■■■■ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い その2

ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い
その2

−文学の世界から見た彦島−

■イントロダクション■

講師
元下関市市立図書館館長 野村 忠司 氏

1998年2月21日
於塩浜町民館
主催:彦島第五自治連合会

彦島の文学

 彦島に関する文学で一番大きな物は源平に関する物になってくるかと思います。特にこの彦島というのは平家の里と言われていることからもわかりますように平知盛卿の所領地で、屋島の戦いで敗れて彦島に参りまして砦を築いた、これは、物の本には根緒城(ねおじょう)と書いてあるのですがどこに作られたのかわからない。私はやはり天然の良港がある福浦かなぁと思ったりするわけです。平家はそこから船出を致しまして、当時の田浦に終結しまして、源氏の方は長府の沖合の満珠干珠の方に布陣して戦いを行った、これが源平最後の壇ノ浦海戦になってくるわけです。

 それは平家物語の中に「平家は長門の国引島にぞつきにけり」、というのがあるわけでなんです。これは、この彦島は引島といっておりましたね。引島。これが何で彦島になったというのは要するにずっと引島できていたのですが、幕末、今から130年前くらい前、外国軍艦が関門海峡を通っていくのでそれを長州藩は砲撃するわけなんですね。その前に、砲台を作ったわけ訳なんです。彦島では竹の子島の砲台とか、山床の砲台とかがるわけでなんですが、砲台を築く、そして、外国軍艦が入って来て攻撃をするときに引島に台場を築くなんて、引島では退却の意味があるわけですから、それはマズイという殿様の命令でそれまでにもいわれていた彦島に統一されました。

spe6_1.jpg (27244 バイト) この彦と言うのはどういう意味があるかというと、「日子」これは「ひこ」といったり「ひのこ」といったりしますが、これが語源なんです。この意味があるわけです。「日の子」というのはお日様の子供のことですからどういう意味があるかというと、男の子、男子一般ですね。男の人の美しい呼び方だったんです。それともう一つ、人徳のある方、という意味がありました。じゃ、女性は何だというと、「日の女(ひのめ)」つまり「姫」の意味合いがあるわけです。日の女というのは美しい女性の呼び方なんですね。ですから、この彦の中にはどういう意味があるかということを考えていただくと、彦島に住むことに誇りを持っていこうという気分になるのではないかと思います。

 平家物語というのは私も好きなんでその一節を語ったりするわけなんですが、つまり源義経の戦略で、それは舟戦ではタブーになっている訳なんですが、船をこぐ人とか舵取りをする人を先に源氏の兵は矢で射殺すわけなんです。そうすると船の自由が利かなくなって右往左往しているところに乗り移るという、義経の戦法だった訳なんです。そこで平知盛卿が登場してあの有名な「見るべきほどのことはみつ、今は自害せん」と手鎧2鋲を着て壇ノ浦に沈んでいくという、これが壇ノ浦の平家物語のハイライトの部分なんです。ここで実は安徳幼帝が二位の尼に抱かれて海の底に沈んでいくということになるというのが平家物語なんです。

 それからもっともっと大昔のことを言うと、仲哀(ちゅうあい)天皇、神宮皇后のことになると思います。神世の時代になります。仲哀天皇と、日本書紀の世界ですが、神宮皇后さんが長府に豊浦の宮(とよらのみや)を作られました。何で下関の長府に豊浦の宮を作られたかというと、これは仮の宮殿なんです。仮の宮殿をどこに造られたかというとおそらく忌宮神社さんがありますよね。お祭りでは数方庭祭、竹竿を持っての堀を持って境内を回る、女性と子供は切り子という短冊を持って境内を回る。どこを回るかというと鬼石というのを回る。じゃ、鬼石って何だろうかというと、敵の酋長、豊浦の宮まで敵の酋長が攻めてきてこれは危ないぞというときに仲哀天皇が弓を引き絞って敵の酋長を射殺す訳なんです。そしてその首を取って境内に埋めてそれが鬼石なんです。石の表面に人のような鬼のような模様があるのが鬼石なんです。

 その周りを竹竿を持って回ったり切り子を持って回るというのは勝利のお祝いなんですね。そういう日本でも珍しい、天下の鬼才といっておりますけれども、そういう数方庭というお祭りが8月に1週間くらい行われています。この仲哀記に仲哀天皇が豊浦の宮から、香椎の宮に行くときに、誰が迎えたかというと、イトノアガタノヌシノミヤイソトデという人が仲哀天皇をお迎えして今の彦島八幡宮、宮野原にお迎えした、というのが日本書紀なんです。こういった具合に文献では日本書紀、平家物語に実は彦島が出てくる。ということになります。

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 今日は、吉田松陰の廻浦紀略(かいほきりゃく)ことをいっしょに勉強したいと思います。廻浦紀略というのは吉田松陰が彦島を歩いているんですね。いつ歩いているかというと嘉永2年に殿様の命令で20日間山陰から壇ノ浦のあたりを歩いているんです。このころになると外国の船が日本の沿岸にまで来るようになっています。徳川幕府は鎖国をしていましたけれどもオランダだけは長崎の出島を一つの社会にして貿易をやっておりましたからいいんですが、その他のロシアの軍艦、アメリカの軍艦などと言うのはぼつぼつ日本の沿岸に見られるようになってきた。で、これではいけない、日本はあくまでも鎖国なんだからということで、1846年「海防の勅諭」という海の守りをきちんとしなさいよという朝廷からの命令が幕府に出ています。幕府はそれを各藩に通達しました。長州藩におきましてもその翌年なんですが外国船防御をしなさいよという指示を出しています。これは1847年4月のことです。5月に防長の沿岸の防御を考えなさいよ、という司令を出しています。したがって、これに従って吉田松陰が各地を巡視したその記録が「廻浦紀略」なんですね。

まえがき
 廻浦紀略は嘉永2年(1849)吉田松陰が二十歳の時、藩主の命令できた浦改変の防備、人情などの視察をしたときの日記である。北浦というのは広く石州(島根県)との国境から長州(山口県)の赤間関(下関)までの来た海岸を言うのであるが、ここでは、現在の下関市関係のことだけを取り上げた。

北浦の巡視
廻浦紀略より

 長い徳川三百年の専制政治に飽いた国民の中から、政治を天皇中心に復帰させ、幕府を倒そうとする尊皇倒幕の思想が芽生え、折からの海外の事情も切迫し、段々と国の内外が騒がしくなってきた頃のことである。長州藩でも万一に備えて、海防のことが協議され、戦術に携わる兵学者達、道家左エ門、多田藤五郎らとともに、吉田松陰も加えられ、北浦海岸の巡視を命じた。嘉永2年6月19日に「このたび、御内用の趣これ有り、北浦当たりの巡視仰せつけられ候に付き、組み並びに諸役を免ぜられ候うこと(北浦の巡視をしなさい。その他の仕事は免除しますよ。という殿様からのお達し)」という松陰宛の命令書が届いた。松陰が二十歳の時のことである。

 何で二十歳の吉田松陰にこのような重要な命令が下ったかというと、吉田松陰は学者なんですね。十二、三歳の頃から藩の偉い人に対して講義をするような、そんないろんなことに秀でた人で、殿様の思いも人一倍強かったと言うことなんでしょうね。

 北浦巡視を命じられた松陰ら一行は城下の萩の港を出発して、はじめ石州(島根県)との国境から見て回り、嘉永2年7月4日、再び萩を出発して20日間の日程で、大津郡、豊浦郡から、赤間関に至る沿岸を巡視することにした。このときは松陰の先生である飯田猪之助も同行した。

7月14日
 朝早く宿を出て、特牛港(こっとい・豊浦郡豊北町)から船に乗って出発した。この間、矢玉から、二見、湯玉、小串と巡視して、蓋井島(ふたおいじま)に着いた。御番所役今永大五郎、里正(りせい・村長)松本五郎左衛門が船着き場に出迎えた。二人に案内されて、金比羅山(今は発電用の風車が立っている・1998年時点ではもう無い。現在は海底ケーブルで電源が供給されている)の台場(砲台の据えてあるところ)に上がって、はるかに沖を眺めた。台場のある山頂は大変高くて、大海に面している。台場の上を持って的を立てる「せきた」はまだ築いていない。ただふたつ石を置いてその位置を表しているだけだった。
 この島は長府藩の領地だが、本藩の萩から番役を派遣していた。番役は二人で、一人宛六十日詰めの交代勤務である。島には人家が19戸(現在1998年は34戸160人)で、その歳入は十石である。
 明神、八幡、金比羅の3つの祠があり、また流罪人を収容する獄舎もある。島全体に樹林が密集していて蛇が多いと言われる。

 蓋井島は離れ小島ですから流罪人が入居している流すところがあったわけなんですね。

 ここから吉母に渡って泊まる予定であったが、潮流の関係で海老屋浦(吉見)に向かうのがよいということになり、船上から狼煙場(のろしば)になっている大谷頭や鬼ヶ城の高い山々、そのふもとの吉母の海岸を遠くに眺めて過ぎた。吉母浦は人家がおよそ6,70戸で、白壁のある大きな家はわずかに2軒である。
 吉見浦に上陸して泊まったがこの浦は海老屋浦と隣り合って一つの港になっている。人家はおよそ140戸。海老屋浦は50戸ばかりである。

7月15日
 朝が早かったので船に乗ってからまた一眠りした。安岡まで来て目が覚めた。安岡の浦里は栄え、白壁の家が多く見える。

 安岡浦は農業・漁業を中心としてこのころから栄えていました。小さな船で東シナ海まで行って魚を捕ったり魚を輸入したりということが盛んに行われていました。

 眠って過ぎた間の地勢をたずねると、吉見から十町ほどの間は人家も田畑もない海岸でそこから安岡までは人家が散在していて、ちょっと伊上村(いがみむら・大津郡)に似ている。安岡から赤田村(あかだむら・川中区垢田)の出崎(でさき)まで十町あまりは砂浜で、それから先の海岸線は絶壁続きで前ケ浜(武久か?)の川に至るまでは皆同じに険しく前ケ浜から小瀬戸までもまた同じ地勢だときかされた。
 舵を転じて六連島につき、台場に上がった。御番所には郡司十左衛門が在勤していた。島の人家は60戸にも満たなくて(今はもっと少なく42,3戸210名)石高も40石に足らない。ただ桃の木だけは多く植えてある(現在、特に桃が特産品というわけではない)。御番所を出て遠く安岡のえびら山を眺めた。

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 伊崎から出る漕船はみな三ツ星(毛利の一に三ツ星)と桐の紋章の付いた本藩の小旗が立ててある。漁船とかねて軍船にも用いるからである。船で筑前(福岡県)の若松を右に見て南風泊に繋泊し、小舟で竹の子島に上陸して一の台、二の台、六の台の台場を見た。六の台だけがせきたを築いていた。足軽(身分の低い武士)の番社があった。ここを見てから小舟に乗った。島の人家は23戸あって石高は六石五斗である。どの島も甘藷(かんしょ・サツマイモ)を植えているがこの竹の子島はことに多い。
 引島(彦島)に上陸し、獅子口の台場を視察した。島の形勢は、蓋井、六連の二島が瞼しょう(険峻の誤りか?)で竹の子島は平坦である。九つ時(正午)少し下げ潮になったのでいかりを上げて引島の外側周りで船を進めた。

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 前小島(舞子島・現在は埋め立てられてない)、江ノ浦に着いた。島には海岸に岸壁がそびえ、浦の浜手は二町くらいある浜手が終わって福浦まではまた山脚が海に浸って瞼岨である。右の方、関門海峡の対岸の小倉を見ると人家の大小や樹木の粗密までが手に取るように近くに見える。福浦の入り口左肩の金比羅山に灯籠堂があり、九州から来る船が夜間海峡通過の際の目印にする。
 田ノ首を過ぎ、成瀬(なるせ)の内側を通る。田ノ首の数十戸はだいたい粗末な茅屋である。
 右の方(海峡の対岸の)豊前の国、内裏(門司市大里町)の人家を見ると、その浦里の距離はおよそ十町ばかりもあるようだ。その浜手の松林の間に長崎奉行の御用屋敷、小倉の御舟倉、また九州の諸藩の関(下関)へ渡る舟などがずらりと並んでいる。

 ここで勉強になるのは平家物語では豊前の国大里というのは彦島に砦を築く前に一度九州の方に平家は行ってるんですね。でも、九州も源氏の勢いが強いのでまた屋島の方に戻るわけなんですよ。仮の御所、安徳帝がお住まいするのが内裏、これが大きな里という漢字になって大里、北九州の門司の方もそういう平家物語伝説というのはいろいろあるんです。柳の御所とかですね、柳ヶ浦。そういうのは平家伝説の地名が残っているんですね。

 与二兵衛が瀬は満潮の時は水底に没するのでその上に石を積んで船舶が通航するときの安全のしるしとしている。

 これは明治になって取っ払われましたね。この与二兵衛が瀬に立っていた石碑が下関にあったのですが、今は北九州市の郷土史家が今、和布刈の方に持っていって立てていますね。そんなことで、下関側は第四港湾、いま取っ払ってあそこに観光市場を作ろうとしていますが、その一角に与二兵衛が瀬を復元してあります。

 巌流島を左に見、豊前の芽刈(門司市和布刈・めかり)の明神の祠を右にと遠く見て、海峡を亀山八幡宮の下まで行き、舟の方向を変えて引き返し、竹崎で着船した。亀山から竹崎まで町続きを歩くとおよそ一里と言われる。
 本藩領の伊崎の人家は、以前には三百戸ほどもあったが、長府領と網代(あじろ・魚の取り合いこ)の争いがあってからは生計も苦しくなり、人家はだんだんと減って今は二百五十戸ばかりである。
 関屋松兵衛(伊崎でつけ舟業を営んでいた)宅を宿とし、入浴後、町筋を通って会所(新地会所といい、今日の上新地町にあった)をたずねた。物頭役林八右衛門、三浦与右衛門、八幡改方(ばはんあらためがた・抜買改役ともいい、密貿易を取り締まる役)吉田久左衛門の小屋に行き、帰って宿で寝た。夜、物頭、八幡方、検使、筆者役らがやってきた。

 関屋松兵衛というのは伊崎の厳島さんの前に表札が立っています。関屋松兵衛宅跡と書いてあります。そこには吉田松陰がここに泊まりましたよといういわれが書いてあります。今でいうパイロット、水先案内人、それから宿屋もやっていた、ということなんですね。ですから、この貴重な関屋松兵衛宅跡と言うのは吉田松陰を考えるときにかなり大事な史蹟になっている所なんですね。


spe6_6.jpg (18712 バイト)7月16日
 小舟出てで福浦に行った。伊崎から二里あまり。金比羅山に登って灯籠堂の側にある台場を検視したが、まだ台場は築いていない。自分は好奇心から灯台に登って燈箋をのぞき見、油銭の出所をたずねてみたところが、案内人が「船舶が多く繋泊したとき、求めて出してもらうのです」といった。この祠の側に文政10年(1827)に作られた長府の儒学者小田圭の碑文があった。

 あの福浦のところを俯観台といいますが、ここから見た福浦湾の景色がいかにいいところかということをこの学者である小田圭、名文家ですね。

その祠に登る石段はまだすっかりできあがってはいなかったが、できているところを調べてみると新旧の石が混じっている。少しずつ工事を進めて仕上げに至る作業のようなもので、たずねてみると思ったとおりだった。灯籠の油銭と同じで、その時々繋泊中の船舶からの寄付金によって作られるのだという。すでにできている石段だけでも百六十余段もある。完成したら二百段ばかりにもなろうという話である。一段の高さを七寸として計算すると、直立十四丈(43メートル)の高さになる。

spe6_7.jpg (17596 バイト) 福浦を出船して田ノ首に着く。山床の鼻(山底の鼻)にある八幡宮(田ノ首八幡宮のこと)の上の台場を検視したがまだ築造に着手していない。田ノ首の田地は数区に別れ人家は七十戸あった。

 船に乗って巌流島に渡った。この島は佐々木巌柳(巌流)と宮本武蔵が剣を争い、巌流が打たれて果てたというゆかりの地で、巌流の墓がある(これは巌流島にある龍神・地神の石を巌流の墓と吉田松陰が思ったものと思われるが、この石が巌流の墓かどうかは不明。ちなみに現在一般に知られている巌流の石碑は明治40年に作られたもので墓とは関係ない)。ここでいったん宿に帰り、昼食を取った。
 また小舟で出て、小瀬戸(俗に小門ともいう伊崎と彦島の間の狭い海峡で、今は埋め立て地続きとなり、入り江を利用した恰好の漁港となっている)を通って、西山の番所に行った。砲術家の山県東馬(やまがたとうま)と中村寮平が在勤していた。兵器庫が二つあったので中に入って大砲を検視した。終わってから船に乗り、尾衛(おえ・彦島老の山)の台場を見た。山頂でのさんたの築造が着工されていた。
 西山に行くまで小瀬戸の流れは順潮ではなかった。さて船で帰る段になると月が出、潮は満ち逆潮となった。だが小舟は本土(伊崎)の物で潮流や岩礁の状況に詳しいから渦巻く逆潮に誤って押し流されたり岩にぶつけたりするようなことは全くなかった。

7月17日
 船で亀山、壇ノ浦の台場をあらため、上の山(火の山?)を仰ぎ見た。壇ノ浦は寂しい小さな浦里で人家が三、四十戸もあろうか。この近くの山頂に灯籠があるが福浦のに似ている。

 この灯籠は下関の伝説で今、日和山公園にありますつかずの灯籠のことを言うんです。この灯籠をその当時騎兵隊というのがありました。これは高杉晋作が作りました。もう一つは長府藩で作った報国隊というのがありました。この報国隊が灯籠を立てようとして大八車に乗せていくときにある料亭の角にぶつけて料亭のおやじさんが出てきて「お前ら何をするか」と文句を言ったところ、報国隊はやにわに刀を抜いて斬りつけて殺してしまったそうなんです。それで、灯籠を予定地に持っていって点けようとしたが点かない。それが明治になって昭和になって、昭和の8年に日和山公園に灯籠を持っていってそれがつかずの灯籠となって今でも立派な灯籠があります。

 対岸の門司に渡り城山の麓に船を寄せて潮流が航行に良くなるのを待つのに数時間かかった。昼食をすまし、海上をあれこれと見て、福浦の手前まで来たが、潮がすでに落ちて船を進めるのにさんざん苦労した末、とうとう進むことができずに、引退いて帰った。海峡の潮流は起るときは東から西へ流れ、落ちるときはこの反対となる。
 この日林八左衛門、三浦与衛門らが船にやってきて同行した。

7月18日
 宿の関屋松兵衛宅のすぐ近くにある厳島の祠(伊崎の厳島神社)に参拝し、すぐ裏手に続く日和山(伊崎の日和山)にのぼった。さらに山越して海浜に出、俗に言う身投げ岩についた。ここは会所の軽卒(下級の武士)が集合して、沖の海上を監視するところという。そこから筋が浜を過ぎて大坪の金比羅山の狼煙場に登った。ここは武久が目の前に見下ろせ、遙か北浦の海が見える。金比羅を下ってから会所に行き、兵器庫を検視した。
 宿に帰って昼食をとり、小舟で出発して丸山八幡宮の下に着船し八幡社に参拝した。ここから船を帰して、徒歩で神社の左手の道を下り、阿弥陀寺(今の赤間神宮)に行った。寺で絵説き(絵解きの屏風が宝物館に残っています)を聞き、宝物を見た。近くの伊藤杢之助(いとうもくのすけ・下関の本陣、大年寄)の家に行き、頼龍三郎にめぐり会い、共に小舟に乗って潮にそうて下り、宿に帰った。

 伊藤家本陣なんですがたとえば殿様がお泊まりになって休憩したりとか、今で言うところの連合自治会長さんといったほうがいいでしょうか。もう一人、佐藤さんという大年寄りがいらっしゃいました。住民の悩みを聞いたり時にはお金を貸したりもしていました。伊藤家には坂本龍馬をはじめとして、さかのぼればシーボルトといったいろんな方が、そういう家なんです。今春帆楼がありますけれどもその左手の方に表札が出ております。伊藤家本陣跡という表示が出ています。客間が何十もあるような立派な家でした。

7月19日
 朝、宿を出て、(伊崎の町筋を通って、小門海辺にある)鰯松の下を過ぎ、小門の御船倉を検視した。船は十三隻あった。
 午後、会所に生き別れを告げ、伊崎の家もたずねた。伊藤の家では数時間というもの話し込んでしまった。その折り、伊藤が「関、新地、伊崎、竹崎合わせて人家は一万戸、寺は三十五カ所ある」といった。

 高杉晋作が廻転義挙を行った、三条実美(さんじょうさねとみ)らの長府の功山寺に一緒に泊まっておりました元治元年1864年12月15日「長州男児の肝っ玉をお見せします」ということで、それが廻転義挙なんです。そのときは長州藩の中は乱れに乱れていたんですが、幕府に寄り添わなければいけないのと、尊皇倒幕に行くという高杉やら伊藤やら井上やら山県やら、それで、しかし行動を起こそうというときに高杉がたったの4〜50騎といわれていますが、ごきょうにご挨拶をして野久留米街道まず新地会所を襲うんです。この新地会所というのは藩の会所なんです。会所というのはいろんなお米も管理するし、お金も用意しているところで、米とか金とかを高杉晋作らが奪って萩に攻め寄せていくというのが明治維新の幕開けになっていくわけなんです。明治維新を作っていくときの一番最初の元になっているわけです。

7月20日
 船で赤間関を出発した。小瀬戸の狭い海峡を通り過ぎた。このあたりは、海岸が険しい岩続きで赤田村までずっとそうだった。綾羅木から安岡を過ぎ、吉見浦に着くまでは海辺は浜つづきの平らかさである。馬関の形勢は沿岸一帯の人家が櫛の歯のようにぎっしりと並び、その後面は山である。ただし高い山や険しい山はない。

 この当時は小瀬戸から大瀬戸、関門海峡へ向かって潮が流れていたわけです。流れが速い所なんですね。水門ができたのが昭和10年でしたから、それまでは流れがあったわけですから、その前に大正時代に埋め立てをやりますよね大和町(やまとまち)の。で、水門を作って仕切るわけです。それまでは流れが速くてとてもおいしい魚なんかが鯛とか鰺とかそういうのがいて、小門の夜焚というのを聞いたことがあるかと思います。篝火を焚いて、集魚灯のかわりですね。魚がそれに集まってきてそれを捕って船の上で料理して食べるという、有名な、長良川の鵜飼いと同じくらいの観光資源だったんですけど、それがなくなっていきましたね。

 それからもう一つはご存じでしょうけれど埋め立てをして大和町ができまして、大和町は何でそう言う名前が付いたかというと、大正時代から計画をして昭和になって埋め立てが完了したので大正の「大」と昭和の「和」をとって大和町という地名がついたんです。
 このあと2回にわたってペリーが日本にやってくるわけです。どうしても港を開きなさいということで仕方なく、朝廷の許しを受けずに日米和親条約というのを結びます。で、誰が結んだかというと、彦根藩の藩主である井伊直弼がこれを行うんです。そうすると尊王攘夷派というのは、すなわち高杉や山県ら薩摩藩やらは井伊直弼を暗殺するんです。その前に井伊直弼が安政の大獄をやるわけです。で、そういう攘夷思想のものを一網打尽にしてしまった、そして処刑したのですが、その処刑の中に吉田松陰が実はいたんです。
 時代というのは不思議なもので、吉田松陰はせっかくこの沿岸の海防をやっていて、時代というのは外国に解放を迫られ、攘夷思想のものが弾圧され、そうはいいながら吉田松陰は船に乗り込んでアメリカに行こうとしているんですね。幕府の要人も高杉らに指令して「暗殺しろ」などと言ったりもしています。当時とすれば、そういう政治状況だったと思うんですが、いろんな形で門下生に刺激を与えているということができると思います。吉田松陰も30歳で刑死しているんですが、この人は正直といえば正直なんですが、幕府は吉田松陰の一命を助けようという動きもあったのですが自分から間部詮勝(まなべあきかつ)というんですが幕府の要人を暗殺しろ、と司令を出しましたと、取り調べの時にちゃんと白状しているんですね。黙っていればいいのに。それで心象を害して処刑のリストに入れられてしまうんです。

 安岡の箙山(えびらやま)以北は高山が連綿と続いている。海岸は二、三カ所もの崖裾が突きだしているだけ。吉見の港に入ると左に網代山(あじろやま)右に櫛の山が向かい合っている。ここには寺が六つある。浄専寺、浄満寺というのがあったが、その他の名はたずねてみなかった。このへんの漁船も肥中(ひじゅう)のに似ている。値段は十二、三両で8年分の生活費に相当するという。これら漁船はたいてい馬関で作るそうだ。
 上陸して宿に泊まった。

 以上六日間にわたって松陰が下関に滞在、巡視を重ねたのだが、下関を去ってから三日目の7月23日の七ツ時(午後4時)に二十日間に渡る北浦海岸の巡視を終え、萩の御船倉に帰り着いたのである。

おわり

  

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 1998/2/21 公開

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