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 投稿番号:101393 投稿日:2014年10月19日 12時27分28秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について18

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様からの御教示により、私の知識もどんどん向上(?)しています。

本当にありがとうございます。

これからも、どうかよろしくお願い致します。

「良峯師康」の記述もついに見つける事が出来ました。

通説にとらわれず、しっかりと真実を追い求めていきます。

平川家について17より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101386_87.html

[2]子孫よりさんからのコメント(2014年10月19日 17時18分32秒 ) パスワード

皆様・・・
中々ネットでは見つかりません(@_@。

というか、左近将監ってそもそも何なのだろう?と今、思いまして調べました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BA%9C

将監(しょうげん)
各1名〜10名 四等官の判官(ジョウ)に相当し、天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに、従六位上の官位相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。参軍、親衛軍長吏、親衛校尉、録事といった唐名がある。

(・_・)左近大夫という言葉はよく見かけます。
そう言えば平河の系譜にも「左近」という言葉がありました。
良峯左近少将義孝とあります。

何だか、沢山いらっしゃるみたいですね( 一一)左近大夫さんは・・・
見つけるのは大変かと思いますが、明日図書館はお休みなのであさって行って調べてみます。

相良家文書に「左近大夫殿」という記述があったので、今調べたのですが「北条時頼」を指していたようで、違いました。(__)

頑張ります(__)
[3]白石さんからのコメント(2014年10月19日 21時57分23秒 ) パスワード


彦火火出見命
若狭彦神社と市房神宮(若狭神社と同体)にまつられる祭神
市房神宮は 山幸・海幸とも祭神
天火明は海幸と教えていただきました。


若狭おばま「お水送り」〜(1)前奏である山八神事 2014.3.2 - Yahoo!ブログ
2014年3月5日 - @★若狭彦神社: 東大寺へのお水送りをする原因を作った張本人・遠敷明神こと若狭彦神 が祀られる神社。 .... 座敷は二つに分かれており、★内陣に当たる部分に、★「白石大明神」「 愛宕大権現」と書いた軸(ご神体)をかけ、右手に★阿弥陀如来座像を ...

★若狭彦神社について
★贏姓 高丘系図1 を検索(コピーして貼り付けてください。出ない時があります)

前にも書いたと思いますけど
18百済蓋鹵王妃眞華姫
その次が 武寧王斯摩(462-523)・・・★三島鴨神社に関わる人ですね。

葛城王朝 - 大阪府高槻市 鴨神社より
<ご祭神> 鴨氏の祖先の「鴨御祖(カモノミオヤ)大神」、即ち「加茂建角身命(カモノタケツヌミノミコト)」(天之御中主神から始まる天地創造時代の造化三神の一人・★神産巣日神の孫で、上加茂神社の別雷神誕生時の朱塗り伝説の祖神様)と、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命(後述)。

中略

<三島氏の台頭・県主と当社の社名変更> 「伊予風土記(713年)」によると、百済からの渡来人で★百済第25代「斯麻王(しまおう)」の部族が仁徳天皇のころ、最初に「津の国御嶋に座せり」とあり、また「続日本紀(711年)」別記では、それは「摂津の国・嶋下郡の三嶋鴨社なり」とある。即ち3世紀から4世紀にかけて鴨氏の有力部族となり、河内の「息長氏」とも連携して「御嶋」から「三島氏」となって統合支配し、その社名も「三島鴨神社」となったものといわれています。従って、当社は全国の「三島」の地名・社名の発祥の地でもあります。ご祭神は、イザナギ・イザナミノミコトの7番目の「山の神・大山積大神」を別名「和多志の大神(海の神)」としても奉じています。★(三島神ともいわれて★清盛ゆかりの神社)

※宮司・北川氏
北川姓は故郷の隣の集落にいて 私の同級生にもいて この人が また 少し色黒という記憶はあるけど 美人で 学校の運動会で 大原女のだんすのとき お大原女にして 飾りつけをした記憶があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて
46までスクロールすると★昭慶門院が出ます。

昭慶門院 とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 昭慶門院の用語解説 - 1270−1324 鎌倉時代,★亀山 天皇の皇女。文永7年生まれ。母は藤原★(法性寺)雅平の娘雅子。永仁(えいにん)元年内親王 となり,4年院号をあたえられる。★後醍醐(ごだいご)天皇の皇子世良(ときよし)親王の養母 。
※亀山天皇は両院並立のもとになる天皇ですね。
このあたりは 思い切り南朝方のもとのようにみえますが・・・
維新がなり 北朝系のはずの 明治天皇が南朝正統論をとなえられ、ご生母は平戸藩主の松浦氏の女子と中山氏の間の女子。平川も松浦系図のところにありましたよね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
脱線してしまいました。

しま のところを クリックすると扶余系図がでます。
30までスクロールすると 和朝臣・宅継・若狭彦神社神主がでます。

若狭彦神社をクリックすると 皇別・笠氏系図が出ます。
若狭 笠氏の始祖は、人皇第6代孝安天皇の曾孫★鴨別命の子小篠
ーーーーーーーーーーーーーーーー
高岡は 姓系辞典に にぎはやひ 子孫。
上の贏姓 高丘系図1では 山幸に関与する白石と関係してくる。神主としてだが。
うちの白石に高岡から養子に入る関係のもと? 

彦火火出見命よりでてくる話でした。
高岡系図は 他にも いろいろ 興味深い話がでてきます。

17に間違ってあげてしまいましたのでこちらに転記します。
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年10月20日 00時50分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

高丘氏・高岡氏。
伺ったご教示を確認した後に日本の苗字七千傑様の【高丘氏】姓氏類別大観を拝見いたしました。

高岡氏にも様々な系があるのですね。
しかし、「山幸に関与する白石と関係してくる」と言う事は、高岡氏の其々の系が繋がっていると言う事でしょうか?
興味が湧きますね(^・^)

所で「良峯師康」に関してですが・・
伊豆守師康(丹波)という方がいらっしゃいます。
年代的にもかなり近いかとは思いますが、「平河(良峯)」の師康と同一人物かどうかは確認できません。
日本の苗字七千傑様の【丹波氏】姓氏類別大観 を拝見致しました。
丹波 冬康 → 師康 → 兼康と続いています。
丹波氏は坂上氏と同じく後漢霊帝の後裔と言う事ですが、異説として天忍人命末裔[丹波国造]からの系が記述されています。

気になりまして、【尾張氏】《天火明命裔氏族綱要》を拝見致しました。

あらためて、【丹波氏】姓氏類別大観を拝見していたのですが、丹波師康と平河師康の関係はまったく解りません。違う可能性が高いかもしれませんが・・
ただ、一つだけ気になったのは、「師」がつくのはこの方だけですね・・(意味は無いかも知れませんが・・)
坂上氏と言えば、「中原清業」。丹波氏とは同族となる・・

これからも、「師康」という方を見つけたら、まず遡った系を確認していこうと思っています。
でも「師康」もろやす・・師奏・師泰・師安・諸康・・・と
以前伺ったように漢字の落とし穴には気をつけます(^・^)

では<(_ _)>(^・^)

[5]子孫よりさんからのコメント(2014年10月20日 07時13分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメントを書いた後、「丹波氏」と「良峯」の関係は?と考えまして・・
今朝、あらためて、確認していた所、ひとつ気が付きました。

良峯安世の子「良峯七郎晨直」の妻は「丹波氏」でした。
すなわち良峯衆樹の母は「丹波氏」となります。
良峯衆樹の子が良峯義方でその娘が良峯美子・・・・?

あっ!白石様がおっしゃっていた「良峯」は「劉姓」だとおっしゃっていた事と関係あるのかも?と思ってしまいました(^・^)

うんがっ!?・・・・・・・・(-.-)
ふぅ〜〜〜〜〜〜(-_-)・・・・(?_?)

と言う事は・・橘則光とも縁戚関係にあると言う事ですね。(また、橘!との声が・・しかしですね・・(?_?))
良峯衆樹は、母が「丹波氏(劉姓)」で祖母は「百済氏」か・・なるほど(-_-)

そして、丹波氏は・・・
丹波氏は坂上氏と同じく後漢霊帝の後裔
また異説では
天忍人命末裔。つまり天火明命裔となり・・・
天火明命は
『日本書紀』によれば、天火明命はアメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれている。 ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。 
また『先代旧事本紀』では、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。(ウィキより)

あれ〜っ??
もしかしたら丹羽氏との繋がりもあり、丹波師康が「良峯師康」だった・・と言う事はありえるのかな??

そうなると、平河とは関係がない別の「良峯師康」なのかもしれませんね・・??

と言う事で今朝は
「良峯七郎晨直」の妻は「丹波氏」でした。・・というお話でした。
では<(_ _)>(^・^)
[7]子孫よりさんからのコメント(2014年10月21日 08時14分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。(__)

コメント1は削除しました。
あの時は、かなり感情的になっていました。すみません。
先祖と同名の人物にやっと到達したか?と喜んではいたものの、どうして、こうも、全てが見えてこないのか?という苛立ちも出て参りまして・・

でも、人を悪く書くのは良くありません。
先祖に関係する方々も、理由があり「隠ぺい」が行われた事は理解できますので。
全ての先祖に関係する方々に「ごめんなさい」です<(_ _)>

以下はコメント1の修正版です(・_・)

前スレッドで見つける事が出来た「良峯師康」の名が記載されている
史料大成: 平戸記第2 , 三長記, 第 25 巻です。
http://books.google.co.jp/books?id=E3ia9ES0FVoC&pg=PT110&dq=%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%B8%AB%E5%BA%B7&hl=ja&sa=X&ei=BOhCVOepCOTXmgX66YKYDw&ved=0CB4Q6AEwAA#v=onepage&q=%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%B8%AB%E5%BA%B7&f=false

そして役職?ごとの記述です。金刺盛高で気が付きました。
石井進著作集 より
するとここで『信濃史料』補遺上で紹介された金刺盛高の記事が連想されます。すなわち寛元三年二二四五)五月八日、金刺盛高が成功によって刑部丞に任じられたのです(『平戸記』)。これは弟にあたる三郎盛経^四郎盛頼らの左衛門尉,兵衛尉任官より数年 ...

金刺盛高は「刑部丞」の名の付いた方のリスト?中に名前がありました。
寛元3年5月8日・・合っています。

「良峯師康」は左近将監の名がついた方のリスト?中に名前があります。
寛元3年5月8日に左近将監に任じられた人の中に「良峯師康」が確実にいる!と言う事ですね!

平戸記について
平戸記(へいこき)は正二位民部卿平経高が記した日記。「経高卿記」とも。平姓と民部卿の唐名「戸部尚書」を書名の由来とする。内閣文庫に22冊が所蔵されており、史料大成にも収録されている。経高の自筆本は消失してしまっており、現存するのは写本のみである。写本はいくつか存在するが、南北朝時代に成立した伏見宮本と呼ばれる写本が最も信頼性が高いとされる。
現存する内容は嘉禄3年(1227年)から寛元4年(1246年)までをカバーしている。欠落が多数見られ、記述は断片的であるものの、鎌倉時代前期の時代の流れを描いた史料は少なく、価値は高いとされる。経高が民部卿に就任した直後の記録が、最も保存状態が良好である。
経高の広汎な知識が反映され、控訴制度に関する深淵な記述が多く、鎌倉時代の法の研究に役立っている。「吾妻鏡」をはじめとする他の史料が欠損している年代も補填しており、交渉をはじめとする公武の関係に関する記述も豊富であるため、鎌倉時代初期の京都の朝議や政局、朝廷の視点から見た幕府などを検証、研究するための史料としもて重宝される。

※「吾妻鏡」をはじめとする他の史料が欠損している年代も補填しており、交渉をはじめとする公武の関係に関する記述も豊富である
※嘉禄3年(1227年)から寛元4年(1246年)までをカバー

(゜-゜)あと、コメント6も削除します。
祖父の仕事はきっと何か重要な任務であった可能性もありますし、デリケートな問題もありますので。(__)

以下は修正版です。

後漢 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2

諡号「霊帝」姓名は「劉宏」と言う事を勉強いたしました。

宏という文字は、とても親しみのある文字です。

=============================================

ところで、丹波師康と言う方は、時間軸から推測するに、おそらく、平戸記に記載されていた「良峯師康」とは別人ではないかと思われます。

ただ、丹波氏について今回、勉強をする事が出来ました。

「丹波氏」について興味を持った理由が実はありました。
私の実家の蔵(今はもうありません)の中に変わった道具があったからです。
子供の頃、こっそり、ママゴトに使って、祖母に見つかり、叱られていました。
数年前に人気のあったドラマ「JIN」で薬の調合を行う道具?を見たのですが、すごく似ていて、きっと同じような用途に使われていたのだと気が付いたのです。
他にも、何に使うのか解らない道具が色々、蔵にあったのですが、私にとってはママゴトの道具でした。

「丹波氏」が医療に携わる家系だと知って「あれっ?」と思ったのですが、今、冷静に考えると、私の高祖母は相良氏の医師であった永田家から平川に嫁いで来られていたので、高祖母の嫁入り道具?を私の祖母が宮原に持ってきたのかな?と推測しました。
(そして、受け継がれたものが、私のママゴト道具へと変貌を遂げた・・(ー_ー)!!)

と言う事で、今後も地道な調査を頑張ります(^・^)
では<(_ _)>(^・^)
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年10月21日 23時38分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

今日は、図書館に行くつもりだったのですが、雨が降ってしまい、メイの事もあるので、外室を控えました。

そして・・・
色々調べていた時に、意図もせずに検索にかかって出て来たのがこちらの文章です。

「鎌倉幕府行列の成立と「随兵」の創出」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/namekawa.pdf
ページ番号333 スクロールバーを下げると ナンバーが5と表示されるページに
「第三節行列の役割としての「随兵」の定着」という表題があり、〔史料5〕『兵範記』嘉応元年(一一六九)三月十三日条
についてが記載されています。

漢文なので転記させて頂きます。

第三節行列の役割としての「随兵」の定着

前節で明らかにした「行列の役割としての『随兵』 」は、 春日祭行列以外の行列にも見られ定着していくことになる。

〔史料5〕 『兵範記』嘉応元年(一一六九)三月十三日条
十三日己巳天晴。上皇令レ参二詣高野山一給(中略)
次移馬居飼六人、舎人六人〈萌木狩襖袴、山吹衣〉 、
御随身左近将曹中臣重近〈麹塵襖、末濃袴、野矢、毛沓〉 、
右近将曹秦兼頼、左府生同兼国、
右府生同近文〈濃蘇芳打狩襖袴、付銀文〉 、
左番長秦公景、右番長中臣近武、
次御車、唐車、々副八人、著柳狩襖袴一〈面布白文如レ紗〉 、
上皇御烏帽子〈平礼〉(中略)
次右宰相中将宗盛卿〈唐綾紺青丹狩襖、 同浅木指貫、 紅浮文織物衣、帯二野剣一〉
次蔵人左衛門権佐経房〈衣冠毛沓、狩胡籙、其外儀如レ例〉 、
次典薬頭丹波重長、
次右衛門大夫尉源重貞、同源為経〈以上布衣〉 、
 左衛門尉能盛、師高、知実〈以上廷尉、皆布衣〉 、
遠江守信成、駿河守為保、石見守為行、
左衛門尉惟宗、信房、以下々北面下臈十余人、
次蔵人所衆、内舎人、之懸水供奉、
次御厨子所、次御衣櫃、次武者所輩、
次摂政殿(中略)
次随兵宰相中将五十騎、次検非違使等、
御行出二御法住寺殿西門一、 経二川原一、 自二七条一西行、 自二東洞院一北行、自二六条一西行、自二朱雀一南行、著二㿌御鳥羽北殿御所一云々。

とここまでを転記させて頂きました。

「師高」という名はおそらく藤原師高かと思いました。
藤原師高の記述は事件以外はあまり見かけないので偶然ですが、目にする事が出来ました。

所で・・・
徳大寺実春と平河との争論の際に「貞永元年九月十一日 領家方所進 師長等良署状案 1通」が提出されたお話は以前コメントさせて頂いていました。

藤原師長との関係は徳大寺家を通じての事かと思っていたのですが・・

かなり具体的な繋がりを見つけました。

やはり、須恵小太良こと藤原家基が関係しているようです。

藤原家基は 父:藤原家光 母:藤原知家の娘・・藤原知家(父:肥後守藤原長綱)
子息 「知家」 「中務少輔 伊綱」「家綱」

藤原家基の子息「藤原家綱」の娘は 藤原師長の妻です。

藤原師長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%95%B7

系譜[編集]
父:藤原頼長
母:源信雅の娘
妻:藤原頼子 - 藤原顕頼の娘(後、離縁)
妻:藤原成親の娘
養子:藤原成宗 - 実は藤原成親の子(正妻の同母弟)
妻:藤原家綱の娘
男子:藤原師良
妻:徳大寺公能の娘
男子:長覚
生母不明
男子:藤原師妙
女子:粟田口忠良室

※妻:藤原家綱の娘 男子:藤原師良 こちらです。
「師良」の名は平河の系図にもあります。

「師高」 → 「師貞」 → 「師良」となっています。
ですから、以前より、藤原師長の子「師良」という方は気になってはいたのですが、まさか・・須恵小太良こと藤原家基の曾孫とは思いませんでした。

ちなみに
妻:藤原成親の娘
養子:藤原成宗 - 実は藤原成親の子(正妻の同母弟)
お解りの通り
藤原成親は藤原家成の子息。
鹿ケ谷事件によって亡くなりました。
妹・経子が平重盛の妻
娘はのちに平重盛の嫡子・維盛の妻

そして
妻:徳大寺公能の娘
男子:長覚
こちらもお解りの通り
徳大寺公能 → 実家 → 公国 → 徳大寺実春。
一応系図では
平河師良 → 師時・良貞となっていますが、師時と良貞が徳大寺実春と争論を起こしたと言う事です。

と言う事で、今日はあらためて
「領家方所進 師長等良署状案」に関係した「藤原師長」の子息には
須恵小太良こと藤原家基・藤原家成の子藤原成親・そして徳大寺公能が繋がっていたと言う事が解りました。

では<(_ _)>
[9]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 07時01分51秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメント誤記がありました。
お詫びして訂正させて頂きます。(__)
藤原家基は 父:藤原家光 母:藤原知家の娘・・藤原知家(父:肥後守藤原長綱)
子息 「知家」 「中務少輔 伊綱」「家綱」

と書きましたが、父:肥後守「藤原義綱」の間違いです。すみません。
正確には
藤原家基は 父:藤原家光 母:藤原知家の娘・・藤原知家(父:肥後守藤原義綱)
子息 「知家」 「中務少輔 伊綱」「家綱」

となります。(__)

では<(_ _)>
[10]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 08時09分00秒 ) パスワード

追記

とても気になる事があります。

「知家」という名前についてです。

須恵小太良こと藤原家基の母は、藤原義綱の子である「筑前守藤原知家」の娘。
藤原家基の子にも、祖父と同名の「知家」

そして・・富樫氏にも「知家」があります。
実は以前、平川家について17のコメント20で富樫氏について調べた時に以下のような記述がありました(-.-)
「泰家は、家春に家を譲り秀衡のところに留まり食田を与えた後、庄九郎を生み姓を前野と改めた。七世の長康に至っては尾張の羽柴秀吉に招かれ、名を喜太郎勝左衛門と改め、尾張に住し子孫は豊臣、徳川に仕へ前野家を相続した。尾張の富樫氏の祖である。
泰家の子泰景は、出羽の富樫氏の祖となる。某氏は能登七尾市光徳寺の富樫氏の祖となる。
その子繁家は、三河守山川の祖となる。知家の子に元家あり、景家は額氏の祖となる。」
※知家の子に元家あり

あらためて、日本の苗字七千傑様の《富樫氏》姓氏類別大観を拝見したのですが、富樫家経の子?に「知家」があります。

富樫氏は藤原師高の事を「富樫氏の一族」と呼んでいました。

名に拘ってはいけない事は、今までの御教示でしっかり理解はしているのですが・・
「知家」という名をあまりにも見かけるもので?となりました。

※須恵小太良こと藤原家基の母は、藤原義綱の子である「筑前守藤原知家」の娘。
藤原家基の子にも、祖父と同名の「知家」
★藤原家基の叔父「尋覚」が本来、平河師高が地頭に補任されるはずであった小値賀島地頭職に補任された。

※富樫家経の子に「知家」
★富樫氏は藤原師高を富樫氏の一族と呼んだ・・

何度も言いますが、名前に拘ってはいけないのですが・・
何故か「知家」と言う名がマーク?のように見えてしまうのですよね・・・

日本の苗字七千傑様より「偶然です!」とお叱りを受ける事は覚悟の上でコメント致しました。
では<(_ _)>
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 11時11分33秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年05月17日 07時58分18秒
[12]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月22日 12時58分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>何故か「知家」と言う名がマーク?のように見えてしまうのですよね・・・
 
「知家」と言えば八田(藤原)知家が有名で中原閨閥関連だが?
むしろ拘るのなら「師」の通字でしょ?
西光の本名が何故、師光なのか?
光は麻績家の通字だが、師は?
ヒントは縁戚の藤原信西でしょう。
中原氏は外記の世襲官僚で少納言の管轄。
少納言信西とは関係深く、その関連で中原氏の通字が入ったのでは。
中原氏は明法家としても鎌倉幕府中枢部を取り仕切った。
徹底的に中原氏との関連調査が必要なのでは?
これが解ければ、良峯氏は西光の後裔になるが。

[13]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 19時57分02秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
八田(藤原)知家。
実は偶然かな、今日、中津に用事で出かけて、豊前上毛町を散策してきた所です。
あの・・実は平河との繋がりではないのですが、「宇都宮氏」に関係する情報を見つけてはいたのです。
でも、これが、橘に関係する事だったのであえてコメントしていませんでした。

また、橘とおっしゃらないで下さいね(@_@。一応書かせて頂きます。

橘敏政の子、橘則光の兄弟、橘行平の系なのですが・・
橘行平の子橘行頼の橘系図に(拾遺作者。有子孫薬師寺)とありました。

薬師寺?と気になりまして、色々調べたのですが、やはり、
橘行頼
橘行平の男。拾遺作者。永延2年(988年)7月の「藤原実資邸歌合」にその名が見える。子孫に薬師寺あり。
http://tatibanaya.web.fc2.com/sub2b.html#toshimasa

と記述されていて、「薬師寺氏」を日本の苗字七千傑の《小山氏》 姓氏類別大観から《藤井氏/薬師寺氏》へ進んで拝見していました。

そして、このような記述を見つけていました。
新修蕨市史: Kodai, chūsei
従来公義の出自は、『尊卑分脈』、『系図纂要』などを根拠に、「秀郷流藤原氏」とされ、小山長村の子政村が薬師寺氏を称したのに ... 岡本文書」では「薬師寺橘」と署名していること、『作者部類』の一写本に「薬師寺元可橘範隆子俗名公義次郎右衛門尉加賀守」と ...

※小山長村の子政村が薬師寺氏を称したのに ... 岡本文書」では「薬師寺橘」と署名していること
※「薬師寺元可橘範隆子俗名公義次郎右衛門尉加賀守」
★こちらは《藤井氏/薬師寺氏》姓氏類別大観で拝見していました。(・_・)

しかし・・
小山長村の子政村が薬師寺氏を称した・・「薬師寺橘」と署名
公義より4代前ですよね・・?
上記の橘の系「薬師寺氏」の祖が先ほど書かせて頂いた
「橘行平の子橘行頼の橘系図に(拾遺作者。有子孫薬師寺)」
と繋がっていくのでしょうか?

小山朝光の妻が「寒河尼(八田宗綱の娘)」で寒河尼は八田知家の兄妹。
小山政村は小山朝光の玄孫・・

何だかとても???です。
でも、これは平河ではなく橘行平の子橘行頼の系なので関係ないですし・・でもこちらも「良峯義方」とは繋がっているので・・・?
となりました。

もうひとつお叱りを覚悟で(@_@。
平川家について17コメント71でお話をした件なのですが・・
橘季通の娘は藤原氏長良流 藤原中清の孫「藤原清家」の妻です。・・というあの件なのですが・・実は続きを調べていました。
先日は以下の所までを調査していました。

藤原永雅の母が橘季通の娘となります。
藤原中清 → 範永(母:藤原永頼女) → 清家(加賀守 母:但馬守藤原能通女) → 永雅(母:橘季通女) → 範綱(本名永綱。母:肥前守藤原成季女)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara7.htm  

で実はここから先があります。
橘を称した藤原成季。橘光季の養子。
藤原成季について調べたのですが
藤原成季の妻は「大江広経の娘」 ふたりの子供が「永実」
「永実」の妻は肥後守中原師平の娘でした。
永実の子供が「永範」(母:中原師平の娘)。永範の妻が大江行重の娘。
永範(母:大江行重の娘)の子供が光範。
光範の妻が清原頼業の娘。
藤原成季(妻:大江広経の娘) → 永実(妻:肥後守中原師平の娘) → 永範(妻:大江行重の娘) → 光範(妻:清原頼業の娘)
と上記が橘光季の養子となった藤原成季の系です。

藤原季綱と橘を称した藤原成季(橘光季の養子)は兄弟。

※源仲政と藤原永雅(母:橘季通女)はふた従兄。

またまた、橘!とお叱りをうけるのは覚悟で書かせて頂きました。

平河の情報で本当に必要な繋がりが何故か?こちらにあるのです。

でも、(ー_ー)!!これはこれ!
しっかりと地道な調査をがんばります。

では<(_ _)>
[14]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 22時22分04秒 ) パスワード

皆様・・・まだまだありました(-.-)

先ほど橘光季の養子「藤原成季」の系をお伝えしましたが、こちらの系と須恵小太良こと藤原家基は繋がっていました。

藤原成季(妻:大江広経の娘) → 永実(妻:肥後守中原師平の娘) → 永範(妻:大江行重の娘) → 光範(妻:清原頼業の娘)

では、ご説明を(-.-)

平川家について17コメント75で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101386_89.html
球磨の須恵小太良こと藤原家基の母と、平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」は従兄妹です!
とお伝えしました。
転記します(__)
藤原家基の母が「藤原知家の娘」
藤原知家は「肥後守藤原義綱」の子。

「池禅尼」の父「藤原宗兼」の母は・・「肥後守藤原義綱」の娘です。
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara1.htm

すなわち藤原家基の母と藤原宗兼は「いとこ」。
球磨の須恵小太良こと藤原家基と池禅尼はふた従兄妹となります。
============================================

(・_・)そして・・こちらの系と藤原成季の孫「永範(母:中原師平の娘。妻:大江行重の娘)は繋がっています。

平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」の兄弟「藤原良兼」。母は宗兼と同じく「肥後守藤原義綱」の子。
藤原良兼は池禅尼の叔父にあたります。
藤原良兼の子供に「信兼」。この方の母は藤原行家の娘です。
そして「信兼」の妻が藤原成季の孫「永範」の娘です。
すなわち「藤原信兼:(妻藤原成季の孫「永範」の娘)」と池禅尼と須恵小太良こと藤原家基はふた従兄妹の関係です。
「信兼」の子供が「範良」

藤原良兼(母:藤原義綱の娘) → 信兼(母:藤原行家の娘) → 範良(母:藤原永範の娘)※藤原永範の母は中原師平の娘。なおかつ藤原永範の妻は大江行重の娘。永範の子「光範」の妻は清原頼業の娘。

「藤原信兼」と「池禅尼」と須恵小太良こと「藤原家基」はふた従兄妹だった・・
「藤原信兼」の妻は藤原永範の娘。

と言う事が解りました(-.-)
では<(_ _)>
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年10月22日 22時49分44秒 ) パスワード

追記します。
藤原成季の孫「永範(母:中原師平の娘。妻:大江行重の娘)」

藤原永範の祖父は中原師平。
中原師平の孫が中原師元。
中原師元と藤原永範は従兄弟の関係になります。

そして中原師元の子であり平清盛の養子となった「平清貞」(中原清貞)
「中原清貞」・・・同名の「中原清貞」は坂上重盛の子息であり乳夫主計允「中原定清」の養子。中原清業の父でした。
「中原師元」と坂上重盛の子息であり中原清業の父である「中原清貞」の関係は未だ調査していませんでした。

しかし・・・私が見つけた全ての情報は偶然なのでしょうか?・・・
では・・・(__)
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年10月23日 01時06分45秒 ) パスワード

皆様、只今、真夜中です。
私は、本当におまぬけです。(@_@。
自分で、自分のおっちょこちょいに悲しくなります。

とてつもなく重要な事を見逃していました(@_@。

西光の養父である藤原家成の母は藤原宗子。
藤原宗子の父は藤原隆宗。母は・・肥後守藤原義綱の娘です。

すなわち藤原家成は藤原義綱の曾孫となります。

藤原家成の母、「藤原宗子」
平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」
藤原信兼(妻は藤原成季の孫「永範」の娘)の父「藤原良兼」
この方々は兄妹で、母は藤原義綱の娘。

そして須恵小太良こと藤原家基の母は藤原知家(父:肥後守藤原義綱)の娘。

皆・・繋がっていました。

整理します。
===============================================

※橘光季の養子「藤原成季」
※藤原成季の孫「藤原永範」(母:中原師平の娘。妻:大江行重の娘)
※藤原信兼(妻:藤原永範の娘)と 平頼盛の母である池禅尼 と 須恵小太良こと藤原家基 そして 西光の養父「藤原家成」 は 全員が「ふた従兄妹」

と言う事がわかりました。
では<(_ _)>
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年10月23日 13時42分39秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

昨日のコメント17は間違っています。
須恵小太良こと藤原家基の繋がりは外して下さい。(まだ、もっと深い真実がありそうですが・・)

巧妙な罠?にひっかかってしまってました。(罠じゃなくて私がおっちょこちょいなだけですが・・でも、実際にその罠にひっかかっている情報を実は読みました。(ー_ー)!!危ない危ない)

肥後守 藤原義綱は小野宮家流 藤原資平の子「藤原義綱」です。
日本の苗字七千傑様の【藤原氏実頼流】姓氏類別大観をじ〜〜〜〜っと見ていて気が付きました(-.-)

そして実際には肥後守 藤原義綱は藤原資平の子ではなくて延円の子。
延円
延円(えんえん、生年不詳 - 長久元年(1040年))は、平安時代中期の僧、絵師。権中納言・藤原義懐の次男。父とともに比叡山飯室の安楽律院に住したことから飯室阿闍梨とも称される。
※延円は絵師。・・・・・・絵師を調べなさいと以前先祖様に言われたような・・?(マタマタ(ー_ー)!!との大合唱が!)
※藤原義懐の次男
藤原義懐は
父:藤原伊尹
母:恵子女王 - 代明親王の娘
妻:藤原為雅の娘

平河の系を記載した文書にあった「藤原義孝」とは同母兄弟でした。
妻:藤原為雅の娘・・ありゃっ?!
藤原為雅 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E9%9B%85
藤原 為雅(ふじわら の ためまさ、生年不詳 - 長保4年(1002年)頃)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、中納言・藤原文範の次男。官位は正四位下・備中守[1]。長良流で、備中守などを兼任した。
系譜
父:藤原文範
母:藤原正茂の娘
妻:藤原倫寧の娘
男子:藤原中清 - 内匠頭正四位下
男子:藤原中規
男子:延妙
女子:藤原義懐室
女子:藤原景斉室

\(◎o◎)/!藤原義懐の妻であり、延円の母である女性は・・
藤原中清の兄妹です。

※橘季通の娘は藤原氏長良流 藤原中清の孫「藤原清家」の妻
藤原中清 → 範永(母:藤原永頼女) → 清家(加賀守 母:但馬守藤原能通女) → 永雅(母:橘季通女) → 範綱(本名永綱。母:肥前守藤原成季女)

藤原成季は橘光季の養子となり・・
藤原成季の孫「藤原永範」(母:中原師平の娘。妻:大江行重の娘)

\(◎o◎)/!そして
藤原家成の母、「藤原宗子」
平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」
藤原信兼(妻は藤原成季の孫「永範」の娘)の父「藤原良兼」
この方々は兄妹で、母は藤原義綱の娘。

肥後守 藤原義綱は藤原資平の養子。実の父は延円。
延円は藤原義懐の子で「藤原義孝」とは同母兄弟。

肥後守 藤原義綱の曾孫は
藤原信兼(妻:藤原永範の娘)と 平頼盛の母である池禅尼 そして 西光の養父「藤原家成」
全員が「ふた従兄妹」

藤原家成は藤原義懐と繋がっていたのですね・・・

後は、信西と中原氏とどう繋がるか?ですが・・・
実は、信西との関係は少しずつ、見えてきています。後ほどコメントします。

おっちょこちょいの私が「藤原義綱」の真実に何故気がついたのか?
(皆様はすでに気が付いて、あ〜〜この人間違っている(ー_ー)!!と思っていらっしゃったのでしょう(@_@。)

日本の苗字七千傑様の【藤原氏実頼流】姓氏類別大観をじ〜〜〜っと見つめたきっかけは、実は藤原義綱を見つける為ではなく「益田氏」が気になったからなのです。そして、偶然に「義綱??」・・はっ!!・・となりました。

そうか・・・益田氏とは同族なのですね・・・
この件は、まだまだ調査中なので、いつかコメント致します。

でも、間違えていてすみませんでした。
<(_ _)>
[19]子孫よりさんからのコメント(2014年10月23日 14時35分11秒 ) パスワード

では、早速 肥後守 藤原義綱と信西の関係を<(_ _)>

日本の苗字七千傑様の【藤原氏実頼流】姓氏類別大観で繋がりが見えます。

信西の父、藤原実兼の母は藤原通宗の娘。

藤原通宗は藤原経通の孫。
藤原経通と藤原資平(肥後守 藤原義綱の養父)は兄弟です。

一族なのですね。

何だか、もっと繋がっていそうですが・・それは後ほど・・
では<(_ _)>
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年10月23日 23時03分41秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

あの・・・・・妙な・・みょ〜なものをみつけたのですが・・・

中原氏との関係を探るべく、系図・書籍・ネット等を調査していて・・・
中原氏とは関係ないのですが・・全く気が付いていなかった事を見つけました。
まず、その不思議な記述の前にこちらのお話から(__)

藤原家忠の子として記載されている方の中に・・
「覚観」という方の名がありまして・・(?_?)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm
※覚観(三宝院伝法血脈による。号大将阿闍梨又云書写阿闍梨。勝覚弟子)

しかし平河宮内左衛門入道観覚・・は「北条重時」だったと・・?
偶然にも同名なのだな〜と思いながらも、兄?の尋覚は平河師高が補任されるはずであった、小値賀島地頭職に補任されたと言う事もあり、こちらの兄弟に「観覚」の名があった事がとても気になり調べました。

すると、このような記述を見つけました。
図書館だより第31号 - 高野山大学
http://www.koyasan-u.ac.jp/library/publications/tosyokandayori/pdf/dayori31.pdf
貼り付けがうまくいかないので、必要な部分を転記します。
伝授阿闍梨の覚寛 (覚 観 とも 記 す )は 、「 大 将 阿 闍 梨 」また は「 書 写 阿 闍 梨 」と 称 さ れ 、白 河 天 皇 の 御 子 で左 大 臣 藤 原 家 忠 に 養 わ れ たと い わ れ 、大 治 三年 ( 一一二八 )三 宝 院 の 開 祖 勝 覚 か ら 伝 法 灌 頂 を 受 法 し ま し た 。 證 阿 に ついては、この案文から@もと静暹と称していたこと、A覚寛から学法灌頂を受法したこと、の二つしか判りません。

※覚寛(覚観)は白河天皇の御子で左大臣藤原家忠に養われたといわれ・・

しかし・・・白河天皇の御子にそのお名前はありません・・?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

そこで、色々調べたのですが、このような記述を見つけました。
白河院の御子の僧侶達
http://blog.goo.ne.jp/sarvasattva/e/e387c7761e5b578a91d80ee661d94795
ピックアップして転記致します。
愛染明王と直接の関係は無いのですが、白河法皇との関連でその御子息の僧侶たちについて少し書いてみます。天皇家の詳しい系図を記した書物としては後小松天皇(1377―1433)の命を受けて洞院(とういん)満季(みつすえ)が編纂した『本朝皇胤紹運録』が有名ですが、他に『系図纂要』第一「神皇」も大変役に立ちます。『系図纂要』の旧版は写真製版のやゝ見づらい本でしたが、近年になって活字翻刻の見やすい本が出版され随分と便利になりました。
それらに依って白河院(1053―1129)の子息で僧侶になった方々を概観すると、仁和寺に覚行・覚法・聖恵の三法親王、寺門すなわち三井寺(園城寺)に行慶大僧正・円行法眼・静証阿闍利の三人であり、大変な偏りがあるのが分かります(他に系図に記載されていませんが醍醐の覚観阿闍利がいます)。
※醍醐の覚観阿闍利(系図に記載されていない・・)

おそらく、こちらが藤原家忠の子息として名があった「覚観」という方であったのでしょう。

(?_?)所がです!!
「覚観」という名を調べていて、コレマタ偶然にこのような記述を見つけてしまいました。(?_?)

ここからが・・最初にお話した「妙な?」記述です<(_ _)>

金峯山寺史
98 ページ
良峯系図」にせるべきことを、北条泰時,時房の連署でもって高野山に告げた。(以上、高野山文書.明月記による)至りであること、 ... 五曰、朝廷は高野山の覚観,証悟が数度の召しに従わないので空しく帰山した。吉野側の申状は蔵王堂の造営のため国をも寄せ...

727 ページ
九四勧進聖顏阿弥陀仏、金峯山寺洪鐘の龍頭を铸っぎ追銘する。また穴師寄進田の代として吉野郡薬師寺庄,葛上郡馬屋戸西 ...

※良峯系図」にせるべきことを、北条泰時,時房の連署でもって高野山に告げた。
※五曰、朝廷は高野山の覚観,証悟が数度の召しに従わないので空しく帰山した。吉野側の申状は蔵王堂の造営のため国をも寄せ...
※吉野郡薬師寺庄,葛上郡馬屋戸西

(・_・)北条泰時,時房の連署。そして「良峯系図」にせるべきこと?とは?
朝廷と「覚観」?

偶然なのですが、みょう〜な記述を見つけてしまった・・と言うお話でした。
では<(_ _)>
[21]白石さんからのコメント(2014年10月24日 07時20分01秒 ) パスワード

おはようございます。
昨晩 時間をかけてつくったコメントが 一瞬にしてどこかへとんでしまいまいた。
なので 
あいさつも そこそこに 短く つくって あげます。

3の 贏姓 高丘系図1につく昭慶門院
この方が 亀山天皇に関与してくる人がどうか?ですが
いろいろ 推考するとそうだと思います。
亀山天皇
  ||−−−−−−−−−−−−−昭慶門院
法性寺雅平女子・雅子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★ 雅平女子は従三位。亀山院女房中納言典侍。高倉局〔皇親系〕。昭慶門院母)

★藤原雅平は法性寺雅平

★法性寺は
現在の東福寺のある地域一帯は、平安時代中期の延長三年(924)に関白藤原忠平が氏寺として法性寺を建立した場所でした。代々の藤原氏は法性寺の造営に努め、平安末期の藤原忠通とその子兼実の頃に全盛期を迎えました。(★忠通は法性寺の傍に別荘を構え★「法性寺殿」、その子・兼実(九条兼実)は「後法性寺殿」と呼ばれました。)当時の法性寺は、現在の東福寺の約5倍という広大な寺域(南北は稲荷山〜東福寺周辺、東西は鴨川〜山科に至る)に多くの大伽藍を構えていました。


[22]白石さんからのコメント(2014年10月24日 15時44分53秒 ) パスワード

上は 書き方が間違えられやすいですね。
子孫13に出る 昭慶門院
に仕えた和泉局ととれる。
八条院領を主体とする安嘉門院領はその後、亀山上皇、後 宇多上皇、昭慶門院憙子内親王を経て、☆後醍醐天皇に伝わった。

このころの天皇の周りに いた。

[23]子孫よりさんからのコメント(2014年10月25日 02時15分42秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

平川家について13
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_91.html

美濃弓削田荘についての調査の流れですね(・_・)

頂いたご教示がヒントになりました。

まず、
★藤原雅平は法性寺雅平
法性寺家
藤原北家師通流。室町庶流。京極摂政師実から5代目家信の子雅平を祖とする。

昭慶門院
私は、平川家について13コメント9でこのような事を書いていました。(全く気が付いていませんでした(@_@。)
美濃国各務郡弓削田荘の本家は真如院と言う事でした。
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7347260&keyword=%B5%DD%BA%EF%C5%C4%C1%F1 (%C3%E6%C0%A4)

鎌倉期から室町期に見える荘園名美濃国各務【かかみ】郡のうち弓削荘ともいわれ,各務原【かかみがはら】市那加【なか】町に比定される荘園の成立期は不明初見は寛喜元年平光盛所領処分状案池大納言平頼盛の子光盛の所領で,後高倉院の時,新たにこの荘の加納をたて,子孫に相伝すべしとの真如院下文を得たとあるこの拡大ののち,本荘を嫡女安嘉門院宣旨局に,加納半分ずつをそれぞれ六女安嘉門院左衛門督局,七女同院内侍局に譲与加納は真如院領とある(久我文書)その後宣旨局は弓削田荘などを,久我通忠室に譲り,久我家に伝領またこの荘の本家は真如院で,嘉元4年の昭慶門院御領目録に,真如院領「弓削荘,加納」があり,聖護院宮が代々管領することになっていたまた同じ目録の美濃国々衙領の中に,中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」がある(京都大学所蔵古文書)弓削田荘の一部であり,久我家領観応元年8月の久我長通譲状写によると「弓削田本荘并加納」は,「不慮違乱所々」の1つに挙げられている(久我文書)建武4年8月,光厳院は弓削田本郷を大徳寺に知行せしめているこれは鎌倉中期以降,真如院・久我家の弓削田荘に対する不知行状態が続き,国衙領に帰属していた本郷が,新たに大徳寺領となったものである応安4年,寺用下行定文に「弓削庄京着土貢五拾貫文歟」とある(大徳寺文書)その後は不明であるが,文明7年の長塚宮の推鐘銘に,「美濃国各務郡弓削田荘佐良木郷長塚宮推鐘」とある(大日料8‐8)佐良木は現在の各務原市那加町...

※(@_@。まず・・・弓削田荘は美濃国でした。(すでに美濃との関係をここでコメントしていたのに「弓削田」という言葉ばかりに拘って完全に見過ごしていました)
※その後宣旨局は弓削田荘などを,久我通忠室に譲り,久我家に伝領またこの荘の本家は真如院で,嘉元4年の昭慶門院御領目録に,真如院領「弓削荘,加納」があり,聖護院宮が代々管領することになっていた・・・★昭慶門院御領「弓削荘,加納」
※また同じ目録の美濃国々衙領の中に,中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」がある
★「中御門前中納言」とは藤原家成。

上記の文章に藤原師実(家忠の父であり、橘俊綱の弟である)の末裔となる「昭慶門院」。
そして藤原家成の記述があったにも関わらず「久我家」に集中してしまい、大きな意味を見過ごしていたようです。

そしてもう一度「法性寺」についてですが・・
やはり、平川家について13コメント38で触れいていたのです。

平知忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%BF%A0
平 知忠(たいら の ともただ)は、平安時代末期の平家一門。平知盛の次男。母は治部卿局。
寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。
しかし建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。これらには諸説があるが、有力説は源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企み、平家の再興を図ったものと言われている。しかし幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。

★知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教(妻:西光の娘)のもとへ預けられた。
橘為教は他の書籍では「橘為範」となっていました。

===========================================
と・・
※平知忠は建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。・・

平知忠の母「治部卿局」の父は藤原忠雅。藤原北家花山院流・藤原忠宗の次男。
藤原忠雅は藤原家忠の孫であり藤原師実の曾孫でした。

それから・・
橘為教(為範)の妻は西光の娘。

ウィキの藤原師実の記述を読んでいて私、「橘氏」「藤原氏」について、ひとつ勉強致しました。
藤原師実 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F

以前は、読んでも意味が解らなくて、あまり興味がなかった(すみません(@_@。)官歴を、今日はじっくり読んだのですが・・
官歴 康平8年(1065年)
6月3日:従一位、右大臣に転任。左近衛大将は元の如し。
12月23日:橘氏是定宣下。

※橘氏是定宣下・・橘氏是定って何だろう??と思いまして調べました。

是定 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E5%AE%9A
是定(ぜじょう)とは、氏長者が推挙した者を従五位下に叙す氏爵において、その職務を他氏の人が代行すること。王氏と橘氏に見られる。

概要
王氏、源氏、藤原氏、橘氏の四氏は、氏族内から毎年、氏爵により叙爵する者を推挙することができた。源氏と藤原氏は氏長者がその権限を行使していたが、王氏は第一親王、橘氏は他氏の公卿が代行した。この権限は推挙する者を「是とし定める」ことから是定と呼ばれた。是定の奉書を是定宣という。

王氏
王氏とは諸王の集団のことだが、氏爵は王氏出身者ではない第一親王(親王の中で官位の最も高い者)が担当した。天暦7年(953年)の元平親王(陽成天皇の第二皇子)、長元4年(1031年)の敦平親王(三条天皇の第三皇子)は是定と呼ばれている(『権記』長徳4年 (998) 11月19日条、『小右記』長元4年 (1031) 3月1日条)。院政期になって法親王の制度が確立し世俗の親王がいなくなると、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川伯王家が氏爵を行うようになった。ただし白川伯王家は自身が王氏長者を称したことにより、是定とは呼ばれていない。宝徳元年(1449年)には氏爵の権限は再び第一親王に移り、王氏是定制が復活した(『康富記』12月11日条)。

橘氏
橘氏は永観元年(983年)に参議・橘恒平が没したのを最後に公卿が絶え、氏院(学館院)を管理する長者と氏爵を行う是定が分離した。『西宮記』に是定の語があることから、源高明が失脚する安和2年(969年)以前には、すでに他氏の公卿が橘氏の氏爵を代行する慣例が成立していたと見られる。『西宮記』は橘氏是定の具体例として「大納言源卿、右中将藤原卿、十五親王」を挙げている。前の二者は不明だが、十五親王は醍醐天皇の皇子・盛明親王と思われる。寛和年間(985年〜987年)に藤原道隆の外祖母が橘氏出身であったため、橘氏是定の地位は藤原北家が獲得した(ただし、源俊賢、源師房、源俊房、源有仁も是定に就任しているため、藤原北家が独占した訳ではない)。なお『西宮記』には是定は橘氏外戚の者が宣旨を賜って就任するとあるが、道隆以降の橘氏是定には橘氏と血縁関係のない源俊賢が含まれており、その原則は必ずしも遵守されていなかったことがうかがえる(『玉葉』安元3年(1177年)6月5日条)。
室町時代中期には六位蔵人の家柄であった橘氏の薄以盛が後花園天皇の近臣として昇進を重ねて享徳2年(1452年)に従三位(非参議)になったのを機に、是空は薄家が継承する事になった[1]が、江戸時代に入って断絶している。

※『西宮記』には是定は橘氏外戚の者が宣旨を賜って就任するとあるが、道隆以降の橘氏是定には橘氏と血縁関係のない源俊賢が含まれており、その原則は必ずしも遵守されていなかったことがうかがえる
(・_・)『西宮記』には原則として、本来は是定は橘氏外戚の者が宣旨を賜って就任するとある・・

(・_・)
藤原師実は
康平8年(1065年)12月23日:橘氏是定宣下。
と言う事ですね。

また、ひとつ、知らなかった事を勉強する事が出来ました。

あっ!!あああああああああlっつ!!
白石様!!しらいしさま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜\(◎o◎)/!

今、最後に白石様のコメントの
☆後醍醐天皇に伝わった。 このころの天皇の周りに いた。

この言葉がとても気になって後醍醐天皇についての記述を読んでいたのですが!
後醍醐天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

后妃・皇子女
後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357) - 洞院実泰女
皇子:玄円法親王(?-1348) - 一乗院
皇子?:最恵法親王 - 妙法院

妙法院・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/ああああああああああああああっ!!

最恵法親王 - 妙法院
後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357) - 洞院実泰女

この方は!
平川家について15 コメント59で調査していました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101367_88.html

@藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 藤原兼頼 → 藤原定兼・女子(洞院公泰母)
洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。

妙法院を調べました。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E9%99%A2

後白河法皇と尊性法親王[編集]
事実上、妙法院が日本史に登場するのは後白河法皇の時代である。後白河天皇は、在位3年足らずで譲位し、保元3年(1158年)には上皇、嘉応元年(1169年)には出家して法皇となった。この間、後白河上皇は譲位後の居所(院御所)である法住寺殿の造営を進め、永暦2年(1161年)からはここに住むようになった。ここで院政が行われ、また御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院=三十三間堂)が建てられたことは史上名高い(三十三間堂の落慶は長寛2年/1164年)。後白河上皇は永暦元年(1160年)、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、新日吉社(いまひえしゃ)とした(新日吉社は「新日吉神宮」として現代まで存続している)。この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。妙法院の門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

※この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。

※藤原忠成は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%88%90
藤原 忠成(ふじわら の ただなり、寛治5年(1091年) - 保元3年(1158年)10月)は平安時代後期の貴族。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。官位は正五位下・民部大輔。

父:藤原俊忠
母:藤原敦家の娘
妻:源季忠の娘
男子:藤原光能(1132-1183)
生母不詳
男子:藤原惟綱
男子:昌雲
男子:重慶
女子:徳大寺公能妾
女子:以仁王妾
女子:持明院基宗室

(・_・)男子:藤原光能 \(◎o◎)/!この方は!!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E8%83%BD

系譜の中には・・
妻:中原広季の娘
男子:中原親能(1143-1209) - 子孫は大友氏[2]
生母不明
男子:大江広元[3](1148-1225)

それに須恵小太良こと藤原家基と同名の「藤原家基」が・・

中原親能と大江広元の父「藤原光能」の兄弟が
新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命された妙法院の昌雲。

「妙法院」・・・

めちゃくちゃ、長くなりましたが
白石様、ありがとうございました<(_ _)>(^・^)
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年10月25日 15時58分16秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

コメント23で藤原忠成の子「藤原光能」と妙法院の昌雲、この方々について調べました。

日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観を拝見すると、武藤長頼そして那須氏・・見えています。

そして・・
藤原忠家の子藤原俊忠の兄弟?に「家光」と見えます。
さらに、昨日、藤原光能(俊忠の孫)のウィキの記述に「藤原家基」の名がありました。以前からこちらの「藤原家基」と藤原家忠の系にある「藤原家基」どちらが本物?の須恵小太良?だろうと考えていました。
なぜならば、平河を調べていると、何故かどちらにも繋がっていたからです。

でも・・・・この謎が解明できたようです!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
【藤原氏長家流】藤原忠家の系に見える「藤原家光」と藤原家忠の系に見える「藤原家光」は・・同一人物でした\(◎o◎)/!

ついに見つけました\(◎o◎)/!
こちらをご覧ください<(_ _)>
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara4.htm#ttop
御子左流系図 長家孫
こちらの一番下、脚注に
※家光は、実者修理大夫橘俊綱子で、尊卑分脈には藤原〔花山院〕家忠の子としても記載されている。忠家子の項では、正五位下・伯耆守。家忠子の項では、正四位下・ 伯耆守・母大納言源隆国女。

やった!!!
と言う事は・・? (・_・)(?_?)\(◎o◎)/!
藤原忠家 → 藤原俊忠 → 藤原忠成 → 藤原光能
\(◎o◎)/!ウィキの藤原光能の子の欄にあった「藤原家基」は・・
姻戚関係等で縁をもった藤原家光の子「藤原家基」の名である可能性がある??!!

【藤原氏長家流】藤原忠家の系に見える「藤原家光」と藤原家忠の系に見える「藤原家光」は・・同一人物。
だから・・だから・・平河を調べていてどちらの系にも繋がり、なお且つ、その事で私は混乱していたのでしょう。

あらためて、藤原忠家の子「藤原俊忠」の記述を読んでいました。
(今までの調査で、何度、この方の名が登場した事か・・・)
藤原俊忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BF%A0

系譜を見ていました・・(・_・)
※女子:藤原豪子 - 徳大寺公能室(実定母)・・公能の系に平河と争論となった「徳大寺実春」
※女子:藤原俊子 - 藤原顕長室(長方母)・・藤原長方の妻が「信西」の娘と藤原師高の娘。
※女子:藤原忠子(または俊子[2]) - 藤原顕頼室(光頼、惟方、成頼母)
藤原顕頼の母が「藤原季綱」の娘

(・_・)そして・・

藤原季綱 の子に
藤原実兼 - 信西の父 そして 藤原友実

藤原季綱の兄弟に
藤原成季 − 橘光季の養子

橘季通の娘は藤原氏長良流 藤原中清の孫「藤原清家」の妻であり・・
藤原中清 → 範永(母:藤原永頼女) → 清家(加賀守 母:但馬守藤原能通女) → 永雅(母:橘季通女) → 範綱(本名永綱。母:肥前守藤原成季女)
こちらの系も藤原成季とは姻戚関係。

さらに・・
西光の養父「藤原家成」の母、「藤原宗子」
平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」
藤原信兼(妻は藤原成季の孫「永範」の娘)の父「藤原良兼」
この方々は兄妹で、母は藤原義綱の娘。

肥後守 藤原義綱は藤原資平の養子。実の父は延円。
延円は藤原義懐の子で「藤原義孝」とは同母兄弟。

肥後守 藤原義綱の曾孫は
藤原信兼(妻:藤原永範の娘)と 平頼盛の母である池禅尼 そして 西光の養父「藤原家成」
全員が「ふた従兄妹」

他にも沢山ありますが・・・・

またまた、あらためまして・・・
藤原光能・・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E8%83%BD

気が付いたのですが・・こちらの記述には「系譜」ではなく「一族」と書いてあります!
男子:藤原家基

妻:中原広季の娘
男子:中原親能(1143-1209) - 子孫は大友氏[2]

母不明
男子:大江広元[3](1148-1225)

(・_・)
中原親能 
出自
明法博士・中原広季(貞親流・貞親の曾孫)の子で大江広元と兄弟であるとする説と、参議・藤原光能の三男で中原広季の養子になったとする説がある。後者は大友氏系図にあるものだが、親能が後に中原姓から藤原姓に改姓していることの反映と思われる。
※子 中原季時
※養子:大友能直、中原師員・・中原師員は「師貞」と表記した記述が多数残っています。

(・_・)
大江広元
平河との関係で言えば・・
建久八年閠六月の肥後の建久図田帳の一部とみなされる球磨郡田数領主等目録写(「相良家文書」)に
鎌倉御領五百丁 預所因幡大夫伴官(大江広元)
永吉三百丁(三百五十の誤りか) 地頭良峯師高息字平紀平次不知実名
須惠小太郎家基領百五十丁
※当時永吉三百五十町は須惠小太郎家基百五十町を合わせて関東御領となり、預所は大江広元が補され、永吉分の地頭は師高子息師貞であった。

上記の記述には「大江広元」「須恵小太郎(良)こと藤原家基」「平河師高」「平河師貞」の名が記述されています。

さらに大江広元と平河との関係は
大江広元の外孫であり、北条泰時の娘婿である「徳大寺実春」と平河との争論ですね・・
「師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。この際春実の預所職も改替されたようで、預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。」
(・_・)
またまた、あらためて、日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観を拝見すると・・武藤長頼。
《武藤氏》姓氏類別大観には少弐経資の兄弟に「平井景資」
さらに少弐経資の系にある少弐頼尚は平河を名乗っていました。

【藤原氏長家流】藤原忠家の系に見える「藤原家光」と藤原家忠の系に見える「藤原家光」は・・同一人物。
この事が解った事により、何だか「全部」繋がってきました(-.-)(?_?)

さて・・平河と中原氏との関係は?
もっとしっかりと調べます(__)

では<(_ _)>
[26]子孫よりさんからのコメント(2014年10月25日 19時13分19秒 ) パスワード

え〜ここで、ちょっと脱線を(__)

以前、先祖にそれはそれはハンサムな方がいらっしゃったそうです・・というお話をさせて頂いていたのですが・・

その方について父から聞く事が出来ました。

そのハンサムな方は平川の先祖でした。
何でも、藩内でも有名なハンサム(イケメン)さんで、座っているとまるで、博多人形のような、当時は藩内で「人形のように美しい顔をしている」と言われていたそうです。

そのハンサムな先祖さんは、参勤交代の際に江戸で亡くなったそうです。
当時、平川の家にはその方の髷(ポニーテールのような所だと思うのですが)が届いたそうです。

嫡男ではなかったようなのですが、親族一同悲しみに暮れたそうです。

所が、父は祖母の兄、平川の伯父から
「亡くなったとは聞いたが、ひとつ憶測が流れていて、江戸の町人の娘さんと恋に落ちて、武士を捨てたのでは?とも言われていた・・真相は解らない」
と聞いたそうです。

この方こそが、私の息子が生まれた時に、祖母と多良木の平川の伯母が、「この子は、男前で有名だった平川の先祖に似ているはずだ!」と言っていた、その方だと思います。

参勤交代で亡くなった方の話が具体的にわかりました。
でも、もしかしたら、町人の娘さんとの恋・・かも?と。

しかし・・
亡くなった事を信じたくないという、親族の気持ちがそのような話を推測させたのかもしれないな〜と、私は思います。

でも・・参勤交代・・江戸まで・・(-.-)大変な時代だったのですね

と言う事で、ハンサムな先祖のお話でした。
では<(_ _)>(^・^)
[27]白石さんからのコメント(2014年10月26日 03時19分03秒 ) パスワード

こんばんは
贏姓 高丘系図1につく昭慶門院の書き方はまぎらわしい と 書きましたが、
同系図の他の人の場合 妃・室・供奉など 説明がついているのです。
そして 下に その人の名前(門院の場合名前はわからない)

なので 本人かどうか? 仕えている人かどうか? なのですが
さらに 興味深いことが わかりました。
おもに 門院の母方に関与することですが・・・
他の資料をみてみると
門院の先祖の母方の枝分かれは(同父母兄弟だから血はつながってくる)

★五摂家の先祖だと・・・

世界帝王辞典で花山院家教の妻の系は 父・法性寺雅平です。
父:太政大臣 花山院通雅―花山院家教(妻:(父:★法性寺雅平)1283-1342 家定)

そして 法性寺雅平に関与して
雅平女子は従三位。亀山院女房中納言典侍。★高倉局〔皇親系〕。昭慶門院母)

公卿類別譜より
法性寺家
雅平女子(★雅子。母丹波守〔尊卑分脈★顕隆卿等孫作丹後守〕★藤原光氏女(葉室光親―★僧・成清女子・・・
善法寺成清 とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 善法寺成清の用語解説 - 1122−1199 平安後期- 鎌倉時代の僧。保安(ほうあん)3年生まれ。母は★菅原在良(すがわらの-ありよし)の娘。 善法寺家の祖。文治(ぶんじ)3年(1187)京都石清水(いわしみず)八幡宮の30代別当, ...)。

法性寺雅平
||―――――――――――雅子母・丹波守(尊卑分脈★顕隆卿等孫作丹後守)
藤原光氏(葉室光親―★僧・成清)女子

ウィキより
葉室光親
||―――――――――――藤原光氏
僧・成清女子
[28]白石さんからのコメント(2014年10月26日 03時51分08秒 ) パスワード

(    )
  ||―――――――善法寺成清
菅原在良の女子

菅原在良は
★和泉守大学頭・菅原定義の子。菅原孝標女は叔母。
つまり定義の父母は
父:菅原孝標(菅原道真の曾孫にあたる右中弁・菅原資忠の子)
母:藤原倫寧の娘

妻:藤原倫寧の娘 男子:菅原定義(1002-1065)
女子:菅原孝標女(1008-?)

菅原道真・・・・ひ孫・菅原資忠―菅原孝標
                 ||――定義・孝標女
            藤原倫寧―女子
[29]白石さんからのコメント(2014年10月26日 04時24分04秒 ) パスワード

藤原 倫寧(ふじわら の ともやす、生年未詳 - 貞元2年(977年)) は、平安時代中期の 廷臣・歌人。権中納言・藤原長良の孫にあたる左馬頭・藤原惟岳の子。

藤原高子は長良の娘で基経の同母妹


死後、娘の高子が清和天皇の女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したことに伴い、元慶元年(877年)に正一位・左大臣、ついで元慶3年(879年)に太政大臣を追贈された。

藤原長良・・・陽成天皇の外祖父にあたる。
長良の母・藤原美都子(藤原真作の娘)・・・★藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の五男。
長良の父・嵯峨朝の実力者左大臣・藤原冬嗣の長男として生まれる。・・・
中略
・・・
昇進は弟の良房や良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に★三男の基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。また、中世以前においては、基経の父を養父である良房ではなく実父の長良であると捉える(長良を摂家の祖とする)観念が強く、『大鏡』の「大臣列伝」の配列に影響を与えている(藤原北家の嫡流を良房ではなく長良とする)とする説がある[1]。

この 基経に関して 山本義経が 出ていたブログを 見たことがあるのですがまた のちほど ・・・・
[30]子孫よりさんからのコメント(2014年10月27日 00時56分34秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「藤原倫寧」・・・

ちなみにご教示の中にあった
菅原定義の孫にあたるのが菅原在茂。
菅原在茂。妻が須恵小太郎こと藤原家基の娘。そして子供に「義高」と「在高」という方々です。

何でしょうか・・?(・_・)
何処を見ても、同じ名前が次々と出てきますね・・??

所で・・

ふと?何で藤原家基は「須恵小太郎(良)」なのだろうと考えたのです。
在地にはもちろん他の代官がいた訳ですが、須恵の地頭だからと言う事は解るのですが・・「須恵氏」と何か関係あるのかな??と本当にふと?考えたのですよね・・・・
そう思いながらも、他の事を調べていたら(良峯について・・玄理からの系)
何だか「みょう〜な」系図の中身に気が付きました。(本当は妙ではないのだと思うのですがとりあえず聞いて下さい)

丹羽玄理から数代進んで・・良峯に復姓した「季光」。所が、すぐに「惟光」と「為通」は橘に改姓しています。

伝承のような理由は色々読んだのですが、それだけ?と何かひっかかったのです?
そして数代進んで、原高成は良峯姓に復姓。原高成の妻は上総広常の兄妹。
しかし・・こちらの系が橘に改姓した後の、この間に、様々な情報の中で「良峯姓」を名乗る方をチラホラ見かける・・・何で??と。それも、殆どが「藤原氏」の人物です。別名のように使われています。
それこそ「何で?」です・・(?_?)

と素人の私はとても不思議に感じまして、その素人の歴史に関する常識が全くそなわっていない「真っ白な頭」で、色々みていたら、先ほど、お話した「妙な」系図の中身に気が付いたのです。

まず、日本の苗字七千傑様の【藤原氏末茂流】姓氏類別大観を確認して頂くと、藤原末茂より4代後の「佐忠」が見えます。
(藤原家成・養子藤原師光(西光)はこちらの系ですね・・)
実は、この「佐忠」という方の兄弟に「佐衡」と言う方がいて、その「佐衡」の系に何だか引っかかるものがあるのです。(あくまでも私がですが・・)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/fujiwaranosueshige.htm

連茂 → 佐衡(兄弟 佐忠) → そして子供?の名が「善政」「共政」「敏政」「為道(或は為通)」となります。

まず、素人の私には子供の名・・「敏政」「為通」にあれ〜〜っ??となりまして?
この方々の名の横に「橘」を付けると・・「橘 敏政」「橘 為通」と・・
でも、最初は「偶然偶然!!(ー_ー)!!」と思ったのですが・・

では、ここからです(・_・)
まず、佐衡(兄弟 佐忠)の子「善政」「共政」「敏政」「為道(或は為通)」
この方々の母は藤原正倫の娘。

藤原正倫は、藤原宇合に始まる藤原式家の系です。
日本の苗字七千傑様の【藤原式家】姓氏類別大観で確認すると藤原蔵下麻呂(母:佐伯家主娘(佐伯徳麻呂の娘)の系になります。

藤原宇合 → 藤原蔵下麻呂 → 縄主 → 貞本 → 正世 → 興範 → 正倫

この系をもっと詳しく
貞本(母:藤原種継女薬子、又母橘太丸女) → 正世(肥前〔或肥後〕守。橘嶋太丸女) → 興範(母:山背氏) → 正倫(母:薩摩守坂合部春恒女)
となります。
藤原正倫の祖母は橘島田麻呂の娘。
藤原正倫の母は山背氏。

日本の苗字七千傑様の【山背国造】姓氏類別大観そして
《天津彦根命裔氏族綱要》姓氏類別大観を拝見いたしました。
須恵国造が見えます・・・。

【神別総括系図】 姓氏類別大観も拝見致しました。
藤原宇合の室は石上麻呂の娘。
しかし、藤原正倫までの系は藤原蔵下麻呂(母は佐伯家主娘(佐伯徳麻呂の娘))なので「物部氏」との繋がりはないようですが・・(間違えている可能性は大ですが・・すみません)

という【藤原氏末茂流】藤原正倫の娘が藤原連茂の妻で
「善政」「共政」「敏政」「為道(或は為通)」の母と言う事です。
そして藤原末茂の母は藤原宇合の娘。

藤原末茂(母:藤原宇合の娘) → 「総継」 → 「直道(母::藤原雄友の娘)」 → 「連茂」 → 「佐衡(兄弟 佐忠)」
藤原直道の母は藤原雄友の娘。

藤原雄友 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%84%E5%8F%8B
藤原 雄友(ふじわら の おとも、天平勝宝5年(753年) - 弘仁2年4月23日(811年5月18日))は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家、右大臣・藤原是公の次男

父:藤原是公
母:橘麻通我(橘佐為の四女) - 尚蔵・三位、もと藤原乙麻呂(是公の父)の妻、藤原許人麿の母。
妻:石上宅嗣の娘
妻:妻:石川恒守の娘

藤原雄友も橘氏と石上氏との繋がりがあるのですね・・・

と・・このような縁戚関係の系にある
藤原連茂の子として系に載る
「敏政」「為道(或は為通)」

なんだろう・・?なんだかな〜〜??
「敏政」は実は別の系に載るタチバナの「敏政」さんで・・
「為通」は「橘」を名乗って、何処かの「丹」がついたり「良」がついたりする系を継いでいたりして・・・

(ー_ー)!! あくまでも「妄想」です。

でも、こうやって勉強して、初めて
【藤原氏末茂流】にある藤原家成の系が見えてきました。

妄想にお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
では<(_ _)>
[31]白石さんからのコメント(2014年10月27日 02時58分13秒 ) パスワード

こんばんは
雷がなりはじめて こわいです。
昔の人なら 本当に 道真公のたたりとか言って くわばら くわばらとやっていたのでしょうか?

子孫様
子孫様のように 系をつぶさに調べる力があれば・・・と 思います。

そのような力がないので あっちに こっちに 話が飛びますが
五木の有力五家のひとつ 左座家は 菅原道真の子孫が 大宰府から走ってきているのですね。
五家荘は 八代に入っていますが 
昔は 五木と四浦はひとつだった。

阿蘇氏支配の頃 二つに分けられた。

五家荘の中心を「川辺川」が 流れている。
人吉の鉄道の枕木は 五家荘から筏を使って 人吉に送られた といいます
五木の人は 球磨郡部の人と 通婚していたといいます。
下の コピーと合わせ 考えると、五家荘あたりと どちらが 先か後かはともかく 祖先につながりがあるのではないか?
昔も今も秘境ではあろうけれど 現代のように交通が発達していなければ 住むにも住めないなどということはなく
食べるにはことかかない 生活だったのではないか?
私の故郷も 
貧しくはあったが 渡世に困らず よそが 収穫がない季節になると 逆に豊穣の時を迎え
と 古い本に書いてあります。
事実 川には やまめ あゆ うなぎ など 豊富で
にわとり など 飼えば職の不自由は あまり ありませんので・・・

それは 
私の同級生・宮原→黒川 を 誰がいっていたのか 菅原さんと 私が覚えていたことなどにもつながってくるのではないか?
と 思うのです。

Communication Board-平家物語を熱く語る!!-平川家について8

2014年2月4日 - 義高」というキーワードをもとに情報を探しただけなのに、偶然とはいえ・・何で繋がって しまうのだろう? ..... 204 ページより免田に須惠氏、久米村,水上, 1 心として川辺川流域 に平川氏(良峯)、人吉荘に人吉次須惠の荘園の状況を示すものとみられる。 .... 寿永2 年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いでは、大将を勤めた平維盛や上総判官忠経(忠清 の子)と内輪もめとなって壊滅的な ... まあ、橘薩摩氏と括ると、ごちゃごちゃになるので 公綱からの流れは「橘佐渡氏」と切り分けた方がいいかもしれませんね。

橘薩摩氏も 相良氏も 球磨へ下向した後 薩摩氏は八男を残して 長崎へ
相良氏も 八男を 残して 八代へ

[32]白石さんからのコメント(2014年10月27日 03時54分21秒 ) パスワード

師康をどうやって調べたらいいのかしら ?と思って 勝手に 藤原師康とうって検索すると どうしても 藤原師実がでます。

師実は養女の賢子(源顕房の娘)を白河天皇に入内
師実は北家御堂流・正室:源麗子(藤原信家の養女、源師房の娘)

一方
公卿類別譜より
法性寺家
雅平女子(★雅子。母丹波守〔尊卑分脈★顕隆卿等孫作丹後守〕★藤原光氏女(葉室光親―★僧・
藤原北家高藤流(勧修寺流)。・・・醍醐天皇につながる。
娘は 胤子。

胤子の母方に 二代和邇氏の血が入っている と 本で見たことがあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
藤原がなんで 平で 出てきたのか
あとは どうたどっていったのか? 今となってはわからない なのですが、伊伊東(印東)氏 南郷氏の言葉を覚えていたので
院東氏 南郷氏でけんさくすると 印東常茂(常義・常重、伊東次郎、★印南次郎)が祖(桓武平氏良文流)

しかし又 過去に 太田亮氏の辞典で 印南姫の言葉を覚えていたので 何か つながるのかしらん ? と思って検索を続けました。

結果として
 景行天皇皇后・播磨稲日大郎姫が出て ヤマトタケルの母です。
「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。吉備臣らの祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の女で、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・小碓命・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)らの母親とされる。また、妹として伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)が記され、同じく景行天皇の妃であったという。

http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/kakogawa.htm

古代吉備の東縁 加古川

播磨風土記の印南郡の南毘都麻(なびつま)の条に、

「志我の高穴穂の宮に天の下知らしめしし天皇(成務天皇)の御代、★和邇臣(わにのおみ)の祖、比古汝茅(ひこなむち)を遣して、国の境を定めたもうた。その時、吉備比古、吉備比売の二人が参り迎えた。ここに比古汝茅、吉備比売に娶いて、生める児、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、-----。大帯日古(おおたらしひこ)の天皇(景行天皇)この女を娶んと欲して行幸せるも、別嬢これを聞きて、南毘都麻の小嶋に逃げ隠れた。」とある。

 この印南別嬢が、日本書紀が景行天皇の皇后とする稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)、(あるいは稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ))である。古事記も彼女を伊那毘能大郎女として景行天皇の皇后としている。

系図にすると
和邇臣祖・比古汝茅
||―――――印南別嬢
吉備比売    ||―――――ヤマトタケル
       景行天皇


和邇氏とは と 思ってみると
美濃の河田氏と川並衆 - ucom.ne.jp
 諸国に河田(川田)の地名があり、各々の地に系統の異なる河田(川田)氏が起こっています。例えば、薩摩の比志島一族、甲斐の清和源氏流武田一族、伊勢平氏、岩代に起った称 藤原南家伊東一族、近江・越後に戦国期活躍した称藤原姓の河田豊前守長親の一族、伯耆の名和一族などに河田(川田)氏が見られます。..... 和邇氏の系図には、和邇臣の祖・ 難波根子建振熊命の弟・建穴命が葉栗臣・度守首・猪甘部首の祖と記されていて、

和邇氏
★『駿河浅間大社(するがせんげんたいしゃ)の大宮司家は和爾部姓にして系図を傳ふ。』
★系譜研究者の宝賀寿男氏は、大久保春野(おおくぼはるの)の系譜に、この系譜を見たとする。

★大久保春野は明治の軍人で、新華族に加わった人物である。華族に列せられた際、提出されたと思われる系譜が、宮内庁書陵部にあるとする。
また明治時代の系譜研究者、中田憲信(なかたのりのぶ)が編纂した『各家系譜』に、大久保春野の系譜を見る。中田憲信の『各家系譜』13冊は、マイクロフィルムに収録され国会図書館に収蔵される。その第4冊に「大久保家」として収録されている。
※大久保は確か 西郷さんと維新後 ケンカしているのですね。
西郷さんは菊池系で
西南戦争のとき 故郷でも 西郷さんに味方している家もあり
毛布をもらってるんだ と 父が言っていました。
余り 近世のことは誰も言いませんが
言い合ってたら きりがなくなるでしょうね。

相良藩は 関ヶ原の時 西軍
維新の時 幕府軍についてけど いずれも 許されている

和邇氏 伊東氏 桓武平氏などの 言葉がみえます
という 話でした 








[33]子孫よりさんからのコメント(2014年10月27日 08時54分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

まず、コメント31でのお話ですが・・
「五木の人は 球磨郡部の人と 通婚していたといいます。」

あの・・・・カミングアウトしますね・・・(__)
あまり、親戚の事を詳しく書いたら・・どうかな〜(-.-)と思っていたので、今まで、ずっとコメントを控えていたのですが・・

実は・・ご教示のあった「菅原家」と、そして五木に逃れた「平家」の方(どうも、名前も解っているようです)との姻戚関係で成りたった(祖とする)、そして、そのたいそう大きなお屋敷で有名な旧家(全国放送のテレビなどでも五木を取り上げる時に、よく登場します)から、家の親戚の(あえてアルファベットで(__))F家の長男の嫁は嫁いでこられています。
F家の長男であるおじは、すでに他界されましたが、おばは健在です。
そして、また別の親戚S家を継いでいるおじの嫁はO家から嫁いで来られていますが(なんとなくお解りになるかな?O家からは平川にも嫁いで来られています)そのO家にも先にお話した、五木のお家△△家から嫁いでこられているのです。
O家から平川に来られたオバの、お母さんが△△家から嫁いで来られている・・と言う事です。
そして・・
白石様より以前「叙勲」のお話がありました。
その時も、どうしようかな〜と迷ってコメントしなかったのですが・・カミングアウトの流れで・・(__)
先に書いた、F家の長男のおじも実は叙勲を受賞されています。
△△家から嫁いでこられたおばと二人で東京に伺って勲章を頂きました。
すごくりっぱな勲章をつけて、二人で写真も撮って頂いていました。
祖母の法事で帰省した時に、おばを家に送ったのですが、仏壇にお参りすると、その写真が部屋に飾ってあって、誇らしげに凛とした顔のおじと、寄り添うおばの写真を見て涙が出ました。
受賞された時は親戚一同でお祝いの会を開いたのですが、私はその時、帰省できませんでした。
何と言う賞だったのか忘れてしまったので(ええええっ!!と言う声が(@_@。)それこそ先日、父に「おじさんが受けた賞は何賞だった?」と聞いた所、
父も「あれっ?何賞だったかな?お父さんも度忘れした」と・・トホホ親子です。
よく解らないのですが、東京まで行って、勲章をつけて夫婦で写真を撮ってもらう賞です。(何だか、あちゃ〜〜っ!!という叫び声が聞こえたような(__))
今度、父ではなく、他の親戚のおじに聞きます(+_+)

F家に△△家から嫁いで来られているおばは、とても御淑やかで、それは美しく優しい方です。私が子供の頃にピアノを習っていたのも、そのおばです。
(指が小さくて・・と指のせいにしてはいけませんね(ー_ー)!!才能が全くなかったのです・・(@_@。)
私はおばが大好きです。

そのおばと、祖母を比較して・・祖母も何でも出来る人でしたが、何せ気性が男の人みたいだったので・・
だから、私は子供の頃、平川は「豪族」だったと祖母に聞いた時に「豪族」を別の言葉(山賊・・先祖様ごめんなさい(@_@。)と勘違いして、「うわぁ〜怖い(@_@。)と・・ちゃんと今は豪族と山賊の違いは解っています(ー_ー)!!

白石様、今まで黙っていてすみませんでした。(@_@。
今日の御教示を読んで、やはり、何か関係しているのかな?と思い、初めてコメントさせて頂きました。

では<(_ _)>

[34]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月27日 22時49分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>しかし・・こちらの系が橘に改姓した後の、この間に、様々な情報の中で「良峯姓」を名乗る方をチラホラ見かける・・・何で??と。それも、殆どが「藤原氏」の人物です。別名のように使われています。
それこそ「何で?」です・・(?_?)
 
別に不思議でも何でもない。
我々の先祖を遡ると、誰でも平安時代中期で累計約700万人の先祖が有ります。
平安時代中期の人口は約700万人ですから、均衡するわけです。
従って、源平藤橘在伴菅紀清はもちろんのこと物部、蘇我を始め漢土や半島の先祖を日本人は共有しているわけです。
平安中期と言えば、系図の銀河系の中心部に位置する藤原道長なのです。
他の氏族が影が薄いのは、尊卑分脈が洞院家により編纂されたからに他ならないのです。
後世の系図集のネタは尊卑分脈しかなく、藤原氏および縁戚に繋げようとしたからなのです。
ハッキリ言うと藤原氏の縁戚を調査して再構成したのが各氏系図なのです。
 
例えば、橘氏についても情報は少なすぎ建前上、嫡流は薄家を継いだ鳥居小路家ということになっておりますが本当は源氏の様です。
 
橘氏支流は多く、伊予橘氏系の楠木氏裔を名乗るものが主流、次いで和田氏などの紀伊橘氏が多い。
系図は無くても江戸時代の一般庶民も何吉と通称して橘氏を表明していることが過去帳などから推測可能です。
橘氏とは何なのか?
「楠木正成は左大臣橘諸兄の末裔か?」を参照されると本質が理解されます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#030
 
熊野国造、伊予橘(旧越智)など。
ここにも物部氏の影がうかがわれることに驚くことでしょう。
 
[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月27日 23時26分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

→誤り訂正
 
鳥居小路家 → 信濃小路家
[36]白石さんからのコメント(2014年10月27日 23時37分31秒 ) パスワード

昨日のコメントに引いた ブログの続き
8 川並衆の諸氏の多くが遠い先祖を同じくする同族であったとするとき、その出自する古代氏族を推定するのは、比較的容易ではないかとみられます。濃尾地域にあって水運を管理した古代氏族といえば、★古代海神族系の和邇氏族がまずあげられるからです。この氏族は美濃西部に額田国造として入り、濃尾に広く分布して、虚空蔵信仰を広めました。

  前野氏や稲田氏は古代の丹羽郡に繁衍した丹羽臣・椋橋宿祢一族の末裔であり、のちに良峰朝臣とか橘朝臣とかを称しますが、いずれも仮冒です。
・・・
※この部分が 前に出た 丹羽姓尾張氏から 嫁に入って・・椋橋だったか・・・云々  という あたりに 関係してくるのではないか?
私も だいぶ前に 天皇の子供なのに 王がついていないのは 不思議だが 同じ名前の人が いる という 主旨のことを 書いています。

古代はむしろ 嫁方の力により家を保っているようなところがあり、こちらは母系。
その 典型が 「子貴母死」の 習慣を持つ 人たちなのではないか?と 思うのです。こちらは 父系。
海人族は母系だったという。

さきの ネットのブログにかえって
これら丹羽臣や島田臣は、皇別と称する多氏族(神武天皇皇子神八井耳命の後裔と称した)に属しますが、実はこの多氏族も★和邇氏族の分かれとみられます。
・・・

  また、一宮市の河田や日比野の近隣には葉栗村(光明寺村等が合併して、明治39〜昭和15の間、存続)があって、『和名抄』にあげる葉栗郡葉栗郷の中心地であり、★和邇氏族の葉栗臣氏が居住しました
。。。
。『姓氏録』では★葉栗臣は左京皇別に収め、「彦姥津命三世孫建穴命の後也」、山城皇別には葉栗をあげ★「小野と同祖。彦国葺命の後也」と見えます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一方 

延喜式神名帳 山陰道 丹波國tanba - 神奈備にようこそ では

★彦坐王の御子で、『古事記』によれば、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)(亦の 名苅幡戸弁=かりはたとべ)を母とする。 ... 祁都比売( おけつひめ)(『日本書紀』では★姥 津媛=おけつひめ)との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝( みかみのはふり)がまつる .... 大井神社「月讀命、市杵嶋姫命、木股命」京都府亀岡市 大井町並河1-3-25 神社 ..... は明和九年十二月一日★仙洞御所より翠簾一連を寄進あら せられ武門にありては慶長六年八月當郡★由良の城主★別所吉治神燈田を寄進し次いで 柏原藩 .

※★姥 津媛は 彦姥津命.と 似た名を持っている。兄妹もしくは 姉弟だったのではないか?

春日・和邇・柿本・粟田・小野 - niftyより
中略
土師器ではなく須恵器とみて、陶都耳命の系統ではないかと思う。

中略
.和邇氏の実質上の祖といえる彦坐王の子孫から、息長帯比売(神功皇后)が出ていることから見て、近江の息長氏と密接な関係で結ばれていたことが分かる。

※陶都耳命・・・
越智氏・河野氏・村上氏 - niftyのブログに

★溝咋神社(大阪府茨木市五十鈴町) ※現在残っているのは下社のみ祭神 上社:三島溝 咋耳命 下社:★五十鈴媛命、玉櫛媛命 同じ茨城市 .... 陶都耳命(すえつみみのみこと)は、 「旧事記」には大陶祇(おおすえつみ)とあり、陶器作の首長だったと分かる。また、崇神・・・

の ブログも興味深いです。 ...



muchakunn
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年10月28日 01時51分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)
といっても、いつものように深夜になりました・・

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
「橘氏についても情報は少なすぎ建前上、嫡流は薄家を継いだ鳥居小路家ということになっておりますが本当は源氏の様です。」

お伺いして、少し、勉強致しました。
九条家諸大夫の信濃小路家。
系図としては醍醐源氏盛明親王流とされていますが、江戸初期の宗増の代で橘氏に改姓しています。また、宗増の曾祖父兼益と宗増の没年が200年以上離れて
おりますが、通常の親子関係では年代が離れすぎており、兼益と長盛の間に年代的は断絶が在るようです。
(・_・)とありました。
九条家諸大夫 信濃小路周可 → 改姓橘氏 信濃小路宗増

「楠木正成は左大臣橘諸兄の末裔か?」を拝見いたしました。

「家系とは家督と先祖祭祀を継承するものであり必ずしも血系の継続を伴うものでなく、家系継承用語に養子(女系あるいは縁戚による家系継承)と猶子(非血縁による家系継承)が存在する。」

「家系的には橘氏であり、血系的には越智氏(但し厳密な血系は紀氏)の系譜を引く」
(・_・)すごく良く解りました。

先日のコメント30の調査でも実は心の何処かで「もしかしたら、物部氏に繋がっているんじゃないかな〜(-.-)」と半分は期待しながら調べていました。
(こういう事ではダメですね(ー_ー)!!)

しかし、全ては「藤原宇合」に繋がっていて、藤原宇合は石上氏に繋がっていて・・と。
そうすると縁から言えば、血縁関係が無くとも家督と先祖祭祀を継承する場合もありえると言う事ですよね・・

そう考えると・・
白石様のご教示に繋がってくるのです・・
白石様、ご教示ありがとうございます。

「和邇氏」
日本の苗字七千傑様の【春日氏/和邇氏】 《孝昭帝裔氏族綱要》《布留氏》〔石上神宮祠官家〕を拝見致しました。

こちらの系の掲載姓氏には【葉栗氏】【春日氏】以外に・・
【物部氏】【三島氏】【久米氏】と様々な系と縁戚関係を結んでいたのかな?と思われるような「姓」が沢山見えます。

孝昭天皇 ウィキでは(少し勉強しました(-.-))
「磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られる」
とありました。

やっぱり、繋がってくるのですね。

それから・・
「良峯師康」に繋がるのかは解りませんが・・
私は、球磨の良峯氏である平河には北条氏が強く関わっていると思っています。

北条氏・・平家・・としてではなく、饒速日命の後裔である北条氏です。

実は、北条政子に関する古文書(東寺百合文書)に良峯との繋がりが見える物を見つけていました。

明日、朝早くから外出するので、夜のコメントでご説明致します。
では<(_ _)>(^・^)
[38]白石さんからのコメント(2014年10月28日 20時11分10秒 ) パスワード

こんばんは
少し冷え込んでまいりました。
先日 厚手のソックスをはいて寝ると 冷えがふせげて 良く眠れるとかきました。
このころは さらに 電気毛布を入れています。どれだけ 冷え性かわかりますよね。
そして
汗ばんで 湿気ないように 夏のいぐさの茣蓙を敷布代わりに 入れています。
こうすると じんわり 全体が暖かく 湿気で気持ち悪くもなく 良く眠れます。
八代あたりは いぐさが 売れなくなって 畑もさびしい と 高岡女子が 手紙で書いてきました。
いぐさなども 使い道は いろいろ あるでしょうしね。冬も こうして 使うと ほんとに 快適な睡眠がえられるし 販路も拡大できるでしょうに・・・

和邇氏と物部氏
古い方の太田亮氏の姓系辞典で 「左京皇別 物部氏」というのがあり、春日の族なり とあります。
春日はまた 藤原につながるものがあります。
藤原高藤(観修寺流)
娘の胤子が宇多天皇に嫁して醍醐天皇を生む。
その胤子の母・宮道烈子の宮道だけ取り上げると、姓系辞典に「物部守屋の子孫」となっている。
武家家伝_蜷川氏では

蜷川氏の出自に関して、徳川幕府が編纂した『寛永諸家系図伝』には、★「宮道氏は物部 守屋の後裔なり。年代久しきゆえに世系断絶す」とある。ついで『寛政重修諸家譜」には、 ★「物部守屋末孫宮内大輔宮道朝臣弥益、山城国山科を領す。その後胤七郎親直越・・・


[39]白石さんからのコメント(2014年10月28日 20時36分41秒 ) パスワード

大日本帝国史を書いた 徳川光圀(黄門さま)は 那須の殺生石のところにも行っていた。
前に 「那須の石姫」という本を読んだとき 狐に興味があったのか と 思っていました。
狐も 過去をさかのぼると 関与してくるようですが

殺生石 
鉄の王 スロ を 見ていたら
その母が 山肌から赤色の水が流れ出ているのを見て 「鉱脈がある 殺生石よ!! これで 鉄がつくれるわ!!」 と 叫ぶ場面があります。

何か 那須の殺生石と むすびつかないか? と思って 検索すると

福島県の虎女伝説 - 秩父・仙台まほろばの道 - Gooブログ
嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと「もちずり石」の面に、公の面影が彷彿と浮かんで 見えました。 ... ★オオ氏はオオ族という製鉄族の酋長であったといわれていますが、茨城 県鹿島〜宮城県北部までオオ氏の名残を示す「高」という地名が多い

..
日本仏教史の深層
(Adobe PDF)

継体朝の崩壊と欽明紀の国譲り、出雲族の処遇). 第 12 章 仏教に貢献した氏族 ... 族 がばらばらに別れて日本・南中国とそれぞれの道をたどつたというべきでしょう。南中国 に渡っ ... 自国を放棄し放浪の旅にでたのも仏教の教えに従って殺生を嫌い戦争を放棄. したことにあります。 ...... 後の奈良時代初期、★埼玉県秩父. における和銅発見後に銅山 採鉱に従事したのは、継体天王後裔の「多治比真人」を長とする渡来技術集. 団によるもの だ ....

[40]子孫よりさんからのコメント(2014年10月29日 00時05分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「宮道氏」
日本の苗字七千傑様の【宮道氏】姓氏類別大観を拝見すると
「饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。
 発祥地は三河国宝飯郡宮道郷と推定される。」
とのお言葉がありました。

白石様!!ご教示はすごいヒントになっていました(^・^)

藤原高藤(観修寺流)妻:宮道烈子
※子女 藤原胤子 宇多天皇女御 第59代宇多天皇女御、第60代醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王・柔子内親王・敦実親王生母。

そして藤原高藤(観修寺流)妻:宮道烈子( 宮道弥益の娘)の子息は
男子:藤原定国(867-906)
男子:藤原定方(873-932)

藤原定方 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E6%96%B9

妻:藤原山蔭の娘
そして子息子女の中には
女子:代明親王室

藤原定方の娘 代明親王室 そして 子供が・・
長女:恵子女王(925-992) - 藤原伊尹室(藤原義孝、藤原義懐ほか母)

\(◎o◎)/! 繋がっています!

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する「宮道氏」宮道烈子の女系(物部氏)の血系は
醍醐天皇(孫)・代明親王(曾孫)・恵子女王(父方・母方双方共)に強く繋がっています。

そして恵子女王は藤原伊尹室(藤原義孝、藤原義懐ほか母)

そういう事ですね!!

藤原義懐 → 延円 → 肥後守 藤原義綱

藤原家成の母、「藤原宗子」
平頼盛の母「池禅尼」の父「藤原宗兼」
藤原信兼(妻は藤原成季の孫「永範」の娘)の父「藤原良兼」
この方々は兄妹で、母は藤原義綱の娘。
藤原信兼(妻:藤原永範の娘)と 平頼盛の母である池禅尼 そして 西光の養父「藤原家成」
全員が「ふた従兄妹」 全員 肥後守 藤原義綱の曾孫。

遡れば 藤原高藤(観修寺流)妻:宮道烈子に繋がり・・・
饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する「宮道氏」に繋がっている。

わぁ〜〜〜!!見えました!! そうか!!そういう事か!!

平河の系に何故「藤原義孝」の名があったのか? もっと先があったのですね。
饒速日命を祖とする物部氏。

だけど・・・本当に驚きます!

あっ!!と言う事は・・
藤原定方の子
佳節、朝忠、朝成、朝頼、理兼、代明親王室、藤原雅正室、醍醐天皇女御・能子、藤原兼輔室、平随時室、藤原尹文室、更衣・欣子、藤原師尹室、橘典輔室、源為善室、藤原庶正室

ここからさらに系は広がって・・・・本当にわぁ〜お\(゜ロ\)(/ロ゜)/です。

というか!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

醍醐天皇 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
后妃・皇子女の皆様より繋がる系は・・・全て!!

こっこれはっ\(゜ロ\)(/ロ゜)/\(◎o◎)/!

すごい!!

さらに言うと
藤原師輔 の室は 
※妻:勤子内親王(904-938) - 醍醐天皇第四皇女
※妻:雅子内親王(910-954) - 醍醐天皇第十皇女、伊勢斎宮
八男:藤原高光(939-994)
九男:藤原為光(942-992)
十男:尋禅(943-990) - 天台座主
五女:愛宮 - 源高明室、源明子・源経房母
※妻:康子内親王(919-957) - 醍醐天皇第十四皇女
十一男:深覚(955-1041) - 東大寺別当法務大僧正
十二男:藤原公季(956-1029) - 閑院流祖

そういう事ですね・・・・

おそるべし物部氏です。

何だか、ものすごく面白く成って参りました。
それから・・昨日コメントした情報は、また、明日ご紹介致します。
では<(_ _)>(^・^)
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年10月29日 12時55分04秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

実は昨日、早朝から、大分県豊後大野市の原尻の滝に、娘夫婦とM田さんと私、4人で出かけて参りました。

娘婿が、一度「原尻の滝」に行ってみたい!との希望があり、昨日、実現したのです。

道中、娘が突然
「大分県と言えば!お笑い芸人さんの、雨上がり決死隊。宮迫さんね、お爺さんが大分の方で、宮迫家は、大友氏と関係あるんだって!だから、お侍さんの鬘が似合うんだぁ〜!」と。
だから、武士の姿が似合うのか?どうかは解りませんが、私も「本当!そうかもね!!」と一緒に「みやさこデス!!」と物真似をしながら盛り上がっていました。
私も、娘も雨上がり決死隊の宮迫さんは好みの御顔立ちだっ!!と二人で意気投合していました。

それをM田さんと娘の婿さんは冷ややかに( 一一)(ー_ー)!!と・・・

ところが・・
高速道路を下りて、ナビにセットされた通りに向かっていたのですが・・
M田さんが出かける前にパソコンでGoogle Earthを使って、確認したのとはどうも違う道を通っていると言いはじめまして・・・

どんどん山の中に入って行って、すごく標高の高い崖の横を車は走り、皆で、「何か変」と言いはするものの、渓流は美しく、標高が高いので少しづつ紅葉も始まっていて、「まあいいか〜(^・^)」と。

そうして進んでいくと、すご〜〜く古〜い感じのオーラを放った神社が突然現れたり・・山頂付近では何とか城跡とか出て来て・・
「こんな山の中の頂上付近にお城跡とは・・すごいね!」
なんて話ながらも、皆、口ぐちに
「お母さん、また、何かに引き寄せられたね!!」と私が原因?になり始めました。

ここにいる皆、今まで、このような経験は数数え切れないほど経験していまして、私も、「何だかなぁ〜〜又か?!」と思っていたのですが、ふと、その林道のような道に立つ標識のようなものに「豊後大野市緒方・・」との文字が目に入りまして・・
「あれっ?!この山の中、緒方という地名なんだ〜」と。

しばらく走ると、やっとその林道のような道から、大きな通りに出る事が出来ました。
M田さんいわく「自分は最初から、この道を通りたかったのに・・何故?なんで?カーナビ壊れてる?」と。
娘は相変わらず「お母さんのセイだっ!( 一一)」と・・(@_@。

珍道中?でしたが、やっと原尻の滝に到着しました(^・^)
でっ!原尻の滝の説明看板を見ると「豊後大野氏緒方原尻」と。
緒方?大分県の緒方?おがた?と(まだまだ、ここでは?の状態だったのですが)

でも、奇妙なヤツは、私だけでは無かったのです。もう、一人、本人が認識していないだけで、「奇妙な感」をもつ人物がこの中にいたのです・・・

駐車場に車を止めて滝に向かって歩いて行くと、一つの標識が
「宮迫石仏」
皆で、それを見て、娘も「あれっ!!ぐうぜ〜〜ん宮迫って書いてある〜〜っ(^・^)」と笑っていましたが・・
M田さんと娘のお婿さんは「やっぱ!!親子や!!( 一一)」と・・

のどかな、田園風景の中に突然、滝は現れました。
東洋のナイアガラと呼ばれている原尻の滝は雄大で、神々しく、そして、何か、とても懐かしい、心が安らぐ風景でした。
娘は、「宮原じいちゃんの所に似ている!!」と、「安らぐ〜!\(~o~)/」と嬉しそうに写真を撮っていました。
写真をブログにアップしています。
虹も出ていて、すごく綺麗でした。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11945415654.html

所で、私は、こちらに来るのは実は3度目なのですが、前回は数年前でして、その時は何も解らなかったのですが、この約1年間、歴史のお勉強をさせて頂いて、お陰で初めてこちらの地名に??となったのです。
美しい景色を見ながら頭の中は「大分県の緒方・・緒方・・おがた?」と・・

滝を堪能していると、滝の上に大きな鳥居がありまして、その先、山の麓に神社が見えました。
すごく凛とした空気を感じて、皆で、神社にお参りしよう(^O^)/と歩きだしました。
鳥居には「二の宮」と。

麓の神社の次の鳥居をくぐると、それはそれは、空気感がものすごく違っていました。パワーというかオーラというか・・
そして・・神社の由来を拝見して「ビックリ!!」

言葉足らずになってはいけませんので、豊後大野市観光協会のページを<(_ _)>
http://www.bungo-ono.jp/kanko/jin/2nomiya8man.html
神社は原尻の滝の近くで、山の麓にあるが、この山の上には一ノ宮八幡社がある。祭神は仲哀天皇と神功皇后の子供応神天皇と、創立者の緒方三郎惟栄、そしてその一族(一説では弟)で鎮魂のため祭られた大野泰基の三柱である。御神体についてはわからなかった。創立や由来は、一ノ宮八幡社、三ノ宮八幡社と同じで寿永2年癸卯10月、緒方三郎惟栄の創立で、そのいきさつは、平家が宇佐神宮にながれた時、源氏の味方をしている緒方惟栄がこれを攻めているうち、部下が宇佐神宮を焼き打ちした為、緒方惟栄に神罰がおり、そのため領地内に神殿をこしらえたり、五十町を神領を寄進したりして神罰をのがれ、この地を宮尾とし、ここから三本の矢を一緒に放って、一番目に落ちた所に一ノ宮というふうに決めていった。それが現在の緒方三社である。この矢もでたらめに放ったのではなく、昔、熊襲征伐の時、仲哀天皇、神功皇后らの指揮をした所をねらって放ったのである。境内神社はやはり二つで、高良神社の八百万神社である。この内片方の御神体は石であるらしい。由緒は高良神社不詳、八百万神社は明治9年、村内小社より合祀される。祭神は、高良神社が武内宿称、八百万神社が海原諸神である。

\(◎o◎)/!緒方一族の神社様でした!
(由来の文字を読んだ時には、あんにゃ〜〜〜!!となりました)

帰ってネットを見たらウィキにも載っていました。
緒方三社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E4%B8%89%E7%A4%BE
豊後大野市緒方町にある以下の三社の総称である。
一の宮社(一宮社、一宮八幡社) - 豊後大野市緒方町久土知
二の宮社(二宮社、二宮八幡社) - 豊後大野市緒方町原尻
三の宮社(三宮社、三宮八幡社) - 豊後大野市緒方町上自在
三社ともに、現在の緒方町にあたる豊後国大野郡緒方荘を平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて所領とした緒方惟栄が、1178年(治承2年)に建立したとされる[1]。伝説では、惟栄が現在の緒方町宮尾にある元宮から3本の矢を射て、1本目が落ちたところに一の宮社、2本目が落ちたところに二の宮社、3本目が落ちたところに三の宮社を、それぞれ建てたとされる[2]。

何だか私、道に迷って他の神社様の近くも通ってきたようです。

緒方惟栄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%83%9F%E6%A0%84
緒方 惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫、臼杵惟用または佐伯惟康の子。
『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。
生涯[編集]
宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、宗家の佐伯氏および臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。
こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。
また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて佐伯に戻ったとも、途中病死したとも伝えられる。
ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある緒方氏各家が後々まで豊後南部を拠点に活躍し続けた。これは大友氏被官の有力国人として残り、大友氏が改易された後も藤堂氏や木下氏に仕官して現在まで血脈を伝えている。

(・_・)神社の由来には緒方惟栄。この方がお祀りされていらっしゃると書いてありました。

それに・・・緒方惟栄の祖、大神惟基は・・・
私の故郷旧岡原村宮原と岡本に「中島霧島神社」と「大炊霧島神社」を創建された方ではないですか〜〜〜〜〜!!

いやぁ〜〜本当にビックリしました。

その後、滝の近くで食事をしたり、野菜を買ったり、ジェラートを食べたりと・・
本当は、滝を見たら、別の場所へ移動するつもりだったのですが、何故か4人とも、ここは落ち着く( ^^) _U~~ (^O^)〜〜となりまして、何処にも行かずに、こちらで、のんびりとした時間を過ごしました。

帰りは地図を確認して、M田さんは運転したのですが、ナビも何故か?大通りをしっかりと案内してくれて、高速道路まで順調に、往路の半分の時間で進んだようです・・?

後部座席からは「こんなに早く、高速インターまで着くなんて・・やっぱ!!お母さん、呼ばれたっ?!!( 一一)」
と娘のブツブツ声が続いていました・・

と言う事で、昨日は珍道中?をしながら、
豊後大野市緒方原尻の景色を堪能して参りました・・というお話でした。
では
<(_ _)>
[43]子孫よりさんからのコメント(2014年10月29日 18時33分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

肥後守 藤原義綱の系と近藤能成(大友能直の父)は繋がっていました。

肥後守 藤原義綱の孫「仲教」は近藤能成の養子になっています。

系は
肥後守 藤原義綱 → 仲季 → 仲季 → 仲教(近藤能成の養子)となります。
日本の苗字七千傑様の【藤原氏実頼流】姓氏類別大観を拝見しました。

こちらの藤原仲教が近藤能成の養子となり、大友能直の義兄弟となるわけです。
しかし近藤能成の子「能直」と「親実」は中原親能の養子となっている・・

参照 以下のサイト 大友・武藤(少弐) http://www.geocities.jp/okugesan_com/hidesato.htm

近藤能成の弟(または叔父)が武藤頼平。
頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼。
武藤資頼の孫が少弐景資で、争論後の永吉庄の預所職。
武藤資頼の5代裔が少弐頼尚。平河を名乗った方です。

大友能直 ウィキより あらためまして<(_ _)>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%83%BD%E7%9B%B4

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。
出自[編集]
相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。
父能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている[1]。

古庄・・? あれっ?昨日、原尻の滝近くにある、とっても美味しい手造りジェラートのお店で、それはそれは美味しいジェラートを頂いたのですが(ちなみに娘はカボス・私はラムレーズン(^◇^))そのお店が古庄さんでした・・
小学校の生徒さんから、農業体験のお礼が沢山きていて、お店に飾ってありました。
(@_@。古庄という姓を見て、「あれっ?どこかでお目にかかったようなお名前だな〜?」とは思っていたのですが、ジェラートがあまりに美味しすぎて、頭にピン!ときていませんでした(@_@。

あっ!!大友能直の墓所は「大分県豊後大野市大野町藤北」
あんにゃ〜〜\(◎o◎)/!私、昨日、こちらの系と関係のある所をウロウロしていたのですね・・

というか・・
「能直以降、大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばすことになる。」
私が昨日、行った場所は「大分県豊後大野市」・・大野?・・大野!
(ええええええええええええええええええええええっ?!!!!何、解っていなかったの〜??との叫び声が聞こえたような・・?ハイ(__)解っていませんでした(@_@。)

知っていたら、もっと色々、廻っています。(@_@。
だって、緒方の里がとても心地よかったのですもの・・・(__)( ^^) _旦~~

あっ!!大友能直の娘は、北条朝時の妻です!

そうか・・・・
折角、行ったのに・・(@_@。
でも、豊後大野市緒方原尻の景色は最高でした(●^o^●)
では<(_ _)>

じゃなくて!!
肥後守 藤原義綱の孫「仲教」は近藤能成の養子になっていました・・・
というお話でした。
では<(_ _)>
[44]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月29日 21時56分14秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm


「能直以降、大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばすことになる。」
 
この程度のことで、驚いてはいけません。
(失礼ですが)徳川幕臣は落ちぶれた名族のオンパレードで、大神姓藤林氏も徳川幕臣。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106c.htm
 
裏返せば、徳川氏は歴史ある名家を尊重したということです。


[45]子孫よりさんからのコメント(2014年10月30日 00時25分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「裏返せば、徳川氏は歴史ある名家を尊重した」

《緒方氏》姓氏類別大観を拝見致しました。
徳川幕臣にも繋がっている系だったのですね。

私は以前、平川家について11コメント37で
大神惟季(阿南次郎・四穂田次郎)の母 藤原高家の娘という件に触れていましたが、未だ調べていませんでした。

大神惟基が肥後権守藤原高家の娘を妻にして「大神惟季」(阿南次郎)が生まれた。

藤原高家は人吉庄の政所でした。
しかし、藤原高家の記述は沢山あるのですが、ただし、「藤原高家」に該当する人物がどこの系なのか、未だに解っていません。

あああああああああああああああああああああっ!!
日本の苗字七千傑様!! 見つけました!!

今、コメントを書きながら、何気なく検索していた所、ついに見つけました!!

http://6802.teacup.com/rokuro/bbs/242

「泉四郎藤原高家は尊卑分脈では富樫次郎家通の息子の泉四郎高家となっていますし、井家四郎範方は源平盛衰記に井家二郎範方(出自不明)と記載、その他、井家氏に近い津幡氏らしい人物も見受けられます。」

※藤原高家は尊卑分脈では富樫次郎家通の息子の泉四郎高家

きゃ〜〜〜〜!!やった!!富樫氏と繋がりました!!

心臓がばくばくしています!!

肥後の藤原氏, 菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、(藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載せたり。

昨日、豊後大野市を訪れた事が全てのきっかけです!!

でも・・・大丈夫かな??
だけど、すごく嬉しいです!
神社にお参りさせて頂いて、本当に良かった!!

ご教示頂いてヒントを得る事が出来ました。
本当にありがとうございました。

バンザ〜〜〜イ\(^o^)/
[46]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月30日 23時56分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>昨日、豊後大野市を訪れた事が全てのきっかけです!!
 
豊後国海部郡風成邑の平川氏は、中原姓大友氏族戸次氏後裔と伝える。
家紋は「丸に抱き花杏葉」、「左三ツ巴」。
詳細な系譜は不明だが、戸次重秀庶流。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106c.htm#003
 
こちらは中原氏の影がちらつくので、調査してみては?
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年10月31日 07時32分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

実は、昨日、大神惟基と冨樫氏との関係を調べていたのですが、今の所、全く見えてきませんでした。

なお且つ・・・青井阿蘇神社と私の故郷の中島霧島神社と大炊霧島神社を創建した「大神惟基」の記録ですが、どう考えても大同元年や大同年間と言う事であれば、時間軸が合わずに????となりまして・・
創建者は「大神氏」ではあるけれども、「大神惟基」ではないのでは?と。
そうじゃないと「大神惟基」は200歳くらいまで長生きされた事になります。(?_?)

大神良臣説
豊後國においては、三輪君特牛(ミワノキミコトイ)の後、忍人を祖とする
分流「忍人」の後裔5世孫「大神朝臣良臣(オオミワノアソンヨシオミ)」が仁和2年(886)従五位下、大野郡大領職(豊後介)として下向。その子庶幾(コレチカ)が寛平4年(892)大野郡領職となり「大藤太」と称し、 その子「大神惟基(諸任)」が延喜12年8月(912)正六位上、大野郡領擬少に任じられた。
この「大神惟基(コレモト)」を以って「豊後大神姓氏」37氏の祖とする説。
「大神惟基」であるが実在を示す資料はない。
前述と異なるが、大神姓佐伯氏系図には、弘仁二年辛卯三月五日生、四十八歳
豊後守。鳥羽院元永元戊年十一月(1118)没九十三歳とある。
真偽の程は判らないが、大神惟基は研究者の間では11世紀中期の人物と見られていることから、何れの記述も整合しない。
筑後本大神系図、都甲文書豊後大神系図には、九國にて狼藉はたらき召し上げられ四条河原で断首の刑に成りそうになり、辞世の詩を詠んだことが書かれている。
「惟基乃都参乃唐衣頸与利哉末津裁始気牟(惟基の都参りの唐衣頸よりやたちはじめけむ」この詩を聞いて感じ入り赦免されたという。
この後菊池大納言隆家の婿になったと系圖は書く。

※弘仁二年(811年)生まれ 〜 永元戊年十一月(1118)
(?_?)こちらも没九十三歳どころではありません??

※菊池大納言隆家・・藤原隆家・・ふじわらたかいえ・・あれっ?!藤原隆家・・藤原高家・・おなじ読みです・・?

こちらの調査で止まっている訳にはいきません(__)

日本の苗字七千傑様からお伺いした
「中原氏の影がちらつく豊後国海部郡風成邑の平川氏。中原姓大友氏族戸次氏後裔」

こちらの調査をさっそく行いました。
まだまだ、始めたばかりですが、最初から「あれっ??」となっています。

次のコメントで(__)
では<(_ _)>(^・^)

[48]子孫よりさんからのコメント(2014年10月31日 09時03分22秒 ) パスワード

では、早速(^・^)
と言いたい所ですが、先ほどのコメントを見直していてあれっ?となりました。

※庶幾(コレチカ)が寛平4年(892)大野郡領職となり「大藤太」と称し、 その子「大神惟基(諸任)」が延喜12年8月(912)正六位上、大野郡領擬少に任じられた。
大神惟基(諸任)・・諸任・・諸任?

名前に拘ってはいけませんが・・
藤原秀郷の孫に「諸任」と言う方がいらっしゃいますよね・・
藤原諸任の室は橘好則の娘です。

日本の苗字七千傑様の 【藤原氏秀郷流】姓氏類別大観と《秀郷流分流略系》を今じ〜〜〜っ( 一一)と拝見していたのですが・・

泉氏・蒲生氏・内藤氏・波多野氏・荒木氏・近藤氏・島田氏・大友氏・武藤氏・少弐氏・薬師寺氏まで・・・・・・あれれれれれれっ( 一一)(?_?)
偶然かな??( 一一)上記の姓が付いた方をこの一年間にどれだけ調査した事か・・

それに・・
大神惟基の娘婿は「藤原公光」(藤原秀郷の曾孫)という情報もありました・・
(実は、この時も時間軸で本当は?????となっていたのですが・・)

平河の調査でいえば・・

※内藤氏・・偶然かな?
多良木誌には「尼妙阿代道観が幕府に外題安堵を乞うたものである」と書かれていて、尼妙阿の代となった法名「道観」を調べた所、当時、法名道観を名乗っていた方が・・・
「頓宮肥後守藤原盛氏法師 法名道観」の名がありました。頓宮(内藤)となった記述もありました。

※荒木氏・・偶然かな?
尼妙阿のおそらく再婚?相手が「荒木氏」でした・・

※最近では泉氏・・偶然かな?
泉四郎藤原高家は尊卑分脈では富樫次郎家通の息子の泉四郎高家・・藤原(冨樫)高家は「泉 高家」ですね・・・

※近藤氏・・偶然かな?
藤原師高は・・近藤師高ですね・・・

※少弐氏・・偶然かな?(ー_ー)!!違った偶然ではありませんでした、真実でした
少弐景資は、争論後の永吉庄の預所職。地頭は平河氏。
少弐頼尚は平河を名乗った・・

その他もろもろ・・・・
どうも、《秀郷流分流略系》を拝見していると・・
この一年間の調査が走馬灯のように流れて行って・・( ^^) _旦~~・・ほっ(-.-)

じゃあなくて(ー_ー)!!

よ〜〜〜〜し!!まずは、
中原姓大友氏族戸次氏後裔「平川氏」!!の調査です!!
先ほどもコメントしましたが、すでに最初から「あれっ!!?」と言う事が沢山出てきています。

と・・言う事で

大神惟基(諸任)・・諸任?  というお話でした。
<(_ _)>
[49]子孫よりさんからのコメント(2014年10月31日 10時18分04秒 ) パスワード

さらに追記(__)

あの・・・皆様、九州の地図をご覧になって下さい。
http://www.welcomekyushu.jp/event/?mode=areaMap

豊後大野市と球磨とはかなり離れていますよね。
でも、この二つの地点は、一本の道で繋がっているのです。

実際に、私が身をもって体験しました。(方向音痴の為(@_@))

豊後大野市緒方原尻の原尻の滝は3回目とお話したと思うのですが、2度目に行ったのは数年前です。

本当の目的地は、宮崎の高千穂でした。
九州自動車道を熊本まで行って素直に高千穂に行けば良かったものの、その時私は、方向音痴のお陰?で、小倉からは大分県を通った方が早い!と勘違いをしてしまったのです(@_@)

大分経由で高千穂へとナビに設定して、向かった所、途中に「原尻の滝」があったので寄ったという訳です。
原尻の滝を過ぎて、すぐに山道に入りナビの通りに進むと・・・・
信じられない位の山道になり、車道には、木の枝が散乱していて、ついには祖母山の頂上近くを通る事になりました。
そこは断崖絶壁で、ガードレールもボロボロで・・崖下は100メートル近くありまして・・生まれて初めてで、なお且つ高所恐怖症ですから
「もう!帰る!!(@_@。」とマジ泣きをしました。
3時間ほど、一台も自動車とすれ違う事もなかったです(@_@。

しかし・・そうこうしていると、凄い高い山の車道の横に滝がありました。
降りてみると、滝壺の水が、これまた生まれて初めてみる色でした。
完璧なるブルーです。大感激をしました。(道を間違えてよかったな〜〜と)
そこからさらに進むと、車道から300メートルくらい下にかすかに集落が見えました。(どれだけ高い所を走っていたかお解り頂けましたでしょうか・・)

そこが高千穂だったのです。

ようやく、高千穂に到着して、地元の人に来た道のお話をすると・・
「あれ〜〜〜っ!!あの道を通ってきたの??まぁ〜〜今は殆ど誰も通らんもんね〜〜〜祖母山に登山する人くらいじゃないと?!!」と・・(@_@。

その後は、高千穂を堪能して・・
帰りは、絶対に熊本インターから小倉に帰ろうと、ナビを設定したのですが・・

ナビ通りに道を進むと、これまた山道に入り、あれっ?こっち熊本?と思っていた所、五ヶ瀬町に入りました。
方向音痴の私は、きっと五ヶ瀬町を通った方が熊本に近いのかな?と思い、そのままナビ通りに進むと、これまた山道。
だんだん不安になって来た所で標識が・・
矢印↑の先には「水上村」の文字が!!(水上まで数十キロになっていました)
ぎゃぁ!!水上村って球磨郡の水上村!!何だこれは?!!実家に着いてしまう!!

大慌てで、来た道を戻りまして・・五ヶ瀬町の人に熊本インターはどうやったら行けるのかを聞いた所
「なんで?高千穂から熊本インターに向かっていたのにここに来たと??」と逆に質問されました。(@_@。
だって・・ナビが・・(@_@。

親切なその方が、わざわざナビの設定をして下さったので、そこからは無事に熊本インターへ着く事が出来ました(-_-)

と言う事で、私は、身をもって
豊後大野市緒方原尻から高千穂を抜け危なく球磨郡水上村へ到着するはずであった道を通ったと言う事です。

豊後大野市緒方と球磨郡は・・あきらかに一本の道で繋がっていました(・_・)

でも・・・方向音痴のせいかこの様な事はしょっちゅうでして・・
だから、娘から「お母さんが原因」と言われてしまうのです。
でも、一緒に行く人は皆、何故か?「それにしてもおかしい??何で?」と・・
すごく不思議がります。
私も本当は大きな広〜〜い道を普通に走りたいです(@_@。

と言う事で
私の故郷球磨郡と豊後大野市緒方はすごい山道ですが、一本の道で繋がっています!というお話でした。
(__)
[50]子孫よりさんからのコメント(2014年10月31日 17時45分05秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

早速、中原姓大友氏族戸次氏後裔「平川氏」に繋がる道を辿ってみました。

日本の苗字七千傑様の《緒方氏》《戸次氏》姓氏類別大観を拝見すると・・

大友親秀の子「重秀」が戸次氏を継いでいます。

まずは、最初に遡って「重秀」の祖父「大友能直」からの調査です。
系図に記載されている事を中心にまずは・・
大友能直 → 大友親秀 → 大友重秀 と(__)

※大友能直
父 近藤能成。中原親能猶子。童名一法師丸。法名能蓮。
左衛門権少尉。左近将監。検非違使。
豊前前司。従五位上。
母大友四郎大夫経家女。・・・(波多野経家の娘)
承安2(1172)年生。
貞応2(1223)年11月27日卒。
★娘は北条朝時の妻。
★義兄弟・・肥後守 藤原義綱の孫「仲教」は父近藤能成の養子

※大友親秀
父 大友能直
利根次郎。大炊助。従五位上。号出雲路殿。
母高山四郎重範女。
法名舜秀〔寛政譜作寂秀〕。
建久4(1193)年生。
宝治2(1248)年10月24日逝去。
★母は高山四郎重範の娘

※大友重秀
父 大友親秀
母三浦肥前守家連女。
戸次次郎。
左衛門尉
★母は三浦肥前守家連女。 三浦家連は三浦(佐原)義連の子。兄弟に盛連。
佐原盛連の子供が佐原時連。法名は「観蓮」
平河の争論の際に関係した人物の中に「観蓮」あり。
三浦家連は佐原時連の伯父となります。
上記の大友重秀が戸次氏を継いだ・・と言う事ですね。

(・_・)さらに大友氏を進むと・・

大友重秀の兄弟に大友頼泰
※大友頼泰
父 大友親秀。初泰直。薬師丸。太郎。
丹後守。出羽守。兵庫頭。大炊助。
式部大輔。従五位下。
母三浦肥前守家連女。
号常楽寺殿。
法名道忍。

その後の系は・・
大友頼泰 → 大友親時(因幡守。法名道徳。永仁3(1295)年9月22日逝去。)→
→ 大友貞親(大友親時の甥。三男。太郎。母戸次親時女。出羽守。新蔵人。左近将監。従四位下。萬寿寺殿。法名玉山正温。応長元年七月十九日逝去。)

(・_・)所で・・
上記の大友親時の娘は・・島津貞久室。

島津貞久は・・「尼しんねん」と島津忠宗の子。
尼しんねんは・・父:三池道智(師時)母:尼如円
島津忠宗は・・母は相馬胤綱の娘「尼妙智」。
相馬胤綱
「相馬胤綱」に育てられた源頼隆の子息が「源(毛利)頼定」。
「源(毛利)頼定」の妻が、宮原の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」。

(・_・)三池道智(師時)の孫「島津貞久」の室が大友親時の娘・・と言う事です。

ここで一旦(・_・)
思い起こせば・・そもそも平河と徳大寺実春の争論の原因は・・
永吉庄の預所であった徳大寺実春の代官「賀来又二郎入道念阿」が平河の地頭職を奪いなお且つ、須恵氏の所領であった西村を・・
西村が須恵尼の狼藉にて所領を没収されたのち、「実春朝臣の知行に属していたが、その後、弘安六年には賀来又二郎入道念阿が地頭に補任された。

これが訴訟の原因だった訳です。
「賀来又二郎入道念阿」・・賀来・・賀来・・あれれっ!!賀来という姓は・・

そして、訴訟を起こした人物は
肥後国御家人 平河師時と平河良貞。「師時」と「良貞」です。
平河側に付いたのは平河道照(鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方)・禅門道我(二階堂出羽守行藤)そして「観蓮」(平河観蓮という記述あり)

それに、下ると・・
平河紀治には子供がいなかった為に愛甲次左衛門惟貞二男「惟重」為養子となって平河を継いだ・・
愛甲次・・って、最初は愛甲氏と思っていたのですが・・
よ〜〜く考えると「大友能直」は・・
※相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。

相模国愛甲郡古庄郷・・愛甲郡

それに・・
愛甲次左衛門惟貞二男「惟重」為養子・・惟貞と惟重・・通字が「惟」ですね・・

何だか、鼻がムズムズお腹がモヤモヤしてきました(・_・)

では一旦休憩を(・_・)<(_ _)>
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年10月31日 20時20分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「惟」ですね・・
 
惟の字が全てを物語っている。
戸次惟家ーー惟隆ーー惟継ーー惟房ーー惟澄==重秀・・・豊後平川氏
 
(椋橋姓)丹羽惟頼ーー(復良峯姓)季光ーー(改橘姓)惟光ーー惟季ーー恒季ーー季高・・・良峯姓原氏

惟の通字の豊後大神氏はもちろん、中原閨閥の影が大きいのでは?
[52]子孫よりさんからのコメント(2014年10月31日 23時14分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「惟の字が全てを物語っている。」

私なりに「惟」という文字、名前に使われている「惟」というこの文字について調べてみました。

すると、やはり「阿蘇国造家」に繋がっていました。

阿蘇神社
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asozinnjya.htm

五の宮 彦御子神
惟人命または八井耳玉命で甲佐宮に住む(国造速瓶玉命の第一の御子)

第七代孝霊天皇の九年六月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成三年より二、二七三年前であり、第十二代景行天皇の十八年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。

彦御子明神
初代国造惟人命
惟人命は神巧皇后が三韓征伐のおり、従軍し、軍功著しく南部管領を賜りました。惟人命は甲佐神宮の祭神となりました。

彦御子明神(惟人命)。  速瓶玉命の子。健磐龍命の孫

速瓶玉命 はやみかたまのみこと
先代旧事本紀」にみえる神。
健磐竜命(たけいわたつのみこと)の子。母は阿蘇都媛(あそつひめ)。孝霊天皇9年勅により阿蘇神社を創建したといわれる。崇神(すじん)天皇の時代,阿蘇国造(くにのみやつこ)に任じられた。阿蘇十二宮の第十一の宮で,国造大明神と称された。

彦御子明神(惟人命) 初代国造惟人命 最初に「惟」という文字が付いた方のようです。

かなり年代を降りると
阿蘇直
雄略天皇時代(21代)に仕え穴穂部直を賜りました。
天智天皇時代(38代)には評督に任ぜられていたようです。
5世紀後半 飛鳥時代に皇室部民がおかれました。
神主 緒方惟元 806年

とあり806年 神主 緒方惟元 「惟」の文字です・・

そして・・・気が付いたのですが、もしかしたら
阿蘇神社 神主 緒方惟元と言う方と、「大神(緒方)惟基」が混同されているのでは・・?と。
だから「大神(緒方)惟基」の年齢が200歳超え\(◎o◎)/!のようになっているのではないでしょうか?

青井阿蘇神社を創建したかたは806年に阿蘇神社 神主となられた緒方惟元であり、私の故郷の中島霧島神社と大炊霧島神社を創建された方もおそらく緒方惟元。こちらの方では・・
でも・・中島霧島神社と大炊霧島神社については・・もう少し後年の緒方惟基の可能性もありそうな・・?

と言う事で「惟」の文字は「多臣族」に繋がっています・・というお話でした。

では<(_ _)>
[53]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月01日 01時03分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

阿蘇大宮司は宇治友成が始(それまでは阿蘇宮司)、宇治惟俊(12世紀頃)から惟の字を使用、治承4年(1180)惟泰から阿蘇姓を名乗る。
大宮司では無いが11世紀に権宮司の宇治惟行などが名乗っていた。
一方、大神惟任は10世紀の人。
大神惟基は惟任の子。
緒方惟元は別人で、後世の人。
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年11月01日 16時29分13秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
子猫のメイを病院に連れて行って、コメントが遅くなりました。
すみませんでした。

大神惟任は10世紀の人・・

阿蘇大宮司家より先に「惟」の通字を大神氏は使っていたと言う事ですね。
大神惟基は惟任の子
と言う事は・・青井阿蘇神社・中島霧島神社・大炊霧島神社も、球磨の神社史の記述通りに大神惟基が創建したと言う事になるのでしょうか。

ともかく「大神氏」「緒方氏」が係わっていると言う事には間違いない・・と。

所で・・

織田信長が家臣達の官位を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられた。この際、丹羽長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられた。

という記述がありました。
「惟任」「惟住」・・名ではなく姓としてと言う事ですね。

上記に関連して
明智光秀→「惟任」と「日向守」
塙直政 →「原田」と「備中守」
簗田広正→「別喜」と「右近大夫」
丹羽長秀→「惟住」
村井貞勝→「長門守」
羽柴秀吉→「筑前守」
滝川一益→「伊予守」

と言う事に関して、質問をされているサイトの回答が
「惟住」は豊後の名族・大神氏の一門。
「別喜」は豊後守護・大友氏の一門。
「原田」は九州北部の名族・大蔵氏の嫡流。

「惟任」だけが良く分らないんですね。
大神惟任という人が大神一族に居ますが、
この「惟任」は名前ですからね・・・。

ともかく。
これらを見ると、
わざわざ中国・九州北部に由来するものですから、
つまり、信長の次の目標が九州だよという事を示すと、
そう解釈されていますよね。こういうやり方は、信長の趣味です。

(・_・)とありました。

(・_・)・・・次ぎの目標が九州だ!と言う事と信長の趣味・・

(・_・)・・あの・・素人が申し訳ないのですが・・何だかそれだけではないような気がするのですが・・

※丹羽長重・・惟住 明智光秀・・惟任 「惟」の文字。
今まで、先祖の調査で、伺ったご教示に本当は全て関係しているのでは?
織田信長はそういう事?に精通されていたのでは?

な〜んて、思ったりしました・・(・_・)

と言う事で「惟」の字を調べると色々なお話が出てきました。
では<(_ _)>(^・^)
[55]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月01日 21時06分21秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>ともかく「大神氏」「緒方氏」が係わっていると言う事には間違いない・・と。
 
 
何故、大神氏が豊後なのか?

仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」の「高天原は実在して東遷した」の地図を参照して下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/takamagahara.gif
 
神聖条約締結地の奥津宮から春分・秋分の日出・日没線を延長すると、
大山祇神社ー大神神社ー伊勢神宮が線上に並びます。
伊勢神宮が伊勢の地に遷座されたのも偶然では無いのでしょう。
高千穂峰から伊勢神宮ー三島大社ー鹿島神宮が夏至の日出線。
同じく平行して富士山ー大神神社ー豊後大野ー阿蘇神宮が並びます。
豊後大神氏や阿蘇神宮の位置は偶然では無いのです。
「惟」字も線上、他の地域ではあまり使用されません。
このレイラインが意識され、大和の大神氏がわざわざ豊後大野へ西遷したのじゃないのかな?
信長も密かにレイラインを意識したのか?
球磨が、高千穂峰ー高良大社ー奥津宮の線上にあるのも不思議ですね?
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年11月02日 00時51分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「豊後大神氏や阿蘇神宮の位置は偶然では無いのです。」
「レイライン」

お話を伺っただけで、身体中の何かが騒ぎました。

私も織田信長は何かを意識・・知っていたのではないか?と思うのですが・・

「球磨が、高千穂峰ー高良大社ー奥津宮の線上にあるのも不思議ですね?」
完全に線上にありますね・・

大神惟基が創建した中島霧島神社と大炊霧島神社なのですが、今は、岡原霧島神社に合祀されています。
切畑神社も創建は大同年間と言う事なので、想像するにおそらく大神氏が創建されたのでは?と
切畑神社と大炊霧島神社は黒原山の左側と右側の裾野にありました。
そして、中島霧島神社は丁度、横ラインの中央。

以前、黒原山は久米族の信仰の山であったと言う事は伺いました。

全ての神社の位置に意味があるのであれば、大神氏が創建した故郷の神社3社の位置にも何らかの意味があったのではないか?と思うのですが・・
以前、ブログで黒原山の位置をご紹介致しました。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11919388592.html

こちらの線はまるで九州の中央を通っているかのように見えます。

日本の苗字七千傑様
私は「高天原は実在して東遷した」の地図にもう一本線を足した地図を想像しました。(勝手にすみません)

出雲と高千穂峰を線で結ぶと「高天原・高千穂峰・出雲」の正三角形になります。
高千穂峰の角から垂直に線を伸ばすと二つの直角三角形になり、その中央のラインが私がブログでひいた線ではないでしょうか・・?
(意味のない事を想像しているのかもしれませんが)

「「惟」字も線上、他の地域ではあまり使用されません」

あの・・・実は「惟」の字を通字とした「鎮目氏」(武田氏族)の記述を見つけたのですが、どうして、こちらが「惟」の字を通字としているのか、理由を見つける事が出来ません。(実は、午後からず〜っとこちらの情報ばかりを見ていました)
源義光の系ですよね・・

でも・・何か気になります。

豊後大野・・・原尻の滝に行くと古代の人が神を想像した気持ちが良く解りました。
阿蘇・・・雄大な景色の中で火口は、人の住む世界とは別の恐れさえ感じる地底の世界に続いているような感覚になります。

高千穂峰・韓国岳
噴火を繰り返す山々ですが、韓国岳の頂上は穏やかで、九州の遠い山々がかすかに見えて、天にとても近いような感じがしました。

豊後大野と阿蘇は観光で行きましたが、韓国岳は中学生の時に塾のキャンプの一環で登山しました。

偶然にもレイライン上にこのような神を想像する場所が存在していたのですね。
すごく不思議な気持ちになりました。

レイラインを作り上げた古代の方々の文化そして知識は想像を絶します。
すばらしい・・
ここまでの文明はメソポタミア・・バビロニアの影響を多大に受けているのでは?な〜んて素人は想像してしまいました。

それから・・球磨は自然の要塞のような場所です。(客観的に想像してみました)

では<(_ _)>(^・^)
[57]白石さんからのコメント(2014年11月02日 04時24分27秒 ) パスワード

一雨ごとにモミジの色合いが増して 今年はこうようが楽しめそうです。近くの木々も程よく色づいています。
勲章の事がお話に出ていまして、そうそう 忘れかけていたけど 父のは どういう種類のものなのかしら?と思って ネットをのぞいてみました。

父は七〇歳になってからいただいたのでなく、海軍に在籍しているうちにいただいたようです。まだ子供のような顔の写真に 勲章をつけています。
ネットで見たら 「旭日章」というらしいです。初めて勲章が制定されたころのものだそうです。
曽我氏が つけている写真がネットにでており、こちらは 勲章よりも 歴史の表舞台には でなくなったけど 曽我を名乗る人がいたのだなあとそちらに関心がいきました。もうひとつ 思い出したけど 皇太子殿下と妃殿下のキューピッド役を務められたのも 曽我氏だったと 記憶しています。

曽我氏は 唱子という人の血筋が 現代まで続いていて 皇統に入っているようですね。

子孫様のおかげで いろいろ 勉強になります。
[58]白石さんからのコメント(2014年11月02日 04時27分16秒 ) パスワード

先日から 白石の 北朝より?の ことを 見ていました。
まだ 図書館に行きそびれているので、くわしくは わかりませんが、若いころ調べたことを思い出しています。

そしたら 子孫様の コメントで 頼光流の話が出ていました。

白石氏
1.陸奥国刈田郡の白石氏(しろいしし)。藤原北家秀郷流。はじめ刈田氏、のちに伊達氏を称す(登米伊達氏)。
2.常陸国久慈郡の白石氏(しらいしし)。清和源氏佐竹氏一族。

1は 前からお話していた 伊達氏に関与している白石で、
2は 太田亮氏が肥後の白石は清和源氏で はじめ 菊池に仕え 菊池が相良に負けた後相良に仕える と書く筋ではなかろうか?と 思います。

その 子孫が 日向宇佐美入道の女子と 結婚 と 太田氏は書いている。(と 記憶しています。このあたりを 図書館に行こうと思っているのですが・・・)

ネット検索すると 相手方の 宇佐美氏は 伊東氏。

伊東は この間 お話した 川並衆にも 言葉が出ていて、和邇氏に つながっていく。
又 伊東は 相良氏にも 関与していて

私 前に うちは 南朝と 思っていたけど どうも 北朝か ・・・ と 思い始めたところ・・・と 書いたことがありますが、

菊池から 相良(人吉相良は 北朝方で 同族が 福岡たたら浜にいて 大内の家臣にいる。足利尊氏はここへ来て勢いを盛り返し京へ馳せかえった。)
へ仕える移り変わりで 南朝方から北朝方へなっているのかしらん? 
永国寺の流れのところへ 本家 (本当はうちの祖父が本家筋・・ただ 血縁関係は 白石へ何代か前に高岡から嫁を 繰り返す。その縁か 父母は 夫婦養子)

は 位牌を頼んでいて 位牌ばかりは 箱いっぱいある と 本家の主は 言っていました。

そして
武田のことばには 「大伴武田」「竹田川辺」の言葉があり、大伴の言葉につながっていく。

[59]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月02日 07時33分58秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>出雲と高千穂峰を線で結ぶと「高天原・高千穂峰・出雲」の正三角形になります。
 
日本中にレイラインは無数に存在します。
その中で二つの高天原を結ぶレイラインは別格です。
日本の神社の本殿、御神体は南向きが常識です。
しかし鹿島神宮の本殿は北向き、御神体は東向き。
出雲大社の本殿は南向き、御神体は西向き。
すなわち出雲大社と鹿島神宮は正反対の構造になっているのです。
 
鹿島神宮の夏至の日出方向に明石の浜があり、鳥居が立って居る。
かって鹿島神宮一帯の地名は高天原。
夏至の日出の高千穂峰ー伊勢神宮ー高天原レイラインは尤も太陽が輝く日。

[60]子孫よりさんからのコメント(2014年11月02日 13時44分06秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、「白石氏」は伊達氏または、佐竹氏と繋がっていると言う事ですね。
以前、お話したように、私が、大分方面に行く時にいつも通る道が、苅田町の白石神社の近くです。
何だか、読んで字のごとくという感じがします。(・_・)
どちらも繋がっているのでは?ないでしょうか・・

日本の苗字七千傑様
「出雲大社と鹿島神宮は正反対の構造」
これは、何を意味するのでしょうか?
日の出の太陽・日の入りの太陽を双方の御神体が向かれているような・・

「夏至の日出の高千穂峰ー伊勢神宮ー高天原レイラインは尤も太陽が輝く日」
想像すると、あまりにも神々しくて、私は下を向いてしまいそうです。

夏至は一年で最も昼が長い日。
子供の頃から、実は夏至をむかえると、私は何故か、とっても寂しく感じました。
何と言えばいいのか・・
ああ〜明日から、太陽の力が少しずつ弱くなってしまう(@_@)・・というような・・
(太陽の力は変わらないのですが(ー_ー)!!昼が短くなる?のがさみしいような・・)
(変な子供だとお思いでしょうが・・実は今でも、毎年、まわりの人に同じような事を私は言っています。そのつど、「また、今年も言ったね!」と言われます。)

だから冬至は嬉しいです。明日から少しずつ太陽が元気になる〜!!のような・・(もう、皆様、私の変人ぶりには慣れて頂いている事と思いますので、あえてカミングアウト致しました(__))

鹿島神宮についてあまり存じていませんでしたので、少しお勉強を致しました。
(えええええええっ!!との叫び声が!!・・これから、理解致します・・(__))

鹿島神宮 ウィキより 少しピックアップして転記いたします
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE

茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される、東国では随一の古社である。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏からは氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財では「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されているほか、境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。そのほか、鹿を神使とすることでも知られる。

※鹿を神使とすることでも知られる

社名[編集]
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「鹿島(かしま)」は、古くは『常陸国風土記』[原 1]では「香島」と記載される[2]。同記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている[3]。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)[原 2]であり[4]、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている[2]。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明している[5]。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
「神の住所」すなわち「カスミ」とする説[3]
「建借間命(たけかしまのみこと)」から「カシマ」を取ったとする説[3]
建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀[原 3]に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』[原 4]に記述が見える人物。
「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説[3]
『肥前国風土記』[原 5]に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの[3]。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字を使用する。
祭神[編集]

「鹿島要石真図」
江戸時代の鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神。
祭神は次の1柱[6]。
武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ[6]、たけみかづちのおおかみ[7])
『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される[8]。
別名を「建布都神(たけふつのかみ)」「豊布都神(とよふつのかみ)」[8]。
祭神について[編集]
上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)として知られる。その出自について、『古事記』[原 6]では、伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱とする[8](『日本書紀』[原 7]ではここでタケミカヅチの祖・ミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、天鳥船神(『古事記』)または経津主神(『日本書紀』)とともに活躍したという[9]。その後、神武東征ではイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツノミタマ)を授けた[7]。ただし『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はなく、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかではない[10]。
一方『常陸国風土記』[原 1]では祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、天孫の統治以前に天から下ったとして記紀同様の説話を記す[11]。しかしながら、同記にも具体的に鹿島神宮の祭神がタケミカヅチであるとは言及されていない[12]。
神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献上の初見は、『古語拾遺』[原 8](807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である[13]。また『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」[原 9]では「鹿島坐健御賀豆智命」と記される。ただしこの「春日祭祝詞」に関しては、春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)[注 1]まで遡るという見方もある[14]。
神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から「武神・軍神」の性格を持つと見なされている[15]。特に別称「タケフツ」「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣・フツノミタマ(布都御魂、韴霊)に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神であるという見方もある[16]。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(『梁塵秘抄』)[原 10]という歌が知られる[17]。一方、船を納めさせたという風土記の記述から「航海の神」としての一面や[11]、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から「農耕神」としての一面の指摘もある[18]。以上から、神宮の祭神は軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたともいわれる[18]。

(・_・)ウィキでは続けてとても詳細を長く記述されていますので、全部転記する事ができません。
(・_・)でも、最後にすごく気になる記述がありました。

祭神・祭祀氏族について[編集]・・こちらです。
鹿島神宮の祭祀氏族としては、中臣氏が知られている。史書に見える頃からすでに中臣氏が活躍を見せており、中臣氏から出た藤原氏も氏神として神宮を崇敬した。中臣氏が神宮を管掌するようになったのは、朝廷の東国経営強化の要請から中央祭祀を司る中臣氏が祀官を再編したためとも[30]、原始祭祀氏族の没落によるためともいわれる[25]。その掌握時期についても、藤原鎌足(614年-669年)の常陸国封戸獲得の時点とする説[142]、中臣鹿島賜姓の時点(746年)とする説がある[150]。中臣氏掌握以前の祭祀氏族に関しては、次の説がある。

(・_・)中臣氏掌握以前の祭祀氏族・・ではいきますよ!!
多氏説
中臣氏以前の氏族を多氏(おおうじ)に見る説で、根拠として、「鹿島の本宮」ともいわれる大生神社(潮来市大生、位置)の存在がある[151]。その社名「おおう」は、多氏一族が居住したことによると伝えられ、奈良の多神社(多氏本拠地)からの勧請という伝承もある。また大生神社の例祭には鹿島神宮から物忌が出輿したとされるが、物忌は神宮祭事のうち年6回しか携わることはなく(神職節)、その1つを境外の大生神社が占めていたことは破格の扱いといえる[47][152]。大生神社に関する古文書には、春日大社創建を契機として鹿島神宮が性格を変えたこと、それに大生神社が関わっていることが記載されている[151]。この大生神社周辺には古墳時代中期(5世紀)の古墳群(大生古墳群)が残っており、神社祭祀氏族の墓とされ[153]、各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという指摘もある[154]。
多氏については、鹿島郡を割く以前の那珂地域を治めた仲国造や、鹿島苗裔神が特に多い陸奥国磐城郡の国造(道奥石城国造)が、いずれも多氏祖・神八井耳命系であったことも併せて指摘される[155]。

物部氏説
物部氏を原始祭祀氏族とする説によれば、タケミカヅチ・韴霊剣・石上神宮の関係から、タケミカヅチは物部氏が奉じた神とされる[156]。この中で、5世紀から6世紀頃に物部氏はフツノミタマを奉じて各地に遠征したといい、6世紀に発生した武蔵国造の乱と東国の鎮守設定の要請が合致すると説明される[142]。
また、鹿島神宮の祭神は古くよりタケミカヅチとされているが、『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は『古語拾遺』(807年成立)または『延喜式』所収の「春日祭祝詞」(768年から927年に成立)にまで下る(「祭神」節)。その祭神設定の経緯としては、ヤマト政権が東国経営を進めるに伴い、原始祭祀の神に対して中臣氏がタケミカヅチを代位したという見方がなされている[157][30]。一方、上記のようにタケミカヅチは物部氏の祀る神という見方や[158]、鹿島に残る「ミカ = 甕」伝承と神名との指摘もある[159]。いずれにしても、タケミカヅチが常陸に根付いたのは、8世紀をそう遡らないと見られている[160]。
そのほか、香取神宮祭神の「イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主・斎主)」という別称から、鹿島・香取両神宮について「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀関係の指摘もある[161][162]。

(・_・)中臣氏掌握以前の祭祀氏族は
多氏説と物部氏説の二つの説がある・・・・・

そうか・・・そうなのですね・・・

それから最後に・・
※鹿を神使とすることでも知られる

鹿は神様の使いとされているのですね・・
すごく長いコメントになってすみません。

実は、私、数年前に山の中で道に迷って・・そして、ものすごく大きな鹿さんと遭遇した事があります。

福岡県田川郡の添田町と川崎町の丁度境あたりで、仕事をしていた時に、次の日が休みだった事もあり、日田に遊びに行ってみようという事になりました。

英彦山の横を抜け、小石原(焼きもので有名な)を通り、宝珠山を抜けた所で、日田の街に一番早く抜ける事が出来る道はないかな?と思い、ふと標識を見ると←日田と書いてあったので、通った事はない道だけれど近道かなと思いそちらに進みました。

すると、どんどん山の中に入っていって、林道のような、これまた、枯葉や枝が散乱する道に変わってきました。
あわてて、ナビを付けたのですが、当時のナビは性能が悪くて、モニターには、まるで、車が道なき山の中を進んでいるような絵しか出てきませんでした。
標高の高い崖の横を通っていて、引き返すにもUターン出来る場所がありませんでした。どんどん日が暮れて、あたりは真っ暗になってきました。
半ベソをかきながらいつものように「もう!帰りたい!!(@_@。」と言っていると、目の前に小さなピカッとひかる目が。
あれっ?と思ってよく見ると、タヌキさんでした。
タヌキさんは、ヘッドライトに照らされながら、車の前をどんどん走っていきます。
私は、「タヌキさんは横にそれる事が出来ないのかな?面白い(^・^)」と笑って、タヌキさんの後を追いかけるように車は進みました。

すると、急にタヌキさんが道の横にパッと逃げたので「な〜んだ横にも行けるんじゃん!(^・^)」と笑っていると、突然、目の前に大きな何かが現れたのです。

運転していたのはこの時もM田さんでしたが、M田さんもビックリして、急ブレーキをかけました。
その大きな何かはゆっくりと車に向かって歩いてきました。
ライトに照らされた姿は、それはそれは、ものすごく大きな鹿さんでした。
大げさではなく、少し小さめの牛くらいの大きさで、角が、ものすごく長くて大きくて、とても立派な形をしていました。
動物園で見る鹿さんとは全く違います。恐怖を感じる迫力でした。
その鹿さんは、車のすぐ前まで進んできて、中の私達をじ〜っと見ていました。

私は、思わず、「鹿さん、ごめんなさい。道に迷ってここまで来てしまいました。お邪魔して、すみませんでした。どうか、ここを通して下さい」と心からお願いしました。
きっと、このまま、車に体当たりされたら、フロントガラスは割れてしまうと、本当に怖かったのです。

しばらく、鹿さんは私達の顔をじ〜っと見ていましたが、くるっと向きを変えて前を進み始めました。
ゆっくりゆっくり、その後を進んでいくと、道がふた手に分かれていました。
鹿さんは左に進む道の真ん中に立ってとまったので、私達は、右に進む道へと方向を選びました。

心臓はドキドキしていましたが、M田さんがふと
「もののけ姫の映画に出てくるような鹿だったね。きっと山の主だと思うよ〜」
と、M田さんらしからぬ発言をしていました。M田さんも、本当に驚いていたのです。
選んだ道を進んでいくと、突然集落が現われました。
小さな標識には「小鹿田」の文字が。やっと、人の住む所に出れた!!とすごく嬉しかったです。

暗闇に焼きものの窯のような物があったり、薪が積まれていたりして、「ここは何処?」と思いながら、集落をぬけると、また、山道でしたが、ちゃんと標識があって、日田の市街地に出る事が出来ました。
自分は何処を通っていたのだろうと、後でネットで調べたのですが、「小鹿田」は焼き物で有名な集落だったようです。
小鹿田焼
http://www.keiseikan.net/about/

でもこちらに宝珠山の方から、山を越えて行く人は殆どいないと、後で添田の人に言われました。
「どこを通っていたの!!?」と皆から言われて、よく帰ってこれたね!!と脅されました(__)(@_@。

でも、考えたら、あの時、鹿さんに出会わなければ、私、もっと道に迷っていたかも知れません(__)

きっと、普通に街で生活していたら一生に一度も出会う事はまずないと思われる鹿さんに会えたというお話でした・・<(_ _)>

長くなりましてすみませんでした。
では<(_ _)>(^・^)
[61]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月02日 15時35分00秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「出雲大社と鹿島神宮は正反対の構造」
これは、何を意味するのでしょうか?
 
高天原から派遣されて大国主命に国譲りを迫った使者が
武甕槌神。
武甕槌神は出雲大社の創設者であり、鹿島神宮の主祭神。
従って本殿、御神体の向きは勝者の武甕槌神が指示したのでしょう。
鹿島神宮と一対として知られるのが香取神宮。
武術の道場ではお馴染みですね。
武甕槌神に破れた建御名方神は諏訪神社に祀られるが、
鹿島神宮の真西。

[62]白石さんからのコメント(2014年11月02日 23時43分51秒 ) パスワード

こんばんは
57 58 少し 字を間違えました。
唱子は 口のところが 女です。

頼光は 義光です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネットより
飛鳥時代、蘇我氏の天下でしたが、藤原鎌足が、クーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害しました。
こうして、藤原氏の天下となりましたが、鎌足の息子の藤原不比等は、蘇我 娼子(そがのまさこ)を、最初の正室として、血は混血していきます。
結局、蘇我氏(石川氏)自体はその血を引いていた天武天皇の皇統断絶等もあって、姿を消す事となった為、女系ながらも、彼女が藤原氏を通して、その血統を現在まで伝える事となります。
その系統に、源氏があるわけです。
      −−−
藤原不比等の子

蘇我娼子との間の子
長男 武智麻呂・・・・・南家ですね。
次男 房前
三男 宇合(宇合の母は娼子ではないという説もあります)

五百重娘との間の子
四男 麻呂

賀茂比売との間の子
長女 宮子(文武天皇夫人、聖武天皇母)
次女 長娥子(長屋王室)

県犬養三千代(橘三千代)との間の子
三女 光明子(安宿媛、藤三娘、光明皇后)

生母不明
四女 多比能(橘諸兄室)
五女 名前不明(大伴古慈斐室)


美努王は不倫ではなく、県犬養三千代の最初の結婚相手です。
敏達天皇の子孫にあたる皇族です。
ふたりの間には、葛城王(後の橘諸兄)、佐為王・牟漏女王などが生まれました。
県犬養三千代は、その後美努王と別れて不比等と再婚し、光明子を生んでいます。
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>武甕槌神。
武甕槌神は出雲大社の創設者であり、鹿島神宮の主祭神。

兵法家に流布する 「異本物部系図」というのがあり、開いて左上のぽっちりを押せば 国常立命がでます。

系図に帰り
みれば 布都御魂命・・・この人は石上神宮・鹿島神宮にまつられる。
 天にあるときに埋めれた子で 天下っての名を高倉下という人が いて、天下ってできた 子(この人の子が長脛彦の妹と結婚したというにぎはやひ)。.

木積氏・・・穂積氏同じ。先日聖子さんのお寺の横浜の総持寺も鈴木氏が勤めておられる。..
香取神宮への筋もある。
いわば 仲間ということで。
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贏姓 高丘系図1 の 左上のぽっちりを おして つぎつぎと画面を出してみると 国常立命がでます。途中 盤古など でます。九条兼実の兄弟・慈円の「愚管抄」 の 岩波文庫本でも 最初の ところに 盤古から はじまっていました。
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鹿島神宮のまわりで 尾方 サダ 安曇 の ことばがあったのは 次に書きます。
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異本物部系図にかえって
ひのはやひのみこと というところを コピーして ネット検索すると 
斐伊神社 - Wikipedia
祭神[編集]. 祭神は、素盞嗚尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命。合殿(斐伊波夜比古 神社・樋速夜比古神社)には、樋速夜比古命、甕速日命、火・毘古命が祀られている。 歴史[編集]. 創立年は不詳。斐伊神社の古史伝によると、創立は甚だ古く、★埼玉県の 氷川

と 氷川神社が でます。出雲のひかわ ひい に 通ずるのか?と。
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出雲向家の方は もともと 出雲大社は自分たちの先祖が自力で建てたものだといっておられ、長脛彦も 系におり
多氏がまつる あまてらすは さひめ の ことだと・・・

さひめを けんさくすると 新羅からまいおりた 女神だということです。
新羅の王は 神武天皇兄がなっており 高句麗 百済は つながっていて 百済の人が 新羅の王になったといい 
あちらも ぐるぐる しているようです。
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高岡系図の中の ぽっちりや クリックすると 画面が出るところを 押してみるといろいろ 情報が 出てきます。

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もしも もしも ですが
高岡と 平川が 表裏一体のようにでてくるのは
漢王室はじまりの 劉邦の父母に関与していて 父方が 蓋馬韓なら そうなってくる と 私は 思っているのですが ・・・

しかも
漢王室劉邦の遠祖は さらに 128代くらい前にさかのぼり
先に 話した 紅桜夢の ドラマから たどれば き姓の人が でるのだけど
き姓の劉姓が 河南省にいたみたいです。
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[63]子孫よりさんからのコメント(2014年11月03日 00時34分40秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「武甕槌神は出雲大社の創設者であり、鹿島神宮の主祭神。
従って本殿、御神体の向きは勝者の武甕槌神が指示した」

そういう事だったのですね。

神社の位置・本殿そして御神体の向きにも全て意味があるとは・・
とても勉強になりました。
ありがとうございます。

あらためて「高天原は実在して東遷した」の地図を拝見していたのですが

マタマタ(ー_ー)!!とおっしゃらないで下さいね・・

私が生まれたのは宮崎の高鍋町。それからすぐに新富町の新田(佐土原の隣町)に移って8歳まで過ごしました。

宮崎を通るレイラインの線上で生まれて育ったのかな?と。
その後、球磨の祖母のもとで10年間を過ごし・・
父の住む久留米に転居して高良大社の麓に住んでいました。

人の人生も何らかの仕組みの中の一つのような気がしています。
(私の場合は偶然でしょうが・・)

明日も、しっかりと勉強がんばります(^・^)
では<(_ _)>
[64]子孫よりさんからのコメント(2014年11月03日 08時39分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様のお父様の系であられる高岡氏。

そして、ご教示頂いた高丘氏。 すこし勉強いたしました(__)
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%B8%98%E6%B0%8F
王万邦『姓氏詞典』(河南人民出版社)によると、秦の王族参(昭襄王の弟)が高陵に封ぜられ高陵君になったため、子孫が高陵氏を称したという。漢高祖の時、諫議大夫の高陵顕が出た。後漢末の高穆の代に戦乱を避けて楽浪郡に移住した。その子孫で百済からの渡来僧楽浪(さざなみ)詠の子、河内が姓高丘宿禰、のち高丘連を賜った。応仁の乱の頃まで山城国の官人・武人として名を見る。のち摂津国川辺郡梶ケ島村(現在の尼崎市)に移った。

双方の「たかおか氏」が繋がっていると言う事でしょうか。

すみません(__)私はまだまだ、勉強不足で、「劉姓」と上記の高丘氏との関連性も理解出来ていません。
これからしっかり勉強致しますね(__)(^・^)

それと・・
良峯姓と劉姓の関係はどのようになっているのかも、私は未だ調べていませんので、ご教示頂いた「劉邦の父母に関与」のお話については、勉強不足です。
ただ、現実的に今、解っている事は、人吉庄の預所代であった中原清業が坂上氏であったと言う事ですから、もし「劉姓」との関係性であれば、「中原氏」と坂上氏または大蔵氏との関係に繋がっていくのでは?と何となくですがそう、想像致します。

中原氏と平河の関係は・・
平河師高はあきらかに「中原氏」との繋がりが見えます(師の通字も含め)
では・・
平河義高は・・と言うと・・
あくまでも私の感というより「妄想」と言ったらいいのかも知れませんが・・
おそらく、「中原氏」と繋がりのある「義高」という人物だと思うのです。
ただ、「義」の文字も見えるので・・
「義」の通字がある「○氏」と「中原氏」が関係する「義高」という人物ではないのかな・・?と。

大友氏・戸次氏・少弐氏・三池氏・鹿子木氏・・
こちらとの関係が見える理由はおそらく「中原氏」との繋がりからだと思うのです。
そう考えると、祖母の実家の旧宮原村久米郷の平川は、大神惟基が創建した神社を氏神として、尾形氏との姻戚関係がいまも続いている・・という事に繋がっていくのでは?と。
その他にも、平川家に付いて16のコメント30でお伝えした
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101373_87.html
曾祖母の実家に伝わる、観音様に残された言葉にも繋がっていくのかもと・・

※高千尾庄川曲村観音寺常住鐘応永三十年癸卯〔一四一三一)・
※高千尾庄川曲村観音寺常住鐘
※応永三十年癸卯(1413年)

「高千尾」の言葉があります・・

もしかしたら、観音様は、先祖の何方かが嫁いで来られた時に持参したものかも・・?な〜んて想像したりして、妄想?が膨らみます・・・

それから・・
次のコメントでお伝えしますが、先日、父から聞いた「平川と星原家の関係」をもとに(今回は感ではなくデータをしっかり見ています(^O^)/)気が付いた事があります。

では後ほど<(_ _)>(^・^)
[65]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月03日 11時56分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

高丘氏は高陵氏後裔で、嬴姓であり劉姓ではありません。
高岡氏も同じ。
一般的に高丘連が漢帰化族とされているので勘違いするむき多し。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03019.htm
 
それより阿智王(劉姓)随従の皀郭姓の坂合部氏、佐太氏や、朱姓小市氏、佐奈宜氏、佐名木氏、佐奈木氏に着目して下さい。
特に小市氏は伊予越智氏との関連。
恐らく讃岐の塩飽諸島の佐柳(さなぎ)島発祥の後裔が佐奈宜氏、佐名木氏、佐奈木氏でしょう。
咸臨丸の水夫50人のうち長崎出身の15人以外は全て塩飽諸島出身。
塩飽水軍の航海技術は高く、阿智王の来朝に伴った水夫の後裔でしょう。
来朝時に、伊予越智氏との関連が有るのでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03004.htm#002
 
備中の瀬戸内海には白石島、瀬戸内は海のシルクロード経由ばかりでなく漢土、半島の陸のシルクロード経由も合流したということでしょう。
[66]子孫よりさんからのコメント(2014年11月03日 15時10分16秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「阿智王(劉姓)随従の皀郭姓の坂合部氏、佐太氏や、朱姓小市氏、佐奈宜氏、佐名木氏、佐奈木氏に着目して下さい」

お伺いして、早速、まず「皀郭姓」こちらを少し調べてみたのですが・・
とても興味深い情報を見つけました。

谷川健一氏の『青銅の神の足跡』の多氏東漢氏派生説についてを紹介したサイトです
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/26668145.html
こちらを転記させて頂きます<(_ _)>

谷川健一氏の『青銅の神の足跡』は、本来の専攻は民俗学である氏が古代史に一石を投じた貴重な本だ。
様々な点で示唆に富んでおり、読み返す度に新たな発見がある。
この本の「青の一族」の章では、秦氏と同じ渡来人の東漢(あずまのあや)氏について書いている。
『新撰姓氏録逸文』によると、応神天皇のとき、後漢の阿智王が七姓の漢人をひきいて渡来したという。
阿智王は阿知使主(あちのおみ)を賜り、その後裔が東漢氏と西漢氏になった。
この七つの姓というのは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高だが、ここに多氏と同じ「多」の姓があることに注目したい。
この多姓は、檜前調使(ひのくまつきのおみ)の祖となったという。
また、皀郭姓は坂合部首(さかいべのおびと)の祖だが、坂合部練は多氏と同祖だと谷川氏は書いている。
ところで、この阿智王は自らを後漢の末裔だとしている。
だが、朝鮮半島南端にあった伽耶の国を構成していた伽耶六国の一国が阿耶伽耶(アヤカヤ、別名:阿羅・阿尸良国・阿羅加耶)であり、阿智王らは自分たちが住んでいた国の名を取ってアヤ氏(漢氏)と称したのではないだろうか。
谷川氏が多氏と関係が深い人物の一人としてあげているのが、飯富青皇女(いいとよあおのひめみこ)だ。
飯富王、青梅皇女、忍海郎女王、忍海郎女など、さまざまな呼び方がある。
青皇女は履中天皇の娘で、母は葦田宿衝 (損城襲津彦の子)の娘の黒媛と言われるが、別伝では市辺押羽皇子の娘で、母は蟻臣(葦田宿衝)の女藻(はえ)媛とも伝えられている。
『日本書紀』によれば、清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず、久しく空位が続いたために、飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから臨時に政(まつりごと)をしたとあり、一時は天皇に準ずる地位にあった可能性を伝えている。
記紀では天皇という言葉を使っていないが、『扶桑略記』では「飯豊天皇」としている。
多氏の一族で飯富とか飫富と書かせてオウと読む例が多くあり、飯豊もオウと読むことができることから、谷川氏は飯豊青皇女を多氏と同族であることを暗示するとしている。

(・_・)日本の苗字七千傑様からお伺いした「皀郭姓の坂合部氏」から、早速多氏との関係性を示す情報が出て参りました・・

「小市氏は伊予越智氏との関連」
伊予越智氏は伊予橘氏である宮原の祖にも繋がっていき・・
「七姓漢人(しちしょうかんじん)とは、応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人。朱・李・多・皀郭・皀・段・高の7つの姓があった」ウィキより(__)
凄く興味が湧いてきました。

「備中の瀬戸内海には白石島」
白石様のご実家「白石家」。もしかしたら、平川との関係を繋ぐ、大きなカギは「白石家」にあるのでは・・?と(勝手にすみません)

時代は応神天皇朝。

やはり・・源平藤橘・・を新しい時代と呼んでいる私の父の言葉がこれまたよく解りました(__)
では<(_ _)>
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年11月03日 15時54分44秒 ) パスワード

追記

先ほどのサイトはこちらの情報を引用されているようでした。
多氏渡来人説 百瀬直也氏
http://saryuya.com/momo/oouji

はじめに
多氏(おおうじ)は、日本古代に活躍した古代氏族だ。
大、太、意富、飫富、於保などとも書くが、すべて「おお」と読ませる。
神武天皇の御子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と称し、いわゆる皇別に分類される氏族だ。
『古事記』では、神八井耳命を祖神とする氏族として、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣などがあるとしている。
多氏系の氏族は全国的に広がり、上記のように、国造になっているケースも多い。
また、諏訪大社下社の最高神官である大祝家を世襲した金刺氏は、前述のように神八井耳命を祖とする科野国造家からの別れだ。
『古事記』の撰者として知られる太安麻呂も多氏の一族だった。
多氏系氏族は全国各地に広がり活躍しており、また一面では非常に謎が多い一族だが、これまで、まとまった研究がされていないようだ。・・・

(・_・)と「はじめに」の言葉から始まっていました。

昨日のレイラインのお話。神社の位置。
そして、本日の「皀郭姓の坂合部氏」の御教示・・

多氏・物部氏・大神氏・皀郭姓の坂合部氏
私の中のヒロライン(造語ですが・・(__))が全て結ばれる点のような気がします・

では<(_ _)>
[68]子孫よりさんからのコメント(2014年11月03日 16時29分32秒 ) パスワード

再々追記

あの・・ついでと言ってはなんなのですが・・・
もう、こうなれば、心のモヤモヤは全てはき出して、未来に繋げて行こう(なんのこっちゃら(ー_ー)!!)と思いまして・・・

先日から、大神氏・大友氏といったお話が登場する中で、豊後大友氏とは別なのですが、すご〜く気になる方がおひとりいらっしゃいます。

日本の苗字七千傑様の《大友氏(人主以降》姓氏類別大観に見える
「安則」というお名前の方なのですが・・
こちらは
「官文殿には専任の職員が置かれていました。地位が低かったので名前が残っていない場合が通常ですが、事件を起こして記録されている人物が何人かいます。その一人が大友安則(おおとものやすのり)です。彼は天慶四年(九四一)、丹波国で発生した土地争いの裁定書を偽造するという事件を起こしました。偽造したのが太政官発行の官符という権威がある文書であり、しかも起こしたのが文殿職員という当時としてはかなり深刻な事件だといえます。一方で現在の視点で見ると当時の文書行政の実態が分かる貴重な記録といえます。」

という事件に係わっている方なのですが・・
私が引っ掛かっているのは・・平河の古文書に残されている記述が「祖父
安則の代に菊池氏を頼って・・」のこの「頼って」と言う所なのです・・

何かがあったから、肥後に下向せざるをえなくなった・・と言う風に感じるのですよね・・・

そして・・後世に安則の名跡の残る現熊本市北区になる山本郡楠原には、その後、大友氏・中原氏との縁がある鹿子木氏が築城した・・・

豊後大友氏は大友能直が「母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る」と言う事ですよね・・

では波多野氏と古代大友氏との関係は?どうなのでしょうか・・?
波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している・・・
波多野氏と古代大友氏との関係は、素人の私には全くわかりません(__)

名前に拘ってはいけないのは重々理解してはいるのですが・・
何だか「モヤモヤ」してしまいます。

それに・・《大友氏(人主以降》姓氏類別大観に見える「安則」、この方の前に「列躬」「友躬」と言う方が・・・
ううんんん??「躬」・・・「躬」・・・躬の字ですね・・

すみません。このままだと、人一倍パクパクと食べる天高く「宏」肥える秋なのに食欲が腹八分目になってしまいそうなので思い切り皆様に聞いて頂きました。

根拠がない事なので妄想と思って下さい<(_ _)>
では<(_ _)>
[69]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月03日 17時25分56秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>渡来人説
 
やたら渡来人を叫ぶが、来朝した時期は異なるが日本人はほとんど渡来人なので意味を成さない。
日韓両国とも、馬韓、辰韓、弁韓の歴史を消したくてしょうがないらしい。
那珂通世の文庫本「志那通史」でさえ、三韓関連記事は15頁に過ぎない。
神武帝が統一するまで列島は馬韓、辰韓、弁韓の植民地だったということ。
なかでも天照大神(馬韓女王)と素戔嗚尊等(辰韓王)との列島植民地争奪時代は太安万侶も無視は出来なかった。
太安万侶は馬韓系だが、真相を隠すために争奪時代を天上のことにしただけ。
やはり「古代日本領土の起源」を熟読せねば、ヨタ話の迷宮にウロウロでしょう。
この無情な事実を受け入れなければ、日本史は朝鮮史と同じく神話的偽史になってしまうでしょう。
[70]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月03日 23時05分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>波多野氏と古代大友氏との関係は、素人の私には全くわかりません
 
以前にも説明しましたが、
大伴氏→佐伯氏→波多野氏→大友氏と繋がる。
ここで神八井耳命→島田氏→近藤氏→大友氏と合流。
当然、物部氏→中原氏→大友氏とも合流。
後は中原閨閥が周辺を支えている図式。
建前だけの歴史だけでは、何も解らない。
 
例えば、大江維光の後は何故か藤原広元(中原改姓→大江改姓)なのだが、
異説として大江維光→弘忠が有るが、公刊の大江系図に見当たらない。
この辺りも中原閨閥の闇が垣間見える。
「大江広元改姓の謎」に述べられているので興味があれば、
一読をお勧め。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83%E6%94%B9%E5%A7%93%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E5%A4%A7%E6%B1%9F-%E9%9A%BB%E8%88%9F/dp/4816705821/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1415022848&sr=8-1&keywords=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83%E6%94%B9%E5%A7%93
 
劉姓大友氏(後漢献帝裔)は大友黒主が有名だが?
あまり関係は無い様に思われる。
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年11月04日 01時38分25秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「渡来人」という言葉自体がナンセンスと言う事ですね。
殆どの人が何れからか渡ってこられている事が明らかですから。

日本が島国だから、発想が閉鎖的なのでしょうか・・

「古代日本領土の起源」・・未だ、買えていませんが・・絶対に購入を目指します。

波多野氏と古代大友氏との関係・・
ご教示頂いていたのに・・お恥ずかしいです<(_ _)>

以前お伺いしていた内容をもう一度再勉強しました。

最後の方に現れる大友氏は、実は高皇産霊命裔の大伴氏が復活したものです。
地名も大伴皇子を避けて大伴は少なく、大友が圧倒的に多い。
大伴氏から佐伯氏が別れる(空海も末裔)。
伴氏は応天門の変により衰亡。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02103.htm#002
末裔の佐伯経範は、母系の波多野を称して藤原に改姓。
波多野経家は相模大友庄大伴郷に住して大友を称する。
恐らく母系が伴氏(もと大伴氏)だったのだと思われます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b1.htm#004
系は経家の娘婿近藤能直に移り、大友を名乗る戦国大名へ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm
この様に歴史は、男系/女系が交錯してくるくると回るものなのです。

(・_・)しっかり、確認致しました。
この時に伺っていた事が全て、今の調査内容と繋がってきています。

大伴氏→佐伯氏→波多野氏→大友氏と繋がる。
ここで神八井耳命→島田氏→近藤氏→大友氏と合流。
当然、物部氏→中原氏→大友氏とも合流。
後は中原閨閥が周辺を支えている図式。

本当の事を言いますと・・
上記のお言葉の意味がやっと、先日からの調査、そして頂いたご教示によって、はっきりと理解する事が出来るようになりました。
先週、大分県豊後大野市に偶然出かけたのも、本当は偶然ではなくて、もしかしたら、先祖が「せっかくご教示頂いているのに、この子は何をしている!!」としびれを切らして私の足をあの場所に向けさせたのかもしれません・・

大江広元は・・・そうですよね・・鎌倉御領(永吉庄)の預所でした。
重要な方の事も、解っていませんでした。

ご紹介頂いた、「大江広元改姓の謎」すぐに購入致します。

ありがとうございました。




[72]白石さんからのコメント(2014年11月04日 23時52分47秒 ) パスワード

こんばんは

前に 桓武天皇の生母・高野新笠に関与して大江音人がいたと覚えていたので 検索してみました。
大枝神社 - Yahoo!ブログ - Yahoo! JAPAN
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/61360995.html
大枝(大江)氏の氏神を祀る神社(大枝神社)

高野新笠(桓武天皇の生母)の母方の家系も「土師氏」の一派、毛受(もず)の系統
このブログでは書いてないけど 新笠は 和氏。

和氏と大江氏で検索
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 大江氏【2】が出て、
★白石氏も出ていました。^^

この 白石の 宗広という人が 気になって 検索しましたら、
白石氏ウィキより
白石宗弘 - 伊達政依の二男;という人が おります。

この人のことか?ですが

先日 成松で 伊達氏が出ており、成松というのは その 話の起こりの 腹違いの姉の 母かたにいたわけだけど

白石 平江 山口という 家のつながりは 前に書いたと 思いますが

山口を 大内に置き換えると 毛利・大内・大友は 中原つながりになる。
平江は 平で 
埼玉苗字辞典に
平 ヒラ 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは★金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。

広元の改姓の話とは あまり関係ないようですが、
大江氏に白石もついていました。 という話でした。
伊達につながっているのかな?

[73]白石さんからのコメント(2014年11月05日 01時04分20秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典には また
土師宮の土師氏 埼玉郡鷲宮村鷲宮神社は土師宮(はじのみや)より鷲宮(わしのみや)に転訛す。祭神は武蔵国造の祖・天穂日命、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)にて、土師部の氏神なり。鷲宮神社文書に「足利尊氏御代の時、土師山改鷲山と号す」と。享保十年鷲宮神主★大内半左衛門土師朝臣国久と見ゆ。細萱条参照。

とあり
大内氏 毛利氏とも 百済系図を併せ持つ という。大内姓の人と 天穂日命と何らかのつながりがあったようだ。


[74]子孫よりさんからのコメント(2014年11月05日 13時46分40秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
ご教示頂いた
「大内氏 毛利氏とも 百済系図を併せ持つ という。」
後ほど、コメントしようと思っている事がありまして・・

百済永継この方の血脈は、すごい広がりを見せている事にあらためて気が付いたのです。

毛利氏のお話も出ていますが・・

あの・・マタマタと言われるのは承知の上でございます<(_ _)>

先週、「原尻の滝」に行きたい!!と言ったのは、娘婿、彼の希望だったのですが・・

ふと?何で、彼は原尻の滝に行ってみたくなったのかな??と思ったのです。
九州の事は殆ど知らないのに?ただ、テレビでチラッと見て、すごく行きたくなったとは言っていたのです。
娘のお婿さんは、カナダに留学していたので、東洋のナイアガラという言葉にひかれたかな?と・・

そう考えながら、娘のお婿さんのお父さんやお兄さんそして、娘が写った写真を見ながら・・やっぱり似ている(・_・)と・・
あちらの御家族は、顔だちが球磨の私の親戚衆とそれはそれはよ〜〜〜く似ていらっしゃいます。

冗談で、以前から、「絶対に、双方、どこかで繋がっている!!」と言っていたので、何だかすこ〜し気になってきました。

娘のお婿さんは広島県の三次市出身とお話しましたが、三次市と言っても近年合併があったと言う事で、生まれも育ちも三次市の「吉舎町(きさちょう)」という所です。
吉舎町(きさちょう)で、あちらも、元々士族だったと言う事でした。
何百年も前からの先祖様のお墓を守っているとお父様がおっしゃっていました。

でっ・・そう言えば「吉舎町(きさちょう)」とはどういう所なのかよく知らなかった事に気がつきまして・・
娘が宮原じいちゃんの所に似ているからすごく嬉しいと言っていた吉舎町(きさちょう)。私も、いつか遊びに伺う予定にはなっているのですが・・

三次市吉舎町(きさちょう)  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%88%8E%E7%94%BA

吉舎町(きさちょう)はかつて広島県双三郡に存在した町である。
2004年4月1日に三次市と甲奴郡甲奴町、双三郡の全6町村(吉舎・三良坂・三和各町および君田・作木・布野各村)が新設合併して改めて三次市が設置されたことに伴い廃止した。

名所・旧跡を見ていた所「南天山城跡」とありまして・・
「あっ!!南天山城・・何だか、娘の結婚祝いの宴席で、ほろ酔いかげん((ー_ー)!!もっと酔っていたかも)の頭にこの言葉が何度も聞こえたような・・
きっと私が「宮原城じゃ〜〜!!」と言うと「南天山城跡じゃ〜〜!!」となったような・・?(ほろ酔いではありませんでした(__)・・家族だけの和気あいあいパーティでしたから・・(__))

と言う事で「南天山城」とは?と思いまして・・ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E5%9F%8E
南天山城(なんてんざんじょう)は備後国三谿郡(現・広島県三次市吉舎町)にあった日本の城(山城)。
和智氏が室町時代初期の応安年間(1368年 - 1374年)に吉舎に拠点を移した後に築いた居城跡で、戦国時代に毛利氏に滅ぼされるまで約200年に渡ってこの地域を支配したと伝えられる[2]。

「和智氏」?
和智 誠春 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%99%BA%E8%AA%A0%E6%98%A5

和智 誠春(わち まさはる、 - 永禄11年(1568年))は、備後の国人和智氏の当主。父は和智豊郷(とよさと)。実弟に湯谷元家(ゆたに もといえ、名は湯谷久豊(ひさとよ)とも)、子に和智元郷(もとさと)がいる。妻は毛利氏家臣の福原広俊の娘。
和智氏は藤原秀郷の流れを組む武士で、波多野氏などと同族。

\(◎o◎)/!ええええええっ!!「波多野氏などと同族」
なっ!!なんですと〜〜〜〜!!

(・_・)続けます<(_ _)>
室町期の当主(時実・豊実・豊広・豊郷)は代々、備後守護の山名氏に臣従し、また守護からは偏諱の授与を受けており、誠春も山名誠豊から1字を受けたものと推測される。
戦国期は、出雲の尼子経久の影響力が強まると、他の備後の国人とともにこれに従ったが、のちに安芸の毛利元就が力をつけると、やはり他の備後の国人と同様それになびくようになった。父の豊郷は1529年、毛利元就が石見の国人高橋氏を討滅させたときに松尾城の高橋重光(=高橋弘厚?)をともに討つなどこれに協力し、誠春本人は1555年の厳島の戦いに毛利方として参戦している。
1563年、元就の子の毛利隆元を饗応した直後に隆元が急死し、元就の不信と憎悪を買う結果になったのか、のちに伊予へ遠征する途中弟の元家と厳島神社に監禁された。そして1568年、脱走をはかり神社本殿に立て篭もったが、結局弟とともに殺害されたという。没年は1569年とする説もある。
なお、誠春の甥(弟・元家の子)である湯谷実義(さねよし)は元就に抵抗し滅ぼされたものの、誠春の息子の元郷は元就に謝罪し和智家の存続を許されている。

武家家伝  和智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wati_k.html
平安時代末期の久寿二年(1155)、波多野氏は源義朝の子義平が叔義賢を討った武蔵国大蔵館の戦いにおける功により武蔵国広沢郷を得て、同地を譲られた波多野実方が広沢を名乗った。実方は源平合戦に源氏方として出陣、備前国藤戸の戦いに活躍、恩賞として備後国三谷郡十二郷の地頭職を獲得した。
 実方は沼の山に城を築き本拠にしたというが、みずからは鎌倉にあって備後国の所領は一族、あるいは代官を派遣して 管理にあたらせていた。『吾妻鏡』の建暦三年(1213)の条に、広沢左衛門尉実高が備後国で蜂起した賊徒を討つため 下向、三年ぶりに鎌倉に帰ったという記事がある。実高は実方の嫡男で三谷郡十二郷の地頭職を相続していたことから、 賊徒鎮圧の使節に任命されたのであった。しかし、実高は鎌倉を本拠としていて任務が終わると鎌倉に帰っており、 いまだ備後国には入部していなかったのである。

広沢氏の備後国入部

 広沢氏が備後国に移住するきっかけとなったのは、承久の乱の功で新たに三谷郡西方を賜り、その支配権が三谷郡全域に及んだことであった。一方、源家将軍が断絶したのち、執権北条氏の力が強大化し、多くの御家人は鎌倉を離れて地方の所領へ下って勢力を維持しようとする動きもあった。
 ともあれ、広沢家惣領家は新たにえた三谷郡西方を実村に与えて現地に移住させ、同時に三谷十二郷の代官に実村を 任じたようだ。かくして、広沢実村が備後国に下向し一族が三谷郡に広まることになる。当時の武士は惣領を 中心とした分割相続制が基本であったため、実村は所領を分割して長男実綱に江田荘を、二男の実成に和知荘を与え、 両者はそれぞれ江田・和智を名乗った。以後、江田・和智両氏は備後の国人領主として戦国時代末期まで 存続するのである。

中略・・

永禄十一年、和智誠春・元家の兄弟は 吉川元春・小早川隆景に従って伊予に出陣した。その帰路、高浜海上の興居島で軍勢を休めているとき、 元就からの使者が吉川元春・小早川隆景に「誠春・元家を切腹させよ」という命令を伝えてきた。 元春と隆景は陣中で両名を殺せば他の国衆が動揺するとして、ひとまず両名を厳島に連行して厳島に監禁した。 身の危険を感じた二人は、番衆のすきをねらって脱出すると厳島神社本殿へ枯れ草をもって閉じ篭り、 攻めれば神殿を焼き払うと抵抗したが、熊谷就政・児玉元村によって誅殺された。
 これは、隆元の死への報復とされているが、それとするならば、和智氏が六年間も放っておかれたのは何故だろうか。 永禄十一年、元就はすでに七十一歳の老齢であり、二年前には危篤状態になるほどの重病を患っていた。しかも、 後継者である輝元はまだ十五歳であった。中国地方の覇者となった元就にとって、国衆・外様衆との間にどのようにして 主従関係を樹立するかは、このころ最大の課題であった。鎌倉時代以来の関東御家人の家筋を誇る和智氏の誅殺は、 主従関係を樹立するためにとられた、他の武将への見せしめの犠牲とみられる。
 その後和智兄弟は、怨霊となって諸人を悩ましたため、島民は社壇を建立して神に祀ったと伝えられる。なお、 誠春の嫡子元郷は、毛利元就に忠誠を誓う起請文を提出し誅伐を逃れ、藤原城主小川氏のもとに閉居した。その後、 藤原城主となり、元盛のとき毛利氏の防長移封に従った。 かくして、広沢和智氏の中世は幕を閉じ、子孫は毛利藩士として続いた。

【参考資料:広島県史・吉舎町史・三次市史・三良坂町誌・三次の歴史 など】

というお話にあった「吉舎町」で娘のお婿さんは生まれて育ち、そしてご先祖様はこの土地で何百年も武士として続いてこられていた・・と言う事です!!
???そう言えば・・今の姓に変わって430年ほどと言われていたから・・
上記の記述にある永禄十一年、は1568年。今は2014年。おやっ??何だか近い・

吉舎町の歴史と娘の嫁ぎ先家の歴史は、何だかすごく繋がっているような気がしてきました・・今度、お父様にそれとな〜〜く聞いてみます(__)

と言う事で
「和智氏は藤原秀郷の流れを組む武士で、波多野氏などと同族」
という和智氏が所領した広島県三次市の旧「吉舎町」で娘の大事なお婿様は生まれて育ちました・・というお話でした(__)

では<(_ _)>
[75]子孫よりさんからのコメント(2014年11月06日 15時57分06秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

あの・・・・・もしかしたら・・見つけちゃったかも・・です・・グフッ(^・^)
藤原師高・中原氏・藤原氏末茂流・藤原氏師実流・藤原氏隆家流・徳大寺家 が絡んだ巧妙なトリック?をでございます(ー_ー)!!(勝手に思い込んでいるだけの可能性が大ですが・・)

ポイントは通字「祐」の文字です。

ただし、私の妄想だと思われる可能性もありますので、ご了承ください<(_ _)>

では・・(-_-)

まず、日本の苗字七千傑様の藤原氏末茂流 姓氏類別大観を拝見すると「師光(西光)」の下に「実教」の名があります。
藤原実教 父:藤原家成 母:藤原経忠の娘 です。
藤原実教は藤原公親の養子となり「山科家」の祖となります。
藤原実教の子供「藤原公長」の妻は藤原師高の娘。子に「教氏」。
藤原実教は平業房の子「教成」を養子とし「教成」が山科家を継いだ・・

と言う事ですが・・・
あの・・・実は気が付いてしまったのです・・もう一人の「公長」の存在をです。

日本の苗字七千傑様の徳大寺家 姓氏類別大観を拝見すると
公保 → 実保 → 公長 → 祐篤 → 祐時
と「公長」という方がいらっしゃいます・・
この方は徳大寺家の系図では公祐或は公長となっています。
そこで・・?となったのです。おやっ( 一一)っとですね・・・・

でっ!調べました。
公保 → 実保 → 公長 → 祐篤 → 祐時
上記の「公保」この方は藤原実教が養子となった「藤原公親」の弟です。

「藤原公保」・・父:徳大寺実能(三男)母:藤原通季の娘
藤原通季 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%80%9A%E5%AD%A3

藤原公保の母は藤原通季の娘。
藤原通季の同母妹は藤原璋子(待賢門院) - 鳥羽天皇中宮、崇徳天皇・後白河天皇母
となります。

続けます(__)
「藤原実保」・・父:藤原公保 母:藤原忠能の娘。
母:藤原忠能の娘とありますが、こちらの「忠能」は藤原氏隆家流「藤原経忠」の子である「藤原忠能」になります。

藤原経忠 ウィキより (久々の登場です(__))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%BF%A0

藤原経忠の子息「藤原忠能」。兄弟に藤原信輔。
藤原信輔の妻は・・須恵小太郎こと藤原家基の兄妹です。

と言う事でこうなります
公保( 父:徳大寺実能(三男)母:藤原通季の娘)→ 実保(母:藤原忠能の娘。祖父:藤原経忠) →
→ 公長 → 祐篤 → 祐時

こちらの「公長」この方の詳細を調べたのですが、官位等そのほか母の名なども何処にも記述はありませんでした。

いろいろグルグル回っていますが、いずれにせよ・・
藤原実教の子供「藤原公長」も藤原実保の子供「藤原公長」も・・
藤原経忠の「曾孫」と言う事です。
それで・・妄想したのですよね・・この人たちは「同一人物ではないのかな?」と。

藤原実教は藤原公親の養子。ですから、藤原実教と藤原実保は従兄弟。
二人の藤原公長はこちらの系で言っても「ふた従兄弟」となります・・
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm

じゃあ・・もしももしも二人の藤原公長が同一人物だと仮定して・・
なぜ・・このようなトリック?が発生しているのか・・?

それは・・子供そして孫の通字が関係しているのでは?と・・
藤原公長の子供「祐篤」「祐為」そして孫は「祐時」「祐友」・・通字が「祐」です。

先ず、整理しますと「藤原公長」の妻は「藤原師高の娘」
周囲を見渡しても「祐」の字は見当たりません。

ただ・・・・
中原氏に「祐」の付く方がいらっしゃいます。
清原祐隆の子「祐安」。
中原師元の養子になって「中原祐安」。

こちらの系は「平川家について14」コメント14以降・平川家について16・17・18と何度も何度も、登場してそのたびに調査しています。

清原頼業の繋がりであったり・藤原成季の系であったり・・その他数多くの系で・・・

でも、何で繋がるのかが全く見えなかったのですよね・・?
でも、何故か繋がってしまう・・・?というような・・・・・?

もしかしたら・・最大のカギは「祐」の字であったりして・・・・

と言う事で、私の妄想かもしれませんが・・
もしかしたら・・西光の妻もしくは藤原師高の妻は「祐」の付く名の人物の娘??かな〜〜〜?というお話でした・・
妄想をお聞きいただき ありがとうございました。
<(_ _)>
[76]子孫よりさんからのコメント(2014年11月07日 07時32分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日は妄想話でございました(__)

でっ、今朝は、現実話?でございます。

山江村誌に記載されていた、平川の系図(おそらく、祖母方はこちらのどこかのあたりで分かれているとは思うのですが・・)。
こちらに、書かれている内容で、女性の記述を調査していなかった事に気がつきまして、あらためて確認いたしました。

1600年代後半?くらいからの人物のようです。
平河彦右エ門実高政の子「将親」。(「将」の字は数代前に「長将」という名の方があるのでそこからかな・・?と(__))
※「将親」の姉・・久保山金右エ門養女
※平河伊兵衛則光(将親の子?)
 則光 姉  黒木市左エ門室
 則光 妹  豊原角兵衛室
 則光 弟?長雄 槻木伊左エ門 槻木家 相続

とまずはこちらを見たのですが、「則光 妹  豊原角兵衛室」
豊原氏・・です。
日本の苗字七千傑様の豊原氏 姓氏類別大観を拝見しました。
相良藩に「豊原氏」がいらっしゃったのかな?
しかし、「則光」の伯父は尾州宮にて亡くなっているので・・・

いずれかの豊原氏と姻戚関係にあった事は確かのようです。

則光 弟?長雄 槻木伊左エ門 槻木家 相続

槻木は多良木町の久米地区より、もっと山間部にあります。
槻木伊左エ門長雄という方は平河から養子に入ったと言う事ですね。

20年程前に一緒に仕事をしていた人が「槻木」と言う名前で、「私の故郷にも槻木と言う地名があるヨ!」と言うと何と、ご両親が球磨の槻木出身と言う事でした。(小倉での出来事です)
この記述を読んで、出会いは偶然ではないな〜〜と痛感致しました(・_・)

則光 姉  黒木市左エ門室

(・_・)この時代からすでに「黒木家」とは姻戚関係にあるようです・・

「将親」の姉・・久保山金右エ門養女
金右エ門というお名前です。こちらはまだ調べていません。


「久保山家?」「豊原家」「黒木家」「槻木家」との姻戚関係が解りました・・
というお話でした。
では<(_ _)>





[77]子孫よりさんからのコメント(2014年11月07日 07時56分27秒 ) パスワード

追記

久保山金右エ門という方についての記述がありました。

熊本県史料集成 - 第 14 巻
渋谷三郎左ェ門。内藤郡助様,中村吉左ェ門様。口上覚。御害附之趣拝見仕奉畏候。弟弥助ェモ申聞候処難有存奉候。此段宜敷御請被仰上可被下候。以上。四中。東金左ェ門殿,篠宮平右ェ門殿,久保山金右ェ門殿。合奉存侯。此上ハ御吟味ノ儀奉願候筋無 ...

どうやら肥後の方ではあるような・・・
では<(_ _)>
[78]白石さんからのコメント(2014年11月09日 08時27分16秒 ) パスワード

おはようございます。
久保山
おもしろいですね。うちの白石の本家の 二代前に 久保山の養女になった人が 来ています。

(本当はうちの祖父が本家の跡取りだったのに 親に子供の頃死に別れて 叔父夫婦だったかに育てられて ために家を出て 自分は自力で 家土地を買い広げた。ために家紋を二重丸にした)


球磨郡といっても 全国からみたら まだ ちいさい範囲だから しかも 昔は結婚すると言えば 横のつりあいも たてのつながりも うまくいって 結婚しているのだから なんらかの形で 子孫様のところのつながりと つながっていくだろうと 思います。

その 先は 福田という家から養子に来ています。

[79]白石さんからのコメント(2014年11月09日 08時55分46秒 ) パスワード

その 本家がお願いしているのが 人吉永国寺の流れで 明治の時、村役場だったところ。
永国寺は 相良家中。曹洞宗。
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曹洞宗は 横浜の総持寺は鈴木氏がおられ、今は 能登の祖院に行かれたとか・・横浜は 聖子さんとこが おねがいしているお寺ですね。

聖子さんとこは 阿蘇津彦のお妃が 祖先で、神功皇后に仕えていたといっていたのを テレビで見たことがあります。
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曹洞宗は 道元ですね。
道元について
道元の御氏名: 土御門文殊丸、久我文殊丸、源文殊丸 (通名の氏姓を三つ持っていた)
土御門家 - Wikipedia
※※鎌倉時代初期に権勢を振るった村上源氏嫡流の内大臣源通親(土御門通親)の子孫。・・・村上源氏にでるのが 北畠氏。

北畠の系に 佐田がある。
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[80]白石さんからのコメント(2014年11月09日 09時06分04秒 ) パスワード

@武甕槌神
異本物部系図より ひのはやひの命の系
姓系辞典で 高岡条には物部あらかび の 系があり、高岡でひとくくり

A斐伊神社★「宮崎大明神」 。埼玉氷川神社 
社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。
斐伊神社に ひのはやひのみこと はいる。
氷川神社には 「あらはばき神」もおり、もともとの地主神であるという。
B宮中の四方祭で 遥拝される 神社であり
氷川神社祭神は
・須佐之男命・妃神の稲田姫命
・大己貴命 ・・・大国主
江戸時代の「熱田旧記」には★紀氏は出雲の大国主の子孫とある。
C建御名方神は大国主の子供
建御名方神をまつる神社は
特に★北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。
Cまでも つながっており、古代は 同族を持って同族を制す が あてはまる。
[81]子孫よりさんからのコメント(2014年11月09日 09時15分15秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、コメントありがとうございます。

「白石の本家の 二代前に 久保山の養女になった人・・」
「その 先は 福田という家から養子」

白石様のご実家、本家「白石家」との縁戚関係に繋がっているのですね・・
以前、コメントしましたが、私の平川の曾祖父の妹は「福田家」を継ぐ為に養女に入っているのです・・
「あれれっ・・・??」

久保山金右エ門の養女になった平河彦右エ門実高政の娘。
江戸時代「享保」より以前の話のようです。

でも、後世において、白石家と久保山家には縁戚関係があったと言う事ですよね・・

所で・・

昨日、弟に会いに熊本県合志市の病院へ行って参りました。
寝たままの状態で口に筆を咥えて描いた絵が完成致しまして、文化祭に展示されていました。
弟の身体で自力で唯一動くのが顔の筋肉だけです。
唇の力だけで描くので半年かかりました。
さっそく、スマホで写真を撮ったのですが、どんくさい姉でして、額縁のガラスが反射して・・弟にごめんなさいです(__)

ブログにアップ致しましたので、よろしければご覧ください。(^・^)

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11950016089.html

この絵を見て、私もまだまだ頑張らなければと心から思いました。
ダメダメの頼りない姉では本当に弟に申し訳ないです・・

よ〜〜〜し!!ファイトだっ!!
では<(_ _)>(^・^)
[82]白石さんからのコメント(2014年11月09日 10時04分10秒 ) パスワード

子孫6 15で 忌部は 秦氏と書いたことがあります。
http://ameblo.jp/mzm27784/entry-11666014083.html
秦氏と賀茂氏の関係図2より
秦氏は歴史から姿を消した。それは改名したに過ぎない。役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名したのだ。

われら忌部は物部に祖がある。
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少し前に 
坂 で ばん とも 読めると 書きました。
菊紋をつかう ばん。

坂の下にすむと さかもと。
坂の上に住むと 坂上だそうです。

ごちゃごちゃ書くとややこしくなるので・・・・説明もできませんけど。
坂本は 近江比枝社がある。

延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神「大山咋神」を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。

大物主は 大国主。

坂本龍馬は 維新のスポンサー・白石邸へも 他のメンバーなどとともに よく言っていた。松浦氏もそう。

三菱財閥は、三井財閥があるから三菱であり、どちらが欠けていても存続しなかった。
三菱の母体、亀山社中海援隊を坂本龍馬氏が作り、龍馬さんの跡に岩崎弥太郎氏が海援隊の債務処理を行っていなければ他者に乗っ取られた。

以前 佐田の系について 7000傑様から教えていただいたとき 三井がある と 思いました。



[83]白石さんからのコメント(2014年11月09日 11時20分50秒 ) パスワード

前スレッドの 言っていたは 行っていた です。
すみません。
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仏教以前に、日本には神の思想が入ってきています。ペルシアのネックレスもクロスが入っています。キリスト教以前の十字です。大物主ニギハヤヒなど古代王の肖像を見るとき、また観世音菩薩など仏像を見るとき、このような首飾りをしているのが観て解ります。

日本は古いんだ ということですね。昨今来られた人はともかく もう ずいぶん昔に我が国に住みついた人たちが 歴史を作ってきており 「日本人」なのですね。
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釈迦族の行き着いた先は、秦に守られた新羅の末端、伽耶(かや)でした。

お釈迦様の 筋も 秦と 何らかの形で つながっているのですね。

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後世
坂上一族が 歴史上 重要な位置をしめるようになり 秦は 隠れた形になるけど

陛下直属の賀茂氏というのがおり
いわば 国家鎮護の最高の奥儀を もっているそうです。(私的理解)
戸籍 姓などは ないそうです。

そうですよね。一般に どんどん 流出していたら 畏れも何もあったものじゃない。
なくても いいんです。

とは いっても 
うちは 庶民なので 辞典を見れば 出てきますけど。
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藤原系列でも日本全国共通の先祖。)、蘇我馬子(嶋大臣)の妻

物部弓削大連(物部守屋)の妹と書かれており、『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では同じく物部守屋大連妹の「太媛」。石上夫人、布都媛とも

守屋の系が 宮道になり 宮道烈子の筋に入っていくような・・・
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三輪に 大御輪寺というのがあり
大直禰子神社の祭神は大神神社の祭主であった大神氏の始祖、大田田根子(大直禰子)である。
大神氏( 後の高宮氏)である。

12世紀前半に成立した『今昔物語集』に三輪寺のことが出てくる。大神高市麿の美談を語る下りで、彼の家が三輪寺になったというのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto/suea
陶荒田神社
  祭  神:高魂命 剣根命 八重事代主命 菅原道真公
  説  明:古来より、この地を「陶」と言ったそうです。
       この地に、★「荒田直」という人が出、祖先である、高魂命
       と、その五世の孫にあたる剣根命を祀ったのが、由緒であ
       るそうです。
確か 「秀真伝え」を 書いた本で この神社の名を覚えたのですが、
荒田という言葉は 良峯から 出ていました。

剣根命は 「山口に坐すつるぎねの命」。
陶は 大内氏の系の 陶氏がおり
大内氏は この間も書きましたが 一子相伝で 豊田。

菊池も 豊田になっていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大内に関与するということは
亀蛇祭りに関与していて 百済聖明王の子孫という伝説を持つ。

武寧王の子供。武寧王は贏姓 高丘系図1で 高丘子孫・真華姫が生んでいる。
三島に関与してくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
亀蛇は 何とも愛嬌あるのです。
ゆるきゃらになればいいのに と 思います。 








[84]子孫よりさんからのコメント(2014年11月10日 06時49分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、沢山の御教示、本当にありがとうございます。
コメント遅くなりまして、すみませんでした。

昨日、「よ〜しファイトだ!」と書いたものの・・

この季節、背高あわだち草のアレルギーで、時折、喘息が出るのですが、昨日はちょっと激しくて、身体を休めていました。
もう、あの黄色い花を見るだけで、この季節はうんざりします(__)

しかし、アレルギーや喘息、そして糖尿病は、平川から受け継いだ伝統?のような体質なので、上手に付き合っていくしかありません(__)
私は、まだ糖尿病は大丈夫のようなのですが、父・叔父・親戚多数、み〜んな遺伝性の「糖尿病」でございます。(太る事なく痩せたままの糖尿病なので、血糖値には気を付けるように、皆から言われ続けてまいりました(__))
祖母は「しかたなか(ー_ー)!!家はむか〜しから、喘息と糖尿病ばかりタイ」と言っていました・・(-_-)

白石様のご教示にあった
「坂上氏」「三輪氏」「石上氏(物部氏)」についてですが・・

まず、球磨と坂上氏について、私、大事な事に気が付いていませんでした。
相良氏の祖である工藤(藤原)為憲。
この方の祖父にあたる藤原清夏の母は坂上関守の娘。
藤原清夏の祖父「藤原弟河」の母は石上宅嗣の娘。

すなわち、相良氏は先祖に「坂上氏」そして「石上氏」の存在があったと言う事です。

そして、球磨と縁が深い「百済」に関してですが・・
まず、私の知識が非常に浅かった事を痛感いたしました。
良峯安世そして藤原冬継・藤原真夏。この方々の母である「百済永継」についてですが、頭の中は百済永継=良峯安世そして藤原冬継・藤原真夏のような固定観念があった事が大きな問題だったのです。

その事にこちらの記述を読んだ事で気が付きました。転記させていただきます。
それぞれの四季
「歴史の中の女性たち」
百済永継(下)/尹美恵くだらのえいけい
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-3/sinboj20000320/sinbo00032054.htm
摂関家として「王権」に対抗する存在となった藤原北家。その北家興隆のキャスティングボードを握った百済永継は、百済王明信と同じく百済王の流れをくむが、明信とは系譜を異にする。

百済王氏が第31代義慈王の子善光(631年に渡来)を始祖とするのに対し、永継は「日本書紀」によると第21代蓋鹵王の弟の昆支王(461年に渡来)を始祖とする。昆支王の子孫は、河内国安宿郡(現在の大阪府羽曳野市・柏原市あたり)を本拠地として繁栄したが、この河内飛鳥には今も飛鳥戸神社が鎮座し、祭神を百済昆支王とする。また、近辺には蘇我氏系の大王の陵墓も点在している。

永継の二男藤原冬嗣の娘順子は、仁明天皇との間に文徳天皇をもうけ、文徳は順子の兄良房の娘明子との間に清和天皇をもうけている。つまり、清和は父方にも母方にも永継、ひいては昆支王の血が流れていることになる。そのためか、清和即位の翌年、人臣初の摂政となった外戚良房の意向でもあろうが、それまで無位だった飛鳥戸神社に正四位下が授位されている。

しかし、時代は下り、藤原氏に代表される貴族政治は終焉を迎え、代わって武士が歴史の表舞台に躍り出る。この時河内飛鳥は、河内源氏の本拠地となった。

河内源氏は清和天皇を祖とする清和源氏の流れで、とりわけ武門の誉れとして名高い八幡太郎義家が大活躍する。以後、「武士の長者」としての河内源氏が源氏の本流となり、1192年にはその末裔頼朝が鎌倉幕府を開く。

義家の弟新羅三郎義光は、東国に赴き、甲斐源氏の祖となった。  (歴史研究者)

※清和天皇は父方にも母方にも百済永継、ひいては昆支王の血が流れていることになる。
(・_・)私はこの事を全く理解していなかったのです。

球磨の平河の調査を行っていて、何度も「清和源氏」の系が登場する事に関して、何故だろう?なんて、今考えたら、当たり前の事に関して、疑問さえ持っていた自分がやはり、恥ずかしいです。

肥後そして球磨の百済との縁を考えると、「当たり前の事」でした。

相良氏と「石上氏」「坂上氏」との縁。
百済と肥後・球磨の縁。
球磨と大神氏の縁。
球磨と多氏との縁・
球磨と物部氏との縁。

今まで、日本の苗字七千傑様、白石様にご教示頂いた事・・・
頭を今一度整理してみました。

そして・・・
あらためて、スキャンして保存していた平河に関する「山江村誌」の記述を読んだのですが・・

今なら、理解出来た、沢山の見落としに気が付きました。

今日は、体調もかなり良いので、気が付いた事を一つ一つ整理して次のコメントでご紹介致します。

では<(_ _)>
[85]子孫よりさんからのコメント(2014年11月10日 10時56分16秒 ) パスワード

では、早速。

山江村誌の記述に入る前に・・・
球磨と清和天皇とのご縁について。

球磨の久米小太郎こと久米氏「藤原真宗」
藤原真宗の娘は清和天皇の更衣であり第十皇子 貞頼親王の母。
久米氏「藤原真宗」は大同年間に市房神宮を創建。
同じく、大同年間に大神惟基が青井阿蘇神社そして中島霧島神社・大炊霧島神社を創建。

上記の内容が、球磨と言う場所、そして、平安の時代に球磨を治めた、豪族「久米氏」「須恵氏」「平河氏」の事実に繋がっているのだと思います。

では、山江村誌の記述について・・です。

平河の争論を登場人物と共に整理いたします。

※鎌倉御領(永吉庄・西村)の預所職を大江広元は外孫の徳大寺実春に譲る。
※徳大寺実春の現地代官は「賀来又二郎入道念阿」
※西村は須恵尼の狼藉にて所領を没収されたのち、実春朝臣の知行に属していたが、その後、弘安六年には賀来又二郎入道念阿が地頭に補任された。
補足・・西村は仮名千世松の多年地頭の地「仮名千世松多年地頭各別地也」とあり。
※賀来又二郎入道念阿は西村の地頭職だけではなく永吉庄地頭職までも横領。
※「地頭各別知行」「自嘉禄元年至建長三年知行無相違所」であったにも係わらず永吉庄を横領したと平河三郎観蓮(俗名良貞)が訴訟をおこす。
(文永二年にいたっては名主分まで混領された為、越訴)
※幕府は弘安六年七月三日付けで「永吉地頭職併せて名主職」を平河良貞に返付。預所職は同年十月に「豊前々司景資」こと武藤景資が給わる。
※弘安八年岩戸合戦にて武藤景資が亡くなる。
※翌年預所職は「備前々司入道」(北条一門の北条朝房であろう)に与えられた。
※備前々司入道(北条朝房)の現地代官は「竹井二郎右衛門入道行性」。
※入道行性は正応二年(1289年)「永吉地頭職併名主職」までも横領。
※平河弥五郎入道道照は関東下知状が守られていないと再び越訴を行う。

(・_・)その後・・・

正応二年(1289年)備前々司入道殿代官と平河三郎入道観蓮が相論した「地頭名主職」については、越訴頭人「長井宗秀」・「二階堂行藤」があたったが、在職中には結審をみなかった。
そして、正安二年(1300年)には幕府有力者の諏訪左衛門入道真性の「奉行執沙汰処」となり、二番引付に与奪された。
その後、越訴期限の超過などを理由に越訴が棄却された。
この旨は奉行人明石民部大夫行宗によって伝えられた。
★そして何度も道照は不服として申状案(越訴)を提出したが、その後北条得宗被官の奉行によって裁許されて行く事となる。

(・_・)ここまでをまとめました(__)

上記の越訴が結審しなかった事、越訴が棄却された事に関する、ターニングポイントは「幕府有力者の諏訪左衛門入道真性の「奉行執沙汰処」となり、二番引付に与奪された。」
ここだと思います。
その後、越訴期限の超過などを理由に越訴が棄却され・・
何度も道照は不服として申状案(越訴)を提出したが、その後北条得宗被官の奉行によって裁許されて行く事となる・・・

それでは「諏訪左衛門入道真性」とはいったいどのような人物なのか?

諏訪左衛門入道真性・・・諏訪盛経
諏訪盛経 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%9B%9B%E7%B5%8C
諏訪 盛経(すわ もりつね、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士。得宗被官。父は諏訪盛重。通称三郎、左衛門尉。真性と号する。文永3年(1266年)以前には出家していたと推定される。
生涯[編集]
建長3年(1251年)、藤原頼嗣の祖母が死去した折、北条時頼の使者として上洛したことが『吾妻鏡』に記載される。これが史料における初見である。佐藤業連、平頼綱らと共に被官として政務の中枢に携わった人物であり、「建治三年記」には寄合衆としての活動が記載されている。

父の諏訪盛重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%9B%9B%E9%87%8D
諏訪 盛重(すわ もりしげ 生没年不詳)は、鎌倉時代中期の諏訪社大祝職・得宗被官御内人。諏訪信綱(盛信)の子。兵衛尉。出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。盛高、盛経、盛頼、重願、頼重らの父。
承久の乱の際、大祝として義時の戦勝を祈願すると共に一子を上洛させており、戦後間もなくして被官として泰時に出仕した。北条泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。1236年に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共に御内人として、その敷地内に屋敷を構えており、[1]執権の信頼の篤さを伺わせる。

得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、1247年、宝治合戦の直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている(1247年6月4日の記述)。北条一門や安達氏のような外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(寄合)のみの協議である「深秘の沙汰」にもしばしば参加した。
盛重の幕府に対する貢献は高かった。1230年に鎌倉中で騒動が起こった際には尾藤景綱と共にこれを鎮定し、和賀江島が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。1235年、源頼朝の霊廟がある法華堂の近くの湯屋から火災が起こった時には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた。[2]宮騒動で北条光時らの謀議を事前に防ぐことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げ、時頼から「無双の勲功」と称えられたという。1251年には謀叛を起こそうとした了行法師、長久連、矢作左衛門尉らの尋問を請け負い[3]、1261年には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である三浦義村の子良賢を生け捕った。[4]
北条時輔が誕生すると、その乳母夫となり、傅役に任命されたが、その役職を引き受ける事を1ヶ月近く固辞した末に、渋々承諾したという。後見役として大きな影響力を持てる傅役を盛重が固辞したことは、長男でありながら庶子であった時輔が疎外されており、その時輔を後見しても恩恵に浴すどころかむしろ自分の立場が危うくなるという認識が幕臣達の間に通底していたことを示唆している。[5]
それ以外の事績としては、1251年に風伯祭の奉行を勤めたこと、1253年に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。

(・_・)私は、諏訪左衛門入道真性こと諏訪盛経、そして父の諏訪盛重、この方々の記述を読み、やっと今まで、謎であった「備前々司入道(北条朝房)の現地代官「竹井二郎右衛門入道行性」という人物を特定する事が出来ました。

(・_・)竹井二郎右衛門入道行性。越訴文内では通称「入道行性」。
この方はおそらく知久左衛門入道行性こと知久敦幸。この方だと思います。

実は、平川家について8コメント54でこの方について調べていたのです。
でも、繋がりが解らずに、そのまま、スルーしてしまっていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html
※知久左衛門入道行性は即ち知久敦幸である(Shimoina shi - 第 5 巻 - 80 ページより)

知久氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F
知久氏(ちくし)とは、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。
出自[編集]
『寛政重修諸家譜』には清和源氏満快流と記されているが、諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔とする説もある。
知久姓の初見は、諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。
清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としている事による。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子(被後見人ぐらいの意味)で実父は他田信隆(源義家に属して奥州合戦に参陣した記録が残る他田太郎重常の末裔)としている。
鎌倉時代[編集]
当初は知久沢に程近い上之平城を拠点としていたが、承久の乱で信貞が幕府側に属して伴野庄地頭(新補地頭)になったとされ、本拠地を知久平(現・長野県飯田市下久堅)に移している(ただし、諏訪大社の神官守屋家に伝わる「守矢文書」では、伴野庄の地頭として名がみえないことから、地頭職に関しては真偽不明)。また信貞は射術に長けていたらしく、正嘉2年(1257年)と弘長元年(1261年)、更に弘長4年(1261年)の「幕府的始」における射手に選ばれていることが「吾妻鏡」に見える。
また、長野県飯田市にある文永寺に残されている五輪塔(弘安六年(1283年)の紀年銘)には、信貞の子と見られる神敦幸の名が残されており、神氏を名乗っていることから諏訪神党に属していたことが判る。
南北朝期は南朝方として大河原を拠点とした「信濃宮」宗良親王に味方し、同じ諏訪神党に属する香坂氏や桃井氏らと共に親王を庇護した。この縁で、宗良親王の子尹良親王の生母は知久氏の女とも伝えられている。また知久敦貞は尹良親王の下で活躍したと伝えられるも、個々の事跡に関しては資料的な裏づけを欠く。この時期、尹良親王との関係から、家紋をそれまでの「梶の葉紋」(諏訪大社の神紋、諏訪神党の諸家に多い)から「御所車」に改めたと伝えている。

(・_・)信貞の子と見られる神敦幸の名が残されており・・・

日本の苗字七千傑様の《諏訪氏敦光流》そして《小坂氏/知久氏》姓氏類別大観 を拝見いたしました。
諏訪敦光 → 敦俊 → 養子「信貞」(清和源氏 満快流 中津乗頼継の子) → 敦幸

(・_・)こういう事なのですね・・・
おそらく、平河との争論において、幕府も、何らかの正当性を主張していたのでは?と思いました。
(一方だけの弁護のみを理解しては、真実は何も解らないと、今はっきりと思いました)

そして、もう一つ、争論に関する記述で気が付いた事があります。
裁判の焦点は「師高」の曾孫など末裔と主張する人物の永吉庄地頭職の主張です。
では「義高」については何か記述があったのか?・・・実は、何も無いのです・・

「師高」の父を「義高」と主張しているのであれば、「先祖代々開発の地」の記述の中に「義高」の名があってしかるべきだと思うのですが、一切、ありません。

こう、推測する事はできないでしょうか・・?
この裁判は、そもそも、親子関係には無かった「平河義高」の末裔もしくは関係者と「平河師高」の末裔もしくは関係者の争論である・・と。

双方が正当性を主張する為に中々結審する事が出来なかった・・
そして、双方に其々関係する一族が「中原氏」である・・と。

私は、先日、「平河義高」は○氏と中原氏に関係する人物では?と書きましたが、本当はここに「北条氏」も加えておきたかったのですが・・
平河義高とは・・清和源氏(河内源氏)・諏訪氏・金刺氏・中原氏・北条氏に繋がる人物なのでは・・・
特に、北条氏は「平河義高」を擁護していたのでは・・??
そして、「平河師高」と同様に、系図には詳しく載せる事が出来ない何らかの理由があったのでは・・?
このような事を「ふと」考えてしまいました・・

平河道照の争論の相手は北条朝房の代官「知久敦幸(入道行性)」
知久氏は諏訪一族であり、金刺氏と同族でもあると言われていて、なお且つ清和源氏満快流の系もひく人物であった・・

それから・・
結審を迎える事が出来なかった訴訟。
鎌倉幕府滅亡後は永吉庄は少弐頼尚が所領する事となる・・・
個人的考えなのですが、何故「永吉庄」が重要だったのか?
おそらく、五木の鉱山が主たる理由だと思います。
金・銀・亜鉛を採取する事ができる鉱山です。
この鉱山の支配権をめぐっての「争論」であったと考えます・・

かなり、長くなりましたが、今までお伝えした事を理解した事により、祖母方の平河がどの段階で久米郷へと分かれて行ったのか?少し見えてきました。
(以前、お話した、なぞ解きの様な系図の意味が見えてきたのです)

続きは後ほど<(_ _)>
では(・_・)
[86]子孫よりさんからのコメント(2014年11月10日 15時31分56秒 ) パスワード

ここで、脱線を(__)

先ほど、父より「元気かぁ〜〜」と電話がありまして・・
何でも、昨日、熊本市内で知人の方の結婚式があったそうで、かなり酔っぱらったみたいで、すこ〜しまだ、酔いが抜けていないようでした。

うん( 一一)これはチャンスと
「お父さん、家の一族は物部氏よね〜〜!!( 一一)(^◇^)( 一一)」
と言ってみた所・・
父は、ものすごい勢いで物部氏について熱く語り初めまして・・
「物部氏がいかに天孫降臨の後の日本に貢献?してきたか、日本の歴史に深く関わって来たか!!」と言った話を延々としていました・・

あの様子では・・「間違いない!!」宮原は間違いなく「物部氏」でございます(__)・・・と思います・・

( 一一)「じゃあばあちゃんとこの平川は??」と聞くと・・
「解らんよ〜!!」と言っていました(-_-)(@_@。
でも、父はきっと平川については、詳しく知らないような気がします。
ただ、秘密が沢山あるような事はむか〜しから言っていたので・・これは、やはり、私が解明していくしかないなっ!!と思いました(ー_ー)!!

ちなみに・・
昨日の結婚式で、父と同じテーブルのお隣の席は、中国との国交回復に貢献されたS田もと外務大臣の息子様だったそうです。
ほろ酔い加減で、亡くなった祖母の話が出たようで、「ばあちゃんは、中国との国交回復の時は本当に喜んでいたタイね〜!!」と。

S田さんは祖母の事を下の名前で「○○しゃん」と呼ばれていた事は、私も覚えています。
私は、子供の頃、どこに行っても名前ではなく「○○しゃんの孫さん」と呼ばれていました。
祖母は、祖父が若くて亡くなった為に、息子達を一人で育ててきたのですが、以前からお話しているようにすごくオトコマサリの人でした。
でも、それだけではありませんでした。

祖母は、戦争や事故でお父さんを亡くした子供たちの為に活動をしていました。
それは、父が子供の頃からだったそうです。
活動は、その後病気などで父親または母親を亡くした子供たちにも広がり、私が、子供の頃までは、祖母はその活動を続けていました。

会を立ち上げて、沢山の子供たちの、ある時は父親替わり、ある時は母親の替わりになっていたようです。
年に数回、遠足のようなレクレーションに行ったり、クリスマス会や七夕・子供の日など、様々な催しを行っていました。
祖母が亡くなってしばらくたって、父がぽつりと
「子供の時に一度ね、お父さんも少しスネテいた時があったとタイ。お母さんが自分だけのものじゃないのが、寂しかったとやろネ。」と言っていました。
父の告白を聞いて、私も驚きましたが、実は私も、子供の頃、同じような気持ちになった事があったので・・何となく父の気持ちはわかりました。

でも、おそらく、祖母はその活動を自分の使命と考えていたのではないのかな?とこの頃思うようになりました。
昨日の結婚式の席で、自分の話が出て、祖母も、天国で喜んでいたのでは?と思いました。

そして・・
父も航空自衛官を退職してからは、地元の事を一番に考えて仕事をしてきたそうです。
私は父の自衛隊退官後の仕事についてはあまり、詳しく知らなかったのですが、熊本県内での役員の仕事だけではなく九州全体のなんちゃら会の会長だったそうで、球磨だけではなく熊本県や九州全体のビジョンをいつも、沢山の方と話し合い、形にして言ったと話していました。

娘の私は、な〜んにも知りませんでした(@_@。

父が電話で
「この頃、色々な人に合うと、もうすぐ娘が帰ってくるから世代交代タイと言ってるとよ(^◇^)」と・・

げげっ!!\(◎o◎)/!なんですと!(*_*;
・・・・・・・・・(@_@。(@_@。(@_@。

私には、何もありません・・・・(@_@。
私は何も出来ません・・・(@_@。
私には故郷の地域に貢献できるようなすべも何も持っていません(@_@。
な〜〜〜んの能力もありません(@_@。

どうしよう(@_@。

父に「お父さん、これからは、娘は帰ってきてもナ〜〜ンモ出来んバイ(ー_ー)!!」「な〜〜んも仕切らん、娘バイ!!」と言ってね(@_@。
とお願いしました(@_@。

でも・ふともし何か出来るとしたら・・?と考えたのですが・・
折角、先祖の調査をおこなって、故郷の歴史も勉強する事が出来たので、子供たちに、「み〜んなの故郷はこういう歴史があるんだよ〜〜」とお話するような、語り部おばさん((ー_ー)!!間違えた、お姉さんです)のようになれたらいいな〜と思いました。
その為に、もっともっと勉強しなければ(ー_ー)!!
平川のふた従兄弟をはじめ、私のふた従兄弟達は教育者が沢山揃っていますので、何かアドバイスをもらえたら嬉しいな〜と思います。
(もう、月が〜でったで〜た♪だけでは終わらせないぞっと・・)

えっ!あのヤンキーで親戚の中でぽか〜んと浮いていた私が??!
と言われそうですけれど・・(__)

と言う事で、ちょっとだけ目標を持っていこうかなっ!と考えた今日この頃であります。

では<(_ _)>(^・^)

[87]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月10日 20時27分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「物部氏がいかに天孫降臨の後の日本に貢献?してきたか、日本の歴史に深く関わって来たか!!」と言った話を延々としていました・・
 
やはり偽書の烙印を押されている先代旧事本紀を熟読するのが良いでしょう。
「歴史読本」2008年11、12月号を入手が良いが、現在残念ながら入手困難。
良書は機会を逃すと手に入らないのが常。
 
安本美典著、古代物部氏と『先代旧事本紀』謎―大和王朝以前に、饒速日の尊王朝があった (推理・邪馬台国と日本神話の謎) を読むのも良いでしょう。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%80%8E%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80%E3%80%8F%E8%AC%8E%E2%80%95%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AB%E3%80%81%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E6%8E%A8%E7%90%86%E3%83%BB%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E5%AE%89%E6%9C%AC-%E7%BE%8E%E5%85%B8/dp/4585051244/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1415617886&sr=8-3&keywords=%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E8%A8%98

[88]子孫よりさんからのコメント(2014年11月10日 22時20分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

古代物部氏と『先代旧事本紀』謎―大和王朝以前に、饒速日の尊王朝があった (推理・邪馬台国と日本神話の謎)
必ず読みます(^・^)

所で、先代旧事本紀に関して ウィキより
『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、現在では大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したとみられている。
本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが江戸時代の国学者多田義俊や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている[1][2]。
序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた[3]。
本書の実際の成立年代については『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年〜938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年〜906年)には存在したと推定され、従って、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前と推定されている。
また、貞観年間(859年〜876年)に編纂された『令集解』に『先代旧事本紀』からの引用があるとして、『先代旧事本紀』の成立時期を807年〜859年〜876年とみる説がある。
また『令集解』に引用される、穴太内人(あのうのうちひと)の著『穴記』(弘仁(810年〜823年)天長(824〜833年)年間に成立か。)に『先代旧事本紀』からの引用があるとして成立時期を807年〜833年とみる説がある。ただし、『穴記』の成立年代は弘仁4年以後ということのみが特定できるにとどまるため、推定の根拠としては有効ではないともいわれる[2]。

※『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前と推定されている。

(・_・)
球磨の歴史を調べていても、「大同年間」という記録が沢山出て参ります。
大同年間に何が起こったのでしょうか・・?

素人なので、よく解りませんが、きっと「大同年間」は何かの転機、または、何かを見直した?時期なのかな?・・?などと思ってしまいました。
その時期に、球磨には神社が連続して創建されています・・??

でも、ご紹介して頂いた書籍を読む事が、本当に楽しみです(^・^)
では<(_ _)>
[89]子孫よりさんからのコメント(2014年11月10日 22時35分33秒 ) パスワード

コメント90に近づいて参りました。

新しいスレッド「平川家について20−1」を立ち上げました。
ご協力頂きまして、本当にありがとうございます。

一生懸命、勉強致しますので、どうか、今後ともご教示のほどよろしくお願い致します。

平川家について20-1に続きます(__)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101398.html
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