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 投稿番号:101440 投稿日:2015年04月30日 13時12分41秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族]]]VI(M氏家譜)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101439_58.html
スレッドXXXV の  M氏家譜専用スピンオフ  ということで。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 13時14分06秒 ) パスワード

まず  K氏は  左利き  じゃないの?と思いました。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 13時24分57秒 ) パスワード

M家のご当主は背が高かったようですね。

5尺6寸などですから  1m70pあたり?

家康が160pでしたっけ?


ということでM家の人々は当時の人にしたら大柄のようですね。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 13時34分09秒 ) パスワード

宝徳3年(1451年)生まれの方から始まってますね。
ご両親のお名前も書かれている。


宝徳年間の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。


つまりご両親は1420年代あたりのお生まれでしょうか?

宝徳の少し前に「嘉吉」年間がありますね



嘉吉期におきた出来事[編集]

元年結城城の落城により結城氏朝、持朝らが自害。結城合戦終結。
6月24日(1441年7月12日) - 嘉吉の乱。播磨守護・赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて殺害し、領国の播磨へ逃れる。
8月、畿内で嘉吉の徳政一揆(嘉吉の土一揆)が起こる。
2年6月、幕府管領の細川持之が辞職し、畠山持国が就任する。11月、足利義勝が7代将軍に就任する。
3年9月、禁闕の変。後南朝と見られる一派が、襲撃した内裏から三種の神器を強奪。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月30日 22時55分59秒 ) パスワード

結城城の落城

関係がありそうな予感
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時13分54秒 ) パスワード

結城氏(ゆうきし)  アヤシイかも。


           藤原秀郷の末裔ではあるが
           源頼朝の御落胤説もあり
           源氏を称する(通字の「朝」の字は頼朝ゆかり) 
                       
 

平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した一族(大身)。
通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。


鎮守府将軍藤原秀郷の末裔・小山朝光(結城朝光)が平安時代後期に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総の結城(茨城県結城市)を領した事が結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。なお、朝光の実家である小山氏の本拠である下野国の小山(栃木県小山市)に隣接していることから、結城も元々小山氏の所領であったとする考えもあるが、朝光自身が自分は父の遺領を伝領せず、頼朝の配下となって初めて所領を得たと語っていること(『吾妻鏡』正治元年10月27日条)、治承合戦期まで結城郡では古くからの郡司であったと推定される簗氏・人手氏や常陸平氏系の行方氏が支配していたと推定されることから、結城郡には元々小山氏一族の影響は及んでおらず、一連の合戦を通じて没落した行方氏らに代わって朝光が頼朝から結城郡を「新恩」として与えられたと考えられている。[1]

家伝によれば、朝光には源頼朝御落胤説があり、北条氏のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では小山氏の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施した、と伝える。伝統的に源氏を称し、代々の当主も「頼朝」の「朝」の字を通字としている。いくつもの動乱の時代を経て、鎌倉以来の名族としてその家名を後世に伝えた。


続く
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時25分28秒 ) パスワード

結城氏                    南朝方についた結城氏は新田義貞に従う
                     
                       後に南朝方結城氏の中でも内訌勃発

                       戦国時代には上杉と北条に攻められ結局は
                       家康の実子で秀吉の養子の秀康を養子に迎えた=結城秀康



南北朝時代

南北朝の戦いでは2つに分かれてたたかう。
家紋が同じだから混乱して同士討ちあり。
ゆえに
1336年正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は
敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために
右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている
  (両結城・小山氏は家紋が同一のため。右三つ巴(三頭右巴))



南朝方結城氏

白河結城氏と南北朝の争乱[編集]

鎌倉時代末期、朝広の子の一人である結城祐広は
白河(福島県白河市)を本拠として白河結城氏(白河氏、または白川氏)となる。


1333年に後醍醐天皇の皇子護良親王による鎌倉幕府討伐の令旨が届けられると
祐広の子の結城宗広は鎌倉幕府に対して挙兵し、
続いて後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞の鎌倉攻めに参加し、
鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては、宗広は前述のように結城氏惣領の地位と奥州各郡の検断職の地位を与えられ、
宗広の子の結城親光が三木一草と称される1人となった。

また、親光の兄の結城親朝は奥州府の一員となり陸奥守北畠顕家と北畠親房父子を補佐する。

足利尊氏が建武政権から離反し南北朝時代になると、
下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。

親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、
宗広は北畠親子に従い続けたが、
家督問題を巡って宗広と溝があったとされる親朝[6]は常陸(茨城県)へ渡り
関東地方における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、
1342年に足利方に従う。


宗広の意向に反して白河結城氏の家督を掌握した親朝は宗広が獲得した結城氏惣領の地位を否認して、
自己の本領白河の確保と周辺地域への勢力拡大を目指すことになる。

以降の白河結城氏については白河結城氏の項目を参照。



戦国時代


戦国時代の終了と結城秀康の入嗣[編集]

政勝には子がなく、跡は高朝の子である結城晴朝が継いだが、晴朝の時代においては、古河公方の没落は顕著となり、
新たに勃興した相模北条氏康や関東管領を継承した上杉謙信の侵攻を受けて、
結城氏は北条・上杉の間を転々としながら勢力を保つのみになり、
晴朝の実家である小山氏との関係も険悪となった。

1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、近世大名として生き残ることに成功し、
改易された旧小山氏の所領と旧小田氏の所領の一部(土浦城一帯)が戦功によって結城氏に与えられている。


晴朝には嗣子がなく、
初めは宇都宮広綱の次男で佐竹義重の甥に当たる結城朝勝を養子に迎えていた。

だが、小田原征伐後に結城氏の所領が大大名である徳川氏の所領と隣接するようになる。

このため朝勝を廃して、
徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康(一時期、秀朝)を養子に迎えて家督を譲ることで豊臣・徳川両氏の信頼を得て結城氏の存続を図った。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時28分45秒 ) パスワード

結城氏の末裔(水戸藩士・秋田藩士として)[編集]

別系統に白河結城氏の末裔たる結城氏のうち一部は、水戸藩士として1000石、家老の家格を有した。小山氏、宇都宮氏と並び水戸藩御三家として尊ばれ代々家老を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。しかし、結城朝道(寅寿、晴明とも)の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。寅寿の子・結城種徳は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は秋田藩士、仙台藩士として存続した。

その他、常陸国伊奈に名主の結城氏が存続。300石を有した。

家紋[編集]





右三つ巴
松平を称した後も家紋は、引き続き結城家の小山氏に由来する三頭右巴と秀康以来の太閤桐(越前桐)を用いた [8]。この点は、その他の越前松平諸家とは一線を画する。

図案[編集]

三つ巴の図案については、冒頭の家紋画像の図案と通常のものの使用がある。越前桐は、「五三桐」の花序部分を変形させた図案である。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時30分11秒 ) パスワード

南北朝頃までの結城氏の家紋?



[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時42分21秒 ) パスワード

結城氏と南総里見八犬伝

           なるほど
           里見八犬伝の初めの部分にわたくしは引っ掛かったのでしたか。

           じゃ、前世にでも読んでいるのかもね。


           一応、この小説のハナシはいろいろ知ってるけど結局はきちんとは読んでないので
          
           M氏の家譜の「八犬伝」の書き込みに  里見家の名よりも結城家に反応しました。



発端


嘉吉元年(1441年)、結城合戦で敗れ安房に落ち延びた里見義実は、
滝田城主神余(じんよ)光弘を謀殺した逆臣山下定包(さだかね)を、
神余旧臣・金碗(かなまり)八郎の協力を得て討つ。

義実は定包の妻玉梓(たまずさ)の助命を一度は口にするが、八郎に諌められてその言葉を翻す。

玉梓は「里見の子孫を畜生道に落とし、煩悩の犬にしてやる」と呪詛の言葉を残して斬首された。



時はくだり長禄元年(1457年)、
里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。

落城を目前にした義実は飼犬の八房(やつふさ)に「景連の首を取ってきたら娘の伏姫(ふせひめ)を与える」と戯れを言う。

はたして八房は景連の首を持参して戻って来た。

八房は他の褒美に目もくれず、義実にあくまでも約束の履行を求め、
伏姫は君主が言葉を翻すことの不可を説き、
八房を伴って富山(とやま)に入った。



富山で伏姫は読経の日々を過ごし、八房に肉体の交わりを許さなかった。

翌年、伏姫は山中で出会った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、
読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、
八房の気を受けて種子を宿したことが告げられる。


懐妊を恥じた伏姫は、折りしも富山に入った金碗大輔(八郎の子)・里見義実の前で割腹し、胎内に犬の子がないことを証した。


その傷口から流れ出た白気(白く輝く不思議な光)は姫の数珠を空中に運び、
仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。


義実は後を追い自害しようとした大輔を留め、大輔は僧体となって、
『犬』という字を崩し丶大(ちゅだい)を名乗り、
八方に散った玉を求める旅に出るのだった。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時51分04秒 ) パスワード

結城合戦(ゆうきかっせん)          里見氏は結城方
                       南総里見八犬伝はそのお話


                       下の方の「ココね!」の部分参照


                       自分で自分に驚いています。


                       やっぱりワタクシのDNAのせいかも


結城合戦は
永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。



概要[編集]

永享7年(1435年)からの鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実の対立から永享10年(1438年)に永享の乱が発生、

持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。


乱後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、
永享12年(1440年)に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、
室町幕府に対して反乱を起こす。



幕府方は総大将上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、
永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。


結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、成氏は京都に送られた。


戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、
持氏の叔父でありながら永享の乱で幕府側に寝返った篠川公方足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれ、
翌年には京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍義教が家臣の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。

                               この赤松氏はわたくし個人の仇でもあります



文安3年(1446年)に関東諸将の要請で持氏の遺児成氏の鎌倉帰還が実現、
鎌倉府が復活したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。


結城合戦は永享の乱の延長線上の出来事であるが、合戦の規模は永享の乱よりも大きい。


結城合戦を描いた『結城合戦絵詞』も存在する。

                                ココね!

なお、読本『南総里見八犬伝』は
父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。



関連作品[編集]
小説南原幹雄『天下の旗に叛いて』 (結城氏朝・持朝)
漫画河村恵利『青野赤原-室町足利伝』
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 02時57分53秒 ) パスワード

http://www.rekishijin.jp/offcial-blog/official-blog-rekijyo/officialblog18/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%B0%8F%E3%80%81%E7%B5%90%E5%9F%8E%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%80%90%E9%96%A2%E5%85%AB%E5%B7%9E%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%82%8F%E3%82%82%E3%81%AE%E9%81%94%E3%80%91/

コピーガードがかかっているのでURLへどうぞ

結城氏と結城城の悲劇について書かれています。


ということで是非 南原幹雄『天下の旗に叛いて』 (結城氏朝・持朝)をお読みください。

      里見家が結城家に味方した「義」とは何か?


内容

室町幕府に抗して滅ぼされた4代目鎌倉公方足利持氏の遺児たちは幕府軍に追われる流浪の身となっていた。

下総国の豪族結城氏朝、持朝父子は義によってこのかつての主君の子を擁し、天下に叛旗を翻す。

押し寄せる十万余の大軍を相手に、わずか一万の軍勢は果敢に戦い続けた。


室町時代中期、関東を揺るがせた大いなる叛乱。

戦場に展開するさまざまな人間模様を描く歴史長編。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 03時22分24秒 ) パスワード

松島氏に戻ります



源姓で松島氏というと黒川郷の松島左兵衛ですか。


復習

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm

かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。
黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、今回、本当のところはどうなのか、阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。



これは、ちょっと、と思います。
次に思わぬ成果がありました。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 05時17分39秒 ) パスワード

松島氏


復習


諏訪神党、
滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)、
熱田神宮社家(大原真人)、
紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)
などにもみられる。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 05時26分05秒 ) パスワード

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878200/268?tocOpened=1

南総里見八犬伝   第七輯    巻の6


P147  ?


犬塚信乃と市川に行った話?
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 05時31分51秒 ) パスワード

コマ91
P153


ここに  ○に一文字  の家紋の絵有り。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 05時34分20秒 ) パスワード

「中黒をもて家の紋に」

かな?


要するに  新田義貞の  紋のことですか?
         鍋の蓋
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 05時49分41秒 ) パスワード

中黒の紋をつけずに、笹竜胆の紋をつけていたのには
それなりの理由がある。


八犬士のうちの数人が出自を確認し合っているシーンのようです。


    下河辺為清の従弟  井丹三直彦  いのたんざなおひこ?  は外祖父
     蓼科太郎市が独児   たでしなの一人息子?



大新田・小新田はご先祖上西公  新田大炊亮義重朝臣よりこのかた
里見・鳥山・堀口の三同宗も



こわいのでここでアップ
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 06時07分15秒 ) パスワード

嫡家・中将家  新田贈中将言義貞卿  と等しく中黒をもって家の服章(=紋)にし給ふとは勿論なり。


さばれ?されば?笹竜胆は源家の鼻祖  六孫王  経基よりこのかた

用ひ給ひし服章なれば


山名畠山の一族は今もなほこれを用ひ

里見殿は笹竜胆を副服章(替え紋)にし給ひにき。


かかるゆゑにや  嫡男にあらざれば   中黒の服章を  平服に用ひることを許し給はず。



      要するに  中黒の紋が正式で  
      山名畠山は中黒を使っても良いけれど
      里見はダメ、と。里見は笹竜胆を用いなくてはならない。

      嫡男でなければ中黒の紋を普段使用してはならない、と。


これによりて  姫御達の衣には笹竜胆を付けられたり。

     
      つまり笹竜胆は裏紋(女紋)扱いだから
      里見は格下
      と言っている?

     
      
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 06時16分46秒 ) パスワード

http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/takasawa/11-10-31-2/

コピペガードがついています。




里見家の家紋は新田の子孫ですが、嫌がらせで?敵の足利の2つ引両を使用(笑)
現在は新田系・足利系両方使っているようです。


                気持ちは分かる。
                これが「家のアイデンティティ」ということです。


里見義堯は本家を討ち、水軍を持って北条氏に対抗、最盛期を迎える。
しかし
里見家は里見忠義の時、大久保長安事件で連座して伯耆国倉吉に転府。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 06時37分43秒 ) パスワード

南総里見八犬伝は
文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作で

第7輯 7冊(巻之1〜巻之7)は 天保元年(1830年) に出版されているので



つまりM氏の家譜を書き直した時に  
永禄11年(1568年)生まれの対助さんのことを記す時に
M氏の家紋  丸に一文字紋の説明を「南総里見八犬伝」の中から引用した
ということですね。



この対助さんという人物がなかなかの人だったようで

   市野惣太夫の家に行ってたり
   神主になった?

   妹が   薗  その  という女性?
        この人は惣太夫の妹でもある?


   松島家と市野家が親戚なのだろうけど
   何重にも親戚?

[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 06時53分07秒 ) パスワード

ちょっとゴチャゴチャしてて良く分からないのですが

対助さんという人がなかなかの人で
この人の戒名が  盛郷  ですね。


妻が  薗さん?
市野惣太夫と親戚に?
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 06時59分13秒 ) パスワード

更に
山下家も家紋は丸に一文字?


他にも続々と名家とされる名前が出ていますね。

鈴木家の名前もありますし。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 07時03分01秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11110213236


里見家は実は新田家の分家ですから一引きが正統ですが、
建武の新政のごたごたで新田義貞が足利尊氏によって滅ぼされたとき
里見家は足利尊氏について二引きにしたという説があります。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 07時09分09秒 ) パスワード

復習


http://members.jcom.home.ne.jp/kaskoba/20_036.htm

信濃国 松島城
松島城跡 史跡標柱
所在地:長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島


箕輪町役場の敷地が松島城跡。
5000分の1程度の詳細地図で見れば、役場敷地の東側を折れ曲がった小川(水路)が流れている状況がわかる。
これがそのまま城跡の縄張りとして残されている部分でござる。

町役場すなわち城跡から1.2km東側に天竜川が流れ、
御多分に漏れず、
この城も天竜川河岸段丘に突き出した崖端城の様式。

役場東の小川をなぞって城の切岸部が作られていた。
とは言え、この一帯は町役場庁舎のみならず
箕輪町図書館・情報通信センター・保健センター・文化センター・消防署本部
郷土博物館・箕輪中学校といった公共施設が建ち並び、
現代化に伴う削平が行われ旧態を偲ぶものは他に見受けられなくなってしまっている。

曲輪取りも不明だ。


元来の城域は東西200m×南北300mほどの規模を持っていたと推測されている。
町役場前、郷土博物館との間に走る道路が河岸崖下へ降っているが、往時はもっと細い道で、
恐らく空堀がそのまま竪堀となって切り落とされる状態だったのだろう。


この城は小笠原氏の傍流・松島氏の居城であった。
もともとは小県郡にいた一族で当地に移った後、在郷名から松島姓に改めたとされる。

松島氏初期の当主が城内に葬られており、そこには1531年(享禄4年)7月15日没・前松島城主対馬守頼実の名がある。


これは松島氏2代・政行の事を指す。


その隣には3代・貞実の墓石もある。
(但し、これらの墓は江戸時代になってから在郷諸氏により作られたものである)



戦国時代になると松島氏は福与城(上記)の藤沢氏に従っており、この城は福与城の支城を成していた。


1545年の福与城平定戦の折も松島氏は藤沢氏と共に武田軍と戦ったが、敗れて降伏。

この後、1556年(弘治2年)春日城(長野県伊那市)の春日左衛門尉重親や殿島城(同)の殿島大和守重国ら伊那衆が武田軍に反抗した際、
松島豊前守信久も同調して挙兵した。


しかし結果として反乱は鎮圧され、
松島信久・春日重親・殿島重国を含む反抗首魁8名は狐島(きつねじま、伊那市内)の蓮台場で処刑されてしまう。

首は晒しものとされたが、郷土の自衛自尊に立ち上がった勇士を憂いた在地住民の手によって密かに奪還され、旧上伊那郡長谷村内の黒河内(くろこうち、現在では市町村統合で伊那市内)に葬られた。

この首塚は八人塚と呼ばれるようになり、1974年(昭和49年)4月30日、当時の長谷村(伊那市)の指定文化財になっている。


戦国屈強の名将・武田晴信(信玄)を英雄と見るか苛烈な侵略者と見るか、
立場によって評価の分かれるところでござろう。
松島城の伝承は以後見受けられず、恐らくこれで廃城となったのであろう。



城跡としては文化財指定を受けていないが、
町役場庁舎西側にある松島氏墓所は1977年(昭和52年)5月9日、箕輪町の史跡に指定されてござる。


現存する遺構
   堀・土塁・郭群等
   城主墓所は町指定史跡
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 07時19分10秒 ) パスワード

復習


小笠原氏

       白鳥村の山下家も丸一紋で、小笠原系のようですね



鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。



鎌倉時代[編集]

小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185年)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である(現在では遠光ゆかりの寺院のみが、三階菱の中に「王」の文字を入れた原型を用いている)。


なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て石見小笠原氏となる。



南北朝時代・室町時代[編集]

信濃小笠原氏[編集]

南北朝時代になると、信濃小笠原氏は北朝に属し、桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐した戦功で、室町時代には一族が幕府の奉公衆や信濃の守護となり活躍したが、小笠原長秀が大塔合戦での敗北で守護職を罷免されるなど村上氏や諏訪氏などの有力国人の統制がうまくいかず、上杉氏や斯波氏に守護職を奪われ、強力な統治体制を整えることが出来なかった。

また、小笠原氏の内部においても内紛が絶えず、幕府の後ろ盾を得た信濃小笠原氏の小笠原政康(長秀の弟)が一時支配権を確立しそうになったが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺され、後ろ盾を失った政康が死去すると、信濃小笠原氏は長秀の子の持長(府中家)と政康の子の宗康、光康(松尾家)との間で内紛が再発し、さらに松尾家は宗康の系統(鈴岡家)と光康の系統(松尾家)に分裂、三家に分かれて抗争することとなる。



京都小笠原氏[編集]

小笠原氏には宗家の貞宗の弟の貞長[1]の流れがある。貞長は新田義貞と戦って討死し、子の長高は京都に住んで足利尊氏の弓馬の師範であったというが史実か疑わしい。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。

京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力武将として重きをなすとともに、幕府初期から的始めなどの幕府儀礼に参加している。6代将軍の足利義教の頃には将軍家の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、馬始めなど幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における武家の有職故実の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、書札礼では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『大舘常興書札抄』)とされた。


なお従来は、将軍家の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が後醍醐天皇の師範、長高が足利尊氏の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは足利義教の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは小笠原長時、貞慶父子の時代になってからである[2]。


なお、小笠原政清は同じ幕臣であった伊勢盛時(北条早雲)に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる北条氏綱以降の後北条氏歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。



その他の小笠原氏の一族[編集]

阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表的な例としては三好氏、一宮氏、大西氏、安宅氏などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。


武田氏の混乱に乗じて一時甲斐を実効支配した跡部氏は小笠原氏の一族とされる。


南北朝時代には信濃小笠原氏の一族の大多数は北朝に属したが、小笠原貞宗の四男で羽場城の築城者とも伝わる小笠原重次郎など、一部に南朝に属した者もいる。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 07時43分03秒 ) パスワード

丸に一文字紋の謎は


源氏でもいろいろ流れがあって
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage266.html



小笠原氏と武田氏は    新田や足利とは別の流れだから  
小笠原氏が信濃で力を持つに至って配下の武将達に
            「お前達、新田や足利の紋を使いたかったら使っていいよ」
ということになったのじゃないかな?


それで小笠原関係の地方の武将達が源氏方の紋を使うようになったのじゃないか?



源頼義の子供     


                  (1)義親  子孫は頼朝・義経など

   A)義家ーーーーーーー 
                  (2)義国   a  新田   b 足利





                  (1)武田 →   武田・加賀美   

   B)義光−−−−−−−−      


                                   さらに後に加賀美氏から小笠原氏が出た                  
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 07時49分34秒 ) パスワード

小笠原氏にしてみれば、足利や新田は先祖は同じでも頼義まで遡るとなると


     源頼義   生誕 永延2年(988年) 〜  死没  承保2年7月13日(1075年8月27日)


ざっと500年も前の先祖です。


その人の子の代で分かれているんだから  兄弟は他人の始まり。


自分=小笠原家=には関係無いから、新田の紋でも足利の紋でも好きに使っていいよ
ということだったのでは?


でも三階菱紋については禁止だったのでしょう。


丸に一文字紋使用の真相はこんなところではないかと思います。
で、次の謎へ。
     
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時04分44秒 ) パスワード

1番の謎は系譜に「源姓」を使用出来ているところです。


これは由々しき問題です。
本姓源氏で俗姓はM氏。
勝手に「源姓」なんて名乗れないと思うのです。


名乗れた理由を無理に考えてみるとしたら
例えば上野国の得川村出身者には幕府から特別の身分が出ていたから
得川村の住民は  源姓を名乗って良い  なんて条例が出てたのかな?


また浜松あたりは源姓を名乗って良いというのが出てたのかな?


その前に小笠原氏が武田と戦った時に士気を高めるために
    配下は全員源氏の名の下に
というお触れでも出したのかな?



または、100% 本物の新田系  だったのか?
    でもその書き込みが記されていないのは何故?

    松島左近さんの家譜には書かれているのかもです。
    この人の弟で分家したから書かれていないのでしょうね。



やっぱり分からないですね。  みっしんぐ・りんく  ですね。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時06分29秒 ) パスワード

源姓で通字が「宗」という人物が分かればちょっとは解けるかも。
または下の字=諱でしたっけ?=が「宗」の殿様。


こんなところが見つかると良いのですが。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月01日 08時19分27秒 ) パスワード

諏訪氏が滅びて
勝頼の代に諏訪関係者はこぞって源姓になった?

この可能性も無きにしもあらず、かな?と。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時20分29秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2011-01.html?p=6


『松島・松嶋一族』(日本家系家紋研究所編、日本家系協会、1998)

こういう本があるそうです。

静岡県立図書館とか国会図書館なら置いてるでしょうか?
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時24分06秒 ) パスワード

ついでに


『服部一族』(日本家系家紋研究所編、日本家系家紋研究所、1984)


『服部家を偲ぶ』(今治藩筆頭家老服部家墓所を守る会編、今治藩筆頭家老服部家墓所を守る会、1997)

     これは石原裕次郎や慎太郎の家も載っているんでしょうかねえ。
         笑



秦氏関連はたくさん出てました。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時28分51秒 ) パスワード

http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htm

やはり信濃に戻ってしまいました。


画像が出てて
そのキャプションに

「芦田城、数々の氏族が芦田氏を名乗った」

とありました。


   芦田って蘆田信蕃関係でしょうか?

              芦田と蘆田と蘆名と芦名がこんがらがります。
                   恥
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時29分58秒 ) パスワード

戦国時代前期の信濃武将

http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htm


目次          


1)室町幕府季世
2)信濃武士、戦国時代序章
3)埴科郡舟山郷
4)村上氏、大井氏を滅ぼす
5)武田信昌の時代
6)武田信虎の登場
7)諏訪氏と武田氏の和睦
8)武田晴信、諏訪を攻略
9)武田晴信、佐久を攻略
10)村上義清と武田晴信、上田原の戦い
11)塩尻勝弦峠(かっつるとうげ)の戦い
12)武田晴信、小笠原氏の本拠、筑摩郡を制圧
13)戸石崩れ
14)勇将村上義清の没落
15)村上義清の葛尾落城
16)村上義清、塩田城落城
17)晴信と上杉謙信の初回対決
18)真田幸隆と海野棟綱
19)晴信伊那攻略
20)武田軍、下伊那攻略
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時42分26秒 ) パスワード

復習かも知れないですがコピペ



天文14(1545)年「4月11日癸卯、高遠に向け御出馬。雨」、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、14日には上原城に入った。「4月15日丁未、杖突峠御陣所。昼夜雨」まず高遠頼継を攻め、17日高遠城は自落した。晴信は高遠城に陣所を構え、ついで20日、藤沢頼親が拠る箕輪の福与城へ軍を進める。天竜川畔の福与城には、藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の国人衆も籠城していた。


 福与城の戦いの史書『小平物語』には「(福与の)城に篭る武士には、松島・大和・長岡・小河内・福島・木下、是は大身の士なり、此の外野口・手良・八手・平出・高木・辰野・宮木・神戸・赤羽・樋口・有賀・漆戸、此等の者都合百余騎、雑兵千5百篭城なり、中にも藤沢織部・大泉上総とて強弓の射手あり」とあり、上伊那と周辺域の軍勢が加わっていた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに捗らず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。


 福与城の創設は鎌倉時代、幕府御家人藤沢氏が箕輪郷を中心に、ここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城であったが、要害堅固であった。城跡は幅が東西約330m、南北約440mで、本城,北城,南城に区分される連郭で、本城は第1・第2郭に分かれていた。本城は空堀を隔てて北城に対しやや高く、物見櫓といわれる場所もあって、天竜川流域では大規模で、好適地にあった。


 藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時、長時の弟鈴岡小笠原信定、下伊那衆の知久氏らの援軍を得て抵抗した。信州守護小笠原長時は、頼親の妻の兄でもあり、木曽義康勢も含む総軍勢15百を率いて駆けつけ宮所の龍ケ崎城(上伊那郡辰野町伊那富)に拠った。その先鋒は羽場・北大出方面までに及び福与城を支援した。


 龍ケ崎城は穴倉山から南に湾曲しながら延びる丘陵の先端部にあり、標高825m、比高差約100mで堀切と山の斜面に沿って上下に掘る堅堀を備えていた。高遠城を陣所にする晴信は、重厚な戦略で、下伊那の援軍小笠原信定との連絡を絶っている。


 鈴岡小笠原家を再興した信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部(伊那市大字伊那部)に着陣していた。福与城の戦いの史書である『小平物語』には「小笠原舎弟小笠原信定、下伊那、中伊那衆を将(ひきい)て鋳鍋(いなべ)に本陣を取り、右後詰として、長時公の一左右(いっそう;一報)相待たれ候也、此旗本には下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺・保科弾正・溝口・市瀬・大島、此外小身衆合て2千の人数なり」とあり、鋳鍋は伊那部であるから、春日城に伊那谷全域の国人衆が入った。福与城の支城で、藤沢頼親の養子木下重時が在城した箕輪城(上伊那郡箕輪町中箕輪字木下)の守備も固く膠着状態が続いた。


 しかし6月に決した。「6月大壬辰、板垣駿河守竜ヶ崎落城。敵の首46討ち捕る。栗原左衛門手に於いて首17討捕り、晴信公より感状を賜わる。」「6月10日幸丑、藤沢次郎和義(藤沢頼親)落着。」「6月11日、藤沢次郎身血(降服)。其上藤沢権次郎(頼親の弟)人質の為、穴山陣所(穴山伊豆守信友)へ参る。敵城に火を放つ。」


 6月1日、小笠原長時が本陣をおいた竜ヶ崎城(上伊那郡辰野町伊那富)が、1か月を越える駒井高白斎や板垣信方の執拗な猛攻で陥落した。長時は筑摩に引き揚げたようだ。鈴岡小笠原信定ら下伊那の援軍とも連絡を絶たれた。藤原頼親は孤立し已む無く和睦の誓約をし、弟権次郎を人質として差し出した。ところが、藤沢氏らが開城すると福与城へ火を放ってこれを焼き払ってしまう。そのまま廃城になった。藤沢氏が武田氏を裏切った代償であった。頼親は福与城落城後、『小平物語』には「按に、頼親此の時城を開き羽広邨(むら)に住す、今其の地を殿の小屋と云う(後略)」とあり、伊那市西箕輪羽広の大泉に暫くは潜伏していたようだ。

 伊那の高遠から箕輪を制した晴信は、筑摩郡深志の小笠原長時に鉾先を向けた。晴信は塩尻峠を越え14日、林城下の長時の居館「林の館」を放火し、桔梗が原に出て小笠原軍を大破し、その勢いのまま熊井城(塩尻市片丘)を陥落させ、さらに上伊那・筑摩を席巻した。『小平物語』 は記す。この伊那攻略に多くの諏訪衆が先鋒を務めた、と。


 『高白斎記』は天文14年10月、晴信は駿河に出兵したが、今川義元と和睦し甲府に戻った、これに藤沢頼親が同行していたとしている。
 晴信は今川義元と和談を成立させると信濃攻略に邁進する。晴信は、天文15(1546)年3月諏訪郡安国寺に伊那の福地郷を寺領として、同年9月諏訪上社に、伊那笠原の広垣内、百貫文の土地を社領として、寄進状を納めている。伊那侵攻の際における、諏訪先方衆への戦功の褒賞と解される。翌天文16年3月、高遠城の鍬立。翌天文17年7月19日、小笠原長時を塩尻峠で破っている。この合戦に、下伊那の小笠原信定も大軍勢を率い出陣していた。『小平物語』には「此合戦の日、伊那の民部信貞公、伊那士の大将にて下条・平谷・波合・駒場・赤須・阪田・溝口刑部・駄科惣蔵・片桐・飯島・宮田・小田切・上穂(うわぶ)・殿島・向山・市瀬・浦野・大島・知久・御園・座光寺・藤沢・松島・大出・長岡・小河内・漆戸・有賀・樋口・柴・赤羽・辰野・平出・宮木・神戸・宮所、大身小身都合5千人余の人数なり、先陣は下諏訪内相沢・駒澤なり、後陣は上伊那の内上・平出に支える也」とあり、大動員に応じての出兵でありながら大敗であった。以後伊那の国人衆の多くは、武田氏に帰順していったという。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時50分29秒 ) パスワード

続き

天文22(1553)年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の願いを入れた越後の長尾景虎が信州川中島に兵を進めた。遂に、武田軍と長尾軍との間で、第一回目の川中島の戦いが行われた。このとき秋山信友も晴信に従って景虎軍と戦い、翌年の4月に高遠城へ帰陣した。


 天文10(1541)年に元服した秋山信友は、翌天文11 年、当時22歳の晴信の諏訪攻めの軍に加わり近習衆として初陣を飾る。この初陣の活躍で、信友 は50騎の侍大将に抜擢される。その信友が、天文16年には上伊那の郡代として高遠城の城将となっていた。

 晴信は、天文19(1550)年、『高白斎記』に「7月10日、屋形様村井へ御着城」、小笠原長時の林城を攻め、7月15日「子の刻、(林)大城 、深志、岡田、桐原、山家5ケ所の城自落。島立、浅間降参す」と遂に落城させた。林城は破却され廃城となった。大名としての小笠原氏はここで一時滅亡した。その後は村上義清、次いで越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。『高白斎記』天文22(1553)年、「九月小朔日乙巳麻積小四郎方へ来国光の刀遣わされ侯。栗原左兵衛方へ信国の刀下され候。越後衆八幡に動き、破れ新睡(荒砥城)自落。」

                     ヒバリさんの筑摩は北信になりますか?
                           ⇅
 この年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の請いを入れた越後の長尾景虎が更級 郡八幡平(千曲市)に兵を進めたのである。武田軍と長尾軍との戦いで晴信の劣勢が伝わると、伊那の国人衆も動揺した。

                  ⇅   ココですね

 秋山信友から伊那谷の国人衆が武田氏に叛旗翻し、知久・座光寺氏らは神之峰城(飯田市上久堅;かみひさかた)周辺に兵を集めている、と甲府に報せがあった。

 信友は知久氏らに対して兵を収めるようにと、使者を派遣したが、使者が斬られ、伊那衆の叛乱が決定的となった。天文23(1554)年知久頼元、頼康父子は、それまで武田氏に従属していたが、前年の第一回川中島の戦いに呼応するかのように、反旗を翻した。信友からの急報に接した晴信はただちに3千騎の兵を率いて伊那に出兵した。先鋒は秋山信友が務めた。武田軍の進攻に対して知久頼元は、小渋川より伊久間川まで人数を配して武田軍を迎え撃った。知久勢は3千騎の武田軍の猛攻に、よく耐え凌いだが、頼元の嫡子頼康をはじめ知久勢の多くの将士が討たれ、次第に劣勢となった。知久勢は強勢の武田軍によって神之峰城に追いつめられ、ついに、知久頼元父子、座光寺貞信ら主だった武将は生け捕りとなった。

 『妙法寺記』によれば、晴信は頼元らを甲斐に護送し、御坂峠を越えて河口湖に浮かぶ鵜之島に幽閉した。そして、翌弘治元(1555)年5月、河口湖東岸の船津浜において全員を処刑した。ここに鎌倉以来、神之峰城を本拠としていた名族知久氏も、一時没落した。

                   狐島での処刑の話
                     ⇅
 『伊那武鑑(鏡)根元記』に「弘治2辰(1556)年、武田信玄公伊那郡へ打入有之、侍大将馬場民部・内藤修理之助・原隼人・飯富三郎兵衛・秋山備前守・仁科備後守右7頭壱万弐千余騎、伊那部へ御入高遠城之城に御休息被成、近所へ降参に成るべき廻文を出し候得共、更に降参になるもの無御座候上、信玄公大きに御立腹有之、殿島大和守を始めとして水口民部・松島豊後守・伊都新左衛門・宮田左近正・黒河内隼人・小田切入道父子(上穂伊豆守)、右8人召捕、狐島にて張付にあげ御成敗被成候、依之伊那衆早速御味方申なり」とあり、武田軍が甲山の城に入り、「降参に成るべき廻文」に応えが無かったため、最期まで靡下を拒む8人の国人衆を召捕り見せしめとして狐島に磔にした。その後、里人が密かに8人の首を抱え、伊那郡入り谷の郷黒河内村(上伊那郡長谷村黒河内)に埋葬したという。



  『甲陽軍艦』に「信玄公、弘治2年6月中旬に、又伊奈へ御出馬あり、7月8月9月都合4月の間に、伊奈を伐随給ひ、即伊奈侍御成敗の衆、溝口殿・松島殿・黒河内・上穂・小田切・伊那部・殿島・宮田、此外ありといえども書に及ばず」、信玄軍は大田切川を越え宮田に入った。武田軍の分隊が松島も制圧した。

続いて「又たやし被成うちに弟・伯父・従弟なんどに、所領半分或いは3分1なんど被下、名字をつがせなさるることあり」と、敵対叛逆しても、所領を完全に奪うことなく、高遠頼継や保科・神林両氏ように、所領を新たに宛行い、高遠の代官として勤仕させもした。「弘治2年10月下旬に、秋山伯耆守相備とありて、旗本に付けらるる、伊奈の侍大将衆は、坂西(ばんざい)・市瀬・知久・春近衆、合せて2百騎、秋山伯耆与力也。伯耆守手前の騎馬50騎共に、引合せて250騎の人数をもつて、伊奈の郡代に仰せ付けられ、伯耆居城は、高遠の城にさしをかるる、以上。」

 伊那谷全域が伊奈郡代秋山信友の支配下に入った。郡代所は高遠城に置かれた。

 信玄は永禄3(1560)年、諏訪上社の造営所役を信濃国中に課した。同年、小野郷の小野7騎に「重科の人并びに国法を犯すの輩、3日を経るまで隠し置くに至っては、注文の人同罪たるべし。惣じて甲州のために悪しき子細を承り届け、高島へ進注せしむれば、褒美を加うべきものなり。」と達している。翌年、信濃「両二之宮」の小野・矢彦両神社の御柱祭に際し、小野郷を支配する高遠地方の新参衆13名に知行を宛行い、戦功を督励している。永禄8年、諏訪大社上下社の衰退した祭祀の再興を大号令した。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 02時56分33秒 ) パスワード

続き(締め)    

このあたりを読めば松島氏と源氏の関係が分かるかも  に印 「  *****  」を付けました。



諏訪の歴史研究


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[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 03時07分26秒 ) パスワード

上記の中から1つ
南北朝時代の信濃武士


16)宗良親王、信濃国大徳王寺城陥落
 宗良親王は北条時行と共に、幸運にも遠江に漂着した。当初から遠江の井伊道政の井伊谷城を根拠地とするつもりであった。やがて信濃国内も南北朝の動乱が激化する。その中心人物が、南アルプスの麓の大鹿村に篭城したこの宗良であった。宗良は征夷大将軍にも任命された親王で、上野宮や信濃宮とも呼ばれていた。


 宗良親王は、興国元(1340)年、遠州国井伊城 に籠城していたが高師泰の攻撃で落城した。北条時行は、それ以前に井伊城を去り東国へ向かっていた。ところが、宗良は、同年6月24日、信濃国大徳王寺城(伊那市長谷)において時行と諏訪上社大祝諏訪頼継らが挙兵したと報らされ、そこへ逃げ延びてきた。

「守矢貞実手記」は「暦応三年(興国元年)〈戊/寅〉相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯篭大徳王寺城、□大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳篭、当国守護小笠原貞宗、苻中御家人相共、同廿六日馳向、七月一日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ヶ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多勢、時□難勝負付、雖然次良殿、次無御方、手負死人時々失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺城開落云々」と記す。


 26日、信濃守護小笠原貞宗は家人を率いて信濃府中から馳せ向かい、7月1日から城の大手を数度攻撃した。大祝頼継は弱冠12才であったが、数十回打勝ち、ために貞宗方は西尾城に要害を構え、鎌倉府に注進し援軍を願った。武家方の援軍が度々来着したため、時行も奮戦を重ねたが、元々寡兵で援軍もなく、次第に手負い死人が生じじり貧となり、10月23日夜、城門を開け落延びていった。高遠氏は、この時の大祝頼継の嫡男貞信(信員ともいう)を始祖とする。



17)宗良親王の信濃国南朝軍終焉

 宗良親王は、越後国、越中国に落ち延びていったが、興国3(1343)年、再び信濃国に入り、翌年信濃の伊那山地深い大河原(下伊那郡大鹿町)を支配する香坂高宗に迎えられ反撃の準備を始めた。

 信濃は在地武士の荘園侵食と北条氏闕所の争奪とが重なり、南北両朝諸勢力の争いが激化した。


宮方は、
諏訪上社の諏訪氏、下社の金刺氏、
上伊那の知久・藤沢ら諏訪一族、
下伊那の香坂氏、佐久・小県の祢津・望月・海野ら滋野一族、安曇野の仁科氏で、
武家方は、松本・伊那が拠点の守護小笠原氏、更級・埴科・小県郡塩田荘の村上信員、水内・高井の高梨経頼、佐久の大井光長・伴野氏であった。



 宗良は信濃に南朝の一大拠点を築こうとした。糸魚川道筋は「仁科千国口(千国街道)」といい、新田氏の拠点越後など北陸に通ずる交通の要所で宮方の仁科氏がおさえていた。

 大河原は山稜に囲まれた天然の要害で、
以降宗良はこの大河原と大草(上伊那郡中川村)を拠点とし、「信濃宮」または「大草宮」といわれた。

                                   大草???
                                   どこかで見たような???



 正平7/文和1(1352)年、足利氏の内訌・観応の擾乱に乗じて、南朝軍の武力行動が各地で激化、

宗良は征夷大将軍となり、信濃国の諏訪氏、滋野氏、香坂氏、仁科氏らを率いて、越後国方面へ出陣し足利方の上杉憲将を追撃した。

さらに足利尊氏が弟の直義を毒殺したのを受けて、
東国に身を潜めていた新田義貞の子義興・義宗や脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子)、奥州の北畠顕信と共に碓氷峠を越え武蔵国へ進出した。


鎌倉を攻撃し、一時占拠すると再び足利尊氏追討の旗を揚げた。

しかし間もなく人見原(東京都府中市浅間町)・金井原(東京都小金井市前原)で尊氏に敗戦を喫し、
小手指原(所沢市北野)でも敗れ、鎌倉を落ちて越後国に逃れた。



 正平8(1353)年11月、越後で宗良は義宗・義治と挙兵し和田義成と戦うが、小国政光に敗れている。

翌年も宇賀城を攻めるが、和田義成・茂資に敗れた。

正平10(1355)年、宗良は越後国を不利と判断して退去し、再び信濃国の諏訪に入り、
南朝後村上天皇方(後醍醐天皇は1338年崩御)の再結集を計策した。

その拠点信濃を固めるために諏訪氏、金刺氏、仁科氏を率いて府中へ進軍を開始した。
これを迎え撃つ桔梗ケ原(塩尻市)で守護小笠原長基と戦い敗れたため、
以降信濃の南朝方は急速に衰退する。


その後も宗良は信濃で体勢挽回を図るが、桔梗ケ原の敗戦は信濃国南朝方には致命的となり諏訪氏なども離反していった。


後年再び信濃国で挙兵しようとしたが適わなかった。


正平23(1368)年には義宗が敗死し、義治は出羽に逃亡して越後新田党が消滅している。

応安7(1374)年、宗良はついに信濃国での抵抗をあきらめ、吉野に落ち延びていった。


こうして30数年間に亘る信濃国を中心とした宗良親王の闘争は報われる事なく終わった。


室町幕府は3代将軍義満の時代で盤石となり、もはや武家はもとより朝廷・山門といえども抗えようがなかった。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 03時16分19秒 ) パスワード

もう1つ(笑)

http://rarememory.justhpbs.jp/kama/na.htm

源氏御家人としての諏訪氏    

目次
後三年の役
後三年の役の諏訪為仲の去就
鎌倉時代の背景
執権北条家の推移
頼朝時代の諏訪大社
鎌倉時代の諏訪社領
諏訪一族と北条氏の関係
 1) 鎌倉時代における諏訪大社
 2) 諏訪大祝家と北条得宗家との関係
 3) 諏訪大祝家と承久の乱
4) 承久の乱後の諏訪大祝盛重(諏訪兵衛入道蓮仏)

後三年の役の諏訪為仲の去就         諏訪系が源氏を称する根拠???


  前九年の役以来、諏訪為仲は源義家と親交が厚く、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきます。当時為仲は為信を継いで大祝になっていました。

古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられません。

しかし義家と共に戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(こうどの)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣したのです。 この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となります。それを契機として、諏訪明神は、水辺の神・狩猟の神・農耕の神から、武神の神として崇敬されるようになります。



 日本の神社ほど、時代の風潮に迎合し、その哲学に節度がない宗教も珍しいのです。


 合戦の後、義家は睦奥守の立場から中央政府に上申書(国解)を提出しますが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応を示します。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ります。 朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌ったのです。


 後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行しています。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院・関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃の国莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされます。

そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴きます。その時、部下双方が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁源氏を憚って為仲は自害します。


それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれます。現在の糸貫町の諏訪神社です。

    
           そうするとやはり諏訪氏諸武士は源氏を称するのに違和感無しだった?



  これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、そのため遺児の為盛は、大祝の職に就けませんでした。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぎますが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立ちます。しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承されます。


  戦勝者の源氏の棟梁、義家は私合戦と断定され、陸奥守を解任され、勲功も賞もなく、任期中の政府や権門寺社への貢納を軍資金に使い、戦後は郎党の褒章に流用し、結果政府に莫大な負債を抱えるようになります。ようやく10年後、白河院の特別の配慮で受領功過定(ずりょうこうかさだめ)で「無過」の判定が得られたのです。

しかしながら義家の嫡流は、弟の義光などの一族に、その地盤を侵食され、義親・為親・義朝の三代いずれも、最期は賊将となり生涯を全うできませんでした。頼朝の代になって、初めて天下に覇を唱えますが、一族の内訌の連続で、頼朝以外、以後天寿を全うする者もなく、3代で滅びます。


 対象的にこの大きな犠性によって安倍・清原氏の伝統を受け継ぎ、戦勝者として生き残った藤原清衡は、国司交代に伴う権力の空白をつき、清原一族の遺領をすべて独占し、「俘囚の主」であるばかりか、陸奥出羽押領使となり、初めて奥州全域に君臨するのです。清衡によって平泉政権が樹立され、奥州藤原氏の基礎が築かれたのです。



源義家以来の関係で諏訪系の武士が源氏を称するのに不思議は無かったのかも。
その後、南北朝の戦いでも諏訪神社が参加しているから。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 03時22分45秒 ) パスワード

しつこくもう1つ


戦国時代の諏訪の武将達

 こぐ舟の 行衛もそれと みつうみの 波に照りそう 秋の夜のつき
                                     諏訪 忠誠

目次           http://rarememory.justhpbs.jp/suwasi/si.htm
1)大祝信重解状
2)南北朝時代の諏訪氏
3)小坂円忠(えんちゅう)
4)諏訪上下社の室町幕府への帰属
5)大塔合戦
6)諏訪社と郷村
7)戦国大名化する諏訪氏
8)上社の内訌
9)下社の没落



6)諏訪社と郷村


 上社の大祝家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。

出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神(おおみわ)神社の社家大三輪家と同系であろうか。


諏訪氏は代々諏訪社の大祝となった信濃の名族であるが、その出自については諸説がある。


一つは、神武天皇の皇子日子八井命(ひこやいのみこと)の子孫、信濃の国造金刺氏の子孫というものであり、
また建御名方神の血流で御衣祝・有員より起こったというもの、
さらに、平安中期の武将・源経基の5男満快(みつよし;みつすけ)の後胤、清和源氏説もある。
満快は『類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)』第8載録太政官符には、下野守在任中に卒去していることを伝える記録が残る。
系図上確認される3人の息子達も中級官人として東国の受領などを務め、その子孫は武家として主に信濃国に土着した。


 いずれにせよ、源平争乱に盛重が頼朝に仕えて、諏訪太郎を称したのが諏訪氏の名乗りのはじめとされる。

平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成し、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。


 宗家は早くから諏訪氏を名乗ったのであろうが、上原・矢崎・藤沢・関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出等の諸氏が分出した。


上記、諏訪郡内郷村の在地領主層は、諏訪上社の神主も兼ね「村代神主(むらしろこうぬし)」と呼ばれていた。茅野市教育委員会発行の「年内神事次第旧記」によると、千野郷の神主は2人で2町歩の神田と2軒の神戸を神領として知行している。矢崎郷の神主も2人で1町歩の神田を知行している。諏訪上社の頭役を記録した『諏訪御符札之古書』によれば、郡内には千野神主、上原神主、古田神主、矢崎神主、栗林神主、真弓神主、峯湛神主(みねたたえ) 、前宮神主、干草湛神主(ほしぐさたたえ) 、榛湛神主(はしばみたたえ) 、下桑原神主、真志野神主、宮戸神主、野焼神主14人の村代神主がいて、神田と神戸(かんべ)を知行して神役に務めていた。神主は多大な所役費用を負担した。神使(おこう)や神長等を宿泊させ、貢納を行ない、14人の神主は、大祝即位の時には、五官の祝と共に勤仕した。



  応永4(1397)年の守矢文書には、有継が大祝就任の際、その諸費用は府中の白河郷や5官祝、村代神主が寄り合って負担している事を記す。 花会、五月会、御射山祭、大社造営料等の役料を負担してきたのが村代神主層であり、上社の上層部の大祝、神長官以下の五官の祝は、頭役銭や造営料から、莫大な得分を得ていた。 村代神主は在地領主層でもあり、諏訪氏の軍兵の構成団をも組織していた。村代神主が小領主であれば、その在地郷村に深く根ざし、村落共同体の村長(むらおさ)で、同時に軍事的には諏訪氏若しくは大領主の家臣でもあった。そしてその下には、郷村の有力百姓を在家としておさえたが、その多くは神人(じにん)であり、諏訪氏の軍事力は、その諏訪大社の下部の信仰組織を拠り所にしていた。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 03時30分31秒 ) パスワード

小笠原家の話はややこしいのでスルー。



8) 上社の内訌 

  頼満の子大祝継満の時、妻の実家・高遠継宗と下社方の加担もあって、惣領家の乗っ取りを企てた。

文明15(1483)年正月8日、継満は祭事にことよせ、惣領家政満一家を前宮神殿(ごうどの)に招き、酒宴をもって酔いつぶし、夜更け、隠れていた武装の一団を指揮し、嫡子宮若丸も含めて惣領政満と弟埴原田小太郎など一族を初め来客一同、10余人を皆殺しにした。

          わ〜
          すごい


この殺戮集団の中には政満の親類も多数いたといわれている。
神聖な神殿を血で汚し、大祝継満自ら手を下し、返り血を浴びる光景を見て、神長官でさえも「まことに大祝とは申し難し」と憤る有様であった。


 惣領家方の憤怒も極まり、直ぐ敵討ちに立ち上がると、郡内武士の勢力の多くと神長官を初め社家方の枢要な人々も同心した。

前宮と周辺の社寺堂塔が焼かれ、継満は形勢不利をさとり、15日干沢(樋沢)城に立てこもるが、


                        千野は松島の実家
矢崎・千野・福島・小坂・有賀・神長官たちに攻め立てられ、
2月19日、遂に落城、一族残らず大雪の中、急峻な杖突峠を越えて高遠に逃げた。


しかし継満の父、先の大祝・頼満は老齢で病身ため逃げ遅れ、城中で討ち取られた。64歳であった。


  大祝継満にしても完璧な謀略を成し遂げた自信があった。
しかし諏訪一族は、惣領家、大祝家等関係なく、あってはならない事態として猛反発した。


 干沢城は諏訪上社 諏訪大祝の居館があった上社前宮の東隣に位置する山城である。

寧ろ現代人の感覚で言えば砦といえる。当時は宮川が山裾を流れており、そこから崖がそそり立った所に城が位置するという要害の地であった。私も周囲をこまなく散策した。後世、武田信玄による攻勢に高遠頼継が干沢城に拠って敗れたが、上原城や桑原城とは違い、それほどの要害でもないし城でもない、ただの国見丘程度の丘の上にあった。


しかし諏訪郡内の小規模な争闘程度であれば、武居城と合わせて、上社前宮にとって重要な左右の砦となった。
干沢城落城の日、大雪で寒気が厳しかった。箱根芦ノ湖の水面は723mに対して諏訪湖は759mもあり、特に内陸部の諏訪の寒気は厳しい。大祝継満は当初から、干沢城籠城を想定していない。そのため兵糧の備えもない中、前宮神原(ごうはら)に集住する大祝一族と家臣団の住居も、堂塔と共に焼き尽くされている。

一族の非戦員の老幼女子も籠城せざるをえず。城内というが砦程度の山中の狭い敷地内であり、居住屋内の設備は堀立小屋程度で高が知れている。寒気と疲労で、諏訪大祝の兵士と非戦闘員の老幼女子の多くが、高遠逃亡の途上で凍死していた。


 文明14(1482)年5月大雨が降り宮川の大氾濫となり、安国寺、十日市場、上社前宮の門前町であった大町等の町場や村落が押し流された。御柱曳きは延期された。閏7月台風の直撃があり、現在の宮川メリーパークの東側一帯の茅野から安国寺、十日市場、大町等が水没しただけでなく、被害は上川右岸にも及び八日市場、五日市場、十日町等の平地の殆どが海原のようになったという。


 下社は文明15(1483)年正月8日の上社内訌を好機として、一気に諏訪惣領家を略取し、起死回生を謀った。


3月19日、金刺氏は継満と組み高嶋城(茶臼山城)を陥落させた。
後年、豊臣秀吉の家臣、日根野高吉(ひねのたかよし)諏訪に入部し、
日根野氏の諏訪在住は父子2代で、慶長6(1601)年までの12年間であったが、
この短期間に現在の諏訪湖畔に高島城の築城を終えている。

したがって、それまでの高嶋城又は高島城と呼ばれる城は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山にあり、手長山の後ろの丘陵で、今は桜ケ丘とよばれている。

手長神社の裏山で、諏訪盆地の湖南から湖北の平坦部を一望する景勝地である。


上下社領の境は、大和(おわ)の千本木川、諏訪湖、天竜川で、それぞれを湖南山浦地方と湖北と呼ばれた。高嶋城の築城は諏訪惣領家で、下社勢の大和と高木の両城の抑えと、湖北一帯の状況観察が意図されていた。 下社大祝金刺興春は百騎余りの兵を率い高嶋城を陥し、更に武津から上桑原一帯に放火し桑原城下の館を占拠した。更に桑原城の攻略に向かうも、惣領家に味方する矢崎肥前守政継を初めとする千野、有賀氏等の軍勢に駆り立てられて興春兄弟3騎を初めとする32騎と歩卒83人が敗死した。


興春は諏訪市湖南大熊の権現沢川右岸、 湯の上辺りで首をとられ大熊城に2昼夜晒された。大熊城は湖南大熊の地籍で西山山地にあり、大熊は「大神」が転訛したもので、諏訪大明神の鎮座地集落のため、上社領で大祝家が支配していた。文明の内訌で大祝継満が、高遠へ追放されると、惣領家支配となり茅野郷に本拠がある千野氏が城主として入城した。


上社惣領家勢は21日には下社に討入り、社殿の悉く焼き払わった。守矢神長官は「為何御内證(本心)にて両社成広野」と嘆いている。金刺氏は没落するが、まだ余命は保っていた。諏訪惣領家と同盟する府中小笠原長朝も出兵していて、下社領の小野・塩尻郷を領有した。


 文明15年は、前年度の大水害による凶作で、甲州同様、諏訪地方でも諸物価が高騰し、困窮者が続出した。更に水害は疫病を蔓延させた。それに度重なる正月からの文明の内訌、上下社間の郡内一帯をまき込む争乱に伴う軍役が負荷された。貧民化した民衆の生活は、どのようにして維持されたのであろうか?



 15世紀の諏訪地方は多難な世紀といえる。特にその後半は、諏訪郡内外での果てしない戦闘と大規模な自然災害により、領民の田畑は人災天災の両害に曝され、その被害は甚大で困窮を極めた。『守矢満実書留』は「斯憂事、自神代無此方(中略)万民心苦事無隙(かくの如き憂事、神代より此の方類をみない。万民の心苦の元が絶え間なく続く)」と記す。


 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16(1484)年5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓、フネ古墳や片山古墳がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。


惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。

 ところが小笠原長朝が筑摩、安曇両郷の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。

その向城こそが、東側の権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。


伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なかった。
継満も、自らの残酷な妄動が結局、諏訪惣領家方の結束を強め、下社金刺氏をも無害にし、ここに始めて諏訪湖盆地を領有する一族を誕生させたことを知った。

以後の継満には、諸説があり、信憑性に欠くが、いずれにしても、継満一族は歴史上の本舞台からは消えた。


惣領家方は生き残った政満の次男・頼満に相続させると同時に、大祝に即位させた。5歳であった。



 頼満こそ諏訪家中興の祖となる。この後、古来どおり惣領家の思いのまま、大祝の即位・退位を決することとした。 長享元年(1487)7月にも、高遠継宗は大祝を援けて諏訪郡に侵攻した。惣領家方の有賀氏と戦った。高遠勢は鞍懸に陣を構えて有賀勢と対峙して、一方天竜川流域に出で、その右岸、竜ヶ崎(上伊那郡辰野町宮所)に城を築き付近一帯の支配拠点とした。また、高遠氏は有賀の戦いの際、上伊那郡北部にも進出して支城を築き支配領域の拡大を図るなど、有力国人として成長を遂げていった。


 このように信濃では、小笠原氏、諏訪氏らが一族を巻き込んだ内紛に揺れつづけた。継宗は大祝家と惣領家の争いを横目に伊那鈴岡小笠原氏と結んで、前大祝継満を援けて自らを諏訪の惣領に位置付けて、諏訪を手中に収めようと野望を逞しくしていた。『赤羽記』には、継宗に関して「生付賢く武術に達し、伊那の郡を、不残切取、十万石程也云々」とあり、南は上伊那中沢(駒ヶ根市)から北は辰野北部までを領有し、その勢力は、本家諏訪惣領家を越えるものであった。


継宗は戦国武将としての野心とその力量もある一廉の人物であった。

諏訪氏も政満の子頼満のころから戦国大名化していった。頼満は下社の金刺氏を滅ぼし、諏訪地方に領国制を展開、遂には甲斐の武田信虎と争うまでに成長していった。



9)下社の没落

以下略
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 04時11分39秒 ) パスワード

松島城跡または役場の章が丸に一文字なら良いのですが。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 07時07分47秒 ) パスワード

太田資宗を調べていて、はた、と気付きました。

   松島家の通字の「宗」は太田資宗から出たの?と。


そこから勘違いが始まって1人で大騒ぎをして
その後
気付きました。

「松違いだった」と。
大恥
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月02日 09時20分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜は松島氏の家系譜を見ながら、いろいろ思考にふけっておりました。
 その中で気づいたことを箇条書きにします。

 @家系譜における初代は松島右衛門源宗忠で、この人の奥さんは藤原智常
の娘となっております。この藤原智常は神主で岡原河内守となっております。
 Aこの初代宗忠は室町時代の前半に羽鳥に土着したようです。箕輪の松島
氏も室町時代に土着したようです。
 B江戸時代に、浜松城主太田しは、伊那の松島村・福与村・下寺村・南小河内村の4村をどういうわけか、天領として支配しております。
 C羽鳥村の服織神社には諏訪大神が合祀されています。即ち諏訪から来たと
いう傍証にもなります。
 D北条氏の「得宗家」に松島氏の「宗」系の名前がたくさん見られます。
 E諏訪神党は北条氏の有力な御内人ということです。
 F浜松中央図書館に、「松島家文書」が保管されており、300点以上ある
そうです。
 G松島家の2代目は1600年頃庄屋になっております。また市野代官の妹
を嫁にもらっています。ということは身分は相当高かったということであります。そしてこの人の戒名に「盛郷」が入っている。

 諏訪の松島氏系の可能性は高いような気はします。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 12時48分52秒 ) パスワード

レス<44><45>で松島氏と松下氏がこんがらがって大騒ぎをしたので削除しました。

1人で騒いで勝手に削除してホントばかです。




    E諏訪神党は北条氏の有力な御内人ということです。

これは北条高時の息子の時行の関係かもですね。
北条時宗という優れた執権がいますから
その名前を頂いたのかしら?



    G松島家の2代目は1600年頃庄屋になっております。
     また市野代官の妹を嫁にもらっています

やはり諏訪系の松島氏だから庄屋にもなり
代官の妹を嫁にしているのでしょうね。


だいたい  源姓を名乗っている  というのもスゴイです。
「許されて」名乗っているのでしょうね。


この経緯が分かると良いですね。


     
      Bが分かると良いのですが。
      Bが解けたらかなり迫れますね。


      @の藤原智常は神主で岡原河内守
       これも謎ですね。


とにかくボチボチ行きましょう。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時03分14秒 ) パスワード

藤原智常 は 神主 岡原河内守  で検索したら1つヒットしました。


http://e-ainan.net/sonshi/nenpyou/nen/nenpyou.htm
歴史年表



こういう記事があるはずなのに
天慶2, 己亥, 12/26, ○藤原純友の乱。 ..... 1768, 明和5, 戊子, 9月,


                 ココ
厳島神社改築(神主岡原河内守藤原智常・庄屋實藤源左衛門・願主内海浦中)。 内海村史上 ...



見つかったのは                     ココ
1708 寳永5 戊子 8月 厳島神社改築   (神主岡原主水重良、庄屋赤松長左衛門、願主内海浦中)。
内海村史上巻461頁    慶応4年神社帳


また頑張ります。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時06分37秒 ) パスワード

http://www.eightleaf.jp/link_collection/shinto_shrine/ujigami_shinto_shrine/ujigami_shinto_shrine_link.html


六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)です。源経基(みなもとのつねもと)が祭神です。

源経基(みなもとのつねもと)は清和天皇の第六皇子貞純親王(さだずみしんのう)の子であり、天皇の孫であることから「六孫王(ろくそんのう)」と呼ばれたそうです。嫡子で、この神社を建立した源満仲(みなもとのみつなか)が清和源氏の武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」と称しているそうです。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時18分17秒 ) パスワード

岡原氏についてhttp://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B2%A1%E5%8E%9F

【名字】岡原

【読み】おかはら,おかばら

【全国順位】 3,281位  岡原さん都道府県別ランキング!!
【全国人数】 およそ4,100人


岡原連、岡原真人の子孫。 
「原」は野に対して平らな広いところを表す。「岡」は岡(丘)の地形を表す。



福井県 2,582位 およそ30人
滋賀県 3,227位 およそ30人
京都府 3,100位 およそ80人
大阪府 2,393位 およそ400人
兵庫県 1,634位 およそ400人
和歌山県 3,028位 およそ30人
島根県 2,037位 およそ30人
岡山県 1,795位 およそ100人
広島県 804位 およそ500人
山口県 938位 およそ200人
香川県 818位 およそ200人
愛媛県 916位 およそ200人
高知県 1,268位 およそ60人
福岡県 2,890位 およそ200人
佐賀県 2,822位 およそ10人
熊本県 2,078位 およそ90人
大分県 2,546位 およそ40人
宮崎県 515位 およそ400人
沖縄県 2,030位 およそ20人
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時23分22秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1239819.html


オカハラ 岡原 

広島県、宮崎県小林市、兵庫県。


@百済系。大阪府東部(旧:河内国)に平安時代に岡原連の姓氏があった。
           島根県浜田市殿町が藩庁の浜田藩士は後裔と伝える。


        それで岡原河内守?


A宮崎県小林市北西方岡原発祥。同地に江戸時代に門割制度の岡原門があった。


B愛媛県南宇和郡愛南町僧都に江戸時代にあった。

          レス<49>に該当?



C和歌山県日高郡日高川町早藤の小字の岡原から発祥。


D兵庫県淡路市江井の小字の岡ノ原(オカノハラ)から発祥。


Eコリア系。島根県江津市で1958年5月12日に帰化の記録あり。
      本姓は李。



※805年(延暦24年)に岡原真人の姓氏を賜った事例があった。



オカハラ 岳原 沖縄県那覇市、沖縄県中頭郡読谷村。琉球音はウカバル。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時34分47秒 ) パスワード

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C%E3%80%80%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%80%80%E5%B2%A1%E5%8E%9F%E3%80%80%E3%81%AF


[PDF]の系族 祖父渡辺監物儀三州田原之城主戸田三郎右衛門間院一 ...

渡辺氏は瑳域源氏だから、始祖の融に倣って名乗に一宇を通すことが一伝承していた。茂睡も皐 ... 戸田茂睡翁伝〉「寛政重修諸家譜」を見ると、本多氏は、千姫と婚姻した、忠務大輔忠刻以来その相続関係 ...... つまり、戸田氏は彼らが藤原氏に連 ... 戸田氏系図に始祖宗光明応の始営ニ参州岡原城→(略)、戸田村太平寺の古位牌に特宕全久大禅.


三河の岡原城   戸田氏?
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時45分28秒 ) パスワード

戸田氏を調べました。


      戸田氏はいろいろあって

      家康の異父妹の家?ということで三つ葉葵紋が許されていたそうです。



中世の三河戸田氏[編集]

尾張国海部郡の戸田荘を支配したとみられ、鎌倉時代の建保年間には、戸田十郎信義が御家人として同地の地頭となった旨が当時の記録から確認できる。

南北朝時代は戸田弾正忠宗忠という武将が、南朝に属して信濃宮宗良親王に供奉し、信濃を転戦したという記録が残されている。

その後、宗忠は族党を率いて信濃国大河内城を出て、尾張国海部郡に至ったとあり、旧領に帰参したものと考えられる。

室町時代は幕府政所執事の伊勢氏の被官であった豪族として確認されている。
ただしこれらの戸田姓の人物と後代の戸田氏の系譜関係は不明である[5]。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 13時53分52秒 ) パスワード

   @家系譜における初代は松島右衛門源宗忠で、この人の奥さんは藤原智常
の娘となっております。
    この藤原智常は神主で岡原河内守となっております。


    レス49の  厳島神社改築  神主岡原河内守藤原智常
      http://e-ainan.net/sonshi/nenpyou/nen/nenpyou.htm




この人物について愛媛県の宇和島?または松山に問い合わせてはいかがでしょう?

「松島氏」の関係者なんですから堂々と尋ねられます。


      初代は松島右衛門源宗忠で、
      この人の奥さんは藤原智常の娘


どういう関係なんでしょう?
松島宗忠さんのところへ伊予からお嫁入り?

神主がらみ?
どの神社関係? 



また戸田氏の戸田弾正忠宗忠という名前との関連も不思議です。
南朝方つながりで?


読めば読むほど迷路に入り込みますね。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月02日 17時32分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしても、明朝7時半に源長院から出発となりました。いろいろな
情報が入ると思いますので、帰宅後にまとめて報告いたします。

 願わくば、諏訪の松島氏と伊那の松島氏が同族系であれば分かりやすいの
ですが、そうはなかなかいかないでしょう・・・。

 例え一つの疑問の消去でも、進歩は進歩です・・・。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月02日 22時16分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

明日は楽しい遠足ですね。
お天気だと良いですね。



たくさん収穫が有ると良いのですが。
ご報告をお待ちしております。


神主さんの岡原河内守藤原智常については厳島神社に問い合わせるという手もありますね。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月04日 07時46分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、片道3時間、距離にして片道180キロ、151号線を主に一部
高速を使い、伊那箕輪町松島まで、М氏と探索ドライブに行ってまいりまし
た。
 天気は五月晴れ、空気も気持ちよく、新緑の中、信州では芝桜のピンクと
白が所どころで鮮烈な美しさを誇っていました。

 箕輪町役場の駐車場の南端に松島城址の記念碑が建てられていました。ま
た、役場のすぐ西側にフェンスで囲まれた墓がありました。

 本日はこれから用事がありますので、一旦中断いたしますが、いずれにい
たしましても、昨晩は松島氏の出自と経緯について必死に推理をいたしてお
りました。そして、やっと自分なりにストーリーが読めて来た感じになりま
した。その辺のことも帰って来てからお伝えいたします。推理の役に立った
のは、あを様よりいただいた小笠原氏の系図です。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月04日 08時28分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい!
ご無事で何よりでした。
片道3時間ですか。
すごく遠い所なんですねえ。
もっと近いかと思いました。

昔はものすごく時間がかかったんでしょうね。


どんな展開でしょうか?わくわくドキドキしております。
早く知りたいです。


ではでは
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月04日 09時02分54秒 ) パスワード

続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101443.html

切りの良いところで  XXXVII(M氏家譜 2)
にお願い致します。
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