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 投稿番号:101541 投稿日:2016年06月23日 10時27分11秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXI(16年の課題確認14)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101537_55.html
長上郡の服部氏族LXX(16年の課題確認13)
スレッド70の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


只今、ご近所のお寺さんにお墓を見に回っています。
服部家の家紋が幾種類か見つかっています。
謎の解明は近いのでしょうか?

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月23日 14時41分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近代・現代史を抜きにして、戦国・近世の400年の歴史――1日を
1頁、1年を365日とすると、400年の歴史を理解するということ
は、単純にいって365頁の文庫本を400冊読む位の努力が必要とい
うことか……。もちろん本だけではある意味バーチャルでありますので、
実地検証も必要でありますが。

 でも、掘れば掘るだけいろいろな新しい事実の発見がありますので、
努力は必ず報われる(100パーセントとは言いませんが)ということ、
これが最近の実感であります。

 歴史を陰で動かしていた人がいたとしたら、それは賀茂氏を中心とし
た勢力か……。賀茂氏と服部氏の関係について、まだまともに考察をし
たことがありません。役小角は賀茂氏であり、修験という形で、忍者の
世界に影響を及ぼしたことは間違いありません。
 はたして、服部氏と賀茂氏との間には、一体どんな現実的関係があっ
たのか……徳川氏も賀茂族ということもありますが……今後踏み込んで
調べて行きたいと思っています。

 さて、明日は一泊で群馬県の「猿ケ京」に行きます。ツアー旅行であ
りますが、この「猿」に何か謎めいたものを感じております。信州の
麻績に「猿ケ馬場」という所があるように、猿は猿回しや動物園の種と
しての動物でなく、「神の使い」としての尊厳をこめた言葉だと感じて
おります。その感覚は現代人にはわからない……。
 群馬県というは私にとっては未知の世界、戦国時代では重要な地域で
もありますので、この機会にその風土だけでも五感で感じ取って来たい
と思っています―

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時12分33秒 ) パスワード

今年の大河「真田丸」で真田の地が上野国や越後国に近いというのを知ってビックリしています。

ワタシにとって方向音痴のせいもあって「群馬って、東京のずっと山奥」という感覚でした。

     ついつい公共交通機関での移動手段で群馬を捉えてしまいますから。

そして今回の群馬県猿ケ京は新潟の近く?!と、もう、ビックリです。

     地図:  http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=36.72337057&lon=138.88799524&ac=10449&az=18.133&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E5%88%A9%E6%A0%B9%E9%83%A1%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%BF%E7%94%BA%E7%8C%BF%E3%83%B6%E4%BA%AC%E6%B8%A9%E6%B3%89133

なるほど沼田を巡って上杉と北条と真田(武田)が死闘を繰り広げたわけかと。遅過ぎ



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E3%83%B6%E4%BA%AC%E6%B8%A9%E6%B3%89


新潟空港より新潟駅南口まで新潟交通リムジンバスで約25分。
新潟駅から上毛高原駅まで上越新幹線で約58分。


歴史

温泉の発見は約400年前とされる。開湯伝説によれば、猿が大やけどを負った子供を温泉に入れて助けた、とされる。

また、猿ヶ京の地名は上杉謙信の命名とされる。

唐申の年、申の月、申の日に、申年である謙信が縁起の良い夢を見たことにちなんで地名を「申ヶ今日」と改め、後に漢字が現在のものに変わったとされる。

ただし、温泉の名前は笹の湯、または湯島温泉と呼ばれていた。

1631年(寛永8年)、三国街道の関所として、沼田藩によって猿ヶ京関所が設置された。

                                         沼田・・・



1958年(昭和33年)、相俣ダム建設により温泉地がダムの湖底に沈むことになり、現在の温泉街が存在する場所へ移転した。

その時から温泉名も猿ヶ京温泉を名乗るようになった。

ダムに沈んだことがある温泉地は、他にも日中温泉、鶴の湯温泉、入之波温泉、大牧温泉、大塩温泉などが存在する。


2005年(平成17年)10月1日のみなかみ町成立に際し、大字が「猿ヶ京」から「猿ヶ京温泉」へ変更となった。


へぇ〜



群馬=新田ということで、群馬には南朝方がらみの服部氏も結構落ちて行ったんじゃないかなと感傷に陥ります。

昨年の大河のバカみたいな展開に(主人公は一体誰なのか?ワケ分からなかった)
第3幕の舞台では群馬の阿久沢氏が悪役?として立ちはだかって、阿久沢夫妻の存在感が凄くて主人公を喰ってたし

   と、思った深層心理には、南朝方がらみの先祖からのパワーが働いてたのかなぁ、と。


松島氏がらみで阿久沢氏について書きましたっけ:
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101437.html
長上郡の服部氏族]]]W  (4月24日エンエンと書いてます 笑)
松嶋氏についてエンエンと書いてます。

      新田の家臣の松島氏。

全く五里霧中でしたが今となりますと松島氏と服部氏は上野国で親しかったのかな?と。


      もし親しかったのなら、やはり江戸時代260年の断絶で、分からなくなってしまってたのかもですね。



松島氏が上野国・信濃国・遠江国を彷徨してたのはアリだったのかも。


こんな所に戻って来ました・・・
不思議・・・・


[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時27分47秒 ) パスワード

もう1つ書いて置きます。


忘れてならないのが「青山氏」。
http://tokumei10.blogspot.com/2012/07/blog-post_407.html

青山家はただの武家ではござらぬ、徳川将軍家のアレでござる



武家家伝_青山氏 via kwout


青山氏(あおやまうじ)は日本の武家の一つ。藤原北家花山院流。江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた。

祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、その後、三河国額田郡百々(どうどう)村に土着し、松平氏に仕えたとされる。記録上の初見は松平広忠とその子元康(家康)に仕えた忠門であり、その子忠成は秀忠の側近として近侍。関ヶ原の戦後、加増され大名に列した。宗家は江戸期を通じ、大坂城代、老中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎、武蔵国岩槻、信濃国小諸、遠江国浜松、丹波国亀山など転封を繰り返したが、1748(寛延元)年、丹波国多紀郡篠山(現・兵庫県篠山市)に移封され、6万石で維新を迎えた(→篠山藩)。忠成の三男幸成の系統は美濃国郡上郡八幡(現・岐阜県郡上市)に4万8,000石を領した(→郡上藩)。どちらも廃藩後は子爵となった。家紋は無字銭、葉菊。


壊れず出ると良いのですが。



[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時30分05秒 ) パスワード

青山・服部・大久保の関係図

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時35分14秒 ) パスワード

続きコピペ


伊賀服部宗家が、いつに間にか青山家となっていたのでござる。

さて、時は戦国、本能寺の変直後。
わずかな家臣とともに大阪に出ていた家康は急ぎ領国に逃げ帰ることになるのでござるが、武者狩り横行するために街道の利用はままならぬ。そこで使ったルートは有名な伊賀越えルート。

先導したのはすでに家康の旗本になっていた服部半蔵。伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の脱出劇に加勢したのでござる。

この時に功あった伊賀者が、後に家康によって取り立てられ、伊賀組となり申した。
つまり伊賀組は服部半蔵を組頭に頂いてはいたが、徳川家の家臣。伊賀の頃のように、上忍服部家の使用人という立場ではござらなんだ、ということでござる。

話は飛ぶが、二代目服部半蔵が伊賀組を自分の家臣のようにしてこきつかったために、件の笹寺での反乱が起こったのでござる。

さて、伊賀国・服部宗家の服部正尚も、家康に江戸詰めを命じられたのだが、宗家を継ぐ立場として、それはできない。正尚は弟の服部七右衛門を自分の代わりに家康の元へと出向かせたのでござる。

これなどは、家康に江戸に呼ばれた柳生石舟斉が宗家を守るために柳生宗矩を江戸に向かわせたのと似ておりますな。

江戸に出た服部七右衛門は、やがて兄亡き後に服部宗家を継ぐこととなり、さらに、なんと!子の無かった青山(忠重)家に養子入りしているではござらぬか!!


そして改名し青山成重となったのでござる。


青山と改名した服部七右衛門は、秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るったのでござる。恐るべし青山家・・・。



【もうひとつの真実】
もり役とは、そんなにカンタンになれるのか、という疑問を誰もが抱くと思うのでござるが、ここにもうひとつの秘密がござった。

なんと!秀忠には服部家の血が流れていたのでござる。

秀忠の母は西郷局と呼ばれた愛さまでござる。この系譜をたどってみると、愛は西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれたのでござるが、戸塚忠春が戦死して後に、西郷正勝の娘と愛は服部正尚のもとに嫁いでいるではないか!

つまり、秀忠の母・愛は服部七衛門の義理の姪、ということでござる。

勘ぐれば、秀忠の母・愛(西郷局)は戸塚忠春の子ではなく、服部正尚と西郷正勝の娘との間に生まれた子だったとも考えられよう。そして、服部家で育てられ、家康に寵愛されて秀忠を生んだ。ために、もり役として服部宗家の七衛門つまり青山成重が抜擢された、と相成るのでござる。

柳生とて、元々は伊賀・甲賀と隣接する立地で、忍の家系でござる。
家康と忍、そうとうに深いところでつながっていると、拙者は見た。

江戸の地下に張り巡らされたトンネル。
徳川幕府の裏の顔は、忍でござった、ということでござろうか。
Posted by 今昔堂 at 14:31:05 | リンク (1)
pub.ne.jp/lost_arrow/?entry_id=202055
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時41分21秒 ) パスワード

続きコピペ


青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。

その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。


その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。



青山家は「葉菊」を定紋とした。南北朝時代、祖先が南朝に与して功があり、日月、菊紋の錦の御旗を賜ったという。そのとき、楠木家の旗紋もまた菊花であったことから、これと区別するために両葉を加えた。以後代々、家紋としたとされている。


とはいえ、南北朝を扱った『太平記』や『梅松論』などに、日月の錦旗は活躍しても、菊文の錦旗というのはみえない。青山氏の葉菊紋のいわれも、そのままには受け取れないところが少なからずあるようだ。

                                        でも南朝方だった時に後醍醐天皇から将軍として戴いた親王から「菊紋」を拝領したのかも知れないしね。



忠成は早くから家康に近仕し、二十一歳の時に父忠門の後を継いだ。天正十三年、秀忠の傳となり、秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任された。関東入府後は武蔵国に五千石を受けている。慶長五年、関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参したものの、同年十一月には播磨守となり、翌年には上総国と下総国に併せて一万五千石を賜った。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、本多正信・内藤清成と並んで幕政に重きをなした。


秀忠治政のとき、仁の酒井雅楽頭、智の土井大炊頭とならんで勇の青山伯耆守として将軍秀忠を輔け、武蔵岩槻四万五千石を領した。


しかし、元和九年(1623)忠俊は、三代将軍家光の勘気にふれ、領地は収公された。忠俊がなぜ勘気にふれたのか、その理由についての明確なものは記録として残っていない。


もっとも考えられるのは、当時の秀忠・家光の二元政治にその因を求められないか。すなわち、忠俊は秀忠から信頼の厚い側近であり、家光の若手側近グループからすれば、最初に排除されなければならない存在であった。また忠俊は、家光の補導役として強諌直言のこともあった。これらの結果、古い政治家となった忠俊は舞台から去らざるを得なかったのではないか。


寛永九年、秀忠が死ぬと、忠俊も自ら剃髪してかねて大徳寺の宗珀和尚から与えられていた法号道称を用いて、春室宗信と名乗った。しかし、秀忠の死は二元政治の終焉を意味し、同年江戸より「赦免」の手紙が届いた。これは、勘気が家光の個人的なものではなく、当時の政治状況によって起きたものであることを背面から語っているものだ。つまり、家光は忠俊の忠誠をわかっていながら、自己の権力の教化のためには秀忠派の忠俊を切り捨てざるを得なかったということだろう。


こうして、嫡子の宗俊は大名に返り咲き、その後青山家の家運は営々と栄え、その嫡流の多くが幕閣の重職についた。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aoyama.html
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 03時57分27秒 ) パスワード

これも面白かったですよ。ムカシを知る、ということでコピペ:


http://blog.goo.ne.jp/akatsukida/e/ec41b83a47a9e11ebb3a6076e766fc32



背筋にきた そこ ヤバイ 

http://www.youtube.com/watch?v=yKabKoOdfF0

八幡平の首塚 群馬県心霊スポット 朱い塚-あかいつか- - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yKabKoOdfF0


八幡平の首塚 群馬県心霊スポット 朱い塚-あかいつか- - YouTube


戦国時代の城の陥落時の犠牲者の頭蓋骨を 江戸時代にここに再埋葬したもの。


不思議な事にすべての頭 ...
再生時間:0:28
投稿日:2013年2月2日



http://www.k4.dion.ne.jp/~sinrei/hatimantairakubituka.html

写真見ても なんかくる そこ。

ほんで肝心なのは、遺骨のどれも下顎がないって??四肢骨も発見されていないって??

これまず、あたしが再三教えてる猟奇の血がやってるんだっていうのはわかるでしょう。


画像略


医療研究に人体をいじったか それとも猟奇で人体を壊したか

どちらと言えば、これは猟奇のほうと思われる。


つーことは、戦で死んだ兵隊をバラして食ったか?? 人食い民族実際にいたんだから

歴史のきれいなオブラートづつみは、あたしが迷惑だ。



こういう細部の特徴載せないとあたしがわからない。

逆に特徴あると実態があたしにとける。これ、コレクターのやり口じゃないだろうか??



さて、これ 武将ならば相手を討つ 討ち取ったら例えば相手を刺して、斬りつけて相手が死ねば終わり。

ところが猟奇のシャーマンに洗脳されてる連中は遺体を解体する。

これが猟奇だってあたしは言ってるんだ。


その150体?? 遺体で、発掘したサイドが分解されてると認識してるとこも、これは遺体を解体されてる。



あと碓氷は南朝と北朝で戦したとこだろうが。


安中市

碓氷川及びその支流の流域の大部分を市域に含んでいる。 中心市街地付近は関東平野末端の低地であるが、西側は山間地になっており、ダムや人造湖も多い。 特に西端にある長野県との県境、碓氷峠は昔から交通の難所として知られている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%B8%AD%E5%B8%82

画像略

【長野】軽井沢スキーバス転落事故 14人死亡、27人重軽傷[01/15] (22 ...
blogs.yahoo.co.jp >

2016年1月30日 - 峠)越えで佐久へ出、碓氷(うすい)坂(入山峠)越えで上野(こうづけ)国府へ通じたが、 律令(りつりょう)制完成期には伊那谷から松本 ... 神党は宗良(むねなが)親王を推戴( すいたい)して南朝を支え、守護小笠原(おがさわら)氏や東北信の ...



南北朝時代の吾妻 - 岩櫃城興亡史

http://www.denno2488.com/index.php?

南北朝時代の吾妻


新田氏の一族里見氏(碓氷郡里見郷)の里見氏義が吾妻の川戸内出城にあったという。

この氏義も吾妻の伝説で出 ... 吾妻太郎行盛と里見氏の抗争は、南北朝当時南朝方 里見氏と北朝方に寝返った吾妻氏の戦いだったと思います。 碓氷里見氏は当時南朝方 ...



中山道を歩く ]−2 坂本宿〜碓氷峠〜軽井沢
kozu5.la.coocan.jp/tabi-2/12.06.13.usui.htm

中山道を歩く ]−2 坂本宿〜碓氷峠〜軽井沢. 日の暮 ... 万葉集の時代には、碓氷の 坂は防人たちが家族との別れを惜しみつゝ越えて行った道であった。 .... 此処は正平7 年(1352)に、熊野権現の神官滋野八郎が、南朝方に ついて戦った古戦場跡であった


                                       滋野氏って南朝方だったの?



http://www.google.co.jp/maps/ @36.3075675,138.8508566,3a,75y,18.69h,97.11t/data=!3m6!1e1!3m4!1sqBkRRgve0khRYOISAA0wvw!2e0!7i13312!8i6656

関東八十八ヶ所霊場一覧

http://www.geocities.jp/skipbomber/kantou88.htm

3, 碓氷山 金剛寺, 十一面観世音菩薩, 真言宗, 群馬県安中市松井田町新堀. 4, 寳幢山 光明寺 ... 6, 醫王山 長明寺, 大日如来, 真言宗, 群馬県太田市新田金井町. 7, 日輪山 ... 50, 医王山 圓鏡寺, 大日如来, 真言宗, 千葉県富津市八幡, 2009.09.23. 番号. 寺名.

出てこないと思うが噂かなんかで残ってるかどうか・・・

人体解体やってたな

真言宗



医王なんたらって単語
医とは医学 人体解剖医療研究に行ってた人間いるよな 
と言っても、医はそこでは宗教のほう


対処される時の医は宗教

儀式で集団イケニエか


首狩り族はまだいるんですか?人食族は? - 蘇我
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ...

蘇我入鹿の首、戦国武将の首、吉良上野介の首、三条河原の晒し首、
───日本人は 近世に至るまで広義では長く首狩り族でした。

殷代の食人、孔子が関わる食人譚、劉備 の食人譚、宋代に代表される両脚羊、───中華文明の担い手は広義で長く食人族 ...



→あと大変不愉快だ。日本人が首狩り族ではなく移民が首狩り族だったんだ。

殷は人食いだけど、魏の曹操は人を食ってないよ。
なんでか。曹操は祈祷ごっこが好きじゃないから。

あと文明を持ってるから人の肉は食わなくても生きられる。



日本にきた移民の首狩り族が首狩りやりだした。最初が将門だと思ったら入鹿もなのか??

将門も入鹿も敵は首狩りだった。

その配置を見た上で、あたしらを首狩り族と思われるのは不愉快。

首狩り族は百済だから。
                                          あら、そうなの?


群馬県の歴史 - アンサイクロペディア
ja.uncyclopedia.info/wiki/群馬県の歴史

2016年1月7日 - 群馬では今でも首狩り族により首狩りが行われており、非常に脅威となっている。 狩った 首の数の自慢をする群馬 ... 群馬に生息する原住民の特徴として、敵対する部落や異 種族の首を狩る風習「首狩り」がある。首狩りとはその名の通り、木の ...



                                      晒し首=首狩り族の習俗?  考えたことも無かった。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月24日 05時30分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 青山氏に関するサイトの説については、私も大方同じ考えであります。
 但し、秀忠と家光との関係は、服部 vs.明智、即ち、服部・秀忠系 vs.
明智・家康系――の血を残そうという争いかと推察されるところでありま
す。ということは、秀忠の母(お愛)と家光の母(本当の母実はお福)の二人
が、日本の最大の秘密の鍵を握っているのではないかと思われます。
 さらに、秀忠の父の家康と、家光の父の家康は別人なのではと、謎は深
まって行きます。
 この問題は、最後の最後の課題としてとっておきたいと思います(それ
までに、さらに色々な情報・知識を蓄積しなければと思います)―

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月24日 15時09分12秒 ) パスワード

こんがらがったので書き直しです。
ごめんなさい。



三つ柏さん


もうご出発なさってますよね。
お元気でお戻りを。


>秀忠の母(お愛)と家光の母(本当の母実はお福)の二人が、日本の最大の秘密の鍵を握っているのではないかと思われます。
>さらに、秀忠の父の家康と、家光の父の家康は別人なのではと、謎は深まって行きます。


はい
家光だって実は家康とお福(春日局)の子だったかも知れません。

またはその場合の家光の父は別人の家康かも知れないですね。
関ケ原で実は本物の家康は死んでたかも知れないですし。


>謎は深まって行きます。

はい
歴史書はホントの所を伝えているかどうかは謎ですよね。


例えば
正妻にはXXの娘が嫁に来た、と書いてあっても実は○○の娘がXXに養女に行って家格ロンダリングした、だったり?

家格ロンダリングではなく、人質に出すのに実の娘ではアレだからと、家臣の娘を代わりに差し出した、とかもあったり?



そんな歴史の秘密を覗いて(本当の所はどうだったんだろう?)とワクワクしますね。


群馬で何か見つかると良いですね。松嶋家がらみか服部家がらみか家紋がらみか。


浜松から猿ケ京温泉に行くのにどのルートかでムカシのヒトが使った道のヒントが得られると良いですね。
[11]天方みちさんからのコメント(2016年06月25日 01時24分18秒 ) パスワード

皆様 はじめまして。天方みちと申します。以後宜しくお願いします。
 私どもの先祖のこともふれていただいてありがとうございます。
実は、昨年より拝見させていただいていたのですが、横レス失礼いたします。
 高校時代の同級生は、焼津市の服部さんでした。

 天方氏と青山氏、吉良氏の縁戚関係について。
 天方氏と青山氏が縁戚関係を結んだのは、天正3年、家康公の上意で、天方山城守通興の次女(通綱の妹)が青山忠成に嫁いだのが最初です。天方通興は落城後、大久保忠世に属しておりました。
 その次は、通興が、天正7年の信康自刄事件で子の通綱が高野山蟄居した後、青山忠成の五男・通直を養子としたことです。
その後は、互いに、養子、婚姻を繰り返して、明治を迎えました。

 天方氏と吉良氏が縁戚関係を結んだのは、家康公の上意にて、天方山城守通綱に吉良上野守義安の娘(義定の妹)を養女にして、嫁がせたことによります。
信康自刄事件の前のことです。
(この時、同時に、義安のもう一人の娘を、久野氏に嫁がせています。)
さらに、通綱が慶長19年大坂冬の陣で家康公に面謁した際、通綱の妻は吉良義定の妹だが、嫡男が病気であるならば、義定の三男を養子にして天方の存続をはかるよう申された。さらに、天方通清を名乗らせ頼宣公に仕えるように命じています。それ以来、紀州天方氏は高家として藩に仕えることになりました。

 小さな国衆が、家康の手の内で生かされている感じです。天方氏は、元は藤原氏、山内首藤氏、鎌倉の武士です。(里見氏に血も入っています。)家康は、何故、このような策を講じたのでしょうか?
 信康自刄事件の真相については、長くなりますので、また後日記したいと思います。

 三つ柏の服部さん、次回静岡市行く機会がありましたら、医王山顕光院(元は医王寺)も調べてみてください。三つ柏の家紋の家はかなりあります。
 天文元年(1532)に創建された寺で、墓石自体はほとんどが新しいですが、駿府の町人、今川氏、武田氏、徳川氏の家臣だった家や、「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九の実家の墓などがあります。寺の近くには、浅間神社や、大久保忠佐に仕えた山田長政の住居跡もありますよ。
 それから、先日、群馬を調査してきたのですが、岩櫃城のガイドさんに、吾妻郡は忍者の里ということで、「真田丸」の出浦昌相はその頭領の典型、その里に近い屋敷跡も案内していただきました。
 長々と失礼しました。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月25日 14時34分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服部氏と賀茂氏との間には、一体どんな現実的関係があったのか……


さっぱり分かりませんが

賀茂氏は桓武天皇が一目置いてた名家。
平家の服部家は桓武天皇の子孫。

平家が都落ちする時に服部家長の兄になる平貞能は主人であった重盛の墓から遺骨を取り出して高野山に送り、土は加茂川に流したそうで

なので服部氏と賀茂氏って深い繋がりがあったのかなと。


ということでいろいろ読んでいれば服部氏と賀茂氏の関係が見えて来るのでは?と期待しています。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD

                                       この一族のことを考えると整理出来ない感覚に襲われるので抜粋

平 貞能(たいら の さだよし)
平安時代末期の武将。伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人である。父は平氏の「一ノ郎等」(『愚管抄』)である平家貞。


仁安2年(1167年)5月、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど九州方面での活動が顕著である。


これからコピペは震えが来るほどの先祖からのパワーを感じます。

「宇治田原」も出て来るし。(呉服明神の服部貞信が住んでた所ですよ)


貞能は資盛に付き従い軍勢を率いて宇治田原に向かったが、
この出動は宗盛の命令ではなく後白河法皇の命令によるものだった。

小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。

宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず都での決戦を主張した。

九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある。

25日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。
一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが連絡が取れず、翌26日の朝には西海行きを余儀なくされる。

『平家物語』一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、
源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという。



宇治田原の地は平家にとって(服部家にとって)何か重要な意味があった所かも。
だから服部貞信は宇治田原にいた?


何故「土」を加茂川に流したのか?

重盛公の墓ともなると源氏方から蹂躙されるだろうから
土さえ隠滅のため、近くの加茂川に流した?


中国では敵を侮辱するのに墓をも暴いて死体に恥かかせたと読んだことがあります。
相手を罵るのに「お前の先祖のババアをレイプしてやる!」とか言うと読んだことがあります。


日本でも当然敵については墓さえメチャメチャにしたでしょうね。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月25日 21時09分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただいま戻ってまいりました。

 今回の群馬への旅行、群馬の地理・地形をかなり把握することができま
したこと、まずもって行ってよかったと感じています。
 おまけに、予期していなかった岩櫃山のふもとをバスが通ったこと、願
ってもないプラスアルファでございました。

 一度、頭の中を整理し、しかる後に、改めて記すことにいたします―
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月25日 22時49分00秒 ) パスワード

天方みち様

 ありがとうございます。服部系青山氏、天方系青山氏、青山系天方氏
の三つの筋があると思います。権力の中枢に入ったのは、服部系青山氏
の青山成重、天方系青山氏からは浜松藩主が宗俊以下出ている。そして
天方家は青山通直が継いでいる。
 青山氏は元々は群馬県吾妻郡の出身。ということは、忍者の里の出身
ということになりますか……。
 天方氏が徳川氏に攻められた、ここには忍者の攻防・謀略があったと
思われます。即ち、服部党との秘密交渉……。
 信康事件の裏を一番知っているのは、半蔵と天方通綱氏……。天方氏
の突然の大役については唐突な感じがするが……この辺について興味深
々であります。天方氏のこと、もっと深く知りたいとかねてより思って
おります。ぜひ教えて下さい。お願いします。

 静岡の顕光院の情報、ありがとうございます。宝台院と合わせてさっ
そく行ってみます―
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月26日 02時05分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


大事な事を書き忘れていました。


服部氏(というより平家)と賀茂氏の関係ですが
清盛の母は(下?)賀茂神社だったかの姉妹のうちの妹。

     教えてくださった方が下賀茂神社に関わりのある方だったので
     記憶としては下賀茂神社の娘。


貞能が六波羅にあった重盛の墓から遺骨を取り出して高野山に届け、あたりの土を賀茂川に流した話は「平家物語」に書かれています。

これは東国の武士に蹂躙されることを懸念して。



平家と賀茂氏の関係を読んだら服部氏と賀茂氏のそもそもの関係が分かるかも知れないですね。


[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月26日 06時48分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部氏と賀茂氏の関係、直接的には出てこないですね。大枠では、服部氏
と秦氏の近縁関係から、賀茂氏(秦氏と同族化)とも近縁であるということで
ある。
 平家と賀茂氏……藤原氏と賀茂氏はつながっていた(不比等の妻は賀茂氏)
ということですので、聖武天皇から称徳天皇までは賀茂氏の血が流れている
ことになります。次の光仁、桓武天皇において血は一旦途切れるものの、平
城天皇から藤原氏の血が復活、代々閨閥をつくる。清盛もまた、その藤原氏
の血の流れる天皇家と閨閥をつくる……ということなので、平家と賀茂氏も
少なくとも間接的につながっているということは言えると思いますが……。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月26日 07時27分32秒 ) パスワード

平家と安倍小博士晴信という陰陽道の占い師が壇の浦に一緒に行ってます。
(「先帝御入水の事」に書かれています)

いるかが1000頭だか2000頭だか現れて晴信は「イルカの進む方向にいる軍が負ける」と予言します。


    海豚という魚(笑)は源氏方から平家方に向かって泳いで来ました。



平家に関わらず陰陽師の家でもある賀茂氏は当時のハイソサエティの家には貴重な人材だったと思います。

お抱え陰陽師の身分は低いけど、身分の高い賀茂社から嫁をとったり婿に行ったりはあったと思いますが
具体的に、となると思い浮かばないです。



案外、服部貞信は占いをやってて宇治田原に住んでたのかな、とも思います。
関ヶ原の時の絵に占い師が描かれてましたから。
ムカシは占いでいろいろ決めてましたから。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月26日 07時55分02秒 ) パスワード


古代の話とか神代の話とかはさっぱり理解に至らず神様のお名前が出てくるともう全く異次元の話のように理解の外になってしまいます。



ただ秦氏(と関係を持った平家の伊賀系)と賀茂氏は  賀茂川  で繋がってたんじゃないか、とは思います。

          平貞能が重盛の墓の土を賀茂川に流したというのは大昔の秦氏に関わるのもあるのかなと。
          それか清盛の母の実家に繋がるのかなと。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、
河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。

    河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、
    付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。

    秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、
    現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。

    伝秦河勝墓はこの地にある。



また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、
この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される[要出典]。

秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される[要出典]。


山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。

山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[17]。


秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、
それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。


秦氏の末裔はこれらの社家となった。



http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101366.html
ムカシのスレッドのレス<7>でワタクシが書いてますね。


三つ柏さんがお書きのレス<4>に対して
     >賀茂氏と三輪氏は同族というけれど、その違いがよくわからない


賀茂氏に3種類あるようですね。
賀茂氏と三輪氏が同族というのは  (2) に書かれていますね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F

賀茂氏

賀茂氏(かもうじ/し、加茂氏・鴨氏・加毛氏とも)は、「賀茂(加茂・鴨・加毛)」を氏とする氏族。



   1 天神系(賀茂県主) 1.1 出自に関する諸説  ←  ここで秦氏がからみます
                             上賀茂神社・下賀茂神社の神職さん系ですね

                             別格の高い身分の賀茂氏で良いでしょうか?

                             桓武天皇が一目置いていた賀茂氏ですね



   2 地祇系(三輪氏族)             ← ここで賀茂氏と三輪氏が同族?
                            平安時代に陰陽道で活躍する賀茂氏ですね
                            職業系貴族で、身分はかなり低いか?


     
    なるほど
    1と2が混乱するんですね。
    下記の3は1の派生ということで良いでしょうか?


   3 備前鴨(加茂)氏              ← 岡山の加茂氏ですね
                            賀茂神社の備前出張所の加茂氏で豪族ということかな?



1.
天神系(賀茂県主)[編集]

八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。

代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。

子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。

また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。      ← あらら  秦氏が!


氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。



出自に関する諸説[編集]

山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。
『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、
大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。

しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。

また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、
また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、
祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。



2.
地祇系(三輪氏族)[編集]       賀茂氏と三輪氏が同族という説明です
                   賀茂氏は三輪氏の一部
                   この賀茂氏は天武天皇の御世に脚光を浴びる?


大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]、三輪氏族に属する地祇系氏族。

大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。
姓は君のち朝臣。


大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。
なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。


平安時代中期には陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、
その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、
子孫は暦道を伝えた。

賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲や儒学者に転じた慶滋保胤がいる。


室町時代には、嫡流が勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代に断絶した。
なお、庶流の幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、
幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道の宗家の地位を奪われ、
中期以降は陰陽助を務めた。



3.
備前鴨(加茂)氏[編集]

平城京跡出土の木簡(735年(天平7年)から747年(天平19年)までの間の木の札)に、「備前国児嶋郡賀茂郷・鴨直君麻呂調塩三斗」 と墨で書かれたものがある。

賀茂郷の鴨の君麻呂という豪族が、三斗という大量の塩を奈良に送っており、鴨神社の荘園の預り主であったということが窺える。

なお、当時の賀茂郷が現在の荘内と宇野・玉・日比・渋川までの範囲であり、南北共に海に面していた。

当時の製塩土器である師楽式土器の分布状態から見ると、南岸で製塩されたものとされているが、下加茂村は北岸という地理的利便性から、こちら側でも製塩されたものと思われる。


鴨直君麻呂との関係は不明であるが、「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる加茂次郎の名前が見え、備前児島半島を東児島、中児島、西児島と分けた中の、中児島に住んだとされる。


1903年(明治36年)まで児島郡に上加茂村と下加茂村があったが、合併して荘内村となった。なお、鴨神社や加茂神社があり、両神社の間を鴨川が流れている。

特に鴨神社は平安期初頭に創建され、大和国葛上郡加茂の高鴨神社から味鋤高日子根命を祭神として勧請した。延喜初年の創建とされる児島郡内最古の神社であり、延喜式神名帳では備前国式内23社の内の1社である。


備中連島(戦国時代以前は備前国児島郡都羅郷)の、連嶋町史(昭和31年発行、発行者 連島町誌編纂会)第八章 連島の古城址に、北茂城の城主として、1735年(享保20年)に編纂された『古戦場備中府志』(平川親忠著)巻の五 浅口郡の条下には、当城主に吉備大臣の嫡孫右京太夫光栄としている。伝云、孝謙天皇天平勝宝四年五月賀茂朝臣を賜る、天文暦数を掌る、一家両道を兼ねて宝器を保つ、暦道を以て其子光栄に伝へ天文道を以て弟子安部の晴明に伝う、自此己後両道相分つ云々と記述されている。この伝云う記事は『右大臣吉備公傳纂釈』より引用したものと思われ、重野安繹『右大臣吉備公傳纂釈』(『岡山県通史』上編374頁 編著永山卯三郎)には、或いは伝う陰陽道博士賀茂保憲は吉備公の裔なり、天文博士を兼ね、973年~975年(天延中)に暦を造り暦道を其子光栄に伝へ天文道を安部晴明に伝うとの記事があることから、右京太夫光栄は賀茂光栄であったことになるが、納得し兼ねるとしている。



レス<8><9>についてはURLへどうぞ。


ワタシは大昔のことはワケ分からなくなっていきます。日本語なのにさっぱり脳内定着がなされません。

貴族や指導層だけの小さな社会で結婚が行われていたのだろうと思います。

賀茂川の上流⇔下流ということで、争いもあったろうし結婚もあったろうし。

神職ともなると更に結びつきがあったのだろうと。

清盛の母の実家ともなれば平家との結びつきも固かったろうし。


上層階級というのは過去の繋がりを重んじるので戦国時代にも繋がりは切れてなかったんじゃないかなと。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月26日 08時08分53秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11D0/WJJS05U/2600515100/2600515100100010?dtl=all


上?賀茂氏の膨大な資料・・・・面白そうですが、とても開ける気力も無いです。




賀茂県主同族会(上賀茂神社) 賀茂祢宜神主系図ほか


賀茂系図(新古系図)

目次一覧


1.『賀茂袮宜神主系図』解説

(1) 賀茂祢宜神主系図について
(2) 古系図
(3) 中古系図
(4) 新古系図
(5) 凡例並目録




2.新古系図 流(名前一覧)



3.[参考論文] 『賀茂袮宜神主系図』データベースの作成と近世上賀茂社社家の基本統計調査 (1) 系図とデータベースの概要

(1) はじめに
(2) 系図の記載事項
(3) 昇叙のルール
(4) データベースの概要
(5) まとめ
(6) 参考文献
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月26日 08時22分58秒 ) パスワード

消えた!


貞信について書いてました。

「ゆへありて山城国宇治田原に移り住す」
まで書いて全部消えた!怒



平氏で伊賀の服部氏の正統なのはこの貞信の家なのかな?と思うに至りました。
神職だというのもあるし。


貞信は神職だから賀茂社で研鑚を積んだのかな?陰陽道もその時に習得したのかなと。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月27日 00時18分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』を改めて読んでみました。
 やはり、概念的には、服部氏≒秦氏≒賀茂氏で、賀茂氏は陰陽頭や
禰宜職(神職)として、歴史の「影」の部分に潜り込んでしまう。「表」
は藤原氏(不比等)が支配することになるが、そのためには、子孫を天皇
にしなければならない。ということは、母方の血統が必要である。とい
うことで、敵対関係にある葛城系賀茂氏の血脈を入れたということであ
ります(詳しいことは、長くなりますのでやめますが……)。

 小宮神社の神職の貞信については、この神社が葛城系(出雲系)の祭神
を祀っていますので、賀茂氏系と何らかの関係があった可能性はありま
す……。ただ、賀茂氏は表に出ないので究明が難しい。特筆すべきこと
は、戦国時代を統合した徳川家康は、自らとその中枢の家臣までが賀茂
系であったということであります。服部氏もその中の一員ということで
あります。

 さて、群馬の話がまだとなっています。また、本日は、静岡に行き、
主要な寺廻りをして来ました。びっくりの内容もあります。

 これらについては、明日(本日)に記すことにいたします―
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 02時40分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


群馬のお話、ぜひ!

群馬って物凄く遠い世界だと思ってましたが、いやいや意外と近くなんだというのを「真田丸」で知って
父方の一族は群馬に行ってるんだろうなと親しく思います。


大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=273594
以下はコピペ:

本当は女系で万世一系だった。
皇后を輩出し続けた一族「賀茂氏と三輪氏」で全ての謎が解ける。

八咫烏の女御子(ひめみこ)が卑弥呼、その夫がオオモノヌシ、お二人の御子(みこ)がニギハヤヒ!

女系で万世一系の正統ヤマト王朝の足跡がついに明らかとなる!


◎ 八咫烏とは賀茂建角身、「賀茂族の猛々しい首長」のこと
◎ 卑弥呼とは八咫烏(賀茂建角身)の娘・賀茂玉依姫のこと
◎ 神武天皇は卑弥呼の娘婿
◎ 綏靖より始まる欠史八代は天皇ではなく、女王の夫たちのこと!?
◎ 男系系図(陽)と女系系図(陰)を陰陽逆転で見直すと謎が解ける
◎ スサノオ→大国主→賀茂建角身(八咫烏)→卑弥呼→媛たたら五十鈴姫(夫は神武天皇)と続く
◎ 初代天皇神武から4代連続で皇后は賀茂・三輪氏から輩出されている
◎ 出雲・葛城・八咫烏系のヤマト王朝は、天智天皇の時、正統性のなかった藤原・百済王朝に簒奪された
◎ 藤原・百済王朝の歴史改竄・焚書によって記紀以前の古代史は封印された
◎ しかし、記紀には真相解明のための暗号も書かれていた
◎ 記紀に暗号化された真実の日本史の鍵を握る救世主の名はオホカムツミ(賀茂・三輪氏=八咫烏)
◎ 藤原系天皇実現の裏には、やはり賀茂女の血統があった
◎ 八咫烏と対峙した藤原氏も結局「八咫烏の系譜」と同化した
◎ 「賀茂女 賀茂女 籠(賀茂)の中の鳥(八咫烏)は いついつ出やる夜明けの晩(時間軸・陰陽)に鶴と亀(白黒・天地・陰陽)がすべった(統一・逆転した) 後ろの正面(空間軸・陰陽)だあれ」
◎ 記紀が封印した銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、八咫烏(賀茂・三輪氏)の系譜を白日の下に晒す
◎ 邪馬台国はヤマト国、もともとずっと一つのヤマトが存在していた
◎ 出雲・邪馬台国・大和王朝に断絶はなく、継続した王朝だった
◎ 出雲神族スサノオ〜オオタタネコを共通の祖とする三輪・賀茂両氏が邪馬台国に深く関わっていた
◎ 銅鐸使用から陰陽道(道教)使用への変化はあったが、賀茂一族は邪馬台国以前も以後も司祭者であり続けた
◎ 「神と言えば大物主」の大物主神は、三輪・賀茂両氏のこと
◎ 卑弥呼の夫が大物主、その御子が賀茂別雷神=天火明=ニギハヤヒ
◎ 聖徳太子、太安万侶、稗田阿礼、役小角、安倍晴明は、「八咫烏の系譜」である
◎ 秀吉は「八咫烏の系譜」を敵に回してしまった
◎ 徳川家は家康はしかり、その家臣団をも含めてほぼ「八咫烏の系譜」一色だった
◎ 「葛藤」とは、葛城・賀茂(八咫烏)と藤原・百済王朝の争いを指す
◎ 「葛藤」は全日本史を貫いて、現在に至っている
◎ 明治政府は「八咫烏の系譜」封印を画策した


以下サイト主の感想:

卑弥呼までその系譜に接続している点は多少、疑問が残るが、少なくとも、出雲銅鐸文化から続くオオクニヌシ系の系譜に「葛城氏・賀茂氏・三輪氏」=八咫烏を位置付け、女系をたどることで万世一系の基礎がつくられている、との指摘は、これまでのるいネットでの追求とも合致し、合点がいく。

特に銅鐸が発掘される土地の多くに、賀茂や美和という地名が多く、加茂氏・三輪氏が銅鐸につながる古い祭祀部族であったという点は注目すべき事実である。

壬申の乱で敗者だった藤原氏が百済王族と結託して形勢を逆転させていき、それまでの歴史を改竄し(葛城氏や蘇我氏を貶め、それまでの歴史書を焼いた)記紀をつくりだした。

 しかし藤原氏にも賀茂の血が入っており、基本的に「和を以って貴しとなす」「葛藤を共に抱きあわせる」懐の深さを持っており、表(政治)の藤原、裏(祭祀)の賀茂という役割分担の中で、ヤタガラスの系譜は続いてきた。という見方も、その通りであろう。

 ちょっと以外だったのは豊臣や徳川もこうしたヤタガラスとのつながりがあると書いている点である。確かに、徳川の葵の家紋はヤタガラス=賀茂氏の家紋である。

ヤタガラスはサッカー協会のシンボルともなっているが、熊野も京都の賀茂神社も世界遺産に登録されている。こうしたことは今も確かにヤタガラスは政治力を発揮し、静かではあるが、表舞台へのアピールが顕著になりつつあるように思われる。彼ら「葛城ネットワーク」の歴史を紐解き、現在的意味を再考する作業はやはり大きな意味を持っていそうである。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 02時56分14秒 ) パスワード

徳川氏について、100%賀茂氏の出身、というのを忘れていました!


壊滅的記憶力無しのワタクシでありますので、上記レスや下記を参考に、もう1度大加茂真也氏の『八咫烏の超日本史』を読み直しますね。

    本棚からもって来ましたら、ちゃんと印がつけてありましたのに、全く忘れておりました。泣


http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E5%A5%B3%E7%B3%BB%E3%81%A7%E4%B8%87%E4%B8%96%E4%B8%80%E7%B3%BB%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F-%E3%83%A4%E3%82%BF%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9-%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B6%85%E3%80%8D%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%82%92%E8%BC%A9%E5%87%BA%E3%81%97%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%81%9F%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%80%8C%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F%E3%81%A8%E4%B8%89%E8%BC%AA%E6%B0%8F%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%85%A8%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%91%E3%82%8B/dp/4864710961

カスタマー・レビューのところで、関ケ原まで「葛藤は続く」と書かれていました。

天下分け目の決戦は徳川方(八咫烏系) vs 石田三成方(近江を根城とする天智系)だった、と。


以下コピペ:

日本史のコペルニクス的転回 投稿者 馬頭観音 投稿日 2013/3/29
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葛藤という言葉がある。これは葛城加茂(鴨、賀茂)氏と藤原氏とのもめ事に由来するそうである。

賀茂氏は葛城系と山城(京都の)系とあるが同族で出雲神族であり、大和の三輪一族とも同系で日本の天皇家のルーツを成す(皇后を輩出している)。

で、葛藤の最初は大化の改新と壬申の乱である。ご存知のように大化の改新は中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が宮中で蘇我入鹿をだまし討ちにした、一種のクーデターである。その後中大兄皇子と中臣鎌足は貴人の暗殺を行うのだが、(中臣氏は百済王族である)民衆の評判は極めて悪かったようで、中臣系は次々と祟り死にをしている。

壬申の乱について。天智天皇が賀茂氏の地元の大和には王朝をつくれず、大津に都をつくる。天智天皇は百済王朝と考えられる。それまでのヤマト王朝は親新羅であったが、中臣氏の関係で新羅とは敵対関係にあった百済を支援しご存知のように白村江の戦いで大敗し、朝鮮半島に持っていた利権を全て失う。その時の皇太子は弟で人望のあつい大海人皇子(後の天武天皇)であったが、兄が自分の息子の大友皇子に後を継がせたいのを察して、武器を差し出して出家して吉野に籠もってしまう。結果的には壬申の乱と言われる戦いで、賀茂氏(以後八咫烏系という)の強力な支援で勝つはずのないところだったが、大海人皇子方が勝利をおさめ、天武天皇となる。

天武天皇の息子は有能な大津皇子などがいたが、次々に殺されていく。黒幕は天智の娘で後に持統天皇となった天武天皇の奥さんである。この時期に古事記、日本書紀が書かれ、大黒幕の藤原不比等に都合のいい歴史書が編纂される。都合の悪い旧豪族に伝わる史書は焼き捨てられる。ただ太安万侶にしても稗田阿礼にしても八咫烏系であったから巧妙に暗号的な手法を用いて書かれている。その辺のこともこの本は解明している。お馬鹿な学者が意味不明としていたところが、大体そう言うところなのである。藤原氏の由緒を飾り立てたいところだったと思うが、百済からの逃亡してきた王族のため書きようがなかったのであろう、そのへんは曖昧でほとんど何も書かれていない。

八咫烏系は藤原氏にも入り込んでいる。祟りを怖れたのか、前者が日月神示で言う「抱きまいらせよ」的で寛容だったのか、他に意図があるのか知らないが。

超日本史ということであるが、関ヶ原の戦いまでが書かれている。葛藤は徳川方(八咫烏系)と石田三成方(近江を根城とする天智系)まで続いているのである。


                                       コロッと忘れてました・・・
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 03時25分23秒 ) パスワード

そうか・・・伊賀で平氏で服部氏という正体は・・・

ちら〜
ちら〜っと、寛政諸家譜に≪事実≫は書かれているのですね。

残念ながらそのちらっとさりげなく書かれた《事実》を読み解く力が無かった。。。ワケです。。。か。。。


伊賀の服部氏の系統がいくつか絡まって戦国時代に至り
   半蔵が今や世界的にグローバル化したため、伊賀=半蔵、と半蔵の家が脚光を浴びて、ワタクシも意識が伊賀=半蔵になっているけれど
実は!
だったのでしょうね。

   更に、わたくしはうちのホンヤさんの家に意識が集中しているから庶流と書かれててもちゃんと見えてないし。


やはり何度も何度も読み返さないと拾えないものですね。
それには他に目を向けて意識を全く新たに視点を変えないと拾えない。


書類は小さな字で書いてあるのが大事で、読まないと後で大変な目に遭う、とは知っててもなかなかこの作業が出来ない。


さ・だ・の・ぶぅ〜!
この人物がなかなか喰えないヤツだったのかも。

なんだか貞信がニヤッと笑った気がします。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 10時02分46秒 ) パスワード

「真田丸」を見終わった所です。

小山田茂誠が岩櫃城へ松さんと赴任するエピソードが出ました。




小山田 茂誠(おやまだ しげまさ)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。武田氏麾下の国衆小山田氏、後北条氏、真田氏の家臣。

江戸時代の文久年間に成立したとされる小山田了三家伝「郡内小山田家長老大長老の事」に拠れば、郡内領主小山田氏の一門には複数の分家が存在し、茂誠はこのうち記録から確認される、代々仮名「平三」、官途名「弾正」を称した小山田弾正家の出自であるという。



生涯[編集]

「長国寺殿御事蹟稿」によれば、茂誠は天正10年(1582年)の高遠城落城の際に21歳もしくは22歳であるとされ、生年は永禄4年もしくは永禄5年に推定されている[2][3]。父・小山田有誠は小山田氏当主・信有(弥三郎)・信茂期に一門として活動し、天正10年(1582年)3月に武田氏・小山田氏が滅亡すると、後北条氏に従う。

有誠のその後の動向は不明であるが、有誠の子息である茂誠は武田遺臣松代藩真田家の藩士となる。「松代小山田家文書」には天正3年(1575年)12月に「小山田平三」が「茂」字の偏諱を受けた一字書出が存在し[4]、茂誠が小山田氏の当主・信茂から偏諱を受けたものと考えられている[5][6]。有誠・茂誠は小山田弾正家の出自と考えられているが、茂誠は同じ武田家臣で郡内小山田氏とは別系統の石田小山田氏・小山田昌成の子孫を自称している[7]。

茂誠は武田氏滅亡後は相模国の後北条氏に仕え、天正18年(1590年)2月から7月の小田原合戦後に武田遺臣の真田昌幸に仕えたと考えられている[8]。同年12月1日には、昌幸から信濃国小県郡村松郷(長野県青木村)を与えられる[9]。茂誠は昌幸の長女・村松殿を室に迎え、真田一門となる[10]。

「長国寺殿御事蹟稿」によれば、慶長3年(1598年)3月には昌幸から受領名「壱岐守」を与えられ、さらに真田姓の名乗りも許される[11]。慶長5年の関が原の戦いでは昌幸に従い西軍に属し、上田城に籠城する(第二次上田合戦)[12]。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、茂誠は昌幸の嫡男・真田信之の家臣となる[13]。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病に臥せていた信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍した。信之の弟の信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、信繁が最後に出した手紙であったという。

元和8年(1622年)、信之の松代移封に従い、松代に住し、代々次席家老となった。寛永14年(1637年)に享年76もしくは77で死去[14]。
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月27日 12時40分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 言葉が出ないということは―
 @最近記憶したはずの言葉が、的確に頭の中に浮上してこない。だけと、
  人に言われればその通りとわかっている。
 A話す言葉が、的確に頭の中に的浮上しているのに、口の筋肉が動かない。
 A話したり、聞いたり、見たりして覚えたはずの言葉が、記憶として全く
  残っていない。人に言われても全く思い出せない。

 AとBはもはや病気であります。
 @の細胞レベルの劣化による、いわゆる老化現象による言語能力の衰えは
誰にでもあることだと思います。私も恥ずかしながら、その例にもれず、時
々言葉につまり、苦労をいたします。もどかしく、また恥ずかしくもあり、
また時には危険を伴う場合もありますので怖いです。
 記憶能力を過去以上に高めることはできないでしょうが、今よりも回復さ
せ、また落ちるスピードを減らす対策はできると思います。
 もっとも、女性のほうは「おしゃべり」という言語中枢に根ざした能力が
もともとありますので、しゃべり続けている限り、そんなに能力は落ちない
でしょうね。但し、バイリンガルで日本語の比重が落ちて来ると、日本語に
ついてはだんだん希薄になってくるかもしれませんね。
 でも、あを様は大丈夫。過去の蓄積が膨大にありますから、ちょっと紐解
けばすぐ取り戻せます。でも肝心なのは、どこに書いてあったかなというこ
とで、すぐに取り出せるよう整理しておくことが肝要ですね。
 私は、本来ズボラで、この「整理する」ということをめんどくさいといっ
て、後回しにしてしまう、そしてそのまま放置、というタイプであります。
この整理する能力・性格があったなら、今とは全然違った人生が送れただろ
う……と、今さら言ってもしょうがないですね。あるがままの自分をよしと
して受け入れる方が自然ですね。
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 13時24分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

3つとも該当です。泣
字も書けないし。号泣


昔、マルアイ花鰹のCMで
♪僕の隣のおばさんは〜アメリカ帰りのおばさんで〜変な言葉で言うんだよ〜♪
というのがありましたが


まさにこの通りであります。


>もっとも、女性のほうは「おしゃべり」という言語中枢に根ざした能力がもともとありますので、
>しゃべり続けている限り、そんなに能力は落ちないでしょうね。

いえいえいえ、男性の買い被りでございます。


うちの近所の静岡出身の女性が「この間テレビでごうふのことをやってて」(ワタシ:え?)「ごうふよ!」「ごうふ!」と何度も言うので
「ごうふって何?静岡弁?どういう意味?」
と勇気を出して彼女を遮って訊ねたところ「富豪」のことでした。

malapropism  まらぷろぴずむ  おかしな言い間違い。最近の日本語で「いいまつがい」

例えば  鉄筋コンクリートを てっこんきんくりーと と言うみたいな。
英語でしたら  イルージョン「錯覚」のことをアルージョン「ほのめかし」と言うような。


皆さん、テキトーになってしまうのです。日本語でも。英語でも。
本当にテキトーです。テキトーに喋ってますよ。
特に皆さん出身地が違うと分からない言葉については(方言なんだろう)と寛大になりますから。あはは

でも仲の良い仲間内では「アレ?」「うん、アレ!」「あの人?」「ああ、あの人ね」で通じているのですよ。


そういう感じでテキトーにおしゃべりしているので知らない人が聞いたらまさに「痴呆」と「ボケ」の会話です。



>整理する能力・性格があったなら、今とは全然違った人生が送れただろう……と、今さら言ってもしょうがないですね。

はい TOO LATE ですね。笑  もう人生殆ど終わってますから。


>あるがままの自分をよしとして受け入れる方が自然ですね。

それが出来ないので苦しいのです・・・泣


実は最近「そういうことには興味が無いから分からない」という言い訳は「もともと理解する能力が無いということだ」と指摘され、ガックリしてました。


    この先はここでは書けない話があるのです。


神代のお話はちゃんと理解してないと後世が分からなくなりますが
神様のお名前やお子様との関係など
もうどうしようもないです。


では   この先はここでは書けない話があるのです  についてメールしますね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月27日 13時56分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。

 岩櫃城のふもとをバスで通りましたのは、誠にラッキーでした。「真田
丸」で「岩櫃城」という言葉を聞いた時、何か謎めいた言葉に感じました。
 岩櫃城跡には行きませんでしたが、その城跡は、この岩櫃山の中腹にあ
るということでした。
 岩櫃山はそこだけかなり広い範囲で岩がむき出しになり、奇怪な景色
を醸し出しています。ちょうど、エアーズロックとグランドキャニオン
を足して二で割り、さらに百分の一にしたような……といいますか、冒険
心をかきたてるようなワクワクする風景でありました。

 わたくしにとっては、ただそれだけの一瞬でありましたが、その風景は
生涯忘れることはないでしょう。岩櫃山の存在感にはすごみがあります。

 今回の旅、「厚木」から「八王子」、そして「高崎」、「前橋」の中間
を抜け「沼田」へというのがコースの骨格でした。それだけでも、東京と
の位置関係、「上野(こうずけ)」の主要都市間の位置関係、平野部から山岳
地方へのつながり・拡がりといったものの把握ができました。
 さらに東西に視野を広げれは、高崎の西に「富岡」、前橋の東に「桐生」
といった、絹織物産業のベルト地帯がつながっております。富岡をさらに
西へ行けば、碓井峠の向こうに信濃の佐久や上田に至ります。いわゆる
「中山道」ルートと言いましょうか。
 また、「上野」と「下野(しもつけ)」の位置関係もわかりました。
 でも、なぜこんな山間部に人は住むことになったのでしょうか。その疑問
を十分に納得させるだけの根拠を、私はまだ見つけておりません。七月末に
松本を中心に、上田、安曇野へ行く予定を組んでいます。目的は、安曇族(海
人族)の山岳部への移動はなぜ起こったかという謎を考察するためであります。
 そのなぜの部分ですが、仮説としては―
 @地球的規模で大海進があったという「とんでも」仮説。
 A所々に拠点を作りながら、川を遡って行った。それは冒険心を満たしな
 がらの新天地開拓であったという説。
 B金や銀や銅や水銀等の鉱物資源を求めて一攫千金を目指したという説。
 B敵の追跡から逃れるための山岳部逃亡説。
等々を私は考えているのですが、果たして本当のところは……。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 14時25分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%B2%A9%E6%AB%83%E5%B1%B1%E3%80%80%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%80%80%E3%81%AF

岩櫃山の画像です。
本当に奇怪な岩山ですね。
まるで中国の神仙の世界。


>山岳部への移動はなぜ起こったかという謎

全部該当しますね。

まず、神代の時代に縄文人が敵の追跡から逃れるために山岳に逃亡した、だと思います。

その次が  所々に拠点を作りながら、川を遡って行った。それは冒険心を満たしながらの新天地開拓であった  と思います。

次に  金や銀や銅や水銀等の鉱物資源を求めて一攫千金を目指した  と思います。


「地球的規模で大海進があったというとんでも説」は
水位で高い所に行ったり低い所に下りたりあったので

結局は穏やかな時代や稲作の時代には低い土地に下りて来たんじゃないかな?
逆に宗教的な意味でわざわざ高い土地に上がって行ったろうし。


とはいえ「気に入った」のでしょうね「引っ越すのが面倒だった」もあるかも。



やはり最初は「逃亡」だったでしょうね敵からだけでなく自然の過酷さからの「開拓」もあったでしょうし。


「木」があるって、木の実が手に入るし
これは海の近くのヒトには「魚」が手に入ったと同じで
生存のために山にも住んだ、かな?


結論は「すべて」言える、でしょうね。人間のすることは「何でもアリ」でしょう。
[30]天方みちさんからのコメント(2016年06月28日 01時58分23秒 ) パスワード

三つ柏服部さん

>服部系青山氏、天方系青山氏、青山系天方氏の三つの筋があると思います。

長年、天方氏と青山氏について調べてきましたが、このような表現は初めてですが、なるほどと思いましたが、先述のような天方通綱や、吉良系天方氏など、これらに属しない系統の天方氏や、青山氏も別系統がありますので、お忘れなく。後世、華族になった青山氏の中にも違う系統がありますね。
青山氏については、本家より、分家、幸成の系統の方が江戸屋敷も石高も大きくなっていきましたね。

>天方家は青山通直が継いでいる。(青山系天方氏)
「青山通直」という人は存在しませんので、お間違いなく。
天方通興が青山忠成の子、娘の子ですから、外孫ですが、
養子にした時点で、天方主馬之助、そして、元服後、天方主馬通直と名乗ったので。この系統を青山系天方氏と言われていると思いますが、三代後の成展の頃から、青山氏に改姓するものが出てきて、明治になる時に、残っていた天方氏も青山氏に改姓されたようです。
その他、青山氏分家の中には、天方氏を名乗るものがいました。

「寛政家譜」の記載は間違いですから、誤解を招きますね。「天方」の項目がなく、「青山」の項目になってますからね。元から、「青山」と名乗っていたものが、「天方」を名乗り、再び、「青山」を名乗るようになったと記載されています。元は、「山内」ですからね。

一方、通興の実子、通綱は信康自刄事件で高野山に蟄居、喪が明けてから、北条家家臣朝倉政元に、鞍鐙造りを師事しています。いわゆる、「外郎売り」だと思います。結局、再び、家康の上意で、二男の秀康に仕え、大阪の役では、松平忠直の守り役として真田信繁の逸話に出てきます。子孫は、越前藩の家老として明治を迎えています。

> 信康事件の裏を一番知っているのは、半蔵と天方通綱氏……。天方氏
の突然の大役については唐突な感じがするが……

天方通綱が突然の大役ということですが、1)家康(当時は松平元康)が桶狭間の戦いで今川方のしんがりをまかされ、敗走する時に、通綱の父・通興に援けられていること。
2)家康に天方城を攻略された時、許されていること。
三つ柏服部さんも、
>天方氏が徳川氏に攻められた、ここには忍者の攻防・謀略があったと
思われます。と書かれてますね。
3)家康の家臣となった後も父子ともに度々軍功があったこと。
4)大久保忠世の隊に属していたこと。5)先述の通り、家康とは姻戚関係、青山との姻戚関係があること。
以上から、信康自刄の検死役をまかされるのは、唐突な感じではないと思いますが。

信康の件では、本来命じられていた介錯役が逃走、服部半蔵は介錯または刺客を命じられていたのではと思います。天方通綱はあくまで検死役としか聞かされず二俣城へ向かった。
ところが、二俣城城主は大久保忠世です。服部も、天方も帰されてしまった。
大久保忠世の家来が介錯を果たしたそうです。

「徳川実紀」は政府公報のようなもので、徳川の世になって、書かれた物語ですから、「信長に命じられて止むに止まれず」「鬼半蔵も泣いて切れなかった。やむなく通綱が介錯した」「通綱が使用した刀は、徳川家には忌まわしい妖刀・村正だった。」とすれば、物語としては面白い。浜松派と岡崎派の対立があったこと、信康の謀反ということは抑えられるとふんだんでしょうね。徳川に対して最も忠誠の強い大久保家だからこそ、そういうことにして口をつぐんだ。
仰るとおり、服部半蔵、天方通綱と、大久保忠世が真実を知っているわけですが、死人に口無し、歴史研究の難しいところです。

また、後日、天方氏と宗長の関係、「外郎売り」について書きたいと思います。

三つ柏服部さん、それにしても、焼津市に服部さんが多いのはどういうわけでしょうね。私も大変興味があります。
静岡市に行かれるなら、宗長の柴屋寺や丁子屋へも行ってみてください。
ちなみに、天方氏は、曹洞宗ですが、青山氏は日蓮宗、浄土宗、服部氏は何宗が多いのでしょうか?
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月28日 09時13分13秒 ) パスワード

天方みち様

 天方氏についての貴重な情報と説明、本当にありがとうございます。
 やはり天方家じきじきのお話だけあって、細部まで詳しいと感服いたし
ました。
 これにより、天方氏に対する興味と親近感は、今まで以上に湧いて来ま
したので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 なお、天方様の六月二十五日のアドバイスもあり、翌日に静岡に行って
来ました。 顕光寺には天方家の墓が十基前後あり、また服部家の墓も見
つけました。青山家の墓も見つけました―
 詳しい報告は、これからいたすところでありますので、一度見ていただ
けたらと思います。

 焼津の服部氏、確かに多いのですが、その理由についてはまだ見当がつ
いておりません。
 もう一度、焼津・藤枝には調査に行きたいと思っています―
 
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月28日 10時20分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 群馬県がどういう所であったか――群馬は古代東国文化の中心地であった
ということです。
 T.古墳群
   @太田天神山古墳 全長210m。東日本で最大級の前方後円墳。
   A保渡田古墳群  頂に巨大な石棺。はにわは今城塚古墳のよう。
   B大室古墳群   全長94mの前双子山古墳。
 U.石碑(上野三碑)
   @多胡碑 多胡羊太夫は藤原不比等か?
   A山上碑
   B金井沢碑 
 V.馬の牧――大化の改新以後、朝廷の牧の制度が始まる。
 W.渡来人が多く来ている。

 群馬についての歴史資料、集めたいと思います。
   
    
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月28日 12時59分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>大室古墳群

驚きました、長野と前橋にあるのですよ。

更に毛利によって(実際は伊藤博文の家で)養われていたという明治天皇の替え玉説のある南朝方子孫の大室寅之助との関連は?


>多胡羊太夫は藤原不比等か?

これは去年出ましたね。



>馬の牧――大化の改新以後、朝廷の牧の制度が始まる。

それで「群馬」ですか。
あ、そういえば随分昔の朝ドラに「ファイト」というのがあって、群馬県高崎市が舞台でしたね。(本仮屋ユイカ主演)
まったくピンと来てなかったです。

もしこの話題が当時出てたら「群馬」とか「馬」とか、捉え方が全く違ってたでしょうね。惜しい!

なんか変なストーリーだな〜と見てました。



A
大室古墳群(おおむろこふんぐん)
群馬県前橋市西大室町にある古墳群。国の史跡に指定されている。
赤城山の南麓の城南地区に分布しており、前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳の三基の大型前方後円墳を中心に築造されている。築造年代は、6世紀初頭から6世紀後半にかけてであり、前二子山古墳・中二子古墳・後二子古墳の順に造営されたと推定されている。



保渡田古墳群(ほとだこふんぐん)
群馬県高崎市保渡田町・井出町にある古墳群。1985年(昭和60年)9月3日に国の史跡に指定された。
築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されている。
保渡田八幡塚古墳からは鵜形埴輪が出土しており、首を高く上げ口に魚をくわえ、首に鈴のついた首紐が付けられた鵜(う)の姿が表現されている[4]。鵜を用いて川漁を行う鵜飼は文献史料では古代中国の歴史書『隋書』や『古事記』『日本書紀』において見られるが、保渡田八幡塚古墳出土の鵜形埴輪は古墳時代から儀礼・行事としての鵜飼が行われていた可能性を示す資料として注目されている。

                                       鵜飼いがそんな昔から行われていたとは。すごい!



B
大室古墳群(おおむろこふんぐん)
長野県長野市松代町大室にある古墳群で、国指定の史跡。
約500基の古墳の中には、盛り土をした盛土墳(前方後円墳など)や土石混交合墳もあるが、八割近くが小石を積み上げて墳丘とした渡来人墓制である積石塚で、「合掌形石室」という特殊な埋葬施設となっていることから、他に類例の少ない遺跡として1997年(平成9年)7月28日に国の史跡に指定された。この形は全国に40例、そのうち25例がこの古墳群に集中している。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月28日 20時51分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日、急遽、静岡に行ってまいりました。
 目的は、西郷局の菩提寺を訪ねること、そして街の中心部にある寺を廻る
ことでありました……後は、単刀直入に記します―
 @宝台院
  ここには、徳川秀忠の生母・お愛の方・西郷局の菩提寺で、門内に入る
 とすぐ左手に、柵で囲まれた大きな宝篋印塔が建てられておりました。す
 ぐ隣に一枚岩の石板が建っており、「徳川家康公側室・秀忠公生母・西郷
 局(お愛の方)之墓 宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大禅定尼 天正十七年五
 月十九日」と刻まれておりました。
  私にとって、服部氏を研究し出したきっかけは、掛川の郷土史家による
 「戦国時代 服部平太夫正尚を頭領とする 平塚山周辺に活躍する忍者集
 団と 西郷局の一族について」という小論文を入手したことによる。
  それ以来、西郷の局は、私にとっては戦国の歴史の中心となっている。
  その西郷局の墓が、目の前にある。心の中は何か嬉しさで落ち着かなか
 った。ずっとそこにいたいというような、子供のような気持ちであった。
  が、そういう訳にもいかないと我に帰り、鈴を取り出して鳴らし、般若
 心経を二巻念誦いたしました。

 宝台院についての説明書きがありましたので、記しておきます―
 「宝台院(金米山宝台院)
  宝台院は、徳川家康の側室で、二代将軍秀忠の生母西郷の局(お愛の方)
 の菩提寺である。
  西郷の局は、二十七歳で家康に仕え、翌天正七年(1579年)四月、家康の
 第三子秀忠を生んだ。家康三十八歳のときである。
  家康は元亀元年(1570年)に浜松城に入場、以来、三方ケ原の合戦、設楽
 原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。
  西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った
 文字どおり糟糠のの妻であったということができる。
  天正十四年(1586年)十二月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終
 え、名実共に駿府入りした。家康の陰の立役者として、献身的に仕えた西
 郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正十七年五月、三
 十八歳の短い生涯を終った。
  後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊を
 なぐさめた。以来、徳川三百年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を
 受けたのである。」
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 02時50分57秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん

>私にとって、服部氏を研究し出したきっかけは、
>掛川の郷土史家による
> 「戦国時代 服部平太夫正尚を頭領とする 平塚山周辺に活躍する忍者集団と 西郷局の一族について」
>という小論文を入手したことによる。

ここからでしたか。
服部平太夫正尚という人物を知れば知るほど謎が深まった
ということですね。


西郷氏は菊池の一族だそうですから、元々、服部氏とは盟友関係だったでしょうね。

    菊池氏は清盛(平家)の家人でしたから。

          紆余曲折があって最終的に頼朝についたものの
          猜疑心の強い頼朝に鎌倉系の御家人達を回りに配置され

          南北朝の頃にも南朝方だったのが紆余曲折の末に戦国時代の初めには没落。

    お愛の方の母方西郷家と服部家がよしみを通じたのは少しも不思議ではないですね。


その上、菊池の家紋(並び鷹の羽紋)は服部氏の家紋が竪並び矢に変わっていく1つの原因かもですね。



わたくしの分も般若心経をありがとうございました。



懐良親王に従って九州に行った服部氏もいたでしょうから当然菊池氏とは繋がってたでしょうし。

前にも書きましたが
諫早西郷氏には服部という名の侍大将がいました。


同じく菊池の末裔で、幕末には鹿児島の西郷隆盛。
島津には平家の人々も結構入ってますしね。

歌手の西郷輝彦は父に似てますしね。本名は今川盛揮さんだそうですよ。笑
(あ、わたくしの父は石原慎太郎にも似てるし政治家の岡田という人の兄上にも似てます。平家の血かも)
西郷輝彦は石原裕次郎にも似てますしね。目とか眉のあたり。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 03時12分33秒 ) パスワード

こうして考えますと、しみじみ、日本人だなぁ、と思います。

遠く離れていても、紆余曲折の後に敵味方に分かれても、子孫は西と東で細い糸で切れず離れず繋がって、情報交換をしてたのかもですね。


服部平太夫正尚なんて本当の姿は悟られないように日本全国から情報を仕入れていたのでしょうね。
それが家康の天下統一に役立ったのかもですね。


きっと三つ柏さんのご先祖が西郷局をご存知だったのでしょうね。
それで「戦国時代 服部平太夫正尚を頭領とする 平塚山周辺に活躍する忍者集団と西郷局の一族について」に引きつけられたのかも。


掛川にはもっと足繁くお通いになって、古本屋さんにもいらっしゃって、いろいろな情報をゲットなさるのが良いでしょうね。
いつかスゴイ情報を手に入れられるかも。


掛川のお嬢さんで○藤さんという女の子がいましたが
今になりますと彼女とわたくしも何かの御縁で繋がってたのかな
と思います。

三重県あたりの出身者でしたら「○藤さん」という名に激しく反応しましたが
掛川は三河のもっと向こうだから(へ〜、静岡にも○藤って名字があるんだ〜)
しか思い至りませんでした。


ちょっとハナシを限定したらスグに遠いムカシの盟友の家同士だったと気づいたのかもですね。
彼女が幸せで過ごしていればと今は切に願うばかりです。


日本人とはこういうものかも知れないですね。
同じ背景の出身であればどこかの時代で誰かが家族だったかも。
特に命のやりとりが絡んだ時代だったら細い細い糸も命綱になったのでしょう。


掛川のあのお嬢さんを思い出しますと涙が溢れて来ます。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月29日 09時38分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 冨永公文氏の『遠州 松下加兵衛之綱』に目を通していたら、之綱の
子の重綱の室は加藤嘉明の娘でありました。賤ヶ岳の七本槍とうたわれた
嘉明の家系は、嘉明死後、息子の明利は狂疾で死に、その子の明勝は改易
となり、断絶。もう一人の息子明成も改易となっている。このあおりをく
ったと思われるが、重綱の息子の長綱が改易されている。

 この重綱は、柳生宗矩との、また、重綱の叔父の松下常慶安綱は家康と
の、両者併せて実務的なパイプ役となったと推察しています。
 結果的には、忍者系服部から隠密系柳生へと代わるつなぎの役割を、こ
の松下系が果たしたともいえるかも知れません。もちろん井伊家もそこに
関係しています。

 人間関係の綾がどうつながって、どう動いたのか、それを見つけること、
これが真実の歴史を知ることになると思っています。

 次は静岡のお寺廻りの続きについて記します―
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 10時01分34秒 ) パスワード

うちの母方の菩提寺が加藤嘉明と一緒について来たお寺さんです。



http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50632200.html
家康は加藤嘉明を警戒していた!


徳川家康は豊臣恩顧の武将には、特に目を光らせていましたが、有名どころでは加藤清正とか福島正則あたり…。でも、賤ヶ岳七本槍として、この人もしっかり警戒されてましたよ。加藤ー嘉ー明ーー。

晩年、家康は病床で秀忠にこんなことを語ったそうです。

■家康の心配事は加藤嘉明?


家康の晩年、すでに病に伏している時のことである。
家康は、死後のことを不安に重い、常々秀忠を枕元に呼んでは、あれやこれやと物語をした。自身の経験や今後の憂慮などをすべて秀忠に伝えたいと考えていたのであろう。
秀吉も、死の間際に心配したことは、まだ幼い秀頼のことばかりであった。ひいては豊臣政権のことを心配していたはずである。家康もそこは同様だった。ただ、秀忠は幼くない。もう10年ほど立派に将軍職も務めている。

家康からすれば、至らぬところも多いのだろうが、秀吉から言わせれば「贅沢」の一語であろう。

その家康が、今日も秀忠を呼び出した。秀忠が行くと、家康は、今日は豊臣恩顧の大名たちに対する不安を語り始めた。
基本的に秀忠も豊臣恩顧の大名には気を許さなかったが、それは「それだけの能力を持っている」と判断した相手にのみだ。だから、この時家康が出した名前が秀忠には意外に思えた。

「加藤…、あー…嘉明…じゃが…あやつは三河の出であったか?」
家康がそう尋ねるので、秀忠は少し考えてから、
「は…、そのように記憶しておりますが…。」
と言った。まだ家康の言わんとしていることはわからない。家康は続けて、
「三河出身の武士というのは、性篤実にして信頼できる。嘉明も同様じゃ。あやつは太閤に仕えていた時分から、徳川家にも忠実であった。これからも引き立ててやればよろしかろう。されど…。」
家康はそこまで言うと、一旦口を休めてから再び話した。
「…されど、な。あやつは些細な事によう文句を言いおる男だ…。外面は割と温厚に見ゆるが、腹では不満に思っていることが多い。…将軍家(秀忠)は、その点、よう気をつけられよ。」

■加藤嘉明は踊らされる!

秀忠にとっては正直意外だった。加藤嘉明という男が、家康が気にするほどの男とは思えなかったからである。それに、嘉明には何かを企むような裏のある行動はとれないだろうと秀忠は見ていた。また、そのような大それた人物にも見えない。

「ご忠告はしかと胸に留め置きまする。されど、嘉明は小人物と見受けます。違背を企むようには見えませぬが…。」
普段、秀忠が家康に意見を述べることなどほとんどなかった。しかし、今日は、家康がなぜそんなことを言うのか気になった。
すると、家康は秀忠の意見にふと笑顔を見せてこう言った。

「ははは…。よう見ておるな…。確かに嘉明は器量が小さい。されど…な。」
「ははっ…。」
秀忠が注目する。
「されど…、あやつは侮ってかかる男ではないのだ。…うむ…、…そうじゃな。なれば、踊りというものを考えてみよ。踊りというのは、本人の才が至らずとも、音頭を取る者や、拍子をとる者が上手であれば、踊れるものじゃ…。嘉明を踊り手と考えよ。嘉明に踊る気まではなくとも…、音頭をとるのが上手い誰ぞに、嘉明が不満をもらしでもすれば…。」
秀忠は、「あっ」いう顔をして、家康の顔を改めて見た。家康は「気づいたか」という顔をしながら、
「踊るぞ。嘉明は…。あれはそういう男だ…。」
と言った。

■秀忠、目からウロコ。

秀忠は大層感心した。秀忠は一個人の力量にこだわって人を判断してしまっていたのだ。それゆえ、これまで嘉明のような性質の人物はノーマークだった。秀忠は改めて、父・家康の偉大さを知った。むろん、自身が家康と同等になれるとは思っていないが、それでも、自分には思い至らないところに気づいている家康はやはり偉大だと思った。
「こたびは出すぎたことを申しました。ご教授かたじけなく存じまする。」
秀忠は丁寧に頭を下げた。

すると、家康はいつになく笑顔になって、
「いやなに、将軍家(秀忠)も人を見る目はある…。あとはまず疑ってみることじゃ…。将軍家はどうも人を信じすぎる。」
と言った。

秀忠には返す言葉もなかったが、家康亡き後、徳川政権の土台構築の一翼を担ったのが、秀忠であることは間違いない。





秀忠もこの時点では、将軍としてそれなりに頑張っていたころだと思いますが、やっぱり死が迫る家康には不安はいろいろあったようですね。
ちなみに嘉明は、家康の忠告むなしく秀忠に警戒されなかったのか、1627年に伊予松山20万石から陸奥会津若松40万石に加増転封になっています。
しかし、嘉明にはこんな一面(次のレスへコピペ)もあるし…、実際はどうだったんでしょうね…???
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 10時03分27秒 ) パスワード

続き

http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/50535521.html
皿一枚で蟄居するべきか?(加藤嘉明)



加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人で、なかなかの剛の者。性格的にも池田輝政みたいな感じの「福島正則ほどじゃないけどけっこう頑固」みたいのを想像してたんですが、意外と部下思いでお優しいようです。

■殿の大事なコレクションを…!


加藤嘉明が大層気に入っている南京小皿がある。
そもそも嘉明は南京の陶器が好きで、いろいろな陶器をコレクションしていた。その中で最も気に入っていたのが、その南京小皿で、10枚1組の虫喰南京と呼ばれる小皿だった。藍色の釉に土目を施した、嘉明ならずとも「ほう」とため息の出る逸品である。

ある日、幕府のお偉方を加藤家屋敷で接待することになった。嘉明は、自慢のコレクションの中から、いくつかを披露することにした。
戦国時代には、方々で茶器などのコレクションが流行っていたから、大名たちの屋敷を訪問するとそれを自慢されることもあったが、饗応をする側としては手ごろな余興として出しているものだった。

しかし、そのコレクションの準備の最中、家臣がそれを割ってしまった。それは、嘉明が最も気に入っていた虫喰南京のうちの1枚である。

(とんでもないことをしてしまった…。)
小皿を落としてしまった家臣は、一通り片付けが済んでから報告に行くつもりでいたが、やっぱり嘉明に叱責されるのを恐れて、家に帰ってしまい、それ以来家に閉じこもって、出仕しなくなった。


■皿を割ったくらいで引きこもるな!!

嘉明は、皿を一枚割ってしまったという報告を別の家臣から受けると、
「そうか…、それは残念だが…。まあ割ってしまったものは仕方あるまい。…して、その者はどうした。なぜ、自身で報告に来ぬのだ?」
と言った。報告にきた家臣もさすがに嘉明の怒声が飛ぶと思って、ビクビクしながら答えた。
「はっ…、そのことでございまするが…。…その者、殿の叱責を恐れ、自宅に閉じこもって伏せっておりまする…。」
「なに!!」
嘉明が少し大きな声をあげたので、報告にきた家臣もビクっとなって頭を深くさげた。
(うわあ〜やっぱりだよ〜。なんで俺が怒られなきゃならないんだよ〜…)

そんなことを思いながら頭を下げていると、嘉明は、
「むう…、何ゆえ皿を割ったくらいで自主的に蟄居などしておる。割ってしまったものは仕方あるまい。もう一度出仕する気にさせて進ぜるゆえ、すぐにその者を呼んで参れ。」
と言った。
家臣は、思わずガバッと顔を挙げると、拍子抜けした表情で、「はっ?」と言ってしまった。嘉明はむしろその顔にカチンときたらしく、
「たわけ!蟄居している者を呼んで参れと申しておる。さっさと行かぬか!」
と声を荒げた。家臣は、予想外の展開に驚いたのと、嘉明が声を荒げたのに驚いて、大慌てで出て行った。嘉明は声を荒げたが、しかし、表情は別に怒りの表情ではなかった。

■残りの皿も割ってしまえば万事OK!

「その方か…。小皿を割ってしまったというのは…。いかぬぞ、やってしまったことは自ら報告しに来ねば…。」
やがて、皿を割った張本人がやってくると、嘉明は威厳をもってそうたしなめた。皿を割ってしまった家臣は震える声で、
「は、は、はい…。も、申し訳ございませぬ…。…そ、それがしの不注意から、と、殿の大切な南京小皿を……。何とぞお許しを…。」
と言うのが精一杯であった。

それを見た嘉明は、小姓に「残りの9枚の皿を全て持って参れ」と命じ、その場に残った皿が並んだ。
すると、嘉明は何を思ったか、突然その小皿を割り始めたのである。嘉明の大切にしていたお気に入りの南京小皿であることはその場にいた誰もが知っている。誰もが目を疑った。しかし、嘉明は最後の一枚まですべてを割ってしまった。

家臣が唖然としていると、嘉明は
「この南京小皿が10枚1組であることは、家中の者ならばほとんどの者が知っている。それゆえ、今後この小皿が9枚で人前に出ることがあれば、そなたが1枚を割ってしまったことがいちいち引き合いに出されるであろう。そのたびにそなたが肩身の狭い思いをするのは、わしの思うところではない。」
と言った。家臣はなおも驚いた。嘉明は続けて、
「ここに南京小皿は無くなった。次第に皆もそなたの粗相のことなど忘れてゆくであろう。割ったことを申し訳なく思うなら、今後もこれまでどおり忠勤、ますます励め。」
と声をかけた。
家臣は、感激して、何度も頭を下げて、謝ったり礼を言ったりしていたという。

あとで、嘉明は知り合いの大名と懇談したときに、どこで聞きつけたのかこの皿の話をされた。
「あの小皿は残念至極でしたなあ。」
「いや、なに。何も残念なことなど。たかが皿でござる。どれほど尊き器といえども、家臣には替えられませぬからな。小皿などなくても問題にはなりませぬが、家臣がおらねば家は成り立ちませぬ。」
嘉明はこともなげにそう言った。そして、
「それがし、珍品とはいえ、家臣たちがそこまで気を使うような代物を集めていたことに気づきましたゆえ、もう珍品集めはやめ申した。」
と続けた。物好きなこの知り合いの大名が「なら売ってくれ」などと言ったかどうかは定かではない…。





こう書いてみると、嘉明はけっこう良い人なんだなあという感じですが、嘉明の詳しい経歴は調べてみたことがないもので…。経歴的にはどうなんだろうか…。ちなみにこの記事の元ネタは『名将言行録』です。

でも、こんな感じの上司がいたらいいですよね。テレビを見てたら、どっかの会社の社長が「社員の方がいてこそ会社が成り立つわけですから、社員の皆さんには大変感謝しております。」と言ってましたが…うーむ…ぜひともそう思っていてほしい!…ぜひとも!!
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 10時21分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

加藤嘉明。なかなかの人物ですね。
ということは家康が警戒したのは当然かもですね。


なので子供達が改易されるに至ったのかも。
理由なんて何とでもつけられますものね。
江戸幕府は付け入る隙を狙ってたでしょうし。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E

加藤 嘉明(かとう よしあきら[2] / よしあき[3])
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。

通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改める。諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていた。


時代
安土桃山時代 - 江戸時代前期

生誕
永禄6年(1563年)

死没
寛永8年9月12日(1631年10月7日)

改名
茂勝(初名)→嘉明

別名
通称:孫六、左馬助、初名:茂勝

戒名
松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門→三明院道誉宣興

墓所
京都府京都市東山区の大谷祖廟

官位
従五位下・左馬助、従四位下、侍従
贈従三位

幕府
江戸幕府


主君
羽柴秀勝→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光


伊予松山藩主→陸奥会津藩主

氏族
加藤氏(岸氏)[1]

           加藤嘉明は、大名になった後に、系図を創り、本姓を藤原氏とする加藤氏を称するようになった。
           加藤左馬丞朝明(広兼)の孫とするが、父より前の出自は不明。
           父も岸姓であったとも言う。

           出自の異なる加藤光泰の祖先と系図上でつながるようになっているのは、猶子となった経緯からだろう。
                                              へぇ〜

父母
父:加藤教明、母:堀部氏

兄弟
姉(石川隆次室)、嘉明、妹(川口兵右衛門室)、忠明、嘉政、妹(稲田示植室)


正室:堀部市右衛門の娘


長女(松下重綱室)、次女(池田長政室、のち日野光慶室)、明成、明信(監物)、明利、三女(南部重直室も、後に病身より離縁)



生涯[編集]

秀吉時代[編集]

永禄6年(1563年)、三河国幡豆郡永良郷[4]で、松平家康の家臣であった加藤教明(岸三之丞教明)[1]の長男として生まれた。生まれた年の三河一向一揆で、父が一向一揆勢に組して家康に背き、敗れて流浪の身となったため、嘉明も放浪した。

流転の後に近江国に至り、父は長浜城主・羽柴秀吉に仕えて300石を食み、矢嶋郷に住んだ。嘉明は馬の行商を手伝っていたが、幼少ながら優れた資質があるということで加藤景泰(加藤光泰の父)に見出され、秀吉に推挙された。秀吉はこれを景泰の猶子として、これを機に加藤姓を名乗るようになったとも言う[1]。秀吉は養子羽柴秀勝の小姓として嘉明を仕えさせた。ところが、天正4年(1576年)、秀吉の播磨攻めに嘉明が秀勝には内緒で従軍し、初陣前の主君を差し置いて小姓が初陣を遂げようとするとは何事かと秀吉夫人・おねの方に厳しく叱責され、嘉明は「無頼の者」でありすぐに家に帰せと言ってきたが、その意欲を評価した秀吉によって陣中に留め置かれ、結局、300石の扶持で秀吉の直臣とされた。

天正6年(1578年)3月、秀吉軍に従って三木城攻囲に参加して初陣を飾り、4月の備中須久毛山の戦いでは、15歳にして初めて2つの首級を挙げた。(三木合戦) 

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が斃れると、中国大返しで戻った秀吉の軍に、6月13日、山崎の戦いの直前に嘉明も加わった。この功により山城国菱田村に300石の加増となった。さらに、織田家筆頭家老の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正、脇坂安治らと共に活躍。戦功をあげて一気に禄3,000石を与えられ、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いと雑賀攻めに従軍。天正13年(1585年)3月、秀吉が関白になった際に、嘉明も従五位下・左馬助(さまのすけ)を拝領し、以後は左馬助と称した。同年6月の四国攻め(四国平定)では小早川隆景の与力となり、伊予国の平定に参加。天正14年(1586年)11月2日、その行賞で、嘉明は淡路国の津名・三原郡1万5,000石に封じられて大名となり、志知城(志智城)主となった。

天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などでは、淡路水軍を率いて参加。前者では海路から薩摩に入って川内川で渡河を支援し、後者でも海路から下田城を襲撃して包囲攻略するという功を挙げた。

文禄元年(1592年)、文禄の役では1,000名を率いて出征し、嘉明は船大将・九鬼嘉隆に次ぐ副将格として淡路水軍を率いて転戦。数多くの海戦を交え、李舜臣指揮の朝鮮水軍とも度々戦った。7月、安骨浦海戦で亀甲船らしきものと初めて遭遇したのも嘉隆と嘉明の両将で、同時期にあった閑山島海戦で脇坂安治が敗れたのに対して、嘉明らは敵を撃退し、これを秀吉に賞されて感状を受けている。

文禄3年(1594年)1月、小西行長と明の沈惟敬との講和交渉が始まり、嘉明ら諸将の一部は一時帰国した。2月、軍功により淡路国内に1,700石増封された。翌年7月には伊予国正木(愛媛県松前町)で増封され、併せて6万石となった。また別に蔵入地4万石の管理も命じられた。このため志知城を引き払い、伊予正木城に移った。嘉明は家臣・足立重信に命じ、伊予川(彼に因んで重信川と呼ばれるようになる)の河川改修をさせ、城の城下町も拡張させた。

講和交渉は決裂し、慶長2年(1597年)3月、嘉明も再び出征し、慶長の役においては6番隊に属して1,600名(主に水軍)を率いた。同年7月、元均率いる朝鮮水軍を壊滅させた漆川梁海戦に参加して大戦果を挙げたが、領地も隣りで功を争っていた藤堂高虎には及ばず、以後は益々不仲となった。8月、金州に進んで南原城を落とし、蔚山城の戦いでは明・朝鮮軍の包囲で加藤清正が蔚山城(倭城)に篭城して食糧の欠乏に苦しんだが、慶長3年(1598年)1月、嘉明も救援した軍の一員で、陸戦も行った。この春、秀吉に献上するための虎を狩って送り、礼状を受けている。日本軍は戦勝していたものの士気は上がらず、4月、明の大軍が接近すると聞いた小西行長ら諸将は順天城より撤退することを主張したが、嘉明が1人これに強く反対し、秀吉の裁可を仰ぐことになった。秀吉は嘉明を激賞して行長を叱責し、5月、嘉明に3万7,000石を加増して10万石取りの大名としただけでなく、朱印状の文面で領地の都合が付けばさらに国主大名[5]に取り立てるつもりだと約束していたが、その8月に秀吉が薨じたため、これは果たされなかった。その後、徳川家康・前田利家ら大老の協議により撤収と決まって嘉明らも帰国した。


関ヶ原の戦い以後[編集]

秀吉亡き後、豊臣政権では嘉明を含む武断派と五奉行の石田三成ら文治派が対立。慶長4年(1599年)、両派の調停役だった前田利家が亡くなり、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明ら7将は、三成殺害を企てた事件を起こして、三成を佐和山城蟄居へと追いやった。

武断派は筆頭大老・徳川家康に従っていたので、慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の謀反を主張して討伐を命じると、嘉明もこれに先鋒衆として従軍した。この間に三成らが挙兵。引き返してきた東軍(徳川方)は、まず美濃国の岐阜城に殺到し、嘉明は大手七曲口より攻め、福島正則らと共にこれを落とした。(岐阜城の戦い) また嘉明は大垣城攻めにも参加している。関ヶ原の戦い本戦でも、石田三成の本隊と戦って武功を挙げた。

他方、留守中の伊予正木では、毛利輝元の家臣・宍戸善左衛門(河野通軌と同一人物説あり)および浪人・村上武吉、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫ら諸将が兵2,500を率いて侵攻してきたが、嘉明の老臣・佃十成が兵200で三津で夜襲して撃破し、掃部・内匠・兵庫らを斬った。(三津浜夜襲) さらに河野氏残党の平岡善兵衛の立て籠もった久米如来寺を攻略。蜂起した一揆勢の鎮圧には手こずったものの、関ヶ原の東軍勝利の知らせが届くと、毛利勢は撤退。一揆勢もほどなく鎮圧された。(伊予方面)

戦後、その功績により10万石の加増となった。嘉明と高虎は共に伊予で20万石の大名となって並び立ち、領地も接して領域の確定し難い山間部があった。嘉明は足立重信に石手川の河川改修を命じて流れを変えてこれを重信川に合流させ、大きな地歩を得ると、慶長6年(1601年)、家康に勝山城(後の松山城)建築の許可を得て、翌年より嘉明は築城を開始し[6]、城下町の整備も始めた。

慶長8年(1603年)、嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、これを機に地名を松山と改名した。

慶長11年(1606年)から同14年(1609年)にかけて、江戸城修築、駿府城修築、篠山城築城、名古屋城造営など相次ぐ工事に諸将と共に従事した。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣恩顧の大名であったため嘉明は江戸城留守居となり、嫡男・加藤明成が代って出陣した。一方、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では嘉明が出陣し、2代将軍・徳川秀忠の軍に従い、黒田長政と共に秀忠軍左翼に陣をしいて戦い武功を挙げたが、この戦いの結果、豊臣氏は滅んだ。

元和5年(1619年)、福島正則が除封改易となったので、嘉明は正則の身柄を預かると共に、広島城の接収役も務めた。元和8年(1622年)には、徳川家世子の家光の鎧着初で、介添役を務める名誉を受けた。翌年、家光が3代将軍となると、従四位下に叙された。寛永3年(1626年)には侍従に任じられた。同年、後水尾天皇の二条城行幸において警護役も務めた。

寛永4年(1627年)、会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで嘉明が会津藩へ移封され、同時に43万5,500石に加増され、本拠を若松城に移した。もともと家光は、要衝の会津に藤堂高虎を封じるつもりであったが、高虎が固辞して嘉明を推薦した。高虎と嘉明は日頃から不和であったが、高虎はそれは私事であり国事として嘉明が適任者であるとして推挙したという話を聞いて、両者はついに和解し、以後は水魚の交わりの如くなったという。なお、三男・加藤明利は三春3万石を賜り、女婿・松下重綱も二本松に配されて、嘉明の与力とされた。

寛永8年(1631年)、病を発し、9月12日に江戸の桜田第で死去した。享年69。法名は松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門。麻布の善福寺で荼毘に付され、後に遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られた。法名も正保4年(1647年)に東本願寺法主・琢如によって三明院道誉宣興と改名されている。

大正6年(1917年)11月17日、大正天皇が特旨を以て嘉明に従三位を追贈した。




子孫[編集]

嘉明の死後、家督は嫡男の明成が継いだが、明成が暗愚なために家老・堀主水ら一党が出奔してそれを追討するという事件が起こって、私闘を禁じた幕府の介入を招き、減封ののち嗣子を立てて家名存続との裁定となった。しかし明成が、正室をはばかって子息はないと頑固に主張したため改易され、庶子の明友が近江水口藩2万石に封じられることで名跡が保たれた。



人物・逸話[編集]

加藤左馬助嘉明、淡路水軍を率いて日本水軍の副将格として各地で力戦した。(落合芳幾作『太平記英勇伝三十九』)
武略[編集]

加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳七本槍の一人として名を馳せた。武勇に優れ、かつ冷静沈着な名将であり、「沈勇の士」とその活躍ぶりを謳われている。

関ヶ原の前哨戦である岐阜城攻防戦では、井伊直政が「岐阜城など一気に総攻めにして抜くべき」と述べたのに対して「岐阜城は堅固な城。一気に抜くことなど不可能で、精々根小屋を焼き払えるくらいだ」と述べて反対した。このため作戦をめぐって口論となり、刀に手をかけるまでになったが、諸将が抑えてその場は落着した。だが嘉明は「敵は守りを充分に固めておらず一気に抜くことができる」と戦場を見て冷静に分析した。そして攻め寄せた池田輝政と福島正則によって、東軍はほとんど兵を損なわずに岐阜城を陥落せしめ、諸将は嘉明の作戦能力を賞賛したという(真田増誉の『明良洪範』)[7]。



政治[編集]

河川改修による治水工事、築城や城下町の建設などにも力量を発揮した。愛媛県においては、現在でも松山城築城の評価は高く、嘉明の騎馬に乗った銅像が建立されている。



家臣に対する対応[編集]

嘉明は「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と発言している。力が弱かったとしても、団結力と連携を活かせば恐るべき抵抗力を発揮するから、との理由である。逆に豪傑肌の人間は「勝っているときは調子がいいが、危機には平気で仲間を見捨てる」と手厳しい。塙直之との確執も、この人間観に起因している部分が大きい。

嘉明の家中では槍の柄は、長短いずれであっても可とされたが、槍穂の長さは4寸(約12センチ)と定められていた。つまり短すぎると、甲冑・具足を貫くことができても身体にまで届かぬことがあるため「己を慎む者に失敗は無い。何事にも馴れたつもりで功者ぶる者は必ず仕損ずる者である」と嘉明は常に言っていたという。加藤家は平素からの躾を大切にすることが、一旦急の場合でもまごつかず失敗せぬものとされていた(山鹿素行の『武家事紀』)[7]。

寛大な一面もあった。嘉明は南蛮渡来の焼物を多く持っており、その中に虫喰南蛮という小皿10枚の秘蔵の逸品があった。ある日、客を饗応する準備の最中に、嘉明の近習が誤って1枚を割ってしまった。それを聞いた嘉明は、近習を叱るどころか、残り9枚の小皿をことごとく打ち砕いた。そして言うには「9枚残りあるうちは、1枚誰が粗相したかといつまでも士の名を残す。家人は我が四肢であり、如何に逸品であろうとも家来には代えられぬ。およそ着物・草木・鳥類を愛でる者はそのためにかえって家人を失う。主たる者の心得るべきことである」と述べている(真田増誉の『明良洪範』)[7]。

あるとき、小姓らが主君の不在をよいことに、囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに嘉明がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て嘉明は、素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てたという(真田増誉の『明良洪範』)[7]。ただし、島津義弘にも同様の逸話があるため、義弘にあやかった後世の創作である可能性もある(逆に島津側が嘉明の逸話を参考にした可能性も考えられる)。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月29日 22時32分14秒 ) パスワード

http://www.youtube.com/watch?v=nai2zxJg0j8

三つ柏さん


戦国時代の図絵の六芒星の件
あれは長篠の合戦の絵でしたっけ?
関ケ原でも同じシーンが描かれているんでしょうか?


このサイトによると忌部氏の紋だとか?
それで信長=忌部氏の子孫=の側に描かれているとか。

大麻比古神社の神紋



だめだ
もうゴチャゴチャ・・・
度々の勘違いごめんなさい。

新しくスレッドを立てて注意勧告としますね。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 11時55分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、久しぶりに歯の治療をしたため、術後の痛み等で集中力を呼び
戻すことができませんでした。
 何事も集中力ですね。学業でも、研究でも、仕事でも、一心不乱の集中
力をいかに出し、保って行くか、そのコントロールのできる人が大成する
……ということ、時すでに遅しであります。

 さて、静岡の報告になかなか移れませんが、その前に―
 小和田哲男氏の『呪術と占星の戦国史』という本があります。一般の学
術書とはちょっと趣が違った本で、人間の情念分野に目を向けた内容とな
っています。
 その第二章「呪術者がリードした合戦」の中に、易・占いに頼った武将
ということでこう書かれております―
 「戦国武将の側近くに、軍配者(軍敗者とも書く)といわれる軍師がいた。
 私はこれを呪術的軍師と呼んでいるが、占筮(せんぜい)、すなわち、易
 ・占に通じた人である。僧侶である場合もあり、修験山伏である場合も
 ある。占や祈祷を行うので、占師・祈祷師でもある。

  また、中には、陰陽師を軍師として抱える戦国武将もいた。有名な安
 倍清明の流れを引くものである。ただ、戦国時代には、陰陽師と修験山
 伏は区別のつかない状態になっていた点はここで見ておかなければなら
 ない。」
ということで、戦国絵図に出て来る五芒星のマークを付けた軍師は、陰陽師
だったのかも知れませんね。
 さらに―
 「戦国時代、わが国では、武経七書と呼ばれる七種の兵法書がよく読ま
 れていた。その七種とは、『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『六
 韜』『三略』『李衛公問対』である。このうち、『六韜』第三「龍韜・
 王翼篇」に、「天文三人」として、星や暦のことを司る人のことが挙げ
 られている点は注目されるところである。そこでは、気を観察し、時や
 日を推測して、そのもたらす結果や災異を研究し、将軍にサジェスチョ
 ンするということが説明されている。
  我が国では、陰陽師のことを天文博士と呼んだこともあり、この『六
 韜』がいう「天文」は、まさに天文博士であり、それはイコール陰陽師、
 つまり、呪術者のことを言った。『六韜』は『孫子』や『三略』と並ん
 でよく読まれた兵法書なので、戦国武将たちは、こうした、星や暦のこ
 とを司る呪術者を軍師として身のまわりに置いたものと思われる。」
ということであります。

 先日、群馬へ行くバスの中で、歴史地図を見ていると、高崎の約四十q
真東に、足利(下野 栃木県)があり、その地図上に「足利学校」というも
のが表示されていました。名前だけは知っていましたが、どんな教育をす
るのかについてはわかっていませんでした。
 小和田氏によると、続いて―
 「なお、当時、こうした「天文」や周易の研究教育センターの役割を
 果たしていたのが、下野の「足利学校」であった。とにかく、足利学校
 の初代校長が、易学の権威といわれた快元だったことにもそれは明らか
 であろう。〜中略〜
  事実、足利学校の卒業生が軍配者、すなわち軍師として、各地の戦国
 大名のところに就職しているのである。」

 「そのほか、有名なところでは、上杉景勝の重臣で、「執政」などと呼
 ばれた直江兼続の軍師となったのが、足利学校出の涸轍祖博であった。
 ちなみに大御所時代の家康のブレーンとして知られる天海も、足利学校
 で四年間学んだ経歴を持っている。」
ということであります。

 「天海」と「足利学校」……以外なつながりがありました!
  
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 13時33分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、静岡のお寺についての報告をいたします―
 宝代院で驚いたのは、キリシタン灯篭があったことです。説明書きに
よれば、「古田織部が製作し、駿府城へ奉納したものを、家康の侍女ジ
ュリアおたあ等が信奉した。その後、キリスト禁教令が出て、おたあは
神津島へ配流された。城内より、静岡奉行所を経て、宝台院へ移された」
とありました。

 これで宝台院を後にする訳ですが、心残りは本堂にある宝物が拝観で
きなかったこと(土日祝休)でありました……。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月30日 13時57分01秒 ) パスワード

ジュリアおたあ

美しく賢い女性だったのでしょうね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%81%82

ジュリア おたあ(生没年不明)

安土桃山時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して小西家の猶子となった。


生涯[編集]

出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれるが、
生没年や実名、家系などの仔細は不明である。「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は日本名を示す。


文禄の役において、朝鮮征伐軍により平壌近郊で保護されたのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。

行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。

のちに関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、おたあの才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、寵愛を受けた。


昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し聖書を読み、他の侍女や原胤信ら家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。

しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、伊豆諸島の八丈島(もしくは新島)、神津島へと相次いで流罪となった。

どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。


また、3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順の求めを断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間と再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。


1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。

その後の消息および最期については不明だが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎が、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が出た。


以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ、1972年には韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らがおたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。しかしその後、上述の「日本発信」が発見されたため石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管されることになった。


なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月30日 14時03分54秒 ) パスワード

足利学校では実際にはどんな科目(笑)があったのか知らないので検索してみました。



足利学校(あしかががっこう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1

下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった[1]。


歴史[編集]

足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている(本項の論争の節を参照)。

室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。「能化」とは校長に相当する責任者であるが、江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的である[4]。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていった。

上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた[5]。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[6]・四書・六経[7]・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた[8]。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。

享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになったが、当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校を守り通した。

江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。

しかし江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみであった。

明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。

廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に払い下げようとしたので、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還された。

地元足利町は1903年(明治36年)、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存するとともに一般の図書を収集して公開した。また1921年(大正10年)、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。

1980年代になり、小学校の移転、遺蹟図書館の一般図書の県立足利図書館への移管が行われ、史跡の保存整備事業が始められた。そして1990年(平成2年)に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現された。

2015年(平成27年)4月24日には国の日本遺産審査委員会によって「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」のひとつとして日本遺産に指定された。

論争[編集]

足利学校の成立や、初期の体制については記録が残っておらず、しばしば論争になった。

創設時期をもっとも古くとる説では、伝承によればかつて足利学校は下野国の国学であった、という。明治期にこの説を唱えた川上廣樹(足利藩家老を務めた武士で漢学者)によれば、当初、都賀郡の国府に併設されていたが、足利家が将軍家となると、ゆかりの地に国学を移設したのだという。これに対し、国府と国学の位置が離れすぎており、当時移設したという記録もないという反論が出された。川上説は現在はあまり信じられていない。なお、国学起源説では、15世紀に編纂されたといわれる『鎌倉大草紙』の記述により、足利市昌平町の現在地に移転したのは、1467年(応仁元年)であるとしている。

近年、前澤輝政は、下毛野国(のちの下野国)が作られた際、国府は現在の足利市伊勢南町付近に置かれたとし、このときに国府に併設して国学がおかれ、これが足利学校の由来で、創立は8世紀であるとの新しい国学起源説を明らかにしている。前澤は自説の論拠として、現在使われていない古い地名で、足利市伊勢町・伊勢南町の境界付近が「国府野」「学校地先」と呼ばれていたことと、「國」などと刻印された瓦がここで出土したこと、江戸時代まで、この地が学校領であったことが古地図で確認できることなどを挙げている。ただし、前澤は、国府と国学は都賀郡(現在の栃木市方面)に移転したが、何故、足利の国学が廃絶せずに残ったのかについては理由を述べていない。また、足利に国府が置かれたかもしれないというのも、文献などによる有力な証拠がなく、今のところ仮説に過ぎないことに注意する必要がある。

古くからの国学起源説の論拠として挙げられるものに、「野之国学」と記された足利学校の蔵書印の存在がある。この印影は江戸期の一部の蔵書にしか使われておらず、印そのものも紛失していることから、後代の偽造であるとされてきた。これに対しては、川上と後述する前澤輝政は、この印は現在の足利市伊勢町付近から出土した、という記述を近藤正斎が『右文故事』(1817年(文化14年))中に残しており、本物である可能性も捨てきれない、と主張している。しかし、これに対しては既に、印が偽造されたあとにそれらしい伝説が作られたのではないかという反論が既に明治にされている。

別に有力視されている説は、『鎌倉大草紙』に基づき、平安時代の小野篁(おののたかむら)によって839年(承和6年)(または842年(承和9年))ごろに創設されたというものである。ただし、篁が下野国に関連する役職に就いたことはなく、また、設立年とされる年には流刑になっていることから、この説には信憑性がないという主張が強い。

このほか、12世紀末に足利義兼によって設立されたという説がある。この説は、『高野春秋編年輯録』巻七(1719年(享保4年))に、12世紀末の文治年間ごろ、足利義兼が足利に寺(現在の鑁阿寺)と学校を持っていた、という記述があることを根拠にしている。ただし、現存するにもかかわらず、鑁阿寺側には該当する記録が残っていない。なお、国学起源説、小野篁創設説の場合でも、足利義兼は復興させた人物であるとみなすことがある。

極端な主張では、足利学校は上杉憲実が開設したもので、1432年(永享4年)以前には存在しなかったという説もある。これは、水戸藩が編纂した『大日本史』の記述を元にしている。ただし、厳密に読んでいくと、上杉以前の時代に足利に学校があったことを意味する記述も大日本史中に存在することに注意する必要がある。

また、近年注目される文書として、「長徳寺文書」に含まれている「学校省行堂日用憲章写」がある。これは、足利学校そのものではなく、学校付属の療養所の規則であるが、文中にある「応卯三十年」「御判」が注目される。前者は「応永三十年」の誤写と考えられ、応永30年すなわち1423年に足利学校が存在したことの傍証になると考えられる。更にこの年は上杉憲実の主君である鎌倉公方足利持氏が室町幕府に近い小栗氏を討伐(小栗氏の乱)し、更に室町幕府が派遣していた足利荘代官神保慶久を追放して同荘を押領した年にあたる。「御判」とは原文書には足利荘の支配に乗り出した足利持氏の花押であったと考えられ、上杉憲実よりも前に足利持氏が足利学校の再興に関わっていた可能性を示している[8]。

史跡指定[編集]

1921年(大正10年)3月3日、「足利学校跡(聖廟および附属建物を含む)」として国の史跡に指定された。
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 14時14分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 書き込みがちょっとしたタッチで水泡と化しましたので、気落ち―休憩
します。
 あを様の調査は、電光石化ですね! 読ませていただきます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月30日 14時20分07秒 ) パスワード

涸轍祖博
こてつそはく

初めて読みを知りました。
どうやって読むのかな〜とは思ってましたが
そのままで良かったのですね。恥


http://cafe.kenshingen.fem.jp/?eid=1248796
以下コピペ

今日は、戦国武将が占い好きだったお話をする。

 直江兼続は、和漢や医学、農業、あらゆる学問に通じた識者で、合理的考えをする人物だったと推測する。


そんな彼が、実は占いの本を書いている。
 米沢の上杉博物館で、時々展示しているので、御覧下さい。

 中国の書物『四書五経』の中に、「占い」に関する書物がある。
和漢に通じ、『四書五経』にも造詣が深かった兼続は、占いに関しても詳しかったはずである。
 (四書五経:儒教で最も大事な、4つの書物と5つの経典)



 直江兼続の軍師となった人物に、足利学校出身の涸轍祖博(こてつそはく)という人物がいる。

足利学校は、東国の最高学府であり、漢学、儒学、天文学、医学、易学(占い)、兵学、を教えていた。

 占いは、重要科目だったのである。

                                        へぇ〜


 卒業生は超エリートで、軍師として、各地の戦国大名のもとに就職している。

 何を隠そう、景勝や兼続にも多大に影響を与えた、景勝の叔父・通天存達(つうてんそんたつ)禅師も、
足利学校を首席で卒業している。

 景勝の叔父さんは、すご〜く頭いいのである。

 大安とか仏滅とか、時々カレンダーで見かける。 
冠婚葬祭程度にしか今は使わないが、昔、占いは、生活の一部だった。

 平安な世であっても、流行り病、天災は日常茶飯事だし、戦国時代なら、明日死ぬかも知れない戦もある。

 出陣は、縁起のいい日にしなければならないし、

                                       ゲン担ぎですね                   


凶と出た方向に出陣して死にたくないものである。


                                       これに納得!なるほどねぇ〜。なるほど兵法だ!  これで負けたら殿とか大将失格ですものね。


 占いは、兵法であり、生活の一部であったのである。  
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月30日 14時25分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


やっちゃいましたか。残念です。口惜しさ、分かります!

窓10ですか?
わたくしは窓8ですが本当に不安定で  ちょっと指が何かのキイに触れると  一瞬にして消えます。

コントロール+Zで復元できると聞いてますが、出来る時と出来ない時があって、悔しいです。



>宝台院を後にする訳ですが、心残りは本堂にある宝物が拝観できなかったこと(土日祝休)でありました……。

また行けば良いですよ。
また行ったら違うものが見えるかも。
何か面白いものに出会えるかも。

そう思いましょう。

でも静岡は横に広くて、宝台院は遠いですよね。

いつか何かの機会に宝物お拝観できますように。
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 15時51分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次に向かったのは―
 A常光寺(浄土真宗大谷派)
 B教覚寺(浄土真宗本願寺派)
でありました。教覚寺では、墓の敷地の権利を買われた服部さんの名前
の書かれた看板が建っておりました。その他には両寺とも特筆すべきこ
とはありませんでした。

 次は―
 C善然寺(浄土宗)
であります。ここでは、服部家の墓を一基見つけました。家紋は「源氏
輪に並び矢」でございました。ここで、さっそく般若心経を二巻念誦い
たしました。
 その他には、「丸に方喰(かたばみ)」の永井家の墓がありました。
 
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 17時51分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正が一つあります―

 長篠合戦絵図において織田方に白装束で、陣羽織の背中に六芒星の紋が
入った集団が確かに描かれておりました。五芒星でなく六芒星でした。
 どうもこれは忌部氏のようです。
 陰陽師でしたら五芒星かと思いましたが、六芒星ということで、それの
意味するところは重いですね。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月30日 21時05分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡の寺の続きです―

 次に訪れたのは、日蓮宗「感應寺」でした。この寺は、大変由緒ある寺で、
徳川家の庇護を受け、特に家康の側室養珠院お万の方(紀州頼宣・水戸頼房の
生母・水戸光圀の祖母)は、この寺で得度剃髪しているそうです。またお万の
方はこの寺で、家康の百ヶ日法要を行ったそうであります。

 この寺では、「びっくり」に出会いました―
 まずは、いきなりの出会い……「丸に三つ柏」の服部家の墓を見つけたの
であります。やはり、静岡市内にもあった……先日丸子の歓昌院で見つけた
二つの「丸に三つ柏」の服部家の墓は、本日の前哨戦であったのかも知れな
いと思ったけれど、そうトントン拍子に物事は進まない……。
 まずは、ここで般若心経を二巻捧げることにいたしました。

 よく探すと、服部家の墓はもう二基ありました―
 一つは、「源氏車」、もう一つは、「丸に違い鷹の羽」でありました。

 その他、私がびっくりしたのは、「丸に三つ柏」の墓が、松永家三基、
長谷川家三基、朝比奈家一基あったことであります。

 それ以外に私の目についたのは、長田家の「細抱き柏」、長谷川家の「下
がり藤」、同じく「剣方喰」……でありました。

 この寺の次には、真宗高田派の浄円寺へ行きました……ここには特筆する
ものはありませんでした。

 次が、いよいよ「顕光院」です。天方様よりアドバイスいただいたお寺で
あります。では次回に―
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月30日 22時16分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>日蓮宗「感應寺」

もう全身粟立ってゾクゾクしています。
ちょっと  書き続けられません。
膝はガクガクしてるし頬は引き攣ってるし指はコオバッてるし。


般若心経をありがとうございます。


ちょっと休みます。


あ、五芒星は安倍晴明の紋です。








[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 11時33分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様
横から失礼いたします。平川家についてのミヤハラです。
毎日、拝読して、勉強させて頂いています。

三つ柏服部様
御存じの事かとは思いますが、
〉日蓮宗「感應寺」
〉家康の側室養珠院お万の方(紀州頼宣・水戸頼房の生母・水戸光圀の祖母)

家康の側室養珠院お万の方 この方は佐原系三浦氏「三浦盛時」の後裔になられる方ですね。
先日から自分の調査で日本の苗字七千傑様の《佐原氏》姓氏類別大観を拝見する事が多くて「養珠院」という方には気が付いていました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e3.htm

三つ柏服部様のお陰で、日蓮宗「感應寺」と養珠院お万の方様との繋がりが理解出来ました。
ありがとうございます。
「日蓮宗」・・やはり・・・(独り言です(^'^))

今年は猛暑との事ですが、空の青海のあを様、三つ柏服部様
お身体には十分お気を付け下さいませ。

ミヤハラ
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月01日 13時01分19秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 お万の方についての情報、ありがとうございます。

 家康の側室の中でもひときわ輝く人ですので、大いに興味が湧いて来て
おります。
 家康を取り巻く女性達の中で、西郷の局、春日の局、そしてお万の方は、
家康探究の対象からはずせません。

 ミヤハラ様・白石様からは、私も毎日パワーをいただいております。感謝
申し上げます。

 相良には近々行ってまいります。探索に行きそびれておりますので。
 何か発見がありましたらお伝えいたします。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月01日 13時37分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


気を取り直して:


>日蓮宗「感應寺」でした。
>家康の側室養珠院お万の方(紀州頼宣・水戸頼房の生母・水戸光圀の祖母)は、この寺で得度剃髪しているそうです。
>またお万の方はこの寺で、家康の百ヶ日法要を行ったそうであります。


この「感應寺」さんにお墓を置けるというのは、それなりの家だったと思うのです。

お万の方に、それなりの、関係があったのではないかと思うのです。


なので水戸にもいらっしゃってください。
確か、水戸にも服部家のどなたかが行ってましたよね。
去年のことで記憶が不確かです。


検索しました:関係無い人かも知れませんがコピペ4

http://doyuan.sakura.ne.jp/tabuse-bakumatusiseki.html

  服部本英は雪堂と号し、代々郷医の旧家に生まれ、医を生業としながら、家塾を開いて近隣の子弟に指導にあたっていたようです。また、水戸藩郷校の小川稽医館に出入りし、館の運営に参画することで、水戸藩より苗字帯刀を許されていました。

  明治元年(1864)の天狗党による筑波山挙兵には書記頭取として参加し、日光より太平山まで行動を共にしたが、その後は見解の相違があったようで、郷里に戻りましたが、筑波軍関係者は反幕分子として探索され、探索を免れることは困難と考え、自ら名乗り出て縛につき、身柄を水戸へ護送される途中、玉里村高崎台(小美玉市高崎)の場所で、天狗党の襲撃を恐れた捕吏たちに処刑されてしまいました。

  現在この高崎には「服部本英 朝日太郎 遭難之地」と記された石柱が建てられているようです。

  天狗党とは水戸藩内外の尊王攘夷派のことで、天皇を尊び外国の勢力を打ち払おうという思想で、9代藩主となった徳川斉昭が行った学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、質素倹約、海防と軍備の充実、藩校弘道館の設置等藩政の改革に共感した改革派で農民や他藩の武士などが加わって数百人の勢力だったようです。

 その後、天狗党は当時京都にいた一橋慶喜(のちの15代将軍)の力を借り、1000名余りの大部隊で京都をめざして美濃(岐阜県)に入り中山道を通り京都をめざそうとしたが、その方面には1万数千人の追討軍が集結しているので、越前(福井県)を回って敦賀市内にたどり着いた頃、追討軍に取り囲まれ降伏した。

 幕府の若年寄 田沼意尊(老中 田沼意次の子孫)による取調べの末、明治維新目前の1865年に武士や農民を併せ350人余りの大量処刑が行われた。

 天狗党の人々が敦賀で処刑されてから100年後の1965年に水戸市と敦賀市は姉妹都市の提携を結び、それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われているとのことです。


服部本英生家の写真も出てます。
立派な家ですよ。



農村集落センター・・・元出島村立田伏小学校のあった場所です。
服部本英墓碑・・・没後100年に建立
農村集落センターから近い所に「服部本英の墓碑」がありました。



   下の方に出ています:
   かすみがうら市志筑出身の伊東甲子太郎が新選組へ入隊した

        尾張出身の首相の加藤高明は元は佐屋の代官の手代の家だった服部家の出身で
        大おばになる人の加藤家に養子に行きました。
        
        で、加藤高明の叔父の佐野七五三之助しめのすけが新選組に入って
        伊東先生に従って新選組を出ています。


        新選組には赤穂藩出身の服部武雄という人もいて、この人も伊東先生に従って新選組を出ました。


              ということは水戸がらみ?徳川家がらみ?何か?関係があったのかもですね。

        


>この寺では、「びっくり」に出会いました―

> まずは、いきなりの出会い……「丸に三つ柏」の服部家の墓を見つけたの
であります。
>やはり、静岡市内にもあった……


        すごい!
        この服部家はお万の方に何らかの関係があったのかもですね。


>丸子の歓昌院で見つけた二つの「丸に三つ柏」の服部家の墓

        どういう関係でしょうね。


>服部家の墓はもう二基ありました―「源氏車」、もう一つは、「丸に違い鷹の羽」でありました。

        源氏車の服部家ですか。
        「丸に違い鷹の羽」の服部家も珍しいですね。




>その他、私がびっくりしたのは、
>「丸に三つ柏」の墓が、松永家三基、長谷川家三基、朝比奈家一基あったことであります。

わたくしもビックリです。
婚姻関係にありますからね、長谷川氏と服部氏、朝比奈氏と服部氏は。松永氏もあったのかしら?

松永久秀との関係でしょうか?地理的にあちらで近かったし?

[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月01日 14時01分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様、三つ柏服部様 今日は。
横から又、失礼致します。ミヤハラです。

三つ柏服部様
私の方こそパワーを沢山頂いています。
ありがとうございます。
私のパワーの中は大半が『おっちょこちょいパワー』ですので、すみません(..)

所で、
「平川家について35」でこちらの御研究について勝手ながら今日書かせて頂きました。
申し訳ありません。
しかし、お陰様で、また一つ「不思議な繋がり」に気が付きました。
ありがとうございます。

最後に・・
ずっと書こうかどうしようか悩んでいたのですが・・
実は、私と同じ集落に住む幼馴染の親友ですが、結婚して今は県外に住んでいます。嫁ぎ先は「服部家」です。
恋愛結婚ですが、彼女の実家は相良氏族でありその姓は全国でも190軒しかない”珍しい姓”です。(個人情報なのでここまでしか書けません)
目には見えない不思議な”縁”は、本当にあるのだと私は信じています。

余談でした。すみません。
三つ柏服部様
相良への調査。本当にありがとうございます。
楽しみにお待ち致します。

お邪魔いたしました(..)  ミヤハラ
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月01日 16時54分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近々、相良に行ってみます。自動車のない時代、やはり海運・水運の
が中心であったので、横須賀(大須賀町)にしろ相良にしろ、昔は想像で
きない程、海運・水運(軍事・民政)の中継基地として町は発展していまし
た。
 相良といえば、江戸中期の田沼意次が有名でありますが、悪い人のレッ
テルが張られてしまっていますが、吉良上野介と同じ現象ではなかった
のか……地元での評判はいずれもいいのです。本当はどうだったんでしょ
う?
 また、家康は「鷹狩」が大好きであり、この地に相良御殿を築いていま
す。藤枝の田中城でも鷹狩を行っていますし、磐田の中泉御殿でもしかり。
 「鷹狩」には家康の何か隠された戦略・秘密がありそうです。

 さて、静岡の話にもどりますが、いずれにしてももう一度行ってこよう
と思っています。まだ調べていないお寺も多々あります……代表的なものは、「華要院」……家康の祖母の菩提寺であります。

 浄円寺について少し追加しておきます。
 浄円寺で見た「丸に三つ柏」の氏族――鈴木、山名、大間、永野、村松、
                   大橋、島本、小林、勝治、宮島
                   ……
 さて、いよいよ「顕光院」です―
 ここでも、ビックリに出会いました。
 またしても、「丸に三つ柏」の服部家の墓に出会いました。さらにもう一
つ、「源氏輪に並び切り竹」の服部家の墓……。ありがたい出会いの数々で
あります。ここで、般若心経を二巻……正に先祖供養の旅であります。

 そして、青山家の墓……一つは、「三つ扇」、もう一つは「割り梶の葉」。

 さらに、天方家の墓が八基……家紋は「七宝に花菱」でありました。

 服部、青山、天方が見事に揃いました……偶然ではないような気がします。

 その他―
 顕光院で見た「丸に三つ柏」の氏族――長谷川、松永、朝比奈、森、牧野、
                   紅林、矢澤、田村、鈴木、村松、
                   牧田、永野、杉本、平野、佐藤、
                   望月、石川、山本、増田、武田、
                   塚本、海野、伊藤、西村、中野
                   ……

 こうしてみると、先日焼津に行った時に、「丸に三つ柏」のオンパレード
に出会ったのと、静岡の状況がよく似ているような気がします。一種の「は
やり」、流行の最先端だったのか、みんな競ってそれに乗り換えた……?
ありがたい家紋だったのでしょうか? その点について、要因は何だったの
かを今後必ず突き詰めたいと思っています―

 
 
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月01日 17時00分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一部訂正:「丸に三つ柏」の長谷川氏・松永氏・朝比奈氏は「感應寺」の
方でありました。写真データがこんごらがりました。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月01日 22時34分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>相良といえば、江戸中期の田沼意次が有名でありますが、
>悪い人のレッテルが張られてしまっていますが、
>吉良上野介と同じ現象ではなかったのか……地元での評判はいずれもいいのです。
>本当はどうだったんでしょう?


本当のところは  「経済の分からない人には  田沼意次=悪い人」  でしょうね。


こういう「評価」って判断が難しいところですね。


重商主義をとるか重農主義をとるかで、方向が180度変わりますから。


   日本の場合は M ですか?マゾ?重農主義>重商主義というのがありますね。


          日本人は自分に鞭うつ精神性の傾向で、それをヒトにも要求するから
          重農主義が優れている、という精神構造が存在する。

                      だから吉宗が徳川家の中で評判が良いとなりますね。



              そうそう、どなたでしたか、印旛沼の開拓に参加してた服部氏が寛政諸家譜に出てましたね。


江戸時代に資本主義をやった田沼意次の印旛沼運河の開発も成功してたら  日本史上最高に優れた救世主  なんでしょうけど
息子=意知=が賢くなかった。

幕府の財政を潤した父の功績を「実はうちの家系が良いから」と先祖ロンダリングしようとして系図を佐野さんに返さなかったから殺された。

    蟻の一穴ですね。
    ここから田沼意次も終わりましたね。

    バカなことです。
    馬鹿な息子を持つと親は気の毒です。


    ま、当時の日本は血統主義ですから立派な系図が欲しかったんでしょうね。
    先祖の自慢それも他人の家のをパクったってしょうがないのにと現代人は思いますけど。

    余りにも息子がバカ過ぎ。


    そこにもって来て自然災害が起きた。こちらは意次や意知の責任ではないけど
    日本には  自然災害=トップが悪いから天罰が起きた  という思想がありますからね



田沼意次はすごく経済観念の発達した人でした。


でも経済的発展って最高潮を迎えると下降する運命なんですよね。
そこへ大災害ですから
アホの息子のバカな事件で  田沼意次=腐敗政治家  になってしまいました。


この人も不当評価された気の毒な歴史上の人物ですね。



以上  中学時代の日本史の授業で先生がブツブツ言ってたことを思い出して書きました。

    ワタシは当時は日本史は全く興味がナカッタので  友達が上記のことを○○先生がおっしゃったことには  と話してくれたので
    ちょっと記憶に残っていただけです。細かいところは覚えてないです。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月01日 22時49分33秒 ) パスワード

>「鷹狩」には家康の何か隠された戦略・秘密がありそうです。



はい、まさに  戦略上の訓練  ですね。

今年6月30日から始まったリムパックと同じですよ。
2万5000人がハワイに集結して戦争ごっこして
お互いに相手はどんな装備か探ったり、ここはどう守るか攻めるか考えたり。
また個人個人の体力能力技能なんかも検査しておきませんとね贅肉のついた身体ではいけません。



なので  鷹狩り=視察・訓練その他  でしょ?


地形を見たり地勢を見たり人心を掌握したり地方行政を調べたり
事が起きた時に備えておく。
そして秘密の情報収集もしてたのでしょうね。


このリムパックの前はうちのマンションのジムはたくさん軍のヒト達が来て
ワタシは自分のルーティーンが邪魔されて不愉快でした。
とはいえ  鷹狩り  のための身体作りなんだからしょうがないと遠慮しましたよ。
昨日の朝はリムパックの初日ということで軍のヒトは全くいなくて嬉しかったです。
あはは
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月01日 22時55分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


さすが静岡ですね。

三河→遠江→駿府と移動したのが分かりますね。
丸に三つ柏紋の家のオンパレードで驚きました。

やはり行かないといけませんね。
相良にも是非!


般若心経、わたくしの分もありがとうございました。

だんだん三つ柏さんのご先祖の皆さまとそのお仲間が見えて来たようですね。
まだ始まったばかりですね。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月01日 23時26分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡のお寺廻りの最終報告になります―

 真宗大谷派静岡別院では―
 服部家の「丸に下がり藤に並び矢」という珍しい家紋を見つけました。

 そして、浄土宗玄忠寺、同じく西福寺を訪れましたが、こちらについては
特に言及するものはありませんでした。

 そして浄土宗浄国寺、ここの住職のおじいさんは服部の姓であったとの
話をご住職から聞きました。浄土宗で住職をやっている服部氏は、現在一人
いますとのこと。ご住職さんとは話が打ち解け、仲良くなりましたので、今
後また訪れようと思っています。
 
 その後、弘願寺では、「丸に三つ扇」の服部家、これは臨済寺で見つけ
たものと同じ、長善寺では、山中鹿之助の墓を見つけました。

 最後、浄元寺では、「丸に違い矢」の服部家の家紋を見つけました。

 以上で、静岡のお寺訪問についての報告を終ります。

 本日は、夜会があり、たっぷりアルコールが入ってしまいました―
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月02日 02時49分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


不思議ですね名字と家紋。
知れば知るほど複雑怪奇。

わたくし的には 平氏で伊勢伊賀で服部姓は  平家の代表の1つで  車に矢のバリエーション  でしたが
三つ柏さんが「うちは丸に三つ柏紋」とおっしゃって(え〜?うっそぉ〜!どうして柏?)と驚きました。
調べたら  平氏で服部で柏紋がある  と知って  (そ〜なんだ〜)と目からウロコが1枚ずつ落ちましたが。
そこが   アイデンティティの違い  ということですものね。


>真宗大谷派静岡別院では  ― 服部家の「丸に下がり藤に並び矢」

真宗大谷派ということは家康の肝煎りということですよね。違ったかな?
なのでこの服部さんは元は平氏で伊賀出身で三河で家康崇拝の服部家ということかなと思います。

    上り藤で並び矢なら想定内ですが  下り藤で並び矢って?  と戸惑っています。笑
    これはホントびっくり。

    何かあったんでしょうね。


>浄土宗浄国寺、ここの住職のおじいさんは服部の姓

浄土宗というのがまたまた不思議ですが
母の従姉妹で婚家が甲賀出身で丸に並び矢紋を使っているという家は浄土宗です。
かなり熱心な浄土宗の信徒で、、、、、ここから更にビックリですが、、、、息子は浄土真宗の僧侶です。なんで?
    このムスコの嫁さんは三重県の有名なお寺さんのお嬢さんです。

なんだか身近に思います。

是非お時間できたら御住職さんとお話しになってくださいね。
服部姓の檀家さんをご紹介くださるかも、です。三つ柏紋の服部檀家さんなら更に良しですね。にっこり



>弘願寺では、「丸に三つ扇」の服部家、これは臨済寺で見つけたものと同じ、

これも珍しいですね。
扇で服部家というのは柏で服部家と何か経緯があるのかもですね。



>長善寺では、山中鹿之助の墓を見つけました。

鴻池におばさんが嫁いでいるという山中さん(どっちも元々同族なのにね)が教えてくれたことによると

鴻池は幕府方で・・・・なんたらかんたら・・・・だから三和銀行が・・・・なんたらかんたら・・・・トレードマークは徳川家の・・・なんたらかんたら・・・

なので幕末か明治あたりに駿府に逃れた鴻池さんか山中さんがお建てになったのかもですね。
山中鹿之助の墓なら当然高梁の阿井の渡しあたりにあるのが自然ですものね。
それか静岡の山中鹿之助の熱心なファンが建てたのかも。山中鹿之助は日本人の大好きなキャラクターのお1人ですものね。



>浄元寺では、「丸に違い矢」の服部家

平氏で伊勢伊賀出身の服部さんでしょうね。
でもアイデンティティがちょっと違うんでしょうね。

どう違うのか、その経緯を知りたいところです。


静岡にいらっしゃって本当に良かったです。

まだ小田原や島田も残ってますが
一族のお墓をかなり訪れて般若心経をお詠みになってあげられて
本当に良かったです。

ご住職さんとお話しになれたのも良かったです。


黄泉の国の皆さんのさまざまな思いを般若心経で受け止めてあげられたことは本当に良いことでした。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月02日 02時58分31秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101546.html
スレッド72をご用意致しました。
[66]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月02日 06時57分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、早朝から電話帳の中に登録されている「服部」について、旧
浜松市、旧浜北市(いずれも浜松市に合併前)の各町ごとに、その軒数を
調べてみました。2000年版のデータです。これは、あくまでも参考値
として扱いたいと考えております。
 それによると、旧浜松市内では、服部氏はかたまっておらず、少数で
各地にちらばっています。5軒以上の所は―
 @泉   7軒(全体の3.5パーセント)
 A佐鳴台 6軒(全体の3パーセント)
 B大山町 6軒
 C篠原町 6軒
 D若林町 6軒
 E和合町 5軒
 F冨塚町 5軒
でありました。

 旧浜北市では―
 @善地  6軒(全体の26パーセント)
でありました。

 これを見ると、昔の服織庄の中の村は存在せず、善地のみ服織庄に
隣接している村であります。服織庄に服部姓が存在したかどうか、い
わゆる古代系の服部についての判定は難しいです。

 伊賀系の服部氏が住んだとしても、大族にはならなかったでしょう。
各地にバラバラという方が伊賀出身らしいとも思います。

 あと、静岡を調べてみます―


[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月02日 07時12分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


>2000年版のデータ

2000年あたりならケータイが普及し出した頃なので
まだ家電話が各家にあった頃でしょうから貴重な資料ですね。


善地が1番多い、という理由が知りたいですね。
6軒とも丸に三つ柏紋なんでしょうか?


服織庄の中には服部姓が無いというのも不思議ですね。
無いということは古代からの土着の服部さんは、いない?
服織神社の氏子さんだったら近くに住みたいものじゃないかと思いますが
何かあったのかもですね。
[68]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月02日 09時20分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡にも羽鳥があり、服部神社があったようです(別名か 調べます)。
 浜松にも羽鳥があり、服織神社があります。
 羽鳥はいわば織物特区で、服部と称した古代系の人がいたはずです。

 静岡に調査に行きましたが、まだ完璧ではありませんが、服部氏族と
して群れをなしている様子は、浜松と同じで見られません。
 焼津に多いということの不思議さは何なのでしょう。

 絹織物という産業の興隆・衰退の波により、また、戦乱により、庄の
住民はバラバラになった、移動したと考えた方がいいのかも知れません。

 姓を変えた、または家紋を替えた……ということもあり得ます。

 勝ち組の伊賀の服部氏は、伊賀のトレードマークともいうべき「矢」で
もって自己主張した。
 もしも負け組系の伊賀系服部氏がいたとしたら、伊賀のマークは隠すだ
ろうか……?。

 とまあ、自分自身の中でブレーンストーミングをしております―

 やはりもう少し、静岡、焼津のデータを集めてみます―
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月02日 12時24分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>もしも負け組系の伊賀系服部氏がいたとしたら、伊賀のマークは隠すだろうか……?。


首が飛ぶほどの負け方だったら、隠すでしょうね、普通。
勝ち組系と同じ家紋なんか使いたくないでしょうし。

でも負け組の負け惜しみで意地を張って車に矢の紋に固執するというのもありますよね。
どうしても自分が負け組だとは認められずに自分が本家だとか宗家だとか言いたがる人は。
名字と家紋が心の支えというプライドの高いカナシイ人もいたでしょうね。


命のやりとりでの勝ち負けだったら勝った方が許さないと思いますけどね。
でも長い時間が過ぎて再び混乱の時代が来て
勝負しないといけない事態の時が来たら晴れて名乗りたい元の名字や使いたい家紋を使ったと思います。


それから母の出自が低い場合は車に矢の家紋は使わせて貰えなかったかもですね。


人間の心理は複雑ですから名字とか家紋とかは負けたらアッサリ捨てる人もいれば逆に固執する人もいる。
更に時代が落ち着いて上下関係がハッキリして「許されない」というのもありますしね。


    例えば
    三つ柏さんのお宅の場合
    もし藩主が山内家になったら・・・
    当然遠慮して替えなくてはいけないです。

    一旦替えたら主君のお許しが出るまで使えません。

    何か大きな手柄を立てて、その褒美に、三つ柏紋を<再度><公けに>使う許可が出る場合もありますね。


やはりお寺さんで訊くとかしないといけませんね。
「自己申告」で飾る場合もあるから、やはり、周りがどう言ってるかもチェックしないといけないですし。


とにかく名字とか家紋って1家に1つじゃないですよ。

現代は名字は限定されてるし変更するには裁判所の許可が要りますね。家紋は自由ですけど。



わたくしの母の実家は本姓は○で俗姓はXXですが、
途中で鎌倉の嫡男家に遠慮して「○○○殿」と呼ばれたり、「○○○殿」が「○○」と屋号になったり、
負けて名字を変えたりして240年後に許可が出て本来のXXに戻ってます。

家紋も本来の家紋と替えた家紋と女紋がありますしね。拝領の家紋もありますし。


世の中には「無い」人もいますしね。家紋が無いと言った人にはビックリしましたがそういう家もアリだったんでしょうね。


     我々がここで話しているのは戦国時代に人口の5%あたりを占めていた限定世界のことですから
     残りの95%のことは分からないです。

     その5%の、そのまた限られた数の人達のことですから、
     「勝手に使うな!」とか「もともとこれを使ってた!」とか、
     いろいろあったでしょうね。


1番驚いたのは加藤嘉明の加藤姓でした。猶子になって加藤姓になったとは。もとは「岸」さんだったとは。

これは知らなかったです。

加藤なんてそこらじゅうに在るいわゆる「犬の○」の名字の1つだと思ってました。
だから加藤嘉明は元々加藤姓だとばかり思ってました。
            こういうのが「ついて回る」という日本の恐ろしさでもありますね。
            5%の世界ですから、5%の中の人はみんな知ってるわけです。


例えば上記のレスに書いた田沼意次の家のこともその世界の人達は田沼意次の出自を知っているわけです。
もし佐野家の方から系図をオッファーしてくれてたなら良かったのでしょうけど
意知が出自コンプレックスで佐野家の命にかけて守ってきた系図を返さなかったから意次が足を引っ張られてしまいました。

出自コンプレックス。なんとも情けない話です。


逆に某・超・有名な家の息子は没落して「こんなもの!」と破棄してしまったけれど
そういう立派な家は本人が否定してもみ〜んな日本人だったら誰でも彼の家のことを知ってるし
御所に提出した系図は存在してるし。


たかが出自・されど出自。

いろいろなお寺さんのご住職さんと親しくなって檀家さんと交流できるといろいろな角度のお話がゲットできて
ホントのところが見えてくると思います。
そこから
[70]三つ柏服部さんからのコメント(2016年07月02日 12時54分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 時代のいわば「地層」というものがあります。遠州、特に羽鳥庄を中心
に支配した人、あるいは支配形態等を「時代」にしてわかりやすく区別し
てみると―
 @古代
 A律令制時代
 B荘園時代
 C平家時代
 D源氏時代
 E北条時代
 F今川時代
 G武田時代
 H徳川時代
 I豊臣時代
 J徳川時代
という支配の地層が積み重なっております。
 これらは複雑に入り乱れたり、覆ったりしていますので、考古学のように
層ごとに検証していかなければなりません。
 このところ、浜松市史、浜北市史、豊田市史、島田市史という地元の歴史
の資料に目を通しておりますが、今まで知らなかったことがいくつも出てき
ております。わからなかったことが、目に見えてきました。
 その氏族が、何故その地にいるのか……それぞれ、みんな理由があるのだ
と思われます。歴史は偶然でなく、必然であるという風に最近感じておりま
す―
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年07月02日 14時23分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>歴史は偶然でなく、必然であるという風に最近感じております

はい
この世界に偶然ということは無く、必ず、必然のことなんだ
ですね。だんだんオーラの泉になって行きますね。笑


いろいろなお寺さんの檀家さんの服部家のお話をまとめて行ったら幾つかの筋に集約できると思います。


服織神社の近くに何故服部姓がいないのか?
明治以降は転居の自由があるのだから古代や律令時代からの服部さんはそれこそ嬉々として服織神社の近くに戻ったのじゃないのか?と思うのですけどね。

永く日本人は土地に縛られて来たのに、何故、いないのでしょうね。
神社があるなら氏子がいるはず、というのはいつの時代から成り立たないのかしら?

浜松なら今川氏の時代や徳川氏の時代は安定してたでしょうから氏子は戻れたと思うのですけどね。


無力な実働部隊の職工達や農民は離散したのでしょうか。
でも支配層は逃散は許さなかったし。


日本人って(ここ最近70年間は無視して)珍しく望郷の念が強い民族で
落ち着くと生まれ故郷に戻りたいものなんですが。


とにかくお寺さんを頼りに情報収集が良いと思います。
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