉今日は彦根橘紋 と 丸に橘紋のちがい とかの 画像を見比べていました

「橘紋」・・拝見して、最近気が付いた人吉のお寺の寺紋が非常に気になりました。
人吉城のすぐお隣、人吉市麓町の日蓮宗「林鹿寺」(りんろくじ)
寺紋が「橘紋」です。

そこで今朝調べたのですが・・

私・・ついに・・
「真相」にかなり近づいていると思います。

調査内容はこちらではなくあえて、
「松葉宗益 後裔 平賀氏について3」に書かせて頂きました。

白石様、皆様、ぜひご覧になられて下さい。
よろしくお願い致します。

「松葉宗益 後裔 平賀氏について3」コメント12です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_11.html

では(..)
[22]白石さんからのコメント(2017年05月24日 18時17分13秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 こんにちわ
先ほどから パソコンと格闘していましたが
ついに というか マウスが きかなくなり
赤く電気はついているのですが 動きません
ので あきらめて こちらに 書かせていただきます

実は みやちゃんのメ−ルもまだみていないのです
前のように 家のまわりに ポストがいくつもあるじょうたいだろうと思うのですが・・・根気がなくなり すぐに 横になってしまいます

久遠寺をみていたら 浜松城主太田 というのがありました
太田道灌 ひ孫 ということです

浜松 太田 そして 都築という言葉も
浜松君は いました 
太田道灌がついている系図は 高岡系図で 見ました
都築君は 就職で入った会社の同期でした

この会社は 藤原系の家の子を とっていたようです

秋山の言葉も見えましたが もしかしたら 坂の上の雲の秋山兄弟につながるのかもしれないと思いながら読みました

この 秋山も 高岡系図から出ます

ぐるぐる つながり 南部へ・・・

今 平家物語を読んでいたところで 平貞能がでてきました
うちの平川も 定〇で さだ がついているなあと思いながら 読んでいました

後白河法皇 もおり 延暦寺も巻き込み 天台の教えも ゆらぎ
日蓮の出現まで あと少しです

師高は 加賀にもいたことがあり あちこち 動いているなあと 思いながら 読んでいます

初神に 慈法院という寺があり わたくしが子供のころ甘茶を目当てに言ったお寺です 
曹洞宗として 紹介されています
観音 不動が 本尊

同級生に 前に 家の宗派について 聞いたところ
口をにごして いました
私も人の家のことだから それ以上聞いていません
ただ 同じ苗字だから 一緒だろうか? と 聞いてみたったいね
で すませましたが

初神の寺のことは
あそこは 日蓮じゃなかとね と いったことがあります

球磨のお寺は いろいろ 変転しているお寺もあるようです









[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月25日 16時00分36秒 ) パスワード

白石様、皆様 今日は(^'^)

白石様
〉初神に 慈法院という寺があり

上村重次氏著「九州相良の寺院資料」によりますと

慈法院 相良村四浦初神 曹洞宗 現存
明応六年(1497年)人吉・永国寺の虎佑和尚の草創(郡誌)
元禄十一年(1698年)は庵号・慈法庵(元禄十一年寺院帳)

とありますので
日蓮宗に変わってはいないようです。

〉球磨のお寺は いろいろ 変転しているお寺もあるようです

そうです!
白石様、皆様 申し訳ございません。
実は・・私、昨日、松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方で間違った事を書いていました(@_@。

〉ちなみに家は江戸時代までは曹洞宗。明治以降は浄土真宗となりましたが

父と、昨日のコメントの話をしていて「家は曹洞宗から浄土真宗に変わったから」と言うと
父が
「ちょっとまて!曹洞宗の話も聞いた事はあるけど・・黄檗宗じゃなかったか?」
と。
親子でちょっとだけ口論になりまして・・
ならば!と
上村重次氏著「九州相良の寺院資料」 旧宮原村宮麓 庭柏寺の項をみると
確かに曹洞宗から黄檗宗へと変わっていました。

皆様、間違った事を書いていました。
申し訳ありませんでした。

あらためて 庭柏寺について書かせて頂きます(..)

庭柏寺は相良氏の第16代当主相良義滋の妻(豊永氏の娘)の菩提寺として稲留某氏により建立されました。
※補足 相良義滋の妻(豊永氏の娘)享禄元年八月十五日卒去、法名庭柏祐意 (人吉市史より)

上村重次氏著「九州相良の寺院資料」から
庭柏寺 岡原村宮原 (※補足、私の住む宮麓集落です)
曹洞宗のち黄檗宗 廃絶

享禄二年(1529年)竜興山庭柏寺寺建立。
弘治二年(1559年)人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は十三歳で剃髪し、名を・雲祖英と改め、庭柏寺住職となる。
その後徳千代は同寺を出て還俗。
この為、同寺は無住となって衰亡していたが、正保年中(1644年〜1648年)に僧行櫂が再興した。
この行櫂は岡本の永空寺も再興した。(独集覧)
寺柏寺は元禄十一年(1698年)は曹洞宗(元禄十一年寺院帳)
その後黄檗宗となり明治維新後に廃寺。
※永空寺 本秀禅院参照

上記に記された庭柏寺住職 人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)
この方が
雑誌「ムー」に記載された相良頼貞です。
私も平川家について38コメント42で書かせて頂いた”あの事件”に関わる方です。
平川家について38
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101585_83.html

明治に入り廃寺となった庭柏寺(かなり広大な敷地を持つお寺だったそうで、まるでプールのような大きな池は今でも残っています)
庭柏寺跡地の横にある小高い丘には、家の宮原家、祖母の実家の平川家、親戚の万江家・蓑毛家ほか、村山家・土肥家等のお墓が今でも建っています。

上村重次氏著「九州相良の寺院資料」記載の「庭柏寺」の記述に戻りますが
※同寺は無住となって衰亡していたが、正保年中(1644年〜1648年)に僧行櫂が再興した。この行櫂は岡本の永空寺も再興した。(独集覧)
※永空寺 本秀禅院参照

相良藩の歴史の一片が垣間見れる内容となりますのでご、庭柏寺から繋がる記述を紹介させて頂きます。

★永空寺 岡原村岡本 曹洞宗 廃絶
天正年間(1573年〜1592年)八代高田の竜成寺が衰亡したので、僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。
その後、永空寺は衰亡したので、宮原庭柏寺の僧行櫂が再興し、岡本城下に移して本秀禅院と改称。
さらに本尊は寛文年間(1661年〜1673年)人吉・中尾山蓮寿庵に移す(独集覧)
※清明寺、庭柏寺、本秀禅院、蓮寿庵参照。

★清明寺 蓮寿庵
清明寺 人吉市七地中尾 曹洞宗のち黄檗宗 廃絶
本清山清明寺。応永十七年(1410年)人吉・土手町に移し、永国寺と称す(独集覧)
寛文七年(1667年)人吉城第二十一代相良頼寛没。法名天真院。
人吉中尾の清明寺跡で火葬、同八年(1668年)頼寛の未亡人(後室)心珠院はこの火葬地跡に観音堂を建立。
本尊は岡原・岡本城下の本秀禅院にあった湛慶作の聖観音を補修して入仏。
延宝八年(1680年)心珠院は中尾に隠居し、蓮寿庵を開く。
本尊には天真院(相良頼寛)火葬跡観音堂の聖観音を迎える。
以下、記述は略します。
=======================================================

御説明します。
★天正年間(1573年〜1592年)八代高田の竜成寺が衰亡したので、僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。

相良 長毎(さがら ながつね)は、相良氏の第13代当主。第12代当主・相良為続の第一子。初名を長輔(ながすけ)とし、通称は太郎。
生誕 文明元年(1469年)
死没 永正15年5月11日(1518年6月18日)
改名 長輔→長毎
戒名 龍成寺大池蓮心
墓所 八代の高田竜成寺  ウィキ 相良長毎より

室町時代〜戦国時代にかけて、相良藩も激動の時代を迎えていました。

相良長毎の祖父、相良氏の第11代当主「相良長続」は相良家分家の永留氏の出身であり永留実重(治部少輔)の子となられる方です。
相良長続は通称は藤五郎または左近将監。幼名は長重。
相良長続は上相良氏(多良木兄弟)の乱を鎮定し第10代当主相良堯頼の客死により、宗家を相続。
相良頼景より数えて8代220年余り分裂してきた上相良氏と下相良氏の争いはつい終結を迎え、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村を支配下にいれ、相良氏は相良長続により、初めて球磨郡内の統一を果たしました。

その後、相良長続は球磨・人吉以外の島津領牛屎院(現在の大口市)・熊本県「葦北・水俣」・八代郡高田郷350町と領土を拡大する事に成功しました。

相良 長続 ウィキより(詳細はウィキをご覧ください(..))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E7%B6%9A


(..)
さらに相良長続の三男、「相良為続」は球磨・人吉以外の島津領牛屎院(現在の大口市)・熊本県「葦北・水俣」・八代郡高田郷350町だけではなくついに「八代」を領する事となります。
※相良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年)- 明応9年6月4日(1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男。母は犬童兼長の娘。
さらに相良為続は躍進を続け、豊福城(宇城市松橋町豊福)を奪取。
八代だけではなく現宇城市松橋町豊福までもが相良藩の支配下に入ります。
順調に肥後国を北上していた相良藩勢力ですが・・
明応7年(1498年)、菊池武運(能運)は先年来の恨みを晴らさんと挙兵し、筑後・豊後の援兵を得て豊福城を攻略。
相良勢は八代に敗退したが、周辺豪族も為続から次々と離反し、更に肥前有馬氏が菊池側に味方して古麓城を攻めました。
相良為続は葦北や球磨の兵でこれを防ぎますが、翌明応8年3月には八代を放棄して、高田に退き、さらには球磨へと退きます。
菊池側はさらに天草や真幸院からも味方を集めて勢いを得て、さらに攻めてたので、為続は再び牛屎院を島津氏へ返還して、葦北・球磨の防衛に徹することになりました。
相良 為続 ウィキより(詳細はウィキをご覧ください(..))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%82%BA%E7%B6%9A

(..)
相良為続の第一子。相良氏の第13代当主が「相良長毎」。
こうして以下の岡本永空寺の本尊聖観音像に繋がってくる訳です。

★天正年間(1573年〜1592年)八代高田の竜成寺が衰亡したので、僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。

相良氏の第13代当主相良長毎は父・為続の宿敵「菊池武運」の菊池氏内部で起こった騒乱に介入。
八代方面での失地回復を狙い、八代(古麓城)を攻めたが落とせず、高田郷の平山城(廃城)を修復して守兵を入れて撤退します。
相良長毎は恨みを捨てて菊池武運と結ぶ方が得策と考え、八代・豊福の奪還を条件に、菊池家の再興を約束して同盟します。
またこの頃、菊池武運は能運と改名。相良長毎は貧窮していた菊池能運に経済的援助をして関係を深めます。
文亀2年(1502年)8月、長毎は再び八代を攻めますが、隈部勢が多勢であり撤退。
翌年8月、相良長毎は三度八代に出陣。
9月に菊池能運は玉名に上陸して高瀬の戦いで為光を破って宇土城も落とします。
11月、菊池能運が恩に報いるために加勢を申し出しで、天草衆や阿蘇惟長も援軍に来るも、相良長毎は八代は相良氏宿怨の地であるとしてこれらを謝絶して単独で攻囲戦を行います。
しかし守る名和顕忠親子は堅守して城は翌永正元年(1504年)1月になっても落ちませんでした。
そこで菊池能運が守護職の立場で外交僧を派して名和顕忠を説得。
2月7日、名和顕忠は城を退去して相良氏へ明け渡し、菊池能運の庇護下で木原城に入り、後に宇土城へ移ります。
また相良長毎は豊福城も合わせて占領しました。
ところが・・
菊池能運が戦傷がもとで25歳で他界。
すると菊池氏・阿蘇氏の内証が再発。しばらく続く事となります。
相良氏には双方から加勢の依頼がありましたがいずれも応じませんでした。
しかし再び豊福城が係争の地となるとこれを放棄します。

永正9年(1512年)、長毎は嫡子の長祗に家督を譲って、高田今出水に館を築いて隠居し、休也斎と号します。また同地に竜成寺(龍成寺)を建立。
しかし長祗はまだ11歳であり、実権は依然として相良長毎が握ります。
永正13年(1516年)9月、名和顕忠は再び兵を起して守山を攻めたので、相良勢は守山城を修復して兵を入れます。
相良長毎は10月から複数回に渡って兵を派して豊福城を攻め、12月についにこれを陥落させました。
肥後国に勢力を伸ばそうとしていた大友氏では、大友義鑑が、相良氏と名和氏の積年の争いを収めるべく、真光寺(熊本市東区健軍)の僧を派して両者に和睦を勧めた。永正14年(1517年)7月に両氏はついに和睦。
同年、相良長毎は球磨の無量寿院で剃髪して仏門に入り、加清と号します。
また父・為続のものをさらに発展させた法度式目を定めて、「相良氏法度13ヶ条(壁書)」としてまとめます。
翌年、50歳で死去。出家したとき「死出の山 かねて行く日を さだめねば 今日首途しつ 身こそ安けれ」と詠んだものが辞世となりました。
竜成寺に葬られ、法名は龍成寺大池蓮心。
相良長毎 ウィキより(詳細はウィキをご覧ください(..))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E6%AF%8E


★竜成寺僧永空は湛慶作という同寺の本尊聖観音像と人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。

室町時代〜戦国時代にかけての
相良氏の 第11代当主「相良長続」⇒ 相良氏の第12代当主「相良為続」⇒ 相良氏の 第13代当主「相良長毎」
ウィキの記述を引用させて頂きながら、「永空寺」の由緒を御説明させて頂きました(..)

さらに・・
相良史の 第13代当主「相良長毎」の庶長子で、相良氏の第16代当主が「相良 義滋」
相良氏の第16代当主「相良 義滋」の妻(豊永氏の娘)の方の菩提寺が
旧宮原村の私の住む集落「宮麓」に建立された「庭柏寺」となります。

さらに・・
相良氏の第16代当主「相良 義滋」の養子となり相良氏の第17代当主となった方が「相良晴広」(実父:上村頼興)
相良晴広の次男が・・
旧宮原村宮麓の庭柏寺住職 相良頼貞(・雲祖英)。

こうして旧宮原村宮麓の「庭柏寺」そして旧岡本村「永空寺」は相良氏の歴史に深く繋がっているのです。

そうして・・ここから
月刊「ムー」にも記載された「お話」へと続いていきます・・

まだまだ、相良藩の激動の戦国時代は続いて行くのであります(..)

所で・・
今日、このように、文章としてコメントを書いてみると、あらためて不思議だ?と思う事が多々ありました。

まず
@何故?相良氏第16代当主「相良義滋」の妻(豊永氏の娘)の方の菩提寺が
人吉から遠く離れた旧宮原村の宮麓に建立されたのか?
謎です。(p_-)

さらに
A何故?僧永空は湛慶作の本尊聖観音像と人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開いたのか?
何故?人吉から遠く離れた旧岡本村だったのか?
謎です。(p_-)

さらに遡る事
相良家分家の永留氏の出身であり永留実重(治部少輔)の子であり、球磨郡を統一する事に成功して宗家を相続した相良氏の第11代当主「相良長続」。(通称は藤五郎または左近将監)
「相良長続」は謎に包まれた人物なのですが・・・
足跡として発見された「城」は・・私の住む旧岡原村の「左近城」でした。
「左近城」は「相良長続」の居城跡でした。
何故???? 旧岡原村なのか???
やはり謎です(p_-)

ちなみに
室町時代〜戦国時代にかけての相良氏当主
第11代当主「相良長続」 ⇒ 第12代当主「相良為続」⇒ 第13代当主「相良長毎」
⇒ 第14代当主「相良長祗」 ⇒ 第15代当主「相良長定」⇒ 第16代当主「相良義滋」
⇒ 第17代当主「相良晴広」 ⇒ 第18代当主「相良義陽」

上記の第16代当主「相良義滋」の代で発見されたのが「肥後宮原銀山」です。
肥後宮原銀山は、私の住む旧宮原村宮麓集落にありました。
書籍「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」では
銀鉱石発見の際に歓喜した相良義滋。
相良義滋は「銀石現出」を「御 神慮」と位置付けて「家繁栄の心懸け」に励むよう子の相良晴広に伝え(諸篇の御 神慮疑い無く候の間、家繁栄の心懸け申し及ぶまでも無く候)その言葉通りに相良晴広は旧宮原村の中島霧島神社(宮原神社)と旧岡本村の大炊霧島神社の中興を行い、銀鉱石が現出した宮原地区の神社を敬い、相良家の家運をかけて、宮原銀山を開発した・・
さらに
宮原銀山で採れた「銀」を財源及び商品とした遣明船相良藩の「市木丸」についても書かれていました。

銀山を有する村「旧宮原村」とお隣の岡本村、相良藩藩主である「相良氏」が深く関わっている事は当たり前の事ですが・・
江戸時代に入ってからは、相良藩筆頭家老「相良清兵衛」こと「犬童頼兄」も旧岡本村に移り岡本城に居城。
(ただし、「犬童頼兄」の住まいは、現在家の親戚が住んでいる居館跡でした)
「犬童頼兄」は人吉の城下から多数の商人の方々を旧岡本に連れて来られて
城下町を形成しました。
配流の一因と言われています(..)

旧宮原村と旧岡本村は黒原山のすそ野に位置し、さらに白髪岳も目の前です。
一つ、言えるのは旧宮原村も旧岡本村も山間部を除いた面積はそれ程大きくないにも関わらず、殆どが「田」でして・・
旧高旧領取調帳データベースによると石高は
旧宮原村が 2640石
旧岡本村が 1533石
合わせて 4173石の地域となります。

旧久米郷と呼ばれた地域は他に
多良木村 4699石
奥野村  732石
久米村  3992石
湯前村  4513石
上村   3986石

考えてみると、相良藩内で起こった「内訌」は殆どがこの地域が関連しています。(..)
「銀山」「米」「山林」・・利益渦巻く地域地域・・
だからこそ・・本日コメントに書いていない他の「内訌」等にも関わり深いのかもしれません・・

だからこそ・・旧宮原村・旧岡本村の江戸時代までの情報は殆ど「消されて」しまったのかもしれないな〜(..)と
今日はあらためて推測しています。(妄想でしょうか・・?)
    
今日は、「お寺」から進んで、室町時代〜戦国時代の相良藩について
書かせて頂きました。

では(..)
[24]白石さんからのコメント(2017年05月26日 13時07分06秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 こんにちわ
みやちゃん 地震の恐怖に耐えながら精力的な調べ 頭が下がります

慈法院について 同級生の家がお願いしていることを思い出し 宗派を尋ねてみました

開祖と創建者はちがうのでしょうか 前に 郡誌を見たときは 違う名前だったように思っていたので ・・平川の地蔵堂の願成寺二世のときのようです

宗派は曹洞宗でした

その子の父の姉「実家は林田」が 尾方へ嫁ぎ 
おばあさんが
平川へきている

桐紋

ほかに 小野の山北も親戚で いとこがいるといっていました

ところで
林田は 免田のほうで 高岡の親戚にあります
以外に 近く つながっているよづです
今 関西にでているそうです

曹洞宗の慈法院は 川辺古見院と同じ流れ
永国寺「相良家中」と同じ流れで
うちの白石の本家は ここに 位牌をお願いしていると聞きました
墓は立てていないかも?



ところで いろいろ みているうちに 奇妙な関係が浮かんできました
@後白河法皇のころ活躍した平貞能はその後 妙雲禅尼「高階基章の女子の妹で清盛妹」を連れ 宇都宮朝綱を頼ってやってきた
のち 妙雲禅尼が開祖になり 塩原妙雲寺を建てる
本尊 重盛公の念持仏・釈迦如来

臨済宗 妙心寺派
妙心という言葉は 明智に関係しているみたい
時代がとんでいるけど・・・

⓶ もう一人の同級生がいった あそこは 日蓮じゃなかとね ということば
京都左京区大菊に日蓮宗の妙雲寺があります

本尊も 観音 不動です
あれって思いました

あのころは いわば

激しく 宗教が揺れ動いたころですよね
後白河法皇は 白山の神を押し立てて 強訴をくりかえす延暦寺に業をにやして
三井寺で真言の密法を授けられた

平家がたおれ あっという間に 鎌倉幕府も倒れ 北条氏の時代に
時宗の時は 日蓮

B 平川一族は神風連のとき 九州北部へ転戦していったが
よるべは どこだったのでしょうね

昭和のころは 尾方と行動を共にしていたようにみえますが
宇都宮は 佐田
さだ と おがたは そもそもをいえば 同族
その歴史は 中国なん前年の歴史のかなたへ

どちらも 海神族だったようだ
曹洞宗の時 神奈川にある 総持寺が浮かんで 聖子ちゃんとこのお寺
毛利もいる


佐田について出る相川は愛知県春日井の虎渓山にお願いしている
美しいお寺で 有名なところだということです

一度行ったことがあります
虎渓 重盛公に関して出てきたような・・・


[25]白石さんからのコメント(2017年05月26日 20時29分15秒 ) パスワード

奇妙といえば 
善光寺縁起にある 月蓋長者と善財童子
二つは セットでいるそうですが
この
長者は インドの大富豪 で あった
お導きで くだらをとおって 我が国にやってきた

この話の時 ネットの表題に 祖父江氏がでていたのです
祖父江って なんだろうと思っていたら 津島神社の神官の家で
山内一豊に仕え 五藤

五藤といえば 高岡の嫁方にいて
平川のおじ「父のいとこ」をうんでいる


福島正則 などとともに 母方の筋で 秀吉といとこ
福島家も 初神にある
木下家もあり なんとなく
前にもかきましたが
秀吉の母 北政所の系は坂上氏に重なってくる

竜王の中で最強のさがら竜王の第3の姫が厳島の神でもあり
清盛が大事にした神

赤壁の戦いのとき疫病がはやり 大勢が死にました
鉱物の気が強いところは 有機物の気を損なうのでしょうか?
周瑜もそこで 病に倒れます
私的には 惜しい人がなくなった・・・と

劉備が初めて 孫権の妹にまみえるとき
妹の侍女が ずらりと 武器をたずさえて 居並んでいたそうで
孫氏の兄弟は いけめん ぞろい
妹も 男装して 勇ましく
まるで あまてらすか あめのうずめか
この 孫氏の顔って想像ですけど
関西でいうところの シュッとした顔だったのかも・・・

えらがない顔ですね
これで 長い髪をうしろで 束ねて 道着のようなものをつければ
まるで 少女漫画にでる美男子か
封神演義の世界の住人か

女性も戦ったというのは
突厥にも 唐の兵士を王女が戦う場
面が出ます
とらえられ 子供を産めば その子は 両国の子になり 自分の血筋が残ると いさめられる場面

津島神社は 嵯峨天皇にも 関与していたけど 
この天皇は スサノオは 我が国のもとぬしぞ と言っている

尾張は原高成もでたところで
歴史はつながっている と 思います
 
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月27日 09時09分10秒 ) パスワード

白石様、今日は。(^'^)

沢山の御教示ありがとうございます。

白石様
〉その子の父の姉「実家は林田」が 尾方へ嫁ぎ 
おばあさんが
平川へきている

〉五藤といえば 高岡の嫁方にいて
平川のおじ「父のいとこ」をうんでいる

白石様のお父様の「いとこ」の方が四浦の「平川家」に婿養子に入っていらっしゃるのは理解出来ているのですが
「いとこ」の方の御実家の「高岡家」は、白石様のお父様の「高岡家」を含めた「高岡家の本家」になられるのでしょうか?。

白石様のお父様の「いとこ」の方の御実家の「高岡家」、さらに婿養子に入られた「平川家」。
こちらに着目しました。
縁戚関係を伺うと

平川家
@林田家 嫁ぐ⇒尾方家
A尾方家 嫁ぐ⇒平川家

高岡家(本家?)
B五藤家 嫁ぐ⇒高岡家
C高岡家 婿養子⇒平川家

となりますね。
私の祖母の実家の岡原平川家とたけぽん様の御ばあ様の御実家の須恵の平川家。
@Aの縁戚関係を拝見すると其々の「平川家」に共通の「姓」の縁戚関係があります。

「林田家」「尾方家」
※岡原の平川家には多良木の『林田家』から私の高祖母が嫁いで来ています。
※さらにたけぽん様の御ばあ様の御実家の「須恵の平川家本家」から多良木の『林田家』に嫁がれた方がいらっしゃいます。
※代々宮司家を務めた尾方家(本姓大神、初代は緒方)とは、岡原の平川家と須恵の平川家は共通の縁戚関係にあります。

Bの
五藤家 嫁ぐ⇒高岡家
ここが「高岡家」の家紋が橘紋である事に重要な意味があるような気がするのですが・・
五藤氏は橘姓にありますね・・

さらに以前、白石様からお伺いしたお話
白石様のお父様と、前妻でいらした「平江家」から嫁がれた、白石様のお姉様のお母様はいとこ同士である。
「いとこ同士」とは「高岡家の本家?」が関係されているのでしょうか?
この辺りが理解出来ていなかったので申し訳ありません(..)

個人情報も含まれるので、詳しくでなくて結構ですからよろしければ
「いとこ同士」の関係の意味をもう少しお教え下さい(..)
お教え頂いているとは思うのですが、私が理解出来ていないでいます(..)
申し訳ありません(..)

今朝、白石様のコメントを拝見しながら
白石様のお父様の「いとこ」の方の御実家の「高岡家」の縁戚関係に着目すると
白石様の御先祖様に繋がる糸口が見つかるような気がしたのです。

所で・・
〉@後白河法皇のころ活躍した平貞能はその後 妙雲禅尼「高階基章の女子の妹で清盛妹」を連れ 宇都宮朝綱を頼ってやってきた
のち 妙雲禅尼が開祖になり 塩原妙雲寺を建てる
本尊 重盛公の念持仏・釈迦如来

私が先日から書いていたコメントの中にさらなる「発見」がありました。
と言うか・・
その時に気が付いていなければおかしいのですが(@_@。
やはり、おっちょこちょいです(@_@。

次のコメントで書かせて頂きます。

家の前にホタルが乱舞しているので、毎晩夕食後主人と外に出てこの季節の自然のショーを楽しんでします。
所が・・球磨は昼間と夜の気温差が激しくて・・
昨晩は外に出ると、とても寒かったです(..)
白石様もお身体は十分お気を付け下さいね(^'^)
だって・・
球磨での初対面を私は楽しみにしているのですから(^O^)/

では(^'^)
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月27日 10時22分45秒 ) パスワード

追記

白石様、申し訳ありませんが
「平江」氏と「高岡氏」の縁戚関係についての私の質問の御回答
よろしければ
松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方に頂けませんでしょうか。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_15.html

「平江氏」に関係する内容調査は
松葉宗益 後裔 平賀氏について3の方でしっかりと進めて行きたいと思っています。
私は「平川家」の調査と「松葉宗益 後裔 平賀氏」そして「平江氏」の調査は
きっと繋がっていると推測していますので
いつもリンクして見ています。

よろしくお願い申し上げます。
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月27日 17時23分08秒 ) パスワード

白石様、皆様 今日は(^'^)
あらためての登場でございます(..)

コメント26で書いた
〉私が先日から書いていたコメントの中にさらなる「発見」がありました。

を書かせて頂きます。

1.湛慶作の本尊聖観音像・・仏師「湛慶」について
コメント23で書きましたように

@相良氏の第13代当主「相良長毎」建立の八代高田の「竜成寺(龍成寺)」の御本尊であった。

A竜成寺僧永空は湛慶作の御本尊 聖観音像ならびに人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。

B寛文七年(1667年)人吉城第二十一代相良頼寛没。
人吉中尾の清明寺跡で火葬、同八年(1668年)頼寛の未亡人(後室)心珠院はこの火葬地跡に観音堂を建立。
本尊は岡原・岡本城下の本秀禅院(永空寺を後に改称)にあった湛慶作の聖観音を補修して入仏。
延宝八年(1680年)心珠院は中尾に隠居し、蓮寿庵を開く。
本尊には天真院(相良頼寛)火葬跡観音堂の聖観音を迎える。


このように「相良長毎」建立竜成寺の御本尊湛慶作の 聖観音像は
八代高田竜成寺 ⇒ 岡本村(旧岡原村岡本)永空寺 後の本秀禅院⇒ 人吉中尾蓮寿庵
と移されている事が解ります。

では聖観音像 の作者である仏師「湛慶」とはどういう御方なのか?
調べました。

湛慶 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%9B%E6%85%B6

湛慶(たんけい、 承安3年(1173年) - 建長8年5月19日(1256年6月13日))は、鎌倉時代の慶派仏師。
運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。

※運慶の嫡男

ほぼ60年の長期に渡って活躍しているが、その活動はおよそ3つの期間に分けられる。

第1期は貞応2年(1223年)、快慶と共に醍醐寺閻魔堂の造仏をした頃までで、この年は運慶の没年にも当たる。
この時期は、父・運慶や慶派の有力仏師と共同し、主に東大寺を中心とする奈良で活動した。
建暦3年(1212年)、41歳で最高の僧綱位である法印に叙せられるが、この頃は運慶や快慶も健在で、湛慶が表に立つことは少なかったようである。
湛慶の作風は、運慶の力動感溢れる存在感と、快慶の絵画的な写実を調和した穏健な様式を作り上げたと評されるが、それはこの時期に培ったものだと考えられる。

第2期は、貞応3年(1224年)の平岡善妙寺の造像から、宝治2年(1248年)の後嵯峨院のための造像のあたりで、新たな作風を作り上げるまで。
この頃から死の直前の仕事まで、奈良では全く活動しておらず、慶派の主体が南都から離れたことが伺える。
第2期の作「善膩師童子像」(雪蹊寺)や狛犬・仔犬(高山寺)には、無垢な愛らしさを表した、万物への慈しみと言う宗教的境地が感じられ、これは高山寺の明恵との交流の中で触発されて育まれたものと推察される。


第3期は、東大寺講堂本像造立途中で亡くなるまで。
この時期の京都・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の千手観音の巨像は、銘文から、湛慶最晩年の82歳の時に完成したことが知られる。
三十三間堂の本尊の左右に林立する千体(正確には1,001体)千手観音立像中にも湛慶作の銘をもつものが数体ある。
ここでの湛慶は、復興事業という性格から慶派特有の強さは抑制し、静けさの中に洗練された平安後期彫刻の再現を目指したようだ。
この千手観音像における幾分平板な面相や整った姿に、次代の仏像における平俗化、技巧化、あるいは形式化の予兆を指摘する意見もある。
湛慶死後、大仏師職は甥の康円が継いだとみられる。弟子に信慶。

======================================================

「相良長毎」建立竜成寺の御本尊湛慶作の 聖観音像

湛慶とは
※運慶の嫡男
※京都・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の千手観音の巨像は湛慶の作である。
※東大寺講堂本像造立途中で亡くなる。
と言う方である事を勉強致しました(..)

おそらく・・
もしも、万が一・・仏像に造詣の深い方が私のコメント23をお読みであれば・・
きっと
私が、サラ〜ッと
※竜成寺僧永空は湛慶作の御本尊 聖観音像ならびに人吉城第十二代相良長毎の位牌を守護して岡原・岡本に移り、永空寺を開く。
とか書いて一切「湛慶」と言う方に触れなかった事を見て
「このミヤハラとかいう奴、本当にバカだっ!!」
とお思いだった事でしょう(@_@。

しかし・・・(p_-)
球磨・人吉が平安時代末期に王家領(後白河上皇領)であり
鎌倉時代、人吉が蓮華王院領であった事をふまえても・・
相良氏と蓮華王院はかなり御縁が深いような気がするのですが・・

最近の私のコメントに何度も蓮華王院本堂(三十三間堂)のお話が登場していた事は皆様もお気づきの事と思います。

平川家について38では特に書かせて頂いていたような・・
平川家について38で「蓮華王院」と書いた件数をスレッド内で検索すると25回も書いていました!
さらに・・
平川家について38 コメント43では
青蓮寺阿弥陀堂の『阿弥陀如来像と両脇侍 : 国指定重要文化財』についても書かせて頂きました。
3尊は法印院玄の作で・・「法印院玄」とは
蓮華王院本堂千躰千手観音の内、7体が法印院玄の作でした。
ちなみに
青蓮寺阿弥陀堂
※相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建
※永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立しました。寺名は頼景後室・青蓮尼に由来
”相良頼景後室『青蓮尼』”は須恵氏の娘である方です。
相良頼景と青蓮尼の間に生まれた方が相良頼景と共に球磨に来られた新堀頼兼の妻となられました。
新堀頼兼は球磨における新堀氏の「祖」となられ、私の宮原の曾祖母の御先祖様でもある方です(..)

むむむっ・・(p_-)
相良氏と蓮華王院・・
もしかしたら・・相良頼景、相良長頼。お二人の姉妹の方々が「官女」であった可能性とかは無いのかな?(p_-)
相良氏の系図には平安末期から鎌倉初期の相良頼景、相良長頼お二人の女性・姉妹については全く書かれていません。

がしかし・・「宮原の一族」の先祖の姉妹には「官女」であった方が数人いらっしゃるので、相良氏も可能性が無い訳はない!?と思うのですが・・
ちなみに「宮原の一族」の先祖の姉妹の方々は「将軍家官女」となっていますが
一応書かせて頂きます(..)

人吉宮原家様(八代氷川宮原城城主 宮原公忠直系)から頂いた
「宮原家系図」によりますと
(人吉宮原家様、あらためまして ありがとうございました)

橘公業の娘
@女子 将軍家官女号助局 後為伊豆守源頼定室
 ※薬上助局。 源頼定(森氏の祖)の室
源頼定 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%A0%BC%E5%AE%9A

A女子 将軍家三代官女 号播磨局

B女子 自竹御所至 土御門御代四代将軍家官女 本侍従局外伯母跡継之同名家

この方々は、橘公業の娘の方々で、肥後国久米郷を父橘公業から譲られた橘公員の姉妹の方々であります(..)

相良氏の女性の方々が官女であった可能性もあるのでは・・?

うんっ??今、初めてコメントに書いていて気が付いたのですが・・
B女子 自竹御所至 土御門御代四代将軍家官女 本侍従局外伯母跡継之同名家

竹御所?あれっ??
竹御所にお仕えしていた方がいらっしゃいましたよ!・・??
※土御門御代四代将軍家官女
四代将軍?? 調べました・・・(p_-)

藤原 頼経 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。
両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。
竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。
九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子として生まれる。生まれたのが寅年・寅日・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。

あっ!!!あじゃじゃや〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/
びっくりして妙な声が出てしまいました!!

ナンデスト!!
橘公業の娘。(球磨郡久米郷を譲られた橘公員の姉妹)
この方は!
九条道家と西園寺公経の娘様との間にお生まれの四代将軍「藤原頼経」将軍家に仕えた官女デスト!!
\(◎o◎)/!

そもそも球磨郡久米郷は「西園寺公経」の領地で・・橘公業と替地された所ですゾヨ!!
(何だか妙な口調が元に戻りませぬ・・違った、戻りません)

突然、振って湧いたような情報に少し気が動転致しておりまする・・違った「動転しています(..)」

さらに・・人吉の願成寺は「竹御所」の御供養の為に相良氏が建立されていました。

むむっ(p_-)
また、一つ「見〜つけた!(p_-)」ような感じです・・

所で・・
人吉宮原家様、そして京都にお住まいの宮原様
お二人が、私の最近のコメントをもしご覧であればきっと
「ミヤハラ!かっぱさんの話!ちゃんと書きなさい!」とおっしゃっていると思います。
ハイ!解っております(..)
「かっぱさん」と我々の一族はお友達でした(p_-)
違います(ー_ー)!!
「かっぱさん」と我々の一族は古〜くから行動を共にしていました(p_-)

「かっぱさん」と我々の一族のお話は次回にしっかりとさせて頂きます(..)
他に深水家と芦北さらには百済来(久多良木)の関係も気が付いたのですが次回に(..)

所で・・最後に旧岡原村岡本(旧岡本村)のお寺について書かせて頂きます。
私の家の前を流れる井口川(久米川・通称鶴の川)の向こう岸からは旧岡本村です。
家から500mも、離れていない所に「福元寺」があります。

上村重次氏著「九州相良の寺院資料」によりますと

福元寺 岡原村岡本 黄檗宗 現存
天和元年(1681年)人吉・東林寺天瑞和尚の開基(郡誌)
元禄十一年(1698年)は福元庵(元禄十一年寺院帳)
福眼庵とも書く(生善院蔵分限帳)
明治維新後に寺号にする。

とあります。
人吉・東林寺天瑞和尚については・・実は、以前、私がコメントから抹消した
「王政復古」に関わる方で・・
追々書かせて頂きます(..)

上記の福元寺の御住職は代々「辛島」様でいらっしゃいます。
地元の歴史研究会の方から
『御住職が
「御先祖は中国から宇佐に来られた。宇佐から後に球磨に来られた」
とおっしゃっている』
と伺いました。

ちなみに御住職様と私の父は幼馴染の同級生でして・・(..)
一度、詳しくお話をお伺いさせて頂こうと思っています。(..)

やはり、身近にも「謎」を解く一片が見えているのでは?・・と考える今日この頃です。

色々書かせて頂きました。
(詰め込み過ぎたかもしれません。すみません)

では(..)
[29]白石さんからのコメント(2017年05月28日 14時01分48秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様 こんにちわ
平江 と 高岡
父と 先妻は いとこどおし
姉が いっていたので 戸籍をとりよせて 
みたことがあります

戸籍より ほかに ヒントがあったようにも 
ありますが 

その頃は 皆 若く 家のことなど 真剣に しらべようとは 
しませんでした

平江に 山口女子が 嫁
白石の祖母も この 人の 姉妹

白石に 夫婦用紙に入った 高岡男子の父は 
だから 女性の筋で 

先妻と いとこ

その 子の 姉は 
山口男子と結婚

この 男子は 平江 白石へ 嫁に行った人の
兄弟

だから 二人は いとこどおし
親もいとこどおし


父山元 母佐田 の 間の子の私の母と 父と結婚 
その子の私は 山口の子と いとこどおし

簡単には 以上

ですが

木原は 山口の 言葉がでます
山口は 古 山口皇女などおり
時忠の方からも 山口の言葉は でます

清和天皇の方にも 木原のことばがあり
奇妙なことばつながりがあります


[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月29日 17時29分55秒 ) パスワード

白石様、たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

申し訳ありません(..)
昨日書いたコメント29は、個人情報も入りますので削除させて頂きました。

白石様、たけぽん様、お読み頂けていますでしょうか?
昨日は御参考までに書いていました(..)

所で・・・
皆様!! \(◎o◎)/!

多良木町史にぜひ!全国の皆様にご覧頂きたい「土偶」の写真が載っていました!

球磨郡多良木町黒肥地の
大久保大地をめぐる遺跡群の一つにある従来縄文後期の御領式土器を出土する事が知られていた
「軍野」(いくさの)遺跡から出土した「獣形土偶」です。
「わんちゃん」の土偶です。

ブログに勝手ながらアップさせて頂きました。
ぜひ、全国の方々に、縄文後期作のこの「わんちゃんの」土偶が
「球磨郡」から出土していた事をお知り頂きたい!との一心からです。

ご覧頂く前に皆様へぜひ、お伝えしておきたいのですが・・
この「土偶」は決して、エジプトやメソポタミアの遺跡から発掘された物では
ありません(ー_ー)!!

球磨郡に住されていた縄文後期の先人方の作品です。

ぜひ、ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12278984408.html

明日は、「青銅剣」について、真実の新情報も記載されていましたので
御紹介させて頂きます(..)

えっ?(;一_一) かっぱさんの話ですか・・??
必ず書かせて頂きます。

今日は、「わんちゃんの土偶」にあまりに興奮してしまい、
夜、眠れなくなりそうです。

註・・
埴輪ではありません(ー_ー)!!
もっともっと前の時代の作でございます。

では(^'^)
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月30日 08時34分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

昨晩、考えました(p_-)

「わんちゃん」の土偶を作った、縄文後期の球磨の方々(権力者)は
高度な文明を持った「何処かの国」から来られた方々ではなかったのかな・・?
と。(p_-)

所で
以前、御紹介した鎗掛松遺跡の銅剣について多良木町史に書かれていました。
多良木町史の発行からしばらく経って、鎗掛松遺跡の本格調査が行われています。

本格調査の結果、この銅剣は住居跡から出土していた事が解りました。
私は、「インテリア」として用いていたのかな?ナンテ、とても「アホ」な事を書いてしまいましたが・・
違いました<m(__)m>

武器として用いられていたようです(p_-)

ブログに写真を勝手ながらアップさせて頂きました。
この事も、ぜひ全国の皆様に御紹介させて頂きたい一心からです。
よろしければ、皆様ぜひ、ご覧ください。

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12279156268.html

鎗掛松遺跡から出土した細形銅剣は「実戦に用いる為の鋭利な武器」であり
なお且つ
『我が国出土の舶載青銅製細形銅剣の中では最古様式とみる事が出来る』
という細形銅剣でした。

今日は、急用が出来ましたのでこれから出かけます。

では(..)
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月30日 10時32分03秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ワンちゃんの土偶……犬は古代から人間の友だったようです。先日群馬県
の保渡田古墳を見に行った時、犬の埴輪を見つけ、犬に対するシンパシィが
沸き上がりました。
 古墳の側に「かみつけの(上毛野)里博物館」というものがあり、そこでも
たくさんの埴輪を見学し、各種の資料が頒布されていましたので、数冊仕入
れてまいりました。その中に、今から5年程前に第10回特別展ということ
で、「日本最古の家畜を考える―犬の考古学」が開かれた時の説明冊子があ
ります。「犬」ということで、今まで埴輪といえば、動物では「馬」「水鳥」
ぐらいしか頭にありませんでしたので、大変新鮮な驚きとシンパシィを感じ
たわけであります。その中には、日本における犬の歴史、線画・土偶・埴輪
に表現された犬、その他「犬養氏」、「長屋王邸宅にいた犬」などについて
も記述がありました。このへんを書き出すと大変長くなりますので止めてお
きますが、いずれにしても私も「犬」には母性愛(?)を感じますので、土偶
にしろ埴輪にしろ、作った人が人間としての愛情を持っていたということを
感じ、嬉しく思います。
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月31日 09時59分11秒 ) パスワード

三つ柏服部様
御教示を頂きましてありがとうございました。

昨日は外出して帰宅が遅くなりましたので、お礼が遅くなりまして
申し訳ありません。

〉土偶にしろ埴輪にしろ、作った人が人間としての愛情を持っていたということを感じ、嬉しく思います。

私も、「軍野」(いくさの)遺跡から出土した縄文時代の「わんちゃん」の土偶の写真を見た時に
「わんちゃん」に対する、古代縄文人の方々の愛情を感じました!。
土偶や埴輪、「形」として残されていた事によって、今に通じるその愛情を感じる事が出来ると言う事は、歴史云々ではなく、縄文人・弥生人の方々と心が通じ合うようで、
やはり、古代を勉強するってとても素敵な事だな〜と思います。

保渡田古墳からも犬の埴輪が出土していたのですね!

もしかしたら、縄文時代・弥生時代の「犬」の形跡「土偶や埴輪」を調べると
”何か”を見つける事が出来るのではないか?
と考えています。

私の家から車で山を越えて一時間半もかからない場所にある「西都原古墳群」。

3世紀前半〜3世紀半ばから7世紀前半にかけての古墳群で、
宮内庁により「女狭穂塚陵墓参考地」(被葬候補者:木花開耶姫)として陵墓参考地に治定されている「女狭穂塚」が含まれる古墳群です。

子供の頃、西都市の幼稚園に通っていましたので、遠足は「西都原古墳群」の公園でした。
舟の埴輪や家の埴輪は有名なのですが「わんちゃん」の埴輪が出土していないか?調べてみます。

御参考までに
西都原古墳群 ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%BD%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

宮崎県立考古学博物館 サイト
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/guidance.html

〉「日本最古の家畜を考える―犬の考古学」

非常に興味が湧いてきまして、ネットでも何か犬の考古学について書かれていないか検索してみたのですが
面白いサイトを見つけました。

日本の犬、紀州犬および柴犬などの祖犬と縄文・弥生期の犬について
http://syokota888.ec-net.jp/kishuu/k-zyoumon.htm

上記サイトに書かれていた内容に
★縄文期には犬笛があった
山梨県の釈迦堂遺跡からは、人の耳にはほとんど聞こえない高周波数の音を発する犬笛が2個出てきており

★釈迦堂遺跡博物館の所在地
山梨県笛吹市(旧東八代郡)一宮町千米寺

★縄文時代の一万年と弥生時代の数百年
縄文期に日本列島にいた犬が、縄文中期から弥生期にかけて変化していきます。
変化というよりも新たに旧来の犬より大きな犬が加わるのです。

★人の渡来は犬の渡来でもあった
縄文期早期には現代の柴犬ほどの大きさの犬が生息していましたが、縄文中期にはこれより大きな犬が加わります。
そして弥生期になるとそれよりも大きな犬が加わるようですから、ここに犬の移動と連動する人の移動があったと思われます。
人の渡来は犬の渡来でもあったようです。

★朝鮮半島経由で現代の紀州犬に通じる犬を伴って人が渡来した

等、他、「わんちゃん」と古代人との関係について興味深い記述が多数ありました。

しかし・・不思議な偶然ですが
※縄文期の犬笛が2個出土した釈迦堂遺跡の所在地が
『山梨県笛吹市(旧東八代郡)一宮町千米寺』
三つ柏服部様から御教示頂いていた「八代郡」です。
不思議な偶然です・・

沢山、続けざまに書いて申し訳ありません。

三つ柏服部様から頂いた御教示により、益々、私の古代に対する思い(ワクワク)が高まっています。

一つ、球磨の新情報を書かせて頂きますが
かなり、以前、地元の新聞に記載されていた球磨の考古学のスクラップを今朝、あらためて読んでいたのですが
球磨で出土した弥生時代の土器と言えば全国的に知られる「免田式土器」です。
(現あさぎり町、旧免田町の本目遺跡から最初に発見されました。)
実は、球磨で発見されている弥生時代の土器は免田式土器だけではなく
「宮崎」「鹿児島」と言った地域の土器、さらに・・ナント「岡山県」で多く見つかる土器も球磨で出土しています。
球磨の弥生人は「宮崎」「鹿児島」と言った近隣だけではなく「岡山」とも交流があった事が裏付ける「土器」の出土です。

これからも、世間一般には殆ど知られていない「球磨」の情報はドンドン発信して行こうと思っています。

〉その他「犬養氏」、「長屋王邸宅にいた犬」などについて
も記述

三つ柏服部様、私、「犬養氏」について全くひらめいていませんでした!!
祖母から「家は元々橘氏」と聞いているにも関わらず、真にお恥ずかしい限りです。

縄文時代後期の「わんちゃん」の土偶。
「犬養氏」・・犬養部(いぬかひべ)

興味が最大限に膨らんでいますが
かなり長く書かせて頂いたので、後ほど、調べた内容を書かせて頂きます。

三つ柏服部様
御教示、本当にありがとうございます。
自分だけの「視点」では、謎を解く事が出来ないと痛感致しております。
あらためて
ありがとうございました。
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月31日 10時21分30秒 ) パスワード

追記

〉私の家から車で山を越えて一時間半もかからない場所にある「西都原古墳群」。

旧「遠江国」にお住まいの、三つ柏服部様に大変あいまいな、解りにくい事を書いてしまいました。
申し訳ありません。

球磨・人吉盆地は東西に約30キロの盆地です。

西の人吉からは山を越えると鹿児島県大口市。大口・菱刈地方に行けます。

中球磨(球磨盆地の中間あたり)と言われる錦町から山を越えると宮崎県えびの市。えびの市・霧島市方面に行けます。

私の住む旧久米郷と呼ばれる中球磨から上球磨といった地域からは黒原山を越えると小林市、旧「夷守」に行けます。

球磨盆地の東に位置する上球磨の湯前町からは山を越えると宮崎県西都市に行けます。

と言った地域が球磨・人吉盆地です。

この説明も解りづらい内容ではありますが、
申し訳ありません。
[36]たけぽんさんからのコメント(2017年05月31日 13時00分41秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様、家紋の話が
出ていた様ですが・・・

うちのお寺の住職に聞いてみました

橘家が、有力檀家であったのは
間違いないようです。

詳しくはわからないですが、
(当時の)日蓮宗の紋は
橘家の家紋と宗紋を合わせて
使用しているとの事です。

それが現在まで脈絡と
続いているみたいです。

なので、日蓮宗(一派)は
どこの宗派でもそれを
使用してると。

実は、うちも日蓮宗一派のお寺に
在籍していますf(^^;


それと、今朝の新聞で

岩城
荒田大王神社
荒田観音堂の釈迦如来像
深田大王神社(深田阿蘇神社)

が、日本遺産に追加された
みたいです(^▽^)

今回、16件追加のうち
平河に関する物が4つも!!

今、新聞読んでてびっくらこいた
ので、思わず
書いちゃいましたf(^^;(笑)
[37]たけぽんさんからのコメント(2017年05月31日 13時07分08秒 ) パスワード

追記

昨日のミヤハラ様の書き込みは
リアがバタバタして見れなかった
です( ノД`)スイマセン
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年05月31日 16時05分09秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)
情報を頂き、ありがとうございました!!

御住職様にお話を聞いて下さったとの事で
本当にありがとうございました。

心からお礼を申し上げます。

〉橘家が、有力檀家であったのは 間違いないようです。

〉(当時の)日蓮宗の紋は橘家の家紋と宗紋を合わせて使用しているとの事です。

〉それが現在まで脈絡と 続いているみたいです。

すごいです!!たけぽん様!!
とても重要な情報を頂きました!! 

当時の日蓮宗・・と言う事は・・
何だか・・宮原の一族の先祖「橘氏」がもしかしたら・・深く関わっているような気がしてきました。

コメントに何度も書いていますが
橘公綱の妻であり、橘公資(橘姓宮原氏の祖、宮原公資)の母である女性は
日蓮聖人を擁護して、佐渡から鎌倉に戻った日蓮聖人を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたり、弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名した南部実長の孫娘であり
さらに日蓮聖人と深い関わりを持たれた南部実継の娘である方です。
南部 実長 ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7
南部 実継 ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99

何だろう心臓がドキドキしています。
重要な情報を頂き、たけぽん様、本当にありがとうございました。

〉実は、うちも日蓮宗一派のお寺に 在籍しています

そうだったのですね(^'^)
家には日蓮宗にお繋がりと聞く「観音様」をお祀りしています。
祖母が生きていた時はわざわざ、鹿児島からお寺様が家にお越しになられていました。

〉日本遺産に追加

私も新聞を見ました!(^'^)

岩城跡
荒田大王神社
荒田観音堂の釈迦如来像
深田大王神社(深田阿蘇神社)

平河氏関連が追加された事はめちゃくちゃ嬉しいですね!
文化庁が追加認定されたそうです。(^'^)・・・(p_-)

あと・・
永留相良氏城郭跡群も追加されていますよ!(^'^)・・・(p_-)

さらに・・
家の親戚であり、なお且つたけぽん様の御ばあ様の御実家の須恵の「平川家」とも縁戚関係にある
尾方家が代々宮司家を務める「岡留熊野座神社」も日本遺産に追加認定されました!
\(^o^)/ わぁ〜お!!
実は(p_-)
その「尾方家」の先々代が宮司を務めた「市房神宮中宮(一の宮神社)」も
追加認定されました!
\(^o^)/ わぁ〜お!!
※「尾方家」の先々代が宮司とは・・椎葉のおじと椎葉のおばの「祖父」にあたる方です(^'^)

今月20日にわたくし「市房神宮中宮(一の宮神社)」にお伺いしておりまする(p_-)・・(^'^)

何だか、こちらのスレッドで書いてきた「場所」ばかりで
わたくし・・感無量でございます(@_@。<m(__)m>

所で
先日削除したコメントは
多良木町史に書かれていた事についてです。

削除したのですが、やはり書きます(p_-)
明治〜大正にかけて、県議会とは別に人吉・球磨には球磨郡議会が存在していました。
球磨郡議会の議長は、球磨・人吉内からではなく、熊本県内一円から選出された方で、お一人
「中川氏」がいらっしゃいました。
お名前に「武」の文字が付く方でした。

江戸時代の相良藩内の史誌には中川氏の名は見えなかったのですが、明治〜大正にかけての郡議会の議長のお名前に「中川氏」が見えたので
とても気になったのです。

さらに・・当時の郡議会議員22名の中にナント家の親戚が3名いらっしゃいまして
その事も妙に気になった・・と言うしだいです(p_-)
さらに・・当時の県会議員の方で球磨選出の「平川氏」がいらっしゃいました!
あと・・めちゃくちゃ驚いたのは、個人情報なのではっきりと書けませんが
上球磨地区から選出された県会議員の方は家の・・今は遠縁ですが・・親戚でした。
他にも、椎葉のおじの祖母の弟や甥も県会議員でして・・名前が記載されていました。

何だか・・
「中川氏」「平川氏」そして家の親戚・・
もや〜っとするのですよね・・

さらに・・球磨郡議会
その郡議会議員の方々の中に(先日のコメントには書かなかったのですが)
私の祖父を産んだ「曾祖母」の元夫の方の名がありまして・・
これには驚きました。

以前から書いているように、私には二人の曾祖母がいます。
祖父を産んだ「曾祖母」と祖父を育てた宮原家の「曾祖母(新堀家の娘)」です。
祖父を産んだ「曾祖母」と郡議会議員であった方は元夫婦で
二人の仲人をしたのは、実は私の宮原の曾祖父です。
色々あって(曾祖母のプライドを傷つける事)、祖父を産んだ「曾祖母」は長女を跡取りとして家に残し、旧宮原村に戻ってきていて・・その後、曾祖父と恋愛関係になったようなのですが・・
ややこしい、話をしてすみません(..)
実は祖父を産んだ「曾祖母」の実家と新堀家は親戚関係にあります。
さらに両家は、祖母の実家のお隣の「平川家」とも親戚関係にあります。
祖母の実家のお隣の「平川家」は元は現相良村四浦平川地区にあった「平川家」で、祖母の話では、平河盛高(深田地頭)の系の『弟』の系になるようです(p_-)

郡議会議員であり、郡内の名士で知られた方の妻の立場を捨てても、自分のプライドを保ちたかった『祖父を産んだ「曾祖母」』。
そして、家の宮原の曾祖父はおそらく・・自分の血を受け継いだ「宮原家」の跡取りが欲しかったのではないのかな・・
と大人になった私は推測している訳です。

祖父を産んだ「曾祖母」の母は江戸時代に相良氏より「江戸家中」にて採用?された相良藩士「山本吉兵衛」家の娘です。
祖父を産んだ「曾祖母」の実家は江戸時代に「野島氏」「金子氏」と共に「天草」から球磨に来られているようです。
※明治以降に球磨に天草から来られた名望家の方々よりは、早い時期(江戸時代)に来られています。
今までの調査から天草の金子氏は四国から天草に来られていて、さらに伊予金子氏は伊予橘氏とも繋がりがありそうです。
私、今まであまり深く考えなかったのですが、やはり、祖父を産んだ「曾祖母」の実家は気になります。

どうも・・「山本氏」・「野島氏」「金子氏」と共に「四国」「伊予」「土佐」方面に繋がりがありそうなのですよね・・
妙な感ですが・・

最後は自分の事ばかり書いてしまいました。
すみませんでした。

たけぽん様
昨日も暑かったですね!(33℃)
お身体の調子は大丈夫ですか?
今年は春が短くて、突然夏になったようなそんな感じですね。
御無理なさらないで下さいね。

重要なお話を伺う事が出来ました。
本当にありがとうございました。

では(^'^)
[40]たけぽんさんからのコメント(2017年06月02日 01時37分56秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

日本遺産・・・

凄いですね(゜Д゜)!!

平河に関する物が、沢山に
増えましたね(〃艸〃)♪

ミヤハラ様の所も、色々と
大変なご事情が
あったのですね(..)・・・

今、御住職に、色々と
少しずつ橘家の事、南部家
の事もお聞きしてる
最中ですf(^^;

来月はお寺で法要会?が
あるので、またお節介では
あると思いますが、ミヤハラ様
のご先祖も御回向させて
頂きたいと思って
いますが・・・(..)・・・

ミヤハラ様も、段々と?急に?
暑くなって来てるので
お身体お大事に、また
色々な事をお教え願えれば
幸いです(^-^)

お互い、暑さに負けぬように
頑張って過ごしましょうd(^-^)
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月02日 11時10分33秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

御住職様にお話を伺って頂いて本当にありがとうございます。
御迷惑をおかけしています。すみません。
貴重なお話なので、私にもお聞かせ下さい。
よろしくお願い致します(..)

御回向
たけぽん様の先祖様に対する御供養。
心から敬服するばかりです。

さらに、家の先祖までも、気にかけて下さり
ありがとうございます。
御迷惑ばかりおかけして申し訳ありません。

私は、自分を全くダメな子孫だと思っています。(@_@。

家の様々な事情・・
そうですね・・
現代と違って、明治時代〜昭和初期にかけては、私達現代人には想像出来ない
事がまだ残っていたようです(..)。

私には、絶対「無理!!(ー_ー)!!」と言う生き方です。
私は、我がままで焼きもちの「かたまり」ですから・・
祖父を産んだ曾祖母と祖父を育てた曾祖母の生き方はすごい!と思います。
祖父を育てた曾祖母(新堀家の娘)には心から感謝しています。
祖父を産んだ曾祖母にも「祖父を産んでくれてありがとうございます」と感謝しています。
しかし・・当時の男性は・・ひいじいちゃん・・・何だか豪快です・・

所で・・
昨日のコメントに書いた
〉どうも・・「山本氏」「野島氏」「金子氏」と共に「四国」「伊予」「土佐」方面に繋がりがありそうなのですよね・・
のお話ですが
「山本氏」「野島氏」「金子氏」実は・・皆、家とは縁戚関係にあります。
以前、コメントしましたが
四国の「金子氏」と「石川氏」には御縁があり「石川氏」と「中川氏」は同族でしたよね・・

たけぽん様と家の親戚に共通な姓の一つに「石川氏」がありますね。
しかし・・石川家とは家の場合「宮原」の親戚関係になるのです(?_?)

何だか・・こちらも妙〜に気になります。

あと・・白石様の御先祖様調査を私が勝手にやってしまったのですが・・
(白石様、ごめんなさい(..))

こちらも・・偶然か・・「四国」「伊予」「土佐」が登場してきまして・・
もちろん偶然かとは思うのですが、
さすがに・・妙〜に気になります。

よろしければ
松葉宗益 後裔 平賀氏について3 コメント20をご覧になられて下さい(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101577_20.html

たけぽん様
そうですね!暑さには負けないぞ〜!!
お互いに体調には気を付けましょうね(^'^)

では(^'^)
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月02日 11時26分05秒 ) パスワード

追記です(..)

先程のコメントを書いて今頃気が付いたのですが・・トホホ

四国から天草に来られた「金子氏」。
四国の金子氏と石川氏は縁戚関係にある。
石川氏と中川氏は同族。

山本氏と縁戚関係にあり、「野島氏」「金子氏」と共に天草から球磨に来た「祖父を産んだ曾祖母の実家」は
家の宮原家を介さなくても
「新堀家」と「平川家」とさらに「蓑毛家」とは縁戚関係にあります!

なんでじゃろう〜(?_?)
あれ〜っ??なんでじゃろう(?_?)

追記でした(..)
・・なんでじゃろう〜(?_?)
[44]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月02日 18時05分48秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です。

と言うか・・
私の先祖調査の緊急ニュースでございます!

かなり、以前にコメントした親戚の「星原家」
おじさん曰く
「家の御先祖様の名前は星原権大夫だ!」と言われていた事を書かせて頂いていました。

私の曾祖父の姪(祖父の従姉)の娘は、私の祖父と姉弟のように育ちまして
「星原権大夫」家に嫁ぎました。
しかし・・
結局、私の祖父母が中国に渡る事になり、姓は「星原」のまま
宮原家の全てをお願いした。
何度か書かせて頂いていました。

ずっと星原家とは?と謎だったのですが・・
ついに解りました!!

親戚の星原家の本姓は・・
大神氏でした!!

星原権大夫 と言う方、実は「大神 惟吉」。
本姓「大神」氏です。

びっくりしました!
郷土の歴史研究会を退会した、地元宮麓地区の土屋様から頂いていた資料に
謎を解く「写真」がありました。

ブログにアップさせて頂いています。
皆様、よろしければ、ご覧ください。

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html

しかし・・
私の周囲には「惟」の文字を通字とする「大神氏」の親戚が・・とても沢山いらっしゃいます・・

何だろう・・
伊予橘氏・・物部氏・・大神氏

物部氏と大神氏は古代から繋がりが深いのかな・・? (?_?)

むむっ(p_-)
平河氏系図に記載の「宮原権左衛門」と言う方も
青井阿蘇神社大宮司家の墓所にお墓が建っていて、この方もお名前に「惟」の文字がついていらっしゃいましたよ・・
(p_-)

それに「惟吉」というお名前「惟」と「吉」
何だか・・大神氏と橘氏の『名前の特徴?』をどっちも引いていらっしゃるような感じですね・・
むむっ(p_-)

しかし・・ずっと気になっていた親戚の「本姓」が解ってすごく嬉しいです。
\(^o^)/

では(^'^)
[45]たけぽんさんからのコメント(2017年06月04日 08時10分34秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
御住職のお時間の空いてる
時にお聞きしてるので、
かえってお気を使わせて
すいません(>_<)

御回向
亡くなった祖母は、元気な時は
ほぼ毎月お墓参りは
欠かさなかったようです

祖母は、口癖の様に
ご先祖様あっての自分達だからね
ご先祖様は大切にしないとね、と。

ミヤハラ様がダメダメなら、
うちは・・・

ダメダメ以下です(>_<)

平河の事も、祖母の実家の事も
県外で生まれ育ったとは言え
こちらに来るまで何も知らなかった
のですから(ノ_<。)(泣)

ミヤハラ様は、これだけの調査を
何年もかけてしてらっしゃる。

ご先祖様も、大変喜ばれてると
思いますよ(^-^)♪

うちの方の調査は、なかなか
思うようには進みませんが、
まだまだ頑張りますd(^-^)

また、御指南、ご指導
他、色々と宜しくお願い致します
m(_ _)m
[46]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月05日 09時55分00秒 ) パスワード

たけぽん様、今日は(^'^)

お返事遅くなりまして
申し訳ありませんでした。

実は、親戚の方で不幸事がありまして、コメントを控えさせて頂いていました。
すみませんでした。

たけぽん様は「ダメダメ」ではありません!
御先祖様をしっかりと御供養されていらっしゃいます。
たけぽん様の御先祖様に対する感謝の心は、コメントを拝見しているだけでも
とても強く伝わってきます。
(偉そうな事を書いてすみません(..))

私はダメダメ人間ですので、毎朝、先祖にお参りする時は
「ふつつかなわたくしで、申し訳ありません。」
とお詫びしています。
しかし、先祖に対する感謝の心はいつも持ち続けています。

実は親戚の不幸事とは
父の従姉の御主人がお亡くなりになられました。
私は、子供の頃、祖母が母代りとなって育ててくれていましたが、父は航空自衛官なので、家には不在でして
『寂しかろう』と、父の従姉夫婦である、おばとおじには、可愛がって頂きました。
おじの弟の方が某大学の教授の方で、今まで何度もこちらのスレッドには著書をはじめ、お名前も書かせて頂いていましたが
本日はお名前は控えさせて頂きます。
昨日も御一緒したので、色々お話を伺ったのですが、後日、あらためて書かせて頂きます。

葬儀の最後、孫代表(孫娘)からおじいさんへの弔辞(お別れの言葉)があったのですが
「おじいちゃん、おばあちゃんと結婚してくれてありがとう。私達はおじいちゃんと、おばあちゃんが居たからこそ、この世に生を受ける事が出来ました。
本当にありがとうございます。」
と。

私は心から感動しました。
この気持ちが先祖に対する感謝の原点なのだと思いました。

何代も何代も系を繋げて、今に生きている私達。
其々の代で、皆、同じ気持ち、心で、親族を送ってきたのです。
この感謝の気持ちが繋がって、今に至るのだと思います。

弔辞(お別れの言葉)の中で、孫娘が高校の頃、毎日、駅までおじいちゃんに車で送ってもらっていた
との話があったのですが
帰宅して、父が
「当時、●●さん(おじ)が、人吉まで通学する孫を駅まで毎日送っているとタイ!と嬉しそうに話していた事を思い出して涙が出た」
と言っていました。

おじさんの孫を思う心、孫からおじいちゃへの感謝の心。
こうやって、人は先祖と心を通じて繋がっていくのだと、思います。

自分を思い返せば、祖母が亡くなった時も同じ気持ちでした。

たけぽん様
御先祖様に感謝の気持ちをいつも胸に抱く事は本当に大切な事ですね。

『先祖の調査』
たけぽん様も私も、きっと御先祖様が沢山の事を伝えて下さると私は思います。

家は、私が先祖を調べよう!と急に思い立つまで、親戚は現代に生きる上で、そのような事はもう考えていなかったようでした。
お伺いすると、たけぽん様も私とほぼ同じ状況だったようですが・・
もちろん、親戚は皆、先祖に対する感謝の心を持って供養していますが
21世紀を生きるにあたって、自分の出自をあらためて調べ直すという気持ちは殆どが失っていたようです。
(だいたい、聞いているから・・と言う感じですね・・)
しかし、最近は親戚は皆違います。
私が調査を始めた事がきっかけで、皆、自分の出自に大変興味を持つようになりました(^'^)

きっと、私達は先祖様からの何らかのメッセージを受け取ったのでしょう(^'^)
そして、こうして出会える事が出来ました(^'^)

これからも、一緒にがんばりましょうね(^'^)

所で・・
実は、一昨日から私の周りで不思議な事が起こったりしたのですが・・
この事は続けて、次のコメントで書かせて頂きます(..)
他、曾祖父の実家についても親戚から新情報を聞く事が出来ましたので
次のコメントで書かせて頂きます。

盆地に住む私達は朝晩の気温差で体調を崩しがちです。
お互いに、十分きをつけましょうね(^'^)
では。
[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月05日 12時17分05秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、マタマタの登場です。
あらためまして、今日は(^'^)

コメント46で書きましたように
〉実は、一昨日から私の周りで不思議な事が起こったりしたのですが・・
〉曾祖父の実家についても親戚から新情報を聞く事が出来ました・・

まずは
親戚から聞いた曾祖父の実家の新情報から書かせて頂きます。

以前、コメントに書いていましたが
宮原家に養子に入った曾祖父の実家「久保田家」。
こちらから、親戚の多良木の平川家に、はやり『養子』が入って、親戚の多良木平川家を継いでいます。
其々、婿養子ではなく「養子」です。
親戚の多良木平川家を継いだ「養子」の方には子供が二人いて、弟が本家を継ぎ(私の祖母の妹の夫)、姉は隠居家を継ぎました。
隠居家の息子さんである、おじさんはおん年「87歳」になられる方で
昨日、おじさんの「祖父」になられる方の実家であり、私の曾祖父の実家でもある久保田家について新情報を聞く事が出来たのです。

おじさんからは
「久保田家の曾祖母(おじさんの)は牧野家から嫁いで来られているから、この事は忘れないように!」
と言われました。

87歳のおじさんの「曾祖母」・・?? この方はいったい「いつ」の時代の方なのか??(?_?)
と一瞬頭が混乱しましたが
ようは・・私の曾祖父の母、もしくは曾祖父の兄の妻が「牧野家」から嫁いで来られている・・
という話のようです。
『それを憶えておかなければいけない!』と私が先祖調査をしている事を知った「おじさん」が教えて下さったのでございます(..)

「牧野家」・・「牧野氏」

調べたのですが、人吉・球磨郡内で現在「牧野氏」は7軒。
熊本県内では271軒。
県内では多いけれど、球磨・人吉地方では少ない「牧野氏」・・

う〜ん(?_?) 曾祖父繋がりの親戚は千葉家・畠山家そして「牧野家」と郡内ではやはり少ない姓が多いのは何故?と思いながら・・

しかし、以前、コメントに書いたように
相良藩内では勝手な縁戚関係を結ぶ事は相良法度で禁止されていましたし・・
この流れは明治以降から大正時代・昭和初期まで続いていたと歴史研究会の方々もおっしゃっているので・・
久保田家に嫁いで来られた「牧野家の娘」と言う方は
曾祖父の母、もしくは兄嫁であり、もしかしたら、私のDNAにも関わる事なので
調べてみました(p_-)

まず・・相良藩士分限帳をみると・・
確かに牧野氏は相良藩士にいらっしゃいました。(1系のみですが・・)
現人吉市である「中神村」と「林村」に知行地を持つ「牧野氏」でした。

相良藩士「牧野氏」。いったい何処から来られたのか・・?(?_?)

牧野氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%B0%8F

ウィキの記述によると
※牧野氏(まきのし)は、日本の氏族。さまざまな系統がある。

実に沢山の牧野氏の系があるのだな・・と思いながら読み進めると
「肥後」の牧野氏がありました。

※肥後牧野氏 - 肥後国菊池氏。西郷氏と同族

ナンデスト(p_-)肥後国菊池氏

そこで・・日本の苗字七千傑様のサイトで「菊池氏」姓氏類別大観 を拝見したのですが・・牧野氏は見当たりません・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm

そこで日本の苗字七千傑様のサイト検索で「牧野氏」を調べたのですが
おそらく、もしかしたら・・『菊池氏と書かれた牧野氏』に繋がるのでは?と推測出来る「牧野氏」を見つける事が
出来ました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

藤原氏真夏流《服部氏/内空閑氏》姓氏類別大観でした!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016a.htm#002

内空閑氏は肥後国山本郡の豪族でその後菊池氏に仕えていらっしゃいます。
しかし・・牧野氏は肥後に来られているのかな・・?
と思いまして、調べたのですが・・

内空閑氏・菊池氏 のワードで検索すると
菊池家 家臣団 サイト様より
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/kikuti.html

内空閑鎮房 (?〜1587年)
 内空閑鎮真の弟。霜野城主、牧野城主。甥鎮照が幼少のため、家督を継ぐ。島津家に属す。
天正十三年、島津家に山本郡一帯の領有権を訴え、山本郡に勢力を持った城氏を領地横領と非難した。天正十五年、肥後一揆に加わり、兵糧を運搬していた佐々宗能を討つ。これを秀吉から咎められ、甥鎮照と共に誅殺された。

※内空閑鎮房 (?〜1587年)内空閑鎮真の弟。霜野城主、牧野城主。 
牧野城の城主 「内空閑鎮房」
牧野の地名?が出始めました!?

内空閑氏・菊池氏・・そして相良氏はどう繋がっていくのか・・
藤原氏真夏流《服部氏/内空閑氏》・・
確かに藤原氏真夏流「日野家」と相良氏は姻戚関係にはありますが・・

そこでさらに調べました・・
サイト 武家家伝 様 より「内空閑氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uti_koga.html

家紋
●五葉木瓜/矢車/鷹の羽
●藤原北家流/伊賀服部氏流
「矢車」は伊賀服部氏流の代表紋であり、「鷹の羽」を用いたのは、菊池氏から下賜されたものであろう。

内空閑氏は、戦国時代に肥後国山本郡最大の豪族であった。内空閑は「うちのこが」と呼び、内古閑とも記される。
 内空閑氏の出自については諸説があり、伝承によると伊賀国の出身だという。『肥後国誌』によれば、内空閑氏の祖は藤原氏で伊賀国服部荘の地頭であったという。すなわち、備前守基貞が明徳三年(1392)に肥後に下向、霜野に城を築き内空閑を家号とするようになった。そして、『下野雑記』を載せ、後嵯峨天皇のときに伊賀国上野城主服部備前守が、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、同郡に移住し、その地名をとって内空閑刑部大輔元鎮と号するようになったというのである。
 一方、服部内空閑家に伝来する系譜によれば、伊賀国上野城主服部伊賀守藤原鎮基の長男備前守基貞が、永仁元年(1293)伏見天皇のとき、肥後国山本郡に五百五十町歩を賜り、その年のうちに下向して来たとしている。さらに、『事蹟通考系図』には、明徳元年(1390)基貞のとき、伊賀を去り菊池武朝に属し、武朝より五百五十町歩の所領を得て、内空閑に下向し内空閑に改めたとしている。
 以上のように、内空閑氏に関する伝承をみると、伊賀国服部荘の地頭で上野城主であった貞基が肥後に領地を得て下向した。そして、霜野城を築いて内空閑氏を称したということで、ほぼ共通している。しかし、下向の時期については、たとえば永仁元年説と明徳元年説を比較すると百年近くの差があり、不明としかいいようがない。

戦国時代への序章

 内空閑氏の祖が伊賀国の住人であったかどうかは別にして、内空閑氏が肥後守護菊地氏の老臣として活躍していたことは紛れもない事実である。『菊池家老臣連署知行坪付』によれば、「内空閑備前守重載」が城上総介頼岑、隈部和泉守宗直、赤星弾正少弼重規など十名の人々と一緒に老臣としてその名を記されている。  また、内空閑氏の人物として、重載をはじめとして、鎮真(鑑貞)・鎮資・為載らが、『五条文書』『正観寺文書』『願行寺文書』『宝成寺文書』などの古文書のなかに名前をあらわしている。そして、為載は重載の父であり、文明十三年(1481)の菊池重朝の『万歌連歌』にも名を連ねている。

 内空閑氏が仕えた菊池氏は、南北朝期に宮方として活躍し、室町時代を通じて肥後守護職の座にあった。しかし、十五世紀後半になると、次第に衰退の色を深くし、一族や重臣の反抗に悩まされるようになった。重朝のとき、叔父宇土為光が謀叛を起したが、重朝はこれを撃退している。ところが、為光を保護した相良為続との間で抗争となり、重朝は連敗を喫して、為光の宇土城復帰を黙認する有様となった。

重朝のあとを若年の武運(能運)が継承すると、重臣隈部氏が謀叛を起こし、これに相良為続も同調した。一旦敗れた武運は、明応七年(1498)、有馬氏、筑後・豊後の援軍を受けて挙兵、隈部氏らの叛乱を退けた。

 文亀元年(1501)、伯耆為光を擁する隈部忠直が謀叛を起こし、能運は有馬氏を頼って肥後から退去した。文亀三年、能運は重臣城越前守、隈部兵部少輔らに擁立され、有馬氏、相良長毎らの応援を得て、八代城を攻撃、為光を討ち取った。しかし、翌永正元年(1504)、能運は前年に受けた戦傷が癒えず死去してしまった。

守護菊池氏の衰退

 この能運の死をもって、肥後国は本格的な戦国時代を迎えることになるのである。能運の死後、一族から政隆が家督に迎えられたが、重臣らはこれを歓迎しなかった。

 菊池氏の動揺をみた阿蘇大宮司惟長は、肥後守護職を望み、大友義長の支援を得て菊池氏の重臣に種々の働きかけをした。その結果、菊池氏の重臣八十四名は政隆を追放し、惟長を迎えて守護に推戴した。肥後守護となった惟長は大宮司職を弟の惟豊に譲り、隈府城に入ると菊池武経と称した。一方、山鹿に逃れた政隆は、山本郡の内空閑重載の援助を乞うた。

 重載は一族の内空閑朝誠・同運直・同朝貞らとともに政隆を追放した八十四名の内に加わっていたが、心からの惟長支持派ではなかったようだ。その後、政隆は山鹿、山本、玉名と転々とした末に、大友軍と戦って敗れ自害した。一方、菊池氏を継いで肥後守護となった武経も、菊池氏重臣の反抗によって、永正八年、阿蘇へと帰っていった。内空閑重載、隈部親氏ら菊池氏重臣は、菊池一族の詫磨氏から武包を迎えて守護とした。
 永正十五年(1518)、大友氏を継いだ義鑑は、菊池氏重臣に迫って武包を追放させると、同十七年、弟の重治を菊池に入れ肥後守護としてしまった。重治は隈府城に入ったが、やがて鹿子木親員、田島一族の支持を得て隈本城に落ち着いた。これは、菊池家中における実力者である隈部・赤星・城氏らを、重治が嫌った結果でもあった。かくして、肥後守護となった重治であったが、次第に大友宗家か自立する動きを見せはじめた。
 結局、重治はその高慢な姿勢が災いして重臣らの支持も失い、相良氏を頼って隈本城から退去した。義鑑は内空閑長載ら、菊池氏重臣らに重治への協力をせぬように書状を送り、天文十二年(1543)、みずからが肥後守護となった。ここに至って、肥後守護菊池氏の命運は極まったといえよう。

乱世を生きる 中略・・
鎮資(内空閑)は隈部親家の娘菊姫を室に迎えたが、二人の間に子ができなかったため、菊姫の弟源三郎(のち鎮房)を養子に迎えた。ところが、その後男子(のち鎮照)が出生したことで、内空閑家中は養子派と実子派とに分かれて対立が生じた。そして、永禄九年(1566)の盆踊りのとき、互いの放言から大騒ぎになったと伝えられている。
 内空閑氏の対立はその後も続き、内訌をみた隈本城主城親賢が仲介に立った。親賢は着々と勢力を拡大する隈部氏を牽制するため、積極的に鎮照・鎮房の間をとりなしたのである。そして『霜野由来記』によれば、鎮房が霜野城を本拠に二百七十五町、鎮照が内村城を本拠に二百七十五町を領することで内紛は一件落着したとある。  

=======================================================

(p_-)
鎮資(内空閑)は隈部親家の娘菊姫を室に迎えたが、二人の間に子ができなかったため、菊姫の弟源三郎(のち鎮房)を養子に迎えた。

この方が、先にも書いた
※内空閑鎮房 (?〜1587年)
 内空閑鎮真の弟。霜野城主、牧野城主。甥鎮照が幼少のため、家督を継ぐ。
と言う方ですね。

内空閑と縁戚関係を重ねる「隈部氏」ですが、球磨・人吉には現在多数住されています。

さらに
※内空閑長載の子親貞は天文二年(1533)五月、薩摩の島津氏が芦北津奈木を攻めたとき、城・赤星・田島・鹿子木氏らと菊池家を奉じて戦い、戦死したと伝えられている。
とありますが
私が書いたこちらのコメント23に繋がっています。
当時の芦北は相良藩の領土です。深水氏が治めていました・・・
ちなみに・・余談ですが・・先日、私が伺った百済来(久多良木)の久多良木城の城主も深水氏でした(..)

肥後の牧野氏
まだまだ、調査を始めたばかりで、未知識ですが、今日は「内空閑氏」について
勉強をしました。
しかし・・まだまだ勉強不足です(..)

相良藩士「牧野氏」は一体どこから来られたのか・・?


曾祖父の母、もしくは兄嫁は「牧野家」から嫁いで来られていた・・
というお話でした。

では(..)
[49]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月05日 16時43分46秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、マタマタ又の登場です(^'^)

皆様!!見つけました!!
ついに肥後の牧野氏の出自を発見致しました!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

やはり、頻繁に見ているサイト「菊池家」に謎は隠されていました。

菊池家
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html

こちらのサイトに以下が記載されていました。

牧野満実一俊嗣服部基載子宮内
俊賢
実俊俊賢子
景俊俊賢子
俊員俊賢子
俊敦俊賢子
鎮秋図書

さらに
内古閑基貞服部基載子親載孫貞真曾孫内空閑備後刑部
   載久
   為載式部
   為秋
   運直神十郎
   重載為載子備前仕菊池政隆筆頭老者
   長載重載子刑部伊賀
   親貞====1533長載子佐鎮備前
   鎮真====1574親貞子式部
   鎮資鎮真子民部
   鎮照鎮真子鎮資子?鎮房嗣?備前摂津
   鎮員
   照資

   鎮房====1587鎮資嗣隈部親永子親泰弟政利刑部
   鎮憲鎮房子
   鎮永鎮房嗣赤星親家子

   親房親貞子内久我宮内

   親房親貞子
   真清親房子
   鎮英長載子
   朝貞為載子次郎左衛門

========================================================

と言う事は(p_-)
※牧野満実一俊嗣服部基載子宮内
※内古閑基貞服部基載子親載孫貞真曾孫内空閑備後刑部

牧野満実と言う方と内古閑基貞と言う方は兄弟で父が『服部基載』と言う方である・・と言う事ですね。

と言う事は・・・
あああああああああああああああっ!!!!
肥後の菊池家家臣「牧野氏」は内古閑氏と同じく『服部基載』と言う方の後裔である!
と言う事ですね!!!!!

あっ?!! (p_-)
日本の苗字七千傑様の藤原氏真夏流《服部氏/内空閑氏》姓氏類別大観 内の牧野氏は!
肥後の方々の記述だったのですね!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016a.htm#002

今頃気が付きました・・・トホホ(@_@。

内空閑氏は菊池氏に従い、肥後の南朝方として活躍されています・・
そう言えば・・上相良氏多良木一族(多良木氏・久保田氏・新堀氏・等)と久米郷領主「橘遠江入道道公」と同じく久米郷西方領主「三池氏」と蓑毛祐長(深水氏の祖)は菊池氏と共に南朝方として活躍されていました。

むむっ(p_-)・・南朝繋がりか???(p_-)

でも・・何だか・・それだけではなさそうな・・?(p_-)

さらに気になるのが サイト菊池家記載の「内空閑氏」の記述に
※(内空閑)鎮永鎮房嗣赤星親家子
※(内空閑)親房親貞子内久我宮内

赤星氏に久我氏・・・何だか家の親戚の姓と同じですね・・・(?_?)
なんでじゃろう?・・(?_?)

しかし・・まだ・・江戸時代の相良藩士「牧野氏」が肥後の「牧野氏」と同族である とは決定した訳ではありませんので(ー_ー)!!
早合点はいけません(ー_ー)!!(自分に言い聞かせています(..))
やはり、もっともっと勉強しなければいけません(..)
さらに・・他県の牧野氏も調べてみようと思います。

でも・・肥後に『牧野』と言う地名があったのかな・・??

やはりもう少し勉強してみます(..)

では(..)
[50]たけぽんさんからのコメント(2017年06月06日 00時32分01秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
うちの方こそ、いつもミヤハラ様
のご先祖様に対する心掛け
見習わなくてはと頭が下がる
思いです(..)・・・

御親戚の方の不幸・・・
大変でしたね(ノ_<。)

お祖父様を尊敬し、
敬えるお孫様が
いらっしゃるご家庭

ご先祖様方々も
お祖父様も、大変
喜ばれてるかと(^-^)

うちのは
祖母の受け売りです

うちは従兄弟の中でも
一番上ですし、自分が
他県にいる従兄弟に
伝えていくのは、最後に
祖母と過ごした孫(代表)
として、祖母から聞いたことを
きちんと伝えていかなければ
と思ったからです。

ですが、祖母が元気な時は
祖父の介護で忙しく
なかなか詳しく聞けなかった事は
今でも悔しく思っています。


話は変わりますが

今日、養父母のお葬式の
アルバムが出てました。

その写真には

三○田様
横○様
椎○様
石○辰○様

のお名前が写ってました。

多分、養父母の親戚の方だとは
思いますが

少し手がかりが掴めたかな?と
f(^^;
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月06日 06時32分07秒 ) パスワード

たけぽん様、おはようございます。(^'^)

御親戚のお名前に手掛かりが掴めた可能性が・・!
私、きっとたけぽん様が御先祖様からのメッセージの一つを
受け取られたのだと思います!

とても気になる事が
横○様と椎○様は・・もしかしたら家と共通の親戚の姓ではありませんか?
非常〜に気になります(p_-)

もし・・共通の姓だったら・・
このコメント50に書いたら、たけぽん様がお困りになるかもしれませんので
最近知った 家の親戚のマタマタ新情報を書かせて頂きます。

では(^'^)
[52]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月06日 10時31分27秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、あらためての登場です(^'^)

家の親戚のマタマタ新情報を書かせて頂きます。

平川の曾祖父の弟の一人は横瀬家に養子に入っていました。
こちらの横瀬家と縁戚関係にあったのが、岡原霧島神社の宮司家であった横瀬氏です。
「であった」と書いたのは、先代の宮司様がお亡くなりになられた後、現在、横瀬家はお住まいではありません。

横瀬氏と平河氏は同族となります。
※ 平河師高の弟が横瀬高実

新情報とは岡原霧島神社の宮司家「横瀬氏」についてです。
明治43年2月25日、旧宮原村、旧岡本村の各所に御鎮座であった神社を合祀、
岡原霧島神社が建てられました。
明治43年に岡原霧島神社の宮司となられた横瀬氏は
人吉「相良神社」の大宮司の子息の方でした。

人吉「相良神社」創建は明治13年(1880)で、相良家初代「相良長頼」〜36代までの歴代当主が御祭神として祀られています。

明治13年(1880)創建の「相良神社」初代大宮司の横瀬氏の子息が岡原霧島神社の宮司になられていらっしゃいました。

人吉「相良神社」 複数のサイト様に写真等が載せられています。
http://mawarisute.blog.fc2.com/blog-entry-407.html

http://www.komainu.org/kumamoto/hitoyoshisi/sagara/sagara.html

岡原霧島神社の宮司「横瀬氏」は2代に渡り、宮司をお務めでした。

明治43年2月25日岡原霧島神社落成式の写真他、資料を頂いていましたので
ブログにアップさせて頂きました。
皆様、よろしければご覧ください。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12281217989.html

写真を私も初めて拝見したのですが・・
落成式の様子から、感じた事は、岡原霧島神社(旧宮原村・旧岡本村の神社を合祀)の建立は
旧岡原村・・そう「村」だけではなく・・郡をあげての一大事業ではなかったのか!?
と言う事です。
写真を良く見ると、御神殿の辺りにもかなりの人達の姿が見えます。
普段、身近にある神社の落成式の写真をみて、こんなに凄い事だったのか!と
本当に驚きました。

ただ・・私にはどうしても不思議でならない事が新たに登場しました。

相良氏の史誌では
横瀬高実そして兄の平河師高、父の平河義高・・親子の方々は
相良氏初代「相良長頼」により”討たれた”となっています・・・が!
相良氏の歴代当主を御祭神とする「相良神社」の初代大宮司の方は「横瀬氏」である・・

不思議だと感じるのは私だけでしょうか・・・?

あと・・ブログを書いてあらためて気が付いたのですが・・
私の住む、旧宮原村と旧岡本村の地名についてです。
「熊野」「伊勢元」
他にも「鶴」「天子」
さらに、岡原霧島神社が建つ場所なのですが、旧宮原村・旧岡本村の江戸時代の地名(古地図による)は「諏訪」でした。
旧字「諏訪」に岡原霧島神社は建ったと言う事です。
裏手の山は「宇土」
宮原谷は昔は「宇土谷」が正式名称です。
さらに・・旧宮原村の隠れた?字は「宮野」
そして・・ここは旧久米郷。
なんだろう・・すごく古い時代に繋がる地名ばかりではないのかな・・?と(..)

さらに、岡原霧島神社の御祭神なのですが、複数の神社が合祀されていらっしゃるので御祭神は23柱。
複数の神社が合祀されていらっしゃる事を鑑みても、それでも23柱はとても多いような気がするのです・・
近い地域に其々『御祭神が異なる神社』が集結?していたような・・そんな感じがするのです・・

地名で言うと・・久米郷とは球磨川を挟んだ対岸の「旧須恵村」や「旧深田村」には広大な高台があり、そこの地名は「賀茂(かも)」と「荒茂(あらも)」です。
弥生時代や縄文時代の遺跡が多数あります。

岡原霧島神社の話からは逸れますが・・
久米族(黒目族)の守護山であり、権利を主張する山「黒原山」と
辰韓族の守護山であり、権利を主張する山「白髪岳」
この二つの山の間には小白髪岳があります。「皆越」集落です。
標高は黒原山と変わらないのですが、小白髪岳は、球磨郡内でも見える場所とそうでない場所があり
私の住む集落からは見えません。(白髪岳は真正面に見えます)
最近、気が付いたのですが
黒原山・小白髪岳・白髪岳が綺麗に横並びに見える、そう・・まるで親子のように見える場所がありました。
球磨郡内で唯一そのように見える場所が「旧岡本村」と「旧上村」に広がる「神殿原」(こうどんばる)です。
「神殿原」・・この地名も・・何だろう・・不思議です。

別の場所ですが
高原(たかんばる)からは霧島の韓国岳が見えます。
こちらも縄文時代〜弥生時代の遺跡群が集中しています。

久米郷・伊勢元・熊野・諏訪・鶴・天子・須恵・賀茂・荒茂・宇土・神殿原・高原・宮野・・

岡原霧島神社の御祭神は23柱・・

今朝、何だか、全て繋がっているのでは?と妙な・・気持ちになりました。

脱線してすみませんでした(..)

家の親戚のマタマタ新情報から進んでしまいました(..)

では。
[53]たけぽんさんからのコメント(2017年06月08日 00時35分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

やはり、平川家はややこしいと
言うか、なんと言うか・・・(..)

一筋縄でいかないので
何かキッカケが掴めたかな?
と、思うと(うちの場合は大抵外してますが)
ハラハラドキドキです(苦笑)

まぁ、昔はこんな感じで

今より家を大事にしてた
時代だからこその結果なんだとは
思いますが(..)・・・

調査のしがいがあると言うかなん
と言うかf(^^;(笑)
[54]たけぽんさんからのコメント(2017年06月08日 00時37分48秒 ) パスワード

連投申し訳ありません

1つ不思議に思ったのは

うちの平川は、元々木上だった
らしいのですが

何故、須恵に行くように
なったのかな?と・・・
[55]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月08日 11時01分36秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

たけぽん様
〉うちの平川は、元々木上だったらしいのですが
〉何故、須恵に行くようになったのかな?

確かに江戸時代の分限帳には須恵には「平川氏」の名前は残っていません。
おそらく、平川氏に所縁の「地区」をたけぽん様の御先祖様が継がれたのでは?と私は推測しているのですが・・
鎌倉時代以降〜室町時代にかけての須恵の地頭(城主)は恒松氏です。

家も、親戚もやはり皆、最初は「木上」だったと言っています。

木上岩城城主として「伝承」で名前が残る方が「平川義高」。
しかし、その後の木上の領主であり木上城の城主となったのは「久保田(窪田)氏」です。
ちなみに久保田氏(木上城主)と恒松氏(須恵の城主)は姻戚関係にあります。

さかのぼると・・
鎌倉時代の記述(平川家文書)では平河氏は須恵氏の名跡(西村)を継いでいる・・
もや〜っとしますよね・・

しかし、本格的に追及するには
肥後国さらに球磨郡の歴史、そして平河氏の歴史を古文書「平川家文書」「相良家文書」「永池文書」「横瀬文書」等
そして『伝承』から紐解いていかなければいけません。
ここから、ちゃんと理解しないと平河氏の謎は中々解けないと思います。(..)

私も、今まで勉強・調査した事の『復習』だと思い、簡単ではありますが今日から数回に分けて書かせて頂きます。
(もちろん、『現在の調査を継続』しながらですが・・)
こちらのスレッドには書いていないで、自分が本を読んで理解していただけの事も多々あります。
たけぽん様はすでに勉強して御存じかとは思いますが、私の復習でもあるので
御一緒にご覧ください(..)

まず・・
相良氏入国前の球磨。

★古代
私がこちらのスレッドで何度も取り上げたように、古代の球磨には「久米族(黒目族)」が勢力の基盤を形成していたのはおそらく間違いないと思います。
他、辰韓(後の新羅)系の部族も住していたようですね。
他に百済系の部族も住していたようです。
さらに、こちらも確実なようだ・・と言う事で中国江南地方から来られた部族。

記紀『日本書紀・古事記』には「熊曽」(熊襲)が登場します。
「武力では到底勝てない!」と書かれる程の、強大な戦力を有した部族でした。

★奈良時代以降〜平安中期
古代の久米族を継承した藤原姓の「久米氏」が登場します。
他に、久米氏と勢力を二分する「須恵氏」も登場します。須恵氏も藤原姓のようです。
律令制の中「久米氏」と「須恵氏」が球磨の勢力であったようです。

★平安末期(1000年代以降)
ここからが『伝承』となります。
ここで初めて「平河氏」が登場する訳です。
しかし、ここで『平河氏が登場する』と書けるのは「平川家文書」の先祖由来書や『肥後国誌』等の記載から推測出来る「だけ」の事なのですが・・・

平河氏の伝承も様々で、内容が全く異なります。
@菊池氏を頼って肥後山本郡に住し、その後、康治年間(1142年〜1143年)球磨へと移る。(良峯安則とその孫良峯義高)
A平河師澄が1060年代、球磨の荘官として移って来られた。
と言った具合です・・

球磨の平安末期を記した、唯一の文書「肥後国訴訟状写」(高野山文書)があり、肥後国で起こった「動乱」が記されています。
天養元年(1144年)とその前年康治二年(1143年)に起こった動乱です。
多良木町史に詳しく書かれているので、私なりにまとめて書きます。

@木部・豊福地方に勢力を持った、大将軍広実と養子秀実の事件。この方々は「木原氏」です。
自らを「大将軍」と称しています。

A田口新大夫行季の事件
上益城郡乙女村田口(現甲佐町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った「田口行季」すなわち「田口氏」と上益城郡砥川村砥川(現益城町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った「砥川経盛」は開発領主です。
「田口行季」と「砥川経盛」この方々が国司に対して暴動を起こしました。
暴動を起こされてしまった、この『国司』の方々は益城の郡司、火君(肥公)の子孫の肥宿禰で、補足すると鎌倉初期においても九人の雑任国司のうち『火君(肥公)の子孫の肥宿禰』の一族が三人もいらっしゃいます。

B球磨の住人貞倫の事件
球磨郡の住人貞倫とその弟の重平らが、同じく球磨郡に住する「守高」を追い払い、城内に押し入って、種々の雑物や人馬をとらえ、田畑を奪いました。
加担したのは
日向真幸院の字小郡司貞重、波多利三郎別当正晴、入田太郎貞明、和良比草次末平、草藤次貞守、
及び肥後の住人八代藤三重永、同人の所住の四郎別当、同舎弟です。
「球磨郡の住人貞倫」と「日向真幸院の字小郡司貞重」には共に「貞」の文字が付いている事から、様々な書籍では当時の日向西諸県の郡司「日下部氏」の一族であろうと推測されています。
襲われた「守高」は、こちらも様々な書籍では「師高」であろうと推測されているのですが・・・
私は・・どうもこの推測に関して、モヤモヤする所は実はありまして・・
素人がどうのこうの言う事ではないのですが・・平河氏の一族の末孫としては、1140年代の『師高』となると父の『義高』と言う方は相良氏に滅ぼされた1220年代いったいお年は何歳だったのだろう???と・・
(;一_一)

と言った3つの「事件」が「肥後国訴訟状写」(高野山文書)に書かれていて
球磨郡の歴史の中でも唯一平安末期の状況が記録された物になります。

★平安末期〜鎌倉初期の球磨 (平川家文書・相良家文書より)

平安末期の球磨の荘園の荘官(開発領主)

@木上を中心した永吉庄 ※旧木上村・旧深田村・現相良村・旧中神村(現人吉市)渡村(現球磨村)神瀬村(現球磨村)旧山田村(現山江村)五木村 旧黒肥地村(現多良木町)の横瀬地区 旧免田村の黒田周辺 等
●良峯氏(平河氏) ※一部、鎌倉初期に安堵された所領地も追加して書いています。
A人吉荘に 人吉次郎

B西村・一武・須恵・免田に ●須恵氏 「須恵 家基(藤原家基)」

C久米郷『旧久米村・水上村・湯前・岡原・上村地域』に ●久米氏

D多良木の一部に ●伊勢氏 (伊勢弥次郎 不知実名)※平家没官領となり、のちに公田となります。

※上記のD多良木の一部に ●伊勢氏 (伊勢弥次郎 不知実名)に預けられたとされるのが「相良頼景」です。
 
※Cの久米郷は後に領家「西園寺公経」と「橘公業」が替地して「橘氏」(橘薩摩)が所領します。

※D多良木の一部に 伊勢氏 (伊勢弥次郎 不知実名)ですが
伊勢弥次郎と言う方の「本名」は解りません。
しかし、最近、初めて知ったのですが(勉強不足でした(..))
水上村の湯山・岩野に勢力を持った「湯山氏」(本姓 平 通字は『宗』)。
実は、相良氏入国前よりの在郷勢力だったそうです。
『伊勢弥次郎』と言う方と「湯山氏」(本姓 平 通字は『宗』)は何か繋がっているのでは?と
私は最近「疑問」を頂いています。
さらに・・「伊勢氏」ですが、私の住む旧宮原村地区(現在のあさぎり町岡原)には現在でも「伊勢家」は数軒、在していらっしゃいます。

まずは、平安末期までの球磨に関する復習をしてみました(..)

〉何故、須恵に行くようになったのかな?

鎌倉初期の平河氏の安堵状や譲状には須恵は含まれていませんが、しかし
後の南北朝時代〜室町時代、例えば相良定頼からの一族への譲渡等には平河氏は相良氏の一族として記されていますので、
いずれかの時期に須恵の一部が平河氏に譲られた可能性は大だと思います。

ちなみに・・久米郷の一部も・・
南朝方であった「橘遠江入道道公」の領地であった久米郷の一部、橘氏は領土の大半を失いましたが、その土地は相良定頼に渡り、
相良定頼から一族及び平河氏に譲渡されていますので・・

非常に・・複雑なのですが、一つ一つ、勉強していくと謎はきっと解けますよね(^'^)

今日は、一応、全体をしっかりと再認識する為に復習を兼ねてコメントを書きました。

須恵の一部がいつ「平河氏」に移ったか、即答できなくてすみません(..)
たけぽん様、私もこれから、史誌をあらためて読みなおしていきます(p_-)

ただ・・
たけぽん様、皆様
何だか妙〜な感なのですが
今日、私が書いた事って、何か・・後に続く重要な事だったような気がしているのです・・

では(..)
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月08日 14時10分06秒 ) パスワード

追記
補足します(..)

肥後国。
私も以前まで、全く理解していなかった事なのですが
九州と言うと、現在は福岡県がその中心地となっています。
もちろん大宰府には鎌倉幕府が鎮西探題が設置されていますが
延喜式による国力で言えば肥後国は大国です。
九州・中国・四国地方における唯一の大国です。

大国 ウィキより
※表示された画面から
3律令制から明治維新までの令制国の等級。通常は国司の等級として用いられた。大国 (令制国)を参照。
の「大国 (令制国)」をクリックして下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD_ (%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD)


大国(たいこく、たいごく)とは、律令国の等級区分の一つである。
古代の日本で律令制が布かれた時代に定められた。朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、地方行政区画の一環として国力(課丁、管田、貢賦等の規模)により諸国を四等級に分け、行政上の決裁を行った。

延喜式による大国の一覧
延喜式が策定された10世紀頃の等級分類では、以下の13ヶ国が大国とされていた。
大和国
河内国
伊勢国
武蔵国
上総国(親王任国)
下総国
常陸国(親王任国)
近江国
上野国(親王任国)
陸奥国
越前国
播磨国
肥後国

国力による分類
大国 - 上国 - 中国 - 下国

上国 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%9B%BD
上国は上から二番目の位の国である。ただし、等級区分の基準はつまびらかではない。なお、国の等級区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。

中国 ウィキより ※表示された画面から
「中国 (曖昧さ回避)」をクリックして、さらに
※日本 中国 (令制国)をクリックすると見れます(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD_ (%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD)

中国は「大国」・「上国」に次ぐ3番目の位の国で、「中規模の国」の意。なお、中国の下の4番目の位は「下国」であった。
※一覧はウィキの記述を参照してください(..)

下国 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%9B%BD
※一覧はウィキの記述を参照してください(..)


大国である肥後国。
平安時代の肥後守は平清盛公です。
肥後国 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD

国司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD#.E8.82.A5.E5.BE.8C.E5.AE.88

平清盛 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

※若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。
家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。
高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。
保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。
久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。
時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。

実に基本となる事を私が理解出来ていなかった事は大変問題であったと反省しています(..)

肥後国の基本情報を追記として書かせて頂きました。

では(..)
[58]たけぽんさんからのコメント(2017年06月08日 14時38分05秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

う"〜ん・・・(>_<)(汗)

ミヤハラ様
うちの素朴な疑問でお気を煩わせて
しまい、申し訳ありません(>_<)

ここまで詳しくはわかって無かった
ので、凄く助かりますd(^-^)

なにせ、こちらは文献も資料も
何もない所から初めてますので
本当に手探りで(苦笑)
↑祖母から聞いた話だけで
調査をしてましたから( ̄▽ ̄;)(汗)


平川の子孫一同が、同じような
伝承を聞いているとなると・・・

やはり、そこに謎解きの手掛かりが
あるみたいですねσ(^_^;)

しかし・・・

何故、義高公は木上城主なのに
家老の家だったと伝わってるのか?

家老とは、どこの城主の
家老なのか?

相良氏がこの人吉に南下された時に
何故、義高公に相談されたら良いと
アドバイス(した方)されたのか?

先にミヤハラ様が書き込みされた
所から、湯山氏など、元々この地を
納めてる豪族?に頼んだ方が
良いのでは?とも思ったらり・・・

あと、平河家が滅ぼされた時期の
記録が、まだうちにはみつからないので
それも気になるし・・・

ま、当時の事情はわかりかねますが

多分、ミヤハラ様の疑問とは
遠く離れた浅はかな思考を張り巡らせて
いた次第です(ノ_<。)モウシワケアリマセン
[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月10日 12時07分18秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

たけぽん様、お返事遅くなりまして
申し訳ありません(..)
昨日は来客が続きまして、コメントが書けませんでした(@_@。

たけぽん様
ついに!たけぽん様も色々平河氏の伝承に関して「疑問」が湧きあがって
こられているようですね(p_-)

そうです・・ここからなのです(p_-)

私も、調査を始めて、この「疑問」に到達した所から・・今に至ります

平河氏が滅ぼされた時期
東大史料編纂部の鎌倉遺文等のサイトでも全く見つかりませんでした。
源頼朝の花押が入る「下文」を頂くような「平河氏」が滅ぼされたのであれば
何かしら必ず当時の記録には残るはずなのですが
全く、存在していません。

相良氏の史誌のみに残る・・まさしく「伝承」だけなのです。

だから・・私は今まで”何年も”何か隠されていると考えてきたのです。(p_-)

先月、求麻郷土研究会の例会で湯山の調査に参加しました。
この時に湯山氏が相良氏が球磨に来られる前からの球磨の開発領主だった事を
初めて知ったのです。
(お恥ずかしい(..) 他にも湯山にはとても気になる事が沢山あったのですが、追々コメントします。)

この調査には研究会以外の方も沢山参加されていらっしゃいました。
ある方が
「相良氏入国前の球磨の在郷の豪族は平河氏・久米氏・須恵氏と次々に相良氏により滅ぼされて、結局、戦国時代まで残った湯山氏も滅ぼされた」
とおっしゃったのです。
私が平河氏を調査している事は、他の求麻郷土研究会の方々は皆さんご存知です。

私は内心
「完全に滅ぼされた訳ではないのだけれど・・私もたけぽん様もこうして現代に生まれているし・・他平川氏は球磨に沢山残っていらっしゃる」
と思ったのですが・・

すると・・その時
他の求麻郷土研究会の方々が
「平河氏は滅ぼされてはいませんよ。別の”姓”に変わっただけ」
と。

ええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/ ナンデスト!!!
何だか・・皆さん・・内心は私と同じよ〜な事をお考えだったのですか!?
と思わず声を出してしまいました。

たけぽん様
平河氏には「謎」がある!?と考えているのは私達だけではありませんよ。
史誌に頼るだけの教科書的な球磨の知識だけではなく、『球磨の歴史』をその足でしっかりと何十年も調査して来られた方々は
やはり平河氏の「謎」には、すでに、ず〜っと前から気が付いていらっしゃいます。
その事を、先月、私は確信したのであります。

相良藩に残る史誌についてですが、あいまいな点は幾つもあるようです。
それは、仕方ない事で、編纂が殆ど江戸時代ですから・・
例えば・・
私が良く存じあげている方なのですが、御先祖様は球磨以外の地の領主をされていらっしゃいました。
相良氏が領土を八代以北・芦北・水俣まで展開した後、島津氏により、撤退をよぎなくされた時に
相良氏に付いて、そのまま球磨に来られました。
(宮原氏ではありません(ー_ー)!!)

この方のお家には御先祖様の「先祖伝来書」や系図等が古文書で沢山残っていて、
そこに記されている内容と、史誌に書かれている内容が『異なっている』と笑っていらっしゃいました。

謎多き、平河氏。
だからこそ、史誌には残らない、やはり「縁戚関係」が重要なのだと私は推測しています。

例えば、祖母の実家の「平川家」の場合
椎葉村に住していた「矢立氏」「椎葉氏」、「平川氏」・「本姓大神の尾方氏」・「宮原氏」・「深水氏」・「蓑毛氏」・「犬童氏」・「中村氏」・「永田氏」・「本姓橘の矢野氏」・「菊池氏族 赤星氏」・「豊永氏」・「林田氏」・「久保田氏」・「桑原氏」「本姓大神の星原氏」・「愛甲氏」・「黒肥地氏」等他
さらに
曾祖父の弟達が養子に入った先、他、養女に迎えた方の実家
「佐藤氏」・「西氏」・「横瀬氏」・「黒木氏」・「田山氏」・「犬童氏(平川氏)」等

上記に含まれる
「犬童氏」「西氏」「豊永氏」はそのまんま「犬童氏の一族」ですから・・
さらに、先に書いた中
「深水氏」「犬童氏」「蓑毛氏」「久保田氏」「桑原氏」「西氏」「豊永氏」「黒肥地氏」
そのまんま「相良氏族」
THE・「相良一族」でございます(..)

これは、あくまでも、祖母の実家の一例ですが・・

まあ・・何かきっと意味はあるのだとは思います・・

〉「平河氏は滅ぼされてはいませんよ。別の”姓”に変わっただけ」
きっと、何らかの関係はあるのだと思います(p_-)

所で(p_-)
わたくし、先日書いたコメントから発展してマタマタ気が付いた事があります
(p_-)

次のコメントで書かせて頂きます。

では(^'^)
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月11日 17時42分02秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は(^'^)

お詫びして訂正致します。
コメント55に書いた「肥後国訴訟状写」は正しくは「肥後国訴状写」でございます。
申し訳ございませんでした。(..)
さらに・・
コメント56に補足しますと
平安末期の球磨の在郷勢力には合志氏(菊池氏)もいらっしゃいました。
合志氏(菊池氏)の拠点は、旧岡本村(旧岡原村)とお隣の旧上村の永里でございます(..)

では、早速ですが
今日のコメントにテーマを付けるとしたら
気が付いちゃいました(-.-)
「肥後国訴状写」(高野山文書)と「日本書紀」は繋がってくる!(p_-)かも?
でございます(p_-)

まず、コメント55に書いた「肥後国訴状写」(高野山文書)について、もう少し詳しく書かせて頂きます。

「肥後国訴状写」(高野山文書)とは
鳥羽院政期、肥後の肥後守「高階泰重」(1128年(大治3年)任)を『前々国司』と記する肥後の国司(後任は平清盛⇒清原信俊⇒源国能(俊国))が
天養元年(1144年)とその前年康治二年(1143年)に肥後国で起こった「動乱」を記された文書です。

コメント55で書いた
A田口新大夫行季の事件 の詳細を書かせて頂きます(p_-)

まずコメント55で私は、間違った記述を書いてしまいましたので訂正致します。
皆様、申し訳ございません。

コメント55では
A田口新大夫行季の事件
上益城郡乙女村田口(現甲佐町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った「田口行季」すなわち「田口氏」と上益城郡砥川村砥川(現益城町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った「砥川経盛」は開発領主です。
「田口行季」と「砥川経盛」この方々が国司に対して暴動を起こしました。
暴動を起こされてしまった、この『国司』の方々は益城の郡司、火君(肥公)の子孫の肥宿禰で、補足すると鎌倉初期においても九人の雑任国司のうち『火君(肥公)の子孫の肥宿禰』の一族が三人もいらっしゃいます。

と書きましたが
暴動を起こしたのは「砥川経盛」ではなく「砥川経盛」の子「高三太郎」です。

あらためて、正しく、さらに詳しく書きます。
多良木町史 記載の内容をまとめました。

A田口新大夫行季の事件とは
菊池一族である「砥川経盛」の甥となる「田口行季」と僧厳仁、さらに「砥川経盛」の子「高三太郎」、その後子(末子か)乗月房は
「砥川経盛」の死後、伯父の砥川経盛の沽券にかかわらず、康治二年(1143年)の四月三日の午前に
千余人の軍兵を率いて権介季宗の私領に発向し、「建部成末」・「菅野為国」を殴打するなどして暴動をはたらいた。

続けて
同四月、「田口行季」は国司「権介近依」を殴打し、ひん死の重傷を負わせた。
この事件の張本人は「田口行季」と「田口大夫経延」である。

上益城郡乙女村田口(現甲佐町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った「田口行季」すなわち「田口氏」と上益城郡砥川村砥川(現益城町)に本拠を置いて周辺域に勢力を持った伯父であり菊池一族の砥川氏「砥川経盛」は開発領主でした。

この文書から解る事は
詫麻(砥川は中世以降は詫麻郡)の南、益城を中心として、開発領主による国衙の侵犯が行われ、新しい荘園開発領主達が興起しているさまがうかがえる・・と言う事です。

さらに、被害を受けた
国司権介近依、権介季宗らは益城の郡司が火君(肥公)の子孫「肥宿祢」で、鎌倉初期に九人の雑任国司のうち三人を占めているのをみると、その一族であろう。
と多良木町史には記されています。

★動乱を起こした人物
「砥川経盛」の子「高三太郎」・・砥川氏は
日本の苗字七千傑様の《菊池氏》姓氏類別大観で確認出来ました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm

菊池隆直の子「季直」と言う方が「砥川氏」の祖のようです。
「砥川経盛」を伯父とする「田口行季」の田口氏は菊池氏の系には見当たらず・・
もしかしたら、いずこから来られた「田口氏」が菊池一族の「砥川氏」と姻戚関係を結ばれたのかな?・・?と。

この事件の背景が詳しく記されていたサイトがありました。
サイト 緑川様のブログより
http://ameblo.jp/knakashima/theme-10034860302.html

中略・・
背景に田口荘と公領山出村との争いが
 田口と山出のかかわりをみると
平安時代の康治二年(一一四三)四月三日、田口新太夫行季は一族郎党とともに山出に押しかけ、米稲・大豆・塩・麦・胡麻などの食料を奪い、女六人を掠め取り、役人二人を傷つけ家を焼き払った。(肥後国訴状)
この争いの背景には山出村は国衙の公領地ではあるが、砥川経盛が私領としての特権(税の徴収権・納入の免除)を持っていた。砥川経盛はその山出村を在庁官人の権介季宗に売ったが、経盛の甥の田口新太夫行季はこれを認めために起きた事件である。
(..)ミヤハラ補足・・田口新太夫行季はこれを認めために起きた・・ではなく・・もしかしたら「認めなかった為に起きた」かな?と推測しました(..)
続けます(..)

当時、古閑・八丁・芝原・吉田の村々はまだなく、山出は豊かな後背地を持つ物資の集散地であったと思われる。
対岸の田口は、かつての大宰府天満宮安楽寺領の荘園であり、それを背景にした田口氏が勢力を持っていた。
「オトボなまず」は、この両氏の抗争や和解を背景に、阿蘇氏の勢力拡大に伴うその眷属である鯰がからんだ話ではなかろうか。

========================================================

あの・・『鯰がからんだ話ではなかろうか。』
鯰・「ナマズ」が登場しました!
久米氏族は鯰をトーテムとしていて、久米氏族の顔には鯰の刺青がありました。
妙に、この事件が気になりさらに調べました。

★『田口新大夫行季の事件』の被害者
※国司権介近依、権介季宗らは益城の郡司が火君(肥公)の子孫「肥宿祢」で、鎌倉初期に九人の雑任国司のうち三人を占めているのをみると、その一族であろう。
殴打された方は
※権介季宗の私領にいた「建部成末」・「菅野為国」
火君(肥公)の子孫「肥宿祢」、その一族・・「建部成末」・「菅野為国」
うん??何で??何故「建部氏」と「菅野氏」が・・ここに????

「建部氏」は・・
日本の苗字七千傑様の【建部氏】姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01231.htm
日本武尊の子稲依別命の裔が建部君として近江に栄え、後に犬上と建部の二氏に分かれる。
中世に宇多源氏佐々木氏族が建部氏の家系を継承して、後裔は播磨林田藩主家として明治に至る。
武部の表記も存在する。 また大隅に栄えた桓武平氏維盛流禰寝氏は建部姓とも伝える。

(p_-)・・日本武尊の子稲依別命の裔「建部氏」が何故「火君((肥公)」の子孫「肥宿祢」の私領地にて動乱に巻き込まれなければいけないのだろう??
何故??

日本武尊・・父は「景行天皇」

「景行天皇」・・火君・・・・・・あっ!!!!!!!!
この話はもしかしたら、かなり以前に調べた、球磨の古代、熊曽の記述に関連しているのではありませんか!!!!

と思いまして・・早速調べました(p_-)

皆様、ここからは、ミヤハラのなんちゃって大推理にぜひお付き合いください<m(__)m>

まず「火君」「肥君」について
日本辞典 火国造(肥)
http://www.nihonjiten.com/data/263385.html

[火国造(肥)]
火国造は火国(現・熊本県、佐賀県、長崎県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると崇神天皇(10代)の時代、大分国造と同祖で、神武天皇(初代)の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする多氏族系統である志貴多奈彦命(しきたなひこのみこと、敷桁彦命)の子・遅男江命(ちおえのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。
しかし肥前風土記などでは建緒組(たけおぐみ)や別名の健緒純(たけおみず)を火国造の祖としており、
また日本書紀では景行天皇(12代)の皇子・弟豊戸別皇子(とよとわけのおうじ)が火国別の祖とあり、同じく日本書紀の景行紀に熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)を火国造に与えたとも記される。

熊本県熊本市にある健軍神社は阿蘇四社の1つであり、肥後一宮・阿蘇神社の三摂社の1つとして約千年にわたる歴史があり、遺構は地下に埋蔵されているという。祭神は国造社の神、火国造の祖・健緒組(健緒純)であったと考えられている。
================================================================

※日本書紀では景行天皇(12代)の皇子・弟豊戸別皇子(とよとわけのおうじ)が火国別の祖とあり、同じく日本書紀の景行紀に熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)を火国造に与えたとも記される。

景行天皇(日本書紀)
http://nihonsinwa.com/column/novel/28.html

より
景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺
http://nihonsinwa.com/page/1127.html

原文
於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火国造。

現代語訳
それで幣(マヒナヒ=宝物)をその二人の娘に示してその二人の娘を欺いて幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れました。天皇はすぐに姉の市乾鹿文(イチフカヤ)を呼び寄せて偽って寵愛しました。その時に市乾鹿文(イチフカヤ)は天皇に言いました。
「熊襲が従わないことを愁(ウレ)わないでください。わたしめに良い策略があります。すぐに1、2人の兵(ツワモノ)をわたしに従わせてください」
それで市乾鹿文は家に帰って、非常に醇(カラ=辛い=アルコールが強い)い酒を用意して、自ら父に飲ませました。すぐに酔っ払って寝てしまいました。市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切ってしまいました。ここに従えてきた兵の一人が進んできて熊襲梟師(クマソタケル)を殺してしまいました。

天皇はその不孝(オヤニシタガワヌコト)の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺してしまいました。それで妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造(ヒノクニノミヤツコ)に与えました。

====================================================

※熊襲梟師(クマソタケル)の娘「市乾鹿文」と「市鹿文」を景行天皇は
幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れ、
不孝(オヤニシタガワヌコト)の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺し
妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造に(を)与える・・
『仍以弟市鹿文賜於火国造』

さらに、皆様、次をご覧ください!
日本書紀 景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女
http://nihonsinwa.com/page/1096.html

中略・・
次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)は日向襲津彦皇子(ヒムカノソツビコノミコ)を生みました。阿牟君(アムノキミ)の始祖です。

次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)は国乳別皇子(クニチワケノミコ)と国背別皇子(クニソワケノミコ) ※ある伝では宮道別皇子(ミヤジワケノミコ)といいます
と豊戸別皇子(トヨトワケノミコ)を生みました。兄の国乳別皇子(クニチワケノミコ)は水沼別(ミズマノワケ)の始祖です。弟の豊戸別皇子(トヨトワケノミコ)は火国別(ヒノクニノワケ)の始祖です。

★次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)
★次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)
(p_-)
と言う事は・・
景行天皇の日向の幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)でのお話ではありませんか(p_-)

★襲武媛(ソノタケヒメ)

ウィキ景行天皇 より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E8%A1%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
妃:襲武媛(そのたけひめ)
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)・・※火国別(ヒノクニノワケ)の始祖

妃:襲武媛(そのたけひめ) お名前がめちゃくちゃ気になります!!
何故なら!
日本武尊 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB

中略・・
※古事記
九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。
※古事記
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
※日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。

(p_-)・・・気が付いてしまいました!
梟帥〈タケル〉・武〈タケル〉・建〈タケル〉

さらに!!!!
※なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある (ウィキより)


★妃:襲武媛(そのたけひめ)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)・・※火国別(ヒノクニノワケ)の始祖

★熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)『仍以弟市鹿文賜於火国造』

※襲武媛・・襲武の媛・・襲武(そたける)の媛とも読める訳で!
※熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文
熊襲梟帥(くまそたける)は「熊襲建」とも書けるし!「熊襲建」は(くまそたけ)とも読める訳で!

★襲武媛
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)の母・・※火国別(ヒノクニノワケ)の始祖
★熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)『仍以弟市鹿文賜於火国造』

すなわち!!
襲武=熊襲梟帥(熊襲建)ではありませんか!!!!?
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

さらに
★次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)
★次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)
この内容はどうやら景行天皇の日向の幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)でのお話のようで・・

と言う事は!!もしかしたら・・もしかしたら・・!!
襲武媛と熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)は
同一人物ではありませんか!!!?

日本書紀は・・
もしかしたら・・もしかしたら・・
じっくりと熟読して、背景を理解すれば、「謎」が解けるように
書かれているのではありませんか!?
\(゜ロ\)(/ロ゜)/

他にも色々気が付いたのですが
長くなりましたので、ここで一旦、切らせて頂きます(..)

気が付いちゃいました(-.-)
「肥後国訴状写」(高野山文書)と「日本書紀」は繋がってくる!(p_-)かも?
を書かせて頂きました。

色々気が付いた事・・それは・・
火君(肥君)の本拠地・・氷川町宮原
肥前風土記などでは建緒組(たけおぐみ)や別名の健緒純(たけおみず)を火国造の祖とする・・
建緒組 御祭神の神社は武雄神社でして・・
氷川町宮原・肥前国武雄・・・わたくしども・・宮原の一族さらには同族の橘公業の後裔が住する「土地」でございました・・

この件は追々。

では(..)
[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月13日 16時24分19秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

実は、昨日、私の住むあさぎり町内にある
天子の水公園と天子神社にお伺いしてきました。

天子神社は景行天皇が親征の際、しばらく神輿をおとどめになられた場所であり
その聖地に天子神社が御鎮座であります。
天子の水公園には景行天皇が御愛飲なされた天子の水(古くは「影向・よごう」と呼ばれていました)がこんこんと湧き出ています。
天子の水を利用して、今は地域の方々が菖蒲や紫陽花を育てていらっしゃいます。

コメント60で景行天皇について書かせて頂きましたが、
天子の水公園に伺う予定は、実は先週からたてていまして、主人が今週の休みには
「天子の水公園に菖蒲の花を見に行こう」と決めていたのです。
先日のコメントの内容など、主人には一言も話していませんので、いつもの通り
主人の考え(予定)と私の思考回路が一致した・・と云う事になります(..)

写真をブログにアップさせて頂きました。
天子神社の鳥居は数年前に建て替えられましたが「御神紋」は以前と同じで
新しい鳥居では、はっきりと見えました。

皆様、よろしければ、ご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12283326015.html

天子神社の御神紋については、かなり以前、こちらのスレッドにて
某方のサイトを御紹介して、書かせて頂きました。
その時は、古い鳥居でしたので、サイトの写真では御祭紋ははっきりと写ってはいなかったように記憶しています。
以前、御紹介したサイトの記述には「コンパス」と「定規」のお話が記されていました。

しかし・・やはり、今までに見た事がない「御神紋」です。
色々探してみたのですが、一番近いかな?と思う写真があったのですが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edmonds,_Washington_-_Masonic_Lodge_02.jpg

でも時代が全く異なりますし・・・・

ただ、確かに、球磨の各地には「六芒星」をみる事は出来ますが
(以前、ブログに写真をアップしたのですが、有名な「場所」なので支障があればと思い削除しました(..)。他にも実は・・・)
「御神紋」は「六芒星」と何か関係があるのかな・・と・・
しかし・・「あまりの事」なので、中々・・

天子神社の御祭紋について、全国の神社様で同じ「御神紋の神社」様の情報などがございましたら
ぜひ、皆様、御教示を頂ければと思います。
よろしくお願い申し上げます。

天子の地名ですが
球磨・人吉内では「23か所」の天子地名が存在しています。
御紹介します(..)

あさぎり町内
 旧上村  榎田の八十別府と中別府。塚脇。麓。石坂。(5か所)
 旧深田村 草津山(天子神社付近)(1か所)
 旧免田町 久鹿 (1か所)
 旧岡原村 天子鶴 (1か所)

錦町
 一武の寺村。 西村の京カ峰。 木上の平良。 木上の平川に二か所。 計(5か所)

多良木町
 黒肥地の大久保・熊山。 多良木の牛島。(2か所)

湯前町
 東方 (1か所)

相良村
 柳瀬の三石。(1か所)

山江村
 山田の合戦峯。 万江の城内。 (2か所)

人吉市
 大村の芦原。 中原の中神と原田。 (3か所)

以上の計「23か所」です。

球磨郡は・・天子の地名が沢山ありますが、全国でも、同地域に「23か所」は異例の事のようです。
この事も、何か、球磨の古代と関係しているのでは?と何だか推測してみたり・・しています(..)

所で・・
コメント60の続きなのですが・・
〉氷川町宮原・肥前国武雄・・・わたくしども・・宮原の一族さらには同族の橘公業の後裔が住する「土地」でございました・・

と書きましたが

橘公業と西園寺公経(鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物)

西園寺公経の希望により、橘公業が本領「伊予国宇和郡」と替地した場所は
肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷

氷川町宮原は含まれていません。
さらに、宮原の一族の先祖でもある「橘公綱」の後裔は熊本の藤崎宮近くに住し「藤崎」姓を名乗り、さらに藤崎氏は桜島に渡っています。

さらに・・非常に気になるのは「大隅国種ケ島」
種ケ島と言えば・・以前、日本の苗字七千傑様より御教示を頂いていました。
平川家について36コメント11でも書かせて頂いていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101553_69.html
========================================
熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
政府は曽の国へ逃亡して同居。

以降の熊曽国とは、曽(いわゆる大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。
旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱と呼ばれる。

実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。
日本書紀景行天皇条に記載の厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が、松野連系譜に有り。
恐らく、讃の時代と推測されます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm
 
また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
熊が付く種子島(大隅国熊毛郡)でしょう。
種子島氏が平氏というのは、熊曽族を隠す為の仮冒と見るのが正解。

=====================================================

つまり「種子島」には「熊国」から「曽国」へ逃亡した系が渡っていかれた・・

その「大隅国種ケ島」も替地の対象となっていた・・
と云う事です。

どうも・・何か繋がりがあるのでは!?とモヤモヤしていたのですが・・
非常に気になる記述を見つけました!

ウィキのワケ(別、和気、和希、和介、委居、獲居)の記述です!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B1

ワケ(別、和気、和希、和介、委居、獲居)は、ヤマト王権における称号およびカバネの一つ。4世紀前後にヤマト皇族から分かれ、地方に領地を得た者およびその一族にワケが使われた[1]。
しかし5世紀前半允恭天皇の氏姓制度改革により臣連制が作り出されると、ワケはキミやオミのカバネに変更され、それ以来は使われなくなった。

4世紀皇族の地方領主的称号[編集]
ワケは初め皇族の子孫、とりわけ軍事的指導者(王族将軍)で[2]、地方に領地を得た者の称号として用いられた。その中心時代は4世紀前半の垂仁天皇から景行天皇およびヤマトタケルが日本を支配した時期である。
垂仁天皇の子孫7人、景行天皇およびヤマトタケルの子孫31人のワケを始祖とする氏族が存在した。
景行紀に「70余子皆国郡に封ず。−−77王は、 悉く国々の国造、また和気及び稲置、県主に別け賜ひき」とあり、皇子の中には国造や県主と並んで地方領主となりワケのカバネを称した者もあるが、ほかの多くの皇子は国造などから領地の一部を得ただけで、その後家系が途絶えたものと考えられる。
4世紀後半の成務天皇および仲哀天皇期にはワケの称号をつけられた皇子はほとんど見られなくなる。これは皇子に分け与える領地がなくなったためとも考えられる。

(..)表内を皆様ご覧ください。
先日コメントした襲武媛がお産みになられた「皇子」の方々

★景行天皇子孫 ※別皇子『国乳別』 ※後裔氏族『水沼別、伊与宇和別』 筑後国三潴郡、伊予国宇和郡
★景行天皇子孫 ※別皇子『宮道別(国背別)』 ※後裔氏族『宮道之別(宮首之別)』 三河国宝飯郡宮道郷
★景行天皇子孫 ※別皇子『豊戸別』 ※後裔氏族『火国別、筑紫火別君』 肥後国、筑後国

驚きました!!
★景行天皇子孫 ※別皇子『国乳別』 ※後裔氏族『水沼別、伊与宇和別』 筑後国三潴郡、伊予国宇和郡

伊予国宇和郡と言えば
伊予橘氏!橘公業の本拠地ではありませんか!!!!!

どうなっているのか・・
頭が混乱しているのですが・・少し冷静に考えてみようと思います・・

マタマタ、沢山書いてしまいまして
申し訳ありませんでした。

では(..) 
[62]たけぽんさんからのコメント(2017年06月14日 13時25分57秒 ) パスワード

ミヤハラ様・皆様
お疲れ様です( ・∀・)っ旦

ミヤハラ様
うちの些細な疑問で、色々と
ありがとうございますf(^^;

平河だけではなく、球磨郡そのものが
謎に包まれてる様な感じですね(..)・・・

うちの母が、少しの間ですが
免田町の叔母夫婦の所に
介護の為に住んでた事があります(^-^)

天子と付く所はこちらに来て
聞いた事ありますが、
やはり、沢山あるのは
珍しい事なんですね(。・_・。)

史実にも載ってない平河一族の事柄
も、何か意味があっての事なんだろうとは
思いますが・・・

調べれば調べるほど
謎が謎を呼ぶばかりですね(ノ_<。)

うちの疑問がもう1つ

須恵の役場は、何故火災?にあったか
お分かりになるなら、教えて頂ければ
幸いですが・・・m(_ _)m


[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月14日 14時56分11秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

〉うちの些細な疑問で・・

とんでもありません(ー_ー)!! ・・(^◇^)

今回の件は「平河氏」について復習というだけではなくて
自分自身の「熊国」「肥国(火国)」「肥後国」についての勉強不足を再認識する
とても良い機会でした。

たけぽん様、が『きっかけ』を作って下さったのです。
本当にありがとうございます。

私の場合
私ミヤハラが、宮原の一族に含まれる一軒の家に生まれた・・と云う事と
祖母が平川家から嫁いで来た・・・と云う

この二つの系の繋がりが、何だろう・・
平河氏を調べているのに「宮原の一族」の先祖に繋がる話が「必ず」登場する・・
この繰り返しですね・・(p_-)

もう、最近は驚かなくなりました(-.-)

と言っても・・
最近は今までの衝撃よりはかなり強い衝撃は感じていますが・・
特に昨日とかはですね・・

だって・・本当の事を言いますと・・(..)
も〜しかしたら・・古代の熊国や肥国(火国)に平河氏は繋がるのではあ〜りませんか〜(p_-)
と思って、かなり以前から調べていた事が・・

ええええっ?(?_?)・・も〜しかしたら〜!?
うちの(宮原の一族)方ですかい????
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ えええええええええっ????

となって・・この衝撃はかなり強かったです((+_+))

でも・・ナニハトモアレ・・
色々、解る事は良い事です( ^^) _旦~~

逆に考えると・・
それだけ、宮原の一族と平河氏は繋がりが深いと言う事では あ〜りませんか〜(p_-)・・(^◇^)

所で・・
〉須恵の役場は、何故火災?にあったか

私も色々調べているのですが・・
須恵の役場の火災の話・・全く存在していないのですよね・・(?_?)
調査不足だと思うのでもう少し調べてみます(..)
(p_-)

では(^O^)/
[64]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月16日 11時16分51秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

昨日、松葉宗益 後裔 平賀氏について3のコメント34で
白石様から「母方」のお話を頂いた後に私は
〉平安時代辺りまでは、母方、すなわち妻の家に通い婚であったり、「同居」していたりといった事が多かったのですよね・・・

と書き・・
相良氏の場合、系図には平安末期、相良頼景の前妻(後妻は須恵氏の娘『西蓮尼』)、相良長頼の妻の名が記されていない事。
さらに

〉母方の系で、実は、「いとこ」だった「ふたいとこ」だったとか
縁戚関係が見えてきますから・・・

と書いた所で・・ヒラメキました!(と言うか気が付きました)

※「いとこ」・「ふたいとこ」の関係!
こちらのスレッドで先祖の調査(平河氏)を開始した後、長年「何か必ず繋がっているのでは?」と推測していた「方々」と
『「いとこ」だったり「ふたいとこ」であったりの関係』がすでに判明しているのは
やはり・・「宮原の一族」の先祖でした。
理由は、橘公業後裔の「渋江氏系図」「宮原氏系図」「藤崎氏系図」等に
橘公業の妻であり橘公員の母の名・橘公員の妻であり橘公綱の母の名・橘公綱の妻の名
が記されていたからこそ、解った事です。
「藤崎氏系図」は以前、ネットで御紹介しましたが、今、自分の手元には
五味克夫氏著「藤野、藤崎家文書について」があります。
宮原氏と同族の「藤崎氏」の系図等詳細が記されています。
「渋江氏系図」「宮原氏系図」「藤崎氏系図」を元に整理してあらためて書きます。

橘公業の後妻であり橘公員の母は
★梶原平次兵衛尉平景高女 『梶原景時の子息梶原景高の娘』

橘公員の妻であり橘公綱の母は
藤崎氏系図では
★豊田五郎景基女平頼綱母同 『豊田五郎景基の娘であり、平頼綱の母でもある女性』
「渋江氏系図」「宮原氏系図」等では
★平頼綱女亦同豊田五郎景基女 とあり、橘公綱と平頼綱との年齢差は10数歳であり、平頼綱の娘が母とは到底考えられません。
さらに「同豊田五郎景基女」とは豊田五郎景基は「平姓」であった事を指しているのではと推測しています。

橘公綱の妻は
藤崎氏系図では橘公資(宮原公資)の兄弟「公氏」の項に
★母源実継女 とあり続けて『将監 仲実之孫女也』と書かれています。


『「いとこ」だったり「ふたいとこ」であったりの関係』

一例
@平河を名乗った小弐氏

少弐頼尚は『平河左近允頼尚』と名乗られていました。
小弐氏の「祖」である『武藤 資頼』
※御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。(ウィキより)

※武藤資頼は梶原平三景時の娘婿
すなわち
●橘公業の後妻であり橘公員の母であった梶原景高の娘と武藤資頼の妻は
叔母と姪の関係にあり
●武藤資頼の子息『少弐資能』と橘公員の母は『いとこ』となり
●少弐資能の子息「少弐経資」そして「少弐景資」このお二人と球磨郡久米郷を父より譲り受けた橘公員は『ふたいとこ』となる。
●「少弐経資」の曾孫「少弐頼尚」は『平河左近允頼尚』と名乗る

こうなる訳です(p_-)

『「いとこ」だったり「ふたいとこ」であったりの関係』が
今までの調査に深く繋がっている事が解ってきた現在
私は、大変重要な事を調べていなかった事に気が付きました。

★橘公員の妻であり橘公綱の母 『豊田五郎景基女平頼綱母同』
平姓 豊田五郎景基

豊田 五郎 景基 とはいったいどなたなのだろう!!!!????

こう言う事を書くと傲慢にお感じになられる方がいらっしゃるかもしれませんが
お許し下さい(..)
「梶原景時の孫娘(父:梶原景高)」・「南部実長の孫娘(父:南部実継)」と
歴史上で名前を残された方々との姻戚関係が存在する中
「豊田五郎景基」と言う方が、「どこかのどなたか解らない人物であった」とは
到底、考えられないのですが・・(..)(傲慢でしょうか・・(..))
さらに豊田五郎景基の娘と言う方は
宮原の一族の先祖「橘公綱」だけではなく
北条氏得宗家の御内人であり鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事で、貞時の乳母父である
「平頼綱」の母でもある方です!!。
平 頼綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%B6%B1

「豊田五郎景基」 この方を調べていませんでした(@_@。

「景基」さんは何処(いずこ)の「景基」さんなのでしょう(@_@。

さらに、今日、コメントを書いて気が付いたのですが
もうお一人、私が調べていなかった方がいらっしゃいました(@_@。

★橘公綱の妻 源実継女『将監 仲実之孫女也』
橘公綱の妻は 源実継(南部実継)の娘。
南部実継の父は南部実長。 と云う事は
『将監 仲実之孫女也』・・南部実継の妻の父?

橘公資(宮原公資)・橘公氏(藤崎公氏)、この方々の曾祖父となられる
『将監 仲実』とは何方(どなた)なのだろう・・????
やはり、調べていませんでした(@_@。

相良氏・平河氏・宮原氏の関係から言うと
唯一、記されている宮原氏の祖の姻戚関係はかなり重要だと思います。

調べていなかった事・・大反省です(@_@。

所で・・
鹿児島の藤崎氏系図を、じっくり見たのですが・・
「惟」の文字が名前代々付かれる「上山氏」さらに「高山氏」さらに「岩切氏」さらに「久米氏」さらに「村山氏」
上記の姓の家々と何百年も何重もの姻戚関係を結ばれている事が解りました。

「惟」の文字・「久米氏」・・あれっ??
さらに
「岩切氏」・・日向日下部氏・・・めちゃくちゃ偶然なのですが私の母方も岩切氏です。
(家の場合は父母は恋愛結婚ですが・・)

鹿児島の藤崎氏系図を拝見すると
伊予橘氏を遡った先の・・古代の「縁戚関係」が見えてくるのではありませんか?
(?_?)・・・\(◎o◎)/!

何はともあれ・・

色々調べなければいけません(p_-)

反省(@_@。
[65]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月16日 17時45分09秒 ) パスワード

皆様 マタマタの登場です(..)

あの・・・・・何時間もパソコンとニラメッコしていたら・・
ついに
『将監 仲実之孫女也』の

将監 仲実と言う方がどなたなのか
見つけました!! \(゜ロ\)(/ロ゜)/

将監 仲実 とは
「左近将監 小野澤仲実」この方です!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

私は以下のようにして「左近将監 小野澤仲実」と言う方に辿り着きました(p_-)

坂城町長 山村 ひろし氏のブログより(..)
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=37285

北条得宗家に仕えた小野沢氏 
  その(1)「小野沢仲実」

今回と次回、村上氏の一族として鎌倉時代にその活躍が知られている「小野沢氏」について紹介します。
小野沢氏は頼朝・頼家・実朝の源氏将軍三代後、鎌倉幕府で絶大な権力を握った北条氏の研究で数多く取り上げられ、その姿は主家の村上氏より詳しく伝えられています。
小野沢氏の祖である小野沢仲実は、『尊卑分脈』によると村上為国の孫(父は「出浦氏」の祖:成国)で、村上氏が発祥した村上地区上平の「島」に隣接する「小野沢」の地名を名字として誕生しました。

(..)以下「小野沢仲実」と言う方がどのような活躍をされたか記されていました・・

さらに、私は「小野沢仲実」と言う方の「官位」が知りたくて・・
調査を続けると・・

ついに見つけたのです!!

相馬岡田氏 サイト様です!!
http://chibasi.net/okada10.htm

『吾妻鏡』に見える同時代の「小野澤」氏は、暦仁元(1238)年2月17日、頼経の上洛に供奉した御家人のうち、四十七番に列する「小野澤左近大夫」、寛元2(1244)年8月15日の鶴ヶ岡八幡宮放生会の供奉侍「小野澤次郎時仲」などが見える。
小野澤氏は清和源氏の一族・村上氏の一族で、鎌倉時代には得宗家被官となり政所の政務官を輩出する実力者であった。
建長3(1251)年12月3日、幕府は鎌倉の処々に無許可に店を出して商売することを厳密に禁止する法令を発布しているが、それを奉行した人物に「小野澤左近大夫入道光蓮」が見える。
この「小野澤左近大夫入道光蓮」は頼経の上洛に供奉した小野澤左近大夫(仲実)の出家後の姿であろう。
光蓮入道は文永2(1265)年3月5日まで姿が見える。建長4(1252)年5月11日、幕府が祈雨の賞を僧侶らに遣わした「小野澤修理亮」が見えるが、彼は光蓮入道の子・小野澤実氏であろう。
彼の子「小野澤亮二郎入道実綱」は、正応4(1291)年2月、九州の「鎮西談議所」の奉行人の不正を検断するため、幕府から九州に派遣されている。
胤顕から所領分配の委託を受けた「をのさハの入道殿」は彼ら北条得宗被官(御内人)の小野澤一族の人物だったと思われる。 

(p_-)系図をご覧頂くと
村上為国(崇徳院判官代)――成国(高松院蔵人)――小野澤仲実(左近将監)

ありました!!!
ついに見つけました!!「将監 仲実」さんは
『左近将監 小野澤仲実』 この方でした!!

と言う事は・・
★橘公綱の妻であり「宮原公資」と「藤崎公氏」の母は 
源実継女『将監 仲実之孫女也』
「南部実継」の娘であり、「左近将監 小野澤仲実」の孫娘にあたる方だった!
ですね(p_-)

しかし・・もっと驚く事が解りました!!

※村上為国(崇徳院判官代)――成国(高松院蔵人)――小野澤仲実(左近将監)

信濃村上氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8F

中略・・
平安時代[編集]
保元・平治の乱[編集]
越前に配流になっていた顕清の次男村上為国(崇徳院判官代、「尊卑分脈」では「号 村上判官代」)とその子信国と基国(高陽院判官代、「号 村上判官代」)が、保元元年(1156年)の保元の乱で崇徳上皇に味方し参加。
敗戦し囚われたのち、兄弟の生母(為国の妻)が、後白河天皇の側近藤原通憲(信西)の娘であることを理由に赦免された(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命を求めたともいう)。
平治の乱(1159年)では藤原通憲(信西)方につき勝利する。
なお、為国は叔父の村上盛清の養子となっているが、顕清の後を継いだ兄の宗清も「村上蔵人」を称している(「尊卑分脈」)ことから、養子以前(父の顕清や祖父の仲宗の代)から村上姓になっていたと考えられる。
為国の弟・盛国は八条院判官代となり筑摩郡波多荘に拠って波多判官代を号した。

あの・・・・・あの・・・・
※兄弟の生母(為国の妻)が、後白河天皇の側近藤原通憲(信西)の娘であることを理由に・・

※村上為国(崇徳院判官代)――成国(高松院蔵人)――小野澤仲実(左近将監)

『後白河天皇の側近藤原通憲(信西)の娘』・・・

ええええええええっ!!!!????

私が「平河氏」を調べ始めた頃・・「藤原通憲(信西)」に平河氏は繋がるのではありませんか〜(p_-)
と思いながら色々調べていたのですが・・・

実は・・繋がってくるのは・・・
宮原氏・・宮原の一族ではありませんか〜!!!!!
\(◎o◎)/!

ナンダこの展開は?!!!!

今日も又
私に・・すごい衝撃が・・・

と言う事で
宮原の一族の御先祖様のお一人は
「藤原通憲(信西)」にも繋がる村上源氏の『左近将監 小野澤仲実』
と言う事が解りました(..)

では(..)
[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月17日 07時37分14秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨晩もネットを使用して
「豊田五郎景基」と言う方を調べたのですが全く情報が見当たりませんでした。

以前は「豊田五郎景基」とは「長尾景基」この方ではないのか?と
推測した事もあったのですが
豊田と「長尾景基」と言う方の接点が理解出来ず、全く情報も見つかりませんでした。

そもそも「豊田」とは何処の地を指すのか・・

皆様、お忙しい中大変申し訳ございませんが
もし「豊田五郎景基」と言う方について、何らかの情報をお持ちであれば
ぜひ、御教示を頂きたいと心からお願い申し上げます。

本日は、球磨の歴史研究会の例会に参加致しますので
コメントは夕方になるかと思いますが

ぜひ、皆様、お力をお貸し下さい。
よろしくお願い申し上げます。
[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月18日 07時03分59秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年06月18日 07時16分23秒
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月18日 08時05分30秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 おはようございます(^'^)

冷静に分析してみたのですが・・・

江戸時代まで、旧宮原村にあった庭柏寺。
庭柏寺内にある小高い丘全体が各家々の墓所となっています。
丘はきちんと整備されていて、墓所の敷地は一軒一軒、其々が広く、
例えば、丘の道を右にまがれば●●家の墓所、左に登れば■■家の墓所
そこからさらに登れば○○家の墓所・・
というといった感じです。

家の宮原家の墓所は、土肥家の墓所から少し登った先にあります。
土肥氏は1600年代後半に建立された旧宮原村内の各所に建立された庚申塔の数基に名前が刻まれています。

家の宮原家の墓所と「土肥家」の墓所は近い・・・
さらに、同じ集落には先祖代々親しくしている「土屋家」もある・・・
家の宮原家と祖母の実家の平川家には共通の中村家がある・・
家の宮原家の親戚には千葉家がある・・

そう考えながら
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観を拝見していました。
じ〜っと見つめていたのですが
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm

【桓武平氏良文流】姓氏類別大観・・土肥氏・中村氏・千葉氏・鎌倉氏・三浦氏は同族・・

鎌倉氏からすすみ・・【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm

豊田氏がみえます・・

宮原の一族の先祖「橘公綱」の母『豊田五郎景基』の娘。

さらに・・
長田氏と鎌倉氏は同族ですね・・・
私の高祖母は永田家の娘・・

さらに・・
鎌倉氏から梶原氏へと繋がっていく・・
宮原の一族の先祖「橘公員」の母は梶原景時の孫娘で、梶原景高の娘である・・

やはり・・・ここかな・・こちらの「画面」に何だろう・・引きつけられるな〜・・
と(..)

どう考えても・・繋がっているような気がしてなりません・・

『豊田五郎景基』
「豊田」の地名を調べてみようと思います(..)

さらにさらに・・気が付いたのですが
《良文流分流略系》を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm#001

畠山氏・・家の宮原家の親戚にも「畠山家」があります・・・

そして・・!!
高山氏が見えました!!
コメント64で書かせて頂きました。
〉鹿児島の藤崎氏系図を、じっくり見たのですが・・
「惟」の文字が名前代々付かれる「上山氏」さらに「高山氏」さらに「岩切氏」さらに「久米氏」さらに「村山氏」
上記の姓の家々と何百年も何重もの姻戚関係を結ばれている事が解りました。
======================================

鹿児島の藤崎氏系図で解る「高山氏」との姻戚関係・・
何だろう??これは!!
やはり・・すごく繋がっているような気がしてきました・・

そこで《河越氏/高山氏》姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116a1.htm#001

ああああああっ!!!!たけぽん様!!!
中川氏に繋がっていますよ〜!!!!!

ナンダ!!これは!!!?
今朝も又、新たな衝撃が!!

さらに・・
うん?高山彦九郎と言う方はこちらの「高山氏」だったのですね!
実は、昨日、歴史研究会の例会で高山彦九郎と言う方の球磨滞在について勉強させて頂いたばかりです。
すごく偶然です。

高山彦九郎と言う方は全国を巡られる中、同じ場所には一泊しかされない方で有名であったのに
ナント!球磨には公式には一泊。日向の米良に抜けた後、市房山と球磨の風景がどうしても忘れられないと
そのまま、椎葉村経由でこっそり球磨に戻って来られて湯山村に二泊されています。
トータル三泊です。
球磨に戻って来られた高山彦九郎氏は、ナント!市房神社に参拝された後に
市房山の頂上まで登っていらっしゃるのです!(日記に記されています)

高山彦九郎と言う方は・・球磨に来られて何か心揺さぶられるものがあったのかな・・?と私は感じたのですが・・

高山彦九郎と言う方が、どのような方だったのか、私は無知識なので
勉強します。
高山彦九郎 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E
上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。戒名は「松陰以白居士」。
先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。

尊号一件と呼ばれる事件に遭遇しとありますが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。

中略・・
この事態を憂慮したのは前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて兄・典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求めた。
定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。
勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。

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高山彦九郎
13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。

一か所への滞在は「一泊」が通例であったのにも関わらず、球磨には公式には一泊、こっそり戻ってこられて湯山に二泊。
市房山に登られた・・

今朝・・冷静に分析して・・
と考えてこのコメントを書き始めたのですが・・
初めて勉強させて頂いた事もありました。

しかし
やはり・・何だろう・・全て繋がっているような気がしてなりません・・

それは・・家の親戚関係や、宮原の一族の先祖の調査の内容と言うだけでなく
やはり・・何と言えばいいのか・・球磨の古代が関係しているのではないでしょうか・・?


では・・(..)
[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月18日 19時35分03秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様 今日は。
マタマタの登場です。

あの・・朝、とっても気になっていた『画面』
妙な感は当たっていたようです・・

豊田景俊の兄「大庭景親」。この方と九州の豊前副田(添田)は繋がっていました。
豊前副田(添田)庄は西園寺公経と橘公業が替地した土地でもあります。

どのようにして、上記の事に気が付いたのか順を追って御説明します。

@豊田五郎を名乗った豊田景俊

『豊田五郎景基』・・おそらく豊田五郎は通称だと推測して、早速「豊田五郎」をキーワードにして検索すると、数多くの情報が上がってきました。

その中から
サイト 名字豊田 様より
http://www.myouji.org/toyoda.htm

桓武平氏鎌倉氏族 − − 相模国大住郡(中郡)豊田荘より起こる。大庭氏の族なり。
源平盛衰記に「大庭平太の弟、豊田次郎景俊」とあり。景俊は大庭庄司景宗の子にして名字五郎と称す。
東鑑巻一、治承四年八月二十日條に
「大庭平太景義、豊田五郎景俊」とあり。家紋、違柏。

サイト 大庭氏
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/oobasi.html

大庭(おおば)氏。

大庭氏は、鎌倉権五郎景政の弟である景経(景継)に始まる。

景経は、景政に続いて大庭御厨を開拓した関係で、鎌倉景村の養子となり、大庭氏を名乗り大庭景経と称した。

大庭氏の養子となったのは、開拓した大庭御厨の中心に景村が住んでいたからであろう。景政と景経はそれまでは古館に住んで、 鎌倉が中心に活躍していた。景経の時、鎌倉景村の養子となり住まいを大庭氏の館に移したと考えられる。

大庭氏はその後、大庭景経−景宗−景親−景兼と続いた。そして大庭御厨下司は、 景政−大庭景経−景宗−景親−景能(景義)−景兼と引き継がれた。

景宗は大庭御厨の豊田庄に館を構えていた。景宗が亡くなると豊田庄は景親の弟景俊に引き継がれ、景俊は豊田五郎を名乗った。
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やはり大庭景親の弟豊田景俊。この方は豊田五郎を名乗っていらっしゃるようです。

A大庭景親と弟豊田景俊の母について

サイト大庭塚と豊田郷、大庭御厨の範囲 様より
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/ooba-tsuka.html&gws_rd=cr&ei=ECJGWYuaCcmD8gWBuavIDw

景義は保元の乱(1156)で鎮西八郎為朝の強弓を受けて膝を砕かれ歩行困難になっていたため、三男の景親に家督を譲ったらしい。
長男景義と二男(豊田)景俊の生母は横山隆兼(愛甲三郎季隆の父)の娘、三男景親と四男(俣野)景久の生母は確認できないが異腹だろう。
父・景宗の墓(大庭塚)が大庭御厨中心部の大庭城址近くではなく西端の豊田郷にあること、平治の乱(1160)では長男と次男が源氏方で三男と四男が平家方に加わったこと、降伏して頼朝の捕虜となった景親の助命を景義が願わなかったこと、などから考えると円満な関係ではなかった可能性が高い。

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※長男景義と二男(豊田)景俊の生母は横山隆兼(愛甲三郎季隆の父)の娘

横山党、さらに愛甲氏に繋がりました・・
たけぽん様
家とたけぽん様の共通の親戚の姓が登場しました・・
私・・愛甲氏は平河氏に繋がるのでは?と以前、横山党を調べていたのです・・
やはり・・宮原の方に繋がる可能性が高いような気がして・・
こうなると・・何だろう怖いくらいです・・

横山隆兼 横山党 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A

中略・・
女子については系図に記さないが、秩父氏や波多野氏、梶原氏や和田氏、渋谷氏との通婚関係がみられる。 横山隆兼の娘は秩父重弘の妻となり畠山重能・小山田有重を産む。さらに隆兼の孫娘のうち一人は三浦一族の和田義盛、一人は高座渋谷の渋谷高重の妻となった。 (秩父氏を参照)

さらに・・
サイト 相模原情報発信基地 様のサイトより
http://www.sagami.in/reki/yokoyamato
中略・・
横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。
また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。
末娘は鎌倉党の梶原景時の母。
さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、横山党一族は勢力の拡大を図りました。
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梶原景時の母・・そうか・・最初から宮原の一族は縁戚関係にあったのですね・・
渋谷高重・・
昨日、初めて聞いた情報なのですが(こうも早くコメントするとは思っていませんでした(..))
相良藩の代々の家老家であった「渋谷氏」は、元々、鹿児島の島津藩の方にいらしたそうです。
その先は、関東にいらっしゃったと言う事でした。

橘公綱の母は『豊田五郎景基』
豊田景俊は豊田五郎を名乗られていた・・

もう偶然ではないな・・と思っていた所に、決定的だと推測できる情報を見つけてしまいました(..)

九州内のお話です(..)
サイト 豊前・岩石城 様より
http://www.hb.pei.jp/shiro/buzen/ganjaku-jyo/

歴史
保元3年(1158年)大宰大弐となった平清盛が大庭平三景親に築かせたのが始まりとされる。

応保元年(1161年)豊後の日田陸奥守次男の日田判官宗道が在城。文治2年(1186年)からは筑紫三郎種有、筑紫弥平治種因の居城であった。種有は承久の乱で官軍に従って所領を没収され、大友氏の持城となった。

暦応元年(1338年)からは大庭十郎左衛門景道、正平19年・貞治3年(1364年)には岩石城に籠もっていた城井出羽守が菊池勢に攻められ落城した。応安元年(1368年)豊前国守護大内氏の任命により熊井右近将監が守った。

永徳元年(1381年)頃より大庭平太景忠が城主となったが、この頃より大内氏と大友氏によって争奪戦が繰り広げられたようであるが、景忠以降、景行、景種、景則、景尚と五代続いたとされる。

天正6年(1578年)大友氏が耳川合戦で島津氏に大敗を喫すると、天正13年(1585年)秋月種実によって攻められ、坂本栄仙は奮闘むなしく討死して落城した。 天正15年(1587年)4月豊臣秀吉の九州征伐で前田利長・蒲生氏郷が攻め寄せ、わずか一日にして落城。秋月氏の城将熊井越中守は討死した。

九州征伐の後、小倉城に入った毛利勝信は毛利九郎右衛門高頼を城将として岩石城に置いた。関ヶ原合戦後に豊前に入封した細川忠興は、長岡肥後守忠尚を城将として置き、元和の一国一城令によって廃城となった。

城主
大庭景親,日田宗道,筑紫種有,筑紫種因,大庭門景道,熊井右近将監,大庭景忠,大庭景忠,大庭景行,大庭景種,大庭景則,大庭景尚,坂本栄仙,秋月氏,毛利高頼,長岡忠尚

所在地
福岡県田川郡添田町大字添田(岩石山)

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豊前副田(添田)庄は西園寺公経と橘公業が替地した土地です。

※保元3年(1158年)大宰大弐となった平清盛が大庭平三景親に築かせたのが始まりとされる。

※暦応元年(1338年)からは大庭十郎左衛門景道、正平19年・貞治3年(1364年)には岩石城に籠もっていた城井出羽守が菊池勢に攻められ落城した。応安元年(1368年)豊前国守護大内氏の任命により熊井右近将監が守った。
※永徳元年(1381年)頃より大庭平太景忠が城主となったが・・景忠以降、景行、景種、景則、景尚と五代続いたとされる。

★正平二十一年(1366年)三月九日の橘薩摩公多所領譲状
肥後国久米郷東方分宮原・豊前国副田(添田)庄の内、大屋敷並に地頭職を左衛門が処に譲与する・・

こうなると・・偶然では決してないと確信しました。

しかし・・怖いくらい驚いています(..)

では(..)
[70]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月18日 19時37分52秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2017年06月25日 05時19分58秒
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年06月21日 17時53分38秒 ) パスワード

皆様、今日は。

新しいスレッドをたてさせて頂きました。

今回の平川家について38+1において
三つ柏服部様、たけぽん様、白石様より
ありがたい御教示を頂き、大変勉強させて頂きました。
心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

球磨の古代・中世・近代と私の思考回路はまるで、タイムトリップするかのごとく
時代をあちらこちらと移動してしまいます。
お付き合い頂きまして、本当にありがとうございます。

時代だけではなく、私の調査は古代の球磨・霧島・肥国等から日本全国へと広がって行くようで(あくまでも推測ですが(..))
全国の情報をもっともっと知りたい!勉強したい!と言う気持ちが湧きあがっています。

皆様
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

こちらは
平川家について40に続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101597.html
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