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文献検索・・・彦島城について記載されている文献を紹介します。

その1

「彦島あれこれ」富田義弘著(あかまがせき書房)
 彦島城趾を追い続けておられる郷土史家富田義弘氏の上記著書においては、数ページが彦島城趾に関する記述に割かれており、ご自身の彦島城趾に関する考えの他に多くの著書の記述を総括してあり、非常に参考になりますので、その32ページから引用します。

 昭和47年、NHKが年間を通じ放映した「新平家物語」は、その最終回で、海峡の彼方に横たわる彦島丘陵の背に、ゆっくりと沈んでゆく血のような夕日を映した。
 寿永3年(1184)秋、平知盛(とももり)が築いた彦島城は、別に引島城とも根緒城(ねおじょう)とも呼ばれたが、その規模や所在については全く解らないままになっている。
 ただ、一般には「江ノ浦の丘陵であろう」と言われているが、構築規模についても「竹矢来をめぐらした砦」という推測に過ぎないようである。
 しかし、源範頼(のりより)は長門の厚東(ことう)氏を味方に加え、彦島を攻めようとしたが果たさず、九州の豊前筑前などを平定して、後方からも攻め立て、彦島の平家を孤立状態にしようと焦ったが、これも思うに任せなかったという。それはやはり、平家最期の拠点として、また、長門守護職をつとめていた知盛にふさわしい城の構えだけは急造していたと見るべきであろう。
 城がいったいどこにあったかと言うことも、800年前の彦島の地形と、周辺の岩礁や潮流を再現し、今に残る地名などを考え合わせれば、それはただ江ノ浦のみにとどまらず、小戸、海士郷、老、本村、後山、長崎と続く東部丘陵すべてに築かれていたように考えられる。又別名「根緒(ねお)城」についても、文字による書き間違いがそのまま誤って伝えられたのではないかと思われるふしもある。つまり「根諸(ねごろ)城」と書くべきところを「根緒(ねお)城」と誤って書き誤ったのではないかと私は考えるのだが。いずれにしても皆目分からないことを調べ上げ、推測するのはもどかしいが、実に楽しい。
 下関、郷土の文化を守る開会法10号にこのような駄文を書いたところ、「根緒城が根諸城とは根拠は何か」と、何人かの人に尋ねられた。しかし私は、あえて答えない。
 限られたスペースでは、とうていそのことに触れられないし、わかりやすく解説するには、当時の地形や新旧織り交ぜた地名なども引っぱり出さねばならないからだ。また、古文書の場合、草書による書き違い、読み違いもある。「引島」を「外島」とした「類聚国史(るいじゅこくし)」はそのよい例であろう。そういった意味から私は根緒城も根諸城の誤りではないかと推測しただけである。今、地名だけを羅列すれば、伊崎の王城山はオドロ山と呼ばれ、海士郷や老にはネンゴロ峠(だお)、ネオロなどがあり、長崎町はナガラ崎と呼ばれていた。これらの共通点をたぐり、伊崎の根嶽ノ岬(ねだけのはな)も根獄ノ岬(ねごくのはな)の誤りではないかと考えてみれば、やはり前述のような結論に達するのだが。

「かくて、たびたびの合戦に官兵方(源氏)常に敗れおわんぬる。その上にも知盛卿、彦島に堅固の城を構えらる。参河どの(範頼)もぜひなく、豊後の地へ渡られ、しばし態を御覧是らるるやの由にて候。

 寿永3年(1184)秋、源氏方の将土肥次郎実平が、義経へ宛てて書いた飛脚文の中にこのような一節があるという。また平家物語には「平家は長門国引島に著ときこえしかば」と書かれてあり、源平盛衰記には「新中納言知盛は長門国彦島と言うところに城を構えたり。これおば引島と名付けたりとありて、彦島とも引島ともいえり」とある。

 これが前後の彦島城に関する記述で、頼山陽はその築城を、その築城を寿永4年の春としている。つまり、彼の大著「日本外史」には「わが軍敗れ、還る。宗盛以下、日々、悒々として楽しまず。(略)明年春、知盛、長門の引島に城きて、門司を扼す7」と述べている。
 いずれにしても、この城は、敗走に次ぐ敗走の慌ただしさのなかで築かれた平家最期のよりどころであった。しかし土肥実平の手紙には「堅固の城」とはっきりと書かれてある。とすれば、通説の「竹矢来をめぐらした程度の砦」ではなかったかも知れない。
 またその城がいったいどこに建てられていたか、と言うことも「山口県風土誌」の巻第206には「旧跡詳ならず。蓋し城野という山あり、是なるべし」と書かれているが、その城野さえも、今では解らない。「下関古城趾史話」を繙いてみると、徳見光三氏は「老ノ城趾」が彦島にあると書いているが、それが現在の老町か老の山か、これも同氏が物故されたので解らない。また「防長地名淵鑑」にも「城野山、蓋し知盛の城跡なるべし」とあるが、これも「山口県風土誌」を参考にしたのであろう。
 ところで吉川英治の「新平家物語」は、「彦島砦の中心は、福良にあった。知盛はそこの陣館から付近を、みかどの御所と、兄宗盛の守りにゆずって、自身は勅旨待の柵へ移っていた。また、小瀬戸と対岸伊崎の口は新三位中将資盛(すけもり)が柵を構えて守っている。その他、田ノ首、泊、江ノ浦などの要所要所にもそれぞれ皆守備と兵船が配されて彦島全体を一つの城塞としていたとのはいうまでもない」と書いているが、おそらくこの説が正しいようである。
 小説と言ってしまえばそれまでだが、源平合戦を取り上げ、調べ上げた数多くの書物の中に、平家最期の城を、これほど綿密に探り当てた記述は見つからない。
 解らないものは触れずにおこう、という姿勢は、歴史を研究する上にもっとも禁物だ。