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 投稿番号:101552 投稿日:2016年08月20日 22時46分58秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXY(16年の課題確認19)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101551_53.html
長上郡の服部氏族スレッド75(16年の課題確認18)の続きです。


               自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
               最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド75は三つ柏さんが永井直勝の出身地の碧南にいらっしゃって
斎藤系永井氏と長田系永井氏の件に発展し

徳川幕府成立を支えた崇伝vs天海に及んで天海には光秀との噂もあり
なかなか興味深い展開になりました。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月21日 10時39分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天海、光秀、利三まわりを調べています。二つほど新事実(?)を発見
しました。
 それは――
 @明智光秀の叔父明智光安は、実は遠山景行でもあった。遠山家を明智
 家が継いだかたち……。『郷土史の謎に挑む』(服部酒造雄著)
 A藤堂高虎は、伊賀上野の領主になり、筒井氏に関する文書を徹底的に
 抹消した。それは光秀の組下大名であった筒井順慶の下に、光秀関係の
 文書がたくさん存在していたからだということです。『本能寺の変四二
 七年目の真実』(明智憲三郎著)

 いずれにしても、日本史上、最大の謎といわれている本能寺の変、色々
な要素が絡んでいますので、一筋縄ではいきませんが、その謎解きにはつ
い夢中になります。明智氏族と服部氏族の関係が鮮明にわかればと思って
います。服部保章との関係、そして天正伊賀の乱の敵討ちということで―

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月21日 12時06分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


>明智光秀の叔父明智光安は、実は遠山景行でもあった。
>遠山家を明智家が継いだかたち……。『郷土史の謎に挑む』(服部酒造雄著)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F

遠山氏の祖は藤原利仁の子孫加藤景廉である。

岩村、明知、苗木、飯羽間、串原、明照、安木の7家で七遠山という。
            安木(阿木)の代わりに大井が入る場合や、明照に代わって馬籠を入れる説もある。

明知遠山氏 - 明知城主。遠山景朝の子・遠山景重が祖[6]。江戸時代は旗本として存続。末裔に遠山景元がいる。なお途中で土岐明智氏が名跡を継いだとする異説が存在する。           ***コレですね***

福岡遠山氏 - 美濃国恵那郡福岡町に拠った一族。景朝の子・遠山景村が祖。広恵寺城を守り遠山一雲入道が後醍醐天皇の皇子・宗良親王に仕えていた。



光秀祖父
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%B6%99
明智 光継(あけち みつつぐ)は、戦国時代の武将。明智頼尚の子。明智頼典と同一人物とされる。

生涯

長山城主として東美濃周辺を治めていた。明智一族が歴史に名を記すのはこの光継の代あたりからである。土岐氏の勢力がいまだ残る美濃において、小勢力ながら素早い情勢判断、情報力、さらには政治力を繰り出し、外交感覚を頼りに生き延びた。[要出典]斎藤道三が台頭するとすかさずこれに属し、まだ幼い娘であった小見の方を道三に人質という形で差し出している。この姫はのちに道三正室となって、織田信長正室である濃姫を産んだ。道三をして、「東美濃の梟雄」とも言われた。[要出典]

                  濃姫は光秀の従兄だと言われてますものね。


伝によると永正5年(1508年)、従五位下駿河守となっている。また大永5年(1525年)入道して一関斎宗善と号した。



光秀父
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%B6%B1
明智 光綱(あけち みつつな)は、戦国時代の武将。土岐氏の庶流・明智氏。明智光継の子。明智光秀の父と伝わる。

明智氏は美濃国・土岐氏の支流。東美濃を本拠とする。初め、父と共に斎藤道三に仕え、のち道三による美濃明智城攻めで討死したといわれるが、評細は不明。『明智軍記』などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。光綱死去の折に光秀はまだ若年で、その成人まで光安が明智城主として後見したという。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、本名は「光隆」とされる。また光秀誕生時期にも諸説があり、現在でも確たる立証はされていない。




光秀叔父
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E5%AE%89
明智 光安(あけち みつやす)は、戦国時代の武将。明智光継の三男。

生涯

天文4年(1535年)、美濃国明智城主の家督を継いでいた兄・光綱が若くして亡くなると、その子・光秀がまだ幼かったため、隠居していた父・光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。一説には光秀が家督を固辞したとも言う。天文16年(1547年)将軍・足利義晴に謁見し、また従五位下兵庫頭となった。天文22年(1553年)入道して法名を宗寂と号する。

また斎藤道三が美濃国を奪取すると道三に接近し、妹(小見の方)をその継室に出している。しかし道三は子の義龍と対立を深め、弘治2年(1556年)義龍とそれに加担する稲葉良通ら諸将に敗れて戦死した。光安は道三の外戚という立場であったために義龍と対立し、弟の光久や三宅氏・藤田氏・妻木城主の妻木氏ら諸将とともに明智城に籠城する。しかし義龍に与する揖斐光就・長井道利らに攻められ、防戦空しく光久らと共に自害した。その際に子の光春に宗家嫡男の光秀を託して城を脱出させたという。

異説

光安を遠山景行と同一人物とする説がある。   上記の ***コレですね***の部分ですね

  


ということは  加藤と明智と遠山と土岐と信長も親戚になりますね。   日本ですね。で、土岐の一族と親戚になるワタクシも親戚に。笑



>服部保章

保章の子に近江に住んだ北村姓の子供がいますが
光秀の1番下の子供の名が   喜多村保之  です。

      「喜多」というのは服部正尚を調べてた時の能関係で「喜多流」で出て来ませんでしたか?

       更に通字が「保」です。


      ということは喜多村保之は光秀が討たれてから叔父の北村氏に養われたのかも、ですね。

      「北村」でなく「喜多村」としたのが服部正尚がらみということでしょうか?


                       すごいコジつけ、
                       ごめんなさい。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて六男七女があったとする。

長女:菅沼定盈の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
次女:桜井家次の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
三女:織田信澄の妻
四女:細川忠興の妻
五女:筒井定次の妻[注釈 32]
六女:川勝丹波守の妻
長男:玄琳[注釈 33] - 妙心寺に入る。
次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。
三男:不立 - 天龍寺に入る。
七女:井戸三十郎の妻
四男:十内[注釈 34] - 坂本城落城の際に死亡。
五男:自然[注釈 35] - 坂本城落城の際に死亡。
六男:喜多村保之                               ココ!
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月22日 00時37分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智家(光秀)に服部家(保章)が近づいたのか、あるいはその逆のことも
考えられるが……。

 「天正伊賀の乱」が第一次:1578〜1579年、第二次:1581
年、そして「本能寺の変」:1582年でありますので、このおよそ2つ
の出来事は、因果関係があると推察されます。

 明智と服部をつなぐもので「保章」の他に考えられるものとして、足利
将軍家が考えられます。

 明智城から脱出した29才の光秀は、「越前」へ逃れました。この越前
には、やはり亡命してきた「足利義昭」がいまして、光秀は協力しています。
 足利義昭の兄「足利義輝」に「服部中保次」は仕えております。
 足利義輝・義昭の父「足利義晴」に服部半蔵の父「服部保長」が仕えて
います。
 この間に、服部と明智は知り合いになったのか、あるいは1573年に
信長が足利義昭を追放してしまったことが、シンパシィを寄せ合うことに
なったのか……?

 この足利親子について、どのような経緯をたどっていたのか知りたいと
思います――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月22日 02時22分25秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%99%B4

足利 義晴(あしかが よしはる)

                         将軍家生まれという権威はあったけれど、下克上の時代だから、という将軍ですね。
                         グチャグチャの時代に便宜上担ぎ上げられ数奇な運命を辿った足利傀儡将軍達の中のお1人ですね。
                         ある時代の終わりに、身分だけはあったために、本人は頑張ったのだけど、報われなかった将軍、でしょうか?
                         

室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪[3]。


西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。

その最中の永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男[4]として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。

しかし同年8月14日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。

永正10年(1513年)2月14日には義稙陣営と義澄陣営の和睦により、義稙の将軍職が確定した事で、永正11年(1514年)に、亀王丸は播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。

ところが犬猿の仲である備前守護代・浦上村宗への反攻を目論む義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、あろうことか永正18年(1521年)1月には敗戦。

この敗戦の責により義村が強制隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上氏に渡ってしまった。



永正18年(1521年)3月7日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。

これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれる事ことになる。

7月6日の上洛では、高国の歓待を受けると、8月29日には内裏へ代始の参賀を行った。

高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に右馬頭任ぜられると、12月24日に亀王丸の元服が行われ義晴と以後名乗る。

翌25日に義晴は第12代将軍に補任された[5]。



近江幕府(桑実寺など)

大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。

さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通や柳本賢治らが高国から離反し、
大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川晴元らが入京。

義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。


享禄元年(1528年)には朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。

しかし享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。


戦後、今度は晴元と元長が対立、天文元年(1532年)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。

それは朽木の時とは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。


天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。

しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、
和解して帰京するといった行動を繰り返しており、
天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。
天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。



将軍職譲渡と最期

天文15年(1546年)夏、義晴は細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らと通じて晴元を排斥しようと画策した。

義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入り、遊佐・氏綱の両名は軍を率いて各地で晴元方を破っていった。

しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休や安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、
11月に北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、
近江坂本に避難した[6]。

この時の12月19日に嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後に義輝と改名、以降「義輝」と記載)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲った[7]。

以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、義輝と共に慈照寺に帰った。


天文16年(1547年)3月29日、瓜生山城に入って氏綱になおも味方することを表明する[8]。

しかし義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏したため[9]、
義晴は7月19日に城を焼いて近江坂本に逃走した[10]。

その後、晴元と和睦して義輝と共に閏7月1日に京都に戻った[11]。


天文18年(1549年)には晴元と三好長慶が三好政長の処遇をめぐって対立した。

この際、義晴は晴元に協力したため、6月に政長が戦死して晴元が敗れると(江口の戦い)、義晴は義輝や晴元と共に近江朽木谷に逃れた。


義晴は京都を奪回するため、10月18日に慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始した。

しかしこの頃から病がちになり、天文19年(1550年)3月7日には坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動したが、病が重くなって動けなくなった。

そして5月4日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。

死因は悪性の水腫だったという[12]。



人物

足利義晴木像は等持院にあり。


将軍としては、側近集団を内談衆として再編成して政権中枢に置くことで自己の親裁権の強化を図り、
足利義満以来続けてきた日野家との婚姻関係に代わって近衛家出身の正室を迎えて朝廷との関係強化を図るなど、
将軍権威の回復に努めたが、細川氏の内紛をきっかけにした大規模な争乱によって挫折することになった。

ただし、将軍と内談衆の合議による幕政運営はある程度成功し、
幕政における役割を失った管領は儀礼的な役職へと低下していくことになった
(幕府内及び畿内有数の実力者であった細川京兆家の立場の低下を意味するものでないことに注意)。


「義晴」の名前を定める勘文を作成したのは東坊城和長であるが、
実際の提出段階で管領で義晴の烏帽子親になる予定の細川高国の異論があり和長がこれを受け入れたところ、
和長が偏諱とするのには良くない(義晴から偏諱を受けた公家や大名は「晴〇」という不吉な諱になり、
偏諱を受けたみんなが迷惑する)と考える「義晴」に決定してしまった[13]。

                                          気の毒!



このために「義晴」の名前を実際に考えたのは高国で、和長への異論も自分の案である「義晴」を候補に入れるようにとの要求であったとみられる[14]。

生涯に幾度も都を落ち延びた義晴だが、将軍御内書を近国の守護・国人に出すなど巧みな外交戦略を用い、
対立将軍候補(義維)の入京を許さなかった。

このため義稙(明応2年、大永元年更迭)や義澄(永正5年更迭)のように将軍を廃されることなく、一貫して将軍職を保持し続けることに成功した。


戦国期の室町将軍であったため合戦に出陣することも多かった。

また城郭の築城や大規模改修をすることも多く、特に如意ヶ嶽に築いた中尾城は威容を誇る「名城」として名高く、
普及し始めたばかりの鉄砲対策のため、城の防壁に石や砂利を敷き詰めるよう義晴自ら指示したといわれる(『万松院殿穴太記』)。


元気なうちに将軍職を自分の息子に譲ったのは、亀童丸(義輝)が自分が将軍となった11歳になったことや自分が生きているうちに息子の地位を安定させる希望があったとされる[15]。


中尾城完成時には義晴は重病となっており、既に一歩も進めない様態であった。

それでも義晴は果汁の粥をすすりながら進軍し、その最期の時まで京都奪還への執念を捨てることは無かったとされる(『万松院殿穴太記』)。


義晴の葬儀はかなり簡素なものだったという[16]。



墓所

義晴地蔵寺(現在の大阪府交野市) 一方で『近江國滋賀郡誌』(明治14年(1881年))には、
「頼珍逆修」と刻まれた彼の墓が穴太に現存すると記されている[17]。


相傳フ在昔安福寺ト號スル寺址アリ其址中ニ墓碣アリ高サ三尺許頼珍逆修ト鐫録ス即チ義晴ノ墓ナリト未ダ之ヲ詳ニセス[18]

以下略
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月22日 02時30分09秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D

足利 義輝(あしかが よしてる)

室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。


                        剣豪ではあったけれど暗殺された将軍ですね。


生涯

少年期

天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる(『後法成寺関白記』天文5年3月11日・4月6日条)。

この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。父・義晴がかつて11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った[注 2]。 天文17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。



三好長慶との戦い


ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属。天文18年(1549年)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。天文19年(1550年)5月、義晴が穴太にて死去[2]。義輝は父が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

天文20年(1551年)、義藤は京の伊勢貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると奉公衆の進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。賢光による暗殺劇は長慶に軽い手傷を負わす程度の不首尾に終わってしまい、賢光はその場で自害して果てた。

天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553年)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった(北白川の戦い)。11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに官位の修理大夫に推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に義興)と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国芥川山城を義長に譲って、河内国飯盛山城に移っている。長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている[3]。



将軍親政

足利義輝木像は等持院霊光殿にあり。


義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義尭と北条氏康[4](天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久[5][6][7](永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真[8][9](永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟[10] (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。

また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。



治世

永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562年)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。これによって、かつての3代将軍、足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。

永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。

永禄7年(1564年)7月に長慶が病死。義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。



最期

しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。

久秀の長男松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された(または、槍で足を払われ、倒れたところに上から刺し殺されたともいう)[注 3]。



享年30(満29歳没)。

この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。


辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」


年表[編集]

※ 日付=旧暦
天文15年(1546年) 7月27日、従五位下に叙す。
11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。
12月19日、元服し、義藤を名乗る。
12月20日、従四位下征夷大将軍宣下。

天文16年(1547年) 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。

天文23年(1554年) 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。

永禄8年(1565年) 5月19日、薨去。
6月7日、贈従一位、左大臣。



人物

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である[注 4]。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。ただし卜伝はこの他に北畠具教や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もない。[注 5]。

永禄の変の際、自ら薙刀を振るって戦い、その後は刀を抜いて戦ったとも言われる(『フロイス日本史』)。江戸時代後期作の(『日本外史』)では「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述も存在するが、これは義輝の死からかなりの時間が経ってから記されたものである上、永禄の変に最も近い時期の史料には「名刀を取り替えて戦った」という記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされる。この日本外史による誇張が、義輝の評価を実像からかけ離れさせ、一人歩きさせた要員ともいえる。

義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧二条城と呼ばれることもある。

松永貞徳の『戴恩記』においては「大変な悪御所であり、刀に黒紙を巻いて闇夜に辻斬りを行った。三好家はその所業を恐れて義輝を討った」と否定的な評価を受けている。

天文23年(1554年)には大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年(1560年)にはガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許している。

永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した[11][注 6]



系譜

一般には一男一女とされ、息子は輝若丸(永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。
細川藤孝の孫で熊本藩主となった忠利は、讃岐国高松藩生駒氏の下で閑居していた尾池義辰(玄蕃、義輝の遺児といわれる[注 7])を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。忠利は、熊本藩の客分・宮本武蔵とともに義辰を山鹿温泉の新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。その長男の尾池伝右衛門は西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。


他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護され丹波国の波多野氏の下で養育されたという足利義高(出家して天誉)がいたと伝わる。


墓所・肖像

足利義輝像紙形(土佐光吉筆、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)墓所法号は光源院融山道圓。供養塔が山口県山口市の俊龍寺にある。肖像肖像画 国立歴史民俗博物館本(直垂姿。重要文化財)
真正極楽寺本(歴博本と同図様)
光源院本(束帯姿)
益田家本(束帯姿)


他に、源弐(土佐光吉)の写したという頭部の下絵(紙形)が京都市立芸術大学所蔵の土佐家資料の中に現存する。国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。木像 - 等持院像、鑁阿寺像

以下略
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月22日 06時19分29秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6

足利将軍家の成立過程


足利氏は本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の嫡流たる武家の名門である。

その系譜をたどれば源氏の祖 経基以来、満仲、頼信、頼義そして名高き八幡太郎源義家に至るまで五代にわたり武家の栄誉である鎮守府将軍に任ぜられ、国内の兵乱を平定、朝廷の信望を得るとともに東国を拠点として武家の棟梁としての名声をあげ、義家の三男である源義国が下野国足利荘に住し足利氏となった。


鎌倉時代は源頼朝と遠縁として、また父が頼朝の父・源義朝と浅からぬ縁があったこと、頼朝の御台所・北条政子の妹を正室としたこともあり、幕府の信望を得て門葉として遇された。源氏将軍が三代源実朝の代で滅ぶと源氏の嫡流として武家の尊敬を集め、幕政を牛耳った執権北条氏から時折、警戒の念を抱かれるため、代々、北条氏との縁戚関係を結ぶことで家系を保った。


所領も下野、陸奥、三河、丹波など西国にも及び、支族は数十にも及ぶ有力御家人であり、後醍醐天皇の討幕挙兵が明らかになった後は当初、幕府軍として京都に進撃したが、丹波で鎌倉幕府の追討宣旨を奉じ、足利尊氏が朝廷方に転じ後醍醐天皇の建武の新政に貢献した。


しかし、公家一党の支配確立を目指す、後醍醐天皇の政治が様々な混乱を呼ぶとともに武家の不満が集積し、足利尊氏が後醍醐天皇の皇統とは宿敵にあたる持明院統の光厳上皇の院宣を受けて、北朝を樹立、征夷大将軍に任ぜられることで足利宗家は足利将軍家として成立することとなった。

ココからですね


足利将軍は当初は鎌倉幕府の継承者として「鎌倉殿」と呼ばれていた時期もあったが、足利義満が京都の室町通沿いに将軍の邸宅を構えると、将軍の邸宅及び将軍そのものを「室町殿」と呼ぶようになり、後の室町幕府という語の由来となった(花の御所)。



公家としての足利将軍家(室町殿)

足利義満の時代になると足利将軍家(室町殿)は朝廷内においてもその地位を高め、最終的には太政大臣まで昇って公家社会の頂点に立った。

次代の義持以降も一部修正はあるものの、足利将軍家は公卿に昇進して応仁の乱までは大臣にまで昇進可能である摂家・清華家級の家格となった。

このため、足利将軍家も摂関家や清華家と同じように中下級の公家、特に将軍家と婚姻関係を結んだ日野流や実務に長けた勧修寺流の公家などを自己の家司として公家としての家政を補佐させるなど、公家社会の有力な一員となった[1]。



もっとも、応仁の乱後に幕府の衰退が明らかになると朝廷との関係に変化が生じた。

                                     金の切れ目が縁の切れ目で足利家が衰えていくのですね


明応の政変以降に将軍家が事実上分裂し、
幕府から朝廷への財政援助も望めなくなると、
朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要経費の献上)があれば任官申請を認めるという一種の機械的処理を行うことで、
将軍家の内紛が朝廷に影響するのを回避しようとした[2]。



ところが、足利将軍家が義稙系(足利義澄ー足利義維ー足利義栄)と義澄系(足利義澄ー足利義晴ー足利義輝・義昭兄弟)への分裂は摂関家にも影響を及ぼした。

                                         ココですね


近衛家が娘を義晴・義輝の正室として連携を深め、
これに対抗して九条家が義稙系と結んだからである。


この結果、「義稙系将軍家・九条流摂関家(九条家・二条家・一条家)」対「義澄系将軍家・近衛流摂関家(近衛家・鷹司家)」という政治対立の構図が成立した。

                                       まるで保元の乱の再発みたいですね。こっちは戦国時代に突入ですが。




このため、義澄系将軍家が力を持っている時は、九条流は摂関の解任や地方への下向を余儀なくされ、
反対に義澄流将軍家が京都を追われた時には近衛流が力を失って近衛家が義澄流に随行して地方に下向する状況になった(鷹司家は戦国時代中期に一時断絶)。

                                     報復人事はいつの世も。笑   アメリカでも同じです。




その後、永禄の変が発生すると、近衛前久は近衛家の血を引く義輝が殺害されたにも関わらず対立してきた足利義栄への支持に傾き、
                                           コレは知らなかった!


二条晴良がそれに対抗するために義輝の弟である義昭の支持に切り替えた。

                                           すごいネジレ現象!こうして混乱に拍車が?




その結果、義昭が織田信長の後ろ盾を受けて上洛すると、近衛前久は関白の地位を失って亡命を余儀なくされ、

代わりに二条晴良が関白に任ぜられ、亡命していた九条稙通が京都に帰還した。


その後、義昭は信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡して足利将軍家は実体を喪失するが、摂関家の争いはその後の関白相論につながることになる[3]。
                                        実力の無い人間の争いは陰湿ですからね




関白相論       漁夫の利で秀吉が関白になったことでっすね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96


関白相論(かんぱくそうろん)

天正13年(1585年)に二条昭実と近衛信輔の間で発生した関白の地位を巡る争い。

これは、この年に羽柴秀吉[1]が内大臣に昇進した事をきっかけとした人事抗争であるが、
結果的に当事者の2人を差し置いて秀吉が関白に就任することになり、豊臣政権にとっては大きな画期となる。


                                       実力の無い者達の権力闘争とはこんなもの、ってコトですか。へ〜
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月22日 16時57分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 足利氏の地代は235年も続いたけれど、その実、南北朝時代が50年余、
狭義の室町時代が75年ほど、戦国時代が100年余続いたことになります。
 服部氏族は戦国時代の中で、その特殊技能を生かせる活路を求めたという
ことになりますか……。
 応仁の乱というものが、地方にまで影響を及ぼしたということ、それが
どの程度のものだったか知りたいと思っています。
 応仁の乱以前の記録が少ないということ、即ち戦乱の略奪や焼き打ちによ
って、そういった資料が失われてしまった……。
 いろいろ研究してみる必要があると思っています。

 京都に「室町通り」という通りがありますが、何となく頭の中のイメージ
としては室町時代を連想してしまいます。しばらく京都には行っていないの
で、紅葉の季節には一度訪れてみたいと思っています。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月22日 22時26分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

>応仁の乱というものが、地方にまで影響を及ぼしたということ、
>それがどの程度のものだったか知りたいと思っています。

>応仁の乱以前の記録が少ないということ、
>即ち戦乱の略奪や焼き打ちによって、そういった資料が失われてしまった……。

はい
応仁の乱で京都は焼け野原ですからね
その上に地方も混乱の極み。


日本国中で記録が失われたでしょうね
だから後世に一級の資料が複数無いからそんな話は無いとか偽称だとか捏造だとか言われてしまいますね。


とにかく下剋上で日本国内全体がグチャグチャになりました。

地方も皆さん  
もともとの豪族・鎌倉幕府から地頭で派遣された武家・平家や南朝方の負けた側が
根拠の無い自信で立ち上がり
我こそは!と敗者復活戦が行われました。

運が良ければ天下を取れたのですから。

宮本武蔵だって10年早く生まれていたらかなりのところまで行けたでしょうね。


こういう時代を勝ち抜いて大名にのし上がり天下を取っていくのですから世の中リセットですね。

いろいろ苦しいこと悲しいこと、有り過ぎたでしょうね。


前田家だって利家とまつが大大名にしたものの結局前田家は「おちょぼ」寿福院とかいう名前の侍女の生んだ子供=4男=3代目藩主の利常=の家になっていきますね。
まつさんは悔しかったでしょうね、たくさん子供を生んでるのに。
自分が「おちょぼ」を利家の身の周りの世話に送らなかったら手がつかなかったのに、と。

これは女の下剋上ですね。確か「おちょぼ」は朝倉家の家臣上木新兵衛の娘ですから。



山内家も一豊と千代は頑張ったのに、なんせ後を継ぐ娘が死んでしまうし、それで甥に家督を譲ることになってしまいました。
千代さんも悔しかったでしょうね。
甥はラッキーでしたよね。



こういう波乱万丈。
物凄い「うねり」ですよね。


豊臣家もせっかく関白まで出しても続かなかった。
    今回の「真田丸」の三成を出し抜いた人物はあれは幸村だったようですね。
    幸村が江雪斎を使った、ということでしょうね。


               江雪斎側にすれば、ここで家康に恩を売り、小早川秀秋を寝返らせ、子孫は安泰。


                    人間ドラマ、凄過ぎ!



人間、どこで寝首を掻かれるか分かったもんじゃないですね。
それが戦国時代というか男の戦いなんでしょうね。今の時代だって同じですよね。
やっぱり友達はたくさん持ってないとね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E9%83%A8%E5%B2%A1%E6%B1%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E

板部岡 江雪斎(いたべおか こうせつさい)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、外交僧。後北条氏、豊臣氏、徳川氏の家臣[1]。執権北条氏(北条時行)の子孫とされる。


田中泰行の子であったが、北条氏政の命により板部岡康雄(石巻家貞の子)の名跡を継ぎ、右筆・評定衆として活躍した[1]。寺社奉行として寺社の管理にも関わっており、後述する北条氏康の平癒祈祷や、佐竹氏との戦勝祈願などに同じく寺社管理に関わった安藤良整との連署が多く見られる[1]。

元亀2年(1571年)、主君・北条氏康が病床に伏した際、鶴岡八幡宮にて病平癒の祈願を行なった[1]。天正元年(1573年)、北条氏の盟友・武田信玄が死去した時、氏政の命で病気見舞いの使者として甲斐国に赴いたが、このとき、信玄の弟・信廉が影武者となっていることを見抜けなかったとされる。後に、北条氏と武田氏との同盟が決裂すると、北条氏は勢いに乗る織田信長と同盟を結ぶが、この使者として赴いた。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で死去して後、信濃国をめぐって徳川家康と北条氏直が対立した際は、和睦交渉に奔走し、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えることで和睦を取りまとめた[1]。以後、太田氏房の補佐として岩槻城に拠る[1]。天正17年(1589年)、北条氏と豊臣秀吉との間で対立が深まると、北条氏規と共に関係修復に尽力した[1]。沼田領問題の裁定の際には、氏直の命を受けて、事情の説明のために上洛している[2]。このとき、秀吉は江雪斎の才能を気に入り、自ら茶を点てて与えたといわれている。

小田原征伐による北条氏の没落後は秀吉の御伽衆となり、姓を岡野と改めた[1]。秀吉の死後は長男房恒が仕えていた徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも家康に随従し[1]、小早川秀秋の説得にあたったという。慶長14年(1609年)6月3日に伏見で死去[1]。墓所は宗仙寺(京都府)[1]。また、相模原市の龍像寺、横浜市長津田の房恒開基と伝わる大林寺に岡野氏の墓と「照光院傑翁凉英」の江雪の碑文がある[1]。


子孫は旗本として存続した。本家は武蔵国都筑郡長津田村(現・神奈川県横浜市緑区長津田)に所領を持った。ほかに分家がある。11代将軍徳川家斉の側近で、のちの老中水野忠成は岡野家よりの養子。

人物[編集]

『北条五代記』に「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」と記されている。詩歌や茶道にも造詣が深く、天正4年には羽林家の飛鳥井氏庶流とみられる飛鳥井重雅[3]から『和歌詠草』(北海学園大学蔵)を[1]、天正17年(1589年)頃には豊臣秀吉と仲違いし中央を追われ、小田原北条氏に身を寄せていた茶人の山上宗二と親交を持ち、後に自著の秘伝『山上宗二記』を贈られている[1]。また愛刀の江雪左文字は、後に国宝になっている。



人間、運でしょうか?
江雪斎だってあそこで幸村に行き逢わなかったら家康の信頼を掴むことは無かったかも。

______________________________

「運」があれば先祖の書き換えだって可能ですしね。で、コッチが正史になることだって有り得たでしょうから。

戦国時代とか下剋上というのは「リセットボタン」ですね。笑
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月22日 22時31分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正です――
  前レス:「地代」→「時代」  
   
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月23日 10時41分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 応仁の乱の時に、この遠江地方にどんなことが起こったのか、調べてみ
ます。羽鳥庄と服織神社もいろいろ影響を受けているでしょうし、庄園の
管理体制も変わったかと推察いたします。М家の祖は羽鳥庄司の家人であ
ったようです。源氏系を名乗っています。もっとも、一系なのかどうかは
分かりませんが……

 藤堂高虎について、少し進展がありました。
 童門冬二氏の『徳川三代 諜報戦』の中の情報です――
 「関ケ原の合戦は、徳川家康にとっては、"生涯最大の諜報戦"であった。
 その時、最も役に立ったのが藤堂高虎である。
  高虎が生まれた藤堂村近くには、有名な"甲良大工"がいた。京都御所
 関係の建築技術者としてつとに有名だった。また、近江国内には穴太の
 石工がいた。この支配者は瀬田城主の"山岡一族"である。山岡一族は、
 いうまでもなく甲賀者の頭領だった。
  そんな縁もあって、藤堂高虎は早い時期からこの甲良大工と穴太石工
 に接触があった。従って、彼は単に縄張り(設計)術に長けていたわけで
 はない。実際の工事面においても、日本で名だたる大工群と石工群を擁
 していたのである。当然これらの技術者たちも、工事現場で接触する諸
 種の人物達から、多くの情報を得る。高虎は、居ながらにしてこれらの
 情報を集め得た。そして、家康に伝えた。」
ということです――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月23日 13時01分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


>関ケ原の合戦は、徳川家康にとっては、"生涯最大の諜報戦"であった。
>その時、最も役に立ったのが藤堂高虎である。

ということは!
ここに  藤堂采女家  の謎の答えがあった  ということでしょうね。



藤堂 采女(とうどう うねめ)

江戸時代後期(幕末)の伊勢津藩の家老。津藩の所領である伊賀上野城代でもある。


采女というのは藤堂氏の伊賀支配を担当した藤堂采女家の当主の代々の通称。

津藩の藩祖・藤堂高虎ははじめ伊賀支配を一族の藤堂高清に任せたが、
高清が亡くなると服部正成(半蔵)の甥に当たる藤堂元則(采女)が務めるようになり、
以後は采女家の支配下に入ったのである。




http://tikugo.com/blog/mie/iga2009_2/
伊賀史跡巡り(藤堂采女家歴代の墓・柏野城・福地城・徳永寺)

西蓮寺・・・伊賀市長田1931。

伊賀上野城代を務めた藤堂采女家の菩提寺。藤堂元則を始めとして歴代当主の墓がある。

感想:お墓がでかい。とにかくでかい。お寺の趣もいい。今回、行ったところで一番良かった。

伊賀上野城が一望できるこのお寺を元則が菩提寺に選んだのは、死後も見守っていたいという元則の意向だろう。

歴代当主の姓が途中から本姓の保田になっていた。



柏野城・・・伊賀市柏野字宮ノ前にある。

天正伊賀の乱で織田軍の猛攻撃を受けて落城。土塁・空堀などが良好に残っている。

感想:う〜〜ん・・・特に。確かに遺構は良く残っていた。
(空堀。写真だと良く分からないが、現物は素人の私でもはっきり分かるくらい良好な状態でした)



福地城・・・伊賀市柘植町にある。
天正伊賀の乱で信長についた福地氏の居城。信長が横死した後は衰退したという。

福地氏は松尾芭蕉の先祖と言われ、現在ここは芭蕉公園となっている。
石垣・空堀などが残っている。

感想:名前の通り、あちこちに句があるなど芭蕉中心の公園となっていた。ただ城としても見所があった。



徳永寺・・・伊賀市柘植町2318にある。

伊賀越えの際、家康が寄って休憩している。また福地城主・福地氏歴代の墓もある。

感想:この寺に案内したのが福地氏とのこと。

そのまま家康についていった福地一族は静岡市に住み、現在も子孫の方がお住まいらしい。

家康を助けたと言うことで、お寺には葵の御紋が下賜された。




http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=334

侍から足軽まで100人超―津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造



 津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。そして、二代高次時代の40(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。


今回は、伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について紹介したい。


  近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。

そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。


 藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。


  なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、こうした侍層の俸禄合計が664石で、約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。


  ところで、これら侍層の由緒については、藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」であったという。前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。


  次に、徒士層と考えられる階層について見ると、禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられる。そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた。


  それに、足軽等の武家奉公人がいた。徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。


以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。

こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)


へぇ〜
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月23日 13時04分34秒 ) パスワード

伊賀の服部家(保田家)は藤堂家の実務を担ってたのでしょうね。
だから信頼度が高くて格別に取り立てられたのでしょうね。

もう少し具体的に藤堂高虎のために何をしたのか知りたいものです。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月23日 13時12分46秒 ) パスワード

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5944.html
戦国ちょっといい話・悪い話まとめ:藤堂采女の言




藤堂采女の言


2011年11月02日 22:01

藤堂元則


七度、あるいは十度主君を変え、満身創痍となって32万石を稼いだ藤堂高虎が世を去り、その子・高次の時代。

藤堂家中は二つに割れ、揺れていた。

そもそもの切っ掛けは、一門家老二人の口論だった。


一人は、藤堂新七良精。高虎の従兄弟で、13歳での初陣以来、藤堂家の大戦全てにおいて功を立て、高虎の信頼も厚かった新七郎良勝の子である。

もう一人は、藤堂仁右衛門高経。高虎の甥で、湯浅五助との『男の約束』で有名な仁右衛門高刑の子である。


二人は父親の軍功について雑談した事があったが、やがてその優劣を争うようになり、絶交するに至った。


同じく家老の藤堂采女は、昨日は親しく語っていた者が、家老二人の影響で今日は目も合わせぬ現状を憂い、両派の主だった人を説得して回ったが、日ごろ物静かで、騒動の原因たる両家老の父親たちが命を落とした大坂夏の陣を生き残った采女の言葉に、耳を傾ける者は少なかった。




そんなある日、新七・仁右衛門を始めとする両派の領袖たちが、采女の屋敷に招かれた。居並ぶ重臣たちを前に、采女は一礼して召集の辞を述べた。

「やあ、今日は良くお越し下された!お呼び立てした儀は他でもない。貴殿らの父御の、戦功吟味についてよ。」
「采女殿、それは・・・」

「まぁまぁ。そのせいで今や家士たちは、遺恨無き者どもも不通となっておる。これが高じて幕府の耳に届けば、お家は如何なるや。主君・高次様の御身は、如何なるや?」
「・・・・・・」


「主君の御身を危うくするは、人臣たる者の所業にあらず。また万が一、お家お取り潰しの事態に至れば、死んでお家を守った父御に、何と言い訳する?主君に対し不忠、亡父に対して不孝、かかる者どもは・・・」


采女の合図で、重臣たちの前に三方が運び込まれた。その上には料理ではなく、短刀が乗っていた。

「死ね。不忠・不孝の者、ただ今切腹あるべし。下らぬ騒動の末に死ぬよりはマシじゃろう。『こんな犬死には嫌だ』と思うなら、忠孝の道に立ち返りて、双方相和するべし。

どうあっても忠孝をも顧みず、我意を立て続けるとあらば、止むを得まい。それがしが切腹の手本を仕る。


貴殿らの父御に死に遅れたる我が身、何の惜しい事があろうか。」

そう言って諸肌脱いだ采女の気迫に押された一同だったが、やがて仁右衛門が新七に向けて口を開いた。

「采女殿の言、もっともなり。ここで我らが切腹して男の一分を立て、幕府への言い訳が出来たとて、また父の戦功を言い立てる者が出れば、同じ騒動が起きよう。ここは和議すべし、と思うが如何かな?」
「うむ。異議なし!!」



こうして、和解の証として仁右衛門の娘が新七のもとに嫁ぐ事が決まり、騒動は収まった。


人々は、ひとり大見得を切ってお家の危機を救った采女について『戦場での討死ににも倍する功』と噂した。
(明良洪範より)




藤堂采女元則。
大坂夏の陣の際は、井伊家の陣へ使い番に出ていたところ、木村重成隊の襲撃を受けた。

ところが采女は、あわてず騒がず井伊家に混じってこれに反撃したばかりか、首級を挙げて井伊直孝の賞賛を受け、褒美まで授かったという。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月23日 13時14分51秒 ) パスワード

続き


藤堂元則は伊賀上忍、服部家の出身で、服部保長の孫に当たる。本人は「服部」姓をを名乗り、一度も「藤堂」姓を使わなかったが、三代目から「藤堂」姓を使っている。
成程、忍者なのか。



へぇ〜
3代目からでしたか。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月23日 13時53分14秒 ) パスワード

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/ninbetsu-m.htm

保田 采女 元則 [やすだ うねめ もとのり]1582-1660

左助。左十郎吉次。初代藤堂采女。
服部保長の長男 保元の孫で、千賀地半蔵則直の三男(もっとも異説あり)。

妻は藤堂家の侍大将 佐伯惟定の娘。

父を幼くして亡くした為、兄の甚兵衛則宗とともに紀州有田郡保田庄を領する伯父の保田栄西に育てられた。

栄西の主君 豊臣秀長・秀俊父子に仕えた。その後は増田長盛に仕えたが関ヶ原の戦いで浪人していたところを藤堂高虎に拾われた。

新参でありながらも藤堂姓を与えられ一門並の扱いで遇されている。

高虎が伊勢・伊賀の国主となってからは、伊賀上野城の次席家老を経て同城代家老となる。

元々伊賀忍者の棟梁筋に生まれである采女に、新領地である伊賀の郷士たちの懐柔に当らせたのである。
忍者を含む伊賀の郷士たちは、藩士や無足人として藤堂家に召抱えられた。
その後は、一時期を除き代々采女家が伊賀上野城々代家老を世襲している。



服部家・采女家・保田家の系図(5代目采女は多羅尾の娘と結婚し、その娘の夫も多羅尾 驚)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/hattri-keizu.htm

                 やっぱりみんなアヤシ過ぎ


山口 主膳 光弘 [やまぐち しゅぜん みつひろ] 1563〜1647
  初 光孝。藤左衛門。甲賀五十三家の多羅尾光俊の5男で、宇治田原山口城主 山口甚助長政(秀康)の婿養子。三井寺観学院で修行中、織田信長の給仕に出たところを見出され、跡取の無い長政の養子に入った。天正(1582)年、神君伊賀越えの砌には、家康一行を山口城に迎え入れたのち、実父 多羅尾光俊のいる信楽小川城まで警護した。翌年、長政が伏見において死去し、その翌年の長久手の戦いでは徳川方に着いた為、羽柴秀吉の怒りを買い山口城を没収され浪人した。山口城は、親族の山口玄蕃頭正弘が名跡を継ぎ入城したが、のち加賀国大聖寺城に移ったため廃城となった。嫡男 光正は正弘の娘を娶っている。




http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/ninbetsu-h.htm
服部家


服部 出羽守 保章 はっとり  でわのかみ  やすあき 生没年不詳

保光。のち喜多村(北村)氏。

服部平太夫の従兄弟。

伊賀柘植 (一説に名張)城主。娘は明智光秀の後妻で、天正10(1582)年一月には坂本城 で光秀の末子(内治麻呂)を出生している。

天正伊賀ノ乱で恨みを抱いた出羽守が、 明智光秀を唆し本能寺で信長を襲わせたのではないかとも考えられる。

徳川家康 の神君伊賀越えでは、柘植城で家康一行を迎えて謀殺しようとしたが、 従兄弟である服部平太夫に見抜かれて未遂に終わった。

この為に柘植城を追われ、近江国北村に隠れ棲み北村(のち喜多村)と改姓した。

他に明智光秀の後妻となったとする伏屋姫の伝承があるが、父親の名を服部鳥羽守としている。

鳥羽守という呼称は、国司の官位名としては誤伝(あるいは鳥羽一国という見方があるのか?)のような気もするが、出羽守と同一人物を指すのかは不明である。


服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから推測できる。

     平頼盛(清盛の弟)の家臣平宗清が、 平氏滅亡後に流浪の果てに旧領地の柘植郷に棲みついたが、
     宗清には3人の子があり、
        長男は日置氏を称し下柘植を本拠とした。
        この日置氏が柘植一族の祖で、松尾芭蕉もこの一族である。

        次男は天正伊賀ノ乱に名が出てくる福地伊予守宗隆の祖で上柘植を本拠とした。

        三男が北村氏を称して中柘植を領した。
        これが服部北村氏の祖ではないかとも考えられるが、出羽守は近江の北村に移り住んでから北村(喜多村)氏と称したとも伝えられるからはっきりとはしない。


秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったというから、 こちらの方が同一人物あるいは血縁者である可能性が高いと考えられる。

この出羽守の弟は 菊永右近太夫を称して、一族の兵部という者は兵術を以って世に聞こえた剛の者であったが、朝鮮役で戦死したという。


系図
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/mino-keizu.htm

娘と明智光秀の間の子供達   内治麻呂  阿鶴丸
息子  北村(喜多村)弥兵衛



光秀の六男:喜多村保之はやはり保章の所または北村(喜多村)弥兵衛の所に世養われたのかもですね。内治麻呂かもですね。

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この系図によりますと服部正尚の子孫は結構続いてますね。


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北島藤次郎著『史実大久保石見守長安』に、興味深い話しが載っているので紹介したい。

能狂言の大蔵柳家譜によると、大蔵正左衛門信広(休岸)の後妻は長安の娘で、更にその娘が大蔵流十四代大蔵弥右衛門栄虎に嫁いでいるというのである。

  長安の娘は二人であり、一人が服部正重の妻、もう一人が三井十右衛門吉正の妻というのが通説となっている。

  大蔵信正の後妻とあるのは、長安にもう一人の娘があったものか、それとも服部・三井氏のどちらかの妻が再婚したのかははっきりしていない。


   北島氏は仮説と断った上で、大蔵信広というのは服部半蔵正重の芸名であったのではないかと述べられておられる。忍者と能を結びつける話しとして非常に面白い説である。残念ながら推測の域を脱していない話しなので、もっと究明してみる必要があると結ばれておられる。

   さすがに北島氏も、宝生流として残った簑笠之助家(長安の三男成国の養父 青山成重の兄)の事には触れられていない。(2002.3.1一部更新)

              *これは服部正尚のことですよね。
               ということは正尚の子孫の家は「能楽」でスパイをやってたのでしょうかねぇ
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月23日 23時58分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部平太夫正尚(蓑笠之助)について、新しい情報を入手しました。それは
清水昇氏の『江戸の隠密・御庭番』の中に書かれております――
 「〜ただ、推論が許されるならば、家康は伊賀越えの時、影武者を利用し
 たとも考えられる。
  服部半蔵正成が先導したのは替え玉の家康で、蓑(正尚)ら伊賀・甲賀の
 忍者が守り抜いたのが本物の家康だった。
  だからこそ、蓑(正尚)は家康に蓑と笠を着用させた。後年、家康の伊賀
 超えに関して、替え玉と本物説が混同して伝わったということもありうる
 だろう。難所の加太峠を超えたあたりで入れ替われば、安心である。そし
 て、本物は伊賀街道を抜け、東海道の「関宿」に至り、瑞光寺で休息した。
 そこで、本物の足跡を残すために家康ゆかりの「権現柿」のいわれを残し
 た――」
という推論であります。関の服部家も関係してくるものと考えられます。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月24日 02時09分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

>服部半蔵正成が先導したのは替え玉の家康で、蓑(正尚)ら伊賀・甲賀の忍者が守り抜いたのが本物の家康だった。

2手に分かれて、というのは有り得ますよね。



>後年、家康の伊賀超えに関して、替え玉と本物説が混同して伝わったということもありうるだろう

有り得ますとも。


>関の服部家も関係してくるものと考えられます。

ですよね。

今に至るも存続しているというのはそれなりの家だったからですし。


家康だって「伊賀越えは大変だった」とは言えても細かいホントのところは秘密にしたでしょうし。



http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/zuikoji.html
瑞光寺                    立派なお寺ですね。さすが。

 一行はようやく難所を抜け、応安四(1371)年の創立とされる、関・木崎(こざき)町の瑞光寺に到着した。この寺はもとは別の位置(小野川上流)にあったが兵火に罹って焼失、関安芸守盛信が菩提寺として天正年間にこの地に再興したもので、当時の和尚は三河宝飯(ほい)郡の生まれで、家康と幼なじみであったという。

 境内には「権現柿」と呼ばれる柿の木が今なお残っているが、これは天正年間に家康が上洛した際に、ここ瑞光寺に幼なじみの和尚を訪ねて立ち寄り、庭先で柿を賞味したことから、後世この名で呼ばれることになったと伝えられる。つまり、残念ではあるが、「権現柿」の名の由来は、この時家康が賞味したからとかではないようだ。
 

 家康一行はここでしばし休憩した後、白子へと急いだ。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月24日 15時11分34秒 ) パスワード

レス<11>
>応仁の乱の時に、この遠江地方にどんなことが起こったのか、調べてみます。
>羽鳥庄と服織神社もいろいろ影響を受けているでしょうし、庄園の管理体制も変わったかと推察いたします。
>М家の祖は羽鳥庄司の家人であったようです。源氏系を名乗っています。もっとも、一系なのかどうかは分かりませんが……


越前と尾張と遠江は斯波義廉が守護大名だったんですねぇ。

なんとなくM家の歴史が分かったような気になりました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E5%BB%89

斯波 義廉(しば よしかど)

室町時代中期から後期の武将、守護大名。

室町幕府管領、越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)11代当主。

足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を相続した。
父は渋川義鏡、母は山名氏出身で山名宗全の伯父に当たる山名摂津守(実名不詳)の娘とされている[3]。



家督相続

長禄3年(1459年)、斯波氏の先々代当主・斯波義敏は家臣の守護代甲斐常治と対立し(長禄合戦)、8代将軍足利義政の怒りに触れて罷免され、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続する。


2年後の寛正2年(1461年)8月2日に松王丸も廃され、義廉は大まかには斯波氏と同じ足利氏の一門渋川氏の出で、かつ曾祖母が斯波義将の娘であるという縁から、同年の10月16日に義政の特命により斯波氏の家督を継承することとなる。
この時、尾張・越前・遠江の守護にも任命されている[4]。


この家督相続には幕府の関東政策が絡んでおり、常に軍事力不足だった義政の異母兄の堀越公方足利政知の要請に義政が応じて、政知の執事である渋川義鏡が斯波氏当主の実父という立場から足利一門最強の斯波軍を動員出来るように工作したとも言われている。

義政は最初義敏・常治を関東に派遣させようとしたが、両者が命令に従わず内乱を起こしていたため義敏を罷免、松王丸を当主に置いても長禄3年から翌4年(1460年)にかけて斯波氏領国の遠江で今川範将の反乱が勃発、関東情勢に不安が残されていた事情もあった。


    遠江で今川範将の反乱!                                  


ところが、寛正2年10月に再び遠江で反乱が起こり、翌寛正3年(1462年)に幕府の介入で反乱は収まったが、関東で幕府方の上杉持朝と父が政争を起こし、三浦時高・千葉実胤・太田道真ら持朝の重臣が隠居、事態を重く見た義政により父が失脚させられてしまった。更に寛正4年(1463年)11月、義政生母・日野重子の死去による大赦で義敏・松王丸父子と畠山義就が赦免され義廉の立場は悪化した[5]。
                                        義廉窮地に!



失脚と復権

義廉の家督相続は上記の関東政策のためであり、義鏡が失脚した以上義廉の必要性はほとんど無くなり、義政は義敏の復帰を考えるようになった。

寛正6年(1465年)に義廉が斯波氏と同族の奥州探題大崎教兼との取次に失敗したことも影響しており、義敏がかつて大崎教兼と取り次いでいたことと常治が亡くなっていたことを合わせて復帰工作を始めた。

しかし、一方的に廃嫡されることを恐れた義廉は義政の妨害に動き出し山名宗全・畠山義就の連携に奔走した。

                                   ここで応仁の乱の一方の雄・山名宗全が出てくるのですね。山名宗全は斯波義廉の母の従兄弟であり義廉の妻の父ですから泣きついたのでしょうね



義敏は義政の側近の政所執事伊勢貞親・季瓊真蘂の画策で寛正6年12月30日に京都で義政と対面、翌文正元年(1466年)7月23日に幕府の裁定で義廉は幕府への出仕を停止させられ、8月25日には義敏への3ヶ国の守護返還を命じられた。


しかし、この時既に義廉は宗全派と手を組んでおり、義敏の支持者だった元管領細川勝元ら諸大名も貞親ら側近衆に反感を抱いていたため家督問題は複雑化した。

                                        応仁の乱前夜ですね!

 

義敏は貞親・真蘂・赤松政則らと共に9月6日の文正の政変で失脚し、14日に守護職は義廉に戻された。更に宗全・義廉らは勝元派の排除も狙い、大和で挙兵した畠山義就を呼び寄せ、応仁元年(1467年)1月8日に義廉は義就の軍事力を背景に畠山政長を管領から追い落とし、後任として管領に就任。義父の宗全らは義廉を支持し、義敏は勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の1つにもなる[6]。

                                      応仁の乱の前哨戦勃発ですね!


なお、応仁元年5月1日には左兵衛佐に任じられている(『斎藤親基日記』)[7]。



応仁の乱とその後の義廉


応仁元年1月18日、京都北部で義就と政長が激突(御霊合戦)、敗れた政長が姿をくらましたことにより宗全派が実権を握ったが、勝元も巻き返しを図り、5月に義敏を始め勝元派が宗全派の領国を襲撃、両派共に京都に大軍勢を呼び寄せ、26日に京都市街において上京の戦いが発生、応仁の乱がはじまる。

                                      応仁の乱戦闘開始!


翌2年(1468年)に7月には幕府より管領・3ヶ国守護職を剥奪されるが[8]、西軍内ではなおもその地位に留まった。義廉は宗全率いる西軍に属して各地に転戦するなど西軍の主力を担ったが、文明3年(1471年)に有力家臣の1人である朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、文明7年(1475年)に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受ける。


                                         あらら・・・情勢悪し。越前での重臣の朝倉孝景の娘は義廉の妻の1人
                                         この朝倉義廉は当時「天下一の極悪人」と呼ばれたとか
                                         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_ (7%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)



同年11月、尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし、義敏・義寛父子の盛り返しにより文明10年(1478年)に敏広が守護代を更迭され敏定が新たな守護代に任じられると、敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、

義廉は敏広と共に幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。
                                             義廉、尾張を失い、行方不明に


その後の行方は不明となるが、『大乗院寺社雑事記』延徳3年6月30日条に記された斯波氏の系図には「渋川殿ー義廉ー某越前」とあり、延徳3年(1491年)の段階で義廉は亡くなっているために居所に関する注記が記されていないとする解釈もある[9]。


一方、義廉の子が朝倉孝景に奉じられて越前国に下ったことは、『大乗院寺社雑事記』文明13年11月4日条に見え[10]、同記の延徳3年6月30日条に登場する某と同一人物を指すと考えられる。この子は喝食で栄棟と称し、その9年後の延徳2年(1490年)に連歌師の正広が一乗谷で栄棟と会ったことが正広の句集『松下記』に記されている。

この息子が朝倉孝景の息子氏景の推戴により、義俊と名乗ってが将軍家の連枝にあたる鞍谷公方を継ぐこととなり、名目上の越前の国主とされたので越前に移り住んだという説が有力視されている[11]。一方で、鞍谷公方は後世の創作で、実際の鞍谷氏は奥州斯波氏の嫡流もしくはそれに近い系統に属し、義俊との関連性は見いだせないとする反論も出されている[12]。


                                         義廉の息子の話が錯綜してますね


官職および位階等の履歴

※ 日付は旧暦
寛正2年(1461年)8月2日、家督を相続し、越前・尾張・遠江の三国守護に就任。10月16日、治部大輔に任官。

文正元年(1466年)7月23日、罷免される。9月14日、再び家督相続。越前・尾張・遠江の三国守護に復帰。

                                いかにも応仁の乱の前哨戦ですね


文正2年(1467年)1月8日、幕府の管領となる。同年改元し、応仁元年5月、左兵衛佐に遷任。

応仁2年(1468年)7月10日、管領更迭、越前・尾張・遠江守護職褫奪。但し西軍内では管領・三州守護に留まる。

                                        グチャグチャ


脚注

1.^ 斯波氏家督相続の際に「渋川息十五六」という記事(『大乗院寺社雑事記』寛正2年9月2日条)があることから、大凡この頃と考えられている。石田、P169。
2.^ 『尊卑分脈』より。ただし同書は義廉と義寛(法名は道仙竺渓)を混合している。

                          《尊卑分脈》もテキトーのようですね

3.^ 石田、P192。
4.^ 松原、P42 - P43、水藤、P6、谷口、P42 - P43。
5.^ 石田、P144 - P157、P165 - P174、P177 - P178、渡邊、P75 - P81。
6.^ 石田、P182 - P200、水藤、P8 - P9、谷口、P43 - P44、渡邊、P82 - P85、P149 - P150。
7.^ 小泉(2015)、P294 - P295。

8.^ 罷免の理由として、独断で古河公方足利成氏との和睦を図ったことが挙げられる。関東政策で斯波氏当主に選ばれた以上、応仁2年の時点で西軍優位の状況で成氏と和睦を結び、東軍から義政を奪取して家督保全を引き出すために動いたが、独断で動いたことが義政の不興を買い、罷免に繋がった。管領職は勝元に、3ヶ国守護職は松王丸に与えられた。石田、P200 - P210、P241 - P244。

9.^ 小泉(2015)、P297。
10.^ 小泉(2015)、P292。
11.^ 石田、P257 - P260、P264、P269 - P270、松原、P44 - P46、水藤、P9 - P18、P23、谷口、P44 - P49、渡邊、P194 - P198、P208 - P214。

12.^ 佐藤圭「戦国期の越前斯波氏について」(初出:『若越郷土研究』第45巻4・5号(2000年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)。なお、佐藤は栄棟と斯波義俊には年代的な矛盾があり、義俊が実在の栄棟と同一人物なのか実在性も含めて再検討すべきと主張する。




さすが足利幕府も末期になってグチャグチャになり話が混沌としてますね。

こうして日本全国で下剋上が行われて戦国時代になっていくのですね。



服部家も尾張斯波家に仕えてました。
そこに織田が入って来て・・・のして来て・・・
信長が旭日のごとく力を持ち・・・服部家は今川と組んで信長を倒そうとしましたが義元が殺されてしまいました
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月24日 15時14分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

蜷川館(富山市)についての記述がありました――
 http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/toyama.html

「居館が築かれた時期は不詳ですが、越中国の砺波郡と新川郡を支配した
蜷川氏の居館がありました。蜷川氏は古い氏族・物部氏の流れを組む名門
の出です。テレビのアニメ「一休さん」に登場するお侍さんの蜷川新右衛
門は、室町幕府の足利将軍に側近として仕えていた実在人物である蜷川親
当がモデルになっています。親当は和歌や連歌、書道、絵画にも精通して
いた武家文化人だったそうです。蜷川氏は室町時代や戦国時代に翻弄され、
バラバラになった蜷川一族は明智氏、長曽我部氏、永井氏、徳川氏に仕え
るようになりました。写真は、室町時代に蜷川親綱が父・親直の菩提を弔
うため臨済宗の寺として蜷川館があった場所に建てられた最勝寺の本堂で、
戦国時代に曹洞宗の寺院となりました。」

 ここでいう永井氏とは、斎藤系長井氏、即ち斎藤利三の系統だと思うん
ですが……。

 この斎藤長井(永井)氏の何世代かあとの子孫は「伝八郎」を名乗ってい
ます。永井直勝も「伝八郎」を名乗っていましたので、何かつながりがあ
るのかな……大江系の通じ名なのか、謎であります。

 鈴木成元氏の『永井直勝』によると――
 「家康が伊勢の白子から乗船のとき、船の用意をしたのは伊勢の商人、
 角屋士郎次郎であった。このとき、永井直勝は小姓として供奉し、大浜
 にいた長田一族も船で迎えたという。大浜に着いた家康は、長田重元の
 館に休んで、岡崎からの迎えを待ち、浜松には行かないで、岡崎に帰っ
 た。翌五日、すぐに光秀に対して敵対行動に出た。」
ということであります――

 さて、昨日は何年かぶりにプールへ行きました。G&B海洋センターと
いう所であります。二俣にあります。
 その帰りに、すぐ近くにある「天龍院」というお寺を訪ねましたら、ここ
は二俣城主の松井家の菩提寺でありました。首塚という石柱が二ヶ所にあり、
仏塔がいくつか並んでいました。今川氏に仕えていた二俣城主の松井氏であ
ります。
 松井宗信は今川義元の馬廻衆で、桶狭間の戦いの時、義元の警護をしてい
たのですが、はからずも討死してしまいました。
 ということは、服部中保次(小平太)と同じ現場にいたということになりま
す。あるいは、二人は戦ったのかもしれません。
 ということで、仏塔に向かって般若心経を二巻唱え捧げてまいりました。

 一つの首塚の主はわかりましたのですが、もう一つの方の主は、今川氏真
に誅殺された貞宗(信薫?)の子の宗親でしょうか……。カメラを持参してい
ませんでしたので、写真(記録)をとりそこねました――
 

[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月24日 15時21分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。
 応仁の乱後、斯波氏と今川氏がほぼ主役になるということ……よく読んで
理解に努めます――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月24日 15時21分14秒 ) パスワード

復習
http://katumasa1225.hamazo.tv/e3163047.html

秋鹿氏は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経(九条道家と西園寺公経の娘・倫子の子)に仕え、
南北朝期に足利尊氏により遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補任されました。

のちに中泉郷に移られ見附の「府八幡社」の神主を兼任、徳川幕府の初代中泉代官となられ、明治以降は旧中泉公園(屋敷と庭園 一角に劇場や遊郭があったとされる)の主(あるじ)でした。


秋鹿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html

折敷に三つ巴
(橘姓/藤原を称す)



 秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。

 朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。

 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。

 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。


 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。



■府八幡宮(ふはちまんぐう)

 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月24日 15時41分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 応仁の乱には頭がついていけません。私の理解力は小泉流ワンフレーズ
程度であります……。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月24日 15時59分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秋鹿氏が羽鳥庄の内の貴平郷の地頭になったというのは、少し納得がいか
ないのですが……。確か羽鳥庄には7郷はあったと思いましたが。荘園の一
部だけ分けて管理というのは、荘園制度自体が崩壊しているか、他の豪族、
寺社などと分担しあったということなのでしょうか……?
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月24日 22時56分27秒 ) パスワード

もうすぐ出かけます。
簡単に書きます。


応仁の乱の時代は混沌の時代で10分後には引っ繰り返っている現在の政治の世界と同じですね。
ワケ分からないです。
田中真紀子でも泣いていましたから誰にも実は分からないのでしょう。


で、力を持ったのが頭1つ抜きん出て来て・・・やがて群雄割拠の時代となり、これが戦国時代。
ここでやっとちょっと見えて来たということでしょうね。

最終的に家康で決着。

家康の日本統一の前の数十年がやっと理解できるあたりですね。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月26日 11時26分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、遠州浜海岸へ行き、広大な海と砂浜と、寄せては砕け、また引い
て行く波を、ずっと見ておりました。海からの風は頬に涼しく、またゆっく
りと時を刻むような波の音に耳を澄ませながら、心はいつのまにか空の世界
に入っておりました。
 昔も今も変わらない海……殺し合いや、陰謀や、欲望、悲哀、そして死…
…それらの歴史をすべて飲み込んで、やがてまた新たな生と歴史が生まれて
来る……。
 海は即ちすべての母なのだと改めて思う。人間の体も、水が大部分を占め
ている……。イルカやシャチやクジラは、海に帰った。いつか人間も、この
海に帰る日が来る……と取り留めのない夢想に浸っておりました。

 海岸近くをたゆとう藻を見ながら、麻績王の「玉藻」を思い出しました。
麻績王については、まだ探究は中途であります。麻績と服部はほぼ双子のよ
うな関係で存在します。そのバックグラウンドには、海人族が考えられます。
海人……これが日本の歴史の大局的なキーワードであるような気がしてなりま
せん。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月26日 12時24分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


麻績王はどの人のことだったのか?流罪先はどこだったのか?諸説あってなかなか掴めないですね。

きっと何か古代日本史のすごい秘密のヒトなのかもですね。


海自体が不思議な世界ですね。
   海から我々の先祖が来た?
   死者は海からあの世へ渡る?
   海の彼方のどこかにスゴイ宝物があるような?


ロマンですね。

>そのバックグラウンドには、海人族が考えられます。
>海人……これが日本の歴史の大局的なキーワードであるような気がしてなりま
せん。

はい
日本人のメンタリティの根底でしょうね。






[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月26日 13時21分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 応仁の乱は足利氏族のコップの中の嵐が、コップが壊れて全国に広まって
しまい、戦国時代を誘発した。それをほぼ統一したのが織田信長、掠めたの
が豊臣秀吉、最後に統合したのが徳川家康……くらいのフレーズで理解して
おけばよろしいでしょうか……?

 遠江では斯波氏と今川氏の戦いが中心。今川氏の顔は見えますが、斯波氏
の顔が見えない。カリスマ性のある大将がいなかったということになります
か……。
 今川氏に協力した北条早雲については、一度探究してみたいとは思ってい
ます。

 さて、海人ということで、先日長野県の安曇野へ行ったのは、まさに海人
伝説を探りたいと思ったからであります。安曇野は安曇族が居住した所。そ
の安曇族は海人族の代表格であります。何故、海の人が山に登ってしまった
のか……面白い謎であります。

 上田城を後にして、松本で一泊――馬刺しを食べ、翌日安曇野の大王わさ
び農園へ行き、次に有明山の麓で有名なソバをいただきました。そこ安曇野
市穂高有明には有明山神社があり、有明山を御神体とした山岳信仰の拠点と
なっておりました。山岳信仰ということで、また信濃富士という存在を知り
ました。別名、黒姫山――

 この続きは自宅にて――

 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月26日 15時00分05秒 ) パスワード

斯波氏は確かにパッとしないですね。
尾張でもなんかナサケナイ存在のようなイメージです。


応仁の乱の始まりは
将軍がA家に御成りの予定だったのに
実際にはA家と仲の悪いB家に御成りになって
それで応仁の乱が始まった
と読んだことがあります。

将軍がバカだったからでしょうね。



>何故、海の人が山に登ってしまったのか……面白い謎であります。


http://www.amazon.co.jp/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%AE%89%E6%9B%87%E6%97%8F%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%E2%80%95%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%A6%E3%80%81%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E8%8A%B8%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%9D%82%E6%9C%AC-%E5%8D%9A/dp/4773370750

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[30]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月27日 16時31分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 黒姫山は信濃富士と呼ばれ、富士山のようなコニーデ型火山であります。
標高は2,053.4m。伝承によると、702年に役小角がこの山に登り、
弁財天を拝したということです。信濃の山々も修験道と密接に絡んでおり
ます。

 さて、「穂高神社」の「穂高」でありますが、読みは「ほだか」でなく、
「ほたか」と濁らないそうであります。
 想像以上に立派な神社でありました。平成20年に拝殿が改築されたと
いうことで、ヒノキ材の神々しさで満ちておりました。

 この神社内で一番驚いたのは、拝殿入り口の鳥居の左手に、「船」があ
ったことと、拝殿の右手に埴輪の船の形と同じ形の船があり、その上に立
ち姿の「安曇比羅夫像」があったことであります。

 社務所で『歴史と風土 穂高神社』という小冊子を購入し読んだところ、
なお驚いたのは、「御船祭」が毎年9月27日に開かれるという。

 なんでこんな山岳地帯で海にまつわる船、安曇比羅夫、御船祭が……?

 遠江相良町にも確か「御船神事」があった。湊であるので別段驚きはな
い。諏訪大社でも「お舟祭り」があった。諏訪湖があるので、不思議では
ないと思った。
 でも、穂高岳の麓で何故……? アララト山のノアの箱舟とは全く関係
ないようだ。

 この続きは、次回に――
 ひとつ、補足――穂高神社は東向きでありました。それも真東。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月27日 22時19分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


安曇の民が何故信濃に?というのは移動で山の中にも分け入ったのかも知れないし
山の民との交流があったのかも知れないし



さっぱり分かりませんが


天皇の納棺のことを「お舟入り」と言いますよね。
                                    御舟入り= 高貴な人の遺骸を棺に納めること。納棺。また、その式。

そして
神社が建てられた所は、大昔、死者を葬った所だったと。


つまり日本の神社というのは「鎮魂」の場だったのでは?と。



そして日本で言う「お舟入り」の「舟」ですが
世界史的には  東南アジア=ベトナムあたりで 木をくり抜いて死者を入れる  棺桶  と理解されているのです。

もちろん日本の古代でも身分の高い人の場合は木をくり抜いて死者を入れたようですが。だから「お舟入り」。


                                     これはもしかすると東南アジアの風習が日本にも伝わったからかも。


      ずっとずっと前はただ死骸を放ってたようですが。
      その後、埋めるようになり
       入れ物に入れて埋めるようになり
       その入れ物が初めは木をくり抜いたものだった?
       更には人工的な入れ物に入れて埋めるようになったのかも
       日本の場合は「甕」ですよね。さすが「土器」の国。
       わたくしの先祖も「甕」に入れられてたのが発見されています。
       そう言えば「真田丸」でも秀吉が甕の中で塩漬けにされてましたね。
      

ということで穂高神社の舟のことは「こういう場合も考えられるかも」ということで書いてみました。


また死者については
海に近い人は海に流し            海葬
山の人は山の上の方に置いておく  そうすると鳥が魂を運んでくれる 鳥葬
そういう魂の返し方をした、とも読んだことがあります。
しかし、死体を鳥に食べさせるというのが宗教的に合わなくなって入れ物に入れるようになったのかも。


こういう風習から穂高神社には舟があるのかも。   
でもサッパリ分かりません。


ただ「お舟入り」という表現が気になります。天皇家は本来は神道故に。



仏教ですと木を組んで櫓にして死体を置いて焼くという火葬ですから。

http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial14.emperor.html
以下コピペ


宮内庁によれば、歴代の天皇のうち火葬せられたものは41人、つまり122人の天皇のうち約三分の一にあたるそうである。その最初のものは持統天皇である。持統天皇は西暦700年に僧道昭を日本の歴史上初めて火葬せしめているが、御自身もその二年後に崩御するにあたり、火葬せらるることを強く望んだのだといわれる。

持統天皇が火葬を望んだことの背景には、無論仏教信仰の深化がある。仏教は既にそれ以前(用明、推古の頃)から盛んではあったが、葬礼に仏式が取り入れられるまでには至っていなかった。仏教の興隆者として知られる天武天皇の場合には、僧侶たちが天皇の葬儀に深くかかわったことが知られているが、遺体の処理は古来伝統の殯の儀式によっていた。それを天武の妻であった持統天皇が、初めて自らの遺体を、荼毘に付せしめたわけである。


持統天皇以後、文武、元明、元正と四代にわたって火葬が行われたが、聖武天皇以降はもとの伝統的な土葬が復活した。火葬が再開されたのは、西暦1011年、一条天皇の遺体を荼毘に付して、その遺骨を円城寺に安置したのが最初で、西暦1107年には堀河天皇が火葬され、その遺骨が香隆寺に安置された。以後歴代天皇の多くが火葬されるようになった。

天皇家の火葬と深い関連がある寺として京都東山の泉湧寺がある。空海が創建したという真言宗の寺であるが、承久の乱の後に即位した四条天皇が12歳で夭折した折(西暦1242年)に、諸宗の寺院が幕府をはばかって葬儀を辞退したなかで、泉湧寺が一人引き受けて天皇を荼毘に付し、寺内に御陵を作った。これが縁となって、以後泉湧寺は天皇家の菩提寺として、多くの天皇の葬儀を取り仕切ってきた。明治天皇の父君孝明天皇も、この寺で葬礼が行われた。

しかし、西暦1654年に崩御した後光明天皇の葬儀の時に、火葬が排せられて土葬に戻った。ところが不思議なことに、遺体をそのまま土葬するのではなく、いったん火葬したうえで土葬するという手の込んだ方法をとったものらしい。したがって、一定期間遺体を保存して、殯の儀を執り行うという古来の伝統からは、多少外れていたようなのである。

完璧な土葬が大々的に復活するのは明治天皇の時で、それ以来、大正、昭和両天皇も土葬の儀によっている。

明治天皇の大葬に土葬を復活させたのは、天皇家の意思と言うより、明治藩閥政府の強い意志に基づいたものだった。その背景には、仏教を弾圧して神道を国教にしようとする廃仏毀釈の思想があった。

孝明天皇の場合にも、仏式を拝して伝統の殯を復活させようとする動きはあったらしいが、天皇家の仏教信仰には根強いものがあったため、従来の令に従って、仏式による埋葬が行われた。すなわちいったん遺体を火葬したうえで、土葬するという例の手の込んだやり方である。

(以上は、限られた材料に基づいて、メモとして書いたもので、子細については修正の余地がある)

以上コピペ
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月27日 22時55分54秒 ) パスワード



以下コピペ

《天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません》

 皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、次のように明かす。

「『殯』と聞いても、ほとんどの人はそれが何を表すかわからなかったと思います。陛下が『お言葉』の中でご自身の老いや公務へのお気持ちに触れられると予想していましたが、具体的に『殯』に言及されたのには驚きました」

『もがり』とは「も(喪)あ(上)がり」が起源といわれ、大辞泉には『荒城(あらき)』に同じと記される。『あらき』の項目には《貴人の死体を、墳墓が完成するまで仮に納めて置いたこと。また、その所》とある。

 28年前の昭和天皇崩御をひもとくと、たった数十字では表すことのできない陛下の苦悩の記憶が蘇ってくる――。

「古くは『魏志倭人伝』にも記されている『殯』は、死者の蘇りを願い、すぐには埋葬せず腐敗が進むまで儀礼を続ける日本古来の葬礼の形式です。いわゆる“お通夜”に当たるものといえます」(前出・皇室記者)

 昭和天皇が崩御された1989年1月7日の翌日から、『大喪の礼』が行われた同年2月24日までのおよそ50日間が「殯」にあたり、連日24時間にわたる『殯宮祗候(ひんきゅうしこう)』が行われた。

「殯宮祗候は、ご遺体のそばに控えて故人を偲ぶことを言います。崩御から約2週間は吹上御所に、その後は宮殿の松の間にしつらえた『殯宮』に、昭和天皇のご遺体を納めた棺は安置されました。それからは、宮内庁職員や政治家、経済人などが10人ほどのグループになって交代で、真っ暗で静寂に包まれる殯宮の中で昭和天皇を偲びました。

 吹上御所にお体があるうちは、皇族方と旧皇族も含めたご親族が24時間体制でおそばに控えられました。しかし人数は限られるので、交代で当たられてもすぐにまた順番が回ってくる。崩御から間もないのに、悲しみに暮れる間もなく、夜を徹しての役割を担わねばならないのです」(皇室ジャーナリスト)


新たな天皇は、崩御当日には皇位継承の証となる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、国璽(こくじ)と御璽(ぎょじ)を受け継ぐ『剣璽等承継(けんじとうしようけい)の儀』が行われ、翌日には新しい元号が発表、さらに翌日には天皇としてはじめて声明を発表する『即位後朝見の儀』などが立て続けに行われる。

 当時、宮内庁の報道室に勤めていた皇室ジャーナリストの山下晋司氏はこう振り返る。

「棺に供え物を捧げる『日供(にっく)の儀』など毎日欠かさず行われるものも、逐一、陛下に相談した上で進められました。ご遺体を埋葬する御陵の造営や、大喪の礼に向けた準備なども同時並行していきます」

 もちろん、古来の伝統的な「儀」がすべてではない。通常の務めである国事行為などの公務はその間も途切れることはなく、諸外国からの弔電に目を通し、答電されるのも、新たな天皇の役目。

「昭和天皇の“遺品整理”も差し迫っていました。皇位と共に伝わる由緒ある物(=御由緒物)か、昭和天皇の個人所有物かの仕分けです。御由緒物であれば相続税はかかりませんが、個人所有物は課税対象になるのです。たとえば、三種の神器や数百年前から天皇家に伝わる物は御由緒物、明治以降の献上品は個人所有物、といった具合です。

 仕分け作業は職員が行いましたが、陛下にご説明し確定させていきました。また、昭和天皇の公務はすべて陛下が引き継がれましたが、皇太子時代に陛下が行われていた公務をすべて皇太子殿下に引き継がれたわけではありませんでした。公務の“交通整理”も陛下のご意向を伺いながら決めていきました」(前出・山下氏)

 大喪の礼が過ぎても、節目で「儀」が行われる上、『即位の礼』に向けた準備も始まる。天皇はもちろんのこと、皇族方、それを取り巻く職員に休む暇はまったくない。だが、こうした目に見えるものだけが、陛下が苦悩を示される記憶ではない。前出の皇室ジャーナリストはこう忖度する。

「『殯』の期間中に、ご遺体は腐敗し白骨化していきます。棺の中とはいえ、おそばに皇族方が控えられるという状況に抵抗感や、より悲しみを増幅させてしまうのではないかというご不安も抱かれていることでしょう」

 また、前出の神田氏はこう続ける。

「振り返れば、崩御の前年に昭和天皇が体調を崩されてから、ご病状に加え、心拍や血圧、吐血や下血量まで連日報じられました。当時の陛下、そして皇族方はどのような思いでそれをご覧になっていたのかと思うと、非常にいたたまれない気持ちになるのです」

 菅義偉官房長官は、8月22日の会見で、生前退位の議論を「できる限り国民にオープンに進めていくことが大事だ」と述べた。

 生前退位が叶えば、最期を天皇として迎えることはなくなる。そうすれば、陛下の苦悩も取り除かれるのかもしれない。

撮影■雑誌協会代表取材

※女性セブン2016年9月8日号
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月28日 11時25分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日朝から書いていたものが吹っ飛びました。落胆!
 もう一度、気を取り直し、簡潔に書きます――

 天皇家の「お舟入り」は、エジプトファラオの「ラーの舟」の信仰に関係
しているかもしれませんね……? 

 さて、安曇族について、できるだけワンフレーズで説明――と考えました
が、だらだらと長くなってしまいそうなので、適当なサイトを探しました。
いいサイトが見つかりましたので、転載いたします――
 http://suido-ishizue.jp/nihon/07/01.html
 海人・安曇族の里
 「信府統記という古い書物には、信濃国有明の里(安曇町)は景行天皇12年
 まで湖であった」という意味の記述がある。景行天皇といえば、日本武尊
 の父。
  その昔、安曇野一帯は、四方を山々で囲まれた大きな湖であり、泉小太
 郎という男が生坂村の山清路というところを切り崩して、今の犀川に流し、
 安曇野の大地が誕生したという伝説も語り継がれている。

泉小太郎は、安曇[あづみ]族であったといわれている。
安曇族 ―――古代日本を代表する海人[あま]族・安曇氏。

神系氏族とされ、大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあった
と伝えられている。その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易
をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族である。後に、
白村江の戦いを指揮した安曇比羅夫など大和朝廷の水軍の指揮官を務め、
外交、あるいは内膳(食事)職としても高い地位にあった。

水軍であるだけに、あちこちに移住し、その勢力を拡大した。
・筑前国糟屋郡安曇郷(福岡県)
  ・伯耆国会見郡安曇郷(鳥取県)
  ・美濃国厚見郡厚見郷(岐阜県)
  ・三河国渥美郡渥美郷(愛知県)
  等々……。いずれも、海人・安曇族の住みついた地とされている。

 「アヅミ」は、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、
  その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江に
  及び、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している。

   安曇族は、安曇野のような山岳地帯にも住みついたらしい。一説には、
  大和朝廷に命による、越(北陸)の制圧のためという。

  この地の守護神・穂高神社には、安曇氏の祖神「穂高見命」とその父
「綿津見命」が祀られており、今でも同神社の祭りの日には、何艘もの
船がくりだし、互いにぶつけ合う豪壮な行事を見ることができる。」
ということです。
 
 そもそも安曇族や海人とは何ぞや?ということになりますが、なかなか
まとめるのは大変であります――
 ここにもいいサイトがありました――
 「海人の部屋」
  http://amanokuni.blue.coocan.jp/ama-top.htm
であります。
 これによると、日本の歴史上重要な氏族は、ほとんど海人であるという、
驚くべき事実に突き当たります――

  
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月28日 13時40分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>信濃国有明の里(安曇町)は景行天皇12年まで湖であった

へぇ〜
ビックリです。

でも有り得ますよね。


>「海人の部屋」
http://amanokuni.blue.coocan.jp/ama-top.htm

ちょっとだけ読んで来ました:

以下引用
海人族には「二つの顔」があることに気が付きました。
     一つは表の顔、古代から水軍の将として活躍した阿曇氏などの「古代豪族達」です。
     もう一つは裏の顔、いかなる身分にも属さず、あらゆる伝統芸能のルーツともいえる、漂泊の芸能集団、「傀儡子」です。


へぇ〜
(しかし、読めば読むほど、ワケ分からなくなって行きます。根性が無い)



「傀儡子」がココで出て来るとは思いませんでした。

ほんと!
知らないものですね。


ありがとうございました。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月29日 13時11分24秒 ) パスワード

傀儡子で日本全国を渡り歩いていたというのは情報収集や工作をしていたということでしょうね。
忍者の活躍よりずっと古い存在ですね。



さてこんな情報を仕入れて来ました:


高畑裕太容疑者は真田信之と稲との間に生まれた子、真田信政として「真田丸」に登場するはずであった。



「悩める父」だった真田信政

ここで、高畑容疑者が演じる予定だった真田信政について。


信政は真田信之とその正室の稲の息子。言い換えれば、本多忠勝の孫である。そのため外様大名ではあったが、格式は他家よりも抜きん出ていた。

だが、信政は「息子の愚行」に悩まされた人物だ。
彼は5人の男子に恵まれたが、長男の信就は家督相続を辞退、次男の信守は三男の信武を殺害したのち自刃。さらに四男の信福は長生きできず、結果的に信政の嫡子は五男(六男説も)の幸道になった。


だがいずれにせよ、信政の次男と三男が同時に命を落とす事態はお家騒動につながり、やがては「真田昌幸の直系男子断絶」という結果を招く。松代藩第7代藩主の真田幸専は、近江彦根藩からやって来た婿養子である。



■「愚息」がもたらす家の危機

信政の初陣は、1614年の大坂冬の陣。


口論の末に弟を殺した真田信守は、その行いが松代・沼田分裂の遠因になった。感情のコントロールができない息子のために、家が転覆寸前に追い込まれたのだ。


_________________________________


真田信之がふたりの妻に生ませた子のその後

大河ドラマ『真田丸』では、大泉洋演じる真田信之が子供を授かるシーンがあった。それも、前妻のこう(清音院)と、現在の妻の稲(小松姫)がほぼ同時に懐妊するというもの。


結果的に信之は、このふたりの妻のおかげで男子に恵まれた。ところが後年、清音院の系統と稲の系統が激しくぶつかり合うことになる。



つまり「先に生まれた側室の子」と「わずかに遅く生まれた正室の子」のお家騒動なのだが、これが結果的に沼田領を召し上げられるという大損失を誘発。だが、それらの歴史は全国的にはあまり知られていない。



■信之が長命だったため……享年93歳

信之が清音院に生ませた長男は、のちに真田信吉と呼ばれることになる。成長した彼は沼田城主として3万石を相続する。

一方、信之と正室の稲との間に生まれた次男の真田信政は、信吉の死後に沼田領を引き継いだ。ちなみに沼田領は独立した藩ではなく、あくまでも真田松代藩の一部。だが徳川政権下で松代藩主となった信之が、当時としては恐ろしく長命だったため(しかもなかなか隠居が認められなかったため)信政の本藩相続がだいぶ遅れてしまった。



彼は家督相続からわずか2年でこの世を去るのだが、問題はその後継者。信政側には幸道、信吉側には信直(信利とも)という後継者候補がいた。



■真田領の分裂

ここで話を整理すると、信直が清音院の系統、幸道が稲の系統である。

17世紀中葉に発生した真田家のお家騒動は、この両者を巡るものだ。具体的に言えば、まだ幼児だった幸道が本藩の家督を継いだことに信直が反発したのだ。


この騒動は老中や土佐藩山内家をも巻き込み、ついに幕府が介入。松代藩は幸道が継ぎ、沼田領はそこから独立させることで決着したのだ。すなわち信直は沼田藩主になったわけだが、悪いことに浪費癖があった。


信直は松代藩に対抗心を燃やし、沼田城に豪華な天守閣を建てた上、領民に重い年貢を課した。石高を水増しするための検地まで行い、沼田領を疲弊させてしまう。

天候不順で飢饉が発生してもその態度は変わらず、とうとう幕府への直訴に打って出る農民まで。茂左衛門という人物が、その命と引き換えに訴状を将軍へ届けたのだ。茂左衛門は磔にされ、彼の供養碑は今も群馬県利根郡みなかみ町にある。

なお、幕府は茂左衛門の処刑中止の命令を出しているが、あと一歩のところで連絡が間に合わなかった。使者はその責任を取り、切腹している。



■真田太平記のエピローグ

真田昌幸が命がけで守った沼田城は、最終的には徳川幕府によって破却されてしまう。しかもその発端が、徳川方に味方した信之の子であるからまさに歴史の皮肉である。


ここで注目すべきは、真田信之という人物があまりにも長生きしたという点。享年93歳とは、当時の人々から見れば生き神か仙人の域だ。そして「真田太平記」の物語が昌幸に始まり信之に終わるとするならば、そのタイムスケールはじつに1世紀にも及ぶ。


真田の歴史は、長大な絵巻物と表現してもいいだろう。

[37]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月29日 14時56分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 安曇族については、近い内に簡潔にまとめたいと思っています。

 安曇族はもちろん海人であり、また海人を支配(あるいは協力といった方
がいいのか?)する立場にありました。
 その傘下に、海人やその上の海部氏がいたのだと思います。
 服部氏は海部氏に近く、また麻績氏は服部氏に近く、つまり、服部氏や
麻績氏と海人との関係がどうあったのかということをつきとめたいと思いま
す。今、データを頭にインプット中なので、いましばらくお待ちください。

 昨日は、プールの帰り、天竜川東岸の豊岡という所に行き、匂坂氏の社山
(やしろやま)城跡に登ってきました。

 その説明書きがありましたので、記します――
 「この社山は、標高130メートルの山頂にあって、四方は切り立った崖
 で、西側は真下を天竜川の流れが洗い、一名「水巻城」とも呼ばれる天険
 の要害でした。
  その築城については不明ですが、『宗長日記』他の記録によれば、文亀
 年間(1501〜03年)に斯波氏と今川氏との抗争の場となり、その戦いで斯波
 氏が敗れたため、今川氏の支配となったと伝えられています。その後、永
 禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、義元の子氏真が徳川
 氏と武田氏とによって領国を追われ、今川氏が没落したため、三河の徳川
 氏の支配となりました。しかし、元亀3年(1572年)に武田信玄が上洛し、
 遠州地方に侵入したため、今度は徳川氏と武田氏との抗争の場となりまし
 た。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡したため、城としての存在価値が
 なくなり、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封されたことによっ
 て、廃城となったようです。
  全体の遺構の保存状態はよく、現在も一の郭、二の郭と、それらに付随
 する帯曲輪、堀切、土塁等の遺構が残っています。 (磐田市教育委員会)」
ということであります。

 現実のシーンというのは、血なまぐさいもの、阿鼻叫喚、田畑は踏みにじ
られ、あちこちに火をつけられといったものだったろうと思われます。
 そのへんの現実の姿を把握したいと思っています――
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月29日 14時58分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。読解させていただきます――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月30日 01時49分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部氏は海部氏に近く、また麻績氏は服部氏に近く、
>つまり、服部氏や麻績氏と海人との関係がどうあったのかということをつきとめたいと思います。

楽しみにしていますね。


「傀儡子」を始めたということは「新しかった」んでしょうね。
これが後の忍者に発展していって、芸能にも昇華していった。
海人は文化の担い手だったんだなぁとしみじみします。



社山城(水巻城)というのは全く知りませんでしたが
こういう忘れられた城が日本中にあったんですよね。
一国一城が定められて制限されたために夥しい数の城が棄てられて、
でもこうして日の目を見て、この城と関係者は草葉の蔭で喜んでいるでしょうね。

とても良いことをなさいました。


それにしても  
斯波と今川が戦ったこと
斯波は大きな大名なのに新興勢力の今川が勝ったこと
そして義元が討ち死にし今川が没落したこと
武田と徳川が争ったこと
最終的には家康が勝ったこと


この社山城は応仁の乱後の下剋上の世界の舞台となってたんですねぇ。
いろいろな悲劇があったのでしょうね。


三つ柏さんのお蔭で皆さんが成仏なさったのを感じます。
良いことをなさいました。

[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月30日 07時38分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 傀儡の話、ありがとうございました。傀儡(くぐつ)とは、(かいらい)とも
読むのですね。改めて認識しました。傀儡政権とは、誰かに裏から操り人形
のように操られる政権ということ。

 傀儡について、忍者、能楽ともからめていいサイトがありました――
 http://www.iganinja.net/ggkaiwai/
 「もう一つの陰の系譜・傀儡とは?」です。一度覗いてみて下さい。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月30日 07時55分19秒 ) パスワード

http://www.iganinja.net/ggkaiwai/

この渡来者たちは技術や芸能をもたらした
                                      まさに!


もう一つの陰の系譜・傀儡とは?

さて、〃陰の系譜″のもう一つの流れは、渡来者である。
具体的には、大陸・半島からの帰化人だが、重層的にやって来たそのすべてを指すわけではない。

問題はその遅速であって、早い帰化人は選良となり、遅れてやって来た者は、陰に逼塞する。

たとえば、早期にアメリカへ移住した白人のアングロサクソンが選良となり、遅れて移住したイタリア系が、暗黒街を形成せざるをえなかった、というようなものである。

黒人問題もまた、無縁ではない。



ところで、この渡来者たちは、技術や芸能をもたらした。
金掘り、医薬の技術や、歌舞音曲、軽業手口叩の類など、多種多様にわたるが、

公に取り入れられたもの以外は、集団をつくって山に篭もったり、あるいは諸国を流浪した。


「ぼくは忍術と音曲とは、きわめて密接な関係があると思っているのです」
と、故海音寺潮五郎氏がいっている。

「日本の固有の音楽があったとしても、それはないに等しいものでありましたから、日本はあらゆる音楽を、きわめて素直に受け入れています。今日残っている宮 内庁の雅楽の中には、シナの幸日楽もあれば、安南の音楽もあるし、ペルシアあたりの音楽だってあります(中略)。 

こんなわけですから、初期に向こうから日本に渡ってきた楽人を、朝廷がみんな収容しました。
遅れて来たやつは、もうそんなにいらないというので、召し抱えられない。

仕方がないので、その連中は賎民(雑戸)になりました。 


この遅れて渡来したために、朝廷に収容されなかった連中が、音楽とともに、忍びの術をもってきたのではないかと思うのです。
忍術といっても、そのころのものは、観客相手の奇術だったでしょう。
それなら、音楽とともに、もってきても不思議はないでしょう」
(『史談うらおもてから』)  


長々と引用したが、なかなか示唆に富んだ指摘である。
帰化人の遅速の問題にも触れてある。
そしてさらに、こういっている。「忍術と音楽、この二つの技術が、もっとも密接な関係があることの証拠は、クグッです」
クグッは〃偲偏〃と書く。
この一見して不気味な文字には、いくつかのイメージがある。 


一つは人形回しであり、二つは雑芸人であり、三つは遊女である。
遊女は雑芸の 合間に春をひさぎ、やがて宿場あたりに住んで、遊女そのものを生業とするようになったのだろう。 

だいたいこの偲偲という口葉が、もっとも古く出ているのは、『列子』(中国の春秋戦国時代の書)らしい。
周の穆王の時代のことで、王が西方へ巡狩(巡視)に行ったところ、人形を献上された。
その人形は、内に肝、胆、心、肺などを蔵し、外には筋骨や皮、毛髪、歯などをそなえているというたいそう精巧なものだったそうだ。 
人形の精巧さはさておき、西方へ巡狩におもむいたところから、西方伝来であろうことがうかがわれる。


高野辰之氏(大正・昭和期の国文学者)の『国劇史概観』には 
「我が侭侭は、ジプシー、すなわちチゴイナーと同一種族なのではあるまいか。偲偲はインドから出たものとして、西洋学者も立論しているが、身の丈低く、どうやらインド北西部から出たらしいという。これが西域地方を経て、中国北西部のウラルアルタイ語族の地帯に入り、同語系の我が国へ入り込んだものと考えたい」 
と書いてある。 


こうなると、すぐ隣の半島や大陸から渡って来たとしても、その源ははるか西域にあったと考えねばならない。 
偲偲という文字そのものは、いずれも怪異の意味をもつが、じつは西域の語の音訳にすぎないのだろう。
情時代の『燕京歳時記』には、「荷利子とは、偲偏のことである」 という記述がある。
荷利子はKulutSだから、日本でKugutSとよぶのは、明らかに転音である。


彼らの生態は、大江匡房の『偲侭記』に記されている。

彼らの生態は、大江匡房の『偲侭記』によると、こうである。
「偲偲ハ、定居無ク、当家ナシ。雪盾蔑帳、水草ヲ逐イ、以テ移徒ス。スコブル北秋ノ俗二類ス」 定住せず、したがって家もなく、丸い天井のテントを張り、水草を追って移り歩 男は弓馬が巧く、狩りを行ない、剣や玉を投げ、人形を生きている人間のように舞わせ、砂や石を金銭に交え、草木を鳥獣に化かすなどの芸を見せる。女は化粧して歌をうたい、春を売る。 丑蜘の田も耕さず、一枝の桑もつまず、つまり生産的なことは何一つせず、だから役人の差配も受けることがない。上は王公を知らず、神を恐れず、一生を楽しんで暮らす。夜は夜で〃百神″というものを記り、鼓舞喧燥を極めて騒などというのだ。 百神とは、つまり、〈昭神〉のことだろう。塞ノ神、道祖神である。辻の神であり、性神である。 


西宮の〃エベッサン“では、百太夫という神が登場する。
これが百袖鼎’’昭神で、文楽や阿波・淡路の人形の神でもあるわけだ。  

彼らのうたうものとしては、
「今様、古川様、足利片下、催馬楽、黒鳥子、田歌、神歌、樟歌、辻歌、満固、風俗、呪師、別法師」と列挙してある。

いろいろだが、見当のつくものもあれば、まったくわからないものもある。


彼らはこうして、漂泊をつづけたらしい。
が、たしかに異種のような気がする。


「この連中は、一般日本人と全然生態が違う。異民族であることは明瞭です。ョ−ロッパのジプシーとそっくりです。同じものかもしれません」
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月31日 00時00分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 傀儡というものに対して、残念ながら現代に生きる私達には感覚的に
イメージすることができないと思います……。どちらかというとシルク
ロードの方がイメージを喚起させてくれるのでしょうか。シルクロード
博物館が豊岡にありますので、行ってみます。

 さて、先週、遠州浜海岸、具体的には「鮫島」海岸で海を1時間程見
ていました。鮫島というと、サメがウヨウヨいるイメージもありますが、
ソプラノ歌手で「鮫島有美子」さんという方を連想いたしました。
それにしても、珍しい地名なので、地図を見てみましたところ、次の事実
を発見しました――
 @鮫島海岸の北1qの所に鮫島(旧 村)の中心部があります。
 A鮫島(村)の中心部より北2qの所に、「千手堂」という地区(旧 村)
 があります。
 B千手堂のすぐ西に「白拍子」という地区(旧 村)があります。
 C千手堂には千手寺があり、「千手の前」の墓があります。
 D白拍子には、千手(千寿)が亡くなるまで住んでいたということです。
 E千手堂より北1qの所に、永井一族の20基以上の墓のある「宝珠寺」
 がありました。
 千手と鮫島の関係……さっそく図書館で調べてみました――

 この続きは明日に――

 
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月31日 11時28分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは前回からの続きです――

 鮫島氏の後裔である鮫島英雄氏は、その著『百姓一揆 蓑笠義翁物語』
という本の中で、鮫島氏の由来についてこう記しております――

 「鮫島氏は藤原氏より出ず。遠江国豊田郡下岡田村に住居を構えし起源
 は詳らかでないが、「蒲の冠者」源範頼に従った武者だといわれている。
  元は狩野氏であり、伊豆国の押領使「狩野介宗茂」より出ず。
  田子の浦「鮫島村」の領主となり、鮫島氏を呼称す。
 
  狩野介宗茂は、鎌倉幕府源頼朝の寵臣「工藤祐経」と乳兄弟であり、
 源平合戦「一の谷の戦役」で虜囚となった「平重衡」を、鎌倉の邸宅
 に頼朝より一年二ヶ月預かり、その間、頼朝の腰元、千手(白拍子)が
 宗茂の館で重衡に仕えたという。

  平重衡は、先に二万の兵を率いて奈良七大寺を焼いたことから、奈良
 僧兵の憎しみを受け、頼朝により平重衡を奈良送りにさせ、木津川の
 ほとりで切られたという。

  千手は重衡の死を哀しみ、尼になったという。その後、源義経が奥州
 に憤死し、源範頼、伊豆の修善寺にて死す。

  宗茂、世をはかなみ、官を辞して遠江国池田庄に下る。千手、尼と
 して同行する。
  宗茂が池田庄に移住した位置は分からないが、おそらく現天竜川中
 であろうと思われる。

  その後,岡田庄に移ったものだが、初代は「鮫島源太左衛門景清」と
 いわれる。
  岡田庄に移住した鮫島氏は、「鮫島村」(現磐田市鮫島)を拓き、神明
 宮を祀る(現 風神神社内の神明宮)。」
ということであります。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月31日 14時40分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>傀儡というものに対して、残念ながら現代に生きる私達には感覚的にイメージすることができないと思います……。

想像可能なのは、ドサ回りの旅芸人、でしょうか?
演劇したり踊ったり手品したりする人達。

こういう人達は東京オリンピック以降いなくなったでしょうね。



鮫島氏:
現静岡県である駿河国富士郡鮫島が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏流、子孫は鹿児島藩の士族。
南九州の豪族に鮫島氏がある。
現在、鹿児島県に多い。



↓  それでアチコチに  鮫島  の名があるわけですね。へぇ〜



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AB%E5%B3%B6%E5%AE%97%E5%AE%B6
鮫島 宗家(さめじま むねいえ)

平安時代末期から鎌倉時代初期の駿河国・薩摩国の武士。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。佐女島 宗家(さめしま - )とも。


駿河国鮫島郷(現在の静岡県富士市鮫島)を本貫としていた。
石橋山の戦いの直前、源頼朝が伊豆国から相模国土肥郷へ赴く際に従った武士の一人として『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月20日条に登場するのが初見である。

駿河国の武士ではただ一人、挙兵以来頼朝に臣従しているため、「伊豆国の武士に準じて扱われるべきである」と石井進は評価している。

同年10月20日の富士川の戦いは鮫島郷の直近で行われたものであり、『吾妻鏡』当日条に宗家の姿はないが何らかの動きをした可能性がある。


『吾妻鏡』元暦元年(1184年)6月17日条によると、宗家は一条忠頼誅殺の際に不手際を生じ、頼朝から右手指切断という制裁を受ける。

以後、同書に宗家の名前を見出す事は出来ないが、建久年間の古文書に薩摩国阿多郡地頭として姿を現す。


鮫島氏が阿多郡地頭に補任された理由については明確になっていないが、阿多郡が大宰府領であった事に注目し、鎮西奉行となった天野遠景との親密な関係(姻戚関係か)も指摘されている(前述の一条忠頼暗殺において討手となったのは遠景であり、その場に宗家も同席していた事など)。

阿多郡は平安時代後半、薩摩平氏の一流阿多氏が支配しており、阿多忠景は源為朝の舅として「一国棟梁」化し、大隅国にも影響力を行使した。

しかし、忠景は中央政府より反逆者と見なされ(阿多忠景の乱)、鬼界ヶ島に逐電を余儀なくされる。

その娘婿である阿多宣澄は平氏政権と密着する道を選ぶも鎌倉幕府成立と共に所領を没収される。

その様な状況の中で阿多郡地頭として下向したのが宗家であった。



「鮫島光家申状案」によると、宗家は建久3年(1192年)8月25日に阿多郡を拝領している。同年10月22日には阿多宣澄の所領であった谷山郡、伊作郡、日置郡等の地頭に島津忠久が補任される。その後、同5年(1194年)2月に関東下知状が出され、宗家に対して「阿多郡地頭併八箇所名主職等」の知行安堵がなされた。

宗家は子息への所領分与の際、阿多郡を南北に分割する。阿多郡北方地頭となった家高は郡内の新田八幡宮領で乱暴を働き、所領を没収されてしまう。代わりに北方地頭となったのが、幕府政所に重きをなした同族の二階堂氏であった。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月01日 00時32分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、図書館において、今までずっと探していたもの、だけどないのか
なと半分あきらめかけていたものを見つけました。
 それは、「三方ケ原の戦い」に出陣したほぼ全員の武将の名前の一覧で
あります。どこまでの地位の武将、例えば何石以上とか、を列挙しているの
かについては明らかではありません。今後精査すれば見えて来るとは思って
おります。

 その中で、服部氏を探してみましたところ、次の二名が載っておりました。
 @服部半蔵正成
 A服部源兵衛保正(正成の上から二番目の兄といわれているが、本当は一番
 上の兄)

 それから、「服部政季」の妻の父、高力清長も高力正長と共に載っており
ました。
 
 大久保家では、忠世、忠隣、忠佐(忠世の弟)が載っております。

 気になったのは、「長田又蔵」という武将であります。一体誰かなあと思
っております……。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月01日 01時53分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「長田又蔵」という武将であります。一体誰かなあと思っております……。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101021.html
ここの箱柳永田さんのレス<46>に出てますよ。家康の小姓だった、と。



 三方原戦死者名簿より


 >長見次平衛、長見茂兵衛、永田藤三郎、 を見つけました。
   (もう少し資料文献を当たってみます、別の家もありうる)

 今風のあいうえお順ですので、偶然にも枕を並べてました。


  藤三郎は酒井さんに与力した惣領で(直系は姫路藩に2軒あります)
 親藩、譜代の家は藤三郎の子孫の可能性が高いのです。

 <5男蘇武之助(鳥居、与力)伏見落城後、跡継ぎがここから来ています>

 私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。



 名簿にあった、長田又蔵(家康小姓)は、3男永田又蔵で             ココ
  兄と、三方原で枕を並べてます。(と伝わっています)
又蔵の娘?が榊原さんとこに嫁いで、生まれた子が永田又蔵を名乗る 
は記載されている が、どこの榊原さん?は不明なのです、
女性の名は 例により記載されて無いので、手詰まりです。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月01日 06時50分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、情報をいつでも取り出せるように、よく整理ができて
おられますね。ペーパーでファイリングするというのはわかりますが、
インターネットはファイリング的に整理できづらいと思うのですが……。

 それにしても、箱柳永田様のこのスレッドも、読みがいがありますね。
楽しみに読ませていただきます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月01日 12時47分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

あの「榊原さん」というのは榊原康政と思いますが
箱柳さんには確かなことしかレス出来ませんでした。


で、小姓だった長田又蔵ですが
又蔵を討ち死にさせたので
家康は長田本家の他にも、1家を立てさせて  永井直勝  と改めさせたのかな?
とも妄想が行きます。


永井姓への変更は恐らく
長田の先祖が頼朝の父を暗殺したから徳川家に長田姓の家来がいては縁起が悪い
というのはジョークだったのでは?と。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月02日 01時04分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦陣において、名前が残される武将というものは、それぞれの部隊の
長ということ。即ち「寄り親」のもとに、一族郎党・家臣があつまって、
部隊を作るので、その寄り親が部隊長ということ。
 大軍団も、分解するとこれらのいくつもの部隊の連合・再編成とみる
べきだと思います。

 そういった意味で、長田(永田)又蔵を見てみますと、永田藤三郎(長男)
も三方ケ原の戦いにて討死しているということの理由がわかります。兄弟
でも、それぞれに部隊(小さいか大きいかは別にして)を持っていたと解釈
した方がいいのではないかと思います。武将単独での参陣はまずないとい
うべきかなと思っています。 
 榊原氏を見てみますと、榊原康政、榊原忠政(長男)が参戦しています。

 本日は、箱柳永田様の一連のスレッド――
 @「三河平氏」
 A「三河平氏 その2」
 B「その後の長田氏・永井氏へ」
を読んでおりました。長田氏関連についてほんとうにお詳しく、有り難く
いくつものヒントをいただきました。
 上記のほかにも、箱柳永田様のスレッドを探して読みたいと思っており
ます。

 また、「長田」について、古代からの大局的な流れと関係についても、
調べております。服部、海部、安曇……ともからんできますので、時間が
かかりそうです――
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月02日 21時44分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大上段に振り被ってみたけれど、海人族の全体の流れ・関係をワンフレ
ーズ的に簡潔に説明することは、短時間では難しいと悟りました。
 されば、一つ一つの手がかり=尻尾を捕まえて穴から引きずり出すとい
う個別作戦をと考えました。いくつかの事実を並べてつなげていく。すな
わち「点と線作戦」でもあります。

 先日行きました安曇野でありますが、「大王わさび農場」でわさび製品
を購入してから次に向かったのが、行列のできる「ソバ屋」さんでありま
した。行列のできる理由は安くてしかも量が通常の1,5倍はあるという、
信州のおいしいソバをたくさん食べたいという人にはたまらないと思いま
す。今の世の中、インターネットで調べますので、うまくて安いとあらば
全国から集まってしまうわけであります。
 店の名前はカメラの中のデータを探せばわかりますが、その店が目的で
ないのでこだわらないことにいたします。
 重要なのは、その店のある土地の名前というか、すぐそばの神社及び山
の名前でありました――
 その名前は、「有明山神社」と「有明山」……どこかで聞いたことのあ
る名前だな……そうだ、「有明海」に関係があるのかなと一瞬思いました。
もちろん、その時はその程度の認識で終わってしまいました。

 そして今、坂本博氏の『信濃安曇族のルーツを求めて』を読んでみます
と、みごとこの「有明山」が出てまいりました――
 「古代史上最大の動乱と云われる「磐井の乱」で敗れたために、筑前国
 糟屋郡の安曇郷を本拠地とした安曇族は、磐井の子の葛子を戴いて、
 西暦530年代に信濃国の北西部(後の安曇郡)に逃げ込んだと推測され
 る。彼らが信濃西北部の山岳地帯を逃亡先に選んだ理由は、彼らが那津
 (なのつ 博多)に拠点を置き、海運・交易商人として、朝鮮半島や中国
 大陸だけでなく、列島の遥か東に位置する「越のほとり(後の越後国)」
 まで手広く商売を行っていたから、信濃のこの地域に関しては土地勘が
 あり、また信濃への入り口である「糸魚川」とその周辺に住む商売相手
 のエミシとは気心が知れた間柄であり、さらに越のほとりや信濃北部は
 当時は未だ大和朝廷の手が及ばないところであったから、逃亡先として
 は最適地であったという点である。
  そして、彼らはエミシの案内で糸魚川から姫川をさかのぼり、さらに
 佐野坂を超えて、安曇平に入り、「有明山」の麓に本拠地を設けた。
  そして小規模ながらも日本海沿岸の物産と信濃各地の物産を交易する
 商人として、さらにまた高瀬川流域の荒れ地を開拓もしながら、この地
 で次第に富と力を築いていった。」
ていうことであります。

 この有明山が有明海に由縁する可能性はどうでしょうか。百人一首にも
「有明の月」にからめた歌がありますし、「有明」自体は普遍性のある言葉
 であります……。
 
 坂本博氏はこう推論しています――
 「対馬に有明山という標高558メートルの山がある。これは厳原(いず
 はら 対馬の南部の港)からよく見えるそうである。これは沖合から指標
 として厳原港の位置を教えてくれるだろう。
  筑前安曇族が信濃西北部の高い山の麓に本拠を構えることになったとき、
 その山を見上げながら、さっそくそれを「有明山」となづけたのではない
 だろうか。」
ということであります。
 私は、偶然にもソバのおかげで、安曇族の本拠地の正ににその場所に立っ
ていたということになります。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月03日 02時38分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

>海人族の全体の流れ・関係をワンフレーズ的に簡潔に説明することは、短時間では難しい

とおっしゃりながら下記のように纏めていらっしゃるではないですか。

>筑前国糟屋郡の安曇郷を本拠地とした安曇族は、
>古代史上最大の動乱と云われる「磐井の乱」で敗れたために、
>磐井の子の葛子を戴いて、
>西暦530年代に信濃国の北西部(後の安曇郡)に逃げ込んだと推測される

これはビックリでした。


ひょっとすると大国主命のお子さまの「建御名方神(たけみなかたのかみ)」のお話は
筑前国糟屋郡の安曇族が「磐井の乱」で敗れて信濃まで落ちて来た事件と関わりがあるのかもですね。

    史実は安曇族が「磐井の乱」で負けて逃げて来た

    神話は大国主命のお子さまの建御名方神が出雲から逃げ出し、
    建御雷神が追い、
    ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめられた建御名方神は
    その地から出ない旨と、
    大国主神・八重事代主神に背かない旨、
    葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束した。


わたくしは神話とか伝説というものには「事実」が含まれていると思っているので
神話や英雄譚を読むと(何の話が基になっているのだろう)と空想するのですが

今回は安曇族の話が古事記に書かれたのかなと。


スッキリできて実に楽しいレスでした。
ありがとうございました。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月03日 09時18分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青様のおっしゃられるとおりだと思います。
 安曇野を訪れた後の帰路で、「諏訪」へ寄ったのは、やはり「建御名方神」
や諏訪氏にからむ謎の手がかりを探すためでありました。
 安曇族の話と関連していると思います。古代の歴史の謎の黄金は、まだまだ
深くに眠っています……。
 『諏訪市史 上』という本を仕入れてきておりますが、まだ本格的には紐解
くまでには至っておりません。

 海神族は安曇族が有名でありますが、和珥氏、海部氏、宗像氏、そして
関連して服部氏、麻績氏、長田氏、等々との関連を調べて行きたいと思って
おります――

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月03日 12時11分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

レス<51>に書いた
  
神話では大国主命のお子さまの建御名方神が出雲から逃げ出し、
科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめられた


この先が「政治」ですね。

・その地から出ない
・大国主神・八重事代主神に背かない
・葦原中国を天つ神の御子に奉る


古事記の編纂を命令した人物=天武天皇でしょうか?=なかなかの策士ですね。

意図は
        「だから」朝廷には逆らうなよ!
と脅しをかけてますね。


国史=とは神話のカタチをとった=命令・法律
だったのか!です。笑


どこが建国のハナシだよ!
ですね。


ま、だからこそ縄文人=信濃の土着民=は弥生人=出雲の神・安曇氏=を受け入れたのかもですね。
それを記念しているのが諏訪神社の御柱祭ということか、と。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%BA%BB%E7%B8%BE

【名字】麻績
【読み】おみ
【全国順位】 26,987位
【全国人数】 およそ130人


麻績連、麻績君などの子孫。
後世は中臣氏、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)小笠原氏、服部氏などにもみられる。
長野県東筑摩郡に地名がある。
新潟県、東京都にいます。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月03日 12時20分47秒 ) パスワード

>『諏訪市史 上』という本を仕入れてきておりますが、まだ本格的には紐解くまでには至っておりません。

ボチボチで良いのです。


書物は何度も読まないとなかなか行間に気付きません。

また1人で読むのではなく
複数の人と一緒に読むのが良いのですけど
高校生じゃあるまいし
今では語らう相手がみつかりませんね。


やっぱり若い時に遊んでしまったことが悔やまれます。
いろいろな人の目は違ったことを拾ってますから自分では気付かなかったことを教えられます。

今度生まれ変わったら・・・・松田聖子みたい  笑・・・・次は悔いの無い時間の使い方をしたいです。


古事記も日本書紀も読んだつもりだったけど全然読んでなかったな。
反省
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月03日 12時43分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの訂正:青様→あを様

 最近は本は読みますが、エッセンスの部分を拾い出す読み方、というか
結論をまず先に探し、そのあとでプロセスを検証するというやり方であり
ます。時間との闘い、時間の節約という理由もあります。この歳では時間
をふんだんにかけられませんので。
 本もできれば結論だけ書いた本があれば最高ですが……なかなかそうは
いきませんし、数学のようにはいきません……。

 あを様のおかげで、この28カ月勉強をさせていただきました。ノート
のメモも8冊目になりましたし、蔵書も増え、ずっしりとして床が抜けそ
うであります。古文書も時間をかければ解読できそうな雰囲気になりまし
た。

 来月には、敬老会で歴史の話をしてくれという依頼があり、郷土史研究
の見習いとして江戸時代の地元善地を中心とした話をしてくる予定です。

 それもこれも、あを様のご教示のおかげと感謝いたしております。大学
へ行った位の情報量はあると思います……。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月03日 12時57分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『真田幸村は生きていた』という本を読んでいます。反対に家康は幸村
に殺されたという説もあり、本当のところはわかりませんが、死んだ人が
本当は生きていたり、生きている人が本当は死んでいたり、はっきりさせ
たいと思いますが、なかなか……ロマンではあります。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月03日 22時56分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい!
敬老会でまたいろいろな人と出会えますね。

お年寄りはいろいろ知ってたりしますから思わぬ情報がゲットできるかもですね。


とにかく人と知り合うことは宝物を増やす1つの方法です。
若者は謙虚な態度で爺婆のお友達を増やしましょう。
誰を紹介してくれるか予想つかないですよ〜


わたくしもこの28か月に「考え直す」という勉強をしました。
表面サラ〜ッと済ませて来た反省の日々でした。
三つ柏さんには感謝です。
たくさんの本を読ませて頂けたし。


幸村のこともお知らせくださいね。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月04日 02時53分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はおいしい料理(酒のつまみ)と、おいしいお酒(冷酒)をたっぷりいた
だいてグルグル二日酔いになるかなと思いましたが、「水素水」というもの
を飲みましたら、不思議なことに二日酔い症状になっておりません。水素水
とは一体何なのか、探求してみたいと思っています。味は普通のペットボト
ルの水と変わりませんが……。

 さて、私が絶対解きたいと思っている謎とは、安曇・海部・服部・麻績・
長田の関係であります――
 「安曇」については、海人族の代表的存在であり、その氏族名として、
またその安曇氏が拓いた土地の名前として認識できました。
 「海部」とは、安曇氏の下に海人を統括していた氏族といわれ、その氏族
及び拓いた土地名であることが推察されます。
 「服部」については、養蚕から絹糸・絹布・高級絹織物を生産する氏族・
及び拓いた地名であるということが推察されます。
 「麻績」については、麻・麻糸・麻織物を生産する氏族及び拓いた土地名
であることが推察されます。

 それでは、「長田」については――
 調べますと、例えば遠江において「長上郡」は「長田郡」の「上半分」の
ことをいい、その中に「羽鳥庄」(服部庄)があります。
 また、駿河にも「長田郷」と「羽鳥郷」が隣接しております。
 伊賀にも「服部郷」と「長田郷」は近くに存在しております。
 従ってこの「長田」と「服部」は、具体的にはわかりませんが、近い関係
にあることがわかります。

 「服部」と「麻績」については――
 伊勢・松坂での両織機殿を見れば近い関係であることがわかります。

 「海部」と「服部」については――
 丹後の籠神社の海部氏の系譜をみると、つながっていることがわかります。
 また、海部郷というのも、意外と長田郷・羽鳥郷の近くにある可能性があ
ります。例えば、遠江に敷智郡安間(あんま あま)郷があるように、尾張の
海部郡海部郷も服部郷と近いと思いますし、その他にもたくさんあるのでは
ないかと推察されます。

 これらの氏族を「海人族」とくくってしまうのはちょっと強引すぎると思
いますが、海人族を中心として、それをとりまく、あるいは中核に近い関係
でそれぞれが関係していた……権力構造、宗教関係、産業サイクル……。

 この辺についてをぜひ検証したいと思っているのですが、長田氏について
は、まだ決定的な情報が欠けているので、停滞しております――
 長田氏のルーツを解く鍵は「長田神社」にあるのでしょうか?
『天孫人種六千年の研究』によると――
 「長(なが)はチャム語でNaga、即ち龍の義で、龍蛇信仰に深淵し、タ(た)
 は助辞である。」
ということで、つまり「長田」は龍蛇信仰の民ということかと推測されます。
ただ、これだけでも長田氏の属性はまだ鮮明ではありません。
 「長」とつく名前として「長髄彦」「長媛」等が考えられますがどうで
しょう、関係あるのでしょうか?
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月04日 04時42分03秒 ) パスワード

長田の「長」は龍とか蛇でしょうか?


そうするとそれこそ古代メソポタミアとかシュメールとかエジプトとかの影響もあるのかもですね。


長田氏についてはもっと根本的なところから調べ直さないといけないのかもですね。
きっと桓武平氏の子孫が「長田」という地名から俗姓をゲットしたのかもですね。
なので大昔から「長田」という地名が存在してたのかも。


ま、ボチボチ、ネットサーフィンしてみます。



幸村の生存説は秀頼様を連れて鬼のような幸村が島津家を頼って落ちて行ったというのはアリますが

実際には伊達藩の片倉小十郎重長の家に転がり込んだのかもですね。娘が後妻になってるし。


つい最近はNHKのドラマで
石田三成の子が米沢の上杉家の前田慶次郎宅に匿われて育ったというのがありましたが

幸村が落ち延びた話もあって良いかも。


幸村でなくとも島津家に幸村がらみの物や人、秀頼様の物や人があったりいたりしても不思議じゃないと思います。


        家康の陣に斬り込んで討ち死にしたというストーリーのほうが日本人の心情や美学に合うと思います。実際はどうだったのでしょうね。



宇喜多秀家でも関ヶ原の後に島津家に暫く隠れていましたからね。



宇喜多秀家:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6

関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。そこで落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿った(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)。その後は変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。『常山紀談』では薩摩に遁れ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。

島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される[注釈 3]。慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった[注釈 4]。
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月05日 01時18分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 諏訪大社関係について――

 http://www.maybs.jp/onbashira/suwataisya_kigen.htm
 ◆諏訪大社について

「諏訪大社は、全国各地に10,000社以上の諏訪神社等と呼称される
分社の総本社で、総本社諏訪大社は、諏訪湖を中心として上社と下社の二
つの神社で総本社諏訪大社を構成しています。 
 また、その上、上社は諏訪市中洲と茅野市宮川の前宮の2社で構成され、
下社は春宮と秋宮という2社で構成されていて、諏訪湖を挟んで諏訪市の
南西、茅野市の西側に鎮座しているのが上社。下諏訪町に鎮座しているの
が下社です。

 御祭神は山陰の島根県にある出雲大社に祀られる大國主命(おおくに
ぬしのみこと)の第2子神「建御名方命神(たけみなかたのみこと)」と
その妃神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」で、下社には兄神「八重
事代主神(やえことしろぬしのかみ)」を併せ祀られていて、わが国最古
の神社に数えられています。

諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、
建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下
社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれ、或いはまた、諏方南宮上下法性大
明神(すわなんぐうじょうげはっしょうだいみょうじん)とも称えられ、
その起源は遠く古代にさかのぼることが歴史上の文書等により明らかで
あります。」

 下社の八重事代主神ですが、いわゆる「事代主」ということでしょうか?
事代主は「長田神」と関係あるようです。神戸長田区の長田神社では、事代
主をお祀りしております。長田に関してさらに調べて行きたいと思います。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 01時59分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>下社の八重事代主神ですが、いわゆる「事代主」ということでしょうか?

ホント
こういう所からしてワケ分からなくなりますよね
(一体どの神様のことなんだ?)と。


勿論古代に部落ごとに呼び名があったのは分かりますから1つの神様のお名前が何十も存在することは分かります
しかし、こちらは全部に精通しているワケじゃないので  あの神様のこと?アッチの神様のこと? と混乱します。



知り合い達が桃太郎の話を展開しているのですが
早い話
桃太郎の家来の  雉・猿・犬 は古代氏族のことだなんて言ってるんですが

    猿といったら猿田彦のことか?つまり長田氏の先祖のことか?

            とワタクシは妄想が行きました。


>事代主は「長田神」と関係あるようです

そうなんですか



興味深いですね。
古代政権が必死に隠そうとしたこと、針小棒大に自己評価したこと、
そういうのが見えて来るって楽しいですね。
[62]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月05日 11時30分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

古代の「長田」について、2年前の「長上郡の服部氏族]]T」にて、記
しておりましたが、ほぼ忘れかけておりました。インプットされたものが
どれだけ脳内に残るか……経年劣化症状により、いささか心もとない限りで
あります。

 その内容を丸ごとコピぺしてみました。以下――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ■昨夜、水軍関係や、海人の安曇氏を調べながら、「長田」の文字を探して
いましたが、全然出てこない。ひょっとすると、日本語でなく外国語の方に
よりルーツが関係しているのかと、日本の古代の地名関係はアイヌ語、ヘブ
ライ語、シュメール語等に由来するということで、海人に関係するシュメール
語に関する本を開いて読んでみましたところ、後半の部分に「長田」の謎が
書かれていました。正に一発でしとめたというか、ヒットしました。うれしい
やら何やら・・・その時深夜12時をまわっていましたので、ま明朝にという
ことで今書いております。内容的には考古学から言語学までいろいろな要素
がからんでいますので、私の能力では完全理解することが難しいので、あを様
のお力をお借りしたいです。あを様なりに解釈・解説を加えていただきたいと
思います。
 八咫烏の話もルーツ的には関連して来ると思いますが、これはこれですごい
テーマですので、別途考察したいと思います。

 では、「長田」のルーツについて、川崎真治氏の『地名の起源を探る 方舟
に乗った日本人』の中から、ちょっと長くなりますが―
 「天竜川の青銅鏡
  1988年12月11日。『東アジアの古代文化を考える会』(会長江上
 波夫)の会員研究発表会で、『天竜川下流の石積古墳』というテーマの研究
 を大石政男氏が発表した。その折、配られた資料の中に、1枚の青銅鏡拓本
 印影があった。見ると、乳頭と乳頭の間に、何とも言えぬ不思議な画像があ
 る。乳頭は4個あるのだが、その間を埋めている4個の画像が、それぞれに
 違う形状で、私がこれまでに見た古鏡のものとは全く異質であった。つまり
 東王父・西王母とか、伯牙弾琴とか、東駕とか、そういった種類ではないの
 だ。
  私は、この鏡を、この目で見る必要があると思った。
  鏡を保管している浜北文化センターへ電話すると、うれしいことに原寸
 大の写真を送ってくれるという。その写真が『内野二本谷積石塚第一号墳
 発見の変形神獣鏡』(直径99ミリ)である。

  ちなみに、この鏡のことを現在では、「赤門上(うえ)古墳 三角縁神獣
 鏡=華紋明天王四神四獣鏡」と呼んでいます。 

  変形神獣鏡といわれているが、もちろん、仿製鏡、日本製である。ご存
 じの方も多いと思うが、弥生後期の銅鐸が浜名湖周辺から数多く出土して
 いる。従って、内野二本谷から出た変形神獣鏡も、多分、銅鐸を鋳造した
 鋳物師の子孫の作であろう。ということになれば、その製作地は浜名湖北
 岸の伊福(遠江国引佐郡伊福郷)をおいて他にない。理由は、伊福(イフク)
 という日本古語が「鋳物師」だったからである。
 注:伊福、イフクの語源はシュメール語の鋳物師シムグ。shimug→sibug→
  'ipuk→'ihuku 伊福部氏は青銅鋳造部族。」

 (ここから神獣鏡の画像・模様・文字について解説しているが、甲骨文字の
 ような文字が再現できないのでその部分は省きます。)

  以上、簡単ではあったが、内野二本谷塚第一号墳発見の変形神獣鏡の全
 画像を4区に分けて解説した。改めて統括していうと、「七枝樹2神の牡
 牛神ハルと蛇女神キに祈る」。これが鏡に鋳込まれた絵と字による「銘文」
 である。そして、この銘文をもつ変形神獣鏡が出土した地点は既に紹介し
 たように、天竜川河口流域の長上(奈加乃加美)郡内の内野(うちの)であっ
 た。

  平安時代では、長上郡と長下郡に分かれていたが、より古代では阿波国
 那賀郡のように一つの長郡、那賀郡、あるいは那訶郡であったと考えられ
 る。ナガでなくナカ(那訶)とした理由は、平安時代長上郡長田郷がナカタ
 郷(奈加多)であり、長下郡長野郷がナカノ郷(奈加乃)だったからである。
  つまり古代の日本語では、那賀、那訶、奈加、ナガ、ナカは通音であり、
 長(ナガ)、永(ナガ)、中(ナカ)、仲(ナカ)は通音通字であったのだ。そし
 てそのナカ、ナガの7世紀のあて字は「那干」「那奇」(日本書紀)であり、
 3世紀の『魏志倭人伝』では「奴佳」だった。ということは、ナカのカ、
 ナガのガが、kh子音のkha「クㇵ」だったということである。詳しくは前著  『日本最古の文字と女神』で述べてあるが、以上のナクㇵ、ナカ、ナガの
 言語はシュメール語の「腕を〇〇の方へ近づける」、ダフ・アー・ダであり、 そのダフ・アー・ダが音転で、ナクㇵンダ(那干陀)、ナカダ(那奇陀)になり、 ナカダ(那訶田、仲田、中田)になり、ナガタ(那賀多、長田、永田)にもな
 ったのである。なお、郡名の那賀、長、那訶は、語尾のダが省略されたも
 のである。
 
  そういう言語史をもつナカ、ナガが、倭人の社会で「七枝樹二神」をあ
 らわす代名詞になった。従って、ナカもしくはナガの入った地名の国や郡
 や郷は、牡牛神ハルと蛇女神キを祈るウルク系日本人の住む国・郡・郷で、
 その証拠の一つに、長上郡内の内野から上述の神獣鏡が出た。ちなみに内野
 (ウチノ)という地名をいえば「向かい合う・キ女神・牡牛神」、ウブ・キ・
 グ、ub-Ki-Guから@フ・チ・ノ、Aウ・チ・ノへと変化した内野であった。
 いうなれば鏡の第2区画、第3区画、第4区画の言語的表現がウ・チ・ノ
 (内野)であり、また@の後略のフ・チが浜松市の属した旧郡名のフ・チ
 (敷智)郡であった。
  このように天竜川河口流域は、牡牛神ハルと蛇女神キが結ばれた、いわ
 ゆる七枝樹二神族が住んでいた地域であった。だからこそ川の名に竜蛇女
 神の「竜」が入ったのである。

  なお、天竜川中流の水窪(みさくぼ)町に多くの古代文字を線刻した石が
 ある。私は10年程前、故・池本教諭宅で、その石を撮影したが、今、石
 の写真をあらためて見直したところ、文尾にあたる個所に蛇女神キの甲骨
 文字「ヒ」がひときわ大きく、かつ鮮明にほられてあった。すなわち内野
 の変形神獣鏡にある「ヒ」と同じ文字が、天竜川中流の水窪線刻石にもあ
 ったということなのだ。

  つまり、縄文時代か、シュメール系の人々が海を渡って来て河口近くに
 住みついたということになる。島とか入り江もそうだったかも知れない。
 志賀島もそうだったと思います。シュメールのペトログラフがたくさんあ
 ります。水窪石も写真で見たことがありますが、古代の字でありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この中で――
 「ナクㇵ、ナカ、ナガ」がシュメール語の「腕を〇〇の方へ近づける」、
「ダフ・アー・ダ」であり、 そのダフ・アー・ダが音転で、「ナクㇵンダ」(那干陀)、ナカダ(那奇陀)になり、「ナカダ」(那訶田、仲田、中田)になり、
「ナガタ」(那賀多、長田、永田)にもな ったのである。なお、郡名の那賀、
長、那訶は、語尾のダが省略されたものである。」という部分が「長田」の
説明の核心部分であります。
 
 「腕を〇〇の方へ近づける」というのは何を表しているのか……私が今ま
で見た「埴輪」の中で、巫女が「両手を空に向かって大きく開いている」姿
がオーバーラップされてまいります……。
 
 シュメール文字(ペトログリフ)は志賀島で有名でありますが、天竜川の上
流の水窪に「水窪石」という文字が書かれた石がありますが、それがシュメ
ール語とすると、一体いつの頃なのか、安曇族の活躍していた時代よりはる
かに昔なのか、それともシュメールの後裔が、文化・言葉・文字を遺産とし
て持ってきたものなのか、それらによっては、「長田」は紀元前のずっと向
こうまで遡ってしまいます……。
 でも、一般的には、居住した土地の名前を自分の氏族の名前にすることが
多いので、長田氏といわれる氏族が、必ずしも紀元前からこの地に住んだ、
あるいは同じような長田の地に住んだ長田族ということではないかも知れま
せん。

 七枝樹二神の牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」というのは、深い意味があり
そうなので、さらに深く探究してみます。「ハル」は「2001年宇宙の旅」
のコンピューターの名前でもありました……?
 また、「ハルキ」といえば、「君の名は」をつい思い出す方もおられるの
かなとも思いました……。
 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 13時01分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうでしたね〜
随分初めの頃にご説明になってらっしゃいましたね。


ほんと!
忘れてしまうんですよね

これが10代〜30代とかの年代でしたら記憶してたんでしょうけど。


>「君の名は」

氏家真知子(鈴木京香)さんと後宮春樹(倉田てつを)さんですね。
もう25年も前ですね。

鈴木京香さんは平家の子孫だと宮城県の複数の人が言ってましたっけ。
だから美しいんだって。


時代が時代なので「君の名は」の設定が良く分かりませんでした。
    「君の名は?」と訊かれたらサッサと答えればいいのに、と思ってました。
古代日本はオトコに自分の名を言うというのは結婚を承諾する(夜這いに来てもオッケーよ)という意味があったそうですけど。



(なんだかメンド臭いストーリーだな)と呆れつつ見ていました。
こういうイライラするストーリーが日本人は好きなのかなぁと。

要するに山の手のお嬢様のお話だから庶民の女性には憧れだったのかな?と。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月05日 13時15分19秒 ) パスワード

スレッド77
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101555.html
をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月06日 08時42分30秒 ) パスワード

古代中国の思想は  東海に3つの島があって  そこが不老不死の国。
だから死者は舟に乗ってそこへ行く。


日本の前方後円墳は「海の中に島があってそこに眠る」。

    後に7世紀にもなると前方後円墳は作られなくなる。
    蘇我氏は 方墳 →  仏教の影響で 寺 を作るようになる。


古墳の天井に星が描かれたのは死者が舟で不老不死の国に行くのに道しるべとなるから。



海人の意味は  ひょっとすると死者の案内人だった  のかも?
つまり物部氏のような存在。神道を奉じた人々?

蘇我氏の台頭と仏教の影響により海人族は力を失った?
そして前方後円墳も作られなくなった?
[66]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月23日 12時21分16秒 ) パスワード

 三つ柏様 あを様

>きっと桓武平氏の子孫が「長田」という地名から俗姓をゲットしたのかもですね。 なので大昔から「長田」という地名が存在してたのかも。

 まさに、その通りです、平高望の所領が伊賀伊勢にあったらしく其処に
清盛さん先祖と我が家の平公雅が引っ越しています。そこで長田を名乗ります。
 公雅の長男次男は出羽守の後、坂東で定住します、三浦とか長尾らしいです。
3男が致頼で
長徳4  998 平致頼と平維衡が北伊勢で合戦
長和2 1013 平致経(致頼の子)が桑名郡の相伝の所領を藤原頼通に寄進して益田荘
長元1 1028 平維衡の郎党高押領使・伊藤掾(元景?)が三河国の下女多数を略奪(小右記)
長元3 1030 平致経と平正輔(正度の兄)が北伊勢で合戦   四十八士史より

  伊勢での戦いは、判定負けでして、美濃尾張へ転身していくのですよ。
 余談
 三浦さんは鎌倉で政争に敗れ、伊勢に、次に三河に移動、杉浦を名乗り
 家紋 3本杉 の家が矢作川河口から岡崎まで、広域に集落を作ってます。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 07時00分03秒 ) パスワード

箱柳永田さん

>平高望の所領が伊賀伊勢にあったらしく

これがソモソモ平家の先祖が1006年だったかに上総から伊勢伊賀に来た背景なのか。
知らなかった〜



>其処に清盛さん先祖と我が家の平公雅が引っ越しています。
>そこで長田を名乗ります。

なるほどね〜
こういう基礎の部分を知らないから  事実らしきものをいくら積み重ねても  核心に行けないわけだ。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 07時29分57秒 ) パスワード

>長徳4  998 平致頼と平維衡が北伊勢で合戦

        へぇ〜
        この頃には平氏は伊勢に来てたのか

        平致頼(長田の祖)vs 平維衡(平貞盛の息子で平家の祖)が喧嘩してたのか

                この争いの8年後に正式に平家の先祖が伊勢に来たのかな


        北伊勢といったら平貞盛の盟友の藤原秀郷の子孫の「伊藤さん」の本拠地ですよねぇ〜




>長和2 1013 平致経(致頼の子)が桑名郡の相伝の所領を藤原頼通に寄進して益田荘


          藤原頼通=藤原道長の息子ですね
          長田の祖は藤原氏のバックを得て政治的に平家より上に立とうとしたのかな?

                 
   

>長元1 1028 平維衡の郎党高押領使・伊藤掾(元景?)が三河国の下女多数を略奪(小右記)


          この時には伊藤氏は平家と結んでたようですね


>長元3 1030 平致経と平正輔(正度の兄)が北伊勢で合戦   四十八士史より


          またもや長田の祖と平家の祖が喧嘩してますか

なるほどね〜

長田忠致とその子・景致に源義朝が討たれて
長田忠致が恩賞に、尾張を欲しいと言った時、藤原(伊藤)忠清が反対したのは、こういう過去の経緯があったからかもですね。

へぇ〜



>三浦さんは鎌倉で政争に敗れ、伊勢に、次に三河に移動、杉浦を名乗り 家紋 3本杉 の家が矢作川河口から岡崎まで、広域に集落を作ってます。


西三河の名家の杉浦氏とは
   >公雅の長男次男は出羽守の後、坂東で定住します、三浦とか長尾らしいです
そういう出自でしたか。
へぇ〜

   杉浦って西三河に多いけど、どういう家なのかな、と不思議でした。
   優秀な人が多いし。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 07時46分32秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B9%B3%E6%B0%8F


伊勢平氏(いせへいし)

承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。

平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合[1]がある。



10世紀末から11世紀にかけて、同族平致頼との軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。

出てますね〜



だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、

                                         ギリギリじゃん


当時の貴族としては最下層(侍品)であった。
                                         うん


伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。


しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。


その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。


しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった。

                                        カシコ〜イ

さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代で前九年の役、後三年の役を平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり[2]、白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし勢力を減退させていった。



一方伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。


殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。


正盛は、1107年に出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられ、翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った。


その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。


正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった。


平忠盛の死後、平清盛が継ぎ、保元の乱・平治の乱を制し、従一位・太政大臣にまで昇進、「平家(へいけ)」一門の栄華を築き上げる。


『平家物語』によれば、一門の公卿は16名、殿上人は30余名、諸国の受領・衛府・諸司は60余名。当時の日本の半国に当たる、30余国を知行し、「この一門にあらざらむ者はみな人非人なるべし」と豪語するほどの栄華を極めた(ただし、この表現には誇張が含まれており、同時期に公卿に列した人数は最大でも12名であった)。
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