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 投稿番号:104246 投稿日:2022年01月20日 13時55分49秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
ハワイの海底火山「ロイヒ」の噴火の可能性は?

コメントの種類 :生活  パスワード

ハワイの海底火山「ロイヒ」噴火の可能性は? 専門家解説

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月20日 13時57分17秒 ) パスワード

以下コピペ



トンガで14日、海底火山の大規模噴火と津波が発生したことを受け、
ハワイ島沖の海底火山ロイヒ(Loihi)の噴火の可能性について懸念の声が上がっている。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月20日 13時58分23秒 ) パスワード

ロイヒはハワイ諸島の中で最も新しい海底火山で、
ハワイ島南東沖約22マイル(35キロ)、
海面下約1万フィート(3キロ)に位置している。

頂上は海面下3,000フィート(910メートル)。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月20日 14時00分06秒 ) パスワード

ロイヒ周辺では地震が発生することがあり、火山学者らが検証を続けている。

USGS(United States Geological Survey=アメリカ地質調査所)ハワイ火山天文台のケン・ホン氏は、
「ロイヒが要因の溶岩流は1度も発見されていないが、
頂上にある大きな穴に新しい溶岩のように見えるものが確認されたことがある」
と話す。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月20日 14時02分06秒 ) パスワード

ロイヒが噴火する可能性は「100%ある」とホン氏は言う。


しかしながら、ホン氏によると、
ロイヒは今回のフンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ(Hunga Tonga-Hunga Ha‘apai)のように突然噴火することはない。


ロイヒの頂上が深海に位置することから、噴火のプロセスは非常に遅く、噴火したものが海面を突破するまで10万年前後かかると予測されている。

また、ロイヒとフンガ・トンガ=フンガ・ハアパイの化学的性質は異なっており、
後者はより珪質でガスを豊富に含むため、
通常の海底火山より爆発的な噴火を起こす可能性が高いという。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月20日 14時07分13秒 ) パスワード

トンガ噴火、津波最大15m
3人死亡、被害拡大も


トンガ政府は18日、海底火山の大規模噴火の影響で3人が死亡し、多数の負傷者が出たと発表した。

最大15メートルの津波が起き、首都ヌクアロファのあるトンガタプ島など複数の島が被害を受けたという。

被害の全容は判明しておらず、死傷者が増える恐れがある。
通信手段が寸断され、発生4日目で初めての公式発表となった。


トンガ政府は「火山灰によって水の供給に深刻な影響が出ている」とし、飲用水の確保に全力を挙げているとした。

また港の埠頭が破壊されたり、空港滑走路に火山灰が積もったりしたことで「海上と航空の輸送に支障が出ている」とした。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月27日 03時32分33秒 ) パスワード

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20220124-OYT8T50078/
遠い国の大噴火に翻弄された日本…その時、指導者たちはどう動いたか
2022/01/26
調査研究本部 丸山淳一

以下コピペ
全文は有料

南太平洋の島国、トンガの海底火山で1月15日、大規模な噴火があった。噴煙は上空約20キロと成層圏にまで達し、火山灰は半径250キロ〜400キロにわたって広がったとみられる。噴出物の量から噴火の規模を示す「火山爆発指数」(VEI)は5か6で、世界でもこの規模の噴火は50年に1度しかない。トンガでは降灰と津波で全人口(約10万人)の8割以上が被災したという。まずはお見舞いを申し上げたい。


明治期にもあった…遠い国の大噴火で日本に被害

噴火によるとみられる衝撃波は地球を1周し、8000キロ離れた日本にも津波が押し寄せて、養殖いかだが流されるなどの被害が出たが、遠い国の火山の大噴火が日本に被害をもたらすことは過去にもあった。

明治16年(1883年)8月27日のインドネシア・クラカタウ火山の大規模噴火(VEI=6)では衝撃波が地球を4周し、鹿児島県の 甲こう突つき川がわ には津波が押し寄せたという。この時の衝撃波は人類有史以来最大の「音」とされ、64キロ離れた洋上を航行していた英国の軍艦乗組員の半数の鼓膜が破れ、噴火音は4800キロ離れたモーリシャス領のロドリゲス島にも届いた。


さらに深刻だったのは気候に与えた影響だ。噴火で排出された硫黄分は大気中の水と化合して硫酸エアロゾル(微粒子)となり、成層圏で拡散すると数年間、日傘のように地球を覆い続ける。太陽光のうち短い波長の青色の光が遮られて空は赤く染まる。ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンク(1863〜1944)の代表作「叫び」の空が赤いのは、クラカタウ大噴火後の空を描いたからだという説がある。

エアロゾルによって地表に届く太陽光が減れば、地球規模の寒冷化が起きる。数年間にわたって世界各地で農作物が不作になり、不作による食料不足は社会不安や戦乱の要因になる。日本もその例外ではない。世界有数の火山国である日本は、国内の火山噴火による直接的な影響だけでなく、間接的に海のかなたの火山噴火にも 翻弄ほんろう され続けてきた。気候と歴史の関係を研究している農林中金総合研究所客員研究員の田家康さんは『気候で読み解く日本の歴史』のなかで、古文書の記録や世界各地に残る大噴火の痕跡などから、その歴史をたどっている。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月27日 03時36分01秒 ) パスワード

https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20220124-OYT8T50078/2/
海を渡った火砕流で縄文人全滅

今から7300年前、鹿児島県南部の鬼界カルデラで起きた巨大噴火(VEI=7)による火山灰(アカホヤ)は東北地方まで降り注いだ。大規模な火砕流は推定時速300キロという高速で海を渡り、大隅半島や薩摩半島に上陸。九州南部の縄文文化を壊滅させたとされる。九州南部は1000年近く無人の地となり、噴火の前後で縄文式土器の様式が変わったという。


1257年には赤道付近に位置する火山が噴火し、世界的な冷害を引き起こした。グリーンランドと南極の氷床からみつかった硫酸エアロゾルの量などから、噴出物はマグマ換算で最大8000億立方メートルに達し、VEIでは7に近い有史以来最大の噴火とみられる。噴火したのはどの火山かをめぐって長年論争があったが、硫酸エアロゾルの成分分析などから、最近になって噴火したのはインドネシアのタンボラ火山ではないかという学説が発表されている。


「夏のない年」    乱を“予言”した日蓮

翌年は世界的に「夏のない年」になり、日本では建長8年(1256年)から続いていた台風や豪雨災害、干ばつに続いて冷害に見舞われた。6月なのに2月、3月並みの寒さが続いて「餓死者その数を知らず」という正嘉の 飢饉ききん が起きた。栄養不足によって疫病も流行し、朝廷は災厄を断ち切ろうと、正嘉、正元、文応、弘長と、5年の間に4回も改元している。


文応元年(1260年)には日蓮(1222〜82)が鎌倉幕府の執権、北条時頼(1227〜63)に『立正安国論』を献上、「すでに大半の人々が死に絶えて、悲しまない者は一人もいない」と飢餓の惨状を訴えた。幕府と朝廷は質素倹約を求める新法令を矢継ぎ早に発するが、祭りなど華美な催しの廃止や酒の販売停止などの効果は上がらず、幕府の権威は揺らぎだす。


ちなみに『立正安国論』には、後に日蓮が蒙古襲来を予言したといわれる「四方の賊来て国を侵し」という記述がある。日蓮がモンゴル帝国の動きを知っていたわけではない。修行 研鑽けんさん を通じて得た「先見の明」があったのだろう。だが、世界規模の冷害はモンゴルでも起き、より温暖な中国を侵略して元王朝の初代皇帝となったクビライ(1215〜94)は、実際に文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)に日本を襲っている。火山噴火が日本史と世界史に作用し、鎌倉幕府の滅亡を早めたという見方は、誤りとは言い切れない。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2022年01月27日 03時38分09秒 ) パスワード

危機を直視しなかった義政

鎌倉幕府が滅亡した後の寒冷期は、室町時代中期の1440年代にやってくる。当初は太陽の黒点の減少が主因だったとみられるが、50年代からは火山噴火が重なって、寒冷期は長期化した。1452年から翌年にかけては、バヌアツ共和国にあるクワエ火山が大噴火を起こし、グリーンランドと南極の氷床では57年ごろまでの層から硫酸エアロゾルが検出されている。

日本でも天候不順が続いて、享徳3年(1454年)と長禄元年(1457年)には京都近郊で大規模な 土つち一いっ揆き が起きる。幕府が差し向けた鎮圧軍は一揆勢に敗北し、幕府は一揆勢が要求していた徳政令(借金の棒引き)の発布をのまされる。「武士の体たらくなきがごとし」という落首を紹介するまでもなく、幕府の権威は失墜した。


しかし、8代将軍の足利義政(1436〜90)は政治を疎んじ、特に対策を講じなかった。それどころか「国の飢饉を 憐あわ れむことなく」将軍御所を山水草木で飾り立て、幕府全盛期の「花の御所」を再現しようとしたという(『長禄寛正記』)。見かねた後花園天皇(1419〜71)は寛正3年(1462年)、自作の漢詩に寄せて義政を 諫いさ めた。

残民 争ひ採る 首陽の薇
処処 炉を閉ぢ 竹扉を 鎖とざ す
詩興 吟ずれば酸なり 春二月
満城の紅緑 誰が為に肥ゆ

(飢饉のなか、民は食べるものがなく、まるで中国・周の首陽山で餓死した伯夷・叔斉の兄弟のように野草を争い採って食べている。どこの家も 囲い炉ろ裏り に火はなく玄関も戸も閉じたままだ。詩を吟じても 辛つら く苦しいばかりの春である。都に満ちている花や緑は誰のために生い茂っているのか、楽しむ者などいないのに)

義政はさすがに反省して御所の修築を中止したというが、御所はその5年後、応仁の乱の戦火で焼亡してしまう。土一揆に敗れた大名は、武装した一揆勢を自軍の兵に採用し、足軽や雑兵による乱暴や略奪は当たり前の戦国時代は100年以上続くことになる。


以下有料だそうです。
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