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 投稿番号:101979 投稿日:2023年08月13日 08時43分04秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部さんの代理
服部カフェ 3号店
キーワード:服部、羽鳥、服織、ハットリ、ハトリ
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

好評につき
「服部カフェ」
の3号店をオープン致しました。

「古代より現代に至る─服部」についての自由で総合的な考察の場─カフェ。
コーヒーでも飲みながら、語り合いませんか?



服部カフェ 1号店
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101884_132.html

服部カフェ 2号店
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_101.html

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月17日 08時22分14秒 ) パスワード

さっきエレベーターホールでエレベーター待ちで一緒だった男の子の腕に「揚羽蝶」の入れ墨がありました。

     入れ墨を入れてる=C型肝炎の可能性
     ということで近寄りたくないのだけど

         これは医学部に入学した学生がまず習う基本的な知識


意を決して「この蝶々  うちの家紋だよ」と言ったら
その子も「うちの家紋だよ」と言ったのです。
「じゃ、私達  1000年以上  お仲間かもね」
と言って笑い合った。


すぐに数人  エレベーターを利用する人が来たので  おしゃべりはソコで終了。
皆さんが降りて  わたしと彼だけになったので
    まず私から自己紹介して
    彼も自己紹介して

彼の今の名字は「岩崎さん」でした。


すぐに部屋に戻って調べた(汗)
分からなかった。
源姓?平姓?木曾系?ただの地名から?地名で岩崎なんかゴロゴロあるしね。


その上に岩崎さんの方がワタシの名字使用者より20%も人口が多い。
負けたな・・・


今日は一大決心をして14年間に貯めに貯めたサランラップの入れ物の箱を両腕に抱えて捨てに行きました。
ゴミを捨てれば運がやって来る?


だけど捨てると瞬間に必要事態となり「あ、捨てなきゃ良かった!」って後悔するのよね。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月17日 09時40分06秒 ) パスワード

たった今
ロビーのコンシュアージに私の医療保険の掛け金の値段を持って行ったのですが
 
    彼女は歯が悪いので歯の保険をもう1つ加入しようかと考え中
    それで私の医療保険2つの掛け金と歯の保険の掛け金の値段を紙に書いて渡しに行った



エレベーターに乗ったら岩崎さんが乗ってて!



「今日で2人!この蝶のハナシをした」
と言ってました
「そのヒトが言うには  蝶に〇が付いてるなんて珍しいね、と」


それで  

「〇がついてるのは武士だと聞いた」
と 昔  ホンヤさんから聞いた話を伝えました。


不思議でしょ?
2回も会うなんて。


岩崎さんにとっても  2回も蝶紋のハナシをするなんて  不思議な経験でしょうし。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月20日 02時44分15秒 ) パスワード

録画してあった昨日放送の「チコちゃんに叱られる!拡大版SP花火の謎/なぜ正座/不思議なジャンプ ゲスト 北川景子 寺島進 堀内健」を見ていたら


「正座」の放送の時に
某大名の家紋が〇に揚羽蝶でした。
ビックリした


ま、池田家が〇に揚羽蝶紋というのは姫路城で見られるから一番知られていると思うけど
もう1人は大谷吉継かな。大谷吉継のもう1つの使用紋は「違い鷹の羽紋」。


平資盛の子孫と称する織田信長も揚羽蝶紋を使っていましたっけ。



後世のハナシともいわれているけど、
由来は平清盛の先祖の貞盛が天慶の乱を討伐した功で朝廷より頂戴した鎧に「向い蝶」の文様があったことから平氏・平家の代表紋となった
と。


神紋
鳥取県松上神社

戦国武将
大道寺政繁

有名人
中村吉右衛門


使用苗字
八木下、松崎、三河口、牧村、間宮、松永、堀屋、山崎、山管、藤沢、宮城、池田、須田、小泉、久保田、小林、鳥居、大道寺、玉井、土山、浅羽、飯島、石丸、越智、柿沼、神戸、神部、大河原、青木、飯塚、石原、内田、神谷、金丸、粟屋、小谷、船橋、梶田、芹沢、竹下、田中


大名旗本
旗本牧村氏、旗本間宮氏、旗本山崎氏、旗本須田氏、旗本小林氏、旗本大道寺氏、旗本石丸氏、旗本飯塚氏、旗本石原氏、旗本神谷氏  ← 友人宅がコレ


その他の蝶紋の使用家
西洞院、石井、平松、交野、土御門、倉橋、池田、関、伊勢平、西田、河内など


蝶紋の使用地域
三重、愛知、岐阜、静岡、鹿児島
ま、平家系って感じですね。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月23日 13時07分10秒 ) パスワード

NHKの「レギュラー番組への道  送り先は配達困難地域」を見ました。


葵区井川への配達の人の顔が父にそっくりでした。

父と一緒に並べたら  似てないのかも ですが 
でも  
父の兄達の顔より  この配達の人の目から上   が父にそっくりでした。


戦国時代にでも落人になってウチのエリアに逃れて来てたら  絶対に  保護の対象です。
どこかで繋がってるんでしょうね。

静岡で父に似た人を見掛けるなんて驚きでした。
島田に一族がいるハナシは本当なのかな?と思ってしまいました。


番組の内容

運送会社が指定する「配達困難地域」。
そこには文字通り困難だらけの配達がある!


徳島県三好市東祖谷の見ノ越では、「酷道」と呼ばれる険しいルートの先に、
水道代ゼロ円生活や
神社を守り続ける家族、徳島一の高峰には山道整備で登山者を守る人々が!

        ↑
      劔山  +  劔神社のことです

         Lost Arkがあるとか、実はキリストの最後の晩餐の聖杯があるとかって噂の




静岡市葵区井川では車幅ギリギリの極狭山道を激走、
なんと1回の配達距離が200km超えに!


        ↑
      峠が20q続くなんて言ってたような

生徒4人の小中学校や

        ↑ 
       中学生2人  小学生2人  教師は10人!

       人口 280人で  世帯数は 155

巨大野菜など60種もの在来作物、
湖の上の絶景秘境駅と出会う!

        ↑
       大井川鉄道ですね   アプト式でしたっけ?
[6]酔石亭主さんからのコメント(2023年08月24日 07時23分49秒 ) パスワード

あをさん

>島田に一族がいるハナシは本当なのかな?と思ってしまいました。


以前浜松の秦氏を探索する際、賀茂真淵記念館にも立ち寄り色々なお話を聞かせてもらい資料も頂きましたが、同館のホームページには島田市の服部氏関係で以下のような記事があります。

江戸時代中期の国学者服部菅雄は現在の浜松市北区都田町の出身です。服部菅雄は、賀茂真淵や内山真龍ほど知名度は高くないのですが、江戸中期に活躍した国学者、歌人です。安永4年(1775)引佐郡下都田村向山(現浜松市北区都田町)富田与右衛門の二男として生まれました。菅雄は、若い頃から学問の道に入り、寛政5年(1793)、19歳の時には江戸に出て漢学を学びました。そして、菅雄は賀茂真淵の門人であった内山真龍を師と仰ぎ指導を受けました。その後、寛政10年(1798)伊勢松坂の本居宣長を訪ねて入門します。菅雄24歳、宣長69歳のときでした。菅雄は封建的思想が強く、意志を曲げることのない性格であったと言われています。そしてこの頃、菅雄は島田宿(現静岡県島田市)の豪家服部家の養子となり服部菅雄となりました。

上記からあをさんの服部家と関係するかは不明ですが、島田には服部氏がいてかなり栄えていたと理解されます。少し調べれば何か出てくるかもしれませんね。

それから島田市初倉には秦氏がいて、「東海の秦氏 その8」に書いていますので、ご興味があれば参照ください。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-312.html
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月24日 14時12分43秒 ) パスワード

酔石亭主さん

詳しく書いて頂きまして  ありがとうございました。


服部菅雄と松阪の本居宣長

   この関係からすると  
   我が家が伊勢にいた南北朝時代『以前』からの関わりからなのか?  
   と空想しました。



服部菅雄については私の持っている資料からは
「島田の豪商に服部新五郎あり。その子孫善右衛門が子を菅雄と言ゝ  国学者・歌人として有名なり」
と書かれていました。



大井川というと
夫の医者の1人が  大山守皇子の子孫で  大山守皇子が殺されて一族は大井川まで落ち延び
先生自身は長野の出身で大阪に引っ越したと言ってました。

大井川 + 秦氏  → 榛原   と聞くと  この医者を思い出します。



資料を見てたら
うちの親戚の元新選組隊員が   森・赤穂藩の服部武雄と親しくしてて
          ここまでは理解してた

備中下道(しもつみち・かとう)に服部という村があって
ま、備中下道 → 吉備真備や吉備真備の兄上  を連想しますよね
郡衙が秦原郷にあった。(総社市秦など)

      秦原 と 榛原 
      連想します


わたしの(深窓の令嬢だった)従妹が岡山の人と大恋愛をして   なんで岡山の人と?  と不思議でしたが
その後、わたしの従兄が結婚した相手がやはり岡山がらみで 岡山県倉敷市真備町服部 この時もなんで岡山?  と不思議でした


しかし上記に書いたように幕末の親戚の者が岡山の服部武雄と仲が良かったそうで

わたし自身にも友人の1人に吉備真備関係の人がいて
      この人とは  平家時代からの  御縁  と思っています。
      実は  その前の時代からなのだろうか?と  今  思いました


母方も人皇7代孝霊天皇がらみで岡山に関係しますしね。


日本人ですから数代遡ると みんな  繋がりがあるのだなぁとつくづく思います。
残念乍ら  忘我の河を渡って  この世に生まれ落ちた瞬間に忘れたようです。
[8]酔石亭主さんからのコメント(2023年08月25日 07時18分23秒 ) パスワード

あをさん

いつまで経っても暑い日が続き、頭が全く働きません。先日は3日ほど発熱してしまい、軽度の熱中症にかかったようです。地球温暖化が最近では地球沸騰化などと言われていますが、その通りですね。

>夫の医者の1人が  大山守皇子の子孫で  大山守皇子が殺されて一族は大井川まで落ち延び

その方は宮下姓ですか?

だとすれば、富士高天原王朝に関係してきます。貴重な神代の歴史が散逸するのを恐れた徐福は、それらを漢字にて筆録。徐福とその子孫は徐福一族の歴史や渡来後の生活も書き加え、「富士古文書」と呼ばれる文書が成立。この文書は、応神天皇の子である大山守皇子が改名した宮下家(阿祖山太神宮の宮司を代々務めた)に保存されていたため、今では「宮下文書」と称されています。仮にその方が宮下姓だとすると、富士山麓の秦氏シリーズで書いた内容と関連するので、結構凄いことですよ。

>母方も人皇7代孝霊天皇がらみで岡山に関係しますしね。

孝霊天皇は本来的には葛城族の頭領と推察されますが、中国地方における様々な要素が付着してややこしくなっています。その面に絞って見ると、孝霊天皇は製鉄に深く関係する天皇になり、天皇を祭神とする楽楽福神社(ささふくじんじゃ。鎮座地は鳥取県日野郡日南町宮内1101、鳥取県西伯郡伯耆町宮原)の社名に関し、「楽楽」は砂鉄、「福」はフイゴを吹くことに由来することからも製鉄との関連が窺えます。日南町の楽楽福神社ホームページにある由緒には、孝霊天皇に関して砂鉄生産の守護神と書かれていました。

加えて楽楽福神社3社(注:現在は合祀され2社)はいずれも日野川の流域に鎮座しており、その上流部は船通山麓となります。「日本書紀」によれば、高天原を追われた素戔嗚尊は出雲国の簸の川(ひのかわ。斐伊川)の川上に到ります。「古事記」では、出雲国の肥の河上、名は鳥髪(船通山)という地に到ります。この周辺一帯は蹈鞴製鉄が盛んで、素戔嗚尊もまた製鉄に関連しています。

簸の川と日野川。表記が違うだけで、同じ山から発する川であるためか音は同じです。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治しますが、孝霊天皇は伯耆の国で日野川を上ったとき、鬼林山(日野川を挟んで船通山のお隣)に鬼の一団が出没して、村人を困らせていたので、悪い鬼たちを退治しています。このように見ていくと、素戔嗚命と孝霊天皇は明確に対置される存在と考えることができそうです。

長くなりすぎるのでこの辺でやめておきますが、孝霊天皇は欠史八代の天皇の中で飛びぬけて変わった天皇と言えそうです。

[9]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月26日 22時43分27秒 ) パスワード

酔石亭主さん


酔石亭主さんのレスを拝見して   とんでもない事がいろいろ分かってしまって  戸惑っています。
永年の疑問が、ああ、そういう事だったのか、と。



夫の医者は「宮下」姓ではなくて「榛原君」の傍系です。
分布している場所は  (極少数姓ではあるものの)  圧倒的に多く住んでる所が静岡県で次に長野県。



「深窓の令嬢だった」従妹が岡山の人と結婚した謎が酔石亭主さんの書き込みでちょっと解けました。

従妹の家は名古屋の大地主で、鉄工所をやってて、戦争で拡大し
(当時  軍部と協力関係にあった鉄工所は飛ぶ鳥落とす勢いだった)
戦後は朝鮮戦争やベトナム戦争で  更に!  でした。

ベトナム戦争が終わってからは  不動産業に専念  その後  バブルに突入ですからね。


従妹の親としては「11屋さん」関係者と結婚して欲しかったんでしょうけど  岡山の人にカッ攫われた。


      尾張名古屋の超有力干拓者と言えば  熱田神宮に11屋さんあたりが大旦那で  他にもイロイロありますけど(謙虚なワタシ)

        
岡山の人?何者?  と思ってましたが   そうか!  岡山って製鉄で超有名だった  と今頃思い出しました。


なるほど  出会った瞬間に  宿命の2人になってしまったのでしょうね。


ワタシも令和の5年8月26日に  やっと  得心出来ましたよ。
今迄  なんで岡山の人?  平家時代からの御縁の子孫同士?  あたりしか思い浮かばなかったです。


きっとずっとずっと昔からの御縁だったんでしょうね。


酔石亭主さんに感謝です。
[10]酔石亭主さんからのコメント(2023年08月28日 09時18分41秒 ) パスワード

あをさん

多少のご参考になったようで、幸いです。

実は、前回で書いた内容は「欠史八代の謎を解く」シリーズから引っ張ってきたものです。孝霊天皇は調べていくとやたら面白くどんどん長くなり、「その5」の終盤から「その10」まで続いてしまいました。ご興味があればご一読ください。もっと参考になるはず、いやもっと戸惑ってしまうかもしれませんが、孝霊天皇の全体像はある程度書けたとは思っています。

https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/blog-entry-82.html
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月28日 12時01分12秒 ) パスワード

酔石亭主さん


https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/blog-entry-82.html

6〜10
拝見しました。


母方と住吉大社の関係は非常に強いものがあり
何かあったら   住吉大社に庇護を求める

          「何か」って  非常事態=落人になった時のことです

という感じなので


母方は吉備津彦命の「製鉄」系ではなく、彦狭島命の「海運」系です。
 
      我が家は南朝方一族なので  彦狭【鳴】命  と表記します
      【嶋】の字を用いるのは北朝方の一族です。



>孝霊天皇はひょっとしたら葛城族の首長ではなく吉備系の大王だったのかもしれません。

>端的に言って、孝霊天皇は製鉄に深く関係する天皇です。
 砂鉄生産の守護神。


>結論的には、
葛城族の首長をモデルに創作されたのが孝霊天皇で、
吉備津彦命が天皇の皇子と記紀に書かれてしまったため、
吉備から出雲王家支配下の伯耆に侵攻した製鉄・鍛冶の特殊技能民の頭領が孝霊天皇として伝承されてしまった。



>孝霊天皇に関する積み残し分を書いていきます。
>まずは岡山県真庭市上中津井2999に鎮座する高岡神社

     つい最近  真庭市のことを友人と  語っていたところです。
     
     山名・赤松・浦上・尼子・毛利・宇喜多に囲まれて諸大名の草刈場の状態に成った場所。
 
     米子・松江などの諸大名が姫路にぬける街道であり、
     出雲街道でも有り

     さらに、

     高瀬舟で岡山城の下を流れる旭川で瀬戸内海につながる。

     それ以前から古代にさかのぼり、鉄の原料の砂鉄の運搬路でもあります。

     など。


>孝霊天皇は基本的に葛城族の首長をモデルとして創作された人物
>一方で、吉備出身の製鉄と鍛冶の民だった頭領(注:中国地方で活躍した人物)が、中国地方では孝霊天皇として伝承されてしまった。
>そうなったのは、記紀に吉備津彦命が孝霊天皇の皇子と書かれてしまったため
>結果的に、吉備津彦命の行動とほぼ重なる頭領の動きが孝霊天皇に充てられ、伝承されることになった。



面白い大王だった、ということで満足です。
ありがとうございました。
[12]相良四郎さんからのコメント(2023年09月01日 10時07分14秒 ) パスワード



世情とは単純なものではありません。
理路整然としているから信用に値する訳では決してないことだけは肝に銘じます。
[13]姫沙羅さんからのコメント(2023年09月27日 13時03分19秒 ) パスワード

平熱常連の皆様、どうもご無沙汰しております。

ここ数年は自身の先祖調査を気が向いた時に
少しずつ進めながら、のんびり過ごしています。

昨日たまたま、丸に三柏服部さんも調査しておられる
「服部中保次」についての記事を見つけましたので
お知らせします。

産経新聞9/26記事より;
「伊賀越え」同行忍者の経歴判明 家康と足利義昭の二重スパイか

なかなか衝撃的な見出しで気になるのですが、
ネットの有料記事なので少ししか読めない;;
記事の読み取れる部分から分かるのは、
「国際忍者学会」の会誌で公開された上島秀友氏の論文
「服部保次考」の内容との事。
最近、三重大学で忍者に関する古文書の研究が進められているそうで、
数年前にこの学会が起ち上げられたとか。

もし気になるようでしたら「服部保次」で検索してみて下さい。

「家康は伊賀盆地を馬で駆け抜けた!」

というYouTube動画が上がってきます。
ただしこれは服部保次の経歴というより、
伊賀越えに関する上島氏の知見を語った内容が中心の講演です。
最近の研究で、伊賀越えは今までの定説ルートより南の、
大和から迂回して伊賀へ北上するルートが提唱されているのだとか。
その理由も動画で語られています。

論文「服部保次考」が掲載された会誌「忍者研究 第6号」は
国際忍者学会HPより購入できるので、
取り寄せてみようかな、と考えています。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2023年09月27日 14時36分35秒 ) パスワード

姫沙羅さん

お久しぶりです。
コロナ騒ぎでお忙しかったのではありませんか。

   今は  エリス  で大変なのかしら?


>「伊賀越え」同行忍者の経歴判明 家康と足利義昭の二重スパイか

「家康と足利義昭の二重スパイか」の部分に
本能寺の変の背景に足利義昭の陰謀があったんじゃないかという説を思い出しました。


でも    光源院義輝に仕えて  後に信長に仕えた人  って記憶なので
足利義昭の為にスパイやってた?まさか! 
です。。。

政治の世界は謎だらけなので   何とも言えません



>取り寄せてみようかな

ということで  是非!
そして  お知らせください。

     他力本願なワタシ
[15]姫沙羅さんからのコメント(2023年09月27日 15時34分03秒 ) パスワード

あをさん

どうもお久しぶりです!お元気でしたか?
実は5年ほど前に仕事を辞めて、今は専業主婦です。
家業は父亡き後、弟が継いでます。
私は仕事と家事をバリバリやって両立できるような馬力はないので、
一旦仕事を辞めて家族の面倒だけ見ながらゆっくりさせてもらってます。

コロナ禍で、やはり弟は緊迫した状況で対応していたようです。
田舎なのでそれほど人数は多くなかったようですが。
弟は独身なので「もしコロナがうつって自宅療養になったら、お弁当買ってきて」
と頼まれていました。笑

以前頂いた「服部一族」の資料で服部中保次の由緒を見たとき、
足利義輝、信長、家康に仕えていて、時期も重なっているので不思議に思っていました。
もしかして、同名の別人がごっちゃになっているか、年月が間違っているのでは?
と考えたりしてました。

上島氏の論文でその謎が解けるかも?
古文書を詳しく読み込んで考察されているようですし。
私には二重スパイっていう発想はなかったです。笑
でも忍びだったらそれもありうるのか〜、と。

とりあえず「忍者研究」を読んでみたいと思います。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2023年09月27日 22時48分13秒 ) パスワード

姫沙羅さん

実は姫沙羅さんのことを何度か思い出していたのですよ。

直近は  名市大<医学部>を出た東海市の医者から  連想して。

その前は  知り合いで某有名大学の名誉教授になった人から
「Sさんって、まだバイオリン、やってて驚いた」と知らせて来て
ワタシも子供の時に桜山のバイオリン教室に通ってた事を思い出し
「うん、わたしも名市大病院の近くに通ってた」と返事した時に。


もったいない!
でも
おんなの幸せは  専業主婦で  家族の幸せを守ること

    昭和の日本女性の理想の「営巣本能」のままに生きる    ですね


中保次ってわたしには謎の人物です。
やっぱり忍者系だろうとは思っています。


信長に仕えて  桶狭間で今川義元の本陣に切り込んで  活躍
その後
永禄8年に家康から召されて
9年に足軽同心50人(のちに55人に訂正)を預けられた


     忍者やってたろうと思っています

 
遠江で活躍した中保次は
今川義元に1番槍をつけて信長から5000貫を拝領した津島の服部小平太一忠(春安、忠次とも)と兄弟か従兄弟か  ま  一族なのは確か。

お愛の方の継父もアヤシイ人物だから
あのあたりの服部さんは忍者系で  スパイやってたんだろうな
と思います。


そうすると  二重スパイで  義昭を監視してたのかな   と納得です。


人間はヤヤコシイ。
[17]姫沙羅さんからのコメント(2023年09月28日 15時41分35秒 ) パスワード

あをさん

>昭和の日本女性の理想の「営巣本能」のままに生きる

あ、いやそんな大したもんじゃないです;;
家族の送迎とか、時間的にやりくりが難しくなった部分もあったので、
仕事を辞めました。
もうちょっと実家が近ければ何とかなるのでしょうけど。
通勤往復1時間かかるのも結構負担で…

「忍者研究」、申込みましたので暫しお待ちを。

忍びの者は普通の武士と違って、
一人の武将に忠誠誓って支え続けるというより、
方々から短期採用で仕事を受けてその都度報酬を貰う、
派遣社員のような人が多かったとか。
服部中保次も元々はそのような感じで、二重スパイとまではいかなくても
ある時は足利家に支え、ある時は家康に仕えていた可能性もあるのでは、
と思いました。

この辺は「忍者研究」を読んだらまた印象変わるかも。
古文書にはどの時期に誰の下で何をしたか、具体的に記述があるのかな…

ただ…足利義輝→義昭→織田信長と仕えて、
かつ徳川家康に仕えていたというのが事実なら結構凄い事ですよね…
永禄8年に足利義輝が殺されて、その年から家康にも仕えている。

足利義昭→織田信長に仕えたと言えば、明智光秀ですよね。
服部中保次、本能寺の変の裏を何か知っているのか。
とても気になります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2023年09月29日 23時16分04秒 ) パスワード

姫沙羅さん

>「忍者研究」、申込みましたので暫しお待ちを。

楽しみに待ってますね。



わたしは中保次って
京都にいたのは  箔付け  だったんじゃないかなと思っていました。

今でいう  東京の大学に行く  とか  海外留学とか  オペアやワーキングホリデイとか  みたいに

違う世界を見たかった   地元に戻って役に立ちたかった  自分の能力に磨きをかけたかった
こんな感じに。


信長の父親は莫大なお金を提供して京都から公家を招いて交流してたと聞いてたから

中保次の家はそんな大金をかけられないから
書生とか下働きして
京都の世界を身を以て   公家とは?足利将軍家とは?その周りの人間とは?京都の町の地理とか  
勉強に行ってたのかな?と。


>足利義昭→織田信長に仕えたと言えば、明智光秀ですよね。
>服部中保次、本能寺の変の裏を何か知っているのか。


そうか!
京都あたりで明智光秀と出会ってたかも
ですね。

義昭という人物についても知ってたのかも
ですね。


さすが姫沙羅さん
深いわ!
衰えてないですね。



わたしとしては  日本の頭脳のような姫沙羅さんに  お仕事を辞めて欲しくなかったけど

    ま、いずれ  戻れますからね


日本の女性は大変ですものね

アメリカじゃ  大学を出たあたりの年収の女性は  家事  しないですよ。
   夫と同程度に稼ぐ人は  家事は代行サービスに任せるし
   うちのマンションの若夫婦は  子供はベビーシッターに任せているし。


ロス時代の名古屋の友人
御主人が名古屋大学からUCLAに来てて
彼女は子連れで帯同で来てて

名古屋に戻ってから  子供2人育てて  名古屋大学病院で働いて
   あの世界は大変だものね  

わたしは「資格が惜しいから続けて欲しい」と勝手なことを言ってしまって

結局彼女は開業しました。
「時間を自分のために使える」
と言ってました。


食べる物は彼女が作ってましたよ
   わたしは  庭でトマトとか胡瓜とかレモンとか蜜柑とか  簡単な物しか育てたことないけど
畑仕事で  バランスを取ってたんでしょうね

日本の女性は本当に大変な生き方を強いられてるって思います


あ、わたしはちゃんと働かなかったことを人生失敗だったと思って
次回
生まれ変わったら  70歳まで  働きます。

    やっぱり次回も子供はムリだな・・・
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月02日 21時36分49秒 ) パスワード

姫沙羅様、あを様

 ご無沙汰しております。姫沙羅様とは13年、あを様とは3ヶ月・・・、この
3ヶ月は異常な暑さで思考能力、意欲が減退してしまい、失礼してしまいました。

 姫沙羅さんは、いいハンドルネーム、いい響きで、植物園に行ったりすると、
必ず姫沙羅の木を探して、不思議な思考回路の中に迷い込んで行ったりします。
 隅さんの方ももちろん印象深いですし、尊敬をしておりました。
 そんなことで、ただ今とてもうれしく昂揚しております!!

 歴史のテーマに集中したいとは思っているのですが、できるだけ努力してみる
つもりです。

 服部中保次のお話、上島秀友氏の『神君 伊賀越えの真相 ―家康は大和を越
えた』という本も、2年前に購入しました。中保次の名前が出ていたからですが、内容的には中保次について特別な新しい情報もなかったので、そのままになって
おりました。姫沙羅さんの貴重な情報により、『忍者研究』の方、期待したいです!!

 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月02日 22時52分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

お久し振りです。
夏はただでさえ暑いのに  神さまと氏子さんの間で  お忙しかったでしょうね。
あ、今月、神様は出雲に出張の月でしたっけ?



>姫沙羅さんの貴重な情報により、『忍者研究』の方、期待したいです!!

ね!

姫沙羅さんの切り口
深いですから  楽しみです。


いろいろな人の視点というのは非常に刺激になります。
ついつい自分の狭い世界に閉じ籠ってしまうので。



昨日見た「どうする家康」で
本多忠勝が万喜を拝領したシーンがありましたが

    ここって  夷隅じゃん!  とビックリ。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが。。。


上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市万木)



小田原の大久保家の家老の服部さん
夷隅の服部さん
江戸の半蔵さん一党


三つ柏さんを思い出してました。
[21]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月03日 11時56分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回の「どうする家康」の中で、家臣達に関東の城(領地)を与えるシーン――
 服部半蔵正成ただ一人には、城を与えられなかった・・・服部半蔵は悔しかっ
たと思う。ただ、これはドラマであり、家康が一緒に江戸城に来いというセリフで、半蔵の気持ちを救うというドラマティックな演出が伺えました。

 半蔵は大名にはなれませんでしたが、それまでに遠江において8000石を与
えられているということです。服部権大夫政季は、小田原の役の2年後に武蔵国
太田において3000石を与えられていることは確認できます。
 1570年の岡崎から浜松へ侵攻後、浜松に足かけ17年間、家康以下家臣団
は住んだわけですが、半蔵の所領(半蔵が地頭)として確認できるのは、小池村を
中心とする地域であるのは事実であります。8000石ともなると、その他にど
れだけの地域を領していたのか・・・定かではありません。
 小池村は市野も含んでいますし、石田にも近く、気賀や曳馬と池田をつなぐ要
衝でありますので、警備の意味での配置があったのは確実であります。

 過去のたくさんの資料をもう一度見直す時期が来たようです。姫沙羅様、そん
なモチベーションを高めていただき、ありがとうございます。もちろん、半蔵よ
りも中保次家の方がこの地域においての資料、情報があり、子孫がほぼ明治維新
まで領主であったので、よけいシンパシィを感じますし、一族がらみの人が近く
にたくさんいるような気配もし、嬉しい気持ちがいたします。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月04日 14時13分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

>服部半蔵正成ただ一人には、城を与えられなかった・・・服部半蔵は悔しかっ
たと思う。


コレですが
実は  家康は半蔵をスグ身近な場所に取り込んだ  ということだったのでは?と。


    つまり  半蔵に与えられた城は  江戸城


半蔵は家康に任じられた治安組織のボス
つまり日本中に目を光らせる組織
警察であり  公安であり  別班。
だから家康は半蔵を身近に置いておきたかったのでは?


そして各藩の警察組織も半蔵の支配下にあったのでは?

    小田原の大久保さんチにも半蔵の手下が
    夷隅の本多忠勝さんチにも半蔵の手下の服部政信の4男が


というのを  <<<家康が一緒に江戸城に来いと>>>  から思いつきました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月04日 22時51分41秒 ) パスワード

「夷隅」という地名に何か惹かれる?引かれる?感覚があって


上記に「夷隅」を書いたら
テレビで「夷隅」の「西X田さん」と言う人が出てました。

   出てた件は太陽光発電で
   西X田さんのお家はオール電化で電気代が6万円近くになったのを機会に
   350万円だったかを掛けて太陽光発電に切り替え
      100万円近くを補助されたのだったかな
   車のEVに替え

   電気代が9分の1になった

   9年で元が取れる

ようなハナシがあり


撮影の方向が切り替わった時に  父にそっくり!  と思いました。


え?
え?
え?


確かに夷隅に行った服部さんは  ウチに近い服部さん


もうビックリでした。
これ以上書けない。
[24]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月05日 08時39分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小田原の戦い(1590)終了後、家康はその足で江戸城へ入るわけですが、その後
の戦いといえば、二度の朝鮮出兵、関ヶ原、二度の大阪の陣であり、忍者の活躍
する形態は変わっていく。これは別テーマで考察したていと思いますが、正成は
8000石の大身の旗本となり、家康の親衛隊という立場をキープされるわけで
すが、現実的にはどうだったのでしょぅか。今後少し掘り下げてみます!
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月05日 15時29分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

半蔵の没年は  慶長元年11月14日(1597年1月2日)
秀吉の没年は 慶長3年8月18日(1598年9月18日)

つまり半蔵って秀吉より前に亡くなってたんですねぇ。
驚いた。
半蔵の生誕が天文11年(1542年)ということで50代半ばで亡くなってたんですねぇ。
家康と同じ天文11年生まれなのに。

   

>家康の親衛隊という立場をキープされるわけですが、現実的にはどうだったのでしょぅか。

下記のコピペに書かれている  半蔵  vs  伊賀組  の確執。
半蔵の時代からというのに驚きでした。


ドラマの中で徳川軍が出陣する軍列の前の方で「伍」の字の旗を掲げて行進する服部組に
半蔵の時代から確執があった
というのは100%知らなかったです。

息子の正就との確執の話は知ってましたが。




ウイキよりコピペ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E6%88%90

小田原の陣の功により遠江に知行を与えられた正成は、家康の関東入国後は与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。

自身は武将であったが、父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀同心を統率する立場になったという。


この頃の知行は遠州布引山麓の村(場所不明。静岡県牧之原市布引原か)、遠州イサシ村(浜松市西区伊左地町)、サハマ村(浜松市西区佐浜町)、

天正の頃は遠州長上郡小池村(浜松市東区小池町)のあたりであったといわれる[3][4]。

また、慶長元年(1597年)には正成が武蔵国橋戸村(東京都練馬区大泉町)を領していた記述が地方文書に認められる[43]。


           あれ?
           練馬区大泉って  牧野富太郎が広大な土地が欲しいということで渋谷から転居した場所?


文禄元年(1592年)には肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。

集まった両陣営の人数は戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、正成は配下の兵に命じて火縄に点火させ、前田の陣に鉄砲を向けたという[10]。

また、「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、本多忠勝が出てようやく事態が収まった」とする説もある[44]。

この戦が正成にとって最後の出陣となった。



慶長元年11月14日(1597年1月2日)に病没し[3][4][18][45]、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。
死因となった病名は現在も不明である。
正成は隊士のために横死したとする説を記載する史料[46][47]もあるが、真偽は定かではない。
また、没した日について、寛政重修諸家譜は服部家の家伝や西念寺の墓碑とは異なる慶長元年11月4日と記している[17]。



西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗の庵・安養院の後身である。
安養院は江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、
正成は1593年(文禄2年)家康から300両を与えられ寺院を建立するよう内命を受けたが、西念寺の完成を待たず死去した。
その後、西念寺は江戸城の拡張工事のため1634年(寛永11年)頃に現在地に移転したとする。
西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、現在も毎年11月14日に「半蔵忌」の法要が行われている。


                 「半蔵忌」
                  出掛けられると良いですね


伊賀同心との確執

伊賀越えの後、新たに正成が指揮権を預けられた「伊賀同心」「伊賀衆」は、伊賀越えを支援した縁で徳川家への仕官を望んだ伊賀国の地侍とその家族であり、正成自身の家臣ではなかった。

家康は彼らを同心として雇い、指揮権を伊賀の血筋である正成に与えた。

しかし同心らは「自分達は徳川家に雇われたのであり服部氏の家来になったのではない」と認識していた事、
正成の父である保長が早い時期に伊賀を出て三河に住んだ事、
伊賀における正成の家格は自分達よりも下である事などを理由に、

彼に指揮される事を無念に思っていたという[20][48]。


のちに彼らは「伊賀同心二百人組」として組織化され江戸城周辺の守備にあたったが、
正成の死後も伊賀同心二百人組と服部半蔵家との確執は続いた。


指揮権を継いだ正成の長男で三代目半蔵である正就の改易後、
伊賀同心二百人組は四つまたは六つに分割解体され、
それぞれの組には新たに指揮者となる旗本を置いて再編成される事となった。


この時、四代目半蔵となった正就の弟正重は大久保長安に仕える金山同心であったため、伊賀同心の指揮者にはならなかった。


             正重の一生もなかなか不思議な人生だったようですよ              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E9%87%8D



なお、彼ら伊賀同心とは別に古くから三河地方に定住していた伊賀出身者や服部党も多数おり、
彼らもまた、保長や正成と同じく松平・徳川家に仕えていたとみられる。



その後の服部家

正成の死後、嫡男の正就が三代目の服部半蔵を継ぎ、父の正成に続いて伊賀同心支配役の任についた。
その後、正就は関ヶ原の合戦前後、鉄炮奉行として家康の警護や大田原城の戦時改修、白河城攻め等に加わるが、
父の代から続く伊賀同心との軋轢や当時幕府に禁じられていた夜間の無断外出等を行った事で改易され、
伊賀同心の支配と服部半蔵の名を返上する事となった。


正就の後、佐渡金山同心となっていた次男の正重が四代目の服部半蔵を継いだが、
正就の改易に伴い伊賀同心の支配の任も解かれていたため、正重は服部半蔵の名を継ぐのみとなった。


正重は佐渡金山同心を務めたのち長年を村上藩に仕え、晩年は桑名藩に招かれ上席家老を務めた。
正重の功により服部半蔵の家は幕末まで代々家老職を務める事となった。



服部半蔵の屋敷

正成の屋敷は尾御門内にあったため、この門は後に半蔵御門と呼ばれるようになったという。[注釈 15]。
その後、正成は赤坂御門の内(松平出羽守の屋敷があった辺り)に住んだ[3][49]。
服部屋敷の正確な場所は現在も判明していないが、正成晩年の屋敷及び安養院の場所については一般的には現在の清水谷公園周辺であったと推測されている。

麹町で生まれ育った随筆家の白洲正子は著書「鶴川日記」で、
服部半蔵の屋敷の場所について「麹町四丁目の南側にあり、そのあたりの台地を半蔵山と称した」と記し[50]
地名研究家の本間信治は著書「消えてゆく東京の地名」の中で「井伊氏の屋敷は半蔵山ともいい、もと服部半蔵の組屋敷があった」と記している[51]。

これらの場所は概ね正成の屋敷の推定地と一致しているが、屋敷や半蔵山の詳細な場所は不明である。


半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いている。
甲州街道沿いの麹町周辺には徳川御三家や親藩屋敷、旗本の屋敷をはじめ、服部半蔵の屋敷と家臣の屋敷、伊賀同心らの屋敷が配置されていた。
さらに江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めており、享保3年(1718年)に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。

甲州街道は浸水被害を受けにくい安全な尾根道に作られており、江戸城に直結する唯一の街道であると共に江戸からの出陣・江戸への敵の侵入を阻止するための重要な軍事街道でもあった。

また、将軍家に非常事態が起こった際に江戸を脱出するための要路に想定されていたといわれる。

現在では半蔵門は江戸城の非常口や裏門であるという説が一般的であるが、甲州街道が江戸城に直結する街道の中で最も安全で強固に守備されている事から本来は正門であったとする説もある。

服部正就の改易後、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという。


逸話なども書かれています。
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月05日 15時50分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 沢山の情報、ありがとうございます。じっくりかみしめて読んでみます。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月05日 21時47分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家康にとって、江戸転封は最大の試練であったと思われる。なぜなら江戸は
利根川、荒川等が流れ込み、水はけが悪く、雨のたびに浸水するような劣悪な
湿地帯であった。ただ、家康はこの特に利根川の流れを制することができれば、
新田開発等で肥沃な水田地帯に変えられると読んだ。転封後、60年がかかった
が豊かな農地ができ上がった。これらの土木工事と知識は、誰がやったのかと
いうことに興味が湧く。古代よりの渡来人の技術が頭に浮かぶのだが、そこは
まだ深掘りできていない。
 江戸という巨大な都市計画・・・ここを担ったのは?
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月06日 03時26分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

>これらの土木工事と知識は、誰がやったのか

伊奈さんですね
伊奈忠次。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E5%BF%A0%E6%AC%A1


数年前のNHKの番組で知りました。 
再放送されるでしょうね。


三河国幡豆郡小島(おじま)出身者。

西尾市内というから  あの小島?  ということで地図を見たら
昔  わたしが  ウロツイテタあたりでした。
コジマって読むのだと思ってた。

伊奈忠次:
江戸周辺の天領の代官頭として治水事業や用排水路の整備に治績を残した。
利根川筋では会の川を1594(文禄3)年に締め切り
利根川を統合して埼玉県平野東方へ移し、
最終的には利根 川を銚子へ導く利根川東遷事業に着手した。



伊奈忠次・忠治父子の開発事業:
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670308.pdf


だけど   後北条氏の方が先に  河川の大改修工事をやってるから  先人の知恵にも学んだのでしょうね。


伊奈忠次の活躍は来週回で見られるでしょうね。
楽しみです。


【伊奈氏】
江戸時代,地方巧者(じかたこうしや)の筆頭に位置し,関東郡代や代官として活躍した世襲家。

清和源氏の流れで,はじめ戸賀崎,荒川と称したが,7代易氏のとき信濃国伊那郡に住み,孫易次のとき伊奈を姓とした。


     西尾に戸ヶ崎って地名があったのを思い出しました
     小島の近くです

     伊奈忠次にゆかりがあったのかな?
     と思いました。
[29]酔石亭主さんからのコメント(2023年10月08日 07時44分10秒 ) パスワード

あをさん 三つ柏さん

>[23]確かに夷隅に行った服部さんは  ウチに近い服部さん

よく知らないのですが、現在のいすみ市万木、大野・札森を領した旗本の服部氏のことですか?

>[25] 正重は佐渡金山同心を務めたのち長年を村上藩に仕え、晩年は桑名藩に招かれ上席家老を務めた。正重の功により服部半蔵の家は幕末まで代々家老職を務める事となった。

先日桑名市の中心部一帯を巨木目当てで見て回った際、移動の途中ではありましたが、顕本寺と言うお寺が目に入ったので立ち寄ることに…。寺の門前に教育委員会の解説板が掲示されており、ここには水谷九左衛門光勝の墓があって、家康の伊賀越えにおいて彼が伊勢から三河に渡海した折の案内役を務めた、と書かれていました。へえ〜と思いながらお寺の裏手に廻りお墓を見てきたのですが、こちらの墓地には正重から正義までの墓もあって、さらにあをさんが書いたばかりの内容とも繋がってきてビックリです。予定になくても、移動経路にある場所は事前によく調べるべきですね。

本多忠勝の廟所がある浄土寺や松平定勝とその子孫などのお墓がある照源寺は事前にチェックしておいて訪問。でも浄土寺には贄氏目阿弥の墓まであってビックリ。この人物は宝治元年(1247年)没ですから、随分古い時代の墓です、もっとも墓自体は弘化3年(1846年)に改築されたものとのことで、ひびが入っているもののさほど古さは感じられません。

贄関連では知多には尾張国智多郡贄代里があり、他にも贄の名前がつく地名は各地にあります。苗字由来netによれば、徳川家に仕える幕臣贄氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。愛知県に多く特に豊川市、豊橋市に多く見られる。とのこと。

照源寺の松平氏の墓所に関して、定勝の父は久松俊勝で母は於大の方ですから、この関係から家康より松平氏の称号を賜ったようです。私の隣町となる阿久比の城主の子と子孫が松平氏となって桑名を治めていたのですから、知多繋がりの意味では面白い…。

驚いたのは、照源寺の松平氏関係の墓地内に服部正就の妻となる定勝の息女・松尾の墓や、正就の子の服部瀬兵衛正治の墓、正治の子の服部主水正家の墓まであったことです。服部氏の存在が意識の片隅にあるので、期せずしてこうした情報に接することができたのかも。お二人共もう全部ご存じの話かとは思いますが、私にとっては新知識的なものなので取り敢えずご連絡まで…。
[30]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月08日 09時44分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊奈忠次について調べてみましたが、バックグランドに特別な秘密があるのか
どうか、今の所見い出しておりません。大規模な河川の付け替え等の巨大土木工
事技術、人を集める方法、組織構成、工程管理、材料の収集、食料の確保、財源
の確保等、想像を絶する困難があったはずで、普通の人では絶対できない。忠次
には何か特別なネットワークが機能していたのではないかと思うのですが。例え
ば、空海の満濃池の工事や大久保長安の金鉱掘削工事には、渡来系の技術が貢献
しているように。
 遠江において忠次は磐田の家康の御殿を造営しています。1590年に、忠次
は武蔵小室・鴻巣一万ごく領主となり、代官頭となっている。代官頭は、天領を
支配するために創出された特有の役職で、自らが代官であるとともに、他の代官
をも支配した。大久保長安、彦坂元正も忠次と同じく代官頭であった。

 大久保長安といえば、ルーツは秦氏と言われておりますが、能楽師の禅竹を通
じて、世阿弥、観阿弥、そして服部氏、楠木氏と繋がっている。つまり南朝系。
南朝系の背後には、後醍醐天皇も利用したように、言い方は難しいですが裏の世
界の人々がうごめいていた。
 伊賀の服部党も南朝系、特に津島の服部宗純の系統は純粋に南朝系であった。
服部中も宗純の後裔と自認している。
 服部正成の正成は、楠木正成の正成からつけられたとも言われる。
 いずれにしても、底流には、秦氏の流れがとうとうと流れているような気がす
るのですが、ここをとりまとめ表現して行くのはなかなか難しい・・・。
 

[31]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月08日 10時20分52秒 ) パスワード

酔石亭主さん

背筋がゾクゾクしました。


桑名あたりは「さちこさん」が詳しいのですが
社長業で忙し過ぎて  ココには来てくれない歴  何年?


桑名の大服部家  小服部家
わたしには分からないのですが
すごい力を持った家だったというのを   桑名にヨソモノとして住んでた人から  聞いたことがあります。


服部政信・政重兄弟はホンヤさんの親戚になります。

この服部家に来た嫁の家がスゴイし。
川口久助の娘だったり朝比奈利昌の娘だったり高力清長の娘だったり。

    川口久助の御子孫がココに暫く来てらっしゃいましたっけ。


のちに遠江の今切の関所の奉行になってたり
あ、
大久保忠重の次男が養子に来たり。



先祖ガチャに外れたのが残念っ
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月08日 10時50分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

伊奈忠次
ホントにスゴイ能力の土建屋さんだったと思います。


    あの戸ヶ崎や小島あたりの人にそんな能力があった?
    と驚きです。


日本の土木技術などは  最初は中国から学んだけど   それを改良して高めていますから  日本人はスゴイと思います。


ハワイの道路のひどさたるや  (アンタ達!  道普請って言葉を知らないの?)  と心の中で毒づいてます。

    雨が降ったら穴ぼこだらけになります。  potholeって言います。
    直してスグだから笑ってしまう。


数年前にラグーンの工事があった時なんて   完成して  きれいになったなと思ったけど
一雨降ったら  土だか砂だかが  み〜んな  水の中に滑り落ちてて  もう笑ってしまいましたよ。

高校生の土木の授業じゃあるまいし
と。


日本の石垣の堅牢さ
説明を聞いてビックリしました

石を積んで  勾配つけて  てっぺんで  圧力をしっかり掛けて崩れないようになってる  って聞いたのかな?

そりゃ  そうでしょ   戦争するのに  スグに崩れるような石垣じゃ戦えないですものね。



戦争って
  科学も土木も
  あらゆる方面が
進歩向上に繋がるんだな
と感心します。


火縄銃も日本人は10年で作れるようになったんでしたっけ?
南蛮人は日本人のオソロシサに(この国は植民地には出来ない)と思ったとか。


真剣に戦う国の民は負けても  必ず  復興出来るって  何かで聞きました。
    ウクライナは蘇ることが出来る国なんだなと思いました
だけど真剣に戦わない  逃げる民族は  支配される、って。
    今時の日本人か?


伊奈忠次ってどんな家の人だったんでしょうね。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月08日 11時13分19秒 ) パスワード

https://www.youtube.com/watch?v=PQqAbc0cOd0
伊奈忠次の生涯
30代で徳川家に帰参し数年で事務方トップに上り詰める


苦労したんだね・・・
[35]酔石亭主さんからのコメント(2023年10月08日 12時46分23秒 ) パスワード

あをさん

>桑名の大服部家  小服部家

大服部家・小服部家とは格上・格下みたいな表現でちょっと嫌ですね。ところで関宿の和菓子屋・深川屋の当主・服部吉右衛門亜樹氏は服部氏の末裔で、寛永年間(1624年〜1645年)に初代服部保重により創業とのことですが、現当主が面白い内容を語っていましたので以下に抜粋しました。

そもそも服部さんは“忍者の末裔”であり、“服部一族の子孫”ということだが、服部半蔵とはどのような関係にあったのだろうか。「大まかにいうと、当家の初代当主と服部半蔵は、“親戚筋”だと伝わっています。半蔵のお父さんが現在の三重県伊賀市にあたる伊賀国出身(後に三河へ赴いている)の忍びで、当家の初代当主はその兄弟の子供だといわれています。なので、初代は半蔵とは少なくともいとこ以上には近い関係では、と考えております。

なぜかといいますと、いわゆる『天正伊賀の乱』(天正6年に伊賀国で起こった織田氏と伊賀衆の争い)の時に、初代たち一族が、(半蔵とそのお父さんがいる)三河に逃げてるんですよね。当時は、戦乱の際には兄弟のところに逃げるのが筋で、全然知らない土地に身を寄せることはない。“三河の服部”に逃げ、匿ってもらったということは、(初代のお父さんと半蔵のお父さんは)兄弟だろうと、我々は考えてきました」(服部吉右衛門亜樹さん。以下同)

「三重県に多い服部姓のルーツは2種類に分かれていて、ともに大陸から渡来した機織機で反物を織る『機織部(はたおりべ)』が祖。うち1つは紀元前にやってきた、『漢織(あやはとり)』、もう1つはその300年〜400年後、三国志時代の呉から来たため『呉織(くれはとり)』と呼ばれた一族なんです。音が似ているし、服を織ることから『機織部』は『服部』と変わったというわけです」

服部半蔵の名前の由来とは…?
漢織は時代が進むにつれ、機織機を一旦捨てて刀に持ち替えて、平家の武士になっていく。そして、安徳天皇の衛士大将にまで登り詰めたというのが、『源平盛衰記』にも登場する服部平内左衛門なのだという。「その人が服部一族の出世頭で、今でも兵庫県には『平内神社』という氏神様があり、そこが現在に至るまで漢織の聖地になっています。源平の戦いで平家が負けるわけですが、漢織は平家の血を大事に思っているため、逃げのびて隠れる。それで『忍び』になっていくんです。漢織が平家であることを誇りに思っていた証拠に、漢織の「服部」の家系では、代々『平』と『保』の字を大事にしています。お父さんが『保』の字を使っていたら、その嫡男には必ず『平』の字をつける。そして、その嫡男には『保』をつける……そうやって『平』と『保』の字が代々受け継がれてきました」
しかし、服部半蔵の父は服部保長で「保」がつくのに対し、服部半蔵は本名の「正成」を含めて、「平」の字がついていない。

「これは服部半蔵が徳川家康公に仕えたことに理由があります。家康公は征夷大将軍になるのであれば“源氏の旗頭”になる必要があるため、『源氏長者』(源氏の棟梁)を称していました。そのため、一族としては服部“平”蔵と名づけたいところ、『平』の字を嫌う源氏の家康に気をつかい、『平』から横棒をずらした『半』を用い、服部“半”蔵とした。そのように一族に代々、口伝されています。ただ、歴史学者の方々はこの説に賛同しません。資料や文献が残っていればいいのですが、(中編で)話したとおり、忍びは文献などで証拠を残してはいけませんからね」一方で、呉織たちは漢織と異なり、ずっと機を織り続けた。そして堺の港辺りを中心として、輸入された錦糸や絹などを使い、実に雅な反物を作り続けた。それが有名になって「呉服」と呼ばれるようになったと、吉右衛門亜樹さんは話す。

本来は服部平蔵のはずが、家康に忖度して上の横棒を下に持ってきて半に変えたとは面白い口伝ですね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月08日 22時51分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん

興味深いレスをありがとうございます。


>本来は服部平蔵のはずが、家康に忖度して上の横棒を下に持ってきて半に変えたとは面白い口伝ですね。


「平」の字を「半」に替えた話は随分前に
どなたかも  ココ平熱で  書き込んでた記憶です。
20年近く前だったか?



坂東平氏で御家人だった家は
今でも「平蔵」「平太」「平次」「平三」などを使っています。


    「東鑑に出てるから  スグに分かった」
     と言って親しくなれました
     名字と通字を聞けば  (ああ  アソコのアイツか)  って分かりますよね


だけど  忖度の民族ですから  長田さんは永田や永井に   平蔵は半蔵になったのですか。

     日本ですね(笑)


中国でも先祖が恥だと思って姓を変えると聞いたことがあります。
例:「曹」さん。
中国史上の偉大な英雄の姓なのに  イヤだと思う人もいたのか  と驚きました。


    あ、台湾は3回名前を変えることが出来るとテレビで見ました
    360円あたりの手数料だった記憶です。


         これ以上書いてると段々悪口を書いてしまうので
         止めておきます(赤面)
[38]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月09日 09時34分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日本家系協会から昭和49年(1974年)に出版された『服部一族』という本につい
て、述べてみたいと思います。
 この本は280頁くらいの本なのですが、テーマが服部一族なので、服部一族の
ことばかり書かれているかと思いきや、次の通りなので、どういう意図があったの
かちょっと推測ができずにおります。
 一、家系・家紋の渕源と混乱   ・・・7
 一、秦氏族の発祥と流れ     ・・・17
 一、三上一族          ・・・51
 一、長宗我部一族        ・・・77
 一、秦氏族の余流        ・・・93
 一、大西一族          ・・・129
 一、秦、畑、波多、羽田などの一族・・・157
 一、服部一族          ・・・199
 邪推するならば、服部一族で締めくくっているので、服部一族が根っこの氏族、
即ちここでの他の氏族を包含す大きな氏族ということを言っているのか、そうとし
たら、全く新しい発想(逆転の発想)で、頭骸骨がバラバラになって吹き飛んでしま
いそうです。
 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月09日 10時07分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

上記の皆さん
秦氏で括れますね。

え?
と意外だった家も調べたら

     2氏ある公家(地下家)の三上家の1氏は、渡来人、秦氏の庶流。
     源氏に仮冒していたといわれている。
     陰陽師。


     大西さんも
     京都の伏見神社の神官の大西家は古代豪族の秦氏の一族


服部さんも  三重県出身でロスに住んでる服部さんは「秦氏」とおっしゃってたし
今でも  秦氏として先祖のお祀りをしてるし


服部さんで1番有名どころは  半蔵でしょうか?
でも半蔵は「うちは帰化人じゃない」と言ってるそうで

平氏が1007年だっけ?伊勢伊賀に移って  平家  となって
一部が伊賀の古代名族の服部さんの名前をパクった
その流れで良いのでしょうか?


是非日本家系協会出版の『服部一族』の内容をお知らせください。




[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月09日 10時59分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくの即応、ありがとうございます。歴史の表現の一字一句が重大な意味
を持つということで、文献によって悩まされることがあります。これは自分自身
にも言い聞かせております。

 用事で一旦切ります。
[41]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月11日 08時53分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊奈忠次がどんな工事をしたのか、空海が満濃池でどんな工事を進捗させたの
か、秦川勝がどんな大堰工事をしたのか・・・タイムマシンで過去に直接行って
見てみなければ真実はわからない。文献資料もあいにく手元にない。
 ただ推察してみると、そこには「治水工事」と「鉄器=工具」の二つの要素が
存在しているということ。逆に言うと、潅漑工事の必要性と鉄器の製造供給が、
これらの工事技術の進歩を促進してきたとも言える。

 古代に遡れば遡る程、建築・土木工事技術が巨大なものを生み出す高度なもの
となって行く。この古代よりの建築・土木工事の歴史をまとめた本を探してみた
いと思っているのですが、今のところ見つかっていません。
 最近読んでいる本に、武内一忠氏の『もう隠せない 真実の歴史 世界史から
消された謎の日本史』いう本があります。内容を筋立てて言うのは難しいのです
が、日本の歴史、文化、技術は、有史前の太古の時代から(特に6000年前あ
たりから)連綿と続いてきており、ワールドワイドであったということ、ペトロ
グリフ(岩刻文字)はそれを語っているということです。
 土師氏、秦氏、穴太衆もその線上にあるのものと思われますが、まだまだ探求
不足であります・・・。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月11日 09時26分03秒 ) パスワード

三つ柏さん

>日本の歴史、文化、技術は、有史前の太古の時代から(特に6000年前あたりから)連綿と続いてきて


日本の縄文人はスゴイって言われてますね

あの時代に「植林」が分かってた。

    中国では砂漠化してしまい
    英国では丘陵地帯になってしまった
    と言われてますね。



火焔型土器以来の日本の陶芸は土師氏が埴輪で殉死者の代用して以来
精神性の高さは世界屈指。


原始日本人ってどんな人達だったんでしょうね。
[43]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月12日 22時38分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 バイクを購入したので、今日、まずは天竜川の東岸(豊岡村)にある「社山(やし
ろやま)城跡」に行ってみました。ここは、武田軍が二俣城を攻める時の一つの拠
点となったと言われています。標高は136m。頂上近くは急峻になっており、回
りに土塁が築かれております。
 誰が最初に作ったのかはわかっておりませんが、今川氏と斯波氏との抗争、今川
氏の支配、桶狭間後の遠江侵攻後は徳川氏の支配、そして武田氏の侵攻後は武田氏
の支配、信玄の死による武田氏の衰退後、再び徳川氏の支配と変遷。ここは北は二
俣、東は森、袋井、掛川、そして南は磐田、西は浜北、浜松と、戦略的要衝であっ
たと思われます。眺めはどうかというと、たいていの城跡の多くは、雑木林に包ま
れてしまって、ほとんど眺望がないというのが多いのですが、社山もその例にもれ
ず、城跡は林の中でありました。
 以前一度来たことはありましたが、帰り(徒歩)の山道を間違えて降りてしまい、
10qも歩いてしまいました。山は迷うので注意・・・教訓です。

 今月の最後の日曜日には、大河原(大鹿村)にバイクで行ってみようと計画してお
ります。宗良親王の信濃宮があった所です。今まで行きたい行きたいと思っていた
所ですが、やっとその機会が訪れそうです(天気の予想はいいみたいです)。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月12日 22時49分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大河原(大鹿村)にバイクで行ってみよう

いいですね。


是非  リニア建設には反対なさってください。
あはは

>宗良親王の信濃宮

小さな小さな行在所だったそうです。



是非是非!
いらっしゃってください。

お気を付けて!
[45]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月13日 23時20分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、バイクにて、三倉にある「戦国夢街道」に行ってきました。今まで何
十回も側に来ているのに、実際に自分では回ったことはなかった。道は山道で入
り組んで細いし、そもそも駐車場もないようだ。バイクならどこでも行けるし入
れる利点があり、そのためにバイクを買ったのだった。
 この「戦国夢街道」は、秋葉山山麓の犬居城を攻める攻防が三倉で行われたと
いう史実を掘り起こそうと名付けられた。だが、家康にとってこの戦いは「戦国
悪夢の街道」であったのだ。
 墓が二ヶ所にあった。
 その一つ――「徳川家臣 鵜殿藤五郎三成戦没の地 天正二年四月六日」と刻
まれている。道を挟んですぐ下方に谷川が流れている。鵜殿渕と表題の書かれた
看板がそこにあり、こう書かれていた。
 「天正二年(1574)四月、徳川家康は兵二千を率い、犬居城を目指して信州街道
を北上した。一の瀬より大久保、田能を経て、気田(けた)川のほとり、犬居の瑞
雲寺に本陣を張った。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激し
い雨は二日二夜降り続いた。気田川は増水し各所で氾濫した。
 徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一の?目
指して撤退することとなった。
 一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は
気田に退いていたが、徳川軍の動きをいち早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の
兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍に襲いかかった。
 徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。
ついにこの一の瀬で徳川軍の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をとげた。時に天正
二年四月六日であったと「三河物語」は伝えている。」
 この戦いは「気田川の戦い」とも言われています。三倉村史にはもっと詳しく
書かれていますが、今そのコピーが見つからないので、詳しくは見つかった時に
補足します。
 もう一つの墓については次回に――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月14日 06時27分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

浜松ってすっごく広いんですね。
驚きです。

    私は浜名湖あたりしか意識に無いので
    
    それにしても  川  が多いですね
    都田川  ← 天竜川 →  三倉川  その他
それだけ  豊かな地  ってことなんでしょうね。


鵜殿藤五郎光成


鵜殿氏も大変だったんですね。蒲郡の鵜殿氏本家の長照は今川義元の甥で  氏真とは従兄弟

それで鵜殿一族も分裂して敵味方に分かれ

一族から家康の側室(LGBTQでしたっけ?)が出て  生まれた娘が北条に嫁ぎ 後に 池田輝政と再婚。


鵜殿藤五郎光成は惜しい戦死でした。



天野さんというと
南朝方というイメージです    がっ!  天野家の中も南朝方 vs 北朝方に分裂して大変だったんですねぇ


わたしにとっての天野さんというと  コピペ1番最後の  天野信景
つまり  「浪合記」を書いた  天野さん =  尾張の人  です。


     三河でも天野さんってゴロゴロいたから驚きました
     「おとなし〜〜ぃ」ってイメージだったので「キャイ〜ン」の天野ひろゆきにビックリしました


ウイキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F#:~:text=10%20%E9%96%A2%E9%80%A3%E9%A0%85%E7%9B%AE-,%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%99%BA%E7%A5%A5%EF%BC%88%E4%BC%8A%E8%B1%86%E3%81%AE%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F%EF%BC%89,%E6%B0%91%E9%83%A8%E4%B8%9E%EF%BC%89%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

遠江天野氏
犬居城主の系統と秋葉城主の系統が主要な流れになる。


鎌倉時代

天野遠景の子・政景は1221年の承久の乱で活躍し、長門守護職に任命され、遠江国周智郡山香荘(現・静岡県浜松市)を始め、信濃国、相模国の各地に多くの所領を得ることになった。その後、政景の曾孫となる天野経顕(周防七郎左衛門)が遠州山香庄に入って遠江守護今川氏に属した。以後、経顕の系は北遠で勢力を広げ、元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めに経顕は子の経政とともに新田勢に参陣。これを契機に経顕の一族は建武政権に属した。


南北朝時代

しかし、新政権への不満から足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、同様に不満を持っていた経顕は尊氏に従って行動した。 一方、経顕の弟景光の子政貞は南朝方の新田義貞に従い、義貞・義宗・顕政と新田氏三代に属して南朝に忠節を尽くした。また、経顕の嫡孫景隆(経政の子)も磐田郡の秋葉山に城を構えて南朝の宗良親王を守った。しかし経政景隆は翻身して北朝方となり、遠江守・下野守に任ぜられている。その孫となる景政が遠江国犬居の地頭となり、犬居城を築いて居城とし、のちにつながる犬居天野氏の祖となったのである。


天野氏は南北朝の中期には一族が南朝・北朝に分裂して争うようになった。


犬居の天野氏の本宗は今川氏に属して北朝に味方するが、その分家・久頭郷城主天野氏は南朝に属した。秋葉城主の景顕は北朝方今川範国に属するが、その子遠幹(民部少輔)と孫の遠貞はともに南朝方になった。


戦国時代

この分裂抗争は戦国時代も継続した。
そうした中、秋葉城主景顕の曾孫景貞の系統から天文期(1532年 - 1555年)に虎景(小四郎)が今川義元に属した。その跡職は藤秀(宮内右衛門)が相続。一方、犬居の本領3ヶ村は嫡流の天野景泰(安芸守)が相続し、義元の三河・尾張遠征軍の将として派遣され武功を賞されたが、永禄6年(1563年)に今川氏に背いて所領を没収され、一族の藤秀に犬居の跡職が配された。


天文23年(1554年)には甲斐国の武田氏が信濃伊那郡を制圧し、この頃には武田氏と接触している。

永禄11年(1568年)に今川氏真が駿府城を放棄して掛川城に逃亡と、これに次ぐ翌年の今川氏の滅亡を契機として天野氏は武田氏・徳川氏の抗争に巻き込まれていく。

すなわち、天野氏の支配地に信濃と遠江を結ぶ街道が通過し、そのうえ遠江と駿河を結ぶ交通の要衝であったため、武田、徳川両陣営にとって天野氏の去就は注目の的であった。


藤秀の子で、当時の犬居城主だった天野景貫(宮内左衛門)は、遠江を手中に収めようとする徳川家康に従う素振りを見せたが、甲斐の武田氏と結託する密約が存在、景貫の根回しにより、多くの遠江北辺の郷士が信玄に従属することになる。


武田勢力が遠江に及んできた元亀2年(1571年)、徳川氏を離反した形で武田勝頼に従属する。

これにより家康から、何度も居城の犬居城を攻撃され、奮戦するものの、支えきれず犬居城から退去、甲斐国の武田氏を頼ることになる。

ここに300年に渡って遠江北部を支配した、遠江天野氏は滅亡することになる。



犬居開城以後

その後、天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐により武田氏は滅亡する。天野景貫は相模国小田原北条氏を頼り、佐竹氏との戦いに従事するが、その没年は不明である。その後、天野氏一族は離散したが、同族の安芸天野氏は毛利氏に、三河天野氏は徳川氏に従って家臣として存続した。また故郷の遠江国や由来のある伊豆国・相模国・甲斐国では帰農し郷士となった者もいる。

徳川氏に従った者の末裔には、江戸時代中期尾張藩に仕えた歴史学者の天野信景がいる。
[47]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月14日 23時59分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 もう一つの墓――「徳川家臣 七人塚」というものがありました。看板の説明
書きには次のように記載されていました。
 「この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将たちの眠る供養の
塚です。
 天正二年(1574)四月、徳川家康は自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居
城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻めどころか、つ
いには兵糧がつき、一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。
 一方、この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐさま反撃に転じ、田能、大
久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川
軍に、地の利を活かして襲いかかったのです。
 徳川軍は、深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦し
ようものなら雲や霧と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
 徳川軍は、一の瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討ち死にしたり負傷をし
たりしました。古い資料によりますと、討ち死にした武将は、鵜殿藤五郎、掘平
八郎、掘小太郎、小原金内、大久保勘七郎、玉井善太郎等二十四余人と記されて
います。
 土地の人々は、この将兵たちの遺骸を葬り、「七人塚」と呼んで香華を手向け、
盆には僧侶を招いて読経するなど、四百年もり間、手厚く供養をしてきました。
 夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思
い、昔日の姿が目の前に彷彿として、感慨ひとしおであります。」
 ここで私は、七人塚の側にたたずみ、般若心経を二巻捧げた・・・。

 『三倉村史』のコピーが出てきましたので、次回に主要な点を書き出します。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月15日 07時13分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

「7人塚」のご紹介をありがとうございました。


>ここで私は、七人塚の側にたたずみ、般若心経を二巻捧げた・・・。

いいですね
良いご供養になりました。


>二巻

ありがとうございました!


実はビックリだったのです!
「玉井氏」の名前が出てたから。


近所に玉井さんご夫婦が住んでいて  今は御主人が癌で日本の病院にいるのですが


ネット検索しましたら「常山紀談」に出てました:

https://books.google.com/books?id=yH8fAQAAMAAJ&pg=PP153&lpg=PP153&dq=%E3%80%80%E7%8E%89%E4%BA%95%E5%96%84%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%80%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=KQon887HVH&sig=ACfU3U1nNKkIzZ77RfJm6Ap3EViSPHOv9Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjF4bOcw_aBAxWmJ0QIHTnRD1UQ6AF6BAgWEAM#v=onepage&q=%E3%80%80%E7%8E%89%E4%BA%95%E5%96%84%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%80%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


玉井善太郎後殿しけるが、股を鐡炮にて打たせ、御後を慕ひて三倉に参りければ、手負しんがりしにうしろめも出合ひ、田野大窪の郷民も相加はり、此處彼處より厳炮を打ち懸け、聲を擧けて攻懸る。


玉井さんはマルチな才能のある、かなりハイパーな人で
   市長選に出たり
   作詞したり
子供の時は親御さんはハラハラしてたんじゃないかなと想像してましたが

玉井善太郎の奮戦ぶりを読んで  なるほど  後世にああいう人が出て来るはずか  と思いました。


惜しい死でしたね。
生き残ってたら大名になれたか幕府に仕えることが出来たか。



それにしても古文書って読むのがホントにメンド臭いですね
 
田能、大久保   が     田野、大窪に化けていたりして。 



>『三倉村史』のコピーが出てきましたので、次回に主要な点を書き出します。

よろしくお願い致します。
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月16日 18時37分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三倉村史には、遺跡名所―史跡編―古戦場として、次のような戦いの模様が書
かれております。
 「天正二年四月六日、徳川家康公、浜松城を発し、周智郡犬居の城主、天野宮
内右衛門を討たんと、兵を瑞雲に屯す。時に、大雨連日、気多川氾濫して侵攻す
る能わず。隅々糧道絶え、兵士食を絶つ事両日に至る。同月二十日、公、瑞雲に
在り軍議を決し、大久保忠世、水野忠重を後殿として軍を班さんとす。この時、
敵襲来の内報を得て急に兵を退く。時に樽山、光明両城の敵兵に田能、大久保村
民加わり、公の旗本と後殿兵との間に回り、かつ天野景貫は、城を出て後殿の両
隊をくい止め、前後の敵兵土地の案内者多く、要所要所に出現し、しきりに弓銃
を発し、進退出没自在を極めければ、徳川方すこぶる苦戦に陥り、気多より田能、
大久保村の間において、掘平十郎、同小太郎、小原金内、玉井善太郎、鵜殿藤五
郎、大久保勘七郎忠正等精鋭の士奮戦し、掘兵十郎は敵二人を討ち取り、立ち上
がらんとする所、銃丸に当り、三倉山の入り口、一の瀬にて命を隕し、同小太郎、
鵜殿、大久保、小原等を首め、二十余人戦死す。玉井は高股を銃丸に打貫れ、御
跡を慕い、三倉の庄屋久右衛門が許に至る。公自身の馬を与えて、退かしめんと
す。玉井固く辞ししばらく御跡に随い天方城に入る。」

 つづく――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月16日 23時02分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

感謝です。

続きをお待ちしています。
[51]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月17日 09時18分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前回より『三倉村史』の続きです――

「又、後軍にありては、大久保忠世、同権右衛門忠為、菅沼藤蔵定政、共に返し
て敵を討ち取る。杉浦惣左衛門久勝は、後陣に属して勇戦し数多の疵(きず)を被
る。杉浦久藏、石上兎角と反戦し、久藏創を蒙り路傍に伏す。忠世、馬より降り、
早くこの馬にて退けと勧む。久藏死を決し、辞して乗らず。忠世馬をおいて去る。
兎角これを見て、久藏をして強いて馬に乗せて退く。衆、忠世が士を愛する情、
久藏は義気を感ず。忠世は道険悪にして、金の蝶の大指物を帯し兼ね、僕、犬死
にに待たせしを、敵谷間より出でて之を奪う。兵藤弥蔵馳せ帰り取り戻さんとす。
敵数人来たりて、弥蔵を斬る。七郎右衛門馳せ来たり、たちまち敵二人を斬り殺
す。犬若再び指物を取りて忠世に従う。敵しきりに追い来たれども、忠世勇を奮
って数人を討ち取りければ、辟易して来たらず。この時徳川方、首級十三を得る。
水野熊兵衛も士卒を助けんがためにしきりに返し戦い、榊原小平太康政も奮戦し
敵を追いまくり、首級二三級を得る。原田佐左右衛門しきりに矢を発しければ、
敵ついに追い来たらず、時に公の援兵来たり会すれども、敵碾き入りひき入りけ
る故、味方も退いて三倉に至るといえども、地の利悪き故、兵を天方城に収む。」

 以上の記述について、森町教育委員会内町史資料刊行会が根拠とした資料につ
いての出典はわかりませんが、こういうことがあったであろうことは間違いない
ものと思われます。さらに、もう一箇所、仏閣編―栄泉寺の項の中で、この戦い
のさらにビックリする事象について書かれています――

「天正二年(1574)四月六日、徳川家康公浜松城より来たりて、犬居城に天野宮内
左衛門景貫を攻める。気多川大雨のために漲溢して八日に至りて雨甚だしく、た
めに瑞雲印に屯し、減水を待ちて渡河、攻戦せんと欲せしも、二十日に至りて兵
糧つきてやむなく退却するに際し、敵の襲撃を受け、加うるに途中、田能・大久
保の土民の襲撃にあいて、臣百四十四人を失い、家康公も半命(はんみょう)の地
において傷つき、かろうじて三倉久右衛門方に逃げ込みたり。この家の主人久右
衛門、家康公の負傷せる姿を一見し、いと不憫に思い、窮鳥の懐に入るを狩人も
見殺しにできまいと、自家所有の三倉(衣服、道具、米穀)中、道具蔵の内、馬鞍
三個をもって隠匿しやりぬ。家康公は身を縮め、鞍二個の間に入り、さらに一個
を頭にかぶり、気を殺し呼吸を沈めて隠形の呪文を心の中に念じ隠れおりたれど
も、もし一運つたなくして探し出されたれば、直ちに切腹せんとて脇差引き抜い
て下腹に押し当て、敵ただ「ここに!」と呼号する一語を待ちいたる心中、誠に
憐れなりき。まもなく敵兵屋内に乱れ入り、床下さては天井裏まで探し求めたけ
れども、さらに見当たらざれば、主人久右衛門を取り囲み、尋問いと厳しかりし
か、知らぬ存ぜぬとの一律の言葉に、せん術もなくて立ち去りぬ。家康公は馬鞍
の間に隠れおりしか、もし又敵兵の再び立ち返りて、さらに詳しく探すことやあ
らんと推察し、先に敵兵の捜索し求め開け放し引きずり出したる布団の下へとも
ぐり込みたる時、案の如くに敵兵再び来たりて、残る隅なく探し求めたれども、
遂に見当たらざれば、悲嘆の言葉を残して天方城指して進撃せり。」

 家康が傷を負った、馬鞍の下に隠れた、布団の中に隠れたという話は、後の世
に神君と呼ばれるようになった家康にはふさわしくない。神君神話はどんどん作
られ、都合の悪いことは隠されたものと推察される・・・。

 それにしても、服部半蔵が三倉(気多川)の戦いに出てこないのは何故だろう。
 ・1572年の三方ヶ原の合戦には、大須賀康高の部隊に属し、一番槍の武功を挙
  げ、 論功行賞により槍一本と伊賀者百五十人を預けられている。
 ・1573年には、天竜川を渡河してきた勝頼勢を服部半蔵も含む徳川方が撃退し
  ている。
 ・1574(天正2)年四月の気多川の戦い
 ・同年六月の?天神城の戦い(勝頼に落とされる)
 ・1575年五月の犬居城再攻撃(徳川軍撤退)
 ・同年、34歳で長坂信政の娘を正室に迎える。
 ・1576年三月の犬居城再々攻撃(天野軍降伏)
 ・同年、半蔵に長男正就が生まれる。
と休む間もない・・・


[52]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月17日 22時52分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。

>それにしても、服部半蔵が三倉(気多川)の戦いに出てこないのは何故だろう。

どうしてでしょうね?
いろいろ空想してみます。
楽しい!



神君伝説
いろいろ生まれたでしょうね。

    伝説   じゃなくて  神話  ですね。


「運の良さ」では語れない。
「どうする家康」で家康の苦しみが  そうだったのか  です。


また読み直して  半蔵は何をやってた?  と空想します。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月18日 04時03分30秒 ) パスワード

杉浦惣左衛門久勝


杉浦さん(とか神谷さんとか)はモロ  西三河の名字だな、と。
碧南とか安城とか西尾とか高浜とか  あのあたりに繁殖って感じ。


三河の杉浦さんが旗本で終わってたのは  「青天を衝け」で志尊淳が 杉浦愛蔵  を演じてたから
へぇ〜  でしたけど

まさかココで 杉浦惣左衛門久勝の名前が出て来るとは思ってなかったです。


杉浦 久勝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E4%B9%85%E5%8B%9D

戦国時代から安土桃山時代の武将。
徳川家康の家臣で、
大久保忠世・忠隣2代に属した。

母は宇津忠茂の娘だって。ということは元々が大久保の親族か



生涯
若いころより徳川家康に仕え、永禄6年(1563年)三河一向一揆の蜂起では兄吉貞らとともに上和田砦で武功を立て、戦功により三木村に所領を与えられる。

元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いからは大久保忠世の隊に所属。

天正2年(1574年)犬居城の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦い、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)第一次上田合戦、天正18年(1590年)小田原征伐などに従軍。

慶長5年(1600年)第二次上田合戦では大久保忠隣の旗奉行として従軍し、先鋒として上田城を攻撃する。

忠隣は撤兵を命じたもののこれを無視したため、戦後に軍令違反を咎められて自害させられた。


        そりゃあ、@真田に勝てなくてA関ケ原に遅刻しちゃったもの
        勝ててたら大名になれてたんでしょうね



>忠隣は撤兵を命じたもののこれを無視したため、戦後に軍令違反を咎められて自害させられた

この部分は  どこまで真実かは  謎ですね
忠隣を救うためだったかも知れないし



戦国時代   ワタシなんか真っ先に犬死組と思うけど
余りにも  過酷な時代だ。
泣ける
[54]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月29日 06時46分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 公私にわたり、いろいろあって中断状態でおりますが、少しでも進めたいと思
います。

 最近、南朝関係の本を入手しました。その本は、『宗良親王信州大河原の三十
年/東海信越南北朝編年史』(松尾四郎著)という本です。南北朝・後南朝に関する
本は少なく、この本はかなり役に立ちそうです。

 本日は4人でツーリングで諏訪まで行きます。その途中で大河原に寄りますが、
探索は団体行動ゆえ時間的に無理かと思われます。結果については、また報告を
いたします。

 いずれにしても、近い内に車にて探索し直すつもりではあります。

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月29日 22時42分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>『宗良親王信州大河原の三十年/東海信越南北朝編年史』(松尾四郎著)

平熱にてお知らせくださいね。



>本日は4人でツーリングで諏訪まで行きます。
>その途中で大河原に寄りますが、
>探索は団体行動ゆえ時間的に無理かと思われます。


諏訪までですか。
お気をつけて!


テレビで見た「大河原」はすごい山の中のようでしたよ。


お友達に嫌われないよう
ほんのサワリのみ
教えてあげてください。



>結果については、また報告をいたします。

楽しみにしていますね。


とにかくお気をつけて!
[56]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年10月30日 17時27分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、バイクで諏訪大社まで往復で走り、帰ってきた時にはグロッキーであ
りました。
 国道152号線が大鹿村の近くで今年の盆の大雨による大土砂崩れで、未だ復
旧のメドがたっておらず、通行止めであったため、やむを得ず迂回をして立ち寄
ってきました。メンバー3人には感謝です。
 時間も限られていたため、宗良親王の信濃宮跡と宝篋印塔を見ることにして、
地図をたよりに山中にバイクで進んで行きました。今まで準備していた地図上で
の認識は平面的(二次元)なものでありましたが、現地での実際の探索は平面+バ
ーチカル、すなわち山岳の高低の要素が加わるというのが、まず第一の感想でした。
 宝篋印塔も山の中腹の入り組んだ所にありました。御所平はさらに奧の方で、
道の途中が土砂崩れのため通行止めとなっておりました。
 いずれにしても、現地ではクーグルマップが役立ちました。これは地図だけで
なく、実際の映像も見ることができるからです。

 次回は具体的に――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2023年10月30日 22時38分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

お帰りなさい!
御無事で何よりでした。



諏訪は南朝方バリバリというイメージで

井伊家や宗良親王にも関わる・・・

    そう言えば  井伊直親が逃げてた松源寺のずっとずっと北東に大鹿村がありますね
    かなり離れていますが
    12年も松源寺にいたのですから  若いし  暇にあかせて  大鹿村に行ってたかも   ですね


そう言えば  服部セイコーも諏訪でしたね。   塩尻もあったっけ。
金太郎さんは  元は  尾張出身の江戸生まれだそうで
この服部さんも南朝方だったのかな?それで?と。



>現地での実際の探索は平面+バーチカル、すなわち山岳の高低の要素が加わるというのが、まず第一の感想でした。


地図は平面で描かれてますから
現実の三次元の世界は  全く  別物ですよね

バイクも酷使されて可哀そうに・・・
ふふふ


>宝篋印塔も山の中腹の入り組んだ所にありました。

敵に蹂躙されないように  見つからないように
ですね。


>御所平はさらに奧の方で、道の途中が土砂崩れのため通行止めとなっておりました。


残念でしたね
異常気象の年ですし   本当にスゴイ山奥ですから  復旧工事は遅々として進まないでしょうね


誰かが音頭を取って  観光に結びつけないと  進まないでしょうね
あ・・・
リニア工事で蹂躙されるのかも?



>次回は具体的に――

楽しみにしています。

本当にご無事で日帰り出来て安堵致しました。
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年11月07日 21時41分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ここ一ヶ月、身内(姉)の終末期の看護と弔事が相次いで二件続き、それも親子
(母と娘)ということで、偶然ではありましたが(母は老衰、娘は末期癌)大変であ
りました。明日が2人合わせての初七日ということで、やっと落ち着くことがで
きそうです。
 また、一方、村役の選考委員長としての活動も始まり、頭を悩ませている今日
この頃です。これも人生における試練と勇気を奮い立たせております。
 そんな中でも、あさっては井川にバイクツーリングをしてまいります。紅葉の
真っ盛りということで、気分転換です!

 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月08日 07時44分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

次から次へと  役が回って来て  大変だと思いますが
「社会的繋がりが脳に良い」そうですから
頑張ってください。


わたしも出来る限り出歩く事にしました。
そして雑用を買って出るようにしています。

「ヒト」とは繋がっているべきと真剣に思うようになりました  自分の為に。← ココがワタシらしい(赤面)


御不幸が重なって大変でしたね。
きっと  お母さまが娘の苦しさを思って  連れて行ったのかも知れないですね。


だから悲しくなったら  2人は手に手をとって極楽浄土に旅立った  幸せな家族の旅立ちだ  と思ってお経を詠んであげてください。


バイクツーリング
気を付けてくださいね。
[60]酔石亭主さんからのコメント(2023年11月08日 09時25分32秒 ) パスワード

三つ柏さん、あをさん

ご無沙汰しております。

グーグルBardの生成AIで長上郡の服部氏について質問したところ、以下のような回答となりました。


長上郡の服部氏は、古代から続く服部氏の一族です。その祖は、秦氏の庶流である服部連とされています。

服部氏は、古代から朝廷に仕え、伊勢神宮の祭祀や警護を担当する「神祇官」として活躍しました。また、地方豪族としても活躍し、長上郡にも勢力を有していました。

長上郡の服部氏の最初の記録は、平安時代の『和名抄』に見られます。この書物によると、長上郡には「服職庄」という庄園があり、その領主は服部氏であったとされています。

鎌倉時代になると、長上郡の服部氏は、伊勢神宮の神官として活躍するようになります。また、地元の豪族として、今切関所の奉行を務めるなど、地域の政治にも関与しました。

戦国時代になると、長上郡の服部氏は、今切関所の奉行として、今川氏や徳川氏に仕えました。特に、服部半蔵正成の活躍は有名です。

江戸時代になると、長上郡の服部氏は、旗本として活躍するようになります。特に、服部正直は、幕府の外交に活躍し、大名に昇格しました。

明治時代以降になると、長上郡の服部氏は、政治家や実業家、学者など、様々な分野で活躍する家系が現れました。

長上郡の服部氏は、古代から現代に至るまで、長上郡の歴史に深く関わってきた氏族と言えるでしょう。

長上郡の服部氏の代表的な人物としては、以下のような人たちが挙げられます。

服部正直(はっとりまさなお):江戸時代の旗本、大名
服部桂昌(はっとりけいしょう):江戸時代の女性、徳川綱吉の側室
服部小平太(はっとりこへいた):明治時代の政治家、静岡県知事
服部富次(はっとりふみつ):明治時代の政治家、貴族院議員
長上郡の服部氏は、古代から現代に至るまで、長上郡の歴史に深く関わってきた氏族と言えるでしょう。その歴史は、長上郡の歴史の縮図とも言えるものです。


回答は以上です。他に2案の回答もありました。お遊び程度にしかなりませんが、瞬時にここまで書いてくるのはさすがです。もっと具体的に絞った質問をすれば面白いかもしれませんね。ご参考まで。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月08日 13時38分13秒 ) パスワード

酔石亭主さん

キャハキャハ笑って読まさせて頂きました。
生成AIの限界
なるほど。

生成AIをヒトの命や安全に関わる分野で使って欲しくない
と改めて思いました。


わたし的に点数をつけると   15点  かな?
アチコチから拾って来たね   その努力点として15点ぐらい上げて良いかな?と。


ムカシ  英作の授業で  2人の先生から  「ナニ書いてんだ?」と嗤われたのを思い出しました。
あんな感じの文章を書いてたのかな?
遠い目
[62]酔石亭主さんからのコメント(2023年11月09日 07時09分14秒 ) パスワード

あをさん

>生成AIの限界

グーグルのBardはまだ試験運用の段階なので学習不足なのかも…。
学習を深めても歴史は研究者や資料によって見方が分かれるので、AIも悩まされるでしょうね。でも、服部氏の回答の別案では仲哀天皇と融合したような服部仲哀命なる人物が出てきたりして大笑いです。

面白いのはBardが対話形式なので、間違いを指摘すると素直に認めて謝罪する場合、頑として認めない場合があり、なんとなく人間的な設定になっているのかもと思ってしまいました。

Bardはサイトを開いて質問を入力するだけなので簡単です。一度試してみたらいかがですか。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月09日 15時29分00秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ふふふ


>グーグルのBardはまだ試験運用の段階なので学習不足なのかも…。

はい
わたくしがレス《60》で思ったのは  小学校4年生レベル  でした。


>服部氏の回答の別案では仲哀天皇と融合したような服部仲哀命なる人物が出てきたりして大笑いです。

ですよね
わたくしもキャハキャハ笑わせて貰いました


たぶん  三つ柏さんがちょくちょく「服部仲」と表記なさるので
三つ柏さんからパクって来て  服部仲哀命なる人物  を生成したのでは?
ふふふ


>間違いを指摘すると
>素直に認めて謝罪する場合、
>頑として認めない場合があり、
>なんとなく人間的な設定になっているのかもと思ってしまいました。

面白いですね。


>>>>頑として認めない場合

まるでワタクシのような・・・

まさかワタシの性格まで学習した?



>Bardはサイトを開いて質問を入力するだけなので簡単です。一度試してみたらいかがですか。


Bard は詩人とか吟遊詩人とかの意味だそうで

Vard だったら  オットの名前です。
スカンジナビアの島にもある名前です。

   ドイツ系義祖母の竹馬の友 = 義祖母の初恋の男の子の名前で  子供(叔父)と孫(オット)に名づけられました。 
   ドイツとスエーデンの男の子の名前。


Bardの使用はもう少し待ちます。
[64]酔石亭主さんからのコメント(2023年11月10日 08時27分10秒 ) パスワード

あをさん

他のAIも少し試してみましたが、歴史関連で活用するのは相当待っても無理そうですね。一般的な内容・疑問・質問なら便利に使うことはできそうですが…。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月10日 09時00分00秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>一般的な内容・疑問・質問なら便利に使うことはできそうですが…。

はい
法律や計算や言葉の意味など  答えが決まってるものなら  便利でしょうけど
説が決定してないものには  まだまだ  ムリでしょうね。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月19日 22時43分37秒 ) パスワード

11月24日のNHKのファミリーヒストリーは町田啓太の回で
彼のご先祖さまは楯六郎親忠なのかな?

早速ご先祖が木曾義仲さまの侍大将だった親友に知らせました。


彼女のご先祖さまは佐久で手塚治虫の先祖と御近所さんでもありました。



オトコの生き方は如何に死ぬことかと思うと泣けて来るし
先週の「どうする家康」の大谷刑部の死にも涙でした。


わたしの母方はあの時代にはとっくに分解してて
1部は小早川方で
母方先祖が江戸時代に大坂城で働けたのは小早川のお蔭だったのかなと。


大谷刑部は小早川の裏切りは分かってたけど脇坂の裏切りは予想してなかったようで
これが大坂方の敗因だったのかなと。


大谷刑部と三成の友情には涙しかない。
こういうのが男たるところっていうのかな?


町田啓太は好きなタイプで   それは  群馬出身だからで   南朝方   というイメージに結びつくからだと思う。


    わたしはこういう感じで「ヒト」を見てる
    血と肉に刷り込まれたDNAのせいだろう。

       町田啓太の目から上  特に  眉から額にかけては弟にソックリだから
[67]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年11月23日 11時09分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「あお(あを)」という言葉は、「あま」と「おう」という言葉が持つ根源的な
日本的霊性を包含している。あを様は、その言葉の本質を、直感的感性で見抜い
ていた。菅田正昭氏の『アマとオウ 弧状列島をつらぬく日本的霊性』という本
を読んで、そう感じました。

 氏子総代をやっていると、神主の「オオオオーーーッ」という言葉を降霊の時
に聞きます。不思議な言葉です。
 そういえば、臨済宗の葬儀でも、「オオオオーーーッ カツッ」と発します。
「オウ」は「オウム」の変化した言葉、宇宙の回転音を表すという。
「アマ」は天(空)であり海でもあるという。
 すると、「空海」は「アマ」の本質を理解していたということになる。

 昨日は、足助の香嵐渓にツーリングに行ってきました。ここも南朝の地域。大
鹿村といい足助といい、南朝と紅葉、また平家と紅葉は良く似合います・・・。

 ただ今、次期自治会長の就任依頼に悪戦苦闘中・・・。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月23日 22時50分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。


足助の服部さん
戦国時代に  終ったのかどうか  知りたいところです。
服部半蔵の父上の時代までは活躍なさっていたようですが。



>ただ今、次期自治会長の就任依頼に悪戦苦闘中・・・。

やりたくない人が次々と
というところでしょうね

人間を相手にするって  ホントに疲れますから。
でも逆に
脳も使いますから
脳の老化予防には良いと思いますが


何かインセンティブが無いと  やりたい人って  出て来ないでしょうね。
自治会も今ではアウトソーシングの時代なんでしょうね。


良い人が見つかりますように!
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月26日 02時57分46秒 ) パスワード

昨日町田啓太の出演するドラマと群馬の一般人を映した番組の  計2本   見ました。


恐らく町田啓太は源平時代  源義仲方の子孫  楯親忠がらみだと思う。
だから源頼朝義経兄弟の敵。


      敵の敵はわたしの味方となるのかならないのか
      わたしの親友は幼稚園以来の親友
      職場にも群馬出身者がいて仲良くやってました。



町田啓太と弟が似てるとは  目から上が似てると思う  昨日は  頬から上が似てると思いました。


鼻とか口は似てない
弟は優男系じゃないから

戦国時代だったら槍働きで活躍するタイプ。


ま、目から上のバランスが似てる  ということでしょう。


群馬の一般人を映した番組でも弟にそっくりな人が結構いて驚いた。
勿論まったく似てない人もいたけど。


群馬って言えば南朝方の新田さんがいるわけで
弟の婿が  モロ  コッチ  で驚いた。

     具体的に質問攻めしたわけじゃないけど  だろ〜ぉ〜なぁ〜  のレベル



何かあって落ちて来た人がいたとして   
自分達に共通する「面影」があれば保護するだろうし
無ければ「殺す」だろうな


14世紀から今に至るまで  遺伝子が  伝えているのかな?
[70]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年11月26日 06時59分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 群馬といえば、今回の自治会長候補者の一人が群馬県出身者であったことに驚き
です。もっとも現代は会社の関係や結婚等、人は自由に移動しますので驚くに値し
ませんが。かつて、浜松出身の井伊直政が群馬の高崎の箕輪城の城主でありました
ので、浜松出身の家臣やその一族郎党がそちらに移動していることもあり、また、
南朝の群馬の新田氏、南朝の浜松井伊谷の宗良親王との深い関係もあり、以外と浜
松と群馬はつながっているのではないかと思っています。空っ風も共通しています。浜松と群馬の関係、まだまだ知らない関係があるのかも知れません。

 明日、当地の小学校で四年生50名ばかりを対象として、歴史の講義をする予定で
あります。これもあを様のご指導のおかげと感謝しております――
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月26日 09時26分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>今回の自治会長候補者の一人が群馬県出身者であったことに驚きです。

わたくしの方こそ  驚き  です。
やっぱり  何かの力  が平熱には働くのでしょうか?
余りの偶然の一致に驚きですね。


人間は足がありますから  移動しますから
1960年代以降は特に移動が激しいですから
群馬の人が浜松に来ていても当たり前   
浜松は戦後の産業の大発展の地ですから
日本中から  (その後  ブラジルからも) 大勢  入って来てますよね。

群馬出身でご先祖が南朝方だったら浜松にそもそも御縁があったでしょう。


>井伊直政が群馬の高崎の箕輪城の城主

高崎は新田一族の太田の近くですし
太田はSUBARUがあるし
いろいろ浜松と似た感じですね。


     わたくしの幼稚園以来の親友のご先祖のそもそもの出身地は伊勢崎で
     元々の苗字は伊勢崎にある地名です
   
     木曾義仲の父親の義賢が頼朝の兄の義平に殺されて
     義仲が乳母夫に連れられて木曾に落ち延び   彼女の先祖も一緒に木曾に逃げた
     


          日本ですね
          日本の某階層の小さな世界の話ですね
          いくら他人の関係になってても  どこかで繋がりを知って  背筋にゾクッと来ますね


>意外と浜松と群馬はつながっているのではないか

ですね。
我々が気が付いてないだけで。



>明日、当地の小学校で四年生50名ばかりを対象として、歴史の講義をする予定

4年生は人生に於いて  なかなか  重要な学年です。
将来を考え始めなきゃいけない学年です。どう生きるか、とか  どんな仕事に就くか、とか。
だから三つ柏さんのお話がきっと4年生の心に残りますよ。
50年後  60年後
三つ柏さんから郷土の歴史のお話を聴けて良かった、って将来いつか思ってくれますよ。


浜松は日本史の中で重要な場所だった
血湧き肉躍る生き方をした人達がたくさんいた
そして
現代の浜松は世界的に重要な産業の地になった


とにかく10歳の子供達が真っ直ぐ生きて行ってくれますように!
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月27日 22時12分38秒 ) パスワード

面白い記事を見付けました:

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https://news.yahoo.co.jp/pickup/6483109
浜松の「鈴木さん率」6.5% なぜ


浜松は全国一の“鈴木さん王国”

その理由を真面目に調べてみた
はんこ品薄…4人に1人が鈴木さん?

実は由緒ある名字

by 静岡放送(SBS)



「浜松市は鈴木さんが多い?」という噂を真面目に調べてみました。

静岡県内の名字ランキングです。

名字由来netによると5位「杉山さん」約4万6000人、4位「望月さん」約4万8000人、3位「山本さん」約4万9000人、2位「渡辺さん」約5万2000人、1位「鈴木さん」約18万8000人


静岡県内のすべての名字のうち、ダントツで「鈴木さん」が1位でした。


次に、鈴木姓の多い都道府県ランキングです。
明治安田生命全国同姓調査(2018)によると5位茨城県、4位宮城県、3位山形県、2位福島県、1位静岡県。


鈴木さんの占める割合は静岡県が4.8%。20人に1人が「鈴木さん」ということになります。


その中でも、浜松市の「鈴木さん率」は6.5%。
全国の市町別の数字までは把握できませんでしたが、全国一多いことが伺われます。
これはもう「浜松が全国一、鈴木さんが多い」と言っていいでしょう。



浜松には、なぜ鈴木さんが多いのでしょうか。

           略


全国一「鈴木さん」が多いとみられる浜松市の人口は79万人。
「鈴木さん」は5万1300人と全体の6.5%を占めます。


女優の鈴木砂羽さんやプロ野球横浜ベイスターズで2年連続首位打者を獲得した鈴木尚典さん、貞子で知られる「リング」シリーズの作家・鈴木光司さんも浜松出身。


世界的な自動車メーカー「スズキ」も浜松発の会社です。



「なんでこんなに『鈴木』が多いのか不思議」

その謎を解くカギは、300km以上離れた和歌山県にありました。


<藤白神社 平岡溥己総代長>
「鈴木姓の広がりのルーツは、和歌山の海南の藤白神社の鈴木なんですよ」

藤白神社・平岡総代長によると「鈴木さん」の祖先は古代、熊野古道で知られる熊野地方で刈り取った稲穂を積み上げることでお米に魂が宿るという「ホヅミ」の風習を信仰する集団でした。

中央に立てた神木を「ススキ」と呼んでいましたが、なまって「スズキ」に。のちに、この集団を「鈴木」と呼ぶようになります。

時は平安時代末期、藤白神社がある場所に、自然崇拝の神道と仏教が融合した信仰「熊野信仰」を布教する鈴木さんの集団が移住。さらなる布教や武将として活躍する鈴木さんたちも現われ、各地に広がっていったということです。

<藤白神社 平岡溥己総代長>
「静岡を中心とした徳川家に仕えた鈴木部族、武将の流れが、活躍の歴史の中で鈴木という名前も広がっていった」



<竹川知佳記者>
「浜松市の中でも特に鈴木姓が多い西区篠原町です」

篠原町は、9400人の住民のうち2500人が「鈴木さん」。実に、4人に1人が「鈴木さん」という“鈴木さんの総本山”です。


「鈴木さん」率が圧倒的に高かった篠原小学校も町内。その向かいにある鈴木文具店を訪ねると。

<鈴木文具店 鈴木孝俊さん>
Q.「鈴木さん」のはんこはどれくらい置いている?
「(売り上げは他の苗字の)5倍くらいかな」
Q.鈴木さんはずっと欠品状態なんですね?
「欠品状態だね」

「鈴木」さんのはんこは、常に品薄状態だそうです。篠原町に「鈴木さん」は、なぜ多いのか。30年以上研究しているのは山下さんでした。


<浜風会 山下勝彦会長>
「我々の調べた中で、明応8年に大地震が起きました。その時に17人(の鈴木さん)が篠原に来る、そういう記録がありました」

室町時代後期に起きた明応地震によって、土地が高い篠原町に17人の「鈴木さん」が一斉に移住したという記録がありました。そして、江戸後期から始まる名字の義務化の際に、浜松市では由緒ある「鈴木」姓を選ぶ人が多かったのではないかといいます。


<鈴木文具店 鈴木孝俊さん>
Q.「鈴木さんあるある」を教えてください
「(子どもが)産まれたっていうと『何て名前つけた?』って被っちゃいかんもんで(鈴木の名字の家に)聞きに行きましたよ」

<篠原小学校 鈴木湧万先生>
「自分は名字が一緒だと仲間だと感じるので、自分のことを理解してくれる仲間が多いなって思っている」



2010年には、当時市長だった鈴木康友さんを名誉会員とした「浜松鈴木さん楽会」という鈴木姓で地域を盛り上げようという動きもありました。

以上
[73]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年11月27日 23時20分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 鈴木についての記事、ありがとうございます。
 鈴木はルーツの方向性(点)がわかっても、具体的なつながり(線)が見えない。
 私(服部)の曾祖父も鈴木家から入籍しています。多すぎるのも困りものです。

 本日、airmail届きました。いつもありがとうございます。
 また、本日は小学4年生への歴史講話(昔のはなし)で、今の4年生はレベルも
高いし、しっかりした生徒もいると見直しました。歴史オタクなどと言う生徒
もいましたし、昔の遊びについて皆興味シンシンでありました。
 今後も依頼がありそうです――
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2023年11月28日 02時36分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご報告をありがとうございました。
無事に届いて良かったです。


>今後も依頼がありそうです

いいですね。

子供さん達の将来が楽しみですね。
彼らも数十年後に?三つ柏さんに出会えたことを懐かしく思い出してくれますよ。



曽祖父さまが鈴木氏のご出身でしたか!
そうすると   背筋がゾクゾクして入力がぁ〜・・・・  取り敢えずコピペから


「おんな城主  直虎」 に井伊谷三人衆で  鈴木さんが出てましたよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%AA%E5%9F%8E%E4%B8%BB_%E7%9B%B4%E8%99%8E


井伊谷三人衆

直親の死後に今川家から任じられた井伊家の目付たちであり、
井伊谷に任地居住しているわけではないが、
井伊谷三人衆と称される。

終盤では三家共に家康の命で直政の配下となる。


鈴木重時(すずき しげとき)
演:菅原大吉

遠三国境の山吉田を治める国衆。

姉は直親の母であり、
妻は奥山家出身なので、
井伊家とは姻戚関係にある。


徳川からの調略の際の井伊家に対する謀略には消極的であるが参画し、
政次処刑後に政次の辞世の書を直虎に渡して後に参陣した今川方の大沢攻めで戦死する。



鈴木重好(すずき しげよし)
演:安達優(少年期:下川恭平)

鈴木重時の子。
戦死した重時の跡を継いで、まだ年若い少年にもかかわらず戦に参加することになり、その前に重時の望みであったという直虎の読経の依頼に井伊谷を訪れる。

終盤の直政の配下に入った際には成長した姿で出向いている。



だから浜松で鈴木氏の勢力が大きいのですね。

逆から想像しますと   鈴木さんは南朝方  という可能性が非常に大きいですね。

     だいたい  和歌山=または≒南朝方  でしょうし
     その前は平家方だったでしょうし   (途中で裏切ったのもいるでしょうけど)


やっぱり   何故三つ柏紋なのか  改めて不思議に思います。


蛇足

近藤康用(こんどう やすもち)
演:橋本じゅん

遠三国境の井伊谷に接している宇利を治める国衆。武家官位は石見守。
井伊谷との境目の山の樹木盗難の一件で直虎と対立する。この事件の犯人である龍雲党を直虎が処断しないことに痺れを切らし、「今度は菩提寺の仏像を盗まれた」と新たな事件を自作自演し引き渡しを迫るが、南渓和尚と龍雲丸の機転により見破られて失敗する。その後も遺恨を持ち続け、徳川からの調略に乗って配下に入った際には井伊家に罠を仕掛け、政次を処刑に追い込んだ張本人となる。事態の収拾後は徳川の差配によって井伊家が潰れた後の井伊谷を自領として安堵され、井伊家解散後の中野家や新野家を配下にと引き受けており、井伊家の姫とは知らずに屋敷勤めをしている高瀬を気に入って可愛がっているが、実はそのことは知っていたことを最終回で直虎と高瀬に明かしている。

徳川の大沢攻めの戦に参加して重傷を負い、直虎はじめとする龍潭寺の僧たちに看護され、一命はとりとめたもののこの時の傷が元で片足が不自由となった。この後は還俗し遺恨を乗り越えたおとわを領民との仲介者として用い、ときには相談したり、要望や献策を受け入れながら井伊谷を富ませ治めている。



      だから  コンドーさんって名字  なんか  嫌いなのかな?



菅沼忠久(すがぬま ただひさ)
演:阪田マサノブ

井伊領近隣を治める国衆。先に徳川配下となっていた菅沼定盈は同族であったので、徳川からの井伊谷三人衆調略の窓口となる。
[75]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年11月30日 21時49分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、一泊二日の知恩院団参に行ってきました。訪れた京都の紅葉は、やはり
別格だという感じがしました。
 法然(母は秦氏)は、清盛より15才年下、正に平家の時代に生きたと言えます。
法然が、浄土宗を開宗した6年後に清盛は没しております。
 法然が、平家からあるいは源氏からどんな影響を受けたのか、関心を抱いてお
ります――
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2023年12月01日 09時22分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

紅葉の京都
美しかったでしょうね


京都の美しさって神々しいものがありますよね
    歴史が違うもの!
に纏められてしまいますが
紅葉の葉っぱ1枚にも美がある。風情なんてレベルじゃないですよね?「美」!です。
京都はホントに   スゴイ!  のヒトコトです。


今日は「さる人」に  出自の話を伺いました。

日本の絶滅危惧種系の珍しい名字ですが  出自がスグに分かるので  訊いたら  うちは「分家」と言ってました。

「平家」ですか?

と訊いたのですが  そっちには興味が無いようで  (平家方に決まってるんですが)

それで私が「仙台で?」と訊いたら

     なぜ「仙台」なんて口から飛び出したのか  自分でも分かりません


そしたら  驚いた様子で  「父は北海道生まれなんですよ。で、東北大学で」ということでマタマタ驚きました。


      東北大学  で名字を検索したら  スグに出ました。

             これも不思議でした。



今日は平熱のオカルト・パワー全開でした。



日本って面白いですね。

名字を聞けば出自が分かる
先祖が分かる
そして  ワタクシとの関係まで  分かってしまう。

    きっと  あのヒト  今夜は眠れないんじゃないかな?
    まさか平家の亡霊が枕元に現れたりして?
    ふふふ
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2023年12月11日 22時45分20秒 ) パスワード

昨日のNHKの「のど自慢」は伊賀市ということで

   ココ暫く伊賀が気になってたし

いつもは「のど自慢」の録画は速攻削除するのに
全部(プロ歌手の部分は飛ばした)20番まで見ました。

   聴く
   じゃなくて
   見ました!

       出場者や聴衆の顔が見たかっただけ



出場者の顔を見てて

父の生え際から頭頂部にかけてソックリな人とか
父の二重瞼の間の脂肪の付き方がソックリな人とか

わたしに似てる?
と思うような人とか


えぇ〜?
わたしと父って
やっぱり伊賀の人とDNAを共有してる?
と驚いた。


    わたしは母方の従姉にソックリだと言われてたから母方の顔かと思ってたけど
    母方の従姉の妹の結婚相手の姪とわたしはソックリなので
    実は父方の伊勢の顔?と思った

        その後この姪御さんの先祖は実は同じ後醍醐天皇の忠臣だったから
        ワタシ   やっぱり父方の伊勢の顔なの?  と思った

           どうせなら平家の美しい元姫君の子孫がいっぱいいる北勢ならもっと良しだったのにぃ〜   
           残念っ!



ということで   やっぱりワタシは伊勢伊賀が本貫地の平家の子孫なの?   でした。


で、不思議なことには
もう1度再生して見直したら
全然!似てないような


ヒトと出会って   最初の一瞬の顔合わせで  ハッと思う瞬間
あれって  何?

わたしが反応してるんじゃなくて
わたしのDNAに刷り込まれた前世の記憶が反応している?


    ここのところ確かに何か降りて来てる気がする。



16年前
「バンビ〜ノ」に出てた松本潤を見て  弟にソックリ!  と思った。
それまでジャニーズなんか興味が無かったし「嵐」も知らずにご近所さんの子供の名前が「アラシ」とかと聞いて(アホか)と思ってた。

その後の松本潤の出てた番組は  松潤がすっかり痩せて  細面になってて弟に似てるなんて思わなくなった。


現在の「どうする家康」が始まってからも弟に似てるなんて思わなかったのに
ここ最近の「老けメーク」で弟にソックリと再び思うようになった。
特に左側から映った顔がソックリ。

       弟の将来の顔か?(笑)
       子供の時は目が大きくてクリクリしててスッゴク可愛いかった

       中学ぐらいからモテモテで
       わたしの親友も「弟君、すっごい人気だよ」なんてチクって来てた

       テレビに出るハナシも出て  軟弱嫌いの母が激怒してた


ここ最近  何が来てるのか
ちょっとワクワクしてる。
[78]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年12月12日 09時30分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに地域独特の顔ってありますね。遺伝子によるものと思われます。
 京都には京都によく見られるの顔、名古屋には名古屋によく見られる顔…
というように、地域によって顔全体、また個々の部品(目・鼻・口等)の形状
によく見られるパターンがありますね。
 渡来した種族の遺伝子が、土着した地域地域にある程度の塊として残って
いるのでしょうね、これを分析したら面白い。そんな研究書ってないですか
ね。あったら欲しいものです――
[79]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年12月19日 19時44分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本年もあとわずかとなってまいりました。去年と今年は私にとってあまり良い
年ではありませんでした。人生は試練の連続、それを乗り越える勇気が必要――
と自分に言い聞かせながら毎日を送っております。健康上でもいろいろ出てくる
年齢ですので、「気」を注入してもらって免疫力を高めるようにしております。
 食の問題も目に見えない影響があるので、無農薬、化学物質入っていないの食材
をできるだけ摂取するよう努めております。
 来年も、健康を保ち、歴史のテーマに挑んで行きたいと思っています。

 本日、air mail届きまして、読ませていただきました。いつもながら感謝申し
上げます――
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2023年12月20日 07時34分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご連絡をありがとうございました。


ホント
去年と今年は大変な年になりましたね。

でも地域の為に働いた日々でしたから
氏神さまには伝わっていますから
よく頑張ってくれた
と誉めてくださっていますよ。


次は子供達の将来のために何かしてあげられると良いですね。
高校時代のご友人と子供達の知的な成長に何か
レベルの超高い高校の卒業生として。

     将来ノーベル賞受賞者が出るかも。
     格差が広がっていくであろう未来に役立つような人材が出るかも。


実は先日テレビを見ていたら元クラスメートの甥が出ていて
家を立て直すための人生に切り替えた
という話をしていました。


     すごい家です
     NHKで紹介されるほどの家ですし
     日本史上、何度も出て来る家です。


やっぱり  こういうガッツのある人物が出て来ると  家が持ち直して栄えるのだな  と思いました。

     ああ、これが「お家再興」ということか、と思いました。


浜松の為に頑張ってくれる人材が出ると良いですね。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2023年12月24日 22時27分46秒 ) パスワード

ここの所  いろいろ  降りて来ているな  と思ってましたが
昨日は  今年最後の  平熱のオカルトパワー  があったかも  
なので書きます。


     幼稚園以来の親友が木曾殿の侍大将の子孫で
     そして
     木曾殿の侍大将の1人  楯さんの子孫が町田啓太
         
         町田啓太は自分の先祖が落人とは知っていたから
         平家の子孫だと勘違いしてた


この話から幼稚園以来の親友が
先祖が木曾へ義仲さまと一緒に落ちて行く前に住んでた上野国の地に行ってみる
ことになりました。


だけど3時間かかるそうで
2度目の脳梗塞がひどいダメージを彼女にもたらしているので
かなり無理かも
ですが


ここから本題!

昨日「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」を見た後  15分のNHKニュースを挟んで  「相棒」の放送があったのですが

いつもなら  この15分のニュースは時間がもったいないので  見ないです。

    なんせタイパ重視のワタクシですから  15分もニュースなんかダラダラ見てるムダはしたくない


ところが・・・昨日は・・・雑事をしに行く気にならず
テレビの前で自分でも不思議なぐらいグダグダしてました


そしたら!

彼女のご先祖さまがいた場所のニュースが飛び込んで来てビックリ!


そしてNHKは親切なことに  地図  まで見せてくれました。

     方向音痴なので  全く  別の場所を想定してたワタシに

そのニュースの現場は
彼女のご先祖が群馬で元々住んでた場所から  真っ直ぐ  長野方面に行ったところでした。



なるほど!
彼女のご先祖の元々の場所=群馬=と
長野で義仲さまの侍大将になって   討ち死にして  一族は長野に戻り
その後
直江兼続(木曾義仲の侍大将だった樋口の子孫です)の命を受けて越後に残って堀にいやがらせをして失敗して会津には逃げて行けないから長野に戻った場所の関係は
そういう事だったのか
でした。


         この堀への嫌がらせにわたしの34代前の母方先祖の弟の子孫が与力


彼女のご先祖が群馬の地で新田義貞の先祖と関わっていたことも町田啓太がらみで知り


日本は小さな国だから   遠い場所  と思っていても意外と近かったりして
だけど
まさか  群馬と長野が近い  更に  新潟も近い  さらに  身延山も近い 
とは気づかなかったです。

      方向音痴だから。。。



そして今朝  メールを開けたら  彼女は「来年の夏に群馬の先祖の地へ行きます」  と書いて来ていました。


      もちろん彼女はわたしが昨日見たNHKニュースの件は知らないです


幼稚園以来の親友同士
先祖達が「敵の敵は味方」から同士だった
身延山がらみで彼女の先祖をわたしが知って彼女のご先祖の出身地を特定してあげた
今年は町田啓太の件から具体的な場所までピンポイントで知らせることが出来た


もう本当にこの平熱のオカルトパワーはスゴイです。

    彼女のご先祖のことを彼女以上にワタシの方が情報を持っているなんてね


        それは平熱で教えてくれた人がいたからです


日本人って本当に近い!
日本の国って本当に小さい!


蛇足

彼女とわたしに共通するある女性Xさんが  私の親友の脳梗塞と同じのに罹って    ところが  Xさんは離婚

しかしXさんは10年かかって東大でMAの学位を取得することが出来たので親友の御主人に伝えました


親友の御主人(父親さんが某超有名国立大学の教授。親友の御主人は某有名国立大学出身者)が
Xさんの学位取得に10年懇切丁寧に世話をしたXさんの教授に敬服して

それで私と親友の御主人で  10年計画で  親友の脳梗塞と戦おうと。


アメリカに来なかったらオットと出会うことは無く
そしたら
自分が平家の子孫だったことも知らず
親友との仲の良さがどこから来ていたのかも知らずにいました。



去年は対馬ルリ子女史のお蔭で  脳梗塞との闘い方を知り
今年は親友の脳梗塞を彼女のオットさんと共闘しようとしています。


この平熱って  今  自分が存在しているのは  先祖がいたからこそ  と教えてくれます。

わたしの場合は自分の先祖達だけでなく  いろいろな人のご先祖さまも助けてくださっているのを実感します。


取り敢えず寿命120年のこの先  100歳の時に圧迫骨折から寝たきりになって認知症を発症してあっと言う間に鬼籍に入らぬよう名古屋人は食べない納豆を

     買って来るように

します。あの糸がイヤなんだけど。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2023年12月28日 13時56分24秒 ) パスワード

今朝の番組  「夏井いつきのよみ旅in静岡  後編  浜松」 を録画で見ました。

    鈴木姓の人が2人出てました。
    やっぱりね
    さすが!
    笑



「物作りの町  浜松」
ということで   

岩佐さんとおっしゃる  2019年からピアノ作りを始めた方が出てて  感銘を受けました。

岩佐さんはご自身が生まれてすぐに養子に出されて  音楽などにも接することが出来て

それでアジアやアフリカへご自身のピアノを送っている
特に
施設の子供達にピアノに触れて欲しい
というような事をおっしゃってました。



そして  もう1つ感銘を受けたのが   世界の楽器の博物館。
すごいですね

人骨の楽器もあって   ← さすが!ローランド。  「人」骨で出来ているのを当ててました

人骨の楽器!
これは
驚きでした。

チベット仏教の影響でしょうね。悪人の大腿骨からは善の音が出るんだとか。



     姉はチェンバロが浜松にもあることが驚きでしょうけど
     私は  もし  チェレスタがこの博物館にあるなら  そっちを聞きたかったです
     浜松の楽器博物館にも  チェレスタはあるかも  ですね。


            余談ですが
            ミュンヘンの音楽大学のピアノが「KAWAI」でしたよ
            さすが、ドイツ!「KAWAI」を選ぶか!と。
 

                アメリカ人はスタインウエー系のヤマハが好きかな?
                ドイツ人はベーゼンドルファー系のカワイが好きでしょうね




岩佐さんには本当に感銘を受けました。

養子先で大事にされたのだな
次はご自分が親の無い子を大事にしてあげたいのだな
というのが伝わりましたよ。              
[83]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年12月29日 00時42分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私もこの番組、見ました。あを様も見られたということで嬉しいです。
 
 さて、今年もいよいよ終わりに近づきました。あを様にとって、来年もますます
いい年でありますようお祈りいたします!
 
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月03日 06時47分40秒 ) パスワード

録画してた番組を見ました。


松本潤が  中剃りのシーンの為に  1週間のお休み中にトレーニングして5s痩せようとし  4.8sの減量に成功


運動量は1日9時間のトレーニングだったかな?
食事は1食  300KCAL  だったようです。


      糖尿病予防の為に太らないよう  1食500KCALにせよ  と某先生がおっしゃってましたが
      1食300KCALなんて食べた気がしないわね。

         内容
         白米ご飯は茶碗に3分の1あたり
         おかずはカルク1つまみ分を4種類ぐらい   あったのかな?


         西洋菓子1食分でも300KCALあるのに。


本人は
中剃りやるから顔をシュッとさせなきゃ
ということで1週間頑張ったそうで


確かに中剃りのシーン
松潤らしい  なかなかのオトコマエ   でした。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月03日 07時30分26秒 ) パスワード

録画してあった番組を見ました  A


大谷吉継ですが
敦賀+向ひ蝶紋+紀之介+介錯したのが湯浅五助隆貞+妹が下間頼亮の妻+娘が真田幸村の妻
などから  すごく好きな人物です。

     日本人でこの人を嫌いという人はいないでしょうね



敦賀=南朝方の新田さんの拠点    気比神宮+金ケ崎城
向ひ蝶紋=平家の紋ですね
紀=紀伊国=平家+南朝ですね   ただし  グチャグチャに
湯浅氏=平清盛に与力して    鎌倉に仕えて  のちに南北に分かれて没落
下間頼亮=本願寺ですね  三重県の友人の御先祖で  反信長で我が家とも深い関係
真田幸村は  源義経の再来のような人で  この人を知らないと言う日本人はいないでしょうし義経よりは素直に好きな人が多いでしょう


録画してあった番組を見ました   B

敦賀に新幹線が来るということで敦賀の番組を見ました。

     越前とか若狭とか  あっちの方は平家ゆかりの地だから  当然でしょうけど
     偶然に映った人の背後からの顔が  一瞬  父にそっくりで  ギョッとしました
[86]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年01月15日 20時09分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日、ようやく人事がすべて決まり、委員長として最大の山を越すことができ
ました。今年は天満宮の氏子総代長を努めて、さらにもう1年選考委員を務めて、
役上がりとなります。歴史の探求についてはこれから徐々に浮上していきますの
で、よろしくお願いいたします。せっかくですので神道関係にフォーカスしてみ
ようかと思っています――

 
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月15日 22時14分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

やっと調整が終わりましたか。
大変でしたね。


もうあと少しの   いやいや更に2年の  お役目ですか。
大変ですね   

でも世間が広くなって  例えば市野の方とお知り合いになれたり  浜松城関係者と親しくなれて  思わぬ情報が得られるかも。


氏子総代長なら神社関係の方と知り合えてスゴイ秘密のハナシなんぞを聞かせて頂けるかもですよ
役得です!


わたくしとしましては  浅間神社の神職の服部氏について  三つ柏さんがお知りになることが出来ましたら  と願っています。


2年  地位確保で  人脈を広げてください。
楽しみにしております。
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月21日 13時33分23秒 ) パスワード

今日は録画してあった「和三盆」の番組を見ました。


四国東部限定の香川と徳島で現在6軒ほどしかやってないそうですよ。

干菓子  ⇔  抹茶
切っても切れない関係だったなと思い出しました。


     母方の岡崎出身の継祖母は「三盆白」と呼んでたような記憶
   わたしは当時小学生だったので記憶違いかも


創業1864年の服部製糖所(15代目  月及 部 ミ晃 輝  ハットリこうきさん)が取り上げられてて
https://www.awawasanbon.com/about/index.html



注文は
https://shop.awawasanbon.com/?tid=2&mode=f2
のサイトで送料無料のお知らせが書かれています。




「服」の字が我が家とは違うので  
系統は違うんだろうな
と思いました。

我が家は  「及」ではなく  「く」の字を用いるので。


     でも従兄は徳島で所帯を持ったので
     従兄の娘はどんな字を使っているか知りませんが


しかし父方祖母はサトウキビを育てて   お盆の時の集まりで  子供達にサトウキビをおやつ代わりに齧らせてました。


この祖母は西本願寺へのお参りのお土産が干菓子でした。
わたし達姉弟には「落雁」だったけど。

     安く上げたな(笑)



機会があったら和三盆のお中元も良いかもですよ。
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月21日 22時53分39秒 ) パスワード

徳島と言えば  蜂須賀家  ですね。
蜂須賀家と言えば  南朝方。

      だから秀吉と仲が良かったのは当たり前。


小六の蜂須賀家は
真清田神社や津島神社と婚姻関係にあって
真清田神社は尾張国の一之宮

               熱田さんは三之宮

          小六のお祖母さまが津島神社から来た正妻で?
          小六の嫁が真清田神社の娘だったか?
          記憶が   どっちがどっちの神社出身だったか  混乱  


津島神社は服部家とモロに引っ張り合いのある神社で・・・


もうゴリゴリのお仲間なので服部家の者が小六と共に阿波に行ったのは当たり前。
だから
その子孫になるのかな?



蜂須賀家は淡路島の稲田家が幕末に独立立藩したがって騒動を起こし
結局
稲田家は独立して北海道の静内に転府
というか
所払いね。


で、淡路島は兵庫県に入れられたのよね。


残酷な幕末話でした。
稲田の家来達は時代が読めなかったという悲劇ですね
時代錯誤だった
という。


いろいろ忘れてたハナシを思い出しました。
ひょっとすると   製糖所の  コーキさんは  わたしの血と肉を分けた一族だったのかなと。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月22日 14時00分25秒 ) パスワード

そして今日!
ビックリ!


録画してた番組を見てたら「徳島県三好市祖谷」の紹介番組でした。

冬期、雪の中で蔓橋を修理するハナシです。
今も3本架かっているそうで
春になったら観光客が来るから冬の間に修理。

    ワイアが中に入ってるから安全だそうですよ
    蔓のツルは火に10分くべて柔らかくして巻けるようにするんだそうです
           ビックリ!
           10分あたりじゃ燃えないんですね
           驚いた


祖谷は数十人の集落が80ばかり
米は取れないから三毛作で食べている
  (まずタバコを栽培して  その後  蕎麦を育て  その後  麦を植える三毛作農業)
   


昭和40年代には現金収入を求めて住人達が出て行った。


祖谷と言えば平家落人伝説の阿佐家が有名どころですね。


蔓橋修理の男性の家は明治時代に祖谷に移り住んだそうで


他の家の嫁さんは神奈川から(田舎に住みたいということで)祖谷の人が声を掛けてくれて

    ご飯  食べてけ
    風呂  入って帰れ

という感じだったのが気に入って祖谷の人と結婚し
子供が2人生まれて
祖谷の人達に孫のように可愛がってもらって育った
と言ってました。


蔓橋は800年前の平家の落人が架けたのが始まりで
とちらっと紹介してましたが

春になって観光客が来てくれるなら先祖のお蔭
持つべきは美田を遺してくれた先祖
です。


平家の亡霊
今に至るも子孫を守ってくれているんだなぁ
と。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月23日 09時31分51秒 ) パスワード

こんなのを教えて頂きました。


https://www.youtube.com/watch?v=9yTbPkBIXec
静岡県の偏見地図
[92]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年01月23日 10時12分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 銘菓「関の戸」の深川(ふかし)屋さん(服部家)と、和三盆の仕入れ先――徳島
の服部製糖所さんがつながっていたということ、蜂須賀家が介在した可能性あり
ということ、驚きです。見えなかったものがうっすらと見えて来たということ、
歴史探索の醍醐味です!
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月23日 11時10分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

>銘菓「関の戸」の深川屋さん(服部家)と、
>和三盆の仕入れ先――徳島の服部製糖所さんがつながっていた


驚きですよね。

日本ですね
思わぬところで繋がっている。


https://www.sekinoto.com/
関宿にて徳川三代将軍・家光の時代から続く老舗和菓子屋

創業約380年 深川屋は「忍びの隠れ蓑」

東海道53次の宿場町「関宿」で、江戸時代寛永年間より作り続けている「関の戸」は、忍者の末裔 服部伊予保重により考案されたお餅菓子です。

2019年深川屋に残る古文書から当時の忍びの記述が発見され、忍びの隠れ蓑の和菓子屋として 日本文化伝承を心がけております。


[忍びの隠れ蓑]


出るかな?服部一族の古い古いオリジナルの家紋。今は車の中に竪の並び矢紋ですけど。


家紋を見れば分かる人には分かる。

ホンヤさんも  有松?鳴海の服部家も  深川屋さんも
これで足助の服部家のことも分かれば   まさに!  服部半蔵一族のネットワークの完成。

    当然  お愛さまの継父だった服部正尚のネットワークにも繋がります。

徳川三代将軍・家光のお墨付きの御庭番(この言葉は8代将軍吉宗の時代の幕府の役職だそうですが)の家だった1つだ
と分かる人には分かるでしょうね。



わたしは三つ柏さんのお家は浅間神社の服部さんの家紋が三つ柏紋だったら関係があるんじゃないかなと思っています。

     神職だから「柏紋」に替えたのじゃないかなと。
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月23日 11時12分12秒 ) パスワード

画像が大き過ぎてSAGさんに叱られそう。


1枚だけだから見逃してくれるかな?
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月24日 02時13分17秒 ) パスワード

昨日はあれから「鶴瓶の家族に乾杯」の相棒がサマーウイカで   なんと  「淡路島」の後編でした。

     先週は「淡路島」は無視して削除した。


          なんかねぇ
          稲田家の世の中の動きが読めない若者達の騒動で
          蜂須賀家が貰い事故しちゃって

          誰がトクした?

          兵庫?
          当時の兵庫は(メンド臭いのを押し付けられちゃったよ)だった?


          ま、明治政府はトクしたかもね
          稲田に北海道の静内開拓をやらせることが出来たから

             すっごい残酷話


ということで淡路島にはいろいろ思うところがあったので先週は見なかった。
今回もすっ飛ばした。



だけどすっごいコインシデント。
ホント  平熱には  パワーがあるな。
[96]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年01月24日 10時51分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 深川屋さんの家紋、服部中保次の墓に刻印されている家紋と一緒のようであり
ます。近い内に引佐の気賀近くにある中保次の墓に花と線香と般若心経を捧げて
まいります――
[97]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年01月24日 21時57分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、中保次の墓に行って、墓を掃除し、線香と般若心経を二巻捧げてまいり
ました。墓に刻まれた家紋は、「源氏輪に横並び二つ切り竹」でいいでしょうか、
深川屋の服部家と全く同じでありました。
 とりあえずご一報いたします――
[98]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月24日 22時43分07秒 ) パスワード

三つ柏さん!!!

>深川屋さんの家紋、服部中保次の墓に刻印されている家紋と一緒のよう
>中保次の墓に行って、墓を掃除し、線香と般若心経を二巻捧げてまいりました
>墓に刻まれた家紋は、「源氏輪に横並び二つ切り竹」でいいでしょうか、
>深川屋の服部家と全く同じでありました。


背筋がゾクゾクして
両腕がパニックです!


やっぱり一族でしたか。


皆さん、服部半蔵正成のお父上の保長の一族で、服部一族のネットワークを形成してたのですねぇ。


わたくしは保長が三河に住んで(半蔵は三河生まれ、半蔵の兄上達は伊賀生まれだった記憶)
保長はアチコチに行き情報を収集してたというのを読みました。


服部家は分散して色々な所に住んで根を下ろし情報収集の中継所にしてたんだろうな、と。


     その中で  足助の服部家が未だにどこの家か  分からずにいます。


     遠江はお愛さまの継父の正尚が中心人物でしょうね


そこへ服部中保次がピッタリ収まりましたか。
面白いですね。




     武田の家臣で  武田滅亡後に川越で商人になった服部さんも  服部一族ネットワークの一員だったでしょうね

     この服部さんは  今は  車の中に竪の並び矢紋をご使用ですが
     これは江戸時代に平和になり文化が咲きほこり意匠が洗練されたからで
     その前は泥臭かった「源氏輪に横並び二つ切り竹」を使用。


          我が家も竪並び矢紋だから江戸時代からのしゃれた紋です
          笑

     

服部中保次は伊賀守宗純の子孫
光源院義輝将軍に仕え

     この後  信長に仕えた
     桶狭間の戦い
     この後に家康に仕えた
     足軽同心50人(のちに55人)を預けられた



関の深川屋さんの  忍者の末裔 服部伊予保重  は
「保」の字から
伊賀系  保長の長男か次男の系統  っていうのを意識した命名でしょうね。
半蔵は3男ですから。


     半蔵の次男が正重でしたね。



あとは今切関所奉行の服部政信の家紋が分かると良いですね。


政信の弟は  政重  ですから


服部家の「マサシゲ」って命名には何か秘密があるのかも
ですね。



書き出すとキリが無くなります・・・



>本日、中保次の墓に行って、墓を掃除し、線香と般若心経を二巻捧げてまいり
ました。

わたくしの分まで
ありがとうございます。


良いご供養になりました。
感謝申し上げます。
[99]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 02時07分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

>墓に刻まれた家紋は、「源氏輪に横並び二つ切り竹」でいいでしょうか


一応  服部中保次家が幕府に提出した家紋の名称は

「16桁車の内横矢筈」
「向ひ蝶」
「揚羽向ひ蝶の内に16葉菊」

になってますね。



>「源氏輪に横並び二つ切り竹」

これは整理上の名称かも
ですね。

いろいろなお店が名称がバラバラでは注文時に混乱をするから統一した名称かも。


母方の我が家の家紋も我が家で家書に書かれた名称と専門書の名称は違いますから
家によって
時代によって
名称はいろいろあったのかもですね。



尾張藩の家臣で名古屋から大阪に出た某服部家の紋は   XXXの切り竹  とおっしゃってました。

この家は戦国時代からずっと守ったのだなと思いました。
[100]空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 11時15分32秒 ) パスワード

好評につき服部カフェ4号店を開店致しました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/102089.html


Let's chill out at our favorite café.
お気に入りのカフェでのんびりまったりくつろぎましょう。
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