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 投稿番号:101930 投稿日:2023年04月18日 08時52分22秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部さんの代理
服部カフェ 2号店
キーワード:服部、羽鳥、服織、ハットリ、ハトリ
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

好評につき
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101884_132.html
「服部カフェ」
の2号店をオープン致しました。


「古代より現代に至る─服部」についての自由で総合的な考察の場─カフェ。
コーヒーでも飲みながら、語り合いませんか?

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月20日 10時04分03秒 ) パスワード

あを様

 ただ今、"2号店"で上島珈琲を飲んでいるところです。上島は「うえしま」と
読みます。「かみじま」と読む上島もあり、こちらも草(忍者)にからんでいる人
が知人にいます。
 楠正成や服部党や柳生家、日本の裏世界は、類は友を呼ぶ、また敵の敵は味方
―でつながる・・・ただし、ベクトルを1つに保って行くのは、強い宗教心がな
いと、または強い憎しみがないと、モチベーションを維持していけない。
 日本の歴史の底流にずっと流れるもの、その源流・水源地は「出雲」、そして
龍蛇のようにのたうつ太い流れは「秦氏」の大河なのではないかと推察しており
ますのですが、酔石亭主様、「秦氏」のベクトルは、紆余曲折をたどりながらも、完結したということはあるのでしょうか、それともこれからもどこかへ向かうの
でありましょうか? 

 来月の半ばに、個人旅行で「出雲」に行ってきます。スサノオについては、今
関心事の一番にあり、「日御碕神社」・「隠ヶ丘」に行くのを楽しみにしていま
す。
 また、続いて月末には団体ツアーで、「日枝神社、仁徳天皇陵、橿原神社」へ
行ってまいります。JIJI会長から氏子総代になったので、その研修旅行でありま
す。神道についても、いろいろな角度から深く探求したいと思っています。

あを様には、『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』を近日中に送ります――。


 
 
[4]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月20日 17時16分30秒 ) パスワード

あを様

 たった今、AMLが届きました。いつもながら、ゆっくり読ませていただきます。
ありがとうございました。

 
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月21日 03時15分50秒 ) パスワード

重大な発見をしましたのでレス<3>の書き直しです。少々手を加えました。

    バカバカバカ    わたしの    バカ!
    もうちょっと脳味噌叩き起こせよ!
    でした。


「上島姓」の多い場所の  京都府綴喜郡井手町って  宇治田原の南西でした!
    アップしてから  な〜んかモヤモヤしてたのです。
    何で?何で?何で?  何が来てるの?


寝てても  あれ?  何か来てるよ!  何?  ということで

今朝の家事が終了したから  地図を見たら   木津川のほとりというか  (場所!最高ですね)
宇治田原の南西でした!  


    宇治田原は 伊賀の2の宮  小宮神社 = 伊賀の服部一族の氏神  
    つまり  
    呉服くれは明神の神職だった服部貞信が戦国時代に実際に住んでた所!


服部貞信は家康の伊賀越えの手伝いをした人で  それこそ  甲賀にも顔が利いた人。

だって宇治田原は大津の南西ですから。
つまり
甲賀から井手まで南西方向一直線上です。

     甲賀 ーー 大津 ーー 宇治田原  ーー 井手町 ーー 木津川


ということで  伊賀越えが「伊賀ルート?」「甲賀ルート?」と限定する意味なんて  無い!
伊賀だ  甲賀だ  と区別するのがそもそも間違ってる。

     もともと伊賀と甲賀は1つの国で、山を挟んで  北が甲賀  南が伊賀ですから。


ということで書き直しです。
読み直したら自分でも意味不明だったりしてて赤面なので少々手を加えました。



三つ柏さん


Air Mail の到着のお知らせをありがとうございました。


ご旅行、お気をつけて楽しんで来てください。



>『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』

楽しみにしております。
ありがとうございます。



>JIJI会長から氏子総代になったので、
>その研修旅行であります。
>神道についても、いろいろな角度から深く探求したいと思っています。

いいですね

神道については  神職さんになる勉強をなさってはいかがですか?
ものスゴイ秘密のハナシを知ることが出来ますよ

     BBSには書けない  日本のヒミツを  「神職」という立場で勉強できます。


まだまだ人生は長いですからね


     ワタクシは丁度  浅間神社の神職の服部さんのことを考えてたんです
     ご子孫も神職さんでいらっしゃるのかな?  とか。
     家紋は何だったのかな?とか。(三つ柏紋の可能性はアリですよね)

            *ずっと下の方にもこの件を書きます*


神職さんの資格をお取りになりましたら
いろいろな・・・神服神社とか  服織神社とか  呉服くれは神社とか・・・その他神社の神職さんから御教示頂けるでしょ?
史料も見せて頂けるでしょうし。



ワタシは未だに  出雲(大社)・高天原・高千穂 が  こんがらがってます。

出雲大社には
    神話からの言い伝えで
    天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されていて
現在も天皇も本殿内には入れない。

           へぇ〜

天穂日命は出雲国造の祖神で
名義は高天原に由来する稲穂の神霊の意味。

           稲作がらみ?
           弥生時代って事?



高天原とは「古事記」の冒頭の「あめつちのはじめ」に登場する神々の生まれる場所・天津神あまつかみの住まう場所。
出雲の国譲りにより天照大神の孫(天孫)瓊瓊杵命が高天原から高千穂=宮崎県北部の山の中=へ天下った(降臨した)。


     高天原から放逐されたスサノオや、その子孫である大国主などは国津神


これ以上考えると頭が爆発しそうですから止めておきます。



>上島は「うえしま」と読みます。「かみじま」と読む上島もあり、こちらも草(忍者)にからんでいる人が知人にいます。


はい

上野の上島家文書によれば、
観阿弥は伊賀国阿蘇田(浅宇田)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、
母は河内国玉櫛庄楠正成のシスター(姉?)。

父の元成は上島家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%B8%8A%E5%B3%B6
ということで上島さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県         比率
長野県         0.05628%
富山県         0.0508%
奈良県         0.04442%
三重県         0.04053%
福井県         0.03176%
これから推測すると  平家  南朝方  ということかな?と。



市区町村                人数
長野県上伊那郡辰野町       およそ440人
奈良県大和高田市         およそ260人
三重県津市(うちの一族?笑)   およそ190人
富山県下新川郡入善町       およそ190人
三重県伊賀市           およそ190人



市区町村                     比率
長野県上伊那郡辰野町               2.305%
長野県下伊那郡大鹿村(宗良親王の行在所)     1.509%
静岡県賀茂郡東伊豆町(平家の残党?)       1.434%
京都府綴喜郡井手町 (宇治田原の南西隣)     0.782%
富山県下新川郡入善町(平家の残党?)        0.778%


なるほどね

と空想を付け加えました。
わたくしの願望です。


*観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には26世宗家観世清和による顕彰碑がある*

        なんという偶然の一致!

        永年思ってたことを  ココに  書くことになったのですよ


        恐らく  三つ柏さんが氏子代表さんになったことを  ご先祖さま達がお喜びだからでしょう

            今朝なんて涙が零れましたよ


        ワタクシの個人的願望では
        浅間神社の神職の服部さんの家紋が何か  知りたい  と永年思って来ましたから  しつこく(笑)



ウイキよりコピペ

観阿弥の出自

観阿弥の息子、世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、
観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、
その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。

この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、
観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。

     楠正成の姉上はどうなった?
  

なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。


また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月22日 17時29分33秒 ) パスワード

酔石亭主様

 「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」まで読ませていただきました。
 余りのレベルの高さにビックリです(月並みな表現で)!
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月22日 17時43分07秒 ) パスワード

あを様

 5月の出雲旅行は、妻の脊柱管狭窄症の治療のため、急遽延期することにいた
しました。少しモチベーションが落ちてしまいましたので、気分転換をして立て
直そうと思います!
 
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月22日 23時39分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

奥様  大変ですね。


先週だったか  NHKの「きょうの健康」で脊柱管狭窄症を紹介してて  オソロシイから  見ませんでした。

腰は大切です   痛みがどこから来ているのか  場所によってオソロシ過ぎです。


    人気のブロック注射で間に合う人はラッキーですが
        ステロイド系の場合は  後で  やっぱり  オソロシイですから 
        
    やらない  に1票です。 

             ホント!ステロイドはオソロシイのヒトコトです。
             簡便ですけどね


             台所仕事で手のひらの親指の南西方向(笑  方向音痴が  恥)が吊るので
             ステロイドを2回打ちました  ホント  楽勝でした

             しかしコロナで医者に行く方が恐ろしくて  注射は打たないことにしました


             今は吊るとスグに目の前の蛇口を捻って湯で温めて解消させてます



腰はホントに大切です。
奥様の奴隷になってあげてください。

     奴隷状態が一生続かないことを願っています

奥様の回復を(三つ柏さんの分も)祈っております。
[11]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月23日 07時00分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


奥様の脊柱管狭窄症大変ですね。ご夫婦の日常生活に大きな影響があるでしょうから、出雲行の延期は致し方なさそうです。治療により早く回復されることを祈っています。


「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」までもう読まれたとは吃驚です。このシリーズはブログで最も書きたかったものでした。とは言えうまく着地できるかもわからず、資料読みや構想も含めれば半年程度かかった記憶があります。

出雲行延期の間に是非大元出版の「出雲と蘇我王国」を取り寄せご一読ください。明らかな間違いはみられるものの、出雲とは何かの理解が大きく進むはずで、きっとモチベーションも上がりますよ。
[12]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月23日 13時24分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 ご心配下さいまして、ありがとうございます。
 歳とともに体が劣化していくのは、いたしかたないことですが、何とかだまし
だまし、無理をせず生きていければよしとしたいと思っています。

 出雲に関する本は、酔石亭主様よりのご教示に従い、『出雲王国とヤマト政権』
『出雲と蘇我王国』は入手し、読んでおります。1回だけでは頭にすり込みがで
きず、2度、3度と読まなければと思っています。

 出雲の謎も蘇我氏の謎も、いずれも広い意味で秦氏がらみですね――。
 
[13]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月23日 20時59分31秒 ) パスワード

三つ柏さん あをさん

私も最初に読んだときは全く頭に入りませんでした。理由は、

通常の理解と異なる内容(トンデモ説的な内容)があること。
年代観に誤りがあり、時系列もあいまいなこと。
内容があちこちに飛ぶこと。

などがあるためで、必要のない部分は頭から外し、富家伝承の年代や
内容を出雲に関する考古学的知見、史料などと比較対照して整理し、
何とか理解できました。

出雲王家の事代主や八千矛が幽閉された話など本当かと思いましたが、
出雲大社宮司家の重要神事の内容を分析すると、ひどい仕打ちのお詫び
となっている点などから、やはり伝承に見合うような何らかの事態が
存在していた可能性があると思われます。

焦らずゆっくり読み解いてモチベーションを上げ出雲探索の糧
としてください。

[14]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月24日 03時19分11秒 ) パスワード

三つ柏さん
酔石亭主さん


わたしは  神代の理解は  まず  ついて行けない。


そもそも人類の起源も時代が悠久過ぎるし。
    我々人間の先祖は
    これまでは  「魚」  と言って来たけれど
    今は  「ほや」  という無脊椎動物  と言うことにしました(笑)     学習しましたっ!敬礼


酔石亭主さんのブログで  やっと  ジブチが独立国だというのが納得出来ました。
    自衛隊の空輸機が「まずジブチに飛んで」というスーダンの邦人救助のニュースが理解出来ました。

    これまでは  ジブチってエチオピア?ソマリア? 紅海のコッチ側だよね?  でした。


酔石亭主さんの「日本人は他から縛られるメンタル」というの
    戦後78年
    コンピューターの発達
で崩れて来ましたね。

    フィリピンを舞台の電話詐欺グループの暗躍が発覚して
    北海道の人達が  恥じている  ハナシを最近耳にします。
    「北海道の農家の倅達があんな事をやらかしていたなんて」

        
あの人達は闇組織に「縛られていた」からと思いたいです。
[15]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月24日 18時45分55秒 ) パスワード

あをさん 三つ柏さん


>わたしは  神代の理解は  まず  ついて行けない。

神代と言っても実際には1800年から1300年前頃の出来事を神話化したもの
なので、そんなに大昔でありません。加えてシュメールやエジプトにおける
現実の歴史の半分以下の長さですから、短いとしか言いようがありません。
100歳の人を18人並べれば届いてしまうほど近いのです。
読むべき史料や解説書なども少なくて済みますし、神代の方が楽そう…。

逆に中世史や近世史は多くの史料や解説書があり、読むだけでも大変。
既にあらゆる視点から検討されているでしょうから、独自の論考を
立ててるような隙間がなく、こちらの方が苦手です。

まあ、人によって得手不得手はあるので、不得手部分は助けてもらいながら
楽しく探索すればいいのではないでしょうか。
[16]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月25日 06時57分44秒 ) パスワード

あをさん 三つ柏さん


>酔石亭主さんの「日本人は他から縛られるメンタル」というの
    戦後78年
    コンピューターの発達
で崩れて来ましたね。

ご指摘の通りでこれはこの論考を書いた際危惧していたものです。
他律的集団主義の世界が壊れると、自律的個人主義のに戻るかと
言えばそうはなりません。
間違いなく自分の中の空洞に直面し、自分を律する規範が自分の
中に存在しないまま、結果何でもありの状態になってしまいます。
最近異常な事件がますます増えており、そうした事態の具体的な
表れのようにも思えてきました。ではどう対処する?

日本人全体が崩壊の危機に直面した段階で、相転移が起き全く違う
人類として再起動する、つまり日本人が他のすべての民族に先駆けて
次のステップに入る、と言うのが以前に考察したシナリオです。
AIの進化がそれを齎してくれるのではと期待していますが、私が
見届けるのはまず不可能だろうとは思っています。


[17]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月25日 18時17分10秒 ) パスワード

酔石亭主さん

神代の時代のお話は  神様方のお名前が   1柱に複数あって  ついて行けないです。
現代のお話も  歌舞伎役者など伝統的な世界のお名前は  ヤッパリ  ついて行けないです。
ま、中世も近世も  やっぱり  ついて行けない。  通字からどこの家かなという推測はできますが。


ここの管理人さんが  頭脳超!超!超!明晰な方なのに  「人名が苦手」とおっしゃってましたが  わたしもです。
   わたしの頭脳の方は Brain Fog がかかってるのが理由ですけど。
        途中でワケ分からなくなる。  
             実は  ソモソモ  理解してないから。泣



日本人は「自家薬籠中化」が得意だなと思います。  
オリジナリティは低いけれど  開発改良が得意で  昇華させる。

縄文人から弥生人に成長した日本人を秦氏は自分達の理想の人間像に訓育したのか? 


日本人は自らは内に籠る傾向があって行き詰まるが外圧で大きく変化し自らを成長させるんじゃないかな?

秦氏の来日
1853年のペリー来航
78年前の敗戦
この先は  
研修生?  東南アジアや南アジアなどからの若者の流入で  今の煮詰まった日本を変えて行くんじゃないかな?

     バブル崩壊後、停滞した日本はさまざまな矛盾と破綻をきたしているけど
     新しい日本が生まれる陣痛中なのかも。



しかし、それにしても余りにも情けない日本人の姿に唖然としています。

     今朝のニュースで  詐欺電話の指示でATMで送金している女性が映ってて  
     この女性は5回!計350万円以上!やられているのに全く自分が詐欺に遭ってることが理解出来ていない!

          ま、パニックを起こしてメンタル・ブロックがかかってしまっているって事でしょう。

          
             ペリー来航で日本人同士が殺し合った時代
             ミッドウエー海戦後、奈落に落ちて行った日本
             こんなのを連想してしまいました
          


日本は永く「嫁という名の奴隷」がいたけど  
今は「日系人とか技能実習生とかいう名の奴隷」を使っていることを早く自覚して欲しい。

    「日系人」については「日本人の先祖」を持つ人は日本の工場で働けるって制度のことね。1990年代でしたっけ?


日本はここ30年  給料のアップが無くて
介護職に就いてた日本女性がオーストラリアで介護職に就いたら
日本のお給料はオーストラリアの4分の1だった!
という話を聞きました。


それは  日本は  永らく家事とか介護とかいう仕事は「女」の仕事で
     「女の仕事だから無給でやって当たり前」  
というのが日本人のこれまでの感覚で
     「亭主の親の介護は嫁の仕事」つまり「無料でやれ」と。

      某日本の姑のお言葉:
      「私の介護なんて自分の娘には   かわいそうだから  やらせたくない。嫁がいるんだから嫁がやるのが当たり前」


でも今の日本では「妻も働きに出ないと一家の生活が成り立たない」事態になっている。
だからアジアの若者を低賃金で嫁の代わりに使いたい。

      お金?
      そんなもん出来るだけ払いたくない。


そろそろアジアの若者を日本に引き留めるの、限界じゃないですか?

低賃金で悪名高いアメリカの巨大スーパーのウォルマートでも最低時給は17ドル50セント。40万円超え!
     
<参考>
令和2年の技能実習生の平均給与は16万1700円。
実習生とほぼ同年代(25〜29歳)の日本全体の平均給与は36万5000円。



もうそろそろ日本に<外圧>があるのが良いのでは?
日本自身が生まれ変わるのにも。


    欧米は日本の技能実習生制度という奴隷制度を非難してるんですけど   
    日本人の皆さんには届いてないのかしら。

       某日本の嫁さんの反応:
       え?あの人達がいなくなったらワタシがダンナの親の介護をするってこと?
[22]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月27日 14時50分10秒 ) パスワード

あをさん

私の方もレス5,18,20を削除しておきました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月27日 17時10分10秒 ) パスワード

酔石亭主さん


削除なさったのですか?
もったいない!


酔石亭主さんの解説は貴重な情報ですのに。
運良く酔石亭主さんのレスを読んでた人は(ラッキー!消される前に読めたよ)と喜んでいると思いますよ。



コロナが始まった時に
つまり2020年の大河が「麒麟が来る」の時

知り合いと「信長は天才だからね。天才には敵わないわね。ウチもボロ負けした」と話していたら

たまたま「うちも負けた」と言う人がいて彼女の家は代々「松永久秀の子孫という事はずっと秘密にしてきた」と言ってました。


うちの  (田舎の方の家の)  近くに長田さんという家があって
    みんな知ってるし  頼朝からどういう目に遭わされたかも知ってるし
だから    武士は相身互い   でした。


明日は近所に住む朝比奈さんの一族に
「朝比奈の殿様の玄孫だか来孫だかのクリニックの住所と電話番号が分かったから医者を替えたかったら予約を入れたら?」
とメモを持って行きます。


そうそう金沢の友人は「アンタんとこが松と犬をちゃんと〆ておかなかったから金沢の人間は迷惑した」としょっちゅう書いて来ます。だけど  江戸時代は禄を貰って  さらに  明治政府になってからは  使い切れない額の給料を貰って良い生活が出来たのだから  前田家には感謝じゃないの?と反論するんですけどね。
金沢の友人はまさに酔石亭主さんがご指摘のワタクシのメンド臭いメンタリティそのものです。

    松さんは  うちの村の1番の出世頭だったけど  気の毒な人生になってしまいました内助の功を頑張ったのに。



他にもメンド臭いメンタリティの友人がいて
この人は伊達政宗が大嫌いな人で  「イタチ」  って呼んでました。
わたしのサンタモニカの家の近所に伊達さんの孫姫がいて
彼女のハナシなんかは聞きたくないわけで


こうして反省すると私の回りは敗者ばっかり。ただし「たられば」のハナシはしなかったですね「忸怩たる思い」を抱えつつ。

[24]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月28日 18時55分57秒 ) パスワード

あをさん 

>こうして反省すると私の回りは敗者ばっかり

武家の子孫は色々大変なようですね。会津人はいまだに
長州人に確執(遺恨)があるなどと言われてますし。
(本当にそうなのか疑問もあるけど)

まあ、禍福は糾える縄の如し、勝つも負けるも時の運、
などと言いますし、今あるのを幸せと思えばいいのでは…?

心配なのは過去ではなく未来で2070年の日本の総人口は
推計で8700万人。今20歳の人が70歳にもならないうちに
こんな状態になったら本当に大変です。
もちろんITのさらなる進化で一気に相転移して乗り越える
可能性もありますが。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月29日 00時40分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>会津人はいまだに長州人に確執(遺恨)があるなどと言われてますし。
>(本当にそうなのか疑問もあるけど)

わたしの回りは  イエス  です。


サンフランシスコにいた時の会津人も  イエス  でした。
会津圏外にいるから  押し黙ってはいるけれど  心は相手を見定めてから吐露する  って言ってました。

    サンフランシスコで特に成功した人達ですから  心の裡を出さないコントロールの出来た人達  でした

        わたしは会津の殿様と全く無関係という立場じゃないから、だったかも。



ホノルルの日系会津人も  イエス  です。
「八重の桜」は英語のキャプション付きで観られましたから。あ、日本語では「字幕」か。

    あんな綺麗ごとのドラマに纏められたレベルじゃないっていうのはアメリカ人でも大人なら考えられるし



逆に会津がらみでこんなハナシを聞きました:

元年者(明治になってハワイに来た移民)の入国手続きをした係官が会津出身者で

    会津の人が沖縄の事情を分かっているわけが無く

沖縄人の名前(計5つある件)で  
   会津出身の係官が沖縄人の名字を屋号で記録してしまって
ハワイには沖縄には無い名字が存在してたりしている

    部外者にヤヤこしいハナシをすると余計に混乱してしまうってハナシです。

    当時なら  言葉そのものも  会津弁と沖縄語(うちなー)は乖離してたでしょうし


とか


被害者その2(笑)は沖縄人ではないハナシですが
日本人の名字の漢字って  地域によって読み方が違うから  会津出身の入国管理者に会津風に変えられてしまった
というハナシを同じマンションの日系人から聞きました。

    で、わたしは、この人の名字が未だにこんがらがってる
    名古屋人のわたしの回りにはいなかった名字だし



>今あるのを幸せと思えばいいのでは…?

名前を変えられて
    恨み1000年続けるぞ!
という国の人達もいれば


創氏改名時に日本人に化けたまま  UCLAで教授をしてた人もいます。

    いろいろ政治情勢があって  今もゴタゴタやってるから

日本人の名字が都合が良いのだ、
と奥様が言ってました。


確かに  この先の政治情勢では  日本の名字がお子さんやお孫さん達の役に立ちそうです。

まさに  <<<禍福は糾える縄の如し>>>  です。ふふふ

          そんな意味で書いたんじゃない!
          と叱られそう



>2070年の日本の総人口は推計で8700万人。

わたしが小学生の時は  「日本の国土では人口3000万人が丁度良い」  と社会の授業で聞きました。



http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101931_5.html
日本の人口推移で書きましたが

明治維新   1868年   3330万人
大正時代   1925年   5972万人あたり
終戦の年   1945年   7199万人
ピークを迎えた2008年  1億2808万人
2021年         1億2550万人
将来予測   2100年   5972万人だろう    


わたしは  その頃には
  外国人が日本人と入れ替わっているんじゃないか?
  天皇制は存在してないんじゃないか?
と想像しています。

いずれ

日本史は  亜細亜の東の外れの島々にムカシいた原住民の伝承  になってるんじゃないかなと。

縄文人 →  弥生人  →  日本人  →  亜細亜人とか?


今朝もバカを書いてしまいました。
これも自己嫌悪が始まったら削除します。
[26]酔石亭主さんからのコメント(2023年04月29日 14時56分12秒 ) パスワード

あをさん 

ここ最近尾張南西部関連やその他で書く内容が、期せずしてあをさんの心の裡を炙り出す結果となっているようにも思えてきました。なので、また一旦平熱から退出させていただくこととします。また面白そうなテーマがあったら、参加させていただきますが…。

三つ柏さん

出雲に関連してあをさんは既に読まれていますが、新ブログで書いた「出雲神話と富家伝承の謎を解く」、「出雲大社と富家伝承の謎を解く」のシリーズは「出雲と蘇我王国」や「出雲王国とヤマト政権」における年代観などの間違いを整理し再構成していますので、三つ柏さんの出雲探索の一助にはなると思います。お時間が許すならご一読ください。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月29日 23時45分55秒 ) パスワード

酔石亭主様

 ありがとうございます。さっそく読ませていただきます!
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月30日 00時02分35秒 ) パスワード

酔石亭主さん

酔石亭主さんのお蔭で   思いがけない発見?  をしました。


「元年者の入国審査を出来る会津人がいた」という事が発見であり(恥)驚きでした。
あの当時に日本人が入国審査の係官が出来た?


つまり  英語が出来た  ということですよね。


明治17年以降に日本から労働力として   (奴隷代わりの)  日本人が大勢ハワイに渡って来ました。
この時迄には英語の出来る日本人や日系人が増えていたでしょうけど。


     日本人の英語力って
     最近  世界110か国の中で  80番目とか80番台とか言われてて
     アジアでミヤンマーとかラオスとかと争ってる
     なんて聞きました。

     ずっと前の時代の私は
     日本はタイと英語出来ないアジアの国のドべ(最下位)を争ってる
     と聞かされてて

     いえいえ
     タイ人   英語出来ないって  そんなことは無い
     と思ってたけど

     いつの間にやら確かにタイに離されてたのか。


良くも悪くも日本人が外国語が出来ないという現実
     漢文やっても中国語  分からないものね  同文異種だから
     その感じで
     Englishが「英語」に化ける・化けた国ですから
元年者の入国に働ける人達がいたことに  改めて  驚きでした。


それも「会津人」だった!
つまり江戸で英語を習得してたんでしょうね。
それがハワイで仕事に出来た!


一昨日の「らんまん」でジョン万が「オランダ通事が間に入ったから日米不平等条約になった」と言ってました。


     日本ですね
     日本そのものですね
 

        わたしもEnglishが出来ないのをベトナム人の上司に指摘されたのを思い出しました

            そーゆー意味で司法省は言ってるんじゃない
            って。


               たとえば
               compromise の訳は 妥協する・譲歩する・和解する
               あたりだろうけど


               裏の意味は「弱みを握られたから」妥協・譲歩するより他ないわけだ

                    国語力・読解力・洞察力に劣るわたしはソーユーところが分かってない(恥)



江戸で英語を学んだ会津人のホントのところの心情を理解したかも
と酔石亭主さんには感謝です。



ハワイで日本人は奴隷代わりに働いた
というハナシを書いておきます:

    奴隷制度がアメリカでは廃止になって
    それで格安で使える「手」が欲しいハワイは
    人民を養えなくなって「棄民」をしたい日本政府とwin-winということで

        石川達三の『蒼氓』の世界ですね

    大量の日本人がハワイに渡ることになりました。


監督さんがポルトガル人で
(だから日本人の前はポルトガル人などが農園で働いてた)

病気になると困ったわけです
(白人の)医者が診てくれないから。← 語弊ある書き方だ

         この問題は白人の医者が意地悪というわけではなく
         今に至るハワイの問題でもあります

              わたしの夫は数年間本土の医者に通ってましたよ
              飛行機で  ファーストクラスで  病気だったから

それで灰田勝彦の父上がハワイの日系人のために医師として来ました。
過労で間もなく亡くなりました。

灰田先生のクリニックは今は大きな病院になってて
盛田昭夫さんが倒れた時、この病院に入院したと聞いています。


朝比奈の殿様も免許を取得してクリニックを開業して日系人の為に働いてたと聞きました。1945年に亡くなったと読みました。

     
仕事を辞めて毎日をボ〜ッと生きてますから
刺激を受けないと
何も考えないです。

自分でする事  興味のある事  って惰性でやってるから
他からの刺激を受けないと  活性・内省  しないんですよ。


なので酔石亭主さんには感謝をしてるんですよ。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月30日 05時03分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』
昨日(4月28日金曜日)に頂きました。

ありがとうございました。


すっごくスラスラと読めました。


         「ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国」は難解のヒトコトです。


世阿弥が南朝方の逆スパイだった?
    ま、父親や祖父の代は南朝方だった
世阿弥が 南朝方の二重スパイ? それで佐渡に流されることになった?

勿論、義満に愛された世阿弥ですから  
後継の(義持・)義教そしてその取り巻きには愛され過ぎた世阿弥の存在は面白くなかったろう
と想像します。

粛清されなかっただけ良かった、と。



伊賀忍者の大部分が南朝方を支持してた
という説に大満足です。


この部分でも  父と母の結婚の背景の一助  になってて驚きました。
やっぱり1組の男女が結婚するということは見えないパワーが何重にも働いているんだな、と。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月30日 11時55分52秒 ) パスワード

三つ柏さん

『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』
この本
中学生になった男の子には贈り物に最適ですよ。


前書きからワクワクするし
内容もワクワクするし


内容が  簡潔に纏められてて  それでいて   深い   ものすごく深い!
そして  子供達の将来へのヒントが深い。就職した後に生きて行く道しるべになります。


中学生が読むにはピッタリの本だと思います。


________________________________

とにかく  サラッと  深い事が書かれていて

ロス時代に  仁田尾さんという一家がいたのですが
   熊本の五家荘に仁田尾という村があって
   菅原道真の子孫が追討を受けて落人になって開墾した村
というのには驚きました。

確かに教育に熱心な家庭でした。


________________________________


それから楠木正成の3男の正儀の曾孫が桑名の刀鍛冶に弟子入りして刀鍛冶になった話が出てましたが

大昔  わたしが腰掛けてた時に  桑名の刀鍛冶の息子がいました。
「三重の子がなんで三重県庁に勤めなかったの?」と訊いたら
「三重県は縦に長いから  三重県勤めは動くのが大変だから  楽なXX県に決めた」と言ってました。

    すっごく性格の良い男の子で
        ♪アイツはアイツはカワイイぃ〜  年下の男の子ぉ〜♪という歌があったけど
    わたしはオトコは1日でも1時間でも年上が好みだったから  ちょっかい出さなかったけど

    当時は父方には全く興味が無かったし
    三重県なんて木曾3川の向こうだから  魑魅魍魎が跋扈する世界  と思ってたし
    母方は菊水紋を一時使って戦ってたことは知ってたけど  

       母の従姉妹は  甲賀出身の  父と同じ家紋の使用家出身者と結婚してて
       その近所の道案内板に「四条畷」が書かれてて
       楠さんとは御縁があるんだな〜
       なんていつも母の従姉妹の家に行く度にこの道案内を見てました

     
まさか!アメリカに渡る寸前に  楠木正成公の御子孫と  CLOSE CALL  してたとは。

さっき洗濯が終わったので調べたら  彼の名字は   橘姓楠木氏流  だったので。。。。
ヲイヲイ   


本当にすっごく良い子で

   わたしは当時蛍光灯の下では  「仕事が出来ないあをちゃん」  と呼ばれてて  
   蔭で無能なオバサン(24過ぎたらオバサンと呼ばれてた時代)扱いされてました。

       わたしは語尾に「音痴」がつくものは網羅してて
          ホントに無能だった
      
       それである人が私をアメリカに追い出したのでした
       飛行機に搭乗するまで確保されてた


だけど、この橘姓楠木氏流の男の子は「あをちゃん」「あをちゃん」と慕ってくれてた。


ま、桑名の子だから
ホンヤさんのことは知り過ぎるぐらい知ってる桑名人だから

   わたしは桑名人から  ホンヤさん関係の  姫の1人だと誤解されてたのは知ってたから

その路線で親しくされてると思ってた。


三つ柏さんがよくお使いの「シンパシー」が彼にはワタシに対してあったんですねぇ。
驚いた。

   わたしは  向こうから来ると  逃げる傾向があるから。

_________________________________

この『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』  
本当にスゴイです。


レス<1>の三つ柏さんの書き込みの  2023年04月20日 10時04分03秒  から
三つ柏さんは  神職の勉強をなさったら  日本の秘密結社の件が  神職の立場でスゴイことが分かるのに
と思ってたけど

今は本当に神職の勉強をなさったら  BBSには書けない  日本のヒミツを教えて頂けるのに  と思っています。
[31]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年04月30日 17時28分29秒 ) パスワード

あを様

 とりあえず、感想ありがとうございますと言わせていただきます。
 (大本家の奥さんの葬式を終えたばかりで、集中力がバラバラ状態ですので)
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月06日 03時54分05秒 ) パスワード

「浜松まつり」の「家康公  騎馬武者行列」が無事に終了して安堵しました。
事故や事件が起きなきゃいいなと思ってましたから。

    それにしても68万人の人出でしたか。
    すごいね。
    68万人の人出の場所には行ったこと  無いな〜

          最高記録は4万人のバーゲンセールに参戦したこと
          一瞬迷ったらサッと奪われてた
          戦利品無しでスゴスゴ帰宅した
          夕刊に「4万人の人出だった」と書かれてて  
あれ以来人の多い所には行かない行けない行きたくない


コロナ明け(で良いのかな?)のイベントで経済効果バッチリで良い風が吹き出したようで経済が回復しますように。


無事に終わって警備担当の方達はドッと疲れが出てるかもですね。




『日本驚異の秘密結社(那由他一郎著)』の<左翼・右翼団体>編。
知らないハナシばっかりで驚いた。
「単語」は知ってたけど「文章」としては理解してなかった。


      安田講堂闘争で法政大学の旗が翻ってた理由を今年知ったレベル


「おしん」の農民運動に人生を捧げる「並木浩太さん」(渡瀬恒彦が演じた)で、
ああいう運動をする人は高学歴でいいとこのボンボンというのは分かってたけど
本当に超高学歴者でいいとこの御曹司達がいたんですねぇ。

      堤清二とか渡邉恒雄とか



知り合いが「鎖の会」に入ってたことを噂で聞きました。

この人もいいとこのボンボン育ちだったけど「盾の会」には入れて貰えなかったんだろうというのが今頃分かった。

      あんなお坊ちゃま君がなんで右翼?
      多分  三島の名に引きずられただけ  じゃないのか?

逆に親御さんは(「鎖の会」レベルでホッとした)でしょうね。


「左翼・右翼」の章は全く知らない世界・理解も出来ないレベルでした。



重信房子の件では国際手配が回って来た時にバカやっちゃって上司に嗤われた。


これ以上は  オソロシイ。
ま、わたしには理解出来ないレベルの章でした。
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年05月07日 17時07分06秒 ) パスワード

「 ウト考――ウトはその昔、日神であった 」

 ※注
  ウト:Ut(ラテン語表示)、ウツ、ウトゥ。
  日神:ひのかみ。太陽神のことでもあるが、日は日本古来の「やまと言葉」。
  太陽神:太陽は、「中国伝来の言葉」で、易経思想に基づいたもの。

 『天孫人種六千年史の研究』(愛媛県大三島神社神官三島敦雄著)という本の中
には、「ウト」という言葉が何と50回以上も出てきます。
 この三島氏は、「ウト」について、具体的にはシュメールで祀られた「日神」(ひのかみ)であったと説いております。

 シュメールとは、今から6000年から4000年前にチグリス・ユーフラテ
ス川の流域一帯に栄えた文明であります。
 シュメールと日本の間には何万キロメートルか、相当の距離が横たわっており
ますが、遥かな昔――古代、超古代に、いわゆる「海のシルクロード」といわれ
る海路が開かれていたようで、海運が盛んでありました。もちろん、陸のシルク
ロードもあり、ユーラシア大陸の内陸部をつないで栄えておりました。
 主として、この海のシルクロードにより、シュメールから人やその文明も伝わ
ってきたと思われます。
 日本の海沿いの各地に「ペトログリフ」という岩刻文字が見つかっており、シ
ュメール起源であることがわかってきております。あの厳島神社の裏山の弥山
(みせん)にも、頂上付近にいくつかの岩刻文字が存在していますから不思議です。

 さて、シュメールでは、日神「ウト」が氏神として祀られていたということは
確実であります。
 一方、日本においては、「ウト」と名の付く地名や「ウト」という苗字が存在
していることは事実であります。
 この2つの間に、どのような関係・経緯があるのか、それは今のところ具体的
にわかっておりませんが、そこには歴史の「深い謎」が横たわっているように思
われます。
 推測としては、ウト神、つまり日神・太陽神を祀った場所が、地名のウトにな
り、祀った人達、あるいはそこに居住した人たちもウトを名乗ったという可能性
はあります。
 実際はもっと複雑な経緯があり、それはさらに複雑で深い謎なのかも知れませ
んが、天文学・暦学・宗教・政治等が関係してくるものと考えます。
 この問題は、とてつもなく大きく、しかも時間がかかる問題でありますので、
今後も探求していきたいと思います。

 三島敦雄氏は、「ウト」について、次のような説明をしております(ただし、
表面的な説明に終わっております)――

 「日神ウトまたウツは、わが国においてもウト、ウツといい、また変化してウヅ、ウチ、ヲチ、ウサ、ウス、ウツシ、ウツツ等と唱えた。

・ウトまたはウツ(宇都・宇津)は、豊後、伊予(安芸)、下野、長門、薩摩等の神
 社名・地名として伝わる。

・ウト(宇門、有度、莬砥、宇刀)は、大隅、駿河、和泉等の神社名・地名として
 伝わる。

・ウヅ(宇豆,珍)は、大隅、日向、豊後、大和、紀伊等の神社名・地名として伝
 わる。

・ウチ(内、宇智)は、天孫第一の王都たる薩摩国加世田、第二王都高千穂宮趾た
 る大隅国鹿児島神宮の地、伊勢大神宮の称号等、皇室並びに天孫族の日神名称
 で、神名・地名として伝わる。この他尾張、大和等にも存す。

・ウヂ(宇治、莬道)は、伊勢、紀伊、山城、大隅、薩摩等の神社名・地名として
 伝わる。

・ヲチ(小市、乎致、越智、尾市)は、伊予、大和の人名・地名として伝わる。

・ウサ(宇佐)は、豊前の神名・地名・人名として伝わる。

・ウス(宇須、臼)は、大和、下野、豊後等の神名・地名として伝わる。

・ウツシ(宇都志)は、筑前、信濃に神名として伝わる。

・ウツツ(内々、現々、内津)は、尾張、下野、和泉等に神社名・氏族名・地名
 として伝わる。

以上、それぞれ日神に縁故がある。」
ということであります。

 さて、ここで三島氏とは離れて、太田亮氏の『新編姓氏家系辞書』を調べてみ
ますと――
 「宇都(ウツ):@備前(藤原姓)ウト、宇津に通音通用。菊池氏家臣。
        A駿河(和邇部姓)有度郡宇津(または宇都)より起こる。
        B薩摩にも宇都氏がある。     」
 となっております。 

 また、ウェブの『日本姓氏語源辞典』を見てみますと(要約)――
 「ウト(宇都):@地形 門割(かどわり)制度の宇都門から発祥。ウトは崖、
         洞穴をの意味。
         A〜P それぞれの小字の宇都から発祥。
         Q 駿河国有渡郡から発祥。 」
 となっております。
  
 宇都氏の分布については、鹿児島県に約3700人。次が宮崎県で約700人、次は大都会の大阪となっております。つまり、何といっても鹿児島に固有な苗字
であります。
 特異な存在として、駿河から出た宇都氏というのは、ある意味で歴史の謎を解
くカギなのかも知れません。それは、この宇都氏は浅間神社の社家(神主)となっ
ているからであります。実は富士山は、信仰対象としての歴史は古く、また太古
には富士王朝があったという伝承・古文書もあり、薩摩、あるいは日向と富士と
の間に、日神ウトを介在としてのつながりがあった可能性もあります。

 いずれにしましても、これらの推測を裏付ける確実な事実関係・証左は今のと
ころ得ておらず、今後も引き続き探求の旅は続きます――
                                          

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月08日 04時15分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございました。


レス≪33≫からですと、

まさに!わたくしもバリバリの「ウツ」の子孫になりますね。
84代前です。

家紋の件では   元は「バビロニアの海神の紋」だそうで
            現存する1番古い家紋は  幼稚園児が描いたようなレベルで
            デザインに才能の無いワタシの先祖らしいと笑ってしまいました



やっぱり  中東  西アジアの出身  は否定出来ない?
でも  海はコワイ  です。 
もともと遺伝子的にノロウイルスに耐性が無いので  クルーズ旅行は絶対にしたくない

    1クルーズの乗客10%あたりの600人ほどがノロを集団発症する場合  その中の1人だと分かってますから。

          あ、ノロは「クルーズ病」として知られていると遺伝子検査結果に書かれてました




>駿河から出た宇都氏というのは、ある意味で歴史の謎を解くカギなのかも知れません。
>それは、この宇都氏は浅間神社の社家(神主)となっているからであります。
>実は富士山は、信仰対象としての歴史は古く、
>また太古には富士王朝があったという伝承・古文書もあり、
>薩摩、あるいは日向と富士との間に、日神ウトを介在としてのつながりがあった可能性もあります。


数年前のスレッドで
大久保家が小田原藩主で復活出来た時に
宇津氏の名前が出ました。

    大久保氏の  元は  駿河宇津氏  →  三河宇津氏  →  大窪氏・大久保氏へ

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%87%E6%B4%A5         
宇津氏
【読み】うつ,うづ,うず,うつろ
【語源】水流が渦を巻いて流れること。
島根県、広島県、山口県などに多い。 
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)道兼流、和邇部氏等がある。



ちなみに
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%87%E9%83%BD
宇都氏
【読み】うと,うつ,うど,うづ,うず
【由来】現静岡県である駿河国有度郡宇都が起源である和邇部氏がある。
圧倒的に鹿児島に多いですね。



和邇部氏には wani? 鰐? 鮫?  と笑ってしまいましたが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E9%82%87#:~:text=%E5%92%8C%E9%82%87%EF%BC%88%E3%82%8F%E3%81%AB%E3%80%81%E9%B0%90,%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AA%AC%E3%81%AB%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82

和邇(わに、鰐)は、記紀の日本神話や風土記等に登場する海の怪物。
主として、名の通り爬虫類の「ワニ」とする説、鮫・鱶類すなわち「ワニザメ」とする説に分かれる。

「海」に関係するのは確かなようですね。



「おいらのご先祖さまは海神だいっ!」
って感じでしょうか?


            ええっ?!
            わたしの先祖は「鮫の脳味噌」レベルだったの?


浅間神社の神職さんと知り合えると良いですね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月08日 13時22分54秒 ) パスワード

結論

     酔っ払いのたわごと   
     読む価値無し


『和名類聚抄』では「鰐」を「和邇」と訓じた





わたしは「因幡の白兎」子供版で  わに=サメ  というインプットがあって今に至るもこの説に捉われていますが

つまり 「因幡の白兎」は    ウサギ vs 鰐  のお話だったわけか。
 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E

これを読むと地域によってウサギじゃない動物のお話だったりワニじゃなくてアザラシだったり

元はやっぱり西アジアから出ているのかな?と。

ワニは結構世界的に生息してるようだし。
でも日本的にはワニはいないから  サメとかフカ  になったのかな?と。


揚子江にはいるんですよね。




それで和邇部氏   

鰐部氏? 鮫部氏? 

    ワニ飼ってた人達?捕まえる人達?



いろいろ見て来るのですが余計に分からなくなりました。

なんで  鰐を和邇の字を当てたかというと  「音」を借りただけで画数が多いから高級感があった?

だけど「漢字には意味もあるわけで」と考えて無駄に迷走してしまった。


中国語で和邇=日本語であなたも=英語では and you の意味?
中国語で邇は=日本語では近くで=英語では near の意味?
中国語で和は=日本語で「と」で=英語では and  の意味?


Translations of 和

harmonious   和, 和睦, 和諧, 潗, 喈, 均衡
kind      慈, 和, 和藹, 和氣, 和善, 厚
together    共, 共同, 和, 交, 齊, 僉
and       並, 併, 並且, 併且, 帶, 和
peace      安, 安樂, 和, 龢, 和睦, 和睦的例子
sum       概括, 概略, 和, 合計, 澒, 金額
summation    和, 合計
draw      拔, 拔出, 杓, 掣, 抽, 和
tie       綁, 綁住, 繃, 打結, 和, 系
chime in     幫腔, 和
mix       拌, 插花, 摻, 攙, 攙和, 和
blend      拌, 拌和, 合成, 合流, 混合, 和


和邇【わに】出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア


琵琶湖西岸,近江国滋賀郡の地名。
滋賀県志賀町域(現・大津市)にあたる。

            へぇ〜

大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,
隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。


北陸道の和邇駅が置かれ,駅馬7疋・伝馬5疋を備えていた。

841年延暦(えんりゃく)寺の法勢大法師が竹生(ちくぶ)島に参詣する途次,和邇村に宿泊している。
また湖上交通の要所でもあり,867年には和邇泊の船着場が崩れたとしてその修理が国司(こくし)に命じられている。

883年には和邇御厨(みくりや)がみえ,贄人(にえびと)の活動が保障されている。


    贄人
    贄にする魚や鳥などをとる人。贄狩りをする人。

    贄(にえ)とは、神または天皇に供する食物の総称、及びその制度。
    集団の成員は贄人(にえひと)と称する特権的集団で、平安時代後期に活動した。
       
1001年には和邇荘が平惟仲(これなか)から白川寺喜多院に施入されているが,1042年当時の本田は89町であった。のち延暦寺領となり,1169年焼失した根本中堂の再建には杣工(そまだくみ)を出している。
1227年佐々木信綱に承久(じょうきゅう)の乱の戦功として和邇荘地頭職が与えられている。
江戸時代には幕府代官支配・旗本市橋知行所・三上藩領などとして推移,1651年の船数は38艘で,堅田(かたた)の漁師と漁場争いとなっている。




https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8B

「鰐」の人間との関わり

日本語名
中国との接触以降、古い中国語でイリエワニを指す語であった「鰐」という字・概念が日本に輸入された。
『和名類聚抄』では「鰐」を「和邇」と訓じ、

へぇ〜


似鱉、有四足、喙長三尺、甚利歯、虎及大鹿渡水、鰐撃之、皆中断
鱉(スッポン、もしくは何らかの水生爬虫類)に似て四足あり、吻長3尺、歯は非常に鋭い。虎や大鹿が水を渡ると攻撃し、仕留めて断つ

と解説している。



「わに」という訓の語源は諸説ある。

海主(わたぬし)の変化。この場合、元々はサメを指していた可能性が高い。

                  鰐が鮫になりました
                  古代の日本人にとって狂暴な鮫の親分が日本人の想像を超えた鰐=海神だった?


割醜(われにくき)の変化。
ウィルタ語でアザラシを指すバーニの転訛。

           だから「アザラシ」の話があるのか

古代中国語でワニを指す鰐魚 (ngak-ngia) の転訛。日本語の「わに(鰐)」と現代中国語の「ウァユイ(鰐魚)」が似ているのは同源だからと考えられる。


和邇が鰐であることについては、丸山林平が1936年『国語教材説話文学の新研究』において『和邇伝説』と題した章を設け、和邇はサメであるとする説(以下「鮫説」)を否定し、和邇はワニである(以下「鰐説」)と断定している。

同書の要約を示す。

和名抄にある和邇は爬虫類の鰐で、本居宣長も『古事記伝』において和名抄を引用し鰐説をとっている。

中国の鰐に関する記述は正確で、奈良時代末からは西洋人との接触により正確な鰐の知識を日本人も持っていたと考えられる。


森鷗外・松村武雄も鰐説である。

津田左右吉が和邇を海蛇としたのは極めて非科学的な態度であるが、トヨタマ姫のお産の話にある陸上で腹ばいになり、のたうつ動物が鮫のはずはない。

鱶がワニと同語源とするのは、漢字に対する無知を物語るもので、
鱶は干物か干魚のことである。

記紀に和邇の別名としてサヒモチの神とあるが、サヒモチは歯が鋭いという意味で、鮫説の根拠にはならない。


鮫説の根拠は、
日本に鰐がいない、
日本周辺にワニに音と意味で似た語がない、
出雲で鮫をワニと呼ぶの3点である。

かつて、日本に鰐がいた可能性はあるが、いなくても何の差し支えもなく、『因幡の白兎』は明らかに南方から伝播した話である。

南方では、鰐を騙す動物は鼠鹿や猿と変化があるが、騙される動物は常に鰐である。

日本に龍はいないが、タツという語と概念があるように、ワニは日本の固有語で、鰐口は鰐の口であって、鮫の口ではない。


出雲のワニザメは鰐のように強い鮫の意味で、
後にワニと呼ぶようになったものである。

山幸彦と海幸彦にある和邇も鰐で、南方のトーテムとしての鰐の反映である。したがって、人名の和邇もトーテムとしての鰐の影響を受けている。和邇はワニで断じてサメやワニザメではない。


折口信夫は1942年の『古代日本文学における南方要素』と題した講演において、ワニが日本にいないから和邇はサメだとするのは、短気な話で、日本人の非常に広い経験を軽蔑している旨述べている。

ワニが現れた奄美大島の風俗を描いた『南島雑話』では蛇龍という名前でワニを記している。

『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』巻第五十一には鰐(わに)という名前でワニの絵が描かれている。

1843年(天保14年)、歌川国芳が、朝比奈三郎義秀を描いた浮世絵では、ワニが描かれている。これは、吾妻鏡にて、朝比奈が鮫を捕らえたという伝承をもとにしているが、歌川は鰐として描いた。この鰐の絵は、森島中良の著した「紅毛雑話」のカイマンを元に描かれたと考えられている。



など  いろいろ  彼方此方  探し回って  結構面白かったです。
記念にアップしておきます。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月08日 23時52分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

一晩明けて書いています。
脳が睡眠中に情報を整理してくれました。

      これで「鮫の脳味噌」なんて自虐ジョークしなくて済みます。

         「因幡の白兎」の鰐は「鰐」で「鮫じゃなかった」とスッキリ出来ました
          でも「鰐」の大腿骨はガニ股で付いてるから90度設定だからミットモナイな〜
             日本女性の脚はO脚で(顔はカワイイのに脚見るとゲンナリ)なんて言われるのに
             わたしの歩き方は・・・なんて言われてたのは「鰐」の子孫だからかぁ〜



上のレスにダラダラ書きましたが
三つ柏さんのお蔭で  自分の出自  がより分かりました。


      なんで  宇都氏・宇津氏  に引っ掛かるのかな?とか
      ムカシ「ケチ友」に勤めてた時に日系人で  熊本県宇土市 に住んでる人がいまして
      宇土?
      と、すっごく気になってました。気になってた原因がやっと見えた気がします。



まさか自分の先祖に関わってたなんて!
              わたしの先祖  128歳で崩御?
              身長が3mあった?
                 これはメソポタミアの「巨人」だったとか?


あれやこれや  ピースが少しずつ組み合わさって来た  と思います。
早速  母方先祖の書類箱にメモを放り込んでおきました。



日神ウトまたはウツ=「和邇」=「鰐」=バビロニアの海神=だから母方は水軍の家であり家紋が海神の紋なのか

ちょっと霧が晴れた感じです。


母方先祖84代前の祖父ちゃんの其のまた祖父ちゃん(計何代前?わたしの88代前?)のおじさん=天足彦国押人命の子供が和珥氏(わにうじ)だそうで


コピペします:
和珥氏は、「和珥」を氏の名とする氏族。
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。
和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。


へぇ〜



>883年には和邇御厨(みくりや)がみえ,贄人(にえびと)の活動が保障されている。
>贄人
>贄にする魚や鳥などをとる人。贄狩りをする人。
>贄(にえ)とは、神または天皇に供する食物の総称、及びその制度。

ということで  またまた鮫の脳味噌的な連想をしました。やっぱり「鰐」=「鮫」で脳がブロックされてるな


和邇御厨の贄人は  鰐肉の輸入業者だった?



     ムカシLAXで働いてた時に
     「肉」を持ち込んだ人を摘発するのに

        「魚」はいいんだよ
        「鰐」もいいんだよ

     等と後輩に指導してました。笑


            「鰐肉」はクロコダイル肉でオーストラリア産でした。
                 アリゲーターの方じゃない

昔、オーストラリアの映画で「クロコダイル・ダンディー」というのがあって    
Crocodile Dundee is a 1986 action comedy film set in the Australian Outback and in New York City.

このパロディで
ハリウッド映画でも「ゲッ!アイツ!鰐の肉  食うんか?」なんてシーンがありました。


そうか・・・
古代日本も「鰐肉  食ってたのか」でした。
ヲイヲイ

        超高級品だったかもですね
        笑


などなど空想が翔けまくって一人で悦に入ってました。
ふふふ



三つ柏さんのお蔭で自分の先祖の姿が少しずつ見えて来たなんて
感謝であります。
[37]相良四郎さんからのコメント(2023年05月12日 12時11分49秒 ) パスワード


六本車の話が出ていたのですが矢羽とセットなのがオーソドックスなのでしょうか。

[38]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年05月13日 00時48分22秒 ) パスワード

あを様

 いつもながら、あを様のテンション・モチベーションの高さにリスペクトの念
をいだきます。
 私は、4月に解放されてからなんやかんやで集中力が飛んでしまいました。
 今は肉体改造中―ゴルフ用の肉体を形成すべく、つまり肩・背骨・腰の関節の
可動域を広げる鍛錬をしています。こういうのって、ゴルフがうまくなることを
夢見て楽しいです。
 いろいろ中途半端な記述ばかりになってしまっていますが、徐々に集中力を戻
していくよう努力しますのでよろしくお願いします。
 次回は、「信康」考というテーマでまとめます――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月13日 09時34分36秒 ) パスワード

三つ柏さん

そうでしたね
久しく「草刈り」やれてませんでしたね「舟釣り」も。
ぜんぜん遊べなかったんですね。

    働いてた時の方がヨッポドか遊べてたのにね。
    笑


今は  Burn Out 燃え尽き症候群  で、ナカナカ集中力が戻らないでしょうね。

大変な責任を、それも今世紀最大の危機になったコロナ禍中に拝命してしまって、人生を3回ぐらいやり直した感じで、お疲れでしょうね。


ギックリ腰をやらないようにYouTubeで動画をご覧になってストレッチを頑張ってください。

ギックリ腰をやったら暫くクセになりますから。
匍匐前進で脂汗流しながらトイレに行かなきゃならないですよ(笑)



わたしは三つ柏さんの書き込みでミッシングリンクを  父方と母方  両方  頂きましたよ。

    心象風景にあったことが 
    書いて頂いて  ピンポイントで  ストンと   腑に落ちました。


まさか88代前の先祖の従兄弟?・また従兄弟?が和珥氏(和邇氏)の祖だったとは。

84代前がウツだかウトだか絡みで  それで海神の紋を使うことになったのか、と。
「海神」は「鰐」のことだったんだろうな、と。



鰐皮は好きで
大学生の時は(親のお金だから贅沢の限りをやらかしていた時代)鰐皮の靴を履いて喜んでましたよ。

    なるほど!鰐の一族の子孫なら当然のゲテ趣味だったのか。


    思い出してしまふ
        「アンタ達みたいなビンボー人とは違うんだよオーラ」を出して
         男の子達を威嚇してた  と言われてた時代。

    18歳の小娘が鰐皮バッグだとかオーストリッチのバッグとか  何をやってたんだろう
  
    だけどレス≪33≫で納得!
    古代日本で  鰐皮加工やら鰐肉販売をやってた一族の子孫だったの、ワタシ?
    血と肉に、DNAに、まごうかたなくしっかり刻まれた先祖の記憶だったのか。


今は違いますからね
違うようになったのは  同僚の女の子で仲間由紀恵より3倍は美しい  まさに  平家の姫君という感じの同僚が

    彼女が初めて出勤した日に、ピンポイントで彼女の出身地と最寄りバス停まで言い当てて驚かせた

彼女は留学生だったから未だ収入が無くて現場用にボロボロの衣類で仕事に来たんだけど
    その上、出勤バッグはフライト中に免税品を買うと入れてくれる航空会社のビニール袋


わたしは内勤で
支給の制服がエルメスのスーツだから   
エルメスのバッグにエルメスの靴に決まってるじゃないね

       総額  How Much?


だけど並んで立ったら  彼女は光り輝いてた。「美しい!」のヒトコト。


ということで   
わたしなんか  スーパーのレジ袋で充分じゃんかぁ〜   でした。



何十年も引っ掛かってた心象風景の謎を三つ柏さんが解いてくださいましたよ。


>「信康」考

楽しみにしています。


信長  ーー 岡崎 ーー  浜松 ーー  武田

家康にしてみれば  武田が怖いのに  
信康が問題を起こして信長を怒らせたら  
家康の敵が織田と武田になってしまう


岡崎の中では
浜松に連れて行ってもらえなかった部下の不満があったろうし
旧今川方が不穏分子になる可能性があっただろうし
もともと信長嫌いの反信長勢力があっただろうし


家康は(足を引っ張るなぁ〜)と岡崎に怒ってたのかな?
信康の側室が武田の女ということに  万事休す!  と思ったののかな?


「どうする家康」はどんな展開にするんでしょうね。
我々が予想もつかないハナシにするんでしょうか?
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年05月13日 22時19分07秒 ) パスワード

あを様

 本日は、歴代の自治会長の懇親会でおいしい酒を酌み交わし、気分上々であり
ます。酒は心を開かせるのでバリアがなくなり本音の話ができます。コロナ禍を
のり越えて、やっと心の絆をつなぐことができました。

 さて、南朝精神のDNAとはどんなものだったのか、ほんとうの所を知りたいと
思うのですが、今の私たちにはそのリアルな気持ちを感じ取ることはできません。
きっと、ウクライナの団結のように、ひどい目に遭えば遭うほど団結し、1つの
旗にまとまるのだと思います。宗教的なまとまりならわかりやすいのですが、
南朝精神のまとまり方はなんだったのか、南朝天皇の正当性だけではないと思い
ますが・・・。

 信康問題を解くカギは、服部党と大久保党の二党に集約されます。
 服部党のカギは南朝に仕えた宗純。大久保党のカギはルーツの宇都宮氏=宇津
(ウツ ウヅ ウト)氏であります。

 本日は、二日酔いのきざしがありますので、ここで終了といたします――

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月22日 15時35分26秒 ) パスワード

あらあらあら・・・
1号店の方に書いてました(恥)

ということでコチラにコピペ:


[136] 空の青海のあをからのコメント(2023年05月22日 08時02分01秒 )


あと1時間ほどで「どうする家康」が放送されます。

    やたらと  G7で  番組がキャンセルされてるので
    たぶん  放送される  だろう  と思っています。



結城秀康の生母のお万さんは
家康の   母方=水野家=従妹  に当たるわけで

        家康の母=水野お大さま=の妹がお万さんの母上


    お万さんの父上は三河二の宮である知立神社の永見貞英(物部姓永見氏)。
    永見氏自体が三河の有力者。


ということは家康の正妻の築山殿瀬名さまにとってはお万さんは超メンド臭い立場の女ということで

    築山殿にしてみれば  お万さんは姑の姪だし  家康の従妹だし
    強力なライバルよね?
    自分はアウエーだもの

 
三河衆にとっても  家康が従妹に手をつけた!  子供が生まれた!  それも男子!  ということで  
三河衆にも厄介だったろうね。


    信康は仇敵の今川系だものねぇ



武田との戦さで大変な時に   家康はメンド臭いことをやらかした!   と大騒ぎよねぇ。



わたしが驚いたのは  お万さんの後見人の本多作左衛門重次=鬼作左が   お万さんを預けた先が

    浜名湖の西の太田村の代官  豊田六郎左衛門   (浜松藩領で良い?)

          浜名湖の西の豊田さんって言ったら
          豊田佐吉さんのご先祖?ご先祖がらみ?

            佐吉さんは遠江国敷知郡山口村生まれ(旧三河吉田藩領?)


で、お万さんが出産した時に預けられたのが宇布見村の中村源左衛門さん宅   (宇布見村は幕府領や浜松藩領や吉田藩が管轄  笑)


って事で  本多作左は大変な思いをしてお万さんを守ったのだな   と。


      お大さま   vs   瀬名さま   vs  お万さん + お大さま  の女の戦い


      家康しか頼る人のいない瀬名さまにしてみれば我が子・信康を守るのに  お万さんが男子を産んだら?  というキョウフがあったでしょうね。



きっと岡崎の家中はグッチャグチャだったんじゃないかな?
水野家も絡むし  永見家も絡むし。


まさに!「どうする家康」よね?
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2023年05月29日 03時33分31秒 ) パスワード

まだ頭の中が整理出来ていないのですが

テレビを見ていて    ああ、この人は南朝方の子孫だな    とか思う人がいます。

     実際の日本人には  (まず)  会わないから
     わたしの言う「日本人」は二次元の中にしか存在しない(笑)


昨夜貯まっていた録画1週間分を  FFで  1時間ものなら1分で  すっ飛ばして見ていたら

いつもはリストを見るだけで速攻削除するだけの番組に  なんか違和感を感じて  1分捧げようとFFしたら   
父方・母方・鹿児島出身者  がらみが主人公で出てました。


     父方=平家
     母方=南朝方
     鹿児島=平家+南朝方の某一族


もうビックリしました。「宮崎」でなくて「鹿児島」という出身地にもハッキリ驚いた。
「宮崎」だったら  なぁんだ傍系だ  で済むのに
「鹿児島」だから  ウチじゃん!  でした。


その上に従姉の「目元」にそっくりで   わたしには似てないけど  従姉とは血で繋がってる!  ということにもビックリ仰天しました。


その上に  そのヒトの住んでた所在地が   父が学校を出てから  
   (東京理科大に行きたかったけど入試の外国語が父の得意な国の言語どころか、じゃなかったから   受かるワケが無かった)
半ば失意の裡に暫くいたエリア  でした。



いやぁ〜
世の中には偶然がいくつも重なっている存在
ってのが結構いるものですねぇ。


江戸時代ならスグに分かるように家紋を付けてるから  一瞬に  相手の出自の見当がついて  
出身地と名字を訊けば  自分との関係も  確実に  分かってしまう。


今は見た目では全く分からないけれど  だけどやっぱり  一瞬に  気配  を感じ取ることが出来る人がいたりする。

     ま、外堀から埋めて行って内堀に近づくのに時間はかかるけど  本丸に辿り付けたりする。


       
もっと、昨夜見た人物の事を知りたいと思うけど
オソロシクもあります。



わたしの場合は  平家と南朝方が基準だけど  先祖で繋がってるであろうという人を見ると  よくぞ生き延びた!  と嬉しくなります。
[43]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年06月01日 19時22分21秒 ) パスワード

あを様へご報告

 仁徳天皇陵を観光ツアーで見に行ってきました。テレビでの画像で見てもスケ
ール感はありませんが、実際に目の前で180度のパノラマを見ると、とてつも
なく大きな「鯨」とでも表現したほうがわかりやすいか・・・このリアリティー
を体感しただけでも来て良かったと思いました。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月02日 08時23分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

あの辺りは大小たくさんの古墳が点在してる所で
古代の実力者達が  本当にいたんだな  とロマンに満ちたところですね。


仁徳天皇陵
広さ約47万平方メートル
約14万2175坪
甲子園球場 12個分

この数字は「陵」だけの広さなんでしょうか?
この14万坪の数字でも現代の大企業の工場より広いですよね?



わたしは録画してあった「ぶらタモリ」で山科本願寺の番組を見ました。


山科本願寺
広さ
当時「寺内」と呼ばれた地域は、 南北900m、東西500m で   
総面積は甲子園球場の20倍近く
らしい。


造りは  さすが  戦う教団  でした。

後の戦国時代の大名が城作りに参考にしたということで
後世、近づく敵を桝形で十字砲火で倒す前段階が山科本願寺には用意されていた、と。


蓮如の山科本願寺を中心に
西は大坂(石山本願寺)  東は中部地方(伊勢長嶋)  北は北陸へ布教して
最終的に信長と激突。


やっと  「戦う教団」  の意味が分かったところです。

平安時代あたりは寺や神社が武装して互いに喧嘩してたけど
蓮如の登場で一般信者が武装して領主と戦ったのか、と。


1477年に応仁の乱がおさまって
1478年 1月 山科本願寺の造営開始
1488年 加賀一向一揆
1497年 大坂石山坊舎(石山本願寺)造営
1499年 実如から証如の時代に寺院から城郭としての防御施設が整えられた


まさか寺院が戦国時代の城づくりの参考になったとは、と驚いています。
わたしの驚きはコッチで
さすが  戦う教団の子孫
驚くポイントが三つ柏さんとは違うな、と。
[45]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年06月02日 17時22分04秒 ) パスワード

「歴史におけるリアリティーとは何か」考

 文献に書かれていることがリアリティーなのか、想像・推理することがリアリ
ティーなのか、今回仁徳天皇陵を訪れてみて、実際の歴史の現場に立って想像力
をふくらませることは歴史の探究には必要なことと体感いたしました。時間と空
間、即ち時空間の中での人間の営み―これが歴史であるということ・・・。本も
いいけど、本には作者の主観もあり、思わくもあり、創作もあり、ねつ造もある
ということ。
 時には現場を見に行って、時空間的想像力を働かせてみるということが必要だ
と、この2年間の反省も込めて感じております。

 さて信康問題ですが、南朝フィルターを通していろいろ考えてみましたが、信
康の母(築山御前)の母、つまり祖母は井伊直平の娘ということで、井伊家の血と、祖父方の関口家(今川一統)の血、そして徳川家康(松平、水野)の血が入っておる
ものの、宗良親王系(南朝貴種)の血は入っていないという現実がありました。
むしろ、今川系の血が入っているので、南朝(後南朝)側の勢力にとってはかつ
ぐのにふさわしくなかったのかも知れません。

 後南朝の残存勢力については、改めてまとめていきたいと思っています。
 それにしても、信康事件の核心は、大久保忠世が握っていることは間違いあり
ません。
 二俣・春野の山奧に、京丸という南朝の隠れ家があり、行くのに車では無理だ
と思いますので、バイクで行ってみたいと思っています。
 信康問題は、情報操作されている可能性大でありますので、ひょっとしたら
常識的認識が覆されて、事態は逆転するかも知れません・・・。

 
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月03日 03時11分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

「現場100回」
ですね。



京丸山は川根本町の更なる山奥の  皴々に山脈が折り成す  秘境じゃないですかぁ〜
熊が出るかも、という場所ですから気を付けてください。
落人が住むには最適の場所ですね。



前回の「どうする家康」で井伊直政が家臣になるのを認められたのは
井伊家が由緒ある家だから
でしょうね

    「アンタの家来なんか  みんな  変ちょこりんばっか」と言って
    「いいとこのボンボン  欲しいでしょ?  おいらみたいなの」

なぁ〜んて事、言ってましたね。


だって家康の家だって   ホントに源氏?新田の子孫?  
かなりウソっぽいよねぇ〜
ですものね。


そこへいくと  井伊家は由緒正しい南朝方。

当然信濃国には顔が利くし。隣の群馬じゃなかった上野国やその向こうの越後や越前も
尾張だって井伊家が声を掛ければ味方につくウチや大橋や蜂須賀とか尾張一宮の眞清田神社とかが背後についてるし。

家康のメンタルは今川の太守様に憧れてるだろうし。信長こそ成ってはいけない・あってはならない「覇王」だし。


前回の井伊直政の返答って  すっごい  奥深いな、と。



わたくしとしましては  後南朝  のお話を楽しみにしています。


実は昨夜  仲の良い香港一族のパーティに行って  その香港料理のレストラン会場に行くのに

      上記レス《42》に書いた「父方平家  母方南朝  それも後南朝で  鹿児島に行った一族の子孫」
      の話のスピンオフです

「鹿児島」じゃなくて   「宮崎」の  関係者の経営するレストランの前を通りました。

もうビックリです。


        これまで
       「宮崎かぁ。宮崎だったらウチの傍系じゃん。どーでもいいよ」なんて馬鹿にしてたら
        昨夜  宮崎系一族が目に飛び込んで来たわけです。

                バカにしてごめんなさい  でした。


        秀吉に負けて  伊東氏を頼って  そこでいろいろあって
        わたしにとって 「宮崎」には整理出来ない感情があって
 
                それで先祖が「一族なんだからバカにするな」と私を叱ったのかも


昨日の香港人のパーティに  行きたくない感情があったけど  先祖が「行け!行って来い!いいコトがあるから」と背中を押したのかも。


あ、香港人でも中国人でも絶対食べたくない「蟹味噌」を2つも食べて来ました。
ヲヱッ       
  
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月06日 02時47分34秒 ) パスワード

書き直し


すっごい勘違いをやらかして  年数にして1000年以上のトンチンカンを書いてしまってた
それで訂正の上  加筆。


**************************************************

昨日(ホントはメチャメチャ忙しくて  録画して後で見よう  と思ってた)番組を時間通りに観ました。


    なんか  見なきゃいけない  と急かされたのです。


で、ビックリ!

「宮崎系」が大事なシーンで出て来て驚いた。

    ワタシにとって  大事なシーン  ということで
         他の視聴者は  ふ〜ん  そうなんだぁ〜  としか意味を持たないことでしたでしょうが。


何が来てるのかな?
三つ柏さんが  後南朝の謎を解いてくださる  って事に繋がる布石なのかな?



鹿児島の人は
父方でも母方でも  ワタシより  ずっと  格上の人です。
御所に認められてる人だし。


宮崎の人は
わたしは  ウチの傍系じゃん  と思ってたけど
今になると   我が家の  まさに?!  一族だった!?   ということだったの?と。



     なんで先祖のパワーがこんなに送られて来るんだよぉ〜
     1993年の時がこんなでした。

     この時はアチコチで不思議体験をした
     

     理系脳のオットも不思議がってたのが比叡山の根本中堂での出来事

        本職のカメラがあそこでは作動しなかった
        ハリウッドで  フツーの人には出来ない仕事  をやらねばならないのが我が家の家業なのに   


        わたし自身は一族の御真影が「やっと来たね」と微笑んでくださって滂沱の涙に暮れた

            足跡を慕いつつも大隅半島には行かなかったのを悔いた

                  「鹿児島」が絡んでいるのか?

            鉄輪にはちゃんと行ってご住職に挨拶もしてた
            北上にも行ってた

                   北上には毎年お参りする

               それで  わたしの先祖が時政の1打いた娘のうちの「谷殿」という名だと知った

                   谷殿の母上が「りくさん」というのは三つ柏さんのご協力で知った

                   今は後鳥羽源氏というのも納得してる



なんか  近日中に  大きな情報に出遭う気がします。



それにしても我が家はアチコチに散ってるから頭の中を整理しないといけない。


佐賀の神崎にも一族がいて  ここは神崎のスグ前まで海だった  というのを今年NHKで知った
それで我が家の所領が神崎にあったのかと納得がいった


小学校の時の同じ班の男の子が玉葱みたいで可愛くて佐賀に戻って行ったのを  小耳に挟んだおおまかな地名の書き方なのに  ちゃんとお手紙が届いた


    時々この手を使います
       後藤新平の屋敷の〇隣のXXの△子さん  で届いたり
       江藤新平の屋敷の〇隣の△△の片割れのX夫君 で届いたり



新潟に所領を頂いていた私の  34代前   の先祖の弟の子孫は
上杉が会津に移封された時に堀家に嫌がらせをやった時の与力で
    負けて
なんと私の幼稚園時代からの親友の先祖は、この時の仲間で  負けて  長野に戻ったのでした。

    勝ってたら意気揚々会津に行って合流して重宝されることになったのでしょうけど
    負けたから  合わす顔が無くて   故郷の信濃に戻ったわけです



    この親友は脳梗塞を2度やって  今は  脳壊さん(高次脳機能障害)なんですが  最近巴御前のお墓参りに行った  とご主人が知らせて来ました。
    関東で不都合があって駅で何時間も足止めを喰らった日です。


       彼女のご先祖の当時の仲間が手塚治虫のご先祖だったのはNHKで見ました

    彼女はまだ脳壊さんですが  巴御前のことは  残っていたようです。


彼女の脳が元に戻るように(彼女は小学校の入学時のIQ検査で  ギフテッドだったんですよ)   
彼女のご先祖が  木曾義仲さまの父上の源義賢に仕える前の  秩父の屋敷の場所を特定して彼女に行かせなくては   と思っているところです

早く  脳が元に戻るようにと

わたしの先祖だけでなく  彼女のご先祖にも  助けて欲しいとお願いしているのです。


だけど   なんで  宮崎?   伊東繋がりしか見当がつかない。
伊東はもともと   親戚だけど  何重にも。


    ホント
    日本人だから8代遡ったらみんな繋がってしまうとは京大の教官のお言葉だけど

    なんか涙が滲んで来る。    
[49]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月09日 07時57分54秒 ) パスワード

あをさん、三つ柏さん

先日津島に行きあちこち見て回りました。津島は水石趣味の関係で何度も行っていた場所なのですが、お寺や神社はほとんど訪問しておらず、今回は歴史探訪が目的です。その中でお二人も既にご存じの場所と思われる雲居寺に立ち寄りました。

お寺の開基は御承知のように服部伊賀守宗純で、服部小平太の菩提寺となっています。境内の手書きの解説によれば、以下の通りです。(端折って書いています)
開創永享年間(1429年)
開山 宝山玄珍禅師
開基 服部伊賀守宗純
津島十一党の随一、服部伊賀守宗純永享年中良王親王家の北境に一宇を創建、服部家の菩提寺になし、九代の後裔服部平左衛門一族郎党を率いて織田信長に従い、桶狭間の役にて長子小平太槍を振るい総帥今川義元を突く。開基家の嘱により当寺にて今川氏の菩提を弔い今に至る。

ところが門前の津島氏が設置したと思われる解説板には服部伊賀守家継の創建と書かれていました。家継は宗純の別名なのか或いは別人なのか、津島市の誤記なのかよくわかりません。この辺の事情をご存じならご教示願います。

もう一つ知りたい点があり、これはあをさんの機微に触れる問題かもしれないので、差し支えない範囲で結構ですが、小平太は宗純の子孫になり、一方服部友貞も宗純の子孫のはずです。同じ服部家で先祖を同じくしているのに、一方は信長の配下で、他方は信長に敵対しているのはどんな事情によるものなのか知りたいと思った次第。

戦国時代は兄弟でもそれぞれが敵対する主家に従う場合もかなりあるし、何代も代を重ねれば別グループになっていき利害の対立もあるでしょうから、そうした事情かなとも思いますが、どんなものでしょうね。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月09日 17時39分57秒 ) パスワード

酔石亭主さん

長々と書いてたら消えてしまいました。

    また自慢話か?
    とご先祖さまが怒って消したのか?

    わたしは(よくぞ聞いてくれた!)と好い気分でエンエンと書いてたのですからワタシが消したのでは無いっ(笑)


ということで簡単に書きます:


水石趣味はありませんが
我が家にはヘンリー・フォードの遺品がいくつかあって
その内の1つが  台座+石で  首長恐竜の形をしています。
恐竜の背中部分が石です。



雲居寺と服部宗純の関係は   ワタシは  宗純の子孫が建てた  と思っています。


このあたりの関係については  数年前  まだ  脳が元気な頃(今はかなり脳が壊れてます) 三つ柏さんにエンエンと書いていました。



このお寺の縁起はイロイロな情報をかなり端折っているから読む人に誤解させると思っています。


何故なら   吉野朝忠臣(こんな表現だったかな?)七名字の服部伊賀守宗純は吉野の後醍醐天皇のお召しでお味方した  という記憶です。

    つまり1337年以降かな?と。


後醍醐天皇崩御  1339年
崩御少し前に?前年の暮れ?   宗純が源姓を拝領した記憶です
そして
ホンヤさんは  <<< 「うちは源氏」キリッ >>> とおっしゃってました。

      なんか  ホンヤさんから「アンタんトコとは違うんだよ」と棄てられた気分(泣)


宗良親王薨去  1385年
尹良親王薨去  1424年  我が家では「いずよし親王」とお呼びします


>服部伊賀守宗純  永享年中   良王親王 家  の北境に一宇を創建

良王親王を  我が家では「よしたかの君」とお呼びしますが
永享年間は  1429年から1441年


雲居寺開創が  1429年  だとすると



1337年頃のお召し 〜 お寺創建の1429年って   宗純  生きてます? 


ということで
ワタクシは雲居寺の創建は宗純だなんて   ぜぇ〜んぜん  思っていないです。


良王君は服部家宅で亡くなったとホンヤさんから聞きました。  



>九代の後裔  服部平左衛門一族郎党を率いて織田信長に従い

あ、これは  ホンヤさんによると <<< 「津島の服部さん」(あの裏切者め!) >>> です。


うちは  織田彦五郎信友さん方でした。

彦五郎さんは 室町幕府尾張国下四郡守護代で清州城主でした。
だから「うつけの信長」でなく信長の弟の「品行方正で優秀な信行(信勝)」を支持してました。


だから  ポッと出の  織田信秀・信長父子とは相容れないし  信秀がめきめき頭角を現わしていくのが面白くなかったし   信長は天才だし。

    それでウチは今川義元と組んで信長を挟んで564たかった  けど・・・
    どうなったかは「信長公記」に書いてある通りです


>小平太は宗純の子孫になり、
>一方服部友貞も宗純の子孫のはずです。


はい
その通りです


>同じ服部家で先祖を同じくしているのに、
一方は信長の配下で、他方は信長に敵対しているのはどんな事情によるものなのか知りたいと思った次第。

兄弟は他人の始まりですから。

「津島の服部さん」は勢いのある信秀・信長父子に期待して自分達も出世がしたかったんでしょうね「ホンヤさん」を妬んでいたでしょうし。


「ホンヤさん」とこは権威に近かったから既得権を守りたかったでしょうね。
まさか今川義元があんな死に方をするとは夢にも思ってなかったでしょうし。




>門前の津島氏?市?が設置したと思われる解説板には服部伊賀守家継の創建

1429年が正しいなら  宗純の孫か曾孫あたりでしょうね。


服部家継という名乗りの人は(代々  けっこう)いるし
まさか  ココで  家継  の名が出るとは(滂沱の涙)
わたくしにとって  大切な名前なので。
[51]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月09日 19時04分43秒 ) パスワード

あをさん 

早速のご返答ありがとうございます。頭の中が全く整理できていないので、数日かかるかもしれませんが、一定の整理をしたうえでまた質問などするかもしれません。その節はよろしく。
[52]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月10日 12時59分33秒 ) パスワード

あをさん 


>七名字の服部伊賀守宗純は吉野の後醍醐天皇のお召しでお味方した  という記憶です。

史料に記載されたものがあるでしょうか?あをさんの史料と私では量・質ともに差があると思いますが、早速入手したもので纏めると、以下のようになりました。

宗純は、1386年征夷大将軍に任じられた後醍醐天皇の孫・尹良親王に従い各地を転戦。
1424年尹良親王は浪合で敵に襲われ自刃。子の良王親王を守り、吉野十一党と三河から津島へ逃れた。
永亨7年(1435年) 尹良親王の子・良王君に従い、尾張国津島に移り住む。

雲居寺解説板:
雲居寺開創 永享年間(1429年)創建 (注:永享年間で1429年と限定するのは??)
開基 服部伊賀守宗純永享12年(1440年)寂

津島服部系図:
伊賀平内左衛門家長末孫、服部伊賀守家継(宗純)六世 
服部三郎右衛門
小平太 弟と称して津島坂口に隠居。表勤を止む。
小藤太 実名弘宗 信長・信忠に仕う。尾州海東郡諸桑村を知行。津島堤下に居住す。
永禄三年の桶狭間合戦にて今川義元を討ち取る。
参考:龍吟山雲居寺(永享十二年〈1440〉八月、服部伊賀守家継法名蔵叟道珍庵主創建)。

この場合雲居寺の創建と宗純の死去年が一致してしまいますが、宗純は後醍醐天皇に召されてはいない前提で、まあギリギリセーフになりませんか?

>門前の津島氏?市?

すみません。もちろん、津島市です。

まだ他にお聞きしたい点もありますが、頭の中で纏まっていないのでまた後日…。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月11日 03時44分23秒 ) パスワード

嬉しい!嬉しい!

酔石亭主さん


たくさんの情報をありがとうございます!
ぺこり

ますます楽しくなりました!




しかし  一体 どのあたりが事実に近いのでしょうね。

    誰かが「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と言ってましたが   あ、 ニーチェか
    There are no facts, only interpretations.  
                    by   Friedrich Nietzsche


ホント!いろいろな説があって戸惑いますね。


「後醍醐天皇」がお召しになったというのは  実は  「尹良親王」の味方をせよ、だった?


ということは「後醍醐天皇」のお名前の威を借りて  箔  を付けたということ?

      箔をつけた容疑者は  井伊家か?
      尹良親王は井伊の娘が生んだ皇子ですから。


ホンヤさんから頂いた資料なんかを引っ張りだそうと戦っていたら
ダイラボッチではないのに
山脈2つを移動させたりしているウチに足を引っかけて 山が崩壊し  諦めました。


      ホンヤさんとこの史料は重文指定を受けていて
      学芸員? の 伊藤さん?などが来て  調査するわけで
      わたしは伊藤さんとお話しするほどのモノは無いので遠慮してしまって
      今となっては残念です。


         伊藤さんトコこそ名家で伊藤家の研究の方が良いんじゃないの?と突っ込んでましたが
         1997年だったか  伊藤家の長老が若い世代に  先祖の由来を繋いだと聞いた


下記のコピペの内容は  (服部家関係者の筆じゃないよ!ね?) かなり訂正が必要と思います


      こうしてハナシがズレていくんでしょうね



ということで引っ張って来ました:
いろいろ思う所はありますが  以下  無断コピペ:

http://machitankenyatomi.livedoor.blog/archives/9051648.html

2021年06月11日
第14話 市江島の大庄屋
踏青夜話


 重要文化財指定の服部家住宅は弥富町の誇る文化と歴史の館であります。偉容を誇る邸宅を訪れる人や遺品や文書についてお話しましょう。

 服部氏の源は伊賀守宗純の津島入りによります。この人は南北朝の末期に、吉野朝仕えで御醍醐帝の御子伊良親王のお供をして東国への遠征中、信濃の国大河原の戦いで親王が亡くなられたのです。その御子良王君をお護りして尾張に来られ、津島の双野城にお入りになりました。この時の十一氏のお供に服部伊賀守宗純の名が見えます。これから良王のご在世中は市江島二ノ江村に居所を構えて良王君をお守りしました。宗純は良王の死後二ノ江興善寺で剃髪し一向門徒となられました。明応元年(1492年)のことでありました。これより服部一門は市江島周辺で栄えました。


 天正四年(1576年)一向一揆の戦いで焼け野原となってしまった荷之上村に服部正友が帰ってきて村を再興しました。そして西保の佐藤、東保の宇佐美、東条の青樹氏等と話し合って長い戦いで中絶していた津島天王の夏祭りの市江車を復活させました。服部正友は荷之上庄屋の中興と言われています。

  
 服部家の人々

▲中興初代服部祐乗正友は荷之上を再興。寛永四年逝去(1627年)

▲二代覚春は五之三を分村、焼田新田や弥兵衛分新田を造成。

▲三代佑喜は新田を確立し、光蓮寺を荷之上村に移す。

▲八代凱様は文武兼備の人物で代官の相談補佐役、当地一帯の安泰につとめ、佐屋御陣屋

▲九代弥兵衛讃様は大学者で国学の鈴木朖の直弟子。古典古文に明るく、江戸初期以来の服部家に貯蔵する書状はこの人によって整理保存されたものという。


●二代弥兵衛覚春の妹、くに女は尾張侯の重臣鈴木某に嫁ぎ、この人は宗勝公の御母梅密院殿の乳母役として仕え、養育申し上げたのが徳川宗勝公であった。従って御幼時の宗勝公は時々この服部家へもお忍びのお成りがあった。色々の筆蹟が当家に残されている。

 主屋の坪の内に数かかえもある椎の木があったが伊勢湾台風で枯死、今は根株が残っているが、宗勝公の御手植えの木として数百年家宝として、毎年正月に注連縄を張って崇めていた。

●九代讃様は和宮御降嫁の折、中山道大井宿の宿長が事故のため宿長代理を命ぜられて、茶碗、箸に至るまで弥富より持参して代役を全うされたという。



服部家と津島天皇祭りの話

  古い伝えでは市江楽車船の川祭は欽明朝に祖神スサノオノミコトがこの地に西海対馬よりおいでになった時、市江島をご通過の際、野辺に遊ぶ里の子の神楽舞踏を喜ばれたのでした。禊の大祭に神様のお心を慰めようと楽車船を仕立てて神前に鉾を献じたことから始まったといいます。市江船だけの行事に津島が合流したもので市江車が常に先達を承ける祭行事でありました。その後市江船祭にも栄枯盛衰がありましたが、前にも述べましたように服部正友が復興しました。


  正友が音頭を取って市江車の天王祭参加となりましたが、祭りの次第をみると、まず最初に市江島に七度も立ち、これより祭事を一ヶ月がかりで行うことが古い習わしでありました。

以後二百余年、今日まで欠かさず市江車が祭事の先達をつとめてきたのでした。江戸時代に下賜されていた車料五十石も明治より廃止され、正友以来の車屋四家、服部、宇佐美、青樹、佐藤も没落家多く、服部家だけの負担で祭事を遂行し今日に至ったものです。



  佐屋川が三里の渡しとして使用され、その支流として津島天王川が流れ込んでいた時代には、この祭り事は市江の星の宮下の船溜まりから佐屋を神池まで舟でさかのぼったものでした。その楽車船行列の先頭には服部家の稚児船と服部家の伝馬が津島代官の御用船と共に漕がれるのが恒例となっていました。今日は陸路を船戸まで行進するようになりました。
[54]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月11日 08時17分08秒 ) パスワード

あをさん 

早速のご返答ありがとうございます。まだこの時代の全体像が見えていないので、断片的にあれこれ書いてしまう点ご容赦のほど。

そもそも論ですが、良王親王などについて書かれた「浪合記」は一定の史実を反映しているのか、或いは偽書なのかと言う問題があります。一般的には偽書説が多いようですが、この著者である天野信景は凄い研究者で、学究肌の実証主義的な人物です。尾張の主要な神社五社に関する著書や牛頭天王に関する論考まであることから、津島にはしばしば足を運び研究を重ねていたと、容易に判断されます。

それが偽書的な扱いを受けているとしたら、
@ 誰かが津島において意図的にフェイク情報を渡した。
A 「浪合記」が成立後の流布本に色々なフェイク情報が書き加えられた。
のどちらかしかないはずです。(注:あるいは両方共あり)

その黒幕になり得るのは誰か?これはもう大橋家しかありません。良王親王が津島に来た際の居館は大橋氏の奴野城でした。津島の瑞泉寺に行ったらそこには良王親王と一族の宝篋印塔があり、近くに大橋家累代の墓まであります。「浪合記」には、必要ないはずの「大橋家家伝」まで書かれています。

さらに大橋家の家系図には、定省の末娘が良王親王に嫁ぎ、子供の神王丸が大橋家の養嗣子となって大橋信重を名乗り、ここで大橋家は平氏から源氏に本姓を乗り換えたとされます。さすがにこの部分は信憑性に欠けて恥ずかしかったのか、「浪合記」には書かれていません。

この部分は大橋家系図には以下のように書かれています。

良王親王。瑞泉寺殿室。御子二人。嫡子神王丸。後大橋泉守信重と号す。(大橋)中務少輔信吉養君とし、奴野屋の城に移る。大橋は平氏なれども、後源姓となるのはこの信重の謂いなり。二男良新丸津嶋神主家を継いで氷室兵部卿と号す。この兵部卿も継子なく、大橋貞元二男小田井大学介定常を子とす。

これらから大橋家は良王親王を丸抱えにしているように見え、しかも氷室家まで巻き込んでいるような雰囲気で黒幕は大橋家しかいないと推察されるのです。まあ史実の核となる部分はあったのかもしれませんが、粉飾の度合いが多すぎるのでわからなくなってしまったと言うのが実態ではないかと思いますが…。

>良王君は服部家宅で亡くなったとホンヤさんから聞きました。 

これは良王親王が津島神社(当時は津島天王社)の神主になったとされていることに関係しそうで、その場合服部乙若太夫宅となるのでしょう。津島神社の丸池の前がかつての天王川に架かる天王橋があった場所で、この橋を渡りもう一つの小さな橋を渡ると境内地となるのですが、1750年代の地図では小さな橋の最も手前が(服部)乙若太夫の居宅になっています。そのお隣が(服部)勾当太夫の居宅でこちらの元の名字は村主ですから、渡来系の人物だったことになりそうです。地図を言葉で説明してもわかりにくいので、以下の私のブログを参照ください。はっきりわかるように画像は拡大できます。

https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/

地図を見ると神主宅は境内地側に別にあるので、乙若太夫家は神事にも関与するが御師的な立場が強かったと見做せます。勾当太夫家は津島神社で極秘神事の御葦(神葭)放流神事を執行できるただ一つの家で、これは神主も関与できない極めて恐ろしい神事です。旧ブログではこの内容を書いています。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月11日 12時43分24秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ブログ
いろいろ拝見しました。


「杁」の「意味」を初めて知りました。

愛知県人だったら誰でも  ほぼ見た事がある漢字だけど  意味は知らなかったです。
「杁」は尾張独自の国字で   それが三河だと「圦」になるわけですか。へぇ〜


「杁中駅」は名前は知ってましたが、なるほど近くに「隼人池」があるからか
長久手の「杁ケ池」はそのものズバリ
清州の西枇杷島の「二ツ杁駅」は庄内川と新川(+五条川)のスグ近くだからか


岡崎の明大寺の宮ノ圦
わたしの親友が住んでた明大寺エリアの京ヶ峰とか宮ノ圦の地名を見ても
ワタシは宮ノ「杁」だと勝手に脳内変換で  全然  フツー  に受け取っていたわけか。
オソロシイ
ド近眼だけど若かった時は頑張って眼鏡はしてなかったから  木偏も土偏も気付かず「入」だけを見てたってコトですね
恥ッズ



ホントに「事実」って自己都合解釈してるだけなのか。


尹良親王も  井伊の娘が生んだというのは  井伊家のプロパガンダだったのか。

井伊直政って  こーゆーの  非常にうまいから

徳川家康を手玉に取り(「どうする家康」前々回で)  自分のような良家の家来  欲しいでしょ?と取り入ってましたね


    家康の不確かな出自の先祖情報より  (出自ロンダリング疑惑)
    井伊直政の方が安定してますものね

この先

井伊直政は関ケ原の戦いに備えて豊臣恩顧の大名達を家康方に引き込む才能を発揮していくわけで

   「後醍醐天皇」とか「宗良親王」とかのキイワードを出せるから

馬の骨の大名を手なづけるのに井伊直政は家康にとって重宝する家来だったでしょうね


現在の「戸籍」だってアヤシイですしね。

ここでバラしちゃいけないけど   縁起担ぎで生誕日の日付は縁起の良い日にするのはフツーにやってるだろうし
戸籍上の父親と生物学上の父親は  結構  違ってるかも知れない。笑

尹良親王は宗良親王62歳の時の子ってことは随分遅い歳の子供だなんて悪口言われるけど

    上原謙は71歳で子供が生まれた!

アル・パチーノなんて83歳にしてもうすぐ第4子が生まれるとかで
本人が信じられないということでDNA検査をしたら実子だったと大騒ぎ。


それに良王君の母上は大橋の娘だと聞いてたけど  いやいや  世良田の娘だというハナシもあって


    世良田なんて家康の御先祖さま?

でも「母親」についての錯誤は結構アリエルと思っています。


    ワタクシの父方祖母の母親の欄は空欄なんですよ。
    父親の欄が空欄で  テテ無し子  というのは聞いたことがあるけど
    母親の欄が空欄って?  ハハ無し子  ってアリ?

    母によると  父方祖母の家は物凄い金持ちの家だったというから  そーゆーコトかな?  とゲスの勘繰りをしています。



「浪合記」が偽書という噂は 

明治政府は  しっかり  徳川幕府を貶めるのに用いた手だろうと思うし
天野さんが家康の出自を源氏の正統の出とする為に書いたのかも  とも思います。

さらに

書き写すたびに  イロイロ  作為・作意  が行われたというのもあるだろうし



わたしの35代前の先祖が「宋」に渡航したハナシ  信じてはいなかったのですが  
NHKの番組で  「ムカシは神崎の所まで海だった」と知って
別宅のある神崎からなら「宋」に行くのは本貫地から行くよりずっと都合が良かったワケか
と納得しました。



現代人にはムカシの話はなかなか難しいです。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけ」かも。


わたしも  自分の噂をいろいろ最近知って  「そーゆーハナシになってたの?」  と笑ってしまいました。
本人が一番「へぇ〜。面白いね〜」と自分のハナシを楽しんでます。

神話とか伝説とか伝承とか人間の「手」による記録とかは  実に不確か。
それだけに面白いです。
[56]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月11日 19時21分50秒 ) パスワード

あをさん 

>ブログいろいろ拝見しました。

今はもう完全にお手軽な巨木探訪ブログと化しています。ただ、津島は面白そうな地下鉱脈が何本かありそうなので、探索しようと思っています。テーマ的には、

尾張に独特な蕃塀と尾張造は津島神社から始まったと言う最近思い付いた仮説検討。
津島における良王親王伝説。
最も難物で広がり具合が大きそうな津島神社における牛頭天王の謎。

など。まあ、暇を見てのんびりゆっくり進めてみます。服部氏関連では、義元を槍で突いた服部小平太に関してわからない部分があります。別途纏まりましたら書きますので、ご意見を頂ければと思います。

ところで、なぜか系図を読むのは苦手です。尾張の服部系図は諸家のものがあるようなので、それらを束ねて大服部系図みたいなものを作ったらいかがでしょう。横軸に年代を20年単位程度で置けば、もっとわかりやすくなると思いますが…。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月12日 04時24分43秒 ) パスワード

酔石亭主さん


サンタモニカ山系にあるロスの我が家の敷地に樹齢500年超えの樫の木が数本あって
つまり
我が家は500年火災に遭ってないということです。

    ロスは毎年夏が終わると「サンタアナ・ウインド」という高温度+高乾燥の風が猛威を振るい大火災が恒例なのですが

        11月に雨期が始まるので雨が降り始めるまでロスの山の手に住む家はビクビクして暮らしています
        2月までが雨期で  雨のお蔭で雑草雑木が生い茂り  これが  夏の終わりの大火の燃料となります

        それで夏の間に裏山を手入れしてないと消防署から叱られます
        我が家は毎夏メキシカンを20人雇って2か月手入れを怠りませんでした


    ということで我が家の敷地は500年無事ということです。

    500年超えの巨木なのでサンタアナ・ウインドで倒れないように
    「うろ」にコンクリを流したり  ワイアー数本で支えたりしてました。
    笑



わたしは津島神社には思い入れが無くて  「牛頭?」  なんで?  と常に???が浮かびます。

    「牛」と聞くと  モーゼがシナイ山に籠って  十戒をプレゼントされて  下山したら

       ホントは3枚の計15戒をプレゼントされたんだけど  下山途中でモーゼは躓いて1枚落として割ったから  10戒で済んで  ラッキー!

     やっとの思いで下山したらイスラエルの民は「牛」を崇めて礼拝してて  怒ったモーゼは
     というシーンを思い出すので


なんで津島神社は「牛」なの?。それも「牛のアタマ」?

日本人がイスラエルの民の子孫としたら  あの時の  偶像崇拝しててモーゼに見つかって叱られたヤツ等の子孫なの?ワタシ、と。



津島神社のお祭りは今年は7月下旬なのかな?

(今の若い)ホンヤさんは紋付羽織袴で汗みどろになって神事をなさって、名家の当主とは大変!
と毎年夏になると今は亡きホンヤさんのご苦労を思い出します。


わたしは  子供の時に  まきわら舟?  を観に行った記憶があるのですが
    熱田神宮のお祭りなのか津島神社のお祭りなのか  どっちの巻藁船か
記憶は定かではありません。


信長も秀吉も  津島神社のお祭りを楽しみに見に行ってたと聞いてるから
    ああ、やっぱり信長も秀吉も元は平家と南朝がらみの我が家のお仲間なんだな
と思います。


とはいえ!

北朝方の佐屋の黒宮台尻大隅守を舟遊びに誘い出して564たシーンが信長・秀吉お気に入りの天王祭のハイライトというハナシ

黒宮さんとこは  元々  市江の(市江小学校あたりの)大豪族だったそうで
一向一揆の時にはお仲間で、
織田信忠と戦った黒宮さんは討ち死にでした

   昨日の敵は今日の友

ということで  なんともいえない心境になり  耐えられないです。



天王祭の復活もいろいろ説があって  作為・作意  の裡でしょう。

    今でも北朝方の黒宮さんを564たシーン  やってるのかな?



一晩寝て  一体  どういう記憶を服部伊賀守宗純に抱いて来たのかな?  と思いました。
夢で見てた話です:アタマの中が整理された内容です


伊勢国奄芸郡にいた服部伊賀守宗純に吉野の後醍醐天皇からお召しがあった。
1337年以降だろう

吉野で仕えて後醍醐天皇の崩御。
1339年

宗良親王に従って東へ。
この時、伊勢や尾張の仲間と共に。(4名家+7名字+4名姓の計15家)

    しかし伊勢の「吉野忠臣4名姓:藤原・赤堀・長野・某」は遠江には住まなかった?

        この4家の姓はオカルト的に知ったので実際は合ってるかどうか分からないです


宗良親王は吉野に戻ったりもしている    吉野で  趣味のお歌の編纂やってた  とか?

このあたりで尹良親王が生まれた?
井伊家で生まれた?


尹良親王には良王君が誕生してるわけで
母上は誰?    世良田の娘か大橋の娘か
生まれたのは上野国?   新田さんの出身地ですね

    ここで  家康の先祖は世良田の出身で  新田さんの末裔   の裏書きが設定された?


この設定をしたのが天野さん?
シンセキになるから    ついつい天野さん   って書いてしまう。



で、井伊直政が「自分の先祖は宗良親王を保護してウチで尹良親王が生まれて」と

出自のアヤシイ草莽大名達を煙に巻き
家康公は源氏の嫡流の子孫で平家の下っ端の子孫の秀吉なんかとは出自が違うと endorse

日本人は本来  身分とか権威にがんじがらめの民族ですから
  出自正しき井伊直政が言うなら  家康さまは源氏の嫡流なんだな  と納得。


江戸時代に天野さんが「浪合記」で  徳川家の由緒正しき出自確定  へ。


こんな流れの夢を見てました。
夢というより  脳が整理してただけ  です。



>尾張の服部系図は諸家のものがあるよう

尾張の服部家はそれこそ物凄くありますよ

平清盛のパパの時代から。昭和区御器所です。ごきそ。秀吉のママの出身地。

わたしは尾張南西部だけど

東の方に  服部監物さんの家があって  柴田さんに近かったんだろうな  信長の弟の信行(信勝)を支持してたんだろうな、とか。


兄弟は他人の始まり。。

平家時代には熊本にも一族がいて   その後  諫早の西郷家に仕えて竜造寺と戦った家があるし。

     これもオットがらみで  オカルト的に知ったこと。


ま、服部家は滋賀県・三重県・岐阜県・静岡県に特にはびこってるから
家紋を訊いて  推測してます。
人間は動くから  思わぬ所に同郷がいたりして  旧交(笑)を温めたりしています。
[58]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月13日 06時46分32秒 ) パスワード

あをさん 

>サンタモニカ山系にあるロスの我が家の敷地に樹齢500年超えの樫の木が数本あって

自宅で巨木探訪なんて羨ましいですね。樹齢500年で、大人三人が抱きかかえ切れない大きさだったら、幹囲が5m程度になりそうです。御神木としてしめ縄でも巻かれたらいかがですか。

>わたしは津島神社には思い入れが無くて  「牛頭?」  なんで?  と常に???が浮かびます。

京都で八坂神社の牛頭天王の話を聞いた津島の誰かが、これは儲かると思い勧請したのかも…。御師や修験者の活躍で日本各地に信仰圏が広がり実際にそうなりましたから思惑通り。或いは八坂神社の神官・氷室氏が津島に移り牛頭天王を勧請した…。津島の氷室家住宅も指定文化財となっており、外観は見てきましたが、かなりくたびれています。

津島神社の名前が文献に出るのは承安5年(1175年)が最初となります。一方氷室家に伝わる家系文書に、長治元年(1104年)、尾張国海邊郡日本惣社津島神社九代二男の氷室和泉大夫良珍という人物が祇園に来同したとか、同年に平泉に移ったとの記述があることから、九代であれば900年代の後半には牛頭天王が勧請された可能性も浮上します。まあ、古い系図はどこまで信頼できるのかと言う問題があるので、何とも言えませんが…。

>わたしは  子供の時に  まきわら舟?  を観に行った記憶があるのですが

あらあら、絶対に見てはならない極秘神事を観ちゃったのですね。見ないどころか、この神事の際は家に戸を立てて鎮まり謹慎していなければならなかったのですよ。そうしていない家は胡瓜が投げ込まれ凶事が起きるとされていました。なぜならこれは、疫神である牛頭天王とその眷属を葦に仮託して送却する(天王川に流す)極秘神事の御葦(神葭)放流神事だったから…。

実際には諸々の疫病や災いを地域共同体から送却する(追い出す)超重要な神事ですから、昔だったらあをさんも大変なことになっていましたよ。まあ、今はその本義も忘却の彼方で問題はなかったのでしょうけど…。

>この設定をしたのが天野さん?シンセキになるから

えっ、天野信景が親戚になるの。高岡の天野さんは服部姓だけど、宗純辺りから繋がるんですかね。

ところで、既に書いた津島服部系図では、伊賀平内左衛門家長末孫、服部伊賀守家継(宗純)六世が服部三郎右衛門で、その子が小平太と小藤太になります。(どちらが先に槍で突いたのかとか、その他の違いはここでは問いませんけど)

一方、一宮市大赤見町の服部さんの系図では、

豊興(服部母方姓)−豊忠−忠次(小平太)となっており、服部豊興に関して、

小平太。のち母方姓を冒して服部を称す。号服部道珍。「母人伊賀国服部石見守保長の姉なり。後赤見城廃、勝幡城主信秀以其同族故、天文元年、兄弟三人共属之。」とあります。
つまり、服部小平太は宗純の子孫ではない形になるようです。

どうなっているのかと思い「津島町史」デジタル版でチェックしたところ、「尾張志」には、大赤見村の服部さんの家伝には同村の人とする、とあるが初め同地に住んだのだろう。と簡単に片づけられていました。仮に元赤見氏の小平太が母方姓を冒して(他の姓を偽って名乗って)服部を称したのなら、裏切り者と思う必要もなさそうですがどうなのでしょうね。

服部氏関係をあをさんの助けも借りながら少しばかり齧っているので、ふと小学校時代の担任が服部さんだったことを思い出しました。小藤太の子孫は知多郡に移住したそうですから、先生がその子孫だったら面白い縁になりますが…。他にもアシスタントだった女性が服部でした。本当に服部さんはあちこちにおられますね。

[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年06月13日 17時26分49秒 ) パスワード

酔石亭主様
あを様

 下記の情報、ありがとうございます。

 >これは良王親王が津島神社(当時は津島天王社)の神主になったとされてい
 ることに関係しそうで、その場合服部乙若太夫宅となるのでしょう。津島神社
 の丸池の前がかつての天王川に架かる天王橋があった場所で、この橋を渡りも
 う一つの小さな橋を渡ると境内地となるのですが、1750年代の地図では小さな
 橋の最も手前が(服部)乙若太夫の居宅になっています。

 今、私は善地という村(行政上は町)に住んで、善地天満宮の氏子総代となって
おりますが、神社に残る棟札に、「日本惣社天王御祈祷御礼 村中安全 津島
服部乙若大夫」というものが残っており、あを様には御師として発付したもので
はないかとのご意見をいただいておりました。津島には以前に調査には行ってお
りますが、改めて服部若大夫やその邸宅について再確認・再認識でき、ありがと
うございます――
[60]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月13日 19時58分25秒 ) パスワード

三つ柏さん、あをさん 

私の書いた内容がご参考になったとのこと、幸甚です。ついでにもう一つ貼り付けておきますので参照ください。これは津島市史資料編のデジタル版で、コマ番号636辺り以降をご覧いただくと乙若太夫や勾当太夫がどのような役割を持って神事を執行しているのかがわかると思います。

https://www.tsushima-bunka.jp/lib/houkoku/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%8F%B2%E3%80%80%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B7%A8%EF%BC%88%E4%BA%8C%EF%BC%89.pdf

津島神社は甲州や信濃など遠隔地も含め16国に信仰圏を広げていることから、色々な神事を執行している乙若太夫が自分で全部を歴訪するのは体が幾つあっても足りないので、各地の檀那場(平たく言えばお得意様)に多数の手代を派遣し、重要度の高いものに関しては自分が出っ張っていたのではと思います。

またこのデジタル版のコマ番号751には「牛頭天王祭文」が書かれており、最も興味深い部分です。ただこの祭文はかなり短く、東三河に伝わった「牛頭天王島渡り祭文」がなかなかの大作で、牛頭天王の出生、龍宮行と子の八王子の出生、蛇毒気神の話、津島への島渡りと疫病の造立、古端一族の殲滅と蘇民将来譚などが書かれています。

残念なことに現在の津島神社においては、牛頭天王はスサノオに、子の八王子は全く別の神に変えられています。その他の境内社の祭神も変えられているので、一般の参拝者には本来の姿が全くわからない状態となっています。全部元に戻す勇気を持っていただけたらと思うのですが、実際には無理でしょうから、牛頭天王と各境内社の本来の姿を「牛頭天王島渡り祭文」などを参照しつつ、機会を見て書いてみようかと思っている次第です。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月14日 04時08分51秒 ) パスワード

酔石亭主さん

貴重な情報をありがとございます。
新しくスレッドを立ち上げたく思っています。

    漢字
    梵字

        多過ぎ  +  難し過ぎ・・・




三つ柏さん

>神社に残る棟札に「日本惣社天王御祈祷御礼 村中安全 津島服部乙若大夫」と


今回、三つ柏さんが氏子総代さんに成られて  非常に  オカルト的なパワーを感じます。

     「村中安全」だと良いですね。



もしかすると本当にご先祖さま(達)  服部保次?服部政信?良王君?  からのパワーが来てるのかも。

    だとしたら良いですね。


        と、なると  やっぱり良王君の生物学上の母上は大橋の娘なのかな   と思ったりします。


        大橋の娘が  出自ロンダリングで   世良田の娘=新田=源氏  ということになったのかも

        このあたりの落としどころ  で  良いかな? >  自分



今年の天王祭がいつ行われるのか分かりませんが  是非  お出掛けを。

    しかし  とんでもなく暑い時期で  ホンヤさんが「裃が汗でびっしょり」  とおっしゃっていらっしゃったのを思い出します

         上の方のレスに「紋付羽織袴」なんてバカな表現をしましたが「裃」とホンヤさんはおっしゃってました

             最近  英語も日本語も  セミリンガルになってて<言語障害>始まってます

        
    名古屋あたりの夏のクソ蒸し暑さは  物凄い  ですよ
    覚悟なさって  今年のお祀りをご覧になってください

        「善地氏子総代枠」で参加できると良いですね

             人脈は開発開拓拡張せう



なるほどね
三つ柏さんのご先祖さまは  服部保次 か 服部政信  かも   ですね。

***************************************

津島の服部さん系

服部・中・要介・保次
    織田信長に仕え
    「永禄3年5月  右府  今川義元が桶狭間の陣を襲ふの時  保次  其名を呼はり  衆に先だちて義元が本陣に馳せ向かひ  戦功を勤す」 


          そうすると  いわゆる「津島の服部さん」  ですね
          義元に一番槍をつけた服部小平太一忠の兄弟か従兄弟か
   

    家紋は4種類  
    向かひ蝶    揚羽向かひ蝶の内   16葉菊  16桁車の内横矢筈

          16桁車の内横矢筈紋はホンヤさんのムカシの家紋と同じですね
          有松(鳴海)の名家の服部家とも同じですね

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ホンヤさん系

服部政信の曽祖父・権大夫左京亮信発=政家    ホンヤさんの先祖の一族ですね

    信長の父の織田信秀に仕えてたけど   
    大橋の乱で(大橋が高須に城を作って信秀と戦って負けて大橋重長は信秀の長女=くらの方を妻にして家臣となった事件で)
    手切れになって
    二ノ上あたりに住んでた


服部政信の祖父=政光 
 
    信長と義元が沓掛で戦った時   
    「政光  兵糧船一艘をもって東照宮に奉りしかば御感をかうぶる。この時  岡崎に於いて召されて仕へ奉り  
     のち  遠江国河の内の庄にをいて3000貫の地をたまふ」

    三方ヶ原の役にも参加。


服部政信の父=政季

    天正10年から活躍
    武蔵国太田庄に3000石     武蔵の太田ですって!新田さんの土地ですよ〜
    近江国長浜に1000石

              それで滋賀県にも服部姓が多いのか   納得!


服部政信

    関ケ原や大坂の役で御使番

    元和6年?遠江国今切の関所奉行に
    寛永19年5月に今切に於いて死す


        家紋   矢筈車
    
      
++++++++++++++++++++++++++++++++++

やっぱり  遠江の服部さんは  平家時代あたりから  この2つの流れかもですね。       
[62]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月14日 06時58分35秒 ) パスワード

三つ柏さん、あをさん


>三つ柏さんのご先祖さまは 服部保次 か 服部政信  かも ですね。


もう一つのドラマチックな可能性…。


服部乙若太夫が三つ柏さんの故郷に行き、善地天満宮に残る棟札に、「日本惣社天王御祈祷御礼 村中安全 津島服部乙若大夫」というものを残した。

棟札だけでなく、地元の女性と親しくなり、子供も残した。その子が服部を名乗り、三つ柏さんの先祖となった。

小さな小さな可能性に過ぎませんが、時空を超えるドラマになりますよ。

訂正:

東三河に伝わった「牛頭天王島渡り祭文」⇒奥三河に伝わった「牛頭天王島渡り祭文」
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月14日 10時19分25秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>服部乙若太夫が三つ柏さんの故郷に行き、善地天満宮に残る棟札に、「日本惣社天王御祈祷御礼 村中安全 津島服部乙若大夫」というものを残した。
>棟札だけでなく、地元の女性と親しくなり、子供も残した。その子が服部を名乗り、三つ柏さんの先祖となった。


ドラマですね。
そこには愛があったのか。


もし三つ柏さん宅の家紋が木瓜紋だったら  「確定」でしたが。
     津島神社の神紋(牛頭信仰の寺社と共通)は木瓜紋(織田と同じ)。

        尾張は木瓜紋が多いので遠江の木瓜紋の家は尾張系かと想像しますが
        三つ柏さん宅は「柏紋」だから  合わないですね。

            「柏紋」なら神社系が想定内ですが



善地天満宮

宮司  松島春江さん(諏訪系でしょうね。ということは南朝方?)

御祭神 菅原道真
御由緒 鎮座、創立の年代詳ならずと言えども、天正20年霜月13日再建の棟札を有し、以後9体を数える。
明治12年9月、村社に列せられる。


天正20年は1592年
信長横死後10年ですね。
文禄元年が始まる年ですね。
文禄の役。


その頃に津島から御師さんが来た?
どうして来たのかな?

元寇の時、日本中の神社仏閣で祈祷が行われたのと同じ?
そうすると  遠江在の旧尾張関係者の要請で  津島神社から祈祷に来た?



奥三河

個人的には馴染みが無いエリアですが
同僚に  奥三河の女性  がいました。

まさに「設楽が原の戦い」のエリア出身でした。

会った瞬間に  剥き出しの敵意を感じました。


それで「どうする家康」の最近の回で  あれは反信長の感情を彼女からぶつけられたのか  と分かりました。

    武田に付いたり  織田に付いたり  武田に寝返る方が良いだろうか
    と  
    彼女のご先祖さまは悩んだんだろうな   
    と今は納得です。


       「うちも反信長だよ」と言ってたら ice breaker になって  打ち解け合えてたのかも



井伊直政を見習って  外交的に  振舞わなきゃ  って今頃  気付きました。
家康は井伊直政に三河の家来達が持ち合わせない能力を見たのかな?       
[64]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月14日 17時13分40秒 ) パスワード

酔石亭主様
あを様

 いろいろご教示、ありがとうございます。
 氏子総代に就任してから、特に永井家、鈴木家のご先祖様の調査を彼らととも
に行いつつあります。善地には昔からの五苗というものがあり、それはー加藤、
鈴木、永井、服部、松島であります。もちろん、加藤家とも、松島家とも祖先の
話をしつつあります。

 家康が浜松へ侵攻してから、境界の守りに服部系や信頼のおける武士を置いた
と思われます。西の守り(浜名湖側)には、服部中系と政光系、これは事実とし
て、後に新居の関所奉行としての記録が残り、また服部系の墓が残っております。
 気賀近くの刑部には、服部仲保次が今川の残党に暗殺され、まさに「16桁車に
横並び矢筈」の家紋の墓が現地に残されております。
 中保次の系統は、三千五〇石の旗本として、浜松市西部の大久保町に陣屋と邸
宅を持ち、また長上郡の石田にも代官屋敷を持ち、馬渕氏を地代官として、明治
まで存在しておりました。

 服部半蔵正成もやはり浜松で領地をもらっております。小池という所で、地頭
として現小池神社(旧八王子神社)の棟札に記録が残されております。

 さて、以前、市野氏について探求いたしましたが、市野氏は徳川家康に1568年
に市野で会っております。市野村の西地区に字小池が含まれており、また市野村
の東に石田村が存在しています。
 それは、すなわち、半蔵正成ー市野惣太夫ー服部中保次(子の保正、孫の保俊)
が主要街道の西から東へかけて警備していたということ、市野氏は浅井氏を祖と
しているということですので、いわゆる"忍者"を操る者たちが、この街道で警備・
防御をしていたということになります。

 また、市野氏と松島氏は姻戚関係となっていますので、松島氏は市野から北の
地域、武田軍が天竜川を渡ったとする神増(かんぞう)のあたりまでを任されてい
たのではないかと思われます。

 善地天満宮の一枚目の棟札(1592年)には、「松島忠吉(松島本家、源右衛門)」
が施主(願主)と書かれております。この忠吉家には、対助が養子に入っており、
のちに右衛門家として独立。対助は市野惣太夫の娘を妻に迎え入れております。

 市野より北側における天竜川流域の地勢的な状況としては、毎年のような洪水
にも何とか持ちこたえるいわゆる北の前線地帯として、善地は家康の直轄地(天領)
でありました。また、善地は1640年代に四村に分損されており、それまでは今の
四倍の大きさがあったという記録があります。
天竜川における武田との小競り合い等に服部半蔵もしばしば活躍していること
が記述として残されております。

 こういう状況を踏まえると、善地五苗は、天竜川西側中流域の防御のために
置かれたのではないかとも思われます。
 家紋を別にすれば、わが服部家も半蔵や中保次や正光系のかたわれの可能性、
特に中保次の一族を探求してみると、状況証拠はかなり揃っているのですが、今
のところ確証を得てはおりません。

 ちなみに、天竜川以西の遠州で、永井と服部の戸数は、この善地が他の追随
を許しません。永井家は永井直勝、白元系に斉藤長井系が一部混じっているかも
知れません。加藤は、加藤光泰の弟系の一族だと推察しております。松島は伊那
の松島城主の一族、鈴木は井伊谷三人衆の鈴木重時の一族やその他熊野系だと推
測するも、鈴木姓は多すぎて特定が難しいです。

 いずれも、解明の途上にあり、アリの一歩の探求を日々苦しくもせつなくも
追い続けております。

  
[65]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月14日 18時33分10秒 ) パスワード

あをさん

>もし三つ柏さん宅の家紋が木瓜紋だったら  「確定」でしたが。
     津島神社の神紋(牛頭信仰の寺社と共通)は木瓜紋(織田と同じ)。

津島神社や祇園系は木瓜紋と言うのは以前から知っていましたよ。けれども、服部乙若太夫家の家紋がそれと同じとは限らないのでは?まあ、木瓜紋でないとしても丸に三つ柏紋の可能性は多分低いと思いますので、結果的には同じかも。

>その頃に津島から御師さんが来た?どうして来たのかな?

読解力が乏しい私では善地天満宮の棟札とされる「日本惣社天王御祈祷御礼 村中安全 津島服部乙若大夫」の内容がよくわかりません。御礼はお礼なのか御札(おふだ)なのかも判別できず、乙若太夫がお礼しているようにも感じられ、混乱してします。ただ、どちらにしても乙若太夫が自身で善地天満宮まで出向いたような雰囲気ではなさそうに思えてきました。となると、ドラマチックな展開にはなりそうにない…。

話は変わりますが、「尾張国諸家系図」で服部氏を見ると、その次が大橋氏になっています。各人物の記述が面白く、自分の控用も兼ねて以下に書き出します。

大橋定省
後亀山院弘和元年(1381年)の冬勅命奉、津嶋天王の宮中末社に至造営す。今の宮地也。無二の宮方故に宗良親王の姫号桜姫を下し給て妻とす。故に其身は津嶋に有て、二男修理太夫貞元を吉野に上せと奉仕す。

大橋信吉
太郎丸。中務少輔。「母は宗良親王姫。後年良王親王の御嫡男神王丸を養君として家を譲り。奴野屋の城を退去。」

定省の女
良王親王。瑞泉寺殿室。御子二人。嫡子神王丸、後大橋泉守信重と号す。中務少輔信吉養君とし、奴野屋の城に移る。大橋は平氏なれども、後源姓となるは此信重の謂なり。二男良新丸津嶋神主家を継て氷室兵部卿と号す。此兵部卿も継子なく、大橋貞元二男小田井大学介真常を子とす。

大橋信重
神王丸。和泉守。兵士を源氏に改める。母は定省の女。「実は良王君の嫡子。大橋中務少輔信吉が子とす。奴野屋の城主」

大橋定廣
太郎丸。中務卿、大膳介。「母は熱田大宮司千秋氏女。」

こうして見ると本当に色々絡み合っていますね。


三つ柏さん

>家紋を別にすれば、わが服部家も半蔵や中保次や正光系のかたわれの可能性、特に中保次の一族を探求してみると、状況証拠はかなり揃っているのですが、今のところ確証を得てはおりません。

ご先祖探しの旅を多分もう5年以上続けておられるのでしょうが、まだ解明途上とは本当に大変ですね。何とか、半蔵や中保次や正光系の流れに位置付けられたらいいのですが…。

三つ柏さんは正道を行く調査を続けられるとして、私は外から見ている立場なのでちょっと違う観点を書いてみたいと思います。

乙若太夫のドラマチックもその(うまくいかなかった)一例ですが、例えば津島神社の服部勾当太夫は村主姓を何らかの事情で服部姓に変えています。一宮市大赤見町の元・赤見氏も既に書いたように服部姓に変えていました。

正道の流れの中からなかなかうまく拾い出せないのは、三つ柏さんの服部家が特立している、つまりそうした流れの中ではない位置に存在しているからではないか、などと推察する次第です。家紋の部分で言うと、以前に書いた記憶がありますが、服部家と浜松にいる出雲系の神門家(丸に三つ柏紋)との何らかの関係で、服部家が家紋を変えた可能性を考えました。

三つ柏さんのケースが当てはまるか確信はありませんが、全く違う筋から光を当てると謎が解けてくる経験は何度かしています。一度全く違う視点から考えるのも、答えに繋がるかどうかは別として、無駄ではないような気もします。
[66]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月15日 19時28分28秒 ) パスワード

あを様
酔石亭主様

 当村の永井家の家紋は、丸に三つ柏が半数、永井梨の切り口が半数と二分されて
おります。これをどう解くか・・・永井直勝系(長田系)が丸に三つ柏、斉藤長井系
永井氏は永井梨の切り口が多いので、永井家は両者がミックスしている可能性はあ
ります(何で斉藤長井家が浜松に?・・・斉藤道三没後、斉藤長井系の永井氏、家臣、関係者は駿河、後遠江に流れたという情報があります。)

 加藤家の系図には、加藤家との姻戚ということで、永井家と服部家が加藤家の系
譜に取り込まれ、縁戚となっており、服部家の家紋はは永井家の家紋に変わったと
いう可能性があります。永井家の方は戦国時代から庄屋や神主をやっており、また
服部家については、少なくとも幕末の難しい30年間くらいの期間、庄屋をやってい
ることは明らかになっております。

 もう一つは、服織神社を中心とした古代系の服部、特に神服神社の丸に三つ柏を
家紋とする服部氏の一団が、羽鳥庄が今熊野神社に寄贈された時に、羽鳥を離れ、
北へ向かった、つまり北二キロの善地に逃れてきたという可能性があります。本家
は三十八代目でありますので、その頃こちらへ移動してから数えると、ちょうどそ
のくらいの代数となります。失われた服部氏はここに来たのかも知れません。

 その他にもいくつかの可能性は考えられますが、物的証拠がないので確定できて
おりません。家紋にこだわらなければ、服部中系の状況証拠はかなり揃ってはおる
のですが・・・。

 アリの一歩の進みようですが、おかげさまでここ10年でかなりの進捗はありまし
たこと、とりあえず感謝申し上げます・・・!
[67]酔石亭主さんからのコメント(2023年06月16日 06時29分58秒 ) パスワード

三つ柏さん、あをさん

三つ柏さん、あをさん

>当村の永井家の家紋は、丸に三つ柏が半数、永井梨の切り口が半数と二分されております。

三つ柏さんが書かれた細かな事情・状況は少し横に置いて、うんと簡潔に考えてみます。

要するに、服部姓と丸に三つ柏紋は両立しない部分に壁と言うか矛盾があるのですね。こうした矛盾は矛盾がない形に再構成すればいいと思います。となると、以下のようにシナリオが最も可能性が高い…。(注:あくまで可能性ですが)

永井家の三男か四男に服部中系統(三つ柏さんの先祖となる服部家)の娘が嫁いだ。やがて生まれた子供は姓を服部に変えたものの、自分の永井家としてのルーツとなる丸に三つ柏紋はそのまま引き継いだ。

姓を服部に変えた事情は色々考えられますが、例えば三つ柏さんの先祖となる服部家の後継ぎが早世してしまい、服部家は永井家の本家と協議。三男か四男の永井さんについて家紋は丸に三つ柏を引き継がせる条件で服部への改姓に合意した。

以上のようなシナリオなら、服部家で丸に三つ柏紋の存在が矛盾することなく成立することになります。家を守るためのこうしたやり取りは、戦前以前の日本ではごく一般的にあったはずで、筋としては悪くないように思います。ただ、具体的な証拠や証明探しは難しい。
[68]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月16日 07時50分04秒 ) パスワード

家紋についての考えの追加

 遠州の西部、つまり浜松・浜北・引佐は南朝の巣靴で、家康が侵攻してくるま
では今川、すなわち北朝の監視下にありました。南朝狩りも行われていましたの
で、苗字も変えたり、家紋も変えたりせざるをえなかったという特殊事情もあり
ます。

 また、同じ家系から二代にわたって養嫡子をとると、家紋が養子の実家の家紋
になることもあるそうです。子供に男子が生まれる保証はありませんし、生まれ
ても亡くなってしまうこともあり、また栄枯盛衰もあり、一つの家柄をずっと残
していくためには何でもありであったと思います。

 明治維新における苗字の復活に伴い、家紋もあわせてつけることが流行ったと
いうことがあり、その場合、檀家寺の和尚さんの勧めに従ったということも、家
紋の事情を複雑にしている要因であると思います。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月16日 09時40分36秒 ) パスワード

先月から  何か来てるな〜  と思ってました。

   母方先祖が若い時にモンゴルに滅ぼされる前の「宋」に行ってたのはホントだったのだと納得入ったり
   その他、まさか、と思ってたコトが  ちょこちょこ  有りました。


昨夜9時に寝たのか?10時ちょっと過ぎにものすごく深い眠りから目が覚めたら  目の前に光るエメラルド・グリーン色の玉(直径15p弱)が見えて  
す〜っと遠のいていきました。


   同じ経験が20世紀の終わりの里帰りで  津?久居?の榊原?温泉の宿で  夜中にありました。

   その朝  花垣神社に行こうとして 途中で 寿永3年12月7日(1185年1月10日)の「藤戸の戦い」から戻った「伊藤さん」を見ました。

        1990年代  わたしはオカルト経験をたくさんしました。その内の1つです。


   この里帰りからの帰国後  伊勢国の4名姓の家の名をオカルト的に知り
   「藤戸の戦いから戻った伊藤さん」の子孫の伊藤家と国際電話で話したら
   「うちの本家は倉を開けるなんてしない。調査なんかさせない。勝手なコト  言われたくないから。その代わり長老が若い世代に先祖のことを話した」
   と聞きました。




で、今朝、弟から「父上も母上も  姉さんのこと  すっごく心配しているから  父の日メール送ってね」と。

父は私のコトを心配しているようで(わたしがオトナシクしている=何かやらかしている最中  ということなので)


で!

ここからがビックリの告白なのです。
前置き長かった、許してたもれ。


なんと!
わたしの従姉の嫁ぎ先が  父方=服部友貞=同様  滝川一益に殺されてました。


三つ柏さんの書き込みを拝見して
「うちは加藤とか鈴木とかは関係あるけど永井と松島は無いなぁ」と思ってました「永井じゃなくて長田ならいろいろあるけど」と。


で!


数年前、松島氏のことを平熱でいろいろ書きまくっていた時に   藤原秀郷の息子の藤原千常と松島氏の関係を知った記憶です。


なんと!  従姉の嫁ぎ先は  まさに  藤原千常の子孫の足利氏でした(  源姓の足利じゃないですよ。藤原姓の足利ですよ  )
つまり  平家  じゃん!

     大橋さんの先祖の平貞能と足利忠綱って従兄弟になるんだっけ?


つまり私の従姉の嫁ぎ先は  平家で南朝方で反信長でした。

確か、この従姉が結婚した時に「系図交換」をやってて  わたしもコピーを持っているのです。



だけど従姉の嫁ぎ先なんて全く私の視野に無くて



従姉の御主人の姪がカリフォルニア州立大学に留学に来てて
それで我が家に来た時に写真を数葉持って来てて

   (なんで  この子がわたしの子供時代の写真を持ってるの?)と不思議でした。
    
       その写真は彼女の写真で私の写真ではありませんでした。 

          今  ちょうど今  は納得!
          藤原秀郷以来の親戚じゃん!
          1100年前から! 

              似てて当たり前だったの?
                 どうせ似るなら仲間由紀恵の3倍美しい元同僚に似てたかったよぉ〜(泣)  



彼女が持って来た写真の中に彼女の家の写真もあって
オットの表現では「姫路城のミニ版」です
ホントにお城みたいな家でした。


    こんな写真  アメリカの男の子に見せたらダメよ!  と言ったのですが

    彼女は日本の家族と   丁度真ん中のハワイで休暇を過ごして 
    その後  
    彼女はロスに戻ったら  大学の同級生の男の子達が何人も  空港に迎えに来てた  って。


          「見せるな!」って言ってあげたのに!
           1960年代までのアメリカとは違って今のアメリカの男子は逆玉狙いがウヨウヨいるのだから。
           

内心  なんで  こんなお城みたいなド派手な家なの?  と思ってたけど
ああ、そういう事でしたか、でした。


それで彼女の家が何百年も同じ場所に住んで来たというのもハッキリ納得しました。



今回知った驚きのハナシはもう1つあって
大学の某先生  名誉教授  が  なんと!  同じく南朝方で反信長の家でした。

   つい先日も元クラスメートと「あの先生の家は元は公家だから私達みたいな庶民を教えるのはイヤだったでしょうね」なんて噂をしてたところでした。


本当に日本人って  実はみんな  繋がっているのですねぇ。
知らないだけで。


上記に書いた従姉ですが  一目惚れの  大恋愛の結婚でした。
そりゃ、そうだわ
と納得!



従姉の姪ですけど
伯母は「あをちゃんにソックリのスゴイ女の子」なんて言ってたけど
全然です。

彼女は自分の行ってる州立大学の隣の州立大学が日本に遠征するという話を聞いて
通訳を買って出て、
そのヨソの大学のお金で  当然  日本に行って来た猛者です。


その前に

実はNYの大学に行ってたのを  NYは寒すぎる  ということで
その大学の奨学金でカリフォルニアの州立大学に転校したというスゴイ脳の持ち主です。


こんな子のご先祖が  なんで  滝川一益なんかにヤラレタのか  信じられない!
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月16日 15時33分21秒 ) パスワード

あれ?

貞能の従兄弟って宇都宮朝綱だっけ?
ワケ分からなくなった。


           平家が滅亡してから
           服部家次が宇都宮朝綱を頼って落ちて行ったけど断られて
           家次は更に奥へ落ちて行った   記憶がある   湯西川だったかな?
           



パクって来ました:

元暦元年(1184年)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い、本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。

同年11月14日、平家追討の功で佐々木盛綱等とともに西国に所領を賜る。


元暦2年(1185年)7月7日、平家一門の都落ち後に行方不明になっていた平貞能が頼朝への助命を求めて突如朝綱の元を訪れたため、朝綱が頼朝を説得して貞能の身柄を預かることとなる。


*****************************


足利忠綱もパクって来ました:

『吾妻鏡』によると治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。

忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、平家の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。

宇治川の戦いでは先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた。

墓所
京都府宇治田原町    ←  伊賀呉服明神=小宮神社=の神職・服部貞信がいた所
群馬県桐生市梅田町4-6914−1  皆沢八幡宮
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月17日 08時00分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

松島家家譜を読んでた時に「高天神城」の記入があった記憶です。

更に「鈴木さん」と「松島さん」について思わぬ情報があったのでシェアします。
ワタシ的に意味不明部分は割愛。


https://ameblo.jp/never-ever1127/entry-12383641023.html
コピペの孫コピペ(笑)
全文はURLへ。


(静岡県の?)松島姓は全数の80%近くが西部に分布(でしょうね)。

信濃国伊奈郡より起こる松島氏は諏訪神族、
甲斐の松島氏は巨摩郡松島村から起こり 清和源氏小笠原氏流という。


松島五兵衛は高天神城(大東町)小笠原長忠に属し、天正2年籠城して武田軍と戦う。

鈴木五右衛門は長上郡松島村(浜松市)の新田を開発、
子孫は代々名主となり
9代目五右衛門の時   村名の「松島」に改姓したという。

江戸後期、田中藩医に松島玄徳、玄洞がある。


++++++++++++++++++++++++++++++++



松島氏
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%BE%E5%B3%B6

【全国順位】 362位
【全国人数】 およそ55,400人

【名字の由来解説】
@諏訪神党。
A滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)。
B清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。
C安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)、熱田神宮社家(大原真人)。
D紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。紀氏は源平藤橘につぐ大姓)。
などにもみられる。

「島」は一定の小区画を表す。



松島さんの多い地域 TOP5
都道府県 人数
東京都  およそ6,500人
群馬県     およそ4,300人
埼玉県  およそ3,800人
神奈川県 およそ3,600人
静岡県  およそ3,500人



市区町村 人数
群馬県桐生市 およそ910人
群馬県みどり市 およそ780人
群馬県太田市 およそ770人
静岡県磐田市 およそ710人
栃木県佐野市 およそ710人



松島さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 比率
群馬県 0.2254%
栃木県 0.14084%
富山県 0.11878%
長崎県 0.10107%
静岡県 0.09684%



市区町村 比率
奈良県吉野郡上北山村 2.926% ここは南朝方が落ち着いた場所?
東京都大島町 2.217%
高知県安芸郡東洋町 2.145%    ここは意外
長野県下伊那郡喬木村 1.783%
群馬県みどり市 1.55%
[72]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月17日 15時55分43秒 ) パスワード

「信康」考(1)

 信康事件については、様々な説があり、その原因・プロセスがいろいろ語られるけれど、最後は切腹したとの説がほとんどであります。が、我々にほのかなロマンを感じさせるものとして、村岡説(村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』榛葉英治現代文訳)があります。
 この中で、著者は信康事件の核心部分について次のように書いています――
 「岡崎三郎信康は、遠州二俣城で、大久保氏らの厚き情けにより、鵜殿某が代わって死し、命を助けられた。そして京丸の山奥に送りとどけられ、食物、調度などは、大久保氏らがひそかに送り、側女、女中まであてがわれて、白雲が深くとざした閑寂幽邃の山中で暮らすこと五十余年の年月をすごしたのであろう。天正七年は、信康の年齢は二十一歳であるから、この頃は、七十五六の高齢だったろう。」
 ただし、これらの根拠性については、憶測の域を脱していないように思われます。

 大久保忠世は現場にいたわけですので、真実を一番知るのは大久保忠世ではないかと思われます。大久保家にはそれを説明する『大久保家秘記』という記録が残っています。この『秘記』が書かれたのは、忠世を初代として九代目か十代目の頃(1700年代後半)とみられています。この『秘記』の中には通説とは違う最後のプロセスと結論が次のように書かれています――
 「さて大久保忠世はどうにかして家康の憤りを解かせようとして心を悩ませていた。また信康への危難を除こうと日夜心がけ、もし事が急にでも出来(しゅったい)すればどこへとも落ちさせようと心に決め用意していた。そんなあるとき、家康のいる浜松へ出仕して二俣城を留守にした。その間に天方通綱と服部正成が二俣城外まで来て”信康をまだ生害させていないならば、我々が受け取り、生害を勧めろ、という家康の命令を告げたい”と言う。すると忠世の妻近藤杢右衛門幸正の娘(のちの法眼院)は長刀を脇に大手門外へ走り出て、”上様の仰せでお越しいただいたというが、三郎君のことは夫七郎右衛門(忠世)に命令され、警護せよと仰せ付けられている。いま七郎右衛門は浜松城に出仕して留守である。たとえ上意としてもお渡しするわけにはいかない。もしや七郎右衛門自筆の墨付きでも持ってきておられるのか。なければ女ながらも一分(いちぶん)が立たない。消してお渡しすることはできない。どうしても受け取るとあらば、女首でも取ってから行き給え”と答えた。そこでしかたなく天方・服部両人はむなしく帰っていった。
 (その後忠世が戻り、考え抜いた挙句)、信康を秘かに落そうと船に乗せた。駿河の方へ向かおうとしたが今切は入海のため陸地が近く、人の行き来も多い。まして浜松の家来衆の行き来も多いことからすぐの出船もしがたい。信康も口惜しく思い、生害仕様という気持ちになった。その時忠世の弟治右衛門忠佐(ただすけ)がここに来るということを聞いて、信康は大いに驚き”もはやこれまで”と自刃した。二十一歳であった。忠世の家人後藤三郎右衛門が介錯した。」      (野村武男著『家康長男信康と大久保家の謎』より)

村岡説と秘記に書かれた記述の違いは、信康を逃がしたか、あるいは逃がす前に信康が 勝手に自害しかけてしまったかの違いであります。ただ、いずれにしても藪の中の話であり、本当のところはわかりません。
 
 Dead or alive?・・・服部党はどう動いただろうか?       つづく――

追伸:あを様 天竜川の河口に発生した松島氏のこと、よく気が付かれましたね! 
ただ、この五島松島村の松島氏は元来鈴木氏であり、諏訪系の松島氏ではありませ
ん。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月18日 04時54分28秒 ) パスワード

三つ柏さん

「信康考」
ありがとうございます。

涙無くしては読めませんでした。


    京丸山に匿おうとしたのも事実
    今切湊で出航の刻をジリジリ待ってたのも事実


      信康を  生まれた時から知ってる家臣達は  死なせたくないですものね。
      いろいろ考えたんでしょうね。


>岡崎三郎信康は、遠州二俣城で、大久保氏らの厚き情けにより、鵜殿某が代わって死し

ここも泣けました。

鵜殿氏

今川義元の甥・鵜殿長照は永禄5年(1562年)徳川家康が上ノ郷城=蒲郡ですね=を攻め落とし、
この戦で鵜殿長照は討ち死にし
この時、鵜殿長照の子「氏長」と「氏次」兄弟は捕われ、
徳川家康の人質となって、のちに今川氏が人質にしていた徳川家康の妻子との交換が行われ、兄弟は無事、今川側に戻った。

そして鵜殿の娘(西郡局)が家康の公認の側室となって娘を生んだ(督姫)。
「どうする家康」では西郡局はLGBTQで描かれていましたね。


      ということは  鵜殿氏は家康に恩は返した  ですね。


泣けてしまって書けなくなります。


いろいろな人が知恵を絞って頑張って現在に至る。

鵜殿氏とワタシが100%無縁かと言ったら  いえいえ  無いわけじゃありません  どころか。。。です。
浜松の豪族・中安氏も家康に敵対して結局は現在に至る。大変な思いがあったんでしょうね。


「長上郡の名家と書かれた服部氏」はどの時代のコトなのか分からないけど
浜松は鈴木さんだらけ
という笑い話は  どの系統の鈴木さんなのか分からないけど  紀州?

本姓穂積氏の藤白鈴木氏は  熊野本宮の出身で   当然  平家とべったりで

実は大学生になったばかりのワタシに「君の田舎はどこ?」と言い寄った男が今の名字が「ながいさん」でした。

        確かに「名古屋はド田舎」と悪口言われていて  わたしは  そのまた  物凄いド田舎出身だけど


で、方向音痴のわたしが地図で確認してたら  なんと!  仲間由紀恵の3倍美しい元同僚の元々の出身地は   熊野街道上でした。

大学時代の元クラスメートにも同じ名字の人がいて  (この2人は繋がってるのかな)と思ってましたが

繋がってるどころか  私達3人  平家時代の仲間でした。当然南朝方だし反信長だし。


さらにバカ話を書くと
上記の元クラスメートが  好きだった男の子と喧嘩をして   別れた? 彼女が泣いてたのを見た 
それでわたしが「あの男の子 ジャガ芋みたいで 可愛いよね」と友人達に言ってたら
別の学部のわたしの友人=わたしの一族で尾張藩の家老の一族で金持ちの娘=が「あの男の子」に接近して同学年達から「あをちゃんから取った!」
と噂になって私は同情された
結局この2人も別れた。彼女の家が資産家過ぎたからね。

    その後「あの男の子」がわたしの母方の一族の女の子と結婚したんだけど
    「あの男の子」の母親が「あをちゃんと結婚して欲しかったのに」とわたしに言って


ホントに日本って小さな世界だと思います。ヲトコの好みまで似る?

わたしは玉葱の方が好みなんだけどね〜


なんか30年ほど謎に思って来たことの真相が解けて来たように思います。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月20日 13時58分25秒 ) パスワード

ここ暫く、何か来てる、と思ってたけど
やっと?かなり!分かりました。

1.
6月1日に香港の友人のパーティに行って、途中で「宮崎料理屋」を見て(母方一族の経営じゃん!)と驚いてたら

なんと!わたしが「母方で考えてた人」は実際は宮崎出身者じゃなくて「鹿児島」出身でした。
もう完璧  母方だけでなく父方でも  ドンピシャ  繋がってました。

    この人物が学生時代に観てた景色はまさに父が若い時に観てた景色だったのも感慨深いものがあります


2.
わたしが「母方で考えてた人」の「目元」が従姉にそっくりの涼しい目だったことから
従姉の嫁ぎ先が  平家+南朝方+反信長のお仲間であったことが分かり

なぜ従姉の嫁ぎ先の舅姑が   従姉の未亡人になった母親と従姉の姉夫婦まで引き取り(計3人の為の家を建て)今に至るも面倒を見ているかも分かりました。


従姉の嫁ぎ先は
      *わたしの父方で繋がるから共に後醍醐天皇のお召しで南朝にお仕えし
            我が家は宗良親王と東へ  従姉の嫁ぎ先はそのまま吉野にとどまり
      *わたしの母方と吉野で苦楽を共にし

その後  反信長で戦い
      共に滝川一益に敗れて斃れた。


だから従姉と彼氏さんが一目惚れで大恋愛をして  
彼氏さんの両親が従姉の母親と姉夫婦まで 皆で 近くに住みたい  と希望したのかが分かりました。

    フツー  こんなの  考えられないでしょ?

    世間の舅姑は息子のために建てた家の敷地に(広大な敷地だけど)
    嫁の母親なんか呼びたくないし  その上   嫁の姉夫婦まで
    一緒に住めるように家まで建てるなんてしないでしょ?

          あ、従姉の姉の夫は元僧侶です(従姉の姉と結婚する為に辞めなきゃいけなかった)

          もしかすると  従姉の姉の夫は  名字からするとわたしの父方の親戚かも


3.
そして  もう1つ  分かってしまった。


秀吉の吉野の花見で秀吉が花見の本陣としたのは吉水院(現・吉水神社)で

      ここに後醍醐天皇が行宮を設けた

そういう場所に秀吉が花見の本陣を敷いた。


      ということで秀吉にとって後醍醐天皇というのは憧れの人だったんだぁ〜。


秀吉が招待客5000人で花見をやった心の底に   後醍醐天皇に対して  
      遅れ馳せながら、私が日本中の有力な武士や有力者を連れて来ましたよ
という慰めと報告があったのかな?と。
[75]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月21日 18時49分22秒 ) パスワード

「信康」考(2)

 信康、dead or alive?・・・死んだか生きていたか、信長の建前上では、信康を処理することが一番のように我々には思われる。しかし、戦国時代に今の我々の常識は通じない。よく考えてみると、戦国武将は戦略・戦術について、例えば『孫氏の兵法』等々をよく勉強していたはずである。そして、忍びを使って情報を探り、分析していたはずである。家康にしてみれば、武田のスッパ、歩き巫女、御師、山伏・・・の動きと策略は、服部党等を通して見通していたはずである。

 1579年9月15日の信康事件とほぼ同時、9月17日に第一次天正伊賀の乱が勃発している。遠江では武田軍との高天神城を中心としたせめぎあいが行われている。
 『孫氏の兵法』の中に、「離間の計」というのがあり、相手の内部に裏切り者を生み出し、内部分裂をさせてから攻めるというもの。信康事件とは、まさに信玄の「離間の計略」に他ならない。甲斐からはいわゆるスパイがたくさん来ていた。
 信康を処理すれば、まんまと武田の計略に引っかかるということになる。そんな手に簡単に乗るわけには行かないだろう。

 ではどうするか、@替え玉を用意し殉死してもらうということ。そして親子をどこかへ隠蔽させるということは可能性大である。

 あるいは、A武田の「離間の計」にまんまと引っかかったようにして、親子を処理してしまうということ。これは、服部党に利がある。というのは、この年、秀忠が生れている。実は秀忠は服部正尚の子である可能性が高い。服部党から当主を出すということ、こんなチャンスはまたとない。服部党の大陰謀であります! 実は、この3年後に起こる本能寺の変においても、明智光秀の奥方として服部党から入って、子供まで生んでいる。光秀が天下をとっても当主を出せるかも知れなかった。
この服部党の大陰謀は、秀忠、春日局、家光で150パーセント成功したのではないかと思うのですが、ではその裏にはどんなベクトル・モチベーションがあったのでしょうか? 服部は単なる機織りの子孫だったのでしょうか?
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月22日 09時38分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


「どうする家康」では信康の最期をどう描くのでしょうね。



わたしは(天方通綱と)服部半蔵が信康の処理を命じられたということで

     家康は半蔵ならうまく逃がしてくれると期待してたのでしょうか?
     だけど気が利かない真面目な天方がサッサと殺してしまった?

         で、家康の真意に気づいた天方はその後出奔することになった?

ドラマになりますね
     家康の心情
     信康の狂気
     半蔵の困惑
     通綱の奉公



         それで  天方の本貫地の「森」の奥に匿うより   もっともっと奥の「京丸山」で匿う方が良い  というハナシが生まれたのかな?と

         みんな信康の生まれた時から知っているから忍びなかったでしょうから

         いやいや、舟に乗せてどこか信長さまの思いもせぬ所にお連れした方が良かった  とか?



最近  沼津出身の人(♂)と話すようになって(知ってたのはコロナ前からですが  話すようになったのは今月からです)
以来やたらと「沼津」という地名がニュースで出て来るようになった気がします。(笑)

     天方さんより  もっと  希少な名字の男性です。


たぶん  ヤオハンのロサンゼルス進出のコンサルタントをしたんじゃないかな  と思います。


1992年春(ロス暴動で韓国人と黒人が武装して殺し合いをするようになった)当時親御さんがロスに来てて

と聞いたから話すようになったのです。


    方向音痴なので(沼津?沼津ってどこ?)の人間なので
    ヤオハンの名前が出たから(ああ、熱海の近くか)でした。

    つまり  駿河  ですね。  (伊豆国じゃないのが不思議ですね)


で、駿河と言えば
家康が駿府城で老後を送ったということで
家康は駿府は好きだったんだろうな
と思いました。


もし今川家に人質になってた時に虐待なんかを受けてたら駿府で老後を送ろうなんて考えなかったでしょうから。

きっと今川家に対して良い思い出があったんでしょうね。


家康って自分に力が無いのは子供の時から分かってたんでしょうね。
    それで  いろいろな能力のある人間を抱えたい
    そういう人間が自分を助けてくれる
って広く人脈作りをしたんでしょうね。


次  生まれ変わったら  八方美人になろう、っと。
[77]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月23日 18時05分27秒 ) パスワード

「信康」考(3)

 信康を世継ぎ問題として捉えると、秀忠を嫡子としたい服部党のギラギラした空気があったものと考えられる。世継ぎを誰にするかで、戦国の世の中は闘争が始まるものである。後の豊臣秀次事件も、まさに豊臣秀頼との関係による壮絶な出来事であった(関係者一斉粛清)。
   
 秀次は秀吉の甥であったわけであるが、信康は家康の長男である。甥と長男を比べれば、大事な長男を殺すはずがないと今の我々は思いたいのであるが、戦国時代は非常な時代、そんな例はいくつもあるし、武田との内通が疑われる母子を、信長の手前放っておくわけにはいかなかっただろうし、世継ぎのことを考えれば、今川の血を引く母子を残すわけにはいかなかったと推察する。

 以上は、表面的な推理であるが、調べれば調べるほど、徳川家康を担ぐ勢力は「南朝」(あるいは後南朝)の生き残り集団・残党であったということがわかってきます。
 後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞の後裔・関係者が、井伊家や富士山浅間宮大宮司家を核にして固い絆を結んでいたということであります!

                               ――つづく
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月24日 09時32分07秒 ) パスワード

三つ柏さん


>調べれば調べるほど、徳川家康を担ぐ勢力は「南朝」(あるいは後南朝)の生き残り集団・残党であったということがわかってきます。
>後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞の後裔・関係者が、井伊家や富士山浅間宮大宮司家を核にして固い絆を結んでいたということであります!


はい

だから江戸幕府を倒した明治政府が「明治天皇は北朝方で正統」と宣伝するのに
当の明治天皇が「南朝方が正統」と言い出して明治の元勲達が大慌てしたハナシ

いろいろオモシロイです。

     明治天皇は実は南朝方子孫説
     徳川家を全面否定したい明治政府は「浪合記」は偽書と宣伝


明治政府が否定しようとすればするほどオモシロイ。



浅間神社の神官の服部さん
家紋は何なのか非常に気になりますが
もうとっくに絶えて久しいのかもですね。

この服部さんは当然南朝方でしょうね。
    伊勢の服部宗純系?
    もっと前の時代に伊勢から信濃に行って宮下姓?になったヒバリさん系?諏訪家と関わりがありましたっけ。

         宮下文書を思い出しますね


            文部省の検定を受けた教科書でもいろいろやらかしているから
            そういう縛りの無い文書は  いろいろ手が加えられて変質しているでしょう


ただ言えるのは  敗者復活戦で   南朝方で  徳川家康が天下を手にしたこと。
敗者復活戦で徳川政権を倒したら  当然  北朝方政権ですね。 
[79]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月25日 09時49分40秒 ) パスワード

「信康」考(4)

 大久保忠世(二俣城主)は、信康を逃がし、かくまっただろうか? 仮に逃がしかくまったとしたら、服部党を抱きこんでいるはずである。すべてを隠密裏に処理し、すべての口ふさぎをし、アリバイ作り、偽装をしなければならない。それには服部党の特殊工作・ネットワークが必要であるからだ。
 ただ、これは服部党にとってどんな利があるかといえば、重大なリスクこそあれ、服部系の秀忠を擁立したい服部党には利はないはずである。
 大久保家にとっても、逃がしかくまうことの重大なリスクを考えれば、家康の命令でなければおいそれとはできないはずである。
 また、その頃まで武田との抗争は、武田方北遠の天野氏との戦い、小笠の高天神城の戦いなどが継続しつつあり、戦況が好転しつつあったとしても逃がすような余裕はなかったはずである。
 結論は一つ・・・信康は、後の秀次同様、みずから死についたものと推察する。

 ちなみに、村岡氏の書にある一つの説話としての信康の隠れ里「京丸」について、春野町の図書館へ行って調べてみた。

                               つづく――
[80]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年06月26日 09時36分53秒 ) パスワード

「信康」考(5)

 春野(現在は浜松市天竜区春野となっている)の中心部は、二俣の中心から北東へ約20q行った所である。京丸は春野よりさらに北東山岳深奥部へ約20q程行った所、標高は1000mを越えるであろう。ちょっとやそっとではなかなか行けない所である。

 春野の図書館へ行き、京丸についての郷土史料を探した。『新・京丸考』という早石正人氏の著と、『京丸私考』という天野安平氏の小冊子を見つけた。二冊を通読してみて、どちらにも、京丸には藤原家が存在し、かなりの昔より住んでおられるという。
 「京丸という所はどういう所であったか」という私の第一の探求課題について、前者には早石氏が推論(結論)としてまとめた部分があったので、次に記します。
「筆者(私、早石正人)のたてた仮説をまとめよう。
 尹良を奉じた左衛門佐(姓藤原)は、宮方勢力の挽回を計ったが、形成は悪化の一途を辿るばかりである。そのあげく、尹良は凶刃に倒れた。南信の南朝勢力は駆逐され、幕府方の支配が確定していた。藤原一族にとって、幕府方および農民の落武者狩りを避けるのが第一命題である。唯一の選択肢は山奥に隠れることであった。左衛門佐は、御首級を奉じて京丸にまで逃げてきた。昔の栄光を取り戻し、皇子の怨念をはらすその日まで、生き続けなければならない。
 左衛門佐は一族の歴史も背負っている。平安の昔から連綿として内裏様(天皇家)に忠誠を誓ってきた家の歴史である。その象徴ともいうべき、尹良の御首級を絶対に安全な場所に葬らねばならぬ。彼らは、千古の昔をそのままに残している京丸谷源流部を、奥津城にふさわしい場所として選んだ。
 一族は、以後六百年間、何世代にもわたって、陸墓を大切に守り通してきた。当主だけに課せられた祭祀も滞ることなく続けられた。それは、京丸という深い山奥で生き続けるためのある種の装置だったともいえる。里から遠く離れた奥山で自給自足によって住み続けるためには、一定の人数による重労働が必要条件になる。一族の結束こそが、なににも増して求められる。祭祀を継続することは、結束を維持し続ける必要な装置でもあった。藤原一族という誇りあるアイデンティティーは、かくして保持し得たのである。」

 春野は、天野氏の支配地であった。天野氏は一族の中が北朝・南朝と分裂していたが、新田三代に尽くした者、宗良親王に尽くした者がおり、春野も南朝方、また北朝方と時期によって変わるので、この藤原氏が京丸に逃げて来た時の領主がどちら側だったか、注意して調べる必要がある。
 信康事件の時に天野氏がどちら側に立っていたかも、よく調べる必要がある。二俣城を徳川側が武田より奪い返してからは、大久保氏が春野の領主となっている。
 この大久保氏、どちらかといえば脇役として、歴史書の中ではそんなに目立って描かれていないが、祖先からの系譜を見ると、何か大きな「秘密」を抱えているように思われる。
 新田(世良田)、大久保(宇都宮、宇津)、服部、青山(天方)の関係は、南朝時代と相似形に信康事件にもバックボーンとなっている・・・。

                       次回は大久保氏について――
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2023年06月26日 13時58分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


「京丸落人伝説」について詳しく書いてくださって有難うございます。


落人は「藤原氏左衛門佐」でしたか。主人が尹良親王。
この藤原さんは  吉野忠臣4名姓の1つの藤原さんなのかな?



三河衆の大久保さんは  宇都宮朝綱の子孫なのかな?
そうだったら  
宇都宮朝綱は平貞能と親しかった  ⇔  平貞能の兄弟が服部家長  ⇔  大久保家と服部家が仲良いのは当たり前



大久保長安事件後に許されて小田原の殿様になった大久保家の家老は服部さんだし。 


二宮尊徳は小田原藩で1,200石取の家老だった服部十郎兵衛家の財政立て直しをている。
二宮尊徳は小田原藩主大久保家の分家・宇津家の財政再建も手掛けている。
この辺りは数年前に平熱で書いた記憶です。



服部家と青山家も仲良いし。



>南朝時代と相似形に信康事件にもバックボーンとなっている・・・。

続きを楽しみにしております。
[82]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月01日 18時19分13秒 ) パスワード

『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)

一 今川氏の南朝潰し
     宗良親王 井伊谷城へ入る 229
     三度敗れた今川範国 232
     今川氏、南朝潰しに命運賭ける 233
     井伊谷城に危機迫る 236
     ”騙し戦術”に乗せられた今川泰範 240
     今川泰範、またも負けて遁走 243
     富士見城と井出氏 245

二 富士”隠れ南朝”の壊滅
     十万余騎、富士谷に攻め込む 250
     尹良親王、寺尾城を発って帰らず 253
     良王の三河遠征 256
     第二の”隠れ大本営”建設の夢 258
     良王は津島神社の神主となる 262

三 皇胤、地に潜む
     ”隠れ南朝”の巣となった津島 266
     平井加賀守広利の探索 268
     ”隠れ南朝”第三ファミリー 271
     津島神社の祭礼と舟の縁起 273
     ”隠れ南朝”の富士三十六党 275
     良王は七十八歳で生涯を終る 277
     尹良親王の二人の王妃とその子 278
     良王の孫が信長の妹を娶る 279
     蜂須賀氏も皇胤だった 282
     大江氏は皇胤を擁して長州へ 284

四 今川義忠の横死
     今川範忠、天下の副将軍となる 290
     ”隠れ南朝”に狙撃された義忠 293
     横地四郎兵衛の最後 297
     二俣弾正、義忠を討ち取る 299
     勝間田氏も井伊一族 300

五 ”隠れ南朝”の天皇
     尊良親王即位して東山天皇を称す 303
     守永親王が正統二代天皇となる 306
     遠江で活動した小松天皇 307
     神増原御用邸の御陵 309
     「京丸」を御所とした松良天皇 313
     ”悲恋”伝説を残した京丸 316
     京丸で誕生した大宝天皇 318

六 梟雄北条早雲の出現
     勝間田氏、氏親をなぶる 321
     朝比奈備中守泰煕の築城 323
     ”隠れ南朝”を放浪した早雲 327
     北条早雲、小倉山に築城す 330
     富士浅間に捧げた”怪”願文 331
     富士の三王と二心なき南朝遺臣 333
     ”隠れ天皇”となった皇正四代 335
     ”三種神器”どこへ消えた? 339
     元良親王と松竹梅三親王の末路 341

七 ”菊の一揆”(上)
     三遠地方に変乱あいつぐ 343
     二俣城に起った奇怪な出来ごと 349
     われ将に西遠に事あらんとす 349
総大将は大河内備前守貞綱 352
     氏親、自ら兵を率いて遠江へ 355
     今度は斯波義達が押し入る 357
     氏親、笠井に本陣を置いて戦う 359

八 ”菊の一揆”(下)
“隠れ南朝”曳馬城を奪還 363
     織田広信ら曳馬城を攻める 366
     義達、薙髪して尾州へ帰る 370
     余燼なお三・遠の野に燻る 372
     ”菊の一揆”甲斐にも飛火 375
     北遠に巣食った”隠れ南朝”の暗躍 377
     なお続く”隠れ南朝”のゲリラ戦 379

九 桶狭間の奇襲
     北遠の被官や百姓が逃げ出す 383
     井伊直満、直義兄弟の自刃 385
     井伊直親、十二年の隠忍 388
     今川義元、上洛を志す 391
     信長の背後に”隠れ南朝”がいた 393
     テキストは”塩買坂の一撃”だった 396
     服部小平太は伊賀守の子孫 400
     毛利新助は熱田大宮司家の出 402
     桶狭間の変は”隠れ南朝”の怨念 403

十 家康は”隠れ南朝”の傀儡
     三浦義鎮に篭絡された氏真 406
     氏真は逃げて掛川城に走る 409
     運命に翻弄されて長じた家康 411
     「三忠譜代」はすべて”隠れ南朝” 414
     ”隠れ南朝”競って駿府に集まる 416
     豹変! 北朝になりすます家康 420
     松本坊説歳法印、激怒して出奔    422

 あを様、この本の内容は濃密で情報量がものすごく多いので、なかなか簡単
にはまとめられませんが、一つずつ解釈して行きたいと思っております。
 「京丸」についても、南朝の隠れ里として何回も出てまいります。なぜ京丸
なのか、何か由縁や地形的要素があると思われます。そこを調べたいとは思い
ます。
 また、「富士谷」という場所、独特の呼び名となっておりますが、これにつ
いても由縁、地形的要素等調べたいと思っております。

[83]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月02日 06時42分08秒 ) パスワード


三つ柏さん

>「富士谷」という場所、独特の呼び名となっておりますが、これにつ
いても由縁、地形的要素等調べたいと思っております。

富士谷は富士吉田市大明見にあり、富士高天原王朝があったとされる場所です。
徐福の伝説地にも近く、富士山麓の秦氏シリーズを書く際訪問しました。
以下を参照いただければ、大雑把ですが南朝関係地もある程度纏めて書いています。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-731.html
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月02日 07時52分46秒 ) パスワード

レス<82>『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)について新しくスレッドを立てました。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101952.html

ご利用ください。




加茂喜三氏の『富士”隠れ南朝”史』
目次で  だいたい  (だろうな)  と納得しています。
細かいところは土地勘が無いので  (へぇ〜) ですが。


>松本坊説歳法印

100%知らないです。


**********************************

蜂須賀家については  小六の血の繋がらない女性が大橋から正妻として来たと聞きました。
蜂須賀家の先代さんの嫁さんか先々代の嫁さん。
どちらかは忘れましたが先々代の正妻さんだったような記憶です。「おばあさま」って聞いたから。



織田家は「大橋の乱」で大橋に信長の姉上が嫁に行ったと聞きました。
それで大橋は織田一族になります。


ホント  あのあたりは  回り回って  みぃ〜んな  繋がってしまいます。


ホンヤさんの奥様も織田家出身と聞きました。
どの織田家かはお訊ねしませんでした、懼れ多くて。


秀吉の従兄弟の福島正則も元は鬼頭さんだから(そのもっと前は尾頭氏だから藤原姓尾藤氏出身じゃないの?と思う)
南朝に繋がる名乗り希望で福島姓に替えたんじゃないの?と下衆の勘繰りをしています。どうして福島姓を名乗ったのか知りたいところです。

元々は源為朝の御落胤ということで源姓尾頭氏だけど 
土御門天皇から鬼頭姓を拝領し
福島正則は20代の時には平姓を使ってるらしい。


     尾張国海東郡=あま市=尾張南朝方の巣窟の1つだからね
     南朝方   だったら  平家  じゃん!
     ということで平姓を称したのかな?と。

         藤原姓+源姓+平姓 3つも!  欲張りだなぁ
         だけど有り得る。仮冒なんて外野は悪口言うけど
         わたしの母方も後南朝の記録では後鳥羽源氏だし。 
        


             大陸や半島は姓をよっぽどでないと変えないけど
             日本はそもそも氏姓制度以来崩壊に崩壊を辿って来たからね



尾張南西部の福島さんとか眞野さんとかの名字は  尾張南朝方だなぁ〜  と。
眞野さんはハッキリ吉野忠臣11名字の1つだから
眞野さんと福島さんの仲の良さを思うと  血で繋がってるんだろうな  としか思えない。
[85]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月04日 01時01分00秒 ) パスワード

あを様
酔石亭主様

 ありがとうございます!

 あを様は目次を見ただけで、おおよその内容を把握されるだろうと推察して
おりました。この本がもし安価で手に入るなら、あを様にはどうしても送りた
い一冊であります。戦国時代の流れが南朝フィルターを通してよくわかるから
です。これらは表の歴史には何故か表現されません。歴史の真実は一つなので
すが・・・。

 信康が服部半蔵に首を斬られるという筋書き、瀬名が自害しくノ一に刺され
という筋書き・・・定説の殻を大きく破ったところにNHK本当にいいのかとビ
ックリしました。
 「今川憎し」は点と線でズッとつながっていたはずで、今川の血を担ぐこと
は、南朝臣としては受け入れられないものだったはず。それは、今川が、ズッ
と南朝の残党狩り、殲滅を厳しく行ってきたからであります。
 私たちの遠江、特に笠井あたりは南朝臣の巣窟であったようで、その南朝フ
ィルターを通して、郷土史を解釈してみたいと思っています。

 さて、富士谷ですが、かつては南朝の大本営、南朝臣の巣靴だったようです
が、1707年の宝永の大噴火(その1ケ月前に宝永大地震あり)によって、ポンペイ
と化したはずであります。南朝関係の史料・遺物はほとんど消失してしまった
と推察いたしますのですが・・・。富士谷の宮下家になぜ残ったのか、大噴火
を避けてどこかへ書物も携えて移動していたとしか考えられません・・・。こ
こが不思議な点であります。
 富士谷(富士北麓)に南朝臣が集まったのはなぜか・・・まずは南朝と修験道
との関係(修験の道利用)が第一に思い浮かびます。もう一つは、秦氏(羽田氏)。
修験道と秦氏はからみ、それに加茂氏がからみ、さらに中臣氏(藤原氏)もからむ。ということは、富士王朝は、南朝でよみがえり、徳川家康で再結実したと
いうことか・・・?! 
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月04日 03時57分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

はい
「目次」でだいたいの流れが掴めましたよ。
ありがとうございます。


この  加茂喜三氏の『富士”隠れ南朝”史』は  高価なんてものじゃないですね
小遣い1か月分が吹き飛びます。

     冗談じゃなくホントなのが泣ける・・・

            「専門書」ですね。
             専門家が大学の経費で買って貰うものですね。
             笑

                 知り合いの大学院教授達が皆さん
                 「お金が欲しい。買いたい本がいっぱいある。だけど買えない。お金が欲しい」
                 と本音を漏らしますよ。


>戦国時代の流れが南朝フィルターを通してよくわかる

はい
敗者復活戦で頑張りました。

雌伏何百年?


     伊藤博文は元々は美濃の林家の出で
     南朝の王子を養って来た家で
     その人を明治天皇にした

        という大室寅之祐説がありますね

>今川の血を担ぐことは、南朝臣としては受け入れられないものだったはず。
>それは、今川が、ズッと南朝の残党狩り、殲滅を厳しく行ってきたからであります。

はい
残党狩りから逃れるために道無き道を往き、息を潜めて、「其の時」を待ちました。


    ホント!
    泣けます


死ぬ時は  価値のある死を遂げたいから。
泣ける


>私たちの遠江、特に笠井あたりは南朝臣の巣窟であったようで、
>その南朝フィルターを通して、郷土史を解釈してみたいと思っています。

はい
服織神社があったような?

    NHKの番組で見ましたが
    サラッと描いてて
    あんな小さな小屋みたいな
         (アメリカのド田舎の屋外便所みたいな建物だった)
    薄暗い場所で織物を織ってたの?と驚きました


>富士谷ですが、
>かつては南朝の大本営、南朝臣の巣窟だったようですが、
>1707年の宝永の大噴火(その1ケ月前に宝永大地震あり)によって、ポンペイ
と化したはずであります。
>南朝関係の史料・遺物はほとんど消失してしまったと推察いたしますのですが・・・。
>富士谷の宮下家になぜ残ったのか、
>大噴火を避けてどこかへ書物も携えて移動していたとしか考えられません・・・。
>ここが不思議な点であります。


     ムカシは写本しているから
     どなたかが持っていたのかもですね



>富士谷(富士北麓)に南朝臣が集まったのはなぜか・・・
>まずは南朝と修験道
との関係(修験の道利用)が第一に思い浮かびます。
>もう一つは、秦氏(羽田氏)。修験道と秦氏はからみ、それに加茂氏がからみ、さらに中臣氏(藤原氏)もからむ。
>ということは、富士王朝は、南朝でよみがえり、徳川家康で再結実したということか・・・?! 

富士山は特別なお山ですから
そこに伝わるお話は  いろいろな人によって  拡散されたと思います。



先月から小笠原流次期宗家の32代目清基氏がハワイに来ているのですが
わたしが大昔に吉良家の作法を教えて貰った時から
長年疑問に思ってたことを解決することが出来ました。

     当時はまだ子供だったから疑問を口にする勇気が無かったのでそのままにしてしっまいました。

32代目さんの体形は  武士  って感じでした。
やっぱり鎌倉武士ってイメージでした。
流鏑馬やってると  ああいう筋肉の付き方をするのか  とホレボレとシゲシゲと見てしまいました。

     わたしの先祖達もあんな感じだったのかな?と。

所作の美しさには感動しました。
     心が指の爪先まで伝わってる、という感じで
画像で31代目ご夫妻の所作を拝見しましたが  あんなに身体って柔らかいの?  と想像を超える美に感動しました。
     


大家の懐の深さ広さ寛大さ
格の違い

大いに勉強することがありました。 
too late なのがカナシイ。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月08日 22時18分31秒 ) パスワード

6月1日に香港人夫妻主催のパーティに出席してから  な〜んか  引っ掛かっていたのがハッキリ分かりました。


本日午前3時直前!分かりました!
ヒバリさんの誕生日でした!


今年の大河で当然武田信玄が出るわけで
そしたらヒバリさんのご先祖さま(勝頼のお祖母さま)一族を思い出しますからね。


「どうする家康」の武田方「くの一」の千代さん
      世間的には望月千代女なんでしょうけど
わたしには  ヒバリさん  でしかないわけで。



平家の先祖が伊賀伊勢に移って間もなく信州に行って・・・
ヒバリさんが生まれた
ということで


川越の服部さん
ヒバリさんのこと  ご存じだったのかな?
と思うけど   
わたしの知ってる服部さんはもう鬼籍に入られた
と想像します。


息子さんの奥様は長州のご出身だと聞いて
2人でしみじみ
やっぱり平家がらみで息子さんご夫妻が結婚したのでしょうね
という話をしました。


ヒバリさんのご実家の名字が宮下でもある件で
日本は名字がコロコロ変わるから
全くの赤の他人のつもりでも   実は・・・   ということで
私達   3人   平家で繋がっている。


     宮下文書の情報を読み直します


やっぱり今回の大河ドラマ  勝頼の最期  に涙です。
血で繋がってるんですものね
血と肉と涙で。


あ、秋葉街道の記事  昨日  郵送致しました。
静岡県内で車が往生して飯田からレッカーが来た箇所
恐怖でお読みくださいね。




そして!

京丸山のずっと東に大鹿村があって
そこは尹良親王の行在所のあったところです。

         リニアが通るとかで
         NHKで見ました


なんかホント最近泣けます。


やっぱり南朝方の「富士の隠れ南朝方」が改めて気になります。

我が家は尾張南西部に落ち着きましたが
一方は遠江や信濃や甲斐や駿河に落ち着いたのかも
ですね。


ヒバリさんの兄上は小田原にお住まいだそうで
小田原は服部家には縁が深いですからね。
大久保と服部の絆を改めて思います。

京丸山に信康が隠棲した伝説と共に。
大久保家が援助したから50年60年生存した伝説
やっぱり泣けます。
[88]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月10日 00時22分33秒 ) パスワード

「京丸」考

 京丸は、遠江春野の深山幽谷にあり、私がその地名を初めて知ったのは、今は亡き友達がアウトドア派で「京丸ボタン」を見に行ったことがあるという話を聞いた時だから、かれこれ30年前になる。その時は特に大きな興味を抱かなかったし、ローカルな話なので知らない人の方が多いだろうと思っていた。だが、今改めて調べてみると、実際は全く違っていて、江戸時代より世に広く知れ渡っていたという事実がわかった。

 それは、平成22年に発行された早石正人氏の『新・京丸考』の中に詳細に書かれていた。氏は医学博士で作家。氏はこの本をまとめるにあたって、柳田国男氏(1875〜1962)の書かれた『京丸考』というものを読み興味を引かれたという。また、SF作家の光瀬龍氏(1928〜1999)が『野生時代』に書かれた京丸のルポルタージュを読み、訪れてみたいと思うようになったと言う。
 つまり、柳田国男氏や光瀬龍氏は、京丸についてはとっくの昔に知っていたということになる。

 では次に、早石氏の書かれた京丸についての情報の流布について、簡潔にまとめてみたいと思います――
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月10日 03時09分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

上記のレス
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101952_2.html
纏め:『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)
に移動しますね。


そして続きも
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101952_2.html
纏め:『富士”隠れ南朝”史』(加茂喜三著)
にお願いします。



ヒバリさんの経歴を改めて思い出してみたら

ご先祖さまは   藤原姓(なんで藤姓?)服部伊賀守で    ←  これは朝廷から拝領の「伊賀守」職
鎌倉時代に地頭として信濃に移動して
そこで神職もして武士もして伊賀忍者もやってた

のかな?


諏訪大社系だから  当然  南朝方だったのかな?と。
武田に敗れて武田に組み込まれて。



三つ柏さんからの情報を書いておきます:

宮下家の家紋は、竹が二本で雀が二羽。
一羽は口を閉じ、一羽は口を閉じて舞っている。
ということは、公家と武家の混合型ということになるのかも知れませんね・・・。


私の知る宮下氏といえば、
京都で出会った宮下氏  ―  この方は、山梨出身で、
宴会ではよく「武田節」を歌ってました。


以下略


山梨出身ということで
ヒバリさんと繋がりますね

そして
「武田節」
ですか。  
    

武田武士

思いは複雑だったんでしょうね。
泣ける


本日の「どうする家康」
呆けた感じの家康だそうで  6時間後の放送です。


ま、関ケ原で勝って  
瀬名さまと信康の理想としたEUみたいなのを作ることになった
ストーリーを持って行くんでしょうね。


そう!
絶対的勝利者なら可能なわけで


瀬名さまと信康の時代では  3国鼎立なんて徳川家が一番弱小なんだから  有り得ない
武田の向こうには上杉家があって(前年に謙信は薨去)御舘の乱に勝頼はドジってるし 


家康は関ケ原まで20年  どうする   どうする  と呻吟。

やっと今月信長が横死ですか。


来月は明智方で泣くのかなぁ
です。


では上記レスの「移動」に行ってまいります。
[90]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月13日 19時09分47秒 ) パスワード

三つ柏さん、あをさん

以下は服部連に関する情報です。福井県の小浜より西は以前に訪問したものの、東はまだ行っていないので、年内か来年に行こうと思い、あちこち調べているうちに偶然下記の情報に接しました。既にご存じかもしれませんが、ご参考まで。

朽飯(くだし)八幡神社 福井県越前市朽飯(くだし)町21-33

社伝によれば、当社は「正五位八架神」(しょうごいはちかしん )を祭神として創祀以来、千五百有余年連綿として続いてきた古社である。

創建の年代は確定しがたいが、凡そ、十九代允恭(いんぎょう)天皇(412〜452)の御代、煩速日之命(ひはやひのみこと)の神孫にあたる麻羅宿禰(まらのすくね)の後裔(こうえい)、服部連(はとりのむらじ)が織部司に任ぜられ当地に下向して服部郷と命名し、煩速日之命を八架神に合祀して鎮守としたことに始まるものと伝えられる。

その後、顕宗天皇(485〜487)の御代、百済国の怒理使王(ぬりのおみ)(奴理能美)の孫で、阿久太(あくた)の子の弥和(みわ)をはじめ、機織りに長じた織姫たちが渡来し、養蚕と絹織りの技術を郷民に教え、そこで生産された絹織物は貢物として朝廷に上納された。郷民は機織業の繁栄を感謝し、機織の御祭神として「天萬栲幡千幡比売命」(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)が祀られた。奈良時代になると、元明天皇和銅5年(712)には初めて越前国をして綾絹を織らしめられていた。

聖武天皇神亀3年(726)頃には、「八架神」の神宮寺として「朽飯寺」の創建が伝えられるが、それはおそらく泰澄大師による白山信仰の開闢とかかわっていたものとおもわれる。そして、この年から起算して、以来33年毎に御開帳が行われ今日に至っている。

源範頼は、源頼朝に追われて日吉御前とともに当地に落ちのび、この神社に源氏の氏神である八幡大神を祀り、「八架神」を「正八幡宮」と改めて終生崇敬した。源範頼の死後、日吉姫は追善のため出家して浄円禅尼となり、亡君の遺言によって持仏の阿弥陀如来の檀像を、機織伝来の由緒に因み真奈蛮(お香)を入れた苧桶に納めて本宮に安置した。その後は、古い御神体(本尊)に代りこの尊像が開扉されている。

源 範頼(のりより)は「蒲の冠者(かばのかんじゃ)」と呼ばれ、平家追討の総大将でありながら、兄頼朝(よりとも)によって、弟義経(よしつね)同様、伊豆修善寺にて無残に殺されたことは、誰もが疑わない正史であると信じられています。しかし、福井県今立町では「範頼は伊豆を逃れてこの地に隠れここに世を終えた」と信じられ、またこれを裏書する幾多の事項が残っているのです。もと福井県今立町町長でもあり、教職者でもありました安達実積氏は源範頼について研究され、これを昭和12年に資料としてまとめられました。先ごろ、この資料に偶然出会うことができました。氏の思考された後を辿ることによって、その志のいくらかにでも近づくことができれば幸いです。

福井県今立郡今立(いまだて)町東庄境(ひがししょうざかい)と朽飯(くだし)地区には、範頼がひそかに伊豆を脱出したという言い伝えがあります。この地区の人々は「お蒲様(おかばさま)」と呼ばれる像を崇拝していますが、これが範頼の像と言われているものです。

「範頼は伊豆で殺されたか!?」範頼最後の様子を諸書から拾えば、梶原景時の言を用い、結城朝光・梶原景時・仁田忠常等に修善寺を攻めさせた。事急であって範頼防戦したが矢つき、火を放ち自害した。景時灰燼中より首を得た、ということになっています。しかし、範頼殺害の日時は不明であり、灰燼の中よりの首は確かに範頼のものであったのか、範頼の墓所も長く不明であり、発見は随分後のことであるそうです。今立町東庄境では数百年来、範頼は伊豆を逃れてこの地に来たり、蒲冠者と称し隠遁したと信じられています。また捨扶持千石を以ってこの地に幽閉されたとの説もありますが、いずれにしろ、この地に蒲の姓が多く残り、範頼の墓があり、範頼の妻が建立した寺があり、範頼の木像があり、妻の墓があり、範頼の鎮守の神社があることは事実なのです。もっと驚くことは範頼の子孫28代目その方がこの地に今も住んで居られることではないでしょうか。

範頼が越前へ落ちのびたのには、妻の日吉御前の誘導であった。日吉御前の父、越前三位道盛卿の領地が、当時、今立町東庄境、朽飯一帯にあったのも有力な証拠。
東庄境、真宗浄円寺住職、蒲之坊卓勝さん(63)は、範頼から数え二十七代目の子孫と称する人である。同寺に伝わる話によると、範頼は日吉御前と朽飯地区の居館で平和に暮らし始めて間もなく、一年後の建久五年に死んだ。日吉御前は「浄円院日吉禅尼」になり、建永元年(1206)三月十日、三十五歳で死亡。長男良円が頼国法師という僧になり、代々、世襲によって同寺の住職を務めてきたという。
何よりの強みは、蒲姓を名乗る家が両地区に十軒もあり、これら子孫達の中から、蒲陸軍中将(昭和六年)を出し、範頼の再来と、地区の人たちが自慢にしていることだろう。

以上が幾つかの資料からのコピペです。かつて一帯は服部郷で、近くに服部川が流れています。それだけでなく源範頼もここにいたとは!!範頼は北九州の歴史探索でも八剣神社の関係で重要人物でした。それがこんなところに出てくるとは驚きです。機会があれば浄円寺のご住職にお話を聞いてみようかとも思っています。
[91]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月14日 09時49分34秒 ) パスワード

酔石亭主さん

蒲殿に落人伝説がありますか。
意外でした。

    蒲 穆あつし 陸軍中将ですか。
    全く知らないですけれど。


越前三位道盛卿 = 平 通盛は平清盛の甥

蒲殿の妻の1人が  日吉御前で  道盛卿の娘  でしたか。
だったら北陸道で力のあった平家の婿になる蒲殿は越前で匿って貰えたワケですね。

    レスを拝見して最初
    え?源氏の大将が越前に逃げた?
    越前は平家方なのに  そんな所に逃げた?  と思いましたが
    なるほど岳父一族が支配してた越前なら所縁りの人達が守ってくれたわけですね。




武田勝頼にも落人伝説があって
長曾我部の土佐に逃げて
長曾我部が負けて危なくなって更に落ち延び山内家にも襲われ更に落ち延び

仁淀川町だそうで

牧野富太郎の佐川からずっとずっと山奥に入った場所ですね。
どちらかと言うと愛媛県境の近く。



>機織の御祭神として「天萬栲幡千幡比売命」

                       覚えられない!漢字ばっかり!
                       まるでドイツ語の名詞を作る作業みたいで  ムリ!
                       でも  分解すれば  なるほど!  ですが

                       天&萬&栲&幡&千幡&比売命
                       あめ・よろず・たく・はた・ちはた・ひめのみこと

                       要するに「織姫」ですね、形容  多過ぎ!  





服部半蔵の家が

ほのはやひの命の末裔なり
允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部拾領。服部連と号す。
その子孫  伊賀国阿拝郡服部の郷を領し  今  諸国に遊仕と記す。

平氏にして葛原親皇の後胤  伊賀平内左衛門が末孫なり。


        どこかで  「帰化人じゃない」  という断りを読みました。


もともと織物業は人間の存在する土地の有力な産業に育って
奈良時代や平安時代に墾田永代私有令が出て
有力者が派遣され また  力で支配者となり
平安時代末に平家がほぼ日本を支配して
平家貞が子供達をアチコチに送り出して平姓服部氏を残したんじゃないかな?と。


    本物の秦姓服部氏にロスアンゼルスで邂逅しました
    笑
          うちはパクった方ですぅ
          と挨拶しました


明治や大正・昭和の初めの生まれの婆さん達が
繭から糸を引いて   繋いで  束にして  更に  自分で織ってたのを記憶しています。
    
それで  人類  裸んぼじゃ恥ずかしい時代になって  
世界中で
服部さん系の名字   Weaver・Weber  や Taylor・Schneider  が存在するようになったと思っています。


たぶん  日本では   出自が  どうの  って  語るのが好きなんじゃないかな  と。

それは日本が異民族に征服されて蹴散らされた過去が無いから   遡りたい願望があるからじゃないかなと。


秦姓の服部さんのお家が今でも  先祖のお祀りをやってる  というところに驚きます。

        さすが名家は違う!

わたしは不器用だから夏休みの家庭科の宿題をチマチマやってて   父が  見るに見かねて
「お金をやるから  松坂屋さんに行って  何か買って  提出しろ」
って言ってました。

        名字だけの服部さんだからね。


ユダヤ人がドイツで名字を名乗るようになって

お金がある人は良い名字を買い
お金の無い人はゴミのような名字しか買えなかった   

        例えば  シュタウプさん  Staub   「埃」  って意味



それで半蔵さんの家の由来を思い出すたびに
   ほのはやひの命の末裔なり
   允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部拾領。服部連と号す

大きく出たな!
と。

   平氏にして葛原親皇の後胤  伊賀平内左衛門が末孫なり

伊賀出身なら  そう  言いたいよね
と。


わたし自身は   服部さん=「あぁ、野麦峠」  と   連想してしまいます。

大昔、少女たちは厳しい労働を強いられ搾取されてたんだな、と。
今でもアジアやアフリカで子供達が強制労働を強いられているのを思い出してしまいます。
                   
     「産業」の闇の部分ですね。


でも  記号みたいな  東とか西とか南とか北とか中とか  という名字よりは日本の歴史の重みが   あるか?
[92]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月14日 19時00分19秒 ) パスワード

あをさん、三つ柏さん

でもなぜ服部連は越前に来たのでしょうね。理由を考えるため原点に戻り、服部連合自治会のホームページを見たところ、以下の内容が書かれていました。

平成29年12月26服部連合自治会 氏子中より服部連公の石像を御寄進頂きました。
服部連公(はとりのむらじこう)は中国五胡十六国時代の前秦皇帝の末裔であり、我が国応神朝に一族と共に渡来しました。応神、仁徳等に仕え養蚕、潅漑治水、製鉄など先進技術を伝えて貢献、山城国では「太秦」(うずまさ)の姓(かばね)を賜っております。渡来後は秦氏を称し、先祖神 熯之速日命(ひのはやひのみこと)の十二世孫 麻羅宿禰(まらのすくね)後胤の服部連は十九代允恭天皇の時代、全国各地で養蚕農業の指導に従事しておりました。服部連は織部の統括者・織部司に任じられ連の姓を賜りました。この地は服部連が住まいし、その墳墓が存し没後、氏神として祭祀されたところであります。神服神社は秦氏の先祖神、熯之速日命 麻羅宿禰 素盞嗚尊(牛頭天王)をはじめ、服部連公を祭神としております。

以前にも引用した古藤幸雄氏ホームページ高槻郷土史「神服神社と祭礼」では逆の内容。

麻羅氏の何代目かの子孫が「宿祢」の位を朝廷より賜り、麻羅宿祢と称したのである。
 またこの一族は機業に従事していることから、「機」(はた)氏の姓を賜り、かれらが元は中国秦朝の子孫として朝鮮半島に移住したとの由緒をもっていることから、「ハタ」の漢字に「秦」をあて、秦氏ととなえるようになった。
 秦氏は機業に携わる部民を統括する職務を与えられ、彼の傘下にある村々は「服部」と呼称されるようになったのである。島上郡の服部を支配する秦氏は、諸国に散在する機業従事者を統括する職務を命じられ、「服部連」という姓(かばね)を朝廷よりさずかり、秦氏は服部氏を称するようになり、その支配下村も「服部」村と称されるようになったのである。

太田亮氏の長上郡に服部氏の名族云々は島上郡に服部氏の名族の誤りだったのかも…。これは太田氏のミスと言うことではなく、何人もの調査スタッフの一人が島上郡を長上郡に書き間違え、その間違いをベースに遠江の中に入れて記載されたと考えれば、どうしても解けなかった部分が解消されることになります。

服部連の墓は以前に神服神社と共に訪問し、ついでに継体天皇陵(今城塚古墳)を訪問していました。そう言えば今城塚古墳から服部連の墓までの距離は直線でたった2q。で、継体天皇がいたとされる越前市の味真野神社辺りから朽飯八幡神社までの距離は直線で6km。越前に服部連が来たのはそうした関係が影響しているのかも…。味真野神社に関してはやたらややこしいですけど、以下を参照ください。

https://kofukuroman.com/azimano-shrine/


味真野神社と同じ場所には鞍谷御所跡があり、足利氏が関係しています。Wikiによれば、
鞍谷氏(くらたにし)は、室町時代の越前国にあった足利氏の一門。3代将軍足利義満の子であった義嗣の子・嗣俊に始まるという説があるが、奥州斯波氏の出身ともされる。いずれにしても足利一門の中でも家格は高く、鞍谷御所と称した。戦国期には越前国主朝倉氏の客将として遇され、姻戚関係を重ねた。とのこと。

味真野神社の変遷はややこしいのですが、出雲系が祭神に入っている点から、オホド王(後の継体天皇)は富家出身の彦太だとする富家の主張にも多少合致する面があるのかもしれません。越前には出雲式の四隅突出墳墓もありますし…。

範頼に関しては、白山系の修験者が手引きしたのではと最初に思ってしまいました。義経も奥州に逃げる際彼らの協力で平泉寺白山神社に入りましたから…。

まあ越前には上記以外にも面白そうな対象が山ほどありそうなので、是非行ってみたいと思っている次第です。
[93]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月15日 12時46分06秒 ) パスワード

酔石亭主さん

詳しく書いていただき  そのうえに  ↓ この情報
ありがとうございます。


>太田亮氏の長上郡に服部氏の名族云々は島上郡に服部氏の名族の誤りだったのかも…。
>これは太田氏のミスと言うことではなく、
>何人もの調査スタッフの一人が島上郡を長上郡に書き間違え、その間違いをベースに遠江の中に入れて記載されたと考えれば、
>どうしても解けなかった部分が解消されることになります。


なるほどね〜
シマカミ郡の誤りかも知れないのですか。

    ガッカリですね >  三つ柏さん


https://kofukuroman.com/azimano-shrine/

興味深いブログのご紹介
ありがとうございます。


まったく個人的なことですが
      継体天皇第4妃の麻績娘子  の  麻績  に反応しました。

そして
      ・「上の宮が池泉4字諏訪上割の諏訪神社」
      ・「下の宮が五分市11字の諏訪神社」


麻績と諏訪神社の関係

まったく時代は違いますが
わたしが気にしているヒバリさんの家  (麻績+諏訪神社  →  武田勝頼の生母関係)
   継体天皇も絡む?と。


継体天皇という謎の人物
一体何者だったのか?

     現在の天皇の直接のご先祖さま  というのが  少なくとも正しい表現かな?と。


わたしの関心はあちこちにふらふらしてしまいました。
[94]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月25日 08時54分07秒 ) パスワード

あを様

 6月7月の熱さにより、集中力とモチベーションを欠いております。
 最近は、ウォーキングで足を痛めたので、サイクリングにて運動を保って
おります。それも早朝4時半くらいから1時間半弱、走っております。
 日中は暑くて、どうしようもありません。毎年暑さが厳しくなっていきま
すし、何とか熱中症にはならないようにと気をつけております。ただ、冷た
いものを飲みすぎる傾向があり、過敏性大腸炎がひどくなりつつあります。
冷たいものはできるだけ止め、常温のものに氷を2〜3個浮かせて飲むように
しております。
 地球温暖化で、いずれ今までの暮らしができなくなる日が来るのではない
かと、懸念しております。

 ハワイ(アメリカ)ではラーメンが5000円ということ、日本の5倍のインフレ
率と考えるべきなのか・・・わかりません?
 秋葉山の朝日新聞の記事、ありがとうございます。
 また、後ほど京丸と秋葉山についてまとめてみます。
 なお、長上郡の名族は旗本服部中であるということ、明治までこの地に陣屋
が存在しており、これは確信的事実であります。家格は名族にふさわしく高い
と思います!
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月25日 10時38分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

IBSは大変ですよ
遠出が出来ないですから  
常にトイレの在り処を頭に入れておかないと  人生最大の不幸に見舞われるかも・・・
恐怖のヒトコトです!


夫の従妹の御主人が去年IBSになってしまって
      石油会社のオーナーの息子でお金の心配だけは無いけど
逆に   お金が使い切れないほど有り過ぎるから  のストレスが溜まりまくっているようです




三つ柏さんの場合は   大役続きのストレスでしょうね

人間相手って  ホント!  ストレス溜まりまくりますよね

日本は夏祭りや秋祭りで忙しくなる頃ですよね

無事に大役を終えられたら子孫としてご先祖さまへの繋を果たせたことになりますから
ご先祖さま達も大変だったんだな、
と頑張ってください。


あ、今、アメリカは2021年に募集した永住権の当たる宝籤の当選者(5万5000人)の発表中だそうです。

今年  応募するとしたら2025年に発表ですよ。
アメリカのグリーンカード抽選への応募は、https://dvprogram.state.gov/ にアクセスして行います
日本人はだいたい  350人前後  当選してます。



先日  大鹿村の地図を見てて   大河原の  御所平(宗良親王居住地)の西に   小渋川を渡った西に  史跡「松下家住宅」を見つけました。

         たぶん  諏訪系の松下氏でしょうね


ブロックがかかってるので読めないのですが  以下  部分コピペ

古い歴史を持つ豪農・松下氏の邸宅。
主屋の建築年代は、文政3年(1806)
住所:長野県下伊那郡大鹿村大河原引野田1665



https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%81%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E4%B8%8B%E4%BC%8A%E9%82%A3%E9%83%A1%E5%A4%A7%E9%B9%BF%E6%9D%91/ @35.5411064,138.0387016,15z/data=!4m6!3m5!1s0x601c875658803455:0xde570e48d27842a4!8m2!3d35.5781847!4d138.034007!16zL20vMDJ4eHEw?entry=ttu


松下嘉兵衛とは関係無いようです。
こちらは平四つ目結紋のようで  ということは  宇多源氏系佐々木の子孫かも
ということは松下嘉兵衛は北朝方なのかな?と思います。


>長上郡の名族は旗本服部中であるということ、
>明治までこの地に陣屋が存在しており、これは確信的事実であります。
>家格は名族にふさわしく高い
>と思います!

わたしも  そう  願っています。
[96]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月29日 13時57分19秒 ) パスワード



あをさん、三つ柏さん

>長上郡の名族は旗本服部中であるということ、明治までこの地に陣屋が存在しており、これは確信的事実であります。家格は名族にふさわしく高いと思います!

>わたしも  そう  願っています。

上記に関する私の記事内容が短すぎ、誤解を招いたかもしれないので、以下のように再度整理します。

私は太田亮氏の「而して長上郡に服部氏の名族あり」の記述そのものに疑義があるだけで、旗本服部中が名家(江戸時代は家格・家柄が重要なので名族の表現はややずれがありそうです)であるのは間違いないと思っています。服部中は旗本の中でも上位に位置し全体の6%以内に入るはずで、家中には一個小隊並みの人員がいたと推定され名家の条件は十分に満たしています。

ただ、それを様々な問題を孕む太田氏の「而して、長上郡に服部氏の名族あり」にリンクさせるのは慎重であらねばと思われるのです。

また旗本服部中は間違いなく名家ですが、それをそのまま長上郡の名家(名族)にスライドさせると齟齬が出てきます。例えば陣屋は本来江戸在府の旗本が知行地を管理するための屋敷のはずで、旗本の服部中自身がそこにいたとは限りません。もちろん、次男か三男あるいは他の親族を派遣し管理を任せたことはあり得ますが…。

諸史料によれば、服部政光は天正19年(1591年)武州太田領3000石を賜り、元和元年(1615)政光が死去した後、政信は父の遺領の内太田荘3000石を継ぎ、元和5年(1619年)には遠江国今切関所の要職を賜り遠江国敷智郡へ移封されているようです。

それでも本宅は陣屋のある地(長上郡でいいのですか?上石田?)に置き、役宅を関所内か近隣に置いて、日常業務は下役に任せ、大名が通過するときなど重要な場面だけ陣屋から出向いた可能性はありそうです。(注:全容を調べられないので断片的史料に想像を交えて書いており間違いがあれば御指摘ください)

上記のように旗本も立場上知行地の変遷があり(三河国宝飯郡五井を領し10代目で知行地を遠江国に移され、今切関所奉行となって志都呂に陣屋を構えた五井松平氏なども同様)、長上郡に服部中家の親族(或いは旗本本人)がいたとしても、それをもって長上郡の名家とする、或いは太田氏の言にリンクさせるのはやや無理がありそうに思えます。この時期の服部氏は知行地の大窪(大久保村)つまり西区大久保町に陣屋を構えたはずで、長上郡ではなさそうです。(注:服部中家の陣屋或いは代官所の変遷は既に全容をご存じと思うので、間違いがあれば訂正ください)

以上で、太田氏の「而して、長上郡に服部氏の名族あり。」に旗本服部中を直接リンクさせると齟齬が生じそうな点はご理解いただけたと思います。そこで太田氏の言そのものの意味ですが、「浜松の秦氏」シリーズで以下のように書いています。長いですが是非ご参照のほど。(注:以前にご紹介した記憶があります)

太田亮氏の姓氏家系大辞典5巻には、「遠江の服部 延喜式、長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書かれていました。

姓氏家系大辞典5巻詳細は以下のデジタル史料コマ番号127を参照ください。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956

この太田氏の見解は、遠江国の長上郡に服部氏の名族がいるとの主旨であろうと理解し、では何が服部氏の名族に当たるのか、逆にもやもやした気分が残り続けていました。そうした気分の中何度も読み返し、二通りの解釈・見方ができるのではないかと思えるようになったのです。

今までの検討から、酔石亭主は神服神社(当時は服部神)の服部連も秦氏に同行し遠江国にやって来たと理解しています。従って一つ目は、服部氏の名族を遠江国に来た服部連とする見方です。服部連であれば、諸国の服部を総領する立場であり、しかも秦氏系と言い得るので、名族と評価できる存在となります。それは太田氏が服織神社と服織田神社に関して「服部」と表記し、長上郡の名族は「服部氏」と書き分けていることからも理解されます。

秦氏と共に遠江国に来た呉織、漢織の流れに連なる機織集団(伎倍人)としての服部氏の場合はどうでしょうか?彼らの祖は機織女工であり、彼ら自身も機織職人なので名族とは言い難いものがあります。となれば、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。他の可能性として太田氏は、例えば室町時代から江戸時代辺りまでの服部氏を長上郡の名族としたのかもしれません。

ところがです。コマ番号128には播磨の服部氏の項に遠江同様名族と書かれており、出自は書かれていませんが、服部道存以降何人もの名前が挙がっています。このように太田氏は、時代が下った場合必ず具体的な個人名や由来を入れたり、「又後世」と言った文言を付けたりしており、そうした記述のない遠江国の場合は室町〜江戸時代の話ではないと考えられます。

太田氏は遠江国に関して「共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書き、古代服部の後に続けて、長上郡の服部氏の名族を書いています。この流れと具体的な個人名がない点を踏まえれば、長上郡における服部氏の名族は古代の名族と考えるしかなく、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。

ここまでが一つ目の見方です。けれども、遠江国における服部連の存在は酔石亭主が様々な状況証拠を基に推断したものであり、同国に服部連が存在するとした史料は、知る限りでは見当たりません。それなのになぜ、太田氏は長上郡に服部氏の名族あり、と断定的に書けたのでしょう?ここがどうにも理解しがたい部分となって残ってしまいます。と言うことで、二つ目の見方を考えてみます。

上記の姓氏家系大辞典5巻コマ番号127を見ると、日本各地の服部郷や服部氏に関してかなり詳しい記述が見られます。それらの中で服部連が書かれているのは、もうご存知のように大和国と摂津国のみになります。大和国の服部連は遠江国とは関係なく、関係があるのは摂津国に鎮座する神服神社の服部連と推定していますので、太田氏がどう記述しているか見ていきましょう。

摂津国に関しては、「當國島上郡に服部郷を収む。當國には服部連住す。」と書かれていました。さてそこで、服部氏の名族と言う限り、遠江国において該当するのは服部連と考えるしかなく、この部分は動かせません。摂津国の服部連と遠江国における服部氏の名族をどう繋ぎ合わせればいいのか?そこまで考えてハタと気付いたのが、摂津国島上郡に服部郷を収む。の部分です。

遠江国の場合は長上郡、摂津国の場合は島上郡。ちょっと見ただけでは間違いなく混同しそうな郡名です。長上郡に服部氏の名族あり。との記述はこの混同に起因するものなのかもしれません。そうした解釈から具体的には以下の可能性が指摘され、二つ目の見方となります。

太田氏は遠江の服部に関して、「服織神社と服織田神社は服部の奉斎する神社だ。そうして(而して)、(高槻の)島上郡には服部氏の名族(すなわち服部連)がいる。」と書いたつもりだった。名族と断定できたのは彼らが摂津国の服部連だったからである。太田氏は、史料にはないものの、摂津国の服部連が遠江国にも来ているはずと理解し、その点を踏まえ、遠江の服部の項で摂津の島上郡にいる服部氏の名族(服部連)を書き入れた。印刷前の校正で編集者が島上郡を長上郡の間違いだと勘違いし、長上郡に直して印刷に回し、太田氏はその変更に気が付かなかった。その結果、「長上郡に服部氏の名族あり。」との記述で書籍が出版され、読み手の混乱を招いた。

以上、長上郡の服部氏の名族とは遠江国に来た服部連を意味する、長上郡は島上郡の誤記で摂津国にいた服部連を指す、と言う二つの解釈・見方を提示してみました。どちらが正しいのか太田氏にお聞きしたいところですが、残念ならが同氏は既に泉下の人。お聞きする術はありません。

引用は以上です。少し前のレスで書いたように、服部連が越前にまで来ていました。それなら彼らが、機織り業が盛んな遠江に来ていてもおかしくはないと思われます。

旗本服部中家が名家でありまた長上郡に服部氏が存在し、それに何らかの要素が介在して丸に三つ柏紋の服部氏がいるとすれば、もうほぼ解明されたのでしょうが、残るミッシングリングはほんの少しとなりそうです。いずれにしても、旗本服部中家が名家であり長上郡に服部氏が存在する点と、問題を孕む太田氏の「而して、長上郡に服部氏の名族あり。」は分けて考えた方がいいのではないでしょうか。
[97]空の青海のあをさんからのコメント(2023年07月29日 21時56分19秒 ) パスワード

酔石亭主さん

詳しい情報をありがとうございます。

「名族」と「名家」の違い
大きいですよね


旗本の服部中の系統なら「名家」と言えるけど「名族」と呼ぶには  新し過ぎる。


「名族」と呼ぶに値する服部さんは消えてる記憶です。
 
確か  平安時代に源頼政が落剝してた知人を  服織神社に連れて来た記憶です。
     この件は平熱のどこかに大昔  書きました

だから「名族服部氏」はとっくに途絶えてたのではないかと。


>太田亮氏の姓氏家系大辞典5巻には、
>「遠江の服部 延喜式、長上郡に服職(?織?)神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」
>と書かれていました。


数年前にNHKの番組で服織神社を取り上げてて
その時に
    わたしの疑問には答えてないな
    安っぽい作りの案内番組だな
と思いました。

    その上に神紋も見せてくれなかったし
    「神紋」以前に「名族服部さん」は消えてたということなのかな?と思いました。


         源頼政と共に  京都から連れて来た人物も  平家の力の下で失脚してるだろうし


「名家」と「名族」
この違い
「名族服部さん」について太田先生にもっと書いて欲しかったです。



三つ柏さん

数日前に高校時代の同窓会をやりました。

2か月ごとにハワイに来てる人とか  ワイキキに3ベッドルームのペントハウスの別荘のある人とかいました。


そんな人がハワイの物価の高さを嘆いていました。

「キャベツ1玉が1000円もする!トマト1個ジャガイモ1個が500円もする!  呆」


1泊1000ドルもする部屋に泊まれる人   400万ドルも500万ドルもするペントハウスを別荘にする人が  キャベツの値段を気にする?
とワタシはそっちにビックリでした。


     ま、滞在先は御主人の会社名義で払ってるんでしょうけど
     キャベツは彼女達の財布からですから

     そうなるのか


この先  孤島のハワイでは  「物流サーチャージ」  20%とか  を課すハナシも出ています。

もうレストランなんかではアホらしくて食べられないです。
全く  美味しくもない  なんちゃって料理  の世界ですからね
値段だけ一流!


うちのマンションの自販機のM&Mやハーシー・チョコの小さいのが2ドルもすると知ってビックリ仰天しました。
あんなの  30セントあたりだったような記憶です。

    何十年前の値段だ?


ハワイには今や日本人観光客は捜さないと  というレベルだそうです。
東アジア系では中国人や韓国人だらけだとか。


円安日本ですからね
プラザ合意で良い目を見た過去があるから
いつまで経ってもバブル時代が基準になってますね

バーストして30年を超えたのに。
[98]丸に三柏服部さんからのコメント(2023年07月29日 23時17分15秒 ) パスワード

酔石亭主様
あを様

 いつもいろいろご教示していただき、ありがとうございます。

 服部中家は3500石の旗本として、本陣を敷智郡大久保に置き(隣接して神ケ谷、山崎、小人見、伊佐地も領す)、飛び地の長上郡石田(上、下)には、上石田に在地の陣屋(地代官)を置き、明治初頭まで存続しておりました。総合的な石高は3500石あまりでありまして、石高帳には、地名と領主服部中の名前がずっと表記されてきております。
 太田亮氏の根拠とする史料類がわかりませんので、評価しにくく、素人の私に
はただただ太田氏を信じるしかありません。ましてや神様が作ったような膨大な『姓氏家系大辞典』を前にしては―です。とても太田氏が筆の誤りを犯したなどとは言える私ではありませんので、あくまで太田氏の記述が正しいとすれば
答えはこうだという結論を書いたまでであります。もちろん欠陥のある結論では
ありますが、全くの間違いでもないと思っています。

 太田氏の書いたものに、『新編 姓氏家系辞書』(太田亮著 丹羽基二編』、
『日本国誌 遠江』がありますが、この中には、「長上郡に服部氏の名族あり」
はいずれも表記されておりません。問題部分を意図して削ったのかどうかはわか
りませんが、名族の定義も定量的には測れないので、難しいものであります。『日本の名族』という新人物往来社編の全12巻の本もありますが、ここでは部門
の名流として314氏を挙げています。

 ハトリの姓の成り立ちは、最初は何語かまず「音」があり、あとから「漢字」を充てたものと思われます。ハトリは糸偏職業集団で、地名にもなり名字にも
なったと思われます。また服部連などの支配層の服部、労働者層の服部などの
構成があったのではないかと推量します。

 宝賀寿男氏の『古代史族の研究Q 鴨氏・服部氏』によれば、服部連の祖は
伊豆国造家より出ている。なぜ摂津に居住するようになったのか、これを解か
なくてはならない。服部連の祖の麻羅宿祢は、字のごとくもともとの姓は服部
ではなかった。
 服部連姓は、たぶん世襲性で、その一族のどこまでかはわからないが直系は
名乗ることができたのではないかと推量します。
 
 さて、余談ではありますが、宝賀寿男氏は先ほどの本の中で、太田亮氏の例
の「長上郡に服部氏の名族があった」という表記を踏襲しております。


 いずれにしても、点と点を結ぶ線は、推量にならざるを得ないこと、歯痒い

ものであります――。

[99]酔石亭主さんからのコメント(2023年07月30日 07時19分33秒 ) パスワード

三つ柏さん。

服部中家の陣屋や地代官の詳細ありがとうございます。

>ましてや神様が作ったような膨大な『姓氏家系大辞典』を前にしては―です。とても太田氏が筆の誤りを犯したなどとは

弘法も筆の誤りのたとえの如く、偉人・天才だからと言って無誤謬だとは限りません。かの天才アインシュタインでさえ間違いはあったとされているようですから…。誰それのお言葉だからと全面的に信じるのは、歴史ではなく宗教になってしまいますよ。


あをさん

>だから「名族服部氏」はとっくに途絶えてたのではないかと。

これに関連してもう一つ知りたいのは、三つ柏さんの本家筋が確か37代目だとされている点です。37代だと一代当たり20年として鎌倉時代、25年で見れば平安時代までさかのぼってしまいます。だったら、名族服部氏=服部連が遠江に来ていると言う前提・仮定において、本家筋さんが服部連の流れだった、つまり名族服部氏だと言える可能性が浮上してきてもおかしくはありません。

一方、三つ柏さんは服部中の流れがご自身に繋がる可能性が高いと考えているはずです。(間違っていたらごめんなさい)この二つには矛盾があるので、矛盾しないように再構成するには、本家筋=服部連筋と服部中筋がどこかで合流したとすればいいはずです。続いて丸に三つ柏紋の要素がどこかで介在し現在に至った。これは全くの推測ではありますが、ある程度の筋道が描けるのではないかと…。
[100]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2023年08月12日 09時06分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ハワイが大変なことになっているニュースを見ましたが、大丈夫でしょうか?
 心配です!!!
[101]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月12日 13時09分01秒 ) パスワード

三つ柏さん


ハワイ州民へのお見舞いをありがとうございます。


ここ数日ハリケーンDORAがハワイ諸島を襲っていました。
こちらは偏西風ではなく貿易風なので東からものすごい強風でした。

     我が家は東のベランダへのガラス戸が壊れるのでは?と怖かったです(北〜東〜南に開らけた作りなので)


火山のあるハワイ島と、その西のマウイ島(たしか曙の出身地の記憶です)が強風から山火事を発生させて
マウイ島は市街地が炎で焼き尽くされて、亡くなった方がどんどん増えていて、歴史的な火災になってしまいました。


去年と今年は雨が全然降らなかったので乾燥しまくっているので火災が発生したのでしょうね。

一昨年までは雨が多くて毎日道路が水浸しで私は毎日靴を洗って乾かしていましたが。
今年は「雨が降ったなぁ」という降り方は1回しかありませんでした。
これは今回のDORAの前の7月19日から20日にハワイ諸島を襲ったハリケーンCALVINが齎した雨で 「 一応  降った 」 というレベルでした。


     瓢箪の形をしたマウイ島のキヘイという新興住宅地に家を買おうと思ってた時期があったのですが
     キヘイの町も燃えたそうです。

     マウイ島の歴史的な保存エリアのラハイナを襲った火災の様子は終戦時の東京の町みたいに燃え尽きています。

     私はラハイナのすぐ北のカアナパリという町が好きでマウイではいつもここに滞在していました。
         アメリカ人はカアナパリと発音できずにカナアパリと言います。笑


ハワイアン航空は被災した旅行者などに20ドルで脱出便を出すとニュースになっていました。



ホノルルのあるオアフ島は強風が今週ずっと吹き荒れたあたりで済みました。



それよりも  台風7号
東海地方を直撃コースではありませんか?

台風の進路の東になる遠江地方は大変な影響を受けるのではありませんか?
お社が無事でありますように!
氏子さん達がご無事でありますように!
日本中の皆さんとご先祖さま達が無事にお盆を過ごせますように!


実は(三つ柏さん、ほんとに大変な連続ね)と思っていたところで書き込みをいただいたので
驚きました。ふふふ
[102]空の青海のあをさんからのコメント(2023年08月13日 08時45分48秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101979.html
服部カフェ 3号店をオープン致しました。
ご利用ください。

副店主敬白
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