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 投稿番号:101443 投稿日:2015年05月01日 13時51分15秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]Z(M氏家譜2)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]]]Y」からの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月04日 09時04分20秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101440_60.html
スレッド XXXVI (M氏家譜)の続きです。

新たな気分で頑張りましょう。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月04日 10時43分09秒 ) パスワード

天方氏系図

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/amakata.html


1番下をご覧ください。



なんと青山忠成の妻が!天方氏の娘です。



同じ青山氏でも服部家から青山氏に養子に行ったのが青山 成重。


青山成重は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。江戸幕府老中。
服部氏の一門・服部正信(平蔵)の次男。  ←ココ
母は青山忠教の娘。正室は常岡当自の娘。子は成次(長男)、娘(浅羽幸正室)。
兄に服部正尚。七右衛門。図書助。


覚えていらっしゃいますか?
服部平蔵って誰?
    半蔵の父らしいけど。  ⇔  正しくは半蔵の父ではなかったですね。一族だけど。

    服部平蔵は半蔵の父保長の弟の子。つまり甥。
    だから服部半蔵と平蔵は従兄弟関係でした。

        だから、宇治田原にいた、んですね。

        ということは呉服明神の服部貞信とはツーツーの間柄で両者宇治田原で待ってたんでしょうね。



天方氏と青山氏の関係で服部平蔵がちょっと姿を見せた、というわけですね。
さすが忍者!


あんなに捜していた服部平蔵が服部正信のこと!だったとは。驚


やっぱり天方氏と服部半蔵は家康の子の信康がらみで仲が良かったんでしょうね。    
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月04日 11時16分37秒 ) パスワード

いよいよヒバリさんの家との関係が気になって来ました。


ヒバリさんの家は鎌倉時代の服部伊賀守がらみ。
戦国時代にあっては遠い遠い場所でも昔の関係を頼って情報収集をしてたのは当たり前。


織田家や家康の家が武田や上杉の情報を得たかったのは当たり前。
武田や上杉の情報を得るにはヒバリさんの家の協力は不可欠。


M家も当然情報を得ていたでしょうね?


     ヒバリさんの言う「鎌倉時代の服部伊賀守」というのが
     どの鎌倉時代なのか?

     南北朝の時代の服部伊賀守宗純なら非常に座りが良いのですが。
     ここに拘っています。


はやくレスを拝見したいです。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月05日 01時08分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遅くなりました。
 まずは、あを様よりいただいた源満仲を祖とする小笠原氏の系図にからんで、
いろいろな発見がありましたことお伝えいたします。
 @満仲より数えて8代目の小笠原長清が松島氏の祖のようです。
 A長清より数えて7代目の小笠原長親が服部(麻績)氏の祖のようです。
 B長清より数えて11代目の小笠原持長が松島信久の祖のようです。
 C長清より数えて16代目の長時が武田信玄に敗れております。
 D  同    17代目の貞慶が家康に仕えております。
 E  同    18代目の秀政も家康も仕え、古河3万石、信康の娘を
  妻としております。
 F長清より数えて19代目の忠脩は家康の曾孫松平忠脩であります。松本
  城主。
 その他、
 G大草氏は小笠原氏を祖としています。
 H市野氏は「丸に一文字」であります。
 I市野氏は1600年に、浜名十郡の代官となっています。
 J市野氏の妹を松島宗吉は妻としています。
 K松島宗吉はこの時期に羽鳥村の庄屋になっております。
 L松島氏の家紋は「丸に一文字」であります。
ざっとこんなところであります。  
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 01時58分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


もう失神寸前!
両手が固まってます。


もうもう只々失神しそう。


やっぱり名家は名家でぐるぐる関係が出来ているのですね。
あとは三つ柏さんのお家がどうM家と関係するのか、いつ時代に?

そしたら  平氏で丸に三つ柏紋で旗本の服部家  がみつかりそう。


かなり迫りましたね。
もうショックで失語状態。
何もコメントが出来ないほどの驚きであります。


もう手と腕がガタガタ。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 02時03分02秒 ) パスワード

背筋がゾクゾクして右手でクリック出来ないし


ひょっとして  ヒバリさんのお家が鍵かも知れないの?  と思い始めましたし。


やっぱり東筑摩の麻績村にも行かなきゃ、ですね。


小笠原家との関係の部分をヒバリさんのスレッドにもコピペさせて頂きます。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 03時03分21秒 ) パスワード

天方氏で関係する常岡氏と服部家の関係を捜しているのですが


その前に服部中保次の家と小栗家の関係が出ました。

   服部中保次の長男系で分家の保高
     服部保高  忠右衛門・七兵衛    = 服部三右衛門保久の次男
     200石で分家した家
     采地を下総国豊田郡に移された人。

     保高の妻が小栗仁右衛門信政の娘でした。


遠江でも小栗家と関係があっても不思議じゃないですね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 03時31分39秒 ) パスワード

服部貞信の子  貞富
 
              世田谷の赤堤の人です

              妻は太田彦左衛門清政の娘




貞富の子       貞常    大昇進の人    1600石取りに

             妻は  加賀美才兵衛正光の娘




貞常の弟      貞良    は永井信濃守尚政の家臣になる




この貞信の家の子孫の妻の家は


          藤堂勝兵御良明の娘
          諏訪七左衛門頼均の娘

          酒井飛騨守忠香の養女
          戸田土佐守氏朋の娘

          長谷川三十郎藤良の娘
          大久保庄右衛門忠許の娘
          

子孫の娘が小笠原源四郎貞晃の妻になっていたり 
        細井安芸守勝為の妻   同上
        板倉市之丞勝春の妻   同上
        大岡淡路守忠主の妻   同上

     

常岡というのをどこかで見たような気がしますが見つかりませんでした。

[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月05日 10時21分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貴重な史料、新たなる発見ありがとうございます。一言一句を完全解読し
たいと思います。

 私の方の筆が進まないのは、信濃の歴史が余りにもややこしくて、頭の中
が渾沌としていて論理が一貫しては組み立てられないからでした。この二日
間でかなり整理できてきました。それもこれもあを様より送られた小笠原氏
の系図があったればこそで、これがなかったらまだまだ渾沌としていたでし
ょう。

 袋井の久野城に、なぜ高遠城から持って来たコヒガン桜が植えられていた
のか、ようやくわかりました。
 久野城は高天神城の橋頭堡ともいえる難攻不落の出城で、高天神城と一体
といってもいい存在でした。高天神城はこれを制する者は遠江を制すといわ
れた戦略上の最重要ポイントでした。

 一方の高遠城も伊那にあって信濃を制するための最重要ポイントでした。
 高遠城は仁科五郎盛信(武田信玄五男)の壮絶な死とともに、1582年織
田軍により落城、3000人が討死したといわれています。

 高天神城は今川方から徳川方へ、そして徳川方から武田方に落ち、さらに
また徳川方が1581年に奪還、この時は兵糧攻め等で武田軍の大半が餓死、
最後に残った688人が討って出て討死したといったような壮絶な戦いが繰
り返されました。そしてあの大河内氏の岩窟での投獄の悲話・美談も生みま
した。

 まさに南信濃の高遠城 vs.遠江の高天神城といった構図であります。
 従って、高遠城の濃いピンクのコヒガン桜が久野城に植えられたというこ
とは、赤い血を流して亡くなった武者の霊に、悲しみの心と熱くたぎる祈り
の心をコヒガンザクラに託したということではないでしょうか。高天神城に
もひょっとしたら植えられているかもしれません。今度行った時に調べてみ
ます。

 さて、前置きが長くなりましたが、「小笠原氏」というキーワードでかな
りのものがつながります。松島豊前守信久等8人が狐島で斬首されてより、1554年に伊那の松尾城が陥落すると、小笠原長時と溝口氏が遠州高天神
城へ逃げたとあります。たぶんこの時に松島氏の一族郎党も一緒に動いたと
思われます。高天神城には、長時より15代目の小笠原長高が城主になり、
1574年に開城した長忠まで4代が城を守っています。正に濃い関係の血
族であります。
 これが松島氏が伊那から来たという状況証拠であります。

 家紋については、絶対的法則がありませんので、確証はありませんが、松
島氏の「丸に一文字」は市野氏と同じということが気になっております。また、
小笠原氏が「丸に三文字」を使っていたという記述があります。「丸に一文字」
を使っていたかどうかは更に調べたいと思います。里見氏は「丸に一つ引」、
新田氏は白黒逆の「丸に一つ引(新田引)」でありますので、この辺がごちゃごちゃになっている可能性もあります。現に個々の松島氏の家紋は「丸に一文字」、累代の墓には一文字でなく、変形の「一つ引き」となっておりました。

 松島氏の出自についても三つ位の説があり、惑わされてしまいます。小笠原
氏説、諏訪氏系千野氏説、佐久の海野説・・・どれが本当なんでしょうか。
 
 伊那の箕輪町松島での収穫は期待する程にはなかったというのが実情でした
が、いわゆる土地勘がインプットされたのと、松島氏とも小笠原氏ともいわれ
る墓を見て、自分自身の心の納得がある程度できたという効果はありました。
ただ、残念だったのは、郷土博物館が休みだったことで話が訊けなかったこと。
たたし、電話番号を聞いて来たので本日電話して訊いてみます。
 いずれにしても、松島城城址の片隅にある松島氏の墓の前で、深く心より
般若心経を唱えることは忘れませんでした。
 そして、帰りには信州そばを食することも忘れませんでした。

 本日は、浜松博物館へ行き、太田氏文書の確認をすることと、中央図書館に
松島家文書384点があるというので、それを確認したいと思っております。

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 13時16分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


小笠原氏の歴史はゴチャゴチャしてて本当に自分自身の脳による組み立てがなかなか出来ないですね。
名前が皆さん「長」から始まっていたりしますし

   アタマが爆発しそうになります。


高遠城は3000人が亡くなっているんですか。
恐ろしくなります。


高天神城の悲劇も有名ですよね。


そういう血で血を洗う過去があったから尚のこと
仲間同士で結束するんですね。
人間社会の基本ですね。


    今は平和で豊かだから、過去の血や涙は無視で婚姻しますが。


家紋はバリエーションがいろいろあって、使う人の美意識もあったりして、微妙に変化するんでしょうね。
家紋は難しいです。
呼び名もいろいろですしね。


>松島氏の出自についても三つ位の説があり、惑わされてしまいます。
>小笠原氏説、諏訪氏系千野氏説、佐久の海野説・・・どれが本当なんでしょうか。

松島という地名がいつからなのか、それが分かると良いですね。
役場で教えてくれると良いですね。

            と、無難なレスをしておきます。
 
人間のことはスパッとは切れないし語れないし裏切り裏切られがあったし。
とにかく資料を頂けると良いですね。


>松島家文書384点があるというので、それを確認したいと思っております。

すごいですね
その中に松島氏の家の記録があると良いですね。

[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月05日 22時54分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部正信の祖父正光(政秀)の妻が千秋式部少輔某の娘ということで、新た
な選択枝が出てまいりました。
 服部中保次の長男保正の三男保久の次男保高の妻が小栗仁右衛門信政の娘
ということで、ますます近い存在に感じられます。
 いずれにしても今後の探究課題になりました。

 今、少し眠気が襲ってきました。思考能力が鈍って来ておりますので、本
日の成果だけ報告して終わりにいたします。

 @箕輪町の郷土博物館に電話いたしましたところ、松島氏に関する資料は
『箕輪町史』に載っているとのこと。それは現地の図書館ででコピーしまし
たと言いましたところ、明音寺に関連の資料が少しあるのでコピーを送りま
すとのこと。
 A浜松市博物館に行き、原島太田家文書の一覧表を見せてもらい、一部コ
ピーをしていただきました。
 B中央図書館にて、松島家文書の一覧表をいただきました。また、松島家
文書の展覧会のレジメを一冊いただきました。
 いずれも真摯にまた親切に対応していただき、感謝、感謝です。
 これらについては、内容的にはよく目を通してから報告いたします。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月05日 22時57分22秒 ) パスワード

http://ringonohanatoryu.blogspot.com/


このブログ、ものすごく長くて、読むのも大変
内容も情報が多過ぎて、ワケ分からなくなりますが


2015年4月11日土曜日
島津忠直

からが信濃の話になって行くと思います。


出だし:
 本能寺の変後松本以北の悉く上杉勢の支配下に置かれた為、貞慶が深志城に入っても、会田・青柳・麻績の帰属は不確かなものであった。


    麻績の悲劇いついてエンエンと書かれています。
    服部氏が追い出され、青柳が入ってからの話です。

    エンエンと続きます。


お暇な時に。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月06日 15時45分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日のとりあえずの報告として、菊川の堀田城址(松下城址)に行ってきま
した。
 一つ嬉しい発見がありました。それは服部家の墓でした。服部の墓はたいて
いがそうでありますが、全体の中でたった一つだけです。それもめったにあり
ません。
 ま、今回は運よく巡り合いました。家紋は伊賀上野の寺で見た、百地系の
家紋でした。
 さっそく般若心経を一巻捧げました。
 堀田城は松下之綱が城主だったことがあり、松下城とも言われています。
 お墓には、松下氏の墓がやはり一つありました。家紋は四目結でした。

 用事のため、一旦切ります。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月06日 19時32分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここのお寺の名前は「正法寺」といいます。前レスの松下氏の墓は一つで
したが、家紋は「丸に隅立て四つ目」でした。
 あと青山氏の墓があり、「丸に蔦(つた)」、水野氏と花井氏が「丸に立ち
沢瀉(おもだか)」でありました。成瀬氏もありましたが、写真を撮るのを忘
れました。
 それと驚いたのが、夏目氏の墓であります。数が多く、それも立派なもの
がいくつも並び、おまけに家紋は「丸に三つ柏」でありました。
 
 このお寺の裏側が堀田城祉(小笠原長清-時長の後裔、堀内氏が構築した)で
あります。結構急な坂を上りまして、高天神城の半分位の高さでしょうか。
石積みは全く見られず、本当の山城という感じ。頂上には今は秋葉権現が祀
られておりました。

 そうそう、忘れておりました。墓地には小笠原氏の墓が1つありました。
家紋は「丸に五三桐」でございました。

 高天神城址と馬伏塚城址には行きたかったけれど、時間的制限があり、行け
ませんでした。

 
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月06日 20時28分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日入手しました資料について、少し説明をさせていただきます。

 「『原島村太田家文書目録』によりますと、この文書は、近世の浜松藩
領原島(バラジマ)村で組頭をつとめた太田清兵衛の家に伝わった文書群で
す。この中には、元治2年(慶応元年)の原島村の村方騒動関係書類や、太
田清兵衛にあてた下堀村竹山平左衛門の書簡など、幕末の地域社会の情勢
を考える上で貴重な資料を認めることができます。」
と説明書きがありました。十五ページ位の目録でしたが、初めの5ページ
のみコピーしていただきました。必要な時にはまた博物館へ行けば見られ
るということですので。

 『松島家資料目録』もやはり15ページの小冊子であります。表紙裏に
「羽鳥村の庄屋役を勤めた松島家の初代源右衛門忠吉が、この地に土着し
たのは室町末期、現当主は13代目に当たります。
 この資料には、和歌を嗜み、国学を研究した8代目松島茂岡(良司)の詠
草・国学関係の筆写本・版本などが多く、国学者として名声を馳せた高林
方朗(みちあきら)・石原村小栗直助らの書簡も見られます。また石川依平・
石塚龍麿などとも親交関係にあった事がうかがえます。この他、明治期の
浜松俳壇に大きな影響を及ぼした松島十湖関係資料、霞城の俳号をもつ
11代目松島格太郎、笠井新田の大木隋処らの作品、羽鳥村立報徳社が
解社に至るまでの顛末、地主制の変遷、明治期の教科書など多岐に亘って
おさめられております。」
と説明書きに書かれておりました。

 そして、この目録の完成を機会に、収録された文書類を展示したときの
説明レジュメが『松島家資料展(平成元年6月27日〜8月30日)』で
あります。その中の松島家の歴史の中で―
「3代目の忠兵衛常茂のころになると財政的にも豊かになり、源長院へ本堂
や仏具、田畑などを寄進するまでになった。4代目清八郎宗雄は清八川原な
どの新田開発に努力した。
 4代、5代の忠次郎茂広の妻はいずれも白羽村(竜洋)の山下家から迎えて
いる。また、7代目の忠兵衛宗術の妻は、笠井村の独礼庄屋であった山下家
から迎えるなど、遠州地方の名家との結びつきがみられた。」
とあります。

 この松島家と十湖の松島家は今は親戚関係にないようですが、源長院を
コアとしてまとまって来た同族とみられます。そこを今探究しておる訳で
すが・・・。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月06日 22時09分29秒 ) パスワード

三つ柏さん


>菊川の堀田城址(松下城址)に行ってきました。
>服部家の墓
    家紋は伊賀上野の寺で見た、百地系の家紋
>さっそく般若心経を一巻捧げました。
>松下氏の墓
    家紋は四目結でした。


般若心経を唱えてあげることが出来て良かったです。

ここの松下氏と服部氏の関係は何だったんでしょうね?
とりあえず、松下家と服部家は関係があったらしい、ですね。

この先、遠江の松下氏は服部家の家紋に変わるんですよね。


    この先に今の松下家と服部家の関係が確立していくのでしょうかねえ。
    ワクワクしますね。


    もう1歩で現在の松下家 ⇔ 服部家との関係の証拠となるお墓に出遭いそうですね。


良かった〜   

   
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月06日 22時26分49秒 ) パスワード

レス14


>「正法寺」の松下氏の墓   家紋は「丸に隅立て四つ目」

いわゆる松下氏系ですね。


>青山氏の墓  「丸に蔦(つた)」


青山氏は「無地銭」と「葉菊」らしいですね。

葉菊紋は服部氏も使用してますよね。



>水野氏と花井氏が「丸に立ち沢瀉(おもだか)」


水野氏の家紋  「沢瀉」  当然ですね。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mizuno.html

     水野氏の家紋は、沢瀉の下に水を添えた「水野沢瀉」が知られるが、『長倉追罰記』には
     「永楽の銭は三河国水野の紋」とみえ、室町期には「永楽通宝紋」だったことが知られる。
     しかし、水野家の「永楽通宝紋」は信長から与えられたとされているが、
      『長倉追罰記』に既に水野の紋として「永楽通宝紋」が記されていることからみても
      それはうなずけない説である。

      また『寛政重修諸家譜』には、
      水野氏の沢瀉紋の起こりについて「往昔は菊水に一文字を家紋とす。
      蔵人貞守出陣のとき、三河国鯉鮒明神の霊夢によりて、沢瀉を取り、笠・袖の験となし、
      その日の軍に勝利ありしかば、これより沢瀉にあらたむ」という。

      先に小河氏を称した小河の知多一円は、どこにも沢瀉が自生していて、
      そうした環境から沢瀉の紋章に、伝説が上乗せされたものであろう



花井氏の「沢瀉」の件は分かりません・・・



>それと驚いたのが、夏目氏の墓であります。数が多く、それも立派なものがいくつも並び、
>おまけに家紋は「丸に三つ柏」でありました。



     へえ〜
     夏目氏は松下家の親戚でしたよね?
 


>このお寺の裏側が堀田城祉(小笠原長清-時長の後裔、堀内氏が構築した)で
あります。

>結構急な坂を上りまして、高天神城の半分位の高さでしょうか。

意外でした。


高天神城ほどではないけれど、要害の城、と感じます。



>小笠原氏の墓    家紋は「丸に五三桐」

意外です。
拝領の紋なのかしら?



>高天神城址と馬伏塚城址には行きたかったけれど、時間的制限があり、行けませんでした。


近いうちに行けると良いですね。


今年のお盆までにいろいろ情報が集まると良いですね。
伯父さまの新盆に御一族の皆様といろいろなお話が交わせると良いですね。


良い情報を得たければ自分も提供しなくてはね。


かなり迫って来ましたね。
夏目氏の丸に三つ柏紋の情報が良かったですね。
親戚の親戚の親戚回りで結局は親戚ですものね。
戦国時代〜江戸時代には親戚付き合いをしてたのかもですね。
にっこり
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月06日 22時53分37秒 ) パスワード

なにか山下氏が大名になって行く松下氏と袂を分かった気持ちが分かったような気がします。
「うちは松下なんかと」
という「矜持」が。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 02時17分56秒 ) パスワード

山下氏について少々ネットで見たら
信濃の山下氏は木曽義仲の末裔などと出てました。



http://folklore.office-maeta.jp/805.htm



【新編日本姓氏辞典】千葉琢穂編著 展望社 より
# 清和源氏為義流。木曽義仲の後裔の小市丸良綱が、信濃国奥郡山下郷に住し、山下をもって家号とす。
# 信濃国の山下氏は信濃国筑摩郡山下をルーツとし、木曽義仲の後裔。


【姓氏苗字事典】丸山浩一著・金園社刊 より
# 三河の山下氏は木曽義仲の流れの山下氏。
# 三河国額田郡山下をルーツとする山下氏は美濃の発祥。

その他
# 山の下(たもと)の意の地形姓。「山本」と「山下」は同様な意味。
# 清和源氏、宇多源氏、藤原氏などに見られる。
# 信濃の山下氏は信濃国筑摩郡山下(長野県木曽郡木曽町)をルーツとする。
# 清和源氏_武田氏、木曽氏が源流のものが有名。鹿児島など九州南部に多い。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 02時29分52秒 ) パスワード

レス15:

    『松島家資料目録』
     表紙裏に
    「羽鳥村の庄屋役を勤めた松島家の初代源右衛門忠吉が、この地に土着したのは室町末期、
     現当主は13代目に当たります。
 
     この資料には、和歌を嗜み、国学を研究した8代目松島茂岡(良司)の詠草・国学関係の筆写本・版本などが多く、
     国学者として名声を馳せた高林方朗(みちあきら)・石原村小栗直助らの書簡も見られます。
     また石川依平・石塚龍麿などとも親交関係にあった事がうかがえます。
     この他、明治期の浜松俳壇に大きな影響を及ぼした松島十湖関係資料、
     霞城の俳号をもつ11代目松島格太郎、笠井新田の大木隋処らの作品、羽鳥村立報徳社が解社に至るまでの顛末、
     地主制の変遷、明治期の教科書など多岐に亘っておさめられております。」


これと同じことが山下氏にも言えますね。


復習
既出だと思いますが

http://lib.city.iwata.shizuoka.jp/iwata/chomei/yamasitamasahiko.html

磐田市立図書館
磐田の著名人


山下氏は  清和源氏  小笠原流  遠江山下家  ということのようですね。



山下 政彦(やました まさひこ)

1768(明和5)年〜1839(天保10)年
庄屋 国学者

豊田郡大当所(おおとうしょ)村(現磐田市大当所)に生まれる。
幼名を武助(たけすけ)、政定、正彦という。
家は代々大当所村の庄屋を務める。

                             今川時代は浜松の人
                             江戸時代には志都呂開発


初代政豊は1570(元亀1)年〜1592(天正20)年頃浜松に住み、
今川氏支配下の松下氏に仕えたが、
松下氏国替え後1603(慶長8)年には大当所に移り、この地を開墾し住んだ。

政彦は8代目庄屋として村政に努めた。
大当所地内の水田の耕地整理をし、農道や用水路を新しく作ったり、
山間の土地に田畑を作るために灌漑用のため池をつくる作業を始めるなど私財を投入して公共事業を行った。

また、大当所の領主である松平氏の命により、
祖父政明の代から行った志都呂(しとろ)村(現浜松市西区志都呂町)での浜名湖岸の埋立工事や新田開発を完成させた。



また、政彦は幼い頃から和歌や俳諧に親しみ、
1781(天明1)年に従兄である大谷(おおや)村(現浜松市天竜区大谷)の国学者内山真竜(うちやままたつ)に入門し
国学の研究にかかわった。


1789(寛政1)年には伊勢松阪の本居宣長(もとおりのりなが)に入門し、
和歌や古学を学んだ。


1803(享保3)年に出版された『東海道人物誌』(東海道品川宿から大津駅に至る53駅とその周辺の村々の文化人643人を紹介したもの)に「国学 和歌 名正彦 大当所山下武助」と紹介されている。


1819(文政2)年から領主松平厚信の侍講(古学の先生)となり、代官職も勤め、苗字帯刀を許された。


参考文献
•豊岡村史編さん委員会 『豊岡村史 通史編』 豊岡村 1991年
•豊岡村史編さん委員会 『豊岡村百話』 豊岡村 1996年
•豊岡村社会科資料づくり委員会 『私たちの豊岡村』 豊岡村教育委員会 1994年
•山下康一郎 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』 山下康一郎 1989年
•静岡県教育委員会 『郷土の発展に尽くした人々 上巻』 静岡県教育委員会 1981年
•大須賀陶山 『東海道人物誌』 羽衣出版 2008年
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 03時02分56秒 ) パスワード

レス20  と  レス21  から分かること:



つまり
遠江の山下氏は信濃から来た。

信濃に来た小笠原氏は元は甲斐源氏出身。
    (嫡流が武田で傍流が加賀美、その加賀美の傍流が小笠原氏)



      小笠原氏

      小笠原氏の祖の小笠原長清は、
      滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。

      長清は『平家物語』に「加賀美小次郎長清」の名で登場しており
      遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。


           南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。


      平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185年)に、
      信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、
      長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。


      なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である
     (現在では遠光ゆかりの寺院のみが、三階菱の中に「王」の文字を入れた原型を用いている)。



その後、小笠原氏は内訌が絶えず、グチャグチャに。
このあたりが、山下氏が遠江に南下した理由かも。

      
     
      詳しくは山下康一郎 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』 山下康一郎 1989年
      に書かれているわけで


      松島氏について考える上でも参考になると思います。





      信濃小笠原氏[続き]


      南北朝時代

      南北朝時代になると、信濃小笠原氏は北朝に属し、
      桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐した戦功で、
      室町時代には一族が幕府の奉公衆や信濃の守護となり活躍したが
      小笠原長秀が大塔合戦での敗北で守護職を罷免されるなど村上氏や諏訪氏などの有力国人の統制がうまくいかず、
      上杉氏や斯波氏に守護職を奪われ、強力な統治体制を整えることが出来なかった。


      戦国時代

      また、小笠原氏の内部においても内紛が絶えず、
      幕府の後ろ盾を得た信濃小笠原氏の小笠原政康(長秀の弟)が一時支配権を確立しそうになったが、
      嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺され、
      後ろ盾を失った政康が死去すると、
      信濃小笠原氏は長秀の子の持長(府中家)と政康の子の宗康、光康(松尾家)との間で内紛が再発し、
      さらに松尾家は宗康の系統(鈴岡家)と光康の系統(松尾家)に分裂、
      三家に分かれて抗争することとなる。



その後山下氏は松下氏に寄力した、
さらに
その後、松下氏と袂を分かった山下氏が磐田に定住。

こんな流れ?



>初代政豊は1570(元亀1)年〜1592(天正20)年頃浜松に住み、
>今川氏支配下の松下氏に仕えたが、


     この頃には今川家は衰退中ですね。
     今川義元は1560年に桶狭間で討ち死にしているんですから。

     とはいえ今川家は存続しています。


詳しい話は  山下家の記録  に書かれているわけですね。


山下家と内山家は江戸時代には親しかったかもですね。

内山家が家康にたてついて武士でなくなった経緯も知っていたでしょうし
内山家の歴史そのものに山下家の歴史が重なる部分が多かったでしょうし。


是非、山下康一郎氏の 『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』 山下康一郎 1989年  をお読みください。
[24]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月07日 08時08分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつもながら解説ありがとうございます。小笠原氏の複雑な関係、山下氏
の関係、松下氏の関係、内山氏の関係とその時代の背景があぶり出されて見
えて来ました。小笠原氏の存在は良くも悪くも大きかったものと思われます。
小笠原氏内部で三つに分かれて抗争ということで、誰が誰の味方になったのか
敵だったのか整理がつきませんね。その辺は勉強してみます。いずれにしても
甲斐、信濃から南へ下って来た流れがあることがわかったこと。松島氏もその
流れの中にいた可能性大であります。山下氏の『清和源氏小笠原流遠江山下
家系図』、探して読みたいと思います。

 松下氏の存在も、余りメジャーではありませんが、しっかりと影響力を発揮
しています。私が持っている『松下加兵衛と豊臣秀吉』(冨永公文著)をもう
一冊入手して送ります。太田家の叔母さんも知り合いのようで、著書二冊とも
持っているよと言っていました。これは松下家の末裔が実家筋に嫁に来たと
いうことによることの由縁からではなかろうかと推測しております。もう一つ
井伊家の関係も松下氏が大いに関係していますので、龍潭寺の住職の書いた
井伊家の本、その内に手に入れ送ります。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 10時40分14秒 ) パスワード

緊急
レス18書き直し

思い違いがありました。
お詫びいたします。

服部保長の関係で  竹山家からの嫁ではなかった  ので削除です。



レス15の件  削除の上  アップ。



太田家についてですね。


 
>「『原島村太田家文書目録』によりますと、
   この文書は、近世の浜松藩領原島(バラジマ)村で組頭をつとめた太田清兵衛の家に伝わった文書群です。


貴重なものですね。



>『松島家資料目録』もやはり15ページの小冊子であります。
  表紙裏に「羽鳥村の庄屋役を勤めた松島家の初代源右衛門忠吉が、
  この地に土着したのは室町末期、現当主は13代目に当たります。


つい数日前に頂いた資料の「松島氏家譜」と同じですね。
 
この松島氏の本家が分かると良いですね。

     戦国時代の前に長上羽鳥村に来た
     じゃ、その前の代はどこにいたのか?



   >松島十湖関係資料、霞城の俳号をもつ11代目松島格太郎、笠井新田の大木隋処らの作品、
   >羽鳥村立報徳社が解社に至るまでの顛末、
   >地主制の変遷、明治期の教科書など多岐に亘って おさめられております。」
   >と説明書きに書かれておりました。



松島十湖と関係のある松島氏文書なんでしょうか?
そうすると最近頂いた資料の松島氏と御親戚?


       そうすると武田に負けた伊那の松島氏とは遠い遠い一族?

       伊那の松島氏・分家の松島氏・そのホンヤになる本家の松島氏
       そして
       三つ柏さんの御親戚の松島氏

       この4つの松島氏のことが分かると良いですね。 



>『松島家資料展(平成元年6月27日〜8月30日)』
>「3代目の忠兵衛常茂のころになると財政的にも豊かになり、源長院へ本堂
や仏具、田畑などを寄進するまでになった。
> 4代目清八郎宗雄は清八川原などの新田開発に努力した。
> 4代、5代の忠次郎茂広の妻はいずれも白羽村(竜洋)の山下家から迎えて
いる。
>また、7代目の忠兵衛宗術の妻は、笠井村の独礼庄屋であった山下家から迎えるなど、
>遠州地方の名家との結びつきがみられた。」


山下氏との関係が分かりましたね。
資料にも書かれていました。

山下家はすごい名家ですもの
分家の松島家はその山下家と親戚になれる力を得た
ということですね。




>この松島家と十湖の松島家は<<<今は>>>親戚関係にないようですが、


   はい
   どういう関係だったのか知りたいですね

   この分家の松島家も源姓を名乗ってますから元々はちゃんとした武士の家だった
   ということです。

   本家の松島氏と分家の松島氏の関係が分かって
   さらに三つ柏さんの御親戚の松島氏との関係が分かると良いですね。



>源長院をコアとしてまとまって来た同族とみられます。そこを今探究しておる訳ですが・・・。


   はい
   源長院の檀家さんとお知り合いになれると良いですね。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 11時16分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


夫の受診から帰宅しました。


>小笠原氏の複雑な関係、


     複雑過ぎ〜

     山下さんの本を読まないと我々にはさっぱり理解できないでしょうね。
     本が手に入りますように。



>小笠原氏、山下氏、松下氏の関係、内山氏の関係とその時代の背景があぶり出されて見えて来ました。

     そして松島氏も。
     さらに服部氏。


     この6家がどう繋がってどう分かれたのか、
     山下氏と内山氏の関係も面白くなりましたね。

     みんな親戚なんでしょうね。


>小笠原氏の存在は良くも悪くも大きかったものと思われます。

     はい
     最初は鎌倉幕府がらみ  次に南北朝  ダメ押しで戦国時代

     信濃を治めるのは難しかったようで
     小笠原氏は信濃の古くからの武士の家に苛斂誅求だったかも。

         特に木曽義仲の残党がいたわけですから。

     戦国時代の川中島は、源平時代には横田河原の戦いがあった処ですから麻績は大変な目に遭ったのでしょうし。



>小笠原氏内部で三つに分かれて抗争ということで、誰が誰の味方になったのか
敵だったのか整理がつきませんね。

      はい、難し過ぎです。

      小笠原家だけでなく諏訪氏の中もいくつかに分かれて戦っていたのですから
      分裂した小笠原家と分裂した諏訪氏が、みんなそれぞれに手を組んで、
      もう、グチャグチャだったんでしょうね。

      昨日の友は今日の敵、皆殺しにする、
      そういう経験をしたなんて残酷過ぎますが
      そういう過酷な時代があって今の平和があるんだなあと
      般若心経を唱えてあげられないんが残念です。

              もう暗記出来ない・・・



>その辺は勉強してみます。

       頑張って整理してみてください。     
 



>松下氏の存在も、余りメジャーではありませんが、しっかりと影響力を発揮
しています。

       今川氏の凋落を体験しているだけに秀吉に拾われた時には充分学習して
       うまく世の中を泳がなくてはと諜報活動に頑張ったのでしょうね。

       そういう家の1つが柳生家だったりしたのでしょうね。
       本当にすごい時代を生き抜いたのですから。



>私が持っている『松下加兵衛と豊臣秀吉』(冨永公文著)をもう一冊入手して送ります。

手に入りましたら、よろしくお願いいたします。



>太田家の叔母さんも知り合いのようで、著書二冊とも持っているよと言っていました。
>これは松下家の末裔が実家筋に嫁に来たということによることの由縁からではなかろうかと推測しております。

皆さん親戚回りですね。


>もう一つ井伊家の関係も松下氏が大いに関係していますので、龍潭寺の住職の書いた井伊家の本、その内に手に入れ送ります。


ありがとうございます。

井伊家と松下家
龍潭寺

なんだか戦国時代にいるような感じがします。

そして三つ柏さんとわたくしも諜報活動をしているような気分になります。



松下氏は本当に戦国時代をよく生き抜いたと思います。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月07日 11時34分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部党の末裔としたら、時空を超えた諜報活動もDNAのなせる技かも
知れませんね。
 本日、公文さんに会えたら合って来ます。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 12時02分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


たった今、松島氏の家譜を拝見したところでございます。
ありがとうございました。


思ってたよりずっとスゴイ家だったようですね。


3家あって、1つ、残ったとは
よく頑張って伝えたものだと思います。


本家さんは絶えてしまったようですね。
この家の系図も消えてしまったのかもですね。
惜しいことです。


わたくしが頂いたコピーの元になる家譜は「手」が違うということで「書き継いで来た」ものということですね。
よくぞ「守ってきた」と感謝すらしてしまいます。



山下家もいくつか流れがあるようですね。
小笠原家の分家が遠江の名家中の名家として今にいたるも続いているとは
すごいですね。



幕末をうまく切り抜けて、でも、戦後70年
「自由で平等」な世の中になって
今は傍若無人の時代ですから

名家はひっそり息を潜めていらっしゃるんでしょうね。


でもちゃんと書き残しておいてくださらないと、いよいよ忘れ去られてしまいます。

内山家や山下家
そして松島家や太田家

旧家のお話を残しておいて欲しいです。


松島家のご当主の身長の記録はなかなか面白かったです。
やっぱり豪傑の家系だったんでしょうね。

幕末に剣術に打ち込んだご主人がいたなんて、なかなか、人間味に溢れてて
良いお話でした。


本当にありがとうございました。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月07日 16時37分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日冨永さんの事務所に行き、著書を分けてもらい、すぐにair-mailにて
送付しました。小冊子(『遠江井伊氏考察録』、及び『松下氏の三春への道』)
も入手できましたので同封しました。遅くとも10日以内には着くと思いま
す。
 
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月07日 20時47分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 冨永氏とは本日はすれ違いとなりましたが、近日中に会ってくれる約束を
いただきました。民間での松下一族研究の第一人者といっても過言ではない
でしょう。

 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月07日 22時46分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


ちょうど昨日「高橋英樹の井伊大老は悪い人にはあらず」という番組を見ました。


若い頃、おたかさんに送ったラブレターの紹介もありました。
好きでたまらない、という内容。

20歳の時に江戸へ弟と一緒に行って
ある家の養子になる話の面接で
選ばれたのは弟だった、そうです。


こうして大老になっていく運命があったのでしょうね。


直弼の弟:

内藤 政義(ないとう まさよし)は、日向延岡藩の第7代藩主。延岡藩内藤家宗家12代。
近江彦根藩主・井伊直中の十五男。井伊直弼(直中の十四男)の異母弟に当たる。

文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。
天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の三男)の招きで、
兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。

嗣子のいなかった延岡藩主内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。
その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。

なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。




松下氏の本も楽しみにお待ちします。
本当にありがとうございます。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 13時30分59秒 ) パスワード

M氏家譜を読み直しています。


M氏が神職になったのは   藤原智常の影響だったんじゃないかと   その項目を探している途中にあることに気づきました。


7ページというのでしょうか?
右側
   

     万治元年=1658年=生まれのM清八郎源宗雄さんの妻ですが
         白羽村  山下與左衛門さんの娘さん
                 紋章丸一  又  丸に三蓋菱

と書かれていますよね。

                 その後に延享元年=1744年=に亡くなっている



ということはM家の家紋は山下家からお嫁さんが来てから丸一になったの?
と思いました。


3ページ目の家紋の話は滝沢馬琴の南総里見八犬伝からの写しですから
もっと後の時代に書き加えられた
ということになります。

   第7輯は    天保元年(1830年)  に出版されていますから
   書き足されたのは1830年以降になりますから

   書き足されたのは  山下家からいらっしゃったお嫁さんが亡くなって100年近く後のこと。



ということは  丸一  は元は山下家の家紋だった?

        山下家は他に  丸に三階菱  紋も使用してた?


     ということでしょうか?
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 13時48分58秒 ) パスワード

神主になったお話は

4ページ目でした。

    南総里見八犬伝に出ている家紋の話の紹介が右側にあります。


対助さんが養子になったものの、実子が生まれて、実家に戻って分家してもらった。
この時、財産を2分して、対等の家扱いしてもらった。

     忠兵衛宗吉を名乗った。
     中善地に?

     そして神職になった?

     妻は市野惣太夫の妹の  薗  さん。(その)


     神職になったのは中善地?
     中善地の神社って?
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時07分39秒 ) パスワード

M家の清八郎源宗雄さんと山下家から来た嫁さんに子供が5人生まれて?


       次男(第5子)が松島清右衛門の先祖になった?


享保14年=1729年=の人別帳によると譜代・下人共 =奉公人のこと= 43人 有り
と書かれている。



譜第(ふだい・譜代)

父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。

また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。


なお、中世以後には譜代という表記も用いられた。


江戸幕府においては、
関ヶ原の戦い以前から徳川氏(松平氏)に仕えて大名に列した者を譜代大名、
それ以後に徳川氏に臣従した大名(外様大名)と区別した。

また、諸藩においても家臣の出仕時期による譜代・外様の別、譜代の区分が存在した。


   このことですね
       ↓

農村においても本百姓に隷属する譜代下人(譜代奉公人)と呼ばれる人々が存在していた。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時10分47秒 ) パスワード

次の代の  源茂廣さんのお嫁さんも  山下家から来ていて
                      家紋は丸一  となってますね。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時26分10秒 ) パスワード

安養寺    浜松市東区市野町1731番地  

安養寺は松島家と関わりのあるお寺さんのようです。

    是非行ってみてくださいね。 




M波次郎さんは浜松田町で漆器商人  市川安平さん  の養子になっています。市川安吉と改名。


M寛十郎さんは明治24年に豊田郡豊田村常光に分家しています。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時27分17秒 ) パスワード

で、結局、捜していた  藤原智常  って書き込みがどこにあるか分からないです。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時41分21秒 ) パスワード

奉公人が43人いたって、すごいですね。



イランの亡命王妃  ファラさんがイラン時代   自分専用の奉公人が60人だと言ってました。

   10年ぐらい前に聞いた時は  4人  だって言ってたような。
    その時、ファラ王妃は  ニューヨークに住んでました。  今も?



どういう形の奉公人か今の時代のわたくしには想像もつきませんが
隷属ということは「財産」ということでしょうね。
 
古代で言うと   奴婢みたいな?   
ロシアで言うと  農奴?


分からないですね、ホンヤさんにでもお尋ねしないと、分からないです。



参考

商家の場合

中世以降、商業が活発になると譜代下人などの形態も見られるようになる。

下人の雇用形態は、江戸時代にはいると年季奉公などが主流になるも、
親が世話になった商家に子が丁稚奉公に入るなど、譜第的な労働形態も存在した。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 14時57分32秒 ) パスワード

源長院
安養寺


宗安寺
053-434-2200
静岡県浜松市東区市野町167−1


永心寺[ 寺院 ]
053-421-5979
静岡県浜松市東区市野町1949

も尋ねてみてくださいね。



市野って
市野惣太夫がここの出身ということでしょうか?


そして市野は半蔵の采地でしたよね?
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月08日 15時25分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日はJOB-DAY。『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』ある図書館にある
という情報を得ましたので、できるだけ早く行ってみます。

 当方の永井家の一番古そうな墓にある家紋は「一文字に三つ星」でした。
昨日確認。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 21時48分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』ある図書館にあるという情報を得ましたので、できるだけ早く行ってみます。

良かった!

この中になぜ遠江に下ったのか?
また松島氏と親戚になった理由が書かれていると良いですね。


山下家の南下理由が分かれば松島氏のおおよそのところも想像がつくかも、です。





永井氏の家紋

   http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html

 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、
   室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。



一文字に三つ星紋/永井梨切口紋/石持地抜き唐梨紋


 そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、
  唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。

  唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口 」という。
  鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。


     分家のことですね
       ↓

  そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。

  三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、
  唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。
  さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。


 いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 22時04分38秒 ) パスワード

やはり清八郎宗雄さん(万治元年  1658年 〜 元文5年 1740年)が山下家から嫁を迎えて
丸一紋になったと思います。




この人の子に戒名が  蔭山直涼首座  という人物がいます。

                   安養寺前住

                          前の住職という意味でしょうか?

                          とっても偉い人だったのかなと思います。

                          安養寺さん、チェックです!


僧侶の場合は、「道号、戒名」のように表されることが多く、
大和尚・和尚(力生)、首座(座元)、上座はなど位階と呼ばれるものは自らは名乗らない。

没後に住職ならば「○○寺○○世△△□□大和尚」(住職寺院では○○寺ではなく當山と呼び換える)、
その他の場合は道号戒名に各位階が諡られる形を取る。

(稀に、高和尚という謚号が諡られることがある)



座元とは
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%BA%C2%B8%B5

【定義】

首座、第一座のこと。

僧堂内の座位が元首であることから、座元という。


現在の日本曹洞宗では、出家得度し、立身した者の法階を指して「座元(ざげん)」と呼ぶが、
これは『曹洞宗宗制』「曹洞宗僧侶教師分限規定」によって定めるところである。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月08日 22時18分21秒 ) パスワード

財産を2等分して分家した源(忠兵衛)宗吉=対助さん=の件ですが

    養子先に子供が生まれて実家に帰された
    そして
    市野惣太夫の妹を妻とした



多分、M氏のなかで、この対助さんへの慰謝料について大変な争いがあったのでは?と思います。
その結果が財産を2等分することで収まったのでは?と。


その理由は
・実子が生まれた     対助さんにとってマイナス要因
・その実子は後妻の子   対助さんにとってはプラス要因


後妻を迎えるという話は「約束違反」だったのでは?と。

こんなところから財産を2等分することになって対助さんは「対等独立」を果たしたのでしょうか?
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 13時10分44秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101446_17.html
レスXXXVIIIの[11] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月09日 12時10分04秒 )

            重複分



 松島家については、信濃からいつ、誰と下って来たのかがよくわかりませ
んが、
  松島信久が処刑され、また松尾城の光康が遠江守でもありましたので、
  その頃に遠江へ逃避してきた可能性があると思いました。


 市野氏も信濃で戦っていたことがあり、また丸に一文字であります。
 山下氏も信濃の出身で丸に一文字(?)。

 両家にはさまれる形で、家紋も一族化・一元化したのでありましょうか。
 小笠原氏は三階菱か五三桐(いろいろな派に分裂しているので疑問。
  また、 小笠原一文字という表現についてはよくわからないのですが)。



対助が庄屋になるのは1600年頃ですので、惣太夫およそ50才頃かと思われます。
代官より庄屋に指名されたということが、義弟となればますます信憑性を増します。


松島十湖の系統は、この対助の実家であり、
財産を2分した時に源右衛門を源左衛門(本家)と変えたのではないでしょうか。

またその時には源左衛門に実子ができていた。
本家を源左衛門、対助の分家の祖を源右衛門(本来的には本家筋の名)にしたのではないか。
どうでしょうかこの推理は?

 これからいろいろ調査にでかけます。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 13時17分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしも松島十湖の実家について考えていたところでした。


M氏家譜の最初に出ているM氏の家紋は何だったのでしょうね?
M家の家紋が丸一なのは一体どこからなのか
イヨイヨ分からなくなりました。

アリ地獄に落ちた感じです。


もともとM家も山下家も市野家も(ひょっとすると服部家も?)みんな信濃絡みなのかしら?
などと妄想に捉われてワケ分からなくなって行きます。


こういう時はアタマの中を空っぽにせねば。


貴重なお休みです。
調査、頑張ってください。

    この1年、ものすごく充実していますね。
    にっこり
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月09日 19時33分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おかげさまで、本日の午後は大変収穫の多い半日となりましたこと、まず
はご報告申し上げます。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月09日 20時53分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日の収穫について、箇条書きします。

 @冨永氏とアポが取れ、明日会えることになったこと。
 AM氏と会い、寺の落慶記念誌及び代々の戒名のコピーをいただいたこと。
 B清和源氏小笠原流遠江山下家系図のコピーができたこと。

 AとBについては、あを様の推理の正しさを裏付ける資料となりそうです。
具体的には、次のレスで整理して書きます。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月09日 21時14分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

収穫が3つもあってラッキーでした。
にっこり


   AM氏と会い、寺の落慶記念誌及び代々の戒名のコピーをいただいたこと。

         M氏家譜と突き合わせられますね。


   B清和源氏小笠原流遠江山下家系図のコピーができたこと。

         丸一紋はどこから使うようになったのでしょうね。
         三階菱紋は清和源氏小笠原氏なら当然だと思いますが。

           永享7年=1435年=には「対外的には本名」で足利方に参加した、「正式だった」ということですね。

           でも小笠原一族が一堂に集まる時は  
            小笠原一族の中では分家になるので本家に遠慮して  丸一紋使用  だったのかな?と。

               空想は翼が生えて楽しいですね。
               ただし墜落もありますが。


では楽しみにお待ちしております。            
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 03時59分14秒 ) パスワード

1435年の長倉追罰には遠江小笠原氏も参加。
つまりその前に信濃から遠江に来ていた。

                    この辺りに替え紋の丸に一文字紋?





宝徳3年=1451年=M氏忠兵衛源宗茂さん誕生。
                    羽鳥村に分家を建てる。


           先代の父であるM氏右衛門尉源宗忠さんの若い時代に長倉追罰が行われた?




遠江小笠原家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E8%88%88


小笠原 信興(おがさわら のぶおき)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。



遠江高天神城主。                         M氏家譜にもヒトコト書かれてましたよね

                                 M氏の謎を解く鍵かも

                                 対助さんの父親や祖父の時代の秘密?




「長忠」の名で知られるが、
これは軍記物においてのみ見られる呼称で、初名は氏助で後に信興と改名している。



生涯[編集]

信濃国小笠原氏の庶流である遠江国高天神小笠原氏の出身。

高天神小笠原氏は小笠原春義(春茂)の代に、
当時の高天神城主であった福島氏が花倉の乱で没落したのと入れ替わりに駿河国今川氏の家臣として台頭した一族である。


                            この小笠原家の名前の漢字を見ていると
                            M家の当主の名前の漢字に通じるものを感じますよね。



春茂の「春」の字は福島氏の通字であるが、
以降の当主は今川氏の通字である「氏」を授与され、一門衆に準じて遇された。



信興は、春義の孫にあたる。

父の氏興は今川氏の家臣として仕えていた。
信興の初名は「氏助」で、「氏」の通字を親子続けて授与されており、
「助」は小笠原氏の通字であると考えられている。


今川義元とその子である今川氏真に仕えるが、
永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄による駿河侵攻により今川氏が没落すると、
遠江国の支配を今川氏から奪った三河国の徳川家康に属し、
武田領国となった駿河との最前線にあたる高天神城主となる。

永禄12年(1569年)に家督を継ぐ(竜泉院文書)。


家康に仕えてから、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなどに参加して武功を挙げた。
元亀2年(1571年)3月の武田氏の大規模な遠江・三河侵攻では武田方が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、
信興はわずかな兵力で籠城し、一旦は武田軍を撃退した。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも参加している。


天正2年(1574年)6月、武田勝頼が大軍を率いて再び高天神城に攻めて来る。
このとき、信興は家康に援軍を要請したが、家康は武田軍を恐れて援軍を出さなかったため、
やむなく信興は勝頼に降伏した。

信興は駿河庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)において1万貫と国替されている。


高天神城主を離れて以降は駿河東部における動向が確認されるのみで文書には見られず、
天正2年(1574年)に勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている。

また、『北条記』によれば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、
北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。


別の資料では氏政の庇護を受けたものの、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、
過去の降伏の罪を咎められ処刑されたとされている。


その後は叔父の小笠原義頼が家督を相続した。



参考文献[編集]
黒田基樹「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究 第21号』(武田氏研究会、1999年)のち黒田基樹『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院、2001年)に収録
『寛政重修諸家譜 巻第1241』
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 06時34分52秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogasa_tk.html

高天神の小笠原氏。


文字化けで読めません。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 06時45分04秒 ) パスワード

http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/mamushizukajo.htm

馬伏塚城


コピペガードつき
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月10日 09時45分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろご教示ありがとうございます。すべてが基礎知識(基盤)となり、
歴史探究のパワーとなります。

 あを様の推理は、『清和源氏小笠原流遠江山下家系図』と一致しました。

 この系図について、昨日竜洋町(旧白羽)の図書館でコピーしましたが、
著作権保護のため、半分以下しかコピーできないということで、私は磐田
市民でないので借りることはできないけれど、市と市の間で貸し出しが可能
ということで、改めて浜松図書館側から借りて全文を手に入れたいと思いま
す。
 その内容は「衝撃的」で、脳内にエンドルフィンがぷわーっと湧き、ま
たアドレナリンも出てくるようで目がくわっと覚め、武者震いがします。
 それほどこの書は衝撃的というか、アメイジングな書でありました。
 あを様にも直接見てもらうのが一番いいと思いますので、近いうちに送
ります。
 ここで私のへたな解説を書くより直接見てもらった方がとは思いますが、
それまでの時間がかかり過ぎますので、結論だけ簡単にまとめまて記しま
す(細かく書き出すと1日以上かかり、長文になって、返ってわかりにくく
なりそうなので)。

 この書によってわかったこと―
 @清和天皇から始まり、孫の経基王の時に源氏姓を賜り、その8代後の
  遠光の時から小笠原を名乗るようになった。更にその11代後の政忠
  の時、1394年信濃から天竜川河口の豊田郡白羽村に住するように
  なり、山下家に養子として迎えられ、その後「山下姓」を名乗るよう
  になった。即ち、山下氏=小笠原氏である。

 長くなる予感・・・しょうがないですね。

 Aまた山下氏は大伴氏の末孫であるということです。大伴氏の祖は例の
 「藤原智常(千常)」を基として、「能直」、(六代)、「能成」、そして
  大伴氏となると解説されていました。
  即ち山下氏=大伴氏=藤原氏(智常)だったのです。これで、藤原智常
  との関係もわかりました!

 B大伴氏が何故白羽にということですが、ここは昔天竜川の中州で、官の
  牧場として使われていたということです(現に、駒場という地名も残って
  おり、海岸近くのイメージなので不似合いな地名と思っておりましたが)。
   当時、この牧場は大伴氏によって差配され、同氏が白羽の牧官を勤めて
  いたということです。その後、大伴氏の末裔の山下氏に代わって行った
  ということです。

 ここまでで推測できることは、松島氏は小笠原氏と同族で一緒に行動を共
にし、従って山下氏とも同族に近い関係になっていた、またその後婚姻を重
ねたということであります。

 長くなります。用事がありますので一時中断し、帰宅後復帰します。

[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 11時20分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


驚きです!


小笠原氏から土地の有力者である山下家に養子に入ったんですか。
はあ〜
大伴姓山下氏でしたか。

で、この山下氏が藤原智常に繋がっていたのですか。
つまり山下氏が小笠原氏より名家だったということになりますね。


で、争乱の時代になって翻弄されて元は小笠原氏だし、
紆余曲折があって松下氏にはついて行かない道を選んだ
ですか。



早く浜松から磐田に貸出しをお願いして欲しいですね。


ありがとうございました。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 11時37分53秒 ) パスワード

藤原智常について調べて来ました。
藤原智常=千常との情報で視界が開けました。
感謝致します。




藤原千常(ふじわら の ちつね・ちづね、生没年不詳)

平安時代中期の貴族・武将。藤原秀郷の子とされ、官位は従五位下・鎮守府将軍。
名は知常ともいわれる。


安和2年(969年)安和の変が発生し兄・藤原千晴が配流となる。
その後の安和3年(970年)正月に鎮守府将軍に任命される。
左衛門尉、美濃守なども務め、小山荘寒河御厨を本領とする。
子孫は佐藤氏など。


系譜[編集]

父:藤原秀郷
母:源通の娘
妻:不詳

男子:藤原文脩
男子:藤原千万



安和の変(あんなのへん)

平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件。
謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。


謀反の密告[編集]

969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時が
中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。

密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。


後代に成立した『源平盛衰記』には、高明が為平親王を東国に迎えて乱を起こし、
帝に即けようとしていたと記されているが、史料としての価値は認められていない。


右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、
検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。



                        藤原智常の兄  ココですね
さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模介藤原千晴(藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。




源高明の左遷[編集]

事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたと結論され、太宰員外権帥に左遷することが決定した。

高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、
26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。
また左大臣には師尹が替わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。

一方、橘繁延は土佐国、蓮茂は佐渡国、藤原千晴は隠岐国にそれぞれ流され、
さらに源連と平貞節の追討が諸国へ命じられた。

                          藤原智常の甥ですね
また京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり、藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消した。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 11時47分14秒 ) パスワード

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_30.html

                 
        藤原智常のこと

                 結城氏に関係!
                 覚えていらっしゃいますか?
                 「南総里見八犬伝」の最初に書かれていた「結城合戦」です!

           結城合戦『八犬伝』冒頭に配される合戦。
           永享の乱で滅びた足利持氏の遺児・春王丸と安王丸を奉じた関東の諸将が、
           永享12年(1440年)結城城に拠って幕府に叛旗を翻した。
           結城方は敗れ、捕らえられた春王丸と安王丸も京都に連行される途中美濃大垣で殺害された。
           
           『八犬伝』では、里見季基・義実親子、大塚匠作・番作親子、井丹三、氷垣残三が、いずれも結城方で参戦している。

           春王と安王の首は大塚番作によって刑場から奪取され、信濃に埋められている。
                                信濃!

           八犬士結集の場になったのも、結城合戦の死者を弔う法要の場であった。




       まさかココで結城氏や里見八犬伝が関係するとは。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 11時56分26秒 ) パスワード

        藤原千常・千常の孫の兼光系

          藤原智常のことです

千常流では、秀郷から数えて5代に渡って鎮守府将軍に任じられ(「結城系図」によればですが)
関東北部から奥州にかけて勢力を広げます。


秀郷から4代目の兼光については、あまり史料は残っていないようですが、
その子、孫、甥に受領任官が多く、
京武者・軍事貴族としてそれなりの評価と地位はもっていたと見ても良いでしょう。


しかし、「平忠常の乱」で疑われたためか、京武者・軍事貴族として秀郷流藤原氏を代表するのは兼光の甥にして娘婿、
相模守公光の方に受け継がれた様に見えます。


その後、この兼光系の子孫達は受領の選考に登ることはなく、国衙の在庁官人を兼ねながら北関東の各地に土着していったと見て良いと思います。

頼朝挙兵時に北関東で大きな勢力を持っていた小山、藤姓足利、下河辺(常陸)はこの兼光の子孫です。




秀郷の子・千常                       智常です
                              信濃にいた!


•従四位下・鎮守府将軍・美作守・大夫尉下野守護(結城系図)


•千晴が係争で調べられた同じ年の安和元年(968)末、信濃国から千晴の弟の千常の乱が奏上されている。


•さらに、約十年後、下野国が前武蔵介藤原千常と源肥が合戦におよんだという解文を奏上しているそうです。
坂東千年王国、「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p52)


•子:文脩


藤原文脩
•父:千常 


•従五位上・鎮守府将軍・舎人頭・陸奥守(結城系図)


•「小右記」988年10月3日条「今日、直物、少叙目あり・・・・、鎮守府将軍藤文脩。選か、くだんの文脩は摂政の賀料、皇太后宮に任料を納めらるると云々」 「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p68)

       「選か」とあることで、文脩は中央に出仕してそれなりの評価を得、実績をあげていたことが判る。


•その子:文行、兼光


藤原文行

•父:文脩、千常の孫


•左衛門尉 従五位下


•「御堂関白記」1006年6月16日条に平正輔と口論喧嘩から検非違使に追われ道長宅に逃げ込む。




藤原兼光

•父:文脩、千常の孫、


•従五位下・鎮守府将軍・阿波守(結城系図)
•従五位下左馬允・鎮守府将軍(小山系図)


•1012年から鎮守府将軍を二度務る。
同じ名前の太政大臣が居ますがもちろん別人です。時代も違うし。


•平忠常の乱のとき、忠常は下野の藤原兼光を通じて追討使に講和への意志を伝え兼光はそれを京へ伝える。

   京では後一条天皇から、兼光に忠常の所在を問い質してはどうかという意見が下される。(小右記) 


•乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与の風聞があり出家。(小右記)


•子:正頼、頼行、行範、貞光       智常の曾孫達ですね




藤原正頼

•父:兼光


•従五位下・左馬允・鎮守府将軍(小山系図)
•従五位下・下野権守(結城系図)



藤原頼行

•父:兼光、 


•右近衛将監、「小右記」1014年12月25日条 近江国に住み、悪事を働くので道長の子に召還され、その従者と合戦に及ぶ。


•1022年の叙目で鎮守府将軍


•従五位下・下野守・鎮守府将軍(小山系図)
•鎮守府将軍・従五位下・左近将監・安房守・下野守(結城系図)


•子:兼行、武行


藤原行範

•父:兼光、


•左馬充? 壱岐守  (結城系図)
•1024年の叙目で壱岐守、道長に臣従 「小右記」


•子:行高


  行高

•父:行範、


•武蔵守(結城系図)これは疑問、尊卑分脈では大田権守


行善(ゆきよし)

•尊卑分脈では父:行範だがおそらく誤記


•「春記」に「前将軍頼行の子行善」、文章生を採用する式部省の試験を受けている。


貞光

•父:兼光


•従五位下・対馬守(結城系図)


兼行

•父:頼行


•散位従五位下・安房守・下野守(結城系図)


•藤姓足利氏の祖                      後に平家の家人になってますね


武行

•父:頼行


•従五位下・壱岐守(結城系図)


行隆(尊) 


•父:武行


•太田大夫(従五位下)、下野介(小山系図)


•別当大夫宗行(結城系図)


行政(快實) 

•父:行隆(尊)


•太田大夫(従五位下?) (小山系図)


•二郎(結城系図)


行光 

•父:行政


•太田四郎(小山系図)


•四郎(結城系図)


•子:小山政光、下河辺行義


小山政光

•父:行政


•下野大掾


歴史学研究773(2003.3)での 松本 一夫著『東国守護の歴史的特質』 の紹介ですが。


 ・・・・相伝の職とされる権大介職と押領使を分析し、両者は同一のもの(兼帯)として認識されていたことを指摘し、・・・・国衙守護人制を鎌倉期守護の前提として把握する説を批判している。また、下野における支配権を相対化し、宇都宮氏や藤姓足利氏などをその下部に包摂するものでなく、野木の宮合戦の動員も小山一族に限定され、それを超える部分は源頼朝の指令によって成されたと指摘しており、小山氏の権力の強大さを一義的に説く論者に対して批判を加えている。


つまり、従来は『吾妻鑑』の記事をほぼ無批判に受け入れて、小山氏は既に平安末期段階で下野国内に圧倒的な支配を及ぼしうる実力を有していたととらえられてきたが、これは過大評価じゃないかと。そうなのかもしれません。


下野国の小山氏は頼朝挙兵以前から源義朝・頼朝親子と深い関係にあります。源義朝は保元の乱の前に下野守であり、乱後も下野守を重任しています。小山氏はその下野の国衙で世襲の権大介だった関係からか、小山政光の妻寒河尼は嫡男頼朝の乳母夫になっています。乳母は何人も居るのですが。 この小山政光の妻寒川尼は嫡男朝政三男朝光を連れ、武蔵隅田宿の頼朝の陣営に参向したことが『吾妻鏡』にあります。(参考: 源氏神話の創出)

下河辺行義

•父:行政
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 12時03分03秒 ) パスワード

以下同じような情報です:パスしてください


http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E5%B8%B8_%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%83%E5%B8%B8%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81


藤原千常


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/12 07:06 UTC 版)

藤原千常(ふじわら の ちつね・ちづね、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族・武将。藤原秀郷の子[1]とされ、官位は従五位下・鎮守府将軍。名は知常ともいわれる


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/12 07:06 UTC 版)

安和2年(969年)安和の変が発生し兄・藤原千晴が配流となる。その後の安和3年(970年)正月に鎮守府将軍に任命される。左衛門尉[1]、美濃守なども務め、小山荘寒河御厨を本領とする。子孫は佐藤氏など。

系譜
•父:藤原秀郷
•母:源通の娘[1]
•妻:不詳 ◦男子:藤原文脩[1]
◦男子:藤原千万[1]



________________________________


http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp526344



藤原千常(ふじわら の ちつね・ちづね、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族・武将。藤原秀郷の子[1]とされ、官位は従五位下・鎮守府将軍。名は知常ともいわれる[1]。

安和2年(969年)安和の変が発生し兄・藤原千晴が配流となる。その後の安和3年(970年)正月に鎮守府将軍に任命される。左衛門尉[1]、美濃守なども務め、小山荘寒河御厨を本領とする。子孫は佐藤氏など。



非表示

系譜


父:藤原秀郷
母:源通の娘[1]
妻:不詳 男子:藤原文脩[1]
男子:藤原千万[1]

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 12時10分23秒 ) パスワード

http://asagiri8210.blog61.fc2.com/blog-entry-3.html

佐藤氏のルーツ

 人口1,928,000人、苗字ランキングは1位。

藤原秀郷の後裔、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まる。

昭和47年(1972)の発表では「鈴木」に次ぐ2位だったが、コンピュータによる正確な調査が可能になり、一躍首位に躍り出た。

全国各地にまんべんなく存在する名字だがそれでも分布には偏りがあり、
とりわけ東北地方、なかでも秋田市・福島市・山形県に多く、青森県を除く東北地方各県の最大戸数の姓となっている。

西日本では広島・徳島・大分の3県に多い。
 佐藤姓は、日本の名門筆頭氏族である藤原氏の末裔である。


佐藤のほか、伊藤、斎藤、後藤、加藤など「藤」のつく姓は、みな藤原氏の末裔である。


 藤原姓は、大化元年(645)の大化の改新の後、中臣鎌足が天智天皇から賜った姓で、中臣鎌足は藤原鎌足と名を改め、名門藤原家が誕生する。


                            ココから智常

 佐藤姓のルーツは1000年以上も前にさかのぼる。
俵藤太(田原藤太)の通称で知られる藤原秀郷は鎮守府将軍に任じられ、子の千常の系統に世襲された。


千常は左衛門尉大夫判官従五位下・下野守となり、
当時武門最強を誇った兄千晴が安和2年(969)に起きた安和の変で隠岐島に流されると、
天禄元年(970)正月15日、鎮守府将軍に任じられて下野国の小山荘に在城し、父秀郷の名跡をついだ。

小山荘の寒河御厨(栃木県小山市・野木町・都賀町)を重代相伝の本領とし、
高祖父藤原藤成から祖父藤原村雄の本貫地として世襲された下野国長沼庄(栃木県芳賀郡二宮町)、
秀衡の名字地である相模国田原庄、下総国下河辺庄(茨城県古河市から埼玉県春日部市一帯)などを領有した。


嫡子の文脩は跡を継ぐと、永延3年(989)正月に鎮守府将軍に任ぜられた。
文脩は北陸の鎮守府将軍藤原利仁の女を妻に迎えている。
その腹にあげたのが文行・兼光の兄弟である。

文行は下河辺左衛門尉を称したが、将軍職は弟兼光が受け継いだ。
文行の子公光は従五位下に叙せられ相模守となった。

この公光が、佐藤氏の祖である。
公光には公清という息子がいて、公清を佐藤氏の祖とする書物もある。



 平安時代、藤原姓の人はものすごくたくさんいた。それでは不便なため、区別するため地名や職業と「藤原」を組み合わせて、新しい名字をつくった。つまり「佐藤」とは「佐」+「藤原」ということになる。ただ、「佐」がなにを指しているのかはいくつか説がある。

(1) 天慶3年(940)に藤原秀郷が平将門を討って東国一帯を支配した。秀郷は下野国佐野(栃木県佐野市)に居を構えたことから、「佐野の藤原」殿、略して「佐藤」殿と呼ばれるようになった。

(2) 藤原公清が左衛門尉に任じられ、その名が世襲され左衛門尉の「左(=佐)」と、藤原の「藤」で「佐藤」という名字になった。公清の玄祖父藤原千常依頼、公清の嫡孫康清に至る7代が左衛門尉を襲名している。「左」が「佐」に転化した経緯は不明。

            M氏が右衛門尉を称していたのは
            この左衛門尉と関連があったのでしょうか?




(3) 将軍職と下野の国衙小山荘を弟に譲った藤原文行は一家郎党を率いて京に上り、検非違使についた。検非違使とは京都の治安維持と民政を所管する令外官である。同じ検非違使に豊後国海部郡佐伯(大分県佐伯市)の長者大神惟基がいて、文行は長子公光の嫁に惟基の娘をもらい受けた。この最強の両豪族の結合を天下に誇示して「佐伯藤」という姓を称した。


(4) 『田原族譜』によると藤原公清は佐渡の国司に任ぜられて、関東を離れて北陸道の地方官として下向し、佐渡の「佐」と藤原の「藤」をとって佐藤と改めたという。

 以上のように諸説はあるが、藤原秀郷から藤原公光・公清に至る系が佐藤氏の起源となっているのは間違いない。その後佐藤氏は勢力を大きく広げ、特に東日本で繁栄した。

                             源氏車紋?
佐藤家の主な家紋は「上がり藤(上り藤)」と「源氏車」である。


佐藤氏はあまりにも多く広がってしまったため本家の末裔が今どうなっているかはわからない。

「ウチこそが佐藤本家の直系」といい、公清から現代までつながる系図を持っている家が何軒かあるが、正当性を立証するのは難しくなっている。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 13時45分53秒 ) パスワード

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『長野県立歴史館/信濃史料』 信濃史料   





巻二 神代〜 


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安和元 信濃国、藤原千常の乱を奏す、

444 / 658 ページ



安和元年一二月一八日(968) 信濃国、藤原千常の乱を奏す、



    [出典]
     日本紀略・後篇五
     尊卑分脈・五・藤原秀郷流


ぼやけてて良く見えませんでした。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 13時55分37秒 ) パスワード

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平安時代叢書 第八集     23

                藤原智常の乱かも?


 現代の我々は一世一元の制により、元号は天皇が崩御しない限り変わらないと考える。

 だが、これは明治時代からの規則であり、平安時代は天皇の崩御や交替は元号を変える機会の一つであっても、変更が必須となっていたわけではない。一人の天皇がいくつもの元号を用いるのも珍しくないし、新たな天皇が前天皇の元号をしばらく使い続けるのも普通である。実際、冷泉天皇が帝位に就いてからもしばらくは、村上天皇の定めた元号である康保を使い続けていた。
 しかし、前天皇の定めた元号を新天皇が一年近く使い続けるというのは珍しい。


 その珍しいことを冷泉天皇が行なっていたのは、やはり村上天皇の威光が大きかったからであろう。藤原独裁を抑え込んで天皇親政を実現させた天皇と、関白も太政大臣も復活させて藤原独裁に復帰した天皇とでは世間の評判がやはり違う。

 それに、人は、生者に対してはその失敗に目を向けても、死者に対してはその功績に目を向けるものである。しかも、その功績は相対的なものである。村上天皇は前天皇である朱雀天皇の治世と常に比較されてきた。そして、朱雀天皇の治世に起こった反乱と、その反乱が消えた村上天皇の治世とを比較すれば、どうしても村上天皇に軍配が上がる。

 この状態で即位した冷泉天皇は、それが村上天皇の頃から続いている問題であろうと、その問題点が追求され悪評を受けることとなってしまう。これはもはや、人間とはそういうものなのだと割り切るしかない。元号を変えなかったのも村上天皇の威光を利用するしか、自らの受ける悪評をそらす手段がなかったからであろう。

 この悪評は一九歳の少年天皇にとって多大なストレスをもたらすものであった。


 康保五(九六八)年八月、京都とその周辺の治安悪化が大問題となっていた。村上天皇の頃から存在し続けた問題であったのに、それも日常の光景となっていたのに、このタイミングになって問題視されるようになったのだ。

 冷泉天皇は、関白藤原実頼の助言のもと、京辺の山野の盗賊を追補する命令を出した。

 と同時に、改元を宣言した。もはや村上天皇の威光を頼れないと考え、治安悪化に本格的に乗り出すという意志を見せるためである。


 康保五(九六八)年八月一三日、元号を「安和」に改元。平和と安全を求める冷泉天皇の考えが元号にも表れた。
 もっとも、本当に平和で安全であるかどうかは別の話であるが。


 延喜一六(九一六)年に罪人とされ追放処分を受けながら刑に服さず、それどころか平将門の乱の鎮圧で名を挙げた、藤原秀郷という武士がいる。


 藤原秀郷には子供が何人かおり、そのうちの一人、藤原千晴は勧学会に参加するなど、京都にあって文人として生きていた。このように、地方の武士団として勢力を見せている者の子弟が京都に上り、役人として、さらには貴族としての道を選ぶのは珍しくない。何しろ、地方で一大勢力を築けば莫大な財産が築ける。その財産をもとにすれば有力貴族や有力寺社と接近が図れるし、中央政界で出世して地位を獲得するきっかけにもなる。藤原千晴の行動は地方の武士団の子としてはごく普通である。

 もっとも、全員が全員京都に上ってしまうと武士団が解体してしまう。武士団を維持することが財産を維持することでもあるのだから、普通であれば何人かはそのまま地方に残って武士団を維持する、あるいは、武士団の分家を作る。


                                   ココから智常

 藤原秀郷の場合、藤原千常が武士団を率いる立場となった。千晴が兄で、千常が弟であると記録には残っている。


 ただ、どういうわけか藤原千常はこのとき信濃国にいた。

藤原秀郷は下野国の武士団の頭領である。平将門追討の功績により下野国司、さらに後には武蔵国司になったという記録はあるが、信濃国とは関係ない。

 藤原千常が信濃国にいて何か問題があったのか?
 信濃国にいること自体は問題ではない。だが、そこで戦乱を起こすとなると通常の事態ではなくなる。


 安和元(九六八)年一二月一八日、信濃国で藤原千常が争乱を起こしたとの連絡が京都に届く。この知らせを聞きつけた朝廷は混乱した。冷泉天皇も、関白藤原実頼も、かつての平将門の乱の再現かと驚愕したのである。


 藤原千常が信濃国で起こした戦乱についての記録の詳細は残っていない。


 おそらく、地方の武士団同士の抗争であり、それが大きな問題となる前に藤原千常にとって満足行く結果となって、抗争が次第に沈静化したのではないかと推測される。


 研究者によっては、藤原千常がこのときの関東で一大勢力となっていたのではないかとする人もいる。何しろ下野国司や武蔵国司を歴任した関東地方の有力者の子である。また、関東一円に絶大な勢力を築いた平将門が戦死した後、関東地方で目立った戦乱が起こっていない。これは、平将門に代わる勢力が関東で名を馳せており、この名を馳せている勢力こそ藤原秀郷と藤原千常の親子なのではないかと推測されるのである。


実際、藤原千常はこの一〇年後に下野国で源肥らと争乱をしている。抗争を起こしておきながら無罪放免で、わずか一〇年でまた争乱を起こしているのだから、一定規模の勢力を築き、維持していたと推測されるのである。

                           智常はとんでもないオトコだった?


 ただ、このときの狼狽は冷泉天皇や関白藤原実頼の統治能力に疑念を抱かせることとなった。戦乱を鎮圧するのでなくただ狼狽するのみという姿を見て、頼りがいがあると考える人はいない。


 源高明ら反藤原の勢力を、現在の権力に逆らうことの自己陶酔であり、反対のための反対と考えるのは簡単である。そしてそれは事実である。だが、現在の権力が問題と考える信条があったのも事実である。

 この現在の権力の問題をさらに痛感することとなったのが安和二(九六九)年二月七日に起こった事件である。右大臣藤原師氏と、この日に中納言に就任したばかりの藤原兼家の家人が乱闘を起こし、死者を出す惨事となったのだ。


 藤原兼家の粗暴な行動は以前から有名であり、四一歳となったこの歳になっても健在であった。普通、こういう粗暴さは年齢とともに影を潜めるものであるが、藤原兼家の素行の悪さは年齢を重ねても正されることがなかったどころか、年齢とともに増幅していたのである。その上、この粗暴さは兼家の従者たちにも伝染していた。兼家の見下す相手本人にはさすがに手出しをしなかったが、その相手の従者たちには乱暴狼藉を働いていたのである。


特に、人のいい右大臣藤原師氏を見下していた兼家の態度は、そのまま従者たちに引き継がれていた。
 しかし、雇用主がお人好しだからと言って、その従者たちまでお人好しだとは限らない。
 ましてや、兼家の従者たちの乱暴により師氏の従者で死者が生じているのである。
 これで復讐心が沸かないほうがおかしい。


 無論、兼家の従者たちだって自分たちのしたことを理解しているし、兼家自身も従者たちの行動を自覚している。いくら粗暴であっても、さすがに自分たちのしたことの重大さはシャレにならないと考えており、それが兼家の邸宅の要塞化となって現れていた。京都中を荒らし回る盗賊たちは、国の施設に押し込んで盗みを働くことはあっても、兼家の邸宅に手出しする者は誰もいなかったほどであった。

 盗賊ですら諦める兼家の邸宅への襲撃を師氏の従者たちは計画していた。
 そして、そのタイミングがやってきた。
 藤原兼家の中納言就任の日である。建物全体が祝賀ムードに包まれるとあれば警備も薄くなると考えたのだ。
 おまけに、師氏の従者は一人や二人ではない。詳細の人数はわからないが数百人という集団であったと日本紀略に残っており、簡単な警備では追い返せないだけ人数からなる集団が各々武器を持って兼家の邸宅を襲撃した。日本紀略には「打ち破る」と書いているから、正門に詰めかけて襲いかかるのではなく、塀を壊し、壁を壊して建物を襲撃したのであろう。


 祝賀ムードに水を差された兼家側であるが、ボディーガードの武士が前面に立って騒動を鎮めようとするも、その数はわずか三名。ただし、武士以外の従者の中には烏帽子を脱いで鉾を構えて応戦したともあるから、純然たる武士は三人でも応戦できる者の数はもっと多い。何しろ、この時代の男性が烏帽子を脱ぐというのは、現在では全裸になるに等しい痴態である。その姿であろうと構うことなく応戦するというのだからその覚悟はかなりのものがある。


 とは言え、多勢に無勢であることに違いはなく、その上、師氏の従者たちは事前に準備を重ねた上での襲撃である。武装においても抜かりはなく、弓矢を携えての軍勢の行進であり、その弓矢を遠慮せずに兼家の従者たちに浴びせたのだ。


 この騒動の結果、兼家の邸宅は半壊し、兼家の従者たちに死傷者が出た。兼家の被害の詳細や師氏の従者たちの被害の有無についてはわからないが、何れも軽いものではなかったであろう。

 この騒動を目の当たりにして、新たに藤原氏への尊敬の念を抱く者がいるであろうか?


 関白藤原実頼の弟である右大臣藤原師氏の従者と、甥である中納言藤原兼家の従者が武器を持って殴り合ったのである。物騒に感じて遠回りに眺めて近寄りたくないと感じたであろうし、こんな人間どもが国家を左右する立場にあるのを喜ぶわけなど無かった。

 二つの勢力があるとき、一方の失態はもう一方の支持を集める役に立つ。
 二つの勢力が敵対するとき、一方の失態はもう一方にとって絶好の攻撃材料となる。
 この失態は、源高明にとって絶好の攻撃材料であった。


 源高明は藤原氏に対する責任追及をはじめた。右大臣藤原師氏の右大臣辞職と、中納言藤原兼家の中納言辞職を要求したのである。また、任命責任は関白藤原実頼にもあるとし、実頼にも関白辞任を求めた。

 これらの要求はとうてい受け入れられる内容ではなかった。
 確かに武器を持って暴れ回ったのは事実である。だが、これは特別な事態ではなかった。地方に目を回せば荘園を巡る争いが繰り広げられているし、京都市内の争いも各所で頻発している。規模の大きさから師氏や兼家のケースは目立ったが、それを追求すると源高明を含む全ての貴族が処罰の対象となってしまうのだ。ここでの源高明の要求は明らかにダブルスタンダードであった。


 だが、ダブルスタンダードであろうと、京都市民の多くは源高明の支持に回ったのである。藤原氏が災害救助に尽力したことなど忘れ去り、藤原氏の権力が腐敗し、藤原氏同士の争いが繰り広げられていることに嫌気をさしていたのだ。

 おまけに、今回の騒動の被害者である兼家への同情が全く寄せられなかった。京都市中を我が物顔で練り歩く兼家の従者たちが痛めつけられたことを心から喜んでいたのである。


 また、加害者側である師氏への同情もなかった。市民の誰もが、今回の師氏の従者たちの行動が、これまで兼家の従者たちから受けてきた仕打ちに対する反抗であることは理解できていた。理解できていたが、反抗が犯行になると同意はできなかった。弓矢を持って邸宅に襲いかかり、邸宅を破壊し、何人もの人を殺したとあっては支持できないのだ。


 右大臣藤原師氏と中納言藤原兼家の失脚を求める源高明の要求は、市民感情の反映でもあった。


 藤原氏は何とかする必要があった。


つづく
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 13時59分24秒 ) パスワード

              24


 安和二(九六九)年二月一九日、昭陽舎が放火される事件が起こった。昭陽舎は平安京の後宮の一つで、かつては村上天皇妃である藤原安子が居住し、藤原安子が飛香舎に移った後は為平親王が住んでいた。

 源高明の娘を妃とする為平親王の住まいが放火されたとあってはただ事ではない。しかも、犯人が捕まっていないのである。


 源高明はこれこそ藤原氏が自分を追い落とすための陰謀であると訴え出た。たしかに藤原氏は限りなく怪しいが、藤原氏の誰の手による犯行なのか不明であるし、そもそも証拠がない。証拠もなしに怪しいというだけでは逮捕できないのは現在もこの時代も同じである。もっとも、現在と違ってかなりあやふやな証拠でも逮捕に必要な証拠とされていた時代であるから全く同じとはできない。
 ただ、これで対立は決定的となった。源高明は藤原氏に反旗を翻したのである。


 源高明は藤原氏の独裁が続く現在の政体は非正義であると訴え、藤原氏は源高明の方を反政府勢力として弾劾する。源高明が昭陽舎の放火を藤原氏による陰謀だと訴えれば、藤原氏は源高明の自作自演だと訴える。そんな泥仕合となったのである。


 このような泥仕合を目の当たりにしたとき、多くの人はどちらが勝者になるかを考えるようになる。


 しかも、延喜式の成立により律令遵守を題目とする律令派のアイデンティティが崩壊していたときである。律令を守ることに主眼をおくと藤原氏を支持しなければならず、反藤原を鮮明にすると反律令とならなければならないというジレンマが律令派の面々を包んでいたのだ。


 これまでの例でいけば勝者は常に藤原氏であった。承和の変でも、応天門の変でも、昌泰の変でも藤原氏は勝ち、藤原氏の敵となった者は追放となった。そのため、アイデンティティ崩壊を目の当たりにして態度を不明瞭にしていた者の中から藤原氏に接近する者も現れた。


 もっとも、過去の何れも藤原氏の仕掛けた政争ではない。承和の変は反藤原のクーデター未遂事件。応天門の変は反藤原の陰謀失敗。昌泰の変はそもそも政争ではなく、当時の国際情勢を考えての結果である。この前例を考えると藤原氏のほうが何かをするとは考えられない。この先例を踏まえれば、積極的な藤原氏支持を表明するのは拙速であったとするしかない。


 そもそも藤原氏に反藤原を追い落とす必要はどこにもないのである。考えてみていただきたい。この時点で圧倒的に優位に立っているのは藤原氏の方なのである。源高明がいかに左大臣であろうと、時代は関白太政大臣藤原実頼のものなのだ。しかも、藤原氏の後継者も数多く内裏に姿を見せるようになっており藤原氏の時代はしばらく続くと考えるのが普通である。


 確かに藤原氏に対する支持率は下がっている。もしこの時代に選挙があり、このタイミングで総選挙を実施したら、藤原氏は世論の前に敗れ去っていたであろう。だが、この時代に選挙はない。藤原良房や基経は市民の支持を背景に権力をつかんだし、藤原忠平も高い支持を受ける統治者であったが、この時代の政治家にとっての市民の支持というのは、充分条件であっても必要条件ではなかった。


 この市民の支持を過信する者も多く現れた。反藤原感情から源高明に接近する者が続出したのである。この時点での源高明の支持率は高かった。このままでいけば、かつて藤原良房がそうであったように市民の支持を背景に権力を掴めたかもしれない。だが、それは賭けるとするにはあまりにも無謀なギャンブルであった。

 歴史上よく見られる現象であるが、政情不安定となったとき、若者が新進気鋭の勢力に、高齢者が旧来の勢力に荷担することがよくある。この現象の理由は単純で、新進気鋭の勢力が権力を掴んだら若者の手に権力が渡り、旧来の勢力が勝ったら高齢者の手に権力が留まるという、ただそれだけの理由である。


 藤原氏は高齢者の取りまとめを行なった。


 安和二(九六九)年三月一三日、藤原在衡に命じて、粟田山荘で尚歯会を開催させたのである。
 これはかなり計算された取りまとめであった。
 まず、尚歯会という名目である。尚歯会は本来高齢者の集いそのものを意味するが、唐代になって七〇歳前後の高齢者が集って詩歌管絃の遊園を催す集いとなった。藤原氏はそのイベントを、自身も七八歳と高齢である大納言の藤原在衡に開催させたのである。

 さらに、この藤原在衡という人選も絶妙であった。藤原在衡は藤原北家の一員ではあるものの、本流とは言い切れない素性である。しかも、多くの藤原氏が勧学院を経て貴族となるのに対し、藤原在衡は大学の文章生となってから貴族になっている。これはかつて律令派の一員として政界に名を馳せていた高齢者にとっては仲間としても良い感情を抱かせる材料である。これで、高齢の元律令派の貴族が反藤原を旗印に源高明のもとへと流れ込むのを抑えることができた。


 源高明の側はこれを、高齢者たちが自分たちを見限ったのではなく、高齢者なしの若者たちによる勢力構築がさらに進んだと見なした。考えてもらいたい。新進気鋭の勢力に高齢者の熱狂的な支持があるだろうか。学生運動の多くは学生だから運動に走るのではない。自分たちをエリートと考え、現時点で権力を掴めていない理由を、自分たちより劣った高齢者が現時点で権力を掴んでいるからだと見なしているから運動に走るのである。


 源高明の元に過激な思考と行動を持つ若者が続々と集まり、その過激さを忌避する者が藤原氏のもとへと集う、一触即発の状態となった。



 一触即発の事態を収束させるのは、事態の沈静化だけではない。爆発させることもまた、事態の沈静化の一つの手段である。

 その爆発が起こったのが安和二(九六九)年三月二五日。

 この日、左馬助の源満仲から一つの密告があった。
 中務少輔の橘繁延(たちばなのしげのぶ)、左兵衛大尉の源連(みなもとのつらぬ)、僧侶の連茂といった源高明の元に集う過激派たちが謀反を企てているとの密告である。

 源満仲からの報告によると、計画は皇太弟守平親王を廃し、為平親王をこれに替えるというものであった。これを単なる皇位継承者交替の策謀とするのは拙速である。為平親王は源高明の娘と結婚しており藤原氏とのつながりは薄い。このまま為平親王が即位したら源高明が摂政となれるのである。しかも、源高明自身が臣籍降下によって源氏なった身であり、皇族復帰も、さらには皇位に就くのも決して不可能な話ではなかったのだ。

 源満仲は藤原氏の側近中の側近としてもよい清和源氏のトップである。一見するとこの密告そのものが藤原氏主導による策謀であったと考えられる。しかし、源満仲の密告を受けたときの内裏の騒動は「天慶の大乱(平将門・藤原純友の乱)の如し」であったというから、藤原氏の全面結託による策謀とは言い切れない。実際、右大臣藤原師氏はこの知らせを受けて動揺し取り乱している。

 それでもこの知らせを聞いた貴族たちは内裏に集い、警備を固めると同時に、東国へ通じる三関を閉めて内乱の芽を摘もうとした。繰り返すが、この時代の人たちにとって、平将門や藤原純友はついこの間まで現実に存在した悪夢なのである。その悪夢の可能性が存在するとあっては平然としてはいられない。

 警備を固めるだけでなく、検非違使に対して容疑者の拘束の命令が出た。ただちに源連、橘繁延の両名が捕らえられ、左衛門府で参議藤原文範らによって尋問したところ、容疑を認める供述が得られた。
 これで決定的となった。


 左大臣源高明による反乱と、その鎮圧が宣言されたのである。



 源高明がこの知らせを寝耳に水の出来事と感じたとは考えられない。源高明の手際が良すぎるのである。
 反乱の知らせが京都中を駆けめぐったのは三月二五日。ただし、反乱の知らせの第二報は反乱失敗の知らせである。そして、知らせの駆けめぐった翌日である三月二六日に源高明は出家している。しかも、源高明は自邸である西宮第に籠もって抵抗した。出家したのだから処分の対象外であり、処分の撤回があるまで外には出ないと宣言したのだ。源満仲は西宮第を包囲したが、内部の状況が不明では動くに動けなかった。何しろ反乱を起こそうとしている人間である。邸宅の中に軍勢を用意し、武器を揃えていたとしてもおかしくない。


 ただ、源高明の方も、武人である源満仲の前には武力による抵抗は困難であると考えた。軍事経験の有無は、こうした用意の内容にも現れるのである。

 武人というものは、ただ単に戦場で武功を挙げることを目的とするのではなく、いかにすれば被害を最小限に食い止められるかを考えるものである。源満仲にとっては、より大きな爆発が起こる前に、緊張状態を破裂させてしまって一気に解決しようとするのは普通の思考であった。つまり、準備が完全に整う前に源高明を動かし、邸宅に閉じこめることに成功してもいたのだ。


 源高明の出家とニュースを聞きつけたとき、朝廷内では議論が沸き起こった。後の院政と違い、この時代、出家した者は政務に関与しないのが普通であった。しかし、源高明の出家のニュースの届く前に処分は決まっていたのだ。左大臣源高明を大宰権帥に左遷し太宰府へ追放。謀反の首謀者三名、源連は伊豆国に、橘繁延は土佐国へ、平貞時は越前国へ配流。また、彼らと行動をともにした藤原千晴は隠岐国、僧蓮茂は佐渡国へ配流。実行犯が本州や四国なのに対し、行動をともにした二名は日本海を渡った島への流刑となったのは、実行犯ではなく犯行計画を立てた者をより重くする処分となったからである。


 また、左大臣源高明の追放によって空席となった左大臣には右大臣の藤原師氏がそのままスライド。右大臣には大納言藤原在衡が昇格するとも決まった。
 なお、主人の右大臣就任に狂喜乱舞する藤原在衡の邸宅の従者たちを藤原在衡が一喝するという事件があったのもこの日である。


 この処分が決まった状態で飛び込んだ源高明出家のニュースに対し、朝廷内は議論が飛び交ったようである。出家して政治から離れた者を処分すべきか、出家すれば反乱の罪から逃れられるのか。

 結論は、出家有無に関わらず源高明を追放処分とするものであった。


続く
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 14時04分06秒 ) パスワード

                25


 これで全て終わったと誰一人として考えなかった。

 なぜか?
 源高明は相変わらず自邸に閉じこもり、源連と平貞節の二人が姿を消したからである。特に、一度は逮捕されたはずの源連が姿を消したのはあまりにも手際が良すぎる。しかも源連は、後述するが、ただ単に自分一人で逃亡したのではないのだ。

 追放処分が下ったと聞いておとなしくその処分に従うとは限らない。ましてや、時代を変えると息まいている過激派である。平将門のように、あるいは藤原純友のように、地方に下って朝廷に反旗を翻すことを企んでもおかしくない。実際、後の源平盛衰記には、為平親王を東国に連れ出し、東国で勢力を築いて朝廷を討ち取る計画であったと記されている。


 出家することで処分から逃れようとしていた源高明は屋敷の包囲に対し抵抗を見せていたが、武力による抵抗も無理、出家による免罪も無理と悟ると、安和二(九六九)年四月一日、自邸に火を放った上で投降した。消火しようとしても無駄であった。西宮第は完全に消失してしまったのだ。これで物的証拠の全てが消えた。反乱に参加しようとした者は誰なのか、武器を集めていたのかどうか、それらを調べようとしていた矢先の邸宅の全焼である。これが怪しくないはずがない。しかも、源高明は完全に口を閉ざしており、立場が悪くなると自分は一介の僧侶に過ぎないと強弁する。これではどうにもならない。


 結局、源高明は何一つ供述することなく太宰府に流刑となった。


 既に拘束されていた橘繁延の土佐への配流は、火災のあった四月一日に、僧侶の連茂の佐渡への配流と、藤原千晴の隠岐への配流は翌四月二日に実施された。

 そして、安和二(九六九)年四月三日、源連と平貞節の捜索命令が出された。

 と同時に、もう一人の捜索命令が出された。為平親王の子の為定親王である。源高明から見れば孫にもあたるこの幼児の姿がわからなくなったのだ。話によると源連とともに逃亡したのだという。もしかしたら、これが源高明の策謀であったのかもしれない。


 実は、この源連と為定親王、いや、臣籍降下の対象となったから源為定と呼ぶべきか、この二人の姿は安和二(九六九)年を最後に史料から消えるのである。朝廷が総力を挙げて捜索したのに最後まで見つからなかったのだ。

 唯一の例外と言うべき記録は、東京都檜原村に伝わる伝承である。源為定を連れて源連がこの地まで逃れてきたという伝承があり、東京都桧原村小岩の八坂神社前の畑は現在でも「タメサダやしき」と呼ばれているだけでなく、 かつては「王子が城」と呼ばれ、「タメサダやしき」の東側に流れている小さな沢は「王子川」と今でも 呼ばれているのである。


 おそらく武蔵国に逃れてきたのであろうこの二人の記録はここで終わる。その後どうなったのかを伝える史料はない。


 反乱の知らせにもっとも動転したのは冷泉天皇であった。明らかに体調に異変をきたし、天皇としての職務を遂行できなくなったのである。

 史料の中にはこのとき冷泉天皇が奇行に走ったと伝えるものがあるが、反乱の知らせを聞いて平然としていられず取り乱したであろうことは考えられても、史料にあるような奇行は考えづらい。

 しかし、奇行有無はともかく天皇としての職務が遂行できなくなったのは事実である。いかに藤原実頼が関白であると言っても、関白は天皇の助言者であり、天皇の職務を代行できる立場にはない。

 それに、冷泉天皇自身が現在の自分の体調を理解していた。まだ二〇歳の若さであるが、若さと健康とは必ずしも一致しない。この状態で天皇の職務を遂行できないと考えた冷泉天皇は、皇位から退くことを決意する。


 安和二(九六九)年八月一三日、冷泉天皇退位。皇太弟であった守平親王が受禅し円融天皇となる。円融天皇はまだ一一歳であり、元服していないため藤原実頼がスライドする形で摂政に就任することとなった。

 これは先例を破る摂政就任であった。先帝の関白太政大臣なのだから摂政についてもおかしくないと考えられるかもしれないが、摂政とは天皇の近親者の就任する職務である。

 藤原実頼は円融天皇の祖父の兄という血縁関係であるから、血縁関係が全く無いとは言えないが、当時の基準からすると薄いと言わざるを得ない。聖徳太子から藤原実頼までの歴代の全摂政を見渡しても、皇族の誰かや、人臣のうち天皇の実の祖父が摂政になるケースしかなく、祖父の兄という藤原実頼のケースが最も血縁関係の薄い摂政である。

 ただ、政策の連続を考えるのであれば関白であった藤原実頼が摂政にスライドするのがベストであった。先例を破ることになるが、先例を守って混乱を起こすより、先例を多少拡大解釈しても政策を連続させて政情を安定させる方が良い結果になると誰もが考えたのである。

 安和二(九六九)年九月二三日、円融天皇が正式に即位。これで安定はさらに進むと思われた。



 ところが、安定を乱す出来事が安和二(九六九)年一〇月一五日に発生する。少し前から言葉遣いが不明瞭となり、目に見えて体調悪化が見えていた左大臣藤原師尹の死である。何の前触れもないところで訪れた突然の体調悪化と急激な死に、世間の人は源高明を追放したことによる祟りが、すなわち、かつての菅原道真と同じ祟りが降りかかったのだと噂した。

 だが、摂政藤原実頼はこの噂を否定。源高明の残党の手による毒殺だと主張した。

 安和二(九六九)年一一月八日、それまで姿をくらませていた平貞時を逮捕できたのも大きかった。毒殺犯としての罪状も付け加えた上で、平貞時はただちに越前へ配流となった。

 これにより、藤原氏の最後の他氏排斥とされる「安和の変」は終わった。藤原氏の陰謀とするには追放された側の用意が周到すぎ、謀反計画にしては藤原氏にとって都合の良い結果に終わる事件である。

 摂政となり国勢の実権を握ることとなった藤原実頼の前に立ちはだかっていたのは、国家財政の危機である。いや、この問題は以前から存在し続けていたとしても良い。

 何も国家財政の危機の問題を放置していたのではない。源高明らの反対勢力が大騒ぎするので手出しできなかったのである。強引に政務を展開しようとしたら武力蜂起だってありえるとなれば、さすがに強引な政策を展開することはできない。

 だが、反対勢力の一斉追放を行なった今ならば財政問題に着手できる。
 実頼の行なった財政政策は減税を伴う緊縮財政であった。

 この時代、国家財政の赤字という概念はない。税収だけが国の収入であり、税収以上の支出はできないのである。支出を増やすために現在のように赤字国債を刷るという仕組みがない以上、支出を増やしたければ税収を上げるしかない。つまり増税である。

 だが、税の徴収システムが破綻していた。合法にしろ、非合法にしろ、税が免除される荘園が各地に点在しており、税はその他の土地に掛けなければならない。

 朝廷は各国の国司に対し、国別の税の徴収を命じている。どのように税を集めるかは国司の裁量次第だ。理想は任国内の全ての荘園に税を納めさせることだが、それができるほど国司の権限は高くない。何しろ荘園の持ち主は国司のはるか上に位置する上級貴族や、貴族と匹敵する権威を持つ寺社である。そうなると、徴税の矛先は国司の権威でどうにかなる土地に向けられる。

 近くに存在する田畑なのに、一方は荘園であるため免税であり、支出は荘園領主向けの年貢のみ。その額は安い。一方は荘園でないか、荘園であっても国司より権威の弱い貴族や寺社の所領なので、税が課せられる。

 これでは税の不公平感が出ない方がおかしい。

 不公平感を減らすには減税することである。税そのものが少なくなれば不公平感が減る。荘園領主に年貢を納めるか、国に税を払うかの選択になるだけだ。

 安和三(九七〇)年三月一五日、円融天皇の命令により、服御常膳の四分の一を減らすとの命令が出た。まずは第一段階として円融天皇個人の予算を二五パーセントカットするというものである。

 だが、この支出カットが天皇だけに留まるとは思えない。かなりの可能性で貴族や役人の給与カットにもつながるのである。これまで何度も画策しながら源高明らの猛反発により実現しなかった政策を、やっと実現させることに成功したのである。

 もっとも、猛反発する理由もわかる。何しろ、村上天皇が天暦一〇(九五六)年に行なって大失敗したのと同じ政策なのだ。だからついこの前の失敗を繰り返すのかという反発があってもおかしくない。

 だが、少し考えれば今回の円融天皇の、正確に言えば摂政藤原実頼の命令と、村上天皇の失敗した命令とに大きな違いがあるのがわかる。それは、穀物の絶対量。不作のときの減税は京都市中に流通する穀物量が減って飢饉を招くが、不作でなければ減税によって京都市中に流通する穀物量が増えるのである。

 これは現在にも通用する話であるが、減税と増税、好景気と不景気の組み合わせは、不景気のときに増税し、好景気のときに減税するのが正解なのである。よく、不景気のときに増税をしたらますます景気が悪くなるという人がいるが、そんなことはない。不景気というのは市場に流通する資金の絶対量、平安時代でいうならばコメをはじめとする穀物の絶対量が減っている状態である。このときに減税をすると、現時点で資産を持つ者は資産を守ろうとするようになるから市場に資産が出回らない。何しろ資産を吐き出すより抱えるほうが自分の暮らしがより良い暮らしになるのだから。

 無論、資産の少なさに苦しみ貧しい暮らしをしている人がいるのは知っている。ただ、そうした貧しい人たちを救うために自分の資産を吐き出そうとしない。ひどいケースになると、充分な資産を持ちながら自分を貧困者と考え、他者を援助するどころか他者に援助してもらおうと考える者がいる。これは二一世紀の現代日本の年齢別資産状況を見ればご理解いただけるであろう。

 市場に資産を出回らせるようにするには、増税をして資産を持つ者から強制的に資産を没収して市場に資産をばらまく必要がある。そうしないと貧しい者が資産を手に入れるチャンスすら失ってしまうのだ。現代日本がデフレに苦しみ、二〇代から三〇代の者が不安定な非正規職で安月給に苦しみ、結婚もできず、子供を産み育てることもできず、ただただ過労死するのみという一方で、六〇歳以上の高齢者、特に年金生活者は充分な資産を持ち、しかもその資産を使うどころか貯金して死蔵させているという現状を見たとき、購入欲の少ない高齢者ですら買わざるを得ない生活必需品に課税して強制的に資産を吐き出させるのは、景気対策の王道であるとしても良い。

 一方、好景気というのは市場に資産が出回っている状態である。このようなときはそもそも手元に資産を抱え込んでいない。つまり、増税を命じられても手元に資産が無いのだから税を払うことができない。すると、税を払うために資産を使うのではなく貯め込まねばならなくなり、市場に流れる資産の動きを止めてしまう。こうなると待っているのは景気の減速だ。

 税は国や地方自治体の行う事業のための予算を確保する方法であるが、同時に、市場に流通する資産の量を調節し、強制的に景気を調整するという機能もある。
 同じ減税でも、村上天皇は不景気のときに減税をしたから失敗したが、摂政藤原実頼は好景気のときに増税しようとしているのである。方法は同じでも、政策の意図としては真逆とするしかない。

続く
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 14時07分22秒 ) パスワード

                26


 安和三(九七〇)年三月二五日、元号を天禄に改元するという布告が行なわれた。新しい時代の創世を印象づける目的で。

 しかし、新しい時代の創世に反対する勢力は、首謀者の追放後もなお勢いを止めてはいなかった。

 天禄元(九七〇)年四月二日、冷泉院が突然焼け落ちたのである。

 冷泉院は単なる建物ではない。かつては村上天皇が仮の御所として居住し、冷泉上皇も退位後の住まいと定めてここまで七ヶ月住み続けてきた建物である。この冷泉院が焼け落ちたのだ。


 摂政藤原実頼は緊縮財政に反対する者の放火と考えて捜査を命じるが、放火犯の摘発はできなかった。


 安和の変によって反藤原の勢力を追放したことで、藤原氏の一党独裁が事実上実現した。藤原氏でなければどんなに優秀でも政権に加われない。藤原氏の藤原北家の本流であればどんなに無能でも政権を握れる。そんな時代が完成したと考えたのだ。

 そんな時代になって、人はどう考えるであろうか。

 権力を志向しながら権力を握れないと考えた者が走る最後の手段は、古今東西テロリズムと決まっている。それは平安時代中期においても代わりはない。

 安和の変によって藤原独裁は完成されたとしてもよい。そして、これからおよそ一〇〇年に渡って確かに政局は一見すると安定したように見える。だが、テロの取り締まりのために武士が勢いを強めると同時に、藤原氏内部の争いが繰り広げられる時代の登場でもある。


 藤原実頼はこの悪循環を止めようとしたのか? 結論から言うとしていない。しかし、悪循環であるとは認識している。認識していてもこの悪循環を崩すことは国家存亡の危機を招くに等しいと考えていたのだ。だから悪循環の中でもがき苦しみ、どうにかして結果を出そうとした。


 藤原実頼は自分の立場について、外戚ではないため師輔の子供たちから軽んじられており、自分の関白の地位も「揚名関白」、すなわち、名ばかりの関白である、と評している。たしかに藤原伊尹、兼家、兼通といった藤原師輔の子供たちから見れば、利用する価値はある一方、目障りな存在でもあったろう。


 そして、彼ら師輔の子供たちが次代の藤原氏を、それはすなわち次の日本を担うのである。実頼自身にも子供がいるのに、時代は弟の子供たちのもとへと移っているのだ。


 甥たちに軽んじられ、自らを卑下しながらも、老いた身に鞭うって国政を支えている藤原実頼に対する京都市民の評価を、藤原氏の面々はわかっていなかった。


 天禄元(九七〇)年五月一八日、摂政太政大臣藤原実頼死去。享年七一歳。
 このときはじめて、藤原氏は藤原実頼が京都市民にどのように思われていたのかを知った。
 実頼の死を聞きつけた京都市民が大挙して、実頼の邸宅である小野宮第に押し寄せ、亡き実頼に一目会わせろ、それができないならせめて門前で追悼させろと請願してきたのである。


 このときはじめて、藤原氏の面々は実頼が京都市民にどう思われていたのかを知った。


 天禄元(九七〇)年五月二〇日、故藤原実頼に清慎公の称号を贈る。同日、右大臣藤原伊尹が後任の摂政に就任することとなった。


 甥の摂政就任と、摂政としての政務遂行が安定しているのを見届けるのを待っていたかのように、天禄元(九七〇)年七月一四日、忠平の子で最後まで残っていた大納言藤原師氏が亡くなった。享年五八歳。


 絶対的独裁者として四〇年に渡って君臨し続けてきた藤原忠平の子供たちは、天禄元(九七〇)年をもって全員故人となった。そして、時代は藤原師輔の子供たちの時代へと移り、師輔の子供たちの争いが始まると誰もが考えた。しかし、誰一人として、その争いの勝者が兼家の末っ子になると考えた者はいなかった。

 藤原道長、このときわずか五歳。

天暦之治 −完−



あら?
智常はどうなったのでしょう?
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月10日 14時59分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原智常からこれだけの話になるとはワンダーランドです! な、なんと
いう歴史の深さと広がり! これからもう一度よく読んでみて、次のレスを
書くことにいたします。
 先ほどМ氏と話をしましたが、松島という氏族はいつから存在して、どこ
にいたのかという謎を解きたいということです。松島城に居た時に処刑され
てから下ってきたのでは、遠江に居付く時間が短すぎる。1400年の少し
前に山下家に養子に入った小笠原氏と一緒にやって来たとすると、松島城の
松島氏とは年代的にも違いすぎるということ・・・。
 そういえば、『箕輪史』のなかでは、松島氏は「小県郡」(北信濃)から箕輪
にやって来たとありましたので、その辺の過程を調べたいと思います。

 これから、冨永氏のところへいきますので、また中断いたします。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月10日 21時00分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、冨永氏との面会が実現し、歴史研究における新たなる人脈が開けた
こと、あをさまのおかげと感謝いたします。私にいつも深遠な歴史の知識と
興味と勇気を与えて下さり、それをバネにして私は毎日歴史探究を続けるこ
とができます。

 本日、冨永氏とお会いし、氏の得意とする松下之綱一族に関する質問をし
たり、また自分自身の持つデータや考えについてお話をさせていただきまし
た。冨永氏はフィールドワークもきちっとやっておられるので、説得力があ
りました。その話の中で、3点ほど新たな情報を得ることができました。そ
れは―
 @松下之綱には、系図に載らない側室も何人かいたということ(これは他
  の武将・旗本・大名にもいえるのかなと思いました。系図に載っていな
  くても落胆することはないと勇気が出ました)。
  それは、冨永氏が松下氏の本を出版してみて、予想もしない所の人から
  之綱の子孫ですがという電話があった。訊いてみても系図には載ってい
  ないが、之綱の領地がどこどこにあってそこに住んでいたというような
  説明がされたということであります。
 Aその松下之綱の子孫さんからの話ですが、之綱は「神ヶ谷」に領地を持
  っていたという(これは正に神ヶ谷の松下家と之綱を結ぶ証拠となります)。
 B服部中保次は細江の刑部で暗殺されたのですが、現地にも松下一族がい
  て、言い伝えを聞いていて、中保次は神ヶ谷から馬に乗って来たと伝わ
  っているということでした(これは、両サイドの松下氏と中保次がつなが
  っているということを暗示させるものであります。)
これによって、神ヶ谷の松下家が之綱一族である確率がますます高まりま
したし、松下家へ服部家から入り婿がいくつかなされ、松下家の家紋が「丸
に並び矢」になった可能性が大であるということを今は強く思っています。

 帰り際、冨永氏より新しい出版物『築山殿と徳川家康 徳川氏の謎と伝説』
をいただきました。また内容については改めてご報告いたします。

 さて、山下家の系図関係に戻りますが、本日日中は真夏日となり、いささか
体も頭脳も疲れて来ておりますので、明日以降に続きを書くことにいたします。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月10日 21時56分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


もう暑くなりましたか。
熱中症にはお気を付けくださいね。



>『箕輪史』のなかでは、松島氏は「小県郡」(北信濃)から箕輪にやって来たとありました


この「小県」と「東筑摩」って直ぐ近くですよね。

そうすると松島氏と麻績服部氏も近くだった、ということになりますか。


     でも土地鑑は無いので
     どのぐらい物理的に近いのか、どのような心理的近さなのか、などは
     まったく分かりません。



やはり現場に行かないと地図帳やネットからでは隔靴掻痒、二階から目薬でしょうね。


    いつか小県や麻績にも行けると良いですね。
    川中島=横田河原の戦いの場も一緒に見られると記念にもなりますし。


本当にどこから来たのでしょうね。



力があればそれだけ  土地も女も  手に入りました。

    現代でも家が1件だけしか登記できない人が普通で
    力のある人はアチコチに不動産を所有してますよね。

    力は無くても顔の良い男は高校生あたりで子供がいたりします。
    アメリカで驚いていましたら最近の日本でも子供のいる子供がいるようで(笑)そんなもんです。


    わたくしの先祖でも数えの17歳で男子が生まれていますから
    ひょっとすると女子はもっと若い時に生まれていたのかも知れません。



戦国時代に生きた松下之綱に土地も女も1つだけの記録というのは逆におかしいと思います。

また当時は実子でなくても養子養女というのもありました。


         本当にアチコチに関係者がいて当たり前と思います。



>冨永氏より新しい出版物『築山殿と徳川家康 徳川氏の謎と伝説』をいただきました

ラッキー!
良かったですね。

ご報告、楽しみにお待ちしますね。



山下家の系図についても、しっかりお休みになってから、ごゆっくりどうぞ。


    わたくしのほうは  藤原智常  をどこで見たのか未だに探せずにいます。
    恥
    それで考え直しができないでいます。
 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月11日 08時54分53秒 ) パスワード

68と69の書き直しです。




M氏家譜を読んでいます。捜しているのは藤原智常です。まだやってます。汗


いろいろ謎だらけです。

   例えば  
   里見八犬伝と家紋のページが右にあって
   その左のページに不思議なことが書かれています。



        宗忠子左近流也天文10年生=1541年

             これは忠吉さんのこと?
             そうすると忠吉さんは「左近さん」の玄孫?


             忠吉さんも実は高祖父・左近系の家から一族の家へ養子に行った?


     永禄11年生まれ=1568年生まれの「対助さん」の実父がゴチャゴチャしてて、
     源右衛門と源左衛門の関係がワケ分からないです。誤記?



     「対助さん」は忠吉さんの家へ養子に行ったものの後妻さんに子が生まれ
      後妻の子が継ぐことになったので



      対助さんは財産を等分に分けてもらって
      宗家?=左近さんの家?=忠吉さんの分家?
      を始めることになった?


      もともとが忠吉さんは左近系の出身なので
      対助さんが左近の家を再興する?または左近系の家を始める?のは
      忠吉さんの家でもあるので、全く問題が無かった?


      で、対助さんが分家したのは寛永4年1627年で
      この時、対助さんは   59歳の年だった  ?


      神主になった?
      中善地を貰った?


このM氏家譜は対助さん=右衛門宗吉から改めて始まった系図。

 



疑問2つめ。


       自寛永4年迄嘉永元年225年

      寛永4年=1627年から  嘉永元年=1848年まで  225年(ちょっと数字が合わないけど)


これは何の話でしょう?
恐らく対助さんの家が正式に分家になった?対助さん59歳の時から
新たにヨソから養子を迎えるまで225年=222年年対助の血が続いた
ということでしょうか?


      また読み直さないと勘違いしているかも。


ということで対助さんの養子問題は
養父の実家である左近の家も含めて
養父の継いだM氏の家の分家という2重に関わる継ぎ方で決着したのかも。

あ〜
ややこしかった〜
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月11日 09時02分37秒 ) パスワード

この対助さんの家は茂岡さんが継ぐけれど親戚なんですよね。
同じく源氏。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月11日 10時08分09秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101449_1.html
続きはこちらへどうぞ。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月11日 13時19分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あの系図に書いてある文言は、かなり略した書き方のようであるので、
主語・述語の関係、主・客の関係が、簡単には理解できません。相当の
資料の補強が必要でありますが、敢えて私なりに「推理」してみました。

<推理>
1.松島家の元祖は「松島右衛門尉宗忠」である。1400年代前半の生
 まれである。
  その子に「松島左近」と「松島忠兵衛源宗茂」がいたが、家督は事情
 があって弟の「宗茂」が継いだ。
  「宗茂」から数えて4代後の「松下右衛門源眞茂」に、35才の時に
 できた子と、37才の時に生まれた子「対助」がいた。
2.一方、元祖より家督を継がなかった「左近」の系統は、「左近」から
 数えて4代後の「松島源右衛門源忠吉」の時までに、かなりの財をなし
 たが、「忠吉」夫妻に子供ができず、請うて元祖より家名を引き継ぐ
 「対助」を養子に迎えた。「対助」の父「松島右衛門源眞茂」には次男
 がいて、八幡寺の住職となっていた。
3.しかしながら、「忠吉」の弟に「源左衛門」がおり、そちらに実子が
 生まれたので、血脈を残すことを優先し、「対助」は養父を初代として
 分家することになった。従って養父の弟「源左衛門」が「対助」の抜け
 たあとを継ぐことになった。その時に市野の代館官市野惣太夫が仲裁を
 行い、財産は2等分とした。
  以後、「源右衛門」家と「源左衛門」家は兄弟分かれの2家になり、
 以後現在に至っている。

 これが、私の推理力を駆使したストーリーです。たたき台といってもい
いかもしれません。 
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月11日 21時30分15秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

1・2・3
そういうことでしたか。


特に  3  は全く読めていなかったどころか  文字が見えてもいなかったです。

     「忠吉」の弟に「源左衛門」がおり、
      そちらに実子が生まれたので、血脈を残すことを優先し、
     「対助」は養父を初代として分家することになった。
      従って養父の弟「源左衛門」が「対助」の抜けたあとを継ぐことになった。


これは100%見えてもいなかったです。

     なんで「源左衛門」が突然出て来るの?と。



我が家の家訓は家系を複雑にしてはならないというのがあるので
全く脳の中に無かったです。

     3  の「対助」は養父を初代として分家することになった。
             これがやっと理解出来た段階でした。



やはり1人では何度読んでも風穴は開けられないですね。
ありがとうございます。

三つ柏さんがM氏ゆかりだからこそ「読めた」ということですね。



ホント、系図や家譜は門外不出、というのが分かります。
   赤の他人にゴチャゴチャ言われたくないはずです。
   一族の中では分かっていることなんですから。


あ〜
すっきりした。


    ありがとうございました。

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