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 投稿番号:101547 投稿日:2016年07月14日 06時02分01秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXIII(16年の課題確認16)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101546_58.html
長上郡の服部氏族LXⅫ(16年の課題確認15)
スレッド72の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


焼津や磐田にも服部氏が多いことが分かりました。
今夏の信濃行きでは馬についての資料が手に入ると良いのですが。


スレッド72では
伊賀の呉服明神の神職であった服部貞信が何故宇治田原にいたのかが
ちょっと見えましたね。

宇治田原の山口城の城主が山口氏。その父が甲賀の多羅尾氏。


甲賀の多羅尾氏と伊賀の服部氏の関係・・・そこに長谷川氏も絡んで・・・
歴史は見えて来ると面白いですね。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月14日 06時34分17秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%B0%BE%E6%B0%8F
多羅尾氏の復習:


多羅尾氏(たらおし)
平安時代末期から江戸時代まで近江国甲賀郡信楽荘多羅尾で活躍した武家である。


13世紀末頃、前関白近衛家基が信楽荘小川に隠居、
その子近衛経平と多羅尾の地侍の娘との間に生まれたのが多羅尾氏の祖多羅尾師俊である
                     (近衛家の落胤というのは確証のない一つの説)。

師俊は多羅尾を支配するとともに領地を拡大し、勢力を信楽全体に広げた。



南北朝時代、多羅尾氏と並んで信楽で勢力を増していた鶴見氏と多羅尾氏が結んで、南朝方として行動したと思われる。
                                         南朝方でしたか。


応仁の乱以前より、多羅尾は伊勢と京の交通の中継地だったため、多羅尾氏は足利義視が京から伊勢、伊勢から京に渡る時に同行した。さらに京から近衛政家が信楽に下向してきた際には多羅尾玄頻が信頼を得て信楽荘の支配を任されるよう契約を結んだ。


このように代々多羅尾氏は京の貴族や将軍などの重要人物の警護を担っていたようだ。


その後、佐々木京極氏と佐々木六角氏との抗争に六角氏側として参加。
多くの多羅尾の武士を戦死させているが六角高頼と将軍足利義尚の争いで鈎の陣で夜襲をするなど多羅尾光吉が活躍を見せた。
光吉は自領では鶴見氏と抗争、鶴見氏を逐って多羅尾氏を信楽での主勢力とし、さらには近衛家をも京に返して守護受として完全独立を果たした。
                                         やり手だったんですね。


1568年、多羅尾光俊は没落した六角氏を見限り織田信長に鞍替えした。

しかし1582年に本能寺の変で信長が自害。
堺に取り残された徳川家康は一旦陣容を整えようと近江路を通って三河へ帰る事にした。

                 織田信長の寵臣だった長谷川秀一の妻は織田の一族の飯尾尚清の娘。
                                                     この飯尾氏は桶狭間の戦いの時の鷲津の砦の戦いで今川に負けている。
                 


家康一行の先導の長谷川秀一は南近江において多羅尾光俊の所領を通り宿してほしいと願い出たところ、光俊は子の山口光広邸に迎え入れ

           (長谷川秀一と山口光広は懇意)

家康一行に従者50人を付け伊勢路を警護した。


光俊はこの後、豊臣秀吉と家康との争いの際、浅野長政が伊勢に進軍してきた時に徳川方として浅野長政を夜襲で撃退し、
和睦の条件として浅野長政から一人娘を光俊の三男の嫁として入れている。
これが縁で豊臣秀吉に従うようになった。

                                          浅野長政ね。浅野弥兵衛長政です。浅井長政ではありません。
                                          おねね様=北の政所の妹=やや様=の御主人のことです。


豊臣秀次が近江八幡に入った時に光俊は秀次を多羅尾で歓待。
光俊の次男の娘「お万」を秀次の嫁として入れるのに成功した。
この時多羅尾氏の領地は信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に8万石に達し、多羅尾光俊は多羅尾氏全盛時代を築いたのである。
しかし前途洋々だと思われた多羅尾氏の将来は、お万の秀次への入輿が逆の結果を生む事になる。


聚楽第の秀次は秀吉の不興を買われてしまい斬首された。
お万も秀次の家族と同じく処刑され、連座の咎で多羅尾氏はことごとく改易となり、多羅尾氏は一瞬にして無職となってしまったのである。


                                      思わぬところで思わぬヒト=加藤氏=と繋がりましたね。


1598年、秀吉が死去した後、大坂にいた徳川家康は多羅尾光俊の事を気にしていて、多羅尾で困窮している光俊の事を知った。
家康は光俊・光太親子を旗本に取り立てた。

光太は上杉景勝討伐・関ヶ原の戦い・大坂の陣に参戦。
徳川幕府旗本領7000石に復活した。
以来多羅尾氏は信楽代官領をはじめ代々近江・畿内の天領代官職を任されていった。
地元では「多羅尾代官」と言われ、多羅尾の屋敷に「代官信楽御陣屋」を置いた。

多羅尾氏の子孫に1960年代、信楽町長になった人物がいる。





駿河=引馬城主=の飯尾氏の復習

本姓は三善氏。
三善倫忠の代に飯尾姓を名乗った。

元々は室町幕府の奉行衆の家柄であったが、飯尾長連の代に駿河に下り、今川氏譜代の家臣となった。

戦国時代、飯尾賢連は今川氏親に仕え、引馬城(後の浜松城)主となった。
賢連の子乗連は今川義元に桶狭間の戦いで従軍し、討ち死にした。

乗連の子飯尾連竜は初め義元の跡を受けて家督を継いだ今川氏真に仕えたが、三河の徳川氏に内通し、今川氏から離反した。

その後、今川氏真から和睦と偽った召喚に応じた連竜が誅殺されたために、駿河飯尾氏の嫡流は断絶した。




旗本の長谷川氏の復習

下河辺氏流
小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族。(もとは藤原秀郷の子孫)

下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。
政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだため、長谷川氏を名乗ったという。


長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、
小川法永長者と称されたとされる。

この長者の子孫が今川氏に仕えた。

その後正長の時、君主今川義元が桶狭間の戦いで討死したため没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

長谷川正長には正成・宣次・正吉の3子があり、
正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代を存続した。
宣次系は400石で続いた。 この家系から長谷川宣以(平蔵)が出ている。
正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末に至った。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月14日 07時00分36秒 ) パスワード

長谷川秀一の先祖については分かっていませんが
もともとは信長の家来ということで(5)の藤原姓が妥当かな?と。
でもそうすると藤原秀郷の子孫でしょうから(3)の旗本の長谷川氏とも繋がりが有ったのかなと。
家康の命の恩人でもあるし。

                                        って全然飛躍してますね。あはは


長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、日本の氏族。いくつかの流れがある。

1.大和国(奈良県)十市郡耳成村大字十市の十市御縣坐神社一帯を本拠地にした十市県主の裔で中原氏。中臣姓。
2.大和国式上郡初瀬を発祥地とする在原氏系の家系。
3.下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系。美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(平蔵)の家系が祖とする。
4.摂津国(大阪府)の清和源氏系の家系。今川義元に仕えた長谷川長久、その子長谷川長綱の家系が祖とする。
5.越中国(富山県)の藤原利仁系の家系。
6.美濃国(岐阜県)の橘氏系の家系。


長谷川秀一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A7%80%E4%B8%80


天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報は当日の深夜には堺の遊覧を終えて飯盛山に在った一行に茶屋四郎次郎によって届けられた。

秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した[8]

また、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた[9]。

その後、これも秀一旧知の近江信楽町の代官である多羅尾光俊(山口甚介の父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱した[3]。


天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家が対立した際には秀吉を支持し、柴田方に味方する滝川一益領の伊勢峰城を攻撃した[10]。同年中に所領の加増があったか近江肥田城主となっている[11]。

同年10月23日、羽柴秀長・堀秀政と共に大坂の津田宗及の茶会に参加。この時より名乗りが「長谷川藤五郎秀一」に変化している[7]。

                                     藤五郎ということは藤原姓ということかも。
                               [7]『宗及自會記』



天正13年(1585年)3月、紀州征伐に参じて千石堀城の戦い、第二次太田城の戦いで武功を挙げた。[15]。
同年8月、領地を加増され越前東郷15万石の領主となる。

秀一に嫡子はなく、長谷川氏は無嗣断絶した。しかしながら領地没収の時期については定かではなく、文禄5年(1596年)までは父である長谷川与次や一門と思われる長谷川秀康などの越前国衆や寺に宛てた判物が確認される[21]。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月14日 10時21分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の「多羅尾氏」に関する情報、かなり歴史の闇を明るくしてくれま
した。歴史のバックグランドの中で、ある意味キーパーソンであったとい
っても過言ではないと思います。

 豊臣秀次の妻が多羅尾光俊の次男の娘であったというのは初めて知りま
した。徳川家康にとっては、秀次事件は秀吉の没落を加速させるとともに、
豊臣方の武将・家来を自分の味方に取り入れ・またなびかせる結果となり
ました。ここには情報戦・諜報戦があったものと思われます。

 秀次事件の連座についての全体像を明らかにしたいと思っておりますが、
いまのところ、その結果についての詳しい論及資料に出会っておりません。

 歴史とは掘れば掘るほど、人間関係=歴史そのものであるということが
見えてきますね(現代においてもやはり人間関係は重視しなければならない
と感じます)。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月14日 13時25分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>現代においてもやはり人間関係は重視しなければならないと感じます。

はい
人間関係はものすごく大切です。
特に日本のような閉鎖的な世界では一匹狼はいろいろな方向から潰されます。


その点三つ柏さんはお友達が多くて
このライフワークも思わぬ所から解決のメドがつくかも。
なので海釣りも時間を見つけて一緒に遊んであげないとね。

ホント1年が365日しかないなんて詰まらないですね。
ふふふ



>徳川家康にとっては、秀次事件は秀吉の没落を加速させるとともに、
>豊臣方の武将・家来を自分の味方に取り入れ・またなびかせる結果となりました。
>ここには情報戦・諜報戦があったものと思われます。

まさに!
ホント天下を手にした晩年の秀吉はマズイですね。
わざわざ敵を増やしに増やして結局は豊臣家を潰してしまった。


娘を殺され、リストラされて生活に困っていた者は、再就職させてくれた人には忠誠を尽くしますよね。
多羅尾一族は(家康の伊賀越えに力を貸していて良かった!)と感謝したことでしょう。
その上、多羅尾氏には諜報なんかのノウハウもある。

物凄い味方を秀吉は手放してしまった。


人間ってこういうポカをするもんなんでしょうね。
やっぱり友達は大切にして失わないようにしないとね。


家康はスゴイ!
人のゲットの仕方を知っている。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月15日 00時08分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、磐田駅の周辺九ケ寺を廻ってまいりました。目的は、駅南地域・
駅周辺地域に永井・永田氏、それに駅東・駅北に服部氏が多いということで、
その地域の寺院に行って墓標とそれに刻まれた家紋を調べることであります。
 
 廻った寺院は次の通りです―
 @福王寺
 A宝珠寺
 B大蔵寺
 C中泉寺
 D蓮福寺
 E泉蔵寺
 F西願寺
 G満徳寺
 H正医寺

 この報告をする前に、磐田という所、古代より遠江の中心地区であった
ということ――あを様言及のとおり、国分寺がありました。また古墳もた
くさんあります。但し、磐田には有名な城がないせいか、今日、メジャー
な町とはなっていません。ですが、もし徳川家康の中泉御殿――城砦を築
き、要害を備えた御殿や秋鹿屋敷、中泉代官所が残っていたならば、浜松
と肩を並べる町になっていたことでしょう。
 さらに、この中泉御殿、広く知られていませんが、想像以上に家康が利用
しております。この点については長くなりますので次の機会にいたします。

 最初に行った「福王寺」、これは事前に調べてはなかった、つまり行き
当たりバッタリで訪れた寺院でありますが、ここでは驚くべき発見があり
ました―

 夜も更けてまいりましたので、この続きは明日の午前中にさせていただ
きます―
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月15日 03時05分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


>行き当たりバッタリで訪れた寺院でありますが、ここでは驚くべき発見があり
ました―

>夜も更けてまいりましたので、この続きは明日の午前中にさせていただきます―

さぁ、どんな発見があったのでしょう?ワクワク


>もし徳川家康の中泉御殿――城砦を築き、要害を備えた御殿や秋鹿屋敷、中泉代官所が残っていたならば、
>浜松と肩を並べる町になっていたことでしょう。

ですね。

でも逆に面白い事実がそのまま残って来たのかもですね。


さぁ、ホント、何があったのでしょう?
早く夜が明けないかな。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月15日 06時21分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 曹洞宗福王寺は、国分寺の真東約1q、見付(村)の南端、JR磐田駅の
北東約1.5qの所にありました。
 由緒書きには―
 「当、風祭山福王寺は、遠く一千年前、開創されたが、その後永享年間
 (五百年前)、順徳天皇第三皇子、寒厳義尹禅師の曾孫天翁義一禅師を迎
 え、曹洞宗として再興されました。
  以来、法灯相継いで二十七代、今日に及んでいます。
  本堂には本尊厄除政観音菩薩が奉安され、晴明堂には晴明大権現、福
 禄寿尊天、風神が祀られています。」
とありました。
 門をくぐると、看板が出ておりました―
 「(1)晴明大権現御祈祷之旧跡(千年前) →
  (2)今川範国公之墓所(六百年前)   ← 」

[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月15日 10時55分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 晴明大権現の由来についての看板が出ておりました―
 「福王寺は遠く一千年前、この地に開創され今日に及んでおります。
  開創当時、永観二年(984)、全国稀な大暴風雨が当地方をおそい、大
 災害が起きようとした時、諸国行脚中の天文陰陽道の大家、安倍晴明
 大権現が当寺境内の西南方の丘陵において御祈祷をなされましたところ、
 忽ち災風鎮まり快晴となったのであります。
  以来、斉しくその威神力を讃え、風の神として安倍晴明大権現を祀り、
 風祭りを行い、更に当時の山号を風祭山と称することとなりました。
  一千年の長い間多くの苦難を救い、当地を守護して戴きました晴明
 大権現の御霊徳を讃えると共に、宏大な御恩に報いるため、今回御堂を
 改築し鎮座し給わり、今後、益々当地方の人々が一人残らず無事安らか
 に末永く栄えますよう祈願するものであります。
                       昭和五十五年十月吉日
                       風祭山 福王寺   」

 次に今川範国についてでありますが、次のとおりであります―
 「今川氏は三河国幡豆郡今川庄から起こり、八幡太郎義家の五代孫、三河
 国守護職足利義氏の孫今川四郎国氏から出ているが、駿河今川氏は国氏の
 孫範国が初代で十一代氏真まで続いた。
  初代上総介範国は足利尊氏に仕えて元弘三年(1333)、遠江国守護職とな
 り、国府(磐田市)に住み、延元二年(1337)には駿河国守護職をも兼ねた。」
ということで、磐田に墓があることの謎がわかりました。

 さて、すごい寺院であることがわかりました、ということで墓地に入って
行きました。上り斜面の西の端に「今川範国公之墓所」と刻まれた二m位の
高さの白い石柱が建っているのが見えました。
 そして、その真ん前に「服部家」の墓があ・り・ま・し・た……。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月15日 11時16分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>初代上総介範国は足利尊氏に仕えて元弘三年(1333)、
>遠江国守護職となり、国府(磐田市)に住み、
>延元二年(1337)には駿河国守護職をも兼ねた。」
>ということで、磐田に墓があることの謎がわかりました。

なるほど住んでたのが遠江の守護職として国府の磐田でしたか。
当然ですね。
こういうことがサッパリ分かってませんでした。


>上り斜面の西の端に「今川範国公之墓所」と刻まれた二m位の高さの白い石柱が建っているのが見えました。
>その真ん前に「服部家」の墓があ・り・ま・し・た……。

真ん前に?
これまた不思議ですね。
家紋はあったのでしょうか?

[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月15日 11時36分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今川範国の墓は、高さ六十cm位、全体が苔で覆われてしまっていて、
いかにも年月の経過を感じさせるものでありました。
 その真ん前に「服部家」の墓がある……これには驚きを禁じえませんで
した。その家紋は――「丸に抱き茗荷」でありました。
 我が服部家の一門は「丸に三つ柏」でありますが、一軒だけ「丸に抱き
茗荷」の家がありました。それも謎でしたが、何かつながりがあるのかし
らと想いにふけ入りました。服部家の墓の左隣には「「大野家」(丸に違い
鷹の羽)、もう一つ左隣に「寺田家」(丸に違い鷹の羽)、右隣には「山田家」
(抱き茗荷)の墓が建っておりました。これらの墓が実際に今川氏に関係し
ての位置取りだったのかどうかはわかりません……。

 墓地内をくまなく探してみると、服部家の墓が他に二軒ありました。
 それらの家紋は、「丸に(横並び)切竹」「源氏輪に並び矢」で、どちら
も伊賀系と推察いたしました。

 今川範国、三服部家の墓の前で、それぞれ般若心経を二巻ずつ捧げまし
た。夏草ならぬ、真夏の燃えるような陽光の下で、頭の中は温度も感じな
い虚空に入っておりました―
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月15日 13時00分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


「丸に抱き茗荷」の服部家というとワタシ的には広島の方の服部家という感じです。

                                      例えば    http://hikoshima.com/bbs/heike/100311.html   つまり姫沙羅さんのお家ですね。



でも今川に仕えた旗本の服部家ってありますからね。

服部助左衛門康信の家です。
伊賀でヒトを殺めて出奔して今川義元氏真に仕えたという。
その後秀忠に文禄元年に仕えたヒト。

この服部家の菩提寺は牛込の万昌院で、もとは市ヶ谷から移された吉良家の菩提寺。

ということは今川家の中ではちょっとした家だったのかもですね。



また同じく菩提寺が万昌院で、北条方の蘆田に仕えた旗本の服部正吉というのもいましたね。
本多父子に仕えたり駿河大納言忠長さまに仕えたりの家。


でも、これらの服部家は家紋は一応伊賀系です。

     ・服部助左衛門康信の家紋は車の内横矢筈二筋紋
     
     ・蘆田に仕えた服部正吉の家は源氏車の内両矢筈二本紋、向ひ蝶紋、鳩酢草紋および分家は九曜紋も使用
     

この2つの服部家は今川方と北条方に分かれてたとはいえ同族かもですね。
菩提寺が吉良家と同じというのが、江戸で「やぁやぁ」と仲を戻したのかもですね。


でも丸に抱き茗荷の服部家はまだ全く見当が付きません。




>くまなく探してみると、服部家の墓が他に二軒ありました。
>それらの家紋は、「丸に(横並び)切竹」「源氏輪に並び矢」で、どちらも伊賀系と推察いたしました。

でしょうね。
こちらは一応定番ですから伊賀系だろうな、で済みますね。


14世紀の今川範国がらみというより、ずっと後の戦国時代に今川氏に仕えたり、今川氏が滅びてから家康に仕えた服部家かな、と思います。



>今川範国、三服部家の墓の前で、それぞれ般若心経を二巻ずつ捧げました。
>夏草ならぬ、真夏の燃えるような陽光の下で、頭の中は温度も感じない虚空に入っておりました―

わたくしの分もありがとうございました。
丁度お盆の頃ということで良い御供養になりました。
ありがとうございました。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月15日 16時47分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、次に訪れたのは、「宝珠寺」であった。後で調べたらなかなか
の寺であることがわかりました―
「宝珠寺
 創立は1350年(観応元年)。初めは鎌倉の円覚寺派に属していました
が、江戸時代初期に妙心寺派となりました。
 天正18年、秀吉公より寺領32石余りを、慶長7年徳川家康から御
寄付状。慶長8年に御朱印状を賜っている。
 嘉永7年の大地震により、妙心寺派遠州六ケ寺に数えられていた名刹は
全て灰塵に帰し、安政の頃より復興に務めた。
 エピソードとして、浜松市頭陀寺に城を構えた土豪松下某か曳馬の松下
長則(松下族の実力者)が、宝珠寺住持と碁を打つために来た時、待つ間、
日吉丸(後の豊臣秀吉)が宝珠寺本堂の廊下で寝ていたという伝えが残って
います。(信長に仕える前三年ほど浜松に居たということです。)
庭は「中根金作」プロデュース。昭和の「小堀遠州」と言われる。磐田
郡天竜村生まれ。浜松工業高校―東京農大卒。中根作庭研究所。大阪芸大
学長。難波短大学長。主な手がけた庭園――安来市の足立美術館庭園、
ボストン美術館天心園……。」
ということであります。
 その宝珠寺で、またビックリする事に出会いました―
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月16日 00時22分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、ビックリしたこととは、「永井氏」のオンパレードに出会ったと
いうことであります。しかも、その家紋は「永井梨の切り口」でありまし
た。その数三十一基。その他には「丸に違い鷹の羽」三基。「丸に隅立て
四つ目」一基。「永田家」はなし。「長田家」の予定表示板一つ。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 03時44分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

「宝珠寺」ですか。


>その数三十一基。

直勝系永井氏なんでしょうね。



>その他には「丸に違い鷹の羽」三基。「丸に隅立て四つ目」一基。
>「永田家」はなし。
>「長田家」の予定表示板一つ。

これまた不思議ですね。



永井梨切口紋


永井氏の先祖は長田左衛門尉親政というが、長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。

永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。
広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。


天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。
永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。


重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。
 
                                          つまり服部半蔵の家と永井氏は親しかったということですね。


不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。


                                          永井氏と半蔵の服部氏の絆がハッキリしましたね。これはスゴイ! 

      三つ柏さんのお家の場合は   永井氏の家紋には遠慮して永井氏の本家の長田家の家紋を拝領したのかな?  
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 06時14分30秒 ) パスワード

わたくしの想像:


永井直勝の父・長田重元と服部半蔵は親しかった。その前からの刎頸の友だったのかも。
それは元々  長田氏と服部氏は   平氏出身であり  平家の家人だった  から。


服部半蔵にとって家康の嫡男信康は自分の子供のような存在であった。
                       信康の生誕は  永禄2年3月6日(1559年4月13日)。


信康が18歳の時、4つ下の長田直勝が信康の小姓として召し出された。
つまり半蔵にとって信康も直勝も自分の子供のような存在だった。


信康が満で20歳(つまり数えで21歳)の年、信康は切腹することになった。
この時、直勝は16歳。
直勝はきっと鬱状態で、ヒッキーになってたかも。

                       同じく鬱症状の半蔵はそんな直勝を心配して、自分の身内の若いのを直勝の所に送ったかも。


翌年、直勝は再び出仕し、
天正10年6月2日(1582年6月21日)に信長が暗殺され、伊賀越えの後、家康が三河に戻るのに大浜(長田氏の本貫地ですね)に招待。

                       当時、家康に随行していた供廻は、以下の僅か34名。

                       酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正盛、石川康通、
                       ***服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、
                       牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、
                       多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、
                       ***永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎

                       


つまり服部半蔵と永井直勝は伊賀越えでも生死の境を共有した。
2度目の体験?1度目は信康の自刃時。2人は共に死にたいほどの思いをしているはず。




その後、半蔵の家には大久保長安事件という最大の不幸が訪れ、
リストラに遭った服部家関係者が永井直勝に引き取られた?           
                                      その後、転封する直勝について行かず遠江に留まった服部家がいる?
                                      その服部家の人々は伊賀の家紋を捨て、永井直勝の実家である長田家の家紋を使用した?

  


永井直勝

永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男

永井直勝生誕地
三河国碧海郡大浜郷
                                東浦町緒川の説もある

現在の碧南市音羽町1丁目



14歳の時、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。
天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。


子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 06時33分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


これでやっと善地の永井氏と服部氏の固い絆が納得出来ました。


もともと平氏繋がり、平家一門。
その上に長田氏と大橋氏の繋がりもあった。
大橋氏は服部氏の平家時代に分かれた一族。兄・貞能が大橋氏の先祖。

戦国時代の初めから三河で長田氏と服部氏は絆があったのだろう。
特に家康の父の代から。


その後、家康の子・信康の守り役の半蔵と信康の遊び相手の直勝の関係。
信長の暗殺の神君伊賀越えの時の同僚。


その後の慶長18年(1613年)4月に起きた大久保長安事件で服部家の没落。永井氏に再就職。永井氏転封。ここが分かれ目?一部遠江に残る?

           永井直勝の転封歴
           元和2年(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。
           元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石
           元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石。



こんな感じかなと。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 07時09分59秒 ) パスワード

縦軸の流れ(時系列で)は上記のようなものかなと。


では横軸は?

まず、家康の江戸転封について行かなかった者がいたでしょうね。ここで遠江に残留組がいた。

家康が天下を取った後、引き続き、遠江に残ったもの。


たぶん服部半蔵系、服部中系、服部政信系、その他  これらの家の中での横の関係もあって残った者がでしょうね。


半蔵系は前レスに書いたような感じで遠江に残ったのかなと。

中系はもともと遠江にいたのかもね。
この服部中保次は足利将軍に仕えていたから実は今川に仕えていたのかもね。
そこで家康とは知り合いだったかも?

政信系は東国に行って
新居の代官として戻って来るまで遠江に残った者がいるでしょうし。


さらに今川に仕えて後に家康に仕えたとか、北条の蘆田に仕えて後に家康に仕えたけど江戸には行かなかった者とか。


そういう服部氏の遠江残留者が永井氏の遠江残留者と婚姻してたのかもね。
で、善地に定住して現在に至る、かも。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月16日 14時06分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鋭いご推察、恐れ入りました。剣道で言えば、正に「一ッ本――!」と
面を打たれて感じであります。善地(村)は静岡県で一番「永井」が多く、2000年版の電話登録で30軒。家紋は半分が「丸に永井梨の切り口」、
半分が「丸に三つ柏」。
 一方、磐田市豊島、つまり宝珠院のある所では永井が28軒の登録、家紋
はほとんど「丸に永井梨の切り口」であります。両地域とも長田はごく少数
おります。

 永井家と服部家の仲を解明するキーワードは、
 @平家
 A南朝・井伊直政
 B信康事件
 C神君伊賀越え
でしょうか。
 
 ちょっとここで出かけます―
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 14時48分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


                        >善地(村)は静岡県で一番「永井」が多く、2000年版の電話登録で30軒。
                        >家紋は半分が「丸に永井梨の切り口」、 半分が「丸に三つ柏」。
                        >両地域とも長田はごく少数おります。


    善地に永井氏が多く残った、ということ
    それも「丸に永井梨の切り口」紋使用の永井氏が半分

この善地で「丸に永井梨の切り口」紋の永井氏は恐らく  永井直勝に近い永井氏   でしょうね。
例えば嫡流系子孫とか、次男系子孫とか。

では「丸に三つ柏紋」系の永井氏は?
家紋からすると本家の長田家から永井氏に入った者か、「丸に永井梨の切り口」紋の永井氏の部屋住みだった3男系とか4男系とか庶子系?


おそらく永井氏の中の差別化が家紋でもあったのかも。



永井直勝は結構大きな大名になっているから
    愛知県碧南
    静岡県浜松や磐田  
    上野国小幡藩の群馬県甘楽郡甘楽町小幡
    常陸国笠間藩の茨城県笠間市
    下総国古河の茨城県古河市
これらの教育委員会編纂の永井家の史料に一族の家紋の区別化差別化について何か出てるかもですね。


そうすれば三つ柏さんのお宅の家紋のこともちょっとは近づくことが出来るかも。


とにかくたくさん読まないことにはね。

あ、何故「丸に永井梨の切り口紋」を使用することになったのか?分かりますか?

    姓を永井に改めたから長田との訣別があったのでしょうね。
    これは分かるのですが、何故、「丸に永井梨の切り口紋」なおかが分かりません。
    ネットに出てるかな?
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 15時38分02秒 ) パスワード

書き忘れましたが
永井直勝の父は長田重元で母は鈴木氏。


鈴木氏は日本でも最大の人口を誇りますから、どこにいてもおかしくないのですが
一応、三河では鈴木氏はかなりの力を持ってた家です。
当然南朝方でしたしね。


永井氏の家紋:

永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。

唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。

鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。


そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。
三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、
唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。
さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。



さらに家紋について:

唐梨・柰・梨の切り口(からなし・なしのきりくち) 

柰(からなし)は、同じ読みの「唐梨」を当てたほうが馴染み深いようです。
しかし、中国産の梨の花ではなく、大陸渡来の花模様に名づけられたものと思われます。
なぜなら、日本でいう柰(カリンまたはベニリンゴ)は五弁の花でこの紋に見られる六弁ではなく、梨の切り口も五房子で、紋章の図柄とは異なっている。

   要 す る に 実 態 不 明 の 紋 で す。
 

この紋を家紋に用いる家は極めて少なく、永井氏、吉見氏、戸祭氏、大橋氏、弓気多氏など。

いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。


      あれ?
      姫沙羅さんとこって  吉見氏がどーの  とおっしゃってたような?



      弓気多氏を調べていたらビックリすることがあって、下の方に記しました



さらに家紋について:

梨紋  永井梨切口

果実の切断面を形象化したとも考えられるが、
切り口の数が不正確の点から、
実在しない植物名と推考される。

永井、大橋、弓気多氏の家紋。





弓気多氏
名字由来ネットには載ってなかったです。
旗本で目付にいますね。



弓気多氏の件、下記では見つかりませんでした

千鹿野茂   家紋でたどるあなたの家系  11ページ
大和国新庄永井氏三河国の桓武平氏長田氏族、のち大江氏族の永永井梨の切り口系図部 2〕。定紋は丸に違い魔(鷹の誤り?)の羽。吉見氏三河国より起こる。清和源氏為義流〔寛政譜^、の替え紋。定紋は上り藤に弓文字、旗本家が出る。弓気多氏駿河国より(以下分かりません)



旗本-や-
www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_yarawa.html
文字化けで読めなかった。

【ヤ】八木家/柳生家/屋代家/柳世家/山角家/山木家/山崎家/山高家/山寺家/山名家/山村家【ユ】弓気多家             ココ




知恵袋でも調べてみました:

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1489263239


日本姓氏語源辞典には下記のような記述がありました。

ユゲ 弓削 宮崎県、福岡県、鹿児島県。@職業。弓を削ることから。A滋賀県蒲生郡竜王町弓削発祥。

ユゲタ 弓削田 埼玉県さいたま市、福岡県宮若市、千葉県松戸市。弓削氏の分流が創姓。江戸幕府の幕臣にあった。

                                       目付だった弓気多氏とはコレでしょうね



ユゲタ 弓削多 埼玉県。弓削田の異形。
ユゲタ 弓家田 静岡県静岡市。弓削田の異形。
ユゲタ 弓気田 東京都、神奈川県。弓削田の異形。甲斐国巨摩郡にあった




戦国時代の終焉 第六章 朝廷と幕府の暗闘
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sengoku-h09g.html

以下はどこに載ってるのか確認できませんでした。

日光東照宮では中央に東照大権現を祀り、右に天照大神と同一とされる山王権現を、左に冥府を司る魔多羅神を祀っている。

中央の .....<<< 弓気多昌吉 >>>は目付を務めた人物で、徳川秀忠から朝廷の監視をするよう密命を帯びたものと推測される。
                                       この人でしょうね



下記で  さらに  弓気多と服部の関係にビックリ!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BC%91
松平 定休(まつだいら さだやす)
伊予今治藩の第6代藩主。
定房系久松松平家6代。

この殿様の子供たちがビックリなんです!

定剛、金之丞、定規、定亨、跡部良貞、池田政行、筍次郎、   弓気多正明、             ココ
釿次郎、


衛(脇坂安董室)、浜(戸田氏倚室)、熊、銀(板倉勝官室)、歌、勝(天野昌凭室・後近藤用温室)、村、

民(服部正邁室)、                          ココ(ひょっとすると石原慎太郎のご先祖の服部さん?)

錦、鋭(岡部豊矩室)
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月16日 15時40分02秒 ) パスワード

永井氏の家紋について調べていたら思わぬ方向に落ち着きました。


日本ってホントみんな親戚ですね。

[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月17日 00時36分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は善地のお寺に行き、永井氏の一番古い墓(ある永井家の新しい墓
の裏側にある)に確か「丸に一文字三星」の家紋がついていたという覚え
がありましたので、それを確認しに行ってまいりました。新しい方の墓は、
「永井梨の切り口」となっております。
 その後ろの苔むした墓……ほとんど表面は読め取れませんでしたが、布
でこすると下地が見えて来ました……丸に一に三つの丸……つまり「丸に
一文字三星」の家紋がはっきりと浮かび上がって来ました。

 本日の夜『武鑑』、『家紋でたどるあなたの家系』(千鹿野茂編)で調べ
ていましたが、家紋の信憑性についてはいつも一抹の不安がつきまといま
す。
 永井家の定紋としては―
 ・「一文字三星」
 替紋としては―
 @美濃加納藩永井家→「永井梨の切り口」及び「永井松毬」
 A摂津高槻藩永井家→「永井鉄線」
 B大和新庄藩永井家→「永井梨の切り口」及び「永井松毬」
のようです。

 ということは、善地の永井家は―
 「永井梨の切り口」=替紋→庶子か
 「丸に一文字三星」→庶子か
 「丸に三つ柏」→長田家のアイデンティティか
 そういえば、善地の長田(おさだ)家(一家しかない)の墓(新しい)も確認
してきましたが、家紋は「丸に五三桐」でありました。これは尾張系なの
でしょうか……古い墓はありませんでしたので、系統が違うのか……。

 永井直勝には弟の―
 「白元」
 そして息子が四人いました―
 「尚政」
 「直清」
 「直貞」
 「直重」
善地の永井氏はこれらのいずれかに関係するのかなと思っています。

 永井白元については、加藤光泰に仕え朝鮮の役にも出陣している。 
 また、白元の曾孫の女子は「服部中保房」(今切関所奉行だった保俊の
五代孫)の妻となっている。この白元の永井家が、善地に関係している可
能性が高いとみているのですが……。

 ところで、磐田の「宝珠寺」、この名前と一緒の寺院が三河大浜にあり
ました! 長田重元建立の「宝珠寺」、愛称として「トクホンサン」と
呼ばれています。ここは、永井直勝が誕生した所だそうです!

 ちょっとおもしろくなってきました―

 永井直勝も白元も、井伊直政に一時仕えていました。ということは、
頭陀寺の松下一党(之綱、清景、常慶)とも親密であった。ということは、
家康の「特殊警察部隊」即ち服部一党ともつながっている。また、直政
には、元武田の赤備えの家来や忍者もつけられたという。忍者の統率は
服部党が行ったのではないかと推察いたしております……。

 これで、永井、加藤、服部は完全につながり、さらに松下も、柳生も
つながり、そして青山、天方、両大久保とも……さらには、服部中家へ
二代続けて養子に入った長谷川家も、……いわゆる中枢を取り巻くアヤ
シイ人達……!

 善地は特別な所のようです。まずここだけは長いこと天領であり続け
ました。江戸時代あたりからそれ以前の道を調べますと、姫街道のバイ
パスと中野町あたりから秋葉へ行く道が交わる所にありました。また、
善地の東約1qの所には高園城というのが今川時代にはあり、浅原氏が
いて家康は遠州を攻めるに手こずったようです。
 善地はそんな要所だったようです。

 年代的な考証をして、因果関係の確証性をさらに高めていかなければ
と考えております―

 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月17日 04時54分38秒 ) パスワード

またもや書き直しの書き直し(恥)


三つ柏さん


名字と家紋はグチャグチャになってますから難しいですね。

< 長井氏 >の場合は大江流の長井氏がありますが
これは
直勝の大江流永井氏とは別のようですが、後世に直勝子孫の永井氏に遠慮して長井とした家も出たのでしょうね。


また、室町時代のナガイ氏も  永井  を使っているようで、ヤヤコシイ。

                      大江流長井氏
                                 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%B0%8F




>永井氏の一番古い墓   「丸に一文字三星」の家紋  

             一般的に「○」が付くのは武士の家紋という意味だとホンヤさんから聞きました。
            でもホンヤさんとこは「○」じゃなくて「車」ですが。
             笑
          

一文字と三星の紋は
これは家康に言われて大江氏を称するに当たって、一応、大江氏の家紋ということで使ったのでしょうね。


>新しい方の墓は、「永井梨の切り口」

こちらが我々の話している永井氏とその家紋ですね
でも何故「梨の切り口」なんでしょうね?
   


> 「丸に一に三つの丸……つまり「丸に一文字三星」の家紋についてですが

一文字三星
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagakura.html

>家紋の基礎資料の一つである『長倉追伐記』は、(別名『羽継原合戦記』)
>永享七年(1435)足利幕府が、常陸佐竹郡の長倉遠江守を追罰した戦記物で、    「遠江守」ですって!これにもビックリ
>そこに全国の武将が勢ぞろいした。そのときの陣幕の紋が収録されている。



                        永享七年(1435)六月に起きた事件を記録した『長倉追罰記』に
                       「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、
                        室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。


ということで、この「一文字三星」紋の永井氏は我々の話している永井直勝系とは時代が全く違いますから
直勝は大江氏の流れにするために「あやかって」名字を永井にし、また、この家紋にしたのでしょうね。


例えば  温故知新で   「永井」と「一文字三星紋」でも使っておけ  あたりだったのかも。

源氏の足利幕府に仕えた永井氏にあやかって
自分は
源氏の徳川家に仕える永井だから、とでも?




>『武鑑』、『家紋でたどるあなたの家系』(千鹿野茂編)で調べていましたが
>家紋の信憑性についてはいつも一抹の不安がつきまといます。                               
はい。名字と家紋はゴチャゴチャになってて、難しいですね。



>  永井家の定紋としては「一文字三星」

とりあえず、定紋として、でしょうね。


大江氏について
http://www.nextftp.com/well/roots/new_page_20.htm の<2>参照



長田直勝が家康に言われて長田姓をやめて改名する時に「大江氏」=桓武天皇の実のお祖母さまが大江氏の出身=を引っ張って来た。


                        桓武天皇のお祖母さまが引っ張って来られたのは
                        恐らく
                        平氏は桓武天皇の子孫でも桓武天皇の母上は半島出身者。
                        それでお祖母さまの実家にまで遡って(笑)「大江氏」を引っ張って来た???




桓武天皇の実祖母さまのご実家のオオエ氏について:

天穂日命の後裔、野見宿禰に始まる土師氏が、桓武天皇の遠戚(桓武天皇の実祖母が「大江家」の出)となるに因り、
大枝朝臣姓を賜り、後に平城天皇から大江の姓を賜姓降下され、
大江家の名声が一躍有名になる。



家康に遠慮して、よほど「長田」という名字を消そうと名字ロンダリングに悩んだようですね。



>永井直勝(も白元)も、井伊直政に一時仕えていました


井伊直政に永井直勝が仕えていた背景を考えてみました:

            この2人の関係について:

                        永井直勝 1563年生まれ                         井伊直政 1561年生まれ

この2人は年齢が似てますね。
その上に神君伊賀越えでは一緒にいましたね。



直政が家康に仕えたのは今で言う満年齢14歳の時ですね。
2歳違いですから直勝はまだ12歳で信康の遊び相手にさえ選ばれていませんね。


     ということは、この時期に家康は信康のご学友捜しに誰を選ぶか、検討中だったんでしょうね。


で、直政は家康の直属の家来ですから、直勝は信康が自刃して後に家康に仕えることになって、直政の下に組み入れられた、のでしょうね。




井伊直政の復習:

天正2年(1574年)、直政が父の13回忌のために龍潭寺に来た時、井伊直盛の正室(井伊直虎の母)・井伊直虎・龍潭寺の住職・直政の母が相談し、家康に仕えさせようとするが、まずは鳳来寺に帰さないために直政の母が松下源太郎に再嫁し、直政は松下家の養子になったことにしたという。


天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月17日 07時55分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


長田氏で桐紋の家はあります。

長田氏=三つ柏ですが、桐も使っているということですね。

家紋は1家に1つじゃないので。



永井直勝の場合は家康のお声掛かりで永井姓と一文字に三つ星紋を使うことになったのだから
一文字に三つ星は  表の紋  でしょうね。

でも本心は  梨  の方?



やっぱり家紋は分からないですね。
どんな思いが隠されていたのか。


永井直勝にしてみれば  長田姓と三つ柏紋  は捨てたもの   ですね。
なので永井氏で三つ柏紋を使った家は「神君の命により長田姓を棄ててもうちは長田」というアピールかも。


家紋は分からないですね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月17日 21時52分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、浜松の中央図書館へ「永井」「永井直勝」等についての資料
探しに行ってまいりました。ありきたりの人名辞典的なものはありまし
たが、その他にはほとんどありませんでした。前からそんな傾向にある
と薄々感じていましたが、実際、隅から隅まで探しても何もないという
現実――何か、意図的なものが働いているのでしょうか? 小説さえあ
りません(確か一冊だけ書かれたものがあったと思いましたが)……。
 永井についての情報は、箱柳永田様が一番持っておられるということ
を再認識した次第であります。

 磐田に宝珠寺があり、永井家の墓がたくさんありました。では碧南市
大浜にある宝珠寺、あるいはその近辺に永井家の墓はあるのでしょうか。
一度、近い内に大浜へ行ってみたいと思います……。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月17日 22時55分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

>碧南市大浜にある宝珠寺、あるいはその近辺に永井家の墓はあるのでしょうか。

基本的には「希望は無い方向」だと思います。


碧南は長田氏の本貫地なので  永井姓にしてても長田または永田  でしょうね。


永井氏の名を名乗っても父祖の地ということで碧南に戻った<だけ>の人は<永井かなぁ。
そういう人のは永井の名の墓はアルでしょうね。

    でもなんとなく  長田または永田  で葬られたような?
    それがアイデンティティというかプライドじゃないかなと。


          ヒトのアイデンティティとかプライドは分からないです。
          だから  碧南で永井で永井氏の梨紋の墓があるのかどうか  知りたいです。




>>>一度、近い内に大浜へ行ってみたいと思います……。


ですね。
どんな感じなのか知りたいところです。


                        碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。



頼朝は長田氏を虐殺という形で死刑にしたと聞いてますから
長田直勝にしても家康から「長田というのは縁起でもないよ」と言われて一瞬ゾッとしたかもですね。


それにしても家康もつまらないことをしたものですね
ヒトの家名を奪うなんてね。

                     と、思うのは現代人だからかもですよね。
                     当時の人にすれば当たり前だったのかな?
                     家康はアルジの上に天下の有力者ですから逆らえなかったでしょうね。



文禄5年(1596年)2月7日、直勝は豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。

                     この場合は褒美みたいなものですから100%素直に「名誉」ですよね。
                     でも家康の手前、迷惑、だったかもですね。



                                     こういう心の裡というものに非常に興味があります。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月18日 05時55分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろありがとうございます。永井直勝の気持ち・姿・顔が少し見えて
きました。
 シンパシィを感じるようになると、人に対する気持ちが全然変わります。
 これが人間関係の源泉でしょうか……。

 本日は、海の日ですが、山に行って芝刈りをしてまいります。どうやら
梅雨は明けたように思われます……。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月18日 07時35分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


今日は海の日の振替休日ですか。
ハッピーマンデイ、とかいうのですね。


梅雨が明けましたか。
これから本格的真夏日ですね。
どんな猛暑になるやら、お気を付けください。


永井直勝。
   一体いつ永井姓に変わったのでしょうね。
   ここが知りたいです。
   確かな年号で知りたいです。



>永井直勝の気持ち・姿・顔が少し見えてきました。


人間、名字を変えたって先祖は変えられないのですから、意味無いと思うんですけどね>>>家康に

逆に
(アイツ、永井って名字に変えさせられたんだってよ。先祖が頼朝の父親を弑逆したのがマズイってよ。俺達、武家には家を存続させる鉄則があるのにな。ヲイヲイ、先祖の責任まで問われるのかよ)
と噂になったでしょうね。


この事件は家康が実は小さい人間ってことを世間に知らしめた一件になったと思うのですけどね。
(家康って清和源氏をパクちゃった?前は賀茂氏出身だとか藤原氏出身だとかって言ってたよな。いやいや先祖は乞食坊主ってハナシだぜ)


世の中が落ち着くと実力よりも先祖自慢になるんでしょうね。
儒教の世界ですね。



>シンパシィを感じるようになると、人に対する気持ちが全然変わります。
>これが人間関係の源泉でしょうか……。

ですね。


大浜で、長田家の皆さんは名字を変えさせられてどんなお気持ちでしたか?と問いながら般若心経を唱えて上げてください。
きっと三つ柏さんのシンパシーが届くと思います。


それでも長田であり続けたこと、仕方無く永田に変えたこと、彼等の気持ちがどんなだったかちょっとでも聞き取れると良いですね。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月18日 22時29分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やはり本日で梅雨が明けました。本日をもって真夏に突入です。熱中症
に気を付けながら、無事ラウンドを終えました。成績は練習不足の結果が
もろに出ましたが、また立て直すことができると確信しました……次回は
十月。

 さて、このよく行くゴルフ場への道の途中に「大平(おいだいら)城跡」
があります。昔、私たちの団のボーイスカウトの夜の肝試し会場にしたこ
ともありました。何も考えずに、単なる山城位のイメージでとらえており
ました。

 本日、帰りにその側を通りかかり、改めてその案内看板を読んでみました。
勿論25年前にも読んでいたはずですが、その頃は歴史に興味をもっていな
かったため、歴史の重要な情報も「猫に小判」でありました。

 今回、改めて読んでみると、南朝と関係しているということで、家に帰っ
てから改めて『浜松の歴史』(大塚克美編著)を紐解いてみました。すると、
大変な所であったことがわかりました。即ち、宗良親王の南朝勢力が、この
大平落城をもって、遠江平野では没落し、親王はこののち遠江を離れ、越後
・越中を経て信濃国に移られ、長らく伊奈郡大河原にあって南朝勢力の拡大
を図られたということであります。

 南北朝は、私にとっては理解が浅い分野でありますので、急遽勉強をいた
したいと思います。磐田で見た今川範国の墓は南朝勢力を抑えた側。永井・
永田・長田氏は南朝で宗良親王の後裔。徳川家康との関係・井伊直政との関係
もこのあたりを深く理解する必要があると再認識いたしました―
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月19日 03時05分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


三つ柏さんのレスに一瞬「ほろっ」と来ました。
うちの先祖も行ってたのかな、とは思いましたが
あの「一瞬のほろっ」と感は、きっとうちの先祖が大平城の落城を知った、そういう感情かも。


遠江の井伊氏って宗良親王には本当によく尽くした一族だったんだなと改めて思いました。



http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/ohdaira-jyo/


遠江・大平城=大退羅城=おおだいらじょう
静岡県浜松市浜北区大平字城山

                                     ホントだ!浜松CCのすぐ近くですね


築城年代は定かではなが暦応2年・延元4年(1339年)には三岳城の支城として南朝方勢力が守備していた。

暦応3年(1340年)2月南朝方の井伊道政の籠もる三岳城が落城し、道政は宗良親王とともに大平城に逃れてこれに籠もったが同年8月北朝方の仁木義良らの夜襲に遭い大平城も落城した。


大平城は灰木川の北岸にあり五体力神社の北の山に築かれている。

主郭は北側の山頂にあり、東へ伸びた尾根には東曲輪が続き先端を堀切している。 また、主郭の西から南西方向に伸びた尾根に西曲輪があり、これも南西の先端に堀切を設けている。北側は主郭と西曲輪の東端部からそれぞれ伸びた尾根に堀切がある。



浜松って砦というか城というか、物凄い数、あるんですねえ。
ビックリ


http://castle.slowstandard.com/30tokai/33shizuoka/post_1111.html

大平城(おおだいらじょう)は、南朝側についた三嶽城(浜松市引佐町)を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれた。


井伊氏は、三嶽城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、北を天山城(あてやまじょう、別名田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城(せんどうがみねじょう、浜松市三ケ日町)、 東を大平城と、支城で固めた。



大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰が率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2年・延元4年(1339)から翌3年・興国元年(1340) にかけて繰り広げられた。


暦応2年7月22日、北朝軍の高師泰の軍が大平城に侵攻し、高師兼の軍は浜名方面に侵攻した。7月26日に鴨江城が落城し、 10月30日に千頭峯城が落城した。そして、翌年の暦応3年(1340)正月30日に三嶽城が落城すると、 井伊道政は宗良親王と共に大平城に立て籠もったが、8月24日に大平城も、高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城した。


 こうして南朝方は、遠江国で拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていき、その後は、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはない。


『「現地説明板」、「静岡の山城ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」、「日本城郭大系9」他参照』
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月19日 03時13分07秒 ) パスワード

井伊道政


1309−1404 南北朝-室町時代の武将。

延慶(えんきょう)2年生まれ。
井伊高顕(たかあき)の父。

遠江(とおとうみ)(静岡県)井伊谷(いいのや)城主。南朝方に属し,宗良(むねよし)親王を三岳(みたけ)城にむかえいれる。

高師泰(こうの-もろやす),仁木義長(にき-よしなが)らの北朝軍に攻撃され,暦応(りゃくおう)3=興国元年(1340)城をおとされ,
宗良親王は信濃(しなの)にのがれた。


南北朝合体後も足利氏に屈しなかったという。
応永11年死去。96歳。
伝承上の人物ともみられる。




井伊氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ii_k.html


 井伊氏は江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』に「藤原氏良門流」とあり、藤原北家良門の三男利世に始まる 系図が収録されている。そして、利世五代の孫備中守共資が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子共保が井伊谷に移り住んで 井伊氏を称したとある。


さらに、共保の出生に関する奇瑞譚が記されている。


 すなわち、寛弘七年(1010)、正月元旦、遠江国井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、 瑞垣の側の御手洗井のところに、いま生まれたばかりのような男子を見つけた。その容貌は美しく晴れ晴れとした眼差し に、ただの赤子ではないと思った神主は家に連れ帰ると我が子のようにして育てた。その子が七歳になったとき、 その存在を知った備中守共資が養子としてもらいうけ、成長ののちに娘と娶わせ共保と名乗らせた。 共保は器量人にすぐれ、武勇も絶倫で、たちまちのうちに一帯を打ち従えると出生の地である井伊谷に本拠を移した。 …というものである。

また、共保出生のとき、井のかたわらに橘が一果あり、ゆえに橘をもって共保が産衣の紋とした。以後、井伊氏では橘を衣類の紋とするようになったのだという。



 共保の出生に関する奇瑞譚は到底信じられるものではなく、おそらく備中守共資が井伊八幡の神主らと共謀して、 みずからの子に神秘性をもたせ、みずからの家の発展を画策したものであろう。あるいは、男子のなかった共保が橘姓の家から養子を迎え、不思議譚を創出して家系を飾ろうとしたのかも知れない。



出自を探る

 さて、井伊氏の出自であるが、新井白石が著した『藩翰譜』では、「藤氏系図には、良門の子として 記載されているのは利基・高藤の二人のみで、利世の名は見えない」として、井伊氏の出自に関しては名言を避けている。


 また、中世の系図書として比較的信憑性の高い『尊卑分脈』にも、良門の子に利世の名は記されていない。どうも、 井伊氏を藤原氏の後裔とするには、確たる根拠に欠けているというしかないようだ。


 では、井伊氏はどのような出自を有する武家なのだろうか。宝賀寿男氏が編纂された『古代氏族系譜集成』に収録された三国真人系図のなかに、井伊氏の祖にあたる共資・共保 父子の名がみえている。


 三国真人は継体天皇の子で三国に残った椀子王を祖とする氏族で、越前の坂井郡を本拠地として 勢力があった。一方、さきの『藩翰譜』に「井伊介は武智麿の後遠江権守為憲が末葉にて、工藤・伊藤などと同じ流にて、 南家の藤氏なり」とあり、『古代氏族系譜集成』に藤原為憲を祖とする「井伊氏略系」が紹介されている。


 いずれが真を伝えたものか、にわかには特定できないが、『保元物語』には「井八郎」という武士が後三年の役のとき 源義朝に従軍して出陣したことが記されている。「井八郎」は遠江国の武士で、井伊氏の祖と思われる。 「井伊」は「井」を「イー」と発音していたものが転じた結果と思われ、井伊氏が井伊谷を本拠とする武士として 平安時代には相当の勢力を有していたことは間違いない。


 さらに、井伊氏は鎌倉から南北朝時代「井伊介」あるいは 「井介」とよばれていたことが当時の記録から知られる。 「介」とは国司の次官であり、国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多かった。在庁官人は地方の豪族から出仕するものが多かったが、中央から赴任してきた役人が土着=在庁官人化するケースも少なくなかった。井伊氏の共保伝説は、中央の役人が地方豪族と縁を結んだことを示したものだったのかも知れない。


 他方、安芸国賀茂郡高屋保に拠った国人領主平賀氏が、井伊氏と同じく藤原利世を祖とする系図を有している。 共保の子共宗から七代の孫松葉資宗が源頼朝に仕えて出羽国平賀郡を賜り、子孫は平賀を名乗り、元寇に際して安芸の 所領に下ったというのだ。『古代氏族系譜集成』の三国真人系図にも井伊氏と松葉氏とは同族としてみえ、 両家は三国真人の流れを引いた武家とすることの方が違和感がないように思われる。


 ところで、秋田城介、三浦介、千葉介、上総介、狩野介、富樫介、大内介、そして井伊介を「八介」とよびならわされていた。 秋田城介・上総介は正式職名だが、それ以外は武士が言い習わした通称であった。三浦・千葉・富樫など錚々たる 地方豪族であり、井伊介を称する井伊氏は出自のことはともかくとして遠江国における有力在地領主だったのである。


 井伊谷を本拠とした井伊氏は、井伊谷城を常の居館にして、詰めの城として三岳城を築いたようだ。そして、 井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。盛直の子からは赤佐氏、貫名氏が出たが、赤佐氏からは井伊家を 凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれ、貫名氏からは日蓮宗の宗祖となった日蓮が出ている。弥直の子からは田中・伊平・ 谷津・石岡氏、さらに田中氏からは田沢・松田氏らが分出した。これらの庶子家の名字を地図上においてみれば、 浜名湖の東方一帯が井伊氏の勢力範囲であったことが浮かび上がってくる。

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月19日 03時17分42秒 ) パスワード

続き(こういうのを読んでいると興味深くて止められなくなります)


南北朝の争乱

 後醍醐天皇の画策による元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡、建武の新政が開始されたが、足利尊氏の謀反によって世のなかは南北朝時代となった。井伊氏は南朝方に属したようで、建武四年(1337)、井伊一族は三方ヶ原において今川範国と戦ったことが知られる。


 井伊氏の所領とその周辺には南朝方(大覚寺統)の荘園・御厨が集中していたことが、井伊氏を南朝方に走らせた要因であったと考えられる。

                                       なるほどね、それでか




さらに遠江の荘園の存在に着目した後醍醐天皇は、そこに南朝方の拠点を作ろうとして皇子の一人を派遣した。そうして遠江に入部してきたのが宗良親王で、井伊氏は居城三岳に親王を迎え入れたのである。当時の井伊介は道政というのが通説だが、現在では後世の南朝史観によって創り出された人物で、井伊行直ではなかったかとする説が受け入れられつつあるようだ。


 さて、宗良親王を迎えた井伊氏は、三岳城を修築し、支城群を整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。暦応二年(1339)、高氏、仁木氏らの軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が攻撃にさらされた。井伊勢はよく戦ったが、翌三年の正月、宗良親王は三岳城を逃れて大平城に入り、そこも支えきれず信濃へと奔ったのであった。

 その間、道政の娘が親王に仕えて尹良親王が生まれた。尹良親王は長じて南朝再起のために戦ったが、信濃の浪合に おいて討死したという。いまも、遠江・信濃・三河の国境あたりで「ユキヨシ(尹良)様信仰」がさかんに行われて いるが、尹良親王の存在はそのものが伝説的であり、道政のことも後世の創作と思われるだけに史実としては受け入れられないものであろう。



 宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、南朝に節を通す者に分かれたようだ。 応安三年(1370)、九州探題に任じられた今川了俊は遠江の武士を引き連れて任地へ赴いた。その軍勢のなかには 「遠江・駿河の人々、横地・勝間田・奥山・井伊・早田・河田」とみえ、井伊氏惣領家と庶子家の奥山・早田氏らが 従軍していたことが知られる。それ以前の貞治六年(1367)に、了俊が井伊奥山直朝に宛てた文書も残っている。 南北朝時代のなかごろには、井伊氏一族の主だった家は武家方に属するようになっていたようだ。
                                       そういうこともあったのですか。しょうがないですが。



 ところで、当時の文書には彦根藩主井伊氏に繋がる井伊谷井伊氏とは別に、渋川村を本拠とした渋川井伊氏が存在していた。寺院の造営や仏像の制作などから相当の力を持っていたことがうかがえ、可能性として井伊谷井伊氏に代わって惣領家であったようにも思われる。この渋川井伊氏は遠江守護職をめぐる斯波氏と今川氏の戦いに際して斯波氏に味方したため、今川氏が遠江守護職になったのちは甲斐に移住していった。その結果、井伊谷の井伊氏が押しも押されもせぬ井伊氏の惣領家となったのである。



定めなき乱世

 応仁元年(1467)、京で応仁の乱が勃発した。乱は十余年にわたって続き、その余波は日本全国に広がっていった。世の中は下剋上の横行する戦国時代へと推移したのである。応仁の乱当時の遠江守護職は幕府管領家の斯波氏であった。応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』を見ると、井伊氏も取り上げられて筆勢の豊かな「井の字」の紋が掲載されている。おそらく守護斯波氏に従って上洛したときのものであろう。

 遠江守護職をめぐって斯波義達と今川氏親が争うようになると、井伊氏は斯波氏に属して今川氏と戦った。永正七年 (1510)、三岳城は今川軍の攻撃にさらされた。井伊氏は引馬城の大河内氏と結んで抗戦、戦いは三年以上にわたって 続いたが、永正十年三月、三岳城は今川軍の総攻撃によって陥落し井伊氏は没落した。井伊氏が落去した のちの三岳城は、今川氏の属城となり三河国作手の奥平貞昌が城番として入った。

 今川氏に抗戦して敗れた井伊氏は直平とされているが、直平はそののちも今川氏の家臣としてみえている。降伏して 許されたとも考えられるが、引佐町史では先の渋川系井伊氏が三岳城に籠っていたものであろうと推測されている。 おそらく、その通りであろうと思われる。

 ところで、井伊直平には『井伊直平公一代記』という史料があり、それによれば直平は家老の飯尾氏によって 毒殺されたことになっている。しかし、一代記の内容は誤謬が多く、史実としては受け入れられないものである。 直平の墓碑によれば、永禄六年(1563)、今川氏真の命を受けて八城山の天野氏を攻めたが、 その最中に陣没したとあり、それが事実であろうと思われる。直平は享年八十五歳という高齢で、系図によれば 男子五人、女子一人がいたことが知られる。直平のあとは嫡男の直宗が継いだが、直宗は天文十一年(1542)の田原の戦いで討死してしまった。その没年に関しては異説もあるが、父直平に先立って世を去ったことは間違いないことであった。

 直宗の子直盛は若年だったため、二男の直満が家督を継承する運びとなった。ところが、それを不服とした直盛の 家臣小野和泉守が今川義元に直満・直義兄弟が謀反の計画をたくらんでいると讒言した。これを信じた義元は、兄弟を 駿府に呼びつけると殺害してしまった。乱暴な話であるが、『井伊家伝記』には井伊氏が甲斐武田氏に誼を通じようとしたことが発覚して義元に成敗されたとある。井伊氏の領地は三河との国境にあり、常に今川軍の先鋒として大きな 犠牲を強いら続けていた。武田氏通謀のことはともかくとしても、直満・直義兄弟が今川氏から離れる道を模索していた可能性はある。ともあれ、直宗、直満・直義の子らを失った直平は孫の直盛を後見して井伊氏の家政を総攬したのである。

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月19日 03時20分15秒 ) パスワード

時代に翻弄される

 駿河・遠江に加えて三河を領国化した今川義元は、永禄三年(1560)、尾張に向けて出陣した。その先鋒を承ったのは井伊直盛であった。今川軍は着々と尾張に兵を進め、五月十九日、桶狭間山で休憩をとった。直盛もその近くに兵を休め、義元の警固につとめた。突然、予想もしなかった織田信長の兵があらわれ、義元は討ち取られ、先手にあった直盛も配下の兵たちとともにあえなく討ち取られてしまった。今川軍は総崩れとなり、思い思いに戦場から退却していった。直盛のあとは養子に迎えられていた直満の子直親が継ぐことになった。


 義元のあとを継いだ氏真は凡庸な人物で、弱肉強食の乱世を乗り切る器量は持ち合わせていなかった。まず、三河の 松平元康が自立の動きを示し、ついには今川氏と絶交して織田信長と結んでしまった。元康の事件は三河に近い 井伊谷の井伊直盛、引馬の飯尾連龍らを動揺させた。さらには、今川家氏真を疑心暗鬼とし、「遠州?(そう)劇」と よばれる一大騒乱をもたらした。


 そのようなおり、井伊氏の重臣小野但馬守が駿府の氏真のもとに行って、直親は松平元康と結んで謀反を起こそうと していると讒言した。聞いた氏真はただちに井伊谷を攻めようとしたが、まずは真偽を確かめるべきだとの意見もあって、 直親を駿府に呼びつけた。ところが、駿府に向かう直親一行が掛川城下に入ると、朝比奈泰朝が井伊氏一行を取り囲み、 あろうことか直親らを殺害してしまった。老年の直平にすれば息子や孫らがつぎつぎと戦死、 あるいは不慮の死を遂げるところを見ることになってしまった。まことに井伊氏は不幸の連続であった。


 井伊直親が殺されたあと、嫡男の虎松(のちの直政)はわずか二歳の幼児であったが、氏真は万千代も殺害しようとした。 それを匿ったのは直親の同僚で井伊氏と縁戚でもあった新野左馬助であった。しかし、左馬助は永禄七年の引馬城攻めで 戦死したため龍潭寺に入ったが、井伊氏の獅子身中の虫ともいうべき小野但馬守の追求は執念深く、さらに三河の 鳳来寺に入ったという。しかし、そこも安全ではなくなり、万千代の母は松下源太郎に再嫁し万千代はその養子に おさまったのであった。


 直親の嫡男虎松が身を隠してしまったため、井伊氏の家督を継いだのは井伊直盛の子次郎法師であった。 次郎法師とはいうものの、実は娘で虎松には叔母にあたる女性であった。次郎法師は、のちに直虎を名乗り 女性国人領主として多難続きの井伊氏をよく切り盛りした。



井伊直政の登場

 不遇をかこつ虎松が徳川家康に見出されたのは、天正三年、十五歳のときのことであった。鷹狩の途中で姿貌いやしからぬ虎松に目をとめた家康が、その生い立ちを聞いて召しだしたというが、『井伊家伝記』には松下源太郎が世話をして家康に謁見、御意にかなって仕えるようになったとある。そして、虎松は万千代と改め、翌四年、家康が武田勝頼軍と戦った遠江芝原の合戦に初陣を飾った。

 以後、井伊万千代は本多忠勝、榊原康政らとともに徳川軍の先陣をつとめ、天正十年、元服して直政を名乗った。天正十年といえば、織田信長が甲斐武田氏を滅ぼした年で、武田氏の遺臣たちは家康に起請文を出して従属することを誓った。そして、その一部の者が井伊直政に付けられ、有名な井伊の「赤備え」が誕生するのである。また、この年、女性国人領主として井伊氏を守ってきた直虎が亡くなったが、彼女は虎松が家康に召しだされたとき衣装を誂えてその門出を祝っている。

 井伊直政を名乗ったのちは、「井伊の赤備え」を従えて、天正十二年の小牧・長久手の戦で秀吉軍をひるませ 「赤鬼」の異名を残した。驚かされるのはそのスピード出世で、先輩の忠勝に先立って修理大夫に任じられ、 天正十八年に家康が関東に移封されると上野国箕輪十二万石を与えられた。十二万石という数字は、当時の家康家臣団のなかで最高の石高であった。

 この直政の出世ぶりを評して「家康の寵童」であった、元服が遅かったのもそれがあったからだとする説がある。一方、先に紹介した『井伊直平一代記』にみえる「直平娘は築山御前と申候」とある一節に着目して、家康と井伊氏は築山御前を介して姻戚関係であり、信長の命で不本意にも生害させてしまった信康と従兄弟になる直政を取り立てたのだとする新説も出ている。直政の異常な出世に対して家康家臣団から不満の声が出ていないのも、家臣は信康と直政のことを理解していたからだというのだ。魅力的な説だが、実際のところは不詳というしかない。いずれにしろ、直政の出世の背景には彼自身が具えた抜群の器量、武勇があったことはいうまでもないだろう。



乱世を生き抜く

 関ヶ原合戦後、石田三成のいた近江佐和山十八万石に加封され徳川譜代筆頭の大名となった。 その後、上野佐野・武蔵世田谷などを増封され、併せて三十万石の身代となったが、 慶長七年(1602)、佐和山において没した。享年四十二歳、関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因だったという。 なお、兄の直勝は、旧縁の高崎に近い安中において三万石を領し、井伊家は宗支入れ替えの格好となった。
                                    あら、そうだったの。ビックリ



 幕末に出た直弼はなかなかの傑物で、幕末の難しい時代に大老となり混迷する政局にあたった。 しかし、多くの志士たちを死においやった安政の大獄を起こし、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。 井伊氏が代々居城した近江彦根城は国宝に指定され、数少ない戦国時代の名残をとどめた城として有名なものだ。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月19日 07時04分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報ありがたく読解させていただきます。私も、今朝、さきほ
どまで井伊氏について武藤和尚の『遠江井伊氏物語』(論文集)を読んでいた
ところでありました。
 永井直勝・白元は宗良親王の後裔であり、井伊直政は宗良親王の外戚の一
族であります。どちらが偉いかの問題でありますが、直系の方が偉いはずで
あります。永井氏に関して、この本の中にも論及がありません(と思います)。
なぜでしょうか。永井氏に関しては意図的かどうか、情報があまり出てこな
いのです。その謎を解きたいと思います―
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月19日 11時06分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 探偵は「勘」が一番大事だと思っています。一つ一つの証拠の積み重ね
も重要ですが、天啓のようなヒラメキ――それを人は「勘」と言うのかも
知れません。おうおうにはずれることもありますが、また突破口となり、
解決への道筋となることもあります。

 今、その「勘」としてヒラメイテいることがあります。
 それは、永井氏の大名家として発展を遂げた場所についてです。
 @高槻、A大和、B岐阜……@とAは服部連が起こったところでありま
す。服部村といってもいいかと思います。また岐阜――ここは服部氏が一番
多い所の一つと言っても過言でない所。
 なぜ永井氏は服部氏と縁のある所へ流動して行ったのか……?

 この「勘」はあくまで私自称歴史探偵の「勘」でありますので、検証して
みないとわかりません。高槻には行ってまいりましたが、服部村もかつて
あり、永井家を祀る神社も菊の御紋と共に存在していました。
 何か、影の意思が働いているのではと思っています。長田(永田・永井)と
服部、目に見えない糸で結ばれているような気がします―
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月19日 15時29分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>長田(永田・永井)と服部、目に見えない糸で結ばれているような気がします

表面上は見えないようですが
実は
見える糸で結ばれていますよ。



長田と服部は同じく桓武天皇の子孫。同じ平家の一門でした。
永井氏は遡って桓武天皇の祖母の子孫(笑っちゃいますね)。


さらに長田=永井=と井伊と服部と大橋は後醍醐天皇のお子さまの宗良親王ーー孫の尹良親王いずよししんのう−−曾孫の良王君よしたかのきみで繋がっている。

          井伊の娘を母に持つ尹良親王
          良王君は大橋の娘が母。
          そして良王君は服部家で亡くなっている

      

                 もともと大橋と服部は平家の兄弟。
                そして後の世にも大橋と長田が繋がっている。養子に来ましたね。



岐阜に服部家が多いというのは津島の服部小平太の一族の子孫じゃないのかしら?と思います。
        津島の服部小平太が信長に従って岐阜に移動してそこに服部家が定住して今日に至る、だと思います。
        さらに服部小平太が秀次事件に連座して処分されて後、服部小平太関係者は岐阜に戻ったのだと思います。

        恐らく尾張には、秀吉が恐ろしくて、津島には戻れなかったのではないかと思います。

        さらに徳川時代の尾張は服部家ホンヤさんが「顔」だったし。

             ホンヤさんを裏切って?信長についた小平太一族は尾張には居場所が無かったのだと思います。
              
              だって尾張南西部の一向宗信徒は信長に2万人殺されてますからね。



        それで現在も岐阜に服部家が多いと思います。


        とはいえ岐阜県の海津=尾張徳川藩の美濃国にあった飛び地の高須藩=の服部氏はホンヤさんがらみだと思います。
         高須藩と服部家ホンヤさんの関係は非常に固い絆で結ばれていましたから。

         
         なのでこの高須藩系の服部家は津島の服部小平太の岐阜の子孫とはちょっとズレます。


と、以上、勝手な空想をしました。笑
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月19日 16時27分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、お詳しい! そうですか、目に見える絆でつながってい
ましたか……それに基づくシンパシィは親族のようなものであったのでし
ょうね。私も自分の所のオオホンヤは理屈なしで敬っておりますし、また、
隣近所の永井氏にもシンパシィを感じております。

 大橋氏と服部氏は平家の兄弟で、また長田氏ともつながっているという
こと……大橋氏というと、「池田庄」にも大橋氏という有力者がおりまして、
前から気になっておりました。ひょっとして、津島の大橋氏と関係があるの
かも……これは私の「勘」でございますが。
 池田という所、戦乱の中での通過点というよりも溜まり場、天竜川がある
ためにそこに留まり、何らかの形で証拠を残した所であります。『豊田町史』
を読むとビックリすることが多いです。まだ断片的にしかとらえておりません
ので、これからは線で把握したいと思っております。

 いずれにしましても、世の歴史家は永井(長田・永田)氏にもっとスポット
ライトを当てほしいものだと思っております。
 私の「勘」ですが、長田・永井氏、及び水野氏は服部党に近い存在、場合
によっては影の存在となり、また少なくとも影の世界と結びついていたので
はと推察しております。影と関係している人は、証拠となる記録は残さない
と考えられるからです。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月19日 17時16分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一度戦国時代の人間になってみたいと思います。それはどういうことかと
いいますと、その頃の人は、何を感じ何を判断基準にして行動したかという
こと、つまり人間の行動基準=モチベーションは何だったかということを知
りたいと思っています。

 その答えはたぶんではありますが、@に「血脈」Aに血のつながりのない
「縁故」だったのではないか……@の同じ血が流れているということは、そ
れがどんなに薄くてもシンパシィを感じるものですし、縁だけによるつなが
りは血脈よりは信頼性は落ちるけれど、一定の信頼は得られたとは思います。

 高野山金剛峰寺へ行った時に、「血脈」というお守りのようなものをいた
だきましたが、これは信ずる者は空海との血脈がつながっているよというこ
と、つまりは「同行二人」ということ。法脈の証として身に付けていなさい
ということだと思いました。

 いずれにしても、やはり、「血脈」は極論で言えば唯一の人間関係をつな
ぐ「パスポート」だったのではないでしょうか。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月20日 02時16分30秒 ) パスワード

池田について少々調べて来ました:


http://ameblo.jp/blogbears/entry-11302955253.html
遠江国説話集159〜池田の渡船(磐田市豊田町)



池田の渡し船


元亀三年(1572)十二月、徳川家康と、武田信玄が戦ったときのことである。

家康の一隊が、天竜川を越して見付の方へ行ったその帰り、信玄の軍に追われてしまった。
そして天竜川の東岸、池田の村まで逃げて来て、そこの船頭を見ると、
「早く、早く川を渡して呉れ」
と言う。

「はい」
船頭は直ぐ、家康達一行を西に運んだが、
その儘その舟を、芦の間に隠してしまった。

そうして信玄たちの軍が来て、
「舟は、舟は・・・」
と言っても出さなかった。

お蔭で家康達は、無事に浜松城に逃げ帰ることが出来たのである。
家康はこれを非常に徳として、
「以後天竜川の渡船は、池田にのみ許す」
と言って呉れた。

そして他の村の者が渡船をやれば、厳罰に処すのである。

だから池田は、東海道五十三次の宿場とはなっていなかったけれど、
天竜川の渡船の為に、必ずここを通らねばならず、非常に繁昌するのであった。


その頃の歌に
   池田よいとこ合の宿
   尾張、紀州様、お小休み
と唄われたものである。


(遠州伝説集)
註:この話は、『豊田町別編2』によれば、「一言坂の戦い」の際の話として所載されています。
家康を西岸の半場まで運んだことから、船頭衆は半場の姓をいただいたと伝えます。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月20日 02時23分26秒 ) パスワード

http://find-travel.jp/article/13697
ほかにも少し



遠江国分寺跡

磐田市内には古代の寺院や役所の遺跡が分布しており、遠江国分寺も奈良時代に全国に造られた国分寺の一つです。1951年(昭和26)に発掘され、東大寺を模した七堂伽藍を備えていたことがわかりました。
東西180m、南北253mの跡地には金堂や講堂の礎石が点在し、現在は史跡公園として開放されています。


■ 基本情報
・名称: 遠江国分寺跡
・住所: 静岡県磐田市見付
・アクセス: JR磐田駅→徒歩15分
・営業時間: 見学自由
・電話番号: 0538-32-9699 (磐田市教育委員会 文化財課)
・料金: 見学自由



行興寺の長藤

藤棚面積1600uを誇る藤の名所です。平家物語で知られる熊野御前ゆかりの藤は樹齢800年で国指定天然記念物になっています。花の見頃は4月下旬から5月初旬で、花房の長さは1メートル以上になる。開花期には、境内・公園内は花の香りに包まれ、花見客でにぎわいます。


■ 基本情報
・名称:行興寺
・住所: 静岡県磐田市池田330
・アクセス: JR豊田町駅→車10分(長藤まつり期間中はJR豊田町駅からバスあり)
・営業時間: 見学自由
・電話番号:0538-34-0344
・料金: 見学自由



花咲乃庄江戸の蔵博物館

「花咲乃庄」は幕末期に造り酒屋として栄えた庄屋の屋敷で、母屋などの建物は国登録有形文化財です。
江戸時代のたたずまいを今に残しその素材を生かしながら、様々な展示やイベントなどが行われています。
また春先のしだれ梅、初夏の花菖蒲、晩秋のドウダンツツジの紅葉など、四季折々の景色をゆっくり楽しみながら、酒造りの水を使った手打ち一・九そばなどの食事ができるます。


■ 基本情報
・名称: 花咲乃庄江戸の蔵博物館
・住所: 静岡県磐田市壱貫地429
・アクセス:新掛川駅→天竜浜名湖鉄道→豊岡駅→徒歩18分
・営業時間: 10:00〜16:30
・定休日: 毎週火曜日
・電話番号: 0539-62-2316
・料金:大人500円 小人250円


サントリーの例のワインのポスターですね(日本初のヌードポスターだとか)

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月20日 02時55分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>私の「勘」ですが、長田・永井氏、及び水野氏は服部党に近い存在


はい
家康の祖母の華陽院さまで皆さん繋がるでしょうね。

華陽院さまは恐らくかなり身分の低い生まれで何度も家格ロンダリングをしていると勝手に思っています。
美しく生まれた哀しい女のサダメというのでしょうね。


一応、華陽院さまは
江州佐々木氏流の尾張の青木加賀守弌宗の娘となって
次に三河国の寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女となって(川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘でもある)
こうして身分を整えて
尾張の水野家に嫁に行ったのだと思います。
そして家康の母の於大を生む。


華陽院さまの婚姻歴:
1.
水野家(家康の母の実家)
水野忠政との子
     水野忠守
     水野忠重
     於大の方(松平広忠室、久松俊勝室。生んだ子が徳川家康、松平定勝らの母)

2.
松平家(家康の父の実家)
松平清康との子 (清康が水野に勝って華陽院さまを奪った)
     碓井姫(松平政忠室、酒井忠次室。松平康忠、酒井家次、本多康俊らの母)
     松平信康 (源次郎)


清康の死後
3.星野秋国
4.菅沼定望にと嫁ぎ
さらに川口盛祐に与えられた

5.川口家(大橋家の分家)
大橋定安の弟である川口盛祐との子
    川口宗吉
     
        この方がアカコッコさんのご先祖さま
    



ホント!みんな繋がってしまいます。笑
それにしても美しく生まれなくてラッキーだったな>>>ワタシ



水野氏
●立ち沢瀉に水
●清和源氏満政流浦野氏族  
 



 水野氏は清和源氏で、源満仲の弟満政の後裔と伝える。満政七代の孫重房が尾張国知多郡阿久比郷小河に住んで小河氏を称した。その子重清は源頼朝に仕え、同国春日井郡山田庄水野に移り、山田あるいは水野を称したという。世にいう尾張源氏の一族である。

水野氏の出自

 家伝によれば、源頼朝に仕え鎌倉幕府より小河村の地頭職を与えられ、のち足利尊氏に属しある時期流浪したという。

 重房から十三代の子孫貞守・賢正のときには、三河国碧海郡刈谷に進出して小河・刈屋の両城を築城、刈屋・熊村・大日・大高・常滑の諸士を従属ししめたという。貞守は、長亨元年に没したと伝えられる。

 水野氏の家紋は、沢瀉の下に水を添えた「水野沢瀉」が知られるが、『長倉追罰記』には「永楽の銭は三河国水野の紋」とみえ、室町期には「永楽通宝紋」だったことが知られる。しかし、水野家の「永楽通宝紋」は信長から与えられたとされているが、『長倉追罰記』に既に水野の紋として「永楽通宝紋」が記されていることからみてもそれはうなずけない説である。

 また『寛政重修諸家譜』には、水野氏の沢瀉紋の起こりについて「往昔は菊水に一文字を家紋とす。蔵人貞守出陣のとき、三河国鯉鮒明神の霊夢によりて、沢瀉を取り、笠・袖の験となし、その日の軍に勝利ありしかば、これより沢瀉にあらたむ」という。先に小河氏を称した小河の知多一円は、どこにも沢瀉が自生していて、そうした環境から沢瀉の紋章に、伝説が上乗せされたものであろう。

 さて、貞守から四代の忠政は、小河・刈谷のほかに、大高・半田・西尾などの諸城に進出。松平宗家との姻戚関係が生じた。妹は信忠の妻、娘於大は松平広忠に嫁いで家康を生んだ。嫡子の信元は小河・大高・半田・西川・刈屋・西尾の諸城をもち、織田信長に属し、信の一字を与えられた。以後、織田氏と結んで松平氏を含む今川氏の勢力と対立し、松平宗家の岡崎衆と戦った


近世大名への道

 桶狭間の戦いで今川義元の戦死後、大高城にいた家康の脱出を勧め、また、家康と信長との同盟の成立に尽力したが、天正三年(1575)、讒言によって信長の怒りを蒙り家康のもとに逃れたが、結局、殺害された。  弟の忠重は永禄四年(1561)、家康に臣属して以来、三河一向一揆との戦、遠州掛川城攻め、姉川の戦い、三方原の戦、遠江・高天神城攻めなどの諸合戦に加わり、戦功を挙げている。長兄信元の死後、信長から信元の旧領刈屋城を与えられ信元の後嗣となった。本能寺の変時には在京していたがうまく難を逃れ、のち再び家康に属して小牧・長久手の戦には先鋒をつとめ戦功を挙げた。天正十三年、豊臣秀吉の直臣となり伊勢神戸四万石を領し、九州攻めにも従軍し、豊臣姓を与えられている。

 秀吉死後の石田三成の挙兵の際、その手により殺害された。忠重の嫡子勝成は若き日、乱暴者で手におえず、それだけに戦場での働きにはめざましいものがあった。勝成は自ら家を出て、勘当の身にあった。それを取り持って、忠重の死後家を継がせたのが家康であった。以後、勝成は家康の側近となり、大坂の陣では軍功をあげ、戦後、大和郡山六万石を与えられた。元和元年(1619)に譜代大名としては初めて中国筋へ出て、備後国福山城十万石を領した。島原の乱に際しては、老年でありながら将軍家光の要請で出陣した。

 子孫は、代々福山城十万石を領したが、元禄十一年(1698)勝岑の代に至って嗣なきにより、除封同然の処分を受けたが、「先祖の旧勲をおぼしめし、勝長に名跡を継がしめられ」ということで、能登の国の内に一万石を与えられた。その翌年、下総の結城一万八千石に国替えとなり、代々その封を継ぎ明治維新を迎えた。

 江戸時代、水野氏は下総国結城・駿河国沼津など大名四家、紀伊徳川家の家老家のほかに、旗本奴十郎左衛門で著名な家をはじめ、多数の旗本家があった。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月20日 04時03分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


>一度戦国時代の人間になってみたいと思います。
>それはどういうことかといいますと、
>その頃の人は、何を感じ何を判断基準にして行動したかということ、
>つまり人間の行動基準=モチベーションは何だったかということを知りたいと思っています。


知りたいですよね。
生まれた以上しょうがなかったとはいえ、あの過酷な時代をよく生き抜きましたよね。
どんな思いで生き抜いたのでしょう?


生を受けたら次の代の生を残す、
これが命あるモノ(植物でも動物でも人間でも)のサダメと思います。
            今はまた違うしワタシもサダメには抵抗するタイプだけど。



そうなると  家名とか誉れとか血筋とか先祖とか  生きるために食べていくために家を残すために  戦うことになったんじゃないかな。


その上に日本人の親は1円でも、飯の一杯でも、多く子に遺してやりたいというのが最近まであったんじゃないのかなと。

             今はまた違いますね
                

子のため子孫のため「殿の馬前で」華々しく散ってこそ<親>の勤めという感じだったのかな。


足軽とか小者は今をなんとか生き延びるために生きてたのかな?
運が良ければ自分だって一国一城のアルジになれるという夢があったのかな?


本当のところはどうだったのでしょうね。
ただただ「今」を生きるのに必死だったのかしら?
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月20日 22時25分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 苗字でポン2000年版によると、磐田市の東貝塚と見付には合計で31世帯
の「服部」の電話登録があるということで、本日はそのあたりのお寺を5ヶ
寺程廻って来ました。
 その結果、ビックリすることに出会いました―それは、即ち、東貝塚のあ
るお寺においてたくさんの「服部家」の墓に出会うことができたということ
であります。その寺の名は、「招宝山 東昌寺」、遠江四十九薬師霊場の第
四十七番目のお寺であります。私も二十年以上前になりますが、四十九ケ所
の霊場全部を廻っておりますので、かつて訪れていたことになります。その
記憶は今は残っておりませんでした。

 「服部家」の墓の数、25基。
 家紋別に分けてみると―
 「丸に桔梗」:10基
 「丸に違い鷹の羽」:9基
 「丸に抱き茗荷」:4基
  なし:2基
以上でありました。全体の墓の数はそんなに多くないので、まさに服部家の
菩提寺のよう。服部家の家紋は3種類ありましたが、たぶん親族でありまし
ょう。

 『家紋でたどるあなたの家系』(千鹿野茂編)を調べてみましたが、今のと
ころ、家紋からは、これらの服部家がどの系統か見当がついておりません―
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月20日 22時33分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


     「丸に桔梗」:10基
     「丸に違い鷹の羽」:9基
     「丸に抱き茗荷」:4基
       なし:2基


へぇ〜
不思議ですね。


家紋は本当にワケ分からないですね。
その家のアイデンティティを示しているんでしょうけど。


こうして他人になっていったんでしょうね。
そして今は全く関係が分からなくなってしまったということですね。
まさに兄弟は他人。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月21日 02時40分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


「丸に桔梗紋」の服部氏は見つかりませんでした。
「丸に違い鷹の羽紋」これも見つかりませんでした。
「丸に抱き茗荷紋」これも見つかりませんでした。



でも長谷川氏とか市野氏とかユゲタ氏とか永井氏とかが使ってたりするから
そちらとの関係で使ってるんでしょうかねぇ。


家紋は難しいですね。



[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月21日 07時31分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 戦国時代、「南朝への想い」(いわゆる錦の御旗への忠誠・尊崇)は、祖先
が南朝方であった人々の心にどのように、またどの程度残っていたのでしょ
うか。この残存思念というものを「南朝フィルター」とし、この南朝フィル
ターを通して浮かび上がって来る武将を並べてみると、どうなるでしょうか?

 今、私のつたない知識から言うと―
 @井伊直政―祖先は南朝皇子宗良親王を守る等、深くどっぷりとかかわっ
       ている。また、外戚にもなる。
 A服部中保次―祖先は楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、後醍醐天皇よ
        り日月錦旗・節刀・菊水の旗印等を賜ったと言われている。
 B永井直勝―宗良親王の後裔。
 この三者は格段南朝色が鮮明でありますので、同士意識が高かったのでは
ないでしょうか。
 井伊氏には松下一族がどっぷりとかかわっているので、服部中としては、
永井氏の方にくっついたのではないか……これが私の推理です。

 本日は、服部・永井の痕跡を探しに、掛川・磐田に行ってまいります―
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月21日 08時03分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


                       @井伊直政―祖先は南朝皇子宗良親王を守る等、深くどっぷりとかかわっている。また、外戚にもなる。
                       A服部中保次―祖先は楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、後醍醐天皇より日月錦旗・節刀・菊水の旗印等を賜ったと言われている。
                       B永井直勝―宗良親王の後裔。



@井伊直政―祖先は南朝皇子宗良親王の嫁の実家。また、外戚
A服部中保次―祖先は楠氏の一族。後醍醐天皇のお召し。
B永井直勝―後醍醐天皇・宗良親王・尹良親王の後裔。

こんなところでしょうね。


そこへもって来て家康の先祖も南朝方。
家康にすれば永井直勝が長田姓では先祖=新田=の主人筋になるからマズかったかもですね。笑
政治力学が働きますね。

なので家康には   家来が自分の先祖の上司になる南朝方の絆では面白くないから
平安時代の頼朝の父を暗殺した「オサダ姓」は止めてくれとごり押ししたのかもですね。



井伊と服部と永井にすれば先祖以来のヨシミという大義名分があっての絆を再び強くしたのかもですね。

で、善地で永井氏と服部氏が親しくしていたのかもですね。



>本日は、服部・永井の痕跡を探しに、掛川・磐田に行ってまいります

丸に三つ柏の服部氏にお墓で偶然出会えると良いですね。
そして、その方のご先祖のお話が聞けると良いですね。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月22日 15時43分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は午前中に草刈り(芝刈りではありません)をしたせいか、疲れが
とれませんでした。午後から磐田・掛川のお寺を五ケ寺回りましたが、
際立った成果はなく、よけい疲れが上乗せされました。

 ただ掛川の「宗心寺」では「丸に篠笹(やや変形)」の服部氏の墓一基、
同じく「殊勝寺」では「丸に三つ蔓柏」の服部家の墓を三基見つけまし
た。どちらにも般若心経をお唱えしてまいりました。

 永井氏の墓がたくさんあった磐田の「宝珠寺」にも、また行ってしま
いました。永井の文字にはすごく親近感を感じます。今度行った時には、
住職さんに永井家のことを聞いてみることにいたします。

 天竜川上流西岸の善地と下流東岸の豊島の両永井氏が関係あるとした
ら、その両者を結ぶ要素・要因とは何かということ……直勝や白元と関係
しているのか……。碧南の宝珠寺は永井直勝の生誕地。たまたま同じ名前
のお寺が磐田にもあって、たまたま両寺とも永井氏に関係しているという
「偶然」なのか……。

 磐田の宝珠寺を東へ行くと「鎌田」に至る。そんなに遠くない。長田氏
の後裔永井氏が、この地で祖先を祀るために菩提寺を造ったとしても、決
して不思議ではない。その辺の可能性を探ってみたいと思っています。

 また、大浜と掛塚は海路で結ばれていました。また頭陀寺も昔は湊で
ありました。天竜川も昔はずっと東を流れ、また磐田南部は昔大きな入江
になっていたということですので、今の常識で昔の動きをとらえようとす
ると無理があるのかも知れません。

 さて、南朝フィルターですが、三河・遠江を中心とした「南朝」勢力―
―隠れ南朝勢力が、家康(新田氏)を旗頭にして一本にまとまった。
 その構成要員は、井伊氏族、永井氏族、服部氏族、そして重要なのは
土岐氏! その他の有名な氏族としては、足助の鈴木氏……etc.

土岐氏といえば、明智氏! そして最後に徳川の血脈に入ったのは、服部
氏と明智氏の血ということにならないか……

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月22日 22時29分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


>草刈り(芝刈りではありません)をしたせいか、疲れがとれませんでした。
>よけい疲れが上乗せされました。

朝寝・昼寝というか
何かした後には30分、身体を休めるために横になるというか、出来れば、本当に30分だけ寝るのが良いと思いますよ。
でも1時間以上も本気でぐっすり眠ってしまうと逆に疲れが取れずに加算されてしまいますが。笑

これで疲れが軽減出来て次のことに張り切れると思います。
いつまでも10代20代30代のカラダじゃないので。



磐田と宝珠寺と永井氏の関係をチェックしましたが載ってなかったです。
しかし下記のようなエピソードがありました。
http://www.housyuuji.com/temple.html

浜松市頭陀寺に城を構えた土豪松下某か曳馬の松下長則(松下一族の実力者)が、 宝珠寺住持と碁を打つために来たとき、
待つ間、日吉丸(後の豊臣秀吉)が宝珠寺本堂の廊下で寝ていたという言い伝えが残っています。
(信長に仕える前三年ほど浜松に居たということです)

それで秀吉の朱印状もあるんですね。



>磐田の宝珠寺を東へ行くと「鎌田」に至る。そんなに遠くない。

ビックリ!


頼朝の父・義朝に仕えて野間で(内海で)一緒に暗殺された鎌田正清の出身地ではありませんか。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kamata_k.html

鎌田氏

丸に一つ引両(一文字カ)/六つ星
(藤原氏秀郷流首藤氏族)


藤原秀郷の後裔の首藤資清の子通清は、源為義に仕えて、駿河国磐田郡御厨村に住した。

その子正清は平治の合戦に敗れて東国に落ちる源義朝に従い、尾張国の住人長田忠致の手で義朝が殺されたとき、一緒に殺された。

光政は源義経に属して、平家との屋島の合戦で戦死した。


光政の子政佐は文治二年島津忠久に従って、薩摩に移住した。
そのとき弟の政重も薩摩に移り住んだ。  
戦国時代、尾張守政年は、島津忠国の三男伊久逸の家老をつとめ、文明十七年の日向櫛間牟田迫の合戦で、久逸を守って戦死。

その子政盛はその賞として伊作荘永谷名を与えられた。


政盛の子筑前守政心は、薩摩郡百次郷、曽於郡財部郷の地頭となり、天正十四年の筑紫城攻めのときに戦死した。

政心のあとは一族の鎌田政広の子政良が継いだが、病弱だったため、鎌田図書頭政勝の子政近が継いだ。


鎌田政近は、島津家久・忠恒に仕え慶長七年(1602)山城伏見城で徳川家康に引見され、本多正信・山口直友をして、島津義久及び忠恒への家康からの誓紙を受け取っている。

以後代々島津氏に重臣として仕えた。


ここでアップ
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月22日 22時48分17秒 ) パスワード

>掛川の「宗心寺」では「丸に篠笹(やや変形)」の服部氏の墓一基、

丸に篠笹紋?
一応服部氏の流れなんでしょうね。




>掛川の「殊勝寺」では「丸に三つ蔓柏」の服部家の墓を三基

これは医家の旗本の服部氏と同じですね。
そうするとあの医者の服部氏は掛川の出身だったのかも???



>どちらにも般若心経をお唱えしてまいりました。

ありがとうございました。
ご親戚かご一族の皆さんだと良いですね。




>磐田の宝珠寺を東へ行くと「鎌田」に至る。そんなに遠くない。


だいたい鎌田と長田は親戚ですものね。

長田の嫁が鎌田の娘でしたから。
ということは「孫」が生まれてたかも知れないですね。


    鎌田の娘にすれば自分の父が自分の夫とその父親に暗殺されたなんて物凄い苦しみですよね。

    長田と鎌田の間の子にすれば、一応長田の祖父や父が平家一門で栄えても、トラウマはあるし
    頼朝が天下をとって以降はトラウマが増えただけでしょうし

    鎌田の従兄弟が義経に従って屋島で討ち死にを遂げたのは羨ましかったかも。



>長田氏の後裔永井氏が、この地で祖先を祀るために菩提寺を造ったとしても、決して不思議ではない。

はい、長田出身の永井氏にすれば、ここは心境複雑な地だったかもですね。
それ故に「菩提寺」を作ったのは本当に救いが欲しかったのだろうとも分かりますよね。

一応家康は頼朝の子孫であり後継者の顔にしてるし。
    頼朝に長田家は復讐されてますから。
    家康もオソロシかったかも。

また出掛けることがありましたら般若心経を唱えてあげてください。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月22日 22時58分43秒 ) パスワード

>そして重要なのは土岐氏! 

土岐でしたら頼朝の家来であり北朝方ですが
土岐と言えばワタクシの家も土岐の子孫と親戚です。
どこで最初縁が出来たのかしら?笑




正中元年(1324年)に起きた後醍醐天皇の最初の討幕計画である正中の変において『太平記』では土岐頼貞が計画に加担し、陰謀を察知した幕府軍に討たれる話になっている。しかしながら、頼貞はその後の戦乱で活躍しており、記録に混乱があるが、土岐氏の一族がこの計画に関与したのは確かである。

元弘元年(1331年)、足利尊氏、新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府が滅亡した時(元弘の乱)には頼貞は尊氏に味方し、その後の南北朝の争乱でも尊氏とともに転戦して戦功をあげ、美濃守護に任じられた。美濃に強い地盤を持つ土岐氏は足利将軍家を支える有力な武士団となっていた。

頼貞から守護職を継いだのは、勇猛な武将でバサラ大名としても知られる頼遠である。頼遠は平安時代からの発祥の地であった、それまでの土岐郡から厚見郡に新築した長森城へと本拠を移転している。その他、合戦では目覚しい働きを示していたが、驕慢な振る舞いが限度を超えて、康永元年(1342年)光厳上皇への狼藉事件を起こして処刑されてしまう。




>その他の有名な氏族としては、足助の鈴木氏……etc.


足助の鈴木氏と来たら足助の服部氏を思い出します。
やはりココでも鈴木と服部の関係が浮かび上がりました。
足助の服部氏の実態を知りたいものです。




>土岐氏といえば、明智氏! そして最後に徳川の血脈に入ったのは、服部氏と明智氏の血ということにならないか……

これは宿題にします。


[56]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月23日 11時01分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松の知人に「楠」氏がおります。今まで楠正成との関係を考えたこと
はありませんでした。だけど、珍しい名前だな、そんなに多い名前ではな
いなとは思っていました。「苗字でポン」で調べても、一か所にまとまっ
て多く存在する所はなく、極小の人数で各地に分散しております。忠臣の
代表として、また「南公」さんと親しまれ、あがめられた英雄ということ
でありましょう。
「義仲」さんもまた、民衆からあがめられた英雄でありました。ある意味、
両者はよく似ています。

 さて、徳川家康が祖先が南朝に属していたということで、だから南朝へ
の回帰を図った、楠木公を夢見、天下を統一しようとしたであろうか……。
南朝とは、後醍醐天皇とはそんなに桃源郷・アルカディアのように、モチ
ベーションに強力に働きかける魅力があったのだろうか……と考えていま
した。

 いろいろ調べてみても、「いざ南朝のために」という意気込みは聞こえ
てまいりません……。確かに「南朝つながり」ということで、過去、南朝
で仲間であったという意識が友を呼んだかもしれません。だけど、それが
生死をかけてまで天下統一に突き進むモチベーションになっただろうかと
いうこと……? どうも、まったくは外れてはいないが、ずばり当たって
はいない気がいたしております。

 南朝現象とは何だったのでしょう。後醍醐天皇は人徳はなかったように
言われております。ただ、戦力として、今まで虐げられてきたいわば「山
の民」のような裏・闇の勢力を利用したということが、その民達のたまって
いた義憤のエネルギーの爆発となり、いわば「革命」の原動力になったと
いうことが、一番大きなポイントであったのではないでしょうか……。

 ということは、南朝配下の人々は、そのずっと昔から権力により「敗者」
とされて来た出雲以来の豪族の流れをくむ人々だったのではないでしょうか
……。彼らのマグマは、南朝のモチベーションよりもさらに強烈だったの
ではないか、自分自身のアイデンティティにかかわる問題で、命をかける
こともいとわない程の……。

 この点について、さらに深く考えてみたいと思います。
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月23日 16時55分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 こんにちは。
横から失礼いたします。ミヤハラです。

鎌田氏 長田氏 永田氏 永井氏
鎌田氏も永田氏も永井氏も、肥後相良藩の藩士にもその”名”がありますので
非常に興味を以って御調査拝読させて頂いております。

所で 三つ柏服部様
全国・地域別の”同姓”の調査サイトですが、御存じの事かとは思いますが
御紹介させて頂きます。

同姓同名探しと名前ランキング
同姓同名の人数検索と全国に多い姓名ランキングを収録。
さらに名字ランキングで名前の由来を見つけよう。
先祖から受け継ぐ苗字が全国にどう分布しているかが分かる!
http://namaeranking.com/

”姓”だけを入力して、全国だけではなく県別でも検索出来ますので、私も利用しています。
集計値が出ますので、使いやすいと思います。
御存知でしたら申し訳ございません(..)

猛暑が続いています。
空の青海のあを様、三つ柏服部様 お身体十分にご自愛下さい。
では(^'^)
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月23日 21時24分35秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ありがとうございます。苗字の分布数を調べるのに大変便利ですね。
 さっそく調査に使わせていただきます。

 毎日暑い日が続きます。どうぞ体調にお気を付けて続けて下さい。私
も「蟻の一歩、一ミリの前進」の気持ちで歴史の謎に挑戦して行きたい
と思っています―

 九州との関係……水軍なしでは考えられませんね―

 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月23日 21時47分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


>南朝現象とは何だったのでしょう。
>南朝配下の人々は、そのずっと昔から権力により「敗者」とされて来た

はい
これは当たっていると思います。

一言で表現すると「南朝ムーブメント=敗者復活戦」と思います。
で、不満側の夢破れて、やっぱり負けた、かなと。



>出雲以来の豪族の流れをくむ人々だったのではないでしょうか

これはワタクシ個人には分かりません。
「出雲」とかの古代またはそれ以前の神代の話になるとワケが分からなくなるので。



もっと近い前の時代の抗争だったのでは?と思っております。

     例えば  旧平家方 and/or 木曽義仲方  vs 源氏方+北条得宗家方

               我が家の母方の場合は「同じ一族内での戦い」でした。
                 生母が北条の娘ゆえに家督を譲られた9男である末っ子  vs  長子で元寇にも父と参加し負傷したのに側(うちはコッチ)


          地方(新田など)  vs  権力側(足利など)
                 ここも同じ先祖を有する源氏の子孫同士

       
          恩賞をもらえた側  vs   貰えなかった不満側


まだ他にもいろいろあると思いますが。
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月24日 09時14分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、まだ調べていない掛川のお寺を八ケ所程廻ってきました。
 服部・永井・永田・長田に関する特筆すべきものには出会えませんで
した。まだいくつかの未調査のお寺を残してはいますが、これで掛川に
ついては終了としたいと思います。
 永井氏の調査のために、磐田にはもう一〜二度廻ってきたいと思って
おります。
 
 さて、楠木氏についてですが、『楠木正成』(新井孝重著)によると―
「楠木軍事力の構成を考えると、次のことがいえそうである。
 まず、中心部には楠木の一族と縁者がいた。 
 和泉の和田氏と河内国高安軍の神宮寺氏、それと紀伊国の恩地氏、贄川
氏、伊賀国の服部氏などである。
 彼らは橋本、宇佐美ら宗徒(むねと)の者とともに、楠木氏のもっとも
固い軍事力となっていた。
 〜中略〜
 また伊賀国浅宇田荘の服部氏には、楠木正遠なるものの女を娶り、楠木
氏と縁戚となっていたという確度の高い伝承がある。
 服部氏は北伊賀地方の有力御家人、のちに悪党の頭目となった一族で、
元弘元年(1331)鎌倉軍勢が楠木討伐のために大挙上洛したときは、敵軍勢
の一部を伊賀方面にひきつけている。
 要するに、楠木氏の軍事力は、正成が居住した南河内郡を中心に、西へ
は和泉の和田・橋本ら、南へは和泉山脈のの紀見峠を超えて紀伊の恩地・
贄川、北は河内北部の神宮寺・恩地の諸氏、さらに伊賀国の服部氏など、
ひろい範囲にわたって軍事的核を配置していたと考えられるのである。
 そしてこれら一族・縁者の周囲には、それぞれの地域で大小の在地武装民
が点在していた。反乱情勢が熟するにともない、彼らは楠木氏の一族・縁者、
仲間の活動に触発され動き出したのである。」
ということで、服部氏は楠木軍団の中心勢力であったことがわかりました!



[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月24日 13時48分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


掛川では新たな興味深い情報は期待できないようですか。
しょうがないですね。


磐田で見つかると良いですね。



楠木正遠の子、楠木正成のSISTER姉か妹が服部家に嫁に来て、その子孫が観阿弥や世阿弥と言われてますね。


確か「七生報国」の言葉を言ったのも楠木正成の弟・正季(和田氏に戻している)だったように記憶しています。
で、正成正季兄弟は互いに刺し合って死んだのだとか。


      「平家にあらずんば人にあらず」が平時忠=清盛の後妻の兄=の言葉なのに清盛の言葉として誤解されているように
      「七生報国」も楠木正成の弟・正季の言葉だけど楠木正成の言葉に化けてると。



楠木 正遠(くすのき まさとお、弘長3年(1263年)? - 嘉元2年(1304年)?)

河内国の土豪で、水銀で財を成した一族といわれている。
楠木正成の父とされ、諸家系図には、正玄、正澄とも伝わる。



経歴

『系図纂要』(橘氏系図)には「弘長三年生 楠五郎 刑部左衛門少尉 従五上」とある。また、嘉元2年(1304年)鎌倉で死去したとある。

本姓は橘氏。藤原純友の乱で武功のあった伊予橘氏の橘遠保の後裔とされる。『系図纂要』(橘氏系図)は正遠を橘遠保10世の末裔盛仲の子とするが、『尊卑分脈』(橘氏系図)や『太平記』は橘氏嫡流系統の為政の後裔とする。

諸説あり不詳。実際は、同じく橘姓の熊野国造和田氏の系統である和田刑部丞正俊の子とする伝えや、正成の母を橘盛仲の娘とする伝えを考え合わせると、正遠は盛仲の女婿となったものと考えられる。

楠木俊親(正俊)・正成・正季・正家らの父とされ、娘は伊賀の観世家の服部元成に嫁いで観阿弥の母親となったとされるが、真偽は定かではない。




楠木正成の弟の子供達は姓を和田氏に戻して和田を名乗った:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0

熊野国造
熊野国(現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した国造。
饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖とされる。
姓(かばね)は初め熊野直、後に熊野連。


「和田氏系図」によると、子孫の一部は和田氏を称したという。


饒速日命(にぎはやひのみこと)の後裔、大阿刀足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の代に熊野国造となり、その子・稲比が熊野直(くまののあたえ)の姓(かばね)を賜ったという。

『新撰姓氏録』山城(神別・天神)には熊野連〔饒速日命孫味饒田命之後也〕と見える。

「和田氏系図」によると、熊野国が紀伊国に編入されてからは牟婁郡大領、また熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎したという。

さらに「和田氏系図」によると、醍醐天皇の代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉)熊野広方(橘広方)が橘姓に改姓(橘良殖の猶子となったか)、広方の娘は鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の 3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。

それ以来、国造家は和田庄司(和田国造)を称して和田氏となり、神仏習合の時代に中央の後盾をえた熊野三山社僧勢力の筆頭であった熊野別当の勢力に圧されたが、子孫は土豪として紀伊国全域、河内国などに勢力を持った。


南北朝時代には、河内国の和田正遠が楠木氏(伊予橘氏)の家系を継承したが、正成一族を除き、他の子息(正季、正家ら)の一族は和田氏に復している。

正季の子息・和田高家は岸和田古城を築いたことで名高く、同じく正季の子息・和田賢秀は「歯噛様(はがみさま)」として現在もその武勇を讃えられる。


南朝方の家臣・和田正興や正武は系譜不詳。『太平記』などは正興らを楠木氏と同族とするが、
実際は和泉国の御家人・和田(みきた・にぎた)氏(大中臣姓)の出であったとも考えられる(婚姻関係などにより同族化した可能性はある)。

ただし、国造和田氏の流れを汲む多くの氏族(橋本氏、神宮寺氏など)が南朝方に付いて、同族の楠木氏と共に戦った。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月24日 14時24分22秒 ) パスワード

日本人は8代遡ったらみんな繋がってしまうとは聞いていますが
   京大に行ってた甥っ子が教官から「日本人とは」という説明で言われた話ですが

                   
          
本当にわたくし自身も何重にも繋がっているのを感じます。
   父方で楠木と繋がり
   母方で楠木と繋がる。こちらの直接の先祖は最後の最後まで吉野にいたけど。使用家紋の1つが菊水だし。


          この先の話は元気になったらメールで知らせます。


>国造和田氏の流れを汲む多くの氏族(橋本氏、神宮寺氏など)が南朝方に付いて、同族の楠木氏と共に戦った。

これも心当たりがあるし。


レス<56>の
>出雲以来の豪族の流れをくむ人々だったのではないでしょうか

ここに行き着くんですよね。
ここに、つまり古代とか神代の人々に。


「日本」は異民族に絶滅させられてないから今現在も「古代や神代」が生きていると言うか続いているんですよね。


饒速日なんてまさに母方先祖のハナシに出て来るし。





[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月24日 14時41分20秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101550.html
スレッド74をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。



最近MSの方から窓10に切り替えろとしつこく言って来ます。
8で瞬殺されまくってるのに
8以上に瞬殺されるのかと思うとオソロシイ。
だって窓10が8より安定しているなんてまだ聞いてないですよね。

   予想するのは、恐らく窓10は8よりずっと検閲が当局にはやり易くなっているのだろう、でしょうね。
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