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 投稿番号:101574 投稿日:2016年11月28日 02時10分42秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXV(課題確認26)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101573_50.html
長上郡の服部氏族LXXXU(課題確認25)
スレッド82の続きです。


  自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
  最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド19:
小田原藩の家老「服部十郎兵衛」は、禄高1200石で、藩内第3位であった。
その服部家に若党として住み込み奉公するようになった金次郎の役割は、
同家の子息清兵衛ら男子3人を漢学の先生である宇野慎助の屋敷までお供し、
帰宅後はその復習をすることであった。


スレッド26:
『家康長男信康と大久保家の謎』
について是非お書きください。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月28日 10時06分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッドありがとうございます。歴史の裏にはたくさんの人間関係の綾
がありますので、論理を単純に割り出すことができません。いわゆる論理
矛盾というものがたくさんあります。
 その論理矛盾のからまりは、よく調べると解けてきて、ベクトルの違っ
たいくつかの論理の筋が見えてくるはずであります……。今はそれについ
て申し上げる実力はありません。
 ただ、大久保長安事件については、表面的には比較的分かりやすいので
はないかと思われます。今まで家康に大変貢献してきた大久保家・青山家・
服部家がちゃぶ台返しされ、影響を蒙ってしまうという論理矛盾……とり
あえずは、将軍秀忠(江戸)と大御所家康(駿府)の二元政治から発生してい
ると言っていいのではないか……? ただし、その下のレベルになると、
ただ単に本多vs.大久保の単純な問題ではないような気がします……?
 信康事件についての論理矛盾は、家康が大事な長男(嫡子)を切腹させ、
首をとってしまうという矛盾であります。上忍ともいうべき策士の家康に
とって、色々な策略をめぐらすことはできたはずで、考えられない矛盾で
あります―― 
 
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月28日 17時31分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宮城谷昌光氏の『新三河物語』には大久保一族を中心に、その歴史物語
が書かれていますので、信康事件のところだけ読んでみましたが、余りに
も簡単に書かれていたので、拍子抜けいたしました――
 「翌日、信康は自害した。
  検使は天方山城守通綱と服部半蔵正成であった。忠世は信康の亡骸を
 蜷原(みなはら)において荼毘に付した。」

 通説では、半蔵と天方が検使でやって来て、半蔵が介錯しようとするが
できなくて、天方が介錯した。その後天方は高野山に逐電した――

 野村武男氏の『家康長男信康と大久保家の謎』に目を通してみたところ、
とんでもないほどビックリする謎は書かれておりませんでした。内容はこ
うであります。
 大久保家に残る『大久保家秘記』によると――
 「(信康が二俣城に入った後)忠世はどうにかして家康の憤りを解かせよ
 うとして心を悩ませていた。また信康への危難を除こうと日夜心がけ、
 もし事が急にでも出来(しゅったい)すれば、どこへでも落ちさせようと
 心に決め用意していた。
  そんなある時、家康のいる浜松へ出仕して二俣城を留守にした。その
 間に天方通綱と服部正成が二俣城外まで来て、"信康をまだ生害させて
 いないなら、我々が受け取り、生害を勧めろという家康の命令を告げた
 い"と言う。
  すると、忠世の妻、近藤杢右衛門幸正の娘(のちの法眼院)は長刀(なぎ
 なた)を脇に、大手門外へ走り出て"上様の仰せでお越しいただいたという
 が、三郎君のことは夫七郎右衛門(忠世)に命令され、警護せよと仰せつけ
 られている。今、七郎右衛門は浜松城に出仕して留守である。たとえ上意
 としてもお渡しするわけにはいかない。もしや七郎右衛門自筆の墨付き
 でも持ってきておられるのか。なければ女ながら1分(いちぶん)が立たな
 い。決してお渡しすることはできない。どうしても受け取るとあらば、女
 首でも取ってから行き給え"と答えた。そこでしかたなく天方、服部両人
 はむなしく帰っていった。」
 
 とりあえずここまでで切ります――

 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月28日 22時42分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


う〜ん・・・
はぁ〜・・・
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月29日 14時14分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――
 「(その後忠世が浜松城より二俣城へ戻り、考え抜いたあげく)信康を秘か
 に落とそう(逃がそう)と船に乗せた。駿河の方へ向かおうとしたが、今切
 は入海のため陸地が近く、人の行き来も多い。まして浜松の家来衆の行き
 来も多いことから出船もしがたい。信康は口惜しく思い、生害しようとい
 う気持ちになった。その時忠世の弟忠佐がここに来るということを聞いて、
 信康は大いに驚き"もはやこれまで"と自刃した。二十一才であった。忠世
 の家人後藤三郎右衛門が介錯した。」
ということであります。
 前半の服部半蔵・天方通綱を追い返したところまではいいが、そのあとの
決断がどうも軟(やわ)で「腑に落ちない」……。何か隠しているのではない
かと思わざるを得ません。あるいは出来レースを演じているように感じられ
ます……。
 本当は、徳川の御曹司は、忠世が忠臣であればこそ守らなければならない
はずである。また、逆に家康から殺すことの命令が出ていたなら、忠臣ゆえ
に、その命令は即刻実施しなければならないはずであります。

 身内だけの記録文書でも、トップシークレットは通常書かないでしょう。
だから、この辺はぼかした、カムフラージュしたと考える方が妥当なのでは
ないでしょうか。つまり、結論は、信康をどこかへ逃がし、かくまった。
信康の身代わりの者が切腹斬首され、首は塩漬け、体は荼毘にふくされた。
そして、これは服部半蔵も天方通綱も大久保忠世も家康も最低限の筋書きは
描き打ち合わせていたのではないか……。

 大久保家が信康を殺した張本人なら、供養をするということは当然のこと
ではある。ただそうであるからこそ、信康を生かし、殺したと見せかけた上
て、パフォーマンスとして供養し続けた。服部半蔵の場合も秘密がばれない
ように、供養というパフォーマンスを続けたのではないか……。天方も然り。

 大久保家が張本人であるとして、「忠隣」の妻は「信康」の妹の「亀姫」
の娘「仙姫」であるということ、これも矛盾する。また、亀姫の孫娘も「忠
職」の妻になっている。さらに亀姫の曾孫の「千代姫」も「忠増」の妻と
なっているということ……大久保家は信康家と一生懸命一緒になろうとして
いるように思われます……。

 これはどういうことであろうか――瀬名姫の母は井伊家の出でありますの
で、ひょっとしていわゆる「南朝がらみ」なのでしょうか?

 忠隣は配流され、彦根藩の井伊直孝にあずけられ、最後は佐和山の龍潭寺
(井伊家菩提寺、遠江井伊谷より分霊)で余生を送っております。井伊家との
つながりはいかがな程であったのでしょうか。一度その点を調べなければな
りません。

 大久保家を調べている内に、大きな発見がありました――
 それは、大久保家の祖「泰藤」(南朝の忠臣)が、源頼光の子孫、土岐頼貞
の子「頼直」の娘を妻にしていることがわかりました。
 「頼貞」は土岐光貞の七男。母は執権北条貞時の娘であります。1333
年に、後醍醐天皇の詔を受け、討幕の挙兵をして尊氏に加わっている。建武
の新政より、美濃守護に任じられ、以後斎藤道三の時代まで、代々守護とし
て続いている……。
 
 つまり、大久保家には土岐家の血が入り、従って明智家ともつながってい
たということになる。三条西家を介してもつながっていた……。

 大局的なすべてのキーワードは、やはり「南朝」なのでしょうか――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月29日 14時52分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

なかなかスンナリ理解出来ないですね。
そしてやはり「南朝」の亡霊がうろつきますでしょうか?



ということで信康についての謎をウイキで調べて来ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7

関係個所のみ:なかなか興味深いです。



信康自刃事件について



                        事件の通説

信康の切腹については『三河物語』の記述が詳しい。それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。

手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた[注釈 1]。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。

傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。

さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって介錯にあたった。




                        信康と築山殿の不行状と疑問

信康や築山殿の乱暴不行状については『松平記』『三河後風土記』の両書がくわしい。この一方大久保彦左衛門の『三河物語』には優れた武勇や、孝心を称賛する内容となっており人格に対する否定的な記述ではない。信康については、
気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。

領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した。「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張している。

鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、お詫びをしている。

徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て夫婦の仲が冷え切った。

というものである。


また、『当代記』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。だが、これらの行動はあまりにも理不尽なために、単なる中傷として解釈されることもある[5]。



築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものである。これらのうち、特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷であるともいわれる[5]。




                        通説への疑問

徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようだ[6]が、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である[7]。

また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されている[8]。

また「御母様(=築山殿)」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もある[8]。於大に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性がある[8]。

ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している[8](橋場日月の説)。



また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、このような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えないし、徳川政権成立後に、事件の発端となった徳姫に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由もよく分かっていない(実際に所領を給与したのは徳姫の義弟にあたる松平忠吉)[9]。

さらに、築山殿がいかに家康の正室といえども、武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも、信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず、家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である[9]。

また、『三河物語』では、信康を庇わなかった酒井忠次は「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達に憎まれたとされているが、その後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている[10]。

なお、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説がある[9]が、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などが建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させている。また各所に墓所を建立してるので、これは誤りである(#墓所・祭祀も参照)。




                        父子不仲説

このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。

『三河物語』では信長は「(信康)切腹させよ」と答えているが、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめているもの)や『当代記』[注釈 2]では、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、また家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。

また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである[12]。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている[13]。


さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える[14]。


また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」[15]とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。



また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。

「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。
「世に伝ふるは……つくづくと御覧し、おそろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけりと仰せけり」(新井白石『藩翰譜』巻十一「上総介殿」)[16]。



この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。



ただ家康は晩年になって「父子の仲平ならざりし」とこの時の事件について後悔している[17]。



                        派閥抗争説


作家の典厩五郎は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。


また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている[注釈 3]。


歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している[18]。



                       その他・家臣団との対立

村岡素一郎が説いた徳川家康の影武者説では、徳川家康と松平元康を別人として、家康と信康との親子関係を否定している。信康の成人後、家康が信康に家督を譲渡する誓約がなされていたが、家康に実子が生まれたため、家康により信康の排除が行われたと、著書「史疑徳川家康事蹟」で村岡は主張している。



詳細は「徳川家康の影武者説」を参照

信康は勇猛なためか横暴な面があり、家臣の松平親宅は「御若気の儀これあり候につき、毎度御諌め申し上げ候えども」信康により追放されている(『寛政重修諸家譜』)。また信康は同母の妹である亀姫が武田信玄没後に徳川に寝返ったにすぎない奥平信昌の正室になる(つまり義弟になる)事に「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した(『三河東海記』)話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も伺わせる。




                          生存説

異説として、信康には葬られた遺体は替え玉で、本人は同情した家臣達に助けられ、浜松山中の村に逃れたという生存説が存在する。それは次の通りである。



寛永10年(1633年)頃、西国大名に仕える飛脚が江戸に向かう道中掛川の辺りを通った際、年齢70代半ば頃と思われる非常に貫禄のある老人がどこからともなく現れて、飛脚にこんな事を問うたという。

「今は誰の時世かな?」と。飛脚が内心そんなことも知らないのかと毒づきながら「3代将軍家光公の時世だよ」と答えると、その老人は頷き、次に「土井甚三郎は元気でいるか?」と問うてきたという。

しかし飛脚はそれが誰のことを言っているのか分からず、どうも頭のおかしい老人らしいと考え、無視して行ってしまった。

しかし江戸でその話が伝わると、土井甚三郎は現在の老中・土井利勝の幼名だということが判明する。


そして「土井利勝をそんな名で呼ぶ人物は只者ではないぞ。徳川家の何らかの関係者ではないのか?」という話となった。一時期それは、岡崎三奉行の一人で後に改易させられた天野康景ではないのかとも噂されたが、仮に天野だとすると生きていれば100歳過ぎになるため、どうも有りそうにない。そこで他に該当するような人物を考えた末、もしかするとその老人は信康の老体ではないのかという推定が出て来たのである。



確かに当時信康が生きていれば70代半ば頃になるし、事実その老人の現れた周辺の村の村長の家には、とても常人が持つものとは思われない立派な鎧兜や鏡が安置され、村の住民は皆藤原姓を名乗っていることが「東海道名所図会」という資料に載っている。


藤原姓はかつて家康も名乗ったこともある名字のため、もしかすると信康は追及を逃れ、浜松の村に隠れ住んで余生を送ったのではないか、というのである。



しかしこれらの記述は、江戸期の随筆『塩尻』(天野信景著)に記されている記事ではあるものの、事実かどうかは疑わしく、仮に事実としても、その老人が信康だとするのはかなり飛躍した仮定でもあるため、真偽は不明である。


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人物・逸話


『徳川実紀』によると、天正3年、家康が小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から大いに褒められたという。また、関ヶ原の戦いで秀忠が遅参した時、家康は「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという[3]。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日であった(『武辺雑談』)。


武勇に優れた武将で、以下の逸話が伝わっている。

ある戦で武田軍相手に殿軍を務めて一歩も引かず、家康は「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と驚嘆した(『大川三志』)。

勝頼の本陣間近まで共一人を連れて物見を行ない、家康に決戦を進言した勇猛さを見せつけた(『松平物語』)。

信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという(『三河物語』)。



信長は信康を恐れていたという(『寛元聞書』)。

冷遇されている異母弟の於義丸(秀康)を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせる[19]など、弟思いな面があった。

信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死役の天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て畏れ出家したと言われる(『柏崎物語』)。



信康の切腹には殉死者[注釈 4]を出すほどの人望があった。

ある日、幸若舞を忠世・忠次と共に見た時、主のために自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという(『東武談叢』)。

後年、酒井忠次が嫡男・家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返されたという逸話が残っている』(『東武談叢』)。

関ヶ原の戦いの前夜に、信康の孫娘と小西行長の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられている。この孫娘は、親等では福島正則の養子正之と結婚した満天姫とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。また信康の家臣のうち、主だった者には交代寄合に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月30日 01時11分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、午後から二俣に行き、玖延寺と二俣城址に行き、大久保忠世の
"残存オーラ"が残っていないか探してみました。
 玖延寺は、二俣阿蔵にあり、大久保忠世が1575年に二俣城主になっ
た時、豊橋の竜拈寺より白洲禅師を招いて開山としており、忠世と関係の
深いお寺であります。
 行ってみると、この寺は二俣で一番大きい寺でありました。お墓もたく
さんある。いきなり「島家」の墓を見つけた。家紋は「丸に桔梗」であっ
た。島家は関ケ原の戦いの後、二俣地区に逃避して来たといわれる。西軍
に属していたので、なぜ東軍の地に来たのか大きな謎であります。
 島左近は東軍の藤堂高虎に匹敵する人、伊賀忍者にも通じる……石田三成
に最後までつくしたのか、あるいは最後に寝返ったか……? 

 本日はここまでにしておきます――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年11月30日 01時55分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


島で桔梗というのはどの関係なのでしょうね。


島左近の家紋と旗印:マグ(カップ)の紋がいいですね。欲しいでしょ?

http://www.google.com/search?q=%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91+%E6%97%97&biw=1097&bih=533&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjOmPyYts7QAhVY32MKHTlfDxEQsAQIIg
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月30日 09時29分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史の真実というのは、相対的かつ複合的な要素がからんでいるので、
なかなか一筋縄にはいきません。

 島左近の家紋は「三つ柏」ということであります。牧野氏、山内氏と
「言葉」では同じでありますが、それぞれ「形」は、牧野氏、島氏、山内
氏の順に、葉っぱの部分の丸っぽさが、段々細くなっております。
 「桔梗」というと、明智家、名張藤堂家を思い浮かべます。何か関係が
あるのかも知れません……。

 島氏が何で「三つ柏」かについては、まだ調査しておりません。家紋に
より、出自の関係がわかるすも知れません。いずれにしても、島左近には
大変興味を感じております。ある意味、歴史のキーマンになる可能性を秘
めておりますが、まだ十分な調査を行っておりません。

 ただ、島左近の一族が、関ヶ原の戦い後、何ゆえ敵地の遠江へ逃れて来
たのかという最大級の謎でありますが、答えはこちらに味方がいたからと
いうことになりませんでしょうか。徳川の中枢と島左近一族と通じていた
のは、最前線では柳生宗矩―松下之綱、そして服部一族―藤堂高虎ライン
でしょうか……。味方がいたということは、西軍から東軍へ寝返ったとい
うことになるのでしょぅか……?

 ま、これ以上の論及は止めておきます。いずれまた近い内に――

[9]三つ柏服部さんからのコメント(2016年11月30日 16時49分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 二俣城跡に登り、天守の石垣に登る。すぐ下を天竜川が崖をえぐるよう
に流れていました。紅葉もかろうじて残っており、晩秋最後の彩りを添え
ておりました。

 二俣城跡から尾根伝いに鳥羽山城跡へ向かう。一旦は川沿いの開けた所
を通り、また山道を登る。昔は鳥羽山公園として有名で、桜の季節には皆
よく行ったものであります。滑り台や鳥の檻があって……と思いきや、も
はやスッキリと整地されていて、何となく拍子抜けがいたしました。

 この二俣城と鳥羽山城において、奪い合いの戦いが幾度か行われたという
ことでありますが、今の平和な世からみると、信じられません。

 また、太平洋戦争時には、二俣城のすぐ北に「陸軍中野学校」が移設さ
れ、スパイの養成や秘密兵器などの研究がなされていた。電磁兵器など
の研究は、後の民政においてテレビなどの出現に役だったのかも知れません。
 ても、何故この二俣にスパイの養成校が……徳川忍者の伝統と関係が
あったのでしょうか……?

 大久保一族の"残存オーラ"は、残念ながら見ることはできませんでした。
約440年前のことゆえ、いたしかたありません。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月01日 05時32分57秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%BA%8C%E4%BF%A3%E5%88%86%E6%A0%A1


陸軍中野学校二俣分校

ゲリラ戦要員の短期育成を目的とした旧日本陸軍の教育機関。旧陸軍の解散とともに廃止された。所在地は、現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣。跡地には浜松市保健所天竜支所が建てられており、「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」がある。 設立当時、生徒は服に軍曹の階級章を付け腰には軍刀を吊っていたため、同校の地元では(普通の)幹部候補生学校ができた、というくらいに思っていた。


諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育からゲリラ戦術の教育に変化していった中野学校とは異なり、当初からゲリラ戦術、破壊工作の訓練を目的に設置された。

卒業生に小野田寛郎や谷本喜久男、末次一郎等がいる。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1

陸軍中野学校

諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍の軍学校(実施学校)で情報機関。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊。


創設の動きは1937年(昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として1938年(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年(昭和14年)年5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年(昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた[1]。

創立当初は東京九段の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町に疎開、富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を機にゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍の特殊戦スクールに相当)へと変貌する。1938年の開校まで統合された教育機関がなかった為、日本軍にとっては有意義であったが、遅きに失した観はある。

1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立された(1974年(昭和49年)、ルバング島から帰国した小野田寛郎や、インドシナ戦争中にベトミンのクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男が同校の卒業生であった[2])。

学生は陸軍士官学校、陸軍予備士官学校、陸軍教導学校(1943年8月廃止)出身者から選抜された。その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。

以下略

それで「中野」というのか。
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月01日 08時52分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今から450年前というと、長いのか短いのか……世代でいうと18世代
である。我々が何とか実感として把握できるのは、曾祖父(ひいじいさん)く
らいまで、それ以前は伝説となる。
 大久保忠世について二俣にいた15年間の日々の歴史は、完全に薄れ何も
残っていないように思われる。ま、今後も地道に探究は続けて行きたいと思
います。

 昨晩は、「三河物語」を読みました。但し、漫画版で―であります。大久
保忠教、いわゆる大久保彦左衛門の原作であります。
 内容的には、いわゆる歴史書に書かれている史実は余り変わりませんが、
ただ、忠教の本多正信に対する怒りがずっとみなぎっております。譜代対
文治……石田三成も文治対譜代の対立がありました。

 本多正信――鷹匠上がり、賀茂氏の系統……一度、深く探究してみます。
意外と、この人の方が、深い謎を背負っているのかも知れません――

 大久保忠世に対しては、松平信康を逃がしてどこかにかくまったという
一縷の希望を心の片隅にいだきつつ……。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月01日 12時43分14秒 ) パスワード

大久保忠世

http//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E4%B8%96


抜粋

天文元年(1532年)、徳川氏家臣・大久保忠員の長男として誕生。

大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平・徳川氏に仕えるようになったといわれ、忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから伯父・大久保忠俊の本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田氏の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(この逸話は弟・大久保忠教が著した『三河物語』によるもので、信憑性には疑問がある)。

また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても弟の忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、依田康国の後見を務めている。天正13年(1585年)の上田合戦にも鳥居元忠・平岩親吉と共に参戦しているが、真田昌幸の前に敗れている。

一方で政治的にも優れていたともいわれている。
また一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、
若くして重んじられた井伊直政をたしなめたりしている。


                 何故本多正信は忠隣を失脚させるような裏切りをしたのでしょうね?
                 ということで次のレスとしますね



天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられた。

文禄3年(1594年)死去、享年63。法名、了源院日脱大居士。大久保家の家督は嫡男・忠隣が相続した。

逸話[編集]
天正元年(1574年)、遠江犬居城を攻撃した時、敵兵の抵抗によって崖下に落とされてしまった。しかし忠世は這い上がって、待ち伏せしていた敵兵3人を一度に斬ったという[1]。
忠世は突然お金が必要になった時に備えて、一ヶ月の内の七日間、食事を一切摂らない日を設けるという大掛かりな倹約を行い、死ぬまでその習慣を続けたという[2]。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月01日 12時49分12秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%9A%A3


大久保 忠隣

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。相模小田原藩の初代藩主。父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。

講談で有名な旗本の大久保忠教の甥にあたる。

小田原藩大久保家初代。


前略

三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、家康の傍を離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した[注釈 1]。


天正10年(1582年)の本能寺の変に際して家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業においても切り取った領国の経営に尽力した。

この時大久保長安も抜擢され、長安は忠隣の元で辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられた。
                                      大久保長安


天正14年(1586年)の家康上洛のときに従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を下賜された[2]。


家康の関東入国の折、武蔵国羽生2万石を拝領し、文禄2年(1593年)には家康の嫡男・徳川秀忠付の家老となる。文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原6万5,000石の領主(後に初代藩主)となる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。

                                         ここで本多正信と仲違いの溝が出来た?


慶長6年(1601年)、上野高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となる。



改易[編集]





滋賀県彦根市龍潭寺境内の大久保忠隣幽居之跡
しかし慶長16年(1611年)10月10日に嫡男の大久保忠常を病で失うと、その権勢に陰りが見え始める。この際、幕府に無断で小田原まで弔問した者が閉門処分を受けている[3]。嫡男の死に意気消沈した忠隣は、以後政務を欠席することがあり、家康の不興を買った[4]。また、忠常死去後、秀忠が忠隣のために精進落としの宴を開こうとしたが、忠隣はこれを断り、他の老中の不興を買っている[5]。

慶長18年(1613年)1月8日には山口重政が幕府の許可無く忠隣の養女を、子の重信に娶らせたとして改易になっている。この件は忠隣の発言として、以前に養女の実祖父・石川家成が婚姻の件を伝え許可を得たため、改めて自身が許可を得る必要は無いとして、秀忠の許可を得ようとしなかったとある。幕府の決定を受けた忠隣は同月15日に甚だしく腹を立てたとあり、翌日に子と共に江戸城へ出仕している[6]。また、同年4月には与力の大久保長安の死後、その不正蓄財が露見したことに関連して、長安の子が切腹させられる事件が発生している(大久保長安事件)。

このような状況下で、12月に江戸から駿府へ帰国する家康が、6日に到着した相模国中原に数日逗留後、13日に突如江戸へ引き返している。この理由として、『駿府記』には翌年に東金で鷹狩を行うためとある一方、『当代記』には前日に江戸から土井利勝が秀忠の使者として来たことと、旧穴山衆の浪人・馬場八左衛門が忠隣が謀反を企んでいると訴え出たことを理由としている。使者については、『石川正西聞見集』に秀忠より何度も使者が来たのが江戸引き返しの理由とあり、『駿府記』にも7日に板倉重宗が使者として来たとある。

その後、12月19日に忠隣は幕府からキリシタン追放の命を受け京へ赴き、翌慶長19年(1614年)1月18日より伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行っている。しかし翌日に突如改易を申し渡された。居城の小田原城は本丸を除き破却され、2月2日には前年に無嗣断絶した大久保忠佐の居城三枚橋城も破却された。その後、忠隣は近江国に配流され、井伊直孝に御預けの身となった。この時、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられている。3月1日には忠隣は天海を通じて弁明書を家康に提出し、家康はこれを見るも特に反応は返していない。3月15日には堀利重が連座して改易になっている。

その後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日に死去した。享年75。将軍家の許しが下ることはついになかった。

改易の理由について、『駿府記』には先述の無断婚姻を、『当代記』はこれに加え馬場の訴状を挙げているが、馬場を不肖の者として全くの虚言としている。なお『駿府記』には、2月1日に土井利勝が家康と面会した際に、忠隣と親しい者が多くいることに秀忠が腹を立てていると報告している。これに応じて2月14日に江戸の幕閣が提出を求められた起請文には、忠隣とその子との音信を禁じる項がある。起請文にはこれ以外にも家康・秀忠に従うこと、裁判では依怙贔屓を禁じること、政務では互いに心底を明らかにすること、家康・秀忠の発言は当人の許可が無ければ他者に漏らさないこと等がある[7]。

なお、本多正信・正純父子が、政敵である忠隣を追い落とすための策謀を巡らせたとする見解も江戸時代からある。正純は岡本大八事件に部下が関与したことで政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったとする。『徳川実紀』も本多父子による陰謀説を支持している[8]。ただし、当時の史料でこの点に触れたものは無く、ただ細川忠興が書状で忠隣改易により、正信の権勢は以前の10倍になったと評している[9]。正信は配流後の忠隣へ、小田原にいる忠隣の母と夫人の無事を伝える書状送っており[10]、先述の起請文が出される原因となった忠隣と親しい者に該当する。また、大久保忠教も正信が忠隣に恩があることから両者の諍いは作り事と断じている[11]。また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説もある[10]。

忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子で忠職の従弟・忠朝の時に小田原藩主として復帰を果たした。また、連座で謹慎していた次男の石川忠総は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げたことから最終的に近江膳所藩主となり、子孫は伊勢亀山藩主となった。


続く
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月01日 12時54分39秒 ) パスワード

人物・逸話[編集]


改易を言い渡されたのは慶長19年(1614年)1月19日で、忠隣はこの時、京都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。そこに前触れも無く、家康の上使として京都所司代・板倉勝重が現れたのを聞いて全てを悟り、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、勝重はそれを承知したという。


また、忠隣の改易を知るや、京都の市民が大慌てし、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」と『藩翰譜』にある。


井伊直孝が、家康の死後に大久保忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされる。



関ヶ原の戦いの後に、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をした時に、秀忠の兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がる中、忠隣が秀忠を推薦したエピソードも知られる(『台徳院殿御実記』)。


秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策した。
しかし忠隣は秀次が送ってきた2度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れたという(『藩翰譜』)。

                                      秀忠は忠隣に恩は感じなかったのかしら?


茶の湯を好み、数寄屋や植え込みに工夫を凝らし、上方大名との接待に用いていた。また使者にも茶を出した上、馬も与えていた。

このため忠隣は奥州より馬を大量に購入し、江戸・小田原に置いていた。

                                          馬が出ましたよ!



正信はこれらの行為に異議を唱え、小田原からの転封を申し出るべきと助言したが、忠隣は自身が小田原を拝領するのは当然と答え、その発言が問題になったとある(『石川正西聞見集』)。

                                          へぇ〜

                                           
脚注[編集]

注釈[編集]

1.^ 『寛政重修諸家譜』によると、奉行職とは後の老中のような役職であり、若年の頃から徳川家中で枢要な地位にあったことを示唆している。



徳川政権の黎明期、まだ老中制度は確立されていなかったが、忠隣は政敵・本多正信と共に、事実上の『初代老中』とも言うべき立場にあった[1]。
                                            本多正信はそれが嫌だったのかしら?



出典[編集]

1.^ 山本博文『お殿様たちの出世』p54-55
2.^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号p113-114。
3.^ 『慶長見聞録案紙』
4.^ 『続本朝通鑑』
5.^ 『石川正西聞見集』
6.^ 『当代記』
7.^ 『慶長年禄』『家忠日記増補』『御当家令状』
8.^ 藤野保『徳川幕閣』p97-98。
9.^ 『細川家記』
10.^ a b 三津木国輝『大久保忠世・忠隣』名著出版、2000年
11.^ 『三河物語』



参考文献[編集]

山本博文『お殿様たちの出世』(新潮選書)
藤野保『徳川幕閣』(中公新書)
三津木國輝『大久保忠世・忠隣』(名著出版)
『世界人物逸話大事典』角川書店
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月02日 22時38分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜の夜会、本朝よりの芝刈りと、この24時間は忙しく過ぎました。

 さて、本多正信の秘密は、三河一向一揆後の放浪時代にあるのではない
かと推測しています。その理由は、この期間にあの松永久秀に仕えている
らしいからであります。
 今は具体的な情報を確保している訳ではありませんが、できる限り収集
したいと思っています――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月04日 01時37分28秒 ) パスワード

だんだん本多正信がアヤシク思えて来ました。
ひょっとすると将軍家を乗っ取るつもりだったかも。

で息子の代にとうとう潰されたのかも。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月04日 08時49分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

  昨日は庭の植木・垣根の刈り込みをしたのち、ハサミ類の刃を研ぎ、その
後山歩きをし、腹に付いた脂肪を燃焼させました。かすかな山の紅葉が目の
保養をさせてくれました。夜は「長谷川平蔵」シリーズの最後の撮影番組と
いうことで、これで番組が終了してしまうのかという一抹の寂しさに襲われ
ながらも、平蔵の一挙手一動足、一声ひとこえにくぎ付けになっておりまし
た。

 徳川家康、大久保忠世、本多正信、服部半蔵、明智光秀、松永秀久……こ
の6人の関係がわかれば、徳川政権の舞台裏がわかる……これが今の私の抱
く「勘」であります――

 昨日の午後に中村整志朗著『家康に天下をとらせた男 本多正信』が届い
ていましたので、「平蔵」が終わった夜遅くより読み始めました。歴史小説
のジャンルではありますが、史実に基づき書かれておりますので、大変参考
になります。
 それによると、本多正信は「智謀・知略」に長けていた……軍師・軍監、
あるいは「上忍」とも表現できそうな人物であります。
 その背景には、@一向宗とのつながり、A松永久秀との交流、等より得ら
れた「人脈」、「情報力」、「戦術・戦略」があったのではないかと推察さ
れます。

 大久保忠世の背景には、先祖が土岐氏、三条西家と関係があるということ、
即ち明智氏と関係があったということ(どちらかと言えば、表ルート)。

 本多氏は、松永氏を通じて、柳生氏、松下氏、伊賀忍者、そして明智光秀
と関係があったのではないか(どちらかといえば、裏ルート)。

 「情報が天下を制する」ということは、忍者ルート、山伏ルート、神主
ルート、猿楽師、連歌師、商人……等、どのルートに人脈をもっていたの
かは今の所明らかではありませんが、今後、検証をしていきたいと考えて
おります――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月04日 13時23分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


表ルート・裏ルート
的確でなかなか面白い分け方ですね。


本多氏の秘密
ちょっと毛を掴んだような感じですね。


人間って表面だけでは理解していないのでしょうね。
考えさせられます。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月05日 17時19分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 正史には残らない影の部分……いわゆる「忍者働き」の部分は、戦国時代
には大変なウェイトを占めていたはずであります。
 3Dメガネのように、それを掛けると見えないものが見えるというような
「時空忍者メガネ」があるといいのですが……。
 戦闘をはじめとして、忍者働きは100パーセントあったものと仮定し、
正史の本当のありさまを想像したいものだと考えます。

 私は、徳川家康こそ智謀における「上忍」かと思っていましたが、その直
下に「本多正信」がいて、半蔵以下の忍者ネットワークを動かしていたよう
な構図になっていたのではないかと思うようになって来ております。つまり、
「本多正信」こそが「上忍」である……「鷹匠」あがりというのも影の世界
とつながっているように思われますし、一向一揆も修験道や影の世界とつな
がっているのではないか、ましてや松永久秀は柳生や伊賀と関係が深い……。
 調べて行けば、必ず尻尾を掴むことができるのではとは思っています――

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月05日 21時55分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「本多正信」こそが「上忍」

はい。

「真田丸」でも本多正信は3代目?半蔵を加藤清正の暗殺に使ってましたね。


>調べて行けば、必ず尻尾を掴むことができるのではとは思っています

何か面白いものが見つかるといいですね。
[21]敷地服部さんからのコメント(2016年12月07日 03時02分13秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2016年12月07日 03時17分02秒
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月07日 09時30分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本多正信について調べておりますが、なかなかお宝情報の金脈にはぶつか
りません。
 しかしながら、以下の情報を見つけました。
 東郷隆氏の『忍者物語』より(一部、分かり易く編集)――
 「〜そんな悪評紛々たる本多家だが、服部家に関しては妙に甘いところが
  あった。
  理由は不明である。噂では――
  @初代の半蔵正成が本多正信の、一向一揆時代の秘密を握っていたから。
  あるいは――
  A天正十年(1582)本能寺の変で、家康が三河岡崎に脱出する際、政信の
 ため半蔵がよく働いた、その時の恩を忘れないのだなどと伊賀者たちの間
 では語られていた。」
ということであります。信憑性はともかくとして、@の三河一向一揆よりの
参戦(この場合の一揆は戦国の戦いと同じ)については、大きな秘密が隠され
ていると思いますので、さらに探求していきたいと考えております。
 Aの神君伊賀越えにおいて、服部半蔵のおかげで脱出できたということは、
大局的にはほぼ間違いないことであります。家康に同行していた本多正信が、
どんな立ち位置にいたのか、家康のすぐ側にいて、すべてを統括していたの
か? 私は今まで、服部半蔵は家康から直接指令を受けて動いていたのだと
思っておりましたが、軍師としての正信がいて、すべてを統括していたとは
つゆぞ知りませんでした。但し、政信は武功派でなく、文治派でありますの
で、武を統括するには、武に長けた右手となる人が必要と推察いたします。
それが服部半蔵の戦術と情報力だったのではないか?……そんな想像をいた
しております。つまり、政信と服部半蔵との間には、密接な関係が築かれて
いた。それはいわゆる同族意識、仲間意識のようなものではなかったのか。
そして、それは「一向一揆」の中に何か秘密が隠されているような気がしま
すのですが――
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月07日 10時29分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


貴重な情報をありがとうございます。


>@初代の半蔵正成が本多正信の一向一揆時代の秘密を握っていた

一向一揆と言ったら伊勢長島や石山寺関係の秘密でしょうか?
そうすると尾張伊勢の服部家ホンヤさんとも関係があったのかしら?
つまり服部政信や服部中保次関係者と。


http://matome.naver.jp/odai/2141198354335294801
以下コピペ

主君より宗教が大事、本多正信の一生。

三河一向一揆に参加。
帰参が許されてるのに出奔。

松永久秀の元で働いたのち、足利義輝暗殺後に再度一向一揆に参加。
戦には弱いけど参謀として優秀。そして欲が無い。
異色の経歴を持つ徳川家の重臣、本多正信のご紹介です。




本多俊正の次男として三河で生まれる

南北朝時代に助定の代に足利尊氏に従い、戦功で尾張横根郡と粟飯原郡の地頭となり、室町幕府の奉行衆も兼ねた後に三河に移住した


元々は豊後本多郷(大分県)に拠点があったことから本多と名乗ったようです。


古くから松平氏に仕えた三河の譜代の家系である。


本多忠勝、本多重次と同じ一門です。



鷹匠としてキャリアをスタート

幼名・弥八郎。幼少より徳川家康に仕えたが、鷹匠という身分の低いものだった。

生活も苦しく、大久保忠世らから塩・味噌・薪などを恵んでもらっていたという。



鷹匠(たかじょう)
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。
家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。


桶狭間の戦いの際に今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い、その合戦において膝に傷を負う。


三河一向一揆に参加して徳川家と争う
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対した。


三河一向一揆
永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。
曹洞宗の勢力が強かった東三河は該当しない。
敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。



一揆は徳川譜代の家臣達も一揆側に回り、三河を二分するほど大規模なものだったが、1564年2月に家康はなんとかこれを鎮圧している。


馬頭原合戦の勝利で和議に持ち込み、一揆の解体に成功する。
家康は本願寺教団に厳格な処分を下す一方、離反した家臣には寛大な処置で臨む事で家中の結束を高める事に成功した。



信仰を捨てられない正信は徳川家に戻らず、大和の戦国大名・松永久秀に仕えた。
下剋上の代名詞、松永久秀の元で働きます。


松永久秀が足利義輝を殺害
松永久秀は正信のことを、「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したという


1565年に久秀や三好政康ら三好三人衆が将軍・足利義輝を殺害すると、正信は大和を去る


加賀の一向一揆へ
加賀に行き一向一揆の部将となっている。

100年に渡り加賀を支配した一向一揆
弘治元年(1555年)、永禄7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。



正信と政重が加賀の一向一揆の一員として織田家と戦い、その際に加賀で正信の妻(政重の母)を亡くした。


流浪の末、一向一揆の国・加賀に腰を落ち着けた男




諸国を流浪した末、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願
1569年に大久保忠世の取り成しで帰参(1565年頃や1582年頃という説もある)。


1570年の姉川の戦いにも参加したが、敵陣に深入りしすぎて味方に助けられている。


織田・徳川連合と、朝倉・浅井連合の戦い
「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になった




本能寺の変が起こった後、徐々に表舞台へ

本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている。


金品を多く持っていた穴山信君一行は、家康従者に強奪されることを恐れて別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害された。


伊賀越え
家康に随行していた供廻、僅か34名で堺から伊賀を超えて東国に逃れる



1584年の小牧長久手の戦いでは、家康の側近として従軍し、1586年には従五位下佐渡守に任ぜられた。


家康が旧武田領を併合すると、奉行に任じられて本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけ武田家臣団の精鋭を取り込み甲斐・信濃の実際の統治を担当した。


天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。



徳川家臣団の中でとんとん拍子で出世。



続きは http://matome.naver.jp/odai/2141198354335294801?page=2  







[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月07日 10時40分50秒 ) パスワード

1590年に徳川家が関東に転封となると、青山忠成らと共に、関東総奉行に任ぜられる。ここで正信は才能を発揮し、街造りなどで活躍した。



関ヶ原の戦い前後で、発言権が大きくなる

家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。



慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦及び川の増水に遭い、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。





所属していた本願寺の勢力を弱める

本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していた


本多正信が、「本願寺は、現実には表方(准如派)と裏方(教如派)に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。

それぞれで領地を分ける事によって、東西本願寺に分かれる事を決定づけます





幕政を牛耳る

1601年からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。



1603年に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するように




徳川幕府が開設

1605年に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。



慶長15年(1610年)には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進


徳川家中での権力闘争

あまりに権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。



同族の本多重次(鬼作左)も正信のことを快く思わず、本多忠勝からは「佐渡(正信は佐渡守)の腰抜け」、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」、榊原康政からは「腸の腐った奴」と散々な言われよう



慶長17年(1612年)の岡本大八事件で一時的に武功派の巻き返しを受けた

本多親子を中心とした文治派は一時衰退し、武断派が幕府内での実権を握るようになった。しかし慶長18年(1613年)の「大久保長安事件」を契機に再び力関係は逆転することになる



慶長18年(1613年)の大久保長安事件で大久保長安一党らを失脚させ、慶長19年(1614年)には政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった


家康が死去した3か月後、6月7日に家康の後を追うように死去

元和2年(1616年)4月、家康が死去すると家督を嫡男の正純に譲り隠居して一切の政務から離れ、6月7日に家康の後を追うように死去した。享年79。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月07日 10時45分07秒 ) パスワード

鷹狩というのは視察になりますからね。
表だった情報収集ですよね。

ということはレス<17>
本多正信は「表ルート」ですね。
で半蔵グループの「裏ルート」に指示を出していた?
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月07日 10時59分01秒 ) パスワード

http://kakuyomu.jp/works/1177354054880477032/episodes/1177354054880598533


四話 超高速・三河一向一揆



 昔々、ある所に、本多平八郎忠勝という少年がいました。
 代々松平家に仕える忠臣の家系ですので、平八郎も大真面目に忠義心を胸中に育みました。

 戦死した父の代わり育ててくれた本多の親戚一同も、同じように忠義心に溢れていると信じていました。

 ところがどっこい。

 本證寺に不法侵入した無法者を酒井正親という武士が逮捕した事件を契機に、守護不入の権利が侵害されたとして、一向宗が一揆を起こしたのです。


 本多家の大半は、昔から信仰している一向宗に加担すると決めました。


 平八郎は、親戚達の忠義心とは、信仰の義理と秤にかけて傾く程度の代物だと知りました。
「それじゃあ、二君に仕えるのと同じだろうがっ!!」
 平八郎は、信仰している仏教を、一向宗から浄土宗に改宗しました。
 平八郎は、単騎で岡崎城に戻りました。

 主君は、超絶喜んでくれました。


 平八郎は、何があろうとも、主君を守ると誓い直しました。
 本多平八郎忠勝は、以後引退するまで、主君の側から離れませんでした。





 昔々、ある所に、本多正信という少年がいました。

 リベラルな思考が大好きな少年で、本多一族だから忠義を尽くそうなんて古臭い風習には染まりませんでした。
 本多一族が槍働きを選ぶ中、正信は鷹匠としてスタートしました。

 この職業なら、上司と会うのは上司が丸一日遊興に費やすと決めた日だけで済みます(誇張)。

 ところがどっっこい。

 上司とはウマが合い、親友に成りました。
 知能が高いリベラル派同士、会話が尽きません。
 周囲から嫉妬される位に、仲良しになりました。

 だがしかし。

 三河で一向宗が既得権益を認めろと一揆を起こすと、親友との意見は真逆に別れました。

 親友は、一向宗の三河支部を悪徳宗教団体と見做しました。
 親友は、一揆に加担した寺を、僧も信者も丸ごと焼き殺す気でいました。
 正信は、デメリットを説いて過剰な報復を止めさせました。最近同居を始めた親友の実母も説得役に加えて、何とか温和な対策を納得させました。

 親友の暗黒面を見てしまった正信は、しばらく旅に出たくなりました。




 四話 ♪本多本多本多本多 超高速・三河一向一揆


 正月早々、西三河の一向宗勢力は、岡崎城に向けて進軍を始めた。

 本證寺の僧兵一千を本隊に、三河武士二千、松平傍流一千、今川の残党勢力一千、一般参加者二千、合わせて六千名の大軍が、岡崎城を目指す。

 本證寺から岡崎城までは二里半(約十キロメートル)の道程なので、日帰りの可能な一揆である。

 交通整理は自然と地元の三河武士の役割になった。




「はい、列を乱さないで。冬でも、田んぼに入っちゃダメですよ」
「食料は一向宗の方から十分に出ますので、略奪はしないで下さい」
「あくまで抗議活動ですからね。戦が始まるような真似は、可能な限り避けて下さい」

 

 一般参加者は、ロクな武器すら持たずに一揆に加わった者も多い。竹槍を持っていればいい方である。おとなしく、誘導に従っている。

 反家康の為に集まった松平傍流や今川サイドの武将も、今の所は大人しく交通誘導に従っている。彼らだけでは岡崎城を落とせないので、暫くは様子見に徹する。

 彼ら反家康勢力が事態の悪化・暴動化を望むとすれば、事態の改善・沈静化を切に願っているのが、この一向一揆の代表である本證寺・空誓と、その片腕の円光寺・順正だった。




「二千? まだ二千も残っているのか」
 岡崎城の兵力を聞いて、空誓は少しビビる。
 今日集まっている一向一揆の総数は六千を超えているが、期待できる戦力は、空誓の指揮には従いそうもないプロの武士ばかり。後は雑魚ばっか。
「やはり、勝つのは無理かな?」


 一向一揆の本陣で、空誓は本多正信に解説を頼む。

 本多正信は、軍師のポジションで空誓を都合よく制御する。
「今日この場では、岡崎城まで攻め込んだという実績を作っただけで十分。家康がそこまで危ない目に遭っていると知れば、三河全域で離反者は増えるでしょう」

 言葉の意味を空誓の頭に浸透させてから、戦略方針を徹底させる。

「後は各自が寺や砦に籠もって、反家康運動を続ければいいのです。各自が近隣を支配下に置けば、西三河は一年も経たずに一向宗の支配する土地に成ります」
 ぬけぬけと言ってくれるので、同じ潜入目的の鳥居忠弘ですら信じかけた。

(マジで裏切っていないか、この御仁?)

 殿の側近として付き合いの長い忠弘ですら、疑ってしまう。




 一向宗の間での正信の評判の良さは、家康家臣団内部とは真逆である。空誓からも、軍師として本陣に招かれる程の信頼を寄せられている。
 元の職業と同じく、本陣の雑用係にされた忠弘とは違う。
(いや、同業者だと嫉妬して、正信の智謀をマトモに評価できないのか)
 比較するのも馬鹿らしい程の扱いの差に、忠弘は正信への評価を改める。
(この男は、危険だ。味方であろうと)

 味方の九割以上が嫌がる策を出す時、正信の策は三河に勝利をもたらした。


 では、一向宗の三河支部代表に支持された正信の策は、何をもたらすのか?


 元々浮いていた正信の危険性の正体を、忠弘は目の当たりにしている。




「大規模の兵力で、このまま岡崎城を攻め続けた方がいい。何日かけようとも」
 順正が、正信への警戒心を露わに、話を蒸し返す。
 正信に冷たく見下されても、順正は自説を曲げない。
「解散して各自の砦に戻ってしまえば、各個撃破されるだけです」

 鳥居忠弘は、順正に同意見だ。

 そうされては不味いが。
 忠弘が内心で気を揉んでいると、三河一向宗の軍師から注釈が入る。
「家康が各個撃破に来たら、付近の砦から出撃して、包囲殲滅すればいい。城を攻めるより、相手を倒し易い」
「一向宗に、家康を包囲出来るほど機敏な軍事行動が取れますか?」

 順正は、あくまで正信の策の危険性を主張する。


 家康の巧みな用兵は、狼の様な織田軍の動きすら、平気で躱す。
「出来ないなら、そもそも戦国大名を相手に戦をするな」
 正信は、順正を無下に扱う。
「頼りにしております」

 黙り込む順正を脇に、空誓が揉み手で正信を持ち上げる。


(これが一向一揆の頭目かよ)

 鳥居忠弘は、顔に出さないようにしながら、うんざりする。どう見ても、家康と戦える男ではない。というか、軍事に関わるべきではない。
(やっぱり、宗教団体は軍事と無縁に限るよなあ)
 鳥居忠弘は、政治能力が2ポイント上がった。




 更にうんざりする事態が進む。
 下げた本陣の士気を本多正信は、さり気なく上げようとする。
「どうです。間近で見る岡崎城は」
 そう問われると、空誓は自信を持って答える。
「ショボいね」

 城塞寺院・本證寺と比べてしまうと、舐めた意見が口に出る。


 二つの川の合流地点にある丘陵地帯に造られているので、攻める方は極めて攻め辛い。
 ただし、囲んで兵糧を断つのは簡単である。


 一向一揆が大人数で岡崎城周辺に布陣した段階で、実は既に勝ったも同然なのだ。

「あんまり、見所の有る城じゃないね」
 しかし、空誓の目の付け所は、城の規模とか外観にある。
「あんな城は要らないから、とっとと用を済ませよう」


 岡崎城の名誉の為に追記すると、この後から増改築が進み、三重の天守閣を備えた見事な美城へと進化します。現在では、『日本百名城』で四十五番にランキングされており、空誓の感想は、一五六三年当時の古臭い物です。はい。




「では…」
 正信は、忠弘に視線を向ける。
「城に使者を出しましょう」
(帰れる〜!!?)
 と期待する忠弘に、正信は『うんざりする要件』を付け加える。

「いいか、忠弘殿。空誓様の書状を届けるだけではないぞ」

 正信は、忠弘の視線をガッチリと捕まえて言い渡す。
「岡崎城に着いたら、瀬名姫を保護しなさい」                    築山殿???
 何を言われているのか、鳥居忠弘のキャパシティを超えている。

「え?」
「え?」
 空誓まで、頭がショートした。


 構わず、正信は重大かつ余計な用事の必要性を述べる。

「この一向一揆には、今川方の武将も少なくない。彼らは、我ら一向宗に協力はしても、命令は聞かない。彼らに言う事を聞かせるには、瀬名姫を手に入れておくのが肝要だ。それに岡崎城に居るより、今は空誓様のお側に置く方が、瀬名姫も安全だ」

 空誓が、頬を赤く染める。
 顔がエロい。
「えええええええええええええ」


 正信の表向きの言い分と裏の目的を一挙に理解してしまい、忠弘は動揺しまくる。

(いいのかこれ? いいのか? 確かに持て余しているけど、いいのかこれ?)
 パニクる忠弘に、正信は優しく助言する。
「大丈夫」
 こういう時だけ、正信は優しく微笑む。
「後は、家康の判断する事だから」




 使者として馬で岡崎城に戻ってきた忠弘を、兄の元忠が城門の外に出て迎えてくれた。

「来てくれたんだね! 兄さん!」
「この不忠者めがっーー!!」
 再会するなり、兄は弟の顔に右ストレートを打ち込んだ。
「殿を裏切っておきながら、よくもノコノコと顔を」
 弟に馬乗りになってマジに連打。
 偽装目的の三文芝居でも、本気で殴る兄だった。
「…元忠殿。使者を殴るのは、いけません」



 服部半蔵が止めて、元忠はようやく連打を止めた。                ココで半蔵?

 舌打ちをして退くと、親の仇でも見るような形相で弟を睨む。
「命拾いしたな、裏切り者め。用を済ませたら、この兄に殴り殺されに戻って来い」
「嫌だよ馬鹿野郎!」
 兄の顔を蹴り返し、半蔵の後ろに隠れる。

 元忠は、気絶したふりをして、倒れる。

「あんたなんか、大っっ嫌いだ!!!!」
 鼻血と号泣の混じる、演技の必要の全くない叫びだった。
 どう見ても、敵味方に本当に別れた兄弟に見える。
「…やり過ぎだ」
 半蔵ですら、思わずつぶやく。

「やっぱり? やっぱり、あの馬鹿兄貴は、やり過ぎなのですね? そうだと思っていたんだ!! ずっと! いつも! 毎日!」
「うん、いいから、早く用を済まそうな」

 計画が狂わないように、半蔵は事を進める。

 

 岡崎城から使者の鳥居忠弘の乗る馬が、真っ直ぐ一向一揆の本陣へと帰って来る。

 同時に城から降りてきた『如何にも高貴な女性を護送する一団』が、一向一揆の陣に沿って西へ向かう。
「あれが瀬名姫? どうして本陣にお連れしないの?! 拙僧に顔を見せずに、本證寺に行く気か?」
 空誓に責められて忠弘は、家康に言われた通りの台詞を述べる。


「家康は、瀬名姫が充分に城から離れた頃合で、攻めに出るつもりです。本陣は狙われますので、瀬名姫様は、先に本證寺に向かわせました」
「…ああ、そう」
 岡崎城から本證寺まで、どうせ日帰り出来る距離である。
「まあ、今夜には、全部拝めるか」
 空誓は、下心を落ち着かせる。


 家康からの返書を受け取り、封を開けて中身を確認する。

「・・・」
 家康からの書状には、『厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)』とだけ書かれていた。浄土宗の用語であり、家康の馬印に揚げられている文言である。
「今の世は戦乱で穢れきっている。平和な浄土を今の世に作ろう」という意味で、家康の戦争でのポリシーを内外に伝えている。


 最終的に戦国時代そのものを終焉させようという大望を、家康は武装した宗教団体の首魁に、そのままぶつけた。

「…どういう魂胆だ」
 何か重大な問いを掛けられた事を悟り、空誓は返書を見詰める。

 空誓が、何を相手に戦を始めたのか徐々に理解し始めた頃。 

 本陣の外縁から、戦いの喧騒が聞こえ始める。
 隣席の本多正信が、腰を浮かす。
 空誓は、本陣が攻撃される事を思い出す。
「ああ、すまん、号令を出すのは、拙僧だった」

 正信の方には、空誓を気にかける余裕が無かった。

 より正確には、余裕が全く無くなった事を自覚したのは、本多正信だけだった。
「ふうん、そうかあ。彼奴め、手加減無しか」
 空誓その他の本陣スタッフの視線が、正信の視線の先に集まる。




 岡崎城から本陣まで、真っ直ぐに、単騎が突き進む。



 鳥居忠弘が通ったばかりなので、岡崎城から本陣までの道筋は、瞭然。
 その道筋を一騎の武者が、血の道に作り変えている。
 馬から降りずに、駆け足で本陣を突き破っている。
 鹿の角を付けた黒漆の兜を被り、肩から大数珠を提げた三河武士は、誰も近寄らせない。
 単騎で軍勢の本陣へと平気で入って来る三河武士は、進撃速度を鈍らせない。
 多勢に無勢という言葉を無意味にする三河武士は、一人しかいない。

「平八郎…」

 敵として本多平八郎忠勝を正面から遠望し、正信は冷や汗しか出ない。


 空誓は、自分の観ている光景に、度肝を抜かれて惚ける。
 本多忠勝が馬上から振るう長槍が、近付く者を一合に及ばず薙ぎ払っている。
 通常の長槍(約四・五メートル)よりも五尺は長い二丈余(約六メートル)の攻撃範囲を誇る上に、曇りなく輝く笹穂型の槍身が、壮絶な斬れ味を発揮している。
 鎧も武器も、その槍身の前では豆腐も同然に断たれていく。

 稲妻が天地を切り裂くように、本多忠勝の騎馬が本陣を貫いていく。

「これが『蜻蛉切』の威力か」

 正信は、忠勝に蜻蛉切を任せた家康の判断に呻く。

 半蔵や守綱の個人技では、こういう威力は出ない。
 武将として、敵陣の何処を突けばいいか瞬時に見抜ける忠勝だからこそ、この芸当が可能なのだ。

「忠勝の才能を、自分は少しも見抜けなかった」

 人を見る目でも叶わない事に、正信は痛快な敗北感を感じる。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月07日 11時00分39秒 ) パスワード


 弓で狙おうにも、大軍の中なので、外れると味方に当たる。それでも構わずに放つ矢も、忠勝は蜻蛉切で難なく振り払う。

「…鉄砲は?」

 単騎で流血山河を作りながら接近してくる忠勝に、空誓は至極当然の打開策を推す。

「こういう時には、鉄砲だろ?! 鉄砲を持っている奴は、彼奴だけを狙え!」

 空誓の命令は実行に移されなかった。

 一向一揆勢の中で鉄砲を持っている者・総勢三十二名は、忠勝の突撃と同時に、潜入していた伊賀忍者に暗殺され、鉄砲を没収されていた。




 空誓の目に、鼻毛が見える距離にまで、忠勝が近付く。その後ろに倒れている屍の数は、数える気にもなれない。

 もう怖くて、誰も忠勝を攻撃しようとしない。

「正信っ!!」

 年下の忠勝に呼び捨てにされて、正信はうんざりする。

「俺と勝負しろっ、正信っ!」

(私怨で此処まで来たな、この馬鹿野郎)

 本当なら、家康の本隊と共に出撃のはずだ。

「お前だけは、俺の手で討つっ!」

 武人として純情な忠勝にとって、正信の戦略は吐き気がする下策である。殴りたくなるのも、理解はできる。

「手向いはしない。勝手に殺せ」

 正信は武器を構えず、忠勝の挑発を適当に流す。

 忠勝が馬上から、思い切り正信を怒鳴りつける。

「武器を取らない奴を殺せるかっ、この腹黒野郎っ!」

 忠勝がデビューしたての蜻蛉切を振り回すと、空誓が大将としての根性を見せる。

「この仏敵めが!」

 友達の正信を助けようと、大きな鉄棒を振るって攻め掛かる。

 忠勝は一振りで鉄棒を払おうとするが、逆に蜻蛉切を弾き返される。

 本證寺十代・空誓、意外と怪力である。

「仏敵退散!」

 勢いで攻撃に出る空誓に続いて順正が、鉄棒で馬に殴りかかる。僧兵を率いて武家に挑むだけあって、こちらも怪力自慢。

 忠勝は、今日初めて足止めを食らった。




 忠勝が怪力僧二人を相手に遊んでいる間に,渡辺守綱は岡崎城の門前に姿を晒す。

 身内相手の戦いなので適当に観戦する気でいたが、蜻蛉切が後輩の手で華々しいデビューを飾ったのを見て、嫉妬で頭に血が上った。

 来なくてもいいのに、城門まで進んで目立とうとする。 

「悔しいか?」

 門前で、服部半蔵が鬼面で揶揄う。

「敵として見ると、憎たらしいな、その鬼面」

 守綱は馬から降りて、半蔵に槍を向ける。

「お家芸の鬼退治でも再開するかね?」

 半蔵も、短槍二本を両手に握って相対する。家康から拝領した持ち槍を、三河武士の血で汚さない為の装備変更である。

 岡崎城の内外で、トップクラスの武将同士の対決に盛り上がる。




米津「俺、半蔵に二百文」

内藤「半蔵に矢を五十本」

榊原亀丸「半蔵殿に、十文」

鳥居元忠「守綱に具足一組」

大久保忠世「半蔵に餅三つ」

酒井忠次「半蔵に米二俵」




「俺に賭けなかった奴、覚えていろよ!」

 守綱が、城内に怒声を投げる。

 服部半蔵の方から、仕掛けた。

 左右違うタイミングで繰り出される短槍の旋風が、守綱を防戦一方に追い立てる、ように見えた。

「緩いぞ、半蔵」

 周囲の目には全く見えない隙を突いて、守綱が半蔵の腰に蹴りを入れる。

 ちょっとムカついた半蔵は、素早く動いて残像攻撃を仕掛ける。

 傍目には半蔵の姿が四五人に分裂したかのように見えたが、守綱は引っ掛からずに同じ場所を蹴り飛ばす。

「だから緩いって」

 かなりムカついた半蔵は、本気で機動する。

 守綱の眼前から、半蔵の姿が消える。

 守綱が大きく仰け反って身を躱す。

 上空から襲い掛かった半蔵の刃が、守綱の右頬に傷を付ける。

 顔からの出血に、守綱からクレームが入る。

「本気を出すなんて、酷いじゃないか」

「もっと手加減して欲しいのか?」

「いや、しなくていい」

 守綱が、槍を本気で構える。

 殺気が練り上げられ、一撃放必中で心臓を貫きそうなオーラを発しながら、半蔵に狙いをつける。




 そのタイミングで、岡崎城の城門が開く。




 松平家康が、戦装束で姿を現す。

 背後には、出撃準備を整えた二千の三河武士。

「守綱!」

 武器を構えずに両手を拡げて、家康は満面の笑顔で守綱に語りかける。

「一緒に岡崎城に帰ろう!」

 フレンドリーな家康を見て守綱は、三文芝居の段取りを思い出す。

「い、いえ、そのう、殿。自分は〜」

 本多正信と打ち合わせていた台詞を忘れて、守綱はオロオロする。

(え〜と、台詞を言ってから投降。台詞を言ってから投降)

 台詞が出てこないので、家康の方でアドリブを利かせる。

「何も言わなくていい! 全部許すから、そのまま帰って来い!」

 主人に情けをかけられて、守綱のプライドがグラグラと揺らぐ。

(なんか、おれ、お使いも出来ないバカみたい)

 見かねた半蔵が、親切で申し出る。

「台詞は俺も覚えているから、教えようか?」

 プライドにもう一撃喰らって、守綱が半泣きしながら逃げ出す。

 逃げる守綱を、家康が追いかける。

「待て、守綱! どうして逃げる?!」

「会わせる顔が、ございませぬ〜!」  

「待て〜!」

 一向一揆に参加した三河武士の中で最強の男が、家康に追われて逃げ出している。その光景は、一向一揆勢の士気を更に下げた。予定とは違うが、効果は絶大。

 加えて本陣では…




 後先考えずに鉄棒で連打を続けた怪力僧二人の息が、上り始める。手を緩めたら『蜻蛉切』で反撃されてジ・エンドなので必死に鉄棒を振り回していたが、それも限界。

 本多忠勝は、冷静に防御から攻撃に転じようとする。

「待った!」

 本多正信が、間に入って忠勝を止める。

「何だっ? 舌先三寸は、効かないぞっ」

「それは知っている」

 正信は、忠勝の気性をよく心得ている。

 たぶん、本人より。

「空誓殿。撤退しましょう」

「い、いや、しかし」

「本多忠勝は、逃げる者を討ったりしません。追い首は大嫌いなのです」

「あっ、こらっ」

 忠勝が慌てる。

 空誓の目に、理解の火が灯る。

 鉄棒を捨てると、本證寺までの撤退を叫んで走り出す。

「撤退だ! 撤退しろ! 皆、元の砦まで逃げろ!」

「待てっこらっ」

 呼び止めようと、みんな忠勝を怖がって逃げていく。

 合わせて家康の本隊も岡崎城から出た。

 家康に対して好戦的な部隊も、ここまで足並みが乱れた状態で仕掛けたりはしない。一揆代表者のお勧め通り、各々の本拠地に戻ろうと転進する。

 逃げる者を背中から攻撃出来ない忠勝は、まだ声の届く距離にいる正信だけを追う。

 片足の不自由な正信は、すぐに追い付かれる。

「正信っ」

「何だ?」

「お前、一向宗と心中する気かっ?」

 忠勝の理解では、家康は帰参者に対して無条件で許す肚である。

 それを知るはずの正信から、忠勝は本当の戦意を感じる。だからこそ、槍を向けた。

「殿は傷つけないし、一向宗の門徒たちも、可能な限り守る。両方出来るのは、俺だけだ」

 一向宗門徒としての本多正信は、非常にストイックで同胞思いだ。

 正信だけは、主君か宗教かの二択ではなく、両方の面子を立てようと心を砕いている。

 忠勝は、この三河一向一揆で最も葛藤しているのは、正信自身だと理解する。

 既に苦戦している相手に、喧嘩を売る忠勝ではない。

 たとえ大嫌いな正信でも。

「殿の所に帰る。伝言はあるかっ?」

 どうやら忠勝が見逃してくれそうなので、正信は安堵しながら好意に甘える。

「手加減無用と、伝えてくれ」 




「イヤミか」

 伝言を聞いて、家康が呻く。

 親友である正信がどう言葉を尽くしても、一向宗への特権を認めずに対決を選んだのは家康だ。

 特権を認めてしまえば、三河は大きな伏兵を内に飼う事になる。

 将来、武田や北条との戦になれば、軍閥と化している一向宗三河支部が、内応する可能性が高い。

 一国の主として、家康は潜在的敵対勢力を看過出来ない。

(それを分かった上で逆らうのだから、お前の信心は筋金入りだ)

 家康が、爪を噛み始める。

 正信を失いたくないので降伏の条件を下げまくったというのに、当の本人は最後まで戦う気でいる。

 他国との大戦の際に裏切りそうな勢力を炙り出すには丁度良い内紛ではあるが、一番の知恵袋に死なれては、採算が合わない。

「攻め時ですぞ、殿」 

 家老・酒井忠次は、そういう機微を知った上で、家康の意識を目前の戦場に引きずり戻す。

 先刻まで岡崎城を囲んでいた大軍勢は、バラけて家康に背中を見せている。ど素人の僧兵を大将に頂いた一向一揆は、殿(しんがり。軍の最後尾を守る部隊の事。死亡率が極めて高い)も決めずに、撤退を始めた。

 どの陣営を壊滅させるのも、今なら容易である。

「さあて、では…」

 三河で家康に靡きそうにない軍勢の背後を突こうと向けた視線の先で、一隊が踏み留まっているのを見咎める。

 どうも、自主的に殿を務めようとしているように見える。

「…忠次。あれは、殿(しんがり)のつもりで間違いないか?」

 忠次は、意見を求められて正直に答える。

「間違いなく、殿の動きです」

 その一隊は、家康の軍勢の真正面に位置している。

「何故だ!?」

 家康が激昂して、爪を噛み始める。

 三河衆が死なないように手を尽くしているのに、わざわざ一向一揆を守るために命を張ろうとする者もいる。その頑固さに、家康は腹を立てる。

「邪魔ですから、一揉みに殺しますか?」

 忠次が、甥の癇癪をブラックジョークで揶揄う。

「内藤正成を呼べ」

 家康は、相手の身内に処理を委ねた。




 石川十郎左衛門は、口数の少ない三河武士だ。

 石川家の面々が忠義と信仰の板挟みにされて『日和見』を選んでも、わざわざ嫌味を言わなかった。

「三河衆は、仏敵と戦うのが嫌ですか?」

「家康は、仏にはほど遠いですぞ。あんな喰わせ者より、仏への信心を欠かさずに」

「宗門を裏切ると、地獄に落ちますぞ」

 僧兵共の下らない挑発や扇動も、捨てて置いた。

 相手にするには、レベルが低過ぎる。

 殺しても、手柄に成らないし。

 石川十郎左衛門は、僧兵たちが分不相応の相手に挑んで殺されるに任せた。

 実際、本多忠勝による僧兵の大量屠殺は痛快だった。

 宗教を盾にした極道者たちの末路は、刃の錆に尽きる。

 石川十郎左衛門が主と見込んだ男は、戦場から悪性の者だけを排除していく。

(良い手際だ)

 石川十郎左衛門は、主に惚れ直した。

 事態が変わったのは、主が岡崎城から出撃してからだ。

 見慣れた婿殿の長弓の隣に、孫の長弓が並んでいる。

(正貞…)

 主が渡辺守綱を追い回し、一向一揆の本陣が撤退を始めた頃。

 石川十郎左衛門は、孫の初陣を敵陣から見る羽目になった。

 途端、日和見を貫いて撤退しつつある無様な陣営に属しているのが、耐えられなくなる。

(こんな姿を見せる訳にはいかない)

 石川十郎左衛門は、孫への見栄から覚悟を決めてしまった。




 内藤正成は、長男を伴って本隊の進路上に立ち塞がった舅の部隊に向き合う。

 たった二十名の兵を率いて殿に回る覚悟は見事だが、本人以外はガクブルである。

 正成は、投降勧告をしてみる。

「舅殿! 殿のお役目、見届けましたぞ! 見事です! 某に降ってくだされ!」

 石川の部下たちは早々に武器を置いて座り込むが、舅は槍を持ったまま歩を進める。

「孫の前だ!! 三河武士の根性を見せる!」

 舅は大喝し、一人で進軍する。

 どうやら、孫の前で華々しく散る覚悟のようだ。

「爺様…」

 正成の長男・正貞は、祖父の意地の張り方に、焦れた。振り返ると後方の主君が、半蔵並みに怖い顔をしているのが分かる。

「舅殿。邪魔ですよ」

 付き合っていられないので、内藤正成は弓を放つ。

 舅の右膝に、矢が刺さる。

 殺さずに戦闘力を奪うためだが、舅は片足でも進軍を続ける。

 正成は、左膝にも矢を放った。

 石川十郎左衛門は前のめりに倒れ、倒れても這って進もうとする。ここまで根性を見せられると、褒めるしかない。

「正貞。爺様を生け捕って、手当てしてやれ」

 正貞は、泣きながら爺様の手当てに駆けた。





「老兵は満足したようですな」

 酒井忠次は、時間のロスを殆どせずに殿を排除できたので、平常心だった。

「俺は全く満足していない」

 忠次に不機嫌を隠さず、家康は寸止めされていた殺意を号令に乗せる。




「殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せーー!!

 家中を割るように唆す奴らを殺せ!

 一族同士で戦わせる事を信心の証と抜かす似非坊主共を殺せ!

 この岡崎城を攻めた僧兵どもを、根絶やしにせよ!!!!」




 松平家康は、攻撃を僧兵のみに絞った。

 親友の助言に従い、一切手加減をしなかった。




 背後から駆け足で押し寄せる軍勢を見ても、本證寺の僧兵部隊は未だ足を速めていなかった。

 悪名高い信長の『比叡山延暦寺焼き討ち』が起きるのは八年も後なので、僧兵戦力の殲滅を第一に家康が行動しているとは、全く考えていない。

 早く立ち去るように、脅しをかけに来たとしか、考えていない。

 武装しているとはいえ、背中を見せている聖職者を討ちに来たとは、思わない。

 彼らが仏よりも家康を選んだ修羅である事を、実感出来ていなかった。

 警戒心の強い順正は、これが本気で殺戮をしに寄せて来た軍勢だと気付く。

「貴様、殿を決めなかったのは、これが狙いか?」

 順正が、馬を都合して先に逃げようとする正信に詰め寄る。

「殿を決めなかった? バカを申すな。言い出しっぺの我々が、こうして殿を務めているではないか」

 睨む順正に正信は、しれっと返す。

「我々の犠牲で、一般門徒は助かる」

 家康はこの程度の軍勢に敗北するような将ではないし、僧兵が戦死するのは自己責任だ。

 本多正信が今日この戦場で守りたいのは、無防備な一般門徒である。

(死ぬのは、殺し合いを稼業に選んだ者だけでいい)

 正信は、友である家康と敵対してまで、その美学を貫く。

 順正には、正信を追求する時間は与えられなかった。

 既に、矢が届く距離まで、家康の軍勢は詰めている。

「皆の衆! 全速力で逃げろ!」

 順正の叫びに呼応する僧兵は、少なかった。

 順正が臆病風に吹かれる者ではないと知る者だけが、足を早める。

 一向一揆の本隊である本證寺の僧兵部隊一千名は、後ろから押し寄せた家康の軍勢二千名に、手早く刈られていく。

 後方の惨状を見て、武具を捨てて全速力で西へと走った者だけが、本職の刃から逃れる事が出来た。

 家康は岡崎城からあまり離れないように兵を動かしたので、追撃した距離はそれほどでもない。それでも僧兵部隊は、この攻撃で壊滅した。

 僧兵たちの末路を見た一般参加者たちは、二度と一向一揆に参加しなくなった。




 空誓他五十名程の敗残僧兵だけが、日没直前に本證寺に帰り着く。

「大丈夫だ。勝つぞ。勝つぞ。今日がダメでも、最後には勝つぞ。減った兵力は、全国の信者から幾らでも補充でき…」

 生き残りを励ましていた空誓は、夕陽に混じる炎上風景を見て、愕然とする。

 本證寺が、大火事。

 寺の人員は、総出で消火に当たっている。

 ひょっとして家康の別働隊が先回りしたのかと周囲を見回すが、戦の焼き討ちではないらしい。

 火事を遠巻きに見ている本多正信(馬で逃げて先に着いた)に聞いてみると、アホな事情が分かった。

「本證寺に逃げ込んだ瀬名姫様の一行が、茶湯を飲もうと火を起こしたら、火事になってしまったそうだ」。

 空誓は、安堵した。

「なあんだ、事故か」

「そんな訳あるか!?」

 順正が、空誓を蹴り飛ばす。

「騙されたのですよ! その瀬名姫は偽者に決まっている! 敵の間者ですよ!」

 正信は、大真面目な顔で主人の正妻を弁護する。

「でも、失火して申し訳ないからと、侍女達と一緒に桶で水をかけていなさった」

 空誓が感動し、順正が疑心暗鬼をちょびっと反省すると、追加情報。

「でも、ドジっ子なのか、水じゃなくて油を桶でかけてしまったそうだ」

 本證寺が、燃え落ちる。

 空誓が、気絶する。

 順正は、憤激しながら瀬名姫一行の姿を探し始める。

「何処に居る?」

 犬歯をむき出しにして正信に尋ねると、正信は首を傾げる。

「分からん」

 順正は威嚇の唸り声を正信に浴びせてから、去った。

「…本当に分からんのに」

 正信は、瀬名姫の動向に沈考する。

 家康なら、寺を焼くような指示は出さない。

 瀬名姫の独断である可能性が高い。

 だとしたら、相当に危ない気質の持ち主である。

(やはり、余計な情けだったかもしれぬぞ、半蔵)





 空誓達と出会さないように北周りの迂回ルートに入った瀬名姫&侍女一行は、今後の動向を再確認する。

「京の親類を頼る選択肢は、本当に選ばないのですね?」

 月乃の問いに、馬上の瀬名姫は首を横に振る。

「子供二人と暮らせる場所に残ります。焼き討ちの手柄で、待遇改善も期待できましょう」

 焼き討ちを指示した人物とは思えない、涼しい美顔。

 一向一揆が収まるまで、三河から京へ避難させようという家康の気遣い(厄介払い)を、瀬名姫は焼き捨てた。この状況でわざわざ一向宗の寺を焼くなど、まさに火に油を注ぐ行為。

 これを家康が功績と認めるか悪質な妨害として怒るかは、月乃には判断不能。

 瀬名姫に乗せられて「ひゃっほー!」と焼き討ちに加担した更紗や陽花も、今は半蔵の反応を気にして気落ちしている。

「だから自分は反対したのです」

 夏美が日没にお似合いの昏い顔で言い立てるが、瀬名姫は聞き流す。

「一揆の決着が、岡崎城の戦いで着いていたら、これは余計な破壊工作です。僧兵が戦で殺されるのは自己責任ですが、寺を焼くのは多くの反感を買います」

 夏美の指摘に、更紗は心外そうに反論する。

「一棟しか焼かなかったぞ」

 夏美が、化け物を見るような目で更紗を見返すが、更紗は主張を続ける。

「この下柘植更紗とオマケの音羽陽花が、敵陣に潜入したのに一棟だけしか焼かなかった」

 そして更紗は、無表情ながらも聞き訳のない愚か者を見る目で、夏美に問う。

「慈悲深いとは思わんか?」

「お前、三河在住の門徒の家を全部回って、『更紗は放火する時は全焼狙いですが、今回だけは一棟で済ませました』って、自己弁護してみろや」

 夏美と更紗が不毛なデスマッチを始めかけたので、陽花が止めに入る。

「人聞きが悪いですよ、あれは失火です。放火じゃないです。うっかり火が出てしまっただけです。焼き討ちに同意なんてしていません。水の代わりに、油をかけてしまっただけなんです。そういう事にしましょう」

 陽花がマジに泣き入れているので、一行は事情を察する。

 音羽陽花の家は、曾祖父の代から熱心な一向宗の門徒である。

「南無阿弥陀仏って唱えておけば、何でも許してもらえる教義じゃなかったかしら?」

 瀬名姫が、うろ覚えの一向宗知識を持ち出して慰めようとする。

「家族に知られたら、火薬の調合を手伝ってもらえなくなる!」

 信仰心とは、あまり関係がない苦悩だった。

「後方、来ています」

 夏美が、街道後方からの集団駆け足を聞き取る。

「駆けます」

 月乃は瀬名姫の馬を誘導しながら、駆け足に入る。

 女忍者四人の走法は、後方の集団との距離を縮めさせない。

 やがて陽がほとんど差さなくなり、後方集団の人数が松明で明らかになる。

 松明の数だけで、二百は越している。

「逃げられますか?」

 瀬名姫の問いに、月乃は即答する。

「可能です」

 その返事に、残念そうな顔をした気がして、月乃は悪寒を覚えた。




 背後の松明の群れが、大きく揺らいで、止まる。

 諦めたのではなく、何者かに襲われている。

 夜道に、「鬼が出たー!」「鬼っーーーー!!!!」「おかあちゃ〜〜ん」という叫びが聞こえた。

 やがて、松明の群れは一斉に引き返し始める。

 誰が助けに来たのか分かって、月乃たちは走法を通常の歩行に戻す。

「いいわねえ。あなた達の旦那は、すぐに助けに来るから」

 瀬名姫のボヤきに、月乃達はニヤけ笑いを隠せなかった。





 その後の三河一向一揆は、家康の軍事的手腕を思い知らされるだけのイベントだった。




 家康に味方する三河武士の城や砦を囲む。

  ↓

 家康が救援に来る。

  ↓

 家康を取り囲もうとする。

  ↓

 家康を包囲できず、各個撃破される。




 これの繰り返しの一年となった。

 一揆側の指揮官がどう頑張っても、家康の軍を複数の部隊で包囲する事は出来なかった。

 

 ならばと初日のように大人数をまとめて岡崎城の再包囲に向かっても、本多忠勝が蜻蛉切装備で姿を見せると、皆が戦わずに逃げ出してしまう。

 アホみたいに連戦連敗でも本證寺・空誓が戦いを続けられるのは、全国の一向宗門徒が応援に駆けつけてくれるからだが、それにも限界がある。

 一向宗の本店である石山本願寺から、家康との和解に応じるように勧告が来た。




「三河支部を見捨てるつもりかあ〜〜??」

 空誓が本願寺の使者に詰め寄るが、正信が止める。止めつつも、使者に弁を向ける。

「連敗中ですが、何年も一揆を続ければ、相手が根負けします。一揆を永く続ける事こそが…」

 使者、下間頼廉(しもつま・らいれん)は正信の弁を、片手を上げて遮る。

 並の使者では正信に言い包められると見越して、本願寺は破格の人物を直接出向かせた。

「尋常なら、そうする。それで問題は無い」

 実際に越中や加賀の一向一揆は、八十年以上も続いている。

 本願寺のボス顕如に仕えて名高い軍事顧問は、三河支部のプライドを傷付けないように、三河放棄の最終決定を伝える。

「空誓殿に落ち度が有る訳では無い。本多正信にも、失策は無い。相手が上杉謙信に匹敵する名将であると分かった以上、三河での一向一揆は無駄だ。手を引く」

 空誓は、右手に握った順正の遺髪(開戦から一ヶ月で戦死)を振り回して、抵抗する。

「仏敵が強いからといって、退くのが本願寺ですか? 血を流している同志を見捨てるのが、顕如の考えですか? なら、顕如が三河で戦って、拙僧を本願寺の…」




 下間頼廉が、空誓の肩に手を置く。

 気安く窘めている様にも見えたが、そのまま握り締めて鎖骨を折る。

「同志故、一度目の非礼は此れだけで済まそう。二度目は、首の骨を砕く。墓にも入れずに、野に捨てる」

 苦痛に泣き崩れる空誓を放り、下間頼廉は正信に向き直る。

「本多正信。松平家康との和解が済み次第、本願寺まで足を運んで欲しい」

 下間頼廉は、無表情だが熱の篭った視線を、正信に向ける。

「名将との戦い方を、我々は学ばねばならない。三河一向一揆の経験を、本願寺に伝えて欲しい」

 断れそうにないので、正信は長旅を決意する。

 本多正信が再び三河に戻って来るまで、十八年も掛かるオデッセイに成るとは、知りようもなかった。





 服部半蔵は、再建中の本證寺に下間頼廉が現れたと聞いて、久しぶりに父・保長(やすなが)に意見を求めた。

「奴ら、珍しく三河から撤収するつもりです。本気でしょうか?」

 縁側で将棋を指しながら話題を振ると、父は半蔵の陣営を八つ裂きにした。

「弱くなったな、お前。昔は皆殺しにする気で指しておったのに」

「…城務めで遠慮深くなったもので」

「宮仕えは、油断すると直ぐに外の様子が分からなくなる。己の手仕事ばかりに夢中になるからな。それは、足利将軍に仕えた頃に、わしも経験した」

 父は、二戦目の用意を始める。

 自陣に通常の三倍の駒を揃えたので、半蔵は危うく卑怯者と叫びそうになった。

「全国に少なからぬ信者を持つ一向宗は、その気になれば何十年でも戦える。三河でも、そう出来たはずだ。それが、僅か一年で逃げ支度を始めた」

 父は、三倍の駒で普通に半蔵と二戦目を開始する。

「ネズミが地震の前に、危ない場所から逃げるのと同じだ」

 半蔵は、桂馬を父の王将に投げ付けて排除しようとする。

 父は、難なく指で受け止めて王将を守る。

「その手が通用しない相手だぞ」
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月08日 01時22分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一向宗というものを調べてみました。かなり面白い人脈がみられます。
 日野家から親鸞、蓮如、顕如が出ているということ自体がすごい。
 顕如と武田信玄と細川晴元が、それぞれ三条公頼の娘を娶り、三人は義
兄弟となっております。
 顕如の子の教如は朝倉義景の娘を娶っています。
 そして、子孫は今上天皇家と姻戚関係でつながっています。

 明智光秀は、明智城陥落後、この朝倉義景に一時仕え、やがて足利義昭
を織田信長に引き合わせ、自分も信長の配下となります。

 本多正信は三河一向一揆の後、松永久秀に一時仕えた。松永久秀には柳生
宗厳が仕えていた。たぶん、柳生一族とのコネクションができたものと推察
いたします。また、伊賀忍者とも同様にコネクションが開けたものと推察い
たします。
 一年程で加賀一向一揆へ加わります。一向宗は本多正信の精神的支えであ
ったと推察いたします。

 一向宗を深く探求する必要があると感じています。そして、足利義晴、
義輝、義昭関係も並行して探求する必要を感じています。

 服部保長は義晴、服部中保次は義輝、明智光秀は義昭に仕えています。
 時代背景を理解しなくてはなりません――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月08日 14時23分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


本多正信という人物にはやっぱり不気味なものを感じます。
まだ  コレ!  というものに行き当たってないです。
でも  アヤシイ!  というのは感じます。

一体どういう人物だったのでしょうね。



今日は「趣味ドキ!」という番組か?龍潭寺と井伊直虎の番組を見ました。

龍潭寺はリッパですね。さすがでした。
井伊谷にも驚きました。方向音痴なので  え?ここ!  という意味で。全く違う場所を想定していました。


龍潭寺の庭のアズマヤ?白い建物と直虎の墓には感ずるものがありました。
   彼女はここにいる
というのを感じました。


また龍潭寺にいらっしゃることがございましたらワタクシの分も般若心経をお願いいたします。


だっけど!
井伊家のお話は人間関係がゴチャゴチャになりますよね。
みんな  井伊姓で  カタキ役が  今川家関係  ですから。
来年の大河にはついて行けるのか今から気分は落伍しています。

またしっかり読み直しますね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月08日 23時44分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 自宅のこのパソコンのインターネット接続状況が余り思わしくなく、不安
をかかえております――

 さて、龍潭寺といえば、私の姉の仲人が小野氏で、祖先は井伊家に仕えて
おりました。家老として今川に忠実であったのが災いして逆賊になってしま
いまいたが、一族としてはその後も井伊家に仕えておりました。
 その子孫が、一年に一度、龍潭寺に墓参りで集まり、親交を重ねているそ
うであります。

 墓といえば、龍潭寺に松下家の墓もあります。姉は神ケ谷の松下で、この
井伊家に仕えた松下一族と関係しているように思われます。
 そして、松下家は服部家と関係していたということが推察されます。神ケ
谷=大久保の代官屋敷の代官は、服部政信家の後、服部中家が明治まで代官
として続いた……松下と服部は婚姻関係で結ばれたように思われます。なぜ
ならば、この松下家の家紋は「丸に並び矢」であるからです。

 人間の出会いは偶然でなく、見えない運命の糸で操られているということを
感じます――

 蓮如については、一度深く探求してみます。「一向一揆」というのは、想
像以上の社会現象であったようですので、そのパワーの源泉は何だったのか
ということを探りたいと思います。

 本多正信は一向宗であったことにより、後の一向宗を二分して抑えるとい
う作戦に寄与したと思われます。一向宗へのパイプが正信が重用された一因
かも知れません。それだけ、一向宗への恐れがあったということでしょうか。

 浄土真宗(一向宗)とは何か――法然が浄土宗、その弟子が親鸞で浄土真宗。
法然は秦氏であったといわれています。浄土宗は景教が下地にあるといわれ
ております。従って、浄土真宗も景教が下地……ということは、キリスト教
的要素があった……一向一揆の根底には、キリシタンの殉教者のような信仰
心があったのでしょうか?
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月09日 02時31分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


PCの不調には振り回されますね。
ワタクシはかなり諦めました。
窓8で不安定ですし。

エンエンと書いてて一瞬で消えるのには、もう、頑張れなくなっています。
自分で何かしたのでしょうけど、いつもと同じように使っているるもりなのですが。


 
松下氏で並び矢というのはどこで替えたのでしょうね。
やはり縁組でしょうか?
不思議ですね。

不思議と思うのは21世紀から過去を見ているからで
過去から21世紀に至るまでに何度も婚姻や養子取りが行われていたということでしょうね。
ピンポイントで西暦何年にどういう経緯があって松下氏が並び矢を用いることになったか知りたいですね。


一向一揆はものスゴイ規模で行われて
信長は日本中を敵に回した感があったのに勝ったのですから
やっぱり信長はスゴイ。

考えれば考えるほどワケが分からなくなって行きます。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月10日 00時58分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一向一揆については、今資料を取り寄せています。今までは戦国の時代の
武将達の戦いばかりに目が行っていましたが、一向一揆、あるいはその当時
の一揆というものが、江戸時代の後半の百姓一揆とは全く違ったものであっ
たということで、ひょっとしたらその底に大きな謎が横たわっているのでは
ないかと思うからであります――

 話は少し前後しますが、先日行った関市で、谷口の里の帰りに偶然訪れた
「蓮華寺」というお寺――入って行くと、左手の山側に「源頼政」の首塚と
書かれた看板がありました。頼政とはどういう人かよく知らないが、とにか
く行ってみようと思い、山道を少し登ってみました。するとそこには「源頼
政首塚」と彫られた大きな天然石の碑が建っており、その奥にやや小ぶりの
「五輪塔」が建てられておりました。偉い人に違いないとは思いながら、
「首塚」というものは残酷だけれど、今までに何回も出くわして来た。戦国
の戦いでは、敵の首級を挙げるということ、即ち首を切り取るということが
常識であったということ……悪く言えば日本人は首狩り族であったというこ
と……背筋がいつもゾッといたします。切腹と同時に解釈して首をはねる…
…これも残酷な限り。磔もしかり。平気で血を見たということ、それが現実
であったということ。そんなことを思いながら、頼政の首塚に向かって般若
心経を2巻唱え捧げました――

 門前の掲示板にはこう書かれておりました――
 「尾張藩家老石河政光は、この墓所である蓮華寺が500年の歳月を経て
 荒廃しているのを嘆き、この地が領地であり、かつ源頼政は遠縁であるこ
 とから、寛文6年(1666)源頼政の500年忌を盛大に営み、菩提寺として
 蓮華寺を再興、大和長谷寺の僧小池信海を開山とした。
  境内にある高さ3mの亀が台座の墓碑(首塚へ上る麓にあり)は、500
 年忌に石河政光が建てたもので、源頼政の首級が葬られた経緯、並びに
 500年忌を営んだ経緯などが記されている。碑文は、江戸時代の有名な
 儒学者の林羅山の孫林常春が選したものである。」

 蓮華寺の右手には墓地が広がっており、まずは石河家菩提所がありました。
 そこにはびっくりする程の五輪塔のまるで林がありました。大きな五輪塔
が約10基は並んでいました。ここで大きな五輪塔に向かい、般若心経を2
巻唱え捧げました。
 その奥の墓地では、永田家の3基の墓(家紋は丸に桔梗)、更に一般の墓地
では永井家の墓(家紋は永井切り梨)1基を見つけ、いずれも般若心経を2巻
ずつあげてまいりました――
  


[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月10日 13時47分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


般若心経をわたくしの分、感謝致します。




久し振りに源頼政の名前が出ましたね。


         http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101409.html
         長上郡の服部氏族]]V
         レス<23><75>など

         http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101410.html
         長上郡の服部氏族]]W
         レス<1>

などで遠江の神服部家がらみで源頼政について書きました。


         源頼政の鵺退治に協力した公家が失脚して頼政関係で神服部となって遠江に来たこと




http://www.inhamamatsu.com/japanese/culture/ubuginu-shrine.php
浜松市北区三ヶ日町にある初生衣神社

初生衣神社では、1154年〜1885年までの間、御衣(神に捧げる衣服)を織り伊勢神宮に納めていた由緒ある神社です。一度は途絶えていたこの伝統も1968年より復活し、現在も毎年5月に初衣神社で織られた御衣が伊勢神宮に奉納されています。御衣を織る織機は定期的に作り変えられていますが、神様に対して常に同じ物を作り続ける為に、800年以上前から寸分違わず全く同じ形をしています。

800余年もの長い間神社を守り続けている宮司「神服部」家は、日本で唯一、初生衣神社の宮司だけが名乗れる苗字なのです。

毎年4月第2土曜には、「おんぞ祭り」が開催されます。初生衣神社から程近い浜名惣社まで行列して御衣を受け取ります。再び初生衣神社に戻り、遠州織物業の発展を祈願して祭りが行われます。


__________________________________


浜松に源頼政がらみの墓や塚や神社が無いのが不思議ですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF

墓所は

1.
終焉の地である京都府宇治市の平等院。頼政の命日である5月26日には毎年法要が営まれている。

2.
その他、郎党・猪早太らが頼政の叔父源国直(山県国直)の美濃の領地に首を持ち運び葬ったとの伝承が残る岐阜県関市の蓮華寺や、

                                           ココですね


3.
郎党下河辺氏が主を祭ったと伝わる茨城県古河市の頼政神社(こちらにも頼政の首塚伝説が存在)

                          

4.
京都府亀岡市西つつじヶ丘の頼政塚などがある。


5.
また、頼政との直接的な関係は詳らかでないが、兵庫県西脇市の長明寺にも頼政の墓があり、周辺にゆかりの地とされる場所が残っている。



子孫

下間氏
嫡孫宗綱(嫡男仲綱の嫡子)の子孫を自称する下間氏がいる。
下間氏は本願寺の重臣となり、戦国時代には一向一揆において中心的役割を果たし、さらに降って江戸時代には一族から池田重利が出て一万石を領し、大名となった。

                                          ココですね


             三重県出身の某友人が下妻氏の子孫とかで、一向一揆がらみで三重県に定住したのだと思います。
             伊勢長島の戦い=一向一揆


2.
及川氏
孫(上記の宗綱及び有綱の弟にあたる)の源成綱(伊豆冠者成綱)は但馬国木崎郡及川荘を領してはじめて及川氏を称した(及川左衛門尉盛綱)。また源仲綱の異母弟・源政嗣もそののち及川氏を称したので二系統の及川氏ができた。


3.
太田氏・梶原氏
末子広綱の子孫に太田氏一族がいる。太田氏からは太田道灌の甥で扇谷上杉家に仕えた太田資家その子資頼。資頼の子には資顕、資正らがいる。資正の嫡男に氏資、次男に梶原政景がいる。さらに、太田氏の子孫からは江戸幕府老中太田資始や幕末の水戸藩家老太田誠左衛門などが出る。



4.
大河内氏
養子兼綱の子顕綱は大河内氏を称し、江戸時代には知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が出る。


5.
猪子氏
戦国時代の武将、猪子一時・兵助兄弟は頼政の後裔を称している。


6.
馬場氏
甲斐の武田信玄の四名臣の一人とされる馬場信春を出した馬場氏も出自に諸説があるが、一説には頼政の子孫であるという。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月10日 23時47分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:解釈→介錯

 源頼政――思い出しました――鵺を退治した弓の名人、三ケ日の岡本の
神服部氏と関係があり、また、鵺退治で三ケ日の鵺代という所を二条天皇
より賜っている……。遠くて近き人でありました!

 明智光秀はこの頼政とルーツを同じくします。
 源頼光の子頼国。
  頼国の子に頼綱と国房。
   頼綱の孫が頼政。
   国房の子孫が土岐氏…そして明智氏であります。

 明智光秀は、本能寺の変の前日、愛宕山で歌会を催し、その第一句にて
頼政を偲んでおります。
 小和田哲男氏は『呪術と占星の戦国氏』の中で、愛宕百韻についてこう
言っておられます(要約編集)――
 「光秀(上の句)――ときは今天(あま)が下しる五月哉
  行祐(下の句)――水上まさる庭の夏山
  この句の下敷きになっているのは、『平家物語』巻四で、「程は五月
 雨しげくして、河の水かさまさりたり」、即ち宇治川の源頼政がモチー
 フになっている。
  要するに、愛宕百韻には、源氏である明智光秀が、平氏の織田信長を
 倒すという、源氏と平氏の対抗関係がベースとなっていたわけで、連歌
 全体が、打倒信長を意識したものとなっていたことが確実である。」

 光秀は頼政に自分の姿を投影した、そして頼政を自分の中に降臨させた、
「自分は源頼政である。これより平清盛である信長を倒す」――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月12日 01時16分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<34>は今の人には「教養」が必要なことですが
当時の人には「アイデンティティ」の問題だったのですね。
驚きました。

当時の人には自分の出自が血であり肉であり涙そのものだったのですねぇ。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月13日 09時16分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、武田鏡村著『織田信長 石山本願寺 合戦全史 ―顕如との十年
戦争の真実』という本を読んでいる内にのめりこんでしまいました。
 この本により、信長時代の戦国の戦いは、武将同士の領土の奪い合いでは
なく、本願寺勢力との格闘がすべての基盤となっていることがわかり、歴史
感が変わりました。長島の一向一揆についてもかなりわかりましたし、本願
寺勢力によるただ単なる一揆ではなく、将軍、武将を巻き込んでの総合戦で
あったことがわかりました。そして、私の勘ですが、明智光秀もこの渦の中
におり、その中で何を考え、どう心変わりして本能寺の変に至ったか、バッ
クグラウンドが見えてきそうです。この本については次回以降に述べて行き
たいと思います。

 さて、おとといの日曜日ですが、一色の「兼光」のうなぎを味わいたくな
り、100qの道のりを走って食べに行きました。時々、無性に食べたくな
る魅力を「兼光のうな丼」は持っているのです。もちろん、食ばかりでな
く、歴史の探索も兼ねておりました。まだ行けてなかった東条城跡へ行って
みようと思っていました。

 12月は「忠臣蔵」の季節で、バカの一つ覚えのように、どうして吉良=
悪者のワンパターンばかりテレビは流すのだろうか―という、心の中に芽生
えてた反発心もそうさせたのかも知れません。
 東条城址は、吉良家の墓のある華蔵寺から約10q程東の駮馬(まだらめ)
という所にあります。この地名はカナをふってないと読めません。たぶん
「斑」ならマダラと読めるでしょうが、「駮」では読める人はないでしょう。

 観光的に重要視されている観光資源ならば、看板や駐車場も整備されてい
て車で一発で行けるのですが、あいにく東条城址へは二三回右往左往いたし
ました。高さは50〜60mくらいでしょうか、木々に覆われた山の上に櫓
が見えました。コンクリートの坂を上がって行くと、右手には社、左手には
門らしきものがありました。木でできた門と、その隣に三階建ての櫓があり
ました。その側に「東条城の歴史」という看板が建てられておりました――

 「鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となっ
 た。その三男義継は、吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。」

 ここで一旦切りますが、次に続けます――

 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月13日 11時47分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本の本物の鰻でしたらね「また食べたい」と思いますよね。

こちらは中国産なので皮がゴムのように弾力があり
更に
いろいろな薬品が養殖に使われたのだろうなという恐怖があります。


そうそう数日前のニュースですが
福島のセシウムがとうとう北アメリカ大陸に到着して
鮭に微量ですが入っているそうです。

本当に微量で全く人体には影響は無いですが。


鮭の養殖物は脂が多くて美味しいのですが
薬品がものすごく使われていますから恐ろしくて食べられないです。
数年前は毎日ガツガツ食べてましたが。





比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_ (1571%E5%B9%B4)
元亀2年9月12日(1571年9月30日)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイスの書簡[1]にも記載されている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。


石山合戦(いしやまがっせん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と織田信長との戦い。


明智光秀は石山合戦の、というより比叡山の焼き討ちで既にショックを受けてたから
織田信長を心の中で憎んでいたでしょうね。


天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。



越前一向一揆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)
天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。

天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。



とにかく一向一揆は対信長以前からアチコチで起きてました。
一向一揆
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-31456

室町時代中期以降,特に応仁・文明の大乱 (→応仁の乱 ) 以降,1世紀にわたって頻発した一向宗門徒の一揆をいう。一向一揆は寛正年間 (1460〜66) にすでに散見され,本願寺第8世蓮如の出現によって,荘園制の崩壊に伴って起った在地地侍,国人,名主を中心とする惣 (そう) 村的結合のもとに,一向宗の教団組織の強化が進められ,守護大名の領国支配と対立した。

で、信長の時代に決着がついた、というところでしょうか?

        天正8年(1580)の石山本願寺に対する織田信長の石山合戦を最後に幕を閉じた。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月13日 12時08分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前回からの続きです――
 「以後、十四代義昭ら至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、
 東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であ
 った。

  南北朝時代、四代貞家は奥州官領として東国に赴いた。その後裔が
 関東吉良氏である。

  室町時代、応仁の乱(1467〜)では、十代義藤は山名宗全に味方して、
 細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。

  十二代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を
 遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平
 一門の危機を救った。

  家康は、桶狭間合戦以後、織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、
 永禄四年(1561)東条城を攻め、十四代義昭、降伏して東条吉良家は滅
 亡する。しかし、天下を掌握した家康は、十三代義安の子義定を旗本
 に取り立て、吉良家を再興した。

  落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立
 した。家忠の伯父松井忠次は、これを補佐して武功をあげ、遠江牧野
 城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗
 った。天正九年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後
 嗣に迎えた。康親は、天正十一年に没したが、子孫は多く幕府の要職
 についた。忠吉は、関ケ原合戦後、尾張清州城主となるが、慶長十二
 年(1607)に没し、後嗣なく、東条松平家は断絶した。

  また、ここには高名な文人・武人が多く訪れている。室町時代に歌
 人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。
  武人では、信長・家康も鷹狩にことよせて訪れている。
  東条城は、天正十八年(1590)に家康が関東に移った後、廃城となった。
 それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。」
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月13日 12時10分55秒 ) パスワード

今回の「真田丸」の三谷ワールド  すっごく良かった。


    黙れ!小童!
             信之が室賀に言われたのを今回カタキをとって室賀の息子に言ったのね。


    大谷吉継の娘の「はる」さんが幸村に指でツンツンしたり。
             前に障子を指で穴を空けてた時は「怒ってる」演出かと思いましたが 
             今回は「不安」の演出で突ついてたから
             「はる」さんの精神的弱さの演出だったのかと思いました。


    やっと「キリちゃん」がドラマ上、幸村と結ばれて安堵しました。
             あまりにもせつな過ぎました。
             番組が終わってからこの2人のシーンを思い出して3倍は泣けた。


    毛利勝永の「なんで俺にはそういう話が来ないんだ?」も良かった
             三谷幸喜は短い台詞で人間の心を描くのがうまい!


            
    キリちゃんの「10年前だったら良かったのに。わたしが1番きれいな時だったから」
             これも本当にうまい!
             幸村は48歳の年に亡くなっているから
             きりちゃんも40代半ばかアラフィフだったでしょうね。

             三谷幸喜は女性の気持ちがすっごく分かってるな、と。
    

本当に素晴らしい脚本でした。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月13日 22時18分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ真田丸も来週最終回になります。幸村は壮絶な死を遂げたとも
生き残ったとも、又、家康は幸村と一緒に戦った後藤又兵衛の槍に突かれ
て死んだ……等々、色々な説があります。本当のところどうだったのか、
歴史の真実は闇の中にあります。でも、本多正信は表も裏もすべてを知っ
ていたと推察いたします。最終回は是非とも見たいと思っています――

 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月14日 04時37分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

未だに  西条 vs 東条  が理解出来ていないのですが
分かったことは
現代の人が簡単に「家を残すために敵味方に分かれた」というのは
違うということ。

つまり
「敵味方に分かれたから勝った方が今に残った」
ということ。


我が母方もなんで細川の家臣の家と我が家が親戚なのかと不思議でしたが
細川の家臣の家でも2つに分かれて戦ったのでしょうね。


母方は細川の兵50人に襲われて城が落ちた(笑)そうで
                              突っ込みどころ満載!

日本中でこういう事象があったのでしょうね。大家も小家も。
考えさせられますね。



今回の「真田丸」では
幸村などが絶対に織田有楽斎が徳川方に情報を流していたと思っていたら
実は大坂城の台所に古くから賄いで働いてた爺さんが徳川に情報を流してた
ということが分かりました。


     伏線は2か月ぐらい前の回にあったので
     やっとハッキリしました


「情報戦」ですね。
そして情報網は複数ないとね。
情報の裏をちゃんと取らないとね。


こういうことがもっと若い時に分かっていたらワタクシの人生も違ってたかも。


前回は佐助が家康を暗殺したけど影武者でした。
サダム・フセインは影武者を9人抱えてたような記憶です。
家康も複数用意してたでしょうね。
[42]A.AKECHIさんからのコメント(2016年12月14日 19時24分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部家と明智家との御縁(光秀の継室が服部出羽守の娘)の真偽は不明だというのに、このような横槍での失礼をお赦し下さい。

 大坂の陣の折、明智家ゆかりの者も東西に分かれておりました。
 意外なようですが、大坂城内にも下記のように複数いたのです。
 
 光秀の四女が千姫の侍女(なので完全な豊臣方とはいえません)。
 その息子=光秀の孫・織田昌澄。
 淀殿側近の正栄尼は、光秀の娘といわれます。
 その息子=光秀の孫?・渡辺糺。
 光秀の孫(忠興・ガラシャの次男)・細川興秋。
 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月15日 02時09分06秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

情報をありがとうございます。

渡辺糺
来週の「真田丸」で描かれると良いですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B3%BA
渡辺 糺(わたなべ ただす)

                      名門摂津渡辺氏ですね。
                      名前が必ず1文字の。


安土桃山時代から江戸時代初期の武将。槍術家。豊臣氏の家臣。通称を内蔵助とし、内蔵助流槍術の祖で、船津流槍術の祖である船津八郎兵衛の師匠[2]。



父は渡辺昌[3](宮内少輔)、母は淀殿の側近の正栄尼という以外、詳細は不明。
父も本能寺の変以後に豊臣秀吉の馬廻衆になったともいう。



内蔵助は槍の名手であり、豊臣秀頼の槍の指南役(師範)として仕えた[4]。本知500石[6][8]。


ある時、津田出雲守と内蔵助が児小姓十人ばかりつれて船で浮田[9]の藤見に出かけ、終日酒宴を開いたが、このときの喧嘩があって、内蔵助は1人で大人数を相手に倒したことで武名を広めた[10]。


慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣家の譜代衆の1人として参加し、根来衆の鉄砲隊300名を率いた[5]。
禄高は低かったが、母の影響力と総大将秀頼の師範であったということで権勢を振い、
鬮取奉行[12]を務め、大将格の大野治長と2人で城中の諸事の決定を下していたという[10]。

           鬮=籤=くじ


しかし大坂城の黒門口の配置を巡っては、治長と言い争い、殺傷沙汰の騒動を起こそうとして周囲に止められている[11]。


11月26日、鴫野口での戦闘で治長らと出陣したが、上杉景勝隊の直江兼続、堀尾忠晴らの鉄砲・大筒を横合いに受けて、内蔵助は大いに崩れ、敗退した。

この戦いは大坂方の全てが敗れたのではあるが、槍の名人という触れ込みであったのに逃げ方が酷いというので、上杉の鉄砲の轟音を聞いただけで兵を退いたのだろうと笑い者とされ、「渡辺が浮名をながす鴫野川 敵にあふては目はくらの介」という狂歌を詠まれて嘲笑された[13]。



               「鴫野の戦い」も参照


このため、翌年の大坂夏の陣では、冬の陣での汚名を雪ぐべく一歩も退かぬと書いた大指物を腰に付けて奮戦[14]。

真田信繁の寄騎として道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いを転戦。特に茶臼山では真田信倍・大谷吉久・伊木遠雄・福島正守・正鎮らと真田隊を構成して突撃した[15]。


信繁の討死後、大坂城に退き、深手を負っていたので山里丸に隠れようとする秀頼一行とは別れて、

最期は千畳敷で母に見守られながら自害し、母もすぐ後に追って果てた[16]。


『青大録』によると、内蔵助は秀頼から賜った一尺八寸の貞宗の刀で腹を切って、山本鐵斎が介錯したという[17]。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月15日 02時29分23秒 ) パスワード

渡辺糺が鬮取奉行だったとコピペしましたが!!!

http://news.walkerplus.com/article/95580/     コピペ出来ません

「真田丸」の2話に「くじ引き」の話があったそうです。   覚えてなかった!
大河では初だそうです。



   へぇ〜


さすが脚本家も演出家も、ものすごく勉強している、というのが分かりますね。

わたくし的には陰陽師が占ったというのは分かってましたが籤引きとか鬮取奉行というのは本日が初めての情報です。


アチコチ出掛けるとか、たくさんの書を読むとかの他に、やはり、いろいろな人と知り合うというのは大事ですね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月16日 05時34分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀については、本能寺の変ばかりが語られ、その前半生(具体的に
は28才の時に明智城が斎藤義龍に攻められて落ち、越前の朝倉氏に仕官し
てより、38才で朝倉家を出て織田信長のもとに行き、信長に足利義昭との
仲介をするまで)のことは余り語られておりません。しかしながら、この前
半生に、光秀の本質を解く秘密が隠されていると思います。

 なかんずく朝倉義景、足利義昭、織田信長の3人を軸とした関係、また、
背景には本願寺のいわゆる一向一揆の拡大、三好長慶・筒井順慶・松永久秀
等の複雑な勢力争い、それらの中を生きながら、光秀は明智光秀たる本質を
更に厚く身に着けて行ったものと推察いたします。

 特に義昭との関係は柱となるものであります。将軍家は色々な意味で中核
であるはずで、信長もそれを利用し、また排除した。
 また松永久秀との関係も具体的には定かではありませんが、味方になった
り敵になったりしている。松永秀久には柳生家がついていましたので、光秀
は柳生家との関係をどこかで築いたのかも知れません。柳生家といえば、伊
賀とのつながりもあり、即ち服部党とのコネクションもできたのかも知れま
せん。そして、側室として服部保章(喜多村出羽守保光)の娘を娶ることにな
ったのかも知れません――

 明智光秀と忍者との関係の話は余り拾えませんが、ないというのは、意図
敵に隠蔽されているのかも知れません。唯一、服部保章の娘が光秀の妻とな
ったということで窓口になっております。保章は服部正尚、及び青山成重の
従兄弟、正尚は、徳川秀忠の養祖父……。何か、明智光秀と服部党との利害
関係が一致しているような感じがして来ます―― 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月16日 06時43分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


光秀は義昭に仕官する前にアチコチ回ってますから、いろいろな人間を見て回ったでしょうね。


光秀が信長を討って秀吉に滅ぼされて
それで光秀と関わった人たちは口を噤んだでしょうね。


保章の娘の生んだ子供はまだ幼かったし光秀の子だとは秘密にされたでしょうから
歴史的には「いなかった」も同然なんだと思います。

                                男子ですから秀吉に処刑されても文句は言えないのですから。
                  


[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月16日 10時25分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの訂正:意図敵→意図的

 でも、結論から言えば、「本能寺の変」の最高位の黒幕は「徳川家康」
であることは、間違いないでしょう。
 ・スポンサー(というか、依頼主。将来の約束を誓う):徳川家康
 ・プロデューサー(旗頭):明智光秀
 ・ディレクター(実行部隊):斎藤利三
 もちろん、この三人だけではありません……反信長のベクトルは四方
八方からその矛先を向けていた――
 いずれにしても「本能寺の変」は、影の人々の暗躍する世界=情報戦の
世界であり、忍者・諜報者たちの戦いでもあったと推察いたします。
 
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月16日 10時38分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それにしても、本多正信も「アヤシイ」人間の筆頭の一人であります。
反家康で三河一向一揆に加担してより、松永久秀に仕え、その後加賀一向
一揆に加担したと言われております……。
 しかしながら、本能寺の変前後に大久保忠世経由で家康にところに戻っ
て伊賀越のメンバーの中に現れている……。
 裏切った人間をそう簡単には許せるはずはない……何か裏があったのでは
ないか……例えば一向一揆側に送り込んだ二重スパイではなかったのか?
 この仮説を基に、一向一揆の内容をもっと詳細に探究してみます――
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月16日 22時21分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


>例えば一向一揆側に送り込んだ二重スパイではなかったのか?

まさに同感です!


本多正信なら!
ですよね。

この人物は何を考えているのか、さっぱり掴めません。
一揆方のフリをして情報収集のために潜り込んだのかも知れないし。


生い立ちの余りの貧しさということで生きていく術を獲得した人物なのかも。
だからこそ同じ本多一族の皆さんから嫌われたのかも。
[50]A.AKECHIさんからのコメント(2016年12月16日 23時19分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様
三つ柏服部様

 折角三つ柏服部様が「本能寺の変」に振って下さいましたが、時節柄(?}どうしても「真田丸」に目がいってしまいます。

 渡辺糺もそうですが、今年は「真田丸」のおかげでその登場人物以外にも興味深い人物を知ることができました。
 
 その一人は、(徳川方の)水野勝成です。
 この人こそ「日の本一の兵」と呼ぶに相応しい武勇伝を持つ人ではないでしょうか?

 何しろ大坂の陣においては、後藤又兵衛、明石全登の部隊を撃破(明石は討ち死に)し、真田信繁の退路を断って真田隊全滅の一助を担った上、大坂城一番乗りを果たしたのですから。
 渡辺糺を打ち破って重傷を負わせたのもこの人です。

 勿論明智の縁戚ではありませんが、(渡辺糺を打ち破ったほかにも)明智との関わりがあったようです。何といっても光秀の次の「日向守」であり、家康からは「名将日向守(光秀)の武功にあやかれ」と言われた人ですから。
                  ↓
   http://blog.livedoor.jp/akechi_mitsuhide/archives/50218860.html

 水野勝成は家康の従弟ですが、義理の従兄に水野守隆がいます。
                    ↓
            http://www.youmeiin.com/pg7.html
   
 光秀の孫かもしれない(?)渡辺糺は、大坂の陣で水野勝成らに敗れて自害しましたが、その息子の渡辺守は落ち延びて、南禅寺の僧になりました。
 その10年余の後、ガラシャの夫・細川忠興は、空の青海のあを様の仰る「名門摂津渡辺氏」の断絶を避けるべく渡辺守を還俗させ、家光の三男の綱重に仕官させたそうです。
 一方、ガラシャの次女・多羅は、父・忠興の意向を受けたかは不明ですが、京で浪人となっていた糺の姉の息子・野々口親忠を豊後・臼杵に招き、夫・稲葉一通の命で「渡辺親忠」と改姓させ、以後代々臼杵藩家老職を務めさせたそうです。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月17日 00時03分59秒 ) パスワード

 水野勝成の父水野忠重、その兄水野信元、妹のお大は家康の実母。水野家
の存在は灯台下暗しで最大の秘密を握っている。特に水野忠重は本能寺の変
を知るキーマンであると推察しております。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月17日 02時15分03秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

貴重なお話をありがとうございました。



今朝メールで教えて貰いました:
http://blog.goo.ne.jp/ushiroyamanokoakashi/c/a9f4da7c432e2586768213b7601c169a
明石全登の子孫のかたのブログです。



また「宇喜多の会」では明石全登は落ち延びて美作の山奥で子孫を残したと言われているそうです。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月17日 07時24分18秒 ) パスワード

さきほどNHKの「わが心の大阪メロディ」を見ていたら


          堺市の南宗寺に家康の墓があり、東照宮もあった
          家康の死因は後藤又兵衛に槍で突かれ殺された
          という言い伝えがある

と紹介してました。


                     ふつう、歌番組は見ないし
                     特に大阪の歌は重いから聞きたくないのですけど
                     何かに惹かれて早回ししてたらこの部分を見つけました。


きっと家康本人か家康の影武者でしょうね。


案外、家康自身だったかも、ですね。

お寺の中に、緑青の浮いた葵の御紋がついた門のある東照宮があったようですから

ということから。

家康のダブルだったら殺されても墓や東照宮は作らないでしょうから。
家康自体が殺されたから一時的にも墓が作られ一応東照宮も建てられたのじゃないかな?


でも真相は謎ですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%97%E5%AF%BA

大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2
阪堺電気軌道阪堺線御陵前停留場下車、徒歩5分

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。


丙戌8月[1](1526年)に古岳宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套が南宗庵3代目となった。[2]

弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

南宗寺が落成したのは、宗套の死後、笑嶺宗訢が2代目の住持を務めていた時代で、山号の龍興山を名付けたのも宗訢である。さらに、元亀4年(1573年)には足利義昭により十刹となった。[3]

天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から8寸の黄金像が略奪された。[2]さらに慶長20年(1615年、7月に元和と改元)の大坂夏の陣では堺の市街とともに焼失したが、その後、当時の住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に再興された。現存する仏殿、山門などは沢庵の没後、17世紀半ばに整備されたものである。太平洋戦争の空襲で一部の建物を失ったが、境内は江戸時代の禅宗寺院の雰囲気をとどめている。



大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。
                                                      ココ



境内[編集]
庭園 - 本坊方丈南側の枯山水で、元和5年(1613年)頃の築造と推定される。本庭は古田織部の作と伝えられ、昭和58年(1983年)に国の名勝に指定されている。
仏殿 - 承応2年(1653年)建立の禅宗様仏殿。入母屋造、瓦葺き、一重裳階付き(1階建てだが屋根は2層になっている)。内部は石敷きの土間で、中央仏壇上に本尊釈迦三尊像を安置する。山門、唐門とともに1993年12月、国の重要文化財に指定されている。
唐門 - 仏殿の右方にある小規模な門で、仏殿と同時期の建設と思われる。国の重要文化財。
山門 - 甘露門とも称する。三間一戸、入母屋造、本瓦葺きの楼門。上層軒裏の扇垂木、柱に粽(ちまき)を設ける点などに禅宗様がみられる。正保4年(1647年)の建立。国の重要文化財。
徳川家康 墓標[4] - 「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝[5]がある(『南宗寺史』)。墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが現在の墓標は水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したもの。碑石の銘には「東照宮 徳川家康墓」とある。

建造物は他に総門、鐘楼、禅堂、坐雲亭、方丈、実相庵などがある。茶室実相庵は千利休好みと伝えられ、1963年に再建されたものである。

境内には他に、徳川家康のものと伝えられる墓[6]・武野紹鴎の供養塔・千利休一門の供養塔・三好一族の墓所・津田宗及一門の供養塔・中井芳滝の墓などがある。

[54]A.AKECHIさんからのコメント(2016年12月17日 10時42分50秒 ) パスワード

 すみません。水野勝成(の家臣)が明石全登を討ち取ったというのは、水野(←徳川)方の記録に基づくもので、(我が家と光秀の場合同様?)明石全登の子孫との伝承が(複数)あることも承知しております。

 その一つに「全登と同じくキリシタンだった津軽信牧が弘前に匿った」という伝承があります。
 「匿った」ことに関与したかは不明ですが、この時の津軽藩の家老は伊賀出身の服部康成でした。ここでようやく「服部」が登場いたしました。
  ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%BA%B7%E6%88%90

 
 光秀の槍と日向守の官位を水野家が譲り受けたということが、三つ柏服部様の仰るように水野家と「本能寺の変」との深い関わりを示しているのかも知れませんね

 

 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月17日 16時13分33秒 ) パスワード

A.AKECHIさん


歴史の真相は難しいですね。
敗者のホントのところは隠されますし否定されますし。


ここで  津軽藩の家老は伊賀出身の服部康成  が出て来るのは意外でした。



「真田丸」での真田幸村の子供が伊達に保護されたハナシも興味深かったです。


去年あたりには  石田三成の子供が上杉の前田慶次郎によって匿われて育つドラマを見ました。
本当にそういうことがあったのでしょうか?
でも石田三成と上杉・直江主従は仲が良かったからあんまり違和感は無かったです。


今回の「真田丸」の中で
幸村が伊達家の中で片倉小十郎が立派な人物だと言ってましたから
子供達は片倉小十郎に預けられるのかと思っていたら
ドラマでは幸村が伊達政宗に一命を助けられて  ああ、それで幸村は妻子を伊達に送ったのか  と納得が行きました。


大河ドラマはどこまで脚本家の虚構か実話か混乱します。
1年もので結論を出さなきゃいけないし。


でも人間を語り合うのは面白いですね。
[56]A.AKECHIさんからのコメント(2016年12月17日 19時39分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そのドラマはわかりませんが、こちらのことでしょうか? だとすれば、フィクションですね。          ↓
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13144910168

 それよりも服部家にとっては、こちらの話の方が(史実だけに)重要かと思われます。

 石田三成の次男・重成が津軽信建(明石全登を匿った?津軽信牧の兄)の助けで津軽に落ち延び、名を変えて津軽藩士・杉山八兵衛になり、その長男・杉山吉成は津軽信牧の娘を妻として津軽藩家老になりました。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%90%89%E6%88%90




[57]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月18日 00時48分44秒 ) パスワード

「水野勝成」を調べてみました。関ケ原の戦いの直前に大垣城を攻めたり、
大阪の陣でも大阪城へ一番乗りを目指そうとしたり、軍規を犯しても突っ走
ってしまう猛将……今まで知らなかった武将について知ることができ、視野
が広がりました。
 その中で、一つ面白いことを発見しました――
 @「勝成」の母、即ち「忠重」の妻は、「顕如」の妹であるということ。
  つまり、本願寺一向一揆の首謀者の妹……。
 A「明智光秀」の実母は、若狭守護「武田義統(よしむね)」の妹であると
  いうこと。義統は、「足利義昭」の姉婿。
 B「顕如」の妻は「三条公頼」の娘。公頼にはほかにも二人の娘があり、
  その1人は「武田信玄」の妻、もう一人が「細川晴元」の妻であるとい
  うこと。
 従って、AとBにより、武田家を通じて「光秀」と「顕如」は通じており、
更に、@により「勝成」と「光秀」は通じていると推察されます――
 光秀は信長につきますが、一向一揆と戦ったり、比叡山と戦ったり、本当
のところその本心はどうだったのか、揺れに揺れ動いていたのではないかと
推察いたします――

 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月18日 07時18分00秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13144910168
前田慶次は石田三成の息子を育てたの?

読んで来ました。


        三成の息子は、関が原後、姉?とともに、津軽藩に匿われています。


        裏付けするような伝説はあります。
        「三成の三男が東北地方で出家した」とか「上杉領で生き延びた」とか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E3%81%A8%E5%8D%97%E9%83%A8
三成の子供たちが津軽藩に匿われたという伝説は
    津軽公が南部公を出し抜いて豊臣政権から大名として早々と認められことから
    津軽公が三成に恩義を感じていて当然だから
    津軽公は三成の子供達を保護して当然だ=三成の子供達は奥州で生き延びた
という話になったのかな?


昔の力のあった人物は子供がたくさんいたから
三成の家来筋の関係者の子供が三成の子供に化けたという伝説もあったでしょうね。



            ドラマ化に当たって、
            米沢の商人石田名助の家が三成の末裔との伝承と組み合わさって創作されたのでしょう。

            慶次は道中日記の中で、
            奥州でも石田三成の怨霊を鎮めるために塚が築かれていることを知り、
            「死後も笑いの種になるなんてただ者ではないなぁ」と記しています。

            笑いの種というのは、
            イタコが亡霊を下ろして、わざわざ「今年田畑が荒れたのは私のせいじゃない」と釈明した点にかかっています。
            常人ではないと感心はしていますが、ドラマのように三成に恩を感じているようにはみえません。


こういう話も背景にあったのか、というのはなかなか興味深いものがあります。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月18日 07時46分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


      @「勝成」の母、即ち「忠重」の妻は、「顕如」の妹であるということ。
        つまり、本願寺一向一揆の首謀者の妹……。
      A「明智光秀」の実母は、若狭守護「武田義統(よしむね)」の妹であるということ。
        義統は、「足利義昭」の姉婿。
      B「顕如」の妻は「三条公頼」の娘。公頼にはほかにも二人の娘があり、
        その1人は「武田信玄」の妻、もう一人が「細川晴元」の妻であるということ。



さすが当時の人口の数%の階層の世界のハナシはみんな親戚関係で、ついてけないですね。

       「明智光秀」の実母は、若狭守護「武田義統」の妹

                 そうなんですか・・・
                 源氏つながりですね
                 
                 光秀はさらに足利将軍家や京極家や浅井家にも繋がりますね



                 若狭武田義統の息子・元明の妻・京極竜子が元明の切腹の後、秀吉の側室になり
                 京極家は浅井家と親戚(京極の方が格上)であり
                 秀吉の側室として、
                 京極竜子は浅井茶々さまと格争いをした
                 と、ますます、ややこしくなって行きますね。


武田元明
htt://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%85%83%E6%98%8E

天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると、
若狭守護だった頃の勢力の回復する好機と思った元明は、若狭国衆を糾合して蜂起し、
明智光秀や義兄の京極高次と通じて、近江へ侵攻して丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させた。

しかし山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗死すると、状況は一転。

恭順の意を示そうとした元明は、長秀のいる近江国海津(貝津)に招かれて、7月19日に海津の法雲寺で謀殺された。

秀吉が殺したとも[6]、自害したともいわれる。享年21または31[7][8]。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月18日 07時55分39秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101575.html
長上郡の服部氏族LXXXW(課題確認27)
スレッド84を立てました。

キリの良いところで移ってくださいね。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月19日 11時38分45秒 ) パスワード

「真田丸」
終わりました。

ああいう最期ですか。
佐助が55歳というのはビックリ。
幸村より年上だったのですねぇ。




本多正信
ホントに食えない爺さんでしたね。
信之が大坂に来て信繁に会ったことを知ってたんでしょうね。


「家」が終わる時というのはどうしようもない事態に陥ってるんでしょうね。
猜疑心。


ワタシはやっぱり最初に滅びるタイプだなと、またしても思いました。
三谷幸喜が丁寧に教えてくれました。
ワタシのDNAには信長の合理性も信繁の知性もまったく縁が無い。
全然学習してない。


本多正信の「百姓は生かさず殺さず領主も贅沢をしない」にも感服。
百姓は生かさず殺さず、というのは知ってましたけど。
本多正信は領主としても戒めを持ってたのだなぁと。

     やっぱり「負けた」。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月19日 11時48分28秒 ) パスワード

片桐且元のナレ死があったのに本日の最終回に寧々さまの高台寺にいてビックリした。



ナレ死


織田信長「天下統一を目前に、織田信長が死んだ」


穴山梅雪「穴山梅雪が再び甲斐の地を踏むことはなかった。木津川近くの林の中で落ち武者狩りに遭い、命を落とした」


明智光秀「6月13日、明智光秀は山崎の合戦において、羽柴秀吉に敗れた」


豊臣秀長「秀吉を支え続けた大和大納言豊臣秀長は天正19年1月22日、秀吉を残して52歳でこの世を去った」


おとり(真田昌幸の母)「武田信玄でさえ一目置いたという真田一徳斎。その妻おとりは…」というナレーションの後、「ちと早すぎた!」という演技で「ナレ死」を跳ね返した。その後「武田信玄でさえ一目置いたという真田一徳斎。その妻おとりは、文禄2年8月1日、子供と孫たちにみとられ、その生涯を閉じた」


小早川秀秋「小早川秀秋は関ケ原の合戦より2年後、自分のしたことの罪の重さにさいなまれ、21歳で謎の死を遂げる」


本多忠勝「その一生を家康のために尽くした本田忠勝は、大坂の陣を待たず慶長15年、この世を去る」


加藤清正「加藤清正はこの会見後、肥後へ戻る船の中で発病し2カ月後に死んだ」


薫(真田昌幸の妻)「真田昌幸の妻、薫は夫が死んだ2年後、江戸にてこの世を去る」


片桐且元「片桐且元。関ケ原以降の豊臣政権を1人で背負っていたこの男は、豊臣を裏切ったことを悔やみ続け、これよりおよそ半年後急死する。病死とも自ら命を絶ったとも言われる」(その後、最終回に登場したが死のシーンはなし)


織田有楽斎「千利休の弟子でもあった有楽斎は、その後茶道に専念し、穏やかな余生を過ごした」
[63]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月22日 21時42分11秒 ) パスワード

 三つ柏様 青様
  お久しぶりです、話の展開について行くのがやっとの箱永です。
 食えない親爺として本多正信が出ましたので、彼の次男である
 本多正重を紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E9%87%8D
 猛将は何処からも歓迎されるのは理解できます。
  しかしながら、本多正信の子供として 紐付きの転出?を疑うのは、
 私だけだろうか。
[64]三つ柏服部さんからのコメント(2016年12月23日 08時54分03秒 ) パスワード

箱柳永田様

 久しぶりの書き込み、大変うれしく存じます――
 本多正信にこんな武闘派で波乱万丈の息子がいたということ、放浪武者
の水野勝成を知った時と同じ感慨であります。
 本多正信のバックグラウンドを知る上で、大変役立つ情報です。ありが
とうございました――
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 06時54分55秒 ) パスワード

本多正重

「天地人」で直江兼続とお船の長女として生まれたお松のお婿さんですね。
思い出しました。
何か変なオトコだったのを記憶しています。


       兼続の養子・本多政重=直江勝吉


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E9%87%8D

本多 政重(ほんだ まさしげ)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。本多正信の次男。子に榎本藩第2代藩主・本多政遂など。


天正8年(1580年)、徳川氏の家臣・本多正信の次男として生まれる。

天正19年(1591年)、徳川氏の家臣・倉橋長右衛門の養子となる。しかし慶長2年(1597年)に徳川秀忠の乳母大姥局の息子・川村荘八(岡部荘八)を諍いの末、斬り殺して出奔した。この一件では、朋友の戸田為春が加担していたという。

出奔後は大谷吉継の家臣となり、その後、宇喜多秀家の家臣となって2万石を与えられ正木左兵衛と称した。

                                      ビックリ!


慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは宇喜多軍の一翼を担って西軍側として奮戦したが、西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲した。西軍方ではあったが臣下の立場でもあり、正信の子であったためともされるが、ともあれ罪には問われなかった。

その後、福島正則に仕えたがすぐに辞去し、次に前田利長に3万石で召し抱えられた。しかし慶長8年(1603年)、旧主・秀家が家康に引き渡されたことを知ると、宇喜多氏縁戚の前田家を離れた。

                                            ココもビックリ


この頃、父・正信への接近を図っていた上杉景勝の重臣・直江兼続は、慶長9年(1604年)閏8月政重を婿養子に迎え、兼続の娘・於松を娶り、景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称した[1]。兼続は勝吉に幕府権力と結びついて上杉家を取り仕切る役割、実子の平八景明には江戸における対幕府交渉の役割を期待し「直江体制」の維持・強化を図ろうとしていた[2]。


慶長10年(1605年)8月17日に於松が病死したが[3]、兼続の懇願により養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)に兼続は弟・大国実頼の娘・阿虎を養女にして嫁がせた

      (実頼は兼続が政重を養子に迎えることに反対し、政重を迎えに来た兼続の家臣を斬殺して出奔していた)。

                                                     ココもビックリ!



慶長14年5月末から7月初旬までの間に本多安房守政重と名乗る[4]。

慶長16年(1611年)に上杉氏の下から離れ武蔵国岩槻に帰った[5]。


慶長17年(1612年)に藤堂高虎の取りなしで前田家に帰参して3万石を拝領し、家老としてまだ年若い前田利常(利長の弟)の補佐にあたった。


妻の阿虎は加賀にいる政重の許へ向かったが、この時に本庄長房(政重以前の兼続の養子)、鮎川秀定、志駄義種、篠井重則ら多くの者が上杉氏の円満なる了解のもとにこれに従って政重に仕えた[6]。

加賀本多家中の半数以上を旧上杉・直江家臣出身者が占めるのはこのためであり、これには上杉家の人材・禄高減らしの可能性を想定することができる[7]。

                                          ビックリ!


その後は加賀藩によく仕え、慶長18年(1613年)、前田氏が江戸幕府から越中国の返上を迫られると、これを撤回させた功により、2万石を加増され5万石となった。

加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられた際には江戸に赴いて懸命に釈明することで懲罰を回避し、この功績を賞されてさらに2万石を加増された。慶長19年(1614年)冬からの大坂の陣にも従軍したが、真田信繁に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、信繁に名を成さしめた。


この敗戦の後に兄・本多正純の命を受け、真田信尹(徳川家康旗本・信繁の叔父)と連携して信繁調略に当たるが成功しなかった。慶長20年(1615年)閏6月3日、従五位下安房守に叙任された。


寛永4年(1627年)4月20日、嫡男・政次が18歳で死去し、6月10日には正室の阿虎も死去した。


同年、西洞院時直の娘と再婚する。その後、前田光高、前田綱紀に至るまで家老として補佐にあたった。


正保4年(1647年)3月、病を理由に隠居して大夢と号し、五男の政長に家督を譲り、同年6月3日に死去した。享年68。


辞世の句は「ひとたつと うちつくる下に 何も無し おもへばおもふ 夢もまた夢」。


父や兄は知略に優れた人物であったが、政重は豪胆で武勇に優れていたため、出奔を重ねても諸大名から招かれたとされている。


長男の政次の子、樋口朝政は叔父の政長[8]に仕え、その子定政は加賀藩馬廻役、青地家(1000石)に養子入りした。

定政の子の青地礼幹は室鳩巣の門弟でもある儒学者として知られ、著作として『可観小説』を残した。

次男政遂は叔父の下野榎本藩主本多忠純(本多大隅守家)に養子入りしたが早世し、政遂の子(犬千代)もまた夭折したため、政遂の弟の政朝が直参旗本に取り立てられ、本多大隅守家の家名を継いだ[9]。

また、他の息子に戸田家侍女との間に生まれたという戸田政勝がいる[10]。



はぁ〜
この人の人生そのものがドラマですね。
[66]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月24日 11時39分10秒 ) パスワード

 あを様

 時事問題もかかわるので、ふさわしくないかもしれません。

定政の子の青地礼幹は室鳩巣の門弟でもある儒学者として知られ、著作として『可観小説』を残した。

 「かかんしょうせつ」と読みます。

 加賀藩五代藩主・前田綱紀に仕えた儒学者・青地礼幹(のりもと)の説話集です。その中に、今問題になっている竹島に関した記述があるそうです。元禄五年(1692)から同九年(1696)にかけて、日本と朝鮮の間で起こった当時の帰属をめぐる問題についてです。




 幕府公認で当時の竹島(今の韓国領・ウルルンド)に渡海していた因幡米子の商人一行が朝鮮人と遭遇したのが発端となり、一行がその内の二人を米子に伴い、幕府に報告。対馬藩が朝鮮にウルルンドへの渡海禁制を要求しましたが交渉は決裂。幕府は隣国との無用な争いを避ける方が賢明だと判断し、ウルルンドへの日本人の渡航を禁止しました。その時に、ウルルンドへ渡る中継基地の役割を担っていた当時の松島(今の日本領・竹島)への渡航は禁止しませんでした。これに関し、朝鮮からは何の申し入れもありませんでした。これが当時から日本も朝鮮も、松島(今の竹島)が日本領であった事を明確に認めていた事の証明で、この史実が、今の竹島が日本領である歴史的根拠になっているのです。今の大戦後に、占領軍であったアメリカが日本領であったと明確に認めているにもかかわらず、火事場泥棒のように勝手に自国領に組みこみ、不法に占拠しているのが今の韓国なのです。

 この竹島(ウルルンド)の一件を、輪番で対馬にいた京の僧から正徳元年(1711)に礼幹が聞いたと書いてあるそうですが、実際は師の室鳩巣や新井白石らの情報を伝聞したのではないかという事です。

 北國新聞の記事より

 可観小説から少しヒントを取って 隆慶一朗  一無庵風流記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%A2%E5%BA%B5%E9%A2%A8%E6%B5%81%E8%A8%98
 が、書かれており、、、主人公を調べてみましたが、、
 他には本になっていないので、隆慶一朗氏の創作であろうと思ってました。
 
 ひょっとしたら、本多次男の方の事績が投影された、、、なんて考えてます。  この本から漫画になった花の慶次は、面白かった です。 
 
>西軍が敗れたために逃走、近江堅田へ隠棲した
 うーん 納得。 一向一揆の本場ですもんね。
  
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 13時54分06秒 ) パスワード

箱柳さん


へぇ〜
竹島問題ってそんな昔からあったのですか。


近いだけに隠岐だか壱岐だかは半島人が随分入り込んでいるとは想像も付きますが
江戸時代からというのは全然知らなかったです。
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