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 投稿番号:101021 投稿日:2008年01月01日 10時00分34秒  パスワード
 お名前:箱柳永田さんの代理
三河平氏 その2
キーワード:長田+永田+@
コメントの種類 :その他  パスワード

「三河平氏」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100598_102.html
の続きです。

[7]福岡さんからのコメント(2008年01月03日 16時40分24秒 ) パスワード

Guess_whoさんへ

夜半、同じ柳の木を見てもただの柳にしか見えない人もいれば、人影の幽霊に見える人もいるようで・・・。

同じ物を見ても見る人によってその感じ方が違うようなもので、Guess_whoさんから見た場合の・・「久」を単に「九」に当てたなんてものではい・・。・・・の考え方も面白いと思います。
しかし、今風に言えば「でもそんなの関係ない! でもそんなの関係ない」
貴方のヨタものでしょうね。

[11]福岡さんからのコメント(2008年01月04日 10時21分16秒 ) パスワード



Guess_whoさんへ

数学的見地から『九』を捉え、深遠で普遍な代数構造としての『九』を一般に知らしめようとする御努力にはフムフム感はありますが、だとすれば、自らの論を
ヨタ等という必要もないし、素直に気楽にカキコすればいいのでは?

それにしても『九』を『久』にして『9』を語り始めるのもどうかと思っていますが・・・・。

高名な大学の教授がNHK教育番組などで数学を教えていますが、非常に判りやすくいつも感心しています。真にものを教えようとする気持ちがある人物は、どうすれば相手にわかってもらえるかということに心を砕くのだと言うことが良く判ります。

わざととか、ほのめかすとかでは本意は伝わりにくくなると思いますけど・・。
最後に「まぁ、誰が書いたかわからないし、気楽に読んでみてください。」では
残念という気持ちが残ってしまいますが・・・・・・・・・・・。
[14]福岡さんからのコメント(2008年01月05日 21時39分23秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんへ

ご教授下さい。

本邦では、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九国。とありますが、
(筑州)−筑前国、筑後国
(肥州)−肥前国、肥後国
(豊州)−豊前国、豊後国
(日州、向州)−日向国
(隅州)− 大隅国
(薩州)−薩摩国

後から加えられた
(壱州)−壱岐国
(対州)−対馬 国
これらを数えると州としては『九州』あるが、『国』としては『11』になります。

四国の場合、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、近世以降は「四国」と呼ばれた。
とあり、このあたりに疑問を感じています。

よろしく。
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2008年01月05日 22時55分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

福岡さんへ
 
日本地図を見れば明白だが、対馬、壱岐を除き各国に矢筈岳(山)もしくは矢櫃岳(山、峠)などがある。
これは対馬の神域性を示すもので、その前方に位置する壱岐は対馬聖域を表示するために東触、西触、南触、北触、諸津触などの地名が異常に多く存在する。
従って壱岐、対馬は九州に属さないのである。
これら地名による太古からの統治権表示については、膨大で複雑な説明を要する。
興味がある人は桜井光堂著「古代日本の領土−領土画定と記紀解読の実証的研究」を読むことをお勧めする。
この書物は日本法制史学会誌「法制史研究」などに掲載されたものを一冊本にまとめ上げたもので、世間一般の古代史ヨタ本とは一線を画する。
[16]箱柳永田さんからのコメント(2008年01月09日 18時07分56秒 ) パスワード

 展覧会のお知らせ(大分遅いです すみません)

岡崎市美術博物館において2月11日まで
 中根家文書 刊行記念展 隼人がゆく を開催しております
午前10時から午後4時30まで(入場可能)月曜休館

 13日午後2時より 講演会岡崎藩政の展開 本田氏時代を中心に
 講師 国際日本文化研究センター 笠谷和比古さん
 
 27日午後2時より 中根家文書の絵図について 城絵図を中心に
 講師 姫路市立城郭研究室 工藤茂博さん 

 いずれも午後1時より 整理券配布予定 定員70名
 会場 1F セミナールーム
  
  興味の有る方は、お越し下さい 
 私は27日に行く予定です (ご希望があれば 目立つ姿で行きます) 
  東岡崎2番乗り場から中央総合公園行き 美術博物館下車3分
  本数が少ないので、時間に余裕を持って下さい
  タクシーは15分位です
    

  
[18]箱柳永田さんからのコメント(2008年03月03日 18時23分30秒 ) パスワード

 展覧会  隼人がゆく を見に行ってきました
   色々考えているうちに 遅くなりました
中根之秀さん(以前投稿されていた方)の家系について論議されていましたが
私なりにまとめてみましたので、紹介します

三河中根は平忠正の末と伝承されているが、現当主 忠之氏は14代を名乗っているので、初代は信長の末弟が家を継いだ時と考えるのが妥当である
 
 又家光時代の幕府大目付に中根の名があるので、こちらが本流と考えれば
岡崎藩中根家は、先祖の伝承を省いた可能性はある。

中根党は古くより岡崎北部に繁栄していた一族で、岩津城(15世紀築城)の中根大膳は松平に城を渡した時(滅ぼしたと書く場合が多いが)臣下になっている。 この系統が忠正流である可能性は否定できないが、織田松平家で重用される理由には成りえない。
 
信長末弟が中根を継いだ理由を考えてみました

大橋広正の次男である中根忠良は、お大(家康生母)の松平方の仲人であり実質親代わりを勤める者であった(再婚して責務は無くなっているが) 大橋 織田は信長の姉を仲介とした姻族で(大橋、蜂須賀、前野等の川並衆の)分断統治にほぼ成功はしているが、いまだに大橋に気を使わなければならない時期ではなかったろうか。
織田家は、斯波氏の家来であったので本来の家紋は木瓜系の可能性が高い、津島神社の織田瓜の方が古い、大橋の同盟の証で使用したと見るのが有力ではないか

永楽銭の戦旗も三河水野(お大の生家 )の旗として紋帳に出ていますので、
こちらにも気兼ねがあったのではないか、以上2つから中根の家を重視したと
私は推量しますが、いかがでしょうか。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年03月03日 23時55分05秒 ) パスワード

興味深いお話ですね。


>三河中根は平忠正の末と伝承されているが

そうなんですか。

清盛方でなくても
それでも複雑に絡み合って
後に南朝方となり
という感じで一筋縄で語れない結びつきがあるんですねえ。


こうやって日本人は生きて来たんですね。
自分が今こうして生きているというのは御先祖さまが岐路を頑張って生き抜いたから
我々は大切な命を頂いているんですねえ。
[21]箱柳永田さんからのコメント(2009年01月09日 18時07分09秒 ) パスワード

 長田(平野系)さん

 家毎に伝承が違っていて当然です。私どもの祖となる、
親致はその時には、船の準備か、逃げたか不明ですが居ないのですよ。
伝聞としての言い伝えがありますので、それを信じています。

  野間にやってくる理由を考えてみます
 直前の宿泊は中山道の青墓宿です、ここから何処を目指せば安全圏に
辿り着けるか?追手の目から逃げられるかがポイントになります。
 人目を避けて陸路は困難ですし、落ち武者狩りにあってはと
舟を利用するのは納得がいきますが、当面の目的地は何処でしょうか?
 細い川が流れる青墓には小船しか無いのです、大河である揖斐川河口まで行くと、とる道は2つが考えられます。 
 熱田大宮司を目指す陸に近い海路では、危険は少なく、
3男頼朝の母の家ですから多分に匿ってくれると思われます。
 海も今よりずっと北の津島市までありましたので、宮の渡し(熱田⇔桑名)
 まで行き交う船もあるでしょうし、航路を外れる心配は有りません。
 風は左舷後方から吹く季節です。
 
 行方をくらます点を考慮し、平家の得意な船を使って
  野間を目指すのは危険な要素が多すぎます。
(しかし揖斐川⇒野間は遭難すれば、簡単に辿り着けます。
洪水のあと、岐阜県の方が打ち上げられる、と聞いています)
実際にボロクズになって辿り着いたと伝えられています。

 保元の乱で敗れた長田には、清盛も、義朝も仇であるのです。
そして、中立を保つ武力も失っているのです。
逃がせば清盛を敵に回し滅亡します。
 (浜松や静岡からの援軍は直ぐには集まりません)
 そう考えれば、常識的には絶対野間は選びません。
 
海流、風向きで野間に漂流であれば、すでに武運は尽きている訳です。

  野間を目指す可能性としては
身の始末まで考えると、熱田に迷惑かけるより、野間なら気にしない、
もしもでも、雑兵に討たれる程には、名誉は傷付かない が出てきます。 

 そう思わないと 正月だから平家捜索隊も休む、尻に帆かけて逃げる
絶好のチャンスをのんびり4日も逗留した理由が思いつかない。
 
[22]永田末裔さんからのコメント(2009年03月12日 02時31分03秒 ) パスワード

永田のルーツを調べようと検索をかけたら,ここにたどり着きました.
こんなに詳しくお調べになっている方がおられるとは知りませんでした.
ちなみに私の家には「長田支流 永田家一門 (著 永田 一夫)」という著書がありますが,それによると知立永田らしいです.
[23]長田EZOさんからのコメント(2009年03月26日 16時53分58秒 ) パスワード

初めまして。
私は、北海道に住んでいる長田(おさだ)と申します。
我が家の家系を調べているところ、こちらに付きました。
私の家は、北海道の檜山地方にあり、北海道に渡る以前は、越中国であると
寺の住職が言っております。
越中国は現在の富山方面だと思いますが、さらに遡っていくと、平致頼まで
繋がるのではないかと、想像しております。
ただ、どうやって調べればよい物か判らず、なかなか先に進みません。
こちらで、ヒントがいただければと思っています。
全くの素人ですので、どんな情報でも結構です。
お知恵を拝借させて下さい。よろしくお願いします。
[25]おさだ(豊田)さんからのコメント(2009年05月23日 06時26分20秒 ) パスワード

[23]長田EZO様
唐突で申し訳ありません
檜山地方にお住まいとありますが
差し支えなければ町名教えていただけないですか
(ひらがなではじめの一文字でも構いません)
もしかすると私と非常につながりが深い方かもしれません
ちなみに父親が檜山地方(町名は出しませんが・・・)出身です
もしかすると同じ町かも・・・
ひさしぶりに来てびっくりしています
よろしくお願いします
[26]長田EZOさんからのコメント(2009年05月25日 10時54分52秒 ) パスワード

おさだ(豊田)様

全く差し支えないので、お知らせします。
爾志郡乙部町です。
ちなみに書き方が悪かったので、訂正しますが、
× 私の家
○ 私の家の本家
結局、跡継ぎは私になるので、同じ様な物かも知れませんけど。
お墓もありますし。
[27]おさだ(豊田)さんからのコメント(2009年05月26日 21時23分44秒 ) パスワード

長田EZO様
連絡ありがとうございます
そうですかー・・・
私の父も乙部町生まれです
たぶん・・・長田EZO様と私は縁者ではないかと思います
長田EZO様は本家筋で私は分家筋にあたるはずです
これもなにかのご縁ですので
ご先祖様に興味がおありでしたらいっしょにやりませんか
私も始めたばかりです(あまりうまくいってないですが・・・)
hi-ji-san@hotmail.co.jpまで連絡を頂ければうれしく思います
よろしくお願いします

[28]ながい(永井)栃木さんからのコメント(2009年06月12日 16時47分15秒 ) パスワード

初めまして。
私は栃木県に住む永井と申します。
家系のルーツなどについて検索かけたらココに辿りつきました。

私の家の家紋は『五瓜に抱き柏』というものなのですが、平家と何か関わりあるのですかね?
この家紋…うち以外で見かけた事が無く…情報が見付からなくて…(^−^;
何か情報をお持ちの方、いらっしゃったら教えて下さい。
[29]箱柳永田さんからのコメント(2009年08月27日 17時12分18秒 ) パスワード


ながい(永井)栃木さんへ
 返事が遅く、大変申し訳ないです。
 身内の永井には該当の紋はなかったです、色々調べた所
http://nihonkamonken.hp.infoseek.co.jp/mokko.htm
 ここを見つけました、時々平熱で見かける小林先生が関係しているので
 見つけた途端、安心して(解決した!と)忘れておりました。
  瓜と柏は平氏一般によく使うので、多分平氏であると思います。 
   あまり力になれず、面目ない。
[30]箱柳永田さんからのコメント(2009年09月25日 14時18分52秒 ) パスワード

  村史、町史より大隅半島の城に長田致将の名があり
 壱岐から何の理由でと不思議に思っていたところ
  宮崎県に内木場城という城跡の紹介記事に致将の名を見つけ
 詳細をお願いしていました。 以下です。
 
 宮崎の鮫島さんから情報を頂きましたので紹介します。

致将の隅州祢寝に下向した経緯をお話します。

壱岐守忠致の名代として壱岐へ赴任した致将(30代)は、唐種を娶り
壱岐の住民として統治を行いました。
この時期において、海上航行術や異国との交易の経験が蓄積されたと考えます。

1177年に大隅国祢寝山本に下向し山田城を築城します。(50代)
理由として鎌倉実記には引き蘢りと書かれていますが、これでは不十分
実は忠致の娘が、源助能の室となり先に当地の高城に居ました。
致将家族は、源助能夫妻をたよりに祢寝まできました。
高城と山田城は隣り合わせであり、当時の役目は、海軍長田、陸軍源という
無敵の組み合わせであったと考えます。

なお山田城での活躍は、物語でしか伝わりませんが大隅の史書に致将は
全く登場しません。地元古参の豪族達の動静に隠れた様です。
もしくは、内木場城での敗戦で島津家により山田城の記述まで消された
のかもしれません。
  以上です
    本来は鮫島さんのHPを紹介したいのですが、更新のため
  少し中断されるそうです、再開されたら、改めてお知らせします。
 
 追伸 昭和5年に発行された野尻村史の捜索をしております
    と 鮫島さんの資料探索に、何処かで見かけましたら
    連絡くださるようお願いします。(平伏 箱永)
    内木場城主長田(平)致将についての一文があるそうです。   
[31]やまとながたさんからのコメント(2010年06月17日 22時38分20秒 ) パスワード

自分の姓で検索したらヒットしたので覗いてみました。

私の姓は長田(ながた)です。
(おさだ)ではないのですが、同じ長田姓なので
何かヒントになる事柄でもあればと思いコメントしてみました。

昔のことは分かりませんが、私の知るところで
祖父の代には奈良県に住んでいたことは確かです。
家紋は丸に剣花菱だそうです。


[32]箱柳永田さんからのコメント(2011年01月31日 17時10分53秒 ) パスワード

私的情報です、すみません

 先日 >http://www.bonnoukun.com/kaou/sobuno/jp/sobunosuke.html
 このページを見つけ、舞い上がっています。
 身内探しの難関の一つ、清蔵長男の子孫は転勤族?の武士になったので
  痕跡(文書に残る)を探すのは土地の歴史館や図書館所蔵の
 資料を探すしか方法は無いのですが、運の良い事にHPで当たりました。
   
 抜粋>姫路永田家の家督を継ぐ者は祖武助の名を襲名します。
  
  三代の五男蘇武之助(別名 穂積之助)は長篠で手柄を挙げた事は
 伝わっていますし、戦記物語より討取った武将望月さんも判っていた。
  以後、武家の永田は好んで蘇武00、そぶ00が多いようです。
 (元鳥居家臣)尾張藩永田蘇武助家と巡り合い、
 伝承の中に<信長から直接言葉を賜った>がありました。
 又この家には叔父も そぶ、大叔父も そぶ と伝えています。
  この事より、長男籐蔵兵衛の子か孫が5男蘇武の家を継いだと推測できる。
    (5男蘇武は多分伏見城で戦死、記述のある本を探しています)
 姫路本多家には家老と祖武の2軒あり、永田祖武助は鳥羽伏見の戦いから
  藩士を無事に姫路に連れ帰った事しか判りませんでした。
 家老伴正の家は幕末の主導権争いで、閉門蟄居し明治政府で活躍、
までは辿れましたが墓(子孫が建てのでは無い)が見つかっただけで、
子孫は不明です。

  HPの山口氏を通して再会をお願いしている最中です。
[33]箱柳永田さんからのコメント(2011年02月04日 17時17分54秒 ) パスワード

空の青海のあを さんへ

 <(嘘であれば、後ろからの矢が怖い、、のだが。)

  これって、「自称」では見破られて許されない、ということですよね?>
  
  実際に飛んでくるようです、そして後に<戦いぶり>を糾弾され
  より危険な場所を任せるとか、名を変えるように仕向けます。
実際、戦場では誤射どころか、<味方撃ち> みたいな行為を
  表す言葉が頻繁に出てくるのです。

 しかしながら、虚偽であっても名に相応しい働きがあると徐々に
 認められていくみたいです(もれなく陰口は付いてきます)。

 身近な例では、<刈谷の水野さん>
 南北朝の時代(転戦に継ぐ転戦で伝承の不確かさ)があったようで、
  官位の申請時に源姓水野になってます。
(公文書としてあやふやな記憶より、同僚(嫁の家)の由緒を正しくまねたと
   個人的には、想像しています)
 水野系図(後世に再整備されている)の通字に注目すると、  
 私(長田支流)と同系列と思われる0致、致0が多いのね。
   既知の(知立永田の嫁<家老の水野家>は平氏になっていた )
   
 で 平姓水野さんの系図を探すと>http://mizunoclan.exblog.jp/10969046/
  水野青鷺さんのHPにありました。想像通り、でした。
   徳川幕府内では、(源氏の方が居心地は良さそう)あえて変えないのも
    選択肢の一つかとおもいます。
  又、岡崎の中根さん(平忠正7男正持子孫 と言われてます)の例ですと
  松平に与力して直に、中老を務めています、と お大の仲人も。
  岡崎衆から見ると新参者が何故に?えこひいき?なんて嫉妬がでます。(多分)
@松平家は大老、老中、中老、若年寄り 奉行の順だったと思います。
  津島大橋の次男には相応の扱いですが、(私的尺度は老中)
 尾張まで目の届かない岡崎衆向けに、理解できる抜擢の理由として、
  岡崎小呂に蟄居していた、正持の子孫。なら納得されるかな。
 とこのように、想像する訳です。(中根家系図は 数代の略あり)
  
 戦の場で背を預ける事が難しい時代の<知恵>と考えた方が良いようです。
  源氏平氏の違いは母方の勢力、出自で決まるので、(極端かも)
   戦国期は、あまり気にしてなかったのではと、この頃考えてます。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2011年02月05日 15時30分53秒 ) パスワード

>戦国期は、あまり気にしてなかったのではと、この頃考えてます。

これは、そうでしょうね。

源平時代から随分経っていますから複雑に絡んでいるでしょうし
戦国時代は群雄割拠と申しますか草深いところに雌伏していた人物が躍り出て活躍したでしょうから。

大活躍をすれば当然「認められた」のでしょうけど。
こういうのは「実力」で認めさせるのが早道ですものね。


徳川家も家康が源氏の氏の長者として認められたのですから
天皇以外が異を唱える権利は無いわけです。

徳川家に繋がる水野家ですから、そりゃあ、清和源氏出身と称したいでしょうし
家康公の生母さまの御実家が源氏を称するのを偽源氏なんて言える立場の人はまずいなかったでしょうし
もしかすると、
水野も源氏を名乗れと許したのかも知れませんしね。


だいたい三河はもともと足利将軍家がらみで皆さん源氏を称したいんじゃないですか?

    吉良(さん)とか一色(さん)とか。

そこに戦国時代以降の家康の源氏ですから、三河では源氏じゃないと肩身が狭いんじゃないですか?
[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年02月06日 21時36分46秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net

>徳川家に繋がる水野家ですから、そりゃあ、清和源氏出身と称したいでしょうし

徳川家の祖松平は在原姓、酒井は大江姓だが源姓親氏の入り婿に着目して清和源氏改姓を後世朝廷に奏請しただけ。
家系とは所詮そのようなもので、目くじらを立てる程のものではない。
  
水野は家号であり、尾張国春日井郡水野邑の邑名に基づいている。
従って、清和源氏浦野氏族と桓武平氏良兼流の二流が存在する。
足利だって源姓と藤姓が存在する。
 
平安時代は女系伝領で、父子代々の家号が異なるのが大半である。
鎌倉時代に入り徐々に男系伝領に移行する。
従って八島重実−浦野重遠−小河重房−水野重清となっている水野系図は信頼がおける。
水野重清は源頼朝に仕えた鎌倉時代初期の人物であり、男系伝領に移行して以後水野の家号が固定するのである。
 
この辺の事情に疎い曲学阿世の学者が妄説を流布している。
 
三河は清和源氏義康流(足利氏族)が多いが、ほかに義重流(松平氏族など)、義光流、頼親流、頼光流、満政流、義隆流のほか宇多源氏、村上源氏、嵯峨源氏なども多い。
また三河伴氏も頗る多く、諸家が揃って源氏を称しているわけでもない。
 
もちろん桓武平氏良兼流長田氏後裔の景俊、景清は水野氏を称しているし、後裔が致の通字を多用していることも真実であるが、徳川の大名家は平姓長田を嫌い大江に改姓して更に家号を永井に改苗していることも事実ではある。
[36]箱柳永田さんからのコメント(2011年08月03日 17時18分36秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん
  丁寧な御教示をありがとうございます。
 
 最近見つけた本に、以下のような物がありました。

http://www.oklab.ed.jp/kitano/kitano/kitasato/gakku_henka.htm
  岡崎市立北野小学校 副読本<北野の里>学区の移り変わり より

 小針城の阿部氏がまだ若い家康に仕えていた戦国時代に、橋目へ一人の侍がやってきました。その人の名は、山田源内といいます。源内は加賀の国(今の石川県)の侍でした。源内は、橋目に座敷城を作り、ここを居城としました。

加賀の国の白山社を氏神としていた源内は、座敷城の前に白山社をつくって祭りました。源内の子孫は農民となり,代々橋目村の庄屋をつとめました。
江戸時代の初めからは,母方の姓である永田となりました。

 この家は、源氏?平氏?どちらを名乗るのかな?
(その家のアイデンティティによるのだが、、。)
   家紋は家と同じ?山田さんの紋?。替え紋、副紋?もあるか。
 宗派はやはり浄土真宗?当時のまま続いてる?。
 この時期(江戸へ家康退去、田中氏統治)は庄屋層の交替が盛んに行われ、苗字を変える例が、しばしば視られるのです。
(皆、14代位前と言ってます、が
  関ヶ原の後、家康家臣が統治する時と区別できませんでした。)
 秀吉配下の田中さんに、スパイ扱いされる恐れがあります、が理由?かな。
  家康が一向一揆を嫌っているから?。
 どちらも、一揆の本場ですから、(人的交流は盛んであったと想像できる)
  秀吉さんは特定の宗旨宗派に依怙贔屓が、有ったっけ?。
[37]橋目在住者さんからのコメント(2011年09月13日 01時12分46秒 ) パスワード

橋目在住の永田です。

たまたま橋目で検索したらたどり着きました。

今でも橋目には永田姓が数十軒ありますが、ほぼ全てが真宗大谷派です。
ただ寺の多い岡崎には珍しく橋目には町内に1つも寺がありません。
(寺の代わりが毘沙門堂との言い伝えもある)
そのため、檀那寺は知立八橋の浄教寺になります。

家紋は木瓜紋になります。ただ源氏なのか平氏なのかははっきりしません。
もしかすると本家なら、何か残っているかも知れません。

山田源内は永禄三年(1560年)に橋目に来たそうです。孫の減七は
天正元年(1573年)に庄屋になっているそうなので、一人ではなく
一族で来住したのかも知れません。本家の話では、織田信長に二千俵の
米を出した褒美として庄屋になったとのことで、その時の書状が残って
いるとの話です。

なお、親戚のおじさんの話では、源内の直系は源七で絶えたため、
江戸時代初期に養子が入り、名字も永田に替わったとの話があるそうです。
その時に兄(そのおじさんの家)が源内の家を継ぎ、弟(本家)が
庄屋を継いだ、その名残で橋目の田扇祭りは、兄の家から始まり町内を一周し
弟の家で終わるという道順だったそうです。

なお江戸時代の当主藤兵衛は岡崎藩の御用聞三十人組の一人で、地廻帯刀を
許されていたようです。

ちなみに橋目の集落から西に200mほど行った辺りには長田(チョウダ)と
いう字名があります。
なぜナガタではなくチョウダと呼ぶのか、またこれが長田氏と関係があるのか
どうかは、全く不明です。


[38]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年09月13日 11時56分14秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

>江戸時代の初めからは,母方の姓である永田となりました。
源内だから源氏でしょう。 絶対ではありませんが、通称がひとつの目安です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/tsuushou.htm
 
>秀吉配下の田中さんに、スパイ扱いされる恐れがあります、が理由?かな。
  家康が一向一揆を嫌っているから?。
 どちらも、一揆の本場ですから、(人的交流は盛んであったと想像できる)
 
永禄六年(1563)に勃発した三河一向一揆に淵源があります。
家康の父広忠が認めた三河三箇寺不入権の侵害で門徒衆が家康方に対戦。
松平家は浄土宗だが、家臣には一向宗(浄土真宗)も多かったが、これを契機に多くの上級家臣は浄土宗に改宗している。
石川家成、同数正、本多広孝、同重次、同忠勝、内藤義清、天野康景、植村正勝などで、家康方優勢の中で最終的に一揆方は鎮圧された。
鎮圧後は、多くの一揆方家臣も許された。
 
戦国時代というのは宗教戦争の時代でもありますから、後世まで尾を引くもので江戸期の大名の宗旨に顕れています。
 
大名の宗旨 http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/daimyou_religion.htm
[39]箱柳永田さんからのコメント(2011年09月13日 17時17分39秒 ) パスワード

 橋目在住の永田さん
  歓迎いたします、先月、橋目永田の本家さんを訪ねました。
 >檀那寺は知立八橋の浄教寺になります。
 ここまで詳細に聞けませんでした、ありがとうございます。
  床の間に、酒井包一の掛け軸が飾ってありました。
 (昔から有るので由来は?偽物だろう!と言ってましたが、、、。)
 絵心は皆無の私ですが、永田繋がりで移動したような気がしました。
 抱一の葬儀は永田祖武助(遊び仲間で姫路藩目付)が行っているらしい。
  (抱一研究者の説があると聞いております)
 知立本陣はその時期には、永田であった。と 風が吹けば桶屋が
  儲かる、に近い話が成り立つのです。
  浄教寺が知立と橋目の接点になればと考えております。
 >橋目には永田姓が数十軒あります
 >兄の家から始まり町内を一周し弟の家で終わるという道順だったそうです  橋目永田は2つのグループになっていて、あまり交流しないと
  聞きましたが、そのグループ分けでしょうか?
   私は、知立から来た、新田開発のグループと想像しておりますが。
  (知立には長田町ながた があるので区別の為かしらと 想像する)
  個人的追伸 橋目町永田さんへ
    お閑がありましたら、我が家を尋ねてください。
   何軒かの嫁さんの実家の中から、何故永田を選んだかが
  腑に落ちるかも知れません。 長田支流永田の墓守
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2011年09月14日 01時19分15秒 ) パスワード

ちょっと乱入。

橋目町のことが出て、知立が出たので、乱入させてください。

目障りだったら(笑)削除するので
以下のことで、新しいスレッドを立てて下さったら、これはきれいさっぱり削除します。


最近友人と秀康の母・於万さまのことを話していたのですが
永田家と永見家と何かありますか?

地理的に近いから何か面白い話なんかあるんじゃないか?と。

既に出てたらごめんなさい。
当時は永見家について興味が無かったので。


永見家は於万さまの身元引受人になった本多作佐と全く関係が無かったわけじゃないでしょうし。
[42]箱柳永田さんからのコメント(2011年09月22日 17時12分51秒 ) パスワード



>永田家と永見家と何かありますか

 希望に添えず申し訳ない、永見さんは全く調べてないのです。
 知立の永田が本陣を務めたのは、初めからではなく途中からなんです。
 その時には、永見さん主流は越前に引っ越していた。
(勿論、神主の方は居ます)
 永見さんは古くから知立神社神主の家と認識しています。
 
 江戸期には、知立永田諸家は本陣,問屋、農民までいますから、
 普通以上の係わりがあると思いますが、調べる時間が無い状態なのです。

 神社と氏族の関わりを、明治期の神社合祀と寺の分離を整理して
 氏子住民の記憶話を突き合わせていくと、、、、。
  調べるほどに判らなくなると言う混沌状態に、当惑しています。
 
  
 身近な例では、豊田の宮口神社があります。
  >http://blog.goo.ne.jp/deko40168id/e/f4927cdfec4723ebeab687d0f8dfaaba
  篠田氏の勧進で社主長田氏と書かれております。
 想像するに長田氏の要請により
 伝長田忠致の屋敷跡開拓を知立が請け負い、六兵衛新田とし、
 豊田宮口、宮上に土着したと思われる。
  八王子(八柱)神社の世襲神主を大正まで務めた永田家の話では、
 氏子は一族と郎党だけでした。と伝わっています。
  
 社主と神主はどう違うか?、(今風に)想像では篠田社長と長田重役、
  永田支店長、に相当する?かな?。
 (豊田には八柱神社が異様に多いのです、
  神社の鳥居、玉垣等には多くの(永田名)寄進者があり、
   色々調べていました、そして訳が判らなくなりました)
  ここのHPは非常に参考になりましたので紹介します。
 
  (図書館通いと身内の聞き取りで篠田、永田の関係が見つからず
   諦めかけていた時に、一気に腑に落ちた幸運な例です)
 次回訪問する時、長田さんと永見さんの関係、(南朝絡み)を
  知立長田さんに聞いてみます。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2011年09月23日 07時22分13秒 ) パスワード

永田さん

ありがとうございました。
ぺこり


社主の方が上なんですか。
言われて考えれば、確かに、そうですね。




>次回訪問する時、長田さんと永見さんの関係、(南朝絡み)を
>知立長田さんに聞いてみます。

興味あります。

また南朝がらみということで、徳川家の秘密に迫れるかも知れないですしね。
今川にいた時の元康とお万の関係もちょっと覗けるかも知れないし。
[44]箱柳永田さんからのコメント(2011年10月11日 17時22分10秒 ) パスワード

>永田家と永見家と何かありますか
わずかな期待は有りましたが、見つけて吃驚しました。

樹童様のHP(解答)の中より
 >http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keijiban/nagai1.htm
 >やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、
 宝飯郡の名族にも永井氏があった、と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。 を見つけました。 
 恥ずかしながら、知立神社は永見さん。
  これが、私の認識でしたので今、空転状態なのです。
 貧乏な私の町内の神社では、常駐の神主さんは居ないのです、
  周りも同様で、各町の祭礼に徳王さんの神主さんが
 見えられるので、2軒の神主家なんて!お伊勢さんや、熱田さん
(もっと多いけど) みたい?と再考、再認識しております。
  で、いつから永井さんが神主を務めたか?どの永井さん?と
 ビクビク、ドキドキしながら知立図書館の散策を計画しています。
  
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2011年10月12日 13時58分45秒 ) パスワード

ご紹介のURL
見て来ました。


思わぬところで思わぬ名字が出てきて
  永見と永井は親戚だったのかな?
などと想像が行きました。

その上に三河大橋氏は尾張大橋氏と一族のようですね。
ま、南朝方が移動した時の縁なんでしょうけど。


それにしてもややこしい。
アタマがクラクラしましたよ。

ワケ分からなくなりました。
あはは
[46]箱柳永田さんからのコメント(2011年12月09日 18時46分56秒 ) パスワード

 永見さん(長見さん)ちょっと横道な話ですみません。
   しっかり<三河武士>もしていた模様です。
 三方原戦死者名簿より
 >長見次平衛、長見茂兵衛、永田藤三郎、 を見つけました。
   (もう少し資料文献を当たってみます、別の家もありうる)
 今風のあいうえお順ですので、偶然にも枕を並べてました。
  藤三郎は酒井さんに与力した惣領で(直系は姫路藩に2軒あります)
 親藩、譜代の家は藤三郎の子孫の可能性が高いのです。
 <5男蘇武之助(鳥居、与力)伏見落城後、跡継ぎがここから来ています>

 私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。
 名簿にあった、長田又蔵(家康小姓)は、3男永田又蔵で
  兄と、三方原で枕を並べてます。(と伝わっています)
又蔵の娘?が榊原さんとこに嫁いで、生まれた子が永田又蔵を名乗る 
は記載されている が、どこの榊原さん?は不明なのです、
女性の名は 例により記載されて無いので、手詰まりです。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2011年12月10日 07時33分21秒 ) パスワード

箱柳永田さん


興味深い発見ですね。
ありがとうございます。


>私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。


書き間違い、というよりは

漢字は当時は細かいことを言わない時代ですから
永見=長見
で普通に使っていたか

知立の神官の永見家と区別して(たとえば本家ではない。次男三男系とか庶子系とかで)
遠慮して長見と記したか


それか全く別のナガミ家か。



>どこの榊原さん?

やっぱり安城〜碧南あたりの榊原さんでしょうか?
気になりますね。
[48]箱柳永田さんからのコメント(2011年12月12日 17時32分35秒 ) パスワード

空の青海のあをさんへ 
  少し 情報 (榊原 永田) 
>やっぱり安城〜碧南あたりの榊原さんでしょうか?
気になりますね

 一向一揆の時、我が家の清蔵は酒井忠尚の与力として鴛鴨付近に居ました。
 と 断言できるのは、当家の長子を名乗る家が埼玉土屋にあります。
 ここの伝承には、鴛鴨生まれで、伊奈の家老で、陣屋を拝領して後、
 伊奈の家が無くなり、現在に至る。 としています。詳細は略。

 この家では、父親は永田清蔵、母親は三河代官西尾鈴木の娘としており、
 西尾市の史誌にも清蔵の妻は西尾鈴木家、は確認できます。
  忠尚と共に一揆直前は上郷在住、がほぼ決定と考えられます。
  >http://shiro728.web.fc2.com/shiro/saitama/tutiya/tutiya.html
  参考になるか、紹介します。他にも見たい方は
    (土屋陣屋 長屋門 永田)で検索。
 
 *すると、家康方で奮戦した、直近の上郷城に榊原氏が居るのです。
  
 矢作川、逢妻川流域は河口の大浜湊抜きでは話せない所が
  難しくしてるのね、三河の江戸期は長田には逆風ですから
 重要な話も隠してしまうのね。

 雑談)西尾鈴木の長姉は長田重元、末娘が永田清蔵へと、判りますが、
 娘の名は不明に近いのね。(諸説ある)
 重元母は酒井清秀の娘、家祖家次(神職の後、独立)は長田の次男なのね。
   男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?と
  単純な疑問から始まった、古い書物の乱読です。
(我が家の古文書は4男が石数さん仕官と共に信州大町へ)
  
 清蔵は一時(碧南)川湊・鷲塚に住み、松本城の瓦を運ぶ荷物と一緒に
   4男伊兵衛と武具、古文書を、、が私の想像です。
    石川数正さんは、瓦運びの采配者として
    瓦の産地で採用(旧知ですから、書面による採用)かな。

  @嫁に出した娘可愛さに、兄弟の中から番頭として
  (世話係の爺や?)一緒に行け、と解釈しています。
 (大名の婚儀には守役家臣が付属する例は多い。
    そんな大層な家??かな。)
  
   @昔の話・再登場  会津藩から野辺地・斗南藩の永田二平は
   後日、函館に羅卒として勤務しています。(函館市史より)
    野辺地を探しても、手懸りが無かった訳です。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2011年12月13日 02時46分05秒 ) パスワード

箱柳永田さん

土屋陣屋の画像を拝見しました。
維持費がすごいですね。


家の名が次々と出て来て空想しますが
やっぱり「地」と「血」で婚姻して、それが何重にも繰り返されて、
人は動くから
ややこしいけど、結局は、三河出身に収束しますね。


瓦、と言えば三州瓦で、高浜あたりかな?とか。


>男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?と

大橋、と言えば
やっぱり南朝方つながりかな?と思うし
津島神社絡みの神職絡みかも知れないし、
華陽院さま絡みの  川口ー大橋 関係かも知れないし

やっぱり日本ですから
遠縁と関係を近縁に改めて結び直すためだったのかな?とか


なかなか興味深いですね。
[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年12月13日 12時17分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>私的には、永見さん(長見)は書き間違いで良いかと思います。
 
旗本永見氏も知立神社神主家永見氏も小野姓で同族。
恐らく、永見氏も小野姓人見氏と同じ丹波が本貫ではないだろうか?
即ち丹波国氷上郡長見邑発祥で長見を称していたが、長田を嫌い永井に改称した様に永見に改称したのが実情と考える。
 
>男子が居るのに大橋から養子(広正)が来るの?

大橋貞省に宗良親王の娘桜子女王が嫁しており、津島七苗字筆頭の家柄。
津島神主家氷室氏、津島神社神楽家祖父江氏にも養子を出しており、川口氏や長田氏に養子が入るのも当時としては自然な流れと考える。
下記のURLを参照されれば、南朝系の閨閥関係が見えてくる。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01059.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01115.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02102a.htm#002
[51]箱柳永田さんからのコメント(2011年12月19日 17時32分36秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
 御助言をありがとうございます。

>丹波国氷上郡長見邑発祥で長見を称していたが、長田を嫌い永井に改称した様に永見に改称したのが実情と考える。

 名前(名乗り)の改名は、一生で3−4回あって、間違いがあっても
 驚きませんが、名字だけは正確に書くと思っていました。
  腑に落ちました。
 
 
 空の青海のあを 様
  >維持費がすごいですね
 一揆(打ち壊し)の集団が通った時に多くの金持ちが襲われた中で、
ここだけは避けて通ったそうです。それで少ない維持費ですんでいる
 と奥さまは言われてましたが、相当優しい庄屋さんを営んでいたと、、、。
  これもかなりの経費がかかりますね。  箱永
 
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2011年12月19日 18時26分18秒 ) パスワード

箱柳永田さん


>一揆(打ち壊し)の集団が通った時に多くの金持ちが襲われた中で、
>ここだけは避けて通ったそうです

人徳ですね。
そして
良い先祖を持つと子孫は助かりますね。


昔の日本の借金は「春借りて秋返す」式だったそうです。

要するに、
春、田植えの時に種籾を借りて、
秋、収穫して返す。

借りたら1粒の籾から200粒の米に増えますから
本来は借りたらトクなんですよ。うまくいけばの話ですが。


天変地異が無ければうまく返せたそうで
これが冷害とか旱魃に遭うと、返せない。
結局、返せないと小作になってしまう。


優しい庄屋でいるのには天の助けも要りますね。
ま、昔風に言えば、天の助けも「人徳」に依る、かな?


そういえば山形?酒井?の本間家がどんどん土地を手に入れたのも
優しい貸し手だったそうで

やっぱり「徳」を積まないといけませんね。
「徳」を積んでおくとどこかで助けられますね。


やっぱり栄える家というのは先祖を大切にしたり村人を大切にしたり
それだけのコトをしているんでしょうね。
[53]箱柳永田さんからのコメント(2012年01月13日 17時30分42秒 ) パスワード

橋目永田党の考察

 橋目の山田さんが永田に変えた話しを書きました、何故山田さんが三河にやってきたか?を考えてみます。
 家紋は丸に横木瓜、改姓時に変えた?我が家と同じ。
 岡崎の山田さん達は白山神社と浄土真宗の信者で、加賀出国当時の状況は
富樫さん兄弟の争いに宗教勢力が巻き込まれ、本願寺派と高田派の対立だけでなく、白山神社も入り。その上、本願寺同士の争い(大小一揆)があったりして、三河の一揆以上の、親戚一族で争う状況が伺えます。
  
 加賀の有力寺院山田光教寺(今は加賀瓢箪町に移動)の信者の中で
 一部は、三河ヘ帰る一揆の援軍と一緒に移動したのでは、と考えています。
 そこで、気になる存在は、安城の大岡党(白山、浄土真宗)で、
  ひょっとしたら、加賀出身を名乗る多くの山田さんがいる可能性があるのです。耕作可能な土地だけでなく、バックアップ集団無しに集団移転を伴う、開拓事業が成功するとは思えません。

真宗寺院の受け入れ態勢を含めて、安城の歴博に行ってみます。
 >http://kagaikkouikki.web.fc2.com/nenpyou.html  
  加賀一揆の年表
 >http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10697203986.html  
  山田光教寺の紹介記事
[54]亡八の環境大学新聞 改竄室さんからのコメント(2012年01月26日 13時25分01秒 ) パスワード

三河平氏????聞いた事も在ません。

父@・母@や祖父A・祖母Aが何時から何処に棲み付かれたのか分りますか。

分脈系図を騙る時は充分御気を付て下さい。

94年頃から在日大使館(王国系)に通い接遇用タバコを連続詐欺した

防水元請会社々員(大和ノ某や大協ノ某ニ某)やオウム審理の弁護士などを御存知ですか。


皇室(光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成、)より親子(祭祀・資産ナド)相続

で厳密な31代目高梨氏(清和源氏河内流デスカ?)キッコーマン専務の二筋四人の孫娘を

幼児性玩具偏執狂者にし断絶させた、浅草橋久我屋渋柿庵社長S.7/慶応大卒

昭和64年正月頃に感情露に、オールド・ドラゴン。/デッド。デッド。/

スネーク・モンスター。/キル。キル。とテレビ画像で叫声を挙た、外務省職員S.7/東大卒

96年晩秋に起ったイスラエル、バチカン、英国、に浅草郵政.鴻巣住宅.
都知事公舎、国労会館に提出する有印防水保証書などの
有印公文書と有印私文書を損壊し焚書にした事件を100条委員会で追及しませんか。

[55]迷える長田さんからのコメント(2012年03月13日 19時02分13秒 ) パスワード

初めまして。東京に住む長田(オサダ)と申します。
ルーツ探しをしている中でこちらのページを見つけ、皆様のやりとりをとても興味深く拝見させて頂きました。

私の父は北海道出身ですが、元々は高祖父が明治初期に山口県から北海道に開拓使として渡っており、江戸時代以前は厚狭郡船木(現在の山口県宇部市)で商人だったようです。家紋は丸に三つ柏です。地元の郷土史家によると安土桃山時代には既に商売をしていたみたいなので、長いことその土地にいたようです。

名前と家紋が良兼流の長田と同じようですが、良兼流の子孫の多くは関東にいることを考えると、西日本出身の我が家は別の流れでしょうか。あまりにも昔のこと過ぎて調べる術もないかもしれませんが、アドバイスが頂ければ幸いです。
[56]箱柳永田さんからのコメント(2012年03月14日 18時49分23秒 ) パスワード

   迷える長田さん
 良兼流の公雅は伊勢に来て、数代は伊勢在住でした、
 中には、大宰府少弐、備中の次官を務める者も有りました。
 ただ、公文書上は平の00ですので、100%の断定は難しいです。
 >http://www7a.biglobe.ne.jp/~yossy-/kodai.htm
  六番の紺瑠璃の壷解説を見てください、長田名は出ませんが、
  間違いなく公雅の子孫です。この様な物が手に入ると言う事は
 西国にも十分な勢力を持っていたと、想像できます。

  以前、長田忠致の次男、致将(壱岐の守代行)を調べた時、
 壱岐の教育委員会から、以下のような話を聞きました。
 @残念ながら、致将については痕跡も見つけられません、
 ご存じのように元寇の為、破壊と人的損傷が大きく、前後との
 繋がりは断絶しています。 現在島で活躍している長田さん達は
 元寇の後、福岡県からの移住者です。 との事でした。
 壱岐の醸造会社に長田氏がいます、元市長も居ましたので、前の福岡では
 かなり有力な一族と想像できます。

>西日本出身の我が家は別の流れでしょうか
  江戸期に長田、三柏で通す家は、絶対とは言えませんが
 可能性は高いと思います。
  鹿児島には、致将の流れと島津に同伴した、二系統の長田さんが
 存在してます。
[57]箱柳永田さんからのコメント(2012年07月27日 17時22分56秒 ) パスワード



知立神社の永井氏について判った所を。

 神主の永井氏は永井直勝の子孫では無く、
  以前から長田分家が神主を務めていて
  直勝の改姓後に、大江流永井に変えています。
   永見氏や長田が神主になった理由は、まだ、不明です。

 雑談)岡崎美術館で長篠合戦、長久手の屏風を見てきました。
  長篠図は本多さん、長久手は井伊さんが主役に見えたのは
   気のせいかしら?。製作の意図は家康さん万歳だと
 思うのだが、あまり目立ってないのね(兜も正確でないような?)。
 尾張徳川家当主は忠勝さんや直政さんを、尊敬してたのかしら?
  それとも奥ゆかしく、、であるのかな。  
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2012年07月28日 07時07分33秒 ) パスワード

知立神社の永井氏について判った所を。

>神主の永井氏は永井直勝の子孫では無く、
>以前から長田分家が神主を務めていて


知立神社自体が古いから(景行天皇の御世?)どのあたりから長田家が関与したのか
いよいよ分からないですね。


コピペ:
徳川氏譜代家臣の永井氏と長田氏は長田親致(忠致の兄)の後裔を称する

そうすると長田親政の時には三河にいて、そのまま、続いてきたのかも知れないし。


永見氏は名字だけ越後騒動で名が残ったけど今は消えている名字かもですね。
[59]長田(EZO)さんからのコメント(2012年10月15日 11時19分57秒 ) パスワード


3年ほど前に投稿させていただいた、長田(EZO)でございます。
その節は、貴重な情報を頂き、ありがとうございました。

突然ではございますが、再び皆様のお知恵を拝借したく、
質問させていただきます。

我が家は、浄土真宗なんですが、一向一揆の起きた地域には、
長田に関係する苗字や地名が多いような気がするのですが、
偶然なのでしょうか?
最近、一向一揆について調べ始めたので、根拠となるものが
あるわけではございません。
みなさんのご意見は如何でしょうか。
[60]箱柳永田さんからのコメント(2012年10月15日 17時31分23秒 ) パスワード

長田さま

 箱柳永田です。似たような疑問を持ちつつ(政治と宗教は)公では語らないと、
 意図して(未解明部分も多いので)伏せるようにしていました。

 
 明治期の、神道と仏教の分離があり、寺社の統廃合を含めて(禰宜さんや和尚さんに聞いても)
 よく判らない所が多いのですが、(聞くほどに判らなくなる が実感です)
  戦国期の西三河一円で一揆を起こしたのは、本願寺系です、これでも
  末寺総計では凄い数です、その上に(区別の仕難い)高田派を始めとする
   真宗系の他に、一遍の時宗(大浜称名寺) 一向の一向衆等の浄土宗の分派を含めると御同朋が多数いる事になります。
  
余談、蓮如上人が書いているのですが、我が宗派を一向宗と呼ぶ奴は破門する
   あれは、一遍や一向の他宗派である と。
(蓮如上人も一遍と一向の区別が明確でない) 
 浄土真宗は時宗(一向宗)の信徒を積極的に取り込んできた経緯があり、
末端の信徒では、些細な教義の違いは無いも同然であったろうと、思います。
  まして、天台宗や禅宗から見れば、一括りに阿弥陀仏の信者と思われていたでしょう。


 今回は、大浜称名寺=時宗(一向宗)を取り上げてみます。
  徳川の祖先?徳阿弥・長阿弥さんは信州経路で三河・大浜称名寺に滞在した後、大浜下の宮に寄進後、酒井家に行き、その後に松平郷へ、、、で
入り婿は、皆さま御存じと思います。
  後世の、松平信忠は自ら称名寺に隠居しています。
(強制引退ですが、隠居場所は信忠の選定)
又、この寺で嫡男竹千代(=家康)の命名にまつわる歌会が開かれています。
  
 松平家は浄土真宗(信徒)の助力を得て三河の旗頭の地位を固めています。
又、大津の本願寺に助力をしたと何かの本で見ました。
  安城の城は、石川一族が詐術(念仏踊り)を用いて攻略して、松平本家に所管が移る、石川家からは3男が重臣として安城松平に帰属しています。
石川家は他にも安城本証寺(当時真宗高田派)の前に、新たに寺を作り、、、
(方法は不明ですが)本証寺を(本願寺派に)改宗?転派させています。

 古くは、南北朝の頃、信州・浪合経由で津島神社に良王君を送り届けた後に
 警護武士団は解散するのですが、酒井さん3兄弟(大館を名乗る)の一人が成瀬に住んだ後大浜熊野大神社(大浜下の宮)に隠居するのです。
 <保元以後の長田党拠点>
  あとの2人は正行寺(何処か不明です)
  <私見、犬山成瀬さんは此の子孫であると、、、面白い>

 戦国末期には、家康嫡男(信康)が謀反の疑いで、称名寺に蟄居ですね、
  碧南には浄土真宗の同朋が多いですから、一寸した反乱軍は作れます、
 選定理由が理解できないのです。(私見、一向衆への2回目の踏み絵)
   まさか、小姓の長田直勝が大浜の出身、同僚の小姓・鈴木(お初 
直勝の従兄弟 西尾平口)がいて、居住環境は万全に対応できる、が、
理由としては余りにも小さいと思います。

  ただ、称名寺さんは事実であっても、(徳川家にまつわる話は)
  迂闊には語らないお寺と思っています。
[61]箱柳永田さんからのコメント(2012年11月27日 17時19分49秒 ) パスワード

一寸面白い図が見つかりましたので、紹介します。

  長田川 伊賀上野市


http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=233

 この絵図には長田川(木津川)と書かれております。
  勿論、フリガナは有りません、、、残念。

 平公雅の名乗りになる場所ですので、おさだ川で一人納得していますが、
  保元の後、伊賀伊勢の所領を失い、後任は清盛系の方です。
 関東からの喧嘩仲間が おさだ の呼び名を残すとは到底思えません、
  読み替えをして、ながた川になるのかな。
  保元以前の、フリガナ付き!の地図は有るのかな?。
  
  12月4日より1月14日、碧南藤井達吉現代美術館で
  永井直勝とその一族 の企画展があります。
   パンフレット裏側に記載には、(一番重要だと思うが)
  12月8日午後2時―3時半に、新行紀一氏の講演があります。
  http://www.city.hekinan.aichi.jp/bunkazaika/tenji/naokatsu.htm
   申し込電話 0566-48-6602 フックス6603で、
  定員60人です。23日に申し込みました、何とかセーフで 行きます。
  
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2012年11月28日 01時43分34秒 ) パスワード

箱柳永田さん

なかなか興味深いアップをありがとうございました。


ビックリしました。
「長田川」ですか。
長田に「長田橋」がありますから、確かに昔は「長田川」と呼ばれていたのでしょうね。


   長田と予野は近くなので、地図を見てて、涙がこぼれました。
   予野は、もの凄く遠い過去の自分の記憶があるので。


それから「猿飛」という地名
本当にあったのですねえ。

甲賀忍者の「猿飛佐助」って空想だとばかり思ってました。
それも信濃の真田十勇士系で。戸隠系忍者とばかり思ってました。


今更ながら「猿飛佐助」って実在だったのかなと思い始めました。


伊賀と甲賀は山を中心にして北と南の違いだけで
大昔は同じ国だったと聞いているから
元々は同族なんでしょうね。
[63]箱柳永田さんからのコメント(2012年11月30日 17時52分32秒 ) パスワード


地名について雑談と空振り?です、笑ってください。
 
 >それから「猿飛」という地名本当にあったのですねえ。

私は(すばしっこい)形容の仇名として、読んでいました。
 
「猿飛」という地名は長く残して欲しいとは思いますが、(小説ファン!)
政府主導による市町村合併、それに伴う地名の改称があり、、、
  罠(馬鹿話の種)にはまってます。

 で、この様な例(大笑い?)
 
 真長田村(まながた )  真名+ 長田 の合併  <山口県>
 (眼落とし!)山口の市史は岡崎では、、期待薄いのね。
    <合併に伴う改称では 旧称が何となく判る 良い例>
 豊田村 (とよた)    豊井+ 永田 < 長野・中野市>
 (こ、これは!)で、調べて行くと
  豊井が合成(豊津+上今井)その上 永田も合成(永江+穴田)
   
  結論、長田の痕跡は ない、、有る方が可笑しい、、脱力(orz)。
   
   壱岐では かすり?ました(自己採点は甘いのです)
  
 長田壱岐守忠致の次男・致将が統治の代行です
 >http://www.inopedia.jp/index.asp?patten_cd=15&page_no=697

 幕末の伊能忠敬翁による測量日記中 15日に枝長田(永田触れ)を見つけ
  これは手懸り?!(枝は本村に対しての分村の意味)
 その昔は長田(をさだ)?と資料を探しました、、、が、
 <ふりがな付き>は 無い(時間をかければ有る?、、、
 最近諦めが早い)で、壱岐の郷土館に助力を願った所、
  元寇で歴史は途絶えていると、(衝撃の)解答を頂きました。
  (生き残りは数名、文書も焼失との事、、、伝承は無理ですね)
  今この島で暮らす長田さん達は、福岡から移住と聞き、ペースダウン
 大宰府勤務の長田末裔?かも、まー ゆっくりいきますか。
   
  今まで元寇は博多湾での攻防戦と考えていました、、(大恥)。
   
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2012年12月01日 07時04分58秒 ) パスワード

箱柳永田さん


地名はいじって欲しくないですね。
出来るだけ昔の地名を残して欲しいです。


>真長田村(まながた )  真名+ 長田 の合併


ウッソー
でした。脱力。

どうしてそういうテキトーな名前を付ける?
後世の人が調べたい時の障害以外の何物でもないですね。


壱岐は元寇の時、ひどい目に遭わされたと読みました。
例えば村の人々が虐殺されたり
捕らえられて手に穴を空けられて縄で繋がれて連行されたりしたんじゃなかったですか?
そんな記憶があります。 

最前線で巻き込まれる哀しみですね。


壱岐市役所でダメだったら長崎県教育委員会で中世の古文書の研究をしているんじゃないでしょうか?
長崎大学なんかも当たってください。


国会図書館の近くではないというのが残念ですね〜
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2012年12月06日 00時14分54秒 ) パスワード

昨日、岡崎市の地図を見てたら「欠町」の北に「長田」という地名が出ててビックリしました。
[66]箱柳永田さんからのコメント(2012年12月06日 17時39分32秒 ) パスワード

町内?の宣伝もかねて

欠町の北は小呂町(旧乙見村)ですね、ここの長田はヲサダです。
   我が家が分家した600年前には既に長田でした、
    地名の 由来がみつからない のです。
  更に北側(地図では隣)が箱柳になります、けもの道で
 山越えをする必要が、で通常は西側から伊賀川沿いに廻り込みます。

 岡崎市の、この付近の名所?!(多分?半笑い)の紹介

 愛知県岡崎市稲熊町 東の端に
  http://www.kouendanchi.com/  こんな工場群があります。
 
 稲熊、小呂、箱柳の境界に広がる 石の公園団地です。
  http://www.kouendanchi.com/02/  店の住所 で確認してね。

 岡崎にはもう一か所、石工団地があります、
 http://www2.ocn.ne.jp/~osd-kyo/sub408.htm  佐々木上宮寺付近。

  勿論、昔からの場所で頑張っている方も(花崗町)います。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%8B%E7%94%BA%E9%80%9A%E3%82%8A
  この辺りは小学校の写生会で、、ずっと見とれていたな。
 
  両方を取り上げた紹介記事 (デイリーポータルZ)
  http://portal.nifty.com/2010/09/27/b/   私の解説より絶対面白い!
  
 勿論 付近で採掘(山石屋)も行っています、小呂青石、牛岩石(箱柳)、
  吉祥石(真伝)、と 町名や字名で区別します、県外では岡崎青石とか
  参州花崗(さんしゅうみかげ)の方が有名なのかな。
   拘る人は、採掘現場に製作依頼をします、加工は石屋さんですが
  産地直送は保証されます。

  余談 石屋の店先に有る裸婦だとかは(職人の)腕を磨く為、
    競技会出品用に作られています。
   お店の技術を見せる看板として、置いて有るそうです。
  
  貧乏神は、、既に必要無い!、、、、必要な人、、、居るの?。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2012年12月07日 02時00分26秒 ) パスワード

箱柳永田さん

面白かったです。
ありがとうございました。


昔、車で、通ったことは何度もありましたが、実際には何も知らなかったです。


松平郷と箱柳の位置関係、これも面白かったです。
知り合いが百々に住んでましたが、こういう位置関係か、と分かったり。


石屋団地ではゴミの看板も石製ですか。
素敵!
それに観音さまが「自由に持って行っていいよ」と投げ捨てられてたり。
   ちょっと持って行けないよね。


面白いですね。
素材は石なのに柔らかく彫ってあったり。


方向音痴なので、既にゴチャゴチャです。。。
[68]箱柳永田さんからのコメント(2012年12月13日 17時22分44秒 ) パスワード


>知り合いが百々に住んでましたが、こういう位置関係か

 私の高校同年に清水さん(百々町、旧青山、分家筋)がいまして、
 本家で聞いた話では、青山の前は、別の名らしい、、と。
 偶々、同じ門寺なので三河一揆からの同朋である事は確信出来ます。
 (本願寺派本宗寺さんは、破却後約30年の間、家康に再建は赦されなかった
 という事情があり、古い檀家は今でも2寺院<本宗寺と門寺>にお参りをして います。) 

 中嶋次太郎氏の<松本城とその城下町>では、秋山→青山→清水と
 記憶しています。
  清水さんは、ある事件で南極観測の武さんと縁があったり、
  南朝方の武士として転戦した、と言う伝承も聞きましたので、
 是非とも御本家に伺いたいと、、、誰に御紹介を頼もうか?
  紹介者の面目を潰さない程度の知識は必要なので
    <図書館のどの辺?>と思案中なのです。
 
 >素材は石なのに柔らかく彫ってあったり。
 先日、緒川に行きました時少し寄り道をして、しっかり見てきました。
 (上佐々木団地)題名は<餅バス>うーん、ひねり無しの、そのまんまが
  自信作!なのでしょうね。

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2012年12月14日 00時34分07秒 ) パスワード

http://www42.tok2.com/home/tokkym/sub3_namiaiki.html

「浪合記」です。


右に矢作神社の話など載っています。


全く分かりませんが南朝方ということで:
 
   秋山氏なら甲斐の秋山氏かな?と。
   秋山光政が桃井の軍に加わって足利義詮を京に攻めた。



   青山氏なら青山常陸介忠成の先祖が藤原北家出身で
   藤原師重の時に上野国吾妻郡青山郷に移り青山氏を称す。
   忠成の時、三河国にかわり徳川氏に仕え、関が原の戦で1万石を賜り
   江戸町奉行となった。


状況証拠から「南朝方」つながりというのは確か、かな?と。


頑張って捜してください。
[70]箱柳永田さんからのコメント(2012年12月25日 17時43分32秒 ) パスワード

  主に長田さん、永田さんへ
  松坂の歴史資料館は いつか 訪れたい所でしたが
  以下のような記事を見つけ、急遽予定変更になりました。
http://local55.jp/local-news.jp/pwm/newsdetail-
1002_8683.html?PHPSESSID=591925781e1b36d631ae221b8fa33f63
 「永田町」に屋敷のあった旗本・永田氏の直系で、松阪市魚町に住む
 永田徳一さん(82)の家に伝わる古文書が、市郷土資料室の杉本喜一さん(51) の手で解読された 
  
  @永田久琢は子息3人に分知、2500、250、150、本人食禄100(記憶では)
    山王神社前に屋敷があった。(江戸城拡張で引っ越しした家の中で
            永田を名乗る家が多かったので永田馬場となった)
   永田久琢=長田弥左衛門久琢は大浜長田で解明されています。
疑問1 3千貫(織田信雄)→3千石(徳川秀忠)の再就職に伴う人員整理で
       所領の阿久比・乙川・亀崎に土着した家はあるかしら。
      (家康のケチは有名だが、、、これ程とは!)
疑問2 なんで松坂市在住なんだろう?
疑問3 北海道開拓で落舟した休蔵と、どんな関係かしら
    
    年が明けたら、松坂詣、で、帰りにお伊勢さん、、かな?。
[71]さなえさんからのコメント(2013年04月15日 14時40分48秒 ) パスワード

こんにちは、箱柳永田さん。

 私のほうに、いろいろコメントとか・・・ありがとうございます。
箱柳永田さんの過去のカキコミを、少しずつ読ませていただいてます。(ただし、歴史と人名・地名にうとい私ですので、気を悪くなさらないでくださいね)

もうご存じとは思いましたが・・・、私の住む地域の、西尾市のも丁田(ちょうだ)町ってあります。今川氏発祥の地(今川町)の隣です。近くには矢作古川(かつての矢作川の本流)があって、かつては帆掛け舟で、上流までいけたらしい土地です。川の対岸のあたりは、現・吉良町で、吉良上野介の殿様が河川の氾濫から領民を守るため(年貢米も守るよね?)に造られた、黄金堤(盛土の堤防)がありますね。吉良町には確か、酒井の地名もありますよね。

ふむふむ・・・、まだ未熟者(無知)の私ですが・・・
どこかで、繋がるのが、おもしろいですね。今後とも、よろしくお願いします。
[74]箱柳永田さんからのコメント(2013年07月10日 18時38分45秒 ) パスワード

  永田久琢(ひさかつ)のおさらいです。


 >http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yazaemon-yashiki.html

 凡そは上記HPで読めます。
 >http://rek.jp/?p=1963
  ここに200匹の加増があり、水野信元の与力であった
 久琢が配置換えになり佐久間の与力となった。
  
 次に佐久間が失脚し信忠に、で本能寺の後、信雄に配置換えに
 1500貫(7500石)所領は阿久比・乙川・亀崎
    この時には 永田久琢と長田弥左衛門は同じとされていて
   (大浜長田家の同一人説が補強されています)
 >http://www.geocities.jp/aichitahigasi/page007.html
 以下のような記述が有ります
  知多半島の関係分

最初に織田長益(源五殿)で、 13,000貫 (大草城:知多市)(多くが知多半島でしょう)

 1,500貫  あく井・おつ川・かめさき         長田弥左衛門

                            (永田久琢)

 22,880貫  本知・当知共              中川勘右衛門

   2,000貫 知多郡野間外

   この内  895貫320文 上野間郷  200貫 坂田 常滑の内(半田か)

 以下 は略します。 
  
 でもって 徳川秀忠に3500石

 ここが少し不明な所で、2説あり 3500石又は3000石
  この辺は資料の年代まで追わないと確定できません。
  息子3人に分知してますので、と言い訳しておきます。
  (三重松坂で聞けば簡単な事なのです、、、多分)
 @この中に 半田←板田 であろうと書かれてました。
 この後 信雄さんは、、、、所領を失い、次の太閤検地より 半田が
 圧倒的に多く使用されると 書かれてます。
   
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2013年07月10日 22時50分40秒 ) パスワード

こうして拝見しますと
 ___ 遡っていくと ____

長田忠致が尾張が欲しいと願ったことが想像出来ます。

また三河との関係も見えて来ます。



  尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地としていた

  兄の長田親致は忠致から相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、事件が起きてしまい、
  乳母の生まれ故郷である<大浜郷棚尾>に移り住んだという。


http://www.city.hekinan.aichi.jp/TOSHOKAN/hekinan/hudoki/hudokisono10.htm


  何故碧南かというと、ヨシミがある、ということなんだと納得です。
[76]箱柳永田さんからのコメント(2013年07月11日 17時36分07秒 ) パスワード

  あを様

 少しく、地理のおさらいです。
 >http://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2011/hoshi_201112_2.pdf#search= '%E5%8F%A4%E5%

9C%B0%E5%9B%B3+%E7%8C%BF%E6%8A%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE'
 古地図、猿投神社で検索した中のひとつです。by鶴舞中央図書館

  尾張平野が水没しています、津島、枇杷島は文字通り<島>です、
熱田神宮は半島の先に乗ってます。地図は 捏造という話も有りますが、
  書かれた時代<伝 養老>で、時期が真偽の争点なんです。
   

  ヤマトタケルの物語は、すんなりと腑に落ちませんでした。
 最新?道路地図で読んだ時、何て遠回りなの!、ヒョットしてbaka?と 
よぎって、(違和感が先に立ち)内容も読みとれなかった。
 古地図を探して後は、タケルの遠征は苦労の連続だ!に変わります。
  
  保元前の長田は伊賀伊勢(松阪)を拠点に対岸の三河どころか駿河まで、尾張湾の津島や各地の湊などから集まる、税(租=米)などを都へ運搬し、
同時に交易をしていましたので、湊には長田の族子が在住していたと思われます。また、有望な荒れ地には開拓団を編成し、出来あがった荘園は藤原さんに寄進し、庄司として維持管理していたと思われます。

 美濃尾張には長田の開発荘園(所有は藤原さん)があり、  
当時の人は長田庄司を知っているので、美濃や尾張は特別な場所で、
 絶対に<忠致は欲した>と、思ったのでしょうね。
  この辺りが、身の終わり が信じられる由縁でしょうね。
 長田党の立場では、壱岐の守は破格の厚遇であるので、不満は
  微塵も無い筈です(対外貿易に最適な官職)。  
 既に多くの庄司権があり、荘園拡大よりも
 外国との貿易は一族の飛躍に、最も必要な 地位 なのです。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2013年07月11日 22時50分26秒 ) パスワード

古地図サイトをありがとうございます。



「中島」
うちの一族の有力者が「中島」です。
今は鳴かず飛ばずになってますが。
こうして見ると、昔の勢力のさまを感じます。


そして
「猿投」
ここには有力服部一族が戦国時代まで活躍してたから
なるほどな
と納得します。


また
「御器所」
ここも平家の所領地で清盛が父忠盛から家督相続した1つです。



古地図を見ると今の土地からは全然違う世界が見えて来ます・・・・


また考え直します。
時間をかけて古地図をじっくり拝見し悠久のロマンに飛びます。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2013年07月11日 22時52分02秒 ) パスワード

あ、「御器所」は秀吉の母上の「なかさん」の出身地です。
[79]さなえさんからのコメント(2013年07月16日 09時07分33秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年07月17日 09時36分57秒
[80]箱柳永田さんからのコメント(2013年07月16日 18時16分35秒 ) パスワード

 あを様
   >猿投   
    どのようにすれば、猿投神社の実態に迫れるだろうか?。
  通常では、祭神で分類するので、調べると大碓命、景行天皇、垂仁天皇なんです。
   ここで、知識不足と疑問だらけで進めなくなってしまうのです。
  (大碓命は普遍的な神社では祭祀されません、有力部族の神社であると社格は示しています、しかし同祭神の神社を他に見いだせないので、、弱小?部族、早い時期に滅亡している?、ひょっとして偽名?、御免なさい!御免なさい!orz)
 小碓命=ヤマトタケルの 兄に当たるのですが、、、多分初耳の方が多いと思います。
 そして小碓命に殺害されています、、、個人神社?、、誰が祭祀を続けた? で、あてもなく猿投山周辺の神社を調べてます(半分は諦めてます)、
   実は豊田市には異様に多くの八柱神社があるのです。
 >http://hazardous.blog34.fc2.com/?tag=%C8%AC%C3%EC%BF%C0%BC%D2%A1%CA%CB%AD%C5%C4%BB%D4%C4%B9%

B6%BD%BB%FB%A1%CB by遊魚さん(一寸御休み中?)
  ここに
 >愛知県神社庁のリストによれば,愛知県内に八柱とつく神社は55社。

■尾張(計1社)
 東海市:1社

■東三河(計15社)
 豊橋市:3社
 蒲郡市:2社
 新城市:1社
 田原市:7社
 北設楽郡東栄町:1社
 宝飯郡御津町:1社

■西三河(計39社)
 岡崎市:3社
 碧南市:1社
 豊田市:32社
 安城市:1社
 西加茂郡三好町:2社


    豊田市32社。多すぎ。
 と書いてあり、、、、(他に合祀により、見えなくなった八柱神社も多い)


 町名を頼りに地図に印を付けると(希望的観測か?)
  猿投山を取り巻くように、見えるのです。
   大胆な推理で申し訳ないですが、、、
  猿投神社は八柱神社<砦>に守られているのか?
   それとも、、、包囲されているのか?。 念の為に他の神社、、
 稲荷神社の数、八幡様は?、注目に値する特徴はないと思われる。

 長田党(永田)の新田開拓地と熊野神社・八柱神社の所在が一致すると、、、非常に面白いライフワークには成りそうです。
 

 >http://imacho.main.jp/sub/kusi/kusi002.pdf#search= '%E9%95%B7%E7%94%B0%E9%A4%A8+%E8%B7%A1%E5%

9C%B0+%E7%B5%B5%E5%9B%B3+%E6%8C%99%E6%AF%8D' 
  今自治区の沿革・歴史です、10ページ辺りに
 長田永田の記事が出ております。 矢作川、逢妻川流域では同様の工事が有ったと思われる地区・集落は、幾つかあります。  
 尋ねて来て(怠け者ですから)欲しいのだが、あまり来ない。
 各地に出向いても、何処が本家か旧家か見当もつかず、あい変わらず
 下手な鉄砲を撃ってます。
  
[81]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年07月17日 00時29分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

箱柳永田さん へ
 
猿投神社の祭神が大碓命とされたのは近世以降のことで三河の(一宮)砥鹿神社〔国幣小社〕、(二宮)知立神社〔県社〕、(三宮)猿投神社〔県社〕。
猿投神社は猿投山、猿投郷とセットで見るもので有り、猿投山は三河/尾張の国境に位置する国見山なのです。
国見山とは、一カ国の内国的な国見山、二カ国の国境国見山、三カ国を形成する三国山、さらに六国見山、八国見山などがあり神武帝以前の山岳宗教的統治体制の名残なのです。
神武以前の日本全国の移動の主流は山岳であり、青森県の八甲田山から山口県の最高峰寂地山まで平野部に降りずに踏破可能。
神武帝の統一も紀州からの山岳ルートで達成されました。
また神武以降の日本武尊遠征も山岳ルートと一部海上ルートが使われている。
東国へは東海道より時間はかかるが川止めが無く箱根の天険もない東山道が便利で楽で伊勢〜三河〜信濃〜上野は南朝ルートしても使われた。
三河尾張の中核的な矢筈山として三河足助筈ケ岳(985m)、三河尾張の御岳として南設楽郡の御岳山(664m)、尾張の神山として尾張富士(277m)、三河の神山として渥美郡の大山(328m)が配置されている。
このような因縁から自然的に明治に尾張と三河により愛知県が構成されたのです。

>猿投山を取り巻くように、見えるのです。
 
猿投山は国見山ですから、八柱神社は恐らく矢柱で三河足助筈ケ岳に対する国境表示なのかも知れませんね。

興味があれば、桜井光堂著「古代日本領土の起源」を閲覧お勧め。
地名から、様々な事象が浮かび上がりますよ。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2013年07月17日 12時42分59秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん


ありがとうございます。
ぺこり


箱柳永田さん

なんとなく「猿投の服部氏」の立ち位置が分かった気がします。

>>>東国へは東海道より時間はかかるが川止めが無く箱根の天険もない東山道が便利で楽で
>>>伊勢〜三河〜信濃〜上野は南朝ルートしても使われた。

やっぱり!
と納得するものがあります。

   わたくしは南朝方のDNAを100%受け継いでいますから。

   >>>東国へは東海道より時間はかかるが川止めが無く箱根の天険もない東山道が便利で楽で
>>>伊勢〜三河〜信濃〜上野は南朝ルートしても使われた。

   でも、これは考えたことが無かったけど
   非常に納得。

   「浪合記」の命名にも納得だし。


      なんか御先祖達の姿を見た気がして、涙が出ます。


[83]箱柳永田さんからのコメント(2013年07月17日 18時13分55秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん
 丁寧なご教示をありがとうございます。
 桜井光堂著「古代日本領土の起源」は最寄りの(駐車場が広い)
 愛知工業大学(豊田市八草町)に蔵書されていました、
  学生の少ない夏休み中に尋ねたいと思っています。

 八柱神社が 矢柱 は全くの考慮外でした、全て八王子神社の読み替えと
 認識していました。
  神道、仏教の知識では明治から昭和にかけて変質しているのは
 知っていましたが、<祭神が変わる>は憲法改正より
 難しいのでは と思っています。
 
 
[84]さなえさんからのコメント(2013年07月18日 11時30分52秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年07月20日 07時21分40秒
[85]箱柳永田さんからのコメント(2013年07月26日 17時12分57秒 ) パスワード

  
 三河武士にあいたい  by孔さん からの転載です
  >http://mikabushi.exblog.jp/20758338/
西尾の市民歴史講演会<応仁の乱以降の吉良庄の動向>
 8月25日(午後1時半から) 西尾市文化会館 302号室・・・入場無料
 講師 松井直樹氏(元 岩瀬文庫長)
 302室は定員90名です、特に予約は必要無いようで、
 当日でも大丈夫と思いますが、早出して前の座席がお勧め。
  
 >http://www7b.biglobe.ne.jp/~mikawabushi/  by孔さん
 このような、可愛い絵を描いている方です
 (妙齢な美少女を想像してます。え!、、根拠?、、えーと
  犬の写真です!)
  三河武士の出身場所や余り知られていない事も書かれております
  <岡崎にある意外なもの>はいろいろと考えさせられます、
  柴田さんのお墓の由来も納得がいきますし、、有名な部下の
  毛受さん(水野から分家)の一族子孫が細川町に住んでたりして、
 歴史好きには、縁の糸が絡まっていて楽しい街です。
 
[92]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月03日 17時16分24秒 ) パスワード

    永田家次及び清蔵を家祖にする永田諸氏へ
  長田党の開拓地(豊田市今町)に関する豊田市の歴史資料より
 
  永田家次らが居住していた場所が、特定できましたのでお知らせします。 
  建物の場所(埋め戻され)はHP写真で想像してください。
 豊田市八柱神社(宮口神社に合祀)の創建記録より、勧進は篠田氏、社主は 長田氏、神主は永田氏(家次の数代末裔)は既に報告をしていました。
 
 豊田市南部にも開拓現場があったらしい(酒井将監与力として)との話しで 鴛鴨町(埼玉土屋・清蔵の子が主張する出生地)付近の資料を中心に検討を した所
  >http://imacho.main.jp/sub/iseki/iseki.htm
 今町遺跡 今町8丁目が永田家次より3代清蔵の住居跡地と判りました。

 >http://imacho.main.jp/sub/kusi/kusi002.pdf#search= '%E9%95%B7%E7%94
%B0%E9%A4%A8+%E8%B7%A1%E5%9C%B0+%E7%B5%B5%E5%9B%B3+%E6%8C%99%E6%AF%8D'

 今町の歴史 より 
  鎌倉期から戦国にかけて 長田党が 字元屋敷付近に移動してきて
 その中から 家次が 永田に改名し、、と書かれています。
 (松平家に仕官し、宰地は額田郡箱柳・安城にて病没)

 >http://imacho.main.jp/sub/kusi/kusi000.pdf#search= '%E4%BB%8A%E8%87
%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%B2%BF%E9%9D%A9%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2'
  ここの下の方の地図に 元屋敷の場所が表示されている、
  区画整理に伴う 字名の表記変更により 
   同一場所 (8丁目=元屋敷=今町遺跡)と確認出来ました。
 豊田市教育委員会や調査に関わった方々に感謝しつつ、豊田市図書館や歴史資料館詣でを続けて行きたいと思っています。

  永田の家に生まれて、改めて幸せを感じております。
 家次・清蔵を始祖とする永田諸氏にも、同じ幸せを味わっていただきたく、
  又、長田で貫き通した方々の目に留まればと、
   私事ではありますが、紙面をお貸りします。 永田墓守 
[93]さなえさんからのコメント(2013年09月06日 12時01分39秒 ) パスワード

箱柳永田さま

上記のこと、Bravo〜!! うれしいです(私も)。

「夏休みの終わりに・・・、子供たちとドライブをしました。
伊賀八幡宮に初めてお参りさせていただいてから
伊賀川を上流に・・・
箱柳町あたり?を通って
山道を・・・旧・作手村まで・・・

カーナビのないレトロCarに乗っているので、少々大変でしたが・・・
ところどころ道幅が狭いこと以外は、
思ったより険しくもなく・・・

すごく、美しく清らかなところがいっぱいでした。」

箱柳永田さまのおかげさまです、ありがとうございます。また、そのような道のりが、太古よりの交通の要所だったこと、再確認いたせました。

それから、上記の「今自治区史」の中には、「ヤマトタケルの伝説」や「節句のお菓子」の記述もあるようですね。どうでした?でしょうか、教えていただけると幸いです。






[94]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月07日 08時23分37秒 ) パスワード


 さなえさま

 ありがとうございます。

 >「今自治区史」の中には、「ヤマトタケルの伝説」や
   「節句のお菓子」の記述
 この話は、割と簡単に書かれていて、ヤマトタケルが 渡刈付近で
 矢を作ったので矢作川、、、、えー 岡崎の矢作町は随分離れている?
  どちらが太古の街道に近いの と足元から見直してます。
 
 節句に関しても、雛や幟を挙げた(子供が生まれた家)には
  近所からお祝いの見物人がやって来て、家の方がお菓子を<振る舞う>
 という話が主で、伊賀餅が、、起こし物がには言及されて無いのです。
  この辺りは、岡崎っぽいので両方作るのは確かなんです。
  豊田北部は、起こし物 だけの家が多いのです。
 地道に聞き取りを兼ねて、豊田南部を歩いてみます。

 横道ですが、対岸の渡合町に<柘植さん>が集まっているのです。
 開拓の一環で移住(まさか伊賀から)してきたと想像しますが、
  度合町5丁目で 7軒まで数えました、、、桜のシーズンで
 駐車できる道幅がなかったのですよ。 住宅地図でも探してみます。
  
  出土した、茶臼には 何を挽いた? に物語が出来そうなほど
 空想が広がります。石臼とどう違う?、、、現物がみたいですね。
   
[95]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月07日 14時22分33秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>この話は、割と簡単に書かれていて、ヤマトタケルが 渡刈付近で
 矢を作ったので矢作川、、、、えー 岡崎の矢作町は随分離れている?
 
矢作の地名は各地に矢作部が移住したことから命名された。
三河では碧海郡矢作邑(現:岡崎市矢作町)で、流れる川は矢作川と命名。
ヤマトタケルは渡刈辺りで戦闘準備をして、猿投山へ進軍したものと思われる。
矢作部が動員されたことは当然でしょう。
矢を作ったので矢作川は、コジツケじゃないのかな?
 
>横道ですが、対岸の渡合町に<柘植さん>が集まっているのです。
 
天正9年、柘植宗能、清広、参州に到り家康公に拝謁、しかし伊賀の群兵の多くは参州移住を拒否して信長に敗れる。
その後柘植宗能、清広は参州に到り家康公に従い奉る。
後世、柘植一族の多くは徳川旗本となり、三河にも柘植姓が増加した。
[96]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月09日 17時35分59秒 ) パスワード

 日本の苗字七千傑 様

 度重なる御教示に感謝いたします。

>後世、柘植一族の多くは徳川旗本となり、三河にも柘植姓が増加した。
 柘植さんは豊田市内で新聞販売所を開いてまして(看板で見た程度)
  信用が無いと開けない職種ですので、かなりの方が来ていらっしゃるとは
 想像していましたが、納得しました。

 雑学
 浄瑠璃姫の悲劇の話、矢作の里の長者の娘が 牛若丸に焦がれて
 乙川(お城の付近は 通称菅生川)に身を投げるのですが、、、
   この話が、人形芝居に取り上げられ世間に知られ
  人形を使った芝居の代名詞になって行くのね。
 で、矢作町の方々は、姫の出生地は、、、と言うのです。

 急流矢作川を渡り、緩やかな菅生川(乙川の別称)で飛び込むのですよ、
 目的は、(へそ曲がりには)水泳 又は 禊ぎ しか考えられないのです。
  (この辺りの違和感で、良く矢作の方と口論はしていました)
 
 昔の菅生川付近は東矢作の里で、改称し岡崎となり、川向うと区別の必要が
 無くなったので、西矢作の里は、矢作になって現在に至る、、、。
  で、岡崎市菅生町付近に長者の屋敷があったのだろう、が今の主流です。
  歴史愛好家の地道な努力に感謝してます。
[97]箱柳永田さんからのコメント(2013年09月18日 17時51分32秒 ) パスワード

  先日 鳥取県立博物館に行きまして、

 池田の藩士 永田蘇武之助はどの様な出自の家か?と調べてきました。

  元々は 三州鷲塚住人 永田道祐(清蔵の隠居名又は法名)
 
 家紋は 上がり藤の中に木瓜で
 家祖の名は  永田 穂積之助  次代以降、蘇武之助が多い。  
   
 鳥居元忠の(壬生町 編集)長篠には
  参陣名簿に 蘇武と穂積の名が有り、、、最近まで
        同一人 と解釈していましたが、
 博物館の家譜によると、穂積之助は籐三郎の子として記録されていました。
  穂積之助が鳥居氏から池田氏の配下になった時期や経緯は
 これから読み進めば判るかも と筆書きに、、、苦戦中です。
   永田籐三郎は 清蔵長子で酒井家に所属し三方原で戦死です。
  その何番目か判りませんが、子供の穂積之助が一六歳で長篠参戦でした。
   子孫は、、、古文書・書籍では無理なので、 無理を承知で、
    学芸員さんに向けて、、必殺の、、、拝み倒し かな。
[98]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月18日 22時21分38秒 ) パスワード

古文書を読むのって本当に難しいですよね。

   うちの家書でも「教」と書いてあるのか「顕」と書いてあるのか
      それによって解釈の方向が180度変わるので  大汗
   悩ましいところです。


古文書を読むのって、どこでも、そういうワークショップが大なり小なりあると聞いたような。



三河国専門の学芸員とかいらっしゃるでしょ?
郷土史家とか。

そういう人にお願いしてワークショップを週1とか月1とかで開いてもらえると良いけど


ワタクシの場合は
県の史談会の本を扱っている本屋さんが間に入ってくださって
県のすごい権威のある歴史家を紹介してくださって
    本物の歴史学者だった。。。。。大汗
    でも、8000kmは通えない(笑)
もう恐縮してその場を逃げ出しました。


もうちょっと軽くだったら
県の教育委員会から郷土史家を紹介して頂いてはいかがでしょう?

他の場所では、そちらからやはり身に余り過ぎる専門家を御紹介くださって
やはり申し訳なく遠慮したことがあります。


やっぱり「教育委員会」は力になって下さいますよ。
御相談なさったら良いのに。


「鳥取県の博物館から家譜を手に入れて来たんだけど」とおっしゃれば
三河国の教育委員会にも興味のある人はいらっしゃるでしょうから。


頑張ってね〜


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