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 投稿番号:101533 投稿日:2016年05月30日 07時26分25秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LX[(16年の課題確認11)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101531_56.html
長上郡の服部氏族LXZ(16年の課題確認10)
スレッド67の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


スレッド67では
建穂寺・羽鳥・賎機山古墳・浅間神社・麻績氏・長谷川氏と初瀬、その他
謎が謎を呼ぶ展開になっています。


迷ったら原点に立ち戻る。
ナカナカ進みませんが確実に核心に近付いてはいるのでしょう。

頑張りましょう。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月30日 14時50分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊豆の大仁と土肥に行って来ました。伊豆についても、まだ土地勘(=
方向性・距離感・道路網の把握)が身についておりません。沼津から下田
まで伊豆縦貫道で一直線に行けるようになると、伊豆の交通の利便性は、
格段と上昇します。伊豆の海と海岸風景は日本一と言っても過言ではない
と思います。そんな未開拓の手つかずに近い自然がそこには残されており
ます。

 昔は「島流し」で伊豆によく流されました。何で伊豆なのか、その理由
は私にはよく理解できません。こんないい所(?)へ島流し……たしかに交
通の便は悪かったでしょう。が、船を利用すれば意外に便利であはずであ
ります。過去、どのような海上交通が行われていたのか、その発展史を一
度調べてみたいと思っています。

 土肥の民宿での、海の幸の料理は、満足度「120%」でありました。
 また、土肥の海岸には「旅人岬」と「恋人岬」があり、雲や靄(もや)の
ない日には、駿河湾の海上に富士山が見えます。春から夏にかけては、靄
がかかって見えにくい状態が続きますが、昨日は、少しの間靄も晴れ、シ
ルエットのような富士山が姿を現しまして、誠にラッキーでした。 
 恋人岬には、若いカップルが大勢訪れ、岬の先端で鐘を打ち鳴らします。
青い海には、白い船が浮かび、まるで絵のようで時間が止まります。海を
渡ってくる風も心地良く……それは、生きているのが幸せであると感じる
一瞬でありました。

 伊豆は役小角(賀茂氏)の配流先でありますが、もともと伊豆には賀茂氏
が住んでいました。その歴史は相当古いようであり、葛城や山背と比べて
もなお古いようであります。正史の歴史は一皮めくると謎だらけ・欺瞞だ
らけであります。
 藤原不比等の妻は鴨(かも)氏ということ、改めて知りました。

 賀茂氏の神代よりの歴史、改めて調べてみたいと思います。
 
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月30日 22時57分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>船を利用すれば意外に便利であるはずであります。
>過去、どのような海上交通が行われていたのか、
>その発展史を一度調べてみたいと思っています。


重要なヒントを1つ。

頼朝が挙兵して敗れ、舟で安房(千葉)に逃れ、大勢力になって結果平家を滅ぼしました。


今から出掛けますので続きは後ほど。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 03時05分08秒 ) パスワード

伊豆ではありませんが
足利尊氏も負けて逃げて行った先の九州で勢力を拡大し結局政権を取りました。


海軍の力ってすごい物があるんですね。
やはり陸路しか考えられない人間はダメですね、視野が狭い。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 03時42分18秒 ) パスワード

>正史の歴史は一皮めくると謎だらけ・欺瞞だらけであります。

はい
権力者側のハナシですからね。



今回のG7の中国外しも

1997年だったか?に中国の江沢民主席がハワイで真珠湾記念館で献花して日本を中米共通の敵と宣言し、
ここから反日ブームになり

そしてオバマの時にはG2で、ハワイ以東はアメリカが支配し、ハワイの西側は中国が支配する
なんて言ってたのを中国が「やっぱり良く考えたらハワイもうちのものに欲しい」と言い出し
拒否された中国は埋立工事土木作業に専念
その後
中国の図々しさに辟易したアメリカやヨーロッパはどこやらのオバサンの井戸端レベルのTale-telling外交にもウンザリし

とうとう今年中国外しになりました。


渦中にいると見えないことも
時間が経つと  あれ?ウッソォー!  そういうことだった?  とビックリ。


今やオバマはアメリカの歴史に燦然と輝く有能大統領の1人に決定だそうです。


ただ、この先、どういう展開になっていくかは分かりません。
またもや引っ繰り返るのかも。
G7で日本はいいように利用されることになっただけなのかも分かりません。


これが人間社会なんでしょう。
ましてや古代など談合の世界ですから。


ホントの事を書き残したくても命が掛かってますから事実をほんの少し織り交ぜて書いているだけ。

「ここに書いてあるから」と言われても
書かなかった事、書けなかった事の方がずっと多いと思います。
書いてあることが事実じゃない真実じゃないというのだって有り得るし。

だから逆に面白いです。

とは言え、確認のためにタイムマシンでその時代に連れて行ってくれるとオファーが来たら?
オソロシ過ぎて行きたくないです。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 03時54分47秒 ) パスワード

不比等の奥さん達を引っ張って来ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89

他にもいたでしょうね。


妻:蘇我娼子または媼子 - 蘇我連子の女
長男:藤原武智麻呂 (680-737) - 南家祖
二男:藤原房前 (681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合 (694-737) - 式家祖


妻:五百重娘 - 不比等の異母妹。もと天武天皇夫人               この関係、スゴ過ぎ
四男:藤原麻呂 (695-737) - 京家祖


妻:賀茂比売 - 賀茂小黒麻呂の女(註)                        この方ですね
長女:藤原宮子 (683?-754) - 文武天皇夫人、聖武天皇母

              (註)
               『尊卑分脈』『賀茂系図』による。
               ただし、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、
               年代が合わないとして小黒麻呂の祖父蝦夷の女に比定している。

                      これまたビックリ!



妻:県犬養三千代(橘三千代) - 県犬養東人の女。もと美努王妻で文武天皇と聖武天皇の乳人
三女:藤原光明子(安宿媛、藤三娘)(701-760) - 聖武天皇皇后(光明皇后)、孝謙(称徳)天皇母


生母不明
二女:藤原長娥子 - 長屋王室
四女:藤原多比能 - 橘諸兄室
五女?:大伴古慈斐室[11]



父にも劣らず、血で血を洗う歴史の始まりですね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 04時10分01秒 ) パスワード

鴨蝦夷って蘇我蝦夷とこんがらがりますね。




賀茂氏は桓武天皇が自分よりも日本の名家とおっしゃってるのをどこかで読みました。
でも賀茂氏も複数あったんですねえ。驚きました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F

賀茂氏(かもうじ、加茂氏/鴨氏/加毛氏)
「賀茂(加茂・鴨・加毛)」を氏の名とする氏族。



天神系(賀茂県主)

八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。



氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。



出自に関する諸説

山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。




地祇系(三輪氏族)         ココからワケ分からなくなって行きます

大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。

大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。



平安時代中期には陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、子孫は暦道を伝えた。賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲や儒学者に転じた慶滋保胤がいる。

                   え〜
                   そうだったの?



室町時代には、嫡流が勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代に断絶した。なお、庶流の幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道の宗家の地位を奪われ、中期以降は陰陽助を務めた。



備前鴨(加茂)氏[編集]

平城京跡出土の木簡(735年(天平7年)から747年(天平19年)までの間の木の札)に、「備前国児嶋郡賀茂郷・鴨直君麻呂調塩三斗」 と墨で書かれたものがある。賀茂郷の鴨の君麻呂という豪族が、三斗という大量の塩を奈良に送っており、鴨神社の荘園の預り主であったということが窺える。なお、当時の賀茂郷が現在の荘内と宇野・玉・日比・渋川までの範囲であり、南北共に海に面していた。当時の製塩土器である師楽式土器の分布状態から見ると、南岸で製塩されたものとされているが、下加茂村は北岸という地理的利便性から、こちら側でも製塩されたものと思われる。

鴨直君麻呂との関係は不明であるが、「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる加茂次郎の名前が見え、備前児島半島を東児島、中児島、西児島と分けた中の、中児島に住んだとされる。

1903年(明治36年)まで児島郡に上加茂村と下加茂村があったが、合併して荘内村となった。なお、鴨神社や加茂神社があり、両神社の間を鴨川が流れている。特に鴨神社は平安期初頭に創建され、大和国葛上郡加茂の高鴨神社から味鋤高日子根命を祭神として勧請した。延喜初年の創建とされる児島郡内最古の神社であり、延喜式神名帳では備前国式内23社の内の1社である。

備中連島(戦国時代以前は備前国児島郡都羅郷)の、連嶋町史(昭和31年発行、発行者 連島町誌編纂会)第八章 連島の古城址に、北茂城の城主として、1735年(享保20年)に編纂された『古戦場備中府志』(平川親忠著)巻の五 浅口郡の条下には、当城主に吉備大臣の嫡孫右京太夫光栄としている。伝云、孝謙天皇天平勝宝四年五月賀茂朝臣を賜る、天文暦数を掌る、一家両道を兼ねて宝器を保つ、暦道を以て其子光栄に伝へ天文道を以て弟子安部の晴明に伝う、自此己後両道相分つ云々と記述されている。この伝云う記事は『右大臣吉備公傳纂釈』より引用したものと思われ、重野安繹『右大臣吉備公傳纂釈』(『岡山県通史』上編374頁 編著永山卯三郎)には、或いは伝う陰陽道博士賀茂保憲は吉備公の裔なり、天文博士を兼ね、973年~975年(天延中)に暦を造り暦道を其子光栄に伝へ天文道を安部晴明に伝うとの記事があることから、右京太夫光栄は賀茂光栄であったことになるが、納得し兼ねるとしている。


脚注[編集]

1.^ 『新撰姓氏録』では神魂命の孫とする。
2.^ 『新撰姓氏録』山城神別
3.^ 『古事記』崇神段、『日本書紀』神代上
4.^ a b 『先代旧事本紀』地神本紀
5.^ 『新撰姓氏録』大和神別
6.^ 『大三輪神三社鎮座次第』
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月31日 12時41分00秒 ) パスワード

http://ranking.goo.ne.jp/ranking/category/999/4QXHI9W777et/
2016年05月31日
響きだけでイケメンそうだなと思う苗字ランキング


43位
服部
      はっとり、はとり、はとりべ、ふくべ、ふくい、はった


「ふくい」「はった」というのは意外です。
どうしたら「ふくい」とか「はった」と読めるんでしょう?

    「はった」は「はた」からでしょうか?


【全国順位】 125位
【全国人数】 およそ151,000人

そういう中で43位というのは快挙です。
ま、半蔵のおかげでしょうね。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2016年05月31日 21時38分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 書いたものが二回消えてしまい、意欲・集中力共、飛んでしまいました
……。

 本日は、新居の北の鷲津の本興寺へ行き、そこで予期せぬ発見をしたの
でありますが……。

 窓10対策を少し考えなければなりません……。

 書き込みは明日といたしたいと思いますので、悪しからずよろしくお願
いします―

 
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月01日 00時25分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本興寺に行って驚いたことが五つありました。
 
 一つは、徳川家康公以来の歴代の位牌が祀られていたこと。

 もう一つは、寺の格でありますが、10万石に相当ということです。

 もう一つは、家康の側室の「西の郡局」の位牌、供養塔があったこと
です。

 もう一つは、庭園が小堀遠州によるものだということです。

 さらにもう一つは、墓地にて「服部宗家」の「源氏輪に並び切り竹」
の家紋の刻まれた服部家の墓を一基見つけたことです。その隣には、
和久田氏(大久保の地代官を務めた)の子孫の墓が付き添うように並んで
いたということ。ここから、この服部家は服部中系の可能性が大である
と感じました―

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月01日 02時22分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

瞬殺2回ですか。
ひどい目に遭いましたね。

2回では書く気力も失せますね。
でも翌日にはこうして書いてくださったので感謝です。
ナカナカお若い!
わたくしなんぞ2回も瞬殺されたらいじけてふて寝してしまいます。


今日はあっちこっちネットサーフィングをしてたら突然マイクロソフトの表示が出て
女性の声で「マルウエアに感染したからスグに電話して来い」と言うので
すぐに強制終了させました。
オソロシイ


>家康の側室の「西の郡局」
 
西郷局ではない、ということですか?



>「源氏輪に並び切り竹」

かなり力のあった服部家ということですね。


>この服部家は服部中系の可能性が大であると感じました―

可能性としては場所柄、そうですよね。
服部中の家か服部政信系の家でしょうね。

それか?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%88%88%E5%AF%BA_ (%E6%B9%96%E8%A5%BF%E5%B8%82)


本興寺(ほんこうじ)

静岡県湖西市鷲津にある仏教寺院。法華宗陣門流の東海別院。山号は常霊山(法華経自我偈の一句「常在霊鷲山」にちなむ)。院号は大悲院。本尊は三宝尊。塔頭が四院ある(長勝院、光明院、玉葉院、東光院)。



南北朝時代の弘和3年/永徳3年(1383年)、陣門流の門祖日陣(1339年 - 1419年)が東海地方を巡化していた時、行基開基を伝える古刹高野山真言宗三河国船形山普門寺(愛知県豊橋市雲谷(うのや)町)の末寺であった遠江国薬師堂の僧が法戦を挑んだ。


しかし、この僧の法説は日陣により論破され、僧は大慈悲院日乗(1345年 - 1425年)と名を改めた。この日乗が当寺開山の僧である。


そして、この時より、薬師堂は常霊山本興寺と言う名となり、この地域の法華宗布教の中心となった。
江戸時代は10万石の格式と徳川将軍家の三つ葉葵の使用を許された。

静岡県指定有形文化財の奥書院、湖西市指定有形文化財の山門、中門、千仏堂、客殿など多くの文化財を有する。山門と奥書院は吉田城(愛知県豊橋市今橋町)元大手門であった門と城の御殿を三河吉田藩主の久世氏により寄進されたものとされる。日本庭園があり、小堀遠州の作庭とも言われる。この遠州流庭園は大書院や久世氏の奥書院に映えている。庭園と書院の見学には拝観料が必要である。


本堂の近くに歌碑がある。

「水の音 ただにひとつぞ 聞こえける そのほかはなにも 申すことなし」 北原白秋



こちらは秀忠の母・西郷局の墓@静岡県静岡市葵区宝台院
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月01日 12時56分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 西ノ郡局(にしのごおりのつぼね)とは、三河国西郡(蒲郡 がまごおり)
の城主・鵜殿長忠の娘で、家康の側室としての最初の方だそうであります。
 家康との間に娘の督姫(とくひめ)が生まれ、播州姫路城の城主・池田輝
政の室となりました。
 本興寺には局の墓として、四段の石組みの上に小さな仏塔が建てられて
いました。また徳川家全員をまつる仏壇の最下段に、大久保忠世、鵜殿休
庵、そして西ノ郡局の位牌が並んでいました。大久保忠世の位牌がなぜこ
こにまつられているのかについてはまだ調べておりません。いずれにして
も、家康以下全員の位牌が並んでいるのを見たのは、大樹寺以来のことで
ありました。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月01日 22時30分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。

家康には西郡局って側室がいたのですか。
そしてその娘が北条氏直に嫁いでいたのですか。


確かに「真田丸」でも北条に上洛を勧めに行った家康が、
手切れともなれば「娘を返してもらうことだ」と言ってましたね。

ま、そんなものだろうと流していましたが
ココで家康の次女だった督姫の母が出て来るとは思いませんでした。


と、いうことは
家康にとって正妻・築山殿の次の女性が西郡局で
秀康生母のお万の方はもっと後だったのですねぇ。


信康は家康が満14歳の年の生まれで、亀姫は家康が満15歳の年の生まれ?
その次が督姫で家康22歳の年の生まれで
秀康は家康が31の時の子?
秀忠は家康が満36歳の時の子?


もうビックリ!
勘違いしてました。


ワタクシの先祖は父親が17歳の時に生まれてますが
家康はもっと子供の時に子供が(笑)いたのですねえ。

    今の感覚では子供が子供を作ってた?
    へぇ〜



督姫

永禄8年11月11日(1565年12月3日)- 慶長20年2月4日(1615年3月3日))
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。
徳川家康の次女。
母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子、播磨御前、良正院。



生涯

三河国の生まれ。
松平信康、結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉、松平忠輝らは異母兄弟、亀姫、振姫は異母姉妹にあたる。


天正10年(1582年)、本能寺の変により父の同盟者だった織田信長が死去して甲斐国や信濃国が無主状態となると、
父と北条氏直による甲信地方を巡っての領土争いが始まる(天正壬午の乱)。

当時の徳川氏と北条氏を比較すると、国力面や動員兵数においては北条氏が上回っていたが、黒駒の戦い、信濃豪族の取り込みでは徳川氏が有利という状況であった。

このまま戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦した。

この時の和睦条件の一つとして、督姫が19歳で氏直の正室として嫁いだ。督姫は氏直のもとで一男二女を生む。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。なお、氏直との間の2人の女子は、一人が文禄2年(1593年)に没し摩尼珠院殿妙勝童女と諡され、もう一人は池田利隆室となるが慶長7年(1602年)に没し、宝珠院殿華庵宗春大禅定尼と諡された。

文禄3年(1594年)、秀吉の計らい(仲人)で池田輝政に再嫁した。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。輝政との夫婦仲は良く、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女をもうけた。輝政の死後、姫路城で死去した。享年51。

法名は良正院殿隆譽智光慶安大禅定尼。墓所は知恩院の塔頭・良正院(京都市東山区)。墓は知恩院山腹の墓地内にある。東京国立博物館には法体後の姿を描いた「良正院像」が所蔵されている。

元和2年(1616年)、輝政の長男・池田利隆は継母の督姫の後を追うように死去した。利隆の遺児・池田光政は岡山藩主となり、後に本多忠刻と千姫(秀忠の娘で督姫の姪にあたる)の長女・勝姫を正室に迎えた。




鵜殿 長持(うどの ながもち)

戦国時代の武将。今川氏の家臣。

三河国宝飯郡上ノ郷城

   (現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町、『三河物語』では、西之郡之城とある)
                             なるほどね
                             へぇ〜

主で、今川義元の妹婿に当たる。

弘治3年(1557年)に没して、嫡子・長照が家督を継いでいる。



『三河物語』では、その没年を永禄5年(1562年)としている。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、織田信長方に身動きを封じられた大高城の解放に協力、功を挙げた。しかし、後続の本隊が信長に襲われ、義元が討たれると、三河の自領に逃げ帰っている。その後も、義元の縁戚であった立場に忠実で、三河における今川氏の家臣として忠誠を尽くした。だが、周辺に在った鵜殿の分家は岡崎の家康に与する事となり、今川方の最前線で孤立していった。永禄5年(1562年)には、家康方の攻撃を受ける。先遣の松平清宗などの攻撃は防ぎきるものの、岡崎の本隊が加わった攻城軍には抗いきれず上ノ郷城は陥落。子の長照と共に戦死した。孫の氏長と氏次の兄弟は捕縛され、松平氏により人質とされた。 


                 大変な時代だったんですねえ。



>家康以下全員の位牌が並んでいるのを見たのは、大樹寺以来のことでありました。

驚きですね。

大樹寺と同格つまり、浜松での徳川家の菩提寺、という立ち位置だったのでしょうね。


貴重なお話をありがとうございました。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月02日 07時50分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鵜殿氏との戦い及び関係は、一つのエポックメイキングであった―
 @鵜殿氏の祖先は、熊野別当の湛増であったということ。
 A鵜殿長照の子供二人と、駿府に残されていた築山御前と竹千代・亀姫
 との人質交換がなされた、また上郷城攻めはその目的のためであったと
 いうこと。
 B鵜殿長持の娘が家康の側室になったこと。
 C服部半蔵の初陣とも言われており、手柄をたてた。また半蔵の兄弟も
 三人参加、総勢60〜70人の忍者が城攻めに参加しているということ。
 Dこの手柄により、半蔵は家康と初めて対面しほめられ褒美をもらって
 いるということ。
 Eこの人質交換を境にして、信長の娘と竹千代の婚約がなされたこと。
 F名前を「元康」から「家康」に改名したということ。
 G今川氏からの呪縛がすべてなくなったということ。

 こうしてみると、鵜殿氏というのはただの武将・氏族ではなかった、も
っと深い謎があるような気がいたします―
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月02日 08時49分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


鵜殿氏は今川義元と義兄弟ということで名門だったということですね。

三つ柏さんが整理してくださったので鵜殿氏や家康・半蔵・信長の時代が分かりました。


鵜殿氏

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%B5%9C%E6%AE%BF

現和歌山県と三重県南部である紀伊国牟婁郡鵜殿村が起源(ルーツ)である、穂積氏説、秦氏説、熊野別当族説等がある。

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河にも多くみられる。 


ということは、伊賀や伊勢とも古くから交流があって
平家とも親しかったり敵になったりしてたのかもですね。


ちょっと出掛けます。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月02日 12時52分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 築山殿母子が岡崎に還ってくると、元康は今川家との手切れを通告した
ということです。
 これに逆上した氏真は、築山殿母子の命乞いをした関口親永に腹を切ら
せ、その上、人質にとっていた松平一門や老臣たちの妻子十一人を、吉田
城代の小原資良に命じて、竜拈(念)寺で串刺しの刑に処したということで
あります。
 これにより、弔い合戦が始まり、元康は義元の「元」の字をかなぐり捨
て、新たに「家康」と名乗ったということであります。
 人質として亡くなった人が誰だったかは、まだ調べてありません……。

 そうそう、本興寺で忘れていました……徳川家代々の位牌の前と、服部
家の墓の前にて、般若心経を二巻ずつ捧げてきておりましたこと、付け加
えさせていただきます―
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月02日 13時46分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

般若心経、わたくしの分もありがとうございました。

立派なお寺で、と何か感動するものがございました。
    不思議です。
    何かDNAがそう「感動」していたのです。
    三つ柏さんに関係する人が喜んでいらっしゃったのかしら?
    説明は出来ないです。



>人質として亡くなった人が誰だったかは、まだ調べてありません……。

http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/03/0001.php




桶狭間の戦い以降、松平元康(のちの徳川家康)ら今川氏家臣は当然、反撃を考えていた。しかし、当主・今川氏真は、家臣が弔い合戦を進言すれども、まったく動こうとしなかった。今川家の態度が煮え切らないうちにも、周辺の事態は進んでいった。
 翌永禄4年(1561)には、元康に織田信長との和睦の話しが持ち込まれる。生母・於大の方(おだいのかた)の兄・水野信元に進言された信長が、元康の家臣・石川数正のもとに和睦を申し入れてきたのだ。家康は家臣らと相談の上、氏真と断って信長と結ぶことを決意した。しかし、元康にとって、これは一つの勝負だった。織田氏と松平氏は遺恨浅からぬ間柄であることに加え、家康のも含めて重臣たちの多くが妻子を駿府に人質に取られていたからだ。


         ここですね


事実、今川を離れた形原松平家広(かたはらまつだいらいえひろ)、西郷正勝(さいごうまさかつ)、菅沼定勝(すがぬまさだかつ)、菅沼定盈(すがぬまさだみつ)といった田峯(だみね)・長篠・野田方面の諸将の妻子は、氏真により串刺しの刑に処されていた。



 しかし元康は、氏真と断交すると次々と今川方の諸城を攻める。3月の板倉重定攻めに始まり、8月には三河長沢城に糟谷善兵衛(かすやぜんべい)、9月には本多広孝に命じ三河東条城の吉良義昭を攻めさせている。この年、元康は西三河をほぼ制圧することに成功した。  そして永禄5年(1562)1月、元康と信長の和睦が成り、清洲同盟が締結される。ここからも元康の動きは速かった。2月4日、元康は久松俊勝(ひさまつとしかつ)・松井忠次(まついただつぐ)に命じ、三河西郡城主・鵜殿長照(うどのながてる)を攻め、氏長と氏次の二人の子を生け捕りにした。今川氏真にとって従兄弟にあたる二人の子を連れて、家康の家臣・石川数正が駿府を訪ね、人質交換に成功。妻の築山殿と長男・信康、それに永禄3年に生まれたばかりの長女・亀姫を奪還する。


 時ここに至り、今川から離脱する諸将の動きは止めようもなくなっていた。氏真が「三州錯乱」呼んだ大混乱が三河を支配していた。中心にいるのはもちろん元康である。5月には富河の牧野氏を攻撃して東三河へと侵攻。信長との同盟により、三河一国平定を目指し始めたのだ。そして永禄6年(1563)、元康は名を改める。義元からの偏諱を捨てて、家康と名乗り始めるのだ。松平党の勢いは、誰の目にも明らかになっていた。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月02日 14時05分24秒 ) パスワード

ネットサーフィンをしてたらこんな記事がありました。「呉服山」ですって!・・・・・・・



永禄8年(1565年)、鎮実の籠もる吉田城(同県豊橋市今橋町)は松平家康に包囲された。

北の豊川対岸の下地(しもじ)や東の二連木城や南の喜見寺砦(呉服山喜見寺、同県同市花園町)を押さえられると、
松平軍の和議案を受け入れ酒井忠次より人質を受け取って開城退去した。



豊橋市呉服町の地図を見てたら吉田山龍拈寺?(豊橋市新吉町らしいのですが)がありました。

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%9C%B0%E5%9B%B3+%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E5%B8%82%E5%91%89%E6%9C%8D%E7%94%BA


龍拈寺(りゅうねんじ)は、愛知県豊橋市にある曹洞宗の仏教寺院。山号は吉田山(きちでんさん)。本尊は十一面観音。一色時家の被官で牛窪一色城(同県豊川市牛久保町)主および今橋城(同県豊橋市今橋町)の初代城主であった牧野古白入道(牧野成時)の追善供養のため、子の信成が創建した寺である。

神宮寺、悟真寺とともに吉田三ヶ寺の一つとされ、曹洞宗の東三河における中核寺院である。1945年の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に指定されている[1]。

開山には2説ある。1つはかつて存在した寺院跡地に大永初年頃(1520年代初頭)に吉田(今橋)城主牧野信成が亡父古白のために休屋宗官和尚開山で開かれたという説である。今1つは享禄元年(1528年)に尾張国春日井郡大草山福厳寺(現、同県小牧市大字大草)の盛禅洞奭和尚を開山とし、城主牧野信成が亡父古白23回忌の追善のため休屋宗官和尚により始められたと言う説である。いずれの説にしても牧野信成が亡父古白入道追善供養のため休屋宗官和尚により開かれた寺である。

牧野信成は、三河国岡崎城の松平清康によって吉田(今橋)城の対岸の地である宝飯郡下地(しもじ。現、豊橋市下地町)に火を放たれたために城のある渥美郡側から豊川を渡って宝飯郡側の下地へ出陣し戦死して果て、また、当寺へ葬られた。

この時点では牧野氏(三河国宝飯郡牧野城〈同県豊川市牧野町〉より発する)の菩提寺であるに過ぎなかった。


     牧野氏って丸に三つ柏紋ですよね?


海道一の弓取りと謳われた今川義元は桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)で横死し、部下であった松平元康(清康の孫)は自立した。これに怒った跡継ぎの今川氏真は吉田城代小原(大原)肥前守鎮実に松平側についた人質の処刑を命じた。これを永禄4年(1561年)、当寺院口で処刑を行った。一説には串刺しと言う。埋葬されたのは寺から離れた中野新田で、後に十三本塚(処刑された人数は11〜14名と説が分かれる)と名づけられたという。ただし、その十三本塚の場所は異説が多く特定が難しい[2]。



その松平元康も徳川家康と名を改め因縁の地の下地の聖眼寺で牧野家の金扇を馬印にし時の天皇(後陽成天皇)より征夷大将軍の宣下を受けて天下泰平の世が築かれると、三河国吉田城下で吉田山龍拈寺は隆盛を誇った。末寺36、塔頭4院を擁し、朱印25石、興徳寺20石を合わせると45石を有した。吉田三ヶ寺に数えられ、神宮寺(天台宗)・悟真寺(浄土宗)とともに三河吉田藩では代表する寺院であった。

明治以後[編集]

寺院の広さに目をつけられ、1873年(明治6年)羅漢堂を小学校に用いられた。日清戦争の時は俘虜収容所として用いられた。

1929年(昭和4年)には宗の専門僧堂が開設され、多くの修行僧を送り出した。そして、豊橋仏教会経営の幼稚園を境内に移して、1939年(昭和14年)龍拈寺の経営にした(現在の豊橋中央幼稚園、旧名は豊橋幼稚園)。

1945年(昭和20年)6月、豊橋空襲に遭い、山門を除く全伽藍が炎上した。



豊橋なら近いじゃありませんか。
どこかで丸に三つ柏紋が見られると良いですね。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月03日 06時30分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、所用あって磐田の秋鹿氏の関係者(知人)を訪ね、泉蔵寺に行って
秋鹿氏の位牌、五輪塔、を拝んでまいりました。秋鹿氏との距離感は非常に
縮まりました。広隆寺で見た秦河勝夫妻の木彫りの座像に似たものが、泉蔵
寺の仏壇もに置かれておりました。秋鹿氏の祖先をたどると、敏達天皇に行
き着くそうであります。
 この知人は、秋鹿氏の直接の関係者でなく、後醍醐天皇の第十一子の奥山
方広寺の無文元選につながる人であります。
 泉蔵寺は秋鹿氏が開基となっています。知人の祖母方の在所になるそうで
あります。
 私の住む善地は、江戸時代後期まで天領でありました。中泉にあった代官
所の管轄で、秋鹿氏も代官をしておりました。
 秋鹿氏は羽鳥の地頭もしていましたので、その北のはずれの善地とも関係
があったものと推察しています。
 そんな親近感を感じながら、秋鹿氏の苔むした大きな三つの五輪塔の前で、
手を合わせ、目をつむり、遠い過去の奥底に向かって、般若心経を二巻唱え
てまいりました―
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月03日 10時41分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 人質を串刺しにしたという行為……むごいこととは思いますが、戦国の
世の中ゆえ、何でもありということでしょうか……。
 この人質の中に「菅沼氏」の一族がいた……菅沼氏の出自は土岐氏とも
いわれ、明智光秀につながる可能性があります。とすれば、服部保章(正
尚の従兄弟)ともつながる……。

 元信が今川方だった時、「大高城兵糧入れ」を行った。その時、城を守
っていたのは、「鵜殿長照」。たしかこの時、「服部左京介」がからんで
いると思いましたが……。
 続いて「丸根砦攻略」で佐久間盛重を討ち、その後元信は大高城に入る。
大高城は熱田の南二里(8q)の所にあって、織田領に食い込む形の危険な
最前線基地であった。
 元信が大高城に入城すると同時くらいに、今川義元の軍が大高城へ寄る
ために向かっていた。が、どういう訳か、途中で桶狭間に道を替えてしま
い、そこを信長に奇襲されてしまう。
 大高城にいた元信は、風前の灯であったが、信長は大高城を攻めず、清
州へ帰ってしまい、難なくをを得ています。

 その後の話でありますが、鵜殿氏の娘、西ノ郡局と家康との間にできた
督姫が北条氏直に嫁いだ時、例の秋鹿家の「秋鹿政朝」は付属して小田原
に行ったということであります。秋鹿一族も、武将として活躍していたこ
とがわかります。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 13時06分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

秋鹿家ですか。「あいか」さんですね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html

名家中の名家、ですね。
殿の馬前で討ち死にするのが当時の最大の武士の花道ですね。


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


 秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。
 
朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。


 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。


 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。


 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。

■府八幡宮(ふはちまんぐう)

 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 13時12分30秒 ) パスワード

レス16に出て来た西郷正勝

秀忠の母である西郷局の祖父なのは知ってましたが
菅沼氏と親戚になるんですねえ。知らなかったです。遠い親戚だろうとは思ってましたが。

西郷氏も菅沼氏も一族で妻子が処刑されていたんですか。
本当に物凄い時代を共にしたのですねえ。
ものすごい思いがこみ上げます。


    西郷氏には服部正尚が絡みますから、本当に日本人は回り回ってみんな親戚になりますね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%AD%A3%E5%8B%9D

西郷 正勝(さいごう まさかつ、生年不詳 − 永禄5年(1562年))は、戦国時代の東三河八名郡の国人領主・武将。西郷正員の後継。正室は菅沼定村の姉。通称、孫三郎。弾正左衛門。西郷元正・西郷清員兄弟の父。西郷局は外孫。

西郷正員の後継ではあるが、親子なのか、兄弟なのか、明確ではない。

三河国の支配力を強める今川氏に従っていたが、主家からの期待は少なくなかった模様。娘を遠江国の戸塚忠春に嫁がせているのは、今川氏の下命があったものと考えられる。一方で嫡子・孫六郎には、今川義元の一字・元を許されている。

永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川氏が大敗すると松平元康(徳川家康)の調略に応じ、設楽貞通・菅沼定盈等の他の東三河国人衆とともに松平氏に転属し、今川氏を見限った。だが、今川氏の勘気は、吉田城に捕らわれていた人質・甥の孫四郎正好らに向けられる。そして、東三河諸豪族が差し出していた人質たち13人は、城下の龍拈寺で串刺し刑に処せられた。

永禄4年(1561年)、月ヶ谷(わちがや)城(愛知県豊橋市嵩山(すせ)町)を嫡男元正に譲り、五本松城(同県同市石巻中山町、西郷校区)を築城して三河西郷氏の本城とする。

永禄5年(1562年)、三河国の東端を領有していたのが災いし、遠江国からの今川軍に攻められる。防戦するものの多勢に無勢。長男・孫六郎元正は討死。自身も居館・五本松城館に火を放って、自害した。
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月03日 16時04分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家康は四回名前を変えていますので、それに合わせた時代考証をして
行かなければなりませんでした。ひょっとして今まで間違っていたかも
知れません。

  @竹千代
  A元信――14才の時。元服。「元」は今川義元より。
  B元康――16才〜17才。「康」は祖父の清康から。
  C家康――22才で信長と「清州同盟」を結んだ時。
       義元の「元」を捨てる。

 さて、菅沼氏についてでありますが、
 サイト「皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集」 
 http://jiyodan.exblog.jp/18035502/
によりますと―
 「明智氏(あけちうじ)
  明智氏(あけちうじ)は、清和源氏流・摂津源氏の流れを汲む土岐氏の
支流氏族で、南北朝時代の美濃国守護・土岐頼貞(土岐氏としての美濃
 国守護初代)の九男・土岐九郎頼基の子・明地彦九郎頼重の後裔とされ
 る。
 発祥地は現在の恵那郡明智町だが土岐宗家五代・土岐頼遠の岐阜長森
 移転に伴い、明智宗家は明智庄(可児市)へ移転した。

  室町時代、明智氏は足利幕府に直接仕える奉公衆を務め、代々可児郡
長山の明智城に拠ったとされており、戦国時代には明智光秀(あけちみ
つひで)が出た事で著名となる。

つまり明智光秀の方が、織田信長の平家より遥かに源氏の本流に近く、
言わばバリバリの血統書付きだった。

本能寺の変で主家・織田信長を死に至らしめ、羽柴秀吉との山崎の戦
いで滅んだ明智氏だが、江戸時代に沼田藩主となった土岐家は、自称・
 明智氏の流れである。

  上野国(群馬県)沼田藩主土岐家の祖・土岐定政(ときさだまさ)は、
 安土桃山時代の武将だった。

  父は土岐頼芸の臣・土岐明智定明、母は三河国・「菅沼氏の娘」と伝
 えられる。

定政(さだまさ)は美濃多芸郡に住したが、千五百五十二年(天文二
十一年)土岐氏主流滅亡の際、父・明智定明が戦死した。

為に二歳で母方の実家を頼って三河に移り外祖父・「菅沼定仙(すが
 ぬまさだのり)」に養われて成長した後、駿河から戻った徳川家康に仕
 えた。

この仕官にあたり、「明智光秀と同族」である事を憚(はばか)って、
 養家 の「菅沼」を名乗り菅沼藤蔵と称したとされる。

以後、菅沼藤蔵は徳川軍に在り、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で
も軍功を挙げ、後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に一万石
を与えられた―

 ということで、菅沼氏は、明智光秀の謎にからんでいると思われますの
で、注意して調べて行きたいと思います。

 一度、菅沼一族の系図を見てみたいと思います―
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 22時39分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

>菅沼氏は、明智光秀の謎にからんでいると思われますので、注意して調べて行きたいと思います。

はい
わたくしもアヤシイと思いました。



>江戸時代に沼田藩主となった土岐家は、自称・明智氏の流れである。

江戸時代に「明智」がらみというのは儒教の世に弑逆がらみになりますからのは矢張りマズイですよね。

   北条とか今川あたりなら決着が付いているから、隠しようがありませんが
   明智だったら。。。信長を殺しているんですから。

とはいえ春日局が徳川家の、それもいずれ将軍になる人の、乳母になっているんですから
やっぱり  家康と明智の関係が  アヤシイ  ですね。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 22時41分34秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B2%BC%E6%B0%8F

菅沼氏(すがぬまし)

本姓は源氏であり、家紋は菅沼三つ目(元は丸に釘抜き紋を使用、寛政系図には江戸初期に六ツ釘抜き等に変更とある)など。

来歴[編集]

菅沼氏の出自は諸説あるが、美濃守護職を務めた土岐氏の一族を称している。一説には土岐頼康の曾孫定直が三河国額田郡菅沼郷に移り住んで、菅沼定直と称したことから始まるとされている。菅沼氏の一族は東三河を中心に広く分布し、島田菅沼氏のほか、有力支族として野田菅沼氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏などがあった。

特に野田菅沼氏の菅沼定則は、当初今川氏親に属して遠州攻略戦に協力したほか、松平清康の宇利城攻略戦にも協力し、東三河の有力氏族としての地位を獲得していく。また、野田城を築いたのも定則である。その後、菅沼氏は三河へ進出してきた今川氏に従うが、定則の孫定盈の代になり、独立を果たした松平元康に他の支族とともに従った。その後、家康と武田信玄の戦いの中で菅沼一族の多く(菅沼定忠など)が武田方に寝返る中、定盈は野田城の戦いでは捕虜となるも、家康に忠節を尽くした。

その後、徳川家康の関東転封に従って、菅沼一族も関東に移住したが、この時、定盈のみが上野阿保藩を立藩している。その後、江戸時代に入り、この定盈の系譜が大名となり、阿保藩から伊勢長島藩、近江膳所藩、丹波亀山藩に転じたものの、菅沼定昭の代に無嗣改易となった。しかし、定盈以来の功績により、定昭の弟・定実に7,000石を、同じく弟・定賞に3,000石をそれぞれ新知され、旗本として家名の再興が許されている。特に定実の系譜は交代寄合として、菅沼氏に所縁のある三河国額田郡新城に知行されている。

また、その他の一族も越前福井藩主となった結城秀康の家臣となった一族や、紀州藩主となった徳川頼宣の家臣となった一族などがいる。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 22時43分10秒 ) パスワード

系図


[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 23時01分38秒 ) パスワード

レス<24>の新城ですが


土地勘ゼロ・方向音痴のワタクシには三河国額田郡新城って?と思いましたが
  検索しましたら現在の小さな西三河の額田郡とは違い
ムカシの額田郡は広大でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A1
明治2年(27町1駅184村) 6月24日(1869年8月1日) - 三河県の管轄区域が伊那県の管轄となる。
8月7日(1869年9月12日) - 任知藩事により、吉田藩が豊橋藩に、府中藩が静岡藩にそれぞれ改称。
下六名村の一部が分立して中六名村となる。
西明大寺村が下明大寺村に合併。

明治4年 6月2日(1871年7月19日) - 竜岡藩が廃藩。領地が伊那県の管轄となる。
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が岡崎県、西大平県、豊橋県、野村県、静岡県の管轄となる。
11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により全域が額田県の管轄となる。


         想像を超えてました。





菅沼 定実(すがぬま さだざね、寛永6年(1629年) - 元禄4年11月4日(1691年12月23日)

交代寄合の初代新城領主。丹波亀山藩主・菅沼定芳の子。菅沼定昭の異母弟。

母は父の継室三次一任の養女(一任の孫娘)。

はじめ定治とも。通称、主水。摂津守。妻は信濃松本藩主・水野忠清の娘。子に定易。


丹波亀山では、総石4万1,100石から2,000石を分給されていたが、異母弟・定賞へも1,100石を分与されている。

正保4年9月21日(1647年10月18日)、藩主である長兄・左近将監定昭が死去。兄に嗣子は無く、また定実ら弟達も兄の継嗣と登録されていなかったため、菅沼氏は一旦無嗣改易とされる。


のちに、神君・家康を支え続けた菅沼定盈(定実らの祖父)の功績を鑑みた幕府から、特別の計らいを受ける。定実は幕府から改めて1万石を拝領。封地は祖先に縁ある三河国設楽郡新城と定められた。この1万石ならば大名であるところを7,000石のみ自領とし、残り3,000石を弟の定賞に分知。交代寄合となった。

新城に封された定実は茶人としても知られるなど、風流を愛する人物だった模様で、新城城に近い豊川の畔に桜の木を植えさせている。それが現代では桜淵公園として、奥三河の桜の名所として知られるようになっている。                
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月04日 09時21分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 系図ありがとうございます。

 菅沼氏と明智氏のつながりを調べたところ、「源頼光」の十代孫の
「頼貞」の子供、「頼清」と「頼基」にて<菅沼系>と<明智系>に
分岐しておりました。よって同族ということになります。

 井伊谷三人衆の「菅沼忠久」も菅沼系の分かれ・同族であり、定盈
により、今川方より徳川方に付いています。
 一時は井伊直政の下に組み入れられるも、孫の代で旗本として独立
しております―
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月04日 14時04分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「頼貞」の子供、「頼清」と「頼基」にて<菅沼系>と<明智系>に分岐しておりました。
>よって同族ということになります。


はい。
兄弟は他人の始まりとは良く言ったものです。



土岐頼芸の家来だった斎藤=別名長井・松波・西村など=道三の正妻(信長の妻の生母で、光秀の叔母)が 明智出身の「小見の方」 というのは、
これまた不思議です。

小見の方(おみのかた、1513年(永正10年)[1] 〜 1551年(天文20年)[1])は、戦国時代の女性で、斎藤道三の正室。[2]

    なぜ「オミの方」なんでしょうね。



美濃国明智長山城主明智光継の娘(長女または三女と伝わる)で明智光綱の妹[3]。
道三との間に帰蝶(織田信長正室)[4]、孫四郎(龍元)、喜平次(龍之)、末子の斎藤利治(長龍)らをもうける。[要出典]
明智光秀は甥にあたるとする説[5]がある。


生涯[編集]

江戸時代に編纂された『美濃国諸旧記』によれば、明智光継の娘として生まれる。天文元年(1532年)、長井規秀(のちの斎藤道三)に嫁ぎ、天文4年(1535年)に女子(帰蝶)を儲けた。天文20年(1551年)3月11日に肺病により死去。既に亡くなったことになっているが、『言継卿記』(山科言継の日記)には、永禄12年(1569年)8月1日付の日記に信長が(信長本妻の)姑に礼を述べるため会いに行くと記述があるため、当時の資料であるこちらの方が信憑性があるのでこの時点ではまだ存命したと考えられる。




道三子孫
江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。
井上家は長井道利の子孫、松波家は道三の子、松波政綱を祖とする。
江戸町奉行を務めた松波正春が著名な子孫である。


道三の娘は稲葉貞通に嫁ぎ、稲葉典通を産んだ。
典通の子孫からは臼杵藩主となり幕末に至った者、皇室へ血を繋げた者、公家へ血を繋げた者などがいる


(斎藤道三 - 娘 - 稲葉典通 -(略)- 稲葉知通 - 稲葉恒通 - 娘 - 勧修寺経逸 - 勧修寺ただ子 - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - 明治天皇 - 大正天皇 - 昭和天皇 - 今上天皇)。

    すごい!
ここを見てると周り回って春日局に繋がっていくなぁと。日本ですから。笑


    それに我が家も土岐氏につながるなぁと。日本ですね。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月05日 17時15分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、西尾市に行き、ただいま戻ってまいりました。走行距離220
q。収穫は少しあり。
 これから2時間ほど用事につき、その後で記します―
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月05日 21時50分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

西尾ですか。

西尾市役所のある所が今川氏のもともとの出身地です。
吉良の息子が今川氏になり
この今川氏が東に進出して東海一の弓取りになって行った、と。


でも何故に西尾?
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 00時10分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の西尾行きの目的は、まずは一色の「うなぎ」であります。「兼光」
といううなぎ屋さん、元々はうなぎの養殖・加工会社でありますが、何年
か前から店を始め、味ももてなしも絶品であります。浜松のうなぎとどう
違うかというと、浜松にも同じ焼き方をする店もありますが、一般的には
一度蒸して油を落としてから焼く(関東風)……従って食感がやわらかくク
リーミーであります。一方、一色のうなぎは、蒸さずに焼く(関西風)。従
って表面がパリパリした食感で香ばしい。
 特に、兼光のうなぎはすべてにこだわりのノウハウがあり、しかもうな
丼の松・竹・梅の「竹」で2150円である。味と値段で2倍お得という
訳であります。一度食べると必ずまた食べたくなり、わざわざ遠くから行
くことになります……。
 
 一色に住み一色氏を名乗った祖は、清和源氏流足利宮内少輔泰氏の子、
公深であります。一色阿闍梨と称したそうであります。
 また、公深の11代孫に以心崇伝=金地院崇伝がおります。藤堂高虎
の奥方の縁戚であります。天海と並ぶ家康の側近であります。
 この一色氏、注目に値します―
 
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 00時24分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 西尾市は一色町も吉良町も含みますので、西尾というと西尾市の中心を
いうことになりますね。少しややこしいです……。昔は西条と言ったそう
です。東条という所もありました。

 一色には、もう一つの目的がありました。それは、服部氏族が結構いる
ということで、その墓探しであります。
 時間的な制約から、二カ寺を訪れました。

 深夜になってしまいましたので、その話は明日にいたします―
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月06日 02時39分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


宮内氏
どこかで・・・目にしたような・・・
思い出せません。

     最近です
     ここ1か月以内
     なのに記憶に曖昧です。

     その時に「宮内ってクナイでもあるなぁ」と思い、
     更に後で出て来そう、という予感もありました。

     そして本日出ました。汗


日本の名字は複雑怪奇で、脳の退化もあって今ではなかなか記憶に留まらないのが残念です。



西尾は一色とか吉良とか幡豆とかも意識に入れていないといけないので
ワケ分からなくなります。
あ、そうそう額田も忘れてはいけなかったです。

この辺りは足利幕府の息のかかった家が多いし、更に、徳川幕府の重臣達の出身地でもありますし。


松平・近藤・鳥居・土井・榊原・井上・本多・稲葉・中根・平岩・その他思い出せない名字や、途中で逃げた石川も多いですね。

ふつうに松平なんて名字の知り合いがいたりします。


昔、西尾で鰻丼を500円で食べてたことがありますが、
   ワンコインランチ時代
確かに美味しかったですが焼き方の違いって気づかなかったです。名古屋はどっちなのかも知らないです
   大食ですがグルメ系じゃないので舌よりも胃が満足する方に重点を置いているので。
   お店には張り合いの無い客です。すみません


西尾に石川重機という会社だったかがあって、そこのご主人が博愛主義者ということで、ハワイにまで知られていますが
今は息子さんの代でしょう。
三河で石川姓では肩身が狭いんじゃないかと思いますが、逆に、博愛主義者になったんだろうな、と思いました。



一色の服部氏ですか?
どんな家紋でしょうか?
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 06時35分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 西尾市(広い意味)に行ったのは、一色の「うなぎ」(名古屋も焼き方は
関西風、香ばしい)を食べに行くということが一つ、一色の服部氏探しが
一つ、吉良の吉良上野介に触れたいというのがもう一つの目的でした。
 なぜ吉良かというと、先日、旅行で西尾から来ていたグループと知り合
いになって、吉良の殿様のことに興味がわいていたというのが伏線として
ありました。また、245号線で一色、碧南等へ何回か行っておりますが、
吉良町はいつも素通りしていたので、いつか探索をしてみたいと思ってお
りました。但し、今回は吉良上野介の菩提寺(西尾)の方にターゲットをし
ぼりましたので、吉良町の吉良氏の関係箇所は訪れておりません。吉良氏
は吉良町に行けばすべての関係施設・遺跡があると思っていたのですが、
何で西尾に菩提寺等があるのかという疑問については、まだ探求なかばで
あります……。
 これらの話については、また後でいたします―
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月06日 08時30分39秒 ) パスワード

華蔵寺のことですか?

幡豆郡吉良町の住所が今は 444-0531 西尾市吉良町岡山山王山59 なんですねえ。
あの平成の大合併がありましたからね。


吉良町(きらちょう)
愛知県の中南部にあった町である。
2011年4月1日に西尾市に編入された。

吉良の名は八ツ面山(やつおもてやま)に産する雲母(きらら)から。
中世の領主は、足利氏族の東条吉良氏であった。


   土地勘が無いのですが
   八面山ってワタシには元々から西尾市内でしたが
   ということはムカシは西尾が吉良の内だったということでしょうね。
   へぇ〜


   何故なら今川氏は吉良氏の出ですから。
   今川家のおかげで西尾が吉良より栄えてしまったのかもですね。

      ムカシは  吉良 > 一色 > 西尾だったんでしょうね。
      一色は足利尊氏の乳母で足利一族の一色氏ゆかりですね。

             一色氏(いっしきうじ)
             清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む日本の氏族。足利氏の支族である武家。

             足利泰氏の子・一色公深を祖とする。
             三河国吉良荘一色(現・愛知県西尾市一色町)を本貫として、一色氏を名乗った。
             異音異姓に一色田(いっしきだ)がある。

             当初は九州探題として筑前に下っていたが、後に畿内周辺に戻り
             若狭国・丹後国・伊勢国・志摩国・三河・尾張国2郡(知多郡・海東郡)5ヶ国2郡の大守護になった。
             また室町幕府においては侍所の所司を勤め、足利一門であることから四職の筆頭として将軍家に重用された。

                       ここから更にややこしくなって行きます:

             他に
             清和源氏頼光流土岐氏にて、土岐頼益の養孫である土岐成頼3代孫である土岐頼栄の子孫が一色氏を称する。


             足利氏の支族である吉良氏の吉良満義の子である吉良有義の子孫が一色氏を称する。

             足利氏の支族である吉良氏の吉良義定の子である吉良定堅の子孫が一色氏を称する。

             藤原北家良門流の勧修寺流の流れを汲む、犬懸上杉家上杉憲藤の孫である上杉教朝の子、
             上杉政熙の子孫が一色氏を称する。

             菅原氏流唐橋家にて、唐橋在通(足利義昭より偏諱の授与を受けて一色昭孝とも名乗る)の子である在種の子孫が一色氏を称する。






高家吉良家の菩提寺

華蔵寺(けぞうじ)

山号を片岡山(へんこうざん)といい、吉良上野介義央公の曾祖父である吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父義安の菩提を弔うために慶長五年(1600)に創建した臨済宗寺院です。

吉良家墓所には義安以下、代々の墓が建ち並び、毎年、吉良公の命日である12月14日には毎歳忌(まいさいき)法要が行われ、たくさんの参拝客が訪れます。
御影堂には吉良義央公の木像(県指定文化財)が、義安像、義定像と並んで祀られています。義央公50歳の姿を刻んだものといわれ、自ら彩色を施したと伝えられています(普段は非公開)。また、吉良家ゆかりの文化財を数多く所蔵しています。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月06日 08時38分31秒 ) パスワード

>何で西尾に菩提寺等があるのかという疑問については、まだ探求なかばであります……。


西尾の菩提寺の謎の一端が解けましたでしょうか?
それとも他のお寺でしょうか?



吉良や一色より(今川氏ゆかりの)西尾の方がいまや大きくなってしまいましたね。

ほんの数十年前は西尾は人口1万とかの農業専門の零細市でしたが
1970年代にデンソーが岡崎との境に引っ越して来て
人口4万になり
更に今はもっと大きな市に発展していますね。

本家より分家の方が豊かになって逆転してしまった。
不思議ですね、人間の世界って。

吉良の人には(うちの方が・・・)という思いがあるのかもですね。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 09時40分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 2つ訂正がございます。
 @吉良家の菩提寺「華蔵寺」は、「吉良町」の山すそにありました。
 西尾市には間違いないですが、西尾ではなかったです。
 A245号線→247号線

 一色に何ケ寺お寺があるかわからないけれど、おそらく10寺は越す
と思います。どこに服部家の墓があるかは行ってみないとわからない。
今回は247号線沿線沿いにある2ケ寺を訪ねました。

 一つ目は、地図にも掲載されている「赤羽(あかばね)別院親宣寺」で
あります。場所は一色町赤羽上郷中14番地。
 行ってみて驚いた。そう、南禅寺の三門(山門)を思い起こさせる巨大
なものでありました。
 門前に由緒書きがありました―
 「赤羽根古城跡
  赤羽根城は、平安末期(1159)より平遠衡(とおひら)とその末裔が治
 めたといわれ、その後の伝承では吉良氏の統治下となり、応永二十一
 年(1414)には高橋四郎高宗が城主となった。
  最後の城主と思われるのは、高橋出羽守政信であり、今川氏の勢力
 下にあった頃、東条城主吉良義昭に属していたため、永禄四年(1561)
 西條城主酒井勢(松平元康の家臣)に攻められ、落城した。
  その後、政信の一子(洞山祖誕上人)は、一族の菩提を弔うため、城
 跡の東南隅ら瑞雲寺を創建した。瑞雲寺にある金石文には、その古城
 との因縁について記されている。
  天和三年(1683)御判地争論御許絵図にも、この地は城跡と記載され
 ており、地形・伝承等によれば、居館を構えた館城であったことが考
 察される。」
ということであります。
 赤羽根というと、渥美半島に「赤羽根」という所があり、赤羽根港が
有名であります。両赤羽根に何か関係があるのかどうか、興味深く思っ
ています―

 歴史はおもしろいもので、掘れば必ず水が沸いてくる。それは過去の
歴史という水源であります。掘れば掘るほどこの水は地下水脈でつなが
り無限に沸いてくる……そんなイメージを今回、この赤羽根城の高橋氏
からもうかがえました。即ち、高橋氏は「足助氏」の一族とのこと。
「南朝」の忠臣。また、1514年に「遠江曳馬城」を攻めて今川氏と戦い、
討死しているとのこと……。
 
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 09時55分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差いたしました。一色・西尾等についての解説ありがとうご
ざいます。一色という名は何か気になる名前です。西尾という名前は、私
の住む所の西の東美薗という所に点在しています。一色という地名は浜松
にもあり、名前も珍しいですが、浜松にもいます。名前のルーツは何なの
でしょう?
 いずれにしても、いただいた情報、読解させていただきます。

 「宮内」という名前、「クナイ」云々の話、気になります……?
「宮」を中心にして、「内」か「外」か、はたまた「下」か「原」か……。
 私が京都にいた時、山梨出身の「宮内」さんという方と知り合いになり
ました。「武田節」を得意としておりました―
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月06日 15時24分03秒 ) パスワード

の青海のあを様

 赤羽の赤羽別院は浄土真宗のお寺でした。墓地に行き墓標に刻まれた
名前を見ますと、服部家は残念ながら見られませんでした。その代わり
に「高須」のオンパレードでありました。浜松の知り合いに高須君がお
り、ルーツはこちらかと思った次第であります。
 この高須氏、調べてみると意外な事実が浮上してまいりました。
 それは、サイト「高須家のなりたち」
http://www.takasu-foundation.or.jp/prof/human/history.html
の中にこうありました―
 「徳川家康に施した懸命な介抱が、高須家のはじまりとなった。
  本能寺の変が運命を変えた!?
  高須克弥が生まれた高須家は、愛知県三河にある一色町。代々、医
 を生業としてきた家系だが、そのはじまりをたどると、史上最大のク
 −デターとも言われる「本能寺の変」につながる。
  時は天正十年六月、京都本能寺に宿泊していた織田信長を、家臣で
 ある明智光秀が襲撃、信長を死に至らしめた。
  天下を確実にするために光秀が次に狙うのは、この時少数のお伴だ
 けを連れて堺にいた徳川家康。狂気と化した光秀の襲撃から逃れるた
 め、家康は自らの居城のある三河の岡崎を目指した。光秀の追手をか
 わしながら三河湾を船で渡り、命からがら上陸したのが現在の愛知県
 一色町。傷を負っていた家康に、この地でまさに運命的な遭遇をした
 のが、高須家の祖となる小四郎だった。
  小四郎は傷を負っていた家康を懸命に介抱。その甲斐あって、家康
 は、体調を取り戻すことができたのだ。家康は感謝の意として、小四郎
 に庄屋としての地位と「高須」という苗字、家紋を与えた。」
ということでございます。
 掘れば湧いて来る歴史の井戸でありました―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 06時08分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>平遠衡

バリバリの平家一門ですね。本姓伊勢平氏俗姓鷲尾遠衡。


名字由来ネット:鷲尾氏

・朝廷に仕える公家鷲尾家は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)末茂流がある。

・桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)貞盛流、千葉氏流、多々良氏などにもみられる。
                                                               ココですね

「尾」は接頭語か、小さい開発地の意味。

                この鷲尾氏の場合は「接尾語」ですね。





http://nature1818.jp/nishio/
愛知県西尾市一色町赤羽      (赤羽の元の意味は  赤い粘土 なんですって)

 西尾市は愛知県の南西部にあります。西の境を矢作川が流れ、南は三河湾に面し、市内中央を南北に矢作古川が縦断しています。松平六万石の城下町として栄え、明治以降も西三河南部の中核都市として発展してきました。

 江戸時代から続く西尾祇園祭、愛知こどもの国、三河湾の海水浴、潮干狩り、家族で遊ぶリゾートがたくさんあります。


                 ムカシ、ここへ潮干狩りに行きました
                 へぇ〜


 海と豊かな自然に囲まれた一色町の西北に赤羽があります。
 赤羽根城址もありました。



 赤羽の地名がある幡豆郡一色町は、合併により2,011年4月1日から、幡豆郡吉良町・幡豆町と一緒に西尾市に編入されました。

 赤羽とその隣接する大字を地図上でなぞってみると下に向かって進む愛らしい「カタツムリ」の姿が見えてきます。赤羽は赤いねばつく土の洪積台地とよばれる3万年前に形成された台地で、古代矢作川による堆積物でつくられています。土器が出土して弥生時代から人々の住んでいた跡が残っています。


  平安時代までは、赤羽辺りが島であり、南北朝時代の終わりに陸続きになったと推定されています。



 書物、古文書、口碑伝を見ると「赤埴の里」「赤羽根の庄」「赤羽の庄」「赤曽根之里」「赤羽禰」「赤曽根」と書かれたものが見られます。
赤埴とは、赤粘土で、羽根は埴の当字と思われます。


                                                 「赤羽根」の意味は  ↑  「赤い粘土」



 赤羽根古城跡は「三河国名所図絵」に「赤羽西尾城古老云々、平遠衡は赤羽の城主也と云、又西尾の古記に鷲尾遠衡は赤羽根の城主と見えたり」とあります。



 真宗大谷派の本山、東本願寺直属の別院である赤羽別院親宣寺は、土地の人から「御坊さん」と呼ばれて親しまれています。山門の前に赤羽根城址碑と案内板がありました。

江戸時代の始頃の明暦2年 (1656年 ) に書かれた「西尾草創伝」に「平遠衡は赤羽之城主也と云」とあります。


 南北朝期には、吉良氏から分家した一色氏が城主となり、応永21年 (1414年 ) に高橋四郎高宗が城主となってます。永禄4年 (1561年 ) に西条城主酒井氏に攻められて落城しました。

 弓取り川の河口にある赤羽は織田・今川の両勢力の接触点で、戦略的にも重要な地点であったため、城を築いたと創造できます。


 若一神社は熊野本宮退社を本宮と仰いでいます。赤羽根城址・若一神社・伊良湖岬が南北の線上に位置しています。意図的に奉場や建物を配置したものと考えられます。


源平あたりからの歴代三河守


藤原顕頼(従五位下):永久2年(1114年)任官
源資賢(従五位下):天承元年(1131年)任官
藤原顕長(正五位下):保延2年(1136年)任官
藤原俊成(従五位上):久安元年(1145年)任官


                                         この辺りに赴任したのでしょうね

平頼盛:保元3年(1158年)10月任 - 平治元年(1159年)12月、尾張守に転任。
平知度:治承3年(1179年)11月任。


源範頼:元暦元年(1184年)8月6日任、『平家物語』[2]。
世良田頼氏:鎌倉時代中期の上野国の武将。松平氏・徳川氏につながる世良田氏の祖
宇都宮貞綱:鎌倉時代中・後期の武将。宇都宮氏第8代当主
宇都宮貞泰:鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。貞綱の弟
河越高重:鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。武蔵河越氏8代当主
徳川家康:三河国の戦国大名。後の征夷大将軍[3]。
以下の者は「歴名土代」で確認できない。 織田信秀:戦国時代の武将、信長の父[4]。
今川義元:駿河国・遠江国の戦国大名[5]。



三河掾

大江俊言:大治4年2月(1129年)任(少掾)。
中原有継:久寿(1154年)元年1月任。
藤原政親:治承2年(1178年)1月任(大掾)。
三善助道:養和元年(1181年)3月見(掾)。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 06時33分03秒 ) パスワード


http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akabane-jo.html

三河 赤羽根城
Akabane castle

親宣寺・一色高校【愛知県西尾市一色町赤羽字上郷中14】
     安休寺【愛知県西尾市一色町一色字中屋敷2】       安休寺が一色氏発祥の地だそうです。



【立地】平城
【別称】赤羽根古城・赤羽城

【町指定史跡】

【歴史】築城年、築城者は定かではない。1159年平〔鷲尾〕遠衡がこの地を治めたことに始
まる。その後、吉良氏5代満貞の弟一色左京亮有義、1414年高橋四郎高宗が城主となる。1
560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、1561年東条吉良義昭〔今川方〕の配下
にあった城主高橋出羽守政信は、家康に攻められ、落城となる。現在は親宣寺、一色高校、宅地
に変わり、親宣寺山門横に石碑、歴史看板が立つ。

【所感】国道247号線一色赤羽を東へ100m程進んだ左手に、親宣寺山門へ通じる道が在り
ます。大きな山門の右手前に赤羽根古城跡の歴史看板、石碑が立っています。




http://www.geocities.jp/buntoyou/f3-2/a-f0323akabane.html

平安末期(1159年)より平遠衝とその末裔鷲尾遠衡が城主であった。
                            ちょっと変な日本語

南北朝期には、吉良氏から分家した一色氏の有義が城主となっている。
応永21年(1414年)に高橋四郎高宗が吉良氏統治下で城主となった。

高橋出羽守政信は今川氏の勢力下で、
東条城主・吉良義昭に属して永禄四年(1561年)の松平元康の家臣の西条城主酒井氏に攻められ落城しました。 <現地案内板より>


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歴史は難しいというお話です。

三河(寺津)大河内氏の分家筋の“長縄大河内氏”の話:ちょっとこんがらがるお話

ここに出て来る「義昭」というのを足利将軍義昭と吉良義昭をごっちゃにして読んでいました。

吉良義昭の吉良家が滅んだお話です。

              30分かかってやっと理解した・・・
               


http://zaiya240.blog.fc2.com/blog-entry-4.html?sp

吉良氏の没落:

桶狭間での今川義元頓死(1560年5月)後、その幕下にあった松平元康は、西三河の制圧に乗り出しました。61年4月以降には義元の子・氏真と断交し、尾張の織田信長と同盟を結びました。このころ、西三河平定の総仕上げとして、元康は今川方の牧野貞成が守る西尾城(西尾市錦城町)を落とし、吉良義昭(よしあきら)が守る東条城(同市吉良町)を包囲。9月13日、義昭の部将富永忠元らが東条城を出て藤波畷(ふじなみなわて)で松平勢と戦いましたが、吉良方は大敗。義昭は降伏しました。

義昭は翌年には許されて東条の城外である岡山(同市吉良町北部)に住んでいたようです。1563年秋に三河一向一揆が起きると義昭は東条城を奪回して一揆に加わろうとしました。これに反対したのが大河内基孝・政綱父子です。「わが君は清和源氏の末裔(まつえい)。一揆に加担し、暴戻に与するなど先祖を辱める行為だ。教養ある者のすべきことではない」。3日にわたる諫言も入れられず、義昭は意思を変えませんでした。大河内父子はやむなく義昭に従い、案の定、一揆方は松平方に敗れます。64年になって家康(63年7月に改名)は降伏した一揆方を先鋒として東条城を攻撃しました。

このとき、16歳の政綱は一族の寺津城主大河内金兵衛秀綱と共に城外で戦い、先手の大将の一人である大津伊織と組み合って討ち取りました。頭部には矢傷を負い、背負っていた白い母衣(ほろ)を朱に染め、なおも戦いました。戦後、松平方の大将・松井忠次が感銘を受けて血染めの母衣を所望。義昭が母衣に「大河内政綱生年十六歳」と書いて忠次に送り、政綱には感状を与えました。義昭は東条城を維持できずに降伏。65年以降に三河国を退去し、鎌倉時代から続いた中世吉良氏は没落しました。



【政綱@】新たな主君・徳川家康

大河内政綱は長縄城(西尾市長縄町)主である基孝の長男として1545年7月18日、西尾城で生まれました。母親は一色出羽守の娘。一色出羽守については赤羽根城(同市一色町)主で吉良氏に仕えていた高橋出羽守政信である可能性が指摘されています。基孝・政綱の大河内家は三河(寺津)大河内氏の分家筋で「長縄大河内氏」と呼ばれます。先祖は南北朝時代に吉良氏と共に各地を転戦するなど、吉良家重代の家臣だったことが知られています。


                 ということは、この大河内氏は北朝方の大河内氏?


主君の吉良氏を失った政綱は家康から出仕を勧められ、二君に仕えるのを恥として紀伊国に隠れますが、家康が妹などを人質にとったことで、やむなく松平家に仕えました。家康の命で大久保忠員(ただかず)の娘を妻に迎えました。政綱が家康のもとで初めてあげた戦功は、1568年の遠江浜松の引間城攻めです。城中の内輪もめに乗じて攻略しました。また、69年の掛川城攻めにも50騎を率いて参戦して名を挙げました。

70年の姉川合戦では前夜、政綱が「夢に出てきた老人から『もののふの弓矢をひらくあしたかな』という一句を授かった」と家康に伝えたところ、吉兆を喜んだ家康が政綱に左文字の刀を授与。翌日の合戦では政綱も勇戦し、句の通り家康の働きで勝利を得ました。71年には武田信玄と対戦。政綱は本多忠勝と共に3月、海から遠江掛塚に侵入した武田勢に不意打ちを仕掛けて撃退し、4月には三河に入った武田勢に夜討ちを仕掛けて味方の士気を鼓舞しました。



【政綱A】武田信玄との戦い

家康が生涯に二度とない大敗を喫した72年の三方原の合戦。その戦端に政綱が関わっていました。同年閏正月、現在の静岡県島田市で大井川を挟んで、家康と信玄の兵が一触即発状態になります。政綱は家康の制止を聞かずに槍筏(やりいかだ)を組ませて渡河。武田の兵を蹴散らしました。「大井川を境に領国を分ける約束を違反した」と信玄は同年10月に甲斐を出陣。一言坂(同県磐田市)の戦いで政綱は家康撤退の殿軍(しんがりぐん)として奮戦しています。

同年12月、両軍は三方原で激突。政綱は家康の旗本にあって義兄の大久保忠世と共に武田勢と奮戦しました。脇腹や頬を射られた政綱の股を敵兵が突きましたが、政綱はものともせず敵兵を討ち取りました。忠世が「傷は深いか」と聞くと、「なに薄手だ」と答えたそうです。政綱は忠世と共に殿軍を務めて家康を救いました。途中、深田にはまった騎馬の本多正信を救い出して浜松城に戻りました。

浜松城で大久保忠世が家康に武田陣への夜討ちを進言します。家康は無言、酒井忠次は反対。それでも忠世は政綱の部下を誘って決行しようとしたところ、政綱が「私も参加しよう」と申し出たため、「数カ所も負傷した体で何を言うか」と止めましたが、「大事ない。戦場に死ぬことこそ本望」と参戦。犀ヶ崖(さいががけ)の北方にある武田陣の背後から不意に鉄砲を撃ち掛け、崖の谷底に多くの武田兵が転落しました。信玄は「勝つに勝ったが怖い敵だ」と苦い顔をしました。



【政綱B】北遠〜長篠〜諏訪原

信玄は73年4月に死去。家康の敵は信玄の跡を継いだ勝頼になりました。74年4月、家康は武田軍の拠点だった北遠江犬居地方の天野藤秀を攻めますが、食糧不足で撤退しようとしたところ、天野勢が反撃に転じて鉄砲を使ったゲリラ戦を展開。政綱は大久保一族が組織した決死隊の中にあって、鉄砲に当たりながらも敵を撃退しつつ退却しました。

織田・徳川連合軍が武田軍を撃滅した75年5月の長篠の戦いで政綱は、長篠城に援軍を送り込むため武田軍の鳶ヶ巣山砦を攻撃する酒井忠次の軍にありました。砦を落とした政綱らは手勢を率いて長篠城に向かい、包囲していた武田軍が鉄砲を放ってこれを阻止しようとしましたが、そのまま押しかかって敵を撃滅しました。

家康は戦勝に乗じて北遠江を平定したあと、諏訪原城を攻撃しましたが、不利とみて先手に撤退を要請したところ、その中にあった政綱は「備えを構えて出てきたからには、この槍を血で濡らさぬまま引き返せぬ」と手勢で敵陣に突入。敵兵の放った鉄砲が政綱の眉間に命中しますが、敵兵を切り伏せて引き揚げました。家康は勇気を称賛して感状を与えますが、傷が生死に関わる深さだったため、故郷長縄での療養を命じて送り届けました。



【政綱C】信長から仕官の誘い

郷里で療養中の政綱に織田信長の家臣・菅谷長頼が「織田家へ仕えないか」と誘ってきました。政綱にとっては家康が以前から言っていた「自分が数カ国を支配するようになったら政綱にも本領を認めてやろう」との約束が果たされず、心中わだかまるものもありましたが、「いまさら他家に仕えるのは反逆に近いやり方だ」と固辞しました。その後、家康からもねんごろな言葉をかけられ、再び家康に仕えました。政綱は81年、再び戦場に現れます。

徳川軍に包囲された高天神城から81年3月、城兵が打って出ます。城将の一人栗田刑部(ぎょうぶ)隊は石川康道隊、水野勝成隊を破りましたが、大久保忠世隊の応援で壊滅。政綱が刑部を討ち取ったとする史料もあります。82年3月に武田勝頼は天目山で最期を迎えますが、従者の土屋惣蔵が勝頼の首を狙う者たちを切りまくって寄せ付けませんでした。惣蔵も戦死しますが、家康と共に甲府に入った政綱は婦人から「一命を助けてください」と惣蔵の子を託され、家康に報告して取り立てられることになりました。後に上総久留里2万石を領する土屋忠直となります。

政綱は長久手の合戦(84年)、小田原の役(90年)に従軍しました。99年、政綱の末子で徳川秀忠に仕えていた政信が同僚を舌禍で殺害。秀忠が怒り心頭だったため、政綱は同輩の助言で江戸を離れて諸国を流浪します。1603年、家康は政綱が末子の件で地方に謹慎していることを知り、「あいつは勇者だ。許してやれ」との言葉で政綱の出仕が再開されました。家康におもねる諸大名が政綱の再出仕を祝う贈り物をしましたが、政綱は「貴公らのために口利きできる性分ではない」と贈り物をすべて返したということです。



【政綱D】大坂の陣へ勝手に従軍

家康が大坂冬の陣に向けて駿府を出立する際、70歳の政綱に駿府城の守衛を命じましたが、政綱は従軍を懇願しました。「私は若いころより数度の合戦に従軍し、ある時は先駆けし、ある時は殿軍を務めたが、一度も第一線を退いたことはない。どうしてこのたびの戦だけ、後方にとどまることができようか」。家康はこれを許さず席を立ち、駿府を出発して安倍川の宿に至りました。

政綱は家康の行列を出迎えました。その後京都まで、東海道の宿場ごとに家康の本陣を勝手に警護し、あらゆることを指揮しました。本多正純が「お言葉に背いて参上した身の上。隠れてご奉仕を」と諭しましたが、「忍んで奉仕する負い目はない」と切り返しました。正純からこれを聞いた家康は「侍なら時と場合で主君の命を受け入れられぬ時もある。わしの命に背いたことは憎むべきだが、陣中で諸事を指揮していることもわしの助けになっている」ととがめませんでした。

政綱は大坂冬、夏の両陣に参加しました。16年には家康の命で十男の頼宣に付属。27年2月28日、83歳で死去します。墓は養寿寺(西尾市下矢田町)にあると家譜が伝えますが、寺域には見当たらないそうです。偏屈で自ら信じた筋を曲げない大久保彦左衛門と並ぶ「三河武士」と言えるでしょう。三河武士は岡崎だけでなく西尾にもいたのです。



【政重・秀元】大坂の陣や朝鮮出兵を記録

政綱の甥に杢左衛門政重がいます。石川忠総のもとで大坂冬の陣・夏の陣に参陣し、その体験を1669年に口頭で筆録させたのが「石川忠総家臣大坂陣覚書」です。政重は1593年生まれで、大坂の陣は23歳で参加しました。当時は「大河内金三郎」と名乗ったようです。1677年に85歳で死去しました。大坂の陣で挙げた政重の手柄として「頸三ツ」と記されています。養寿寺に現存する墓には「覚譽冷雲居士 三州□□□ 大河内□□門」と刻まれ、杢左衛門とみられています。

政綱の子に茂左衛門秀元がいます。豊臣系大名の太田一吉のもとで1597年に朝鮮へ渡海し、戦った記録を著したのが「朝鮮記」です。秀元はこの戦いで、父政綱が東条城の戦いで帯び、兄政定が信州上田城外の戦いで差した備前法光の二尺一寸(63.3cm)の打刀を縮めて朝鮮に持参し、その脇差で朝鮮人と中国人を切ったことを自慢しています。父の代から使い続けて異常がないとすれば、例外的に丈夫な刀だったと見られています。

「朝鮮記」には偽書説もあるそうですが、秀元の子秀連が著述したものと考えられていて、自己の先祖の事績を記した際に多少の脚色を加えている可能性も指摘されていますが、地元の識者は「内容は信頼に値する」との見方を示しています。いずれにしても、剣の立った政綱と、ペンも立った政重、秀元――乱世を生きぬいた長縄大河内氏の特異な戦歴を披露し、「大河内氏」全体の紹介を終わりたいと思います。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 06時42分31秒 ) パスワード

いやぁ〜
歴史は難しい。


人間関係がみんな周り回って繋がるし名字がこんがらがるし。


三つ柏さんが欲しかった情報は<48>かも。


大河内氏    長沢松平氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_kouti.html
臥蝶に十六菊 (清和源氏頼光流)




 治承四年(1180)、平治の乱で義朝に逆らって平清盛に味方し、源氏としてはただ一人公卿の座をかちとったのが源三位頼政であった。

しかし、晩年に至っても平氏専制は衰えをみせず、ついに頼政は以仁王を説いて、「平氏追討の令旨』を出させることに成功した。が、勢千騎の頼政軍に対して、平家軍二万。この大軍を宇治に迎えて頼政一族は奮戦するも衆寡敵せず、合戦に敗れて一族とともに平等院で自害した。
 

この合戦で頼政の子兼綱もともに戦い敗死した。兼綱の一子顕綱は母に抱かれて尾張に逃れ、さらに三河の大河内に移ったという。子孫は代々そこに住じて、地名をもって大河内氏を名乗ったとされる。いわゆる古くからの三河の名族であった。


 『応仁後記』には、三河の住人大河内正綱ら三河・遠江の在地諸勢力をまとめて「菊一揆」を結成したことが書かれている。集団の合じるしが「十六弁の菊」であったことからそう呼ばれた。大河内氏の家紋は「臥蝶(浮線蝶)」であったが、以後、中に菊を取り入れた。これが大河内松平氏の定紋「伊豆蝶」となる。


 大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。孫の正綱は長沢松平氏を継ぎ、家康に近侍して、関ヶ原・大坂の役にも出て武名もあった。しかし、正綱の真価は、秀忠・家光二代にわたって振るった財政方面における手腕であったようだ。それらの功が認められて、正綱は寛永二年(1625)相模国甘縄城主二万二千石を領した。


 正綱のあとを継いだのが、「知恵伊豆」と称された大河内松平信綱である。信綱は少年にして考えたという。すなわち、父久綱や祖父のようでは、せいぜいなっても地方代官、将軍に接する機会の多い叔父正綱をたよって自分でそのようにしたという。

 以後、信綱は家光幼時から仕えて、元和九年(1623)小姓組番頭に任じられた。そして十年後の寛永十年(1633)老中となり、島原の乱鎮定の功もあって、川越六万石(のちに七万七千石)の城主となった。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 06時50分48秒 ) パスワード

<48>です。

東条とか西条とか浜松とかが出て来るお話かも:ワタシにはついて行けませんでした。コピペしましたがURLへどうぞ。


http://ameblo.jp/8omote/entry-11395757702.html
【寺津城】中世吉良氏を支えた?大河内氏



徳川3代将軍家光らに仕え、島原の乱や由井正雪の乱、明暦の大火などに善処した「知恵伊豆」こと松平信綱(1596―1662)の祖父に当たるのが、西尾市寺津町にあった寺津城主で中世吉良氏を家老として支えた大河内秀綱(1546―1618)です。東条城にあった吉良義昭(よしあきら)が家康と争った藤波畷の戦い(1561年)や三河一向一揆(1564年)に参加しましたが、奮戦むなしく落城して浪々の身になりました。



寺津城主だった大河内氏の祖先は、宮中を荒らす妖怪「鵺(ぬえ)」を退治した伝説で知られる平安末期の武将源頼政で、頼政の孫の顕綱が三河国額田郡大河内(岡崎市大平町か)に移り住み、大河内を名乗りました。以後、三河国守護だった足利義氏に仕え、義氏の長男を祖とする吉良氏に仕えました。寺津町の寺津八幡社は建久年間(1190―99)に顕綱が創建し、家伝の守刀を寄進したと伝わっています。


顕綱の子の政顕が寺津と江原(西尾市江原町)の両郷を支配しました。西条吉良氏は14世紀後半には吉良荘以外に遠江国浜松荘(静岡県浜松市)も支配しており、いつからか大河内氏が浜松の代官として派遣されていました。応仁の乱後、東軍の今川氏が西軍の斯波義達の領国遠江に攻め入り、10年以上に及ぶ戦闘の末、1517年には義達と浜松の引馬城にこもった大河内貞綱らが、今川氏に攻められて自害します。


その一方で、寺津城が築かれたとされるのは永正年間(1504―21)で、10代信政の時と伝わります。同時期に浜松で自害した貞綱は系図に出てこない謎の人物です。信政は寺津八幡社を再興しており、1513年の棟札に名前があるそうです。11代信貞も1532年に寺津八幡社を再興し、34年には大河内氏の菩提寺として金剛院を中興しており、このころは大河内氏が勢いを振るっていたようです。


信貞の子が秀綱です。中世吉良氏の没落後、西尾市小島町にあった小島城主伊奈忠次のもとに身を寄せました。秀綱は忠次の代官として家康に仕え、遠江国稗原(静岡県磐田市)を領し、家康の関東移封後は鉢形城(埼玉県寄居町)に陣屋を構えます。秀綱の次男正綱が長沢松平氏の養子に入って松平を名乗ります。秀綱の長男久綱の長男である信綱が正綱の養子に入って長沢松平氏を継ぎました。


【浜松荘@】吉良氏が南北朝時代から約150年支配


ところで、浜松に勢力を持っていた吉良氏は、どのような動きをしていたのでしょうか。大河内氏との関わりを含めて見てみようと思います。遠江国は14世紀に今川氏が守護を務めていましたが、1405年前後に尾張など4カ国の守護だった斯波義重が守護になり、以後約100年にわたって斯波氏が守護を務めたそうです。義重が吉良満貞の娘と斯波義将の間に生まれた子だったことで、吉良氏が浜松での活動を活発化させていったようです。


しかし、1436年に義重の子・義郷が落馬で死去し、幼少の義健が家督を相続すると、41年に駿河守護の今川範忠が遠江に侵攻。47年には斯波氏の家臣同士が争うなど遠江の不安定化が進みました。吉良義尚 は義健に自分の娘を嫁がせ、家臣同士の争いを停止させました。義尚にとっては斯波氏の遠江支配を安定化させなければ、自身の浜松支配も危ぶまれると考えたからだとみられています。



ところが、52年に義健は18歳で死去し、15世紀後半の遠江は混乱の時代に突入します。跡を継いだ義敏と守護代との内紛や家督争いなどに見舞われる中、吉良氏は近隣荘園を管理下に置いたり、寺領寄進をしたりして浜松を中心に勢力を拡大していったそうです。70年代に入ると、今川義忠が遠江への進軍を開始。斯波氏家臣で守護代の狩野氏と吉良氏家臣の巨海(こみ)氏が結託して対抗します。


今川氏は武力で狩野氏を自害させ、巨海氏も成敗しようと浜松まで進軍しましたが、巨海氏がその後どうなったか分かっていません。間もなく義忠が戦死し、今川氏は駿河に撤退。このとき、吉良氏が領した浜松荘の奉行は飯尾長連で、今川軍に協力して義忠とともに戦死しているそうです。遠江の吉良氏家臣は巨海氏が斯波方、飯尾氏が今川方につくという分裂状況があったということです。


80年代の今川氏は家督抗争の渦中で遠江進軍を中断。斯波氏の家督抗争は義敏の優勢で決着し、その子・義寛が守護になって遠江に安定が戻りました。90年代に内紛を克服して今川氏の家督を継いだ氏親は遠江進軍を再開。天竜川周辺まで勢力を拡大しました。義寛は一族を派遣して今川氏との決戦に踏み切り、1501年、両者が遠州西部で激突しましたが、斯波氏は敗走しました。


【浜松荘A】今川氏に抵抗し続けた大河内氏


このとき、斯波氏とともに浜松荘奉行の大河内貞綱も敗走しています。それまでの大河内氏は1498年に浜松北部で神明宮を造営するなど、着実に勢力を拡大していたようです。大河内氏は斯波氏と結託しうる存在であり、吉良氏は大河内氏敗走後、今川氏と親しい飯尾氏を新奉行に任命しました。遠州のほぼ全域を制圧した今川氏は1508年、遠江守護を奪還し、100年近い斯波氏の支配が終わります。


奉行職を解かれた貞綱は10年、飯尾氏のいる浜松荘に討ち入り、引馬城に立てこもるという事件を引き起こします。今川軍が即座に攻め立て、本来なら自害するところでしたが、吉良氏の懇願で許されて今川軍は帰陣したそうです。しかし、貞綱はその後も斯波義寛の子・義達と連携して今川氏に対抗し続け、信濃や三河、尾張の兵を集めて争いますが、13年には敗北して戦闘はいったん終結します。


戦闘が終結に向かっていた13年3月まで、今川氏は大河内氏の行動をなんとかするよう吉良氏に何度も要請を入れていました。しかし、吉良氏は長らく動かず、戦闘終結の段階になってようやく大河内氏に対する何らかの制裁に出たようです。にもかかわらず、貞綱は17年に再び、斯波義達と連携して浪人らと引馬城に立てこもりましたが、今川軍は金掘り人夫による水抜き作戦で落城させました。


氏親の義父の日記によると、貞綱は切腹、斯波義達は出家の上で尾張に送還されたそうで、大河内氏と斯波氏、今川氏の遠州を巡る激突は終わりました。大河内氏の動きを食い止められなかった吉良氏の責任が問われてか、今川氏が浜松の寺の寺領安堵を行っており、吉良氏が支配した浜松は事実上、今川氏の勢力下に組み込まれたことがうかがえます。


吉良氏は伝統的に斯波氏とも今川氏とも深い関係を持っていました。しかし、斯波氏と今川氏が戦う時代を迎えた結果、吉良氏に家臣の分裂などをもたらし、吉良氏当主はどちらにも味方できず、家臣の分裂行動を食い止めることもできませんでした。斯波氏と今川氏のはざまで吉良氏全体が混乱・錯綜した状況にあり、斯波氏を破った今川氏は吉良氏から浜松の支配権を取り上げました。


【吉良殿逆心】大河内氏が再び“反今川”首謀

残す領地は三河のみになってしまった吉良氏ですが、駿遠の今川氏とは蜜月関係を築いて安定した時代を迎えました。しかし、尾張から織田氏の勢力が伸びてくると、それに乗じる形でまたしても大河内氏ら吉良氏家臣が2度も今川氏に対する反乱を起こします。今川氏は1度目こそ寛容な態度に出ましたが、2度目の反乱は許さず、吉良氏当主を三河から追放する措置に出ました。

織田氏は1547年に三河の安城城(安城市)を落としましたが、48年に小豆坂合戦で今川氏が織田氏を破ります。今川氏は49年、吉良氏の西尾城を攻略しました。このとき、吉良氏は当主義安の外戚である後藤平大夫によって織田氏と組んでいたそうです。その後、今川氏に対する抵抗運動が活発になった55年、吉良氏は再度、西尾城で今川氏に反乱を起こしましたが、鎮圧されました。


戦国きらら隊 55年の反乱に関する新史料「今川義元書状」が見つかり、2009年に有光有學氏が発表されました。【吉良義昭】 で紹介しましたので詳細は省きますが、1555年閏10月23日に義元から荒川義広にあてた手紙と考えられています。文書では吉良氏による2度目の反乱について、「何御不足候哉、不能分別候」と今川氏にとって理解に苦しむ行動であったことがうかがえるそうです。




従来、55年の反乱は「被成吉良殿逆心」とのみ伝わってきましたが、この文書によって「大河内、富永与十郎両人張本人之由」と、大河内氏や富永氏といった吉良氏家臣が中心となって、反今川運動を行っていた実態が浮かび上がりました。56年3月に織田信長が幡豆郡まで進軍しているので、反今川の吉良氏家臣は遠州騒動に続いて、またしても尾張と結んでいたのかもしれません。


反乱鎮圧後の吉良氏当主義安 について、『家忠日記増補追加』は今川義元が駿河に護送したとし、『清須合戦記』は56年3月の幡豆郡進軍で引き上げる織田勢について尾張に行ったとしています。その後、1563年の三河一向一揆で大河内秀綱は、吉良義昭が一揆に味方することに反対して諫言しましたが、義昭は聞き入れず、「今に至って立ち去るは勇士の恥じるところ」と義昭とともに東条城に入りました。このあたりも、尾張の織田氏と結んだ家康への対抗を避けようとする意図があると見えなくもありません。このように、吉良氏の家老だった大河内氏からは「親尾張・反今川」という強硬な姿勢がうかがえます。今川氏よりも上だった斯波氏の血筋とか、寺津という尾張を望む海に面した場所を拠点にしたこととかが関係するのでしょうか。


【寺津城】複郭構造の拠点的城館

先日、約3カ月半ぶりに郷土史家の先生方との散策があり、寺津校区に出かけました。メーンは国道247号沿いの西尾市寺津町にある寺津城跡。瑞松寺の境内には「寺津城趾」の石碑が建てられています。『寺津村誌』では北側に幅3間(1間は1.82b)・深さ1丈(3.03b)、南側に幅5間・深さ2間の堀が残り、西側の絶壁には高さ1間・幅3間の土塁が残っていて、明治初年まで大木が茂り、昼でも暗かったそうです。



戦国きらら隊 城の規模としては石碑の裏に彫られた「東西約四十間、南北約五十間」というのが唯一の手掛かりだったようですが、1858年の寺津村絵図が見つかり、金剛院の北に薮で囲まれた2つの区画が寺津城の跡だと見られています。北の区画が49b×38b、南の区画が49b×10bあり、当時の城館の多くが方形館タイプだった中、複郭構造ということで拠点的な城館だったことが分かるそうです。


現在は寺の後ろに稲荷神社がありますが、その付近が一段高くなっています。そこが土塁の跡で、その西側は今も崖になっていて城跡をし戦国きらら隊 のばせています。堀は埋められていますが、瑞松寺の北の道が一段低くなっているのが堀の名残だそうです。また、付近には市場、馬場など城に関係する地名が残っており、東にある市場付近は大河内氏の家臣の屋敷地とも考えられています。



寺津城跡から国道を挟んで南東にあるのが、大河内氏の菩提寺である金剛院です。山門や本堂の瓦には「三ツ扇」の家紋がありました。大河内氏の家紋は「臥蝶に十六菊」ですが、替紋が三ツ扇だったそうです。境内には大河内信貞、信貞夫人、秀綱を供養する宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。室町時代末期の様式で、この地方最古のものとして美術的価値が高いそうです。
戦国きらら隊
西尾市内でも難読地名として知られる巨海(こみ)町に入りました。まず立ち寄ったのが国道の西にある願成寺。臨済宗妙心寺派で、中世吉良氏の創建とされています。雪斎によって実相寺同様、東福寺派から妙心寺派になったのでしょうか。南北朝時代初期の1346年に造られた釈迦如来坐像や室町時代前期の1416年に制作された塔名牌などが県文化財に指定されています。


【長寿尼寺跡】吉良満氏の母の隠居所


続いて、熱田神宮の勧請で平安時代前期の807年に創建されたという八剱神社に立ち寄りました。1508年に領主だった「橘朝臣巨海勘解由尉秀国」が本殿を再建したそうです。先生たちは巨海氏が源氏ではないことを驚かれまし戦国きらら隊 た。60年には領主の「左京亮元政」が再び本殿を再建したということです。「左京亮元政」は57年10月に今川氏から数年間の西尾城番を任せられた三浦元政のことと思われます。


さらに北東方向へ向かったところに、長寿尼寺の跡があります。『寺津村誌』では鎌倉時代後期の1324年、吉良満氏が母の志を報じて創建し、当時は大伽藍を構えて長寿寺と呼ばれたとあるそうですが、先生の一人は満氏が1285年に死去しているため、創建年代が正しいとすれば、1343年まで生きていた満氏の子・貞義の創建だろうと見ておられます。満氏の母(北条義時の娘?)の隠居所だということです。


戦国きらら隊先生によると、満氏は1285年11月に起きた鎌倉幕府の権力闘争(霜月騒動)で反体制派として戦って自害しますが、北条氏の血を引く満氏の母に免じて吉良荘は没収されず、貞義に吉良氏を継がせたそうです。貞義は長い間、幕府への出仕が許されず、幕府への忠義の証しとして満氏の母の菩提寺として創建したのだと考えておられます。現在は満氏の母の墓があるのみです。


【巨海城】西条吉良氏の重臣だった巨海氏


すぐ北にあるのが寺津小・中学校。この敷地内に巨海城があったと言われています。ここには縄文時代晩期の貝塚「枯木宮貝塚」があり、その西に接する「若宮西遺跡」からは、古墳時代の竪穴住居と中世の掘立柱建物跡などが見つかっています。中世の遺構については出土遺物から、12世紀末から13世紀中ごろのものと判断されており、さらなる発掘による城郭遺構の発見が期待されています。


戦国きらら隊城主の巨海氏は西条吉良氏の古くからの家臣で、史料を見ると、1392年に足利義満の行った相国寺落慶供養で吉良俊氏に随行、1409年に華蔵寺(西尾市吉良町)に建立された経蔵の費用として田地を喜捨、1474年の今川氏による遠江侵攻で対抗、1506年に北条早雲から感謝の書状を受けた、08年に八剱神社を再建した、17年に浜松で今川氏と争って切腹した、それぞれの巨海氏があるそうです。


中でも今川氏に対抗した巨海氏は新左衛門尉道綱といって、このときに切腹した大河内貞綱の弟とされています。道綱の死後、巨海氏が巨海城主だったかどうかは分かっていません。大河内秀綱の母は巨海氏と見られる小見頓斎(こみとんさい)の娘とされています。巨海氏は吉良氏没落後、家康の命で鳥居元忠の家臣になり、以後、鳥居家の家臣として明治まで存続したそうです。


【徳永城】「よく残っている」中世の遺構


戦国きらら隊 最後に、巨海城と同じく謎めいた城「徳永城」の跡も歩いてきましたので紹介します。『寺津村誌』では徳永町地内にある立清(りゅうせい)寺の北東にあったとされています。応永年間(1394―1428)に徳永小七郎義雄という人物がこの地を領して城を築いたと伝わります。城跡は東西約40間(72b)、南北約60間(108b)あり、土塁は長さ5間・高さ1丈余、堀とみられるものは幅7間ということです。


現在は無住である寺の裏手にある墓地の東側にそれと思しき土塁が一部残っています。城郭に詳しい先生によると、「土塁に間違いなく、寺津村誌にある規模で北に向かって伸びていた可能性がある。西尾市内の城郭遺構でもよく残っている方」ということでした。また、寺の東方にある徳永神明社についても「この付近に徳永城があったとしてもおかしくはない」との可能性を指摘されました。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月07日 10時54分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 たくさんの情報、ありがとうございます。読解をさせていただきます。
 吉良氏については、悪役の吉良上野介のイメージしか持ち合わせてい
ませんでしたので、一族・系統を理解するとなると大変です。
 源氏・平家もまだ理解するまでには程遠いですが、ある程度は頭の中で
整理できて来ました。その間、約一年はかかっております。
 足利氏一族、それと北条氏は、必須科目として今後理解したいと思いま
す。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 13時49分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

うちの父方の親戚が  巨海  に別荘というか海の家というか土地というか  を持ってて
子供の時によく泳ぎに行きました。


巨海って幼いワタクシ的記憶では知多半島にあったと信じて来ましたが
上記によるとワケ分からなくなります。


それにワタクシのDNAの勘では  大河内氏は南朝方  なんです。笑


それで混乱していますが
確かに父方の家は今川と組んで信長を殺そうとして逆に敗走することになり
熱田神宮の近所に火をかけて尾張に逃げ帰ったと
「信長公記」に悪口を書かれています。



もうグチャグチャにワケ分からなくなっています。

うちは伊勢出身で南朝方ではあるけれど後に斯波氏に仕えていたし更に今川と仲の良かった時もあった
この流れです。


     西尾との見えない繋がりも
         だって今川氏は西尾出身だなどと何度も書いてますしね
     わたくしのDNAの中に今川氏との過去が刷り込まれているんでしょうか?


歴史は不思議です。


子供の時に過ごした「巨海」が原風景にあります。
トイレ(ぽっとん式便所)に蟹がいて怖かった記憶もあります

そして子供の時に父に連れられて中田島砂丘に写真を撮りに行ったこと
     浜松ですものね


なんだか歴史とDNAと記憶と地名が渦巻いて混乱しています。
   ある時は敵に、その後は味方に、そしてまた敵にを繰り返し
骨肉の争いをも経て今の自分があるのかなぁ
などと思います。一筋縄では自分の血や肉さえ語れないのかと。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 14時18分30秒 ) パスワード

すっごく泣ける(わたくしの中の裡なるワタクシが泣いている)ということで調べて来ました:

      やはりムカシ関係があったような?



巨海氏    名字の由来ネットより

【読み】おおうみ,こうみ,こみ,おおみ

【全国順位】 26,017位
【全国人数】 およそ140人
【全国分布】
埼玉県 9,191位 およそ30人
東京都 32,620位 およそ10人
静岡県 15,323位 およそ10人
大阪府 19,543位 およそ20人
和歌山県 2,266位 およそ50人
広島県 15,797位 およそ10人
山口県 9,651位 およそ10人
長崎県 10,466位 およそ10人




徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国幡豆郡巨海村(現西尾市巨海町)が起源(ルーツ)である。
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏族、大河内氏族。

近年、和歌山県に多数みられる。



巨海 道綱(こみ みちつな、? - 永正14年8月19日(1517年9月4日))

戦国時代の武将。三河吉良氏の家臣で、大河内貞綱の弟にあたる。新左衛門と称す。

巨海氏は、大河内氏の支流で三河国幡豆郡巨海(現在の愛知県西尾市巨海町)を本貫地とする。
「巨海」は「おおみ」と読むとしている資料(『静岡県史』など)もあるが、
本貫地は「こみ」と読み「古海」「古見」とする文書も存在することから、「こみ」が正しいと思われる。

道綱は大河内氏から巨海氏に養子に入ったものと思われる。

同時代の文書に「巨海越中守」の名前が表れるが、あるいは養父かも知れない。なお、道綱は同じ吉良氏の重臣、高橋氏の出であるという異説も存在する。
道綱が引馬城で滅んだため、系譜は不明である。




引馬城 (ひくまじょう)   浜松市中区元城町 
 http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/seien/hikuma.j/hikuma.j.html

                  この部分  ↓  意味不明に勝手にコピペになってます(謎)

          兄貞綱と同じく遠江で活躍、河匂荘(現在の静岡県浜松市南区河輪町)の代官を務めていた。

          今川氏親の遠江侵攻に頑強に抵抗し、斯波義達と結び引馬城に篭もるが、永正14年(1517年)8月19日に陥落、兄とともに自害して果てた。



引馬城:今川、斯波、争奪の城


 応仁の乱(1467)。細川勝元の東軍十六万、山名宗全の西軍十一万が京の街を舞台に激突した戦いである。その争乱はやがて地方に波及し、当事者同士の利害を絡み合わせた戦いへと発展していくことになった。

 ここ遠江の地も例外ではなかった。守護斯波義廉は西軍であったのに対し、遠江回復を狙う隣国駿河の守護今川義忠は東軍に就いて遠江進出の機会を窺っていたのである。

 文明六年(1474)、今川義忠による見付城(現・磐田市)攻めによって遠江における応仁の乱が、言い換えるならば遠江の戦国時代が本格的にはじまったといえる。この見付城で反今川の旗揚げをしたのが国人狩野宮内少輔で、これに与したのが引馬城の巨海新左衛門尉(三河吉良氏の被官)であった。そしてこれが史料的に引馬城主としての初見であるとされている。

 この狩野氏の乱は今川軍の圧勝に終わり、城主狩野氏は自害、巨海氏も引馬城を追われたのであった。今川義忠は引馬城に飯尾長連を置いて西遠の守りに就かせた。

 その後、本格的に斯波、今川の戦いが各所で起こり、義忠が塩買坂(現・菊川市)で一揆の襲撃を受けて討死するという事態にまでなっている。この時、引馬城主飯尾長連も義忠を守って討死してしまったのである。

 このため引馬城は再び斯波氏の支配下におかれ、大河内備中守貞綱が主となった。引馬城が城としての体裁を整えるのもこの頃からであったと云われている。


 新たに今川の当主となった氏親は叔父早雲(後の北条早雲)とともに、遠江、三河を席捲したが、引馬城の大河内氏の抵抗は根強く、永正十三年(1516)に至ってようやく落とすことができたのである。

 この時、氏親は安部山の金掘りを使って城の水の手を断ったと伝えられている。

 その後、再び飯尾氏が城主となり、賢連、乗連、連竜と三代続いた。


 栄枯盛衰は世の常、桶狭間合戦以降の今川の衰退は甚だしく、連竜は今川を見限り、三河の徳川家康に通じようとした。ところが、この一件が露顕して今川氏真の知るところとなり、兵を向けてきたのである。


 しかし引馬城は容易に落ちず、氏真は卑怯にも和睦して連竜を駿府に呼び寄せて暗殺してしまったのである。永禄八年(1565)のことであった。

 その後、江馬泰顕が城代となって守っていたが、城内は武田と徳川の二派に分かれて内粉を繰り返し、自滅同然の状態になってしまった。


 永禄十一年、空白と化した引馬城は徳川軍の酒井忠次らによって接収されたのである。





飯尾氏
http://www.digistats.net/clan/name.php?page=492

今川氏に仕え今川氏によって滅ぼされた引間城主の飯尾氏は鎌倉幕府初代問註所執事の三善康信を祖としている。三善康信の叔母は源頼朝の乳母であった。その関係で、源義朝が平治の乱で敗れたことによって、源頼朝が伊豆に流された後も、京都の情報を源頼朝に伝えるなどした。

1184(元暦元)年に源頼朝の要請によって、大江広元とともに鎌倉入り。両人は鎌倉幕府の行政機構を整備し幕府を支えることになる。しかし、源氏三代が途絶え北条氏が執権体制を確固としたものとしていくにつれて三善氏は中枢から外れていく。とはいえ、近江国蒲生郡町野を苗字の地とした一族の町野氏を始めとして矢野氏、太田氏ら一族が評定衆を務めた他、康俊、康持は問註所執事も兼ねた。

室町時代になっても、一族は幕府の評定衆、奉行人を務め、大和守・近江守・肥前守・美濃守・加賀守といった流れを生んだ。飯尾を名乗ったのは矢野倫重の子の兵庫允三善倫忠。倫忠は阿波国麻殖郡飯尾村を所領としていたため飯尾を名乗ったと考えられる。駿河の飯尾氏も、その一つの流れであり、室町幕府将軍足利義政から、享徳の乱で鎌倉公方・足利成氏討伐を命じられたことで知られる今川義忠が、1467(応仁元)年に応仁の乱が勃発すると上洛。更に、翌1468(応仁2)年に細川勝元の命令によって、東海道の斯波義廉の分国の撹乱のために駿河へと帰国。その際に一緒に京都から駿河入りしたのが飯尾善左衛門尉長連であった。

なお、戦国時代の『阿波古城記』には麻植郡分飯尾殿(三善)と見え、
その一族の一部は四国に土着したことが分かる。


1473(文明5)年、今川義忠は、美濃国の斎藤妙椿から攻撃を受けた東軍の三河国守護・細川成之を救援するために、将軍の命により出兵。

この時、出兵のための兵糧を供出する所領を同じ東軍の尾張国守護・斯波義良、三河西条吉良氏(上吉良)4代目当主の吉良義真と対立。

吉良義真の被官である遠江の国人巨海氏、狩野氏と干戈を交えた。

1475(文明7)年には、西軍の斯波義廉の重臣・甲斐敏光を東軍に抱き込み遠江守護代に据える。ここに遠江国は東軍同志が争う地となる。

1476(文明8)年、遠江国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が今川義忠に叛旗を翻し斯波氏に内通し見付城で交戦の構えを取る。これに対して、今川義忠は出兵し横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐。

ここまでは良かったが、駿河に引き返す途上で、遠江小笠郡塩買坂において横地・勝間田の残党によって襲撃され討死。

飯尾長連は今川義忠とともに討死した。義忠の突然の死により、6歳の龍王丸(氏親)と義忠の従弟の小鹿範満が今川家の家督を巡って争うこととなる。

この調停のために京都から下向したのが幕府申次衆の伊勢盛時、つまり、北条早雲として知られる人物である。


吉良義真の被官である遠江の国人巨海氏が築城した引馬城は、巨海氏が今川義忠によって滅ぼされ、更に今川義忠が遠江小笠郡塩買坂において不慮の死を遂げた後は斯波氏の被官大河内貞綱が城主を務めた。

しかし、1516(永正13)年、今川氏親に攻略され落城。飯尾賢連が引馬城主として置かれた。その子乗連は、今川義忠の上洛軍に従軍し、桶狭間の合戦で討死。

これを機会に今川家の支配から逃れた三河の松平元康(徳川家康)が隣国の遠江に侵攻。引間城主の飯尾連竜も、これに呼応。

これに対して、今川氏真による攻撃に晒される。1563(永禄6)年と1564(永禄7)年の攻撃は防ぎ和睦となったものの、1565(永禄8)年に飯尾連竜は駿府にて暗殺される。これにより駿河飯尾氏は滅亡した。

[52]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月07日 14時21分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大河内氏というと、高天神城の石牢に閉じ込められたという大河内
源三郎を思い出します。大河内氏の一族には違いないと思います。
 大河内氏から、長沢松平家庶流へ養子に入り、旗本となった。
 また、大河内氏の祖先は「鵺退治」の源頼政であったということ、
この遠江とも関係が深いことがわかりました。
 どうも、三河と遠江は底通している歴史文化圏であるという感じが
より濃く感じられるようになりました。

 さて、赤羽より247号線を東に戻り始め、すぐのところにお寺が
見えて来ましたので寄ってみることにいたしました。 
 寺の名は、浄土真宗本願寺派 西脇山 普元寺であります。この辺は、
浄土真宗のお寺が多いような気がいたしました。
 墓地には、「三矢家」が比較的多く見られました。家紋はと言います
と、「源氏輪に縦三つ並び矢」でありました。伊賀系でしょうか……?
 そして、見つけました……服部家の墓!
 家紋は、本興寺で見つけた家紋と一緒――「源氏輪に(縦)並び切竹」
でありました!
この並び切竹には、横並び配列と、縦並び配列があり、どちらも90
度回せば同じになるのですが、家紋としては別のようです。
 確か、服部中系は横配列だと思いました。関の服部家もそうでありま
した。服部政信系はどうでしたでしょうか? 服部半蔵も絵に描かれた
十六武将図では、確か「源氏輪に(横)並び切竹」のものがございました
……。
 ここで、私は服部家の先祖のために、般若心経を二巻捧げました―
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 14時32分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


服部家ホンヤさんも  本来の紋は横に寝たもの  ですから
政信系も本来は横に寝たものだと思います。

元気が出たら、また、服部各家の家紋をまとめてみたいです。
寛政諸家譜では「竪」が多かったような記憶です。

時代で違うんじゃないかなと思います。多分意匠上、だんだんカッコ良くなっていったのでは?と。



三河も浄土真宗が多くて家康と喧嘩してました。

それで浄土真宗本願寺派西脇山普元寺の服部家のお墓の方達は
信長や家康に抵抗した服部氏ではないかなと。
伊勢長島一揆を指導した服部家ホンヤさん系  and/or 別系服部氏かなと。
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月07日 15時03分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。巨海での心象風景が残っているとは何と言う偶然
でしょうか。また、服部家の墓が政信系との推測、浄土真宗の信仰圏とい
う概念……改めて、あを様の心象圏の中に入っていた――と感じています。

 巨海……大きな海……あを様のDNA(記憶)は海につながっている……。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 16時03分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


さようでございますね
「海」に繋がっているのでしょうね。
海は生き物の起きた場所ですしね。


まさか「巨海」が本日ここで解明されたとは。


三つ柏さんに感謝!

般若心経のお蔭かも、ですね。
にっこり


黄色の背景の三善為光の系図で  宮内少輔布施康定  が出てますね。
これも謎です。
「宮内」くない  が気になる人の1つかも。分かりません。


数日前にシャワーしてて三善英史の「雨」の鼻歌をずっと唄ってました。
http://www.youtube.com/watch?v=k2z95fU8jWQ

ご先祖さまのパワーが  三善 → 飯尾   飯尾氏の最期を導きたかったのかも。
よく分かりません。
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月07日 17時25分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 巨海という場所、247号線の一色から碧南への途上にありました。
今まで目に入っているはずなのですが、今回改めて認識いたしました。
巨海の近くには、「百々」があり、「宮前」「宮東」「宮岸」「宮越」
等の「宮」のつく村があります。八剣神社もありますが、「宮」とい
うからには大きなお宮があったような気配がします。調べてみたいと思
います。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月07日 22時57分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


>巨海という場所、247号線の一色から碧南への途上にありました。

えっ
そうでしたか。



ということは幼心には  名古屋から見て  知多半島  と思ったのは
そんなに方向はズレていないですね。あはは


その親戚はもともとは知多半島の出身で
でも名古屋で商売してて
熱田神宮の結構近くに立派な家を構えていて
商売も繁盛してて
さらに巨海に   幼心には巨海を持っていた?支配してた?  屋敷があった
そんな記憶なのです。


ま、当たらず遠からず。


その親戚と三善家または飯尾家が関係があったのかもですね。



なかなか発想の違う人でした。
やはりムカシは豪傑・豪族の頭だったのかも。


「宮」関係のどなたかが引っ掛かると良いですね。

では出掛けます。
この時間帯に出て行くって?
ジムです。
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月08日 00時33分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 こちらでの夜11時は、あを様にとっては朝の4時ということになりますね。
 体を動かすのはいいことだと思います。気分もスカッとしますし、何より
も気持ちがポジティブになります―

 私は、そろそろ睡眠の時間です。次のレスでは、西尾城と華蔵寺の話を
記そうと思います― 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月08日 07時10分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


はい
時差19時間遅れでございます。

ロス時代は時差16時間遅れでピンときていましたが
今は更なる3時間のズレでワケ分からなくなっています。



西尾城と華蔵寺のお話
楽しみにしていますね。


悪役吉良公という形容詞がつくことには西三河人には耐えがたい口惜しさのようで
だいたい全ての西三河人から釈明を受けます。

    慕われている、ということですね。


わたくし的には愛媛県の松山の人が「坊ちゃん」を自慢にし誇りにしているのが違和感があります。
でも「坊ちゃん」は小説ですから逆手にとって松山の宣伝に使うところに松山人はなかなか商売がうまいなと思います。
猫もそこらじゅうにウロウロして大事にされているのが分かるし。


そこへいくと吉良の殿様は実在の人物で理不尽にも殺されたという事実に
地元の人は「日本中がメディアに洗脳されて思っているような人間じゃない」と弁明したいのでしょう「実像を知って欲しい」と。

西三河人と知り合うと第2段階で吉良公の話を聞かされ、それからご本人を知るというプロセスのように思います。

彼等彼女達にすれば吉良公に対する我々外野の反応を<リトマス試験紙>でチェックしているようなものなのでしょう。

自分自身を知ってもらうのに吉良公をドアにしているんじゃないかな?
自分と共感できる人間かどうか。自分の話をちゃんと聞いてくれているか、って。


    赤穂の人は逆にラッキーですね。
    赤穂出身というだけで過大評価されて。
    実像はとんでもない殿さまでしたのにね。被害妄想?パラノイア?
    ま、ハラスメントとかイジメって、「された」と主張する人を我々は「そうですか」と全面的に受け入れないといけない&%$(*^#@&ですから。
    殿さまに負けず家来も凄かったし。


       そりゃあ西三河の人はいじけますよね。
       
       わたくし的には西三河の人の「日本ではそういうイメージにされているけど地元では今でも名君だ」という弁護の仕方は「弱いな」と。

       赤穂の殿様も大石以下の家来も突っ込みどころアリまくってるのに
       なんでそこを攻めないのか?
       と、思うけれど日本人のメンタリティは判官贔屓ですからね。
       何が何でも 吉良公=悪役 でないと外野の日本人には座りが悪いからしょうがない。



    足利出身者は「足利」の出というだけで軍隊で殴られたなんて聞きますからね。
    逆に楠木という固有名詞の関係者は絶対に悪く思われませんからね。


つまり西三河の人には日本人全体の意識を変えるには個別に変えていく策しかないということなんでしょうね。    
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月08日 07時59分19秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101536.html
スレッド69をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月08日 08時58分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、先日も西尾の人たちと話をした時、こちらから「西尾の殿様は
吉良上野介ですよね」と言ったら、こちらに対する親近度がガラッと変
わり、すっかり打ち解けてしまいました。その後のフィーバーすごかっ
たこと……。やはり、吉良上野介の押し付けられたコンプレックス、何
とでも晴らしたいという潜在意識が出来上がってしまっているのだと思
います。
 私も、数年前までは吉良上野介は悪役イメージで好きでなかったけれ
ど、歴史に興味を持つようになって色々わかって来た。だいたい殿中で
刀で切り付けるという行為、一色氏の後裔である金地院崇伝が聞いたら
「武家諸法度」を理解・遵守していないと揶揄したでありましょう。
 不仲の原因には、赤穂と吉良(一色)の間に「塩」の利権がからんでい
たということであります。
「赤穂浪士」の「四十七」士の数字は、ある意味を持たせています。
即ち「いろは歌」(四十七文字)に隠された「とがなくてしす」でありま
す。これを大石良雄は「科なくて死す」=「罪を免ぜられて死す」と解
釈したそうです。
 一般的には「咎なくて死す」と、罪がないのに処刑されゆく心の痛み
の吐露と解釈されておりますが……。
 どうも赤穂浪士の話は単純なものではなく、もっと深い因縁があるよ
うに思えてなりません。[赤穂 vs. 吉良]=[平家 vs. 源氏]の構図……。
大阪以西については、私にとって未知の領域なのであくまで推測であり
ますが……。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月08日 09時56分46秒 ) パスワード

三つ柏さん



>大石良雄は「科なくて死す」=「罪を免ぜられて死す」と解釈したそうです。

へぇ〜
そうなんですか。

    すごい解釈ですね
    洞察力の無いワタクシにはビックリでした。


「ああいえばこういう上祐」ってのがいましたが
大石良雄が現代に生まれたら弁護士にぴったりですね。

ま、家老なんですから、当然、どうとでも解釈して、自分達の藩の主張を通さないと。 



>どうも赤穂浪士の話は単純なものではなく、
>もっと深い因縁があるように思えてなりません。
>[赤穂 vs. 吉良]=[平家 vs. 源氏]の構図

へぇ〜

確かに源氏の子孫を名乗る徳川幕府や吉良公に一泡も二泡も吹かせたのですからそれだけでも赤穂浪士はヤッタゼ!ですね。
その上に日本中を今に至るも味方に付けましたしね。


____________________________


三つ柏さんはご自分から吉良公についてお話しなさったのですか。
   お〜い、山田君、座布団差し上げて!



三河人にとっては   
   ランクで 吉良>一色>西尾  
   その上に三河は家康を出した所
   吉良公をけなさない人
という、会話のとっかかりに三河人の「誇り」に触れた、というのは非常に良いタイミングでしたね。



>数年前までは吉良上野介は悪役イメージで好きでなかったけれど、歴史に興味を持つようになって色々わかって来た。

そうなんですよね「イメージ」。
これは大事です。

イメージで勝負出来たらホント楽です。


でも悪いイメージを勝手に作られ定着させられたら払拭するのは永遠にムリ。

元禄14年3月14日(1701年4月21日)の江戸城松之大廊下で
浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷に及んで300年以上経っても
やっぱり
「吉良の殿様って地元では名君なんだって」
   地元<では>  
で終わってますものね。


『仮名手本忠臣蔵』は傑作だとは思うけど
悪役にされてエイエンにこれからも悪役にされたままの方はホント辛いですよね。

日本中の人に「あなた吉良の人?ああ、あのワルの殿様の?」と言われ続けますから。


吉良側で『仮名手本忠臣蔵』以上の名作が出さないことにはね。

今や赤穂浪士や47RONINはアメリカでも映画のネタになってますから
世界的な悪役になりました。


ペンの力
映像の力

オソロシイものがありますね。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月08日 10時30分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一色でお寺を二ケ所見てから、西尾城を見るべく西尾の「歴史公園」に
向かいました。西尾市の中心部の西尾に入るのは、今回が初めてであると
思います。少なくとも、自分から探索に行くのは初めてであります。
 イメージとして描いていたような田舎町ではなく、意外と大きな町であ
りました。また、文化レベルの高い町であるのに驚きました。

 きれいに整備された歴史公園には、西尾城が美しい姿を見せていました。
が、後で調べるとそれは「城=天守閣」ではなく、本丸櫓(やぐら)であり
ました。天主台は敷地の北にあり、天守閣は今はありませんが、珍しく二の
丸の上に築かれていたということであります。

 本丸櫓の南側に「西尾市資料館」があり、無料でありました。「さすが」
と思いました。常設展示としては、特に最後の城主であった大給松平氏五代
が所有していた、各地の城の絵図が展示されていました。各地とは、転封に
なった城々であります――山形城、唐津城、佐倉城、淀城、館林城等であり
ます。
 資料館では、『戦国時代の西尾城』という資料を購入し、またパンフレッ
ト類をいただいてまいりました。

 「西尾城」のパンフレットには、次のような説明書きがありました―
 「承久の乱(1221)の戦功により、三河国の守護に任じられた足利義氏が
 築城した西条城がはじまりと伝えられます。足利市は吉良氏と改め、こ
 の地を治めます。戦国時代末には、牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主
 は代わり、城域も次第に拡大しました。
  関ケ原の戦い後、慶長六年(1601)に本多康俊が西尾2万石の藩主として
 入りました。その後、藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、
 土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。
  寛永15年(1638)、太田資宗が西尾城の大改修を計画し、西尾城の特色
 の1つである堀と土塁が城下町を囲む「総構え」と呼ばれる体裁を企て、
 井伊直之が工事を受け継いで、明暦3年(1657)に完成しました。
  明和元年(1764)に山形から大給松平氏が、6万石西尾藩主として入場
 以来、廃藩まで5代続きました。
  西尾城跡一帯は、平成8年3月に本丸丑寅櫓、鍮石門などを復元し、
 西尾市歴史公園として整備され、同26年3月には二の丸北側の整備が
 行われ、天主題等が復元されました。」
ということであります。

 さて、この公園内には、「旧近衛邸」というものがあり、何だろうと思っ
て行ってみました。無料でした。「さすが」と思いました。茶をたててい
ただけるということでお願いしましたところ、なかなかまろやかな味わい
のあるお茶で、菓子は香りのよい「ういろ」でありました。西尾市は茶の
産地としても有名とのこと。

 近衛家と西尾の関係については、まだ探求しておりませんが、いずれま
とめたいと思います。確か藤堂高虎と近衛家が近い関係にありました……。

 次回は、いよいよ華蔵寺であります―
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月08日 22時19分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしは西尾城の方は全く知らないです。
西尾駅あたりがちょっと記憶にあるぐらい。
なので詳しい説明をありがとうございます。


ムカシ人口が1万ぐらいの「市」で農業市というイメージでしたが
その後4万人になって
今や人口17万人だそうです。

日本のデンマークとかいう安城市もそのぐらいだそうで

おそるべしトヨタ!


抹茶の生産地というのは知っています。
高校生が学校の行事?として茶摘みをするとか聞いたことがございます。



>確か藤堂高虎と近衛家が近い関係にありました……。

へぇ〜


知らないものですね。
ありがとうございました。


では華蔵寺のことを教えてくださいね。
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 10時19分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 吉良家については悪役ということで興味がなかったのですが、結局の
ところ、その悪役イメージがすべてを覆ってしまっていると言っても過
言ではないように思われます。本当はもっと評価されてよい存在であり
ます。
 足利氏は南北朝期より戦国期まで将軍職にあり、武家の中の名門であ
りました。その足利氏一門の中に足利御三家があり、吉良家はその中で
も別格の筆頭家であった。つまり、吉良家は別格の超名門家であったと
いうことであります。また、上野介義央の母は徳川広忠の娘に比定され
る(つまり、上野介は家康の従兄弟にあたる)ようであります。
 名門中の名門故、逆に言うと、戦国の世で武力を発揮するような武家
としての総合力に欠けていた。同族である今川氏には、雪斎という軍師
がいたのでメジャーになれたのかも知れない。
 また「吉良流礼法」などというものの権威であることが、殿中での事
件の背景にあったことは間違いないと思います。
 
 さて、華蔵寺でありますが、西尾城より南東に約3q程行った所の山
裾にありました。また、入り口から分岐して北東奥に行った所に花岳寺
が寄り添うようにありました―
 
 
[66]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 12時12分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 華蔵寺の入り口の由緒書き―
 「華蔵寺は、吉良上野介公の曾祖父、義定公が吉良家を再興した際、新
 たに高家吉良家の菩提寺として江戸時代初期に創建された。
  吉良家は、鎌倉時代に 氏が三河守護・吉良荘地頭を務め、この地に
 居住したことに由来する。室町時代には足利将軍家の一族として幕政の
 中枢で活躍した。
  吉良家墓所 吉良義安(よしやす)から義央(よしひさ)の継嗣義周(よし
 ちか)まで吉良家六代の墓が残る。」
とありました。
 さらに、門をくぐると、文字の書かれた縦1m×横1.5m位の石板が建
てられており、昭和51年作となっていた。そこには三河の人達の心を代表
するような文言が書かれていた―
 「真実を求めて
  人を斬る刀はあっても、時の流れを切る刀はないといわれる如く、風習
 と観念は、時代と共に変遷する。
  元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を生じ、その処理に
 冷静さを欠き、殿中で浅野公が刃傷に及んだ事から、幕府の掟に触れ、
 家は断絶、身は切腹という事になった。
  浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果、旧臣たちは禄を離
 れることになり、一か八かで吉良公を討ちとったが、当時の学者と協議
 して赤穂浪士に切腹を命じた。
  吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君であったからである。
  名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、武士道にも反し、芝居にな
 らないので、小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごと
 をして、吉良公を極悪人に仕立てあげ、世間に広めたものである。
  日常交際のイザコザを、殺し合いで解決したのでは、人間としても
 っとも恥ずべき事であり、世の中が殺伐となる。お互いが腸のにえくり
 かえるような事があっても、どちらかが「汝の敵をも許す」といった
 人類愛に目ざめたならば、世の中は明朗となる。
  現在吉と赤穂の人々は、お互いに恩讐をのり超えて公刊をしているが、
 これは喜ばしい限り。
  本事件の犠牲となって亡くなられた吉良家家臣の二十余士の方々も、
 誠に気の毒の極みであり、このたび供養の塔が建立されたのは、せめて
 ものつぐないといえる。
  ここに吉良公遺徳の一端を述べ、世の誤解を解き、霊の安らかならん
 事を心から希うものである。」
と書かれておりました。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 14時19分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>吉良家については悪役

これは徳川幕府に対する批判や不満が吉良氏に向かった、ということなんだと思います。
特に大坂人気質から出てるんじゃないかなと。江戸に対するやっかみ。


赤穂の殿様の事件はきっかけに過ぎなかったが時代的な全ての負の責任を吉良氏に被せた『仮名手本忠臣蔵』のイメージ作りの結果だと思います。


それに日本人って「イジメ」ものが好きですしね。

   朝ドラでも「嫁いびり」とか「新人イジメ」とか必ず描かれるじゃないですか。

   「まっさん」のピン子のいじめとか、
   「ごちそうさん」のキムラ緑子のいびりとか。

   うちのオットは「おしん」の 高森和子 の演技にビビッてましたよ。
   あれは演技なのに、うちのオットには九州の姑= 高森和子 = 怖ろしい  って。



やっぱり日本のドラマには「イジメ」が必要悪なんでしょうね。

忠臣蔵も吉良の殿様のイビリ+イジメで話が成り立ってるって思います。
あのイビリやイジメのシーンが無かったら、ただの 浅野の殿様の人格破綻+家来のテロ襲撃話になって
赤穂浅野家って  オソロシイ  という話になります。


今回のNHKの「とと姉ちゃん」には嫁イビリとかイジメって  無い  から見ていられます。
NHK、成長したな、って思います。


吉良の殿様には気の毒ですが
でも、こういう事ってありますよね、
     坊主は嫌いだけど江戸時代には宗門改め制度があったから坊主には歯向かえないから
     坊主の纏っている袈裟に八つ当たりして、袈裟を悪し様に罵る、
って。

古今東西そんなもんだと思います。

吉良の殿様も
大坂人のやっかみ+日本全国に渦巻く江戸幕府への反感
を一心に背負ったのだろうと。



    特に日本人ってそういう傾向があると思います。
    日本人って噂話が好きで尾鰭付けるのが好きだもの。
    事実とか真実より  盛ったハナシ  の方が面白いもの。


       今回のアメリカ大統領の選挙のハナシでも
           NHKとフジのニュースしか見られませんが
       フジって視聴者をバカにした放送をわざとやってるの?
       と呆れています。

           フジを見る視聴者がアホなのか
           フジは視聴者をアホだと思ってるからハナシを盛っているのか


                    ああ、これが日本人ってのなのかな、と思います。
  


>「吉良流礼法」

これはいくつか教えてもらいました。

1つだけ記憶しているのは  急須の口を南に向ける  というのです。
ボンヤリ聞いてたので  どうしてだったのか  どういう場合の話しだったか  記憶に無いのが残念です。


その他にも「吉良流食事」もちょっと聞いたことがあります。これは間にヒトが入って聞いた話です。



そして「吉良流礼法」は庶民の礼儀作法である「小笠原流」とは全く格式が違うということ。


ちゃんといろいろ心していれば良かったのですが
まさかこの後に及んで(笑)
話題になるとは。



>入り口から分岐して北東奥に行った所に花岳寺が寄り添うようにありました―

花岳寺って!すごい偶然!
日本的に  花岳寺と言えば  浅野家の菩提寺  ですから。
へぇ〜


赤穂の花岳寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%B3%E5%AF%BA
花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)。




吉良の花岳寺
http://www.240kanko.com/?p=226

花岳寺(かがくじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、中世に吉良荘東条を領した東条吉良氏の菩提寺として創建されました。

江戸時代には高家となった旗本吉良家の崇敬を受け、本堂は貞享元年(1684)に吉良義央公から姉光珠院の菩提を弔うために寄付された祠堂金を元に再建されたもので、江戸時代の禅宗の方丈形式を伝える建築として国の登録有形文化財となっています。

また、御柏原天皇宸翰御消息(国指定重要文化財)や三十六歌仙絵巻(市指定文化財)、百人一首集帳(市指定文化財)など、吉良家のゆかりの寺宝を多く所蔵しています(非公開)。
[68]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 14時30分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 華蔵寺の入り口の門をくぐって十数段の階段を上ると吉良家の御影堂
があり、さらにそこから左手に向かい十段弱の階段を上った所に吉良家
の墓所があり、それぞれの宝篋印塔・仏塔が建てられていました。
 右手前より―
 ・十六代 義冬
 ・十七代 義央
 ・養子  義周
 ・次男  三郎
 ・次女  アグリ子
 左手奥より―
 ・十三代 義安
 ・夫人
 ・十四代 義定
 ・十五代 義弥
 左手中央奥に―
 ・義周公供養塔
 右手奥に― 
 ・吉良公家臣供養塔
 そして、中央に、何故か―
 ・キリシタン燈篭
がありました。このキリシタン燈篭と「アグリ子」については「謎」の
残るところであります。
 全体を回ったところで、代表としての「義央」の宝篋印塔に向かい、
義央が浜松の領主だったことも踏まえ、心よりの般若心経を二巻、捧げ
てまいりました。
 
[69]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 14時47分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスが交差しました。
 「礼法」の解説、「小笠原流」の名前は知っている人があると思いま
すが、まさか、「吉良流」を知っている人はないと思います……さすが、
あを様!……尊敬いたします。

 今正に、花岳寺の話を書こうと思っていたところでした。
「偶然の二ケ所の花岳寺」の話には、ビックリです……。

 しばし、読解いたします―
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 15時03分48秒 ) パスワード

>現在吉と赤穂の人々は、お互いに恩讐をのり超えて交歓をしているが、これは喜ばしい限り。


      お互いに恩讐をのり超えて交歓をしているが
   
            取り敢えず、ね。


      赤穂の人は心の中で(うちの勝ち)というのがあるでしょうね
      吉良の人にはメディアに書いて貰ってもやっぱり吉良の殿様は悪役で描かれ続けて悲しいでしょうね。



サンフランシスコに住んでた時に福島の人達の中にいました。
だから長州に対する会津の気持ちというのは赤穂に対する吉良の思いに似てるんだなと思いました。


よく言うじゃありませんか
加害者側はきれいさっぱり忘れるけど被害者側は自分がやられた思いは絶対に消せないって。


ロスにいた時はアルメニア人のトルコへの怨みというのを見てました。
それからイラン人のギリシャ(アレキサンダー)への怨みとかね。イラン人には絶対に「アレキサンダー大王」と言ってはなりません。


    あ、アレキサンダーはギリシャ人にとっては「ど田舎マケドニアの貧乏子倅」ですからギリシャ人に話題にする時には気を付けないと。
    そのギリシャ人がマケドニア出身者なら大丈夫ですが誇り高いポリスの出身者だったらマズイ。

          アレキサンダーの家庭教師だったアリストテレスは
          マケドニアに支配されてた土地(トラキア地方のスタゲイロス)の出身者で
          父親がマケドニア王の侍医をしてたからで

    

だからそういう力関係を押さえてないと、とんでもないことになったりします。

         だいたい日本人って「政治力学」に鈍感ですものね。
         日本人で「ポリティカル・サイエンスを研究した」と言う人には1人も出会った事ないし。



ああ、そうそう、蜂須賀侯爵が明治天皇にお呼ばれして、その席にあった葉巻を失敬したら
天皇が「蜂須賀、先祖は争えんもんだな」とおっしゃったとか。

それで蜂須賀侯爵は先祖の身の潔白を証明する家書を奉呈したけど

     秀吉の出世話の『太閤記』に「蜂須賀は野盗」と書かれちゃったから天皇からも野盗の子孫とからかわれるし

やっぱり現代の皆さんも蜂須賀は野盗だと思ってるでしょうね。


吉良公は損な籤を引いてしまった1人ですね。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 15時14分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


>アグリ子

アグリというのは浅野の殿様の奥方も阿久里(瑤泉院)ですから
普通にアグリという名はあったと思います。


吉行淳之介のお母さんも「あぐり」さんです。


でもキリシタン灯篭はどうしてでしょうね。
調べて来ました
http://ryuuranokai.blog.fc2.com/page-10.html
別名、織部灯篭と呼ぶそうです。




http://kin3.a.la9.jp/machi12kirisitantouro.html
織部灯籠とは、
戦国武将で茶人でもあった古田織部(1544〜1615)が創案した灯籠の形であるといわれている。
四角柱の竿石の上部が十字架様に張りだし、地面に直接埋め込んで建てるのが主な特徴で、竿石の形や彫像から、キリシタン灯籠とも呼ばれている。

切支丹灯篭

太宗寺の切支丹灯籠
 住所:新宿2-9-2
目黒の大聖院3基 大聖院の切支丹灯籠
 住所:目黒区下目黒3-1-3
目黒の大鳥神社の切支丹灯篭
 住所:目黒区下目黒3-1-2
上野の本覚院 東叡山寛永寺の切支丹灯籠
 住所:台東区上野公園
目黒の海福寺の切支丹灯籠
 住所:目黒区下目黒下目黒3-20-9
高山稲荷神社 品川西口の切支丹灯籠 
 住所:港区高輪4
深光寺キリシタン燈籠(?)
 住所:文京区小日向四丁目-9-5
延命寺の切支丹灯籠 
 住所:板橋区志村1-21-12
秋葉大神の切支丹灯籠
 住所:新宿区矢来町3-1
蓮華寺の切支丹灯籠
 住所:杉並区本天沼2-17-8
JR荻窪駅の北東、徒歩15分
禅定院 無量寺の切支丹灯籠
 住所:練馬区石神井町5-19-10
妙覚寺の切支丹灯籠
 住所:千葉県市川市本行徳15-20

太宗寺の切支丹灯籠
住所:新宿2-9-2
内藤家の墓地より出土した織部燈籠。
隠れ切支丹が信仰したとか?・・・。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 15時29分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの分も般若心経を詠んでくださってありがとうございました。


吉良義周公は気の毒過ぎます。
日本の歴史にはこういう気の毒な人生で終わった人が大勢います。

今回の三つ柏さんの般若心経はそういう気の毒な最期を迎えた人達の慰めになりました。


なんとなく吉良義周公が「父のために般若心経を詠んでくれてありがとう」と言ってるように思いました。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%91%A8

吉良 義周(きら よしちか/よしまさ、貞享3年2月22日(1686年3月16日) - 宝永3年1月20日(1706年3月4日))

江戸時代前期の武士。高家旗本。吉良義央の孫にして養子。通称は左兵衛(さひょうえ)。


幼少期[編集]

出羽米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれる。母は側室・お要の方(茨木氏)。兄は5代藩主・上杉吉憲、弟は米沢新田藩初代藩主・上杉勝周。幼名は春千代。

父の綱憲は義央の嫡男であったが、母が上杉綱勝の妹であった関係から末期養子として上杉家を継いでいた。

その後、吉良家では義央の次男・三郎が嫡男となっていたが、貞享2年(1685年)に夭折し、他に男子がなかったため、綱憲は元禄2年12月9日(1690年1月19日)、次男・春千代を実家吉良家への養子とした。春千代は吉良左兵衛義周と名を改めると、元禄3年4月16日(1690年5月24日)、米沢城から江戸鍛冶橋の吉良邸に入った。時に5歳。

吉良家の相続と改易[編集]

元禄9年11月21日(1696年12月5日)、将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら武器をとって応戦したものの、不破正種(一説に武林隆重)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、捨て置かれて斬首されることはなかった。

事件後、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中稲葉正通邸に届け出ている。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された結果、義周の当日の対応は「不届き」として改易の上、信濃諏訪藩主諏訪忠虎にお預けを言い渡される。なお、同日に赤穂浪士たちが切腹している。

晩年[編集]

元禄16年2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は左右田孫兵衛・山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだった。高島城の南丸に幽閉されたが、高家の子息ということで藩士たちは「左兵衛様」と敬称した。たばこも許され、衣服や蚊帳も与えられた。ただし、自殺を恐れて剃刀などは与えられなかった。義周の前へ出る藩士も帯刀を禁止された。諏訪家では、義周の処遇についてたびたび幕府に書簡を送って細々と指示を仰いでいる。義周ら一行の到着後にたびたび病気になっているが、これは一帯に蚊が多かったことが原因のようである。

義周は「武芸等不得手」と文献に特筆されているように、生来虚弱な体質で病で寝込むことが多く、宝永2年(1705年)10月からは完全に寝たきりとなった。さらに、宝永元年6月2日(1704年7月3日)には実父・綱憲が死去、次いで8月8日(9月6日)には養母(祖母)・梅嶺院も死去と、身内の死が重なった。宝永3年1月19日(1706年3月3日)に危篤に陥り、20日(4日)死去した。享年21。遺体は塩漬けにされ、防腐処理が施された。

同年2月4日(3月18日)、幕府の石谷清職の検死を受けた後、地元の法華寺に葬られた。なお、遺臣の孫兵衛・盛侍の両名は、義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金3両を法華寺に納めている。
[73]三つ柏服部さんからのコメント(2016年06月09日 17時46分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の西尾(吉良)行きとあを様の解説により、吉良氏(特に上野介義央)は
もちろんのこと、足利氏、斯波氏、今川氏と関係諸族についての興味と知識
が飛躍的に高まりました。今まで、一番不勉強・不理解の箇所でありました。
実際に吉良氏や斯波氏がこの浜松を領していたということで、その伝承は余
り知られておりませんが、これから郷土史の中から見つけて行きたいと思っ
ています。
 島田市の郷土史家鈴木正一氏の書いた『今川氏と東光寺』という本を今改
めて紐解きましたところ、今までなかなか進まなかった理解が、スラスラと
進んで行くではありませんか。
 歴史というのは、まさに人間関係の綾ですね。「人間関係がわかれば、歴
史はわかる」―これが私の今の感想であります。

 花岳寺については、次回、新しいスレッドにて、と思っています―
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 22時45分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「人間関係がわかれば、歴史はわかる」―これが私の今の感想であります。

はい
人間関係は複雑で外野にはサッパリですね。

その上に人間は移動しますから
    (徳川幕府の時代に転居の自由が無かったせいで)
300年近く定住させられて来た我々にはイヨイヨ訳が分からなくなりますね。



チラッと思ったのですが
家康が築山殿と信康を死なせた件
家康または信長が  足利の血を引く者は生かしておくわけにはいかない  というのがあったのかな
と思いました。


          築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
          今川家一門である瀬名家の関口親永(または瀬名義広)の娘。

          母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたるとされるが、

          「井伊年譜」には、実は井伊直平の娘で、今川義元の養妹として関口に嫁したとされる。
          また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。



                本当のところが分かり難いのですが
                井伊の血も引いてた?



戦国時代の結婚というのは難しいものですね。一族郎党の将来や生活もかかって来ますから。

築山殿や信康が死ななければならなかった背景には我々が知っている以上の深い人間関係の闇があったのかもですね。



花岳寺のお話、楽しみにしております。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月09日 22時53分25秒 ) パスワード

それで  家康は新田系なのかしら?(つまり、足利系じゃないよ、という意味なのかしら?) と思いました。


こういう「整合性」という必要性があの時代の日本にはあったのかしら?と。


日本人なんて源平藤橘その他いろいろ混じってますから当たらず遠からず言ったもん勝ちだったのかなと。

でもハッキリ出自が分かっている場合は誤魔化しようが無いわけで。


出自が分かっているのも分かっていないのも、なかなか厄介ですね。
分かってない方が創姓出来る分、ラッキーだったのかな?と。




こうやってグダグダいろいろ思いを馳せることが出来るって歴史は楽しいです。
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