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 投稿番号:101529 投稿日:2016年05月04日 04時33分49秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXY(16年の課題確認9)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LXV(16年の課題確認8)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101527_58.html
スレッド65の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


ゴールデンウイークの松阪行きは収穫の多い旅となりました。

久居では玉セン寺や妙華寺で藤堂藩に仕えた
多くの服部家のお墓とその家紋を見ました。
バリエーションもいろいろでした。


亀山・関宿では屋号が深川屋さんという名菓「セキノト」を扱う
服部家にお邪魔しました。
初代服部伊予保重公は従二位(陸奥大椽)の官位を頂いています。


その他、驚きの連続の旅となりました。


長上郡の服部家との関係は?いよいよ謎が深まりました。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月05日 07時54分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊良湖に着くと、故郷に帰って来たような安心感に包まれます。それは
もうほぼ一本道の道程であるからであります。その道を伊勢道というのは、
昔、伊勢へ行くのに伊良湖まで徒歩で来て、そこから舟で行くのが最短の
コースで、なおかつ伊勢の町を流れる勢田川をさかのぼり、二軒茶屋の舟
着き場に上陸するのが常だったようです。「二軒茶屋餅」というお土産が
あるそうですが、茶屋の二階に上がって餅を食べたそうであります。もち
ろん「赤福」という有名な餅もありますが。
 伊良湖の他にも、舟着き場はたくさんあり、それぞれ伊勢と結ばれてい
たことでしょうが、その情報を得たいものです。

 さて、伊良湖では懸案であった「芭蕉句碑」を探しに「伊良湖神社」へ
向いました。伊良湖神社は岬の先端の山の上かと思いきや、その裏側の山
の中にありました。場所は田原市保美(ほび)という所であります。芭蕉は
保美の「杜国」(門人)を訪れたということでありますので、そこに間違い
ありません。
 芭蕉も訪れたという「伊良湖神社」、そこには芭蕉の句碑があるはずな
のですが、なかなか見つからない。
 神社にお詣りする。途中に「白馬」像をお祀りしたお堂があり(昔、多度
神社でも見た)、そしてその奥に、伊勢神宮遥拝所と橿原神宮遥拝所と書か
れた二本の柱が、鳥居としめ縄の奥に建てられていました。神社に着くと、
それは神明造の立派な由緒ありそうな建物でありました。
 由緒書きには―
 「伊良湖神社 祭神 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
  伊良湖神社の創建は、古く嘉祥元年(848年)あるいは貞観十七年(875
年)とも伝えられ、三河国内神明名帳には、正三位伊良湖大明神と記さ
 れている。
  後世、江戸開幕の慶長八年に、朱印二十五石余を受け、明治に至った。
 明治三十八年、伊良湖試砲場用地拡大に伴い、集落移転の際、伊勢湾が
 一望できる宮山から現在地に遷座された。」
ということで、何でこんな岬の山裏にあるのか、芭蕉が句を詠んだにして
は辺鄙な所だなと思ったことの謎が解けました。
 ここでは毎年四月に「おんぞ祭」をするとのこと。赤引きの糸にからむ
祭でありますので、これはこれでもう少し調べたいと思います。

 芭蕉とその句、句碑については次回に記します―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月05日 10時54分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

>伊良湖に着くと、故郷に帰って来たような安心感に包まれます。
>それはもうほぼ一本道の道程であるからであります。

ですね。

「外国」に行って成田なり羽田なりに着いた時の「帰国した〜!」という感覚でしょうね。
まだ先は長いけど。笑



>「赤福」

大好きですよ。
お土産にもらって嬉しいものの1つです。


「二軒茶屋餅」は知らなかったです。
さすが「足」で得た情報ですね。



>伊良湖の他にも、舟着き場はたくさんあり、それぞれ伊勢と結ばれていたことでしょうが、
>その情報を得たいものです。

これは簡単に手に入りそうです。
渥美町役場?田原市役所?あたりで。


    そうそうワタクシのムカシの三河の友人宅には  渡辺崋山  が泊まったもので
    
    襖なんかに  絵 が描かれてましたよ。

          でも子供達が男の子ばかりで  もったいないことになってました。 記憶にあるのは「鹿」の絵です。 
   
    見てスグに渡邊崋山って分かりましたよ。分かり易い絵ですものね。
    人柄が心優しい人だったんだろうなというタッチでした。


          わたくしの若い頃はこういう家が結構あったものです。
          京や長崎に勉強に行くヒトを泊めたりしてたんでしょうね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月05日 11時10分36秒 ) パスワード

伊良湖神社
http://www.taharakankou.gr.jp/spot/000061.html


ホント!


伊勢神宮に縁が深い神社

御衣祭で有名なこの神社は、昔伊良久大明神といわれ、その草創は貞観17年(875)にまでさかのぼります。

この地が伊勢神宮領伊良湖御厨であったことから、神宮を深い関わりを持っていました。


現在の御衣祭は、4月の第3日曜日に行われます。植木市や出店が並び、大勢の人でにぎわいます。

また、大晦日から元旦にかけて行われる火祭り「ごせんだらまつり」では、飛び散る火の粉を浴びて身を清め、新しい年の平安を祈ります。



へえ〜


伊勢神宮の御厨だったんですか!
ということはかなり前から伊勢から伊良湖に来てたってことですね。
古代人ってスゴイですね。

   ワタシは渥美半島に行きましたが、伊良湖から伊勢に渡るなんて考えもしませんでした。



地図を見てビックリ!
http://www.taharakankou.gr.jp/spot/000061.html

国道42号線(田原警察署の南南西?)に  大草  という地名があり   ココにまずビックリ


42号線を東に行くと  百々陶器窯跡  があります。          ココでもビックリ、なにゆえに  百々 ???


http://www.taharamuseum.gr.jp/heritage/heritage1.html


百々陶器窯跡(どうどうとうきかまあと)

 田原市の中心部より南東へ4キロメートルの丘陵斜面の山林中に存在する古窯跡で、
天井陥没跡や盗掘坑があり、遺物が散布していますが、古窯の構造全体はわかっていません。

 2基の窯が並んで天井を遺していて、これだけ保存状態が良好なのは珍しく渥美窯の代表といえます。

 指定当初、奈良時代の古窯跡と考えられていましたが、戦後窯業生産史の研究がさかんになり、渥美半島に分布する古窯跡の性格が明らかになってきました。

それによると、渥美古窯跡群は、平安後期より鎌倉前期までの時期に生産していたものが多く、
田原市付近も同様の性格の古窯跡がほとんどです。
本古窯も散布遺物からは、平安末から鎌倉時代のものと考えられます。





吉胡貝塚(よしごかいづか)

縄文時代の後期・晩期を中心とした日本を代表する貝塚遺跡のひとつ。
これまでの発掘調査で341体もの縄文人骨が出土し、考古学・人類学の研究に大いに貢献しました。

                 へぇ〜



渡辺崋山 池ノ原幽居跡
渡辺崋山が無実の罪により蟄居を命じられ、晩年を過ごし自ら果てた屋敷跡。



是非渥美半島もじっくり探検なさってください。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月05日 11時55分18秒 ) パスワード

そうか。。。

熊野御前が京都に行くのに伊良湖岬から伊勢に渡ったことも考えられますね。
伊勢は平家の本貫地ですから特に。




百々について

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BE%E3%80%85
【名字】百々

【読み】ささ,ひゃくびゃく,ひゃくも,とと,どど,とど,どんど,どうど,どうどう,どんと,もも,ももどう,ももひゃく,ももも,とうどう


            読みの最後の「とうどう」って?アヤシイ


【全国順位】 3,808位
【全国人数】 およそ3,200人


現滋賀県である近江国坂田郡百々村が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。


                京極関係者ということかもですね


ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏がある。


三ケ月藩、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。
へぇ〜



http://www.its-mo.com/search/area/25/425/014/B21/
現在の滋賀県愛知郡愛荘町川原百々町
彦根のすぐ近くで彦根の南西?


ムカシの呼び名では近江国坂田郡百々村?


百々があって、北に彦根、その向うに米原があって更に北が長浜、なのかな?
百々の真南に甲賀!笑
彦根の東が  養老!


     やっぱりアヤシイ。
     藤堂高虎もアヤシイ!
     やっぱりニンジャがらみもあった?!


彦根城の東に三成の佐和山城があって、更に東に百々館があった。
地図に出てます。http://yamabiko.ciao.jp/07_siro/siro25zn/25zn_dodoyama/siro25_maruyamajyou.html の1番下

_____________________________


http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d24083dbb4fb071e7aa264d1cbf8bcda

「近江を制する者は天下を制する」と京の都を目指す天下取りには、近江は京都の護りの最大の砦で、最後の砦。1300余の城館跡


山屋敷 近江国(彦根・鳥居本)
所在地:彦根市宮田町 L
築陣期:室町期
築城者:小野清介
標 高:92m   比高差:ーm
区 分:山麓館

お城の概要

福島城と百々屋敷の中間に位置し、東山街道を監視の役目を担っていたのでは?


            この「百々屋敷」って何なんでしょうね?


物生(むし)山城を詰め城・物見廓をしての山麓館では?

「城館後には、家は立たない」というが、ここも例外ではないようです!


歴 史

「淡海温故木間攫」に坂田郡「物生(むし)山村 古小野清介ト云武士当村ノ地頭タリ、其宅地跡□在ス、此後ハ伊賀国ニ有ト云、」


                 この最後の「伊賀国二有ト云」も意味深ですね



坂田郡域 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
•彦根市の一部(笹尾町、小野町、佐和山町、鳥居本町、宮田町より北東)
•長浜市の一部(相撲町、森町、下之郷町、国友町、今町、千草町、東上坂町、相撲庭町以南)
•米原市の大部分(甲津原・曲谷・甲賀・吉槻・上板並・下板並を除く)

明治12年(1879)に、小野西山村・小野馬場村・物生(むし)山村が合併して宮田村となる。

________________________________

ということで更に  百々山 標高150m を調べました。

http://yamabiko.ciao.jp/07_siro/siro25zn/25zn_dodoyama/siro25_maruyamajyou.html

百々の集落は、室町時代後期から戦国期にかけて、京極氏に仕えた百々氏が本拠としたところです。


    つまり百々氏というのは青山氏の家来の忍者というより、ちゃんとした武家だったのですね。失礼をばいたしました。


百々山頂からの西側展望:
山頂から石田三成の佐和山城址が目前に望めます
へぇ〜


骨塔
竹藪の中の道を0.2kmほど進むとあります。
側面には「百々某」とあります。



百々氏の祖である百々盛通が、当地に居住し、天台宗の百々山本照寺が盛通の菩提寺と伝わりますが、
信長の戦火により本照寺は廃絶。

その後、本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守られてきたと伝えられています。
現在、社殿が残るのみ。



百々山入口:名神高速道路
         「彦根25」トンネル


___________________________

ざっと  近江=滋賀  と  百々  の関係  さらに  甲賀伊賀柳生北勢との関係

あの辺りは一衣帯水ということで運命共同体だったんでしょうね。


百々氏がちゃんとした武家だったというのが収穫でした。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月05日 11時58分28秒 ) パスワード

百々氏も反信長だったんですね。

永禄13年(1570年、4月23日元亀と改元)の記述

信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

7月6日(正確には7月4日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。



信長公記 第三巻 「金ヶ崎撤退〜姉川の戦い〜近江志賀の陣」より抜粋


信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)とは、日本の安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長の家臣であった太田牛一で、豊臣秀吉の命により、太田牛一の日記を元に作られたとされています。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月05日 23時34分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は夕食後、徳永信一郎氏の『藤堂高虎』を読んでみました。以前は
読みづらかったものが、今はスラスラと興味をもって読めるのです。伊賀
上野、名張、久居、津と藤堂氏の関係各所を回ったせいでしょうか。

 柳生家と藤堂家の関係は、まだしかとは見えていませんが、次のことは
総合的に調べてわかりました。
 @柳生家は、南朝時代から伊賀の服部家とは関係していた。
 A柳生家初代及び宗厳は、島左近と同様、筒井氏に仕えたことがあり、
 親しい間柄である。
 B柳生家と松下之綱も之綱の娘が宗矩の妻になり、親戚関係となる。
 C秀吉の死後、藤堂高虎は家康側に傾いて行く。
 D宗矩は家康に仕える。松下家も家康に仕える(特に、松下常慶)。
 E藤堂家は家康より伊賀を任され、服部半蔵の親戚の保田采女を藤堂姓
 にし、家老として、伊賀の忍衆を統制する。
 F柳生家と島左近は、左近の娘が柳生利厳の妻となり、親戚関係となる。
 G藤堂藩は、柳生宗矩の弟子の柳生源太夫を召抱えている。

 柳生との関係は、松下経由が一番確かだったかも知れない。次に、保田
采女か。半蔵正成はどうか……秀吉の死の二年前に亡くなっている。
 いろいろな人間関係がからみあってはいます。

 藤堂家と柳生家の直接の関係はあったのでしょうが、まだ具体的には見
つけていません。今後引き続き探究して行きたいと考えております―
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月06日 06時34分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>徳永信一郎氏の『藤堂高虎』を読んでみました。
>以前は読みづらかったものが、今はスラスラと興味をもって読めるのです。

しっかり勉強なさいましたからね。


>伊賀上野、名張、久居、津と藤堂氏の関係各所を回ったせいでしょうか。

はい
土地勘がちょっとは出来たし

徳永信一郎氏の言いたいことをキャッチする受容器が出来たということでしょうね。


    とにかく固有名詞がピンと来ないと  人名・地名・距離感・先祖・人間関係・立ち位置 がさっぱり掴めません。

    固有名詞に馴染みができるとハナシは早くなって理解が出来るのでしょうね。

           知り合いの東大法科を出た法律顧問をしてたオジサマが
                自分は試験を受けるのに1万ページは読んだ
           なんて言ってましたが  我々も万巻の書を読まなくては(笑)
           そして万里の道を旅し、いろいろな人に出会いませんとね。





藤堂氏の出自については諸説ある。

中原姓説(「歴名土代」)
宇多源氏佐々木氏族説(「輿地志略」)   アヤシイ。百々と関わりがあるかも
平姓説(「中興系図」)          地理的にはそうかも。
藤原氏説(『寛政譜』)          これは希望的自称ですね


はじめは中原氏を称していた(歴名土代)。

藤堂高虎のとき近衛信尋と親しかったことから藤原氏を称したらしく、
『寛政譜』において自家を藤原氏としている。

                     言ったもん勝ちですからね
                     最初が肝心。

歴史

近江国の豪族であったが、虎高は武田信虎に仕えて偏諱を受けたという。
のち浅井亮政に仕えた(『寛政重修諸家譜』、太田亮『姓氏家系大辞典』)。

虎高の子・高虎は、浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と主を次々と乗り換え、
最後は伊勢国津藩三十万石を手に入れる事に成功している。


__________________________________


柳生氏

新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、柳生氏の姓は菅原姓とされ、
菅原道真が祖先とも言われている。

使用の家紋は、「地楡に雀」、替紋に「柳生笠」。



実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、
南北期の播磨守永珍(別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、
柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、
元弘3年(1331年)に、南朝方として、六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、
後醍醐帝から賜った大和国小楊生(大楊生とも)庄の領主となり、
柳生氏と名乗ったことから始まるとされる(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。


柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。
また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。


戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。



_________________________________

松下氏


松下氏の苗字の地は、三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区・矢作川の西岸)である。


家系は、

1.
宇多天皇の第八皇子・敦実親王の系統である近江源氏佐々木氏一族の庶流・円山城主(現在の滋賀県近江八幡市)の西條氏から分かれたとする説と、

2.
秦氏の系統とする説がある。


傍系として松平忠輝の姉婿花井三九郎が出た花井氏がある。



佐々木氏流松下氏の系統で最も有名なのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて大名となった之綱の系統である。

之綱は遠江久野城主16000石となった。
之綱の子・重綱は久野から転封され、常陸小張城主となり、「小張松下流綱火」(国の重要無形民俗文化財に指定)を考案して、領民に伝えたと言われている。

その後、下野烏山城主を経て陸奥二本松城主5万石となった。

重綱の子・長綱は年齢を理由に陸奥三春城主になり、土佐藩主・山内忠義の娘・喜与(喜代、清とも)と婚姻するが、
縁戚であった加藤明成・明利の改易に連座して改易され、
以後は上総・伊豆に所領を持つ交代寄合旗本3000石として存続した。


江戸時代の旗本であった松下家は13家を数えるほどである[1]。

子孫の松下加兵衛重光は幕末維新には、箱根戦争で、木更津脱藩藩主・林忠崇(昌之助)や小田原藩の軍と戦っている。

子孫の長至(ながよし・松下家14代)は明治31年(1898年)、親族の侯爵・山内豊景(とよかげ)や子爵・加藤明実(あきざね)、子爵・小笠原家の連名で、宮内大臣・田中光顕に対して男爵に推挙されたが、果たされなかった[2]。

なお、子孫は現在に至る。



他には、徳川家康の家臣、松下清景・松下安綱(常慶)兄弟があり、

清景の子孫の系統は、越後(井伊)与板藩の家老を代々務めた。
常慶は家康の信任厚く、子孫は、火付盗賊改方を務めている。子孫は現在に至る。


高知県には、土佐山内家の中老職を務めた之綱の弟・継綱の家系がある。

また、荻野山中藩(神奈川県)の用人を務めた松下家(松下長範の子孫)では、幕末に松下祐信が出ている(厚木市)。子孫は現在に至る。



____________________________

3家ともに昔々琵琶湖あたりにいたのかもですね。
昔っからの知り合いだったのかも。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月06日 09時57分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 論文にするには緻密な調査と時間を必要としますが、それはまた別次元
の話であって、毎日の歴史の謎解きにはそんな時間はとりあえずかけられ
ません。
 とはいうものの、藤堂氏を探って行くと、やはりいろいろなことが出て
来ます―これについては、今後も記して行きます。

 あを様のいう「アヤシイ」ということを、「関係している」ということ
と解釈するならば、以下は「確実にアヤシイ」―つまり、つながっている
と言うことができます。
 @楠正成
 A柳生家
 B島家
 C松下家
 D観阿弥・世阿弥
 E服部家
 F長谷川家
 G藤堂家
 H芭蕉
 誰と誰がどうつながっているかは、長くなりますので記しませんが、や
はり「類と友」……「仲間意識」「同族意識」「味方意識」というものは
人間の基本的習性であり、潜在的にも顕在的にも磁石のように引き寄せら
れて行くのかと思います。

 鳥羽からフェリーで伊良湖に着いて、芭蕉の話をするというのも偶然の
ようで偶然でない。芭蕉は服部氏や藤堂氏と関係しているという事実が、
その下敷きにもなっている気がいたします。

 本日中には、伊良湖の芭蕉について記したいと思います―
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月06日 13時44分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>本日中には、伊良湖の芭蕉について記したいと思います―

よろしくお願い致します。



>芭蕉は服部氏や藤堂氏と関係しているという事実

当然必然ですね。


@楠正成  A柳生家  B島家  C松下家  D観阿弥・世阿弥  E服部家  F長谷川家  G藤堂家  H芭蕉


@からHの相関関係は納得出来ますが、木曽義仲についてはどういう思いで芭蕉は好きだったんでしょうね。


[10]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月06日 16時37分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉が何故義仲に魅かれたのかは、ただ単に好きだった、英雄だった、
滅びの美学に感じ入った……だけではないと思っています。
 やはり、先祖がかかわったという感慨が基本になっているのではないか?
 芭蕉の先祖を探れば、間接的に義仲とからんで来ると推察いたします。
 そのキーマンは宗清……。
 芭蕉は本当は武士になり、一身を「侍」として義を尽くしたかった(実存)。
つまり、心底より武士の血が流れていたのではないでしょうか。
 芭蕉は藤堂高虎に間接的に仕えている。つまり、高虎の弟の孫と曾孫に
若い頃仕えていた。その曾孫は若くして死んでしまう。ここから芭蕉の苦難
の道がはじまる。
 でも、芭蕉は藤堂高虎をどうとらえていたのか……この人は誠に義を貫い
た人であったのですが。その辺のことを知りたいです。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月06日 22時56分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうですか
三つ柏さんは  芭蕉と高虎  の関係が気になりますか。
  

わたくしは  芭蕉と義仲   が気になります。

     芭蕉は「夏草や 兵どもが 夢の跡」で奥州藤原氏や義経の滅び  そして  頼朝の繁栄を思うのですが
     いまいち  義仲については何だったのかな  と思うのです。


     宗清そして百地について
     芭蕉は何を思っていたのか、というのを想像してみたいです。


芭蕉は藤堂高虎の出世をどう考えていたんでしょうね。
ひょっとして  藤堂は百々の出で  そして出世に出世を重ねて伊賀伊勢の支配者になった
そういうのは   「夏草や 兵どもが 夢の跡」  にも通ずるものがあるのかな  とか。


でもやっぱり義仲についてが想像に至らないのです。



出雲崎で詠んだ  「荒海や佐渡に横たふ天の河」  の方はドジった服部正重のことを連想するんですけどね。

      父親からこの事件については聞いてますよね。



松尾 芭蕉
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)


服部 正重(はっとり まさしげ、天正8年(1580年) - 承応元年(1652年))

江戸時代の旗本。通称は半蔵(はんぞう)。服部正成(服部半蔵)の次男。
兄は服部正就。弟は僧侶の正広。妻は大久保長安の長女。子は服部正吉ら。



生涯[編集]

1600年、関ヶ原の戦いで初陣。戦いの前日夜に徳川家康の陣で酒盛りしながら、父親の初陣話や活躍を聞く。翌日合戦(法螺貝の合図)の前に敵陣に一人で入り、寝込を襲い敵の侍大将の首を取り、家康に届ける。

1614年、大坂の役で行方不明となった兄・服部正就(3代目服部半蔵)に代わり、服部家の家督と服部半蔵を襲名する。

服部家は伊賀忍者の頭領として一般に知られるが、既に兄の服部正就の代において伊賀同心の支配の役目は解かれており、正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山などの政策を担当した(佐渡金山の同心)。

1612年の大久保長安事件ではお咎めなしであったが、目付より佐渡で待てと言われたものの、佐渡で待たずに佐渡島の対岸の出雲崎で目付一向を出迎えたため、徳川家康の逆鱗に触れ、3千石を没収され浪人となる。

その後、越後国(新潟県)の3藩に家来として仕えるが、どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、5年後、兄嫁の実家久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することとなる。正重は1652年、73歳で没した。


なお、桑名では正重の子孫の家を大服部家、正就の子・服部正辰の子孫を小服部家と呼ぶ。
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月07日 00時00分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉が伊良湖へ来ていたなど、思いもよらなかったのですが、調べて
みると、門人がそこにいたという。その弟子の名前は「杜国(とこく)」。
 『芭蕉入門』(有斐閣)によれば―
 「坪井杜国(1656〜1690) 本名 坪井庄兵衛
  名古屋の蕉門の弟子。芭蕉が特に目をかけた門人の一人。名古屋の
 大きな米穀商で町代も勤める富商であったが、空米(くうまい)売買と
 いう一種の商品投機に手を出し、家宅財産没収の上、御領分追放とい
 う重科に処せられて、伊良湖岬の辺鄙な保美村に配流され、身を隠し
 ていた。
  芭蕉はこの不遇を深くいたみ、門人の越人を案内役にして、鳴海か
 ら二十五里(100q)の道を引き返し、渥美半島の先端まで慰問につ
 いたのである。1687年の11月10日から16日までの往復7日
 間の旅であった。」

 この時のことが、芭蕉の『笈の小文』に書かれていて、その中に保美
で詠んだ句が3句あり、締めの句がこれである―

 「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」

 果たして、この句は何を言わんとしているのであろうか……?
 単純に解釈すれば、杜国を鷹に見立てて、まずまず元気な杜国を見て
よかったよかったといった気持ちを表しているのではないかと思います。
 しかし、芭蕉の句には、その裏に必ず大きな心象風景・歌枕を背負って
いると考えなければなりません。
 この場合のキーワードは―
 @配流
 A伊良湖
 B鷹
であります。
 つまり、万葉集に出て来る「麻績王」をまず歌枕として抱いている。
 @杜国も麻績王のように配流された。
 A配流先は、伊良湖岬である。
 B伊良湖は鷹で有名である。『湖西の文化25号』に載せられた東郷氏
によると(要約)、この場合の鷹は、「サシバ」という鷹の仲間で、秋にな
ると、浜名湖西岸の弓張山脈の斜面に生じる上昇気流に乗って、大きな弧
を描きながら高く高く上がり「鷹柱」を作る。これが毎年秋の空にくり広
げられる「サシバの渡り」の始まりであり、弓張山脈を海岸方向へ南下し、
そして遠州灘の海岸線を西に向かい、伊良湖岬の上空へ出る。そこからは、
遠く東南アジアやフィリピンを目指す。
 古代人には、日本書記にある白鳥伝説のように、鳥は死者の霊魂を他界
につれて行くという思想があった。死者の魂を西方浄土へ渡り鳥に導いて
もらうように祈願したことであろう。 
 従って、鷹は単なる鷹ではなく、神聖を帯びた使者・案内人となる。」

 私なりに、改めて芭蕉の句を深読みしてみました。私ならこんな風に
解釈いたします―
「昔、麻績王が伊良湖崎に流されたと聞く。今、杜国は同じようにこの
伊良湖崎に配流されている。今、一羽の鷹が空をとんで西方へ向かうよ
うである。是非とも麻績王の魂を西方浄土へ導きたまえ、また杜国も空
高く飛ぶ鷹のように、元気でここより解き放たれんことを!」


 
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月07日 09時11分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊良湖岬の丘から海を眺めた時、対岸には伊勢があり、また伊賀上野が
ある。芭蕉は青色の空とあを色の海を眺めながら、いつしか心は過去の心
象風景の中にあった。色々なシーンと思いが交差する。昇華された情念。
それを人は詩人の感性と言うのかも知れない。

 芭蕉については、私はまだまだ素人でありますので、勝手な解釈をして
しまいますが、東海道は芭蕉も何回か往復していますので、特に宿と言わ
れている所には、芭蕉の俳句が残っています。たとえば゛大井川を前にし
た島田。例えば安部川を前にした丸子……。
 今後、少しそちらの方にも触れてみます。

 それにしても、万葉集に詠われていた「麻績王」のことを、芭蕉は知っ
ていたと思われます。というか、麻績、服部は同族に近い存在。伊勢の神
麻続、神服織の神社がありますが、その神麻績氏、神服部氏は、伊勢神宮
に奉ずる神服を織っていた。
 この麻績・服部については、簡単にはまとめられませんが、今後さらに
追及して行きます。麻績王もその延長線上にあります。
 服部は海人族と関係しているという構図が見えて来ます―
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月07日 09時25分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


まず  「越人」  について調べました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E8%B6%8A%E4%BA%BA


越智 越人(おち えつじん、1656年(明暦2年) - 1739年(元文4年)頃?


江戸時代前期の俳諧師。別号に槿花翁(きんかおう)。
尾張蕉門の重鎮で、蕉門十哲の一人。
「更科紀行」の旅に同行した。


著作に不猫蛇(ふみょうじゃ)、猪の早太(いのはやた)、編集に鵲尾冠(しゃくびかん)、庭竈集(にわかまどしゅう)など。


名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺」(愛知県名古屋市中区栄2丁目4-23)にある。

名古屋市の史跡に指定され、同寺の境内入ってすぐに由緒書きがある。
墓石には「負山氏越人叟之墓」と刻まれている。

略歴
明暦2年(1656年)、越後に生まれる。
名古屋にて紺屋を営む。
貞享元年(1684年)  芭蕉に会い入門。
貞享5年(1688年)  「更科紀行」で知られる旅に同行。

主な句
うらやましおもひ切時猫の恋 (猿蓑)


【更科紀行】

江戸中期の俳諧紀行文。1冊。松尾芭蕉作。
元禄元〜2年(1688〜1689)成立。

同元年8月、門人の越智越人(おちえつじん)を伴い、名古屋から木曽路を通り、更科姨捨山(おばすてやま)の月見をして江戸に帰ったときの旅行記。



ここに出て来る人でしたか。

「名古屋から木曽路を通り更科姨捨山」
ということで  義仲との関係   がハッキリ見えてきました。




ということは「更科紀行」を読めば芭蕉の義仲に対する思いが読めますね。



で、越人の歌について

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino40.htm

うらやましおもひ切時猫の恋     越人


<うらやまし おもいきるとき ねこのこい>。

原案は、「思ひきる時うらやまし猫の声」だったことが、芭蕉の珍夕宛書簡で分かっている。


あんなに 恋に執心していた猫共が、発情期が終えるとピタッと騒ぎをやめて平気な顔をしている。
自分はああは行かないので、猫がうらやましい。


なお、芭蕉はこの越人の作品について、去来宛書簡で
「越人猫之句、驚入候。初而彼が秀作承候。心ざし有ものは終に風雅の口に不レ出といふ事なしとぞ被レ存候。姿は聊ひがみたる所も候へ共、心は高遠にして無窮之境遊しめ、堅(賢)愚之人共にをしえたるものなるべし。孔孟老荘之いましめ、且佛祖すら難レ忍所、常人は是をしらずして俳諧をいやしき事におもふべしと、口惜候。」と激賞している。 『去来抄』参照
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月07日 09時45分33秒 ) パスワード

杜国についてスゴイ話が出てました:



http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tokoku.htm

坪井杜国   (つぼい とこく)   (〜元禄3年(1690)2月20日)


本名坪井庄兵衛。

名古屋の蕉門の有力者。

芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある)。


杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延べ取引きといった)に問われ、貞亨2年8月19日領国追放の身となって畠村(現愛知県渥美郡 田原市福江町)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(<ほび>渥美半島南端)に隠棲した。



もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。



 一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという。

 元禄3年2月20日、34歳の若さで死去。


 愛知県渥美郡田原市福江の隣江山潮音寺(住職宮本利寛師)に墓があるという。



杜国さん、生まれて来るのが400年早かったですね。

うちの元大統領夫妻なんて夫婦で空売りやって大儲けしてますよ。
奥さんの方が次代の大統領になりたがってますが。

ドイツのメルケル女史はハッキリ空売りは合法って言ってますしね。

          あ、そうなの?、とビックリした。


杜国さんはすごい経済学的なアタマを持った人だったんですねぇ。
日本人は経済学でノーベル賞を取れないと言われてますが
杜国さんが現代に生まれ変わったら日本初のノーベル経済学賞を受賞出来るのかも。




【笈の小文】

俳諧紀行。松尾芭蕉著,門人河合乙州(おとくに)編。芭蕉の没後,1709年刊。1687年江戸から尾張の鳴海を経て弟子の杜国を訪ね,伊賀・伊勢・吉野・奈良・大坂・須磨・明石をめぐった旅の紀行。「野ざらし紀行」から「おくのほそ道」に至る中間的な性格を示す。



笈の小文 全篇詳細解読 音声つき
http://koten.kaisetsuvoice.com/Kobumi/
これ、いいですよ。


どのような過程を経て芭蕉が『おくのほそ道』へ至ったかを知る上で興味深い作品です。

特に最終章「須磨」は源平の古戦場跡を見渡す芭蕉の興奮が活き活きと描き出され、衣をはためかす潮風までも伝わってきそうです。




川井乙州   かわいおとくに   (〜享保5年(1720)1月3日、享年64歳)

大津蕉門の重鎮、川井又七。大津藩伝馬役。

芭蕉とは、『奥の細道』旅中金沢で邂逅し入門した。

乙州もまた役目柄旅を住み処とする生活であった。『ひさご』の連衆の一人。

芭蕉の名句「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」は、乙州が江戸に公務で出発する時に詠んだ餞の吟。芭蕉晩期に提唱する「軽み」をよく理解していた門人の一人。

また、職業柄、蕉風普及にも貢献した。『笈の小文』は、芭蕉の死後乙州が編纂して成ったものである。


芭蕉の身辺を生活面で配慮してくれた智月尼は乙州の姉であるが、家業運送業を受け継ぐために養嗣子となったため母である。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月07日 10時00分09秒 ) パスワード

> 「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」

素直に文字通り読むと  才能ある弟子を見つけた喜び  を芭蕉が詠んでいますね。
天才がこんな辺境な伊良湖崎にいたよ、と。


やっぱり天才は天才を知るというのですね。




>「昔、麻績王が伊良湖崎に流されたと聞く。
>今、杜国は同じようにこの伊良湖崎に配流されている。
>今、一羽の鷹が空をとんで西方へ向かうようである。
>是非とも麻績王の魂を西方浄土へ導きたまえ、また杜国も空高く飛ぶ鷹のように、
>元気でここより解き放たれんことを!」


いいですね。

芭蕉は伊良湖のことも麻績王のことも弟子から聞いてたでしょうね。


それに
   >>>>古代人には、日本書記にある白鳥伝説のように、鳥は死者の霊魂を他界につれて行くという思想があった。
       死者の魂を西方浄土へ渡り鳥に導いてもらうように祈願したことであろう<<< 

あの渥美半島に縄文人の骨が出ていたというのが  渥美半島は辺境の地ではなかった  伊勢神宮と関係があった  という連想をさせますね。



やっぱり情報源にもなる本は見つけたら取り敢えず爆買いしておくべきですね。
芭蕉の知識はものすごく深く膨大だったんだろうなと。

   杜国が伊良湖岬で不遇をかこっているのを知って
   そのような優秀な人材がみすてられているとは
   と是非とも会いたいと会いに行ったなんて

   やっぱり交友関係は広くすべしですね。
 
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月07日 12時53分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉を知るということは、服部氏の探究にもなると確信しています。
 深川屋さんの「深川」は、伊賀の「深川村」の由来と言われていま
すが、芭蕉が江戸で住み直した場所が、「深川」であり、その土地の
所有者にも意味深いところがあります。深川とは、何かの意味をもっ
た、知る人が聞けばすぐわかるというような、隠れたメッセージが潜
んでいるのかも知れません。

 いずれにしても、芭蕉もただ者ではありませんので、今後も探究し
て行きたい、大津・大垣・そして養老を含めて、新たな目で見てこ
ようと思います。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月07日 15時23分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


深川屋さんの「深川」は伊賀がらみでしたか。
   服部川は全く「深川」には思えませんでしたが
   どの川のことなんでしょうね。



>深川とは、何かの意味をもった、知る人が聞けばすぐわかるというような、隠れたメッセージが潜んでいるのかも知れません。

はい

忍者ならではの秘密の暗号が隠されているのかもですね。



>服部は海人族と関係しているという構図が見えて来ます―

はい
秦氏
もしくはもっとムカシから


だいたい縄文人って1万6000年も前から日本に住んでたそうで
その頃から
そしてその後、弥生時代にいろいろ大陸から入って来て

そういうものを複合的に持ち続けて来たんでしょうね。
そういう知恵とか技術が戦国時代に忍者に使われたのかな?


ロマンですね。
1番の出世頭が藤堂高虎だったのかななんて。



アメリカもバブルがあって
ハーバードとか出た若者が物凄い額の学生ローンを組んで幸運にも
初任給でローンを支払えることの出来る金融に入って
年収がミリオンとか楽勝になって

ところが元々がインチキ金融工学だったからリーマンショックでバブルがはじけて


この頃の卒業生には莫大な額の学生ローンが残って
その上に学生ローンは自己破産という形でチャラに出来ないし


だから怒り狂った遅れて来た世代が「うまくやる機会に恵まれない我々99%はみじめだ!」なんて騒いだけど


いつの時代にも「遅れて来た世代」というのはあって
剣豪で言えば宮本武蔵
忍者で言えば芭蕉
かも。


ただ宮本武蔵も芭蕉もだからと言って「アンフェアだ!自分にはうまくやる機会さえ与えられないなんて、ズルい!」という居直りはしなかった。


新しい文化を作ってしまった武蔵とか芭蕉はスゴイなと感心します。
「五輪の書」なんてアメリカで読まされるとは思わなかった。
「HAIKU」も公共交通機関の中に貼ってあったりして
ニンジャほどは大衆化はしてないけど
日本以外の国にも認められてます。


後れて来たなりにその時代の立派な人間になってスゴイなと改めて思います。


小学5年生までにこういうのに気付いてたらワタシもちょっとはマシになってたのかな〜笑
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月07日 16時53分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤堂高虎も服部半蔵もいわゆる「表」の人でなく、どちらかといえば
「陰」の人。本人たちは表面情報は残しても、裏情報は一切残さなかっ
たはず。本当は、その裏情報が知りたいのですが……。
 
 「服部半蔵」も「藤堂高虎」も時代はやや違いますが、トップシーク
レットにからんでいた。その内容を知っているのは、最終的には「天海」
ではないかと推測しております―

 これから、「初鰹」を食しにでかけます―
 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月07日 22時40分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


贅沢ですね「初鰹」ですか。
目に青葉の季節ですね。
そして田植えが始まって。

日本は季節があっていいですね。



>「服部半蔵」も「藤堂高虎」も時代はやや違いますが、トップシークレットにからんでいた。
>その内容を知っているのは、最終的には「天海」ではないかと推測しております―

天海は一体何者だったんでしょうね。
この人も謎の人物ですね。


家康が天下を統一するのに物凄い数の人間が働いて
   表で働いた人は分かり易いでしょうけど
   影で秘密を行った人は素性からして隠しまくったでしょうから

山内一豊は土佐の人間を徹底的に下に置いてがんじがらめにしたけれど
藤堂高虎は受け皿を作って救済した。そこには自分の足元を掬われないようにとの配慮や懐柔策があったのかなとか。


こういうことをアーでもないコーでもないと思うのは実に楽しい趣味です。


天海ってホントどういう人物だったんでしょうね。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月08日 11時21分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 初鰹を食しました。初鰹を食べると、いつも松島十湖の「浜松は 出世城
なり 初松魚(はつがつお)」を思い浮かべます。ピチピチとした初鰹の活き
のよさ、銀色に輝く姿は、これから出世して行く人にふさわしい魚でありま
す。そしてやや酸味があり、歯ごたえのあるその身は、食されて人間に活力
を与えます―日本酒ともとても合います。そのせいで、昨夜は飲み過ぎてし
まいました―二日酔いにて、本日の思考力、半減。

 藤堂家は多賀神社と関係していました。そして、藤堂家は多賀大社のネッ
トワークを通じて、情報を得ることができたようです。
 また、多賀大社別当の慈性(日野氏出身)は天海と関係が深いようです。
 藤堂高虎と天海は密接な関係であります。
 明智光秀が天海としたら、藤堂高虎とはどういう秘密の関係があったので
しょうか? ちなみに明智氏は土岐氏であります。

 今の世にあって、私は「土岐麻子」(ジャズシンガー)の声・発音・乗りが
好きで聞いています。
 また、かつては「多賀氏」の末裔に恋したことがあります。
 その土岐氏と多賀氏の関係、また藤堂家との関係、あを様、解いていたた
げませんでしょうか。今、頭がはたらきませんので……
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月08日 22時56分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「浜松は 出世城なり 初松魚」

ご当地ソングですね。
いいですね、ピッタリ。

カツオって松魚って書くんですか。


調べて来ました:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13101872898

鰹節の切り口が松の木の年輪に似ていることが由来です。

「鰹」の字が使われている理由は、傷みやすい魚なので鎌倉時代以前は生で食べることができず、干して堅くしていたからです。


へぇ〜
知らなかったです。



>やや酸味があり

あ〜
なるほどね

それで子供時代のワタクシには食べられなかったのでしょうね。


>歯ごたえのあるその身は、食されて人間に活力を与えます

なるほどね。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 03時31分05秒 ) パスワード

多賀氏

多賀氏の出自には不明な点が多く、
中原氏説、清和源氏説、藤原秀郷子孫説など諸説あるが、
江戸時代の国学者塙保己一は『続群書類従』の中で中原氏説を採っている。

しかし、多賀大社の神官を務めた多賀氏は甲良町下之郷を拠点とした土着の豪族で、
鎌倉時代初期から中期にかけて多賀町・甲良町など甲良地方に勢力を持っていたが、中原氏とするには整合性が取れないため、
あくまで推測の域を出ていない。また、仮冒の可能性も疑われている。


鎌倉時代に多賀氏は北条氏に多賀地方を寄進、得宗家の直轄領としてもらうことで他の国人の侵入を防いだ。

多賀大社の祭礼については神官として国人への命令が出来たが、南北朝時代以降は多賀大社の史料に現れず、
代わって京極氏の被官としての活動が見られ、『太平記』には佐々木道誉の家臣として明記されているため、南北朝時代に京極氏に仕えたとされる。

              では「この部分からでは」北朝方ですね

やがて多賀氏は家系が2つに分かれ、
甲良町下之郷を拠点とした一派は左衛門尉・豊後守を名乗り、
もう一方は東浅井郡中野に土着して右衛門尉・出雲守を名乗ったためそれぞれ
豊後守家、出雲守家と呼ばれた。


室町時代中期に京極氏から豊後守家に入った多賀高忠は侍所所司代として京都の治安維持に力を発揮、応仁の乱でも東軍に属した主家を支えて活躍した。

しかし、文明2年(1470年)に発生したお家騒動(京極騒乱)で京極氏と多賀氏は分裂、
高忠に反感を抱いた出雲守家の多賀清直・宗直父子が西軍に寝返り、京極氏の弱体化を招いた。


清直は文明11年(1479年)に亡くなり、文明13年(1481年)に高忠・宗直は和睦したが、
文明18年(1486年)に高忠が死去、翌長享元年(1487年)に宗直も京極氏に反乱を起こして敗死、出雲守家は断絶した。


高忠の子孫である豊後守家は高島郡に移り近江国人として存続、堀秀政の弟多賀秀種が養子に入って転封、
改易を繰り返した末に前田利常の家臣となり、子孫は加賀藩士となった。
分家に土田氏、久徳氏がいる。


へぇ〜
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 03時38分46秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%81%93%E8%AA%89


佐々木 道誉 / 佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)


                                         もともとは佐々木一族の分家の京極家の人だったのですか。へぇ〜
                                          それが母方の叔父の佐々木家を継いで、佐々木に成り上がったのでしたか。
                                          逆かと思ってた。

     


鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。

一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。

後者の道誉(導誉とも)[5]は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。
鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、
京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。



初めは執権・北条高時に御相伴衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。



永仁4年(1296年)、近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、
嘉元2年(1304年)に死んだ母方の叔父である佐々木貞宗の後を継いで家督を継承する。

正和3年(1314年)に左衛門尉、元亨2年(1322年)には検非違使となる。検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。

鎌倉幕府では執権北条高時に御相供衆として使え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 03時56分36秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/aketimituhide6.htm


天海と光秀同一人物説の理由:


光秀と天海は同一人物なのか?

南光坊天海と明智光秀、この二人がなにゆえ同一人物だと言われるのでしょうか?


その理由は、次のようにいくつかあるのです。


 天海の前半生の経歴が、全く持って不明である。天海自らも、不動院入山以前の経歴は語ろうとしなかったという。


 比叡山には今も「慶長二十年二月十七日、奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯篭が残っている。慶長二十年とは1615年である。光秀が亡くなったとされるのは1582年であるので、ここに矛盾が生じる。


 1588年に家康と会ってから、10年もたたないうちに幕府の中心人物となっている。一介の僧が、どうしてこのようなことを成し得たのか。


 江戸幕府の三代将軍家光の名付け親は天海であり、家光の「光」の字は、光秀の名からとられたものだという。


 家光の乳母春日局は、光秀の甥に当たる斉藤利三の娘である。反逆者の血縁関係のものを、そこまで取り立てるだろうか?


 日光東照宮など、天海が関わった建築物やその他の物には、必ずといっていいほど、明智家の家紋である「桔梗紋」が使われている。また、明智という名前がついた地名も多い。


 天海と家康がはじめて会ったときの様子は、「二人は人払いをし、まるで旧知の仲のように長い間親しく語り合った」と言われている。これはどういうことか?

他にも様々な理由があるのですが、
これらのことから、光秀=天海説が主張されているのです。



光秀が天海となるまでの経緯は、おおよそ次のようなものです。

 光秀は山崎の合戦で敗れた後、比叡山に逃げ込みます。光秀はそこで仏教を学び、僧侶として新たな人生を歩むことを決意しました。その後天海(光秀)は家康と再会。家康は大いに驚き、優れた能力を持つ天海を幕府に招き入れたのでしょう。

天海は自らを滅ぼした豊臣家に恨みがあり、また家康も豊臣家を滅ぼそうとしていたので、両者の利害が一致したのでしょう。

こうして、天海は幕府に関わることになったのです。



以上が、光秀=天海説が主張されている理由です。

その是非は今なお決着がついていないのですが、一般的にはこれはあまり受け入れられていません。

というのも、理由としてあげた<弐>としては、いくらでも創作が可能なものであり、<四>なども強引なこじつけのような気がするのです。
また、<六>ですが、これは確実な証拠とはなりえません。というのも、桔梗紋を使っている家系は、明智家のほかにも数多くあるのです。更に、地名に明智と名づけることですが、これは明智姓を持つものなら誰でもできることです。「明智」の姓自体が、もともとは地名から取られたものであるので、この姓を持つものは、光秀の一族の他にも数多いるのです。 更に天海=光秀説を採用すると、どうしても天海の死亡時の年齢が百歳を越えてしまうのです。当時としてはもはや驚異というしかない寿命です。

 また、家康は「伊賀越え」で自分の命を狙った光秀を、恨まなかったのであろうか?という疑問もまた沸いてきます。

 これらのことから「光秀と天海は同一人物ではない」というのが通説なのですが、私は光秀=天海説は「可能性のある一つの説である」と見ています。


 というのも、某番組で天海の出した書の筆跡鑑定をしたところ、「本人か、またはそれに近い人物」との結果が出ているのです(言葉自体は本人とも別人とも言い切れないという言葉でしたが、

ニュアンス的には上のような意味になるでしょう。

  そのくらい鑑定が難しいほど微妙なものだったのでしょう)。


 「筆跡鑑定など当てになるのか」と思う人もいるでしょうが、現代の筆跡鑑定はものすごく優秀で、例えば本物をトレーシングペーパーを使って模写しても、それは偽物であると見破ることが可能なのです。

 「いや光秀ではなく、一般的に天海ではないかと言われている秀満のものではないのか。秀満は光秀と近い関係にあるのだし、筆跡が似通ってもおかしくないはず」と思う人もいるでしょうが、実際あなたとご両親の筆跡は似ているでしょうか?おそらく違うはずです。たとえ親子であっても、字の癖などは違うものになることは明白なのです。


 「しかし、たとえそうだとしたら、光秀は百八歳で没したことになる。いくらなんでもこの時代にこれはありえないだろう」と反論する人もいるでしょう。

 確かにその通り、百八歳など、現代で考えてもそうそう生きられるものではありません。



 この点について、私はこう思っています。
「天海は実は一人ではなく、初代天海(=光秀)と、二代目天海(誰かは分かりませんが)がおり、二人の生涯が一つにまとめられてしまったのだ」

 これは単なる勘ではなく、次のような考えの元に成り立っています。
「天海は1600年〜1610年ごろまでは、江戸幕府の枢機の決定や江戸の町割など、非常に高い政治力が必要とされる事柄を家康より任されています。ところが1610年を過ぎると、政治力が必要とされる仕事はなくなり、代わりに暗殺や方広寺鐘銘事件など、言い方が乱暴ですが「汚い」仕事を主にこなしています。急に仕事の内容が変わっているということは、その人物の能力が大幅に変わってしまった、つまり人物自体が変わってしまったことの表れではないのか?」


 このように考えると初代天海は1610年ごろに没したことになり、年齢的にもまあ許せる範囲となります。


 また「家康が光秀を生かしておく理由がない。逆賊と言う名目で秀吉が討った光秀が家康の下にいると言うことが知れたら、豊臣を支える大義名分に真っ向から歯向かうことになる」という方もいるでしょうが、果たして本当にそうでしょうか。


 天海が家康の下に仕えたのは1588年頃、この頃豊臣家は確かに強大でしたが、東日本はまたまだ秀吉に従っておらず、天下を統一したとは到底いえない状態でした。

 そんな中で形的には臣従している徳川家を攻めることは何の益にもなりませんし、またこれを理由に攻めると言うことは「光秀が生きている」と秀吉自身が認めるということです。

 すると「秀吉は信長を討った逆賊も討てずに「主君の敵を討った」と大々的に宣伝した。更にそのような立場でありながら主君の家をないがしろにした」との評判が世間に広まることになるのです。

 そうなると、秀吉に従わない大名が数多く出てくることは明白(秀吉の政権は信長の威信、そして秀吉が忠臣だという大義名分の上に成立していた)であり、少なくとも天下統一は、現在知られている歴史よりも何年も遅れるでしょう。

 このような愚を当時の秀吉が踏むはずもありません。また秀吉の権威を考えると、徳川家を攻めることなく「噂は所詮噂、光秀が山崎で死んだことは間違いない!」などと大々的に宣伝すれば、当時の大名達は黙って従うでしょう。


 つまり秀吉がたとえ天海(光秀)の存在を知っていたとしても、その存在を黙殺・黙認したという可能性は十分に考えられるのです。

  なお天海は秀満だと主張する方もいますが、正直なところ、江戸幕府の枢機や江戸の町割などの職務をこなせるほどの政治力が秀満にあったとは、残念ながら思えません。


 織田政権の深い場所に関わっており、坂本や丹波を治めたことがある光秀だからこそ、そのような仕事を任せることができたのでしょう。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 04時14分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

>土岐氏と多賀氏の関係、また藤堂家との関係


多賀と藤堂の関係は、琵琶湖近辺、ということで関係があったろうことは想像が付きますよね。



土岐と多賀はもともとが関西出身であり、北朝方、でくくれますね。


この中で藤堂氏が1番弱小で無名に近いですね。
だからこそ秀吉とか家康とかの力を持った人にゴマを摺りまくって出自の悪さを秀吉や家康の権威で補ったんでしょうね。


    藤堂は実は百々だったかも。または百々の家来だったかも。浅井にも仕えてたとか。

           身分的には  佐々木(>京極) > 浅井  ですね。


    出身地と言ってる犬上郡藤堂出身はまさに琵琶湖の東側。

    もし百々ゆかりだったら京極の家来の家来だったわけですから
    かなり身分が低いことになりますから
    名家の皆さんと肩を並べる武家になるには「身分ロンダリング」が必要だったんでしょうね。  


どちらにしても藤堂氏は佐々木(や京極や)浅井に仕えるような小さな小さな家の出だったんでしょうね。

    目の上のたん瘤の京極や浅井が潰れて浮き上がることが出来てラッキーだったということですね。   
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 04時26分54秒 ) パスワード

土岐氏って我々はどうしても美濃国の土岐氏という発想になるのでいけませんね。

もともとは摂津源氏。

            摂津源氏とは、源氏武士団を形成した源満仲の嫡男源頼光の系統の氏族である。
            多田源氏と呼ばれることもある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F



土岐氏(ときし)

鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
本姓は源氏。
清和天皇を祖とする清和源氏の一流である摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた。


室町時代から戦国時代にかけて侍所として五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、
最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。


戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏などと争った。
結果、斎藤道三の下克上により戦国大名とはならなかったが、一族に優秀な人間が多く、戦国武将として各地の大名に仕えて頭角を現した。

明智光秀・浅野長政・遠山友政・土岐定政(菅沼藤蔵)らがそれである。



江戸時代末期まで大名として存続したのは浅野、遠山、土岐定政家の三家である。



土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、
美濃国内には妻木氏、明智氏、石谷氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、原氏、浅野氏、深沢氏、饗庭氏、仙石氏、萩原氏、舟木氏など多くの庶流が生まれ、多くの人物を輩出した。


著名な、明智光秀・坂本龍馬・浅野長矩(浅野内匠頭)・遠山景元(遠山金四郎)はいずれも土岐支流とされる。


家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。「土岐桔梗」と呼ばれている。旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。


現在も地名で、岐阜県土岐市土岐津町や瑞浪市土岐町などゆかりの地名があり、旧土岐郡地域の土岐市、瑞浪市、多治見市の市の花は、桔梗である。



正中元年(1324年)に起きた後醍醐天皇の最初の討幕計画である正中の変において『太平記』では頼貞が計画に加担し、陰謀を察知した幕府軍に討たれる話になっている。しかしながら、頼貞はその後の戦乱で活躍しており、記録に混乱があるが、土岐氏の一族がこの計画に関与したのは確かである。


元弘元年(1331年)、足利尊氏、新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府が滅亡した時(元弘の乱)には頼貞は尊氏に味方し、その後の南北朝の争乱でも尊氏とともに転戦して戦功をあげ、美濃守護に任じられた。美濃に強い地盤を持つ土岐氏は足利将軍家を支える有力な武士団となっていた



                            北朝方ということで佐々木氏や京極家と近かったでしょうね。
                                                                土岐氏と多賀氏が親しくても不思議じゃなかったでそうね。


                                                                ここでも藤堂氏は肩身が狭いですね。(負けないぞ、今にみておれ!)というのがあったかも。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 05時01分03秒 ) パスワード

藤堂高虎の主君の移り変わり:

浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光

浅井に仕えて姉川の戦いで頑張ったものの浅井家が滅びて浅井の家臣だった阿閉貞征や磯野員昌に仕えるも先は無く


信長の甥である織田信澄に仕えたものの


     この織田信澄という人物も気の毒な人です
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84

           父・信行は伯父・信長に殺され(柴田勝家に養われた)
           妻は明智光秀の娘だったから
           天正10年(1582年)6月2日本能寺で信長が殺されると
           それまで信長に可愛がられていたし(これにもビックリ!)
           6月5日に信長の3男である従兄弟の織田信孝により襲撃され、
           野田城で信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって殺害され、
           首級は信孝の命令で堺で晒された。享年28。


                 後日談

           信澄の嫡子・昌澄は一時期信澄に仕えていた藤堂高虎の斡旋を受けて豊臣秀吉、
           そしてその死後は豊臣秀頼に仕えた。

           大坂の陣では高虎と戦い勇名を馳せるが、戦後に責任をとって自害を図ろうとするも高虎や徳川秀忠から慰留され、
           交代寄合の旗本として2,000石を与えられて子孫は幕末まで続いた。

                  これは知らなかった!

           


織田信澄の元を出てから、その後、無銭飲食なんかもやって
当時、信長の家臣だった木下秀吉の弟の秀長に仕官し、
ここからやっと出世の道が開けて行ったそうです。



藤堂高虎はものすごく苦労したんでしょうね。


それだけに無能なのに立派な家の出の武士達には絶対に見返してやるぞというのがあったんでしょうね。



         ということは織田信澄と喧嘩別れとかではなかったということですね。

         信澄の子・昌澄をかばっているところをみると
         藤堂高虎は織田信澄には可愛がられていたのかもですね。


いやぁ〜、人生、いろいろありますね。
わたくしの波乱万丈の人生なんか、そよ風に吹かれたぐらいだったようです。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 05時40分07秒 ) パスワード

三つ柏さん

>私は「土岐麻子」(ジャズシンガー)の声・発音・乗りが好きで聞いています。


「土岐麻子」という歌手は全く知らなかったのでyoutubeで聴きました。


すっごく「自然」な人ですね。人工的なものを全く感じない。聴いてて全く苦しくならない。

作家でいうと「群よう子」みたいに、これぐらいなら自分にだって書けると勘違いしてしまうような
自然さがある歌手ですね。



>また、かつては「多賀氏」の末裔に恋したことがあります。

これは簡単でしょう。
江戸時代だけとっても家康を挟んでの関係があったということでしょう。

調べていったら実は実はという驚きの過去があったかも。
でも実らなかったのは双方のご先祖さまが反対したのかもね。
      例えば南北朝の時の敵同士だったとか。



平家時代では引っ張り合ったかも:
清盛は白河法皇の落胤であるという説については、
『中右記(藤原宗忠の日記)』、『今鏡』、『近江胡宮神社文書』等の幾つかの資料が存在しています。
『平家物語』では、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御(ぎおんのにょうご)が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとなっています。


しかしながら、実母は、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御の妹というハナシが存在。
2012年のNHK大河「清盛」はこちらの説を採用。http://lakeland.jugem.jp/?eid=257

これは、脚本家・藤本有紀氏が、明治26年(1893)に発見された滋賀県多賀町・胡宮神社に伝わる文書『仏舎利相承系図』にある、祇園女御の妹が母であり、母の死後に姉の祇園女御が猶子として養育したという説を引用されたからだと想われます。



日本人ですからDNAの中の、何らかの刷り込まれていた記憶が、出会った瞬間に飛び出すのですよ。

ご先祖さまが後押ししてくださっていたら結ばれたのでしょうけど
どなたが邪魔したのでしょうね?
何らかの理由があったはずです。




松田聖子さんと郷ひろみ。
「こんど生まれ変わったら一緒になろうね」と言って別れたとか。


聖子さんの家は蒲池家で郷ひろみの家は原武家だから
格からいったら蒲池家の方がはるかに上だもの
ご先祖さまが絶対に反対したと思う。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月09日 06時56分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お調べ下さり感謝、感謝です。こちらは、昨日庭木の刈りこみをした時、
軽いギックリ腰になりまして、できるだけ悪化しないよう、横になったり
して養生しておりました。自分自身で下した診断は、全治一週間。飲み過
ぎや深酒の後は、ぎっくり腰にないやすいということを、改めて復習した
次第であります―

 本日いただいた情報、かなりいろいろな関係に及んでいますので、これ
からよく読解し、一度頭の中で整理したいと思います―
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月09日 08時44分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


ぎっくり腰ですか。
とにかく腰痛は大変です。
    脂汗流して唸ってるほどじゃないようなのでちょっと安心しています。


お大事に。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月09日 19時03分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 御心配ありがとうございます。本日、医者に行き、薬をもらってきました。
 無理しなければ、じきに治ると思います。

 藤堂・多賀・服部・明智・天海・家康―この多元連立方程式を解くために
は、キーマンはやはり明智光秀であると思います。

 今、本棚から『信長暗殺は光秀にあらず』(馬野秀行著)を取り出し、読み
直そうと思っています。以前より今の方が光秀に対するテンションが高いの
で、スラスラと理解できるのではと思っています。

 明智光秀という人間について、またその氏族・光秀個人の人間関係につい
てをできるかぎり調べてみます。しばしの時間を―

 知りたいのは、信長殺しが誰かということよりも、仮に光秀が天海だとし
たら、何の目的で生き残ったのか、生き残って何をしたのかということであ
ります―
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月10日 04時03分48秒 ) パスワード

ちょっと2時間ほどジムで汗を流しながら天海和尚について考えました。

何も思いつかないのですが
明智光秀の一族かゆかりの人だったのかな?と。

息子とか甥とか娘婿とか春日局関係者とか?
斎藤家・稲葉家・京都の親戚も入れて?

そして家康もよく知っているヒトであること。


ずっとアレコレ考えましたが思いつきません。


天海和尚が光秀と同一人物とは思いませんが、素性の言えない光秀関係者かな?と。

結局ここに戻ってしまいます。


で、ひょっとすると明智と親戚だった服部家の人間ということは?とまで空想が飛びました。


半蔵正成の叔父になる正清の子が保章でこの人の娘が明智光秀の妻だったとか。
息子の方は近江の北村に住して北村氏を名乗ったとか。

    この保章関係者が光秀亡き後、放浪し、野垂れ死にをしたという噂があるそうで

    本能寺の変の時に穴山梅雪が宇治田原の近くで襲われて死んだ話とか

           アヤシイ

    と思うので、天海和尚はこのあたりの事情を知っているのかなと。


結論はさっぱり分かりません。
あの時代の表に出せない秘密に絡んでいるのかなと。

天海和尚なら「風水」のような「呪術」にも長けていたのでは?と。
そうすると忍者だった?忍者の知識を持っていた?可能性もありそうだし。
それで東照宮の建設なんかにも知恵を出したのかなと。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月10日 14時35分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ジムでの汗流し、健康に心掛けておられる、いいことですね。
 私は歴史に取り組み出してからは、運動量は随分減ってしまいました。
 結果、ギックリ腰なんぞになってしまいましたが、大事なことは毎日、
少しでもいいから歩くということですね。これが最小限の運動の条件。
 少し、反省をしています。

 さて、色々調べてみました。あを様のアヤシイと指摘されることで、
やはり次のことが一番の謎を秘めております。即ち―

 @明智光秀の後妻は、名張城主の「服部保章」の娘であったこと。

 Aその「服部保章」の従兄弟が、あの「西郷の局=徳川秀忠の母」の
 養父となる「服部平太夫正尚」であること。

 Bなお、「服部正尚」の方が長男筋である。分家筋より本家筋が指示
 命令系統が上位であったが、光秀の舅である保章の立場は明智軍側と
 みられてもしかたない立場となり、名張ルートでの道案内は頼めなか
 ったようである。

 C元伊賀呉服明神(小宮神社と思われる)の神職で、宇治に住んでいた
 「服部貞信」が信楽までの案内をした。後に遠江浜松において、160
 石の采地を賜わる。この貞信の5代孫の女子が藤堂家一族に嫁いでい
 る。

 D鹿伏兔(かぶと)峠越えの時には、「服部保章」が追い付いて参加し
 たという。これにより、家康の信頼を得、馬、太刀、時服を賜った。
  その後、保章は近江の北村に隠棲。姓を北村と改姓し、光秀の幼子
 を息子と称して守り育てたという。

  なお、伊賀越えの脱出ルートには、あの「関」が入っていました。
  また、深川屋の初代「保重」という名前は、服部中保次の曾孫(長男)
 の「保重」と重なります―

 ・1582年の「本能寺の変」の前の、信長のかかわる宗教にからむ戦
いを列挙してみると―
 1571年 比叡山焼き討ち
 1574年 長嶋一向一揆
 1577年 紀伊雑賀一向一揆
 1578年 石山本願寺攻撃
 1579年 (第一次天正伊賀の乱)
 1581年 (第二次天正伊賀の乱)
〃 高野山攻め

 ・徳川家にからむ事件としては(家康の信長への怨念=変の首謀者)
 1578年 (徳川秀忠生まれる。)
   〃   徳川家康の正妻「築山殿」が殺害される。
   〃   長男「信康」の切腹事件があった。

 ・信長が敵にしたもの(=本能寺の変の首謀関係者)
 @甲賀・伊賀忍者、特に伊賀忍者
 A仏教界、特に高野山
 B朝廷(天皇家)…正親町天皇と前太政大臣・近衛前久 
 
 一度ここで切ります。論理の組み立て的には、家康・光秀から高虎・
天海へつなげていかなければなりません― 
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月10日 21時13分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川家康は1542年生れ。藤堂高虎は1556年生まれ。その年齢差
は14歳違う。家康と高虎が顔を合わせるのは1586年が初めてである
ので、1582年の「本能寺の変」の時には、まだ知り合っていないこと
になる。
 従って、高虎は「本能寺の変」には関係していないということになるの
で困ったな、と思っていろいろ調べてみました。そしたら、次の事実が出
てきましてびっくりです―

 @藤堂高虎は、1573年〜1576年頃、即ち17歳〜20歳頃、磯
 野員昌の養子になった「織田信澄」に仕えている。
 「明智光秀」の娘は、織田信長の命により、1574年1月、織田信澄
 に嫁いでいる。
  そして、本能寺の変のあと、信澄が討たれると、信澄の子・昌澄(「明
 智光秀」の孫)は、「藤堂高虎」に引き取られている(後に、秀頼に仕える)。

 A「明智光秀」に娘を嫁がせた「服部保章」は、北村に隠棲し北村と改
 姓し、娘婿の「明智光秀」の残した幼い息子(保章の孫)を息子として守
 り育てた。

 藤堂高虎は「本能寺の変」の時には羽柴秀長に仕えていた。織田信澄の子
が何故高虎に引き取られたのかは謎であるが、いずれにしても本能寺の変に
は間接的にかかわったことになる。また「明智光秀」とも光秀のの孫を通し
て、関係していたことが分かった。
 また、明智光秀の子と孫を通じて、藤堂高虎と服部保章がつながったとい
う事実が分かった。

 藤堂高虎は、徳川家康のコネクションの範疇に存在していたということに
なります。しかしながら、「本能寺の変」の黒幕として関係していたという
可能性については、極めて少ないと思われます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月10日 21時56分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


考察、スゴイ!


正尚の子が家康の近くにいてお仕えしたという割には(誰が何をしていた?)というのが分からないのが非常にアヤシイですよね。

           (寛永?)寛政?諸家譜に載ってないですよね
               アヤシ過ぎ

「煙りの末」をちょこちょこ読んでいると  ん?  と思うことにいろいろ行き当たります。

            (そこをもっと詳しく書いてよ)と思うけれど
               書けない事情があるのかな?とか。


            秘密が多過ぎ。


正史に書かれていないからと否定は出来ないです。
特に戦国時代あたり〜江戸時代の初めにはいろいろ秘密があったはず。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7

天海の出自

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。姿を変えて生き残った明智光秀であるという説もある[1]。

須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[2]。


              ここもいろいろアヤシイ。
              蘆名に仕えてた服部氏というのもありましたね。
              フナキなんてまさに明智というか土岐が疑われますね。



生年

天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。

小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料に拠っているとされている[3]。須藤光暉は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている[2]。

以上の出自と生年に関する一連の考察から、天海は天文5年(1536年)に会津の蘆名氏の一族として生まれたとする見解が最も一般的なものとなっているが、定説といえるものはいまだにない。



前半生

龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。


             喜多、というのもアヤシイですね
             服部正尚がらみで  キタ  というのはよく出て来ましたね



喜多院住持

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。


              ほんとアヤシイ


豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている[3]。この年、権僧正に任ぜられた。


また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる[4]。


               秀吉の家を潰したい第一人者だった?


後半生

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する[1]。


                    アヤシイ


紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという[3]。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。


                    アヤシイ

墓所は栃木県日光市。

慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。

廟所[編集]
慈眼堂 - 輪王寺にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 喜多院にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 大津市坂本にある天海の廟所(滋賀県指定文化財)


ここで一旦切ります。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月10日 21時58分40秒 ) パスワード

天海の江戸設計[編集]

関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる[1]。天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる[1]。

「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる[1]。 なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという[1]。江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる[1]。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる[1]。陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる[1]。

江戸城の場所が決定した後、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われたが、天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされる[1]。江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わるが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったとされる[1]。

天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる[1]。「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる[1]。

天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる[1]。天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味するが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされる[1]。

上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀る[5]など、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる[1]。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社(日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる[1]。

神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる[1]。江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことがうかがわれるとされる[1]。

天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる[1]。将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる[1]。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる[1]。

なお、この項目はそう唱えている研究者がいるというだけであり、多くのコンセンスを得られているわけではないということに留意されたい。




天海に関する逸話[編集]

天海は前半生に関する史料がほとんど無いものの当時としてはかなりの長寿であり、大師号を贈られるほどの高僧になった。また機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させた。そのため彼には様々な逸話がある。
徳川幕府が林鵞峰に命じて『続本朝通鑑』を編纂する際に上杉家から献上された報告書『上杉将士書上』によると、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したという。この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たが後に信玄に聞くと「あれは影武者だ」と答えられたという。ただし、この史料はこの時天海が45歳だったことになっていることや実在が疑われている宇佐美定行が上杉二十五将に数えられているなど不自然な点も多い。
天海が名古屋で病気になった際、江戸から医者が向かったが、箱根で医者の行列が持つ松明の火が大雨で消えてしまった。すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたという[3]。
ある時、将軍・家光から柿を拝領した。天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。数年後、家光に天海から柿が献上された。家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたという[3]。
関ヶ原の戦いに天海が参加していたという話がある。関ケ原町歴史民俗資料館が所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』に描かれた家康本陣には、天海であるとされる、鎧兜姿の「南光坊」という人物が配置されている[6]。この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したものであるが、彦根城博物館のものには「南光坊」と記載されていない。
大坂城の建物を利用した博物館・大阪城天守閣は、天海所用の伝承がある甲冑を所蔵している。
天海は、秀忠と家光にそれぞれ長寿の秘訣を歌に詠んで送っている。秀忠に対しては「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」、短気で好色な家光に対しては「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」というものである。





異説[編集]



輪宝
その出自の曖昧さもあり小説等で出てくる説として天海が足利将軍家12代足利義晴の子という説や明智光秀と同一人物という説がある(墓所である日光に「明智平」という場所があることなどが根拠に挙げられることが多い)。この説は明治時代の作家、須藤光暉が唱えだしたもので[2]、明智光秀の子孫と称する明智滝朗が流布したことから広く知られるようになった[7]。天海と光秀が同一人物だとすると享年は116になり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理があるが、両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされている。テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定[8][9]によると天海と光秀は別人であるが類似した文字が幾つかあり、2人は親子のような近親者と推定できるという。ここから光秀の従弟とされる明智光春、あるいは娘婿の明智秀満(旧名:三宅弥平次、三宅輪宝の紋で繋がる)が天海だとする説[要出典]がある。

蘆名説の問題は曖昧な根拠しかないうえに、天海と蘆名氏を結ぶ人脈が何もないことである。例えば、蘆名氏の家紋は三浦であるから「丸に三引き両」である。しかしながら天海の用いた紋[疑問点 – ノート](今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる)は「丸に二引き両」と「輪宝紋」であり、蘆名氏のものとは明らかに異なる。しかし、最有力説の船木説であれば問題はない。

「丸に二引き両」は足利氏のものであるが、足利氏の庶流(斯波氏・吉良氏・今川氏等)や美濃国に発祥する遠山氏も用いている。一方の「輪宝紋」は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。武家でも摂津国や三河国の三宅氏が三宅輪宝と呼ばれる紋を使い加納氏や津軽氏も用いている。家紋は苗字と同じであり、自らの出自と無関係に用いることは普通ない。天海の存命中から足利氏説は広まっていたが、家紋が足利氏のものと似ているのがこの風説の発端であったと須藤光暉は考察している[2]。

「明智光秀#南光坊天海説」を参照


小説徳川家康(1950年、山岡荘八)
甲賀忍法帖(1958年、山田風太郎) 映画『SHINOBI-HEART UNDER BLADE-』(2005年・松竹、演:石橋蓮司)

柳生忍法帖(1963年、山田風太郎)
産霊山秘録(1973年、半村良)
明智光秀(1991年、早乙女貢)



脚注[編集]

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1.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか」宮元健次、PHPビジネスオンライン衆知、2013年3月28日
2.^ a b c d 須藤光暉『大僧正天海』冨山房、大正五年。現代語訳(閾ペディアことのは)
3.^ a b c d e 辻達也『日本の歴史 江戸開府』中公文庫
4.^ 『台徳院殿御実紀』巻廿七より「御諱を犯すのみならず、豊臣家の為に当家を呪詛するに似たりといふ事を天海一人御閑室に召れたりし時密々告奉りといふ」
5.^ なお、浅草寺の東照社は覚永19年(1642年)に焼失した。
6.^ 絵画に描かれた関ヶ原合戦 関ヶ原合戦400年記念「戦国博」−情報・デザインミュージアム−
7.^ 明智滝朗『光秀行状記』中部経済新聞社、昭和41年
8.^ 2000年8月6日、TBS系列『日立 世界・ふしぎ発見!』
9.^ 日本筆跡鑑定人協会会長・元警視庁委託の「筆跡鑑定士」の森岡恒舟による。

参考文献[編集]
根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。南光坊天海についての逸話を収録。
『日本の名僧15 政界の導者 天海・崇伝』圭室文雄、吉川弘文館、2004年
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月11日 09時48分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。じっくり分析をさせていただきます。確かに、
天海が何者かがわかれば、すべての謎を解くことが可能であるはずです。

 秘密の保持というのは、完全犯罪と似て、なかなか難しい。そのために
は、秘密を知る人は最小限に絞らなければならない。また、場合によって
は、この世から消えてもらわねばならない。「暗殺」とわからない方法で
消して行く。そんなことが、家康を中心とした歴史のなかで実際に頻繁に
起こっているような気もいたします。今、この場にその件についての資料
持ち合わせていませんので、別途考察することにいたしますか゜……。

 でも、秘密と言うものはどこかで必ずもれる、あるいは状況をくんで噂
が立つと考えた方がいいのではないかと思います。

 そういう観点から、本能寺の変を見た場合、主役は明智光秀かも知れな
いが、その裏で多くの人が加わっていると思います。そのシナリオの秘密
は必ずもれたと思います。権力のみでそれは抑えられなかったと思います。
 また、シナリオ通りにいったのだろうか、一糸乱れずシナリオ通りにい
ったとは、人数が極小ならできたかもしれませんが、多くのひとがからん
だと思いますので考えられません。

 少数の部隊で暗殺し、火事を起こして証拠を隠滅してしまう。あとは、
情報操作で都合のいい情報をばらまく……ほどよいところで兵を動かし
て状況証拠を作り出す。正に、忍者的な謀略が実施されたに違いない―
 その後のポイントは、織田軍、明智軍、豊臣軍、徳川軍の動きの読みと
軍事バランスである。明智単独の仕業としておけば、とりあえずはすべて
がうまく行く。後は、建て前と軍事バランスと臨機応変の行動である。

 明智軍については、変の後、絶滅したのだろうか。詳細に知りたいもの
であります―
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月11日 13時52分02秒 ) パスワード

お詫びの上、訂正。



<36>の蘆名は間違いですね。

       蘆田信蕃に仕えてたんですよね。


    だんだんボケがひどくなって蘆名と蘆田をついつい混同してしまいました。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月11日 14時02分54秒 ) パスワード

三つ柏さん



>秘密の保持というのは、完全犯罪と似て、なかなか難しい。
>そのためには、秘密を知る人は最小限に絞らなければならない。
>また、場合によっては、この世から消えてもらわねばならない。
>「暗殺」とわからない方法で消して行く。
>そんなことが、家康を中心とした歴史のなかで実際に頻繁に起こっているような気もいたします。

起きていたと思います。

これは古今東西の鉄則(あ、今は  テッパン  って言うようですね。お好み焼きみたい 笑)ですよね。


脚光を浴びる人、汚い仕事をする人
そういう役割分担があったんですよね。
しみじみ



天海が秀忠や家光にトボけた爺さん風になれなれしく話している逸話を読むと
やはり  アヤシイ!

正尚または正尚の子あたりが言ってるなら納得出来ます。
いかにも身内の言い方ですから。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月12日 01時05分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本能寺の変についての説はいろいろあり、どれが正解なのか本当の所
わかりません。服部と明智の関係から大きな謎が浮かび上がることを期待
しているのですが、まだ探究途上であります。
 いずれにしても、色々あたってみて、頭の中を整理してみます―
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月12日 08時35分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 十冊程の「本能寺の変」関係本に目を通してみました。結果、おおよそ
の把握はできました。
 その中でも、次の五冊が中心であります―
 @『天下統一の闇史』(小林久三著)
 A『証言 本能寺の変 史料で詠む戦国史』(藤田達生著)
 B『本能寺の変 四二七年目の真実』(明智憲三郎著)
 C『信長暗殺は光秀にあらず』(馬野秀行著)
 D『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著)

 ベクトル的には、信長は殺されるという方向性で一致しています。
 具体的に、誰が計画し、誰が協力し、誰が実施し、そして誰がどこまで知
っていたかが問題であります。

 これらについては、頭の中の整理ができたときに記します。
 いずれにしても、光秀=天海説は濃厚であります。

 これから、筆の会へ行きます―
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月12日 22時51分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

         D『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著)

                   これだけは想像していませんでした。


が、確かにイエズス会が世界でやって来たことを考えれば有り得ますよね。
特に南米・中南米では物凄い陰謀で征服しています。



          いずれにしても、光秀=天海説は濃厚であります。


そうなんですか。

面白いですね。


説明する元気・気力が出た時には、よろしくお願いしますね。
ぺこり
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月12日 23時53分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 目を通した諸本の内容を分析してみました(犯人説)―

@『天下統一の闇史』(小林久三著)→光秀・家康・秀吉三人謀議説 
                  実行は伊賀忍者集団

 A『証言 本能寺の変 史料で詠む戦国史』(藤田達生著)
                 →光秀クーデター説 
                  縁戚の長宗我部元親を守るため        
 B『本能寺の変 四二七年目の真実』(明智憲三郎著)
                 →光秀・家康共謀説 
                  細川藤孝、秀吉へ情報漏らす

 C『信長暗殺は光秀にあらず』(馬野秀行著)
                 →朝廷・高野山・伊賀忍者集団共謀説

 D『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著)
                 →バテレン陰謀説

 その他にもありました―
 E『信長と伊勢・伊賀』(横山高治著)→光秀野望説

 F『秀吉の正体』(月海黄樹著)→堺商人説

 Gそして、歴史作家の津本陽氏が、『本能寺の変はなぜ起こったか』の
中で、原因は光秀の「憤り・恐怖・焦りの渦巻く妄想が、現実的構想実現
へと変わった。即ち、信長の少数での上洛という、千載一遇のチャンスが
巡って来たので、そこで奮起、決起したという説。
 もちろん、歴史作家だけあって、本能寺の変の犯人説について、十種類
以上の説を説明分析した上で、最終結論を出しています。
 新書版の本で、読みやすく、わかり易く、いい本だなと思いました。

 また、@の小林久三氏の『天下統一の闇史』も、推理作家らしい推理が
いたるところで発揮され、また山の民・まつろわぬ民等にくわしく、その
点の分析がされていて、よりリアリティを感じました。
 
 いずれにしても、光秀中心に事件は引き起こされ、山崎の合戦となって
行く。それはバテレン説を除けば、信長への憎しみが臨界点を迎えていて、
起こるべくして起こった。当然の報いととらえてもいいのではないか。
 信長の所業を、「総合的にみても肯定できる」という説があれば、聞
いてみたいものです。

 今回、本能寺の変関係をしらべていて、「服部」と「明智」等の関係に
ついて、おもしろい”拾い物”をしましたので、次回はそれを記します―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月13日 08時56分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


        A『証言 本能寺の変 史料で詠む戦国史』(藤田達生著)
                 →光秀クーデター説 
                  縁戚の長宗我部元親を守るため 


                      これは意外でした。



        D『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著)
                 →バテレン陰謀説


                      後世の秀吉のバテレン追放とか家光のキリシタン禁制や鎖国を考えると
                      実はそうだったのかもと納得してしまいます。


                             



そして、なんとなく、家康の伊賀越え事件は嘘臭いと思うのです。
      自分の性格の悪さからそう思うのですが。



>今回、本能寺の変関係をしらべていて、
>「服部」と「明智」等の関係について、おもしろい”拾い物”をしましたので、次回はそれを記します―

楽しみです。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月13日 17時21分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智光秀と本能寺の変については、諸説さまざまな説・情報があふれて
いますので、そちらを見た方が、へたな鉄砲を打つより確実で速いと思い
ました。
 明智光秀の系譜についても、既に十四年前に「平熱」の「明智系図」で
検討されておりまして、これはなかなかのものであります。あを様も参加
されておられました。

 どうも本能寺の変後、明智光秀についての情報は隠滅・あるいは改竄さ
れているようです。だから本当のことがわからない。

 松尾芭蕉は色々な所へ顔を突っ込む人でありますが、明智に関しても、
次の句を遺しています―
 「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」
 明智光秀の前妻は服部保章の娘だということで、芭蕉と光秀の先祖に何
か関わり合いがあったのではないかと思ってしまいます……。

 服部保章は名張城城主、藤堂家の名張屋敷の家紋は「桔梗紋」、明智と
関係がありそうな気もいたします……。この保章も謎の人物であります。
服部平太夫正尚と従兄弟ということですが、明智光秀にからむ情報は、
すべてカット、デフォルメ、カムフラージュされたと思うと、この辺に関
する正しい情報は、もはや見つけるのは、あるいは見分けるのは困難では
ないかと思われます。

 藤堂高虎は当時、豊臣秀長に仕えておりました。藤堂高虎は母が多賀大
社につながる多賀氏でありましたし、多賀家から養子に来た叔父もあり、
あるいは多賀家へ養子に入った叔父もいますで、その多賀大社の末社群や
山伏のネットワークを通じて、色々な情報を把握していたものと思われま
す。忍者集団ともつながっていたとも思われます……。その辺の情報は、
なかなか拾えませんが、根気よく続けて行きたいと思っています。
多賀大社が一体どの程度の情報ネットワークを抱えていたか―も興味ある
所であります。

 藤堂高虎と本能寺の変、遠いようで意外と近いのかも知れません。

 もう一つのポイントは「近衛家」即ち「近衛前久」、つまり藤原氏の同
祖(疑問な点もあり)のよしみという点であります。

 もう一つのポイントは、生まれが近江で三井家でもあります。当然商人
のネットワークにからむことができたと思われます。

 つまり、総合すると、高虎は豊臣秀長に仕えながらも、情報は家康と同等
くらいに掴んでいたのではないか。本能寺の変の4年後の1586年あたり
に家康と親密になるということですが、旧知の仲のような情報の共有があ
ったのではないかと推察しています―

 続きは後で―
 

 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月14日 03時03分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


     松尾芭蕉は色々な所へ顔を突っ込む人でありますが、明智に関しても、次の句を遺しています―
     「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」
     明智光秀の前妻は服部保章の娘だということで、芭蕉と光秀の先祖に何か関わり合いがあったのではないかと思ってしまいます……。


はい
何故、明智光秀なのか?
一応、主殺し、ですものね。
こんな話が漏れたら大変だったんじゃないかと思いますけど

     ま、光秀の弑逆に家康が1枚噛んでたのならお咎め無しだったかも。


「明智」よりは、まだ謡曲「鉢の木」の方が良かったのでは?と。
     北条時頼が旅の途中で零落した佐野常世の家に宿を借りて
     佐野常世は大事な盆栽の鉢を3つ囲炉裏にくべて元執権に暖をとらせた
     それで佐野常世は昔持ってた土地のほかに
     鉢の木にかかわる土地ももらうことが出来た
     というお話。


          囲炉裏にくべてくれた梅・松・桜の木にちなんで、
          加賀の梅田、上野の松井田、越中の桜井という
          3ヶ所の土地。

     こちらの方が江戸時代的には合ってると思うのですが。
     それにこの謡曲は観阿弥世阿弥の作という噂もありますし。

     でも、これは創作のようですが。



>藤堂家の名張屋敷の家紋は「桔梗紋」

主殺しと同じ桔梗というのがアヤシイですね。
ふつうだったら避けると思いますけど。



>明智光秀にからむ情報は、すべてカット、デフォルメ、カムフラージュされたと思うと、
>この辺に関する正しい情報は、もはや見つけるのは、あるいは見分けるのは困難ではないかと思われます。

はい。


みんな「臭いものに蓋」したんでしょうね。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月14日 03時12分39秒 ) パスワード

>多賀大社の末社群や山伏のネットワークを通じて、色々な情報を把握していたものと思われます。
>忍者集団ともつながっていたとも思われます……。

あの時代ですから
当然でしょう。


独自のネットワークがあったでしょうね。

現代は情報が氾濫していますが  かなり  統制されていますから
そういう統制された情報とか流された情報に引っ掛からないよう
独自のネットワークがあったと思います。





>藤堂高虎と本能寺の変、遠いようで意外と近いのかも知れません。

はい
アヤシイですね。


高虎は家康にゴマを摺りまくって可愛がられた
と噂されてますが
ゴマを摺れるような何かあったんじゃないか
と思いますね。


それはやっぱり「悪」の共有じゃないかと。
逆に高虎は「知り過ぎた男」として粛清されないよう立ち回ることにも大変だったでしょうね。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月14日 08時38分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、家康の末期に臨んで、「あの世でも殿にお仕えいたします」と言
ったようでありますが、深読みすれば、それは「高虎は殿を絶対に裏切り
ません。関わった機密は絶対に漏らしませんのでどうぞご安心ください」
と言っているように聞こえます……。

 金地院崇伝と高虎とは親戚であり、当然仲が良かった。天海と高虎も仲
が良かった。崇伝と天海とは、張り合う部分があった。
 家康の死は1616年。その14年後の1630年に高虎が亡くなり、
更にその13年後の1643年に天海が亡くなっている。また奇しくも、
芭蕉がその年に生まれている。更にまた、その8年後の1651年に徳川
家光が亡くなっています―
 つまり、主要な人物の死と入れ替わりに芭蕉が生れて来たようなもので
あります。
 追加して言えば、1646年に柳生宗矩が亡くなり、1647年に高虎
の臣で親戚の小堀遠州が亡くなっています。
 徳川3代―即ち1542年に家康が生れ、1651年に家光が亡くなる
までの109年間、戦乱と陰謀にまみれた一つの時代が終わったような気
がします。

 さて、本能寺の変・山崎の合戦の後の敗戦後、光秀に加担した者達はど
う処分されたのかということを調べてみた。反乱軍に対する処分は厳罰か
なと思いきや、寛大である。「光秀さんよくぞやってくれました」と内心
ほくそ笑んでいたわけだから、恭順すれば許したのでありましょう。
 ただ、2人の武将―阿閉貞征と武田元明だけが死罪となっている。それ
ぞれ長浜城、佐和山城を占拠した罪のようである。その他の者は追放され
た者、逃亡した者もいるが、概して赦免されたものが多い。

 昨日、谷口克広氏の『信長と消えた家臣たち』を読んでいたら、新たな
ことがわかりました。それは、本能寺の変の当時、明智光秀は67歳とい
う高齢であったという。そのあせりが変を起した一つの要因ではないかと
いう。
 その年齢が確かなら、天海が死んだ1643年には128歳になってし
まうので、これはあり得ない。とすると天海の長生きは、息子が天海を2
代に亘って演じたということの可能性も考えられる。天海は顔をヴェール
で覆っていたというのでわからなかったということであろうか。それでも
全くばれないなんてありえないような気もしますが……。
 粗密を知っているものは粛清されていった、秘密をもらしたものはすぐ
暗殺されたと考えた方がよさそうである……忍者の役目でもある。


[50]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月14日 10時25分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 誤字訂正:粗密→秘密

 さて、「明智氏」と「服部氏」の関係の新しい見解(推理)とは―

 『天下統一の闇史』の中で、著者小林久三はいくつかの推理をしていま
す。それは次のとおりです―

 @刀鍛冶の子であるという説のある光秀は、家康や服部半蔵と同じ産鉄
 族をルーツにしている可能性がある。

 A秀吉、家康、服部半蔵、光秀のルーツは、渡来系支族であった可能性
 が高い。

 B光秀は、足利義昭と信長を結びつける、いわば仲介人として登場する
 が、服部保長を足利義晴に仕えるようにもちかけたのは、光秀ないし光
 秀の父親であったかも知れない。

ということです。

 これで、本能寺の変と明智についての考察は終了したいと思います―
 尚、明智遠山氏と明智氏の関係、調べてみましたが、遠山氏は元は加藤
氏、更にさかのぼれば藤原氏となり、明智氏の祖と言われる土岐氏とはク
ロスしないようであります。光秀の前妻の妻木氏は、明らかに土岐氏であ
り、桔梗紋であります。明智氏の祖は土岐氏の祖「頼光」から十一代孫で
ある「頼基」の様であります。
[51]A.AKECHIさんからのコメント(2016年05月14日 11時23分00秒 ) パスワード

 こちらには殆どお立ち寄りする機会がないのですが、久しぶりに拝見したところ、[服部」と「明智」の関係について取り上げられていました。そこで一言御礼を、と思い、コメントさせて頂きました。
 天正十年の一族滅亡に際して坂本城から伊賀に落ち延びて以来、400年近くの永きに渡って、藤堂采女家の皆様を始めとする「服部」の皆様には、筆舌に尽くしがたい程のお世話になりました「明智」の者でございます。「服部」関係の皆様には重ねて御礼申し上げます。
 ところで、少々思いついたことがありますので、後刻LXVの方にもコメントさせていただきます。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月14日 13時43分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


       家康の末期に臨んで、
       「あの世でも殿にお仕えいたします」と言ったようでありますが、
       深読みすれば、それは「高虎は殿を絶対に裏切りません。
       関わった機密は絶対に漏らしませんのでどうぞご安心ください」
       
       と言っているように聞こえます……。


はい。


伊達政宗あたりが「あの世でも家康殿にお仕えします」と言ったとしたら
   もともと伊達政宗は喰えないヤツだから
伊達藩を自分の死後に取り潰されたくないから、言ったんだと思いますが

藤堂高虎が言ったということは(アンタの秘密をアンタが死んだからといって外様の大名達にバラしたりしないよ)という恫喝に思えますよね。




>阿閉貞征と武田元明

藤堂高虎は阿閉貞征に一時仕えてましたね。



武田元明は秀吉の側室・松丸殿=京極竜子=の夫だった人ですね。
松丸殿は弟の命乞いに秀吉の側室になったとか。

松丸殿=京極竜子=と茶々は仲が悪かったですね。
これは  京極家>浅井家 という力関係があったから  2人は張り合ってたとか。

でも茶々の妹は京極家に嫁に行ったんですよね。もっと下の妹は徳川家に嫁に行きました。


    ややこしい。


こういう人間関係を高虎はしっかり勉強したでしょうね。高虎は浅井家に仕えてたことがあるし。




>天海が死んだ1643年には明智光秀は128歳になってしまうので、これはあり得ない。
>とすると天海の長生きは、息子が天海を2代に亘って演じたということの可能性も考えられる

はい
天海には秘密がありますよね。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月14日 13時56分35秒 ) パスワード




消えた
瞬殺の刑に遭った
長々書いたのに


もう、ふて寝しに行きます
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月14日 22時40分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 Too bad!
 一気にテンションが下がりますね。どうぞゆっくり睡眠をとっていただ
き、ショックから早く立ち直って下さい―
  
 A.AKECHI様、お久しぶりです(たぶん二度目だと思いましたが)。

 明智光秀について、調べれば調べるほど大きな謎(いろいろな説)にぶつ
かって行きます。家康の偽者説がありますが、秀忠にもそんな可能性があ
るという……想像を絶する世界の入り口に立ってしまいました。
 先ほどまで、そんな情報を漁っていたところです。とても疲れました。

 もし、AKECHI様の知り得る範囲のお話を聞かせていただけましたら、こ
んなうれしいことはありません。是非教えて下さい。

 私の最終推理は、明智氏の妻の妻木氏は賀茂氏系勘解由小路氏にあたり、
陰陽道の宗家の一つと言われていますので、キーワードは賀茂氏、従って
八咫烏とつながっていたのではないか。家康も賀茂氏系でありますので、
本能寺の変は八咫烏のネットワークが黒幕なのではないかと推理いたしま
がどうでしょうか。
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月15日 22時22分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明智と服部―想像以上につながっているかも知れません。光秀の妻の父
親・服部保章の従兄弟・服部正尚が二代将軍秀忠を産んだ西郷の局の継父
……もし仮に秀忠が家康の胤でなく、服部の胤であったとすると、服部家
が二代将軍より徳川家を乗っ取った形になる。。そして、もし家光が光秀
の甥の斎藤利三の子「お福と家康の子だとすれば、第三代将軍から明智の
血が将軍家に入ったということになり、服部家と明智家で徳川家をほぼ乗
っ取ったということになります。服部家と明智家の大陰謀―その可能性は
かなりあると思います。但し、実証することは至難のわざでありますが…
…。

 あを様、本日は静岡の丸子と焼津へ行って来ました。その話は明日より
いたします―
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月15日 22時57分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


秀忠の本当の父は誰だか分からないですよね。
有り得るかも。


もともと後家と結婚する時に、後家の連れ子の娘に手を出すのが当たり前という風習があったそうですし。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月16日 02時49分55秒 ) パスワード

         ↑

    こういうのは今でも時々事件になったりしてますから
    美しいと評判だった西郷局に手を出さなかったって有り得るのか?
    


前田利家の妻のお松さんは
   父親(篠原一計)が戦死して
   母親が高畠直吉と再婚することになって
母の妹の家に預けられ
数えの12歳で従兄になる利家と結婚しました。

   翌年から子供を産んでいるのですから  これはまた別にスゴイ。
   その後も生み続け  全部で2男9女を生んでいるそうです。これもスゴイ。


ま、お松さんは預けられた先が母の妹の家だったからラッキーだったんでしょうね。
もし亡父の姉か妹の家に預けられていたら危なかったかも。


あ、ちなみにお松さんはうちの村の出身だそうです。限定すると今の七宝町だそうです。
     七宝町では父の親戚が文字通り七宝やってるとか聞いたことがあります。笑

http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.17116707&lon=136.80318784&ac=23237&az=14&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E3%81%82%E3%81%BE%E5%B8%82%E4%B8%83%E5%AE%9D%E7%94%BA%E6%A1%82

なかなか面白いですよ。


そう言えば大治村にホンヤさんの菩提寺があるって聞いたかな?
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月16日 11時18分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は天気も良くすがすがしい日曜日となり、念願としていた「丸子
(まりこ)」へ行ってきました。
 目的は―
 @丁子屋の「とろろ汁」を食すること
 A松尾芭蕉の「丸子のとろろ汁」を詠った句碑を見ること
 B「吐月峰」とはどういう所かしらべること
 C丸子あたりの宿場町周辺の散策をすること
でありました。

 丸子へ行くのは十何年ぶりでしょうか。美味しいものは又食べたくな
るものですが、若い頃は肉料理や魚料理の方を好む。歳をとると、野菜
や山菜や蕎麦等が美味しく感じるようになる。いわゆるライフサイクル、
体が無意識的に欲しているのかも知れません。
 私も蕎麦や山菜が好きになってきたことは間違いありません。その延
長線上に「とろろ汁」が浮上して来ました。
 藤枝に丸子に負けないとろろ汁の店ができたということで、二〜三ケ
月前に藤枝の奥にできた店に行ってきました。その時の味については、
さほど印象には残っておりません……。
 今度は、「とろろ汁」の聖地、「丸子の丁子屋のとろろ汁、四百年の
伝統」である。
 開店の二十分前に行ったところ、予約帳にはすでに四組十人程が登録
されていた。
 開店までには三十人以上は並んでいたかも知れない。さすがみんな知
っている。もとろん知らない人はない位有名でもある。

 席について定番メニューを頼む。すると、五分程で料理が出てきた。
何という手際の良さ! 感心する。
 食してみた――ウーンとうなった。記憶どおりの絶品である。自然薯
の粘りが程よくまろやかで、またその独特の青臭さい味と、鰹節のだし、
麦みその味がこれまた絶妙にハーモニーを奏で、いわば「とろろ汁」の
桃源郷に居るみたいな感じであった。時間が止まるおいしさであった。
この時より、私は今後のリピート客になってしまったような予感を感じ
ております。

 芭蕉の句碑を探す――お店の駐車場で車の誘導をしているおじさんに
訊いてみた。すると、「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」とスラスラ
のたもうた。さすが丸子のおじさん――でも、丁子屋の玄関南側に句碑
はあったのである。
 この句碑の面している通りは旧東海道であり、丸子の宿がずっと立ち
並んでいたようである。

 句碑は木立に囲まれるように建っていた。
 読む―
 「梅わかな 丸子の宿の 登路ゝ汁」と苔むしてはいるけれども読め
た。芭蕉も丁子屋のとろろ汁を食したんだと思うと、何か今一緒に食べ
たような錯覚に包まれた―
 <食後の唇の周りのむずがゆさを感じて、芭蕉がしきりに掌で唇をこ
すっている――>
そんな姿が私の目に浮かびました……。

 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月16日 12時41分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


丸子、知ってますよ。
父が丸子の丁子屋の模型を作って見せてくれました。
屋根はたわしの毛を使ってました。



とろろは  シュウ酸カルシウム結晶の針がお肌に刺さるんですよね。



麦味噌ですか。
懐かしいですね。
400年の味、なんていいですね。



死んだら芭蕉さんに「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」に行ってきましたよ、と言えますね。
笑ってくださるでしょうか?

死後の楽しみができましたね

         とろろ汁 芭蕉と2人  笑い合う


とろろって季語としては秋なんですねえ。
外れた〜


[60]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月16日 14時39分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 駿府が生み出した連歌師「宗長(そうちょう)」、この人は「宗祇(そう
ぎ)」程知られていない。また俳句の芭蕉と比べても、雲泥の差である。
つまり、知られていない。そもそも「連歌」に対する庶民の理解と興味
があまりない―

 私も、連歌師は情報エージェントであったということは聞いたことが
あったが、宗長は知らなかった。知ったのは、『宗長日記』という宗長
の書きとめた日記で、その中に室町時代の歴史に関する記述や人物の行動
記録が記されており、いわば歴史の客観的で貴重な事実の証人となって
いる。これは、岩波書店から文庫版で出されていますので、一度目を通し
ていただければと思います。

 宗長は島田の鍛冶職五条義助の子として生まれ、鍛冶屋にならずに連歌
師になったという不思議な経歴ではあります。また、そうそうたる師匠に
師事しております――宗祇、一休……。

 とろろ汁の丁子屋から西に進み、やがて山に向かって北上すること十五
分、そこに「吐月峰 柴屋寺(とげっぽう さいおくじ)」がありました。

 ここで一旦切ります―
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月16日 17時23分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『歴史とロマンのさと 丸子路の史跡めぐり』という小冊子によると―
 「吐月峰柴屋寺(とげっぽう さいおくじ)
  連歌師柴屋軒宗長が、1504年、57才の時、宗長を文武の師とし
 て親交の深かった、今川家七代氏親の厚遇によって、家臣の丸子城主
 斎藤加賀守安元の所領する丸子泉ヶ谷の静寂の地に、草庵を結んだの
 が吐月峰柴屋寺の起源となりました。

  東海の名園として知られる庭園は、宗長の手によるもので、京都の
 銀閣寺の庭を模したものです。竹林と緑に囲まれた閑静風雅な庭園は、
 月見石を中心にして、名月が見られることから、吐月峰と名付けられ
 ました。南に丸子富士、西には天柱山がそびえる借景式の、素晴らし
 い庭園です。今に残る数少ない室町時代の遺構として、昭和十一年、
 「国の史跡・名勝」に指定されました。

  宗長法師閑居以来、吐月峰は月の名所として、東海道十七名勝地の
 一つに数えられ、宗長縁りの竹細工も広く世に知られていますが、竹
 は京都嵯峨より自から移植したものです。」

  寺のガイドのおばさんの言うには、裏山の竹林の枝の先端が風で左右
 に揺れ、その中から月がヌーッと出て来る様は、まるで月を吐くような
 感じなので、吐月峰としたと聞いているとの説明がありました。

 ここでちょっと切ります―
 

  

[63]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月16日 20時52分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [61]のレスはどういう訳かスペースの部分が膨大になってしまいました
ので削除し、記述部分は[62]に移しました。

 さて、『丸子路の史跡めぐり』の続きを急ぎます―
 「宗長は、幼児から今川六代義忠の小姓として仕え、真言僧駿河の宰相
 に師事して真言僧となりました。十六才の時、都に出て宗祇に連歌を学
 び、十八才の時、大徳寺の一休禅師に禅を学んだと伝えられています。
  連歌の巨匠宗祇は、宗長をこよなく愛し、諸国旅行の旅には必ず同伴
 して連歌を世に広めましたが、1502年7月晦日、箱根湯本で長旅の
 途上で病に倒れ、82才の生涯を閉じました。宗長は裾野の定輪寺に宗
 祇を葬り、師の霊を丁重に弔って自由の身になった宗長は、余生の地を
 今川氏縁りの地丸子に求めました。

  戦乱に明け暮れた戦国武将には、神仏に連歌を奉納して戦勝祈願を行
 う習慣がありました。従って、連歌師は貴重な文人として尊敬されてお
 りました。
  一方、連歌師は、旅にことよせて諸国の動静を容易に偵察することも
 できた、情報の提供者でもありました。その代表的な連歌師が宗祇であ
 り、宗長でした。特に宗長は今川家の軍師として偉大な業績を残してい
 ます。」
ということであります。

 寺の宝物としては、ショーケースに収められていましたが、今川義元の
横笛、足利義政将軍下賜の「文福茶釜」、後水尾天皇の書かれた短冊等を
見ることができました。


[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月16日 22時53分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

宗長は全く知らなかったです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%95%B7

「急がば回れ」を唱えた人。


これも知らなかったです。



連歌師も御師さんのように全国を回って情報収集をしてたんですねぇ。
連歌師だけに芭蕉の先駆けですね。
芭蕉には宗長の旅は参考になったでしょうね。


>寺の宝物としては、ショーケースに収められていましたが、
>今川義元の横笛、足利義政将軍下賜の「文福茶釜」、後水尾天皇の書かれた短冊等を見ることができました。

目の保養になりましたね。


貴重なお話をありがとうございました。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 03時33分38秒 ) パスワード

新しくスレッド67を立てました。http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101531.html

キリの良いところでどうぞ。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月17日 07時52分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あたらしいスレッド有難うございます。
 丸子での話を今回で終えて、新しいスレッドに移りたいと思います。

 さて、まるで京都のお寺さんを見てきたような満足感に包まれながら、
応仁の乱というものが京都の町を阿鼻叫喚の地獄絵図にしてしまったの
で、京都のお公家さんの一部は今川氏を頼って都落ちして来た……。
 浜松と静岡とを比べると、正にそんな文化の色の違いと、更に人の性
格・考え方まで違ってくるほどに影響を及ぼしたということを感じます。

 ところで、柴屋寺に「文福茶釜」というものがありました。将軍足利
義政よりいただいたそうですが、汲んでも汲んでもお湯が無くならない
茶釜だったそうです。説明係のおばさんによると、実はお坊さんが密か
に水を足していたという説明がありました(隠された水源があったので
しょう)。

 柴屋寺を後にして緩やかな坂を上って行く。京都の金閣寺の近くに昔
住んだことがありますが、正に大文字山のふもとの山道のような感じで
あります。

 ―行きついたところにお寺がありました。そのお寺の名称は歓昌院。
曹洞宗のお寺でありました。何かあるかなと期待しながら、石段を登る。
天中山をバックにして本堂が建っていた。屋根の形が借景の天柱山の形
と相似形にマッチして見えた。
 奥の方に墓石が見えたのでそちらに向かう。そしてそこで私はビック
リするものを見るのである―

 そう、それは墓苑の真ん中あたりにあった―服部家の墓である。その
後ろにもう一基、服部家の墓。家紋は……何と「丸に三つ柏」であった。
暫くのあいだ時間が止まった。と言うより思考が止まった。つまり頭の
論理回路が、突然の遭遇での混沌に、ストップしてしまった……。
 ようやく思考回路が動き出し、推理力が戻って来た……これは、どう
いうことか……この場所は静岡市「羽鳥」のすぐ西。羽鳥では古代より
絹織物を織っていた。そして都まで絹布を運び納めた。その道沿いにこ
の歓昌院があるのだ。ということは、羽鳥の住人である服部氏―の可能
性大である……これが私の推理の結末であった。ならば、羽鳥に行けば、
ひょっとするともっと服部氏の墓に出会えるかもしれない……そんな今
後の希望を描きながら、この寺をあとにしたのであります―
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 11時55分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


えっ?
一瞬アタマの中が停滞しました。

いらっしゃったのは丸子でしょ?
そこから柴屋寺。
更に歓昌院。



>墓苑の真ん中あたりにあった―服部家の墓である。
>その後ろにもう一基、服部家の墓。
>家紋は……何と「丸に三つ柏」であった。

>暫くのあいだ時間が止まった。と言うより思考が止まった。
>つまり頭の論理回路が、突然の遭遇での混沌に、ストップしてしまった……。


そりゃあストップしますよ。

墓苑の真ん中!に服部家の墓!
その後ろにも服部家の墓
家紋が「丸に三つ柏」だったとは!



もうしっかりその地の過去の記録を集めまくらないといけないですね。


何故墓苑の真ん中に服部家のお墓?
ここからしてスゴイ。
何者だったんでしょう?



>この場所は静岡市「羽鳥」のすぐ西。
>羽鳥では古代より絹織物を織っていた。
>そして都まで絹布を運び納めた。
>その道沿いにこの歓昌院があるのだ。
>ということは、羽鳥の住人である服部氏―の可能性大である……これが私の推理の結末であった。
>ならば、羽鳥に行けば、ひょっとするともっと服部氏の墓に出会えるかもしれない……
>そんな今後の希望を描きながら、この寺をあとにしたのであります―


かなり狭くなりましたね。
いやぁ、もう、ビックリ。


島田を通り越して静岡?
安倍川の近くですよね
へぇ〜
もう言葉も無いです。


静岡市の史料がたくさん欲しいですね。
暫く静岡市図書館や県立図書館に通い詰めないと。

取り敢えず今後の調査方面が決まりましたね。
何故善地に落ち着いたのか?

[68]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 12時08分03秒 ) パスワード

ということで検索して来ました:


http://blog.goo.ne.jp/syuji_1944/e/9d4880a775ffbdefd10acaf526a03c27


駿河一国33ヶ所巡り4-3


14番耕雲寺の辺りは牧ヶ谷と言って昔の馬の牧場があった所らしい。
三方を山に囲まれて出口を閉めればそのまま牧場になったのかもしれない。

冷たい風は山の上を通り過ぎ、ここまでは降りてこない。陽の当たった境内はポカポカしてのんびりした気分になってくる。


 耕雲寺の裏山には、かってこの地域で盛んだった養蚕機織にかかわる豪族の古墳が幾つか発見されている。

それと言うのも、この先の藁科川の対岸は「服織(ハトリ)」と言う地名だ。更に先には「麻機(アサバタ)」と言う地名もある。万葉時代に朝鮮半島から来た技術集団は、ここ駿河に根を下ろし蚕の養殖や機織に明け暮れたのだろう。
しかしその名残は今の静岡市には無いようだ。


 耕雲寺のご朱印は別紙に書かれたものだった。それはいいが日付も入っていない。無住の寺の持ち回りの人でも日付が入っていない事に恐縮していたのに、ここでは当たり前のように手渡す。

オット、イライラしてはいけない。何のための遍路旅か。
あとで考え四国の札所は何所も日付が入っていない事を思い出した。日付は無くて当然。入っていれば特をしたと考える事にしよう。



ご朱印を受け境内に立って前方を見ると観昌院で見たと同じ形の山が正面に見える。若しかしてと地図を見ると間違いなく観昌院の裏山だ。とすると観昌院と耕雲寺は裏山を挟んで直線上にある事になる。これに何か意味があるのだろうか? あの山の頂に奥の院があったとか、由緒ある仏像を埋めてあるとか----- 誇大妄想が始まってしまった。


 藁科川の堤防に立つと木枯しの森が目の前にある。
木枯しの森は藁科川の中州にある川中島で古今和歌六帖には
「人知れぬ おもひするがの国にこそ 身はこがらしの森は ありけれ」と謳われている。
また清少納言の枕草子には
「森は うへ木の森、石田の森、木枯の森・・・」と書かれている。

 受け売りはこのくらいにして----- 
実際の木枯しの森は、ただの中洲にある小島に過ぎない。万葉人が何故こんな小島に風流を感じたのか皆目検討がつかない。川を覗きこむと森の左右には水の流れがある。これでは足を濡らさなければ森には行けない。ホッとして次の建穂寺にと進む。

 電信柱にある地名が「羽鳥」になっている。私の知識では「服織(ハトリ)」のはずなのに。地図を見てみると確かに地名は羽鳥だ。しかし中学校や小学校は服織だ。郵便局も服織だ。何故だろう服織ではハトリと読みにくいので羽鳥に変えた? そんな馬鹿な 幾らなんでもそんな事は無いだろう。よし次の建穂寺で聞いてみよう。

 「はとり」と何回か書いていて気がついた事がある。ハトリに「ッ」を入れれば「ハットリ(服部)」になる。服部は古代機織りをしていた職業の名前だと聞いた事がある。

今まで服部を何故ハットリと読むのか分からなかったが、これで分かった。

昔服織りのことをハトリと言っていた頃、職業別の「部」に分類する必要が出てきた。そこで漢字は「服部」と書き、読みは従来どうり「ハトリ」とした。それがいつしか訛って「ハットリ」になったのではないだろうか。当たり!!だと思う-----

更に言えば朝鮮ではその当時、服を織る事を「ハトリ」と言っていたのではないだろうか。朝鮮語の分からない私には何とも言えないが 若しかして と考えたくなってきた。

 電柱の地名が「建穂」になってきた。建穂と書いて何と読むと思いますか? きっと読める人は少ないと思う。これで「タキョウ」と読むそうだ。この地名も何となく帰化人が付けたといえば、そんな風にも感じる名前ですね。

建穂寺(タキョウジ)は江戸時代までは21の塔頭をもつ駿府有数の大寺だったが、明治の廃仏毀釈と明治3年の火事により全てが消失したと言う。
現在の建穂寺は小さな観音堂だけの無住の寺になっている。観音堂の中には火事から焼け残った仏像が所狭しと置かれていた。


 無住のため管理している家に行かなければならない。張り紙はあるが名前と電話番号が書いてあるだけで地図は無い。さてっと、何所へ行こう と思案しながら境内に立っていると、「管理人は そこの家だよ」と犬と散歩中の老人が寺の斜め前の家を指してくれた。ラッキー! 今日最初の幸運だ。これで今日の不運は終わりだろう。

 管理人と一緒にお堂の中に入る。少しかび臭い臭いがしたが、それより仏像の多さに驚いた。飾ってあると言うのでなく、置いてある状態だ。どの仏像も彩色が取れ白っぽく変色している物が多い。文化財の指定は?とあたりを見回すが何も書いてない。境内の入口に立っていた看板にも書いてなかった。火事で損傷している為に指定を受けれないのか。
仏像音痴の私には千葉山のご開帳の仏像も、ここの林立している仏像もどちらもありがたく見えた。



                        略


そんな事で地名の羽鳥と服織の関係を聞くのを忘れてしまった。


[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 12時14分03秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%8B%9D

去年あたりに書いた人ですが。
服部貞信の直系の子孫ですね。



服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))

江戸時代後期の旗本。松前奉行、勘定奉行などを務めた。
服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。

官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。



中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。1786年(天明6年)3月22日、将軍・徳川家治に御目見[2]。1794年(寛政6年)5月22日小姓組となり、1796年(寛政8年)10月4日に家督相続、1400石を継ぐ[2]。

1797年(寛政9年)12月18日に中奥番士[2]、1805年(文化2年)御徒頭、1806年(文化3年)西丸目付、1807年(文化4年)本丸目付と昇進し、1810年(文化7年)、駿府町奉行となる。1812年(文化9年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。翌1813年(文化10年)9月、ゴローニン事件を解決する。1816年(文化13年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。1819年(文政2年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務、但し同年9月、小普請組支配となった。

1824年(文政7年)死去。墓所は世田谷区赤堤3丁目の西福寺。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 12時30分22秒 ) パスワード

この駿府奉行服部久右衛門貞勝関係の史料が手に入ると良いですね。

でもそうすると三つ柏さんのご先祖さまはこれまで散々アヤシイアヤシイと悪口を言って来た
呉服明神の服部貞信に関係した服部氏でしょうか?



この貞信の家は立派な家と縁続きになって栄えましたね。


確かこの貞信の家って 家紋が 卍紋  万字紋 だったりしてましたよね。右角だったり左角万字紋など子孫で異なりますが。

さらに  関ヶ原で従軍して  あのダビデの星の人々と関係してたのでしょうか?

    ダビデの星紋と万字紋
    スゴイ関係
    まさか日本で ひ と らーさん  も関係?まさか。

あ、貞勝の代表家紋は車輪竪二本矢・七本矢・矢の字桔梗など
世田谷の赤堤3丁目の西福寺が菩提寺ですね。 


また振出に戻って心機一転頑張りましょうね。 
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 12時34分51秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/60aec27ca6d6fe9f442e45807701b9cd


平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」

かさぶた日録
2013-04-28 23:37:55 / 郷土史考



文化、文政の江戸文化の爛熟期に入ると、江戸幕府は各国の地誌の作成を企てるようになった。文化七年(1810)、駿府町奉行に任ぜられた服部久右衛門貞勝は、文化九年春になって、駿河国大地志の編集を企て、与力佐藤吉十郎を係として、各地方の文化人8名を撰者として選び、その中から稲川治憲を総裁として、編集を各撰者に分担させた。

志太郡では島田在住の桑原藤泰が地志撰者に選ばれた。桑原藤泰が撰者に選ばれたのは、その方面に彼は実績があったからである。文化六年には志太、益津、有度の三郡を巡行し、翌七年には再び益津郡、八年には志太郡を巡村し、同年末には益津郡の地志の稿をすでにまとめていた。

文化九年十月には駿府町奉行の服部は松前奉行に転じて駿府を去ったが、彼の地にあって、老中松平信明に進言し、地志編集活動を支援した。

桑原藤泰は文化九年三月、撰者に正式に委嘱されたその月に、十四日から二十七日まで、志太郡のうち、大井川流域の調査の旅に出かけた。その調査旅行の記録が「大井河源紀行」である。

結果として、服部が企てた駿河国大地志は撰者の死亡などもあり、中途で頓挫した。しかし、調査が進んでいた部分は、後に桑原藤泰によって「駿河記」としてまとめらて現存している。

「大井河源紀行」の原本は所在が明らかでないという。しかし「駿河志料」を編集した中村高平が、安政三年から文久元年の間に、桑原家から藤泰の自筆本の「大井河源紀」を借り、写本したものが残っていた。平成六年に、宮本勉氏がその写本を翻字し、その写本の影印とともに、「大井河源紀行−はまつづらの抄−」という本を出版した。

その本を、三、四年前に図書館で見つけて、いつか読もうと思い、コピーを取っておいたものが手元にある。「梅さんの旅日記」の読破後、次にこれを読もうと思った。

島田から大井川の源流を目指して、村々を調査しながら、十四日間の旅である。大井川は現代でも標高3000メートルの南アルプスから駿河湾まで一気に下る急流で、島田・金谷まで来てようやく開けるが、その直前までは、「鵜山の七曲」といわれて、山を浸食して大きく蛇行する流れが続き、現代のように川に沿う道は無く、村から村へ幾つも峠や山を越えてたどるしかない道中であった。

案内人を一人連れて、行く谷々に必ず人の営む村々があり、それぞれに歴史や伝説、民俗がある。どんな旅になるのか、わくわくする。例によって、古文書解読の勉強であるから、翻字の方ではなくて、中村高平が写したといわれる写本の影印したものを読んで行こうと思う。


以下略
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 12時49分59秒 ) パスワード

http://mirrorz.jp/article/kenmin-shizuoka/

都道府県別裏′ァ民性診断 静岡県編

静岡は横に広がっていますから西と東では大きく違うかもですね。

     わたくしは尾張人なのに性格は頑固者の三河人気質だそうです。
     何度チェックし直しても頑固者に出ます。



静岡県といえば、富士山やお茶を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
また、青春18きっぷでのんびりと東海道線を旅行しているときに、いつまでたっても静岡県から出られない…なんて経験をしたことがある人も多いでしょう。
静岡県は意外と広い県なのです。


そんな静岡県は、東部、中部、西部に大きく分けることができ、各地域で県民性が異なるといわれています。


東部は自立心が強くてマイペース、中部は温厚でおっとり、西部は活発で積極的というのが、大まかなイメージでしょうか。
とはいえ、そういう一般的な県民性にあてはまらない人もたくさんいます。
あなたも、その中の一人かもしれませんよ。

この診断では、一般的な県民性ではくくれない、あなたの裏の性格を占います。
静岡県を愛する人は、ぜひ試してみてくださいね。



とうことで静岡県民の振りをしてやってみました。
結果:めちゃくちゃ活発な静岡県民と出ました。


あなたは、元気がありあまっているみたいですね。
体を動かすのが好きで、同じ場所にじっとしていると、それだけでストレスが溜ってしまうような人だと思います。

小学校のころ、親子面談で「すごく元気があって、いい子なんですけど、ちょっと落ち着きがありませんねー」みたいなことをいわれるタイプだったと思います。

静岡県民、特に西部には、活発な人が多いといわれていますが、あなたは、活発という言葉では表現できないくらい、エネルギッシュでアグレッシブな性格です。


いろんなことに積極的にチャレンジするこのタイプは、普通の人より経験値がたまりやすく、どんどん成長していきます。

後先考えずに走り出すトラブルメーカー的な一面も持ってはいますが、あなたの場合、平和すぎて退屈な状態よりは、いつもトラブルを2、3個抱えているくらいの方が、充実した日々を送れるはずです。



もの凄く当たってます。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月17日 13時11分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそく服織についてお調べいただきありがとうございます。私も今、
地図や安倍郡史(安倍川があるように、昔は安倍氏が治めていた)を調べて
いたところです。
 いずれにしても、近日中に現地のお寺関係の調査をしてみるつもりで
あります。

 ただ、その「丸に三つ柏紋」の服部家の墓は、昭和に建てられて(あるい
は建て直されて)いますので、その点でどうなのかなとも思いますし、当方
善地においては、永井氏が同族としてこの紋を使っており(永井氏の半分が
丸に三つ柏)、永井氏との関係(永井氏が何故善地にいるのか)がもう一つの
謎解きの要素となっております。

静岡と浜松―この二つの地域で不思議なことに共通しているのは、安倍
川と天竜川の下流域の河口側から「長田」そして「服織(羽鳥)」があること
です。
 また、静岡では「服織」の中に「羽鳥」がある。浜松では、「羽鳥」の中
に「服織神社」がある。この文字の使い分けには何かメッセージがあるのだ
ろうか……それも一つの謎解きの要素であります。
 秦氏の存在が根底にあることは間違いありません。高級織物となると、
呉服部、漢服部が関係して来ます……。

 「羽鳥―服織―服部」の違い……それは「養蚕―機織り―それらの民の
総称」ではなかろうか。氏族でいえば「秦氏―呉服部―それらの総称」。
ま、これは今たどりついたばかりの自論ではありますが……。

 いずれにしろ、あを様の言われるとおり、静岡―特に服織地域はしばら
くの調査のターゲットになりました。できれば、電話帳の登録氏名におい
ても分析してみたいと思います
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月17日 15時21分56秒 ) パスワード

三つ柏さん



>「羽鳥―服織―服部」の違い……
>それは「養蚕―機織り―それらの民の総称」ではなかろうか。
>氏族でいえば「秦氏―呉服部―それらの総称」。
>ま、これは今たどりついたばかりの自論ではありますが……。

なかなかきれいな分類ですね。



捜査は、いえ、調査は常に振り出しに戻って考え直す。

駿府には服部家の皆さんもいたのですから、ここから発展して小田原の服部家まで行くかも知れないですね。

小田原の本多家の家老をしてた服部家の家紋が分かると良いですね。
そうなると小田原市の図書館や神奈川県の図書館になりますか。


取り敢えず静岡ですね。
頑張りましょう。
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