【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101546 投稿日:2016年07月02日 02時57分49秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXⅫ(16年の課題確認15)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101541_64.html
長上郡の服部氏族LXXI(16年の課題確認14)
スレッド71の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド71では群馬の北の端まで旅行して
歴史地図を参考に、土地勘を養い

お墓巡りでは静岡まで出掛けて
丸に三つ柏紋の服部家の墓をたくさん目にしました。


謎の解明にかなり近付いた手応えを感じています。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月03日 09時04分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またしても一時間余り書き込んだものが操作ミスにより消し飛んでしまい
ました。この落差、立ち直るには、気分転換、気力の回復を待つしかありま
せん。ま、頭の中には残っていますので、再現はできますが……。

 何を書いたのかというと、あを様の「5パーセント」(武士階級の占有率)
に触発されて、固定観念、先入観にとらわれてはいけない、現代脳を捨て
て、その時代のコンテンツの脳、「近世脳」「中世脳」「古代脳」にバージ
ョン「ダウン」することにより、謎は解けるのではないかと書いておりまし
た。

 藤枝・静岡のお寺で見た「丸に三つ柏」の家紋の乱舞、これにはやはり意
味するものがあったのだと思っています。
 それは―
 @宗教観・宗教政策に根差すもの
 A姓の名乗りに根差すもの
 B身分制度に根差すもの
であります。
 具体的には大変長くなりますのでやめておきますが、煎じ詰めるとする
ならば、「私は生来的には神道です。が、仏教宗門下では、その流儀に従っ
て葬儀・墓守はして行きます」のメッセージが「神道の紋=三つ柏紋」に込
められたのではないか?
 豊臣〜徳川政権により仏教・寺院を中心とした民衆の統率が行われたこと
は間違いありません。

 ここで外出いたしますので、また―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月03日 14時05分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>豊臣〜徳川政権により仏教・寺院を中心とした民衆の統率が行われたことは間違いありません。

はい
江戸時代は「宗門改め」がありましたよね。
取り敢えずお寺さんに属さないといけなかった。


それを神道に関する紋を家紋に用いたということは本来は柏紋の神様の氏子だったんでしょうか?
そうすると高槻の神服神社が?



水戸頼房の生母である お万の方さま(養母はお梶の方)について調べてみました。
驚きの情報がありました。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2

養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))

徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の母。
名は万(まん、旧字体:萬)。実父は勝浦城主正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春。

以下の呼称は実名の 万 で統一する。



母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭娘、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。

                                        板部岡江雪斎の一族だったとは!これは小さな驚きです。


実父の頼忠は上総勝浦城の正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の後を継ぐため上総に戻ることになる。

万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚した。
万はこの義父の元で育てられることになる。


ココから重要です:

伊豆で成長した万は16,7歳の頃、家康に見初められ側室となった。


万は慶長7年(1602年)の3月に長福丸(後の紀州徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の水戸徳川頼房)を生んだ。

慶長8年(1603年)には、長福丸には常陸国水戸20万石が与えられた。
慶長6年(1606年)には、鶴千代に下総国下妻10万石が与えられた。
慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河国・遠江国50万石に、              ココ!驚きです!
鶴千代は水戸25万石に移封された。


後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主になった。
                                        この2人ってお万の方の生んだ兄弟だったんですか・・・


義父の蔭山家は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。


家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。

                                      家康って浄土宗だったんですか。これは重要な驚きです。

                                      それで「浄土宗」のお寺の浄土宗浄国寺!ここの住職のおじいさんは服部の姓でしたよね!

   
この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。


これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。

すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。


この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。

彼女は家康の死去した後、元和5年(1619年)の8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。1653年(承応2年)万は死去。


墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。

承応3年(1654)年に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101541_71.html
<レス63>

浄土宗浄国寺、ここの住職のおじいさんは服部の姓であったとの話をご住職から聞きました。
浄土宗で住職をやっている服部氏は、現在一人いますとのこと。
ご住職さんとは話が打ち解け、仲良くなりましたので、今後また訪れようと思っています。


はい
是非!
家康が浄土宗の信徒だったとは。



たくさんの情報を拝見して、もう、いろいろこんがらがっています。
赤面
脳が勝手に好きなように誤作動を起こします。
ごめんなさい。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月04日 06時50分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、М家より電話があり、古文書の相談に行って来ました。
 羽鳥村の江戸中期の個人別由緒覚書のようなものです。色々調べながら
解読していますが、新しい発見があるといいなと思っています。

 昨日より、猛暑がはじまりました。熱中症になりそうです。
 またバングラディッシュで浜北出身の女性が亡くなったというニュース
に、今ではいつでもどこでもあるようになりつつある非日常の日常に、心
が痛みます―
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月04日 08時11分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>羽鳥村の江戸中期の個人別由緒覚書のようなもの

さすが!
旧家は違いますね。
大切に受け継いで来たのでしょうね。


どんな記録なのでしょうね。


あの被害者の7人の方達の中にまさか同郷の方がいらっしゃったとは
日本も本当に国際化していたのですね。


アメリカにいますとたまにあります。
上司の妻と子
同僚
それから知り合いのご近所の人が犯人だったり。


少し前まではニュースになる人は、自分には全く関係の無い、知らない土地の知らない人が被害に遭ってましたが今はそうとは言えない時代になってますね。

お気の毒です。
ご家族の方達も本当にお気の毒です。

まさか三つ柏さんから地元の方が被害に遭ってたとお知らせを受けるなんて。
本当に心が痛みます。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月04日 10時34分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、知りたいと思っていることは、仏教と神道の民衆との関わり合い、
あるいは民衆が仏教と神道にどう心を寄せ、期待していたかという本当の
ところの実態であります。

 形としては、仏教による葬儀というのは常識的に定着してしまっていま
すが、そもそも日本人の宗教観は八百万の神と天照大御神と大黒・恵比寿
といったような広義の神道に根を下ろしているのではないかと思います。

 仏教思想・文化・習慣・儀式が常識的になってしまったのは、江戸時代
の寺を中心とした管理機構が徹底されたからだと思いますが、民衆にとって
「はれ」の心のよりどころは「お宮」即ち神道であった、また今もそうであ
ると思います。
 仏教は、儀式・習慣としての葬式仏教に特化して行ったといっても過言で
はないと思います。

 極論で言うと、「心」は神道、「葬式」は仏教というのが民衆の本心で
はなかろうか、もっとも「葬式」も神道という人も増えつつあるようですが。

 中世から近世へと世の中が変わっていく中にあって、神社を中心とした
生活習慣・心情と、寺を中心として生活習慣・心情のせめぎ合いというもの
が、実際の民衆のレベルでどうであったのか、その本当のところを知りたい
と思っています……。

 身近で言えば、「服織神社」を中心として生活習慣・儀式と「源長院」を
中心とした生活習慣・儀式がどう住み分けされ、変遷して行ったのか知りた
いと思っています。もちろん現代の固定観念は捨ててであります―
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月04日 13時40分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本には宗教が複数あって、それが混在している、ということじゃないですか?


特に祝い事などのハレの儀式には神社に詣で、ケガレには仏教のお経を唱えるという神仏習合になっているから

つまり日本人は神道と仏教が合体したシンクレティズムの民族だから
   (シンクレティズム=相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること)
日本人の宗教観を語るのに神道と仏教を線引きするのは難しいことになっていると思います。

     普通の家庭は仏壇と神棚がありますが
     我が家はその上にヨゼフの像があったりしました(笑)フツーはマリア様とかキリストだろ〜が〜



それこそ
縄文時代のアニミズム(自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという信仰)とか
稲作の入って来た弥生時代に神道が稲作と共に発達し

道教も入って来たし
王仁が百済から千字文と論語を日本に伝え
継体天皇の513年には儒教が日本に伝えられ
陰陽道ももたらされ

    この時期に儒教が日本の民間信仰や神道と結びついて先祖崇拝の原形をつくり、
          ずっと後には位牌や法事も始まり
          さらには支配階級に政治や思想、道徳や教養の規範として儒教が尊重され始め


飛鳥時代に仏教が入って来て神道と仏教が対立して仏教側が勝利し

奈良時代には神社に神宮寺が導入されてお寺と神社が合体し神仏習合時代が始まり
逆に仏教を排除して純粋に神道を守る出雲大社のようなのも存在し

平安時代からは(浄土真宗を除いて)神仏習合が基本で、神道と仏教が分けられなくなり
       寺院に鳥居があったり、「八幡神=八幡大菩薩」と、神社の神さまを菩薩と呼び出した。


戦国時代にキリスト教が入って来たもののやがて禁教となりキリシタンは隠れて信仰し

江戸時代には寺請制度でお寺か神社に属することが決められ=戸籍の替わりともなり

明治政府はキリスト教は部分的に認めつつもやはりキリシタンを迫害し

明治以降結婚や七五三は神社でやるようになり

昭和以降はクリスマスを祝い?結婚式はキリスト教で挙げるのが人気になり


      ワタシは七五三(神社)もお稚児さん(仏教)もやってないような。
      弟は七五三もお稚児さんもやってました。
          親からの差別だったのか?
          だからキリスト教に走ったのか?



日本の宗教については一神教のようなコレ!という言い方が出来ずなかなか難しいです。

西郷隆盛は神道(アマテラス)だと前々から聞いてましたが
鹿児島自体が尊皇攘夷で神道に熱心で
それで明治政府の廃仏毀釈では鹿児島は率先してお寺を破壊し尽くし
    今は再び結構お寺が建っているけど
西郷さんには西郷さんを神として祀る南洲神社があって、お墓のある菩提寺は臨済宗の南洲寺だそうです。

西郷さんはビックリしてるでしょうね。


西郷さんについても遺された側の日本人の心には神道と仏教の二本立てで西郷さんを偲びたいんでしょう。


>身近で言えば、「服織神社」を中心として生活習慣・儀式と「源長院」を中心とした生活習慣・儀式がどう住み分けされ、
>変遷して行ったのか知りたいと思っています

神道と仏教と儒教とその他のごちゃまぜが日本の宗教なので
浜松に限るなら浜松史の風俗習俗などの暮らしぶりを纏めた本を読むことでしょうね。
これは図書館にあると思います。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月04日 14時19分21秒 ) パスワード

つらつら思ったことですが

昔は一族で結束して
よそ者は信用しない重宝しない

そういう狭い世界観というか
(戦国時代の終わりに足軽も入れて人口の5%の世界)
血と涙を共有してきた人間で結びあってたからこそ


   神仏なんか!
   という合理的な考えの信長が天下を手に入れるおとができたのかなと。


普通は侍大将を任せるとしたら乳兄弟あたり
乳兄弟は刎頸の絆で結ばれているから
無能でもね


   しかし信長は秀吉を抜擢したり
   見分の広い光秀を抜擢したり

   で、無能なヤツは父祖以来の家老でさえも切ってしまう


宗教(神仏習合・先祖崇拝そんなあたりの宗教)や規範に縛られた当時の人の中にあって
信長ってヤッパリすごいと改めて思いました。


先祖が何とかとか
そういうのに縛られてる人間を
信長は追放しまくったのだろうなと。


日本人は今でも縛られてますものね。


とは言いつつ
テレビなどの映像を見てると
縄文人のアニミズムが非常に分かるのです。

川については分からないのですが(ま、濁流とか急流とかのパワーは分かりますが)

山とか岩とか
非常に「分かる」のです。


やっぱりワタシは縄文人の血をしっかり受け継いでいるのかな?

というようなことを考えていました。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月04日 15時16分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。日本の宗教史をダイジェストで語っていたたき、
また分析もしていただき、よく理解できました……。

 この地に今川義元が進出して来る前は神道も興隆しており、今川氏は坊主
であったので仏教政策を推し進め、寺院がたくさん作られたと聞いています。
 駿河・遠江では曹洞宗が一番多い。次に臨済宗。次に浄土宗、日蓮宗か…
…。一度、この点についてはいずれまとめてみます。

 浜北市史という地元の歴史書を読んでいたら、すぐ近くの学園寺という寺
から、高名な僧侶がを輩出されておりました。またそのすぐ近くに高薗城と
いう砦があったということですが、いずれも歴史のかなたに消えてしまって
いて、話題にでることは全くありません。つまり、今の人は全く知りません。
 やはり、ちゃんとした歴史があったわけですので、ちゃんとした記録をそ
れなりに残しておくことは大切だなと思っております。それはまた、自分達
のルーツにも関係しているのかも知れませんので―
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月04日 22時57分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

なるほど
それで遠江にはお寺さんがたくさんあるんですね。

「格がちがうなぁ」とネットで画像を拝見して感心していました。
今でも、というのが驚きでした。


我が家は熱心な浄土真宗で、お寺を寄進したり、
あれはどういうことからかなぁ
と考えたりしますと


    やっぱり行きつく先は「信長の偉大さ」になります。


コテンパテンに負けた側から思えばあのヒトは本当に偉大だ、としか言えません。
その反動でうちは浄土真宗の熱心な信徒なのかなと思います。

    弟は幼稚園あたりか小学校低学年かで親がお経を習わせようとしてましたし
    近所のワタシの同級生も夏休みにお寺に行ってお経を習って来ていました。
   
    そういう雰囲気の地域の出身です。



信長のことを傲慢だと言う人もいるけれど
いえいえ、あれはあの人のお茶目の一面だったんだ

と<安土城>に<自分を神として>町人に<拝観>させて<お賽銭>もとった話を思います。


    日本人は古来から全てに霊を見
    拝み敬い恐れ

だったらもっと具体的な自分でも拝んでおけ
というシャレだったんじゃないかなと。

    ま、こういうのは南蛮には考えられない蛮行なんでしょうけど


ワタシは信長の合理性に唸るばかりです。


あ、ニューヨークで僧侶をしてた伯父は禅宗です。


服部伊賀守宗純がらみの津島の雲居寺(うんごうじと思ってたけど  今は  うんきょじ?)
1429年に創建し服部家の菩提寺。



http://aichijiin.jp/tusimasi/da76/da76.htm
愛知県津島市北町32にある曹洞宗の寺院、山号は竜宝山


不動院 【所在地】愛知県津島市良王町 2-15
いかにも南朝関係というのが所在地にも出てますね
良王=よしたかの君=後醍醐天皇の曾孫


http://yaplog.jp/rekishi-meijo/archive/185

織田信長に仕えた服部小平太の菩提寺でもある。
服部小平太は織田信長の馬廻り役(親衛隊)の一人であり、
1560(永禄3)年、信長が桶狭間の戦いで、今川義元の本陣を襲撃した時、義元に一番槍を付けた武者である。



ホンヤさん関係のみコピペ:
http://tenkafubu.fc2web.com/okehazama/html/odaka-b.htm

C城の腰―弥富市五明町築留

 城の腰を本拠に河内(海西郡)を治める服部左京亮(進)友貞(定)は河内の農産物以外に港から上がる利益で潤うこの地を尾張に併合しようとする信長に抵抗していた。そんな時、義元が河内の西にある蟹江城を攻めて占拠した。天文23年(1554)信長と同盟する知多半島の水野氏を攻めるため義元が設けた村木砦が信長に急襲、落城した。その一年後、義元は海東郡を占拠して東西から信長を挟撃するため、知多半島を迂回して蟹江城を攻めたのである。今川軍の海東郡進出は友貞にとって願ったり叶ったりで、すぐに友貞は今川氏に協力することにした。だが蟹江城は3年後の永禄2年、織田方に奪い返され、再び友貞の服部党は信長の脅威にさらされることになった。


 服部党の今回の大高城入りについては、義元が死亡したためにその詳細は不明である。『信長公記』によれば1千艘の船団で大高城へ来たというのだから、物資輸送だけが任務ではなく兵員輸送が十分考えられる。ではどこへ兵を運ぶのかという事で、ひとつは蟹江城。本格的に東西から信長を攻めるためである。もう一つは熱田。海と陸から尾張の中心部を制圧するため。大高城から戻る途中で、熱田へ火を掛けようとしたのは、単なる腹いせだけではなく、当初の計画を実行しようとしたためとも考えられる。だが町衆の反撃にあって退却している。これについては、服部党が1千艘も持っているはずはなく、近隣からかき集めた可能性がある。それが人づてに熱田に伝わり、義元の尾張侵攻と関連があるかもと言う事で町衆が備えていた結果、服部党を撃退できたという見解がある。また、服部党が用意できたのは20艘ぐらいではという意見もある。


 この後、美濃を手に入れて北伊勢に侵攻を開始した信長に対し、友貞は北伊勢の国人と協力して抵抗した。だが永禄11年(1568)正月、上饗庭に出かけた友貞は謀略に遭い自刃したといわれる。「伊勢名勝史」には「年賀の挨拶のため多気城(霧山城)の北畠具教を訪問中、織田軍に襲われ上相場村米野の陰涼庵で自刃、ここに葬られた。諱は「道円」とある。元亀2年(1571)から始まる信長の長島一向一揆攻めで長島城代服部左京亮戦死の記録があるが友貞の子供と考えられる。一揆は天正2年の総攻撃で壊滅、長島一帯は焦土と化した。翌年(天正末説あり)、浪人となっていた服部弥右衛門尉正友は宇佐美氏・佐藤氏・伊藤氏と共に家来を連れこの地へ戻り、農民を集めて開拓を始めた。正友は祖先の地荷之上城に居を構えた。その年の津島天王祭を見物していた信長が鎌倉時代より出ていた市江車が無いのを不審に思い問うたところ、市江車の関係者が滅んだことを知る。そこで市江島に復帰した四家に市江車の再建を命じた。これにより四家は「車屋」と呼ばれた。江戸時代には尾張徳川家八代藩主宗勝の幼少期の養育係を服部弥兵衛定元の妹く乃が勤めるなど荷之上村庄屋として服部氏は発展する。このような尾張徳川家との繋がりから、その縁の品々を現在に至るまで所蔵している。


 河内服部氏の祖先は伊賀国服部郷の服部伊賀守宗純である。七名字(吉野十一党のうち公家の庶流を指す)の一人であった宗純は1386年征夷大将軍に任じられた尹良親王に従い各地を転戦した。1424年下伊那浪合で敵に襲われ自刃した尹良親王の子良王親王を子を守り、吉野十一党と三河から津島へ逃れた。その後、良王親王は津島天王社の神主宅へ移りその跡をを継いだ。七名字は社家となり土着、宗純も荷之上に居を構え河内(海西郡)を治める土豪となった。1440年には曹洞宗宝珠山興禅寺の末寺として竜宝山雲居寺を創建している。ちなみに義元に一番槍をつけた服部小平太の菩提寺である。


 1480年代に入り中世日本の村の形態である惣村制に目を付けた蓮如は、その支配層を一向宗徒(真宗本願寺派)にし講を組織して惣全体を取り込んでしまう方式で、信者を一気に増やしていった。荷之上でも一向宗が広まり、それまで天台宗寺院であった興善寺は真宗本願寺派に改宗し、蓮如の孫実正を住職に迎えている。その大檀那の服部氏が土豪として河内での一向宗拡大に大いに貢献しているのは言うまでもない。「信長公記」の「荷之上の坊主」の「坊主」とは土豪などの支配層であり、一向宗の教えを広める僧の役割をする者のことである。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月05日 09時13分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は気温が36℃を超え、体温と一緒になってしまいました。7月
初旬では今までなかったことであります。暑いと眠くなり、思考力が落
ちてしまいます。能率も上がりません。
 冷房をいれるものの、いい気持になって寝てしまいます。熱帯では、
大思想家が生まれない理由がよくわかります。考える前に眠ってしまい
ます。

 信長は、人のまねのできない考え―全世界の法王になること、を持って
いた。信長の焼き討ちはハルマゲドン……(渡辺豊和『バロックの王 織田
信長』)。信長の合理主義は天才的な直観力に根差すものなのか、残念なが
ら、私は信長について論及できる知識レベルまでには、まだ至っておりま
せん……。

 信長にからみ、たまたま「建長寺」という本を見ておりましたら、織田
信長の弟のことが載っており、境内に墓があるという。初耳の話でありま
した―
 「伝織田有楽斎(うらくさい)墓
  織田有楽斎は信長の弟長益(ながます)をさす。源五郎と称し、乃其軒
 (ないきけん)と号した。法名融覚。茶道を千利休に学んだ七哲の一人で、
 有楽流の元祖。」
但し、この墓は有楽斎の孫長好の可能性もあるという。

 雲居寺にまつわる諸々の話、ありがとうございました。知識がひろがり
ました。一度行ってみたいと思っています。

 これから出かけますので、また―



 雲居寺について諸々のこと、教えていただきありがとうございます。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月05日 14時24分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


熱中症にはお気を付けて。

こういう暑い時は図書館通いが良いと思いますが。
蚊も最近はオソロシイですしね
山やお墓は危ないかも。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月05日 22時58分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡市の2000年版の電話帳登録の「服部氏」の軒数の調査がやっと終わり
ました。300ヶ町以上ありました。
 先日全体の4割位まで調べて、5軒以上見られる町をピックアップしました
が、今回も同じ条件で抽出いたしました。結果は以下のとおりです―
 ・栗原 19軒(9%)
 ・北   6軒
 ・中島  5軒
 ・大谷  5軒
 ・大岩・大岩本町・大岩町 7軒
 前回の調査も合わせて、「栗原」にて大族になっております。
 従って、調査はここをターゲットにして、近日中に行うことにいたします。

 なお、軒数的には、浜松とほぼ同じでありました。200軒強。

 大族になれたという理由は―
 @個体数が初めから多かった。
 A繁殖率が高かった。
 B男系の子孫が代々多く生まれた。
 C子孫(分家)に分与できる田畑がたくさんあった。
 D一族の商売が大成功し、しかも長く繁栄した。
というようなことが考えられます―
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 04時51分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


興味深いですね。
「栗原」はしっかり調べないといけませんね。

栗原を捜して駿河区あたりの地図を見ていると
   安倍川や丸子川がある?
   長田という地名がある?
   服織小学校とか中学校がある?
   羽鳥という地名もある?

           またもや原点に戻りそうですね。
               戦国時代の伊勢伊賀尾張の服部氏系かと思いきや
               古代氏族の服部氏なんでしょうか?





浜松と静岡ってかなり勢力が同じですよね。


>軒数的には、浜松とほぼ同じでありました。200軒強。


という事は  服部氏に限ればかなりの服部氏が浜松に残った  のでしょうか?
家康が静岡に移ってもかなりの服部氏が浜松に残った?
つまりこれは  服部政信や仲保次の関係者が浜松に残って栄えたということ?


人口  2010年  
浜松  80万人
静岡  71万


2010年税収見込み
浜松市 1185億円
静岡市 1219億円(ちょっと静岡の方が豊か?または静岡が凋落中?)


やっぱり難しいですね。

栗原で丸に三つ柏紋のお墓が多かったら住職さんにお目にかかってちょっとお訊きになってくださいね。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月06日 05時53分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一村または一町に「服部氏」の軒数(電話帳登録)が10軒以上あったの
は、浜松・焼津・静岡において―
 @焼津(焼津)   22軒
 A栗原(静岡)   19軒
 B小川新町(焼津) 15軒
 C本町(焼津)   14軒
 D舞阪(浜松)   11軒
 E西小川(焼津)  10軒
でありました。

 静岡の栗原という町は、「草薙球場」のある所ですので、「草薙」と言
い換えてもいいかも知れません。
 「草薙」と「焼津」……どちらも日本武尊(ヤマトタケル)に関係してい
る所であります……。
 ヤマトタケルは熱田神宮と関係しています。ということは、尾張氏と関
系、ということは海部氏とも、そして服部氏……秦氏とも関係する。
 こんな幻想を抱いていますが―飛躍しすぎでしょうか?
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 08時26分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


焼津
すごいですね。
どうしてでしょう?


焼津を知るのにまずは神社から。


http://yaizujinja.or.jp/historys/
焼津神社のご由緒


焼津神社の御創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります。

日本武尊の知恵と勇気と優しさを称え、焼津の守神としてお祀り(おまつり)をしたことが焼津神社のはじまりです。

神社を含む一帯では、宮之腰遺跡という1,600年程昔の遺跡が出土しており、古代祭祀の道具や人々が生活していた跡が発見されていることから、その時代からこの場所に神社があったことがわかります。



室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。

今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた漁業関係者にとっての心の支えとして崇められ、現代までその信仰が受け継がれています。



本殿

現在の本殿は慶長8年(1603年)、約400年前に徳川家康によって建てられたものです。

家康は田中城を出て焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩に勤しんだと言われていますが、海上護衛に際して船に速度が必要であることから、通常は軍事力抑止のために禁止されている「八丁櫓(はっちょうろ)」を、焼津の船には特別な許可を与えていました。

家康は神社に対し社領を寄進し、以後歴代の将軍からこの社領を保証する朱印状が発せられていることからも、焼津神社と徳川家には深い関わりがあったことがわかります。

本殿は「流造(ながれづくり)」という建築様式で、全国の神社で最も多い様式です。

屋根の作りは左右を切り落とした切妻(きりづま)の形になっており鰹木(かつおぎ)と呼ばれる丸太のような装飾や、千木(ちぎ)と呼ばれる角のような装飾があります。鰹木は元々屋根を安定させるための重しだったものが、時代とともに装飾として扱われるようになりました。




市杵島姫命社

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)という海の神様がお祀りされています。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が焼津に上陸した際に、持っていた火石と水石を祠に納め、
海の神様である市杵島姫命をお祀りしたという言い伝えもあり、本殿よりも古い歴史があるという説もあります。



七社神社

七社神社(しちしゃじんじゃ)は浅間神社、竈神社、天王神社、八幡社、橘姫社、春日社、稲荷社が合殿されています。

このうち橘姫社には日本武尊の妃、弟橘姫がお祀りされており、市杵島姫命社と共に多くの女性がお参りをされます。

また竈神社では、毎年暮れの12月17日防火安全を祈る竈神社祭が執り行われています。



焼津天満宮

焼津天満宮は、学問・書道の神様である菅原道真公をお祀りしています。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 という、有名な短歌があります。

これは、妬みから九州に左遷されてしまった菅原道真が京都の梅に向けて詠んだ歌で、
「春の風が吹くころには、自分がいなくても忘れずに花を咲かせ、香りを届けて欲しい。」という意味が込められています。

焼津天満宮の周囲も春になると梅が咲き乱れています。


焼津は昔から書道が盛んな町で、今でも秋と新春に天満宮書道展が開かれ、幼児から大人まで多くの作品が寄せられています。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 08時37分30秒 ) パスワード

http://members.jcom.home.ne.jp/rikka/chimei/chimei_01yaidu_idx.html
焼津地区


焼津という地名の起源は日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に基づいている。

焼津という地名の「焼きつ」が地名としては縁起が悪いということで、 同じ音の「益(やく)」に変えられて益津(頭)となり、 さらに読み方がヤキツからマシツ(ヅ)に変わったと推定される。 したがって古代から明治中期まで存在した益頭(益津)郡は、本来焼津という地名がもとになっていた。 天然ガスの噴出がみられたこの地の特質より、 天然ガスが焼ける(燃える)津(港)が地名のもとになったと考えられる。

焼津村は1889(明22)に益津郡焼津村として成立し、 1896(明29)年に益津郡が志太郡に合併されたため、志太郡焼津村となった。

『静岡県志太郡焼津町沿革誌』(稿本)に新村名の由来として、 「本村の海浜を焼津港と称し有名の港湾あり、 又大字焼津は往昔日本武尊東征の地にして延喜式内県社焼津神社あるを以て 村名を焼津村とす(原文カタカナを平仮名になおした)」 とある。

焼津は焼津神社周辺を示したが、 産業・人口の中心は北新田・城之腰・鰯ヶ島の三集落であり、 総称を浜通りという。

東海道線が1889(明22)年に開通したさい焼津駅が設置され、 従来東海道からはずれた位置にあった焼津は一気に交通至便となり、 水産物の出荷によって経済的に発展することになった。

大覚寺・越後島はそれぞれ個別地区として扱われることもある。



豊田地区
五ヶ堀之内(ごかほりのうち)

伝承によれば、草分けは大和国の加茂明神の神官で関東に向かう途中、 ここに土着して加茂性を名乗ったといい、子孫は田中藩に仕えた。

その屋敷付近には、神楽井、七十五膳、元宮などの地名が残っていたが 耕地整理によって不明となった。

村を拓いた当時、五軒の屋敷があったのが村名の由来とも言うが、 五つの堀があったためという伝承もある。 『豊田のむかし』によると、 小川の長谷川という殿様がお城を築くため多くの土が必要となり、 田畑の土を取った。 その跡が五つの大きな堀になったので、 これらを五つ堀と呼んでいたが、しだいに五ヶ堀と呼ぶようになり、 その内側ということで五ヶ堀之内という地名が生まれたという。

                                           ↑長谷川の殿さま



柳新屋(やなぎあらや)
南にある小柳津はすでに平安時代に伊勢神宮の荘園である御厨として知られており、 小柳津の新開地(新屋)として当村が成立した可能性が高い。



小柳津(おやいづ)
伊勢神宮の荘園を御厨(みくりや)といい、 焼津市内では方ノ上(かたのかみ)と小楊津(小柳津)が知られている。 現在の小柳津という地名はかつての小楊津御厨の名前を引き継いだものである。



小土(こひじ)
天文18(1549)年に駿府浅間神社が勤めるべき役目と執行するために 今川義元が認めた財源の目録に小土の名が見える。




西小川(にしこがわ)
昭和54(1979)年、区画整理事業により大字小川の西方部分に成立した。

法永長者といわれ今川氏と深い関係をもった中世の豪族、 長谷川氏の居城とされる小川城址(遺跡名称は、道場田(どうじょうだ)・小川城遺跡)がある。





東益津地区
沿革

高草山麓から朝比奈川・瀬戸川までの地域は古代より「益津(益頭)」とされ、 方上御厨(かたのかみのみくりや)という伊勢神宮の荘園に属していたなど、 焼津市域において最も古い歴史を持つ。

益津は古くは「やきづ」と読んだが、「ましづ」に変わった。





和田地区
一色(いっしき)

一色という地名は、おそらく一色田からきたものである。

一色田とは荘園における耕地の呼び名で、 領主から地元管理者に与えられた土地や、 中世における自立農民をさす名主(みょうしゅ)に実質的な所有権が認められた土地をさした。
                                          へぇ〜
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 08時42分15秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E6%B4%A5%E5%B8%82
焼津市


市名の由来日本神話で、日本武尊(ヤマトタケル)が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。

その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名された。



歴史

古代から鎌倉時代まで

409年:焼津神社(入江大明神)が創立されたと伝えられる。                   すっごく古い!

729年(天平元年) - 749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)(天平年間):行基が法華寺(天台宗)を建立。国分尼寺。

815年(弘仁6年):空海(弘法大師)が香集院(俗に虚空蔵山、真言宗。後に曹洞宗)を建立したと伝えられる。



室町時代から江戸時代まで
1487年(長享元年):今川氏親の後見・伊勢盛時が石脇城で挙兵し、今川家の家督争いを制する。

1594年(文禄3年):この頃の和田湊は、大井川奥地の木材を江戸へ回送する集散港であった。
江戸時代には田中藩の治下に置かれる。

1614年(慶長19年):焼津産の生鰹と甘鯛を、駿府城に隠居していた徳川家康に献じる。

1642年(寛永19年):田中藩が浜奉行を設け、海岸の防衛や漁村の貢税の取り立てを行う。

1705年(宝永2年):古文書によれば、鰹節の製造が既に行われていた。

1753年(宝暦3年):永豊寺住職(小川)が、宇治より緑茶の種子を持ち帰り、村民に緑茶の栽培を教える。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 08時58分06秒 ) パスワード

ネット電話帳
http://jpon.xyz/m/2012/%E6%9C%8D%E9%83%A8


世帯数 地域名     岐阜が1番多いって?

60 岐阜県 岐阜市 鏡島
54 岐阜県 美濃市 横越

50 三重県 四日市市 小杉町
49 三重県 四日市市 山之一色町
43 兵庫県 加東市 屋度

35 愛知県 丹羽郡大口町 外坪
33 愛知県 海部郡蟹江町
舟入
32 三重県 亀山市 住山町

31 岐阜県 海津市 海津町平原

29 三重県 桑名市 長島町小島
29 埼玉県 比企郡滑川町 山田

28 三重県 四日市市 楠町南五味塚
26 三重県 いなべ市 大安町丹生川久下
26 岡山県 岡山市中区 沢田
26 茨城県 かすみがうら市 田伏

25 兵庫県 小野市 小田町
25 愛知県 名古屋市中川区 江松
24 静岡県 焼津市 焼津
23 神奈川県 厚木市 愛甲

22 岐阜県 不破郡垂井町 垂井町
22 福岡県 八女市 新庄
21 三重県 伊賀市 槇山
21 愛知県 名古屋市熱田区 一番

21 新潟県 十日町市 如来寺甲
21 長野県 飯山市 緑
20 山形県 東村山郡中山町 長崎
20 岐阜県 山県市 赤尾


19 三重県 四日市市 広永町
19 静岡県 掛川市 長谷
18 三重県 員弁郡東員町 中上
18 岐阜県 岐阜市 茜部新所
18 島根県 隠岐郡隠岐の島町 今津

18 愛知県 弥富市 荷之上町本田屋敷
18 新潟県 新潟市北区 笹山
18 静岡県 掛川市 大池
18 静岡県 裾野市 富沢
18 静岡県 裾野市 茶畑

17 三重県 三重郡菰野町 菰野
17 三重県 度会郡大紀町 大内山
17 岐阜県 海津市 海津町札野
17 愛知県 名古屋市中川区 東起町

17 愛知県 名古屋市中川区 戸田
17 群馬県 邑楽郡大泉町 寄木戸
16 三重県 桑名郡木曽岬町 小和泉
16 三重県 津市 雲出本郷町
16 岡山県 瀬戸内市 牛窓町牛窓

16 愛知県 稲沢市 儀長
16 群馬県 伊勢崎市 境保泉
16 静岡県 静岡市清水区 庵原町
15 三重県 三重郡朝日町 柿

15 三重県 津市 久居新町
15 岐阜県 岐阜市 茜部菱野
15 滋賀県 大津市 千町
15 長野県 上水内郡信濃町 柏原

15 静岡県 焼津市 小川新町
15 静岡県 静岡市駿河区 栗原
14 三重県 四日市市 川島町
14 三重県 鈴鹿市 和泉町
14 岐阜県 羽島郡笠松町 円城寺

14 愛知県 津島市 上新田町
14 愛知県 稲沢市 井堀下郷町
14 栃木県 真岡市 根本
14 群馬県 太田市 新田大根町
14 長野県 飯山市 寿

13 岐阜県 岐阜市 江崎
13 岐阜県 岐阜市 江崎南
13 岐阜県 羽島市 上中町沖
13 岐阜県 羽島市 正木町須賀小松
13 岡山県 総社市 奥坂

13 愛知県 名古屋市港区 宝神
13 新潟県 十日町市 八箇丙
13 神奈川県 横浜市南区 永田北
13 静岡県 沼津市 戸田

12 三重県 亀山市 太岡寺町
12 三重県 伊賀市 愛田
12 三重県 四日市市 笹川
12 佐賀県 三養基郡みやき町 白壁
12 兵庫県 姫路市 井ノ口

12 奈良県 磯城郡田原本町 西竹田
12 岡山県 笠岡市 西大島
12 島根県 大田市 仁摩町仁万
12 愛知県 岩倉市 石仏町
12 愛知県 弥富市 荷之上町川田

12 愛知県 弥富市 鯏浦町浦六
12 愛知県 海部郡飛島村 三福
12 東京都 葛飾区 西水元
12 静岡県 富士市 森島

12 静岡県 磐田市 東貝塚
11 三重県 三重郡菰野町 榊
11 三重県 鈴鹿市 神戸
11 三重県 鈴鹿市 長太栄町

11 兵庫県 姫路市 別所町北宿
11 岐阜県 多治見市 京町
11 岐阜県 恵那市 岩村町飯羽間
11 岐阜県 美濃市 須原
11 岐阜県 羽島市 正木町須賀
11 岐阜県 郡上市 美並町高砂

11 岐阜県 関市 肥田瀬
11 岡山県 倉敷市 真備町市場
11 岡山県 岡山市中区 賞田
11 岡山県 津山市 上野田

11 岡山県 総社市 窪木
11 愛知県 弥富市 鯏浦町気開
11 愛知県 犬山市 裏之門
11 愛知県 稲沢市 野崎町本郷
11 愛知県 西尾市 一色町味浜中切

11 滋賀県 大津市 大石東
11 滋賀県 甲賀市 信楽町下朝宮
11 福岡県 三井郡大刀洗町 高樋
11 福岡県 八女市 新庄西田

11 福岡県 八女市 新庄今山
11 茨城県 坂東市 大口
11 茨城県 結城市 結城
10 三重県 三重郡菰野町 永井
10 三重県 度会郡度会町 火打石
10 三重県 鈴鹿市 石薬師町

10 和歌山県 紀の川市 東川原
10 岐阜県 岐阜市 大菅南
10 島根県 出雲市 小伊津町
10 島根県 邑智郡邑南町 井原
10 広島県 山県郡北広島町 丁保余原

10 愛知県 一宮市 明地東下平
10 愛知県 名古屋市昭和区 川名本町
10 愛知県 名古屋市港区 明正

10 新潟県 十日町市 田沢本村甲
10 神奈川県 横浜市南区 永田東
10 福井県 越前市 向新保町
10 福井県 鯖江市 河和田町
10 福島県 二本松市 油井屋戸
10 静岡県 菊川市 潮海寺

9 三重県 いなべ市 北勢町東村
9 北海道 爾志郡乙部町 栄浜
9 岐阜県 岐阜市 島田
9 岐阜県 海津市 海津町鹿野
9 岐阜県 関市 倉知

9 岡山県 岡山市中区 原尾島
9 岡山県 瀬戸内市 邑久町大窪
9 愛知県 一宮市 牛野通
9 愛知県 名古屋市中区 大須

9 愛知県 名古屋市東区 泉
9 愛知県 名古屋市港区 十一屋
9 愛知県 名古屋市港区 稲永
9 愛知県 名古屋市熱田区 千年
9 愛知県 小牧市 村中

9 愛知県 弥富市 五之三町東本田
9 愛知県 海部郡蟹江町 宝
9 愛知県 稲沢市 祖父江町島本
9 愛知県 稲沢市 一色下方町

9 滋賀県 甲賀市 甲南町葛木
9 神奈川県 小田原市 風祭
9 鹿児島県 曽於郡大崎町 野方
9 鹿児島県 霧島市 国分中央
8 三重県 松阪市 川井町

8 三重県 桑名市 長島町押付
8 三重県 桑名郡木曽岬町 源緑輪中
8 三重県 鈴鹿市 肥田町
8 京都府 京丹後市 峰山町新町
8 兵庫県 佐用郡佐用町 廣山

8 和歌山県 海南市 冷水
8 大阪府 大阪市旭区 新森
8 岐阜県 海津市 平田町今尾
8 岐阜県 海津市 海津町金廻
8 岡山県 岡山市南区 浜野

8 島根県 邑智郡邑南町 中野
8 愛知県 名古屋市中川区 高杉町
8 愛知県 名古屋市昭和区 御器所
8 愛知県 名古屋市港区 船頭場

8 愛知県 名古屋市西区 上名古屋
8 愛知県 弥富市 竹田
8 愛知県 海部郡飛島村 大宝
8 新潟県 三島郡出雲崎町 大寺

8 新潟県 上越市 鶴町
8 栃木県 芳賀郡茂木町 河井
8 滋賀県 甲賀市 甲南町磯尾
8 滋賀県 長浜市 湖北町馬渡
8 福島県 二本松市 渋川二本柳

8 群馬県 富岡市 妙義町下高田
8 静岡県 富士市 中里
8 静岡県 掛川市 山崎
8 静岡県 焼津市 本町
8 静岡県 焼津市 三ケ名

7 三重県 亀山市 羽若町
7 三重県 四日市市 川原町
7 三重県 四日市市 茂福
7 三重県 四日市市 桜台
7 三重県 度会郡大紀町 大内山川口

7 三重県 松阪市 曽原町
7 三重県 津市 半田
7 三重県 鈴鹿市 南玉垣町
7 京都府 京丹後市 峰山町長岡
7 兵庫県 養父市 大薮

7 千葉県 旭市 琴田
7 和歌山県 有田郡有田川町 小川
7 埼玉県 幸手市 下吉羽
7 山梨県 南巨摩郡身延町 下山

7 岐阜県 安八郡輪之内町 楡俣
7 岐阜県 山県市 高富
7 岐阜県 岐阜市 鏡島西
7 岐阜県 関市 小瀬

7 岐阜県 関市 下之保
7 岡山県 岡山市北区 一宮
7 島根県 邑智郡邑南町 高見
7 広島県 福山市 神辺町川南
7 愛知県 あま市 森
7 愛知県 名古屋市中区 新栄

7 愛知県 名古屋市中区 丸の内
7 愛知県 名古屋市中川区 下之一色町東ノ切
7 愛知県 名古屋市中川区 打出
7 愛知県 名古屋市中川区 大当郎
7 愛知県 名古屋市中川区 一色新町

7 愛知県 名古屋市中川区 下之一色町古川
7 愛知県 名古屋市北区 楠味鋺
7 愛知県 名古屋市南区 内田橋
7 愛知県 名古屋市南区 豊田
7 愛知県 愛西市 稲葉町本郷

7 愛知県 新城市 稲木
7 愛知県 春日井市 石尾台
7 愛知県 知多郡南知多町 内海平田
7 愛知県 碧南市 千福町
7 愛知県 稲沢市 横野町

7 愛知県 稲沢市 松下
7 愛知県 豊明市 西川町善波
7 新潟県 柏崎市 四谷
7 滋賀県 長浜市 新庄馬場町

7 熊本県 山鹿市 鹿本町小柳
7 熊本県 熊本市北区 植木町山本
7 福島県 須賀川市 桙衝新田
7 群馬県 太田市 高林北町
7 茨城県 土浦市 高岡

7 茨城県 石岡市 石川
7 静岡県 富士市 大淵
7 静岡県 島田市 御仮屋町
7 静岡県 沼津市 大岡
7 静岡県 浜松市西区 舞阪町舞阪

7 静岡県 焼津市 東小川
7 静岡県 磐田市 見付
7 高知県 香南市 野市町本村

6 三重県 いなべ市 北勢町阿下喜
6 三重県 三重郡菰野町 大強原
6 三重県 三重郡菰野町 竹成
6 三重県 三重郡菰野町 諏訪

6 三重県 北牟婁郡紀北町 海山区船津
6 三重県 四日市市 生桑町
6 三重県 四日市市 東坂部町
6 三重県 四日市市 小牧町

6 三重県 桑名市 筒尾
6 三重県 桑名市 多度町福永
6 三重県 鈴鹿市 徳居町
6 三重県 鈴鹿市 白子本町
6 兵庫県 丹波市 山南町山崎

6 兵庫県 佐用郡佐用町 安川
6 兵庫県 宍粟市 一宮町森添
6 千葉県 佐倉市 岩名
6 埼玉県 幸手市 神明内

6 埼玉県 熊谷市 中曽根
6 埼玉県 狭山市 堀兼
6 埼玉県 行田市 下須戸
6 宮崎県 宮崎市 池内町崎ノ湯
6 山梨県 甲斐市 下今井

6 岐阜県 加茂郡白川町 坂ノ東
6 岐阜県 大垣市 上石津町下山
6 岐阜県 山県市 東深瀬
6 岐阜県 岐阜市 菅生
6 岐阜県 恵那市 岩村町富田

6 岐阜県 恵那市 大井町
6 岐阜県 瑞穂市 本田
6 岐阜県 羽島市 竹鼻町
6 岐阜県 羽島市 正木町不破一色
6 岐阜県 羽島郡笠松町 上新町

6 岡山県 久米郡久米南町 塩之内
6 愛媛県 四国中央市 上分町
6 愛知県 あま市 七宝町遠島南萱苅島
6 愛知県 あま市 西今宿山伏二

6 愛知県 一宮市 萩原町朝宮
6 愛知県 名古屋市中川区 尾頭橋
6 愛知県 名古屋市中川区 下之一色町松蔭
6 愛知県 名古屋市南区 呼続
6 愛知県 名古屋市天白区 原

6 愛知県 名古屋市天白区 表山
6 愛知県 名古屋市港区 南陽町福田前新田いの割
6 愛知県 名古屋市緑区 神沢
6 愛知県 大府市 共和町
6 愛知県 尾張旭市 旭ケ丘町山の手

6 愛知県 弥富市 五之三川平
6 愛知県 弥富市 五之三町本田
6 愛知県 愛西市 西條町東善太
6 愛知県 愛西市 大井町浦田面

6 愛知県 愛西市 東條町柳原
6 愛知県 日進市 藤塚
6 愛知県 日進市 五色園
6 愛知県 津島市 南本町
6 愛知県 海部郡飛島村 元起

6 愛知県 稲沢市 大矢町村内上
6 愛知県 稲沢市 井堀中郷町
6 愛知県 稲沢市 井堀北出町
6 新潟県 佐渡市 三宮

6 新潟県 燕市 水道町
6 滋賀県 大津市 大石中
6 滋賀県 近江八幡市 土田町
6 滋賀県 長浜市 東上坂町

6 熊本県 玉名郡長洲町 宮野
6 石川県 羽咋郡志賀町 富来地頭町
6 福岡県 八女市 鵜池
6 福島県 二本松市 米沢川原田

6 茨城県 常総市 小山戸町
6 長野県 飯山市 静間
6 静岡県 伊豆市 土肥
6 静岡県 浜松市浜北区 善地
6 静岡県 浜松市西区 大山町

6 静岡県 焼津市 小土
6 静岡県 静岡市清水区 蒲原
6 静岡県 静岡市清水区 八坂東
6 静岡県 静岡市清水区 宮加三



5 三重県 いなべ市 員弁町東一色
5 三重県 いなべ市 員弁町岡丁田
5 三重県 亀山市 安知本町

5 三重県 伊勢市 中須町
5 三重県 伊賀市 佐那具町
5 三重県 員弁郡東員町 笹尾西
5 三重県 四日市市 あさけが丘

5 三重県 四日市市 小杉新町
5 三重県 四日市市 札場町
5 三重県 桑名市 長島町西川
5 三重県 桑名市 多度町南之郷
5 三重県 桑名市 桑部

5 三重県 桑名市 福島
5 三重県 桑名市 長島町西外面
5 三重県 桑名市 東方
5 三重県 桑名郡木曽岬町 三崎

5 三重県 津市 久居野村町
5 三重県 津市 高茶屋
5 三重県 津市 白山町山田野
5 三重県 鈴鹿市 長太旭町
5 三重県 鈴鹿市 林崎

5 兵庫県 南あわじ市 榎列小榎列
5 兵庫県 南あわじ市 市青木
5 北海道 茅部郡森町 濁川
5 埼玉県 久喜市 本町

5 埼玉県 久喜市 久喜東
5 埼玉県 久喜市 菖蒲町小林
5 埼玉県 坂戸市 西坂戸
5 埼玉県 幸手市 中
5 埼玉県 所沢市 山口

5 埼玉県 深谷市 大谷
5 宮崎県 宮崎市 島之内
5 岐阜県 中津川市 手賀野
5 岐阜県 可児市 土田

5 岐阜県 土岐市 妻木町
5 岐阜県 多治見市 笠原上原
5 岐阜県 山県市 椎倉
5 岐阜県 岐阜市 早田東町

5 岐阜県 岐阜市 茜部辰新
5 岐阜県 岐阜市 北一色
5 岐阜県 岐阜市 野一色
5 岐阜県 海津市 南濃町松山

5 岐阜県 海津市 海津町高須町
5 岐阜県 瑞穂市 別府
5 岐阜県 美濃加茂市 蜂屋町中蜂屋
5 岐阜県 羽島市 上中町中

5 岡山県 総社市 総社
5 岩手県 岩手郡葛巻町 葛巻第18地割
5 島根県 邑智郡邑南町 中野上茅場
5 広島県 尾道市 日比崎町

5 広島県 府中市 鵜飼町
5 徳島県 阿波市 吉野町西条東姥御前
5 徳島県 阿波市 阿波町大道南
5 愛知県 一宮市 昭和

5 愛知県 一宮市 明地江端
5 愛知県 一宮市 光明寺天王裏
5 愛知県 名古屋市中区 千代田
5 愛知県 名古屋市中川区 下之一色町北ノ切

5 愛知県 名古屋市中川区 荒江町
5 愛知県 名古屋市中村区 名駅
5 愛知県 名古屋市北区 柳原
5 愛知県 名古屋市北区 安井
5 愛知県 名古屋市北区 上飯田北町

5 愛知県 名古屋市昭和区 塩付通
5 愛知県 名古屋市昭和区 安田通
5 愛知県 名古屋市港区 寺前町
5 愛知県 名古屋市港区 藤高
5 愛知県 名古屋市港区 南陽町西福田宮ノ切

5 愛知県 名古屋市熱田区 二番
5 愛知県 名古屋市瑞穂区 中根町
5 愛知県 名古屋市緑区 黒沢台
5 愛知県 名古屋市緑区 鳴子町
5 愛知県 名古屋市西区 菊井

5 愛知県 名古屋市西区 香呑町
5 愛知県 小牧市 城山
5 愛知県 小牧市 久保一色
5 愛知県 岡崎市 六名南
5 愛知県 岡崎市 六名

5 愛知県 弥富市 荷之上町権七走
5 愛知県 弥富市 鯏浦町下与太
5 愛知県 弥富市 荷之上町河原
5 愛知県 弥富市 西中地町中島

5 愛知県 弥富市 平島中新田
5 愛知県 愛西市 西條町伊重
5 愛知県 愛西市 東條町高田
5 愛知県 愛西市 西條町西善太

5 愛知県 愛西市 大井町樫ノ木
5 愛知県 津島市 青塚町
5 愛知県 津島市 越津町中之郷
5 愛知県 海部郡蟹江町 学戸
5 愛知県 清須市 一場

5 愛知県 犬山市 藪畔
5 愛知県 碧南市 鷲林町
5 愛知県 稲沢市 井堀高見町
5 愛知県 稲沢市 一色川俣町
5 愛知県 稲沢市 平和町下起中

5 愛知県 稲沢市 平和町横池本田
5 愛知県 西尾市 下羽角町郷内
5 愛知県 豊明市 二村台
5 新潟県 上越市 三和区下広田
5 新潟県 十日町市 川治
5 新潟県 南魚沼市 上原

5 新潟県 南魚沼市 一村尾
5 新潟県 新潟市北区 白勢町
5 東京都 世田谷区 上用賀
5 東京都 中野区 沼袋

5 東京都 大田区 中央
5 東京都 大田区 山王
5 東京都 板橋区 前野町
5 東京都 江戸川区 江戸川

5 東京都 江戸川区 平井
5 東京都 江東区 東砂
5 東京都 江東区 北砂
5 東京都 荒川区 西尾久

5 東京都 葛飾区 高砂
5 東京都 足立区 江北
5 栃木県 足利市 通
5 滋賀県 栗東市 御園

5 滋賀県 甲賀市 甲南町深川
5 石川県 羽咋市 金丸出町
5 神奈川県 厚木市 上依知

5 神奈川県 横浜市保土ケ谷区 星川
5 神奈川県 横浜市旭区 白根
5 神奈川県 横浜市港南区 芹が谷

5 福島県 二本松市 郭内
5 群馬県 前橋市 元総社町
5 群馬県 太田市 末広町
5 群馬県 桐生市 広沢町

5 群馬県 高崎市 上室田町
5 茨城県 小美玉市 高崎
5 茨城県 常総市 新石下
5 茨城県 水戸市 大串町

5 茨城県 結城郡八千代町 坪井
5 静岡県 島田市 島
5 静岡県 焼津市 栄町
5 静岡県 静岡市葵区 長沼
5 高知県 安芸郡安田町 与床

4 三重県 いなべ市 大安町門前
4 三重県 いなべ市 北勢町南中津原
4 三重県 いなべ市 大安町丹生川中

4 三重県 三重郡川越町 豊田
4 三重県 三重郡朝日町 埋縄
4 三重県 三重郡菰野町 池底
4 三重県 亀山市 田村町

4 三重県 亀山市 みずほ台
4 三重県 亀山市 天神
4 三重県 伊勢市 河崎

4 三重県 伊勢市 小俣町湯田
4 三重県 伊賀市 玉滝
4 三重県 員弁郡東員町 城山
4 三重県 四日市市 塩浜

4 三重県 四日市市 黒田町
4 三重県 四日市市 松本
4 三重県 四日市市 あかつき台
4 三重県 四日市市 東日野町
4 三重県 四日市市 楠町本郷

4 三重県 四日市市 日永
4 三重県 四日市市 下之宮町
4 三重県 四日市市 桜町
4 三重県 四日市市 ときわ
4 三重県 四日市市 平尾町

4 三重県 松阪市 五主町
4 三重県 松阪市 鎌田町
4 三重県 桑名市 大山田
4 三重県 桑名市 長島町新所
4 三重県 桑名市 松ノ木

4 三重県 桑名市 長島町出口
4 三重県 津市 榊原町
4 三重県 津市 下弁財町津興
4 三重県 津市 白塚町

4 三重県 津市 白山町二本木
4 三重県 津市 白山町城立
4 三重県 津市 高野尾町
4 三重県 津市 長岡町
4 三重県 鈴鹿市 白子

4 三重県 鈴鹿市 越知町
4 三重県 鈴鹿市 東旭が丘
4 京都府 京都市山科区 西野様子見町
4 京都府 京都市左京区 浄土寺上馬場町

4 京都府 木津川市 兜台
4 京都府 福知山市 十二
4 佐賀県 三養基郡みやき町 東尾
4 佐賀県 多久市 南多久町花祭

4 兵庫県 加東市 社
4 兵庫県 南あわじ市 市新
4 兵庫県 多可郡多可町 中区坂本
4 兵庫県 明石市 大蔵八幡町
4 北海道 浦河郡浦河町 荻伏町

4 北海道 空知郡南幌町 南14線西
4 千葉県 印西市 行徳
4 千葉県 四街道市 大日
4 埼玉県 さいたま市中央区 上落合

4 埼玉県 児玉郡上里町 神保原町
4 埼玉県 北葛飾郡杉戸町 北蓮沼
4 埼玉県 川越市 笠幡
4 埼玉県 川越市 的場
4 埼玉県 東松山市 松山町

4 埼玉県 深谷市 小前田
4 埼玉県 狭山市 柏原
4 埼玉県 蓮田市 閏戸
4 大分県 国東市 安岐町塩屋

4 大分県 宇佐市 安心院町龍王
4 大阪府 八尾市 垣内
4 大阪府 大阪市阿倍野区 阪南町
4 大阪府 寝屋川市 緑町
4 大阪府 高石市 綾園

4 奈良県 北葛城郡広陵町 萱野
4 奈良県 北葛城郡河合町 大輪田
4 奈良県 北葛城郡河合町 山坊

4 奈良県 北葛城郡王寺町 本町
4 奈良県 生駒市 俵口町
4 奈良県 磯城郡三宅町 小柳
4 宮崎県 延岡市 恒富町

4 山口県 下関市 豊浦黒井杜屋
4 山口県 萩市 椿東上野
4 山口県 萩市 土原
4 山口県 萩市 紫福長尾

4 岐阜県 加茂郡富加町 加治田
4 岐阜県 各務原市 鵜沼朝日町
4 岐阜県 各務原市 松が丘
4 岐阜県 安八郡安八町 城

4 岐阜県 山県市 柿野
4 岐阜県 岐阜市 西川手
4 岐阜県 岐阜市 岩崎
4 岐阜県 岐阜市 上川手
4 岐阜県 揖斐郡揖斐川町 極楽寺

4 岐阜県 海津市 平田町野寺
4 岐阜県 美濃加茂市 中富町
4 岐阜県 美濃加茂市 太田町
4 岐阜県 美濃加茂市 新池町
4 岐阜県 美濃市 泉町

4 岐阜県 羽島市 正木町新井
4 岐阜県 羽島市 正木町南及
4 岐阜県 羽島市 竹鼻町狐穴
4 岐阜県 関市 向山町
4 岐阜県 養老郡養老町 高田      ここ、千秋氏と関係のる服部さんでしょうか?

4 岡山県 倉敷市 児島下の町
4 岡山県 倉敷市 真備町妹
4 岡山県 岡山市中区 雄町

4 岡山県 岡山市東区 西大寺中野
4 岡山県 岡山市東区 西大寺新地
4 岡山県 新見市 足見

4 岡山県 総社市 黒尾
4 岡山県 赤磐市 小鎌
4 岩手県 遠野市 松崎町白岩16地割
4 島根県 江津市 桜江町八戸

4 島根県 浜田市 金城町今福
4 島根県 浜田市 旭町今市
4 島根県 邑智郡邑南町 雪田
4 島根県 邑智郡邑南町 井原西ノ原

4 広島県 世羅郡世羅町 下津田
4 徳島県 阿南市 宝田町梅の本
4 徳島県 阿波市 吉野町西条西姥御前
4 愛知県 あま市 新居屋八島
4 愛知県 あま市 西今宿郷内一

4 愛知県 一宮市 光明寺小路東
4 愛知県 一宮市 平和
4 愛知県 一宮市 泉
4 愛知県 一宮市 萩原町串作

4 愛知県 名古屋市中区 正木
4 愛知県 名古屋市中川区 吉津
4 愛知県 名古屋市中川区 中郷
4 愛知県 名古屋市中川区 戸田西

4 愛知県 名古屋市中川区 法華西町
4 愛知県 名古屋市中村区 角割町
4 愛知県 名古屋市北区 名城
4 愛知県 名古屋市北区 辻町

4 愛知県 名古屋市北区 山田
4 愛知県 名古屋市北区 楠
4 愛知県 名古屋市北区 中味鋺
4 愛知県 名古屋市千種区 赤坂町
4 愛知県 名古屋市千種区 光が丘

4 愛知県 名古屋市南区 桜台
4 愛知県 名古屋市南区 氷室町
4 愛知県 名古屋市名東区 つつじが丘
4 愛知県 名古屋市名東区 亀の井

4 愛知県 名古屋市名東区 貴船
4 愛知県 名古屋市名東区 藤森
4 愛知県 名古屋市守山区 幸心

4 愛知県 名古屋市昭和区 滝子町
4 愛知県 名古屋市昭和区 萩原町
4 愛知県 名古屋市東区 徳川
4 愛知県 名古屋市東区 代官町
4 愛知県 名古屋市港区 小碓

4 愛知県 名古屋市港区 南陽町西福田雁島
4 愛知県 名古屋市港区 南陽町福田前新田ろの割
4 愛知県 名古屋市港区 藤前
4 愛知県 名古屋市港区 錦町

4 愛知県 名古屋市港区 八百島
4 愛知県 名古屋市港区 福屋
4 愛知県 名古屋市緑区 鳴海町前之輪
4 愛知県 名古屋市緑区 鳴海町伝治山

4 愛知県 名古屋市緑区 浦里
4 愛知県 名古屋市緑区 有松
4 愛知県 名古屋市緑区 徳重
4 愛知県 名古屋市緑区 青山

4 愛知県 名古屋市西区 大野木
4 愛知県 名古屋市西区 清里町
4 愛知県 名古屋市西区 花の木
4 愛知県 名古屋市西区 那古野

4 愛知県 大府市 柊山町
4 愛知県 安城市 高棚町三反田
4 愛知県 安城市 里町三郎

4 愛知県 小牧市 小牧原新田
4 愛知県 小牧市 新町
4 愛知県 小牧市 小木
4 愛知県 小牧市 北外山

4 愛知県 岩倉市 石仏町長北屋敷
4 愛知県 弥富市 東末広
4 愛知県 弥富市 平島西新田
4 愛知県 弥富市 佐古木

4 愛知県 弥富市 鯏浦町上六
4 愛知県 弥富市 荷之上町中焼田
4 愛知県 弥富市 荷之上町焼田新田
4 愛知県 愛西市 日置町

4 愛知県 愛西市 柚木町前田面
4 愛知県 愛西市 大井町同所
4 愛知県 日進市 東山

4 愛知県 春日井市 牛山町
4 愛知県 春日井市 如意申町
4 愛知県 春日井市 上条町
4 愛知県 江南市 藤ケ丘

4 愛知県 津島市 永楽町
4 愛知県 海部郡大治町 西條大辻
4 愛知県 海部郡大治町 砂子犬飼
4 愛知県 海部郡蟹江町 本町

4 愛知県 犬山市 城山
4 愛知県 稲沢市 平和町鷲尾
4 愛知県 稲沢市 長野
4 愛知県 稲沢市 平和町東城郷内

4 愛知県 西尾市 戸ケ崎
4 愛知県 西尾市 一色町味浜下郷
4 愛知県 豊明市 栄町南舘
4 新潟県 三条市 西四日町

4 新潟県 上越市 横畑
4 新潟県 上越市 春日山町
4 新潟県 十日町市 小原辛

4 新潟県 十日町市 桂戊
4 新潟県 新潟市北区 島見町
4 新潟県 新潟市西区 浦山

4 新潟県 新潟市西蒲区 巻甲
4 東京都 世田谷区 喜多見
4 東京都 世田谷区 奥沢
4 東京都 八王子市 散田町

4 東京都 北区 赤羽北
4 東京都 台東区 東上野
4 東京都 小平市 学園東町
4 東京都 文京区 千駄木

4 東京都 新宿区 戸山
4 東京都 杉並区 久我山
4 東京都 板橋区 赤塚
4 東京都 板橋区 赤塚新町

4 東京都 江東区 亀戸
4 東京都 練馬区 春日町
4 東京都 豊島区 東池袋
4 栃木県 真岡市 小林

4 滋賀県 大津市 国分
4 滋賀県 大津市 山上町
4 滋賀県 湖南市 石部東
4 滋賀県 甲賀市 信楽町神山

4 滋賀県 甲賀市 土山町大野
4 滋賀県 甲賀市 土山町平子
4 滋賀県 甲賀市 土山町山中
4 熊本県 山鹿市 中

4 熊本県 熊本市北区 植木町清水
4 熊本県 熊本市西区 蓮台寺
4 熊本県 玉名郡長洲町 長洲
4 神奈川県 川崎市中原区 上小田中

4 神奈川県 川崎市宮前区 野川
4 神奈川県 川崎市幸区 中幸町
4 神奈川県 横浜市港南区 港南台

4 神奈川県 横浜市磯子区 岡村
4 神奈川県 横浜市磯子区 洋光台
4 神奈川県 横浜市金沢区 釜利谷西
4 神奈川県 藤沢市 鵠沼松が岡

4 福井県 吉田郡永平寺町 野中
4 福井県 敦賀市 呉竹町
4 福井県 越前市 家久町
4 福岡県 久留米市 梅満町

4 福岡県 八女市 本町
4 福岡県 筑後市 前津
4 福島県 二本松市 下川崎東北
4 福島県 二本松市 下川崎鶏谷内

4 福島県 二本松市 渋川木明内
4 福島県 喜多方市 塩川町小府根利根川

4 福島県 福島市 蓬莱町
4 群馬県 邑楽郡大泉町 仙石
4 群馬県 館林市 下早川田町
4 群馬県 高崎市 新町

4 茨城県 古河市 東山田
4 茨城県 古河市 諸川
4 茨城県 常総市 岡田
4 茨城県 水戸市 見和

4 長野県 下伊那郡天龍村 平岡
4 長野県 北佐久郡軽井沢町 旧軽井沢
4 静岡県 富士市 松岡
4 静岡県 御前崎市 御前崎

4 静岡県 御殿場市 北久原
4 静岡県 浜松市北区 細江町気賀
4 静岡県 浜松市南区 小沢渡町
4 静岡県 浜松市西区 篠原町

4 静岡県 焼津市 小川
4 静岡県 焼津市 下小田
4 静岡県 焼津市 柳新屋
4 静岡県 焼津市 西小川

4 静岡県 焼津市 石津
4 静岡県 熱海市 下多賀
4 静岡県 菊川市 西方
4 静岡県 菊川市 半済

4 静岡県 静岡市清水区 蒲原新田
4 静岡県 静岡市清水区 蒲原神沢
4 静岡県 静岡市葵区 駒形通
4 静岡県 静岡市駿河区 中島

4 静岡県 静岡市駿河区 登呂
4 香川県 東かがわ市 引田
3 三重県 三重郡川越町 豊田一色
3 三重県 三重郡菰野町 潤田

3 三重県 三重郡菰野町 杉谷
3 三重県 亀山市 布気町
3 三重県 亀山市 野村
3 三重県 亀山市 若山町

3 三重県 亀山市 みどり町
3 三重県 亀山市 能褒野町
3 三重県 亀山市 三寺町
3 三重県 亀山市 上野町

3 三重県 亀山市 本町
3 三重県 伊勢市 常磐
3 三重県 伊勢市 中村町
3 三重県 伊勢市 古市町
3 三重県 伊勢市 楠部町

3 三重県 伊勢市 小俣町相合
3 三重県 伊賀市 川合
3 三重県 伊賀市 上野忍町
3 三重県 伊賀市 上野農人町
3 三重県 伊賀市 東湯舟

3 三重県 伊賀市 鳳凰寺
3 三重県 伊賀市 川東
3 三重県 伊賀市 小杉

3 三重県 北牟婁郡紀北町 紀伊長島区東長島
3 三重県 員弁郡東員町 山田
3 三重県 員弁郡東員町 穴太
3 三重県 四日市市 蒔田

3 三重県 四日市市 松寺
3 三重県 四日市市 東垂坂町
3 三重県 四日市市 天カ須賀
3 三重県 四日市市 伊倉
3 三重県 四日市市 富田

3 三重県 四日市市 下海老町
3 三重県 四日市市 高花平
3 三重県 四日市市 桜花台
3 三重県 四日市市 南松本町
3 三重県 四日市市 別名

3 三重県 四日市市 小林町
3 三重県 四日市市 石塚町
3 三重県 四日市市 西富田町
3 三重県 四日市市 富田一色町
3 三重県 多気郡明和町 金剛坂

3 三重県 志摩市 磯部町三ケ所
3 三重県 松阪市 大垣内町
3 三重県 松阪市 荒木町
3 三重県 松阪市 駅部田町

3 三重県 松阪市 船江町
3 三重県 松阪市 中林町
3 三重県 松阪市 上川町
3 三重県 松阪市 中道町

3 三重県 桑名市 稗田
3 三重県 桑名市 多度町小山
3 三重県 桑名市 星見ケ丘
3 三重県 桑名市 長島町松ケ島
3 三重県 桑名市 多度町香取

3 三重県 桑名市 藤が丘
3 三重県 津市 美杉町八知
3 三重県 津市 新町
3 三重県 津市 芸濃町椋本
3 三重県 津市 垂水

3 三重県 津市 城山
3 三重県 津市 観音寺町
3 三重県 津市 一身田平野
3 三重県 津市 久居北口町

3 三重県 鈴鹿市 十宮
3 三重県 鈴鹿市 郡山町
3 三重県 鈴鹿市 白子町
3 三重県 鈴鹿市 徳田町

3 三重県 鳥羽市 相差町
3 三重県 鳥羽市 浦村町
3 京都府 京都市伏見区 桃山与五郎町
3 京都府 京都市北区 平野桜木町

3 京都府 京都市北区 北野紅梅町
3 京都府 京都市山科区 川田欠ノ上
3 京都府 京都市左京区 田中東樋ノ口町
3 京都府 京都市左京区 南禅寺北ノ坊町

3 京都府 京都市西京区 大枝西新林町
3 京都府 京都市西京区 樫原宇治井西町
3 京都府 八幡市 下奈良奥垣内
3 京都府 城陽市 久世里ノ西

3 京都府 宇治市 琵琶台
3 京都府 宇治市 白川川上り谷
3 京都府 福知山市 夜久野町額田
3 佐賀県 佐賀市 若宮

3 兵庫県 加古川市 加古川町木村
3 兵庫県 小野市 育ケ丘町
3 兵庫県 尼崎市 東園田町
3 兵庫県 川辺郡猪名川町 伏見台

3 兵庫県 芦屋市 月若町
3 北海道 上川郡愛別町 中央
3 北海道 上川郡美瑛町 旭町
3 北海道 函館市 柏木町
3 北海道 函館市 富岡町

3 北海道 夕張市 南清水沢
3 北海道 室蘭市 白鳥台
3 北海道 室蘭市 港北町
3 北海道 広尾郡大樹町 萠和

3 北海道 旭川市 末広一条
3 北海道 旭川市 東光十八条
3 北海道 旭川市 緑町
3 北海道 旭川市 神居二条
3 北海道 札幌市中央区 南八条西

3 北海道 浦河郡浦河町 堺町東
3 北海道 苫前郡苫前町 古丹別
3 北海道 苫小牧市 錦岡
3 北海道 虻田郡ニセコ町 富士見
3 千葉県 佐倉市 大佐倉

3 千葉県 八千代市 八千代台北
3 千葉県 千葉市中央区 東千葉
3 千葉県 千葉市稲毛区 穴川
3 千葉県 印旛郡栄町 安食

3 千葉県 印西市 下曽根
3 千葉県 富津市 岩坂
3 千葉県 山武郡九十九里町 片貝
3 千葉県 市原市 分目
3 千葉県 市川市 八幡

3 千葉県 市川市 大洲
3 千葉県 我孫子市 天王台
3 千葉県 旭市 大間手
3 千葉県 松戸市 小金原
3 千葉県 松戸市 松戸

3 千葉県 松戸市 河原塚
3 千葉県 船橋市 行田
3 千葉県 茂原市 緑町
3 千葉県 野田市 岩名
3 千葉県 長生郡睦沢町 寺崎

3 千葉県 鴨川市 八色
3 和歌山県 有田市 山田原
3 和歌山県 海南市 日方
3 埼玉県 さいたま市中央区 下落合
3 埼玉県 さいたま市浦和区 本太

3 埼玉県 三郷市 戸ケ崎
3 埼玉県 上尾市 小敷谷
3 埼玉県 入間市 東町
3 埼玉県 入間市 東藤沢

3 埼玉県 加須市 久下
3 埼玉県 坂戸市 にっさい花みず木
3 埼玉県 川口市 中青木
3 埼玉県 川越市 安比奈新田

3 埼玉県 幸手市 惣新田
3 埼玉県 幸手市 木立
3 埼玉県 所沢市 緑町
3 埼玉県 日高市 武蔵台
3 埼玉県 本庄市 児玉町金屋

3 埼玉県 東松山市 松葉町
3 埼玉県 熊谷市 銀座
3 埼玉県 狭山市 狭山台
3 埼玉県 草加市 稲荷
3 埼玉県 行田市 持田

3 埼玉県 飯能市 双柳
3 埼玉県 鴻巣市 鴻巣
3 大阪府 交野市 私部
3 大阪府 八尾市 山本町南

3 大阪府 南河内郡河南町 大宝
3 大阪府 大阪市住吉区 遠里小野
3 大阪府 大阪市城東区 鴫野西
3 大阪府 大阪市平野区 喜連

3 大阪府 岸和田市 下松町
3 大阪府 枚方市 西禁野
3 大阪府 泉南市 樽井

3 奈良県 北葛城郡上牧町 上牧
3 奈良県 大和郡山市 小泉町
3 奈良県 奈良市 学園大和町
3 奈良県 宇陀市 室生三本松

3 奈良県 橿原市 見瀬町
3 奈良県 香芝市 上中
3 宮城県 仙台市泉区 住吉台西
3 富山県 富山市 大宮町

3 富山県 高岡市 戸出春日
3 山口県 萩市 熊谷町
3 山口県 萩市 椿東中津江
3 山形県 南陽市 宮内
3 山梨県 都留市 朝日曽雌

3 岐阜県 可児市 皐ケ丘
3 岐阜県 可児市 緑
3 岐阜県 可児市 長坂
3 岐阜県 多治見市 幸町
3 岐阜県 多治見市 平井町

3 岐阜県 大垣市 野口
3 岐阜県 大垣市 鶴見町
3 岐阜県 大垣市 寺内町
3 岐阜県 大垣市 川口
3 岐阜県 安八郡安八町 氷取

3 岐阜県 岐阜市 東鶉
3 岐阜県 岐阜市 三田洞東
3 岐阜県 岐阜市 大菅北

3 岐阜県 岐阜市 大洞緑山
3 岐阜県 岐阜市 川部
3 岐阜県 岐阜市 柳津町蓮池
3 岐阜県 岐阜市 領下

3 岐阜県 岐阜市 柳津町栄町
3 岐阜県 岐阜市 徹明通
3 岐阜県 岐阜市 鏡島精華
3 岐阜県 岐阜市 芋島

3 岐阜県 恵那市 明智町宮町
3 岐阜県 揖斐郡大野町 相羽
3 岐阜県 海津市 南濃町戸田

3 岐阜県 海津市 南濃町田鶴
3 岐阜県 海津市 南濃町駒野
3 岐阜県 海津市 南濃町安江
3 岐阜県 海津市 南濃町吉田

3 岐阜県 海津市 南濃町山崎
3 岐阜県 瑞穂市 稲里
3 岐阜県 美濃加茂市 西町

3 岐阜県 美濃市 東市場町
3 岐阜県 羽島市 桑原町小薮
3 岐阜県 羽島市 足近町
3 岐阜県 羽島郡岐南町 上印食

3 岐阜県 羽島郡岐南町 平島
3 岐阜県 羽島郡笠松町 田代
3 岐阜県 羽島郡笠松町 中野
3 岐阜県 関市 西本郷通

3 岡山県 倉敷市 玉島八島
3 岡山県 備前市 浦伊部
3 岡山県 岡山市中区 高屋
3 岡山県 岡山市中区 中井

3 岡山県 岡山市中区 円山
3 岡山県 岡山市北区 高松原古才
3 岡山県 岡山市北区 津島東
3 岡山県 岡山市南区 大福

3 岡山県 岡山市南区 藤田
3 岡山県 新見市 草間
3 岡山県 瀬戸内市 邑久町尾張
3 岡山県 瀬戸内市 邑久町豊原

3 岡山県 真庭市 蒜山中福田
3 岩手県 岩手郡葛巻町 葛巻第21地割
3 岩手県 岩手郡葛巻町 葛巻第14地割
3 島根県 出雲市 斐川町直江

3 島根県 松江市 古志原
3 島根県 江津市 二宮町神主
3 島根県 邑智郡邑南町 中野下茅場
3 島根県 邑智郡邑南町 矢上

3 島根県 邑智郡邑南町 日貫福原
3 広島県 三原市 中之町
3 広島県 三次市 三良坂町三良坂
3 広島県 尾道市 向島町

3 広島県 広島市安佐北区 口田
3 広島県 広島市安佐南区 祇園
3 広島県 庄原市 比和町比和
3 広島県 福山市 青葉台

3 徳島県 徳島市 渋野町正泉
3 徳島県 那賀郡那賀町 延野大原
3 愛知県 あま市 七宝町安松
3 愛知県 あま市 七宝町桂郷内

3 愛知県 あま市 新居屋上古川
3 愛知県 あま市 七宝町安松下屋敷
3 愛知県 一宮市 西中野
3 愛知県 一宮市 明地鞆浦

3 愛知県 一宮市 明地鞆
3 愛知県 丹羽郡大口町 余野
3 愛知県 丹羽郡大口町 新宮
3 愛知県 名古屋市中区 橘

3 愛知県 名古屋市中区 金山
3 愛知県 名古屋市中川区 水里
3 愛知県 名古屋市中川区 服部

3 愛知県 名古屋市中川区 西日置
3 愛知県 名古屋市中川区 東春田
3 愛知県 名古屋市中川区 下之一色町南ノ切

3 愛知県 名古屋市中川区 小本
3 愛知県 名古屋市中川区 昭明町
3 愛知県 名古屋市中川区 戸田ゆたか

3 愛知県 名古屋市中川区 松葉町
3 愛知県 名古屋市中川区 柳島町
3 愛知県 名古屋市中村区 向島町
3 愛知県 名古屋市中村区 長戸井町

3 愛知県 名古屋市中村区 大正町
3 愛知県 名古屋市中村区 烏森町
3 愛知県 名古屋市中村区 森田町
3 愛知県 名古屋市中村区 高道町

3 愛知県 名古屋市北区 清水
3 愛知県 名古屋市北区 敷島町

結果が1000を超えています。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 09時18分35秒 ) パスワード

ふぅ〜ん・・・・

服部姓の多いのが岐阜というのには驚きました。
ということは信長にくっついて岐阜に行った子孫なのかな?


【名字】服部

【読み】はっとり,はとり,はとりべ,ふくべ,ふくい,はった

【全国順位】 125位0
【全国人数】 およそ151,000人



古代の服部伴造の子孫が主流である。
ほかに源・平・藤・橘などの様々な流派がみられる。

著名な氏は現京都府である山城国、現奈良県である大和国、現大阪府、兵庫県である摂津国、現三重県である伊賀国、伊勢国、現愛知県である三河国、現在の東京、埼玉、神奈川の一部である武蔵国などにみられる。


語源は、古代の機織職業部から起こり、地名にも存在する。

服部の居住地が多く、衣類を織る職業姓に属す。

現在も愛知県、岐阜県、三重県に多くみられる。


家紋は矢筈車、菊など。



服部さん棲息都道府県別ランキング


北海道 238位 およそ3,500人
青森県 714位 およそ310人
岩手県 524位 およそ290人
宮城県 475位 およそ570人
秋田県 1,182位 およそ80人
山形県 418位 およそ330人
福島県 138位 およそ2,400人

茨城県 273位 およそ2,000人
栃木県 397位 およそ920人

群馬県 267位 およそ1,400人
埼玉県 214位 およそ6,300人
千葉県 240位 およそ4,700人
東京都 158位 およそ13,300人
神奈川県 146位 およそ10,100人

新潟県 168位 およそ2,500人
富山県 770位 およそ250人
石川県 422位 およそ460人
福井県 217位 およそ680人

山梨県 460位 およそ290人
長野県 344位 およそ1,200人
岐阜県 36位 およそ8,100人
静岡県 103位 およそ6,900人
愛知県 24位 およそ38,300人

三重県 14位 およそ10,900人
滋賀県 75位 およそ3,000人
京都府 105位 およそ4,100人
大阪府 188位 およそ8,100人
兵庫県 201位 およそ4,800人

奈良県 160位 およそ1,500人
和歌山県 361位 およそ510人
鳥取県 600位 およそ160人
島根県 158位 およそ910人
岡山県 132位 およそ2,600人

広島県 327位 およそ1,500人
山口県 421位 およそ580人
徳島県 241位 およそ660人
香川県 815位 およそ180人
愛媛県 878位 およそ210人

高知県 483位 およそ280人
福岡県 297位 およそ3,300人
佐賀県 374位 およそ440人
長崎県 596位 およそ390人

熊本県 344位 およそ990人
大分県 718位 およそ260人
宮崎県 381位 およそ510人
鹿児島県 604位 およそ510人
沖縄県 1,328位 およそ50人
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 09時22分46秒 ) パスワード

【名字】神服部

【読み】かんはとり

【全国順位】 89,334位
【全国人数】 およそ10人


日本で初生衣神社の宮司のみが持つ苗字。

                                             あらら?
                                            

静岡県のみ 12,831位 およそ10人
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月06日 10時19分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「電話でポン」により、静岡市の中の町ごとに調べた訳ですが、本日
よく調べたら「苗字でポン」があり、さっそく「苗字でポン」(2000年版
電話帳)にて静岡県における「服部」と「永井」について抽出してみまし
た。こちらの方は手拾いのようなオチはありません。

 その結果、驚くべきことが判明しました。それぞれ20軒以上ある所まで
挙げますと、まず服部氏については―
 1.裾野市 茶畑  33
2.掛川市 長谷  30
3.清水市 庵原町 27
4.掛川市 大池 26
5.裾野市 富沢  26
 6.焼津市 焼津  23
 7.磐田市 東貝塚 20
8.静岡市 栗原  20
つまり、静岡県全体の中では「裾野市」と「掛川市」「清水市」「焼津市」
「静岡市」「磐田市」の中に、服部氏がある程度まとまって居住している
町(村)がある。各市の服部氏のトータルは、手作業で拾わないとわからな
い。

次に、永井氏でありますが―
 1.浜北市 善地  30
 2.磐田市 豊島  28
3.磐田郡浅羽町 21
ということで、どういう訳か、我が「善地」が一番なのであります! これ
にはビックリであります!

 そして、当地の永井家の家紋は、半分が「永井切り梨」、半分が「丸に
三つ柏」なのであります。服部家は当地に7軒あり、「丸に三つ柏」であ
ります。 半分の永井氏がなぜ「丸に三つ柏」を使ったのか、長田氏にち
なんだものなのか、そして「丸に三つ柏」の服部家は、永井氏との通婚に
よりそうなったのか……。
 あるいは、「丸に三つ柏」の服部家が居て、通婚により、永井氏の方に
それが取り込まれたのか……。

 善地には長田家が今一軒だけ存在しています。その家紋がわかればヒン
トになる可能性があるかも知れません……。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月06日 11時43分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永井氏がなぜ善地にいるのか、またなぜ県下で一番多いのかという謎は
解かれぬままに依然あります。

 また、永井氏が、
  @長田(おさだ)→永井(ながい)
   長田直勝より改姓したというけれど、一族すべてがそうなったのか、
  あるいはどこまでの親族がそうなったのか、また一斉になのか、徐々
  であるのかの謎。

  A長田→永田 
   これは「おさだ」から「ながた」への変更でありますので、とり
  あえず、長田(おさだ)を長田(ながた)に読みの変換をし、その後、
  永田(ながた)へと、漢字一文字を変えたのかの謎。

  B永田→永井
   永田に変換した上で、さらに永井に変換したかの謎。

 長田から永井への変換の過程が、長田氏全体の流れとしてとして鳥瞰的
にわかるといいんですが……。
  
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 13時40分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>静岡県全体の中では「裾野市」と「掛川市」「清水市」「焼津市」「静岡市」「磐田市」の中に、
>服部氏がある程度まとまって居住している町(村)がある。

すごい発見ですね。
浜松は外れましたか。浜松よりは掛川や磐田・・・
浜松でないというのが不思議です。


やはり根本から見直さないといけませんね。
またお墓廻りが良いですよ。



>善地には長田家が今一軒だけ存在しています。
>その家紋がわかればヒントになる可能性があるかも知れません……。

訪ねて行って尋ねるわけにもいかないし。
(変な人だな)と警戒されて通報されても良くないし。


ここのところ梅雨明け宣言の前に真夏到来じゃないですか?
くれぐれも熱中症にお気を付けください。

死ぬことはないと思いますが救急車で運ばれて当分入院なんてことになっては大変。
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月06日 16時20分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡県の中で、当地(善地村)に一番たくさんの「永井氏」が住んでいる
という客観的事実がわかったのは、とにもかくにも永井氏の情報料が少な
い中での貴重な収穫でありました。

 歴史とその必然性を考える時、永井氏がなぜここ善地にいるのかという
のは、偶然でなく、必然的な要因があったものと推察します。
 もっとも永井氏だけでなく、我ら服部氏もそうでありましょうし、また
加藤氏、松島氏、鈴木氏もそうであります……。

 ここの部分は核心部分になりますので、今後さらに念には念を入れ、時
間をかけて詰めて行きたいと思っています。

 昨日は、浜松市内にあって、私がまだ訪れていない大きなお寺を地図上
から探し出し、廻ってまいりました。
 いくつかの発見がありましたので、これからご報告をいたしたいと思い
ます―

 一旦切ります(このところの暑さで、睡眠のリズムが狂っていますので、
思考力が落ちております)。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 22時33分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


善地と永井氏の関係が分かると良いですね。
そこから服部氏や鈴木氏・松島氏・加藤氏などとの関係が浮かび上がって来るかも。


睡眠不足ですか。
後で夏バテになるとマズイですね。
ズルズル体調を崩すことになるかも分からないので無理は禁物です。

でも暑さにも負けずアッチコッチ出かけることがお出来のようで
さすが三つ柏さん
少年のようで精神状態は最高ですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月06日 22時50分04秒 ) パスワード

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi63.htm

このサイト、すっごく面白いですよ。本来は善地の永井家を調べてて、家康を調べてただけなんですけどね。

「高天神離反組」とか   (松嶋氏に関係するのかな?とか興味深いです)

南朝方の婚姻関係とかも:

   津島の神官・大橋家と、同じ三河牛頭天神社の富永家。両家とも南朝勢力とも関連。


   津島神社の大橋家と長田家の関係とかね
   長田家が繋がってた?とビックリ。

          大橋家は平貞能の子孫ですからね。服部とは先祖が兄弟ですから。
          そこへ長田氏が絡むのは当然なんですが南朝方でもやはり?でした。


           大橋家は井伊、中根、川口(福富と縁戚)、長田(永井)、熱田千秋家、大河内、斯波と縁戚。織田信長とも近い。
    
           そして、大河内家の「於富」と、水野家の「於大」、母方の系譜の血。

           家康が今川義元に、一門の遠江堀越今川氏の娘「筑山殿」との婚姻を仲介されるほどに重要視されたのは、
           かつての大敵・大河内家の血筋だからなのでは。


お暇な時にでもどうぞ。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月07日 00時42分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大変すばらしいサイト教えていただき、ありがとうございます。これを
読解すれば、何でもわかるようになる位の飛躍が望めそうです。

 話は突然変わりますが、「服部中保次」の家紋がわかりました。細江の
刑部にある保次のお墓にもありましたが、それは苔むしてはっきりわかり
ませんでした。
 地元の郷土史家が調べたものですが、「十六桁源氏輪に横切竹」であり
ます。関の深川屋さんは八桁ですが、十六桁というと宗家なのでしょぅね。

 本日もムシムシしますので、明朝、涼しい時に続きを記すことにいたし
ます―
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月07日 05時18分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「服部中保次」の家紋がわかりました。
>細江の刑部にある保次のお墓にもありましたが、それは苔むしてはっきりわかりませんでした。

>地元の郷土史家が調べたものですが、「十六桁源氏輪に横切竹」であります。
>関の深川屋さんは八桁ですが、十六桁というと宗家なのでしょぅね。


保次の家紋については寛政諸家譜に「十六桁車の内横矢筈二」と書かれていましたが、「十六桁源氏輪に横切竹」ですか。

      呼び方は実にさまざまですから微妙に違ってても良いんでしょうけど
      「桁数」の違いは  アイデンティティー  の違いだと思います。




http://www.youtube.com/watch?v=pOFtx8KObU8
徳川家十六善神肖像図

服部半蔵の家紋が最初にアップで見られます:これによると  丸に竪矢筈二  でしょうか?


     榊原さんは「源氏車」というのがハッキリ描かれているのが分かりますが
     半蔵のは  「源氏車」じゃないですよね。丸に並び切竹みたいですよね。丸に並び矢筈かな?


          寛政重修諸家譜 巻第千百六十八
          服部半蔵の記述では家紋が【八桁車の内竪矢筈二】



>関の深川屋さんは八桁ですが、十六桁というと宗家なのでしょぅね。

つまり関の深川屋さんは服部半蔵系ということかも。千賀地系かもですね。



ということで服部中家については服部保右(やすすけ)の時に幕末を迎えているので
そこに227年在住して   今に至る  でしょうから
保右さんの御子孫が見つかると良いですね。きっと5代目6代目の方が近くにお住まいかも。
ワクワク
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月07日 05時28分04秒 ) パスワード

国立国会図書館デジタルコレクション
寛政重修諸家譜 264 コマ数105
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577556?tocOpened=1
 寛政重修諸家譜 1520巻 264 の  コマ数105  に書かれています


     左ページの1番左に  八桁車の内竪矢筈二  と出てます。


この「二」というのが永いこと謎でしたが「2つ」「並び」という意味なんでしょうね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月07日 08時13分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家紋の呼称は人によって、本によって相違がありますので困りますが、
伊賀系の矢に関する家紋の表現は、基本的には―
 @「矢」――矢羽。羽の上下部分に三本横線が入っている。矢を羽の
       根元で切った形。矢の幹の部分は残っている。
 A「矢筈」――矢羽の羽の部分の完全なるシルエット。矢の幹の部分
        はすべて外された形。
 B「切竹」――切り口がV字型の竹筒の側面図。竹の節の部分は基本
        的には入っていない。
の三パターンに分けられます。
 ただし、Bの切竹を「切矢筈」ということもある。また「青竹」とい
う場合もある。
 矢の向きによっては―
 @「並び〜」――縦(竪)に二列に並んだ場合。
 A横に二列に並んだ場合は、あえて「横〜」とは言わないが、いう場合
  もある。

 いずれにしても、「切竹」と「矢筈」は混同して使われているので困り
ます。
 切竹というのは、本当に「竹」に根差すものなのか、「矢筈」の弓の弦
をあてがう溝のパーツ部分を二つの切断面をつなぎ合わせたものなのか、
その辺はを正確に知りたいとは思っています。

 服部中保次の家紋は、能坂利雄氏の『日本家紋総覧』に基づけば、「源
氏輪(十六桁)に二つ切り竹」でしょう。しかしながら、言葉よりも実際の
図柄(実物)を見て描いて伝えるのが一番正確な情報伝達の方法であります
ので、もう一度、細江刑部の中保次の墓に行って、あらゆる方法をつくし
て写しとってみたいと思っております― 
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月07日 08時17分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 筆の会へいきますので、浜松のお寺の話は、帰宅後に記します―
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月07日 10時45分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


矢と矢筈と切竹の違い
ありがとうございました。


矢筈と切竹の違いが全く分かっていませんでした。


ホンヤさんでいろいろな家紋を見ることになりましたが
今は  ああ、あれがアレで、あっちがアッチだったのか、と
やっと。


つまり矢なのか矢筈なのか切竹なのかが同族内でのアイデンティティの違いであり、
時代によって洗練されていって、
その家の中でも自分の家の家紋がいろいろ変化していったのだなと。


一応、寛政重修諸家譜に記載してあるのがその家の基本の家紋ということでしょうね。

ありがとうございました。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月08日 00時10分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずは、ご報告を!
 本日、午後より細江町へ行ってまいりました。その目的は、「服部中
保次」の墓の家紋の検証でありました。

 墓は、細江町中川の九区防災センターの隣接の山裾にあります。昔は
刑部村といい、刑部城跡も比較的近くにあります。ただ、余りメジャー
でないので、看板なども小さく、どこにあるのかわかりにくいのが難点
です。

 今回は、不退転の覚悟で行きました。それはどういうことかと言いま
すと、墓に刻まれた「家紋」の解読であります。過去二回訪れています
が、その家紋は苔むしておぼろげにしかわからなかった。今から三百年
程前に、六代目の保貞によって建立されたと言われていますが、その後
中家の地代官や中家一族によって整備されたということではあります。

 まずは、般若心経を二巻唱える。そして、墓に水をかけ、家紋の部分
を指でさすってみる。下地の輪郭が少し現れる。さらに水をかけ、布で
こする。だんだんと見えて来る。苔がこびりついている部分をさらに布
でこすると、おおよその輪郭が現れた。「源氏車に(横並び)二つ切竹」で
ある。さらに、八桁か十六桁かであるが、細かい部分も水をかけてこする
と、完全に読み取ることができた。八桁である。関の服部家と同じであっ
た。十六桁というのは私自身あまり見たことがないが、車輪のパーツが細
かすぎて描きにくいものではないかと思う。地元の郷土史家が言うように、
本当に十六菊家紋だったのか、今後ひきつづき検証していきたいと思って
おります。


[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月08日 10時26分05秒 ) パスワード

消してしまった・・・




三つ柏さん


>今回は、不退転の覚悟で行きました。

暑い中、大変な作業、お疲れさまでした。
あせもにならないと良いのですが。



>般若心経を二巻唱える。

ありがとうございます。
どこかで繋がっている人のお墓ですから、4000km離れたこちらでも手を合わさせて頂きました。


>「源氏車に(横並び)二つ切竹」である。

ホンヤさんとこの家紋(3つ4つぐらい記憶していますが)も「車に横2つ切竹」ありました。

         これを2種類記憶しています。

                   切竹の形それから重ね方が違ってました。
                   デザインが古いなと思ったので、それこそ戦国時代のものかなと思いました。




>さらに、八桁か十六桁かであるが、細かい部分も水をかけてこすると、完全に読み取ることができた。
>八桁である。

          半蔵のは「8桁でたての並び矢筈」でしたね。 = 八桁車の内竪矢筈二



>関の服部家と同じであった。

そうしますと関の服部家と中保次は同じ一族?




>十六桁というのは私自身あまり見たことがないが、

    そうですね、6桁、8桁、12桁あたりですよね。16は多いですね。



>車輪のパーツが細かすぎて描きにくいものではないかと思う。

でも家紋はものすごく細かい模様の家がありますから
家紋入れ屋さんの腕の見せ所だったと思います。


>地元の郷土史家が言うように、 本当に十六菊?桁?家紋だったのか、今後ひきつづき検証していきたいと思っております。


本当に16本もスポークスがあったんでしょうか?
頑張ってサンプルが目に入ると良いですね。
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月08日 13時20分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もう一つ、服部中家の家紋に関する話題ですが、浜松市の西部に位置
する大久保の尋常中学校では、校章として「源氏輪に縦並び切竹」を使用
しておりました。これは、記録に残されております。但し、切竹の真ん中
には「節」が描かれておりました。
 いずれにしても、伊賀忍者系につながるこの家紋を校章に使用したとい
うことは、服部中家が地元の代官をずっと続けて貢献してくれたお礼と尊
敬の意味だったのかなあと思っています。
 ちなみに、服部中保次が今川の残党に暗殺されたのは、大久保(神ケ谷)
の代官屋敷から刑部に馬で見回りにやって来た時だったそうです。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月08日 13時40分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日読んだ本の中に、「岩櫃城」に関することが載っていましたので、
記します―
 「真田氏の領国であった信濃国や上野国の一部では、山岳信仰が盛ん
 だったため、彼らは修験道の影響を受けた呪術的要素の強い忍者集団
 といわれる。彼らは岩櫃山にある岩櫃神社などの神社や修験寺院を
 拠点に、忍術の修行を行ったとされる。」川上仁一監修『忍者』
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月08日 14時29分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>大久保の尋常中学校では、校章として「源氏輪に縦並び切竹」を使用
>但し、切竹の真ん中には「節」が描かれておりました。

「節」ですか。
笑っちゃいますね
ちゃんと「節」があるって、ひょっとして「遠江気質」からでしょうか?
「竹なんだから節があるべき」とどなたかがおっしゃったのかもですね。


中保次を顕彰してでしょうか?
それとも?


11代目の最後のご当主保右さんは市ヶ谷加賀屋敷にいらっしゃったのでしょうかねぇ。
で、最後の用人を勤めた馬淵金吾さんあたりが(県会議員になられたり浜松銀行の役員になられたり)
それで校章に中家の紋を使ったのでしょうか?

             曾孫の方は=馬淵澄夫さん=奈良で衆議院議員になってらっしゃる!ビックリ
             http://mabuti.net/blog/2014/08/15/1167/

                 前略
                 父は母と同じ昭和3年生まれ。
                 3月6日に静岡県浜松市で馬淵恒蔵・佐輿の三男として生まれました。
                 年の離れた兄弟の中で末っ子として自由奔放に育ったと親戚から聞いております。

                  父は、父の祖父にあたる金吾を敬愛しておりました。
                  馬淵金吾は遠州において自由民権運動家として明治14年に憲法制定・国会開設の建白書に名を連ね、
                  また第28国立銀行創立、浜松紡績、帝国製帽設立などの公的な仕事に従事しておりました。

                  父は祖父金吾への想いもあってか自らも幼少期から公人としての道を志すようになりました。

                  後略
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月08日 15時05分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 馬淵氏の件、ありがとうございました。馬淵という名前には前から気に
なってはいました。こちらではよく見られる名前でありましたので。
 まさか、あの民進党の馬淵氏の親が浜松の出身だったとは驚きです……!
 大久保代官屋敷の地代官として、服部中代官に仕えていた。馬淵氏の他
にも協力して支えていたのは、藤田氏、和久田氏……。
 服部中家の存続は、この人たちの存在なしではなかったかもしれません。
 今後、もっと突っ込んで探究してみます―
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月08日 15時08分28秒 ) パスワード

岩櫃のお話、面白かったです。


岩櫃神社・山岳信仰  ⇒ 忍者へ


       気付いたら
       上杉と武田と北条に囲まれて争奪戦が行われていたのですから情報収集に修行が生かされ、
       やがて忍者集団を形成した


でしょうか?


修行って、
我々現代人は精神的な方向で考えますが(学問とか医療とか占いや呪術とか)
他にも肉体的な修行でロッククライミングやったり筋肉を鍛えたり跳躍力をアップさせたりのジムやってたのか
と。笑

で、実用的に動いた集団が忍者になったのかな、とか。



フジの「VS嵐」という番組の「クリフクライム」を見てるとスゴイなと思います。
女性でも(中村アンが)ヒョイヒョイ登って行ったのを見て
身体能力高いなと。



アメリカの場合は南のメキシコからの密入国者が背中に麻薬を背負って直角、90度の壁をよじ登るというか難無く超えてしまうのです。
多分高さは3mぐらい?5mぐらい?

あの不法移民を見ていると忍者みたいです。背中に荷物をしょってますからね。
ま、荷物は薬物でしょうから、軽いのかも。


もっと高くて武者返しのある塀にしないと簡単に超えられてしまいます。
当然代金はメキシコに払わせろっていうのには賛成だけど意味が無い。
泥棒に警察をやらせると同じ。


中村アンを見てて「くの一」も枕術だけじゃないって思いました。

男性並みの身体能力でした。



なので岩櫃山みたいに高く険しければ良いトレーニングになるんだなと。
人里離れた山奥で修業するのは雑念を遮断するためと思ってましたがジムには急峻なほど良いということかと中村アンで思いました。
あ〜あ。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月08日 16時18分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松のお寺訪問の話をサッといたします。

 @曹洞宗 龍秀院 
   有玉北町にあり。たまたま通りかかった時に、立派な屋根が見えた
  ので寄ってみた。由緒のあるお寺でありました。案内板にはこうあり
  ました―
  「徳川家菩提所 龍秀院
   家康公が、浜松城在城のおり、当院五世琢翁宗・和尚が、茶会など
  の催しに幾度か招かれ、家康公との親交が深かったといわれている。
   また、家康公に説法をし、それを気に入られ、二十五石余の寺領が
  下賜されたという記録が残る。」

 A大應寺
   大瀬町にあり。馬淵家の墓、渡瀬家の墓、小杉家の墓が多かった。

  次からは、浜松の中心街のお寺です―
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月08日 22時45分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>小杉家

この家は、焼津の方に地名で「小杉」というのがあった記憶なので
元はそちらの出身なのかな、と。


>馬淵家の墓

どんな家紋なんでしょうね。
まさか  服部中家の家紋を拝領している  ということは?
でもお墓には本来の家紋でしょうね。

大久保の尋常中学の校章の件は馬淵金吾さんが指示されたんじゃないかなという妄想があります。




>馬淵氏の他にも協力して支えていたのは、藤田氏、和久田氏……。

和久田氏は記憶にありましたが藤田氏は記憶に無かったです。


でも「藤田」という名字が出て来るのは全然不思議ではありません。

    甲賀出身で丸に並び矢の親戚がフジタなのです。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月09日 10時17分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤田氏について記します。郷土史家の川島幸雄氏の著作に『馬郡町
藤田権十郎家の華麗なる系譜』という著作があります。もう一冊『小野
篁と遠州小野一族』という本もあります。
 両方ともなかなかの大書(内容的に)でありますので、簡単に述べます
と、小野篁の長男が篁の死後、その骨臓器を持って遠江赤佐郡にやって
来て葬礼を質素に営み、塚を造り小野篁神社を建立したという。この小野
氏から始まる小野一族が遠州に繁栄した。その小野氏の中に「藤田」の姓
を名乗った者がいた。篁からの八代孫、「政行」である。政行から数えて
十七代孫の「藤田重夏」が雄踏町宇布見村に居住するようになったという
ことであります。

 さて、ここからがすごいところ、「服部権大夫政信」登場です―

「その藤田重夏、及び子の彦左衛門は、元和四年(1618)江間与衛門一成
の後を受けて志都呂村に陣屋を構えて浜名湖の今切関所奉行を勤めた、
当時四十才前後であった服部権大夫政信と、その弟の服部杢之助政重に
仕えて、その陣屋役人となり敷知郡宇布見村領家に屋敷を構え服部氏に
奉仕し活躍した家柄である。服部氏に仕えた藤田家は本来であれば十万石
を越す大名家に匹敵される家柄にあり今切関所奉行となった服部家や次の
今切関所奉行となった服部仲家(服部仲保俊)の陣屋地代官を勤めるような
家柄ではなかったのである。」
ということで、オチまでついてしまいましたが、この藤田重夏の父親は、
藤田重信(信吉)といい、下野国西方藩一万五千石と旧領であった下野国
那須十万石を領していた。大阪夏の陣に榊原康政が痔疾による出血で
落馬し、それが元で病死してしまう。藤田はたぶん当初無理をするなと
計らっていたのだろうが、不幸な結果になってしまった。そして榊原の
老臣から戦功を立てる機会を失ったことを訴えられ、そして改易となっ
てしまったようです。

 服部家―政信・政重家と服部仲家のことが書かれていますので、後で
書き写してみます―休憩します。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月09日 10時53分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


藤田家の情報をありがとうございました。
もともとは小野氏でしたか。
じゃ、違うでしょうね。


>大阪夏の陣に榊原康政が痔疾による出血で落馬し、それが元で病死してしまう。

痔も痔瘻とか大変なのがありますから、命に関わったのかもですね。
また痔じゃなくても、大腸癌か大腸憩室か、そのあたりだったかも、ですね。


>藤田はたぶん当初無理をするなと計らっていたのだろうが、不幸な結果になってしまった。

痔でも大変ですけど大腸系の病気でしたらもっと大変でしたでしょうから
藤田が殿に無理をしないように勧めたのは当然でしたね。
でもそれが逆に働いてしまったのは本当に人生とは厳しいですね。


>榊原の老臣から戦功を立てる機会を失ったことを訴えられ、そして改易となっ
てしまったようです。

本当に気の毒ですね。
こういう事がありましたか。




人生って、、、、言葉を失います。



ちょっと違いますが尾張藩の家老だった成瀬家も気の毒な立場でした。悲願が叶ったのは・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E6%B0%8F

成瀬正成は家康の元で武功を上げ、栗原藩主に封ぜられ諸侯に列した。

後に尾張藩の御附家老として犬山城を与えられるが、正成の代から明治維新まで、犬山成瀬氏は陪臣の扱いを受け続けることになる。

このために紀州や水戸の付家老と連携して大名への昇格を画策し、明治維新後、9代当主成瀬正肥は悲願の立藩を果たし、犬山藩の藩知事となるが、
すぐに廃藩置県が実施される。

維新後は男爵、1891年4月23日には子爵に陞爵した。
陞爵(しょうしゃく)= 功績により爵位がランクアップすること。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月09日 13時26分06秒 ) パスワード

大坂夏の陣で死んだ家康の替え玉になったという小笠原秀政の生まれた場所が!!!宇治田原でした!!!ビックリ


        宇治田原とは一体どういう位置付けなんでしょう?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E7%A7%80%E6%94%BF

小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃守護小笠原氏の末裔。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、信濃松本藩の初代藩主となる。小笠原宗家初代。



永禄12年(1569年)3月21日、小笠原貞慶の長男として山城宇治田原で生まれる。この頃の小笠原氏は武田信玄に信濃を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で織田信長が死去すると、父・貞慶は徳川家康の家臣となるため、長男の貞政を人質として差し出し、石川数正に預けられた。

天正13年(1585年)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった[1]。貞政は秀吉より偏諱を与えられ秀政と名乗る。天正17年(1589年)1月、父から家督を譲られて小笠原氏の当主となる。8月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫(信康の娘)を娶ることを許された。

天正18年(1590年)、父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総古河に3万石を与えられた。同年の小田原征伐でも軍功を挙げた。

文禄4年(1595年)3月20日、従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられる[2]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(1601年)に信濃飯田5万石に加増移封される。慶長12年(1607年)、出家して家督を長男の忠脩に譲る。慶長18年(1613年)に父祖の地である信濃松本8万石に加増移封された。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参陣し榊原康勝軍に従って、本多忠朝を救援する。しかし天王寺口の戦いで大坂方[3]の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる[4]。享年47。この激戦において本多忠朝も戦死し、榊原康勝も戦中の患威が元で戦後すぐに死亡している。

跡を次男の忠真が継いだ。なお、このときの秀政の戦死が、後世の小笠原氏の改易危機の際に、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した。


逸話

死ぬ前に、家康に対して「信濃は……」と言い残したと伝わる。続きは不明。後継者に関する物だと思われる。



脚注

1.^ 貞慶が秀吉と内通したために、数正も秀吉のもとへ出奔せざるを得なくなったとする柴裕之の説もある(柴裕之「石川康輝(数正)出奔の政治背景」『戦国史研究会』60号(2010年)/所収:柴『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-884-4)。
2.^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号P120
3.^ 毛利勝永隊、毛利隊を追随してきた木村宗明らなど諸説ある


               ココ↓

4.^ 大坂夏の陣のときに死去したのは家康で、その後の1年間は秀政が家康の影武者として存命を偽装したという説がある。徳川家康の影武者説#大坂の陣で死亡を参照。

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月09日 13時40分08秒 ) パスワード

http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/p01.html
宇治田原歴史の道

画像:旧信楽街道(奥山田)   ⇔  これでアヤシイと思いました(笑)


 宇治田原には古い歴史を物語る文化財や旧跡、地域で伝えられてきた伝承や行事、豊かな自然とそれらが育んだ文化が残されています。これら「地域資源」を活用した観光振興を図る中で、宇治田原に関する歴史上の人物や伝承をテーマとした周遊ルートを整備しています。ガイドマップを片手に歩けば、宇治田原の魅力を感じていただけると思います。
 コースの始点となるバス停付近にはコースのテーマや見所を紹介する案内板を設置し、コース上の数カ所にもコースを案内する道標を設置しています。案内板と道標にはコースガイドと設置地点を解説する携帯電話用サイトにアクセスするQRコードを掲載しています。


コース
「蕪村の宇治行〜田原の隠れ里」(郷之口〜高尾〜荒木)
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/buson/buson01.html

このコースは、江戸時代の代表的な画家であり俳人のひとりである与謝蕪村が来訪した足跡と、万葉歌人の施基皇子の伝承にまつわる旧跡を結ぶコースとして設定したものです。
 蕪村の句碑が建つ妙楽寺のある郷之口の古い家並み、伝承に彩られた高台の高尾からの絶景、歴史を感じさせる荒木地区を巡り、大峰山への手軽なハイキングコースとしてもお薦めです。
 コースガイドでは郷之口下町を始点としていますが、このコースは荒木側を始点にすることもできます。
 コースの始点には案内板、道中には数カ所の道標が建てられています。

コースデータ

 全行程距離:約11km
 所要時間:約5時間(見学・休憩時間含む)
 高低差:約380m
 消費カロリー:756kcl(体重60kgの人が平地で上記の距離を歩いた場合)
 交通アクセス
 JR奈良線「宇治」、近鉄京都線「新田辺」、京阪宇治線「宇治」の各駅より京阪宇治バス「維中前」「工業団地」「緑苑坂」行きに乗車
 最寄りバス停
 「下町」(郷之口側)、「ね田」(荒木側)




「信楽街道〜家康伊賀越えの道」(郷之口〜立川〜湯屋谷〜奥山田)
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/igagoe/igagoe01.html

このコースは宇治田原を東西に横断し、山城と近江を結ぶ交通路「信楽街道」のルートを基に、「伊賀越え」で徳川家康が通ったと思われる道をたどるモデルコースとして設定したものです。
 信楽街道は、宇治田原の西の玄関口である郷之口から、贄田(ねだ)、立川、湯屋谷を通り、最も東の奥山田の裏白峠を越えて信楽に至るもので、国道307号のルート以前に東西を行き来する主要な交通路でした。
 現在は自動車では通れない場所もありますが、その痕跡をたどることが可能です。
 コースの始点には案内板が、道中の数カ所には道標が建てられています。

コースデータ

 全行程距離:約8km
 所要時間:約5時間
 高低差:約200m
 消費カロリー:
 交通アクセス
 JR奈良線「宇治」、同学研都市線「京田辺」、近鉄京都線「新田辺」、京阪宇治線「宇治」の各駅より京阪宇治バス「維中前」「工業団地」「緑苑坂」行きに乗車
 最寄りバス停
 「下町」(始点)、「維中前」(立川)、「工業団地口」(湯屋谷)





「田原道〜古老柿発祥伝説」(岩山〜禅定寺)
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/tawara/tawara01.html

このコースは、古代に山城と近江を結ぶ官道として整備された「田原道」が通ったと思われるルートを中心に、宇治田原を代表する文化財や史跡をたどるモデルコースとして設定したものです。
 古代から、都(大和)と全国を結ぶ交通路「官道」が整備され、その多くは後の時代まで「東海道」「中山道」などの主要交通路として利用され、現在もその痕跡を残しています。「田原道(たわらみち)」は現在の城陽市青谷から宇治田原の禅定寺を経て滋賀県大津市の瀬田に至る道で、しばしば歴史的事件の舞台となりました。町内でのルートと考えられる岩山地区〜禅定寺地区には多くの文化財が残されおり、特産品の干し柿「古老柿」発祥伝説の舞台でもあります。
 コースについて詳細に解説するガイドマップを発行していますのでご利用ください。コースの始点には案内板が、道中の数カ所には道標が建てられています。

コースデータ

 全行程距離:約9km
 所要時間:約5時間(見学・休憩時間含む)
 高低差:約115m
 消費カロリー:約756kcl(体重60kgの人が平地で上記の距離を歩いた場合)
 交通アクセス
 JR奈良線「宇治」、近鉄京都線「新田辺」、京阪宇治線「宇治」の各駅より京阪宇治バス「維中前」「工業団地」「緑苑坂」行きに乗車
 最寄りバス停(始点・終点)
 「維中前」
※毎月13日は維中前〜猿丸神社臨時バス便あり


古代の官道 田原道
 田原道は、山城地域を南北に縦断した「北陸道」から瀬田を経由して東国に向かう「東山道」の一部として奈良時代(8世紀)には整備されていたと考えられる官道(現在の国道のようなもの)で、それまでは規模の小さな道だと思われていたものが、平成19年に滋賀県大津市の「関津遺跡」で幅15mもの道路が南北に直進している遺構が発見されたことにより、当時の主要な官道と同等の規模に整備された箇所のあることが明らかになりました。
 天平宝字8年(764)、反乱の企てが露見した「恵美押勝(えみのおしかつ)(又は「藤原仲麻呂」)は、一族を伴って宇治道から近江に逃れようとしますが、追っ手の官軍は田原道を先回りして「勢多橋」を焼いたため、反乱軍は戦意を喪失しました。



 千年の古刹・禅定寺
 地区の名称にもなっている禅定寺は、正暦2年(991)開基という町内でも屈指の歴史を誇る古刹で、藤原氏の庇護を受けたことで栄え、広大な寺領を有していましたが、中世以降は衰退していました。江戸時代に入り、加賀の月舟により延宝8年(1680)曹洞宗寺院として復興し、現在に至っています。本尊の木造十一面観音をはじめ、平安時代の仏像や禅定寺文書などの古文書が重要文化財となっており、他にも町指定文化財など、数多くの文化財を有しています。
 また、境内の山地にある「美女石」は、「古老柿」発祥伝説の舞台とされます。


 古老柿発祥伝説
 宇治田原特産の干し柿である「古老柿(ころがき)」は、「鶴の子」という渋柿を「柿屋」という棚に並べて乾燥させる独特の方法で作られ、その発祥には禅定寺にまつわる伝説が伝えられています。
 むかし、渋柿を甘くする方法が知られていなかったころ、どこからともなくやってきた娘が甘美な干し柿を売り歩いていました。娘は村人の求めに応じてその製法を伝えましたが、自らの素性を明らかにせずその場を去っていきました。村人達がその後をつけていくと、娘は禅定寺の近くの岩場で忽然と姿を消したかと思うと、観音の姿を現しました。娘は、禅定寺の本尊である十一面観音の化身だったのです。以来、娘が伝えた干し柿を「孤娘柿(ひとりの娘が伝えたため)」と呼ぶようになったそうです。



「鷲峰山登山道〜祈りの参詣道」(岩山〜立川〜湯屋谷)
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/jubusan/jubusan01.html

このコースは、古くから山岳信仰の拠点として栄えた鷲峰山の参詣道として利用され、現在は手軽なハイキングコースとして利用されているものです。

コースデータは省略します



「天武天皇伝承〜宇治拾遺物語」(南〜郷之口)
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/suhuui/shuui01.html

天武天皇の煮栗焼栗
 宇治田原にも伝わる、天武天皇(大海人皇子)にまつわる伝承は、「宇治拾遺物語」巻十五に収録された「清見原天皇、与大友皇子合戦事」で語られています。

 蘇我入鹿を倒し、「大化の改新」を進めた天智天皇の弟である大海人皇子は皇太子の地位にありましたが、天皇の御子である大友皇子が太政大臣として政治に携わっていました。

 天皇が病になったとき、大海人は病床の天皇から自分の後継者となる意欲があるかと問われると、ないと答えて出家し、吉野へ籠もりました。

 大海人の存在を危険視した大友は、大海人を謀殺しようと計りますが、これを知った大友の妻で大海人の娘である十市皇女がフナの包み焼きに隠した手紙で身の危険を知らせました。

 吉野を発った大海人は、身分を隠し山を越えて北に向かい、数日して山城国の田原にたどり着きました。

 来訪者にただならぬ気配を感じた里人は、高杯に盛った焼き栗やゆでた栗を差し出しました。大海人はこれらの栗を「願いがかなうなら、芽を出せ」と埋めて里を後にし、伊勢を経由して美濃に入りました。

 多くの兵を連れて近江に戻った大海人は、大友の軍と戦って勝利し(壬申の乱)、大和で天武天皇として即位しました。

 やがて田原の里に埋められた栗は芽生えて立派な栗林となり、そこで収穫された栗はあたかもゆで栗のごとく色つやがよく、「田原の御栗」として献上されるようになりました。

 宇治田原の伝承では大海人は近江から吉野への道中に田原へ立ち寄ったとされています。



 宇治拾遺物語
 「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」は、鎌倉時代に成立したと思われる説話集で、仏教的説話以外にも世俗的な話や伝承など多彩な内容で構成され、中には昔話として有名な「わらしべ長者」「こぶとり爺」「雀の恩返し」も含まれています。その編者は不明ですが、源隆国が編纂したという「宇治大納言物語」から漏れ落ちた話題を拾い集めた続編であるともいわれます。

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月09日 13時54分50秒 ) パスワード

何度も書きますが下記の平家がらみの足利忠綱は足利尊氏の足利氏(源氏)ではありません。
藤原秀郷の子孫ですから藤原姓です。



http://www.geocities.jp/uji_tawara/
足利忠綱(田原又太郎)の墓


 信西入道塚と並び、2005年大河ドラマ「義経」関連の話題に含まれるかもしれないもの。

 1180(治承4)年5月26日、後鳥羽法皇の子、以仁王(もちひとおう)は源頼政とともに平氏打倒のため挙兵を計画したが未然に発覚したため、僧兵の力を得るため都から奈良へ向かう途中に宇治の平等院に入った。これを追う平知盛、重衡、維盛らと宇治川を挟んで対峙した。王側は宇治橋の板をはずしてわたれなくし、奮闘したが、破れて頼政は自害し、大和に逃れた王も道中で戦死した。結果 的にこの挙兵は失敗したが、これがきっかけで全国から平氏打倒ののろしが上がり、源頼朝や義仲らが挙兵することになった。



 この宇治川の戦いで平家方の武将として参戦したのが足利忠綱で、宇治田原にこの忠綱に関する伝承があるのも、この忠綱が藤原秀郷(俵藤太)の子孫といわれるからであると思われる。

鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」では「末代無双の勇士」とされ、身長180センチで百人力を誇り、声は十里に届き、赤ら顔の口には大きな牙まであったという。

以仁王側が宇治橋を渡れないようにしたのに対し、忠綱は宇治川の急流を渡る作戦を敢行したことが、平家方の勝利につながった。このとき17歳。このことは「平家物語」の名場面 ともなっている。忠綱の愛用する先祖伝来の家宝の鎧「避来矢」は、敵が射かけた矢が避けてしまうという。


 忠綱の終焉の地は桐生市とされるが、宇治田原の伝承では、平家の滅亡を嘆いてまたは宇治川の戦いで負傷して郷之口にたどり着き、北堂山で自刃したという。そこに又太郎社が建立されたが、現在は斎田神社に合祀されている。




山口城とか山口という人物は家康の伊賀越えの時に出て来ますが、山口城=宇治田原城でしたか。
なるほどね

山口甚介秀康は小川城主の多羅尾光俊の子ですって。
なるほど!


ということは
あの喰えない呉服明神の神職服部貞信は宇治田原に引っ越していたから
もともと多羅尾氏なんかともアヤシイ関係があったのでしょうね。




http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/root/igagoe/igagoe02.html


徳川家康の伊賀越え(神君伊賀越え)

 天下統一を目前にしていた織田信長は、天正10(1582)年6月2日、滞在していた京・本能寺で明智光秀の襲撃にあい、その生涯を閉じました。
 当時信長の招きで堺に逗留していた徳川家康は、上洛の途上でその事実を知り、いったんは信長の後を追う覚悟をしたものの家臣に止められ、意を決して急ぎ領国まで帰ることにしました。
 随行する家臣の人数が少ない中、明智方や一揆の襲撃におびえながら、大阪の枚方から山城(現在の京田辺)に入り、「草内の渡し」で木津川を渡りました。このとき遅れた家臣の穴山梅雪が飯岡で襲われて命を落としたともいわれています。


 当時信長の命で交通の要所である宇治田原を押さえるため郷之口に「山口城(宇治田原城)」を構えていた山口甚介秀康は、家康が向かっていることを知って配下を迎えに行かせました。



 家康一行は、市辺(現在の城陽市)を経由して宇治田原に入り、山口城で昼食をとったといいます。やがて馬を換えて出発し、当時山城と近江を東西に結ぶ「信楽街道」が通過する立川、湯屋谷を経て奥山田に入りました。国境の裏白峠を越えて朝宮に入った家康一行は、多羅尾氏の小川城に入り、一泊したといいます。
 以降は警護も強化され、伊賀を経由して白子浜に出て、そこから舟で伊勢湾を渡って無事三河に到着しました。
 なお、山口甚介秀康は小川城主の多羅尾光俊の子であり、道中の市辺や宇治田原、信楽(甲賀)、伊賀に味方する人物が多かったことからもこの地を経由したとも考えられます。
 なお、この伊賀越えの経過やルートについては諸説あります。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月10日 00時32分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宇治田原についてとうとうわかりましたね。今までの謎が大方解けた
感じがします。あとは、距離感・方向感覚がわかればさらによしです。
 伊賀・甲賀系の違いについても、実際どのような違いがあったのか、
その実際の肌感覚、空気を知りたいです。

 さて、浜松の町なかのお寺訪問について、簡単に報告いたします―
 @浄土宗 法林寺 ここには、「丸に違い矢」の服部家の墓がありまし
         た。
 A法華宗 東漸寺 ここには、「源氏輪に並び矢」の服部家の墓があり
         ました。
          また、曳馬城主飯尾豊前守御墓所があり、仏塔が
         建てられておりました。
 B浄土真宗本願寺派 本称寺 特筆すべきものはありませんでした。
 C真言宗 龍禅寺 ここでは、役小角の像があり、それを寄贈したの
         が中田島の大石五郎七と西ノ江の三輪三郎右衛門と
         いうことが書かれておりました。私の母方の親戚筋
         のような気がしております。
 いずれにしても、服部家の墓に対してと、飯尾豊前守の墓に対して、
般若心経を二巻ずつ唱えてまいりました。 

 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月10日 08時22分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

>伊賀・甲賀系の違いについても、実際どのような違いがあったのか、その実際の肌感覚、空気を知りたいです。


はい
知らない土地というのはヨソ者には分かりづらいですね。

今回の宇治田原も、どんな所?大きなお城が無いから田舎?という感じでピンと来ませんでした。


伊賀と甲賀は戦国時代まではたいして違いは無かったのでしょうけど
政治的に決定的に差が出来ていったのかもですね。
こんな辺りしか空想出来ません。

伊賀の方が世界的に認知されてますが
ポケモンの最近のシリーズで「ゲッコウガ」=月光蛾=ゲッ甲賀=という忍者蛙が活躍してますから
甲賀も子供達の間で認知され、いずれ、世界的になるかも。


でもそうなると伊賀と甲賀が対立されて認知されるのかもですね。
ますます伊賀と甲賀が乖離するのかも。
ちょっとカナシイですが、取り敢えず認知されるのが先でしょう。



>曳馬城主飯尾豊前守

このヒト、気になります。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E6%B0%8F
飯尾氏(いいのお — 、いのお — 、いいお — )
1.駿河飯尾氏。三善為康の末裔。
2.織田氏支族の飯尾氏。⇒  嫡流断絶、庶流長沼氏になる


1の駿河飯尾氏について

本姓は三善氏。
三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。
元々は室町幕府の奉行衆の家柄であったが、飯尾長連の代に駿河に下り、今川氏譜代の家臣となった。


戦国時代、飯尾賢連は今川氏親に仕え、引馬城(後の浜松城)主となった。
賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。

                                         ここで飯尾氏を記憶してたのか


乗連の子飯尾連竜は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。

その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連竜が誅殺されたために、駿河飯尾氏の嫡流は断絶した。
                                         そうそう!虐殺されたことで飯尾氏を記憶してたのだと思う。 


                                                戦国時代は厳しいですね。  


>飯尾豊前守の墓に対して、般若心経を二巻ずつ唱えてまいりました。

ありがとうございます。
飯尾豊前守が喜んでいるのを感じます。

武士は後世に名を思い出されてこそ名誉ですが般若心経を唱えて貰って喜んでいると思います。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E9%80%A3%E7%AB%9C

飯尾 連竜(いいお つらたつ)/ 飯尾 致実(いいお のりざね)


戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国曳馬城主。

駿河飯尾氏の出自は三善氏といわれる。元々室町幕府の奉行衆であり、飯尾長連の代に駿河国に下向、以来代々今川氏家臣として仕えた。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて、織田信長を相手にした駿河今川氏は当主の今川義元を討取られると同時に、連竜の父で長連の孫の乗連を初めとする遠江の今川氏配下領主や国人領主達にも数多の戦死者を出した。当主戦死による混乱も相まって、今川氏は遠江国に対する支配力を低下させたため、遠江国は混乱状態になった。今川氏に仕える者、織田氏に寝返る者、三河国で今川氏からの独立(再独立)を計る松平家康(徳川家康)に同調する者など、国内は混乱した。

永禄5年(1562年)、連竜が松平家康を通じて織田・松平方に通じたことを知った今川氏新当主の今川氏真は曳馬城を攻めた。[1]「この時氏真が大いに怒り糾明するために曳馬城を攻めたが利あらずして退いた。」と、『遠江』『武家事紀』は記している。『改正三河後風土記』では連竜が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に新野親矩とその弟式部之規を大将とした三千人の兵を曳馬城へ差し向け、有無を言わさずにいきなり攻撃したと記されている[2]。これは今川氏の遠江国支配保持のための見せしめ、いわば強硬な武力示威行為と考えられる。しかし今川方は曳馬城を落すことができず、連竜と和睦し一旦退いた。またこの戦いで寄せ手の氏真方の大将の新野親矩や三浦正俊、中野直由ら、飯尾氏の側でも重臣等が戦死した、ともされている[3]。『改正三河後風土記』ではその時連竜は少しも恐れず矢炮を飛ばし防戦し、寄せ手の大将である新野親矩達を撃退することに成功したが、氏真はますます怒り、朝比奈泰能、瀬名親隆とその子瀬名氏範、朝比奈秀盛等大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちなかった。連竜は敵陣に対して矢文で「某讒者の為に無実の罪を蒙ったために遺恨はなく、一時の急難をのぞかんがために防戦したためまったく異心はなく早く讒者の虚実と糾明して恩免を蒙りすみずみまで二心なく忠勤する」という起請文を出した。今川方の寄せ手はそれを受け取り、引き返した、と記述されている。

『井伊家伝記』では曳馬城の城主だった井伊直平の家老だったと記されており、天野左衛門尉が今川氏に背いたことを知った氏真が井伊直平に天野左衛門尉の鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている所を天野左衛門尉と天野左衛門尉の縁者とお田鶴の方と共に連竜へ反逆を勧め、連竜は直平に反逆した。そして永禄6年(1563年)9月18日にお田鶴の方が直平に茶を勧めるも、その茶は毒茶だったため直平は有玉旗屋の宿にて落馬し絶命した。(また『井伊家伝記』には連竜が直平に毒薬を進め申したと上記とは異なる記述も存在する。[4])その後連竜達は飯尾一味に同心の輩を相催し、大手を固め籠城した。またこの時直平の家来も毒死。多くは連竜達の味方になった。直平の死後、連竜は氏真にも反逆を企み従わなかった。これにより、氏真の命で新野親矩、中野信濃守が攻め込むも、両人無勢にて攻めづらかったため、氏真に援軍を願い申した。その後永禄8年(1565年)に氏真より兵1000人または2000人の援軍、井伊谷の兵を集め曳馬城を攻め込むも両人は討死した。

正確には不明であるが、遠州錯乱と呼ばれるような遠江国の混乱および、飯尾氏や犬居城主天野景泰、元景父子、二俣城主松井宗恒ら遠江領主による今川家を離反する動きがあったことが確認される。

しかし、連竜に対する疑念を拭い去ることができなかった氏真は連竜を駿府に呼び寄せた。永禄8年(1565年)12月、連竜はわずかな供を連れて駿府に入ったが、駿府城内の一角で氏真によってあえなく謀殺された。[5]



『改正三河後風土記』では、氏真に罪を許された連竜は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺された、と記されている。


また『武家事紀』では連竜の死に関しては複数の記述がある。

氏真は駿府で連竜に対して逆心を糺明し、永禄8年(1565年)12月20日に氏真は駿府において連竜を切腹させたとある。この際に連竜は自身の屋敷に立て籠もり、兵士を所々に出して力戦し、打手の大将の新野親矩をはじめとして多く戦死した。その後連竜は自殺した、とされている。

また同書には永禄7年(1564年)12月20日に自害したとも記されている。



『井伊家伝記』には永禄11年(1568年)に連竜は曳馬城の城主となった。またこの時武田信玄が大軍を集め氏真を攻め込もうとしていたため、氏真は遠州の人数を集め防戦の支度をした。この時氏真は松居郷八郎という別懇の武士を以って連竜に和談を申し入れた。今度引馬の兵を相催し武田軍を相防ぎ申せば、連竜の息子の辰之助に氏真の娘を遣わす申した。連竜は近年氏真に背いていたため、連竜は誠実と思い辰之助と共に駿府へ下向いた。この時氏真と三浦右衛門が辰之助に祝言をもてなし酒宴を催し、氏真は連竜と辰之助を切腹させた。



子孫
長男に義広がおり、義広の誕生を祝って始められたのが「浜松まつり」の凧揚げであるとされている。

その起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であるとする研究が進んでいる。

                                           あらあら・・・



現在の東京都渋谷区の一地域(現在の原宿・竹下通り・表参道周辺)である穏田(旧・穏田村)の旧家である飯尾氏は、飯尾連竜の次男の子孫であると自称している。

「天正年間に同地に移住してきた浜松曳馬城最後の城主である飯尾豊前守正純(連竜)の次男の飯尾弥太夫(飯尾正宅)が入植し、同地を飯尾氏が源氏である旨をもって源氏山と名付け、江戸幕府三代将軍の徳川家光に言上した」と伝えられている。

ただし、飯尾連竜の次男は良質な史料では確認されておらず、また飯尾氏の先祖は三善朝臣であり源氏ではない。


                                       この最後の「源氏ではない」というのは「源氏の長者=徳川家」に認められれば源氏になるんだから、ワタシにはどっちでも良いです。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月10日 15時21分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飯尾氏に関する情報ありがとうございます。
 戦乱の陰に忍者ありということ、この曳馬城における飯尾氏のどちらに
付くかの葛藤にも、江間氏と通じた「松下常慶安綱」の調略工作が功をな
したということであります。
 その江間時成の息子の一成が、新居関の初代関所奉行、その長子が第二
代の関所奉行、そして第三代目は、そう「服部権太夫政信」とその弟「服部
杢助政重」であります。そして第四代が「服部権太夫政信」と政重の嫡子
の「服部杢助政次」、第五代が「服部杢助政次」と「服部中保俊」であり
ます。
 保俊の祖父の服部中保次は細江刑部領主になって暗殺(1587年)されてい
ますが、松下常慶もまた刑部領主になっています。どうも、この頃には、
諜報・警備を主体とした「特殊警察組織」の形ができつつあったと思われ
ます。そしてそれがその後の「火付盗賊改」になって行ったのだと思いま
す。
 もちろん、江戸城の警備・御庭番という伊賀忍・甲賀忍・等の別の流れ
もありますが。組織的にはどうなっていたのか、今後調べてみたいと思っ
ています。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月11日 10時23分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


>江間氏と通じた「松下常慶安綱」の調略工作

はい。


>どうも、この頃には、 諜報・警備を主体とした「特殊警察組織」の形ができつつあったと思われます。
>そしてそれがその後の「火付盗賊改」になって行ったのだと思います。

素晴らしい着眼点ですね。
今で言う「治安組織」「公安」ですね。


そしてもう少し後の世に柳生一族が絡んで伊賀と甲賀の離反を画策したのでしょうね。
かな?



昨日今日は、うちのマンションの中国人の老人の手術の時の書類の英語の中文訳をやってました。

膵臓って  胰腺   肉月 + 夷  に  腺  なんですよ。
微妙に言葉が違うのでいちいち確かめないといけません。

筋肉は  肌 肉  って言うんですよ。はぁ?  「 は だ に く 」?です。


アメリカってスグに退院で、この老人は手術を1日1回の3回(つまり3日)やって、入院して1週間後には退院でした。

入院中の1週間は点滴で、やっと退院の日になって、食事が出たものの「豆腐の味噌汁」だったそうで
皆で大笑い。

    いくら何でも中国人に味噌スープなんてなぁ

と。

    それも味噌スープなんて食べたことも無いような人間が作ってるわけだし。


こんなハナシを聞くと恐ろしくてアメリカでは病気になれないです。


その1週後に車に跳ねられて頭に怪我した同じマンションの女性は即日退院になったそうで
日本人の御主人は「日本だったら2週間とか1か月とか入院させてくれるのに」
と怒ってました。


みんなジム仲間です。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月11日 17時05分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 こちらでは、七月の上旬で真夏の最高気温に到達してしまいましたので、
これからの本格的(?)夏の到来……40℃を超えるのではと末恐ろしい気
持ちです。ちょっと炎天下にいれば、すぐ日焼け……突き刺すような日差
しであります。

 今週はこの地方はお盆で忙しいです。来週はすぐゴルフコンペ、週末は
信州へ行きます。上田・松本・安曇野を予定しています。松本では馬刺し
を食するのを楽しみにしています。馬の歴史にも深いものがあり、馬を
食する文化というのは、死んだ場合のみ食用に処理したようです。一匹
がベンツのようなものですからとても食するなんて……でも今は平気で食
べてしまいます。申し訳ないと思うのは私だけ……?

 馬の歴史についてまとめた本があるといいなといつも思っています……。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月11日 23時00分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


日本は猛暑だそうで、まだ梅雨明け前ですよね。
もうあと10日間は梅雨の中としたものなのに名古屋も35度だと言ってたかな。
     だいたい名古屋の最高気温は8月に38度です。
     今年はホントに40度行きそうですね。
     こんなの死者が出ますよ。
     ラスベガスで40度は快適ですけどね。湿度が低いから。


ホント!どこまで水銀柱が上がるのやら恐ろしいですね。


こちらは観光地なのでテキトーな所で最高気温のハナシが作られるので
実際は分かりませんし
紫外線が強いので太陽の光は強烈ですが
風が吹くと肌には心地良いし
良く分かりません。一応公表最高気温は32度とか33度ですが、もっと行ってると思います。

とにかく30度を超えると湿度が高いのが困りますね。


こちらは湿度が高いので木綿とか麻でないと膚呼吸が妨げられる気がするのですが
売ってるのは混紡ばかりで(現代的な通気性のある化学繊維?)
すぐに膚が窒息しそうで着古した木綿や麻に着替えますが
「よくまぁココの人はあんな物を着てる」と在布哇歴の長い人に言ったら
「ここの人は身体が入るかどうかが問題で素材なんか度外視」
と言ってました。


>ちょっと炎天下にいれば、すぐ日焼け

首には手ぬぐいを巻いているのが良いですよ。
首の後ろを直射日光でやられると寝込みますよ。

来週の草刈り、頑張って楽しんでください。


信州に行ったら馬刺しとザザ虫の佃煮と蜂の子と・・・
楽しみがたくさんありますね。


馬は母が戦争中に近くの運送屋の馬が爆撃で死んでお裾分けを貰ったなんて言ってました。
あ、犬は赤いのが美味しいんだなんて話も聞きました。

そうそう、昔、仕事で犬がギャンギャン鳴いていると
XXXX人の同僚が「お前、そんなに鳴くとディナーにされるぞ」と脅してたので
「いや、この犬は白いから不味いんじゃない?」とその犬をからかってました。


ベンツのような馬は競走馬でしょうから(仔馬で300マンだなんて45年も前に馬主が話してました)
馬主にはしっかり元を取らせ、馬にも最期まで人の役に立ってもらってください。
かな?あはは


>馬の歴史についてまとめた本があるといいなといつも思っています……。

信州ならありそうですが
頑張って探してみてください。


信州の旅行話、楽しみにしています。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月12日 15時22分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠江地方における長田・永田・永井・服部の分布を2000年版の
「苗字でポン」でそのと特出した傾向を調べてみました。

 @長田:圧倒的に御殿場方面に多い。およそ500軒。
     細江町気賀14軒。
     新居町に16軒。

 A永田:磐田駅南におよそ45軒。
     引佐・気賀地域に41軒。

 B永井:善地に30軒。
     磐田駅南におよそ53軒。

 C服部:磐田駅南におよそ31軒。
     舞阪に14軒。
     善地に7軒。

 @からCに共通するものはないかと見比べてみますと―

 ア.「長田」と「永田」は引佐・細江での分布の多さが共通しています。

 イ.「永田」と「永井」と「服部」は磐田駅南での分布の多さが共通し
   ています。

 ウ.「永井」と「服部」は善地での分布の多さが共通しています。

 この内、アについては、単純に永田氏が引佐・細江方面に移住したとい
うことだと推察します。
 
 イの磐田駅南に「永田」と「永井」の多いという結果をもたらした最大
の要因は、やはり長田氏が三河からの移住したということではないかと推察
されます。具体的には、後で根拠を記します。

 また、磐田駅南に服部氏が多いという結果には驚いています。想定外に
近いことでしたので、さっそく調査にかかりたいと思います。

 ウの永井氏と服部氏は、イの延長線上と考えられなくもありません。でも
何故善地なのかは、善地の地理的・歴史的な特徴を検証する必要があります。

 とりあえずは、この段階で一度切ります―
 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月12日 22時48分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


>磐田駅南に服部氏が多いという結果には驚いています。
>想定外に近いことでしたので、さっそく調査にかかりたいと思います。

そんなものなのでしょうね、灯台下暗し、捜し回ってたお宝は実は自分の目の前に存在してた、のかも。

善地と磐田の関係が分かると良いですね。
でも磐田ですと古代服部氏がらみ以来なのかなと思ったりします。
なんせ国分寺のあった所でしょ?
前にもいろいろ調べましたが、磐田の図書館に行っていろいろ情報をとって来ないとね。

    磐田の歴史は浜松よりずっと奥が深いと思います。



>ウの永井氏と服部氏は、イの延長線上と考えられなくもありません。
>でも何故善地なのかは、善地の地理的・歴史的な特徴を検証する必要があります。

はい、何故、善地なのか?
やっぱり浜松の図書館や教育委員会の歴史編纂の記録を読み直さないと、でしょうね。



焼津も行かないといけないし
1年に365日なんて足らないですね。
ふふふ
予定がいっぱいで楽しい日々ですね。

[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月13日 00時00分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長上郡というのは上長田郡という意味で、私の住む地方には奈良時代より
前から、長田評(ながたのごおり)というものが存在していました。
 そのことと長田氏との関係を解明したいとは思いますが、とても深いもの
があると思います。『天孫人種六千年史の研究』にも出てきます。長田族・
長田神というものがあります。これが諏訪神社と関係して来るという……と
てもとても深い歴史の謎―
 とりあえずはこの謎には触れないでおきたいと思います。

 でも、長田という土地と、羽鳥という土地は、浜松にも、静岡にもあり、
共通して大河下流の開けたところに存在しています。ここから導き出せるこ
とは、長田・永田・永井と服部は、もともと太古の時代から近い関係にあっ
た可能性があるということであります……。
 この際、永井・永田・長田に軸足を移し、なおかつ服部を追いながら、い
ろいろ調査をしてみたいと思っています―
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月13日 08時17分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

長田は<おさだ>というより<ながた>が元々の名称だったのですか?

長田神・長田神社というと神戸ですか。神戸は<ナガタ>ですよね。
もともとはココの神様でしょうか?


ワタクシ的には長田は<おさだ>が本来だと思ってましたが違うようですね。


わたし的には長田おさだ氏と平家とが平姓で同族だったから、と思ってましたが
その前から長田氏と織物の服部氏と関係があったのかな?と。



Q:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1056971110

長田(おさだ)のルーツを教えてください。


祖母は山梨県敷島の出身で長田という苗字でした。
高度な教育を受けた女性ではないのですが祖母の祖母やその曾祖母たちから聞いていた話などを語り部の様に優しく静かによく以下を話してくれました。


長田は氏族で敷島、竜王辺りの山田畑(現在の登美サントリーワイナリー辺りも)を代々持っていて管理できないほどで小作の方たちに味噌、醤油をつけてもらっていただいていたとの事。
(後に新興宗教にもっていかれてしまったらしいですが)

名前も武田よりも、ずっと大昔からある名前なんだとか(何を根拠かわかりませんが、語り継がれている様でした。)

曾祖母は神社の出で長田に嫁ぎその姉は甲斐の名族とか言われている某倭姓の家に嫁いだそうです。


さらにネットで調べると
@今の登美サントリーワイナリー近辺に倭文神社という古い神社がヒットしました。
A竜王辺りには古墳も多くあるようです。(長田との関連はもちろん不明ですが、古代から文化のあった土地柄の様です)
B関西に長田神社(ながた)があり201年に神功皇后が新羅より帰還中に神託を受け創始されたと言われているとか。
C甲斐武田の祖は新羅三郎義光であるとか。
D祖母や母もお味噌汁を御味お付け、お漬物を御こうこう、名主のことを庄屋と言っていました。(関西の言葉)
E母のいとこは古い神社に嫁いでいます。
F苗字は同じ読みで字を変えるとか、同じ字で読みを変えて分家することも多々あるとか。
G敷島辺りには長田という姓がとても多いそうです。

以上の事が全て関連しているとも思いませんが、御考察していただけるとありがたく存じます。宜しくお願いいたします。



A:
長田(ながた・おさだ)は、
甲斐(現在の甲府市・甲斐市付近)、信濃(長野市・茅野市付近)、駿河(現在の御殿場市付近)、三河(現在の碧南市付近)、相模(現在の相模原市付近)、武蔵(現在の八王子市付近)
に集中して分布します。


先ず、甲斐の長田氏の関係として見えるのは、桓武平氏良兼流で、尾張国知多郡野間庄の長田庄司忠致(尾張国知多郡長田庄を領したためという)の後裔という長田氏です。

忠致は主君の源義仲を討ったことで有名ですが、その弟右衛門尉親致の子政俊を祖とし、その8世孫広常の弟平内左衛門信広が甲斐国に移り、武田信綱に仕えたとする系図が残ります。

その孫に、「医聖」と称され、武田信虎の侍医となったという永田(長田)徳本が出ました。(但し、政俊という者が本当に親致に繋がるかが不明。下記参照)

また、猪狩村の長田氏は致忠の後裔といい、忠致の子忠久(但し、他の系図には見えない)を祖としています。

その他にも亀沢村の兼武神職に長田監物、長田将監が史料に見えます。



基本的には、この長田氏の子孫と称する長田氏が甲斐・三河・相模・武蔵に分布しています。



その他の可能性として、
信濃の長田氏は他田(おさだ)であり、
科野国造一族の金刺舎人から出た他田舎人の子孫の長田(他田)氏。金刺舎人の後裔は、その後甲斐にも広まっています。


また、最初の平姓長田氏の系図では、南北朝期から代々三河国碧海郡大浜郷の熊野権現社神主を務めたと系図では記しており、また、広常が長田平大夫を称するまでは、大浜という苗字だったようで、長田致忠の長田氏との繋がりに疑問が出てきます。


駿河国有度郡に長田(中田)庄があり、
ここは熊野那智大社の荘園であって、ここに駿河の長田一族が居ました。
出自は不明ですが、藤原氏を称していたようです。

因みに熊野国造からも、熊野別当からも長田氏が出ています。この長田氏は、一説に、大和国城下郡の安倍姓長田(他田)氏の一族とも言われます。



個々の家のことはやはり先祖を遡って調べる以外にありません。



ややこしい・・・
ワタシには長田忠致がらみしかやっぱり理解が出来ない・・・


コンガラガルのはそれはやっぱり長田氏が大族であちこちに関係したからでしょうねと。
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月14日 00時48分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、こちらではお盆でありまして、関係する初盆の家にそれぞれ
盆供に伺います。
 それと、遠州大念仏といわれる念仏踊りが、希望される初盆の家では
行われます(もちろん費用はかかります)。直径1メートルもある大きな
銅鑼を打ち鳴らす音が、ボーン、ボーンと夜のしじまから響いてくると、
お盆だなあという気持ちになります。

 さて、磐田の駅南、駅の周辺に永田姓が多いのは、長田氏の移住によ
るものかと思います。『中泉代官所』の中から拾ってみますと―
 「大草太郎左衛門といえば、中泉代官として最も知られている。当地
 としては有名な代官であるから、その先祖からとりあげることにしよ
 う。史料としては『寛政重修諸家譜』のほかに郷土館所蔵の大草家『
 先祖書き』がある。『先祖書』は十代政郷で終わっているが、大草氏
 を知るには貴重な資料である。
  その先祖「長田喜八郎広正」は初め三河国大浜に住んでいたが、の
 ち遠江国山名郡新貝村(現磐田市)に移り、「長田」を「永田」と改め
 た。その子政吉は同村八幡宮の神主を勤めていたが、元亀元年(1570)
家康の遠江入国にあたり、召されて仕え、忠勤を励み、和口郷におい
 て知行高1000石を賜り、御厨庄の代官にとり立てられた。御厨庄
 は昔は豊受大神宮の神領であったのでかく呼ばれたのである。
  〜中略〜
  政吉に男子なく、三河以来家康に仕えていた「大草次郎右衛門義正」
 の長男政次を娘婿に迎えた。家康の御前へ御召の都度、大草々々と呼
 ばれるところから、家康の命によって家号を大草に改めた。二代目か
 ら大草と称するようになったのである。」
つまり、三河大浜から長田氏の――たぶん集団での移住があり、その後
繁栄して、子孫が増えたのではないかと思われます。駅南には、中泉代
官所も家康の中泉御殿もありました。
 この駅南に服部姓が多いのはどういう訳であろうか、伊賀系なのであ
ろうか……できればお盆でもありますので墓探しに行ってみます―
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月14日 05時39分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか
長田 ⇒  永田  ⇒ 大草  になってしまいましたか。
大草になってしまったとは、永田家の一族の皆さんにすればガッカリですね。ま、家康のお声掛かりでは文句も言えないし。
                                     乗っ取られてしまったんですものね。
                                     ということは家康はヒトの家の名などには重きを置いて無かったのかも。
                                     自分も名字を変えているし。


へぇ〜、そういう名字の変わり方もあったのですねえ。



>駅南に服部姓が多いのはどういう訳であろうか、伊賀系なのであろうか……
>できればお盆でもありますので墓探しに行ってみます―

いいですね
ついでに関係者に会えてお話が聞けると良いですね。

ま、伊賀系はだいたい「矢」「矢筈」「切竹」あたりですから分かり易いし
あとは上り藤とか葉菊とか万字とか寛政重修諸家譜に記録されてたのが分かってますし。

そうでないのが見つかるのも興味深いですね。


くれぐれも蚊に刺されませんように。まさかデング熱の蚊が来てるとは思いませんが虫よけを塗って行ってください。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月14日 06時04分26秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101547.html
スレッド73をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
[60]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月25日 22時49分51秒 ) パスワード

  三つ柏様 あを様

  見落としていました、遅くなってすみません 箱永です。

>また、永井氏が、
  @長田(おさだ)→永井(ながい)
   長田直勝より改姓したというけれど、一族すべてがそうなったのか、
  あるいはどこまでの親族がそうなったのか、また一斉になのか、徐々
  であるのかの謎。

  A長田→永田 
   これは「おさだ」から「ながた」への変更でありますので、とり
  あえず、長田(おさだ)を長田(ながた)に読みの変換をし、その後、
  永田(ながた)へと、漢字一文字を変えたのかの謎。

  B永田→永井
   永田に変換した上で、さらに永井に変換したかの謎。

 長田から永井への変換の過程が、長田氏全体の流れとしてとして鳥瞰的
にわかるといいんですが……。


 @について 直勝が改姓と同時に 父重元も改正と見た方が良いかと。
  家紋は 一文字三つ星    重元の庶弟も永井になってます。
  末弟のみ永田(トクホンさん)
  以前に分家した長田は そのままで 家紋は 三つ柏 蔦柏など
              本家と限られた家 2軒は剣柏
 
 A 我が家は(重元叔父) 永田に直接です(松平に仕官した時)同時に家紋
   丸に横木瓜 三河では 長田→永田の最初は私の所です(文書上)

   我が家より2-3代前に分家している長田家 水野与力
  長田改め永田久琢 は釘抜き  でもって 偽称 高島党
   (水野切腹後に 佐久間与かりになった、
      織田家中でも長田は嫌われるみたい 我が家の改姓後約30年)
    三河には近江から結構人が流れてきてますので、浄土真宗と言えば
    信用される。  
       
 B の例は 有りません(私の知る限りでは)

   上之宮Gは永井(大橋系) 広政・重元・直勝兄まで長田

  下之宮Gは長田&永田(親致系)と考えればいいでしょう。
  なを、下宮は農地解放までmy神社ですので、古い地図等には載りません。
 

 ついでに、当時の宗教事情です、今川義元さんは駿河遠江では、
 浄土真宗は禁教でした、三河(家康の独立以前)では許されていました。
 極端な例として、浄土真宗本願寺派の大旦那の石川党・本家は大地主 
 兼 野武士
  3男の分家は松平宗家の家老 なんてことが 一時期にはありました。
  三河一向一揆の時は 敵味方  のち 両方 家康家来ですね。
 家康も 駿河遠江では禁教に近い扱いですね。特に家臣や一族は
 幕府初期は 浄土真宗本願寺派は許していません。
 (大目付を輩出した中根正盛さん家の例 転宗を迫られ浪人・再雇用で
 6000石  通常なら 大目付=万石級なのです)頑固に浄土真宗。

 日蓮宗、浄土宗、浄土真宗は貧乏人でもお寺に行けます。(寺子屋付き)
 禅宗は、中級武士では かなり無理しなければ 通えません。
  数家族の一族でやっと 一寺を維持できる 位でしょう。
 子弟の教育を考えれば、禅宗なんでしょう。
  江戸幕府は戸籍掛を寺社に委託していまして、神社と寺の多くは同一場所にありました、出生届(初参り)と死亡届(葬式)に支障はないのです。
 事務は寺9割、神社1割位です。寺社奉行の格式が高い理由です。
 多くの人は、寺社に登録しないと禁教の輩と同列になります
 (漏れなく罰則もついてきます)。
 当時の禁教は、キリスト教だけでなく、日蓮宗の一部、薩摩藩では
 浄土真宗の一部などがあり、 厳しさにもお国柄がありました。
 又、寺を新規に建てるのは、非常に難しかったと聞いております。









[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月26日 01時40分05秒 ) パスワード

箱柳さん


>(大目付を輩出した中根正盛さん家の例 
  転宗を迫られ浪人・再雇用で 6000石  
  通常なら 大目付=万石級なのです)頑固に浄土真宗。


へぇ〜
こういう根性のある人もいたんですねぇ。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.