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 投稿番号:101929 投稿日:2023年04月18日 08時42分46秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
商人・瀬戸方久と武将・新田喜斎

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

古文書は使われる文字が略字だったり当て字だったり
更には記録する人が書き間違えるというミスもあって
後世の者を振り回わします。

表題の「商人・瀬戸方久と武将・新田喜斎」は一体どんな人物?


ということで丸に三つ柏服部さんが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101884_132.html
レス<130>に纏めてくださいました。

参考文献:

@『新田(法久)喜斎物語』 (気賀堀川城主・新田喜斎公菩提寺・全得寺前ご住職 小野沢要道著)
A『清和源氏の源流を訪ねて ―三河遠江名倉氏の系譜―』 (川島長次郎著) 
B『祖 新田喜斉を尋ねて』 (中村哲雄著)
C『ルーツを辿ると清和源氏』 (細田安治著)

ABCの著者は、一族末裔の方々であります。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月18日 09時14分05秒 ) パスワード

「瀬戸方久」考

1.「おんな城主 直虎」

ムロツヨシが演じた「瀬戸方久(ほうきゅう)」、そして、柳楽優弥が演じた「龍雲丸」…
この二人には、それぞれそのモデルとなる人物がおりました。



「瀬戸方久」…文字どおり、瀬戸方久と呼ばれた人物が存在していました。

「龍雲丸」…その名前は、都田川が浜名湖に注ぐ東岸・伊目にある「龍雲寺」にちなんでおります。
そこには「新田喜斎(にったきさい)」という人物の墓が建てられており、
龍雲丸はこの新田喜斎をモデルとしたと思われます。
  


ただ、ややこしいことに、
この新田喜斎も、瀬戸方久と同じく「方久」を名乗ったということと、
喜斎も瀬戸方久同様、瀬戸に住んだこともあり、
従って、瀬戸方久と言えば一人の人物に捉えられてしまう傾向がありました。

龍潭寺の前住職・武藤氏もそう捉えておりました。


ただ、昨年の五月(大河ドラマ「おんな城主 直虎」が終わった翌年)、気賀の全得寺の小野前住職が、
『新田喜斎物語』という冊子を出版され、
その中で色々の資料の分析に基づき、「新田方久喜斎」と「瀬戸方久」が別人であることを明確にされました。



これで「方久」についての混迷は一応解決された形になりますが、

大河ドラマに於ける瀬戸方久(商人)と竜雲丸(武人)のキャラクターは、実在した本物二人がそれぞれに共通して持つ実際の属性でありました。


ドラマでは、「商人」的属性の瀬戸方久、「武人」的属性の龍雲丸にとして分離集約しておりますが、
それはそれで視聴者にとっては分かり易い人物構成になったのかと思います。




実はここで重要なことは、「方久」うんぬんではなく、この新田喜斎の名前(姓)が「名倉」でもあったということであります。 




2.「名倉という所」

井伊谷から、国道257号線を約60q程北上しますと、稲武(いなぶ)という所に出ます。
ここは山間に於ける交通の要所でありますが、
ここから約6〜7q戻った所に、道の駅「アグリステーションなぐら」があります。

ここの地名は「西納庫」(にしなぐら)といいます。「東納庫」という所もあります。

この辺が、昔でいう「名倉」の地域であります。


名倉という文字は、名倉川、名倉小学校、名倉郵便局、名倉CCに見られます。
 

名倉という地名は、時代によってさまざまに書かれてきました。
最初は「菜倉」、「菜久楽」、「名蔵」、「那蔵」とも書かれました。
いわゆる当て字であります。

いつ「名倉」の文字が使われるようになったかはわかりませんが、
鎌倉時代には、既に「加茂郡名倉郷」という呼称・表示があったということであります。




3.「奥三河足助庄」

名倉という所は南北朝の時代では、足助庄の中に含まれていたものと推察されます。
足助自体は街道筋の町ですが、足助庄は大雑把に言って、東西二十〜三十q位の広大な地域を占めておりました。


そして、足助荘は後醍醐天皇の領地(旧八条院領)であったものと推察されます。


ついでながら、遠江の気賀庄も、井伊谷を含んだ形で後醍醐天皇の領地であったものと推察されます。 


従って、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった時、
足助の足助氏も、井伊谷の井伊氏も、後醍醐天皇側につき、天皇と共に南朝臣として戦いました。

特に、井伊谷には井伊谷宮があるとおり、後醍醐天皇の皇子である宗良(むねなが)親王が拠点とされておりましたので、
井伊谷を表玄関として、その奥の奥三河・美濃・南信州は南朝色の非常に濃いところでありました。


宗良親王は、南朝軍の征夷大将軍でもあり、新田氏一族とも共に戦いました。




4.「名倉にやって来た新田氏」

「新田氏」といえば、「新田義貞(よしさだ)」のいわば代名詞であります。
鎌倉幕府(北条氏)を倒し、後醍醐天皇の南朝方に親子三代にわたり尽した一族
であります。

徳川家康の祖先もそのルーツは重なります。


つまり、新田氏の始祖は「新田義重」で、
その子供に「義兼」(兄)、「義季」(弟)がおり、
兄の方の子孫が「新田義貞」、弟の方の子孫が「徳川家康」であります。



新田義貞は、上野(かみつけ 群馬県)の新田郷(太田市)の出身ですが、
1333年に鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、鎌倉幕府(北条氏)を倒します。

その後も故郷へ帰ることなく、各地を転戦しました。


約五年間でありましたが、不運にも越前の藤島城攻めで、灯明寺畷(なわて)にて戦死してしまいます。



その長男の「義顕(よしあき)」は、父と一緒に戦ったものの、父よりも先に越前金ケ崎城にて戦死してしまいました。
その時の義顕の年齢は二十歳前後でありましたが、一人の息子(後の新田四郎義一)が産声を上げておりました。
 



さて、ここからは推測的な話となります。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月18日 09時17分51秒 ) パスワード

というのは、
断片的な情報はあるものの、
なかなか整合性がとれないためであります。


それは、新田一族が、一カ所に留まることなく各地を転戦しており、またその多くの人々が戦いで命を落としてしまったり、また、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、負けた側には、幕府側の残党狩りや一族の粛清があったりで、新田氏族や郎党は、つてを頼って落ちて行ったり、あるいは名を変えて隠棲したりしたものと思わ
れます。


こうした情況の下、記録は残せなかった。記録があったとしても、戦火の中で焼かれてしまったと推察されます。



戦地で生まれた新田四郎義一も、生まれながらにそんな境遇にあったはずであります。
従って、敗軍・新田の子として生きて行くのは難しく、同族で北朝・足利氏寄りの岩松家の温情で、その子として育てられたのではないかと推察いたします。



ただし、その義一がやがて奥三河に来るわけでありますが、いつ、誰と、どのようにしてやってきたのかは定かではありません。


『浪合記』という本には、1424年に新田義一ほかが、尹良親王を護衛して信濃(岡谷)へやって来たとあります。

その後、「浪合合戦」がありました。

たぶんそのあたりの戦乱を経て、新田氏族は奥三河に流れて来たのではないかと推察されます。

たぶん状況から言って、南朝方の足助庄あたりを目指して、あるいは井伊氏とも連絡を取り合っていたという可能性は大であります。



南朝勢力の強い、いわば南朝方のアジトや隠れ家のような奥三河に、新田氏が落ちてきたのは、当然といえば当然の帰結だったと思われます。
落ちて来たのは、新田氏だけでなく、その家臣達も同時に、あるいはその後を追い
かけるようにしてやって来ております。


では、新田義一のその後はどうなったのでしょぅか。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2023年04月18日 09時29分22秒 ) パスワード

新田義一のその後:



5.「名倉氏となった新田氏」

さて、この名倉に「清水」という所があり、そこには清水城がありました。

今では、城の跡かたもありませんが、土塁とか掘が一部残っております。
私も大河ドラマの始まった頃、調べに行ったことがあります。

車は道の駅に置き、方角的には北東の山の方へ向かいました。
行けば案内看板が出ていると思い、おおよその見当で行ったわけでありますが、ところが全く手がかりがありません。

地元の人に訊いても知らないという。

グルグル何回も回ったあげく、ある農家の軒先にて年老いたご主人に訊いたところ、ほぼ場所がわかり、やっとのことでたどり着けたわけであります。

昔の山城は、所在が分かりにくいものが実に多いというのが実感です。




清水城跡のすぐ下には、清水城主の墓というものが数基程並んで建てられておりました。


新田義一が婿養子に入ったのは、この清水城主の名倉(菜倉)家であります。

この名倉家は、系統としては、新田氏と同じ清和源氏であり、頼光・頼政系の大河内氏の家系であったようであります。
三河の西尾市にも名倉氏の末裔がいますが、その「名倉姓由緒」には、次のように書かれています。





@新田義一の系統

・源満仲―頼信………………(十代略)………………義貞―義顕―義一



A新田義一の妻方(名倉氏)の系統

・源満仲―頼光…(三代略)…兼綱―顕網―兼時―兼重―伊兼―伊武―娘


新田義一の妻の父親・伊武は、大河内系の最初の清水城主であり、
また、
名倉(菜倉)と名乗った最初の人でもあります。


名倉家は、その後代々清水城主を務めます。



義一は結婚後「兼氏」と名乗りますが、
その兼氏から数えて五代目(玄孫 やしゃご) の伊茂(これしげ)が「新田喜斎」であります。


喜斎は法名(仏門名)であり、通称は「友作」でありました。




6.新田喜斎(伊茂 友作)のその後

清水城主の系統は、伊武―兼氏(義一)―兼伊―伊信―伊義―伊茂(友作) と続きますが、
1554年に武田信玄が下伊那から奥三河に攻め込んで来ます。

下伊那を領していた下条氏は、既に武田の軍門に下り、そしてやむなくその先頭に立たされて奥三河に攻めて来ます。


清水城主の伊義は、攻められる寸前で清水城を明け渡し、気賀に落ちて行きました。


気賀には、既に(10年前くらいに)やって来ていた息子の新田方久喜斎(伊茂 友作)がおり、「堀川城主」となっていました。



気賀での新田喜斎の活躍については、長くなりますので簡単にまとめますと、
1568年に徳川家康が遠江に攻めてくるわけですが、
喜斎は今川よりも徳川に付くことを主張します。

しかしながら、家臣達は今まで通り今川方であることを強く主張したため、喜斎は堀川城から出て行きます。



その後にあの悲惨な堀川城の戦いが起こります。


喜斎は気賀の呉石(くれいし)に隠棲後、井伊氏と協力して気賀地域の発展に尽くしました。

具体的には、農地を開拓したり、市場を設けたり、運河を開いたり、浜名湖・都田川の水運による物流を盛んにしたり、また政商として活躍もしたり、子供達に読み書きを教えたりしました。


1606年、喜斎82歳の時に、塩の訴訟事に関係し、不幸にも刑死させられてしまいます。




子供は側室に男子3人と女子3人がいたそうであります。

・長男の伊重……大阪夏の陣に従軍(東軍 家康側)。
・次男の伊友……三河「名倉」氏の祖となる(西尾市貝吹が中心)。
・三男の為高……遠江「名倉」氏の祖となる(気賀が中心)。
・娘の一人……中村家に嫁ぐ(伊目が中心)。



これで、新田喜斎の話は終わりにしたいと思いますが、

改めて、新田喜斎の祖先はあの新田義貞であり、また源頼光・頼政の血も引き、徳川家康ともルーツ的に重なり、家康とは心が通い合う間柄であったと推察しています。

現に三男為高は、家康の遠江侵攻の案内をしたりして協力しております。


家康との関係が本当の所どのような具合であったかの詳細は、実のところよくわかっておりません。



以上、コピペでした。
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