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 投稿番号:101367 投稿日:2014年08月21日 05時30分51秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について15

コメントの種類 :その他  パスワード

平川家について15を立ち上げました。

皆様のご教示のお陰で、調査は確実に進んでいます。

本当にありがとうございます。
今後ともご教示のほど、どうかよろしくお願い致します<(_ _)>

「平川家について14」コメント87からの続きです。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_87.html

前スレッドコメント87をこちらに転記致します。(^・^)
====================================

平頼盛と藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の関係をご紹介致します。

平頼盛の正室は八条院女房。平光盛の母となります。

八条院女房と鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人「俊寛」は兄妹です。

八条院女房と俊寛の父は「寛雅法印」。この方の父は「源 雅俊」。

源雅俊の父は「源 顕房」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E6%88%BF
源 顕房(みなもと の あきふさ、長暦元年(1037年) - 嘉保元年9月5日(1094年10月16日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。子に賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、顕雅、雅兼などがいる。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。

永承2年(1047年)祐子内親王の御給により叙爵。同年に元服して従五位下に叙される。侍従・近衛中将を経て蔵人頭に補任され、後冷泉天皇に6年にわたって近侍した。1061年(康平4年)参議に至る。1083年(永保3年)兄左大臣俊房と並んで右大臣に任じられる。娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が天皇に即位する(堀河天皇)と、村上源氏の主流となった。なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。

※久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来

(・_・)系譜を見て下さい。中に・・・

※女子:藤原顕隆室
藤原顕隆とは藤原長方の父。
すなわち
藤原長方の母は源顕房の娘。源雅俊(八条院女房と俊寛の祖父)とは兄妹です。

★藤原長方の従兄弟「寛雅法印」の子息・子女が「八条院女房そして俊寛」

※藤原長方の妻は藤原師高の娘。
※藤原長方の従兄弟の娘、八条院女房は平頼盛の妻であり、平光盛の母。

※久我通忠の室は「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局。
※久我通忠の子息「久我通基」
※久我通基の室は「藤原長方」の孫そしてひ曾孫。

※「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局は光盛より、美濃弓削田荘を譲られた。
※そして・・平河師高の曾孫もしくは玄孫の、平河「六郎貞行」は弓削田地頭・弓削田苗字となった。

ここでも、大きな図が見えました。そして、また、この図の中に「藤原師高」と「平河師高」という「師高の名」が出ました。

平頼盛は「尾張守」であり肥後国人吉荘の領主。
ここでも「尾張」と肥後いえ「人吉・球磨」が繋がっていたと言う事を、私は今まで重要視していませんでした・・・・

では<(_ _)>

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 09時21分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝の表題は「平光盛の妻 多々禅尼について」です。

平光盛の妻であり安嘉門院左衛門督局の母である「多々禅尼」

この方について調べました。

以前、ご紹介した
中世久我家と久我家領荘園 岡野友彦氏 著書 がネットで確認出来ます。
223ページおよび224ページに詳しく「多々禅尼」について記述されています。

http://books.google.co.jp/books?id=B9sZ1jxtm8UC&pg=PT234&lpg=PT234&dq=%E5%A4%9A%E3%80%85%E7%A6%85%E5%B0%BC&source=bl&ots=cJW1542QsU&sig=UZvDsczS6q8f9eltg9IRc9fgVkI&hl=ja&sa=X&ei=8Q31U8KpJpS58gWQrYGQCA&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%A4%9A%E3%80%85%E7%A6%85%E5%B0%BC&f=false

「多々禅尼」は光盛室。
光盛は大江忠成の近親、すなわち大江広元と血縁関係にある女性を妻にむかえていた。

とあります。 ただし「大江忠成の近親」という表記について、
「註」27 232ページ〜233ページにかけて説明が記述されています。
ご覧ください。(__)
そして、結果「多々禅尼は大江忠成の娘と考えるより、姉妹などの近親と考えるに至った経緯」が記述されていました。

そして、興味を引いたのは「註」28 233ページの「大江忠成」についての記述です。
※「大江忠成は「海東判官」を号し「熱田大宮司家」の猶子となり、彼の活躍期に「海東荘」は池大納言家領として、平光盛の四女「三条局」と五女「冷泉局」に伝領されていることを考えあわせても、平光盛と大江忠成の接点には少なからぬものがあったと考えられよう」

とありました。

大江忠成 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BF%A0%E6%88%90

大江 忠成(おおえ の ただしげ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の評定衆。大江広元の五男。別名海東忠成(かいとう ただしげ)。

広元から三河国海東庄を与えられ、定住する。その後尾張国の熱田神宮大宮司の養子に入る。後に熱田神宮の大宮司職は辞したが、後に嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となった。
1245年(寛元3年)、鎌倉幕府の評定衆となり、鎌倉幕府の政務に携わった。しかし、1247年(宝治元年)の宝治合戦で、兄の毛利季光が三浦氏側に味方して敗死したため、それに連座して評定衆を罷免された。

※尾張国の熱田神宮大宮司の養子に入る。後に熱田神宮の大宮司職は辞したが、後に嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となる。

(・_・)この方の近親に「多々禅尼」が・・・

大江忠成・・・父:大江広元 母:不詳(養父:藤原忠兼)

母の出自は「不詳」と書かれていますが、養父:藤原忠兼とは・・・
※藤原家忠の子息。
兄弟には 藤原忠宗・尋覚・藤原家光(家忠養子)
大江忠成の母の養父であった藤原忠兼は上記の方々と兄弟であったと言う事です。
そして・・
大江忠成の近親が平光盛の妻「多々禅尼」
先日のコメントでまとめた系図はさらに広がりを見せました。

次のコメントで先日の調査結果と本日の調査結果をまとめます。
では<(_ _)>
[2]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 12時12分23秒 ) パスワード

では
藤原家成・藤原家忠の子息・平知盛妻「治部卿局」・平頼盛・平光盛・久我家・藤原長方・藤原師高・平河師高・・関係をまとめます。

※藤原家成の養子が「西光」であり、西光の子が「藤原師高」
※「山科公長」(妻は隠岐守師高(藤原師高?)の娘)は藤原家成の孫。
※藤原家成の兄妹は藤原忠宗の妻。
※藤原忠宗の子息「藤原忠雅」は治部卿局(知盛の妻)の父。すなわち藤原忠宗は治部卿局の祖父。
※平知盛と治部卿局の子息「平知忠」の乳母は西光の娘。すなわち「藤原師高」の姉妹。
※藤原忠宗(父:藤原家忠)の兄弟について
 @藤原家光 - 橘俊綱の子(藤原家忠養子)・・球磨での呼称「須恵小太良」こと「藤原家基」の父。
 A尋覚・・「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任とあったが、実際に補任されたのは「尋覚」。
 B藤原忠兼・・大江忠成(父:大江広元)の母(出自不詳)の養父。
※大江忠成(父:大江広元)は尾張国の熱田神宮大宮司の養子に入る。後に熱田神宮の大宮司職は辞したが、後に嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となる。
※大江忠成の近親女性が平光盛(父:平頼盛)の妻「多々禅尼」
※平光盛と多々禅尼の娘が「安嘉門院左衛門督局」
※久我通忠の室は「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局。
※久我通忠の子息「久我通基」
※久我通基の室は「藤原長方」の孫そしてひ曾孫。
※藤原長方の妻は藤原師高の娘。
※藤原長方の従兄弟「寛雅法印」の子息・子女が「八条院女房そして俊寛」
※平頼盛の正室は八条院女房。
※平頼盛と八条院女房の子息が「平光盛」
※平光盛の子息に「平川景家」
※平光盛の娘安嘉門院左衛門督局は光盛より、美濃弓削田荘を譲られた。
※平河師高の曾孫もしくは玄孫の、平河「六郎貞行」は弓削田地頭・弓削田苗字となる。

★では、大江広元・藤原長方・徳大寺家・藤原師高・平河師高の関係についてまとめます。

※大江広元は球磨の「永吉庄」を含む鎌倉御領の預所
※球磨鎌倉御領の「須恵庄」地頭職は藤原家光の子息「須恵小太良」こと藤原家基。
※永吉庄地頭職は源頼朝によって「平川師高」子息「字平紀平次」こと「平川師貞」に安堵。
※大江広元の孫が徳大寺実春。平河師高の曾孫「平河師時・平河良貞」は永吉庄地頭職をめぐり徳大寺実春と争論を起こす。
※徳大寺実春の父は「藤原公国(妻:大江広元娘)」。妻は「北条泰時」の娘。
※藤原(徳大寺)公国と藤原教氏(父:山科公長 母:藤原師高の娘)はふた従兄。
※山科公長の妻と藤原長方の妻は姉妹。藤原師高の娘。
※藤原長方の祖父であり、大江広元の曾祖父でもある方が「藤原俊忠」。
(藤原長方の母は藤原俊忠の娘)
※藤原長方と大江広元の父「藤原光能」は従兄。
※藤原光能の子は大江広元の他に ★中原親能(母:中原広季の娘)大友氏 ★藤原家能 - 藤原兼光の養子。
※藤原兼光の妻は「平業房」の娘であり「宮原三宮社」の社司を務めた「平盛房」の孫。
※藤原兼光の妻の姉妹は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の子「藤原宗隆」の妻。
※山科公長(妻:藤原師高の娘?)の姉妹は藤原兼光(「広元」「親能」と兄弟の「家能」の養父)の妻。
※球磨での呼称「久米三良」こと藤原家宗の父は藤原頼実。藤原頼実の舅「藤原定隆」と山科公長の母は叔父姪の関係。
★「藤原定隆」が木綿葉川(球磨川)の詩を詠む。

まだ、見落としている記述があるかとは思いますが、現時点での其々の姻戚関係に伴う「図」をまとめました。


相良氏入国前の球磨・人吉の領土配置。
人吉・・平頼盛 是永・・平河師高 須恵・・藤原家基(須恵小太良)
久米・・藤原家宗(久米小太良)

こちらの相関図でもあるようです。

そして熱田大宮司家に関する調査結果も増えました。

※藤原実定の妻は「上西門院女房備後」。
※「実定」の妻と、二階堂行政の母そして熱田大宮司藤原季範は兄弟(姉妹)。
上記の方々の父「藤原季兼」と「藤原家成」は従兄弟。
※平光盛の妻「多々禅尼」。「多々禅尼」は大江忠成(父:大江広元)の近親者
※大江忠成は熱田神宮大宮司の養子に入る。後に熱田神宮の大宮司職は辞したが、後に嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となる。
★大江忠成の母は出自は「不詳」。養父は藤原忠兼。
藤原忠兼・藤原宗忠・尋覚・藤原家光は兄弟。

(・_・)藤原忠兼は出自不詳の女子を養女にしたのですね・・・
平光盛の妻「多々禅尼」にも出自は定かではない。
しかし、大江忠成と平光盛は確実に縁がある・・(先のコメントにて立証)
平光盛の子息が「平川景家」・・・「平川」を名乗る・・?

最後にとてつもない「妄想」が湧きました。

もし、亡くなったと言われていた方が生きていて、別の「名」で、源頼朝の下文に従っていたら・・・
その人物の娘は義兄弟が育てていたら・・・
(ー_ー)!!・・あくまでも「妄想」です。

では<(_ _)>
[3]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 12時31分31秒 ) パスワード

追記

平河師高の現状わかっている子息は
「平河師貞」と「平河師忠」

通字の「師」はおそらく「中原氏」よりとの事でした。
「師貞」の「貞」も「中原氏」の可能性があるのでは?と思います。(あっているかな?)

では「師忠」の「忠」は?・・・妄想(?_?)・・「家忠」「忠宗」「忠能」「忠兼」・・・・・妄想(?_?)

あくまでも「妄想」でした。<(_ _)>
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年08月21日 17時05分37秒 ) パスワード

皆様、先ほどのたび重なる「妄想」はあくまでも、くだらない妄想ですので、気になさらないで下さい。<(_ _)>

所で、お詫びと訂正があります。

コメント1・2でご紹介した「藤原忠兼」。この方は、藤原家忠の子息「忠兼」ではなく、熱田大宮司藤原忠兼。
大江忠成が熱田神宮大宮司の養子に入った事から、「藤原忠季」の子息である藤原忠兼だと思われます。

お詫びして訂正いたします。

藤原忠兼が熱田大宮司職に任命された経緯については
中世熱田社の構造と展開
http://books.google.co.jp/books?id=53BdTcWK1soC&pg=PA304&lpg=PA304&dq=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%85%BC&source=bl&ots=BsKigo5B3I&sig=9zBSbB9gHTS-Ya0TynesFRcT1VM&hl=ja&sa=X&ei=zJf1U5b9JY3j8AWutoLwBA&ved=0CDAQ6AEwAw#v=onepage&q=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%85%BC&f=false

304ページに
治承二年(1178年)に二位の尼平時子の命によって藤原範忠が「忠兼」に大宮司職を譲与。正治二年に忠兼は国司庁宣により再任された事・・
と記述があります。

平光盛の妻「多々禅尼」の近親者である大江忠成の母は、熱田大宮司藤原忠兼によって養育されたと言う事です。

藤原範忠・「忠季」・「忠兼」・ 大江忠成・・・こちらも「忠」が通字でしょうか。

では<(_ _)>
[5]子孫よりさんからのコメント(2014年08月22日 01時12分43秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

先のコメントを書いた後、日本の苗字七千傑様の《藤原姓熱田大宮司家》 姓氏類別大観を拝見しました。

「忠兼」→ 養子「忠成」と確認しました。
系図を見ながら、どうしても、気になりまして・・・

藤原師高の尾張での配流について、「名古屋市史」を読み、コメントしていた事を思い出しました。転記します。
「平川家について11」コメント80より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101348_95.html

====================================
【藤原師高についての記述】名古屋市史より

師高は藤原師光(西光)が子なり、罪ありて弟師平、師親二人と共に井戸田に謫せらしを、清盛更に追討の士を差下せり、折ふし師高川狩りして、國中のものども多く集め、水邊に假屋をしつらへ、遊君を呼び集めて、今様歌ひ琵琶弾き面白かりけるが、酒宴半に師高が母の方より討手の事を告げたりけるに、師高配所を逃れ出で、蚊野(富國小熊・今は美濃にはいる)と云う所に忍び居けるを、討手下向して、小胡麻郡司惟長、川室伴官代範明等と共に押寄せ、散々にふるまひければ、兄弟三人惟長が為に討たれ、郎等ども皆誅せられぬ。・・・・・
★師高の墓は小袖塚・伯母塚・等と呼ばれ、塚の横を流れる川は小袖川もしくは袂川と呼ばれます。
転記続けます。
此の川を一名錦川と云う、名義は詳ならず。・・・・

まとめました。
★小胡麻郡司惟長となっています。「惟季」ではありません。
★記述の中で「師高が母の方より討手の事を告げたりけるに」とあります。
流罪の際は「母」は同行出来るものなのでしょうか?同行したのか、もしくは「師高の母は、元々、尾張に居していた」と言う事になりますよね?。
そして、母は討手が来る事を事前に知って、師高に告げ、師高は「配所を逃れ出で蚊野(富國小熊・今は美濃にはいる)と云う所に忍び居ける」となるわけですね。
★小袖川 は「錦川」との一名をもっている・・名義は詳ならず
====================================

(-_-)とこのようにコメントしていたのですが・・・

藤原師高を討ったとされたのは
小胡麻郡司惟長 と川室伴官代範明(範朝)※(平家物語などでは川室伴官代範朝となっています)

そこで、この方々を調べました。
「郡司」「伴官代」と言う事は当時の尾張国の在庁官人であると考えました。

色々調査した結果、二人の人物にたどりつきました。(間違っている可能性もありますが)
※小胡麻郡司惟長・・・高階惟長
大江広元の娘婿。(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司

※川室伴官代範朝・・・千秋憲朝(熱田大宮司家)
星野氏‐星野氏の歴史というサイトを読んでいて気が付きました。

※範信(星野氏)の長男憲朝(範朝)は千秋と号し、千秋氏(始め有範、後に信綱、八條院判官代。その子範成は院の蔵人、同じく範時とその子孫も蔵人であった)は建久八年(1197年)に、尾張国海東荘地頭職に補任され御家人となったが、これより先に頼朝の推挙によって建久二年(1191年)に臨時徐目で駿河守に任官した。
源氏一門の受領任官が元暦元年(1184年)および文治元年(1185年)であり、頼朝の岳父北条時政の近江守任官は正治二年(1200年)であったこと、それらの時期、又頼朝生存中に一般御家人が受領に任じられることがなかった事などを鑑みると、大宮司一門は源氏に準じる特殊な門閥として幕府内で位置づけられていたことが確認出来る。

千秋憲朝(範朝)・・八條院判官代 (源頼朝 従兄弟)
尾張国海東荘地頭職に補任され御家人となる。
※海東荘はコメント1で書きましたように
「大江忠成は「海東判官」を号し「熱田大宮司家」の猶子となり、彼の活躍期に「海東荘」は池大納言家領として、平光盛の四女「三条局」と五女「冷泉局」に伝領されている」
と言う事でした。

歴史を良く御存知の皆様は、私が突拍子もない事を書いて(ー_ー)!!
とおっしゃるかもしれません(*_*;

しかし、源平合戦の際は「源氏方」であったとしても、当時、尾張守は平頼盛。

平清盛からの命令に従って、「討伐」に動いても仕方がないと思います。

でも・・万が一この方々が「小胡麻郡司惟長」「川室伴官代範朝」であったとしたら、「その後」の藤原師高はどうなっていたのでしょうか・・・

良峯(平河)師高が藤原師高であったとしたら・・
その後がとても気になります。
藤原師高の配流先には師高の「母」も近くにいたようです。

もし、子女も同伴していたらどうなったのでしょうか?

などと想像を膨らましてしまいました。(先入観はいけませんね(ー_ー)!!)

所で、
千秋憲朝(範朝)は「始め有範、後に信綱」と言う事でしたが、実は、以前別の調査で「藤原信綱」に関係する記述がありました。

明日、もう一度確認してみます。

では<(_ _)>(^・^)
[6]白石さんからのコメント(2014年08月22日 07時10分50秒 ) パスワード

おはようございます。
子孫様精力的に調査が進んでいますね。

>範信(星野氏)の長男憲朝(範朝)は千秋と号し、

神宮内は
平城天皇子孫が神宮に養子に入り 再び出て 毛利に養子に入り(大江まさふさ)・・・
というすじと (この神宮内にいたほうが星野氏と 思っていました)

同じころ 藤原から婿養子に入ったのが 源頼朝を出す方で 千秋氏。
と 思っていました。筋が違うと思っていたのですが、
もしかして 両家
姻戚関係があったのか? 大宮司家としてみれば 婿養子同志 。大宮司として絡まっている中の両家なのか? 

コメントをみていて あら 知らなかったわ が ひとつ ふえました。
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ここから本文です




平高望

美努王――――橘為佐―――三笠錦裳――橘継成―――橘枝主――――橘春成― ―――娘(大宰帥) (侍従) (安芸守) (安芸守) (安芸守) (武蔵守) ‖―? .... こののち 、数度にわたって桓武天皇の子孫に平姓が下賜されているが、葛原親王の子孫への 下賜の事実は見られない。 ... 国香の長子・平貞盛は上洛して「右馬允」の官について おり、貞盛の活躍時期や良兼、良持らにも成人した子がいたことを考えれば、高望下向 後に国 ...

前に 橘佐為の子孫は 平貞持。ということを 話したか・・・朝これから出かけるので 帰ってから見直そうと 思っていますが、
平川を追いかけていると 橘が出てくる という 話に 通じているのかな と 思います。


[7]白石さんからのコメント(2014年08月22日 07時13分30秒 ) パスワード

平貞盛です。
すみません。
貞盛に 養子に入った。?  だった か ?
[8]子孫よりさんからのコメント(2014年08月22日 15時05分31秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます<(_ _)>(^・^)

橘繋がりの平貞盛へのお話。「右馬允」ですね。
私が考えているより、もっと大きな図(繋がり)が関係している可能性があると言う事ですね。
ありがとうございました。
私は気になり始めると目の前の凄く狭い範囲しか気が回らないので、これが、「問題」なのです。 まわりを大きく見渡します。

そう考えながら、今朝は「日本の苗字七千傑様の《藤原姓熱田大宮司家》 姓氏類別大観」そして《平家閨閥図》さらに《中原氏閨閥図》 を繰り返し見ていました。

そして、やはり「ここが重要なポイントだ!」としっかり認識出来ました。

そうする事によって、またまた重要な事をスルーしていた事に気が付いたのです。

「山江村誌」より
人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。

「人吉庄」の預所は平光盛(後見として中原清業)
そして平光盛(後見として中原清業)から中原盛通。
徳治二年預所が中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代った。
そして人吉庄一分地頭であった平河師頼。

中原盛通とは・・・
中原氏に「盛通」と言う方で、当時の時間軸に符合する方は見当たらなかったのですが、「中原氏」と縁のある「波多野氏」に「盛通」と言う方を見つけました。

波多野盛通。父:波多野義景

日本の苗字七千傑様の《波多野氏》姓氏類別大観を拝見しました。
以前、波多野氏についてのご教示を伺っています。

波多野盛通の兄弟に「浄心」と言う方が・・
多良木の浄心寺・・以前コメントしていましたが、「浄心」は、過去(数十年前)までは、「相良氏」という見方であったそうですが、現在は「相良氏」では「ない」との見解が圧倒的に多いようです。ただ、「浄心」と言う方の特定は未だ出来ていないようですが・・※書籍の中には「浄心」とは久米氏か?平河義高か?師高か?という記述もありました???

波多野氏と中原氏との関係でとても興味のある記述がありました。
中原師員・大友能直の養父「中原親能」について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD

明法博士・中原広季(貞親流・貞親の曾孫)の子で大江広元と兄弟であるとする説と、参議・藤原光能の三男で中原広季の養子になったとする説がある。後者は大友氏系図にあるものだが、親能が後に中原姓から藤原姓に改姓していることの反映と思われる。

吾妻鏡によると頼長の母親(しかし尊卑分脈などでは異なる)が波多野氏のものであり河内源氏と縁戚関係にあった相模国の波多野氏の許で育った。
※正室は「波多野経家の娘」

肥後だけではなく、全体を見渡すと、本当に色々な事が見えてきます。

人吉庄 預所
平頼盛 → 平光盛(後見:中原清業) → 中原盛通(もしや?波多野氏?) → 平河師種。

所で・・・
もう一つ、「日本の苗字七千傑様の《藤原姓熱田大宮司家》 姓氏類別大観」そして《平家閨閥図》さらに《中原氏閨閥図》 を繰り返し見て気が付いた事があるのですが、今から、外出しますので、コメントは夜にさせて頂きます。

では<(_ _)>(^・^)
[10]子孫よりさんからのコメント(2014年08月23日 19時06分21秒 ) パスワード

皆様、先ほどのコメントは削除致します<(_ _)>

近世の歴史を知らない事がどれほど恥ずかしい事なのかを、十分に理解して、自分が情けなくなりました。

祖父の任務に関係する内容が含まれていたかと思いますのであえて削除させて頂きます。

「宮原は千葉に数百年に渡る親戚がいた」と言う事だけは書いておきます。

では(__)

[11]白石さんからのコメント(2014年08月23日 23時46分53秒 ) パスワード

こんばんは
日本の苗字7000傑藤原姓熱田大宮司家の五条家から出てくる白川家・大喜家
白川家は花山天皇に出自を持つと思っておりましたが・・・・
大喜家はヤマトタケルの兄 ・大碓命の系と 思っておりました。

やはり 神宮内で その前にいた家と絡まっているのではないか?と。
==========================
星野氏‐星野氏の歴史 のブログもおもしろかったです。
==========================
平家閨閥図
高望ー貞盛・・・清盛  忠盛と池禅尼
清盛も佐為の地を受けているとも 言えるのですね。
=========================−
[12]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月24日 10時57分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>清盛も佐為の地を受けているとも 言えるのですね。
 
閨閥図では表記しておりませんが、平国香(良望)の母は藤原良方の娘であり異母兄の良房は藤原の氏長者で人臣摂政の始まり。
この閨閥により国香以降代々鎮守府将軍を輩出して、多くの葛原親王流平氏が栄えたのです。
佐為より、ここを見逃してはいけません。

[13]白石さんからのコメント(2014年08月24日 13時08分06秒 ) パスワード

7000傑様こんにちは
ご教示ありがとうございます。
>清盛も佐為の地を受けているとも 言えるのですね。

地は 血のまちがいです。

良方の父母は
父:藤原冬嗣
母:百済王仁貞の娘
妻:不詳 男子:藤原当興
男子:藤原当佐
男子:藤原当蔭
女子:平高望室

百済王仁貞は冬嗣母の父・永継と兄弟の筋の人ですね。
ーーーーーーー
良方異母兄・良房


辞書別に見る:朝日日本歴史人物事典


藤原良房 - 歴史くらぶ

母・藤原美都子(みつこ)は838念に右大臣となった★藤原三守(武智麻呂ひまご)(みもり)の姉で、嵯峨天皇 の宮廷で尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后の篤い信任を受けていた。三守の妻・ 安子は皇后・★橘嘉智子の姉だった。良房はこうした閨閥でもこの皇后と深く結び付いてい ...

=========================
うちの高岡女子は 
私は太る体質 というところを 太る★たいひつ と いうのです。

故郷の方言は ころぶに すがつくと すっころんだ と 表現するけど、それを ★ひっころんだ と いいます。

妄想だけど
平川=白川 が どうしても 心に浮かぶのですが・・・

平ひら → 百済→ 白川 →熊本下益城郡には 平江がいる。 







 
[14]子孫よりさんからのコメント(2014年08月24日 16時31分33秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

藤原良方は祖母そして母と「百済」の系がかなり濃い方なのですね。
桓武天皇の生母「高野新笠」。この方も武寧王の10世孫とされていますから、「百済」の系は全てに繋がっていると言う事ですね。

白石様、私も実は以前、「ひ」と「し」の発音について同じ事を考えた事があります。私も、妄想ですが・・

明治以降の、熊本県の成りたちは
1871年(明治4年)、肥後国には熊本県と八代県が設置された、熊本県はその後白川県と改められ、1873年(明治6年)、白川県と八代県が合併して白川県となった。1876年(明治9年)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。

とありましたが、阿蘇より流れ出る「白川」が語源になったのでしょうか。
(そう言えば、先日、阿蘇に行った時に「白川水源」にも寄ってきました(^・^))

ちなみに、平川の親戚に「白川家」があります。
「白川家」は平川と宮原と双方の親戚にもなります。
狭い地域なので以前は、単に、士族同士の結婚という事だったのかな?と思っていましたけど・・この頃の調査で姻戚関係とはそんなに単純なものではない事は良く解りました(__)


所で・・
昨日、「気が付いた事を後でコメントします」とお伝えしましたが
あれから何故か「ドンドン」気が付いて?しまって、輪が広がり過ぎて、コメントをまとめるのに、今、ちゃんと整理している所です。
(何せ、いつも長くなってしまいますので・・・)

次のコメントの予告編を・・(__)

「平時信」「藤原師季 子息 永厳(平等寺創建)」「平重衡」「藤原輔子」この方々が大きな輪に繋がってきました・・です。
では<(_ _)>(^・^)
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月24日 18時26分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>阿蘇より流れ出る「白川」が語源になったのでしょうか。
 
肥後国阿蘇郡白川邑を人心一新の為に採用しただけ。
あまりにもローカル地名なので後に県都熊本を昇格。
讃岐の場合は、郡名の香川を昇格させた。
とにかく全国で旧国名の採用は避けたということ。
 
 

白と平の混淆について。
河内枚方(ひらかた)は、古くは白肩之津(しらかたのつ)とも呼ばれたからでしょう。
一説に新羅方(しらかた)と枚方(ひらかた)のすり替えで、無かった白村江の戦いの捏造で、
本当は、神武東征の河内白肩の戦いが、白村江の戦いという説あり。
列島は三韓の植民地だったから、河内に枚方(辰韓地名)と茨田(馬韓地名)が存在。
まあ単なる方言差の問題で、昔の東京ではシとヒの発音混淆もあった。
[16]白石さんからのコメント(2014年08月24日 20時40分02秒 ) パスワード

こんばんは
今日 笑点という番組を見ていたら 関東は ひ が し になる といっていました。
うちの方と 反対。あれっ・・・

西日本は 中原が多い というので そのせいか?と思っていましたが・・・
長州勢が 東京に移住したからか?とか・・・

あれもこれも 興味の対象になってしまいます。
平時信
高倉天皇や時子・滋子にゆかりする人ですね。高倉天皇・・・興味があります。
子孫様の時信ワールド が みたいです。

時信の子孫は 唐橋を名乗る人もいるのですね。
徳川家康の母の系?だかに 唐橋があって 菅原と からんでいて ・・・という系を 見たことがあるのですが ・・・

家系図 大江氏・菅原氏5(水野氏) - 家系図の倉庫に菅原・•菅原道真の10代孫:唐橋為長よりの系図及び水野氏系図
から 徳川家康の母・伝通院於大

水野氏 と 小川氏
前に 小川さん の 話をしたことが ありましたね。
ただの 言葉つながりですが。

徳川系図大鑑 松平系図で 水野忠政女子と松平広忠の間の女子・家康

徳川家清水という系図もあり
私 過去に 故郷へ向けて書いたメールに 水野・清水・徳川など こちらの高槻にある 家のなから たどり着いたことがあります。

近くには 鴨神社があり 往古 神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴依姫 二代目皇后は妹・五十鈴依姫 

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。 

溝杭神社のゆかりの ご祭神








[17]子孫よりさんからのコメント(2014年08月25日 00時09分37秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様ご教示ありがとうございます。
「肥後国阿蘇郡白川邑を人心一新の為に採用」
白川水源では、阿蘇山を通過した水がこんこんと湧きだしていました。
見た事が無いような、とても綺麗な濁りの全くない水です。
阿蘇山の「パワーを含んだ水」。そのような感覚でした。とても素晴らしかったです。(^・^)

では、早速、先のコメントでご紹介したお話を<(_ _)>

「平時信」が繋げる大きな輪について

まずは、平時信について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E4%BF%A1

平 時信(たいら の ときのぶ、生年未詳 - 久安5年7月26日(1149年8月30日))は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族。兵部大輔・平知信の子。高倉天皇の外祖父。官位は検非違使・兵部権大輔・正五位下、贈左大臣・正一位。
・・・中略
『本朝世紀』によれば、「天性柔順」で争いごとをしない性格で、その死は多くの人に惜しまれたという。

系譜を見ると
父:平知信 - 従四位上・出羽守・兵部大輔、天養元年2月19日没 母:不詳 兄弟:平信範
※@ 妻:藤原祐子 - 藤原顕頼の娘
   女子:冷泉局[1] - 建春門院女房
   女子:平滋子(建春門院)(1142-1176) - 後白河院妃、皇太后、高倉天皇母
   女子:平清子(1146-1178) - 平宗盛室
※A 妻:藤原基隆の娘
   男子:平親宗(1144-1199)
※B 妻:二条大宮(令子内親王)の半物
   女子:平時子(1126-1185) - 平清盛継室 ★子息:宗盛 知盛 徳子(建礼門院) 重衡
   男子:平時忠(1130-1189)
   女子:藤原親隆室 - 権少僧都・全真母
※C 生母不詳
   女子:坊門殿 - 平重盛室
   女子:帥局(?-1185) - 建礼門院女房
========================================
調べました(__)

※@ 妻:藤原祐子 - 藤原顕頼の娘
「藤原顕頼」とは藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕隆の長男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%A0%BC
父:藤原顕隆
母:藤原悦子(藤原季綱の娘) - 典侍、鳥羽天皇の乳母
妻:藤原忠子(藤原俊忠の娘)
男子:藤原光頼(1124-1173)
男子:藤原惟方(1125-?)
男子:藤原成頼(1136-1202)
女子:藤原祐子 - 平時信室、平滋子(建春門院)の母
女子:藤原頼子 - 藤原師長室、のち藤原宗頼室

「藤原顕頼」の
★父:藤原顕隆・・・「藤原顕頼」と「藤原長方 妻:信西の娘・藤原師高の娘」の父藤原顕長は兄弟。 平時信室 藤原祐子と「藤原長方」は従兄妹になります。
★母:藤原悦子(藤原季綱の娘)・・母:藤原悦子は信西の兄妹です。
★妻:藤原忠子(藤原俊忠の娘)※平時信室 藤原祐子の母です。
 藤原俊忠の娘・・・藤原長方の母と藤原忠子は姉妹です。
すなわち、平時信室 藤原祐子と「藤原長方」は、またしても従兄妹となります。それも、父方・母方双方で従兄妹となります。☆二人の其々の子息子女は「ふた従兄」の関係になると言う事です。
なおかつ平時信室 藤原祐子の姉妹は「藤原長方」の室でもあり、他の姉妹は藤原北家閑院流「藤原公実」の七男「藤原季成」となっていました。

平時信室 藤原祐子。この方についてでした。
======================================
では続けて平時信の娘「平時子」。この方についてです。

平時子 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%AD%90
平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。

「平時子」。この方の子息「平知盛」。この方については以前よりコメントしていましたが、今日は、子息、平重衡。この方について調べました。

平重衡 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E8%A1%A1

平重衡。この方についての詳しい記述(奥様とのお話等)はぜひ、別のコメントにてご紹介したいと思います・・・

官位を見ると「応保3年(1163年・7歳)正月24日:尾張守(頼盛の後任)」となっていますので、1177年の尾張守は「平重衡」であったと推測されます。

妻 正室:藤原輔子
愛妾:内裏女房左衛門佐、千手の前
子 良智(鶴岡八幡宮僧)

正室:藤原輔子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%BC%94%E5%AD%90
藤原 輔子(ふじわら の ほし/すけこ、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。大納言藤原邦綱の次女。母は藤原公俊の娘。平重衡の妻。

父の大納言藤原邦綱そして母:藤原公俊の娘。両親共、「藤原氏良門流」。

日本の苗字七千傑様の【藤原氏良門流】姓氏類別大観を拝見致しました。
※平重衡の妻「藤原輔子」。この方の父「藤原邦綱(盛国子息)」・母方の祖父「藤原公俊」。
※球磨川の詩を詠んだ「藤原定隆」・・猫間家
※甘露寺家→葉室家・・「藤原顕隆」は藤原長方と平時信室:藤原祐子、この方々の「祖父」でした。
※近藤氏・・
全て、【藤原氏良門流】に見えます。

大きな輪はこのように繋がっていたのですね。

======================================
では、最後に「永厳上人」と平時信について・・です

まず、
球磨郡須恵庄阿蘇山平等寺を創建、有智山万福寺(平河師高建立)、荒茂勝福寺(同、師高建立)の塊基でもある「永厳上人」。

「永厳上人」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に戻り平等寺を創建したと記述有り。
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
永厳上人の父は平師季。「桓武平氏高棟王流」
平師季の父は「平親信」。「平範国」「平師季」「行親」。この方々は兄弟です。
「平親信」の祖父、平時望の妻は「藤原良尚の四男:藤原菅根の娘」であり、藤原良尚と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟でした。

では本題の平時信と「永厳上人」の繋がりは・・・
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏高棟王流】姓氏類別大観を拝見して確認致しました。

平時信は、平範国の曾孫。
平時信の父「平知信」は「永厳上人」の従兄の子供と言う事になります。

「永厳上人」という方も、大きな輪を見ることによって、やっと繋がりが見えました。

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かなり長くなってしまいました。すみませんでした。<(_ _)>

では<(_ _)>(^・^)
[18]子孫よりさんからのコメント(2014年08月25日 15時29分43秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

少しずつ、少しずつ、ですが、こんな私でも、全体が見えてきたような(マダマダですが(ー_ー)!!)、これからも、頑張ります。

所で・・・前から気になっていたのですが・・

日本の苗字七千傑様の《平家閨閥図》をじ〜〜〜っ(-_-)と見ていて気が付いたのですが鹿ケ谷謀義参加者で、こちらに名前が無い方がいらっしゃいます。
(何をいっているんですか〜〜?!!との声が聞こえたような(-_-))

と言うか・・

先日から、「大きな輪・繋がり」を調べていたのですが、「鹿ケ谷謀義参加者」のほとんどは姻戚関係などにより繋がっていました。

でも・・・繋がりがどうしても解らない方が2名。
「平康頼(中原康頼)」と「多田行綱」この方々です(-_-)
もちろん、其々、後白河上皇に近い方々であったと言うのは理解出来ています。

だけど・・何かが引っ掛かるというか「モヤモヤ」と・・

他の方は皆「姻戚関係」があるのですよね・・

それに、よほど、心を許していなければ、宴席とは言え「問題発言」は無かったと思うのですが・・・(-_-)

何故、この方々は「あの場所」にいたのか・・?

平康頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E9%A0%BC

※平家滅亡後、文治2年(1186年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命された[4]。 康頼は京より三人の家人を伴い森藤の地に下向した。康頼はすでに41歳になっていた。

以前もコメントしたと思うのですが、何故?阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命?

「康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の3人のもの」と記述されていました。
「康頼は俊寛の分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている。」と。

とても心の優しい方であったのは、よく解ります。

しかし・何故、この方は鹿ケ谷謀義に参加をしたのか?
    何故、この方は源頼朝によって、阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命されたのか?

歴史を知らないから、疑問に思うだけなのでしょうか・・?(@_@。

とりとめの無いコメントでした。すみません(-_-)
では<(_ _)>
[19]子孫よりさんからのコメント(2014年08月25日 21時28分40秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

平康頼。この方は阿波国出身だったのですね。

一つ勉強しました。(__)
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年08月26日 09時06分30秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

永厳上人は平時信に繋がっているだけではありませんでした。

永厳上人の父は下野守 平師季。

平師季の兄弟は「平範国」と「行親」。この方々です。

そして、平行親の娘は「藤原為房」の母。
藤原為房の子供が「藤原顕隆」(今回の調査で登場回数が非常に増えました)
と言う事はこうなります。

「平師季」「平範国」「行親」は兄弟。

平師季 → 永厳上人(球磨郡須恵庄阿蘇山平等寺を創建)
平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕長 → 藤原長方(妻:藤原師高の娘)
平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕頼 → 藤原祐子(平時信室)
平範国 → 平経方   → 平知信  → 平時信(妻:藤原祐子)

と、こうなりました。 

そして「永厳上人」の先祖、「藤原良尚」と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟。

菊池家文書にある、球磨の「平河」の記述にあった「行親」とは??

それから

須恵庄阿蘇山平等寺
平等寺院主第八世「勢雅」そして第九世「良誉」 という情報を見つけました。

この方々についても調べます(__)

では<(_ _)>

[21]子孫よりさんからのコメント(2014年08月26日 12時54分05秒 ) パスワード

皆様(__)

先ほどのコメントで
「「永厳上人」の先祖、「藤原良尚」と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟。」
と書きましたが、冷静に考えると

※「平師季」「平範国」「行親」の先祖「藤原良尚」と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟。
と言った方が的確ですね。
(「平師季・平範国・行親」の父「平親信」の祖父、平時望の妻は「藤原良尚の四男:藤原菅根の娘」であり、藤原良尚と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟)

そもそも「須恵庄阿蘇山平等寺」は須恵氏の氏寺として創建されたのであろうと言われています。
そして・・不思議な事が・・
福岡県宗像市須恵という場所にも「平等寺」跡があり、全国を見渡すと、「平等寺」というお寺がある場所は、殆どが「須恵」または「須恵器」が大量に発掘されている場所でした。?????

以前「平川家について12」コメント6でご紹介していた内容をここで転記致します。
======================================

美術史論集 - 201 ページ 変貌する須恵村: 社会文化変化の基礎的研究 - 51 ページ より 同文

開山ヲ永厳ト云。然二其前モ永厳京都醍醐寺修,ノ後当郡二下テ平等寺ヲ造立シテ住ス。其節右ノ如来モ守来ノ本尊也。当寺過去帳ヲ考フル二開山永厳上人ハ仁平元年^八月十四日寂ス。寿七十歳ト云。凡願成寺二代ノ先師弘専成秀勢秀、夫ヨリ勢尊勢勝等 ...

永厳が醍醐寺から帰ったのを40歳前後と仮定すれば、平等寺の開山は仁平元二一五二年を遡ること約30年、保安(一一二 0 ) . ... 胸・腹・膝にかけて流麗な平行線を描く衣紋は典型的な藤原様式を物語つており、永厳上人守来の記事に符合するのである。
=======================================
人吉市史 - 第 1 巻 - 282 ページ googleブックより

須恵庄阿蘇山平等寺釈迦堂再興長禄三年(一四五九)再興されたが、寺の創建は、
相良氏入国前、永厳上人で、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂、後弘安年中円パン上人中興、同上人は、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
★有智山万福寺  深田内山
★荒茂勝福寺   深田荒茂
★永厳上人・・・同上人は、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
======================================
※「永厳上人」が亡くなったのは1151年。
※平河氏および平河師高は「永厳上人」を塊基とする、有智山万福寺を1151年着工、3年の年月をかけて1154年建立。

「平河師高」の名が球磨の記録にはっきりと(守高の例以外に)残されたのはこの有智山万福寺建立が初めてとなります。

所で、1151年当時の肥後守を調べたのですが
源俊国でした。任期(1144年(天養元年) - 1154年(久寿元年)

源俊国 父:源顕房 母:藤原良任の娘

源顕房の娘は藤原顕隆の妻となり藤原顕長(長方の父)を産んでいます。
すなわち、肥後守「源俊国」と藤原長方の祖母は兄妹です。
※いつも書き忘れているのですが・・
藤原長方の妹は「徳大寺実定」の妻です・・

平師季 → 永厳上人(球磨郡須恵庄阿蘇山平等寺を創建)
平範国 → 平経方   → 平知信  → 平時信(妻:藤原祐子)
平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕頼 → 藤原祐子(平時信室)
平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕長 → 藤原長方(妻:藤原師高の娘)・徳大寺実定室
源師房 → 源顕房   → 源顕房の娘 →藤原顕隆 → 藤原顕長 → 藤原長方(妻:藤原師高の娘)・徳大寺実定室

源師房 → 源顕房   → 「源俊国」 肥後守 任期 1144年(天養元年) - 1154年(久寿元年)
※「永厳上人」が亡くなったのは1151年。
※平河氏および平河師高は「永厳上人」を塊基とする、有智山万福寺を1151年着工、3年の年月をかけて1154年建立。

と言う事でした。
では<(_ _)>
[23]子孫よりさんからのコメント(2014年08月26日 16時48分51秒 ) パスワード

皆様、また、抜けていました。
藤原顕隆の娘は「徳大寺実能」の妻であり「徳大寺公能」の母でした。

とりあえずまとめてみました(-_-)
※「平師季」「平範国」「行親」の先祖「藤原良尚」と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟。

※平師季 → 永厳上人(球磨郡須恵庄阿蘇山平等寺を創建)
※平範国 → 平経方   → 平知信  → 平時信(妻:藤原祐子)
※平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕頼 → 藤原祐子(平時信室)
★平時信娘「平時子」→ 平知盛 → 平知忠(乳母:西光の娘。藤原師高の兄妹)
※平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 → 藤原顕長 → 藤原長方(妻:藤原師高の娘)・徳大寺実定室
※平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 →藤原顕隆の娘→ 徳大寺公能(父:実能) → 藤原実家 → 徳大寺公国(妻:大江広元娘) → 徳大寺実春(平河と争論)
※平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 →藤原顕隆の娘→ 徳大寺公能(父:実能) → 藤原実家 → 徳大寺公国(妻:大江広元娘) → 徳大寺実重(妻:平光盛娘) 
※平行親 → 平行親の娘 → 藤原為房 → 藤原顕隆 →藤原顕隆の娘→ 徳大寺公能(父:実能) → 徳大寺実定『妻:「上西門院女房備後」。二階堂行政の母そして熱田大宮司藤原季範は兄弟(姉妹)』。
※補足※ 徳大寺公能の兄弟「徳大寺公親」養子「藤原実教」→ 山科公長(妻:藤原師高の娘) 
★藤原実家・徳大寺実定の母:藤原俊忠の娘。
★藤原長方(妻:藤原師高の娘)の母:藤原俊忠の娘。 すなわち「実家」「実定」「長方」は従兄弟。
※源師房 → 源顕房   → 源顕房の娘 →藤原顕隆 → 藤原顕長 → 藤原長方(妻:藤原師高の娘)・徳大寺実定室
※源師房 → 源顕房   → 源雅俊   →寛雅法印 → 八条院女房(平頼盛の妻) → 平光盛 
★八条院女房の兄妹「俊寛」
※源師房 → 源顕房   → 「源俊国」 肥後守 任期 1144年(天養元年) - 1154年(久寿元年)
★藤原長方・平頼盛・平光盛・久我家・平河 の関係は「平川家について14」コメント87に記述させて頂いていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_88.html
=======================================

上記の繋がりにプラス「藤原家成を中心とした」一族そして「藤原家忠を中心とした」一族さらに「藤原頼実を中心とした」一族なおかつ「大江広元を中心とした」一族が繋がっていました。

所で・・(しつこいですが(-_-))
菊池家文書に書かれている、平河に繋がる「行親」とは・・・どちらの「行親」なのでしょうか・・?(様々な系図に「行親」と言う方が沢山いらっしゃいます)

最後に、もう一度
※「永厳上人」が亡くなったのは1151年。
※平河氏および平河師高は「永厳上人」を塊基とする、有智山万福寺を1151年着工、3年の年月をかけて1154年建立。

これは、何を意味するのでしょうか・・・

まだ「平河師高」は「藤原師高」です!確定!!・・とは、いかないでしょうか(*_*)

よ〜〜〜〜〜し!!がんばります。
<(_ _)>
[24]子孫よりさんからのコメント(2014年08月26日 19時37分46秒 ) パスワード

皆様、発見いたしました!。

先ほどの「輪」の中に、良峯姓「原高成」と関係があるかもしれない?「家」を見つけました。

ご説明を<(_ _)>

平忠度の母は藤原為忠の娘もしくは良峯姓 原高成の娘となっています。
私は、平忠度の同母兄妹はいなかったのか捜しました。

すると・・・いらっしゃいました。
平忠盛の娘に平忠度の同母の方が。しかし系図では、平忠度同様「藤原為忠の娘」となっています。

この方は「藤原顕時」の妻となっています。
「藤原顕時」とは・・
藤原為房 子息「藤原長隆」の子供です。藤原長隆と藤原顕隆は兄弟となります。
藤原為房 → 藤原長隆 → 藤原顕時(妻:平忠盛の娘 ※母 忠度と同母。藤原為忠の娘もしくは良峯姓 原高成の娘)

※子女
女子(平時忠室。安徳天皇乳母。典侍)「★母は平忠盛の娘」
女子(信濃守藤原是憲室) ★藤原是憲は信西の子息。
女子(建春門院帥。※平時信女同人)

記述に「西光」・「藤原師高」の名はありませんでした。

しかし、上記の方々は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)とはふた従兄となります。

と言う事で平忠度の兄妹「藤原顕時」の妻についてでした。
では<(_ _)>
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年08月27日 00時31分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

先のコメントでご紹介しました「藤原顕時」。

藤原顕時(本名顕遠)[ 天永元(1110)年 〜 仁安2(1167)年3月14日 ]
前因幡守従五位上長隆一男。母近江守高階重仲朝臣女。
号粟田口帥、又中山中納言。
保元4(1159)年4月6日任参議。
仁安2(1167)年出家。
従二位・権中納言。

※母は高階重仲の娘。

藤原顕時の母:高階重仲の娘。「信西」の妻とは姉妹になります。

信西 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF
妻 高階重仲の女。そして藤原朝子。

ちなみに、信西と高階重仲の女との子供の一人が「静賢」

静賢 ウィキより
安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀で謀議が行われた山荘は、『平家物語』では俊寛のものとされるが、『愚管抄』では静賢のものとされる。この事件では院近臣の多くが処罰されたが、静賢は関与責任を問われることはなかった。その後、治承3年(1179年)4月に平清盛の命令によって法勝寺執行を解任されている(『山槐記』)が、鹿ケ谷の陰謀との関連は不詳。同年11月の治承三年の政変では、クーデターを起こした平清盛の元へ、使者として後白河院が今後政務に介入しない旨を伝えに赴いている。院が鳥羽殿に幽閉されると、兄弟の成範・脩範らとともに、その身辺への出入りを許された数少ない側近の一人となった。

======================================
日本の苗字七千傑様の《平家閨閥図》の中に「静賢」この方の名がありました。

静賢と藤原顕時は従兄弟だったのですね・・
※鹿ケ谷の陰謀・・この事件では院近臣の多くが処罰されたが、静賢は関与責任を問われることはなかった。
藤原顕時の妻は「平清盛」の異母兄弟。
なるほど、そういう事か・・・

しかし、
八条院女房(平頼盛の妻)の兄妹「俊寛」は罪を問われた・・
何故?

平清盛と平頼盛の間には確執があったのでしょうか・・

と言う事で、今日の調査はとても勉強になりました。

では<(_ _)>
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月27日 21時27分45秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>平清盛と平頼盛の間には確執があったのでしょうか・・
 
当然でしょう。
頼盛の母池禅尼の懇請に頼朝助命を受け入れた時点から対立。
 
 
また桓武平氏=オール平家という発想も捨てないと、源平の戦いは理解不能。
 
 
要するに桓武平氏が源平に分かれていたということ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
 
 
相模の西湘は中村水軍(土肥、土屋、二宮)、東湘は三浦水軍で全て平氏。
頼朝が石橋山の戦いで負けたのは、荒天で相模灘が航行出来ずに三浦一族の来援が遅れた。
敗北後は、両水軍の支援で上総に脱出成功。(命拾いということ)
平成の現在でも荒天時は浦賀水道のフェリーは欠航になる。

 
尾張の良峯姓原氏も上総氏、三浦氏と縁戚で源氏方ですよ。
 
 

鹿ケ谷の陰謀は閨閥だけのつながりでは無いので状況は複雑。
中でも源行綱は、銀鉱床のある多田庄の領地があり財力抜群だから、
縁戚関係無しで常に優勢な方に付く。
鹿ケ谷の謀議密告で功績大だが、それでも安芸に流されるが直ぐに赦免。
義仲入京で平家劣勢になると再び裏切り源氏方へ寝返り。
裏切りなんて当たり前の時代で源行綱だけじゃないから、誰も非難はできない。
清盛没後は、良くある世襲企業の二代目三代目の無能リーダーばかりの平家、
これじゃ中間派の頼盛も平家西奔に付き合えないよね。
[27]子孫よりさんからのコメント(2014年08月28日 00時18分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

平清盛と平頼盛との確執は
「頼盛の母池禅尼の懇請に頼朝助命を受け入れた時点から対立」
そうだったのですね。

西光は平清盛が「信西」を討った源義朝の子息源頼朝の助命を受け入れた事により平清盛と対立した・・・
しかし保元の乱の際には源義朝が自身の戦功に替えて父「源為義」の助命を訴えたが、信西によって却下されていた・・・
そして源義朝の妻が藤原景清の姉妹であったと言う事ですね。

と言う事は平頼盛と西光は当然対立関係にあったと言う事でしょうか?
・・・・??解らなくなってきました・・

もし、何かの繋がりがあったとすれば、それは保元の乱以前?
(ー_ー)!!先入観はいけませんでした・・

でも、その当時の藤原師光の立場は・・・?
しかし、西光は池禅尼の従兄妹である藤原家成の養子でもありましたし・・

所で、
「尾張の良峯姓原氏も上総氏、三浦氏と縁戚で源氏方」

尾張良峯姓原氏と三浦氏の縁戚関係については、全く知りませんでした。
ありがとうございます。
早速調べてみます。

「鹿ケ谷の陰謀は閨閥だけのつながりでは無いので状況は複雑」
「中でも源行綱」
とても、疑問だったので、やっと理解出来ました。

ご教示本当にありがとうございました(^・^)
では<(_ _)>
[28]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月28日 21時04分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>と言う事は平頼盛と西光は当然対立関係にあったと言う事でしょうか?
・・・・??解らなくなってきました・・
 
 
枝葉末節なことを追いかけていると、何が何だか解らなくなるのですよ。

鹿ケ谷の陰謀に加担していない高階氏閨閥で当時の全体が見えてきます。


平治の乱では、藤原信頼と藤原信西の確執が発生。
藤原信頼は池禅尼と同祖の藤原隆家の末裔。 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm#002
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01215.htm#002  
高階一族は生き残りの為に四つの保険をかけたということ。
院、摂関家、清盛一族、信西一族との4大権力閨閥。
最終的には、信西一族の後裔が寺社勢力を掌握して寺社系荘園の繁栄で、名より実を取った。
信西は高階氏の養子になったからね。
[29]子孫よりさんからのコメント(2014年08月29日 00時13分43秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

平家閨閥図そして高階氏閨閥図を拝見致しました。

「生き残りの為に四つの保険」

伺って、あらためて高階氏閨閥図を拝見して、私にも理解出来ました。
ありがとうございます。

高階氏は肥後とも関係のある一族です。

しかし・・
系図には、とても深い意味がある事が良く解りました。

歴史が何故「そう動いた」のかが、目に見えると言う事が、とても凄い事だと思います。

「人の運命は生まれた時にはすでに決まっている」そんな言葉がふと頭をよぎりました。

信西の一族は、2代目以降の方も、頭を切り換えて、発想の転換を行い、別の形で繁栄したと言う事ですね。

平河の調査に伴った結果ではありますが、今、歴史の勉強が出来る事が、とてもありがたいと思います。

言葉は良くありませんが、とても面白いです。

ご教示本当にありがとうございました。

では<(_ _)>(^・^)
[31]子孫よりさんからのコメント(2014年08月29日 09時17分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

先日、親戚の事をコメントしましたが、実は、昨日、父と電話で話をしている時に、やはり、かなり何軒も忘れていた事を実感いたしました。(__)

まず・・
平川と宮原の双方とも親戚となるのが「木村家」です。

木村家・犬童家・平川家が繋がっています。
木村家は蓑毛家とも親戚です。
木村家は岡本城のすぐ近くにあり、それこそ、何度行ったかわからない位、遊びに行っていました。
子供の頃、木村に遊びに行って、そのまま岡本城跡に登り、野ウサギを見た事を今頃思い出しました。(野ウサギを初めて見て、本当に感動した事を覚えています)
後は「寺田家」。こちらも完全に忘れていました(@_@。

白石様。
以前「田山家」のお話が出ていましたが、うちの親戚の「田山家」は久米にあります。(父に聞きました)
久米・奥野「平川家」は曾祖父の弟が家を継ぎ、久米の田山家からはその後の代で婿養子がこられているようです。

そして、宮原の親戚で完全にわすれていたのは「石川家」そして「森家」です。
何度か、祖母に連れられてお家に遊びに行っていました。

父は子供の頃「石川家」は宮原のかなり以前からの親戚だと祖母から聞いていたと言っていました。

かなり以前とは明治よりずっと「前」との事です。
そして「森家」。完璧に忘れていました(@_@。
そういえば、うち(宮原)の親戚にも「森家」がありました。
「森」と「石川」も双方親戚関係にあります。

父と話をして解ったのですが、私が祖母から聞いている「親戚」は全て、近年からの付き合いではないようです。
父いわく、「明治」より以前からというのは「確実」との事でした。
其々の親戚が、その後「明治」「大正」「昭和」と姻戚関係をもって、親戚付き合いを繋げてきたようです。

だから、私は祖母から「結婚するなら、ばあちゃんの知っている所にして欲しい」と言われていたのかな?と・・やっと今頃解りました。

ただし・・・
田舎だから出来る事であって、平成の世にあっては、こういう親戚関係はかなり珍しいのでは?と思います。(でも、他の地域の方々も、日本全国、田舎では同じような婚姻がまだ続いているのかもしれませんね・・)

でも、考えたのですが・・・
全ての「親戚」が縁戚関係がかなり以前からと言う事は、先祖の調査には重要な手掛かりにもなりそうです。

では<(_ _)>(^・^)
[32]白石さんからのコメント(2014年08月29日 23時19分01秒 ) パスワード

こんばんは
田山
田山について改めて書きます。
うちの田山は 市房神宮のお鏡を預かっています。神宮の尾方氏からお手紙をいただいており、田山姓は 球磨には あまりないということでした。

お鏡は 50年に一回くらいの御開帳で重々しく、人の一生のうちに二度も拝める人はたいそうな幸運の持ち主だというものです。平成3年か5年くらいにありました。兄は出席しましたが わたくしは 父の看病のため出ませんでした。

田山に 鏡を見ることができないか?尋ねたところ 自分たちも白布の上から見るだけで だれも 直接見ることはできないという返事でした。

私的には 漢鏡か 半島のものか?知りたかったのですが。
市房神宮は 807年くらいに 久米城主市房が霧島神宮を勧請して建てたものですね。

同じく 大同年間に 阿蘇神社を勧請して 尾方権の助大賀惟元が建てたのが「青井神社」ですね。

市房神宮には相良長福も在城していたということで、長福から恒松が出て、篤姫の話につながっていました。
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うちの田山は高岡・田中と姻戚関係があります。
石川 森という家は地域にはありません。わたくしが知らないだけかも知りません。
犬童はあります。木村は 先生がおられました。蓑毛は 人吉の近くの地域名にあります。
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古い時代にたどり着く苗字の家が狭い地域にあるのは 本当に珍しいと思います。
うちの地域の特徴は さらに 高岡・田中・永田・高田の4軒があったところの字が 萩とか、 平家城あとがあったところに 中村という大きなつながりを持つ家があり
中村を伊勢で考えると 月読宮にいざなぎ・いざなみがまつられており、そのあたりを 中村というと本で見たことがあります。

また そこは 渡会の地だと。渡会あたりにかんこ踊りがある。
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村山 松本 宮田 荒木など 集落には 伊勢神宮社家にあった家と同じ苗字の家がありました。

萩は 殷 周 秦の都したところあたりに 豊邑があって そのあたりに葉木があった と これは かなり 前に本で見たことで 記憶が怪しげです。
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[33]子孫よりさんからのコメント(2014年08月30日 00時45分05秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

久米の田山家は、かなり以前から平川と縁戚関係があったようです。

曾祖父の弟が家を継いだ久米・奥野の平川は、南北朝時代の古文書に「久米・奥野の平川(師門)」という記述がありますので、そちらではないのかな?と

石川家と森家は、旧宮原地区で多良木の久米地域に近い場所にあります。
(旧久米郷の実家がある場所が東方であれば、石川は、東方でも、多良木(久米下方)に近い場所だと思います)
宮原(橘)の縁戚で、別の場所から来られた可能性もあるかと・・
以前、実家近くの庚申塔(1600年代)に、「有馬」姓が数件あったのも、もしかしたら「橘」の縁戚関係だったのかもしれないと(あくまでも推測ですが)

多良木の平川の伯父(父の従兄弟)は福島県にいるのですが、こちらも、縁戚関係の繋がりで、あちらに行ったようです・・・?(ずっと、何故、福島県なのかな?と思っていました)

それと・・
宮原城跡下の五重塔がある先祖代々のお墓がある場所より、少し離れた所に「金毘羅様」があります。
以前もコメントしたかと思いますが、子供の頃、海が遠い山の中なのに、何故、金毘羅様があるのかな?と思っていました。
(こちらは、おそらく宮原(橘)に関係があるのでは・・?)

その他、今思えば、子供の頃に家にこられていたお寺様は鹿児島からわざわざ来られていたので、考えてみるとやはり不思議です。
そう考えると、やはり、先祖の調査は、「肥後・球磨」だけではなく、全国を視野に入れなければいけない事を痛感します。

平川と犬童家との縁戚関係は、山江村誌に書かれていた内容からすると

師親 → 源兵衛入道 → 弥三郎 → 平河弥兵衛頼秀(菱刈大口にて戦死) → 平河飛騨守頼重 → 平河弥兵衛長金 → 平河源兵衛頼重 → 犬童彦右エ門高政 → 平河将親(春渓宗心) → 犬童五兵衛・・・

と犬童姓を名乗っている方がいました。

犬童五兵衛。この方なのですが
早世尾州宮ニテ死 法名 空岩良智 とありまして「尾州宮」とは何処なのかな??と。
但し、享保(1716年から1735年までの期間)とあるのでかなり後世です。
祖母の平川と、黒肥地の平川家との繋がりがよく私が解っていなかったので今までコメントしていませんでした。

でも「尾州宮」とは?

まだまだ、勉強不足なので、これから、しっかりと調べます。

では<(_ _)>(^・^)
[34]白石さんからのコメント(2014年08月30日 07時32分41秒 ) パスワード

柳営婦女傳系
お富の方、其始
★尾州小川の城主
★水野右衛門大夫源忠政に嫁して、
★東照宮の御母堂(後 伝通院殿と号し奉る。 ... 者も合点せざりし処に、お富の方の叔父に★尾州宮の城主に宮 善七郎平秀成、
★本名岡本に、清康君此事を一向にお頼みありし故、善七郎はお富の方 を ...


尾張国熱田 白鳥町文書仮目録 (Adobe PDF)
(天保10〜11年). 1. 縦. 11 〔白鳥町宗門御改帳〕. (天保13〜15年). 1. 縦. 12 (薩摩屋 林吉其外より船難破之旨来状写). 丑4月21日.
★尾州 宮白鳥 岐阜屋佐. 兵衛 他1名. 1. 状. 13 覚(★中村七兵衛へ家柄等尋之箇条ニ付). (江戸). 尾州白鳥木場ニ而 中村. 兵衛. 1.


永仁3年記 - Biglobe
御劔は典厩、御調度は江州、御行騰は野州、 三日 戊申 陰 武州(時村)椀飯例の如し。 御劔は駿州、御調度は常葉備州、御行騰は能州、 五日 庚戌 晴 御評定始め(若)、太守 (貞時朝臣)、奥州(宣時朝臣)、武州(時村)、
★尾州(公時、 法名道鑒)、典厩(師時)、 ...


「道中風景図巻」場面一覧 - 八代市立博物館 未来の森ミュージアム ...
17, 藝州 四十八坂ヨリ宮嶋ヲ望, 017-02. 18, 藝州 廿日市ヨリ廣嶋迄の間 イノクチノ タオヨリ眺望之図, 018-02. 19, 小早川城跡, 019-02. 巻3. 20, 備後三原, 020- ... 74,
★ 尾 州 宮渡海場船より望図, 074-08. 75,
★尾州 笠寺観音, 075-08. 76, 尾州 桶狭間古戦場 ..

おはようございます。
朝 尾州宮で検索をかけたら上のような表題が出ました。
時々 同じ言葉で検索をかけても もう 二度と出てこないということがあるので 消えないうちにと思って コピーしておいてみました。

宮は 宮原 前からの子孫様のコメントで学習しました。
徳川に関与するところがあるのが 目を引きました。
それから 白鳥のことば

子孫様 広がってきたようですね。親せき関係は大事にしなければいけませんね。かくいうわたくしも 年をとるにつれ ひとつ切り ひとつ切り さびしくなりましたが 記憶にとどめていたおかげで 子孫様のおかげで 橘のこと ひらかわのこと ひいては それに かんよしていたであろう(私の意識では100パーセントです。ただ 武家政権下 おさえられていた部分があって まだ 公開されていないところがある と 思っています)
私の家のつながりから出る家のこともわかってくると思います。

[35]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月30日 11時01分24秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>でも「尾州宮」とは?
 
尾州の宮ということでしょう。
早世尾州宮ニテ死 法名 空岩良智とハッキリ地名が表示されているではありませんか。
東海道五十三次の宮で熱田の浜から桑名への渡しがあった。
広重の行書版の版画には、熱田神宮の鳥居が立っている。
http://www.geocities.jp/tomofield2002/image/hiroshigeatsutahamaweb.jpg  
 

熱田神宮と関係があるのでは?

良峰朝臣兄弟の長岡朝臣岡成後裔広畠氏、橿園氏、望月氏、篁岡氏、三串氏、竹室氏、桑園氏、広松氏、中大路氏は熱田神宮社家。
[36]子孫よりさんからのコメント(2014年08月30日 11時10分52秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、「尾州宮」についてのご教示ありがとうございました。

私も、昨日のコメントの後に、調べてみたのですが「尾州」とは「尾張国」の事を指すのですね。
ウィキで尾張国別称「尾州(びしゅう)」と書いてありました。

後世(享保年間)の事とはいえ、やはり、平河は尾張との関係があったと言う事ですね。

沢山の情報、本当にありがとうございます。

それから、昨日コメントした「石川家」についてですが、私、マタマタドジドジでした(@_@。

今朝、もう一度、実家近くの庚申塔(1600年代)に刻まれていた「姓」の確認をしたら、この時すでに「石川」という姓があったのです。
「石川藤次郎」「石川金右衛門」という方々でした。
あとは「溝口」という姓もありました。

有馬は、殆どが下の名が消えているようで
有馬藤助 有馬山■ 有馬善■ 有馬藤■ となっています。

原与八郎 高田新兵衛という方もいらっしゃいます。

平川の名の横に繋がる様に
平川傳七郎 平川内蔵作 ■■左衛門 ■■惣兵衛 ■■衛門 

そして、旧岡原村福留地区の庚申塔には
施主 橘 公貞 作之 とありました。

福留地区は、井口川を挟んで、対岸の岡本の下方の地区になります。

実は、「橘」に関連する記述で

服部「相良氏と南九州国人一揆」(『歴史学研究』)、なお「小鹿島文書」によれば、正平廿一年(1366年)
橘公多が左衛門に「球磨郡久米郷東方下分宮原」を譲っている
公多は公頼の父であろうか。
という記述を見ました。(橘薩摩公多讓状小鹿島文書)

おそらく「佐賀」の方とは、ずっと交流があったのでは?と思います。
何故なら・・
実は、祖母と多良木の伯母のある行動がずっと気になっていたからです。

娘を出産した時のお話です。

私は、岡原に帰って産みたかったのですが、「祖母が久留米で産んだ方が良い」と言うので、父が当時住んでいた久留米の病院で娘を出産しました。

その2日後、突然、祖母と多良木の平川の伯父・伯母の3人が久留米にやってきました。(来るとは一言も聞いていませんでした)

そして3人は約2週間、久留米に滞在しました。
私の面倒を見ていた訳ではありません。(ー_ー)!!

3人は、ほぼ毎日のごとく、色々な所に出かけていました。(案内役は父の知り合いの方です)
最初は高良大社から始まって、筑後・柳川・大牟田・大和・などの筑後方面そして、大宰府・春日など、そして日田方面にも行っています。
佐賀方面も何日もかけてまわっていたのです。(武雄まで行ったと言っていた事もあります)

私は、初めての子育てで祖母が心配して来てくれたと思っていたので、ある日、ちょっとスネテ「ばあちゃん達は、毎日、何をしよると?私が心配で来てくれたんじゃナカと?(@_@。」と聞いたところ
「ばあちゃん達は、○○(私)が無事に子供を出産した事のご報告と、○○(娘)が健康に幸せに育ちますようにと、お礼を兼ねたお参りをしよるとよ」と、言ったのです。
私は??????と。
聞けば、神社だけではなく色々なお寺様にもお参りしていたようです。
その後、祖母たちはお腹いっぱい?2週間かけて色々な所に出かけて、球磨に帰って行きました。

そして、数年後、多良木の平川の伯母がまだ元気だった頃、祖母と伯母が私に、「○○(私)の所に行ったのが一番楽しかった(^・^)。もうあれから、旅行という旅行は年を取って行けんくなったケンね〜。」と。

一度、祖母は息子の七五三祝いに北九州にも来たのですが、私の仕事の都合で一泊しか出来ませんでした。その時に祖母がどうしても行きたかったと言ったのが「門司」です。でも、時間が取れなくて連れて行けませんでした。

そして、多良木の伯母と祖母は、私に「門司に行きたかった〜」と。
関門海峡が見たいの?と聞くと
「それもバッテン。○○(私)の所に行った時に門司に行けとけばね〜」と、とても残念そうでした。
かわいそうになったので「今度、また、門司や下関に一緒に行こう!」と言うと二人は「門司に行きたかとよ」と・・「門司」に拘っていたのです・・
(この「門司」への拘りだけが、よく解らないのですが・・?)

この頃の調査で、様々な土地が出てきていますが、私は、あの時の祖母と伯母そして多良木の平川の伯父が、何かを知っていて行動していたのではないか?とこの頃よく考えるようになりました。

でも、3人は、あの2週間、それはとてもとても楽しそうでした(^・^)
(思い出したら、涙が出てきました)

と言う事で、今頃、天国から「ほら〜〜あの子はやっと今頃気が付いたバイ」と3人で笑っているような、あっ祖父も一緒に4人で笑っているような気がします。

取りとめもないコメントになってしまいました・・
では<(_ _)>(^・^)
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年08月30日 11時25分45秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

尾州宮とは「尾州の宮」と言う事ですね。

広重の行書版の版画を拝見しました。

熱田浜鳥居。

熱田神宮ですね。(まず、尾州とはどこ?から始まったので頭の中にピンと来ませんでした(@_@。)

でも、何故尾州の宮で亡くなったのか・・?

頂いたご教示をもとに調べてみます。

本当にありがとうございました。
[38]子孫よりさんからのコメント(2014年08月30日 14時22分39秒 ) パスワード

皆様、今日は。
昨日のコメントに関して、間違っていた所がありますので、お詫びして訂正致します。
平河の系図ですが、名前の記載順が間違っていました。
すみませんでした。<(_ _)>

平河将親(春渓宗心) → 犬童五兵衛・・・
ではありません。
犬童彦右エ門高政の長男が犬童五兵衛。平河将親(春渓宗心)は二男でした。
ふたりの間には長女もいます。

訂正します。

師親 → 源兵衛入道 → 弥三郎 → 平河弥兵衛頼秀(菱刈大口にて戦死) → 平河飛騨守頼重 → 平河弥兵衛長金 → 平河源兵衛頼重 → 犬童彦右エ門高政( 元禄十一 十一月十三日死 法名 康宅永安) →犬童五兵衛(早世尾州宮ニテ死 法名 空岩良智) → 女 将親姉 (久保山金右エ門養女) → 平河将親( 平河彦右エ門実高政二男享保二年二月二日死六十才法名 春渓宗心)

となります。
二男の平河将親が享保2年に60歳で亡くなっているので、「犬童五兵衛」この方が亡くなったのは享保ではなく 寛永〜 正徳の間くらいなのかな?と推測しました。

そして、上記にも記述しましたが
犬童彦右エ門高政とは平河彦右エ門実高政となるようです。

犬童五兵衛(早世尾州宮ニテ死 法名 空岩良智)
亡くなったのはおそらく「寛永〜 正徳の間くらい」。

ところで・・・
犬童彦右エ門高政の命日 11月13日は、平河の曾祖母の命日で、なお且つ、11月13日は私の息子の誕生日でもあります。

ちなみに曾祖父の命日は5月19日。なお且つ5月19日は私の娘の誕生日です。
何だか、不思議な感じがします。(-_-)
(脱線いたしました<(_ _)>)

では<(_ _)>(^・^)
[39]白石さんからのコメント(2014年08月31日 10時57分32秒 ) パスワード

こんにちは
伊雑宮と白鳥の稲で検索をかけてみました。
過去に 「伊雑宮のアマテラスの稲は斉のくにからもたらされた」
という 話を本で見たことがあったのです。

伊雑宮の御田に関係する地域 - わらじ祭り公式ホームページ
伊雑宮では、玉柱屋比売命、安乗神社、波切神社、立石神社では國狭槌神。船越神社 では豊受大神。 .... ★伊雑宮の縁起に白鳥が1つの稲穂を運んできたことが始まりとされて いるのは農作業を告げる白鷺が舞い降りたという事になります。
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この伊雑宮は 
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の★瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。

後世先代旧事本紀の舞台となったところで、この本については 国もさすがにこの本の重要性に気づき、昭和60年国の重用文化財に指定された。


[40]白石さんからのコメント(2014年08月31日 12時17分04秒 ) パスワード

この本 先代旧事本紀 大成経佐々木本は広く流布されているというが
ともかく 白川家が持っておられると これも 本で読みました。

白川家 (北白川家)
家康は 額田あたりでうまれた。
渡会のあたりと 本で見ましたが・・・地理的なことはちょっと・・・
その母(水野に嫁した人)については 先日表題にありました。

家康がまつられたのは 東照宮。
尾州宮をさがすと北陸東照宮がでます。
これがやっかいで 今日探しても出てきません。
どうやってでたのかも・・・そして コメントを書いていると どこかへ飛んで行ってしまうのです。

それで 昨日 コピーにとっておいたのを 書きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006年9月5日
では彰義隊は誰を護っていたのかというと、東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奪われないようにお守りしていたのです。もともとこの輪王寺宮とは、徳川家康が江戸開府の際に新たに設けたもので、代々の門跡は京都から親王を招きいれ、西南諸藩が京都を落とし、江戸に攻めた時、自ら官軍として錦旗を挙げるためのものでした。(後の皇国史観では「人質」とされてしまいますが。)
・・・・・
後日、東京湾に停泊中の榎本武揚艦隊と合流した輪王寺宮様は、その後仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主として迎えられました。その御座所は今も仙台市宮町の東照宮に残っています。
・・・・・・・・・・
その後、輪王寺宮が東武皇帝として践祚したという話もありますが、その事実についてはわかっていません。

・・・・・・・・・・・・
後日、謹慎を解かれた輪王寺宮様は、北白川宮家の当主として、若き明治天皇のお側で維新回天の一翼を担います。
猿田彦神の子孫の大田命が現はれ、五十鈴川の川上の吉い場所を教へたのである。この大田命こそが、興玉命と呼ばれ、埼玉県のいくつかの千方神社にまつられる神であり、前出の千勝神社にまつられる猿田彦の孫とされる神である。また、倭姫命を五十鈴川の川上に御案内して、皇大神宮の鎮座の地を定めた神でもある
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奥羽越列藩同盟については 前に書いたと思っておりますが・・・ウィキにもあります。大河ドラマで山本八重が出ましたが、わたくしは 母の実父の山本からこういう話にたどりつきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
瀧原宮から 平忠度などが 関与して出てきて
忠度は原高成に関与していたのではなかったか ・・・ と 思っていますが・・



[41]白石さんからのコメント(2014年08月31日 21時57分31秒 ) パスワード

の系族 祖父渡辺監物儀三州田原之城主戸田三郎右衛門間院一信組問 ...
(Adobe PDF)


koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/.../download.php?file_id...

戸田氏系図に始祖宗光明応の始営ニ参州岡原城→(略)、戸田村太平寺の古位牌に特 宕全久大禅. 定門」とある ... 戸田村は、「朝野群載、康和五年二月、大膳少進★平秀政が 当同官同庄司に補せられし事見ゆ、宮田即此也」(地名辞書)とある所で、. 中島郡の ...

こんなのもありました。
戸田という苗字は 球磨村などにありました。
背が高く 面長な人でした。
岡原のことば 宮田 などのことば など 故郷と重なる言葉がみられます。

ウィキより
もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属し て多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。

戸田氏とは -辞書(コトバンク)
近世大名。★正親町三条(おおぎまちさんじよう)家の支流ともいわれ,★中世三河国の大族,戸田宗光より出る。宗光嫡流の康長は徳川家康から松平姓を賜り,所々に封じられて最後は★信濃国松本城主となる(7万石)。その子の康直は播磨国明石城...-世界大百科事典 第2版

この松本城主から 松本藩士戸田家家臣に 笹井がいる。
笹井には 信州篠ノ井に戦敗し、五朗六朗兄弟作州に走る
とある。




[42]子孫よりさんからのコメント(2014年09月01日 01時18分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、沢山のご教示ありがとうございます。

尾州宮にまつわるお話大変興味が湧きます。

戸田氏。「三河国渥美郡」現在の愛知県ですね。今後の手掛かりになるのではと思います。 お調べいただいて本当にありがとうございます。

実は、娘と萩に行って参りまして、帰宅が遅くなりました。

白石様のご教示を参考に明日は精力的に調査致します。

では<(_ _)>(^・^)
[43]子孫よりさんからのコメント(2014年09月03日 01時29分14秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

コメントが出来なかった理由は・・
書籍も読んだのですが、今の所、まだ、手掛かりが掴めていませんでした(-_-)
今後も調査は続行致します<(_ _)>

そこで、もう一度色々考えてみました。

そして、結局、大きな流れがやはり理解出来ていないからだと・・・

現在、手掛かりとなるのは、争論に使用された訴状の内容および、関係者の名・法名などです。

そこで、フト気が付いたのですが、何故、北条重時は「平河」を名乗ったのか?
もちろん甥である平河師里との関係も重要ではありますが、何か、それだけではないような気がしたのです。

北条重時の法名は「観覚」。(争論に使用された訴状内容に同名の法名あり)
北条泰時の母が「阿波局」。北条泰時の法名は「観阿」(争論に使用された訴状内容に同名の法名あり)
北条泰時の娘婿が「徳大寺実春」


では二人の父北条義時は?
子供の泰時、朝時、重時 この方々は全て平河の争論に関係していました。

では北条義時の父「北条時政」は?
父:北条時方、または時兼
母:伊豆掾伴為房の娘

母は伊豆掾 伴為房の娘。

「伴氏」・・・高皇産霊尊裔

藤原師高は斎部氏・阿波忌部氏・・・阿波/安房の斎部氏は神皇産霊尊裔
しかし斎部氏も嫡流は高皇産霊尊裔

先日、日本の苗字七千傑様にご教示頂いていました。

北条泰時の母が「阿波局」。
阿波局については出自不詳とはありますが、「阿波局」を名乗った方々の中に
「徳大寺実定」の娘「高倉院女房阿波局号待宵小侍従。母石清水社法印光清女」
とありました。しかし、こちらの方は1200年には推定80歳との事ですから、北条泰時(1183年生まれ)では、かなり無理があるのかと・・

ただ、徳大寺実定の娘であり、なお且つ「阿波」という事が、何かとても気になります。

この流れから後世(江戸時代)までの繋がりは、かなり遠いように感じますが、ただ、ひとつ気が付いた事がありました。

北条泰時の正室であった矢部禅尼。

この方と佐原盛連が再嫁して生まれた方が「佐原時連」法名「観蓮」。(争論に使用された訴状内容に同名の法名あり)

佐原時連の異父姉弟になる、北条康時の「娘」は「足利義氏」の室となり足利泰氏を産んでいます。

ここから、先の系図に伴う様々な記述を読んでみました。最終的に足利尊氏と足利直冬との確執までを少しですが理解する事が出来ました。

足利直冬の正室は少弐頼尚の娘なのですね・・・

何かがずっと繋がっているような気がしました・・・(いつもの感ですが・・)

一つの事に拘らず、まず、全体を理解する事を心がけながら、検証したいと思います。

では<(_ _)>(^・^)
[44]白石さんからのコメント(2014年09月03日 03時24分06秒 ) パスワード

おはようございます。
蘭陵王を
テレビで見ています。三島由紀夫も軽く触れていたようですね。

高句麗がほろんで後、渤海の遺民が建てた国で 北魏・北斉があるがその北斉の王子?余りにも美しい?(優しいを顔立ち)の故 鬼の仮面をつけて戦ったという人。

これはドラマではあると思うけど
免田あたりに中国南北朝頃の遺跡があり 興味深く見ています。

才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 - 民族学伝承ひろいあげ辞典 ...
才園古墳の築造年代、および出土している装飾品から見て、九州南部(緑川以南)は 早くから中国南部と百済との長江文明共同体に参画 ... 古代政治は建前上北朝に朝貢 しながらも、実質貿易は南朝からの恩恵を大きく受けていたのである。

南北朝時代 (中国) - Wikipedia
中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から 始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を 指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。

北朝-北魏-北斉-北周


魏晋南北朝時代 - Wikipedia

魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の 乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、中国に王朝が割拠していた時期を表す( 184年-589年)。なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応
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この 北斉の人・高長恭という人。高歓は渤の人で、北義・北斉をたてるけど、高歓は 神武帝といい 他の子孫も 孝明 孝昭など の 帝号を持つ。我が国の天皇の漢風諮号は古代の人の名からとられているといい、3人も欠史8代のうちにとられているのはおもしろい。

奈良時代 渤海の使者・うすぼつが来て、自分とこの王と我が国の天皇家は本枝の間柄だったといい、日本の方もそうだといっている。
話は 高氏が ハンサムの家系だったようだ ということだけど、彼らの国と日本の天皇家の祖先が同じだったということ。

良峯氏も 天皇家の枝分かれ。父方なら 高姓のはずですよね 。平河・・・?



[45]白石さんからのコメント(2014年09月03日 03時46分44秒 ) パスワード

伊予国に高忍日賣大神社があります。全国で唯一この神を祭り産婆・乳母のかみとして崇敬される。
主祭神(たかおしひめのおてんおかみ)
配祀天忍男命(あめのおしおのみこと)
天忍女命(あめのおしひめのみこと)
天忍人命(あめのおしひとのみこと)
祭神は 神武天皇の父・うがやふきあえずのみこと の 出産を助けた伝説を持つ。

天忍日命
記紀』には出自が記載されていないが、『古語拾遺』や大伴氏の系図などでは、天忍日 命(アメノオシヒ)は高皇産霊尊(タカミムスビ)の子とされている。神武東征の際に ... 三重県伊勢市の上社では、天忍漁人命(あめのおしあまのみこと)として天忍日命を祀る 。

津守氏・尾張氏・海部氏・伊福部氏・掃部氏 - nifty

天火明命の曾孫、天忍人命から出たのが尾張氏で、天忍男命から出たのが住吉神を奉 斎する津守氏である。 ...... 系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に 、天前玉命(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命( .

高皇産霊尊・・・天火明命・・・..天忍人命から出たのが尾張氏
なんだか もやもやしてはいるけど 平河は高皇産霊尊に行きつく?

藤原遠祖という津速魂巣日命という人には  神魂巣日命の女子かきょうだいが嫁いでいるということを本で見たことがあります。
 

[46]子孫よりさんからのコメント(2014年09月03日 08時01分23秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年09月03日 08時07分46秒
[47]子孫よりさんからのコメント(2014年09月03日 08時07分10秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様ご教示ありがとうございます。

白石様より免田の才園古墳について伺い、私も、とても興味が湧きまして、ネットの情報を見てみました。

まず、こちらのサイトをご覧ください

熊本県あさぎり町才園古墳出土馬具の組み合わせと装着想定図について
http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/mugiamnews/No25-11kenkyu.pdf

馬具セット 装着想定図を見て、驚きました。
これだけの装備をした馬が、古代の球磨の地を走っていたのか!と想像すると、もう、胸がドキドキワクワクしました。
記述の中に
「長年の間、遺物の実測図などがまとめられる機会もなかったが、馬具の研究者である宮代栄一氏により鏡や武器・装身具なども含めた全点実測が行われた。
その成果が1999年刊行の『人類史研究』(註1)に掲載され、研究は大いに進展した。
特に馬具は轡だけでも計8セット以上が副葬されていることが明らかとなり、これは1つの石室から出土したセット数としては、長野県本郷大塚古墳出土例などと並んで全国でも最多クラスを誇る。」

馬具のカラー写真を見つけました。今でも黄金色に輝いています。
PDF]
28ページ - 熊本市ホームページ を検索してダウンロードすると見て頂けます。(^・^)

あの・・・
つくづく思うのですが、このような古墳であるにも係わらず、球磨の人は全国にあまりアピールすることもなく、「知っている人は知っている」というような・・ これだけの古墳を全国的に観光アピールする事もないというのは、かえって不思議な感じです。まるで、「そっとしておこう」というような・・

熊本市立博物館に出土品は保存されているようですが、せめて、レプリカを作成して、古墳のそばに展示場を設けたらどうなのかな?と勝手な事まで考えました。(-_-)

才園古墳出土 鍍金鏡 「リュウ金獣帯鏡」
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm

文字の意味は何と書いてあるのでしょうか?

外側の文字: 「 吾 作 明 竟 幽 凍 三 商 彫 刻 無 極 □ 大 吉 羊 宜 侯 王 家 富 昌 師 百 □ 楽 衆 神 見 容 命 長 」

12この四角いレリーフ部分の文字 :  「 吾 作 明 竟 幽 凍 三 商 彫 刻 無 亟 」

これを訳していないというのも、何だか不思議です・・?

それから・・・

才園古墳について、大変興味が湧くコメントが書かれているブログを見つけました。

才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html

(・_・)すごく興味のある事が書かれているので、勝手ながらピックアップして転記させて頂きます<(_ _)>

※鎏金神獣鏡(りゅうきん・しんじゅうきょう)は日本に三枚しか出ていない貴重品と書かれています。

この鏡は中国南朝の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
南朝は、百済とのえにしが非常に深く、人吉から宮崎南部あたりまでの氏族が、百済を通じて、あるいは直接、長江河口の南朝と交流したあかしと考えてさしつかえない。
森浩一はこれを熊襲と南朝の交流と見ている。
鏡の内区には12、外区に32の銘文があり、「この鏡を持てば諸侯に抜擢される」と、極めて珍しい内容の呪文が刻まれている。

※ あっ!!あの文字は「呪文」だったのですね\(◎o◎)/!

才園古墳の築造年代、および出土している装飾品から見て、九州南部(緑川以南)は早くから中国南部と百済との長江文明共同体に参画し、倭五王や大和が一目置かねばならぬ存在であったのだろう。ゆえに『日本書紀』は熊襲を数度にわたって(4世紀?のヤマトタケル・景行天皇の遠征記事)うちのめす。
これらは継体大王以降の大和朝廷の仕事ではなく、その前の倭五王・河内王朝の事跡であったと考えてよい。河内王朝と大和朝廷には断絶がある。

すなわち三王朝交代説が言うところの古志、近江豪族だった継体大王は河内王朝を「滅ぼし」(大和になかなか入れない。大和に入り即位すると、倭五王宰相の大伴氏が二つの神器を奉る記事から推定可能)大和に新しい連合体を形成。河内王朝が古く九州南部を平定し(熊襲征伐)、百済と南朝との深いつながりを形成していたその交易ルートを簒奪した。いわゆる乗っ取りである。ゆえに大伴氏と物部氏が継体を擁立したという記事は虚偽であり、それはもともと海部を通じて九州南部、太平洋側を牛耳っていた尾張氏の協力だったことが正しいだろう。

(・_・)球磨(熊襲)と尾張氏は古代から繋がっていたと言う事ですね。

ゆえに『日本書紀』は河内王朝応神の前に、あえて景行天皇とヤマトタケルの熊襲征伐を挿入し、河内王朝の南朝とのえにしを消し去ったと同時に、大和王朝が河内王朝を簒奪した事実を隠蔽するために両者につながりがあるように系譜を改ざん。継体が担ぎ出される記事は、北朝に対するごまかしである。古代政治は建前上北朝に朝貢しながらも、実質貿易は南朝からの恩恵を大きく受けていたのである。つまり優柔不断な大和朝廷の両面交易がすべての謎を解くのである。しかしこれはのちのちまでに日本に内戦を引き起こすことになる。●

考えられることは、熊襲を狗奴国=尾張氏と海部による太平洋共同体の貿易玄関と把握すれば、南朝=百済=狗奴国の三者連合が3世紀から存在したものを、北部九州から近畿までの連合体が「河内王朝と狗奴国」を抱き込み簒奪したものが大和朝廷であるとしてよい。
太平洋連合と瀬戸内連合と言い換えてもよかろう。
日本海古志連合はこの両者によって、日本海の潟湖交流の良港を奪うために翻弄された。それが出雲神話の正体であろう。

(・_・)熊襲を狗奴国=尾張氏と海部による太平洋共同体の貿易玄関と把握すれば・・

九州の磐井はいわゆる多氏・・・神八井耳血脈の九州南部長江人血脈と考えられよう。

才園古墳出土装飾品をつぶさに見ると、百済系耳飾、倭人系耳飾が同居している。九州南部が南朝交流の港であった証拠は、空海の遣唐船が宇土港に帰還したこと、室町時代の明貿易の出港地が宮崎の串間港だったことなどがあげられる。

私にはよく解りませんが、様々な説がある事は理解出来ます。

(・_・)実は、以前、「久米氏」についてを語り合おうというような○チャンの情報に悲しくなるようなコメントがあったのを読みました。
「久米氏の拠点が球磨?海から遠いあんな山の中に・・ナイナイ」
というような言葉が書かれていました。

でも、「平川家について12」コメント67で書かせて頂いたように
「太宰府圈の歌: 万葉の国筑紫」という書籍に、
それから球磨川の岸ぞひの長い谷を経て球磨地方の中心部に入る。古代も今もこ の峡谷づたひに球磨に入る交通路に変りはない」として政治上文化上極めて重要な地域球磨に到る港として佐敷は極めて重要な土地だったとする。而して現在の佐敷太郎を ...か、或は筑前守筑後守などに任ぜられて赴任せしをいふか。」

とあり、「佐敷の港から球磨へ繋ぐ交通路」という内容を理解しました。

日本の苗字七千傑様からのご教示にも
「芦北郡佐敷は、恐らく沖縄の麻部族である佐敷氏が来着した地点と思われます。」
というお言葉があり、古代の球磨は大陸や沖縄との海を利用した交流があった事が解りました。

「球磨が古代より尾張と関係を結んできたのでは?」という説を読んで、すごく胸がスキッとした感じです。

先祖の調査が古代日本の構図にも膨らんできて、本当にワクワクしてきました。

昨晩のコメントに話を戻しますが・・
北条時政は・・
北条氏 (阿蘇流) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F_ (%E9%98%BF%E8%98%87%E6%B5%81)

阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一門。鎌倉幕府4代執権・北条経時、5代執権・北条時頼の同母弟である北条時定(北条為時)を祖とする。
北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職を時定が継承し、苗字を阿蘇と呼ばれる。元寇にあたり、肥前国の守護となった時定が現地に下向して以降、九州に土着した。

※北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥後国阿蘇社領の預所・地頭両職
こちらの記述を以前読んだ時は、単純に、「北条時政が源頼朝より所領を受けただけ」くらいの感覚でしかなかったのですが・・・

この事にも、本当は重要な意味があるのでは?と考えるようになりました。

ちなみに・・
北条時定(北条為時)の父は「北条時氏」
この方は、昨日コメントした「矢部禅尼」が母。
父:北条泰時、母:三浦義村の娘・矢部禅尼

平河を調べていて、最初に「北条」が出てきた時には「何故?」と思っていましたが、全体を少しずつ理解出来るようになって、本当に単純な話ではないのだな〜と、やっと私でも解る様になってきました。

昨日のコメント最後に書いた
「佐原時連の異父姉弟になる、北条康時の「娘」は「足利義氏」の室となり足利泰氏を産んでいます。
ここから、先の系図に伴う様々な記述を読んでみました。最終的に足利尊氏と足利直冬との確執までを少しですが理解する事が出来ました。
足利直冬の正室は少弐頼尚の娘なのですね・・・」

そう言えば少弐頼尚も「平河」を名乗っていたのでした。(山田城を拠点としていた事は理解しています)

古代から〜当時・・この事をもっと知りたい気持ちでいっぱいです。

長くなりましてすみませんでした。
では<(_ _)>(^・^)
[48]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月03日 13時19分51秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>北条時政は・・
 
建前上は、
伊豆北条氏は、桓武平氏維将流、家紋は三鱗。
伊予北条氏は、越智姓、家紋は折敷に三文字。
源氏を介して両氏は親戚。
真実は同族なのでは?
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
 
三鱗の由来は、時政が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むという。
しかし、これは疑わしい。
 
伊予北条氏の末裔の正岡氏は、何と三鱗なのである。
伊予北条氏の家紋は、実は三鱗で大山祇神社の折敷に三文字に替えたのではなかろうか。
また緒方氏と言えば大蛇伝説、大神姓緒方氏の家紋も三鱗なので、この方面も検討すべき。
 
 
尾張と肥後の関係も、尾張氏と多氏、阿蘇氏が瓊瓊杵尊を同祖とするからなのである。
何の関係も無い多氏一族が、肥後から尾張に移動するわけもないからね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm#001


[49]子孫よりさんからのコメント(2014年09月03日 15時34分04秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

伊豆北条氏と伊予北条氏そして大神姓緒方氏の関係。
本当に興味が湧いてきました。

大蛇伝説が北条氏にもあったとは、本当に驚きました。

人吉青井阿蘇神社を創建したのは「大神惟基」

何か大きな流れが存在しているような気がします。

現代においても祖母の実家「平川」の縁戚関係が、神社の神官である「尾形家」とそして、祖母の従兄妹である「赤星家」と、日本の苗字七千傑様の本日のご教示にあった一族の関係が、そのまま、現代に到っているかのようです。

やはり、古代の日本と強く関わっているのでは?と痛感致しました。

ところで・・・お話は変わるのですが

実は、先日、電話で話をしていた時に、父が
「お父さんは、球磨の山で、市房山・白髪岳が御信仰の対象となっているのは解っているけど、黒原山も本当は、何か、凄い力を持っているような、何かの役割を持った山ではないのか?とおもっとるとよ」
と言いました。
父いわく
「晴れた日に、黒原山の頂上までが綺麗に見えていると、とても心が安らいで、曇りの無いすっきりとした気持ちになる。でも、同じ晴れの日でも、PM2.5の影響で山がかすんでいる時は、外を見なくても、すぐに解るくらい、気持ちがすっきりとしない」と言うのです。

さらに父は、「黒原山の直線上には何かあると思う」と言うのです。

そこで、私は、早速今日、Google Earthを使って定規機能で確認しました。

上手に引けなかったのです。斜度0.17という所で手が離れてしまいました(@_@。

でも、そこは・・・
九州の先端、関門海峡付近でした。
何だか面白かったので、ブログに画像をアップしました。

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11919388592.html

あまり、意味は無いのかもしれませんが、黒原山の位置は、九州の先端?から完全な直線上にあったと言う事は解りました。(^○^)

では<(_ _)>(^・^)
[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月03日 20時13分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>黒原山も本当は、何か、凄い力を持っているような、何かの役割を持った山ではないのか?
 
 
以前にも回答していますが、黒はアイヌ系黒目(久米)族、漁撈族。
隈国は九州最大のアイヌ部族の根拠地だったから、部族守護山なのでしょう。
[51]子孫よりさんからのコメント(2014年09月03日 21時23分18秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

そうでした、黒はアイヌ系黒目(久米)族。

黒原山は部族守護山であったと言う事ですね。

黒目(久米)族の守護山・・・
この黒原山の麓が、久米郷となっているわけですね。

以前、伺った時と今では、理解度は全く違います(-_-)(本当かな?と言う声が・・)

父にもしっかりと伺ったご教示を伝えたいと思います。

ご教示本当にありがとうございました。
[52]白石さんからのコメント(2014年09月03日 22時50分37秒 ) パスワード

こんばんは
黒原は黒岩でもあるというのを見つけました。
武家家伝黒原氏で検索→人名力:2011年04月 - ライブドアブログ - Livedoor
富山県富山市八尾町今町にある浄土真宗の聞名寺の僧侶による明治新姓。 キリノエ 桐野江キリハ ..... 久富木と藺牟田の合成という家伝がある。創賜。鹿児島県いちき ...... ★B高知県高岡郡佐川町黒原(旧:黒岩)発祥。C高知県安芸市土居に ...


武家家伝黒岩氏を検索
武家家伝_草刈氏
初代の基近は足利家氏に従って陸奥に下向し、★斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その 地名をとって草刈氏を名乗ったのが始まりとされ ..... 草刈氏の系譜は★『萩藩諸家系譜』『 近世防長諸家系図総覧』などにあり、その一族には★白石・★黒岩★・中村・川端の諸氏が出 て ...

前から白石・中村・など 周りにいることかいていましたが、斯波は 溝口から出ていました。溝口の人が白石によくしてくれており、平川のすぐ坂下に家がありました。

高知県高岡郡は 高岡親王(高岳親王)の塔があるところ。

黒色
高岡が 秦恵文王に関与するとき
テレビから得た知識ですが、秦は 黒旗を使う。
秦の言葉は 聞きやすく はい という返事など 今の言葉と同じ。
宮中の儀式の時の言葉は 新羅のものだといわれ、辰韓系から新羅へ。






[53]白石さんからのコメント(2014年09月03日 23時16分52秒 ) パスワード

土佐の黒岩・一圓氏ということで 樹童氏からの答えのブログがあります。

質問者の方では 藤原伊周 平教経など
当家の系図には、門脇中納言平教経(黒岩系図では門脇中納言行平)以下士兵21人の名が有り、正治元年に三浦城主義澄と戦い、破れて安芸之太郎(東之太郎)安芸之次郎(西之次郎)と共に安芸に落ち延びてきたと記されています。黒岩治部もその中に名前が有ります。

当家系図では、黒岩は先祖は藤原鎌足で時の孝徳天皇に賜冠(大錦冠?)、のち紫冠を賜り、さらに天智天皇の名代、弟天武天皇勅使に大織冠賜り、この時姓氏を賜ったと記述されています。黒岩姓は埼玉県越生町黒岩に代々住んだ藤原伊周の子孫が名乗ったものだとおもわれます

というものです。
伊周など 興味深いと思います。
[54]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月03日 23時31分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>(本当かな?と言う声が・・)
 
「天孫民族六千年史の研究」を読まれることをお勧め。
久米部とはクメール族のこと。
久米直は、久米部を率いたリーダー(天津久米命の子孫)。
大化の改新を期に、多くの部民の久米部も部が取れて単に久米となる。
久米の地名は、全国的に分布。
クメールは現カンボジア(国民の90%はクメール族)のこと。
シュメールから渡海してきた天孫族に途中から伴って列島へ北上して来たわけ。
アイヌも時代とともに更に北上して、北方民族(ツングース系など)との混血も進み原クメール人と人種が異なるので注意。
[55]子孫よりさんからのコメント(2014年09月04日 08時50分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

まず・・・
日本の苗字七千傑様、御察しの通り・・・・
私、マダマダ全く解っていませんでした(@_@。

「クメールは現カンボジア(国民の90%はクメール族)のこと。」
「シュメールから渡海してきた天孫族に途中から伴って列島へ北上して来た」

思わず「すごい!!おもしろい!!」と声を出してしまいました。

「天孫民族六千年史の研究」ぜひ読んでみたいです(様々な事情で中々手に入らないと聞きましたが、ぜひ探してみたいと思います)

三島敦雄という方は、何をきっかけにこのような事実にきがついたのか?とても興味があります。

研究を行おう!と思われた最初のきっかけですね。
それとも、もしかしたら、子供の頃から、言い伝えのような事を聞いてこられたのでしょうか。

でも・・・
私は、数年前に、全く何も知識をもっていない状態で、「ペトログラフ」の存在を偶然知って、気になって仕方なくなりました。
きっと、同じような方は日本中に沢山いらっしゃると思うのです。
これこそが、記憶のDNAなのかな?とふと感じています。

混血がすすみ、人種も多種多様に変わって、現代の日本人となったのですね。

話題は異なりますが、以前、私は、よく中国の映画で出てくるような、集団で走る騎馬軍団のような光景をみるとワクワクするとお伝えしたかと思いますが、もう一つ、とてもワクワクドキドキする光景は、船団です。

海原を数え切れない船が進む姿は、ドキドキを超えて大興奮いたします。
宗像大社の「みあれ祭」は、映像を見ているだけでドキドキします。
http://www.geocities.jp/town_munakata/jinjyabukkaku/miaresai.html

毎年、行く機会が取れなかったので、今年こそは、ぜひ、生の迫力を見に行きたいと思っています。

白石様、ご教示ありがとうございます。

黒原・黒岩氏。
藤原伊周の子孫が黒岩を名乗る。

大神惟基の母は藤原伊周の娘であったという説もありました。
私も、すごく興味が湧きました(^・^)

「黒」と言えば・・
小倉には、「黒原」その隣が「黒住」という地名があります。
黒原と黒住そして両方の地区にまたがるような隣の地区が「足原」です。
足原は、昔、この地に葦が沢山生えていたからと聞いた事がありました。以前は葦原と呼ばれていたようです。
ちなみに足原と黒原にまたがるような隣の地区は「熊本」です。

ここに越して来た時に「何だか、懐かしくなるような地名があるな〜」と感じた事を思い出しました。

日本全国、コレマタ同じような地名が沢山存在するのでしょうね。

しかし・・・
こう言うお話が、一番興味をそそられます。
父の、「新しい時代?の事はいいから、古代を・・」という気持ちについて、実は私、本当はず〜〜っと前から「共感」していました・・(__)(バレテいたかな?)

でも(ー_ー)!!父の言う「新しい時代」についても、今は重要な局面?に入っていますので、しっかり調査いたします(-_-)

では<(_ _)>(^・^)
[56]白石さんからのコメント(2014年09月05日 01時54分54秒 ) パスワード

おはようございます。
黒住氏
岡山の今村宮の宮司が笹井で、神主に黒住氏。孝明天皇にアマテラスの神道を御進講した。宮では何をするのかというと 朝日を拝むだけと・・・本で見ました。
宮は今は人が変わっているかもしれません。
この黒住氏は京都綾部の人というけど、出所はここ。
[57]白石さんからのコメント(2014年09月05日 02時54分08秒 ) パスワード

例のうすぼつの奈良時代のことですが
蘭陵王と 関与している 人に 同じ人物で「天女・楊氏・鄭氏と言われる人」がいる。
皇太后の養女の資格を持つのでどれかは皇太后の氏ではなかろうか?と思うが・・

鄭 (姓) - Wikipedia
鄭 (姓
鄭は、周王室と同じ姫姓の国で、紀元前806年に周の・王の末子である姫友(桓公)が 鄭の地(現在の陝西省華県)に封じられたのが起こりである。桓公の跡を継いだ武公は、 周の東遷後の平王の治世を支え、洛陽に近い新鄭(河南省新鄭市)に国を移した。

また 同じく蘭陵王のまわりに 馮氏がいる。
北魏馮太后などの馮氏。
馮氏
馮氏は、戦国韓の上党郡太守だった馮亭から始まる。 秦は上党郡を攻め孤立させたが 、馮亭はそのまま趙へ降った。 趙は馮亭を華陽君とし、秦軍の侵攻を防がせた。 しかし 馮亭は長平の戦いで戦死し、一族はばらばらとなった。 秦に入った馮氏では、馮無択( ...

煬帝 - Wikipedia
煬帝
後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると 晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として 活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と ...

天女と言われた人も 楊氏。この後 聖徳太子から 日没するところの天子と書かれ烈火のごとく怒った という 煬帝は このあとすぐの人でこの人も絶世のハンサムと言われた。日本では奈良時代で 

後漢王室子孫という 坂上一族が七姓の漢人を連れてやってきたという頃から少し時代が下がったころ。

日本書紀ができるころより前。

この手紙にある名から 倭の五王という言葉がありますが 松野氏系図(呉)にその名がありましたね。
太田氏は 尾張氏についても この五王について 書いていたように思います。
また ひのもと大将軍ということで  東日流外三郡誌 安東氏 など 関与しています。

周の始まりの頃 姫川のほとりに住んだから 姫姓にした という話があるけど 古い 昔の字で書かれた 辞典では
初め ながくき姓の人と通婚していて 武帝に至って 姫姓に変えた と 書いてありました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鄭氏の画像というのを 見ました。
やはり 俳優さんのような顔ですね。
知らなかったわー と 思うことに ラーマ一世 なども 鄭氏でした。
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朱印船
安南 当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権である。東京( トンキン)ともいう。 交趾 当時実質的に中部ベトナム ... 暹羅 タイのアユタヤ王朝である。 アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。

山田がでるからといって 球磨の山田と即 つながるというわけではありませんが。。。
ーーーーーーーーーー
鄭氏は古くに起こり これと切り離して考えても

天女という言葉からは 
インド阿育王(紀元前三世紀頃)と 蒙女(天女と呼ばれた)との間の子から東アジアの国々の王は すべからく この人の子孫なのだという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
平安時代だったかの 日本書紀についての問答で 天皇家がき姓であるのはなぜか? という問答があったと 本で見ました。

子孫さま
かなり ランダムで申し訳ないですが 大方の日本人は 蒙古斑点を我々は持っている と いう ひとくくりになる 何か が 根底に流れているように 思います。








[58]子孫よりさんからのコメント(2014年09月05日 13時12分25秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

実は、昨日、出かけた後から、全身に異常?が出まして、コメント出来ませんでした。

ご教示の内容を読ませて頂いて、まだ、自分なりに理解出来るように勉強の段階までは進んでいません。
今日は、体調もすっかり良くなってきましたので、これから、じっくりと勉強させて頂きます。

そこで・・いったい昨日何があったのか?と言いますと・・

小雨混じりの天気も回復し、昨日はM田さんと一緒に買い物に出かける事になりまして、お肉がとても安い、工場直送のお店に行く予定だったのですが・・

M田さんが「晴れてきたことだし、少しドライブしましょう」と・・
そこで、向かったのが門司だったのですが、M田さんの気分から、街を通り過ぎ、普段は行った事の無い「白野江」という方向に車を進めていました。

「白野江」を過ぎた所で「部崎灯台」の観光看板を目にして、初めての場所なので、「行ってみようか・・」と言う事になりまして・・

小倉に住んでいながら、こちらの方に来たのは本当に初めてで、すぐに海岸線が出てまいりました。
「ここは周防灘になるのかな?」と思いながら、北九州の景色とは思えない、殆ど開発されていない漁港の景色なども楽しみながら進んで行きました。

とても素敵なビュースポットがあったので、車を降りて、海を眺めていた所・・
(マタマタ(ー_ー)!!と思われると思いますが・・一応(@_@。)

急にズズ〜ンと、何だか解らない「方?」が私におんぶされて来られたのです。
(おんぶという表現もおかしいですけど、しっかりと背中に乗っている?)

私は「あれっ?こっこれは・・・」と、内心「どうしよう(・_・)」と思いながらも、M田さんに言う訳にもいかず・・

そのまま、車に乗り込み(顔では笑って平然をよそおいながら、心では「どなた??」と思いつつ・・)、先に進んで行きました。

海沿いの道の大きなカーブを曲がる寸前に背中の「どなたか?」はす〜っと離れて行かれたのですが・・

そして・・
その大きなカーブを曲がってすぐに目の前に大きな文字が見えてきました。
「皇産霊神社」

私は一瞬目を疑ったのですが明らかに「皇産霊神社」と。

びっくりして、M田さんに車を止めてもらいました。
皇産霊神社
http://www.mimusubi-jinja.com/

神社の由来を読んで、境内に入り、お参りをさせて頂きました。
http://kazenoyadori.seesaa.net/article/299410191.html

河童様も神社の前にお祀りされていらっしゃいました。

あの・・・ここで
誓いますが、私は、決してネットとかで情報を見て、こちらに伺った訳ではありません。本当に偶然です。
部崎灯台に行こうとM田さんの思いつきで、進んだ結果が、皇産霊神社への参拝に繋がったと言う事です。

でも、本当にM田さんは、いつもいつも私を「何処か?」へ連れて行ってくれる人です。(以前もコメントしたと思いますが・・)

その後、部崎灯台(小高い丘の上で私はヒールのサンダルだったので、登るのは断念しました)のすぐ下、海に降りれる場所があり、そこから雄大な海を眺めました。
すると、水平線のあたりにとても小さくしかし、はっきりと山の連なりが見えました。
あそこは何処?と早速スマホの位置情報で確認した所・・
なんと「四国」でした!!

生まれて初めて四国を目にしました。(残念ながら行った事はありません)
門司から四国が見えるとは・・本当にびっくりしました。
(帰宅してネットで調べた所、天候の状態などで、すごく運がよければ見えますと書いてありました)
やっぱり「四国」だったのです。

ほんとうに嬉しかったです。

さて・・・その後の私ですが
帰宅するとものすごい筋肉痛になりまして・・
特に「太もも」と「背中」が半端ない、まるで、何か大きなバーベルを持ち上げたかのような(持った事はないですが(-_-))

座ったり立ちあがったりするのに「いたたたた〜っ痛い(@_@。」となりました。
お風呂あがりに全身に8枚湿布を貼りまして、背中には筋肉痛用のスプレーを沢山吹きかけて寝ました。

朝、起きてからは、かなりスッキリしましたが、未だ、足の筋肉痛は残っています。
(私の太ももの筋肉では支えきれないような、すごく重い「何方か?」だったようです)・・・信じる方だけで結構ですヨ(__)

と言う事で、とても偶然ですが
高皇産巣日神、神産巣日神の二神大神を主祭神として皇産霊大神と尊称して奉祀する神社「門司 皇産霊神社」にお参りしてまいりました・・というお話でした。

では<(_ _)>(^・^)
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年09月06日 18時02分51秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

早速、調査の進捗を<(_ _)>
というか・・何だか色々判明して参りました。

まずは
藤原長方の子息藤原兼高(母:藤原師高の娘)この方からの流れを簡単にご説明します。
※@藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 藤原兼頼 → 藤原定兼・女子(洞院公泰母)★1
※A藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 藤原顕経(従五位上。下野守。法名寂恵)
※B藤原兼高(母:藤原師高の娘) → 藤原顕嗣 → 女子(正親町公兼母?)

まず、※@の女子(洞院公泰母)について

洞院公泰とは ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E6%B3%B0

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。左大臣洞院実泰の三男だが、後宇多法皇の養子となる。公賢・公敏の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。冷泉(れいぜい)と号した。

洞院公泰
父:洞院実泰(1270-1327)
母:家女房(?-1354) - 藤原兼頼[3]女 ★藤原兼頼は藤原師高の玄孫です。
義父:後宇多法皇(1267-1324)
守子(後醍醐天皇妃)の同母弟・・と言う事は
ありゃっ?藤原師高の昆孫は後醍醐天皇妃と言う事になりますね・・!
・・・・はっ?!ええええっ??だから??
以前何度かコメントした事ですが、後醍醐天皇紀の附録に平河(良峯)に関係する人の話が書かれていたのがず〜っと不思議だった・・本当の理由は・・この話でしょうか??
「後醍醐天皇紀 嘉歴9年8月。(東大史料)」です。
平川家について(続5)コメント41そして平川家について10コメント14で詳しく書かせて頂きました。
転記します(-_-)

平川家について10コメント14 より
後醍醐天皇紀 嘉歴9年8月。(東大史料)
この文書は未だデジタル化されておらず、全て手書きでした。
増珍公の記述の後に
紹運録ト皇親系ト親王諸子ノ排行を異ニス未だ孰(いずれ)カ是ナルヲ知ラズ
とあり、そして附録とあって、
長氏相良六郎三郎入道の生い立ち及び良峯氏字阿夜の記述があった事を・・
長氏相良六郎三郎入道はこれまた、以前コメントしたかと思いますが、(平川家について8コメント57)平河三郎左衛門尉師頼と筆跡が同じ。
すなわち同一人物の可能性が高いという事です。

何故、後醍醐天皇紀の附録に平河(良峯)に関係する人の話が書かれていたのがず〜っと不思議だったのですが、・・・
この書は歴代の「皇親系ト親王諸子」の記録だったのです。
                          以上・平川家について10より

(-_-)何だか、真実にグッと近づいたのかもしれません・・
「皇親系ト親王諸子」の記録の話ではありません(ー_ー)!!

上記の事実をもとに考えると・・やはり「平河師高」は「藤原師高」である可能性が非常に高くなった!!と言う事ではないでしょうか???!
私にとってはこちらの方が、「重要」でございます(-_-)

でも、遠い縁戚関係でも記録に載るのかな?

このあたりは、もう少し詳しく調べてみようと思います。

続けて、

藤原兼高(母:藤原師高の娘)の孫と北条奏時の子息「北条時氏」の裔は1200年代後半に縁戚関係が結ばれていた事もわかりましたので、後ほどコメント致します。

では<(_ _)>(^・^)
[60]子孫よりさんからのコメント(2014年09月06日 23時57分19秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

東京大学史料の後醍醐天皇紀をやっと見つける事が出来ました。

画像をブログにアップ致しました。
データが小さいですので、画像をクリックして拡大してご覧下さい。
附録の意味が私には解けません(@_@。

ぜひご覧頂いて、皆様にもご確認頂ければ、非常にありがたいです。
よろしくお願い致します(__)

http://ameblo.jp/hirom0211/entry-11921094367.html

では<(_ _)>(^・^)
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年09月07日 01時51分41秒 ) パスワード

皆様、夜分遅くなりました(-_-)

お詫びと訂正があります<(_ _)>
藤原兼高(母:藤原師高の娘)の孫と北条奏時の子息「北条時氏」の裔は・・
ではなく
藤原兼高(母:藤原師高の娘)の孫と北条重時の曾孫の間には縁戚関係があります。
でございます。大変申し訳ございませんでした。<(_ _)>

では
早速、続きを(__)

こちらをご覧ください

正親町 忠兼(本名実寛・公蔭)[ 永仁5(1297)年 〜 延文5/正平15(1360)年10月19日 ]
実明男。母藤原兼嗣女?。京極為兼猶子。後、小倉公雄猶子。後年、復実父。法名・空静。
元徳2(1330)年正月5日叙従三位。
観応3/正平7(1352)年8月12日出家。
正二位・権大納言。
※母名は諸家知譜拙記と尊卑分脈の公蔭の項に記載されたものだが、尊卑分脈では藤原顕嗣の女にも公蔭母と記されている。

正親町公蔭 父:正親町実明 母 藤原兼嗣女?もしくは藤原顕嗣の女

藤原顕嗣の娘と言う事は藤原師高の玄孫となります。

または藤原兼嗣の娘と言う事になれば・・
「藤原兼嗣」を調べたのですが、「兼嗣」という複数の人物から時間軸が合うのは
★松殿兼嗣[ 延応元(1239)年 〜 文保元(1317)年3月3日 ]
松殿兼嗣の妻は「中将実春朝臣女」
徳大寺実春の娘が妻という事でした。

正親町公蔭の母として記述されているお二人は(松殿兼嗣の娘・藤原顕嗣の娘)、どちらも「平河」と係わりのある方々でありました。

では正親町公蔭の妻は・・ウィキをご覧ください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%85%AC%E8%94%AD
妻:北条久時の娘

北条久時 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82

北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋久時とも。

北条久時は北条重時の曾孫にあたります。

松殿兼嗣の娘(母:徳大寺実春娘)または藤原顕嗣の娘(藤原師高玄孫)を母にもつ正親町公蔭の妻は北条重時の玄孫であったと言う事です。

以前調べた「大きな図」と平河を名乗った「北条重時」の玄孫がここで繋がりました。

先日もお話しましたが、やはり・・
何かがずっと繋がっているような気がしました・・・

では<(_ _)>
[62]白石さんからのコメント(2014年09月07日 02時51分06秒 ) パスワード

こんばんは
附録
拡大できなかったので 虫眼鏡で見ました。初めの言葉だけでしたが
相良氏系譜
長氏ウィキより
生年不詳 - 正平7年4月14日(1352年5月27日))は鎌倉 時代末期から南北朝時代にかけての武将。相良氏の第4代当主。第3代当主・相良頼俊 の次男。通称は相良六郎三郎。

当主とあるので 以下は相良氏系図にあるのだろうと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私が相良氏にたどり着いていたのは 高岡から
摂州多田院御家人高岡系図というのがあり
後裔池田蔵人大夫奉貞は、継男子無くして源姓馬場下野守仲政の四男奉政を養して氏を継がしむ。 依りて後裔源姓を称す。摂州高岡氏は、池田奉貞の實弟肥後守貞望の後裔にして紀姓を称したるも、 同五世に至りて、源姓池田奉永の四男源四郎が婿入りして氏を継ぎたるによりて高岡氏もまた源姓を称す。 世々摂州川邉郡多田郷の御家人なり。

これだけでは全容がつかめませんが
多田(馬場)仲政の兄弟に源三位頼政がおります。
摂津渡辺党の棟梁。郎党に渡辺がいます。また 渡辺にいきつくのに四浦に蓑田姓があり、箕田とはちがうけど おおざっぱに たどり着きました。
渡辺→蓑田→松浦 前に出た松浦水軍の系を引く平戸藩主・松浦氏

池田氏は輝政の子孫に相良氏や徳川氏 などに養子が行ったり来たりしており
また 溝口と姻戚関係があり 鷲尾もあり 黒田 小笠原なども 出てきて 
池田佐正には 楠正行腹違い男とあります。

相良頼之→長男・相良長福







 



[63]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月07日 10時50分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫さん へ
 
外から見ていると、平川家の何を調べているのか目的がつかめないでしょう。
藤原西光の子、師高が尾張で良峯姓へ改姓したのだろうとの推測は付きますが、
目的は西光の子孫であることを隠す為ですから証拠は発見困難でしょう。
 
例えば、岡山藩主池田家の様な古い家では養子継承が当たり前です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/ikeda_keizu.htm
 
後醍醐天皇に関心が有るようですから、
尾張との関係から、下記系図は頭に入れておくべきでしょう。
後醍醐源氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01059.htm
八坂氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01109a.htm
大橋氏 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03020.htm
紀姓淑光流 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209e1.htm
これらと熱田神宮が相互に絡み合っているのが尾張閨閥ですから。
 
 

昭和天皇が独白録で、終戦決断時「伊勢神宮と熱田神宮の存続の為なら・・・」と語っておられましたからね。
江戸時代、東海道は尾張熱田から伊勢桑名を経由。
また「天孫民族六千年史の研究」を読まれると、熱田神宮が東夷防衛の重大な存在であることが理解されます。
東夷防衛と言えば征夷大将軍、古くは日本武尊東征のこと。
やはり大局観を持たずに各個撃破を続けていると、何が何だか解らなくなります。
[64]子孫よりさんからのコメント(2014年09月07日 13時41分37秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、御察しの通りです。
見つかる情報は、今までの調査に繋がっている事は明らかなのですが、おっしゃる通り、証拠が無い為に、結果とならず、自分が何をしているのか、本当に解らなくなる事があります。

一日コメントをしない日などは、殆どがそのような気分になっている時です。

「目的は西光の子孫であることを隠す為ですから証拠は発見困難」
やはり、そうなのでしょうか・・

色々な考えをもとに過去の方々は、そのような隠ぺいを行って来たという事は解ります。
でも・・・
この頃考える事があるのです。
子供の頃聞いた、平河義高が子孫を守る為に言った言葉。(女・子供を守る為)
お陰で、今、私は生まれる事が出来たのだと、祖母や平川の伯父(じいちゃん)そして親戚に言われていました。
その伝説は、本当は「いつから」始まったのだろうと・・

その言葉から800年以上経過して、何百人という子孫が生まれる事が出来た事を、遠い先祖に心から感謝しています。

日本の苗字七千傑様がおっしゃる通り、時代の大きな流れ当時の状況をしっかりと理解して「勉強」を続けて行けば、私は、「証拠」を得る事は出来ずとも「確証」を得る事は可能ではないのかな?と、考える事が出来ました。

大橋氏は以前、原高春の娘を妻とした肥後守「平貞能」の調査で出てきました。
その先に後醍醐天皇・宗良親王との繋がりがあったのですね。

尾張・・
尾州宮で平川の先祖が亡くなった事は明らかですから、先ほどお伝えしたように、しっかりと「勉強」を続ければ、きっと、理由が見つかると信じています。

もう一つの私の調査目的
何故、祖母の実家平川は「みなみ」と呼ばれていたのか?
この事も、勉強によって理由が見つかるような気がしています。

大局観を得る為の勉強!!頑張ります!

白石様、ご教示ありがとうございます。
白石様も歴史の全体像が見えていらっしゃるからこそ、様々な繋がりを思いつく事がお出来になられるのですね。
すごい事だな〜と思いました。尊敬致します<(_ _)>

渡辺→蓑田→松浦

前にもお話致しましたが蓑田家は「宮原」も「平川」も双方とも親戚です。

日本の苗字七千傑様のご教示にあった「岡山藩主池田家」
白石様のご教示にあった「池田氏は輝政の子孫に相良氏や徳川氏 などに養子が行ったり来たりしており
また 溝口と姻戚関係があり 鷲尾もあり 黒田 小笠原なども 出てきて 
池田佐正には 楠正行腹違い男とあります。」というお話。

系図を見ると言う事は、「一か所」のみの理解ではなく、やはり繋がりを理解していなければいけない事を痛感致しました。

日本の苗字七千傑様、白石様
本当に、ありがとうございました。
[65]子孫よりさんからのコメント(2014年09月08日 01時31分18秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)(深夜ですが)

速報でございます!!
ついに「行親」 「平川行親」なる人物を見つけました!

昼のコメントで、後醍醐天皇の情報を伺い、考えたのです。
平河は南朝と北朝に分かれて戦った事を・・

肥後で南朝と言えば、菊池氏。
菊池氏と平河そして尾張の関係は?と考えました。

そして、偶然にこちらの記述を見つけたのです。
都道府県別日本の中世城館調査報告書 Googleブックより

文明六年(1474 年)の城主は合志氏一族の平川行親(合志隆祐の四男)という。天正十三年ひ^评)にいたっては平川高冬が在城したらしい。古城(大字)地内の西嶽 ... はぎめお萩野尾城(菊池郡大津町大字平川字傾城平)城主は紊藤尾張守という。地元には城跡

※合志氏一族の平川行親(合志隆祐の四男)
※平川高冬 ★平川高冬という人物については以前より菊池氏の歌集にて「名」を見つけていました。

こちらをご覧ください
菊池家 http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kikuti.html

少し長くなりますが合志氏についてです
合志長綱佐々木時長子時高孫四郎左衛門
  隆敏長綱子
  隆道隆敏子真木太郎
  実定隆敏子五郎刑部
  隆冬実定子式部
  鑑岑隆冬子四郎兵衛
  隆祐鑑岑子五郎左衛門 ※隆祐 鑑岑子
  隆門隆祐子蔵人 ※隆門 隆祐子
  武宗隆門子
 
  重隆隆祐子太郎重澄? ※重隆 隆祐子(太郎重澄)
  重基重隆子近江
  隆岑重基子竹迫公種嗣蔵人伊賀
  隆房隆岑子三河
  高久隆房子兵庫
  重遠高久嗣肥前重安子丹波
  親為====1585高久嗣赤星重隆子蔵人親賢伊勢
  高重親為子伊勢
  太助高重子
  慶蔵太助子
  親重高久子隼人
  親賢高久子兵庫
  幸隆太郎建武頃
  武忠丹波
  隆直掃部

そして・・・窪田氏について
窪田惟冬民部 嘉吉頃
  高冬合志隆祐子民部 ※高冬 合志隆祐子
  為宗高冬子大和 永正頃
  重宗為宗子式部 永正頃
  安綱為宗子牧右馬
  安重安綱子
  満政安綱子
  満家満政子内記

★合志隆祐の四男が「平川(平河)行親」であり、同じく合志隆祐の子「窪田高冬」が「平川(平河)高冬」であったと言う事です。

岩城についての記述をご覧ください。
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/iwan-jyo/

平河義高が相良氏に討たれた後は窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となったという。また肥後国誌によれば久保田大蔵、新宮伊予守が城主とある。
城主
 平河義高,窪田氏,犬童氏

※先日、コメントしていましたように「平河」は犬童姓を名乗っていた事もありました。

窪田氏がここで登場するとは・・・
父がずっと言っていた「宮原」には「窪田(久保田)」から養子が入ったと言う言葉。
平川と窪田も関係していた・・

合志長綱・・佐々木時長子・佐々木時高孫より〜
窪田氏・・窪田惟冬民部より〜
この方々は未だ調べてはいません。

ちなみに菊池家文書では平河について
平河師里相良流平川又三郎
  師頼小三郎三郎左衛門
  貞家八郎
  行親
という記述がありました。

発想の転換を行い「大局観を得る為に」全体を「勉強」しようと思い調査を始めた所、「平川行親」を発見する事が出来ました。

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[66]子孫よりさんからのコメント(2014年09月08日 09時13分47秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

早速、日本の苗字七千傑様の「姓氏類別大観」佐々木氏 → 野木氏 → 合志氏と進めて、佐々木時高・佐々木時長そして合志長綱と確認をする事が出来ました。

合志隆祐の四男「平川行親」
系図では、「行親」という名は見当たりません。
ただ、「高冬」という方はいらっしゃいました。

合志隆祐の兄弟が平川隆朝。
調べたのですが、こちらの二人の間には姉妹があり、この女性は「鹿子木員長の室」となっていました。

文明六年(1474 年)の記述に平川行親の名があった・・
と言う事は、調査続行中の平安時代〜鎌倉時代よりも200年程下った時代と言う事ですね。

昨日、日本の苗字七千傑様より伺ったように「養子継承が当たり前」の時代ですから球磨の「平川」とは何らかの縁戚関係があったと考える事も出来るのでしょうか?

ちなみに菊池郡大津町平川とは
以前コメントした平川淀姫神社がある場所です。
「平川家について12」 コメント58で調査していました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_93.html


この貴重な情報が、単なる「各個撃破」にならないように、したいです。

では<(_ _)>(^・^)
[67]子孫よりさんからのコメント(2014年09月09日 01時27分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

以前より、 宇多源氏佐々木氏流「平川氏」については、存じてはいましたが、単純に「平川」という地を所領したから・・だと思っていました。

ところが・・・・調べた所、実に・・・ハイ〜〜〜〜??!!\(◎o◎)/!と言う事ばかりが出てきまして・・
本当に驚いています。

では、皆様もご一緒に、ハイ〜〜ッ??!!\(◎o◎)/!となって頂きましょう。<(_ _)>・・(ふざけていないと、驚きが心臓によくありません(ー_ー)!!)

まず、全体を理解する為に「佐々木氏」について調べたのですが・・
こちらをご覧ください(__)

佐々木信綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E4%BF%A1%E7%B6%B1

養和元年(1181年)頃、後に近江守護を務める佐々木定綱の4男として生まれる。建保2年(1214年)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』にその名が見られる。承久2年(1220年)7月26日、出家し経仏と号したという。

嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張長岡庄の地頭職を得る。
仁治3年(1242年)3月6日に61歳で没し、蒲生郡(後の老蘇村、現・近江八幡市)にて老曽明神として祀られたという。
近江は4人の息子に分割され、長男の重綱が坂田郡大原荘を、次男の高信が高島郡田中郷を、3男の泰綱が宗家と江南に在る神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡の6郡を、4男の氏信が江北に在る高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡を分けて継いだ。彼らの子孫はそれぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となった。

(-_-)ここまでは、教科書的な記述です。

では、早速<(_ _)>

佐々木信綱の正室は北条義時の娘です。
そして、子息子女について、ですが
※@重綱〔大原氏〕
※A高信〔高島氏〕
※B泰綱〔六角氏〕
※C氏信〔京極氏〕
※D女子(土屋左門尉平光時妾。遠経母)
※E女子(二階堂和泉守藤原行方妾。行章母)
※F女子(長井備前守大江泰秀妾。時秀母)
※G女子(千葉介平胤綱妾)

(もう、すでに「ハイ〜〜ッ??!!」との声が聞こえてきたような気がします)
まずは女性から<(_ _)>

※E女子(二階堂和泉守藤原行方妾。行章母)
「平河道照」こと鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方。
すなわち、佐々木信綱の娘は二階堂行方(平河道照)の妾(側室)だったのでございます。\(◎o◎)/!

続けて・・
※F女子(長井備前守大江泰秀妾。時秀母)
長井時秀の子息「長井宗秀」。この方が平河道我こと「二階堂行藤」と一緒に平河の争論を越訴頭人として担当されたのでございます。\(◎o◎)/!

続けて・・
※G女子(千葉介平胤綱妾)
(もう、ここまできたら「何でもアリ」だっ!と心臓にも毛が生えてきました(-_-))

平川家について14で、この方、何度も登場されていらっしゃいます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_88.html
「宮原」にも「平川」にも関係されていました。
『尼しんねん譲状』のお話です。
三池貞家に「球磨郡久米郷」の土地が譲られた・・あのお話であります。
関係図を書きたい所ですが、簡単に再度ご説明を<(_ _)>

「尼しんねん」とは島津忠宗の妻
「尼しんねん」の父は三池道智(師時)。母は如円。
「尼しんねん」の夫「島津忠宗」
「島津忠宗」の父は島津久経。そして母は「相馬胤綱」の娘、「尼妙智」
譲られた土地が実際にはどのように動いていたのかは平川家について14で詳しく調べていました。

そして・・六郎貞家に肥後国球磨郡久米郷の土地は譲られたと言う事です。

と言う事で「佐々木信綱」の娘は上記の「相馬胤綱」の妾(側室)だった\(◎o◎)/!

実は、昨日、「佐々木氏」が登場してから、とても気になっていたのですが・・
皆様、覚えていらっしゃいますか?
先ほどの「譲られた土地」の件です。豊前副田庄はそもそも「橘」の土地だったはずだけれど、何故か「豊前佐々木氏」が地頭でした・・というあのお話です。

そして相馬胤綱は宮原の先祖「橘公業」の娘「薬上助局」が嫁いだ「源(毛利)頼定」の父「源頼隆」を育てた方でもありました。

今までの調査に登場した重要な情報は、何故か?佐々木信綱の「娘」。この方々に直接繋がっていたのです。

とっ・・これで終わりそうなのですが・・・・
(ー_ー)!!じつは・・まだまだあるのです・・

佐々木信綱の子息「六角泰綱」について、こちらをご覧ください(__)

六角泰綱
母川崎五郎平為重〔尊卑分脈による。佐々木系図作母北条泰時女〕。
検非違使。左衛門尉。左兵衛尉。従五位上〔佐々木系図〕。
壱岐守。法名生西。建治2(1276)年5月17日卒。
号西光寺。

※六角泰綱と高島高信の母は「佐々木系図作母北条泰時女」となっていました。
先日、北条泰時の母「阿波局」と言う方がとても気になるとコメントさせて頂きましたが、六角泰綱の号が・・・「号 西光寺」 ・・です。

六角泰綱 → 長綱 → 貞長 → 平川高泰・・と言う事ですね。

今晩はここまでとしたいと思います。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/sasaki.htm#rokkaku

こちらの情報を見たのですが、まだまだ、色々ありそうな気がします。
では<(_ _)>
[68]子孫よりさんからのコメント(2014年09月09日 07時47分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

ふぅ〜〜〜(-_-)何からお話すればいいのか・・決め切らないほど続々と情報を見つけています・・(各個撃破ではありません。いつものヒラメキ?が、次々に情報を見つけ出しています(-_-))

では、まず、佐々木信綱について新たに解った事実を<(_ _)>

佐々木信綱
この方の母は新田義重の娘。本妻は川崎為重の娘、正妻は北条義時の娘。
本妻:川崎為重の娘
川崎為重の妻は・・比企能員の娘
すなわち、川崎為重は比企能員の娘婿でありました。
※以前、コメントしていました。人吉に「比企尼」と呼ばれた方のお墓があった事を。そして、良峯(平河)妙阿・良峯(平河)阿夜は「比企尼妙阿」「比企尼阿夜」と呼ばれていました。
その時「比企氏」について調べ(勉強)ました・・・結局この時は平河との関係は全く解りませんでした。
ただし、その後・・
鎌倉釈迦堂前の土地が
良峯(平河)妙阿 → 相良頼俊 → 宇葉伊路と譲り渡されていたのが解りました。
鎌倉釈迦堂とは「北条泰時が父北条義時の為に建てた・・今は祠しかない」という場所でした。
なお且つ、その場所は・・比企一族が終焉を迎えた場所でもありました。
(この時は、何故「比企尼」?「比企氏」?と理由が全く解りませんでした)

こちらのサイトをご覧ください(__)
佐々木信綱と北条氏
http://jmpostjp.exblog.jp/6549874

ピックアップして転記させて頂きます(__)
佐々木信綱(1181年〜1241年)は佐々木定綱の四男で、母は新田義重の娘。本妻は川崎為重の娘、正妻は北条義時の娘。左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、従五位上を務めた。
 正治2年(1200年)10月、後鳥羽院が近江柏原庄の地頭・弥三郎為永の討伐を宣下すると柏原為永は直ちに逃走したが、翌年5月9日に佐々木信綱が誅伐したと「吾妻鏡」にある。褒賞として為永の館と領地が信綱に給付された。(この柏原館が後に四男・氏信に始まる京極氏の本拠となる。)
 建仁3年(1203年)9月、比企能員の娘婿であった川崎為重(中山五郎)は信綱の舅にあたるが、彼が比企能員の乱で滅亡すると、舅(川崎為重)の本領である武蔵国川崎荘を継承。さらに北条義時の娘と再婚して、東国においても豪族級の御家人となる。
 建暦元年(1211年)、九条道家(九条兼実の孫。東福寺を創建。光明峰寺殿。)の推挙で左近衛将監に直任。九条家(藤原北家の嫡流で、五摂家のひとつ。)との結び付きは父・定綱以来であるが、兄・広綱が後鳥羽院について家格を上昇させたのに対し、信綱は九条家につくことで家格を上昇させてゆく。
 建保4年(1216年)3月、後鳥羽院と将軍・源実朝双方の舅にあたる坊門信清が没すると、信綱は足立八郎元春とともに東使として京都に派遣される。信綱は九条家の家令でもあり、有力御家人として朝幕間の交渉を期待されていたようだ。
 承久3年(1221年)4月、右衛門尉に補任される。右衛門尉は衛士を率いて宮城諸門の警護・開閉を行い、行幸の際には供奉する武官である。信綱には朝廷側の信任もあったということだろう。

(-_-)九条兼実の子、すなわち上記の記述の九条道家の父「九条良経」の兄弟に「良円」という方がいらっしゃいます。
(偶然ですが、平河の系図に「良円」あり)

続けます(-_-)
しかし翌5月に始まった「承久の乱」では、信綱・重綱父子は東国御家人として北条泰時・時房軍に合流し、宇治川の戦いで先陣を駆ける。当時の鎌倉殿は九条頼経であるから、九条家家令の信綱が鎌倉方につくのは自然であろう。承久の乱の功により、信綱は近江国佐々木豊浦庄・和邇庄・堅田庄・栗太北郡などの領地を得た。このうち佐々木豊浦庄は、文暦2年(1235年)7月に尾張長岡庄に替えている。また信綱は、承久の乱で処罰された兄・広綱に替わり近江守護にも補任された。ここに在京御家人と東国御家人に分離していた佐々木氏が、信綱のもとに一本化される。
※佐々木豊浦庄は、文暦2年(1235年)7月に尾張長岡庄に替えている。

寛喜3年(1231年)正月、後堀河院の中宮・藤原竴子(九条道家の娘)の御産御祈として三万五千疋を寄進し、近江守を受領。このとき誕生したのが四条天皇である。近江守護と近江守を兼ねた信綱は、ここに実質上の近江太守となった。
貞永元年(1232年)正月、従五位上に加級。これら一連の昇進は、九条家との結び付きによるものであろう。
中略・・
信綱の娘はいずれも豪族級の東国御家人に嫁いだ。評定衆・土屋宗光の子息・光時、評定衆・二階堂行方、評定衆・長井泰秀、千葉氏惣領の千葉胤綱である。このうち長井泰秀は大江広元の孫で、足利義氏とともに将軍・九条頼経の政所別当に就任している。
※昨晩コメントした長井泰秀は大江広元の孫だったのですね(-_-)

続けます(-_-)
仁治3年(1242年)3月、高野山蓮華三昧院で信綱は没した。法号は天源寺殿春山公。御霊社は老蘇鎌宮であり、第一座が鎌神、第二座が御霊であるという(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。
 
 信綱の死後、相続問題に北条氏が介入し、佐々木氏は分断される。
 第一段階は、北条氏に気がねした信綱が、本妻である川崎為重の娘との間にもうけた重綱と高信を冷遇し、正妻である北条義時の娘との間にもうけた泰綱と氏信を厚遇したというものだ。 長男・重綱は承久の乱で功績があったものの廃嫡されたため遁世し、次男・高信は近江高島郡田中郷のみを与えらる一方で、三男・泰綱は佐々木氏惣領職と近江守護職・南近江・川崎荘・京都六角東洞院館を、四男・氏信は北近江・京都東京極高辻館を得た。ここで、佐々木氏が六角流と京極流に分断された。
 相続問題の第二段階は、長男・重綱が三男・泰綱を訴え、近江坂田郡大原荘を獲得したというものだ。北条氏は訴訟を口実に、頼朝以来の将軍側近で、九条殿家令でもあった佐々木氏の勢力を削ぐのに成功する。
 こうして信綱流佐々木氏は、長男・重綱の大原氏、次男・高信の高島七頭、三男・泰綱の六角氏、四男・氏信の京極氏に分断された。

※相続問題を理由に北条氏の介入によって、信綱流佐々木氏は分断された・・・

では、続けて見つける事が出来た情報ですが・・・
佐々木信綱の父「佐々木定綱」と「藤原師高」は縁戚関係にあったという事実を御紹介致します。

長くなりましたので、次のコメントで。
では<(_ _)>
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年09月09日 09時43分19秒 ) パスワード

では、早速(__)

佐々木信綱の父「佐々木定綱」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%9A%E7%B6%B1

佐々木 定綱(ささき さだつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
近江国の佐々木荘を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の嫡男。平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝に従い平氏と戦った父の敗北により、共に関東へと落ち延びる。伊豆国に流罪となった源頼朝の側近として仕え、弟たちと共にその挙兵を助けた。

平治の乱で敗走したのち、父の秀義は所領の近江佐々木荘を逃れて相模国渋谷荘にあり、定綱は下野国宇都宮に客居していた。治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の3ヶ月後の8月、秀義は大庭景親に招かれて頼朝討伐の事を知り、たまたま渋谷荘にいた定綱を使いとして頼朝に危急を知らせた。8月17日、定綱は弟達と共に平氏打倒を決意した頼朝に従い、平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、弟の経高、高綱と共に信遠を討つ。20日、頼朝に従い相模国へと赴くも石橋山の戦いで敗れる。安房へ逃れ再び兵を集めた頼朝は10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に行われた挙兵後初の論功行賞で、定綱ら兄弟は旧領の佐々木庄を安堵される

頼朝を大将とする軍は鎌倉に本拠を構え、その後多くの戦いを経て文治元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼした。
その後、戦功を上げ続け、近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。建久2年(1191年)、佐々木荘で千僧供料の貢納を巡り延暦寺との争いが生じる。延暦寺は配下を定綱邸に乱入させ、これを次男の定重が刃傷し神鏡を破損してしまう。この騒動により強訴が起こり、定重は衆徒によって梟首され、長子広綱は隠岐国、三子定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となる(建久二年の強訴)。建久4年(1193年)3月に召還され(『吾妻鏡』4月29日条)、10月28日に鎌倉に帰ると頼朝は大いに歓び、定綱は近江守護に復する。11月27日、頼朝の永福寺への参拝に随い、12月20日には隠岐、長門、石見の守護へと復する。建久6年(1195年)3月には東大寺供養の為上洛し南都に赴いた頼朝に随い、4月15日には石清水八幡宮への参拝に随う。

(-_-)※★ 佐々木荘で千僧供料の貢納を巡り延暦寺との争いが生じる。延暦寺は配下を定綱邸に乱入させ、これを次男の定重が刃傷し神鏡を破損してしまう。この騒動により強訴が起こり、定重は衆徒によって梟首され、長子広綱は隠岐国、三子定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となる(建久二年の強訴)。
佐々木氏も延暦寺との抗争を起こしていたのですね・・・

(-_-)では、教科書には載っていない、「佐々木定綱」と「藤原師高」の縁戚関係について、ご説明致します。(__)

佐々木定綱 父:佐々木秀義 母:源為義の娘
母は源為義の娘。
源為義 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9
源 為義(みなもと の ためよし、-爲義)は、平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。
妻は藤原忠清の娘。藤原景清(平景清)の姉弟でした。
この方が産んだ「源義朝」が源頼朝の父と言う事です。

系譜を見て下さい。子女の記述です。
佐々木秀義室、藤原光隆室 他・・・
佐々木秀義室になった方が佐々木定綱の母。
では・・
藤原光隆室。藤原光隆は「球磨川(木綿葉川)」の詩を詠んだ「藤原定隆」の兄弟です。
藤原光隆 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E9%9A%86

系譜を見て下さい
女子:藤原光子(?-1203)[2] - 坊門院乳母、藤原実教室
※藤原光隆の娘:藤原光子が藤原実教室となり産んだ子息が・・
藤原公長・・妻:藤原師高の娘  でございます。
藤原実教 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%95%99

という事で整理します。

佐々木定綱 父:佐々木秀義 母:源為義の娘

佐々木定綱の母の姉妹 → 藤原光隆の妻(「光隆」は球磨川の詩を詠んだ「定隆」の兄)
藤原光隆の娘 → 藤原実教の室。藤原公長(妻:藤原師高の娘)の母。

と言う事です。

この情報を見つけた時にはさすがに「鳥肌」が立ちました。

でも、もっと・・そうです・もっと「怖く」なる情報に佐々木氏はもしかしたら繋がっているのでは?と思うのですが・・(ヒラメキというより妄想かもしれませんが・・)

日本の苗字七千傑様の「姓氏類別大観」佐々木氏 → 《六角氏》姓氏類別大観 ・・
唐橋長綱・・・「唐橋」姓・・

こちらの唐橋姓は菅原氏の「唐橋家」とは何か繋がりがあるのでしょうか・・

何度も何度も、まさか?とコメントした事のある情報ですが・・
平川家について8
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101343_94.html

こちらで、調べていた事です。
寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅、 民経記

記録では「疾病と聞いている?」(云々)となっていたのですが、でも二人の名前が同時に記録されていて、なおかつ「等入滅」とは、まるで、同じ所で、何人も疾病で同時に入滅した?というような書き方が逆に変だな?と思ったのです。(気のせいだとは思ったのですが・・)」
(-_-)とコメントしていた内容なのですが、あらためて・・(__)

四位侍従公綱(藤原)朝臣とは
藤原公綱とは・・徳大寺実定の子息です。
妻:藤原顕長の娘 男子:徳大寺公綱・・すなわち藤原長方(妻:藤原師高の娘)の甥になります。

そして
刑部大輔義高朝臣とは
菅原義高 生没年:不明
父 :大学頭 菅原在茂・・文章生 文章博士 大学頭 正四位下
母 :(父:刑部卿 藤原家基)★母は藤原家基(須恵小太良)の娘
祖父:豊前権守 菅原是基・・従五位下 豊前権守 少内記
子 : 高能  義慶
兄弟:菅原在高 生没年:1159-1232
「唐橋」は義高の兄「在高」の子孫、および二人の祖父「菅原輔方」の兄弟「唐橋在良」も名乗っていらっしゃいます。

寛喜3年4月6日
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅
妄想だと思って下さい(__) でも・・

寛喜年間に平河義高は一族とともに相良長頼にせん滅されてしまいました・・
でも、この戦は、公式な文書には何も残っていません・・

佐々木氏流《六角氏》 → 唐橋長綱 → 貞長 → 平川高泰・・と言う事ですね・・・

あの・・・
四位侍従公綱(藤原)朝臣・刑部大輔義高朝臣等入滅の情報は抜きにして
私は、平河の真実に昨日から、かなり近づく事が出来ているのでしょうか?

平川行親の情報を見つける事が出来ていなかったら、きっと「佐々木氏」についても、ここまで詳細に調べる事は無かったと思います。

何かに導かれているのであれば嬉しいです。

では<(_ _)>
[70]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月09日 10時37分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>こちらの唐橋姓は菅原氏の「唐橋家」とは何か繋がりがあるのでしょうか・・
 
 
愚問です。
家名が変更されるのは様々な理由がありますが、ほとんどは母方の家名を名乗る例が圧倒的です。
次に多いのがが居住地名です。
あとは確認作業をするだけ。
 
例えば、物部氏に秦氏、弓削氏があるのも母方の姓を名乗っただけ。
[71]子孫よりさんからのコメント(2014年09月09日 18時25分39秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

お恥ずかしいです(__)

私は、状況が変わると、頭で理解していてもすぐに他の理由を模索してしまいます。これが、いけないのですね。

「家名が変更される理由 ※ほとんどは母方の家名を名乗る例が圧倒的 ※次に多いのがが居住地名」

しっかりともう一度、頭に叩き込んでおきます(__)

ご教示本当にありがとうございました。
では<(_ _)>(^・^)
[72]白石さんからのコメント(2014年09月10日 04時45分36秒 ) パスワード

おはようございます。
佐々木定綱 父:佐々木秀義 母:源為義の娘

佐々木定綱の母の姉妹 → 藤原光隆の妻(「光隆」は球磨川の詩を詠んだ「定隆」の兄)
藤原光隆の娘 → ★藤原実教の室。藤原公長(妻:藤原師高の娘)の母。


公卿類別譜
山科
藤原北家四条流。四条家成の6男★実教を祖とする。
庶流に教成の子忠成を祖とする冷泉流がある。

また、明治維新には、言知の二男で、聖護院院家若王子住職の遠文が復飾し、若王子家を興す。

ウィキより
養子:藤原教成(1177-1239) - 実は平業房の子。

私の母の実父は山本。
若いころ見た 公卿辞典で 実父と同じ名前の人を見たと思い、(その時は まさか!と わたくしも大笑いしたことを覚えています。しかしまた 本を見たときは ふ〜ん こんな人でもこういう名前がついているんだ と も 思ったので、 思い出して 山本を探していたら 山科も同じページでたまたま出てきて あっ そうだ 山科もこの間 コメントしたんだった と 思って 書いてみました。)

実教・・・光隆女子 ・・・

[73]白石さんからのコメント(2014年09月10日 05時37分03秒 ) パスワード

(定綱と高岡氏)
ウィキより 
佐々木 定綱(ささき さだつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 近江国の 佐々木荘を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の嫡男。

佐々木 秀義(ささき ひでよし)は、平安時代末期の武将。源頼朝の挙兵を助けた佐々木 四兄弟の父。 生涯[編集]. 近江国蒲生郡佐々木荘を領し、★秀義の伯母は★藤原秀衡(奥州藤原氏。ここに 白石の方からつながっていた。)に 嫁ぎ、自身は源為義の娘を妻としており、この頃の佐々木氏が有力武士であった・・・

コトバンクより
平安後期の武将。三郎。★宇多源氏。 祖父経方は近江佐々木荘(滋賀県安土町)下司,小脇楯に居住。父は季定,★母は安倍宗 任の娘。源為義の猶子で元服時,義家以来の太刀綱切を賜う(『拾珠抄』)。

宇多源氏の高岡もいた と思って 
出雲但馬高岡系図を見ると
高岡氏は宇多源氏出雲佐々木流。佐々木義清の息子で隠岐泰清の八男、 八郎宗泰が出雲國神門郡鹽冶郷高岡邑を領してより高岡氏を名乗る。

系図の宗泰のところの三角のちょぼを押すと 宇多源氏佐々木氏系図が出る。



[74]白石さんからのコメント(2014年09月10日 05時55分39秒 ) パスワード

また義清の娘婿の流れが 後世 乃木希典。
希典の子供に 伯爵・元智がおり
大正4年(1915)再興實毛利元敏二男                    昭和9年(1934)爵位返上復姓毛利氏

直結しているとは 思いませんが 
私の感じている 毛利などが 母の方から話が出てくる
(叔母が言っていた おばあさんは 毛利様から院号をいただいたのだよ)
という話
などに ぐるぐるまわって つながってくるのか ?と 思います。
[75]白石さんからのコメント(2014年09月10日 14時41分34秒 ) パスワード

http://www41.tok2.com/home/senyouin/narihusa-k.html
平業房の女子が藤原宗隆に嫁しているのですね。
丹後の局なども 出てきたりして グルグル・・・・ 

[76]子孫よりさんからのコメント(2014年09月10日 16時54分15秒 ) パスワード

皆様、今日は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

佐々木氏は「高岡家」そして白石家に繋がっているのですね。

平業房に繋がる情報として平川家について14コメント15・58・70などでも、様々な繋がりを調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_88.html
大きな図という表現をしていますが・・・

以前、白石様がおっしゃっていた「小さな輪」がどんどん「大きな輪に」というお話を思い出していました。

私は、すぐに「各個撃破」に陥ってしまいますので(@_@。今は、全体を把握出来るように、勉強?をしています(^・^)

佐々木氏と唐橋氏・そして久我氏も最初は小さな輪から始まって大きな輪が出来ているようです。(まだ、コメントに到っていませんが)
その輪は先ほども挙げた平川家について13・14の流れに繋がっているようです。
子孫は増え続けていった訳ですから、輪が大きくなるのは自然な事ですが、その繋がりを見つけると、何でしょうか、先祖に関係の無い所であったとしても、ものすごく「面白い!」と感じています。まるでなぞ解きパズルのようです。

養子縁組についても、頭を切り替えたらよ〜く意味が理解出来ました。
何せ、今の自分の状況と同じですから・・

私は離婚して「宮原」に戻りましたが、子供たちは、相手が長男だった事により、姓はそのままでした。
そして、娘は結婚して、新しい姓に変わった。
じゃあ、「宮原」の後継ぎは?となると、私の後は(もう、今さら子供を産む事は無理ですので(ー_ー)!!)娘の子供、もしくは息子の子供、もしくは従兄弟の子供となります。娘も息子も、従兄弟も姓は皆、其々姓は違います。
そして、宮原を継いでもらう・・・

そう考えると、すごく解りやすくなりました(^・^)

早く再婚して、もう一人産んでおけば良かったかな?(ー_ー)!!(ナイナイ)
でも、記述を読んでいると、平安・鎌倉という時代でも再婚する女性は多いですね。当時は婿を向かるという家が多かったのだから・・と考えると当たり前ですね。(危なかったです(ー_ー)!!当時でしたら、再婚を急がされていました(-.-))

と言う事で、自分に置き換えると全てが理解しやすかったというお話でした。
では<(_ _)>(^・^)
[77]白石さんからのコメント(2014年09月10日 22時11分14秒 ) パスワード

高岡宗泰 - Wikipedia
改名, 千手麿(幼名)→佐々木宗泰→高岡宗泰→覚念(号). 別名, 八郎(通称). 戒名, ★崇 岳寺殿前左金吾校尉覚念公 ... 氏族, 佐々木氏→高岡氏 ... 弘安10年(1287年)頃、父 泰清の遺跡である出雲国神門郡塩冶郷高岡里を分

嵩岳寺 とは - コトバンク
世界大百科事典 第2版 ★嵩岳寺の用語解説 - 中国,★河南省登封県の★嵩山にある仏寺。 ★嵩(崇)山は中国五岳の一つに数えられる名山で,古来,寺廟が多いが,その中心的な 仏寺の一つである。もと★北魏の離宮であったのを,523年(正光4)に仏寺となし,間居寺と ...

前に高岡で 北魏に関するたかおか の 言葉がある と 書いたことがありますが、この 佐々木の高岡も 戒名に崇 岳寺を持つ。考えすぎのきらいもあるが 面白い話もあるので・・・

確か 北魏は なむあみだぶつ だったと思います。

『北魏馮太后』の母は 王氏。
父の家系は五胡十六国時代から南北朝時代初期にかけて遼東を支配した北燕の皇族。
同じころの人で
献文帝の叔父の京兆王拓跋子推という人がおり、北魏は拓跋氏である。

拓跋氏 - Wikipedia
拓跋氏(たくばつし)は、中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を有した鮮卑拓跋部の 中心氏族であり、後に鮮卑を統一し中国において北魏を建国した家系である。北魏では 第5代献文帝まで国姓であったが、後に元氏と改姓された。


元朝のチンギスハーンが勇名。言葉から チュルク語。元は 尾方。アジア辞典に尾方は女直族。さだの女真族と同族。金姓。バイカル湖あたりから 南下している。うすぼつは シベリアあたりから来ている。
我々は 蒙古斑点を持つので 祖先の一人に この系統の血が入っていると思われる。たぶんスサノオ。

嵯峨天皇は スサノオは我が国の本主ぞ と 津島神社にスサノオをまつらせた。

北魏は高句麗の遺民が建てた。高氏。
高麗の王朝は 崔氏の武臣政権のあと モンゴルの後ろ盾で 政治が行われる。

スサノオは 高句麗より はるか昔の人。
我が国の文化は 大陸や半島の優れた文化を摂取しながら 歴史を降りてきたといい、我が国には 古く 王室があった。大王といおうが 天王といおうが ・・・

南北朝(中国)とは (ナンボクチョウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
2014年8月30日 - 五胡十六国時代の末期、混乱を極める華北では鮮卑の拓跋氏の代国が、諸部族を 統一し386年、国号を魏(北魏)と改め ... 帝が亡くなって間もなく、南朝では蕭衍(しょう えん)が斉(南斉)の和帝から帝位を奪って武帝となり、国号を梁とした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E9%83%A8
以下は登国の初め、道武帝(拓跋珪)によって行われた「諸部解散」後に編民となった諸氏族である
太洛稽氏(後に稽氏と改める)

白洲正子氏は
藤原鎌足の弟は稽氏で アマテラスを名乗った とする。

また テレビでは 鎌足は 百済の王族で 唐へ渡り 新羅を通って 我が国に来た と していた。
百済は 高句麗と同祖。 





    

[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年09月10日 22時50分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>佐々木氏と唐橋氏・そして久我氏も最初は小さな輪から始まって大きな輪が出来ているようです。(まだ、コメントに到っていませんが)
その輪は先ほども挙げた平川家について13・14の流れに繋がっているようです。
 
 
 
祖先調査には、二つのアプローチがあります。
まず下記の主要氏族派生図を見て下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/clan_derivation.htm
図の左から右へ調べるのが「流下型アプローチ」。
右から左へ調べるのが「遡上型アプローチ」。
 
室町時代の先祖が解る様な家系では、比較的流下型が向いており、
後は尊卑分脈に記載があれば、75代程度遡れます。
 
多くの家系では、そうもいかないので遡上型を選択せねばなりません。
誰でも親は必ず二人存在しますので、遡ると先祖の数は倍々ゲームとなります。
14代遡ると(関ヶ原の戦い当時)先祖は1万6384人となり、関係する家は1万6383家。
勿論、同一家系との婚姻は多いので、現実には半分程度の家ですが大変な数になります。
理論的には75代程度遡れますので、188垓(1垓=10の20乗)の先祖と家が存在することになります。
75代前の人口は数十万人ですから、日本人のほとんどの家が親戚となるわけです。
 
 
この辺を念頭に置かないと、誰でも皇族、公家、将軍、大名家にどこかで繋がり、
ぐるぐる回って何が何だか解らなくなるわけですよ。
 
直系祖先調査から逸脱して、姻族調査の各個撃破が危ない理由。
[79]子孫よりさんからのコメント(2014年09月10日 23時48分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様、
「理論的には75代程度遡れますので、188垓(1垓=10の20乗)の先祖と家が存在」
「75代前の人口は数十万人ですから、日本人のほとんどの家が親戚となるわけです。」

そうですね・・・

実は、娘がこの頃よく言うのですが
「アダムとイブの話を考えたら、人類、皆、親戚だよ」

「平川」の場合は、遡上型アプローチの方が向いていると言う事でしょうか。

「直系祖先調査から逸脱して、姻族調査の各個撃破が危ない理由。」

ありがとうございます。
自分でも、何だか渦の中の入ってしまい、抜けだせないような、いったい誰が私の先祖?なのか、解らなくなっていたのが本音です。

直系先祖調査への手掛かりは、やはり、平河家伝授巻の系図となるのでしょうか?
もう一つ、本音を言いますと、全体の大きな輪を調べていた理由の一つは、やはり、「師高」という人物の真実を知りたいと言う事です。
巧妙に隠ぺいされた事実が、どこかで、誤魔化しきれない「何か」を残していないか?
この頃は、この事に執着していました。
ですから、直接関係は無いであろう家系も調べていて・・でも・・
先人達の造り上げた分厚い壁は、私の様な軟弱物には、撃破する事は難しいようです。
何だか、本来の目的から逸脱していたようです。

もう一度、平河家伝授巻の系図をじっくり確認します。

ご教示本当にありがとうございました。
[80]白石さんからのコメント(2014年09月12日 02時32分02秒 ) パスワード



師高  私の故郷も師高所領。深田は師高の本拠地。深田には 高岡のお寺もあり 興味深いのですが・・・
ーーーーーーーーーーーー
話が変わりますが 腹違いの姉が言っていた 自分の母方の方は 殿様の侍従か何かしていたんだよ。やっぱ いいとこでないとできないんでしょ そんなの ということ。

姉の方の 家は 平江といいます。下益城郡守富(富合)にあります。8世紀ごろ肥後の国府がありました。いろいろな古墳がしゅうけつしているみたいです。アマテラスたちが生まれたところを 筑紫日向橘小門阿波木原といい 江田の地というが 江田船山古墳も近くです。今は 跡取りもなくなり 家は空き家状態です。高岡と平江の間の子が姉。平江には 山口から嫁。その 山口の男子と姉と結婚。父と先妻はいとこどおし。姉と義兄もいとこどおし。

山口から白石へ嫁。高岡から白石へも嫁。
つまり からまりが 濃い関係です。白石を見ると養子が入ったりしたりして いるけど やっぱり その前をみると くっついてきます。

その 姉が言う 母の筋。成松だというのです。戸籍では浅松です。また 成松はしげまつ でも あり、清原氏でもあり 清家でもあるようです。

父の手帳に書きつけてあった 木原・伊津野。
木原は 坂上系図に あります。そのあとに 山口。また 阿蘇氏文書に木原は源姓。山口県萩藩資料に 清和源氏の子孫の百姓の家の山口があると 書いてありました。

伊津野は 辞典に 簡単に 筑前にこの名があるとありました。

佐賀に鍋島家があります。
宇田源氏佐々木一族?とあり 長岡が始祖です。
長岡・・・岡成などいましたね。又 細川の通称は長岡です。
龍造寺家は 道隆流。高木流。
龍造寺家の家臣に 成松がいる。
又 瀬戸内海の方に 法華津氏がいて
 法華津城を持っていた。
清原氏から清家氏に名を変えている。
西園寺とか 河野とか 関与している。河野は 拝志系図に 伊藤博文がおり 西園寺や近衛を 両腕にしようと留学させた。河野の方に白石の名がある。

平城天皇は 復位に失敗したとき 拝志寺に入ろうとされた。お身内なのだそうだ。
あのあたりや 山口あたりは 維新後 政界入りした人たちが多い。佐賀もそうである。私の姉から受ける印象では うそではないようで、それならば 名前がかわっているのではないか? ということ。
浅松を苗字検索にかけても 熊本にはゼロ。今度姉たちも帰省してくるといっているので 見ておいで というけど、高齢の身では・・・
この 伊津野と 白石は 戸籍では 福岡(筑前は福岡)大きく つながり 父方をはさんで 私の母方 とを 眺めると 遡れば 歴史に沿った 話が出てくる。

すれば 
平井は 平氏になって大きな広がりを持っているのだが 
平江は 辞典ではわからない。
ただ 平 は ひら。たいら。
阿であり くまであり 王族も民も金姓。
百済。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
母の方の佐田のお寺様は香川氏。梶原の子孫。
萩野といういえについてこんな話がありました。そして 氷川町成松という言葉も。
 『尊卑分脈』では、鎌倉権五郎景正の孫景忠が大庭太郎と称し、その弟に景長があり、その子が梶原景時である。景時の嫡男は源太景季、二男が平次景高となて終わっている。しかし、『系図纂要』をみると、景高の子に景貞があって、それに荻野二郎と註記がされている。そして、これによく似た系図が★氷上町成松の荻野氏系図である。

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熊本県大津平川の淀姫神社
海神系ですね。
淀姫神社
菊池から阿蘇への古来の交通ルート上に位置する平川には、古くから多くの神社やお寺があります。中でも、この神社には、次のような伝説があります。

 「平安の初め、肥前(佐賀県)川上に「玉かづら」という有名な美女がいたが、ある時豊後(大分県)からとも、阿蘇からとも言われている忍びの者たちが、この美女を盗み出し、平川まで逃げてきました。「玉かづら」は、信仰する淀姫神に一心に助けを祈りました。すると、百騎ばかりの侍が現れて、忍びの者たちから「玉かづら」を救い出しました。そこに、姫の一族の者たちが追いつくと、百騎の侍はいなくなりました。これは、淀姫神のお助けであろうと、すぐに宮を建て淀姫宮と名付けました。また、侍たちの消えたところを百騎帰(杉水)といいます。」(『合志川芥』より)

 淀姫神社は佐賀県に多く分布し、淀姫(=与止日女・世田姫・豊玉姫)を祭神とする神社です。ここの淀姫神社は『菊池郡神社誌』によると、戦国時代に創建されたそうです。当時、この地域一帯は広く肥前の★龍造寺勢力と豊後の★大友勢力との対決の舞台となりました。伝説も、ここを舞台に肥前の勢力と豊後・阿蘇との関わりを示しています。9月の「願成祭」で子供相撲の奉納があります。11月の秋祭りには、平川合志神楽と浦安の舞が奉納されます。現在、地域の5つの地区が、交替で祭りのお世話をしています。また、一宇太鼓がここを拠点に活動しています。 
※成松の話にも 大友氏と戦う話 少弐氏との話があります。
この成松のことが もうすこしわかればと思うのですが。なかなか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大津という言葉から 滋賀県大津の平川神社をみて
やはり 海神系の神様で 日下部氏が出ていたのを見たのですが 今見つけても出てきません。今度 挑戦してみます。

すごくながくなって 申しわけありません。このスレッドは平川のことなので あまり書くチャンスもないと思って 一気に書きました。直接家系につながらないと思います。くだらないことを書いてしまいました。

[81]白石さんからのコメント(2014年09月12日 07時14分52秒 ) パスワード

平 ヒラ
 百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。

伽耶 - Wikipedia
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3 世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として 散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは...

弁韓なども含まれ 上伽耶 下伽耶などあり うがやに 通じていくようだ。
[82]白石さんからのコメント(2014年09月13日 20時26分25秒 ) パスワード

こんばんは
IPS細胞を使った眼の治療が成功したニュースを見てうれしく思いました。

そして
過去に 同じ病気にかかっている人のブログでテストになってもいいから 治療を受けたいですという人の 言葉を思い出していました。

たくさんの人の お役にたったらどんなに よいことか と 思います。

そして
子孫様の このスレッドを建てるきっかけの一つに 難病にかかっておられる弟さんのこと
遺伝ということで それも 祖先追及の一つの 原動力になっているようだ と思って 

うちも 高岡 平川のからまりがあり 
なんだか うちの 一族のつながりは 歴史のはるか 昔から からまりからまり時代をおりてきたようだ 

と 思い 
どの家を見ても 嫡流ではないようだけど
もとは 武士だったようで 
しかも 
はるか 古代から続いているような絡まりがみられる
と思って 子孫様のコメントをみながら 私の家のことも 探しておりました。

[83]子孫よりさんからのコメント(2014年09月13日 23時07分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、沢山のご教示本当にありがとうございます。
コメントが遅くなりまして、申し訳御座いませんでした<(_ _)>

実は、11日早朝より、娘と九重に行きまして、すごく綺麗な景色を堪能したのですが、薄着をして出かけてしまい、想像以上に涼しいと言うよりはちょっと寒くて・・風邪をひいてしまいました(@_@。

翌日より、咳と頭痛がひどかったのですが・・
この3日間、朝早くより、一日中頭上をヘリコプターが何機も飛んでいて、ものすごい音でして・・横になっていても眠れませんでした(@_@。
(ヘリコプターの音に近所のカラスが反応して、大合唱していました)
何で、ヘリコプターが?と言いますと・・あの「場所」に家が近いのです。
実は、務めていた時は、近道をする為に、その「場所」の前を毎日自転車で通って、何年間も通勤していました。(娘からは無謀な女と呼ばれていました・・)

現在の小倉(家の近所)はと言いますと、夜が静かです。(誰も外をうろついていません)

それはさておき・・・

コメント出来なかったので、御心配をおかけしてしまったのではと思いまして・・

すみませんでした。

身体は丈夫な方ではないので、健康管理をしっかり行います。

今日はかなり回復致しました(^・^)

やはり、原点に戻り、まず、「平河師澄」について、しっかり調査をすべきだと考えました・・
気になる情報があったので、明日、コメントします。

「大津平川の淀姫神社」についてですが、
「平川家について12」 コメント58での調査「源氏物語・玉鬘(たまかずら)」をもう一度ご覧ください。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_93.html

じつは、今日、面白い情報を見つけました。
源氏物語で「玉かづら」にしつこく求愛していた「大夫の監」のモデルとなったのは「藤原政則」だそうです。菊池則隆の父と呼ばれている方ですね。

平河は菊池経頼を頼って「安則」が肥後に下向し、山本に住したとありますから、物語の中にも、何かヒントが隠されているような気がします。

淀姫神社は「9月の「願成祭」で子供相撲の奉納があります」と伺いましたが、私も、子供の頃、十五夜に子供相撲を行いました。(以前もコメントしたと思います)すぐに負けるので、毎年「何で子供が相撲を取らなければいけないのかな??」と不思議でなりませんでした。旧岡原村の宮麓地区だけかと思っていたので、「願成祭」の情報は、驚きました。(熊本は相撲に縁があるから??)
白石様のご実家の地区ではどうでしたか?
それと、沢山の藁を集めて縄を作り、綱引きもしていました。
あと、各家々を回って「何かをした」ような・・思い出せません(__)
その時何か言葉を叫んでいたような・・コレマタ思い出せません(相撲を取らなければいけない憂鬱な気持ちが、記憶を消し去ったのかな?(ー_ー)!!)

さて・・
元気も出てきましたので、早速調査再開です。
大変、御心配おかけ致しました。
では<(_ _)>(^・^)
[84]白石さんからのコメント(2014年09月13日 23時44分05秒 ) パスワード

腹違いの姉のことで
成松だといいはる と かきました。で
松 松 苗字が変わっても 一字はおなじのを使うみたいだと 過去の 経験で思い
勤王 侍従 などから 一度 公卿辞典で検索してみようと 見てみました。

母方の 祖父と同じ名前の人など過去に 見た 公卿辞典であって 
公卿と呼ばれる人もこんな 庶民的な名がついていると 思って ・・・


松を探したら
概要-武家-歴代当主-系譜
日本華族爵位事典 - nifty
徳大寺家, 公爵, 公家, 清華家公家, 明治44年4月21日, 明治17年7月7日, 徳大寺 実則. 西園寺家, 公爵 ... 中御門家, 侯爵, 公家, 堂上公家, 明治21年1月17日, 明治17 年7月7日, 中御門 経之 ...... ★玉松家, 男爵, 公家, 公家, 明治17年7月8日, 玉松 真幸.

玉松と思って打ち込むと
山本
【やまもと】

本姓:藤原氏。華族類別録第五十四類。 新家 内々 九条家門流

藤原北家閑院流。★阿野実顕の末男勝忠を祖とする。 ★山本家譜によると、後水尾天皇の勅命で一家を興したとある。 勝忠の養子実富が、西園寺実晴の猶子となった為〔知譜拙記による。華族類別譜では、勝忠が実晴猶子〕、 西園寺家庶流ともされる。
河内道明寺天満宮伝奏〔雲上明覧大全文久元年版巻末〕。

明治2年には、従四位下★侍従公弘の次男真弘がおこした玉松家が堂上家となる。ー嗣子玉松真幸(山本から養子)が男爵に叙された。

私の母の実父の山本
祖母(佐田)といとこどおし
母に言わせたら放蕩の限りを尽くした人で 祖母と喧嘩別れして 晩年 母を連れに来て 
行かないから しまいには ごうを煮やして つながっているもの全部を連れて行こうとしたくらい ある意味 その時点では 財力もあった。
山口県の人だが 下益城郡や別府にも住んだことがある。
で なんで 下益城郡と ずっと思っていたけど そしてそこは 姉の母の実家があるところだけど、 言葉つながりだけで 見ても ○松を介して 全体に収まってくる。

夫の笹井とは私は縁もゆかりもなく結婚したけど
辞典で 笹井を見ると 
信州篠ノ井に戦敗した笹井兄弟が 岡山に走り 森候入国に際し出でて仕え・・・とあり

山本家の従者にこの氏あり
とある。

笹井には 西園寺実氏につながる系を伝える福島神宮の社家があり
今 類別譜にある 山本を 見ると 西園寺家流の山本がある。

また 山本義経が 松浦水軍を育てた。山本義経は 枇杷殿であり 八条院に候とあり
候とは 仕えたということか?
源平の頃 皇后は 閑院家から出ており

両院並立のもととなる天皇を生んだ人も 西園寺で 以後代々皇后は 西園寺から出た。
一方
山本からは
阿野 一条 姉小路 など出て くる。子孫様のコメントにもあった言葉。













[85]白石さんからのコメント(2014年09月14日 00時40分50秒 ) パスワード

子孫様 
お体大丈夫ですか?
一気に秋がやってきましたね。体がついていきません。

祭りのとき 相撲は子供もやっていましたが 女子は? 記憶にありません。というか 私は 小学の低学年こそ 走るのも早く一番になったりしましたが、高学年以上になるにつれ 今考えると 少し小太りしていましたので 体操は あまり という 感じでした。かといって まるで駄目 というわけではなく
昔あった 健康優良児も地域で 選ばれていたので 性格的に 文学系だったのか?

神社仏閣なども 原点に立ち返って訪れてみれが その地域で 素朴に守ってきたいろいろなことが 見えてくるのですね。

小倉
娘が学卒で初めて 勤ころです。こわいところなのですか?
今振り返ると ぞっとします。
住宅地の中に住むところを借りたのですが(繁華街だと商店がしまると人けがなくなるのではないか )と思って。
でも 後で 訪れてみたら 夜は 暗くて・・・

職探しをしているとき あんなに私が 女の子は家から通えるところがいいんじゃないか?といったのに ・・・ と思うけど、言えばいうほど 子供は逃げていくのですね。北海道に行くだのなんだのと困らせたりもして・・・今は横浜なので 少しはほっとしているのですが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雑談ばかりですみません。

玉松になる 阿野家

http://jiyodan.exblog.jp/7958056/
【阿野廉子(あのかどこ)】
http://jiyodan.exblog.jp/7958120/
源義経(牛若丸)の同腹の長兄・阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、正に北条氏に殺されたのである。北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚する。
(腹違いの兄は源頼朝、源範頼)、

全成の娘は藤原公佐(滋野井実国の養子、実父は藤原成親)と結婚しており、その子実直は母方の全成の名字を称し★公家としての阿野家の祖となっている。後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。また、幕末に活躍した玉松操もこの阿野家の末流に連なる。

後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)は上相良に走ってきて勢力を盛り返し京へ馳せかえり
足利尊氏は福岡たたらの浜に走ってきて勢いを盛り返し京へ馳せかえった。
たたらの浜にいた相良氏は人吉相良氏の同族で 大内氏の家臣。

南朝のことが 上村免田あたりで あるなと 思っていて なんか よくわからなくなり 北朝かしらん と 思うようになった と 過去に書きましたが。
あのころは 五摂家も真っ二つになって争っていましたからね。

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/02/post-5249.html
玉松操は
王政復古の勅(ちょく・天皇のお言葉)を起草した人で
王政復古の勅(ちょく・天皇のお言葉)を起草する時に、その官職や制度のベースとなる物を、かの後醍醐天皇の建武の新政(6月6日参照>>)にではなく、初代・神武創業にするべきと岩倉にアドバイスし、自ら書き上げた格調高い文面は、居並ぶ公卿や大名のド肝を抜きました。

錦の御旗も操のデザインで
玉松がデザインした、現在に伝わる菊の花をあしらった物を3ヶ月ほど前から準備し、薩長軍の切り札として、ギリ、鳥羽伏見に間に合わせたわけです。



[86]子孫よりさんからのコメント(2014年09月14日 06時55分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

まず・・・
小倉ですが、住人の私から見ると、怖い所ではありません(ー_ー)!!
ぞっとしないで下さいね(^・^)

私は、北九州は大好きです。(九州以外に住んだ事はないのですが・・)
久留米・博多と住んでいますが、北九州という街は、私の性格にぴったりと合っていました。(勤務地は久留米・博多・北九州となりますが・・博多の勤務は長かったです)
もちろん久留米も博多も好きですが、何と言うか・・久留米・博多は女性の自己主張が強い街だったかな〜。(男性が強いイメージがあると思うのですが、それは女性に支えられているからかと・・)それはとても良い事なのですが。
でも、私はどちらかと言うと、マイペースでポワ〜っとしているので、あまり、他人に口出しをしない、北九州の方が逆にホッと落ち着く感じです。

それから・・
全国の方はあまり御存知無いのかも知れませんが、北九州は、普段みなさんがご覧になっているテレビドラマや映画の撮影が頻繁に行われている街なのですよ。
普通に見ていて「東京」と思われている場所が、実は「北九州」での撮影と言う事はとても多いと思います。

例えば、この頃で言うと、TBSとWOWOWの共同制作だったMOZUというドラマは大半は北九州で撮影されています。
ドラマ最初の繁華街爆破シーンは小倉井筒屋前です。本当に街の一区画を爆破されたかのように、変えて撮影されていました。
繁華街でのシーンは東京に見せかけているけど殆どが小倉です。ファッションビルでの追跡などもありましたが、それも小倉。
海や山も登場しますが、北九州の海で、なお且つ、山のシーンは小倉の森林公園で行われていました。(妙見宮のすぐ近くです)
このドラマだけではなく、先日NHKのドラマを何気なく見ていたら、戸畑の若戸大橋が写っていたので「あれっ??ここ戸畑?」と・・

皆様が何気なく見ているドラマや映画で「東京」と思われて見ている景色は、「実は、北九州の風景だった」と言う事はかなり沢山あると思いますよ(^・^)

何せ北九州市(自治体)が全面協力で行っていますから
北九州フイルムコミッション
http://www.kitakyu-fc.com/

撮影支援実績
http://www.kitakyu-fc.com/location_archive/index.php

と言う事で、白石様、「ぞっ」としなくても大丈夫です(^・^)
まあ・・確かに、一週間に1回は、全国のニュースで何かしら名前が出てくる街ではあるかもしれませんが・・

私は、この街が好きで27年住んでいますが、でも、今年中には故郷の球磨に帰る予定となっています。
今のうちに、北部九州・中国地方を堪能しておこうと思う次第でございます(^・^)

本日のご教示も大変面白かったです。
本当に色々御存知ですね。感服いたします(__)

足利尊氏の九州下向の際は、以前「平川家について12」コメント56でご紹介したように、http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_93.html
「橘佐渡弥八公好」について
「建武三年(1336年)、京都での合戦に敗れて足利尊氏が九州に下向した際には、公好は四月二十日に球磨郡を出発し、尊氏の上洛に供奉した。」
とありました。

しかし・・
「なお同じ橘佐渡氏の中でも公好と敵対した人物として橘佐渡八郎の名が見える。
また、観応擾乱時に直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公がいるが、彼は八郎の系譜を引く人物であろう。」
とありますので、私「宮原」の先祖「橘」も南北朝の戦の際は二分化して、戦ったようです。(色々な理由は今後、多分、平川の調査にも係わってくるような気がしています)

伺ったご教示を、私も勉強しますね(^・^)

肌寒い朝でしたが、お風邪などひかれないようにして下さい。
(自分はひいてしまいましたが(@_@。)
では<(_ _)>(^・^)
[87]管理者 aさんからのコメント(2014年09月14日 12時16分49秒 ) パスワード

レス数が90に近づきました。
キリの良いところで新しくスレッドを立ててください。
[88]子孫よりさんからのコメント(2014年09月14日 12時59分28秒 ) パスワード

「平川家について16」を立ち上げました。

今回のスレッドもあっと言う間に90に近づいていました。

ご教示を沢山頂きましてほんとうにありがとうございます。

今後ともどうかよろしくお願い致します。

「平川家について16」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101373.html
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