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青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 11時52分44秒 ) パスワード
三つ柏さん
残念ながら
>青山成重(服部正尚の弟)を秀忠のもり役にすることにより、
>秀忠体制の柱とした……
>ということになりますね。
いいえ、なりませんでした。
大事なことをお忘れです。
大久保長安事件をお忘れです。
青山氏下総飯田藩藩主 (1603年 - 1613年)
青山成重1603-1613
大久保長安事件の影響で廃藩
以下コピペ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%88%90%E9%87%8D
青山 成重(あおやま なりしげ) 天文18年(1549年)〜 没 元和元年9月7日(1615年10月19日)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。江戸幕府老中。
服部正信(平蔵)の次男。
元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を継ぐ。
徳川秀忠の後見役となり、天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。
慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。
慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。
ココ
7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。
大坂の陣では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、結局赦免されることのないまま死去した。
3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、子孫は旗本として存続する。
成次の子成政の代に1200石となり、4代あとの成存は勘定奉行になっている。
大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
の総称。
江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。
大坂の役(おおさかのえき)とも称する。
青山成重(服部正尚の弟)
父:服部正信、母:青山忠教娘
兄:正尚
妻:正室:常岡当自娘
子:成次、
娘:浅羽幸正室
養子:成国(大久保長安の子)
青山成国(あおやま なりくに)
天正12年(1584年) - 慶長18年7月9日(1613年8月24日))
大久保長安の三男。
通称、権之助。
長安の子の中で唯一諱がわかっている人物。
奉行衆青山成重の婿養子となった。
しかし、実父長安が生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚、
小田原藩の大久保忠隣のもとに預けられ、切腹した。
つまり秀忠は助けてくれなかった、ということですね。
助けたくても家康の怒りが怖ろしかったでしょう。
長安事件の時、秀忠は当時どんな気持ちだったか知りたいところです。
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[60] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 16時58分31秒 ) パスワード
空の青海のあを様
それでは、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』から―
「8世紀の墓から出た十字架
1549年に、ローマ・カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが
来日し、キリスト教を伝えた。彼の伝記などを読むと、たいてい、「日本
に最初にキリスト教を伝えた人」というような肩書きがついている。しか
し、じつは彼は、日本にキリスト教を伝えた最初の人ではなかった。彼の
時代よりもはるかに前に、たくさんのキリスト教徒が日本に入っていた。
そして日本の文化・伝統に決定的ともいえる影響を与えていたのである。
たとえば、7〜8世紀にかけて生きた「羊太夫」と呼ばれた人物の墓か
ら、昔「多胡郡」と呼ばれたが、羊太夫は、その多胡郡の統治をまかされ
た人である。多胡郡には「多胡碑」と呼ばれる古碑がある。711年に建
てられ、「日本の三古碑」のひとつに数えられる石碑だ。この碑が、羊太
夫について記している。
「羊とは変わった人名だな」と思う方もいるかもしれないが、そうでは
ない。彼は群馬の地に昔実在した人物で、渡来人であった。
この羊太夫の墓の中から、キリスト教徒の十字架が発見されていたので
ある。また「INRI」というローマ字の記された銅版もともに発見され
た。それらは羊太夫のものと思われ、8世紀にすでに日本にキリスト教徒
がいたことを示している。
そしてこのキリスト教徒・羊太夫は、その地域のリーダーであっただけ
でなく、日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。
羊太夫の墓から出たという「十字架」は、残念ながら現存していない。
が、江戸時代後期の大名であり、また学者でもあった松浦(まつら)静山が、
その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話(かっしやわ)』のその部分
を現代語ら訳すと、こう書かれている。
「上州多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その
墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオラ
ンダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんな
ものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と
不思議がった」
このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であ
り、十字架は禁制の品だったからである。
羊太夫は、高度の技術力を持ち、日本最初ともいわれたあの有名な銅銭
「和銅開珎」(わどうかいちん)を作った技術長官でもある。また羊太夫は、
土地の人に尊敬され、慕われていた。筆者はその地域を調査したことがあ
ねが、今も彼のことは人々に語り継がれている。彼らは今も羊太夫を偲び、
毎年お盆の時に送り火として山で文字焼きをしている。
十字架が発見されたという羊太夫の墓がどこにあったのか、現在では特
定できていない。後述するように、その墓は多胡碑のかたわらにあった「
石槨」(せきかく)であると思われるが、多胡碑自体が戦時中などに何度か
動かされたため、もとの多胡碑の正確な位置は現在ではわからなくなって
いるという。
じつは「多胡」の名も、そこに渡来人が多かったことから付けられた名
である。「胡」は外国、西域の民族という意味である。羊太夫の家系も、
渡来人であった。しかも、彼らはキリスト教徒だったようなのだ。
しかし「十字架が出たちいっても、十字架に似ていただけではないのか」
と疑問視するかたもいるかもしれない。けれども、高名な学者であった松
浦静山が「十字架」とはっきりいっているのだ。またティツィングも、そ
れをキリスト教の品だと思ったからこそ、『こんなものを鑑定しろとはど
ういうことか』と言ったのである。」
とりあえず今回はここまで。後5〜6回引用させてもらいたいと思いま
す。
仮に中臣羽鳥連の玄孫が藤原不比等だとしたら、不比等と羊太夫は親戚
になりますので、いわゆる原始キリスト教との関係が何かしら見出される
はずですが、たぶん知っていたけれど表には出さなかった、隠蔽したので
はないかと推理します。
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青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 01時46分07秒 ) パスワード
レス3の正光寺さん関係で
http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf
下の方に 正光寺の略歴が出ています。
>今川氏真や旗本の北条氏や藩主の太田氏や伊奈さんのお名前や
>その後に 羽鳥神社の神主の松島家や
>山下家には勝頼の書状があったり
>など書かれていて
伯父さまが太田家に養子にいらっしゃった・・・
すごいですね。
みんな親戚なんですよね
だって昔は同じ PEERS で関係を持っていたから
みんな親戚になる
本当に親戚になってますね。
山下佐次兵衛さんが松下家の転府にくっついて行かなかったのは
「もし一緒に行動したら山下家の子孫は松下家の下に置かれたままになる」
と考えたからかも、ですね。
たぶん山下家は松下家よりずっと格が高かったのかも。
もう本当にどんどん鬼籍に入って行かれますね。
今の内にちゃんと調べておかないと未来永劫分からなくなりますね。
ヒバリさんは賢い人なのか
教えた人が賢かったのか
頭の中が整理された人だなと思います。
ワタシなんて 太田氏? どこかで太田道灌の子孫が遠江で殿様になってたよね?
昨日の書き込みがどこにあったのか覚えていない体たらく。
太田氏について後で調べてみますね。
今から夫の受診にくっついて行きます。
>ヒバリさんの大事な名前思い出しました。
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[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 02時29分51秒 ) パスワード
http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html
近江国の名字を見て来ました。
滋賀県のご先祖調べ
令制国の近江国に相当します。
古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていましたが、京に近いことから「近江」の字があてられました。 ちなみに海とは琵琶湖のことです。
滋賀・栗太(くりた)・甲賀(こうが)・野洲・蒲生・神崎(かんざき)・愛智(えち)・犬上(いぬかみ)・坂田(さかた)・浅井(あさい)・伊香(いか)・高島(たかしま)の12郡で構成されていました。
■戦国期以前の滋賀県
鎌倉時代になると宇多源氏佐々木一族が近江国を支配し、戦国末期まで約400年君臨します。
近江国を湖北、湖南、湖西の三地域に分けてみると、湖北では佐々木一族の京極氏が支配し後に家臣の浅井氏が台頭します。
湖南は守護佐々木六角氏が戦国大名として支配、東南の甲賀地域には国人・土豪の小勢力による地域支配が行われていました。 湖西では佐々木一族の朽木氏が勢力を持ち、比叡山延暦寺も力を持っていました。
■滋賀県の名字
近江国の中心勢力である佐々木一族をみてみます。
近江の佐々木氏は佐々木信綱の四人の息子(大原重綱・高島高信・六角泰綱・京極 氏信)から広がったといわれています。
ではどのような苗字が分出したかみてみましょう。
大原重綱・・・朝妻・島脇・高山・白井・本江・夫馬・竹谷
高島高信・・・朽木・永田・市原・横山・田中・原・平井・下坂
六角泰綱・・・堀部・森川・唐橋・鳥山・佐々・西条・愛智河・山内・鳥羽・上総・
駒井・藤島・川島
京極氏信・・・鏡・岩山・松下・長岡・一円・近江・岡田・松田・浜河・高橋・郡馬・
金吾・尼子・江浪・完道・宇賀野・多田・永谷・高田・倉知・餅田・高屋・岩山・
鞍智・黒田・大鹿・田中・塩谷・田辺
その他にも、佐々木信綱の弟・馬渕広定・・・長江・堀部・青地
同弟・佐保時綱・・・山中
同弟・伊佐行綱・・・大山
佐々木信綱の 叔父・加地盛綱・・・磯部・小島・高浜・倉田・東郷・中村・野村
同叔父・吉田厳秀
同叔父・佐々木義清・・・富田・賀野・山佐・羽田井・高岡・広瀬・別府・塩冶・乙立・
田原・下山・吉田・福依・高木・阪谷・上郷・坂田・後藤・駒崎・古志・荻原・重栖・
南浦・湯・佐世・垣・山根
次に佐々木氏以外の一族も見てみましょう。
清和源氏では、浅井郡山本に起こる山本氏、甲賀郡柏木に起こる柏木氏、坂田郡箕浦に起こる箕浦氏、浅井郡錦織に起こる錦織氏、浅井郡速水に起こる速水(早見)氏があります。これらの氏族は源平合戦の頃には登場しています。
その他に、平井、栗田、小椋、山田、和南(わなみ)、梅林、山上、大町、高岸、御園、岸下、林田、石塔、森、米井(よない)、奥、樋口、柳、河曲(かわわ)の諸氏も清和源氏といわれています。
藤原氏では、神崎郡国領に起こる国領氏、滋賀郡真野に起こる真野氏、愛智郡鯰江に起こる鯰江氏がいます。豪商三井家は鯰江氏と同族といわれています。
紀氏では、織田信長の家臣瀧川一益を出した瀧川氏があります。
古代氏族では、建部(たけべ)君の末裔として建部、日吉氏があり、三上祝の末裔として三上氏、蒲生稲寸の末裔として蒲生氏があります。 戦国大名の蒲生氏郷はこの一族です。
戦国大名でいえば、佐々木一族を押さえ戦国大名に成長した浅井氏がいます。これは三条公綱の末裔ともいわれますが、実ははっきりしていません。
藤堂氏
↓
伊勢国津藩の初代藩主藤堂高虎は犬上郡藤堂に起こる一族、藤原姓とも中原姓ともいわれています。
甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。
甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。
頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村
滋賀県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。
1田中 2山本 3中村 4西村 5山田 6北川 7中川 8木村 9林 10清水
11井上 12小林 13北村 14吉田 15辻 16奥村 17西川 18森 19伊藤 20藤田
滋賀県の名字は、典型的な西日本タイプです。
「田」の付く名字が多く、稲作文化の先進地域の影響がみらます。
また「山」「木」「林」「川」などの自然地名や、集落をしめす「村」の付く苗字も多くみられます。
これも農耕社会を影響を受けている苗字です。
さらに「北」や「西」の方角が付く苗字が目立ちます。
■江戸時代の滋賀県
江戸時代の近江国は西国の抑えの井伊彦根藩が北部の大部分を占め、その他は膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩といった小藩、 交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領なども入り交じり、複雑な領地区分となっていました。
廃藩置県時に滋賀県に存在した藩は以下の通りです。
藩名 城下町 主な藩主の変遷
彦根藩 彦根市 井伊氏
膳所藩 大津市 石川氏→本多氏
水口藩 甲賀市 鳥居氏→加藤氏
大溝藩 高島市 分部氏
仁正寺藩 日野町 市橋氏
山上藩 東近江市 安藤氏→稲垣氏
近江宮川藩 長浜市 堀田氏
三上藩 野洲市 遠藤氏
この他に堅田藩(堀田氏)・朽木藩(朽木氏)・大森藩(最上氏)・近江高島藩(佐久間氏)・近江小室藩(小堀氏) がありましたが廃藩となっています。
■滋賀県の家紋
滋賀県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、滋賀県の家紋トップ10は次の通りです。
1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 柏 4位 木瓜 5位 梅鉢
6位 桐 7位 目結 8位 藤 9位 橘 10位 蔦
日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と沢潟紋がランク外となり、かわりに目結紋と梅鉢紋がランク入りしています。
このなかで滋賀県の代表する家紋は佐々木氏の定紋目結紋です。
実際、近江を発祥とする佐々木一族の多くは「目結紋」を使用しています。
そのため目結紋使用家はその出自を佐々木氏と判断してしまうほど認知されています。
ちなみに佐々木氏の氏神沙々貴神社の神紋は「平四つ目」といいます。
■滋賀県の寺院
滋賀県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、滋賀県の宗派別の割合は以下の通りです。
湖北・湖東(彦根・近江八幡等) 湖西(高島) 湖南(大津・草津)
天台宗 7% 12% 22%
真言宗 4% 4% 2%
曹洞宗 5% 34% 4%
臨済宗 6% 3% 4%
浄土宗 10% 7% 26%
浄土真宗 63% 40% 36%
日蓮宗 1% 1% 2%
黄檗宗 2% 0% 1%
その他 2% 0% 3%
滋賀県全体を通して浄土真宗の寺院が最も多くあります。北陸地方に次ぐ真宗王国です。
湖南地域は天台宗の本山比叡山の麓、寺門派三井寺もあり、天台宗の寺院が多くあります。 これに対して真言宗寺院が少ないのが特徴的です。 真宗寺院が多いこともあり、古い墓石は多くありません。
■滋賀県の神社
近江国一之宮は建部大社です。
主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
日本武尊は熊襲・東夷を平定された武勇の皇子で、32才の若さで伊勢国において崩御されました。 その後、妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部に尊の神霊を奉斎されたのが始まりとされます。
とくに源頼朝が伊豆に流される途次、建部大社で源氏再興を祈願し、ついに平氏討伐・源氏再興の宿願が成ってから、武運来運の神として信仰を集めました。
建部大社の祭祀は、建部氏(祭神・日本武尊の後裔)があたっています。
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