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 投稿番号:101481 投稿日:2015年08月16日 13時39分49秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XL[(M氏家譜12+市野氏解明済?)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101478_75.html
長上郡の服部氏族XLZ(M氏家譜11+市野氏解明済?)スレッド47の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月16日 21時57分06秒 ) パスワード

とも様

 秋山哲著『伊岐遠江守と私の間―〜』は和歌山県立図書館にあるようです。
ちょっと行くには遠いですので、インターネットで公開してくれているといい
ですね。
 特に春日局にからんでいるということに興味がかきたてられます。今後少し
春日局に関して探究してみたいと思っています。
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月17日 00時18分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とも様よりの情報、やはり徳川の一番肝心な部分、即ち天下を取るための
キャスティングボードになった「小早川秀秋」にからみます。
 そこには、柳生石舟斎の小早川の家老稲葉正成への説得、即ち東軍への加担
を秀秋・家中へ説得するようにという陰の働きかけがあったらしい。
 関ヶ原の戦いの前には本能寺の変があり、明智光秀が首謀、また討ち取られ
た(?)といわれている。
 その関係者・・・明智光秀の甥で家臣の斎藤利三の娘お福。
         お福を養女にした稲葉重通。
         その娘の婿養子でお福を後妻にした稲葉正成。
         小早川家を去った稲葉正成と残った伊岐実利(共に家老)
         稲葉正成を説得した柳生石舟斎。
         家光の乳母となったお福=春日局。
         家光の師範となった柳生宗矩。
         春日局の養子となった堀田正俊(稲葉正成の先妻との血筋)
ということで、天下を決した「ヘソ」の部分にまつわる舞台俳優達なのであり
ます。秀秋の死は精神の病のようですが、狂って死んだというのはよくあるう
わべの言い訳ということが多いので、本当は秘密の暴露を恐れて粛清されたと
いう可能性もあるのではないだろうか。秘密とは、本能寺の変に関係すること。
いわゆる最高機密の一つ(その他にも最高機密に属するものはありそうなので)。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 03時24分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


人間関係は複雑に絡み合ってますね。

まさか小日向で服部(貞信系)と大草がご近所に住んでたとか

春日局は毛利と繋がる河野氏と河野を助ける明智の関係の上にお福は元々稲葉一鉄の孫であり、
稲葉の親戚の林家から養子に来た稲葉の後妻で
     この林の子孫が伊藤博文だそうで

お福が稲葉の家を出奔したのも謎ですしね
尾張の服部と堀田は南朝方同士で元々繋がるし

お福は松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた一人で
実は、
家光はお福と家康の子だという噂もあるし


後世、蓑笠之助の家が大久保長安事件で「能でもやってろ」と政界を追放されたのに、復活したり


大きな謎が渦巻いていますね。

日本人はホントみんな繋がってしまいますね。

    戦国時代の終りに日本の人口1000万人のうち殺し合いをやってた人口は45万人だってNHKで言ってましたしね
    この45万人の上層部なんて更にホンの一握りですから
    上層部の婚姻関係なんてみんな繋がってしまう。


    みんな秘密を知ってても口を閉ざして黙って居たんでしょうね。


本能寺の変の秘密
ホント怪しいですね。誰が1番トクをした?ですね。

こういう想像って楽しいですね。意味の無い「たられば」の想像よりはマシですし。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月17日 06時46分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうすると、お福とお江は徳川体制の陰の立役者となりますね。やはり女性
の方が一枚上手であります(所詮、男性は女性には弱い)。

 ということで、家康を囲む女性の人間関係、力関係をいずれ探究して行きた
いとも思います。いわゆる、大奥の支配体制・・・。

 毛利氏は先々まで物事の推移を読むことができる能力があったということに
なりますか。毛利氏も一度探究してみたいとも思います。

 ま、余り探究大将を広げてしまってもしまりのないものになってしまいます
ので、中核は「服部氏及び影の動き」という観点でということで行きたいと思
います。

 隆慶一郎の『影武者』には、あらゆる影の動きのエッセンスが含まれていま
すので、早く読んでしまいたいと思っていますが、上、中、下と大作でありま
すので、遅々として進んでいません。事実かどうかは別として、裏舞台から見
た歴史という発想は、歴史をつかむ上での推理に斬新な刺激を与えてくれます。

 おととい訪れた磐田のお宮の話、あとで書きます。 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 10時57分45秒 ) パスワード

隆慶一郎の『影武者』


読んでいません。

でも家康の影武者の話はアチコチにありますね。
双子で生まれたという話もありますし。


>おととい訪れた磐田のお宮の話、あとで書きます。

楽しみにしております。



静岡ってスーパーで卒塔婆が買えるんですか?
それだけ仏教が盛んということなんでしょうか?
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月17日 11時22分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

「第七回姫街道検定試験」の問題にあった、「見付宿の神社の神紋で、丸に
三つ柏の紋を瓦に描いているのは次のうちどれか―a.八頭、b.玉光、c.愛宕」
に基づいて、おととい、見付を訪ねました。愛宕神社については、その前日
に場所を探して訪れ、神紋のないことを確認してあったので、残る二つの神社
を探せばよかった。インターネットにより、地名と地図を確認し、それらしき
所を訪れてみた。ゲートボール場のような所に、小さな祠が二つあった。一つ
は稲荷神社、もう一つは何だかわからない。両方とも「玉光神社」とは書いて
ない。
 わからないまま帰ろうとすると、老人がやって来て、この辺にお稲荷さん
はありませんかと言う。この奥にあることはありますが・・・と言って別れ
る。
 次の「八頭神社」を探す。地図上ではだいたい把握していて、そこから4
〜500メートル東へ行った所である。
 見当をつけた辺りをぐるぐる回る。お寺がある。前に一度訪れた身代わり
地蔵のあるお寺である。門前で汗を拭いていると、先ほどの老人がまた来た。
「こんにちは、また会いましたね」とあいさつすると、例の「問題集」を取
り出して、「八頭神社を探しているんですが心当たりはありませんか」と言
う。自分と全く同じことをしていると理解した私は、「私もその問題集に沿
って探しているのですが、どうもマニアック過ぎて地元の人でもわからない
んじゃないですか、この問題」と返した。ちょうどその時、お寺から出て来る
地元の人らしき男性に出会ったので、聞いてみた。
 その寺の檀家の一人であろが、最初は頭をひねっていた。しばらくして、
そういえばこの隣に何かありますよ・・・と言って、門前から寺の西を通っ
て、10メートルくらい北へ回った所に案内してくれた。
 そこには、二つの祠があった。道路側にあるのが「気比神社」、奥にあるの
は・・・正面上段に「八頭神社」の表示があった。さっそく屋根瓦を見る。
あった、そこには「丸に三つ柏」の紋が一枚一枚の瓦についているのが見えた。
それは、ちょうど高槻の「神服(しんぷく)神社」を訪れた時と同じ感動であっ
た。自分の故郷のような感覚・・・でもなぜこの「八頭神社」にこの神文が
付けられているのか・・・? 
 残念ではありますが、それ以上のことは、今のところ全く情報を得ておりま
せん。
 老人は、問題集の三択に丸をし、満足げに言った。「問題集を全部解いて
応募します・・・」にこやかに誇らしげに笑った。どうやら、老人にとって
それが生きがいのように思えた・・・。私にとっては服部と「丸に三つ柏」
紋の謎を解くのが生きがい・・・老人とそう変わらないなと思いながら、なぜ
か照れくさく、「またどこかでお会いしましたらよろしく」と言って別れた。
少し後ろ髪を引かれる感じを残したまま・・・。
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月17日 11時30分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

一部訂正:神文→神紋 (パソコンに語彙登録なし。情けない)
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 11時54分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


気比神社は南朝がらみでしょうか?
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 11時58分46秒 ) パスワード

八頭神社  はっとう? やず神社?!  やまたのおろち関係?  鳥取?
http://www.town.yazu.tottori.jp/2130.htm



白兎伝説の里



八頭町には、いつ頃から人が住み始めたのでしょうか。これまでに見つかった遺跡からすると縄文時代の後期頃からと考えられます。
私都(きさいち)の谷は、県内でも最も多くの古代の釜跡が見つかっている地域で、土器の一大生産地として知られているほか、国中平野では八上郡(やかみごおり)の郡衙(ぐんが)(古代の郡の役所)や古代の寺院(土師百井廃寺)の跡が発見されていることから、八頭町には古くから大きな勢力があったことが考えられます。

霊石山 また、町内にある約500基の古墳のうち約200基が霊石山・中山の麓(ふもと)に集中しており、この地が特別なエリアであることがうかがわれます。この地には、天照大神(あまてらすおおみかみ)降臨伝説(こうりんでんせつ)と白兎伝説が残っています。




白兎神社について


青龍寺社殿 八頭町福本の白兎神社は、人皇第55代仁明天皇(833〜850年)が在位された期間に位を戴いたと伝えられ、明治元年に村社となり、大正3年に同町宮谷(みやだに)の賀茂神社に合祀(ごうし)されました。その後社殿は同町下門尾の青龍寺に移建され、今日に至っています。
内陣(ないじん)の厨子に彫られた波ウサギは江戸時代の作とされています。白兎神社の鳥居は安永5年(1776年)、額には文政7年(1824年)と彫られています。



神ウサギ


神ウサギ 八頭町には白兎伝説が色濃く残されていて、いにしえより白兎神への信仰が脈々と息づいています。白兎伝説の里・八頭町の象徴として現代に蘇(よみがえ)ったのがこの兎のオブジェ(神ウサギ)です。
神話の中で、オホアナムヂ(大国主命(おおくにぬしのみこと))の教えに従って元通りの体になった兎は、「あの八十神(やそがみ)たちは、けっして八上姫(やかみひめ)を手に入れることは出来ないでしょう。あなた様が手に入れられるでしょう。」と予言しました。
すると、この白兎神である兎の予言通り、八十神たちに求婚されると、八上姫は、「私はあなたたちの言うことはききません。オホアナムヂの神様と結婚いたします。」と返答されました。
そして、大国主命と八上姫の恋のキューピットが因幡の素兎(シロウサギ)とされ、そのゆかりの地のひとつが、八頭町福本にある「白兎神社」です。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時06分23秒 ) パスワード

http://www.tottori-guide.jp/806/7734.html



     白兎神社 −池田−

     2つの社が並んでいるのは、八頭町池田にある白兎神社。
     向かって右が白兎神社。左が稲荷神社です。




神話「因幡の白うさぎ」

大国主命(おおくにぬしのみこと)は、兄弟と一緒に因幡の国へ行く途中、毛をはがされたうさぎに出会いました。
いじわるな兄弟は、「海の水で体を洗い、風の吹く高い山のてっぺんでかわかしたらいい」とうさぎに言いました。
言われたとおりにやってみると、体がひりひりとしみ、その痛いこと痛いこと。
そこへ通りかかった大国主命は、うさぎにやさしく声をかけました。
うさぎは、「私はおきの島からなんとか因幡の地へ渡りたいと考え、ワニザメをだまし、その背を踏んでやってきたのですが、
それがばれて毛をむしりとられました。あなたの兄弟の言うとうおりにしたら、今度は体中が痛くて苦しいのです」と答えました。
大国主命は、「早く真水で体を洗い、ガマの穂をつけてごらん」といい、うさぎは言われるとおりにしました。
するとうさぎは、元のきれいな姿に戻ることができました。
その後、助けられたうさぎは大国主命に、神代の美女「八上姫」と結ばれると言い、うさぎの言うとおりになりました


白兎神社 〜大国主と白うさぎの神話が息吹く〜

古事記や日本書記に記される由緒明らかな神社で、大兎大明神、あるいは兎の宮白兎大明神といわれています。神話の舞台の場所といわれています。

皮膚病、やけどに効く神社として信仰されてきましたが、最近は、神話に登場する大国主と八上姫ゆかりの縁結びの神様として人気です。
◆所在地鳥取市白兎宮腰603◆問合せ社務所/0857-59-0047


鳥取県東部は、因幡(いなば)と呼ばれ、その中心は、かつて、八上郡(現在の八頭町・若桜町・鳥取市河原町あたり)にあったとされます。そして、八頭町には、八上郡の郡衛(古代の役所)や、古代の寺院の跡が発見されていることから、古くから大きな勢力があったようです。また、町内にある古墳は、ある伝説のエリアに集中して存在しており、この地には、天照大神降臨伝説と白兎伝説が残っています。

伝わる「白兎伝説」

むかし、天照大神が山に降臨された時、山頂に仮の宿を営もうとされました。その時、一匹の兎が道しるべをしたそうです。
その道しるべに従うと、中山よりはるか山の尾続きに二つの大石があり、そこへ誘ったそうです。
ここに仮の宿を営み、しばらくとどまられました。
天から降りられた時、道しるべをした白兎が消えていました。その白兎は「月読尊(つきよみのみこと)」だったからです。
その後、道祖白兎六明神といいならわし、祀神(としがみ)として、この山続きの4つの村の氏神として崇められました。

霊石山・中山尾続きにあるこの4つの村は、現在の八頭町内にある「土師百井(はじももい)・池田・福本・門尾」です。
この地には3つの白兎神社があり、古より、白兎神社大兎(だいと)明神を祀っていたとされています。いちばん大きかったのは、福本にある「白兔神社」。大正時代の神社合祀で、現在、ご神体は「賀茂神社」に祀られ、社殿は「青龍寺」に移建されました。

[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時10分21秒 ) パスワード

思い出しました。



http://ameblo.jp/sakurazaka128/entry-12023652898.html

静岡県磐田市見附にある

見附天神
矢奈比賣神社


旧見附学校
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時16分58秒 ) パスワード

氣比神宮

神紋は3つ。
菊  桐  巴


【中央】菊花紋章(きくかもんしょう、きっかもんしょう)
【内側】 桐花紋章(とうかもんしょう)
【外側】巴紋(ともえもん)


宮司さんに、なぜ3種類も使われているのかを質問をしてみたところ、


菊の紋章は、皇室ゆかりの場所なので使うことが許されています。

桐の紋章は、「菊の裏紋」と言いまして、元々皇室が使っていた、とても格式のある紋章です。現在では日本の政府の紋章となっていますね。

三つ巴は、八幡神宮ともゆかり深く、八幡神社の神文である「右三つ巴」も使っています。こちらも格式のある紋章で、左三つ巴はよく使われていますが、ここで使われている右回りは珍しいんです。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時28分52秒 ) パスワード

復習

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237803227

三つ柏を神紋とする神社


食膳をつかさどる専門職のことを「膳夫(かしわで)」と呼び、特に神前 に食事を捧げる際には、拍手を打つようになりました。
神社におまいりをする際に打つ拍手はここから来ています。神に食事を捧げる膳夫が打つ手だから「拍手」で、その膳夫が扱う葉が柏です。


この柏紋は神社に仕えた神主の家に多くあり、伊勢皇大神宮の久志本氏、尾張の熱田大宮司の千秋氏、備前吉備津宮の大守氏、筑前宗像大宮司の宗像氏などが有名です。

使用神社

十日恵比須神社 福岡県福岡市博多区東公園
日御碕神社 島根県出雲市大社町日御碕455
飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
比賣久波神社 奈良県磯城郡川西町大字唐院字教塚743
橿原神宮 奈良県橿原市久米町934

天健金草神社 島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷4245−3
須佐神社 島根県出雲市佐田町須佐
眞氣命神社 島根県隠岐郡西ノ島町宇賀402
神代神社 島根県簸川郡斐川町宇屋神庭字宇屋谷485
竃山神社 和歌山県和歌山市和田438

西宮えびす神社 兵庫県西宮市社家町1−17
佐久多神社 島根県松江市宍道町上来待551
伊豆田神社 高知県土佐清水市下ノ加江字西高知山
朝椋神社 和歌山県和歌山市鷺の森明神丁22
船路八幡宮 山口県山口市徳地船路2617
総社 高知県南国市国分国分寺境内
天忍穂別神社 高知県香南市香我美町山川字スミガサコ

爾自神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町長峰有安触997
殖田神社 高知県南国市植田字東野1267
劔神社 山口県防府市大字高井1154−1

楢本神社(宮丸) 石川県白山市宮丸町1
山内神社 高知県高知市鷹匠町2−4−65
八倉比賣神社 徳島県徳島市国府町矢野531
三谷神社 島根県出雲市大津町下来原3559
倭文神社(伊勢崎) 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94

栗原神社(高山市) 岐阜県高山市上宝町宮原350
幡井神社(鳥取市) 鳥取県鳥取市青谷町絹見802


                                     伊賀にも?
鸕宮神社(伊賀市) 三重県伊賀市島ケ原4689

宿那彦神像石神社(七尾市) 石川県七尾市黒崎町ヘ28−3
櫟原神社(滑川市神明) 富山県滑川市神明町1177


                                      ココも???
多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604

櫟原神社(滑川市柳原) 富山県滑川市柳原1706
事代主神社(阿波市) 徳島県阿波市宮の本100−1
天津神社(邑智町) 島根県邑智郡美郷町吾郷
若宮神社(志賀町) 石川県羽咋郡志賀町小室2−61


                                       コレですね     この関係でしょうか?
和多理神社(八頭町) 鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500

                                       ココも
那閉神社(焼津市) 静岡県焼津市浜当目3−14−13


津門神社(江津市) 島根県江津市波子町イ1018
建布都神社(阿波市郡) 徳島県阿波市郡字建布都569
日吉神社(七尾市) 石川県七尾市中島町豊田町ヲ42
賀茂神社(邑南町) 島根県邑智郡邑南町阿須那3
神島神社(笠岡市) 岡山県笠岡市神島外浦1706
伊達神社(色麻町) 宮城県加美郡色麻町四竈字町3
伊智神社(日高町) 兵庫県豊岡市日高町府市場字楮根935



                                     コレもですね
白濱神社(伊古奈比・命神社) 静岡県下田市白浜2740



庭田神社(一宮町) 兵庫県宍粟市一宮町能倉1286
岩根神社(江津市) 島根県江津市嘉久志町字鑪山2454−1
蛭児神社(久美浜町) 京都府京丹後市久美浜町湊宮1662





関係無いですが  諏訪神社系で  楓紋  とは。

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya/tizu.htm
鳥取県八頭郡智頭町
智頭諏訪神社の神紋は楓
古来境内には当社紋に則り楓を植樹せしが地質調和よく繁茂し数百樹が織りなす秋の紅葉は実に華麗なり
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時32分21秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/inaba/watari_title.htm

抱き柏紋になっていました。

和多理神社
わたりじんじゃ
鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500



式内社 因幡國八上郡 和多理神社
旧村社

御祭神
左留陀比古神                  猿田彦ですね



鳥取県八頭町(旧郡家町)にある。
若桜鉄道・隼駅の東2Kmほどの殿に鎮座。
駅から八東川を越え、29号線へ入り南下。
簡易郵便局の側に境内がある。

境内はとにかく緑。
木々が鬱蒼と茂り、まさに緑なのだ。
境内入口から巨木の側を通って正面に社殿がある。

創祀年代は不詳。
一説には、景行天皇の頃、筑前国に祀られた大渡島の神を、
神功皇后の頃に、因幡国に遷座したものという。

当初は、和多理山(猫山、あるいは越山という)に祀られていたが、
大同二年九月に当地に遷座。
同時に、松の木や竹、長寿石などの神宝も遷されたという。

後、後醍醐天皇が隠岐から戻られるとき、                   南朝方関係?
名和長年とともに当所に駐軍。

天正八年七月羽柴秀吉軍が侵入し、山名豊国との合戦ため、
兵火にかかり、社領を没収される。

境内には、祖霊社や大美玉神社、殿神社などの境内社がある。
祖霊社の横に、元地から遷された長寿石があるらしいが、
写真に撮り忘れたようで、見当たらない。残念。

また、入口付近に「○○○○○○跡」という石碑が立っているが、
なんと書いているのか読めない。残念。

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時34分51秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/izu/sirahama_title.htm
白濱神社
しらはまじんじゃ
静岡県下田市白浜2740

                            完璧  三つ柏紋  ですね
                            聖徳太子もからむ?



式内社 伊豆國賀茂郡 伊古奈比・命神社
旧県社

白浜神社公式サイトをひらく

御祭神
伊古奈比・命
相殿
三嶋大明神 見目大神 若宮大神 劍の御子



静岡県下田市にある。
伊豆急行下田駅から、
直線距離にして北東に2・3Kmの白浜に鎮座。

135号線を東へ進み、道なりに北上すると
白浜海岸付近、道路の右手(東側)に境内がある。

地元では有名で、参拝客も多い神社。
境内入口の南側に駐車場がある。
参拝は、正月三日。
日の出の頃の早朝だが、参拝客もチラホラ。

参道入口には赤い欄干の橋。
橋を渡ると、朱の鳥居。
鳥居の右手には「伊豆最古の宮」と書かれた案内。
左手には「式内大社 伊古奈比・命神社」と刻まれた社号標。
白浜に鎮座していることから、白浜神社と呼ばれるが
当社の正式社号は、伊古奈比・命神社だそうだ。

参道を進むと、参道の左手に樹齢二千年の薬師の柏槙。
洞の中に薬師像が安置されている御神木。
参道の右手には、枯れてから千三百年という白龍の柏槙。
地中から白龍が天に昇っている形らしい。
そう云われればそういう風にも見える。

さらに参道を進むと広い境内。
境内奥にどっしりとした拝殿がある。

境内の左手には、境内社・見目弁財天。
縁結びの神様で、当社祭神・伊古奈比・命をお守りする神の一柱。
ちなみに、当社本殿の相殿にも祀られている神。
見目弁財天の横には、白浜桜。
境内には石祠も多く、聖徳太子命神社などが祀られている。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時37分48秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/oumi/taga_title.htm?print=on
多賀大社
たがたいしゃ
滋賀県犬上郡多賀町多賀604

                                虫食い折れ柏紋
                                三つ巴紋
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時39分31秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/suruga/nahe_title.htm

那閉神社
なへじんじゃ
静岡県焼津市浜当目3−14−13


三つ蔓柏紋
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時41分11秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/iga/umiya_title.htm
鸕宮神社
うのみやじんじゃ
三重県伊賀市島ケ原4689

三つ蔓柏紋
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月17日 12時49分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくお調べしていただき、ありがとうございます。

 八柱神社は磐田には一社しかありませんが、浜松には十社あります。

 八つの柱(神)は出雲神であると思いますが、磐田の八柱神社については
よくわかっておりません。ただ、近くに「淡海國玉神社」という、大きな
ウサギ像を拝殿正面の左右に配した神社があり、不思議な神社だなあと思
っていました。東三河にある菟足神社の巨大なウサギ像を思い出させます。

 ウサギは大国主と八上姫のキューピットということ・・・何だか嬉しい
気持ちにさせてくれます・・・。

 では、なぜに「丸に三つ柏」紋なのか・・・ということで、推理してみ
ました。
 大国主は大黒様、恵比須様と同体ということ・・・恵比須さまは柏紋で
、すなわち海の守り神の象徴と見ましたがいかがでしょぅか?
 でも、恵比寿様がなぜ柏紋なのか・・・今後調べてみます。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月17日 12時57分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

いろいろ調べてみましたが、やはり、不思議ですね。
なぜでしょうね?


関連が分かりません。下田の白濱神社系なら分かるのですが何故に八頭神社で?


     正面上段に「八頭神社」の表示があった。
     さっそく屋根瓦を見る。
     あった、そこには「丸に三つ柏」の紋が一枚一枚の瓦についているのが見えた。

     それは、ちょうど高槻の「神服(しんぷく)神社」を訪れた時と同じ感動であった。
     自分の故郷のような感覚・・・でもなぜこの「八頭神社」にこの神紋が付けられているのか・・・? 


不思議ですね。
何かご先祖さまに関係するのでしょうか?


是非、もう1度、お戻りになってお尋ねになってはいかがでしょうか?
非常に特殊な印象があります。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月18日 06時48分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

一部修正:

 @見付にあるのは「八頭神社」
  浜松にあるのは「八柱神社」、十社→十五社
  (浜松市神社名鑑で調べたら、何と十五社もありました)

  八頭町は古代、土器の一大生産地であったということは、土師氏の集団
 が住んでいたということです。こちら遠江にも土師氏がかなり入っている
 ようです。従って、「八頭神社」は土師氏に関係する人々が建てたものと
 考えられます。「ヤトモッツァマ」とフリガナされておりました。
  この八頭神社は祠(物置小屋程度)となっており、宮司等常駐する規模の
 ものではありませんので、なかなかそのいわれを聞き出すのは難しいです
 が、今後根気よく調べてみます。

 A稲荷神社を撮った写真をよく解析すると、太いしめ縄の陰になっており
 ましたが、「玉光稲荷大明神」と書かれているのがわかりました。
 
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月18日 11時05分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといの日曜日には旧大須賀町(現掛川市)の「横須賀城展」を見に行って
きました。その中で、大きな絵図があり、それによって分かったことを記しま
す。
 
 ●横須賀城跡は今は田園地帯の中にあり、後ろに小山が並んでいますが、今
 から、308年前、宝永の大地震の前には、海が深く入り込み、入り江を作
っていた。横須賀城は入り江(内海)の岸辺に建てられており、いわゆる湊が作
られ、海運がなされていたということです。
 こういった話は、頭陀寺城でも聞いた事があるし、神ヶ谷あたりまで、入り
江だったということも聞いています。
 宝永の大地震で、広い範囲で土地がかなり隆起してしまったということであ
ります。きっと、地震前の風景を見たならば、別世界を見るような感じになる
かも知れません。
 横須賀城は横須賀湊で、高天神城への物資の補給基地として機能していたと
いうことになります。

 1700年以前の歴史については、海岸線の複雑な、つまり入り江がいたる
所で手を広げたように入り組んでいたという風景をイメージして歴史を考えた
ほうがいいのではないかと思います。もっともこの地震は東海・東南海・南海
トラフの三連動型で、マグニチュード8.6と言われておりますので、津波の
被害も東日本大地震の時のように広範囲であったものと思われます。また、広
い範囲で地形が変わってしまったものと思われます。録画はされておりません
ので、その時の被害の模様や変わり果てた地形は見ることはできません・・・。

 文献の中には記録されているということで、磯田道史先生は一生懸命にその
記載記事の発掘をしておられます。

 話は、元に戻りますが、見付にある「淡海國玉神社」でありますが、この
名前に類する神社が四国の美馬市にあったことを思いだしました。
 「倭大國魂神社」といい、そこの神紋はたしか「丸に三つ柏」でした。何
か「出雲」と「柏」はいわくがありそうです・・・。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 13時34分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

>恵比寿様がなぜ柏紋なのか・・・今後調べてみます。

調べて来ました
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10437036411.html


    結論は恵比寿神社の神紋は三つ蔓柏紋=恵比寿紋

        ちょっと違ってましたね、残念。

「えびす」を称する神は複数あって、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。
そのため、えびすを祀る神社でも祀られる神は必ずしも同一ではない。
また少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。
留守神という神格も後に与えられた。


【ヱビス様と柏紋】
  柏はブナ科の落葉広葉樹で日本全土はもとより、朝鮮・中国に自生する。
柏は 春に若葉が出ると 香りが高く、餅を包んで「柏餅」にします。
柏は「堅(か)し葉(は)」から生まれた名で 古代から 堅くて広く 葉肉も厚いので 食物をのせるのに最適であった。
「炊ぐ(かしぐ)」=炊事をすること・食膳を司る者を 「膳夫(かしわで)」とよばれるのも 柏に由来するといわれています。
縄文時代から 狭い幅の葉は「炊ぐ」為の用具となり、葉の広いものは 炊いだものを盛 る容器または巻いて食物をいれる道具とされてきました。

  柏紋は その変形のバリエーションの多さ(およそ100種程)において「梅・梅鉢」「葵」 「桐」「片喰」などと肩を並べています。 これは「柏」紋を用いている家が多いからで、 見方をかえれば 全国的に広まっている家紋であることを意味しています。
 現在でも 宮中において大宴会の式典には 古式のままカシワを食器として葉椀(くばて) ・葉盤(ひらて)に用いている。それはひとり宮中ばかりでなく 柏を用いて祭事を司った 神社もかなりあります。
 筑前の宗像神社・瀬戸内の吉備津彦神社・尾張の熱田神社・西宮の 恵比寿神社などです。
宗像神社は海上守護の神で海人族の崇拝者は多く、神紋の三つ柏紋は海流のおもむくまま に神社の氏子たちが航海によって日本海沿岸へ分布しました。
 陸上での分布に大きく影響をもったと思われるものに西宮の恵比寿神社の「福神えびす舞 い」による普及がある。
元来「エビス」という語は辺境の地の異種族に対する蔑称であったといわれていますが、 転じて海浜に漂流・漂着したものにも呼称されました。ことにどこの漁村でも漂流死体を「流れ仏」 とか「流れ人」といって、これを拾うと必ず漁があると村をあげて喜び 鄭重に祀りました。 不漁が続くと「流れ仏がいたのに見過ごしたに違いない」と 祀られずに漂う予想の流れ仏 への功徳の意味と豊魚を願って祭礼を行ったようです。海の幸という形での期待感が込められている祭礼です。事実漂流死体を追いかけてくる 魚群が彼らの目当てなのです。
 ご神体は「鯛をかかえたエビスさま」です。
西宮の恵比寿神社は「宣伝」に二人一組(一人が口上とお囃子、もう一人が人形を操る。 この人形が「えびす神」で漁師の服装をして釣りの所作が基本形)の神人舞いがある。 百太夫が芸能群を率いて諸国をめぐり「エビス講」のシステムを広めていった。


【三つ蔓柏と恵比寿紋】
  恵比寿神社の神紋「三つ蔓柏」紋は恵比寿紋と呼ばれています。
「柏紋」に付いては「あやかる」意味で神紋そのものを用いるのは畏れ多く若干の手直しをして家紋とした「護符」的な実感を伴っていたと思われます。「安心立命」につながるからです。


【柏紋】
◎柏:語源「樫し葉」で堅い木の葉の総称
◎古代:堅い木の葉の大きい物を選んで食べ物を盛った適当に大きく肉厚でしなやかな柏の葉が使用された→食器専用 例 柏餅の葉
◎朝廷:食膳を司る役人膳夫(かしわで)の語源も柏→柏は神木として崇められ神器のシンボルとなる
◎現代:宮中大嘗祭で神に捧げる食膳は柏を使用
◎平安期:絵巻物から衣服などに使用されている
◎使用家:神官:伊勢神宮久志本氏、熱田神宮千秋氏、吉備津宮大守氏、宗像神社宗像氏など
◎公家:神道卜部氏、吉田氏、藤井氏、萩原氏、錦織氏
◎武家:「見聞諸家紋」:野間、上林、山内、朝日
◎大名家:山内、蜂須賀、中川、牧野
◎旗本:40余氏
◎山内氏:土佐藩主・・・「三つ柏」
◎武功譚:山内一豊父盛豊が丹波での合戦のおり苦戦に陥った時、背中の一文字の旗指物(はたさしもの)がなくなっているのに気づく。そこで傍らに生えていた柏の枝を折り旗指物の代わりにして戦闘を再開合戦に逆転勝利した時には三葉しか残っていなかったので記念して家紋にした

◎別伝1:水も食料も無い敗戦時は柏の葉を噛んで飢えと渇きを癒したとも伝える
◎別伝2:イスラエルの国章にも使われているユダヤ教のシンボル・七枝の神紋(メノーラー)に酷似しているため、秦氏と関係性が深い。とも言われている。
◎紋:「芋柏」、「細柏」とも呼ばれ、細い三葉が放射線状に伸びている→「山内柏」・「土佐柏」とも後世には伝えられる
◎デザイン:通常葉を文様化・・・例外的に実や枝を付けたのもある
◎葉の数:一枚から九枚まである
◎形:「対い柏」、「抱き柏」、「違い柏」、「三つ柏」など→「三つ柏」と「抱き柏」が多い
「三つ柏」:神戸西宮恵比寿神社も神紋として使用・元禄期に四宮源八郎という歌舞伎役者が顔見世興行の恵比寿役で大当たり・上記の人気にあやかり浅草の仏師が木彫りの恵比寿様に神紋を彫って販売したら飛ぶように売れた。

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 13時45分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

>八頭町は古代、土器の一大生産地であったということは、土師氏の集団が住んでいたということです。
>こちら遠江にも土師氏がかなり入っているようです。
>従って、「八頭神社」は土師氏に関係する人々が建てたものと考えられます。「ヤトモッツァマ」とフリガナされておりました。


    ヤトモッツァマ?
    まるで古代イスラエル語のような響きですね。


>この八頭神社は祠(物置小屋程度)となっており、
>宮司等常駐する規模のものではありませんので、なかなかそのいわれを聞き出すのは難しいですが、今後根気よく調べてみます。

どなたかが教えてくださると良いですね。



八柱神社
http://www.genbu.net/data/ise/yahasira_title.htm?print=on

三重県多気郡多気町四疋田239

左三つ巴紋


式内社 伊勢國多氣郡 相鹿木大御神社 (参考)

御祭神
八柱の神
天之忍穗耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命
熊野久須毘命 多紀理毘賣命 市寸島比賣命 多岐津比賣命



三重県の多気町にある。
紀勢本線・相可駅の南西2Kmほどの四疋田に鎮座。
相可駅から西へ進み、四疋田で南下すると、地域福祉センターの西端、
道路がカーブしている場所に境内がある。

参道入口の脇に「伝 銅鐸出土地」と刻まれた石碑が立っている。
昭和十九年(1944)秋、弥生時代の銅鐸が出土した地に建てられていたものだが、
路敷設のため平成九年九月に移動。もとは南西29mの地にあった。
また、銅鐸の現在の所在は不明とか。

道路に面して西向きの入口を入り参道を進むと、右手(南)に鳥居。
鳥居をくぐり、さらに右手に曲がると社殿のある境内。
ということで、社殿などは東を向いていることになる。

社殿の形状は、拝殿の後方、瑞垣の中に神明造の本殿が一つ。
伊勢周辺の神社では、多くが同じような形をしている。

本殿の左手に境内社の小祠と、いくつかの石が祀られている。
拝殿内の案内によると、境内社は以下の四社らしい。
琴比良神社(大物主命)、菅原神社(菅原道眞公)、社宮神社(猿田彦大神)、
塞神社(八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神)。

『三重県神社誌』に当社の記載はなく、創祀年代は不明。
『式内社の研究』によると当社は式内社・相鹿木大御神社であるという。
「木大」は「キタ」と読むらしく、疋田(ヒキタ)の地の所在が求められ、
四疋田産土神の当社があてられたらしい。

ただし『式内社調査報告』では、この説を含めて幾つかが羅列され、
結局、所在不明とされている。

なお、当社の古社地は、現在地の北西1Kmほどにある歓喜寺境内の南東端であったらしく、
明治四十一年二月十一日、井内林の津田神社に合祀され、
昭和三十三年三月十七日に分祀独立して現在地に祀られたという。

拝殿の屋根瓦に「八」「柱」三巴紋「神」「社」とあった。
当社が合祀されていた津田神社の神紋も三巴紋なので、
当社も三巴紋を神紋としているのかもしれない。


『式内社調査報告』によると、津田神社に合祀以前の当社の古社地は、
現社地の北西1Km、旧伊勢街道沿いにある歓喜寺境内の南東端とある。
多気町四疋田1233

歓喜寺入口には「天台宗眞盛宗踊躍山歓喜寺」とあり、
境内に、町指定文化財の聖観音立像(平安時代、一木造り)があるらしい。

その境内の南東隅に、石を固めて前部に扉を付けたようなものが祀られている。
これが、当社の古社地の名残りだろうか。
伊勢周辺の神社境内には、このような形状のものを多く目にする。



[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 13時48分49秒 ) パスワード

浜松の八柱神社

http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/e-shinko/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/06yahashira.html
蒲地区
浜松市東区植松町64番地の3




天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子神(ごししん)、五男三女が祀られている。

創立は不詳だが安政2年9月再建の棟札が残され、現在の社殿は大正9年7月に新築されたもので、神社としては珍しく西向きで、さい銭箱が置かれていない。

境内には歯の神様と言われる九頭竜神社(くずりゅうじんじゃ)が祀られ、夏には祗園まつりが行われている。



神紋は書かれていませんでした。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 14時02分03秒 ) パスワード

http://www.genbu.net/data/toutoumi/oomikunitama_title.htm

淡海國玉神社
おおみくにたまじんじゃ
静岡県磐田市見付2451

亀甲菱紋   =  出雲系ですね   実は浅井氏が・・・1番下へ


式内社 遠江國磐田郡 淡海國玉神社
遠江國総社
旧県社

御祭神
大國主命
合祀
速玉之男命 事解之男命 伊邪那岐命 御間城入彦五十瓊殖天皇 大山咋神
宇迦之御魂命 天照大神 豊受大神 赤鬚神 須佐之男命 迦具土命 大己貴命

合祀 式内社
遠江國磐田郡 御子神神社二座 瓊々杵命 木花開耶姫命
遠江國磐田郡 御祖神社 鴨御祖神
遠江國磐田郡 須波若御子神社 須波若神



静岡県磐田市にある。
磐田駅の北2Kmほどの見付に鎮座。
道路に面して参道入口は南向き。
国指定史跡・旧見付学校の、すぐ東に境内入口の鳥居が立っている。

旧見付学校は、明治八年(1875)に落成した
現存する日本最古の洋風木造小学校舎だ。

鳥居をくぐり、神門をくぐると、緑の芝生の境内。
境内の東側に社殿が立っている。

社殿は、拝殿・幣殿・本殿の並び、
芝の緑と、青空と、褐色の神殿が美しい。
参拝は休日の朝。昇った朝日が、かなり眩しかった。

創祀年代は不詳。

遠江国総社として崇敬され、
式内社・淡海國玉神社に比定されている古社。
三代実録に、
「貞観七年五月八日授遠江國正六位上淡海石井神従五位下」とあり、
もとは岩井原(岩田神社鎮座地とする説がある)に鎮座していたが、
いつのころか、現在地に遷座したという。

主祭神は大国主命だが、
以下の神々を相殿に祀る。

御子神社 元 大見寺鎮座
祭神二座 瓊々杵命 木花開耶姫命
熊野神社 元 権現小路鎮座
祭神三座 速玉之男命 事解之男命 伊邪那岐命
浅間神社 元 住吉小路浅間山鎮座
祭神 木花開耶姫命
御霊神社 元 宮小路鎮座
祭神 御間城入彦五十瓊殖天皇
山神社 元 西坂町北山王山鎮座
祭神 大山咋神
智満稲荷神社 元 西坂町南裏鎮座
祭神 宇迦之御魂命
神明神社 元 横町西側山林鎮座
祭神二座 天照大神 豊受大神
赤髭神社 元 上野畑中林鎮座
祭神 不詳(赤鬚神)
三神社 元 川尻堤上鎮座
祭神三座 須佐之男命 豊受大神 迦具土命
本宮神社 元 西坂町南裏鎮座
祭神 大己貴命
須波若御子神社 祭神 須波若御子神
御祖神社 祭神 鴨御祖神


その他に、明治期には存在した境内社、春日神社・八幡神社・稲荷神社も
現在、本殿に合祀されているらしい。

合祀の御子神社は、式内社・御子神神社に比定されたいる神社。
由緒は不明で、当社の東200mにある大見寺の鎮守神として
御子明神とも称されていたらしい。
明治十二年に郷社に列格し、淡海國玉神社の摂社となったが、
直後、淡海國玉神社に合祀された。

合祀の須波若御子神社は、式内社・須波若御子神社に比定されたいる神社。
由緒は不明。明治四十四年に淡海國玉神社に合祀されたらしい。

合祀の御祖神社は、式内社・御祖神社の論社。
加茂大神とも称された神社で、
三代実録に、貞観九年十月五日従五位上と授けられた古社。

当社の神紋は、亀甲菱。
出雲系の祭神を祀る神社に多い紋だ。

当社の飛地境内にある、雷三神社と天御子神社も式内社である。



______________________________

近江浅井氏の家紋

http://www2.harimaya.com/azai/html/az_kamon.html
文字化けで読めませんが

浅井氏の家紋は、浅井長政の肖像にも描かれている「三つ盛亀甲」紋というのが定説である。

しかし、 長政の祖父亮政の木像には「井桁」の紋が据えられ、         何故に井桁紋?
父久政の肖像に ...    以下残念ながら分かりません。




http://kizuya.jp/azai.html
浅井氏

浅井三姉妹
浅井氏の家紋

家紋 丸に井桁

丸に井桁

 浅井氏の家紋は、通説では「三つ盛亀甲に花菱」とされていますが、浅井の「井」の文字にちなんだ井桁紋も使っておりました。どちらかと言うと、戦国武将化する以前の浅井家にとって「丸に井桁」が本来の家紋だったのではとも考えられます。
浅井氏の井桁紋 •丸に井桁紋の入った浅井茶々の帯が残っております。
•養源院の浅井長政や浅井久政の位牌には丸に井桁紋が入っております。
•医光寺の浅井家と三好家の合同位牌には丸に井桁紋が入っております。
•徳勝寺蔵の浅井亮政夫妻像は、両人のお召し物に井桁の紋が入っております。
•高野山持明院蔵の浅井久政像は、脇差に井桁の紋が入っております。

 ある時期から「三つ盛亀甲に花菱」を定紋とし、「丸に井桁」を替え紋(裏紋)として使っていたとも考えられます。



考えられます。

養源院

 養源院は京都東山区にあるお寺でございますが、寺名は浅井長政の法名に由るもので、浅井長政、浅井久政の霊を弔うために淀殿(浅井茶々)の願いにより建てられたお寺でございます。養源院には、浅井長政、浅井久政の位牌が安置されていますが、この位牌に「三盛亀甲に剣花菱」ではなく、井桁の紋が使われております。このような鎮魂の場において使われている「井桁紋」こそが、浅井氏にとっての本来の家紋ではないでしょうか。戦国時代の短い期間に使われた、比較的新しい「三盛亀甲に剣花菱紋紋」ではなく、昔から長年守り続けてきた「井桁紋」こそが、浅井氏にとって魂の拠り所と言える家紋でございます。

 養源院は創建から25年で火災に因り消失いたしましたが、崇源院(浅井お江)の願いにより再興されています。

されています。

井桁紋・井筒紋
井桁紋
 近年は家紋が整理されて、固定化されております。しかし戦国時代においては、家紋はまだまだ進化発展の流動的な時期で、丸に井桁、井桁紋、井筒紋等は、混同して使われていた事もあるかと考えられます。徳勝寺蔵の浅井亮政夫妻像は、現代の一般的な呼び方で言うと井筒の家紋に当ります。

写真:浅井三代の菩提寺である、滋賀県徳勝寺の紋章、「井桁」。


三つ盛亀甲に花菱

 三つ盛亀甲に花菱紋は、浅井氏にとっては歴史の浅い家紋であったのではないでしょうか。この家紋が何処から来たのかは、今の所、私には定かではございませんが、戦国の世に大きく花を咲かせ、儚く散っていたという事は間違いありません。

 (家紋についての考察は、木津屋治郎兵衛に拠るものでございます。)


浅井氏の出自
岡本神社
 浅井氏は、丁野を起源とする一族でございます。現在の岡本神社辺りに屋敷があったと伝わっております。出自(しゅつじ)に関しては、幾つかの説がございます。

三條
物部守屋
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 14時04分55秒 ) パスワード

http://www.ippongi.com/2011/12/23/kashiwa/
復習

柏紋の有名人
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 14時10分43秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/43341154.html

式内社(倭大國玉神大國敷神社)比定@ 倭大國魂神社 美馬市美馬町

日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大國魂神社

鎮座地 徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3

御祭神 大國玉命 大己貴命 (徳島県神社誌による)



               神紋 三つ柏                  コレですね



創祀年代は不明。
鎌倉時代(1185年頃-1333年)には隣接する重清城の小笠原氏に崇敬されていたとある。

また、隣接する「八幡古墳群」「大国魂古墳群」は、6世紀のもので、この一帯は古代から栄えた土地であることがわかる。


本書紀によれば、崇神天皇の治世五年、疫病が流行し、人民に多数の死亡者がでた。
紀によれば、「大半」、記によれば、「人民死爲盡」(死に尽きなむとす)と記されている。

その翌年には、人民の心は離れ、反逆する者まで現れた。
その勢いは徳をもってしても治まらず、天皇は朝夕天神地祗に祈った。

これ以前は、天照大神、倭大国魂神、二柱の神を宮中に祀っていたが、その神々の勢を畏れ、天皇は皇女である豊鍬入姫命に命じ、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。
また、皇女渟名城入姫命に命じ、倭大国魂神を祀らせた。
ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰え、お祀りすることが出来なかった。

これが、倭大国魂神の初見である。
つまり、いつから宮中に祀られているのか、この神の別名など、不明な点が多い。
また、天照大神については「倭の笠縫邑」に祀ったとあるが、倭大国魂神については書かれていない。
しかし、文脈からすると、同じく笠縫邑かその付近としか考えられない。

大国主神の別名のひとつが「大国魂大神」であるため、同神とする説もあるが、大国主神の娘下照姫命と結婚した天津族、天若日子の父の名は「天国魂神」であり、単純に「国魂神」がつくから同じ神といえるものでもなく、本居宣長なども同一神とする説を否定している。

その正体はともかく、「倭国の国魂神」であることは間違いない。
「○○国の国魂神」を「○○国」以外に祀ることは有り得ない。
他国から同じ神を勧請した場合には当然国名は記されないか「○○座」と元地との区別を付けて表記するものである。

殆どの日本人の思い違いに、「倭」と「大倭」=「大和」の同一視がある。はなはだしい場合は=「日本」としている。
この点に注視するだけで、歴史の見え方が変わってくるほどの間違いである。

日本中の式内社で、倭大国魂神を祀るのは当社だけだ。
すなわち、崇神天皇が祀らせた倭大国魂の神の社がここである。

他にも、この物語に関連してくる、ミマ・ミノ・オオタ・ミシマ 等、すべて当社周辺の地名である。


不思議の徳島(崇神天皇は阿波国美馬郡にいた)
不思議の徳島(倭大國玉神大國敷神社)

不思議の徳島(日本のルーツは古代イスラエル)

上の動画では、イスラエル大使が、神社の神紋を「メノラー」に似ていると言っているが、これは「三つ柏」だと思われる。


イメージ 6 イメージ 7

葉の皺の形が似ているわけだが、枝が七本でなければメノラーとは言えない。
倭大國魂神社の屋根に掲げられた神紋は九本のようだ。             はい9本ですね
社殿の垂れ幕の神紋は七本。
従って特別な意味のない一般的な三つ柏紋だと思う。

ただし、柏の葉の模様がメノラーを連想させるのは確かで、なぜ古代から柏の葉が神事に使われたのかという謎に連想が及ぶことも直ちには否定出来ない。

が、これだけをもって古代ユダヤと結びつけるのは少し無理があるだろう。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月18日 14時23分50秒 ) パスワード

     メノラーの7本というのは



     以下は間違いです:
   
     ハヌカーを待つ間
     1週間の 1日 x 7 で

     1日1本の蝋燭に火を灯すから7本

      というハナシを聞いたけれど


正しくは  8本 らしい (汗)  8日間になった歴史もココにコピペしてあります。


http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/khanuka.htm

ハヌカの祭り(光の祭り)



 ユダヤの祭はほとんど旧約聖書と関連がありますが、「ハヌカ祭」は旧約聖書に基づいた祭ではありません。
 聖書外典の「マカベア書」には記述がありますが、それ以外には、「ユデト書」に少し記されている程度です。そこで、ユダヤ人以外の人にはあまり知られていません。
 しかしこの祭りは、ユダヤ人以外の人にとっても意味のある祭りです。
(「ハヌカ祭」の歴史的意味を参照)
 ユダヤ社会では、「ハヌカ祭」はたいへん楽しい祭りとして受け入れられています。
 12月の寒い晩に、ローソクを灯して祝う祭りだからです。
 この祭りにちなんだ歌がたくさんあることからも、それをうかがい知ることができます。



ハヌカの祭とは(手短に)


いつ ユダヤ暦キスレブ(kislev)月の25日から8日間。今年(2014年)は12月17日から(正確には12月16日の日没から)
なぜ 紀元前164年、エルサレムの神殿から「ゼウス像」を取り去って、神殿を潔め、ユダヤ人の独立を勝ち取ったから。
なぜ「ハヌカ」
と言う 宮を潔めて奉献することをヘブライ語で「ハヌカ」と言うから。
誰がゼウスを シリアを支配していたセレウコス朝ギリシアが、イスラエルもギリシア化(ヘレニズム化)をしようとして、ユダヤ教を禁止した。
どうして
8日間 ユダヤ人がギリシア軍をエルサレムから追放し、エルサレム神殿の宮を潔めた時、神殿内に聖なる燭台用の特別なオリーブ油が1日分しか残っていなかったのに、燭台の火が奇跡的に8日間も燃えたから。
どんな習慣がある 祭の間毎夕、8日間燃えた火を記念してローソクに火を灯す。
何を食べる 油にちなんだもの。一般的には「スフガニヤ(揚げパン)」、「レヴィヴァ(ポテト)」
歴史的な意味 ヘレニズム文化に対抗した。ユダヤ教絶滅の危機を乗り越えた。





 



ハヌカの祭とは(詳しく)

 名称

ハグ・ハヌカ 宮潔めの祭
ハグ・ハウリーム
חַג הָאוּרִים 光の祭

歴史的背景


 紀元前2世紀、パレスチナ地方(シリア)はセレウコス朝ギリシアに支配されていました。特にアンティオコス4世・エピファネス(在位前175-164年)の時代になると、ローマに対抗するため国力の強化策を行い、帝国内のヘレニズム化推進すると同時に、多額の増税による搾取を始めました。
 ヘレニズム化政策はエルサレムにも及び、エルサレム市内に競技場が建設され、紀元前167年には「ユダヤ教禁止令」が発布され、安息日を守ることが禁止され、豚肉を食べることを強要し、トーラーの学習禁止、割礼の禁止などを発布し、ついにはエルサレムの神殿にゼウス像が祭られるに至りました。
 その頃、祭司の家系であったハスモン家の長マタティヤウが住んでいたモディインという村に官吏が送られ、ゼウスの祭壇に豚を燔祭として捧げるように強要しました。一人のギリシア化した男が燔祭を捧げようとした時、マタティヤウは官吏とその男に切りつけ殺してしまう事件が起きました。
 マタティヤウは息子や協力者と共に荒野に逃れ、「マカビーの反乱」が始まりました。マタティヤウの病死後、息子のイェフダ・マカビー(「マカビー」は彼の渾名)は反乱の指揮を執り、ゲリラ戦法によって次々とセレウコス朝ギリシアの軍隊を撃破し、前164年キスレヴ月の25日、ついにエルサレムを奪還し、神殿からゼウス像を取り去って「宮潔め」をおこないました。
 この勝利によって、ユダヤ人は政治的、宗教的独立を勝ち取りました。
その後、この「宮潔め」を記念して「ハヌカ祭」を祝うようになりました。



「ハヌカ祭」の歴史的意味





 もしユダヤ人がセレウコス朝ギリシアのヘレニズム化政策に屈して、聖書を捨て、ゼウス神を受け入れていれば、聖書は紀元前160年代で無くなっていたかも知れません。
 そうすると、その後のユダヤ教はなく、キリスト教も発生することなく、イスラム教の発生もありえなかったことになります。
 現在、「ハヌカ祭」はユダヤ人の祭りですが、ユダヤ民族以外の人にも大きな意味を持っていると言えます。




 
8日間になった歴史的理由





 キスレヴ月の25日にエルサレムが解放され、神殿が潔められましたが、それから2ヶ月前のスコット(仮庵の祭)は神殿で祝うことができませんでした。そこで、人々は祝うことができなかったスコットの掟をまねて、「宮潔め」を記念することにしました。
  第2マカベア書 10:5-6
 神殿の宮潔めはキスレヴ月の25日におこなわれたが、その日はかつて異邦人によって神殿が汚された日であった。仮庵の祭のしきたりに従って、ユダヤ人たちは喜びのうちに8日間を過ごしたが、ついこの間、獣同然の状態で山中や洞穴で、仮庵の祭をしたことを思い出した。
 民数記29章によれば、仮庵の祭には8日間毎日燔祭を捧げることになっています。第1日には雄牛13頭、第2日には雄牛12頭、第3日は雄牛11頭、第4日は10頭、第5日は9頭、第6日は8頭、第7日は7頭、第8日には雄牛1頭でした。
 神殿崩壊後、エルサレムで燔祭を捧げることはなくなりましたが、「宮潔め」の時に「スコット」のしきたりを模倣して祝った記憶はユダヤ人の中に残りました。
 そこで、油の伝説にこのしきたりを当てはめて、独立を勝ち取った喜びを代々記憶していく方法を考え出したのです。
 ところがここで問題が一つ生じました。どのように火を灯していくかの方法が問題になったのでした。民数記のように考えるならば、第1日目にローソクを8本、第2日目に7本と、数を少なくしていかなければなりません。
 「シャマイ学派」と「ヒレル学派」の議論
 第2神殿末期、ユダヤ教には主に2つの学派がありました。老シャマイを長とする「シャマイ学派 בית שמאי」と老ヒレルを長とする「ヒレル学派 בית הלל」でした。
「シャマイ学派」は、仮庵の祭に照らし合わせても、また油が燃え続けた事実に照らし合わせても、だんだん少なくしていくべきであると主張しました。
 「ヒレル学派」はハヌカの光は、自由と勝利の象徴であるから、だんだん多くして、イスラエルの光が増して前進していく象徴とすべきであると主張しました。
 結局、だんだん喜びが増していく方がよいという考えから、1本から8本という方法が民衆に受け入れられ、今日まで至っています。
注意:最初はローソクを灯したのではなく、オリーブ油を使ったランプのようなものでした。




 
油の伝説





 神殿を清めて、神殿の燭台に火を灯す際、神殿用のオリーブ油が1つしか見つかりませんでした。
 神殿で使う油は、製法が特別な上等品で、しかも大祭司が封印したものでなければならなかったからです。
ところがこの1日分の油が、8日間燃え続けるという奇跡が起きました。
 そこで「ハヌカ祭」は、「油」にちなんだ祭りになりました。
エルサレムでは神殿に再び光が灯り、信仰できる喜びに沸き立ちました。




 
ローソクの灯し方





この8日間燃え続けた火を記憶するために、ローソクを灯す習慣は以下のように行います。
まず、「シャマッシュ」と呼ばれる種火用ローソクが灯されます。
1日目はその種火を使って、1本のローソクに火を灯します。ローソクの数は、種火と1日目のローソクを合わせて、2本になります。ローソクはハヌキヤーの右側から立てていきます。
2日目は2本のローソクと種火で3本。新たに増やした2本目のローソクから火をつけます。
3日目は3本のローソクと種火。新たに増やした3本目のローソクから火をつけます。
8日目は8本のローソクと種火で9本になります。
ローソクは右から順番に立てていきますが、火を灯すのは左から順番につけていきます。




 ハヌキヤ − חנוכייה



 上記のようにローソクを灯す習慣から、「ハヌカ祭」には「ハヌキヤ」と呼ばれる燭台(ローソク立て)が準備されます。この燭台にはローソクを立てる場所が8本分+種火の9箇所あります。
 一般的にローソク立てと言うと、エルサレムの神殿にあった「メノラー」と呼ばれる7本(7枝)の燭台を想像しますが、「ハヌカ祭」用のものは本数が違います。
 ハヌキヤは各家庭で灯され、必ず窓際に置かれます。それは、この奇跡を一人でも多くの人に知らせるためです。

 お土産に買う人は本数をチェックすることが大事です。




 
 スフガニヤ − סופגנייה



 油の伝説にちなんで、「ハヌカ祭」では油を使ったものを食べます。もっとも一般的なものは、「スフガニヤ」と呼ばれるものです。
 中にジャムを詰めた揚げパンやドーナッツのようなもので、季節の風物詩とも言えます。


以下略
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月18日 22時27分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ハヌカ祭とハヌキヤ(9本のロウソク立て)の話、ありがとうございました。
また一つ勉強になりました。
 柏紋の葉脈も、7本のものと9本のものがあります。9本でも意味がある
訳ですね。何かホッといたしました。

 さて、3日後には「麻績」行きです。初日は安曇野へ行き、松本に泊まり、
翌日に麻績行きです。麻績には芭蕉も行っているようですし、松島十湖も行
っているようです。冠着山にかかる月の美しさに魅了されるとのこと。また
その姥捨て伝説が、何とも切ない悲哀を感じさせる・・・。
 さてどんな旅になるでしょうか・・・?

 松島氏の新たな情報を入手しました。松島城主で処刑された松島豊前守信久
の弟松島丹後(同時に処刑されている)の居城した「鶯ヶ城」という城があった
ことを知りました。但し、今は城跡となっております。松島丹後は知久氏に仕
えたということですので、ますます浜松へ同時に落ちて行ったという可能性は
高まります。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 02時22分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


柏紋の葉脈とメノラーのお話。
7つだろうが9つだろうが8つだろうが

もしかすると古代イスラエルの民のメノラーが日本の神道の柏と結びついたのかも知れないし
全く関係が無いかも知れないし

イスラエルの大使が「おっ、似てるな」とお茶目心で言っただけのことかも知れないし


タイムマシンが待たれますね。笑



いよいよ「麻績」ですか。

宮下さんの家紋とか、分かると良いのですが。
服部さんも存在していると良いのですが。

実りあるフィールドトリップになりますように。




>松島丹後(同時に処刑されている)の居城した「鶯ヶ城」という城があった

>松島丹後は知久氏に仕えたということですので、
>ますます浜松へ同時に落ちて行ったという可能性は高まります。

かなり迫りましたね。


そこの所を知っている人に出会えると良いですね。


次に「鶯ヶ城」をちょっと調べてみますね。
何か出ると良いのですが。
    
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 02時24分05秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/kokon/entry-10280951030.html



鶯ヶ城(長野県飯田市)



2009-06-15
テーマ:遺跡情報

 中世の山城・鶯ヶ城跡で、当時の「切岸(きりぎし。防御用人工がけ)」が発見された。

 高さ3m、傾斜も急で、県内でも例がない構造だという。[信濃毎日新聞]
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 02時27分50秒 ) パスワード

飯田ということで  南朝方がらみ?  と思いました。



こちらでは鶯ヶ城跡は  下村遺跡 になってますね。

PDFは開いたけれど読めなかったです。
恥かしがりやさんなのかしら?
あはは



[PDF]国道474号(飯喬道路) - 全国遺跡報告総覧


sitereports.nabunken.go.jp/.../687_1_国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘...
井戸端遺跡・下村遺跡(鶯ケ城跡)・芦ノ口遺跡 遠景(天竜川右岸方向より臨む) ... や三州街道などの結節点として、美濃・尾張地方や三河・遠江地方からの文化と信濃の文.


http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&ved=0CCYQFjABahUKEwi4ha-skrPHAhUMOogKHQS3DzA&url=http%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Ffiles%2Fattach%2F882%2F687_1_%25E5%259B%25BD%25E9%2581%2593474%25E5%258F%25B7%25E9%25A3%25AF%25E5%2596%25AC%25E9%2581%2593%25E8%25B7%25AF%25E5%259F%258B%25E8%2594%25B5%25E6%2596%2587%25E5%258C%2596%25E8%25B2%25A1%25E7%2599%25BA%25E6%258E%2598%25E8%25AA%25BF%25E6%259F%25BB%25E5%25A0%25B1%25E5%2591%258A%25E6%259B%25B8.pdf&ei=kGnTVbj9KIz0oASE7r6AAw&usg=AFQjCNGuBD80LLB-M9xf7jQ23_QXY2Gt1w
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時09分41秒 ) パスワード

海野氏の面白いサイトを見つけました。  大久保長安も出て来ます


http://musha.mobi/index.php?%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F%E8%88%88%E4%BA%A1%E5%8F%B2


頼義は嫡男義家を伴い、奥州に向かう途中、東山道の道筋にあたる海野氏6代海野小太郎幸家に頼時追討の戦いに加わるよう援兵の請いを、戦役につくため同族騎馬80騎の棟梁として総勢270人が従い、源頼義に従い安部頼時制圧に乗り出したが頑強な抵抗にあい出羽国北部の豪族清原氏に援兵を請い、勝敗を繰り返しながら暫く安倍頼時を倒し嫡男貞仁と弟の宗仁を捕虜として長くかかった戦乱をようやく終息させた。この乱は、源頼義の奥州下向より終息するまでの11年間(1051〜1062)の長期の乱で、後に、前九年の役と称された。
 この戦いに行くにつけ赤石藤次郎は戦勝を祈願して無事帰還できたので正行院(寺)を南屋敷の一角に開基したのである。
 場所は現在の海野保育園の100mほど東側です。



保元の乱
 海野氏8代海野小太郎幸親は、天皇側として源義朝に属し、京都に上り信濃武士300騎の棟梁として活躍し武功を立てた。海野氏の直轄領は海野郷の周辺はもとより、遠くは西上州(吾妻郡)、佐久地方、四賀村付近まで広がり、彼らは海野氏の被官となり、海野氏を盟主とした連合体を組んでいた。




平治の乱                   

               宇治田原が出て来ましたよ。ビックリ

 平治元年(1159)12月9日、信頼・義朝軍は、清盛の熊野へ参詣のため京都との留守をねらって挙兵し、後白河上皇を内裏に移し、信西の屋敷に焼き討ちをかけ逃げる途中、宇治田原で首を刎ねられ、信頼は自ら大臣・大将となり、義朝を播磨守に任命した。



木曽義仲 

               多胡が出て来ました。ビックリ

旗挙げ八幡宮で勝利を祈願した義仲は、信濃武士らを従えて、父の故郷である上野国多胡庄(現在の群馬県多野郡吉井町)に入りました。



横田河原合戦

 一方、これを請けた根井行親は東信濃を本拠にした名族、滋野の支族で、信濃国屈指の大豪族、海野氏8代海野小太郎幸親を筆頭にした滋野三家の全面的な後楯てがあり、さらに北信の源氏、諏訪の金刺氏も上野国の武士らも加わって相当な勢力となりました。

 そして義仲は、本拠地を依田氏城に決めました。


一方義仲は、越後軍が横田河原に出陣したとの知らせを聞くと、ただちに依田城を出て、治承5年(1181)夏の6月10日前後のころ、海野氏の氏神、白鳥神社に隣接する白鳥河原(千曲川敷)に集結した主な武将は
 上野国の足利義清・長瀬義員など高山党の面々。


             滋野一族。千野太郎・諏訪三郎の名もあり。ビックリ

 滋野一族からは、木曽四天王の一人根井小弥太行忠(根井行親の嫡男)を筆頭に・木曽四天王の一人盾六郎親忠・矢島四郎行重・根井小次郎行直・望月三郎重忠と嫡男小室太郎忠兼・次男の中村太郎忠直・根津小次郎行直・根津三郎信貞・余田二郎忠朝・千野太郎栄朝・諏訪三郎朝次・塩田八郎高光・丸子小中太・小林二郎家員・志賀八郎・桜井太郎・手塚別当光重・手塚太郎光盛・桜井二郎・野沢太郎・本沢次郎。

 海野弥平四郎幸広(のち海野氏9代)・海野二郎幸平・海野十郎幸久・井上太郎光盛・高梨高信・高梨頼高・仁科太郎盛弘・仁科二郎盛宗・藤沢二郎清親・伊那の泉太郎維長・村上基周。そして木曽からは、木曽四天王の一人樋口二郎兼光・木曽四天王の一人今井四郎兼平・落合五郎兼行・岡田太郎義親・木曽与次・与三・進士禅師・金剛禅師・検非所八郎・平原次郎景親・石窪次郎らおよそ3千騎の精兵でした。

                 伊那の泉太郎維長   何者でしょうね?


(義仲)自分は頼朝に敵対心を抱く理由は何もない、と宣言し、和睦の条件として、さらに頼朝に二心のないことを示す証として、嫡子義高を頼朝の長女大姫と結婚させることを条件に、人質として鎌倉に送ることにしたのです。

 お供に海野氏10代海野小太郎幸氏(海野氏8代海野小太郎幸親の三男)のほか望月・諏訪・藤沢など、一人当たり1,000の兵がつけられた。

                望月・諏訪・藤沢の名もあり


 義仲が心配した通り、義仲の死後、義高は入間の河原で頼朝に殺されます。



 海野氏が住職である寺は、長野県内に15寺・県外に11寺あり、いかに海野氏が名族であったか伺わせる。
 海野幸長(覚明)は『平家物語』の琵琶法師による語り手の一人ではないかと推測されている。

 
 寿永3年(1184)1月21日に粟津口にて討死した木曽義仲(31才)の菩提を弔うべく、木曽に帰った海野幸長(覚明)は柏原寺に義仲公を祀り、寺名を日照山徳音寺と改めました。木曽義仲の霊は、ここに眠っております。

 海野幸長(覚明)は、仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。



囲み記事

『神道集』には、長文の「諏訪縁起(甲賀三郎物語)」が収められている。浅間山の別当寺であった浅間山真楽寺の境内の大沼池は甲賀三郎(諏訪三郎)が出現した池だという。


          甲賀三郎=諏訪三郎    ????
                        甲賀?

                           で、麻績は伊賀?
                               ん?ん?ん?


                 あれですね
                 佐久の望月の未亡人の千代さんが
                 甲賀忍者のくの一で
                 孤児の女性を訓練してハニートラップなんかやってた、というハナシに行き着きますね

                 次のスレッドにしますね。



大幅略


香坂高宗 

香坂氏は滋野氏の一族で佐久香坂の出身、鎌倉時代に牧之島(信州新町)・大河原へ進出した。いずれも牧場の経営として大河原・鹿塩は諏訪社領だったらしく滋野氏は諏訪氏の仲間だった。高宗は天竜川沿いの大草(下伊那郡中川村)を本拠としていたらしいが、宗良親王を大河原に迎え、ここが東国の南党の中心地となった。一時は親王を奉じて関東に出陣したが、その後、南党の勢力は次第に振るわなくなった。しかし、高宗は最後まで献身的に親王に奉仕した。

 高宗の居城大河原城は上蔵にあるが、いまは小渋川に削られてごく一部しか残っていない。

 高宗は応永14年(1407)に居城大河原城で死去される。法名 永林院殿禅室良正大居士
墓は城址や福満寺を見下ろす岡野上にある。高宗は大正4年従四位を追贈された。その位記は大塩村役場に保管されている。




大幅略


結城合戦   1440年代ですね    松島氏を語るのに出て来ましたよね

 前述した如く、海野氏24代海野小太郎幸数は、永享12年(1440)に下総の結城合戦にて守護小笠原政康(長秀の弟、応永32年(1425)信濃守護となる)の指揮下で、信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加して、結城氏朝と戦い勝利している

 信濃武士団に陣中警備と矢倉の役目の順番を記載した帳面『結城陣番帳』に、海野氏は10番目に記録されている。弟に海野大善大夫憲広がいる。

 また27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名前がみられる。
 「信陽雑記」にも結城攻撃が記されている。


    
  海野平合戦

 戦国時代の天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野氏28代海野信濃守棟綱ら滋野一族(海野氏・祢津氏・望月氏・真田氏)との間で行われた合戦である。
        


海野宗家滅亡

 天文9年(1540)、武田晴信は信虎に従って初めて信濃に入り、佐久郡の諸城を攻め落した。
 さらに翌年の天文10年(1541)5月から兵馬を小県にすすめた武田信虎・晴信軍は佐久郡から、村上義清軍は砥石城から、諏訪頼重軍は和田峠から侵入し、それぞれ名族海野一族の篭もる属城を攻め落として、海野平を三方から包囲した。
 海野一族は、独力では太刀打ちできないとして、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。ところが、上杉の援軍は遅れに遅れ、到着したのは合戦1か月後の7月であったという。
 当時、管領家は、相模の北条氏らとの戦いが忙しく、小豪族のことなど全く問題にせず、後回しになったのであろう。



     伊那のハナシをコピペしたかったのですが力尽きました
        ややこし過ぎ




以下 大久保長安の話です

その年の6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれて滅亡すると、逸早く甲府へ乗り込んできた徳川家康は、武田の旧制・旧法を尊重するとの触れ書で武田旧臣の懐柔を策した。実了上人は、伊那から顕了道快を連れ戻し、尊体寺で徳川家康に拝謁。ことの次第を訴えて長延寺再興を願い出た、家康は信玄の孫・顕了の住職を条件に復興を許可した。この時顕了は14才であったため、入明寺和尚が後見人となり長延寺は再興されたという。
 そして、慶長8年(1603)には実了の後を継いで長延寺(現在光澤寺)第二世となった。
 顕了道快は、その後、甲斐で活躍した元武田家臣だった土屋長安とも面識があったと考えられる。

 経理に秀でた土屋長安は、家康に仕え大久保忠隣の与力に任じられ、以後、大久保長安と称した。甲斐の復興を指揮し、堤防復旧や新田開発、甲斐の金山採掘などに尽力したと考えられる。
 天正18年(1590)、徳川家康が関東に入ると、翌年、八王子8,000石が大久保長安の領地となり、八王子の開発が始まった。

 また大久保長安は徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子500人同心創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子500人同心が誕生した。慶長4年(1599)には関ヶ原の戦いに備えて同心を増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

 徳川家康からも重用された大久保長安は旧武田家臣を保護しただけでなく、武田信玄の娘(松姫)などのも保護したらしい。

 慶長5年(1600)には、武田信道に子、武田信正が誕生している。

 慶長18年(1613)4月25日、69才で大久保長安が亡くなった後、金山産出の横領の疑いを掛けられ、5月17日に大久保一族や腹心は捕えられた。
 7月9日には、その捕えられた一族郎党が処刑される。
 

また、武田信道や松姫を保護していたことから、武田氏が再興を企んでいるとも疑われ、武田信道と子の信正は常陸笠間城主松平康長丹波守の下に預けられたあと、元和元年(1615)武田信道と信正(教了)の親子と共に伊豆大島への流刑となった。時に顕了42才であった。武田信正の妻「ままの局」と家臣9人と共に伊豆大島の野増に居住した。(伊豆の武田氏と呼ばれる)
 伊豆大島には現在も供養塔や屋敷跡が残っている。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時12分15秒 ) パスワード

滋野氏の不思議と望月の未亡人のお話



海野関連支族の不思議

 海野一党は不思議に盲人・医術・妖術などと関係が深く、事例を示すと

 1 貞保親王が、眼病にかかり、鹿沢温泉で湯治により、目の痛みは治ったが、視力は恢復せずに盲人になってしまった。

 2 滋野望月氏は祖神として両羽神社(長野県東御市下之城)を祭っている。この神は京都山科にもあり、盲人たちの祖神である。

 3 滋野祢津氏は館の裏山に祖神四宮権現(長野県東御市祢津)を祀っている。この四宮権現も京都山科四宮河原に盲人蝉丸を祭神として祭られ、やはり盲人たちの祖神である。

 4 近世に上田房山村(上田市田町)の弁天祭日に、小県一帯の琵琶法師や芸能にたずさわる盲人が集まって種々の相談をしていた。その管理をしていたのは深井氏であり、この深井氏は海野氏の重臣で、家伝では貞保親王の妻はこの家の女であるという。

 5 信玄の二男竜宝も盲人であり、海野二郎と称している。海野には盲人でつとまる何かの仕事があったのかもしれない。




甲賀忍者くの一の千代さんのお話


 また海野一党は修験・巫女・医術との関係が深く色々な列証がある。

 1 滋野望月氏は巫女・舞太夫・修験山伏等を支配していた。望月盛時が川中島で戦死した。その後室千代女は祢津村に土着して武田信玄から甲信両国の神子頭を命ぜられて巫女を支配したという。

 2 上州吾妻郡に住んだ下屋氏は、北上州の修験道の支配権をもっていた。

 3 祢津氏は鷹匠として著名であった。諏訪大明神絵図詞によると、平安末期に活躍した祢津神平貞直は大祝の猶子となり、東国無双の鷹匠であった。鷹匠は狩や鎮魂などの呪術と関係が深い。

 4 海野氏の氏神である白鳥神社はオシラサマともいわれ、マタギ(猟人)や修験の神でもあった。また滋野氏はいつか諏訪神を奉ずる神党となり、諏訪の神人として「甲賀三郎」の伝説にもなる。

 5 海野氏は医術とも関係が深い。大奥の医師に望月氏があり、草津温泉の領主が海野系湯本氏であったのも関連があるかもしれない。

 6 祢津には「ののう巫女」といわれる巫女の集団が明治初期まで存在したた。信濃巫女の発祥の地として、徳川三百年を通じて全国の巫女を養育し、大規模な巫女村であった。
            (小林計一郎著「真田一族」より)


史実に登場する「くノ一」で有名なのは、武田信玄に仕えた「歩き巫女」の集団である。歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、時には男性に身を任せることもあって、いわば流浪の遊女でもあった。

巫女の歴史は古く、祢津の巫女たちを「ノノー」と呼んでいた。かって幼児の頃、神様や仏様のことを「ノノサマ」と尊んで言ったり、祖父母や父親を尊敬する意味で「ノノー」と呼んでいた。

神降ろしをして媒霊的存在で、「口寄せ」であり、庶民はいろいろな困難なとき、武将もこの巫女を信仰し、利用していた。それは戦いに駆り出される人々の死の恐怖を和らげ、あわせて勝利の予言を得た。

そればかりか、巫女は、予言者であり、まじないや祈祷などもおこない、医療技術にまで及んでいた。

戦国時代には孤児・捨て子・迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがくノ一である。

信玄のくノ一の要請を命じたのは信州北佐久郡望月城主盛時(川中島の戦で戦死)の若き未亡人、望月千代女は甲賀流忍術の流れを汲む名家で、望月家の血族であり、信玄の甥が入り婿になっていた。

信玄は彼女を「甲斐信濃両国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村の古御舘に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開き、200〜300日とを越える少女たちに呪術・祈祷・忍術・護身術やさらに相手が男性だった時のために性技まで教え込んだ。
祢津は信濃巫女発祥の地であり「巫女養育日本一」であった。

歩き巫女には国境がなく、全国どこにでも自由に行けたため、関東から畿内、東北北陸を回って口寄せや舞を披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に随時報告していた。(百科事典「ウィキペディア」より)
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時14分19秒 ) パスワード

http://koskan.nobody.jp/shigeno_siro.html

小助の部屋/滋野一党/滋野一党城郭郡 - 小助官兵衛の部屋



        文字化け
        読めません


信濃国(長野県)滋野一党城郭郡 (IEでしか地図をクリックできません。firefox2には対応していませ ..... 藤ヶ城、藤ガ城ともいう。 ...... 鶯ヶ城, 〒399-2222 長野県飯田市千代 ...
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時23分27秒 ) パスワード

http://www.iida-museum.org/kouko/remains/yamashiro/list.html

南信州の中世城館跡一覧表


城館跡   所在地       時代     築城・在城主  施設
松下城 喬木村小川上平字城 (戦国中後期) 羽生氏        主郭・二の郭・腰郭・土塁・堀


甲賀氏館 飯田市三穂立石   (甲賀氏) 主郭・二の郭・堀

知久平城 飯田市下久堅知久平 鎌倉〜文亀年間 知久氏→菅沼定利 主郭・二の郭・三の郭・出郭


鶯ヶ城 飯田市千代下村 室町 松島丹後 主郭・二の郭・堀切・切岸


松平城 大鹿村大河原文満 室町 松平二郎 松平高重 主郭・二の郭(南郭)


御所平 大鹿村大河原釜沢 興国5年 香坂高宗 宗良親王

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時29分45秒 ) パスワード

http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/hyaka/publication/pbl_tell/pdf/19.pdf


天竜川流域の村々


北部では高遠の奥薗迷氏 (諏訪氏) 、 箕輪福与城の諏訪千野. 氏系の藤沢氏があり、 .... のが原則でしたが、. 信濃国は都より遠く離れていて、 重い米の運搬には費用が ...


なかなか興味深いですよ。
松島村も載ってますし。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月19日 03時50分06秒 ) パスワード

P15 〜 16に  箕輪荘6郷は

元々は藤原氏の氏長者の蕗原荘に属していた

室町時代に藤沢行親が小笠原貞宗に属して足利方に。
1336年に箕輪6郷に封じられた

福与城主藤沢頼親が箕輪6郷を1528〜1555年に領した

ということで箕輪6郷は元々古くから諏訪系藤沢氏のもとにあった  と書かれています。



信濃国

小県郡 浦野荘 … 日吉社領。上田市浦野と小県郡青木村全域。 
塩田荘 … 最勝光院領。上田市西南部の塩田平一帯。 
小泉荘 … 一条大納言領。上田市小泉・上田原・築地・神畑・保野・舞田・仁古田・岡・室賀。 
常田荘 … 八条院御領。上田市中央部。 
海野荘 … 殿下御領。上田市東部の神川以東と東御市の旧東部町一帯。 
依田荘 … 前斎院御領。上田市塩川を除く上田市の旧丸子町・旧武石村と小県郡長和町全域。 
上田荘 … 上田市国分・神科台地一帯。 

佐久郡   大井荘 … 八条院領。佐久市内。 

高井郡   東条荘 … 八条院領。下高井郡小布施町。 

水内郡   太田荘 … 殿下御領。長野市豊野町一帯。 
芋河荘 … 殿下御領。上水内郡飯綱町の旧・三水村芋川。 
石河荘 … 後室御領。長野市内。 
四宮荘南北 … 後室御領。長野市塩崎。 
丸栗荘 … 後室御領。長野市七二会か? 

埴科郡   英多荘 … 殿下御領。長野市松代町・西条・東条・豊栄・寺尾。 

更級郡   不明 

安曇郡  大穴荘 … 元・左大弁師能領。安曇野市の旧・明科町と北安曇郡池田町。 

筑摩郡   捧中村荘 … 八条院領。松本市内およびその近郊。 
捧北条荘 … 八条院領。松本市内およびその近郊。 

諏訪郡   諏訪南宮上下社(領) … 諏訪市と諏訪郡内。 

伊那郡   郡戸荘 … 殿下御領。飯田市一帯と下伊那郡高森町。 
蕗原荘 … 殿下御領。上伊那郡箕輪一帯。               ココ 
伴野荘 … 上西門院御領。 
伊賀良荘 … 尊勝寺領。 
江儀遠山荘 …
大河原鹿塩 …

地名不明   小曽祢荘 … 八条院領。 



殿下渡領  でんかわたしりょう  殿下御領ともいう。

藤原氏の氏長者が伝承した領地。
殿下とは摂政,関白をいうが,氏長者はほとんどの場合摂政,関白が兼帯したので,氏長者の所領を殿下渡領といった。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月19日 07時08分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず、たくさんの情報ありがとうございます。じっくり読解させて
いただきます。
[43]ともさんからのコメント(2015年08月19日 13時49分27秒 ) パスワード


  こんにちは。
  横レスです。

>おとといの日曜日には旧大須賀町(現掛川市)の「横須賀城展」を見に行って
>きました。その中で、大きな絵図があり、それによって分かったことを記しま
>す。

   16日の午後に私も古文書の先生のお供で、「伊藤嵐牛」講座に参加して、
   その中で「横須賀城展」を観てきましたよ。

   三幅に分けて軸に仕立てた、後期絵図の武士居住氏名に
   「市野源□□」を発見しました。
   西尾家にも市野氏が仕えていたようですね。



 
>●横須賀城跡は今は田園地帯の中にあり、後ろに小山が並んでいますが、今
>から、308年前、宝永の大地震の前には、海が深く入り込み、入り江を作
>っていた。横須賀城は入り江(内海)の岸辺に建てられており、いわゆる湊が作
>られ、海運がなされていたということです。

>こういった話は、頭陀寺城でも聞いた事があるし、神ヶ谷あたりまで、入り
>江だったということも聞いています。

>宝永の大地震で、広い範囲で土地がかなり隆起してしまったということであ
>ります。きっと、地震前の風景を見たならば、別世界を見るような感じになる
>かも知れません。

>横須賀城は横須賀湊で、高天神城への物資の補給基地として機能していたと
>いうことになります。


   
   宝永の地震の隆起で横須賀城への補給路が破損し、現在の旧大須賀町と
   旧浅羽長の境の弁財天川が物資運搬を補うようになったと聞いています。

   でも、あの細い川ではどれだけの品が運搬出来たのか・・・
   きっと遠くても福田港より荷駄で運んだんでしょうね。





[44]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月19日 15時18分02秒 ) パスワード

とも様

 そうでしたか、それでは一時間ほど同席していたということになりますね。
 私は、M氏と一緒にやはり伊藤さんのセミナーに参加するつもりで来まし
たのですが(先月にM氏と共に伊藤さん宅を訪ね、友の会活動を知る)、M氏
に都合ができたので、第一部の展示会のみで帰らざるを得ませんでした。
 
 横須賀城とその城下町の立派さは絵図を見てわかりました。城跡を見て抱
いたイメージとは格段の違いがあります。大須賀氏は格の高い人だったよう
で、改めてもう一度探究し直したいと思っています。
 
 西尾氏も格の高い人だった。私の西隣の町には、西尾姓がたくさん見られ
ます。何かつながりがあるかも知れませんので、調べてみたいと思います。

 市野氏が絵図の武家屋敷に載っていたということですが、市野氏の点と線
の動きを知る上での貴重な情報になりますね。ひとつ楽しみが増えました。

 
[45]ともさんからのコメント(2015年08月19日 17時33分38秒 ) パスワード

こんにちは。

横レスです。

そうですか、「伊藤嵐牛」講座に来られていたんですね。

一時とは云え、同じ空間で勉強していたのに驚いています。

ただ、私としては「横須賀城展」に興味があり、参加を
させて頂きました。


私の視力が確かなら、

市野源□□の居宅ですが、横須賀城より裏手の一番奥まった、
かなり寂しそうな場所でした。

役高での割り振りですと、おおよその身分が読み取れます。

ただ、氏名の横に役名?の記載があり、ガラス越しで
読めなかったので、もし役名で住居割り振りが行われ
たのなら、かなり謎めいた居住地を宛がわれたのか。

絵地図を近くで拝見するまで、せっかくの市野氏ですので、
謎めいた部分で想像を膨らませて楽しみたいと思います。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月20日 07時09分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大久保長安ですが、家康は忍者を使って長安の身辺を探っていたということ
です。特に金山奉行でありましたので。
 一方で、長安は忍者だったという説に初めて巡り合いました。もっとも、出
自からしてルーツは忍者村につながる訳でありますので、忍者の定義を広義に
解釈すれば、即ち「忍者の技術・知識・戦術を備えた人」とすれば、忍者だっ
たともいえると思います。従って、忍者のやることは見通していたと思います
ので、それなりの対策は万全にしていたものと思われます。
 大久保長安忍者説については、今後検証して行きたいと思っています。
 
 さて、先日の横須賀城展で知ったことは、横須賀城が「松尾城」とも呼ばれ
ていたことであります。以前、横須賀城跡を訪ねた時、一番奥に「←松尾」の
看板があったことと符合します。
 これは何故かといいますと、結局は「松尾山」の一角にしろを建てたという
ことだと思います。松尾山、関が原にもありました。仮に松尾大社がからむと
しても、「松尾」の響きにそれ以上の何かがあるような気が依然してなりませ
ん・・・。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月20日 09時30分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「松尾」の響きにそれ以上の何かがあるような気が依然してなりませ・・・。

松尾大社が「秦氏」の氏神だったからでは?

古代からの呼びかけがきているのかも。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%BF%83

同心(どうしん)

江戸幕府の下級役人のひとつ。諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭・火付盗賊改方などの配下で、与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた。また、諸藩においても藩直属の足軽階級の正式名称を同心としているところも少なくない。明治維新後は卒族とされた。

中世[編集]

同心は、元々中世後期の日本において「一致団結」を意味する語として使用され、「一味」や「一揆」と同義語であった。戦国時代に入ると、戦国大名の家臣(下級武士)たちは、主家への平時の奉公や軍役をこなすために相互に団結して事に当たるようになった。そのため下級武士を「同心」と呼ぶことが一般的となり、後の江戸幕府も幕臣の役職名として「同心」の称を採用したのである。


様々な同心[編集]

江戸幕府成立時、徳川家直参の足軽を全て同心としたため、忍者を祖先とする伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人組、郷士の八王子千人同心等、様々な同心職ができた。このように江戸時代初期から同心となった者は、特に「譜代」と呼ばれ、役職がなくなっても俸禄(現代でいう給料のようなもの)を受けることができ、子孫にこれを受け継がせることができた。幕府の同心は、幕臣であっても旗本ではなく御家人身分であった。



町方同心[編集]

江戸の南町・北町奉行所には与力が各25騎[1]、同心が各100人配置され、江戸の司法・行政・警察の任にあたった。このうち警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30名にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇っていた。


廻り方同心は粋な身なりで人気があった。粋は江戸の町民文化としての側面を併せ持っているため、町民には馴染みやすいともされている。特に町民にもなじみがあったのは定町廻り同心であり、決められた地区を担当し巡回・治安維持にあたった。他に、臨時廻り同心・隠密廻り同心がいた。


時代劇においては十手を大小に並べて帯に差しているが、史実では懐に隠し持
ち、必要に応じて示していた。これは捕具であると同時に身分を証明するものであったため、スリなどによる盗難に用心し、また張り込みや尾行では身分を隠す必要もあったからである。現代の捜査員にも相当する。[要出典]


平の同心の俸禄は30俵2人扶持程度の微禄であったが、実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどでその数倍の実収入があった者も多く、そのため岡っ引のような私的使用人を雇うことができた[2]。住居として屋敷を拝領し(いわば宿舎に相当)、しばしばその屋敷は同心の代名詞とされた。この屋敷は、与力が約300坪、同心が約100坪程度の規模であった。拝領した広い屋敷を貸して家賃収入を得る者もいた[3]。

一方、罪人を扱う汚れ仕事であったため不浄役人と蔑まれることもあった。そのため世襲とはせず、代替わりの際には新規召抱えとした。しかしながら治安維持という任務上、その職務に精通している事が必須であるため、事実上世襲が行われていた。江戸時代も中期を過ぎると、実質上は金銭で「株」を買う(建前上は養子入りする)事によって町人が武士の身分を得る例が見られたが、町方同心の場合は当然ながらその職務に通じている必要があり、また同心株を売るほど困窮した者も多いとはいえなかったため、事例は多いわけではなかった。有名な例としては樋口一葉の父が挙げられる。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月20日 13時24分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 八王子の千人同心、大久保長安により組織・管理・運営されたといいます
が、まだ深く探究してありませんので言及は差し控えておきます。
 いずれにしても、長安は想像以上に巨人かも知れません。家康はその上を
行くもっと巨人であり、「金・銀」により何をしようとしていたか・・・?
その辺は今後探究して行きたいと思っております。

 「松尾」という言葉に、ユダヤの「マッツオ」(平パン、餅)を感じてしま
うのは私だけでしょうか(発想が大胆過ぎますか?)
松尾大社と酒、鏡餅、そして月・・・何かマッチしてしまうのです。
 ところで、月を見て餅(団子)、酒を上げるという習慣は、一体どこから来
ているのでしょうか?
 この辺を頭に入れて、もう一度秦氏を見つめ直してみたいと思っています。

 明日は安曇野、あさっては麻績・・・海人族が何で山奥へ移動したのか、
伊勢の関係者がなぜ山奥へ移動したのか(山奥というと語弊がありますので、
日本の丘陵地帯と言い変えておきます)。そこら辺も合わせて考えてみたいと
思っています。

 麻績は月を見るのに最高の場所のようです。観月苑という月を鑑賞する場所
もあります。月にあこがれる心というのは、日本人独特のものなのでしょうか。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月20日 14時49分33秒 ) パスワード

三つ柏さんへ


お気をつけて!
たくさんの収穫を期待しています。



月を愛でるのはアジア中どこでも同じと思います
中近東でも国旗に月が描かれていますし
もともと暦はお月さまを頼りにしてたので世界中で月を愛し愛でたのでは?と。


アジアでは「月餅」というお菓子がありますね
中国やベトナムの人からたくさんもらったものです。


マッツォは「絶対に絶対に絶対に」発酵させてはならないのですから
松尾大社がお酒の神様になっていくのとは相容れないのでは
と思いますが  日本の神様=お酒  ですから
日本化したから
と言えますね。

でも全く分かりません。



>月にあこがれる心というのは、日本人独特のものなのでしょうか。

いえいえ
アジア人の方が熱心にお祭りしているという感触です。
   まるで「お正月」みたいな重要性を感じました。
仕事関係でも、アジア人は、司法省の役人や財務省の役人に「月餅」を箱入りで配りに行ってましたよ。

日本人でそういう事をする人は10年間に1回も1度も目にしたことが有りません。


日本でお月見のお祭りを実際にするのは幼稚園あたりじゃないでしょうか?
幼稚園を卒業すると、やらないんじゃないか、と。謎


というのは、日本人からお月見のお餅なんかをもらったという経験は皆無です。
日本人で他の民族の人にお餅なんかをあげたりするのを見たことは1度も無いです。


ま、お店のイベントの客寄せとか、合コンで、恋人同士で、ということで「お月見」を<口実にする>ことは有り得ると思いますが。


浜松あたりではお月見は盛んなんでしょうか?
でしたら、撤回しなくては、です。すみません。



>伊勢の関係者がなぜ山奥へ移動したのか

ひばりさんのお話:コピペ

麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。



麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。

藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、
飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。
そのうちの一つが朝臣(あそん)。

朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。



ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。
〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。


この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
   もっというと服部半蔵の祖先ということ。
その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、
承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、
今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。


この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、
承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。


では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?

それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。

ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、
もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。


その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。

私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。

そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月20日 16時05分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明朝6時に出発ですので、書き込みが24時間位とぶと思いますので、
悪しからずよろしくお願いいたします。
 麻績については、帰宅後にいろいろご報告をいたしたいと思います。

 麻績から見た中秋の名月はブルームーンでしょうね。
 ブルームーンというと、プレスリーの「ケンタッキーの青い月」という
歌を思い出します。
 今では、お月様を見て、月にウサギがいるなんて言う人はなくなりまし
たが、意外や「月とウサギ」なんてお店は結構あります。現実と科学の間
をつなぐものはロマンなんでしょうね。
 月に関する歌・・・「ペーパームーン」「ムーンリバー」(U.S.A.)
「月がとっても青いから」「月の砂漠」「月の法善寺
           横丁」(JAPAN)
 ところが、この法善寺というのが、麻績にあるんですよ。どうなってるん
でしょう?
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月20日 22時46分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

スーパームーンのことですか?以下コピペ:


スーパームーンは
2015年は9月28日の月曜日がスーパームーンになります。
満月になるのはこの日の午前11時50分です。

前日は中秋の名月でもあるため、より特別なスーパームーンになるでしょう。




さらにコピペ:ブルームーンについて


ブルームーンは2−3年に1回来て
ごく最近のは前回の満月、7月31日でした。
次回のブルームーンは数年後にまた来ます。



以下コピペ

ブルームーンとは満月の一種で、一つの季節のうちに満月が4回起こるときその3回目を指す場合と、ひと月に満月が2回巡る場合、それをブルームーンとします。

もともと天文学的な用語ではなく占星術の用語のようです。

満月が一つの季節に4回起こったり、一月に2回起こったりするのが2、3年に一回の非常に珍しい現象なので、“あり得ない現象”という意味でブルームーンと名付けられたようです。

ちなみに一つの季節のうちに満月が4回起こるとき、その3回目を指す場合が本来のブルームーンで、一つの月に2回満月が巡ることをブルームーンと呼ぶのは実際は誤解なのですが、天文雑誌が誤って掲載したことにより、この用法も定着してしまったようです。



季節の長さは3ヶ月なので通常満月も3回なはずですが、満月の感覚は29.530585日なのに対し、1ヶ月は30.436875日なので、2、3年に1回の間隔で、一つの季節に4回満月が起こります。

その3回目の満月がブルームーンです。

この季節というのは二分二至、つまり春分・夏至・秋分・冬至で分けられた季節のことです。

アメリカのメイン州においてブルームーンと呼んでいたのが発祥のようです。

本来は一つの季節に4回満月が起こるとき、その3つ目をブルームーンと呼ぶのですが、天文雑誌の「スカイ&テレスコープ」がこれを誤解し、一月に2回満月が起こる場合、その2つ目をブルームーンと呼ぶ、と紹介しました。

これは誤りですが、広まって定着したため、この使い方もブルームーンとして称されるようになりました。

元は誤りですが実際に一月に2回満月が起こることも2、3年に一回の現象なので珍しいことには変わりありません。


2015年には一つの季節に4回の満月が起こることはありませんが、一つの月に2回満月が起こるパターンのブルームーンは出現します。

2015年は7月31日の満月がそれに当たりました。

[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月20日 22時51分11秒 ) パスワード

法善寺は東京にもあるそうですから日本のアチコチにあるのかも。


以下は甲斐国法善寺:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%96%84%E5%AF%BA_ (%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9%E5%B8%82)


法善寺(ほうぜんじ)は、山梨県南アルプス市加賀美にある寺。高野山真言宗寺院。山号は加賀美山。本尊は阿弥陀如来。武田八幡宮の別当寺。詳しくは加賀美山法善護国寺という。


『甲斐国社記・寺記』『甲斐国志』に拠れば、806年(大同元年)に逸見(北杜市白州町)に創建された永善寺が前身であるといわれという。その後、山寺村(南アルプス市)、寺部村(同)へ移転され、822年(弘仁13年)に空海が創建したという。

『甲斐国志』に拠れば平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地各地へ土着し、法善寺は建久年間に加賀美遠光が巨麻郡加賀美郷に再興し、武田八幡宮(韮崎市神山地区)の別当となったという。近辺には法善寺のほかにも遠光創建を伝える寺社が多い。

鎌倉時代には1208年(承元2年)、遠光の孫にあたる遠経が遠光屋敷跡へ移して再興したという。法善寺境内からは土地区画が確認されている。1221年(承久3年)には紀州高野山から覚応を招き中興開山とした。後に甲斐守護・武田氏の庇護を受け、移転を戦国時代の武田信虎期とする説もある(『寺記』)。

1568年(永禄11年)、武田信玄の越後侵攻に際し、信濃国長沼において法善寺を含む甲斐国内の慈眼寺(笛吹市一宮地域)や法光寺(甲州市)など11か寺に戦勝祈願を命じており(『慈眼寺文書』)、翌年には子院の福寿院の法華経読経に対して、祈願成就の賞として棟別銭が免除されている(『法善寺文書』)。また、1572年(元亀3年)の西上作戦に際しても越後上杉氏が信濃・上野2国を侵さないことを祈願させている。

武田氏滅亡後は織田信長、1588年(天正16年)3月に徳川家康からからの禁制を受ける。翌年には徳川家臣・伊奈忠次による検地が行われ、寺領証文が発給される。また、武田八幡宮の社領証文も当寺へ発給された。豊臣系大名時代にも寺領を寄進され、江戸時代の1642年(寛永19年)には将軍・徳川家光の朱印地安堵を受ける。以来、歴代将軍の安堵を受け、盛期には末寺9、子院20を擁した。1781年(天明元年)には火災で諸堂を焼失(『国志』)。明治には神仏分離で武田八幡宮が独立する。

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]
紙本墨書大般若経 - 1905年(明治38年)4月4日指定。
鎌倉時代の大般若経。全600巻のうち39巻が欠巻で、561巻が現存する。 経文は黄染の楮紙に墨書されている。縦26.0cm、幅13.0cmの折本装。各巻はそれぞれ32 - 35葉で、表紙には経帙が施されている。10巻ごとに朱漆の蓋付き小箱に収められ、小箱がさらに同じ構造の大箱に収められており、計6箱が所蔵されている。書体は能筆で、写経生の筆であると考えられており、厳密な校合が加えられている。奥付には柏尾山大善寺(甲州市)や白雲山平塩寺(西八代郡市川三郷町)など中世に栄えた寺院の学僧による校合が行われたことが記されている。鎌倉時代の1254年(建長6年)に甲斐源氏の一族である一条信長を願主に武田八幡宮へ奉納されている。信長は武田信光の子で一条氏を再興した人物で、経典には信長や父信政を願主と記されているが、室町時代の欠本を補うために行われた後筆であると考えられている。明治初期に神仏分離の実施により引き渡され、このときに欠巻が生じている。明治期には正式に移管された。
山梨県指定文化財[編集]
鐘楼
銅鐘
法善寺所蔵の銅鐘は、総高147.7cm、鐘身高111.3cm、口径89.1cm、撞座(つきざ)高12.0cm、梵字外縁円径19.3cmの中世鐘で、県内では塩山向嶽寺鐘と並ぶ巨鐘である。『甲斐国志』によれば、法善寺の鐘は1251年(建長3年)に鋳造されたものであると記されており、現在懸架されている銅鐘は中世鐘であることは確実視されているが、形状や文様の検討から建長3年鋳造は疑問視されている。鐘身には疵が多く、何らかの事情で他所から移されたものであると考えられている。板絵僧形八幡神像
縦139.0cm、横33.0cm、厚2.2cmの板に描かれた板絵。板には3本の枘(ほぞ)があり、かつては台座が存在したと考えられている。僧形八幡神は平安時代の本地垂迹思想の確立により成立したもので、無地の茶衣と同色の袈裟をまとい、八字曲がりの眉と尻下がりの目元で、顔はやや老相を帯び、三面の後屏を背に、敷物が敷かれた框座に坐しており、基本的な図像は守られている。裏面の墨書銘によれば1461年(寛正2年)に8世住職となる厳延により武田八幡宮へ奉納されたもので、明治初期の神仏分離の際に他の寺宝とともに移管されたものであると考えられている。絹本著色十六善神像
1991年(平成3年)5月30日指定。画絹3枚を横に継いだ画面で、縦167.0cm、横124.7cm。濃紺の地色に、彩色された諸尊が描かれている。中央正面に七宝獅子座に座した釈迦如来が、座下左右には文殊菩薩、普賢菩薩が配されており、左右下辺に十六善神が取り囲んでいる。最下辺の左右には深沙大将と玄奘三蔵が描かれている。室町時代の絵仏師によるものと考えられており、宝冠や甲冑などには金泥の彩色が施されている。釈迦如来と十六善神は大般若経の守護神として位置づけられ一具として伝えられることが多く、明治期に武田八幡宮より伝来した大般若経とともに移管されたと考えられており、大般若経の欠本を補い完成させた際に新たに描かれたものであるとも推測されている。版本大毘盧遮那成仏経疏16巻
紙本墨書金光明最勝王経
1986年(昭和61年)9月17日指定。縦24.5cm、横9.0cmで折本装。楮紙で、通常の写経で用いられる一行17字の形式は守られていない。書体は文字は太くやや右下がりで、実直な土豪による筆であるとも推測されている。巻ごとに紺色の経帙に治められている。奥付によれば、1539年(天文8年)に桜沢氏が武州藤田郷の総鎮守である上聖天宮に奉納したものであるという。甲斐国へ持ち込まれた経緯は不明であるが、1562年(永禄5年)に武田氏が武蔵国松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻めた際の戦利品であるとも考えられている。江戸時代の1607年(慶長12年)には、第18世住職玄覚により訓点が点けられている。法善寺伝承本真言宗諸流聖教類
八幡神本地仏鏡像(阿弥陀三尊鏡像)
1979年(昭和54年)12月28日指定。鏡板径47.5cmの銅製鏡で、周縁部には幅狭の覆輪が巡らされている。上縁の左右に懸垂用の耳があり、鏡面中央には阿弥陀如来坐像、向かって右下に観音菩薩坐像、左下に勢至菩薩坐像が配された三尊形式で、各像は別に鋳造されて鏡面に差し込まれて楔留で固定されている。裏面の墨書によれば1290年(正応3年)の制作で、武田八幡宮の本地仏として奉懸されたもの。神仏分離の際に大般若経とともに移管される。大薙刀 銘備州長船兼光

関連項目[編集]
甲斐国の仏教
加賀美氏

外部リンク[編集]
加賀美山法善護国寺公式ホームページ

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月20日 22時55分19秒 ) パスワード

お気を付けて!
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月21日 05時43分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは行ってまいります。神服神社のお守りと共に・・・。
[55]ともさんからのコメント(2015年08月21日 14時34分01秒 ) パスワード


こんにちは。

横レスです。

信州の麻績とはどんな所と思い、WebMapで調べたら、

「長野県 東筑摩郡 麻績村 麻 市野川」

なる地区を発見しました。


麻績城
麻績氏の本拠。麻績氏の娘は諏訪頼重のもとに嫁いで女の子を産み、
その子はのちに信玄の側室となって武田勝頼を産んだという。

戦国時代、麻績の地を支配したのは服部氏で古屋敷に居館を構えた。

   

ん??

服部氏が上杉方へ逃れ、次いで麻績(青柳)氏が城主。

服部氏の姫が諏訪氏に嫁いでなら分かるんですが・・・。

   


ともあれ、丸三柏服部さんの研磨された情熱と、

空の青海のあをさんの打ち出の小槌ような情報量は

凄いの一言です!!

[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月22日 19時54分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今無事戻ってまいりました。往復770キロの旅、でもそんなに疲れは
ありません―昼間、休み休み走りましたので。

 さて、どのようにまとめようかと思っております。
 カメラにおさめられた画像をプリントアウトして、そして整理してから述べ
ることにいたします。今しばらくお待ちください。

 市野川については、現地で確認しましたが、何で麻績に市野という名前の川
があるのかにつきましては、、今回は探究する時間がありませんでした。いず
れかの機会にはと思っています。

 
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月22日 21時47分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい!
ご無事で何よりでした。


ではご報告を楽しみに待っております。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月23日 08時51分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この一年で、信濃(あえて長野県と呼ばす、信濃と呼びます)へは5回行った
ことになります。
  @高遠
  A上伊那の箕輪・松島
  B軽井沢・嬬恋・長野善光寺
  C下伊那・飯田
  D安曇野・松本・麻績・千曲
であります。
 
 その目的は、
  @松島氏の出自を探究すること
  A小笠原氏の家系と複雑な歴史を理解すること
  B信濃全体の地形・風土・歴史を理解すること
  C信濃と遠江の歴史的関係を調べること
  D昔の牧、即ち馬を飼っている草原がないか調べること
  E松尾芭蕉と松島十湖の信濃(更科)への旅について考察すること
  Fうまい「そば」の店を探すこと
等でありました。
 それらの目的の進捗具合はといえば、
  @の松島氏については、徐々に資料が出て来ています。
  Aの小笠原氏については、系図をみれば、だいたいの識別ができるよう
   になりました。
  B信濃の地形については、南北に長く、それぞれ川が流れ、東西はそれ
   ぞれ深い山脈にはさまれ、その谷合いをぬうように林道がつづき、他
   県とつながってります。おおよその信濃の地形については理解が進み
   ました。
  C信濃と遠江の歴史的関係については、引き続き探究中でありますが、
   言葉・アクセントについては、信濃と遠江はほとんど違和感なく、と
   言うよりも親近感を感じます。ということは、ある意味文化圏が同じ
   ということでもあります。文化の流れ、人の流れが、海から山へ、山
   から海へと標高差に添って垂直に行われたということになります。
   また、特には戦国時代から江戸時代、特に徳川の進出、統治を通し、     両地域間の歴史が作られたように思われます。
  D信濃に5回行きましたが、牛や馬を見たことがなく、一体牧場や牧は
   どこにあるのか・・・不可思議な感じを抱いております。
  E松島十湖が晩年2か月の信濃旅行をしていますが、ある意味芭蕉の足
   跡を訪ねる旅ではなかったのかと推測し、それに沿って探究を進めて
   おります。
  F「そば」のうまさとはどういうものか、まさに素材と水にあることが
   わかって来ました。

 ここで、一旦切ります。
  
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月23日 09時18分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 市野川について、訂正です。
 麻績市を走っている時に、車のナビに市野川という表示が出ました。もち
ろん、地図によっては市野川という表示が見られる場合があります。これら
に関しては、いずれも地図上に小さく表示されているだけなので、イメージ
としては川だと思い込んでしまいました。しかしながら、本当はどうも地名
のようです(大昔はひょっとすると川が流れていたかも知れませんが)。江戸
時代末期に書かれた『善光寺道名所図会』には、「一の川村」との表現がさ
れていました。
 浜松の市野村については、市野氏の家紋が「一文字」でありますので、「
一」という表現においては共通いたしますが・・・?
 いずれにしましても、市野村では、「市」が行われていたと解釈するのが
自然かなとは思われます。でも、ひょっとして「市」は「市」でも、「馬市
」だったのかも知れません・・・。市野惣太夫と馬の鑑定が得意ということ
を考えても、そう言えるのではと思います。その辺の証左を何とか見つけて
みたいと思っております。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月23日 11時06分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、信濃で23℃、こちらへ帰ってきて33℃でした。この温度差
にはぐったり、うんざりです。
 本日も、朝から30℃、おまけに蒸し暑く、頭がオーバーヒート気味に
なって来ております。

 信濃紀行については、時系列的に書いていこうと思っています。あを様
の一番気になっている「麻績」については、これがクライマックスであり
ますが、後半となりますのでご了解下さい。
 いずれにしても、本やインターネットでは知り得ないことが、現地へ行
くと発見できるということが、いろいろな実体験からわかりました(今回も、
麻績においてはそれがありました・・・)。

それでは、安曇野から―

 平成27年8月21日、金曜日、初日、朝6時―
 我が愛車「宗一郎」号は、1300t、ホンダはエンジンがいいと自分
では評価している。
 まだ眠気の残る頭をシャキッとさせるために、「アリナミンV」を飲む。
カフェインが脳に効いてくる。ビタミンAは、目を使うドライブにかなっ
ている。

 一路安曇野へ―
 途中2〜3ヶ所のサービスエリアにて休憩・・・。
 安曇野には10時半に到着した。正味4時間の運転であった。
 まずは、11時開店のそばや「常念」に向かう。この名前、何かいわくが
ありそう・・・背景にある山の名前「常念山」からとったということ。
 後で知ったことであるが、珍しい人の姓名の一つに、「常念」という名前
があるという。
 その店はインターネットで知った店であるが、元庄屋風の大きな古民家を
店としている。庭は表も裏も日本庭園であり、玄関横に私設の古美術館を開
き、ご主人のコレクション―特に六文銭の真田家の武具・家具等が飾られて
いた。
 肝心のそばの味は、とりあえず85点であった。これはもちろん私個人の
感覚(アナログ)評価なので、いいかげんといえばいいかげんではあります。

 そばを食したあとは、安曇野での最大目的、「大王わさび農場」を訪ねま
した。

 ここで、一旦切ります。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月23日 12時22分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

4時間の運転でしたか、すごい!
遠いんですねえ。


さて
    D信濃に5回行きましたが、牛や馬を見たことがなく、
     一体牧場や牧はどこにあるのか・・・不可思議な感じを抱いております。


木曽じゃないでしょうか?
信濃というよりは木曽地方。


もともと馬は  木曽  じゃないかと。
木曽駒、と言いますから。


甲斐ですと  黒駒?笑
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月23日 12時38分09秒 ) パスワード

「常念」について:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B8%B8%E5%BF%B5
【名字】常念

【読み】じょうねん

【全国順位】 36,716位
【全国人数】 およそ80人

常念はまだ登録されていません




http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2502850.html

ジョウネン 上念 兵庫県西宮市、兵庫県神戸市。
ジョウネン 常念
ジョウネン 城念 滋賀県近江八幡市。滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城との関係からの創姓と伝える。
ジョウネン 浄念 大分県・東京都。事物。寺号から。大分県宇佐市安心院町畳石にある浄土真宗の浄念寺の僧侶による明治新姓。
ジョウネン 上年 神奈川県横須賀市。
ジョウネン 淨念


希望の回答が無かったです。



京都府相楽郡精華町祝園神木段にある融通念仏宗の常念寺の僧侶による明治新姓?


4.
岡山県井原市井原町にある浄土真宗の常念寺の僧侶による明治新姓。

     常念寺 真宗大谷派 井原市井原町1364



5.
山形県の常念寺



3’
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%BF%B5%E5%AF%BA_ (%E7%B2%BE%E8%8F%AF%E7%94%BA)

常念寺
京都府相楽郡精華町の常念寺


所在地
京都府相楽郡精華町大字祝園小字神木段55

創建年   不詳

宗派
融通念仏宗

本尊
阿弥陀如来

1461年 - 隋空恵順により中興
1833年 - 円空隣粲が本堂・庫裏を再建

重要文化財(国指定)[編集]
菩薩形立像 - 平安時代前期(9世紀)



これ以上の情報は無いです。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月23日 12時47分01秒 ) パスワード

市野川村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%83%A1

幕府領になってますね。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月23日 12時54分54秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E7%9F%B3%E9%AC%BC%E5%85%AB%E9%9D%A2%E5%A4%A7%E7%8E%8B

魏石鬼八面大王


魏石鬼 八面大王 (ぎしき はちめんだいおう)

長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。


「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。
出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。

やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡の八女との繋がりも考えられている[1]。
坂上田村麻呂に討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。

『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられる。


『信府統記』による八面大王[編集]

松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである[2][3]。

その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁[4]がこれを討ったという。

また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある。

中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。


討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという。

                                      狐島?
  甲斐に磔にされた場所も似たような地名でしたよね。



八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。

魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える。

この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように坂上田村麻呂と藤原利仁の混同[5][6]をはじめとするおとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。

決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。


『仁科濫觴記』による「八面大王」[編集]

一方、『仁科濫觴記』にみられる記述は、

1. おとぎ話的要素を含まず、2. 実見したように詳細で、3. 歴史的整合性があり、4. 部分的に典拠も示されている、
ことを特徴とする[7]。ここでは「八面大王」という個人ではなく、8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである。

神護景雲(767年 - 770年)末から宝亀年間(770年-780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮[8])を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた。延暦8年(789年)2月上旬、朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の4代目田村守宮(生年25歳)を追手の大将とし、総勢200名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手の大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った。延暦8年2月23日(ユリウス暦3月24日/グレゴリオ暦3月28日)、作戦決行。まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市鷹狩山)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後、翌24日(3月25日/3月29日)、夜明けとともにほら貝を吹き時の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし時の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された。合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった。その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科美濃守の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持を与えて、開墾を奨励した。



坂上田村麻呂伝説と『仁科濫觴記』[編集]

『仁科濫觴記』の話は具体的であることから、この戦いに実際に参画したかあるいはその近辺にいた者による記述の可能性が考えられている[9]。これを史実として認めるとすると、上記の「八面大王」と呼ばれた盗賊団を捕えた大将とは、田村守宮であった。この田村守宮の「田村」が征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに上述した藤原利仁との混同が起る形で、さまざまな伝説として残ることとなった可能性が、仁科宗一郎氏によって詳しく考察されている[10]。


人物像[編集]

八面大王については二通りの見方がある。

英雄坂上田村麻呂の北征の際、途上にある信濃の民に食料などの貢を強い、それを見かねた八面大王が立ち上がり、田村麻呂と戦った。鬼民に迷惑をかけ、鬼と呼ばれていた八面大王を、田村麻呂が北征の途上で征伐した。

八面大王に関する場所[編集]

[11]
魏石鬼窟坂上田村麻呂に対抗するためにたてこもった岩屋。合戦沢中房温泉近くにあり、田村麻呂と戦ったとされる場所。大王神社




大王神社大王わさび農場の中にあり、八面大王の胴体が埋められていると伝えられる場所。大王社八面大王の胴体が埋められていると伝えられる場所。耳塚 八面大王の耳が埋められていると伝えられる場所。立足地区 八面大王の足が埋められていると伝えられる場所。筑摩神社松本市の筑摩神社には、首塚がある。

矢矧三宝大荒神社 矢助が矢を作ったとされる場所。


関連項目[編集]
魏石鬼窟
大王わさび農場
中房温泉
坂上田村麻呂
等々力家

へえ〜
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月23日 22時19分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて「大王わさび農場」は、何と東京ドーム11個分に匹敵する広さの
わさび田でわさびを栽培しています。北アルプスからのミネラルに飛んだ
伏流水が、わさび田の小石の底からコンコンと湧いております。そして、
そのわさび田で育ったわさびを利用して、色々な食品を作っております。
その数は今後もどんどん増えて、すばらしいわさびワールドが広がって行
くのは間違いないと期待されます。
 
 安曇野はこれにて終わり、松本のホテルへ向かう。
 松本では、松本城へ行く。松本城は数年前に内部は見ているので、外観
を見るだけにとどめ、敷地内にある私立博物館を見学した。特筆すべきこと
はございませんでした。
 そして、夜は「馬刺し」を食す。絶品、満足・・・でもやはり心の中は少
し複雑(お馬さん、ごめんなさい・・・合掌)。

 そして、いよいよ翌日の「麻績」行きを待つだけとなる。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月23日 22時48分55秒 ) パスワード

松本深志城   だったかな?

天守閣への階段がものすごく急で 
降りて来て筋肉痛になりました。

    彦根のお城の階段も物凄く急で
    この2つのお城は「階段話」で記憶に残っています。


       でもワタクシは地図上での松本市と長野市の区別が付かない人間です。
       長野は「倉嶋一族」でハッキリ記憶にあって
                 ロスでの知り合い

       松本は深志高校=日本有数の進学校というイメージで

            この2つの件で松本と長野の区別があるあたりです。



木曽とか筑摩とかホントは地図上では区別がついてないです。
麻績のお話、楽しみです。
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月24日 06時10分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そう、松本と長野の区別といいますと、松本城(平城、平地に築かれている)
の城下町と、善光寺に集約される長野との違いというところでしょうか。
 松本城は平地にあるため、遠くから見えないという欠点があり、ホテルか
ら歩いて行くのに大変苦労いたしました。おかげさまで、街中をたくさん歩
きましたので、骨董市のような通りや、城下町らしい通りや、神社仏閣も結構
あり、いい町だなと気付きました。また、文化水準の高い町だとも思いました。
 長野は信仰の町ということで、そういった意味で輝いている感じがします。
麻績から峠をこえて千曲側に入りますと、善光寺平(長野盆地)が一望でき、
とても美しい眺めではありました。今考えると、長野まですぐそこだったので、足を伸ばしておけばよかったかなと後悔しています。
 いずれにしても、松本平、長野(善光寺)平と、山間部に開けた平地(盆地)
でありますので、似ているといえば似ております。

 松本から北上すると糸魚川市へ、長野から北上すると上越市(直江津)へ
と日本海へ続いています。従って古代は日本海側が大陸に対する表玄関だっ
たので、文化・民族の流入という観点から探究するのも面白いと思います。
馬に関しても、日本種はもともとポニー種で小さかったわけで、そこへ蒙古
種、アラブ種等の馬が流入して来たということで、ある意味大変な歴史の謎
にからんで来ます。馬についての歴史資料が余りないので困っていますが、
何とか調べてみたいなあと思っています。

 さて、いよいよ麻績ですが、前回の訂正をさせていただきます。最近市町
村合併が国策としてすすめられ、村や町が市になったり大きな市に吸収され
たりしたので、村などというのは消滅したのではないかと思っていましたが、
麻績は「村」でした。正式に言うと、「東筑摩郡麻績村」でした。従って、
「麻績市」と書いてしまったのは間違いでしたので、ここで訂正させていた
だきます。

 松本のホテルにてバイキング朝食、中国からの旅行客が団体で入っている
ので、我々日本人は通常より早い時間帯より食事時間が設定されていた。こ
れは、最近日本中で言えることのようで、ありがたいことではありますが、
13億とも20億とも言われている人口の中国でありますので、日本人の
人口より日本を訪れている中国人の旅行者、流入者の数の方が多くなって、
結果として日本人は日本の中で少数民族とならないか、というようなことを
思い描いたりもします・・・。

 
 松本から麻績村までは、思っていた以上に近く、高速も入れて30分、アッ
というまに着いてしまいました。但し、詳細地図を持っていなかったため、
現地では苦労させられることになりました。結果として何人かの人に訊いた
ことが、かえってよかったことにはなりました。
 
 インターを降りて、麻績村役場へ向かう。麻績インターからすぐの所であ
る。聖高原の山裾の正に「裾」の部分に麻績村はあった。昔でいえば、松本
の方から善光寺に向う「善光寺街道」の最後の山越えの手前に位置するのが
麻績村ということになります。

 ここで、一旦切ります。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月24日 06時50分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

麻績村の人口・世帯数(平成24年6月1日現在)
男 1,410人
女 1,630人
合計 3,040人
世帯数 1,175世帯

こじんまりした集落ですね。

昔は宿場町として栄えたのでしょうね。


>松本から麻績村までは、思っていた以上に近く、高速も入れて30分

名古屋だったら岡崎あたりかしら。
隣の町という感じですね。

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月24日 07時00分09秒 ) パスワード

馬のお話



日本在来種は以下の8種。

北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。
ファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。

北海道和種(北海道):「道産子(どさんこ)」の俗称で親しまれている。
木曽馬(長野県木曽郡、岐阜県)
野間馬(愛媛県今治市野間)

対州馬(長崎県対馬市)
御崎馬(宮崎県都井岬)
トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)

宮古馬(沖縄県宮古島)
与那国馬 (沖縄県与那国島)


歴史
縄文・弥生・古墳時代[編集]

先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。

日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期ではないかといわれ、4世紀末から5世紀の初頭になって漸く乗馬の風習も伝わったとされる[8]。

高千穂地方には、これより以前の神代の時代の神武天皇が龍石という馬に乗っていたとか、垂仁天皇の時代に野見宿禰が馬の埴輪を作ったとか、ヤマトタケルも東征に際して馬に乗っていたとか、神功皇后が朝鮮半島を攻め(三韓征伐)、降伏した新羅王が自ら馬飼いになることを申し出て、鞭や馬の手入れに使う刷毛や櫛の献上を誓ったといった伝承も存在する。

しかし、これらの神話や伝承は馬事文化の始まりを示す学問的な物証とは考えられていない。


考古学的には縄文時代の貝塚から発見された馬骨が存在しているが、
これはフッ素年代法による検討により、縄文期の馬骨ではなく鎌倉時代の土坑に埋葬された馬骨が貝塚中から発見されたのではないかとする説が有力となっており、

弥生時代以前の日本列島に馬が存在し馬産が行われた証拠となる馬骨や馬具等は発見されていない。


「うま」という言葉自体、昔から和語と認識され訓読みとされてきた(今でも教科書・辞典等では訓読みとされている)が、馬の呉音「マ」という字音から転じたというのが定説となっている。


一方、3世紀前半から中期にかけての日本について記述した『魏志倭人伝』では倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいないとの記述があり、
これを信頼するならば当時の倭国には馬が存在しなかったことになる。


考古学的に馬事文化の存在を示す国内最古の遺物は、箸墓古墳(3世紀中頃)の周壕から出土した木製輪鐙である。4世紀初めの土器と共に出土したため、このころに投棄されたと推定される。

しかし、この木製輪鐙だけが他の出土馬具に比べ出現時期が余りにも早いため、この時期に馬事文化が広く普及していたとは考えられない。大きな権力を持った者だけが所有出来た稀少な存在として考えられる。


4世紀末から馬骨・馬具の出土は古墳の築造と連動して東国など広範囲で確認されており、この頃に馬事文化が大陸から日本へと運ばれたのではないかとされている。

                   山梨や長野の馬の話

日本列島における馬の渡来は東日本・中部高地において先行し、山梨県甲府市塩部の塩部遺跡の方形周溝墓からは4世紀後半代の馬歯、甲府市下向山の東山北遺跡の方形周溝墓からは4世紀末の馬歯、長野県長野市の篠ノ井遺跡群からは4世紀後半代の馬歯が出土している[9]。


5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。

群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が四万個以上パックされた地層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。


その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。

『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。



飛鳥・奈良時代[編集]

大化の改新(646年)による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では置始兎が率いて急行した千余騎や、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立った[10]。


7世紀に造られた藤原宮跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである[11]。


藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる[12]。天武天皇4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後[13]、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである[14]。



平安時代[編集]

平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが[15]、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。 また、平安時代の大乱天慶の乱の平将門は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが平家物語などに記述されている。

馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、藤原秀衡が木曾義仲に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。



鎌倉時代[編集]

10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越え(ひよどりごえ、なお畠山重忠は馬を背おって下りたという)などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして「競馬」、騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、やがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。


白石通泰の手勢

『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている[2]。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている[3]。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。


吾妻鏡によれば、1193年、横山時広が淡路国で九本の足を持つ珍妙な馬を発見し、将軍に見せたという。この馬はその後陸奥国まで連れて行かれたが、その道中皇后大進為宗の家人によって射殺されてしまったという[16]。



江戸時代[編集]

これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。

8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200〜300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000〜3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった[17]。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。


古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160センチ[18]もの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140センチ以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150センチで高幹[19]とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが[20]、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10〜15センチほど小型化していた[21]。


改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、[要出典]薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている[22]。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした[23]。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬[24]16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった[25][26][27]。明治に入ると、日本の小型の馬では欧米に対抗出来ないと考えた政府によって外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。


歌川広重「名所江戸百景」より。明治以前の日本には蹄鉄の知識がなく、馬は専用のわらじを履いていた。

江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬に用いられるものが増えてきた。(既に中世から荷馬として多く用いられていた→馬借)西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であった。また、農馬は田の耕作や木材の搬出、副次的に馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。

なお、日本には明治に至るまで蹄鉄の技術が伝来せず、馬には専用のわらじを履かせていた。



近代[編集]

明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され[28]、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争・日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ[29]、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最もポピュラーな実用家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。

[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月24日 07時18分27秒 ) パスワード

そうか麻績と松本が近いのですか。
やっぱり方向音痴なのでトンチンカンに長野が近いとばかりに思っていました。

    こういう思い込みは直せないです・・・三つ子の魂100まで間違ったままでしょう。。。汗


でも道が分からなくて紆余曲折していろいろな発見があったというのは良かったです。

    やはり表面だけのパック旅行より自分の足でウロウロ無駄をした歩き方の方がいろいろ知ることが出来ますよね。

    同じ日本人だった、って分かるし。笑


良い経験をなさいました。    
[71]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月24日 14時51分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績村では、まず「法善寺」に向かいました。しかしながらどうも地図と
のイメージが合わない。

 地図・ナビと実際の道が違って見えるのは、実際は高低差(つまり坂道)が
かなりあるのに、地図では平坦にしか見えないということが一つ。
 また、地図で表現されている縮尺と実際の距離感がなかなかマッチしない
ということが一つ。太陽が出ていない場合は、方向感覚がわからないといっ
たような状態に陥ることが一つあります。
 
 麻績村も主要道路「善光寺街道」を一歩北へ入ると、すぐ坂になっていて、
しかもその道が狭い。やはり「村」であった。

 法善寺へはすぐに着いた。門前に至る坂道の途中に看板がでていた。
「法善寺
 法善寺は、元法相宗岩襲山西谷寺と称し、奈良典福寺の末寺と推定される。、
  明應元年(1492)等、二十四世権律師西平の時代に、西谷寺は廃寺になった。
  しかし、永正9年(1512)麻績城主「服部左衛門清信」が開基となり、賢
 甫宗俊禅師を迎えて、曹洞宗佛眼山法善寺として再興、今日に至っている。」


 ここで一度切ります。



[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月24日 15時29分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


やっと「麻績」のお話が具体的に拝見出来ました。
ありがつございます。


>太陽が出ていない場合は、方向感覚がわからないといったような状態に陥ることが一つあります。

さすが男性!


わたくしの場合は、自分の右手側が東になりますから(激笑)方向感覚が分からなくなります。

新宿駅に着いて地上に出ると、いつも左手が西口のつもりです。ホントは東口。


弟と待ち合わせで上野駅に着いて弟に電話をしたら、まだ駅から外に出ていなかったし。


今は磁石を持参することにしています。
とんでもない出口に出てしまいますから。ちゃんと表示に従って歩いているつもりなのに。あはは



>「服部清信」

まさにヒバリさんのおじじさまの兄上ですね。


これで安心して今から寝られます。

続きを楽しみにしています。
でも叱られないようにね。JOB DAYでしょう?
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月24日 15時53分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そのとおりです。磁石は全く正解です。私もいつも持っておりますが、
持っていることを忘れてしまうのですから困ったものです。

 集中力を欠いて、文章がうまくまとまりませんので、家にて一眠り後、
続きを書きます。

 (でも、宮下妃羽理さん、何でヒバリなのでしょう。美空ひばりとの
共通点があるのでしょうか。私はひばりの歌が、男ながら十八番であり
ますが・・・。)
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 07時01分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、話を進めます。

 法善寺というお寺は、想像していたよりはるかに立派なお寺で、屋根の
棟木あたりに、次の紋が飾られていました。
 それは三つ―
 @四つ花菱
 A五七桐
 B久我竜胆

 開創は奈良興福寺系の岩龍山西谷寺(法相宗)で、法善寺の前身となる。

 麻績城主「服部左衛門清信」が賢甫宗俊禅師を招き中興開基、曹洞宗
佛眼山法善寺となる。

 なお、「遠州奥山村善住寺」の末寺となったのは、どういうことであろ
うか? 禅師の出身ということか? ちなみに、奥山村というのは今の
浜松市天竜区水窪町にあたる。

 その後、享保と文政の年間に、二度の火災に遭っている。
 信濃三十三番札所第一番寺である。
 
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 07時43分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 法善寺の墓地は、正面からは見えないが、裏の斜面にあった。立派な墓が
多い。墓や仏壇の大きさ・立派さは、信仰心の表れであろうか、また祖先へ
の尊崇の念からであろうか・・・。
 「宮下」という墓碑銘が見える。そう、妃羽理さんの家系の苗字だと思い
ながら見て行く。臼井がチラホラと目につく、風間、武田、網野・・・。
 墓地を一巡してみた。「宮下」の墓標は結果六基あり、一番多かった。どれ
が妃羽理さんに一番関係するのかと思いながらも、とりあえず一番立派な宮下
家の墓の前で、般若心経を二巻唱えた(もちろんその内の一巻は、あを様の分
として)。
 「服部」「麻績」の墓は、期待に反してなかった。でも「宮下」は意外に
多いということを感じ、何か予感めいたものを感じた。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 08時17分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうそう、大事なことを忘れていました。宮下家の家紋―
 それ「竹と雀」でした。

 竹と雀にはいろいろな種類があるそうで、宮下家のものは、宮下家だけの
ものなのかも知れません。写真や絵で表示すれば一番分かり易いのですが、
口頭で説明しますと―
 「丸の中に二本の竹が並んでいて、その二本の竹の上部は切り竹、即ち
V字型の切り口になっており、それらの竹を覆うように、笹が約三段くらい
はえている。
 左九時の笹の葉の間に鳥が止まっており、右三時の方向に首をひねって
いる。鳥は一見鳩のようにも見えるが、右二時の方向にもう一羽の鳥が見え、
これははっきり雀と分かる。羽ばたいて下りて来るという構図であるので、
二羽の雀に違いない。」
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時31分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


謎が謎を呼ぶ・・・



取り敢えず法相宗から   ←  すごいですね、格調高いんですねえ。さすが藤原氏がらみ?  → その後、曹洞宗へ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

日本の法相宗

日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。

653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。

658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。

703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。

717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄・も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄・は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。

8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。

元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。

1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時37分24秒 ) パスワード

わたくしの分も般若心経を唱えてくださって感謝でございます。


宮下家はかなりの力を長く持っていたということですね。


竹と雀紋
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%80%E5%AE%B6%E7%B4%8B%E3%80%80%E7%AB%B9%E3%81%A8%E9%9B%80%E3%80%80%E3%81%AF

右から3つ目でしょうか?
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時44分28秒 ) パスワード

竹と雀紋について


公家家の紋は  舞雀で
武家系の紋は  対雀つがいすずめで  口を開けているのと閉じている「阿吽」だそうです。


有名どころの武家ですと伊達と上杉ですね。

[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 09時53分15秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%AE%E4%B8%8B

【名字】宮下

【読み】みやした,みやのした,みやもと,みやしも

【全国順位】 228位  
【全国人数】 およそ100,000人



平経盛の子孫、昌辰に始まる。
ほか諏訪氏、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)など様々な流派がある。

現長野県である信濃地方に多くみられる。               そのものズバリ!

「下」は上や中に対し、低いところやふもとを表す。
「宮」は神社を表す。
                                  まさにズバリ


都道府県別ランキング
都道府県名  順位  人数


北海道 189位 およそ4,500人
青森県 824位 およそ300人
岩手県 2,005位 およそ60人
宮城県 909位 およそ200人
秋田県 1,380位 およそ60人
山形県 905位 およそ100人
福島県 621位 およそ500人

茨城県 515位 およそ1,100人
栃木県 466位 およそ800人
群馬県 128位 およそ3,200人
埼玉県 242位 およそ5,300人
千葉県 322位 およそ3,200人
東京都 207位 およそ10,000人
神奈川県 268位 およそ5,600人

新潟県 150位 およそ2,800人
富山県 212位 およそ1,000人
石川県 46位 およそ3,100人
福井県 81位 およそ1,700人

山梨県 25位 およそ4,900人

         長野県 13位 およそ14,000人        さすが!

岐阜県 509位 およそ700人
静岡県 380位 およそ1,600人
愛知県 378位 およそ3,400人
三重県 384位 およそ800人

滋賀県 501位 およそ500人
京都府 349位 およそ1,300人
大阪府 301位 およそ4,900人
兵庫県 282位 およそ3,400人
奈良県 406位 およそ600人
和歌山県 203位 およそ900人

鳥取県 676位 およそ100人
島根県 1,074位 およそ80人
岡山県 747位 およそ400人
広島県 411位 およそ1,200人
山口県 1,077位 およそ200人
徳島県 703位 およそ200人
香川県 272位 およそ700人
愛媛県 299位 およそ900人
高知県 644位 およそ200人

福岡県 551位 およそ1,600人
佐賀県 1,360位 およそ60人
長崎県 629位 およそ400人
熊本県 408位 およそ800人
大分県 591位 およそ300人
宮崎県 493位 およそ400人
鹿児島県 123位 およそ2,300人
沖縄県 2,479位 およそ10人
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 10時04分21秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/rockfish384/zakki4.htm


信濃国源姓宮下氏族          これは違うでしょう 
 
信濃国上伊奈郡伊賀良村に清和源氏の末裔で、その祖を新羅三郎義光とし、
宗基佐太郎川中島合戦に功があり、其子源助に至り武田氏没落後民間に下り宮下氏と号しました。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F

諏訪氏の中にも宮下氏あり

             これは近いでしょうね
             諏訪の娘で信玄の側室となった女性の母上は麻績=小見氏ですから
             諏訪家と関係があった家でしょう。

神家一党33氏[編集]

以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。

関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、禰津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏

その他の諏訪氏一族[編集]

岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、

                        宮下氏、

宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏

「澤」のつく庶族[編集]

栗澤氏、藍澤氏、宮澤氏、中澤氏、元澤氏、唐澤氏、福澤氏、藤澤氏、松澤氏、大澤氏、増澤氏、谷澤氏、吉澤氏、金澤氏、柴澤氏、平澤氏、米澤氏、蕗澤氏、胡桃澤氏、神澤氏、大澤氏、能澤氏、粟澤氏、駒澤氏、西澤氏、北澤氏、奥澤氏、前澤氏、横澤氏、赤澤氏、蘆澤氏、白澤氏、樋澤氏、戸澤氏、立澤氏、三澤氏、石澤氏、廣澤氏、岡澤氏、柿澤氏、長澤氏、尾澤氏、鳴澤氏、柳澤氏、瀬澤氏、古澤氏、金澤氏、澤氏、鮎澤氏、入澤氏、木澤氏、笹澤氏、田澤氏、野澤氏、小澤氏、菅澤氏、増澤氏、二澤氏、桜澤氏、有澤氏、黒澤氏、味澤氏、矢澤氏
[82]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 12時48分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今より復帰します。

 そう、宮下家の家紋は、竹が二本で雀が二羽。一羽は口を閉じ、一羽は口
を閉じて舞っている。ということは、公家と武家の混合型ということになる
のかも知れませんね・・・。

 私の知る宮下氏といえば、京都で出会った宮下氏―この方は、山梨出身で、
宴会ではよく「武田節」を歌ってました。
 もう一人は、女子バレーの大型セッター宮下です。昨夜もキューバ戦でみ
ごとな働きをいたしました。

 話を先に進めます―

 次に行った所は、法善寺の墓地の手前に二叉路があり、その坂を距離にし
て200m位回りくねりながら登った所にある「信濃観月苑」という所であ
ります。特段の目的はありませんでした。ただ、どんな所か参考に見ておこ
うと思っただけでした。
 ここは、はしょって記します。
 観月苑の玄関から左手方向に「村宝 十一面観音立像」があるということ
で、細い山道を五十m位行くと、六角堂があり、その中に観音像があった。
お参りをして、左手奥の道の先を見ると何やら建物があるようであったので、
駆け足で向かった。そしたら何と「待月亭」という屋根付の観月台があった。
そこからは、正面に冠着山(かむりき山 千曲側からは姨捨山と言う)が見え、
中秋の名月を見るさぞかし絶好のスポットであろうと想像しました。
[83]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 13時47分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次に向かったのは、「麻績氏居館跡」であった。インターネットで調べて
麻績宿の街道脇にあるはずであったが、いくら探してもない。交番で訊こう
と交番の駐車場へ車を止める。しかし交番は留守。近くに観光案内の看板が
あったので、調べる。そこから西へ二筋目の道を登った所である。道といっ
ても車で行けそうな道はここでは少ない。人馬、リアカー類用の道が多いの
である。
 道の概念が違うので、間違って一本道を早く曲がってしまったが、坂の上
を見ると囲われた墓がある。麻績氏の墓かなと思いつつ、登って行くとおじ
いさんが畑仕事をしていた。ちょっと訊いてみた―
 「この辺に、麻績氏の居館跡はございますか」
 おじいさんは、
 「うーん」とうなり、
 「ここにはないよ。確かこの西に記念碑が建っている」と言った。
 「では、ここにあるお墓は?」
 「それは、私設のお墓だよ。麻績氏の墓なら、カイゼンジにあるよ」
 と言って道を説明してくれた。カイゼンジとは開前寺と書くのかなあと
思いながら、
 「ありがとうございました」と礼を述べて坂を下った。

 「麻績氏居館跡」の碑は道の突き当りの民家の入り口の右手に建っていた。
 「麻績氏居館跡」と正に書かれている。
 そこからぐるっと左に回り、更に坂道は続いていた。あちこちにお墓がある。
 これは、お寺とお墓は別々のものであった時代の名残であろうか。
 途中でまた石碑が見え、そこにはこう書いてあった。
 「右 麻績城入口 左 虚空蔵山入口」
 つまり右手の坂を登って行けば、麻績城跡に行けるということである。
 登るには十五分位かかるらしい。すでに汗だくだくである。
 城跡ということで、得られる情報もそうないだろうと思い、登るのは止める
ことにした。


[84]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 13時50分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次はいよいよカイゼンジです。

 これから図書館へ本を返しに行って来ますので(返却の期限日)、一時中断
いたします。
[85]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 17時21分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、「カイゼンジ」の話になります。
 ナビや地図には載っていない寺でありました。おじいさんの説明してくれた
場所を目指して行ったのですが、寺が見えない。山の方へ向かってみると寺の
屋根が見えた。たぶんこれかなと思って再度近くへ行くが、道がない。という
ことで、ぐるっと大回りして田んぼの畔道を走る。へたをすると田んぼにはま
ってしまうおそれがあるので慎重に行く(かつて高槻に行った時、バックした
ら溝にはまり、JAFを読んだことがあった)。
 まずは墓地に着いた。そしてその隣に寺があった。寺の名前は「海善寺」で
あった。「海」の字が入っているのは何か新鮮な感じであった。。そしてそこ
で、わたしはビックリするものに出会ったのであります。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 21時23分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


>そしてそこで、わたしはビックリするものに出会ったのであります。


いやぁ〜ん、ぞくぞくするぅ〜


思わず椅子から降りて走ってしまいましたよ。

「もの」ということは「 紋?」と思いましたが。


   まさかマムシとかシマヘビとかじゃないでしょうね。笑


カイゼンジって「海善寺」なんですか。
へえ〜
さすが長野!

「善」の字
それに「海」というのが「海野?」と連想しました。


さぁ、何でございましょう?
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 21時54分03秒 ) パスワード

http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html


長野県のご先祖調べ


令制国の信濃国にほぼ相当します。
(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入)
古代は「科野(しなの)」の文字を用いています。



■戦国期以前の長野県

 南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いがありました。

そこに、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が加わり複雑な対立関係がつくられていました。


 そのため信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まりました。



主な勢力としては、

越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高井郡の高梨氏(中野城)、
埴科郡の村上氏(葛尾城)、
関東管領上杉氏の被官である小県郡の海野氏・真田氏(戸石城)、
佐久郡の大井氏(岩村田城)・伴野氏(大井城)、
安曇郡の仁科氏、
諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏(高島城)、
信濃国守護職の小笠原氏(林城)、
木曽谷を領す木曽氏(福島城)、
伊那郡の保科氏(高遠城)・伊那小笠原氏(松尾城)・知久氏(神之峰城)があります。


戦国時代も後半期になると、

甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられます。


信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、「本能寺の変」で信長が死ぬと徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出します。 その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になりました。


現地調査では、武田信玄・上杉謙信時代の古記録や伝承を見聞きできます。

信玄は甲斐(山梨県)ではヒーローですが、信濃では征服者ですから特に佐久地方では悪役で通っているようです。

佐久で、だけ?



■長野県の名字

戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。


長野県を概観すると、
清和源氏がほぼ全域にわたり広がり、
諏訪地方に諏訪神家党、
安曇郡地方に仁科氏を中心とする桓武平氏、
小県郡佐久郡に滋野一族があります。


以下は長野県発祥の名字です。
この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。



 埴科郡の村上氏流・・・入山・山田・今里・屋代・上条・下条・栗田・千田・小野・寄合・小野沢・飯田

 高井郡の井上氏流・・・高梨・米持(よなもち)・時田・桑洞(くわぼら)・芳美(はみ)・須田・村山・保科(諏訪神家の分れともいう)

 木曽谷の木曽氏流・・・上松・三富・野路里・馬場・熱川・高遠・上総・千村・市岡・沼田・山下・原・寺尾・安食野(あじきの)・黒川・立石


 信濃国守護職の小笠原氏流・・・赤沢・大井・八代・小田・藤崎・鳴海・大倉・下条・上野・米田・麻積(おみ)・勅市(てし)・益田・内村・長坂・高畠・矢田・山中・ 勅使河原(てしがわら)・丸茂・常盤・島立・西条・坂牧・下枝・岩尾・長窪・小諸・耳取・平原・安原・志賀・板鼻


 諏訪氏流(神家党)・・・知久・片倉・笠原・中沢・藤沢・座光寺・中尾・沢・平林・宮処・平出・小田切・手塚・武井・山田・宮下・金山・桑原・宮川・中尾・下平・沖・ 関屋・深沢・皆野・三塚・若尾・四宮・岩波・高木・浜・横田・保科・宮崎・海口・中島・茅野・松島・上原・矢・・栗沢・向山・中野・桜山・西保・真野・肥間・ 福島・平島・遠山・大妻・風間・小島・有賀・花岡・安部・保坂・元沢・小坂・春日・浦野・大塩


 小県郡の滋野氏流・・・海野・根津・望月・鎌原・西窪・羽尾・小田切・会田・塔原・田沢・清野・大塚・光野・真田・中村・湯本・春原・岩下・横尾・浦野・野々口・ 諸星・樋口・吉川・吉宗・城・清原・西山・福満・福島・豊田・浜岡・池長




 長野県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。

1小林 2田中 3中村 4丸山 5伊藤 6佐藤 7清水 8高橋 9山崎 10宮沢
11林 12柳沢 13宮下 14山田 15原 16竹内 17渡辺 18滝沢 19中島 20小松


長野県の名字の特徴の一つに、「〜沢」の名字が多いことがあげられます。
トップ20にも、宮沢・柳沢・滝沢が入っています。


     長野県には谷が多く、「〜沢」の地名がたくさんあります。これらの地名を名字にしていることと関係しています。



 また長野県は南北に長いため、北信・東信・中信・南信で名字の特徴が異なっています。


       第1位の小林は北信地方に多く、第4位の丸山は中信に多くあります。




■江戸時代の長野県

 江戸時代の信濃国は多くの藩領・天領・旗本領・寺社領にわかれていました。

廃藩置県時に長野県に存在した藩は以下の通りです。


藩名 城下町 主な藩主の変遷

松本藩 松本市 水野氏→戸田氏
上田藩 上田市 仙石氏→藤井氏
飯山藩 飯山市 本多氏
小諸藩 小諸市 牧野氏
岩村田藩 佐久市 内藤氏
高島藩 諏訪市 諏訪氏
高遠藩 伊那市 保科氏→内藤氏
飯田藩 飯田市 脇坂氏→堀氏
須坂藩 須坂市 堀氏
松代藩 長野市 真田氏

この他に木曽地方は尾張国名古屋藩領があり、伊那郡内には美濃国高須藩・陸奥国白河藩、 高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地がありました。


その他に善光寺、諏訪大社などの寺社領、天領、旗本領もありました。



 藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。よって前の領地との関係も考える必要があります。

「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。詳しくは各藩の項を参照してください。



■長野県の家紋
 長野県の使用家紋をみてみましょう。

『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、長野県の家紋トップ10は次の通りです。

1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 木瓜 4位 沢瀉 5位 蔦 6位 柏 7位 藤 8位 橘 9位 竹笹 10位 菱・花菱


 日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と桐紋がランク外となり、かわりに竹笹紋と菱紋がランク入りしています。


さらに地域別にみてみると、

長野県北部はトップ10に日本の十大家紋がそろいます。
県中部・南部になると梶紋や文字紋、竹笹紋がベスト10入りします。


このなかで長野県の代表する家紋は梶紋と菱紋です。

梶紋は、諏訪大社の神紋として知られています。
梶の木は神聖な木とされ、その葉は供え物の敷物に使われました。 神官や神社に奉仕する家々は梶紋を家紋として使用するようになり、 さらに諏訪氏の一族や諏訪大社を信仰する者の間で広がりました。

長野県の中・南部に梶紋が多いのは諏訪一族と諏訪信仰の広がりによるためです。
長野県出身で梶紋を使っているとすれば、諏訪氏一族といわないまでも、 先祖が諏訪信仰と関係していたかもしれません。



一方の菱紋(三階菱、松皮菱紋)は小笠原氏族の代表紋です。
小笠原氏の同族武田氏は四つ割菱紋を使っています。 甲斐源氏の流れを組むもの中に菱紋を使っているものが多いようです。
小笠原氏の家臣には菱紋と別の紋を組み合わせている者もいます。



■長野県の寺院
 長野県の寺院をみてみましょう。

『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、長野県の宗派別の割合は以下の通りです。


  県北部
(長野・飯山など) 県中部
(松本・上田・諏訪) 県南部
(伊那・飯田)
天台宗 5% 5% 6%
真言宗 9% 29% 11%
曹洞宗 40% 39% 38%
臨済宗 1% 4% 23%
浄土宗 19% 13% 9%
浄土真宗 25% 5% 9%
日蓮宗 1% 5% 9%

長野県全体を通して曹洞宗寺院が最も多くありますが、2位以下には特徴があります。

 県北部は曹洞宗以外に浄土真宗・浄土宗の寺院が多くあります。真宗は新潟県の真宗勢力と関係があるようです。



県中部は曹洞宗・真言宗の勢力が強く、

県南部は曹洞宗・臨済宗の禅宗勢力圏です。

他地域に少ない臨済宗は木曽・上伊那地方に多いようです。


真言宗や曹洞宗・臨済宗は墓石を建てる宗派ですので、比較的に古い墓石が残されています。

      調査においては大きな味方になってくれます。



■長野県の神社
 信濃国一之宮は諏訪信仰の総本社諏訪大社です。その関係から県中部・南部を中心に諏訪神社が数多く創建されています。

 主祭神は大国主命の御子神建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。


 『古事記』では次の説話が記されています。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りを迫った時、建御名方命は反対し、武甕槌命に相撲を挑みましたが負けてしまい、 諏訪まで逃れました。そして以後は諏訪から出ないで、天津神の命に従うことを条件に許されたとされています。


 諏訪大社には、大祝(おおほうり)を筆頭に五官の神職が置かれました。

上社 大祝:諏訪氏(神氏。祭神・建御名方神の後裔) 
    神長官(じんちょうかん):守矢氏
    禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏 
    権祝(ごんのほうり):矢島氏 


下社 大祝:金刺氏(科野国造の後裔)のち武居氏 
武居祝(たけいほうり):武居氏
[88]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 22時14分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そこにあったのは、家形の告知板であった。告知板には次の通り書かれて
いた―
 「伝 麻績城主服部左衛門清信の供養塔(村宝)
  海善寺は真言宗で、古くは光明院戒全寺といわれたが、文亀元年(1501年)
に裏山が崩落し、堂宇も倒壊したため、現在地に移転再建し、寺名も上野山
 海善寺と改められた。創建は出土した石塔群の時代判定から、鎌倉時代と考
 えられている。またこの寺は、東に所在する麻績神明宮の神宮寺であろうと
 いわれ、朝夕の祭祀に通ったと伝えられる。寺から筑北中学校の校庭を通り
 神明宮へと通じていた一直線の道の名残が今も見られる。
  この多宝塔・五輪塔の二基は、室町時代末期(16世紀初)、麻績城主とし
 て入部した服部左衛門清信・加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)の供養塔
 であると伝えられてきている。しかし、昭和62年に専門家に鑑定を依頼し
 た結果、二基とも鎌倉時代と室町時代の組み合わせであろうと推定された。
  一方、先祖(伯耆守を襲名)が麻績神明宮の神官職を世襲していた宮下家は、
 宮下家文書の記述にもある通り、清信の弟加信斎を養子として迎えているの
 で、この二基の先祖の供養塔を代々丁重に供養し、管理してこられた。
  多宝塔・五輪塔には欠落した部分もあり統一された構造とは言いかねるが、
 優れた中世の古様を示す石塔群としての価値は高く、また、宮下家や本町民
 を始め、心ある里人たちが城主の供養塔として永年にわたり奉仕し守護し
 続けてきた歴史は重い。
  この度、県文化財保護協会長による専門的視野からの調査報告を基に、今
 後とも保護活用に値する貴重な文化財として、この石塔群を村宝に指定した。

    もともと、この石塔群はこの西側の松の根本に安置されていた。
    年々参詣者が増えてより、広い場所への移転の要望が高まる中、
   宮下家と本町区民の皆様の理解と協力を得て、現在地への移転が
   実現した。

                        平成19年3月
                        麻績村教育委員会  」
 
 この案内板の奥に、小屋(全面開放型)があり、真ん中に角柱の墓石、その
左右に多宝塔、五輪塔が並び、さらにその左右に燈籠がシンメトリックに
建てられていた。
 青味がかった墓石には、文字が刻まれ、白い顔料で上書きされていた―
 「麻績城主  服部左衛門尉清信
  神明宮神主 服部左衛門尉加信斎
                      平成18年3月吉日
                      加信濟ヨリ拾貳代
                        宮下利政 正博 父子」

 ここで宮下家の系譜が鮮明になった。服部家の血が神職宮下家に確かに受
け継がれたのである。

 
[89]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月25日 22時28分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがすれ違いました。情報読ませていただきます。

 前レスの文尾に追加:「服部左衛門清信と服部左衛門加信斎」の墓の前で、
           般若心経を二巻上げました。もちろん一巻はあを様分
           であります。

 続きは明日とします。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月25日 22時47分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

驚きました。


>服部左衛門清信・加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)

兄弟でありながら父子でもある、
ということで合ってますね。

  
日本は家を守るために人間関係がややこしい道を辿ったので厄介ですね。

    兄弟だ
    いや親子だ

    いえいえ真相は兄弟で父子だった
    
          中には子なのに弟になる、というのも有りますしね

    でも、それで家が続いて先祖のお祀りを今に至るもしている
    というのはたいしたものです。


>宮下利政 正博 父子

いいですね、後世に謎を残さなくて。

    きっとご先祖さまの続柄でゴタゴタ言われたからハッキリ書いたのでしょうね。


名家は大変ですね、他人にガタガタ言われてしまいますから。




>前レスの文尾に追加:「服部左衛門清信と服部左衛門加信斎」の墓の前で、般若心経を二巻上げました。
            もちろん一巻はあを様分であります。

ありがとうございました。
思わず涙がこぼれました。


みんな頑張って生きていたんですね。
元気や勇気が出て来ます。


後世に、ほんのちょっとのご縁で、訪ねる人があり、またお経を上げてもらえるなんて
服部左衛門清信公と服部左衛門加信斎公は良い御子孫をお持ちです。
[91]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 08時29分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜、ビックニュースが飛び込んできました。
 再来年度の大河ドラマは、井伊谷の井伊直虎(女城主)に決定したという
ことです。
 龍潭寺の前住職武藤全裕氏の提言、磯田道史先生のバックアップが功を
奏したのでしょう。
 再来年は、井伊谷は観光客で一杯になります。
 
[92]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 11時49分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 海善寺は本堂だけの寺で、住職はいませんでした。本堂に向かって右側の
奥に、屋根に覆われた「服部家」の墓・多宝塔・五輪塔があり、その前に一団
の墓石群がある。その中に、宮下家を代表した新しい墓石と多宝塔が建てられ
ていた。宮下家の墓は古いものは判別できないが、いくつかあるように思え
た。
 本堂左手には、右手墓石群の3倍位の面積、及び墓石群があった。前面に
五輪塔と宮下家の墓が並んで建っていた。左手の墓石群の中に、宮下家の墓は
全部で12基程あり、右手の墓石とあわせて、全体では判別できないものも
含めて20基はあるだろうと推察された。この墓地の中ではダントツに多い。
そういえば、麻績村の床屋さんも電気屋さんも宮下姓であったので、世帯的に
はかなりの数あるのかなとも思いました。

 最後に、もう一度宮下家の代表墓石と多宝塔に向けて、般若心経を二巻唱え、
次の目的地、麻績神明宮に向かいました。
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月26日 12時33分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


再来年は直虎さんですか。


良かったですね
皆さんの思いが通じましたね
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月26日 12時46分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


    また消してしまいました・・・悔しい!



>最後に、もう一度宮下家の代表墓石と多宝塔に向けて、般若心経を二巻

良いご挨拶になりました。
ヒバリさんのご先祖さまに心よりのご挨拶になりました。


もしかすると我々とも繋がっているのかも知れないですね。



>麻績神明宮

楽しみです。
[95]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 14時13分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 仏教伝来前はほとんどが神道だったと思われますが、その後の仏教政策、
またそのずっと後の神仏分離政策により神道と仏教は分離されたはずで、
本当は両者は相いれないものなのでしょうが、お寺に行くと神道の人たちの
墓標も確かにあるのです。
 一般的には神主さん等神職関係者が亡くなられた場合は、お墓はどこに
建つのでしょうか。
 お寺の墓地の中に神道の墓を建てるということ、本当のところできるのか
できないのかその辺を知りたいと思ってます。

 その件が先ほどの海善寺=「神宮寺」という概念につながってきます。
 松島氏の系譜の中にも「八幡寺」というのがありましたので、神社で
寺というのは一体どういう形であったのか・・・。

 神道と仏教の融合・・・仏教の中に神道を組み入れたのか、神道の中に
仏教を取り込んだのか・・・探究しなければならないテーマであります。

 では、進めます―
 
 麻績神明宮は、海善寺のすぐ近く、距離にして1qはない位の所にあり
ました。車で2〜3分といったところでしょうか。「宮本」という地名の
所にありました。正に字のとおりの場所です。一の鳥居は門前より遥かに
離れて建っていました。門前右側にどういう訳か、福祉関係の大きな建物
が建っていました。その向かい側に現場事務所がありました。
 よく見ると、鳥居(二の鳥居)の隣の建物に工事用の足場が掛けられ、全体
を覆うようにシートが張られておりました。即ち、工事中ということ。
 それでも、ここまで来た以上は何が何でも見て行こうと思い前進。右側に
社務所を見て、次に左側に神楽殿、そして正面に拝殿と奥まで入って行った。
その裏に本殿があるはずである。工事中なのは、入り口近くの「舞台」と呼
ばれる建物だけなのであるが、拝殿の左奥に「仮殿」が設けられていて、
そこで参拝をしなさいということらしい。
 二礼二拍手一拝の動作の中で、服部氏・宮下氏・祖霊を想い、あを様の分
も一緒に心からのお祈りをいたしました。
 何かしら晴れやかな気分になりました。ちょうど以前、高槻の「服部連塚」
でお祈りを済ませた後と同じような高揚感であった。


[96]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月26日 15時13分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 神主が亡くなったらどう祀る―その答えがここにありました。
 神明宮の正面右手、例の福祉関係の建物の裏になりますが、そこにビックリ
するものを見たのでした。

 低い石柱の塀で囲まれ、杉の木立の下の苔むした一画にそれはありました。
総数約20・・・石でできた祠でありました。
 本当は神聖な場所なので立ち入り禁止かも知れなかったのですが、特に
注意書きはありませんでしたので、中に入って一つ一つをよく観察いたしま
した。
 わかったこと―それは、それらのほとんどが「宮下」氏の代々を祀った
祠だったのです。どれが誰のという識別はちょっと難しくてできませんでした
が、書かれていたことをいくつかランダムにに記しますと―
 「宮下出雲守 藤原重吉」
 「宮下日向之墓」(墓標)
 「宮下日向守 藤原種安」
 「宮下民部祐 藤原種長」
 「宮下権頭 藤原○定 神霊」
 「神主 宮下権頭○光」
 「宮川豊後正 藤原○○万」
等であります。
 
 このことより、神主は神社の敷地内、あるいは近くの一画に、祠として祀
られる、即ち神として祀られるということになるのでしょうか。
 神主の場合は、初めて見ましたので、驚きを隠せませんでした。
 帰り際に、祠の神々に向かって、あを様の分も含めて静かにお祈りを捧げ
ました。
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月26日 22時36分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


背筋がゾクゾクする書き込みでした。
わたくしの分も、ありがとうございました。


宮下家ばかりでしたか。
そしてヒバリさんのおっしゃってたように 本姓藤原氏  俗姓宮下氏  ですね。


ヒバリさんのお家は 本姓藤原  俗姓服部  そこから宮下家を名乗った?継いだ?


この宮下家がどこに繋がるか、ですね。
ヒバリさんは元は 藤姓服部氏。

   わたくしは  宮下氏自体は 諏訪大社系宮下氏かな?と思ってましたが
   ここの所がハッキリしないですね。

   麻績神明宮はどの神様をお祀りしていらっしゃるのでしょうね?

   神紋については、ヒバリさんの画像からは、日の丸紋のようなイメージを受けました。
             
       赤い○のようで、梶紋には見えませんでした
       笹に雀のようにも見えませんでした。

 

もともと宮下氏は神職だったのか?
そこへ16世紀の初めに服部家から宮下家に入ったのか?



神主さんのお墓のことは次回神社にいらっしゃった時に是非ご確認を。


ちょっと感動が過ぎて頭が混乱しております。



スレッド49をご用意致しました。
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