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 投稿番号:101362 投稿日:2014年08月07日 02時03分28秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について14

コメントの種類 :その他  パスワード

気が付けば、前回すでにコメント90に達していました。

前スレッドにおきましても、皆様からの御親切なご教示により、沢山の情報を頂く事ができました。

本当にありがとうございます。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。<(_ _)>(^・^)
平川家について13 スレッド90からの続きになります。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_90.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年08月07日 02時14分09秒 ) パスワード

平川家について13コメント90より続けます。
では<(_ _)>

「平川家について12」コメント1でご紹介した平川師澄についての調査をまずピックアップして転記致します。(・_・)

球磨郡誌 - 130 ページ より googleブック検索
右衞鬥蒹・は良岑大納言安世の後裔平川師澄(師澄の遣筠は本文五八頁釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び相良氏の. ... 中衛の諸村(未祥)豊前國菊郡(企救郡か未詳)肥^の國相真全領地兹に於て相良の領は、肥後球麻 ...
★平川師澄・・遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・
釈迦岳・寺井・佐賀郡新北村

これらの事を踏まえ、調査範囲を九州全土に広げて、まず「師澄」の痕跡をさがしました。

すると
藤原氏族系図 - 52 ページ より
直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居し、平氏となりて相馬を称し、家紋も繋ぎ馬を用うという。註当社刊桓武 ... 同清漫へき師澄に作る。左衛門太郎。 ... ここに於て直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。且詔して其族 ....
★直澄より幸澄にいたりて六代の間常陸国に潜居
★平氏となりて相馬を称す
★清漫へき師澄に作る。左衛門太郎
★直澄従五位下、遠江権守に叙任し、肥後国藤これを上御霊社に併祀す。

直澄・師澄・幸澄 という人物を手掛かりすると・・解りました
「藤原純友」に繋がっています。

日本の苗字七千傑様の【藤原氏長良流】姓氏類別大観 を拝見しました
純友 → 諸純 → 直純 → 師純 → 永純 → 清純
そして、こちらは「有馬氏」と「大村氏」に繋がっています。

★有馬氏は、以前、「平川家について10-1」コメント10でご紹介した、実家近くの庚申塔に「有馬」の名が残っていて、何故?ここに?と・・

ただ、最初にご紹介した 「藤原氏族系図」との記述とは若干異なるようで、こちらでは「常陸国に潜居し、平氏となりて相馬を称し」となっています。

九州中世社会の研究より
長谷場三氏は、それぞれ直澄が大村、高来、鹿児島に来住したとする系譜を作成してしたその庶家であることが明らかにされている。 ... なお「長谷場系図」は直純について、直澄―師澄―永澄―清澄ー行澄―経澄―朝澄としているが、『長谷場系譜』はややこれと ...

島原半島戦国史: 高陽史譚
本郡が大村氏の治下に磨せしこ亡を盃詔せん亡するものあり 0 夫に就ての解詑は後に譲る。大村氏は直澄の後を子師澄緯ぎ、師澄の後は永澄。清澄。娃澄等子孫相博へて幸澄に至る。大村氏家系藤原鎌足|不比等|房前|其楯|内麻呂|冬嗣|長良|遼網|良範コ.

しかし
寛永諸家系図伝: 索引を見たのですが
「有馬氏」「大村氏」それぞれに「師澄」の名は記述されていませんでした。
「師澄」この方はどこに行かれたのでしょうか?

藤原純友 寛平5年(893年)? - 天慶4年6月20日(941年7月21日))

系図で言うと「師純(師澄)」は曾孫にあたります。

平河の「師澄」が球磨の記述に登場したのが1063年。

平河の「師澄」と関係はないのかもしれませんが
九州全土に「師澄」の調査を広げた結果、「藤原純友」の曾孫「藤原師澄」
この方の情報がありました。

ただ、最初にご紹介した
平川師澄・・遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・
★佐賀県です・・・?

(・_・)という事だったのですが・・

この時は、必死で「平河」と「大村氏」の関係を探ったのですが、未だに解ってはいません。
ただ、この調査で私は、見落としをしていたのです(+_+)

時代は下りますが、後世で「大村氏」と繋がっていたのは「橘(渋江氏)」でした。

渋江系図 「渋江公勢」からをご覧ください。
http://tatibanaya.web.fc2.com/shibue.html


渋江公勢 
生没年未詳。渋江下野守公忠の男。右馬頭・薩摩守。妻は後藤職明の女。長島庄河古日鼓岳城主。相続争いにより大永7年(1527年)3月次男の公政・公政乳母これとともに三男公親に毒殺される。
★妻は後藤職明の女

後藤職明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%81%B7%E6%98%8E
後藤 職明(ごとう しきあきら/しきあき 生没年不詳)は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第17代当主(武雄領主)。第16代当主後藤正明の子。

応仁の乱の後、西肥前は、小城の千葉氏や、高来の有馬氏、平戸の松浦氏の勢力下にあり、後藤氏はこれらに囲まれた存在であった。これらに対抗するため、文明15年5月(1483年6月)、職明は、同様の存在であった長島庄潮見城主橘姓渋江公直、伊万里城主の伊万里仰、鹿島の在尾城主の大村胤明と同盟を結んでいる。その後、職明、渋江公直、大村胤明の三者は橘姓中村公継に藤津郡大草野(現在の嬉野市塩田町大草野)の北部を与えたという。

★子がなかったことから自らの娘と潮見城主である橘姓渋江公勢の間の子(後の純明)を養子とした。

では続けます(・_・)
後藤澄明
生没年未詳。渋江薩摩守公勢の男。母は後藤職明の女。後藤職明の養子。

後藤澄明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E7%B4%94%E6%98%8E

後藤 純明(ごとう すみあきら/すみあき ? - 天文22年3月18日(1553年4月30日))は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第18代当主(武雄領主)。第17代当主後藤職明の養子(実父は渋江公勢)。幼名千代童丸。

長島庄潮見城主である橘姓渋江公勢と第17代当主後藤職明の娘の間に生まれる。後藤職明に子がなかったため、職明の養子となる。永正16年(1519年)、後に武雄鍋島氏の菩提寺となる円応寺を開く。大永7年(1527年)、実父渋江公勢が毒水を飲んで死んだのを好機として、渋江氏を攻略し長島庄を自己の領地とした。享禄3年(1530年)、有馬晴純が武雄の塚崎城を攻め、山内の住吉城にまで迫った。純明は、勝利を黒髪山に祈り、三間坂の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲して勝利した。このとき、戦勝を祝って足軽達が踊ったのが今も続く武雄の郷土芸能「荒踊り」の起源であるという。その後、純明と有馬晴純は和睦し、純明は有馬晴純の妹を妻として両者は義兄弟の間となった。

中略・・
天文14年(1545年)、大村純前の実子(庶子)であった又八郎(後の貴明)を養子として武雄に引き取った。

★後藤純明(実父 渋江公勢)は有馬晴純の妹を妻として両者は義兄弟の間となった。
★のちに大村純前の実子、貴明(後の後藤貴明)を養子として引き取る。
※大村純前(大村氏の当主)の妻は後藤純明(実父 渋江公勢)の娘。すなわち後藤貴明は後藤純明の孫です。

続けて・・
後藤家信(竜造寺家信)
竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明の女。後藤貴明の養子。後藤家は竜造寺一門に列らなることになり、隆信の跡を継いだ竜造寺政家より竜造寺の姓を賜り竜造寺姓となった。しかし竜造寺宗家の断絶に伴い、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められ国政を執ることとなり、子孫は鍋島家へ仕え、鍋島姓を賜る。家信はルイス=フロイスの『 日本史』に、キリスト教への理解を示した人として紹介されている。

★竜造寺隆信の三男。妻は後藤貴明(渋江公勢の曾孫)の女。後藤貴明の養子。
★隆信の跡を継いだ竜造寺政家より竜造寺の姓を賜り竜造寺姓となった。
★竜造寺宗家の断絶に伴い、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められ国政を執ることとなり、子孫は鍋島家へ仕え、鍋島姓を賜る。

では続けて後藤家信(竜造寺家信)の父 「竜造寺隆信」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E9%9A%86%E4%BF%A1

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前の戦国大名。
“五州太守”の称号を好んで用い、肥前の熊ともいわれた。仏門にいた時期は中納言円月坊、還俗後初めは胤信(たねのぶ)を名乗る。本姓は藤原氏を称した。大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で敗死した。

生涯[編集]
家督相続[編集]
享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家(肥前佐嘉水ヶ江城主)の長男として生まれる。幼少期は宝琳寺の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。
天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺される。隆信は曽祖父の家兼に連れられて筑後の蒲池氏の下へ脱出した。翌天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その直後に家兼は高齢と病のために死去した。このとき、家兼は隆信の器量をすでに見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残している。
こうして隆信(還俗後のこの時期は胤信と名乗っていた)は水ヶ江龍造寺氏の家督を継いだ。その後は龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。
天文17年(1548年)、龍造寺胤栄が亡くなったため、隆信はその未亡人を娶り、本家の家督も継承することとなる。しかし隆信の家督継承に不満を持つ家臣たちも少なくなく、隆信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、またその偏諱(「隆」の1字)を受けて隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣たちの不満を抑え込む。
肥前統一[編集]
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣の土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。

(・_・)とここまで、転記しました・・・

「平川家について12」コメント1で「平河師澄」を調べて、「師澄遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・
という記述を見つけて、同名の「師澄」という名から「大村氏」「有馬氏」を調べたのですが、その時は「平河」に関する情報は何も見つからず・・

しかし、
後世においては、「大村氏」「有馬氏」に姻戚関係で深く関係していたのは「橘(渋江氏)」であったと言う事が解りました。

渋江氏は橘公業の孫「橘公村」を家祖とする・・

渋江氏は肥前後藤氏とも姻戚関係を築いていた・・・

肥前後藤氏については
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_goto.html

後藤氏は、鎮守府将軍藤原利仁の五代の孫公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという。肥前の後藤氏は公則の曾孫坂戸判官章明が、肥前国墓崎(つかざき)の総地頭になったことが最初である。坂戸は河内国にあり、公則は河内守にも任ぜられ、章明の祖父則経も河内守であったことから、後藤氏は河内国と関係を持ち、ついには土着して在地豪族化していったものと思われる。

★鎮守府将軍藤原利仁の五代の孫公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという。

前スレッド、平川家について13 コメント63で、私は「伊賀守」を調べた時に「藤原公則」について、簡単に調査していました。

と言う事は「伊賀守」に関して言えば
@「妻が二階堂行政の娘」であり A多氏の一族であり B橘則光(母:良峯義方娘)の後裔にして橘公長・公業と同族であり
C徳大寺家実定・実家と親密な交流があり D娘が藤原長方の曾孫の妻である
そして・・
E後藤氏の「祖」

これらの方々が伊賀守に名を連ねていらっしゃったと言う事です。

伊賀守の件につきましてはこれまた偶然かもしれませんが・・

しかし、「平河」を調査すると「宮原」いえ(ー_ー)!!「橘」に繋がると言う事に関しては、「偶然」ではない(ー_ー)!!と私ははっきりと感じています。

間違っているでしょうか?

では<(_ _)>
[2]子孫よりさんからのコメント(2014年08月07日 08時16分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日は、2時間ほどしか寝ていません。
(でも、大丈夫です。私は、今、時間は沢山ありますので「宮原プー美」ですからいつでも寝れます(^・^))

所で、少ない睡眠時間の中で夢を見ました。(マタマタ(ー_ー)!!と言わないで下さいね)
夢の中には、なにも映像は無く、ただ、遠くから声が聞こえていました。
その声は「たか」とか「とら」とかイメージ(猛獣?)の名を呼ばれていました。
「とー」や「どー」という叫び声も聞こえてきました。

そこで目が覚めたのですが・・

以前、伺った夢と深層心理の関係なのかな?と考えながらもしばらく「ボー」っとしていたのですが、昨日のコメントをもう一度読み返そうとこちら「平家物語を熱く語る」のbbsを開いて・・・
ハッ!!\(◎o◎)/!としました。

久居の服部家様の 「藤堂高虎に仕えた服部家」
こちらのスレッド名を見て「とうどうたかとら・・あっ!」と。

「藤堂高虎・・?」

久居の服部家様の 「藤堂高虎に仕えた服部家」。こちらのスレッドは、拝見していたのですが、何せ、歴史が全く解っていない上に、自分の調査で登場する内容を理解するのが精いっぱいで、「空の青海のあを」様と「久居の服部家様」のコメントを拝見して、お二人が、とても詳しくお調べになっていらっしゃる事に、尊敬をして「お二人ともすごいな〜」と思っていました。

しかし、コメントを拝見しても、無知識の私にはとても難しく感じて、「必ず、勉強をして、他の皆様のスレッドを読ませて頂いた時に、理解出来るようになりたいな〜」と・・・

そして、「夢」の言葉は「「藤堂高虎・・?」ではなかったかと気が付いたのです。

「空の青海のあを」様と「久居の服部家」様には大変申し訳ないのですが、私「藤堂高虎」という方を全く存じていませんでした。

夢に出てきたと言う事は、何か、私の調査と関係があるのかも?と思いまして「藤堂高虎」と言う方に関して、少しだけですが勉強させて頂きました。

藤堂虎高 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E8%99%8E%E9%AB%98
藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。

近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。
若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。
婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男高則は早くに戦没したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲び白雲斎と号した。慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去。享年84。

★近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。
(・_・)藤原姓毛利氏(鯰江氏)・・あっ!となりました(+_+)

藤原姓毛利氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F_ (%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F)

毛利氏(もうりし・藤原氏系)は、宇多源氏(佐々木氏嫡流六角氏流)であるが、養家の姓により藤原姓を称する。後に織田家の家臣となり豊後国に2万石で入封した。
歴史[編集]
宇多源氏の末裔で佐々木氏の嫡流にあたる六角満綱の子高久が、藤姓三井乗定の養子となって、近江国愛知郡鯰江荘にあって鯰江姓を称した。鯰江氏は代々六角氏に仕えるが、鯰江定春の代に織田氏に攻められ鯰江城を失うと、同郡内森に移住し森を姓とする。
定春の弟森高次は織田信長に仕え、尾張国中島郡に領地を得る。豊臣秀吉が台頭し、中国攻めの総大将となると、高次の子高政はその幕下となって播磨国明石郡に約3,000石を得る。
天正10年、秀吉と中国の毛利氏が講和した際、高政は人質として毛利氏のもとにとどめられた。その折り毛利輝元より毛利姓を与えられ、森姓から改姓した。文禄2年(1592年)に豊後国日田郡、玖珠郡2万石を所領する大名となり、関ヶ原の戦い後の慶長6年に豊後国佐伯藩に移封される。以後子孫は佐伯藩主として続いた。
なお、三井財閥当主家三井家の所伝によると、三井家は鯰江氏と同じく三井高久を祖とし、同族にあたるとされる。

(@_@。
白石様、すみませんでした(__)

私、何も理解出来ていないのに、「平川家について13」スレッド85で、
「毛利景行」が「藤原景行」とある事に対して
「薬上助局の子供「毛利景行」が「藤原景行」ともあるのは、祖母方の「藤原」を名乗った事があると言う事かな?と私は解釈したのですが・・・」

などと、本当に適当な事を書いてしまっていました。

「空の青海のあを」様「久居の服部家」様
もし、私のスレッドをお読みでしたら、お詫び致します。
適当な事を書いてしまって、本当にすみませんでした。
しっかりと勉強させて頂きます。

藤原姓毛利氏のウィキの情報にありました・・
森高次の子、森高政は
「天正10年、秀吉と中国の毛利氏が講和した際、高政は人質として毛利氏のもとにとどめられた。その折り毛利輝元より毛利姓を与えられ、森姓から改姓した。文禄2年(1592年)に豊後国日田郡、玖珠郡2万石を所領する大名となり・・」

こちらに玖珠郡とあるのですが・・
調べていないので適当な事が言えないのですが、
玖珠に「豊後森」という場所がありまして、私、月に1〜2回はこちらに伺います。
大分県の九重や、熊本県小国町のわいた温泉には頻繁に出かける事を以前もコメントしていたと思うのですが、高速道路は使わずに、小倉から出発して豊前市を通り、耶馬渓を過ぎて、いつも豊後森に抜ける道を使っています。

豊後森は大好きな町です。
旧豊後森機関庫・豊後森機関庫転車台など映画に登場する、昭和の遺産もあります。(今、パンフレットを手にコメントを書いています)

豊後森の古城跡にも2年程前に行った事があります。
その他、名称はすぐに思い出せないのですが、奇岩が目の前にそびえ立つ有名な渓谷がありまして、そちらにも伺いました。
豊後森では必ず道の駅で野菜を買います。こちらの野菜も私にパワーを与えてくれるような気がして、必ず買うのです。

何だか、脱線しましたが、もしかしたら「豊後森」とは「森氏」に関係があるのでしょうか?

先日、阿蘇に行ったお話をコメントしましたが、この時は小倉→福岡県添田町 → 英彦山 → 宝珠山 → 日田 →阿蘇神社 というコースでした。

実は先月はもう一か所出かけていまして・・
宝珠山・東峰村の棚田を見てきたのです。こちらには毎年伺っています。

ただ、この時に棚田のすぐそばの山道の標識が「釋迦岳登山道」となっていまして・・
ものすごく気になったのですが、一緒に行った人に変な気分を与えてはいけないので、何も言わなかったのですが・・

帰りにその方が選んだ道は「釋迦岳登山道」を経由して、英彦山に抜ける道でした・・

この時、助手席に乗っていた、私の頭の中は、昨晩コメントした、あの記述
「「師澄遣筠?が釋迦岳にあ寺井、(佐贺郡新北村か未詳)、等の各地を領するに及び・・」でいっぱいでした。

全て、何かに導いて頂けていたのかもしれないと痛感しました。

皆様からのご教示にも、私がすぐに「ピン!」とこなくて・・
本当にすみません(@_@。

勉強あるのみです。
がんばります(__)
では。
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年08月07日 11時44分41秒 ) パスワード

管理者a様へ

前スレッドとのリンクを設定して下さいまして、ありがとうござます。

いつも、うっかりしていて、今回もすでにコメントが90に到達していました。

申し訳御座いませんでした。

こちらのスレッドを利用させて頂いたお陰で、先祖について詳しく知る事が出来ました。

今後も、しっかりと勉強させて頂きたいと思います。

どうぞ、よろしくお願い致します。
[4]白石さんからのコメント(2014年08月08日 01時51分32秒 ) パスワード

こんばんは
純友
この言葉が出るサイトを見ていました。
良峯安世の母・飛鳥部奈止丸女子・継 百済永継
飛鳥部について
関東における難波吉志族たち  というサイトで
「武蔵国造の争い」

武蔵国は545年の「同族同志の争い」から始まります。同族とは「吉士族」の事を指し、当時の国造職「笠原首使主」と「小規族」が、この「国造職」を巡り政権争いをするのです。「小規」は当時の上毛野「小熊族」に救いを求め使主は畿内政権の援助を得、「小規」を敗って「武蔵国造」となり、その援助の代償として「横瀬・橘花・多氷・倉巣」(現、比企郡吉見町付近・川崎市住吉から横浜市日吉付近・多摩郡・横浜市付近)の四個所を屯倉として時の天皇・「安閉天皇」に献上。
大化元年(645年)穂積昨ら8人が東国・国司に任じられましたが、その具体的な事は朗かではありません。そして北埼玉郡にあったとされる国府をその後、府中に移し、「武蔵国守」の初見は大宝三年(703年)に任じられた「引田朝臣祖父」でした。★「小規族」は、後の群馬県都賀郡に拠点を持つ★「壬生氏」になり、また★「藤原純友」がいた★「小野氏」ともなります。
・・・
武蔵国に居た吉志族には「壬生吉志・壬生部公・飛鳥部吉志」が、「飛鳥部吉志」といわれたのは「飛鳥部・飛鳥」で★「飛鳥部。百済国の人、国本木吉志の末なり」とあり、河内国安宿郡(あすかべぐん・現大阪府南河内郡)の地名に基づきます。
この「国本木吉志」という人名は無く参考とする名として「木吉志・木貴公」と同じとする説があり★「林連条」からの氏族かも知れません。飛鳥部氏族は「飛鳥部智万呂」などがおり、飛鳥部吉志「飛鳥部吉志五百国」が橘樹郡(横浜市・川崎市の一部)また隣接していた久良郡(横浜市金沢区辺り)も勢力範囲だったかも知れません。
・・・・・・
関東の「難波吉士」達は、時代、名を変えて関東に浸透し、「壬生吉志・吉士族」は平安初期までに★「安倍(阿部)」と称するようになったのです。

参考文献 埼玉人物辞典・滋光寺・地名と由来と・大系 日本の歴史
     江南町教育委員会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
有馬も林も集落にあり 小野という集落もあり
うちの平川のおばが 林のことを「私らは林を屋敷というとっとばい」といっていて、それは 敷地が大きいというだけではなかった 感じでした。
[5]子孫よりさんからのコメント(2014年08月08日 16時00分04秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

台風が近づくと、毎回、体調が悪くなるので、2週連続でちょっと気分がすぐれませんが、とりあえず、頑張っています。

白石様、ご教示ありがとうございます。

「関東の「難波吉士」達は、時代、名を変えて関東に浸透し、「壬生吉志・吉士族」は平安初期までに★「安倍(阿部)」と称するようになったのです。」

まだまだ、勉強不足で、「飛鳥時代」の事となると全く無知識です。(お恥ずかしい(__))

勉強しなければと思い、伺った「難波吉士」を少しだけ調べました。
難波 三綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E4%B8%89%E7%B6%B1

難波 三綱(なにわ の みつな[1]、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は吉士。
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側につき、都を脱出した大津皇子に同行した。

難波氏(難波吉士)は渡来系の氏族であるが、吉士族は阿倍氏の管理下に置かれていたことから、阿倍氏の遠祖である大彦命の後裔を称した[2]。

壬申の乱の勃発時、三綱は近江宮がある大津にいたらしい。大海人皇子が挙兵を決めたとき、その子高市皇子と大津皇子も敵の本拠である大津にいた。二人はともども都を脱し、二手に分かれて父のあとを追った。難波三綱は大津皇子の一行に加わり、25日深夜に伊勢国の鈴鹿関に到達し、翌朝朝明郡の迹太川の辺で合流を果たした。ともに朝明郡にたどりついたのは、大津皇子のほかに、大分恵尺、駒田忍人、山辺安摩呂、小墾田猪手、埿部眡枳、大分稚臣、根金身、漆部友背であった。この後の内戦で難波三綱が果たした活動については記録がない。

(・_・)難しいお名前の方が沢山いらっしゃいます・・(実は私、ものすごく漢字が苦手なのです。きっと、歴史が苦手だったのは、名前や漢字を覚える事が苦手だったと言う事だろうとこの頃痛感しています(@_@。でも、克服できるように頑張ります)

高市皇子とは「高階氏」の祖となられる方ですね。
(このあたりは、日本の苗字七千傑様の「高階氏」姓氏類別大観のページを拝見した時に勉強しました。といっても、今、再度確認したのですが・・これまたお恥ずかしい(__))

この時代の情報をご教示頂いた時に、すぐに「あっ!」とピン!と来るように、勉強あるのみです。

白石様は私を導いて下さる「ものすごい能力」をお持ちですから、ご教示の点と線が私の頭でしっかりとつなげる事が出来るように頑張ります(^O^)/

調査の進捗(というか勉強ですね)は次のコメントで。

では<(_ _)>(^・^)
[7]子孫よりさんからのコメント(2014年08月08日 17時29分20秒 ) パスワード

では、昨日から勉強(理解)した事についてです。

先日コメントした肥前後藤氏
「後藤氏は、鎮守府将軍藤原利仁の五代の孫公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという。肥前の後藤氏は公則の曾孫坂戸判官章明が、肥前国墓崎(つかざき)の総地頭になったことが最初である。坂戸は河内国にあり、公則は河内守にも任ぜられ、章明の祖父則経も河内守であったことから、後藤氏は河内国と関係を持ち、ついには土着して在地豪族化していったものと思われる。」
という事だったのですが、「藤原利仁の五代の孫公則」
日本の苗字七千傑様の 利仁流後藤氏 姓氏類別大観 を拝見しました。

公則 → 則経 → 則明 → あっ!「島田氏」!!
こういう繋がりだったのか〜とあらためて勉強できました(^・^)

ところで、「公則」この方から遡っていくと佐藤氏「藤原(佐藤)公光」がいらっしゃいますが、藤原公光について、一つ勉強する事ができました。

藤原(佐藤)公光の妻は、「大神惟基」の娘なのですね。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_min.html
美濃地方に古くから佐藤氏が土豪として続き、また戦国武将としても勢力を振るった。
 佐藤姓の始まりとして、藤原公清が左衛門尉に仁じられたことから「左衛門の藤原」、下野国佐野に住したことから「佐野の藤原」がそれぞれ佐藤になったとする二説が有力とされ、さらに、公清が佐渡の国司として赴任したことから「佐渡の佐藤」という説もある。ところで、公清の父藤原公光は豊後国海部郡佐伯の住人、検非違使佐伯大神惟基の養子となり、はしめて佐伯藤、すなわち佐藤を称したとするものもある。

★「佐藤」という姓に関しては諸説あるとの記述もありました。
藤原公光について、私には解りやすく書いてあるサイトを見つけました。
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi52.htm

転記します(__)
<九州藤原(大神・波多野)氏>

藤原公光 (*)大神公光。藤原秀郷流。藤原文行の息。豊後国海部郡佐伯の大神惟基の養子となる。兄弟に脩行、公通。

⇔▽藤原公清 (*)佐藤公清・左衛門尉・陸奥鎮守府軍監。検非違使。藤原秀郷流。藤原(大神)公光の息。陸奥国信夫を領する(中央に戻る?)。源ノ頼信に従う。息に佐藤(藤原)季清、助清、公隆、公郷、公澄。<子孫に「西行法師」・佐藤義清。>

佐藤季清 (*)藤原季清。美濃の豪族。息に康清、孫に義清(西行法師)、仲清。

⇔↓▼佐藤康清 (*)藤原康清・左衛門尉・判官・検非違使。藤原北家。秀郷流。季清の息。源ノ清経の娘婿。紀伊田仲荘の豪族。源ノ頼信に仕えた佐藤公清の孫。鳥羽院の「北面の武士」。息に仲清、義清(西行法師)。<仲清の子孫は、戦国時代に美濃加治田城主。>

⇔▽藤原経範 (*)波多野経範・公俊。藤原秀郷流。藤原(大神)公光の息。息に波多野(藤原)経秀。

⇔▽藤原公季 (*)伊賀公季。藤原秀郷流。藤原(大神)公光の息。息に伊賀(藤原)公助。

⇔▽藤原公郷 (*)尾藤公郷。藤原秀郷流。藤原(大神)公光の息。息に尾藤(藤原)清郷、後藤(藤原)助宗、公広。

<陸奥信夫藤原(佐藤)氏>

⇔▽藤原公脩 (*)佐藤公修・内舎人・陸奥鎮守府軍監。藤原秀郷流。藤原(大神)公光の息(公清の兄)。陸奥信夫荘の領主(目代として土着?)。源ノ頼信に従う。息に佐藤(藤原)師清。<子孫に佐藤継信・忠信兄弟。>

( ..)φメモメモ
と言う事で
★★藤原公光 (*)大神公光。藤原秀郷流。藤原文行の息。豊後国海部郡佐伯の大神惟基の養子となる。兄弟に脩行、公通。

とありますが、兄弟の「脩行」が近藤氏になるのですよね・・

藤原(大神)公光の後裔に「伊藤氏」・・藤原忠清・藤原景清(平景清)・藤原景俊(平景俊)こちらは藤原(大神)公光の後裔だったのですね。

藤原公光の妻は「大神惟基」の娘

この方は、以前勉強致しました(・_・)

「大神惟基」は人吉青井阿蘇神社を、阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと言う方でした。

(そう言えば、先週、阿蘇神社に伺いました・・)

様々な伝説もある方でした・・
大神惟基 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%83%9F%E5%9F%BA

人吉青井阿蘇神社に関連しますが、以前からコメントしていましたように
祖母の兄「平川家長男」の妻・「平川家長女」の息子嫁は、其々、代々青井阿蘇神社に神官(宮司)としてお仕えしてきた「尾形家」から嫁いで来られています。
(「尾形」でした。今日、父に電話でちゃんと確認しました。でも父から「お前、今さらなんばいいよるとか?伯父さんの家の「字」も忘れたとか(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と・・(@_@。)

父から聞いた所によりますと
父の従兄弟の妻となる伯母さんのお兄さんは80代を超え、今は退職されたそうです。
私の記憶には、子供の頃、この伯父さんが青井阿蘇神社で太鼓を抱えて踊っていらっしゃった事が印象的です。
伯父さんは、太鼓踊りのリーダー?(何と表現すれば適切なのか・・)のような役割の方でした。
観光パンフレットにも伯父さんのアップの写真が使われていました。

そう言えば、宮司のお仕事は現代は「転勤」があるそうです。
伯父さんの息子さんは「宗像大社」「鵜戸神宮」そして「菊池の神社」(ここは場所が解らないと父は言っていました)を転勤で移動し、現在は、あさぎり町の「岡留熊野座神社」通称「幸福神社」の宮司をされているそうです。その他に須恵の複数の神社宮司も兼任されているとの事でした。
岡留熊野座神社
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/okadome.html

・・・・・?!!!あ〜〜〜〜っ!!
そうか!球磨の神社の事は伯父さんに聞けばいいんだっ!!

(*_*;私は、何をやっていたのでしょう(@_@。おっちょこちょいにも程がありますよね(@_@。必ず、お話を聞かせて頂きます(__)

と言う事で、
「大神惟基の娘は藤原公光の妻」と言う事を勉強いたしました(__)

では(^・^)
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年08月08日 18時31分19秒 ) パスワード

追記

伊藤氏について、先日からコメントしていましたが・・・

考えてみると・・
私の父の弟、すなわち叔父は秋岡の名跡を継いでいますが、もとは「伊藤家」という家に宮原から養子に入っています。

宮原の親戚も平川の親戚も、みな、いまだに「伊藤さん」と呼んでいますね・・?
ありゃっ?!

祖母からは叔父の「伊藤家」はもとは「藤原」と聞いています。
ますます「ありゃっ??」

なおかつ
伊藤の先代のおじい様と私の祖父は、学生時代からの大親友。(伊藤のおじい様の方が年上ですが・・)

伊藤家(秋岡)のおじい様から、「娘婿にぜひ宮原家の息子さんを」とお話を持って来られたと言う事でした。
伊藤(秋岡)のおじい様はとても凛とされていて、「伊藤(秋岡)」「宮原」「平川」の繋がりをとても大事にされていました・・・
私もとても可愛がって頂きました。

?????
何だか、伊藤(秋岡)のおじい様や、私の祖父母の時代までは、古の記憶がしっかりと残っていたのではないでしょうか・・

この頃の調査(勉強)から、ますます、祖母に話を聞いておけば良かった(@_@。とつくづく思う私です・・

すでに、伊藤(秋岡)のおじい様も私の祖父母も天国に行かれましたので、今となったら調査あるのみです!

がんばります<(_ _)>
[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月08日 20時32分21秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>公則 → 則経 → 則明 → あっ!「島田氏」!!
 
後藤氏は利仁流というよりは坂戸源氏(文徳源氏)でしょう。
江戸期は金座となり通貨の番人(日本銀行の前身のような存在)となった。
波多野氏は佐伯姓、伊賀氏(のちの稲葉氏)も越智姓らしいね。
藤原秀郷流や利仁流諸氏の本姓は異なっている可能性が大きい。
 
>難波吉志
 
難波吉志は、岸信介首相の祖であり現在の安倍首相とは親戚。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b1.htm#002
[11]子孫よりさんからのコメント(2014年08月08日 23時09分37秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

文徳源氏 姓氏類別大観を拝見しました。

藤原公則は源章経の養子となったと言う事で良いのでしょうか。

「藤原秀郷流や利仁流諸氏の本姓は異なっている可能性が大きい」

そうなのですね。これは・・非常に興味が湧きます。

後藤氏は「江戸期は金座となり通貨の番人(日本銀行の前身のような存在)となった。」

この頃、少し理解出来るようになったのですが、「家」の中には其々に役割をもった「家」があったという事ですね。(ちょっと意味が違うのかもしれませんが(__))

信西の記述を読んだ時に
「学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『今鏡』でもその才能を絶賛する一方で、陰陽道の家の出でもないのに天文に通じたがために災いを受けたのだと評されている。」
と書かれていて、それぞれの「家」の役割の存在が非常に重要な事であった事が理解できました。

「難波吉志は、岸信介首相の祖であり現在の安倍首相とは親戚」

《佐藤氏(元治以降)》姓氏類別大観を拝見しました。
佐藤栄作とは佐藤首相でしょうか?

一族だったのですね。系図でみると、とても解りやすかったです。(^・^)
ありがとうございます。

一つ一つが勉強です。(歴史に関する、皆様の「常識」は私にとっては未知の世界なのです(+_+))

どうか、今後ともご教示をよろしくお願い致します。

では(^・^)
[12]子孫よりさんからのコメント(2014年08月09日 01時39分36秒 ) パスワード

みなさま

こんな夜中に私は、ある事実を見つけてしまいました。

先ほどのコメントで信西の記述をコピーする為に、ウィキの画面を出していたのですが、信西の妻「紀伊局」藤原朝子の存在が、とても気になりまして・・

藤原朝子の父「藤原兼永」この方は?と調べていたのですが・・

藤原兼永は藤原南家貞嗣流の藤原尹文の後裔(孫の藤原高快→孫)にあたる方でした。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke3.htm

そういえば・・以前、調べた時に・・
藤原南家貞嗣流は「橘」との婚姻関係が多く見られたな〜と、他の方を見ていたのですが・・
見つけてしまいました(・_・)

藤原高快の子「藤原範基」この方の子供に「藤原泰房」と言う方の名があります。
この方の名前にマウスをポイントして現れた文字が・・
「母 陸奥守 橘則光女」

もう一度、こちらでご確認ください<(_ _)>
http://www.geocities.jp/okugesan_com/nanke3.htm

藤原泰房の母は「橘則光の娘」
すなわち
藤原高快の子「藤原範基」の妻は「橘則光の娘」と言う事です。

今までの調査で何度も何度も登場した「藤原尹文」
なにかしら、こちらの系に「平河」が繋がっているのでは?と思っていたのに
実際に繋がっていたのは「橘則光」すなわち「宮原」の先祖でした。
(公忠公の末裔様、ごめんなさい。今はこう呼ばして頂きます<(_ _)>)

藤原尹文の曾孫の妻は「橘則光の娘」だったと言う事です。

熱田大宮司家へ繋がる「藤原季兼」そして信西に繋がる「藤原季綱」。
この方々の父「藤原実範」と、「藤原範基(妻 橘則光の娘)」はふた従兄と言う事です。

藤原朝子の父「藤原兼永」とも近い関係にあります。

橘との繋がりがあった、橘則光の孫「藤原泰房」と言う方を、もっと知りたいと思い調べたのですが、「同名」の他の人物の情報しか出ませんでした。

偶然だとは思いますが・・
同名の「藤原泰房」とは、藤原顕長の子「藤原泰房」。すなわち藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の兄弟です。
藤原顕長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%95%B7

何だか、物凄い偶然なのですが「藤原泰房」という同名の二人の人物が見つかりました。

ただ・・本当は、この情報を見つけた時に「息が止まりそうに」なったのです。

だって・・・まさか「平河」ではなく「宮原」に繋がっていたとは・・

そう言えば・・・
以前、「須恵の平等寺」を調べていた時に、検索すると何度も「京都の平等寺」が出てきて・・
気になるので「京都の平等寺」の情報を見たのです。
「平等寺」
平安時代、1003年、橘行平が私邸(高辻烏丸南東方一町)に薬師仏を祀り、仏寺としたのが始まりという。行平の孫・光朝(橘則光の子)が初代の寺務となったという。(「因幡堂縁起」(山城名勝志))

★橘行平とは橘則光の兄弟で、なおかつ橘行平の娘は橘則光の妻でもあり・・
橘行平の娘が生んだ「季道」が宮原の先祖「橘公業」へと繋がっていきます。

そして平等寺には・・
小督局(こごうのつぼね)の遺品がこのお寺に伝わっています。

小督の琴、蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)、
小督の髪を織り込んだ「毛髪織込光明真言」

小督局とは信西の娘ですね。

私、以前、この情報を知った時に、「平等寺の御住職が兼務されているお寺の由縁で」と書いたサイトを見て「そうなんだ〜(・_・)」と思ったのですが・・

本当は、それだけではないのかも知れないと・・(先入観はいけませんね)

と言う事で、以上の情報が見つかったというお話でした。

では<(_ _)>
[13]子孫よりさんからのコメント(2014年08月09日 09時41分11秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

殆ど寝ていないのですが、このコメントまでは、今のうちにと思いまして。

真夜中に、見つけた事実

藤原高快の子「藤原範基」の妻は「橘則光の娘」
熱田大宮司家へ繋がる「藤原季兼」そして信西に繋がる「藤原季綱」。
この方々の父「藤原実範」と、「藤原範基(妻 橘則光の娘)」はふた従兄

この事実が、「単なる偶然」と言う事もありえると想定して、調査を進めた所、新たに、とても気になる情報を見つける事が出来ました。

では<(_ _)>
藤原実範の子
熱田大宮司家へ繋がる「藤原季兼」
信西に繋がる「藤原季綱」

この方がたの兄弟「藤原成季」こちらの系についてです。

「藤原成季」の子「藤原永実」
★藤原永実 検非違使 従四位下 大内記。 母大江広経女
※母は大江広経の娘です

     ↓
続けて
「藤原永実」の子「藤原永範」
★藤原永範 [康和2(1100)年 〜 治承4(1180)年11月10日 ]
 従四位下行文章博士永実朝臣二男。母肥後守中原師平女。
※母は肥後守 中原師平の娘です。

     ↓
続けて
「藤原永範」の子「藤原光範」
★藤原光範 [ 大治元(1126)年 〜 ? ]
 永範二男。母隠岐守従五位上大江行重女。
 妻 清原頼業女

(・_・)皆様、ここからです!!
藤原光範の妻「清原頼業」の娘。では「清原頼業」とは?

清原頼業 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E6%A5%AD
清原 頼業(きよはら の よりなり)は、平安時代末期の貴族・儒学者。元の名は顕長のち頼滋。大外記兼助教・清原祐隆の子。官位は正五位上・大外記。死後、車折明神として祀られた。

系譜を見ると
父:清原祐隆
母:長門守清信の娘 

清原頼業の祖父「長門守清信」とは? 調べたのですが・・・
「長門守」であり「清信」という名に該当する人物は見つける事が出来ませんでした。

しかし、「清原氏」に関係する「清信」という人物はいらっしゃいます。
「清原元輔」の玄孫 「橘清信」です。

「橘清信」の祖父は「橘則長」。橘則光と清少納言の子となります。
憶測は「確実」ではないので、「長門守清信」と「橘清信」が同一人物であるという確証はありません・・・・

(・_・)話を戻します

★藤原光範の妻「清原頼業」の母は「長門守清信」と言う事です。
(かなりモヤモヤするので、しっかりと検証したいと思います)

続けて
★「藤原光範」の子「藤原頼範」
藤原頼範 [ 応保2(1162)年 〜 ? ]
光範男。母清原頼業女。 
※この方は、肥後の在庁国司です。

阿蘇家文書
http://kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp/asoke/monjo/01-010-01.html

北条時政が、前の片寄せによる健軍・甲佐社領化を覆そうとする郡司らの訴えによる在庁官人等の新任国司(藤原頼範)への働きかけに対し、それが不当であることを在庁官人らに触れ示すように阿蘇大宮司に指示したもの。
★新任国司(藤原頼範)

と言う事で、

「藤原光範」の子であり、「清原頼業」の孫であり、「長門守清信」の玄孫であった「藤原頼範」は肥後の国司であったと言う事です。

ここまでをまとめます。
熱田大宮司家へ繋がる「藤原季兼」
信西に繋がる「藤原季綱」

この方がたの兄弟「藤原成季」系は

藤原永実(母は大江広経の娘)→ 藤原永範(母は肥後守 中原師平の娘)→ 藤原光範(母は大江行重の娘)→藤原頼範(母清原頼業の娘・長門守清信の玄孫)

となりました。

では、(?_?)

<(_ _)>(^・^)
[15]子孫よりさんからのコメント(2014年08月09日 16時47分20秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

少し寝ましたので、頭はすっきりしています。

今朝のコメントで最後にご紹介した

藤原光範と子の藤原頼範(母清原頼業の娘・長門守清信の玄孫)に関してですが、
まだ、続きがあります。

藤原光範には養子がありました。
「藤原頼資」です。「藤原頼資」の実父は「藤原兼光」

藤原兼光 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%85%89

藤原 兼光(ふじわら の かねみつ、久安元年(1145年) - 建久7年4月23日(1196年5月22日))は、平安時代末期の公卿。藤原北家日野流、権中納言・藤原資長の子。官位は従二位・権中納言。姉小路と号す。
★姉小路家については、「平川家について13」コメント13以降、何度も登場していました。

元暦元年(1184年)には従三位・左大弁に叙任され近江権守を兼ねた。公卿昇任が間近と言われていた院近臣の四条隆房よりも先に公卿に列したことから、義母で後白河法皇の寵愛を受けた高階栄子(丹後局)の後ろ盾があったとされた。文治元年(1185年)に勘解由長官、翌年に権中納言に任じられる。建久元年(1190年)に右兵衛督を、建久2年(1191年)には検非違使別当を兼務、建久4年(1193年)には右衛門督に転じて、京都の治安回復に尽力した。建久5年(1194年)に右衛門督・検非違使別当を辞任、翌年に従二位に叙される。

★義母で後白河法皇の寵愛を受けた高階栄子(丹後局)の後ろ盾があった

系譜を見て下さい
父:藤原資長
母:源季兼の娘
妻:源家時の娘
長男:日野資実(1162-1223) - 日野家の祖
男子:藤原長親(禅寂)
妻:院尚の娘
五男:広橋頼資(1182-1236) - 広橋家の祖
妻:平業房の娘 ★★★ ここですね。
男子:藤原宣実
生母不詳の子女
男子:藤原有兼
男子:藤原基長
男子:良兼(?-1227)
男子:覚証
女子:後鳥羽院按察使典侍
女子:宣陽門院左衛門督
女子:姉小路公宣室
女子:葉室宗行室
女子:葉室長宗室
女子:源信定室
女子:一条高能室

藤原兼光の妻は「平業房」の娘。

皆様、私は「平業房」について「平川家について13」コメント16で調べていました。

藤原長方の孫「藤原宗房」に関連してです。

「平川家について13」コメント16を転記します。

コメント13でご紹介した藤原長方の孫「藤原宗房」。

この方の父は長方の子「藤原宗隆」です。
そして宗房の母は「平業房の娘」です。

そこで「平業房」を調べました。コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%A5%AD%E6%88%BF

平安末期の後白河院の北面の武士。斎院次官平盛房の子。後白河法皇の寵妃高階栄子(丹後局)の前夫。ふたりの間には業兼,教成ら数子がある。治承1(1177)年に鹿ケ谷の変で平清盛に捕らえられたが,法皇の再三の請いによってひとりだけ放免され,同3年に正五位下左衛門佐となる。その出世は妻の存在によるところが大きいが,自身も今様を学び,下北面から身を起こして院に近習し,「御寵人」とまでいわれた。同年11月の清盛のクーデタで解官され,伊豆へ配流されるが途中で逃れ,再び捕らえられて殺された。<参考文献>米谷豊之祐「後白河院北面下臈」(『大阪城南女子短大研究紀要』11号)

★この方も鹿ケ谷の変に関係していたのですね(゜-゜)

父は斎院次官平盛房。
ここで、「平盛房」?何処かで以前に・・・あれ・・・?あれ・・?あっ!!

この方は「宮原三宮社」の!!!!
熊本県神道青年会 - 宮原三神宮 ご覧ください<(_ _)>
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=145

二条天皇(1159-1169)の勅命によって、平治元年(1159)9月、越中前司平盛俊が社殿の造営にあたり、応保元年(1161)6月16日に落成し、同年8月13日、勅使として、内大臣平重盛、副使として肥後守平貞能が「あまさかる肥後国八代郡火の村に神輿をかついで勧請した」とある。ご祭神として、伊勢の内宮(天照大神)、滋賀の日吉大社(國常立尊)、京都の下賀茂神社(神武天皇)の御分霊をお祀りしてあります。社司には造営奉行平盛俊の弟、平盛房を兵庫頭従四位下に任じて奉仕させた。その子孫が廣松家となり、代々その職をついで今日に至っている。

そうでした\(◎o◎)/! 社司には平盛房を兵庫頭従四位下に任じて奉仕させた。

そして・・のちに
宮原公忠(先祖さま〜)はこの宮原三宮社の御隣に宮原城を築城して居城していたのでした!!
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/miyanohara-jyo/

と言う事で
藤原宗房(姉小路宗房)の曾祖父は宮原三宮社の社司を務めた「平盛房」でした!!

(・_・)というコメントを書いていました。

★★(・_・)こういう事です。
藤原兼光の妻は「平業房」の娘であり「宮原三宮社」の社司を務めた「平盛房」の孫。
藤原兼光の妻の姉妹は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の子「藤原宗隆」の妻であった。

そして、最初に戻りますが、
平業房の娘を妻に持つ「藤原兼光」の子は
清原頼業の娘であり長門守清信の孫である妻を持つ「藤原光範」の養子になったと言う事です。

では<(_ _)>
[16]子孫よりさんからのコメント(2014年08月10日 00時08分56秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

清原頼業。この方の父は清原祐隆。

系図の確認をと日本の苗字七千傑様の《清原氏》姓氏類別大観を拝見致しました。

そして・・・

清原祐隆の子「祐安」が中原師元に養子に・・
中原祐安とは清原祐隆の子。清原頼業の兄弟だったのですね。

とても、驚きました。

中原師元 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%85%83

中原 師元(なかはら の もろもと、天仁2年(1109年) - 承安5年5月20日(1175年6月10日))は、平安時代後期の貴族。中原氏師平流、大外記・中原師遠の三男。官位は正四位上・大外記兼明経博士。
中略・・
大外記としての豊かな経験から先例に明るく、大治3年(1128年)に家司として招かれた摂関家において、藤原忠実・頼長父子より厚い信頼を受け、その相談事に数多く与った。忠実との会話を師元が筆録した『中外抄』は、院政期の公家社会の様子を克明に伝える史料の一つである(同書の書名は中原の「中」と大外記の「外」から各々一字を取ったもの)。

系譜
父:中原師遠
母:惟宗経定の娘
妻:不詳
男子:中原師尚(?-1197)
男子:平清貞(?-1184) - 平清盛養子
男子:中原師秀
男子:覚元
男子:公元
女子:藤原尹明室
女子:春日殿 - 二条天皇後宮、僐子内親王生母
養子女
養子:中原祐安 - 実は清原祐隆の子

★中原師元の娘は藤原尹明室

藤原尹明 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B0%B9%E6%98%8E

藤原 尹明(ふじわら の ただあき または まさあき、生没年未詳)は平安時代末期の公家。藤原南家の出身で東宮学士藤原知通の子。従五位上、兵部権少輔[1]、出羽守。
文章生から対策に及第し式部丞となる。大外記・中原師元の娘を妻としたが、彼女の母が平忠盛の娘であった関係から平清盛と親しく、一方で自らの姉妹が嫁いだ葉室惟方とも懇意であった。こうした関係から、平治元年(1159年)の平治の乱においては、初め藤原信頼方に加わっていた惟方が清盛に内通するに当たって仲介役を果たしたともされ、両者の意向を受け、信頼によって内裏に監禁されていた二条天皇を清盛の六波羅邸に脱出させる際の実行役を務めた。
この功績もあって、その後も清盛の信頼厚く、惟方失脚の後も平氏政権の下で立身する。娘は安徳天皇の掌侍を務め、実質的に平家一門に準じるような扱いを受けた。この関係から、寿永2年(1183年)の平家都落ちに随行し、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいては平時忠らとともに捕虜となる。都へ連行された後、文治元年(1185年)に出雲国に配流された。同5年(1189年)に赦免され帰洛するが、その後の消息は不明である。

(・_・)また、一つ勉強する事が出来ました。

所で・・・

昨晩はかなり動揺しました。
でも、もう、どのような情報が出て来ても、驚きません。

考えたのです。

今まで、祖母の先祖「平川(平河)家」について調べてきた結果、見つかった様々な情報を「点」とします。
その「点」は中々「線」として繋ぐ事が出来ませんでした。

その数々の「点」が宮原の先祖「橘」によって、「線」として繋がりはじめています。
とても、ありがたい事です。

そして、私は、今の調査で、今まで全く知らなかった、私が名を継ぐ「宮原」の先祖や先祖に関係した沢山の方々の事を知ることが出来るようになりました。

こう言っては何ですが・・
先祖や先祖に関係する方々は、単なる「遠い遠いおじいさん」や「遠い遠いおばあさん」ではありませんでした(ー_ー)!!

それが、しっかりと解りました。

もちろん、目をふさぎたくなるような情報も出てきます。
でも、きっと、先祖や先祖に係わる方々、いえ何方のご先祖様でも、戦の無い、平和な世の中を望んでいたのだろうと・・

今、日本は戦争もなければ、もちろん内戦もありません。
江戸時代に天下が統一されたといっても、明治維新・第一次及び第二次世界大戦と、決して平和な時代ばかりではなかった。

そう考えると、古の方々が本当に望んだ、「平和な世の中」とは、今の現代の事を指しているのだと思いました。

その現代に生きる子孫だからこそ、古の方々がどのような時代を歩んでこられたのか、何故、今、平和に生きる事が出来るのかを、しっかりと理解する必要があるのでは・・・

歴史の苦手な私が、今になって、何故、先祖について調べる事になったのか、その意味が解ったような気がします。

さあ!がんばるぞ〜(^O^)/

では<(_ _)>(^・^)
[17]子孫よりさんからのコメント(2014年08月10日 20時00分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

お住まいの地域では、台風の被害はありませんでしたか?
まだまだ、大雨が降るとの予想をテレビで見ました。
どうぞ、お気をつけください(__)

所で、本日の進捗ですが、橘則光の兄弟「橘則隆」。この方、いえ、「橘」と藤原家成の繋がりが解りましたのでご紹介致します。

橘則光の兄弟「橘則隆」。
@「橘則隆」の娘は藤原北家道綱流「藤原顕綱」の子「藤原兼経」息「藤原道経」の妻となり「増秀」をうみます。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/yobai.htm

★「増秀」 父:藤原道経 母:「橘則隆」の娘

Aそして「増秀」の娘は「藤原師信」の妻となります。
「藤原師信」ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E4%BF%A1

B「藤原師信」と「増秀」の娘の間に生まれたのが「藤原経忠」
「藤原経忠」ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%BF%A0

C「増秀の孫 藤原経忠」の娘は「藤原家成」の妻となります。
「藤原家成」ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90

★「藤原家成」の妻は「増秀」の曾孫と言う事です。

D「藤原家成」と「増秀」の曾孫であり藤原経忠の娘である妻との間に生まれたのは・・・
「鹿ケ谷の陰謀」により、「西光」「藤原師高」と同じく、亡くなった「藤原成親」です。

E「藤原成親」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A6%AA

「藤原成親」は「増秀」の玄孫でした。

この事実をその時代の「橘一族」は知っていたと思います。
何故ならば、当時、橘公長は「平知盛」の家人であり、同じく「平知盛」の家人であった「橘為範」の妻は「西光」の娘であり「平知盛」の子息「平知忠」の乳母であったからです。

「藤原成親」は橘則光の兄弟「橘則隆」の末裔であったという事。

今日は、この事実をお伝えしました。

上記のコメントで登場した方々の詳しい調査は未だ行っていませんが、
最初に記述した

@「橘則隆」の娘は藤原北家道綱流「藤原顕綱」の子「藤原兼経」息「藤原道経」の妻となり「増秀」をうみます。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/yobai.htm

こちらの系で気になる情報もありますので、再度確認したいと思います。

では<(_ _)>(^・^)
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年08月11日 00時39分22秒 ) パスワード

皆様、早速、先ほどのコメントにあがった方々を調べました。

そこで、まず、増秀の孫「藤原経忠」について再確認をしました。

藤原経忠ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%BF%A0

藤原 経忠(ふじわら の つねただ、經忠)は平安時代後期の公卿。播磨守・藤原師信の子。官位は従二位・中納言。

応徳3年(1086年)従五位下に叙爵。越前権守、左兵衛佐、周防守を歴任し、寛治4年(1090年)正五位下に陞叙。
寛治7年(1093年)従四位下に叙される。嘉保3年(1096年)従四位上に昇り、永長2年(1097年)兵部大輔に任ぜられる。承徳2年(1098年)正四位下・安芸守に叙任され、康和5年(1103年)宗仁親王(後の鳥羽天皇)の立太子に伴い、東宮昇殿を許される。なお、この間の康和4年(1102年)9月に、火災によって経忠の邸宅が焼亡している[2]。嘉承2年(1107年)堀河天皇が崩御し、宗仁が即位して鳥羽天皇となると、引き続き昇殿を許される。同年、馬1匹を奉献するための使者として派遣される[3]。嘉承3年(1108年)邸宅に落雷があり、侍者一人が死亡した[4]。天仁3年(1110年)右馬頭、天永2年(1111年)皇太后亮、天永4年(1113年)但馬介を歴任した。

★右馬頭だったのですね。

系譜
父:藤原師信
母:増秀の娘(または増守)
妻:藤原実子(藤原公実の娘) - 鳥羽院乳母
長男:藤原忠能(1094-1158)
次男:藤原経親(?-?)
三男:藤原信輔(?-1184)
四男:藤原経雅(?-?)
妻:不詳
五男:藤原信経
六男:藤原実経
男子:忠覚
男子:増修
男子:行縁
男子:増忠
女子:藤原家成室

(・_・)今、確認出来る方をとりあえず調べます。

@妻:藤原実子(藤原公実の娘)
藤原公実 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F

藤原 公実(ふじわら の きんざね、天喜元年(1053年) - 嘉承2年11月14日(1107年12月29日))は、平安時代の公卿、歌人。正二位権大納言に至り、三条大納言と称す。

大納言実季の長男で、母は藤原経平女。閑院家の祖・太政大臣公季の玄孫にあたる。弟に保実・仲実、妹に苡子(堀河天皇女御、鳥羽天皇生母)らがいる。白河院とは従兄弟に当たるため朝廷の信任も篤く、堀河天皇に近臣として仕え、妻光子は堀河・鳥羽二代の乳母となった。歌壇でも活躍し、長治2年(1105年)頃奏覧の『堀河院御時百首和歌』に出詠し、後拾遺集以下の勅撰和歌集に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。
公実の逸話として、嘉承2年(1107年)に甥が鳥羽天皇として即位した時、公実は摂関家の当主忠実の若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話がある[1]。しかし、公実の権勢はその子供たちの出世にそのまま反映され(実行は太政大臣、実能は右大臣、末娘璋子は鳥羽天皇中宮)、三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖となった。

系譜の名には、今まで調べてきた方が殆どです。

三男:西園寺通季(1090-1128) - 西園寺家祖
この方が西園寺公経の曾祖父ですね。

徳大寺実能(1096-1157) - 徳大寺家祖
孫:徳大寺実定 徳大寺実家 他 ★徳大寺実家は徳大寺実春の祖父でした。

増秀の孫「藤原経忠」の妻は「三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖」である藤原公実の娘であったと言う事です。

続けます(__)

A三男:藤原信輔
藤原信輔 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E8%BC%94

藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ、生年不詳 - 元暦元年(1184年))は平安時代後期の貴族。藤原北家道隆流、中納言・藤原経忠の子。官位は正四位下・右京大夫。

系譜 こちらも、今までの調査で登場した方々の名前が沢山あります。
父:藤原経忠
母:不詳
妻:橘家光の娘 ★
長男:藤原信隆(1126-1179)
次男:藤原信保(?-?)
三男:藤原信行(?-1183)
四男:藤原親信(1137-1197) - 水無瀬家の祖 ★
妻:不詳
男子:藤原師親 ★???
男子:藤原経弘
男子:信覚
女子:藤原公行室
女子:藤原顕時室

★妻:橘家光の娘
橘家光? 橘家光とは、もしや須恵小太良こと藤原家基の父「藤原家光」ではないのでしょうか?

藤原家光は橘俊綱の子。そして藤原家忠の養子です。

そして男子:藤原師親。 「藤原師澄」は「藤原師親」を養子にした・・・
あの、記述の意味は何だったのでしょうか・・?

続けます(__)
B四男:藤原親信 水無瀬家の祖
藤原親信 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E4%BF%A1
藤原 親信(ふじわら の ちかのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。右京大夫藤原信輔の四男。水無瀬家の祖。

久安4年(1148年)に叙爵。以後、備中国、伊予国などの国司や内蔵頭を歴任する。兄達と同様に後白河法皇の近臣として朝廷における地歩を固め、安元2年(1176年)に太宰大弐、翌治承元年(1177年)に従三位に上り公卿に列する。しかし、治承3年(1179年)の治承三年の政変において平清盛によって解官され、一旦朝政からの退隠を余儀なくされる。翌治承4年(1180年)に復帰すると、再び院近臣としての活動に勤しみ、寿永2年(1183年)には正三位・修理大夫、次いで参議に補される。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いの直前には、法皇の意を受け平宗盛との和平交渉にも当たったと言われる。

★藤原親信の正室は「信西」の娘です。

系譜を見て下さい
★藤原親信の娘ふたりは「源通宗」の室となっています。
「源通宗」(久我通宗)は久我通光の兄です。
久我家に関しての調査は御存知の通りです。

(・_・)(?_?)あっ!!今、「久我通光」のウィキ情報を見ていて、私は、大きな見落としをしている事に気が付きました。
これは、明日、調査します(__)

非常に長くなりましたが、
増秀の孫「藤原経忠」を調べた結果、今のところ上記の情報を得る事ができました。

@藤原経忠の妻は「三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖」である藤原公実の娘であった。
A藤原経忠の三男:藤原信輔。妻は「橘家光」の娘。(子息に「藤原師親」)
B藤原信輔の四男:藤原親信。正室は「信西」の娘。娘ふたりは「久我通宗」の室。

多分、まだまだ、見落としている事があるかと思います。
今後も調査は継続いたします(__)。

ところで・・最後に
今、私は次にあげる女性をどうしても見つけたいと思っています。
@西光(藤原師光)の妻であり、藤原師高の母である女性。
A藤原師高の妻
B橘公長の妻
C橘公業の妻であり「藤原氏の娘」と呼ばれた方。
D橘為範?の妻であり西光の娘であった方。

きっと、願いはかなうと信じて、がんばります(^・^)
では<(_ _)>(^・^)
[19]白石さんからのコメント(2014年08月12日 00時21分34秒 ) パスワード

こんばんは
先日の 飛鳥部氏の話

>飛鳥部氏族は「飛鳥部智万呂」などがおり、飛鳥部吉志「飛鳥部吉志五百国」が橘樹郡(横浜市・川崎市の一部)また隣接していた久良郡(横浜市金沢区辺り)も勢力範囲だったかも知れません。

橘樹郡たちばなぐんで 検索したら ウィキより
橘樹郡(たちばなぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡。
郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられる。その近くの高津区子母口には★日本武尊・弟橘媛を祀る橘樹神社がある。

平川 北斗七星 ヤマトタケル 布津主 が 思い出されます。

書かれている中で隣接している郡の荏原郡を見たら
古くは、武蔵国豊嶋郡と荏原郡の境は★平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ、直接東京湾まで至っていた。

平川の名の由来はわからないけど 平川だなあ と 思い、
東京 江戸 江戸城 平川を 思い出しました。
==========================
また
鎌倉時代秩父平氏の流れをくみ源頼朝の御家人となった★稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、- 1205(元久 2)年)が、桝形城に拠点を構え、北部一帯を治めるようになる。なお、現在の川崎市北部地域は摂関家の荘園であり、その荘官として治めたともいわれる。この頃より江戸時代まで、橘樹郡北部は稲毛領(いなげりょう、または「稲毛荘」)と呼ばれるようになる。
>稲毛三郎重成は北条政子 の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です










[20]白石さんからのコメント(2014年08月12日 00時38分45秒 ) パスワード

地名で平川をみれば
青森県平川市の神社
猿賀神社
古典(日本書紀)によれば★田道命は「仁徳天皇五十五年(西暦三六七年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。
(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く・・・・・
安倍氏系の国造
針間国造』 稲背入彦(イナセイリヒコ)命の孫の伊許自別(イコジワケ)命. 『針間鴨国造』上毛野 国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別(イチイリワケ)命. 『筑志国造』 阿倍臣と同祖の★ 大彦(オオヒコ)命の五世の孫の田道(タミチノ) 命. 以上が、安倍氏系と思われる国造の一覧 ...
○ 大彦命の後

許曽倍朝臣・名張臣・★坂合部首・久々智・伊我水取・★難波忌寸・会加臣
[21]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 00時50分01秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

今日は娘夫婦と山口の瑠璃光寺五重塔を見に出かけてきました(^・^)

1400年代の建造物を拝見しまして、心が凛となりました。
瑠璃光寺五重塔には、私は今までに何度も伺っていましたが、娘夫婦は初めての訪問で、様々な角度から写真を撮って、とても感動していました。

では、早速調査についてです。(__)

実は昨日のコメントを書いた後、ふと考えました。

今までは「平河」の調査で得た情報を「点」と考えて「橘」の調査でその「点」と線を結んでいるような状態?だったのですが、逆に「橘」の調査で新しい点が見つかり、その「点」を「平河」に線でつなげる事も出来るかもしれないと。

そこで、その「点」の一つになるかもしれない情報の進捗です(__)

讃岐国の目代についてです。

こちらをご覧ください。
目代 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%A3

目代(もくだい)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことである[1]。眼代(がんだい)とも。
転じて本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官などの役人の事を指す。

(・_・)文献で確認できる目代の例を見て下さい。
讃岐国の目代が確認出来ます。

国宗下総介(くにむね しもうさのすけ):讃岐国:国司藤原経隆の目代
河内盛兼(かわち もりかね):讃岐国:国司藤原経隆の目代
橘公盛(たちばな きみもり):讃岐国:国司藤原季能の目代 ★
橘公清(たちばな きみきよ):讃岐国:国司藤原季能の目代 ★

讃岐国:国司藤原季能の目代となったのは・・

橘公盛(たちばな きみもり)・・・宮原の先祖である「橘公長」の兄弟です。

橘公清(たちばな きみきよ)・・・宮原の先祖である「橘公長」の子であり、「橘公業」の兄弟になります。
(橘公長については「伊予橘氏」と橘則光より繋がる系がありますが、私は、とりあえず、記述をそのままお伝え致します<(_ _)>)

では讃岐国:国司藤原季能とはどのような人物であったのか?

藤原季能 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E8%83%BD

藤原 季能(ふじわら の すえよし、仁平3年(1153年) - 建暦元年6月21日(1211年8月1日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。藤原北家善勝寺流、太皇太后宮権大夫藤原俊盛の子。官位は正三位・兵部卿。

★太皇太后宮権大夫藤原俊盛の子

藤原顕季を祖とする六条藤家の出身。保元3年(1158年)従五位下に叙せられると、後白河法皇の近臣として活動する一方で、越前・丹後・遠江・周防・讃岐・越後守と地方官を歴任する。
治承3年(1179年)に平清盛が法皇を鳥羽殿に幽閉しその近臣一派を大量に解任した際には、一旦越後守の職を解かれている(治承三年の政変)。しかしこの翌年、清盛の意向をもって法皇の身柄を八条坊門の自邸に迎えており、平家側からも一定の信頼を得ていたことが伺われる。この背景には、季能の妻が平基盛(清盛の次男)の娘であったことが関係しており、対立を深める法皇と平家の両者の狭間において、一種の潤滑油としての役割も負っていた。
★季能の妻が平基盛(清盛の次男)の娘であった

治承・寿永の乱を経て平家が没落した後も、法皇の傍に親しく仕えて一定の地位を確保した。寿永2年(1183年)従三位に叙せられ公卿に列す。文治元年(1185年)に源頼朝の介入によって宮廷内の実権が藤原兼実らの親鎌倉派に移った後も、高階泰経・藤原隆房・藤原実教らとともに法皇側近グループを組織して暗にこれに対抗したとされる。建久4年(1193年)正三位。承元4年(1210年)出家。
歌人としても活動しており、一女は藤原定家に嫁いでいる。

では、藤原季能の父「藤原俊盛」とは? コトバンクより

http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E7%9B%9B

平安末期の廷臣。権中納言長実の孫で,尾張守顕盛の長男。長実,顕盛はともに白河院の近臣として活躍したが,鳥羽院政が始まるや,顕盛は年来鳥羽上皇を軽んじたとして失脚した。しかし長実の女得子(美福門院)が上皇の寵を得るに及び,一家は繁栄を取りもどし,俊盛も備後,丹後,越前,讃岐など大国の守を歴任し,その間蓄えた財力をもって上皇および美福門院に奉仕し,さらに後白河院の年預別当に補されて院中の雑事をつかさどった。

保安(ほうあん)元年生まれ。藤原顕盛(あきもり)の長男。母は藤原敦兼(あつかね)の娘。藤原長実(ながざね)の孫。丹後,讃岐(さぬき)などの国守を歴任し,長寛2年(1164)従三位。のち太皇太后宮権大夫(ごんのだいぶ),正三位にいたる。後白河院の年預別当をつとめた。治承(じしょう)元年(1177)出家。

★藤原顕盛(あきもり)の長男
★母は藤原敦兼(あつかね)の娘。
★藤原長実(ながざね)の孫

藤原季能→藤原俊盛(父)→藤原顕盛(祖父)→藤原長実(曾祖父)

では「藤原長実」ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%9F
藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。
父・顕季同様、白河法皇に近侍する院近臣として立身。法皇の晩年における最も身近な側近であった。因幡・尾張・伊予・播磨など諸国の受領や大宰大弐などを経て、大治5年(1130年)に権中納言に至る。また、死後、娘の得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て近衛天皇の母となったことから、正一位左大臣を追贈された。

★藤原顕季の長男というか・・「藤原顕季」。この方は今まで何度も調査して来ました。
「平川家について12」コメント33・34その他でも、「平河」の調査は全てこちら「藤原顕季」と言う方に繋がってしまうと・・

藤原季能→藤原俊盛(父)→藤原顕盛(祖父)→藤原長実(曾祖父)→藤原顕季

藤原長実は藤原家保の兄弟。
藤原顕盛は藤原家成の従兄弟。(藤原家成の妻は 藤原経忠の娘であり増秀の曾孫)
藤原俊盛は藤原成親のふた従兄。義理ではありますが西光とも縁者となります。
そして・・

藤原季能は讃岐国の国司であり目代は

橘公盛(たちばな きみもり)・・・宮原の先祖である「橘公長」兄弟。

橘公清(たちばな きみきよ)・・・宮原の先祖である「橘公長」の子であり、「橘公業」の兄弟。

と言う事です。

最初に目代についてウィキの記述に
目代(もくだい)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことである
とありました。
★私的な代官派遣・・

と言う事で、讃岐国の目代についての調査でした。

では<(_ _)>
[22]白石さんからのコメント(2014年08月12日 00時53分59秒 ) パスワード

孝季眩映 〈古代橘氏の巻〉では
大彦命は
大彦命」の弟、「開化天皇」や、父親の「孝元天皇」とともに登場します。書紀では「大彦命」を阿部氏などの祖であるとしていますが「安藤系図」では彼の父親「孝元天皇」がその先祖として描かれています。

また
大彦命は開化天皇の兄。天皇のやしゃごがヤマトタケル。
[23]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 02時21分51秒 ) パスワード

白石様、今晩は(^・^)

ご教示本当にありがとうございます。

詳しくお調べいただいて、本当に助かります<(_ _)>

「橘樹郡(たちばなぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡」
「古くは、武蔵国豊嶋郡と荏原郡の境は★平川(神田川、日本橋川の旧称)といわれ、直接東京湾まで至っていた。」

私、全く知りませんでした(+_+)(本当にダメですね(*_*;)

そして「稲毛三郎重成」のお話があったので、私もウィキで見たのですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%AF%9B%E9%87%8D%E6%88%90

とても驚きました!だって・・今、讃岐国の目代についてコメントしたばかりなのに、このような記述がありました・・

ウィキより
11月3日、一族の小沢信重が乳母夫を務める2歳の姫を伴って京から鎌倉を訪れる。姫は源師季(綾小路師季)と重成の娘の間の子で、北条時政の外曾孫であった。重成の災禍を恐れて隠れ住んでいたが、哀れんだ政子が綾小路の姫を自身の猶子として、重成の遺領武蔵国小沢郷を与えた。また、一族の大半が讃岐に落ち現在の香川県まんのう町には稲毛姓が残っている。
★一族の大半が讃岐に落ち・・
讃岐に何らかの縁があったのでしょうね・・

古代橘氏について、とても興味が出ました。

「大彦(オオヒコ)命の五世の孫の田道(タミチノ) 命. 以上が、安倍氏系と思われる・・」

安倍氏・・そう言えば(・_・)
今日、出かけたのは山口県。安部首相のおひざ元でした。

山口市や美祢市をまわり、下関に寄って帰って参りました(^・^)

所で・・

先ほどのコメントでも書きましたが、「藤原顕季」について、以前より

藤原家成の父「藤原家保」・「藤原顕輔」「藤原定能の祖母」・『藤原実定の妻「上西門院女房備後」・二階堂行政の母・藤原季範 この方々の父である藤原季兼』の母。
全て兄弟(姉妹)です。すべて「藤原顕季」の子供。

という事実を見つけていました。その他にも様々な調査で「藤原顕季」と言う方は登場していたわけです。

しかしですね・・

じゃあ「藤原顕季」と「平河」の関係は?と聞かれたら
「すべての情報が関係しているようだけれど、具体的には何もわかりません。」と答えるしかありません(*_*;

でも・・
「藤原顕季」と「宮原(橘)」の関係は?と聞かれたら
@「藤原顕季」の末裔「藤原季能」が讃岐国の国司であり目代は「橘公長の兄弟橘公盛と、橘公長の子であり、橘公業の兄弟である橘公清」でした(^・^)
A「藤原顕季」の末裔「藤原家成」の妻は、橘則隆の末裔「藤原経忠の娘」でした(^・^)

と、今の段階だけでも答える事が出来るわけです・・・

それに・・
平河と良峯の関係は?と聞かれたら
「平河は良峯姓でした(^・^)」と答えられるけど
それでは平河は何故良峯姓なのか?と聞かれたら
「・・・・・」今は答える事が出来ません。

しかし・・・
橘(宮原)と良峯の関係は?と聞かれたら
「橘(宮原)はもちろん「橘姓」ですが、橘則光の母は良峯義方の娘、良峯美子です。」と答えられる訳です・・

そして・・
「平河師高」と西光そして「藤原師高」の関係は?と聞かれたら
「・・・・・」今は何も答える事は出来ません。

しかし・・・
橘(宮原)と西光そして「藤原師高」の関係は?と聞かれたら
「橘公長・橘公業は西光の娘を妻にもつ橘為範と共に、平知盛の家人でした」
と答える事が出来ます・・

他にも多数の内容について質問があったら・・
同じですね・・

この現状を受け止めた上で私が今考える事はただひとつ
「宮原(橘)と平河は必ず繋がっているはずだ!」と言う事です。
(もう、皆様には私の心の中は見え見えでしょうが・・)

先入観を抜きにして考えてもこれは「偶然」だとはすでに言えないと思うのです。

こう、考える私は不自然なのでしょうか?

良峯・橘・良峯姓丹羽氏・平河は必ず、繋がっていると信じて私は調査を頑張ります。

皆様、ご教示の程、どうかよろしくお願い致します<(_ _)>
では。
[24]白石さんからのコメント(2014年08月12日 02時28分57秒 ) パスワード


青一族
青一族--------------------------------谷川健一著――青銅の神の足跡より

『新撰氏姓録逸文』に
阿智王が、母や妻子のほかに七姓に漢人をひきいて帰化。
@ 多−-−檜前調使ヒノクマツキノオミなどの祖
    神八井耳命カムヤイミミ の末裔------------------古事記
A・郭ソウカク------坂合部首サカアイベノオビトの祖------坂合部連―――――多氏の同族
B朱---------------佐奈宣サナゲなどの祖--------伊賀の佐奈具と関係??
雄略帝の14年
 身狭村主青ムサノスグリアオを呉国につかわして、漢織、呉織および衣縫の兄媛、弟媛をつれてこさせ呉人を檜前野に置いたとある。
『日本書紀』応神天皇の37年に阿知使主を呉につかわして、縫工女キヌヌイメを求めさせたところ、阿知使主は兄媛エヒメ、弟媛、呉織クレハトリ、穴織アナハトリをつれ帰ったという記事あり。また、41年にも阿知使主らは呉衣縫クレノキヌヌイ、蚊屋衣縫を連れ帰ったという記事あり。

日本書紀によると、青という人物は史部フミヒトであった。
===========================
・郭は佐大首と坂合部の祖。

朱から
朱姓小市氏が物部姓に改姓した可能性もあるが何とも言えない。
解明の余地があるということですね。
物部遠祖はにぎはやひ。

坂合部連の祖は、「旧事本紀」に「火明命十六世孫」とある。

伊居太神社を見ると
【延喜式神名帳】伊居太神社 摂津国 川辺郡鎮座

   【現社名】伊居太神社
   【住所】兵庫県尼崎市下坂部4-13-26
       北34度44分50秒,東経135度26分1秒
   【祭神】武甕槌神 (配祀)天児屋根命 経津主神 姫大神 (合祀)市杵島姫命
       元は坂合部連の祖神「坂合部大彦命」を祭祀

古老の伝承によれば、その昔、大和春日大社より神の使者、白い神鹿が当神社に到来したと云う。昔は春日大社と、深い係わりをもっていたようである。
江戸時代、藤原氏の子孫である青山氏が当地域を支配したのも、春日社が、藤原氏の祖神であったからである。

★太田亮氏の古い方の姓系辞典を見れば 
左京皇別 物部に 春日の族とある。

春日は藤原
============================
摂津国 河辺郡 伊佐具神社
由緒

式内 史蹟 伊佐具神社由緒
御祭神 ★五十狹城入彦尊 他二柱不詳
配祀 宮八幡宮 金刀比羅神社 愛宕神社 天満宮
末社 白竜稲荷神社(福円山浄徳寺跡)
主神五十狹城入彦尊は★景行天皇代10皇子であり武勇にすぐれ★御兄日本武尊(熱田神宮御祭神)と共に諸国を平定されたのである。兄宮に勝るとも劣らざる英知の大神にして庶民その偉効に景仰し社殿を営み当地に奉仕されたのであります。
されば昔より今日に至るまで国土の守護神 厄除け開運の御神徳を以て旧川辺郡内筆頭の座に置かれ官幣社として祀られてまいりました。
尼崎市内66社の中で唯一の延喜式内社で神仏混合の社殿五輪塔水輪部 福円山浄徳寺銘入りの鰐口等神仏混合の形をそのままとどめており尼崎市教育委員会から史蹟としてしていされておりますように由緒ある古社であります。

この神社は 稲荷社でもあり 酒に関し、もちに関している。
===============================−
佐奈宣は いざなぎ にも 通ずるとか いう 話もある。

[25]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 09時31分57秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

白石様、ご教示ありがとうございました(^・^)

伺った情報は、まだまだ、私が未熟なもので(@_@。すぐにピン!ときて、お返しする事が出来ません。すみません(@_@。<(_ _)>

がっ!しかし、きっと、きちんと理解出来るように、しっかりと勉強させて頂きます。

「摂津国 河辺郡 伊佐具神社」
今調査している様々な情報の中にかなり以前に登場した「摂津氏」に関係する内容が出てきています。
白石様は私をお導き頂く特殊能力をお持ちですから、必ず、何かに繋がる事だと信じています(^・^)

所で・・・
今朝は、かなり、調査が進みました。

球磨郡久米郷を所領した三池氏と清原氏(永井氏)の関係が見えてきました。(この頃の勉強の成果がやっと出てきました\(^o^)/)

でも、元は、私が三池氏が所領した球磨郡久米郷の土地に関して最初に大きな勘違いをしたところが、話をややこしくした原因です。
とても反省しています(@_@。
そして、この話には・・・
「橘」も、もしかしたら絡んでいるのでは?という所です。

実は、今日も、マタマタあまり寝ていませんので、頭がぼ〜っとなって、変な事を書いてはいけませんから、ちょっと休憩をして、そのあとでコメントと言う事で。

では<(_ _)>(^・^)(-_-)zzz
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月12日 14時36分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>朱姓小市氏が物部姓に改姓した可能性もあるが何とも言えない。
解明の余地があるということですね。
 
 
越智氏(小市国造)は、建前上は物部姓(称孝霊帝裔)という事になっている。
しかし家紋は折敷に三文字で、大山祇神社の神紋と同じで家系も同じと思われる。
大山祇神社の神官三島敦雄氏が、昭和2年刊行「天孫人種六千年史の研究」のなかで天孫人種はシュメール人と主張している。
天孫人種系民族と所祭神に詳しいので一読すべし。
熱田、津守、伊勢、大山津見神ほか多くの神々について詳述。
今まで良く解らなかった神々の実体や地名、家紋に関する疑問が氷解。
朱はシュメールかも知れない。
「古代日本領土の起源」と同様、ここでも太安万侶が苦笑いしているでしょうな。

紀元前4000年まで遡れる。 
バビロニア記によれば「紀元前612年、アッシリア人筏にて洋上に逃れる者多し」。
その後ペルシャ湾からインドのゴア経由、マレー半島、中国海南島などを経て、日本列島へ北上。
長門壇ノ浦、伊予大三島、屋島、阿波鳴門、伊勢熱田、安房小湊まで東上。
3・4月は海流が東へ、11・12月は西へだから紀元前の船舶でも楽々。
シルクロード、雲貴高原、長江下流、山東半島、辰韓経由の連中より一足先に列島に到着したハズですよ。
 
百万冊以上巷間に満ちたが、現在では極めて入手困難。
当局により焚書されたのではないかとの噂もある。
以下に補註された本があるので、興味があれば購入お勧め。
 
天皇アラブ渡来説―日本アラブ古代交流史 (1974年)
 http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E8%AA%AC%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%BA%A4%E6%B5%81%E5%8F%B2-1974%E5%B9%B4-%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%AB%E5%AD%A6%E4%BC%9A/dp/B000J9H18Q/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1407818041&sr=1-1&keywords=%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5
[27]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 14時39分59秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

では、早速、調査の進捗を御紹介致します。

まず、私は、とんでもない思い違いをしていました。
三池氏(貞家)が所領した球磨郡久米郷の土地について、今まで、「南北朝の動乱」で橘薩摩が没収された土地かな?と単純に思い込んでいました。

所が・・・

今朝、三池貞家と言う方の事がとても気になりまして(突然です)今まで調べていた事を最初から見直してみたのです。

すると、この頃の「勉強?」にて得れた知識によって、やっと本質が見えてきました。

「平川家について8」コメント16
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html

この時の調査のきっかけは「紀氏のルーツ」というサイトの記述からでした。
この時は、とても中途半端な調査(調査とも言えないような)で終わっていました(@_@。

転記します

サイト 紀氏のルーツ http://homepage2.nifty.com/ihmm/index.html
に以下の記述があります。
紀氏の荘園・姓(国別 ) 
球磨 @紀平氏 本姓紀氏
        ・紀平二元保
        ・紀氏であるが、のち、平姓を稱したものをいう
        ・球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名とある
★紀平次不知実名は師貞の事でした。
そして、このサイトの記述、何故か荒尾市の項目にも
ー荘園ー
    @1114「野原庄」
       ・郡名:玉名郡 荒尾市 
           小岱山南西部、菜切川の上中流域
       ・領家:喜多院領・宇佐弥勒寺領
           ・800余町
           ・1321-8-27 紀頼隆譲り状 
                 西郷の「玉名西郷」
       ・預所:大江広元
       ・地頭:西郷=小代氏
           永吉=350丁 良峯師高、子息紀平師貞  
何故?荒尾市の記述に良峯師高、子息紀平師貞が?

と言う事で、気になる記述が出てきましたので、一つ一つを冷静に分析致します。

まず、紀平氏 本姓紀氏 紀平二元保そして紀平師貞
紀平二元保とはhttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub21.html

1251年 紀元保 高良別館宮大宮司

そこで、高良別館宮は何処だと?調べました。
鷲尾神社
http://www.jinja.sakura.ne.jp/yanagawa2/no05/

★源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年六月鷹尾郷には、藤原家宗が地頭として任命されています。
藤原家宗とは藤原 頼実の子 大炊御門家宗
父:藤原 頼実
母:藤原伊行の娘 となります。

紀氏のルーツでは
柳川市
     ※山門郡三橋「鷹尾社」名主22名 ★福岡県です!
       ・1221年 鷹尾大宮司紀元保を代官として名頭職が与えられた
・「三郎丸名」神人垂見大宮司
そして
1186年 「瀬高下庄」 ★福岡県です!
       ・郡名:山門郡
       ・領家:藤原家宗家領・左大臣徳大寺家領 ★ 徳大寺家です!          
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字:不詳
        ※出典:宝聚寺鳴鐘銘文・田中穣氏旧蔵文書
        ※1231 瀬高下庄 鷹尾別府高良別館宮          
            ・大宮司職は重代なりと
            ・大宮司 紀秀真→元保→元忠→元員
           ・鷹尾別府八幡宮=瀬高下庄鎮守

紀平二元保(鷹尾大宮司紀元保)と良峯師高、子息紀平師貞
そして、球磨から一気に熊本県北部・福岡県へと話が動き始めました\(◎o◎)/!
こうなれば師貞 この方を調べる必要があります。
と言う事で色々検索していると・・
みやま市歴史年表
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage3.htm
三毛・三池・徳大寺・鷲尾・中原 といった記述が続く中で
鎌倉時代 1991年の記述に
三池師貞が三池郡に今福城を築く・・・三池師貞?
三池氏は確か球磨のそれも橘が治めた久米郷宮原(久米郷東方)のお隣に・・!?

中世の球磨
http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html
三池氏・・久米郷西方
そこで、googleブックで三池氏 久米郷で検索すると
わたしたちのまち三池。大牟田の歴史 - 261 ページ
三池貞家、尊氏の東上に際し、赤間関まで供奉する。ぼ三池貞家、仁木義長に属して菊池武敏と戦う。 5 筑後の南朝方、三池城を攻める。ぱ足利 ... 5 米生住人大蔵某、薦田天满宮に石塔を寄進。ぼ足利直冬、三池親元の訴えにより、肥後国球磨郡久米郷 ...
★三池貞家 あれっ?貞家という名前には聞き覚えが・・?
他に
中世九州の政治社会構造 - 56 ページ
直頭は、入国以来、多くの所領処分関係文書(宛行状、預ケ状、寄進状など)を発しているが、建武五年四(ほ)畠山直顕の当国日向に対する領国形成は、 ... 者(貞鑑の子息貞元)が、肥後南部の球磨郡久米郷に所領を有っている(『相良家文書』一―一六一号)。★貞鑑の子息貞元 φ(..)メモメモ

そして・・これは文字化けしていますが、何故か師貞と言う記述が
鑑,次男貞政,三男貞家に、肥後に相伝レ&また正和一一年十一一月尼しんね, ^は上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲 7 た。同 I が。彼は 1 時の^ 5 宗である。 ... 三池 1 」は師俊を師貞の I ?し、鼻―員. ^とする。この 33 ,貞時は史料 ...69 ページ
円六郎蔵人(貞家) II 左近太夫(貞政) .後家尼厂道軎月光丸道智 1 .同木工助入道 1 安芸木工助入道法名同木工助三^状具害案には次の同地頭職相伝系図が付せられている。

そして思い出しました!貞家と言う名前を何処で見たのか!
菊池家の文書に残されていた平河の記述
平河師里相良流平川又三郎
  師頼小三郎三郎左衛門
  貞家八郎
  行親
★でも貞家が八郎となっています?

三池氏とは?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_mike.html
●中原親能は藤原光能の子で、外祖父中原広季の養子となった。
●柳河・大分・大阪の三池氏系図は藤原師親を祖としている。とはいえ、藤原師親は嵯峨天皇の後裔で、藤原師澄の養子になったとあり、大きく見れば源氏説に準じるものともいえよう。そして、いずれも師親より十数代をへた子孫に親能があらわれ、以後、異同をみせながら戦国時代の親泰・親盛に至っている。
●三池氏の嵯峨源氏説、藤原氏説は後世の作為から生まれたものであり、鎌倉幕府草創期に活躍した中原氏の後裔とみるべきであろう。そして、師俊の系が筑後の国人領主三池氏に続いたとみて間違いないだろう。

(・_・)とここまで、調べて、終わっていたのです(+_+)

まず、三池貞家が譲られた土地「上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷」
そして記述に読めた名
円六郎蔵人(貞家) 左近太夫(貞政) 後家尼入道軎月光丸道智★後家尼 ★月光丸 ★道智
こちらの内容はいったい何かを調べました。

長くなりますので次のコメントで(^・^)<(_ _)>
[28]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 14時58分05秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「大山祇神社の神官三島敦雄氏が、昭和2年刊行「天孫人種六千年史の研究」のなかで天孫人種はシュメール人と主張している。」

鳥肌が立ちました。
何の知識も無い私が、何年もず〜っと気になって仕方がなかった「シュメール人」。

「天孫人種六千年史の研究」ぜひぜひ読みたいです!!
しかし・・難しいお名前に対して頭がしっかりと反応出来るように、特訓を致します<m(__)m>

紀元前4000年まで遡れる。 
バビロニア記によれば「紀元前612年、アッシリア人筏にて洋上に逃れる者多し」。
その後ペルシャ湾からインドのゴア経由、マレー半島、中国海南島などを経て、日本列島へ北上。
長門壇ノ浦、伊予大三島、屋島、阿波鳴門、伊勢熱田、安房小湊まで東上。
3・4月は海流が東へ、11・12月は西へだから紀元前の船舶でも楽々。
シルクロード、雲貴高原、長江下流、山東半島、辰韓経由の連中より一足先に列島に到着したハズ

もうワクワクします\(^o^)/
やはり、こういうお話が大好きです。(他の調査より、身体の中からワクワクする、何と言いましょうか衝撃が走るのです。これはきっと父譲りだと思います)

今の調査が進んだら、私は、絶対にこの時代の事をしっかりと勉強したいと心から思います。
(本当は、すぐにでも飛びつきたい心境なのですが・・)

本当にご教示ありがとうございました。(^・^)

ず〜っとワクワクしていたいのですが・・・(@_@。

でも、先ほどの調査の続きを御紹介させて頂きます(@_@。じゃない!(ー_ー)!!(^・^)
次のコメントで(__)
[29]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 18時39分21秒 ) パスワード

ではお伝え致します。

まず、三池貞家が譲られた土地「上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷」
そして記述に読めた名
円六郎蔵人(貞家) 左近太夫(貞政) 後家尼入道軎月光丸道智★後家尼 ★月光丸 ★道智
こちらの内容はいったい何かを調べました。 の続きです(__)

「上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷」で検索した所以下のサイトを見つける事が出来ました。
相馬氏惣領 相馬胤綱
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo12.htm

画面を下げて行くと
「正和3(1313)年正月24日『尼しんねん譲状』(『三池文書』:柏市史所収)」が出ます。
ご覧ください。

ゆつりわたす、あくりこせんのふん、
かうつけのくにおほやきのかう、しもつさのくにあひこのむら、ひんこのくにくめのかうひやく五十一ちやうのうち廿ちやうハ、六らうとのゝかたへさりあたへ候ぬ、
のこるひやく三十一ちやうを、はんふんかりんかたを、ゑいたいをかきりて、 あくりこせんニゆつりあたうるところなり、ミくうしにおきてハ、ふんけんにしたかいて けたいなくきんしせられ候へく候、たたしかやうにハ、めん々々ニゆつりあたゑてのち、
あるいハこまこのなかにも、もしいらんふしきをいたす物あらハ、あくりこせんを
ちやくによとして、かのふんりやうを申給ハるへきなり、よてのちのせうもんのためニ、
いましめおくところのしやうくたんのことし、

   しやうわ二ねん十二月廿八日
                 あましんねん(花押)

  (裏書)任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、

      正和三年正月廿四日
                   相模守(花押:北条熈時)
………………………………………………〜漢字仮名混じり文〜……………………………………


  譲り渡す、阿久里御前の分、

上野国大八木郷、下総国我孫子村、備後国久米郷、百五十一町の内二十町は
六郎殿の方へ去り与へ候ぬ、残る百三十一町を、半分かりんかたを、永代を限りて、
阿久里御前に譲り与うる所なり、御公事に於きては、分限に従ひて懈怠なく勤仕せられ
候べく候、但しかやうには、面々に譲り与ゑてのち、あるいは子孫の中にも、
もし違乱不思議を致す物あらば、阿久里御前を嫡女として、かの分領を申し給はるべきなり
よって後の證文のために戒めおく所の状、如件、

    正和二年十二月廿八日
                 尼しんねん(花押)

  (裏書)任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、

      正和三年正月廿四日
                   相模守(花押:北条熈時)

(・_・)上記に「上野国大八木郷、下総国我孫子村、備後国久米郷」とあります。???備後国久米郷?(かな文では「ひんこのくにくめのかう」)と。

★三池貞家(六郎)が譲られた土地は
上野国大八木郷、下総国我孫子村、肥後国球磨郡久米郷

にっ!似ている???!でも、(『三池文書』:柏市史所収)」では
「ひんこのくにくめのかう」を備後国久米郷と解釈しているようです。
これは、どういう事なのか??

でも先に進めます(__)

と言う事で、この譲り状を書いた「尼しんねん」とはどのような方であったのか?
先ほどのサイト
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo12.htm

表題「尼妙智(三女)」をご覧ください。
島津氏略系図があります。

「尼しんねん」とは
三池道智(杢助入道)と後家尼如円の間にうまれた娘のようです。
\(◎o◎)/!(お久しぶりの登場です)
見つけました!! こちらのコメントで最初に書いた「名」がかろうじて解る方。
★後家尼と★道智
そして、『尼しんねん譲状』の中にあった
「上野国大八木郷、下総国我孫子村、備後国久米郷、百五十一町の内二十町は
六郎殿の方へ去り与へ候ぬ」
★六郎殿とは「三池六郎貞家」・・かな?(まだ不安です)

続けます(__)
「尼しんねん」は島津忠宗の妻ですね!
「尼しんねん」と島津忠宗の子が「島津貞久」と「阿久里御前」

譲り状では「六郎殿の方へ去り与へ候ぬ」土地の残り「百三十一町を、半分かりんかたを、永代を限りて、 阿久里御前に譲り与うる所」となっています。

そして、島津忠宗は
父:島津久経
母:「相馬胤綱」の娘、「尼妙智」

(?_?)・・はっ!!\(◎o◎)/!「相馬胤綱」とは・・・きゃ〜〜〜〜っ!!この方は!!
「平川家について13」コメント69で登場した方です!!
八幡太郎源義家の六男・源義隆(六郎)。この方の子供「頼隆」の記述です。
転記します(__)
義隆が亡くなった当時、子・頼隆は生後五十日足らずであり、乳母に連れられて千葉介常胤を頼ったため常胤のもとで成人し、治承4(1180)年に千葉介常胤とともに下総国府において頼朝と対面する(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)。頼隆は常胤の傍らにひざまずいて頼朝の言葉を待った。常胤は「これなるは陸奥六郎義隆殿の遺児、森冠者頼隆と申す者でございます」と紹介する。頼朝は「あの陸奥殿の子息か。我もそなたもともに源氏の胤子じゃ。ともに平家を倒し先祖の願望を達そうぞ」と、頼隆を常胤の上座に座らせた。

「相馬胤綱」に育てられた源頼隆の子息が「源(毛利)頼定」。
「源(毛利)頼定」の妻が、宮原の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」。
(・_・)ご縁があった方なのです。
上記に関係した「相馬胤綱」の娘が「尼妙智」で島津忠宗の母。
島津忠宗の妻が「尼しんねん」と言う事ですね。

では、「尼しんねん」の父、三池道智(杢助入道)とは?どのような方なのか。
調べました。

三池道智(杢助入道)は富来(とみき)氏の情報で「杢助入道」として見つける事が出来ました。

富来(とみき)氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_tomiki.html

 富来(とみき)氏は中世を通じて豊後国国東郷の富来城主であり、大友氏に属しその重臣として活躍した。建久七年(1196)、豊後守護となった大友能直に従って鎌倉御家人永井石見守実貞が嫡子実継とともに下向、国東郷富来に居住したのが始まりとされる。いわゆる「下り衆」と呼ばれる武士である。富来に土着した実貞は在名にちなんで富来を称し、曾孫の実忠(忠文)のときの弘長元年(1261)富来城を築き所領支配を安泰させたのである。
 富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井造酒正紀祐安の子で、本姓は紀氏であった。ところで、国東にある伊美八幡は京都の岩清水八幡から仁和二年(886)勧請されたが、勧請を奏請したのは奈良大安寺の僧行教で、行教は紀氏の出身だったことから紀氏が近畿から国東に進出することになった。岐部氏、櫛来氏などであり、富来氏も紀姓であったことから国東郷に配されたとも考えられる。

★富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井造酒正紀祐安の子で、本姓は紀氏であった。
???紀祐安?

とりあえず、永井石見守実貞を調査です。

するとこちらのサイトに、このような情報が記述されていました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/saito-bungo1.htm

清原房則=業恒−広澄=頼隆(近澄の子)・・・永井祐隆−祐安(中原師元養子)−富来実貞

「永井祐隆」 ながい??・・「祐隆」・・・??!あっ!!
「清原祐隆」!!
清原祐隆の子「祐安」が中原師元に養子に・・
中原祐安とは清原祐隆の子。清原頼業の兄弟だった。
清原祐隆の妻は「長門守清信の娘」でした。

こちらの系から「祐安」が中原師元に養子に入り、その後「永井石見守実貞」が嫡子実継とともに下向、国東郷富来に居住した・・
と言う事なのでしょうか?

と言う事で、ここまでが現在の調査の進捗情報です。
まだまだ、詳細な調査を続行致します。

ところで、
日本の苗字七千傑様、大変お忙しい所、申し訳御座いませんが、お教え下さい。

長門守清信とは、もしや「橘清信」の事でしょうか?
長門守清信の本名を調査したのですが、見つける事が出来ませんでした。
申し訳ございませんが、ご教示をどうかよろしくお願い致します。

本当にいつもいつもすみません。
[30]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月12日 21時16分34秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>長門守清信とは、もしや「橘清信」の事でしょうか?
 
違うと思いますよ。
豊後齋藤氏は出自不明だが、永井と言えば閨閥的には中原氏に近い大江流永井氏でしょう。
該当者は不明だが。
すぐ橘氏に結び付けたいようですが、宮原氏の祖小鹿島の橘氏は越智姓からの改姓であり大山祇神の後裔大三島神社一族の後裔と同族でしょう。
建前上は橘氏ですが、本来なら楠木氏を含めて折敷に三文字の大山祇神の神裔。
越智国造は海神大山積和多志大神(バビロニアの海神ヤー)と日神大長宇津神(バビロニアの日神ウツ)を並祭してきたのが真実。
ウツがオチに転訛したのですよ。
[31]子孫よりさんからのコメント(2014年08月12日 23時36分47秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい中、ご教示本当にありがとうございます。

やはり、違うと言う事ですね。

解りました。「長門守清信」への先入観がありました。頭を切り替えます。

「越智国造は海神大山積和多志大神(バビロニアの海神ヤー)と日神大長宇津神(バビロニアの日神ウツ)を並祭してきたのが真実」

私の無意識の中にバビロニアという言葉に反応する何かがあるのは、もしかしたら、遠い古の記憶がDNAに刻み込まれているのかも?などと想像してしまいました。

「大三島」の越智姓に御縁がある事は、前嫁ぎ先のお話をさせて頂いた時にご説明したかと思います。
もしかしたらSuperflyが大好きなのもボーカルの越智志帆さんの声を聞くと落ち着くのも、縁なのかな?と思いました。
ちなみに、先日、娘と話したばかりなのですが、越智志帆さんと、娘の叔母(前夫の妹)が、顔・雰囲気・歌(めちゃくちゃ上手です)とても似ているのです。
何だか、不思議なのですが・・

もちろん、私は「大山祇神の後裔大三島神社一族の後裔」という事がどのような系になるのかは殆ど知識がありません。(しっかり勉強します)
すごく、非現実的な事ばかりを書いているとお思いでしょうが、ただ、不思議ですが解るのです。ず〜っと昔から「バビロニア」や「シュメール」という言葉に反応していた理由が・・

そして・・・
マタマタ(ー_ー)!!とおっしゃるかとは思うのですが・・

こうなれば、日本の苗字七千傑様や皆様に嘘や隠し事は出来ないと思い、あえて書かせて頂きます。(変な人・気持ち悪いと思われても仕方ありません)

「橘」に拘る理由も、実はあります。
これも、何故か解るのです。以前、コメントしたと思うのですが「清原元輔」と言う方には、ものすごく懐かしい愛おしさのような気持ちが湧きます。
初めて名前を見た時からです。何故か知っていた気がしました。
そして、「橘則光」という方も同じです。
すごく、懐かしいのです。心理学を勉強している方は、きっと「潜在意識」とおっしゃると思うのですが、でも、おそらく、そうではないと思います。

自分でも解らないのですが、何かがそう伝えてきます。
今の調査も、決して意図的に、「橘」を探し出そうとしているわけではないのです。

偶然に、本当に偶然に、思いつき、調査すると繋がる・・という事がずっと続いています。

「宮原」の先祖「小鹿島」の橘が越智姓からの改姓という事は理解出来ます。
では、何が私の調査と「橘則光」「清原元輔」と言う方、そして関係する方を繋げようとしているのか・・・

そして、丹羽氏に対しても同じです。丹羽氏というよりは、変な言い方で申し訳ないのですが「阿蘇の神」です。
阿蘇の神と呼ばれた何方かが、繋がりを見つけるように働きかけていらしゃるのも解ります。

そして、「鹿ケ谷の変」に関係していた方々や、様々な「乱」という言い方をしてしまいますが、その「乱」に関係した方々のなんだろう「声」のようなものも、解ります(ものすごく辛くなる事があります)

もう一つカミングアウトをします。
子供の頃から歴史が苦手だったのは、もちろん漢字が苦手、名前を覚えるのが苦手という理由が一番の原因ではあるのですが、実はもう一つ、ありました。

教科書の記述を読むだけで、その時の状況が見えていたから、子供心に怖かったというのも真実です。

今日のコメントは、とても、非科学的な事ばかりで申し訳ありませんでした。

こういうお話は、あまり書かないでいようと思っていたのですが、すみませんでした。

でも、調査は調査で別です(ー_ー)!!。
しっかりと、事実を見極めて、現実的な調査を行います(__)

では<(_ _)>(^・^)














[32]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 09時33分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

すみません。昨日の三池貞家に関する情報の中に誤りがありました。

道智とは本名「師時」であり、昨日コメントした「富来(とみき)氏」との繋がりが解らなくなりました。

私のおっちょこちょいより、誤ったコメントをして申し訳ございませんでした。

三池道智(師時)と尼如円が「尼しんねん」の父母となります。

早速、三池道智(師時)の調査を行います。
では。
[33]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月13日 11時51分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「大山祇神の後裔大三島神社一族の後裔」という事がどのような系になるのかは殆ど知識がありません。
 
 
全体的な系譜鳥瞰図の把握を置き去りにして系図調査の各個撃破をするから、何が何だか解らなくなるのですよ。
まず神別統括系図で全体を捉えましょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
 
 
大山津見神は、神武天皇や物部氏より遙か昔の人ですから物部姓(称孝霊帝裔)は建前であって真実は異なるのです。
もっと太古については「天孫人種六千年史の研究」を熟読のこと。
 
大山祇神の神裔の歴史上果たした役割は大きい。
1.神武東征は各地の水軍の活躍なしには不可。
  宇佐、宗像、大三島、住吉、熊野水軍などで、中でも大三島水軍の功績大。
 

2.源平合戦
  河野水軍は平家方だったが、源氏方に寝返り平家は壇ノ浦で滅亡。
  なぜ寝返ったかは下記系図参照のこと。
  http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
  ここで北条が絡んでくるわけだ。
  東国で平家が振るわなかったのは平氏系水軍が源氏に味方したからですよ。
 
 
3.幕末の幕軍の淀城への入城拒否
  鳥羽・伏見の戦いで負けた幕兵入場を稲葉の殿様(越智姓)が拒否。
  これを見た近隣の佐幕派大名も雪崩を打ち官軍方となり、大政奉還へ。
 
 
4.日本初代首相は越智姓。
  藤原姓でなく越智宿禰伊藤博文が正式な記録。
  http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b.htm#003
[34]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月13日 11時57分57秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

神別統括系図のURL訂正
 
 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900.htm
[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月13日 12時18分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

なぜ寝返ったかは下記系図参照のことのURL訂正。
 
 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
[36]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 14時33分37秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

ご丁寧にお教え頂きまして、お陰で、ごちゃごちゃになっていた私の頭の中が綺麗に整理されました。

実は、漢字アレルギーより今までは若干拒絶反応を起こしそうだったのですが、ご教示がとても解りやすくて、「神別統括系図」を拝見しましたが(もちろん未だお名前はうまく読めませんが)それでも、図で表して下さっていますから、頭に「ス〜ッ」と入ってきました。(漢字は、読めるようにしっかりと勉強いたします)

源平合戦での河野水軍の寝返り・・
河野(源)親清と河野親経が姻戚関係になり、その後裔が北条氏と姻戚関係を結んだという事ですね。

伊藤博文に至る系は「林氏」にここでも河野氏からの養子?(姻戚関係)が繋がってくるのですね。
(白石様がおっしゃってた、「林」姓に関してのお話の意味がしっかり解りました)

ご教示のお陰で、まず最初に全体を把握する事が出来ました。
ありがとうございます。

今までの調査でも、日本の苗字七千傑様から「各個撃破」のご注意をたびたび受けていました。
全く反省していなかったと言う事ですね。すみません。

「全体を捉える」と言う事の本当の意味が解りました。(今までは、ただ、やっているつもりだったのが、自分でも解りました(__))

日本の苗字七千傑様、貴重なお時間を取って頂きまして、
本当にありがとうございました。
[38]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 15時09分41秒 ) パスワード

追記

全く、根拠のないお話になりますが、すみません(__)

顔立ちの事です。

以前から、白石様のコメントでも「目」についてお話がありましたが、
実は「ぱっちり」という訳ではないのです。

父も叔父も親戚も、皆、ハーフのような目と言われるのですが、それは「ぱっちり」ではなく、おく目のはっきりとした二重です。
鼻は、筋が通って、とても高いです。

でも、あくまでも「奥目」です。

かく言う私はと言いますと、同じく奥目のはっきりとした二重です。
(鼻は、私だけ、母似でまん丸です(@_@。父からは「鼻」はこっちの顔じゃない(ー_ー)!!と言われます。)

10代の頃、目元は(目元だけです(@_@。)ハーフタレントの「マリアン」に似ているとよく言われていました。
今は、笑った時の目元が、熊本出身のタレント「スザンヌ」によく似ていると言われます。(何度も言いますが目元だけです。鼻は・・・・(@_@。)
あっ!解りやすい方がいらっしゃいます。
八代亜記さんです。何故か、この頃、「若い時の八代亜記」さんの目元に似ていると言われます。でも、私も年齢を重ねましたので、「今の八代亜記さん」の方が似ているのでは?と思うのですが・・

やはり、奥目のはっきりとした二重の人ばかりです。

こういう顔は、きっと平安時代には、ちょっと無理がある顔だったのかな?と思います。

いつか、「ぱっちりのまん丸お目目」では無い事をお伝えしようと思っていたのですが、この機会に(__)

くだらないコメントでした。すみません。
では<(_ _)>
[39]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 17時31分53秒 ) パスワード

先ほどはくらだらないコメントをしてしまいました・・

では、早速、朝お伝えした「三池道智」の調査に関してお伝え致します。

調べたのですが「三池道智」が、三池氏のどなたに該当するのか、諸説があるようです。

諸説その@ 「三池貞致」
こちらのサイトに何故「三池貞致」と推測できるのかが書かれていました。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_mike.html
鎮西三池氏の場合、中原氏の後裔であることは疑いないが、その出自に関しては諸説がなされている。『姓氏家系大辞典』をみると、大蔵姓三毛(美気)氏の子孫が三池氏を称したとする説が紹介され、続いて、大友氏族・嵯峨源氏説・藤原氏説などが掲載されている。一方、三池氏の系図は、柳河三池氏のものをはじめ、善光寺、筑後将士軍談、大分三池氏、大阪三池氏など諸本が伝わっている。それらに加えて『尊卑分脉』の中原氏系図、鹿子木系図、摂津氏系図などがあるが、それぞれ異同が多く三池氏の確かな系図は不詳というしかないようだ。

中略・・
他方、部分的ではあるが三池一族の確かな系譜が、『島津家文書』のなかに残されている。それは島津貞久と三池近房の女米々との間に生じた相論のなかで、島津方が反論のために写しておいた三池方の訴状に添えられた資料の一つ「三池近房申状具書案」中の系図である。同系図に安芸木工助入道の名がみえ、木工助には貞宗・女名々・近房・師近の諸子があり、女名々は島津忠宗に嫁し貞久を生んでいる。
 安芸木工助入道は中原系図などから、幕府政所執事となった師俊の孫木工助貞時(定時)の孫貞宗(貞致)に比定される。系図から貞宗は木工助を称しており、嫡男の貞宗、嫡孫の貞鑑も木工助を称し、師俊流中原氏の嫡流であった。そして、大隅・薩摩の守護職である島津氏宗家と姻戚関係を結ぶほどの勢力を有していたのである。
★安芸木工助入道は中原系図などから、幕府政所執事となった師俊の孫木工助貞時(定時)の孫貞宗(貞致)に比定される
と言う事で、こちらは
「三池道智」=「貞致」説です。というか、こちらは安芸木工助入道=「貞致」説と言った方が良いのかもしれません。
良く読んでみると「道智」の名はどこにもありませんでした。
おそらく安芸木工助入道=「道智」という説なのだと思います。

では諸説そのA 「三池道智」=「師時」説です。

南国市史 - 第 1 巻 - 577 ページ より
道道党所領処分状」によると、元亨四年(一三二四)二月十三日、三池道智(師時)は嫡子貞鑑、次男貞政、三男貞家に所領を譲っているが、嫡子「貞鑑(入道道喜)分」として肥後国鹿子木西庄、筑後国三池南郷の地頭職等のほか、土&国田村郷を譲与している。
★三池道智(師時) とあります。

政治経済史学 - 第 307〜318 号 - 67 ページより
貞鑑,次男貞政,三男貞家に、肥後に相伝レ&また正和一一年十一一月尼しんね, ^は上野国大八木郷.下野国あひこ村,肥後国久米郷を六郎貞家に譲 7 た。同 I が。彼は 1 時の^ 5 宗である。惠元三! ? 11 月道智(師時)から讓られた河内国西島を、師時の後家如円 ...
★道智(師時)から讓られた河内国西島を、師時の後家如円・・・
(・_・)他にもかなりの書籍で三池道智(師時)という記述がありました。

そこで、「師時」とは、どなた?と調べたのですが・・

まず、こちらを<(_ _)>
菊池家文書より
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html
解りやすくします。
三池貞鑑 に至る系のようです。
★員俊嗣員時孫★安芸貞房曾孫★中原師季玄孫★師員耳孫★親能昆孫★広季仍孫★安芸貞宗子★ここからが別の系のようです。
★師時孫★貞時曾孫★貞房玄孫★中原師俊耳孫★師国昆孫★師茂仍孫★忠順雲孫★広忠裔親成?安芸杢助入道道喜

お解り頂けますでしょうか?
三池貞鑑は
一つの系では員俊嗣員時孫★安芸貞房曾孫となっています。「員俊」は「貞俊」の文字化けかとは思います。
もう一つの系では★師時孫★貞時曾孫となっています。
父は「安芸貞宗」。三池貞宗が改名して「貞致」となったという記述は読みました。
これは、父方の系・母方の系でわかれているのでしょうか?
一つの系では三池貞鑑の父は「貞致」で祖父が「師時」と言う事になります。

次にこちらをご覧ください。
南国市史 - 第 1 巻 - 577 ページより
三池氏は「三池系図」によると、中原親能の一族で、摂津守師員の孫の貞房が筑後国三池郡の地頭となり、貞房の子の師時(入・・★おそらくここは「入道道智」かと・・?

★上記の記述では
★摂津守師員の孫の貞房 ★貞房の子の師時(入道道智) となるわけです。

日本の苗字七千傑様の中原氏《親盛流》姓氏類別大観を拝見しました。
上記の記述より
「師時」は三池「貞時・貞数・貞継」の兄弟、もしくは三池貞俊の兄弟と言う事になります。

素人なりの推測ですみませんが
師時が「入道道智」であり、「嫡子貞鑑、次男貞政、三男貞家」の父は「三池貞致」である。
三池「嫡子貞鑑、次男貞政、三男貞家」は師時の「孫」または「曾孫」もしくは「玄孫」のいずれかにあたる・・

何故、推測するかといいますと、昨日のコメントでご紹介した「尼しんねん」の譲り状に関係するかと思いますが、
別の土地に関しての争論です。

南北朝期に見える村名河内国丹南郡のうち弘安11年6月13日の道智譲状(旧記雑録前編1/鹿児島県史料)に「かハちのくにゝしのしま」とあり,当地は三池安芸杢助入道道智相伝の私領で,娘の名々に譲ったが,悔い返し,道智の妻に譲り渡しているそして道智の妻(如円)は道智の死後,嘉元3年12月20日の如円譲状(同前)で名々の弟の三池近房の娘の米々に当地を譲っている暦応3年8月日の三池近房言上状(同前)には「河内国丹下郡岡村内西嶋地頭職事」と見え,先の2通の文書を副進しており,代々相伝したのは地頭職であったことがわかるしかし,本文書では近房の娘米々が相伝すべきところを,近房の姉名々の子島津道鑑が米々を差し置いて不知行の田村助三郎に沙汰をして,安威左衛門入道の奉行した室町幕府の奉行人奉書を掠め取り,打ち渡してしまったことを幕府に訴えているこの訴えに対し,暦応4年9月11日の足利直義下知状(島津家文書/南北朝遺1705)では,道鑑が領掌すべしとの裁許が下されている本文書によると道鑑の主張は,弘安11年3月に道智より名々へ当地の地頭職が譲られ,さらに名々より正安3年2月に名々の娘の阿久里に譲り,元亨3年7月10日の兄弟(妹)の和与状により,道鑑の領知するところとなったというものであるこの両者の主張に対する裁許では,両者とも格別の証文を所有していないが,道鑑の所持する元亨の和与状および元徳2年4月27日の六波羅下知状により,道鑑の相伝を認めて先の判断が下されているそして,延文元年8月6日の足利義詮下文(同前)では薩摩国守護職などとともに「河内国西嶋村……〈以上本領〉」として島津道鑒(貞久)に安堵されているなお,これが村名としての初見である次いで貞治2年4月10日の島津道鑒譲状案(旧記雑録前編2/同前)では惣領師久に薩摩国守護職などとともに「河内国西嶋村地頭職」を譲り渡しているまた,暦応元年8月28日に「道義公,以河州丹下郡西島為湯沐邑」との記事があり,道義が当地で湯沐をしたことがうかがえる暦応3年8月日の三池近房言上状に見える「丹下郡西島」は丹南郡丹下郷西島の誤記かと推測される当地は江戸期直前に,西川村・島泉村に分立したものと思われる

★弘安11年6月13日の道智譲状(旧記雑録前編1/鹿児島県史料)に「かハちのくにゝしのしま」とあり,当地は三池安芸杢助入道道智相伝の私領で,娘の名々に譲ったが,悔い返し,道智の妻に譲り渡しているそして道智の妻(如円)は道智の死後,嘉元3年12月20日の如円譲状(同前)で名々の弟の三池近房の娘の米々に当地を譲っている。

整理します。

「名々」・・・道智と如円の娘。
「名々の弟」・・・三池近房 ★何故、道智と如円の子息とならないのでしょうか?あっ!そうか、もしかしたら、「母」もしくは「父」が違うのかもしれませんね?。
「米々」・・・三池近房の娘。

\(◎o◎)/!わかりました。
「名々・三池近房・三池貞致・三池貞清・三池師近」は兄弟。と言う事は
「道智」と「貞致」は別人です。親子もしくは叔父甥の関係かと。

系図で言うと「貞致」兄弟の、前は「貞俊」。
「師時」とは「貞俊」の別名?もしくは、「師時」は「貞俊」の兄弟と言う事ですね。

菊池家文書では「師時(道智)」は三池貞鑑の祖父となっていました。
そして、もう一人の祖父は「貞俊」。
あっ!そうか、こういう考えも出来ます。
「師時」「師俊」はそれぞれ三池貞鑑の父方母方の祖父。

ややこしいですが(__)「師時」の位置?が絞られました。

所で、何故ここまで拘るのか?
皆様はもうお解りだと思いますが、「平河」にも「平河貞家」と言う名があります。
三池貞家が譲られたのは「球磨郡久米郷」。

とても気になっていました。

そして、拘る最大の理由は
平河の系図です。
平河の系図は数種類存在しますが
「良峯姓平河氏系図」(山江村誌)では
師時 → 長貞 → 貞家 となっているのです???
こちらの「師時」は、徳大寺実春と争論を行った「師時」です。

平河の部分はあくまでも「参考」として捉えます。

と言う事で今日の調査結果。
三池「嫡子貞鑑、次男貞政、三男貞家」は師時の「孫」または「曾孫」もしくは「玄孫」のいずれかにあたり
三池道智(師時?)と「三池貞致」は別人であり、親子もしくは叔父甥の関係か?と言う事でした。
では<(_ _)>(^・^)
[40]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 17時35分42秒 ) パスワード

追記

すみません。訂正です。

「師時」「師俊」はそれぞれ三池貞鑑の父方母方の祖父。
ではなく
「師時」「貞俊」はそれぞれ三池貞鑑の父方母方の祖父。

です。<(_ _)>
[41]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 18時06分26秒 ) パスワード

またまた再追記です。

平河のもう一つの系図では
貞継もしくは長時 → 貞家になっています。
これは、あくまでも、参考にしているだけです(ー_ー)!!

では<(_ _)>(^・^)
[42]白石さんからのコメント(2014年08月13日 20時41分21秒 ) パスワード


こんばんは
7000傑様 ご教示ありがとうございました。

今日のニュースで 蘇我馬子の父の墓といわれるものが ピラミッド型をしているということで、この形の墓は 我が国初 半島では 高句麗 百済の王の墓と同じ形をしている
そうです。
=============
シュメール 
シュメール・クメール セム語 ハム語
など 過去に 勉強したことはありますが、大系をつかむことは できませんでした。
=====================
わたくしも 本を手に入れたいと思います。今はなかなか 手に入れにくいようですが・・・
故郷では本などどこにもありもせず 図書館って バスで出かけていくところでも なかなか なくて 
大阪に出てきて 結婚して パートの仕事では 毎日出かけられず
日曜日に
子供を 背中に括り付け 自転車の後ろには 10キロにはなったろうか 上の子を乗せ 
40分くらいも走って 図書館につけば もう 帰りが気になり
家に帰れば 掃除洗濯買い物 夕食の支度を 一気に片付け
言葉の切れ端をつなぎ つなぎ 覚えてきたことが思い出されます。

とにかく 家のつながり 地域にある家の名からはずれないようにしていけば 古代にたどりつけるはずだ と 思いながら・・・
==========================
以下はネットから
@多−-−檜前調使ヒノクマツキノオミなどの祖。 神八井耳命カムヤイミミ の末裔------------------ 古事記.
A・郭ソウカク------坂合部首サカアイベノオビトの祖------坂合部連―――――多氏の同族.
B 朱---------------佐奈宣サナゲなどの祖--------

古事記・日本書紀ができたのは後世になってからで、日本書紀ができたとき 2神社16家の系図・古文書が引き上げられたという。

※日本書紀の第十巻(応神天皇まで)を書き上げた持統天皇の西暦691年に、蘇我氏は、自分たちが書き加えたウソの歴史の暴露を恐れ、下記の2神社の古文書、16家の家系図を、没収・抹殺しました。・・・と。

【被害にあった古文書・家系図 一覧 】
石神神宮・古文書、大神神社・古文書、春日氏・家系図、大友氏・家系図、佐伯氏家系図、
雀部氏・家系図、阿部氏・家系図、膳部氏・家系図、穂積氏・家系図、釆女氏・家系図、
羽田氏・家系図、巨勢氏・家系図、石川氏・家系図、平群氏・家系図、木角氏・家系図、阿積氏・家系図、藤原氏・家系図、上毛氏・家系図
===========−−−
上の家は 本で見たときは 尾張氏とか あったように思っていますが、阿積氏になっているのかもしれません。
===============−
檜前調使ヒノクマツキノオミ
檜前のことばは 以下に出ていましたね。
Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!-藤原平左衛門重 ...
嘉禄3年2月25日名の掛仏( 線刻十一面観音、石野若宮王子に奉納大施主 中務様 藤原定直、女大施主 檜前氏 )を持っていまし ... 窪野姓は藤原氏秀郷流武藤少弐氏族 で、窪次郎左衛門経清の後裔が称します。 ... 日本の苗字七千傑さん)
==================
                      ー天武天皇陵は奈良県★高市郡★明日香村大字野口にある★檜隈★大内陵(大内の言葉が山口に通じて、大内氏は百済系図も併せ持つ。飛鳥は百済の言葉で安住の地。)
天皇家−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                    坂上一族が来る
                       −−−★檜前
=====================−
調については かささぎの旗というブログに 書いてありました。
(調)は 昔 税の関係の姓のようで この しらべさんとは 関係は?ですが
祖父母と探した大分県大在の墓 というブログで 戦時 陛下の近衛にいた姫野さんという方の子孫の方の話があり
北九州ということで
おもしろい話がある と 思って 載せたのですが
祖父母と探した大分県大在の墓 - 日子の島TOP
祖父母と探した大分県大在の墓 ... 私が祖父母から聞いた内容では、平家の落人(源平 合戦を経た後、大分県大分市大在に上陸し総大将の命により武器を ..... かささぎには うかがい知れぬ次元の話。 ..... 調一族の血 ー しらべさんからの手紙1
(かささぎの旗というブログを出している人が 姫野さんで 祖父母の・・・のスレッドの姫野さんとは 違う人。このブログに しらべさんから 手紙が来たということのようです。)

2009年8月25日 (火)
調一族の血 しらべさんからの手紙 2
きのうセイコさんところへイチジクを持っていったとき、調さんのことを話しました。 知り合いに黒木町の調さんがいるとのこと、だけどあまり黒木には調姓はおられないそう です。歴史的な意味合いがあるのでしたね。(しらべさんのお便りの中に ...

ここをあけると 黒木大夫・待宵の小侍従のことばが。











[43]子孫よりさんからのコメント(2014年08月13日 23時38分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「日本書紀の第十巻(応神天皇まで)を書き上げた持統天皇の西暦691年に、蘇我氏は、自分たちが書き加えたウソの歴史の暴露を恐れ、下記の2神社の古文書、16家の家系図を、没収・抹殺しました。」

上記の情報が残っていたと言う事は、この事実を後世に伝えたいという意識を持った方がいらっしゃったと言う事ですね。

「調」(しらべ)という姓は「税の関係の姓」。
しっかりと、姓にその家の役割が残っているのですね。

「飛鳥は百済の言葉で安住の地。」

白石様、ご教示、とても、興味深く、なおかつ、とても面白かったです。
漢字に対する拒絶反応が全くありませんでした(^O^)/

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。<(_ _)>(^・^)
[44]白石さんからのコメント(2014年08月14日 01時02分45秒 ) パスワード

こんばんは
まん丸のパッチリお目目
違いましたか^^

お嬢さんの写真では 大きな目に見えました。

矢代亜紀さんのお顔も 確かに ハーフっぽいですね。
それなら 
デヴィ夫人?
この方なら 同級生(中村さん)が 夫人に似ている と 言われています。
でも それほど 目は 大きくないですけど・・・・
ここの 家は 村中といっていいほど 親せきが多いです。

集落も 山から流れてくる水を まわして ちょうど 滋賀あたりのように 野菜を洗い 選択をして ・・・としているのです。
そして 
この人も それほど 歴史をしっているわけでない
水を 自分とこの家のあたりが 上流で それを まわしているのだから 上○◎と集落名をつけるはずだよね と いっているのです。

京へむかって 上○○ 下○○と いう風に ついているのだと何かの本で読みました。
なので 五木方面は 上り 人吉方面は 下りです。

歴史を知らないけど 実に 家のつながりは よく知っていて あそこは ここは と 生き字引みたいです。

すみません
くだらない 話でした。
[45]白石さんからのコメント(2014年08月14日 02時30分50秒 ) パスワード

ネットより
◆8000年頃 世界最古の町エリコで 世界最古の農業が始まる。

◆4000年頃 ラピスラズリ(宝石)を商う★サカ族と★月氏の遂商が馬や船によってスサからウルに入った。

◆3800年頃 古代バンチェンに青銅器文化起こる。回転印象、蚕による絹織物、文化栄える。
   
◆3700年頃 バビロンのジックラトにいた4氏族が移動を始め、氏族の長である★苗族と★ナーガ族、移動する
               
黄きゅう氏(こうきゅうし)
青氏(★チュルク族)
 白巣氏(シュメール系初期エジプト族)  
 黒巣氏(インドに南下したシュメール系★ドラヴィダ族)
==============================
中国の人は 一世を ウバイドで有苗・三苗とし 
二世を 伏儀・女媧とする。
盤古は 伏儀・女媧と同じとされる。

苗族は蚩尤(しゆう)を祖先とし、女媧を祀る。

蚩尤(しゆう)のお顔は 天狗のようで、平将門のお顔も 同じ顔で
苗族は 揚羽蝶を シンボルにしている。

苗族と 西日本の丸い餅

そもそも礼が異なる。かれらを支配するのは土着宗教的な呪術体系なのである。周公旦の唯一の武器といえる中夏の礼楽などが通用するような土地とは思われない。
これは 苗族に関して
=====================
ドラヴィダ人
出雲の先住。3000年くらい前に やってきたという。
この 話は 朝山様?だったか コメントを いただきました。
出雲国造家ではなく 出雲大社を自力で建てたのだといっておられました。
出雲と大和のあけぼの―丹後風土記の世界: 斎木 雲州: 本
に 書かれているようです。向家
奈良時代ころまで 政治的に重要な位置にいたようです。
======================−−−−−−−−
チュルク
半島の高句麗文化もそうである。 ナーガは朴氏になったと・・・
===============−−−
お釈迦様を出したシャキィ族
サカ族は塞族という説もあり、塞族は釈迦族と同族という説もある。

お釈迦様はインドの王族の人とチベットの貴族の人の間の子という。
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月氏
倭女王卑弥呼 発見なる!:塞種とサカ族5 語族と人種 - ライブドアブログより
匈奴と大月氏は、犬猿の仲だが、匈奴と小月氏は、そうでもない。

帝舜虞氏(虞氏)の時代、龍を育てて飼いならした人 がいて、舜は、この人を董[トウ]と名づけ、董氏を下賜した。
董氏はアイシーンでもある。

月氏
林巴
匈奴
戌の日に、祭りを年3回やる犬信仰者です。(史記匈奴伝)
また史記匈奴伝や後漢書南匈奴伝では、匈奴は夏后氏の苗裔で、北方で遊牧を始めた。この北方の意味は、西方でしょう。はじめ月氏に従属していたからです


======================
阿智使主の四男の刀禰直からは畝火、荒田井、芸垣が出た[5]。荒田井氏には都城建設時の官僚倭漢★荒田井比羅夫がいる。
===================−−−−
以上
ネットからばかりですが
過去に調べたことと 大体あっているなあ と 思って書いてみました。
パソコンを3代くらい買い換えていて
前は小さな資格のディスクでした。それが どこかで 写せたらいいのですが そのまま です。
なので 今 引っ張り出せないのです。








[46]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 07時20分04秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

すごくおもしろかったです\(^o^)/

こう言うお話は、本当に大好きです\(^o^)/

だけど、白石様は、よくお勉強されていらっしゃいます。
私はというと、興味はあるけど、今まで、詳しく調べようとはしていませんでした。(やっぱりダメですね)

「ドラヴィダ人
出雲の先住。3000年くらい前に やってきたという。」

もちろん海を渡ってこられたわけですから、当時の公開技術は素晴らしいものがあったのですね。
先日、日本の苗字七千傑様にご教示頂いた
紀元前4000年まで遡れる。 
バビロニア記によれば「紀元前612年、アッシリア人筏にて洋上に逃れる者多し」。
その後ペルシャ湾からインドのゴア経由、マレー半島、中国海南島などを経て、日本列島へ北上。
長門壇ノ浦、伊予大三島、屋島、阿波鳴門、伊勢熱田、安房小湊まで東上。
3・4月は海流が東へ、11・12月は西へだから紀元前の船舶でも楽々。
シルクロード、雲貴高原、長江下流、山東半島、辰韓経由の連中より一足先に列島に到着した

こちらのご教示にも繋がるお話なのですね(^・^)

所で・・
話は変わりますが・・(マタマタ(ー_ー)!!と言わないで下さいね)
今日の、夢は、沢山の先祖?と思われる方(衣装?も様々)大集合で、声を合わせて言われたのが
「教えて頂いたのに、この子は何も見ていない!!!!」
後は、笑いながら何処かに帰って行かれました。
でも、一人の女性の方は振り向いてとても優しく私を見て「ニコッ」とされて帰って行かれました。

目が覚めて・・・?????

何を教えて頂いたのに見ていないのかな??と、考えながら、こちらのサイトを開くと、
空の青海のあを様が 「 奈良で蘇我稲目の墓発見?!」というタイトルで情報をアップされていました。

タイトルを見て・・・・
(-_-)・・・・\(◎o◎)/! あっ!!このお話は、昨日、白石様が
「今日のニュースで 蘇我馬子の父の墓といわれるものが ピラミッド型をしているということで、この形の墓は 我が国初 半島では 高句麗 百済の王の墓と同じ形をしているそうです。」と教えて下さったお話??
と・・・ 昨日は実は音楽ばかり聞いて、テレビは殆どつけていませんでした(*_*;
(えええええええええええええええええっ!!という叫び声が聞こえたような?!(@_@。)

先祖からしかられた?笑われた?のはもしや、「このお話か?!」(?_?)

と思いまして、早速、空の青海のあを様のスレッド「 奈良で蘇我稲目の墓発見?!」を拝見しました。

「一辺の長さが40メートルを超え、直後に築かれた方墳の大王(天皇)陵に迫る規模」
「同時代の敏達(びだつ)天皇(585年死去)が葬られたのは前方後円墳、次の用明、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇が葬られたのは方墳とされており、大王陵が前方後円墳から方墳に切り替わる直前の築造とみられる。これらの大王陵や石舞台古墳はいずれも2〜3段で、階段状の方墳は5世紀まで朝鮮半島北部の高句麗で築かれたが、国内では例がない。」

全く何も解っていなかったのですが・・(今でもまだよく解っていませんが(*_*;) なんだか、歴史学的に言うと「すごい発見」だったのでしょうか?

ニュース映像をネットで見たのですが、解析図や他に階段?の写真が掲載されていました。

あれっ?!この階段は??どこかで見たような、階段を下りて「開けて!!(@_@。」って泣いたような・・何か似ているような・・

そうか・・・

あの・・良く解らないのですが「蘇我稲目」と言う方は「大王様」と呼ばれるような方だったのでしょうか?

もしこちらの古墳の方が「大王様」と呼ばれるような方であったのであれば
「お目ざめになった」のですね。

今年の正月過ぎに見た夢のコメントで
「古墳のような貴重なもの。古代遺跡のような物が発見されるのであれば、嬉しいな」と書いたので、良かった(^・^)〜と思いました。

実は「大王様がお目ざめになる」と言う言葉は、子供の頃にかなり流行った「例の本」の言葉のようで・・
もしや空からお星様の大王さまが地球に降って来たらどうしよう(*_*;(@_@。
とも、少しだけ心配していました(@_@。・・(ー_ー)!!嘘です\(^o^)/

しかし、貴重な素晴らしい発見だったのですね(^◇^)
古代の事をもっと勉強したくなりました。(^・^)

あの・・今までは・・子供の頃から、ず〜っと悩んでいたのですが
今は、こうやって、皆様にふざけながらでもお伝え出来るようになれたので
とても、嬉しいし、ありがたいです。(いや(ー_ー)!!変人と思われている可能性も高い・・(@_@。)

それに、偶然・たまたま・・と言う事もありますしね(^○^)

と言う事で、白石様、昨日のコメントでちゃんと気が付いていませんでした。
すみませんでした<(_ _)>

しっかりと、勉強いたします(^O^)/
では<(_ _)>(^・^)
[47]白石さんからのコメント(2014年08月14日 07時27分48秒 ) パスワード

おはようございます。
蘇我稲目
この人の妹が尾張氏と結婚しているのですね。
[48]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 07時58分23秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^○^)

「蘇我稲目」の妹の方が「尾張氏」と結婚ですか・・

では、尾張氏のものすご〜〜〜く遠い遠い先祖様と言う事ですね・・

うん・・・?「にこ〜っ(^・^)」って女性が・・・
(?_?)・・・(?_?)・・・(^○^)ま〜いいかっ(^○^)

教えて頂いてありがとうございました(^・^)
[49]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 12時25分16秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

昨日、調査した「三池道智(師時)」について、もっと知りたくなりまして、
今朝も調査の続行を致しました。

ひとつ、「モヤモヤ」が消えました。

尼しんねんが「六郎殿」に「六郎殿の方へ去り与へ候ぬ」と言われた
「ひんこのくにくめのかう」に関してです。(念には念を入れました( 一一))

「備後国久米郷」なのか「肥後国久米郷」なのか?

答えは「六郎殿」で解りました。
「六郎殿」は「三池貞家」に間違いありません。

菊池家文書 「三池貞鑑」の下をご覧ください。
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html

★貞家安芸貞宗子安芸六郎蔵人寂順建武頃
★親元貞家子親秀?兵庫
貞家は安芸貞宗の子で「安芸六郎蔵人」で建武の頃「寂順」と名乗った・・かな?

そして・・・三池貞家は「肥後国球磨郡久米郷」を譲られているわけですから・・

「ひんこのくにくめのかう」は「肥後国球磨郡久米郷」と言う事になります。
(専門家が調査して「球磨郡久米郷」と言っているのに、この人しつこい!と言われるかもしれませんが・・自分で確かめたかったのです(-_-))

ただ、一つ気になったのが★親元貞家子親秀?兵庫 何だこれは??と・・
日本の苗字七千傑様の中原氏《親盛流》姓氏類別大観をじ〜っと見ていたら
「摂津親秀」の名がありました。

この方の情報が、先日ご紹介した 「相馬氏」のサイトにあったような・・
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo12.htm#settu

とここで長くなりそうなので、一旦アップいたします。
(^・^)
[50]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年08月14日 15時27分47秒 ) パスワード

こんにちは。

以前のコメントに対する返答などを書いていきます。

不思議な体質ですが、私が思い当たるものとしては思春期の頃に祖母が亡くなりました。
遠方という事もあり、私は葬式には出席できなかったのですが、通夜があった日の夜のこと。
私はいつも通り部屋の布団で寝転がっていると、誰もいない部屋の方から戸を開ける音がしました。
その音で「あれ?」と不思議に思ったのも束の間、しばらくすると足音がきこえてきて、その足音はゆっくりこちらに近づいてきました。
丁度その日は、部屋の戸を開けたままにしていて「気味が悪いなぁ…何で閉めておかなかったんだろう。今更閉めにも行けないし…」
と後悔しながらも、怖いので布団に包まりながら、顔だけを出して開いた部屋の戸の方をジッと見つめました。
段々と足音も近付いてきて、遂に戸の付近まで来た時、ゆっくりと人影が目に飛び込んできました。その人影は背は低く、身なりは柄の入った白っぽいワンピースを着ているようでした。
その人影は、そのまま階段の方へと通り過ぎるかに思えましたが…そうはいかずにその人影は急に歩みを止めてしばらく立ち尽くしました。不気味な静けさが漂いそれが十秒ほど経ったところで
左足がゆっくりと、こちらの方に向いて、次に首がこちらの方を振り向きました。

という所で、いつの間にか寝ていたらしく慌てて飛び起きました。
後から考えると、あの背の低さや身なりは祖母そのものでした。

と書くと、さも心霊体験のように思うでしょうが、今となってはこれも理屈で説明できます。

私は布団に寝転がった少し前の時点で既に寝ていたのです。私からすると、現実と夢の繋ぎ目が全く分からない状態で記憶しています。
しかし、それは幻覚をもとにした偽の記憶で私の脳が見せたものです。ただでさえ思春期という情緒不安定な時期に、身内の不幸が重なり
心のバランスが崩れてしまっていたのでしょう。脳内物質が異常分泌される事による一時的な統合失調の状態になり、そうなったと推定できます。

実は、その体験以前にも金縛りにあって隣に霊と思しき年配女性が座ってジッとこちらを覗きこんでいたりという事も多々あり、そういうものを見やすい時期だったのです。
それらも、情緒不安定な当時の精神状態ゆえにみたものと言えます。それを物語るように思春期を過ぎるとそういうものも見なくなりました。

逆に言うと、そういうものをみたり感じたりするという人は
情緒不安定な精神状態である可能性もあると思いますね。

オカルトという言葉がありましたが、オカルト思考をする人というのは往々にして
自分が持つ知識の範疇を超える事柄に直面した時に、それをどうにか捉えようという気持ちが先行してしまう人だと思います。

「不思議だったなぁ」で済ませたらいいところですが、納得できないままにしておくと不安で居た堪れなくなるのか
それを解消するために、如何にも神秘性を帯びた概念を持ち出す事によって解決をはかろうとするのが大方のパターンではないでしょうか。
そういう時に「神」や「宇宙人」や「霊」…etcという便利なものを持ち出す事によって辻褄を合せようとするのです。

簡単に言うと、無知の穴埋めにそういう概念を持ってきているだけです。そちらの方が時間もかかりませんし、色々と楽ですからね。
傍からみていると、見方を変えたり、場合によれば別分野の知識を引っ張りだせば解決できるのに、安易にそう結論付けているのは勿体ないと感じます。

最終的に彼らは「科学で解明できていない事だって沢山ある」等々と言います。
科学で解明できない事柄がある…だから、それは霊などの仕業…と思いたいんでしょうが
「だから」で結びつけてる思考の部分が全くもって意味不明ですね。それが原因だというなら証明して下さいと言われたら終わりです。
信じて下さいの一辺倒で信じる人は、恐らく同じようなオカルト思考の人くらいなものでしょう。

高校の頃にそういうオカルトが好きな人がいまして
不意に言い合いになるんですが、その度に「"ない"っていうなら証明してみろよ!」というニュアンスの最後っ屁をよくされまして
その都度「その前に、君が"ある"というなら"ある"事を証明するのが先でしょう」と言うと口ごもるんですよね。

私も月刊ムーをよく読む部類ですが、書いてある中身については正しいだとか事実だと思って読んでいるわけではないです。
「この発想は面白いなぁ」と楽しんで読んでいる感じです。それを事実などと真面目に捉えてどうこうというのは私からすると履き違えた印象ですね。

「やはりサンタクロースは実在した!!」という内容があったとして「ふふ^^」と思いながら読むくらいです。
私もサンタクロースがソリに乗っているのを見た事がある…やはり事実だったんだ!!というのは「・・・ん?」としか思えません・・・。
[51]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 15時37分59秒 ) パスワード

では、早速(^・^)

摂津親秀 美術人名辞典 Weblio辞書より
http://www.weblio.jp/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%A7%80

藤原親秀
鎌倉後期・南北朝時代の武家・連歌師。摂津守藤原親致の子。本姓中原。摂津親秀と称す。京都西芳寺(苔寺)の堂舎を建立した中原師員の四第目の孫に当たる。従五位下に至り、掃部頭・鎌倉幕府評定衆に任ぜられ、また松尾神社社司を務める。夢窓疎石を請じて西芳寺を再興した。『?玖波集』に入選。暦応4年(1341)頃歿、享年未詳。
(?_?) どこにも「三池貞家」の名はありません。きっと、「もしかしたら??」の記述だったのかもしれませんね(?_?)

でも、何だかまだ気になるので調査続行(^O^)/
と思い調べたら、三池貞家だけではなく、「平河」「宮原(橘)」を含めた、たいへん「不思議な」事実を見つけてしまいました(?_?)

では、早速。(ちょっと長くなります<(_ _)>)

まず、こちらをご覧ください。
千葉介氏胤 こちらのサイトです。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/souke18.htm

画面をスクロールしていくと、表題「守護職をめぐる争い」があります。

文和元(1352)年12月20日『足利尊氏判物』の下にこのような記述がありました。

尊氏が寄進した「下総国戸頭郷」は、もともと下総相馬氏の所領だったが、相馬胤継の次女がこれを継承し、彼女が嫁いだ摂津氏(中原氏の一族)に受け継がれて、彼女の孫・摂津親秀が建武5(1338)年8月10日、戸頭村の代地として「近江国柏木御厨地頭職」が安堵され、足利尊氏の知行地となっていた。
★相馬胤継の次女の孫:摂津親秀
★「近江国柏木御厨地頭職」が安堵・・・「柏木」・・あれっ「柏木」です。
平河義高の家臣の名は「柏木覚左衛門」・・偶然かな・・??
(?_?)モヤモヤがまた始まりました・・(ー_ー)!!先入観は抜きです!!

続けます。
「相馬胤継の次女の孫」とは? ここから相馬氏のサイトへ<(_ _)>
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/soryo12.htm#settu

画面をスクロールして
表題 「摂津大隅前司妻(次女)」を見て下さい。
摂津大隅前司の妻。彼女の娘の子が「刑部権大輔親鑑」であり、中原流摂津氏の一族の大隅前司に嫁いでいたことがわかる(『相馬系図』)。摂津氏は幕府の有力官僚で、評定衆・引付頭人を歴任した家柄。建長4(1252)年4月3日、将軍・藤原頼嗣が京都へ護送された際の奉行として「大隅前司親員」の名を見ることができる。親員は評定衆・中原摂津守師員の次男で、時代的にも一致する。相馬御厨内の所領は、親員との間の娘に譲り渡され、彼女を通じて摂津刑部権大輔親鑑へと継承されたと考えられる。

親鑑は元弘3(1333)年の鎌倉陥落の際に、北条高時らとともに東勝寺にて自刃しており、弟・親秀(掃部頭)が生き残って足利尊氏に仕えた。親秀は「相馬御厨内戸頭村」(茨城県取手市戸頭)を安堵され、建武5(1338)年8月10日、戸頭村の代地として、「近江国柏木御厨地頭職」が安堵されており(『足利尊氏袖判下文』)、相馬胤綱から次女に譲られた所領は「相馬御厨内戸頭村」が含まれていたと思われる。
★親鑑の弟・親秀が「藤原親秀(摂津親秀)」ですね。

続けて、サイトの記述を読むと、こちらでも所領をめぐる「争論」が多発していたようです・・
そして・・
島津氏略系図を見た後に・・・
争論の対象となった土地(領)を見ていたのですが・・そこで気が付いたのです。

まず
貞久に安堵された相馬郡内地
・符河村  :茨城県北相馬郡利根町布川
・押手村  :茨城県北相馬郡利根町押戸
・下黒崎村 :千葉県我孫子市内 ★
・発戸村  :千葉県我孫子市岡発戸★
・甲斐御房村:     ?
解説も転記します<(_ _)>
貞治2(1363)年4月、島津貞久(上総前司入道道鑑)は嫡男・師久に所領を継承させ、その3年後の貞治5(1366)年3月、師久は嫡子・伊久と次男・小法師に所領を分配した。そのうち、嫡子・伊久に継承させた所領の中に「下総国所々本知行分但除伯父下野入道跡」とあり、除外された「伯父下野入道跡」が小法師の所領とされた。そして伊久の子・忠朝の孫・忠成が島津氏の相馬領を継承していき、「相馬」を称した。こののち島津惣領家の所領に下総国相馬郡の地名は見えなくなる。

 忠朝は応安2(1369)年に薩摩国で生まれ、長じて平佐城主(鹿児島県川内市)となる。一族間の抗争のなかで奥州島津家と争い、島津陸奥守久豊と度々争うが、永利城へ逃れ、さらに隅之城、二福城へと逃れていったのち、応永28(1421)年、ついに陸奥守家に降伏し、子孫は都城島津氏の家臣となる。都城郷地頭として「相馬伝左衛門尉忠仍」「相馬仲右衛門尉久賢」が見え、都城郡梅北村宇佐八幡代宮司、安永村安原霧島大権現社司にも相馬氏の名が見える。
★貞治2(1363)年4月、島津貞久(上総前司入道道鑑)は嫡男・師久に所領を継承
★その3年後の貞治5(1366)年3月、師久は嫡子・伊久と次男・小法師に所領を分配・・

続けます
『尼しんねん譲状』に関した土地(領)
上野国大八木郷、下総国我孫子村、備後国久米郷(正しくは★肥後国久米郷)、百五十一町の内二十町は 六郎殿の方へ去り与へ候ぬ、残る百三十一町を、半分かりんかたを、永代を限りて、 阿久里御前に譲り与うる所なり
★上記の土地合わせて百五十一町
うち、二十町は「三池貞家」へ
残り百三十一町が阿久里御前へ・・・・やっと意味が解りました(^・^)

文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』に関係した土地(領)
かな文も一緒に転記します。(念には念を<(_ _)>)
ゆつりわたす
     ちやくし三郎左衛門尉貞久

   さつまの国すこしき
   十二たうのちとうしき
   さつまこほりのちとうしき
   山門のゐん
   いちくのゐん
   かこしまのこふり 同なかよし
   さぬきの国くしなしのほう 上村下村
   しなのゝ国太田の庄内南郷
   下つさの国さむまの内ふかわのむら、下黒さき同ほんと
   ひうかの国たかちをの庄
   ふせんの国そへたの庄 副田三郎次郎種信跡、
              但散在名をハのそく、

   右所々、貞久にゆつりあたうる所也、女子分子なくハ、
   其一この後ハ、そうりやう貞久可知行之状如件、

文保二年三月十五日     沙弥道義(花押)

………………………………………………〜漢字仮名混じり文〜……………………………………

  譲り渡す

     嫡子三郎左衛門尉貞久

   薩摩国守護職
   十二嶋の地頭職
   薩摩郡の地頭職
   山門の院
   市来の院
   鹿児島郡 同永吉
   讃岐国櫛無保 上村下村
   信濃国太田庄内南郷
   下総国相馬内布川村、下黒・同発戸、
   日向国高知尾庄
   豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡、 ★
          但散在名をは除く、

   右所々、貞久に譲り与うる所なり、女子分子なくば、
   その一期の後は、惣領貞久知行すべきの状、如件、

     文保二年三月十五日     沙弥道義(花押)

一応、ここまでで、ひとくくりにします。
すごく長くなりましてすみません(__)

皆様、お気づきになられましたでしょうか・・
全ての記述の中で私が★マークを付けた土地(領)
「肥後国久米郷」「豊前国副田庄」
ここは・・
橘公業が西園寺公経と替地をした
肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷
のうちの2か所です。

★肥後国球磨郡久米郷内の土地・・・「三池貞家」
★豊前国副田庄・・・副田三郎次郎種信(今調査中です)→ 島津忠宗 →島津貞久 → 生松丸 と譲られているようです。

「肥後国球磨郡久米郷」だけでなく「豊前国副田庄」までもが、こちらの調査に関係してくるとは・・・。何故??(?_?)

きっと、何かがあるとは感じます。
そして、思い出したのです。「平河」も確実に島津忠宗・島津貞久・島津師久とは御縁があります。
この時期、平河師頼・平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となっていたのです。

同地は ウィキより
南北朝期までは日下部氏により統治されてきた地域であるが、それ以降の200年近くは北原氏が、北原氏が伊東氏に領地を簒奪され、その伊東氏が島津氏により日向より追い出されると、廃藩置県に至るまで島津氏が領有する。
とあり、北原氏と平河は非常に密接な関係にあったようです。(今後のコメントでいつかご紹介いたします)

一旦、球磨の平河惣領は相良氏によって殲滅されますが、鎌倉後期〜南北朝期にはいり、突然、「平河師頼」が人吉荘の「預所」となり、平河師里は日向国真幸院・馬関田荘・他吉田村などの、預所となった。(急な復活?)

この部分が実はず〜っと「何で??」と気になっていたのです。

もちろん、その後、相良氏が球磨を統一していくのですが、実は、平河とそして「宮原」も姻戚関係を相良氏庶流と結びながら、「目には目を・歯には歯を」と言う事を何度も繰り返しています。(この頃色々気が付いたのですが、コメントには至っていませんでした)

そう言えば・・ハムラビ法典とは、なんだったっけ? 調べます。
紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典。アッカド語が使用され、楔形文字で記されている。

\(◎o◎)/!きゃ〜〜〜〜〜〜っ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

ナンデスト!!と言う事は、我が一族の「教訓」はハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典からきているのですか!!

子供の頃から、父からすれば、おそらく情けなく感じてしまうような事を私がした時の父の言葉は決まって
「お前はハンムラビ法典を知っているか!!目には目を!歯には歯をじゃー!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」

でも、今の私は「目には目薬・歯にはキシリトールガム」でございます。

では<(_ _)>(^・^)










[52]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 16時40分49秒 ) パスワード

公忠公の末裔様、こんにちは(^・^)

コメントありがとうございます。

そうですね・・・
まず、一つだけ言えるのは、(私の考えですよ)霊と、何らかの予知などを行う能力の様なものは、事なると思います。

ひとくくりにする事は出来ないのじゃないのでしょうか。

おそらく、予知は、元々全ての動物が古来から持っていた、当たり前の感のようなものだと思います。

電磁波の異常を感じて、地震前に動物の異常行動が起きる事はすでに解明されていますよね。
それと、同じくして、近い将来に起こりえる事を、感じ取る事は、人間だれしもあり得る事なのではと。
人間も動物ですから。

ただ、現代社会では、そのような力は必要なくなっていますし、都会に生まれ都会に育っていると、それを、維持していく必要もありません。

以前、コメントしたと思うのですが、あさぎり町岡原の「宮原城」麓にあった池。この池を名の元にして将来を占う女性がいらっしゃる事はお伝えしたと思います。

外部には「名」の公表もしていないし、それを生業にしている訳でもありません。
でも、この「家」は代々、そうです、私達の先祖が宮原城に居城している時代から、いつも宮原家の側にあり、お仕えして頂いて、様々な事を占ってこられました。

その事は私も、子供の頃から聞いています。

ですから、今でも、家の「宮原」とこちらの家はとても近しい関係にあります。

公忠公の末裔様がおっしゃる通り
「如何にも神秘性を帯びた概念を持ち出す事によって解決をはかろうとする」
「自分が持つ知識の範疇を超える事柄に直面した時に、それをどうにか捉えようという気持ちが先行してしまう」
実際にそういう事かもしれません。

ただ、私達の先祖は、「神」を信じ、奉り、「占い」に心を通わせていたと言う事はお伝えしておきたいと思いました。
もちろん、戦続きで、何かに頼りたいという願望からという事などであると解った上で、こう申し上げますね。

信じるか信じないかは個人の自由だと思います。

公忠公の末裔様は、遠い血の繋がりがある同族の方だと心を開いた上で申し上げます。ごめんなさい。

オカルトとか幽霊とかという言葉と、同じにして頂くと、「嫌」です。

宮原の先祖が大事にしてきた「精神」を拒絶されたようで、とても悲しくなります。
もとはと言えば、私が過ごしてきた今までを、こちらに書いた事が原因ですから、反省しています。
私も、今後、あまりこのような、「夢」に関したコメントは書かないようにします。

不愉快な気分にさせてしまいましたね。すみませんでした。

[53]白石さんからのコメント(2014年08月14日 20時43分29秒 ) パスワード

こんばんは
羯族は 奥目鼻高 アラブ系と ネットでみたので 
イケメン過ぎて国外退去になったアラブ人を みたけど
子孫様 う〜 ん
目のあたり
情熱的すぎる 感じ
顔の骨格が似ている?

私の息子さんのイメージは 京本政樹さん
整形をしていると いうので その前の写真を見たけど
目のあたりはこちらの方が 似ていると 思うんだけど・・・

 羯については 太鼓踊りから 行きついたことがあります。
伊勢の かんこ踊り 石氏 


ごめんなさいね
一生懸命 一代一代つないでおられるのに 中原 毛利なども でているのに ちゃちゃくって・・・
名前がいっぱいでてくると 私 ごちゃごちゃになって
子孫様 どうして ああ この人が出たら すぐ あっ このひとの子供で と できるのでしょう。
しばらく ゆっくり 読ませてくださいね。 
[54]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年08月14日 23時35分56秒 ) パスワード

こんばんは。

先ほどの私のコメントは、オカルト思考の人についての考察です。
「霊」という言葉に拘っておられますが、それはオカルト思考の人が飛躍に使うマジックワードの例の一つとして出しただけです。
そして、宮原氏の先祖が抱いていた宗教心や信仰心については何も言及して書いていないはずです。
それらを否定する内容まで書いたつもりはないという事について誤解なきようお願いします。


その上で一つ。歴史を調べる上で、信じるという主観が先立つと歴史的事実を歪めて捉える原因になります。
要は、確証バイアスがかかるという事です。それに加えてネット検索に偏るとその確証バイアスを補強していくことになります。

その点で様々な関連書を読むというのは有用性があります。
自分にとって都合が悪い事が書かれた内容にも目が行く機会が増えるからです。
そうすると、何が本当なのかという事を様々な視点から考える事が出来るようになります。

そのように、客観的に確認する癖がついていないと
事実から遠ざかる事はあっても近づく事は難しいでしょう。
[55]子孫よりさんからのコメント(2014年08月14日 23時40分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、コメントありがとうございます。

すみません(__)
私のコメントは、まとまっていなくて、伝えたいと言う事をただ書きなぐっているという感じで・・
解り辛いでしょう(*_*;

自分でも後から読んで「長すぎる(*_*;(ー_ー)!!」と思いました。
ゆっくりお読みください(__)

所で、伊勢の かんこ踊り拝見しました。

http://ise-kanko.jp/base_data/base_data.php?info_cd=01234

写真から、ものすごい物が伝わってきます。
教えて頂いてありがとうございます。

何だか、見て良かったと思いました(^・^)

それから・・
息子の顔ですが、京本政樹さん・・どうかな〜?
あの方の目は、どちらかと言うと、父に何となく似ているような気がします。
ああいう感じの「奥目のはっきりとした二重」です。

でも、眉毛と目のバランスは、この頃の郷ひろみさんにも何となく似ているような・・・
叔父の目は、また、父とは違うのですよね・・
多分、父の目は「宮原」の系がかなり強く奥目だけど目は大きくて、叔父の目は「平河」の系が強いのではないのかな? 叔父の目は祖母に似ています。


脱線しますが、
EXILEの ボーカルATSUSHIさんを御存知だと思います。
私、ATSUSHIさんのソロアルバムを買って、ブルーレイも付いていたので、よく見るのですが、この方は、どうしても他人とは思えないような感じです(?_?)。

サングラスを外して、スーツを着ている姿は、若い頃の叔父に何となく似ているのです。雰囲気から、目の感じ・・全部似ています。(従兄弟はどう言うか(?_?))
こちらのサイトにアルバムのジャケット写真が載っていますが、一番下の白いシャツにサングラスを外した姿は若い頃の、父と叔父を「たしてわった」ような・・
するどい目つきも似ています。
http://www.exfamily.jp/news/?id=1392265942

だからなのか、どうなのか解りませんが、ブルーレイを見ていると、遠い昔に一緒に行動したような感情が出てくるのかな・・(私は踊れませんが(ー_ー)!!)
きっと波動が合うのでしょう(^・^)だからファンなのかも(^・^)

今日は、雑談になってしまいました。<(_ _)>
では<(_ _)>(^・^)
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 00時11分32秒 ) パスワード

公忠公の末裔様、今晩は(^・^)

コメントありがとうございます。

私も、感情的なコメントをしてしまって反省しています。
すみませんでした。

きっと、幼い頃から、「風習」だの「言い伝え」だの、同じ意味になりますが、土地の習わしだの、沢山の事に囲まれて育ったからだと思います。
そういう事に雁字搦めになるのが嫌で、故郷を飛び出したところもあるのに、後で考えたら、私、何を言っているのだろう偉そうに・・」と、とても反省しました。
今になって考えると、古の方々の言い伝えには理にかなうものが多いと思います。
それに、やっとこの頃気が付きました。
結構、色々な事がありますよ。(一度、ゆっくりとお話したいです(^・^))
あっ・・興味ないかな?(*_*;

でも、私の事も勘違いしないで下さい。
私は、決してオカルト思考ではありません。オカルト思考の基準はよく解りませんが、興味本位で、何かを読んだりとかは一切しませんし、そういう内容の例えばテレビ番組などは、嫌で見ません。

所で
「歴史を調べる上で、信じるという主観が先立つと歴史的事実を歪めて捉える原因になる」
確かにそうですね。そういう所があるから、ここに至るまでにかなりの時間を要しているのだと、思いました。

私は、すぐに感情で走り出してしまいます。
公忠公の末裔様のように客観的になおかつ理論的に、私を見て(分析?)下さる方とお知り合いになれた事は、本当にありがたい事です。

今後ともどうかよろしくお願い致します。(^・^)
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 13時34分17秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

昨日、自分で「動物の感」という言葉を使いました。
じゃあ、人間にそもそも備わっていた「動物の感」のような物に過剰に反応する自分を否定するのか?・・(-_-)

自問自答を繰り返しながら、朝を迎えました。

その「動物の感」に反応して根拠無く、探し出す情報、そして、そのコメントに「全く、この人は(ー_ー)!!懲りないな!」とおそらくお感じになりながらも、丁寧な解説を加えて頂き、ご教示をして下さったのは「日本の苗字七千傑様」そして「白石様」。
過剰な暴走モードに突入する私を、「もっと冷静に」とアドバイスして下さるのは「公忠公の末裔様」。

皆様に支えて頂けて、やっと調査を進める事が出来ている私です。
本当にありがとうございます。

今朝、別の調査の為に偶然ですが、日本の苗字七千傑様の《阿波小笠原氏》姓氏類別大観 を拝見していました。

画面をスクロールしながら《大西氏/一宮氏》姓氏類別大観まで進んだ所で、藤原師高・・系不詳・・近藤(某)・・大西元高
この系図を見ました。

その時に、私は「藤原師高について、まだまだ、何も解っていない」事に気が付きました。
ネット検索にばかり頼るのが一番の原因です。
情報数がとても少ない事で、限られた事しか把握していませんでした。

画面を見つめていた所、今朝は、「どうしても探さなければ」という衝動にかられまして、(公忠公の末裔様ごめんなさい。又ですが・・)
今、この時間に出来る事は、とりあえずネットしかありません。

「師高」という情報をもう一度見直してみました。

そして、見つける事が出来ました。
なお且つ、どうして私の「動物の感」が「ここ掘れワンワン!!」というように反応していたのかも解りました。

長くなりますので、次のコメントでご紹介致します。
では<(_ _)>
[58]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 14時40分37秒 ) パスワード

では、早速、進捗を御紹介いたします。<(_ _)>

「平川家について13」からの引き続きの調査で「藤原経忠」について調べていました。
まとめます。
@「増秀」 父:藤原道経 母:「橘則隆」の娘
A「藤原経忠」 父:藤原師信 母:「増秀」の娘
B「藤原成親」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘

では、何を見つけたのか。
藤原家成と「藤原経忠」の娘には「藤原成親」以外に
男子:藤原家教
男子:藤原盛頼 - 藤原俊成女の実父
七男:藤原実教(1150年 - 1227年) - 子孫は山科家
という子息がありました。

七男の藤原実教についてです。
藤原実教 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%95%99

系譜を転記します
父:藤原家成
母:藤原経忠の娘
妻:藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘 ★
次男:藤原公頼(1172-1250)
男子:藤原公基
三男:藤原公長(1184-?)★
男子:藤原公広(?-?)
妻:不詳
男子:藤原宗明(?-?)[2]
女子:藤原範能室
女子:中納言室
女子:藤原兼光室
養子:藤原教成(1177-1239) - 実は平業房の子。

★マークを付けた三男:藤原公長
この方の妻は「隠岐守師高の娘」です。
http://www.geocities.jp/keizujp2011/yamasina2.html

山科公長 藤原実教の三男 母:藤原光隆の娘 生没年:元暦元(1184)年 - 没年不詳
山科教氏 山科公長の子 母:隠岐守師高の娘 生没年:生年不詳 - 文永6(1269)年

他 http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinkey.htm
藤原 教氏[ ? 〜 文永6(1269)年 ]
公長男。母隠岐守師高女。
弘長3(1263)年正月6日叙従三位。
従三位・非参議。

「隠岐守師高」という人物について。
様々な系図などを調べたのですが、一つ確認する事が出来ました。

藤原長方の妻は「藤原師高」の娘となっていますが、系図によっては「隠岐守師高の娘」となっています。

こちらのサイトが解りやすいのでご紹介致します。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/meika8.html
藤原 兼高[ 治承3(1179)年 〜 延応元(1239)年11月6日 ]
長方四男。母江口遊女木姫(或隠岐守師高朝臣女)。

「藤原師高」=「隠岐守師高」? 何故「隠岐守」なのか?・・
ただ、一つ、上記の藤原兼高に関して
「源氏方として一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで軍功をあげた藤原兼高が益田兼高と改め、所領の益田庄に七尾城を築城し本拠とした。」という事実はあります。
(何故、「隠岐守」と付いたのか?「師高」との関係は解りません)

以上の事から
C「藤原実教」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘
D「山科公長」 父:藤原実教 母:藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘
E「藤原教氏」 父:山科公長 母:隠岐守師高(藤原師高?)の娘

となります。
そして、もう一つの情報です。
「山科公長」の母 藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘ですが
父の藤原光隆とは、木綿葉川(球磨川)の詩を詠んだ「藤原定隆」の兄弟です。

以前、ご紹介していました・・ 転記します。
「球磨は昔、[求麻]と書いている時期がありました。これは昔、八代の者が川から麻の葉が流れてきたので、上流に行くと人が麻を作っていた。そして麻を求めに人がやって来るようになったので、この地を[求麻(クマ)]→球磨と呼ぶようになったからだといわれてます。」

藤原定隆の和歌に、この言い伝えを詠ったものがあります。

“夏来れば 流るる麻の木綿葉川
        誰水上に禊しつらむ

と言う事で

「山科公長」の祖父は「藤原光隆」。上記の詩を詠んだ「藤原定隆」の兄弟という事です。

非常に長くなりましたので、次のコメントで、全てまとめます。

では<(_ _)> 
[59]白石さんからのコメント(2014年08月15日 14時40分54秒 ) パスワード


こんにちは
子孫様 どんどん 調査が進んでいるんですね。そして 三好。三好 三善。(三好・三善)は南北朝期神器を北朝にだましとられた と本にあったことを 過去に書いたら7000傑様から (どちらのみよしだったかは 忘れたけど)通じていないとご指摘を受けたことがあります。

心にかかっていたけど わたくしの悪いところで それ以上 調べる手立てがありませんでした。

今回 三好長慶のことを ネットで見たら 良峯寺を焼いていることがわかりました。
でも 昔の戦は 同族または 血流が同じ同士戦っていることが 多いのですね。
========================−−
郷ひろみ
やっぱり アラブ。???
今回 郷さんのお顔をつくづくと拝見したしました。
そう あの 陽気そうな感じの 目。
私が 藤堂の男子(前に話したと思います)の記憶では それが するどく人を見据えた感じなのです。
ネットより
岩田は、日本人にも、イラク人にも蒙古斑が見られるという事実をも指摘する [岩田 明:十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る, p.29]。蒙古斑とは、乳児の背中、特に腰の辺りにできる青いあざで、2歳をピークに次第に消えていく。蒙古班は、モンゴロイドに幅広く見られるので、有力な証拠にはならないが、シュメール人が、アラブ人ではなく、中央アジアの出身で、その遺伝子はイラク人に引き継がれていると言うことはできる。

=====================−−
蒙古斑点!!
つながっている可能性はあるのですね
尾方 佐田は 蒙古・金(アジア辞典より)
そして
へんな 話ですが
山本議員さん (しっかりしてね)
の お顔が なんとなく 海老蔵さんに 似ていて 
いつか 新聞で見た かくされた 天皇の妹という人のお顔にそっくりなのです。

顔のお話は これほど あやふやなのでしょうね。
でも 骨格 つくりの ひとつひとつたとえば 耳のつくりは それだけで 個人の特定ができるとか 
 


[60]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月15日 14時53分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>じゃあ、人間にそもそも備わっていた「動物の感」のような物に過剰に反応する自分を否定するのか?・・(-_-)
 
 
「感」というより、ヒラメキという語が適切でしょう。
ヒラメキは、企画、開発、発明、新説などに携わるものには重要な能力です。
しかし多くの人々を納得させて前進させる為には、詳細なシステム調査/分析を行い体系的な鳥瞰図の構築と提示が必須です。
古事記編纂者の太安万侶にしても、「天孫人種六千年史の研究」の三島敦雄氏もヒラメキを基に膨大な調査/分析をして体系的な大著を完成させたのです。
近年では「古代日本領土の起源」の桜井光堂氏でしょう。
 

各個撃破に専心しているとヒラメキの能力も低下しますよ。
全く関係ないと思われる箇所に重大な事実が潜んでいるものです。
現代の電気文明発展の祖エジソンもヒラメキの天才。
ヒラメキを否定していては世界の発展は有りません。
益々ヒラメキの発露増大に励んで下さい。
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 14時58分40秒 ) パスワード

先ほどのコメントをもとに、まとめました。

@「増秀」 父:藤原道経 母:「橘則隆」の娘
A「藤原経忠」 父:藤原師信 母:「増秀」の娘
B「藤原成親」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘
C「藤原実教」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘 ★「成親」「実教」同母兄弟
D「山科公長」 父:藤原実教 母:藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘
★祖父「藤原光隆」の兄弟「藤原定隆」。球磨川(木綿葉川)を詩に詠む
E「藤原教氏」 父:山科公長 母:隠岐守師高(藤原師高?)の娘

という事です。

では<(_ _)>(^・^)

    「クンクン(o|o)」「ワンワンワン!!!」・・・・・
[62]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 15時50分17秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、
ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、お言葉を頂いて、涙が出ました。

「ヒラメキ」。

この言葉を伺って、心が救われました。ありがとうございます。

しかし・・
偉大な方々と比べようもない程(比べてはいけませんね(*_*;)私の「ヒラメキ」はくだらない物が殆どです。

ただ、「各個撃破に専心しているとヒラメキの能力も低下します」
と伺ったように、すぐに「固執」してしまう、悪い部分が私にはあります。

こういう自分に気づかせて頂けたのも、皆様のお陰です。
本当にありがとうございます。

白石様
いつも、気を使って頂いて、ありがとうございます。
白石様のコメントから、私に気分転換をさせて下さっている事がよくわかります。
猪突猛進で、爆走中の私が、危なく崖に飛び込みそうになったのを、例えば、昨日の「顔のお話」で救って頂けました。
コメントを書きながら、ATSUSHIさんのサイトを見て、「ニマッ(●^o^●)」となり、爆走女猪は大人しくなりました。

御心配をおかけ致しまして、すみませんでした。

公忠公の末裔様
昨日のコメントのやり取りのお陰で、私は自分を客観的に分析する事が出来ました。
ありがとうございます。
私が「情報に固執して、まわりが見えないように爆走した時は」公忠公の末裔様の分析で、私にブレーキをかけて下さい。
よろしくお願い致します。

皆様、ご教示本当にありがとうございます。
よ〜し!!頑張ります(^O^)/
[63]子孫よりさんからのコメント(2014年08月15日 23時14分45秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

昼のコメントに新たに情報を付け加えます。

「藤原実教」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘 ★「成親」「実教」同母兄弟
と書きましたが、「藤原実教」は「参議・藤原公親の猶子となる」という記述がありました。

養父となった「藤原公親」は徳大寺公親。
※藤原実教の実父は「藤原公親」(母:家成娘)であり、「実教」は家成の養子となり、その後「藤原公親」の養子となった?という説もあるとの記述もありました。

「藤原公親」の父は藤原実能(徳大寺実能)
「公親」の兄弟に藤原公能(藤原実定・藤原実家の父)
藤原実家の子が「公国(妻:大江広元の娘)」
「公国」の子が徳大寺実春。平河の争論の相手「近衛中将実春朝臣」です。

と言う事は
藤原実家と藤原実教は従兄弟となり
藤原(徳大寺)公国と藤原(山科)公長(妻:隠岐守師高「藤原師高?」の娘)はふた従兄という関係になります。
「徳大寺実春」と山科公長の子「藤原教氏(母:隠岐守師高「藤原師高?」の娘」は、はとこであった・・・と言う事です。

平河良貞・平河師時は曾祖父「平河師高」および先祖代々の開発の地「永吉」地頭職をめぐり、
「藤原教氏(母:隠岐守師高「藤原師高?」のはとこである「徳大寺実春」と争論を起こした・・

昼間のコメントと合わせて、解りやすくまとめます。

@「増秀」 父:藤原道経 母:「橘則隆」の娘
A「藤原経忠」 父:藤原師信 母:「増秀」の娘
B「藤原成親」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘
C「藤原実教」 父:藤原家成 母:「藤原経忠」の娘 ★「成親」「実教」同母兄弟
※藤原(徳大寺)公親の猶子となる。(実父「藤原公親」母「藤原家成の娘」の説もあり。
D「山科公長」 父:藤原実教 母:藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘
★祖父「藤原光隆」の兄弟「藤原定隆」。球磨川(木綿葉川)を詩に詠む
E「藤原教氏」 父:山科公長 母:隠岐守師高(藤原師高?)の娘
※平河の争論の相手「徳大寺実春」とは、”はとこ”の関係となる。

と言う事です。
では<(_ _)>(^・^)
[64]子孫よりさんからのコメント(2014年08月16日 00時44分09秒 ) パスワード

追記

皆様、申し訳ございません。

昼のコメント58に誤りがありました。
藤原兼高に関して
「源氏方として一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで軍功をあげた藤原兼高が益田兼高と改め、所領の益田庄に七尾城を築城し本拠とした。」という事実はあります。
と書きましたが、この方は同名の別人です。
お詫びして、訂正いたします。

ただ・・・
間違いに気が付いたお陰?で新しい情報を見つける事が出来ました。

藤原兼高
藤原長方の四男。母は藤原師高の娘。
藤原兼高の妻は 「藤原信定」の娘です。
「藤原信定」の父は・・
「藤原信輔」の子「藤原信隆」
コメント18で書きましたように「藤原信輔」は藤原経忠の三男です。

すなわち藤原兼高(母:藤原師高の娘)の妻は「藤原経忠」の玄孫という事になります。
同じくコメント18で書きましたように
「藤原信輔」の妻は「橘家光」の娘とあり、「藤原信隆」の母となります。
藤原兼高(母:藤原師高の娘)の妻は「橘家光」の玄孫でもあると言う事です。

姻戚関係での縁からなのでしょうか
「藤原経忠」の玄孫は(母:藤原師高の娘)となる藤原兼高の妻となり
同じく
「藤原経忠」の曾孫「山科公長」の妻は隠岐守師高(藤原師高?)の娘であった。
と言う事ですね。

何だか、ややこしく書きましたが、あっ!そうか

「山科公長」と藤原兼高の妻の父 「藤原信定」はふた従兄という関係になります。

そして「山科公長」の子「藤原教氏」と「藤原兼高」は、二人とも藤原師高の孫であり、従兄弟同士。となる・・

両家がかなり近しい姻戚関係にある事が、わかりました。

では<(_ _)>(^・^)
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年08月16日 11時57分20秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

昨日の調査で調べた内容をそのままにしたら、そうです!単なる「各個撃破」に終ってしまいます(-.-)
全体をみなければ!と思いました。

そして・・・・

こんな私でも・・・・・見えました\(◎o◎)/!大きな「図」が!

徳大寺家・藤原長方・藤原光能・大江広元・藤原兼光・児玉党小代氏・中原氏・三池氏・そして球磨川(木綿葉川)の詩を詠んだ「藤原定隆」・久米小太良”事「藤原家宗」・藤原頼実・大炊御門師経・藤原家忠の一族・・等々
全て、大きな「図」で繋がっていました。

調査の中で「ものすごいチャンス?」は何度も訪れていたのですが、その時には全て「各個撃破」に終わり、全体を見ていなかった・・・

「図」が見えた事によって、おそらく、調査の中の重要ポイントであった
「平川家について8」コメント16
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html

ここからの調査の「流れ」(後の調査)の本当の意味が、やっと!
(もちろん100%と言う事ではありませんが(-_-))

次のコメントでまとめてご紹介致します。
では<(_ _)>(^・^)
[66]白石さんからのコメント(2014年08月16日 13時05分13秒 ) パスワード

こんにちは
山科公長は1100年代のかただけど、近世の山科家。
公卿類別譜(公家の歴史)-羽林家〔藪、山科、山井、山本、四辻〕
公家の歴史。家格-羽林家。藪、山科、山井、山本、四辻。家紋、菩提寺、家業、江戸期 石高、明治期爵位、公卿一覧。 ... 藤原北家閑院流西園寺庶流の四辻公遠の子範遠が 相続したが、中絶。その後を四辻公 .... 山科家系図. [実教までの系図は四条家を参照] ...

==================−−−−
同じ発音で

山階宮 - Wikipedia
支流、分家, 山階家(華族(侯爵)) 筑波家(華族(侯爵)) 鹿島家(華族(伯爵)) ... 山階 宮(やましなのみや)は、江戸時代末期、★伏見宮邦家親王の王子、晃(あきら)親王が 創設した宮家。 ... 初名は清保。その翌年、京都山科にある門跡寺院・★勧修寺を相続した 。
★伏見宮―山階(京都山科にある門跡寺院・勧修寺を相続した)

久邇宮 - Wikipedia
久邇宮
1875年(明治8年)に久邇宮の宮号を賜った。宮号の由来は、恭仁京にちなんだと いわれている(伏見宮の当主が1代おきに「邦」の1字を偏諱としていたことによるという説 もある)。その後、★朝彦親王は神宮祭主として古儀復興に取り組み、1891年(...
伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。
★伏見の宮―久邇宮
★久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう、文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)は、幕末から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。
★伏見の宮―久邇宮


他のブログで見たけど、 こちらの系からは 香淳皇后がおられる。久邇宮で島津だとネットの作者は書いていた。

ところで 島津だと さだ を 名乗っているのですね。勿論 上ーっになったら 違うかもしれないけど・・・
=======================−−−−−
子孫様
勧修寺を継ぐ人
何らかのつながりがなければ そうは ならないと 思います。
以前 飛鳥井のことを 書いたと思うけど・・・

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伏見の宮
★持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の 第一皇子栄仁親王を初代とする。
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公卿類別譜(公家の歴史)-羽林家〔藪、山科、山井、山本、四辻〕
公家の歴史。家格-羽林家。藪、山科、山井、山本、四辻。家紋、菩提寺、家業、江戸期 石高、明治期爵位、公卿一覧。 ... 藤原北家閑院流西園寺庶流の四辻公遠の子範遠が 相続したが、中絶。その後を四辻公 .... 山科家系図. [★実教までの系図は★四条家を参照] ...

うちの 高岡とは 字が ちがうけど 高丘家。ここは 閑院流に属す として坂上一族と いうのを 国史辞典で見たけど 
三条 三条西 高倉 中園 四辻 などなどから 養子が入っています。
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子孫様
山科 の まわりのこと 詳しくわかると 良いですね。
============−−−−−−−−−
 


[67]子孫よりさんからのコメント(2014年08月16日 14時40分12秒 ) パスワード

白石様、今日は(^・^)

ご教示ありがとうございます。
「勧修寺を継ぐ人
何らかのつながりがなければ そうは ならないと 思います。
以前 飛鳥井のことを 書いたと思うけど・・・」

(・_・)そうなのですね。全てに何らかの「意味」があると言う事ですね。

白石様。
今まで、白石様からお伺いしてきた様々なお話も、きっと、「大きな繋がり」の中に、鍵があるのだと今、思っています。
では、次のコメントで。(^・^)
[68]白石さんからのコメント(2014年08月16日 15時44分34秒 ) パスワード

山科とは
山城国宇治郡北方を占め,京より大津に向かう東海道の間にある地名。北西を東山連峰,東を逢坂山(おうさかやま)に囲まれた山科盆地を占め,ほぼ現在の京都市山科区に該当する地域。縄文時代から古墳時代にかけての中臣(なかとみ)遺跡があり,早くから人間が住んでいたことがわかる。山科古窯跡群は7世紀初頭の須恵器窯で,藤原(中臣)鎌足邸の〈山科の陶原(すえはら)〉の地と推定され,中臣氏が領有していたと思われる。天智天皇が〈山科野〉で猟をしたり,陵墓が造営されたことは,中臣氏との関係をうかがわせる。
========================
故郷の恒松がある集落に やましろ という 家があり、私は前に言葉つながりで山科に行きついたことがあります。
==========================
============================−
キツネ
朱は キツネが 見え隠れする。

九尾のキツネは もともと 聖獣だった。
西晋の時代に『山海経』に追加された「大荒東経」では、上記の記述に加えて「天下泰平の時代に現れる」と書かれ、瑞獣とみなされている。それより以前、後漢時代の『白虎通義』では子孫繁栄の証とされた。唐代の歴史書『周書』や北宋時代の『太平広記』などでも同様に幸福と平和をもたらす天界の聖獣と書かれている。日本においても、平安時代の『延喜式』では神獣とされていた。

人間の姿で出るときは 絶世の美女で 人目見た人はその虜になったとか。
===================−−
[69]白石さんからのコメント(2014年08月16日 21時35分25秒 ) パスワード

坂上一族の高丘
これは 秦恵文王の系で 血流から南家にわけられる と 以前 7000傑様から教えていただきました。
重複して コメントを書いてたら ごめんなさい。
[70]子孫よりさんからのコメント(2014年08月16日 23時55分47秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

まず、「平川家について8」コメント16の内容の中から、記述をピックアップして転記します。
後で、ご覧になる時に解りやすいように、ナンバーを振ります。

平川家について8」コメント16より
====================================
調査内容 @ 

サイト 紀氏のルーツ http://homepage2.nifty.com/ihmm/index.html
に以下の記述があります。
紀氏の荘園・姓(国別 ) 
球磨 @紀平氏 本姓紀氏
        ・紀平二元保 ※1
        ・紀氏であるが、のち、平姓を稱したものをいう
        ・球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名とある※2
★紀平次不知実名は師貞の事でした。

そして、このサイトの記述、何故か荒尾市の項目にも
ー荘園ー
    @1114「野原庄」
       ・郡名:玉名郡 荒尾市 
           小岱山南西部、菜切川の上中流域
       ・領家:喜多院領・宇佐弥勒寺領
           ・800余町
           ・1321-8-27 紀頼隆譲り状 ※3
                 西郷の「玉名西郷」
       ・預所:大江広元 ※4
       ・地頭:西郷=小代氏 ※5
           永吉=350丁 良峯師高、子息紀平師貞※6
・・・以下省略
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2014 8/16 注目ワード
※1 紀平二元保 ※2 球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名
※3 紀頼隆譲り状 ※4 「野原庄」預所:大江広元 ※5 同所 地頭:西郷=小代氏 
※6 同所記述に永吉=350丁 良峯師高、子息紀平師貞とあり。 


====================================
(・_・)では続けて
 
調査内容 A

紀平二元保とはhttp://homepage2.nifty.com/ihmm/sub21.html

1251年 紀元保 高良別館宮大宮司 ※7

高良別館宮とは?
鷲尾神社
http://www.jinja.sakura.ne.jp/yanagawa2/no05/

★源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年六月鷹尾郷には、藤原家宗※8が地頭として任命されています。
藤原家宗とは藤原 頼実の子 大炊御門家宗
父:藤原 頼実
母:藤原伊行の娘 となります。

紀氏のルーツでは
柳川市
     ※山門郡三橋「鷹尾社」名主22名
       ・1221年 鷹尾大宮司紀元保を代官として名頭職が与えられた
・「三郎丸名」神人垂見大宮司
そして
1186年 「瀬高下庄」
       ・郡名:山門郡 ※9
       ・領家:藤原家宗家領 ※10・左大臣徳大寺家領 ※11           ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字:不詳
        ※出典:宝聚寺鳴鐘銘文・田中穣氏旧蔵文書
        ※1231 瀬高下庄 鷹尾別府高良別館宮          
            ・大宮司職は重代なりと
            ・大宮司 紀秀真→元保→元忠→元員
           ・鷹尾別府八幡宮=瀬高下庄鎮守
・・・以下省略
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2014 8/16 注目ワード
※7 紀元保 高良別館宮大宮司 ※8 鷹尾郷地頭 藤原家宗
※9 「瀬高下庄」郡名:山門郡 ※10 同庄 領家:藤原家宗家領 
※11 同庄 左大臣徳大寺家

====================================
(・_・)では続けて
調査内容B 「師貞」に関する情報

みやま市歴史年表 ※12
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage3.htm
三毛・三池・徳大寺・鷲尾・中原 といった記述が続く中で
鎌倉時代 1191年の記述に
三池師貞が三池郡に今福城を築く ※13 ※14

・・・・以下省略
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2014 8/16 注目ワード
※12 みやま市 ※13 三池師貞 ※14 三池郡 今福城

====================================

と、上記の内容に注目しました。

まず、平川家について8」コメント16の調査の順番とは異なりますが、
調査内容 A から見て行きたいと思います。
『源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元年(1185)の翌年六月鷹尾郷には、藤原家宗※8が地頭として任命されています。』

※8の藤原家宗は、別称「久米小太良」。父:藤原頼実 母:藤原伊行の娘
そして藤原頼実の養子となったのが「大炊御門師経」。
橘政光(公光の兄弟)の娘は大炊御門師経の母。すなわち「橘公業」と大炊御門師経はふた従兄の関係でもあります。
さらに、昨日のコメントでも登場した「藤原定隆」(球磨川:別名木綿葉川を詩に詠む)
藤原定隆は藤原頼実の舅であり、なおかつ藤原定隆は藤原頼実の母(藤原清隆の娘)と兄妹でもあります。

続けまして(・_・)

『1186年 「瀬高下庄」
       ・郡名:山門郡 ※9
       ・領家:藤原家宗家領 ※10・左大臣徳大寺家領 ※11           ・史料村郷名:不詳                 』

※9 「瀬高下庄」郡名:山門郡
※10 領家 藤原家宗家領 先に記述の久米小太良こと藤原家宗
※11 左大臣徳大寺家領  当時、「徳大寺左大臣(ごとくだいじの さだいじん)」と呼ばれていたのは「徳大事実定」です。すなわち「左大臣徳大寺家領」とは徳大事実定家の領となります。

昨日の調査および、過去のスレッドでの調査で以下の事実がわかりました。

「藤原実教」は徳大寺公親の養子となり、「公親」の兄弟に藤原公能(藤原実定・藤原実家の父)。
「公親」の子が山科公長で妻は隠岐守師高(藤原師高?)の娘。
山科公長と徳大事実定は従兄弟と言う事です。
そして、「公長」の妻と藤原長方の妻(藤原師高の娘)は姉妹と言う事になります。
山科公長の母は藤原光子(藤原光隆の娘)。
※8「藤原家宗」でご紹介した藤原頼実の舅「藤原定隆」と山科公長の母は叔父姪の関係です。

さらに藤原実定の妻は「上西門院女房備後」。
「実定」の妻と、二階堂行政の母そして熱田大宮司藤原季範は兄弟(姉妹)。
上記の方々の父「藤原季兼」と「藤原家成」は従兄弟。
すなわち藤原実定の妻は藤原家成と血縁関係にあると言う事です。

藤原家成の養子が「西光」であり、西光の子が「藤原師高」
先に記述した「山科公長」(妻は隠岐守師高(藤原師高?)の娘)は藤原家成の孫でもあります。

藤原家成の兄妹は藤原忠宗の妻。
藤原忠宗の父は藤原家忠。父:藤原師実 母:源頼国の娘
藤原家忠の子 「藤原忠宗」 「尋覚」 養子に「藤原家光」 - 橘俊綱の子(家光の子が球磨の須恵小太良こと藤原家基)
尋覚は、本来、平河師高に補任されたであろう「宇野御厨小値賀島地頭職」を補任しています。

★上記の家々は幾重もの姻戚関係で繋がっていると言う事です。
「瀬高下庄」藤原家宗家領 ・左大臣徳大寺家領の繋がりがはっきりと見えました。
======================================
続けまして 調査内容 @ についてです。

「野原庄」
       ・預所:大江広元 ※4
       ・地頭:西郷=小代氏 ※5
           永吉=350丁 良峯師高、子息紀平師貞※6

まず、※4 預所:大江広元について
大江広元は球磨の「永吉庄」を含む鎌倉御領の預所でもありました。
地頭は※6 と同じ 良峯師高、子息紀平師貞そして先に記述した須恵小太良こと藤原家基です。

「調査内容2」で記述した徳大寺実定の兄弟「徳大寺実家」。
「実家」の子「徳大寺公国」の妻が大江広元の娘でした。
大江広元の孫が徳大寺実春。平河師高の曾孫「平河師時・平河良貞」は永吉庄地頭職をめぐり徳大寺実春と争論を起こしています。

さらに、大江広元と「調査内容2」でご紹介した藤原長方(妻:藤原師高娘)には姻戚関係がありました。

日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観を拝見すると、繋がりが非常にはっきりと解りました。

藤原長方の祖父であり、大江広元の曾祖父でもある方が「藤原俊忠」。
(藤原長方の母は藤原俊忠の娘です)
藤原長方と大江広元の父「藤原光能」は従兄となります。
藤原光能の子は大江広元の他に
中原親能(母:中原広季の娘) 大友氏
藤原家能 - 藤原兼光の養子。

藤原兼光に関して、コメント15でもご紹介しています。

藤原光範(妻:清原頼業の娘)の養子「藤原頼資」の実父が藤原兼光でした。
そして、先に記述の藤原長方との関係もあり
藤原兼光の妻は「平業房」の娘であり「宮原三宮社」の社司を務めた「平盛房」の孫。
藤原兼光の妻の姉妹は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の子「藤原宗隆」の妻であった。
この情報から
藤原長方の孫、「藤原宗房(姉小路宗房)」の母方の曾祖父は宮原三宮社の社司を務めた「平盛房」と言う事も解りました。
さらに、調査内容 A の検証でご紹介した、山科公長(妻:藤原師高の娘?)の姉妹は藤原兼光の妻でもあります。
★こちらでも、幾重もの姻戚関係が見えます。

★日本の苗字七千傑様の【藤原氏長家流】姓氏類別大観を拝見した事によって上記の「藤原長方」と大江広元との繋がりを理解する事が出来ました。
藤原氏長家流では「武藤長頼」。この方の名もみえます。

藤原公光の妻は「大神惟基」の娘でもありました。

武藤資頼の父は「那須氏」「須藤氏」の可能性がある事をご教示頂いていました。

では、続けて調査内容 @
「野原庄」 地頭:西郷=小代氏 ※5 についてです。
以前、日本の苗字七千傑様よりご教示を頂いていました。
「児玉党小代氏は豊後、筑後、肥後に広大な所領を持ち、肥後最大の国人」
日本の苗字七千傑様の【大部氏/有道氏/児玉党】姓氏類別大観を拝見しました。
藤原伊周の娘と有道氏との姻戚関係の関係から始まるのですね。
先に記述した藤原公光の舅である「大神惟基」の母は藤原伊周の娘であるとの説がありました。
大神惟基は人吉青井阿蘇神社を創建した方でもありました。

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本日、全体を見渡した事により、大きな繋がりを目にする事が出来ました。
そして、この繋がりの中で「藤原師高」という方が残した「娘」の方々も、繋がりをより強固にする、姻戚関係を築いていました。

調査内容B 「師貞」に関する情報は明日、検証を行いたいと思います。

所で・・・
この検証の最初の目的は
明日検証を行う「三池師貞」とは?という所から始まりました。

平河師高の子息は「平河師貞」。
本日の調査検証には「藤原師高」の「娘」の方々の姻戚関係が重要な役割をしめている事は解りましたが、「地頭職」に関する記述等も「平河」に関連する内容であるにも係わらず、「平河師高」の「名」はこちらの大きな繋がりの中に出てはきません。

きっと、これは、とてもとても、悲しい事だと思います。
本来「師高」はこの中にきっと「名」が出るはずだったのだと思うのです。

私の「師高」の真実を探す調査はまだまだ続きますが・・・

まだ「師高」という人物を特定する事は出来ないのでしょうか?
今、現在の調査結果では特定は不可能なのかな・・と。
でも、きっと、それを可能とする調査結果を必ず見つけたいと思います。

とても、長くなりまして、申し訳ありませんでした。

では<(_ _)>(^・^)
[71]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月17日 12時10分34秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平河師高の子息は「平河師貞」。
 
 
あくまでもヒラメキだが、藤原師高が良峯に改姓して平河を名乗る。
師高の弟に近藤親家。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122a.htm#002
次に近藤氏の系図を参照。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4_004.gif
もちろん近藤親家も明記されており、島田、三池の諸氏も見える。
中原氏閨閥の一角に入り、肥後の有力国人となったのが現実じゃないかな?

 
同じく良峯姓を称する丹羽氏の改姓の歴史を見ると。
仲国造建借馬命を祖として、島田臣富根にはじまり弓束が県主前刀に改姓。
真咋が丹羽に改姓、玄理が椋橋に改姓、季光が良峯に改復姓、惟光が橘に改姓。
その後良峯姓を称し、高純が児玉党(称藤原姓)から養子、良峯姓が丹羽氏の主流へ。
 
 
正史では藤原師高以降が滅亡とういことで抹殺されているので実証は困難だが、状況証拠的には天日鷲翔矢命を祖とする齋部氏の裔西光の子師高が良峯姓へ改姓。
紀姓も天日鷲翔矢命の祖神皇産霊命から出ているので、名乗った時期もあったのでは?
同じく斎部氏の裔織田氏が尾張に栄えたのも何かの因縁。
[72]子孫よりさんからのコメント(2014年08月17日 14時09分11秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示、本当にありがとうございます。

日本の苗字七千傑様の「ヒラメキ」を読ませて頂きましたが、私の「ヒラメキ」も、こちらの文書に、確実に反応いたしました。
本当に、ありがとうございます。

天日鷲翔矢命とは ウィキより (勉強します)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%97%A5%E9%B7%B2%E7%A5%9E

天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。
別名は、高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命や天加奈止美命。

神話で知られているのは天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、この神(天日鷲神)が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。
『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。
また天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
忌部神社や鷲神社などに祀られている。

★天日鷲翔矢命 に私の「ヒラメキ」が過剰に反応しました。
そして、すぐに、こちらの情報を見つける事が出来ました。

日鷲神社 (南相馬市)の記述をお読みください。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%B7%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE_ (%E5%8D%97%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%B8%82)

日鷲神社(ひわしじんじゃ)は、福島県南相馬市小高区にある神社である。旧社格は村社。

天日鷲命を祀る。
「奥相志」によれば、天日鷲命、金鳶命(天加奈止美命)、天長白羽神を祀るという。

祭神の天日鷲命は、天孫降臨の際、瓊瓊杵尊に供奉した三十二柱のうちの一柱で、天太玉命に付き従う神である。その御姿は手には弓矢兵杖を帯び大鷲に乗り、先駆けとなって天降ると伝わる。そのため、天日鷲命は弓矢の神であり、戦の際は大鷲として顕現し軍を先導すると信仰された。

★天日鷲命は弓矢の神でもあられたのですね。

日鷲神社は、往古は下総国豊田郡沼森村に大形神社という名前で鎮座しており、平将門が下総国にいた際も篤く信仰し「鷲宮は神代より弓矢の神で、鷲は猛々しい鳥である。我が軍が敵国に攻め入れば、天日鷲命は大鷲の姿で現れて旗を導くだろう。我が軍に大利をあらしむれば、我が子孫は永く天日鷲命を守護神と致す」と祈願したという。関東地方を平定した後、平将門は天日鷲命の加護への報賽として社殿造営や神田の寄進、酉の神事を行った。

文治年間、源頼朝は下総国の「鷲宮(わしのみや)」を崇敬し、神田や神馬を寄進し開運を祈願した。相馬氏初代当主の相馬師常は治承4庚子年より源頼朝に従い、しばしば軍功を上げたという。文治5(1189年)巳酉年9月に奥州合戦に参戦した際、遠祖である平将門にならい鷲宮で戦勝祈願を行ったところ、大いに勲功があった。相馬師常は源頼朝より褒賞として行方郡を賜り、凱旋後は鷲宮を修繕してより篤く崇敬するようになったという。

※1 (・_・)★相馬氏初代当主の相馬師常

日鷲神社は、元亨3年(1323年)頃、陸奥相馬家当主である相馬重胤が下総国(現在の千葉県北部)から行方郡へ移った際勧請され原町区太田に祀られた。相馬重胤の遠祖である千葉氏が崇敬する妙見社(現在の南相馬市の相馬太田神社)・上太田の塩釜神社もこの時期に相馬の地へ勧請され、日鷲神社は武神・天日鷲命を祀る神社として崇敬を集めていたという。貞治3年(1364年)に現在の鎮座地である小高区女場へと遷座した。勧請された当時は「鷲宮(わしのみや)」と呼ばれていたが、諸般の情勢から明治5年(1872年)に現在の社名である「日鷲神社」へ改称した。

※2 (・_・)陸奥相馬家当主である相馬重胤

※1の相馬師常。この方は「千葉常胤」の子息です。

「千葉常胤」は源義隆の子息「源頼隆」を育てたかたです。
「頼隆」の子息「源(毛利)頼定」の妻が、宮原の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」。

そして「相馬胤綱」の娘が「尼妙智」で島津忠宗の母。
島津忠宗の妻が「尼しんねん」。

「尼しんねん」の父は三池道智(杢助入道)。道智は「師時」でした・・・

頂いたご教示にありました
「状況証拠的には天日鷲翔矢命を祖とする齋部氏の裔西光の子師高が良峯姓へ改姓」

そして、偶然かな
相馬氏は天日鷲翔矢命を篤く崇敬されていた・・・

天日鷲翔矢命をお調べした事により、このような偶然の繋がりを見る事ができました。

「鷲」という文字にも私の「ヒラメキ」は反応しています。

かなり以前のコメントに
藤原魚名の子息「藤原鷲取」。この方が「良峯鷲取」と呼ばれていた事に関して調査をしましたが、時間軸が合わずに「何故なのか」結局わからないままとなっていました。

「鷲」・・・・

それから・・
未だ調査中で、コメントに至るまで、まとめていないのですが、昨日のコメントで調査内容B に記述されていた「三池師貞」ですが、かなりの情報に「三池師貞」を
「三池摂津守師貞」「摂津守師貞」「三毛摂津守師貞」との記述が見受けられました。

「摂津氏」に関して、先日からの調査で情報が出ていたので、かなり気にかかるところです。

日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございます。

日本の苗字七千傑様のご教示そして「ヒラメキ」のお陰で、目の前に立ちふさがっていた「重たいカーテン」が「パッ」と開きました。

そして、つくづく考えました。

古来より日本人が崇敬をさせて頂いている「神様」には、必ず、重要な意味があるのだと言う事を。

本当にありがとうございました。
[73]子孫よりさんからのコメント(2014年08月17日 15時19分53秒 ) パスワード

追記

日本の苗字七千傑様、天日鷲翔矢命をお教え頂き、本当にありがとうございます。

次々に「ヒラメキ」が続いています。

先ほどのウィキでの記述にありました
天日鷲神(あめのひわしのかみ)別名は、高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命や天加奈止美命

別名の「高魂命」。こちらが、どうしても気になってしまいまして・・
続けてウィキで進んだ結果、こちらのサイトが表示されました。
高皇産霊尊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%93

タカミムスビは、日本神話の神である[1]。別天津神の一柱[1]。
『古事記』では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる[2]。また葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する[2]。

この先が何かある!と「ヒラメキ」が走りまして・・

もちろん、私は、御存知の通り、日本神話の神様に関して、全く知識がありません。ですから、今からご紹介する内容の「根拠」や「相違」も全く解りません。

ですが、ぜひ、ご覧ください。
久米氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-41.html

・・・中略
古代豪族の中で、刺青をしていたことが記紀などの記述ではっきりしている氏族は、安曇氏・胸形氏・久米氏の3氏である。いずれも九州にいた海人族であるとされている。要するに中国サイドの古文献(魏志倭人伝など)に、倭人の習俗の代表的なものとされているのである。
 一方、久米氏は、九州の隼人族(薩摩隼人・球磨隼人など)とも非常に近い豪族だとも云われてきた。隼人族については、謎の部分が多いが、この際その一端を述べてみたい。
新撰姓氏録では、久米氏は、天神系の神別氏族に分類されている。しかし、その祖先神が、高皇産霊尊だという記述と、神皇産霊尊だという2通りの記述がされてるのである。
既稿の倭氏考でも似たような2通りの元祖が有ることを記してきたが、この際この日本の神系譜の謎部分にも言及してみたい。

2)人物列伝
久米氏の発祥地は諸説ある。北九州糸島半島(福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米)、熊本県人吉地方(肥前国球磨郡久米郷:熊本県球磨郡多良木町久米)、鹿児島県一帯(例:南さつま市野間岳東 加世田遺跡付近)、大和での本拠地は、大和国高市郡久米邑(奈良県橿原市久米)、などである。久米氏は来目、久味(クミ)とも表記され、クマ、クミ、クメなどと発音されてきた。

太田 亮によれば 喜田博士が「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と、久米部は南九州の大種族、肥人にして魏志東夷伝に狗奴国とあるがこの久米部の本拠地なると考えられる。と記している。
新撰姓氏録では高御魂尊(高皇産霊尊)の8世孫「味耳命」の後裔とする記述と、神魂尊(神皇産霊尊)の8世孫「味日命」の後裔とする記述がある。
本稿は神魂尊説に従って記す。

(・_・)後の記述は、今からしっかりと読ませて頂きます。
久米氏 新撰姓氏録では
※高御魂尊(高皇産霊尊)の8世孫「味耳命」の後裔とする記述
※神魂尊(神皇産霊尊)の8世孫「味日命」の後裔とする記述がある

こちらのサイトの以下の記述は「神魂尊説に従って記す。」と書いてあります。

日本の苗字七千傑様の【久米氏/波多門部氏/山部氏】姓氏類別大観のご説明には「度会氏と同じ神皇産霊尊を祖とする大久米命の後裔と伝える。」との記述がありました。

この先の記述をしっかりと読んでみたいと思います。

ただ、偶然にも、「高皇産霊尊」をお調べした所、
「熊本県球磨郡多良木町久米」や「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」という以前、ご紹介した「言葉」が出てきたので、かなり驚きました。

しかし「ヒラメキ」には「詳細なシステム調査/分析を行い体系的な鳥瞰図の構築と提示が必須」でした。

私の、今のコメントであれば「ヒラメキ」ではなく、単なる「思いつき」になってしまいます。

ただ、こちらのサイトを偶然見つけたのは、「ヒラメキ」の予兆かもしれませんので、「久米氏神魂尊説とは何か」と言う事をしっかり勉強します。
(多分、勉強しなさい!と言う事ではないでしょうか(__))

では<(_ _)>(^・^)
[74]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月17日 16時22分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>新撰姓氏録では、久米氏は、天神系の神別氏族に分類されている。しかし、その祖先神が、高皇産霊尊だという記述と、神皇産霊尊だという2通りの記述がされてるのである。
 
 
早トチリをしない様に。
斎部氏も嫡流は高皇産霊尊裔、阿波/安房の斎部氏は神皇産霊尊裔。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122.htm
 
同様に久米氏も姓氏録で高皇産霊尊裔、神皇産霊尊裔の二つが存在して味耳命の表記が異なるが、こちらは久米氏を大伴氏支族との先入観で誤記されたものと思われる。
また大伴氏族裔に久万氏が居るから、更に注意のこと。
[75]子孫よりさんからのコメント(2014年08月17日 18時31分00秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

斎部氏も嫡流は高皇産霊尊裔、阿波/安房の斎部氏は神皇産霊尊裔

【斎部氏】姓氏類別大観を拝見して、理解出来ました。

「久米氏を大伴氏支族との先入観で誤記されたものと思われる」

しっかりと、頭に入れて勉強いたします。(^・^)

所で・・・

急に父の声が聞きたくなりまして、電話をしました。

「平河」の調査での経緯は全く話さずに、
「「高皇産霊尊」「神皇産霊尊」、神様のお名前を覚えたよ」と言った所・・

「そうか!!そうか!お前の口から初めて、神様の話を聞いたぞ!」と、それはそれはとても嬉しそうな声でして・・・
「お前がな〜そうか〜やっと、そういうお話に興味を持つようになったか〜」と。
そして、父は電話先でかなり、難しい事を少し話始めた所で
「あっ!お父さんは今、コンビニに煙草を買いに来ていてな。神様の話を大きな声でするから、まわりの人が目を丸くして驚かれたゾ。今から、ちょっと用事があるケン、明日、ゆっくり電話するタイ。お前が初めて聞いてくれたからな!手元に、本を持って、しっかりと教えてやるタイ」

と、たいそう大喜びでした・・・・(・_・)(?_?)

まるで、この日を待ちわびていたかのようでした。(?_?)

ただ、言える事は
私は、今まで、子供の頃から、神話を聞いても、神様のお名前を伺っても、ただ、漠然として、頭の中には記憶されていなかったのが事実でして・・
所が、先日、日本の苗字七千傑様から
「全体的な系譜鳥瞰図の把握を置き去りにして系図調査の各個撃破をするから、何が何だか解らなくなるのですよ。
まず神別統括系図で全体を捉えましょう。」
と伺って、あの日からです。突然、脳が変わったような気がします。

特に、今日のご教示は、脳が「情報をどんどん吸収したがった」ような感じで、だから、声で、私の意識を、父が感じ取ったのかな?と思うのです。
きっと、これは父の「ヒラメキ」だと思います(^・^)

しかし・・
日本の苗字七千傑様、白石様、そして公忠公の末裔様も、神々についての大変な知識をお持ちですから・・
皆様、とうの昔に「脳が対応」されていらっしゃったと言う事で、本当に凄い事だと、尊敬申し上げます。

私も、これからしっかりと勉強致します。
では<(_ _)>(^・^)
[76]白石さんからのコメント(2014年08月18日 05時13分10秒 ) パスワード

おはようございます
>藤原姓毛利氏
宇田源氏六角流
昨夜 まったく 単独で 藤原師高 平川で 検索をかけたら 
――――――――――――――――――――――――――――――――――
西国の山城: 紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)
この城は鎌倉時代の建武3年(1336)当時の穴門郷の領家職として、近江国(滋賀県) 野洲郡平川荘より、平川掃部介源高親が当地を拝領し、紫城を築き領主として本郷を 支配した。高親は出身地の平川荘の地名をもって平川氏と名乗り、当郷 ...
初代高親から倫親つねちかまで10代、260余年に亘り本城に於いて君臨した
―――――――――――――――――――――
滋賀県野洲郡平川庄→平川掃部介源高親
平川家川上郡平川村

佐々木源氏の流れで、遠祖高泰は近江国三上郡平川荘に住んだので平川と称するようになりました。居宅跡は備中国川上郡平川村(川上郡備中町平川)の大字本郷にあり、屋号を土居といいます。家紋は近江源氏の代表紋「四つ目結い」です。
がでました。
朝 もう一度 検索をかけたら 出ず
文面をコピーしてかけたら 表題の2の区分けのところにありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宇田源氏六角氏
前に 六角氏が中原だの系図を見たとおもって 六角氏を検索したら やはり 中原の言葉がありました。
そして 宇田源氏高岡系図を検索したら 出雲・但馬高岡氏系図が出ます。
佐々木は笹井に手がかりがあり
福島神社の社家の笹井氏が 西園寺実氏を祖として
途中 近江の守護職

高槻の笹井家が 展示品に 佐々木道誉と していました。
故郷の平川の家と溝口は すぐ そばにあり
免田の溝口は 白石に よくしてくれたといい
川向の溝口は熊本城で使われていた柱をつかっていたといい

子孫様 
中原は 古く からある家で
前に 7000傑様からわたくし 三井がついている系図を教えていただいたことがあり

それであれば
近江の方にも どなたかが ゆかりしておられたのかもしれませんね。
大分くす郡には 大和タケルの白鳥神社があり、近江 浅井の言葉があります。
[77]子孫よりさんからのコメント(2014年08月18日 12時07分39秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「佐々木氏」ですが、先日お伝えした、「豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡」
こちらの副田三郎次郎種について以下の記述を見ていました。
サイト 豊前佐々木氏
http://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm

大蔵姓原田氏
 
 郷土史家の原田夢果史氏によると豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓原田氏の一門だという。大蔵氏は漢の高祖の末裔を自負し、朝廷で大蔵の職に任じられたことからこの姓を称したという。大蔵春実という人物が藤原純友討伐に功績があり、対馬守に任じられて初めて九州に下った。後に筑紫の原田郷に住んで、子孫が原田姓を名乗ったという。
 戦国時代の国人領主、秋月種実や高橋元種はこの一族である。そして、この二人の名に共通する「種」の字が大蔵姓原田氏に代々受け継がれたという。天正十五年十月、岩石城に立て籠もった一揆勢を率いたのは佐々木雅楽頭(うたのかみ)種次であった。

田川郡副田庄地頭副田氏
 
 副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
 『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であったという。
 次に文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
 さらに『姓氏家系事典』や『応永戦乱』に、応永・正長の頃、副田九郎の名があるという。地頭職は追われたが、在地勢力として生きながらえたのであろう。その後も時代の波にもまれながら有力地場勢力として戦国時代を迎えるのである。

(・_・)とこのような、内容になっています。

小弐家の系譜関連サイトにも
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/syouni.html
副田九郎種信裔?添田 応永頃
  種次佐々木雅楽
溝口太郎入道建武頃

とあります。ただ、こちらは、未だ、調査中ですので、すみませんが、もうしばらくお待ちください。(__)

では、次のコメントで今日の進捗をお伝え致します。(^・^)
[78]子孫よりさんからのコメント(2014年08月18日 13時38分29秒 ) パスワード

では、早速、今日の進捗をご紹介致します。

「三池摂津守師貞」についてです。

先日お伝えした 調査内容Bを転記します。

調査内容B 「師貞」に関する情報

みやま市歴史年表 ※12
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage3.htm
三毛・三池・徳大寺・鷲尾・中原 といった記述が続く中で
鎌倉時代 1199年の記述に
三池師貞が三池郡に今福城を築く ※13 ※14

・・・・以下省略
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
注目ワード
※12 みやま市 ※13 三池師貞 ※14 三池郡 今福城
====================================

まず、お詫びと訂正ですが前回は1191年と書きましたが、これは私のミスです。
正確には1199年となります。 申し訳ありませんでした(__)
では

「1199年、三池師貞が三池郡に今福城を築く」
この情報をもとに調査した所、かなりの記述が見つかりました。

http://www.geocities.jp/bicdenki/miikekaidou-miyamasi.htm

【今福村】高田町今福
鎌倉時代の正治元年(1199)、三池摂津守師貞が三池(三毛)郡の地頭職に任ぜられ、今福城(高田町今福)を築き入城しました。翌年三池師貞は大間城(大牟田市三池)に移り家臣がまもりました。戦国時代の天文19年(1550)、蒲池鑑盛は田尻親種と連合し、数千の兵で三池氏の家臣小山氏の守る今福城に攻め寄せ、支えきれず落城しました。

http://kusennjyu.exblog.jp/10440601/
4・三池干拓
三池干拓にふれる前に三池の地名由来を述べます。
旧柳川藩誌に
「景行天皇18年筑紫の国御木に至り、高田の行官に居す。時に僵れたる木あり。長さ九七丈百僚某木を踏んで往来す。一老夫、天皇の問に答えて曰く、此木歴木(クヌギ)なり。・・・天皇曰く、是樹は神木なり。故に御木(ミキ)と呼ぶべしと。是三池郡の起りなり。」とあります。

当時、当地方は湿地が多かったので、樹木を並べて道としたことが想像されますが、地名由来は付会説のようです。また旧柳川藩誌に「嵯峨天皇弘仁11(820)年、藤原朝臣師親に三毛郡を賜う。」とあります。このことは史実らしいからその頃概に三毛(ミケ)の地名があったことになります。

(-_-)ここで・・・「嵯峨天皇弘仁11(820)年、藤原朝臣師親に三毛郡を賜う」・・・820年ですから、「藤原朝臣師親」とはかなり以前の方でした。

続けます(__)
・・・・中略
「建久3(1192)年、今出城に一夜に池三つが出来た。三池師貞は頼朝に乞いて『三毛』を『三池』に改む。」ということで、それから今日まで三池の地名が続いているものとみています。

(-_-)こちらの記述によれば、「三池師貞」が頼朝に乞いて『三毛』を『三池』に改むとなっています・・・

JLogos検索辞書>
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7441132&word=%25E5%25A4%25A7%25E9%2596%2593%25E6%259D%2591%2528%25E8%25BF%2591%25E4%25B8%2596%2529

大間村(近世)
・・・中略
若宮八幡宮は正治2年11月2日三池摂津守師貞が建立,相模国鶴岡八幡宮の別宮である(南筑明覧)劫月院址は大間村大間山上にあり,弘仁2年三毛中納言師親が建立本尊の観音は弘法大師の彫刻という金井寺は大間村平野城址にある黄檗宗上内の恵日寺の末正治2年に築城された大間城跡がある(三池郡誌・南筑明覧)

(・_・)と言う事で同様の記述が多数あったのですが・・

「三池摂津守師貞」の名は三池氏の系図にはありません。

これが、かなり不可思議で、調査をしたところ・・・

こちらの記述をお読み下さい。

http://magoichi.nomaki.jp/castle/40-22.html

『福岡県の城』より抜粋

 正治元(1199)年、三池摂津守師貞(師員)、が三池の地頭職に任じられ、当今福城を築き入城した。しかし翌年、三池師貞は大間城(三池町)に移り、家臣小山左衛門が当城を守った。

(・_・)三池摂津守師貞(師員)・・・かっこ師員??

なっ!!ナンデスト!!

となりまして、今度は「大間城(三池町)」に関する「三池師員」の情報を捜しました所、やはりありました。

福岡県の城
http://www.geocities.jp/tomtohiro/KyushuFukuoka.htm
大間城 たいま @大牟田市大間A-B三池師員C正治2年1200D曲輪・水堀跡 平城

「三池師員」とは・・中原師員?
日本の苗字七千傑様の《親盛流》姓氏類別大観を拝見しました。
確かに「師員」以降「摂津」となっています。

こちらをご覧ください
鹿子木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanokogi.html

鹿子木氏は戦国時代の肥後国における有力国人で、肥後守護菊池氏の重臣であった。鹿子木は「かのこぎ」と読み、『大友系図』によれば、中原親能の子で大友氏の祖となった能直の弟師員*が祖とされる。そして、師員の曾孫にあたる貞教が肥後国飽託郡鹿子木荘の地頭となり、鹿子木を称したのが始まりとなっている。
※1 中原親能の子で大友氏の祖となった能直の弟師員*が祖とされる。そして、師員の曾孫にあたる貞教・・

(・_・)続けます
中原親能は藤原光能の子で、外祖父中原広季の養子となって中原姓を称した。親能は頼朝と親交があり、伊豆に流されていた頼朝のもとに京都からさまざまな情報を送っていたという。やがて、鎌倉幕府が成立すると頼朝に招かれ、文官として幕府の機構整備に尽力した。また、鎮西奉行として九州方面の治安にも当たった。親能は能直・親実・師員・師俊・親家らを養子とし、能直は大友氏の祖となり、師員が鹿子木氏の祖となった。
※2 親能は能直・親実・師員・師俊・親家らを養子とし・・

(・_・)続けます
中原氏の九州下向

 師員の出自に関しては諸説があり、『中原系図』には「広忠−忠順−師茂−師員(大膳大夫、摂津守)」とあり、一方の『鹿子木系図』をみると「大友親能−師員(大膳大夫、摂津守、事蹟通考に云う『按ずるに中原師茂の子 師員、同時、同名なり。親能の養子となるか、今、考える所なし』)」と記されている。
 他方、『新撰事蹟通考』に収められた「竹迫系図」をみると、中原親能の四男とあり「建久年中に合志郡の地頭に補され、肥後に下向した師員は二子村に住し、のち上の荘・原口に城を築き上の荘を本城にした」という。また、「合志系図」には師員は中原師茂の二男で親能の婿養子になったとあり、『尊卑分脉』の中原氏系図も師茂の子に師員がみえている。『吾妻鏡』にも、師員は中原師茂の子とあることから、師員は親能の養子になったみるのが自然だろう。

※3師員の出自に関しては諸説があり、『吾妻鏡』にも、師員は中原師茂の子とあることから、師員は親能の養子(娘婿?)になったみるのが自然。 
 
竹迫系図によれば、師員は肥後合志郡に下向したことになっているが、当時の御家人の場合、惣領は鎌倉にあって幕府に出仕し、所領支配に関しては庶子や代官を派遣することが多かった。また、師員は幕府の評定衆をつとめ、以後、代々の当主も評定衆をつとめている。おそらく、肥後の所領には庶子が赴いて在地支配を行い、ついには土着したものと思われる。一方、文永のころ(1270代)、幕府は蒙古の襲来に備えて西国に所領を有する御家人に領地への下向を命じた。あるいは、このときに惣領が鎮西の領地に下った可能性もある。
 
ちなみに鹿子木氏と同族である三池氏の場合、文永十一年(1274)の文永の役後の建治三年(1277)、木工助定時(員時・師時)が鹿子木西荘下村の地頭に補任されたことが知られる。おそらく、蒙古の再来に備える意味があったものと思われる。

※4 三池氏の場合、文永十一年(1274)の文永の役後の建治三年(1277)、木工助定時(員時・師時)が鹿子木西荘下村の地頭に補任
※5 三池貞時が(定時・員時・師時)

非常に長くなりました。すみません。

まとめます。
@「三池摂津守師貞」=「三池摂津守師員」=中原師員 (同一人物)
以降、上記の記述を抜粋
A鹿子木氏・・※1 中原親能の子で大友氏の祖となった能直の弟師員*が祖とされる。そして、師員の曾孫にあたる貞教
B※2 親能は能直・親実・師員・師俊・親家らを養子とし・・
C※3 師員の出自に関しては諸説があり、『吾妻鏡』にも、師員は中原師茂の子とあることから、師員は親能の養子(娘婿?)になったみるのが自然。
D※4 三池氏の場合、文永十一年(1274)の文永の役後の建治三年(1277)、木工助定時(員時・師時)が鹿子木西荘下村の地頭に補任
E※5 三池貞時が(定時・員時・師時)

と言う事になりました。

では、平河は・・訴訟での記述をもとにすると
平河師高 → 子 師貞・・・(系不明)師高曾孫 師時 となります。

先日の調査で「三池道智」(師時)は三池貞家の「祖父または曾祖父または玄孫?」とここまで調べていました。

後ほど、今の「ヒラメキ」をお伝え致します。(__)
では<(_ _)>(^・^)
[79]子孫よりさんからのコメント(2014年08月18日 15時11分23秒 ) パスワード

では(・_・) 私の「ヒラメキ」です。
(くだらないかも知れませんが、とりあえず・・・)

先日、日本の苗字七千傑様のご教示、「ヒラメキ」の中に
「正史では藤原師高以降が滅亡とういことで抹殺されているので実証は困難」
というお言葉がありました。

そして、今日の調査には
「師員の出自に関しては諸説があり」
なお且つ
「『吾妻鏡』にも、師員は中原師茂の子とあることから、師員は親能の養子(娘婿?)になったみるのが自然」と・・・

ここで、ヒラメキました。 『吾妻鏡』です。

鎌倉幕府の正式な記録書である 『吾妻鏡』。

では、この当時の『吾妻鏡』の編集に携わっていたのは何方がたと・・?
なおかつ、編集に対して、何らかの圧力をかける事が可能?だったのは、何方?かと思いました・・?

吾妻鏡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E9%8F%A1

『吾妻鏡』は、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの87年間を描く。その記述は1180年(治承4年)4月、以仁王の令旨が伊豆の北条館に届くところから始まり、1266年(文永3年)7月20日に第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を辞官するところで終わる。主な内容は治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱、執権政治の始まり、1246年(寛元4年)の宮騒動と翌年の宝治合戦、得宗支配の確立などである。全体は将軍の年代記として記述されており、その日記風の文体は変体漢文の一種で吾妻鏡体とも呼ばれる。収録範囲は当初から宗尊親王の将軍辞官までとする予定だったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のままそれ以前の時点で中断したと見る説が有力である。

編集者の姿勢には偏りがあり、源氏三代に対する評価はしばしば手厳しいが、北条得宗家の活躍は強調される。この傾向は特に北条泰時に関する記述に著しい。

※1 編集者の姿勢には偏りがあり・・北条得宗家の活躍は強調。北条泰時に関する記述に著しい。

編纂における参考文献は、大江氏、三善氏、二階堂氏ら文筆の家に残る記録、右筆等の筆録、日記を中心に、北条諸家や縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このように雑多な参考文献の非同時代性から、記述には編纂者の主観に基づく部分が多いと考えられる。一部には明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もあり、特に前半の源氏三代記については『愚管抄』や『玉葉』など同時代の公家の日記との比較を要する。
※2 編纂における参考文献は、大江氏、三善氏、二階堂氏ら文筆の家に残る記録★大江氏 ★二階堂氏

では続けて「二階堂行方」について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%96%B9
二階堂 行方(にかいどう ゆきかた、建永元年(1206年) - 文永4年6月8日(1267年7月1日))は鎌倉時代中期の幕府実務官僚。二階堂行政の孫で、評定衆・二階堂行村の子。二階堂行章の父。6代将軍宗尊親王の御所中雑事奉行(御所奉行とも)。

1249年(建長元年)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4年)宗尊親王を迎えるために京へ上る。1253年(建長5年)、4番引付頭人(とうにん)、このとき頭人となったのは、北条政村、北条朝直、北条時章と得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える。

1259年(正元元年)9月に評定衆、1263年(弘長3年)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家。『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。

※3 『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。

続けて 中原師員 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1

中原 師員(なかはら の もろかず、元暦元年(1184年) - 建長3年6月22日(1251年7月12日))は鎌倉時代の人物。大江広元(中原広元)を出した明経道中原氏の庶流貞親流で、師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる(師茂の父である忠順と親能・広元の父とされる広季の兄弟が貞親の曾孫にあたる)。その縁で北条泰時の時代に鎌倉に下向し、初代評定衆の一員に加わったものとみられる。

1231年(寛喜3年)春の除目で大外記補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。1236年(嘉禎2年)12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次に署判を加えている。

中原師員は将軍藤原頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩沢奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。そのため宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続け、子の中原師連も宗尊親王の御所奉行、評定衆として活躍し、その家系は鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲した。
※4 執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割
※5 宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続ける。

その子中原師連とともに『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。
※6 中原師連とともに『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高い。

続けて 二階堂行藤 コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%97%A4

鎌倉幕府の 政所執事。二階堂行有の子。弘安5(1282)年引付衆となる。同年検非違使六位尉。同11年,大夫尉。正応1(1288)年出羽守。同3年3月,浅原為頼の乱により,幕府の使節として上洛。永仁1(1293)年政所執事となる。同3年には評定衆,寄合衆の在任が確認される。同6年,越訴奉行を兼任。正安1(1299)年には,引付五番頭人となる。同3年出家,法名を道暁,のちに道我と改める。
※7 鎌倉幕府内での重要職務を歴任。同3年出家,法名を道暁,のちに道我と改める。

まとめます(・_・)
『吾妻鏡に関して』
※1 編集者の姿勢には偏りがあり・・北条得宗家の活躍は強調。北条泰時に関する記述に著しい。
※2 編纂における参考文献は、大江氏、三善氏、二階堂氏ら文筆の家に残る記録★大江氏 ★二階堂氏

『二階堂行方』について
※3 『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。
★「平河道照」は鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方

『中原師員』について
※4 執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割
※5 宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続ける。
※6 中原師連とともに『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高い。
★「三池摂津守師貞」=「三池摂津守師員」=中原師員 (同一人物)

『二階堂行藤』について
※7 鎌倉幕府内での重要職務を歴任。同3年出家,法名を道暁,のちに道我と改める。
★禅門道我・・・・二階堂出羽守行藤

平河師時・平河良貞・平河道照・禅門道我。この方々他多数の「平河師高」の末裔は、「師高」等先祖代々開発を行ってきた「永吉庄」の地頭職をめぐり、大江広元の外孫であり、北条泰時の娘婿である、徳大寺実春と争論をおこした・・

しかし、その訴訟状では、すぐに本名が解る方は極端に少なかったです。

きっと、様々な事情があったのだと思います。

これが、私の「ヒラメキ」です。
言いたい事はお解り頂けましたでしょうか?

では<(_ _)>
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年08月19日 06時28分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。(^・^)

(__)昨日の「ヒラメキ」はやはり「妄想」でした(__)

「師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる(師茂の父である忠順と親能・広元の父とされる広季の兄弟が貞親の曾孫にあたる)」

忠順 改名 → 親盛
師員 元暦元年(1184年)生まれ(文治元年1185年という記述もありました)

と言う事は・・・合いません

無駄な妄想をしてしまいまして、申し訳ありませんでした(__)(*_*;
[81]子孫よりさんからのコメント(2014年08月19日 08時47分26秒 ) パスワード

皆様(__)

先ほどのコメントを書いた後、「はぁ〜(-_-)」とため息をつきながら、ゴロリと横たわり、天井を見ながら、もうすでに暗記してしまった「藤原定隆」の詩

「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」

この詩を何度も口ずさんで「ボ〜ッ(・_・)」としていました。

この詩は、古代より球磨川の上流で麻を栽培して・・・
「あれっ?・・・・・」 
何で「禊」? みそぎ・・みそぎ・・?

禊とは? ウィキより(いつもの事ですが・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8A

禊(みそぎ)とは、神道用語で2つの意味がある。
神道で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。類似した水垢離(みずごり)と呼ばれるものがある。
用例は万葉集より「君により言の繁きを 故郷の明日香の河に禊しにゆく」 (巻4-626)[1]
禊祓(みそぎはらえ)の略。俳句や短歌などでは、夏の季語に用いられる。

通過儀礼[編集]
地域によっては、一定の年齢に達した児童は通過儀礼としての禊を行って初めて“一人前”と認められる場合がある。
服装は白装束が原則だが、男子は褌で行う場合もある。
褌の場合、白の越中褌が原則だが白の六尺褌の場合もある

参考[編集]
御衣木(みそぎ)とは、神仏の像を作るのに用いる木材のこと。檜(ひのき)・百壇(びゃくだん)・栴檀(せんだん)・朴(ほお)の類の木が用いられる。
大祓(おおはらえ)とは、古来6月及び12月の晦日(つごもり)に、親王以下在京の百官を朱雀門の前に集めて、万民の罪や穢(けがれ)を祓った神事。現在も、宮中をはじめ全国各地の神社で行われる。中臣の祓とも呼ばれる。また、これらの神事から、俳句や短歌では夏や冬の季語に用いられる。

(・_・)古来6月及び12月の晦日(つごもり)に、親王以下在京の百官を朱雀門の前に集めて、万民の罪や穢(けがれ)を祓った神事。
(・_・)俳句や短歌では夏や冬の季語に用いられる。
(・_・)地域によっては、一定の年齢に達した児童は通過儀礼としての禊を行って初めて“一人前”と認められる場合がある。

「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」

私、詩心は全くありません(*_*;
しかし、このままこの詩を読むと

「球磨川の上流で禊(罪やけがれを祓う)しているのはだ〜れ?(?_?)(^・^)」

または
「球磨川の上流で誰かが一人前と認められる為に禊をしていますよ〜(^・^)」

(( 一一)・・(ー_ー)!!・・・(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と、皆様の叫び声が聞こえたような?)

「藤原定隆」と言う方は、何を伝えたかったのかな・・?
「藤原定隆」は1170年に37歳で亡くなっているので、詩を読まれた時期は、推測するに1140年代後半〜・・かな?・・・(・_・)

と言う事は・・「一人前になろうとしていた少年は・・」・・平河師高?もしくは、どなたかの少年期。
何だか、ホンワッ(^・^)としてしまいました。

しょうもないコメントでした。すみません(__)

では<(_ _)>(^・^)
[82]子孫よりさんからのコメント(2014年08月19日 22時54分05秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

ふと考えました。
「藤原師高」と言う方の子供には、子息すなわち「男子」はいなかったのでしょうか?
「藤原師高の娘」と言う方は、今のところ二人いらっしゃいます。
しかし、男子の記述が、全く出てこない・・?
娘二人の段階で、鹿ケ谷謀義が起こったのか?

所で・・
これから、お話する事は「ヒラメキ」ではなく妄想です。
かなり、くだらない妄想ですが、お聞きください(__)

もしも、何らかの罪をかぶり、亡くなったと言われる方がいらっしゃるとします。

その方の子孫は、系図の中から、その方の情報を抹消してしまうものなのでしょうか?

そんな事は無いと思うのです。
例えば、鹿ケ谷謀義に係わった方の一部の系は、続いているし、その方の情報を抹消はしていません。

では、もし、何かを隠そうとした場合、その隠さなければいけない事実は何なのか?どのような事情があるのか?

例えば・・
罪うんぬんは関係なく、ある人物は亡くなった事になっているけれど、本当は生きていらっしゃった・・・

その場合はどうなのでしょうか?

亡くなった事になった方の、その後の人生は、記録上は別人と言う事になるわけです。
そういう理由であれば、隠しますよね・・・
事実を知る関係者は、きっと、何代にも渡り、事実を隠すはずです。

何だか、くだらない妄想でしたが、ふと考えてしまったもので・・

では<(_ _)>
[83]子孫よりさんからのコメント(2014年08月20日 09時04分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

先日、白石様に「もう少し待って下さい(__)」とお伝えした、副田庄の地頭職の件を調べ始めたのですが、・・・
全く別の内容について、勉強する事が出来ました。

橘公業は本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として与えられたのは「肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷」

上記の「肥前国杵島郡長島庄」ですが
橘が下向する前の「肥前国長島荘総地頭職」であったのは「中原季時」。
中原季時のあとの長島庄惣地頭に橘公業が任ぜられたと言う事です。

中原季時は「中原親能」の子。
中原親能の養子が「大友能直」と「中原師員」ですから、「季時」は義兄弟と言う事になります。

そして・・・ ウィキより
中原季時は1221年に出家して行阿と号し、同年の承久の乱では、鎌倉の留守居役を務めている。1236年4月6日、死去した。

とありました。
亡くなったのは1236年4月6日。
中原季時のあとの長島庄惣地頭に橘公業が任ぜられたのは嘉禎2年(1236年)2月。
北方町史 には
「疑問とするべき点は多いが、季時の子孫が在地勢力として残らなかったため、文書.記録も残らず不明である。」
とありました。
※季時の子孫が在地勢力として残らなかった

西園寺公経と橘公業が替地を行ったのは嘉禎2年(1236年)と記録されています。

全てが、とても近い時期です。

そして・・
いつものことながら、「平河」を調べていて(平河と中原氏の接点は?)何も出ず・・・
そこで毎回、突如!登場するのは宮原の先祖「橘」でございます(-_-)

「さあ!!子孫よ!!待っておったか!(^_^)/」のように・・・
今回は「橘公業」なのでかなりリアルです。

ちなみに「秋田」においても
橘公業が地頭職補任後、ただちに小鹿島氏を名乗り、秋田に駐留。
惣地頭職は出羽北部の要地秋田郡小鹿島には「橘公業」、山本郡には「中原親能」、雄勝郡には下野の御家人「小野寺通綱」

と、記述されていますので、これも「あれっ!?近い・・」となりました。

と言う事で今朝の進捗をお伝え致しました。
では<(_ _)>(^・^)
[84]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月20日 11時57分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>罪うんぬんは関係なく、ある人物は亡くなった事になっているけれど、本当は生きていらっしゃった・・・
 
藤原西光と平康頼の違いで解るでしょう。
共に改姓組だが、康頼は中原閨閥。
西光は信西派。
康頼は西光とは違い、恭順の意を示したので翌年に赦免、後裔も存在。
康頼に頼の字が付いているでしょう。
平頼盛、源頼朝陣営寄りということ。
 
 
但し、信西の後裔は宗教貴族として大繁栄。
名を捨て実を取った。
 
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm#002
藤原師高も信西の親戚筋だから、寺社勢力の支援を得て良峯改姓で尾張から肥後下向でしょう。
何と言っても尾張が中原系、西光系の接点なのだから。
熱田大宮司は藤原南家で信西とも近い。
平川については橘公業にとらわれずに、寺社関係から調査した方が良い。
出羽の方を調査しても小鹿島後裔は居ることは居るが無駄骨と気づくでしょう。
現実に後裔の多くは伊予、肥前に下向してしまったのだから。
小鹿島氏の後裔は、肥前渋江氏が主流ですからね。
むしろ平頼盛裔に平川景家が居るから、こちらの方が優先度が高いのでは?
[85]子孫よりさんからのコメント(2014年08月20日 22時14分50秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

「寺社勢力の支援を得て良峯改姓で尾張から肥後下向」
「尾張が中原系、西光系の接点」
「寺社関係から調査」

こちらを、しっかりと頭に入れて、今後の調査を行います。

「平頼盛裔に平川景家」
先日の調査で平光盛の繋がりから久我家そして徳大寺家との接点が見えました。

※徳大寺実春の兄「徳大寺実重」母「大江広元」の娘。妻は「平光盛」の娘。
※藤原教氏(父:山科公長 母:藤原師高の娘)と徳大寺実重は、「はとこ」の関係。すなわち、山科公長と徳大寺公国はふた従兄弟。
※平光盛と久我家の姻戚関係。
※藤原長方(妻:信西娘・藤原師高娘)も久我家との姻戚関係あり。
と言う事は「徳大寺家」「平頼盛子息、平光盛」「藤原師高娘」をそれぞれ妻に持つ「山科公長」「藤原長方」そして「久我家」すべて姻戚関係により繋がっていると言う事です。

先日の調査で、上記の繋がりが見えましたが、その先をしっかり調べます。

お導き頂き本当にありがとうございました。
[87]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 01時20分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

あの・・・
早速ですが、平頼盛と藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の関係をご紹介致します。

平頼盛の正室は八条院女房。平光盛の母となります。

八条院女房と鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人「俊寛」は兄妹です。

八条院女房と俊寛の父は「寛雅法印」。この方の父は「源 雅俊」。

源雅俊の父は「源 顕房」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E6%88%BF
源 顕房(みなもと の あきふさ、長暦元年(1037年) - 嘉保元年9月5日(1094年10月16日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。子に賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、顕雅、雅兼などがいる。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。

永承2年(1047年)祐子内親王の御給により叙爵。同年に元服して従五位下に叙される。侍従・近衛中将を経て蔵人頭に補任され、後冷泉天皇に6年にわたって近侍した。1061年(康平4年)参議に至る。1083年(永保3年)兄左大臣俊房と並んで右大臣に任じられる。娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が天皇に即位する(堀河天皇)と、村上源氏の主流となった。なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。

※久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来

(・_・)系譜を見て下さい。中に・・・

※女子:藤原顕隆室
藤原顕隆とは藤原長方の父。
すなわち
藤原長方の母は源顕房の娘。源雅俊(八条院女房と俊寛の祖父)とは兄妹です。

★藤原長方の従兄弟「寛雅法印」の子息・子女が「八条院女房そして俊寛」

※藤原長方の妻は藤原師高の娘。
※藤原長方の従兄弟の娘、八条院女房は平頼盛の妻であり、平光盛の母。

※久我通忠の室は「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局。
※久我通忠の子息「久我通基」
※久我通基の室は「藤原長方」の孫そしてひ曾孫。

※「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局は光盛より、美濃弓削田荘を譲られた。
※そして・・平河師高の曾孫もしくは玄孫の、平河「六郎貞行」は弓削田地頭・弓削田苗字となった。

ここでも、大きな図が見えました。そして、また、この図の中に「藤原師高」と「平河師高」という「師高の名」が出ました。

平頼盛は「尾張守」であり肥後国人吉荘の領主。
ここでも「尾張」と肥後いえ「人吉・球磨」が繋がっていたと言う事を、私は今まで重要視していませんでした・・・・

では<(_ _)>
[88]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 05時34分15秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

コメントが90に近づきましたので、新しいスレッドを立ち上げました。

平川家について15
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101367.html


皆様のありがたいご教示により、私は、ここまで進める事ができました。
本当にありがとうございます。
今後とも、ご教示の程どうかよろしくお願い致します。
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