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 投稿番号:101737 投稿日:2020年11月19日 14時26分42秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXL:140:いよいよ核心に‐8
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101734_80.html
長上郡の服部氏族CXXX\:139:いよいよ核心に‐7
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さん:
>南朝がわかれば、服部氏もわかるというのが私の考えでもあります。
      
酔石亭主さん:
>足助もまた南朝の拠点で、
>後醍醐天皇の第3皇子・平勝親王が足助に来て足助氏に決起を促し、
>7代目の足助重範が決起したとされています。



津島15家
津島「四家」   大橋・岡本・恒川・山川の4氏
津島「七苗字」  堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の7氏
両者あわせて四家七苗字と呼んだ。
さらに
宇佐見・宇都宮・開田・野々村の四家を合わせて津島15家とも言う。


吉野ヨリ供奉武士
大橋修理大夫定元       岡本左近将監高家
山川民部少輔重祐[或ハ朝祐] 恒川左京大夫信規
此四人ヲ新田家ノ四家ト云

吉野ヨリ供奉公家庶流
堀田尾張守正重   平野主水正業忠
服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政
真野式部少輔道資  光賀大膳亮為長
河村相模守秀清
此七人ヲ七名字ト号ス是十一家ヲ吉野十一党ト宮方ノ武士申ス也
二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル


「藤原兼家」
「兼家」長男「道隆」……子孫に「池禅尼」がいる。
「兼家」三男「道兼」……子孫に「宇都宮氏」がいる。
「兼家」五男「道長」……子孫に「青山氏」がいる。


レス<74>
始祖「宇都宮宗円」の息子・「宗綱」の娘は、「平家貞」の妻となり、「平貞能」(大橋氏の祖先)を生む。

宗円から数えて五代目の「頼綱」の娘は、「藤原定家」の息子・「為家」の妻となる。

この藤原定家の「御子左家」の流れは、
「定家」―「為家」―「為世」―「為道/為子」―「為定/藤子」と続く。

「為子」は後醍醐妃となり、第一皇子・「尊良親王」、第四皇子・「宗良親王」を生む。

「藤子」も後醍醐妃となり、第八皇子「懐良親王」を生む。


御子左家を媒介にして、
宇都宮家の後裔・支流である大久保家始祖の「泰藤」は、
尊良親王・宗良親王・懐良親王と血がつながっているということになる。

泰藤が南朝に仕えたのは、そういった意味で当然の帰結であったのかも知れない



レス<76>
宇都宮宗円の子・宗綱には少なくとも三人の子があり、
それは@朝綱、A知家、➂娘、であります。

@朝綱から数えて八代目が泰藤――大久保氏の始祖であります。
A知家は源義朝と関係する――これについては別途考察する。
➂娘、即ち宇都宮朝綱の妹は、平家貞の妻となり、平貞能(津島の大橋氏の祖先)を生む。

平家貞は平宗清の叔父であり、宗清と貞能とは従兄弟となる。
平宗清は、津島の服部伊賀守宗純の祖先であります。

また、義朝・頼朝と朝綱、貞能、宗清、頼盛、池禅尼、そして熱田神宮の大宮司家とはシンパシィ関係でつながっているような気がいたします。


レス<79>

平宗清系で服部伊賀守宗純子孫を名乗る人物は  服部中保次  でした。

寛政重修諸家譜  巻第1172
  
高棟流にして弥兵衛宗清より出
宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝山田2郡のうちにおいて32村の地を賜ひ
阿拝郡服部村に住せしより  子孫服部をもって家号とす
服部(宗次・要介・小平太・中)中保次は其後胤伊賀守宗純が末孫なりといふ

遠江国の服部中保次の家の家紋:
16桁車の内横矢筈    ← 伊賀国服部家長の家紋
むかひ蝶         ← 平家一門の家紋
揚羽むかひ蝶の内16葉菊  ← 青山家との関係から16葉菊も加えた?



対い蝶紋は平季衡流の家紋:
代表者
平盛国ー盛俊
平盛光の子・貞光ー家房(季房?)−#家貞ー服部家長ー家清ー柘植宗清となり北伊賀支配
平盛光の子・貞光ー家房(季房?)−#季宗ー宗清(貞能・家長と従兄弟)ー家清
平盛光の子・盛行の子孫が後に伊勢氏となり後世に後北条氏となる

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月21日 08時19分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドにつき、たくさんうまくまとめていただき、ありがとうござ
います。

 ところで、後醍醐天皇の第三皇子といえば、一般的には宗良(むねなが)親王
があてられていると思われますが、足助に来た「平勝親王」が第三皇子という
のは、平勝(へいしょう)寺の縁起書に書かれものを、『足助町誌』が引用し、
編集したものと推察されます。
 遠江を拠点にした宗良親王、あるいは尹良親王の伝承が相まじりあったもの
かも知れません。『南朝秘史 足助一族と大塚掃部助』にも「平勝親王」につ
いて書かれていますが、これも『足助町誌』から引用したものと思われます。
 その内容を記しますと――
「元弘元年(1331)五月、後醍醐天皇笠置に行幸のとき、第三皇子平勝親王は、
関白二条良基を供に足助郷へ来ており、中之御所に居住、都へ早く帰ることを
願っていた。一夜、鳳凰を夢見て、平勝寺の観音様を知り、平勝寺に七日間こ
もって、観音様に戦勝祈願をしたところ、数日後に天皇都へ還幸のしらせがあ
った。親王も喜んで都へ帰り、天皇から勅額一面、太刀一振、菊桐の御紋章な
どを賜った。それ以後、それまでの檀独山大悲密院を改めて、鳳凰山平勝寺と
号するようになった。」
とあります。
 また、長者の娘との悲恋、藤原良基と足助重範の娘とのエピソード等も載せ
られております。
 
 ところで、二条(藤原)良基とはどういう人でありましょうか。一度調べる必
要があると思います――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月21日 14時04分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


二条良基については
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101734.html
長上郡の服部氏族CXXX\:139:いよいよ核心に‐7
レス<20><21>に書いておきました。

良基のパパは道平で  後醍醐天皇と組んで討幕を企てたが失敗。
息子の良基は尊氏方となり  3代将軍義満を幼い時から薫育し  青年に育て薨去。



編集の上コピペしますね


二条家は  お歌の家の二条家 と 政治の家の摂政関白の二条家があります。


おそらく三つ柏さんは「お歌」の二条家についてお書きになるんでしょうが。
宗良親王  が代表者ですね。


      
政治の摂政関白二条家は南朝方と北朝方に分かれてグチャグチャになって行きますが当時の二条家を語るとすると北朝方の二条良基が代表的人物。


その経緯:

摂政関白の二条道平は後醍醐天皇と討幕を計画して・・・バレて・・・断絶になり・・・その後鎌倉幕府が倒れて  ラッキーとばかりに  娘の栄子Gは後醍醐天皇の女御となり息子の良基は従2位となって  ・・・  


その後 道平が亡くなって・・・ 尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い出し  ・・・  ここから政治の二条家は南朝方と北朝方に分裂して・・・良基は北朝方について  ・・・


そして良基は足利3代将軍義満の良き理解者に。だから義満が日本人には難易度の高い平行思考が出来たのは二条良基の理解と指導の賜物でしょうね。

二条良基は腕白坊主の義満を日本史上有数の政治家に育てた。


レス<18>から三つ柏さんの書き込みを引用:

@二条為子(最初の正妃):「尊(たか)良親王」、「宗良親王」
       A遊義門院一条局:「世(よ)良親王」
       ➂民部卿三位:「護(もり)良親王」
       C西園寺禧子(二番目の正妃):皇子なし
D二条藤子:「懐(かね)良親王」
       E阿野廉子:「恒(つね)良親王」、「成(なり)良親王」、「義(のり)良親王」
       F?子内親王(三番目の正妃):皇子なし
G二条栄子:なし

     
@とDは  同じ筋の(つまり  お歌の家の)二条家の出で、オバメイ関係ですね。


@の為子さまは後醍醐天皇の皇太子時代からの「お歌」を通じた相思相愛関係の夫婦ですね。でも夫が天皇になる前に儚くなってしまいましたね。


Dの藤子さまは父を幼くして失くし、政治系の二条家である摂政関白の二条道平に仕えて

そこから後醍醐天皇の中宮(西園寺禧子)に仕え・・・よくある・・・天皇のお手がついて側室になって懐良親王を生み、

明の国史では日本の「国母」となる女性ですね。

理由は
懐良親王が九州にいたので明の洪武帝が日本と交易をするのに最高権力者は誰かと問い合わせた時に懐良親王が自分だと答えたことから明は日本とは懐良親王としか交易をしない。

明にとっての交易相手となる日本国王は懐良親王であった。

それで日明貿易を望んだ足利義満は明から「日本国王」と認められるまで長々とチャンスを待たなければならなかった。


義満が日明貿易に漕ぎ付けるのに忍耐強く頑張ったのは二条良基自身が苦労したからの賜物なのかなと思います。敵は褒めたくないけれど。
[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月24日 11時56分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ、マスターズゴルフ、大相撲、プロ野球日本シリーズと続いており、
そちらの方に目が行ってしまい、集中力にかけております。
 義兄の四十九もありましたが、中安家資料は集めたけれど、そのまとめができ
ずじまいに終わってしまいました。義兄が生きている頃の方が、モチベーション
が高かったのですが、亡くなってしまった今、モチベーションは湿ったままとな
っております。

 さて、南北朝の戦いというもの、南朝に付くか北朝に付くか……まだその精神
構造がわかっておりません。討幕したまではよかったが、その後に離反、混沌と
した戦いに入ってしまったということ。
 藤原良基にしても、南朝から北朝へと揺れ移ったわけで、それは現実的な路線
を選択したということだと推察いたします。
 藤原良基が、三十歳前後から約十年間足助に籠ったという伝承があるのですが、
表の歴史からは見えてきません。南朝方であることは、知られたくないことであ
った。秘匿しておく必要があったということ。南朝側であることの危うさ、南朝
狩りの実態というもの、これを知っておく必要があると思います――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月24日 15時29分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


今はコロナ鬱もあって  なかなかヤル気が起きない  ということもありますよね。
わたしも今月は断捨離のヤル気  ゼロ  です。


あ、藤原良基と二条良基は時代がかなり離れていて、全くの別人ですから
南北朝時代を語る時は  二条良基  とお書きになる方が良いかも  です。



二條良基

時代     南北朝時代
生誕     元応2年(1320年)
死没     嘉慶2年/元中5年6月13日(1388年7月16日)

官位     従一位、摂政、関白、太政大臣

主君     後醍醐天皇→光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇

氏族     二条家 (鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来)

父母     父:二条道平、母:西園寺婉子
兄弟     良忠、九条経教、富小路道直、栄子
妻      土岐頼康の娘
子供     師良、師嗣、一条経嗣、他




藤原良基    日本史上とくに重要な人物ではない?

                       尊仁親王(後三条天皇)に仕えて出世し、
                       さらにお子さまの貞仁親王(白河天皇)にも仕えたのに
                       白河天皇からは冷遇され左遷先の大宰府で薨去したのが歴史的ジケンかも?


時代    平安時代中期 - 後期
生誕    治安3年(1023年)
死没    承保2年閏4月19日(1075年6月5日)

官位    従二位、参議

主君    後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇(文春砲:「発覚!ご落胤に崇徳天皇や平清盛!!更にバイセクシュアル天皇!!!」)
           禎子内親王(皇太后宮職)
           尊仁親王(春宮職)

氏族    藤原北家中関白家

父母    父:藤原良頼、母:源経房の娘
兄弟    忠俊、家基、良朝、親快、源基平室、藤原基貞室
妻      平範国の娘
子供    隆宗
[5]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月25日 12時21分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 二条良基と藤原良基の違い、ありがとうございました――

 

 
[6]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月26日 11時22分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 藤原良基を調べてみますと――

  藤原道隆―隆家―良頼―「良基」―隆宗―宗兼―「池禅尼(宗子)」

となっておりました。つまり、良基は池禅尼の曾祖父、逆に言うと池禅尼は、
藤原良基の曾孫ということになります。
 もっとも、時代は南北朝より二百年も三百年も前のことであります。

 池禅尼と源頼朝、頼朝と熱田神宮、熱田と津島、津島と南朝……朧げなる
つながりが見えそうでありますが、まだはっきりとは見えておりません――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月26日 15時08分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


織田信長の先祖は越前国織田在の二の宮である剣神社の神官で   (一の宮は気比神宮で南朝方の本拠地)
この剣神社のご神紋は  木瓜紋

尾張の織田家の氏神さまは津島神社で
津島神社のご神紋は  木瓜紋。
だから信長の家の紋は木瓜紋。横に長い木瓜紋。

津島神社の神官の堀田家は縦長の木瓜紋。
(でも江戸時代に紀姓や藤原姓を仮冒)


名古屋は木瓜紋を使用する家が多く
ニューヨークの親戚=嵯峨源氏=の家も木瓜紋。


素戔嗚ゆかりの紋が木瓜紋。

京都の八坂神社=この木瓜紋を「五瓜に唐花紋」と言うそうでキュウリじゃなくてマクワウリなんだって=  と  津島神社は素戔嗚系神社。牛頭天王。


日本最初の支配者は出雲の素戔嗚だったのが神武に駆逐されたのかな、と。
とはいえ
こういうハナシは100年後の日本じゃ  「アホらし。ただの土人の神話どころかタワゴト」 ということになっているのかと思いましたが
なんだか   もっと早く天皇家は終了するのかな  と思うようになりました。


タイは学生によって王制が揺るぎ
日本は移民によって天皇家が終わるんだろうな


来年小室氏がアメリカの司法試験に合格しなかったら国連職員に突っ込んでもらうんだとか噂されています。

1憶4000万円の資金じゃ  小室母子と眞子さまの3人でニューヨークに住むには  スグに枯渇し生活出来なくなる。


眞子さまが蟻の一穴天下の破れを齎し  弟さんの即位は無い   のだろうな
と思います。
その時には、わたしはこの世にはもういないでしょうから  そんな世を見なくて済む  
でも、あの世でわたしは先祖達と日本の国の姿をどんな思いで見下ろすのかな?
[8]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年11月29日 22時18分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日、大腸内視鏡検査をし、ポリープを一つ取りました。毎年受けていて、
ポリープも過去から数えれば結構な数、取りました。
 そんなこんなで、集中力を欠いておりました。

 今年の九月にいい本が出ました。平山優著『戦国の忍び』という本です。
 こり著者は、以前『天正壬午の乱』という本を出しておりまして、本能寺の
変後の甲斐攻めについて、服部半蔵正成の活躍もなかり詳しく書いており、な
かなかいい本だなと思っておりました。
 今回の本も、「忍び」について客観的に考察しており、歴史論文として安心
して読めるもので、またいろいろな発見に出会います。
 折を見て、送るようにいたしますので、楽しみにしていてください。

 その中で、南北朝動乱期に、「忍び」はいたと書かれております。もっとも
出典は『太平記』であります。
 その辺について、悪党とからめて、「伊賀の服部党」が、なぜ忍者的戦法を
獲得したかという必然性について、今後考察してみたいと思います――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月30日 02時35分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

今回もポリープ除去で済んで、良かったです。

わたしの姑は若い頃から便秘気味で、とうとう、変だ、ということから検査をしたらポリープが出来てて
姑は病弱の義兄の体調不良を心配してそのままにしていたら半年後に「袋」になりました。
      こちらではストーマ、そちらではオストメイトと呼ぶのかしら?

結局1年後に肝臓に飛んで余命3か月の告知後ホントに3か月以内に亡くなりました。


姑の大腸癌の犯人はマーガリンです。
トランス脂肪酸はアメリカでは大悪人ですが日本は政治的にトランス脂肪酸は悪者にされてなくて驚きます。
    今時の日本女性は大腸癌で亡くなる方が非常に多いのですが
    そりゃあケーキやクッキーをバクバク食べてたらトランス脂肪酸の摂取過多にもなるでしょう。

日本の友人は半年毎にポリープをとっていましたが
伏兵がいて
大腸癌は大丈夫でしたが知らぬ間に胃癌になっていて
胃を75%切除して糖尿病から脱出したものの
その後
肺癌になりました。
タバコ大好きな人でしたから。


姑の件があったので
ラスベガスに引っ越し後わたしも大腸癌検査を受け
   全身麻酔の気持ち良さにハワイで聞いた2009年のマイケル・ジャクソンが麻酔薬中毒で亡くなったのが良く分かりますが
このラスベガスでは持ってた2つの医療保険がどういうワケか誤解されて自己負担にされ思わぬ出費を強いられ
次々にいろいろな部門の関係医師から請求書が届き
コッチの財布の苦しみを経験しました。



ハワイで数年前に大腸癌検査とピロリ菌検査を同時に受けたら
この時の全身麻酔の気持ち悪かったこと!
二度と全身麻酔なんかしたくない!とさえ思いました。笑
    麻酔医が下手クソだったのか
    2つも同時に検査を受けたのがマズかったのか
でも大腸癌もピロリも安心できることになり、検査は定期的にすべきだと思います。

    「医龍」の麻酔医・荒瀬(阿部サダヲ)が「俺を使いたかったら1回100万円払え」と言ってましたが
    麻酔代って自己負担だとそんなもんです。笑

    ラスベガスの麻酔代が100万円というのは  確かに  価値がありました。
    ハワイのは保険会社がかなり払ってくれたので  安い麻酔医だったのでしょう(笑)



「忍者」は聖徳太子の時代にはいたそうですから
秦氏が大陸から齎したのでしょうね。


忍者で有名というと風魔とか黒巾木とかもいますから
どこにでも有名無名でいたのでしょうね。

伊賀忍者が有名になれたのは家康に従ったから、かも、でしょうね。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2020年11月30日 11時15分42秒 ) パスワード

「麒麟がくる」
先週・今週ともに圧巻でした。


先週は「なぜ叡山を焼いたか」
納得の脚本でした。

今週は「オトコ」の交渉。
凄かった。
  光秀・久秀・順慶     凄かった。
               信長ほどの強い意志があれば天下を取れた。
               神仏も寺も  あれは  人間が作ったものに過ぎない。
               信長って中世的価値観に縛られない新しい人間だったんだな。

そして天皇と信長。

信長って尊皇なんだね。
やっぱり南朝方子孫ってコトかな。


足利幕府はありゃ伏魔殿だね。
実力無いから権威でどうにかしようとするけど天皇ほどの力は無い。


やっぱり天皇ってスゴイんだなと思った。
品性品格が違う。


正親町天皇は弟が嫌い   覚恕は兄が嫌い。
比叡山焼き討ちをシブリング・ライバルリーから語る脚本というのは新鮮な驚きでした。
宗教と言う隠れ蓑で腐敗しきった世界を正面から取り上げた脚本なんて死角でした。

    今のフーゾク産業と大差無かったのか
    とビックリした。


それにしても相変わらずの鮮やかな緑は何の伏線?と未だに謎。

本日の回で「占い」は人の道を問うものなんて言ってたけど
光秀が愛宕神社で占いをしたことの伏線なのだなと思った。

余りにも内容が濃過ぎて大河ドラマの名作中の名作だなと思う。


間宮祥太朗が  現代物の時はカッタルイ今時男子役なのに比べて  左馬助役はキリッとしてて別人!
オトコも化粧なんだね。
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月02日 17時38分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「忍者」という言葉とイメージに我々は惑わされてしまうのですが、「忍び」
なら常識的に考えても理解できます。「忍び込む」あるいは「忍んで偵察する」
ということは、戦術の最も効果的な手法であります。「孫子」を知らなくても、
それは誰でも考えることであります。聖徳太子も「忍び」を使った(聖徳太子が
誰であったかは別として)ということでありますが、それは甲賀出身の「大伴細
人」であったという。
 天武天皇(大海人皇子)は「多胡弥」という忍びを用いたという。
 「大伴氏」「多胡弥」については何か感じるものがありますので、少し探求し
てみようと思います。

 これから隣保の通夜がありますので、ちょっと休止します――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月03日 01時43分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


オトナになって世間に責任が出来ると最期のお別れ会に出席する機会がしょっちゅうあるようになるんですねぇ。

こちらはカトリックが盛大なお葬式かな?服装も全身黒づくめだったりで「儀式」というイメージです。
黒人のお葬式はそれはそれはド派手なお葬式でご当人の人生最大のお祀りで送り出してあげようという感じ。

その他は  身内知人が集うあたりの  結構  ひっそりかな?  と思います。

でも色々なので  毎度戸惑います。
英国正教会の従兄のは盛大で、お葬式の後に従兄の家で食事会がありました。
日本だったら  オトギ  とかいうのかな?と。

日本の仏教系は結構同じような式次第かなと思います。
神道のは出席したことがゼロなのでさっぱり分かりません。

     オトナの付き合いが無いので日本のお葬式について知らないという非国民です。



今年の春に服部崇氏=霞が関の官僚=という短歌の人がハワイに来るということで
それまでの1か月  さて  どうやって若者をからかってやろうかと  平均年齢90歳の老婆達は牙にやすりをかけ爪を砥ぎ  楽しみにその日を待ってたのですが

3月に入って
(カナダ系の癌科の医師がグランド・プリンセス号でワシントン州からハワイに来たところでクイーンズ病院に入院し
その他にも6人がアヤしいということで)
この人達が陽性なら  ロックダウン  ということになり
結局我々は服部崇氏に会う事はありませんでした。

        来布の時には鎖国ということで服部氏は来ることは出来なかったのじゃないかな?
        日本に帰るに帰れないし。


この人は佐佐木幸綱さんの家来  じゃない  弟子ということで
なんで短歌?   (服部氏は短歌の竹柏会を主催なさってる人)
伊賀の服部さんなら俳諧とか俳句じゃないのか?

パリで3年間  何してたの?
やっぱり諜報活動?


服部氏が来る前に
佐佐木信綱の姪だか孫だかという女性(すごいお歳のおばあさま)も同席で
某仏教の人が万葉集の講座をやってくださって

なんと佐佐木信綱って元は鈴鹿の人なんですって。

           ヲイヲイ
           佐佐木信綱?
           わたしの先祖の敵の三日平氏の戦いでうちが殺した佐佐木秀義の子孫?
                  この佐佐木秀義は享年73だったんですって。

                  老人 vs 老人  のヨボヨボの戦いだったんですねぇ


ということで  伊賀の服部さんは今に至るも芸能を隠れ蓑に諜報活動をやってるのかも  です(笑)
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月05日 10時44分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史の事実は「偶然」の積み重なりのように見えますが、大きな流れの中で
見てみると、実はそれは「必然」の結果であったということ。「運命の定め」、
あるいは「運命のいたずら」というものがあるならば、それはそうなのかも知
れません。我々はそれに逆らうことはできないのかも知れません。

 伊賀平氏(伊勢平氏と一般的には言う、平家)の平(たいら)氏が、伊賀に領地
を持ったということ、そこは偶然にも服部氏族のいくつかの筋が重なり合って
領していた土地であった。もともと東大寺の社領も広がっていて、いわゆる「
悪党」と言われる反抗勢力が抵抗し土地を侵食していた。伊賀平氏はそこにオ
ーバーラップする訳でありますが、平氏と服部氏の関係というもの、上下関係、
ここがうまく治まったのはいかなる理由なのか知りたいと思っています――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月07日 14時30分00秒 ) パスワード

本日の「麒麟がくる」のなかさんの設定は名古屋の女だなと思いました。

なにげに  バカ装って  忠告する  っての。


世間話を装って光秀暗殺を喋りに行く
というのは名古屋式だなと。

脚本家がどの深さであのストーリーを出して来たかは分かりませんが
なかなか面白かったです。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月09日 01時42分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>歴史の事実は「偶然」の積み重なりのように見えますが、大きな流れの中で見てみると、実はそれは「必然」の結果

普通の暮らしの中でも「偶然」と思ってやり過ごすか「必然」に気付くか。


ムカシのクラスメートが結婚して姓が変わって
ヲイヲイ、ウッソォ〜!
と思っても

実は戦国時代の彼女のご先祖さまは同じ尾張南西部で城を構えてた一族なわけで

それで今さっき調べてみたら   ヲイヲイ  どころじゃなかったです。


出自も名乗らず、家紋を貼り付けてアイデンティティを示すことの無くなった現代
      ホントに知らなかったけど
実は遠い遠いムカシっからの御縁があったのです。

正真正銘!彼女の実家もワタシの実家も神代の時代からのお付き合いでした。
日本人ってホントみんな親戚になりますね。


ここでご提案:
お孫さんが生まれたら男子なら「崇」とか  賢い系を検索して  名付けてやって欲しいです。
女子なら「ようこ」とか「えつこ」」とか「みえこ」とか  ここらがカシコイ系ですよ。漢字についてはココではヤバイ。

絶対に「あをちゃん」というのだけは付けないようにと子々孫々に至るまで「禁止」になってるかも。
きゃはは
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月09日 11時14分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 @「伊賀服部氏族」、A「伊賀平氏」、B「南朝」、との関係が「必然」で
あったかという課題について、いろいろ調べております。
 まだはっきりとした答えには辿り着いておりませんが、平氏の出身が桓武天
皇で、桓武天皇の母が百済系というところにひとつヒントがある気がいたして
おります。もう一つ、「律令制と荘園制と身分制度」という時代の大きな流れ
に根ざしているというところに最大の由縁があるのではないかと考えます。
 具体的には、もう少し探求・整理をしなくてはと思っております――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月09日 14時49分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>@「伊賀服部氏族」、A「伊賀平氏」、B「南朝」、との関係が「必然」であったかという課題

ものすごく大変な作業になりますね。

 @の「伊賀服部氏族」がワタクシにはそもそも分からない。

でも半蔵さんの家はココを主張してますね。

「ほのはやひの命」の末裔だ、允恭天皇の御世に織部司になり、服部連と号し、その子孫が伊賀国阿拝郡服部郷を領し、平氏にして葛原かずらわら親皇の後胤・伊賀平内左衛門が末孫なり、と。

おそらく「服部」という苗字は
伊賀に元々いた服部氏にあやかったのか、乗っ取ったのか、もらっちゃったのか、養子になって血を入れたのか。あ、やっぱり乗っ取ったんだ。


A「伊賀平氏」については   
 
桓武天皇の第3皇子・葛原かずらわら親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で、
彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ上総介になったことから、
その子孫が東国地方に繁衍する基が開かれ坂東平氏となり  
1006年(寛弘三年)に平維衡が伊勢守に任ぜられ  伊勢国多度神宮寺を氏寺とし・・・伊賀・尾張にも勢力を伸ばし・・・

    今回の「麒麟がくる」で秀吉の母上の「なかさん」が尾張国御器所の出身だと紀行の中で紹介してましたね
    清盛が父上から相続した尾張の土地です。

B「南朝」については  後醍醐天皇のお召しにより  伊勢国奄芸郡(あむぎ・あんへ)の服部伊賀守宗純が吉野朝に馳せ参じた、ですね。



AとBについては歴史が新しいから(汗)分かり易いけれど(謎)@については霧の中です。元々いた名家の服部の家を乗っ取ったのだろうと。


>「律令制と荘園制と身分制度」

これについては  早々と崩れに崩れて行った

崩れたからこそ  武士が台頭し  伊勢平氏が力を持ち  清和源氏のうちの河内源氏と死闘を繰り広げ  日本を支配していくことになった  あたりしか分かりません。



高野新笠のハナシが出たので小室圭さんのことをちょっと書いてみます:
これは運命なのかも。


以下コピペ:

高野新笠

父方の和(やまと)氏一族は、和家麻呂(新笠の甥、桓武天皇の従兄弟)以降、ほとんど知られていない。


母方の土師氏は、天穂日命を遠祖とした出雲国造の分流であり、垂仁天皇時代の野見宿禰を祖とする、古墳造営を担った豪族である。

桓武天皇の頃には、土師氏は四系統に分かれ、
真妹の家は”毛受腹(もずばら)”であった。    和泉国の百舌鳥(もず)の一族という意味。
和泉国百舌鳥古墳群のある百舌鳥地方(大阪府堺市)を本拠とする系統と考えられ、
真妹の一族は大枝朝臣(のち大江朝臣)、
その他は菅原朝臣や秋篠朝臣を賜姓された。


               秋篠朝臣ですって
               だったら
               父方は鎌倉時代からの豪族の小室氏、
               母方は朝鮮からの難民でも(高野新笠の先祖も難民だったかも)
               秋篠眞子宮家創出に御縁があったということで秋篠眞子宮小室圭殿下で良いのかも。


                   朝鮮の人が言うには
                   日本の天皇家は半島で食い詰めた「高」氏の子孫だそうで
                   確かに  高天原  なんて  「高」の字がついてるなと。

                        現在眞子さまと圭さんの結婚に当たって学者の皆さんが知恵を出し合ってる最中かも。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月13日 10時53分09秒 ) パスワード

驚いた!

愛知県一宮市大和町毛受=メンジョ。

・毛受の地名の読みは  メンジョ・メンジョウ・メンジュ。
・毛受が名字だと「もず」「めんじょう」「もうけ」「もうじゅ」「けうけ」「せんじゅ」。

これはもともと「もず」という名前から当てられた漢字だそうです。

つまり「百舌鳥」(もず)から来てる!?

https://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/314202.html



尾張の一宮  一の宮は真清田神社ですが   ⇚  諸説あるけど蜂須賀小六の奥さんの実家   蜂須賀氏と結婚の為に出自洗浄があったのかも、ですね。


一宮市は繊維産業が盛んで
愛知・一宮・繊維と言ったら御幸毛織さん。
日本一の毛織物会社ですね。


レス<17>を書いたら、こんなことが浮かびました。不思議。


一宮の近くに稲沢市があるのですがココには北麻績町という地名があるんですって。


ということは  尾張国の秦氏系服部さんはこの近辺に勢力を張ってた?


蛇足
もう1つ
不思議な読みは  弥富市の鯏浦。
服部家ホンヤさん関係の地名。

わたしはコレが読めない。   うぐいうら  と読みます。うぐいは魚です。

わたしはいつも  XXXうら  と読んでしまうのですが  バカ丸出し。
     アサリじゃなくて
     鰍、杜父魚、鮖 と読んでしまいますが  

「鯏」から私が連想しているのは「蛙」で  河鹿と混同している。  恥ずかしい。大馬鹿者です。いつも「かじか浦」と読んでしまう。
[20]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月14日 09時11分03秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん

ご無沙汰しております。

毛受に関して以前以下のように書いています。

「他に面白そうな地名では毛受(めんじょ、大和町毛受)、油田(あぶらでん)などがあります。毛受(めんじゅ)氏は、群書類従本「尾張諸家譜」に収録された毛受氏系図によれば、清和源氏頼光流とのことで、毛受の地名に由来しています。仁徳・履中・反正天皇の陵墓は「古事記」によれば、それぞれ毛受の耳原(もずのみみはら、大阪府堺市)、毛受、毛受野にあるとされています。毛受の地名には他にも面白い話がありました。

「真清探桃集」にそっくりな名前の「真清探當證」によれば、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着し、二人の皇子の護衛は、毛受や馬引、守基などに陣取ったそうです。」

一方Wikiによれば以下の通りです。
「物部氏の一族である百舌鳥(もず)氏から分かれ諸国に散った者のうち、尾張国中島郡に定住した者が「毛受(もず)」の表記に変え、さらに読みが「めんじょう」と転じたものであるとしている。『尾張国地名考』によれば、大和国の毛受(鵙)村に由来し、読みが「もず」から「めんじょう」に転じた時期を鎌倉時代以降であるとしており、江戸時代には「めんじょう」と読まれており、現在の「めんじょ」の発音に変化したのはそれ以降とみられる。「めんしょ」「めんじょう」とも称する。」

「真清探當證」の記述から判断すると、祖父である履中天皇の墳墓の地の地名を億計王と弘計王が持ち込んだとも考えられます。一宮市は古代史と関連する面白い地名が数多くあって、その幾つかを以下で書いていますので、ちょっと長いのですがご参照ください。


名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る - 水石の美を求めて suisekiteishu.blog41.fc2.com › blog-entry-1483 (google.co.jp)

[21]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月14日 10時27分52秒 ) パスワード

酔石亭主さん

興味深いお話をありがとうございます。

[名鉄島氏永駅周辺を巡る - 水石の美を求めて] を拝見しました。

  >妙興寺の所在地は一宮市大和町妙興寺2438で臨済宗妙心寺派のとても大きなお寺です。
          尾張北朝方の拠点です。


  >新陰流開祖の上泉信綱がここで修行して無刀取りを会得したとされます。

          三つ柏さんがお好きな剣豪です。


>天野信景

あまのさだかげさんは  「浪合記」を写したかたですね。

http://nanteo.s14.xrea.com/nami/nami000.html
以下コピペ

尾張藩主・徳川光友の次男である初代美濃高須藩主・松平義行(崇巌院)の所蔵していたのを、
尾張藩家臣の天野信景が寛永六(1629)年に書写したものである。


新葉和歌集の編者、あるいは李花集の作者として知られた宗良親王とその御子・尹良親王(ゆきよし・しんのう)、さらにその御子・良王君(よしゆき・ぎみ)のご生涯を綴り、

あわせてこれら親王方に供奉した武士たちの末路を記している。


尾張・三河・信濃の南朝伝承である。


信濃・浪合村には尹良親王をお祀りした神社や御墓があるが、本書の内容は伝承に近く、実否は不明である。

なお筆写した天野信景は尾張藩の国学者、天野遠幹の子孫といい、さまざまな知識を習得した偉人である。

その随筆集「塩尻」には南朝関連の事項も多く収められている。

以上コピペ



美濃国にあった尾張藩の飛び地の高須藩は服部家ホンヤさんと「引っ張り合い」の関係にあります。


尾張藩主徳川光友の次男=初代美濃高須藩主松平義行の幕末の子孫が
第10代藩主松平義建で、この人は男子に恵まれ

次男が尾張藩第14代藩主徳川慶勝、
三男が石見浜田藩主松平武成、
五男が高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗り:松平義比 → 徳川茂徳 → 徳川茂栄と変遷)
七男が会津藩主松平容保、
九男が桑名藩主松平定敬、
十男の義勇は高須藩第13代藩主。

もう1人男子がいたけど  その人は会津で戦死している。


一宮は尾張の格式の高い場所なので敷居が高くて  通過  ばかりでした。
北朝方の拠点だし
稲沢あたりの丹羽さんとか  織田方武将だし   敵地  という感じのエリアで
今になっては行くべきだったなと残念です。


三輪さんとか 
祖父江家とか

今も栄えている家というのは古代から頑張って来た家なんだろうな、と。
ムカシっからの関係が今に続いているんだろうかな?とか
しみじみでした。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月14日 11時41分44秒 ) パスワード

「麒麟がくる」
見終わったところ。

滝藤賢一はメンタル弱いとか病んでるとかの人物を演じるのがうまいな、と感心する。
あの子鹿のような目を潤ませると、コッチは同情せずにはいられないけど
オトコたる者、将軍たる者、
違うよ、と言いたくなる。


今回も神回でした。


坂本城
出来たばっかって設定なのに

坂本城って古材を使い回したって設定?

得意のCGで壁は真っ白の壁にするとかすれば良いのに
障子も薄汚れた感じだった。

     どこのお城を借りた?あ、セットか。


やっと明智光秀が主役っぽくなって来たけど
やっぱり数々のオオモノ登場人物に埋もれちゃうな、っと。

坂東玉三郎の天皇役  すっごくステキ。
正親町天皇は今上陛下みたいな誠実なお人柄だったみたい。
[23]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月14日 15時21分55秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん

最初の投稿がなぜか掲示板に反映されず、もう一度投稿してしまい見苦しくなりました。申し訳ありません。それになぜか自分のブログのリンクもうまく貼れない…。

>坂東玉三郎の天皇役  すっごくステキ。
全く同感で、本物の天皇みたいに演じていますね。さすが玉三郎さん。

ただ、「麒麟がくる」の明智光秀の人物像に関してはどうも違和感があります。例えば比叡山焼き討ちでは光秀は女子供を逃がすように言っていますが、光秀の書状には、仰木の者たちは是非なで斬りにする、などと書かれており、かなり冷酷で苛烈な性格のようにも思えます。一方で優しい面も見せていたようで、二面性のある人物なのかなとも思ってしまいます。坂本城に関してフロイスは、豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぐ、などと言っていますが、安土城は坂本城の後なので、なぜ当時の光秀がこんな城を建てられたのでしょうね。戦国時代に関しては小説かテレビで楽しむだけで、歴史として探索していないので、良く理解できない点が他にも数多くあります…。私にとっては戦国時代史より邪馬台国問題の方がずっと簡単。

ところで最近は中国ドラマの「瓔珞」にはまっています。清朝乾隆帝の時代、瓔珞と言う皇后付きの女官がいて、身に降りかかる難題や後宮に渦巻く陰謀を知恵と才覚で乗り越え、遂には皇后にまで昇り詰めていく話です。こちらではBS12で楽しんでいます。そちらで見られるかわかりませんが、結構お勧めですよ。日本での多少似たような小説で幕末期の琉球王朝を描いた「テンペスト」も、ややエロチックで情緒的な部分が多いところを削れば、面白く読めます。ただ、一人の主人公(女性)が宦官と後宮の女性の二役を務めるという設定が可能かどうか、ちょっと疑問ではありますが…。中国のSF小説ではオバマ元大統領も絶賛した「三体」を図書館で借りて先日読み終わりました。多少冗長な面もありますが、確かに面白いと思います。

などと、最近はどうも中国物関連に目が向いているようです。「魏志倭人伝」に絡めて「三国志」なども読んでみようかな…。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月15日 08時04分26秒 ) パスワード

酔石亭主さん

1.
天守閣  という表現限定でなく  
松永久秀の多聞山城の「高矢倉」が4重の天守閣だったかも知れないという説で
    これは永禄3年  1560年   あたりから作られたから
松永久秀が  いわゆる日本の天守閣というモノを始めた先駆者、かも。


2.
当時の日本人は南蛮人からヨーロッパの城について聞いてたかも。
当然  知的好奇心の強い日本人は  ヨーロッパの城に興味があったと思います。


琉球王朝を描いた「テンペスト」は2011年の仲間由紀恵主演で見ていました。
その前の1993年の大河「琉球の風」  主演は東山紀之  も見ましたが

やっぱり大河とか、日本の歴史物時代物とかでは沖縄のは違和感があります。
「琉球の風」の後に放送された『炎立つ』は物凄く面白かったです。


NHKの「うちなんちゅーで遊ぼ」という番組は見ていますが
沖縄は  日本であって日本じゃない  という印象があります。
どちらかというと  独立させてあげたい  です。

    ま、近い将来  中国が沖縄を取りに来るでしょうから  この時に沖縄の人がどうするか、どう判断するか
    決めることだと思っています。

    沖縄の人には名前が5つあって  中国の姓を持っている人も多く
    沖縄知事も  中国姓が蔡さん毛さん  の2人いたと聞いているので
             稲嶺と誰だったかな?仲井眞かな?そしてどっちがどっちか忘れました

    中国と日本の2つの間をどう生きるか  彼らの問題だと思っています。

    沖縄人にしたら  中国もイヤだし日本もイヤで  アメリカが良い  という人もいましたが
    わたくし個人は彼らの問題だと思っています。


今年は「楊一族」の物語を読みました。
中国の英雄譚は好きです。
義のある人。


中国ドラマの「瓔珞」
70話、ですか。
長っ!

「蒼穹の昴」は見ました。
田中裕子が中国語を話していてビックリしました。
すっごく上手だったので  吹き替えだったかも。

その後、原作を読みました。


中国や韓国のドラマは  やっぱり  何か  違和感があります。
表情  かな?


最近「松の実」を食べました。
2003年の「チャングムの誓い」で   子供のチャングムが「この甘さは松の実だ」というシーンがあって
先月とうとう松の実を買って食べました。
病みつきになる美味しさに驚きました。

      「かそけき旨さ」かな?
     高価なので2回目はありません。

     何故松の実は一般化しなかったのか?
     ま、砂糖が簡単に手に入るようになったからでしょうね。


「冬のソナタ」も見ました。

わたしはぺ・ヨンジュンより  パク・ヨンハの方が好みです。
わたしの友人が「ぺ・ヨンジュンって  角度が角度だと  猿顏になるよね」と言いました。
その後  猿顏シーンばっかり捜すようになりました。

「オール・イン」のイ・ビョンホンの写真集をニューヨークのテレビ局からもらいました。

でも、やっぱり日本のドラマの方が安心して見ていられます。

「春のワルツ」だったか「秋の童話」だったか「夏の香り」だったか
ヒロインが   1日着てた服のままで寝るシーンに  非常に違和感を抱き
以来  韓流ドラマは見なくなりました。

    どーでも良いシーンに執着して考え始めてストーリーが追えなくなるタイプなので。


機会があったら「瓔珞」   見ますね。
[26]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月15日 09時16分40秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん

一応〔19〕を削除しておきました。完全削除できたらいいですね。どうするのか私にはさっぱりですが…。いずれにしても、お手数をおかけしてすみません。

仲間由紀恵主演の「テンペスト」も見ています。小説の方が詳しいので面白いように思えます。最高位のシャーマンで国王と並ぶ力を持つ聞得大君が卑弥呼とそっくりに思えるのも、興味深かった。両者とも中国王朝の柵封体制下にあったことが類似性を生んだのかも、などと推測してしまいました。

幕末当時の琉球は日本(薩摩)と中国に両属していましたから、天秤棒のバランスをとるのが非常に難しく、その駆け引きにドラマが生まれる素地があります。今後の沖縄に関しては予測が難しいのですが、日米中の三属になったらもっと大変でしょうね。自立するには革新的な産業を興すしかなさそうです。
[27]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月15日 11時00分15秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 お元気で何よりです! 時々こちらを見ていただき、感謝申し上げます。
 このところ、酔石亭主様の"秦氏研究"を再確認していたところでありまし
て、以心伝心というか、いわゆる波動というもの、時空を超えて伝わるよう
な気がします!

 今の中国には拒否反応を覚えてしまい、これはもうどうしようもありませ
んが、文化大革命以来、大きく変わってしまった。もちろん、変わっていな
いものもあると信じてはいますが、龍の流れはまだまだ続いて世界を飲み込
んで行くのではないかと畏怖しています。
 私の所に、どういうわけか郭沫若の掛け軸「毛主席七律」があるのですが、
世の流れに浮いたり沈んだり、また浮いたりは政治の世界の常であります。
文化大革命を肯定せざるを得なかった状況もあり、そこは片目をつぶってい
ただき、できれば考古学者として、歴史学者として、また文学者としての地
位向上がされればと願うところであります。
 
 最近思うのは、「表の歴史」だけでは、本当の姿=真実は見えてこないと
いうことであります。
 秦氏については、表に出る歴史事項も少なく、裏の世界に隠れてしまって
いますが、よく考えたら、服部氏も古代には服部郷と服部連(神服部連)では
少し表に出ていましたが、その後消え、表(といっても裏)に現れるのは、戦
国時代あたりであります。

 何で裏に隠れてしまったのかという問題は、やはりいわゆる「大化の改新」
から始まる劇的な社会変革――律令制というものが一番の原因かなと考えてお
るところでありますが、唯今探求中であります――
[28]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月15日 20時00分17秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん 

三つ柏さんもお元気そうで何よりです。

私は元気というほどでもありませんが、新型コロナに怯えながら何とかやっています。けれども、以前に足助に行った後、急に38度以上の発熱があってビックリ仰天。女房殿から直ちに隔離される惨めな状態となり果てました。慌ててかかりつけの病院に駆け込んだところ、検査結果は前立腺の数値が高く前立腺癌か前立腺炎の可能性があるとのこと。専門の病院を紹介され、診察された結果は前立腺炎。原因は不明ですが、薬で熱も下がったのでほっと胸を撫で下ろした次第です。まあ、コロナにかかった場合の訓練にはなりましたけど…。

新型コロナは恐ろしいですが、視点を変えて見ると、野放図に地球全体にまで広がり、自然を改変・破壊し続ける人類こそが、地球にとって厄介極まりないウイルスなのではないでしょうか?地球は人類ウイルスに対抗するワクチン(刺客)として、新型コロナを送り込んだ訳です。たとえ人類がなんとか勝ったとしても、これは前哨戦に過ぎず、地球側は新たに想像もつかないような刺客を送り込んでくるかもしれません。決して楽観視はできないですね。

ブログは6月頃から休止していますが、「魏志倭人伝」を再度読み込んで色々な視点から検討しています。すると新たに見えてくる部分もあって実に奥が深く、これからも探索を続けたいとは思っています。またお二人のように古代から近世まで双方向で歴史を議論されておられるのは、多分他にはないはずで、今後とも楽しみにしています。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月16日 02時09分48秒 ) パスワード

三つ柏さん    酔石亭主さん


毛沢東は詩人なんて言われてますね。
彼の詩から、ま、とにかく  大きな志を持った人  というのは分かります。
    奥さんの江青女史にすれば (このドン百姓出が!)  と内心バカにしてたんでしょうけど。
    日本人のわたしには 中国人らしい  気宇壮大というか白髪三千丈というか  ♪「夢」はデッカイ方がいい〜♪  の人物だな、レベルです。

    わたしより年上の人達は日本人なのに「毛語録」なんか持ってましたね。


だけど自分の夢を実現させて何千万人もの人間を餓死させたり数千万人を処刑させたり
やっぱり日本人のわたしには  ついていけない  人物です。

文化大革命の時に子供だったという人が「あの時代は面白かった。毎日がお祭りだった」と評していました「コドモだったからね」と。

大学の坂の下の中華料理屋のご主人が林彪と一緒に働いてたと言ってましたね。わたしは林彪はモンゴルで墜落死した中国の政治家としか知らないのですけど。   


>「魏志倭人伝」

いろいろな人のさまざまな読み方には感心させられています。

アメリカの司法省にとって日本人の入れ墨は  NTL=上陸禁止=入国拒否=対象で
それで大喧嘩したことがあります。

相手が中国人だったから入れ墨は日本の古来からの伝統で  男子無大小皆黥面文身  と「魏志倭人伝」に書いてある  と主張してボコボコに叱られました。


其地、無牛馬虎豹羊鵲   この部分のカカサギ が  

長谷川京子主演の「海峡」というドラマで  
「かささぎになって会いに行く」という眞島秀和演じた木戸俊二(朴俊仁)の言葉が

(日本にはカカサギはいないんだよね。だから「烏鵲河を填めて橋を成し織女を渡らしむ」は成立しないんだよね)

とか連想している内にストーリーが分からなくなる。


「魏志倭人伝」は興味深いです。
人によっては興味の持ち所が異なって鮮烈に覚えてる部分が(そうだっけ?)となって
また読み返そうとします。


酔石亭主さん

前立腺問題は  ビタミンA不足なんてことで  人参ジュースを毎朝10本分飲んでるなんて人もいて笑っちゃいますが
前立腺癌はアメリカの男性には多いです。
中国人は「かぼちゃの種」を食べて予防する、って聞いてます。

発熱で済んでラッキーでした。
癌にしないようにPSA漏出値の検査は続けてください。
知り合いの精神科医が「この検査  イヤだ」と言ってましたっけ。

1960年代70年代頃の前立腺癌治療は拷問でしたよ。
舅が前立腺癌だったので家庭でする治療法を書いた紙を読んで卒倒しそうでした。
わたしにはとても協力できないと思いました。

その後  女性ホルモン投与という  男性には恥辱の治療法があって=相撲取りみたいにオッパイが巨大化する
今はもっと良い治療法があるでしょうね。  


わたしは  歴史は  へぇ〜、知らなかったぁ〜  と毎度驚いている段階です。


計其道里當在會稽東冶之東
日本は福建の東
ということで
日本語の漢字の音(おん)が福建の発音に似てると聞いたことがあって

福建=中国の貧乏省=中国人も怖がる底辺エリア
ということで 
福建で食い詰めた一族が神武一行なのかなあ
と思ったりします。

つまりワタシは自分の脳では考えられないので
酔石亭主さんのブログを拝見したりして 
まだまだ  情報収集中  です。 
[30]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月16日 18時56分57秒 ) パスワード


空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん  

前立腺に関する詳しいお話ありがとうございます。来年2月にもう一度検査することになっていますが、まあ問題ないとは思っています。

>計其道里當在會稽東冶之東
日本は福建の東

「魏志倭人伝」には会稽東「治」(かいけいとうち)と書かれており会稽東「冶」(「後漢書」)ではないと思います。会稽東治は会稽の東部地域を意味し、浙江省紹興市の会稽山付近が相当しそうです。理由は、「計其道里當在會稽東冶之東」の前に、夏の少康が会稽に封ぜられとあり、会稽山は夏の始祖・禹が死去した地であるとされ、禹を祭った禹王廟もあるからです。夏の少康が先に出ているのは、その文面を会稽東治に接続させるためのものと判断されます。

一方で、(倭国に)有るもの無いものは儋耳(たんじ。場所は不明)や朱崖(しゅがい。海南島)と同じだとの記事もあり、この場合は会稽東冶の東と見た方が適切で、要するに記事内容に相互矛盾があることになります。どちらが正しいのかについては、当時の方位はかなり幅があり、倭国の入れ墨とか温暖だとか裸足で歩いていると言った気候や風習からして、どちらであっても記事内容は奄美大島辺りから沖縄本島の琉球諸島を描いたものと考えて間違いないさそうです。

では倭国(位置関係から邪馬台国沖縄説もある)は琉球諸島にあったのかと言うと、これも完全に見当違いです。琉球諸島と思しき記事が「魏志倭人伝」に混入してしまったのは、多分当時の魏、呉、呉と通じる公孫氏、公孫氏滅亡(238年)以前は公孫氏に従属していた(「魏志韓伝」による)倭国の複雑な関係によるものと思われます。魏と呉の争いにおいて呉が魏を牽制するには、公孫氏から聞いている倭国が自分たちにとって都合のいい、実際より南に位置しているはずと思い込んだのではないでしょうか?その結果、交易商人や船乗りから聞いた琉球の情報を倭国と取り違えてしまったのでしょうね。そしてそれらの情報が公孫氏に伝わり文書で帯方郡に残され、「魏志倭人伝」に取り入れられてしまったというのが、琉球情報混入の推定経路になります。掲示板では事細かに書けませんが、倭の使節の訪問が景初2年6月か景初3年6月と言った問題も同様に複雑に絡んだ国際関係から読み解く必要がありそうで厄介です。

一方未だにけりのついていない邪馬台国問題(九州説と畿内説)に関しては純粋な国内問題であり、かえって簡単な気もします。ただ、女王国、倭国、邪馬台国の位置や構成をきちんと分別しないと訳が分からなくなります。(注:分別せずに女王国=邪馬台国、倭国=邪馬台国として検討している研究者が多い)

その中で、特に女王国に関しては四つの異なる規模・位置の情報が「魏志倭人伝」にあり、それをどう整理するかが難しい点となります。また「魏志倭人伝」にある旅程は不弥国までは起点と到着点が書かれ連続性があって繋がりますが、次の投馬国、邪馬台国は繋がっていない(不弥国の南なら水行ではなく陸行になるし、不弥国の南でないなら起点は不明となる)ので、これをどう再構成するかという問題もあります。

「魏志倭人伝」には信頼度や時代が異なる情報がきちんと整理されないまま書かれており、その結果、相互矛盾する内容が多く、それらをどう整理分析するかで答えも異なってきてしまいます。ですから、読むというより一度解体して再構築し直すのが肝要でしょうね。なお「魏志倭人伝」に関する私のブログ記事は上記した部分の分析などがまだ不完全・不十分なので、その点お含みください。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月17日 01時43分18秒 ) パスワード

酔石亭主さん

「魏志倭人伝」の解釈や邪馬台国論争は    尽きず、楽しい、  ですね。

        わたしは  へぇ〜  ほぉ〜  と  感心するばかりです。


「魏志倭人伝」は「聞いたハナシ」を「文書化した」、というわけで

ハナした人間がどういうハナシをしたか、聞いた人がどう聞いたか、そして中国国内の政治問題もあって、文書化した人+後に書き写した  の意図も入っただろうし


だけど日宋貿易はトカラ列島沿いに中国に行った
と聞くので
元々
トカラ列島沿いの航路があったのか?


      トカラの平家の末裔の中島さんは「なかしま」と発音して
          尾張では「なかしま」と発音するけど、
          フツウの日本人は「なかじま」と濁音化してアクセントも異なる

              祖父江さんも名古屋じゃ  そぶえ  と濁音だけど             先日見てたドラマでは  そふえ  と清音だったので  驚きました


こんな感じで  わたしは情報収集レベルです。


太平洋の島々では入れ墨が分化で  男女ともに  入れ墨をしてて 
    (最近はタトゥがファッションですから  殆どの人が入れ墨をしてます)
しかし日本のような芸術レベルではなくて  お絵かきとか落書きとかのレベル。

    先日すれ違ったオトコの入れ墨の左腕の心臓に近い所には「田中」と書かれてたので
        なんだ、GF(彼女)の名前か?
        と言ってやりましたよ。 

入れ墨を考えると 黥面文身  は
古代の日本人は
太平洋の人々に近いのかな  と思ったりします。


        ハワイ人の先祖はフィリピンあたりから来た  と言われているので
        邪馬台国が非常に広範囲で考えられる
        というのには  ある意味  納得しています。


ムカシの日本人って  真冬でも  裸足だったんでしょうかねぇ?

現代画家の描いた  常盤御前が義経を懐に、幼い男子を連れて雪の中を実家に帰るシーン
   これは  彼女は素足だった記憶(草鞋を履いてたかどうかは記憶に無し)
そして  「麒麟がくる」でも  女性は裸足で

顏や手は  冬でもそのまま剥き出し
だから
足も  そのまま  だったんでしょうかねぇ?


女性の8割は冷え性だから   冬に足が剥き出しで床を歩くなんて  ヨケイに冷えると思うのですけど  大河をも見てると  どうだったんだろう?と。

      こーゆーところに関心が行ってストーリーが分からなくなる

3世紀ごろの日本人って冬でも裸足でウロチョロしてたのかなぁ
などと考えてしまいます。

逆にシベリアの人や奥州の人は真冬にはボロを足に巻いてたんだろうな
と思います。

それでフツーの日本人は真冬でも裸足だったんだろうなと納得したりします。


こんな感じでいろいろな人の説を知るのが好きです。


あ、中国人の(彼らの日本語は美しい標準語です)友人のハナシはなかなか面白いです。
半島のヒトのハナシは  ウリジナルか?  とハナシ半分に聞き流しています。


冬の寒さの厳しさについて
ロシア人が真冬の戸外でアイスクリームを歩きながら食べてるニュースにはビックリしましたが

     アメリカ人が真冬に暖房の効き過ぎた家の中で半袖でアイスクリームを食べる画とは違う

「マイナス十何度とかの世界じゃ  アイスクリームは温かい食べ物だぜ」  と言う人がいて
確かに  ロシアからの  マイナス20℃あたりの世界で泳いでいる人の画像が日本でニュースになりますから  

自分の持ってる先入観がガラガラと崩れるのが楽しいです。
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月17日 11時30分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 健康の話ですが、昨日胃の内視鏡検査を行い、結果は無事通過いたしました。
 大腸のポリープの生検の結果も、無事通過でした。
 PSAも、無事通過でした。
 最近、血液検査で癌が調べられるということですので、そのうち一度トライ
してみようかなとも思っています。
 いずれにしても、今はワクチンを接種するまで新型コロナには絶対かからな
いことが一番大事と、自分に言い聞かせております。

 今年に入ってからのウォーキング合計距離数は、1500qをオーバーしま
した。芭蕉の『奥の細道』の約2400q(約150日)には、とうてい及びま
せんが……。昔の人は、歩くのは常識、健脚であるのも常識であった。
 膝の軟骨がすり減るまで歩き続ける……「人生とは、歩き続けること」が、
どうやら私の人生訓になりそうです―― 
 
[33]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月17日 11時43分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 最近、猫にはまっています。いろいろ調べてみますと、猫と犬は共通の祖先
から派生しているということがわかりました。イタチやマングースのような形
態の「ニアキス」という、6500万年前に樹上生活をしていた動物だそうです。
「猫と犬は共通の祖先」ということは、この歳になるまで全く知らなかった。
疑ってみようともしなかった。今更びっくりしても遅いのですが、どうやらし
ばらくはメンタル的に落ち着きそうにありません! 
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月17日 12時42分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

『三国志』は、三世紀末に書かれていますが、こちら(日本列島)ではいわゆ
る「崇神天皇」(そのころは天皇とは言わないし、言葉も大和言葉であったろ
う)の頃であっただろうと思われます。
 日本の歴史は、記紀からの時間軸の逆の流れと、中国の史書からの時間軸
通りの流れとのマッチングで組み立てられていますが、朝廷といった大規模
(中規模?)な統一政権になったのは、応神天皇あたりなのでしょうか?

 秦氏の登場も、応神天皇の390年、弓月の君が秦氏の集団を引き連れて来た
ことに始まる。秦氏を各地に分散、諸豪族に預ける。
 允恭天皇の時、全国のハトリの民を統括する者を「服部連」とした。
 雄略天皇の時、秦酒公、各地の秦人を賜り、各国に再分配。
 
 そして、奈良時代には至る所で養蚕・製織がピークを迎える。

 魏・蜀・呉の内、呉からの流れが我が国に大きな要素をもたらしているよ
うに思われます。それは、大陸から直の場合と、朝鮮半島経由の二つがある
と思われます。
 養蚕と服飾、つまり蚕を飼って絹糸を作るまでの工程、糸から絹布を織る
工程、さらに模様を入れた綾布を織る技術、裁断して衣服にする技術、ある
いは染色の技術……ハトリの民は、そういった各種の職種、種族が入り交じ
っていると推察いたします。
「服部連」という姓は、摂津の初代の服部連から始まり、その一族の長への
世襲制であったと推察しますが、二世三世等の各地への分散もあり得たかも
知れません。政権も変遷しますので、制度・仕組みも変わっていくのは必然
であります。

 ここで一休み――

[35]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月17日 18時47分34秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん

>「魏志倭人伝」は「聞いたハナシ」を「文書化した」、というわけで

ハナシにも色々レベルの違いがあって…、
帯方郡の使節が直接見聞したハナシ。
帯方郡の役人や魏の役人が倭国の使節から聞いたハナシ。
交易商人や船乗りのハナシ。
陳寿が「三国志」を編纂したのは283年頃から287年頃と推測されるので、卑弥呼の230年から240年代以降にも雑多な情報が入り、それらが文書化されたハナシ。
等々信頼度や時代の異なる情報が混在していることが混乱の元となっています。

>だけど日宋貿易はトカラ列島沿いに中国に行った
と聞くので元々トカラ列島沿いの航路があったのか?

オーストロネシア語族は6000年前に中国揚子江流域にいた人々が台湾に渡り、4000年から3500年前頃に太平洋に乗り出して、ほぼ全域にまで広がったものです。隼人なんかもその末裔の可能性があり、また日本にマレー系と思われる言葉が見られることから、「魏志倭人伝」の時代よりずっと前に、人々は広い海を行き来していたことになります。またトカラ列島の近くには台湾の東から北上する黒潮が流れているので、航路が存在していた可能性を否定できません。なお宮古島の入れ墨は南洋諸島のものと強く類似しているそうです。

それと卑弥呼は二人いますね。それに気が付いてネット検索したところ、関裕二氏が邪馬台国は二国存在しているから二人いるとの説。もう一つは内容が不明ですが、竹内文書に関連しているようなので、まあ無視してかまわないと思います。私の説は倭国大乱の終わりが「後漢書」、「梁書」の重なる年代である184年と見て、この年前後に卑弥呼は共立され、その時点での年齢が年既に長大と書かれています。長大の意味に関して成人、高齢のどちらになるのか議論があるのですが、「三国志」の呉志に「曹丕(そう ひ)、業を継ぐに及ぶや、年既に長大」とあり、曹丕が曹操の後を継いだ年齢が34歳となります。従って、年既に長大は35歳前後に相当し、184年時点で卑弥呼が35歳前後だと、死去年の247年か248年では100歳に近くになり全く有り得ない話となります。誰もこの点を指摘しないのが不思議…。

先代卑弥呼の死去を倭国は隠していたので、中国側が倭人の寿命に関して誤解し、その年齢に関して或いは百歳、或いは八十九十歳などと書かれたのでしょう。当代卑弥呼の墓は平原王墓(1号墓)の可能性が高く、それと寄り添うように2号墓があり、これが先代卑弥呼の墓とすれば辻褄はあります。さらに先代卑弥呼の墓からの副葬品が乏しいのは、倭国が公孫氏に従属していた時代に重なるからだと思われます。私の卑弥呼二人説に一定程度の根拠があると思えませんか?

[36]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月17日 19時03分22秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青梅のあをさん   

>朝廷といった大規模(中規模?)な統一政権になったのは、応神天皇あたりなのでしょうか?

結構難しいご質問ですね。うんと大雑把に言えば、朝廷の定義にもよりますが、天皇を頂点としてそれを支える中央の官僚組織、地方の行政組織、それらの組織を動かすための基盤となる法令などが整備されたものが朝廷だとすれば、天武天皇辺りからになるのではと思います。応神天皇は大王として突出した権力をもって日本の比較的大きな地域を支配した人物なので、王権と考えればいいのではないでしょうか。

>魏・蜀・呉の内、呉からの流れが我が国に大きな要素をもたらしているように思われます。

中国の多くの史書には倭国に関し、その旧語を聞くに、みずから太伯(呉の祖)の後という。との記事があります。
「新撰姓氏録」を見ると、以下のような呉を出自とする人々がいます。
左京、諸蕃、漢、牟佐村主、 村主、出自呉孫権男高也,
左京、諸蕃、漢、和薬使主出自呉国主照淵孫智聡也
右京、諸蕃、漢、松野連(まつののむらじ)呉王夫差後也
右京、諸蕃、漢、出自燕国王公孫淵也 (呉(222年 - 280年)は公孫氏と通じていた)

「魏志韓伝」によると、倭国は楽浪郡・帯方郡を支配した公孫氏(189年-238年)に従属していたので、呉は公孫氏から倭国に関する情報も得ていた可能性はあります。呉の孫権は、黄龍2年(230年)春、衛温と諸葛直に武装兵1万を率いさせ、東の夷洲・亶洲へ向かわせています。夷洲は台湾で亶洲は種子島とも本州ともされています。遠征軍は夷洲から現地民数千人を連れ帰りましたが、亶洲へは遠すぎたため到達できなかったとのことです。呉から直接倭国に行くのに失敗したので、彼らは公孫氏を通して倭国との関係樹立を狙っていたのかもしれません。

山梨県と兵庫県の古墳から呉の年号鏡が出土しており、山梨が赤烏元年(238年)、兵庫が赤烏7年(244年)となっています。これらは呉が公孫氏に下賜したもので、238年の公孫氏滅亡後、帯方郡にそのまま残され倭国に伝わった品の可能性があります。(注:魏の年号鏡は確か11面出ており、魏の方が多くなっています)一方注意すべき点もあります。

「伊水温故」小宮ノ社 服部村の項には、酒ノ君の霊地也。延喜式伊賀二十五座唯一 正二位。二の宮と号す。服部氏の祖神也。応神天皇御宇に呉国と漢国より絹を繍、綾延又糸綿を摘ひく賢女を渡。呉国より渡を呉服(クレハ)と云い、漢国より来を漢服(アヤハ)と云。
とか、
伊居太神社の由緒によれば、応神天皇の37年、勅命により阿知使主、都加使主が呉国に縫工女を求めて出発。高麗王の助力により久礼波、久礼志の道案内で呉国に到着し、呉王より工女兄媛、弟媛、呉織、漢織の四人を賜った、などとあります。

呉の年代は222年から280年で、応神天皇の「日本書紀」による在位が270年から312年となっているので、天皇の生存中に呉国も存続しているように見えます。けれども、天皇の実年代は300年代の終わり頃から400年代の初めと推定されるので、実際には呉とは何の関係もないことになります。

[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月17日 22時10分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 「呉」には三つの呉があることをうっかり忘れていました。
 @呉越同舟の呉。春秋時代(BC772〜BC479)
 A呉越七国の乱の呉。前漢時代(BC206〜AD8)
B魏・蜀・呉の呉。三国時代(AD225〜264)

 日本の歴史と関係する呉というもの、改めて考察してみたいと思います――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月19日 07時15分10秒 ) パスワード

酔石亭主さん 三つ柏さん

酔石亭主さん、丁寧な説明と紹介をありがとうございました。

視点を変えた情報というのは好きです。
最近も  例えば  「虹」について  
日本は7色  アメリカは6色  と言います。日本の「藍色」がアメリカの虹には無いのだそうです。
国によっては  8色の所もあり(黄緑があるらしい)2色しか見えない所もある。

虹、初文见于商代甲骨文。
有红、橙、黄、绿、蓝、靛、紫七种颜色。
There are seven colors of red, orange, yellow, green, blue, indigo and purple.

中国も商の時代のムカシっから7色。笑

ハワイでは6色と言われるのに、その違いに、全く気付いていませんでした。
でも「虹の州」と言われるハワイの車のナンバープレートの虹の絵が(何か、変!)というのは気付いてました。
でもワタシは  (下っ手くそなイラストだな)  と  こーゆーレベルでバカにしていました。恥

頑固者なので自分の先入観に縛られ忠告や教示を長年全く受け入れられなかったのですが
三つ柏さんとのレスのやり取りで(あれ?)と立ち止まるようになりました(本当?)。



日本への渡海の実験は去年やっと台湾から与那国島に2日で成功したんでしたっけ?
<黒潮に阻まれて>島が目視出来ないとか流されてとかで  去年 <運良く> やっと成功した  ような?

         <運良く>成功しただけ、って印象でした。
         晴れてたら沖に台湾↔与那国島は見えるけど、丸木舟で渡海しようとすると至難で何度も失敗した、とか。


ハワイでも古代航路を潮と風で、タヒチに行く、とかやってますよ。ポリネシア人の故郷のマーケサス諸島とかに。


<たまたま運良く渡海出来た>ってことだったのかな?
ものすごく大勢の人が海の藻屑となって消えたのかな?
失敗に失敗を重ねて努力して技術を身に着けたのかな?
とか考えます。

人類ってスゴイ!
[39]酔石亭主さんからのコメント(2020年12月19日 19時35分03秒 ) パスワード

空の青梅のあをさん 三つ柏服部さん 

>日本への渡海の実験は去年やっと台湾から与那国島に2日で成功したんでしたっけ?

中国と韓国も1997年に竹で編んだ10mx5mの筏に布製の帆をかけ、浙江省の舟山島から出航し、20日以上かけて仁川港にまで到達したハナシ。このプロジェクトにより、古代の筏で中国南部から朝鮮半島まで航海できることが証明されたわけです。だとすれば、日本までの航海の可能性もありそうです。
既に書いたように、オーストロネシア語族は6000年前に中国揚子江(最近は長江の表記ですね)流域にいた人々が台湾に渡り、4000年から3500年前頃に太平洋に乗り出して、ほぼ全域にまで広がりました。
稲作に関して、中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとの説があります。
他の説として、長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとのこと。これはBC154年の呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性が指摘されているそうです。
朝鮮半島南部や北九州には背の低いタイプの支石墓(ドルメン)が見られますが、同様のタイプの支石墓が浙江省の海岸一帯で発見されたそうです。
「魏志倭人伝」には会稽東治とあり、これは会稽の東部地域を意味し、浙江省紹興市の会稽山付近と推定されます。

上記はどれも確たるものではありませんが、呉と言うか中国大陸南部と日本との直接的な関係が朧気ながら見えてきそうな気がします。そして舟山島、長江下流域、会稽山はいずれも近い場所にあり、稲作に関する二つ目の説は三つ柏さんが書かれたA呉越七国の乱の呉。前漢時代(BC206〜AD8)。の時代に相当します。探せば他にも中国大陸南部と日本を結ぶものが見つかるかもしれませんね。
[40]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月20日 21時28分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 応神天皇の時代に、阿知使主を呉(くれ)に派遣し、兄媛(えひめ)、弟媛(おと
ひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を、日本に連れ帰っ
たと『日本書紀』巻第十に書かれています。これは『日本書紀』の天皇の在位
年代が、恣意的にほぼ呉の年代の近く(正確には滅亡直後)に合わせられたとい
うことになります。

 『日本書紀』では、応神天皇は百十歳で亡くなっておりますが、いずれにし
ても、神武天皇ほか、各天皇よりの生存年代がおかしいと、わかる人にはわか
っていたはずであります。しかしながら、現代においても未だ正式に訂正され
ないのは、これは天皇家・日本の歴史のタブーということだと認識しておりま
す。
 吉川弘文館の発行する『歴史手帳』を見ても、初代神武より三十二代崇神ま
での生没・在位年は白紙となっております。ただし、年表にはクエスチョンマ
ーク付きで、倭の五王と応神〜雄略の対比を示唆してはいます。ま、皆さんで
推測・探求して下さいということと理解して、文句を言うことは諦めます――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月21日 11時39分17秒 ) パスワード

信長と蘭奢待
見ました。

今回も神回だった。


信長
やっぱり日本人を超えてる。
天才。


日本人はブランドが好きだけど信長はブランドなんかド~でもいいんだな。
足利義昭には足利家の御威光が形骸化してることが分からない。
この対比が面白かった。


ま、日本人以上にブランド大好き民族がいるけどね
アタマの天辺から足許までブランド尽くしで  それが  バラバラのブランドで固めてるのが  嗤える。
でもハワイ経済には大事なお客さまなんで、せいぜいブランドを有り難がって欲しいものです。



     信長が後に自分の子供達かわいさに、というのは
     信長もただの親バカってことなのかな?

番組後半の  信長vs正親町天皇は  凄かった。
正親町天皇にとって蘭奢待なんか  別にぃ~  だもんね
欲しいと言うなら毛利にでもやったれ。

     このシーン  後の   毛利vs信長の戦い  の伏線として演出したのかな?


とにかく「麒麟がくる」は脚本がいい!俳優がいい!
だけどCGには笑う。紅葉  赤過ぎませんでした?  桜  どピンク過ぎませんでした?
未だに「麒麟がくる」の色彩感覚の意味が分からない。


蘭奢待
千利休没後400年記念で  某大藩のお姫さまが5mm角の香を拝領して来た時に  「蘭奢待」  と聞いたような。

なんせ 容子さまが関わるわけだから  本当に蘭奢待なのかも  と一応納得しておいたけど。


上皇さまから千利休没後400年ということでお下賜があったのかなぁ?
今でも腑に落ちてない。


(先代さんの)千宗室は非常に寛大な方で
テキサスの人が茶室に  いかにもカウボーイの世界  を演出した時
純粋に喜んでた。

     わたしは  ギョッとしたけど。ワタシには  茶の心   が分かってないって反省した。恥
[42]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月21日 11時53分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 丸に三つ柏紋の青木氏を調べていると、甲賀郡正?寺村(甲西町)の青木家に
行き着き、そこ(石部三郷)に本拠を置く寺侍層として、青木氏のほか、服部・
内貴の両氏がいることがわかりました。これは、石部町の町史によるもので
あります。それによると――

「この服部家は、@平家の流れをくみ、伊賀国服部村に居住した知忠を祖とし、
盛朶の代より甲賀郡に根付くようになった系統と、A近江佐々木氏の流れをく
み、佐々木巌秀を祖とし、政詮の代より石部郷に居住したとされる系統がある。
甲賀五十三家の中に記される服部藤太夫は、@の系統に属する。内貴家は、内
記とも書き、長享の乱に軍功をあげたとされる。」

ということでありまして、今までずっとわからなかった服部藤太夫についての
情報が得られたということで、一歩も二歩も前進しました。服部城や服部中家
との関係、また家紋についても甲賀の服部氏で丸に三つ柏紋の家系があるので、
その辺も探求して行きたいと思っています――
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月21日 13時35分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい発見ですね。


平知忠さまには兵庫県作用郡大畑の藤原家の娘との間に男子がいます。
その子孫?
だから藤太夫?

         確か服部小平太?が足利家に仕えてた時に服部藤太夫という人物がいた記憶

                 この流れなのかな?
                 

作用郡は赤穂の北ですから
この辺りは当然平家一門であった瀬尾一族=妹尾太郎兼康との繋がりもあるわけで
平家にとっては   (ま、瀬尾氏はいろいろありましたが  丁度  宗清みたいに厄介な立場が) 隠れ易い場所だったと思います。

                 なんか色々リンクしますね

                 とはいえ方向音痴の上に旧国境がよく分からず
                 神戸も大阪も  「摂津国」  になるのかな?


わたしは平知盛さまの大ファンで
お子さまの知忠さまが1183年の平家の都落ちの時に3歳だったから
伊賀の橘為教=紀伊次郎兵衛為教(為範)に預けられ
       場所が伊賀の北だったから  北姓も名乗っています。


                  ここから明智光秀の後妻の実家「北村姓=喜多村姓」が出たのかな?
                  それとも単純に近江国の北村から出たのかな?


知忠さまが反逆した時、家来を3人連れていたというのは
橘為教=紀伊次郎兵衛為教(為範)とその息子達=兵衛太郎、次郎=だそうです。


わたしの母の従姉妹の夫の家が甲賀で家紋が丸に並び矢紋というのは何度も平熱で書いて来ましたが
やっぱり  そーゆー関係  なんでしょうか?

三つ柏さんの御先祖は甲賀の服部氏?

興味深くなって来ましたね。


             三つ柏さんは服部中家と絡むのかな?
             中家は宗清の子孫であり宗純の子孫でもあると称してますね。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月21日 13時50分50秒 ) パスワード

http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/19_kido.pdf
お読みください。


楽に読めるウイキをコピペ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E8%B3%80%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%AE%B6

甲賀五十三家
「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。


甲賀五十三家のうち、
三雲、和田、隠岐、池田、青木、山中の諸家は大身で、       三雲なんて「ルパンの娘」のご先祖さま?笑
六角氏の観音寺城の在番を務めた。

各家名の後に同族集団の家名を付したものは甲賀二十一家を示すが、異なる家名を入れる場合もある。


望月家 - 筆頭格。信濃国佐久郡望月の豪族、望月氏一族の一部が甲賀に移り住んだことから始まったともされる。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。

山中家(柏木三家) - 著名人物として山中俊房・山中長俊・山中俊好・山中十太夫・山中俊定・山中俊正がいる。代々に渡って鈴鹿山警固役を務めた。

伴家(柏木三家) - 大伴氏の末裔と言われている。鎌倉御家人の家柄で分家筋として大原家、上野家、喜多家がある。本拠地は伴中山城[1]。一族の著名人物として 伴長信・伴五兵衛がいる。

美濃部家(柏木三家) - 菅原家の末裔と言われている。子孫を名乗る人物に 美濃部達吉・美濃部亮吉・美濃部洋次・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃・美濃部貞功・美濃部正・美濃部直彦・美濃部ゆう・美濃部達宏がいる。

黒川家(北山九家) - 一族の著名人物として黒川与四郎がいる。黒川流。

頓宮家(北山九家)

大野家(北山九家)

岩室家(北山九家)

芥川家(北山九家) - 一族の著名人物として芥川七郎兵衛・芥川清右衛門・芥川九郎左衛門がいる。

隠岐家(北山九家)

佐治家(北山九家) - 一族の著名人物として佐治三郎がいる。

神保家(北山九家)

大河原家(北山九家)

大原家(南山六家) - 一族の著名人物として篠山景春がいる。

和田家(南山六家) - 一族の著名人物として和田惟政がいる。


上野家(南山六家)
高峰家(南山六家)

池田家(南山六家)

多喜(滝)家(南山六家) - 瀧家の一族であるとする説に中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守などがいる。

鵜飼家(荘内三家)

内貴家(荘内三家)

服部家(荘内三家)

小泉家

倉治家

夏見家 - 一族の著名人物として夏見角助がいる。

杉谷家 - 一族の著名人物として杉谷善住坊がいる。

針家

小川家

大久保家

上田家

野田家

岩根家 - 一族の著名人物として岩根勘兵衛・岩根甚左衛門がいる。

新城家

青木家

宮島家

杉山家

葛城家

三雲家 - 一族の著名人物として三雲成持・三雲成長がいる。  「ルパンの娘」も忘れないで!

牧村家

八田家

高野家

上山家

高山家 - 高山飛騨守と高山右近はこの高山家の出身とする説がある。

守田家

嶬峨家

鳥居家

平子家

多羅尾家 - 多羅尾光俊(光弘)などを輩出。

土山家

山上家

相場家 - 一族の著名人物として相場河内守(相場氏)がいる。

長野家

中山家
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月21日 15時35分47秒 ) パスワード

作用郡は  播磨国と美作国の両方でした。

               恩師の家のある神戸市垂水区は播磨国でした。

                  ホント!旧国名ってワケ分からない!怒


播磨国の守護は平行盛さま。
この人には思い入れがある。
涙が出て来る。


播磨国の守護
平忠盛:久安2年(1146年)任官
平清盛:保元元年(1156年)任官
源義朝:平治2年(1160年)任官
藤原邦綱:応保2年(1162年)任官   ← 平家とズブズブの密接な関係
平行盛:治承3年(1179年)任官


美作国も平家方。
守護
平忠盛:保延元年(1135年)任官
平宗盛:長寛元年(1163年)任官


こうやって色々調べて  ワケ分からなくなって  右往左往するのも楽しい。
[46]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月21日 19時07分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 知忠について教えていただき、ありがとうございます。
 甲賀の服部城跡に行ったかいがありました。今までほとんど詳しいことが
わからなかったので、今、胸のつかえがスッと取れた感じであります。

 服部中保次は甲賀の和田惟政に仕えていたようですので、足利義昭、朝倉
義景、明智光秀、織田信長、そして徳川家康等との人間関係の綾の中で微妙
なバランス感覚で立ち回っていたのだと推察いたします。甲賀衆、伊賀衆、
津島衆、さらには今川方、武田方……裏の情報ネットワークの世界が見えて
きそうです――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月22日 02時40分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

拝見して涙が出て来ます。


知忠さまの父上は平知盛さま。
   知盛さまの乳母の家が伊賀の服部家。
   だから壇の浦で平家が滅亡する時に乳母子の<伊賀の家長>と手に手を取って入水した
   と平家物語に書かれるのは  <乳母子関係  乳兄弟なら一心同体>  だから有り得る。

       ただし  <ホンモノの>家長は当時すごいジイサン。
       清盛の父上の忠盛が参内する時のボディガードに当時16歳の家長がついて行ってるから。わたし的には元祖伊賀の家長は清盛と同世代あたりと思う。

       だから一緒に入水したとされる伊賀の家長は2代目あたりだったかも。

          
            元祖家長が壇の浦に行ってたかどうかは謎です。
            恐らく伊賀の荒木村あたりにいて平家滅亡を知り頼朝の世になって宗清が伊賀の主人になって
            荒木村から千賀地に行って蟄居してたんじゃないかなと想像しています。


幼い知忠は伊賀の北で橘氏に育てられ
これで  後世の楠正成 ← 橘姓とも言われてる?  と関係するのかも  ですね。

だから三つ柏さんが  「悪党」「悪党」って気になるかも。


     わたしにとって楠正成は「河内のおっちゃん」だけどね。

          「おちょやん」のお千代みたいな  あーゆー  豪快な言葉を話してたのかな  という思いで見ています。


               和歌山出身の坂本冬美の関西弁も  わたしの先祖はコーユー言葉を話してたのかなと  懐かしく有り難く聞いています。


わたくし的には服部藤太夫なる人物の姿がちょっと見えて来た気がして嬉しく思っています。


また越前の代官だった服部氏と明智光秀の関係も   なるほどな  と改めて思いました。
越前はもともと平家がらみの地であり南朝方の地でもありますからね。


越前国の守護
平資盛 1171年(嘉応3年)
藤原隆信 1200年頃   ← 絵がうまくてあの時代の肖像画を画いている。藤原俊成が継父なのでお歌の藤原定家の異父兄になる。

                 わたし達が歴史の教科書で見て来た神護寺所蔵の国宝・源頼朝像・平重盛像・藤原光能像等の『神護寺三像』は
                 『神護寺略記』に隆信の作と伝えられが、
                  近年この説はほぼ否定されている。
 

こうして見ていると   日本って  わたくし達が今に至るのに  源平時代があり南北朝時代があり  戦国時代があって  最近なんだね  と思います。



知忠さまには弟がいて  知宗  です。
対馬の宗氏の先祖とされ、戦国時代から江戸時代へと結構うまく立ち回って存続しました。
特に秀吉の朝鮮出兵時のゴタゴタを政治的知恵で乗り切った(笑)


     わたしの母方先祖が対馬守を名乗ってたから  オヤオヤ  と印象に残った。


ウイキをコピペします:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%AE%97


平 知宗
平安時代後期から鎌倉時代中期にかけての平家の落人。
平家一門の平知盛の四男。

惟宗 知宗(これむね ともむね)や宗 知宗(そう ともむね)、武藤 知宗(むとう ともむね)とも名乗っている。


略歴
寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。
元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。

その後、武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。

建長7年7月5日(1255年8月8日)、大宰府北殿で死去。
享年72。
死去した日については異説あり、建長7年7月3日(1255年8月6日)とする説もある。


対馬の宗氏は知宗の子孫と称した。


時代 平安時代後期 - 鎌倉時代中期
生誕 寿永3年(1184年)
死没 建長7年7月5日(1255年8月8日)
改名 鬼王丸(幼名)→知宗
別名 惟宗知宗、宗知宗、武藤知宗
別名:貞重、盛重
通称:武藤武者、武藤右馬助、惟宗判官
官位 太宰大監
氏族 桓武平氏維衡流(伊勢平氏)
父母 父:平知盛
兄弟 知章、増盛、知忠、知宗、中納言局
子 宗重尚?、宗助国?


なんか泣けて来る。
[48]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月22日 12時38分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史の探究において、伊賀についてはかなり深掘りしましたが、甲賀につい
ては入り口付近で止まっておりました。伊賀・甲賀といっても、地続きであり
ますので、隣村の感覚だったと思います。もっとも、昔は郡単位でありますの
で、もう少し細かく見る必要はあるとは思います。地理的には、北伊賀は甲賀
南部と一体のような感じがいたします。伊賀の服部家が甲賀にやってきたのか
その逆も言えるのかも知れません。伊賀に服部郷があり、野洲にも服部郷があ
り、甲賀はその中間であります。地理・道路を一度考察してみたいと思います。
 
 さて、甲賀の服部家は、「鈎の陣」(1487)で特に活躍した二十一家(五十三
家の内)に含まれております。服部城も山城でありますが、いくつかの山城を
一体として結んでおりますので、在地領主だったと思われます。

 甲賀衆(服部氏も含む)の動きは、鈎の陣で足利氏と対立しているけれ
ど、その二十年後には将軍寄りになっている。詳しいことは、改めてまとめた
いと思います。

 伊賀の服部保長、服部中保次が義晴や義輝……に仕えたということも、甲賀
衆よりなる将軍奉公衆の存在と無縁ではないと思われます――
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月24日 12時44分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今日はクリスマスイブ、鳥のもも肉の照り焼きとケーキを食べる日です(?)。

 甲賀と伊賀の違いは、滋賀県と三重県の違いでもあります。
 これを遡ると、8世紀頃の律令下での「五畿七道」の中で、東山道と東海道
の違いになります。隣接地域でありますので、実態はどうだったのか……?
甲賀に実際に行ってみて、滋賀県と言われたとき、少し愕然とした覚えがあり
ます。三重県ではないのか、伊賀と一体のようなものではないか……と思いま
した。
 滋賀県と言えば、近江。近江と言えば近江商人。
 三重県と言えば伊勢。伊勢には伊勢商人(?)。
 だけど、甲賀や伊賀は……忍者。
 商人は、交通の開けた所、特に水運と関係した。
 忍者は奥まった山岳地帯、特に修験道と関係した。

 伊賀と甲賀の違い、追求してみるとおもしろいかも知れません。新たな真実
がわかってくるかも知れません――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月25日 01時14分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

イブです。
と言っても24日の午前6時前。


そうですね~
ローストチキンとクリスマスケーキの日ですね。


いろいろクリスマスのお菓子はありますが
各国各民族的な好みがありますから
日本人には生クリームの上に真っ赤なイチゴの載ったクリスマスケーキが一番おいしいですよね。

     ドイツやフランスやイギリスやチェコのクリスマスのお菓子は食べましたが
        どこが美味しいんだぁ~
     でした。
        でも彼らには、1年で最高の美味しい物なんだろう、と思いましたが。

               舌、大丈夫か?


さてさて伊賀と甲賀ですが
ムカシは同じ国だった
とどこかで読みましたが  捜しても  見つかりませんでした。


ムカシ滋賀の南をJRで通った時に(あの山の向こう側が伊賀なんだよね)と思いましたが
生活する人間にとって  国境  なんて  まるで意味が無い。


     最古の時代としたら「庚午年籍」の時にでも伊賀と甲賀は引き離されたのかな
     なんて過去に遡って思ったりしましたが

ムカシの税の取り決めの書類を見たら分かるかも
ですね。


こんなことをずっと考えてました。
考えても知恵が無いので
休むに似たり。恥


昨日眼科医による処方のサングラスを眼鏡屋さんに貰いに行ったのですが
ま、5万円ほどのもので
わたしとしてはお金を掛けました。

      フレームは超安物です、レンズを買ったら、の おまけレベルの安物。
      去年、メガネを作った時に保険を使ったので今年は保険が使えませんでした。
      来年まで待てないから。



南方に住んでいると強烈な紫外線が気になりますからね
コロナ対策で日光消毒に励んでいる昨今ですから
内心、白内障になるのでは?と。

      日本の友人でアトピーでステロイド剤を顏に使っている友人が白内障手術をしたなんて聞きましたから
      コッチは自然発症の白内障が心配だよ、です


で、医者が言うには「白内障は始まってるけどラッキーなタイプだよ」だそうです。

つまり  目の周りから始まっているから  いわゆる白内障で目が濁るという状態には時間がかかる  ということだそうです。

そして緑内障は遺伝だから血縁家族にいなきゃ大丈夫と言われました。
      血の繋がらない親戚には2人います。
      緑内障は進行させないためにメンド臭いのよね。

この医者はすっごくステキな上品な医者で大人気なので
次の予約が来年12月に入れられたのでコレもラッキーでした。
1年以上待たされる医者なので次は再来年になるのかなと心配してたので。


この処方箋を持って眼鏡屋さんに行った時、医者がサングラスを作る上の3つ大事なポイントを言ったけど、
スグに忘れるので
ウッカリ「バイポーラ-で」と眼鏡屋さんに言って、「は?」と大笑いされました。

「バイポーラ-なら、ウチじゃなくてお向かいのクリニックに行ってくれ」と。
キャハハ


バイポーラ-って  双極性障害 躁鬱病  のことです。  


ホントに処方箋で作るサングラスってスゴイです。
世の中が物凄く明るくなりました、サングラスしてても。
笑    
南方って、こんなに明るかったっけ?です。
[51]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月25日 08時48分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 チキンで思い浮かんだのは、ニワトリという名前(種名)でありますが、一羽
でも三羽でも、二羽(ニワ)鳥というのは何故なのだろう?ということでした。
今まで何げなく使っていた言葉も、ふとしたことからその成り立ちの謎にとら
われてしまうことがあります。
 この「ニワ」というのは、「祭祀」に関係しているのだと思います。「さに
わ(審神者)」という言葉もあります。祭祀において神の声を伝える者のことで
あります。「はにわ(埴輪)」も祭祀にからんできます。
 ニワトリはそういう意味で、祭祀に関係する鳥であったと言うことができま
ると思います。たかがニワトリ、されどニワトリで、神々とともに存在したと
いうことであります。それを食べてしまう人間様とは、何とふとどきな生き物
でありましょうか?!

 トリはトリでもハットリというトリもいます。もとはハトリ。秦氏のようで
秦氏でないような、それでいて、衣・食・住の衣の部分の主役であります。
特に、天皇の大嘗祭という祭祀の、神服にからむ名前の人種であります。
 祭祀にからむという点においては、「ニワトリ」や「さにわ」や「はにわ」
と一面的な存在かも知れません。いや、ニワトリとハットリ、サニワとハニワ
の二分類に分けた方がいいのかも知れません。
 
 言語のルーツが超古代に遡ってわかるといいですね! Birdのことを古代、
さらには超古代の人が本当に「トリ」と言ったのしょうか――
[52]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月27日 09時36分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、森林公園の奥で、偶然にも甲賀の七〜八人グループに出会いました。
甲賀といっても忍者ではなく、甲南町よりワンボックスカーで来た一人の教師
格を含む学生の集団でありました。私は、ちょうど甲賀について探求していた
時でありましたので、何と偶然なのかと驚きました。
 教師格の男性に何を氏に来られたのか訊ねたところ、「オサ虫」を採集に来
たということでした。何でここに来たのかがわからなかったのですが、後から
よく考えてみたら、天竜川の河口に近い方に、竜洋という所があり、そこには
昆虫博物館があります。たぶん、江南から高速道路を走ってまずはそこを訪ね、
ついでに山間部でオサ虫を捕っていこうと考えたのでありましょう。
 オサ虫とは何ぞやと調べてみましたら、オサとは機織機で使う杼(ひ 横糸
のシャトル)のことで、体の形態がそれに似ているというところからつけられ
たようです。ちなみに、手塚治虫の治虫はオサムシ(オサ虫)にちなんだ名前
だそうです。つまり、大の昆虫好きだったということであります。
 昆虫が大好きな人間、結構いるみたいです――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月27日 10時08分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

すごい偶然ですね。
「甲賀」のことを考えていたら「甲賀」の人と出会った。
こういう偶然がありますから人間関係って面白いですね。


でも「オサムシ」は   「も」   好きじゃないです。
ただのゴミです。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月28日 17時05分43秒 ) パスワード

今日はいろいろ見ました:

「空母 いぶき」  潜水艦から星条旗が上った時、拍手喝采しました。そのあと国連旗も上がった時   (原作者の)  国際政治感覚の高度さに感動しました。

「麒麟がくる」   あの時代の背景の分析と紹介がスゴ過ぎる。すごい脚本!最高の戦国物大河!しかし主人公は一体誰なんだ?  各登場人物が生き生きしてる。

「盤上の向日葵」  結局上条桂介は釈放された後に自殺するのかな? 穴熊から3一銀が映された時(え?ウッソォ~‼)と思いましたよ。原作者もAI超え?わたしがバカなだけ?


多分今夜は知恵熱で眠れないのでネットで遊びます。絶対にコロナによる発熱ではありません。キッパリ
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月29日 02時00分57秒 ) パスワード

書き忘れ:

「麒麟がくる」で丹波赤井氏の名が出てましたね。

ということは   丹波の国人役に赤井英和が出演したら  NHK大河ドラマオールスター完成  ですね。きゃはは


ウイキより
赤井氏

丹波赤井氏。

清和源氏頼季流。
信濃井上氏の井上満実の三男家光が、保元3年(1158年)に丹波国芦田庄(現在の兵庫県丹波市)へ配流されたことに始まる。

主な一族としては戦国時代の赤井時家・赤井直正などがいる。


時家の三男である幸家の子孫として赤井英和と娘の赤井沙希がいる。


上野赤井氏。
主な一族としては戦国時代の赤井照康・赤井照景などがいる。

     コッチは南朝方つながりで新田に従って上野国に転出したのかな?



赤井英和といったら
1991年のNHK大河「太平記」の楠正季役ですね。
    本望だったのかな? 
    大阪人の赤井英和にしたら河内のおっちゃん役だし南朝方だし。
    まさに適役!


楠木 正季
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
河内国の豪族・楠木正成の弟。
七郎・帯刀と称した。


元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)から閏2月1日(3月17日)にかけて、上赤坂城の戦いで主将平野将監入道のもと副将として活躍する。


            これは信濃国つながり?南朝方繋がり?
            


1336年(建武7年/延元元年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いで敗北する。
そして、兄・正成と共に、自害して果てた。

古典『太平記』などには兄・正成と刺し違えて自害したと記され、このとき有名な「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだという。

幕末にはこれに「国に報いる」の意が加わり「七生報国」の言葉が成立した。

野口雨情の先祖という伝承もある。  ← これは知らなかったな



とはいえ
歴史の流れで
アッチに付いたりコッチに付いたりで
昨日の友は今日の敵  昨日までの敵は今日の友
これ、やってたんだな。


ここに出て来た平野氏もいろいろ流れがあって
わたしは尾張繋がりというか津島神社=南朝方の吉野15家がらみの=平野氏しか知らないわけだけど

平野氏も  
大橋が織田彦五郎さんと喧嘩して「大橋崩れ」で負けて北条氏に出奔して仕えて駿河にいたり尾張に戻って舟橋家から養子を貰って平野家の再興をし秀吉に仕えて
なかなか忙しい。

彦五郎さんは信長に暗殺されてるし
ウチは彦五郎さんと組んでたし


もうワケ分からない。

でも元クラスメートの先祖とわたしの先祖が組んでたり敵になったり
これが「日本」の歴史なんだな。

とはいえ   日本人の20%あたりの世界の  そのまた京都を中心とした世界の  尾張南西部限定   の狭い歴史のハナシだけど。


今回の「麒麟がくる」で赤井氏が丹波の国人として出て来たのにはビックリした。
是非赤井英和を出して欲しい。

二条晴良?近衛前久?と赤井が親戚って言ってましたよね?近衛前久の方?だから丹波に前久が潜んでる?

       応仁の乱で細川勝元(丹波守護)方に属した波多野秀長が、
       その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に波多野氏が勢力を扶植した始まりで、
       政元にも仕えて以後、波多野一族は多紀郡を中心に丹波国一円へ勢力を伸ばした。

       秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、
       ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐した。

       また細川両家の内紛に乗じて丹波国の豪族、酒井氏、長沢氏らの討伐を行った。
       その結果、酒井合戦で酒井氏が福徳貴寺の合戦で長沢元綱が敗れ、以後波多野氏に臣従することになった。

       しかし、稙通の子・波多野晴通が暗愚であったため、波多野氏は三好氏の侵攻で衰退していき、
       最終的には松永久秀や守護代内藤氏を継承した松永長頼らに攻められて、服属することを余儀なくされた。

       晴通の子・波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、
       永禄9年(1566年)には八上城を奪回した。
       永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、<<<赤井直正>>>とともに信長に1度は降伏する。

       天正3年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働くが、
       天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまった。

       このため、秀治は信長と敵対する。

       一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏した。
       その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去った。
    

                この直前に光秀の母上が波多野兄弟によって磔刑に処せられる  シーンで石川さゆりが出演かな?


                このシーンはいつもサラッと光秀の母上が処刑されて終わるけど「麒麟がくる」は政治的背景(近衛vs二条)も紹介してて驚いた。
                そこに「悪党」で有名な赤井氏の名も出て来たから  懇切丁寧  だな、だった。


誠仁親王(さねひとしんのう)役が   加藤清史郎  にもビックリした。
2009年の「天地人」の 樋口与六(直江兼続の幼少期)役で上杉景勝の遊び相手に出仕するのはイヤだとごねてた子が11年後にはあんなにイケメンに成長してたのか。


「麒麟がくる」はホント驚きの脚本と演出で毎回(すごい!)と驚いています。俳優もスゴイし。信長も全く別人格だし。
[56]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月29日 11時27分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 テレビ歴史ドラマは、脚本・演出・俳優・演技によってそのドラマ史観が脳
内にインプットされてしまうので、今では私はできるだけ客観的に距離をおい
て見るようにしております。ただ、時代背景や当時のイメージ・権力の流れ等
を擬似体験できるという点では、歴史把握の点で大いに役立っています――
 
 
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月29日 11時49分28秒 ) パスワード

レス<55>の訂正と加筆:

>二条晴良?近衛前久?と赤井が親戚って言ってましたよね?近衛前久の方?だから丹波に前久が潜んでる?


はい
近衛前久の妹が黒井城の赤井直正に嫁いでる
と言ってましたね。


番組が始まって30分ほどのところで明智十兵衛が伊呂波太夫を訪れ「鼓が聴きたい。前久に会いたい」というシーンがありますね。

伊呂波太夫が「京にいたら二条晴良が黙っていない」と答えて
十兵衛は丹波に行くことにしましたね。


https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/bunka/kuroijyou.html

黒井城跡は中世末期、奥丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、
織田信長の丹波攻略の際には二度にわたって明智光秀の攻撃を支えた城である。


黒井城の歴史は、赤松貞範(則村の二男)が建武2年(1335)丹波国氷上郡春日部荘を与えられ、山頂に簡素な城を築いたことから始まるといわれる。

赤松氏の後は早くから対立関係にあった荻野氏が城主となり、荻野正元・荻野秋清らが在城したが、
天文23年(1554)一族の荻野直正が秋清を倒して入城し、悪右衛門と称した。
 

荻野直正は、赤井一族を統率し、永禄8年(1565)には丹波守護代の内藤宗勝を倒し、
氷上郡のほか天田郡・何鹿郡を制して丹後・但馬にも勢力を拡大した。

今日にも見る黒井城の遺構の大半は、この時期に改修・構築したものであろう。


城主荻野直正は、元亀元年(1570)織田信長より丹波奥三郡の安堵をうけたにもかかわらず、
天正初年以降、逆にこの黒井城を本拠として、反織田勢力の一翼を担い、武田勝頼・石山本願寺・毛利氏(吉川元春)らと意を通じた。


天正6年(1578)直正は病死し、その子直義の後見として直正の弟幸家が一族を指揮したが、天正7年(1579)8月9日ついに落城、光秀の丹波攻略は完了した。


氷上郡一帯の統治のため、黒井城に入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三で、
利三は下館を陣屋とし、領内の治安と復興に力を注いだが、この陣屋で利三の末娘として生まれたのがお福・後の春日局と伝承されている。



>(津島神社の)大橋が織田彦五郎さんと喧嘩して「大橋崩れ」で負けた

我が家も「大橋崩れ」で負けて  尾張国河内に蟄居す。   うぐい浦に引っ越したのは一向一揆で負けて、  だった記憶。


>彦五郎さんは信長に暗殺されてるし
>ウチは彦五郎さんと組んでたし

    後に彦五郎さんが信長に暗殺された
    その時はうちの敵は信長   つまり  彦五郎さんとは組んでた

                    ややこしいね

巻第1171 P76

服部権太夫某   左京亮  信発が呈譜  政家に作る
織田信秀に属し  のち  尾張国河内に蟄居す
天文5年8月13日死す。
年45
法名  常久。

妻は横井丹後守某が女

                 
この子供達が友貞と政光。       友貞は服部家ホンヤさん。
政光の子が政信と政重。



           そうか
           わたしの先祖は横井さんでもあるのか。
           横井さんは北条義時の子孫だから   へぇ~  父方でも北条時政の子孫なのか(ビックリ)

                   だから弟が平野紫耀にそっくりでも当たり前か。
                   父方・母方両方で先祖が同じなんだもんねぇ。
                   
                        あ、わたしは岸君が好き。
[58]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月30日 11時05分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三日前の日曜日に山で出会った甲賀市甲南町のグループ、実は甲賀へは3年前
に調査で行っておりました。その調査の目的地は「甲賀町」、そして正に「江南
町」でありました。

 甲賀町での調査の目的地は――
 @油日神社
 A甲賀歴史民俗資料館
 B甲賀市甲賀図書情報館
 Cかふか生涯学習館
でありました。

 江南町での目的地は――
 @甲賀流忍術屋敷
 A服部城跡
でありました。

 3年経った今の目で、それらの資料を改めて見たところ、新たな気付きが
いくつかありました――
 
 ここで、一端休止――
した――
[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月30日 12時21分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レス訂正:江南町→甲南町
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月30日 14時38分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

三日前の日曜日にお知り合いになった甲賀市甲南町のグループの皆さんと「繋ぎ」を作っておきました?

人間関係は  どこでどう転ぶか  どう発展するか  ホントに分かりません。


3年前に甲賀に行ってらっしゃいましたか。
その時には  全く  今のお気持ちに発展するとは  思いも寄らなかったんですよね。
今となっては  TOO LATE。
惜しいですね。


実は  甲賀に母方先祖34代前の先祖が使っていた家号と同じ名字の方がいらっしゃって
甲賀の有名人  です。

    何故同じ名字なのか?
    実は同じ先祖?

    母が言うには南北朝時代に「菊水紋」を使用してたことがあるという事で
    その繋がりなのか?と。

        母方は
        吉野に居たグループ=後南朝になったと
        金ケ崎の新田一族に合流しに行ったグループと  ← 越後の南魚沼郡に一族がいたし坂戸城には新田一族がいた   (今回大雪事件があった)
        湊川の戦いに行くのに一族の敵方の舟に誤って乗ってしまったグループなどがあって


だから甲賀にも一族がいたのかな?と。
母の従姉妹のオットが甲賀出身で家紋が丸に並び矢。


ということでワタクシも甲賀との関係が非常に気になります。
父方で甲賀との関係は全く思いつきませんでしたが
甲賀の服部一族が平知忠さまの子孫ということで
父方でもワタシは甲賀と関係があるのかな?と。


平知忠さまは伊賀の北で育てられたので
伊賀の北といったら甲賀の南
伊賀の西といったら笠置!   笠置寺は後醍醐天皇の行在所がありました
そして北西には宇治田原。← 伊賀の呉服明神の神職だった服部貞信が住んだ場所です


平知忠さまが伊賀から京を窺っていた時に伊賀や甲賀でもねんごろになった女の子達がいたと思います。先日書いた作用郡の藤原氏の娘さん以外にも。


ついつい目先の伊賀しか気が付きませんが
甲賀に今でも服部氏がいると良いですね。
家紋が丸に三つ柏紋だと良いですね。

    母の従姉妹のオットの名字は服部ではありません。でも丸に並び矢紋です。
    甲賀で並び矢紋?   訊いておけば良かった。
    このオットさんの家の宗教は浄土宗かな?でも息子は浄土真宗の僧侶です。


日本人ってホントすごいですね。
それは異民族に蹂躙されて来なかったからですが。

    異民族に蹂躙されてたら天皇制も吹き飛んだでしょうし南朝方?そんなもん犬にでも喰わせておけ!となってたことでしょう。


わたくしも  甲賀で丸に並び矢紋の家  というのを知りたく思っています。
前世で乳母をしてた感触がありますから。
自分では平知忠さまの乳母をしてたと思っているのですが知忠さまのお子さんの乳母もしてたのかな?と思うのです。


父方と母方とが何重にも関係して今世の自分が存在している   ということを思い知らされるばかりです。
[61]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月31日 11時00分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今、甲賀について、本格的に探求を始め出しているところであります。
まずは「点」の情報を多く集め、いずれそれらをつなげて「線」として形成
したいと思っています。 

 1570年代は歴史の「ヘソ」のような激動の時代で、その中で、甲賀の果
たした役割は大変大きいもののように推察しています。つまり、信長の「因」
の時代から、80年代初頭の本能寺の変の「果」の時まで、甲賀は荒波の中を
を必死で舵取りしながら乗り越えたということであります。
 そして歴史は秀吉、やがて家康に移っていく、ということになります――
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月31日 12時53分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご存じでした?
https://www.city.koka.lg.jp/10917.htm
ふるさと甲賀をひもとく『甲賀市史』全8巻のご案内

1巻3500円
ですって。

『甲賀市史』各巻の概要
                                                    
 編集委員長 木村 至宏(成安造形大学名誉教授)



【通史編】

第1巻 古代の甲賀(平成19(2007)年刊) 編集委員 井上満郎(京都産業大学名誉教授)
 甲賀の地理・自然と、縄文時代から平安時代の院政期までが対象です。古琵琶湖層群に代表される市域の地質や自然、古墳時代を中心とした代表的遺跡。古代豪族、壬申の乱、古代東海道の変遷、紫香楽宮、そして豊かな仏教文化を紹介します。 〈本文559頁・付図「甲賀市地質図」〉 在庫あり


第2巻 甲賀衆の中世(平成24(2012)年刊) 編集委員 川嶋將生(立命館大学名誉教授)
 鎌倉時代から戦国時代末期までが対象です。荘園の開発、南北朝の争乱、台頭する甲賀武士の活躍を詳しく叙述しています。また飯道山を拠点とした修験道や、信楽焼の成立など、もっとも「甲賀らしさ」にあふれた時代を紹介します。〈本文510頁・ブックレット「中世甲賀を歩く」 在庫あり



水口岡山城

第3巻 道・町・村の江戸時代(平成26(2014)年刊) 

    編集委員 水本邦彦(京都府立大学名誉教授)
 天正13年の「甲賀ゆれ」から明治維新までが対象です。秀吉の命による水口岡山城の築城、徳川の覇と東海道の整備、土山・水口両宿の成立と町の繁栄、水口藩や多羅尾氏など領主の支配と変遷、村や町の運営、「天保一揆」、地域文化の成立と展開、地場産業の成立などを紹介します。現在に直接つながる近世社会を描きます。〈本文626頁・付図「東海道水口駅町絵図」〉 在庫あり






第4巻 明日の甲賀への歩み〈平成27(2015)年刊〉 編集委員 向井啓二(種智院大学教授)
 廃藩置県から甲賀市の成立まで地方行政の変化を柱に、特色ある産業経済の発展、交通の近代化、教育文化の発展を時代を追って描写。また戦争の時代や戦後の発展など、甲賀市の発足に至る地域社会の変貌を描きます。〈本文620頁・付図「甲賀市学校変遷図」〉 在庫あり

【分野編】

第5巻 信楽焼・考古・美術工芸(平成25(2013)年刊) 編集委員 木村至宏(成安造形大学名誉教授)
 世界的にもその名が知られる信楽焼と甲賀の諸窯。紫香楽宮跡、植遺跡、泉古墳群など著名遺跡。仏教美術の推移を豊富な資料によって詳しく紹介します。〈本文549頁・付図「甲賀の古像」〉 在庫あり

油日神社
第6巻 民俗・建築・石造文化財(平成21(2009)年刊) 

    編集委員 木村至宏(成安造形大学名誉教授)
 オコナイや太鼓踊り、歴史を映す郷祭りなどの豊かな祭礼行事。暮らしと生業の推移。多数の古建築や近代化遺産。全国有数の質と量を誇る中世石造文化財を多数の実測図を付して紹介します。とくに民俗研究や石造美術研究のよき手引きとなっています。〈本文626頁・付図「多羅尾滝の脇磨崖石仏群寸法図」〉 在庫あり




第7巻 甲賀の城(平成22(2010)年刊) 編集委員 川嶋將生(立命館大学名誉教授)
 全国的にも知られる「甲賀の城」。甲賀市域の城跡のうち戦国時代から江戸時代に築かれた城・館・陣屋総数180を5年の歳月をかけて現地調査。すべての城の縄張図を付した「甲賀の城」の決定版。全国城郭ファン必携の一冊。〈本文516頁・ブックレット「甲賀戦国の城を歩く」〉 在庫なし

第8巻 甲賀市事典(平成28(2016)年刊) 編集委員 木村至宏(成安造形大学名誉教授)
 12年間にわたる編さん事業の成果を、より身近なものとしていただくための巻。市内全域の大字の歴史がわかる「地域編」、主要なことがらや人物、自然などについて約100項目を立項し解説した「事項編」、歴代表や年表、文化財一覧など、甲賀市の基本的情報をまとめた「年表便覧編」の三部で構成されています。甲賀市の歴史文化を知るための手引きとして活用してください。(本文572頁) 在庫あり

*ご注意 現在第7巻「甲賀の城」は在庫切れとなっています。

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 甲賀市史編纂叢書は、甲賀市史の編さんを進めるなかで得られた重要な歴史資料について、とくに一冊の冊子にとりまとめたものです。販売可能なものもありますので、歴史文化財課へお問い合わせください。
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お問い合わせ先
歴史文化財課
所在地/〒 528-8502甲賀市水口町水口6053番地
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2020年12月31日 14時55分07秒 ) パスワード

<63>の書き直し


甲賀のお城  巻7  は売り切れのようですね。
これは浜松の図書館で調べるか
       甲賀の図書館まで調べに行くか?
手はありそうですね。



わたし的には甲賀は伊賀に比べたら興味は無かったのですけど

母方・父方で甲賀は関わるし
母方34代前の家号が   甲賀ファンなら誰でも(ああ、あの人?と)知ってる人と同じ名字だし

レーガン大統領の時に日系人が戦争中に収容された件で慰謝料が支払われ
この時にたまたま  34代前の先祖の家号と同じ名字の老人と知り合いまして

この人にどこの出自かを訊ねたら  
「ウチは公家で   【七卿落ち】で長州に行って  どーたら」  
と言ってました。

              七卿落ち
              1863年(文久3年)の八月十八日の政変において7人の公家が京都から追放された事件。


明治天皇は  実は  睦仁親王ではなく  大室寅之祐とすり替わった  という説があって
     伊藤博文が連れて来た
そして橋本首相にも関係しますね。

     明治天皇は「正統は南朝方」と言って明治の元勲達を困らせたり。
     あはは


岡山もいろいろありましたね。
南朝方だったり北朝方だったり。

    わたしは人皇7代孝霊天皇の子孫で
    孝霊天皇はまさに根本は岡山に関わります

    岡山の=備後の=南朝方の大忠臣の桜山滋俊と郎党23人
    台風で桜山神社が倒壊して
    今は吉備津神社境内に移されてるとか。

    吉備津神社の神主さんの宮氏=桜山氏と同族=は足利方になって
    わたしの一族の敵になりました。


今日の友は明日の敵  昨日までの敵は今日の友

               まるで  中東  ですね。
               日本もそういう時代があったんですねぇ。
                     って、モロ  自分の先祖もエンエンとやってたな。


今日は高橋一生と飯豊まりえと中村倫也の『岸辺露伴は動かない』の第3話「DNA」を見たのですが
わたしが常々書いている  DNAに前世の記憶が刷り込まれているんじゃないか  というようなテーマでした。

「まおちゃんが太郎君にだけ反応したのは
太郎君がまおちゃんの父親の臓器を提供されているから

まおちゃんが太郎君に(父親を)気付いていたことは  遺伝  かもな。

遺伝子が何を記憶してて何を持ち込んだか?
もし魂というものが記憶されていたとしたら?

まおちゃんが無意識に感じ取っていたら?」

  
    
ここ数日  平知忠さまのことを考えていて  
父上の知盛さまの乳母の家は伊賀の服部家長ですから

甲賀の服部家が平知忠さまの子孫というハナシは    
きっと知忠さまと服部家の娘の間に生まれた子孫なんだろうな、と。


     非常に納得出来ます


我が家と岡山の関係も父方母方で関係するし
    何重にも


父方の従妹は岡山の人と結婚したし
    なんで岡山?と一族の皆には理解を超えていたけどワタシ的には(そりゃ引っ張り合うだろ)でした。



父方の従兄のヨメの弟は岡山大学の医学部を出てて
それでオットと吉備津<彦>神社に行った時に「服部」という地名を見つけて(雄略天皇がらみ?)驚いた

    知ってる?橋本龍太郎のご先祖さまの出身地は 岡山県下道郡秦下村 現在の総社市秦  ですよ。

    さらに!  下道って言ったら  吉備真備さまですよ。
    さらに詳しく言うと  孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫ですよ。  
    わたしと一族じゃん!

このヨメが<わたしにそっくりだから>従兄のヨメに選んだと伯母から「聞かされた」(意味深だけどヒミツ)たいしたヒミツじゃないけど  やっぱりスゴイよね。



それに岡山出身のブルゾンちえみを見た時に  え?ワタシ?  と思ったし。

(歌手のいるかに似てるとか歌手の中島みゆきに似てるとか 若い時の大竹しのぶとか若い時の水沢アキとかに似てるとか言われて来たけど
自分ではブルゾンちえみに=藤原しおりさん=似てると思う)

     ときおさんがおっしゃってた  明智十兵衛が医薬に詳しいと紹介した某学芸員さん
     この人にもわたしは似てる  とわたしは思う

     この学芸員って、越前の人だっけ? >ときおさん
     つまり  越前も平家方南朝方だから  この学芸員さんはわたしとDNAを共有してるのかもね


昨日「監察医 朝顔」で現在の大竹しのぶを見てビックリした。似てないよぉ~



とにかく本日の『岸辺露伴は動かない』の第3話「DNA」にはビックリしました。
わたしが考えているような事は他にも大勢いらっしゃるのかも、と。

日本人だものね。

パッと見た瞬間に  懐かしい!とか  この人、知ってる!  とか  思うって
DNAに前世の記憶とか魂が刷り込まれているからだ、と。

でも、よく見たら  見比べたら  似てないんだけどね。
ごめんね  >  ブルゾンちえみさん


これが「日本人」ってコトなんですよね?
[65]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年12月31日 16時56分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三年前に甲賀に行った時、市立図書館にて資料を探していましたら、『甲賀
市史』に出会い、その第二巻の「甲賀衆の中世」を購入して来ました。さらっ
とは目を通しておりましたが、今、改めてじっくりと読んでいるところであり
ます――
 
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月01日 01時45分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

巻2  をお持ちでしたか。


甲賀は早々と信長に降参して  カシコイ選択でした。
天才には逆らわないのが得策。
信長は凡人には理解不能ですから。

    「空母  いぶき」を見てた時
     西島秀俊が何やら命令して  それを  変更して  伝達していくわけですが
     見てたわたしは  え?  最初の命令は何だっけ?  どう変更したんだっけ?  と思い出せなかったです。伝令役としてチョー無能なワタシ。恥

            やっぱりわたしは真っ先に犬死にするタイプだ。


ま、甲賀は伊賀に比べたら、生き残る能力が高いのかも。
    甲賀の代表は滝川一益なんて聞きます。

    一益には服部家ホンヤさんの先祖の友貞が謀殺されてますから  わたしは  特に一益が嫌い。


甲賀でも  家康を助けた多羅尾 vs 石田三成に忠誠を尽くした人々   もいて一筋縄では語れないですね。


結局
日本人が嫌いな戦略系(頼朝とか家康とか) 
日本人が好きな戦術系(義経とか正成とか)  
こんな所にも  日本人とは何か  というのが見てとれる  

        と書いて良いのかな?(遠慮がちに。。。) 対象となる日本人は当時の20%あたりの世界の人々だものね

わたし自身は戦略家にはなれない。
最近 ネットでオセロ  を始めて  まだ初心者の入口なので  どう動いて良いか全く分からず 
 「取り敢えず20手先を考えろ」  と言われても  今この1手も動かせないんだよぉ。


信長のような天才を助ける技術者にもなれないワタシ。

     勝てない天才を倒すには奇襲作戦しか無いのかな?
     だけど  その先も  「無い」  というのを日本人は学習して来たね。
     光秀しかり  旧日本軍しかり


だけど  読める人がいるんだよね。20手先どころか  もっと先も。


このクリスマス明けの12月29日のカリフォルニア州の死者数は432人だったそうです。人口4000万人弱。
アメリカ東部時間30日午後8時半(日本時間31日午前10時30分)までの24時間に新型ウイルスで死亡した人は3927人、
新たに感染が確認された人は18万9671人。人口3億3000万人強。


こういう時代を見通せる人もいるんでしょうね。
わたし達は歴史から学ばないとね。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2021年01月01日 02時08分20秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101742.html
長上郡の服部氏族CXLT:141:甲賀服部氏とは?
を立てました。


切りの良いところでどうぞ。


2021年が世界中の人々に安心安全な日々の始まりとなりますように!
[68]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2021年01月01日 09時14分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大晦日は、夜更かしして見るほどの番組もなく、早くに寝てしまいました。
 早朝は、冷え込んだため、起きたのは朝七時半と遅くなりました。
 
 新年あけましておめでとうございます。
 本年度もよろしくお願い申し上げます。
 
 新しいスレッド、ありがとうございます。
 そちらの方へ移動します――
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