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 投稿番号:101551 投稿日:2016年08月08日 09時02分58秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXV(16年の課題確認18)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101550_55.html
長上郡の服部氏族スレッド74(16年の課題確認17)の続きです。



   自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
   最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド74では三つ柏さんは信州へお出掛けになって小松姫のお墓にお参りなさいました。

そこから発展して森の真田城に話題が飛び
真田氏と武藤氏の関係から白山信仰にスポットが当たりました。

     >家康も松下常慶も白山信仰にかかわっていました。
     >白山信仰とはどんなもので、どんな利点があったのか?


また岐阜城で得た情報として
『戦国の武将 永井隼人とその系譜』(永井源六郎著)では
春日局の父で明智光秀の妹の子であり、
また光秀の家老であった斎藤利三の祖は、永井(長井)を名乗っていたということがわかりました。

たしかに斎藤道三(どうさん)は長井(永井)を名乗っています。


明智光秀の後妻は、服部保章の娘であります。
永井と加藤も関係が深い。
加藤と斎藤も出自が同じ藤原利仁流である。

これで、明智と服部と永井と加藤と斎藤は、関係が深いということがわかりました。


ここからどのように展開していくでしょう?

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月09日 06時21分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここ二日間は、サウナと蒸し風呂をミックスした暑さであります。日本
各地で38℃を超える暑さであります。多治見市では39℃を超え、40℃
寸前のところまで行きました。そういえば、2日前岐阜に行った時、標高
329mの涼しいはずの金華山の山頂の岐阜城においても、汗タラタラで
ありました。そういえば、関から長良川沿いの道を15q位走ってきまし
たが、長良側では子供たちが水遊びをし、河原では親たちがテントを張った
り、バーべキュウをしておりました(天竜川などは水泳禁止でありますので、
長良川は場所によっては、水深がずっと浅く、流れが緩やかなのかなあと思
いました)。私も長良川で泳ぎたいと思わせるほどの厚さでありました。
 本日も、おなじような暑さが続きそうです。このままでは、日本もアマゾン
化してしまいそうです。でも本当のアマゾンは、余り開発せず、原始のまま
で残してほしいですね。

 ところで、蜷川氏について、八切止夫氏の『若き日の明智光秀』の中に、
こんな記述がありました―
 「さて全国の銀ことごとく集る、といわれた当時の京ではあるが、その頃
 の大財閥はなんといっても蜷川であった。現在の蜷川府知事の先祖かも
 しれないが、この一族は吉田神道と組んで、愛宕山の勝軍地蔵を今でいう
 貸付の窓口にして金融業を盛大に営み、角倉と呼ばれる貸倉庫業の納屋業
 もして、堺や大阪の銀をまで一手に押さえていた。」
ということで、信長から徳川に至る、いわゆる戦国時代の金融業系財閥で、
銀を一手に握っていたということ……石見銀山なのかどうか……やはりこの
一族蜷川氏は、政商であり財閥で、政治も動かすことができた黒幕であった。
 その蜷川家に、土岐政頼に仕えていた斎藤利良が婿養子に入った。その
孫が、すなわち斎藤利三であるのです。
 本能寺の変にも絡んでくるようなので、今後もう少しこの続きをまとめて
みたいと思います――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月09日 07時39分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本は殺人的な暑さですね。
熱中症には気を付けてください。


日本は関西は「銀」、江戸は「金」なんて聞いてことがございます。
ここに蜷川氏がからみますか。


歴史の波にもまれて、それでも活路を見出して、しぶとく今に至るということなんでしょうね。
やっぱり並みの脳の家系ではないのでしょうね。


>本能寺の変にも絡んでくるようなので、今後もう少しこの続きをまとめてみたいと思います

よろしくお願い致します。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月09日 08時50分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日、BS12で「せいこうの歴史再考」という番組があり、「伊賀と
甲賀の隠密集団忍者をいとうせいこうが再考」というテーマで忍者につい
ての特集をやっていました。その中で、関宿の深川屋(ふかわや)さんの御
主人服部さんが出ておられましたので、懐かしく拝見させていただきました。
 私も、深川屋さんを訪れてより、交流を続けておりますが、深川屋服部家
は半蔵に関係する一族であることには間違いないとは思っています。関係
する一族といっても筋がいくつかありますので、どの筋かということにつ
いての関連資料を送ったりしています。近々、また資料を送る予定であります。

 これは時代の変遷によって変わってきますが、忍者の主目的が「武―特殊
工作」から「間諜」へ比重が移っていきます。やはり、「情報」を制する者
が天下を取るということは、昔から不変の事実であったということではな
いでしょうか。
 深川屋さんも、お菓子(茶道)を通じて、武将、貴族、幕府、朝廷等の情報
を集めていたようであります――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月09日 12時14分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>深川屋さんも、お菓子(茶道)を通じて、武将、貴族、幕府、朝廷等の情報を集めていたようであります

情報収集は成果を上げる意思決定の鍵になりますからね。

深川屋さんはトップクラスの世界に入り込むことが出来ていたのですから
第一級の秘密をご存知なんでしょうね。

でもバラせないのが残念ですね。
きっとスゴイ秘密をお持ちなんでしょうね。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月09日 15時19分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 八切止夫氏によれば――
 「戦国時代の武将は、愛宕山(京都)の勝軍地蔵を信仰して、出陣の祭
 には、決まって参拝し何日もお籠りまでしたものであると説く歴史書
 もあるが、キリシタン大名でさえ出陣に際して参詣しているのは、す
 べて軍費の借り出しのためだったのである。
  何日も参籠したというのも、信心や信仰のためではなく、借り出し
 の条件その他がまとまらぬ時は、連歌などやって、蜷川本家からのOK
 がとれるのを待っていたにすぎない。
  さて、斎藤内蔵介(利三)が若い時から信長に仕えて重用されたり、そ
 の妹がこわれて四国土佐の一代の豪雄長曾我部元親の妻になったのも、
 その背後に蜷川一族が後光をさしていたからである。
  天正八年に、元親の子を斎藤内蔵介が挨拶させに伴ったとき、信長
 が己が名より一字を許し、信親と名乗らせたのも、京の蜷川一族の銀
 の力へ敬意を表してのことだろう。」
ということであります。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月09日 20時54分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごいお話ですね。
これぞ歴史秘話!その筋しか知らない世界のお話ですね。
日本のロスチャイルド家だったのですねぇ。



家康が大久保長安一族を恐れ粛清したのは蜷川氏のことを知ってたからかもですね。


ありがとうございました。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月10日 09時34分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あお様の言われるように、蜷川一族はロスチャイルド家にも匹敵する大
財閥であったと八切氏も正に言っております。また、京都がきわめて排他
的で閉鎖的なのは、こうした秘密を今なお伏しているからであって、なか
なか一筋縄ではこのベールはとけないとも言っております。
 八切氏は億の金をかけて歴史の資料を集めたといいます。八切氏のフィ
ルターを通して見ると、うわべの歴史でなく、見えないはずの黒子の世界
が見えて来ます。人はそれを異端と言ったのかも知れません。アカデミズ
ムからは排斥されてしまったようですが、昨今再評価の動きもあるようで
す。
 ところで、蜷川氏は伊勢氏に仕えていた。伊勢氏はというと、代々幕府
の政所執事の任にあって、経済官僚としても有能であったといいます。つ
まり、財政に強かった=金を生み出す・集めるシステムを握っていたとい
うことではないでしょうか。そこに蜷川氏の存在があった。あを様の言わ
れるように、「大久保長安」のような「錬金術」的能力があったのだと推
察されます。銀の算出料では石見が一番。石見銀山の歴史を一度調べてみ
る必要があります――
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月10日 10時22分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 今日は。
横から失礼いたします。平川家についてのミヤハラです。

勝軍地蔵の信仰。関連する”銀”。
とても興味深く拝読させて頂いております。
ちなみに、私の親戚一族の家のお堂にも代々勝軍地蔵様をお祀りさせて頂いております・・

所で三つ柏服部様。
>石見銀山の歴史

文芸春秋WEBに
世界史のなかの戦国時代
【銀】石見銀山が世界経済を動かす 文岡本 隆司 (京都府立大学准教授)
という記事が掲載されていました。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1821?page=3

私の住む集落にあった肥後宮原銀山についても書かれていました。
よろしければ、ご覧ください。

インフルエンザ時の体温並の猛暑が続いています。
空の青海のあを様、三つ柏服部様
お身体には十分お気を付け下さい。

では。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月11日 07時36分46秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 情報ありがとうございます。歴史というのは深いものだと痛感いたします。
知っているようで知らない――表層のとびとびの点しか知らないといっても
いい。もっともこれは私のような浅学非才の輩について言えることではあり
ますが……。

 個の動きと全体の動き、この両方を同時に見ていかないと偏った見方にな
るということ……蜷川氏については情報が少ないので論及することができま
せんが、銀の生産・流通・貿易のどこかに根差していたものと思われます。

 国内ばかりの視点で歴史を見ておりましたが、戦国時代にはすでに海外へ
出かけて貿易をしていたという事実、この貿易の内容を調べる必要があると
思いました。
 結果として、日本の銀が世界へ出て行ってしまったということになります
ので……。

 ことわざに「金銀山を制する者は、世界を制する」というのがあります。
金や銀を巡っての戦いの歴史があったということになります……。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月11日 08時03分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、岐阜城資料館で見つけた『戦国の武将 永井隼人とその系譜』
をインターネットの古本屋から入手できましたので、ずっと読んで分析
しておりました。

 長田直勝が突然永井直勝になった、即ち永井はその時点で作られたの
ではなく、永井(長井)はそれよりずっと昔から存在していた。即ち、永井
支族が存在していたということがわかりました。
 それも美濃において、土岐氏に仕えた斎藤氏(道三はパラサイトで異種)
の流れの中に永井斎藤氏、即ち永井氏がいたということがわかりました。
 つまり、長田直勝と並行して大江系の永井(長井)氏がいた。
 斉藤利三の系統が永井でありました。そしてその娘が春日局。
 斉藤利三は、祖父の利良が蜷川氏の入り婿になっており、蜷川氏の血
が入っています。妻は稲葉一鉄の姪であります。明智(土岐)光秀に仕える
ことになって、大変な活躍をした……。これらの背景の分析が必要であり
ます。

 永井直勝の永井と斎藤系の永井とはどうつながるのかということであ
りますが、大江廣元―廣仲―時廣の「時廣」でつながるようです。

 とりあえず、思ったままを記述しました。論理はとばしましたので、
これからじっくり整えたいと思います。

 本日は、これから碧南へ行ってまいります――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月11日 10時08分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


角倉了以のことを調べたりしました。
京都の大金持ちです。

でも蜷川家とはどこかで繋がっているのかどうか分かりません。


角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))

戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。

朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。

また江戸幕府の命令により富士川、天竜川などの開削を行った。

地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。

長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。



角倉家の本姓は吉田氏。佐々木氏の分家であるという。もともとは近江国愛知郡吉田村(滋賀県犬上郡豊郷町)出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。その後、医業で得た財を元に土倉を営むようになる。了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。この次男・吉田宗桂が了以の実父である。

角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇っていたが、他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、角倉家はそれ以前より成功していた商人であったところが異なる。

「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られた物である。



名字由来ネット

角倉氏

現京都南部である山城国嵯峨角倉が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。

現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵、現広島県西部である安芸などにみられる。



名字由来ネット
蜷川氏

現富山県である越中国新川郡蜷川村が起源(ルーツ)である、宮道氏がある。

ほか津山藩、現大阪府東部である河内、現茨城県である常陸、現高知県である土佐などにみられる。 




htt://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F

蜷川氏(にながわし)は、日本の氏族の一つ。

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏。
越中国新川郡蜷川庄[1]を賜り、そこの地名を名乗った。祖は蜷川親直。


           もとの蜷川郡、後の蜷川村、
           現在の富山県富山市蜷川および黒崎・二俣・赤田・小杉・袋・布市・最勝寺・黒瀬・八日町・下掛尾(しもかけお))


室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)。長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る。

また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月11日 10時13分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


碧南で長田氏について良い情報が得られるといいですね。


それにしても『戦国の武将 永井隼人とその系譜』を早く入手出来ましたね。
さすがネット時代!
時間の節約が出来て良い時代になりました。


日本の銀が流出したのは戦国時代
そして日本の金が流出したのは幕末。

こうして富が流出して日本はいいように食い物にされましたね。
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月12日 10時09分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 今日は。
横から失礼致します。

三つ柏服部様
>私のような浅学非才の輩について言えることではあり
ますが……。

とんでもありません。三つ柏服部様の御調査のお陰で私はとても重要な事に気が付く事が出来ました。
詳しくは平川家についての方で書かせて頂きます(..)
三つ柏服部様
心より感謝申し上げます。

>金や銀を巡っての戦いの歴史があったということになります……。

痛感致しました。

三つ柏服部様 ありがとうございました。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月12日 12時07分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ようやくわかりました。

 永井「直勝」の父「重元」は、大江広元・長田・大橋系に養子に入って
おります。
 一方で、「重元」は大江広元の弟「長井(永井)時弘」の直系であります。
 従って、重元は大江氏・長井大江氏・長田氏・大橋氏の系統となります。

 大橋氏には宗良親王の曾孫が養子となっています。
 また、宗良親王の妃は井伊道政(行直)の娘で、尹良親王を生んでいます。

 従って、重元・直勝には大江・長井・長田・大橋・井伊・後醍醐天皇の
血が入っております。

 美濃の斎藤家は藤原利仁流でありますので、同加藤家とは同祖となりま
す。

 斉藤家は土岐氏に仕え、途中から長井斎藤家となり、長井(永井)でもあり
斎藤でもあるということになります。
 さらに、長井斎藤家は、大江長井と合体しますので、長田(永井)重元・
直勝系とも遠くつながることになります。

 長井斎藤家の末裔は斎藤利三(母は明智光秀の妹)で、明智光秀の甥である
と共に家老でもあり、本能寺の変の実際の主役であります。

 結果的には斎藤利三は捕まって処刑されてしまいますが、その子お福は
春日局となって家康に重用されるということになります。

 この斎藤系永井氏と長田系永井氏が、実際にどのような交流があったの
か、そこを知りたいと強く思っています。


 昨日は、碧南市へ行き、図書館で永井家に関す史料はないか、郷土史の
資料をの中を探ってみました。『一行院再建記念出版 永井直勝』という
東京にある寺院の再建記念で出版された本があり、たいへんうれしく拝見
させてもらいました。この中には、特ダネはありませんでしたが、こまごま
したことは書かれておりました。このような本があるということ、それだけ
で収穫でありました。

 目的のもう一つは、通称「トクホンサン」と呼ばれる宝珠寺(ほうしゅう
じ)を訪れることでありました。永井氏にからむ墓が見つかればと、入って
みましたところ、本堂の前には「長井直勝生誕の地」と刻まれた高さ三メー
トル位の石碑が建てられておりました。

 墓地には、いきなり長田家の墓が目に入ってきました。家紋は「丸に剣
三つ柏」で、全部で六基程ありました。
 墓地のセンター部分に「長田重元」の笠付の大きな墓が石垣に囲まれて
建っておりました。その隣にやや小ぶりの墓があり、それには文字が刻まれ
ておらないようでした。後で調べたところ、たぶん「永井(直勝)家の塚」だ
と思われます。そしていわくありげに、加藤菊女の墓というものもありまし
た。

 全体の墓の数は多くなく、せいぜい四〜五十といったところか……。
そして、長田重元と永井(直勝)家の墓に向かって、般若心経を二巻捧げ
ました――
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月12日 22時58分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

いろいろ分かりましたね。


意外だったのは大橋家に宗良親王の曾孫が養子に入っていること。
やはり昔は「近いところ」で「家を守っていた」のですねえ。


そして大橋家と蜂須賀家が親戚にもなるし
大橋と服部はもともと平家時代の兄弟ですし。


>家紋は「丸に剣三つ柏」で、全部で六基程ありました。

これも意外でした・・・
剣三つ柏?
へぇ〜





>この斎藤系永井氏と長田系永井氏が、実際にどのような交流があったのか、そこを知りたいと強く思っています。

ここが解明出来たらスッキリしますね。


>そしていわくありげに、加藤菊女の墓というものもありました。

加藤家の墓ですか。
なかなか興味深いですね。





>長田重元と永井(直勝)家の墓に向かって、般若心経を二巻捧げました

ありがとうございました。
ちょうどお盆の時期なので良いご供養になりました。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月13日 13時57分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 斎藤利三が永井利三でもあったということ、つまり永井直勝系とは別筋
の永井家があったということ。
 別筋の永井とは、藤原利仁流斎藤永井氏であり、大江流永井が途中で合体
している。

 戦国武将永井隼人は斎藤隼人でもあり、斎藤道三(パラサイト)と立場上
兄弟になっています。斎藤利三とはハトコの関係であります。
 この永井家の家紋は、「永井梨切口」で、裏門が「一文字三星」であり
ます。

 この永井家の家系図を解読していましたが、整合性について照合するのが
なかなか難しく、時間がかかっていまいます……。
 永井隼人は正式には長井隼人佐道利といい、長井藤左衛門長弘の実子で、
享禄三年正月十三日、道三が長弘を殺害した時、幼少の子一人あり、その
親分になり後見し、成長の後は執権職を継がす契約で、道三は長井新九郎
正利と改めたということであります。永井隼人はあまり知られていないけ
れど、徹頭徹尾信長と戦ったということで、歴史上に占める役割は大きい
ということです。

 『戦国の武将 永井隼人とその系譜』は四百ページを超す単行本で、なか
なか理解するのに手間のかかる書き方であります。今後、もう少しスッキリ
と論旨を整理して、永井隼人の人間関係を明らかにし、歴史上の再評価を
してみたいと思っております。
 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月13日 14時50分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>斎藤利三が永井利三でもあったということ、
>つまり永井直勝系とは別筋の永井家があったということ。
>別筋の永井とは、藤原利仁流斎藤永井氏であり、大江流永井が途中で合体している。


ややこしいですね。

         家康が直勝に永井姓を名乗らせたのか?何故、永井なのか?
         直勝が永井姓を望んだのか?何故、永井なのか?


考えれば考えるほど闇に転落していきます。



>永井隼人は正式には長井隼人佐道利といい、
>長井藤左衛門長弘の実子で、
>享禄三年正月十三日、道三が長弘を殺害した時、幼少の子一人あり、
>その親分になり後見し、成長の後は執権職を継がす契約で、
>道三は長井新九郎正利と改めたということであります。

こういう経緯でしたか。
道三が長井の名を乗っ取ったのは知っていたけれど。



>永井隼人はあまり知られていないけれど、
>徹頭徹尾信長と戦ったということで、歴史上に占める役割は大きいということです。

そうなんですか
信長を嫌いでしたか。バンザイ

そうしますとホンヤさんのご先祖と仲間だったのかも。バンザイ


またネットで調べてみます。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月14日 00時17分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 安曇野の話になかなか至りませんが、もう少し永井斎藤氏関係について
考察したいと思います。

 愛宕山の山頂の白雲寺は、明治の神仏分離で完全に破却され、愛宕山の
本尊の「勝軍地蔵」は西山金蔵寺に移されたということです。
 たまたま、私の所に『火伏の神愛宕さん 亀岡の愛宕信仰』という小冊
子があり、そこに将軍地蔵の写真が載っておりました。
 それは、どんな様子かと言いますと、白馬にまたがった眷属といった感
じであります。像はと申しますと、左手に直刀、右手に持つのは錫杖のよ
うでもあり、また吹き流しのような旗がついています。胴には眷属の鎧、
頭には丸いかぶと、かぶとの上には桃(宝珠のようでもある)を一つ戴いて
おり、背中には丸い光背があり、やはり桃が三つついています。孔雀明王
と不動明王と眷属を合わせた感じといったほうがイメージがつかめるかも
知れません。

 八切止夫氏の情報をまとめてみると、愛宕山は、将軍地蔵を参拝し、
武運長久を祈る所ばかりではなく、他に金融業も営んでいた。愛宕山で
は、愛宕大権現を窓口にして、吉田神道が京の金融を一手に握っていた
ということであります。
 神社が金貸しをというと奇妙に感じられますが、当時は、お伊勢様に
しろ、熊野権現にしろ、みな金貸しをしていたということであります。
 お伊勢様は年に七回利息を納め、熊野権現は三回、愛宕山は毎月であ
ったということで―
 「伊勢にゃ七たび、熊野にゃ三度、愛宕さまには、さあ月参り」と揶揄
した唄が流行ったといいます。

 この吉田と角倉と蜷川が親族関係でつながっていた。角倉は御朱印船
貿易、海鮮問屋、河川開発、倉庫業、酒造業と多角経営で財閥化したよ
うです。
 いずれにしても、この三者と斎藤利三と明智光秀が深く関わりあって
いたという事実が、本能寺の変の背景にあります―
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月14日 02時15分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

勝(将)軍地蔵の画像を見つけました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E6%A8%A9%E7%8F%BE
大きな耳の馬ですね。



ふんふんなるほど、と拝見してましたが
>「吉田神道」が京の金融を一手に握っていたということであります。
>吉田と角倉と蜷川が親族関係でつながっていた

これで角倉了以とも繋がりましたね。
ありがとうございました。



角倉了以

天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。

角倉家の本姓は吉田氏。
佐々木氏の分家であるという。

もともとは近江国愛知郡吉田村(滋賀県犬上郡豊郷町)出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。
その後、医業で得た財を元に土倉を営むようになる。

了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。
この次男・吉田宗桂=日本屈指の名医=が了以の実父である。

角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇っていたが、
他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、
角倉家はそれ以前より成功していた商人であったところが異なる。

「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られた物である。



>この三者と斎藤利三と明智光秀が深く関わりあっていたという事実が、本能寺の変の背景にあります

すっごい歴史の裏に辿り着きましたね。
この三者の裏の顔は、フィクサーだった、ですね。



角倉家(吉田家)は室町幕府の医者
蜷川さんは室町幕府のお役人

この3つの家が京都での富豪。
当時の日本の中心は京都ですから
京都経済=つまり日本の経済=を支えていた。


本当にすごい所に到達しましたね。


なんだか(バレたくなかったのに)という歯ぎしりが聞こえて来たような。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月15日 00時26分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本の女子マラソン選手の活躍を期待してテレビを見ていましたが、リオ
の暑さにやられてしまったようです。こういう状況下、アフリカ勢はやはり
強いです――

 さて、八切止夫氏の本能寺の変の真相説の一つですが、煎じ詰めた形で
いいますと、それは「銀」に起因するということです。それはどういうこ
とかといいますと、西日本はいわば銀本位制で、その銀を中心とした金融
資本を一手に握っていたのが、蜷川一族であったということです。
 ところが、信長は銀本位制から金本位制に替えようと目論んだ。そこで
蜷川一族は総力を挙げて信長を倒し、金本位制移行を食い止めたという。
 また、銀本位制を守ると約束した秀吉には、資金を出し、真相を知って
いる光秀を始末した。が、秀吉も金本位制移行を企てたので、その死後、
豊臣家は滅ぼされた。大阪の陣では、京阪では金では物資も入手できない
羽目に追い込まれ、そのため落城したということであります。
 家康は、蜷川家に対して関西での銀本位制の確約をしたので、天下取り
に成功した。箱根山以東は金本位制で、何両何分何朱としたが、以西は銀
本位制で、銀何十何匁といった、二本立ての貨幣流通制度をしいた。
 今でも領収書に「一金何円也」と書くのも、金で何円と頭書きした頃の
名残りであるということであります。

 八切氏の説は、小説『明智光秀』のなかでの吐露でありますので、論文で
はありません。果たしてどこまでが正しいのか……話半分としても、表層の
歴史では得られない、扉の奥の真実を垣間見させてくれます――
 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月15日 02時24分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

唸りながら拝読いたしました。


なるほどねぇ〜
それで蜷川家は旗本で続くことが出来たのかもですね。


>八切止夫氏の本能寺の変の真相説の一つですが、煎じ詰めた形でいいますと、
>それは「銀」に起因するということです

実に「真相」に値しますね。


銀本位制・金本位制
これは古今東西、日本でも、現代でも、スゴイことですものね。


蜷川家や吉田家や角倉家にしたら銀本位制を廃止されたら死の宣告を受けたのと同じですから
そりゃあ必死で止めようとしたでしょうね。



歴史の暗闘
面白いですね。


>箱根山以東は金本位制で、何両何分何朱としたが、
>以西は銀本位制で、銀何十何匁

そうでしたね
銀は秤量通貨・秤量貨幣
すっかり忘れていました。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8606627.html


銀本位制の復習:

平安時代にさかのぼる多田銀山(北大阪・兵庫阪神)
室町時代から江戸時代に全盛期を迎えた生野銀山(兵庫県但馬地域)
そして、世界遺産である島根県の石見銀山。

世界史で見ても、日本は大産銀国で、その鉱山のあるのが西日本でした。


その歴史的背景から、西日本では、室町時代・戦国時代の共通通貨として銀本位制が成立しました。

これに対して、東北地方では、平安時代から奥州藤原氏の栄華を支えた砂金が取れ、
武田信玄の財政を支えた甲斐の金山、
江戸時代には佐渡金山と、
大規模な金産出地が東日本に偏っていました。


また、江戸時代の回船業の発達によって、全国レベルの商品流通が行われるようになってきましたが、政治の中心地江戸を擁する東日本と瀬戸内海を中心とした西日本は、異なる経済圏を形成していました。


そしてそれぞれの地域で、歴史的に定着していた銀・金を基本とした自然発生的な通貨決済が行われました。


尚、米というのは準通貨的な扱いで江戸時代は米本位制という見方もうなづけますが、産地による品質の違いや保存性・重量の問題から、経済体制は米本位制ととらえることも可能だと言えますが、通貨経済としては金・銀本位制と見て良いと思います。

            *武士の世界=江戸時代=は米本位制


<付記>
金銀の交換レートについて

江戸時代末期の交換レートは、金:銀=1:5程度だったようです。

つまり、金の代わりに銀を使っても、5倍の重量、金1両で銀100グラム程度ですから、10両位の取引なら1キログラム程度です。

また、江戸時代の大阪では、商売人同士の大きな取引の場合、手形決済が行われるのが普通で、大量の銀の現物を持ち歩いて取引するというのは一般的ではありませんでした。



*武士の世界=江戸時代=は米本位制について

当時の武士の給料は何で払われていたかと思いますか。それは金貨でも銀貨でもなく、米で払われていたのです。

よく「五十石」とか「百石」なんていうでしょ。その通り、米の量で支払われたのです。


給料を米でもらった武士は、まずそれで自分と家族の食事の分を確保し、余った米を売って換金してそのお金で他の物を買っていたのです。


で、米というのはどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、大阪で先物市場がありました。
                       当時先物があったってのがすごいですよね。
そこの取引で日々米の値段は変動するわけです。

だからその値段次第で武士の実質的な年収は上がったり下がったりするわけです。だから米本位制。




この米の値段の調整に吉宗以下の幕府お歴々は苦心したのです。

米の値段が下がると庶民(特に江戸大阪市民)には喜ばれますが、武士の手取りは下がります。

一方、米の値段が上昇すると武士の手取りが増えるものの庶民からは不満が出ますし、米の値段の上昇につられて他の物の値段も上昇します。

ある意味原油価格の上昇みたいなものですよね。



各藩は産業奨励と藩財政の収入アップのために、米の生産増加に力を入れます。

そりゃ当たり前だ。しかし鎖国で輸出できるわけでもないから、市場に米はダブつくことになれば米の値段は下がります。
不作になったり飢饉でも起きると、米の値段は急上昇します。

幕府は日銀みたいに度々「指導」という形で市場(商人)に介入(口出し)して米価を安定させようと苦心しました。


関西方面では、世界遺産になった石見銀山のような銀山があり、しかも古代から瀬戸内海を中心に京都大阪から北九州にかけての交易が盛んだったので、当然交易の場合はお金を使った方が便利だから貨幣が普及していました。


一方、関東は江戸が作られるまでこれといった大都市がなく交易も地味だったのでなかなか貨幣経済が浸透しなかったのです。


ただ、あらかじめいっておけば、戦国時代にはかなり全国に貨幣経済は浸透したと思いますけどね。
「武士の家計簿」でおなじみの磯田道史さんはそう指摘しています。


そうはいっても、江戸だって銀貨が中心だったんですよ。
「一分銀問題」というのがあって、これのせいで日本は幕末期にずいぶん小判を流出させたことがあったのですが、これを解説するとまた話が長くなるので割愛。


                       *これについてはワタクシが<レス12>でちょっと書きました。



江戸を金本位制の世界とは言えない話の説明:

現代の東京でも、「銀座」という場所が日本一の一等地として残っていますよね。

だから最大の間違いは、「江戸は金本位制」ってところでしょうね。

「相対的に流通量が多いこと」を「本位制」とはいわない。


なぜそんな初歩的以前の間違いがまかり通っているのかというと、最初に書いたように歴史学者は絶望的に経済に疎いからです。
まあそれをいうと経済学に詳しい人は逆に歴史に疎いんですけどね。

以上コピペ
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月15日 02時39分29秒 ) パスワード

歴史を振り返って、なぜ戦争をするかと問われたら、やっぱり「経済力」のためですね。
    土地が欲しい・金銀が欲しい。
    それに従事させる奴隷が欲しい。

                      宗教も絡んで来ますが
                      やっぱり「経済力」を手にするために宗教を利用したというところですね。



金山銀山を手にしたものが支配権を握る
そしてその両替で儲ける両替商が発生。



やっぱり政治経済は切り離せませんね。

学生時代、政経の授業を睡眠補給時間にしてたのがザンネンです。

国の中でみんなが切った張ったで殺し合っている時、政商は両方に出資して保険をかけてたんだなと。
絶対に逆張りしてますよね。


それで蜷川氏が旗本で続いたのだろうなと。


やっぱり人間関係というのは有事に備えて細く長く繋がっているべきなんですね。
切ってはいけないんだな。


すっごく勉強になりました。
ありがとうございました。
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月15日 06時51分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「米本位制」が現実生活の実態であったということ、目が覚めた感じが
いたします。ありがとうございました。まず「食う」ということが、「生
きていく」ことの第一条件であるということを考えると、「米」で換金、
あるいは物々交換ができて当然の世界だったと思います。今から何十年前
か、貧しかったというか、産業が農業主体であった時代には、特に物々交
換に関しては珍しいことではなかったと思います、むしろその方が自然で
あったような気もいたします……。
 お米で武士の給与を払うということは、その元となる年貢米を集める・
送るということが必要となり、物流が発達いたします。その主役はやはり
「船」――海難のリスクはあるけれど、大量に安く早く運ぶことができた
ということで、海運の世界は想像以上に活発であったと思います。いわば、
表層の歴史のシーンを支える屋台骨であったと思われます。
 海運についてもっと知りたくなりました――
 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月15日 11時41分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

>海運の世界は想像以上に活発であったと思います。
>表層の歴史のシーンを支える屋台骨であったと思われます。

はい、そうですね
日本の歴史はまさに「海運」で幕が開けたのでしょうね。


ま、何万年も前に?日本列島が大陸と陸続きだった時代から住んでた人達もいたのでしょうけど
その後、海を渡って、大勢の人達が移住して来たのでしょうね。
まだ海が浅かった頃?


最近、草で編んだ舟で台湾方向から沖縄方向に渡ろうという実験が行われましたよね
失敗に終わりましたが
原因は黒潮?に巻き込まれて方向違いになって危険だからと諦めたとか。


海面がずっとずっと低くて遠浅の海みたいだったら渡れたのかもですね。



日本人は元が海の人々ですから、舟を利用して移動したのでしょうね。
そして物を一緒に運んだ。
もちろん戦いのために港の整備も行われたのでしょうね。


海運のリスクに挑んだ歴史上の人物と言ったら「平清盛」ですね。日宋貿易のための大輪田泊の整備。


最近ですと明治末期の名古屋港。


そういえば「漁港」というのもありますね。こちらは海幸彦がらみですね。笑
「桃太郎」のように財宝を求めて海に出て行った者もいたのでしょうね。
                       「桃太郎」は侵略主義ということで戦後禁じられていた時代があったそうですけど
                       日本人には血湧き肉躍る物語ですね。
                       


日本人には海運は文字通りの生命線ですね。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月16日 09時55分14秒 ) パスワード

なかなか面白かったのでコピペ:


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160816/dms1608160830003-n1.htm


是清暗殺も軍部暴走もなかったかも? 第二次大戦に至った各国の経済状況


8月15日は終戦の日だ。第二次世界大戦に至った日本や各国の経済状況はどのようなものだったのか、振り返っておこう。

 第二次大戦前の経済は、大恐慌と呼ばれる時代に突入していた。米国の1933年の名目国内総生産(GDP)は、19年から45%減少し、株価は80%超下落。工業生産は平均で30%以上低下し、失業者は1200万人、失業率は25%に達した。

 36年ごろにインフレ傾向が出始めると、米連邦準備制度理事会(FRB)は引き締めに転じ、37年には財政支出も大幅にカットされたことで、38年に再び不況になった。

 ドイツは第一次大戦後、賠償金負担に苦しみ、通貨を増発しすぎてハイパーインフレに陥った。これを見事に沈静化させていたが、世界恐慌で経済は再び苦境に陥った。32年の失業者は600万人、失業率は30%を超えた。それを3年間で失業者数を160万人まで減らし、世界恐慌前の経済状態に戻したのが、アドルフ・ヒトラーの経済政策である。アウトバーンの建設など、積極財政による雇用政策がうまくいったのだ。

 日本については、世界恐慌とほぼ同時期に行われた金解禁によって通貨高になり、輸出が落ち込んで昭和恐慌を招いた。立憲民政党の濱口雄幸内閣は、金本位制復帰に伴って緊縮財政を採用し、猛烈なデフレとなった。

 31年の経済状況を29年と比較すると、国民所得が2割減、物価は3割減であった。統計上の失業率は8%程度(32年)だったが、統計上の不備などのために過小評価になっており、かなりの失業者がいた。その後、高橋是清の財政・金融政策によって恐慌から抜け出した。

こうした大恐慌について、米国の29年の株価暴落が世界経済に波及し、世界各国でそれぞれの要因によって不況になったというのが俗説であるが、ここ20年くらいの研究でまったく誤っていたことがわかっている。

 それが国際比較による大恐慌研究で、ベン・バーナンキ前FRB議長はその権威である。彼によれば、金本位制に執着した国は十分な金融緩和ができずデフレから抜け出せなかったが、金本位制を放棄した国では自由に金融緩和できたのですぐ脱出できたというのだ。

 ドイツのヒトラーと日本の高橋是清はいずれも金融緩和をいち早く行い、早期のデフレ脱却に寄与したが、戦争への関わりについては両極端だ。

 ヒトラーはいうまでもなく、独裁体制を構築して、戦争に突き進んだ。これに対し、高橋是清はデフレ脱却後、軍事費の緊縮に動いたことで暗殺され、その結果、軍部の台頭を招いて日本は戦争に向かっていった。ヒトラーに戦争責任はあるが、高橋是清はむしろ戦争を予防しようとした。

 ただ、ドイツで大恐慌がなければ、ヒトラーは歴史の表舞台に出てこなかったともいえる。なまじ経済政策でヒトラーは成功したので、独裁体制を招き第二次世界大戦の元凶となってしまった。日本でも大恐慌がなければ、軍部の独走はなかったかもしれない。経済が貧しくなると、傑出した英雄を求め、その結果として、戦争が起こりやすくなるのではないか。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)



>経済が貧しくなると、傑出した英雄を求め、その結果として、戦争が起こりやすくなるのではないか?


トランプでは戦争?
ということは無能なヒラリーの方が一応ヘーワ?
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月16日 10時32分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安の話が出ましたので、少しその関連で探求をしてみます。

 まずは、長安で有名になった石見銀山ですが、この銀山にはいくつかの
エポックがあります。

 @百済の帰化人が石見の山間部へ大和の宇陀から移り住み、この山間部
 に露頭銀のあることを発見する。

 A博多の豪商「神谷寿貞」は、但馬や備中で採れる銅などを買い付け、
 それを明へ運んで勘合貿易を行い、巨万の富を蓄えていた。この神谷
 が石見の露頭銀を海上から発見し、本格的に採掘する。銀鉱石を一旦博多
 まで運び、今度は朝鮮で白銀に生成した。
  その後、「灰吹法」による精錬を現場に取り入れ、増産する。

 B毛利氏がこの銀山を手中におさめる。

 C織田信長がこれに目をつけ毛利を秀吉に攻めさせる。備中の高松城攻め
 により、毛利氏を降す。

 D本能寺の変により、信長没する。

 E秀吉、毛利氏からこの銀山を事実上入手する。

 F関ケ原の戦い後、天下の実権を握った家康は、石見銀山に注目。
  大久保長安を石見銀山奉行とする。

 G大久保長安は、安原伝兵衛という山師を使い、釜屋間歩という大鉱脈を
 見つけさせ、大増産となった。方法としては、甲州流横堀り方法、そして
 精錬方法は「水銀流し法(アマルガム法)」を使用した。

 この頃の世界情勢としては、1571年、スペインがメキシコのアカプルコ
とフィリピンのマニラを結ぶ定期航路を開く。この航路により、南米の銀(ア
マルガム法による)が中国に殺到し、銅による経済圏が銀経済圏に替わって
しまった。
 この結果、中国からの銅銭の輸入が止まり、私鋳銭が出回った。信長の
時代である。取引方法はは「銭」から「米」へ、表示方法は「貫」から「石」
へ変わった。
 また、日本の銀はほとんどが輸出に使われてしまっていたので、国内には
わずかしか残らなかった。これをストップさせることが鎖国の一因ともなった。

 以上は、『史実 大久保石見守長安』(北島藤次郎著)と『分裂から統一へ』
(村井章介著)を参考にさせていただきました。

 それにしても、大久保長安という人の謎は魅力的で誘惑されます。あの
角倉了以ともつながりがあり、千曲川・富士川開発等に了以を招いています。
角倉家は吉田家、そして蜷川家ともつながっています。
 大久保長安は、服部半蔵の次男ともつながっております。
 また、松平忠輝を通じて伊達正宗とも通じていたと推察されます。

「財力と諜報力=天下を制する」でありますので、ただ単なるテクノクラート
だけであったのか、それとも、その力を生かすベクトルがあったのか、大い
に知りたいところであります――
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月16日 10時37分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差いたしました――
 トランプ氏は、マスコミにたたかれ落ちて行きそうですね―― 
 
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月16日 13時09分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


<レス26>
非常に面白い流れですね。
とっても分かり易いです。
ありがとうございました。


歴史の真実は隠されている
・・・ですね。


日本人は皆親戚関係になりますからココでも服部家に繋がりましたね。
だからこそ歴史の真相は隠されるのかもですね。

      当時の人は真相を知ってた
      でも、皆、クチを閉ざして黙っていたから真相は隠されて来た
      のかな?



秀吉がキリスト教を弾圧したのは南蛮船の荷物70万石分を横領(没収)したかったから
いちゃもんをつけた(バテレンを追放したり26人を磔にしたり船を押収したり)
というのが数回前の「真田丸」にありましたよね。

真相はこんなところだったのかもですね。
あのシーンにはビックリしました。秀吉、死に欲がついてたんだなと。


バテレン追放令の『天正十五年六月十八日付覚』
<大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事>

     中国や南蛮や朝鮮に日本人を売り飛ばすことは許し難いことであるから日本でそういうことをしては決してならない

                 これは知ってましたけど
                 50万人の日本人が南蛮によって売り飛ばされたと読みました


大義名分は立派なことを述べていても実は横取りしたかっただけ。
三谷幸喜はスゴイと思いました。


今回の三つ柏さんの「纏め」も素晴らしい出来でした。
拍手




神谷寿貞は神屋宗湛の曽祖父ですね。
以下コピペ


神屋 宗湛(かみや そうたん、天文20年1月1日(1551年2月6日) - 寛永12年10月28日(1635年12月7日))

戦国時代から江戸時代前期にかけての博多商人、茶人。神屋氏の第6代当主。出家前の諱は貞清。
「神谷」は誤り。
島井宗室・大賀宗九とともに「博多の三傑」と呼ばれる。



生涯

天文20年(1551年)、5代当主・神屋紹策の子として誕生。
神屋氏は代々博多の豪商であり、曽祖父の神屋寿貞は石見銀山の本格的開発に携わった人物であった。

天正10年(1582年)、島井宗室と共に上洛して時の天下人・織田信長に謁見した。
信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、
豪商としての地位をさらに極めようとしたが、同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため失敗に終わった。

天正14年(1586年)、再度上洛して今度は畿内の諸大名や堺の大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。


天正15年(1587年)、信長死後に天下人となった豊臣秀吉に謁見した。
秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。「太閤町割」と呼ばれる博多復興事業でも大きな役割を果たし、
また秀吉の九州征伐においても資金面で援助している。


文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍した。
しかし慶長3年(1598年)に秀吉が病死し、その後に天下人となった徳川家康からは冷遇された。

そして関ヶ原の戦いの後に黒田長政が移封されると、宗湛は天下の大商人から黒田氏の御用商人にまで成り下がった。
しかし黒田長政の福岡城築城のときには金銀や米を献上し貢献している。
長政の父黒田孝高とも深い交流があり度々茶会で同席している。


老齢ということもあって、以後は豪商としての活躍も無く、寛永12年(1635年)10月28日に病死した。
墓所は福岡市の妙楽寺。


著作として『宗湛日記』がある。
これは宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記である。
年代に多少の不確かがあり後世の偽書とも疑われるのは当時の博多商人の権勢を恨めしく思った輩が噂話を広めたからである。

現在でも茶道の記録として1級の価値があることには変わりない。


当時の豊臣政権の内部を知る上では貴重な史書の一つともされ、
また堺の豪商津田宗及の『天王寺屋会記』、
今井宗久の『今井宗久茶湯書抜』、
奈良の商人松屋久政の『松屋会記』と並ぶ、四大茶会記とされる。


また、日本半国の価値と謳われた『博多文琳』という有名な茶器を家宝として所持し、
豊臣秀吉、黒田長政など諸将からの再三の頼みにもこれを譲らなかった。


しかし、福岡藩主二代目の黒田忠之により、長政の遺言ということで、文書で茶器の差し出しを命じられ、ついに召し上げられる。

このとき、お返しに五百石の知行と黄金二千両を渡すといわれるが、知行の方は固辞した。[1]


「宗湛日記」に、古田織部が開いた茶会にて記した言葉「へうけもの」が漫画、「へうげもの」の由来となった。


福岡県福岡市博多区奈良屋町の、神谷宗湛の屋敷址には現在、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されている。


脚注
1.井上精三 『博多郷土史事典』葦書房、2000年、P43
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月17日 00時25分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 卓球女子の三位決定戦、目が離せません……。

 本日は、午後より図書館で涼みながら、地元の歴史エピソードを拾っており
ました。

 藤堂高虎に関する本に出合いましたので、この家康の側近、テクノクラート
でもあり、大久保長安と両巨頭と言っても間違いありません。
 この二人、近いようで遠い、即ち二人の間の情報がない、最後の死に際の
やり取りくらいしか情報がない……情報がないということは、情報を出さな
かったという可能性が高い――ということで、また踏み込んで調べています。
 これだけの影響力のある人間同士、またアヤシイ人間同士、接点がない訳
がない……と確信しています……能がキーワードになるかも――
 


[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月17日 03時01分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


銅メダルが取れて良かったです。


福原愛ちゃんはメダルを期待されて大変な重圧だったと思います。
取れて良かった。



大久保長安と藤堂高虎の関係:「本能寺と信長」   藤井学著   6章  長安の居所と行動

http://books.google.com/books?id=rbkc_YKTvLkC&pg=PA135&lpg=PA135&dq=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E%E3%80%80%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=hRhzDyTSKk&sig=GJu0eMxKsU2cTHdA-G6mjaVq6og&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiCob3tvcbOAhUI5GMKHTzfC3YQ6AEIIjAB#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E%E3%80%80%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

四月二一日には、長安は藤堂高虎に宛て長文の覚書(いわゆる遺言状)を認めている(「新史料」)。四月二五日、大久保長安は駿府においてその生涯を閉じた(『当代記』『駿府記』『国師日記』等

死因は淋病らしいです。一応公称は中風の悪化。



    下へとページをめくって行くと小堀や崇伝との関係があったことも分かります。



____________________________



http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1051.html
安部龍太郎著『下天を謀る 上・下』(新潮社、各巻¥1600円+税)
についての書評のようです



藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556−1630)は豊臣・徳川間を生きたキーパーソンである。

 秀吉の異父弟秀長につかえ、大和郡山百万石の家老に取り立てられた。
秀長の死後ほどなく主家は取りつぶされが、秀吉の直臣となる。
秀吉の死後は家康に与し、外様大名でありながら譜代大名格として重用され、家康死去の際には枕元に侍ることを許された人物である。

 高虎の生涯で最もわかりづらいところは、秀長の後継者である秀保(関白秀次の弟)の死後、高虎が高野山に入り、やがて山より下るに至る経緯であろう。


 高虎について作家安部龍太郎は、スケールが大きすぎて全体像を伝えにくい人物かもしれない、としているが、本書はその藤堂高虎の生きざまに迫った歴史小説である。


 物語は秀吉と家康が激突した最初にして最後の戦いである小牧長久手の戦いの描写からはじまる。
この戦いを高虎は秀吉方の武辺者として戦ったのだが、 高虎15歳の初陣である姉川の戦いの時に見た家康という武将の凄さと徳川勢の見事さは、浅井長政の家臣として参戦した高虎の脳裏に今も焼きついている……として因縁浅からぬ高虎と家康の結びつきから説き起こしている。


 戦場で敵味方としてあい見えた水野家の照葉(てるは)姫とのロマンスから、照葉の従兄の水野勝成や加藤清正らとの友情へと、作家の筆は広がっていくが、とりわけ、水野家の先代の当主・信元(於大の兄)の末娘で、家康の従妹にあたる照葉の造形が面白い。

高虎が秀保の怪死事件を受けて高野山に出家した際、家康からの書状を高虎に手渡すのが照葉であった。
照葉は高野山に入った高虎を生かそうと懸命だった。
互いに断ち切りがたい思いで結ばれた二人の愛のゆくえは純粋に時代小説的に面白く、本書を容易に通読させる要因の一つとなっている。


なお、「拙子(家康)と手をたずさえて、下天を謀る道をともにしてもらいたい」との家康からの書状を読んで、高虎は高野山を下りることを決意するが、「下天を謀る」が本書のタイトルになっている。


 高虎を見出した豊臣秀長は高虎の生きざまに大きな影響を与えた人物として特筆されている。


 天下統一を果たした秀吉は、中央集権体制を確立して前後7年にも及ぶ朝鮮半島での戦争に国民を駆りたてた。秀吉を陰で支え続けた誠実きわまりない男の秀長は、病没する間際まで唐入り(朝鮮出兵)をとめようとしていたことでもわかるように、秀吉に阿る秀吉の単なる身内ではない。「領民の幸せのために生きるのが、上に立つものの務めだ」と秀長は限りない温情で部下たる高虎を育て上げる。

 秀吉が石田三成ら淀君派の近臣たちを重用することによって、千利休や秀長の力が薄れて豊臣政権内で孤立を深めていく時代背景を、作家は「この頃、秀吉は明らかに変質している」と表現している。


 天正19年(1591)正月22日、秀長は病に斃れる。享年52。秀長の死の4日前の18日、高虎は、利休を同道し、衰弱した秀長を抱きかかえるようにして聚楽第にのぼり唐入りの無謀を諫言するシーンがある。このくだりは本書上巻の名シーンとなっている。

 秀長の死を待って高虎の茶道の師である利休が、淀君や石田三成らの標的にされて切腹に追い込まれる。秀長亡き後、跡継ぎ秀保も変死し、大和郡山百万石は接収され、関白秀次が滅ぼされる。秀保急死には暗殺の噂があった。真相を追究するまでもなく、これらの悲惨な事件によって、高虎は淀君と三成を不倶戴天の敵と見なすようになり、高野山に入る。

 高虎は“出世の望みも失せて”高野山へ入ったのでもなければ、単純に“秀保の死を悼み”出家して高野山に上ったのでもなければ、“その将才を惜しんだ秀吉に招かれて還俗し、伊予宇和島7万石を賜った”のでもない。

 大和郡山百万石の後見役である高虎の出家の真意は、淀君への愛欲に溺れて為政者としての責任を投げ出した秀吉に対する痛烈この上ない批判にあったのである。


 関ヶ原の戦い後の家康と豊臣家の関係についての描写も味わい深い。

「関ケ原の戦いに勝った後も、豊臣家の大老である家康の立場に変わりはなかった。関ヶ原の後、豊臣家は摂津・河内・和泉の67万石の大名に成り下がったといわれるが、豊臣家はいまだに強大な経済力と関白家としての権威を保ち、西国大名の強い支持を得ていた。それゆえ家康といえども、手順を一歩誤まればかえって滅ぼされかねない危い状況にあり、将軍宣下によって、はじめて家康が豊臣家の大老の立場を脱し、将軍として独自の政策を実行して行く権限を手にした」、としている。


              ↓ココから

 伊達政宗や大久保長安によるキリシタン同盟の陰謀などが、関ヶ原の合戦と大阪冬の陣の中間のこととして描かれている。その視点も新鮮である。家康対豊臣の戦いの中で、「政宗が大阪冬の陣まで叛意を抱いていたことは、家康や高虎ら数人しか知らない極秘事項」であり、「幕府転覆の陰謀の大久保長安事件は高虎の功績で隠密に処理できた」、としている。

              ↑ココまで


 真相は未詳である、これら江戸初期の諸事件への迫り方もさることながら、本書の読みどころは戦国の世を駆け抜けてきた人々の実像への迫りようである。

 淀君(茶々)―――〔浅井家の家臣だった高虎にとって、茶々は特別な存在。秀吉の愛妾となり、謀略の鬼と化した後は、浅井家と関わりのあった有能な近江人脈をブレーンとして抱え、高度な官僚機構を作り上げていった〕。

 石田三成――〔高虎が4歳年上だが、ともに北近江の生まれ、浅井家の家臣だった父親に育てられるという不思議な縁で結ばれていた。身近なゆえの反発や競争心を覚えることも〕。

 加藤清正――〔関ケ原の戦いで清正が東軍に加担したのは、家康が大老という立場で豊臣家を守っていくと誓約したからである。ところが家康はその約束に背いて幕府を開き、清正は武士の生きざまが問われる決断を迫られる。高虎を兄と慕う清正は大坂冬の陣の前に死去。大坂城で合戦が始まった場合、清正が幕府方に加わるつもりだったのか、豊臣家を救おうと決意していたのか、今となっては知る由もなかった、と高虎は清正への複雑な思いを吐露している〕。


 作家は、本書を「作家をめざして35年目にたどりついた新境地」であるとし、本書の「あとがき」で、高虎は「秀長に仕えたころに身をつけた天下統治のノウハウを、家康のもとでいかんなく発揮し、幕藩体制を創出して徳川三百年の基礎を築いた」としているが、豊臣政権の苛烈な政策で人心が離れ始めるなかで、豊臣恩顧の武将であったにもかかわらず、秀吉に見切りをつけ、家康とより密接な関係を築き、「天下の参謀」となっていく過程が、無理なく描かれ納得させられる。


 藤堂高虎について書かれた小説の白眉である。石田三成や加藤清正の生きざまとは一味もふた味も違う高虎の生きざまを心ゆくまで味わいたい。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月17日 03時03分23秒 ) パスワード

長安一族の失脚は藤堂高虎の計略?
新しいですね。


でも高虎なら実行犯として有り得ますね。

[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月18日 01時58分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安・藤堂高虎について調べていますが、情報量不足。しばらく
時間がかかりそうです……。
 大久保長安については、長女が服部半蔵の次男「服部正重」に嫁ぎ、三
男が服部正尚の弟「青山成重」(青山家に養子)の婿養子となっております
ので、両服部家と縁戚関係となっております。
 藤堂高虎は、1608年に、伊賀上野に入国し、保田采女元則(服部半蔵
と同族)を中心にして伊賀忍者を統合整備しています。
 従って、服部家を仲立ちとして通じていたと考えられます。

 藤堂高虎に野心はなかったと思われます。家康への忠心ばかりに見えま
す。でも本当のところはわかりません。
 大久保長安には野心・野望があったかも知れません。伊達と近づいたの
はそう考えられます。でも本当のところはわかりません――
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 03時18分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


経済を支配出来れば国を支配出来ますから
金山銀山に関係した大久保長安は疑われたのでしょうね。


>大久保長安には野心・野望があったかも知れません。伊達と近づいたの
はそう考えられます

実際に野望があったのかも知れないですね。


忠輝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D

忠輝の岳父が伊達政宗であったため、また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていた大久保長安と近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説がある(「大久保長安事件」)

ふふふ
繋がりましたね。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月18日 09時39分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史は必ず過去からの重層構造となっていることを考えると、古代からの
伝承は連綿と語り続けられて来たはずであります。それは必ずしも表立って
ではなく、多くは暗黙の秘密として伝わってきているはずであります。
 そのことを考えると、伊達政宗は「戸来(へらい)村」のことを知っていた
たはずであります。伊達藩の領内か、少なくとも近くに位置しております。
 そして、大久保長安はもともと「秦氏」であり、ヘブライの伝承は密かに
受け継がれていた、または知っていたはずであります。
 (芭蕉の奥の細道への旅は、伊達藩の偵察と、戸来村の実地検証にあった
ようでもあり、それは水戸光圀からの指示であったようであります。伊達
政宗の時代のずっと後ではありますが、政宗以来の種火の検証ということだ
と思われます。)

 伊達政宗、その本当の姿・考え方を知りたいと思います。信長とは全く
ちがったキリスト教へのスタンスの政宗――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 10時08分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


伊達政宗とキリシタンを語るなら  支倉常長  を忘れてはいけないですね。


伊達政宗の娘で忠輝の妻はキリシタンだったそうですよ。


この支倉常長は  なんと  桓武平氏で伊勢の国司だった伊藤氏で  さらに  平家方だったそうですよ。  さらに  山口姓も!


山口と言ったら思い出すのは呉服明神の神職の服部貞信の宇治田原の城主が山口姓でしたよね。多羅尾光俊の六男で、山口氏の養子になった人。


                        支倉常長の山口姓は福島の山口からということで方向違いの山口氏でしょうけど、何か関連があるのかも。




山口常成=支倉常長の父:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B8%B8%E6%88%90

山口 常成(やまぐち つねしげ、生年不詳 - 慶長5年(1600年))
安土桃山時代の武将。伊達家累世の家臣。支倉常正の三男として生まれる。
通称、飛騨あるいは飛騨守。支倉常長の父。


家系

支倉氏は初め伊藤と称し姓は平。「伊達世臣家譜」によれば、その祖先は高望王から代々続き、伊勢国国司に任ぜられて伊藤庄に住んだ伊藤常久を祖とする。

常久は平清盛に仕え、常州西方目代を任ぜられていた。ところが、源頼朝の軍に敗れ流浪し山林に隠れて住んでいたところ、文治元年(1185年)に伊達氏祖の念西に仕官が許され、常州筑波郡中村に居住したという。

文治5年(1189年)奥州の藤原泰衡を討つため、源頼朝の討伐軍に参陣。信夫郡に至って佐藤基治を討ったとき、常久は先陣を務め、大いに戦功をあげたという。その恩賞として、信夫郡山口邑(福島県福島市山口)、伊達郡梁川邑(福島県伊達市梁川町)、柴田郡支倉邑(宮城県柴田郡川崎町支倉) を賜ったという。

父の常正は、伊達稙宗・晴宗二代に仕え、1,200石を保ち柴田郡支倉邑の支倉城に居住していた。

このころの文書には支倉殿と記載されていることから、支倉を称していたと考えられる。常正の次男の時正と三男の常成は、信夫郡山口邑の山口城で育ち山口姓を称していた。

ところが、長男の支倉常豊が早死したため次男の時正が支倉家を相続するようになって支倉時正(通称・紀伊)と称したという。


経歴

永禄11年(1568年)1月、米沢城主伊達輝宗の御近習役(50石)を命ぜられ、羽州置賜郡長井荘立石邑(山形県米沢市立石)に移住する。

元亀2年(1571年)次男の常長が生まれる。まもなくして、支倉家宗家を相続した兄の時正に子供が授からなかったため、常長を時正の養子に出すことになる。だが、数年後、後妻を娶った時正に二人の子供が生まれたため、伊達政宗の命によって600石で分家となり、支倉常長と称したという。

伊達輝宗、伊達政宗に仕え、兄の支倉時正と同じく武勇に優れ、多くの戦陣に参加し軍功を上げたという。

天正7年(1579年)兄の支倉時正、鍋丸事件(砂金氏との領地争い)を発生させる。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、黒川郡大森邑に所替となり、移住する。

文禄元年(1592年)父の常正と共に葛西大崎一揆の御成敗代官に任ぜられ派遣される。文禄2年(1593年)子の常長は、文禄の役に鉄砲隊長として出陣する。文禄3年(1594年)数度、相馬軍との合戦に出陣する。

慶長4年(1599年)罪あって、閉門となる。一説には、鍋丸事件の責任を問われたという。慶長5年(1600年)に死罪を命ぜられ、自刃し没す。(この年、自刃したという説がある)

参考文献[編集]
樫山巌『支倉常長の謎』
伊達世臣家譜 
伊達治家記録
宮城県姓氏家系大辞典
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 10時15分07秒 ) パスワード

支倉 常長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%80%89%E5%B8%B8%E9%95%B7

(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。


生涯[編集]

元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする山口常成[2]の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした[3]。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。

文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また大崎・葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。

慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している[4]。

慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある[5]。

出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した[6]。慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。



しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。

こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。

その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町に[7] 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。

常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を古典ラテン語表記で FAXICVRA とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。

諱「常長」について[編集]

この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼の諱を「常長」と記述した例はない。自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。

「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある[8]。



家紋について    ビックリ!ビックリ!ビックリ!  これって服部貞信の家の分家2つの家紋(右万字と左万字)に通じますね!

支倉家の家紋は「右卍」とされる。『仙台古文記』には「三幅四方浅黄白卍」とあり、古くから右万字が使われていたことは確かである。

しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆氏が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右万字の家紋が使われている姿が残っている。

わぉ!
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 10時16分55秒 ) パスワード

五つ割右万字紋
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 10時24分23秒 ) パスワード

>支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名

違い矢ですって。

やっぱりアヤシイ!

斜め十字はキリシタンだからでしょうね。



聖アンデレ十字(せいアンデレじゅうじ)または聖アンドロス十字(せいアンドロスじゅうじ)は、キリスト教で用いられる十字架を模したシンボルのひとつ。

一般に、カトリック教会では聖アンデレ十字、正教会では聖アンドロス十字と呼ばれる。日本では、英語名のセント・アンドリュー・クロス(Saint Andrew's Cross)、ロシア語名のアンドレイ十字、または聖アンドレイ十字の名でも知られる。

聖アンデレ十字は二本の直線が斜めに交差したX十字型の文様であり、名前はキリストの十二使徒のひとりでX字型の十字架で処刑されたとされる聖アンデレに由来する。


処刑される聖アンデレ
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月18日 18時49分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、午前中より磐田中央図書館へ行き、伊達政宗を調べていました。
 館内、くまなく探しましたが、伊達政宗に関する本は見事に一冊もなく、
あれだけ有名なのに何で?――と思いながら、カウンターにて訊ねてみた
ところ、奥の倉庫に関連の本が二冊あるとのこと、さっそく出してもらい
ました。
 そして、読んでいる内に、あを様ご指摘の「支倉常長」に、やはり私も
行き着いておりました――

 でも、あを様よりいただいた情報、かなりのインパクトをもって迫って
きます。逆さ卍とX……
 考えてみれば、忍者の手裏剣もそれをかたどってつくっているようでも
あります……。

 いろいろビックリです。ゆっくりかみしめて理解に努めます――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 22時04分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


>逆さ卍とX……

卍とXと矢
ホントに何かアヤシイ。


卍はインドの吉祥の印だそうで、わたくしはヒンズー教の「太陽」のシンボルだと昔読みました。


http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/manzi.html

 マンジ紋にひかれる人は多い。一度ひかれると、なかなかこの呪符から逃れ難いという。ふつう寺のマークとしてこの印を地図で見ることが多い。また、第二次世界大戦の当時のドイツナチスの党章として、このマークを記憶しているひとも多い。さらには古代(新石器時代)の壷にもつけられていた。このように、卍印は人類発生以来、世界中でこのシンボルが使われていたようだ。(丸に万字)


 原形は左マンジと右マンジがある。また先端の尖った鎌マンジもある。


 中国の則天武后がインドからきたこのシンボルを見て「なんのシルシか?」「総てが叶う、めでたい印です」「さらば以後、萬字(万字)と申せ」といった。こうして日本でも、万字の文字を用いるようになった。


      源氏系では、蜂須賀小六の蜂須賀氏をはじめ伊丹、小田切、多田、朝日の諸氏。

      平家系では上坂、小野氏。

      藤原氏系では、津軽、鳥居、朝比奈、万年の諸氏が使用している。

      他にも、小野氏系の岡部氏、

      服部氏系の服部氏などが用いている。   ⇔    服部貞信関係でしょうか?ま、この家はもともとがアヤシイですから。



[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月18日 22時22分54秒 ) パスワード

>考えてみれば、忍者の手裏剣もそれをかたどってつくっているようでもあります……。

面白い所に気付きましたね。



我々は江戸時代の「定住制度」の影響でツイツイ住所は1か所限定で考えてしまいますが
確かに土地に縛られた農奴なんぞいましたが
戦国時代はそれこそ人が移動しまくった時代だったでしょうね。

戦国時代は遠交近攻でムカシムカシの細い細い縁を頼って情報交換をしてたのでしょうね。

それこそ山伏とか御師とか能役者とか連歌師とかは日本国中を歩き回っていたでしょうね。


どこで誰が繋がってたか、なかなか面白いですね。



もっと先ですが「真田丸」の信繁の側室のキリちゃんの生んだ「おうめ」は片倉小十郎重長に預けられたそうです。で、後妻になります。

                       この片倉小十郎については伊達家の中の信頼に値する有能な人物ということがチラッと触れられてました。

             
                       黒木華が演じたウメちゃんの生んだ子は「すえ」さんです。



そういえば今回の「真田丸」の中でキリちゃんが旧姓明智玉(ガラシャ夫人)にキリシタンになりたいと言うシーンがありましたよね。



今回このスレで書き込んでいることが「真田丸」の中に伏線として描かれていますね。笑

[42]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月19日 00時43分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎について、まだ距離感があります。もう少し情報を収集しない
と論及できませんが、本日得た所の情報――
 「関ケ原の戦いにおける西軍大名への裏切り工作、大阪包囲網の形成、
 豊臣秀頼の二条城への訪問、大久保長安事件、大久保忠隣の改易、大阪
 の陣での先鋒、これら幕府体制確立のための重要ごとに、高虎はすべて
 深く関与した。(『異能の武将・藤堂高虎』藤田達生著)」
ということです。
 また、
 「夏の陣後の政宗と忠輝の分断工作を行った。」
ということであります。

 「政宗は、時代の皇帝(将軍)を目指していた」ということでありますが、
その分断工作は大久保長安事件もからめてうまくいったということになり
ます。

 それにしても、藤堂高虎は服部家に近い。つまり大久保長安と近いはず
なのに、なんで長安事件に協力したのか……?

 @大久保忠隣と天海は仲が良かったそうです。
  大久保忠隣は大久保長安の寄親で、ほぼ養子として扱っている。
  大久保長安と松平忠輝と伊達政宗は太いパイプでつながっていた。

 A藤堂高虎と金地院崇伝は親戚で仲が良かった。
  金地院崇伝と本多正純は朱印船の権利・権益を握っていたそうです。

 高虎は、金地院崇伝に近かったので、天海グループとは距離を置いたと
いうことであろうか……?

 しからば、金地院崇伝と天海の考え方の違いとは何であったのであろう
か……?
  
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 02時24分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


>藤堂高虎について、まだ距離感があります
>それにしても、藤堂高虎は服部家に近い。
>つまり大久保長安と近いはずなのに、なんで長安事件に協力したのか……?


まず、レス<40>の万字紋についての補足ですが
                 平氏系保田氏が使用しているそうです。

                 保田氏使用でしたら服部氏が卍紋を使用しててもおかしくないですね。


                 で、伊賀上野城代の藤堂采女家は服部氏。初代服部元則は服部保長の曾孫。
                        服部元則の弟が保田則宗。



一体どういうことなんでしょうね。
一族の中で潰し合いがあったのでしょうか?

まさに歴史の闇ですね。
闇の解明をしようとするとますます闇が深くなるってのでしょうか?
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 02時33分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

>金地院崇伝と天海の考え方の違いとは何であったのであろうか……?

http://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/32.html   以下コピペ
ライバルの光芒:天海vs崇伝


家康の天下に仕上げを入れたのはある2人の坊主だったといわれております。
その坊主の名は金地院崇伝と南光坊天海。「黒衣の宰相」と呼ばれた二人の僧侶。
彼らが徳川幕府を盤石にするために果たした役割とは一体何だったのでしょうか。
そして二人が戦った理由とは・・・。

今回は戦国に生きた二人の坊主の戦いをみてまいりましょう。



徳川幕府完成を仕上げた崇伝・・・その時天海は!?

崇伝は37歳という若さで南禅寺の住職となった若きエリートでした。
しかし家康が天下を手に治めるために武将ではなく、さまざまな分野のスペシャリスト集めていた際に崇伝が含まれていたのです。
そして、崇伝は外交文書を担当しその力を高く評価され外交全般を統括していきます。

しかし崇伝のすごさはこれだけでは終わりません。

当時、徳川家康は豊臣秀吉の子、豊臣秀頼の存在に業を煮やしていました。
豊臣家から天下を奪うには秀頼を倒すことは必須・・・なにか手はないかと家康が考えていたとき崇伝が動き出します。

京都東山の麓にある日秀頼が納めたほう方こうじ広寺の鐘に崇伝は日本史上最大の言いがかりつけたのです。

「この鐘の文字にご注目下され。『国家安康』には、大御所様の名を二つに切り裂き、呪う意味が。さらに、『君臣豊楽』からは、豊臣だけが栄えて楽しむとの解釈が可能!」そしてこれがきっかけに大阪の陣が勃発。

家康は天下を得ることができたのです。


しかしそのとき天海はただ黙ってみていたわけではありません。
家康から息子秀忠へ権力の移行が進みつつあるのを見て取った天海は、軸足を家康から秀忠に移していきます。
天海は相談相手として家康の心を捉えながら先んじて江戸にいる秀忠の側近らとも連携していたのです。

ここから天海の逆襲が始まります。



直接対決!天海vs崇伝

方広寺の事件から2年後。
駿府にいた家康は鯛の天ぷらを食べたのち、重い病を患います。
それからほどなくして、自らの死を悟った家康は崇伝と天海を呼び、遺言を伝え75年の生涯に幕を下ろしました。


しかしこの家康の死が天海と崇伝の運命を大きく分けるのです。


駿府城で死んだ家康の遺骸は、遺言通り久能山に埋葬。
そのとき、家康を神として祀る際に天海と崇伝の間で対立が起きます。

論議の的となったのは「家康の神号」を何にすべきか・・・


崇伝が主張したのは…「明神」。
日本独自の神々を尊重する<<<吉田神道>>>に従い、最高の神号をつけるべきというもの。

それに対し、天海は…「権現にすべし」と反論。
天海が唱えた「権現」とは、彼が立ち上げた独自の教義、山王一実神道に基づくもの。
しかも、「権現にせよ」とは家康が自分にのみ語った遺言だといい始めたのです。



しかしこの論争はたった一言で勝負がつきます。

「明神」は豊臣秀吉の神号、豊国大明神と同じであり、秀吉と同じ末路になると天海が反論。
そのとき徳川家は天海が根回しした家臣たちの信頼もあり家康の神号は「権現」となったのです。

以上



へぇ〜
さらに吉田神道が出て来て、これまた、へぇ〜


人間を語るのに一次元では絶対に無理。
裏の裏のそのまた裏の裏まで読まないいけないですね。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 02時43分41秒 ) パスワード

http://bushoojapan.com/tomorrow/2015/01/20/40548
江戸のブラック僧侶対決! 金地院崇伝vs南光坊天海の勝者は?

以下コピペ



世俗の欲を捨てて神様仏様に使えるのが聖職者というものですが、歴史を見ているととてもそうとは思えない人もいますよね。
当初から欲まみれだったか、だんだんそうなってしまったのかは人によりますが。

寛永十年(1633年)1月20日に亡くなった金地院崇伝は、どちらかというと前者として評価されていることが多いようです。

「黒衣の宰相」とも呼ばれますが、彼固有のあだ名ではなく、この名で呼ばれたことのある人物は他に四人います。源平時代の藤原信西、室町時代の満済、安国寺恵瓊、南光坊天海です。

合わせて五人というとつい戦隊ものをイメージしてしまいますが、残念なことに全員ブラックなので見分けがつきません。どっちかというとお腹の中の話ですけどね。

まあ与太話はさておき、崇伝はどうやって狸に気に入られたのでしょうか。



崇伝
室町幕府の名家・一色家に生まれる。
黒いライバル・南光坊天海の登場!
崇伝は明神様を推していたが、結局、権現様に。
紫衣、勝手にもらったら島流し、絶対! しかし・・・


室町幕府の名家・一色家に生まれる

彼は永禄十二年(1569年)に一色家という室町幕府の重臣の家に生まれました。とはいえ既に幕府はなかったので、名門の”末裔”といった感じでしたが。
そのためか、幼い頃から仏の道に入って修行を積み、36歳で臨済宗及び禅寺の中で最も格の高い南禅寺というお寺の住職になりました。このとき、徳の高いお坊さんにしか与えられない紫衣を後陽成天皇から賜っています。

崇伝が政治の舞台に出てくるのは、慶長十三年(1608年)のこと。意外にも関が原の後の話なんですね。
その頃、承兌(しょうたい)というこれまた家康の知恵袋だったお坊さんが亡くなってしまったので、その代わりが勤まる僧侶ということで駿府へ招かれたのでした。

ちなみに承兌は、直江兼続が例の慇懃無礼な果たし状・直江状を出したときの宛て先でもありますので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょうかね。


____________________________

天海
黒いライバル・南光坊天海の登場!

ともかく実力者の後任でしたから、崇伝もつまり当初からある程度の権力と仕事を任されていました。特に江戸幕府の根幹となる法律の制定に大きく関わっています。

武家諸法度や禁中並公家諸法度、はたまたキリスト教の禁止や豊臣家へのイチャモンこと方広寺鐘銘事件など、この時期のテストに出そうな単語にはだいたい絡んでいます。

方広寺鐘銘事件については問題を取り上げたかどうかはっきりしていませんが、豊臣方への詰問をしたそうで、坊主のくせに結構キツイ人だったぽっいことが伺えます。

まあそうでもなきゃ若くしてお寺のトップとかなれませんよね。

が、さすがに崇伝の独壇場とは行きません。


中でも有名なのは、同じく狸の側近だった南光坊天海との対立です。宗派が違うとはいえ仏僧同士なんだから仲良くしろよと。


特に家康が亡くなったとき、この二人は火花が飛びそうな争いようでした。誰かお釈迦様呼んできて〜。



崇伝は明神様を推していたが、結局、権現様に

崇伝と天海が喧嘩する火種になったのは、家康の神号でした。

一般人からすると、「なんで仏教のお坊さんが神道の祭り方に口を出すんだ」と言いたいところですが、江戸時代の時点で千年以上神仏習合をやってる日本ではよくある話ですね。真面目に考えると、僧侶としてではなく家康・幕府の重臣として話し合っていたということなのでしょうけども。


崇伝は「明神」という号がいいと考えていました。
これは神様の中でも特別に祀られる場合に用いられる名称で、神田明神や稲荷大明神などが有名ですね。まあ江戸幕府の開祖ですし、無難といえば無難です。

これに対し、天海は「権現」にしようと主張していました。こちらは「仏様が日本の神様の姿で現れた」ということを意味するものです。


ややこしいですが、ものすごく無理やり例えると「中国人が日本の着物を本職の人に着付けてもらいました」みたいな感じですかね。山王権現や愛宕権現などが有名です。


どっちもそれなりの理由があって「こっちがいい!」と言っていたので揉めたわけですが、ここで大問題が発覚します。秀吉が「豊国大明神」になっていたことです。

これでもし、家康を同じ明神号で祀ってしまうといろいろマズイですよね。
秀吉からすれば息子を殺しくさったヤツと同じ号になるなんて真っ平御免ですし、
世の人からしても「一時は主君だった人の家を滅ぼしたくせに、同じ神号にするなんてどこまでタチが悪いのかしらー、いやーねー」とか言われかねません。



そのため家康は明神ではなく、権現として祀られることになったのでした。



紫衣、勝手にもらったら島流し、絶対! しかし・・・

その後彼が関わったものとして有名なのは「紫衣事件」です。


江戸時代初期の幕府と朝廷のゴタゴタですが、
発端は朝廷がやたらと紫衣を与えるようになってしまっていたことでした。

紫衣とは、お寺の中でも高僧だけが朝廷から賜ることのできるもので、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。


上記の通り、崇伝は若い頃実力で紫衣を賜っていますから、怒りもひとしおだったことは想像に難くありません。


このとき紫衣を取り上げられた僧侶達から抗弁書が出たときも突っぱね、離島への流罪を主張しています。


彼よりは温厚だったと思しき天海らによって、これも軽減されてしまうのですが。


多分こんな感じで天海に頭を抑えられるようなことが何回かあったせいで、崇伝のほうが知名度低いんでしょうね。


天海=光秀説が有名というのもあるかも。

どうでもいい話ですが、個人的には正体不明すぎて怪しい……というか胡散臭い天海よりは、ちょっとキツくても現実味がある崇伝のほうが好きですねえ。



当時は「大欲山気根院僭上寺悪国師」とか「天魔外道」とか散々な言われようだったようですが、
政治の世界で欲がなかったら何もできない気がします。

欲がなくて有名だった松平定信は厳ししすぎてうまくいきませんでしたし。

以上
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 02時50分48秒 ) パスワード

天海
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/07/post_6aef.html
以下コピペ

慶長十九年(1614年)7月21日は、大坂の陣の引き金となった徳川家康の難くせ・・・『方広寺鐘銘事件』の起こった日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)の前後では、「合戦はあくまで豊臣家の内紛であり、徳川家が豊臣家を滅ぼす戦いではない」というポーズをとっていた徳川家康。

そうでないと、天下人である豊臣家に謀反をはたらいた事になって、配下の武将たちは全員敵にまわっちゃいますからね。

しかし、おそらくは、家康の心の中には、豊臣を滅ぼすための青写真ができていたはず・・・

やっと重い腰をあげた豊臣秀頼と、慶長十六年(1611年)に二条城での会見(3月28日参照>>)した家康・・・その前後には、なぜか、関ヶ原の合戦で東軍に寝返った武将たちが次々とこの世を去り(6月24日参照>>)、神妙にも「念仏を書く」という趣味に没頭する家康さんでしたが、きっと、この間も、何とか豊臣家をぶっ潰す方法を模索していた事でしょう。

海千山千を越えて来た家康にとって、秀頼なんて若ぞうは目じゃありません。
怖いのは、秀吉の遺産・・・。

一つは、実際にある物質的・金銭的な遺産。
そして、もう一つは、形の無い「秀吉という人物像の影」という遺産です。

家康は、関ヶ原で東軍に寝返った武将に、法外な恩賞を与えつつ、影では疑惑の死に追いやりながら、形の無い遺産のほうを徐々に消して行きますが、これには少々時間がかかります。

一方の、金銭的な遺産・・・これは、天下人の常として、戦国の世で荒れ放題になっているお寺や神社の修復を次から次へと秀頼がやって行く事になるのですが、あまりにも莫大な遺産はなかなか減らず、これにも時間がかかりそう・・・(^-^;。

京都などのお寺を散策していると、「南北朝の動乱や応仁の乱で焼失した伽藍を、秀頼が再建」というのをよく見かけます。
いかに、たくさんの神社仏閣の復興を手掛けたかがよくわかりますね。

そんな中の一つが、京都の方広寺・・・もちろん、方広寺の大仏造営はもともと豊臣家の発案、この事業は豊臣家の悲願(7月26日参照>>)でもありました。

関ヶ原の後に、その秀吉の遺志を継いで再開された方広寺の大仏造営が、慶長十七年(1612年)にようやく完成し、慶長十九年(1614年)には梵鐘も完成し、いよいよ大仏開眼供養の準備に・・・となったある日、二条城の庭でくつろぐ家康の耳元である人物が囁きます。

「大仏殿の鐘楼の鐘銘(鐘に書いてある銘文)にイチャモンつけたらどうでっしゃろ?」
「鐘銘に?何と・・・?」
「ワテこないだ、方広寺の鐘を見て来ましてん。ほな、そこに『国家安康』て書いてぁ〜りますねん。これ、使えまっせ〜。」
「どういう風に?」
「『国家安康』とは、『家康』の2文字を分断して、家康さんを呪った呪文の言葉やっちゅー事で・・・。」
「なるほど・・・」

家康に、この助言をした人こそ、『黒衣の宰相』と称される怪僧・天海です。

彼は、関ヶ原の合戦を終えた家康の前に、突如現れた謎の人物・・・その時すでに70歳を越えていたという老僧です


しかも、家康だけではなく、秀忠・家光と徳川三代のブレーンとして、強大な発言力を持った人物。

後に家康が亡くなった時、一旦、久能山の葬られていた遺霊を、彼の一言で日光に移されたという事実を見ても、その影響力がわかるというものです(4月10日参照>>)。

そんな大物なのに、家康に出会う前の、その前半生がまったく謎に包まれている事から、『天海は明智光秀ではないか?』という噂まで登場していますが、そのお話は天海さんのご命日である10月2日のページでどうぞ>>。

・・・で、『駿府記』の7月21日の条には、
『伝長老・板倉内膳両人これを召す。仰せにいわく、大仏鐘銘に関東不吉の語あり、上棟の日も吉にあらずと、御腹立云々』
と、あります。

家康はその『国家安康』の文字を「家康の名を分断している呪いの言葉」とし、もう一つその横に書いてあった『君臣豊楽』の文字を「豊臣を主君として楽しむ」という意味だ・・・という解釈ができるとして、京都五山の僧侶たちを使って批判させるのです。

そして、秀頼に「謝りに来い!」というワケです。
しかし、そんなイチャモン丸出しの難くせに秀頼が誤るわけがありません。

いや、むしろ家康にしてみれば、謝ってもらっては困るのです。


なんせ、豊臣をぶっ潰すきっかけを探しているんですから・・・。

その証拠に、その呪いの言葉が書かれたはずの方広寺の鐘は、今も、その呪いの言葉が書かれたまま現存するのですから・・・。

本当に鐘に書かれている言葉が呪いの言葉だと思っていたのなら、すぐにでもぶっ潰すはずです。

しかし、ぶっ潰されたのは、鐘のほうではなく、豊臣家のほう・・・これをきっかけに、家康は更なる無理難題を引っさげて、最終的に冬と夏の大坂の陣(11月29日参照>>)へと突入する事となるのですが、この続きのお話は、更なる展開があった「その日・=8月20日」へどうぞ>>>。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 02時57分44秒 ) パスワード

崇伝
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/01/post-3b99.html
以下コピペ

逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝



寛永十年(1633年)1月20日、徳川家康のブレーンとして活躍した禅僧・金地院崇伝が、64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

源氏の流れを汲む名門・一色氏に生まれた以心崇伝(いしんすうでん)は、室町幕府の幕臣だった父が亡くなると、南禅寺(京都府)の塔頭(たっちゅう・大寺院に付属する寺院)・金地院(こんちいん)に入ります・・・この事から一般的に金地院崇伝(こんちいんすうでん)と呼ばれます。


さらに、醍醐寺(だいごじ・京都府)三宝院などでも修業を重ねますが、特に、相国寺(京都府)では西笑承兌(さいしょうじょうたい)に師事しました。

やがて、禅興寺(神奈川県)や建長寺(同)などの住職を経験した後、古巣・南禅寺に戻って、第270世の住職となり、臨済宗五山派のテッペンを取ります。

ちょうど、この頃、将軍職を三男の秀忠に譲って、駿府(すんぷ・静岡県)にて大御所政治を開始しはじめた徳川家康・・・そんな家康のブレーンとなっていたのが承兌でしたが、その承兌が亡くなった事で、以前に弟子であった縁から、崇伝がその後任として駿府に呼ばれたのでした。


慶長十三年(1608年)・・・崇伝・39歳の時でした。

同時期に家康のブレーンとして活躍した禅僧に閑室元佶(かんしつげんきつ・三要元佶)もいましたが、この人が比較的やんわりとした政策に携わったのに対して崇伝の政策は、まさに容赦なし!

これが、崇伝自身の性格による物か、はたまた、単に家康の意に叶う事を重視したための結果なのかは想像するしかありませんが、とにかく厳しい政策を、バンバンうちあげていくのです。

まず、手始めに行ったのが、あのキリスト教禁止令です。

そう、この後、恐ろしいほどの弾圧に向けてひた走る禁教令の原案を考えたのが崇伝です・・・しかも、たった一夜で書き上げたのだとか・・・


さらに、あの慶長十九年(1614年)・・・大坂の陣の発端となる方広寺の鐘銘事件=豊臣秀頼が寄進した方広寺(京都府)の鐘に書かれた文章を、家康を呪う文章だとイチャモンつける事件です(7月21日参照>>)。


前レスで同じく家康のブレーンであった南光坊天海(なんこうぼうてんかい)を主役にさせていただきましたが、現存する記録の中には、この崇伝こそが、アノ屁理屈を考えた張本人だとしている物もあります。

その後の交渉で、豊臣方から派遣された片桐且元(かたぎりかつもと)と面会した本多正純(ほんだまさずみ)・・・その正純の隣にいて、且元に厳しく詰問し、例の「絶対に豊臣方がOKするはずのない条件」を提示したのも崇伝だとされています。

結果的には、この条件を呑む事ができない故の豊臣方の合戦準備・・・という事になるのですから、「なんとしてでも、向こうから拳をあげさせたい徳川方」としては、思い通りの展開となったワケです。

さらに、徳川の治世が確立されていく段階では、寺院をがんじがらめにする「諸宗寺院法度(しゅしゅうじいんはっと)」、天皇と公家をターゲットにした「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」、部下を統率するための「武家諸法度」など・・・

これらの徳川幕府の基盤となる法令の原案作成に深く関わったと言います。

あまりに厳しい政策を展開した事で、大徳寺(京都府)の名僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)からは「天魔外道(てんまげどう)」と罵倒され、庶民からは「大慾山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」なんていう悪人丸出しのニックネークで呼ばれていたのだとか・・・


また、寛永四年(1627年)に起こった紫衣(しえ)事件(11月8日参照>>)・・・これは、天皇の名で許した物を幕府が否定し撤回させるという、まさに、幕府による天皇管理を見せつけた事件ですが、この時、反対意見を提出したかの沢庵ほか2名に厳罰を与えようともしたとの事・・・

ただし、この時は、上記の天海の提案によって減刑されたとされています。


んん???
天海の?

ほんでもって、先の大坂の陣の前交渉の時が、正純と崇伝???

なんだか、当時の幕府の構図の変化が見え隠れしますね〜



以前、書かせていただいた「家康の遺霊・改葬問題」(4月10日参照>>)・・・
その場所が久能山(静岡県)なのか?日光(栃木県)なのか?
そして神号は、明神なのか?権現なのか?
でモメたアレです。


この時、家康の死からまもなく、久能山へと葬り、
その後、明神を主張したのが崇伝と正純で、
日光と権現を主張したのが天海と土井利勝(としかつ)・・・

                *こういう政治力学も働いていたのですねぇ



ご存じのように、現在、家康さんは日光東照宮に東照大権現として鎮座されます・・・そう、天海が勝ったわけですね。


そして、その後、正純も、ご存じのあの「宇都宮釣天井事件」で失脚してます(3月18日後半部分参照>>)。

そうです。
偉大な家康という後ろ盾を失った崇伝・・・かたや、2代目の秀忠、3代目の家光に取り入って重用された天海・・・

両者の明暗は見事に分かれました。



この後は、家光のブレーンとして腕をふるう天海・・・


確かに、崇伝は記録の通りだと、あれだけの厳しい政策を立案した人ですから、悪く言われた事も事実なのかも知れませんが、天下を取ったヤツらから見れば、政争に敗れた崇伝の事なんて書きたい放題じゃないかしら?


天の邪鬼な私としては、その悪評がどこまで真実だったかを、少々疑いたくなる今日この頃です。

以上
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 03時05分26秒 ) パスワード

ということは大久保長安事件は崇伝と本多正信正純父子が企んだものかも知れないですね。

本多正信最後の仕事だったのかも。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月19日 07時04分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すごい情報ありがとうございます。感激です。じっくり読ませていただき
ます――

 家康と秀忠、駿府と江戸の二元政治、その中での天海と崇伝の動きをつき
とめなくてはいけませんね。

 私的には、秀忠にはシンパシィを感じておりますので、秀忠がんばれ(この
世にいない人に言っても無駄?)と言いたくなってしまいます。天海は秀忠の
ブレーンと近い関係にあった……これは、大変な謎解きのヒントになりそうで
す!!
 実は、土井利勝は秀忠の一番のブレーン……この土井氏は「土岐氏」の出身
だったのであります!!! 土岐氏と言えば――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月19日 11時50分11秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q137076993

Q
老中の土井利勝には家康のご落胤という説があるんですか?



A1
土井利勝が家康の御落胤であるという噂はすでに彼が存命中からあった話という。
徳川実紀などにその記述がある。

理由としては、年経るに従って家康に似た容貌になってきた事。
大した武功も無く、新参者(譜代の中では)にも関わらず一代で16万石の大名に引き立てられた事。

など。

本人は恐れ多い事として、酷くこの噂を嫌った。
彼は血統上、家康のイトコである人物(母系)なので偶然容貌が似てしまったのかもしれない。

一説にはこの噂を嫌った利勝は、家康の容貌に似ない為にヒゲを剃ってしまった。

家康を始め戦国武将はヒゲを蓄えるのが普通であり、秀吉に至っては付けヒゲをしていたぐらいだ。

権力者の土井利勝がヒゲを剃ったので、他の武士もこれに習ってヒゲを剃り、遂にはヒゲを蓄えるのは謀反人の証とまで言われるまでになったという。

真偽の程は確かでない。


一般には、土井利昌の子とも水野信元(家康叔父)の子とも言われる。



A2
新井白石の「藩翰譜」によると、
異説として「世に伝ふるは」という形で利勝の父利昌は軽輩で、利勝は利昌の実子ではなく、 水野信元の庶子と記しています。

信元は家康の母の兄だから、利勝は家康の従兄弟という関係になります。


「寛政譜」によると土井ははじめは土居と書き、土居貞秀から利昌に至るまでの世系を失う、として系図を利昌から始めている。


利勝の出自を「天正元年浜松に生る。そのとき家康より相州広正の短刀をたまふ」とだけ述べ、ご落胤説をほのめかしています。


三河譜代の家柄ではない利勝のその後の重用のされ方を見ると、才能や人物は別にして、家康のご落胤説も否定しきれぬところがあります。

いづれにしても歴史の闇のなかです。

以上


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%8B%9D

元亀4年(1573年)3月18日、水野信元の三男(末子)として生まれ、兄に十郎三郎、甚左衛門(茂尾平兵衛)がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の子と記載されている。



利昌の実子とする場合は、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある[4]。


また、家康の落胤という説もある。

井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。

この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。

また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。

森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している[5]。



元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。
背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」[2]となった。


元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。

寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。

寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。

政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長と加藤忠広が改易されたが、家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。[6]

なお、利勝の妹が忠長の乳母であったという説もあり、乳母コネクションを重視する作家永井路子は、忠長派と見なされてもやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種の暗闘と妥協があったと見ており(「異議あり日本史」)、この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。


*家光にしてみれば父のブレーンの利勝にいつまでも大きな顔をされるのも鬱陶しかったかも。
*噂通り利勝が家康の子であれば家光の叔父になるのですから弟の忠長同様に利勝にも消えて欲しかったかも。



こうして歴史の闇をいろいろア〜でもないコ〜でもないと空想するのは楽しいですね。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月20日 13時41分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家康・秀忠・家光の三代の関係、権力闘争の闇の部分に重いものがあり
ます。これは、やはり「本能寺の変」の舞台裏が下地になっているような
気がいたします。
 土井利勝は、水野信元の子(土岐氏である土井家に養子)、元信は微妙な
立場で、信長に切腹をさせられています。信元の弟に水野忠重がいます。
従って利勝は忠重の甥になります。
 忠重は、本能寺の変の時の二条城から逃げ帰り、そして、今度は戻って
明智軍の中に入り、また鳴海に帰ったといいます。その目的は、光秀の救出
にあったようです(副島隆彦氏説)。
 いずれにしても、本能寺の変に深くかかわった氏族ということになります。
 そんな一族の背景をもった利勝は、当然家康から感謝の意で重用されたは
ずであります。
 天海も、春日の局も、家光も、すべては「本能寺の変」に端を発している
といってもいいと思われます。
 さすれば、秀忠は? 家康に協力した?というよりもじっと耐えた。そし
て家康の死後、江戸と駿府の二元政治を廃し、家光への体制を作った……。
その他、旧体制のしがらみを一つ一つ消して行く……。
 秀忠こそ、「見ざる、聞かざる、言わざる」の象徴そのものではなかった
のではないでしょうか? またその師匠は当然天海であったということにな
ります――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月20日 22時25分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>秀忠は? 
>家康の死後、江戸と駿府の二元政治を廃し、家光への体制を作った……。
>その他、旧体制のしがらみを一つ一つ消して行く……。

>秀忠こそ、「見ざる、聞かざる、言わざる」の象徴そのものではなかったのではないでしょうか? 
>またその師匠は当然天海であったということになります――

秀忠はものすごく多くの大名家を取り潰していて徳川幕府を盤石なものにしました。
生真面目で凡庸に見える人ですが実は本性は真逆だったのかも。

そのブレインが天海だったから断行できたのかもですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7




天海は紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。

                       へぇ〜

天海の出自

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。姿を変えて生き残った明智光秀であるという説もある[1]。

須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[2]。





天海の出自の曖昧さもあり
小説等で出てくる説として天海が足利将軍家12代足利義晴の子という説や
明智光秀と同一人物という説がある
        (墓所である日光に「明智平」という場所があることなどが根拠に挙げられることが多い)。


この説は明治時代の作家、須藤光暉が唱えだしたもので[2]、
明智光秀の子孫と称する明智滝朗が流布したことから広く知られるようになった[7]。

天海と光秀が同一人物だとすると享年は116になり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理があるが、
両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされている。


テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定[8][9]によると天海と光秀は別人であるが類似した文字が幾つかあり、
2人は親子のような近親者と推定できるという。


ここから光秀の従弟とされる明智光春、あるいは娘婿の明智秀満(旧名:三宅弥平次、三宅輪宝の紋で繋がる)が天海だとする説[要出典]がある。


蘆名説の問題は曖昧な根拠しかないうえに、
天海と蘆名氏を結ぶ人脈が何もないことである。

例えば、蘆名氏の家紋は三浦であるから「丸に三引き両」である。

しかしながら天海の用いた紋[疑問点 – ノート](今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる)は「丸に二引き両」と「輪宝紋」であり、蘆名氏のものとは明らかに異なる。

しかし、最有力説の船木説であれば問題はない。


「丸に二引き両」は足利氏のものであるが、足利氏の庶流(斯波氏・吉良氏・今川氏等)や美濃国に発祥する遠山氏も用いている。

一方の「輪宝紋」は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。
武家でも摂津国や三河国の三宅氏が三宅輪宝と呼ばれる紋を使い加納氏や津軽氏も用いている。家紋は苗字と同じであり、自らの出自と無関係に用いることは普通ない。天海の存命中から足利氏説は広まっていたが、家紋が足利氏のものと似ているのがこの風説の発端であったと須藤光暉は考察している[2]。


「明智光秀#南光坊天海説」を次にコピペ
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月20日 22時34分00秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80#.E5.8D.97.E5.85.89.E5.9D.8A.E5.A4.A9.E6.B5.B7.E8.AA.AC

このサイトのお話、ロマンに満ちていて(笑)すっごく面白かったです。




光秀=南光坊天海説をコピぺ


光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。
天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。


異説の根拠として、

1.日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[注釈 25]が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。

2.日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある[注釈 26]。

3.徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測。

4.光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。

5.関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には学僧であるはずの天海が家康本陣に描かれており[74]、大阪城天守閣には、その時に天海が着たとされる鎧が残っている。

6.光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけたこと。

7.光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)

8.童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[注釈 27]。

9.天海が亡くなったときの布施帳(寛永寺蔵)によると、光秀と親交のあった妙心寺、光秀の菩提寺である西教寺、光秀が連歌会を開いた愛宕威徳院から香典が届けられたのに対し、天海会津出身説によると天海にゆかりがあるといわれる龍興寺、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった。[76]

10.喜多院には天海の遺品とされる鉄砲が現存している[77]。光秀は鉄砲の名手であった。

11.『東叡山開山慈眼大師縁起』によると、家康と天海が初めて対面したときには、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったという。家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張ったとある。

12.比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある[78]。

13.本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。[79]

14.山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。



しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。



日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[注釈 28]。

『東叡山開山慈眼大師縁起』では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏[80]も桔梗紋である。だが一方、「天海の素性を弟子達が尋ねたところ「出身地も俗名も生年も忘れてしまってから久しい。私は仏門に入った人間だ。俗人であったときのことなど、お前たちが知ったところで何の意味もない」と答えられたため師の氏素性は誰も知らない」と『東叡山開山慈眼大師縁起』に書かれている。

天海が鎧を着たことがあっても不自然ではない。

天海が光秀であるとすると、116歳で没したことになる[要出典](天海側の資料でみると、天海は100歳以上の長命であったとはされるものの、比較的有力な説に、数えで108歳没というものがある)。だが、一般に光秀の生年とされるものは確たる根拠のあるものではなく、高柳光寿は光秀の生年はわからないと結論づけている[81]ので、光秀の年齢についてはこの場合障害とはならない。

諱については、秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものである。

また、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった以心崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。

関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部氏は、光秀とは懇意であったが、その処分に天海が異を唱えたことを示す資料は見出だせない。だが、光秀は織田家において長宗我部氏の取次ぎを務めていたにすぎず、懇意であったとまではいえない。


天海、やっぱりアヤシイ(笑)


アヤシイ人物が家康や秀忠や家光の周りに出没するはずがないから、やっぱり何かアヤシイ理由があったのだろうと思う。笑
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年08月20日 22時47分48秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101552.html
スレッド76を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
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