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 投稿番号:102222 投稿日:2025年06月13日 22時11分44秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
安芸沼田氏

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

母方38代前の先祖の母上の実家からパワーが来てたのでアップ。


    

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月13日 22時26分02秒 ) パスワード

今年3月の日本祭りでキレイどころを10人ずつ雁首並べる話があって
当然真っ先に名乗り出ました。

    誰だ?
    「枯れ木も山の賑わい」と言ったのは?

     

そして何故か翌年には参加して「抜刀納刀」をやりたいと思うに至り
やってみたら
「重い!長い!抜けない!」「重い!長い!入らない!」

      人差指で道を作っても入らない!
      入りそうになったら反りが合ってなかった!
      恥


ということで1か月自主練はしたものの
ときお先生の御指導ご鞭撻のお蔭で
結論として道場に通うことにしました。


その道すがら

なんと!
38代前の先祖の父上が長兄と共に討ち死にした石鎚山ゆかりの神社に出会いました。


ここから先祖のパワーが来るのがヒシヒシと伝わり


465年前と456前に同盟軍だった御家の御子孫を知り
なんと
38代前の母上の実家近くの御子孫も知り  いやいや  実は  一族だったのでは?


ということで「安芸の沼田氏」のスレッドを立ち上げました。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月13日 22時31分40秒 ) パスワード

やっぱり涙でいっぱいになる。


38代前の先祖の母上の「実家」は平家と共に滅びていたのですから。


母上の「兄」はワタシの先祖と共に平家に反旗を翻したので別の話。


頑張って書かなきゃ。
先祖の話は血と涙の歴史そのものなのだから。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月13日 22時39分11秒 ) パスワード

https://kotobank.jp/word/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E8%8D%98-859060

沼田荘
ぬたのしょう

安芸国沼田郡の荘園。

本荘と新荘からなり,
沼田川河口,現広島県三原市西部から本郷町(現・三原市)にかけた地域に本荘が,沼田川支流椋梨(むくなし)川流域の現賀茂郡一帯の山間地と飛地の竹原市に新荘があった。



註:竹原は16世紀の終わりに我が家の家名が完全滅亡した時の主の没地
      この項で我が家と小早川家の関係が分かります



開発領主沼田氏の寄進で成立したとみられるが詳細は不明。
平安末期には京都蓮華王院領となっている。


承久の乱後,領家は西園寺家,預所(あずかりどころ)は橘氏となる。



平氏にくみして壇ノ浦に滅んだ沼田氏に代わり,

東国から小早川氏が地頭として入部,
本荘には惣領(そうりょう)の沼田小早川家,
新荘には椋梨小早川家がそれぞれ城を構え,
在地領主として成長した。


13世紀中頃の見作田(げんさくでん)は両荘併せて461町余。
両家とも荘内に一分(いちぶ)地頭として庶子家を分出,
1235年には一族の団結を図るため不断念仏堂が建立され,堂修理などの料田と称して沼田川下流域の塩入荒野の干拓が行われた。


干拓地の近くには本市・新市の市場集落が形成され,富裕な市場商人たちは小早川氏の朝鮮貿易の一翼を担った。


1405年の地頭請で小早川氏は下地支配権を獲得,自検地も行って領主としての地位を固めていった。



出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月13日 22時50分10秒 ) パスワード

参考までに




改訂新版 世界大百科事典
沼田荘 (ぬたのしょう)

安芸国沼田郡の荘園。
沼田川流域一帯を中心として沼田郡の大部分を占めたもので,沼田本荘と新荘とに大別される。

本荘だけでも7郷,あるいは8郷から構成されていた。


本荘は河口に近く平野部の多い旧三原市西部や,その西隣の同市の旧本郷町一帯であり,
新荘は沼田川上・中流部の山あいの村々や,さらに南にとんで現竹原市内の海ぞいの地域までを含んでいる。


平安末期には京都蓮華王院の所領となっている。


成立の経緯は明らかでないが,おそらく沼田氏が開発領主として荘域の開発・拡大につとめ,同氏によって平清盛造営の蓮華王院に寄進されたものと思われる。


寄進者である沼田氏は代々沼田郡の郡司などの位置を占める在地豪族であり,
下司として荘園を支配する実権を握ったと考えられる。


沼田氏が平氏とともに滅亡したため沼田荘は平家没官領となった。



やがて備前・備中・備後3ヵ国の惣追捕使(守護)であった土肥実平およびその子の遠平が地頭として入部してきた。

その後その子孫である小早川氏が地頭職を相伝領掌するが,同荘における小早川氏の活動が明らかとなるのは遠平の孫の茂平からである。



沼田荘の中央にそびえる高山城に拠った小早川氏は,中世を通じて同荘の実質的支配を行った。

鎌倉中期の調査では本荘の田地の耕作面積は250町余,新荘の田地が210町余で合計460町余となっている。

また狩猟のほかにも牛馬の放牧などが行われていた。

農業以外では林業,漁業,商業などが営まれており,海賊をはたらく人々もいた。



荘内にある沼田市は,鎌倉期から知られる市場であり,地方の商業集落としては他にあまり例をみないほどの大きさであった。

陸・海交通路の要衝であり,小早川氏にとってその経済的拠点として重要な機能を果たした。

執筆者:by 外園 豊基氏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 






日本大百科全書(ニッポニカ)
沼田荘
ぬたのしょう



安芸(あき)国沼田郡の沼田川流域に広がった荘園(しょうえん)。現在の広島県三原市、竹原市にまたがる広範囲な地域を占め、沼田本荘と新荘とからなる。平安末期には蓮華王院(れんげおういん)領で、下司(げし)は当地の開発領主と考えられる沼田氏であったが、平氏とともに滅亡した。平家没官(もっかん)領となった当荘には、土肥実平(どいさねひら)とその子遠平(とおひら)が地頭(じとう)として入ってくる。以後その子孫小早川(こばやかわ)氏が地頭職(しき)を相伝し、荘内本郷の高山城に本拠を置いて荘支配を行った。鎌倉時代の検注目録によると、本荘の現作田(げんさくでん)は250町余、新荘方は210町余である。当荘は交通の要衝にあり、荘内安直(あじか)郷には沼田本市(いち)、また小坂(おさか)郷には新市があり、大規模な市場集落を成立させていた。

by[酒井紀美氏]

『石井進著『日本の歴史12 中世武士団』(1974・小学館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例





日本史小辞典 改訂新版 「沼田荘」の解説
沼田荘
ぬたのしょう

安芸国沼田郡にあった荘園。荘域は広島県三原市付近。沼田氏によって開発されたとみられ,平安末期に蓮華王院に寄進された。沼田氏は平家とともに滅亡し,土肥実平(どひさねひら)が地頭に任じられ,その子孫の小早川氏が地頭職を継いだ。田数は鎌倉中期で460町。同氏は高山(たかやま)城を本拠とし,荘内諸郷に庶子家を一分地頭として配して繁栄。荘内には沼田の市があった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報







世界大百科事典(旧版)内の沼田荘の言及

【市】より

…室町初期には,奈良では,南市,北市,高天市が毎日交替に開かれ,南市には30余の市座があった。1433年(永享5),安芸国沼田(ぬた)荘の安直(あじか)郷の市は,在家300宇,小坂郷新市(塩入市庭)は在家150宇を数えるほどの繁栄ぶりであった。これらに立売商人を入れると相当の規模をもつ。…

【本郷[町]】より
…山地が多いが,南東流する沼田(ぬた)川に沿って肥沃な沖積平野がひらけ,南東部で梨和川,尾原川などが合流する。古代から中世にかけて沼田荘の中心地で,沼田本郷とよばれた。沼田荘地頭小早川氏は沼田川を挟んで高山城,新高山(にいたかやま)城を築き,居城とした。…

※「沼田荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」




URLで読んでください
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月14日 02時07分04秒 ) パスワード

ブログ主さん
勝手にコピペ
ごめんなさい。

安芸沼田氏の末裔でもあるのでご容赦を。
たぶん
ブログ主さんと  血と肉を分けた子孫同士  でしょうか?



https://akechi1582.com/8237/

安芸高木山城


沼田荘の開発領主であった沼田氏の居城であり、
平家と共に壇ノ浦で滅びた。


【安芸高木山城】


【所在地】 
広島県三原市本郷町下北方

【別名】 
沼田城

【築城期】 
不明(平安時代後期か)

【築城者】 
不明(沼田氏か)

【城主】 
沼田次郎(このヒトが仇を取るのに与力してくださった38代目の伯父)
内藤実豊(このヒトのことは知らない)

【高さ】 
30m

【形態】 
丘城

【遺構】 
郭・堀切等



安芸高木山城は
広島県三原市本郷町下北にあって、
沼田川の支流梨和川の北岸に
築かれた城館です。

別名沼田城ともいわれています。



平安時代に
沼田(ぬた)氏が築城したものと
云われています。



【沼田荘と沼田氏】
安芸沼田城があった辺りは沼田荘(ぬたのしょう)と称される安芸国沼田郡の荘園でした。


本荘と新荘からなり、
沼田川河口
(現広島県三原市西部から本郷町(現・三原市))
にかけた地域に本荘があり、


沼田川支流椋梨川流域の
現賀茂郡一帯の
山間地と飛地の竹原市に
新荘がありました。



沼田氏は開発領主であったといわれています。


その沼田氏の寄進によって沼田荘が成立したとみられていますが詳細は不明です。


平安末期には京都蓮華王院領となっていました。




【伊予水軍の河野氏】  わたしはココの84代目
治承4年(1180年)12月、
伊予国の豪族で
伊予水軍の将であった河野通清が、
九州の菊池氏らによる反乱(鎮西反乱)などと
呼応して高縄山城(愛媛県松山市)で
反平家の兵を挙げ、
平維盛の目代を追放しました。(目代の奴可入道がワルだったから  と   書いておく)

                下の情報では
                額入道西寂(沼賀高信)





【河野通信と沼田氏】

平家方である備後国の住人である額入道西寂(沼賀高信)が討伐軍として伊予国へ攻め寄せ、
河野通清は翌年の養和元年初めころ、高縄城で敗死したとされています。


父である河野通清が討たれた時、
子である河野通信は母方の伯父である
安芸の沼田次郎のところにいました。

            うんうん
            聞いてる



【河野通信と連携】

その後河野通信は父の仇である
額入道西寂を
捕縛し処刑しました。        (一寸切りの刑だったと聞いた)




その後も河野通信はゲリラ戦を展開し、
主導権を握り、
海の武士である河野氏は
その機動力を生かしていきます。


その時に連携した豪族の一つが
安芸国の沼田氏でした。


けれども寿永3年(1184年)2月、
平通盛・平教経らの攻略を受けて
多くの郎党を失う打撃を
受けたということです。


平教経らは、屋島から
安芸沼田城へも押し寄せ、
沼田次郎は降伏し、
河野通信は伊予へ逃れました。


           泣ける
           武士にとって勝ち負けは時の運
           とは子供の時から叩き込まれてても
           やっぱり泣ける




【沼田氏の最期】


その後、沼田五郎なる武将は、
平家に従っており、壇ノ浦の戦いで、
没落した模様です。




【河野氏  御家人になる】

一方、河野通信は
元暦2年(1185年)2月の屋島の戦い、
続く壇ノ浦の戦いで軍船を率いて
源氏方に加わって活躍し、
のちに鎌倉幕府の御家人となったのでした。


           はい
           北条時政の娘の「谷殿」  やつどの  と結婚し
           頼朝と相婿になりました

           


【土肥氏の入部】
壇ノ浦で没落、あるいは滅んだ沼田氏にかわり
やがて沼田荘には東国から小早川家の祖である土肥遠平が地頭として
入部していきます。


本荘には惣領の沼田小早川家、
新荘には椋梨小早川家が
それぞれ城を構え、
在地領主として成長していくのです。



【沼田荘を護るため】
河野氏は鎌倉幕府の御家人となって栄え、
一方の沼田氏は平家と共に滅んでしまい・・
くっきりと明暗が分かれてしまいました。


沼田氏は沼田荘とその土地に住む人々を護るために降伏して
平家の家臣となってしまったのでしょうね。




三太刀(みたち)城跡〜小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?〜相模から安芸国沼田荘へ。

土肥実平とその妻〜武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老〜小早川家の祖。



         うちの大将は小早川氏の庇護を受け若くして竹原で亡くなりました

         その割にわたしは  土肥君に嫌われてたな





平宗盛〜最後の平家の棟梁〜偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

比企掃部允〜比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2025年06月14日 04時21分44秒 ) パスワード

ジムで  いつから  平熱パワーが来てるのか  分かった!
去年。
今春に結実
ということになりますか。



38代前の先祖の母上が安芸から嫁に来て
ご実家も  平家の傘下にあったけど

39代前の舅と38代前の義兄が討ち死にして
わたしの38代前が仇を打つのに与力してくださったのが「母上」の「次兄」。




母上の長兄は溜息吐いたのだろうな

    自分の家が弟と妹の嫁入り先のことでゴタゴタに巻き込まれ

結局は自分の家が滅んでしまったのだから。




ややこしいね
書いてて混乱する。



レス<7>の方が分かり易いですね。
[9]空の青海のあを さんからのコメント(2025年08月18日 09時07分08秒 ) パスワード

友人より今年の異常渇水事案からすごい情報を入手しました:

コピペ

渇水は何年かおきに来て居る様です。
新潟の魚沼産の米所も湿地・・・沼田=じる田=湿田で一年中湿って居る水田は、平安時代より土地の持ち主は自分の所に囲っていたようです。

干ばつでもお米が収穫出来て、次の年の種籾が残せるからですね。・・・我が家にも湿田が残って居ますよ。


野田(のた)・沼田(ぬた)なんて呼ばれて居ます。



ということで  驚いたのです。



以下ウイキより広島の「沼田ぬた」についてコピペ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E9%83%A1
沼田郡

令制国一覧 > 山陽道 > 安芸国 > 沼田郡
日本 > 中国地方 > 広島県 > 沼田郡
沼田郡(ぬまたぐん)は、広島県(安芸国)にあった郡。



郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる[1]。

広島市
西区の一部(中広町、小河内町、山手町、竜王町、三滝本町、三滝山より北東および上天満町の一部)
安佐南区の大部分(東野・中筋・古市を除く)
安佐北区の一部(太田川以南および安佐町大字小河内)
歴史
古代
古代の沼田郡(ぬたぐん)の領域は、現在の広島県三原市から竹原市にかけてであった。平安時代末期頃にほぼ全域が沼田荘になったため、郡としての意味をなさなくなり消滅、郡の大部分は豊田郡に編入された[2]。

なお、近世に「沼田郡(ぬまたぐん)」となる地域は古代には沼田郡ではなく佐伯郡の東部であった。佐伯郡は平安時代の末に佐東郡と佐西郡に分割された。


近世・近代
平安時代末期の佐伯郡東西分割によって成立した佐東郡が、1664年(寛文4年)に改称して沼田郡(ぬまたぐん)が成立した。1898年10月1日に高宮郡(旧称・安北郡)と統合し、安佐郡に移行した。こちらは現在、全域が広島市になっている。

近世以降の沿革
明治初年時点では全域が安芸広島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。(1町42村)
広島城下(一部)[3]、江波村、打越村、楠木村、新庄村、長束村、西山本村、東山本村、南下安村、北下安村、西原村、東原村、中調子村、温井村、八木村、緑井村、中須村、大町村、相田村、上安村、高取村、長楽寺村、伴村、大塚村、吉山村、阿戸村、久地村、小河内村、毛木村、後山村、宮野村、筒瀬村、広瀬村、観音村、川田村、船入村、水主町新開、吉島新開、六町目村、国泰寺村、竹屋村、江波新開[4]、白島村[5]
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により広島県の管轄となる。
川田村が改称して川添村となる。
明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の広島県での施行により、下記の変更が行われる。(34村)
広島城下・観音村・川添村・船入村・水主町新開・吉島新開・六町目村・江波新開・白島村・安芸郡大黒村・段原村・比治村・尾長村・大須賀村・大須新開・東新開・皆実新開および矢賀村の一部の区域をもって広島区が発足し、郡より離脱[6]。
残部に行政区画としての沼田郡が発足。「沼田高宮郡役所」が南下安村に設置され、高宮郡とともに管轄。
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。全域が現・広島市。(15村)
三篠村 ← 楠木村、打越村、新庄村
長束村(単独村制)
山本村 ← 東山本村、西山本村
祇園村 ← 南下安村、北下安村
西原村、東原村(それぞれ単独村制)
川内村 ← 温井村、中調子村
八木村、緑井村(それぞれ単独村制)
安村 ← 大町村、中須村、相田村、上安村、高取村、長楽寺村
伴村 ← 伴村、大塚村
戸山村 ← 阿戸村、吉山村
久地村(単独村制)
日浦村 ← 毛木村、後山村、宮野村、筒瀬村
小河内村(単独村制)
国泰寺村・竹屋村・江波村・広瀬村が広島市の一部となる。
明治31年(1898年)10月1日 - 郡制の施行のため、「沼田高宮郡役所」の管轄区域をもって安佐郡が発足。同日沼田郡廃止。


行政
沼田・高宮郡長
代 氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 明治11年(1878年)11月1日
明治31年(1898年)9月30日 高宮郡との合併により沼田郡廃止
脚注
[脚注の使い方]
^ 住居表示実施地区の境界は未詳。
^ 沼田【ぬた】中世以来の一大干拓地 ジャパンナレッジ 日本歴史地名大系ジャーナル 2018年7月14日閲覧。
^ 安芸郡・沼田郡にまたがる。無高のため記載なし。本項では便宜的に1町に数える。
^ 記載は江波村新田。
^ 通称西白島村。東部は安芸郡に所属。
^ 明治15年に吉島新開および水主町新開の一部が合併して吉島村となる。水主町新開の残部が水主町に合併。江波新開が船入村に合併。六町目村が大手町の一部となる。白島村が白島東中町・白島北町・白島九軒町・東白島町・西白島町の各一部となる。
参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 34 広島県、角川書店、1987年2月1日。ISBN 4040013409。
旧高旧領取調帳データベース
関連項目
消滅した郡の一覧
先代
----- 行政区の変遷
- 1898年 次代
安佐郡
表話編歴
安芸国の郡
沼田郡 | 賀茂郡 | 安芸郡 | 佐伯郡 | 山県郡 | 高宮郡 | 高田郡 | 豊田郡

カテゴリ カテゴリ
カテゴリ: 沼田郡広島県の郡 (消滅)安芸国の郡安佐郡広島市西区の歴史安佐南区の歴史安佐北区の歴史





https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E7%94%B0%E9%83%A1
沼田郡


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
令制国一覧 > 山陽道 > 安芸国 > 沼田郡
日本 > 中国地方 > 広島県 > 沼田郡
沼田郡(ぬまたぐん)は、広島県(安芸国)にあった郡。

郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる[1]。

広島市
西区の一部(中広町、小河内町、山手町、竜王町、三滝本町、三滝山より北東および上天満町の一部)
安佐南区の大部分(東野・中筋・古市を除く)
安佐北区の一部(太田川以南および安佐町大字小河内)
歴史
古代
古代の沼田郡(ぬたぐん)の領域は、現在の広島県三原市から竹原市にかけてであった。平安時代末期頃にほぼ全域が沼田荘になったため、郡としての意味をなさなくなり消滅、郡の大部分は豊田郡に編入された[2]。

なお、近世に「沼田郡(ぬまたぐん)」となる地域は古代には沼田郡ではなく佐伯郡の東部であった。佐伯郡は平安時代の末に佐東郡と佐西郡に分割された。

近世・近代
平安時代末期の佐伯郡東西分割によって成立した佐東郡が、1664年(寛文4年)に改称して沼田郡(ぬまたぐん)が成立した。1898年10月1日に高宮郡(旧称・安北郡)と統合し、安佐郡に移行した。こちらは現在、全域が広島市になっている。

近世以降の沿革
明治初年時点では全域が安芸広島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。(1町42村)
広島城下(一部)[3]、江波村、打越村、楠木村、新庄村、長束村、西山本村、東山本村、南下安村、北下安村、西原村、東原村、中調子村、温井村、八木村、緑井村、中須村、大町村、相田村、上安村、高取村、長楽寺村、伴村、大塚村、吉山村、阿戸村、久地村、小河内村、毛木村、後山村、宮野村、筒瀬村、広瀬村、観音村、川田村、船入村、水主町新開、吉島新開、六町目村、国泰寺村、竹屋村、江波新開[4]、白島村[5]
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により広島県の管轄となる。
川田村が改称して川添村となる。
明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の広島県での施行により、下記の変更が行われる。(34村)
広島城下・観音村・川添村・船入村・水主町新開・吉島新開・六町目村・江波新開・白島村・安芸郡大黒村・段原村・比治村・尾長村・大須賀村・大須新開・東新開・皆実新開および矢賀村の一部の区域をもって広島区が発足し、郡より離脱[6]。
残部に行政区画としての沼田郡が発足。「沼田高宮郡役所」が南下安村に設置され、高宮郡とともに管轄。
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。全域が現・広島市。(15村)
三篠村 ← 楠木村、打越村、新庄村
長束村(単独村制)
山本村 ← 東山本村、西山本村
祇園村 ← 南下安村、北下安村
西原村、東原村(それぞれ単独村制)
川内村 ← 温井村、中調子村
八木村、緑井村(それぞれ単独村制)
安村 ← 大町村、中須村、相田村、上安村、高取村、長楽寺村
伴村 ← 伴村、大塚村
戸山村 ← 阿戸村、吉山村
久地村(単独村制)
日浦村 ← 毛木村、後山村、宮野村、筒瀬村
小河内村(単独村制)
国泰寺村・竹屋村・江波村・広瀬村が広島市の一部となる。
明治31年(1898年)10月1日 - 郡制の施行のため、「沼田高宮郡役所」の管轄区域をもって安佐郡が発足。同日沼田郡廃止。
行政
沼田・高宮郡長
代 氏名 就任年月日 退任年月日 備考
1 明治11年(1878年)11月1日
明治31年(1898年)9月30日 高宮郡との合併により沼田郡廃止
脚注
[脚注の使い方]
^ 住居表示実施地区の境界は未詳。
^ 沼田【ぬた】中世以来の一大干拓地 ジャパンナレッジ 日本歴史地名大系ジャーナル 2018年7月14日閲覧。
^ 安芸郡・沼田郡にまたがる。無高のため記載なし。本項では便宜的に1町に数える。
^ 記載は江波村新田。
^ 通称西白島村。東部は安芸郡に所属。
^ 明治15年に吉島新開および水主町新開の一部が合併して吉島村となる。水主町新開の残部が水主町に合併。江波新開が船入村に合併。六町目村が大手町の一部となる。白島村が白島東中町・白島北町・白島九軒町・東白島町・西白島町の各一部となる。
参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 34 広島県、角川書店、1987年2月1日。ISBN 4040013409。
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