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 投稿番号:102089 投稿日:2024年01月25日 11時10分34秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部さんの代理
服部カフェ 4号店
キーワード:服部、羽鳥、服織、ハットリ、ハトリ
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

好評につき
「服部カフェ」
の4号店をオープン致しました。

「古代より現代に至る─服部」についての自由で総合的な考察の場─カフェ。
コーヒーでも飲みながら、語り合いませんか?


1号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101884_136.html
2号店 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_102.html
3号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101979_99.html

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 22時39分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


メモっておきます:


服部保長の長男  保俊の家

定紋
16桁矢筈車
向ひ蝶
矢車
16葉菊






正成の兄(次男)保正の家の定紋は

矢筈車
轡十文字
16葉菊


 
半蔵の家             
つまり  いわゆる 服部半蔵石見守正成の家

天正18年小田原の役で  黒地に白く五文字を染めたる四半を奉る。

               いわゆる「伍」の字  の幟ですね



半蔵の子・正就の子つまり孫の
正幸と3男の正治の家
11歳の時、パパが戦死後  松山に至り松平隠岐守定行に養われ家臣となり

次男の正辰は松平越中守貞綱に養われて家臣に


定紋

8桁車の内  竪八(矢)筈二

                 竪矢筈に替えたってコトかな?


もう1人保長関係の家

八筈車
平蝶
矢車
16葉菊


   
石原慎太郎の家は  矢車  だって言ってましたね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 22時45分49秒 ) パスワード

服部政信の家

矢筈車


今切に於いて死す
だから
あの近辺にお墓があるのかも
ですね。



子孫が
源氏車の内矢筈
16葉八重菊
上藤


別の家が
源氏車の内矢筈
揚羽蝶
16葉菊
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月26日 09時26分46秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101537.html

「政信の墓所はありませんでした」
とお書きでしたね。

失礼を致しました。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月13日 22時46分39秒 ) パスワード

トヨタって元は湖西市(敷知郡山口村)の出身で
尾張の服部家のお蔭で
というのがありますよね。



今回は服部悦雄氏の件:

1943年中国生まれで27歳までいた。
あの時代
銃殺されたヒトの目隠し用の布を奪い合った時代を彼は過ごしたそうです。

     わたしの知り合いの南京の女性は
         あれは、あの時代の最大の娯楽で
         面白かった
     と言ってました。


https://bunshun.jp/articles/-/68825


(奥田硯さんのお言葉)
「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」
トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”

文春オンライン
by 児玉 博氏「トヨタ  中国の怪物  豊田章男を社長にした男」 文芸春秋


なかなか面白い裏話です。



浜松は物作り王国ですから
将来を担う子供達には是非とも理系に進んで欲しいです。


さる女性学者ですが
彼女が学者になったそもそもは
幼稚園のお弁当箱の銀フォイルに土を入れ
道端で見つけた雑草を入れて水をやり
育て観察したことから
だそうです。


    幼稚園生時代から…既に!


子供達を育てるって早い方が良いのかも
ですね。


三つ柏さんは県下最高の高校をご卒業ですから昔のクラスメートの皆さんと子供達を育てる将来を図って欲しいです。

学者さんなどもいらっしゃるでしょ?
[5]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年02月14日 20時59分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 4号店、ありがとうございます。ゆっくりコーヒーでも飲みながら、天才トラ
ンペッター=クリフォード・ブラウンの奏でる華麗なバラードを聴きたいと思い
ます。現在、自治会の相談役もやり、氏子総代長もやり、選考委員長もやりで、
歴史へのアプローチへの集中力がそがれてしまっております。また女房の健康状
況にも気を遣わなくてはいけないので、試練の連続であります。
 人生とは、試練の連続、それをいかに乗り越えるか・・・そこが個人それぞれ
に課せられた命題なのかと思います。服部半蔵正成も試練の連続だったと思いま
す。半蔵がいかに試練を乗り越えたかに興味があります。近々、岡崎に行って、
半蔵の幼少時の気配を探ってきたいと思っています――
 
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月15日 13時55分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

人間関係の煩わしさは組織1つ分でも大変なのに
三つ柏さんは複数の責任者をなさってお忙し過ぎる毎日ですから
お好きなクリフォード・ブラウンのトランペットに耳を傾けてメンタルの調整をなさってください。


>人生とは、試練の連続、それをいかに乗り越えるか

はい
まさに!

「乗り越える気力が続くよう」に我が身に鞭打ってます。

負けたらいけません。



>服部半蔵正成も試練の連続だったと思います。
>半蔵がいかに試練を乗り越えたかに興味があります。
>近々、岡崎に行って、半蔵の幼少時の気配を探ってきたいと思っています―

伊賀町や大樹寺あたり、昔の面影が残っていると良いですね。
八丁味噌をお土産にどうぞ。
[7]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月15日 14時52分58秒 ) パスワード

三つ柏さん あをさん

ご無沙汰しております。

岡崎に服部半蔵正成の幼い頃の俤はあまりなさそうですが、車なら伊賀八幡宮の駐車場に駐車しておき、明願寺(彼の生誕地のすぐ近くとされる)を訪問されたらと思います。ご住職に聞かれたらひょとするとより詳しい話が聞けるかも…。正成と関係はありませんが酒井氏に関係する井田八幡宮も近くに鎮座し井田城跡もあります。

面白いのは、正成が6歳から預けられたとされる大樹寺、明願寺、伊賀八幡宮、岡崎城がほぼ一直線で繋がれる点です。また伊賀八幡宮のすぐ南には伊賀川が流れ、そのまま岡崎城の西の濠のような形で乙川に合流しています。水運的には伊賀川−乙川−矢作川となるので、便利な場所になりますね。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月15日 22時31分18秒 ) パスワード

酔石亭主さん


以下 方向音痴と時代音痴のワタクシらしいレス:


欠町には本多忠次の屋敷跡があるそうですね。


    わたしは酒井忠次とこんがらがってましたが

    https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1109/1162/p011774.html

昭和の洋館 旧本多忠次邸
岡崎市欠町足延40−1

旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、
昭和7年(1932年)、東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したもの。


建築系がお好きな人には面白いでしょうね。



三河にいた頃は幸田や深溝の方にも同僚の車でウロつきましたが
彼女達は歴史に興味は無く
ワタクシも分かって無くて
      大久保彦左なんかの家の跡の前を通っても
      へぇ〜
      のあたりで、  
      彦左って、江戸にいたんじゃないの?  とトンチンカンでした。


今  思うと  惜しいことをしました。

      

日本の歴史は「通字」との闘い。

今年の大河の「光る君へ」は藤原さんのオンパレードで  藤原一族総出  と言う感じで  誰が誰と血が濃いんだっけ?  とワケ分からないです。




岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者(子)らしき家が並んでいるようなので
うろついてみるのも面白いかもですね。
[9]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月16日 19時08分44秒 ) パスワード

あをさん

>岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者(子)らしき家が並んでいるようなのでうろついてみるのも面白いかもですね。

関係者のお宅を発見できたとしてそれをブログや掲示板に載せるのはちょっと控えた方がよさそうにも思えるので、家康以前を岡崎城から北へ見ていくのが面白いのかも…。大雑把な感覚ですが、北へ行くほど松平氏の登場人物が過去にさかのぼっていくように感じられます。東名、国道1号線、248号線に囲まれた三角形の中を北上すれば頂点が岩津町で、松平氏三代の信光が山中の松平郷を出てようやく平野部にまで至った辺りとなります。

岡崎城の北ではなく西に少し行った辺りには新田白山神社が鎮座しており、楠の巨木があるので1年以上前に見に行ったのですが、後で由緒をチェックしたところ岡崎観光協会のホームページに以下のような内容が書かれていました。

「参河国聞書」によれば、永禄9年(1566)に、家康公が厄除開運祈願と祈祷のために、源氏である新田氏ゆかりの地「上野国新田」(現・群馬県新田郡)から勧請したと伝えられています。元は岡崎城内白山曲輪にあって、代々の城主の産土神として崇敬されていました。

正にこの年に家康は徳川に改姓し、従五位下三河守に叙任されています。清和源氏新田氏流世良田氏流松平氏の、事実かどうか疑問の多い系図がこの時点で成立したのでしょうね。しかも間髪を入れず新田郷から白山神社を勧請し岡崎城に鎮座させたとは、何とも用意周到な家康らしい手の打ち方と言うしかありません。

三角形の北側には似たような面白い話が幾つも転がっているのではと期待されます。豊田JCT周辺は既にあちこち見てきましたが、三角形の中は主要部分を見ただけなので、機会があれば俯瞰的かつ事細かに探索してみたいと思っている次第です。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月16日 22時46分04秒 ) パスワード

酔石亭主さん

三つ柏さんの参考になる書き込みに感謝です。


岡崎に興味が無かった当時  彦左の書いてた  徳川家発祥の地の土地の貧しさ  など   全然分かりませんでした。

    今でもピンと来ていませんが
    百姓をした経験が無いし


だけど岡崎やその周辺
今  思いますと  (へぇ〜、あそこが?)  などと「どうする家康」を見てた時  興味無かったので残念でした。


    こんな場所から日本史に躍り出たのか
    など  感慨深いです。

          Too Late!


>三角形の北側には似たような面白い話が幾つも転がっているのではと

はい
同じく!


三河で知り合った人達

「場所」と「名字」で
え?あのドクター、あの武将の関係者?
え?あの経営者、あの武将の関係者?

それで  変人なのか
それで  超お金持ちなのか
とか
思い出します。


うちの親戚の本多さん
岡崎にいたから  本多忠次の関係者?忠勝の子孫の関係者?

    正信関係者じゃないよね
    半蔵さんの方だよね

          だけど宗教的には  正信に近いか?


などと岡崎城近辺に今でも当時の16神将の子孫が住んでるから空想の翼が広がります。

    勝手に翔んでろ
    ですね


>岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者<<子孫の>>家が並んでいる
>関係者のお宅を発見できたとしてそれをブログや掲示板に載せるのはちょっと控えた方がよさそう

昨年、テレビでバラされたお宅は迷惑してるでしょうね


   上記に書いたドクターや経営者のコト
   (だろうな)とは想像してたけど

   まさか  今でも  続いている家だった  というのは昨年の放送まで現実感は無かったです


歴史って   日本史って
自分には関係無いと思って授業を受けてたけど
「自分」のハナシだったのか
です。


もっとちゃんと受け留めれば良かったな〜



[11]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月17日 18時41分55秒 ) パスワード

あをさん

>三河にいた頃は幸田や深溝の方にも同僚の車でウロつきましたが彼女達は歴史に興味は無く

深溝なんて知らない人は愛知県内でも多いでしょうね。でも、ここには深溝松平家があり、現在もそうであるかは不明ですが、現当主はIMFに勤務されているとか。深溝に関して以下城関係のホームページより拝借。ご参考まで。

幸田町の最南端、三ヶ根山(さんがねさん)と遠望峰山(とぼねやま)に挟まれた交通の要衝に深溝の地がある。かつて、深溝は「ふこうぞ」と読んだという。JR三ヶ根駅から北方300m程にある丘陵が深溝城の跡地で、現在は住宅地、工場地となっており、平山城であったが構造は全く分からない。城跡には城址碑と説明板が建っているだけで、遺構として見るべきものはない。深溝城の南西方向に「札の辻」という地名があり、この地名が示すとおり、かつての高札場であった。他にも城跡周辺には「丸の内」、「騎兵野」といった深溝城に因む地名が存在する。札の辻からさらに先の向野(むかいの)には、旧平坂(へいさか)街道沿いに右手に源元公、左手に源照公と刻まれた2基の石碑がある。この源元公とは深溝松平氏の初代当主である忠定(たださだ)のことであり、忠定が建立した本光寺(ほんこうじ)は当初この地にあった。そして源照公とは2代当主の好景(よしかげ)のことであり、善明堤の戦い(西尾市吉良町)で戦死した際に、首を埋葬した首塚と伝えられている。また好景が戦死した下永良には胴塚(西尾市下永良町)が存在するという。あじさい寺として有名な曹洞宗瑞雲山本光寺(幸田町深溝内山)は、大永3年(1523年)松平忠定によって開基され、深溝松平氏累代の菩提寺である。本光寺の山門をくぐると、左手が初代忠定から5代忠利(ただとし)までと11代忠恕(ただひろ)が眠る西廟所、右手が6代忠房(ただふさ)から19代忠諒(ただあき)までが眠る東廟所、正面の梅林が本堂跡である。深溝城を本拠とした深溝松平氏は、吉田城(豊橋市)、刈谷城(刈谷市)、丹波福知山城(京都府福知山市)、肥前島原城(長崎県島原市)、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)、肥前島原城と移封していったが、当主が亡くなると必ず先祖発祥の地である深溝の本光寺に葬ることが家伝であった。亡くなった当主は御遺体船で蒲郡まで運び、行列を整えて本光寺に入った。本光寺の5代忠利の肖影堂の裏には、寛文12年(1672年)建立の願掛け亀がある。松平忠房が福知山藩主時代に作らせた亀趺碑(きふひ)で、これには深溝松平氏の発祥から6代忠房までの業績が漢文で刻まれおり、撰文は林羅山(らざん)の三男・林鵞峰(がほう)による。完成まで10年余の歳月を要したもので、この願掛け亀に刻まれた碑文を全部読むと、亀が動き出すと言い伝えられている。

ちょっとした場所にも色々歴史がありますね。知多半島も美浜辺りは平家の落人が逃げ隠れた場所とされており、旧ブログに以下のような記事を書いています。

源平合戦で敗れた平家の落人が隠れ住んだ里のようです。落ち武者7人の名字は、中村、片岡、千賀、榊原、奥村、森岡、森田とのことで、その子孫は今も受け継がれているとのこと。これは凄いですね。念のために、名前ランキングで検索してみました。地域性のありそうな名前と思われる千賀と榊原で見ていきます。千賀姓は全国で861人、そのうち愛知県は357人で41%を占めています。千賀姓は愛知県が圧倒的な名字だと理解されます。その中で、蒲郡市が57人、田原市が43人、美浜町は20人となっています。蒲郡市の人口は約86千人で、美浜町は7710人ですから人口比で考えれば美浜町が非常に多いと言えるでしょう。

榊原姓は全国で8932人、そのうち愛知県は4398人でこれも愛知県が全国の半数近くを占める状態となっています。その中で半田市が1345人、美浜町が149人となっています。半田市の人口は約12万人なので、人口比では美浜町が勝っています。この結果から吉祥寺の解説板にある平家の落ち武者伝承は一定の根拠があることになりそうです。

旧ブログの内容は以上です。美浜町は落ち武者伝承の地ではありますが、実は鎌倉幕府の直轄地でもありました。かつての荘園だった枳豆志(きづし)庄は、武豊町全域と常滑市南部、美浜町布土と知多半島南部に広がり、承久の乱の後鎌倉幕府の直轄領となったとされています。そんな場所のすぐ近くに落ち武者として隠れ住んでもすぐに発見されてしまうのではないか、などと思ってしまいました。

それはともかくとして、源平合戦の時代から落ち武者の子孫が代々住み続けてきたのですから、ずっと歴史の新しい16神将の子孫が岡崎にいても不思議ではないと言えそうですね。もっと古い例もあり、例えば富士山麓において応神天皇の子である大山皇子の子孫が太神宮の大宮司となり宮下姓を名乗り、宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。と言うことは、ここでは古代から現代までが地続きになっている訳です。

現在のテーマとは関係ないことばかり書いてしまいました。つい色々連想が働いて話が飛んでしまうのはよくない癖ですが、今さら変えようがありませんのでご容赦のほど。いずれにしても、日本の歴史は深掘りすればするほど色々出てきますね。
[12]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月17日 18時48分42秒 ) パスワード

あをさん

すみません。宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。を二度繰り返してしまいました。過去に書いたものを部分的にコピーして、それがなぜか二度になってしまったのかも。まあ単にボケているだけの話でしょうけど。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月17日 23時08分25秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


深溝は  三河にいたワタシには  ふこう「ぞ」  の方です。
NHKで    ふこう「ず」  と発音されると  不愉快です、  なんで?  と。



最近は  NHKで  小牧の有楽ホテルとか有楽苑関係で  「ゆうらく」と発音してたのが不愉快でした。

    名古屋人の私には  「うらく」じゃないの?  でした。
    信長  知らないの? 弟だよ!  と。


ま、名鉄さんは織田家に遠慮して  「ゆうらく」 と発音することにしているのかもですね。
それでNHKも  織田有楽について  全く  名前の由来を紹介しなかったのでしょうね。



平坂も懐かしい!
I remember Heisaka!
です。

このrememberは「覚えてる」じゃなくて「懐かしいぃ〜!」のニュアンスの用法です。



>願掛け亀に刻まれた碑文を全部読むと、亀が動き出すと言い伝えられている。

知らなかったですぅ〜



千賀って
ジャニーズに「千賀」くんという解体の好きなお坊ちゃまがいますね。
愛知出身で。


貧しい家庭出身の子が多いとされるジャニーズだけど<母方父方ともに>なかなかの裕福な家庭出身のジャニーズだそうです。


もう1家について書きたいですが
ここで書くと  身バレで  血の雨が降りそうなので止めておきます。


    なるほど!
    そういう関係だったのか!
    です。


    まさか  平家繋がりだったとは。
    書きたいのに書けないもどかしさ!
    笑


         もっと他の家の子で「うちは揚羽蝶紋だよ。昔  関係があったんだよ」と言ってる人がいました。
         当然  をのこ  ね。


   
知らないだけで  実は  実は  大昔の「刎頸の友」の子孫同士だったんですねぇ。



>つい色々連想が働いて話が飛んでしまう
>日本の歴史は深掘りすればするほど色々出てきますね。

いろいろ謎が解けました。
遠い目


本当にありがとうございました。


そうそう  三河の中根さんも  平家がらみだと  どこかで読んだ記憶。
擦れ違うも他生の縁
どころか  
実は  わたし達は  日本の歴史を引き続き生きているのですねぇ。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月18日 07時04分48秒 ) パスワード

思い出した!


擦れ違うも他生の縁
「袖振り合う」どころの近さじゃなくて
ホントに  一瞬  擦れ違うだけでも  因縁がらみの人と出会ってたんだなとシミジミです。

日本ですねぇ〜    


三河にいた時に  「松平さん」  という男性がいましたっけ。
どこの松平家か訊いておけば良かった。

18松平家のどこかなんでしょうけど
インチキ松平なら地元の人間が(戸籍の登録時の役人も含めて)許さないから
本物だろうと思います。

それも   岡崎の人ですから  当然  家康がらみの本物の松平さんでしょう。


明治になって名字を名乗るようになって  自称  松平  なんて名字にしたら  回りが許さない日本だったと思います。
それも岡崎なら特に。



徳川さんも結構いたりします。

ロス時代に仕事で知った徳川さんは  まさに  18代目あたりの徳川さん  って感じの好青年でした。

     側室
     いらないですかぁ?
         と訊きたかったなぁ〜


パスポートでチェック済みの徳川さんでしたよ。



ハワイにも徳川さん、いますよ。



ロス時代には徳川家達の孫姫がいて  ここの息子さんの親友が酒井さんとおっしゃって  ランドセル並べて幼稚舎に通ってたよ  というハナシから
フーン
で終わってましたが


後に   え?   酒井って?   でした。
too late!


松平と酒井の関係をコロッと忘れてました。
当時は。

     この酒井さんの仕事場のご近所に榊原るみと鈴木潤一監督夫妻のマンションがありました。

         義兄がこのマンションに住んでました

     鈴木潤一監督夫妻はラスベガスで自損事故を起こしてドクターヘリで搬送されて1万ドルだか請求されて怒って日本に帰っちゃいました

         東大出た人は怒りのポイントはそっちか
         とカンシンしましたよ

         フツー人のわたくしの場合は  自損事故をやらかした自分が恥ずかしい  と思うのに、と



>応神天皇の子である大山皇子の子孫

夫のかかりつけの医者の1人が大山守皇子のご子孫でした。
親切なワタクシは英語で書いて教えて差し上げました。

大阪大学医学部卒でした。


     失礼をば致しました


宮下文書のことは三つ柏さんから教えて頂きました。

徐福が日本へ行ったことは中国人も知ってました。

     わたしが  わたしの名字のフーブーは元は「秦」をパクったんだよ  と言ったから

     
それで逆にビックリしました   徐福って   実在人物だったの?と。


            
江戸時代の260有余年
移動の自由が無かったということで
記憶が途切れてしまいましたね

お蔭で  犯罪者の遺伝子も途切れて  安全な時代になりましたが


だけど  ひょんなことから  出会った瞬間に  え?  と不思議な感覚に陥ります。

     好きだったり  嫌いだったり  何も感じ無かったり。
    
それで日本人は出身地を訊くのが好きなのかもですね。
出身地と名字で  ピンと来るコトがあったり。

今は   明治以降   移動しまくって  本人さえ知らなかったりしますから残念です。
[16]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月18日 19時05分09秒 ) パスワード

あをさん

>旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、昭和7年(1932年)、東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したもの。

桑名の浄土寺に行ったとき、本多忠勝のお墓を本多忠承さんが昭和55年に修復したとの修復碑が建っていました。忠承さんは忠次さんの曾孫に当たるのかな。

>そうそう  三河の中根さんも  平家がらみだと  どこかで読んだ記憶。擦れ違うも他生の縁どころか  実は  わたし達は  日本の歴史を引き続き生きているのですねぇ。

これは一種のシンクロニシティなのか、昨日我が家に中根さんが来られましたよ。で、中根氏って遠い先祖までたどると服部氏と関係してきますよね。伊賀の服部氏は桓武平氏忠正流で忠正の長男・長盛の子孫が服部氏、七男・正持の子孫が中根氏になる…。あくまで両者の系譜が正しいとの前提においての話ですが、大先祖は一緒となります。

>松平と酒井の関係をコロッと忘れてました。当時は。

伝説的なようにも思えますが両者は先祖が同じになるので、酒井家累代の墓も大樹寺の境内にあったようです。現在はすぐ近くの回向院にあります。

服部半蔵正成に話を戻しますと、昔私が紀尾井町辺りにいた頃、清水谷公園などうんと近いので散歩がてら行っていました。ここは正成が信康の菩提を弔うため庵を建てた場所。また四ツ谷駅から新宿方面に少し歩けば西念寺。甲州街道の起点が半蔵門ですから、本当に身近な場所に正成の存在があった訳です。

残念なことに、当時は歴史に対する興味がそれほどなく、紀尾井町の地名由来や清水谷付近で大久保利通が暗殺されたことを知っていた程度でした。今ならもっと真剣に探索したでしょうが、過ぎ去った時代を取り戻すのはできないので仕方ないですね。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月18日 22時34分34秒 ) パスワード

酔石亭主さん

レス<15>を書いて良かった!
酔石亭主さんには  アホか  コイツ  と思われるかなと思いました。


>残念なことに、当時は歴史に対する興味がそれほどなく

酔石亭主さんにもそんな過去がありましたか。


わたくしはオットと結婚してから
    >一種のシンクロニシティなのか
まさに  コレがあります。


昨夜もテレビを見てたら  ここの参加者のXさんに  数日前にメールした件がまた起きたことで  メールして寝たところでした。



中根さんの件も  実は実は  というハナシがあって
それでレス<15>に  ええい! 書いちゃえ!  という感じでちょっと書いたのでした。



それで今朝起きて来たら   <一種のシンクロニシティなのか>  と酔石亭主さんがお書きでしたから  背筋がゾクゾクしました。



>過ぎ去った時代を取り戻すのはできないので仕方ないですね。

東京にしょっちゅう出掛けるのは年齢的物理的時間的金銭的に無理ですものね。
惜しいですね



>桑名の浄土寺に行ったとき、本多忠勝のお墓を本多忠承さんが昭和55年に修復したとの修復碑が建っていました。
>忠承さんは忠次さんの曾孫に当たるのかな。

桑名藩は
   背筋がまたゾクゾクして来て
指が動かないです


   ホンヤさんと高須藩は引っ張り合いがあって
   ここの兄弟が会津・桑名・尾張の当主になりましたから(他には浜田とか一橋とか)


そうすると  三河のシンセキの本多家って  忠勝系なのかな?  とまたまた翼を広げてしまいました

宗教繋がり的には  正信系  じゃないのか?と。


訊いておけば良かった。
当時はつつましやかなシュクジョやってたので過去にガツガツ土足で踏み込むような真似はしなかったのが残念です。


夏目さんとも引っ張り合いがありましたよ。

    お前が書くな!
    と血の雨が降りそう

ま、  仲良かったのは  宗教的にもそうだろうな  と「どうする家康」で納得しました。
[18]酔石亭主さんからのコメント(2024年02月19日 18時54分00秒 ) パスワード

あをさん

>お前が書くな! と血の雨が降りそう

長い歴史を持っていると色々な絡みが出てきて大変ですね。私の場合は、まあ多少はあるにしても、気になるようなレベルでもなく気が楽です。

今回はこれで退出しますが、面白い話などがあったら(最近はあまりないので困りもの)また寄らせていただきますのでよろしく。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月29日 22時42分09秒 ) パスワード

レス<4>の続きです

レス<4>記事
https://bunshun.jp/articles/-/68825
(奥田硯さんのお言葉)
「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」
トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”
文春オンライン
by 児玉 博氏「トヨタ  中国の怪物  豊田章男を社長にした男」 文芸春秋




本日の記事:


https://gendai.media/articles/-/124846
2024.02.29
トヨタ・豊田章男を「社長にした男」の“知られざる正体”が明かされた…! その名も「中国の怪物」、いまはじめて語られる「豊田家が頭を下げた瞬間」と「創業一族を支えたウルトラC」


https://gendai.media/articles/-/124848
2024.02.29

豊田章男を社長に押し上げた「トヨタの怪物」、その“壮絶すぎる半生”を明かす…!「日本の小鬼」が生き抜いた「中国・死の時代」から「豊田家の通訳に抜擢」、そして「トヨタ役員を約束された男」が“トヨタを辞める日”に「捨てたもの」
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月01日 01時56分26秒 ) パスワード

最近  いろいろ不思議な出来事が続いていました。


その1つを書きます:

知り合いが脳梗塞から  ノーコワさん(脳が壊れた)になって   家族はいろいろ大変なのだけど

      2週に1回  幻覚が起きて   家族は困惑している

と言って来たのです。



その直後に  ある番組で  「見える」ハナシ   をやってました。



以下わたくしが送ったメールのコピペ:


某学者達の話です:脳学者と生物学者の話。


「見える」件ですが
普通の人も   シルビウス溝(シルビウス裂)に刺激を与えると「見える」人がいるそうです。


シルビウス溝は左の方が長いので
より敏感に「存在」を感じ
人によっては  何かが  乗っている  =  霊  =  と見えるし

それで  見える人は   霊が憑りついている   と言うのだそうです。


これは脳表面にある大きな溝の1つで 前頭葉、頭頂葉、側頭葉を分け「外側溝」ともいう。

大脳の側面が深い切れ込みで側頭葉と前頭葉に分れるが,
この切れ込みはオランダのシルビウスが初めて記載したことから
シルビウス溝と呼ばれている。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月10日 13時27分03秒 ) パスワード

本日のNHKニュースで

珠洲市上戸町の断水が一部解消になって
理容店も通常営業できるようになり


この理容店主のお名前が  初鳥進也さんとおっしゃる方で

ニュースを聞いてた時に「はっとりしんやさん」と聞こえたので  へぇ〜  と思っていたら  漢字が全く違ってて驚きました。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%88%9D%E9%B3%A5

【名字】初鳥
【読み】はっとり,はつとり

【全国順位】 25,773位
【全国人数】 およそ140人


同名字は、茨城県、千葉県、埼玉県などにみられる。


初鳥さんの多い地域 TOP5

都道府県 人数

茨城県 およそ50人
千葉県 およそ30人
大阪府 およそ10人
東京都 およそ10人
石川県 およそ10人


市区町村   人数

茨城県かすみがうら市 およそ40人
千葉県千葉市若葉区 およそ10人
大阪府柏原市 およそ10人
東京都大田区 およそ10人
千葉県市川市 およそ10人



初鳥さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県 比率

茨城県 0.00175%
石川県 0.00075%
千葉県 0.00045%
熊本県 0.00026%
三重県 0.00024%


市区町村
比率
茨城県かすみがうら市 0.102%
長野県上伊那郡中川村 0.077%
石川県珠洲市 0.03% ←   ここ
大阪府柏原市 0.02%
茨城県潮来市 0.017%
[22]酔石亭主さんからのコメント(2024年03月11日 08時02分48秒 ) パスワード

あをさん、三つ柏さん

全く初歩的な質問で笑われるかもしれないのですが、服部党の当主である服部友貞の先祖は伊賀の服部氏でいいのでしょうか?疑問の元になるのは太田氏の見解で、同氏は伊勢の服部氏に関して以下のように書いていました。

和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。

この書き方だと、服部友定(友貞)は尾張の国人ですから、それが伊勢の服部氏の中に書かれている以上、太田氏は服部友貞を奄芸郡津市河芸町一帯にいた服部氏の子孫として認識していることになります。Wikiにも、本願寺配下の服部氏は、前述(伊賀の服部氏)の服部氏とは別系統で、伊勢国奄芸郡が発祥とされる。戦国時代の「服部党」当主の服部友貞が有名。と書かれ、服部党は奄芸郡の服部氏が源流になっているように見えます。

ちょっと混乱してしまいそうなので、整理して頂ければと…。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 03時31分19秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ばか丸出しの書き方をしてしまったので  書き直し。
恥ッズ!


>服部党の当主である服部友貞の先祖は<<<伊賀>>>の服部氏でいいのでしょうか?

服部党の当主である服部友貞の>>>14世紀の直接の先祖は伊勢の服部氏<<<でしょうか?
の方が適正なご質問になりますね。


平氏が伊勢伊賀に土地を貰って  
子孫の家長は伊賀の小宮神社あたりのエリアを支配し
この家は地名の服部を屋号にしてアチコチに一族を送り込んだ。

    

11世紀の初めに  寛弘年間だったかな?に  東国から伊勢伊賀に土地を拝領して移動してきた平氏の子孫は

正盛さまの時代に力をつけ
忠盛さまの時代にはかなりの有力者に
その後
清盛 vs 忠正 の戦いがあって
忠正に仕えていた家来は忠正が処刑された後に清盛の家令であった家貞一族に組み込まれ


伊賀の家長の家の子になった一族は伊賀にもいたでしょうし伊勢にもいたでしょう

      伊勢伊賀どころか忠盛さまの時代には既に名古屋の御器所にもいたし
      九州にも家貞の家来がいたし
      北陸にもいたし

その後

源平合戦で負けて各地から古巣の伊勢伊賀に戻ったのもいるし
平家にとって安心安全な伊勢の津あたりの服部氏は力を持ったままだったでしょうね

           これがホンヤのご先祖
 
           わたしも奄芸郡  特定すると  久居なんですが  ここにいた気がします

           何度も不思議な経験をしています
           もっと特定すると  榊原温泉

           この不思議な体験をすることになった原動力は
           ずっと後に知ったことですが  
           その人は父方・母方ともに平家の一門で母方はまさに伊賀の服部氏でした


           特定が超簡単なので書けないのが残念っ
           ○○の服部だよ
           と書けば  
           日本人なら  えっ  と分かるレベル

                       

太田先生はかなり整理なさった書き方だと思います。


  
伊勢伊賀(その他 御器所や  北陸や九州)に拡散した一族で
家長に関わる人達が   
車に並び矢の家紋で集約されている
と思っています。


        ま、立場で家紋も変化しますが

家長に関わる人達が  家長が弓のコンペで優勝して車いっぱいの矢を6条院から拝領したのを記念して  この家紋を使用して来た   と思っています。


    三重県の秦氏の服部さんで今もお祀りをなさっているお家の家紋は
    家長系の家紋とは全く違います


 
ちなみに
「服部氏が忠正の子孫」の件は
忠正に「仕えた」服部一族ということだと思っています。

「忠正に仕えた子孫」という部分が「忠正の子孫」に化けたと思っています。


しかし
忠正を父に母が服部氏の女たち   という事もあり得るから  「忠正の血を引く忠正子孫の服部」もいると思っています。



伊賀の服部氏も
父が「服部」ならラッキーだけど
母が服部の「女」だったら名字が違うし
養子や猶子の服部氏もいるだろうし

名字と家紋が「服部」で「車に並び矢」だったら  分かり易くて  ラッキー!



今じゃ  「服部」=「伊賀の服部」で  世界で大きな顔をしていられる(伊勢ですけどぉ〜  元は伊賀でもあるからねっ)


あ〜
やっぱりバカ書いちゃった
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 10時12分04秒 ) パスワード

上記をかなりボカして書いていたけれど
ほんと
ココって神がかってる
平熱
ほんとオカルトパワーがスゴイ。



榊原温泉
七栗の湯ですね
清少納言ゆかりの。



家貞が平家と九州の関係を安定させたことを思い出していました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E8%B2%9E

平家貞
平安時代後期の武将。伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人。
平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」といわれた。

略歴
平忠盛の側近として知られ、公卿らが殿上人になった忠盛を闇討ちにする計画を立てた際、殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある。



          16歳の家長がボディガードとして父について行った話は
          ワタシ的には忘れられない「家長」のデビューシーンです(赤面)



忠盛の信頼は厚く、平氏の本領である伊賀鞆田荘の沙汰人となり、東大寺などの勢力を排除して在地経営に携わった。忠盛が西国の海賊追討に赴くとこれに付き従い、海賊追捕の賞として兵衛尉から左衛門尉に昇進する。


忠盛の死後は清盛に仕え、保元の乱・平治の乱で活躍する。保元3年(1158年)清盛が大宰大弐となり九州へ進出すると、家貞も筑後守に補任され、薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たした。

『平家物語』は一ノ谷の戦いで戦没したと記しているが、『玉葉』ではこれ以前に既に他界していた旨の記述がある。

             86歳で没したとか
             平家の主人  正盛さまから計6代  に仕えたから  平維盛の子=平高清を「6代さま」とお呼びした



鹿児島まで平家の力が及び  
鹿児島関係の方から  いろいろお話を読ませて頂いた

    お1人は今ではかなりの地位におつきで  藤原貴族に繋がるので  ココに書くことは憚られる。



で、今  録画していた番組を見ているのですが
その番組は鹿児島が舞台で

なんと  その番組に出ている人物が  弟にそっくり!
見れば見るほど弟の表情にそっくり。

     ウチって  伊賀の家貞の子孫  って言っていいの?
     です。
     笑


最初  西郷さんを彷彿とさせる人だな   と思っていたけれど
アップになってから  弟にそっくりだな  と。

     九州の西郷氏も戦国時代や徳川時代に無縁じゃないしね
        諫早の西郷家に服部右京(左?)亮がいたし   竜造寺に負けたけど
        幕末の会津の家老の西郷さんは島津の西郷さんに容保公の命乞いをしているし
            容保公はホンヤさんと引っ張り合いのある家の子だし


いろいろ 思い出して  ここに書き込んでしまった。


やっぱり平熱には平家のパワーが来るわ・・・
[26]酔石亭主さんからのコメント(2024年03月12日 19時30分52秒 ) パスワード

あをさん 

詳細な解説ありがとうございました。11世紀の初めに東国から伊勢伊賀に土地を拝領して移動してきた平氏の子孫が各地に広がって服部友貞などに繋がっていったのですね。それでもなお、ちょっとした疑問が残ります。

>太田先生はかなり整理なさった書き方だと思います。

基本的な問題として平氏系の伊勢伊賀服部氏は機織りとは関係のない一族ですから、各地へ広がった先に服部郷や服部の里と言った地名など(検証はしていませんが)付けないと推察され、また服織神社を創建することもないと思われます。従って奄芸郡に服部郷があり、しかも服織神社まで鎮座している以上、服部友貞には繋がって来ないのではないでしょうか。

念のため奄芸郡服部郷の服織神社(津市河芸町久知野に鎮座)をチェックしたところ、解説板には、この神社は延喜式内社で、庵芸郡13座の1座である。服織りは機織りの義で、天照皇大神は農業養蚕機織りを奨励され、天の服織り女をして神衣を織らしめ給うたにより、祭神として奉祀したのであろう。となっていました。

この内容だと、やはり服部党には繋がってきそうにありません。また伊勢神宮に神衣を織って奉献したのは奄芸郡服部郷の服織神社ではなく松阪の神服織機殿神社の服織り女となることから、奄芸郡の服部郷は松阪の機織り集団に関係する場所と推察され、やはり平氏系の伊賀服部氏とは関係しないことになります。となるとあをさんの、

>わたしも奄芸郡  特定すると  久居なんですが  ここにいた気がします

に関して、全くの想像ですが以下のような別の筋道は立ちませんか?

伊勢神宮に神衣を織って奉献していたのは松阪市の神服織機殿神社の服織り女。奄芸郡の服部郷に鎮座する服織神社は松阪の服部氏に関係する人々がいたから創建された。或いは、神服部氏が1155年以降初生衣神社にて織った神衣を奉献し始めたことから、仕事にあぶれた神服織機殿神社の服織り女の一部が奄芸郡に移住し、既にいた服織り女と共に機織りを始めたので服織神社が創建されたとも推測されます。

服部連の最も遠い祖神は天御桙命で、そこからずっと下って若多祁命が伊豆国造となり弥蘇足尼、麻羅足尼へと続きます。麻羅足尼は允恭の御代に服部連の祖となっています。大変面白いのですが、神服織機殿神社の近くには服部麻刀方(まとま)神社旧地がありこの人物は天御桙命の前世代の天足別命の別名で、もう一つの服部伊刀麻(いとま)神社旧地の 伊刀麻命は天御桙命の別名となっています。天御桙命は「天」が付く神様のような名前で、物部連との関係などから判断して新しい神名思われ、古い時代の服部氏の先祖の実体は伊刀麻命及び麻刀方命になりそうです。

1155年以降久居、河芸町と移動した松阪の機織り系服部氏は尾張に入り、中川区富田町一帯に居住したのでここが服部村となり、(御器所の服部より時代は古いと推定)神服織機殿神社のすぐ南は麻績郷(織殿神社、麻績神社、神麻続機殿神社など麻績氏系神社が鎮座)だったので服部氏(服織り女集団)と共に(或いは別行動で)移動した麻績氏の一族は稲沢市に入って麻績村となったと推測されます。

以上の観点から、あをさんの御先祖は伊勢松阪の機織り系の服部氏の可能性が浮上してきます。それでは系図と矛盾するとした場合、松阪から久居、河芸町へと移動した服織り女集団の一部がさらに北上する過程のどこかで伊賀の服部氏と合体、あをさんの御先祖になったとの設定は可能です。この場合、系図的には伊賀服部系だが古い機織り系服部氏の流れにも接続していた可能性があることに…。

要するに伊賀から広がった流れ以外に、松阪から北上した流れもあるはずで、その二筋の交点があったのかもしれない…、なんて想像したのですが…、いかがでしょうね。

以下は参考まで。

大和国の服部神社は天之御鉾神が祭神。西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(かきのもり)という土地があり、そこに同社が鎮座して波登里村(はとりむら)、阿刀村(あとむら)の氏神であった。とされます。阿刀村の阿刀は伊刀の転訛とも考えられます。そうであれば、松阪の服織り女が大和にも行ったことになりそうです。
鈴鹿市御薗町にも服織神社が鎮座。鈴鹿市郡山町の酒井神社には服織神社の旧跡があります。

あれこれ書きましたが、去年の秋から今年にかけて数回伊勢市方面を探索しており、次は松阪方面と思っていて事前に幾つか調べた中で色々な情報が出てきました。そこで不明確な部分をあをさんにお聞きし自分なりの推測も交えて整理したところ、正しいかどうかはさて置いて、上記のようになった次第です。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 22時53分45秒 ) パスワード

酔石亭主さん

もうすぐジムに出掛けるので   ちょっとだけ。



半蔵さんとこは「帰化人じゃないよ」と言ってます。
かなり捏造というか  先祖を美化していると思っています。



わたしが久居あたりにいたのは  源平合戦のすぐ前なので  1180年ちょっと後あたりの時代です。


三重の秦氏の服部さんから  もっと  詳しく訊いておけば良かったのですが
彼女の親御さんの代で  お祀りは  途絶えます。
彼女の代は皆さん  日本にはいないので。



>阿刀

実は昨日上記のレスをした時
見てた番組に   
この 阿刀 という地名  名称  を見ました。


酔石亭主さんがお書きになったので  背筋  ゾクゾクです。
やっぱり平熱って平家のオカルトパワー  すごい!


今からジムです。
4時解錠なので。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 07時32分34秒 ) パスワード

酔石亭主さん

随分前に  地方の  小さな  神社の  織り物小屋をテレビで見ました。
 
それこそ  家内織り物  というか  家事仕事の一環で  
母や妻や娘などが暇な時間に織る  
という感じで

その建物は 納屋どころか OUTHOUSE  屋外便所  の規模の建物で
粗末な機1台置くのがギリギリ
隙間風が吹き抜ける感じで
板の隙間から光が入るレベルで
夜は当然  灯り無しだから  夜なべ仕事で織り物はしない  できない  って感じでした。

        どの神社か書いたら三つ柏さんが怒りそう
        (笑)
        源頼政がらみで見た番組だった記憶

           某陰陽師がドジってクビになったのを頼政が就職先に斡旋した神社



ということで    酔石亭主さんの脳内の機織部とか織部とかの規模とは  違うと思いますよ

本当に小規模


そして  社・大社・神社・神宮など  規模や地位に関係無く  
神さまをお祀りする所には  機織りをする場所=小屋=が隣接してた  
と思います。 



ということで

どんな集落も  氏子がいて  氏神さまを祀るなら  織り物をする場所があって

そこが     はたおり  はとり  と呼ばれた場所  と思っています。
漢字で書くと   機織  羽鳥  服織  羽取  服部   八止利  その他


時代が下って  行政が管理したり  氏子代表が有力者になって  社が立派になるに従って  酔石亭主さんの脳内にある  伊勢神宮を最高とする  立派な織物を作る機関に成長したのでしょうけど


日本中  人がいて  村が出来て  社があれば
ソコに織り物をする場所が出来て はっとり  と場所名が成立したのでは?
と思います。


だから日本中に  服部  という地名があって当然と思っています。
そこに住む人間は織物業でなくても  服部と屋号で呼ばれ  後に  服部と称した
と思っています。



伊勢神宮の  にぎたえ・あらたえ  に脳が乗っ取られて
庶民レベルの氏神さまへのささやかなお供えが   帰化人がぁ〜  秦氏がぁ〜  レベルに巻き込まれてしまったのでは?
と思います。


わたしの明治生まれの祖母や継祖母も暇に明かして夜なべで(蚕から)糸を引いて最終的に織り物をしてました。
これは高度成長以前の日本の普通の庶民の家の光景でした。


こういう感覚が無いと  秦氏とか織部とかに  脳が乗っ取られるんじゃないか?と。


秦氏とか織部とか服部とか雄略天皇がとか允恭天皇がとか
そういうのは雲上のセカイのハナシだと思います。

勿論  秦氏の技術や伊勢神宮に納める神服織機殿神社の技術は   下々にも流れたと思います。

ま、バラしたら処刑なんてコトにもなって行ったと思います。


でもフツーに庶民にも「布」が衣類として使われるようになった頃には
技術を得るために服部へ行ったり習いに行ったりしてたんじゃないかな?
と思います。


それで  ワタシ的には  「服部」  って日本中に存在した地名と思っています。


三重県の秦氏の服部さんにしてみれば 
  
    なんか  うちの名字が   平安時代に乗っ取られたんですけどぉ!  
    その上、ニンジャ人気で  何時の間にやら  伊賀=服部  になっちゃって

と不快じゃないのかな?


彼女にもっと聞いておけば良かった。
秦氏の服部さん宅って   神服織機殿神社と麻続機殿神社に関係するの?  とか。

すごい家のお嬢様  と思ってたけど  
こうして書いていると
思ってたよりずっとスゴイ家の御令嬢だった?


そうそう上記に書いた  わたしの前世の記憶を呼び覚ました友人は  父上がお伊勢さんの神職さんです。
彼も当然お伊勢さん関係です。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 08時36分12秒 ) パスワード

半蔵さんのことを書こうとしてさち子さんから頂いた「服部一族」の書類の束を出して来ましたが

あまりの情報の多さに  15ページで  落伍。


それにも日本中に「服部」の地名があることが記されてました漢字はいろいろですが。



半蔵さんの家の記録
寛永時代や寛政時代に提出のたびに先祖崇拝の脚色が成されていったのでは?
と思います。


ほのはやひの命の末裔なりとか         誰?
允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部を拾領し服部連を号すとか

          この辺りは先祖を飾ってるんだろうと
          家康の姪で養女と結婚したんだから「書いたもん勝ち」ということで誰も異論は挟めない


その子孫伊賀国阿拝郡服部の郷を領し今諸国に遊仕と記すとか
平氏にして葛原親皇の後胤伊賀平内左衛門が末孫なりとか


          これも  かなり  アヤシイ?
          伊賀の土着の人達からカルク見られてたとか聞くから
          家長の末孫というのは先祖への箔付けだったんじゃないか?と。


              でもムカシの力有る人は子供がたくさんいたから
              本当に家長系だったかも、とも思える




>阿刀

空海の母上のご実家ですね。
[30]酔石亭主さんからのコメント(2024年03月13日 19時18分24秒 ) パスワード

あをさん 

>随分前に  地方の  小さな  神社の  織り物小屋をテレビで見ました。……
ということで    酔石亭主さんの脳内の機織部とか織部とかの規模とは  違うと思いますよ

私はこの神社を随分以前に訪問し、織物小屋も実見しましたし神服部宮司さんと1時間以上話し込みましたよ。その結果を踏まえ独自見解を交えて旧ブログに長々と書き、それをあをさんが目に留めて平熱で三つ柏さんにそのまま紹介し、議論されていたから私も知ることとなり平熱を初訪問し、現在に至る迄時々意見交換などさせていただいている次第です。ですから三つ柏さんも初生衣神社に関しては知っていて怒ったりしないはずです。でも、あをさんがもうお忘れだったらちょっと残念。某陰陽師がドジってなんて私が書いた内容を平たくしたものですよ。

この神社で700年以上も続いた神衣の奉献は明治になって廃絶し、戦後しばらくして復活。おんぞ祭として地域では盛大なお祭りになっているようです。ただ、現在神服織機殿神社では4人の女性が神衣を織っていますので、復活以降における初生衣神社の神衣奉献は小さな織物小屋で十分でしょう。加えて、古い時代の伊勢神宮の儀式においても参列する服織女は八人ですから、さほど大規模なものではありません。

私は初生衣神社、伊勢神宮、神服織機殿神社、神麻続機殿神社と俯瞰的に各史料・ネット情報なども参照しつつ全体を見るようにしていますので、脳内の規模の問題は関係ありませんよ。と言うか、機織り関係に限らずこうした儀式・神事は規模より神事それ自体とその意味や由来が重要なので、そうした視点で見ていくべきでしょう。伊勢神宮の神衣関係の詳細は「倭姫命世記」や(注:これは度会氏が書いたものとされ自分に都合の良い内容も書かれています)群書類従の「皇太神宮儀式帳」などを参照ください。

>どんな集落も  氏子がいて  氏神さまを祀るなら  織り物をする場所があって、……そこに住む人間は織物業でなくても  服部と屋号で呼ばれ  後に  服部と称したと思っています。

もちろん人間の基本は衣食住ですから、遠い昔から村々に織物に従事する人々がいたのは間違いありません。ただ、服部の名前自体は「服」織に従事する「部」民(厳密には品部)を「服部」とした訳で大和王権の制度的な要素が根本にあり自然発生的なものではないと思われます。部民制は6世紀以降に広がり品部は部民制以降の制度なので、服部は6世紀後半から7世紀初めの大化の改新以前に成立した名前となるはずです。

以前に行ったことのある服部連塚は允恭天皇の時代の5世紀中頃諸国の機織りを統率した服部連の墓とされますが、一帯の古墳は6世紀から7世紀にかけての築造とされているので、服部連の墓も同様と考えれば、上記の見方に整合してきます。

応神天皇の御代に大陸から呉織・漢織の2人の織り姫が渡来したとか、雄略天皇の時代に呉服(くれはとり)、漢服(あやはとり)が渡来したなどの伝承はありますが、実際にいつの時代と特定するのは困難です。ただ、大阪近辺の池田市、豊中市、高槻市などにそれらの伝承が多くあり、服部連塚も高槻市ですから強い関連性は窺えます。

時期は不明でも渡来人により高度な機織り技術が伝えられたのは事実ですから、大和王権はその技術を各地に普及させるため服部連を使ったと思われます。租庸調の租税制度は当時なかったでしょうが、各地から良質の絹や麻の織物を召し上げるため管理組織が必要だったので古代における機織りの中心地にいた人々=服部連がその役を担ったのでしょうね。

それと愛知県において服部や羽鳥の地名は非常に少なく、服織神社、服部神社もないに等しいものとなっています。名古屋市中川区の服部の地名は「尾張国地名考」によると、機織部によるものと、往昔伊勢国より移りたる因縁に出る地名なるべし、との説があり、松阪の神服織機殿神社の服織り女の一部が北上して尾張に入ったとする私の見方を裏付けているように思えます。

鳳来町大野には服部神社が鎮座していますが、これは同地の三河赤引きの糸を初生衣神社に送りそこで織った神衣を伊勢神宮に奉献するためにあるようなもので、初生衣神社との関連で存在しています。また豊川市の服織神社はハトリの地名の所に鎮座していたとのこと。

要するに、服部の地名はあをさんが思われるほどどこにでもあるものではなく、大化の改新以前の品部のひとつに数えられる各地の機織り職能民・服部(はとりべ)が朝廷に織物を納めていたことが、例外はあるものの基本的には服部の地名由来になっているのです。従って、村々の機織り職人がいる場所のどこにでも服部の地名がある訳でも、服織神社、服部神社がある訳でもないことになります。

>伊勢神宮の  にぎたえ・あらたえ  に脳が乗っ取られて庶民レベルの氏神さまへのささやかなお供えが   帰化人がぁ〜  秦氏がぁ〜  レベルに巻き込まれてしまったのでは?
>どんな集落も  氏子がいて  氏神さまを祀るなら  織り物をする場所があってそこが     はたおり  はとり  と呼ばれた場所  と思っています。

それはおっしゃられる通りかもしれませんが、古代の機織りに関連する情報はあをさんの言う雲の上レベルの場所とか史料、伝承にほぼ限られ、それらの史料、神社の伝承などを拾い上げて再構成するしかないと言うのが現状で客観的な現実ですから、仕方ありません。これは脳内云々ではなく単なる方法論の問題ですよ。

あまり練っていない文章をあれこれ書きすぎてしまいました。最近はパソコン画面を見ているとすぐに目が疲れてくるので、つい書き流しになってしまい申し訳ありません。間違いがあるようならご訂正のほど…。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 22時46分00秒 ) パスワード

酔石亭主さん

詳しいご紹介をありがとうございます。


またバカ書いてしまって赤面して消しました。
父の生母の家の自慢をタラタラ書いていたのです。
恥ッズ


    父の生母の家は  ひょっとすると  三重県出身の秦氏の服部さんに繋がる家だったのかな?  です

    酔石亭主さんのレスを拝見して   いよいよ確信に近づきました。
    敬礼! 


>初生衣神社

NHKの番組で見た神社はココだったのか
すっかり忘れてしまっていました。


上記レスに書いた  今では地位があって  元は藤原貴族の出身で  今でも  藤原貴族の世界にいらっしゃる人のご実家も  NHKで見ました。


アレやコレや  たくさんの情報  そうか!<<酔石亭主さんから>>パクったのだったか!赤面
です。


酔石亭主さんには色々教えて頂いて本当に感謝しております。
これからもイロイロ教えてください。
[32]酔石亭主さんからのコメント(2024年03月14日 07時53分52秒 ) パスワード


あをさん 

えっ、消してしまったの?まだ書きたいことがあったのに…。ちょっと思い出して書きますね。

伊賀の服部さんの系統でうちは渡来人ではないと言っていた方がいたような内容を書かれたと思います。これは結構重要なポイントですよ。機織り系の服部氏は呉服(くれはとり)、漢服(あやはとり)などの名前からわかるように本来は(ハトリ)でその音に適当な表記を当てて八止利なんて書いていたのだと思います。だから服部連も表記は服部連ですが読みは(はとりのむらじ)になります。

さてそこで平氏系の子孫が伊賀の服部に行き、よくあることですが土地の名前を自分の屋号にしようと考えた。けれども、(ハトリ)は渡来系を示す音だったから武家の自分たちは使いたくなかった。あれこれ議論の末それじゃあ読みを(はっとり)すればいいじゃないかとなって、ここから服部(はっとり)が確定した。その後平氏系服部氏が広がったので、今や全国津々浦々服部は(はっとり)になってしまった。などと考えています。

僅かに残る機織り系は羽鳥の地名や羽鳥さんの名前として残ったのではないでしょうか。要するに武家は渡来系を卑賎な職能民として下に見ていたのです。そうした感覚は現代に至るまで残っていて他にも色々な例を挙げられそうです。

そう言えば、秦氏に関しても似たような例があります。神奈川の秦野は秦氏関係する地名となりますが、秦野に来た武士がここの地名を屋号にしようと思ったけれど、秦は渡来系の名前なので嫌がり、音はそのままにして表記を波多に変え波多野にしたとのこと。だから秦野から大磯にかけては今の波多野姓がいます。服部とは逆パターンですが心的な内容は全く同じですね。

>父の生母の家は  ひょっとすると  三重県出身の秦氏の服部さんに繋がる家だったのかな?

少し厳密に書けば三重県出身の秦氏の服部(はとり)さんつまり神服部(かんはとり)系に繋がる家だったのかな、が適当かと。秦氏は羽鳥地名の場所によく見られるので、秦氏の服部さんは有り得るとは思いますが、三重県において繋がるかどうかは何とも言えません。またWikiによれば、
阿刀氏(あとうじ、安斗氏/安刀氏/安都氏/迹氏)は、「阿刀」を氏の名とする氏族。
物部氏と同祖伝承を有する神別(天神)の古代氏族で、「阿刀連」のち「阿刀宿禰」姓を称した。とのことで服部伊刀麻(いとま)神社の伊刀麻命には繋がらないようです。この部分は早とちりですみません。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月14日 22時47分24秒 ) パスワード

酔石亭主さん

背筋  ゾクゾク  ですぅ〜


>神服部(かんはとり)系に繋がる家だったのかな

ふふふ

ちゃんとは聞いてないので  「はい」  とはワタクシからは言えないです。


でも   核心には近づいています。
昔は遠慮しいというか  分を弁えるというか  (ははは)  今でもヒトにズバッとは訊けないです。
訊いても(誰がアンタなんかに)とホントの所は教えて貰えないでしょうし
だから  今でも  ズバッとはヒトに訊けないです。

    礼節がジャマするワタシ(きゃはは)


 
>阿刀氏
>物部氏

母方の先祖で  空海の家と繋がるとか  それから  空海伝説とか  読んだことがあります。
空海の家は父方より母方の方が身分が高かった  とか。


箔づけだね
と思っているのですが


母方が「うちは源氏」と言うので(うっそぉ〜)と思ってましたが
   頼義との縁とか義経が弟の烏帽子親になったハナシから気分は源氏でしょと思ってたら

最近  ほんの数年前  後鳥羽源氏  というのを知って  ヲ!  ホンヤさんの後醍醐源氏と同じことか  と納得。


    息子達が西面の武士になってたことや娘が後鳥羽上皇に愛されてたことから
    だったのかと納得。

    女紋はこの時のことを記念しています。
    わたしも喪服をこの女紋で作りました。
    800年  です。


いろいろな情報をありがとうございます。


酔石亭主さんのお蔭で  先日見たNHKの番組の中で出てた名称がまたまた平家に繋がりました。


ホント  平熱って  平家のオカルトパワーを感じます。


科学者でいらっしゃるココの管理人さんのご理解もあって  関係無い人には  アホか  のヒトコトでしょうけど

これからも平家一門の思い出を大切にしたいと思っています。
[34]酔石亭主さんからのコメント(2024年03月15日 19時08分22秒 ) パスワード

あをさん

>ホント  平熱って  平家のオカルトパワーを感じます。


私は平家にあまりなじみがないのですが、藤沢には平良文の塚などもあり、旧ブログに「関東平氏の鎌倉」と言う記事タイトルで少し書いたことがあります。内容をほんの少しだけ抜き出しますね。

頼朝以前の鎌倉には桓武天皇の子孫が武士として根を張っていました。彼らは激動の時代を命懸けで戦い、走り抜けたのです。そんな彼らの生き様や興亡の一端を垣間見たいと思い、この記事を書き始めました。彼らの流れは桓武天皇から…。

桓武天皇(737年〜806年)―葛原親王―高見王―高望王(平高望)―平良文(村岡五郎)

葛原親王(786年〜853年)に関しては、カテゴリ「相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 2010年10月2日」や「東海の秦氏 その8 2010年11月11日」で書いています。それらの記事では、親王が東国に下向した折、家令である秦福代が同行し大井川上流に福用の地名ができた経緯に力点を置きました。この秦氏とゆかりの深い親王が東国に下向し、鎌倉の基礎となる平良文へと続いていくのですから、感慨深いものがあります。

葛原親王は上記のように秦氏と一定の関係がありました。まあ、子孫たちは関係なさそうですが…。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月15日 20時48分35秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-478.html
「相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 2010年10月2日」

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-312.html
「東海の秦氏 その8 2010年11月11日」

ですね
ありがとうございます。
拝見させて頂きます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月15日 21時15分01秒 ) パスワード

ここからは  愚痴。


拝見させて頂きます   の続き:

がっ!


今週はお出掛けが多くて   つまり  ドたまが爆発寸前なので  文字が目に入らない理解ムリッ!な状態にいます。


知り合いBさんが3月〜4月に日本に里帰りするので、その間の小銭の動きの監視をお願いされ
1月から見習いをしているのですが

     数人から  3ドルという少額を場所代のために徴集する  役目です


わたしを含めて3人でやっているから   とんでもない間違いの連続  ということが2回目から分かって  


3回目には  お金の管理の責任者のAさんについて
  
この人、こりゃダメだ  
3ドルの場所代の支払いのために5ドル紙幣を出した人に3ドルのお釣りを出し  
50ドル紙幣を出した人には63ドルのお釣りを出そうとしていた


4回目は現在で  もうすぐ日本に行くBさんが     
2人から計43ドルお金を受け取ったのに誰から頂いたのか記録が無い



それで  昨夜遅く と  今朝早く  Aさんに確認のメールを出したところです。


今日  12時間後にAさんに会うので  その時に 確認するのですが
Aさんの脳が上記のようなので 
    一応   書式にて
Aさんに 前情報を送った次第。


わたしが  たとえ  43ドルのことでも  きちんとしないと気が済まない小心者なので。


中には場所代援助の寄付をしてくれるヒトも2人いたのに Bさんは名前を書いていない。



三つ柏さんに影響されて  社会と繋がろうとしていますが

分かったことは

   「女性は24歳を過ぎると」   
    という差別がなぜ日本に永年アカラサマに存在してたのか

でした。


もう驚きますよ
3ドルの場所代を毎回払うことは分かっていることなのに

   100ドル紙幣で払おうとする人がいたり
   クレジットカードで払おうとする人がいたり
   場所代は「毎回」3ドルの徴収なのに「前回払った」からと踏み倒そうとする人がいたり


なるほど
日本人女性が社会的に使い物にならないと言われて来たハナシ
こーゆーコトだったのか
でした。


こーゆー人って

    子供の300円の買い物に1万円札で買いに行かせるの?
    クレジットカードって業者は手数料を払わなきゃいけないって知らないの?

などなど
2回目から
   日本人って  こんなんだったの?
です。

知らない世界に足を踏み入れて   お金の管理ぐらいキチンとやれよ  とアタマ爆発寸前です。


もう2時過ぎたのでソロソロ愚痴を止めて4時からのジムに行く準備をします。
今年になってからマスマス脳味噌が停滞状態で   分かったことは三つ柏さんって  大変な責任をいくつも抱えていらっしゃる  です。


あ〜
スッキリした

わたしも  アタマ悪いな〜
です。

こーゆーゴタゴタをどう処理するか  そこで  人間って分かれるんだろうな  っと。


いつもだったらこんな愚痴は削除ですが
三つ柏さんに敬礼っ!
ということで暫く晒しておきます。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月17日 02時33分16秒 ) パスワード

今日は  銃のショーのある日ですが  行かない。
入場料10ドル払うのがアホらしいし。



その代わり  午後からの選挙応援の集会には行きます。

だって  甘いお菓子をたくさんくれるし。
選挙のナイヨ〜はどーでもいい。
政治には興味無いから。


ただし

この人が当選したら
ウチのタワマンの管理をしてる人達の顔写真と名前を印刷して欲しい。


政治の好きな青い州のせいか
組織がいくつもあって
何が何やらさっぱり分からない。


1つ分かったのは  AOAOのトップが誰だ  あたり。
それでパーティは脂ギトギトの肉料理がメインなのかと  今年  知った。

    だいたい AOAO  って何だ?


          パウワウはインディアン語で「集会」「会合」って意味って知ってるから
          ソレ?




今  我が家の台所に甘いお菓子が全く無い  のです。
食後のおクチ直しに何かちょっとした甘い物が欲しい。

お昼ごはんの後の「甘酒」と「枝豆」は冷凍庫に確保してある。


    スーパーで「うまい棒」を買って来ようと思うのに  いつも忘れてしまう。
    安くてたくさん入ってて  6ドルあたりだから  コスパは良い。

    ただし  コーン  というのがネック。
    コーンなんて  遺伝子操作の植物の代表でしょ?

    たぶん  ソレで  いつも買うのを忘れるんだと思う。



ということで  今日は  お菓子を貰いに選挙パーティに行きます。



名古屋人だね
     結婚式のお菓子のバラ撒きにイソイソ出掛ける根性
今も健在だね。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月04日 15時28分31秒 ) パスワード

今日は3時間ほど知り合いと電話でド喋ってしまいました。
最初は業務連絡の件だったのですが


相手は生まれは大阪で沼津出身のビジネスマン

生まれた年が  ゼロ戦の命名の年  と言うから   (ゼロってのは神武天皇即位紀元2600年から)  84歳  と丸分かり。



チノのゼロ戦所有者の知り合いで


坂井三郎をロスに招ぶことにしてたのに
突然  電車の中で不快になり  亡くなってしまって  来てくれなかった
と言ってました。

この坂井三郎は  とにかく敵より早く敵を見付けて撃墜する  を信条にしてて
それには  昼間  星を見つける訓練をしてた  という  ハナシ=ホラ?  を聞かされた  なんて言ってました。


わたしも夫に連れられて  チノへゼロ戦が飛ぶのを見に行ったような。
    その前に日本でゼロ戦を見た
とにかく  ちっこい  ホントに  小さな戦闘機だったのは記憶にありました。

     アメリカは大型化していったのに  日本は  小さく軽く更に小さく軽く  だもんね、
     などと。

ロス時代の知り合いの父上が名古屋でゼロ戦を開発して  それで  知り合いが名古屋で生まれた、とわたしも知ってる情報を話したり


沼津の人ですから  元々  和田一夫さんと知り合いで
和田さんの弟さんの不幸な亡くなり方も  今日  知りました。
何故  ヤオハンがミツワになったのか  今日  知りました。


稲盛和夫さんをロスに招んだ時は  3年待った  と言ってました。
そりゃ  あれだけの人物ですから  逆に3年で来てくれたことの方が  逆に 早かったのね〜  と驚きでした。



わたしはBIS問題で日本の銀行が世界から叩き出された時

わたしの回りで残った日本の銀行は   

静岡銀行・三菱銀行・日本政策投資銀行・ユニオン銀行(前身は東京銀行だったから   今はUSバンクに吸収されてるらしい)+もう1つ名前は失念

と、思ってたら

    静岡銀行も同じく消えてるよ
    その手伝いをしたから

と「84歳」が言ってました。


    今は住友はシリコンバレーにはあるらしい


静岡銀行の業績の良さは聞いてたから  アメリカから消えた?  ウソだろぉぉぉぉ〜  と

これは住友銀行がユタの銀行に買われてロスから叩き出された時の衝撃のように
わたしには驚きでした。


「84歳」が「住友って本店はサンフランシスコにあったよね」と言うから
「昔の友達のお父さんがサンフランシスコ本店のエライ人だった」と言って


バブルのバースト以降  2転3転  更に  リーマンショックもあって  世の中がヒックリ返ってたことを今更ながら知りました。


バブルがバーストして横浜岡田屋も松坂屋もロスから消えてミツワになった旧ヤオハンは異世界になってしまって

2004年にラスベガスに引っ越したので住人としてのロスは全く分かりません。


今は中国から日本の百貨店やら工場が続々撤退とか。
これは駐在員の皆さんのためには  良かったね  と言っていいよね?
とか


「84歳」はビジネスマンだから  ビジネスのハナシが好きで  夢を語ってたけど


ハワイは財政破綻のままズルズルと今日に至る。

濡れ手に粟  溺れる者は藁  ということで  
1ビリオン=1500億円の泡銭をゲットしようと  マリファナの娯楽使用許可を議会に掛けて
今朝のニュースでは  反対が多くて  頓挫の様子。


それでビジネスマンの「84歳」は  ハワイの活性化の為に何かできないか?と
エンエンと3時間の電話を掛けて来たのでした。


    この腐ったハワイで?
    ムリ無理ムリ!

    もう84歳なんだから  自分の孫ちゃんをビジネスマンに育てたら?
    わたしに「84歳氏」の夢を語ったって馬耳東風・暖簾に腕押し・糠に釘!


ということで  冥途への別れのご挨拶   を聞いて差し上げました。


やっぱり日本の高度成長を担った人のメンタルは死ぬまで経済を活性化したいというコトなんでしょうね。    
敬礼っ!
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月19日 11時31分36秒 ) パスワード

ここ暫く「榊原温泉」と「夷隅」でボゥ〜っとしてました。


榊原温泉
清少納言ゆかり。
七栗の湯。


しかし今は廃墟化の一途だとか。
わたくしの原風景なんですけどね。


    1180年頃の心象風景とワタクシの若き頃の思い出と現在の景色が  同じ。
    いつもわたしは田んぼの中を歩いてた。

        今も田んぼの世界のままだとか。


変わらぬ光景にわたくし的には嬉しいのですけどね。



夷隅

東京の人は夷隅が好きなんだとか。

車で1時間40分
電車で1時間20分?

     あんまり変わらないじゃないかっ。

東京の近くでサーフィンが出来るから若者は夷隅が好きなんだろうな
と。


わたくし的には
山あり海あり川あり
親潮と黒潮がぶつかる豊かな漁場あり
田んぼや畑があり
日本の原風景という感じですね

そこに黄色のカワイイ電車が走り
町のヒトが季節の花を植えて観光客の目を楽しませる


その上に城もある?
今回の映像で初めて知りました。



今切関所の奉行の服部さんの一族がいたところですね。
この一族の奥様達の家がスゴイ

信長の父と手切れで妻は横井の娘
桶狭間で家康に兵糧を運んで妻は千秋の娘

川口久助    ココにも来てくださいました   孫さんが悠仁さまと同い年でしたね
朝日奈利昌

高力清長の娘

大久保忠重から養子に来たり

青山や成瀬からもお目をかけて頂いて。



映像に映ったヒト
父にそっくりでした。

寛永20年に上総国夷隅に移されて以来ずっと夷隅の在住者なのか
それとも
モトモト桓武平氏が上総国に下向した時の子孫なのか


日本史は夢とロマンに満ちているな、と。


と、言うより
ワタクシの思い入れですが。
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年04月22日 20時27分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ご無沙汰、また筆不精しております。歴史にも少しずつ時間がさけるようにな
ってきまして、アクセルをじょじょに踏みつつあります。

 当地の天満宮氏子総代長ということで、個人的には天津祝詞を暗記したり、ま
た岩津天満宮にバイクツーリングしたり、各種歴史本に目を通したりしておりま
す。

 でもやはり、「戦国時代」の流れ、「南朝・後南朝」の流れ、「伊賀伊勢・平家」の流れと、「服部・服部連」の流れ……これらの流れ(点と線)は通底してい
ると推察しております。それを解くことが私のモチベーションの源であります。

 歴史というものを権力者を中心としたトップダウン(ピラミッド形式)で観る傾
向がありますが、本当は民衆のマグマというものを中心としたボトムアップ(逆
ピラミッド)で観てみる必要があるのではないかと考えます。

 広義の賤民のマグマが南北朝時代に後醍醐天皇によって放たれた……ここが一
番肝心なキモではないかと思っています。

 これから、少しずつまとめて行きたいと思っていますので、よろしくご指導の
程、お願い申し上げます。


 
 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月22日 22時51分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

お久し振りでございます。


>御当地の天満宮氏子総代長

いいですね。

「ヒト」と関わることの出来る幸せ
その上に
日本の「神」「天皇」の世界に関わることの出来る幸せ
を享受できます。


     日本の歴史の秘密を教えて頂けると良いですね
     但し
     一般人にバラしちゃダメですよ
     例え  ココでも。


だけど「人間相手」は大変!

ワタクシも三つ柏さんを見習って  ほんの少し  人間社会と関わろうとしましたが
  
     疲れたぁ〜〜〜

     いろんな人種や民族に揉まれましたから「足は引っ張られない」ようにしています


でも日常的にヒトと話すようにしていれば「記憶」が抜けてしまう油断は抑えられますから
良い人生になるので
頑張って続けてください。



>「戦国時代」の流れ、「南朝・後南朝」の流れ、「伊賀伊勢・平家」の流れと、「服部・服部連」の流れ……
>これらの流れ(点と線)は通底していると推察しております。

はい
脈々と「続いています」よね。


切っても切れない
それが日本ですよね

      中国ですと新しい勢力が前を完全否定するために殺戮破壊の限りを尽くしますが
      日本には「完全否定」は無かった


わたしは向こうから来るオトコやオンナはイヤなので拒否してしまうのですが
最近(このヒトって  ワタシのこと=前世や先祖=を知ってる?)と思うヒトが現れて
1歩ずつ歩み寄ろうとしている所です。


恐らく戦国時代にわたしの(内訌で滅んだ)一族を保護した家の子孫。

娘さんに話しかけたら  ヨタヨタヨレヨレボロボロの日本語だったので  諦め
来週  母上の方とお話が出来たら嬉しいのですが  90歳は越えてるでしょうから  ムリかも。

    こうして  ヒトとヒトの絆は途切れていくのでしょうね



日本の原点は地元の氏神様でしょうから大切にして欲しいです。
誰かが継承しなくてはね。


>本当は民衆のマグマというものを中心としたボトムアップ(逆ピラミッド)で観てみる必要があるのではないか


はい

日本の原点は氏神様と氏子だなと最近つくづく思います。
わたしも在ハワイの日本人の先輩達を大事にお付き合いしていこうと思っています。


>少しずつまとめて行きたいと思っていますので

いろいろ教えてくださいね。
楽しみにしています。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月26日 15時22分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


本日やっと2年前の6月に頂いた伊賀史の平(平田)家継の項のやんちゃな6人の武士の名前を平熱にアップ出来ました。

    2年!
    かかりました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/102117_9.html

先日 レス<39>に  「榊原温泉と夷隅」について書きましたが
「書いて!書いて!」
とせっつかれて   やっとアタマを空にして(笑)  纏めることが出来ました。



今日  鈴木さん  という方とお会いして

私:
「鈴木姓って日本じゃ多いのに  アメリカでは鈴木さんには会ったことが  あなただけよ」

彼女:
そうなのよ。
わたしの名前の同姓同名は何十人といるのに  こちらではいないのよね。

ところがアメリカでは日本人の名前からでは男女の区別が分からないから

郵便物はMrで来るし
銀行の残高証明書は間違えられて  買ってもいない物の代金が引かれてるし
クレジットの成績も信じられないような低評価にされるし

日本とは別の悩みでいっぱいよ!」

と言ってました。


私:
「浜松は鈴木姓が多くて  姓は省いて下の名前で呼ばないと  面倒だそうですよ」

と2人で笑いました。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月28日 22時47分39秒 ) パスワード

今朝はもの凄くたくさんの夢を次から次へと見て悲しくて泣いてて目が覚めた。
目が覚めた瞬間にどんな夢だったか記憶に無い。



なんでカナシかった?
と連想して思い出してみた。



最近でカナシイ事って榊原温泉が廃墟化しててソレがカナシかった・・・かな?
だけど現在の榊原温泉の様子がワタシの心象風景・原風景に戻ってるってことで・・・ワタシ的には構わない


と考えて

わたしがしょっちゅう行ってた記憶の温泉は伊東の「はとや」だった。
毎年行ってたような記憶。
熱海には「行った」というほどの思い入れは無い。

    熱海には何度か行ってるけど「金色夜叉」の舞台レベルの思い入れあたり。


それで  あれ?  と思った。



伊東?
山木兼隆?    ワタクシの前世の祖母の弟になるわけだね


     討ったのは加藤景廉
     加藤は元々伊勢が本拠で
     伊勢加藤の館は安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったらしい
     
     安濃津なんて忠盛さまというか平家本拠地バリバリの港町じゃんね


         加藤は平安末期に藤原景通(道)が加賀介となって加藤氏を名乗った。
         景通の子、景員(清)が伊勢に転じて、伊勢加藤氏の祖となり

            上記に書いたヤンチャな6人のうちの「藤原通久」の一族で良いのかな?




伊東と言えばわたしが好きなのは伊東祐親。

         それでしょっちゅう  伊東  に行ってたのかな?

父や兄弟や伯父叔父従兄弟には持ちたくないタイプだけど
「漢」として   好き❤

京に出張に行ってて不在中に娘が頼朝の子を産んでたので怒って孫ちゃんを川に沈めたとかいう人。
頼朝は北条時政を頼って逃げた。

    北条時政の正室が伊東祐親の娘

        わたしの母方先祖のおじじさまの正妻が時政の娘なんだよね



というような夢をエンエンと見てた。



800年後にわたしは榊原温泉の山の中の田んぼの畦道をヤンチャな6人のうちの1人の子孫と歩いてた。
だけど
この子は父方母方でワタシと繋がってたのをオットと結婚してから知った。



従姉の旦那さんの姪が留学して来てロスの我が家に来た時に持って来た写真の女の子がワタシの写真?と思うほどソックリだった。


そして

彼女の家が平家バリバリ南朝方バリバリというのを知った。


みんな先祖で繋がってた。


哀しい思い出で一杯でもある。   
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 01時55分48秒 ) パスワード

今朝のジムでいろいろ考えた。


そうだ!
決心して  三つ柏さんからの伊賀史の家継の項をしっかり読んでみよう。


「家継」という字を見るだけで滂沱の涙になる。
家継  ⇔  信兼  ⇔  忠清  元に戻って  ⇔  家継

この3人の刎頸の友レベル
老いた身体に鞭打って  滅亡後の平家の底力を振り絞って   佐々木の爺さん殺した



結局この3人って   わたしの血と涙を司るDNAの大元じゃん。


ということで頑張って家継の項を熟読して  また  平熱にアップせねば。



それにしても  家次
こっちの家次


なんか育ちが良過ぎて   世間知らず

ひょっとして  ワタクシの前世の  兄上さま?
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 06時49分20秒 ) パスワード

藤原成直

別名:
早尾十郎


愛知県愛西市早尾の人



だいたい「愛西市」なんて知らない
ああ、「平成の大合併で市になった所ね」  あたり。
もと  佐織町・佐屋町・立田村・八開村  って呼んでたエリアか

じゃ、  モロ  うちの領域じゃん。



ということで  早尾  って?

   と調べたら  熊本に早尾ってあるから
   ああ、うちのじいちゃんが遠征に行った時の?って感じで良いのか?

         贔屓の引き倒し感  満載だな    すまぬ

   熊本県八代郡氷川町早尾   
   熊本県八代郡宮原町早尾  
 
   同じ場所?
   郵便番号も同じだし

        土地鑑無しなんで分からない



   茨城にもある   茨城県北相馬郡利根町

   もともと  ココが出発点で良いのかな?
   桓武平氏が下向して  平将門がパパと頑張って開いた土地  って感じ

      それをうちの先祖達(平良文)が奪った   ってハナシで   すまぬ


          わたしは  この部分  新田と足利の喧嘩  がこんがらがる  すまぬ
 

   この近辺には行ってる。竜ケ崎とかね。


   わたしの心象風景は市原市の方   当時上総国分寺の隣に住んでた記憶で・・・行ってみて・・・自分が方向音痴って確認した


   
   滋賀に早尾神社がある  滋賀県大津市坂本
   日吉大社
   比叡山というか

           こんなトコと喧嘩しちゃダメじゃないか  >  藤原成直
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 07時00分21秒 ) パスワード

ということで  

早尾について:


https://kojodan.jp/castle/1425/
コピペ


早尾東城は織田信雄の家臣、橋本大膳の居城として知られています。



もともとは津島の豪族大橋源三右衛門により築城されました。

1524年(大永4年)に織田信長の祖父、織田信定が津島を攻めた際に、奴野屋城の大橋氏と津島衆がこの城に逃れて抵抗しましたが敗れ、これにより信定は津島の経済力を手に入れることになりました。


城址には1592年(文禄元年)に常徳寺が建てられ、現在に至っていますが遺構はありません。



まさに  平家じゃん。
平家以外の何者でもないじゃん!
というより
わたしの先祖達のハナシじゃん。



     知らなかったよぉ〜
     早尾なんて。



藤原成直も  まさに  わたしのDNAに存在する人物だったの?
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 07時18分56秒 ) パスワード

ビックリがあったのでついでに書いておく。


わたしの好みの「フランダースの犬」のネロ少年の日本人版の男子あり。

あまりの美しさと名字から  わたしはてっきり  秋田産だと思ってた。
そしたら
「佐竹にはついて行かず  先祖の墓を守ることで居残った子孫」
と言ってた。


わたしより誕生日が1か月遅いことからワタシを「おばさん」呼ばわり。
   ムノーのおばさん
   役立たずのおばさん
と呼んでて

   ホントだから喧嘩も出来なかったのが残念っ


ワタシが辞めてから入れ替わりに「おばさんのおっちょこちょいの弟」呼ばわりの男子が来て
一応キャリアなんだけどね
アタマ良いけど仕事は・・・
ということで


   やっぱり「血だよな」と笑われてたと聞いた。



で、なんと!

わたしのことを「おばさん」と呼んでた人は
わたしの先祖の母親の生家の子孫でした。


   え?!

私達   血で繋がってたの?!
でした。


彼の美しい顔に仕事中いつも見惚れてたけど
なるほど
わたしの先祖が彼女の美しさの余り子供を産ませて  数えの17歳でパパになったのは当たり前だったのか
と納得した。


700数十年後
男女逆で
子孫同士で出会ってたなんてね。

もし私達が結婚して子供が生まれてたら   近親結婚でとんでもないのが生まれてた?
ヤバイな。
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