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 投稿番号:105378 投稿日:2025年08月15日 13時03分15秒  パスワード
 お名前:真夏に降る雪さんの代理
新、平家物語を熱く語る(3)
キーワード:古渡
コメントの種類 :生活  パスワード



山口県は下関市彦島。とってもローカルな島のとってもローカルなBBSですが、みんなが楽しく過ごしているなんでもないBBSです。彦島関連の情報や雑談はもちろん大歓迎ですが、扱う話題に制限はありません。日記替わりにお気軽にご利用ください。
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[1]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月15日 13時06分15秒 ) パスワード



[55] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月11日 02時40分02秒 ) パスワード

年表[編集]

読み難いのでURLどうぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E4%B8%80%E6%8F%86


近江天保一揆略年表[1]天保12年(1841) 閏1月7日、「天保の改革」始まる。11月、草津川筋・野洲川筋・仁保川筋並びに湖水廻り西江州筋の375ヶ村の庄屋を京都町奉行所へ呼び出し、見分の申渡しと共に請書の提出を命じられる。天保13年(1842) 1月11日、幕府勘定方市野茂三郎等が見分のため水口宿より近江に到着。1月19日、野洲郡野村より仁保川筋の野洲・蒲生郡の見分を開始。2月14日、上駒月村の見分を終え、大野村を経て甲賀郡土山宿(現甲賀市)に到着。2月17日、土山宿(幕府領)を見分し下駒月村へ移動。その後蒲生郡日野・大窪(現蒲生郡日野町)を見分。3月、蒲生郡桜川寺村・綺田村(現東近江市)を見分。6月16日、蒲生郡鏡・西横関村(現竜王町)付近を巡見。6月25日、野洲郡大篠原村(現野洲市)を見分。8月、湖辺の蒲生郡北之庄村・浅小井村(現近江八幡市)、神崎郡伊庭村(現東近江市)、野洲郡須原新田(現野洲郡中主町)付近を見分。8月6日、野洲郡三上村(現野洲市)庄屋土川兵兵衛より野洲郡上永原村(現野洲市)庄屋野依又右衛門宛、見分阻止のための庄屋会議開催を提案。8月12日、大篠原村庄屋小沢甚七名で17ヶ村に回状が出され野洲郡大篠原村浄勝寺に野洲郡16ヶ村の庄屋が集まる。9月17日、野洲郡桜生村(現野洲市)宝樹寺に野洲郡22ヶ村の庄屋が集まる。9月26日、甲賀郡庄屋会議、野洲・栗太郡庄屋会議が開かれる。(甲賀郡は水口宿の旅籠萬屋伝兵衛方と丸屋金兵衛方に分かれ開かれ庄屋137名中70名が参加。野洲・栗太郡は野洲郡戸田村(現守山市)立光寺で開かれ庄屋136名中60名が参加)。9月29日、野洲郡野洲村(現野洲市)近辺を見分。10月6日、野洲郡富成新田から小篠原村(野洲市)を見分。10月11日、検地役人市野茂三郎ら一行約40人、野洲郡三上村に到着し、本陣を構える。10月13日、三上村庄屋土川平兵衛より甲賀郡杣中村の黄瀬文吉・市原村田島治兵衛に緊急に出状され、黄瀬・田島に宇田村藤田宗衛門が加わり甲賀郡内に「廻状」が回る。10月14日、未明、矢川神社(矢川寺)の鐘を合図に農民集結。10月15日、夜明けとともに杣川沿いを駆けのぼり、田堵野・五反田の庄屋宅に押しかけ「検地下調べ役」を引き受けたこと理由に乱暴に及ぶ。藤堂家、国境に陣を構え事態に備える。杉谷村庄屋宅に詰めかける。森尻村庄屋宅に押し寄せる。森尻村庄屋等の注進により水口藩物頭・細野亘以下約70人、矢川神社境内に出張、警固の陣を構え西下を阻む。一揆の勢杣川沿いに下る。途中、三本柳庄屋宅を打毀わし、三雲を経て石部宿に到る。10月16日、未明五反野村・田堵野村・三大寺村・菩提寺村庄屋宅に乱暴後、甲賀郡一揆勢が三上村に到着し野洲栗太郡一揆勢に合流、検地役人本陣(三上藩の大庄屋・大谷治太郎宅)を包囲し、交渉両三度、遂に「検地十万日日延ベ」の証文を得る。一揆勢三上村を退去し、膳所藩、石部宿にて「日延べ」の書付の写を交付し帰村。検地役人一行、大津代官所を経て京都町奉行所に到り対策を協議。12月、市野茂三郎「帰府」の命を受ける。10月22日、京都町奉行所より役人が派遣され、守山・石部・水口・土山の各宿にて一揆参加者の取調べを開始。田島治兵衛らを捕縛。10月23日、岩根村庄屋藤谷弥八ら80余人を水口・桝屋市兵衛の旅籠に召喚し、京都町奉行所に関係者を引渡す。12月14日、幕府、関源之進・戸田嘉十郎を大津代官所に派遣。12月16日、京都二条の監獄に留置中の土川兵兵衛以下、関係者を大津に移す。天保14年(1843) 1月、甲賀・野洲・栗太郡各村の「宗門人別帳」を提出。領主毎に庄屋1人、百姓3人ずつ、計5百余村から2千余人に連日大津代官所に出頭を命ぜられる。大津代官所牢獄を増築、入牢者1千余人を数え、獄中に絶命するもの続出。2月、水口藩士約130人・膳所藩士約270人が大津代官所に呼出され、取調べを受ける。3月4日、土川平兵衛等11人、唐丸籠に入れられ大津を立ち江戸に向かう。3月5日、宇田村庄屋藤田宗兵衛、江戸送り途中石部宿にて死去。3月7日、深川村庄屋田中安右衛門、江戸送りの途中桑名宿で死去。3月12日、氏川村百姓山中庄五郎、江戸送りの途中藤枝宿で死去。3月20日、江戸送り存命者8人江戸小伝馬町の牢に入る。4月18日、針村百姓宮島文五郎、小伝馬町で獄死。4月25日、三上村庄屋土川平兵衛・岩根村庄屋藤谷弥八が江戸小伝馬町で獄死。その後、市原村庄屋田島治兵衛・杣中村庄屋黄瀬平治・松尾村庄屋中藪喜兵衛・上野村百姓田島九兵衛が相次いで獄死。油日村百姓杉本惣太郎のみ実刑(佃島に流罪)。11月23日、京都町奉行所より一揆参加者に対し仕置きが下される。甲賀郡誌によれば同郡だけで仕置き対象者は12,571人に上った。明治元年(1868) 9月8日、「大赦」により一揆関係者の罪が許される。
近江天保一揆を扱った書籍・演劇他[編集]
一揆に関わる資料・研究書『沖野・長谷野新開場 御見分御用留』(金屋村庄屋金八著 天保13年(1842年))
『日記』(富波新町庄屋角俵五郎 天保13年(1842年))
『一件上申書』(三上藩郡奉行平野八右衛門 天保13年(1842年))
『浮世の有様 江州一揆』(大阪医師著 天保14年(1843年))
『山村十郎右衛門日記』(水口宿庄屋山村十郎右衛門著 天保14年(1843年))
『百足再来記』(筆者不明 嘉永4年(1852年))
『近江国 御見分 騒動写発端より御裁許まで』(筆者不明 文久元年(1861年))
『滋賀県史 第3巻』 P701「村落生活と農民一揆殊に天保騷動」の項(滋賀県編 滋賀県 1928年)
『野洲郡史 下巻』 P693「天保の農民騒動」の項(橋川正編 野洲郡教育会 1927年)
『守山市史』(守山市史編纂委員会編 守山市 1974年)
『水口町志 上巻』 P362「天保三上一揆」の項(水口町志編纂委員会編 水口町1959年)
『甲南町史』 P247「天保の農民一揆」の項(甲南町史編纂委員会編 甲南町 1967年)
『石部町史』(高橋良暢編 石部町教育委員会 1959年)
『天保義民録』(河村吉三著 高知堂 1893年)
『近江経済史論攷』 P437「近江檢地史上に於ける天保年間湖東三上山檢地の性格」の項(喜多村俊夫著 大雅堂 1946年)
『天保の義民』(松好貞夫著 岩波書店 1962年)
『徳川時代百姓一揆叢談 上冊』 P267(小野武夫著 刀江書院 1969年)
『日本史のなかの湖国 地域史の再発見』 「近江天保一揆の軌跡」の項(苗村和正著 文理閣 1991年)
『てのひら文庫 滋賀県6年』(滋賀県小学校教育研究会国語部会編 文渓堂 1992年)
『夜明けへの狼火 近江国天保義民誌』(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
『江戸時代 人づくり風土記 滋賀』 「増税をめざす検地を阻止した天保大一揆と義民たち」の項(農山漁村文化協会 1996年)
『郷土の偉人』(天保義民顕彰事業・第9回全国義民サミット開催実行委員会副読本部会編集 野洲市教育委員会 2005年)
一揆について掲載した新聞『甲賀蜂起録』(日出新聞 1891年11月3日より11日)
『三上颪琵琶激浪』(京都滋賀新報 1882年8月5日より10月26日)
天保義民を扱った書籍『義民庄屋土川平兵衛』(土川平兵衛の徳を讃える会編 土川平兵衛の徳を讃える会 1982年)
『天保の義人 土川平兵衛』(白井広次 編 白井広次 1968年)
『郷土に輝くひとびと』(滋賀県厚生部青少年対策室編 滋賀県 1970年)
『日本義民実伝』 P192「土川平兵衛」の項(樋口二葉著 晴光館 1910年)
『庄屋平兵衛獄門記』(宇野宗佑著 青蛙房 1971年)
『近江人物伝』 P50「土川平兵衛」 P226「田島治兵衛」の項(木村至宏他著 弘文堂書店 1978年)
小説・戯曲戯曲『義民』(宇野長司著 全国遺業顕彰会 1934年)
戯曲『蜂起』(藤森成吉著 日本評論社 1939年)
小説『燃ゆる甲賀』(徳永真一郎著 光風社 1961年)
その他音楽ドラマ『天保義民に捧ぐ 魂「炎」の如く』(寺島保行作曲・演奏)
『天保義民伝・土に生きる 幕府に勝った一揆』(テレビ東京 1999年10月17日放送 脚本:愛川直人、監督:津島勝、制作会社:インターボイス、音楽:石田大士、企画:『天保義民』制作推進委員会)

供養塔・顕彰碑他[編集]
天保義民碑:三上山麓(滋賀県野洲市三上)
天保義民之碑:伝芳山(滋賀県湖南市三雲伝芳山)
甲賀騒動義民の霊位五倫塔:大徳寺(滋賀県甲賀市水口町本町3-3-46)
メモリアルタワー:矢川神社前(滋賀県甲賀市甲南町森尻)
田島治兵衛の慰霊碑:西願寺(滋賀県甲賀市甲南町市原430 )
西浦九兵衛の慰霊碑:勢田寺(滋賀県甲賀郡甲南町杉谷2031)
田中安右衛門の慰霊碑:浄福寺(滋賀県甲賀市深川1631)
土川平兵衛の石像:野洲市立三上小学校(滋賀県野洲市三上111番地)
土川平兵衛の供養塔:三上墓地(滋賀県野洲市三上2170)

一揆の史跡[編集]
近江三上陣屋跡:三上藩の陣屋が置かれていた。陣屋の前が見分役人市野等の本陣跡。(滋賀県野洲市三上455他一帯)
玄亀山常永寺:三上陣屋表門は常永寺に移築され山門として現存。(滋賀県甲賀郡甲西町岩根1043)
東方山浄勝寺:野洲郡大篠原村を中心に16ヶ村の庄屋の会合地。(滋賀県野洲市大篠原2064)
桜生山宝樹寺:野洲郡大篠原村・三上村を中心とする22ヶ村の庄屋の会合地。(滋賀県野洲市小篠原216)
富田山立光寺:野洲郡・栗太郡庄屋の会合地。(滋賀県守山市立田町1623)
御上神社:土川平兵衛の家は御上神社の仲衆であった。(滋賀県野洲市三上838)
矢川神社:矢川神社(矢川寺)の鐘を合図に甲賀郡農民が集結した。(滋賀県甲賀市甲南町森尻70)
三十八社神社:甲賀庄屋に出された一揆廻状が戦後発見された。(滋賀県甲賀市水口町伴中山2645)
別れの一本松跡:甲賀一揆勢の集合地の一つ。(滋賀県甲賀市甲南町深川)
横田河原(横田渡常夜燈):甲賀一揆勢最終集合地、水口藩兵が通行を阻止しようとするができず、一揆勢はここから三上村に向かった。(滋賀県甲賀市水口町泉355)
美松山南照寺:近江湖南27名刹霊場第12番、水口藩領捕縛者の除災を7日間に亘り祈祷した。(滋賀県湖南市平松264)

脚注[編集]

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1.^ a b 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P191「近江国天保義民誌略年表」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
2.^ a b c d e f g h i j k 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P26「義民土川平兵衛の家と人柄」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
3.^ 「図説 滋賀県の歴史」 巻末資料P14「年表」(河出書房新社 1987年)
4.^ a b 「幕藩制国家の政治史的研究 天保期の秩序・軍事・外交」(藤田覚 校倉書房 1987年)
5.^ a b 「図説 滋賀県の歴史」 P197「井伊氏と本多氏 細分化された84万石」(河出書房新社 1987年)
6.^ a b c d 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P1「湖東・湖南の風土」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
7.^ 「図説 滋賀県の歴史」 P225「強い郷党意識」(河出書房新社 1987年)
8.^ a b c d e f 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P76「一揆決議までの足どり」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
9.^ a b c 「江戸時代 人づくり風土記 滋賀」 「増税をめざす検地を阻止した天保大一揆と義民たち」の項(農山漁村文化協会 1996年)
10.^ a b c 「図説 滋賀県の歴史」 P216「近江文人の系譜」(河出書房新社 1987年)
11.^ 「滋賀県会議員正伝」 P25「岡田逸治郎」 P28「今川正直」の項(天怒閣 1892年)
12.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P53「天保のころの政情と、湖水べり・仁保・野洲川筋見分」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
13.^ 「図説 滋賀県の歴史」 P206「街道と宿場町」(河出書房新社 1987年)
14.^ 「西川貞二郎」(近松文三郎著 近松文三郎 1935年)
15.^ a b c d e f g 「経済学論叢53(4)」 P766「近世後期における琵琶湖の新田開発 大久保新田を事例に」の項(本村希代 同志社大学経済学会 2002年3月)
16.^ a b c 「庄屋平兵衛獄門記」(宇野宗佑著 青蛙房 1971年)
17.^ 「日本歴史大事典 第4巻」(小学館 2001年)
18.^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「野洲郡史 下巻」P693「天保の農民騒動」(橋川正編 野洲郡教育会 1927年)
19.^ a b c d e f g h i j k l 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P87「義民よ決起せよ」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
20.^ 「滋賀県百科事典」 P96「近江天保一揆」の項(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)
21.^ a b c d e 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P103「十万日の日延べ」の項(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
22.^ a b c d e f g h i j k l m n 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P123「惨 義民たちの捕縛・取調べ・江戸送り」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
23.^ 「夜明けへの狼火 近江国天保義民誌」 P174「あとがき」(大谷雅彦著 天保義民150年顕彰事業実行委員会 1992年)
[2]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月15日 14時52分11秒 ) パスワード



[27] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月25日 15時45分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

こんな情報がありました:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8D%83%E8%B3%80%E5%9C%B0

服部半蔵正成の父 保長が室町幕府に見切りをつけ伊賀に戻り地名から千賀地氏を名乗った。



http://mail.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BE%E5%9C%B0

【名字】百地

【読み】ももち

【全国順位】 13,581位
【全国人数】 およそ440人

現奈良県である大和国宇陀郡の豪族にして北畠氏の武将。近年、三重県名張市に多数みられる。

[3]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月16日 15時10分10秒 ) パスワード



[29] 丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月30日 06時58分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大変示唆に富む情報ありがとうございます。毎日すごく勉強になり賢くなり
ます。
 豊田の陰に服部あり・・・これもビックリ。正明寺の犬くぐりの話、名古屋
の正明寺の話、服部貞女の話、興味が湧いてきます。

 ひとつ困っています。服部権太夫政光(政秀)が遠江「河の庄」で3000貫
を賜ったという「河の庄」が比定できません。川の側には間違いないのでしょ
うけれど。
[4]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月16日 15時13分18秒 ) パスワード



[22] 空の青海のあをさんからのコメント(2018年07月11日 12時51分10秒 ) パスワード

江戸末期の幕臣で服部と言ったら  皆さん半蔵の家と同じ「車に並び矢紋」をドラマではつけてますけど
これは単に時代考証の担当者が手を抜いた?


服部貞勝は幕末にゴローニン事件を解決した人物で
ご先祖さまは  あの!伊賀で神職だった服部貞信です。伊賀の呉服明神の。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E8%B2%9E%E5%8B%9D

服部 貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))

江戸時代後期の旗本。
松前奉行、勘定奉行などを務めた。

旗本服部貞徳の長男。

母は酒井忠香の養女。

通称は久太郎、頼母、久右衛門。
官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。

室は高家旗本の戸田氏朋の娘。
子女に服部貞陽ら。


中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。
1786年(天明6年)3月22日、将軍・徳川家治に御目見[2]。
1794年(寛政6年)5月22日小姓組となり、
1796年(寛政8年)10月4日に家督相続、1400石を継ぐ[2]。

1797年(寛政9年)12月18日に中奥番士[2]、
1805年(文化2年)御徒頭、
1806年(文化3年)西丸目付、
1807年(文化4年)本丸目付と昇進し、
1810年(文化7年)、駿府町奉行となる。
1812年(文化9年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。


翌1813年(文化10年)9月、前任者より引き継いだロシアとの国際紛争「ゴローニン事件」の解決にあたる。


1816年(文化13年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。
1819年(文政2年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務。同年6月に行われた小判の吹替えにより同年末迄に銀相場が高騰し、世間の奢侈的な風潮の中、幕府の支出増加による財政悪化を解消するため、貞勝の上申により出目(改鋳利益)獲得を目的として小判に遅れること1年後、丁銀の貨幣吹替えが行われた(文政丁銀)。

但し貞勝は同年9月、小普請組支配となっている。


1824年(文政7年)死去。
墓所は服部氏の領地であった赤堤村(東京都世田谷区赤堤3丁目)の西福寺。
同年に子息の貞陽が建立した、幕府侍講成島司直の撰文、戸川安恵揮毫の墓碑が残る。


寛政重修諸家譜では服部貞信の家は平氏で平貞盛の子孫で服部家長の末って申告してるのに。
で、家紋は  卍紋。


貞信の家もやっぱり平家一族なのは確かなのでしょうね。
半蔵の家は半蔵亡き後、正就・正重  子と孫の代で失脚していきますから

貞信の家としては、目の上のたん瘤であった半蔵の家が幕府から追い出されたから
貞信の家が徳川幕府内にとって「伊賀の服部家の頭領」になった  乗っ取った  つもりだったのかなと思いました。


ややこしいハナシをごめんなさい。
[5]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月16日 15時15分54秒 ) パスワード



[19] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年06月01日 14時43分27秒 ) パスワード

酒井とも様

 貴重な情報、ありがとうございます。先日、とも様の去年11月1日の
レスの「閑田院寺史」の情報により、先日閑田院に行って来たところであり
ました。住職とは話ができなかったので、新たな情報は得られませんでした。

 この寺の戦国時代の住職が北川氏だったということ……次の展開に役立つ
情報です。市野氏に近かった可能性があり、ひょっとして馬の仕入れ・育成
・調教等に関係していたかも知れませんね。

 善地の北川氏は昭和の時代、牧場をやっていましたので、ひょっとして馬
とも関係していたかも知れません。
 国会図書館に日本家系家紋研究所発行の『北川一族』という本があるよう
ですので、今後情報入手の努力をしてみます……。

 平宗清を祖とする伊賀の柘植氏の支流に北川氏がいます。市野氏も戦術上
忍衆と連携したと思われますので、特に高天神城の戦いに向けてコラボした
可能性は大いにあります……。

 いずれにしましても、貴重な情報ありがとうございました。久しぶりの
コメント、お変わりなくお元気でありますこと、何よりです。

[6]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月16日 15時19分54秒 ) パスワード



[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2020年02月10日 15時17分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
詳しいですね。


L明智滅亡の後は、江州北村に蟄居して北村と改称したという。

    ふむふむ  これは知ってましたが


その子孫が将軍綱吉の時代に、松平美濃守吉保をたよって出仕を願い出たが聞き入れられなかったという。

    柳沢吉保にお願いに上がったというのは、これは知らなかったです。
    100%知らなかったです。


            恐らく  
            学問好きの綱吉は戦国の気風を嫌っていたから  
            綱吉の寵臣の柳沢吉保は上様の意向を忖度して
            (そんな大昔に伊賀越えで家康に恩を売ったことをネタに出仕しようなんて図々しい)
            と考えたのかも。


            柳沢吉保の側室は綱吉からの拝領妻で、
            生まれた柳沢吉里は綱吉のご落胤で
            だから   柳沢家は「松平姓を与えられて連枝待遇」された
            と言われているから

            
            上様である綱吉と自分の関係を  伊賀越えで結ばれた家康の恩人に乗り越えられては  カナワナイ  と思ったのかな?


            だって「神君家康公」をお守りした関係者なんかに出仕させたら
            どこでどう  自分の立場が危うくなるか  分かったもんじゃないですから。
            柳沢吉保は自分が綱吉の一番のお気に入りということで幕閣の反感やネタミを買ってることぐらい100も承知でしょうから。



政治の世界はオモシロイ。
[7]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月17日 11時40分19秒 ) パスワード



[65] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月26日 10時05分02秒 ) パスワード

http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/5017/

二宮尊徳の話:


尊徳先生 小田原藩家老服部家の家政改革を行う

○二宮尊徳先生が、服部家で林蔵という名前で若党をしていたときの事である。

 小田原では家老などの大家では、年末の勘定やらは一々計算せずに、来年の収入高から入用だけの金を勘定奉行か何かに借りてくるのが普通でした。
ちょうど50両の金が入り用なので、金次郎を使いにやりましたが、奉行が出てきて「受け取りを持ってきたか」といいました。

 ところが、金次郎はにわかに顔色をかえ「拙者が使いとして参ったのに、受け取りは入りますまい。意外なことを承るものかな」と不服を唱えた。

「しからば金は確かに渡す。汝のような者なら決して間違いないだろう」と快く渡したという。



○勘定奉行は、金次郎が律儀なのとしっかりしていることに感服した。
そこで服部氏の家に行ったとき、

「ここのうちには、なかなか立派な若党がいますなあ。一家の出納もこの男にやらせてみてはどうでしょう。」というと、

「なるほど金次郎という男は、いつも独り言をいって人のやっていることを笑っている。きっと胸に何か考えていることがあるに違いない。おさん(下女)のことでも、下男のことでも、やらせてみると何一つできぬことがないという男です。ひとつやらせてみましょう。」


そこでまず勝手方(台所)の元締めをやらせた。


 すると第一に山男の取り締まりを始めた。小田原藩では、箱根の山が近いから、家老などの家ではたくさんの男どもがいて、別に一日どのくらいという定めがないから、途中で背負いかごを預けて、箱根街道でかごかきのアルバイトをする者が多かった。すると小銭が入るから、バクチをする、遊女遊びにふけることになる。


 金次郎は、まずこの山男を取り締まって毎日山から採ってくる薪の量を決めた。山男も仕方がないから、嫌々ながら採ってきた。

(佐々井典彦氏によると、文化12年2月に、服部家を去り際に作った「御家政御取り直し趣法帳」に、中間三人のうちの一人が「山御仲間」となっており、年間経費見積もりに「炭48俵」はあるが、薪代がないことから、この話の信憑性が裏付けられるという)
 

 第二に、おさんどんに勧めて毎日トタン箱に一杯ずつ墨鍋をコソげて集めると、天保銭一枚をやることにした。するとおさんらはしきりに鍋や釜のお尻をコソげて、いつでもきれいに磨いている。

 薪はよく燃えて無駄にたく必要がないから、薪の入用が違ってきた。そこでその中から山男に褒美をだした。

 おさんも喜び、山男も喜んで、勝手元がまず整ってきた。


 それから、第三におさんの夜業を取り締まった。それまでも夜になると糸車で糸をひかせていたが、一晩にどれほどという決まりがなかったため、のんべんだらりと居眠りしながら引いていた。

 金次郎は、日に何ほどの分量をやらねばならぬと決めて、それより余計に手間料をとらせたので、おさんらも励みだした。

金次郎のやり方は、まずこんなものであったという。


(佐々井典彦氏によると、

文化11年の「五常講」の記録によると、
各人別の褒賞品が出ている。

女中には、足袋、手拭い、髪付け、手だらいなど、
下男にはそろばんなどである。

また、藁を月々二荷ずつ仕入れて、男たちに夜なべで縄をなわせる。
800文の藁が、6貫540文と8倍以上に売れ、これを共同資金にした。

同時に夜遊びの癖がなおるというのである。


尊徳先生のこうした工夫は、後に桜町の仕法で、精励する者へ鍬や鎌を褒美として与えたり、夜なべに藁をなうことを奨励することにつながっていく。

いわば、この服部家での工夫が、仕法において人々を奨励しながら仕事に励ませるという方法の原点になるといってよいかもしれない。


○(「随感随筆」より)
 尊徳先生が、服部家の家政改革に従事していたとき、飯炊きの女にこう言った。

「釜や鍋の底に付く鍋墨だが、おまえはつとめてとってくれ。一升になったら、2銭で買ってやろう。何升でも持ってきなさい。」

 女中はなぜ鍋墨がいるかわからなかったが、毎日削り落として貯え、一升になると持っていった。

尊徳先生は約束通り、買い上げておき、人知れず竹藪に穴を掘ってそれを埋めたという。これは理でさとすより、むしろ利で誘ってこれをさとし、行いやすく、守りやすくさせ、結果として薪や炭の節約になったのである。


○佐々井信太郎氏の「二宮尊徳伝」にはさらに細かい話がのっている。

尊徳先生が小田原藩士のある女中から、小遣い銭の借用を申し込まれた。

先生はその入用の理由を聞いた。女中はその理由を話した。
先生はいかにして返すかを聞いた。女中は給金で返すと言った。

給金は親元からすでに借りられていた。尊徳先生が問いつめると、女中は返済の方法に迷いかつ嘆いた。先生は返済の方法を教えた。薪炭の節約であった。

薪炭の現在入用平均高にて主人から請け負う。たき方を研究して節約する。鍋炭をを削り落とす。このようにして返済しなさいと教えた。

 そしてたきかたを聞いた。女中は無造作にたいている旨を答えた。
 先生は薪は全部燃焼して煙を出さないようにすること、まず3本にて鍋の底に丸くあたるようにすること、薪を去った後の火力、消し炭の利用を教えた。

 そして節約した薪はまたこれを主人に売ればよいと教えた。


 数日後、尊徳先生はその実況を視察したが、鍋炭が落としていなかった。そこで先生はなにほどかで鍋炭を買うことにした。いらい鍋炭は残らず落とされた。そこで始めて小遣い銭は貸し付けられた。


 そして「借りた金は人の道である五常の道によって返済するべきである。五常によって積み、五常によって返す。これを五常講というと。」


(二宮先生道歌15)
日々(にちにち)に積もる心のちりあくた 洗い流して我を助けよ


尊徳先生 小田原藩主から表彰される


○大久保忠真公は、二宮先生に桜町領の復興を依頼し、いわば先生を世に出した人である。

 文政元年(1818年先生32歳)の8月、忠真は大阪城代から老中となり、小田原領内に帰着した折り、11月に農政6箇条を公布するとともに、同月15日に酒匂川の河原で領内の孝子節婦奇特者を表彰した。
 先生も行いが奇特として表彰された。


○天保14年に先生が幕府に出した
「勤め方住所伺いたてまつりたてまつり候書付」にはこうある。
(できるだけわかりやすい表現になおした)

「京都・大阪の在勤が9ヶ月に及んで、このたび小田原に帰着したついでに、郷中を見渡したところ何となく近年怠惰にながれているようである。

このままではいよいよ困難なことになるであろうと、本当に嘆かわしい。

これから老中職となると、小田原城に居住することもないだろうから、今回こうして参ったのが良い機会だから、一体の心がけのあらましをさとしておこう。
詳しいことは、奉行たちから申し渡すから、一同油断なく励まなければならない。

1 風俗をつつしんで、世間の悪い習慣に流れず、一途に本心から精出して、良い習慣を失わないことが第一である。

右の条々を一同に申し渡されて、さらにわたしには次のとおり直々に仰せになりました。


「かねがね農業に精出して心がけが良いと聞いた。その身はいうまでもなく、村のためにもなり、近頃惰弱な風俗の中で、特に一段奇特なことであるからほめておく。

 役を勤めるものはその身を怠っては万事ゆきとどかないことにもなり、小作たちの手本にもなることであるから、いよいよ励まねばならない。」

 実にこの出会いのときの感激が、尊徳先生を、
一家を再興し、村の貧窮の者を助ける、いわば地域のリーダー的な役割から、
内村鑑三氏が「生涯の贈り物」とたたえたような、日本を代表する偉人
となったのである。


(二宮先生道歌16)
姿こそ 深山(みやま)がくれに苔むせど 谷うちこえて見ゆる 桜木


☆○大久保忠真公は、文政3年(1820、大久保公40歳、先生34歳)9月、民間の提言を求め、役にたつことをもうし出させた。

小田原では、年貢を納める枡が4斗1升から4斗3升まで18種類くらいあって、標準とするべきものがなく、それに役人がつけこんで余分にとりたてるため、農民が苦しんでいた。

先生はしばしば枡を統一するようたびたび願い出たが、郡奉行や代官などから叱られるだけで改正は行われなかった。

○そこで、大久保公の提言募集を受けて、二宮先生は、大久保公に、枡を統一するように申し上げたところ、「小田原及び江戸屋敷の諸掛かりの枡を調べてみよ」という仰せであった。

そこで古今の枡を調べてみたが、これといって基準とするべき枡がみあたらない。

その旨を申し上げたところ、何か適当な考えはないかというお尋ねがあった。
そこで、米という字に根拠をとって、深さを八寸八分とし、横を一尺3厘3毛とし、

これを3杯合わせて米一俵4斗1升と同様になると申し上げた。


小田原の諸掛りで相談の上、江戸屋敷に伺い、直接大久保公に申し上げたところ、採用になり、それから年々年貢を量る枡となった。
(「小田原領枡改革覚書」より)


この間の事情を二宮先生は語録においてこのように語っている。

「わが小田原藩では、一定の正しい枡がなくて、それにつけこんで余分にとりたてられるので、農民は苦しんでいた。

私の父はこれを憂いとして、常に嘆いていた。

私は父のこの遺志を寝ても覚めても忘れることができなかった。
家老服部氏の求めに応じて、その家政を改革したのは私の本意ではなかったが、

服部氏は代々家老の家柄であるから、これが縁となって枡の改正が実現できるかもしれないと思ったわけだった。

 その後、先君大久保忠真公の下問を受けて
「権量(ごんりょう)を謹(つつし)み
法度(ほっと)を審(つまび)らかにす」
という言葉と、枡改正の方法とを記して献策した。

その枡は高さ8寸8分を定めとする。

寸は十であるから、八十八でちょうど米という字にあたる。

先君はこれを良しとして採用され、私は始めて父の遺志を全うすることができたのである。」


尊徳先生によると、服部家の家政改革も実は父の枡の改正をという遺言を実現するためだというのだ。いかにも尊徳先生らしい話だ。

文政三年11月18日付けで、二宮先生が服部家の当主十郎兵衛に送った手紙がある。

この頃、二宮先生は服部家の依頼を受けて、その召使いとなり、林蔵という名で家政の改革にあたっていた。


その手紙の中に新らしい枡のことも出てくる。

「私が願い出た藩の枡の改正について感謝の米を差し出したいという農民の様子を聞きました。

改正の新枡ではかったお年寄りが

「このようなありがたいご時世もあるのか」といったと聞きました。

新枡については、領分はもちろん一同感謝していると聞きました。


かつまた旦那さまのご評判は小田原全体にたいへんよろしゅうございます。
まず始めにあたって終わりを明らかにすることが大切とぞんじます。」


父の遺志を実現させて、父が生存ならこのくらいと思われるお年寄りから喜ばれて、
心底喜んでいる金次郎がうかがわれる。


(二宮先生道歌16)
増減は 器かたむく 水とみよ あちらに増せば こちら減るなり

[8]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月18日 11時49分47秒 ) パスワード



[58] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時22分24秒 ) パスワード

長田さんの過去の暴露?


他田氏


家紋   
不詳

本姓
他田部氏

種別
武家
神官

出身地
信濃国小県郡    ←  小県は前にもしつこく書きましたね
             伊那とこんがらがってましたっけ(恥)
             そうそう  佐久  のことでしたよね?

主な根拠地
信濃国小県郡
信濃国諏訪神社


他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、
神武天皇の皇子  神八井耳命 かむやいみみのみこと を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。



概要[編集]

他田氏の祖は部民制における他田部の出で、
部民制は7世紀に血縁に基づく氏族制へと変わっていくが、
部称は氏族名に転化されて残り、
                        いな!笑
奈良時代の神護景雲2年(768年)に爵2級を与えられた伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねり-ちよめ)や
万葉集に防人の歌を残した小県郡の他田舎人大嶋(おさだのとねり-おおしま)など、
主に信濃国を中心に他田を名乗る人物が記録に残されている。

ただし、同じ「他田舎人」であっても祖先が「他田の宮に奉仕する舎人」だったということ以外は示しておらず、
必ずしも血統的な同族と特定されるわけではない。


また、承平8年(938年)に東山道を京に向かう平貞盛と追撃してきた平将門の軍勢100騎とが信濃国分寺付近で戦った記録に、戦死者として信濃国小県郡の郡司他田真樹(おさだのまき)の名前が残されている。

     ここら辺りで  平氏  に変わったのかも



後述する他田目古系統など、主に各地の郡衙などに勤める地方役人であったとされるが詳細はわかっていない。

9世紀中頃より郡司の権限が国司に集約されるに従って、他田氏の記録も見られなくなっていく。


他田目古[編集]

有力な他田氏としては、他田目古の系統がある。

多氏出身とされる科野国造家の後胤とされる金刺舎人直金弓(金刺氏)の子で、

他田舎人部の伴造家となったことから他田舎人直となり、

子孫は他田を名乗ることになる。


したがって、目古の兄である金刺麻背を祖とする諏訪氏とは同祖の関係となる。


他田目古の子孫は、孫の老が従六位下伊那郡擬少領(「擬」は臨時の意味)に補されたことで主に南信濃に勢力を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で勲功をあげた他田太郎重常を輩出している。

また伊那の豪族で、江戸時代に柳間詰交代寄合(三千石)として家門を保った知久氏の祖も目古系統の他田氏とされている。



その他[編集]   信濃の御厨(長田御厨や麻績御厨など)のコピペをしてた時ですね


祖が長田御厨の庄官を勤めたと伝えられる信濃国高井郡発祥の保科氏には「長田は他田に通じるもの」として他田氏出身とする説があり、

「信濃史源考」では諏訪氏の庶流としていることから前述の他田目古の系統である可能性もある。



ここで再び  松島と長田と麻績服部と伊賀服部が  絡みますね。
結局やっぱりみんな繋がってしまいますね。
[9]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月18日 13時27分39秒 ) パスワード



[46] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年07月18日 14時48分29秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E5%9F%8E

福地城(ふくちじょう)

三重県伊賀市柘植字浦出にあった丘城・城館。



別名
福地氏城

城郭構造
丘城、城館

築城主
福地氏

主な改修者
福地宗隆(福地伊予)

主な城主
福地氏、池尻氏[1]

廃城年
天正10年6月(1582年6月)

遺構
主郭、大手門礎石、土塁、石塁、空堀、石組井戸、石列、土壇、階段

指定文化財
なし

再建造物
なし

位置
北緯34度50分9秒
東経136度14分55秒



城主[編集]

城主の福地氏は、平清盛の末裔を称した土豪で[2]、柘植の有力な国人「柘植三方(日置氏・北村氏・福地氏)[3]」を構成した氏族[4]。祈願寺は長福寺(現・万寿寺)と推定され、本尊の地蔵菩薩像の内部から発見された南北朝時代の文書に「ふくちの御てら」とある[5]。この文書には「やなき」という女性から「ふくちの御てらの了賢房」へ宛てた書状が含まれるが、了賢房はやなきの子で、いずれも福地氏の一族と推定される[6]。福地氏は正長2年(1429年)に室町幕府から関氏の討伐を命じられており、この頃既に柘植を代表する国人に成長していたことが確認できる[4]。天正9年(1581年)に織田信雄が伊賀国を攻めた天正伊賀の乱では、福地宗隆が織田方に味方して勢力を拡大した[2]が、天正10年6月(1582年6月)に織田信長が没する(本能寺の変)と、伊賀衆の残党に裏切り者として攻められ、国外へ逃亡した[2][4]。菊岡如幻の著した『伊水温故』は、福地氏の戦国時代の所領を1000石程としている。

構造[編集]

丘陵頂上の城郭と丘陵の裾の城郭に大きく分けられ、前者は詰城・後者は居館と推定される[7]。大手門は石垣を用い、礎石の遺構から門扉の存在が確認される[7]。大手門の両側には高さ3.5-4.8メートルの土塁があり、櫓の遺構と推測されている[7]。丘陵頂上には11以上の郭が確認され、同心円状に配置されている[7]。

現在、城跡は芭蕉公園として整備され、「伊賀の小屋組みの家」という懐石料理屋が営業している。

出土物[7][編集]



羽釜


香炉
白磁碗
染付椀

染付皿
天目茶碗
捏鉢

摺鉢
深鉢





脚注[編集]

1.^ 『伊賀市史』819P
2.^ a b c 伊賀流忍者博物館 忍者関連施設・史跡(閲覧:2016/06/24)
3.^ 『伊賀市史』751P
4.^ a b c 『伊賀市史』667P
5.^ 『伊賀市史』485P
6.^ 『伊賀市史』674P
7.^ a b c d e 三重県教育委員会福地城発掘調査報告書(1982)



[10]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月18日 13時29分40秒 ) パスワード



[17] 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月05日 00時54分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろとありがとうございます。まだイメージ力の方がついて行けません。

 昔の武将・武士は今の人のように、一か所に定着して車で遠くへ出かけると
いうようなイメージでは全くないと思います。
 蟻の一歩でも、テクテク遠くへ歩いて行ったと思った方がいいのではないか
と考えます。とにかく、徒歩でも行動範囲が広かった……。江戸詰めの人も、
動かなかったことはないと思います。その辺のイメージが今一つ湧いて来ませ
んのは、まだまだ勉強不足だなと思っています。

 

[18] 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月05日 08時29分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 お正月気分も一新。本日より元のペースに戻りました。
 あを様からの素晴らしく、また沢山の情報、まだ読解・分析が完全には
できておりません。この一両日中には終えるつもりです―

 服部氏族については、再度古代から見直しております―

[11]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月18日 13時31分48秒 ) パスワード



[31] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月13日 02時27分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>2017年05月13日

恐怖の予言の日ですね。

世界大戦の始まる日だとか北九州地震の起きる日とか
不気味な予言の日です。


新野左馬之助=苅谷俊介ですね。
直虎のママの兄   つまり  直虎の伯父さまですね。
この人の娘が庵原朝昌と結婚して庵原家は彦根の家老になっていくのですね。

           庵原家と山本勘助が引っ張り合いがあるのでしたよね。


ご報告を楽しみにしていますよ〜



    筧利夫の息子が直之(之の字)なんですね。
    


人間関係がこんがらがります。
でもNHKの大河で脳の片隅に記憶がうっすらと残って
なんとなく(ああ。あの時代あたりのことか)などとおぼろげに・・・


[12]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月19日 20時24分27秒 ) パスワード



[26] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月05日 14時19分41秒 ) パスワード

三つ柏・丸に三つ柏紋の項です。66ページと書いてあります。

続家紋でたどるあなたの家系
edited by 千鹿野茂

[13]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月19日 20時30分48秒 ) パスワード



[56] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 01時01分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は一日JOB拘束日でレス遅くなりました。昨日訪れた雄踏町の寺で見つ
けた「賀茂家」のたくさんの墓について、由緒書きを解読していましたが、し
かとはわからなかったので、インターネットを探りましたら出て来ました。
 
「賀茂真淵についてー賀茂真淵先生ーはまぞう」
 mabuchisensei.hamazo.tv/c582184.html

「ところで、実は遠州と山口県には、意外と深い縁がある。

この賀茂百樹が靖国神社の三代目の宮司であるとは最初に書いたが、その先代
の宮司は遠州の人、しか同じ賀茂姓の賀茂水穂(かも みずほ)という人であ
った。(注3)

靖国神社の巨大な青銅の鳥居をくぐると、境内に大村益次郎の大きな銅像が
あるが、これを建立したのは誰あろう賀茂水穂である。今でも台座にその名が
しっかりと刻まれている。

大村益次郎銅像

賀茂水穂は遠江国浜名郡(雄踏町宇布見)出身で、金山大明神の神主であった。時は幕末、明治維新の前夜である。徳川にゆかりの深い浜松にありなが
ら、勤皇の意志堅固な神主達が集まり、東征大総督 有栖川宮熾仁親王(あ
りすがわのみやたるひとしんのう)の率いる官軍に合流して、戊辰戦争など
を共に戦った史実がある。

この人々を遠州報国隊という。
賀茂水穂はこの遠州報国隊の一員であった。そして、水穂の兄 山本金木
(やまもと かなぎ)が報国隊の隊長であった。

遠州は、これより遡る南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねなが
しんのう)が遠州灘に上陸され、土地の豪族がこの皇子をお守りし、よく戦
った経緯がある。

この宗良親王をお守りした豪族が井伊家であり、親王をお祀りしているのが、
今の井伊谷宮(いいのやぐう)である。(注4)

そして、伊勢国から陸奥国へ舟で渡ろうとされた宗良親王が漂着された遠州
白羽の浜には、今では石碑が建っている。(注5)

親王は、遠州、駿河、三河、信濃で活躍され、生涯を閉じられたが、伝説は
今も語り継がれ、遠州国学の流れとして受け継がれている。

こうした歴史的背景を背負って遠州報国隊となった神主たちは、明治維新の
成った後、徳川家の所領となった遠州には帰参がかなわず、靖国神社の神主
となったり、官吏になるなどして多数が江戸にとどまった。

賀茂水穂は、明治政府の初期の海軍で大主計を勤めた後、靖国神社の宮司と
なった。そして、賀茂真淵翁に造詣が深く、また靖国神社宮司である自らの
跡継ぎとして、俊英賀茂百樹を見いだしたのではなかろうか。

 賀茂水穂の歌が残っている。

縣居大人墓前繼嗣報告祭の直會席(明治二十九年五月九日)に於て、水穗翁
の哥一首あり。曰く、「眞木柱 動かぬ心 押立て 家のまなびを 引おこせ
君」(注6)

 この「君」とは、賀茂百樹のことであろう。明治29年、賀茂百樹が賀茂
家の養子になった(注4)2年後のことである。
賀茂真淵翁の歌「飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱(まきばしら) た
てし心は 動かざらまし」を踏まえているのは言うまでもない。

賀茂百樹は後に「賀茂真淵全集」「日本語源」などをものし、靖国神社の
宮司も30年勤め上げ、水穂の期待によくこたえたのである。


「楠木探訪録 その35」

http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-10716313197.html

「賀茂氏

遠江国敷智郡宇布見村(雄踏町)に、

楠木正成の四代という治部兵衛直吉を祖とする賀茂氏がある。

美濃国加茂郡の人という。直吉の子賀茂一郎左衛門尉が宇布見村に移住した

という。」


 楠木氏と賀茂氏、賀茂氏と宇布見(雄踏町)がなぜ結びついたかは、しかと
はわかりません。
 「吉田氏」の墓もたくさんありました。神祇官としては吉田の方が上であ
ったとは思いますが。
 また、賀茂真淵の地でもありますので、賀茂家がこちらにあったことは間
違いないです。


[14]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月19日 20時37分14秒 ) パスワード



[46] 丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月08日 11時00分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば一つ思い出したことがあります。井伊城址から南を眺めると、
遠く山の切れ目に浜松のアクトタワーや高層ビル、そしてその向こうの海の
輝きが見えました。山の中ゆえ山ばかりかなと思いましたが、不思議でした。
浜松からは約20キロメートルは離れていると思います。
 宗良親王は、井伊城の天守の窓から、南の方向にある海の輝きを眺めなが
ら、感慨にしたり歌を読んだのでしょうね。『李花集』は一度読んでみたい
と思います。
 もう一つ思い出したことがございます。藤堂高虎の菩提寺が日蓮宗だった
とご報告いたしましたが、なぜ日蓮なのか・・・との疑問がふつふつとして
いました。末法の世の救い、パワーとしての日蓮にすがったのかとは思いま
したが、家康は浄土宗を勧めていましたので、どうもその辺の事情がわから
ない。
 今回、ビックリしたのは、日蓮は井伊氏の分かれであったことを知った事
です。ルーツは井伊氏だったのです。
 日蓮について新たな興味が湧いて来ました。これはこれでテーマといたしま
す。
 日蓮(宗)と高虎と家康との関係は果たしてあったのかなかったのか・・・?
 

[15]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月19日 22時21分32秒 ) パスワード




[61] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月06日 05時23分32秒 ) パスワード

ときおさん


ありがとうございます。
いくつか見てきました。


アッチにもコッチにも伝承があるというのが面白いですね。



             九州上陸はすんなり(そうだろうな)と受け入れられます。
             3000人の子孫が瀬戸内海沿岸や遠江や東国に行ったというのも受け入れられます。

              豊葦原の瑞穂の国が豊橋の前身というのも面白いです。


      でも中国的詐欺の延長というのも想像するし。
      徐福って歴史的なペテン師だったのかもというロマンも分かるし。
      笑


夢があります。


http://xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf
前田 豊 さんの東海・関東地域の徐福情報について

状況証拠がたくさん!



http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html
前田 豊 さんの
東三河と徐福伝説
     ----秦の徐福は東三河に定住していた!?----    


夢がある



http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1291.html
東三河の秦氏 その15

秦氏に2流れあり

[16]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月20日 12時59分39秒 ) パスワード




[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時34分14秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/ici05876/entry-11517008918.html

遂に分かった日本人のルーツ:物部・秦の争いが南北朝に


     これまた斬新な説です


日本人の三大源流は(1)縄文人、(2)弥生人、(3)古墳人、からなります。



(1)縄文人は@アイヌ族、A先住海人族・平(へい)氏、B渡来シュメール族・橘氏



(2)弥生人は@渡来古代ユダヤ10支族・海部氏、物部氏、秦氏、A中国華南地域から来た倭族




(3)古墳人は@崇神天皇以降の突蕨系騎馬民族・土師(はじ)氏、西文氏、A応神天皇以降に秦氏が半島から呼んだツングース系越氏




まず、縄文人の先住海人族・平(へい)氏ですが、これはのちの平家となります。



一方、渡来シュメール族・橘氏ですが、和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として物部氏とともに蘇我氏と争い脚光を浴びることがなかったが、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名。皇室の警察犬を使う犬養氏、安曇氏、葛城氏も一族。橘氏は和田氏、楠氏につながります。



これとは別に、南九州にはミクロネシア系の海人族・熊襲あるいは隼人が上陸しました。




次に、弥生人のうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏、物部氏で、物部氏は秦の始皇帝の側近・徐福によって連れてこられた一団と言われています。

海部氏が社家となる丹波地方にある籠神社では、「アマテルとニギハヤヒの両神は同体なり」として、海部氏と物部氏の合併を言い伝えています。

つまり、聖徳太子と蘇我氏に討たれた物部氏は一部は大和朝廷に残りましたが、一部は丹波地方に移住したようです。そしてその後、蘇我氏は秦氏系の中大兄皇子(天智天皇)、倭族系の藤原氏に討たれます。




その秦氏ですが、山渡人(ヤマワタヒト)という大陸から来た一団を指し、中国秦王朝の末裔と言われています。




さて、残りの古墳人ですが、土師氏は半島由来の北方騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も”恥”から来ているようで、半島から人足を集め土木作業をしていたための蔑称と言われています。




西文氏は北陸地方に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、日々漂着する渡来民を引き受け、労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”の役割をになっていたと言われています。時代はやや遅れますが、ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に居住したようです。




ちなみに、日の丸を国旗として正式に定めるよう要請したのは島津氏。島津氏の初代は島津忠久こと惟宗忠久、惟宗秦氏で、また毛利氏は物部守屋(モリヤ)氏の末裔、源氏は司馬遼太郎氏によると”源新羅三郎”という半島経由突蕨系騎馬民族の末裔といわれています。




ところで、これらの流入民族の流れを背景に、大和朝廷の動きを追ってみましょう。

日本書紀では神武天皇から始まる天皇家ですが、
神武、崇神、応神の各天皇は秦氏系と言われ、
主流から追われた海部、物部、蘇我、橘等の海人族は、主に紀伊半島内陸部に拠点を持ちます。




そして、天智天皇に脅威を感じた海人族・大海人皇子は吉野に隠棲を装い、百済色が強くなった天智系継体天皇陣営を一新して、海人王朝を樹立したのが壬申の乱であり、天武天皇です。天武天皇は伊勢神宮を創建しましたが、この吉野を中心とする勢力が後の南北朝時代の南朝の基盤となるのです。



最後にどんでん返しになりますが、
以上のように日本には古代からいろいろな民族が流入した多民族国家であったことが解りますが、
実は、これらの渡来諸民族はもともとは日本で生まれ、日本から分かれたのが真相なのです。




一般には、日本で最も古い文献は古事記、日本書紀と言われていますが、
実はそれよりも古い、そして古事記、日本書紀のネタ本になったのが
物部興久によって編纂された「先代旧事本紀」、
あるいは稗田阿礼が編纂した「帝王日継」、「記紀」、「古語拾遺」などで、
これに加えて竹内文書、日月神示、出口王仁三郎説によりますと、




世界が一つの大陸だったころ、天(シリウス)から日本にスメラミコト(天皇の祖先)が降臨して国を開き、世界を統治し、また日本人から世界の五色人種が分かれたということです。




しかし、こんなことが明らかになると、ローマバチカンやイギリス王室など、これまで正当とされてきた世界の権威が地に落ち、彼らを中心にした支配の構図が崩れかねない、従って、それを阻止するため日本人を目覚めさせないでおこうという思惑から、日本はこれまでいろいろな艱難辛苦を味わってきました。




そして、逆に日本側からすれば、このようなことが明らかになれば、西欧からの思わぬ攻撃を受けかねないとの配慮から、真実の歴史をを隠すため、天武天皇や藤原不比等らの”天照の天孫史観”によって縄文以前の歴史が封印されたのです。しかし、事実は神武天皇以前にも150代以上も天皇は存在したようです。

[17]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月20日 13時54分39秒 ) パスワード



[18] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月20日 05時41分06秒 ) パスワード

<14>書き直し



断家譜


長谷川氏(藤原)の次が服部氏です:P85の次、P86の前からです

http://books.google.com/books?id=ZYnE99OizPkC&pg=RA2-PA15&lpg=RA2-PA15&dq=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=SFR31hhjyX&sig=E_rrWMwd_GZMm2FYLYg0Oegr0y4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwizr4bR47TNAhVQyWMKHQ_oCHsQ6AEIMzAE#v=onepage&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


服部政信が出てます。
本国は尾張。平氏。
矢筈車・上り藤丸
今切で病没。64歳。

へ〜
子供達は無嗣断絶になってます。



弟・政重は45歳で今切で病没。


弟の子である政次も今切関所にて病没。

弟の孫になる政次は大久保忠重の次男を養子=正勝=にしたものの25歳で乱死で
その子は父の乱死で断絶にさせられた。


つまり服部政信兄弟の家は断絶。

[18]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月20日 13時58分25秒 ) パスワード



[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月21日 22時49分09秒 ) パスワード

http://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/kasai-e/gakkusyoukai/zisya/jyoimyouzi/jyoumyouzi.htm


定明寺(じょうみょうじ)
 【浄土宗 無量山定明寺】

 1458年(長録2年)の開基です。15世紀に「武田信玄」に仕えた「笠井定明」という武将の時代に「笠井城」が栄えたそうで,その時創立したお寺が「定明寺」ということです。笠井定明の子である「笠井高利」は「長篠合戦」で武田勝頼を助けるために生涯を閉じたとのことです



これを読んだ感想は   松嶋家の「高天神城落城」  の記録が気になります。


三つ柏さんは勝頼にシンパシーを感じると以前お書きでしたよね。
   勿論三谷幸喜の脚本が素晴らしいし
   勝頼は悲劇の武将ですし
   日本人ならかなりの人が同情すると思います。

何か特別なものがあるのかも。


また日を改めて定明寺さんにいらっしゃってはいかがでしょう?
ご住職さんかだいこくさんからお話が伺えると良いですね。

[19]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年08月20日 15時17分47秒 ) パスワード



[30] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月03日 22時36分47秒 ) パスワード

墓[編集]


倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている[6][7]。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。

前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている[8]。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では記載を欠いている[8]。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された[8]。

この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]。



考証[編集]

『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型(苧環型)の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる[3][1]。また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型(神人交流型)ではなく、別離し死去する(神人隔絶型)であるという特徴を持っている[3]。

また百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある[1](詳細は「卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説」を参照)。

信仰[編集]

「吉備津彦命#伝承・信仰」も参照

上記の通り彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国・備中国・備後国・讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。

脚注[編集]

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注釈

1.^ 「神浅茅原」の比定地として、奈良県桜井市笠の浅茅原または桜井市茅原とする説があるが明らかでない (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年)。
2.^ 「倭迹速神浅茅原目妙姫」の名は、神浅茅原で神憑ったことによる讃称とされる (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年)。

出典

1.^ a b c d e f g h i j k l m 倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) 2010年.
2.^ a b 倭迹迹日百襲姫命(古代史) 2006年.
3.^ a b c 倭迹迹日百襲姫命(国史).
4.^ a b 倭迹速神浅茅原目妙姫(古代氏族) 2010年.
5.^ 『萬葉集註釈 一』所収『土佐国風土記』逸文「三輪川(神河)」の引用文(武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)167-168コマ参照)。なお、逸文中の「多氏古事記曰はく」以下は風土記の文章でない可能性が指摘される。
6.^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
7.^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
8.^ a b c 大市墓(国史).
9.^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 18-20。

参考文献[編集]
『国史大辞典』 吉川弘文館。 上田正昭「倭迹迹日百襲姫命」、石井茂輔「大市墓」(倭迹迹日百襲姫命項目内)。

上田正昭 「倭迹迹日百襲姫命」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。ISBN 4479840656。
『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。 「倭迹迹日百襲姫命」、「倭迹速神浅茅原目妙姫」。

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