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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
前宮[編集]
前宮(まえみや)は、本宮の南東約2kmの地に鎮座する。諏訪の祭祀の発祥地とされる。境内には水眼(すいが)川が流れる。
当地には上社大祝の始祖とされる諏訪有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていた。大祝は神体と同視(= 現人神)されていたことから、その居館は「神殿(ごうどの)」と尊称され、周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれた。当地では代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われ、摂末社も多く置かれた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地であった。
のち諏訪氏は兵馬の惣領家と祭祀の大祝家とに分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。そして大祝の屋敷もまた慶長6年(1601年)に移転したが、祭事は引き続いて当地にて行われていた。
江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格[22]を有して鎮座していたが、明治以降上社の前宮と定められた。上社の祭政一致時代の姿を色濃く残していることから、現在境内は「諏訪大社上社前宮神殿跡」として長野県の史跡に指定されている。
摂末社[編集]
本宮摂社 出早社
本宮摂社 大國主社本宮境内社摂社 出早(いづはや)社 祭神:出早雄(いづはやお)命(御子神)。例祭:10月15日
大國主社 祭神:大国主命(父神)。例祭:5月14日
末社 高島神社 祭神:諏訪頼忠公、諏訪頼水公、諏訪忠恒公(高島藩中興の3代)。例祭:9月23日(近年は8月12日に執行)
三十九所
摂末社遙拝所(本宮)
上社には上・中・下十三所ずつの計三十九所の摂末社が設けられていた。現在摂末社は上社で42社・下社で27社あり、明治以後独立した関係社を含めると計95社に及ぶ[23]。
本宮にはこれらの神々を遥拝する遥拝所があり、朝夕に遥拝が行われる。遥拝所は文政11年(1828年)造営。
三十九所は以下の通り[24]。
上十三所
1. 所政(とこまつ)社 (前宮)2. 前宮社 (前宮)3. 磯並(いそなみ)社 (茅野市宮川高部)4. 大年(おおとし)社 (茅野市ちの茅野町)5. 荒玉(あらたま)社 (前宮)6. 千野川(ちのがわ)社 (亀石社) (茅野市宮川西茅野)7. 若神子(わかみこ)社(若御子社) (前宮)8. 柏手(かしわで)社 (前宮)9. 葛井(くずい)社 (茅野市ちの上原)10. 溝上(みぞがみ)社 (前宮)11. 瀬(せ)社 (茅野市宮川高部)12. 玉尾社 (茅野市宮川高部)13. 穂股(ほまた)社 (茅野市宮川高部) 中十三所
1. 藤島社 (諏訪市中洲神宮寺)2. 内御玉殿(うちみたまでん) (前宮)3. 鶏冠(けいかん)社 (前宮)4. 酢蔵(すくら)社 (茅野市ちの横内)5. 習焼(ならやき)社 (諏訪市湖南)6. 御座石(ございし)社 (茅野市塚原)7. 御飯殿 (本宮)8. 相本社 (茅野市宮川高部)9. 若宮社 (諏訪市中洲神宮寺)10. 大四御庵(おおよつみいお) (富士見町御射山)11. 山御庵(やまみいお) (富士見町御射山)12. 御作久田(みさくだ)社 (不明)13. 闢尾(あきほ)社 (原村室内) 下十三所
1. 八剱(やつるぎ)社(八剣神社) (諏訪市小和田)2. 小坂(おさか)社 (岡谷市湊)3. 鷺宮(さぎのみや)社(先宮神社) (諏訪市大和)4. 荻宮 (諏訪市四賀上桑原)5. 達屋(たつや)社 (茅野市ちの横内)6. 酒室(さかむろ)社 (茅野市宮川酒室)7. 下馬(げば)社 (茅野市宮川高部)8. 御室(みむろ)社 (前宮)9. 御賀摩(おかま)社 (本宮)10. 磯並山神(いそやまがみ) (茅野市宮川高部)11. 武居会美酒 (諏訪市中洲神宮寺武居平)12. 神殿中部屋(ごうどのなかべや) (前宮→神宮寺)13. 長廊神社 (本宮)
その他[編集]
『上社古図』
上社の境内に関しては天正年間(1573年-1592年)に描かれたと伝えられる[25]『上社古図』があり、当時の様子がわかっている。絵図は現在は諏訪市博物館で保管され、神長官守矢史料館に模写版が展示されている。
上社神宮寺跡
元別当寺。社伝では空海の創建といわれ、本宮の周りに大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社4寺ほか多くの坊があった[26]。普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍があったことが絵図からわかっている。なお、絵図に描かれる法花寺は法燈を現在に伝えている(現 法華寺)。
上社神宮寺跡
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横浜の松島氏(謎)距離的にあり得るかなということで:
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm
五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101371_24.html
黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。
ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。
永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。
ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。
実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、
その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。
やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、かつて関所があったといわれ、小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、関所防備のために砦程度の単郭の城(通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、真田や由良の手に落ちた後、後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。
元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、上田沢辺りの住人と見られ、また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。
権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、膳氏の取込のための政略に利用したのである。
膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが(一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、
膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。
その後桐生祐綱からの要請で、祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。
一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。
松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、その他伝承からアウトラインは分かる。
すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。
また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は
永禄から天正くらいの人で、
沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。
一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、
他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、
天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。
上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。
天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。
すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。
里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。
この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。
したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。
天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、
後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。
すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。
天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。
これが五蘭田城址の現況になっている。阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、
沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、地域の名望家として現代に至っている。
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3本矢の服部さんは かなり冷遇される服部氏 ですね。
3男だか4男だか以下が使用とか
庶子が使用とか
昔は 区別=差別 がありましたからね。
アメノホヒ
一体何者だったのでしょう?
この人の子孫なのかしら?
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吾がふるさと三重県において伊勢平氏会、軍記・語り物研究会、
名古屋軍記物語研究会、による合同研究会が開かれます
8月22日:
午前:
シンポシ゜ュウム「平氏と平家物語」−愛知学院大・松薗斎氏、早大・鈴木彰氏
午後:
1.坂東平氏と平家物語−京都女子大学・野口実氏−
2.平氏ゆかりの人々と平家物語−早稲田大学・日下力氏−
3.伊勢平氏と平家物語−神戸大学・高橋昌明氏−
8月23日:
午前:
1.院政期末から鎌倉期における「武士」の認識と平家物語−近藤安紀氏
2.伊勢における平氏の足跡と家臣団−清水重久氏(伊勢平氏会副会長)−
午後:
研究発表会:
3.寛文・延宝期の平家物語をめぐって−出口久徳氏
4.アケガタ追考(覚一本の場合)−小林賢章氏−
5.「太平記」の歴史叙述とその思想的背景−大森北義氏
8月24日:
実地調査−伊勢平氏誕生の地を辿る−
8月24日以外聴講は無料。
平家関係、郷土史関係の書籍の販売も行われます
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またもや路頭に迷いました。
上記に書いた 花井氏を調べていて
この2人の側室がこんがらがっているのに気付きました。
家康の側室:茶阿の局 と 阿茶の局
↑ ↑
家康の6男忠輝母の? 政治的手腕に優れた人?
長沢松平氏[編集]
忠輝は慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、
その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、
武蔵国深谷1万石を与えられた。
慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。
慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島12万石に加増移封される(佐倉移封が前年12月であったため、
わずか40日で2度の転封となる)。
花井氏
↓
そして姉婿・花井吉成が家老として補佐することとなった。
慶長10年(1605年)、秀忠の将軍・秀頼の右大臣就任の際に、家康の命令で大坂の豊臣秀頼と面会している。
慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。
しかし慶長14年(1609年)、重臣・皆川広照らによって御家騒動が起こり、広照らは失脚している。
慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、
このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。
越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主であったが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。
高田城は幕命により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。
改易・配流[編集]
しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。
剛毅な忠輝には不満が残る命令であったが、結局これに従った。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。
元和2年(1616年)4月、家康が死去した。
家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。
拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。
『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。
元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。
生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。
元和4年(1618年)には飛騨国高山に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流された。
これまでに何度もお目にかかった花井氏は もともとは 秦氏 → 松下 → 花井 に
花井吉成
(はない よしなり、? - 慶長18年8月21日(1613年9月25日))
江戸時代初期の武将。
松平忠輝の家老。
通称三九郎、
後に松平遠江守の名を許される。
室は徳川家康の側室茶阿局の前夫との子於八(忠輝の異父姉)。
子
娘(村上忠勝室)、
娘(大久保長安六男の大久保権六郎(右京長清)室)、 ←大久保長安6男の妻
玄芳院(服部仲保後妻)、 ←服部仲保後妻
花井義雄(主水正、よしたけ)、
花井義賢(のちに松下に復姓)、 ←松下に改姓
花井義房。
三河国東部生まれで、松下氏の一族。
若くして徳川家康の近習として仕え、慶長8年(1608年)、家康の命により家康の六男の待城城主松平忠輝の家臣となる。
慶長15年に忠輝が加増され、越後国高田藩主となったが、
松代を含む北信四郡もそのまま領したので、待城を松城と改め、吉成が城代を務めた。
吉成父子は北国街道の改修や、裾花川の瀬直しおよび犀川より川中島平へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。
そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神社として祀られている。
慶長18年、大久保長安事件の件に連座して、松代城にて自害。 ←長安事件で自害
法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。
墓所は長野市松代町松代の西念寺。
吉成の没後、子の義雄が松代城代となる。 ←子は無事だったのですね
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[48] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月27日 13時37分14秒 ) パスワード
三つ柏さん
>「天屋五郎右衛門」は廻船問屋
金ケ崎や敦賀はそれこそ南朝方の息のかかった所で
宗良親王の同母兄、尊良親王は、新田義貞の嫡男の義顕に切腹の作法を習いながら一緒に亡くなりました。
そういう場所ですから、芭蕉も西行の跡だけでなく南朝方の息吹のある場所を訪れたのかも。
また、 新田義顕には天野顕政という子供がいるそうです。
http://4travel.jp/travelogue/10749984
気比の松原からほぼ敦賀湾に沿って東に進んだ蓬莱町に、天屋玄流宅跡がある。
天屋玄流は当時回船問屋を営んでいた本名室五郎右衛門。
天屋家は明治に至るまで北前船主として財を成し、
今は空地の天屋玄流宅跡は平成14年まで洋館建てのビルが建っていたと案内板にある。
玄流は翌日、芭蕉を種が浜(現敦賀半島の色浜)に案内しているが、
敦賀文化協会の”奥の細道「芭蕉の足跡」によると、
当日の金が崎辺りの観光と2日続けて案内役を引き受けているようだ。
国々の 八景更に気比の月 芭蕉
この句は奥の細道に記載されている句ではなく、昭和34年に大垣でたまたま発見されたと案内されていた。
室氏:名字の由来ネットより
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)流
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)熊谷氏流、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道長流、師尹流、菅原氏などにみられる。
で、大室、という名字が引っ掛かりました
明治天皇替え玉説の大室寅之助の大室姓って?ということで調べました。
現長野県である信濃国埴科郡大室牧が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)小笠原氏ともいわれる。
ほか満快流、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)山蔭流などにみられる。
明治天皇は皇室の正統は南朝方であるとおっしゃって伊藤博文などを慌てさせたとか。
実はご自分が実は南朝方だから?宗良親王の子孫?
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1603年〜1716年(江戸(前期))
1604 慶長9 東海道に一里塚がおかれる
1607 慶長12 角倉了意、天竜川の川底を掘って舟道を開き、堤防を修理する
1609 慶長14 水野重仲、常陸より入府、浜松城主となる
1610 慶長15 龍禅寺観音堂の開帳がはじまるという
1611 慶長16
水野重仲、遠江国で隼を求め、家康に献上したが返却される
1614 慶長19 二代将軍秀忠、五社・諏訪両明神に参詣する
1615 元和1 二代将軍秀忠、五社・諏訪両明神に参詣する
1615 元和1 貴平村、綿作の検見引を歎願する
1616 元和2 杉浦助右衛門、浜松伝馬町に旅人の止宿をいとなむ(本陣)
1616 元和2 浜松宿の伝馬数75疋となる
1616 元和2 浜名代官市野惣太夫没する
1617 元和3 鹿島に十分一番所ができる
1618 元和4 杉浦助右衛門御本陣日記の記帳がはじまる
1619 元和5 水野重仲、紀伊新宮へ転封となる
1619 元和5 高力忠房、武蔵岩槻から入府、浜松城主となる
1619 元和5 幕府、高力忠房に、伝馬人足の朱印改め、荷物の貫目改めの励行を命ずる
1619 元和5 服部権太夫、今切関所奉行役屋敷を志都呂村に設ける
1620 元和6 中泉代官、三方原に野米27石を課し、地元の和地・祝田・都田の3ヵ村に分納させる
1623 元和9 幕府、三方原入会につき裁許を下す
1623 元和〜寛永 高力忠房、このころから寛永年間にかけて検地・新田改めに意を用いる
1623 元和〜寛永 高力忠房、浜松の「町割」を励行する
1631 寛永8 浜松宿問屋役、2人上下月番、当番制となる
1631 寛永8 高力忠房の次男長房死去、池川村天林寺に葬る
1631 寛永8 助郷制度ができる
1634 寛永11 下石田村の農民と、安間新田村七朗左衛門との間に、田地の所有権につき紛擾がおきる
1634 寛永11 三代将軍家光、五社・諏訪両明神に参詣する
1634 寛永11 高力忠房、遠江で5千石加増となる
1635 寛永12 幕府、外様大名に参勤交代を命じる
1637 寛永14 助郷制が定まり、浜松宿助郷村に5ヵ村を指定する
1638 寛永15 高力忠房、五社・諏訪両明神に手洗鉢を献納する
1638 寛永15 伝馬を100疋と定め、塩町を伝馬役町に加える
1638 寛永15 高力忠房、肥前島原へ転封となる
1638 寛永15 松平(大給)乗寿、美濃岩村より入府、浜松城主となる
1639 寛永16 このころ市野宿に伝馬があったという
1641 寛永18 五社・諏訪両明神、常寒山に竣工する
1641 寛永年間 高力忠房、領内から「人足」を徴発して用水を作り、新田開発に着手する
1641 寛永年間 金山社を清水谷にうつす
1644 正保1 松平乗寿、上野館林へ転封となる
1644 正保1 太田資宗、三河西尾より入府、浜松城主となる
1647 正保4 有玉村高林伊兵衛忠吉、藩主太田資宗から代官役に任命される
1647 正保4 旅籠町伊藤平左衛門・同町杉浦惣兵衛・伝馬町梅屋市左衛門家御本陣日記に初見
1647 正保4 このころ平田町を八軒町とよぶ
1647 正保年間 四本松村の五右衛門、松嶋新田を開墾する
1648 慶安1 服部中(保俊)、今切関所奉行となる
1649 慶安2 薬師堂、新堂から七軒町に移る
1650 慶安3 本陣連尺町佐藤与左衛門家、御本陣日記に所見
1651 慶安4 江之嶋村、検地をうける
1651 慶安4 三方原の地元都田村と入会村の宮口村との間に、山境について論争がおきる
1651 慶安4 本魚町松尾神社を再建する
1651 慶安年間 このころより以前に、笠井市が開かれていたという
1652 承応1 八軒町を平田町と改める
1653 承応2 大瀬村、本田・新田の検地をうける
1653 承応2 西鴨江村花学院馬頭観音堂を再建する
1653 承応2〜3 このころ馬込橋、土橋を板橋にする
1654 承応3 北島村、慶長16年ごろにくらべて分付百姓がふえる(北島村検地帳)
1654 承応年間 このころから寛文・延宝のころにかけて浜松藩検地を本格的に実施する
1655 明暦1
大風雨、浜松城被害をうける
1659 万治2 道中記、浜松宿の泊りおよび舞坂間の駄賃について記す
1662 寛文2 肴町大安寺を創建する
1662 寛文2 西山宗因、浜松の清長を訪れる
1662 寛文2 入野村彦尾の不動堂の開眼が行われる
1664 寛文4 独湛、初山宝林寺を建立する
1664 寛文4 太田資宗、知行地の朱印状(寛文印知)をうける
1665 寛文5 幕府、諸宗寺院法度を公布する
1665 寛文5 村櫛村、宇布見村と浜名湖採藻権について争い、裁許をうける
1665 寛文5 三方原地元祝田村と入会村の刑部村との間に論争、幕府裁定を下す
1665 寛文5 掛塚村庄屋、茅野新田の開発を中泉代官所へ願い出る
1666 寛文6 山梨町民、坪井村で肴と蓙を交換し咎められる
1667 寛文7 福嶋村、検地をうける
1668 寛文8 肴町役人、肴町の御由緒書を町奉行土肥与五右衛門に提出する
1668 寛文8 新町の徳兵衛、肴の隠売をし、肴町商人に詫状を入れる
1671 寛文11 琉球人使節、浜松宿に泊る
1671 寛文11 太田資宗、五社・諏訪両明神に石灯篭を献納する
1671 寛文11 太田資次、父資宗致仕のあとを継ぎ浜松城主となる
1671 寛文11 天林寺塔頭養仙寺を松島新田に移す
1671 寛文11 大通院塔頭安泉寺を米津村に移す
1672 寛文12 浜名湖採藻に関し、裁許証文を下す
1672 寛文12 三方原地元村の、都田村、三方原に新田開墾をこころみ、中郡諸村との間に紛争がおきる
1672 寛文年間 浜松宿総戸数1,111戸
1673 延宝1 都田地方早魃、雨乞をする
1674 延宝2 馬込川氾濫、田町付近まで浸水する
1675 延宝3 太田資次、五社・諏訪両明神に石灯篭を献納する
1675 延宝3 浜松宿の退転馬の吟味をする、当時有馬47疋
1675 延宝3 小天竜の締切り工事、彦助堤ができるという
1676 延宝4 横須賀村・中条村、綿作の検見引を歎願する
1676 延宝4 五社明神の社前、杉山において能楽が行われる
1676 延宝4 石窓、天神町村に大雄庵を開く
1677 延宝5 太田資次、五社・諏訪両明神の修復を奉行する
1677 延宝5 宗覚、白須村に慈雲寺を開く
1678 延宝6 杉浦国頭、後道に生まれる
1678 延宝6 太田資次大坂城代になり、「御送馬」を白須賀宿まで出し庄屋代表3人が「見送」をする
1678 延宝6 青山宗俊、大坂城代より、浜松城主となる
1679 延宝7 青山忠雄、宗俊を継ぎ浜松城主となる
1679 延宝7 青山忠雄、遠州松茸・浜名納豆・入野鮒・密柑を将軍家へ献上する
1680 延宝8 大風、浜松城破壊し、浜松の潰家358戸に及ぶ、7遠州灘に大潮襲来、寺嶋八幡地の木綿大豆不作
1680 延宝8 永井随庵「随庵見聞録」著す
1681 天和1 鴨江観音の開帳がはじまるという
1682 天和2 琉球人使節浜松宿に泊る
1682 天和2 朝鮮人賀使、浜松宿に泊る
1682 天和2 青山忠雄、浜松の町検地を実施し、惣町屋敷を改める
1682 天和2 村櫛村民、領主大沢氏に藻草運上につき、手形を進上する
1684 貞享1 浜松城主青山忠雄、佐鳴湖に遊ぶ
1685 貞享2 青山忠重、忠雄を継ぎ浜松城主となる
1685 貞享2 浜松秋葉社の祭典賑わう
1685 貞享2 村櫛村の鳥浦につき、由緒書ができる
1686 貞享3 大久保村と宇布見村の境界争いが解決する
1689 元禄2 西鶴、その著一目玉鉾に、浜松町の繁盛を記す
1690 元禄3 上島鬼貫、遠江を旅する
1690 元禄3 三方原地元祝田村と都田村との間に紛争がおこり、幕府裁定を下す
1690 元禄3 高林伊兵衛忠勝、藩主から代官に任命される
1690 元禄3 白羽村、柑子を献上する
1691 元禄4 浜松城内家中屋敷に火災がある
1691 元禄4 高塚村と小沢渡・新橋・増楽・若林の4ヵ村との間に、高塚川の漁猟について紛争がおきる
1693 元禄6 この年三郎五郎新田の石高46石
1694 元禄7 助郷制確立、定助郷・大助郷の制を定める
1694 元禄7 鶴嶋新田、検地をうける
1697 元禄10 賀茂真淵、敷智郡伊場村に生まれる
1697 元禄10 風雨、寺島八幡地の木綿・大豆不作
1698 元禄11 天竜川、川越嶋にて決潰、中野町屋ほか5ヵ村洪水
1698 東海道不通となり、佐藤一色村から下石田村まで渡船となる
1699 元禄12 平田町大工棟梁役桑原源右衛門、藩主の命をうけて惣町絵図を作成する
1699 元禄12 石窓、初山宝林寺四代を継ぐ
1699 元禄12 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1700 元禄13 浜松城内家中屋敷、火災
1702 元禄15 青山忠重、丹波亀山へ転封となる、「引越」のため高100石につき馬半匹の役を領内に命じる
1702 元禄15 松平(本庄)資俊、常陸笠間より入府、浜松城主となる
1702 元禄15 西嶋村、鮗一束に376文を上納する
1703 元禄16 浜松町奉行、浜松宿勢を調査する、通筋町11町の戸数646戸、総戸数1,386戸、人口4,336人
1703 元禄16 杉浦国頭、荷田春満に入門する
1703 元禄16 松島村、村差出帳を提出する
1703 元禄16 市野村と小池・天王両村との間に水論を生ずる
1703 元禄16 松嶋村の五右衛門家、掛塚湊で廻船業をいとなむ
1703 元禄16 国領組のう18ヵ村、入草割千石夫を課す
1703 元禄年間 高薗村で紫染がはじまる
1703 元禄年間 寛文から元禄へかけて新田検地を励行する
1704 宝永1 笹瀬村蔵福寺へ隕石が落下する
1704 宝永1 石窓、初山宝林寺で示寂する
1704 宝永1 法源、初山宝林寺に入る
1704 宝永1 高畑村・油一色村、綿作の検見引を歎願する
1704 宝永1 五社神官森暉昌、荷田春満に入門する
1705 宝永2 杉浦国頭家にはじめて歌会をひらく
1705 宝永2 句集「はまづと」出版される
1705 宝永2 俳書「俄雨」出版される
1706 宝永3 浜松城内家中屋敷火災
1706 宝永3 福嶋村、船年貢に田作鰯を上納する
1707 宝永4 東海道に地震、今切渡橋が杜絶、本坂道混雑する、浜松城下潰家71軒、救米を放出、浜名湖岸山崎村津浪困窮する
1707 宝永4 杉浦真崎、この年から元文ころまでに、歌集「やどの梅」8巻著わす
1708 宝永5 杉浦国頭、春満とともに「両吟百首」をつくる
1709 宝永6 浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿、本坂道の人馬継立中止を歎願する
1710 宝永7 琉球人使節、浜松宿に泊る
1710 宝永7 琉球人使節随臣、浜松宿で病死する
1710 宝永年間 浜松宿総戸数1,495戸
1711 正徳1 法源、半田村に実性寺を開く
1711 正徳1 朝鮮使節通行、浜松宿に泊る、東海別・西海別の船舶、徴発される
1711 正徳1 天竜川に川高札が立つ
1711 正徳1 「頭陀寺薬師道」の道標建立、浜松最古
1712 正徳2 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1712 正徳2 連尺町が役町に加わり、御役町6か町となる
1712 正徳2 中田嶋村・白羽村は舟役、法枝・田尻・新橋・堤・小沢渡の各村は小網役を勤める
1713 正徳3 法源、舟岡山大智寺に移る
1713 正徳3 浜松宿有馬34疋となる
1713 正徳3 塩町商人と宇布見・山崎両村の製塩業者との間に紛争がおきる
1713 正徳3 宇布見村で鳥浦を行う
1713 正徳3 恒武村小栗家の歳々有物帳の記帳はじまる
1714 正徳4 風雨、寺嶋八幡地の木綿・大豆不作
1714 正徳4 琉球人使節、浜松宿に泊る
1714 正徳4 この年より大工町若宮八幡社、八幡宮の旅所となる
1715 正徳5 浜松城下絵図を作製する
1716 享保1 倉松新田を開発する
1716 享保1 恒武村、綿作の検見引を歎願する
[48] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月25日 15時44分14秒 ) パスワード
桓武村って?
不思議な名前!
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>桓武 恒武です。(つねたけ)
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三つ柏さん
うちの父方の親戚が 巨海 に別荘というか海の家というか土地というか を持ってて
子供の時によく泳ぎに行きました。
巨海って幼いワタクシ的記憶では知多半島にあったと信じて来ましたが
上記によるとワケ分からなくなります。
それにワタクシのDNAの勘では 大河内氏は南朝方 なんです。笑
それで混乱していますが
確かに父方の家は今川と組んで信長を殺そうとして逆に敗走することになり
熱田神宮の近所に火をかけて尾張に逃げ帰ったと
「信長公記」に悪口を書かれています。
もうグチャグチャにワケ分からなくなっています。
うちは伊勢出身で南朝方ではあるけれど後に斯波氏に仕えていたし更に今川と仲の良かった時もあった
この流れです。
西尾との見えない繋がりも
だって今川氏は西尾出身だなどと何度も書いてますしね
わたくしのDNAの中に今川氏との過去が刷り込まれているんでしょうか?
歴史は不思議です。
子供の時に過ごした「巨海」が原風景にあります。
トイレ(ぽっとん式便所)に蟹がいて怖かった記憶もあります
そして子供の時に父に連れられて中田島砂丘に写真を撮りに行ったこと
浜松ですものね
なんだか歴史とDNAと記憶と地名が渦巻いて混乱しています。
ある時は敵に、その後は味方に、そしてまた敵にを繰り返し
骨肉の争いをも経て今の自分があるのかなぁ
などと思います。一筋縄では自分の血や肉さえ語れないのかと。
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私としては一定の目処をつけたつもりです。
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久野氏、原氏については今後勉強いたしたいと思っています。
寺田、市野氏は何か謎を秘めています。寺田氏は武芸関係者を輩出しており
ますし、市野氏は「神君伊賀越え」の中の伊賀衆の一人に「市野源右衛門」と
いう人物が入っているし、また浅井流の市野氏もここ市野にやって来てややこ
しくしている。
私が、今月行こうとしている信濃麻績村にも市野川があり、近くに市野に
ある寺と同じ名前の「安養寺」がある。
この市野氏全体が解明されれば、新たな地平線が見えてくるに違いありません。
家康は関ヶ原前後より、柳生を中心とする情報収集システムに切り替えてお
ります。その中に市野氏がいることは間違いないところだと思います。忍者と
いう定義には当てはまらないにしても、裏世界とつながっていたように思いま
す。
[19] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月09日 07時10分39秒 ) パスワード
空の青海のあを様
本日は芝刈りです。本当は山より「青海原」の方がいいんですが・・・。
松島氏については、伊那のややこしいところを整理しています。ここを抜
け出せれば、あとは垂直移動(伊那から遠江へ)となり、知久氏との関連に迫
りたいと思っています。
帰りましたら記します。
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これからはご自分の頭で考えて下さい。
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佐藤素心さま
お言葉を借りさせて下さい。
宮司は、心の底から思っている。いま日本は、静かに滅びへと歩みを進めているのではないか。中国の脅威が目前に迫っているのに、平和と繁栄を当然のように信じ込んでいる人々は、その足元に忍び寄る危機に気づこうとしない。我が国が再び気概を取り戻すためには、雷神のごとく現れ、稲妻のように時代を切り裂く人物の登場が必要だと、宮司は考えている。
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何もない 音一つしないから問題なしということに大反対。
上記はまさにそういう意味ではないか。
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師である松陰が捕らえられたとき、晋作は江戸の牢を何度も訪ねては、命や志について真剣な対話を重ねた。松陰の死後は、その遺体を自らの手で改葬した。しかも、将軍しか通行を許されない橋を堂々と渡り、「天勅により、師を若林に運ぶ者なり。不浄役人ども、下がれ」と言い放ち、止めようとする役人たちを一喝した。この一件に、晋作の覚悟と誇りがはっきりと表れている。
私は心の病で牢(のようなもの)に入りました。
現行のやり方では高杉晋作が牢に入れない。
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チョンボしたら6000点払えばいい。
今の時代はその6000点を許されてる人ばかりになってしまっているのでは。
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晋作は、情に厚い一面も持っていた。三味線を手にし、都々逸を口ずさむ姿は、ただの志士ではなく、粋な芸人のようでもある。「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」という一首は、京都で遊んでいた折に即興で詠んだもので、晋作らしい洒脱と艶が感じられる。剣と学問、理想と自由、死の覚悟と生の華やかさ、それらすべてを併せ持っていたのが晋作という人物だった。
「苦しい」という言葉を口にすることを自らに禁じ、「先が短ければ短いなりに面白く生きたい」と語る。花火のように、一瞬で空に咲き誇り、潔く消えていく。そんな人生観こそ、晋作そのものである。
ちょっと物騒ですが烏を目覚めさせると捉えています。
苦しいという言葉を禁じる。時は薬とは真逆。
何もせぬものはそれ相応の位置にいればいいのである。
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空の青海のあを様
ここのところ、気候が暑かったり(30℃)、寒かったり、雨が降らなか
ったりで体調も変調気味であります。本日はやっと落ち着いたいい日には
なりそうですが、いずれにしても5月で30℃を越す暑さになるというの
は、気候変動の表れに他ありません。毎年、夏を迎えるたびに恐ろしくな
ります――
さて、梅ヶ島は温泉街と思って行ったわけですが、熱海のような所とは
全く違って、安部川の源流沿いに温泉旅館がひっそりと十軒位並んでいる
といった、寂れた感じの街でありました。訪れる人も少ないようで、後で
考えてみたら、人は温泉旅館よりもスーパー銭湯に行ってしまうというこ
と、案の定「黄金の湯」というスーパー銭湯が梅ヶ島に来る途中にありま
した。また、ここは標高800mの高地、南アルプスの山歩き・登山の玄関
口ということで、山目的の人は梅ヶ島を通り抜け、標高1400mの安倍峠
あたりまで行ってしまう。
私も安倍峠まで車で行ってみることにしました――別世界でありました。
つまりは、植生が違う。そしてダイナミックな山並み、澄んだ空気と薄い
ブルーの空、しかもそれが頭の上すぐ近くにある……。
安倍峠には駐車場がないということで、新安倍峠に車を留めました。ほと
んど山梨との県境であります。眼下には身延の町が見えておりました。静岡
と山梨はこんなにも近いということが体感できました。
帰りには梅ヶ島より坂道を徒歩で登り、「安倍の大滝」という所に行って
きました。これもいい体験でありました。後でわかったことですが、この
あたりは川で砂金がとれたということであります。今度行った時には、川で
砂金採りをします!
砂金・金山ということで色々調べてみますと、この辺は秩父古生層といっ
て、山梨の黒川金山ともつながっていました。つまりは「金づる」がつなが
っていたということになります。
金山と言えば、真っ先に「大久保長安」を思い浮かべます。出自は武田方
でありました。
そして、もう一人、武田臣の「穴山梅雪」、この人が大久保長安と並ぶ
金山の経営者でありました――
続く――
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<15>は私も同じですね。
ただ私はここで荒い事をすることを許されてないんです。
いい加減何かの目的の為にという現象を分かって欲しい。
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高杉晋作は、行動を最優先にした。「戦いは一日早ければ、一日の利益がある。まず飛び出すことだ。思案はそれからでいい」と語ったその姿勢が、時代に風穴を開けた。
宮司は、いまの日本にこそ、こうした人物の再来を強く願っている。名も命も惜しまず、信じた道に自らを投げ出す若者よ、現れてほしい。空気を読み、流れに従うだけの大人たちに囲まれて、心まで眠ってしまった今の時代に、雷鳴のごとき声で喝を入れる存在が求められている。
我が国は、そうした風雲児の登場を待ち望んでいる。立ち上がれ、高杉晋作の魂を継ぐ者よ。
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ここに来るのが初めてで
私が何をしてるか分からない方へ
同じ山上でも山上信吾氏を信用していると云うのが私の信条です。
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ちなみにどこぞの7区と8区の間を満喫してきたと
今更ながらご報告です。
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http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/21_kido.pdf
織豊期の甲賀
36ページの説明文と
37ページの地図
が興味深いかも。
甲賀では望月の隣に服部があります。そんなに近い関係だった?驚
歴史って思っていたより、もっと「近い」「驚き」で満ちているようです。
P43
<2>の終りに本能寺の変の時の話が出ています。
信忠のいた二条城での服部小藤太・服部六兵衛の討ち死にがちょっと出ています。
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P15 〜 16に 箕輪荘6郷は
元々は藤原氏の氏長者の蕗原荘に属していた
室町時代に藤沢行親が小笠原貞宗に属して足利方に。
1336年に箕輪6郷に封じられた
福与城主藤沢頼親が箕輪6郷を1528〜1555年に領した
ということで箕輪6郷は元々古くから諏訪系藤沢氏のもとにあった と書かれています。
信濃国
小県郡 浦野荘 … 日吉社領。上田市浦野と小県郡青木村全域。
塩田荘 … 最勝光院領。上田市西南部の塩田平一帯。
小泉荘 … 一条大納言領。上田市小泉・上田原・築地・神畑・保野・舞田・仁古田・岡・室賀。
常田荘 … 八条院御領。上田市中央部。
海野荘 … 殿下御領。上田市東部の神川以東と東御市の旧東部町一帯。
依田荘 … 前斎院御領。上田市塩川を除く上田市の旧丸子町・旧武石村と小県郡長和町全域。
上田荘 … 上田市国分・神科台地一帯。
佐久郡 大井荘 … 八条院領。佐久市内。
高井郡 東条荘 … 八条院領。下高井郡小布施町。
水内郡 太田荘 … 殿下御領。長野市豊野町一帯。
芋河荘 … 殿下御領。上水内郡飯綱町の旧・三水村芋川。
石河荘 … 後室御領。長野市内。
四宮荘南北 … 後室御領。長野市塩崎。
丸栗荘 … 後室御領。長野市七二会か?
埴科郡 英多荘 … 殿下御領。長野市松代町・西条・東条・豊栄・寺尾。
更級郡 不明
安曇郡 大穴荘 … 元・左大弁師能領。安曇野市の旧・明科町と北安曇郡池田町。
筑摩郡 捧中村荘 … 八条院領。松本市内およびその近郊。
捧北条荘 … 八条院領。松本市内およびその近郊。
諏訪郡 諏訪南宮上下社(領) … 諏訪市と諏訪郡内。
伊那郡 郡戸荘 … 殿下御領。飯田市一帯と下伊那郡高森町。
蕗原荘 … 殿下御領。上伊那郡箕輪一帯。 ココ
伴野荘 … 上西門院御領。
伊賀良荘 … 尊勝寺領。
江儀遠山荘 …
大河原鹿塩 …
地名不明 小曽祢荘 … 八条院領。
殿下渡領 でんかわたしりょう 殿下御領ともいう。
藤原氏の氏長者が伝承した領地。
殿下とは摂政,関白をいうが,氏長者はほとんどの場合摂政,関白が兼帯したので,氏長者の所領を殿下渡領といった。
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http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_z.html
武家家伝_上州長野氏 文字化けしてて読めません。
長野氏は古代から中世にかけての上野国の豪族で、上野国群馬郡長野郷を本拠 ... 業尚が明応元年(1492)長年寺を再建して開基となり、箕輪城を築いた長野氏の中興の ... 長野氏が歴史に登場してくるのは、十五世紀前半の永享十年(1438)に起った永享の ...
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