【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101527 投稿日:2016年04月26日 12時45分41秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXV(16年の課題確認8)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LXW(16年の課題確認7)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101524_61.html
スレッド64の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド64では九鬼水軍の謎が浮かび上がりました。
そこから伊勢と遠江を結ぶ海路を検証してみました。

ここから伊勢神宮と服織神社の絆が一層深まり
長上郡の服部氏の存在が改めて謎に満ちていることが分かりました。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月26日 21時51分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。確かに伊勢と東三河・遠江は、鳥羽と伊良湖の
20q(5海里)しかありませんし、その間に島もありますので、避難も
できます。手漕ぎでも時速4qで進めば、5時間で着く計算になります。
風向き、潮流を読んでベストマッチの時に行けば、それこそ3時間位で
着いてしまうでしょう。
 いずれにしても、鳥羽〜伊良湖間は海のバイパスと考えていいのではな
いかと推察いたします。
 伊勢の影響が遠江に大いに見られるのも、この海上交通の利便性からで
はないでしょうか。

 今回の旅の目的は、伊勢神宮に関係しておりました。即ち、伊勢神宮よ
り北西へ約15q行ったところにある「神服織機殿神社」と「神麻読機殿
神社」を見に行くことが、一番の目的でありました。
 後で気が付いたのですが、この両機殿神社から伊勢神宮方4〜5qの所
に、「斎宮」の跡があり、今は「斎宮歴史博物館」が建っているというこ
とで、残念、後の祭りでありました。

 九鬼を後にして、松阪まで約90q、高速をとばして行きました。
 この続きは明日に―
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月27日 11時41分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松阪のイメージとは……松阪牛と本居宣長、位しかなかった私ですが、
今回2回目となる松阪訪問で、新たな地平線の展開となりました。

 まず行ってみて、市中を走ってみて驚いた……それは、松阪は大田園
地帯であるということ、即ち、広大な田が広がっていました。言い換え
れば、「米所」ということであります。細かな分析はまだしておりませ
んが、伊勢のおひざ元ということと、灌漑・干拓による新田開発がなさ
れたものと推察いたします。

 松阪牛はどこにいるのか……牧場は見ておりません。そういえば、信州
でもそうでした……北海道ではいたるところに牧場が見られるのですが。
 松阪牛の由来についても、まだ調べておりませんが、私の推測としては、
この伊勢の地で、古代には牛や馬が「贄」として奉じられたのではないか、
もっともいつからかその慣習は改められた……。

 これらの点については改めて調べたいと思います。

 松阪の町を抜けて、大田園地帯を走り、約30分弱か……「神服織織殿
神社」らしき森へ近づいた。森というのは、よく神社はこんもりとした森
に囲まれていますが、イメージ的にはそんな感じであります。だけど、と
てつもなく大きい。田んぼの中の森―「仁徳天皇陵」ほどではないにして
も、野球場一つ位の大きさがある。私の勘では南北に200m、東西には
150mか……あてにはならないが。
 とにかく、想定外の遭遇にビックリ……唖然といたしました。

 その森の中に……「神服織織殿神社」は鎮座しておりました。印象とし
ては、伊勢神宮に行った時とそんなに変わらないものでありました。
 説明書き等は一切ない。実にシンプルなもので、森の中に開けた所があ
って、白っぽい石が敷き詰められている。その敷地の正面センターに鳥居、
その正面奥に、大きめの社、その左側に小さめの社(ここが神服織殿神社)、
左右の奥まった所に、小さな祠が並んでいました。

 具体的な説明は止めておきますが、とにかく”ちゃち”なものではない、
伊勢神宮と一体である、ということを肌で、空気で感じた次第であります。
 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 13時13分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

昔ムカシ松阪に行って牛肉を買って帰りました。
それぐらいしか記憶に無いのですが

最近知ったことでは
    穀物で育てるのがアメリカ式
    牧草で育てるのがオーストラリア式(だから草の青臭いが日本人にはちょっと・・・だそうです)


松阪も穀物で育てるとか。


人間の食べる牛肉としては牧草を食べた肉の方が体には良いそうです。
牛は本来は穀物食ではなくて牧草食だから。


とはいえブランド物にしたのは賢いですよね。日本でトップを争う付加価値を付けるなんてさすが松阪商人!
人間はブランドに弱いですからね。


ま、もともとお伊勢さんのブランドがあった=付加価値があった=ということでしょうね。



>野球場一つ位の大きさがある

意外でした。



>具体的な説明は止めておきますが、とにかく”ちゃち”なものではない、
>伊勢神宮と一体である、
>ということを肌で、空気で感じた次第であります。

神服織機殿神社は伊勢神宮傘下ということで宣伝をしてないのでしょうね。
知ってる人が関係者にいればそれで良い
そんな感じかもですね。


肌で、空気で感じた
というのが大事ですね。


逆になんでココにワザワザ?という感じに珍しがられたのかもですね。




>両機殿神社から伊勢神宮方4〜5qの所に、「斎宮」の跡があり、
>今は「斎宮歴史博物館」が建っているということで、残念、後の祭りでありました。

また出直していらっしゃい、ということかもですね。
「もっと勉強してから」と。

きっとまだまだ調べなきゃいけないことがあるのでしょうね。
また遠江の布について読み直さないといけないのかも。




斎宮跡(さいくうあと)

三重県多気郡明和町にある斎宮寮の遺跡である[1]。

斎宮寮とは、伊勢神宮の祭祀を行うために皇室から派遣された斎宮が執務した場所であり、
斎宮は、天皇の代替わり毎に交替し、南北朝時代まで続いたとされる。

斎宮跡は伊勢神宮から約15km離れており、都と伊勢神宮を結ぶ伊勢道のルート上に位置している[2]。



遺跡の概要[編集]

外周施設が、東西1.5kmにわたる大きな溝が史跡の北端となり、東西のそれぞれの端で南北の溝に接続している。

飛鳥・奈良時代から南北朝時代にわたる遺跡であり、
史跡西方(古里・中垣内地区)には奈良時代の遺跡、東方には平安時代の遺構が発見されている。

また、鎌倉時代の遺構は、奈良時代と同じ古里地区と史跡東北部に溝や井戸が発見されている。


特に、平安時代の遺構には、南北に4つ、東西に7つに区画された約120mの方格地割があり、
その内部に、南北の方位に整然と配置された大型の掘立柱建造物が発見されており、その中心部が内院であると推定されており、
第1種保存地区に指定されている[1][3]。


出土遺物は、土製の飾馬、三彩陶器、緑釉陶器以外に、水司、膳司、殿司など役所名を墨書した土器も発見されている。
遺物は、古里地区の「斎宮歴史博物館」に収蔵、展示されている。



これ、面白かったですよ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212667107

Q:
伊勢神宮は現代も続いているのに、伊勢神宮の巫女の斎宮はなぜ途絶えてしまったのでしょうか?


A:
伊勢の斎王の斎宮、京都賀茂の斎王の斎院について考えると分りやすいと思われます。

京都の賀茂斎院が後鳥羽天皇の皇女三十五代礼子(いやこ) 内親王をもって廃絶しましたが
これは鎌倉時代後半で伊勢の斎宮廃絶と時代的に前後しますがほぼ同時期と言えます。



http://inoues.net/tenno/utiko_naisinno.html
京都賀茂の斎院の廃絶理由は財政的な問題で、
斎院を維持する莫大な維持費と同時に祭祀イベントの運営費を賄う事に完全に困窮していた結果でした。

現実、時代が下って室町初期には御所本体の維持管理も出来ず外壁は崩れ、雑草が生い茂るひどい有り様であった事が描かれていますので、

社領を持ち社人をかかえ、伊勢札等の宗教財源を獲得し独自収入を維持していた神社そのものは継続出来ましたが、
神社に付帯し天皇家が維持していた常設設備の継続は困難であったと思われます。

鎌倉以降、王権はさらに衰退し武家による政権が継続し、荘園システムが機能しなくなってきた事により、天皇家の財政が極端に悪化し、
伊勢の斎宮、京都賀茂の斎院を親王の死亡と共に廃絶。


以後も、
武家政権が継続した為、財源を確保出来ず再興されるに到らなかったのでは無いかと思われます。



後醍醐政権が逆に長期間安定して南北朝の分断が起こらず王政復古が継続していれば再興されたかも知れません。


へえ〜
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月27日 14時53分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「神服織織殿神社」について、その歴史的由縁・変遷はまとめるのに
時間がかかりますので、後に回します。

 「神服織織殿神社」より南西に2〜3q程行った所に「麻読(おみ)機殿
神社」が鎮座しておりました。
 ここも田園の中にあり、形も規模も「神服織織殿神社」とほぼ同等であ
りました。説明書き看板も一切なしでありました。
 「麻読(おみ)機殿神社」についても、まとめるのは時間がかかりますの
で、それは後に回します。

 いずれにしても、「神服織織殿神社」と「麻読(おみ)機殿神社」はセット
で存在しており、片方だけでは意味をなさない。伊勢神宮の神事に支障を
きたすことになります。
 この両者には深い深い謎が秘められています。また、伊勢神宮も日本の
歴史の中心として、すべての謎に絡んでいます。
 即ち、伊勢神宮の謎を解くということは、日本の謎を解くということに
なります……。

 
  
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月27日 15時21分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ訂正があります。わかっていて間違えてしまいました。
 それは「麻読機殿神社」ですが、正しくは「神麻続機殿神社」であり
ます。
 また、「神麻続機殿神社」の「続」は「績」という字が正しいと思われ
ますが、間違ったままそれで通ってしまったようです。

 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 20時59分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


訂正をありがとうございます。


>「続」は「績」という字が正しいと思われます

また「続」は「績」という字については確かに 「紡績の績」の方が分かり易いですね。「糸」の方が。

でも「続」になったのは何か理由が背後にあるのでしょうね。



http://www.genbu.net/data/ise/kannomihatadono_title.htm      もとは長田郷?



御祭神
神麻續機殿鎮守神(天八坂彦命)

境内社
皇大神宮所管社 神麻續機殿神社末社八所



伊勢から県道37号線を松阪に向かう。
松阪市に入ってすぐに、右折して北上。
近鉄の踏切を超えて2〜3Km進むと、
畑の中に大きく鬱そうとした森が見えてくる。


倭姫命が御巡幸の時、飯野の高宮に皇太神を奉祭したおり、
長田郷に機殿を立て、麻績社または河崎社と号し、                   ココ
後に、岸村に遷して岸社と称したという。

その後、衰退していたが
天武天皇の御代に、流田郷服村に神服織機殿神社と合わせて一殿として再建。
天智天皇八年に焼失し、その後、両殿を離して再建。
さらに白河天皇承暦三年、飯野郡井手郷に遷されたという。

その後も荒廃が続いたが、
最終的に享保三年に津藩主藤堂氏によって再興された。

皇大神宮に奉る神御衣を織る御機殿の鎮守の神を祀る神社で、
皇大神宮所管社。

式内社・麻續神社の論社。

通称、「上機殿(かみはたどの)」とも呼ばれ、道に案内もある。
境内に入ると、周囲とはまったくの別世界だ。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 21時07分39秒 ) パスワード

ちょっと余談:


http://www.genbu.net/data/iga/umiya_title.htm

鸕宮神社
うのみやじんじゃ
三重県伊賀市島ケ原4689                               島ヶ原というのは奈良との境の村で、結構、予野とか千賀地のエリアですよね。

三つ蔓柏紋                                       旗本で医家の服部氏がこの紋でしたよね。



御祭神
事代主命
配祀
大那牟遲命 神倭磐余彦命 菅原道眞 木花咲夜比賣命
合祀
市杵嶋姫命 建速須佐之男命 天照大神 豊宇氣大神
建御名方神 大物主神 大山祇神 品陀和氣神 少那比古神 稻倉魂命



三重県伊賀市にある。
島ケ原村駅の北東1Kmほど。中学校の隣の丘の上に鎮座。
三重・京都・滋賀の県境に近い場所にある。

道路そばに参道入口があり、鳥居の横に大きな石灯籠が目立つ。
125段の階段を登ると、正面に社殿。


当社の勧請に関する伝承がある。




奈良東大寺の二月堂で行われた修二会に、
全国の神々が勧請されたが、若狭の遠敷明神が、
釣りをしていて、遅参した。

その償いとして、遠敷明神は、実忠和尚の夢枕に立ち、
毎年修二会の行法に、若狭の清水を献ずることを約束した。
すると、二月堂参道下の岩が裂け、二羽の鵜が飛び立ち、
清水が湧き出したという。
そこで、実忠和尚が祀ったのが鸕宮社で、
その後、二月堂の鸕宮社を正月堂の東南に勧請したのが当社。


祭神は、事代主命。

なぜ、素直に遠敷明神としないのか不思議だが、
創祀伝承から「釣りをしていた神」として有名な
恵比寿様(事代主命)があてられたのだろうか。
遠敷明神である若狹彦神社の祭神は、彦火火出見尊。
事代主命と同じく、恵比寿様と考えられている神だ。

合祀の祭神が多いのは、三重県の神社に共通するもので、
明治の合祀による。

神紋は、恵比須神社の紋・三つ柏紋。                      へぇ〜
本殿の屋根に付いていた。



鸕宮神社由緒記

 当社の祭神は、事代主命外十四柱で創立由来は、天 平勝宝四年(七五二)奈良東大寺の実忠和尚が開創さ れた村内にある正月堂との関係が深い。
 南都に於いて、二月三日両堂を開基され、二月堂で の修二会(しゅにえ)の行法に全国一万三千七百余所の 神々を勧請の際、釣りをしており遅参した若狭国遠敷 明神が後悔され、実忠和尚の夢枕に立って、若狭の清 水を毎年修二会行法中観世音に献ずる旨伝えたところ 二月堂参道下の岩石が裂け、白黒二羽の鸕(う)が裂け目か ら飛び立ち、清水がこんこんと湧き出したという。
 このことから修二会の行法が「お水取り」の名で有名 になり、実忠が感銘して遠敷明神を良弁杉の下に祀り、 鸕に因んで「鸕宮神社」と称し衆庶大いに尊敬した。
 是に於いて正月堂の修正会と二月堂の修二会が略同 じ行法の厳修をする関係で、二月堂の鸕宮社を正月堂 東南の地(現在地)に奉祀したら神妙なるべし、又南都と 相似たりと勧請したのである。
 菅原道真公を奉祀した由来は、天正十一年二月二十五 日の洪水の際流れ来て、上川原の梅樹に止まられたの を里人邸内社に合祀したが、夢のお告げにより、雷除 天神として鸕宮神社に合祀し、雷除の霊験あらたかに して、寛文六年五月神恩奉謝の意をこめて奉献した、 四角灯籠が拝殿左裏に建てられている。
 表参道口左側の巨大な石灯籠は、高さ五、二メートル、 重さ五四、二トン、建立は天保十四年で、田畑、山林 が混雑し相続にも困る状態で、八ケ年掛けて畝高を改 め、無事終ったのを記念し、村人が木津川から運び米俵 を持寄り積み上げたと伝えられている。
 この四角灯籠と石灯籠は村指定文化財である。


−社前案内板より−


鸕宮神社御由緒
 事代主命、大那牟遲命、神倭磐餘彦命、菅原道真、木花咲夜比賣命字谷尻村社鸕宮神社の鎮座にして由緒は「明細長」に「創立由緒不詳ト雖モ延長風土記曰ク嶋ヶ原山出松竹柏有異鳥有神號天王社事代主之垂跡也 土俗傅ニ曰ク人皇四十七代廢帝ノ御宇皇上近江保良都ヨリ南都ヘ御幸ノ際當村ニ御休憩アリテ一ノ堂宇ヲ建設セント良辨僧正ニ命シテ観音堂建築セシメ是ヲ正月堂ト稱ス(今ノ観音提寺是ナリ)後南都ニ於テ二月三日ノ兩堂ヲ開基セラレタリ而シテ其ノ二月堂ノ香水ノ井邊ニ鸕宮神社アリ事代主之神ヲ祭リ衆庶大ヒニ尊敬スト是ニ於テ里民鸕宮ノ神ヲ迎ヘ正月堂ノ近辺ニ奉祀セハ南都ト相似タリトテ此地ニ勧請スト云フ 本社ニ菅公ヲ奉祀セシ所以ハ天正拾壱年弐月弐拾五日洪水ノ際流レ來リテ字上川原ノ梅樹(今ニ古梅樹一棟ヲ存ス)ニ止マリ給フニ依ル蓋シ何ノ地ニ座セシヲ知ラスト雖モ菅公御自作ノ木像ナルコト明ナリ」とあり
 市杵島姫命以下の九柱御祭神は明治参拾九年同四拾年に各地より神社合祀の當時合祀セシモノ
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 21時29分48秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/tumie_title.htm

都美恵神社
つみえじんじゃ
三重県伊賀市柘植町2280

16裏菊紋                                         この紋は青山家がらみかも?




式内社 伊賀國阿拝郡 穴石神社

御祭神
栲幡千々比賣命
配祀
経津主命 布都御魂命
合祀
倭姫命 應神天皇 健速須佐之男命 稲田比賣命 仁徳天皇 天穗日命
火産靈命 大山祇命 三筒男命 安閑天皇 大山咋神
建御名方命 八坂刀賣命 大日孁貴命 埴山比賣命 彌都波能賣命
市杵嶋比賣命 伊弉册命 菊理比・命 天太玉命 宇氣母智命 伊勢津彦命
天手力男命 武甕槌命 宇迦能御魂命 天津彦彦火瓊瓊杵命 木花佐久夜比賣命
玉依比賣命 建角見命 猿田彦大神 天御柱命 國御柱命 火之迦具土命



三重県伊賀市にある。
柘植駅の西1Kmほどの柘植小学校の隣り。
道路から北へ参道が延び、山裾に南面して鎮座している。

階段の上いっぱいに拝殿があり、その後方に三棟並んだ社殿。
中央が本殿だが、左右の境内社の詳細はわからなかった。

元は、霊山の中腹穴師谷に鎮座しており、
穴師社、石上明神と呼ばれていた神社。

式内・穴石神社の論社とされているが、
奈良の穴師社や、石上社との関連が指摘されており、
柘植が出雲民族の居住地と思われている。

『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
とある。
当社の神は、伊勢津彦命であり穴師の神、つまり風神ということ、
出雲系の神であることなどから、諏訪神に近い存在かもしれない。
また、ここで争い追い返した、阿倍志彦の神は、敢国の神のことか。

『平成祭データ』には、境内社として、
耶須久迩社、事比羅社、愛宕社、秋葉社、山神社とある。
山神社は、境内右手の石の垣の中にある石碑だろう。
「山神」の石碑の横には、三面六臂の青面金剛の石碑。

伊賀の神社の特徴の一つは、
祭神が、やたらに多いということ。
明治の合祀が、徹底された結果だと思うが、
合祀された後も、忘れられずに祀り続けられているということでもある。
境内の小さな祠に押し込められ、忘れ去られるよりは良い。




御由緒
 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないか と思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族) がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊 賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名 は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城 を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い 勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々」とあるこ とからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた 神であることは事実のようだ。
 この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神 ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永 二十一年(一六四四)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年 (一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明ら かであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌 年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。
 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの 祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二 年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもので 倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等 にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの で、即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。
 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く 祀りつぎたいものだと思う。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 21時42分22秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/hibiki_title.htm


比々岐神社
ひびきじんじゃ
三重県伊賀市北山1426


丸に並び矢紋
                  社紋と土地の「北山」というのがいかにも服部家の分家がらみか?ですね


                  柘植は宗清が頼朝から、昔、命を助けられた縁でもらった土地で

                  その子・家清は三日平氏の戦いで戦死=あくまで平家に忠節を誓った=この服部家清の3男俊忠が北山を名乗った。

                      次男・清春は福地を名乗った。


                                     だめだ、涙が止まらない。





式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社
旧村社

御祭神
比々岐神
武甕槌神 経津主神 天兒屋根命 建速須佐之男命 大日孁貴命
速玉男命 事解男命 伊邪那美命 誉田別命 大物主神 大山祇神
火産靈神 市杵嶋比女神 綾門日女神 事代主神 宇迦之御魂神



三重県伊賀市にある。
伊賀上津駅の北東1Km。上津小学校のそばに鎮座。
木津川に沿って、旧青山町から旧大山田村へ向う道の側。
その道にも鳥居があり、そこから境内へ入った。
道を少し登ると、境内の左手に出る。
綺麗に整備されて明るい境内だったが、巨木もあっていい感じ。

表参道から入ると鳥居があるが、鳥居扁額には「八幡宮」とある。
参道を北東方向へ歩くと境内。正面に社殿がある。

創祀年代は不明。
一説には大宝年代(701〜703)の創祀という。
式内社・比々岐神社に比定されている古社。

明治三十九年、村社六社、無格社六十社を合祀したらしい。
明治の合祀のため三重県の神社の祭神は異様に多いのだ。
当社の現在の祭神も、覚えられないほど多い。

式内・比々岐神社としてのオリジナルの主祭神は、やはり比々岐神だが、
比々岐神に続く鹿嶋・春日の神々が勧請される以前は、
八幡宮と称していたらしく、鳥居扁額にも残っている通り。

『伊水温故』には、当地の地主の根源・由気忌寸を祀るとあるらしい。

伊賀国式内社に比自岐神社という社があり、
山を越えて、当社の北西3Kmの場所に鎮座している。
『式内社調査報告』では、社名の類似と距離の近さから、
比々岐は、比自岐の変化したものであるとする説も紹介している。

本殿には、並び矢の紋が付いていた。

参道には提灯が飾られ、社殿前に神輿が出され、
なにやら祭の気配。
参拝した日が例祭日なのか、あるいは、その前後なのかな。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 21時47分00秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/omine_title.htm

乎美祢神社                                     これが服部貞信の呉服明神関係なのかな?と疑っています。
をみねじんじゃ
三重県伊賀市桂
                                          服部貞信のいたところが伊賀の「桂」だったら状況証拠になるかも




式内社 伊賀國伊賀郡 乎美祢神社
旧村社

御祭神
乎美禰神

素盞嗚尊 『伊水温故』『伊賀國風土記』
大峯大尼命(物部氏出石心大臣命の孫、大彦命の叔父) 『神名帳考證』(度会延佳)
大峯大尼命 伊弉册尊 天手力男命 『伊賀國誌』



三重県伊賀市にある。
奈良県と名張市、そして伊賀市の境界に近い桂に鎮座。
桂集落の入口に、社号標が立ち、
狭い道を歩いて行くと、集落の一番奥あたりに境内がある。

境内入口に赤い鳥居。境内奥には赤い社殿。
社殿の横に燈籠が立っているだけの簡素な神社。

創祀年代は不詳。

明治41年に花垣神社に合祀されたが、
現在でも社殿が残り、戦後、復祀され、祭祀が継続されているという。

「乎美祢」は、地形からとった名前で、
小峯・大峯が由来と考えられている。

社伝では、伊勢神宮鎮座の際に、豊受姫命を祀って創建された、
あるいは、機殿として、麻績屋姫神を祀った、
あるいは、玉桂屋姫命を祀ったなど、いろいろと記述されているが、
女神を祀った神社であるとしている。

以前、当社は九頭大明神と称しており、桂集落の氏神。
九頭明神と乎美祢神社の関係も不明。
乎美祢神社が九頭神社変わったのか、
二社が合祀されたものか、どちらかがどちらかの境内社であったのか。



社傳によれば、「儀式帳曰ク、倭姫命大神宮鎮座ヲ神戸 之郷ニ定メ給フ時、當神社ハ豊受姫命ノ由緒ヲ以奉斎、神 饌供造ス、清水井戸明ラカニ有之、又白布ヲ献ス有リ、依 テ麻績屋姫神トモ云、姫神ノ機殿也、機殿ヲ乎美禰ノ里ニ 建給フ舊跡トモ判然也、(中略) 又祭神ヲ玉桂屋姫命トモ 稱シ、天文十年辛丑年十一月廿八日當社地へ遷座ス」と傳へる。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 22時09分16秒 ) パスワード

三つ柏さん


三つ柏さんの紀行文の中からヒントを頂いて  現場100回  ということで
伊賀の神社をまたまた読み直しました。

400年も500年も前の先祖達が動き回っていたかも知れないエリアを今更追うのは難しいですけど
でも  あれ?  と思うような情報をちょっとだけ見つけられたのかも。笑


青山氏
貞信


で、
http://www.genbu.net/data/ise/hatoriitoma_title.htm   
服部伊刀麻神社旧地 はとりのいとまじんじゃきゅうち   三重県松阪市出間町
ですって。「ハトリ」ですって。


 
式内社 伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社

御祭神
大命津姫命 あるいは 速佐須良比賣神


三重県松阪市にある。
松阪駅の北東8Kmほどの出間町に鎮座(していた)。
松阪駅から北上し、23号線に入って東へ。
櫛田川を渡ってから2Kmほどで北へ入った場所。

出間町集落の東端に生垣に囲まれた四角形の区画がある。
その区画の中に「式内服部伊刀麻神社舊地」と刻まれた石碑が立っており、
その傍らに山神が祀られている。

ここは、式内社・服部伊刀麻神社に比定されていた神社の古社地。
鎮座地名の出間(いづま)は伊刀麻(いとま)から変化したものと考えられており、
服部伊刀麻とは「服部地区の伊刀麻集落に鎮座する」という意味らしい。

服部伊刀麻神社の創祀年代や由緒に関しては不詳。
宝徳三年(1451)正月の「はたとのの御神事之日記」に「いつま社」とある古社。

布カケ社とも俗称された出間町の産神で、
元は出間町の北東(現在地の北側)に、田カナド明神として祀られていたという。

明治四十一年四月七日、許可を得て柿木原の宇氣比神社(二十五柱神社)に合祀された。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 22時15分07秒 ) パスワード

ということで更に検索

http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is080201-01.html

須麻漏売神社
すまろめじんじゃ
二十五柱神社 に合祀



 【延喜式神名帳】須麻漏売神社 伊勢国 多気郡鎮座
          (旧地)須麻漏売神社旧地

   【現社名】二十五柱神社に合祀
   【住所】三重県松阪市柿木原町 52
       北緯34度35分23秒,東経136度35分59秒
   【祭神】誉田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】創祀不詳
       その後の経緯も不詳
       明治41年4月宇気比神社に合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地に石碑あり。現在は水田。

   【旧地】 須麻漏売神社旧地
   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿、手水舎、神宮遥拝所、社務所
   【境内社】



旧地に石碑あり。現在は水田。バイパス道路より見おろせる。
古く垣内田村の東南の森に「マッカタ社」、「ツボガタ社」という小祠が2社あった。
「マツカタ社」は、宝徳3年(1451)の記録にその名が見えることから、室町時代までさかのぼることができる。
この「マツカタ社」が「服部麻刀万神社」に比定されており、「ツボガタ社」は「須麻漏売神社」に比定されている。
両社は、明治41年4月7日、松阪市柿木原町鎮座の宇気比神社(二十五柱神社と単称)へ合祀された。
旧社地は、近鐵山田線の漕代駅より北方へ5Kmの地点、国道23号線(南勢バイバス)の高架から見おろせる位置にある。境内は水田となつており、東南隅には、昭和5年3月、出口正直氏により、式内 須麻漏売神社 麻刀方神社 旧地 の石標が建てられている。



二十五柱神社

当社は、明治41年9月30日、当氏子地域の神社25社を合祀して創建された神社である。しかし、合祀される前の神社の中には『延喜式神名帳』の多気郡中に登録されている式内社も含まれている。すなわち、出間里中の服部伊刀麻神社・林神社、土古路里中の国の御神社、牛草の牛庭神社、垣内田里本殿の須麻漏売神社・麻刀方神社の合計6社がそれである。




二十五柱神社

25柱神社 合祀前の神社
・村 社 宇気比神社(南出薬師境内)
・村 社 須賀神社(陽光寺境内)
・無格社 山神社(陽光寺境内)
・村 社 浜神社(現在天理教会になっているところ〕
・村 社 事代主神(現在天理教会になっているところ)
・村 社 高之宮神社(大垣内地内)
・無格社 八幡宮(大垣内地内)
・無格社 神明神社(天照)(大垣内地内)
・村 社 林神社(出間地内)(延喜式内社)
・村 社 服部伊刀麻神社(はとりいとま)(出聞地内)(延喜式内社)                    ココ
・無格社 田中神社(出間地内)
・無格社 菅原神祉(出間地内)
・村 社 字気比(うきひ) 本来は盟ひ(うけひ)神社(垣内田地内)
・無格社 (延喜式内社) 須麻漏売(すまろめ)神社(垣内田地内)
・無格社 (延喜式内社) 松方(まつかた)神社
     本来は麻刀方(まとかた)神社(垣内田地内)
・村 社 宇気比神社(柿木原地内)
・無格社 事代主神社(柿木原地内)
・無格社 冨士専僊花(せんげ)社 冨士浅間社(柿木原地内)
・村 社 字気比神社(土古路地内)
     (延喜式内社 國乃御(くにのみ)神社(土古路地内)
・村 社 上流田(かみながれた)神社(神守地内)
・無格社 八幡神社(神守地内)
・村 社 牛庭(うしにわ)神社(牛草地内)(延喜式内社)
・材 社 宇気比神社(蓮花寺地内〕
・村 社 宇気比神社(乙部地内)
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月27日 22時28分06秒 ) パスワード

改めて服部氏の系図なんぞを眺めていると
アソコの家はうちと親戚?
などと見えて来ます。


    なかには贔屓の引き倒しで正しくは「福地」なのに間違って「福士」を我が家の一族としてカウントしたりのバカもあります。恥



ムカシは大家族制でその上に利で結びついた養子や融子も当たり前だったから系図はゴチャゴチャしてワケ分からないけれど

観阿弥世阿弥も祖父曽祖父が「柘植」を名乗ってた柘植宗成になるようで
柘植宗成の兄弟が  山川宗政・柘植宗成・西川正俊・松尾宗広・北川清俊(北山じゃないですよ) だそうです。


この兄弟の父は服部時定の孫の宗保なんだそうで宗清の家に養子に入ったのだそうです。

      もうゴチャゴチャしててワケ分からない。


ま、昔は大家族制だったから、とお茶を濁して逃亡。すたすた
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月28日 04時55分33秒 ) パスワード

レス<9>の「木津川に沿って、旧青山町から旧大山田村へ向う道の側」というヒビキ神社の地図を見ていたら

http://map-nifty.com/map_s.htm?lat=124870440&lon=490384540&lvl=16&opt=l-al%2C%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%3A24%2C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%3A24216%2C%E5%8C%97%E5%B1%B1%3A24216087%2C%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%92%EF%BC%96%3A242160870000000000069%2C%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%82%92%E8%A1%A8%E7%A4%BA%3A124870440%3A490384540%3A

名張市の国道694号線沿いの下比奈知の南に百々という地名があって
ああ、やっぱり三河の青山家と繋がりのある百々は伊賀がらみかと納得。

下比奈知や百々の西が奈良の室生。


ムカシのヒトたちは奈良や京都に足軽く行ってたのかなと。
ネットサーフィンが止められないです。


木津川・青山・大山田
地名の1つ1つが懐かしいです。


   木津川には清盛の息子の重衡さまの供養塔があるし

         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E8%A1%A1

         1185年6月23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。
         享年29。なお、斬首前に法然と面会し、受戒している[1]。

         重衡が斬首された木津川畔の京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。


                   当然行きましたよ。




大山田の「父の城」には久居から千賀地へ行く途中に寄ったし。謎


見ていると尽きないです。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月28日 15時24分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は朝からパソコンがうまくいかず、それに筆の会もあり、またタケノコ
堀りもありましたので、ただ今帰ったところです。

 パソコンの方も直りました。たくさんの情報いただきまして、ありがとうご
ざいます。これからじっくり読ませていただきます―
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月28日 21時16分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の旅で、「百々」という地名には二か所出くわしました。
 その一つは、渥美半島の42号線の真ん中あたりの「百々」、もう一つ
は松阪の藤之木町(市街地の西南)にある「百々川」でありました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月28日 22時50分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


> 今回の旅で、「百々」という地名には二か所出くわしました。

「百々」にも何かありそうですね。


「百々」なんて(岡崎のスッゴイ山の中)という上から目線のイメージしかなかったのですが(ごめんなさい)
戦国時代にはニンジャの秘密宿提供所になっていたのかも。


>松阪の藤之木町(市街地の西南)にある「百々川」

川の名前にも付けられているということは結構地勢的に重要な立ち位置があったのかななんてロマンが生まれました。

川の名前が百々川と聞いたら(一族の百々氏の根拠地に近づいたな)と安堵したとかあったのかなとか。



本当に人間関係とは複雑怪奇ですね。

百地を読んでいて柳生とも関係があったのかと知ったり
ひょっとすると百々と百地は関係があったのかも知れないし
ここに青山も絡んで

戦国時代に青山が一番の出世頭だったのは
南北朝の戦いの時に新田には上野国という土地でくっついていたから
新田の子孫を名乗る家康とは互いに利用しあったり信頼しあったり
そういうのもあったのかな、とか。


悠久なる日本の歴史に、日本人というのは古代からずっと持ちつ持たれつ協力し合い血と涙を共有して来たのかな、と。

うまく流れに乗れたのと乗れなかったのとは
   百々と青山の差は決定的ですし
   百地と柳生も差は決定的ですし


いろいろ考えてしまいます。
ハッキリ分かるのは先祖のことを全く知らないで来たこと。

「百々なんて岡崎のすっごい山の中」なんて昔は思ってたけど
だからこそ木は森に埋もれて隠密行動が出来たのだろう。


         あ、今は百々も開けた住宅街になってて
         トヨタにお勤めの人達が住んでいるのかも。


いやぁ、ロマンです。

なるほど紀行文を読む楽しみって旅のできない人にとって貴重な情報源だったんですねぇ。
これまでは紀行文の人気って読者をそこへ実際に目で確認させ体験させる力があって「みんなもそこへ行ってらっしゃいよ」と思ってましたが
実際に行かなくても疑似体験できるんですねえ。
夢を与えますね。


「百々」なんて過去のわたくしには何の意味も無かったのに
今や、先祖達が命を懸けた時の協力者であり、ひょっとすると、本当は一族だったのかなと。

泣ける
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月29日 00時10分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 パソコンの調子が悪かったので、システムの修復、即ち一週間前のシステ
ム状態に戻したら良くなったようです。これから一週間はゴールデンウイー
クに入り、自宅にあるこのパソコンだけになりますので、まずはホッとしま
した。

 さて、松阪では次には松阪城跡と本居宣長記念館に行きましたが、時間的
には記念館は閉館の時間を過ぎており、入ることができませんでした。

 松阪城跡については二つの案内看板がありましたので、それを記します―
 「松阪城跡
  松阪城は、蒲生氏郷が天正十六年(1588)この四五百森に築城した平山城
 である。
  蒲生氏郷が陸奥黒川へ移封後、天正十九年(1591)に服部一忠、文禄四年
 (1595)に古田重勝と城主が変り、元和五年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主
 となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松阪・
 田丸・白子等)十八万石を統轄する城代が置かれてきた。
  城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい
 丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外部に土塁や堀をめぐ
 らせていた。
  三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元
 年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、二ノ丸には、
 寛政六年(1794)に着工された御殿(別名徳川陣屋)があった。
  明治十四年(1881)松阪公園となり、現在に至っている。」
 
 「蒲生氏郷
  わが松阪の近世都市としての形成は、氏郷公の松阪城構築によって始ま
 る。天正十二年六月、二十九歳の若さで松ヶ島城主となった氏郷公は、こ
 こ四五百森一帯の地の利に着目し、築城を進め、天正十六年八月入城。こ
 の町を「松坂」と命名し楽市楽座、街道の整備、商人の誘致にど生新で画
 期的な政策をもって松阪発展の基礎を固めた。
  近江日野からこの地に赴任し、わずか数年で合図若松に転封となったが、
 この間の傑出した城下町の経営は、江戸時代に至り見事に開花し、商都松
 阪として結実をみた。
  文武に通じ、経世に優れた氏郷公は、また歌を能くし、茶道は千利休七
 哲のひとりとして高名であり、戦国屈指の名将であった。」

  蒲生氏郷も長島一向一揆、伊賀の乱を攻めていることは残念であります。
  服部一忠についての詳しい情報はなかなか入手できません。秀次事件に
 巻き込まれています―
  
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月29日 02時54分35秒 ) パスワード

四五百森(よいほのもり)  
http://www.library-matsusaka.jp/quiz4-17.html


蒲生氏郷が松坂城を築いた所で、今でも松阪市民に親しまれている

「四五百森」。

ほとんどの人は「よいほのもり」と読めると思いますが、            読めないよっ!三重県の地名はホント難しい。

この名前の由来まで知っている人は少ないのではないでしょうか。

それは、この松阪神社に関わりのある、町の守り神が祭られた神社があった森の名前がなまったものだと言われています。

では「よいほのもり」の語源となった森の名前は何と言うでしょうか?


     1 意悲(おい)の森
     2 宵(よい)の森
     3 良い子(よいこ)の森



答えは

1番 意悲(おい)の森 でした。


ただし、2番の宵(よい)の森がなまって“よいほの森”になり、
それに当て字で四五百森と書いたという説が有力だそうです。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月29日 03時12分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

服部一忠が松阪にいたということ、
このことからも松阪のお寺には服部一族の墓があると良いですね。

どんな家紋を使ってたのかなと興味が湧きます。




また松阪にも清盛の曾孫・六代の墓があるそうです。
http://www.kankomie.or.jp/spot/detail_1871.html

日川の里には平維盛の子六代とその郎党が日川寺を草庵として隠れ住んでいたと伝えられている。

今も、六代及び一族の墓が残る。


住所松阪市嬉野森本町
電話番号0598-48-3804(松阪市嬉野地域振興局地域振興課)
公式URL http://www.city.matsusaka.mie.jp/
公共交通機関でのアクセス・近鉄「伊勢中川駅」から車で約20分

http://www.matsusaka-kanko.com/information/information/heikerokudai/
すごい山の中。
隠れ住んでたのですからね。




平 高清(たいら の たかきよ/平 六代 たいら の ろくだい)
承安3年(1173年?) - 建久10年2月5日(1199年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての平家一門。

父は平維盛。平清盛の曾孫にあたる。
母は藤原成親の娘・新大納言局。



六代は僧としての修行に出て諸国を回った。
ところが頼朝の死後、自分の庇護者であった文覚が土御門通親襲撃計画を企てたとして隠岐国に流罪に処される(三左衛門事件)と、六代も猪熊の宿所にて検非違使の安倍資兼によって捕らえられ、田越川にて処刑されてしまったのである。
享年27。
没年は建久9年(1198年)、元久2年(1205年)という説あり、斬られた場所も『平家物語』諸本で異なっている。

なお、1198年説では享年は26、1205年説では享年は33となる。


墓所:逗子市史跡指定地とされている田越川辺小名柳作。
六代の死により、清盛の嫡流は完全に断絶した。



    ということは六代の子孫がいてもおかしくないですね。
    へぇ〜
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月29日 11時22分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松阪のお寺……については全く頭にありませんでした。というのは、当初
久居へ行く予定は組んでいなかったのですが、出発の前日、あを様のアドバ
イスを考えて、急遽久居へ行き、お寺を見ることにしてあったためでありま
す。服部の墓がそこにあるということで……。

 さて、松阪では本居宣長についての探究をしませんでしたが、加茂真淵も
松阪に来ています。本居宣長との出会いは「松阪の一夜」として有名であり
ます。
 浜松の賀茂真淵記念館の資料にこんな出会いのエピソードがありましたの
で記します―
 「奇跡の松阪の一夜 『冠辞考』が結ぶ真淵と宣長
  宝暦十三年(1763)、宣長は憧れの真淵先生に出合い、学問について教え
 を受けることが出来ました。この一期一会の出会いがなければ『古事記伝』
 はできなかったとさえ言われています。
  真淵先生に会いたいと宣長に熱望させたものこそ、真淵の名著『冠辞考』
 なのです。
  『冠辞考』とは、万葉集、古事記等に使われている枕詞を五十音順に並
 べ、用例・語源などの解釈を付けた枕詞辞典。江戸での初版は、宝暦七年
 (1757)六月。松阪で宣長が『冠辞考』を目にしたのが同年十月。三百部は
 なかったと推察される初版本、松阪で宣長の目に触れたのは軌跡に近い。
  借覧した『冠辞考』で初めて真淵の学問に触れ、その偉大さを知ったの
 です。『古事記』を読めなくて困っていた宣長に、光明を与えた『冠辞考』。
 真淵の文献学的態度に心打たれたのです。」

 ちなみに、宣長は松阪の小児科医だったそうです。また、桜が好きで、特
に山桜が好きだったそうです。自分の墓地に桜を植えるよう遺言を残したそ
うであります……このことを思うと、西行の歌「願わくは 花のもとにて 
春死なむ その如月の 望月の頃」を思い出させます。

 賀茂真淵は五十才で、田安家に和学御用で召し抱えられます。田安宗武は
徳川吉宗の二男、宗武は赤坂の藩邸にて生れています。

 真淵は五十五歳で十人扶持になるのですが、それは役人詰所にて「服部大
和守、即ち服部中保房の養子に入った長谷川徳栄の子、保貞」より仰せつか
っています。
 また五十六歳の時には十五人扶持を同じく服部大和守同席の下、土屋美濃
守より仰せつかっております。
 服部中との関係がこんな所に見られました!





 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月29日 12時01分35秒 ) パスワード

三つ柏さん

>本居宣長との出会いは「松阪の一夜」として有名であります。

>『古事記』を読めなくて困っていた宣長に、
>光明を与えた『冠辞考』。
>真淵の文献学的態度に心打たれたのです。


天才は天才を知る、というのですね。
スゴイ!
こうして互いに相手を認め互いに名を後世に残していくのですね。


我が身を振り返れば  最近は  凡人未満なのがよく自覚出来て  哀しく残念です。



>真淵は五十五歳で十人扶持になるのですが、
>それは役人詰所にて「服部大和守、即ち服部中保房の養子に入った長谷川徳栄の子、保貞」より仰せつかっています。

                                            へぇ〜
        長谷川徳栄は去年平熱で勉強したヒトですね


>また五十六歳の時には十五人扶持を同じく服部大和守同席の下、土屋美濃守より仰せつかっております。

>服部中との関係がこんな所に見られました!


       服部中の家と何か関係があったのでしょうね。
       ということはアヤシイですね。




長谷川徳栄
http://chuukyuu.info/who/edo/2008/07/post_1ac6.html


長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)が、声をひそめて、
(叔父上)と呼びかけたのは、同じ西丸・書院番士の河野十郎右衛門通賢(みちかた 39歳 600石)である。

一族の長谷川家から、河野家へ養子に入っている仁であることは、このシリーズの (3) に述べた。

十郎右衛門が勤めをしばしば欠くのは、職務に不満があるからではなく、
実家の亡父・久大夫徳栄(たかよし 500石)への、あてつけなのである。

父・徳栄は、享保元年(1716)に、6人の男の子と、女子1人をのこして、68歳で逝った。

そのときの男子6人の、その後の諱(いみな 元服名)のほうと年齢を記してみる。


幼名でなく諱にしたのは、理解の混乱をふせぐためである。
・保貞(やすさだ) 26歳
・正誠(まさざね) 21歳
・正栄(まさよし) 14歳
     通賢(みちかた)  7歳     このヒトだけは正妻の子ではない
・正脩(まさむろ)   6歳
・保弘(やすひろ)  4歳       このヒトが服部大和守保貞の養子になった
( ・ は、正室が生母)


つまり、十郎右衛門通賢だけが側腹(わきばら 某女)の子ということになる。
『寛政譜』に某女とあったら、武家の女性ではない---召使いとか、妾とかとかんがえる。
次男・正誠と5男・正脩は、この家の本家である4070余石を継いだ。
長男・保貞は、本家の叔母(徳栄の次妹)が嫁いだ3050余石の大身・服部家(織田系)へ養子にはいり、つづいて6男・保弘を養子にとって家督をゆずっている。

佐々家の女である正室は、5人もの男子を産んだ。
長子と末子の年齢差は、なんと22歳。17歳で長子・保貞を産んだとして、第6子・保弘は39歳---夫・徳栄64歳---お盛んな! とでも言っておく。

通賢が側腹にできたときも、正室は現役だったのだから、悋気もたいへんだったろう。
側腹の子がいるのがあたりまえの幕臣の家とはいえ、兄たちからも、いやなものを見るような目で見られたかもしれない。

600石の河野家に養子に出されたことにも、露骨な差別扱いを感じたろう。


そういえば、こんなことがあった。
牛込加賀屋敷とも呼ばれた納戸町に、3000坪に近い屋敷を構えている大身・長谷川正明(まさあきら)の庭の花見をかねて、一族が集まるのが恒例になっていた。

厄介の子・宣雄(当時は平蔵)は5歳だった。    いわゆる長谷川平蔵の父になるヒト
14歳の通賢(当時は久四郎)が、  
「平蔵。ついてこい」
と、池の飛び石をぴょんぴょんとわたった。
5歳の宣雄には無理だった。
最初の石で池に落ちた。
それを、通賢は、笑いながら見ていて、助けようとはしない。
従兄の権十郎(当時は権太郎 9歳)の叫び声に、正直(まさなお 当時は隼人 14歳)が水に飛び込んで抱きあげてくれた。
この事で、親戚中の女たちが、
(久四郎は、ひねくれている)
烙印を押した。

「わし一人がいなくても、万事、とどおこりあるまい」
「いえ、そうではありませぬ。十郎右衛門どのの渋いお顔が見えないと、組の気分がしまりませぬ」
「そんな---」
「叔父上には、ご自分がいらっしゃらないときの組の気分は、おわかりにならないでしょう」
「理屈はそうだが---」
「十郎右衛門という、お名前が、組の一同の気分を引きしめているのですよ」
「わかった。これからは、なるべく、欠勤しないようにする」

(乗せすぎたかな)
ともおもったが、宣雄には、叔父・通賢の滅入っている気持ちが痛いほどわかっていた。
2児とも、幼くて逝かせていたのだ。

この25年間、顔が会うたびに、
「平蔵。おぬし、池のことで、わしを許しておらんだろう」
「池のことって---?」
「ごまかすな」
この問答が、これでもう、繰り返されなくなるとおもうと、
(乗せてよかったのだ)
確信できた。
気にしていたのは、十郎右衛門通賢のほうだったのだ。
芯は、こころ弱い人なのだ。
それを隠すために、ふてくされぶった鎧(よろい)を着ている。

      以下略



いろいろ面白いですね〜
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月29日 12時14分08秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5


賀茂 真淵(かも の まぶち)


江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した[2]。

荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。



生誕
元禄10年3月4日 (1697年4月24日)
遠江国敷智郡浜松庄伊庭村

死没
明和6年10月30日 (1769年11月27日)
武蔵国江戸

両親
父:岡部政信     つまり今川系



      岡部氏は、藤原南家工藤氏の流れといわれる。
      工藤氏の一族で入江氏を称した維清の子維綱を経て清綱のときに岡辺権守となり、
      その子泰綱のときに岡部と改めたといわいる。

      鎌倉期に至って岡部郷の地頭となり、鎌倉政権と強く結び付いた。
     
      「吾妻鏡」に「駿河の住人岡部権守泰綱」とあるのがそれで、当時の駿河武士の代表的存在であった。
      本貫地は駿河国岡部宿のあたりで、
      朝比奈氏とも関係があるといわれている。


      鎌倉期の建長二年(1250)以来、室町期の永亨五年(1423)までの約百八十年間は、文書や史書に岡部氏の名は、全く表われない。
      いわゆる空白の時期となっている。
      文書・記録が消滅したのか、未発見なのか一切不明である。

      しかし、今川氏の範忠の頃には、国人の一人として今川家臣団に組み込まれていたことは間違いないだろう。

         今川範忠は室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。



元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)[2]に岡部政信の三男[5]として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[2]、父政信は分家筋で農を業とした[* 1]。

宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受ける[2][* 2]。国頭は江戸の国学者・荷田春満の弟子[6]で、春満の姪真崎(まさき)[2]を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は享保8年[7](1723年)に結婚する[* 3]が翌年に妻を亡くし[8]、翌享保10年には浜松宿脇本陣[9]梅谷(うめや)家の養子になる[10]。30歳をすぎたころ[2][* 4]、家を捨てて京都に移り荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去する[11]と浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える[要出典]。翌元文2年(1737年)[2][* 5]には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた[* 6]。延享3年(1746年)、50歳となっていた真淵は御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた[12]。

宝暦13年(1763年)、本居宣長が、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた(「松阪の一夜」)。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。



真淵は教育者としても長じ、
門下には
本居宣長、
荒木田久老、
加藤千蔭、
村田春海、
楫取魚彦、かとりなひこ 生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)
塙保己一、
内山真龍(うちやままたつ)、
栗田土満、
森繁子などがおり、
県居学派と呼ばれる。


高名な弟子として特に優れた女性3人を県門の三才女(けんもんのさんさいじょ)[2]、特に優れた男性4人を県門の四天王(けんもんのしてんのう)と称した。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月29日 12時32分12秒 ) パスワード

元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)[2]に岡部政信の三男[5]として生まれた。
岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[2]、
父政信は分家筋で農を業とした[* 1]。




「岡部家は代々加茂神社の禰宜(ねぎ)となり、『賀茂県主(あがたぬし)』と呼ばれていた」(三枝 (1962), p. 43)。

「真淵の実父の政信は、分家筋」(三枝 (1962), p. 60)。
「農事をもっぱらにした実父政信」(三枝 (1962), p. 74)。
「政信(中略)家の生計は、もっぱら農事によってたてられていた」(三枝 (1962), p. 63)。
「賀茂真淵県主(あがたぬし)は百姓の子なり」(小山田与清 『擁書漫筆』、三枝 (1962), p. 17 より孫引き)。



日本中で同じだったんでしょうけど
戦いに敗れて領地を失うと
神職になったりしたんでしょうね。


代が下って分家にもなると神職では食べていけずに農家をやりながら
その内に農家が生業になっていったんでしょうね。


でも「賀茂真淵  かも=の=まぶち」と言うように「の」が入ってますから
「賀茂が本姓」ということですね。

藤原道真   ふじわら=の=みちざね
平清盛    たいら=の=きよもり
源頼朝    みなもと=の=よりとも

でも本姓でなく俗姓になると  「の」  は入らないそうです。


徳川家康   とくがわいえやす
織田信長   おだのぶなが


特例
豊臣秀吉   とよとみ ひでよし、とよとみ=の=ひでよし
            本来は  とよとみ=の=ひでよし  と言うべきでしょうけど  豊臣というのが「もぎ取ったから」でしょうね。



賀茂真淵  かも=の=まぶち は俗姓の岡部じゃなくて本姓で名乗ったからでしょうね。


現代の御歌会始めでは  俗姓の後でも  「の」  を入れてくれてますよね。
天皇陛下の御前だから庶民も  格上げ  してもらえているんでしょうね。



2.^ 「宝永四年は真淵大人(うし)十一歳になれり、(中略)手習ひ始めなるべし」(杉浦比隅満 『古学始祖略年譜』、三枝 (1962), pp. 67-68 より孫引き。資料に関しては同書309頁参照)。

3.^ 「岡部政長の養子となる」(三枝 (1962), p. 312)。
[25]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月29日 21時55分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松阪を発つ朝、松阪城跡の近くの「長谷川邸」という所に寄ってみまし
た。武家屋敷と思っていましたが、それは商人の屋敷でありました―
 「長谷川邸は、江戸持ち伊勢商人の中でもいち早く江戸に進出して成功
 をおさめた松阪を代表する商家である。その長い歴史の中で形作られた
 広大な屋敷地、重厚な建造物群は高く評価され、今なお数多くの商業資
 料や生活道具が残されている。」
 三井家や小津家と並ぶ松阪を代表する江戸持ちの商家で、木綿で財をな
 したということであります。

 松阪から久居までは、高速だけなら12q、10分程度で着いてしまい
ました。特に下調べはなしで、現地にてこれはというお寺に入ろうと思っ
ておりました。こういうやり方は成果なしの時もあるし、ビックサプライ
ズに遭遇することもあります。さて今回はどちらに……。
 ナビでいくつかの寺の位置が目に入ってきましたが、「寺町」という所
へ行けば、大きなお寺に行き当るだろうと思いながら走る。
 こんもりした木々に囲まれたお寺らしき建物に近づく。とにかくまずこ
の寺から見てみようということで、寺の駐車場に車を止めた―
 寺の名前は「玉セン寺」(センという漢字は「漩」と言う字の「方」が
ない字)でありました。そして、その由緒書きを見て驚きました―
 「玉セン寺
  高虎公の孫で、初代久居藩主の高通公により、境内地が与えられ、
 延宝七年(1679)に菩提所として創建された。当初は”玉泉寺”であった
 が、高虎公の官名”和泉守”に重なることから「セン」の字に改めら
 れた。」
ていうことで、一発で藤堂家の菩提寺に着いてしまったのであります。こ
の運の良さに、何か藤堂家が呼んでくれたかのような喜びに包まれました。
 門をくぐると、すぐ右手に藤堂家の墓所がありました。高さ2m前後の
五輪塔が3基並んでおりました。真ん中が初代高通公、その右手は第2代
の高堅(たかかた)公、左手は第3代の高陳(たかのぶ)公……私は、真ん中
に立って、藤堂家の先祖代々に向けて、般若心経を2巻捧げました―

 これから、あを様の言われたことに出合うことになります―
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 07時14分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

体中がゾクゾクしました。いえ、今もオソロシイほどゾクゾクしています。



>一発で藤堂家の菩提寺に着いてしまったのであります。

あらあら
良かったですね

というか余りにも手易す過ぎて感動が、期待してた感動とは異なる感動になりましたね。


>この運の良さに、何か藤堂家が呼んでくれたかのような喜びに包まれました。

かもですね。


藤堂高虎公も服部氏には一目置いているのかも。




>門をくぐると、すぐ右手に藤堂家の墓所がありました。

へぇ〜


>高さ2m前後の五輪塔が3基並んでおりました。
>真ん中が初代高通公、その右手は第2代の高堅(たかかた)公、
>左手は第3代の高陳(たかのぶ)公……
>私は、真ん中に立って、藤堂家の先祖代々に向けて、般若心経を2巻捧げました―


ありがとうございました。

期待してなかったので、ちょっと違う感じの「ありがとうございました」になってしまいました。



でも「久居」か・・・
わたくしもココロの準備をしてなかったので・・・・


この後、何があったのでしょう?
わくわく
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 07時48分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


名古屋の「松坂屋」は   信長に仕えてた   とうちの父は言います。
信長がらみなのは本当です。


代々名乗りは  伊藤次郎左衛門  さん  です。
名古屋のタニマチでした。


   若貴兄弟の時の名古屋のタニマチというとユニー?今はファミマ?の西川さんでしたが。

   父に言わせると西川家は美濃のヒトなんですが
   ワタシ的にはひょっとすると伊賀の服部家の分家かも、とも思います。
      でも前妻さんは土岐の一族だから西川さんもやっぱり美濃なのかなとも思うし。

      伊賀出身で美濃に行った西川さんかも知れないし。

            真相を知りたいけど知らない方が良いのかもね。
            西川さんも最近いろいろあるから。



松坂屋

1611年(慶長16年)- 織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」創業。

                 祐道はのち大坂夏の陣で豊臣方について戦死し、呉服店は一旦閉店となる。


1659年(万治2年)- 祐道の遺児・伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開。

1736年(元文元年)- 呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。

1740年(元文5年)- 尾張藩の呉服御用となる。
1745年(延亨2年)- 京都室町錦小路に仕入店を開設。1749年(寛延2年)新町通六角町に移転。
1768年(明和5年)4月5日(5月20日) - 江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。


                       ここで混乱するんですね


1805年(文化2年)- 江戸大伝馬町に木綿問屋 亀店(かめだな)を開設。
             問屋兼業により価格の引き下げを図った。
             同店の開設に伴いいとう松坂屋は鶴店と呼称した。 

1854年 - 当主治朗左右衛門の婚礼。その祝儀曲として地歌曲の『花の縁』が吉沢検校により作曲される。

1875年(明治8年)- 大阪進出。高麗橋の呉服店「恵比須屋」を買収の上、新町通に「ゑびす屋いとう呉服店」を開店。

1881年(明治14年)- 名古屋茶屋町角に伊藤銀行(現.三菱東京UFJ銀行)を開業。


                           東海銀行の前身かな?


松坂屋東京上野古絵葉書1907年(明治40年)- 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。

1910年(明治43年)-「株式会社いとう呉服店」を設立(資本金50万円)。
             名古屋・栄町に百貨店を開業。

1911年(明治44年)- いとう 少年音楽隊結成。後に東京フィルハーモニー交響楽団へと発展。

1924年(大正13年) - 銀座店開店。全館土足入場可能な百貨店となった。

1925年(大正14年)- 全店の名称を「松坂屋」に統一。この頃からビルマ独立運動家を支援する。

1957年(昭和32年)- カトレヤをシンボルフラワーに制定。

1961年(昭和36年)- ニナ・リッチ(フランスのオートクチュール)と独占契約[1]。※現在は 伊藤忠商事。

1964年(昭和39年)- ヘンリー・プール社(イギリス紳士服テイラー)と提携

              松坂屋CMソング「振り向けば松坂屋」誕生(作詞 永六輔、作曲 中村八大)。

               知らない


1972年(昭和47年)- 名古屋店北館を増築(リビンザ)。大丸CBSグループに参加し共同配送等業務提携。

1973年(昭和48年)- 「マツザカヤ友の会」発足。

1985年(昭和60年)1月、16代 伊藤次郎左衞門会長の死去により鈴木正雄が会長に就任。


            このあたりからいろいろな事件が起きましたね。

            

同年4月、臨時取締役会で創業者一族の当時の17代 伊藤次郎左衞門(鈴三郎)社長を会長に退かせて鈴木正雄が社長に就任する。
           その後 1991年に再度会長就任。


以下略

松坂屋が松坂屋でなくなったから=松坂屋さんは  伊藤次郎左衛門さんのお店  でなきゃ。



屋号について[編集]

三重県にある「松阪市」と混同して、しばしば松阪屋と誤表記される(坂と阪の違い)。
また、マークが松阪商人の三井家の家紋と酷似している事も一因である。


もともとこの百貨店の屋号は創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。
この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。

「いとう丸」と呼ばれるマークは、丸の中に「井桁」と「藤」を描いたもので、「井」+「藤」で「いとう」を表している[2]。


「松坂屋」のそもそもの由来は、
1707年に伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、
自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもの。


当時の松坂は木綿(松阪木綿)の主要な供給地で、呉服の原料として縁があった訳である。

                  なるほどね

1767年、いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、
これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである
(同様の例に、横浜発祥の松屋がある)。

大阪進出の際も同様の理由により買収した「ゑびす屋」をそのまま使用したが、
全店舗で屋号を統一する事となった際に全国チェーンを睨んだ結果、
東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となり、現在に至る。

               へぇ〜
               
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月30日 08時55分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久居藤堂藩がなぜできたのかはまだ調べておりませんが、私の推察する
ところ、津と松阪の間にあり、西の名張の方からは初瀬街道(伊勢北街道)
が久居に至っているという、交通の要の場所にあったということが大きな
ポイントではないでしょうか。

 藤堂藩に関する資料によりますと、藩の成立と同時に異動が行なわれて
おります―
 「寛文十年(1670)、久居藩成立で上野城内に屋敷を拝領していた御家中
 知行取十九人が久居に移動している。
  1. 藤堂源助(3000石)
  2. 藤堂十三郎(1000石)
  3. 小野藤右衛門(900石)
  4. 田中内蔵丞(500石)
5. 箕浦少内(500石)
  6. 服部平左衛門(400石)
  7. 桑名源兵衛(300石)
  8. 柳生九左衛門(300石)
  9. 七里勘十郎(300石)
  10.萩森又兵衛(200石)
  11.入交惣右衛門(200石)
  12.浅木与三右衛門(200石)
  13.宇津伝右衛門(200石) 
  14.田公次郎兵衛(150石)
  15.西の丸の押川権左衛門(500石)
  16.城下から山岡儀左衛門(400石)
  17. 〃  加納次兵衛(200石)
  18. 〃  和田三郎右衛門(200石)
  19. 〃  岡山勘左衛門(150石) 」

 玉セン寺の墓地(藩主以外)は藤堂家の墓所の向かいにありました。そち
らに歩をむけると、まず一発目に目に飛び込んできたのは、「服部家」の
墓でした。花も添えられており、家紋は「並び矢」でした。これには正直
言って驚きました。待ってましたとばかりでしたので……。服部平左衛門
に関係する家でしょうか……。
 次に目に入ったのは「長谷川家」。家紋は「丸に剣片喰」。
 次がまた「服部家」。家紋は「並び矢」。
 後は、私の興味ある家名のみ拾いました―
 「長谷川家」―「丸に剣梅鉢」
 「織田家」
 「服部家」―「丸に片喰」
 「北川家」―「丸に橘」
 「渡邉家」―「丸に渡辺星」
 「真田家」―「六文銭」
 「織田家」
 「真田家」
 「鈴木家」―「丸に三つ柏」
 「鈴木家」―「丸に三つ柏」
 「海野家」―「丸に橘」
 「織田家」―「丸に桔梗」
 「長谷川家」―「丸に剣梅鉢」
 「織田家」―「丸に木瓜」
 「長谷川家」」―「丸に剣梅鉢」
 こう見ると、織田家と長谷川家が多かったと思います。
 いずれにしても、服部家の墓の前で般若心経を二巻捧げてまいりました。

 この墓地にくっついて西側にも墓地があり、次回その報告をいたします―
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 13時14分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


久居は清少納言も書いているように古来から「七栗の湯」という温泉場として開けていたのかもです。
で、要衝の地になったのかも。

下記URLのサイトによれば  継体天皇の御世  あたりから?



    榊原温泉(さかきばらおんせん)
    三重県津市榊原町(旧国伊勢国)にある温泉。

    七栗(ななくり)の湯とも言われ、
    能因本「枕草子」第117段に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」とうたわれている「三名泉」のひとつ。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%B8%A9%E6%B3%89

榊原温泉は非常に古い歴史を誇る「いで湯」である。
一帯は榊原断層と呼ばれる断層に当たり、その合間から被圧地下水(おそらく非火山性のプレート滲出型とされる)が湧出しており、
古くから霊験あらたかな地として信仰の対象となっていた。

また、前述のように三名泉に数えられており、平安時代には既に湯治場として形が整っていたとされる。

このように、枕草子に記載されていたことは格好の宣伝文句であるため、開湯伝説は伝承されなかった。


927年には式内社の射山神社が建てられ、「神湯」とも呼ばれるようになった。

このような背景から、江戸時代に入って伊勢参詣が盛んになると、七栗の湯は参拝客の垢離場として機能し、
伊勢の参拝客は神社の参拝前にこの七栗の湯で斎戒沐浴するのがしきたりとなり、湯治場は大いに賑わいを見せた。


      古市が伊勢神宮をお参りしてから遊ぶ歓楽街だったのとは逆の立ち位置だったのかも。




このため、地元では榊原温泉のことを「宮の湯」と呼び、神聖な湯であるという自負を抱いている。


      ということは古市は「俗世の場」でしょうか?


その頃、射山神社は温泉大明神と呼ばれ、大いにもてはやされた。


尚、七栗という地名は古くから存在した村落名であり、
榊原温泉の由来となった榊原という地名は、継体天皇の頃に遡る。

継体天皇の娘、ササギヒメノミコト(荳角媛命)が斎王となり、
斎宮に入ることになった際に、近くに自生していた榊を温泉水に一晩中浸し、神宮に祭祀したという伝承に因んでいる。

尚、開湯当初の泉源は既に涸渇しており、現在は別の泉源を利用している。



ななくりの湯の諸説[編集]

今日において、枕草子にある「ななくり」の湯は大方、榊原温泉を指すのが最有力であるが、それについては他に別所温泉説、あるいは少数派として湯ノ峰温泉説がある。


『枕草子』の段だけではその一文しかないために明確に判別しかねるが、他に鎌倉時代の後期に出版された夫木和歌抄に載せられた二つの歌にある「一志の〜ななくりの湯」という事例がある。


一志とは榊原温泉が位置する一志郡を指しており、この温泉が古くから「ななくりの湯」と呼ばれていたことを裏付けている。


また、同温泉は神宮と関わりが深く、特別な湯として尊重された。

また、他に選んだ玉造温泉、有馬温泉も、ともに天皇家と関わりが深く、神の湯としてもてはやされ、
他の共通点として医薬の神、温泉の神として知られる少彦名命が発見したと伝えられる伝承があるなど共通の関連性が見られる
      (ただし、少彦名命の開湯と伝わる湯は全国に数多存在する)。

別所温泉側は、古くこの温泉が七苦離、七久里と呼ばれたことを主張しているが、いつからそう呼ばれたものか判然としていない。

しかし、別所温泉側は榊原温泉ほど(枕草子の)「ななくりの湯」という主張は行っていない。

これは、後の別所温泉が、武家社会と結びつき、北向観音を初めとする寺内町の湯垢離の場として発展したことで、
清少納言が活躍した平安時代観で宣伝することはイメージに合わなかった
      (むしろ、温泉信仰に乗じて弘法大師ゆかりの湯と宣伝する方が効果的であった)
ためである。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 13時35分27秒 ) パスワード

13.宇津伝右衛門(200石) 


宇津って?
ということで武家の宇津氏については次のレスで書きます。


名字の宇津

【読み】うつ,うづ,うず,うつろ
【全国順位】 5,547位
【全国人数】 およそ1,800人

現京都府北西部と兵庫県東部である丹波国桑田郡宇津荘が起源(ルーツ)である。

ほか宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、

中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流、和邇部氏等がある。

水流が渦を巻いて流れることが語源。

島根県、広島県、山口県などに多い。 



宇津って、ということで昨年あたりに書いたことを思い出しました。

二宮金次郎が大久保氏の小田原藩で家老をしていた服部家の財政を立て直した後に大久保家の分家の宇津家の財政も立て直していますよね。




htts://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3

文化5年(1808年)、二宮金治郎(金次郎)は母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げた。

その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。

金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年(1814年)に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。

この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。


                略



文政4年(1821年)、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町[3]が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。

文政6年(1823年)、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。

文政9年(1826年)には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。

再建は村民の抵抗にあって難航していたが、天保2年(1831年)には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。その方法は報徳仕法として他の範となる。

天保3年(1832年)には桜町より三里先の常陸国真壁郡青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。天保4年(1833年)には天保の大飢饉が関東を襲ったため、藩命で下野鳥山の大久保領の領民を救済。天保5年(1834年)には谷田部細川家の家政を中村玄順を介して改善。

天保7年(1836年)、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。

駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。

金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急。

以下略
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 13時42分24秒 ) パスワード

大久保家と宇津家の関係



武家の宇津氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uzu_kz.html


 戦国時代の丹波国東部に位置する宇津庄を押さえ、宇津城を本拠とした豪族宇津氏が知られる。宇津氏は宇津庄を本拠に、下剋上の波にのって皇室御領である山国庄など近隣諸郷を押領、小粒ながらも戦国大名として一勢力を築いた。

宇津氏の出自

 宇津氏は『土岐一流一原氏本伝』によれば、土岐氏の後裔という。
 南北朝時代に活躍した土岐頼遠は、みずからの功を誇り、院への不敬罪を犯した。頼遠は断罪されたが、末子の十郎五郎は高雄の神護寺に匿われ、仙千代丸を名乗り僧として育った。成長した仙千代丸は豪傑の風貌を見せるようになり、神護寺領有頭郷に土一揆が起こると、神護寺は仙千代丸を地頭として有頭郷に派遣、仙千代丸はたちまち一揆を鎮圧した。ところが、仙千代丸は神護寺に帰ることなく有頭郷に居座り、そのまま有頭郷を押領してしまった。そして、還俗すると土岐豊後守頼顕を称し、のち、在名にちなんで宇津豊後守頼顕と名乗ったという。
 かくして、宇津豊後守は宇津八幡宮の後ろの山に居城を築き、近隣に勢力を伸ばしていった。嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を殺害した。いわゆる嘉吉の乱が勃発、ときの管領で丹波守護でもある細川持之は、丹波国人を征討軍に催した。このとき、宇津豊後守頼顕は持之に応じて出陣したという。
 宇津氏の滅亡によって記録は失われ、その足跡は『土岐一流一原氏本伝』に拠るしかなあり、い。しかし、その記述は宇津氏の祖である頼顕が土岐頼遠の子とすることにすでに無理があり、そのままには受け取れないものである。とはいえ、宇津氏が丹波国の一角に割拠して、戦国時代を生きたことはまぎれもない史実である。




        大略


戦国時代、皇室の経済は衰微の極みに陥ったが、その一端は宇津氏の山国荘押領にあったともいえそうだ。

 その後、宇津氏は嶽山に新城を築いて防衛を強化し、美山の川勝氏、西丹波の波多野氏と軍事同盟を結び、丹波に強大な勢力を誇った内藤備前守(松永長頼)と争った。かくして、宇津氏は東丹波一円に影響力をおよぼす戦国大名に成長したのである。



戦国時代の終焉

 宇津頼重が京都北方で活躍していたころ、尾張では織田信長が台頭していた。永禄三年(1560)五月、今川義元を桶狭間で討ち取った信長は、着々と勢力を拡大し、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛してきた。

 正親町天皇に拝謁した信長は、荒廃した京の町の復興に着手、武士に押領された御料所の回復に尽力した。永禄十二年、信長は宇津頼重に書状を送って、違乱を中止するように命じた。

しかし、宇津氏はこの信長の命令を無視し、かえって信長への敵意を抱いたようだ。その後、頼重は将軍義昭の招きに応じて上洛し、御供衆に加えられた。やがて、義昭と信長が対立するようになると、頼重は御供衆として義昭に属し、反信長の対立を示した。

 天正三年(1575)、信長は船井・桑田二郡の国衆を大坂石山本願寺攻めに動員したが、宇津頼重、内藤ジョアンらはこれに応じず、信長の丹波衆動員は挫折した。

丹波攻略を決意した信長は、明智光秀を大将に命じて丹波平定に着手したのである。

この事態に際して、美山の川勝継氏、船井郡の小畠左馬介らは光秀に味方したが、宇津頼重は東丹波の波多野氏らをたのんで光秀に抵抗した。

しかし、天正七年、ついに光秀の大軍によって嶽山城は落ち、頼重は討ち取られて宇津氏は滅亡した。



 宇津氏を滅ぼした光秀は、大堰川と弓削川が合流する縄野村に城を築き、東丹波の統治を行った。新城は周山城と名付けられ、縄野村も周山村と改められた。

この光秀による築城と占領政策は東丹波の土豪を刺激、山国本荘の土豪衆が武力蜂起し、光秀軍と戦った。しかし、光秀方の鉄砲隊によってことごとく討ち取られ、山国本荘は光秀軍に蹂躙され尽くした。


 それから三年後の天正十年六月、明智光秀は本能寺に織田信長を攻め、これを討ち取った。その後の山崎合戦に敗れた明智光秀は、京都の小栗栖において討死した。ここに、光秀による丹波支配は幕を閉じ、東丹波の戦国時代は終焉を迎えたのである。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 13時54分32秒 ) パスワード

大久保家の分家、旗本の宇津家とは?残念、参考になる記事ではありませんでした。

    捜しているのは  宇津家とは?ということです。

    旗本の宇津家は小田原の大久保家の分家であり、久居藩にも宇津姓の家があったこと。



http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/hirareki/hirareki12.html

小田原藩では財政改革の一環として分家である旗本宇津家の財政改革・領地復興が課題となっていました。

宇津家は4000石の大身旗本でしたが、困窮のためその財政は小田原藩の資金援助で賄われていました。

しかし、小田原藩も財政的余裕がなく、宇津家の財政改革・領地復興が必要とされたのです。そこで、藩は文政元年に表彰された奇特人たちに宇津家の財政改革案を提出させ、そのなかから尊徳の案が採用されました。


そして、文政6年(1823)、尊徳は宇津家の財政改革・領地復興のため同家の領地である野州桜町領(栃木県真岡市)へ赴任しました。

領主の財政改革を尊徳という一介の百姓に請負わせたところに民間社会に依拠した当時の藩政の性格がうかがえます。

 さて、その後、尊徳は宇津家の財政改革・領地復興=桜町仕法を成功させます。


余談
そして、この成功により尊徳は荒廃や財政難に悩む近隣の村々や領主から次々と仕法の実施を依頼されるようになり、数多くの改革=仕法を手がけました。

そして、天保13年(1842)には幕臣に登用され、幕府領や日光神領(栃木県日光市)の仕法に着手しましたが、安政3年(1856)、今市(栃木県日光市)で70歳の生涯を閉じました。

 二宮尊徳が創始した改革手法は「報徳仕法」と呼ばれます。報徳仕法の特徴の一つは収入のうち、支出を定額にして(分度)余剰をつくり、その余剰を村や国のために譲る(推譲)という方法にあります。たとえば領主の場合は財政支出を定額に抑えることを約束させられ、定額以上の年貢収入は荒地の開発事業や窮民救済、借財返済にあて、領主財政の健全化と領民の生活安定をはかることを目指します。実際の仕法において「分度」・「推譲」を守り抜くことは非常に困難でしたが、報徳仕法は領主から百姓・商人まで幅広く適用できる普遍性をもった手法であったため、多様な階層の人々に受け入れられました。

 そして、この報徳仕法が現在の平塚市内の片岡地区にあたる片岡村で尊徳の指導を受けて実施されていたのです。そして、これは後に近代の報徳運動の源流の一つになっていくことになります。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 14時05分35秒 ) パスワード

「丸に片喰」使用の服部家というのも珍しいと思い調べてみましたら

    秦氏系に項目に載っていました。秦氏系の平野氏と服部氏が使用になっていました。

    へぇ〜


家紋は難し過ぎです。

この片喰紋の服部氏は並び矢紋の服部家とは「違う」ということなんでしょうか?




>玉セン寺の墓地(藩主以外)は藤堂家の墓所の向かいにありました。
>そちらに歩をむけると、まず一発目に目に飛び込んできたのは、「服部家」の
墓でした。
>花も添えられており、家紋は「並び矢」でした。                伊賀系服部氏かも
>これには正直言って驚きました。
>待ってましたとばかりでしたので……。                    ですよね
>服部平左衛門に関係する家でしょうか……。                  へぇ〜


>いずれにしても、服部家の墓の前で般若心経を二巻捧げてまいりました。

ありがとうございました。
一族かも、ですね。


[34]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月30日 21時31分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松坂屋、七栗の湯、宇津氏等勉強させていただきました。なるほどです。

 小田原藩の服部氏は服部半蔵の系統でしたっけ? 一度、小田原を訪ね
て服部家の追跡をしてみたいと思っております。

 さて、玉セン寺の隣のお寺に行ってみました。そのお寺の由緒書は―
 「妙華寺
  妙華寺は、久居藩の城下町にある久居藤堂家菩提寺の玉セン寺の西隣
 に並ぶように、天和元年(1681)に建立された真宗高田派の寺院です。文
 政四年(1821)の久居大火により焼失して、現在の本堂は安政四年(1857)
の再建と伝えられています。
  妙華寺は、藤堂家菩提寺と境内を並列する待遇を受ける寺院で、その
 本堂は向拝の装飾的な構成や桟瓦葺の寄棟造りの屋根を綴にするなど、
 特色のある外観をもっており、久居の城下町の歴史的景観を留める貴重
 な建物です。」
とありました。

 その寺の墓地へ行く……またしても、「服部家」がお迎えだ―
 家紋は「丸に八つ矢車」
 次も「服部家」―「丸に八つ矢車」
 次の「服部家」―「三つ矢」
 次の「服部家」―「丸に細九枚笹」
 次の「服部家」―「丸に違い矢」
 後は興味のある姓を拾う―
 「松島家」―「丸に橘」
 「花井家」―「丸に二つ引」
 「花井家」―同じく「丸に二つ引」
 
 こんなところでありました。服部家の矢筈に関する家紋はいろいろバラ
エティに富んでいることを実感しました。また久居には結構服部氏がいる
ということも分かりました。
 ここでもう一度般若心経を二巻唱えました。

 久居はこれで終了し、次は関宿へ向かいました―
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 22時51分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>小田原藩の服部氏は服部半蔵の系統でしたっけ?

はい
小田原藩の大久保家の家老の服部家ですから
大久保長安事件で一緒に苦難を味わった服部家の関係者でしょうね。


>一度、小田原を訪ねて服部家の追跡をしてみたいと思っております。

どういう関係だったのか事実を得たいですね。





亀山にもいらっしゃったのですか?
驚き!
もうちょっと奥にいらっしゃったら「甲賀」じゃないですか。


ワタクシ的には  関=清盛の孫の資盛がやんちゃ過ぎて暫く預けられていた所  です。

             資盛は織田信長の先祖なんてハナシもありますね。


>服部家紋は「丸に八つ矢車」
>次も「服部家」―「丸に八つ矢車」
>次の「服部家」―「三つ矢」

>次の「服部家」―「丸に細九枚笹」   ここは  秦氏系だと思います

>次の「服部家」―「丸に違い矢」


こちらの檀家さんの服部家は 「矢」系でも 「並び矢」系じゃないところが興味深いですね。

石原裕次郎さんの先祖は服部氏で矢車だとどこかに書きました。



妙華寺の檀家さんの服部家系は「丸に細九枚笹」の服部家を除いて玉セン寺の檀家の服部家系先祖の分家筋かもですね。


並び矢じゃなくて3つ矢になると3男とか4男が使用したなんて聞いてます。
とにかく家紋を見れば家が分かると言いますから「違う」ということなんでしょうね。
それが「アイデンティティ」ということ。



>後は興味のある姓を拾う―

 「松島家」―「丸に橘」     へぇ〜

 「花井家」―「丸に二つ引」


名字は同じでも全く家紋が違うって  家の歴史が違う  ってことなんでしょうね。
どんな過去があったんでしょうね。


それにしましても不思議ですね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月30日 22時58分05秒 ) パスワード




関宿(せきしゅく、せきじゅく)は、東海道五十三次の47番目の宿場である。現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。

古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。


関町(せきちょう)は、三重県鈴鹿郡にあった町。2005年(平成17年)1月11日に亀山市と合併し、新しい亀山市となったため廃止された[1]。

中心地区である関宿は、江戸時代の東海道五十三次で、鈴鹿峠越えを控え、大和街道・伊勢別街道へ分岐する宿場町として栄えた。




方向音痴の上に地図も読めない女脳なので(開き直った!)
このあたりってうちの先祖が後醍醐天皇のお召しに預かるまでいた所かな?と思います。


そうするとやはりワタクシのDNA的には平信兼(北条政子のかつての婚約者の父親)に惹かれるのは当たり前かと。
ワタクシの前世の父である平田家継と源氏に対抗した1人ですから。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月01日 00時26分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 関というと、刀鍛冶で有名な美濃の関を思い浮かべてしまい、亀山に
ある関はなじみが薄かった。関氏という武将がいました。関から関氏が
出たのか、関氏から関と言われるようになったのか、よくわからない。
また、伊勢平氏の活動領域もわからない。亀山というのは、京都の亀山
かと思いきや、鈴鹿に亀山がある。インターチェンジではもうなじみと
なってはいる。亀山なのか関なのか、頭の中のイメージをスッキリさせた
いと思っています。
 鈴鹿の関といえばよくわかります―亀山も関町もイメージの邪魔であ
ります(まぎらわしい)。

 あまり期待していなかった関宿は、訪れてみると、なかなかのもので
ありました。そして、出会いがありました―
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月01日 02時41分26秒 ) パスワード

三つ柏さん


三つ柏さんには三重県って馴染みが薄いですしょうね。名古屋の向こうですものね。
わたくしも名古屋から三重県というのは大きな河川がいくつも遮っているので馴染みが無いです。
     と言いつつ先祖は元は三重県出身者なのに。恥



亀山と言うとわたくし的には  亀山ローソク  です。
少し前でしたら  シャープ  アクオス  そういう日本の誇りの世界でしたね。過去形なのが残念です。



三重県って源氏に敗れた平家の本貫地ですから(伊賀・伊勢)
反源氏という反骨精神が戦国時代に活躍する忍者を育てる土壌にもなったのでしょうね。


津(=安濃津)のあたりが伊勢平氏=平家=の発祥の地なのかなと思います。

        http://www.tsukanko.jp/s/spot/731/
        津市の郊外、産品の地は平清盛の父忠盛が生まれた所といわれ、忠盛の胞衣塚や産湯を使ったという産湯池があって、
        伊勢平氏発祥地の伝説地として県指定史跡となっている。

        平忠盛は「あみにかかった人魚」の民話として語り継がれているなど、この地域と関わりが深かったことが伺える。
 
         源氏とともに武家の棟梁として有名な平氏は、桓武天皇の曾孫高望王を祖とする。
         その子国香、孫貞盛・将門のころには東国に土着し勢力を張っていた。

         しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後東国は源氏の地盤と なり、
         貞盛の子維衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり
         寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任ぜられている。


         維衡の曾孫正盛は院政と結び、白河法皇の寵を得て中央政界に進出し、平氏興隆の道を開いた。
         その子忠盛は正四位下但馬守に進み武士として最初に内の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎をつくった。

         このときの様子を「平家物語」では、眇(すがね)な田舎武士の昇進をねたんだ公卿が
         「伊勢瓶子(平氏)は素甕(眇)なり」とはやしあざけったとある。
 
         ところで伊勢平氏とは、維衡系のことで、
         その孫貞衡が安濃津三郎、その子貞清も安濃津三郎、その子清綱は桑名富津二郎を称したように、
         中勢から北勢にかけて勢力を伸張させていた。

         貞衡の弟正衡の流れの正衡・忠衡の昇殿、清盛の活躍などのため、
         伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられる。

         そうして貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまったのであろう。



伊勢神宮の近くの古市(白子の湊の近く?土地勘ゼロですみません)は平家の武門を担当した藤原景綱(藤原=伊藤=忠清の父)の領地ですね。

藤原景綱は清盛の父の代から仕え、平家の全盛時代を築いていく基礎を作った恩人。



平信兼はまたの名を  大掾(だいじょう 役職名)信兼とか関信兼とか呼ばれ鈴鹿を支配し、一応  関氏の祖 なんて言われます。

わがままな資盛を預かってたことがあります。


この人の息子もやんちゃがひどくて伊豆の代官に左遷させられて山木兼隆と称して
北条政子と婚約していたものの政子は頼朝に逃げました。


うちの先祖が14世紀の初め鈴鹿のあたりに住んでいたということで
三重県自体=伊賀と中勢と北勢=が平家系の人間だったんでしょうね。

   鈴鹿出身の伊勢三郎義盛のように義経に従ったのもいますけど。
        この人が壇の浦の戦いで平宗盛・清宗を捕まえたのだそうです
        いろいろ面白くないことがあって義経を選んだんでしょうね



三重県の人ってうちの父に顔の骨格がそっくりで声も似てるし話し方もそっくりです。
うちが三重県出身というのは本当だったんだなあと納得しました。14世紀の初めには三重県を出てるのに。


ワタシ的には三重県の人は近畿圏で関西弁だと思っているんですけどね。  
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月01日 02時49分34秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/seki_k.html

武家系 関氏
揚羽蝶紋
(桓武平氏維盛流)



 「吾妻鏡」には、伊勢の鈴鹿地方に所在した関谷と呼ばれた鈴鹿庄が、伊勢平氏活躍の地で、平維衝が居を構えて以来、やがて関出羽守信兼と名乗る伊勢平氏が出現したと記している。


  信兼の弟信忠の子盛忠が関太郎大夫を名乗っていることが、『古代氏族系譜集成』所収の系図の註に見えている。


 また、一般的に関氏の祖と伝えられる平実忠は、盛国の子といわれているが、
  伊勢の「瑞光寺」や「加太氏系図」などによれば、実忠は盛国の子国房の長子となっている。

  ちなみに、盛国は平清盛の孫資盛の子とされるが確証はない。

              紛れ込んだ?


そして、元久元年(1204)の三日平氏の乱に功を挙げ、関谷の地頭に補され、関氏の初代を名乗ったとされている。

               へぇ〜
               乗っ取られた?笑



 実忠は『吾妻鏡』の各所に関左近大夫将監実忠の名で、平盛綱ら北条氏重臣とともに記述されており、
当時、鎌倉にあって、北条氏の重臣として活躍してたものと推察される。

 ところで、関氏の出自については、以上のほかにも諸説があって一定ではない。

 そして実忠は宝治元年(1247)老齢のため本領に帰り、文永二年(1265)亀山城内で没している。

実忠の没後、その子左近大夫国定(盛泰)、その子安芸守実頼(盛勝)、その子左近将監忠興(盛治)と、あいついで関谷二十四郷の地頭となったが、
ともに鎌倉に在住し、幕政に参与したので、知行所の関谷には目代を置いて、これを治めさせたといわれる。

しかし、この時代の目代が誰であったのか、また、実忠没後、五代忠興に至るまでの約七、八十年間にわたる関氏の治績や行動は、ほとんど明かではない。


 盛治のあとを継いで関谷の地頭となったのは、その子四郎左馬助盛政で、別名実治とも称した。

関谷に拠った盛政は、元弘三年(1333)北条氏の滅亡に伴って関東から上り、地頭職として関谷に住して勢力を伸ばした。




中世の争乱を生きる

 延元二年(1337)、陸奥にあった北畠顕家が義良親王を奉じて西上したとき、これに従い、
伊勢では北朝方の有力豪族長野氏や雲出川に構えた高師泰の軍と戦った。


また『勢州軍記』によれば、正平十五年(1360)、伊勢守護仁木義長の討伐に功を立て、鈴鹿・河曲の二郡を給されている。

そして、その子五人を、それぞれ亀山・神戸・峯・鹿伏兎・国府の各城に配して、北伊勢随一の豪族に成長した。


またこれを総じて関の五家といい、いわゆる関の一党であった。



 その後、盛澄−隆盛−盛雅と引き継がれ、盛雅は応永六年(1399)に起こった「応永の乱」で、幕府方について伊勢国司の陣に馳せ参じて活躍した。

さらに、同二十年以降、南北朝の対立が激しくなり、後亀山天皇の弟泰成親王が伊勢国司北畠満雅に助けを求めた際、その挙兵にあたって幕府軍と戦った。


しかし、戦況利あらず、北畠氏は力尽き、盛雅も幕府軍に降伏した。


 十代の地頭を引き継いだ豊前守盛元は、応仁の乱のなかで最も激しかったといわれる相国寺の戦いで、
備前の松田氏とわずかの兵騎で三条殿を守っていたが、山名方の大軍に敗れ、松田氏は敗死、盛元は退いている。


 戦国の動乱期には、中・北伊勢地方にまで勢力を伸ばしていたが、やがて織田信長の西上によって関一党はつぎつぎと信長に降り、離散した。


天正二年(1574)、長島の一向一揆に対する信長の征伐は激しくなり、
関盛忠も信長の属将蒲生賢秀に従って戦ったが討ち死している。

盛忠の父盛信の幽閉とあいまって、関一党および家臣団は、信長のために離散に追い込まれていった。


 その後、盛氏の子一政は蒲生氏郷の麾下となり、秀吉の九州征伐や小田原征伐に出陣している。

やがて、氏郷の会津転封によって、盛信もそれに従って白河城に赴き、白河城五万石を領した。


関ヶ原の戦いのときには、はじめ西軍で、のち東軍に属し、
戦後、旧領亀山城に移ったが元和四年(1618)改易され、子氏政が近江国蒲生郡において五千石を与えられて寄合に列し、家名を伝えた。


へえ〜
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月01日 02時56分17秒 ) パスワード

>亀山なのか関なのか、頭の中のイメージをスッキリさせたいと思っています。
>鈴鹿の関といえばよくわかります―亀山も関町もイメージの邪魔であります(まぎらわしい)。


はい
まぎらわしいです。


わたくしも混乱して「関宿」を  え?千葉の野田市のセキヤド? と最初思いました。
    ああ、そうか、三重県の「関」のことね、と考え直しました。


同じような地名で紛らわしいですね。



一昨年だったか関の服部家がNHKに取り上げられてたことを平熱に書いた記憶です。
大汗



今回の三つ柏さんの旅はご先祖さまのお導きが多かったのかしら?
だといいですね。

[41]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月01日 08時07分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平家と源氏について、あを様のおかげで理解が進んできました。平家と
源氏の名前(主要な人以外)を駆使できるあを様の頭脳はすごいものであり
ます。清盛・重盛・知盛は間違いなく理解できますが、後は系図を見なく
てはわかりません。源氏も頼朝・義経・義仲は理解できましたが、後は系
図を見ないとわかりません。きっとストーリー的に頭に入っていないから
でしょうね。勉強不足ということでもあります。

 今回のあを様の解説により、いろいろなことがよくわかりました。

 源氏の「横暴さ」と平家の「人の良さ」は育ちに起因するのでしょうか?

 ところで、平家の”ブルーオーシャン戦略”ってご存知ですか? あを
さまもブルーオーシャンが好きだと思いますが……平家の戦略は「青い海」
にあったのです―

 すみません。これからお付き合いで芝刈りに出掛けます。帰りましたら
このブルーオーシャン戦略と関宿での出会いについて記します。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月01日 09時36分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

>平家の”ブルーオーシャン戦略”

だいたい分かります。
平家は「海」を最大限に活用した武家ですね。


ざっと下記あたりですが:

そもそも出世の象徴である大きな鱸を釣り上げて家の運を挙げたとか
実際に平家は日宋貿易をやってましたし
海の神様の厳島神社を整備して現代に至るも人気の神様ですし
音戸の瀬戸の開削をやってますし
福原遷都と神戸の大輪田泊の整備で貿易を拡大し財政を安定させようとした
あたり。

また軍事でも海上戦を得意としてたし。

平家の子は皆さん水泳が得意のはずなのに清盛の次男の基盛はなぜか溺死したという噂がありますね。

4男の知盛さまは壇の浦で入水するのに「泳ぎがうま過ぎて海では死ねないから錨を体に巻き付けて沈んだ」と言われてますね。


あ、そうそう3男の壇の浦の戦いの時の総大将の宗盛・清宗父子は泳ぎがうますぎて死ねずに伊勢三郎義盛に捕まってましたね。



こんなあたりの知識ですが、実際には、まとめ切れていませんが。


>帰りましたらこのブルーオーシャン戦略と関宿での出会いについて記します。

楽しみにしております。


関宿で何があったのでしょう?
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月01日 09時54分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


石原裕次郎・石原慎太郎の家の件

芥川賞受賞作家で東京都知事をつとめた石原慎太郎は自身の家系について佐野眞一との対談の中で
「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。
そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) した士族です。

先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。

弓の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の家紋を許された。

歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った」と述べている。


     武田の残党の件ですが
     武田軍団に本当に母衣衆だった服部家があって
     江戸時代に川越で商人になっています。

     この服部家の家紋は「車の中に並び矢紋」です。


復習
服部半蔵正成の嫡子正就は、与力七騎・伊賀同心200人を預かった。
だが、正就は組下の同心を酷使して反感を買い、同心一同が寺院に籠るという不祥事を起こして、改易となった。
正就はこれを恥じ、大坂夏の陣に加わり汚名挽回をはかったが討死した。
そのあとを継いだ弟の正重は、舅の大久保長安事件に際し、進退が将軍秀忠の忌諱にふれ、慶長十八年に除封処分となった。
結局、服部氏嫡流は改易処分となる。


正就の室は桑名藩主松平定勝の娘だったことから、息子たちは松平家に仕えた。

定勝の息子の代に松平家は、松山、桑名、今治に分かれたことで、服部家の息子たちも三つの地に分かれて仕えた。



    石原慎太郎の家の服部家は今治系って良純氏がテレビで言ってたような?

    慎太郎氏本人は松山と言って?



    どっちにしろ  「武田」「服部」「松平定勝」  ということで  大久保長安の亡霊が出そうですね。
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月02日 00時45分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は27℃の炎天下になり、くたびれたため、帰宅後、体を休めてお
りました。その後は「島田の長谷川代官」を調べておりました。

 前回のレスの続きですが、「プルーオーシャン戦略」はあを様のご指摘
のとおり、日宋貿易に活路を見出したということで、正解であります。

 関宿での出会いというのも、あを様既に言及されておりますので正解です。

 関宿に着いた時、地元の人に関宿の有名なお土産は何かと訊いたとき、
「白玉」と「セキノト」という答が返って来ました。
 その答えの店を探してお土産を買おうと思い、まずは白玉の店に先に行
き着き、お土産を買いました。さらに2軒目の店に行き着き、お店の中に
入った時のことであります。店の暖簾が、見たことのある家紋―即ち、
「源氏車に青竹」(服部中もそうでありました。服部宗家の家紋)でありま
した。

 疲れにより眠気が襲ってまいりましたので、明朝に記します―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月02日 02時41分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

「せきのと」でしたか。
すっかり忘れていました。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%B7%9D%E5%B1%8B
深川屋

深川屋の建物は、旧東海道の宿場町として有名な三重県亀山市の関宿に残る江戸時代からの伝統的な建築物である。
漆喰を塗籠めた土壁に虫籠窓がある二階建て平入りの家屋で、八車に矢筈の家紋を施した細工瓦が広い間口の上を覆っている。

軒下にある木看板には、京都側から見ると漢字で「関能戸」と書かれ、江戸側から見ると平仮名で「せきの戸」と書かれており、東海道を行き来する旅人が東西方向を確認するための目印ともなっていた。

寛永年間(1624年〜1629年)- 初代 服部伊予保重により創業。

                       服部伊予保重???
                       伊賀とは名乗れなかったから伊予にしたのでしょうかねえ?


やがて東海道を通行する多くの大名に、関の戸の味が評判となり買い求められるようになる。
天保元年(1829年)-光格上皇から御室御所(仁和寺)の御用達菓子司を仰せつかり従二位(陸奥大椽)の官位を賜る。

深川屋の店内には、「御室御所御用所 関の戸 服部陸奥大掾」と書かれた外箱と、
その内に収められた螺鈿の菓子箱、
「関所御免」の前掛け付き裃などが展示されている。



>「源氏車に青竹」(服部中もそうでありました。服部宗家の家紋)

はい
かなり古い時代のデザインですね。

家紋は時代と共に洗練されて行きましたから。


家紋を見ればアイデンティティが分かると申しますか
歴史が見えます。

ホント家紋の力はスゴイものがあります。



どんなお話を聞いていらっしゃったか早くシェアしてください。
にっこり



ホントにご先祖さまのパワーが来てますね。
まさか久居
まさか亀山
まさか関宿
その上に「せきのと」ですって?!

もうホントにご先祖さまが引っ張って行ったという感じがします。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月02日 09時40分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 銘菓「関の戸」は食してみて絶品でありました。抹茶に添える菓子として
は最高ではないかと思われます。食べてみて、また食べたくなる―大きさは
五百円玉位で、厚さは八ミリ位。お腹に溜まるものではないので、腹もたれ
せず、お茶の渋さとマッチして、後味がとても爽やかであります。

 「関の戸」の説明書きが化粧箱の中に入っていましたので、それを記して
みます―
 「銘菓<関の戸>は、江戸時代寛永年間、第三代将軍家光の頃、初代服部
 伊予保重により考案創業されました。以来約三百八十年間作り続け、現在
 第十四代目であります。東海道五十三次の内、四十七番目の関宿は、大和
 街道と参宮街道(伊勢別街道)の三つの街道が交わる宿場で、参勤交代やお
 伊勢参りの人々で賑わい、一日の往来客は一万人を超えていました。
  銘菓<関の戸>は、この宿場から京都御室御所まで運ばれ、皇室のお茶
 会やお花見等に多く使われ、<従二位服部陸奥大掾>の名を賜り御用菓子
 司となりました。
  赤小豆のさらし餡を白い求肥餅で包み、阿波の和三盆をまぶした銘菓<
 関の戸>は、天明元年(1780年)に書き残された「菓子仕法控」の作り方を
 今も受け継いでいます。
  その姿は、鈴鹿の峰に降り積もる白雪になぞらえたと伝えられ、白一色
 の一切の無駄を排した簡潔さも含め、江戸時代の文化伝承の精神で作られ
 ています。一服のお茶に銘菓<関の戸>を含む時、それは今忘れられよう
 としている日本の伝統を、静かに思い起こさせてくれる時でしょう。」

 この「関の戸」の菓子店の名は「深川屋」―私が「ふかがわや」と言うと、
お店の御主人は「ふかわや」と訂正されました。この御主人の名は、「第十
四代 服部吉衛門」さんでありました。
 服部氏についての話を色々させてもらいました。私が服部であることを告
げ、徳川家康がが居城していた浜松からまいりましたと告げると、急に打ち
解けて話がはずみました。
 個人情報もからみ、また短時間の会話であり、情報不足・理解不足もある
と思いますので、ここでは中途半端には記せませんが、次の三つのことは、
今後の探究のヒントになると思いました。
 @家紋の「源氏輪に横並び矢筈」は「源氏車に青竹」と呼ぶとのこと。
 A甲賀五十三家・二十一家の中に服部家があり、関係がありそう。
 B深川屋さんの向かいに徳川家康の御殿があり、「諜報」で関係していた
 のではないかということ。
 御主人とは、今後、情報のやり取りをして行きたいと思っております―
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月02日 13時50分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


>  <従二位服部陸奥大掾>

すごいですね。
参内が許されたということですよね。
公家ですね。

従2位ということは爵位で言うと  伯爵  ですね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E4%BA%8C%E4%BD%8D

律令制下において従二位は、主に内大臣や蔵人別当の位とされ、大臣の正室などもこの位が贈られた。著名なのは平清盛の正室である平時子であり従二位に叙せられ、二位尼と称されている。

従二位は公卿の位階としても高位であり、武士の間では鎌倉時代から室町時代にかけては、北条政子以来、将軍の正室である御台所に与えられることはあっても、将軍の一門ですら叙せられることはなかった。足利将軍家の一門たる鎌倉公方も従三位であり、たとえ室町幕府管領の職にある者であっても最高位は三位どまりであった。


戦国時代に入ると、武士の官途を担っていた室町幕府の統制が崩れ、次第に有力大名がじかに朝廷に献金し猟官運動を行うことが盛んになり、西国一の有力守護大内義隆が従二位に叙せられる異例の叙位がなされている。さらに、豊臣秀吉が関白宣下を受けて以降、次第に有力な一門や家臣が従二位に昇り、二位以上に昇る武士も登場するようになった。


江戸時代以降は徳川将軍家の一門たる御三家、御三卿が従二位権大納言に昇る例がみられた。

日本国憲法に規定される栄典としての位階は死没時に叙位されるため、衆議院議長・参議院議長など三権の長として功労ある者が死後に受けることが多い。内閣総理大臣の場合、一つ上の正二位を授かる者が多いが、任期が短い(概ね1年未満)の者は従二位に叙される。学術分野においては、ノーベル賞受賞者などが従二位に叙せられている。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月02日 14時04分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

     @家紋の「源氏輪に横並び矢筈」は「源氏車に青竹」と呼ぶとのこと。
     A甲賀五十三家・二十一家の中に服部家があり、関係がありそう。
     B深川屋さんの向かいに徳川家康の御殿があり、「諜報」で関係していたのではないかということ。


すごい情報ですね。ありがとうございました。


@
家紋の呼び方も家紋の教科書にあるような呼び方じゃなくて実際の使用者による名称という事が分かりますね。

鳴海というか有松というか、あそこの井桁屋さんだったか、あの服部家の家紋や尾張の服部家ホンヤさんの本来の家紋と同じだと思います。
そして西に行って伊勢の亀山の服部家も同じ家格なんでしょうね。

こういうネットワークがあったでしょうね。

    島田の服部家や猿投の服部家の家紋も同じ「源氏車に青竹」だったのかな?と空想しています。
    あ、養老の服部家(千秋家ですか)とか。



A
甲賀はホントにすぐ西ですものね。伊賀上野や名張よりも甲賀との関係が強かったのかもですね。

    母の従姉妹の夫の家(甲賀出身で並び矢紋)とも繋がっていたのかも。



B
幕府の隠密の宿や連絡先になってたのかもですね。


なかなか珍しい情報をありがとうございました。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月02日 23時02分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 深川屋の斜め向かいに徳川家康の御殿があったと書きましたが、写真で
確認すると「御茶屋御殿」と書かれておりました。

 この関の通りには「福蔵寺」という立派なお寺がありましたので、入っ
てみました。入ると左手に新しい五輪塔と説明書きがあり、こう書かれて
おりました―
 「福蔵寺の創建と織田信孝公
  織田信長の三男信孝公は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るた
 め、神戸の住人旧臣大塚儀左衛門長政に命じ、この寺の建立にかかりま
 した。
  しかし信孝公は、羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正十一年
 尾張の国、野間に於いて自害させられましたので、長政が当山に首を持
 参し、信孝公の菩提寺としました。
  この墓は信孝公の墓石不詳のため、四百年忌を迎えた時、菩提を弔う
 ため、建立したものです。
  本堂には、創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。」

  墓地に入ってみた。「服部家」の墓がすぐ目に入って来た。苔むした
 墓が一つ、やや苔むした墓が二つ、苔のついていない墓が一つと、全部
 で四つ並んでいました。家紋も目に入りました―それは「源氏輪に青竹」
 でありました。深川屋さんに関係する家の墓なのであろうか。
  もう一つ、服部家の墓があった。これには家紋はなかった。
  服部家の墓に向って、般若心経を二巻唱えました―

  これで、関宿の報告を終わり、次は帰途となりますが、津へ寄りまし
 たのでその報告を明日にいたします―
  
  
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 03時03分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://kameyamarekihaku.jp/sisi/KoukoHP/iseki.html
御茶屋御殿跡


関町木崎・新所は天正20年=1592年= から  慶長5年=1600年=  まで  家康の領地だった。


家康が江戸・京都間を往ったり復たりする時の宿泊や休憩所用の御殿だった。


現在の関郵便局付近。
現在の地名は  御茶屋  という。

家康後の将軍は使わなかったので取り壊されて跡地が亀山藩の役所になっていた。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 03時07分50秒 ) パスワード

三つ柏さん

ということは深川屋さんには家康がらみの公然の秘密がありそうですね。
し〜っ



服部家ホンヤさんのお家も尾張徳川家の特別な家でしたしね。


やっぱり江戸 ⇔ 京都の 服部家は何か秘密がありそうですね。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 03時28分48秒 ) パスワード

http://kameyamarekihaku.jp/sisi/KoukoHP/iseki.html に面白い記事がありました。


もっと詳しく検索しました:
http://www42.tok2.com/home/mionoe/mie/mienomosaka.htm



野元坂館  やげんさか   三重県亀山市辺法寺町


”平安末期平氏の一族藤原(伊藤)景清の館跡、東名阪国道建設のため発掘調査された。”標柱から。返法寺町の野登橋を南に渡りすぐ原田橋を渡り東の路地にはいる、東名阪道を陸橋で越えた所に標柱があります。


ということは平家の武門を担当していた藤原一族の、その中でも、勇猛果敢な景清はこのあたりに(も)領地を持っていた?

                   これはビックリ



伊勢の藤原氏=伊藤氏ですから、その上に平家の有力者ですから、そりゃあ当然でしょうけど
いやぁ、わたくしの場合は前世にタイムスリップしてしまいます。


なるほどね
    久居から千賀地へ行くのに
と堂々巡りしてましたけど

亀山にも伊藤氏の領地があったのか。そうか、兄ちゃん(景清)の家から久居に下りて来てたのか。独り言


お祖父さまの領地が古市というのは分かってたけど
一族で伊勢の各所に土地を持っていたというのが分かって来ました。
もっと他にも持ってたでしょうし。


だから服部家も  14世紀初めのうちの場合は鈴鹿近辺のように   いろいろな服部氏が分散してたんでしょうね。


それでネットワークを張ってたんでしょうね。WWWみたいに繋がってたんでしょうね、平家の他家とも。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 04時12分24秒 ) パスワード

http://www42.tok2.com/home/mionoe/miekennoshiro.htm
三重県の城


http://www42.tok2.com/home/mionoe/mie/miekagekiyo.htm
桑名にも景清屋敷跡が存在。

三重県桑名市志知
くわなししち


http://www42.tok2.com/home/mionoe/mie/mietaira.htm
平家発祥の地
三重県津市産品
つしうぶしな



こんなのもありました:
http://www42.tok2.com/home/mionoe/mie/mieookubo.htm
大久保城 三重県鈴鹿市大久保町



”大久保伊豆守の居城。
1583年神戸信孝とともに岐阜城で秀吉と戦い討死。”
標柱横から。
法雲寺横の山で道路から標柱が見える。

ここも大久保城
http://asahiup.html.xdomain.jp/rekisi/siro_ato/siro_ato.html


信長の3男である神戸信孝は兄=次男=の信雄と戦って敗れた。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D
信孝の母の実家である坂氏は北伊勢随一の豪族関氏の庶流鹿伏兎氏の庶流にあたり、(註  伊勢鹿伏兎氏庶流あるいは尾張千秋氏の所縁か )


けっして信雄生母・生駒吉乃の実家・生駒氏に見劣りする出自ではない。

へえ〜

それで神戸家を継ぐことになったのですか。
これはビックリ


     


更にビックリですよ〜


永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となり、
具盛が信長によって隠居させられた後の元亀3年(1572年)に神戸氏を継ぐ。

養子入りに際しては幸田彦右衛門が傳役として付けられ、
信長家臣から岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門・立木・河村以下の侍が信孝付きとして付けられた[4]。

関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏ら諸氏が与力とされ、
このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が家臣として見られる。

相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。



    幸田って伊賀の服部一族の中にも幸田姓を称している家があります。



天正10年(1582年)に四国攻めの総司令官に任ぜられ[7]、5月11日から大坂で出撃準備をする。所領北伊勢の河曲・鈴鹿の二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織した。


天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。


        大久保氏はだから岐阜で亡くなっているのですね。



信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊)に送られ、自害させられた。切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたといわれている。その血の跡は今なお掛け軸に残っている(自害の際の短刀と共に非公開)。享年26[9]。首は神戸城では受け取りを拒否され、検視大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰った。寺では首塚を作り手厚く弔った。太田牛一は大野の海音寺で信孝の葬儀を営み、信孝の木像を彫り信孝を偲んだという。 現在信孝の墓は、安養院にある(ここは昔、大御堂寺の一部であった)。

命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。



辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(昔から主を討つといわれる内海の浦。そこで自刃する私の恨みは深い。報いを待っていろ、秀吉よ)

信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句である。これは、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)の内海で家臣・長田忠致に討たれた源義朝にかけたといわれる。



秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・華屋院と妹、娘および側室の神戸の板御前は、秀吉によって殺されている[9]。

このとき同じく人質に出されていた重臣の岡本良勝、幸田孝之両人の母も処刑されている。

このほか男子某が切腹時に処刑されている。


このほか娘1人があり、織田信衡(のぶひら、『系図纂要』によれば織田信正の息子)の正室となったという。


信孝の子孫を称する家系が各地に存在している。
信孝の曾孫(神戸信茂の子)、神戸信章(のぶあき)は越後高田藩主・松平光長に仕え、高田藩士として存続したという。
高田では神戸三郎右衛門と称し、新田開発に功があったという。
信章の嫡男・半助長経(ながつね)の存在も伝わるが、それ以降は不明である。


藤沢宿(神奈川県藤沢市)には信孝の側室・小妻氏の子・織田信豊(のぶとよ)の次男・織田信国(のぶくに)の子孫と称する家(川上家)が現存している。
信国は伊勢で出生し、成人後武者修行に出て藤沢宿に至ったという。
また徳川旗本となった織田氏の一族には、信豊を家祖として系図に記載する家が少なくない。
これらの子孫、末裔が本当に信孝の血筋であるのかは不明である。貴種流離譚と考えられる。
ただし、信孝は侍従にまで昇進した殿上人であり、貴人が血統を保存するために側室を持つことが当然だった当時からすると
側室、側室所生の子が存在し、徳川の世になってから世に出たとするのは的外れではないとも考えられる。


明治25年(1892年)11月24日付の「読売新聞」に、大阪府の平民が宮内大臣に系図などを添えて、信孝の嫡流、10世の子孫と称し、名乗りでたという記事を掲載している。


このほか岐阜に神戸氏を名乗る子孫があり、廣瀬氏などの分家を輩出しているという。


      信長が資盛の子孫を称していたり
      資盛といえば  関 に暫く追いやられてたし
      それで信孝が神戸家を継いだのか

      思わぬところで思わぬことが分かりました。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 05時01分06秒 ) パスワード

岐阜で戦死した大久保さんに戻ります:http://minejyou.web.fc2.com/kinpennnosiro.html

大久保城  大野字中瀬にあった。
大久保伊豆守がここに居た。
天正中 織田氏に属して岐阜で戦死し廃城となる。
城跡東西一町南北二町三十弐間

 大久保城 90m*80m 標高180m 北500mのところには内部川が東に流れ采女町から水沢峠を経て滋賀県土山町鮎河に出る鮎河越とよばれる旧街道筋にあたる。

           まさに甲賀に出ますね

大久保伊豆守は天正十一年(1583)織田信長の三男で関一族の神戸家を継いだ三七郎(神戸信孝)と兄信雄の対立に際し神戸信孝に従い岐阜で討ち死にし城は廃城となった。

伊豆守の息子覚兵衛・権太夫は、京極氏・池田氏に仕えた。 



       この大久保さんは伊勢の大久保さんなのかしら?




テキトーに地図を引っ張って来たのですが
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.96033755&lon=136.34242266&ac=25209&az=65.932&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%9C%9F%E5%B1%B1%E7%94%BA%E9%AE%8E%E6%B2%B3932

ムカシ、名古屋から電車で伊賀上野に行く途中の山の中で
山の中だし、電車の中もすっごく寒かったのに、突然、顔の辺りがヒトの体温を感じて温かくなった経験がありました。


地図でJR線を見てたら  亀山 → 関 →   このあたり?  → 加太 

すっごく歓迎された気がしました。
関といったら平信兼だから、このヒトが歓迎してくれたのかなと。

一の谷の戦いで平家が敗走した後、平信兼と藤原忠清と平田家継は老骨に鞭打って源氏に一泡吹かせた、その1人だから。

亀山という地名は亀山ローソクで知ってたしJRの駅からも「蝋燭」が見えたし。



で、今、平田家継を検索したら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%B6%99

わたくしが  手嶋龍一 を大嫌いな理由の1つが分かった気がしました。


治承4年(1180年)12月、平家一門による京都還幸後間もなく近江国で源氏勢力による叛乱が起きると、清盛の命を受けた家継は、
伊賀、伊勢の武士を率いて直ちにこれの討伐に向かい、反平家の挙兵を企てた手嶋冠者を討ち取ったほか甲賀入道柏木義兼の城を攻め落とすなどした。

     これは知らなかった。
     「手嶋龍一は大嫌いだから、このヒトのハナシはしないで」と友人に言ったことさえありました。

         もう1つ嫌いな名字は  佐々木  です。不倶戴天の敵。
         でも佐々木姓の素晴らしい男性2人にお会いしたことがあって
         軟化しましたが。


平 家継(たいら の いえつぐ)
平安時代末期の武将。伊勢平氏の一族、平家貞の子。弟に貞能がある。
伊賀国山田郡平田を本拠としたことから、平田家継、平田入道などとも呼ばれる。

    明昌寺が平田の城跡です。今でも石垣が残っているとか。


父、家貞は平家随一の忠臣として知られ、家継もまた伊勢平氏の伝統的勢力圏である伊賀国を本拠として同地の武士を統率する、
いわば平家の私的軍事力における中枢的存在として平清盛に仕えた。

治承4年(1180年)12月、平家一門による京都還幸後間もなく近江国で源氏勢力による叛乱が起きると、清盛の命を受けた家継は、伊賀、伊勢の武士を率いて直ちにこれの討伐に向かい、反平家の挙兵を企てた手嶋冠者を討ち取ったほか甲賀入道柏木義兼の城を攻め落とすなどした。

寿永2年(1183年)7月、上洛の機を窺い伊賀に入国した源行家と合戦を演じた(『吉記』)。
まもなく平家が都落ちするとこれには同行せず、
一ノ谷の戦いを経た元暦元年(1184年)7月、同じく平家の家人であった平信兼、藤原(伊藤)忠清らとともに、
伊賀、伊勢の平家方残党を率いて大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こす。

                いつも一の谷の合戦の後を壇の浦の戦いの後と勘違いします。
                わたくしの前世の記憶が一の谷の戦いでは存在しないから。




そして、伊賀守護であった大内惟義の館を襲撃して惟義の家人を多数殺害したのち、近江国甲賀郡に侵入し郡内大原荘において佐々木秀義率いる源氏軍と交戦した。
家継ら叛乱軍は佐々木秀義を討ち取るなど奮戦したものの最終的に鎮圧され、家継も討ち取られて梟首された。



藤原忠清
家継は戦死するが、忠清は逃亡し潜伏を続ける。
翌年、源義経が屋島に出撃する時に、後白河法皇は忠清の脅威を懸念して制止しようとするなど、その存在は侮れないものだった。

平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で加藤光員の郎党に捕らえられ、同16日に六条河原で処刑された(『吾妻鏡』)。



平信兼
治承・寿永の乱では養和元年(1181年)、伊勢・志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い、これを撃退した(『吾妻鏡』同年正月21日条)。

寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちには同行せず、伊勢国に潜伏する。

元暦元年(1184年)8月に、本拠の伊勢・伊賀にて平家継らとともに一族を糾合して反源氏の兵を挙げ、源氏方の守護・大内惟義以下の勢力に打撃を与えた。

その後信兼は行方をくらますが、
子息の兼衡・信衡・兼時らが信兼捜索の命を受けた源義経の邸に呼び出され、斬殺、あるいは自害に追い込まれた(『山槐記』8月10日条)。

その2日後に義経は信兼討伐のため伊勢に出撃する。
その後の合戦について貴族の日記には記録がないが、

『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野において、城に立て籠もる100騎程の信兼軍が激戦の末、討ち取られたという(三日平氏の乱)。



    ワタクシの前世的記憶によれば平信兼は逃亡したままなのです。

    『源平盛衰記』は今でいうセンテンス・スプリングみたいなもので
    読者のニーズに応えてるから・・・笑


    本当に討ち取られたのかな?逃げて行方不明のままの方が嬉しいのですが。


あの「頬に感じた温かさ」が平信兼の「ほらね、ちゃんと逃げおおせたんだよ」の挨拶だったらいいな。
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月03日 10時37分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊勢平氏についての理解が進みました。ありがとうございます。
 また、織田信孝とその環境についての理解も得られました。
 さらに、信孝、源義朝、鎌田政家とその妻、池禅尼の供養塔が、美浜町
の野間の大御堂寺(野間大坊)にあるということ、信孝の自害と義朝の死の
無念さのオーバーラップ……。
 いろいろなものを勉強させていただきました。

 また、平信兼についても関信兼とも大掾信兼ともいわれ、関を本拠とし
ていたということ、深川屋の服部家とも何か関係があるような気配もいた
します。時代は違うけれども「大掾」という言葉がどう関係するのか、そ
の因縁を感じます。

 ところで、あを様の言われた「服部のネットワーク」ということで、服部
一族……点在する服部党が、諜報という線でつながっていたというのは濃厚
のような気もいたします。

 織田信孝は亀山の神戸氏に養子に入った。信孝は本能寺の変後、「明智
光秀」の娘婿の津田信澄を討つ。関の服部氏はそんな動き・情報はすべて
察知していただろう。
 一方、服部正尚の従兄弟の服部保章の娘は、「明智光秀」の先妻であっ
たという関係で結びついている。

 本能寺の変は、正にこの服部の諜報ネットワークにより、家康はほぼリ
アルタイムに、手に取るように情報を得ていた。また指令を出していたの
ではないかと推察いたします。
 白子から船で脱出ということも、白子は亀山・関より真東に二十qの所
であり、情報ネットワークにより手厚く守られていたものと推察いたしま
す。

 深川屋の当主か゜「保」という通字を使っていたということも、服部宗
家に通じる自負であり、また従二位などというとてつもない官位をいただ
けたのも、神君伊賀越え等に多大な貢献をしていたという背景もあったの
ではないかと推察しています。

 ま、これはあくまでも推察ということで、まだ確証はありませんが―
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 13時24分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


ボンヤリ思っていたことが今回の三つ柏さんの松阪訪問でいろいろ考えさせられました。


やっぱり昔の親子関係・人間関係・婚姻関係は我々現代人が思っている以上に複雑怪奇で堅固なんでしょうね。
命が絡んでたんですものね
土地問題・経済的理由なんてもんじゃなかったのでしょう。


信長の子の信孝と信雄の差は
信雄の方は奇矯というか変人というかちょっとバーカーという表現をされますが
信孝はなかなかの人だったようで若死にが惜しまれます。



それにしても信長が自分の子供2人に伊勢の神戸(信孝に)と北畠(信雄に)を継がせたということは
信長にとって伊勢は格別の存在だったからでしょうね。


本当にいろいろ興味深い情報をゲットなさいましたね。
  服部伊予保重   保の字がついているということは正統服部氏なんでしょうね。
  従二位(陸奥大椽)という官位。  これもスゴイですね。



一昨年だったかNHKで深川屋さんが取り上げられた時の映像では
深川屋さんの御主人とホンヤさんのお顔の印象は  血で繋がっている  と思いました。
  ま、三重県の顔ということかも知れないですけど。

      血の繋がらない(と思っている)四日市の親戚の女の子とわたくしの顔がそっくりですからの
      三重系の顔なのか、実は、血で繋がっているのか。


           実際には母方の従姉にそっくりなので
           母方の顔でもありますが。

                 つまり「日本人」の顔ですか・・・あはは


服部栄養専門学校の服部幸應さん(ご本名は染谷さん)もホンヤさんに似ています。
この染谷さんは服部家とは関係無いそうですけど、わたくし的にはムカシムカシの一族出身者じゃないかと思っています。


      服部流料理は戦国時代の武家の出陣式の料理から始まっているというハナシですが

      いえいえもっと前の時代
      南北朝の時代に宗良親王だったかそのお子さまだったか、に
      お正月の、今でいうお節料理、をお出しした、とムカシ読んだことがございます。

      そこから始まっているんじゃないかと。

      それで染谷氏が復興させたのだろうと。
      復興させたパワーには、何か、それなりの理由があったのだろうと。


      

こうして松阪旅行からお帰りになったお話をいろいろ調べてみますと
「千秋氏」も絡んでいるようですしね。
当然  尾張の熱田さんの千秋氏?養老の千秋氏=服部氏=? あたりでしょうか?

みんな繋がっているんでしょうね。
養老なんて北勢の隣ですものね。平家の血が入ってて当たり前。

織田信孝が平家の血が入っているというのは
    自称資盛子孫の信長が父
    母も関氏とか千秋氏とかの平家子孫


日本人ってみんな繋がってしまいますね。

それだけに伊勢を欲しかった信長が伊勢伊賀を征服したというのが信長には当たり前だったのかと。


ハナシを蒸し返しますが
ワタクシ的には  百地はどうしても喰代砦の百地氏  になってしまいます。

それは喰代砦の百地氏は千賀地の服部家や湯船の藤林家と関係が密接だったからでしょうね。



きっと深川屋さんには世間には言えない日本史の秘密が一子相伝で伝わっているんでしょうね。

    藤原忠清の子孫の某家が意地でも「うちの蔵の中身は開放しない」と頑張っているのも分かります。
    ホンヤさんのお家のお文庫蔵は学術調査を受け入れていますけど。
       ホンヤさんの方は尾張藩の中で重要な立場があったからでしょう。

       しかし忠清の子孫の家の方はそれだけ「滅びし平家の怨み、忘れたわけではあるまいな」という思いを今に伝えているわけです。


こういう日本人の心も充分に研究対象になりますね。
忠清の子孫のかたの気持ちが分かるだけに文学に昇華させることの出来ない文才の無さが悔やまれます。


あと50年もしたら日本は日本人が絶滅の危惧種になっているのかもですね。
それで今日本中でネットに「日本人の記憶」を残しているのかも。
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月03日 17時28分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 養老は、関の真っ直ぐ北約50qの所にあります。養老から熱田までは、
約40q……歩くことを拒否してしまった現代人にとって10q、20q
歩くことはとても大変だと思ってしまいますが、車のない、徒歩が常識の
昔の世界では「健脚」を競ったのではないか。1日10里(40q)はあた
りまえの世界、訓練されたマラソンランナーなら2時間そこそこで走破し
てしまいますから、忍者などは5時間もあれば十分でしょう。
 確かに養老には何かありそうな予感がしています。いずれ行きたいと思
っております。

 甲賀にも一度行かなくてはならないと思っています。高校時代、同じ組
に「甲賀」君がいました。なんとなく手裏剣が飛んできそうな感じがして
おりました。

 信長の戦略が少し見えて来ました。
 @名古屋を拠点に伊勢湾・三河湾・熊野灘・遠州灘を抑えること
 A堺を拠点に瀬戸内海を抑えること
 B敦賀を拠点に日本海を抑えること
 Cそのためには水軍を抑え・獲得すること
 その中でみると、長島勢、石山本願寺は邪魔者であった……。
 もっとも、伊勢に対しては、やはり先祖からのいろいろな思い入れがあ
ったことは間違いないでしょう。平家のブルーオーシャン戦略は信長にも
残っていた……?

 話は全く変わりますが、本日、磐田市池田の「熊野(ゆや)の長藤まつり」
に行ってまいりました。藤の花を目当てに、遠くからもたくさんの方が来
ていました。もちろん私も藤の花を見たいには違いなかったのですけれど、
平家関係の知識も深まり、とても近いところに平家に関係する「熊野(ゆや)」
がいるということで、会いに行ったわけであります(もちろん、心の中で
の想いでありますが)。行ってみて、偶然だったのですが、今日は熊野御前
の命日でありました。何という驚き・喜び!
 さっそく、行興寺の敷地内にある熊野御前とお母さんのお堂(奥にふたり
の宝篋印塔・墓がある)の前で、般若心経を二巻、心をこめて捧げ、祈って
まいりました。垂れ下がった藤の花の長い髪が頬をなで、甘い香りが鼻の奥
にしみ込み、思わず「今」であることを忘れ、熊野と共にいるような幻想に
陥りました―

 

 
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月03日 22時21分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

熊野御前の命日は5月3日ですか。
その日に合わせて般若心経を詠めたとはラッキーでした。

熊野御前も嬉しかったでしょうね。なかなかお経を詠んでくれる人なんていませんから。

わたくしの分もありがとうございました。



養老の服部家の家紋が千秋家の三つ柏紋だと良いですね。


信長の戦略:
 @名古屋を拠点に伊勢湾・三河湾・熊野灘・遠州灘を抑えた
 A堺を拠点に瀬戸内海を抑えた・・・・・・・・・・四国平定ですね
 B敦賀を拠点に日本海を抑えた・・・・・・・・・・織田家は越前の神主出身ですから簡単だったかもですね。更に越前は平家方・南朝方だったし
 Cそのためには水軍を抑え・獲得した・・・・・・・九鬼が毛利水軍を破りましたね


ホントに信長は日本統一宣言寸前に斃れたんですねえ。
朝廷からの将軍宣下を頂くばかりだったんでしょうね。あ、信長は平氏だから「太政大臣」の宣下かな?


どんぐりの背比べの日本に信長のような合理的な考えをする人は有利であり不利でもあったのかなとシミジミです。


その後に腹芸の上手な秀吉が天下を継ぎ、
こういうのも日本には馴染まなかったのかもですね。


そして家康が天下を収めた。



こうして考えると  平氏=平家  にはもともと無理だったのかな  などとボンヤリ考えてしまいます。

源氏が日本人には合ってるのかなぁ、と。でも、どっちみち綻びますが。


ただ日本が島国で他国や他民族から遠かったという地理的要因が日本と日本人には幸運だったのかなと。
南蛮の毒牙にやられずに済んでラッキーでした。

    徳川幕府ってたいしたもんだと唸ってしまいました。笑
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月04日 04時35分20秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101529.html
スレッド66をご用意致しました。

では「津」のご報告を楽しみにしております。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月04日 07時31分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昔の闘いは戦争のみではなかった。川の氾濫=洪水であった。こちらで
言えば、天竜川(暴れ天竜)も、大井川も洪水との闘いであった。堤防を作
り、また水利をはかり、新田開発を行い、徐々に豊かになって行った。大
地主はそういう過程から生れた者が多い。但し、新田開発で豊かになる
のは江戸期になってからである。

 信長も濃尾平野の木曽川・長良川・揖斐川等の治水はままならなかった
ようで、米作は不安定で期待できなく、結果、経済的基盤を楽市・楽座の
うな物流、海運・貿易に期待せざるをえなかったようです。
 それにしても、木曽川下流から津、松阪にかけてのほぼ平野部はすごい。
これも治水・干拓により開拓が行なわれ、豊かで広大なな田園地帯となっ
たのかなと、今回連続して走ってみて感じました。そして、その先に伊勢
神宮があり、伊勢周辺各地より豊富な農産物・海産物が寄せられた……。
また伊勢には多くの御厨(みくりや)が寄進された。特に、伊勢湾岸から遠江
まで広がっているということは、やはり海運がその中心にあったと推察い
たします。伊勢信仰、熊野信仰もしかり、船の利用により海沿いより広め
られたのだと推察いたします。
 水軍に関しては、ある程度わかりましたが、水運・海運の歴史という観
点から、一度理解を深めたいと思っております。

 さて、そんな田園地帯の津ですが、藤堂藩の健康増進のためのうなぎの
推奨により、かつては消費量日本一であったということ。ひょっとすると
浜松のうなぎも、もとは藤堂藩のうなぎ推奨と関係があるのではないか…
…一度調べてみたらおもしろいかと思っています。生産量では、浜松もす
でに三河の一色に及びません。一色には浜松の私も時々食べに行きます。
うなぎは高くなってなかなか食べようという気になりません。一色は少し
安いので食べやすいのですが、そこまで行くガソリン代を考えると実は返
って高くなります。ですが、観光を考えればもうそれは頭にないというこ
とになります。

 津のうなぎ屋さんには、こちらの半額でうな丼を販売している所があり
ます。今回はそこを狙って津にいきましたが、長蛇の列によりあきらめ、
津城跡へ行きました。県庁(市庁舎か)の駐車場がタダということで、いい
ことだと感心しながら、城跡へ向かいました。

 城跡については、観光的予算は押さえているようで、雑草が目立ちまし
た。馬に乗った藤堂高虎の像も、何だかかわいそうに見えました。
 藤堂高虎あっての津……城跡のすぐ側に、高虎を祀った神社があるとい
うことで、そちらに向かいました。神社のまえに由書書きがあり―
 「高山神社
  当神社の御祭神は、津藩の藩主で、津のまちを拓かれ津市民の御祖神
 (みおやかみ)と仰ぎ敬まわれておいでの藤堂高虎公であります。高虎公
 は外様大名ながら、家康公の特に信任厚い側近として、後世に残る数々
 の偉業をなしとげ、武将としては戦国の世を、連戦、連勝、負けず知ら
 ずで過ごし、満身創痍ながらも75年にわたる輝かしい生涯を終えられ
 ました。」
と書かれておりました。
 神社としてはそんなに大きい物ではありませんでしたが、拝殿に向い、
あを様の分も含めて祈りを捧げてまいりました。

 藤堂高虎については、わかっているようで、その深奥はわかっていませ
ん。特に服部半蔵一党との関係を、もっと掘り下げたいと思っています。
家康の統治を理解するには、第一のキーマンでありますが、余分なことは
語らず、意志・信念・忠誠は固い武将であったから、家康から一番信用さ
れたものと思われます。だからこそ、一番秘密を知っている……。

 帰りのフェリーは、鳥羽の港と周辺の島々が波の彼方に去って行くのを
眺めながら、何か充実感に満たされていました……。

 鳥羽についてから、芭蕉についての探究のため、伊良湖神社に向いまし
た―
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月04日 11時10分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか津城は雑草が生えてましたか。
税収が伸び悩んでますからね
なかなか手入れが行き届かないんでしょうね

何か目玉がないとね
それは役所が用意してあげないと


やっぱりニンジャとか何か人気的があると良いですね。


三重県は桑名が佐幕で頑張りましたから明治政府から冷遇されたんでしょうね。
津もそうだったのかしら?
やっぱり独立採算で何か観光客を呼び込むことを考えないといけませんね。


でも町内会とか子供会とかで草取りをするとかイケメン武将ショーとか
お姫様のコスプレとかね、こんなんあったら女性は来ると思いますけどね。

お金を集めるために何か考えられると思うのですけどね
努力が足りないんだろうな〜
あの要領の良かった藤堂の末裔ともあろうものが?って関係無いのかな?
三井家や松坂屋の伊藤家を出した土地柄なのに。


    観光客の皆さんはみんなお伊勢さんや真珠で終わっちゃうのかもね


津って、ウナギ大好きの世界でしたか。
今は一色というのが不思議です。
わたくしの年代はウナギ=浜名湖でしたが。



こちらでもウナギは高いです。
鹿児島産の焼いて冷凍したものが35ドル=4000円たりです。
わたくしはもっぱら中国産の1尾7ドルあたりの安物にウナギのタレと山椒とで頂いてます。
    ちょっとなんかね、生臭いと言うか薬品臭いと言うか、後悔します。笑



>神社としてはそんなに大きい物ではありませんでしたが、
>拝殿に向い、
>あを様の分も含めて祈りを捧げてまいりました。

ありがとうございました。


きっと藤堂家と服部家は何かありますよ。
忍者つながりか土地繋がりか
優遇されてるなって思いますから。


また読み返して、何かネットで調べてみます。
   青山家が後ろから援助してたかも知れないし。
   柳生もアヤシイかも知れないし。
      柳生の出世はホントにアヤシイし。笑
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月05日 00時51分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昔、柳生街道を歩いたことがあります。その頃は単なるハイキングであ
りました。柳生から奈良までは約15q位ですので、歩いて4時間位でし
ょうか。一方、伊賀上野から柳生までは約25qですので、歩いて6時間
位か。

 柳生家は、元々は菅原家であったという。後醍醐天皇側についたので、
南朝方であり、楠正成とも伊賀の服部氏とも猿楽師集団とも修験、その他
色々ネットワークと関係をもっていました。

 服部一族を戦術家・影の特殊部隊とすると、柳生一族の方が総合的な戦
略家・フィクサーであったか……?

 いずれにしても、後醍醐天皇・南朝つながりという土台の上で、家康に
までつながって行きます―

 
 
 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月05日 07時11分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


柳生へハイキングなさいましたか。
当然、あのお屋敷には、ちょっと中を覗いたりなさったのかしら?
ステキですよね、今に至るも江戸時代の力を残している、というのは。
維持管理は大変でしょうけど。


柳生は阿保親王で繋がるし土地的にも血縁的にも近いし
そうですか南朝方でしたか、
当然ですよね場所が場所ですから。


そして柳生は江戸時代にやっと日の目を見た、ということだったんでしょうね。
たいしたもんです。


激動期をうまく泳ぐ人っていますね。柳生宗矩は剣で藩主になれたなんて。
    宮本武蔵はちょっと生まれるのが遅かったですね。
    もう10年早く生まれたかったかもですね。

その上に柳生宗矩は日本中の殿様から「先生」「師範」として尊敬も集めたんですものね。


日本男子たるもの、こうありたいという代表の1人ですね。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.