title-8.gif (2007 バイト)  

        
平家物語
おびお版平家物語を歩く

日子の島TOP

平家物語
│ │
│ ├服部明子の
│ │  平家物語研究室
│ ├おびおお版
│ │  平家物語を歩く
│ │  └彦島
│ ├吉川英治の見た彦島
│ ├情報
│ ├ストーリー
│ │
│ └平家物語リンク集

平家物語を熱く語る

リンク・著作権・お願い事項

管理人にメールを送る

メールマガジンの購読


 

おびお版平家物語を歩く「彦島」
専立寺(せんりゅうじ)

 本村の交差点から5分ほど路地を入った山際に専立寺はあります。専立寺は寿永元年(1182)和田四郎常保の開基といわれており、そのころは安楽寺と呼ばれていました。ちなみに開基の3年後に平家はこの地で滅亡しており、「彦島あれこれ」によると富士川の戦いの際に一門から離れて西下した忠清の執権が常保です。

 忠清は本姓藤原氏、俗姓伊藤氏で三重県北部出身です。藤原秀郷が平 将門の反乱の時、平 貞盛の味方をし、子孫が伊豆の狩野氏となったあと伊勢に下だって伊藤氏を称しました。平 貞盛の子孫が伊賀や伊勢に下だって伊勢平氏を称して平 忠盛や清盛が登場するわけですから伊勢平氏累代の仲です。また平家一番の武勇の家としても知られています。

 三重県の古市の伊藤景綱が清盛の家人として保元の乱や平治の乱で活躍し子供の伊藤五や六が源 為朝に矢を射られて怪我をしています。この伊藤五が忠景のちの忠清です。忠清は清盛とは婚姻により義理の関係です。忠清は若い時(18才?)泥棒を捕まえたりしてなかなかの武人だったようです。上総守となっていたのに実際には放任して坂東平氏を源 頼朝に走らせたのはこの人の怠慢ということでしょう。

 富士川の戦いでは平 維盛の副将として従って逃げ帰り清盛の怒りをかっています。長男忠綱?は倶利伽羅峠で戦死。五男は赤間神宮に墓のある上総五郎兵衛忠光。七男が有名な悪七兵衛景清です。この二人は頼朝暗殺未遂事件で有名です。忠清の甥の飛騨の景経は平 宗盛の乳兄弟として壇の浦で戦死しています。もう一人の甥は飛騨の景俊で壇の浦から脱出して頼朝暗殺計画に加わっているはずですが最期ははっきりわかりません。飛騨の兄弟は二人とも赤間神宮に墓があります。なお、忠清は1184年に平田家継と乱を起こして翌年斬死しました。

 専立寺のすぐ東隣にある西楽庵(建治2年 1276 開基で平重盛公の阿弥陀如来像を安置している)が西楽寺と名を改めたため、弘安2年(1279)第4代住職教順法師が開基以来の安楽寺を専立寺と改めたと言われています。

 その後、寛永15年(1638)ごろ彦島は海賊によって占領されたため、島民の多くは伊崎から内陸へ逃れましたが、わずかな島民は島に残って専立寺を守りました。その2年後、江戸幕府の宗教制度であり、キリシタン禁圧の一手段として、領民の宗旨を踏絵・寺請(てらうけ)などによって検察した宗門改により、宗門人別帳に登録し、檀那寺に仏教宗派の帰依者であることを証明しなければならなくなり(明治6年廃止)、島に残った島民は専立寺の門徒となりました。

アクセス:サンデン交通 本村経由各地行き・本村下車。下関駅方面から乗車した場合、下車後、50メートルほどバスの来た方向に戻り、前方の山際の路地に右折し、約50メートル左手。参拝者用駐車場はありますが、道路が狭いので注意して下さい。


■  BBS  ■  TOP  ■  mail  ■