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 投稿番号:101573 投稿日:2016年11月13日 01時50分07秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXU(課題確認25)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101567_58.html
長上郡の服部氏族LXXXI(課題確認24)
スレッド81の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



レス<58>に A.AKECHIさんより書き込みを頂きました:

明智氏と喜多村氏の関係について

@昨年刊行の「明智一族 三宅家の史料」p.510

     先祖喜多村弥平兵衛事、明智日向守殿末子にて、
     光秀の後妻伊賀国喜多村出羽守娘腹に出生仕り、
     幼名を内治と申し候、
     信長公御滅亡の節、〜坂本の城攻め崩され、
     〜光秀の内室ともに隠し置き城外に出し、
     山越えにて伊賀へ落ち行き候ところ、
     途中にて服部蛇鬼破と申す侍に行き逢い、
     出羽守館に送り届け候、〜

A春日局屋敷跡(大分県臼杵市二王座)
       http://maihana77.blog.fc2.com/blog-entry-495.html

B旧斎藤家(大分県臼杵市二王座)

     訂正
     ただ、下記URLに書かれた「道三が好んで使った瞿麦(大和なでしこ)の紋章」は、誤りです。

     斎藤家の家紋は瞿麦でよいのですが、道三だけは二頭立波紋でした。
        http://blogs.yahoo.co.jp/michio_ichii2002/62261324.html

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月13日 10時33分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、新しいスレッドありがとうございます。

 AKECHI様、書き込みありがとうございます。

 明智家の御子孫であられるAKECHI様からの情報ということで、こん
なにうれしいことはございません。前回も、伊賀の服部家との関係を述べて
いただきましたが、私も明智光秀と伊賀服部氏族との関係がどのようなもの
であったのかを詳しく知りたい思いでいっぱいでございます。

 AKECHI様よりいただきました情報で「A春日局屋敷跡(大分県臼杵市
二王座)」というものがございました。その中を開いて見ますと――
「(春日局は)その後、子供と共に江戸城に上り、将軍秀忠夫人の侍女となっ
た。容色美麗であったた春日局は将軍の目に留まり、慶長9年7月、竹千代
(家光)を生んだ。
 しかしながら、父斎藤利三が明智光秀と共に、織田信長を討った理由で、
竹千代は秀忠夫人の子と披露されたと記されている。」
ということで、こんなにはっきりと春日局が家光の母であったと表している
ものはありません。驚きです。

 明智光秀のバックグラウンドの人間関係――徐々にわかってまいりました
が、それを理路整然と述べるまでにはまだ至っておりませんので、もうしば
らくデータを頭にインプットいたしたいと思っています――
[2]A.AKECHIさんからのコメント(2016年11月13日 13時54分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様。 三つ柏服部様。

 こちらこそありがとうございます。

 ご存知かと思いますが、喜多村出羽守は、もともとは「服部」出羽守です。

 春日局が家光の生母、というのは、確かに(臼杵市民でない)私たちにとっては驚きですが、臼杵では公然と伝承されているようです。「稲葉家土蔵」という処には堂々と展示(下記の5枚目の写真)されています。
 http://capricorn09928.blog84.fc2.com/blog-entry-499.html#cm
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月13日 23時01分46秒 ) パスワード

家康は築山殿で懲りてますから男女の差や諍いや地獄などを克服したカシコイ女性を好みましたから
春日局を愛したというのはそうでしょうね。


家光を将軍としてハッキリ約束してくれ、と
秀忠やお江を恐れず
直訴したのも家康との秘密があったからでしょうね。

1番の秘密は「光秀」の存在があったのかも。
家康が将軍になれたのも信長が消えてくれたからですしね。


いろいろ公然とは語れない秘密がありますよね。
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月14日 01時29分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 美濃の@明智家、A斎藤家、B稲葉家を調べていましたら時間がかかって
しまいました。

 斎藤氏も明智氏も系図は混沌としていますのでスッキリしませんが、いず
れにしても、この三家は徳川家康にとって最大の功労者であります。つまり、
 @の明智家は「明智光秀」 本能寺の変の首謀者
 Aの斎藤家は「斎藤利三」 本能寺の変の実行部隊の長
 Bの稲葉家は「稲葉正成」 関ケ原の戦いを一族及び小早川秀秋の東軍へ
              の寝返りにより勝利に導く。

 春日局は、これら三家の魂と復興・復活のミッションを背負った使い……。
 家光は秀忠の子か、それとも家康の子か、はたまた光秀の子か――

  
[5]A.AKECHIさんからのコメント(2016年11月14日 19時32分52秒 ) パスワード

三つ柏服部様。

 ご存知のことと思いますが、復習用のメモとして。

 稲葉良通(一鉄)には、四男五女があり、長男・重通の4男(養子)・正成の妻が斎藤福(春日局)。 
 次男・貞通は臼杵藩祖ですが、妻は斎藤道三の娘で、長男・典通の長男・一通(臼杵藩第3代藩主)の妻は、明智光秀の三女・ガラシャの次女・多羅。
 三女・安は、斎藤利三の継室で、福(春日局)の母。  
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月15日 03時08分50秒 ) パスワード

稲葉 良通
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E8%89%AF%E9%80%9A

時代
戦国時代から安土桃山時代

生誕
永正12年(1515年)

死没
天正16年11月19日(1589年1月5日)


改名
六郎(幼名)→良通→一鉄(法名)

別名
通称:彦四郎、彦六郎
受領名:右京亮
幼名:彦六
諱:通似、通朝、貞通

戒名
宗勢

墓所
岐阜県揖斐郡揖斐川町の月桂院

官位
伊予守、三位法印


主君
土岐頼芸→斎藤道三→義龍→龍興→織田信長→豊臣秀吉


氏族
稲葉氏

                       伊予の豪族・河野氏(伊予橘氏)の一族とするのが定説である。
                       しかしそれを疑わしいとし、
                       生駒氏、楠木氏、服部氏、伊賀氏(美濃安藤氏)と同族とする説もある。


                              ここで「服部」が出ましたよ!
                              なるほどね!



折敷に三文字


本姓
越智氏庶流     だから通字が「通」だものね

種別
武家
華族(子爵)

出身地
伊予国?

著名な人物
稲葉一鉄

支流、分家
尾張林氏       伊藤博文の父が伊藤家の養子になる前の姓ですね






父:稲葉通則
母:国枝正助娘、又は一色義遠娘[1]

兄弟
通勝、通房、通明、豊通、通広、深芳野、
良通


正室:三条西実枝娘   ← ここですね  春日局が養われてたのは
側室:加納氏         「加納氏!」これもさすが地縁ですね



堀池半之丞室、
国枝重元室、
重通、
貞通、
方通、
直政、
安(斎藤利三室)、
丸毛兼利室、
山村良勝室


なるほどね
明智光秀の後妻が服部家という背景がちょっと見えましたね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月15日 09時07分01秒 ) パスワード

伊賀服部⇔明智⇔斎藤⇔稲葉⇔美濃服部⇔千秋+服部(養老服部)⇔千秋⇔服部家ホンヤ⇔服部政信・服部中保次


こんな感じでいかがでしょう?
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月15日 09時13分56秒 ) パスワード

ということは  岐阜の服部ということは  安八郡とか養老とかの服部氏に近いのでしょうね。



伊賀服部⇔明智⇔斎藤⇔稲葉⇔美濃服部⇔千秋服部(養老服部)⇔千秋⇔尾張服部⇔服部政信・服部中保次(三河遠江服部)⇔伊賀服部
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月15日 14時26分03秒 ) パスワード

空の青、海のあを様

 明智・斎藤・稲葉はある意味表の顔、裏の顔は服部のネットワーク。服部
はもともと「惣」でなりたっていましたし、忍者の掟も厳格だったようです
ので、単独でなく、ネットワークで動いたのではないでしょうか。あるいは、
中枢より指示が出ていたのかも知れません。服部保章のことは余りよくわか
っていませんが、単独の行動ではなかったような気がしますのですが……。
もう少し色々当ってみます――

 岐阜には養老も含め、もう一度行ってきます。そして、小田原の服部氏も
機会をみて調べに行ってきます――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月15日 22時22分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

これから日本は師走の慌ただしい日々になっていく所で
特に三つ柏さんは公私ともに大変な日々と思います。

でもそんな中、大勢の人達と旧交を温めることが出来ると思います。

善地のこと、服部家のこと、善地の5名家のこと、
たくさんお話が聞けると良いですね。


養老の服部家、岐阜の服部さん達、裏のネットワークだったのでしょうね。
小田原の服部家は表のネットワークの1つでしょうね。



稲葉家も結局は南朝方だったということですね。
敗れし者の結束は固かったということでしょうね。

稲葉家には堀田家(ここはハッキリ南朝方ですしね)との繋がりも強固にありますね。
そして徳川家にも繋がりますしね。


明治後の尾張徳川家の当主の義親さんと加藤高明の関係をお読みになりましたら面白いと思いますよ。
誰が義親を徳川家の当主に据えたか。
ふふふ
加藤高明は義親に裏切られてショックで死んでしまうのが(なるほど)と良く分かるでしょうね。


現在の尾張徳川家のご当主である義崇さんは元は堀田家ですしね。


実は実は日本人は先祖によって今に至るも強固に結ばれているというのが改めて分かります。
ただ我々は忘れているだけ。


だって親戚との付き合いが表面的になってしまっていますものね。
ご先祖さまに感謝なさってくださいね。ご親戚の皆さまと。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月16日 13時37分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小田原を調べていましたら、「稲葉一族の墓」が、小田原城の西方約8q
の所にありました。また「紹太寺」という寺がその近くにあり、江戸時代の
初期に小田原藩主だった稲葉一族(春日局の子―正勝・他)の菩提寺だそうで
す。一度是非訪ねてみたいと思っています。

 また、小田原城の西方400mくらいの所に、代官を務めた「服部一郎兵衛」
の屋敷跡があるということですので、これも見たい。
 さらに、小田原城の西南1300mの所に、大久保忠世が創建した「大久寺」
があります。
 ということで、小田原にはいろいろ発見できるものがありそうです。

 さて、浜松の三方原台地の南のはずれに近い近い所―中沢町に、以前より
何か興味を引かれるお寺がありました。そこは、三方原台地へ上る主要な道
の交差点があり、かなり交通の激しい所でありますので、ついぞ行きそびれ
ておりましたが、思い切って先週行ってまいりました。
 その寺の名は――「遠州信貴山別院」であります。「信貴山」といえば、
「信貴山縁起絵巻」と、もう一つ「松永秀久の信貴山城」を思い浮かべます。
松永秀久といえば、忍者・忍術と関係が深い……ということで、松永秀久
を調べてみることにしました。秀久も、明智光秀も「足利義昭」に仕えて
おりました。「義昭」が明智光秀の謎を解く一つのキーワードになるかも知
れません――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月16日 21時53分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

松永久秀と服部城は以前にもちょっとレスで書きましたが、これからジムやら買い物があるので
時間が出来たら下記を読みに行ってきます。


松永久秀と服部貞信(美濃別当???!!!スゴイ!!!気付かなかった!!!)
はしっかり関係がありそうですね。

服部氏が信長に怨みがあったのは伊勢や伊賀だけじゃなくて松永久秀関係でもあったのかもですね。



http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E7%A7%80%E4%B9%85%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%9F%8E%E3%80%80%E3%81%AF

名字 服部(ハットリ)
www.myouji.org/hattori.htm

又、服部城あり、松永久秀築く。 当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。 又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。 3,山城の服部 − − 当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の. 服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃 ...




松永氏のルーツ - 紀氏のルーツ
zan35441.on.coocan.jp/sub08-11.html

... 松永久秀が立身出世を祈願し 後に、五百住の良田を寄進している ・1582 山崎合戦の際、高山右近の兵火に罹り焼失 ・1603 豊臣秀頼が鐘楼・楼門を再建 ・1704-1711 徳川綱吉の生母桂昌院が大改修をした ・住所:高槻市市原町3298 本山寺 A「服部城」 ...



松永氏のルーツ - 紀氏のルーツ
zan35441.on.coocan.jp/sub01.html

摂津国(大阪府)高槻市市原町 ・1375 荘園「中条牧」島上郡高槻市 ・史料村郷名:五百住の地名あり、 ・松永久秀の母、大阪市 ... 姓 大隅国(鹿児島県)「蒲生町」に居住1550年頃 「服部城」松永久秀 築城 遺跡なし ・摂津国(大阪市)島上郡服部郷(現在の三島 ...




松永氏のルーツ - 紀氏のルーツ
zan35441.on.coocan.jp/sub09-2.html

1577年 渡会郡「松永村」住人は藤原姓とも ・渡会郡の伊勢神宮の社家に松永氏もいた ・松永久秀の男子は渡会郡より愛知県 ..... た ・1550「服部城」を松永久秀は築城 遺跡なし ・島上郡服部郷(三島郡) ・所在地:高槻市服部 ・1558-8-22「芥川城」松永久秀、 ...



姓氏と家紋
www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/90-100/hattori.html

又、服部城あり、松永久秀築く。当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。 □山城の服部 当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、 ...


[PDF]

織豊期の甲賀 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会
www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/21_kido.pdf

た相手が松永久秀であることを述べた。それは永禄10年. (1567)12月1日のことである。ついで、翌永禄11年. (1568) .... 町新治に拠点を持ち服部城を居城とする荘内三家の一家で. ある。さらに、大原氏は現甲賀市大原市場を拠点を持ち大. 原氏城を居城と ...
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月17日 05時30分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、松永久秀が摂津高槻の服部城や芥川城と関係しているということを
すっかり忘れていました。高槻の服部連と神服神社を調べに行った時も、気
にはなっていたのですが、服部村という地名は市町村合併により消失しており、また城跡も残念ながら残っていなかった。あるのは服部連塚と「三つ柏紋」の
神服神社(服部神社)であった。もちろん芥川という地名は摂津峡という険しい
山の中にありましたが(芥川という川があった)、細い道は苦手(その時も溝に
脱輪してしまい、レッカー車を呼んだ)であり、時間も限られてしまいました
のであきらめた次第でありました。できれば、高槻にはもう一度行きたいと
思います。高槻城には永井氏が城主としていましたし、永井神社もあり、「
丸に三つ柏」の神紋の神服神社もあり、非常に親近感を感じたからでありま
した。それに新羅系(百済系も含まれるか)の顔立ちの人達が多いのではない
かと想像いたしました(秦氏は新羅方面より渡って来た…服部氏は秦氏系とも
言われております)。藤原鎌足の遺跡もありましたし、興味尽きない場所柄
であります。そして、そこに松永久秀の築城した服部城があった……。また
近くに芥川城があった…伊賀には服部、芥川の忍者がいるという符合性……。
 もちろん、松永久秀は伊賀忍者と関係していた、そして織田信長や明智
光秀ともほぼ同時代人でもある……。きっと探れば何か手がかりがつかめる
はずだと思っています。
 それにしても、服部貞信が美濃別当(検非違使長官か)であったということ、
忍者系は謎に包まれています……。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月18日 10時59分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>忍者系は謎に包まれています

はい。

でもだいたい忍者が走り抜けるであろうルートは分かって来ましたよね。
東はヒバリさんの麻績から三重県関の服部家ここから朝廷の勝手口まで。
にっこり



本日はオットの医者(明日受診)に渡す謝罪を作ってました。
「あなたは第15代天皇のご子孫でした」
という3ページに渡る調査資料。


そうか  榛原郡榛原というと   白羽の方なのですよね。
で、御前崎とかになると  朝比奈の勢力地ですよね。ということは今川エリアですか?

相良がこのあたりというのは初めて気が付きました。
     ワタクシ的には   浜名湖の・・・西?東?どこ?  でした。
史上稀に存在する方向音痴なので。


ものすごく下手糞な日本地図と静岡県地図も添えました。
榛なんてひょっとすると秦の始皇帝がらみかもよ
という私見も添えました。笑

始皇帝の時代に来てるし
後の世にも日本に来てるし
19代天皇の允恭天皇は秦氏を静岡にも移しているからとも。


ご先祖さまのお墓の場所(奈良市法蓮町)も書いておきました。


最近、静岡という地名がやけに飛び込んで来ます。
不思議
[16]酒井ともさんからのコメント(2016年11月18日 14時36分02秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。

地元ネタが記載されたので、少し書かせて下さい。

>そうか  榛原郡榛原というと   白羽の方なのですよね。
>で、御前崎とかになると  朝比奈の勢力地ですよね。ということは今川エリアですか?
>相良がこのあたりというのは初めて気が付きました。

自分の記憶範疇ですと、足利の時代から戦国末期まで
今川氏領有地又は、非常に影響力を持った土地柄です。



「苗字」
ところで、「秦 はた」氏なのですが、旧榛原町に
友達の「畑」君がいます。

この「畑」君ですが、
「榛」=「秦」=「畑」なんでしょうか?

この「畑」氏が旧榛原町静波に鎮座する「服織田神社」
に関係由来があるのかは解りません。


「遠江國蓁原郡 服織田神社」

http://www.genbu.net/data/toutoumi/hatorida_title.htm

>「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。

>で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。



「邪馬台国」
四国の地名(讃岐・阿波・伊予・土佐)が出てきました。

読んでも意味が解りませんので参考になったらと思い
アドを貼ってみます。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/yamataikoku/shikokusetuco.htm

中ほどにある「大杉博」氏や他の方々が、阿波の国?を
「邪馬台国」説にて唱えているようです。

>四国にも秦性やハタの地名が数多くあるのもその一例である。

「秦」「畑」姓にもほんのりと興味が湧いてきました。

[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月19日 13時32分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏についての論考は、レンジが広いので、又の機会にいたしたいと思い
ます。

 明智光秀と服部氏族の関係が、どこでできたかという結論の方を急ぎます。

 『寛政重修諸家譜』によれば――
   「服部保長」:「足利義晴」(12代)に仕える。
   「服部中保次」:「足利義輝」(13代)に仕える。
 この「義晴」と「義輝」は親子で、将軍職を譲位しています。2代でおよ
そ40年間にわたりますが、その間、「保長」と「中保次」は、お互い交流
があったものと思われます。

 「保長」はその後、「松平清康・広忠・家康」に仕えます。
 一方、「中保次」はその後、「織田信長」に仕え、桶狭間の戦い後、やは
り「家康」に仕えています。

 「義輝」は、「三好・松永」連合軍に殺されてしまいます。「義輝」の弟
の「義昭」は、奈良で僧侶となっていましたが、この非常事態に後継将軍と
なるべく、南都から越前の「朝倉義景」のもとに逃れます。

 さて、「明智光秀」ですが、明智城が陥落(29才の時)してから、約7年
間諸国遍歴し、やがて越前の朝倉氏に仕えます。その1年後に、「義昭」が
「朝倉氏」を頼ってやって来たのです。「光秀」が「義昭」に仕えるように
なったのは、自然の成り行きでありました――

 ここで、一度切ります。
 

 
 
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月19日 20時22分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日、小田原へ行ってきます。距離的には160qですので、意外と近い
です――
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月20日 21時48分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 片道180qの小田原への旅でした。主目的は、小田原藩家老の服部家に
ついて情報を得ることでした。
 残念ながら、今回は表面的な情報以上のものは得ることができませんでし
た。二宮尊徳が服部家に入り、その財政立て直しをしたという大変インパク
トのある話なのですが、小田原城、歴史見聞館、郷土文化館、私立図書館、
報徳博物館、報徳二宮神社で調べたり、聞いたりしてみましたが、『小田原
市史 通史編 近世』の次の表記以上の情報は得られませんでした。
 ――「小田原藩の家老「服部十郎兵衛」は、禄高1200石で、藩内第3
位であった。その服部家に若党として住み込み奉公するようになった金次郎
の役割は、同家の子息清兵衛ら男子3人を漢学の先生である宇野慎助の屋敷
までお供し、帰宅後はその復習をすることであった。」 

 なお、小田原藩家老「服部十郎兵衛屋敷跡」と思われる所にも行ってきま
したが、碑も跡形も全くありませんでした。家老の服部家は尊徳の財政立て
直しで有名なはずなのに、図書館・報徳博物館の学芸員も名前は知っている
が詳しいことは知らないと言う。なんとまあ、寂しい限りであります。
 
 ただ、一つ収穫であったのは、大久保家が信康家と想像以上に関係が深い
ということがわかったことです。また、想像以上に信康事件の重さを背負っ
ているように感じます。
 従って、この大久保家に仕えた服部家とは、大久保家同様、信康事件に関
係した服部氏族ではなかっただろうか……ということは、服部半蔵家筋の人
間だったのではないだろうかと感じています。

 大久保家の秘密を探れば、服部家の秘密もわかってくるはずだ……これが
本日の結論であります。

 旅の最後は、大久保忠世の創建した「大久寺」に行き、大久保忠世の墓や
忠隣の慰霊塔に向かって、般若心経を2巻唱え捧げました――
 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月21日 05時46分30秒 ) パスワード

酒井ともさま


>遠江國蓁原郡

「蓁」この漢字は見たこともありませんでした。
ありがとうございます。


やはり「秦氏」関連の場所かも知れないですね。




三つ柏さん

>大久保家が信康家と想像以上に関係が深い

服部半蔵と信康の関係でもありますね。



>この大久保家に仕えた服部家とは、大久保家同様、信康事件に関係した服部氏族ではなかっただろうか

はい
その通りだと思います。


この服部家は半蔵の服部家で
大久保長安事件で一緒に没落することになった服部家の関係者でしょうね。


           服部半蔵の一族は桑名の松平家に拾ってもらいましたが
           小田原藩の家老「服部十郎兵衛」の方は大久保家に残った方の服部氏でしょうね。



ということで寛政重修諸家譜の服部保長の長男・服部市平保俊の系統かも、と思います。


保俊  市平
保英  市郎右衛門
元正  市平・市郎右衛門
       弟保照  新五左衛門
       弟保郷  平吉 =================この子孫かも

元延  兵右衛門・一郎右衛門保忠      秀忠の時代

          この人の妻が  大久保治右衛門忠佐の娘!!!!!!  出ました!!!

保時  市平衛・一郎右衛門
保慶  兵右衛門・市郎兵衛・一郎右衛門   綱吉の時代
保和  金弥・一平    神谷正羽の次男が養子に来た
保春  式部・一郎右衛門
       弟盛直  三郎左衛門   三橋盛政が養子
       弟正虎  安之丞・又五郎 神谷正逢が養子
       妹                永田三郎右衛門尚昌が妻

保教  秀五郎・一平             家斉に仕える

        少々略





で、元正  市平・市郎右衛門
       弟保照  新五左衛門
       弟保郷  平吉 =================この人の次男の子孫かもということで

1169の第18の56


服部保秀(初め保考 ・平十郎・十郎左衛門・一太夫)

      服部平吉保郷が二男


      小田原の家老服部十郎左衛門はこの人の関係者かも。



とにかく大久保家と親しかった服部保長系でしょう
でも
大久保長安事件で失脚して桑名に行った服部家ではない。


________________________________


服部保長の次男の保正の家も「十」を使っている人はいる。
____________________________

以下は桑名の松平家に仕えた服部保長の三男だった半蔵の系統

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%8A%E8%94%B5

4代目 服部半蔵正重

2代目正成の次男で、3代目正就の弟。

兄の後を継いで服部半蔵を襲名する。
舅である大久保長安に巻き込まれて大久保長安事件で失脚。
その後各地を転々とした後、松平定綱に召し抱えられて二千石を得る。
これにより桑名藩の家老として服部半蔵家は存続する(大服部家)。

ちなみに、兄・正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉であり、
その子・服部正辰(正重の甥)も桑名藩に仕えている。

血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家以上に優遇されている(小服部家)。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月21日 06時43分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部家の情報、ありがとうございます。
「さすがあを様!」…毎度のことでありますので「まいどありッ!」

 じっくりと読解いたします。

 大久保家を調べましたら、想像以上の大族であることに驚きました。また
1581年までは「宇津」という姓を名乗っていた…これは「太陽神」とい
う意味を含んだ古代系の氏族なのではないかと思いました――
 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月21日 07時51分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


小田原の家老の服部さんは  服部十郎兵衛   でしたね。
ごめんなさい。



大久保氏と服部家の関係:

平家の末期に大橋氏の先祖である平貞能が大久保氏の先祖である宇都宮氏を下野に帰し
のちに貞能が宇都宮氏を頼って落ちて行き
宇都宮氏が頼朝との間を取り持ってくれた。

その後、ともに南朝方だった。


http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_039.htm

宇都宮 朝綱(うつのみや ともつな)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。
鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。
宇都宮三郎朝綱[1]。
八田宗綱の子。




治承4年(1180年)8月、京に滞在中に源頼朝が伊豆国で挙兵、関東を本拠地とする朝綱は平清盛に抑留される身となる。

常陸国で反頼朝の烽火を上げた志田義広に対し、頼朝は小山朝政に討伐を下知、これに呼応した弟の八田知家や宇都宮信房が討伐軍に参軍して功を挙げた。

寿永元年(1185年)9月19日、頼朝の嫡男・頼家誕生にあたり、畠山重忠や梶原景時等と御護刀および馬200余頭を献上する。

元暦元年(1184年)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い、本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。

同年11月14日)、平氏追討の功で佐々木盛綱等と共に西国に所領を賜る。

元暦2年(1185年)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が頼朝への助命を求めて突如朝綱の元を訪れたため、朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。

文治元年(1185年)10月24日、勝長寿院の落慶供養に参列する。『吾妻鏡』の記述には、五位六位の参列者32人のうちの一人として朝綱の名がある。






http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_039.htm      このサイトは参考になります


大久保氏

大久保氏は、
粟田関白藤原道兼五代の後胤、下野国住人宇都宮左衛門尉朝綱の後裔と伝わる
朝綱九代の孫泰藤は、新田義貞に従っていたが 義貞戦死ののち越前を落ち 三河上和田に移り住んだ。泰藤の孫泰道の代に姓を宇津と改め、その孫昌忠以来松平氏に仕えた。

のち忠俊(忠世の叔父)の代に 大久保姓に改姓した。 忠俊の弟 忠員(忠世の父)も松平清康・広忠に仕え戦功多く、兄に代わり一門の棟梁となった。
その子忠世は小田原四万五千石城主、次子忠佐は沼津二万石城主、八男忠教は彦左衛門の名で知られ、旗奉行一千石であった。



上和田城跡(岡崎市上和田町字南屋敷)

泰昌・昌忠親子が松平信光に仕えて以来、大久保党は特に五つの大功を挙げている。

@忠茂−松平清康と敵対していた岡崎の松平昌安を討つべく山中城奇襲   を提言実行。昌安は山中落城後、岡崎を開き娘波留を清康に嫁し講和   に応じている。

A忠俊−守山崩れの後、松平信定の反逆で岡崎を追われた広忠を松平信   孝とはかり帰還させた

B三河一向一揆の折り、一族挙げて松平氏を支援。

C忠世−信濃・甲斐攻略に功労

D忠隣−関白秀次の謀反から秀忠を救い、のち二代将軍に推挙。


  岡崎刈谷線沿いの南屋敷説教所に大久保一族発祥地碑が建つ。



上和田城は大久保党を構成する人々がそれぞれ持つ屋敷の集合体。
永禄六年(1563)の三河一向一揆では忠俊の屋敷に木戸・櫓を設け砦に改造し奮戦した。



長福寺(愛知県岡崎市竜泉寺町)

尻尾の長福寺。大久保氏の家祖宇津忠茂、大久保彦左衛門、大久保忠俊・忠員兄弟の墓などがある大久保氏菩提寺。



羽根城跡(愛知県岡崎市羽根町字西ノ郷)

のちに宗家となる大久保忠員・忠世が居住。大久保氏の本拠は上和田だが松平広忠の代に叔父信孝が大久保領を奪い、松平忠倫が上和田にあって織田氏に通じたため大久保氏は羽根に移ったといわれる。羽根城は東西にあり東ノ郷にもあった。
写真の稲荷神社は元屋敷内に祭られていたものと推察。
屋敷跡はこのあたりと思われる。


<大久保家の再興>

大久保氏は忠隣改易の際、嫡子忠常はすでに他界し、嫡孫仙丸(忠常の長男 後の忠職)は武蔵国騎西にいたが、幼少との理由で相続していた領地の没収は免れ 蟄居となった。
寛永二年(1625)に赦免となり 美濃加納五万石に転進され、家名再興となった。以後播磨明石を経て、肥前唐津七万石さらに加増を得て、八万三千石となる。
忠職没後は 忠隣三子教隆の二子 忠朝が継ぎ延宝五年(1677)には老中に就任、下総佐倉九万三千石、さらに一万石の加増があり宿願の封地 小田原に復帰した。
忠増―忠方―忠興―忠由―忠顕―忠真と続くが、忠真は名君の名が高く 藩校集成館を創設し人材登用に努め
、自身も奏者番―大坂城代―京都所司代―老中にまで上った。
また藩財政改革に二宮金次郎(尊徳)を抜擢するが 門閥家臣の反対を考慮し、一族宇津家の下野桜町領の復興を命じてこれを成功させ 本領の改革にあたらせようとしたが天保八年(1837)に没してしまった。    
忠真のあとは、忠愨―忠礼―忠良で廃藩置県となった。





大久保氏と宇津氏の関係

宇津教信(うつ のりのぶ、寛文元年(1661年) - 元文元年10月17日(1736年11月19日))

江戸時代の旗本寄合。
相模国小田原藩主大久保忠朝の3男。
子に宇津教逵、娘(大久保教端婚約者)、娘(柴田康完室)がいる。

大久保氏が宇都宮氏として元々名乗っていた宇津氏を称した。

                             宇都宮 ⇒ 宇津  ⇒  大久保 


元禄11年(1698年)小田原藩の飛地のうち下野国芳賀郡3ヶ村(物井、横田、東沼村)4000石の分知をうけ、翌12年(1699年)物井村桜町に陣屋(桜町陣屋)を構えた。教信は、江戸定府で、陣屋には役人を派遣していた。






宇津氏

現京都府北西部と兵庫県東部である丹波国桑田郡宇津荘が起源(ルーツ)である。
ほか宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流、
和邇部氏等がある。

水流が渦を巻いて流れることが語源。
島根県、広島県、山口県などに多い。 


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uzu_kz.html
宇津氏
(清和源氏土岐氏流)


 戦国時代の丹波国東部に位置する宇津庄を押さえ、宇津城を本拠とした豪族宇津氏が知られる。宇津氏は宇津庄を本拠に、下剋上の波にのって皇室御領である山国庄など近隣諸郷を押領、小粒ながらも戦国大名として一勢力を築いた。



宇津氏の出自

 宇津氏は『土岐一流一原氏本伝』によれば、土岐氏の後裔という。
 南北朝時代に活躍した土岐頼遠は、みずからの功を誇り、院への不敬罪を犯した。頼遠は断罪されたが、末子の十郎五郎は高雄の神護寺に匿われ、仙千代丸を名乗り僧として育った。成長した仙千代丸は豪傑の風貌を見せるようになり、神護寺領有頭郷に土一揆が起こると、神護寺は仙千代丸を地頭として有頭郷に派遣、仙千代丸はたちまち一揆を鎮圧した。ところが、仙千代丸は神護寺に帰ることなく有頭郷に居座り、そのまま有頭郷を押領してしまった。そして、還俗すると土岐豊後守頼顕を称し、のち、在名にちなんで宇津豊後守頼顕と名乗ったという。

 かくして、宇津豊後守は宇津八幡宮の後ろの山に居城を築き、近隣に勢力を伸ばしていった。嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を殺害した。いわゆる嘉吉の乱が勃発、ときの管領で丹波守護でもある細川持之は、丹波国人を征討軍に催した。このとき、宇津豊後守頼顕は持之に応じて出陣したという。

 宇津氏の滅亡によって記録は失われ、その足跡は『土岐一流一原氏本伝』に拠るしかなあり、い。しかし、その記述は宇津氏の祖である頼顕が土岐頼遠の子とすることにすでに無理があり、そのままには受け取れないものである。とはいえ、宇津氏が丹波国の一角に割拠して、戦国時代を生きたことはまぎれもない史実である。





戦国時代の終焉

 宇津頼重が京都北方で活躍していたころ、尾張では織田信長が台頭していた。永禄三年(1560)五月、今川義元を桶狭間で討ち取った信長は、着々と勢力を拡大し、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛してきた。

 正親町天皇に拝謁した信長は、荒廃した京の町の復興に着手、武士に押領された御料所の回復に尽力した。永禄十二年、信長は宇津頼重に書状を送って、違乱を中止するように命じた。しかし、宇津氏はこの信長の命令を無視し、かえって信長への敵意を抱いたようだ。その後、頼重は将軍義昭の招きに応じて上洛し、御供衆に加えられた。やがて、義昭と信長が対立するようになると、頼重は御供衆として義昭に属し、反信長の対立を示した。

 天正三年(1575)、信長は船井・桑田二郡の国衆を大坂石山本願寺攻めに動員したが、宇津頼重、内藤ジョアンらはこれに応じず、信長の丹波衆動員は挫折した。丹波攻略を決意した信長は、明智光秀を大将に命じて丹波平定に着手したのである。この事態に際して、美山の川勝継氏、船井郡の小畠左馬介らは光秀に味方したが、宇津頼重は東丹波の波多野氏らをたのんで光秀に抵抗した。しかし、天正七年、ついに光秀の大軍によって嶽山城は落ち、頼重は討ち取られて宇津氏は滅亡した。

 宇津氏を滅ぼした光秀は、大堰川と弓削川が合流する縄野村に城を築き、東丹波の統治を行った。新城は周山城と名付けられ、縄野村も周山村と改められた。この光秀による築城と占領政策は東丹波の土豪を刺激、山国本荘の土豪衆が武力蜂起し、光秀軍と戦った。しかし、光秀方の鉄砲隊によってことごとく討ち取られ、山国本荘は光秀軍に蹂躙され尽くした。

 それから三年後の天正十年六月、明智光秀は本能寺に織田信長を攻め、これを討ち取った。その後の山崎合戦に敗れた明智光秀は、京都の小栗栖において討死した。ここに、光秀による丹波支配は幕を閉じ、東丹波の戦国時代は終焉を迎えたのである。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月21日 07時54分56秒 ) パスワード

http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_041.htm

大久保長安


大久保長安陣屋跡(東京都八王子市小門町)

大久保長安(1545〜1613)

大和の金春座の猿楽師 金春七郎喜然の子として甲斐国に生まれる。 

父はおそらく武田家お出入りの猿楽師と思われ、当初大蔵藤十郎とも十兵衛とも称した。

やがて武田信玄の目にとまり、金採掘を司る蔵前衆となって士分となった。


当時甲斐国は、信玄堤や甲州金に代表されるように治水土木や鉱山開発に優れた技術大国であった。 

長安は金山衆に配属され採掘技術を磨いた。(土屋姓を称す?)


武田氏滅亡後、天正十年(1582) 駿河に移り家康に猿楽師として仕え、大蔵大夫と称したが、

青山藤蔵の紹介で金山役を得、伊豆金山より江戸へ金を送り 家康を喜ばせた。   青山!!!


家康は大久保忠隣に長安を預けたが、忠隣は大久保姓を長安に与えて遇した。
長安は民政にも長じ 従五位下石見守に除せられた。
家康関東入国以後、関東十八代官を統括して代官頭となり、武蔵国横山村に陣屋を構えた。


幕府直轄領の検地では、伊奈忠次・彦坂元正らとともに実績を挙げ、慶長八年に石見銀山奉行、佐渡金山奉行、慶長十一年伊豆代官と民政・財政に尽くした。

長安の採掘・精錬技術により 初期幕府財政は大いに潤ったと言える。


当時、代官は請負制(一定額の運上金を上納すればよい)であったため、長安の蓄財も相当なものになり 奢侈の原因となったと考えられる。

長安の死後、その財力の不正蓄財を本多正信に弾糾され 家名断絶 七人の遺子は切腹となり、

さらに縁者の大久保忠隣、青山成重、石川康長も改易された。


本多正信・正純親子による 政敵失脚工作と言われる。


写真の陣屋跡碑は、小門町の産千代稲荷神社の境内に建てられている。
この付近は陣屋の西端にあたるという。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月21日 08時02分27秒 ) パスワード

http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_001.htm

三河松平(徳川氏)家臣団の城館跡

ものすごく充実しています。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月21日 12時53分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保氏の情報、「まいどありッ!」です。本日、一日かけて読解に努め
ます。

 大久保長安との関わり合い……深く考えると、かなり奥底の深い謎ではあ
ります。私はすぐ疑うくせがありますので、大久保忠隣は猿楽師や忍衆と日
常の関係が深かったのだろうと考えてしまいます……。

 あさって、『家康長男信康と大久保家の謎』という本が家に届きます。届
きましたらすぐに目を通し、どんな謎があるのかをお知らせいたします。

 それにしても、「宇津氏」と「明智光秀」、つながりましたね!――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 04時46分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『家康長男信康と大久保家の謎』

面白そうですね。
どんな謎があったのでしょうね?


大久保家の謎は後の長安事件にも関係するのでしょうか?


楽しみにしています。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月22日 13時01分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安事件と関連して、松平忠輝の付家老をしていた花井吉成が、
長安事件の翌年、自害させられるという事態がありました。この花井遠江
守吉成は茶阿の娘を娶っており、一人の息子と三人の娘をもうけておりま
す。その娘達の婿というのは――
 @村上周防守義明
 A大久保右京長清
 B服部仲保(後妻ではある)
であります。
 このAとBの人物について、一体どんな人なのか、あを様、是非調べて
いただきたく、お願い申し上げる次第であります――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 14時43分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


A大久保右京長清

            大久保長安六男の大久保権六郎右京長清
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 15時43分47秒 ) パスワード

書き直し



三つ柏さん


>B服部仲保(後妻ではある)

                  この人は服部中保次または仲保次系の子孫のことでしょうか?


                       仲保については 服 部 仲 保 のつぎに  次  が落ちているのでは?





                       中保次の家系の子孫には三九郎や三八郎や三十郎がいます。
                        花井吉成の孫だから三九郎というのは合います。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101375.html
長上郡の服部氏族?
レス<2>よりコピペ
三つ柏さんの書き込みです。ふふふ



橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』にはこう書かれている。


半蔵は慶長元年(1596)に死去する。


その後の服部一族ということで、

      服部中保次のその後であるが、(*この意味は中保次自身のこと?子孫の話?どっち?混乱がある?)

      保次の妻は家康の六男・松平忠輝の家老となった花井遠江守吉成の娘で、
      生まれた子は三九郎と名乗った。

      外祖父の花井吉成の通称が三九郎であったから、これにあやかったものであろう。

      実は、この吉成も、元は猿楽師である。母の茶阿局が家康の側室となって忠輝を生んだためにその家老となったもので、
      忠輝にはその後見役となった


      大久保長安も元猿楽師と、猿楽師の人脈が彼のまわりを取り囲んでいた。


      そんな中、慶長十八年(1613)に大久保長安事件が起こると、これに連座して青山成重、正就の弟正重が失脚し、
      平太夫正成(秀忠の母西郷の局の継父)の家系も改易となった。


              *西郷局の継父は服部正尚で男子が4人いる
               惣右衛門(忠吉に仕えし後は尾張徳川家へ)
               男子2人(不詳)
               平四郎(蓑笠之助・猿楽宝生座)下記に同じ
                                     ↓

      但し、正尚の子孫はのち猿楽師として幕府に仕えている。


      松平忠輝も大阪の陣のあとに失脚したが、
      一連の政変は忠輝を将軍に擁立しようとする勢力を、大久保長安とは対立関係にあった本多正信が粛清した
      のかも知れない。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 15時57分49秒 ) パスワード

またもや書き直し



中保次の子:


    長男                              次男
    保正(通丸・三十郎・中)                  保信(半右衛門)



保正の子:妻は紀州の川井重長の娘で3人の男子の母

    長男                            次男                      三男
    保光(三十郎)                      保俊(三九郎・中)                    保久(三八郎・三右衛門)
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 16時07分19秒 ) パスワード

服部中保次について


(宗次・要介・小平太・中)
しかし天正15年6月18日死ス  年62  遠江国刑部村に葬る



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%98%BF%E5%B1%80

茶阿局(ちゃあのつぼね、? - 元和7年6月12日(1621年7月30日))

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。松平忠輝、松平松千代の母。名は久。本姓は河村。法名は朝覚院。



生涯[編集]

初めは遠江国金谷村の鋳物師[1]の後妻[1][2]となり、娘(於八)[1]を生む。しかし、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることになった。家康はお久を一目で気に入り、娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室として「茶阿局」と呼び、厚く寵愛した。なお、この夫の仇は長谷川八郎右衛門という者がとったとある。[1]。


       
天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[3]。しかし家康は忠輝を冷遇したとされ、生後間もない弟の松千代に長沢松平家を相続させて深谷藩1万石の藩主とした。ところが慶長4年(1599年)松千代は6歳で早世し、後嗣として兄の辰千代が藩主となった。辰千代は慶長7年(1602年)に元服し忠輝となり、翌慶長8年に深谷は廃藩とされ信濃国川中島14万石を与えられた。その際、茶阿局は前亡夫の二人の息子(善八郎[1]、又八郎[1])を、先の長谷川八郎右衛門の一族であった木全刑部の養子にして忠輝の小姓として召し出し[4]、娘婿となっていた花井吉成を忠輝の家老にした。彼らは後に松平清直や山田勝重など、古参の家臣との対立を招いた。


茶阿局は聡明であったため、奥向きのことを任され、強い発言力と政治力を持っていたようである。故郷の金谷村には、周辺の寺を保護して寺同士の紛争の解決にも尽力し、弟が住職だったとされる能満寺の寺領のため奔走したとする慶長9年(1604年)の記録が残る(『能満寺寄進状[5]』)。


慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫を正室として娶る。その後、順調に加増を重ね、越後国高田75万石を所領した。元和2年(1616年)、家康死去後は髪を下ろし朝覚院と号した。しかし、直後に忠輝は兄の秀忠により度重なる失態を責められ改易、伊勢国に流罪になった。茶阿局は家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼し奔走したが、聞き入れられることはなかった。


茶阿局は元和7年(1621年)6月に病死した。法名は「朝覚院殿貞誉宗慶定禅尼」[6]。墓碑は、これに因む寺名を持つ宗慶寺(東京都文京区小石川)にある。



出身・家系[編集]

既述のように、一般的に彼女は鋳物師の後妻であったが夫が代官に殺され、家康に訴え出たところを見初められて側室になったとされる。この話は「東曜婦徳弁」[7]、「以貴小伝」などによる。


青木昆陽がまとめた『諸州古文書』や『山田文書』、『津軽藩旧家伝類』によると、茶阿局は金谷村一帯を支配していた地侍山田氏の出身で父は山田八左衛門という旨が記述されている。現地には、彼女が幼少の頃に金谷村の寺洞善院の住職から手習いを受けていたこと、後年その恩に報いるために洞善院へ梵鐘を寄進しているという伝承が今も残っている。また、平戸のイギリス商館長(カピタン)リチャード・コックスの日記に、改易された忠輝が配流される道中でこの地で「叔父の家に泊まった」という記述がある。


また、彼女が花井氏に嫁いで離縁された過去があること、                  えっ???


家康の側室になるにあたって地元の更に有力な武士河村家の養女になったことが記録に残っている(ただし没落して鋳物師の妻となっていた可能性は残る)。


茶阿の実兄・山田上野介は石田三成に仕え、重臣となっていた。佐和山城が落城した時、上野介は三成の父や兄と共に自刃したが、息子の山田隼人正(山田勝重、妻は三成の長女)を脱出させており、親戚の孝蔵主は茶阿局のもとに送り届けた。茶阿はこの甥を息子・忠輝の家老にして取り立てた。



補注[編集]

1.^ a b c d e f 『柳営婦女伝系』。
2.^ 山田某。このとき先妻との間に2人の息子がいた。
3.^ 天正20年に辰千代、松千代を双子で生んだという記録もある
4.^ 工藤章興『秘 独眼龍軍記 1: 決断』歴史群像新書、学研、2005年。
5.^ 吉田町HP、能満寺の古文書
6.^ 文京区教育委員会「茶阿局墓碑」説明板。
7.^ 弁は旧漢字で表示できなかったもの
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 16時13分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


ムカシのヒトの結婚とか名字とかは今の時代から随分異なるので混乱しまくりますね。

            だから日本は父系制なのかもですね。
             
            スペインやロシアやタイのように名字がやたらと長いと日本人にはワケ分からなくなりますが
            彼等にはその方がスッキリなんでしょうね。溜息



でも、ま、こんな所でしょうか?
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月22日 16時25分45秒 ) パスワード

徳川家  柳営婦女伝系  阿茶局



服部仲保の名が出てます:

http://books.google.com/books?id=v7Wu2D-GDDYC&pg=PA103&lpg=PA103&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=Ymuv7FrKJ3&sig=G0647dkLv0RoAIJp69N75N-2kW8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjhvsbe6LvQAhUBzGMKHVLaCGAQ6AEILDAD#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E3%80%80%E3%81%AF&f=false




もう1つ服部仲の名がありました:妙法院日次記 6, 第 6 巻

http://books.google.com/books?id=fHYAi5bKBe8C&pg=PA81&lpg=PA81&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=FuRwvWsMOi&sig=vt3eEowk3WsF1zSgnJFhfPxpfGE&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjhvsbe6LvQAhUBzGMKHVLaCGAQ6AEITjAJ#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E3%80%80%E3%81%AF&f=false





以上2点はここから

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BB%B2%E4%BF%9D%E3%80%80%E3%81%AF
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月23日 01時00分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 情報たくさんありがとうございます。情報の整理がしっかりなされていて、
脱帽です。
 確かに橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』にはこう書いてあります――
「服部一族のその後
 服部中保次のその後であるが、保次の妻は家康の六男・松平忠輝の家老と
なった花井遠江守吉成の娘で、生まれた子は三九郎と名乗った。外祖父の花
井吉成の通称が三九郎であったから、これにあやかったものであろう。
 実はこの吉成も、元は猿楽師である。母の茶阿局が家康の側室となって忠
輝を生んだためにその家老となったもので、忠輝にはその後見人となった大
久保長安も元猿楽師と、猿楽師の人脈が彼のまわりを取り囲んでいた。」
 私としてもこの情報を信じたいのですが、中保次の生まれたのが1525
年、刑部で刺殺されたのが1587年(享年62歳)であります。一方、花井
吉成が切腹したのは1613年、生まれた年がわからないけれど、仮に70
歳で亡くなったとすると、生まれたのは1543年。二十歳(1563年)で
結婚して翌年娘が生まれたとすると、中保次が死んだ時に娘は24才という
ことになり、結婚して何とか二人ぐらいはもうけられるものと思われます。
しかしながら、中保次の息子は三九郎でなく、孫の保俊が三九郎を名乗って
います。これは寛政重修諸家譜の中に書かれている訳ですが、橋場氏は息子
と言い、食い違っている。橋場氏と寛政重修諸家譜のどちらに信憑性がある
のか……困ってしまいます。
 私としては、中保次の妻が花井氏であってほしいとは願っています。とい
うのは、私の住む地域には花井一族が多く住んでいるからであります。
つまり、服部中家と婚姻で結ばれる長谷川氏、内藤氏、小栗氏、川合氏、花
井氏、等々がすべてこの地域に存在していることになり、その中に住む服部
としては、中服部家と関係する状況証拠として、かなり確率の高いものにな
るからであります――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月23日 02時55分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

>橋場氏と寛政重修諸家譜のどちらに信憑性があるのか……困ってしまいます。

本当にムカシの親子を含む人間関係はややこしいですよね。



服部中保次の後妻も有り得ますし
だけどそうすると子供の名前に三九郎がいない。
いるのは孫。
でも母親の出自が違う。


中保次でも合ってるし
わたくしの母方の先祖も父親が17歳の時の男子です。


やはり有り得ますよね。


さらに!
前田利家の妻のおまつさんは数え12歳で結婚してすぐに子供をポコポコ生んでいます。
12歳なんて小学校に行ってるか中学生になったばかり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%98%A5%E9%99%A2
芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))

戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。



天文16年(1547年)、 尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)に篠原一計の娘として生まれた。

天文19年(1550年)に父・一計が死去し、母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると、まつは母の妹が嫁いでいる尾張荒子城主・前田利昌に養育されることになった。

永禄元年(1558年)、数え12歳で利昌の子で従兄弟にあたる前田利家に嫁ぐと、

永禄2年(1559年)、 長女・幸姫(前田長種室)  ↞ 利家の愛人の子かも知れないし

永禄5年(1562年)正月、長男・利長(初代加賀藩主)
永禄6年(1563年)、次女・蕭姫(中川光重室)
元亀3年(1573年)、三女・摩阿姫(豊臣秀吉側室、後万里小路充房室)
天正2年(1574年)、 四女・豪姫(秀吉養女、宇喜多秀家室)
天正5年(1577年)、五女・与免(浅野幸長婚約者、夭折)
天正6年(1578年)、 次男・利政
天正8年(1580年)、 六女・千世(細川忠隆室、のち村井長次室)




>私としては、中保次の妻が花井氏であってほしいとは願っています。

     服部家と松下家はいろいろな意味で近かったでしょうしね


>というのは、私の住む地域には花井一族が多く住んでいるからであります。

     もともとの豪族ですものね


>つまり、服部中家と婚姻で結ばれる長谷川氏、内藤氏、小栗氏、川合氏、花井氏、等々がすべてこの地域に存在していることになり、
>その中に住む服部としては、中服部家と関係する状況証拠として、かなり確率の高いものになるからであります――


服部中保次が天正15年1587年歿

服部保正
長男三十郎保光  天王寺口で討ち死に  慶長20年1615年  享年27歳
次男三九郎・中・保俊   慶長13年1608年  秀忠に仕え始める   普通13歳とかですよね  慶安4年1651年歿   享年?

こうして計算しますと保正の次男が中保次の子というのは有り得ないような。


中保次の次男は半右衛門保信ですし。


中保次に3男4男がいたのは有り得ると思いますが何故記録されていないのか?
それも花井氏の娘が後妻なのに?


また考えてみます。
こういうワケ分からないことをいろいろゲスの勘繰りで想像するのは楽しいです。

       
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月24日 02時26分12秒 ) パスワード

昨日あれから花井氏と結婚した服部家を捜してみましたが  無かった  です。

花井吉成が長安事件で自死しているから幕府に遠慮して服部家は記録を消したのかなと。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月24日 09時26分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 なるほどですね! 歴史はいわば科学の部分とフィクションの部分が混
ざり合っているということ……慎重に見極めなさいということですね!

 昨日は、大久保忠世に「会い」に二俣の清瀧寺に行ってきました。たぶ
ん、信康廟には忠世のお墓・供養塔があるだろうと思い……。
 以前は大久保氏にはそんなに親近感を感じていなかったのですが、小田
原城の家老の服部氏を調べるために小田原に行き、色々調べる内に、大久
保氏に対し、以前にはなかった新たな親近感を感じるようになりました。

 その第一は、大久保忠世は、天正3年から天正18年までの15年間、
ずっと遠江二俣城の城主であったということ(二俣は浜北・浜松デルタの
ボトルネック)。

 第二は、家康の長男信康の二俣城での事件であります。切腹させられた
ということでありますが、大久保家はけなげにも代々その供養をし続けて
いるということ。忠世は信康の命日に亡くなっている――殉死したという
説もあります。服部半蔵もずっと供養し続けていました。

 第三は、忠世の子忠隣は徳川秀忠をバックアップしたということ。つま
り、服部正尚、青山成重(正尚の弟)ラインと同じ流れであったということ。

 第四は、大久保長安を庇護し、また長安事件により、忠隣は粛清させら
るという悲哀。大久保派はすべて改易。小田原城も破却。そして青山成重
(服部正尚の弟)は改易、青山成国(成重の養子、大久保長安の三男)は切腹、
服部正重(半蔵の次男)は失脚……。

 こうしてみますと、大久保家は服部家と大いに関係があった。大久保家
の懐に服部家、また青山家、そして信康、秀忠は抱かれていたような感じ
がいたします。大久保家は服部家のゆりかご……。

 清瀧寺の紅葉の落ち葉に包まれた信康廟の前で、そしてその中にある大
久保忠世の墓の前で、私は祈りを込め、心底よりの般若心経を二巻唱え捧
げました――

 本が届きました。新たな謎が浮上いたします――
 
 
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月25日 02時20分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


>本が届きました

どんな謎だったのでしょう?



でも大久保家が宇都宮氏の子孫ということ、さらに、大橋の先祖の平貞能と良い関係にあったこと、南朝方だったこと

こういう事から服部家と大久保家が仲良くて当然という確信になりました。



次は信康と大久保の関係で腑に落ちたいです。(こんな表現あるのかしら?)
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月25日 14時36分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 信康の話に移る前に――

 大久保氏を調べていたら、驚きの核心に出会いました。それは、次のとお
りであります――

 @「大久保忠員(ただかず)」の妻は、「三条西公条(さんじょうにし きん
えだ)」の娘でありました。
 A「稲葉一鉄(良通)」の妻も、「三条西公条」の娘でありました。

 つまり、大久保家と稲葉家は、公家の三条西公条家からそれぞれ嫁をもら
い、大久保家=稲葉家=三条西家のトライアングルの関係を築いておりまし
た。この三条西家の「実隆」は「一条兼良」から有識を教わり、兼良なき後、
古典の学、有識、和歌、連歌、書道、香道において指導的地位を保ち、その
後の日本古典学の基礎を築いたという名門貴族であります。その実隆の子が
「公条」なのであります。

 従って、大久保忠員の子「忠世」にとって一鉄の子「重通」(庶子系)は、
義理の従兄弟となり、また、重通の子「稲葉正成」は、忠世にとって義理の
従兄弟の子となります。さらに、正成と結婚した春日局は、義理の従兄弟の
子の嫁さんとなります。

 さらに、春日局の父は「斎藤利三」、その妻は(つまり春日局の母)は、
稲葉一鉄の従兄弟の「通明」の娘であります。また利三の母は、「明智光秀」
の妹、その夫(つまり利三の父)は「斎藤利賢」、その父は「斎藤利安」、
利安の兄弟が「利藤(妙椿)」、その子が「利国」、そして利国の妻が「一条
兼良」の娘の「細姫」であります。

 以上のことを簡単に申し上げますと、大久保家と稲葉家は貴族の三条西家
を「つなぎ」にして結びつき、稲葉家と斎藤家は春日局を中心として二重に
結び付き、斎藤家は貴族の一条家を取り込み、また明智家とも結びついた。
 従って、大久保家にとって、春日局は親戚、明智光秀も親戚という関係に
なることがわかりました。

 この関係が、本能寺の変、及びその後の成り行きのバックグラウンドにあ
ったものと推察いたします。
 大久保家と服部家の関係は、大久保長安がらみの関係が明らかであります
が、本当は両家同士、もっと深いきずなで結ばれているような気がいたしま
す。もっともこれは私の「勘」のうずきでありますが……。

 大久保家の動きをもっと詳細に知る必要があります――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月25日 15時35分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい所に行き着きましたね。
稲葉家と三条西家と大久保家が親戚回りになるとは。


ホント日本って調べると親戚だらけですね。
まるでヨーロッパの王家の関係と同じ。

これは矢張り同じ家格や身分で婚姻するからでしょうね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月26日 15時51分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、大久保忠世・忠隣を中心にして、ずっと調べておりました。まだ
その途中であります。

 歴史の表にはほとんど出てまいりませんが、「忍者働き」は戦闘には現実
にあった訳で、伊賀の服部一族と大久保家とのコラボレーションは密接にあ
ったものと推察いたします。
 
 忠世の関係した戦闘としては、一言坂の戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、
二俣城攻め……。
 忠隣の関係した戦闘としては、堀川城攻め、掛川城攻め、姉川の戦い、
三方ケ原の戦い、小牧・長久手の戦い……。
 ほぼ間違いなく、忍者を使っております。

 そんな中で、二俣城に移動させられた「信康」と、城主「忠世」、介錯役
の「服部半蔵」の取り合わせは何か意味深であります。

 『家康長男信康と大久保家の謎』は、まさにこの二俣城の信康事件一点に
集約されます――

 用事にて、続きは次回といたします――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月26日 22時40分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>堀川城攻め

久し振りに出ましたね。

これは服部半蔵よりも服部中の方が中心だったかもですね。
後に暗殺されていますから。


では次回を楽しみにしていますね。
[47]A.AKECHIさんからのコメント(2016年11月26日 23時19分49秒 ) パスワード

三つ柏服部様

 三条西家が登場しましたので、ご存知かも知れませんが、明智家との関わりを少々。

 三条西公条の長男・実枝(さねき)は、三条西家の秘伝・古今伝授を一旦細川藤孝に継承し、後に藤孝は実枝の孫・実条(さねえだ)に返しています。
 その細川藤孝の長男・忠興は、明智光秀の三女・ガラシャを正室に、光秀の次女の次女・小ヤヤを側室にしています。
 そして、忠興・ガラシャ夫妻の次女・多羅は、稲葉良通(〔43〕に書かれたように、正室が三条西家の姫)の曽孫・稲葉一通の正室になりました。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月27日 09時33分20秒 ) パスワード

あの不届きな事件から知った美麻町。
布にする 麻:ヘンプ と  薬ブツになる大きい麻:まりファな は全く別物だそうです。
でも「大きい麻」の方は人間の住んでる近くに生えるもので熊しか住んでいないような所には生えないそうです。


http://iko-yo.net/facilities/7711
麻の館

美麻村では、昔は名前の由来になった麻の生産で生計を立てていました。

現在は生産されていませんが、正倉院にも献上麻布が残されているほどの麻の伝統と歴史を保存するべく建てられたのが「麻の館」です。

2階展示室では麻栽培の作業風景、道具、文献、出荷時の麻の実物を紹介。

また、1階の食事処では、地元のそばや、売り切れ続出のおやきを提供しています。
そば打ち体験もできますので、麻について学んだ後に楽しむのもいいかもしれません。

地図:長野県大町市美麻14004
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=36.60642900&lon=137.88816363&ac=20212&az=5&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%A4%A7%E7%94%BA%E5%B8%82%E7%BE%8E%E9%BA%BB


青木湖の近くなのね。
麻績の北北西かな?ビックリ
だから「麻績」なのかもね。
やっとピンと来たような。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月27日 17時59分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 貴重な情報ありがとうございます! 稲葉家と斎藤家と明智家は太い鎖
の絆で結ばれていたことがわかります。その一角に大久保忠員が楔のよう
に食い込んでいる。忠世・忠隣が何も語らなくても、見えないものが見え
てくるような感じがします。

 歴史にとって見えないものを見ること――これが真実の歴史を発掘する
ことだと思います。
 大久保家と明智家と服部家の関係……もっともっと深く探求しなければ
なりません。

 先日小田原に行った時、大久寺にある大久保家の墓を訪ねましたが、小
田原城から西に8q程行った所に、「稲葉一族の墓」と「春日局の墓」が
あるということで、訪ねたかったのですが、時間的に断念してしまいまし
た。いずれ行ってみようと思っています。
 
 大久保忠世・忠隣が小田原城主を務め、忠隣改易後、小田原城は破却さ
れます。その18年後、春日局の子「稲葉正勝」が入城いたします……こ
れらは偶然の出来事ではなく、見えない所で糸を操られていると思います。
稲葉正勝―正則―正通と続き、また大久保家が城主にまい戻ってきます。

 本能寺の変の人間関係は、そのまま関ケ原の戦いにも反映されているよ
うに思います。そしてその後も続いたように思われます――

 稲葉家・斎藤家・明智家・大久保家、そして服部家、家康・秀忠・西郷
局・家光・春日局……見えないものがかすかに見え隠れしている感じがい
たします――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月28日 02時02分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


大久保長安事件で本来の大久保家や服部家や青山家も処分されたのはどうしてだったのでしょうね。

家康がそれほど憎んだから?
政敵だった本多父子が絶対に許せなかったから?

秀忠には家康と本多父には逆らえなかったからというのはあったでしょうね。 




こんな記事がありました:


 NHK大河ドラマ「真田丸」が大坂城を舞台にクライマックスを迎える中、歴史フォーラム「豊臣大坂城と真田幸村」がこのほど、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれた。豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こして公開する豊臣石垣公開プロジェクトの一環。詰め掛けた幸村(信繁)ファンらがメモを取るなどして、熱心に聞き入っていた。

スカウト条件「巨額の契約金+50万石の大大名」

 北川央大阪城天守閣館長と、城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授が基調講演。北川館長は幸村関連の古文書を紹介しながら、幸村の人間像に迫った。関ヶ原合戦で敗北した昌幸・幸村父子は九度山へ幽閉された後、経済的困窮が深まっていく。

 昌幸は1月5日付けの書状で長男信之に「借金もかさみ、このままでは1年持たない。早く残りの仕送りを送ってほしい」と、新年早々から窮乏を訴えていた。昌幸が懇願した仕送りは20両で、現在の金額で600万円だった。

 幸村らが苦しんだのは、経済的困窮ばかりではない。心身の衰えも忍び寄る。幸村は「とてもくたびれてしまった」「歯が抜け、ヒゲも白くなった」と嘆く。しかし、大坂の陣を前に大坂城入城を決意した幸村を、豊臣秀頼は破格の厚遇で迎え入れる。

 「秀頼が提示した条件は、支度金だけで黄金200枚、銀30貫。現在の金額で7億5000万円に相当する巨額の契約金で、幸村はスカウトされたわけです」(北川館長)

 借金まみれで当座の生活費にも困っていた幸村だけに、大いにモチベーションが上がったに違いない。大坂の陣に勝った場合の論功行賞もすごい。秀頼は幸村に知行50万石の大大名抜擢を約束していた。豊臣方有力武将では最上位の扱いだ。幸村に対する秀頼の信頼の高さや期待の大きさを物語る。

 一方、大軍で攻め込む徳川方は、幸村をどのようにみていたのか。

 「真田が大坂城へ入城したとの一報が届いた際、家康は『籠城したのは父親か息子か』と、繰り返し質した。父親はすでに病死していたと知って、家康は安堵する。家康が怖れたのは昌幸で、幸村はさほど評価していなかったようだ」(北川館長)
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月28日 02時12分14秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101574.html
長上郡の服部氏族LXXXV(課題確認26)
をご用意致しました。

『家康長男信康と大久保家の謎』
のご紹介、楽しみにしております。


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