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 投稿番号:101485 投稿日:2015年08月26日 22時32分22秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XL\(M氏家譜13+信濃麻績あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101481_96.html
長上郡の服部氏族XL[(M氏家譜12+市野氏解明済?)スレッド48の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 08時56分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績神明宮の由緒書きはありませんでしたが、『善光寺道名所図会』によ
ると、外宮の豊受皇大神が主神となっています。麻績御厨(伊勢神宮の荘園)
からは、伊勢神宮へ鮭、鮭の子、かち栗、干しナツメ等を送っていたという
ことであります。

 1107年に、麻績郷と近辺に7つの神明宮が勧請されたということで、
その時に神官一族も集団移動して来たということです。

 そもそも麻績郷の成立も「麻績部」移住によるものと考えられています。
麻績部は麻織物の職業集団で、その発祥の地は伊勢国多気郡麻績郷(松阪市)
であります。

 妃羽理さんによれば、麻績城主の服部清信の麻績での祖は、麻績の地頭と
して派遣されて来た「服部伊賀守」(具体的には誰か?)、即ち伊賀服部半蔵
系の祖という。また、さらにさかのぼれば祖は「服部連」となると思われま
す。

 麻績城主服部清正は、上杉氏に反旗を翻して松本の小笠原氏についてため
に、上杉氏によって滅亡させられたということですが、その一族がすべて全
滅したということではないはずです。

 清正の父は清信。叔父に、海順坊という海善寺住職がおり、その下の叔父
に加信斎(清信の叔父とも父とも言われる)がいる。

 清正にも何人か兄弟がいる。

 これらの家族の後裔は絶対にいるはずである。服部氏の直系も生き残って
いる確率は高いと思います。

 服部清信の娘(即ち清正の姉か妹)が諏訪頼重に嫁ぎ、湖衣姫が生れ、後に
信玄の側室となり武田勝頼を生んでいるということである。
 その他の清正の兄弟は? 清正の子供たちは?
 麻績の服部氏の系図がほしいです―
 

 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 10時22分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごいお話が出て来ましたね。
ヒバリさんがおっしゃってた事はホンの一部でしたね。


すごい家ですね。


もともとが諏訪大社に決してひけを取らない存在の家で

その上に服部家出身のの小見の方が美しい女性だった
だからその娘は幼いのに、信玄はいずれ母親のような凄みのある美しい女性になるだろうから、
ということで「諏訪の娘」をさらって来たんでしょうね。

   正妻の三条の方は京都の女性ですから  はんなり たおやかな 美しい女性だったのでしょう

   三条の方に比べたら小見の方は濃艶な感じのコッテリ・グラマーなタイプだったのかも。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 10時28分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

1.
ヒバリさんの産土神社は  足柄神社   だそうです。  
お家から30分?
2kmぐらい?


2.

ヒバリさんのお家の家譜が岩殿寺文書だったような?

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101435_65.html
レス<36>

岩殿寺(がんでんじ)は長野県東筑摩郡筑北村(旧坂北村)にある天台宗の寺院。山号は富蔵山(とくらさん)。本尊は馬頭観音。信濃三十三観音霊場15番札所。


所在地
長野県東筑摩郡筑北村別所13505

位置
北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒座標: 北緯36度26分6.3秒 東経137度59分37.1秒

山号
富蔵山

宗旨
天台宗

本尊
馬頭観音                                       コレ!


3.
レス<32>に

     服部半蔵は全部で12人います


これについても知りたいですね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 10時41分49秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご親切なレスを、ありがとうございます。


>『善光寺道名所図会』によると、外宮の豊受皇大神が主神となっています。

    天照でないのもなかなか面白いですね。



>麻績御厨(伊勢神宮の荘園)からは、伊勢神宮へ鮭、鮭の子、かち栗、干しナツメ等を送っていたということであります。


昔は日本海から川を遡って来る鮭がたくさんいたとどこかで読みました。

鮭の子=イクラ
も塩漬けにして送っていたんでしょうね。



>麻績部は麻織物の職業集団で、その発祥の地は伊勢国多気郡麻績郷(松阪市)
であります。

http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/3acc278173752301c468245bda6deed5


166 伊勢麻績君と神御衣祭

大国主の誕生166 ―伊勢麻績君と神御衣祭―


 『日本書紀』には次のような記事があります。

 7年の春2月に天皇が神浅茅原に八十万の神々を集めて占うと、
大物主の神が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトビモモソヒメノミコト)に憑依して、
 「国が治まらぬことを憂うる必要はない。吾を祀れば必ず国は安らかになる」

と、告げたので、天皇は大物主の祭祀を行ったが、疫病は一向に治まりはしなかった。
そこで天皇が再び神に占うと、その夜、天皇の夢の中に大物主の神が現れ、
 「天皇よ、憂うるではない。国が治まらないのは吾の意思である。
わが子オオタタネコに吾の祭祀を行わせればたちどころに国は治まり、また海外の国もおのずと従うであろう」
と、告げた。

 8月に、倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサヂハラマクワシヒメ)と、穂積臣の祖大水口宿禰(オオミクチノスクネ)と、伊勢麻績君(イセノオミの君)の3人が共に同じ夢を見て、

天皇に、
 「昨夜夢の中にひとりの貴人が現れまして、『オオタタネコノミコトをして大物主大神を祀らせ、イチシノナガオチをして倭大国魂神を祀らせれば必ず天下は治まる』と申しました」 
と、報告をした。

このことで、天皇は、これは間違いないとお考えになられ、オオタタネコを見つけだして大物主大神を祀らせた。

 この記事によれば、崇神天皇に大物主の神託があった後に、3人の人物にも大物主の神託があったことになるのですが、それでは、この3人に共通するものは何なのでしょうか。

 倭迹速神浅茅原目妙姫はヤマトトヒモモソヒメのことと解釈されていますが、だとすれば、大物主の巫女であり妻でもある人物なので、神託があって何ら不思議はありません。


 伊勢麻績君は伊勢国多気郡麻績郷に関係した人物だと考えられています。


 麻績郷は、現在の多気郡明和町ですが、
隣接する松阪市には神服織機殿神社(かんはとりはたどの神社と神麻績服殿神社(かんおみはたどの神社)が鎮座します。


 この両社は皇大神宮(伊勢神宮の内宮)の所管社で、伊勢神宮の祭礼のうち、神御衣奉織始祭(かんみそほうしょくはじめさい)、
神御衣奉織鎮謝祭(かんみそほうしょくちんしゃさい)が行われる社です。

 神御衣奉織始祭も神御衣奉織鎮謝祭もともに、伊勢神宮の神御衣祭(かんみそさい)の一環として行われるものですが、
それでは、そもそもこの神御衣祭とは何かと言うと、毎年5月と10月に、内宮の御正宮と荒祭宮に和妙(にぎたえ=絹織物)と荒妙(あらたえ=麻織物)の2種類の神御衣を奉る祭礼のことで、御衣祭(おんぞさい)とも呼ばれています。


神御衣奉織始祭は神御衣が清く美しく織り上がることを祈る祭礼で、
神御衣奉織鎮謝祭は美しく織り上がったことを感謝する祭礼です。

うち、和妙は神服織機殿神社に、荒妙は神麻績服殿神社に奉織されます。



 『倭姫命世記』にも、

 「麻績の郷と名づくるは、郡の北に神あり。この神、大神の宮に荒妙の衣を奉る。神麻績の氏人等、この村に別れおりき。よりて名となす」

と、いう記事と、

 「神服機殿(かむはとりどの)。倭姫命、飯野の高丘の宮に入りまし、
機屋(はたや)を作りて大神の御衣を織らしめたまいき。高丘の宮より磯の宮に入りまし、よりて社を其の地に立てて、名付けて服織の社(はとりのやしろ)という」

と、いう記事があります。


さて、ここで思い起こさせるのが、大物主の神託があった前後の出来事
です。


 この頃、大和では疫病が猛威を振るい、多くの人民が死亡したと『日本書紀』は伝えています。

 そこで、それまで宮中で天照大神と倭大国魂神を祀っていたものを、
それぞれの神の勢いが強すぎて結果よくないことが起きていると考え、
天照大御神を笠縫邑に遷しました。

 現在の笠縫の近くに位置するのが例の多神社です。


 『多神宮注進状』によれば、多神社の祭神は珍子賢津日霊神尊(ウツノミコサカツヒコ)と天祖賢津日女神尊(アマツヲヤサカツヒメ)とされていますが、社伝の「社司多神命秘伝」によると、天祖賢津日女神尊は天疎向津媛(アマサカルムカツヒメ)のことであるといいます。

すなわち天照大御神の荒魂である、というのです。
 

また、珍子賢津日霊神尊はアメノオシホミミである、と「社司多神命秘伝」にはあるので、多神社の祭神は母子神ということになり、御子神の父神は、多神社から見て日読みの方角に位置する三輪山に坐す神、すなわち大物主と考えられるわけです。

 『古事記』には天照大御神が自ら神衣を織る場面があり、これはかつて天照大御神が巫女神であった名残だと考えられる、と前にお話ししましたが、以上のことを総合しますと、伊勢麻績君もまた大物主の祭祀に関係していたと考えられるのです。


 それでは残る穂積臣の祖大水口宿禰(オオミクチノスクネ)も大物主の祭祀に関係していたのでしょうか。

 穂積氏の女性だとされるオトタチバナヒメが行った儀礼に海神の儀礼が重なると指摘しましたが、穂積氏の出自は大和国山辺郡穂積(天理市前栽町に比定)と言われています。

 その穂積氏が海神と関係があるのはどうしてなのでしょうか。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 10時53分11秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is080218-03.html

織殿神社


文字化けで読めません。

     【延喜式神名帳】大海田水代大刀自神社 伊勢国 多気郡鎮座 ...
     この地は麻績郷と呼ばれた地域で、一帯に勢力を持った麻績氏が創建したと伝。
      ... かんみそさい)に荒妙を供える神麻續機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ、松阪市井口中町)
     に奉仕した人々の中 ...



復習
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE

機殿神社


神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)はいずれも三重県松阪市にある神社。元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残している。

両機殿で行なわれる御衣奉織行事は松阪市の無形民俗文化財に指定されている。



両機殿共通事項


社格等
皇大神宮所管社

創建
伝垂仁天皇25年


      垂仁天皇

      http://www.sen2.net/contents/history/rekichi/59968815/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

本殿の様式
神明造

主な神事
神御衣奉織始祭
神御衣奉織鎮謝祭



歴史[編集]

『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。『伊勢二所太神宮神名祕書(神名祕書)』に同様の記述がみられるが、『倭姫命世記』と同様で鎌倉時代の弘安8年(1285年)に度会行忠が記したものである。複数の資料に記されていても史実である可能性は極めて低いと考えるべきであるものの、天智天皇7年の火災の記述は国記などが記された以降の話であるなどの理由から、史実である可能性が高いと考えられる。



                  ここからが面白いです。


信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。


                             ココですね
麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。


白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。


                       浜松の初生衣神社
静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 15時44分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

本日は、JOB&SAKE−DAYで、時間がとれません・・・明日。
神明宮の続きは「おせんの茶屋」となります。  
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 20時46分15秒 ) パスワード

了解です。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 21時27分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、麻績神明宮を後にして、インターネットで調べてあった「おせんの
茶屋」へそばを食べに行きました。土日の午前十一時より午後二時までしか
やっていないという店です。一応国道ということで二車線の道を山頂の聖高原
へ向けて登って行く。五分も走った所か、「おせんの茶屋」という旗がはため
いている。
 駐車場には車一台。整理券を配るほどの混みようでは全くない。
 店に入り、落ち着いたところで「おせんの茶屋」の由来を訊く―
 「お仙の茶屋
  善光寺街道、猿ヶ馬場(サルガバンバ)峠の中腹に、弘法清水とお仙の茶屋
 跡がある。
  善光寺の寺侍、西村は主命をおびて京に行く途中、病に倒れ、茶屋の娘お
 仙に助けられ、手厚い看護を受けて回復し、帰路の再開を約して京へ。
  仕事の終り、お仙へ紅かんざしをみやげに、帰途へ。もうすぐ麻績の里だ
 という時、突然何者かに襲われ再会の夢むなしく、帰らぬ人となってしまっ  た。
  夜中、お仙は誰かに呼ばれたような気がして、そっと戸を開けてみると、
 外は相変わらずの吹雪。その中にかすかな人影が・・・・・・それは紛れも
 なく西村である。お仙は裸足のまま西村の胸の中へ。お仙をしっかり抱きし
 めた西村は、その黒髪に紅かんざしをつけると、吹雪の中へと消えて行った。
 お仙は「お武家さまァー」力のかぎり叫んだ。
  翌朝、朝日に映る雪の中には、紅かんざしをしっかり胸に抱いて冷たくな
 っているお仙と、呆然と立ちつくすじいさまの姿があったという。」

  今でも「番場節」の中に、その悲恋が、うたいつがれているということで
 あります。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 21時47分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それで麻績村の話でありますが、やはり市町村合併の動きはあったそう
ですが、あえて「村」であることのアイデンティティーを貫いたというこ
とです。今どき「村」なんてと思ってしまいますが、「村」にこそ、その
土地独特のアイデンティティーがあるのです。そういう意味で、私は麻績
という村が大変好きになりました。
 最近の町は合併という名の元にアイデンティティーを失い、全く死んで
しまいました。名前や地名には祖先から託された存在の証明たる糸が託さ
れているのである。経済性のみで精神性をかなぐり捨ててはならないので
ある(ここは一番難しい所だと思います)。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 21時52分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つ肝心なことを忘れていまました。このお仙の茶屋のそばは、今まで
うまいと言われて行ったそばやより、はるかにおいしかったです。アナログ
評価95点・・・。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月27日 22時07分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 実は、この「お仙の茶屋」から南西の方向を見ると、狼煙山が正にお椀型
に見えました。そしてその向こうは城山といって、麻績城が山の頂に建てら
れていたのです。地図で調べたところ、麻績城を攻めるには、狼煙山の比較
的なだらかな斜面から攻めるのが一番かなと思いました。今更ながら、上杉
に負けてしまったことは残念だとは思いますが、生き残っていただけている
ならそれでよしと言いたいです。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 22時10分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


「お仙」のお話。
悲しい恋のお話をありがとうございます。

西村は誰に殺されたのでしょうね?
  お仙を好きだった村の若者かも知れないし、
  西村の受けた主命の敵対者の手の者だったのかも知れないし、
ドラマになりますね。


麻績村は「麻績」の名を残す方が良いですね。
大きな行政に取り込まれて「麻績」の名が消えるのは残念です。
「村」で良いじゃないか、そういう村人の気骨を感じます。


______________________________


麻績宿の本陣跡2つ:屋根瓦がちょっと珍しかったです


http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/omisyuku.html

麻績宿〜善光寺街道〜
麻績は北国脇往還(善光寺街道)の宿場町。




     <1>画像:本陣跡(中橋)

山崎斌(あきら)の生家である。

 明治45年(1912年)3月、麻績で歌会が催され、若山牧水は太田喜志子と再会する。

牧水は山崎斌の生家臼井忠兵衛宅に泊まった。

山崎斌は草木染めの研究家として知られている。

昭和34年(1959年)、川崎市麻生区に草木工房を開設。

昭和47年(1972年)、81才で歿。

向かいの「花屋」に芭蕉の句碑があった。




   芭蕉更科紀行より



身にしみて大根からし秋の風



ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし


 貞亨5年(1688年)の旧暦8月10日頃、芭蕉は名古屋を出発木曽路に入り、中仙道からそれて善光寺道に出て、麻績宿を通り猿ヶ馬場(馬場峠)を越え、姨捨に十五夜の名月を賞した。

昭和36年(1961年)、建立。




      <2> 画像:本陣跡(瀬戸屋)

          麻績宿本陣跡


−臼井孫右衛門(瀬戸屋)家−

 麻績村が正式に認められたのは慶長18年(1613年)12月、松本藩主小笠原秀政によって、後に下問屋と称された葦澤孫左衛門が問屋職を許され、翌年に伝馬役を定められてからである。

 五街道のような正式な本陣ではなかったが北国脇往還(善光寺街道)沿いの麻績宿では臼井忠兵衛家(屋号−中橋)が代々本陣職を世襲し、当初は57軒の宿場町であったものが、幕末の嘉永年間には240軒の増加している。麻績宿は長さが東西6町35間(約710米)で、問屋は上問屋(岩渕家)が月の前半を、下問屋(葦澤家)が月の後半をそれぞれ分担した。脇本陣は置かれていなかった。

 安政7年(1860年)から幕末にかけて本陣をめぐる紛争があり、瀬戸屋も本陣職を名乗った。当時29軒の旅篭屋のなかで瀬戸家は屈指の位置にあり、客室数では第2位(6室)であった。主屋は改築されてしまったが「離れ」(御殿)と呼ぶこの建物は、明治初期以降に建てられたことが内部の構造から知られている。幕末から明治・大正の近代に至る過渡的な状態をよく残している。


麻績村教育委員会
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月27日 22時14分40秒 ) パスワード

「宿場町」とは「街道筋に宿屋が並んでいるんだろうな」という認識はありましたが


>麻績宿は長さが東西6町35間(約710米)

>当初は57軒の宿場町であったものが、
>幕末の嘉永年間には240軒に増加している。

すごいですね。



村全体が「民宿」をやった、という感じでしょうか?


そして風雲急を告げる「幕末」の雰囲気が表われていますね。
それだけ需要があったんでしょうね。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月28日 06時20分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉句碑は、交番の西隣にありました。黒御影石と白御影石であると思い
ましたが、写真は撮ってまいりました。黒御影石の方に書かれているのが、
「身にしみて 大根からし 秋の風」で文字もはっきりわかりましたが、白
御影石の方の文字が見えにくく、読めない部分もありましたので、あを様よ
りの情報で「ひよろひよろと なほ露けしや をみなえし」とわかったこと、
ありがとうございました。

 麻績のざるそばには「おろし大根」をツユに入れたでしょうから(今のよう
にわさびはなかっただろうと思われます)、仮にお仙の茶屋で狼煙山を見なが
ら服部一族及び伊賀衆の悲哀を思い、そばをすすったと考えますと、伊賀出身
の芭蕉として正に身にしみるものがあったと強く推察されます。この地には、
服部伊賀守と一緒にやって来た伊賀衆とその子孫がたくさんいたものと推察
いたします。ひょっとして、芭蕉は伊賀衆と情報のやり取りをしたのかも知れ
ません。麻績服部流忍術を妃羽理さんが受け継いでいるくらいですから。
たぶん、麻績(伊賀服部)、武田、上杉の忍者達、さぞかし戦いの命運を決する
活躍をしたであろうと推測されます。麻績・・・ここは伊賀だったのです。

 お仙の茶屋にいたおばあさん、親しくしてくれました。田舎の人は素朴で
親切で、何よりその心の温かさが身にしみます。また来年会いに行きます。

[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月28日 07時00分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 若山牧水についての言及、正に私もしようと思っていました。というのは、
お仙の茶屋から更に坂道を登って行きますと、そこには「聖高原」という別
天地が開けているのですが、残念ながら今回は素通りしてしまいました。但し
車窓から両側の景色をみていましたところ、「若山牧水」の歌碑があるとい
うことがわかりました。牧水はあを様と心象風景を一にされていると思い、
何故に牧水は麻績に来たのか、ということを考えてみようと感じていました。
 麻績、またはその東に見える「姨捨山」がなぜそんなにも歌人の心をひき
つけるのかということ・・・松島十湖もまたここを訪れていると推察しています。十湖はここで芭蕉直筆の書を、お世話になった人か門人かに手渡しており
ます。
 私も実は「姨捨山」を心中にトラウマとして持ち続けています。それは老い
た母との別れであります。姨捨山に捨てるという残酷さは、親子の別れの悲し
さを象徴しているのではないでしょうか。姨捨山の伝説は、万人が持つ母性と
の別れを代弁したものだったのです。それが本当であれ、フィクションであ
れ、万人の心を打つ・・・私も何回読んでも泣けてくるのです・・・。
 
 ちなみに【 資料 】「姥捨て山」(森竹高裕) より
 http://homepage1.nifty.com/moritake/doutoku/uba03.htm

「昔のある山村の話です。その村では六十歳になると、里から五里以上も離
れた山奥に捨てられるならわしでした。年老いて働けなくなるからです。一日
二度の食事にもこと欠くほど人々は貧しい生活をしていました。ですから、働
かないものが食べることはできなかったのです。老人が捨てられるのは口べら
しのためでした。吾助の母親せつも、とうとう六十になる日が来ました。
孝行息子の吾助は、母親を山の奥に連れていくのが忍びなく、なんとか助け
る方法はないものがとずいぶん思い悩みました。いっそうのこと、母親を連れ
て村を出ようかと考えましたが、妻や子どものことを考えるとそれもできませ
ん。それに、村ではもう何件もの家がおきてに従っているのです。吾助のとこ
ろだけ、それをまぬがれることができようはずはないのです。
その日、吾助は夜明け前に母親を連れて出発するつもりでしたが、決心がつ
かぬまま、昼過ぎまでぐずぐずしていました。いつまでもそうしているわけに
いかず、「おっかあ、すまねぇ。村のおきてを破るわけにはいかねぇ。日が暮
れるまでに戻ってこなくちゃあなんねえから−」
やっとの思いで言いました。せつは黙ったまま手を合わせていました。たとえ、
せつに言いたいことがあっても、口はきけないのでした。三日前に歯を自分で
石に打ちつけて、砕いてしまっていたからです。その前から、せつはほとんど
食べ物を口にしませんでしたが、山に入ったとき、ひもじさに木の根っこでも
かじって生きながらえたら困ると思ったのです。吾助が背負ったせつは、まる
で枯れ木が背中にへばりついているみたいでした。それが、いっそう吾助を悲
しくさせました。吾助は山道を奥へ奥へと歩いていきました。道はだんだん細
くなり、うっそうと茂った木々に陽ざしはさえぎられ、ときおり山鳩らしき鳥
が鳴くだけです。しばらくして、背中のせつがときおり木に咲く花をもぎ取っ
ては落としていることに気がつきました。吾助はせつが山に捨てられる不安や
恐怖をまぎらわすために、そうしているのだと思いました。が、ふと(もしや、山を出るための目印にでもしようとしているのでは−)という疑いをもちました。(気丈夫と言われてきたおっかあでも、死ぬのは怖いに決まっている。ま
してこんな山奥に捨てられて、たった一人で死んでいくなんて耐えられること
ではない)そう思うと、吾助は自分がひどく罪深いことをしているように思い、足の運びもにぶります。しかし、同時にせつがこの期におよんで、自分のこと
しか考えていないように感じられ、腹立たしい気持ちがしないでもありません。
「おっかあよ、花を落としとるのは目印にすんでねえのか?気持ちはわかる
がよ、おっかに戻られると、おらたち一家は村にいられねえだ。頼むからあき
らめてくれろ」
 せつは、言葉にならない声を出し、吾助の背中を強く押しました。それが、
吾助には自分に対するうらみのように感じられ、「二平のとこでも、喜作のと
こでも、ばあさん、山へ入ったべが。おっかあのように未練を残したりしなか
ったと聞くぞ」と、ついいらだった声で言ってしまいました。
せつは相変わらず花をもいでいましたが、吾助はもう何も言いませんでした。
 たとえ、目印があっても、せつの体力ではこの山から帰ってこられるはずは
ない、と吾助は思いました。
 どのくらい歩いたでしょうか。川原のように石がごろごろしている広い場
所に出ました。あちこちに白骨がころがっているのを見ると、その場所に相違
ありません。
吾助は大きな岩陰を選ぶと、せつをそっと降ろしました。

(資料後半部)
 ふと気がつくと、つるべ落としの秋の日は、吾助の予想より早く、辺りを
闇に包み始めています。ぐずぐずしていると帰り道がわからなくなってしま
います。
「おっかあ、すまねえ、すまねえ」
吾助は泣きながら立ち上がりました。
せつは目を閉じ、手を合わせお経を唱えているようでした。吾助は心を決め
てその場をあとにしました。
しばらくは何も考えず、足早に歩いていました。ところが、半分も戻らない
うちに、とうとう日が暮れてしまいました。なにしろ、うっそうとした山の中
ですから、夜の訪れも里より早いのです。
 細い道も闇の底に沈んでしまい、見分けがつかなくなりました。吾助は途
方にくれて立ちすくみました。
そのときです。足下にかすかに浮かび上がるものがありました。白い花です。
それは来る途中にせつが落としたものに相違ありません。吾助の胸に熱いもの
がこみ上げてきました。
「おっかあ−」
 吾助は山の奥に向かって叫びました。
 木の上の鳥が驚いて飛び立った羽音のあとに、山びこがかすかに聞こえて
くるだけで、山は再び静寂に包まれました。

※ 出典および参考資料静岡教育出版社「心ゆたかに」(参考「楢山節考」)
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月28日 12時34分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


長野の地図を見ていた時に  姥捨山  の地名を見ました。
一応ストーリーは知っていましたが
捨てられる身でも息子の無事を願う母の心は持っていたのですか。


美しいお話をありがとうございました。



なるほどね
芭蕉も十湖も麻績地方に行ってましたか。

「思い」があったのでしょうね
丁度三つ柏さんのように。


特別な場所になりましたね。
また来年いらっしゃってください。
来年はもう少しユックリお時間をとって。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月29日 02時06分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 現天皇陛下は、皇太子だった昭和40年に、麻績村に来られて聖高原の
リフトに乗られておられます。
 また、現天皇陛下御夫妻は、昭和51年に麻績にお召列車にて停車中、
村長と話を交わしておられます。
 最近では、平成25年に長野県と群馬県の視察に来られた時、長野から
松本へ行かれる時と帰られる時に麻績村に立ち寄られておられます。
 
 麻績というのは伊勢の御厨であったので、天皇家ともそういった意味で
の関係はあるのかも知れません。

 麻績という名前を冠した麻績王という皇族も古代におられました。流罪
になってしまいますが、壬申の乱に関係したようです。


 麻績部氏については、服部氏と近い関係にあるようですので、今後更に
探究していきたいと思います。松阪にある関係の神社にも行ってみたいと
思っています。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 03時53分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


天皇家は律儀なので
きっと過去からの繋がりで麻績村の村長さんとお話になったり訪問なさったりがあったのでしょうね。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E7%8E%8B

麻績王(おみのおう、生没年不詳)


7世紀末の皇族。麻続王、麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。

また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。



『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、

この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、
もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。


また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。

さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]。



『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。



なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。



注釈[編集]

1.^ 麻績王の皇女が、忌部子人の子弟に降嫁しており、忌部子人のとりなしによって、遠流にならずに伊勢神宮のある伊勢国流罪に決まったとする説もある。

2.^ 壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 04時04分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

麻績王について、良いサイトを発見しました!


               このサイト、なかなか面白いですよ。
               特に(B)からが面白いです。



http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ominoookimi.htm

麻績王



麻績王(おみのおおきみ)っていったい誰なんだろう。
非常に海人と関係が深そうなのだが、その消息は、僅かに日本書紀と万葉集と常陸国風土記でしか伝えられていない。


万葉集巻一、麻績王、伊勢の国の伊良虞の島に流さゆる時に、人の哀傷しびて作る歌、

打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります 読み人知らず

(麻績王は漁師であられるのか、漁師でもないのに伊良虞の島のよい藻を刈っていられる。)


そして、その答歌、

うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む 麻績王
(この世の命が惜しさに私は波にぬれて、この伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです。)



「日本書紀」によると、天武四年四十八日、三位麻続王に罪があって因幡に流された。

一子を伊豆島に、
一子を血鹿(値嘉)島(長崎の五島列島)に流したとある。


しかし、「万葉集」では、流罪地は伊良湖岬ということになっているし、
「風土記」は潮来(霞ヶ浦)だという。


いずれにしても、いわゆる貴種流離潭の一つで、何の罪があったのか、何天皇系の王族なのか、全く詳細は分からない。



折口の弟子、岡野弘彦は、流刑先は何れも濃密な海人族の分布地であり、木地屋の惟喬親王のように、海人族は、麻績王を自分たち共通の先祖としていたのではないかと言われる。


それぞれの流刑地について検証してみると、
1.
まず、因幡といえば「因幡の素兎」。
淤岐島から鰐を騙してやって来て、大国主が八十神に勝つことを予言した白兎神。
麻疹の神だから「麻」にも関係あるかもしれない。
冗談だが、名前からも、渡来系豪族が住んでいたと考えられる土地だということだけはいえる。

2.
次に伊良湖であるが、愛知県渥美半島西端、「渥美」は「阿曇」の転訛であり、
福岡の志賀島が本拠地の海人、磯良神の阿曇氏と関係がある。
藤村の「椰子の実」のように、海流により南からの漂着物が辿り着くのでも有名な場所だ。

3.
また、霞ヶ浦は、往古「信太の流海」と呼ばれていた。「常陸国風土記〜信太の郡〜」に、「倭武天皇が海辺を巡幸して乗浜まで行かれた。
その時、浜辺の浦のほとりにたくさんの海苔が干してあった。
これを土地の人は「ノリ」というので、これによって能理波麻(のりはま)の村と名付けた。」とある。
続けて、「住民たちは塩を焼いて生計を立てている。」とあり、
霞ヶ浦付近が、海人族の拠点であったことは言うまでもないが、麻績王が流された潮来は霞ヶ浦の入り口付近にあり、
鹿島&香取の両神宮が鎮座していて、中臣(藤原氏)、斎部氏との関係が窺える。


4.
麻績の「み」は、「海」かもしれない。実際、麻績王は近江王とも書かれ、近江は「淡海」とも書くから、琵琶湖にも関係がありそうだ。
麻績王の生誕地が近江だとすれば、息長氏系の王という可能性もある。



何れにしても、万葉集の麻績王に関する歌には二首とも「玉藻」が出て来るし、
玉藻は海人には付き物だから、海人族に縁の深い人だというのは間違いなかろう。


玉藻というと、どうしても傀儡子を思い出す。やはり万葉集、

塩干の 三津の海女の久具都持ち 玉藻刈るらむ いざ行きて見む(二九三、角麻呂)

釧着く 答志の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ(四一、柿本人麻呂)

とあるように、
海女も大宮人(貴人)も「玉藻」を刈っている。


この場合の海女は巫女であろう。


北九州市門司区の和布刈神社(祭神 比売大神・鵜葺草葺不合命・豊玉毘売命・安曇磯良)の和布刈神事に代表される通り、

海草は海の神事に欠かせない御贄だ。


麻績王も、単に食用として、または海人の真似事で藻を刈っていたのでは無く、神事を行っていたのかもしれない。

それとも、製塩に使う、ホンダワラを刈っていたのか? 


塩竈神社の藻塩焼神事に代表されるとおり、こちらも神事であることに違いはない。

A)

1.麻績王は誰なのか?

麻績王には、聖武天皇の別名であるとか、上記の歌から柿本人麻呂であるとか、橘諸兄の父の美努王であるとか、時代は50年程幅があるが、諸説ある。

聖武天皇は、紀州の海女だという伝承を持つ、藤原宮子の子だし、
何より淡海公と諱を持つ藤原不比等の孫だ。
しかしやはり、天武4年に流罪に処せられるのだから時代が合わない。


淡海帝といえば、大津に遷都した38代天智天皇のことだが、
壬申の乱で天武と争ったその子の大友皇子の曾孫は、淡海三船といい、
淡海真人の祖だ。


麻績王は天武4年に三位だったのだから、25歳で没した大友皇子の子、葛野王では若すぎるか? 
案外、大友皇子その人だったりするかもしれない。


柿本人麻呂の流罪地(客死とも)は石見で、因幡に近いといえば近いし、
「玉藻刈る」が、「沖」又は「をとめ(地名)」「敏馬(みぬめ・神戸市の東の崎)」の枕詞であることを考えると、
美努王のセンも満更ではなさそうだ。


美努王は、御美努(おみの)王ともいったらしいから、ズバリ「おみのおおきみ」だし・・・。


「をとめ」がどこの地名を指すのかは分からないが、万葉集巻三「島伝ひ敏馬の崎を漕ぎ廻みれば」とか、
春雨物語「徒よりは遅し、みぬめの和田の天の鳥船に舟子の数まさせて」とか、
万葉集巻十五「玉藻刈るをとめを過ぎて夏草の野島が崎にいほりすわれば」とか、
海に関することは勿論だが、どうも「崎」に掛かるような気がする。

「崎」は、恵比須や磯良神が出現する神迎えの地だし、
「をとめ」は「止め」の地、つまりは地の果て「崎」であると考えられないだろうか? 

海人系の巫女が御贄の藻を刈ったのが御崎であったので、
処女は「をとめ」で、
麻績王が「玉藻刈る」のは、やはり神事に違いない。



気になるのは、「命を惜しみ」という点だ。

書紀には、天武四年に流罪になったとあるから、天武朝の反政府勢力だった可能性は高い。 

天武天皇は大海人皇子ってくらいで海人系の人だから、政敵大友皇子の罪一等を減じて、流罪に処したのではないか? 

天武朝の反対勢力で、三位以上の貴人となると、やはり伊賀采女宅子娘の子である大友皇子の線がいいかもしれない。


B)

(1) 阿部氏系伊賀氏説
伊賀宅子娘は、見ての通り伊賀氏の出身であろう。その子である大友皇子も別名伊賀皇子と呼ばれた。しかしながら、多くの学者の研究にもかかわらず、伊賀宅子娘の出自ははっきりしないのが現状である。

伊賀臣の祖は、阿倍氏の磐鹿六雁命の甥にあたる、大伊賀彦命である。その以前にも、磐鹿六雁命の叔母にあたる御間城姫命が、10代崇神天皇に嫁ぎ、垂仁天皇や伊賀比売命を生んでいらっしゃる。伊賀国には阿拝(あへ)郡があり、度会氏系から伊賀氏が出るのはもっと後で、当時の伊賀氏といえば、阿部氏系であろう。

また、「伊賀国風土記逸文」によれば、伊賀国の名前の由来となった伊賀津姫(吾娥津媛)命は猿田毘古神の娘とあり、とすると宇治土公氏ということになるが、「天孫本紀」には、大伊賀津姫(吾娥津媛)は大伊賀津彦命の娘、つまり阿倍氏系の姫とある。

「風土記」はまた、吾娥津媛命は日神が天上から投げ下ろした三種の宝器の内、黄金の鈴を受領してこの地で守護したので、加志(かし)の和津賀野(わつがの)と言ったのが転訛して、手柏野(たかしはの)というのである、と続ける。

「手柏野」は「柏手」つまり「膳夫」であり、阿部氏と関係があるのは言うまでもない。やはり伊賀津姫命は、阿倍氏系の姫と考えてよいと思う、つまり、伊賀宅子娘は阿倍氏系伊賀氏の出身ではないか?

気になるのは、大友皇子を死に追いやった壬申の乱において、阿拝郡司が大海人皇子側に協力していることである。自家から出た皇子に加勢しないはずはなく、伊賀国にあって名張郡司の名張氏だけが、大海人皇子に抵抗したことから、伊賀宅子娘は名張氏の出身とする説が有力であり、伊賀氏とするのはちょっと苦しいか。



(2) 阿曇氏説
長野県東筑摩郡に麻績村というところがある。麻績村は、古くは平安時代、京都と東国を結ぶ東山道支道の通り道の一つとして、江戸時代は京都と善光寺を結ぶ街道の宿場町として栄えた。

その善光寺の創始者は、信濃国麻績郷の本田善光、又の名を「若麻績東人」という。推古十(602)年、物部尾輿らの反対によって難波の堀に捨てられた、欽明朝に百済王から送られた仏像を、都に上っていた善光が見つけ信濃に安置した。善光寺は、皇極天皇の信仰も厚く、併設の尼寺には蘇我馬子の娘、尊光尼が開山の上人となっている。

善光寺のちょっと南西が麻績村で、麻績村のちょっと京都よりが安曇である。麻績王の流刑地の一つに比定される伊良湖は、愛知県渥美半島西端にある。渥美は「アズミ」の転訛であり、阿曇氏の本拠地の一つであった。麻績王は、阿曇氏系の皇族なのか?



(3) 斎部氏説
麻績王というからには、麻績連が壬生(乳部)、又は母親の出身氏族ということだろうか。

松坂市の櫛田川の河口付近に、伊勢の大神宮の神御衣を織るところとして神麻續機殿(かんおみはたどの)神社があるが、ここは日本書紀にいう、斉明六年十二月、天皇が百済の為に新羅を討とうと思い、駿河国に勅して船を造らせたが、麻続郊(伊勢国多気郡麻績郷)まで曳いて来た時、夜中に故もなく艫(とも)と舳(へ)とが入れ替わっていたので、人々は新羅と戦ったら敗れることを悟ったという場所に他ならない。

松坂は、5世紀後半に大陸から渡来した漢織・呉織・衣縫(きぬぬい)達が定住した地域で、これらが後に、麻績連、服部連となって一大紡織の中心地を形成したといわれている。私は予てから、麻植の神を奉ずる斎部氏は、東漢氏系だと思っているのだが、安房斎部氏の本拠千葉市に生実(おゆみ)町という所があり、この「おゆみ」は「麻績」の転訛だそうだ。

それにどうしても、麻績→近江→淡海(あわみ)で、斎部氏の「阿波」や「安房」を思い出してしまう。流刑地に共通するのは「い」で始まる地名だってことだが、これも「斎部」を連想させる。常陸国風土記が伝えるように、流刑地が潮来(霞ヶ浦)とすれば、当に安房斎部氏の勢力圏内だ。

斎部氏は天太玉命を祖とし、筑紫・出雲・阿波・讃岐・紀伊・伊勢・安房等に分布している。土地柄的にも、海人族との関係は深い。
斎部広成の「古語拾遺」によれば、上総・下総の「総(ふさ)」、安房の「房(ふさ)」は、「麻」のことだという。因幡が印旛の間違いだったらもっと面白いのだが・・・。

東漢氏系の麻績連とすれば、大海人皇子(天武天皇)と同一人物とも比定される、天豊財重日足姫(皇極・斉明重祚)と前夫・高向王の子、漢皇子かもしれない。皇極の母は29代欽明天皇の孫・吉備姫王、父は30代敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬのおおきみ)という。

吉備氏は海人色の濃い氏族だし、三輪氏・賀茂氏の祖・意富多多泥古命(おおたたねこ)の出身地、記では河内の美努(みぬ)村、紀では茅渟(ちぬ)県陶邑だというのを思い出す。美努と茅渟だ。この地名は、越智氏の祖・三島溝咋や、賀茂氏の祖・賀茂建角身命神と同神だという説のある、河内陶都耳命の本拠地である。漢皇子や美努王もかなり怪しい。


(4) 息長氏系三上氏説
継体天皇の皇女で、第六代斎宮の荳角皇女(ささげのひめみこ)の母に、麻績娘子という方がいる。麻績娘子の父は息長真手王、近江水系を支配した息長氏の祖で、応神天皇の五世孫にあたる。「麻績」の「おみ」は、息長氏の本拠地「おうみ」、つまり近江ではないか?

と、ここでもう一度、大友皇子説が浮上する。大友皇子をを祀る神社は、御霊神社(滋賀県大津市鳥居川町)、石坐神社(滋賀県大津市西の庄)、鞍掛神社(滋賀県大津市衣川)、若宮八幡神社(岐阜県不破郡関ヶ原町)と、近江朝の皇子だから仕方がないのだが、近江周辺が多い。

息長氏は、琵琶湖の東岸を中心に栄えた氏族であり、何か地域的に重なるような気がするし、大友皇子の母、伊賀宅子娘の出身地である伊賀は、近江のすぐ南である。息長氏系三上氏の奉斎する御上神社のある野洲川を辿れば、伊賀に入るのである。

「今昔物語」等に、「大友皇子が狩をしている時、鹿が笠置(かさぎ)山に逃げ込み、深追いした皇子の馬が、谷に突き出た狭い岩の上で進退極まってしまった。皇子が山の神に、もし命を助けてくれるなら、この岩に弥勒の像を彫ると祈ると、馬はそろそろと後退し、皇子は危うく一命を取り留めることが出来た。皇子は山の神に感謝し、しるしに笠を置いて立ち去った。故にこの山を笠置山という。」という伝承が載っている。

笠置山は伊賀街道と並行した木津川の中流域、京都と奈良の県境付近にあり、木津川を遡れば伊賀上野に到る土地柄だが、大友皇子の伝承が残るのは、この辺りまで伊賀宅子娘の実家の勢力範囲であった証拠だろう。そして、この下流に、息長氏の奉斎する朱智神社があるのである。

笠置町は、「みかの原、湧きて流るるいづみ川」の甕原(みかのはら)のある加茂町の隣りにあり、加茂町付近は、たくさんの古墳や甕類が出土することから、外来民族の根拠地と目されている。また、木津川は、古代水運の要衝である巨椋池に繋がっているのだが、往古は「泉川」と呼ばれていた。賀茂氏や、「いづみ」を「あづみ」の転訛とすれば、阿曇氏にも関係あるだろう。

注目すべきは、木津川の川筋には多くの十一面観音が祀られているのだが、笠置山自体が、実忠和尚が「十一面悔過の修法」つまり「お水取り」を感得した千手窟のある、その場所だということだ。その同じ笠置山に大友皇子の伝説が残るのだから、伊賀宅子娘が息長氏系の姫であった可能性は高い。

伊賀宅子娘が息長水依比売を出した三上氏の姫だとすれば、地域的に伊賀采女と呼ばれても可笑しくはないし、和珥氏に繋がる息長氏系の皇子とすれば、麻績王が「海人族共通の先祖」とされたのも頷けるのではないか?



結論、麻績王が誰なのかは、結局分からない。

「海人の共通の祖」と称されるからは、阿曇氏か和珥氏であろう。私見では大友皇子がかなり有力だと思うのだが、大友皇子の母、伊賀宅子娘がどの氏族の出身であるかがはっきりしない以上、如何とも判断し難い。

大友皇子を祀る神社は、息長氏の琵琶湖周辺の他に、白山神社(千葉県君津市俵田、木更津市牛袋)、筒森神社(千葉県夷隅郡)、内裏神社(千葉県旭市泉川)と、斎部氏系の千葉にも多く、斎部氏系の麻績連の本拠地は伊勢であり、伊賀のすぐ隣りだというのも非常に気になる。

「海人共通の祖」とされる麻績王は、いったい誰なのだろうか??????
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 04時22分26秒 ) パスワード



http://homepage2.nifty.com/amanokuni/index.htm

なかなか面白そうです。
去年辿り着きたかったです。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月29日 07時20分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 麻績王についてのいい情報、ありがとうございました。過去より柿本人麻呂
について調べようと思っておりましたが、まだ本格的には至っておりません。
何かそのような気配がいたします。
 いずれにしても、よく読解をさせていただきます。

 昨日は、松島十湖の手紙を解読していました。知人の手助けもあり、90%
くらいの所まで解読できました。
 本日は「古文書セミナー」があり、高林家の古文書の解説を中心に講義が
行なわれます。古文書は以前よりわかるようになってきましたが、進捗率で
いきますと、10%位です。努力あるのみです。

 帰宅後、復帰いたします。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 12時42分25秒 ) パスワード

古文書が読めるようになると良いですね。
昔の文体は規則があるから慣れたらかなり読めるようになるかもですね。


本日「鶴瓶の家族に乾杯」?の下諏訪編を見ました。

中山道の本陣の「岩波さん」のお宅に突撃訪問がありました。
27代目、っておっしゃってたのかしら?
おばあちゃまですから、現在、29代目さんあたりかしら。


    本陣利用藩に尾張があったのに驚きました。
    東海道かとばかり思っていましたから。
    中山道は山の中ですから大変じゃないかと思いますが
    そんなもんなんでしょうか?
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 13時54分55秒 ) パスワード

諏訪氏復習:


         ビックリですよ
         曹洞宗で菩提寺は温泉寺 (長野県諏訪市)、宗湖寺(長野県茅野市)、頼岳寺(長野県茅野市)、吉祥寺(東京都文京区)など。


         そうなの?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F

諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は「神氏」といい、欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動した金刺氏や他田氏の名が諏訪社の神官として続いて来た。出雲神話の神・建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まるともいう。後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したが、皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。

諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。



故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪の祭神の肉体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。

宗旨は曹洞宗。菩提寺は温泉寺 (長野県諏訪市)、宗湖寺(長野県茅野市)、頼岳寺(長野県茅野市)、吉祥寺(東京都文京区)など。



平安時代[編集]

神官であると同時に武士としても活躍し、源義家(八幡太郎義家)が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。

治承・寿永の乱(源平合戦)の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。



鎌倉・南北朝時代[編集]

鎌倉時代の当初は幕府の御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。元弘3年(1333年)の鎌倉幕府の滅亡では、北条氏の御内人として多くの諏訪一族がともに滅亡している[1]。鎌倉幕府滅亡後に京都で発足した建武の新政に対し、建武2年(1335年)には北条氏の残党が北条高時の遺児・亀寿丸(北条時行)を奉じて挙兵し、中先代の乱が発生する。中先代の乱では諏訪盛高が亀寿丸を信濃諏訪へ逃している[2]。これに対し、足利尊氏は小笠原貞宗を信濃守護とし諏訪氏に対抗させ、以来室町・戦国期に至るまで小笠原氏と諏訪氏は抗争を繰り広げる[3]。

中先代の乱の平定により諏訪氏は再び敗北し、鎌倉では諏訪頼重・諏訪時継父子が足利勢に敗れて自害する[4]。これにより大祝職は庶流の藤沢政頼が継承する[5]。

               南北朝期の諏訪氏


南北朝時代には時継の子・頼継(直頼)が南朝方に属して大祝職となり、北条時行を迎え北朝方の小笠原氏と対抗した[6]。南北朝時代の頃から武力を持つようになり、庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、その後建武政権から離反した足利尊氏に従い足利幕府(室町幕府)の評定衆や引付衆、天龍寺造営奉行などを務め信濃国に住する将軍直属の奉公衆としても活躍した。諏訪円忠は、庶流出身でありながら、この時期の足利幕府と諏訪氏の間を取り持つ重要なパイプ役であったとも言える。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。

幕府の奉行人としての立場を活用した円忠の嘆願が受け入れられ、幕府より存続を許された諏訪氏であったが、大祝職を継いでいた時継の子・諏訪頼継も引き続き足利氏に対抗する立場をとり、南朝方に与するが敗れて没落。その後は頼継の弟・信継が継ぎ、信継の子の諏訪直頼も同じく南朝に属した。やがて足利氏が足利尊氏派と足利直義派に分裂して観応の擾乱が起こり直義が南朝に降ると、直頼もこれを支援し、信濃国内における直義党の主将として甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市)や信濃国善光寺付近で北朝の尊氏派・小笠原氏と争い、高師冬を自害に追い込むなど尊氏派の勢力と戦った。観応3年/正平7年(1352年)には直義が死去すると、宗良親王を奉じて戦う。文和4年/正平10年(1355年)8月には信濃国桔梗ヶ原(長野県塩尻市)において信濃守護・小笠原長基や金刺氏、仁科氏らと衝突し、桔梗ヶ原の戦いが起こる[7]。信濃では上社諏訪氏が南朝方に帰属し続けたのに対し、下社金刺氏は北朝方に属して上社と下社が分裂し、この争いは戦国時代まで続く[8]。応安5年(1372年)には諏訪頼貞が北朝の将軍・足利義満に服属する[9]。

諏訪氏の北朝帰服属後に大祝職は頼継の弟である信嗣が継承し、頼継の子・信員の一族は信濃伊那郡高遠へ移り、高遠諏訪氏となった[10]。



室町時代[編集]

室町時代には応永4年(1397年)10月に諏訪有継が大祝となるが、4年後に下位すると、文明16年(1484年)12月には頼満(碧雲斎)が大祝職となるまで惣領家が大祝職に就くことが途絶える。[11]。さらに文安6年(1449年)には諏訪氏と下社金刺氏との抗争も発生し、これは信濃守護・小笠原政康(府中小笠原氏)が介入する事態となった。政康は金刺氏を後援したため、諏訪惣領家は政康と惣領職を争う松尾小笠原氏と結び、これに対抗した[12]。

諏訪惣領家は松尾小笠原氏と結ぶことで勢力を拡大し、これにより諏訪大祝家との内訌も激化する[13]。康正2年(1456年)には諏訪惣領家の諏訪信満と諏訪大祝家の諏訪頼満 (伊予守)(伊予守、前述の碧雲斎とは別人)兄弟が衝突する「芸州・予州大乱」が発生する[14]。この乱はまもなく沈静化するが、諏訪信満は居館を上原に移転している[15]。

戦国時代に入ると大祝家で頼満(伊予守)の子・継満が大祝職に就き、義兄にあたる高遠継宗や松尾小笠原氏と結び台頭した[16]継満は文明11年(1479年)に府中小笠原氏が松尾小笠原氏を攻めると、一時的に大祝職を辞して松尾小笠原氏後援のために出陣し、帰還後に再び大祝となっている[17]。

これに対し、諏訪惣領家では信満の子・政満が府中小笠原氏と和睦してこれに対抗した[18]。文明15年(1483年)正月8日には継満が政満とその子・若宮丸、政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その場で暗殺するクーデターが発生する[19]。この事件により諏訪一族は反抗に出て、継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、さらに高遠へ追放する[20]。また、継満父の頼満(伊予守)もこの時に討ち取られており、下社金刺氏も駆逐された[21]。

室町後期・戦国時代[編集]

継満のクーデターから生き残った政満の次男・宮法師丸(諏訪頼満 (安芸守))は文明16年(1484年)12月に諏訪惣領家を継承し、さらに大祝職に付いた[22]。頼満の時代に諏訪郡を統一し、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強めていった。

戦国時代には諏訪郡と接する隣国の甲斐国守護・武田氏と争いが活発化する。甲斐守護・武田信昌は諏訪大社上社の檀那でもあり、寛正5年(1464年)4月に信昌は守護代・跡部氏に対抗するため諏訪信満に援軍派遣を要請している[23]。この時は諏訪信満とその子・小太郎(政満ち)、諏訪満有の三男・光有(越前守)らが諏訪一族や佐久郡大井氏らと甲斐へ出兵している[24]。なお、一行は4月5日に諏訪を発しているが、この年の4月13日には御柱祭が予定されていたため、いったん引き返して御柱祭を終え、6月に再び出陣する[25]。一行は6月8日に武田信昌と合流し、7月2日に山梨郡夕狩沢(山梨市上岩下)で跡部景家(上野介)と激突し、跡部氏を本拠の小野田城(山梨市牧丘町)へ追い、滅亡させた[26]。諏訪衆は7月9日に帰国する[27]。

寛正6年(1465年)12月、武田信昌は跡部氏の残党討伐のため再び諏訪氏に援軍を要請し、諏訪信満は12月26日に諏訪衆を甲斐へ派遣する[28]。

その後、武田家では信昌の子である信縄と油川信恵との間で内訌が発生し、信昌は信恵方に加担した[29]。信昌はさらに堀越公方の足利茶々丸と結んだため、反茶々丸の駿河国の今川氏、相模国の伊勢氏(後の後北条氏)と敵対した[30]。こうした体外情勢の変化により武田氏と諏訪氏との関係も険悪化したと考えられており、文亀元年(1501年)閏6月2日には伊勢宗瑞(北条早雲)が諏訪家臣・千野氏に対して諏訪頼満(碧雲斎)に武田氏を挟撃する申し出を行っている[31]。こうして伊勢宗瑞は諏訪氏と結びつつ甲斐東部の都留郡への侵攻を行っているが、一方の諏訪氏側では、『一蓮寺過去帳』に拠れば延徳4年(1492年)9月3日に発生した信昌・信恵と信縄の間で発生した合戦において矢ヶ崎氏が戦死しており、信昌・信恵方に援軍を派遣していたと考えられている[32]。

その後、甲斐国では信縄の子・信虎(初名は信直)により甲斐国は統一され、武田氏は戦国大名化する。武田氏は駿河の今川氏と和睦し、大永7年(1527年)には信濃佐久郡への出兵を開始する[33]。諏訪氏では永正15年(1518年)12月18日に諏訪頼満が下社の金刺昌春の本拠である萩倉要害(下諏訪町)を攻め、昌春を放逐する[34]。昌春は甲斐へ逃れて武田信虎に庇護され、享禄元年(1528年)8月には昌春を擁した信虎は諏訪への出兵を行う[35]。武田勢が8月22日に甲信国境に迫ると、8月晦日に諏訪頼満・頼隆父子は甲信国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において、いったんは敗退した[36]。同日夜に諏訪勢は境川に兵を進めると今度は武田勢を駆逐し、勢力を甲斐北西部にまで及ぼした[37]。

信虎は八ヶ岳南麓の山梨県北杜市小淵沢町に笹尾砦を築くなど本国の防備を整えるが、享禄4年(1531年)正月月21日(もしくは22日)には飯富虎昌(兵部少輔)や栗原兵庫、今井信元ら甲斐の有力国人が信虎から離反し、甲府北方の御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗した[38]。飯富・栗原らは諏訪頼満に援軍を要請し、頼満は甲斐へ兵を進め、笹尾砦を落とした[39]。甲斐ではさらに甲府盆地西部の国人である大井信業も信虎に反旗し、同年2月2日に反信虎の国人衆は信虎勢と衝突して、信虎は国人衆を撃破している[40]。なお、この戦いでは諏訪氏は参加していない[41]。同年4月に頼満は国人衆と合流し、河原部(山梨県韮崎市)において信虎と戦う(河原部合戦)[42][43]。この戦いにおいて国人衆は大敗し、信虎に服従する[44]。

天文4年(1535年)9月17日には、佐久郡侵攻を行う武田氏と和睦し[45]、天文9年(1540年)11月29日には信虎三女・禰々が諏訪頼重に嫁して同盟関係が強化される[46]。同年12月17日には信虎が頼重を訪問している。天文10年(1541年)5月には信虎や村上義清と小県郡へ出兵し、5月23日の海野平の戦いにおいて滋野一族を撃破する[47]。滋野一族は上野国の関東管領・上杉憲政を頼って亡命する。6月14日、甲斐国で信虎が嫡男・晴信(信玄)より駿河へ追放されるクーデターが発生する。7月4日には上杉憲政が佐久郡へ出兵すると、頼重は武田・村上方に独断で憲政と和睦すると所領を分割する。これにより武田・諏訪間の同盟は破綻する。

天文11年(1542年)4月4日には頼重と禰々の間に嫡男・寅王丸(長岌)が誕生するが、7月2日には晴信が高遠城主の高遠頼継と結んで、頼重の本拠である上原城を攻める。頼重は桑原城へ敗走するが7月4日に降伏し、甲府へ護送される。[48]。頼重は7月21日に甲府の東光寺で自害する。

頼重には遺児の寅王がいるが消息が不明で、戦国大名家としての諏訪氏は滅亡している。諏訪地方は武田氏の信濃侵攻において直轄領化され、頼重の弟頼高、満隣の子頼忠が諏訪大祝となっている。

武田氏は諏訪氏の他にも征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏においても頼重の娘諏訪御料人は信玄の側室となり、天文15年(1546年)に四男四郎(武田勝頼)が生まれた。勝頼は諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、永禄5年に諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されている。

なお、勝頼が継承したのは従来諏訪惣領家であったと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』が勝頼を高遠頼継の高遠諏訪氏の後継として記していることから、勝頼が継承したのは高遠諏訪氏であったことが指摘される。

安土桃山時代[編集]

勝頼期に諏訪郡・高嶋城主は今福昌和であったが、天正10年(1582年)4年、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する(武田氏滅亡)。武田氏の滅亡における諏訪氏の動向は不明であるが、諏訪大社上社が放火され、諏訪頼豊(越中守)父子が処刑されている[49]。諏訪衆の千野昌房(兵衛尉)は上野へ亡命し、同年6月に相模国の北条氏直に庇護されている[50]。一方、大祝であった諏訪頼忠や神長官・守矢信真は諏訪から脱出した記録が見られないため、諏訪郡に逼塞していたと考えられている[51]。

織田氏の甲斐仕置において甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領し、高嶋城には河尻家臣の弓削重蔵が配置される[52]。同年6月に本能寺の変で織田信長が討たれると武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。後代の軍記物、編纂物によれば千野昌房が後北条氏の後援を経て諏訪へ帰還し、諏訪衆を糾合して高嶋城を奪還する[53]。諏訪頼忠もこの時に蜂起し、旧領を回復したという[54]。一方、文書に拠れば諏訪州は武田旧臣である木曽郡の木曾義昌の支援を得て高嶋城を奪還していた可能性が指摘されている[55]。さらに頼忠は越後上杉氏の侵攻により木曾氏の勢力が弱まると自立する。徳川家康と相模後北条氏との争いでは、はじめ徳川方、のち後北条方に転じた。

頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子諏訪頼水が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 13時57分27秒 ) パスワード

岩波氏について


諏訪神族[編集]

諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。地方の領主としては駿河国の安部氏、丹波国の上原氏、出雲国の牛尾氏、薩摩国の上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[59]。

神家一党33氏[編集]

以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。

関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、禰津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏



その他の諏訪氏一族[編集]

岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、宮下氏、宮崎氏、金山氏、津波木氏、

                        岩波氏、             ココですね


高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月29日 22時54分59秒 ) パスワード

岩波書店創業者

やはり諏訪出身者でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E8%8C%82%E9%9B%84


岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年8月27日 - 1946年4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。

次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。




長野県諏訪郡中洲村(諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていたが、体が弱く茂雄が15歳のとき病死した。

尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)には諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)へ入学。在学中には父が死去し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。息子を勉強させたいばかりに働いたのだという。翌年には卒業し、1901年、杉浦重剛を慕い第一高等学校に入学する。藤村操が自殺した際、彼の友人でもあった茂雄は哲学書等を携えて40日間山小屋に篭もり死に付いて真剣に考え、自身も死を選びつつあったが、母親の下山の訴えでとうとう下界へ戻る。けれど先の事件の影響を受け、落第した。この頃、煩悶から東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観のもとを訪れ、近角から著書『信仰の餘瀝』を渡される。試験放棄のため除名中退処分となり、再起して1905年東京帝国大学哲学科選科に入学。この頃には内村鑑三の影響を受け、1906年には結婚。

神田高等女学校(現在の神田女学園)に奉職するも教師としての自信を喪失し退職。1913年(大正2年)、神田区南神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売を実施、古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て1914年には「こゝろ」を出版。これは自費出版であったが、岩波書店の処女出版と位置付けられる。漱石没後は安倍能成らと「漱石全集」を刊行した。

『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、1927年(昭和2年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と日本軍に対して批判的な立場から活動を展開していた。これによって軍部の圧力をかけられるようになる。

1940年には学徒及び篤学の学者、研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立。同年、津田左右吉の著作『古事記及日本書紀の研究』他4点が発禁処分となった事件では発行元として、津田と共に出版法違反で起訴。1942年に有罪判決、上告中の1944年免訴となる。また美濃部達吉の天皇機関説を支持する投稿を朝日新聞に行ったが、同紙が不掲載としたため、朝日は意気地なしだ、と批判した。

1945年3月に貴族院多額納税者議員に互選、任命されるが、同年9月には脳出血で倒れる。翌年には雑誌『世界』が創刊され、文化勲章も受けるが、同年に64歳で死去。戒名は文猷院剛堂宗茂居士。墓所は鎌倉・東慶寺。

略歴[編集]
1913年8月5日:岩波書店創業。
1914年:夏目漱石の「こころ」を出版(岩波書店の処女出版)。
1921年:「思想」創刊。
1927年:岩波文庫創刊。
1933年:岩波全書創刊。
1938年:岩波新書創刊。
1945年:貴族院議員。
1946年2月:文化勲章を受章。
1946年4月:逝去。

参考文献[編集]
『岩波茂雄 茂雄遺文抄』<人間の記録>日本図書センター  1998年
安倍能成 『岩波茂雄伝』 岩波書店 1957年、新版1978年
小林勇 『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』 同 1963年、講談社文芸文庫、1993年
岩波書店編集部編 『岩波茂雄への手紙』 2003年
岡茂雄 「岩波茂雄さんとの出会い」『本屋風情』平凡社、1974年、224〜228頁。中公文庫で再刊された。
司馬遼太郎 「哲学書肆」、「三人の茂雄」 『本所深川散歩.神田界隈』に所収 <街道をゆく36> 朝日新聞社、1992年、のち朝日文庫

東京刑事地方裁判所編『津田左右吉岩波茂雄出版法違反予審終結決定書』1941年。

作品[編集]
読書子に寄す - 岩波文庫発刊に際して(青空文庫)

関連項目[編集]
岩波書店

外部リンク[編集]
岩波 茂雄:作家別作品リスト(青空文庫)
岩波茂雄について(諏訪市)
信州風樹文庫(岩波茂雄記念館を併設)
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月30日 02時50分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古文書はわからない一つの文字を解読するのに何時間も、夜中までもかか
ってしまい、他のことができなくなってしまうのが欠点です・・・本日がそ
うでした。

 諏訪氏についての本を探していたのですが、あを様よりご教示いただき、
ちょうどタイミング的に合いました。ありがとうございます。じっくり読解
させていただきます。
 岩波氏が諏訪族だったのは何かのご縁(?)。岩波書店とは過去において、
仕事上でお付き合いがございましたので。

 麻績王について少し追跡調査しましたところ、「神島」(三島由紀夫で有名
になった伊良湖岬の先の島)あたりに配流されたという説がありました。藻は
ワカメで、塩ゆでして食べるとおいしいということです。でも誰だったのか、
時間をかけて探究してみたいと思います。事件のうらには必ずや少なからず
の血が流されたと見る方が正解かなと歴史については思っています。

 さて、信濃麻績行きの話の最後になりますが、聖高原から千曲市の方へ降
りると姨捨の里に入ります。まさに「姨捨」というキーワードにすべてが集約
される町です。時間がなくて姨捨棚田を見た後、姨捨観音に寄ってお祈りを捧
げ、そのまま「あんずの里」へ向かいました。皇太子ご夫妻が尋ねられておら
れます。時期的にはオフシーズンで、静かな町でありましたが、歴史博物館と
古墳博物館(近くに100メートル級の前方後円墳(森将軍塚)があり、三角縁
神獣鏡に類する鏡が出土している)の立派な建物が建っておりました。その古
代氏族が誰だったのか非常に興味あるところですが、いずれにしても、時間が
なく見れなかったので、来年また来ようと思いました。

 帰りの高速道路はほとんどが下り坂でしたので、ジェットコースターで下
りてまいりました。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月30日 06時37分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


古文書は漢字が我々の知っているものと違ったり、意味もどういう意味なのか分からない、ということがありますね。

明朝体で書いてくれると助かりますが、癖字で書かれているとサッパリ見当もつかないですね。


暇な時には頭の体操になってボケ防止になりますが(謎)
お仕事のある、限られた時間で紐解くのは、他のこともしたいのに
困りますね。


でも忙しいところを時間を作って取り組んでいらっしゃるのですから
良い思い出にもなります。
まだ頭の柔らかい今のうちに慣れて将来スラスラ読めますように。


   本日は中国人の友人と   鯤  の話をしました。
     荘子の逍遥遊に出て来る「北の果ての暗い海に住む巨大な魚」です。
     6月の季節風に乗って天駆けると「鵬」という巨大な鳥になる
   という伝説です。

   高校の漢文でやりましたよね。


人生を終わろうとする年代で見る漢字はまた違う意味が迫って来ます。
古文書を読むにも、ちょっと余裕が出て、書いてる人の心中にも思いを馳せたり出来ますよ。
まだまだ大変でしょうけど少しずつ頑張ってください。

次に生まれ変わる時には、この1年、思ってらっしゃることが生かされると良いですね。


また次に姨捨の里にいらっしゃる時は予習に

田中絹代の「楢山節考」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83_ (1958%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


緒方拳の「楢山節考」   こっちはゲ〜の内容が多いかも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83_ (1983%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

2つご覧になってください。

食べられない時代の人間の暮らし、ということで。    


「姨捨の里」というのを表に出せる、その強さ、たいしたものです。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月30日 09時46分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の麻績行き、総括してみると、「麻績」には幾重にも歴史の層が
オーバーラップしている、歴史の謎のヴェールに幾重にも覆われている
ような気がしてなりません。
 それは、こんな謎の連想です―
 @麻績・・・麻績王にも関係するか
 A麻績王・・・柿本人麻呂か
 B聖高原・・・柿本人麻呂は「歌の聖(ひじり)」と言われた。
 C麻績・・・たくさんの歌人が訪れ、歌を詠んだ。
 D猿ケ馬場・・・サルガバンバと言い、何か外国語のような感じがする。
         猿は神の使いでもあり、伊勢の神の使いでもある。
         柿本氏も猿女的(歌・語り)要素があった。
 E麻績(おみ)・・・神事を主催する祝人を「大忌(おみ)」という。神事の
          細部を担当する人々を「小忌(おみ)」という。
 F麻績(おおみ)・・・近江(おおみ)、遠江(とおつ・おおみ)織物に関係
           するが、伊勢神宮に関係する。
 G麻績御厨・・・伊勢神宮の荘園
 H麻績神明宮・・・伊勢神宮の末社
 I麻績部氏と服部氏・・・麻・絹の織物を伊勢神宮に納める。頭に「神」
             が着くと伊勢神宮に仕える神官になる。
 そして、伊勢神宮といえば、天武・持統・藤原不比等・・・。
 そして―最大の謎、伊勢神宮とは?
 姨捨がそこにからむかどうかはまだわからない。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月30日 10時50分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

   「おみ」を検証すると・・・

すごい発見ですね。
全く知らない世界が見えて来ますね。


伊勢神宮の荘園だったということで格が高かったということですね。
芭蕉はどういう心情で訪ねたんでしょうね。



姨捨  以下コピペ

JR篠ノ井線姨捨駅には姨捨の由来となった昔話がたてられています。

昔、信濃の国に年寄りの大嫌いな殿様がいた。彼は、70歳になった老人は山へ捨ててくるよう国中におふれを出した。ある月明かりの夜、一人の若者が年老いた母を背負って山に登って行った。彼の母親は70歳になったので山に捨てなければならなかった。

しかしいざ山に登り、捨てるという時に、どうしても捨てることが出来ず、そのまま母を背負って山を下り、こっそり床下に穴を掘って母をかくまっていたのである。

さて、そのころ、殿様のもとへ、隣国から使者がやって来て「灰で縄をなえ、九曲の玉に糸を通せ、さもないと国を攻める。」という難題をもちかけてきたのである。困った殿様は、おふれを出し、この難題を解ける知恵者を探し求めた。

これを知った若者が、床下の母に尋ねると、母は塩水にひたしたワラでなった縄を焼けばよいこと、玉の一方に蜜をぬり、その反対側から糸をゆわえたアリを通せばいいと教えてくれた。若者は、さっそく殿様に申し出て、この方法を知らせたのであった。

すんでのところで国難を救われた殿様はたいそう喜び、若者にほうびをとらせようとした。「なんなりと申すがよい。ほうびは望むままに進ぜよう。」「ほうびはいりません。ただ、老いた母を助けてください。実は、この知恵を授けてくれたのは、70歳になった私の母です。」若者は、涙ながらに母親のことを打ち明けたのである。

国難を救ったのが老婆の知恵であると知った殿様は、いたく感銘し、この時はじめて老人を大切にすべきことを悟ったのだった。むろん姨捨のおふれはほどなく廃止されたということである。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月30日 10時57分30秒 ) パスワード

本当にこういうハナシ
元になる話
が存在したんでしょうか?


外国でも老人を大切にしようということで似た話があった記憶です。


地球的な洪水の時に老人の知恵で助かった話を聞いた記憶ですし。


たぶん、老人に冷たい若い世代を諌める話だと思います。
地名に残した、というのがスゴイと思います。


     老人に冷たいのは古今東西
     今の時代でもそうですから。

    
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月31日 09時46分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は久しぶりに釣りの道具の手入れ等をして気分転換をはかりました。
 ただ、季節の変わり目で、また秋雨前線が停滞し、天候不順で頭脳の方も
曇りがちで冴えません。歴史探偵に必要な総合力と推理力のキレがありませ
ん。

 情報はいろいろ仕込んでいるのですが、ストーリーの道筋まだ描けません。
 それは、どういうことかというと、「姨捨山」(とりあえず)を中心とした
謎解きであります。

 芭蕉が、どの程度の教養を身に着けていたかは、まだ未調査ですが、俳人
として、日本の広義の文学および歴史に対する知識は身に着けていたはずで
あります。従って、柿本人麻呂のことは知っていた(その当時の人麻呂につい
ての評価はどのようなものであったかは、今の所未調査です。また俳諧と和歌
関係の推移についても未調査です)。
 俳諧と和歌の関係の中で、「枕詞」というのが一つの秘められた事象のシン
ボルとなりますので、歴史的教養・文学的素養の有無の証明となると思います。

 そんなことで、まだ未熟ではありますが、「芭蕉」と「柿本人麻呂」との
関係を推理したいと思っています。人麻呂、芭蕉はある意味で巨人であります
ので、付け刃では太刀打ちできませんが、少しでもその秘密に迫ってみたい
と思います。キーワードは「猿」、「夏草」「古池」「天の川」・・・です。
「猿」から何がでてくるのか、「夏草」から何が出て来るのか、「古池」から
何が出て来るのか・・・想像力を屈指して芭蕉の心象世界に入り込まなくては
なりません。

 大変なテーマですが、さて、どんな結末が待っていますことやら・・・?

 なお、芭蕉は「姥捨山」で涙を流したと自ら記しています。
 その当時の芭蕉の時空間・環境を肌身で感じなければ、その真の意味の理解
はできないと思っています。
 そういった意味で、来年もう一度姨捨山へ行き、資料館等へ行って調査をし
て来たいと思ってります)。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月31日 09時56分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:レス[28] 「神」が着く→「神」が付く
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月31日 21時02分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


カツオ?マグロ?のアイコンをつけたサイト
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/index.htm
は文字化けしてて全く読めないのですが

下記は猿田彦神についてです。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/saruta.htm



芭蕉はどういう思いで「姥捨山」で涙を流したのでしょうね?
   単に老人を迷惑な存在として抹殺したい世の中の風潮にだったのか
   先祖に関わることに涙したのか
   何か思うところがあったのか
何があったのでしょうね。



柿本人麻呂について芭蕉はどのぐらいの知識を持っていたのでしょうね。
芭蕉についてたくさん読まないといけませんね。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月31日 21時08分19秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82





人麻呂にまつわる異説・俗説[編集]

梅原猛は『水底の歌−柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。

また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。


古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。

なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。



『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。

この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある[16]。

しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。

このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。

柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。

[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月01日 00時36分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島十湖の手紙の全文を解読し終えました。時間を取られてしまいました。

 インターネットサイトの紹介、ありがとうございました。ワニ氏〜柿本氏
について載っておりましたので参考になります。
 柿本人麻呂というと平安時代の名前のように感じますが、七世紀後半、つま
り平安時代の前の人間であります。天武・持統天皇の時代であります。
 謎につつまれた巨人・歌聖ですので、難航しそうです。芭蕉もしかり。巨人
・拝聖であります。忍者の系統ですので、おいそれと尻尾は出さないと思われ
ます・・・。

 それではまた明朝(今朝でした)に―
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 02時37分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>松島十湖の手紙の全文を解読し終えました。

これから研究が始まりますね。

   信濃路行きの原因とか目的などの背景がなんとなく見えて来ましたか?
   そこから芭蕉の背景も推測出来ると良いですね。


http://hitorikimamani.cocolog-nifty.com/buraritabi/2008/05/post_b1e2.html
芭蕉更科紀行・信濃路
                

「身丹志み亭大根からし秋乃風 者せ越」
(身にしみて大根からし秋の風 ばせを) 貞享5年(1688)吟。
更科紀行の途中に詠んだ句です。



http://hitorikimamani.cocolog-nifty.com/buraritabi/2008/06/post_6fc4.html
芭蕉更科紀行・続信濃路


                      こっちがすごいですね。

芭蕉の更科紀行を歩く、信濃路を再開です。
今回は坂北の青柳宿からスタ―ト。
麻績宿、猿ヶ馬場峠を越えて姨捨へと向かいます。

青柳宿を出てしばらくすると現れるのが大切通し。
岩をノミで切り開いて通した道で、
そのノミの痕がはっきりと残っています。
通り過ぎるとすぐに小切通しです。


二つの切り通しを過ぎて麻績の宿へ入ります。

義仲伝説を伝える一口坂を上り、駒ヶ石など見て宿の中心へ。
旧旅籠の前に目的の芭蕉句碑がありました。

句は二つ「身にしみて大根からし秋の風」
貞享5年(1688)更科紀行での吟。
左は「ひょろひょろとなほ露けしやをみなえし」
同じく更科紀行での吟句です。

宿場を抜けると、いよいよ善光寺西街道最後の難所、
猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)です。


草むらのみちを行き、石畳の道を上ると「弘法の清水」と
芭蕉句碑があります。


句碑の裏にある句は「さゝれ蟹足這いのぼる清水かな」
貞享4年(1687)の句で更科紀行には関係ありません。

そして最後の道を上りきると国道に出ました。
目の前は聖湖で、すぐ先が猿ヶ馬場峠です。


峠の頂上はなんとリゾート地でした!あとは下るだけです。
途中で姨捨への林道に入り街道とはお別れです。

そして、戻って来ました姨捨です。



前に来たときに外した名勝「田毎の月・四十八枚田」です。            「田毎の月」は有名ですね

芭蕉はここから坂城に回り、十六夜観月殿で月見をしています。
時間が気になったんですが、雨も降らず行くならこの日と、
そのまま坂城に向かいました。

坂城にある十六夜観月殿、回りには多くの月の句碑があります。


そして芭蕉十六夜塚です。
句は「いざよいもまだ更科の郡哉」
貞享5年(1688)更科紀行での吟です。

天候のこともあり、一気に坂城までを済ませました。
芭蕉更科紀行も残すは最後の善光寺だけとなります。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 02時58分30秒 ) パスワード

http://www.asahi-net.or.jp/~mi5h-skri/nagano/date/w_nagano/omi/topics/05_topics.html


東筑摩麻績村

  寸劇発表! 「善光寺草津街道之記」 ( 2005. 10. 15 )
  大盛況! 「月の里収穫祭」 ( 2005. 10. 9 )
  麻績神明宮の祇園祭 ( 2005. 7. 24 )                 あらら では次回は7月に?
  カタクリ群生地 ( 2005. 4. 29 )
  ミズバショウとスイセン ( 2005. 4. 29 )
  全面結氷の聖湖 ( 2005. 3. 27 )
  美味! 聖高原 北山新そば祭り ( 2004. 11. 7 )
  法定合併協議会からの離脱に係わる車座集会 ( 2004. 9. 17 )
  木曽義仲ゆかりの地 一口坂 ( 2002. 2. 17 )             これが知りたかったです
  JR篠ノ井線聖高原駅 開設百周年と歌碑公園 ( 2000. 5. 3 )



 麻績神明宮の祇園祭 ( 2005. 7. 24 )
 麻績村麻の麻績神明宮で行われた祇園祭で、四十年ぶりに復活となった「浦安の舞」が奉納され、昔を懐かしむ年配者を中心に大勢の人々で賑わった。また境内では、豪快な動きが特徴の「聖太鼓」の演奏も行われた。


 美味! 聖高原 北山新そばまつり ( 2004. 11. 7 )
 麻績村市野川で七日、今年で二度目となる「聖高原北山新そばまつり」が開催され、会場を訪れた大勢のそばファンが、喉コシの良い新そばと、地元で収穫された秋の味覚に舌鼓を打った。
 「北山そば」は、標高八百メートルにあるそば畑で収穫されたそば粉を使ったもので、当日は「ざる」と「かけ」合わせて五百食分が用意された。
 晴天に恵まれたこの日は、紅葉を訪ねた帰りにイベントの開催を知って訪れたという県外からの行楽客も多く、昼過ぎには完売。急遽、追加分を用意するほどの賑わいとなった。




 法定合併協議会からの離脱に係わる車座集会 ( 2004. 9. 17 )
 東筑摩郡麻績村の麻績小学校体育館で十七日、本城村・坂北村・麻績村・坂井村の四村で構成する法定合併協議会から、麻績村が離脱、自立する方針を打ち出したことを説明する車座集会が開催された。当日は、村内外から三百人ほどが会場を訪れ、依田麻績村長や役場関係者のよる離脱に至った経過説明を聞きいっていた。



                        つまり横田河原の戦い(1181年)に行く途中の話でしょうね

木曽義仲ゆかりの地・一口坂 ( 2002. 2. 17 )
一口坂
 「一口坂」は、北国西街道(善光寺街道)を坂北村青柳宿から麻績村麻績宿へ向かう途中にある坂。
 およそ二メートル幅の坂道は、車が通らない(通れない)ため、現在は子供たちの通学路として利用されている。猿ヶ馬場峠に続く旧街道とともに、村内に残る旧街道の面影を残すものとして訪れる人も多い。


 <管理人ひとこと>
 北国西街道を辿る途中で見つけた木曽義仲の伝説が残る地、それが「一口坂」でした。街道を辿る旅とはいいながらも、実際には車で何らかの用事の帰りに立ち寄っているだけですが、国道四〇三号線から離れた伸びるこの坂の周辺には、残念ながら車を停車できるスペースがほとんどなく、また、途中には待避所がないため、ノロノロしていますと後ろから煽られてしまい、とても減速などできる状況でなかったので、現場だけを確認するのみで、実際に訪れたのは相当の時間が経ってからとなりました。ここには、麻績村教育委員会・麻績村木曽義仲ゆかりの会が建てた「一口坂」と呼ばれるようになった所以を紹介する案内板がありましたので紹介しておきます。



 麻績合戦に向かう木曽義仲の軍馬が、この坂を登り、笹を一口食べて元気を取り戻したので、ここを一口坂というようになった。

 「治承四年( 1180 )九月七日、義仲兵ヲ信濃ニ起ス。是日、義仲、村上義直等ト共ニ、平氏ノ党笠原頼直ヲ市原ニ破ル。」(吾妻鏡、信濃史料第三巻)

 「寿永年中( 1182 〜 83 )、麻績左衛門佐正方居住、木曽義仲ニ被攻没落。」(信陽城主得替記)

 「われ信濃を出でしより、小見(麻績)合田(会田)の合戦よりはじめて北国にては、砥浪・黒坂(中略)板倉がしろを攻めしかども、一度も敵に後を見せず。(後略)」(平家物語)


            麻績 左衛門佐 正方 居住
                つまり
            服部左衛門佐藤原正方の館が落ちた



横田河原の合戦


以仁王の令旨をうけて1180年九月、信濃で旗揚げした
木曾義仲は平家方の武将笠原頼直を破ります
(1180年9月7日市原合戦)。


翌(治承5年)1181年6月には依田城(現長野県上田市)を拠点に力を蓄えていました。

                   つまり平成の市町村合併に反対した時の依田麻績村長さんのご先祖さま?
                    http://koten.kaisetsuvoice.com/yoshinaka02.html

             
そこへ、越後の豪族城長茂が平宗盛の命を受け、義仲討伐に乗り込んできます。


城長茂は1万騎あまりを三手にわけ、越後から信濃へ南下、 千曲川沿いの横田河原に陣をしきます。



                まさに川中島の戦い 謙信 vs 信玄 と同じですね。




 JR篠ノ井線聖高原駅 開設百周年と歌碑公園 ( 2000. 5. 3 )
 JR篠ノ井線聖高原駅の開設百周年を祝う記念行事が三日に行われた。この日は、「福満寺 1150年祭」(麻績村日)が行われたこともあり、ふだんは静かな駅前も、立ち寄った観光客などで久しぶりに賑わった。

 聖高原駅(旧麻績駅)は、明治三十三年( 1900 )十一月一日に、篠ノ井線の部分開通(篠ノ井〜松本間の開通は 明治三十五年六月)とともに開設された駅で、筑北地方で伐採された木材を都市圏に輸送するための集荷基地として活躍した。現在は、通勤・通学に利用されているほか、聖山高原県立公園への玄関口として筑北地方唯一の特急停車駅にもなっている。記念イベントは、来年(平成十三年)三月まで随時開催される予定。

<管理人ひとこと>
 聖高原駅前の広場には、かつてこの地を訪れた人々が詠んだ歌を刻んだ歌碑がたくさんあります。ることでした。参考までに幾つか書き留めてきましたので、機会がありましたら、ぜひご覧になってくださいね。

 更科や 姨捨山の高嶺より 嵐をわけていづる月影
 作者 正三位家隆 出典 新勅撰和歌集


 わすれずは 又もきてとへ(え) おみ衣
 みしにもあらぬ たもとなしとて  伊賀光宗
 (返歌)
 たちかへ(え)り 又もたつ(す)ねん おみ衣
 かくてはいかが 山あゐ(い)の袖  信生法師
 作者 伊賀光宗・信生法師 出典 信生法師集
 元仁二年( 1225 )、麻績御厨矢倉村に配流されてきた鎌倉幕府の重臣伊賀光宗を、友人の信生法師が訪ねた折の作。



 さざれ蟹(がに) 足這いのぼる 清水かな
 作者 松尾芭蕉
 寛政三年( 1791 )秋、麻績宿の歌人鳥誠、可吟、暁平たによって聖高原お仙の茶屋(旧善光寺道 弘法清水)に芭蕉の俤(おもかげ)碑が建てられた。


 しづはたの 織りぬふ(う)わざの いとなさや
 ここにをうみ(麻績)の里のわざとて
 作者 菅江真澄 出典 菅江真澄遊覧記 
 天明三年八月、真澄は本洗馬(塩尻市)の友人数人と姨捨に観月行をこころみ、麻績の里で一休みした。 


 山を見き 君よ添い寝の夢のうちに さびしかりけり 見もしらぬ山
 作者 若山牧水
 明治四十五年、中町、山崎 斌(あきら)の生家臼井忠兵衛宅において歌会が催され、牧水と(太田)喜志子らとともに同家に泊った折の作。

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 06時04分42秒 ) パスワード

平氏ノ党笠原頼直をコピペしようとカーサー(矢印)をクリックしたら涙が出ました。
自分でビックリ。


                理由が分かりました!
                麻績がらみだったのです。
                平正弘父子の欄を参照してください。

                なんだかもっと涙が出そう。

                ヒバリさんの家にも関わるんでしょうね。


取り敢えず木曽義仲に負けた平家方の笠原頼直について
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht030390


長野県立歴史館 信濃史料


信濃史料
巻三 久寿二年(1155)〜 

治承四 義仲、兵を信濃に起す、、、
55 / 620 ページ



治承四年九月七日(1180) 義仲、兵を信濃に起す、是日、義仲、村山義直等と共に、平氏の党笠原頼直を市原に破る、


    [出典]
     吾妻鏡・一
     愚管抄・五・安徳
     参考源平盛衰記・二十六・木曽謀反附兼遠起請事
     平家物語・六・廻文



木曽義仲の年表

http://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Etc/2000710100/topg/03001.html
後白河天皇の御世

   保元元年七月一〇日 1156年
  崇徳上皇、兵を白河殿に集む、信濃の人村上為国・同基国父子等、之に参ず、

       つまり保元の乱では村上家は崇徳上皇方(負けた方)ということですか


   保元元年七月一一日 1156
   平清盛・源義朝等、白河殿を襲ふ、片桐景重等信濃の人、多く之に従ふ

       片桐家は勝った方ですね


   保元二年二月二五日 1157
   平正弘の所領信濃麻績御厨並びに高田郷以下公卿領三個郷等を没官して、後院領となす


           平正弘とは誰か?子の維繁がヒット

               平維繁(,惟繁,惟重)

               [父、平正弘]伊勢平氏

               康治元年(1142)検非違使左衛門尉。久安7年(1151)1/7、従五位下。
               仁平2年(1152)崇徳院御所に押入った源満義を捕縛。(右衛門大夫)
               保元元年(1156)7月、保元の乱に崇徳上皇方で判官代。散位。敗戦。
               7/30、大江山辺で源義康により斬首 

                      平家方人物辞典 

                  ということは崇徳上皇方だったのですね。

                  清盛の叔父の忠正と組んだ、ということですね。




更に検索したら  平正弘の別の子供が出ました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BC%98


平 家弘(たいら の いえひろ、生年未詳 - 保元元年(1156年))

平安時代末期の武将。
伊勢平氏の傍流平正弘の子。
母は主計允佐伯貞義の娘。
官職は従五位下右衛門大夫。


一族は平正度の弟正済の流れを汲み、信濃国に高田郷・市村郷(水内郡)、麻績御厨(筑摩郡)、矢原郷(安曇郡)の4箇所の所領を持っていた。


家弘は京において崇徳上皇に近侍し、久安6年(1150年)の興福寺の強訴の際には、検非違使として崇徳院御所に詰める。仁平3年(1152年)には崇徳院御所に乱入した源満義を捕縛している。

こうした縁から保元元年(1156年)の保元の乱においては、一族を率いて崇徳上皇方に参加。藤原頼長の行った除目によって源為義とともに判官代に任ぜられ、春日面の門の守護にあたる。味方の敗戦が決まり総崩れとなると、子の光弘とともに上皇を警護して戦場を脱出。

この際、上皇の後を追って出家しようとしたが、上皇の反対によって思い止まったという。

最後は京都大江山にて、子弟とともに源義康の手によって斬首されている。



つまり麻績は保元の乱の時、崇徳上皇方で、平清盛や源義朝に負けた側だったのですね。


そして後世、木曽義仲の時には、蹴散らされた側だったのですね。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 06時29分59秒 ) パスワード

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi89.htm


信濃の平家一門

<信濃衆> 信濃の平家派。反木曾義仲。

笠原頼直 (*)平五。平家家人。信濃豪族。上野高山党と合戦。1181年「横田河原の合戦」に参陣。

笠原* (*)尾津・平四郎。信濃豪族。平五(笠原頼直)の甥。1181年「横田河原の合戦」に参陣。

保科* (*)星名・源八。信濃豪族。1181年「横田河原の合戦」に参陣。

富部家俊 (*〜1182)三郎。信濃豪族。上野の西七郎と合戦。1181年「横田河原の合戦」に参陣。

▽杵淵重光 (*〜1182)小源太。信濃武士。富部家俊の家人。1181年「横田河原の合戦」に参陣。主とともに戦死。

小沢俊景 (*)左衛門尉。信濃豪族。1181年木曽義仲の挙兵に対し信濃征伐先陣。1181年「横田河原の合戦」に参陣。






木曽義仲の一門
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi59.htm


依田信実 (*)余田・芦田(葦田)・次郎・二郎。
                           寛政諸家譜に出てた旗本の服部氏が蘆田に仕えてた話がありましたが
                           元は  依田氏  だったのかもですね。 

信濃小県郡依田荘の豪族。

依田為実の息。
母は源ノ義賢の妹(娘とも)。              そうすると木曽義仲の母方従兄弟  または  異母兄弟の関係ですか

近隣の丸子氏とともに義仲に従う。
1180年木曽義仲に居城を提供し木曽軍の信濃の拠点とする。

1183年「倶梨伽羅峠の合戦」に参陣。

宮崎、向田を与力に信濃軍3000騎を率いる。弟に四郎・為継、伊那源八・為基。息に(手塚)信行、(飯沼)行俊。



すごい話です。一筋縄では語れないです。うちは伊賀伊勢の出身ですからシンプルですが。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月01日 06時56分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあおを様、麻績について大いに補っていただき、感激です。
 じっくり読解させていただきます―

 木曽義仲に関するパンフを松本の私設美術館でいただいて来ました。
 小矢部市の観光課発行のものです。義仲と巴御前のゆかりの地を一度
訪れてみたいと思っています―

 巨人達を前にして、少し充電しています―
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 07時34分02秒 ) パスワード

思い出しました。
義仲の愛人達の名前。
   山吹とか葵の前
巴御前は有名ですが。



徳音寺(とくおんじ)は、長野県木曽郡木曽町日義にある臨済宗妙心寺派の寺院である。日照山徳音寺。源義仲一族の菩提寺。

境内には義仲、義仲の母小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓、義仲の遺品などを展示した宣公資料館がある。また、隣接して義仲資料館の義仲館がある。




http://www.nagano-tabi.net/modules/enjoy/enjoy_67023006.html
徳音寺

1168年、木曽義仲が母小枝御前を葬った寺で、一族の菩提寺。境内には義仲・巴御前らの墓があります。四季を通じて様々な趣ある様子が見れ、木曽八景の一つ「徳音寺の晩鐘」にも数えられています。春には桜の美しい場所としても有名です。付近には義仲の資料を展示している義仲館(徒歩すぐ)などもあります。



木曽町 日義 124-イ    399-6101

問合わせ先
徳音寺
Tel:0264-26-2520




http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/5a1ded7d0eaed42b34596c310aaddbb7

JR中央線木曽福島駅から普通電車に乗り換えて2つ目の
駅が「宮ノ越」、木曽町日義です。中央アルプスの山々が
連なり木曽川が水しぶきをあげるこの村に山野を駆けめぐり、
武芸に励んだ若き日の木曽義仲を訪ねました。

源義仲は久寿元年(1154)源義賢の次男として武蔵国(埼玉県)
大蔵で生まれたといわれている。幼名を駒王丸といい
母は小枝(さえ)御前という遊女であったらしい。父義賢は、
帯刀先生(たてわきせんじょう)といい、近衛天皇が皇太子の時に
剣を帯びて護衛長官をつとめましたが、久寿二年(1155)、
一族内の勢力争いが原因となって起きた大蔵合戦で兄義朝の
長男悪源汰義平に討たれました。義仲の兄仲家は義賢が都に
いた時の子で、残された仲家を源頼政がひきとり猶子として
育てましたが、宇治川の合戦で敗れ頼政とともに討死しています。

「源平盛衰記(巻26)木曽謀反附兼遠起請の事」によると義賢を
討った義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して
殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、
ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けた。実盛は、
東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に
抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けた。と記され、

「吾妻鏡・治承4年9月7日条」には義賢が討ち滅ぼされた時、
乳母の夫である中三権守中原兼遠は、三歳の幼児であった
義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れた。と記載されている。
また前回の「平家物語・廻文の事」では、二歳の駒王丸を
小枝御前が抱いて木曽の中原兼遠のもとに行った。とある。

これらの史料のいずれが正しいのかは明らかでありませんが、
駒王丸が木曽の中原兼遠のもとに逃れた点では一致します。
木曽での駒王丸の生活については殆んど知ることができません。
十三歳で石清水八幡宮において元服、京へも上ったことが
平家物語に書かれていますが、義仲が京へ上ったかどうかは
定かではありません。しかし都の情報は様々な形で得ていたものと
思われます。治承四年(1180)8月に挙兵した頼朝に20日遅れて
義仲が平家打倒の兵を挙げたのは二十七歳でした。



義仲館

宮ノ越駅から義仲橋を渡ると右手に武家屋敷風の館があります。

源氏の家紋、笹りんどうの紋の幕をくぐると義仲・巴御前の
銅像が迎えてくれます。館内は義仲に関する資料を展示、
義仲の生涯を絵画や人形で解説しています。
日照山徳音寺(義仲の菩提寺)

寺の前身は母小枝御前を葬った柏原寺。

寺伝によると
義仲討死後、義仲の右筆であり、参謀でもあった
大夫房覚明が山吹山の麓にあった柏原寺を現在地に
移し寺号を徳音寺と改め義仲を弔ったという。

山号の「日照山」は朝日将軍木曽義仲に因んだ号です。

鐘楼門は18C尾張藩犬山城主成瀬正幸の母堂により
寄進されたもので楼上の鐘の音は「徳音寺の晩鐘」と呼ばれ
木曽八景の一つに数えられています。

本堂前には少女時代の巴御前の騎馬像
本堂左手霊廟には武将姿の義仲像と位牌が安置され、
裏手の墓所には義仲を中心にして樋口次郎兼光、巴御前、
母・小枝御前、今井四郎兼平の墓が並んでいます。


巴 淵

山吹山の麓を流れる木曽川の深い淵をいい、義仲と巴が水遊びを
した所と伝えられています。またこの淵に住む竜神が巴に化身して
義仲を守り続けたという伝説の地です。


山吹山とともにこの周辺の
木曽川に架かる橋には、葵橋・巴橋・山吹橋と義仲に                  コレですね
かかわりのある女性名がつけられている。



義仲が都へ攻め上る時、倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて
平家の大軍を破ったという故事に因んで8月14日の夜、
山吹山に火文字で「木」の字が描かれ松明を持って山を下る
らっぽしょ祭りが行わまする。


南宮神社

前身は村の産土神として祀られ、のち美濃国一ノ宮の南宮神社を
勧請したもので義仲の戦勝祈願所として重要な神社でした。


旗挙八幡宮

ここで義仲が平家追討の旗挙をしたことから旗挙八幡宮と呼ばれ、
樹齢八百年と伝えられるけやきが拝殿脇で枝を大きく広げています。
この神社の辺りから宮ノ越方面一帯は義仲、根井行親、樋口兼光、
今井兼平らの屋敷があったといわれています。

境内には「木曽義仲公館址」と刻まれた碑が建てられ、義仲は元服後、
中原兼遠のもとを離れてここに住んだといわれていわれています。


宮ノ越宿
宮ノ越という地名は南宮神社の宮の腰(中腹)から生まれたといわれ、
宮ノ越宿は中世末、木曽川べりの平地に設けられました。



『アクセス』  
「義仲館」木曽町日義(旧木曾郡日義村)
明治七年に朝日将軍義仲の日と義をとって日義村になった。
JR中央線木曽福島駅から普通電車(日中は2時間に1本、朝夕は1時間に1本)に
乗換えて、宮ノ越駅下車徒歩5分

義仲館のパンフレットに次のように書かれています。散策の際に参考にしてください。

義仲館⇒100m徳音寺⇒1.3km旗挙八幡宮⇒0.5km南宮神社⇒0.6km巴淵

『参考資料』
「朝日将軍木曽義仲」日義村 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「新定源平盛衰記」(3)新人物往来社  現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 「長野県の地名」平凡社
「長野県の歴史」河出書房新社
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月01日 10時21分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島十湖の書について、ほぼ現代文字になおせましたので、参考に記して
みます。内容については、理解できるものと全然理解できないものがありま
すが、時代のギャップだと思って下さい。

 「伯楽一度帰りて 驥北の谷に馬なし とかや
  頼山陽は 耶馬渓を 世にあらわし
  斎藤拙堂は 月ヶ瀬 
  又 成島柳北は 小日向の梅を
  世間に紹介す
  茲に 我が友 石倉翠葉は 
  常陸の桜川の花の 世にかてざるを知りき
  その顕揚に 数十年つとめたり 
  その功 大なりと謂うべし
  かく 我が日の本は 世界の公園なりと
  公園中に公園あり 名木中に名木あり
  郷里挂寵をするべしや

  名馬あり 伯楽ありて さくらがり
  公園の中の 名木の 古里哉
                          大蕪十湖
                            未遠様

   さくらばなはいつも 一生懸命              」
                                
 ちょっとレベルの高い内容となっております・・・。


 さて、木曽義仲と芭蕉の関係(?)ということで、謎を一つ。

 芭蕉は、奥州への旅から戻ったあと、暮れから二月まで伊賀に、三月は
大津の膳所に、四月は石山の幻住庵に、八月からは「義仲寺」(滋賀県)の
中の「木曽義仲の墓」に隣接した無名庵に入ったという。なぜだろうか?
    
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 12時24分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


>八月からは「義仲寺」(滋賀県)の中の「木曽義仲の墓」に隣接した無名庵に入ったという

義仲寺、行きました。
その時に芭蕉は義仲を好きだったから、と何かに書かれていました。
好きで好きでたまらない英雄だったから、と、


http://yamada.21jp.com/oyaji-340.htm
以下コピペ


なぜ芭蕉は、大坂の旅窓において 死の病の床から 「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言したのか、
義仲寺を訪ねたら その謎が解けるような、そんなたわいない願いもあった。

想像をたくましくして、その謎を解く手がかりを探る。


無骨で粗野な田舎者との先入観が強い義仲は 実は、人懐っこい人情家だったと想像する。
男女を問わず、人を惹きつける人間的魅力の持ち主であったらしい。
人を疑って遠ざけるのではなく、信じて受け容れるタイプだったのではなかろうか。

従兄の源頼朝と この点で、まるで正反対の性格の持ち主だった。


芭蕉が義仲に惹かれた理由のひとつが、この義仲の人柄にあるのは まちがいないと思う。



それにしても、義仲びいきという理由だけで 自分の骸を木曽殿のほとりに葬ってほしい、となるだろうか。

松尾芭蕉は、伊賀上野の生まれ。
30歳ころまで 地元で仕官し、その後 江戸へ出て職業的な俳諧師となる。
しばしば旅に出て、『奥の細道』などの紀行文を残している。
無名庵をしばしば訪れた芭蕉は、奥の細道の旅ののちも、この地に長逗留している。
その間、弟子である膳所藩主・管沼曲翠の勧めで、石山寺近くの幻住庵に4ヶ月ほど滞在。
また、京都・嵯峨野に入って落柿舎に滞在し、弟子たちと 『猿蓑』を編纂している。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿で 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死する。

享年51歳、元禄7年11月28日(旧暦10月12日)のことである。



芭蕉のこの生涯をみて、もし自分なら どの地に骨を埋めたいか、と。

普通なら やはり、故郷の伊賀上野であろう。
芭蕉忍者説など謎が多いのだが、芭蕉には故郷に骨を埋められない訳があったのかもしれない。

嵯峨野の落柿舎も、芭蕉は気に入っていたに違いない。
しかし、嵯峨野は陰気だ。
孤独を愛する若いときなら 嵯峨野はうってつけであろうが、死後に見たい風景は もっと明るい場所がいい。


芭蕉は、琵琶湖の明るい風景を 最も愛したのではなかろうか。
粟津の松原を望む木曽塚のほとりなら、旭将軍・義仲の生きざまにも寄り添える。
だから、無名庵、義仲寺だったのだと思う。


義仲寺は、旧東海道に沿っている。

元禄のころは、風光明媚で なおかつ 大いに賑々しいところであったことだろう。
琵琶湖はすぐそこなのに、いまは建物で埋まって、粟津の松原は想像しづらい。

それでも、義仲寺の翁堂のまえの小さな池に たくさんの小亀が遊ぶのを眺めていると、松原を渡ってくる琵琶湖の風が 耳を掠める気がした。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 12時34分50秒 ) パスワード

義仲の人柄    やっぱり庶民には人気なはずですね。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic35.html

5月、富山と石川の境界にある倶利伽羅(くりから)峠で、平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍と激突。義仲軍5万に対し、平家側は10万の大軍。兵力は半分だったが、義仲は軍を本隊4万と分隊1万に分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけた。逃げ場を失った平氏軍は暗闇の中、逃げ道を求め次々と谷底へ落ちていった。約7万騎が埋め尽くした谷底は、馬には人が、人には馬が落ち重なっていたという。地の利を生かした戦法で圧勝した結果、平氏軍は一夜にして10万の兵がわずか2万まで激減するという空前の大敗北を喫した。


※倶梨伽羅峠の戦いで捕虜にした平氏の猛将・瀬尾太郎兼康を“失うには惜しい武士じゃ”と命を救ったところ、瀬尾は再び敵に回って多くの被害を与えた。頭に来た義仲は「今度はもう許さん!」と大攻勢をかけて瀬尾を自害に追い込む。最期まで瀬尾が奮戦したことを聞くと、「さすがは瀬尾。う〜む、やはり殺すには惜しい男だった」と悔いたと言う。例え裏切られても、忠義心を高く評価する義仲だった。




※牛車爆走事件…高い官位を得た義仲は、貴族の装束を着て烏帽子を被るが全く似合わない。牛車の牛飼いは元々平家の親玉・平宗盛に仕えていたので義仲を嫌っていた。それで牛小屋から気が荒すぎて3年も使っていない猛牛を選んだものだから、鞭を当てた瞬間爆走した。生まれて初めて牛車に乗った義仲は、仰向けに倒れ、手足をパタパタさせ車の中を転げ回った。羽根を拡げた蝶のようになっているので、さすがに気の毒に思った牛飼いは「手すりにお掴まりなさい」と教えてあげた。「おお〜、これは実に良い仕掛けだ。オヌシの案か。それとも宗盛殿か」と、すっかり感心し、手すりにしがみ付いていた。御所に着いた義仲は、後ろから乗って前から降りるというルールを知らず、「旦那様、前からです!」という指摘も聞かず後部から降りてしまった。



※猫間殿事件…猫間という土地に住む中納言・猫間殿が、所用で義仲の館を訪れた際のこと。取次ぎが到着を告げると、義仲は「都では猫が人に会うのか」と本気で信じて噴出した。猫間殿が広間に通されると、昼時だったので義仲はいきなり「やあ、猫殿、飯を馳走しよう」。当時の貴族は1日2食。義仲はそれを知らず、嫌がる猫間殿に食事を無理強いした。「さあ召し上がれ」目の前には縁の欠けた汚い椀に山盛りの飯、平茸汁。猫間殿は躊躇したが食べないのも悪いと思い少し口に運んで箸を置く。「猫殿は小食じゃのう。噂に聞く猫の食い残しとは、まさにこの事。ガハハ。さあ食え、それ食え!」。猫間殿はそそくさと退散した。


※鼓判官事件…法皇の伝言(「義仲は軍の狼藉者を捕らえよ」)を伝えたのは、鼓(つづみ)の名手“鼓判官(ほうがん)”。冗談好きの義仲は真面目な話の最中に「貴殿の名は誰かにぽこぽこ打たれ、頬をペタペタされたからか」と相手をおちょくったので、判官は激怒して立ち去り、法皇に「木曽を討つべし」と進言した。


10月、法皇は義仲軍を都から遠ざける為に、「平氏追討」を命じて西へ下らせた。しかし、“腹が減っては戦ができぬ”とはこのこと。義仲軍にはかつての連戦連勝を続けた覇気はなく、規律も乱れて「水島の戦い」(岡山・倉敷)で完敗した。
法皇は義仲の留守中に頼朝に接近し、「義仲追討」の令を発布。これを知って義仲は憤慨する“あのタヌキ親父め!”。「兵たちだって、兵糧があれば誰も略奪なんてしない。我らは命をかけて平氏と戦っているのだ。青田の一部を馬草にしたと非難するが、では馬に乗らず平氏と戦えというのか。なぜに分かって下さらぬ」。
12月、帰京した彼はクーデターを断行する。義仲軍は7千まで兵数が減っていたが、法住寺に終結した鼓判官率いる2万の僧兵・武士を討ち取り法皇を拘束し政権を掌握する。彼は人事を一新した。清盛は公家39名の官職を剥奪して非難を浴びたが、それを上回る47名を追放した。この『法住寺合戦』では、延暦寺の最高位・天台座主を含め、多くの高僧が犠牲になった。

※『法住寺合戦』に関しては、兵を統率する苦労を頼朝も痛感していたのか、義仲に同情的だった。「鼓判官の軽はずみな言動が帝を悩ませ、多くの高僧を失う事態となった。もう、奴を相手にするな!」。鼓判官は面目をなくし山里に隠居したという。



一方、義仲は宴を開き上機嫌。「この義仲、帝との戦に勝利した以上、私が天皇や法皇になるべきだろうなぁ。だが、法皇になる為に出家するのも妙な話だし、天皇になるには歳を取りすぎておる。童には戻れぬから関白になろう」。義仲は上皇(位を譲った後の天皇)が出家した場合に法皇となることや、この時の後鳥羽天皇は院政の中でたまたま子どもだった訳で、何歳で天皇になってもいいことを知らなかった。関白が藤原氏の要職ということも同じく知らない。

鎌倉から頼朝の大軍6万が出陣したことを知った義仲は、平家に対して「過去を水に流し共に力を合わせて頼朝を倒そう」と呼びかける。平家の親玉・平宗盛は「やった!これで都に戻れる!」と喜んだが、武闘派の知盛から“義仲が平家に降伏することが先です”とたしなめられ、反鎌倉の大連合は実現しなかった。日本は三国志の世界の如く、西に平家、都に義仲、東に頼朝と、三者が対峙しあう一触即発の状況だった



●宇治川の合戦

1184年1月、義仲は自身を権威づけるため、約370年ぶりに征夷大将軍を復活させ就任する。20日、頼朝が派兵した源義経・範頼の率いる義仲討伐軍が京都に迫った。義仲軍の本隊は都への入口となる宇治川に布陣して義経隊と向き合い、分隊は瀬田(琵琶湖の南岸)で範頼と戦闘に入った。義仲は宇治の橋を事前に落としていたが、義経隊は佐々木高綱、梶原景季(かげすえ)が馬で渡りきったのをきっかけに、一斉に全軍が渡河を開始。ここに『宇治川の合戦』の火蓋が切って落とされた(義経は初陣)。義仲軍は6万の頼朝軍に7千の兵で激しく抗戦した。

しかし、やはり多勢に無勢、義仲軍の敗北は時間と共に決定的になっていく。戦場の混乱の中で、頼朝軍の間に「義仲は丹波(兵庫)へ逃げた」「いや北陸へ向かった」と情報が錯綜したが、義仲はまだ瀬田近辺にいた。兵数はわずか13騎。彼は分隊を指揮する今井兼平を探していたのだ。兼平は義仲が1歳の時に預けられた乳母の家の子。2人は兄弟のように育ち、子どもの頃から「死ぬ時は一緒」と固く誓い合っていた。分隊は千騎もおらず苦戦が予想された「兼平…生きていてくれ!」。

義仲の視界に琵琶湖が見えてきた。南岸の“打出の浜”に出たところで、遠くから約50騎の武士が近づいてくる。なんと、兼平たちだった!兼平もまた義仲と死を共にする約束を思い、宇治川を目指していたのだ。

視線の先に互いの姿を認めると、共に馬の足を速めて駆け寄った。義仲は兼平の手をとり、感極まって声を震わす。「業平!」「殿!」「六条河原で幾度も討死を考えたが、貴殿のことが気掛かりで、恥を忍んで敵に後ろを見せ、ここまで逃れてきたのだ」「この兼平も、瀬田にて死なんと幾度も覚悟しましたが、殿が心配で逃れて参りました」「小さい頃に“死なば一緒”と誓ったあの約束は健在か」「殿…!」。

義仲と兼平が手を握り締める姿を見て、散り散りになっていた味方の兵が集まり出した。その数、約300騎。彼らは皆、今から死ぬことを承知しつつ、自分の意思で集結した。「ようし!この浜で最期の戦いを始めるとするか!」。一帯を見渡した彼らの目に、6千騎を率いる甲斐・一条次郎隊が見えた。「うむ!良い相手が見つかった。同じ死ぬなら大軍の中で散ろうぞ!」彼は先頭になり“義仲はここであるッ!この首をとって頼朝に見せろーッ!”と叫び突っ込んで行く。一条は驚き「いかにも木曽殿!ものども、必ず討ち取れ!」。

突撃した300騎は大いに暴れ、敵陣を突破した時に50騎が残った。義仲も、兼平も、まだ生きていた。続いて土肥実平の2千騎に特攻をかけ、また2人は生きて突破した。さらに別の500騎へ、今度はこちらの300騎へと突撃を繰り返し、最後に5騎が残った。上洛前に5万人いた義仲軍は5人になった。そしてこの中に一人の女武者が生き残っていた。巴(ともえ)御前だ。


巴御前は27歳。兼平の妹で「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記される義仲の妻(愛妾とも)。荒馬「春風」に乗って風を切る彼女は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱う美しき猛者。宇治川の戦場を13騎で脱出した時、前方に立ち塞がった敵将・畠山重忠をして「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた勇将だ。

義仲は巴に生き延びて欲しかった。もはや5騎、ここから先は確実な死が待っていた。「巴、よくお聞き。今からは別行動だ。早く逃げなさい」「いやです。最後までお供いたします!」。巴は死ぬまで義仲に寄り添うと言ってきかない。彼女に対し“命を大切に”と説得しても通用しないので、義仲は心を鬼にして言った。「巴!お前は私のことを、“最後の戦に女を連れていた”と世の笑い者にしたいのか!」。

武士の名誉を語られて、彼女は言葉が出ない。なおもしばらく義仲から離れるのをためらっていた。

義仲が「さらばじゃ!」と言って馬を駆けて行くと、敵の30余騎が後を追撃した。巴は泣きながら、その敵のど真ん中へ「私と戦え!」と愛馬を突入させる。彼女は真っ先に大将の体を掴んで引き落とし、鞍(くら)に首を押し付けると、それを斬って投げ捨てた。巴は東国へ落ち延びて行く。


近江国粟津(あわづ、滋賀・大津市)。義仲は新たに追撃を受けていた。琵琶湖南岸は敵だらけだ。矢も少なく、いよいよ最後の局面となった。兼平は腹をくくった“ここまで戦えば悔いはない”。「殿、残りの矢は7、8本です。私が時間稼ぎをしている間に、あそこに見える粟津の松原(松林)で静かに御自害なされ」「何を言う。私は共に戦って散るぞ」。兼平の頬を涙がつたう「日本国に名を馳せた殿が、無名の雑兵に討たれてはあまりに無念ゆえ、早く松原へお入り下され」。これ以上、義仲には何も言えない。「兼平さらば!」と単騎、松原を目指した、

兼平は、素早く矢を放って瞬時に7、8騎を射落とし、矢が尽きると太刀を振り回した。敵は「奴を早く射れ!」と、次々と射掛けたが気迫に圧倒されて命中しない。義仲が“よし、もうすぐ松林だ”と思ったその時、馬の足がぬかるみに捕らわれ身動きがとれなくなった「不覚!」。そして“兼平はどうなったのか”と背後を振り返った瞬間、彼の額を矢が貫いた。即死だった。享年30歳。


敵はその首を掻き切ると太刀の先に刺し掲げ「鬼神と聞こえし木曽殿をこの石田次郎が召し取ったり!」と、名乗りを挙げた。兼平はこれを聞いて「もはや戦う意味はなし!木曽武士の死に様、貴様らよく見とけ!」。彼は馬上で太刀の先端をくわえると、頭から飛び降りて刺し抜いた。




      今井兼平を嫌う日本人はいないでしょうね。
      そういう男に愛された義仲も良い家来を持った人物として最期の美しさに嫌う日本人はいないでしょうね。



芭蕉は義仲のどこに惹かれたのでしょうね?

続く
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 12時38分12秒 ) パスワード

●義仲寺

墓は義仲を憐れんだ近隣の大津・膳所(ぜぜ)の村人たちが造った。法名、徳音院義山宣公。その数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び、朝夕に菩提を弔い始めた。人が名を尋ねると「名は捨てました」。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」といつしか呼び始める。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と移り行き、100年後には「義仲(ぎちゅう)寺」となった。

義仲の他界から510年後(1694年)、一人の俳人が遺言を弟子に残す「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」。その俳人の名は松尾芭蕉。芭蕉は大人気の義経ではなく、アンチヒーローと見られている義仲を愛し、『奥の細道』の完成後の最晩年は、京都・嵯峨の「落姉舎(らくししゃ)」と義仲寺を交互に住んだ。※境内の庭園には「無名庵」が建てられ、1691年(死の3年前)には庵に3ヶ月間滞在している。


所要で向かった大阪で逝去した芭蕉の亡骸は、遺言に従って弟子10名(去来、基角他)が舟に乗せ、淀川を上がって義仲寺・無名庵の前に埋葬した(正面右から芭蕉、義仲、巴御前の順で並んでいる)。境内には弟子の又玄(ゆうげん)によって句碑が刻まれた「木曾殿と背中合せの寒さかな」。



源平争乱を全体から見た時に、“一ノ谷”や“壇ノ浦”での義経の華々しい活躍ばかりがクローズアップされているが、平家打倒の真の功労者は戦乱初期の「倶利伽羅峠の戦い」で、10万の平氏軍を2万まで壊滅させ、平家一門を海上へ都落ちさせた義仲だ。彼が20年続いた平氏政権を3年で打倒したのだ。義経の少人数での奇襲作戦が通用したのは、義仲がごっそりと平氏軍主力部隊の戦力を奪っていたから。平氏軍は人数が減った上に、新たに増えた兵は忠誠心のない傭兵(ようへい)ばかりになってしまった。


僕は長年、義経や頼朝の視点でしか義仲を見ていなかったので、彼のことを短慮で粗野な無法者という印象しか持っていなかった。


だから、なぜ芭蕉ほどの男が、義仲の墓の側に住んだり、死後は隣に埋めてくれと遺言までしたのか、その気持がさっぱり分からなかった。

しかし、共に死ぬ約束を果たす為に兼平を探し回る姿や、牛車爆走事件で手足をバタつかせている様子、猫間殿への無邪気な振る舞いを通して、荒くれ者ではあるが決して悪人ではなく、むしろその不器用さ、一本気さに親しみを感じた。何より、「木曽義仲」という人物に魅力がなければ、巴御前がああまで慕い、圧倒的に不利な戦力差で兵がついて来るハズがない。


平家物語や記録に残らないエピソードが多数あることが容易に想像できる。
芭蕉は豪傑であると同時に素朴で人間味の溢れる義仲の人柄を愛したのだろう。



※人質として頼朝の下にいた義仲の子・義高は、頼朝の長女・大姫と結ばれていた。始めこそ政略結婚であったが、大姫は義高にベタ惚れになる。義仲が討たれたことで大姫は義高の身が心配になって彼を逃がそうとするが、義高は捕らわれ処刑された。彼女は父を恨み、悲しみのあまり長く床に伏せる。政子は頼朝を強く非難した。後に義経の愛妾・静御前が鎌倉へ連行された時、大姫は父に愛する者を奪われた彼女に身を重ね、様々な贈り物をしている。



※「義仲の寝覚(ねざめ)の山か月かなし」(芭蕉)



※墓は他に3ヶ所。長野県木曽郡木曽町(木曽福島)の徳音寺に木曽義仲、巴御前、今井兼平の墓がある。寺の名前は義仲の戒名「徳音院義山宣公」が由来。また興禅寺には巴御前に託された遺髪が義仲の墓に納められている。墓前には種田山頭火の歌碑「さくらちりをへたところ旭将軍の墓」が建つ。京都東山の法観寺には首塚がある(八坂の塔の横)。六条河原で晒され法観寺に葬られたとのこと。巴御前の墓も滋賀・国分寺の境内に供養塔(瀬田の唐橋の西)、横須賀市岩戸、横須賀市佐原など複数あるようだ。

[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 12時49分45秒 ) パスワード

http://www.bashouan.com/psBashou_spc.htm

芭蕉についてのこのサイトも良いですよ。
足取りについても整理されていますから、URLにいらっしゃって、お読みくださいね。


以下は芭蕉が義仲を好きだった理由:

芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺に葬られた経緯は、生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語ったことによるもので、芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。


           義仲の寝覚めの山か月悲し

            (「荊口句帳」所収「月一夜十五句」のうちの一句)



           http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukansonota/hiuti/hiuti.html

          『源平盛衰記』によると 寿永2年(1183)、平維盛の軍を討つために木曽義仲が仁科守弘に築城させ、
          前面を流れる 日野川を塞き止めて水を満たし、六千余騎を率いて立て籠もった。

          しかし、援軍に来た平泉寺長吏 斉明が平家側に内通したため、燧ヶ城は落城した。



          その後、南北朝時代には、今庄入道浄慶が居城とし、足利軍に属して新田義貞を攻めた。




           戦国時代には斯波氏臣赤座但馬守、魚住景固、
          そして一向一揆の際には本願寺坊官の下間頼照等が 立て籠もり、信長軍に抗して敗れ、
           柴田勝家がここを守った。

           【画像左】北西より燧ヶ城  

           西側には越前平野から木ノ目峠、栃ノ木峠を経て近江に通じる街道が通る。
           尾根が街道側へせり出しており、街道の通る谷はここで極端に狭められている。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 13時07分34秒 ) パスワード

2.義仲寺について

「木曽義仲御墓所」として知られる義仲寺は、木彫りの聖観世音菩薩を本尊とする寺で、開山は室町末期といわれ朝日山義仲寺と号する。


義仲寺本堂を朝日堂と称し、本堂には義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉など、31柱の位牌が安置されている。


義仲寺が建つあたりはその昔粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面する景勝地であった。

寿永3年(1184年)、義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢におされ、宇治から北へ逃れる途中、義仲は31歳の命をこの地で果てている。

義仲の亡骸は当地に葬られたが、
寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれ、
死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。

その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っている。



義仲寺の境内には次の3つの芭蕉句碑が建っている他、
又玄(ゆうげん)の「木曽殿と背中合せの寒さかな」など、全19の句碑が俳諧碑林を織り成している。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D

巴御前
平安時代末期の信濃国の武将。字は鞆、鞆絵とも[1]。『平家物語』によれば、源義仲の便女[2]。『源平闘諍録』によれば、樋口兼光の娘。『源平盛衰記』によれば、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の妹で、源義仲の妾。

よく妻と誤記されるが、源義仲の妻は巴御前ではない[3]。


               巴御前について:

        便女(びんじょ)というのは、文字通り「便利な女」の意味で、
        戦場では男と同等に戦い、本陣では武将の側で身の回りの世話をする(性的奉仕を含む)召使いの女。

        当時それらの役割は「寵童」と呼ばれる見た目の良い少年にさせる事が多かった。

        便女も見た目のよい女性が就く場合が多く、便女=美女という解説がなされる場合もある。


           山吹について:

       「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはり[4]あって、都にとどまりぬ。

            山吹は京都で病気になった、と書いてありますね。




            義仲の正妻:

       『平家物語』では義仲は京で松殿基房の娘(藤原伊子とされる)を妻としており、
       『源平盛衰記』では京で基房の娘を妻とした他に、
        義仲が巴に向かって信濃の妻に再び会えないのが心残りだとも言っている。

              井上靖の本の中での信濃の妻は「葵の前」だったような?





作家の海音寺潮五郎は金刺氏の持ち城に山吹城という城があることから、巴と山吹は義仲の支持勢力である中原氏と金刺氏が一族の中でも優秀な娘を副官・秘書官として派遣したと推察している。

     金刺氏は諏訪大社がらみで出て来た記憶。



金刺氏について
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/ootuka2.htm


下諏訪大社系のようですね。

[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 13時22分38秒 ) パスワード

http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/f58052498183681da465adaf067b3af6
義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)

室町時代末頃に近江守護の佐々木(六角)高頼は木曽義仲を供養するため、
荒廃した寺を再建し寺領を進めます。しかし江戸時代には再び荒廃、
義仲塚の傍らに柿の木があるだけの小さな寺となります。
貞享年間(1684〜87)に大修理の記録があり、芭蕉がこの寺を初めて訪れたのは、
奥の細道の旅から帰った元禄2年(1689)ちょうど寺の修理を終えた頃で、
この年の暮れは当寺で過ごしました。その後も義仲を敬愛していた芭蕉は
度々滞在しています。湖南には芭蕉が信頼する膳所藩重臣の
本田臥高・菅沼曲水や曲水の伯父水田正秀などの多くの門人がいました。
なかでも曲水は石山寺に近い国分山中にあった庵を幻住庵として芭蕉に提供し、
義仲寺境内には水田正秀によって無名庵が建てられます。
山門を入ると境内右手に寺務所、
史料観・朝日堂その奥に翁堂が建ち並び、
左手に芭蕉ゆかりの俳書などを納めた粟津文庫・無名庵と続きます。
庭には山吹・巴塚・木曽義仲の宝篋印塔、その右隣には芭蕉の墓が並び、
芭蕉や無名庵主らの20基近い句碑が点在しています。
境内奥に義仲寺鎮守の木曽八幡社や曲水、
昭和再建に尽力した保田與重郎などの墓があります。

元禄7年(1694)9月、旅先の大阪で病に伏せた芭蕉は、
大坂本町の薬屋だったという弟子の之道(しどう)宅から
近くの南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に病床を移します。
臨終の床で、大津の乙州(おとくに)に「さて、骸(から)は木曽塚に送るべし。
爰は東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契深かりし所也。
懐かしき友達のたづねよからんも、便わずらわしからじ。」
(路通『芭蕉翁行状記』)と語ったといいます。

木曽塚は義仲寺にある義仲の墓所ですが、芭蕉は「膳所は旧里のごとし」と語り、
湖南蕉門らの集う無名庵を幾度となく訪れ交流を重ねています。
芭蕉の時代、比良・比叡の山なみが連なる琵琶湖に面し、道のすぐそばまで
波が打ち寄せる風光明媚な木曽塚の地は芭蕉が愛したところです。
東海道沿いにあるこの地は、懐かしい人たちが訪ねてくれるのに都合がよく
自分の死後も弟子たちが時折尋ねて来て句会を催すことを望んでいたようです。
ちなみに大津市打出浜・におの浜付近の湖岸は
市街地を広げるため、昭和30年代に埋立てられました。

元禄7年10月、芭蕉の遺骸は遺言通り、門人の手で花屋仁右衛門別宅から
川舟に乗せられ、淀川を遡って木曽塚の隣に葬られました。
丈艸(じょうそう)筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた
塚の傍には冬枯れの芭蕉が植えられます。
芭蕉は悲劇の武将義仲や義経に心惹かれたといわれています。
ともに源氏再興を願い平家追討に身を捧げながら
やがて頼朝と対立し歴史の舞台から消えてしまったという意味では、
義仲と義経は同じ運命を辿ったということになります。


「おくの細道」の旅で芭蕉は平泉高館に上り
奥州藤原氏三代が滅亡したあとの夏草が生い茂る情景を
♪夏草や兵どもが夢の跡 と詠んでいます。
平泉は奥州藤原三代・清衡、基衡、秀衡が居を構え、
高館には義経の館があったといわれ、
父、秀衡の死後、鎌倉方と組んだ泰衡にこの館を襲われた
義経は妻と娘を殺害したのち自害します。
時に31歳、奇しくも義仲がこの世を去ったのと同じ年令でした。

この旅の途中に多太神社(石川県小松市)に参拝し斎藤実盛の
遺品の兜を拝見します。きりぎりすの鳴き声を聞き
実盛の無残な最期を思い起こし「むざんやな」と嘆き
♪むざんやな甲の下のきりぎりす の句を奉納、
やがて白山が見えなくなる旅の最後には、
湯尾峠を越えて源平古戦場の燧ヶ城(ひうちがじょう)へ。

義仲軍を迎え撃とうと、北陸路を進んだ平家軍はこの城にたてこもる
義仲方の軍勢を破り加賀に攻め入り、その後、
倶利伽羅峠の合戦で平家軍は義仲軍に大敗することになります。
♪義仲の寝覚めの山か月悲し と吟じ、
木曽塚の傍らの無名庵に滞在し、真直ぐで豪胆な義仲の性格を
雪の下でたくましく芽吹く草にたとえて
♪木曽の情雪や生えぬく春の草 の句を作っています。
芭蕉が義経・義仲にとりわけ強い思いを寄せていたことについて
『芭蕉 最後の一句』に次のように書かれています。
「伊賀国は室町時代から群小の土豪の力が強く、織田信長の次男
信雄(のぶかつ)の侵攻も撃退していたが、天正九年、信長は大軍で攻め寄せ、
抵抗する伊賀の土豪を殲滅(せんめつ)掃討した。

                                      ここから芭蕉が義仲を好きな理由

芭蕉は伊賀の土豪の出身であることから、源氏の義経や義仲などの
敗残者に熱い思いを寄せることになったのではないかと思われる。」

また松尾家について「戦国時代末期に松尾家の先祖は
[福地]姓の大きな城持ちの土豪だったが、あるきっかけから没落し、
近世期には武士身分になることさえできず[無足人]となった。
無足人とは藤堂藩独特の制度で、藤堂家は没落した旧勢力を
懐柔するために、無給の名誉武士とでもいうべき階層を創設したのである。
実質は百姓だが、年貢は免除され、苗字帯刀を許された。
それが芭蕉の父の家であった。」と『芭蕉めざめる』に記されています。
義仲寺2(芭蕉) 義仲寺3(芭蕉以後) 義仲寺4(巴塚・山吹供養塚)


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http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/6ea2592e0fa11c120896bcf2a6f6f41e


   義仲寺2(芭蕉)

松尾芭蕉は湖南をこよなく愛し、たびたびこの地を訪れ義仲寺で過ごしています。
湖南には信頼する多くの門人たちがいて、人々の情は厚く、
芭蕉にとって心休まる故郷のような土地だったようです。
芭蕉が最初に大津を訪れたのは『野ざらし紀行』の旅の途中、
貞享元年(1684)9月、41歳の時のことで、それから51歳で亡くなるまでに、
9回も大津を訪れ、90句数ほど作っています。
芭蕉生涯の句数は約980といいますから1割近い数になります。


元禄3年(1690)晩春、志賀辛崎に舟を浮べて
♪行く春を近江の人とおしみける と詠んでいます。
芭蕉にとって近江と近江の人は特別なものでした。
芭蕉真蹟(直筆)のこの句碑が史料観傍の芭蕉樹の中にあります。
なお桃青(とうせい)は芭蕉の別号です。



芭蕉という俳号は、芭蕉樹からきています。
芭蕉の葉が風雨に破れやすく、破れやすいという点が
自分自身に似ているところからこの号を用いたといわれます。
また江戸の門人、李下(りか)に贈られ、深川の庵の前に植えた
芭蕉の苗が大きく成長し、近所の人が芭蕉翁と呼んだところからとも。



芭蕉は「奥の細道」の旅を終えて伊勢まで帰ると
又玄(ゆうげん)宅に宿泊し、伊勢神宮の内宮、外宮を参拝します。
伊勢神宮は20年毎に建て替えられ、芭蕉の訪れた年は
ちょうどこの式年遷宮の年に当たっていました。
又玄(島崎味右衛門)の家は代々、
伊勢神宮の御師(おし)という下級神職を務めていましたが、
この時は父を亡くして貧乏のどん底でした。若い夫婦が苦しい生活の中で、
精一杯のもてなしをしてくれることに芭蕉は深く感謝し、
その妻に句と文章を贈っています。  ♪月さびよ明智が妻の話せん
寂しい月明りのもとですが、そなたに明智光秀の話をしてあげましょう。

明智光秀は若いころ、仕官先もなく貧乏でした。連歌の会を開くお金が要るというので、
妻は自慢の長い黒髪を切ってお金に換え、夫に差出したといいます。

元禄4年(1691)9月、又玄は芭蕉が滞在していた義仲寺を訪れて
無名庵に一泊、木曽義仲の墓と背中合わせに寝て寒さを感じ
♪木曽殿と背中合わせの寒さかな の句を作ります。
この句碑が無名庵の傍に建っています。
ちなみに無名庵は義仲の墓の真後ろ、墓は西向きに位置しています。


膳所藩の重臣(商人とも)水野正秀の計らいで境内に無名庵が建てられますが、
元禄4年1月の正秀宛ての書簡の中で、芭蕉は建築中の無名庵について
あまり立派な建物を造らないようにと要請しています。
引き続き旅の生活を続ける覚悟で、ここにも定住するつもりはなかったようです。

境内奥には、膳所藩重臣の菅沼曲水(曲翠・菅沼定常)の墓があります。
曲水は妻や弟で膳所藩の藩士怒誰(どすい)、
伯父の水野正秀とともに芭蕉の弟子となり、正秀同様、
芭蕉を経済的に援助した人として知られ、芭蕉が最も信頼した一人でした。
元禄6年(1693)、江戸にいた芭蕉は余程お金に困っていたのでしょう。
江戸在勤中の曲水にお金の無心をしています。

「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄3年(1690)、
4月から7月にかけて幻住庵で旅の疲れをやすめます。
幻住庵を芭蕉に貸したのは曲水です。幻住庵は伯父の
幻住老人(菅沼定知)が晩年、石山の国分山(大津市国分町)の
近津尾八幡宮の傍に建てた庵で、その没後、手を入れて提供します。
そこからは琵琶湖が一望でき、比良・比叡の峰々、
三上山の美しい姿などが眺められる景勝地です。


この庵で「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。
そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」で始まる『幻住庵記』を綴り、
「北風海を浸して涼し。日枝の山、比良の高根より、
唐崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣りたるる人あり、美景、
ものとして足らずといふことなし。」と大いに満足しています。

芭蕉は初対面の曲水の印象を「ただ者には非ず」と語り、
また『幻住庵記』の中で「勇士菅沼氏曲水子」と記しています。


芭蕉(1644〜94)が亡くなった後の享保2年(1717)7月、
不正の人、膳所藩悪家老曽我権太夫が殿様の供をして
東へ下るといって挨拶に来た際、曲水は曽我権太夫を槍で刺殺します。
自らも責任をとってその場で自害したのは60に近い年齢だったといいます。

曲水は主君に迷惑がかからぬように、原因は私怨にあるとしたので、
江戸にいた息子内記も直ちに切腹させられます。


後に曲水の忠誠心の強い剛胆な人物であった事が主君に知れ、
一家を再び藩に取り立てようとしましたが、家は断絶したあとでした。
このような事情から長い間、曲水の墓はなかったのですが、
昭和48年、義仲寺内に没後257年にして初めて造られました。

                                       つまり藤堂高虎は芭蕉の母方祖父の従兄弟?


藤堂高虎は芭蕉の母方の祖父、藤堂良勝の従兄弟に
あたります。(『芭蕉めざめる』)琵琶湖に突き出た土地に築城された
膳所城は、本丸を湖水に張りだした水城で、築城の名手藤堂高虎の手になり、
その美しい景観は「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、
水に映るは膳所の城」と里歌にも謡われます。

                                    
芭蕉は祖父の従兄弟、藤堂高虎が建てた城が見える木曽塚の地で
波音を聞きながら眠りたいと遺言したことにもなります。
なお膳所城主は三河以来の家康の家臣である戸田一西(かずまさ)から
氏鉄、本田康俊、菅沼定芳(曲水の伯父)、石川忠総と変転を重ね、
伊勢亀山から本田俊次が入封してからは世襲して幕末に至っています。
義仲寺前の旧東海道を直線距離で1キロほど東南に行った
湖の中にあったのが膳所城で、現在、本丸跡が膳所公園として整備され、
湖に浮かぶ湖城の面影をしのぶことができます。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 13時38分06秒 ) パスワード

藤堂高虎と芭蕉が実は遠縁だったということで    ホント?
違う芭蕉像が見えて来ましたね。


    確かに芭蕉は藤堂家に仕えてて大切にされてましたよね。


松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)[1])

江戸時代前期の俳諧師。

現在の三重県伊賀市出身。

幼名は金作[2]。通称は甚七郎、甚四郎[2]。名は忠右衛門宗房[2]。


伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない[2]。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説[2] と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる[2]。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[2]。 松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった[5]。

明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去[2]。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。


そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662)に[5]

若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい[2]。

2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り


       略

しかし寛文6年に良忠が歿する。

       略

延宝3年(1675年)初頭(諸説あり[2])に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家[6]、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう[6]。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主内藤義概のサロンにも出入りするようになった[6]。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた[6]。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青=芭蕉=は大きな影響をうけた[6]。


以下略




芭蕉は伊賀より大津の方が良かった。

単に義仲が好きというより
大名になれなかった母方の家と没落した父方の家に対する心の傷。

その傷は義仲に対する同情心となり
同情心を超えて義仲の悔しい思いと一体化した?
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月01日 13時45分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またまたビックリ。よもやこんな話をすぐに知ることができるとは。
 義仲、兼平、巴御前の話、読んでいる内に、慟哭の震えに襲われました。
それでも涙はぐっと瞼の裏側で堰き止めております。芭蕉がそこまで惚れた
アンチヒーロー、義仲こそが本当のヒーローだったのですね。今回、よくわ
かりました。納得です。

 今後、芭蕉のDNAを調べていく内に、木曽義仲とのつながりが新たに
発見できるかもしれません。ワニ氏でつながるか、秦氏でつながるか、新羅・
高句麗・百済でつながるか・・・? 信濃は意外と奥が深いです。

 来年は、木曽福島から松本、麻績、千曲へ行くことにいたします。

 今月は、後半に出雲大社へ行ってまいります。

 いずれにしても、すべての歴史に根底で出雲がからんでいます。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 14時31分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


ひょっとすると「麻績」で繋がるのかもですね。


ヒバリさんのご先祖の伊賀守のお話の人物
松尾芭蕉の伊賀の家
義仲
藤堂家
近江の大名?  浅井家・佐々木家・それから?


こういうのが繋がるのかも。
なにか  見えてない繋ぐもの  があるのかもですね。


>いずれにしても、すべての歴史に根底で出雲がからんでいます。

日本海  〜  川  〜  麻績は有り得ますよね。



>今月は、後半に出雲大社へ行ってまいります。

団体旅行のプランで連れて行ってくれると助かりますね。
運転とお宿がお任せできれば。


9月の後半は台風、どうでしょう?
とっくに、たくさん来たから大丈夫でしょうか?

晴れるように念力を送りますね。

[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月01日 14時38分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[46]を、引き続きありがとうございました。芭蕉の出自関係がかなり
わかりました。藤堂高虎とつながっている。ということは、服部家ともつな
がる、小堀遠州ともつながる。あるいは柳生家ともつながる・・・おもしろ
くなってきました。

 芭蕉には表の顔と裏の顔があるようです。伊賀村のDNAそして権力中枢
へのコネクション。その当時だと家光か・・・? 水戸光圀とのコネクション
があったようです。
 水戸光圀はヘブライ隠しを行ったといわれる。芭蕉は光圀に頼まれて、戸来
村へヘブライのDNAを確かめに行ったのか?
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 14時54分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


十湖の手紙の内容
明日、脳味噌が整理出来たら、読み直しますね。



 「伯楽一度帰りて 驥北の谷に馬なし とかや
  頼山陽は 耶馬渓を 世にあらわし
  斎藤拙堂は 月ヶ瀬 
  又 成島柳北は 小日向の梅を
  世間に紹介す
  茲に 我が友 石倉翠葉は               ← この人はよく見掛けました
  常陸の桜川の花の 世にかてざるを知りき
  その顕揚に 数十年つとめたり 
  その功 大なりと謂うべし
  かく 我が日の本は 世界の公園なりと
  公園中に公園あり 名木中に名木あり
  郷里挂寵をするべしや

  名馬あり 伯楽ありて さくらがり
  公園の中の 名木の 古里哉
                          大蕪十湖
                            未遠様

   さくらばなはいつも 一生懸命              」



今、気付きましたが  十湖  って?
浜名湖
諏訪湖
琵琶湖

中国の洞庭湖も入るのかもですね、千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず、を思い出しました。


十湖は  千里の道を旅したかった  のでしょうね。


万巻の書を読み、千里の道を行く
そして多くの人々に出会い談笑し研鑚に励む


三つ柏さんが今まさになさっていらっしゃる事ですね。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月01日 22時08分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>水戸光圀はヘブライ隠しを行ったといわれる

そうなんですか?


関ヶ原の戦いの絵で六芒星?の、ダビデの星の?紋をつけた人々
一体何者だったのか?
ヘブライと関係があったのか?


興味深いことですね。



宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』日本文芸社より一部「忍」が加筆あり
参考HP
神の国「日本史」の歴史


            すごい話ばかりで、よく分かりませんが、面白いです


光圀と阿波藩のことは、黄門漫遊記で家督騒動のゴタゴタを知ってたぐらいですが
http://itisyugyousya.dousetsu.com/kenzan.htm     全文はこちらへ
徳川幕府も探っていた「阿波の本当の歴史」


 徳川幕府は本当の阿波の歴史を知っていたらしい。それ故に江戸時代を通じて多くの注文を、阿波藩につけてきた。
 松原元康が天下に名をあげるや、自らの家系は鴨族の末裔であると称して、その名を松平から徳川に改めた。その後、阿波の蜂須賀藩に、阿波藩を徳島藩に改名せよとの命令を出した。それ以降、初めて阿波の国に徳島という地名が現れだしたのである。


 更に時代は下って徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場の調査が続けられたのであった(阿波国国史研究会編『道は阿波より始る』に詳しく述べられている)。


 四国、中でも阿波の国には隠された歴史があるらしい。それが又日本歴史の根幹をなすものようである事が分る。
 それらの事を明らかにするのは『阿波風土記』であろう。しかし『阿波風土記』は現在、現存しないとされているのである。

 しかし『阿波風土記』から百数十年前に引用されたとされるものが、多くの本に取上げられている。それらを継ぎ合せるだけでも阿波国の不思議が浮び上がってくるのである。『阿波風土記』は徳川家が持っていた事が分っているし、明治初年まで徳島藩自体もそれを持っていた事が明確になっている。

 しかし明治5年、小杉椙邨氏が『阿波古風土記考証』を出版した時点で、それらが一斉に消えてしまったのである(これが、今現在も行われている。例えば、国際連合に対する論文を発表した雑誌が今、消えているのです。『阿波風土記』に何かを隠されているのです。皇室の問題が書いて在るのではないでしょうか!忍)。勿論『阿波古風土記考証』も同じ運命を辿った。

 今日、学校教育の場で、四国、中でも徳島県が詳しく取り上げられることはない。いわんや四国山中の不思議についても取上げられることはないのである。


あとはこんなお話などがたくさん載ってました:多過ぎるのでURLへどうぞ

古代ユダヤ王国であった日本が首都置いた四国徳島県
 四国山上に首都あった古代ユダヤ王国が、山を下り、奈良の大和に向わなければならない時が来た。そのリーダー(聖徳太子を意味している。ユダヤの神エホバ(エル・ランティ様が、悪魔ダビデから守る為にユダヤ本国から「日本」と生れ変えた。詳しくはJI出版『古代日本と七大天使』を参照!忍)達は率先して大和に行ったが、その山中に残された人々も多くいた事だろう。
 同時に彼等が四国山上を去る時、自分達のルーツを隠匿した形跡がある。なぜ隠匿しようとしたのか。恐らく自分達にとって最も大切なもの、即ち「モーセ契約の箱」をカムフラージュする爲ではなかっただろうか(それと悪魔ルシファを使って操った悪魔ダビデの悪業から守る為!忍)。
 その隠匿の方法は、将に巧みであった。
 紀伊水道を挟んで、四国、中でも阿波及び四国山上にあった地名をそのまま奈良県及び和歌山県北部に作ったのであった。
 その代表的なものは吉野川である。吉野川は四国の中心を流れている。阿波の生命を支える川といっても過言ではないだろう。その吉野川は真っ直ぐ東へ進むならば、又吉野川が奈良の山奥から同じ紀伊水道に流れ込んでいる事に気が付く。
 勿論近畿地方にある吉野川は、下流に行って紀ノ川とその名を変える。しかし吉野川である事は変りはない。
 古代ユダヤの人々は四国山上において東祖谷村、西祖谷村等で生活していたように、奈良県南部の同じような地形の所に十津川村を作った。
 十津川村の郷土達の歴史は不思議である。南北朝動乱が起きると直ちに南朝につく。又南朝の武将達も、その十津川村を慕って吉野川上流を訪れ、そこを自分達の安全地帯と心得ていた。
 十津川村郷士は勤王の志士として京都動乱の地に馳せ下っていったのであった(真の南北朝問題は、沖縄王族と現王朝が南北朝問題なのです。「保元の乱」が真の意味の南北朝問題が発生させたのです!忍)。


淡海、香具山・・・地名で覆い隠そうとした四国山上の世界最高の宝
 更に徳島県に那賀郡があるように、対岸の和歌山にも那賀郡がある。
 徳島県から今日の香川県にいくと、大阪があり、奈良街道がある。その奈良街道の果てに難波津があるのである。
 阿波国国史研究会によれば、『万葉集』歌われている難波津の歌はここで詠まれたというのである。
 しかもその歌に詠まれた淡海は、文字通り今日の徳島県と淡路島の間の淡海を指す。決して近江国の海、即ち琵琶湖ではないという。
 例えば『万葉集』273の歌を近江海即ち琵琶湖として考えるならば意味が通らない。
 「磯の崎こぎたみ行けば 淡海の海
  八十の淡にたづさわに鳴く」
 これを徳島県と淡路島の間の淡海とするならば、自然と理解する事が出来る。磯崎山と高島に狭まれた小鳴門海峡をこぎ抜けると淡海に入る。船上からは多くの島々や淡が見えた事であろう。「八十の淡」とは阿波を海上から眺めた光景なのである。
 そのような事は多くある。
 香具山についてはどうであろうか。
 私達は天香具山といえば直ぐに大和三山の1つであると思う。しかし今日の小松島湾の所に香具山がある。
 遥かなる昔、即ち『万葉集』が詠まれた時、阿波の国は「倭(和)」と言われ、大和の国の奈良県は大倭と呼ばれていたのである。

 「やまとには郡山あれど、とりよろふ天乃香具山 登り立ち、国見をすれば
 国原は 煙り立ち立つ 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ やまとの国は」

 倭(ユダ)の国には数多くの山があるが、海原はない。かもめが飛立つ事もありえないのである。
 そして天香具山も、阿波国の天香具山を指している事になる。
 本来、阿波国にあった地名が主に近畿地方に多く作られ、その他にも作られていった。このようにして阿波の国が隠匿されていっただけでなく、本来の『万葉集』の歌の意味も日本人には分らなくなってしまったのである。言葉を換えればそれほどに阿波の地を隠し、四国山上の世界最高の宝を覆い隠そうとしたのではないか。

(「万葉集」は、悪魔ダビデによって改竄された旧約聖書の中身を真の意味の旧約聖書の内容を伝えているヘブライ語聖書を日本語文法にそって表現された歌謡集。基本的にはヘブライ語で表現されている。内容の中身はJI出版「古代日本と七大天使」に詳述している。そこからヘブライ語の和歌から、標準日本語がどの様に発展、発達していったか、細部に渡っての問題は、研究課題の一つである。そしてもう一つ問題を提起しますと、万葉集の中に語られる地名や山の名には、被実在のものがある事が知られている。これはどう言うことを示すかと申すと、即ち、地名や山の名は、万葉集の中で、ヘブライ文が隠蔽されていく中で作られ、そして、隠蔽された後のその作られた地名や山の名が、日本国内に、それぞれの山や地名として名付けられ、振分けられた、と考える事が出来るわけです。万葉集の中に今も残された非実在の地名や山の名は、その選に漏れたという事である。つまり、万葉集に語られた地名、山の名、河の名を、日本国中に名付ける事、これもヘブライ隠蔽政策一掃政策と新しい日本国へ向けた倭奴(ユダ)国、大和朝廷の新しい政策の一環でもあったと考える事が出来る。勿論、それ以前の古くから存在した地名や、山の名はそのまま、漢字に当字され残された。実例が今まで上文で説明出来る事である!忍)


●剣山を一切見せないようにした空海の遍路設定
 弘法大師・空海はその事の為に大いに貢献したと云われる。
 四国・吉野川の上流には、古代ユダヤ小国家があった四国の山々があると共に、その真ん中に剣山が控えている。弘法大師は近畿地方の吉野川の上流に剣山を隠匿する場所として高野山を開いたと云われている。
 弘法大師は剣山の重要性を心得ていた。
 四国の吉野川沿いから剣山を見る事の出来る場所は僅か100mである。ほんの僅かな所からしか剣山を臨むことが出来ない。
 それが出来る貞光町のある場所に立って、晴れた日、遥かに剣山を臨むと、あたかもその剣山の前の山が切取られて、わざと剣山が見えるように作られているかのような山の佇まいを臨む事が出来る。
 弘法大師といえば四国88カ所礼所を定めた人物である。
 その第一の礼所は鳴門から始る。しかし88礼所に至るまで、如何なる所からでも剣山を見る事は出来ない。
 いや見る事が出来ない様に作られているかの様である。
 この事を特に研究したのが先述の大杉博である。
 大杉博氏は『四国は死国にされていた』の著作の中で、日本文芸社 宇野正美著『古代ユダヤは日本で復活する』P4696〜97頁に示したような図を掲げている。一の礼所から始って、十までは、そのまま西に進んで行くだけである。更に西に進むならば、貞光町の剣山を見る事が出来る地点に行く筈である。
 しかし十の切幡寺の名の通り、そこで切れていて、11番目の礼所は西ではなく南に下るようになっている。剣山は一切見る事は出来ない。
 更に礼所は南に下り、剣山から剰りにも遠い所を迂回して行く事になる。
 しかし大杉氏は、その10番の礼所である切幡寺の、なお奥の院から、僅かではあるが剣山を臨む事が出来るというのである。そして第88番礼所の奥の院からも、剣山を少し見る事が出来るという。
 この第10、第88番礼所から剣山を臨む事が出来るのは、弘法大師の温情ではないかと云われている。裏返せば弘法大師は全てを知っていて、剣山という聖所を隠匿する為に、88カ所の礼所を定める様にと命じられていたかもしれない。

●イエス誕生の時に現れた「東方の三博士」は四国から出発した
 更に年月は流れ、紀元前4年、パレスチナではイエス様が誕生した。
 このイエス様誕生について『新約聖書』は克明に記録しているが、特に『新約聖書』「マタイ伝」には、東方から3人の博士達がやって来た事について述べられている。博士という言葉はギリシャ語ではマゴスなるが故に、正確には「知恵者」と訳すべきであろう。 この東方からきたマゴス達は、欧米では今日のイラクかイラン辺りから来た人々であるとされている。
 どうしてこのマゴス達が日本からやって来たと思えないのであろうか。
 欧米の人々には日本からという概念は100%ない。しかしイザヤの子孫である(ヘフジバ(天照大神)、シャルヤシュブ(月夜見尊)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(素盞鳴尊、又は午(馬)頭大王)達[イザヤ祭政主は日本に来ていない!忍]が日本に「契約の箱」を運び込み、約2000年前にはそのイザヤの精神が未だ残っていた四国の小国家から、『旧約聖書』の預言の成就(悪魔ダビデの計画!忍)ともいうべきイエス様の誕生を確かめるかのように、一群の人達が西亜細亜のユダヤ国家を訪問したとは考えられないだろうか。
 この東方からのマゴス達は、まずエルサレムに向った。そしてエルサレムで当時の王ヘロデに会って次の様に尋ねた。彼等は救世主の事を「ユダヤ人の王」と呼んだのであった。
 「ユダヤ人の王として生れた方はは何処にお出でになられるのか。私達
 は東の方でその方の星を見たので、拝みにやって来たのである」

 これを聞いたヘロデ王は恐れた。エルサレム中の人々も同様であったという。
 なぜヘロデ王は恐れたのか。ヘロデ王はユダヤ人ではなかった。イドマヤ人だったのである。此の頃ユダヤ国家はローマ帝国の属国であった。それ故ローマ人はイドマヤ人をユダヤの王として立て、ユダヤ人を統治していたのであった。将に巧みな植民地政策というべきであろう。
 ユダヤの新しい王が生れたとなれば、自らの立場が危うくなる。ユダヤ人による反乱が起きるかも分らないと、ヘロデは恐れたのであった。
 ヘロデ王は『旧約聖書』の学者達を呼んで「キリスト(救世主、ギリシャ語では『クリスト』)は、どこで生れるのか」と尋ねた。彼等は『旧約聖書』の中の「ミカ書」を聞いて「キリスト(クリスト)はベツレヘムである」と答えたのであった。
 直ちにヘロデ王は東方から来たマゴス達を呼んで、彼等から星の出現の時間を聞き出し、
 「ベツレヘムに行ってその幼子の事を詳しく調べ、わかったら自分にも教えて頂きたい。自分も行って拝まなければならないから」と言った。
 勿論ヘロデ王は拝む爲ではない、その幼子を亡き者にする爲であった。
 東方から来たマゴス達は、直ちにベチレヘムへ向った。星が再び彼等を先導して行ったと「マタイ伝」は記録している。
 彼等はベツレヘムに着き、イエスがいる家を訪ね当てた。そして母と共にいる幼子イエスを見、ひれ伏して拝んだ。そして彼等は肌身話さず持ってきた宝の箱を開けて、その中から黄金、良い香りのでる乳香、藥である没藥を出して、贈物として捧げた。
 東方から来たマゴス達は、其後、夢のお告げでエルサレムに戻る事なく、ヘロデには会わず、別の道から東方へと帰っていったのであった。同時その夜に天使がヨセフに危機を伝え、そのヨセフが母マリヤに伝えて、イエス様と母マリヤと一緒にエジプトへ脱出していったのであった。
 怒り狂ったヘロデ王が、ベツレヘムの2歳以下の男子を全て剣で殺したのは、それから数日後の事であった。


●徳島・東祖谷村の栗枝渡神社の名はイエス・キリストに由来する!?

 剣山、その中でも日本のチベットと云われる東祖谷村には、不思議な神社がある。
 その神社には鳥居がないのである。普通、神社の象徴は鳥居であるが、遥かなる昔からこの神社には鳥居がない。
 加えて天皇家の家紋、即ち16菊紋が使われている。瓦や、ハッピの背にもあざやかな16菊紋が染抜かれているのである。
 安徳天皇が屋島の戦いで生延びて、四国山上そして東祖谷村にやって来たという話が伝わっているが、それは恐らく東祖谷村の人々が平家の落人の子孫であるという事に話を合わせたのではなかっただろうか。
 言い換えれば源平合戦を境に、その村の歴史を誰かが隠匿してしまったのである(それは、悪魔ダビデが歴史を隠匿した可能性がある。源平合戦の前の、「保元の乱」が実質的な悪魔と神との戦争を意味しているから。その歴史を隠す為に悪魔ダビデが隠匿したと思う!忍)。**********。
 この不思議な神社の名を栗枝渡神社という。
 この栗枝渡神社に掲げられている由来書には、元は栗須渡神社といったと明記されている。
 これは江戸時代の禁教令の頃に付けられた名前ではない。もっと以前からの事である。
 東祖谷村の栗枝渡神社とは何なのか。
 因みに「クリスト」とはキリストのギリシャ語読みの救世主の意味である。
 将に日本離れした神社の名前である。全世界に通用する救世主という言葉が、その神社の名前になっている。そして神社の象徴である鳥居もない。
 先の『新約聖書』中の「マタイ伝」のイエス様誕生の記録と、東祖谷村の栗枝渡神社を考え合わせるならば、何かを彷彿させないだろうか。
 栗枝渡神社から目を上げると、遥か彼方に剣山山系が見える。場所によっては剣山そのものが見えるのである。
 将にその辺りは古代ユダヤ国家があった所なのである。
 この栗枝渡神社の記録書には次の様に書かれている。
 「剣山参拝者は栗枝渡神社を参拝しなければその意味がない、と
 毎年5月頃より11月頃までの間、白衣の行者姿が、毎日のよう
 に『六根清浄(法華經)』を高らかに唱えて長蛇の列が続いていた」

 この事からも分るように剣山と栗枝渡神社は一体なのである。
 ではなぜ東祖谷村のこの神社が栗枝渡神社と名付けられたのだろうか。
 それは「マタイ伝」の東方から来たというマゴス達のベツレヘム訪問と併せて考えれば解ける。
 彼等はベツレヘムで幼子イエスに会った。当時のユダヤ国家ではアラム語と共にギリシャ語が、一般の人々の言葉として使われていたのである。
 恐らく彼等はエルサレムそしてベツレヘムを訪ねる内に、アラム語と共にクリストという言葉を耳にした事だろう。彼等は救世主イエス様を訪ねて、旅していたからである(もし、正統なる天上界が守っている場所であるならば、基本的にギリシャ語は広まっていると考えられる。ギリシャ文化の基本的なゼウス・アリストテレスを通して、神ヘホバが直接、地球人に法を説いたから、宇野氏が自覚していないのは、日本国家は「神の国」天帝(エホバ)が存在している国であるという自覚がない。「モーセの契約の箱」が日本に在るのもその証の1つに過ぎない事である!忍)。
 そして彼等はイザヤの遺言通り、ベツレヘムで生誕したばかりのクリスト即ちイエス・キリスト自身に出会った。
 彼等は十分に目的を果すと共に、彼等が持っていった非常に高価な黄金、乳香、没藥を、クリストに捧げたのであった。そして彼等は元来た道を、再び東方に向って帰っていったのである。
 即ち彼等の出発点が、この東祖谷村の栗枝渡神社の辺りだったのであろう。
 彼等の帰りを待ちわびる多くの人々がいた。当時はイザヤが没して以降、700年しかたっていない(その間に、イザヤの計画が遂行出来る環境を悪魔ダビデが行ったのである。イザヤ書の計画は、神エホバの双子の弟悪魔ダビデの計画であり、天上界は心からは支持する事は無かった。今、現在もイスラエルは、ダビデ王の再来を待っているが、神天上界は、千乃裕子先生を中心に世界の宗教を統一する事を考えている。悪に対して戦いは、許されるけれど、調和のある社会に、わざわざ破壊の道を計画するのは許されないのである。神の言葉を聞きたいならば、今現在は、神の言葉は日本語だけになったのである。イスラエル人は、日本の文化を学び、日本人になる事が救いの道になるのです。それは、キリスト教の正しさとイスラム教の正しさをも学ぶ必要があるのです。あくまでも「宇宙の法」に添っての調和のある社会なのです!忍)。
 この剣山山系において、イザヤの精神はまだ生きていたのであった。
 このように日本離れした神社も、古代ユダヤとの関係で見るとき、その名の重要性が鮮明なものとなるのである。


モーセの契約の箱「アーク」に関して

●「かごめ、かごめ」のわらべ歌に秘められた驚異の暗号

昔、四国・剣山は「鶴亀山」と書いた。
 現に剣山山頂に登り、すぐ崖の下を見るならば、自然石で作られた大きな鶴と亀を見つける事が出きる。長い歳月の内に、鶴の首は落ちているが、亀はそのままの形を保っている。
 この童歌にも「鶴と亀」が出てくる。その鶴と亀が崩落した時、後ろの正面からそれまで隠されていた物が登場するというのである。
 昔、物を覆う時に竹で籠を作り、それを被せた。竹で籠を編むが故に、多くの籠目模様が出来上がる。
 鶴と亀が崩落した時、その中から大切なものが登場する。
 それはいつの事なのか。
 「夜明けの晩に」とある。これは将に不思議な言葉である。夜明けと云えば朝日が昇る時であるから、ますます光が溢れてしかるべきである。しかし夜明けにも関わらず、晩のように暗い状態を指している。
 全世界が夜明けを待っているのに、夜明けが来ない状態の時に、鶴と亀は崩落すると言っているのだろうか。
 これを剣山に古代ユダヤ最高の秘宝、「モーセ契約の箱」が隠されているとしたならばどうであろうか。



後で詳しく述べる事であるが、その「契約の箱」の上には、金の打ち物作りで出来た翼を広げた二つの天使「ケルビム」があった。これまで日本人の思想には、天使というものはなかった。それ故に遥かなる昔、それを見た人が子孫に伝える時、ケルビムが分からず、翼を広げているが故に鳥と表現したのではないだろうか。
 確かに日本の神輿の上には鳳凰が大きな翼を広げている。
「モーセ契約の箱」が剣山に隠されているならば、しかもそれを登場したならば、どれほど世界的発見となり、世界歴史を変える事になるだろうか。

 

●四国・剣山は「モーセ契約の箱」が隠された
人工の山であるという噂は、昔からあった。剣山から西に広がる山々と谷それは東祖谷村、西祖谷村である。この村では昔から剣山は人工の山であると言伝えられて来たという。
 昭和初期、高値正教氏という人物が3年間に亘ってこの剣山に登り、しかもそこに数ヶ月滞在して、剣山が人工的な山であるかどうかを探ろうとした。
 当時の新聞はそれを指して「ソロモンの秘宝を検索」等と云ったが、それは単なる噂であって、本人は只剣山が人工的な山であるかどうかを検索していたのであった。
 高値正教氏自身は次の様に書き残している。
 「筆者は自己の研究の学術的価値を実証の爲、昭和11年7月、四
 国剣山に登山し、果たして人工なりや否やを実証すべく、その調査を
 着手し、その年の12月10日までその研究を継続して帰京し、翌
 12年7月に再度登山してその研究を続け、同年12月10日まで
 にて打切りとなして帰京、翌13年7月に3回目の登山をなし研究
 を継続し、同年12月29日まで山に留まりて、これが実証に没頭
 したり。
  その同調査の為に地下の発掘延べ485尺(147m)の長さに
 及びたり。この研究の内容発表は省略する事とするが、その人工な
 る1点の確証は完全に把握したのである」(『四国剣山千古の謎』
 四剣山顕彰学会刊)

 剣山は標高1955mの山である。それもその山だけではなく、多くの山が連なり、その中の1つとして剣山があるのである。
 昔、人々が剣山に近づくだけでも大変な努力を要した事だろう。
 この高い剣山は夏であっても夜には気温が下がり、非常に寒くなる。高根氏は夏だけではなく、秋から冬にかけてもこの山頂近くに留っていたのである。しかもそれは数ヶ月に及んだ。
 冬の剣山には多くの雪が降る。如何なる自然の苛酷な条件であっても、高根氏の執念を挫折させる事は出来なかった。
 彼はその当時、剣山を奥へ奥へと掘っていったのである。血の滲むような労苦、そして多くの費用は費やされた事だろう。そして彼はその目的を果す事が出来た。「その人工なる1点の確証は完全に把握した」のである。
 高根氏は続けてこう書いている。

 「しかしこの発掘は決して内臓物の発掘の為に非ずして、徹頭徹尾『人工』
 の確証であった事をここに名言しておく必要があると思う」(前掲書)


●人工の山・剣山の内部に創られた巨大な水溜


以下略
[55]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月02日 12時01分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ヘブライ関係はテーマとしてはとりとめがなくなってしまいますので、
入り口だけでやめておきましょう。いずれにしても日本の真実の歴史を
考える時には、ヘブライと建国の問題は避けられないテーマではありま
す。

 水戸光圀のヘブライ隠しについては、蔵書の中のある本で読んだこと
がありますが、原典を探すのに一週間位かかりそうなのでやめておきま
す。
 戦国時代とか江戸時代と言う時に、我々は純日本的な事項にばかりに
目が行きがちでありますが、実は1549年のフランシスコ・ザビエル
が鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えて以来、1639年に鎖国が完成
するまでの90年間、キリスト教問題は、別の意味での戦国時代を招い
ていたといえます。
 それは―
 @キリスト教の思想=神の下の平等=封建制の崩壊
 A西洋貿易=火薬・硝石の購入=奴隷の輸出
 Bキリスト教禁止に必要=ヘブライ隠し=古史古伝の隠蔽
 こんな事実と必要性が背景にあったと思われます。

 鎖国により表面的には治まったとはいえ、根底的には火種は残り続け
ている訳でありますので、特命を帯びた光圀は、諸国をまわってヘブライ
的な書物・口伝の除去対策をし、また、純粋日本の歴史書(尊皇)の編纂に1657年より着手したのではないでしょうか。
 そこにはかなりの資金が投じられたようです。スタッフも20〜30
人はそろえ、史局を作ったということです。
 「大日本史」が日の目を見るのは1852年ですから、ちょっと時間が
かかり過ぎではあります。その間に賀茂真淵に代表されるような国学の
興隆をみますし、思想的なうねりが幕末に向けて激しくなって行きます。

 松尾芭蕉が生れたのは、1643年、亡くなったのは1694年です。
 芭蕉がちょうどもの心つく頃に「大日本史」の編纂がはじまったいうこと
になります。

 史実に書かれていないことの方が圧倒的に多いのが歴史でありますので、
史実に書かれていないものをいかに推察するかが本当は大事なのかと思っ
ています。

 光圀の真実、芭蕉の真実を求める旅は今始まったばかりです―

 


 
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月03日 04時54分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


光圀という人もなかなか面白い人物で、アチコチ検索していると時間を忘れてしまいます。



>史実に書かれていないことの方が圧倒的に多いのが歴史でありますので、
>史実に書かれていないものをいかに推察するかが本当は大事なのかと思っています。


はい
我々は知らないことばかり。


   書き物は書いた人の気持ちが反映されているからホントのところは分からない
   物証は見つかっても「動く」からホントのところは分からない


勘を働かせて検証していく
地道にコツコツと・・・
[57]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月03日 09時34分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私が何とか読み下した松島十湖の文書の中に「桜川」が出てまいりますが、
この川はまさに常陸・水戸にありました。弓削徳介著の「水戸城考」により
ますと―
 「(水戸)城の内外は柵を巡らし、検問所を設け通行の人の営番を置いて監視
に当らせた。
 城代伊那忠次、備前守は千波湖の水を引いて灌漑用の水路としたが、この
水路は今日まで備前掘と呼ばれている。築城に当っての千波湖と那珂川とを
結ぶ桜川は、屈曲して城下町を流れていた。
 もちろん、軍事的役割の河川であったこれらの河川には轟橋や消魂橋の他
には橋はなく、桜川と千波湖の水は水門において堰き止められ、いざ有事の
場合は水門を開けて、橋のない下町の一帯は一面、湖と化すという軍事的都市
計画であったらしい。従って、城下の堀は悉く常に水を湛えていなかったよう
である。」
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月03日 10時50分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

              明治時代のところをご覧になってね。
              石倉翠葉について書かれています。

               <レス42>
              我が友 石倉翠葉は 常陸の桜川の花の 世にかてざるを知りき

               その顕揚に 数十年つとめたり その功 大なりと謂うべし


              見捨てられて手入れをされずに荒れた桜川の桜の維持管理に
              若い時から=20歳からは世間に行動を起こした=と知って驚きました。



桜川の桜
http://www.sakuragawanosakura.jp/history.html

茨城県桜川市(岩瀬地区)にある「桜川のサクラ」は、
古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどのサクラ(山桜)の名所でした。
千年の歴史を誇る「桜川のサクラ」の史乗を、時代毎に解説します。


平安時代
現存する記録の中で最も古い記述は、平安時代に遡ります。

歌聖紀貫之が「常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ間なく寄すらめ」(後撰和歌集)と詠ったのは、まさに名勝「桜川」のことです。

 残念ながら、紀貫之自身は桜川を訪れてはいませんが、東国の桜川の評判が遠く平安京の都人にまで届いていた証しでもあります。



室町時代には、
当時の櫻川磯部稲村神社の宮司が、時の関東公方足利持氏に花見噺「桜児物語」を献上、
これを基に、時の将軍足利義教が幽玄能の大家世阿弥元清に作らせた謡曲「桜川」の舞台となりました。

              これにはビックリでした


江戸時代になると、
水戸黄門として有名な水戸光圀公や笠間藩主牧野貞喜公なども度々桜川の地を訪れ、
サクラを愛でたという記録が残されています。


特に水戸光圀公は、偕楽園前を流れる小川(見川川)のほとりに桜川のサクラを移植し、その川を「桜川」と名付けてしまうほど、
「桜川の サクラ」がお気に入りだったそうです。

※「櫻川遺蹟碑」(桜川遺跡碑)が、
水戸市の桜川団地と桜川西団地の間を流れる桜川の傍らにある桜川団地橋児童公園に建っています。

碑文が書かれたのは大正6年(1917)のことです。

その後も、四代将軍家綱の隅田川堤への移植、八代将軍吉宗の玉川上水堤への移植をはじめ、
江戸の花見の名所づくりに「桜川のサクラ」が大量に移植されています。

(現隅田公園の「墨堤植桜の碑」や、玉川上水沿い「小金井桜樹碑」に桜川のサクラの記述が見られます)


小金井堤の桜の縁起を辿ると「吉野桜50本と桜川の桜50本が交互に植えられた」とあり、
この事実を見ても当時の「桜川のサクラ」の評判が伺えます。
(※「桜川のサクラ」関連資料内『名勝小金井桜』の項参照)


                                       ココ

明治時代になると、
当町出身の俳人で文学者である石倉翠葉(重継)氏が、当時衰退の危機にあった「桜川のサクラ」を再興しようと、
弱冠20歳にして『櫻川事蹟考』を出版。

「桜川のサクラ」の顕揚に尽力されました。

(※「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)


大正時代
 石倉翠葉氏による『櫻川事蹟考』の出版と、そのための調査が礎となり、
大正になると帝国大学(現東京大学)の教授であり、植物学者で“桜博士”と呼ばれていた三好学氏が当地の調査に訪れます。


桜川には大変貴重な桜が数多く自生することがわかり、大正13年「名勝桜川」として、国の指定を受けることとなります。

(※「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)


三好博士はこのとき、山桜の中でも学術的に非常に貴重な11種を選び、これを自身の出版した『櫻花図譜』に掲載しています。


 この11種類は、後の昭和49年に国から「天然記念物」として指定を
受けることとなります(「桜川のサクラ天然記念物指定11種」参照)



現代:

名勝指定地である櫻川磯部稲村神社参道〜馬場付近は、指定後しばらくは大勢の花見客で賑わうようになりました。
 しかし、飲めや歌えの花見は徐々に風紀が乱れ、近隣の芸者衆が時期になるとすべて当地に(客引きの為に)集まるほどで、客の取り合いや芸者の取り合いといった騒ぎが頻繁に起きるようになります。
 こんなことから「磯部の花見は“喧嘩花見”」との悪評が立つようになり、一般の花見客から敬遠されるようになっていきます。
 また、「花より団子」の花見によって、サクラが長時間にわたって根を踏みつけられたり、枝を折られたりしたため、徐々に樹勢が弱り、花見客を敬遠するようになった地元の人たちの感情もあってか管理も疎かになり、桜も徐々に衰弱していきます。
 また、明治以後、染井吉野の群植による花見の名所があちこちに作られ、一斉に咲き一斉に散るその圧倒的な桜の景観が花見の主流となっていったこともあり、山桜である桜川のサクラの花見客は激減してしまいました。

いよいよ桜川のサクラも存亡の危機に瀕するに当たり、これを憂いた人たちの助言により、昭和49年に三好学博士が選んだ11種のサクラが国の「天然記念物」として指定を受けることになります。 







 茨城県桜川市(岩瀬地区)にある「桜川のサクラ」は、古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどのサクラ(山桜)の名所でした。
 千年の歴史を誇る「桜川のサクラ」の史乗を、時代毎に解説します


その後、昭和54年には国指定の名勝地を新たに造成し、都市公園としての拡張整備が計画されると、翌55年から6年をかけ昭和61年に、総工費3億円、面積44,000u(うち名勝指定地7.000uの「磯部桜川公園」が完成
しました。



しかし、残念なことに、都市公園として整備はされたものの、その後も山桜に対して十分な管理は行われておらず、密植による生育の悪さなどから枯死する木や病気にかかっている木が多数放置された状態となっています。
 近隣にも染井吉野や八重桜など、園芸品種の桜を群植したお花見スポットがいくつも出来たこともあり、樹勢の弱った山桜が主体の公園は、今では桜の時期にも地元の人すら訪れなくなってしまいました。
 日本でも最古の桜の名所として1千年の歴史を持つ由緒あるこのサクラが、地元の人たちからも忘れ去られようとしているのは非常に残念なことです。

サ ク ラ サ ク 里 プ ロ ジ ェ ク ト
こういった現状を知り、この山桜を見直そう、保護・育成し後世に残していこうと動き出した団体があります。
平成17年(2005年)桜川市岩瀬商工会青年部の有志で設立された「サクラサク里プロジェクト」です。


以下URLへ
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月03日 10時58分59秒 ) パスワード

石倉翠葉重継
http://sakuragaworld.com/modules/tiny01/index.php?id=14


国の名勝、天然記念物に併せ指定を受けている桜川市(旧岩瀬町)磯部、桜川の内務大臣指定の碑の傍らに、「桜魚掬わば花となりぬべし」の句碑が、草に埋もれて建っています。


実はこの句碑の主こそ、文明開化の明治の初期、徒手空拳で桜川保勝会を創設し、弱冠二十歳にして明治28年9月8日『櫻川事蹟考』一巻を自費出版するとともに、私財をなげうって桜川顕揚のため全生涯を捧げ尽くし、遂に大正13年12月9日史蹟名勝天然記念物保存調査会の保存指定36件のうち、名勝「桜川」として国指定を受けるに至った陰の功労者石倉重継氏のものです。


石倉重継氏は、翠葉と号し、別号を「掃雲亭」のち花笠庵と改めましたが、昭和2年3月、旧笠間藩主牧野越中守貞喜君の俳号「諷詠堂金英」の諷詠堂の号を牧野家から授かり、諷詠堂とも号しました。


は、明治8年10月30日西茨城郡西那珂村(現桜川市)西飯岡28番地に、旧笠間藩士石倉又一の長男として生まれました。
父又一氏は、明治5年教育制度発布のとき笠間小学区(郡)取り締まりとして、初等教育の創設発展に努められた人です。

重継氏は、明治23年茨城県立中学校(元県立水戸一高)に入学するも翌年中退し、その後文学を志して上京します。
上京後は苦学の傍ら栗田寛、鈴木重嶺、上村涼松、福羽美静、尾崎紅葉等に師事し、文学、国文学、和歌、俳句などの教えを受けました。

明治27年6月、和歌の最初の師である笠松良昌翁を浅草小島町の邸に訪ねた時、桜川古跡の現況を問われ、重継の出生地からわずか一里の地にあるこれについて答えることが出来ませんでした。

すると、笹村翁から「和歌を研究しようというするほどの者になればこのように有名な花の名所が、しかも郷里にある桜川の歴史について知らないのは何事か」と叱咤され、これに赤面した重継氏は、その後櫻川事蹟の調査に全力を注ぐことになります。

苦しい日々の労働に従事する傍ら、ひたすら『櫻川事蹟考』の資料収集と執筆のため、筆舌に尽くせぬ苦労を重ねながら草案を完成させたそうです。

そこでその草案を「大日本史」の最後の編纂者彰考館、元老院出仕、東大歴史科教授栗田寛博士に閲覧してもらったところ、博士は重継氏のために快く資料を提供してくれました。

また、学習院大学教授で文学博士である土井頼国氏からは古歌鑑定考証などの手助を受けることも出来ました。

そうした資料を基に不備を補いつつ、3度目の事蹟考草案でようやく栗田寛氏の賞辞を得ることが出来たのでした。
(『櫻川事蹟考』には栗田寛氏が「我携一瓢酒二首」と題した序文が寄せられています)

明治28年4月、石倉重継氏は草稿を郷里の両親に送り、事蹟出版のための費用の捻出についてお願いします。

すると両親はこれを快諾してくれました。

喜び勇んで帰郷した氏は実地調査に桜川を訪れると、櫻川磯部稲村神社宮司磯部佑光翁が非常に喜んで、藩学者加藤桜老先生の著『桜川私記』その他の貴重な資料を貸し出します。

石倉重継氏はこのとき磯部宮司の桜川に対する愛護の気持ちに感激し、単に事蹟考証にとどまるのではなく、進んで一生を桜川のためになげうとう、との決心を固くしました。

そんな磯部宮司の資料を加えた4度目の草稿にて、遂に事蹟考は完成を見ます。

明治28年5月10日、重継氏は事蹟考出版のため、両親が田畑を売り払って用意してくれたお金と、親族入江菊次郎氏から提供してもらった資金の合計200円を持って上京。

更に上京後、まず名勝地顕揚のためということで、「桜川和歌集」広告3000枚を印刷、各地の歌会や歌人へ配ります。
その際の選者を歌人佐々木信綱博士に委嘱、集まった和歌を「櫻川事蹟考へ掲載すること」として資金にしたのです。

そして、ついに明治28年9月3日、『櫻川事蹟考』は石倉重継氏が編集兼発行人となり、西茨城郡西那珂村大字西飯岡(現桜川市西飯岡)幽調館を発行所として1000部発行されます。

この『櫻川事蹟考』の題字題詠は維新期の元勲元老院議官枢密院議長従二位伯爵東久世通禧、東大古典科教授内務省出仕小中村清矩、東大歴史科教授栗田寛、東大古典科佐々木信綱の三博士、前茨城県知事の高崎親章氏など、錚々たる人物の揮毫が巻頭を飾り、装丁については竹馬の友であり、当時美術学校四年の武山木村信太郎※が筆をふるっています。


※木村武山
岡倉天心の弟子で菱田春草や横山大観、下村観山などと共に日本画の発展に寄与した画家。

◆『櫻川事蹟考』の内容

桜川は歌聖紀貫之が「常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ間
なく寄すらめ」と詠じてから、桜の名所として広く知られ、関西では
吉野、関東では桜川とうわれるほどで、後花園天皇永享10年(1438)櫻川磯部稲村神社宮司磯部佑行氏が鎌倉に上り、時の鎌倉公方足利持氏に「桜児物語」一巻を献じ、これを幽玄能の大家世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」と言われます。

(※社蔵の古文書を元にこう言われてますが、写し書きの際に多少の時代のズレがあったようで、足利義教が世阿弥に作らせたとあり。足利義教は世阿弥を重用しなかったことから、年代的にはもう少し前ではなかったかというのが解釈としては主流)

これを元に作られた『櫻川事蹟考』は

(一)桜川源委考
(一)桜川につきての世人の疑
(一)桜川桜川につきての一奇遇
(一)桜川の沿革
(一)桜川につきての詠歌
(一)桜川八景※1
(一)桜川に付属せる名蹟地
(一)櫻川磯部稲村神社の縁起
(一)桜川のある磯部村考
(一)桜川につきての奇風俗
(一)桜川につきての名産品※2
(一)桜川に関する歴史
(一)付録応募、桜川詠集、佐々木信綱大人撰

といった目次になっています。

内容的には桜川に関する古今集、夫木集、後撰和歌集、名所今歌集、回国雑記、名所千句、歌枕名寄、内藤義泰歌集など桜川にまつわる古歌に関する詳細な考証を交えて論じています。

※1 『桜川八景』
「稲村の落雁」「姥が塚の秋月」「月山寺の晩鐘」「棟嶺の夕照」「桜橋晴嵐」「鏡が池の夜雨」「樺山暮雪」「櫻川の帰帆」

※2 『桜川の名産品』
「盃」(花筏等)「詩箋」(波に花)「櫻木の箸」「扇子」「封筒」「櫻川の硯」(本居宣長の紀行にも登場。石倉翠葉氏は同志と櫻川保勝會を立ち上げ、この硯の収益を櫻川のサクラの保存や和歌を募集し、その冊子の編集代に充てようとしていた)

◆『櫻川事蹟考』発刊に於ける桜川の顕揚事業

石倉重継氏は事蹟考発刊の後も、桜川顕揚のために尽力しました。
その主たる事業を列挙すると…

◆明治29年4月
 「桜川名花」と題した案内文1000枚を印刷して各地の歌会へ配布

◆明治30年3月
 「名勝雑誌」へ桜児物語を執筆

◆明治33年5月
 「茨城月報」へ3日間にわたり桜川の不遇を訴える

◆明治34年4月
 博文館発行「太平洋」へ「桜川」と題し木村武山彩画と共に発表

◆明治39年5月
 日露戦争「戦勝記念桜川誌」の出版を思い立ち、坂巻耕漁、小林永二郎両画伯の彩画をもって、500円を印刷費に充て、全部を当時の地位のある人たちや各新聞社、図書館に配る

◆明治45年4月11日
 史蹟名勝天然記念物協会幹事戸川残花氏が、同協会評議員で理学博士の三好学氏による、侯爵徳川頼倫公(旧和歌山藩主)の内葵文庫の桜の会開催にあたり、『櫻川事蹟考』を推薦

◆明治45年4月18日
 侯爵徳川頼倫公一行が桜川視察を行う。重継氏の友人青木笠雨によると、
 「侯爵徳川頼倫公は三好学博士の講演と戸川残花先生の推賞並みに庵主(重継)の旧著二種を終日細読され、かかる名所を等閑に付す(なおざりにする)べからずと為し、俄に前記二氏を案内し、橘井南葵文庫掌書、家従を従え杖曳杖、同侯の快調たる史蹟名勝天然記念物協会の名を以て保存金若干を櫻川磯部稲村神社へ奉納せられたる旨、戸川残花先生及び神社氏子総代より詳細庵主(重継)のもとへ報告せらる」とあり。


大正13年12月9日
 桜川が「名勝桜川」として内務大臣若槻礼次郎氏から「内務省告示第777号 史蹟名勝天然記念物法第1条」によって指定されるに至った。

これをもって、石倉重継氏の多年にわたる悲願が実を結んだのでした。

※資料『櫻川事蹟考』(茨城県立歴史館蔵)
    『岩瀬町史』(昭和62年3月岩瀬町発行)
    『櫻川真景絵葉書』(櫻川磯部稲村神社社務所発行:同神社蔵)
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月03日 12時37分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 桜川についての詳しい情報、まずもって感謝申し上げます。十湖との関係
もよくわかり、感謝感激です。

 桜川に一度行きたくなりました。

 たぶん、桜川の桜は紀貫之以前の時代から有名ということ、姨捨の月も
同じく古くからの名跡、歌人・俳人のメッカだったのでしょうね。

 但し、芭蕉には桜のようなハレの雰囲気は合わなかったのかも知れません
ね。貫之の下記の歌は、私自身にとっては最も好きな歌ではあります・・・。
「久方の 光のどけき春の日に しず心無く 花の散るらむ」
 この和歌の本意・真意については私はまだ解明しておりません。ただ、光
・花・風のの絶世の一瞬に、生あるもののはかなさを見る、生と滅びの美学
を見るというような感じでは捉えているのですが・・・? 芭蕉の不易流行
にも通じるものもあるのですが・・・。

 でも本当にいい話を読ませていただきました。


 水戸について、今調べています。井伊直弼と長野主膳とお多賀さんの話
もあり、斉昭ら水戸藩との壮絶な戦いがなぜ起こったのか・・・。開国に
反対、開国に賛成・・・その裏には? やはり水戸光圀の集めた膨大な古史
古伝の中にその秘密はあるのではないかと思っています・・・。

 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月03日 13時21分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


水戸行きは来年の春でしょうか?
開花時期を問い合わせてからになさってくださいね。


桜川の「堀」の様子も見たいところですね。



>水戸藩との壮絶な戦いがなぜ起こったのか・・・

水戸も彦根も尊王なのにね。
不思議ですね。


結局日本は開国するんですよね

ま、こういうネジレは歴史上には多々あることで
だからこそ幕末というのはワケ分からないです。

    天皇の許可無くして開国したのがけしからんということ   
    ですか。
    これまたアホらしい。


結局は彦根は(彦根も会津も)損なくじを引いてしまった
ということですね。
幕末は消化不良を起こします。


実は本日は香港人の友人84歳からテレビでパレードを見ろと言われました。

    文化革命あたりに香港に逃げた実業家です。
    成功してあちこちの国に不動産を持っています。

    そういう人がやっぱり中国には望郷の念があるのか
    軍事パレードが誇りなのか

よく分かりません。

きっと幕末についても多くの日本人には「ねじれ」はすんなり受け入れられないものがあるんでしょうね。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月03日 15時09分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 恥ずかしながら訂正を:[60]紀貫之→紀友則(久方の 光のどけき〜)
[35]排聖→俳聖
 紀貫之と紀友則はいとこだったということです。

 民族全体に共通する気質・習性というものは、歴史・風土・宗教に大いに
関係するのでしょうね。砂漠の国でももてなす国もあるということですから。
 中国についてはまだ民主主義国家ではありませんので、本当のところの
評価ができません。従って言及することは控えたいと思っています。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月03日 22時16分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


>紀貫之と紀友則は従兄弟だったということです。

同じ紀氏ということでこんがらがりますね。時代も同じ頃ですから。

わたくしも
紀貫之と紀友則
こんがらがってました。

   これからは(そういえば「貫之は土佐日記」、「友則は久方の」、と)区別を思い出さないといけませんね。


紀友則

寛平年中に禁中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁」という秋の題で歌を競うことになった。

そこで「春霞かすみて往にし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に(=春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)」と詠んだ。

右列の者たちは「春霞」という初句を聞いたときに季節が違うと思って笑ったのだが、
第二句以下の展開を聞くに及んで、逆に面目なく感じ黙り込んでしまった。

そして、これが友則の出世のきっかけになったという[2]。
なお、この歌は『古今集和歌集』秋上では「題しらず よみ人しらず」とされている。

      へえ〜
      「ヒトの話は最後まで聞け」の貴族編ですね。



紀氏
記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角宿禰を始祖とするが、
この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、
この関係から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。


具体的には、雄略天皇朝の小弓、顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したと伝わる。

葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかかわらず、大化前代に大臣を出していない点は留意されよう。


天智天皇朝には大人が御史大夫となり、
奈良時代に入ってからは、麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。


諸人(贈太政大臣)の女橡姫と志貴皇子との間に生まれた白壁王が光仁天皇として即位すると、
その外戚として更に繁栄し、
桓武天皇朝までに広純と家守が参議に、船守と古佐美が大納言に昇った。

彼らは奥羽における蝦夷叛乱の鎮定など軍事面での活躍も特筆されるが、
平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。


広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、
名虎が娘を入内させるも家運は好転せず、
応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。



宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、
淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するに留まる。



紀氏の流れを汲む末裔として、
田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、
下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、
長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏(近世大名家の堀田氏につなげるのは仮冒か)・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。


また、紀伊国造家は天元年間に男子が途絶えたため、長谷雄の曾孫行義を嗣として以降朝臣姓を称した。
なお、中世以降の紀氏には、橘朝臣姓を仮冒した者が多いと言われる。

            藤原貴族にすり寄った、ということでしょうか?
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 00時01分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 石倉翠葉氏の件、ありがとうございました。十湖の文書の最後の文字が
これにより正しく判読できました。
 「さくら ばなはいつも」→「石くら 花笠庵」と読むことができ、ほぼ
全体的に間違いないだろうと判断し、M氏にファックスをいたしました。
 本当にありがとうございました。

 

 

 
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 00時28分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 深夜を回りましたので、レスは今朝にしたいと思います。

 柿本人麻呂に挑んでいますが、全く刃が立ちません。まだ芭蕉の方が
とっつきやすいと思います。
 柿本人麻呂は稗田阿礼であるという説、また麻績王であるという説、
ここら辺で何か根っこにフックできればしめたものなんですが・・・。
 まったく謎に包まれています。

 それはそうと、以前から気になっていました。新城市に柿本という所
があるのです。また、新城には大海という所もあります。さらに岡崎寄り
には額田郡という所があります。そして持統天皇の三河行幸というのが
ありました。柿本人麻呂が持統に仕えていたなら、ひょっとして東三河
へ来ていたのかも知れません・・・? そんな観点で臨めたらなあと、
かすかな望みをつないでおります。

 水戸については、明朝、記すことにいたします。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 02時35分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


柿本人麻呂は  政治的に歴史から抹殺された  のでしょうね。
持統天皇にいいように利用された人、あたりだと思って来ましたが
またいろいろ検索してみたいと思います。


   柿本人麻呂 = 万葉集最大の読み手


この人についてはいろいろ研究されていますが
とにかく記録が無い
その割に持統天皇には利用されている
だけど最期がよく分からない


稗田阿礼と同一人物という噂があるのですか。



額田郡には幸田町といってソニーの工場がありました。
今でもあるのかも。
新幹線で豊橋から名古屋方面に行く時、トンネルを出てすぐの町です。

このあたりは徳川グループの出身地がゴロゴロあります。



柿本人麻呂
斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献[1]がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。

確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書[6]では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌[7]が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌[8]が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解[9]や、後人の仮託であるとの見解も有力である。[10]また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。





持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))
日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。


子は草壁皇子。



ということは、持統天皇が崩御して後の政変に巻き込まれたということかもですね。

何があったのかしら?



712年に古事記の編纂が終了
720年に日本書紀の編纂が終了

このあたりに藤原不比等が力を持って着ますね。
そういう所で失脚していったのかしら?





人麻呂にまつわる異説・俗説[編集]

梅原猛は『水底の歌−柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。

また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。



しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、
また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。

なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。



『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。
この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある[16]。

しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。


このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。

柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。




柿本人麻呂が持統天皇の若い燕だった可能性も無きにしもあらず、ですね。
だったら記録にあるだろうし。
謎ですね。
[67]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 12時00分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もたもたしていたらせっかく書き込んだものを消してしまいました。
 ショックです。茫然自失というやつです。

 書くというのは気力と頭の冴えが必要なのですが、その状態のピーク
は通り越してしまいました。また朝の内は涼しかったのが、だんだん蒸し
暑くなってきて、がまんできない状態に近づきつつあります。

 しょうがないので冷房を入れます(冷房は余り好きでない)―

 光圀の秘密について書かれていた本が二冊程あったと思って、やはり気
になって早朝から探しておりましたところ、一冊が見つかりました。
 そこには、「光圀」と奇しくも「人麻呂」も関係して出ておりましたの
で、さっそくその部分を抜き出して次にご報告いたします。

 
[68]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 12時39分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 その本は畑アカラ著『古代天皇家「八」の暗号』という本です。あを様か
らも「八」について、前々からご指摘がありました。その「八」についての
謎に挑んだ五百頁の大作であります。
 その中にはこう書かれておりました―
 「水戸光圀の名前「光圀」の中に隠されたロマン溢れる暗号の発見と解読」
ということで、具体的には次の点について述べています。
  @何故光圀は、名前を光國から光圀へとかえたのか。
  A名前の変更は光圀の大義の暗号であった。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 13時27分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

悔しいですよね、せっかくエンエンと入力して書いたものが一瞬に消えるって。

残念ですが、気力が出たら、簡単にお知らせください。


窓7までは、そういう途中で消えるという経験はありませんでした。
窓8のせいでしょうか?
今は窓10の無料配信が始まっていて、良いという人とダメだったという人の2つに分かれています。

    窓10はもっとずっと後でも良いでしょう。


我が家は午前中によく消えます。
午後は消えたりしないような?


こまめにアップなさってください。
ホント悔しいですから。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 13時42分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 また消えてしまいました。左手のもたもたであたってはいけないところを
押してしまったようです。あと二十行くらいですので、めげずに頑張りたい
と思います。但し、左手には気をつけます。

 畑アカラ氏『古代天皇家「八」の暗号』からの引用です―

 「八州(やしま)と圀(くに)とは、国を「八」で表現しているという共通点
 がある。
  「圀」の意味は、「国とは八方なり」ということである。「八州」は
 日本国を意味しているから、「八州(にほん)とは八方なり」と言い換える
 こともできる。更に、八州、即ち国の代表は天皇であるから、「天皇とは
 八方なり」と言い換えられる。
  その意味を表現している言葉がある。「八隅知之大君(やすみししおお
 きみ)」である。つまり、「八方に知らしめす天皇」である。また、大宝
 令では「明神御大八州天皇(あきつみかみとおおやしましろしめすすめら
 みこと)」が勅語に用いる正式名称として確定された。
  光圀は、「圀」とは「八隅知之大君」のことをも意味している、と思っ
 たに違いない。
  柿本人麻呂は、<八隅知之(やすみしし) 我が大君>とたびたび天皇に
 対して歌いあげている。よって、光圀は、自分の名前の中で、つまり、
 「圀」の字の中で、<八隅知之(やすみしし) 我が大君>と歌っていた
 のではなかろうか。まるで、柿本人麻呂のように。
  圀とは八方である。その八方の中心に天皇を置けば、対極となり、八方
 は八州(日本)となり、八卦となる。
  それは、天皇を中心として、威光が八方に広がり平和になる、という
 ことを意味している。このことを端的に表す文字、それが「圀」である。
 光圀はそう思ったに違いない。よって「圀」の字に改名したのだ。」

 ちなみに光國が光圀に改名したのは56才の時で、「大日本史」の編纂に
着手してから15年前後経った時であります。

 本日はとりあえずこれにて―


 
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 13時48分51秒 ) パスワード

>「水戸光圀の名前「光圀」の中に隠されたロマン溢れる暗号の発見と解読」

謎はどんなものでしょう?


圀は則天武后が発明したと中学あたりの歴史で習った記憶です。


ウイキで調べました:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

武則天は改名を非常に好み、顕慶4年(660年)[要出典]には皇帝と皇后をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名している。

皇后として国政に容喙(ようかい)している実態を、両者が比肩する字義を持つ名称に改めさせ追認させる狙いがあったといわれる。
他にも洛陽を「神都」と改めている。



武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。

その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、
「圀」の字は日本で徳川光圀と本圀寺の名称に使用されている。
この改変は「國」が国構えの内に「惑」を含むことを忌み嫌ったもので、       へえ〜
その代替として国構えの内に「八方」をそえたものである。


他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「曌」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。

武則天はまた元号も頻繁に変更した。



後世において、武則天の政治経歴や治世に対する評価は否定的である。

簒奪を計画し失敗した韋后と並べ武韋の禍と呼ばれるため、負のイメージで語られることが多い。
しかし漢の武帝と共に「不明というべからず」と表現した宋代の洪邁や、
「女中英主」と評価した清代の趙翼のような例外も存在する。


毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青は、毛沢東の後継者にならんとする野望を持っていたため、
夫の死後、名実ともに国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。


  この事件、ありましたよね
    ↓
江青と文革は党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された。


現在の武則天の評価は、
施政した時代に浮戸や逃戸が増大し、また田籍の把握が等閑になって隠田の増加と均田制の実施困難を招いた点などから、否定的な評価が下されている。

だが長年の課題であった高句麗を滅ぼし、
彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定していたとされる。
また彼女の人材登用能力は後の歴史家も認めざるをえないほどに優れていたことは事実である。

            へえ〜
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 13時57分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

コントロール と Z だったか
何かのキイとZだったかを押すと戻ると聞いたことがありますが
わたくしのマシンでは出来なかったです。

多分どなたかがご存知と思います。
お尋ねになってみてください。



>ちなみに光國が光圀に改名したのは56才の時

光圀56歳までに、上記のように、書いてくださったような心境になっていたということですか。



>柿本人麻呂は、<八隅知之(やすみしし) 我が大君>とたびたび天皇に対して歌いあげている。
>よって、光圀は、自分の名前の中で、つまり、「圀」の字の中で、<八隅知之(やすみしし) 我が大君>と歌っていたのではなかろうか。
>まるで、柿本人麻呂のように。

   なるほどね
   それで光圀は尊皇だと言われるのですか。


ありがとうございました。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 14時17分52秒 ) パスワード

「笠庵」という語に引っ掛かっています。



レス<64>の 「さくら ばなはいつも」→「石くら 花笠庵」と
レス<59>の   石倉重継氏は、翠葉と号し、別号を「掃雲亭」のち「花笠庵」と改めましたが、
          昭和2年3月、旧笠間藩主牧野越中守貞喜君の俳号「諷詠堂金英」の諷詠堂の号を牧野家から授かり、諷詠堂とも号しました。



奥細道菅菰抄

読み方:オクノホソミチスガゴモショウ(okunohosomichisugagomoshou)
分野 俳諧書
年代 江戸中期
作者 簑笠庵梨一
               芭蕉大好きのこの人物にも引っ掛かります。

http://d.hatena.ne.jp/ryuuzanshi/20091214/p1


の中には、いろいろ調べることが好きな人がいるものだ。江戸時代の中頃にもいた。

蓑笠庵梨一という人がいた。本名は、高橋高(千)啓、字は、子明。昔の人は、字とか号とか、さまざまな名を持っている。芭蕉よりも丁度70年あとの正徳4年(1714年)の生れ。『おくのほそ道』の注釈書としては、この書に依らないものはない、と言われる『菅菰抄』を著わした。

俳諧を学んだ人だったそうだが、農業指導の専門家だったらしく、40歳までに、各地を公用で訪れる都度、芭蕉の足跡をほぼ実地に踏査した、という。60歳で越前の丸岡に引退し、その後、10年を経てこの『菅菰抄』を完成させた、という。

以上のことごと、岩波文庫『おくのほそ道』に併載されている、『奥細道菅菰抄』の解題に記されていることを引いた。

上記のことごと、蓑笠庵梨一自身が、この書の序で述べていることだが、その精密、詳細な注釈、注釈書の枠を超え、まさに、『おくのほそ道』を読み、理解する為の「事典」と言っていい。

人名、地名はもちろん、故事、古言、縁起、等々、どのような人にも理解できるように、解かりやすい注釈が為されている。

例えば、『おくのほそ道』冒頭の、<月日は百代の過客にして、・・・旅人也>、には、<古文後集、春夜宴桃李園序ニ、・・・、過客ハ旅人ヲ云ナリ>、と。

アレレッ、『菅菰抄』には、「月日は・・・」でなく、「日月は・・・」、となってるぞ。ミスプリか、校正ミスか、と思うが、何十版と版を重ねているこのロングセラー、まさか、今まで気がつかないはずはないだろう。原書のミスだな、きっと。蓑笠庵梨一の思い違いなんだ、きっと。出だしには、稀にこういうことがあるが。それにしても、面白いこと。10年の歳月をかけて、完成させたものなんだが。

それは、それとして、この『菅菰抄』、やはり、凄い著作だ。

和漢の書及び仏典、合計123部の名著に当たっていることが、「引用書目」に記されている。『老子経』、『荘子』、『書経』、以下、和、漢、仏典の凄い書名が並んでいるが、私などには、初めて目にする書名も多い。芭蕉の記述を、また、記述の裏に隠された事象を、理解する為に、それらの書を駆使している。

例えば、芭蕉が、<一家に遊女もねたり萩と月>、の句を詠んだ”一振”での、地の文の一節、<越後の新潟と云所の遊女成し。・・・>、の「遊女」の説明など凄いものだ。

<遊女ハ、・・・>、と書きだされた注釈には、『朝野群載』、『後拾遺和歌集』、『源氏物語』、『万葉集』、『年代広記』、『前太平記』、『源平盛衰記』、『新古今集』、『前漢書』、の9部にわたる和漢古典籍からの引用(さすが、ここでは仏典からの引用はないが)で、「遊女」の注釈を為している。10年の歳月もかかるはずだ。

それが、9部どころか、123にわたる和漢の古典籍と経典に当たっている。おそらく、『おくのほそ道』の注釈を創る為に、これらの書物に当たった、というのではなく、それ以前に、これらの古典籍を読みこんでいたのだろう。一市井人の蓑笠庵梨一、たいへんな学者だ。

しかし、蓑笠庵梨一の凄いところは、その学識の深さではない。彼のこの書を著わすコンセプトにある、と私は思う。

彼は、この書の自序のあとの「凡例」で、こう書いている。

<此書に注する所、ただ故事・古言等の品々のみを挙て、文意句義をくわしく述ざるは、俳聖の祖翁と、未練なる我と、風雅に宵壌のたがひ有るを恐るる故なり。・・・>、と。

この書物では、古い事柄や言葉の注釈はしたが、芭蕉の句についての注釈は、あまりしなかった。何故ならば、俳聖と云われる芭蕉翁と、とるに足らない自分とでは、俳諧の道では、天と地ほどの違いがあるのだから、畏れ多い。こう言っているんだ、蓑笠庵梨一は。

これは、凄い。私が「主従二人」で、副読本とした山本健吉も、参考書とした嵐山光三郎も、また、その他、目を通した何冊かの「細道本」も、すべて芭蕉の句の注釈はしている。それが当たり前だ。畏れ多い、などとは思わないだろう、普通は。

だが、蓑笠庵梨一は、違った。ひたすら、誰にでも理解できる注釈を創り上げた。畏れ多いことには、あまり触れずに。10年かけて。だから、山本や嵐山ばかりでなく、芭蕉のの研究者は、皆この書を参考書としている。私にとっては、先生の先生ということになる。

いつの時代、どの分野でも、市井の学者、と言われる人はいるが、蓑笠庵梨一という人は、傑出した市井の学者であったな。



_______________________



小菅蒼狐 こすげ-そうこ

1712−1766 江戸時代中期の俳人。
正徳(しょうとく)2年生まれ。江戸の人。笠家(かさや)旧室にまなぶ。
亀戸(かめいど)天神に1日5000句を奉納し,五千堂と称した。
門人に谷素外(そがい)らがいる。明和3年11月6日死去。55歳。名は観丈。
通称は喜平次。
別号に笠庵,柳前斎。         この「笠庵」にもちょっと驚きました。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月04日 14時24分30秒 ) パスワード

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/topics/bashoden.htm
「芭蕉翁伝」



祖翁は、伊賀ノ国柘植郷の産にして、弥兵衛宗清が末裔。(柘植郷に宗・宅地の跡ありと云)兄は、松尾半左衛門と云、翁は次男にて、(正保元年に生る)初の名は半七、後に忠左衛門宗房と改む。(世々の実名、元祖宗清の清の字を取と云。按ずるに、延宝以前の俳書には、多く名を宗房としるす。桃青と云しは、東都下向の後なるべし)国主藤堂家の同姓同国上野ゝ城士藤堂新七郎良精の臣となり、夫より嫡子主計良忠(俳名蝉吟)へ隨仕す。蝉吟子は、洛の季吟に俳諧を学び申さる。故に翁もともに其門に入て、


いぬとさるの世の中よかれ酉の年

と発句ありしは、十四歳の時なりとぞ。(明暦*三年なり)然るに蝉吟子は、不幸にして寛文六年の四月、世を早ふし給ふ。故に翁は、君臣の因、風雅の縁、一かたならぬ歎のあまり、遺骨を負て高野山に登り、報恩院に納て、六月帰国。其後ひそかに遁世の志ありてや、二君に仕ざるよしを告、しきりに暇を乞申されしを、あへてゆるしなかりし故に、其秋ならむ、同僚城孫大夫といふものの門に、短冊を粘して、

雲とへだつ友かや雁の生わかれ

と一句を残し、国を去て(此時年二十三と云)都にのぼり、季吟師のもとに遊学し、其後東武へ下向ありて、 <梨一かつて東都にあそぶ間、本船町のうち、八軒町といふ処の長卜尺と云俳士に交る事あり。彼者語りけるは、我父も、卜尺を俳名として、其比は世にしる人もありき。一とせ都へのぼりし時に、芭蕉翁に出会て東武へ伴ひ下り、しばしがほどのたつきにと、縁を求て水方の官吏とせしに、風人の習ひ、俗事にうとく、其任に勝へざる故に、やがて職をすてて、深川といふ所に隠れ、俳諧をもて世の業となし申されしと、父が物語を聞ぬと。(此時延宝六年にて、年二十三と云)あるひは一説に本船町の長序令といふ者にさそはれて下り給ふとも云。卜尺序令、ともに古き俳集にみえたり。或は両名同人か > 深川の六軒堀といふ処にいほりをまうけ、天和二年まで在住ありしに、(此間七ヶ年、年三十九)其冬回禄の災にあひて、しばらく甲州に赴き、彼国にて年をこえ、翌三年夏の末ならむ歟、深川の旧地へ帰り、焼草の露をはらひ、芭蕉一もとを植て 、 

ばせを野分して盥に雨をきく夜哉

の吟あり。此句よりして、住所を芭蕉庵と名づけ、人々もばせをの翁とは称じけるとぞ。翌年改元ありて貞享と云。此秋江都を旅立し、美濃・尾張より、(此時年四十一、故に美濃にて、薄に霜の髭四十一と云脇句あり)伊勢路を経て、故郷の上野に年籠し、翌貞享二年の春も、猶大和・なには・京師など経行し(野ざらし紀行是なり)此夏又深川へ立帰り、同四年の秋まで住申され、(此間にかしま紀行あり)この冬再び上つかたへ首途有。(笈小文紀行是也。時に年四十四)次の年又元を改て元禄と号す。此年の八月末か東武へ帰り、翌二年の春、北国行脚に赴給ふ。(奥細道紀行是なり。時に年四十六)それより美濃・尾張・伊勢路をへて、大津に年をこえ、翌三年の夏、石山のをくに、幻住庵をむすび、四年の秋までここに隠れ、(此間に嵯峨日記あり)此秋此庵を出て、東武に下り、同七年の秋(東都庵住三ヶ年)また東都を旅立、東海道を経て、石山の幻住庵にしばらくやすらひ、京師などへ往来ありて、それより故郷伊賀へ立こへ、奈良を経て、難波に逗留あるうちに、病に犯され、十月十二日に世を去給ふ。(年五十一なり。此時の旅宿は、大坂御堂前花屋仁左衛門と云者の借屋にて、其地主の家今猶存す)遺骸は、江州松本の義仲寺に葬る。(此病中より終焉までの事は、其角が編る枯尾花集、支考が笈日記等に見えたる。故にここに記さず) 右伝記は、伊賀上野の俳士、桐雨の筆記(桐雨は猿雖の曾孫にて、猿雖は翁の門人なり)加賀若杉の僧、既白房の覚書を併せて、是をしるす。 


芭蕉師を翁と称する事は、去来の旅寝論に、むかし其角、我に語けるは、今度都に来り、師の名の高き事をいよいよ知侍りぬ。同門の人々、師を尊みて翁といふのみにあらず。他門の人、我に向て翁翁と称す。まして季吟は師の師なり。其子の湖春を先として、をきなと云り。然れば門人のはヾかるべき事にあらず。かさねて集を出さんには、翁と書べしといへりと有。<按ずるに、祖翁の古俳集に、武蔵曲と云あり。序は季吟の撰にて、其詞に云> 今はむかし、逍遥遊のおきなといふものあり。細河のながれに和歌水をくみながら、老のさヾ波高なみをこえて、滑稽の島にせうえうして、つゐに其しまもりとなりぬ。予ちなみに島ぶりをとふに、おきなこたえていはく、此しまは世界のまんなかなれば、あまりに上手過るをきらへり。下略 蕉師を翁と称する事は、あるひは此序文の詞にまじまる成べし。時は天和二年にて、祖翁の春秋いまだ四十歳に満ず。さるを此号を得給ふは、仰高の大徳いよいよたふとむべし。 伝記 畢



蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』
蓑笠庵梨一<さりゅうあんりいち>『奥細道菅菰抄』<おくのほそみちす がごもしょう>の著者蓑笠庵梨一(1714〜1783)は、高橋氏、武藏児玉出身。江戸中期の芭蕉研究家。『奥の細道』の厳密な注釈をした研究者として知られ、今日でもその成果は参照される。梨一は、奥の細道を実際に自分でも歩き、古今東西の文献を渉猟して、偉業を成した。芭蕉の門弟以外で最も優れた芭蕉研究家の最初の人である。
 本<芭蕉DB>中、『奥の細道』の注釈については、本書(岩波文庫版)を参照している。



現代語


祖翁:<そおう>、芭蕉のこと
弥兵衛宗清:1162年、平治の乱で敗北し関東に落ち延びて行く源頼朝を関が原で逮捕したのが、この人。後に助命嘆願をして命を救った功績で、将軍頼朝から伊賀の柘植地方を拝領したと言い伝えられている。芭蕉がその末柄だというのは偉人伝につきものの創作であろう 。

松尾半左衛門:兄は半左衛門「宗清」といったと言われている。 彼が、何を生業として生きてきたかは不明だが、いずれにせよ社会的に高い身分には無く、また経済的にも裕福であったという言い伝えは無い。なお、姉が一人。彼女が、甥の桃印の母と言われているがはっきりしない。早逝したとも、離縁されて再婚したとも言われているが不祥。妹は三人。直ぐ下の妹は片野氏に嫁し、その下は堀内氏に嫁したという。末の妹は、子供の無かった兄半左衛門の養女となって松尾家を継いだという。

なお、現在、松尾家の後裔は不明。
嫡子主計良忠(俳名蝉吟):<ちゃくしかずえよしただ(はいめいせんぎん)>。良忠は良精の三男。兄二人は早逝。良忠も25歳で没しているので、新七郎家の子息は虚弱体質であったらしい。



明暦:1655.4.13-1658.7.23
季吟:伊勢折荒木守武⇒宗祇⇒山崎宗鑑⇒松永貞徳⇒北村季吟(⇒芭蕉)
国を去て:こういう事実を明かす資料は全く見えない。おそらく、次の段落=29歳にして江戸に出るまでの間、芭蕉は藤堂新七郎家の下級の職にとどまっていた、というのが真相であろう。
水方の官吏:<みなかたのかんり>。小石川上水(神田上水)の仕事に従事したことをいう。
寛文六年:1666年(ロンドン大火、Newtonが万有引力の法則発見した年)
延宝六年:1678年。この時芭蕉は34歳でここの記述はすべて誤りである。
天和二年:1682年。ピョートル大帝即位。ルイ14世はベルサイユ宮殿に引越し。西山宗因死去(享年78歳)
回禄の災:八百屋お七の大火
甲州:高山伝衛門(麋塒)の支援による都留への疎開
貞享:1684.2.21-1688.9.30
首途:<かどで>と読む。門出のこと。
元禄:1688.9.30ー1714.3.13
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2015年09月04日 23時24分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 光圀の名前の変更だけでは、本当のところはわかりません。つまり、何を
どう考え、どうしたのかという部分です。

 ただ、副将軍という立場でプロジェクトを進めたということは、想像以上
の資料が集まったことと思います。記録類―歴史書、系図、古史古伝、門外
不出の資料・・・。口伝の書き写し。発掘物。ありとあらゆるものが集められ
たものと思われます。ホツマのような神代文字の書物もあったでしょう。

 それらを整理して、解読して、ストーリーを組み立てる・・・膨大過ぎて
時間がかかったのは当然かもしれません。
 「新日本史」の中身を見ていないので、想像でしかありませんが、日本書紀
を補完するような方向性であったのではないでしょうか。
 一度「新日本史」の内容を見てみる必要があります。

 
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月05日 07時47分53秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101486.html
長上郡の服部氏族L(M氏家譜14+信濃麻績あたり)スレッド50をご用意致しました。

切りの良い所で、どうぞ。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月05日 08時03分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


『大日本史』については、欲しい箇所を指定して、送付した頂いたことがあります。
     図々しいワタシ(汗)
     ちゃんとご挨拶したので許してくださったのかも。
     冷や汗3斗

『大日本史』は
ものスゴイ量、莫大な量、なので
特化しないと。。。


>「新日本史」

こちらは全く知らなかったです。
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