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 投稿番号:101531 投稿日:2016年05月17日 03時32分20秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXZ(16年の課題確認10)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101529_64.html
長上郡の服部氏族LXY(16年の課題確認9)
スレッド66の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド66では新たなる謎が謎を呼ぶ課題が発生しました。

本能寺の変の真相は?
名張藤堂家の家紋が桔梗紋なのは?


真実は1つの筈なのに視点を変えるとアレコレ浮かび上がって来ますね。
果たして真相は?

[1]丸三柏服部てんさんからのコメント(2016年05月17日 13時58分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部貞勝(貞信―小宮神社神職―から数えての十代孫)が駿府町奉行だっ
たとはつゆぞ知りませんでした(何だか近い関係がしてきました……)。

 そして、大井川にからむ……実は、島田には四月〜五月の連休の初日に、
島田代官だった長谷川一族を調べに行っておりました。島田の代官は大井
川の水防と渡しについての管理を主要な業務としていました。

 そして、その続きとして、この度の「丸子」の帰り道、焼津の小川に行
き、長谷川氏の祖の墓を見に行った訳であります(島田の話は、いずれタイ
ミングをみて記そうと考えておりました)。

 そして、このスレッドでは、長谷川氏について書こうと思っていたとこ
ろであります。服部と長谷川氏の関係も解かなければいけない謎でありま
す。あを様からの情報で、大井川というキーワード――には大いに驚きま
した。

 長谷川氏の祖の墓が焼津の小川にあり、そのお寺の名前は信香院である
という情報を元に、ナビで探しながら行きました。

 この続きは、次回に―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 15時37分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


まだまだ週末には時間がありますからジックリ訪問の作戦を練りましょう。

これまでは西に目を向けていましたがこれからは東ですね。



http://www.shinkoin.jp/rekishi_1.asp

会下の島に何時のころからか道明会下という僧たちを教育する道場ができていた。

これが1517年=永正14年秋の暴風雨で大破した。

それを通山芳釈という和尚が当時の小川城主長谷川氏の支援で復旧整備、
長谷山信香院と改称して開山となるとともに長谷川正長を開基とした。



その後、約500年の間に31人が住職となって、檀家の支持のもとに、曹洞宗の法燈をまもり宗教活動を続けて現在にいたっている。

この間、武田勢の焼討ち、度かさなる自然災害、明治維新の廃仏棄釈など困難は多かったが、
その都度、住職・壇信徒の熱意で、伽藍復興など逞しく立ち直った。



◆会下の島と林叟院と信香院

*会下の島には「何時の頃からか林叟院と信香院(その前身の道場)があったので、この地名が生まれた」という説もある。

*林叟院は文明3年(1471)に創建、明応年間(1492〜1501)に「不思議な老人の示唆で坂本へ移った」という説。  
その翌年ごろ大災害で元境内地は海中に沈んだ。

*信香院の開山は、林叟院三世の弟子である。




長谷川正長と信香院

長谷川正長の墓碑の写真 小川港に隣接してたつ曹洞宗長谷山信香院は、
永正14年(1517)秋の暴風雨で前身の道明会下の堂字が大破したために 通山芳釈和尚が小川城主長谷川正長の力を得て再建し、
このときから長谷山信香院と称したという。

このため通山芳釈和尚を開山、長谷川正長を開基としている。



墓地には信香院の開基である長谷川正長の墓碑がある。
墓碑の正面には「元亀三壬申年 当院開基長谷川殿前紀州大守従五位下林叟信香大居士 十二月二十二日」、
右側面には「嵩享和二壬戌歳十二月」、
台座には「小川治郎左衛門之尉三代 俗名長谷川紀伊守正長 九代之孫長谷川栄三郎正満再建」と刻まれている。


長谷川正長は法永長者といわれた小川城主正宣(墓碑は林叟院)の孫で、
今川義元・氏真に仕えて徳一色域(田中城の前身)主となったが、
元亀元年(1570)武田信玄の攻撃にあって支えきれず、 遠江に逃れたのち、徳川家康に仕えた。

                   遠江に流れた事情ですね。


元亀3年12月22日の三方原の戦いでは、武田勢を相手に奮闘したが討死し、この信香院に葬られた。

正長の3人の子供正成、宣次、正吉は、家康及び秀忠に仕えていずれも旗本になった。



なお、この墓碑は林叟院の正宣夫妻の墓碑とともに、
正長の三男正吉の子孫である旗本長谷川栄三郎正満(遠江国城東山名両郡のうち4070石)が、 享和2年(1802)に再建したものである。





=用語について=

《開山(かいさん)とは》 ・寺を開いた僧。初代住職。
・仏弟子の修行は閑静な地を選ぶ要があり、山地を開いて道場とし、 あるいはそこに寺を建立したので開山の名がおこった。

《開基(かいき)とは》 ・寺院を創建すること、ないし創建のための経済的な支持者をいう。
・寺院をつくった世俗の実力者。

《会下(えか)とは》 ・説法の会座。一人の師僧のもとに集まって学ぶ所。
・師の門下として修行している僧。普通は普通は「えか」と読むが「えげ」とも。


《林(りん)とは》 ・修行者の修行する所の意味も。

《雙と叟》 ・林叟院は会下の島時代は林雙院で、坂本移転後に林叟院。
 雙は「対(つい)」の意味。
 叟は「老人」の意味。

《長谷川氏の故地》 ・大和国長谷川。
 長谷川は「初瀬川」とも書く。現在の奈良県。

《会下のつく地名》 ・角川地名大辞典によると全国各地にある。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月18日 10時23分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何で焼津あたりに長谷川氏がいたのか不思議に思っていました。色々
調べてみると、焼津港の西約2.5qの所に、また小川港がある。ちょう
ど舞阪港と新居港の関係ににている。後者は浜名湖の出口付近の東西の
対岸に向かい合って存在している。たぶん、これと同じように、焼津港
と小川港は大井川を挟んで向かい合っていたのではないかと推測いたし
ます。大井川の流れが今と昔は違っていた。島田から焼津に向かって流
れていた。従って、小川港は海運・物流の重要拠点であった。長谷川氏
が大和より船で渡って小川港に来たという可能性も否定できない……。

 そもそも長谷川氏を探究しているのは、私の住む善地の東隣の高薗に、
長谷川一族がいて、調べたところ江戸時代に庄屋(大庄屋かもしれない。
沢山の庄屋の代表として、江戸に8年も交渉事で行っていたという。
 その長谷川氏がどこから来たのかを探究している内に、いろいろな事
が分かって来た―
 @高薗の長谷川氏の祖は元亀年間あたりまでさかのぼるそうである。
  ちょうど、それは家康が浜松城に入城した頃と重なる。
 A高薗の覚園寺に長谷川一族の墓があるけれど、家紋は別として、朽ち
 かけた墓石に、藤原朝臣という文字が見えた。長谷川氏の祖は藤原氏で
 あるという。
 B高薗には、高薗城という砦があり、浅原氏が今川臣として守っていた。
  徳川家康の遠州侵攻とともに、徳川方に降った。
 C一方、長谷川正長は、藤枝にある徳一色城を守っていたが、永禄13
 年、武田軍の来襲により、西へ移動ながら武田軍の動静む窺っていなが
 ら、一族二十余人、総勢三百余人は徳川領の遠江へ逃げて行った。その
 後、正長、弟の政久らは徳川軍に組み入れられ、三方ヶ原の合戦において、
 二人共壮絶な討死をした。家康は、遺族・一族を手厚く扱ったという。
 D高薗城にいて、徳川方に降った浅原氏はどうなったか情報が欠落して
 いるが、島田の犬間城に浅原修理亮の名が見られる。
 E高薗城を守っていた浅原氏と長谷川氏はともに今川の家臣であったの
 で、長谷川氏が武田軍に追われて遠江に逃げた時に頼ったのは、高薗城
 の浅原氏一族の可能性が濃いと思います。
 F従って、私は、現在高薗に在住している長谷川氏の祖は、長谷川正長
 だと強く思うようになっていました。

 それを確認したい思いで焼津の小川にある「信香院」を訪ねた次第であ
ります。



 
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月18日 12時11分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「江戸時代に庄屋(大庄屋かも知れない。」→「江戸時代に庄屋
    (大庄屋かもしれない)をしており、」

 長谷川氏と服部氏が関係あるのかということですか゜、まずもって江戸
時代、服部中系統に長谷川家より養子に入るなど、長谷川氏は服部氏に溶
け込んでいます。また遠い祖先が、大和の初瀬や伊賀という隠れ里のよう
な所のネットワークで繋がれていたと推察しております。
 神社、修験、猿楽師、その他……。
 ここの部分――奈良時代より平安時代については、まだ確証不十分であ
り、今後、調査をして行きたいと思っています。

 さて、信香寺――津波が来たらどうしようもない海に近い田園地帯にあ
りました。
 門の左横にその縁起が書かれていました―
 「信香寺由来
  昔、当院は会下と称し、多くの僧が集まり修行する道場であった。
  永正十四年(1517)秋、暴風雨により、建物大破の為に、開山通山芳釈
 禅師は、小川城主長谷川治郎左衛門正長に相談をした結果、堂宇を建立
 し、長谷山信香院と改称した。
  正長は当院の開基とされる。
  永禄十一年(1568)冬に、武田信玄の兵火にあい、堂宇は悉く灰塵に帰
 した。
  元亀三年(1572)十二月二十二日、正長は三方原合戦の時、奮戦して討
 死す。享年三十七才。
(中略)
開基正長が三方原で戦死した時、幼い三人の遺児があった。長男は、
  正成(まさなり)、二男は、宣次(のぶつぐ)、三男は、正吉(まさよし)
 である。
  二男の宣次の八代の孫が、「平蔵宣以(のぶため)」である。平蔵は先
 手頭となり、火付盗賊改を兼任、江戸の治安に活躍した。彼こそ、池波
 正太郎原作の「鬼平犯科帳」の主人公である。」

 鬼平の祖先の墓があると聞いていたので、それが今回の訪問の一つでも
ありました。

 墓地を歩く―いくつかの氏族の墓が多い。
 まずは長谷川氏、家紋は「上り藤」・「左巴藤」・「丸に橘」。
 次に浅原氏、家紋は珍しい家紋(「丸に六芒星のような花。朝顔か」…
 後で調べます)・その他(判別不可)。
 鈴木氏、家紋は「丸に三つ柏」・「丸に梶」。
 珍しい名前では「甲賀」。家紋は「丸に三つ柏」。
 等々を見て回りました。

 長谷川正長の墓が見当たらない。鬼平の墓も見当たらない……どうしよ
うと迷っていた時に、住職の姿が見えたので、訊くことにしました―
 「私は浜松から来た者ですが、三方ヶ原の合戦で戦った長谷川正長さん
のお墓はどこにありますか? また、長谷川平蔵、つまり鬼平さんのお墓
はどこにありますか?」単刀直入に訊いてみた―
 「長谷川平蔵さんのは東京の方にあります。正長さんのは、ほらそこの
木の下の傘を被ったようなお墓……」と言って指差してくれました。
 行ってみる――槇の木の隣に墓群があった。新しく作られた墓である。
 その隣に古びて風雨に削られたような小さい墓があった。その墓に書か
れている文字――「元亀…… 開基長谷院殿前紀州大守従五位…… ……」


 次に続きます―

 
 
  
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月18日 12時31分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


長谷川さんと服部さんは仲が良いという印象が「もともと」あります。
そして旗本仲間でも通婚してるし。


きっと、もともと大和国や伊賀国にいた頃からの付き合いかも知れないですね。
それかもっとずっと前から。秦氏とか物部氏時代から。



とうことでウイキしました:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B0%8F


                 で、ビックリです!!!いろいろな事情でモトモト仲が良かったようですね。


長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、日本の氏族。いくつかの流れがある。
1.大和国(奈良県)十市郡耳成村大字十市の十市御縣坐神社一帯を本拠地にした十市県主の裔で中原氏。中臣姓。                
2.大和国式上郡初瀬を発祥地とする在原氏系の家系。                                            
3.下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系。美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(平蔵)の家系が祖とする。            
4.摂津国(大阪府)の清和源氏系の家系。今川義元に仕えた長谷川長久、その子長谷川長綱の家系が祖とする。                 
5.越中国(富山県)の藤原利仁系の家系。
6.美濃国(岐阜県)の橘氏系の家系。



在原氏系 長谷川氏[編集]                                                        
法貴寺荘(大和国十市郡田原本町法貴寺)を根拠地としたとみられ、大和国人である十市氏を盟主とする武士団・長谷川党を形成していた。

世阿弥の女婿である能楽の金春流・金春禅竹が『明宿集』の中で
「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と記している。

また、長谷川党は薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある。


                           


藤原秀郷系 長谷川氏[編集]

中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の2つがある。 『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎著)によると、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一つとある。


尾藤氏流 佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。佐藤公清の庶子・公澄の4世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、22代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったという。宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時美濃長谷川藩を立てている。この系統は守知の息子のとき分割相続により旗本となったが、本家は無嗣断絶し分家が存続した。


下河辺氏流 小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族。下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。 政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだため、長谷川氏を名乗ったという。

                                                    
長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。この長者の子孫が今川氏に仕えた。 その後正長の時、君主今川義元が桶狭間の戦いで討死したため没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

長谷川正長には正成・宣次・正吉の3子があり、正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代を存続した。宣次系は400石で続いた。 この家系から長谷川宣以(平蔵)が出ている。正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末に至った。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月18日 12時41分45秒 ) パスワード

三つ柏さん



>鈴木氏、家紋は「丸に三つ柏」・「丸に梶」。
>珍しい名前では「甲賀」。家紋は「丸に三つ柏」。

この辺り、びっくりを通り越しています。



やはり東の方を頑張って調べないといけませんね。

服部姓でなくとも「丸に三つ柏」を見掛けたら(ご親戚かも知れないですね)と心の中でご挨拶なさってください。



ホント日本の名字と家紋の複雑さにはお手上げです。

でも他地域でも服部姓で丸に三つ柏紋のお家が見つかったというのは快挙です。
     静岡市の方、というのが家康の駿府城がらみの服部家なんでしょうか?
     一体浜松から静岡に移ったのか?静岡から浜松に来たのか?
     謎ですね。
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月18日 12時53分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:「西へ移動しながら武田軍の動静む窺っていながら」→「西へ
     移動しながら武田軍の動静を窺いつつ」

 新しい墓には、次のように刻まれていました―
 「元亀三壬申年
  当院開基長谷院殿前紀州大守従五位下林叟信香大居士
  十二月二十二日」
 左側面には―
 「九代之孫 長谷川栄三郎正満 再建」
 右側面には―
 「平成二十一年十二月吉日
  当山三十一世路久代 再々建」

 そこで、私は鈴(りん)を取り出すと、二度ほどチーン、チーン(リーン、
リーンかも知れない)と打ち鳴らした――実にいい音、お浄めの音である…
…。そして長谷川正長、鬼平さん、長谷川一族に向けて、般若心経を二巻
しっかりと捧げました。

 忘れていましたので付け加えておきます。丸子の服部家の墓の前でも、
般若心経を二巻捧げておりました。
[8]丸三柏服部てんさんからのコメント(2016年05月18日 22時48分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浅原氏の家紋ですが、「丸に麻の葉」でした。

 明日、静岡の本丸に乗り込みます―
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月18日 22時56分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


>明日、静岡の本丸に乗り込みます―

ワクワクドキドキですね。
明日が待てないですね〜
しっかり眠って
早く起きて頑張ってください。



>浅原氏の家紋ですが、「丸に麻の葉」でした。

元は  麻原  だったのかしら?


[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月19日 23時01分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、静岡へ行ってきました。往復170q、行きは高速で1時間、
帰りは国一バイパスで1時間半の旅でした。

 今回、「静岡本丸へ乗り込むぞ」という意気込みで勇んで行きましたが、
結局服部について得られたものはほとんどなし。ただ、一つだけ服部家の
墓を「臨済寺」で見つけただけでした。家紋は「三つ扇」でありました。
珍しい家紋でありました。

 実は、先日丸子に行った帰り、静岡の羽鳥にある「洞慶院」という大き
なお寺に行ってみたのですが、服部家の墓はありませんでした。
 今回、まずは静岡の中心部の「浅間神社」に行き、その周辺のお寺を回
ったのですが(安西寺、松源寺、臨済寺)、先ほど記したように臨済寺で一
つだけ服部家の墓を見つけただけでした。

 その後で、また羽鳥に行き、極楽寺、建穂寺、そして市の霊園にも行っ
て、先日と本日とのトータルで1000基以上の墓を見ましたが、服部家
の墓は、例の「勧昌院」の「丸に三つ柏」紋の服部家2つと、今回の「臨
済寺」での「三つ扇」の服部家1つしかありませんでした。
 どこにあるのでしょう? どこかにはあるのでしょうが、まだまだお寺
はたくさんありますので、次回以降の楽しみにして、必ず見つけたいと思
っています。

 今回の旅で、よかったなと思ったことを、次回に書きます。
 疲れのせいか眠くなりました―
 
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月20日 00時17分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家紋について、色々追及してきましたが、「定紋」と「替え紋」もあ
り、また婚姻―特に養子をもらったりすると変わる場合もあり、現在の
家紋がそのルーツの家紋を表しているかというと、必ずしもその確率は
低いような気がします。矢羽関係の服部家についてはそういった意味に
おいては、特異な存在なのかも知れません。そこに氏族の結束を示すア
イデンティティと強い誇りが籠っているということでしょうか。

 当家の「丸に三つ柏」の場合、永井氏からの養子によるものと考えて
います。村のお寺の墓石をみると、それがよくわかります。
 永井氏は古くは「一文字三星紋」ですが、どういう訳か現在見られる
家紋は、「丸に三つ柏」と「永井梨の切り口」が半分半分であります。

 この二年間余の調査研究により、なぜここの地に「服部」と「永井」
と「加藤」、そして隣接村になりますが「長谷川」がいるのかという理
由が見えてまいりました。それは四百年以上の昔からの関係であり、今
は知る人はありませんが……。
 @服部家(中家)と長谷川家の関係
  →保貞と服部保弘(保次の七代目と八代目)は養子で、長谷川徳栄の
  長男と六男。
  →また、五代孫の保秋の室は、長谷川正相の娘(徳栄の妹)
 A服部家(中家)と永井家の関係
  →服部保房(保次より六代孫)の妻は、永井直勝の孫娘。
 B永井家と加藤家の関係
  →永井直勝の弟白元は、加藤光泰に仕えた。
  →秀次の事件後、加藤家の関係者が、その追及を恐れてこの地にや
  って来た(加藤家の家譜による)

 いずれも、この善地、あるいはその近くにいた―
  ・服部保房→大久保、采地は上石田下石田が含まれる。
  ・長谷川家→善地に隣接した東の地―高園
  ・加藤家→池田に入植後その北隣の善地へ
  ・永井直勝→井伊尚政(井伊谷出身)に仕える。

 服部・永井・加藤・長谷川がなぜここにいるのかという謎が、ほぼ解
けて来たのではないかと思っています……。
  
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月20日 06時48分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


いろいろ検索して遊んでしまいました。


三扇紋で服部氏は載ってませんでしたが


       平氏系で長井・平野・山口・横尾・佐治・大野


       藤原氏系で長谷川・中尾・高麗・千本・朝比奈・曽谷・鹿倉・真井・新家・五島・湊・石渡・島


こんな所が使っているそうです。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月20日 06時54分13秒 ) パスワード

既にご存知のことでしょうが

http://blog.goo.ne.jp/aotatsu_1953/e/a9704fd5855927e85cd9dfaf5eccb137



こちらは、静岡、安倍川の西、羽鳥にあった、建穂寺の千手観音。

建穂寺(たきょうじ)は、
 『徳川幕府の庇護(ひご)のもと、寺領480石の破格の待遇を受けていた大寺であった。
 
 因みに、二代将軍秀忠の生母西郷の局の菩提寺宝台院は、寺領300石、

 大岩の臨済寺が100石

であったことから、
徳川家康と建穂寺との間の深いかかわりを物語っている。』
ということらしいです。


でも、明治維新で、廃仏毀釈。
お寺は、なくなってしまったわけです。



レス:
建穂と建穂寺ならびに羽鳥 (Tosh@羽鳥)2010-04-20 11:37:59お久しぶりです(ここではね)!

羽鳥・・・これは当て字で、服織(はとり)の里、建穂(たきょう)寺の話題を取り上げていただき、地元民として感謝です!

往時は多くの僧坊が立ち並ぶ大きな寺であったといわれる建穂寺も、今では数対の仏像などが安置されているお堂しかなく、寂しい限りです。

そもそも、昔の東海道は、今の丸子から吐月峰紫屋寺の脇を抜け、勧昌院から勧昌坂を越えて、「森は木枯らしの森」と紫式部も詠んだ、木枯らしの森を渡って建穂寺に入るというコースでした。


服織は、「ふくおり」と読めますから、往時、この辺りは、服(はた)を織る有力な帰化人秦氏「服部(はとりべ)」の里だったことを示しています。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月20日 06時57分23秒 ) パスワード

>今回、まずは静岡の中心部の「浅間神社」に行き、その周辺のお寺を回った


浅間神社の神職さんに服部さんという方がいらっしゃった記憶です。


次回浅間神社にいらっしゃることがお有りのついでに社務所でちょっとお訊ねになってはいかがでしょうか?


    「浅間神社の神職さんに服部さんという方がいらっしゃったと記憶していますが
     どちらの浅間神社でしょうか?」
       とかなんとか。
       ダメ元精神で。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月20日 16時43分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浅間神社に行ったのは今回が初めてではなかったのですが、もう記憶は
すでに消えておりました。行ってみて驚いたのは、その建物群の煌びやか
さと多さ、そして敷地の広さでありました。そう、ちょうど「日光東照宮」
へ行ったみたいだなと思いました。
 ご由緒書きにはこうありました―
 「神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社(以上2社同殿)及び大歳御祖(お
 おとしみおや)神社の3社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさ
 ま)と申し上げ、いずれも創立は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社とし
 て広く信仰されている。
  3社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、特に江戸時代には、
 徳川氏のあつい尊崇を受けて、寛永・文化年間両度の大造営が行われた。
 ことに文化元年(1804)から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の
 巨費を投じて建築されたのが現在の社殿群である。
  境内は、約13,600坪。宏壮華麗な社殿群は、いずれも漆塗りの
 極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので、高さ
 25mあり、殿内は132畳敷きの広さがある。」

 社殿としては―
 @神部神社・浅間神社
 A大歳御祖神社
 B麓山(はやま)神社
 C少彦名(すくなひこな)神社
 D八千戈(やちほこ)神社
 E玉鉾(たまぼこ)神社
 他が緑の樹木の繁る中にある。

 この神社のもう一つの特徴は、裏山に賤機山(あさはたやま)古墳を背負
っていることであります。
 さらにもう一つは、境内に「静岡市文化財資料館」があることでありま
す―

 ここで一旦切ります―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月20日 22時30分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


謎がますます深まります。


いつ善地に加藤家・永井家・服部家の皆さんが集まったのか?
何がきっかけだったのか?


永井家との関係から三つ柏紋を使用することになったのか?
丸子に行ったついでのお寺で三つ柏紋の服部家のお墓を発見した。
では善地の服部家との関係は?

この服部家と貞信子孫の駿府奉行だった貞勝との関係は?


もう謎が湧き出して来ます。


賤機山については「真田丸」に出て来ましたね。
真田側にすると駿府の家康の本拠地の様子が簡単に覗けるような感じでしたね。
あれ?
と思っていました。

この不思議な感じが解決しない内に三つ柏さんから「賎機山」が出ました。


     地図で見たら浜松から随分遠くなんですねぇ。驚きました。

     ホント、静岡って横い広がっていますね。
     浜松から静岡市へしょっちゅう行くにはちょっと距離が有り過ぎますね
     20代や30代の若者には「ちょっとした遠出」でしょうけど。




賤機山古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E6%A9%9F%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

賤機山古墳(しずはたやまこふん)は、静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社境内にある円墳[1]。国の史跡に指定されている。

駿府城西北にある静岡浅間神社の境内にあり、大歳御祖神社の本殿裏(北側)に位置する。 墳丘は賤機山の南端の斜面を利用して造られており、直径は約32メートル・高さは約7メートルの円墳で、埋葬施設として横穴式石室を持ち内部に家形石棺が置かれている。古墳の築造時期は6世紀後半とみられている。

石室は両袖式で、玄室部の長さは約6.5メートル・奥壁部高さ3.8メートル・奥壁幅約2.6メートル、羨道部は長さ6.4メートル、高さ約1.7メートル、幅約1.2メートルである。玄室奥から墳丘裾の外護列石まで(横穴式石室の長さ)13.2メートルある。石室用材は賤機山丘陵から安倍川下流右岸にかけて分布する玄武岩である。

石棺は家形石棺で長さ約2.9メートル・幅約1メートルで伊豆産の凝灰岩をくり抜いて造られており、長辺側に3対(6個)と短辺側に1対(2個)の縄掛け突起がある。


                伊豆産の凝灰岩ということは伊豆から運んだということでしょうから
                かなりの力のあった人のお墓なんでしょうね



発掘調査[編集]

本古墳について近世後期に著された駿河国の地誌『駿河国志』に、明和年間(1764年 - 1772年)のこととして、石室内や家形石棺の様子や大刀などについての所見が記されている。

1949年(昭和24年)に後藤守一、斎藤忠らにより発掘調査が行われ、縄かけ突起を有する大型の家形石棺内部は盗掘を受けていたが、その周囲から金銅製の冠帽金具、土師器、須恵器、挂甲、馬具、武具、装身具類などが多数出土し、古墳時代後期を代表する横穴式石室古墳であることが分かった。 1953年(昭和28年)に国の史跡に指定された。浅間神社境内にある静岡市文化財資料館にはこれらの出土品のほか、実物から型取りしてつくられた石棺の複製品も展示されている。


                どなただったんでしょうね。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月20日 22時44分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 賤機山古墳の内部から見つかった遺物は藤の木古墳と共通するところが
あったということです。浜松の羽鳥にある蛭子森古墳もちょうど同じ頃の
円墳であります。聖徳太子の時代だと思います。賤機山の古墳が誰の古墳
であるのか是非知りたいものであります。

 臨済寺では、ちょうど今川義元の命日ということで、寺の中を全面開放
しておりました。普段見れない部分も開放されていて、特に嬉しかったの
は、徳川家康が竹千代のころ(今川家への人質の時代)、この臨済寺で雪斎
から学問を教授されていたという部屋を見ることができました。四畳半の
小さな部屋ではありました。

 静岡における服織、賤機、麻機の地名や絹や麻、その他の織物について
の考察は、情報を蓄積した上で記したいと思います。

 明日は、信州へ行ってまいります―ソバを食べに行くのが主目的であり
ます―
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月21日 03時08分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

義元の命日ということでいろいろ珍しいものを見る機会に恵まれてラッキーでした。

家康の勉強部屋は4畳半あたりでしたか。


    NHK大河で渡辺謙の伊達政宗
        1987年放送の「独眼竜政宗」です
    この中で、番組の終わりの何とか紀行みたいなエピソード紹介部分で
    ある時、政宗の全く1人になって好き勝手に出来る部屋の紹介があって

         3畳  

    でしたよ。
    ビックリしました。ま、狭い方が集中できるでしょうから逆に良いのかも。



勉強部屋で4畳半なら、妥当な広さかも。




>静岡における服織、賤機、麻機の地名や絹や麻、その他の織物についての考察は、情報を蓄積した上で記したいと思います


地名と産物は相互関係があるのかもですね。
と、思いましたが
それだけでは解決しないような。




賎機

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1257212107
「しずはた」
静岡市にある賎機山は静岡の字源になりましたが、字がいやしいという意味なので賎ヶ岡が静岡に変えて県名になりました。



http://dictionary.goo.ne.jp/jn/96838/meaning/m0u/
【倭文機帯】
《上代は「しつはたおび」》倭文で作った綾織りの帯。
「古の―を結び垂れ誰といふ人も君にはまさじ」〈万・二六二八〉




http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=291
東海の秦氏 その4

静岡市の中心部には家康の居城である駿府城があり、
その北西に静岡の地名由来となった賎機山(しずはたやま)があって、
山の西側を水石の有名産地でもある安倍川が滔々と流れています。

駿府城、賎機山、安倍川こそが静岡市を構成する三大要素であろうと思われ、
それらを見ていくことが取りも直さず秦氏に繋がっていきそうです。



まず賎機山ですが、賎機の機は、養蚕、機織りを得意としていた秦氏のハタを連想させます。しかも、地図でチェックすると賎機山の東を麻機街道が走っています。

駿府城から賎機山までは指呼の間で、簡単に歩いて行けそうな距離にあります。徳川家康はあたかも秦氏の賎機山に寄り添うように駿府城を築城したのです。



そして賎機山の南面から東面にかけてはやたら多くの神社が鎮座しています。
主たる神社は静岡浅間神社ですが、その由来は以下Wikipediaより引用します。

静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)は静岡県静岡市葵区にある神社。
通称おせんげんさま。

正確には、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の3社の総称である。

3社はいずれも独立の神社として祭祀が執り行われている。
鎮座地は静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に位置する。



鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。

6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。
また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、
その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。



                 あらら・・・
                 そうだったの・・・


何のことはありません。
古代より静岡市の中心は秦氏の支配地域だったのです。

では、賎機山の神社群を見ていきましょう。


朝早く行ったので、宮司さんたちがお庭の掃除をしたり、巫女さんたちが納戸を開けたりするタイミングで訪問することができました。


右近の橘、左近の桜もあり、大内裏と同じです。
橘は不老不死の象徴で、桜はあっという間に散る命のはかなさを象徴していると考えられます。
この二本の木で秦氏の死と再生を象徴しているのかもしれません。



上記の神部(かんべ)神社、浅間神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社の解説板は光が当たって読みづらく、以下内容を部分的に記載します。



神部神社:崇神天皇七年(紀元前90年)の鎮座と伝え、倭文機(しずはた)神社・美和明神とも別称され、この地最古の社。

浅間神社:醍醐天皇の勅願により延喜元年(901年)富士山本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国千三百余社の分霊のうち最大最古。

大歳御祖神社:応神天皇四年(273年)の鎮座と伝え、奈古屋社・大歳天神とも別称された。社名は大年神・倉稲魂神(稲荷大神)の母(御祖)神の意を表している。


この三社は静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる、賤機山の最南端に神部・浅間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。


三社の中で神部神社が一番の古株ですが、ちょっと気になったのは、倭文機神社と別称されていることです。秦氏を意味する機を除くと倭文神社となりますが、この神社に関してはWikipediaより引用します。


           倭文神社(しとり、しずり、しどり)という名前の神社は日本全国にある。
           いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社で、
           建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものである。

           その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。
           しかし、絹織物の技術は仁徳天皇により導入振興されたとされるも、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もあり、
           日本(倭)においていつ頃どこで絹織物が発達したかを考えるうえで、この神社のある場所や由緒は貴重な資料といえる。



           元々は倭文氏が祀る神社に秦氏が例のごとく入り込んで、あるいは乗っ取って、倭文機神社になったのではと推測しますが、
           いかがなものでしょう?


            倭文神社の総社は二上山に近い葛木倭文坐天羽雷命神社とされているのですが、
            その北側には「畑」の地名も見られ、やはりM&Aを特技とする秦氏の関与がありそうに思えます。



麻機街道。
秦氏に関係する名前です。


現地に立つと、駿府城から歩いてすぐの距離に静岡浅間神社が鎮座していることが実感されます。家康は毎日参拝していたのでしょうか?


秦氏の痕跡は市内にまだまだありそうで、次回は安倍川と藁科川の合流点付近を探索します。

              ―東海の秦氏 その5に続く―
              http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-292.html
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月21日 03時10分32秒 ) パスワード

東海の秦氏 その5


賎機山から西に向かい安倍川本流に架かる安西橋を渡ると、羽鳥(はとり=藤沢の羽鳥と同じ。以前は服織と呼ばれた)地区に入ります。羽鳥自体が秦氏に関連する地名で、安倍川と藁科川に挟まれ、背後を山に囲まれた一帯も秦氏の支配地域と思われます。

服織中の先を左手に折れると藁科川に架かる橋があり、その少し上流部の中州はこんもりした森のようになっています。

この森は木枯の森と呼ばれ、古墳のような丘の上には木枯神社(八幡神社)が鎮座しています。社殿には楊枝をくわえた木枯紋次郎の像が祀られて…、なんてことはありません。



解説板の内容だけでは、どんな由来の神社なのか全く不明です。しかし、秦氏の支配地域内にある以上、必ず意味があるはず。酔石亭主は木枯という言葉に着目してみました。

この言葉はどこかで聞き覚えがあります。あれは確か大酒神社。ということで、京都太秦の大酒神社にワープしましょう。かつて大酒神社の傍らに鎮座していた神社に木枯神社があり、現在は大酒神社に合祀されています。

「広隆寺縁起」にはこの神社の由来が記載されており、広隆寺の旧本尊薬師如来像を乙訓郡より広隆寺へ迎えたとき、門前の大槻(おおつき=大きなケヤキのこと)が枯れたので、神霊を移して祀ったところ木が蘇ったので木枯明神と称したとされ、歌枕になった神社として知られています。ケヤキの名前にも「おおつき=大月」と来るのですから、秦氏はよほど月に思い入れがあるのでしょうね。

静岡の木枯神社も同様に、かつては歌詠みの名所として知られ、「枕草子」にも「木枯の森」と歌われていました。以上から木枯神社は、秦氏が太秦の木枯神社を持ち込んだものと推定されます。全く静岡市内は秦氏だらけですね。深掘りすればもっと面白いものが出てきそうな気もしますが、残念ながら時間がありません。

木枯の森の周囲には河原が広がっており、あちこちに鉄丸石や馬蹄石が見られます。まだ羽鳥地区で見たい場所があるのですが、先に探石したいと石の蟲がうごめき始めました。こうなったら、欲張って秦氏探訪と探石の二兎を追うしかなさそうです。

                 ―東海の秦氏 その6に続く―
                  http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=307
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月21日 03時12分55秒 ) パスワード

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=307
東海の秦氏 その6




藁科川での探石を終え、次に秦氏の関与があるとされる建穂神社(たきょうじんじゃ)に向かいます。この近くには建穂寺(現在は廃寺)が建てられており、建穂寺が建穂神社の別当だったと思われます。

画像
解説板です。ほとんど寺の解説になっています。


写真では読みづらいので以下記載します。

建穂寺は、白鳳十三年(六六二)法相宗の道昭が草創し、養老七年(七二三)に行基が再興したと伝えられる。創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平七年(七三五)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ、「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。文化財の一部は、観音堂内に保存されている。


本殿には馬鳴(めみょう)大明神が祀られているとのことで、馬鳴は古代インドの仏教僧侶を意味します。この神の実体は馬鳴菩薩で、貧しいものに衣服を与える菩薩、養蚕機織の神として祀られています。養蚕に機織りと来れば、秦氏の関与があると感じられますね。


建穂寺は駿河では久能寺と並ぶ駿河有数のお寺だったようですが、両方の寺を結ぶ直線上に駿府城があるのは何か意味があるのでしょうか?



建穂神社から観音堂に至る一帯がかつての建穂寺の寺域と思われ、当時は300以上の伽藍を有する大寺院でした。

観音堂から九住谷川を遡ると洞慶院に至ります。谷戸の奥の静かなお寺で、元々は馬鳴大明神の社僧寺であったとのこと。ここも秦氏との関連が窺われます。



洞慶院奥の谷筋からは静岳石が産出すると昔の水石の本に書かれています。行ってみたいとも思いましたが、予定時間をオーバーするので諦めました。

                 ―東海の秦氏 その7に続く―以下略
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月21日 06時37分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報ありがとうございます。理解が進みます。
 もう出発の時間になりますので、帰宅後にじっくり読解させていただき
ます。
 本日は、時間があれば、坐光寺の元善光寺あたりを見てこようと思って
います―
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月21日 13時08分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


美味しいお蕎麦のお店に入ることが出来たでしょうか?



以下は【倭文機帯】という表記を見て思ったことです。


賎機  しつはた  しずはた
これの元は
         しず+はた
         倭 +秦
ひょっとすると  倭国  大和  の 秦一族  ということかなと。


とにかく秦一族は東国に派遣された(移転させられた)ということなので
   しずおか  というのが元々  倭国での秦の皆さんの土地  ということなのかなと。 



で、あの被葬者はひょっとすると  秦川勝系の人なのかなと。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D

秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)
飛鳥時代の人物。姓は造。秦丹照[1]または秦国勝[2]の子とする系図がある。
冠位は大花上[2]。


出自[編集]

秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝ともいう[3]。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。

経歴[編集]

山城国葛野の出身[4]。聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。

用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱では、物部守屋の追討戦に従軍し、厩戸皇子を守護しつつ守屋の首を斬ったという[5]。推古天皇11年(603年)、聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した[6]。推古天皇18年(610年)、新羅の使節を迎える導者の任に土部菟とともに当る[7]。皇極天皇3年(644年)、駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している[8]。

没したのは赤穂の坂越とされ、神域の生島には秦河勝の墓がある。一説には流罪に遭ったためという[要出典]。この坂越湾に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座している。

逸話[編集]

初瀬川氾濫により三輪大神の社前に流れ着いた童子を見た欽明天皇は、以前の夢で「吾は秦の始皇帝の再誕[9]なり、縁有りてこの国に生まれたり」と神童が現れていたことから、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召した[10]。後に帝は始皇帝の夢に因んで童子に「秦」の姓(かばね)を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされる[11][12]。

皇極天皇3年(644年)7月に富士川のあたりで、大生部多は長さ4寸ほどの虫を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた。時の人は以下のような歌を詠んだ[8]。



ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。

〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉

景教との関係[編集]

佐伯好郎は明治41年(1908年)1月に『地理歴史 百号』(主宰:喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において、秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。ただしこれは学会の通説とはなっていない。大秦景教流行中国碑によれば、貞観9年(635年)にペルシア人の阿羅本が景教の主教として宣教団を率い、長安を訪れたのが最初で、150年後の建中2年(781年)に伊斯が大秦景教流行中国碑を建立した。しかし、平安の都市が碁盤の目、つまり十字架のような十字路になっており、そのために景教と関係があるのではないか、と言われている。当時中国ではローマ帝国は大秦と呼ばれていた。また、秦の始皇帝の父親が碧眼であったと言われており、中東から移住してきたという説も存在し、現イラクやイラン(古代ペルシャ)、アラム地方、エラム地方にはゾロアスター教などユダヤ教やキリスト教の前身となる宗教が存在しており、古代のユダヤ人も住んでいた(バビロニアを参照)。ペルシャ、唐、日本の間ではシルクロードを通じて交易や人の移動があったと考えられるので、このような説が浮上してくる所以である。

系譜[編集]
父:秦丹照[1]または秦国勝[2]
母:不詳
生母不詳の子女 男子:秦綱手[1](?-680)
男子:秦石勝[1]
男子:朴市秦田来津[1](?-663)
男子:秦物主[1]


秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、以下のものが挙げられる。
戦国大名の長宗我部氏や幕臣の川勝氏。
楽家として知られる東儀家[13]。
河勝は猿楽の始祖とされ、観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称した。また、金春流も河勝を初世としており、「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と金春禅竹が『明宿集』の中で記している。
京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた[要出典]。

参考文献[編集]
『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社学術文庫、1988年
太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

脚注[編集]

1.^ a b c d e f 『惟宗系図』東大史料編纂所蔵(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』)
2.^ a b c 「秦氏系図」『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記』所収(太田亮『姓氏家系大辞典』)
3.^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃
4.^ 前賢故実巻之一 「秦造河勝。山城葛野郡人。推古天皇十一年聖徳太子尊崇仏像。欲令郡卿拜之。河勝進受其儀。」
5.^ 『上宮聖徳太子伝補闕記』
6.^ 『日本書紀』推古天皇11年11月1日条
7.^ 『日本書紀』推古天皇18年10月9日条
8.^ a b 『日本書紀』皇極天皇3年7月条
9.^ 宗本
10.^ 世阿弥『風姿花伝』第4、神儀云
11.^ 松本正造『聖徳太子伝図会』文盛堂、1887年、秦河勝出生、106頁
12.^ 高木敏雄『日本神話物語』服部書店、1911年、秦河勝、191頁
13.^ 『地下家伝』
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月21日 23時38分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 信州から帰ってから、オリンピックへの出場がかかった女子バレーの
イタリア戦を見てしまいました。3対2で負けたものの、オリンピック
への出場を決めました。

 興奮冷めやらずで集中力が戻りません。疲れもありますので本日は睡眠
といたします。
 元善光寺には行ってきましたので、明日記します―
 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月22日 02時12分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

では明日。
ゆっくりお休みを。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月22日 07時01分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 賎機山と「秦氏」、逸話としての「初瀬川」の氾濫と「河勝」の話、と
ても興味深く、まだ中途半端な読解でありますので、本日中にしっかりと
読み直します。まさか「初瀬川」が出てくるとは思いませんでしたが、ど
うも「初瀬」には秘密がありそうです。初瀬から名張へ、名張から伊勢へ、
そして三河へ……対岸の三河が東国世界への入り口のようなイメージがい
たします……。三河から信濃にもつながる……そこに善光寺がある。

 善光寺の本田善行の仏像請来の話と、秦河勝の聖徳太子より仏像を預か
るという話は、実は「共通パターン」のように思われます。即ち仏教(仏像)
伝来の原風景を表しているのではないかと思われます。
 但し、秦氏と仏教の問題、伊勢と仏教の関係については考察が必要ではあ
りますが……。

 共通パターンというと、秦氏、服部氏、麻績氏のセットも共通パターン
ではないかと思われます。

 元善光寺は飯田座光寺の「麻績」にあった。善光寺は筑摩の「麻績」の
北にあった。善光寺の背景には秦氏がからむと言われています。
 麻績、特に神麻績のルーツは伊勢。服部、特に神服部のルーツも伊勢。
 また、秦氏と服部氏と麻績氏は、遠江でも駿河でもからんでいます。

 一つ付け加えます。本田善光という人のの本名は「若麻績東人(わかおみ
のあずまびと)」だそうです。すなわち、麻績氏であります。

 実は、静岡行きも善光寺行きも「麻績氏」探求の範疇にありました。
「麻績」についてスッキリと理解したいものだと思っています。

 それにしても、芭蕉――私の行く所には芭蕉が先に来て句を詠んでいま
す……元善光寺にも句碑があり、「うらやまし 浮世の北の 山桜」とあ
りました。どういう深い意味があるのか、一度解読してみたいと思ってい
ます。

 浅間神社でひとつ思い出したことがあります。ここは風水をみごとに理
解して遷座されているということであります。南アルプス等のエネルギー
が賎機山へ集まり浅間神社から噴き出しているということです。ということ
はその上にある賤機山古墳は、古代より風水=地のエネルギーが理解され
ていて、その上で作られたということになります。

 本日は芝刈りならぬ本物の村の草刈りに、これからかり出されます―
 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月22日 10時10分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

麻績ねぇ・・・


>元善光寺は飯田座光寺の「麻績」にあった。
>善光寺は筑摩の「麻績」の北にあった。
>善光寺の背景には秦氏がからむと言われています。


善光寺さんは麻績の北?
と言うと  ヒバリさんの関係になりますね。
さらに服部・伊勢伊賀・忍者ですね。


やっぱりヒバリさんの家も絡んで、結局、繋がりますね。
宮下ヒバリさんの家の元の服部家の家紋は何なんでしょうね。
今は小田原の方にご家族は引っ越していらっしゃるようでしたね。



本多善光卿
http://www.ii-s.org/v3nikki/2015/04/post-452.html
麻績出身と書いてありますね。現在の飯田市座光寺だそうです。土地勘が無いのが残念です。



元善光寺さんの寺紋は立ち葵ですね。
ビックリ!



http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sakura1.htm
うらやまし うきよのきたの やまざくら

元禄5年春。金沢の門人句空宛に贈った句。浮世の北とはその金沢を指す。
句空が『北の山』を編纂するに際してその発句として書いて送った。
現存する『句空宛書簡』は断簡でその内容は見えないが、
どうやらこの句と、「ともかくもならでや雪の枯尾花」の2句を与えたらしい。



うらやまし浮世の北の山桜

 あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。私は今江戸にあってよろず浮世の問題に悩まされています。「浮世の北」は北国金沢の意。句空は、金沢卯辰山のふもとに住んでいることを芭蕉は知っていたので、句空のことを「山桜」にたとえた。


 芭蕉はこの頃、江戸蕉門の派閥抗争、家族の病弱、住いの狭隘と喧騒など、身辺近くに多くの問題を抱えていた。

                                  へぇ〜




>浅間神社でひとつ思い出したことがあります。
>ここは風水をみごとに理解して遷座されているということであります。
>南アルプス等のエネルギーが賎機山へ集まり浅間神社から噴き出しているということです。
>ということはその上にある賤機山古墳は、古代より風水=地のエネルギーが理解されていて、その上で作られたということになります。

へぇ〜

ということは賎機山古墳は中国出身者が作った?



>本日は芝刈りならぬ本物の村の草刈りに、これからかり出されます―

ご近所付き合いは人間として最初の関係なので
しっかり草刈いをしてください。

そう言えばドブ掃除とかやりましたっけ。5月に。


[27]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月22日 22時34分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日、草刈り、ドブ掃除、植木の刈り込み、キュウリ等の棚づくり
等々で一日かかり、夜は女子バレーのオランダ戦を見ました。オランダには
3対2で勝ちました。ミラクルです。やや興奮しましたので集中力がもどり
ません―
 本日は、早めの睡眠といたしたく存じます―
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月22日 22時57分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

1日、朝からお勤め、お疲れさまでした。
大変でしたね。


ゆっくりお休みください。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月23日 10時21分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 元善光寺にあった芭蕉塚に書かれていた俳句、金沢の弟子句空に贈った
句だということですので、元善光寺にちなんだ歌ではないですが、元善光
寺にて詠んだという可能性はあります。

 なぜこの歌の句碑が元善光寺にあるのか、芭蕉が更級紀行で信濃に行った
時に、元善光寺に寄ったという可能性が考えられます。

 「句空」という俳人、なかなかの才能であります。芭蕉が「奥の細道」の
旅で金沢を訪れた時、句空は入門したという。芭蕉はその句空の庵に一泊い
たしました。

 『猿蓑』の中にも句空の歌は採り上げられていて―
 「むめが香や 分入里は 牛の角」という秀句を作っている。
 意味は、「梅の香の中に分け入ってみると、そこには天神様に連れられた
牛がいることであろう」と解釈されます。
 句空は知恩院で仏門に入ったとありますので、元は浄土宗。庵を結んだの
は、摩利支天を祀る「宝泉寺」ということで、摩利支天は前田家や毛利家が
信仰したといいますので、何か奥深い謎があるような感じ(直感)がいたしま
す。

 話は、駿河に戻りますが、そういえば、浅間神社には山伏(修験者)のネッ
トワークがあったということです。徳川家はもちろんそれを利用していた―
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月23日 14時27分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

芭蕉は『うらやまし うきよのきたの やまざくら』の句をどこで詠んだのでしょうね?

   1.更科紀行の時に元善光寺で?
   2.江戸で?
   3.新潟に行く前の村上で?


      江戸に帰って1年後、金沢の句空にこの句を「使い回して」贈った?





+++++++++++++++++++++


『更科紀行』  江戸中期の俳諧紀行文。1冊。松尾芭蕉作。元禄元〜2年(1688〜1689)成立


『うらやまし うきよのきたの やまざくら』  元禄5年(1692年)1月16日、金沢の門人句空に贈った句。




『おくのほそ道』   元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉による紀行文。

             元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出発
             日数約150日間で東北・北陸を巡って
             元禄4年(1691年)に江戸に帰った。



            芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、
            「おくのほそ道」は芭蕉死後の元禄15年1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。




http://gpnotebook.gunmablog.net/d2015-09-25.html

『更科紀行』のルートによると、芭蕉は貞享5年(1688年/芭蕉45歳)
8月に、信濃国更科で姨捨山の名月を眺めたのち善光寺に参拝し、
中山道・碓氷峠を経て江戸へ帰っています。


全国に松尾芭蕉の句碑は3200基ほどあるそうですが、
 群馬県は220基で全国第2位!
 第1位は長野県で319基。(数字は諸説あるようです)



ということで、
どこかのサイトに 芭蕉の「うらやまし浮世の北の山桜」の句碑の一覧が出てましたが
戻ろうとしても戻れないです。



本日、簡単に見つかった3箇所のみ:

芭蕉句碑 うらやまし浮世の北の山桜 のある場所


千葉市中央区院内 千葉神社


金沢市神谷内の野蛟神社句碑



http://www.geocities.jp/okunohoso/okuno/35murakami/35murakami-1.html
村上の乙宝寺

     境内に浮世塚という名の芭蕉句碑がある。
     「うらやまし 浮世の北の 山桜」  の句で、おくのほそ道から3年後に、金沢の句空の求めにより贈った句である。
 

     
     乙宝寺は桜の名所ということなので、この句が選ばれたのだろう。

 

    芭蕉一行はこの先の築地(ついじ)という所から舟で新潟に行ったようである。
     曽良旅日記には「昼時分ヨリ晴、アイ風(順風)出。新潟ヘ申ノ上刻、着。」と記されている。
     この辺は新潟の名が示すように当時は潟湖が多くあり、砂混じりの歩きにくい街道を行くより舟のほうが便利だったようである。 



考えれば考えるほど混乱していきます。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月23日 14時31分06秒 ) パスワード

どこで、どの句を詠んだか、芭蕉の旅行について日程表のサイトが見つかると簡単に解明できるのですが。

捜すとなると見つからないです・・・
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月23日 17時03分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績郷、麻績氏、麻績王についてずっと調べているのですが、わかりそ
うでわかりにくい。数学を解くようなわけにはいかない。フラストレーシ
ョンが溜まります。どこか、ずばりと麻績氏を説明してくれているところ
はないでしょうか。
 麻績氏で有名な人というと、「麻績王」しかないでしょうか。柿本人麻
呂説がありますが、麻績氏が人麻呂の「うねめ」だったのでしょうか。
 麻績氏がわかると、服部氏もさらに鮮明になると思っています。

 昨日、村の草刈りをやっている時に、桑の木を一本発見しました。昔は
この地域には桑畑がたくさんあり、養蚕をしておりました。ところが、今
は桑の木一本ない。見つからない。どこかにないだろうかと思っていたと
ころでありました。
 さっそく、桑の枝を一本切って持って帰り、畑の隅に「さし木」いたし
ました。そのうちに根と芽が出て来ると思っています―

 
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月24日 12時53分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代、神事を主宰する祝人(ほふり)を「大忌(おみ)」、神事の細部を
担当する人々を「小忌(おみ)」といったという。麻績氏も神事にかかわ
った氏族であります。音では「おみ」で一致します。何らかの関係があ
るのではと推察いたします。

 「麻績」についての考察は、少し時間がかかります。
 大和―伊勢―三河―信濃を結ぶラインの歴史と密接にかかわっている。
 特に伊勢と信濃は太いパイプでつながっているような気がいたします―

 明日、サミットが開かれますが、各国の首脳が知多半島の中部国際空
港から、伊勢湾上空をヘリで飛び、伊勢志摩へ降りるというのは、空と
海の違いはあるけれど、古代と変わらない構図だなあと正に思います―

 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月24日 14時06分01秒 ) パスワード

<33>は消しました。




三つ柏さん

>古代、神事を主宰する祝人(ほふり)を「大忌(おみ)」、
>神事の細部を担当する人々を「小忌(おみ)」といったという。

へぇ〜
知らなかったです。

だからオミという名字に「小見」とか「小実」 に対して 「大見」とか「大実」があるのですか。
どうしてかなぁ〜
と不思議でした。



>明日、サミットが開かれますが、
>各国の首脳が知多半島の中部国際空港から、伊勢湾上空をヘリで飛び、伊勢志摩へ降りるというのは、
>空と海の違いはあるけれど、古代と変わらない構図だなあと正に思います―

へぇ〜
そうなんですか。

伊勢湾上空を飛ぶって良いアイデアですね。安全対策という意味では。



伊勢志摩サミットが無事に終わりますように。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月25日 11時39分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績の謎―
 新撰姓氏録には残念ながら「麻績氏」の登録がない。「服部連」はある。
 京及び五畿に住む氏族ではなかったか、もれたか、恣意的にはずされた
か……。

 伊賀の「小宮」神社は「麻績」神社の可能性もあるという。


 泊瀬(初瀬、長谷)(はせ、古くは、はつせ)の謎―
 第21代・雄略天皇の異名は「大泊瀬」幼武尊(おおはつせわかたけるの
みこと)
 第25代・武烈天皇の異名は「小泊瀬」稚鷦鷯尊(おはつせのわかざきの
みこと)
 第32代・崇峻天皇の異名は「泊瀬部」皇子(はつせべのみこ)
 「泊瀬」には何かがある……!?
 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月25日 13時01分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「泊瀬」には何かがある……!?

「長谷川氏」の秘密かもですね。



最近何かで諏訪大社の「御柱」神事についてチラッと「縄文人」「縄文文化」の名残りというのを見ました。


縄文人が日本の国から100%とっくの昔に消えたような歴史観は間違っているんでしょうね。


「縄文」人とまではハッキリ言わなくても「縄文文化」の名残りについては学校で教える方が良いと思いましたが
逆に差別になるのかもですね。



アメリカは「差別」について激流期のようで
アメリカの民主党は学校に於いてLGBTの人に使いたいバスルームを使わせないと
その学校への補助金をカット?無し?にするとか脅しています。

   つまり学校のトイレやシャワーには好きな所を使って良いと言ってるのです。

アメリカのトイレは足元が見えているので女子トイレに男が隠れているのが良く分かります。
    「隠れている」ということですよ。

要するに女子トイレの便器の上に乗って隠れていて隣に女子が入って来ると上から覗くというのです。笑

     トイレの戸が閉まってる=誰かが入っている=のに足元の靴は見えてないから(あ、オトコが隠れてる)というのが分かるわけです。


これまではコンナでしたが
オバマ政権下では女子トイレや女子シャワー(日本で言うと女風呂)に希望者は誰でも堂々と入れるということです。


なのでこういうのを反対する州もいくつかあったりしてアメリカは大騒ぎです。
     出歯亀君、遠慮しなくていいよ合法なんだから、とオバマ政権は言ってるわけです。
     それでいくつかの州では学校に対する助成金は要らないからこんな法律はうちの州では認めないと戦っているのです。


「差別」は難しい問題なので(あそこは縄文人の神社)などと教えるのは差別なんでしょうね。

いろいろ考えさせられます。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月25日 13時33分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績氏の謎が解けて来ました―

 頭の中をスッキリさせた上で記します。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月25日 22時34分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい
お待ちしてますね。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月25日 23時08分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:新撰姓氏録に載っていました→右京の「神別・天神」として
   「神麻績連」

    ちなみに、「服部連」も大和・摂津・河内の「神別・天神」
   です。
    
 さて、麻績氏について、結論から先に言いますと―
  @「麻績氏」は「忌部氏」でありました。
  A「忌部氏」は「賀茂氏」と同族でありました。
  B「麻績氏」と大和の「服部連」の祖は「天御中主神」でありました。

 後はその説明となりますが、本日は色々調べものをしたせいか眠くなっ
てきましたので、明日にいたしますということで―
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月26日 08時37分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、安倍総理大臣が伊勢神宮に参拝しました。

 こちらもまた麻績氏をめぐって伊勢関係を探求しているということで、
奇しくもサミットの開催場所とが重なりました。伊勢志摩の賢島でサミ
ットを開くのは、警備上の利点という点もあろうかと思いますが、やは
り日本の霊性の中心である伊勢神宮の地ということに意味があろうかと
思います。
 伊勢の歴史については大変謎深いものがあり、軽率に論及できません
が、すでに書かれているいくつかの資料を基に、それらを組み合わせて
論理を進めたいと考えております。

 但し、本日はこれから筆の会があり出かけますので、後で記すことに
いたします―
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月26日 13時08分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


大発見ですね。


>麻績氏について、結論から先に言いますと―
>@「麻績氏」は「忌部氏」でありました。
>A「忌部氏」は「賀茂氏」と同族でありました。
>B「麻績氏」と大和の「服部連」の祖は「天御中主神」でありました。

ビックリでした!



これ → Aの「忌部氏」は「賀茂氏」と同族  は分かってましたが。


これ → @の「麻績氏」は「忌部氏」はレス<34>で説明して頂いたので分かり易かったです

            古代、神事を主宰する祝人(ほふり)を「大忌(おみ)」、神事の細部を担当する人々を「小忌(おみ)」といったという。
            麻績氏も神事にかかわった氏族であります。
            音では「おみ」で一致します。


これ → Bの「麻績氏」と大和の「服部連」の祖は「天御中主神」

            共通の祖である「天御中主神」を見つけたとはスゴイ!
       
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月26日 13時12分28秒 ) パスワード

こちらでもニュースで安倍さんが各国の首脳を伊勢神宮に引っ張り出したのを見ました。
すごい!


反日国や反日ジャーナリストの反応が知りたいところです。


ということはオバマの広島訪問で驚くべき発言が期待出来るのかも。


この先30年は有り得ないと思ってました。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月27日 00時18分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『伊勢国風土記』というものを一度見てみたいものですが、ここでは
引用の引用ということで時間を節約します。
 伊勢についてわかりにくくしているのがこの『伊勢国風土記』であり
ます。というのは、そこに書かれている内容は、出雲の国譲り神話とよ
く似ているからであります。もっとも、伊勢の方が正しく、出雲神話の
方が創り替えられたものであるということもありえるのかもしれません
が……。

 加茂喜三氏の『ヒミコの故郷』によりますと―
「『伊勢国風土記』によれば、伊勢という国の開闢は、天日別命(あめ
のひわけのみこと)にはじまるとある。天日別命は天御中主神十二世孫
とあり、日の済祀者であったことはその神名からも推測できるが、これ
によれば、天日別命は勅命を奉じて伊勢に入り、先住の伊勢津彦命を追
放して国土としたとある。このとき伊勢彦命は去るに臨んで八風を起し、
海水を巻き上げて波浪となし、これに乗って東国に遷(うつ)ったとされ
るが、信濃の諏訪神社の祭神建御名方命とは、この伊勢津彦命のことと
いう。御在所山の北に八風峠があり、石鉾や石斧が出土している。」

 『ヒミコの故郷』に先ほど来、目を通していましたら、あらぬ方向へ
と深みにはまってしまい、時間を食ってしまいました。その話は別の
機会に探求したいとは思いますが、夜も更けてしまいましたので、とり
あえずはここでストップさせていただきます―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月27日 06時54分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


>信濃の諏訪神社の祭神建御名方命とは、この伊勢津彦命のことという。
>御在所山の北に八風峠があり、石鉾や石斧が出土している。

へ〜


なるほど
諏訪湖に追い詰められる前は伊勢の国に居たということでしょうね。


移動する人間のように神様も移動し
そして人間が道草をくうように神様も移動途中で寄り道もするのだなと。


ありがとうございました。


htts://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%82%AB%E3%82%BF

タケミナカタについて、『古事記』では大国主神(オオクニヌシ)の御子神で、事代主神(コトシロヌシ)の弟神とする[2]。大国主神の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がなく[2]、母は明らかでない。

『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方神であるとする[3][1]。


タケミナカタは、『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。

これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った[2]。

建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして投げ飛ばした。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという[2]。

以上の神話は『日本書紀』には記載されていない。一方『先代旧事本紀』「天神本紀」では、『古事記』と同様の説話が記載されている。


国史にも見えるタケミナカタの霊廟としては、諏訪大社(長野県諏訪市ほか、信濃国一宮)が知られる。同社は国史や『延喜式』神名帳等において「建御名方富命神」・「南方刀美神」等で表記され、神階は順次昇叙されて貞観9年(867年)には従一位勲八等に達している[4]。国史では同様に「建御名方富命前八坂刀売命神」として妃神の記載も見え[4]、現在ではタケミナカタは諏訪大社上社の主祭神に、八坂刀売命は諏訪大社下社の主祭神に祀られている[5]。

なお、『古事記』では上述のように「科野国州羽海」まで追われた旨は記されているが、諏訪大社との関わりについては記されていない。一方『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では、「建御名方神 坐信濃国諏方郡諏方神社」として、諏訪大社に鎮座する旨が明記されている[3][2][1]。


「ミナカタ」の名称については、「水の方(ミ+ナ+カタ)」として諏訪湖畔を指すとする説[2]、「水潟(みなかた)」や「宗像(むなかた)」の意とする説[6][7]があるが不詳。

このタケミナカタについては、『日本書紀』や『出雲国風土記』に記載がないため、本来は出雲と無関係な諏訪地方の神話の神で、それが『古事記』に挿入されたものと考えられている[8][6][9]。諏訪地方では建御名方神(新来神)と守矢神・手長足長(地主神)とが相争う神話が知られ、このような諏訪大社の鎮座譚が中央神話に組み込まれたものとされる[6][9]。上述の力竸べ説話が後世の「河童のわび証文」型の説話(河童(水の精霊)と人が争い、河童が腕を引き抜かれ誓いをする説話)と一致することから、元々はタケミナカタが諏訪湖の水神を打ち負かす説話であったとする説もある[8][9]。諏訪大社ではかつて大祝(最高神職)は諏訪を出てはならないという掟があり、これが却って中央に利用されたとも見られている[9]。また、タケミナカタが敗れたタケミカヅチは藤原氏の祭祀する鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主祭神であることから、藤原氏が氏神の武威を高めるためにタケミナカタを貶めたとする指摘もある[10][9]。

タケミカヅチとタケミナカタの力競べについては、古代における神事相撲からイメージされたものといわれる[11]。なお『日本書紀』景行天皇40年是歳条では、信濃坂(神坂峠)において山神が白鹿に化身して日本武尊の前に立ち、日本武尊に殺されたというが、この山神を諏訪神に比定する説がある[6]。




タケミナカタは、上述の諏訪大社のほか、諏訪大社から勧請された全国の諏訪神社で「諏訪神」として祀られている。この諏訪神は、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神・狩猟神としても信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。

諏訪大社の『諏訪大明神絵詞』(中世成立)などに残された伝承では、タケミナカタは諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、タケミナカタは藤蔓を持って闘ったとされ、これが製鉄技術の対決を表すとする説がある[12]。タケミナカタ自体を、冶金・製鉄の神とする説もある[13][14]。

また、タケミナカタは神氏(じんし)の祖神ともされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。

なお『延喜式』神名帳では、信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社」の記載があるほか、阿波国名方郡に「多祁御奈刀禰神社タケミナトミ」の記載がある(後者は単に「雄々しく港を守る神」の意味か[15])。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月27日 12時49分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:日の済祀者→日の斎祀者

 古代史については、その一つ一つの信憑性を確認(方程式を解く)して
行くにはとてつもない時間がかかってしまいますので、これはと思う説
に頼ることになります。

 方程式として解かなければならないのは―

 (1)天日別命(あめのひべつのみこと)=天日鷲命(あめのひわけのみこと)

 一般的には、同じ人であると言われていますが、その根拠が見つかりま
せん。この根拠探しについては、時間の節約上後回しといたし、とりあえ
ずは、天日別命=天日鷲命といたします。

 (2)忌部氏=麻績氏

 『安房国忌部家系』によると、天火鷲命に三人の子があるという。
  @大麻比古命(津昨見命、津杭耳命)
  A天白羽鳥命(長白羽命、伊勢国麻績氏の祖)
  B天羽雷雄命(倭文氏の祖)
 というように、長白羽命(天白羽鳥命)を伊勢国麻績氏の祖とうたっており
ます。
 さらに、『古語拾遺』によると、やはり、長白羽命(天白羽鳥命)を伊勢国
麻績氏の祖とうたっております。

 以上をまとめると―
  @天太玉命は、忌部氏の祖である。
  @天太玉命の一族に、天日鷲命(別名 天日別命)がいる。
  B天日鷲命の子は、長白羽命である。
  B長白羽命は、伊勢国麻績氏の祖である
  Cよって、伊勢麻績氏は忌部氏である。

 天太玉命は、忌部氏の祖であるということは、常識となっていますので、
その証明は避けました。伊勢麻績氏と安房麻績氏が同族であるかどうかも
証明は避けましたが、ルーツは同じものと確信しています。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月27日 13時08分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


すっごぉ〜い!


わたくしには結局h神様のお名前は常にワケ分からなくなって行くので途中で諦めてしまいますが
三つ柏さんはしっかり縋りついて手放さずなんとか振り落とされないように頑張りましたね。


     A天白羽鳥命(長白羽命、伊勢国麻績氏の祖)

               これ、すごい!

                羽鳥  はとり  麻績
                これが 服部 にも重なっていくんでしょうね。

                    羽鳥氏にすれば麻績氏と一緒にされるのは構わなくても
                    服部氏と一緒にされるのは  ちょっと・・・・  なんでしょうね。
                    へぇ〜




http://www.katuobushi.com/history/forhistory.html






万葉集に多くの歌を残す大伴家持の歌にも「御食つ国」としてこの地が登場します。

波切は古来「志摩国志摩郡伊雑郷魚切里」と呼ばれ、
大伴氏の領地であっただけではなく、伊勢神宮の御饌(みけ)を司る「伊雑宮」の領地として手厚く保護されていたようです。
「魚切」(なきり)と呼ばれるように当時から魚を加工していた事が伺えます。

当時、志摩国は伊勢の国司が納めており、万葉歌人である大伴家持も伊勢国司を経験しております。



万葉集には志摩の歌が多く、その殆どが「伊勢」と一括りに詠われています。

例えば「伊勢の島津」と言えば「伊勢国司が治めた志摩の海」、「伊勢の海」と「鮑」、「鮑玉」(鮑から捕れる真珠)、白玉(あこや貝から採れる真珠)、「海松」(みる)が詠われた歌も志摩国を詠った歌で、その殆どが魚切里が産している物を詠った歌です。

(注:鮑、海松、鮑玉、白玉は伊勢湾では採れず魚切里、後の名錐郷が朝廷へ朝儀として納めていた物です。)



「まるてん」店主の姓でもある「天白」とは北極星を表す「太一」、 金星を表す「太白」の総称で、
天白は忌部氏(後の斎部氏・伊勢神宮の宮司の家系)の一人、 「天白羽鳥命」とも言われております。

この地方の「天白」は古くからお伊勢さんに関わってきた人の末裔でもあるわけです。

実は 金星を表す「太白」ですが、志摩には祭られておりません。
この「太白」ですが、伊雑宮が米に関係している所から日本に稲作を持ち込んだとされ、
中国では倭人の祖先と言われる「呉の太伯」の事ではと思われます。


また、当地の名産である「手こね寿司」(漁師寿司)も天平年間には 「志摩 堅鰹鮨 近代鮨」 (二条大路出土木簡)と呼ばれ、古くから食されていたようです。

この様に、この地の食文化が京の食文化に与えた影響は多大な物でした。
古くからの京の伝統料理には、志摩の鰹は欠かせない物となっていたわけです。



    
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月27日 13時28分54秒 ) パスワード

 『安房国忌部家系』によると、天火鷲命に三人の子があるという。
@大麻比古命(津昨見命、津杭耳命)
A天白羽鳥命(長白羽命、伊勢国麻績氏の祖)
B天羽雷雄命(倭文氏の祖)


御3柱の神様、もろに衣類織物関係ですね。


@大麻比古命     大麻 タイマ  麻
            英語では 草 とか呼ばれますが
            大麻って人里近くに生えるんだそうです。
            熊しかいないような人里離れた所には生えないんですって。北海道でも。

            日本人にとって、本来の衣類の元ですね。ビックリ。麻の名の神様がいらっしゃったとは。



A天白羽鳥命     天白とは天の神様とも関係するし人間にとっては生活を支配する占いにも関係するという意味でしょうね。
            白鳥伝説にも関わるんでしょうね。
            天と地、神様と人間、を結ぶということに関わるということなのか。



B天羽雷雄命(倭文氏の祖)    倭文も織物の一種ですね

                そうしますと  天羽氏  も織物関係だったようですね。
                いやぁ〜、驚きました。



麻績氏とか織物は古代の基幹産業の1つですから、そういう世界に従事する人々だったのかと、認識が新たになりました。
また織物だけじゃなくて、人間の暮らしを支配してたのだなあと。


古代人にとっては物凄く重い意味があった人々だったのだなと。
アマテラスに物凄く近い人々だったのだなと。

いやぁ〜、ホント、ビックリです。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月27日 14時57分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:安房(あわ)忌部氏→阿波(あわ)忌部氏 
いずれにしても阿波から阿波へ忌部氏の支族は移住しているので、
    阿波と安房の忌部氏は同族。

 伊勢や出雲の歴史にはいろいろ隠された謎があります。無限に謎がある
といってもいいと思われます。中でも特に「国譲り」の部分と「天照大神」
の部分の謎が、歴史に及ぼす影響大だと思います。

 古代の歴史の謎が完ぺきに解かれ、正しい歴史が語られる日が待ち遠し
いです。

 日本の歴史において、特に古代において、史実を隠す必要はあったのか。
あったとしたら、それはいったい何のためなのか……その答えは、支配者の
出自を隠すためとしか考えられない……。

 謎解きというとこの人の右に出る人はいない……やはり、最後は飛鳥昭雄
氏に行きつく……。奇しくも飛鳥氏の名前が「飛鳥」。飛鳥、笠縫邑、泊瀬
……この辺が日本の歴史のヘソではないか? 一度、その辺をじっくり訪れ
てみたいと思っています。

 飛鳥氏による驚くべき歴史の考察は、次回に記します―

 明日とあさっては、伊豆へ行きます。大仁と土肥ですが、歴史の旅ではあ
りません。でもそのつもりで臨めば、伊豆には重大な謎がいくつも落ちてい
ますので、何か拾えるものがあるかも知れません。「大仁」は「大人」です。
「大人」という言葉に隠されたもの……どうも太陽信仰と関係してくるよう
です―
 
 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月27日 22時28分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


神話とか伝説というのは
真実を語っていなくても事実の片鱗は隠せずに伝わっている
というのを今回も感じました。

時の勝利者は真実を隠した、というのを今回も感じました。


出雲の大国主のお子さまが諏訪に行くについての余談もあった、というのが驚きでした。
お子さまはもともと伊勢にいたのかも知れず。
父親と出雲の危機で伊勢から出雲に戻ったのかも知れず。


今回のサミットは英語で「 Ise-Shima, Japan 」と表記される伊勢志摩は
なるほど伊勢守が志摩守も兼任してたのかと知りました。
で、「伊勢志摩」で良かったのか、と。

        知らないものですね。
        全く別の国だと思ってました。



伊豆行きで、何か、感じることがあると良いですね。
ま、時間が取れたらお墓にでも行ってみてください。

お気をつけて。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月28日 05時54分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 飛鳥昭雄氏の『失われたイエスの12使徒 八咫烏の謎』によると、
忌部氏に関する結論は―

 忌部氏=賀茂氏=秦氏

の構図となります。詳細は次回に要約いたします。

 『古語拾遺』によると、服部氏も神祇官であるということ、即ち、
中臣、忌部、猿女、鏡作、玉作、盾作、神服、倭文、麻績の各氏が祭祀
族となっている。神服氏がいつから祭祀族になったのか、忌部氏との関
係は……を知りたいと思っています。

 では、行ってまいります―
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月28日 08時54分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

お気を付けて〜


     『古語拾遺』によると、服部氏も神祇官であるということ、
      即ち、
      中臣、忌部、猿女、鏡作、玉作、盾作、神服、倭文、麻績の各氏が祭祀族となっている。

      神服氏がいつから祭祀族になったのか、忌部氏との関係は……を知りたいと思っています。


神服氏について

A
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=1911
尾張氏の謎を解く  その68


神服連海邊亙(海邊亙は海部直の事なので以降はこれで表記します)
日本古事記日本旧事記に曰く神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡當国の国府の始なるべし。

神服連海部直(かんはとりむらじあまべあたい)に関しては「先代旧事本紀」天孫本紀に六世孫 建田背命 神服連、海部直、丹波国造、但馬国造らの祖とあることが元になっているように思えます。つまり上記の神服連海部直とは建田勢(背)命を意味していることになります。神服連と海部直は別のはずなのに、同一人物のように記載あるのも妙なことです。

海部直の直(あたい、あたえ)は古代の姓(かばね)の一つで、大化以前の国造(くにのみやつこ)に与えられています。この制度は5世紀から6世紀に成立したとされ、建田勢命の時代には存在していません。神服連海部直=建田勢命とすると、両者の時代差がありすぎる結果となります。

川上の庄は当国(注:丹後国を意味していると思われるが、時代的には丹波国のはず)の国府の始まりとあり、それが事実かどうかはさて置いて、重要な地域であることは間違いなさそうです。だからこの地には丹波道主命(彦坐王)、川上麻須、伊福部氏、海部氏などの痕跡が色濃く残り、数多くの古墳もあるのでしょう。

神服連(かむはとりのむらじ、神服部連)は「東三河の秦氏」でかなり詳しく検討していますが、ここに出てくるはずがないと思われます。神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、を読み替えれば、天火明命6世孫の建田勢命は海部直の祖であり、丹波国造、但馬国造らの祖であるとなりそうです。

但し、「先代旧事本紀」国造本紀によれば、但馬国造は成務天皇の時代に彦坐王の5世孫である船穂足尼(ふねほのすくね)を国造に定めたことに始まるとされています。籠神社ホームページによると、海部氏の祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となって云々とあり、海部氏の祖は丹波道主命(=彦坐王)と示唆するような記述であることから、彦坐王の後裔が但馬国造であれば海部氏は但馬国造の祖であってもいいことにはなりますが、これには疑問を感じざるを得ません。

けれども、天火明命は彦坐王(丹波道主命)の軍勢が奉じる鏡ですから、海部氏の祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となっての文面は、その意味を踏まえるとある程度納得はできそうです。

次の文面には、第7代考霊天皇の時代に神服連海部直の館があり、館跡が今も川上庄海部殿垣六宮廻(とのがきろくのみやまわり)にあって、川上庄は凡そ当国の国府のはじめなるべし、とあります。海部直の実質的な初代は海部氏系図によれば海部直都比(つひ)で500年代半ば頃の人物と推定されるため、第7代考霊天皇の時代からは大きく下ります。従って、ここでも神服連海部直を建田勢命に読み替え、建田勢命の館跡(実際には海部直都比に始まる海部氏の館跡)が今も川上庄海部殿垣六宮廻にあるとの内容になります。

「京都府熊野郡誌」には、海部氏の拠点・久美浜町海士に鎮座する矢田神社に関して、海部直の祖たる建田勢命及其御子武諸隅命、和田津見命を斎き祀れるも深き由緒の存ずる所、と書かれており、海部直の館跡は建田勢命のものと史料面からは推察されます。但し、建田勢命は系図上だけの人物で実体はありません。


以下略



B
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/ama.html

『丹後旧事記』

神服連海部直。日本古事記日本旧事記に曰く神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡当国の国府の始なるべし。



『京都府熊野郡誌』

(丹後旧事記)神服連海部直者、皇孫六世、丹波国造、但馬国造等之祖也、大日本根子彦太瓊尊二天下一御代(孝霊天皇)。
(扶桑略記)丹波国熊野郡川上庄海部里ヲ国府トス館造依テ海部直ト号ス
(順国史)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字名あり、王代の人住所を我名とせること其例多し、川上庄は凡当国の府なるべし。

註 与謝郡府中籠神社宮司海部藤富氏は海部直の苗裔にして、其の祖養老年中熊野郡より転地せりと聞く。而して館跡等に就きては、村誌海士の部を参照すべし。


この話がたくさん何度も書かれています。



余談ですが部首のお話:


腰 → にくづき
朧 → つきへん
服 → ふなづき       (にくづきだと思ってました)  元は「舟」だった?ビックリ



舟部(しゅうぶ)は、漢字を部首により分類したグループの一つ。康熙字典214部首では137番目に置かれる(6画の20番目、未集の20番目)。


「舟」字は水上運輸の乗り物である船を意味する。
漢代以降は「船」字が広く用いられるようになり、「舟」は小型のものだけを指すようになった。

木をくりぬいて作った船の形に象る。

その他、酒器や酒器の受け皿である盤を意味する。



偏旁の意符としては船や船の工具、船の運航に関わることを示す。
もっぱら左側の偏の位置に置かれ、左右構造を構成する。


舟部はこのような意符を構成要素とする漢字を収める。
なお「服」や「朕」など、「舟」が変形して「月」(ふなづき)になったものは月部に収められている。

へぇ〜
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月28日 08時59分19秒 ) パスワード

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1378.html

東三河の秦氏 その44 養蚕と機織り

今回は秦氏関連と思われる服部連と朝廷との関係を探りましょう。

きちんと調べるため「延喜式」を開きます。
「延喜式」は平安時代中期に編纂された律令の施行細則で、延長5年(927年)に完成しています。
この中に神祇官関係の式があり、第7巻に「践祚大嘗祭」に関する記述が見られました。
践祚(せんそ)とは天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる儀式で、朝廷にとって極めて重要なものです。




およそ神服(かんみそ)を織るは、九月上旬に神祇官、神服社(かむはとりのやしろ)神主一人を差わし、驛鈴一口を給ひて、参河国に遣わし、神戸を召し集めて、神服を織る長(おさ)を二人、織女六人、工手二人を卜定せよ。終わりて長以下十人を率い、当国の神服部(かむはとりべ)つくるところの調糸十絇をもて京の斎場に帰り向かひ、先ず織屋を祭り、しかる後始めて織れ。

延喜式には践祚大嘗祭に当たっての細則が事細かに書かれています。問題は神服社ですが、前回で書いた「新撰姓氏録」の摂津国服部連に関係する神社と推定され、社名から大阪府高槻市宮之川原町に鎮座する神服神社が該当しそうです。ただ、確信はありません。神服神社の詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060403-01.html

延喜式記述によれば、この神服神社(或いは服部天神宮など別の神社)の神主が三河国に遣わされ、神服を織る長(おさ)などを占いにて定めます。そして当国の神服部が作る調糸十絇を京の斎場に持ち帰るのですが、当国とは文脈からして三河国になります。つまりここで言う当国の神服部とは、赤引の糸を製作する三河大野・服部神社の服部を意味していることになります。同じ神服部と言っても三河国で糸を作る職能民であり、遠江国で神御衣を織る初生衣神社の神服部氏ではないのです。

要約すれば、「その43」で書いた、「『日本書紀』には天武天皇期に神服部連が宿禰を賜った」にある神服部連と初生衣神社の神服部氏は、同じ神服部でもやはり別の存在となるのです。

延喜式によると、宮中における最重要儀式である践祚大嘗祭においては、神服神社の神主が三河大野の神服部によって作られた調糸(多分赤引の糸)と共に、東三河の神戸で集めた工人など十人を率いて上京し、京の斎場で神服を織っていたことになります。朝廷における行事の場合、登場するのはほぼ三河国関連だけで、遠江国の神服部氏は全く関与していないのです。

今まで神服部家舊記をベースに見てきたのに、ここに至って東三河の秦氏に関連する養蚕と機織りが前面に出てきそうな気配となってきました。続いて延喜式の別の記事を参照します。


次に神服長(かむはとりのおさ)二人、分かれて左右に在り。神服宿禰(かむはとりのすくね)一人、中頭に在れ。次に神服男七十二人、分かれて左右に在れ。次に神服女五十人、分かれて左右に在れ。

ここで神服宿禰が登場してきました。天武天皇期に神服部連が宿禰を賜ったことを証明するような記述です。しかしこの神服宿禰も、前の文章から類推すれば摂津国の服部連、神服男と女は三河国の服部と推定され、初生衣神社の神服部氏とは別と考えられます。

それにしても神服男や女など合計で百数十人もの人数を揃えるとは、全国織部の総領である服部連の面目躍如ですね。これらの記述から、東三河には朝廷と係わりのある服部連系の職能民が多数いたと理解されます。そうした職能民の存在にはどのような背景があるのでしょう?

既に書いたように、「先代旧事本紀」巻十国造本紀の穂国造条には、第21代雄略天皇の時代に葛城襲津彦4世孫の菟上足尼命(うなかみのすくね、菟足神社の祭神)が穂国造に任命されたと記載されています。菟上足尼命は犬頭神社の社伝によると丹波出身とされるのですが、丹波国桑田郡は秦氏が桑を植え養蚕に従事したことから秦氏との関係が出てきます。

さらに、菟足神社(うたりじんじゃ、鎮座地:豊川市小坂井町宮脇2)を平井の柏木浜から現在地に移し祀らせたのは秦川勝の子とされる秦石勝なので、この点からも菟上足尼命が秦氏と繋がりを持っていたと推測されます。

以上から、菟上足尼命が東三河に来た際、秦氏関連の服部(はとりべ)が同行した、或いは秦氏自身が東三河に来た際、服部が同行したと考えられ、それが東三河における服部連系職能民の存在に繋がったと理解されます。

これで天武天皇期に神服部連が宿禰を賜り、851年には神服部氏が従五位下を賜って地位を落とした理由が明らかとなりました。この両者は別物であったのに、同じとしていたから地位が落ちたように見えただけなのです。

朝廷の儀式に参集した東三河の服部は秦氏と関係がある職能民でした。一方、初生衣神社の神服部氏は伊勢神宮と深い関係にあります。こちらはどのような視点から見ていけるか再検討してみましょう。

              東三河の秦氏 その45 養蚕と機織りに続く



[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月28日 09時01分27秒 ) パスワード

面白かったですよ。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1382.html?sp
東三河の秦氏 その45 養蚕と機織り


既に書いたように、「令集解」(りょうのしゅうげ、9世紀前半(868年頃)に編纂)7(神祇令)孟夏条・神衣祭、には以下のような記載があります。

謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。斎戒潔清。以二参河赤引神調糸一。織二-作神衣一。又麻績連等。績レ麻以織二敷和衣一。以供二神明一。故曰二神衣一。釈云。伊勢大神祭也。其国有神服部等。斎戒浄清。以二三河赤引調糸一。御衣織作。

伊勢神宮の神衣祭においては、伊勢の国の神服部が三河赤引の糸を用いて神衣を織り作ると書かれています。神服部氏が当初は伊勢にいたことが確認されますが、三重県松阪市大垣内町に鎮座する神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の祭神は天御桙命(近年は神服織機殿鎮守神)で神服部連の祖とされ、神服部連は服部連のことです。そしてもうご存知のように、天御桙命は大和国服部連の祖神でした。

こう書いていくと実に混乱させられます。初生衣神社の神服部氏は当初伊勢にいて、彼らに関連するはずの神服織機殿神社祭神は建羽槌命ではなく、大和国服部連の祖神である天御桙命で、しかも神服部連(=服部連)の祖とされているのですから……。この相互に矛盾を来たす内容をどう整理すればいいのでしょう?

悩んでいても答えは出ないので、気を取り直して筋道を辿ります。神服部連=服部連で、「新撰姓氏録」によれば摂津国と大和国に服部連が存在し、大和国の服部連が天御中主命十一世孫天御桙命之後也、となります。摂津国の服部連は之速日命十二世孫麻羅宿祢之後也 允恭天皇御世。任織部司。領諸国織部。因号服部連、となります。これらから、以下のように整理できそうです。

服部連の大元は摂津国で祖神は麻羅宿祢、その別れが大和国服部連で祖神は天御桙命。大和国服部連傘下の服部(はとりべ)が伊勢国の神服部氏(=後の初生衣神社宮司・神服部氏)で祖神は建羽槌命になる。(注:初生衣神社の神服部宮司さんは天御桙命も祖神としていますが、これは自分たちを中心に置いた視点であり、やや疑問があります)

服部(はっとり、はとり)に関してWikipediaには以下の記載があります。

機織部 - はたおりべ・はとりべ。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域。「部」(ベ)が黙字化し「服部」に。

Wikipediaの別の記事には以下の記載もあります。

和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。

Wiki全文は以下。やや理解しにくい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE

Wikiの記述が正しければ、伊勢の服部(はとりべ)は神服部(かんはとりべ)とも呼ばれていたことになります。本当にややこしいのですが、大和国服部連傘下の伊勢国服部(はとりべ)が後年初生衣神社宮司となった神服部氏であると考えれば、この記述は正しいと言えそうです。大和国の服部連が秦氏関連の一族とすれば、神服部氏も広い意味では秦氏関連の一族だったと言えるでしょう。

以上、前回の検討結果(服部連と初生衣神社の神服部氏は別物)を幾分修正せざるを得ない形となってしまいました。前回の検討結果を生かしつつ、今回の検討結果を生かせるような筋道を考える必要があります。

かつて神服部氏(初生衣神社の神服部氏)は神服織機殿神社の前身となる場所で神御衣を織っていた(この時点では大和国服部連傘下の服部だった)と思われます。それがある時点で祖神を建羽槌命に変え服部連とは一線を画し、分離したのではないでしょうか?分離した時点以降で考えると、当然服部連と初生衣神社の神服部氏は別物に見えてしまいます。

神服部氏がなぜ服部連から分離・独立したのか理由は不明ですが、分離・独立した結果が平安京への移住であり、851年に従五位下を賜ったと言う神服部家舊記に繋がって来るのです。本来は連であり、宿禰まで賜ったはずの一族が従五位下のみを記載している背景には、服部連からの分離・独立と言った行動があったからと推測されます。

ここでは、初生衣神社の神服部氏は大和国服部連傘下となる伊勢国の服部と言う立場から分離・独立した一族と仮定しておきましょう。そう考えると、今までに指摘してきた様々な矛盾が解消されるからです。ただ上記の推論は、ストーリーに矛盾がないよう再構成しただけで、実際にどうだったのかは史料がなく不明と言わざるを得ません。

一方で、明確にできる点もあります。東三河の渥美半島には倭姫の元伊勢があります。加えて東三河は、伊勢神宮の神領である渥美神戸の地であり、神衣祭の祭祀に必要な糸を献納する地でした。つまり東三河は伊勢神宮にとって極めて重要な場所だったのです。

また天皇の即位において最も重要な儀式である践祚大嘗祭に、秦氏と関係がある三河国の服部(はとりべ)が実に深く関与しているのは、延喜式の記述から明らかです。彼らは養蚕と生糸生産、機織りにおいて朝廷と強いつながりを持っていたのです。

東三河は遠い古代から朝廷と伊勢神宮にとって極めて重要な場所だった。この点は少なくとも明確であり、第4部に繋げるブリッジはほぼ出来上がったとも思えます。

そして自らをアマテラスに擬そうとしたのが持統天皇でした。持統天皇は朝廷の頂点に位置し、同時に伊勢神宮の創建にも深く関与した人物です。このような関与を示した天皇は持統以前にも以後にもほとんどなく、唯一の存在と言えそうです。

東三河もまた、持統天皇と共鳴するかのように、朝廷と伊勢神宮に養蚕や生糸、機織りを通じ深い関係を持っていました。その事実から何か浮かび上がって来るものがありそうです。

同じ内容を何度も書きますが、変態を繰り返す蚕は死と再生の象徴とされ、機織りは巫女アマテラスの死と太陽神天照大神の再生に関与しています。東三河には死と再生を司る一族・秦氏がいます。東三河と伊勢は運命の赤い糸(赤引の糸)と中央構造線で結ばれています。「人類進化の謎を解く」で書いたように、大地溝帯は人類の死と再生に関与しています。中央構造線もまた同じく死と再生に関与しているのです。

いかがでしょう?今まで検討してきたあらゆる要素に死と再生の暗号が組み込まれていたと思えませんか?ここに至ってようやく、持統上皇東三河行幸の謎を解明する糸口が見えてきたようです。

東三河の秦氏 その46 養蚕と機織りに続く
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月30日 06時48分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部連についての情報、からまった糸を解きほぐすようにしっかりと
解読したいと思います。

 またしても、海部氏の振り出しに戻りました。海部氏の家系には神服連
がおります。

 服部という名前はいつから確立したのか、また海部という名前がいつか
ら確立したのか、ということを押さえておかなければなりません。

 「海部氏系図」や「海部氏勘注系図」を見ると―
 ・始祖   彦火明命
 ・子    天香語山命
 ・孫    天村雲命
 ・3世孫  倭宿祢命
 ・6世孫  建田背命
 ・19世孫 建振熊宿祢 神功皇后新羅征伐の時、300人の海人を率
             いる(品田天皇の世)。海部の姓賜う。
             ここより海部姓を名乗る。
 「古事記」「日本書紀」によると―
 ・394(応神5) 海人部む。
となっているようです。

  一方、服部連ですが―
 ・摂津国の服部連 熯之速日命12世孫麻羅宿祢の後也。允恭天皇御世、
          織部司任さる。諸国の織部を捴ず。因りて服部連と
          号す。
とあり、允恭天皇の在位年間は、AD412〜453ですので、海部姓の
成立より若干後ということになります。但し、服部連という姓の成立がイ
コール服部氏の成立かというと疑問が残ります。もっと古くより「はとり」
の呼称はありましたので……。

 神様の名前は紛らわしく、海部氏の祖の「彦火明命」は「天火明命」=
「熯速日命」(饒速日命)でありますので、服部連の祖でもあります(また、
饒速日命は物部氏の祖でもあります)。
 
 海部氏の始祖「彦火明命」の6世孫「建田背命」は「神服連海部直 
丹波国造・但馬国造等祖」であるということであります。
 建田背命はおよそ1世紀後半の人ですので、「服部連」と「神服連」の
関係は時代的には別々であることになりますが……
 服部(はとり)連系と神服(かんはとり)連系は、少しニュアンスの違う
系統なのであろうか……。
 また、服部連と服部の姓との関係、神服連と服部の姓との関係の数式
がそれぞれ「=(イコール)」なのか、これもまだ不確定要素があります。

 いずれにしても、いただいた服部連の情報、もう一度よ〜くかみ砕いて
読解してみます。    
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月30日 07時15分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい。
ご無事で何よりでした。



服部氏について読めば読むほどワケ分からなくなってお手上げです。
「羽鳥 ハトリ」さんの方がずっと名家だったのか、というのが分かった段階です。

     今は服部の方が日本全国に広まっているので羽鳥さんは影に隠れてしまって
     ひょっとすると「軒を貸したら母屋まで取られてしまった」状態かも。 



とにかくあちこちのサイトへ行って面白い!面白い!とたくさん読んでも
結局は何も残らないのです。泣
分かっていない、ということですね。


>服部(はとり)連系と神服(かんはとり)連系は、少しニュアンスの違う系統なのであろうか……。

はい


とは言え、ハットリとハトリがスグにゴチャゴチャになるように
羽鳥さんと神服さんも、ワケ分からなくなって、たぶん、神服さんの方がずっと名家なんでしょうね。


名家度は  神服 > 羽鳥 > 服部 の順なんでしょうけど  希少度・絶滅度も  神服 > 羽鳥 > 服部 の順なんでしょうね。


今、一瞬、神服さまから「お前達シモジモの服部なんかと一緒にされたかない!プンプン」というのが聞こえたような。



堂々巡りになって行きますから暫く放って置いたらまた新たな光が来るかもです。


それよりも伊豆のお話をお願いします。

新しくスレッドを立てますね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月30日 07時27分11秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101533.html
スレッド68をご用意致しました。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月30日 09時50分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [58]でのあを様の結論、「名家度・希少度・絶滅度は、 神服>羽鳥>服部
の順である」というのは卓見だと思います。

 「服織」の方が「羽鳥」よりも高貴だ」と言う研究者はこの地方におりまし
たが……。

 同じ音を表す氏名の漢字表現が「ただ単なる当て字」ではなく、「意味を
込めた当て字」である可能性があります。それについて究明された論述は余
り見当りません……。

 神服、神服部
 服部、服織、羽鳥
これらの意味するところの違いを正確に把握したいなあと思っています。

 では、次のスレッドに移ります―
 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月30日 13時47分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>神服、神服部
>服部、服織、羽鳥
>これらの意味するところの違いを正確に把握したいなあと思っています。

はい。
同じく思っております。


絶対にランク付けって「日本」なので有ると思っています。
    残念ながら?幸運にも?民主主義の時代になって「平等」という言葉に均されてみんな「同じ」という感覚になっていますが
    「区別」はあった(と思いますし)「差別」もあったと思いますし


もし古文書に「位」が出てれば簡単に解明出来ると思っています。
    この名字でこの位ならあっちの位より上とか下とかハッキリして
          神服、神服部、服部、服織、羽鳥
    順位付けが出来ると思います。

    つまり朝廷なり天皇家なりとの距離がハッキリすると思います。


で、1番格下が「服部」かぁ、と。



神服と神服部では  神服が上のように思います。
服織と羽鳥は、羽鳥の方が上のような気がします。
全くの予想です。


その内に「それぞれの位」が分かるかも。
高ければ古い家柄でしょう。
一番の新参者が服部じゃないかなと。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月30日 13時54分29秒 ) パスワード

あ、わたくしの予想が当たるような良い勘を持って生まれて来ていたら
今頃、桶狭間の近くのアソコで予想屋やってます。
あはは

ローカル過ぎたでしょうか?
静岡だったら湖西市新居町中之郷で。
自爆
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月30日 15時18分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部友定〜政信の系統と服部中保次〜保俊の系統は、新居の関所奉行と
してバトンタッチしていますので、仲は良かったと思います。
 服部半蔵系、服部正尚系、服部貞信系……服部の各支族は、それぞれど
んな同族意識・氏族愛をもっていたのでしょうか、それぞれが、どんな位置
にいて、どんな指示命令系統に従っていたのでしょうか。それらがわかると
おもしろいですね。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 02時37分22秒 ) パスワード

書き直し:


三つ柏さん


>服部友定〜政信の系統と服部中保次〜保俊の系統は、新居の関所奉行としてバトンタッチしていますので、
>仲は良かったと思います。

<仲は良かった>ということではなく<同族>だから
そういう意識だったんでしょうね。


     服部保行の子に上服部・中服部・下服部(そして保広という人の計4人)の兄弟がいて

     下服部家保長の子孫が服部伊賀守宗純で後醍醐天皇に召し出されるまでは伊勢国鈴鹿あたりにいて、この子孫が
        A:尾張服部家ホンヤさん
        A':服部政信の遠江奉行
             ここは元々兄弟の関係の家

        B:服部中保次
             同じく宗純の子孫だが、どの流れかハッキリしていない。
             
         


     中服部家保親の子孫が保遠で、この息子達が
        A:松平清康に仕えた保長で
                藤堂采女の家
                石見守正成の家
                その他
                この家は千賀地にいたようですね。

        B:保長の弟が正清で、この家から
                1.平蔵正信の息子達が服部正尚・青山成重の兄弟
                2.出羽保章名張城主の娘が明智光秀の妻で息子が近江の北村に住み北村氏を称した


この流れですね。



ということなので
尾張服部家ホンヤさんの家と政信や仲保次が服部伊賀守宗純グループ(下服部家子孫)
服部半蔵や正尚や保章(明智三成の岳父)の服部家は戦国時代の7代前に分かれたグループ(中服部家子孫)


     なんかアヤシイのが浮んで来たような(にやり)


______________________


でも呉服明神の服部貞信の家は、というと

一応、平氏で、陸奥守貞盛の子孫で、伊賀平内左衛門服部家長の子孫だそうで服部村に住み服部を名乗った。


住んだ場所からしても、上の2流れとはちょっと系統が違うようですね。


貞信の家の方がそれこそ伊賀の本来の織物関係の服部氏・本来の姓が秦氏の服部氏なのかもですね。

この貞信の系図が見たいものです。


ひょっとすると
貞盛の子孫が1006年でしたっけ?伊勢国に派遣されて
伊賀伊勢に勢力を持って平家となっていく過程で

もともと伊賀の豪族だった秦氏系服部氏と結びついたホンケ本元の平氏系服部氏なのかもですね。
または旭日の勢いでのしてきた平氏と組んで平家になった家かも。

     地縁・血縁かも。



ということで秦氏系服部氏とか織物系服部氏に1番近い家が貞信の家なのかもですね。


貞信の家はもとは卍紋を使っていたとのことですから、これは「太陽」を示すそうですから、古代服部連系服部氏なんでしょうね。


     それで半蔵の家は敢えて「うちは帰化人系じゃない。そっちは貞信の家のこと」と言ってるのかも。



また貞信の家が卍紋だったということで三つ柏さんのお家は柏紋なのかなあと空想したりします。




面白いですね。
こうやって謎解きをしているとワクワクしてしまいます。

    ただね、暴走して行きますから、どんどん核心からズレて行くのでサテサテ真相やいかに?笑       
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 02時53分42秒 ) パスワード

服部氏は

       神職系
       技能集団の古代服部連氏系
       平家系


大きく分けてこの3つかもですね。   橘氏系・藤原氏系・源氏系は無視。


3つ全部揃ったのが呉服明神の神職だった貞信の家かも。
桓武平氏の子孫を標榜するのが中服部家子孫グループと下服部家グループかも。

       
で、三つ柏さんのお宅は?となると3つとも該当しそう。

    家紋が「柏」なんて神職系かなと。
    丸子の帰りに寄ったお寺のお墓の紋とか、突然、伊豆奉行だった貞信の子孫の亡霊が出て来ましたしね。

    浜松ということで政信系か保次系かの可能性もあるし。

    遠江自体が織物集団が引っ越した先だし。


結局3つとも可能性が捨て切れないです。


やはりまた丸子に戻っていろいろ調べないといけませんね。
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