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 投稿番号:101398 投稿日:2014年11月10日 22時31分59秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について20-1

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様からのご教示のお陰で、こちらのスレッドも20−1となりました。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

平川家について18より続きます(__)(^・^)

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101393_88.html

[1]白石さんからのコメント(2014年11月11日 07時19分55秒 ) パスワード

おはようございます。
朝 ながく 書いていたら パソコンがおかしくなってしまって 投稿できなくなりました。
短くしておきます。

平川集落に父の義兄弟の坂本がおりました。
父の先妻の平江の姻戚にも 坂本がありました。

北岳神社は 別名坂本大明神といい、近江日枝社の末社。
日吉社には 山上に大山咋神をまつり、山下に大和三輪神社から漢王室子孫・美津首 最澄が 大物主(大国主)を ひいてきて まつった。
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この 近江坂本にいた 明智光秀の 子孫が 坂本龍馬という。
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明智光秀は足利将軍家に仕えていた。
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月11日 12時41分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>この 近江坂本にいた 明智光秀の 子孫が 坂本龍馬という。
 
誤り。
坂本龍馬は紀姓坂本氏の末裔。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209e2.htm
 
家紋が組み合わせ角に桔梗で、明智家に近い長曽宗我部家に仕えていたことからこの手の俗説がある。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02017e2.htm#007
[3]白石さんからのコメント(2014年11月11日 13時03分59秒 ) パスワード

この坂本龍馬と 初恋の人・加尾と結婚する西山家の話。

前にうちは もしかしたら 北朝によったのかもしれないと思うようになった。
と 書き
大物主・佛陀の首飾りは キリスト教以前のもの。
ということから 
佛陀・大物主の肖像画を 見てみました。
佛陀は 一重まぶたで 書かれていました。

故郷に 横井先生・佐々木先生がおられ、二人とも 一重まぶた。目が澄んでいて まだ 若い先生がただったので、記憶に残っているのですが、佛陀の目を見て あらーっと 驚きました。こういう目でした。

体は 細見 貌も ほそづくり でしたけど・・・
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平井加尾 (ひらい かお) - 日本の歴史検索エンジンより
平井加尾(平井加帆、平井嘉尾、かほ)は、土佐国土佐郡井口村の出身で土佐藩新留守 居組(上士)・平井伝八(平井真隆)の次女(長女?)。平井収二郎の妹。

加尾は のち 西山志澄と結婚する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


[5]子孫よりさんからのコメント(2014年11月11日 16時35分23秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

北岳神社に関して、平川家について16 コメント46で球磨に大同年間に創建された神社を調査しています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101373_87.html

北岳(嶽)神社(北嶽日吉神社) 相良村四浦  一節に大同年中(806年~810年)の設立ともいふ。
御祭神 大山祇神
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.458610834255615.1073741838.269261349857232&type=3
2015/11/11 追記(__) 上記のアドレスをブラウザのアドレスバーにコピーするとこちらのフェイスブックの情報が見れます(__)

熊本県庁ページ
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/kitadakemori.html
この北岳神社は日吉神社系列で西暦810年に創立されたということで・・との記述があります。?
御祭神 大山祇神

こちらにも、物部氏が係わっている事が見えてきますね・・・

ちなみに、今年の正月、従兄弟と北岳神社にお参り致しました。
私の従兄弟は、多良木に住んでいるのですが、北岳神社には頻繁にお参りしています。
伺うと、心が落ち着くから・・と言っていました。
ですから、私が「行った事が無い」と言うと、「これはもう、絶対に連れていかなければ!!」と言う事で、一緒にお参りに伺ったと言う事です。
ちなみに、父の親友の「平川さん」はこちらの神社の氏子総代です。
私達がお参りした際に、偶然いらっしゃいまして、(もちろん私が、父の娘とは御存知無く、私もこちらの平川さんが父の高校の時からの大親友だとは全く知らずに)色々、お話を伺ってきました。
(・_・)この時、沢山の参拝者がいらっしゃったのですが、平川さんは「す〜っと」私達の所に寄って来られて、話しかけてこられました。
それから、展示品などの説明をして下さったのです。
神社の裏にも案内して下さいました。通常は一般の方は入れない場所だそうでして、そちらにも別のお宮がありましたが、扉が閉まっていました。
その左右の扉には一面に鷹羽が大きく描かれていまして・・
扉が閉まっていましたから並び鷹羽紋になっていました。
ただ、北岳(嶽)神社の神紋は別です。
あの・・・実は今まで色々探したのですが、見た事が無い「紋」なのです。
平川さんも、「今まで色々探したけれど、やはり該当する「紋」を見た事がない」とおっしゃっていました。
こちらの神社は一度大火があり、殆どの書物や由縁の品が焼けてしまったそうです。
ただ、神紋の付いた「布(すみません(__)何と呼べばいいのかわからないもので・・)」だけは残っていたと言う事で、近年、平川さんをはじめ、氏子の方々が残っていた神紋を施した新しい布?「お飾り・・こちらも何と呼べばいいのかわかりません(@_@。すみません」を奉納されたそうです。
とっ・・初めて伺った北岳神社で、氏子総代の平川さんから沢山ご案内して頂いて、家に帰り、父のその事を話すと・・
「えええええええええええええええっ!!なんとまあ偶然じゃ!!その人はお父さんの大親友の平川君よ!!」と・・
それから、父はすぐに平川さんに電話をしまして
「今日は、娘がお世話になったね〜」と・・
すると、平川さんもすご〜〜く驚かれまして「ええええええっ!!宮原君の娘さんやったト!!」と・・ですね。
平川さんは、私と従兄弟を見た時に何故か「話しかけなければ・・」と思われたそうで、私も平川さんに「沢山、お話を伺わなければ!」とその時思ったのです。
父にも「不思議やな〜」と言われていました。

先日も、父と平川さんは一緒に大阪に行っていますよ(^・^)
父いわく、生前祖母は、父の大親友の平川さんに「一族タ〜イ(^・^)」と言っていたそうです。

祖母と同族である「平川家」が代々「氏神様」とされているのが北岳神社と言う事になります。

旧久米郷にある祖母の実家の「平川家」とわたくしの「宮原家」は代々「霧島神社」を氏神様としているので・・

何だか・・・その・・天孫降臨の時代へやはり遡っていくような気がしてきました・・・

ちなみに北岳神社の神紋がネットに出ていないか探したのですが、神社を紹介するページにはどれもあのお飾り?の布?が出ていないので・・残念です。

皆様でしたら、きっと何かお解りになられるのでは?と思うのですが。
藤の花(だと思うのですが)と何かが組み合わされていて、なお且つ中央下に「桃」または「栗」?の絵のようなものが描かれていました・・
ぱっ!とみた時に何故かもも太郎さんを思い出したのですよね・・?
(何を言っているのかさっぱり解らん(ー_ー)!!の大合唱が聞こえたような・・)

と言う事で北岳神社へ伺った・・というお話でした。
では<(_ _)>
[6]子孫よりさんからのコメント(2014年11月11日 17時16分26秒 ) パスワード

\(◎o◎)/!
あっありました!!神紋が写っていました。

先ほどご紹介したサイト
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.458610834255615.1073741838.269261349857232&type=3
上記のアドレスをブラウザのアドレスバーにコピーするとこちらのフェイスブックの情報が見れます(__)

こちらのフォトアルバムの中で
神楽を舞っている男性の着物・宮司様の後ろ姿・座っている男性の後ろ姿に、神紋が描かれています。

どうぞ、ご覧ください。

こちらの神紋が解ったら、私も父の親友の平川さんにお伝えしますね(^O^)と電話で以前お話していたのですが、未だに解りませんでした。
(お参りした時に写真を撮っていないのが問題です(__))

どうか、皆さまご教示の程よろしくお願い致します<(_ _)>
[7]白石さんからのコメント(2014年11月12日 00時17分52秒 ) パスワード

こんばんは
北岳神社祭神 大山祇神ですね。ネットを見ました。
大山咋神は なんだったんだろう ? と思いますが・・・^^

山の神でしたら 娘がににぎと 結婚するわけで 霧島神宮や同体の市房神宮につながってきますね。

山の神のもう一人の娘が 神大市姫で、 大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、★宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。

大年神は にぎはやひ に なぞらえられることもある 神ですね。
[8]白石さんからのコメント(2014年11月12日 01時07分24秒 ) パスワード

神紋は どれか わかりませんでした。
なんだか 同じ模様が ぐるんと 円をかいているようにみえましたが、そのもんのことかどうか が わかりませんでした。

押小路の丁子紋ににたような 間に ○○ が あるような・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
坂本にかえりますが
一応 坂本と西山は 血縁関係はないのですが

西山志澄
幕末土佐藩の迅衝隊士、日本の明治初期の軍人、政治家。幼名 直次郎。旧姓・平井、植木。
後 警視総監

http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tospcc3&p=%E6%A8%AA%E4%BA%95%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AE%88&ei=UTF-8

横井城 / 帝國博物学協会 讃岐國 - TOK2.com
内容をコピーできませんでした。

別のブログですが

義輝の子を身に宿していた側室・烏丸氏は松永勢の手から逃れ、尾池玄番光永の屋敷に匿れた。そして義輝の遺児・義辰(1565-1642)を出産。

尾池光永(平頼盛の子孫)は讃岐の横井城主だった。義辰は彼の養嗣子となり、名を尾池保衡
に改める。のち横井城主。

尾池保衡は、1587年讃岐高松城主・生駒親正に仕える。保衡の子・★西山右京
が細川家に千石で召抱えられた後、肥後に入国、1642年正月、宮本武蔵と共に
奥書院で藩主忠利に謁し杯を交わしたりしている。 同年7月没。

子孫は西山氏として、明治に命脈をつないだと伝わる。





[9]子孫よりさんからのコメント(2014年11月12日 06時45分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

神紋ですが、写真1枚ごとにクリックするとアップになります。
白石様のご教示にあった
「山の神のもう一人の娘が 神大市姫で、 大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、★宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。」
こちらに繋がって来るのだと思うのですが・・

写真をアップにして確認したのですが、私が「桃」とか「栗」とか大きな勘違いをしていたのは宝珠紋と呼ばれる「玉」でした。
http://www.genbu.net/sinmon/houjyu.htm

そして
http://books.google.co.jp/books?id=64Tw_yLYlXwC&pg=PA136&lpg=PA136&dq=%E7%A5%9E%E7%B4%8B%E3%80%80%E5%AE%9D%E7%8F%A0%E7%B4%8B&source=bl&ots=LdfliC5Yol&sig=dPxSCG3PP5ua5Q7z5Ug4ciJzk0k&hl=ja&sa=X&ei=EXhiVP-eOcbDmAX8gIKYCw&ved=0CDkQ6AEwBg#v=onepage&q=%E7%A5%9E%E7%B4%8B%E3%80%80%E5%AE%9D%E7%8F%A0%E7%B4%8B&f=false

玉・宝珠紋
稲紋と共に稲荷社の神紋として広く用いられている。また、火の神を祭神とした社にも用いる。
とありました。
宝珠を囲んでいる?のは、藤ではないです。
羽?のような・・
こちらは、絶対にこの頃、私見ました。でも・・悲しいかな思い出せません。
ご教示を頂いた時ではないかな・・?と思いまして・・
まだまだ、調べてみます。

讃岐の尾池氏ですね・・四国ですね・・

それから・・
弘安9年の 為宗人々 に白石六郎左衛門尉通武 筑前国佐野次郎丸
そして
岩門合戦勲功人事 に 白石美野又二郎通継 豊前国松浦庄内甘木村兵庫馬三郎能範跡
という記述がありましたので、ご存じかとは思いますがお伝えしておきます(^・^)

古文書の流れですが・・
実は、昨日、人吉庄預所「良峯師種」の記述をもとに、前任者の「中原遠盛」について調べていたのですが、その流れで、当時の惣政所他の人物の名前がわかりました。
気が付いた事が沢山ありますので、後ほどコメント致します。
では<(_ _)>
[10]子孫よりさんからのコメント(2014年11月13日 07時54分07秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

東京大学の古文書フルテキストデータベースで見つけた情報をブログにアップしています。(2ページに渡ります)
よろしければご覧ください<(_ _)>

良峯氏尼妙阿代道観の申状・平河観覚書状
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11951697139.html

人吉庄預所 中原遠盛 継ぐ 人吉庄預所 良峯(平河)師種の記述
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11951702140.html
人吉庄預所 中原遠盛請取状
※預所 左衛門尉中原遠盛 花押 あり

人吉庄南方松延名田数得田米付雑物等実検注進状
※惣公文僧永順(花押)、惣政所右衛門尉藤原盛員(花押)、地頭藤原(相良)頼広(花押)、雑掌僧道円(花押)、預所良峯師種(花押)、領家御代官沙弥浄善(花押)あり

上記の情報が記述されている古文書です。
関連する調査内容は、次のコメントでお伝え致します。

では<(_ _)>
[11]白石さんからのコメント(2014年11月14日 04時04分30秒 ) パスワード

こんばんは
明日から娘が帰省してくるので 忙しくしていました。

白石のこと 情報ありがとうございます。
個々の名前のことは 知りませんでした。

父の手帳の書きつけにあった 木原 伊津野 や お寺様が 佐賀の方から婿養子 前坊守様が 八代から嫁 と 九州上部に つながっていくらしい と 思っておりましたが・・・

竜造寺家などからも 白石の言葉がでるようです。
北嶽神社神紋
スライムみたいなのを細い線のようなものが 取り巻いているものでしょうか?
これかしら?と思いながら 見ていました。
[12]白石さんからのコメント(2014年11月14日 04時07分26秒 ) パスワード

まわりは 火。
中は宝珠。
宝珠は しおみつたま・しおひるたまで 
十字架の上についている
仏教の如意宝珠。
と どちらにも 関与する。

住吉大社にあったのを 神功皇后が 借りていった。
うかのみたまのとき
伊勢神宮の外宮に関与している。
伊勢神宮は内宮・外宮とも 丹後から 来ている。
佐田神社も 丹後にある。
こちら 高槻・茨城の境あたりに 摂津の大田 新屋坐天照御魂神社というのがあり、余り大きくはありませんが、古くは 由緒ある神社でした。すぐ 近くに 疣水神社があり 天照御魂社と 関与しているようです。

山口の呉の人も 奉納しています。

疣水さんは 安曇日羅に関与する 磯良神をまつっており、
神功皇后が 三韓征伐に向かわれるとき 祈願されている。
そこと 地域を接して 総持寺があります。
藤原道長の母・時姫の祖父・藤原山蔭が 建てた。一条天皇を中心に華麗な宮中を繰り広げた人たち。

この神社に 天火明命と うかのみたま もう一柱 と シンプルに 神様がおられます。
はやくいえば うかのみたまは 天火明命と 同系列ということになる。

上にでてくるものは 前から コメントで話題になったものでした。
[13]白石さんからのコメント(2014年11月14日 04時09分16秒 ) パスワード

伊勢神宮の地は 猿田彦の子孫の太田氏が提供したといい
外宮・渡会氏があらわした 「神道五部書」では
外宮の優位性を書いているという。
神紋は 宝珠と火
火は あらはばきに 通ずるものがあり、
日ノ本大将軍につうずるものがあり

近江の山王日枝社にも あらはばき神は おり
宇佐八幡の山王日枝社の阿蘇神社縁起では
宇佐八幡・阿蘇神社・高知尾明神が きょうだい神であることが書いてあり
高知尾明神を 神武次郎と する。
 神武天皇の祖先を 神魂神とする話もあり 親は 父母ふたりおり、それぞれに 又 父母がおり あわせれば 四人おり、父系・母系どちらかはともかく
神魂神が き 姓であったことは しられているといい
猿田彦は 母方の系で 神魂神。
大国主が大けがをしたとき 神魂神の子神・うむがい・きさがいが薬を持って来たといい
大国主が き姓の人と かんよしていることは うかがえる。

熱田旧記では き氏は 大国主の子孫としている。
神社の祭神については 時代により 変わることがある。
たとえば こちら 茨城神社でも 
初めは地主神だったのに 織田信長があまりにもあちこちの神社を焼き討ちするので、しかし 彼は アマテラスやスサノオなど 崇敬してそういう神社は焼かなかったので 

急きょ 祭神を変えて 難をのがれた という。
[14]白石さんからのコメント(2014年11月14日 04時10分31秒 ) パスワード

一抹に 北嶽神社の祭神は 一字違いで 大山咋神ではなかったか?とは思うのですが、私は神職にないので わかりません。
はるか 昔の歴史があったのでは?
鹿児島神宮に 松野連系図があり それは 倭の系図でもあり、
そこへ 関与していくのではなかったか?

それならば 天火明命やににぎ系が 海神系に関与してくるのも わかる。
ウィキの大山咋神には 興味深いものが 書かれています。
漢人系とか 秦系とかの他にも
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。 太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
[15]白石さんからのコメント(2014年11月14日 04時12分17秒 ) パスワード

坂本3
足利将軍家15代のあと

ウィキ 足利義尋・坂本義邵より
鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』の『永山氏系図』で、義尋の子とされる実相院義尊や円満院常尊を一色義喬の弟で義昭の子と表記されている。

坂本 義邵(さかもと よしあき、明暦2年(1656年) - 享保12年2月16日(1727年4月7日))は、江戸時代の近江国坂本の武士・神道学者で、後に陸奥国会津藩士。諱は義邵。通称は覚之進[1]、後に学兵衛。室町幕府最後の将軍である足利義昭の子と称する一色義喬(左兵衛、後に和泉とも)の子、一色義房(筑後)の次男で母は柳原氏。苗字は初め「一色」であったが出身地にちなんで「坂本」に改姓。子は坂本義馮。孫は坂本義辰。

坂本龍馬の系は 日本の苗字7000傑より 紀氏の子孫についている。
系譜を 親が違えばまったく系がちがう 
というようにとらえれば いろいろにでている坂本についての話も まったく違うところどおしでのことになるけど

大きな流れととらえれば その中にいる。
日本人の祖先をたどれば 小さなわっかになるし
はては 遺伝子により 世界がひとつになるので 当たり前ではあるけど。
坂本4
金印が出た 志賀島の神社の神主に 坂本がいる。
金印とは 「漢委奴国王印」。
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年11月14日 21時10分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

久しぶりに娘さんが帰って来られたのですね。
親子水入らずの団欒ですね。良いですね(^・^)
娘さんもお母様と過ごせて、心が安らいでいらっしゃるでしょう(^・^)

私も、実は昨日、息子の誕生日でして、おめでとうのメールを送ったのですが・・
返信はありませんでした(@_@。全く・・男の子は・・(@_@。
ちなみに・・
以前もお話しましたが、息子の誕生日は、平川の曾祖母の命日で、娘の誕生日は平川の曾祖父の命日です・・
計画出産をしたわけでも何でもないのですが・・偶然なのですが・・全く不思議です・・?でも、こう言う事はけっこうよくあると聞きました。(?_?)

北岳神社の神紋がはっきりと解る写真です。
https://www.facebook.com/hitoyoshi.kuma.SHINTO.shrine/photos/a.458610834255615.1073741838.269261349857232/458610960922269/?type=3&theater

https://www.facebook.com/hitoyoshi.kuma.SHINTO.shrine/photos/a.458610834255615.1073741838.269261349857232/458611140922251/?type=3&theater
宝珠は解るのですが、まわりを囲むものは何??と・・

これからも調査続行いたします(__)

昨日、ブログにアップした情報ですが、少し行き詰っていまして・・
とりあえず、今まで調べた事を次のコメントでご紹介いたします。
では<(_ _)>
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年11月14日 21時12分00秒 ) パスワード

追記
こちらの写真
https://www.facebook.com/hitoyoshi.kuma.SHINTO.shrine/photos/a.458610834255615.1073741838.269261349857232/458610960922269/?type=3&theater

そして
https://www.facebook.com/hitoyoshi.kuma.SHINTO.shrine/photos/a.458610834255615.1073741838.269261349857232/458611140922251/?type=3&theater

アドレスバーにコピーして頂くとご覧いただけます<(_ _)>
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年11月14日 22時52分14秒 ) パスワード

では早速<(_ _)>

まず、平政国沙弥某連書奉書についてです。
ブログにアップした最初の文書です
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11951697139.html

平政国とは・・?調査致しました<(_ _)>
こちらをご覧ください
慶應義塾所蔵古文書選 - 第 3 巻 - 48 ページ より
この平政国は英時の代官である周防五郎政 11 と同一人物である可能性が強い。宛 8 :の大和右近将監は一見、肥後の守護のようにみえるが、この人物が守護であった確証はないので、 ...

※平政国は英時の代官である周防五郎政・・
英時とは北条英時 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%99%82
北条 英時(ほうじょう ひでとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府最後の鎮西探題(在任:元亨元年12月25日(1322年1月13日) - 正慶2年/元弘3年5月25日(1333年7月7日))。父は赤橋流の北条久時。幕府最後の執権・北条守時の弟。赤橋英時とも称される。

元亨元年(1321年)12月25日、阿曾随時の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴く[1]。
鎌倉幕府討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め、正慶2年/元弘3年(1333年)3月13日には後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに英時の養子で肥前守護の北条高政に菊池氏や阿蘇氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討に務めさせ、3月26日には松浦氏に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせた[1]。しかしこのため博多の防備が極めて手薄になり、4月7日に安芸の三池氏らを招集して博多防衛に当たる事になる[1]。
5月7日に京都で六波羅探題が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった貞経や貞宗、さらには島津貞久らが離反して攻めて来る[1]。英時は懸命に防戦したが敗れ、5月25日に博多にて金沢種時[2][註 1]をはじめ一族240名(340名とも)と共に自害した[1]。得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害して滅んだ[3]3日後のことであった。
人物像[編集]
英時は和歌に優れた教養人でもあり、『松花和歌集』や『続現葉和歌集』、『臨永和歌集』などには多くの作が収められ、鎌倉時代末期の九州二条派の和歌界の中心だったという[1]。また、英時の探題在任中に発給された書状約100通ほどが、今日においても現存されており、歴史を知る上において貴重な史料となっている[1]。
作家の吉川英治は『私本太平記』中で「難治の地である九州で10年以上も探題職を務めた英時の能力・人望は余人に秀でていた。後日、足利尊氏が九州で勢いを盛り返した際にも、英時の義弟(尊氏の正室・赤橋登子は英時の妹)であるという点が九州諸豪族の心を動かす一因となったのではないか」と考察している。

(・_・)あの・・・この方の兄弟を見て下さい
守時、宗時、種時、英時、時宝、登子(足利尊氏正室)、女子(洞院公守室)、種子(正親町公蔭室)、女子(北条貞規(師時の子)室)

※種子(正親町公蔭室)・・・正親町公蔭について、私はすでに調べていました。
平川家について15コメント61です。転記します<(_ _)>
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101367_88.html
正親町 忠兼(本名実寛・公蔭)[ 永仁5(1297)年 〜 延文5/正平15(1360)年10月19日 ]
実明男。母藤原兼嗣女?。京極為兼猶子。後、小倉公雄猶子。後年、復実父。法名・空静。
元徳2(1330)年正月5日叙従三位。
観応3/正平7(1352)年8月12日出家。
正二位・権大納言。
※母名は諸家知譜拙記と尊卑分脈の公蔭の項に記載されたものだが、尊卑分脈では藤原顕嗣の女にも公蔭母と記されている。

正親町公蔭 父:正親町実明 母 藤原兼嗣女?もしくは藤原顕嗣の女

藤原顕嗣の娘と言う事は藤原師高の玄孫となります。

または藤原兼嗣の娘と言う事になれば・・
「藤原兼嗣」を調べたのですが、「兼嗣」という複数の人物から時間軸が合うのは
★松殿兼嗣[ 延応元(1239)年 〜 文保元(1317)年3月3日 ]
松殿兼嗣の妻は「中将実春朝臣女」
徳大寺実春の娘が妻という事でした。

正親町公蔭の母として記述されているお二人は(松殿兼嗣の娘・藤原顕嗣の娘)、どちらも「平河」と係わりのある方々でありました。
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(・_・)という事を調べていたのでした・・
それに・・女子(洞院公守室)とありますが・・
洞院公守の子息「左大臣洞院実泰」の妻は藤原兼頼の娘。 ★藤原兼頼は藤原師高の玄孫です。
こちらも平川家について15コメント59で調べていました。
洞院公守の孫「洞院公泰」について・・転記します<(_ _)>
==================================================
洞院公泰とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E6%B3%B0

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。

洞院公泰
父:洞院実泰(1270-1327)
母:家女房(?-1354) - 藤原兼頼[3]女 ★藤原兼頼は藤原師高の玄孫です。
義父:後宇多法皇(1267-1324)
守子(後醍醐天皇妃)の同母弟・・と言う事は
ありゃっ?藤原師高の昆孫は後醍醐天皇妃と言う事になりますね・・!
============================================
(・_・)
という事でした・・・

北条英時の兄妹「種子(正親町公蔭室)」「女子(洞院公守室)」
平河の調査と繋がっていたと言う事ですね・・・?
それから北条英時の養子が「規矩高政」
※ブログ http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11951697139.html
上から6番目の古文書が規矩高政施行状です。

北条英時の代官が「平政国」

平政国。(周防五郎政)この方について次の情報を見つけました。
中村学園大学・人間発達学部・教授 佐藤 鉄太郎氏 サイトより
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/17520458.en.html
鎮西探題の館は北側の正門の西側に代官・執事の周防五郎政国、その並びに安富左近将監貞泰の居宅等を配置し、館の周囲を御内の居宅で囲み、その背後に御奉行所、侍所等を配置し、これらの外郭と鎮西探題の居住区域である内郭から構成された城郭構造であることを明らかにした。
※代官・執事の周防五郎政国
※安富左近将監貞泰

(・_・)周防五郎・・と言えば・・通称「周防五郎」は島津忠景ですね・・?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%99%AF
島津 忠景(しまづ ただかげ)は鎌倉時代中期の武将・歌人。鎌倉幕府御家人。薩摩国知覧院(現在の鹿児島県南九州市)地頭職。但馬国朝来郡粟鹿大社(規模100町)地頭職(「弘安5年(1285年)但馬国大田文」・『兵庫県史』所収)。
系譜[編集]
忠綱の三男。本姓は惟宗氏。兄に三郎忠行・四郎忠泰。忠行とは異母兄弟とする見解がある(杉本雅人『越前島津氏−その事歴と系譜』)。弟に六郎忠頼・七郎定賢・安芸守忠氏ら。子孫には知覧・宇宿氏など薩摩国の名族があり、また越前国に土着した一族(島津忠信ら)や信濃国に土着した一族(赤沼家島津氏)もある。
(・_・)周防五郎政国こと「平政国」との関係は全く今は解りません。
今後、調査継続いたします<(_ _)>

と言う事で、まずは「平政国沙弥某連書奉書」に名のある「平政国」と言う方を調べました・・というお話でした。
<(_ _)>










[19]子孫よりさんからのコメント(2014年11月15日 13時01分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメントで
北条英時の代官・執事の周防五郎政国こと平政国。
そして
安富左近将監貞泰
という二人の方の名が出てまいりましたが・・・

ここで、やっと、本当にやっと「安富氏」が見えて参りました。

まず、永吉庄について確認をします。

永吉庄とは、建久の図田帳からの名称で、それ以前は以下の流れで名称が変わっています。

弘安6年7月3日の関東下知状案(平河文書/県史料中世3)によると,大江広元の預所補任は建久3年8月であり,その時の下文には「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」「永吉〈于時三善〉并西村可為預(衍カ)預職云々」とあったと見え,当荘は三善とも呼称されていたことが知られる・・・

平河師高所領時「是永」・・→・・没官・・→・・建久3年8月「肥後国球磨庄安富領内三善并西村」・・→・・弘安6年7月3日の関東下知状案「永吉」

上記の記述にあった大江広元の預所補任時「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職」
この時点で「安富領」と「三善」という言葉が出てきたと言う事です。
平河師高が所領していた時には「永吉」という名称では無かった・・「是永」であった・・
その後「安富領内三善并西村」・・→「永吉」
そして、昨日のコメントで登場したのが「安富左近将監貞泰」。この方です。

肥後国球磨庄安富領内三善并西村と呼ばれていた時に(師高所領没官時)球磨の地に名を残しているのは「平河義高」。
相良氏下向18年前に「平河義高」この方は球磨に登場しました。
そして木上城(岩城)の城主であった・・
木上城(岩城)の横にある高台の遺跡からは「相良氏」「新宮氏」の米蔵があった・・

では、まず「安富左近将監貞泰」。安富の名がつくこの方を調べました。
「安富氏」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AF%8C%E6%B0%8F

安富氏(やすとみし)は、鎌倉時代から戦国時代に活動した武将・吏僚の一族。鎌倉時代中期から幕府奉行人として現れ、室町時代中期以降は細川京兆家の重臣として現れる。讃岐国東方守護代家。
肥前国南高来郡深江の土豪にも安富氏がおり、江戸時代まで鍋島藩家老として存続した。
周防国大内氏に仕えた一族や、石見国益田氏の一族である安富氏もいる。
出自[編集]
出自は紀長谷雄の子孫ともいわれ、見聞諸家紋に本姓は紀氏とあり、一族も紀姓を名乗っていた明徴がある。しかし、祖先と思われる鎌倉・室町期の幕府奉行人を務めた安富氏が源姓を名乗っていた明徴があり、安富氏の出身地とされている下総は摂津源氏と歴史的に関わりが深かったこと、肥前国深江村(後述)の安富氏の祖である頼清(泰嗣)が名乗っていた「三郎」を安富氏代々の惣領が世襲しているなどに鑑みるに、おそらく元来は肥前国南高来郡深江村の安富氏と同族で源頼行の系譜を引くものと思われる。安富氏は幕府奉行人時代は播磨国三日月郷に領地を持っており、同じ紀姓を名乗る播磨の浦上氏とは、浦上則宗の養子に安富元家の子とも目される祐宗が入るなど室町時代を通して親密であったことから想像するに、堀田系図に「盛家が安富を嗣ぐ」との記述があるように、本来は清和源氏頼光流だったものが、なんらかの理由で系譜が断絶し浦上氏から跡継ぎを迎えたなどの関係があったために紀姓に変わったものとも推測される。

肥前安富氏(深江氏)[編集]
出自[編集]
肥前国南高来郡の安富氏は鎌倉時代の引付奉行であった安富民部三郎頼清(泰嗣)を祖とする一族。清和源氏頼光流。
系譜[編集]
源頼光-頼国-頼綱-仲政-頼行-宗頼-頼衡-頼清(安富民部三郎・安富氏祖・泰嗣)-頼泰(三郎次郎・鎮西引付衆)-貞泰-直泰-泰行-泰清-泰直-貞直-純治-純泰-重枡-昌武(深江氏祖・鍋島藩家老)
動静[編集]
元々は関東御家人であったが、1265年頃に肥前深江村の地頭に任命され、元寇の警備のために頼清の子である頼泰が九州に下向。そのまま住み着いた。元寇期における「下り衆」の典型。安富頼泰・貞泰父子が鎮西引付衆を務めるなど一族は幕府の官吏として活動したが、南北朝時代以降は深江村に土着し土豪として活動。鎌倉時代後期から戦国時代末期まで300年に及び深江村を支配したが、戦国時代末期に有馬氏との抗争に敗れ深江村を追われた。江戸期には深江氏と改称し鍋島藩家老として存続した。鎌倉時代以降の文書をまとめた「深江文書」を残し、とくに鎌倉末期から南北朝時代における肥前国史を知る上で貴重な史料となっている。

(・_・)
系譜[編集]
源頼光-頼国-頼綱-仲政-頼行-宗頼-頼衡-頼清(安富民部三郎・安富氏祖・泰嗣)-頼泰(三郎次郎・鎮西引付衆)-貞泰-直泰-泰行-泰清-泰直-貞直-純治-純泰-重枡-昌武(深江氏祖・鍋島藩家老)
(・_・)※安富左近将監貞泰とは安富頼泰(三郎次郎・鎮西引付衆)の子供と言う事ですね。

※と言う事は・・
建久3年8月「肥後国球磨庄安富領内三善并西村」
関係した方はおそらく「頼清(安富民部三郎・安富氏祖・泰嗣)」・・かな??
でも・・建久3年とは1192年ですから・・もう少し前の方から何かしら関係している可能性もありますが・・?

しかし・・安富氏は「源頼光」を祖としていたのですね・・
今まで、こちらの系は何度も調査しています。
源頼光-頼国-頼綱-仲政-頼行-宗頼-頼衡-頼清(安富民部三郎・安富氏祖・泰嗣)-頼泰(三郎次郎・鎮西引付衆)-貞泰・・・
源頼綱・源仲政については平川家について17のコメント74で調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101386_89.html
転記致します(__)

「季」と「貞」の字・・
そうなのですね・・。

「想像の域を超えないが藤原季綱の分かれ信西の影がちらつく西光の後裔が良峯姓を称したのか?」

藤原季綱の子に「藤原友実」。
実は、先日、この方に繋がる系を見ていました。

江戸城(平河城)を築城した太田道灌の系を見ていて、祖となる源頼政について勉強していた所、源頼政の母が「藤原友実の娘」とありました。

「源頼政は木曽義仲の兄、仲家を、経緯は不明だが養子にしている。」とありました。
ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF

太田道灌の母方は東漢氏の後裔「長尾氏」。

あの・・・
今、気が付いたのですが
源頼政の父は源仲政。そして祖父は源頼綱。
源頼綱は美濃守源頼国の五男。母は尾張守藤原中清女。
母は藤原中清の娘。
と言う事は・・
源頼政の祖父 源頼綱と藤原清家(妻:橘季通女)は従兄弟となります。
源頼政の父  源仲政と藤原永雅(母:橘季通女)はふた従兄。

源頼政は木曽義仲の兄、仲家を、経緯は不明だが養子にしている・・
藤原清家は加賀守・・

源頼政は ウィキの記述で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
青年期の頼政について史料は乏しいが、父の仲政が下総守に赴任した時に、これに同行している。保延年間(1135年-1140年)頃に家督を譲られ、保延2年(1136年)に六位蔵人に補任され、同年従五位下に叙された。頼政は鳥羽院に仕え、寵妃の美福門院や院近臣の藤原家成と交流を持っている。

とあり・・

源仲政は ウィキの記述で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E6%94%BF
父と同様に歌人としても名を顕し、和歌の道を通して源俊頼、藤原為忠、藤原俊忠、藤原俊成、藤原家成などといった中級貴族と親交が厚く、摂政藤原師通の歌合にも招かれている。

とありました・・。

※源頼政の父母は 源仲政と藤原友実の娘
※藤原友実は藤原季綱の子。
※藤原季綱と橘を称した藤原成季(橘光季の養子)は兄弟。
※源仲政と藤原永雅(母:橘季通女)はふた従兄。
※源頼政は木曽義仲の兄「仲家」を養子にしている。(経緯は不明とあり)

木曽義仲・源仲家の父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた2歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した・・・
===================================================

(・_・)という事を平川家について17のコメント74で調べていたのでした・・

この時は「何か、何故かひっかかります・・?」という状態で、球磨の平河との繋がりが見えなかったのですが・・
永吉庄は「肥後国球磨庄安富領内三善并西村」と呼ばれた時期があった事。
そして源頼綱・源仲政の末裔である「安富氏」。

「源仲政は保延年間(1135年 - 1142年)に家督を嫡男の頼政に譲って引退したと見られる。」
という記述から見ても、永吉庄が安富領内三善と呼ばれていた時期とは40年弱くらいしか離れていません・・

平河師高および平河一族(良峯氏)が建立した有智山万福寺は1151年に着工、1154年に完成。
平河義高は相良氏が人吉に入る18年前に球磨に下向・・・

と言う事で「安富氏」について調べました・・(__)
では<(_ _)>
[20]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月15日 16時11分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>西光の後裔が良峯姓を称したのか?」
 
西光の家系は「光」が通字だが、西光以降中原閨閥の影響らしく「師」の字が通字。
麻績氏の祖は望高、高光、高元と「高」の字が?
  
球磨平川氏は「高」、「師」の字が多用。
 
良峯姓原氏は「高」が通字。
 
他の家系では「師」の字は高氏(高師直など)一族以外では少ない。
 
中原氏周辺に絞った方が良いが、大江広元辺りも謎多し。
もちろん北条一族も闇で一枚噛んでいるのでは?
家紋的には、折敷に三文字、三鱗、一文字に三星の符合がちらつくのだが?
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
  
 
>安富氏は「源頼光」を祖としていたのですね・・
頼光流と言えば不吉な桔梗紋が、
太田道灌、土岐頼芸、明智光秀などが悲劇の運命を辿っている。
坂本龍馬は頼光流では無いが、組み合わせ角に桔梗紋。
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年11月15日 16時45分53秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

前コメントで「安富氏」について調べていましたが・・
やっぱりぽわ〜〜ん(゜-゜)としていました・・ワタクシでございます(@_@。

源頼綱の父「源頼国」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%9B%BD

系譜を見ると・・・
@妻:藤原師長の娘
※平河師高が所領していた「是永」は領家は「藤原師長」でした。
A女子:藤原師実室
※師実妻は左大臣家忠(花山院家祖)の母。すなわち「尋覚」の祖母ですね・・
尋覚は平河師高の代わり?に宇野御厨小値賀島地頭職に補任。
B女子:藤原為房室
※為房妻は参議為隆(吉田家祖)、権中納言顕隆(葉室家祖)の母。
すなわち藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の曾祖母ですね・・

なるほど・・・どっちを見ても繋がっていると言う事でした・・

さらに先日、コメントした「知久氏」
※知久左衛門入道行性は即ち知久敦幸である(Shimoina shi - 第 5 巻 - 80 ページより)

知久氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E4%B9%85%E6%B0%8F
知久氏(ちくし)とは、信濃国上伊那郡(現・長野県上伊那郡箕輪町)知久沢を発祥とする武家の氏族。
出自[編集]
『寛政重修諸家譜』には清和源氏満快流と記されているが、諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔とする説もある。
知久姓の初見は、諏訪氏系図にある平安末期から鎌倉初期の諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子敦俊が知久沢に住み、「知久十郎左衛門尉」と記載されたことによるが、敦俊の養子となった知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上の初代となる。
清和源氏満快流とする説では、信貞は中津頼継の子で中津氏は満快の曾孫である為公の子の為衡(中津乗太郎)を祖としている事による。一方他田氏の末とする説では、信貞は中津頼継の猶子(被後見人ぐらいの意味)で実父は他田信隆(源義家に属して奥州合戦に参陣した記録が残る他田太郎重常の末裔)としている。

(・_・)清和源氏満快流もしくは諏訪氏(金刺氏)と同祖となる他田氏(金刺舎人直金弓の子他田目古=他田直の系統)の末裔。

源満快は源経基の子息。源経基は源頼光の祖父。(源頼光の父は源満仲)
同族ですね・・

清和源氏・・清和天皇は先日コメントしましたが父方も母方も「百済永継」の系。
と言う事は・・・
私が、今まで調べてきた方々は殆どが「百済永継」の末裔です・・
わ〜お・・すごいですね「百済永継」という女性は\(◎o◎)/!

という事でございました(・_・)
では<(_ _)>
[22]子孫よりさんからのコメント(2014年11月15日 17時50分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「中原氏周辺に絞った方が良いが、大江広元辺りも謎多し。」
「家紋的には、折敷に三文字、三鱗、一文字に三星の符合がちらつくのだが?」

折敷に三文字・・やはり「大山祇神」に繋がっていくのですね。

『日本書紀』では、火神の迦具土神が斬られて生まれた五山祇(大山祇、中山祇、麓山祇、正勝山祇、䨄山祇)の筆頭。

あの実は、この頃の調査で頻繁に目にするのが「中山」という文字や名(姓)なのです・・?

以前、すごく気になる記述があったのですが、その時は「(ー_ー)!!違うだろう・・」と思ってスルーしていたのですが・・

一度調べてみます。

中原氏について、人吉庄の預所であった「中原遠盛」について、ずっと調べているのですが、「遠盛」と言う名でも何故「中原?」という人物ばかりで、行き詰っていました(@_@。

ご教示を頂きたいので、後ほど、コメントさせて頂きます。
よろしくお願い致します。

[23]子孫よりさんからのコメント(2014年11月15日 23時56分56秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

人吉庄預所であった「中原遠盛」についてです。
人吉庄預所職は平頼盛から平光盛(後見人として中原清業)そして中原遠盛へと移り、その後良峯師種(平河師種)へと代わりました。

記述では、中央勢力から在地の良峯師種へと代わったとあります。

ブログにアップした中原遠盛の記述をもとに「中原遠盛」なる人物を探しているのですが、今の所該当する人物へと繋がる情報が見つかっていません。

左衛門尉中原遠盛とは?

現在、「遠盛」という名で時間軸も合っている人物は2名確認出来ています。

まず、こちらをご覧ください。
検非違使補任 2
http://books.google.co.jp/books?id=Gx3j8x_JNW8C&pg=PP90&dq=%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E9%81%A0%E7%9B%9B&hl=ja&sa=X&ei=BGJnVI6gAefAmAXa4IDQCw&ved=0CC8Q6AEwBA#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E9%81%A0%E7%9B%9B&f=false

中原氏の面々の中に「左衛門尉正六位上 源遠盛」という方が見えます。

「源遠盛」とは?
五辻遠盛。五辻氏 宇多源氏。源雅信の子時方を祖とする。
五辻光遠 → 仲兼(宣陽門院。従四位上。皇后宮少進。河内守。加賀守。遠江守。三河守。) → 遠兼(左衛門尉。正五位下。皇后宮大進) → 遠盛

ただ・・左衛門尉正六位上 源(五辻)遠盛と中原氏との関係が未だ見えていません・・

そして続けて
大内遠盛(得地三郎太夫)
大内氏は本姓「多々良氏」です。
大内貞盛(改貞成) → 盛房(始任周防権介) → 弘盛(周防権介。文治元(1185)年卒) → 遠盛(得地三郎太夫)
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/kugebuke.htm

こちらも、中原氏との関係は未だ見えていません・・

他にも複数の「遠盛」という方々がありましたが、時間軸が合いませんでした・・

※中央勢力から在地の良峯師種へ人吉庄預所職が代わった・・・
左衛門尉中原遠盛とは・・?
中原清業が実は「坂上清業」であったという事実がありますので、かなり慎重に調べています。

少し行き詰っていますが・・平河と中原氏との繋がりの一つになるのでは?ととても、期待はしているのです・・

頑張ってみます<(_ _)>
では
[24]子孫よりさんからのコメント(2014年11月16日 07時14分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

ついに見つけました(^・^)

中原遠盛の記述を東京大学古記録フルテキストデータベースより「経光卿記」の中から見つける事が出来ました。

古文書関係(鎌倉遺文など)では相良家文書以外に「中原遠盛」の記述を見つける事が出来なかったのですが、もしや??日記には?(例のごとく(-_-))と思いまして探した所、あったのです(^O^)/(やっぱり・・日記でした(-_-))

経光卿記の寛喜3年正月の記述にありました。
早速、ブログにアップ致しました(__)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11952914924.html

ぜひ、ご覧ください<(_ _)>

所で、記述には
左馬頭 中原遠盛 瀧口 とあります。

これで、かなり、調査の絞り込みが出来ます。
寛喜3年なので、人吉庄の預所職となる以前?なのかな?とは思うのですが・・

ところで・・この経光卿記にはもう一人気になる人物の記述がありました。
左兵衛尉 大江盛通 臨時内給 とあるのですが・・

こちらをご覧ください<(_ _)>
都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 より
入吉荘の場合、・・・預所が中央勢力である中原盛通から在地势力の平河師種に代ったことは、相良氏が在地势力をほぼ完全に・・・

(・_・)
私は、こちらの記述から人吉庄預所は「中原盛通」だと思っていたのですが、相良家文書にて平河師種に代わる前の預所は「中原遠盛」であった事が解ったのです。
しかし、おそらく「中原盛通」の記録が何かしらに残っていたからこそ、上記の書籍には「名」が記述されていたのでは?と・・

再度「経光卿記」より
寛喜3年正月
左馬頭 中原遠盛 瀧口

左兵衛尉 大江盛通 臨時内給

※中原遠盛 と 大江盛通  二人の人物の名を「経光卿記」に見つける事が出来ました。(__)

では<(_ _)>

[25]子孫よりさんからのコメント(2014年11月16日 08時25分28秒 ) パスワード

追記

経光卿記 寛喜3年正月 

左馬頭 源 義氏 
    紀 国忠 大哥所申
    大江 家親 御監請
    中原 遠盛 瀧口

とあります。 ちなみに「源 義氏」とは・・足利義氏・・この方でした。
吾妻鏡より
寛喜三年(1231)二月小十一日戊辰。晴れ。午後六時頃、足利左馬頭義氏の八幡宮西側の馬場本の宿所が失火で燃えてしまいました。放火かも知れないとの疑いもあります。(現代語訳)

※「大江 家親」ですが、大江忠成の娘が「藤原親家」の妻。
そして「藤原親家」を調べた所「親家或家親」とありました・・
「大江家親」は「藤原親家」の可能性もあるかとは?思います・・・

では<(_ _)>

 
[26]子孫よりさんからのコメント(2014年11月16日 09時12分35秒 ) パスワード

追記
すみません(__)
中原遠盛は左馬で「頭」ではなく、左馬○○だと思います。
<(_ _)>
[27]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月16日 11時18分11秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>左馬頭 中原遠盛 瀧口
 
中原氏と言えば大外記の世襲が有名だが、
滝口の流れをくむ検非違使の勢多家がある。

その為に坂上姓に官職就任改姓をしている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213b.htm
 
当時は改姓ラッシュの時代だから、古文書表記の鵜呑みには注意。
[28]子孫よりさんからのコメント(2014年11月16日 16時50分26秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「滝口の流れをくむ検非違使の勢多家がある。」
「当時は改姓ラッシュの時代だから、古文書表記の鵜呑みには注意。」

お言葉をしっかりと頭に入れて調査致します。
勢多家の調査を進めていきます(^・^)

所で・・
私は「瀧口」という言葉の意味さえ知らなかったのですが((__))今日は、勉強致しました(__)

日本の苗字七千傑様のお言葉にあった「滝口の流れをくむ」。
世襲していく職業なのかな?と思いまして、ちょっと調べたのですが・・
何故か「一文字に三星」の紋が見えたのですが・・

大江御厨惣官と滝口武者 渡辺氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B0%8F

大江御厨惣官と滝口武者[編集]
渡辺綱の後裔は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地とする「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨を統轄し、京都では内裏で天皇の警護(近衛部隊の前身のようなもの)に就く滝口武者を世襲し、他にも衛門府、兵衛府など中央の官職を有していた。

(・_・)画面に突然「一文字に三星」紋が登場したのでビックリ致しました。
※昨日の御教示で「一文字に三星の符合がちらつくのだが?」というお言葉を頂いたばかりでしたので、「日本の苗字七千傑様は何かの能力者か?と思いました(__)

渡辺綱の後裔は滝口武者を世襲していたのですね・・・・

こちらと「中原氏」との繋がりも調べていきます(^・^)

では<(_ _)>(^・^)
[29]白石さんからのコメント(2014年11月17日 07時24分43秒 ) パスワード

おはようございます。
娘が今朝帰っていきました。

巻頭には てっちりの店がない ようで、あちらで 食べたことがないなあといっておりました。
おでんの種も 少し ちがうようで うん うん といいながら 食べていました
あちらにないなら ねうちあるなあ と 言いながら 皆で食べました。昨日のマラソンの時、階段を忙しく降りてきて 今 あちらのマンションの近くがうつっている というので、いそいで チャンネルをかえました。

ちょうど 折り返し地点のところで その近くに住んでいるそうです。
けっこう 賑やかなところなので 少し 安心しました。
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おととい 先日話した 白菊大神(菊理姫)の社の前を通ったので もう一度 あの 変な模様といったのを 見てみました。そしたら!!

白い布がかかっていたのが 蒼い布に染め抜かれたものに変わっていて
この間は 模様の下の方がみえなく 覗き込んだのでしたが

今度は 左に 稲紋(これははっきりわかります)
右は 宝珠の輪郭をなぞって 五つくらいに 先がわれて 炎のように 先がとがっていました。

前は
こんぶ みたいだったのです。先はつぶれて たぶん根っこのあたりから切り込みがあるのだろうと 覗き込んでも みえなかったのです。
宝珠の輪郭でなく 下から たちあがっていました。下はわからないのですが 模様が 上にたちあがっていました。
???につつまれて 帰りました。
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キツネ
キツネは もともと 人間に幸をもたらす 瑞獣 霊獣でした。
相良藩でも 球磨川の大石を取り除く方法を 相良氏のおじの 林正盛の夢枕に立って 教えたのもキツネです。

私のキツネはまだ 子供で コントロールがきかないのか
過去に 
夢で 何か どさり と 荷をおろしたと 思ったら
それから しばらくして
地続きの土地 家が 大変な格安で 売りに出されました。
土地神話の頃は 地続きの土地は 三倍の金を出しても 買え と言われていたので
舅姑に 相談しましたが
この人たちは 家土地を買うにも 現金買い の 主義なので 猛反対で やめました。

まだ 前の家の借金がじゃっかん 残っていた時だし、
親は 墓が 墓が と 言っていたので。それなら 家の宗派位しっかり田舎に問い合わせて しらべておかなければ と いっても 
それは しませんでしたね。
ははに言わせたら 足の悪い おばあさんがいて 使われるのは 目に見えているから とか 言っていましたがj・・・
父のありようを見ていると それも 納得の 状態でしたけど・・・

女の気持ちもわかってね という 部分です。
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それは ともかく 
2〜3回 その後 子ぎつねは 出てきて
本当に しっぽの やわらかさ おしりの ころんとした重さも 手ごたえにかんじるのですが
家の後ろの 狭い ところで 遊んでいました。
いつか 大きな土地を 買って 十分あそばせてやるね と 想いながら
今日に 至っています。
がんばろっと!!^^




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[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月17日 20時33分31秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>画面に突然「一文字に三星」紋が登場したのでビックリ致しました。
 
一文字に三星は、一般的には大江広元が考案されたものと伝えられています。
三ツ星は将軍星とも言われ、オリオン座の三ツ星と一般的には理解。
冬の夜空を見れば確かに見えますが、横一線の星並びは変ですね。
 

バビロニアの三ツ星は、オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンが冬の大三角を形成しており、正に三ツ星でしょう。
 
やはり、折敷に三文字、三鱗、一文字に三星の符合は否定出来ないのです。
越智姓河野氏、伊予・伊豆北条氏、大江氏(中原氏)はバビロニア以来の同族なのでしょう。
鎌倉時代の政治体制は、この三氏族の統合で成立したのですから。
表面上の日本家紋史だけでは、理解不可なのです。
[31]子孫よりさんからのコメント(2014年11月18日 00時32分57秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、娘さんとの楽しい時間をお過ごしになったのですね(^・^)

宝珠紋は稲荷神社で使われている事が多いとの記述を目にしました。

ただ、私は「宝珠」という言葉にとても不思議なパワーを感じます。

私の夢にはお出になりません。
以前、お話しましたが、子供の頃、占いのような遊びが流行って、面白半分でやった所、今思えば、トランス状態のような感じになってしまい、どちらかというと、避けるというか触れないようにしてきました。

祖母からは、大人になっても絶対に面白半分で、占いのようなたぐいの事はしてはいけない!ときつく叱られましたので・・(修行?鍛練だったかな?何も解っていないのにそういう事をしてはいけないと・・)
きっと、私は、そうですね・・催眠術にかかりやすいタイプなのだと思います(^・^)
それと・・同じことなのかな?トランス状態のようになりやすい体質?なのかな??

でも、そういう事は置いておいて(ー_ー)!!、今後は、ちゃんとお参りさせて頂きます<(_ _)>

日本の苗字七千傑様、
「越智姓河野氏、伊予・伊豆北条氏、大江氏(中原氏)はバビロニア以来の同族なのでしょう。」

三角形や数字の「3」が意味をもっているのですね。

「鎌倉時代の政治体制は、この三氏族の統合で成立した」・・・「3」つの氏族

あの・・・マタマタと言われるのは十分承知した上で・・
上記の事とは全く関係ないのですが・・

私の右肩には実は三角形のホクロがあります。
子供の頃からです。3つのホクロが綺麗に正三角形を作っています。
ちょっと赤みがかったホクロなのですが、タンクトップとか着ていると、結構気がつく人がいて「三角形のホクロ?!珍しい!」と言われていました。
何度か「星みたい!」と言われた事があったので、すごい偶然だと思います。

子供にもあるので(薄く)これは遺伝?とこの頃思っていました?

どうやら、三角形とは御縁があるような気が十分してきました・・(ホクロとは関係ないのですが・・)(ー_ー)!!

でも、本当に不思議なのですよね・・??
何の知識もなく、本を読んだ訳でもなく・・なのに子供の頃から「バビロニア」にはものすごく興味があった事が・・

もしかしたら、幼い頃に「何かを聞いた?のかな?」と・・?
もしくは「本能」かもしれません。

伝書鳩が、かならず飼い家に帰るのと同じ、なんらかの本能が働いているのかもしれません。(の割には方向音痴ですが)
バビロニアのお話が出ると、なんでしょうか?身体の血が騒ぐ?というか、何かがザワザワしはじめて、本当にワクワクいたします。(^・^)

宮原(伊予橘氏)の血?が騒いでいるのかな?

この血?は同族をカギワケル能力があるのかもしれません(ー_ー)!!
だって、娘の曾祖母(前嫁ぎ先の母方)は大三島の「越智家」から来られた方でしたので・・(この縁は・・本当に不思議です)

さっ!!しっかりと「中原氏」との繋がりを調査致します(^O^)/
では<(_ _)>

[32]子孫よりさんからのコメント(2014年11月18日 07時06分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は・・・
この頃の調査とは全く関係ないのですが、不思議な?記述を偶然見つけてしまいました(?_?)

では<(_ _)>
中世日本の国際関係: 東アジア通交圏と偽使問題
十五~十六世紀、朝鮮や明に現れた数多の偽使たち。彼らを派遣した“地域”勢力を突き止め、室町幕府外交体制が崩壊していく過程を解明。中世日本の“国家”と“地域”の関係を軸に、新たな東アジア国際関係像を構築する。

こちらに記述されていたのですが・・
まさに服部英雄氏〔一九八〇年〕が開明したような、当時の相良氏の巧妙かつ
老練なケ対外策,にこそあったと見なされ ... ただ諱授受と時期を同じ^して、石見銀山の大工銅雲が球磨宮原に下向して銀山開発に成功したことも、大内氏がいかに相良氏を ..

(?_?)(・_・)
石見銀山の大工銅雲が球磨宮原に下向して銀山開発に成功した・・・

何でしょうか??これは??

私の故郷に銀山?? 石見銀山の大工銅雲?? 開発に成功??

(?_?)・・・?? 銀山って何処に銀山があったのでしょうか??
全く、聞いた事はありません??

・・・?( 一一) あっ!????( 一一)
そういえば・・

あの・・気のせいかもしれませんが・・宮原城の跡ですけれど・・
以前、私、何か気になる?と書いた事があったような・・

宮原城復元図をブログに以前アップしていました・・

あれを見た時にイメージしたのが・・
「ものの〜け〜たち〜だね〜〜♪」のスタジオジブリの「もののけ姫」に登場した、山の中の「たたらば」だったのですよね・・??

(ー_ー)!!関係ないとは思いますが・・
もしかしたら・・秘密の銀山を「相良藩」は開発していたのかな??まさか・・(ー_ー)!!・・でも気になります

だって祖母が
「城山には入ってはいけませぬ〜(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と言っていたからですね・・
でも、「マムシ」さんに噛まれるからとも言っていました(@_@)
祖母は、よく山の麓には行っていたのにです・・
祖母に「私はマムシさんに噛まれて、ばあちゃんは噛まれんの?」と聞いた所、
祖母は「ばあちゃんは、絶対に噛まれない(ー_ー)!!」と言っていました。

「平川家」の人だからかな・・?? いや違うと思います(ー_ー)!!

マムシと言えば・・
平河義高の伝説の中に「領内のマムシを家臣に命じてすべて退治?した」というお話がありますが・・

あれは、おそらく後世に造られた逸話だと思います。
だって、祖母は
「蛇さんは神様の化身?(だったかな?)だから、絶対に殺生したらダメ!!」と言っていましたから。

平河義高を祀る「荒田大王神社」にお参りするとマムシに咬まれないという御利益はきっと鹿児島の荒田八幡宮と同じいわれだと思うのです。
荒田八幡宮 ウィキより (以前、コメント致しました(__))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE_ (%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)

荒田八幡宮(あらたはちまんぐう)は鹿児島県鹿児島市下荒田二丁目にある神社。かつての鹿児島総廟とされる。

由緒[編集]
社伝によれば和銅元年(708年)の創祀というが、建久8年(1197年)の『建久図田帳』に「大隅正八幡宮御領鹿児島郡荒田荘」とある事から、平安時代末期に「大隅正八幡宮」(現鹿児島神宮)の荘園である荒田荘が立荘され、その守護神として同宮を勧請、同宮の分宮(わけみや)として創祀されたと見る説もある。

祭神[編集]
応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀る。
従前よりマムシ除けに利益があるとされ、社殿下の砂をお守りにする。その他、文教や海運、安産の面で篤い信仰がある。

所で・・いまさらですが・・ふと?思いました?
何で、平河氏が祀られている神社は全て「大王神社」と「大王」が付くのでしょうか??(いまさらカイ!!!との叫び声が聞こえたような・・(-.-))

っと・・言う事で
「石見銀山の大工銅雲が球磨宮原に下向して銀山開発に成功した」という記述を見つけました・・というお話でした。
では<(_ _)>
[33]子孫よりさんからのコメント(2014年11月18日 14時49分05秒 ) パスワード

皆様、今日は。

まず・・先祖の調査内容ではないのですが・・
今日、午前11時50分程のテレビのニュース速報で俳優の高倉健さんがお亡くなりになったという情報が流れました。

私は、信じられないと、すぐにネットの速報を見たのですが、やはり事実でした。
子供の頃から大ファンで・・涙があふれ出て止まらなくなりました。

ブログを開設する時に「好きな男性タレント」の欄には一番に「高倉健」とお名前を書きました・・本当に大好きな方だったのです。
私の年齢にしては、少し渋いとお感じかと思いますが、子供の頃から大ファンであり、高校生の時、周囲は「マッチ・トシちゃん」とか「渋ガキ隊」とか言っている横で私は「高倉健」さんとデザイナーの三宅一生氏が大好きと言っておりました・・
高倉健と言う方の人としてのお姿を、尊敬していました。
周囲の方々に大変気を使う方と伺っていました。謙虚で、心の本当に清らかな優しい方だったと・・
大人になってからは、出演される映画は殆ど見ています。
数年前に「あなたへ」という映画で北九州ロケをされた時には、後で、健さんが座られた岸壁の石に私も座ってきました・・

子供たちにも私の理想の男性は「高倉健」さん!だっ!と言ってきまして・・

娘が中学生の時の事です。
ある日、娘が物凄く興奮した状態で、仕事から帰って来た私にむかい
「お母さん!!たいへんたいへん!!小田先生は、高倉健さんの甥なんだって!!」と言いまして・・
なんと娘の中学の先生は高倉健さんの甥ごさんでいらっしゃいました。
先生と娘が話をしている時に偶然、私の話が出て何故か?娘は私が「理想の男性は高倉健さん」と言っている事を先生に話したようで(全く(ー_ー)!!)その時にこっそり伺ったようです。

しかし、ここ、北九州の女性の中には高倉健さんを理想の男性と言っている方はとても多いです。
私の周囲の人も「わっ!偶然!私もよ!」と言う人が何人もいました。

みんな、高倉さんの「心」が大好きと言っていました。

ちなみに高倉健さんは、
「祖先は鎌倉時代の執権北条家の一門である名越氏の一族・刈田式部大夫と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった[3]。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった[3]。江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。」 ウィキより

北条篤時の末裔だったのですね。
「名越氏の一族」・・平河の調査で繋がりが見えます。とても偶然です。

実は、私、勝手な想像をしていました。(__)
尼妙阿の書状にあった
「あまたに男子がいらっしゃっても、亡くなった夫以上の男性はいない」との愛情の溢れたあの文書。
尼妙阿の夫である「良峯氏」はきっと「高倉健」さんのような方だったのだな〜と、心の中で想像していたのです・・

心から高倉健様のご冥福をお祈り申し上げます。

<(_ _)>



[34]子孫よりさんからのコメント(2014年11月19日 13時11分03秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

あの・・・もしかしたら、謎が・・少しは解けたかもしれません・・

ポイントは
「道盛」「通盛」・・みちもり
「道泰」「通泰」・・みちやす
「沙弥道盛」
「妙阿」
「阿夜」・・法名「光妙」
「今鬼御前」
「藤原明衡」子息「明暹」
「竹野新庄西郷内明暹地頭屋敷内松崎西薗北依壱所」

コメントを整理していますので、もうしばらくお待ちください
<(_ _)>
[35]子孫よりさんからのコメント(2014年11月19日 16時51分35秒 ) パスワード

皆様、先ほど「少しは謎が解けたかも?」とコメント致しましたが・・・

まず、
以前、平川家について11コメント59にて沙弥道盛と比企尼妙阿について調べていたのですが、あの時、私は最大のミスを犯していたのです。
古文書の年代が変?である事に気がついていなかったという大ミスです。

そこで、今日は、古文書と人物を整理してご説明を致します。

蓮佛女子尼妙阿代道観謹言上    嘉暦元年十月 (1326年)
副進
 一通 亡父蓮佛譲状案  建長四年三月 (1252年)
 一通 関東安堵御下文案 正嘉元年九月 (1257年)
 一通 息女阿夜譲与状案 文保二年四月 (1318年)

上記の蓮佛女子尼妙阿代道観謹言上の中に
平河三郎長貞死去女子号万歳字牛女名妙阿>五郎安義死去六郎家貞阿夜女子法名光妙訴人
と言った内容があったわけですが

まず、女性の登場人物を整理すると 
※妙阿(相良長頼の娘)良峯氏に嫁ぐ
※阿夜・・妙阿の娘
※法名「光妙」・・阿夜。もしくは阿夜の娘

となります。

さらに以前、妙阿と沙弥道盛についての情報を見つけていました。
久留米市史 - 第 7 巻 - 170 ページ より
170 ページ
&領の支配権の^ 5 土地売却は他人へは絶対不可為連券、所副渡惣領盛资方也、但田地事、為諸所之時者、可出段別百文宛 ... 如件徳治三年||正月十六日沙弥道盛(花押)沙弥道盛、故比丘尼妙阿先祖相伝所領を今鬼御前に譲る七沙弥道盛譲状(『筑後 31 ...
★★沙弥道盛、故比丘尼妙阿先祖相伝所領を今鬼御前に譲る

別の書籍では比企尼妙阿と沙弥道盛は夫婦であったとの内容があったのですが、そこに拘って、先に進む事ができませんでした。
そこで、今回は比企尼妙阿と沙弥道盛は夫婦であった?という先入観を抜きにして、情報を探してみたのです・・

すると、こちらの情報を見つける事が出来ました。
Shoshigaku: Bibliography. v.1, no.1-v.17,no.6. 1933-1941 より
27 ページ... 刊之」(七)小山助沙弥道盛(八)小山道盛為父了祖母妙阿「ェ師朝尊刊之」(九)長井女妙忍(十)宅部住比丘尼理生「ェ師朝尊刊之」( ... 建長寄住比丘従義(九)女妙智并為父母妙連官熊明免比丘禅訥「ェ師初官刊之」寺十一人(八)比丘道虽興宣男光妙道泰女光 ...

※小山助沙弥道盛
※小山道盛為父了祖母妙阿(ェ師朝尊刊之)
※長井女妙忍
※光妙道泰女

(・_・)小山助沙弥道盛の祖母が「妙阿」となるのでしょうか?

そこで、「道盛」そして「道泰」なる人物をかなり探したのですが「小山」姓には見つける事が出来なくて、行き詰っていたのです・・

でも・・ふと?考えたのです「漢字」の罠?を・・
「みちもり」と「みちやす」
「みちもり」と「みちやす」という人物はおそらく親子もしくは兄弟など何れかの近親者には間違いない・・と。

「妙阿」と呼ばれる女性を祖母とした「みちもり」と
「光妙」と呼ばれる女性を娘とした「みちやす」とは
なお且つ「みちもり」と呼ばれた人物と「小山氏」との関係は?

そう考えて情報を探した所、思わぬ所に「偶然」にも
「小山氏」に繋がる「みちもり」と「みちやす」という人物を見つけました。

かなり、長くなりましたので、続きは後ほど<(_ _)>
ちょっと外出して参ります<(_ _)>


[36]子孫よりさんからのコメント(2014年11月19日 23時26分40秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

では、コメント35の続きを<(_ _)>

「小山氏」に繋がる「みちもり」と「みちやす」という人物について
まずは、こちらをご覧ください<(_ _)>

河野通有 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E6%9C%89

河野 通有(こうの みちあり)は鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。鎌倉幕府御家人。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。
出自[編集]
承久の乱で一族が壊滅した河野氏であったが、鎌倉幕府の重鎮・北条時政の娘を母とした通久の一族だけが生き延び、河野氏の勢力は衰え、その家名を細々と伝えていた。その通久の孫として建長2年(1250年)に生まれた。
伊予国風早郡善応寺(現在の松山市)の双子山城に勢力を置き、また六波羅探題の命を受け、国内の水軍を束ねて伊予国の海上警備の任に当たっていた。
元寇での活躍[編集]
元寇に際し、文永の役の後に再度の襲来に備えて北九州に出陣した。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、通有率いる伊予の水軍衆は、博多の海岸に陣を敷く。博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後とした。
この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、島津氏をはじめとする九州諸将も通有に一目置いた。博多湾に現れた元軍は石築地を回避して志賀島を占領し、この周囲を軍船の停泊地とした。これに対して、日本軍は元軍を攻撃する。
通有は志賀島の戦いにおいて叔父の河野通時とともに元軍船を攻撃したが通時は戦死し、通有本人も石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る武勲を挙げた。
恩賞として肥前国神崎荘小崎郷(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得て、失われていた河野氏の旧領を回復し、河野氏中興の祖とも呼ばれる。『予章記』によれば肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったという。

(・_・)
河野通有の系譜 をご覧ください。
氏族 河野氏
父母 父:河野通継
兄弟 河野通氏、河野通泰、土居通成
妻 江戸重長娘
子 河野八郎(嫡子、早世?)、河野九郎通盛、他多数

※@兄弟に 河野通泰(みちやす)
※A子息に 河野九郎通盛(みちもり)
※B妻は  江戸重長の娘

(・_・)江戸重長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%87%8D%E9%95%B7
江戸 重長(えど しげなが、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。武蔵江戸氏二代当主で、江戸重継の子。通称は太郎。子は忠重、朝重、娘(河野通有室)。
生涯[編集]
治承4年(1180年)8月17日の源頼朝の挙兵に対し、平家方で同族である畠山重忠が、源氏方の三浦氏と合戦となると、重忠の要請に応じて一族の総領家である河越重頼と共に武蔵国の武士団数千騎を率いて出陣する。三浦氏の本拠である衣笠城を攻め、8月26日、当主の三浦義明を討って落城させた(衣笠城合戦)。
『吾妻鏡』9月28日条によると、頼朝は秩父一族の切り崩しを図って重長に使いを送り、「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦に及んだのはやむを得ない事だが、以仁王の令旨の通り(頼朝に)従うべきである。畠山重能(重忠の父)・小山田有重が在京している今、武蔵国は汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝える。一方で翌29日条には重長が景親に味方して今になっても来ないので、やはり追討すべきとして同じ秩父氏で頼朝方に付いていた葛西清重に、大井の要害に重長を誘い出し、討ち取るように命じている。
10月2日、勢力を回復した頼朝軍が武蔵国に入ると、4日、重長は畠山重忠、河越重頼と共に頼朝に帰伏する。翌日、重長は頼朝から武蔵国の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられた。
文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍、建久6年(1195年)3月の東大寺落慶供養の頼朝上洛に供奉。
同族の河越重頼、畠山重忠は鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、重長は一族の重鎮として幕府に仕え、子孫も長く繁栄した。
江戸氏の菩提寺である東京都世田谷区の慶元寺に、重長の供養塔である五輪塔と銅像がある。

(・_・)系譜をご覧ください
父母 父:江戸重継、母:小山経隆娘(横山党)
兄弟 重長、親重、重通、重宗、娘(畠山重能室)
妻 不詳
子 忠重、朝重、娘(河野通有室)

(・_・)江戸重長の母は小山経隆の娘(横山党)です。

河野通有の妻は江戸重長の娘であり、江戸重長の母は小山経隆の娘(横山党)。
河野通有の曾祖母は北条時政の娘。

※「河野九郎通盛」こと河野通盛の曾祖母は「小山経隆の娘」
偶然なのかもしれませんが・・
「小山助沙弥道盛」

「通盛」と「道盛」・・・

そこで、こちらの記述もご覧ください<(_ _)>
http://roadsite.road.jp/history/muromachibuke/kono/kono-tousyu.html

河野通盛 こうのみちもり
?〜1364(?〜貞治3)
通有の子で最初道治と名乗った。王政復古を目指す後醍醐天皇の起こした元弘の変の際には幕府方について六波羅探題救援に向かう。
しかし足利尊氏の裏切りで敗北し、鎌倉に逃げるが、新田義貞らに攻められて出家した。
その後足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと尊氏のもとに参じて、尊氏挙兵後は伊予に帰国して反尊氏勢力を掃討する。その後は尊氏に従って各地を転戦したあと伊予に戻り、建武年間に温泉郡道後に湯築城を築いて、本拠を風早郡高縄山から移した。
貞和6年(1350年)2月には伊予国守護職に補せられ、貞治2年(1363年)家督を子の通朝に譲って隠退翌貞治3年11月に死去した。

(・_・)河野通盛は最初道治と名乗った・・・とあります。「道治」です。

コメント35の記述に戻ります(__)
平河に関係した女性
※妙阿(相良長頼の娘)良峯氏に嫁ぐ
※阿夜・・妙阿の娘
※法名「光妙」・・阿夜。もしくは阿夜の娘

続けて、本日ご紹介した情報
※小山助沙弥道盛
※小山道盛為父了祖母妙阿(ェ師朝尊刊之)
※長井女妙忍
※光妙道泰女

そして最後に河野通有の系
※@兄弟に 河野通泰(みちやす)
※A子息に 河野九郎通盛(みちもり)
※B妻は  江戸重長の娘(江戸重長の母は小山経隆の娘)
※C曾祖母 北条時政の娘

やはり偶然なのでしょうか・・・

所でコメント35でご紹介した
★★沙弥道盛、故比丘尼妙阿先祖相伝所領を今鬼御前に譲る・・こちらの内容に関した情報を見つけました。

http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7443649&word=%25E6%2598%258E%25E6%259A%25B9%2528%25E4%25B8%25AD%25E4%25B8%2596%2529

鎌倉期〜室町期に見える地名筑後国竹野郡のうち徳治3年正月16日沙弥道盛が女子今鬼御前に屋敷分として,「竹野新庄西郷内明暹地頭屋敷内松崎西薗北依壱所」などを分与した(近藤文書/県史1‐下)だが年月日未詳の「生桑寺文書」には,「本庄藤太兼俊明還(暹)」6町6反余が見えているので(大分県史料25),竹野本荘と竹野新荘の帰属をめぐる対立があったのかもしれない応永2年閏7月25日の天満宮領筑後国所領注進状(断簡)によると,明暹名は天満宮領綾野荘内にあり(西高辻文書/大日料7‐2),明らかに竹野新荘から脱落している竹野本荘・竹野新荘・綾野荘いずれにも名をとどめる明暹は,3荘の隣接するあたりに所在したとも考えられるが,詳細は不明...

(・_・) 竹野本荘・竹野新荘・綾野荘いずれにも名をとどめる明暹
明暹とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%B9
※父は儒学者で大学頭藤原明衡。
※大神家(おおがけ)の笛の系譜である「大家笛血脈」のその名を連ね、尾張国得業円憲から相承された。

明暹の父藤原明衡。 ウィキより 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%98%8E%E8%A1%A1

藤原明衡の母は・・・良峯氏でした

(・_・)すごく長くなりましたが・・偶然かもしれないけれど・・・
というお話でした(__)
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年11月20日 00時51分25秒 ) パスワード

追記

沙弥道盛は「守部道盛」でした・・<(_ _)>
良峯妙阿とは関係がないようです・・・

と言う事は・・・

小山助沙弥道盛と「守部道盛」も別人と言う事になります・・

ただ・・
小山助沙弥道盛の記述には「妙阿」「光妙」の名がありますので・・・??
でも、こちらも偶然の可能性が高いと言う事でしょうね・・(@_@)

お騒がせ致しました(__)
[38]子孫よりさんからのコメント(2014年11月20日 08時39分26秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

本日は、娘と大分県の国東半島に行って参ります(^・^)

両子寺や富貴寺を巡って紅葉を見てきます。
六郷満山文化を訪ねて参ります(^・^)

では行ってきま〜す(^O^)/
[39]白石さんからのコメント(2014年11月20日 19時17分50秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様いいですね。娘さんと楽しい旅行で。やはり 夫がいないと 羽ばたけますかね。前のおうちの奥さんも ご主人が単身赴任なので 今日も 夕方4時ころ 帰ってきていました。

ところで
前に 母の実父のまわりの人の名を 役場の人が書きつけてくれていた という話をしたと思います。佐田のことなので こちらに書くのはどうか?と思って メールをしようと思いましたが、

保護モード外で プログラムを開こうとしています のメッセージがでます。
大丈夫でしょうかしらね。
パソコンが変わったので、過去にメールした送信履歴も残っていません。
[40]子孫よりさんからのコメント(2014年11月20日 20時54分31秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^・^)

メールの件ありがとうございます。

おそらく、セキュリティーに係わる事だと思うのですが・・

メッセージを無視して送信する事も出来ますが、私から白石様へメールを送りますので、返信を利用して下さい(^・^)

(^・^)
[41]子孫よりさんからのコメント(2014年11月22日 16時51分56秒 ) パスワード

皆様、今日は。

まず・・・
昨日、見つけた情報で、ずっと頭が憂鬱な気分になっていました。

おそらく、先祖「平河」も関係したであろう暗殺事件についてです。
これで、何度目かな?と・・
「尋覚」の周囲でも何人かの方がおそらく暗殺されたであろうと思われる情報を目にしていましたが・・心が逃げていました。
どうしてもコメントする事を躊躇してしまう・・

実際に宮原の先祖に関して、ご存知の通り、源平合戦の集結の場面に名があります。
でも、その事は歴史上だれかの役割として、存在した事だったと思うのです。
何かの隠ぺいの為に、他の人を・・という事ではなかった。
しかし今回の情報は・・・

でも、以前「公忠公の末裔」様から
「見たくない情報から、自分が逃げてしまうと真実には近づけない」という内容のお言葉を頂きました。
その事を思い出していました。

きっと今からコメントする内容は、先祖の調査でとても重要な事となると思いました。

ですから、逃げずにしっかりと調査内容を皆様に見て頂こうと思います。

全て、後世に「系」を残す為であった・・そういう時代を先祖が生きて、今の自分があるわけですから・・

では次のコメントで(__)

[42]子孫よりさんからのコメント(2014年11月22日 18時41分52秒 ) パスワード

では<(_ _)>

安楽寺領日向国馬関田の預所職「平河師里」の記述について

東アジアと日本 - 第 2 巻 - 110 ページ より
嫌倉末期には良峯師種が人吉荘の預所、南北朝期には平河師里が日向国馬関田
荘の預所職として見えている。

上記の日向国馬関田荘の預所職「平河師里」の様々な記述を昨日、目にしました。

まず、安楽寺領について・・
※菅原道真と太宰府天満宮 より
預所得分としては「大鳥居法印知行玉名石動庄以下供米」と見え(正平十一丄ハ.十九、 ... 大鳥居氏は一人で数力庄の預所職を隔地は早くから請所化しているに平河宮内左衛門入道観覚(康永二-十一,二、相良家文害)、国分寺領預所国分友貞(かって沙汰人と ...

※大鳥居氏は一人で数力庄の預所職を隔地は早くから請所化
※平河宮内左衛門入道観覚
※国分寺領預所国分友貞

以下、上記「平河観覚」「国分友貞」の名が記載された情報です。

大宰府領の研究 - 291 ページより
@
頼顕(嘉暦一丁十一二一十五、嫌遗三〇〇八一号)、日向国馬関田庄預所平河宮内
左衛門入道観覚(康永一一.十一ニー、(さ相良家文害)、国分寺領預所国分友貞(かつて沙汰人と呼ばれた)がそれである。遠隔地は早くから,化している。寺官による預所職は史料 ...
A
しかも名主層は預所より土地を買得しうる程の経済力をもち、その上、荘園制の枠を越えた地域的連帯をとっていた。 ... 五七六 0 号)、遠隔地の所領の殆どは不知行の状態で退転し(日向国馬関田庄、康永二,十一,二十二、相良文害)、膝下所領でも筑前をのぞき ...
B
預の名称は康治 I 一年七月の少別当在舜(康治 I 丁七.十二、台記)を初見とするが、預所は薩摩国分寺領先預所国分友貞(蓮薄旧記前 8 国分寺文書)が初見である。(元享三 ... ただ遠隔地荘園の場合一庄単位(例えば日向国馬関田庄)であったようである

※少別当在舜・・所見

(・_・)上記の内容により「日向国馬関田庄」は安楽寺領であり「平河観覚」は大鳥居氏から預所職を請け負っていたと考えられるかと推測します。

続けます(__)
史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号 - vii ページ
人吉庄一分地頭であった平河師頼、あるいは平河師相五 0 、また日向国吉田庄、馬関田庄(ともに球磨郡に南接する加久藤盆地〈中世真幸院〉にある)を請所としていた。阿夜に文にみえる平河又三郎師里は平河宮内左衛門入道観覚の甥にあたる

(・_・)入道観覚(平河)は日向国吉田庄、馬関田庄(ともに球磨郡に南接する加久藤盆地〈中世真幸院〉にある)を請所(大鳥居氏より)としていた。
入道観覚(平河)より平河師里はその職を引き継いだとの記述がありました。

続けます(__)
宮崎県の地名: - 581 ページ より
平河師里と野口重義は前掲年貢濫妨事害では畠山直顕の下で上口田村での刈田狼藉を行った人々であった。
※平河師里
※野口重義
※畠山直顕の下で刈田狼藉を行った・・

中世九州の政治社会構造 - 56 ページ より
鎮西管領一色直氏に替え(『旧記』前一七—一八一一四号、丹波安国寺文書乾)、
文和一一軍家御台所御領日向国穆佐院. ... このように直顕が、入国当初の段階で、島津荘の地域に対してはもちろんのこと、兼命(真幸院収納使)に、吉田村の方は平河師里(隣接の馬関田荘預所) ,野口重義(真幸院西鄉 ... 氏領は北原や吉田村(真幸院の西隣島津荘一円荘)を「押領」し、土持宣栄(直顕の「御内祗候人」)を「大将」として入部させた。
※兼命(真幸院収納使)とは北原兼命

莊園志料 - 第 2 巻 - 20 ページおよび大日本史料 - 第 6 部、第 9 巻 - 367 ページに上記の件に関係した人物が記述されていました。

是日、直顯、其部將土 ... 申候之間、兵部房覺夹一族坂大進一房、別府兵衞三・、曾木叉四・、小山田六・、若黨加藤三・、河野二・四・、中間五・二・、彌七以下數十人、差遣吉田候之處、禺關田庄預所平河叉三・師里、具幸院收鈉使北原助六兼命、同西・公文野口平次・重義、吉田飯野名々主花北左衞門太・入道 ...
※坂大進一房
※別府兵衞三・
※曾木叉四・
※小山田六・
※若黨加藤三・
※河野二・四・
※中間五・二・
※平河叉三・師里
※北原助六兼命
※西・公文野口平次・重
※花北左衞門太・入道

(・_・)
吉田村に対して平河師里(隣接の馬関田荘預所)と野口重義そして北原兼命は、畠山直顕のもと、圧力を加えていた・・
そして・・
宮崎県の地名 より
永仁五年七月の某下文(旧記 335 では、安楽寺領日向国馬関田の預所職に惟 61 時が補任されている。
平河観覚が請所として知行し、その死後は甥の又三郎師里が相続したが、動乱以後一〇余年も年貢を納めず現地に派遣された領家 ... この件を訴えようとした真幸院六分一地頭代の坂兵部房覚英は上洛の途次備後国で殺害され、その後吉田村の半分は平河又三郎に与えられ ...

※刈田狼藉を上洛して訴えようとした坂兵部房覚英は上洛の途次備後国で殺害された・・・

そして・・
北原氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hyu_kita.html
戦国時代、日向国真幸院を中心に一大勢力を築いた北原氏は肝付氏の庶流である。肝付氏は冷泉天皇の代の安和元年(968)に河内守伴兼行が薩摩掾に任じられ、翌二年薩摩国に下向し、鹿児島郡神食村に居住したことに始まるという。
 北原氏が拠った日向真幸院は、平安時代より鎌倉時代末期まで日下部氏が統治していた。日下部氏は日向国一宮都満神社の宮司を兼任し、郡司などの要職をつとめて日向国の豪族に成長し勢力を誇った。そして、永暦元年(1160)に日下部氏の一族重貞が真幸院司に就任したのだという。日下部氏は鎌倉時代を通じて、北条氏と深い関係を持ったことから、元弘三年(1331)の鎌倉幕府の滅亡とともに没落の運命となった。
 日下部氏が没落したあとの真幸院には、肝付氏の一族で三俣院高城に拠る肝付兼重の勢力が伸張し、真幸院は肝付氏が支配するところとなった。肝付兼重は伊東祐広とともに南朝方の中心人物であったため、北朝方勢力との抗争が続いた。建武三年(1336)、真幸院には武家方の相良氏が攻め入り、肝付方の諸城が後略された。さらに、暦応二年(1339)になると、武家方の大将畠山直顕の軍が兼重の拠る高城を総攻撃し、ついに高城は陥落して兼重は肝付氏の本城である大隅肝属郡高山城に敗退した。
 肝属兼重が敗走したあとの真幸院、三俣院は畠山直顕の支配下に置かれ、日向の諸将士は畠山氏に帰順した。康永二年(1343)日向守護に補任された畠山直顕は、真幸院にある細川氏領百町を守護領として押領した。これに対して、細川氏領を管理している吉田郷の坂周覚が抵抗を示したため、直顕は土持宣栄を大将に坂一族を攻撃した。これが吉田合戦と呼ばれる戦いで、坂一族は没落し、坂周覚が地頭代として管理していた真幸院のうち六分の一は直顕に従った北原兼命に与えられた。これがきっかけとなって、北原氏の勢力が真幸院に入部することになるのである。

(・_・)時代は南北朝の動乱期です。南朝方・北朝方其々が、相手を悪党と読んでいた事は知っています。
大きな思惑の中に「平河師里」もいて、結果がこのような歴史の記録となったのでしょう。

でも、「事件がありました」だけでは、意味がありません。
この情報の中、又はそれに付随する記述に色々な事が隠されていました。

鎮西御家人の研究 - 110 ページ
・・の中百五十丁、公田九百丁の中豊永四百丁の中三百丁の地頭であった「藤原高家宇須恵小太良」と同一人物であろうと推定し ...
なお五味氏は「建久八年日向国図田帳」に日向国諸県郡安楽寺領馬関田庄地頭須江太郎不知実名・・
※馬関田庄地頭須江太郎不知実名・・・球磨の須恵氏が馬関田庄地頭。

その後・・
須江〈表 161 相平河又三郎平河(太郎(不知実名) (馬関田庄地頭)馬関田庄預所、真幸院引田 20 町)又三郎師里〕

日本宗教文化史研究 - 第 1〜2 巻 - 92 ページ
球磨郡全域に亙って、須恵氏は大きな勢力を保持していたことになる。また、日向国の図田帳にも、馬関田庄五十町の地頭として須江太郎の名が検出され、須恵氏の勢力が日向にまで及んでいたことが窺える。

そして・・・
(・_・)平河師里を「須恵太郎」と呼んだ記述もありました・・・

今まで、球磨の須恵氏と「平河」の関係がはっきりと解らなかったのですが・・
上記の件でおそらく「氏」を超えた同族であったのでは?と・・。
そして久米氏と須恵氏の関係も興味深い記述がありました。

こちらは、しっかりと調査した上で後日コメント致します。

※日向国諸県郡安楽寺領馬関田庄地頭
建久八年日向国図田帳・・須恵太郎(良)不知実名
※日向国諸県郡安楽寺領馬関田庄預所請所
平河観覚・・継ぐ・・平河師里
※日向国諸県郡安楽寺領馬関田庄預所・・大鳥居氏

と言う事がわかりました。
<(_ _)>

[43]子孫よりさんからのコメント(2014年11月23日 13時08分31秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

あの・・・
どうも、平河は南朝方と北朝方に分かれて同族間で激しく戦ったようです。
先日から、コメントはしていない情報でも、「こっちは北朝」「これは南朝」という情報が次々と出て来て、ちょっと頭が混乱していました。(南北朝時代の記述は理解するのが、私にはまだまだ難しすぎます(@_@。)

昨日コメントした「平河師里」は北朝側の記述であったようですねぇ〜(?_?)

でも、この時代の記録には「平河」の姓を名乗る人物が沢山出て来て、今までのように手探りでの調査ではなく記録が読めるので、かなり助かってはいます。

でっ今日は・・この時代の記録を調べていたお陰で、ついでに?すごく重要な情報を見つける事が出来ました。

まず、こちらをご覧ください。
Historical journal of Japan - 第 87 巻、第 7〜12 号 - 81 ページ
平河師重は真幸院にも所領を得ているが、真幸院領主であり、平河氏は先に草部貞倫と敵対した守高(平河師高)重(良峯氏)が ... とする真幸院住人草部一族五名及び馬を押し取り所領田畠を處領する事件が生じたが、この貞倫に与六郎重平が同郡住人守高(

※平河師重・・・真幸院領主

Shigaku zasshi - 第 87 巻 - 85 ページ
が中球磨に 85 する田地の中に「牛屎殿給分」を記していること経筒に大秦姓(牛屎院氏は太泰姓)の奉衲者が見えること、免田 ... 平河師重は真幸院にも所領を得ているが、真幸院 851 であリ、平河氏は先に草部貞倫と敵対した守高(平河師高)重(良峯氏)が ...
※平河師重・・・真幸院にも所領を得ている

(・_・)平河師重という人物は今まであまり登場していませんでした・・
もしくは「平河」を名乗った「師重」さんがいたのかな??と・・

そこでもう少し詳しく調べたのですが・・
Kokushi taikei - 第 34 巻
詩賊就,宅方城沒落事?醮州凶徒等雛刮集市來院伊作固城刁可片寄叫來當所碇 ...
打叫入口向國真幸院井大隅圃下大隅 ... 北畠系岡云親房。大納言正二伉師重于。北禹准后。雨朝詔云。一品。准大臣。准三后。兩院別雷。使。按察使。右衛門醬。大納言。

めちゃくちゃ文字化けしていますが「真幸院」「北畠」「親房」「大納言」「師重」
という文字が見えます。
何処の「師重」さんなのか?と思い上記のキーワードをもとに探したのですが・・
ありゃりゃ??っという方が登場しました(?_?)

北畠師重 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%B8%AB%E9%87%8D
北畠 師重(きたばたけ もろしげ)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言北畠師親の子で、母は法勝寺執行宗顕法印の女である。北畠親房の父。北畠家は代々大覚寺統への忠誠に篤く、師重も後宇多院の側近として仕えた。

(・_・) 何で?この方が??
\(◎o◎)/!と思って調査したら、とんでもない記述に気が付いたのです。
その記述に気がつくまでの私の調査の経緯をご説明します。
(再現(・_・) では<(_ _)>)

まず、北畠師重の系譜をご覧ください
父:北畠師親(1244-1315)
母:宗顕法印女
室:五辻忠継女
男子:冷泉持房(1295-?)
室:藤原隆重女
男子:北畠親房(1293-1354) - 北畠師親養子
生母不詳
男子:北畠通房
男子:実助(1294-1353) - 醍醐寺
男子:親家 - 醍醐寺
男子:源助
女子:大納言典侍 - 後醍醐天皇更衣、のち洞院公泰室
女子:北畠重子 - 邦良親王妃
女子 - 護良親王妾、興良親王母

(・_・)室:五辻忠継女・・・五辻氏です・・何だか先日からこちらの姓をよく見かけます・・・(とこの時思ったのです(?_?))
(・_・)女子:大納言典侍 - 後醍醐天皇更衣、のち洞院公泰室
(ありゃりゃっ??またまた「洞院公泰」この人が登場した・・(?_?)・・とこの時思いました(?_?))

何だか気になる( 一一)・・・と思い・・私、何か見落としていないか??と

様々なキーワードをもとに検索したり、パソコンにスキャンしている争論の訴訟状などを読み返して・・
あれっ??この人誰??という名を見つけました(-.-)

平河VS徳大寺家・・争論・訴訟状より
良貞状案者、領家年貢 〔平河(父沙彌資阿譲状、可為近衛侍従御沙汰・・
( 一一)平河(父沙弥資阿)・・って誰??どなた様ですか〜〜
と思いまして・・(気がついていませんでした)
近衛侍従・・?沙弥資阿??

そして・・ついに見つけました!!「沙弥資阿」(良貞の父?)という人物を!!

\(◎o◎)/!思わぬ書籍にその名があったのです!!
古美術街道: その步み方その集め方 より
その步み方その集め方 Fukuichirō Matsuda 源口口藤原氏直口丸万歳丸長寿丸源氏源仲持沙弥資阿伊賀守—源伸貞、淡路守—但馬守—能登守宣陽門女院御結縁者大擅那法量高さ二尺七寸四分の坐像であって、寄木造内刳で極彩色を施し、玉眼を嵌入し ...

※源仲持沙弥資阿伊賀守・・源仲持??

では・・・源仲持とは
\(◎o◎)/!五辻仲持・・でした!!

先日コメント23で調査した「中原遠盛」ではないか?と疑っていた人物
五辻遠盛と沙弥資阿こと五辻仲持は従兄弟です!!。
参照 http://www.geocities.jp/okugesan_com/hankea.htm

※人吉庄の預所職は「中原遠盛(五辻?)」から平河師種に継がれました。

良貞状案者、領家年貢 〔平河(父沙彌資阿譲状、可為近衛侍従御沙汰・・

※平河良貞は平河師高の曾孫・・
※良貞の提出した領家年貢の書類に平河((父沙彌資阿)の名
※沙弥資阿こと五辻仲持と五辻遠盛は従兄弟。
※人吉庄の預所職は「中原遠盛(五辻?)」から平河師種に継がれる

さらに・・!!五辻繋がりですが・・
平河師高の代わり?に宇野御厨小値賀島地頭職に補任された「尋覚」の兄弟、藤原(花山院)忠宗の孫「兼雅」の子「家経」は五辻を名乗っているのです。

藤原兼雅 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E9%9B%85

藤原兼雅
父:藤原忠雅
母:藤原家成の娘
妻:平清盛の娘
男子:花山院忠経(1173-1229)
男子:五辻家経(1174-1216)
女子:藤原良通室(1170-)[1]

藤原兼雅の母は藤原家成の娘。
と言う事は、西光は叔父にあたる訳ですね・・
藤原師高と藤原兼雅は義理の従兄弟。
藤原兼雅の子「五辻家経」

「平河師高」の曾孫が起こした争論の記述にも「五辻」
「藤原師高」の義理の従兄弟の子供も「五辻」

(?_?)・・北畠師重さんの記述にも「五辻」
※平河師重・・・真幸院領主

何だかグルグルと繋がっているようです。

では<(_ _)>
 
[44]白石さんからのコメント(2014年11月23日 21時53分59秒 ) パスワード

後醍醐天皇にも 五辻とかかわりができているのですね。
後宇多天皇の第二皇子・後醍醐天皇の母。参議五辻忠継 の娘で、母は皇后宮亮平高輔の娘。花山院師継の養女。院号は談天門院。

護良親王の上世代でも 五辻氏は からんでいるのですね。
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話は変わりますが
前から いろいろな ことの 検索を 試みていたけど、うまくできなかったのですが

姓系辞典で 丹後高岡氏
一色に組して陣代たり と いう 項目があります。
ここを 調べたいと思って グーグルで 検索してみました。

高岡 一色で みました。そしたら 古いころの 太田亮姓系辞典が出ました。
新しい分ではわからないことがあるので よかったです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
丹波・丹後
books.google.co.jp/books?id=A0Pccrl9Vv4C

太田亮 - 1925 - ‎読む
0★ 洛釦陣桓武干兵初め★山田を栂せしが★伎栢官に改む」案拉丸の内暗子に描粒、栢の丸に五枚笹直時一色氏に仕ふ。敷小琳(同町男山)商岡★瓦の居披也。出笏守貞正天正十年疋周木横山に戦ひ自殺、姻子を山城之助貞一と云ふ男山高岡氏の祀也。 0 蔀肺邸 ...

系図研究の基礎知識
この書籍内から
109 ページ
...★ 天押穂耳尊裔〇★鳴首伯連赘★土師連土師連ザ津連山直民直出雲〇恵我真髮部菅原
朝臣秋篠朝臣大枝朝臣出雲宿禰土師宿禱 ... 氷宿顧物部物部飛鳥若倭部日下部
矢田部複井部網部衣縫○物部間県使首矢田部首佐夜首★高岳首安幕首大宅首真
神田首 ...

丹波・丹後
books.google.co.jp/books?id=A0Pccrl9Vv4C
太田亮 - 1925 - ‎読む
出笏守貞正天正十年疋周木横山に戦ひ自殺、姻子を山城之助貞一と云ふ男山高岡氏の祀也。 0 蔀肺邸拘部氏の扶高岳首の後なる人し。姥氏辣歯哩火大連の後と・云ふ,高岡氏釆刊共支ぶ榛速 II 尊十五世物部鹿父大連之後TEL云々高岡親王末苗高岡肥後守従五位下丈望八代高岡岨郎貞射男山塊主破功の人なり・柱武午中耳氏公に硅て丹後 ...
《佐藤正行:蔀氏の父》【青森県人名録】昭和8年-小野一雄のルーツ
blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/1151/ - キャッシュ
しとみし
《佐藤正行:蔀氏の父》 【青森県人名録】昭和8年 【青森県人名録】昭和8年6月25日 発行 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208329/198 《佐藤正行》 p138/202 弘前 藩士、 蔀氏の父にして稽古館數學士二・たり算法、曆法に達し又畫をよく ...

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平川 高岡は 縄のように からみあって でてきます。山田 葉木のことばもそう。桓武のことばもそう。そして
藤原鎌足の弟・稽文恵はアマテラスを名乗り 春日を称した。

洛氏は 太洛稽氏 のち 稽氏。にあてはまってくるのではないのか?
これまでのコメントに出た、陳。
斉の陳は拓跋氏で 太洛稽氏は この部にいた。
秦の高岡とは 源流の頃 を 同じくして 日本に来たときは 若狭彦神社の方に入り 山の神に 関与する方と
斉の子孫で 陳をとおり 藤原・蘇我・物部と同族になった方がいるのではないか?
高岡 物部は にぎはやひ 子孫の筋もある。左京皇別物部がおり 春日の族。
@ まず 
★ 洛釦陣桓武干兵初め★山田を栂せしが★伎栢官に改む」
この部分 の 解釈は どうなるのでしょうか?

どなたか 教えていただけないでしょうか?
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スーパーにははやくも お正月品が 並び始めました。
ついこの間は プロ野球の話題だったのに 
それこそ 盆と正月が一緒に来たような 感じです。
おまけに 大鵬の優勝。明治天皇・大久保利通が 相撲を 擁護されたことにふれていました。知りませんでした。強いというだけでなく 相撲の歴史もきちんと知識に入れ 日本の国技を大事にしようとしている姿勢は 国籍を超えて
角界の頂点に立つにふさわしい人と 見えました。
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長野の地震
どうして こんなに あちこち 起こるのでしょうね。日本は 海の上にうかんでいるようなものだから どこかが 欠けると連鎖反応的に 反対側が もとにかえそうとするのでしょうか?
こわいですね。子孫様 次から次へと 来るぞ 来るぞと 夢に出たら 怖いですよね。

[46]子孫よりさんからのコメント(2014年11月23日 23時24分41秒 ) パスワード

そのメッセージはすでに書き込まれています。二重投稿です。
エラー発生の為、作業が中断されました!!

というメッセージで、情報がアップされません(?_?)

他の内容はアップ出来るみたいです?

私が、今日、調査した内容は「受付不可」なのかな?
(?_?)
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年11月23日 23時40分56秒 ) パスワード

やっぱり、アップできません(?_?)

リンクも外してみたのですが・・??

内容に問題があるのかしら?と・・

「そのメッセージはすでに書き込まれています。二重投稿です。
エラー発生の為、作業が中断されました!!」
とエラーが出ます(@_@)

内容を変えてみても一緒です?? 何故?
[48]子孫よりさんからのコメント(2014年11月23日 23時45分10秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昼間のコメントで一つ気がかりな事がありまして・・(__)

「平河VS徳大寺家・・争論・訴訟状より
良貞状案者、領家年貢 〔平河(父沙彌資阿譲状、可為近衛侍従御沙汰・・」
こちらの文章なのですが
鎌倉幕府裁許狀集 - 第 1 巻 - 40 ページ
http://books.google.co.jp/books?id=PTw7AAAAIAAJ&q=%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E3%80%80%E5%B8%AB%E9%87%8D&dq=%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E3%80%80%E5%B8%AB%E9%87%8D&hl=ja&sa=X&ei=PEZxVIf7HMz68QXMmYKwCg&ved=0CBsQ6AEwADgK

文字化けしているので「資阿」でいいのかな??「資」?「賢」?どっちだろう?とあらためて思いまして・・
(本当は書籍を読めたら良いのですがすぐには手に入りそうもなさそうで・・)

「沙弥資阿」と入力して、偶然、本当に超偶然に五辻氏の記述が出たのかもしれません(ー_ー)!!

と思いまして・・「賢阿」かな?と思い検索したのですが・・

金峯山寺史料集成 - 245 ページ
十六日持蓮聖人二親^ 0 氏源左近将監時中源氏三郎丸藤原氏藤原基紀比丘尼五条源氏比丘尼藤原氏源中 31 原氏 6 丸万歳丸長寿丸源氏沙弥賢阿源仲貞但馬守能登守源仲持伊賀守涣路守宣陽門女院御結縁諸大植那(像内背部、墨書)三六玉依姫神像( ...
※万歳丸長寿丸源氏沙弥賢阿源仲貞但馬守能登守源仲持伊賀守・・

国宝彫像 - 第 3 巻 - 202 ページ
こちらにも
※沙弥賢阿源仲貞?但馬守能登守源仲持源中景藤原氏直

(?_?)どうも「資阿」も「賢阿」も該当する人が少ないようで・・
やはり、同じ人物が登場します・・??

所で「源仲持」と「沙弥資(賢)阿」は別人のようです。
「源仲貞」「源仲持」「沙弥資(賢)阿」「源中景」「藤原氏直」と言った名が見えます。
さらに「中原氏」の記述もあります。

所で・・「資阿」かな?「賢阿」かな?と調べている時に、コレマタ、偶然に「観阿」の情報が出てまいりました(-.-)

平河の記録(山江村誌)では「沙弥観阿」は良峯師良?かとの記述になっています。

東寺百合文書より
市若丸沙弥観阿連署田地寄進状
差出書:市若丸 沙弥観阿(花押) 事書: 書止:更不可有他妨為後日寄進状如件 人名:市若丸 市若丸亡父大弐阿闍梨光照 東寺修(執ヵ)行厳伊僧都(市若丸) 祖父観阿 地名:九条小田 巷所 寺社名:東寺西院御影堂 その他事項:文殿、東寺西院御影堂理趣三昧、名主職 影写本:「20-28」 26-27

http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=4801

人名 市若丸 市若丸亡父大弐阿闍梨光照 東寺修(執ヵ)行厳伊僧都(市若丸) 祖父観阿

他にも
沙弥観阿田地売券
カ函/45/4/ 永仁4年2月9日(1296) 321×504mm
差出書:沙弥観阿(花押) 事書: 書止:仍為後代亀鏡沽却之状如件 人名:観阿(源□) 松若 影写本:「20-28」 6
http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=4832

人名:観阿(源□?)みなもと? こちらの沙弥観阿さんは「源」?

行厳伊僧都(市若丸) 祖父観阿 父は「大弐阿闍梨光照」を頼りに調べてみようと思います。

所で「行厳」。
時代が異なるので別人ですが・・
中原師員の法名も「行厳」なのです。
これまた、とても偶然です・・・・。

では<(_ _)>
[49]子孫よりさんからのコメント(2014年11月23日 23時47分15秒 ) パスワード

追記

どうも、文字化けし過ぎていたようで、5〜6行はずしたら、アップ出来ました。

お騒がせしました<(_ _)>
[50]子孫よりさんからのコメント(2014年11月24日 00時27分12秒 ) パスワード

白石様、コメントありがとうございます。(^・^)

アップ出来ないので、色々考えて、これかな?という場所を削除したら、無事にアップ出来ました。
お騒がせ致しました<(_ _)>

「五辻氏」との関係ですが・・・
今の所、確証はないので、なんとも未だ言えないのが実際の所です・・

やはり、重要なポイントは「中原」姓を名乗った「遠盛」という人物にあると思います。
もしも、もしも・・中原遠盛が実は五辻遠盛であったとしたならば、その時こそ、一気に「平河」と「中原氏」の関係が見えてくると思うのですが・・

実際に中原氏と平河の繋がりは?とず〜〜〜っと調べているのですがコメント出来るような内容は全く見つかりません(@_@。

他の「姓」との繋がりは、糸がぽろっとほころんだような所があって「うん?これは?」となるのですが・・
「中原氏」に関しては、完璧なまでにほころびは見当たりません。

当時の「中原氏」一族は、きっと、優秀な頭脳集団であったのだと思います。
だから、私のような「へなちょこのひよっこ」は到底、謎を解き明かすなんて1000年早いと言われそうです。

でも、私は、色々な事を知らないお陰?で他の人が見たら「無謀と呼べる発想」をしてしまいます。
当時の頭脳集団の方々も「まさか?!こんな発想をするなんて!」という想像をはるかに超える「無謀な発想」が、もしかしたら、何か・・そう、糸のほころび程ではない、ちょっとした毛玉?見たいな物を見つける可能性もあるかも??と・・

「無知」は実は怖いのですよ〜〜〜( 一一)・・なんちゃってデス。

「師」の字を繋げていった「平河」。
記録は抹消されていても、目に見えないもの・・例えば「愛」・・家族や親戚そして一族に対しての「愛」は残っているのではないでしょうか?・・
(例えば、恩賞という名を借りた所領の譲渡など・・)
な〜んて思ったりしています(__)

とりあえず、頭脳集団の痕跡を、しっかりと検証していきたいと思います。
では<(_ _)>(^・^)

[51]白石さんからのコメント(2014年11月24日 06時38分56秒 ) パスワード

おはようございます。
前に 清和源氏佐竹氏族の白石が 藤原に入ると 高倉になる。
どなたが そうだったのだろう? と 書いたことがありますが、グーグルで検索できるようになって 
もう一度
清和源氏佐竹氏族白石 藤原 菊池で打ち込んでみたら 出てきました。
菊池は 姓系辞典に この 白石が 菊池に仕え のち 相良氏に仕え
と あったからです。

結果
白石正一郎が 身代かたむけてまで 維新に わかるようです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐竹氏 - Wikipedia
佐竹氏(さたけし)は、日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする ... また、中央では★伊勢平氏と、東国では★奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。 .... 佐竹義重―女子(高倉永慶室)―高倉永敦―滋野井公澄―正親町三条実彦―公積 ―実同―★綱子(中山忠頼室)―中山忠 .... 斎藤氏 • 西丸氏 • 佐川氏 • 佐藤氏 • 猿田氏 • 信太氏 • 清水氏 • 白石氏 • 杉山氏 • 菅谷氏 • 介川氏 • 鈴木氏 • 須藤氏 • 関氏.

佐竹氏 - Wikipedia
佐竹氏
... の一族、大給恒の系統). ※佐竹義重―女子(高倉永慶室)―高倉永敦―滋野井公澄 ―正親町三条実彦―公積 ―実同―綱子(中山忠頼室)―★中山忠能―慶子(孝明天皇 妃)―明治天皇─允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)─湛子女王(大給義龍室)─佐竹...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また
.公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記 - 184 ページ
土橋定代 - 1988 - ‎プレビュー
... ・倉流) 277 永業(高階)女 14 , 91 永経(藤原高倉祖) 183,277 永経( ^冷泉) —永経(藤原离倉祖)★永慶(高倉) 184 — —女 94, 208 永継(高倉) 184 — —女 145,168 ★永継(百済)女 11,124 永見(小野) 358 永賢( ※冷泉森き) 183,277 永行(高倉) 184 永孝( ...
公卿諸家系圖: 諸家知譜拙記 - 9 ページ
土橋定代, ‎速水常忠 - 1820 - ‎スニペット表示
... 長時(清岡) ―四男—長義(桑原) ―一男―在庸(唐橋)為頼(上冷泉) 101,114 為頼( ※壬生) 6 修寺昧) 279 為頼(藤原葉宰流) 309 ... 91 永柽(藤原离倉 83183 , 277 永経( ※冷泉) —永経(藤原高食祖)永慶(高倉) ―女 94,永継(・倉) ―女 145,永継(百済)女 ...

別々の上方かもしれないけど 百済永継も見えます。



[52]子孫よりさんからのコメント(2014年11月24日 13時42分46秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

百済永継の子孫となる方は、以前もコメントしましたが、ものすご〜〜い数になります。
おそるべし百済永継さんです。
「清和源氏佐竹氏族白石 藤原 菊池で打ち込んでみたら 出てきました。
菊池は 姓系辞典に この 白石が 菊池に仕え のち 相良氏に仕え
と あったからです。」
と言う事は、白石様のご実家の系が見えて来ていると言う事ですね(^・^)
良かったですね\(^o^)/

所で・・・・
五辻氏が何故?人吉庄に関係したのか・・?
解りました(^O^)/
というか・・ものすご〜く単純な事でした。きっと人吉が八条院領だったからで〜す(^O^)/

では、早速、ご説明を<(_ _)>

まず沙弥賢阿とは・・源(五辻)仲遠 でした(^O^)/
山伏の歴史 - 108 ページ より
賢阿.仲貞.仲持.仲十人ばかりの僧俗が名をつらねている。持蓮聖人にらのほか、藤原氏.中原氏.大中臣氏などざっと三貞,但馬守能登守源仲持,源仲景,左近将監源時中の結縁者には沙弥賢阿(伊賀守源仲遠) ,淡路守源仲第以下蓮聖人を願主とし大檀那として ...

他にも
日本彫刻史基礎資料集成: 鎌倉時代. 造像銘記篇 - 17 ページ より
一一行目の最初に記される沙弥賢阿は『尊卑分脈』(同上四〇一頁)に「仲兼子、遠兼舎弟」と注記される源仲遠に違いない。同書に法名見阿とも見え、「賢阿」と音通する。仲遠は『蔵人補任』安貞二年二二二八)、同三年条に蔵人として名が見え、同書弘安十年二 ...

と言う事で「沙弥賢阿」とは源(五辻)仲遠でした(^・^)

じゃあ何故、五辻仲遠は人吉庄に関係したのか?
それは、この方が「作物所奉行。安嘉門院殿上。伊賀守」だったからだと思います。

安嘉門院殿上・・安嘉門院(邦子内親王) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
邦子内親王(くにこないしんのう、承元3年(1209年) - 弘安6年9月4日(1283年9月26日))は、鎌倉時代の皇族、女院。後堀河天皇准母、皇后宮。院号は安嘉門院(あんかもんいん)。法名は正如覚。父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家の女・御息所陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母姉に利子内親王(式乾門院)がいる。
八条院領の大部分を含む膨大な荘園群を父から譲られ成立した安嘉門院領は、この後亀山院、後宇多院、昭慶門院(憙子内親王)を経て、後醍醐天皇に伝わった。

※父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家の女・御息所陳子
※八条院領の大部分を含む膨大な荘園群を父から譲られ・・

では邦子内親王の母、持明院基家の女・御息所陳子とは?
持明院 陳子 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E9%99%B3%E5%AD%90
持明院 陳子(じみょういん ちんし/のぶこ、藤原 陳子、承安3年(1173年) - 嘉禎4年10月3日(1238年11月10日))は、平安時代・鎌倉時代の女性。後高倉院の妃で、後堀河天皇の生母。父は正二位権中納言持明院基家、母は平頼盛の女(宰相局、後高倉院乳母)。同母兄に持明院保家がいる。准三宮。女院号は北白河院(きたしらかわいん)。法名は如律。

※父:持明院基家 母:平頼盛の女(宰相局、後高倉院乳母)

と言う事は持明院陳子は平頼盛の孫であり、安嘉門院(邦子内親王)は平頼盛の曾孫となるわけです。
とっ言う事は・・持明院陳子の母は平光盛と兄妹となります。
上記の安嘉門院(邦子内親王)の元「作物所奉行。安嘉門院殿上」であった方が
「五辻仲遠」と言う事です。

五辻遠盛は五辻仲遠の甥。
という繋がりで・・・

人吉庄の預所職は「平頼盛」 → 「平光盛」(後見人:中原清業) → 中原遠盛(五辻?) → 平河師種
と継がれてきたと言う事かな??と推測致しました(^・^)

ふぅ〜〜〜すっきりした〜( ^^) _U~~
うん?(゜-゜)
あれっ?・・・それは解ったのだけれども・・なんで??何故?(-.-)
・・・・・・・・・・・

良貞状案者、領家年貢 〔平河(父沙彌資(賢)阿譲状、可為近衛侍従御汰・・」
平河の横に何でかっこがあって「父」なんでだろう・・????(?_?)

あああああああああああああああああっ!!(−−〆)あまり考えるとイライラするので、もう少し、頭を休ませてから謎にいどみます(__)

でも・・しかし・・「平頼盛」の周囲に平河の影あり!ですね(-_-)

「源」を調べていたのに・・ぐるりんと廻ってマタマタ「平頼盛」この方に繋がってしまいます・・

あっ!!それと・・重大な事を忘れる所でした(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

五辻遠盛が、実は「中原遠盛」だとして・・・
なぜに「中原」???
どこかの「中原氏」の一族と姻戚関係にあるのかな?・・これはしっかりと調べます(__)

最後になりますが、一番「しょうもない事」かも知れませんが聞いて下さい(__)

「仲遠」というお名前ですが・・
御縁があるようです・・
「大和物語」(11世紀初頭)の中に出てくる人物の中に
「良峯仲遠」という人がいるのですよね〜〜(以前からコメントしていました)
記述によれば、この良峯仲遠は「藤原尹文」でした。
源仲遠・・
あっ!そう言えばこの方「伊賀守」です。
覚えていらっしゃいますでしょうか?平川家について13コメント63
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_91.html
で、私が何故か?伊賀守に拘った事を・・
藤原尹文も伊賀守です・・・何故だろう・・??今までの調査で登場した方に「伊賀守」であった人がすごく多いのですけれど・・?

それから源(五辻)仲遠の父源(五辻)仲兼は加賀守でした。
藤原師高の後と言う事ですね・・
そうか・・・(-.-)

と言う事で五辻氏と平頼盛と人吉庄について・・
でした<(_ _)>(^・^)
[53]子孫よりさんからのコメント(2014年11月25日 10時54分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

\(^o^)/ついに!!ついに見つけました!!

平河一族及び平河師高が創建した有智山 荒田寺の奉造立釈迦如来像胎内銘文に名を残した
天台僧 「林与」の記述でございます\(^o^)/

東京大学古文書フルテキストデータベース 醍醐寺文書
醍醐寺座主元海拝堂日記の中に「林与」の記述がありました。

早速ブログにアップ致しました。

やっぱり・・日記でした(-_-)・・まあそれは置いといて(^・^)
ブログには流れが見えるようにと複数のデータをあげています。
番号を打っていますのでNoEに「林与」の名がありました。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11956665014.html
(どうぞ、ご覧ください<(_ _)>)

「俊円十八前 上寺○?司五人」の中に「林与」が見えます。
※「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」という方々の名です。

皆様!!お気づきでしょうか??!!上記の「永順」この方の名はすでにコメントしていましたよ〜〜〜〜!!

コメント10 より
人吉庄南方松延名田数得田米付雑物等実検注進状
※惣公文僧永順(花押)、惣政所右衛門尉藤原盛員(花押)、地頭藤原(相良)頼広(花押)、雑掌僧道円(花押)、預所良峯師種(花押)、領家御代官沙弥浄善(花押)あり

\(◎o◎)/!「惣公文僧永順」

やりました\(^o^)/初めて?ばっちりと繋がりました!!\(^o^)/

でも・・ブログにアップした情報は漢文なので意味がさっぱりわかりませ〜ん
\(^o^)/・・・・??・・違った (+_+)です・・

でも、「名」は調べる事が出来ます。

まず「俊円」この方は延暦寺の座主であった方ですね。
延暦寺と興福寺の争いの中で、間にたち、大変苦労された方ですよね・・・。
(今、ちょっとだけ・・記述を見ました(__))
天台座主 ウィキ(覚尋)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E5%B0%8B
俊円・・ 快修・・ 明雲・・ 覚快法親王・・ 明雲・・ 俊堯 
全く勉強していないので、これから、勉強致します(__)

それから・・
「良快」この方は ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BF%AB

@良快 (僧)(1185年−1243年)は、鎌倉時代の僧。九条兼実の子。
A良快 (仏師)(生没年未詳)は、鎌倉時代の慶派仏師。快慶の弟子。

ううんん・・??どちらの方かな??
でも「僧」だから九条兼実の子息かな・・?? 調べます(__)

あっ??九条兼実・・この方の子息には「良円」と言う方が・・
「良円」と「良快」は同母兄弟でした。

やはり・・しっかりと調べます(__)

でも・・・・やはり・・うれしいで〜す\(^o^)/
やっと、私の目の前に「林与」。この方が現れて下さいました(^・^)
(「永順」。この方もです)

さ〜〜〜あ!!頑張ってしらべるゾ〜!!
では<(_ _)>(^・^)
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年11月25日 23時16分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

「上寺○?司五人」 これは
「上寺所司五人」でした。

と言う事で
「上寺所司 五人 「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」」
となります。

ちなみに「所司」とは
三綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B6%B1
三綱(さんごう)とは、仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3つ僧職の総称。所司(しょし)とも呼ばれている。
三綱にあたる僧職のうち、上座は一般的には年長の高徳者が任じられる寺院の最高責任者、寺主は寺院内における事務・経営の責任者、都維那は僧尼の戒律・学問に関する監督責任者である(ただし、上座と寺主をいずれを上位とするかには異説もある)いずれもインドあるいは中国に由来を有する役職である。

日本[編集]
日本では、『日本書紀』朱鳥元年(686年)が初見であるが、これは中央の僧綱の3職(僧正・僧都・律師)とする解釈が有力であり、日本における三綱制度の確立は大宝律令制定以後と推定されている。
平安時代に入ると、朝廷が任命した座主・長者・別当に三綱以下を指揮・監督する権限が与えられ、また権官が設置されることで定員が複数になったことでその権限・権威がともに低下するようになり、同時代後期には名目上の名誉職あるいは事務などを担当する中級の僧侶に与えられる僧職となった。

(・_・)という事で
この三綱(所司)が「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」」であったと言う事ですね・・
上寺?とは 調べました(__)

安祥寺の記述に書かれていました。ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%A5%A5%E5%AF%BA_%28%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%29
安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。

(・_・)と言う事で醍醐寺は「上醍醐」「下醍醐」とありました。
醍醐寺 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。

※上醍醐
上醍醐[編集]
西国三十三所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿(国宝)、准胝堂(現存せず)、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。
薬師堂(国宝)
醍醐天皇の勅願により延喜7年(907年)頃に聖宝(理源大師)により創建。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。入母屋造、檜皮葺き。正面5間、側面4間。側面の柱間4間のうち、中央の2間が狭く、前寄りと後寄りの各1間が広いのは珍しい。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上重要文化財)などを安置していたが、現在はすべて下醍醐の霊宝館に移されている

と言う事で、醍醐寺の上寺という意味が解りました(・_・)

「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」
この方々を、調べているのですが、「良快」は年代的に九条兼実の子息である「良快」という方ではないようです。
と言う事は「永順」。この方も、ご紹介した文書にあった惣公文僧永順」とは別人と言う事ですね。

「頼暹」この方は安楽寺(大宰府天満宮)に関係する方です。
他の方々も、かなり記述を見つける事が出来ていますが、しっかりとまとめて、コメントさせて頂きます。

ただし・・・「林与」この方だけが、未だに他の情報が出てきません。
頑張ります・・(^O^)

では<(_ _)>
[55]子孫よりさんからのコメント(2014年11月26日 07時26分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。(^・^)

沢山、調べている事を書きたいのですが、今朝は外出するので、今、一番気になっている事だけをコメントしておこうと思います。

「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」
上記の方々の中にある「信成」。この方についてです。

「信成」という人物を探していたのですが、中々、醍醐寺に繋がる「信成」という人物に繋がらなかったのですが・・・

お一人だけ「醍醐寺」に関係した「信成」という方を見つけました。

醍醐寺塔頭金剛王院一言寺
http://daigono1.info/jiman/ichigonji/ichigonji.html

真言宗醍醐派の別格本山。少納言藤原入道信成の女、阿波内待が清水寺本尊の霊告により建立したと伝えられています。本堂には千手観音菩薩像、阿波内待の像が安置されています。この千手観音菩薩像は33年ごとの開帳で、一心に祈れば言下に願い事がかなえられるということから、一言寺と呼ばれています。
伏見区醍醐一言寺裏町 

※少納言藤原入道信成の女、阿波内待
(・_・)(?_?)阿波内待・・あれっ!!

他にも多数・・検索結果
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&rlz=1C1CHNU_enJP553&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%86%85%E5%BE%85%E3%80%80%E4%BF%A1%E6%88%90&start=0

(・_・)阿波内待の父(養父)は・・・あの・・あの・・
藤原通憲・・すなわち「信西」ですよね・・

そして、このような情報が・・・
平清盛2・源平盛衰の始まり・保元の乱・民衆の視点そして高階通憲=信成
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54544964.html

高階通憲=信成・・・ええええええっ!!

と言う事は
高階通憲=信成=藤原通憲=信西・・・(?_?)\(◎o◎)/!

もしももしも!!醍醐寺に関係した
「林与」「良快」「永順」「信成」「頼暹」
こちらの「信成」という人物が高階通憲=信成=藤原通憲=信西の「信成」という事であれば・・
「林与」。この方は信成=信西と非常に近しい関係にあったという事になりますよね・・・・(?_?)\(◎o◎)/!

ぎゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!どうしよう(゜-゜)
頭が混乱して来ました・・

もしももしも、上記の事が正解であれば・・
何だかめちゃくちゃ「真実」に近づいてしまったような・・(゜-゜)

でも・・まだまだ解りません(ー_ー)!!
しっかりと調査致します。
では<(_ _)>
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年11月27日 17時37分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

今日は、今から外出するので(娘の所・新婚さんをじゃまします(ー_ー)!!(^◇^))後でコメントする内容の表題をお先に<(_ _)>

平河師高までの「平河一族」とは別の、「木上城城主」であった「平河一族」とは・・
相良頼景と共に(もしくはちょっとお先に)球磨に下向した某一族(藤原にも繋がり源にも大江氏にも清原氏にも関係する)ではなかったのか・・??
(-.-)( 一一)
でございます(__)

気が付いていませんでした・・・
その人物の記述をスルーしていました(-_-)
でも、その人物を調べたら・・何だか「ぜ〜〜〜〜〜んぶ」に繋がってきました。

では後ほど<(_ _)>
[57]白石さんからのコメント(2014年11月29日 02時26分47秒 ) パスワード

こんばんは
メールみていますよ。^^
お返事を書いていると ぴゅんぴゅん飛んでいくので
あきらめて こちらに書いています。
橋は そうです。頭で書いて間違いました。

白石
刈田の白石は 前に書いたと思いますが 
そして 平江に 関係してくる 成松が 伊達につながり 白石にもつながり 利仁流に つながり していましたが

こんな 白石もありました。
宽永諸家系図伝』には「秦,帝一五代、広降が後

いかんせん
画面の中で 五センチくらいの隙間にでる言葉を 拾い読みするので 他のことがわかりません。

ただ
秦 広隆 という 言葉で 検索してみたら 広隆寺が 出ました。
ウィキには
秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。
とありました。
 

[58]子孫よりさんからのコメント(2014年11月29日 12時55分41秒 ) パスワード

皆様、今日は。

白石様、ご教示ありがとうございます。

実は。昨日の午前中から、胃がすごく痛くなりまして、夕方には我慢できないくらい痛かったのですが・・(我慢しちゃいました)
夜中にも眠れない位痛いので、朝から病院に行ってまいりました。

血液検査の結果、炎症反応があり、数値も良くないと言う事で、薬を頂き、月曜日再検査になりました(-_-)

すぐ・・我慢してしまうのです。今に良くなると思って・・
これで、何回目でしょうか・・

沢山調査した事を書きたいのですが、熱も出ていて、頭がぼ〜っとなっているので、本日はコメントをお休み致します。

すみません(__)
[59]白石さんからのコメント(2014年11月30日 02時42分25秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 お加減はいかがですか ?
メールしました。
ごらんになってください。

[60]子孫よりさんからのコメント(2014年12月02日 17時25分37秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

体調はあまりよくありません。
昨日から、やっとお粥が食べれるようになりました。
ダイエットになる(^O^)と言ったら娘にしかられました(-_-)
かなり、フラフラ状態でして・・殆ど寝ています。

でも、頭を使って考える事は出来ませんが・・・
やっと読みたかった書籍に出会えました。
昭和16年創刊の「球磨郡誌」です。やっと見つける事が出来ました(^・^)

近代デジタルライブラリーにて公開されていました。

800ページ以上あるので、まだまだ途中ですが、すでにひとつ情報を得ました。

深田村柿木丸という場所に「鹿児島神社」があったようです。
球磨郡誌より
鹿児島神社 柿木丸にあり。彦火々出見神を祭る。創建の年日は詳ではないが平河三郎師高勧請と言う。

とありました。
以前、鹿児島神社についてご教示を頂いていました。

でも、深田村に平河師高勧請の鹿児島神社があったとは知りませんでした。
今は深田阿蘇神社の境内神社としてお祭りされているようです。

所で、先日「もしや・・」と書いた内容ですが、まとめる所で、病気になってしまい、まだコメント出来る状態ではありません。

今は、折角「球磨郡誌」を読む事が出来るようになったので、集中してこちらを読んでいます。

頭を使うコメントが未だ出来ませんので、もうしばらくお待ち下さい<(_ _)>
では<(_ _)>
[61]白石さんからのコメント(2014年12月02日 20時16分32秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 よかったですね。
免疫機能の低下でしょうか?医者でないのでわかりませんが・・・

私も子供のころから 声が細く すぐ 喉をやられたり するので
粘膜を上部にしようと ねばねば系の食べ物を とっています。

鹿児島神社
松野連系図


周とすぐ 直結する話ではないけど
前に 良峯は劉姓と書いた本があったこと とか 劉からカクレンボツボツに名を変えた人の話をしたかと思いますが

赫連、朔方に據る。(夏の建国)
 魏王圭が、劉衛辰を滅ぼした時、子息の劉勃勃は、後秦へ逃げ込むことができた。後秦の高平公没奕干は、娘を彼に娶せた。(後秦は姚姓)

 劉勃勃は、自ら夏后氏の末裔と名乗り、六月、大夏天王、大単于と自称。

魏は ずっと 歴史をおりたところにあり
夏后氏は 
夏 (三代)
★夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』など中国の史書には初代の禹 から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されて ..... 匈奴: 『史記』『漢書』「 匈奴列伝」に依れば、★匈奴の先祖は夏后氏





[62]白石さんからのコメント(2014年12月02日 20時29分37秒 ) パスワード

前に調べたときは 本だったので禹までしかわかりませんでしたが
今回 18史略の原文 訳文を ネットでみることが出来ました。


夏后氏の
姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。 帝禹為夏后而別氏姓姒氏 帝 禹は夏后と為して氏(うじ)を別(わ)け、姓は姒氏とした。 太公望(タイコウボウ): →呂尚; 大 宰忌父(タイサイキホ): →宰孔; 太姒(タイジ)【女官】: 周文王の正妃。

[63]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年12月02日 20時46分22秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>赫連、朔方に據る。(夏の建国)
 
この夏は古代の漢族の王朝とは別物。
勘違いするむきもあるので注意のこと。
下記を参照のこと。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03028.htm
 
劉姓なんて、漢王室に限らず漢土では仮冒した氏族が多過ぎて話になりませんよ。
まあ随・唐だって鮮卑系を外戚とした帝国なんだから、同じ様なものだが?
[64]白石さんからのコメント(2014年12月02日 21時37分04秒 ) パスワード

天皇氏_百度百科 - このページを和訳
★天皇氏,是中国上古传说中的神话人物,共有★兄弟十二人(一说十三人),古越族,姓望 ,名获,字文生,别号天灵、防五、天雾。这十二个兄弟身材相貌长得都一样,无法分辨 。他们以木・王天下,在★西域昆仑山做部落首领。治所在良渚古城中的莫角山台址 ...

子孫様 ごめんなさい
三皇五帝以前の ことを 原文 訳文ともに のっているネットを みたのに
でません。
内容が似通っている上のものの 表題を見つけました。

天皇氏というのが あるわけです。
それから 時代が下りて 劉とか 周とか
夏殷周を夏三代というから 殷も夏も仲間ですね。

どうして コピーしておかなかったか 悔やまれますが もう少し さがしてみます。Googleが 検索の ところに でていたので Googleの中で見たのだと思います。
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年12月03日 16時45分19秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。
コメントおそくなりまして、すみませんでした。

胃の痛みも少しは良くなりました。
(実は・・十二指腸潰瘍でした(@_@)・・仕事もしていないのにトホホです(-_-))
ただ、頭痛もひどくて・・人の体は様々な所からシグナルを出すものだな〜と痛感致しました)

所で・・・
「球磨郡誌」に平河師澄についての記述があるのですが、ぜひご覧いただきたいのでご紹介致します。
342ページ〜343ページにかけて「釈迦堂」の記述があります。
ツールバーのコマ番号▼をクリックして頂くとページの選択ができます。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

転記致します。(コピー出来ませんので旧字体はそのままで入力します)

釈迦堂の釈迦如来像(藤原時代の作品)
康平の頃、平賀師澄が球磨郡永吉の庄に封ぜられしより、其の子四人、何れも郡内の勝地に掾り、藤原時代の美術を迎へて燦然たる光彩を放ち、昔の熊襲の故地に、優麗美妙の楽園を装へり。
その時代の遺物として、本村阿蘇谷の釈迦堂に釈迦像あり。
釈迦は、像身二尺七寸、藤原時代の産物たる九重台葦蓮花台上に座し、梵音朗らかに説法し給ふ像にして、後背の光華には、鍍金透彫模様を現し、脇に侍たる文殊、普賢の両像は、象と獅子との背上に、心蓮を現したる葦蓮花台に座し、鍍金の賓冠を戴き、持國、毘沙門の二天は、護衛の任を表し、左右須彌壇の両角に侍し、文彩には藤原時代の模様の残影を駐む、破損と後世の修補とは幾分本質を掩ふ所なきに非らざるも、年代を考ふれば大治前後白河法皇時代と思はれ、作者を考ふれば定朝三代の裔、頼助時分の名家に属す、其の由緒を尋ぬるに、南藤蔓綿録に曰く、「富寺開山永厳上人草創、仁平元年壽七十にして示寂す、球磨川北の本寺」とあるもの是なり、即ち平賀師高の領地の範囲と思はる、球磨郡に於ける平賀系の遺跡なりと云うべきなり。
(松原象雲氏調査、球磨による)

(゜-゜)平賀師澄・・「平賀」です・・・・

このような記述があったとは・・松原象雲氏の調査「球磨」からの引用のようです。
ただ、何故か?こちらの記述は、「山江村誌」には記載されていませんでした。
「山江村誌」には平河の詳細な調査があったにも関わらず、上記の記述が無かったのです・・?

「平賀」・・「平河」・・・??
やっと見つかった!!と思ったのですが、もしや、当時の「転記ミス」の可能性もあるので、今は冷静に・・と
(ヌカよろこびで、又、胃がチクチクなったらいけませんので(ー_ー)!!)

と言う事で
球磨郡誌の記述についてでした<(_ _)>
[66]白石さんからのコメント(2014年12月03日 19時43分59秒 ) パスワード

子孫様 とにかく 持ち直してよかったですね。
どこか 人がいない山の中などで 大声で笑うと 気もはればれして いいみたいです。七福神の気分になって ですね。

ところで
わたくしのキツネの話 あのあと 少し ご無沙汰でしたが
今度は 同じ家の並びの 黒田さん というお宅が 一見先の土地を買われました。不景気のこの頃でも 土地は 動いているのですね。

私に出た子ぎつねは 右横 左横 後ろ と 次から次へと 持ってきて 夢に出て 肩をゆするしぐさをしては 得意そうにするたびに エッと 思いましたが、

黒田さんとこは まだ若く 四〇代くらいか 今すんでいる家も 土地が ここらにしては 広いなあ と 思っていましたが

奥さんの方の親の面倒見が もうすぐ 始まるのか 
援助は 奥さんの方から出ているようです。家の中のことなども やりやすいしね。そしてもう一軒 黒田さんの方からいえば地続きの うちからいえば 夢に出た左横の 一軒先を 手に入れたのです。
身内で一致団結ですね。

平賀
白石正一郎について 書かれた 辞典で 平賀源内も 白石だと 書いていました。そして
伊勢あたりの古城について 書かれたものは 平賀は 山口になっていました。

大蔵 岩門系図では 木原の末は 山口。父の手帳に書きつけてあった木原。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Googleで検索
平賀源内
吉川弘文館, 1985 - 258 ページ

平賀氏の系図のことにふれておくと、現在 3 ;「平賀氏系図」と、は平賀家化牌
によると良房、「源姓平賀氏系図」によれば国久。母は同じ系図に従えば生年は、彼の没
年齢を五十二歳とみて逆算したものである。父は★白石茂左衛門、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平賀源内 - 4 ページ
books.google.co.jp/books?id=q97kAAAAMAAJ

城福勇 - 1985 - ‎スニペット表示 - ‎他の版
城福勇 のも、父祖の諱がみな国の一字にはじまるからである。また通称の源内も、かつては信さて源内がのちに、★白石姓をすてて祖先の平賀姓にかえり、諱を国倫.国棟と称した志度浦真覚寺前の、現在の平賀家屋敷地に移ってきたのであった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東広島ファン倶楽部: 2012-04
武家家伝 平賀氏引用) その平賀氏より分かれた、★木原氏が商人として近代まで地元に 対して多大な影響を及ぼした。 木原家は白市に居住し江戸時代(1603〜1867)は醸造 業や両替商・製塩業を営む豪商であった。 旧木原家住宅は西日本 ...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
清和源氏概観 - Ucom.ne.jp
源氏賜姓の時期は諸説あるが、延喜二十年六月説が最も妥当か)の後のみが武家 として大いに栄えた。 公家関係では、永禄三年に足利将軍家義輝の推挙により、久我家 諸大夫から公卿に格上げされた竹内家(★義光流の平賀支流と称)のみが華族。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

系図考察
★河野氏系図のサイト,風雲戦国史―武家家伝―河野氏. 諸家系譜―河野氏 ... 2平賀氏 流 安芸国の名族にして、高宮郡木原城に拠る。芸藩通志に「木原城は高屋東村にあり。 天文の頃、木原美濃保成、同源右衛門信友の父子相継いで居守す。皆平賀の同族 ...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長く書いてごめんなさい。
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年12月04日 16時21分14秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「平賀氏」。
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を拝見しましたが
※三国氏/酒人氏(松葉氏) ※清和源氏義光流 ※清和源氏頼光流→仲政流(深栖氏/福島氏)※清和源氏義光流(大井氏/仁賀保氏)
※藤原式家(稲生氏)
と様々な系があるようです。

ただ・・・
一つ、情報を球磨郡誌からみつけまして・・・
平河義高の家臣であった
「柏木覚左衛門」の名を以前ご紹介いたしましたが、球磨郡誌では
「伯耆覚左衛門」とありました。
義高の臣、永池の地頭伯耆覚左衛門・・です。

伯耆国(ほうきのくに) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%80%86%E5%9B%BD
同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。
また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。

平河義高の家臣であったこの方は
「伯耆国」に関係した「柏木」という姓の通称「覚左衛門」という方だったのでしょうか??

それと・・この方は永池の地頭だったと言う事ですが・・。永池・・??永池の地頭何故??
何だか、様々な真実がまだまだ、隠されているようでございます(__)
では<(_ _)>
[68]白石さんからのコメント(2014年12月04日 19時38分54秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 三国氏/酒人氏【2】
《赤佐氏/井伊氏/貫名氏》 三国氏へ戻る. 【赤佐氏】【井伊氏】【岡氏】【中野氏】【田中 氏】【田沢氏】【松田氏】【谷津氏】 【石田氏】【石岡氏】【奥山 ... 《松葉氏》 三国氏へ戻る. 【 松葉氏】【平賀氏】【大畠氏】【木原氏】【入野氏】【東村氏】【葉恒氏】【藤田氏】 【名田氏】
ですね。
ここでは 平賀氏と松葉氏と井伊氏は同族ですね。 ...

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いちごさん - 日子の島TOP
ネットより三国真人 息長氏、坂田氏、坂田酒人氏と同じく継体帝を祖とする一族。 古代 氏族系譜集成』に収録された「三国真人系図」を見ると、こちらも井伊氏と松葉氏とは 同族となっている。 出羽国には平賀氏のほかに秋田郡に橘氏、 山本郡・・・

秋田・岩木川支流が 平川で 近くに平賀。

三国氏とさだ とからまっている話
貞朝臣
仁明天皇皇子 母・三国氏の過失により 源を名乗れなかった。

山口県の母方祖母の墓が あるというお寺と 宗派は違うけど 同じ名のお寺があり 過去に もしかして と思って 訪ねたことがあります。

てい なら あります。 という 返事でした。
このてい が 貞朝臣かどうか わかりません。

豊浦町 でした。そこらに 日之影町というのがあり
同じ 日之影で 高千穂の日之影は ここに 本当の 高千穂神楽があるというところ。
祇園神楽のようです。

公卿類別譜に細川綱利をみれば
女子・平賀氏
女子・黒川氏
というところがあります。

細川 島津 津軽 は サダ だと 本にありました。
いろいろある 平賀だけど ともかく 平賀 という ことばがあり
黒川については
私 同級生が 宮原から 黒川になって ・・・ 私は 菅原さんと 思っていた という 話を 前にしたと思いますが

黒川は 一字違いで 黒田になり
検索をかけると 黒田が 出ます。

子孫様の 宮原に 届いた 近衛の手紙。
細川氏は 近衛の娘婿になったようですが
何か 何か 昔からの つながりが あったかも しれませんね。

平賀は 藤原良房の系? 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
余談ですが
山口県史に 豊浦の人が尾張氏に「益城宿禰」の姓を与えた。と ある。

ウィキ 確証はないけど 姓を与えるのは 上の位の人でしょう?
豊浦で思いつくのは
蘇我蝦夷
日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』 では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である
ということでした。
蝦夷が関係しているのかしらん?

瀬戸内あたりにいる 拝志系図につく 林。蘇我 林
尾張 越智氏系図 彦狭島 ...
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百済系祭神を赤と称し、新羅系祭神を白と称す。 | 世界史掲示板(荊の紀氏

藤原姓/古代豪族三国真人後裔かとある。 松葉の系で、井伊氏の系図では 井伊と松葉 は つながっている。。 ネットより三国真人 息長氏、坂田氏、坂田酒人氏と同じく継体帝を 祖とする一族。 古代氏族系譜集成』に収録された「三国真人系図」を
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平賀から 良房 さだ のこと 前に覚えていたことを 書いてみました。
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年12月05日 00時24分13秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「松葉の系で、井伊氏の系図では 井伊と松葉 は つながっている。」
ご教示頂いたこちらの情報。
日本の苗字七千傑様の 三国氏/酒人氏 → 三国氏 姓氏類別大観から《赤佐氏/井伊氏/貫名氏》そして《松葉氏》姓氏類別大観で拝見致しました。

「平賀氏」は先のコメントで書かせて頂きましたが、様々な系があります。
拝見すると、平河の特徴?である「師」の字はあまり見当たりません。
しかし、「惟」の字は見る事が多いかと・・

今の所、平河と平賀氏との繋がりが、未だ見えていないので、何らかの情報が残っていないか慎重に調べています。

球磨郡誌は、神社仏閣の情報は詳しく記載されていますが、昭和16年出版の書籍ですから、その他の情報に関しては現代の方が格段に研究は進んでいると思うのです。(X線画像など)
平河家文書も公開は昭和40年代に入ってからなので、冷静に、今まで調べていた情報と比較しながら読ませて頂いています。

あっ!!そうだ白石様!!
球磨郡誌に願成寺代々の住職のお名前が記載されていましたよ!!
コマ番号322をご覧ください(▼をクリックすると番号の選択が出来ます)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

探されていた情報だったと思いまして・・(^O^)

それから「求麻外史」も近代デジタルライブラリーで公開されていました(^O^)/
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766604

こちらは全て漢文なのですが(@_@。頑張って読んでいます(-_-)

この頃、今まで見つける事が出来なかった郷土誌が公開されてきたので非常にありがたいと思います。

何らかの記述が大きなヒントに変わる可能性を信じて、勉強をがんばります(^O^)/

では<(_ _)>(^・^)
[70]子孫よりさんからのコメント(2014年12月06日 01時01分57秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

球磨郡誌を読んでいて、今まで知らなかった事が沢山記述されていました。

特に、神社の由緒については、かなり重要な記述が書かれています。

いくつかご紹介致します(__)

上村白髪神宮について
白髪神社由緒略記 サイトより
鎮座地
上宮(御池神社)熊本県球磨郡あさぎり町上 白髪岳
中宮(皆越白髪神社)熊本県球磨郡あさぎり町皆越 皆越
外宮(上村白髪神社)熊本県球磨郡あさぎり町上 麓

白髪神社の御祭神は、日向の鵜戸神宮と御同体で、鵜茅葺不合命・彦火火出見命・彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神倭磐余彦命(神武天皇)の六柱と、婦神六柱によって白髪十二宮としてお祀(まつ)りしてあり、他に明治から大正初期にかけて村内の無各社の十八座の神も合わせてお祀りしてあります。

(・_・)では球磨郡誌より
上村白髪神宮について コマ番号 296
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

享保二年御造営棟札及び相良家古文書によるに「住吉より白髪嶽絶頂に御鎮座し給ふも星霜遥にして其権興詳ならず。」とあり。
又、社家家系図に「緒方大夫惟元九代の後胤緒方三郎惟義と言うふ者源氏平氏合戦の最中禰宜なり。」とあり。之に依りて考ふるに當時以前より己に神社として郷民の崇敬したものである。

緒方惟基九代の裔 緒方惟義。
緒方 惟栄 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%83%9F%E6%A0%84

先日、大分県豊後大野市に伺いまして、緒方惟栄、この方について勉強をさせて頂いていました。
源平の合戦の最中に禰宜なり。

平安初期だけではなく、平安末期においても、豊後の「緒方氏」と球磨との繋がりが見える記述が残っていたと言う事ですね。

続けて
西村大王神社について
球磨郡誌 コマ番号 294
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262
西村神社(西村大王)
社家の傳に依れば昔時西村地主の神と言われている。一説に關東秋良の大王を勸請すとも言ふ。
傳記には「應永元年、清原氏元實再興大永年中修造、元禄七年里民力を戳せて造替」とある。
(・_・)清原氏元實再興・・・ 清原元実と言う方が再興された・・・

実は清原氏の記述はこちらだけではありません。

神宮神社について 球磨郡誌 コマ番号294 
神宮神社
字迫田にあり、祭神は紀州熊野神社同體である。草創の年紀は詳でない。
明徳年中再興、古老の傳に曰ふ。新宮城没落の時當社延焼す。享禄三年十二月六日 清原成真修造すと。

(・_・)清原成真修造す

続けて・・

一武八幡宮 について 球磨郡誌 コマ番号295
一武八幡宮
祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命 日州霧島社同體勸請の一宮大権現、京都北野天神同體勸請の天満天神。
村社にして本社は山城国久世郡石清水八旗八幡同體を勸請せらたもので其の年紀は未詳である。傳によれば舊きは當村小川に鎮座せるを嘉吉四年清原氏某によって今の地に遷宮せられたと言う。

(・_・)嘉吉四年清原氏某

(・_・)一武は西村と同じく今の錦町です。

まだまだ、神社仏閣についての記述は読み進めている段階です。
しっかりと確認していきます。

その他の記述で・・・
球磨郡誌 コマ番号 837 に南北朝時代の球磨での戦について書かれていました。
その中に「佐竹氏」の記述もありました。

暦應四年正月十七日 北朝方 佐竹蔵人死去。 とあります。
人物の確認はしていませんが、「佐竹氏」が当時球磨に下向されていたという事ですね。

その他、良峯氏女の夫であった「助廣」と言う方は
同じく「球磨郡誌」コマ番号 837に
相良六郎左衛門尉 長坊・同十郎助廣・・・とありました。
どうやら「助廣」さんは相良氏の一族であったようです。

まだまだ、色々な事が見つかると思います(゜-゜)

しっかりと、勉強いたします<(_ _)>(^・^)
[71]白石さんからのコメント(2014年12月06日 05時26分52秒 ) パスワード

おはようございます。
子孫様
願成寺の歴代住職のこと ありがとうございます。

過去に 二世智心にひっかかっていました。
人吉新聞の情報をコメントしたか どうか?覚えていませんが

平川の地蔵堂
人吉新聞| 特集・・・過去に見た後使っていないので現在有効かどうか?
https://hitoyoshi-press.com/feature/index.php?kiji_key=1333‎
この地蔵堂は、かつての「常福寺」跡で「薬師如来」を本尊とする「真言宗」の寺院だった。人吉市の「願成寺」の隠居寺として草創され、天文13年(1554)に「二世智心和尚」は一族の暴徒に病床を襲われて殺され、財宝もことごとく奪われた。その霊を鎮めるために地蔵菩薩 ・・・

うちの集落の尾方氏(故人)は お寺から来られていると 聞き込んだことがあったので、尋ねようと思っていたけど 其の儘になっていました。

廃寺になったところは 他にもあり
田代という集落にも 萬幅寺というお寺があったそうです。
どこから来られたのか・・・よその地域かもしれず。
奥さんは五木から来ており
息子の嫁も 五木から来ています。

息子の一人は 最高裁判所に勤めていると 聞いています。
尾方氏も 人吉の裁判所に勤めておられたと聞いています。
うちと同じ 橘紋。

別口ですが 
尾方 という 苗字は 福岡の方の 商人をしていた人が 明の人に教えてもらって 緒方から 尾方へ かえたと いう話をネットで見ました。

うちの平川の地蔵堂があった集落に 親世代に村長を務めた高岡がおり
この間 同級生の子供の結婚式に
遠い親戚だとして 永田(萩の出) 溝口(うちと同じ集落でどちらも同級生)を招いており

溝口については 川向うの平家城跡があったところがもとで 製茶をしており
熊本城に使われていた柱を使って 家を建てている。
溝口という言葉から 新発田が出てくる。
地蔵堂がある集落には 坂本(父の義兄弟) 愛甲(同級生)他 昔につながる家の名がある。   
[72]白石さんからのコメント(2014年12月06日 05時46分52秒 ) パスワード

※天文13年(1554)という年号

※開山は鎌倉時代 遠江国常福寺(静岡県)から相良氏がともなった弘秀上 人
だから 時代がずいぶん下がってからの話だけど 毛利元就なんぞも出てくるので・・・

伊予の戦国史 | So-netブログ
iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name...‎
2010/05/23 - 十二世宥英法印の嫡弟であり、その俗世での出自は★宍戸但馬守景好の子であると記されています。 7歳から宥英法印の下で学び、14歳 ... この願成寺は人吉にあり、代々の相良氏の菩提寺でもある古刹です。 宥雄は高雄山で恭畏から教えを ...


景好の男子で満願寺の住持を務めたと伝わる宥雄法印(良春あるいは良俊)
『防長寺社由来』(以降『寺社由来』)の満願寺の項[3]によれば、この満願寺の住持十三世が宥雄法印です。

肥後人吉願成寺
宥雄法印は後に仁和寺宮の命で肥後の願成寺へ赴き、願成寺十六世堯辰のもとで「地蔵院方一流密法」を極めたとあります。

堯辰―宥雄―覚任(願成寺十八世)

母方・★村上景親ー宥雄法印

四国霊場49番札所西林山三蔵院浄土寺
少しあやふやだけど、
浄土寺を再建
浄土寺には文明14(1482)年、★河野通宣が再建した伽藍

※河野は白石も系図に見え 河野系図の林(拝志)系図に伊藤博文がおり
村上は 先日来 話している 母の母(前妻の方 ここにも佐田の血が入っていては 嫁に来ている)
というように うちと つながっているかどうかは?として
(なにせ うちは 嫡流ではないので)
言葉が出てきます。


[73]白石さんからのコメント(2014年12月06日 06時09分26秒 ) パスワード

伊予の戦国史 | So-netブログ
iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name...‎
2010/05/23 - この願成寺は人吉にあり、代々の相良氏の菩提寺でもある古刹です。 .... 一方、宍戸氏の各種系図の中では『続群書類従』所収のものが、この人物については非常に詳しく、没日は『寺社由来』と同じく、さらに没時に74歳であったとするなど『 ...

宍戸景好嫡流の系譜と★彦根藩
yo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/hikonehan-shishidoshi
元真の実母を示している系図はないように思いますが、生母が景好の正室であれば、★村上景親の娘で、村上武吉、村上通康、河野通直、平岡房実といった戦国期の伊予関係者の多くの血を受け継いでいる存在でもあります。

彦根藩宍戸氏
知真の名は、父元真の一字と★宍戸家の遠祖である★八田知家から採ったものでしょうか。 知真の子孫は代々四郎左衛門、あるいは善左衛門を名乗っており、善左衛門景好の系譜を継ぐものであることは間違い無さそうです。


知真の系譜は後に50石の加増を受けますが、そのまま中級藩士として幕末まで彦根藩に仕えています。 また、「由緒帳」で見る限りは、養子を迎えることもなく元真の血統が続いているようです。


宍戸景好(宍戸但馬守景好) [人物]

関ヶ原の折に伊予侵攻軍を率いたともされる宍戸善左衛門尉景好について、まずは系図資料から見ていきたいと思います。 景好は★宍戸元秀の子で★毛利元就の婿として著名な★宍戸隆家の孫、毛利元就の曾孫にあたり、その名乗りからは★小早川隆景の偏諱を受けていると考えられます。 宍戸氏本家は長兄の元続が継いで輝元の重臣として活動し以降代々一門衆として続きましたが、景好の家系は子の代に萩藩を離れています。

毛利元就 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就‎
毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。

血流のことは ともかく
先日お話した 平賀のいろいろな系につながってくるようです。

八田知家
北畠にも通じ 土御門にも通じ これは 佐田に通じ
族に 高岡もいる。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観. 《八田氏》 ★宇都宮氏へ戻る. 【八田氏】★【筑波氏】【浅羽氏】【浅波氏】【田中 氏】【河那名氏】【高野氏】【中条氏】 【苅田氏】 ※上記の他【菅又氏】【丁野氏】は知家の 末流を称する。 《小田氏》 八田氏へ戻る. 【小田氏】【沼尻氏】【手野氏】【矢田部氏】【 ...

前に調べていた ものを そのまま のせましたが
前に アップしていたかどうか も 忘れましたので また 書いています。
^^
[74]白石さんからのコメント(2014年12月06日 06時40分49秒 ) パスワード

メールの方に 書いたと思いますが 迫力のある歌舞伎役者のような顔の
源義経の家来に始まるという人の家系は 「市郎右衛門」を 名乗っているそうです。代々そうだということで 市郎は 長男? 右衛門は 門を守る?
職名でしょうか?他では名乗れないのでしょうか?

うちの佐田にも ちょこっと これが書いてあり
うちの高岡の方は 戸籍には書いてないけど
ネットにみると 市左衛門で
右  のちがいだなあ と 過去に思って覚えていたのです。

もう一度 屋根裏にのぼってしらべなければ・・・^^

この間から しらべることが出てきて なかなか 進まないのですが

私の夫は やりにくく
食事も 朝昼晩きっちり 同じ時間に食べ
すこしでも遅れようものなら アツアツで食べるものは 直前に出来上がればおいしく食べれるではないか  というものでも 間に合わなければ お茶漬けをかき込んで せっかくつくった 料理もだいなし

そうかと思えば 5時頃食べ始めるのに 夜8時半ころまで 一人宴会を繰り広げる という男なので

なかなか ゆっくり 図書館など いけないのです。
昨日も 弘秀のことを 見に行ったけど 本がいろいろあって 選んでいるうちに時間が過ぎ 帰ってきました。

しらべごとが すすまない ということを 書きたかったのに
愚痴になりましたね。


[75]子孫よりさんからのコメント(2014年12月06日 06時47分02秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

所で・・・
人吉新聞の件ですが・・
「この地蔵堂は、かつての「常福寺」跡で「薬師如来」を本尊とする「真言宗」の寺院だった。人吉市の「願成寺」の隠居寺として草創され、天文13年(1554)に「二世智心和尚」は・・・」
こちらの二世智心和尚とおっしゃる方は、記述を読むと「常福寺」の二世の住職の方という意味ではないのでしょうか?

それと・・・
「※開山は鎌倉時代 遠江国常福寺(静岡県)から相良氏がともなった弘秀上 人・・」
こちらのお話は調べましたら、人吉願成寺の記述でした。
変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究より
球磨入国の際元久年、前任地から弘秀上人(常福寺住職)を伴い、人吉に願成寺(真言宗)を開かせ、相良家の菩提寺としたのも、入国前の仏教の勢力地魅を考慮してのことであったろう。
※前任地から弘秀上人(常福寺住職)を伴い、人吉に願成寺(真言宗)を開かせ・・

他の書籍にも同様の内容が記述されていました。

人吉市の「願成寺」の隠居寺として草創され・・
と言う事ですから、願成寺初代住職が、もと遠江国常福寺住職であった由縁でお寺の名前が「常福寺」という事であったのでは?と推測したのですが・・

間違えていたらすみません(__)

それと
「うちの平川の地蔵堂があった集落に 親世代に村長を務めた高岡がおり」
こちらのお話ですが、昨日「球磨郡誌」を読んでいる時に、こちらの高岡氏の記述があったような・・(^・^)もしかしたら、少し前の世代の方かもしれません・・
コマ番号を確認していないので、よろしければ、球磨郡誌の町村別の記述をご覧になって下さい(^・^)

さあ、今日も、がんばって郷土の事を勉強いたします(^・^)
では<(_ _)>
[76]白石さんからのコメント(2014年12月06日 13時51分20秒 ) パスワード

こんにちは
人吉新聞 の こと
願成寺のことではないか?
そうです。そうです。若いころ 本の方の球磨郡誌を読んで
平川の地蔵堂を知り
ネットで 常福寺を知り 相良氏が 鎌倉から連れてきた僧が開基したのが願成寺と知り

時代が下りて
毛利元就の頃の 願成寺の住職から 井伊 宍戸 毛利 橘etc につながっていくことを知り
私の父母の祖先は やはり 古くにつながっていく と 思います、

本の球磨郡誌の方はコピーして持っているのですが
高岡のことは 書いてあることを 知りませんでした。

さっそく ネットで見ました。
国立図書館のが出ましたが
町村別のところが 厄介で
選ぼうとすれば 画面が勝手に小さくなったり
すぐ どこかへとんで 画面がかわったりします
しばらく 格闘です。 
[77]子孫よりさんからのコメント(2014年12月06日 17時12分20秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨日のコメント70で御紹介した、錦町「西村及び一武」地区の神社に関係した「清原氏」についてですが、錦町役場のサイトにも関連する記述が載っていました。
http://www.nishiki-machi.com/_common/userimage/totteoki/H25_Totteoki.pdf
36.【 大王神社 】
大王地区は古くは、西村の文化的中心であったと考えられます。この大王神社の祭神は土地の神です。昔はこの一帯を中心とする豪族が住んでいて、その勢力を振っていたと考えられます。
豪族に大王の名をつけるのは、他にも例があります。2 〜 3 挙げれば、木上に荒田大王、平河大王がありそれぞれ木上地方の豪族平河義高師高を祀っているし、また山田村の大王、深田村の深田大王、黒肥地の大王等も同じく平河氏の一族を祀ってあります。この点よりみて、西村大王も何がしの豪族を祀ったものであろうが記録に残る豪族はありません。
伝記に、應永元年(1394)清原氏元再興‥‥とあるところをみると、清原氏に関係あるのかもしれません。また、清原氏の事ですが、清原氏は西村の神社と深い関係がある様で、久保宇野の新宮神社を再興したのは、清原成眞であるし、彌勒(みろく)堂の再興者も清原氏の一族であります。

(・_・)とありました。
一部訂正を<(_ _)>
昨日のコメントで
西村神社(西村大王)
社家の傳に依れば昔時西村地主の神と言われている。一説に關東秋良の大王を勸請すとも言ふ。
傳記には「應永元年、清原氏元實再興大永年中修造、元禄七年里民力を戳せて造替」とある。
(・_・)こちらを再興した方は御紹介したサイトの記述から「清原氏元」と言う方のようです。
(@_@)昨日は「清原元実」と書きましたが「清原氏元」が正解のようです。

錦町役場のサイトで確認すると、
※西村大王神社・・・應永元年(1394)清原氏元再興
※久保宇野の新宮神社を再興・・・清原成眞
※彌勒(みろく)堂の再興者・・・清原氏一族
そして球磨郡誌から
一武八幡宮
祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命 日州霧島社同體勸請の一宮大権現、京都北野天神同體勸請の天満天神。
村社にして本社は山城国久世郡石清水八旗八幡同體を勸請せらたもので其の年紀は未詳である。傳によれば舊きは當村小川に鎮座せるを嘉吉四年清原氏某によって今の地に遷宮せられたと言う。
※當村小川に鎮座せるを嘉吉四年清原氏某によって今の地に遷宮

(・_・)と言う事で、なるほど(p_-)「清原氏」のオンパレードです・・

所で・・西村大王神社を再興した「清原氏元」この方ですが
「氏元」・・・
大江氏 長井時広の系「長井挙冬」の子息に「氏元」と言う方がいらっしゃいます。
日本の苗字七千傑様の《長井氏/福原氏》姓氏類別大観 で拝見いたしました。
(大きな視野で見なければと思いまして、大江氏まで目を向けてみました(__))
「一文字に三つ星」の家紋が何だかめちゃめちゃ気になります(p_-)

そもそも・・西村も永吉庄も大江広元が預所であった訳ですから・・・(p_-)
長井挙冬 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%8C%99%E5%86%AC
長井 挙冬(ながい たかふゆ、生没年[1]:正和3年(1314年)-貞和3年(1347年)3月24日)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・大江姓長井氏(泰秀流)の当主。通称は右馬助[1][2

この方の子供が「氏元」。時間軸で見ると合っています・・
でも、名前で探すのはやはり慎重にならなければいけませんので・・確証はありません(ー_ー)!!

「清原氏」・・・・
遡ると、平河師高の代わりに宇野御厨小値賀島地頭職に補任された「尋覚」は、母方が「清原氏」という事でした。

何だかモヤモヤ致します(-_-)

モヤモヤしてばかりはいられませんの(ー_ー)!! 勉強!勉強!
では<(_ _)>(^・^)
[78]白石さんからのコメント(2014年12月06日 22時59分20秒 ) パスワード

こんばんは
今日面白いものをネットで見ました。
作家 小山勝清の父から息子への手紙です。
その中の 晴山から4キロほど上流にある集落で 長姉の池井ちや一家が住んでいた。
という ところです。

池井氏は 
子孫様にご紹介いただいた 北岳神社の中で 池井氏の名がありました。

実は
小学校の子供たちが 村の歴史を調べたサイト(今は 閉じられているようです)

勝清先生の娘・教育委員長をしていて 北岳神社のひひ踊りには 晴山の子供たちも参加するが その踊りは その娘さん(もう おばあさんですけど)が考えたそうです。

父から息子へ: 作家・小山勝清の手紙 - 36 ページ
小山勝清 - 2002 - ‎プレビュー
晴山から四キロほどヒ流にある集落で、★長姉の池井ちや一家が住んでいた。灯子は村山一壺一緒になったのだが結婚式は挙げていなかった。大谷は父の生家がある四浦村(後に相良村)トモェ)は母の妹で人吉市に在住。

多分 平川集落の川向 少し 川辺川をさかのぼったところ に 晴山があり、さらに 川辺川をさかのぼること 4キロほど 大谷があります。
晴山の奥にも 大谷と 地図に出ていますが 違うと思います。
大谷 私の父が 戦後 山に登るために家土地を買ったところ。

その 大谷集落に 池井校長先生がおられました。
ここの 山の上・萩 に 高岡 永田 田中 高田があったのです。

ちなみに 私が書いた おてらから 尾方に来ている人
父が買ったのは この尾方が持っていた家で その前は 黒肥地の家だったそうです。
家の造りは 仏間に 半畳ほどの 板の檀が3つあり それが 両横は 少し 檀が低くなっていて ちょうど お寺で 仏様を 3体おける ような 形でした。
その横の部屋が 床の間がある部屋で 床の間の横は 掛け軸とか かけるような 広い 棚(といっても 下が 畳と同じ高さ ・間 天井まで 空間)があり、長押が ありました。そこが 欄間で 結構なつくりでした。

農作業は 人手が必要で 尾方の時は 親戚も 同じ家に暮らしていたようです。
うちの 高岡も ずいぶん多くの人が 暮らしていたようです。
戦後 父など 母と家族だけで暮らしていて 手がたりなかったようです。
★小山勝清先生の子供に 池井という人がおり
★父が戦後買い求めた家の持ち主をたどれば 黒肥地→尾方→父 と 変換している。

★黒肥地は 黒肥地神社があり黒肥地にその名がありますね。



[79]子孫よりさんからのコメント(2014年12月07日 08時52分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

「農作業は 人手が必要で・・」
古き良き時代ですね。地域そして親戚皆、一致団結して農作業を行っていたと言う事ですね。

戦後の政策で、宮原も平川も土地が大変少なくなってしまったと父が言っていました。

残った宮原の農地は星原家が引き継いで農業をされています。
私の実家にも農地があるのですが、祖母は農業が出来なかったので、数年前まで、親戚に全てお願いしていました。
今は、あさぎり町に農地を貸していると父が言っていました。
町の方が家の農地を使ってお米を作っているようです。
もちろん、私が故郷に帰っても、絶対に無理です。
農業は奥が深く、現代は、日々進歩、改良が進み、其々の個人農家で、独自に様々な研究をしていると叔父から聞きました。
そのような、難しい事は、私には絶対に無理(ー_ー)!!
実家の敷地内に個人菜園を作ったら?と言われるのですが、大丈夫かな??と不安です。でも、家で食べる野菜を作るというのは、楽しそうだな(^・^)と思います。

考えてみると・・・
平川も農地での作業は全て親戚にお願いしていました・・
今は、おそらく、家と一緒で、町に貸し出してお願いしているのでは・・??

所で・・
今は、田んぼに変わった、平川の土地に以前小学校があったとお話したと思うのですが、その小学校に係わる記述で驚くべき事実を発見?致しました。

後ほどコメントさせて頂きます。
では<(_ _)>
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年12月07日 10時50分57秒 ) パスワード

では<(_ _)>

平川の土地にあった「府本小学校」についてです。

球磨郡誌の中に岡原尋常高等小学校について記述がありました。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262
コマ番号 263 です。

ピックアップして転記致します。
明治七年四月元宮原村岡本村併合小学校として創立し、宮原村字外園稲積神社拝殿内に開校す。
坪敷三十七坪。明治十三年四月宮原村字外園に新築し、十八年に改築落成す。・・・略
大正十一年五月校舎移転増築、現校舎之なり。

\(◎o◎)/!
宮原村字外園稲積神社拝殿内に開校・・・稲積神社拝殿内???

(・_・)続けましてあさぎり町サイト学校の概要より
あさぎり町立岡原小学校
http://es.higo.ed.jp/okaharues/gaiyou/

 学校の沿革

明治7年  4月     府本小学校創立、
             府内稲積神社拝殿に附設草葺平屋37坪
明治13年 4月 1日  外園に移転開校
明治18年 3月 1日  移転開校
明治21年 9月 12日 麓小学校と改称
明治26年 9月 8日  岡原尋常小学校と改称
明治40年 3月     高等科併置 岡原尋常高等小学校と改称
明治41年 3月     高等科廃止
大正 5年 3月     高等科併置
大正10年 9月     別府桧山現在地に移転増築

(・_・)最初の学校名は「府本小学校」
  ※ 府内稲積神社拝殿に附設
  ※ 外園に移転開校
  ※ 別府桧山現在地に移転

\(◎o◎)/!と言う事は・・平川の土地には稲積神社が建っていたと言う事です。
そして、その後「外園」(どう言う意味でしょうか?神社の外?)に移築。
別府桧山は、家から1キロ程先になります。私が卒業した小学校です。

神社があったことすら知らなかったし「府本」とか「府内」とか「外園」とか・・初めて聞きました。
とりあえず、祖母から聞いていたのは最初は平川の土地に小さな学校が出来て、その後、同じ敷地内で建物が大きくなって、そして桧山に移転した・・と言う事です。
祖母は小学校に入学した年まで、学校が家の近くだったけれど、その後、すぐに遠くなって、「折角近かったのに・・(@_@。」と思ったと言っていました。
そういえば、役場も平川の土地、学校の横に建っていたと聞いています。

(・_・)稲積神社がすごく気になりまして、球磨郡誌の神社史を読んでいたのですが、さらに驚く事を見つけました・・

球磨郡誌 岡原村神社史 コマ番号299 です。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

岡原神社についての記述を読むと、沢山の神社を合祀された事がわかります。
というか・・実家周辺にはものすごく沢山の神社があった事に驚きました。
その中の記述に「外園鎮座菅原神社」とあります。
そして「麓」には・・麓鎮座八坂神社祭神須佐熊男命を合併そして麓鎮座麓大神宮祭神天照大御神。

と言う事は・・平川の土地「府内?」には「稲積神社」と「外園」には「菅原神社」
そして同じく平川の土地「府本?」「麓」には「八坂神社」と「麓大神宮」が建立されていたという事になります・・

あんにゃ〜〜〜〜〜!! 知らなかった\(◎o◎)/!

そう言えば・・・・今年の正月、実家で起きた不思議な出来事の際に父が「近くの神様が私の顔を見に遊びに来られた」とか訳のわからない事を言っていましたよ〜〜〜??
(それは、関係ないか(ー_ー)!!)

所で稲積神社についてですが・・
最初はお稲荷様かな?と思ったのですが・・豊後との繋がりが気になって、豊後の稲積神社について調べてみました。

大分県宇佐市 稲積六神社
http://www.genbu.net/data/buzen/inazumi_title.htm

御祭神
伊弉册尊 速玉男命 事解男命
国常立命 火産霊命 彦火々出見命

10号線から耶馬溪へ向う44号線(宇佐本耶馬溪線)を南下。
しばらく走ると、眼前に円錐形の典型的な神奈備山が見える。
南下して、5Kmほどの場所にある稲積山だ。
稲積山の麓、伊呂波川の側にある神社が当社。
神社への道は狭く、車一台がやっと通れる幅。

宇佐神宮に関する辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、
宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、
紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、
乙・社、 酒井泉社、 瀬社、 鷹居社、 小山田社、 現社地へと移ったとする。

その「宇佐郡辛国宇豆高島」が、この稲積山ではないかと、
「八幡信仰」において中野幡能氏は指摘する。
山の北側に「スエ村」があり、古くから辛嶋氏が居住した地。
また、修験道とも関連の深い山である。
求菩提山で千日行を行う修験者は、高瀬村ヤハタ八幡宮の海岸で禊をし
ここ、稲積山権現参拝で峰入行を終了する。

稲積山という名からは稲荷系を連想するが、祭神は熊野系。
それが原始八幡信仰と関連があるというのも面白い。

(・_・)そうか・・・・


(・_・)球磨郡誌の中にあった記述では、宮原村の稲積神社について
祭神 天御中主神右五神 とありました。
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、日本神話の神。天地開闢に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。
『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。

『日本書紀』本文には記述はなく、第一段で6つ書かれている一書のうちの第四の一書にのみ登場する。そこでは、まず国常立尊、次に国狭槌尊が表れたと書き、その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という」と書かれている。この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわからない。なお、他の一書では、最初に現れた神は国常立尊(本文、第一、第四、第五)、可美葦牙彦舅尊(第二、第三)、天常立尊(第六)としている。
神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味である。宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。
『古事記』、『日本書紀』とも、その後の事績は全く書かれておらず、中国の天帝の思想の影響によって机上で作られた神であると解釈されてきた[1]。 しかし天之御中主神には倫理的な面は全く無く、中国の思想の影響を受けたとは考え難い[2]。天上の神々が、その宗教的現実性を喪失して「暇な神」となる現象は、一般的に見られることである[3]。
中世に伊勢で発達した伊勢神道においては、神道五部書などで、伊勢神宮外宮の祭神である豊受大神の本体が天之御中主神であるとされた。これは、伊勢神道の主唱者が外宮の神職度会氏であったため、外宮を始原神である天之御中主神であると位置づけることで、内宮に対する優位を主張するものであった。伊勢神道を中心とする中世神話において、天之御中主神は重要な位置を占める神格である。
平田篤胤は禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、その万物の創造神という観念の影響を強く受けた[4]。そして『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては究極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。

(・_・)宮原村の稲積神社の祭神は上記の「天御中主神右五神」であったと言う事ですね。

それから「菅原神社」はやはり、平河が安楽寺領の預所請だったからかな・・・・??なんちゃって・・やっぱりわかりません(ー_ー)!!

でも「府本」とか「府内」ってどういう意味でしょうか??

「府」と言えば、イメージは行政的?な感じなのですが・・

あっ??!平河師澄は国衙の役人として球磨に下向して・・子供が4人。それぞれ郡内の勝地?へと・・・
もしかして・・ここ??・・・・やっぱりわかりません(ー_ー)!!(@_@。

でも・・本当に驚きました。今や、田んぼと化したあの場所に神社があったとは。

そういえば・・私、以前、コメントしていたかも?です。
実家周辺は、何だか神社のようなパワーを感じると・・・・?

と言う事で、この件は重要な意味を持っているような気がします!
では<(_ _)>
[82]子孫よりさんからのコメント(2014年12月07日 18時31分48秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昼のコメントで書かせて頂いた
宮原村字外園にあった稲積神社の御祭神
「天御中主神右五神」

あれから、少し勉強したのですが・・
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ) そして「右五神」と言う事は・・
別天津神(ことあまつかみ)と言う事ですね。(やっと意味がわかりました(__))

別天津神(ことあまつかみ) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E
別天津神(ことあまつかみ)は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々を云う。
『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神[1])として成って、そのまま身を隠したという。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神
神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神
その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神(あめのとこたちのかみ)
これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。別天津神の次に神世七代の神が現れた。

(・_・)こちらの神々を御祭りしていた神社が
宮原村字外園の稲積神社。
そして、その場所は平川の土地であった・・・と言う事ですね・・

(・_・)父にすぐに電話してこの事を話したのですが、父は何故か?「ものすご〜〜〜〜く」驚いていました。
父も、「あの場所」に神社が建っていたとは本当に知らなかったようです。
「恐れ多い事に、あそこで遊んでたゾ」と言っていました。
(ー_ー)!!でも、学校があった訳ですから・・父が子供の時に遊んでいても神様も何もおっしゃらないと思いますが・・

でも、今までの私の父への調査の報告?の中で、今日のお話が一番、父が反応して驚いていました。
(あまりに父が驚くので、私はすこし不思議?になってきたのですが、それは、私がまだまだ勉強不足という事なのでしょう・・)

と言う事で、お昼の続きでした。
では<(_ _)>
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年12月08日 09時57分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

こちらのスレッドもすでにコメント83まで進みました。

沢山の御教示、本当にありがとうございます。

新しいスレッド 平川家について20を立ち上げました。

今後とも、どうかよろしくお願い致します<(_ _)>

平川家について20 に続きます
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