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 投稿番号:101715 投稿日:2020年05月02日 10時55分45秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXXV:133:いよいよ核心に‐1
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101711_49.html
長上郡の服部氏族CXXXII:132:現場100回13
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



スレッド132で三つ柏さんの長年の疑問にかなり迫りましたね。
特にレス<33>。

では順に追ってみましょう:

レス<3>
大和岩雄氏の『秦氏の研究』
@ハタ氏には、「秦氏」と「波多氏」の二系統があり、
波多氏は建内宿祢の子の「波多八代宿祢」の子孫であり、
八代宿祢は葛城襲津彦と兄弟であるということ。 
A大和の服部連は、糸井造・三宅連と同じに、
天日槍を祖とする新羅・加羅系渡来氏族で、
秦氏と同じ地域出身の渡来氏族であったということ。
➂『古事記』は親「新羅」であり、『日本書紀』は反「新羅」であること。



レス<26>
「川勝」姓、正に秦川勝(河勝とも)。
『新編―姓氏家系辞書』(太田亮著 丹羽基二編)によれば、
河勝(川勝も同じと見て)姓は、丹波の秦氏族と示されており、
寛永系図、寛政系譜には、始皇帝の後裔。



レス<33>
「平氏系秦氏」というものが一体何なのか?
この件は「三つ柏」の件でかつてほんの少し触れたような気がいたします。

久慈力氏の『封印された日本古代史ミステリー』の中に――
「(山口県長門市の)二尊院のお墓に「三つ柏」の家紋があった。

これは平氏系秦氏の家紋で、
柏はユダヤ教の燭台(メノラー)を表現しているとみられ、
イスラエル国家のシンボルになっている。」

つまり「三つ柏」は「平氏系秦氏」の家紋であると言う。
 

壇ノ浦の戦いの敗戦の後に平家が逃れた所が山口県の長門地域。
また、秦河勝の子「物主」の後裔の「惟宗信房」は、
「平知盛」の家人であり、
壇ノ浦の戦いにて討死したと書かれています(宝賀寿男『秦氏・漢氏渡来系の二大雄族』)。

この討死した惟宗信房の娘は、平知盛の妻となっており、その子供に「平知宗」を設けています。

この知宗の子孫が信房の宗家を継ぎ、対馬の宗氏となっております。

知盛に仕えた平家といえば、何と言っても知盛の乳兄弟の「服部家長」であります。
壇ノ浦の敗戦で知盛と共に入水したと言われております。


平家に仕えた秦氏の後裔・惟宗宗氏、同じく平家に仕えた秦氏系の服部氏は、
一門的シンパシィでつながっていたのではないかと推察いたします。

[1]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月03日 08時42分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、いつもながらありがとうございます。あを様のまとめ
に平身低頭です!

 「秦氏」と「服部氏」・「服部連」・「神服部」の関係の真実を、でき
る限り明らかにしたいというのが私の本音であります。
 古代のこととて、はっきりさせることは至難のことですが、それでもあ
ル程度の「推察」はしたいと考えておりますが、ものごとは単純でなく、
一朝一夕というわけには行きません、時間がかかります。

 「コールデンウィーク」なのに「ステイホームウィーク」とは何と皮肉
なことでしょう。頭の中は連休モードで、あれやこれやと意識がうわつい
ております。少なくとも、人との接触が希薄な××湖に船で釣りには出か
けたいと思っています――

 


 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月03日 12時25分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

せっかくのGWでも籠城生活をしなくてはいけませんから
逆に(どこかに行きたい)願望が抑えられないでしょうね。



行って欲しい所
・二尊院
〒759-4623 山口県長門市油谷向津具下3539

楊貴妃のお寺であるということですが
阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説があって
阿倍仲麻呂は唐で客死したというのが定説だと思いますけどね。

三つ柏紋のお墓が見つかるでしょうか?


・浅間神社
宮司さんに服部姓の方は今でもいらっしゃるでしょうか?


・対馬の宗氏の菩提寺で  宗氏 and/or 服部氏の墓
万松院   長崎県対馬市厳原町

                    長崎なのねぇ。わたしは島根県沖かと思ってた  隠岐とこんがらがる   方向音痴なので


他にもいろいろ行って欲しい所はありますが平氏系秦氏・秦氏系服部氏のお墓を調べて欲しいです。



安倍晴明は阿倍仲麻呂の子孫だとか言いますが  安倍晴明の紋は五芒星なのよね
ユダヤ系なら  ダビデの星  でしょうし。  と、思ったら・・・・勘違いでした。それも大変な勘違い。


     ユダヤ人がダビデの星をいつから使い始めたのか?を調べたら

The Jewish community of Prague was the first to use the Star of David as its official symbol, and from the 17th century on the six-pointed star became the official seal of many Jewish communities and a general sign of Judaism, though it has no biblical or Talmudic authority.

あらあら結構最近だったんですねぇ。それもプラハ?!なんでチェコが?
それに別に宗教的な意味も無いのですねぇ。
知らなかった。


The Zionist movement in 1897 adopted the Star of David as its symbol. It became the flag of the State of Israel shortly after the nation's founding in 1948.



ということは関ケ原の戦いの絵図に  
何か占い師的な?宗教的な?人々が描かれていて
その陣羽織の背中にダビデの星を背負ってたけど

                関係無かったのぉ〜〜〜???

                ひょっとして絵師さんが創建、寛弘4(1007)年の安倍晴明神社の紋を六芒星と勘違いした?


ということで日本語のウイキに行ってみました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%81%AE%E6%98%9F

以下コピペ


ダビデの星は古代イスラエルのダビデ王に由来するとされるが、歴史的に実在した実際のダビデ王とは関係がない。


三十年戦争末期の1648年、
神聖ローマ帝国の側に立ってプラハを防衛していた民兵軍がスウェーデン軍を撃退した。

これを受けたハプスブルク朝のフェルディナント3世は、民兵軍の武勲を嘉して各部隊のそれぞれに旗印を下賜した。


民兵の中にはユダヤ人部隊もあったが、
ドイツの宮廷には、ユダヤ人の印としてどんな図柄を使えば良いか知る者がなかったどころか、
宮廷ユダヤ人のオッペンハイマー家ですら何のアイディアも出せなかった。

           あらあら・・


そこで、ウィーンの政府はイエズス会に何か良い知恵はないか相談したところ

「ダビデ王は楯の紋所にみずからの名前の最初と最後の文字『D』を使ったに違いなく、

           またまた不確かなコトを
           こんなテキトーなハナシだったの?

古いヘブライ文字でDの字はギリシャ文字『Δ』に似た三角形だから、
Davidのスペルの最初と最後の『D』の字二つを表す三角形を、互いに組み合わせた形にしてはどうだろうか」

というアイディアを得た。


こうして、ユダヤ民兵部隊に「ダビデの楯」をあしらった旗が下賜されることになった。


              ギェ〜
              ウッソォ〜
              そんなぁ〜


この印は欧州のユダヤ人社会に野火のように広がり、19世紀はじめにはロスチャイルド家の家紋にも取り入れられた。


つまり17世紀に起源するものであって古代に遡るものではないため、例えば日ユ同祖論等の根拠に使うことはできない。

以上コピペ


                       もうブッ倒れそうなんですけどぉ〜
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月04日 04時10分53秒 ) パスワード

ということで  気を取り直して・・・・ 
 
    ダビデの星 は  サイキンのハナシであって   
    ユダヤのシルシ  というのは  便宜上  17世紀に現れた
ということでしたね。


    だから  *長篠の合戦の絵*に描かれた数人の人々の背負ってる紋が六芒星はユダヤとは関係無いし  
         日本の絵方がダビデの星より歴史がずっと早い。

                *関ケ原の戦いとこんがらがった
                 方向音痴なので*
                 すまぬ


そしてダビデの星は もともと 六芒星 ヘキサグラム と呼ぶのとも違う。
便宜上 日本では 六芒星と呼んじゃうけど。



ついつい日本じゃ  ユダヤ ⇔ 日本 を語りたい
これはユダヤ人が  エリート民族  だから
日本人として  自分達日本人も  エリート民族  でありたいから  ユダヤ民族にあやかりたい?
そこにユダヤの消えた部族伝説があるから  これに乗っかりたい?


ということで検索して見ました:

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13213246168
Q
我が家の家紋は六芒星なのですが


A−1
籠目紋といわれる普通の家紋です。
竹細工でカゴをつくるとできる模様なので。

なお籠目模様の連続は魔除けの模様とされたりましています。


ちなみに家紋が家系と密接なのは、由緒のある家だけです。



A-2
六芒星は古代の中東からある太陽の象徴で日本ではアマテラスの神紋です。

一般ではあまり使いません。

伊勢神宮への信仰からだと思います。



________________________________

日本じゃ  「星」って  「○」で表しますよね。
五芒星で表したのは 中東あたりの占星術を安倍晴明がパクった? 

________________________________


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161067581
長篠の合戦図屏風に描いてあるこの人たちは


Q
長篠の合戦図屏風に描いてあるこの人たちは
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuo2story/11869051.html (終了してますね)
六芒星の家紋の人達は忌部氏?


A-1
それは結構有望な説があったはずです。
真言宗やら裏真言宗やら六破羅やら天台宗やら、
信長が重用した一団があったという事です。

単純に宗教を嫌ったというのは間違いだと言う根拠の一つになります。
忌部氏とも言われたかもしれません。


__________________________________



これですね  六芒星の人々
https://cdn.ironna.jp/file/1503824c3403d93bcfe528c0dbae2d11.jpg



https://ironna.jp/article/11447
長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く
『橋場日月』 2018/12/16


以下部分コピペ

大阪城天守閣に所蔵されている「長篠合戦図屏風」を見てみよう。

信長の本陣は六曲一隻のうちの第六扇(左端)の上部に描かれている。
永楽通宝の旗印や南蛮兜(かぶと)などを奉じて控える家来たちの奥で、白馬にまたがった信長が正面の戦場を見つめているのだが、
その足元に注目していただきたい。


背中を朱の星で大きく染め抜いた白羽織の男が3人、侍(はべ)っているのがわかるだろう。


この星印は「六芒(ろくぼう)星」という。有名な星印は安倍晴明の「五芒(ごぼう)星」だが、こちらはひとつ角が多いものの、陰陽師(おんみょうじ)の象徴として知られる晴明の五芒星(晴明桔梗)同様、陰陽師のシンボルだ。


では、その違いは何か。


安倍晴明の血統を継ぐ土御門家が朝廷の陰陽師であるのに対し、
六芒星は晴明に敵対した蘆屋道満(あしやどうまん)のマークだ。

                       へぇ〜
                       これは知らなかった!
                       100%知らなかった!



元々は播磨の陰陽師だったと伝わる道満は、藤原道長に仕える晴明の力を封じるべくライバルの藤原伊周(これちか)に召し出されたという。

          
妖術合戦に敗れる姿は多くの作品に描かれているが、
現実の道満は伊周が道長との政争に敗れたことで元の民間陰陽師に戻ったのではないか。

彼に連なるという陰陽道の系譜は、道満の子孫という土師(はじ)氏の他にも多く残っている。


図屏風は、信長がこの道満流の民間陰陽師を戦場に伴った可能性を示唆しているのだ。
ここで注意しなければならないのは、
この大阪城天守閣蔵の図屏風には原本がある点だ。
成瀬家本と呼ばれるもので、17世紀半ば、長篠の戦いから100年経った頃の制作と考えられている。


(尾張藩の付け家老の)犬山城主の成瀬家の先祖・正一は長篠の戦いに参加しているので、
子孫が家の言い伝えや『甫庵信長記』などの軍記物を参照して顕彰のために描かせたのだろう。


以上コピペ

    ちょこちょこ編集しておきました。



            それにしても「方向音痴」って言い訳に使えるなぁ。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月04日 04時43分47秒 ) パスワード

A-2
六芒星は古代の中東からある太陽の象徴で日本ではアマテラスの神紋です。
一般ではあまり使いません。
伊勢神宮への信仰からだと思います。



ということで  伊勢神宮のあの紋は「籠目紋」と呼ぶようです。


で、一応 古代中東に於ける太陽のシンボル  をチェックして来ました:


https://en.wikipedia.org/wiki/Solar_symbol

どっちかいうと  童話用太陽の絵と50歩100歩のような?



籠目紋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E7%9B%AE

家紋に籠目紋があり、「籠目」、「丸に籠目」などが使用されている。
江戸時代には、小宮氏、曲淵氏などが用いた。



で、籠目紋をネットで調べると必ずユダヤが出て来ますね。



日本人って  ものすごい劣等感民族?
そこまで「選民意識」を求めたいのか?

ユダヤ人のポチになりたい?


だけど一神教のユダヤ人にしたら「八百万の神」なんて言っちゃう日本人にポチになんかなって貰いたいなんてちっとも思わないでしょう。

      でも  ヒンズー教なんかの  日々  今でも神々が刻々生まれてるとする民族に比べたら  
      マシ  と思って貰えるのかな?まさか!


つまり日本人というのはユダヤ人に片思いしてる?




日本の天皇は万世一系        だっけ?
出自がハッキリしている       と言いたい

                      本気で日本人ってそう思ってる?

それで自分達シモジモの血統がハッキリしないという自信の無さに
    ユダヤ  日本  同祖  
    なんて誰かにおだてられちゃうと

これに乗っかりたいのかもね。


だけど宗教的には真逆な民族    ここをどう解釈するのか?
ただし母系社会としての軋轢については否定はしない。    これは  ヒンドゥ教なみにもエンエンと続くのかねぇ。
[6]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月04日 10時06分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 六芒星、ダビデ紋、ユダヤ……色々お調べいただきありがとうございます。

 ユダヤについて、私には少しイメージが崩れる記述を見つけましたので、
ご紹介いたします。

 一つ目は、鹿島?著『孔子と失われた十氏支族』(1986年刊)より――
 「〜ユダヤ人の多くは、エジプトに残留して賤民化したヒクソスの子孫だ
  った。」

 次に、坂井洋一著『日本の始まりはシュメール』(2016年刊)より――
 「モロッコのヘブライ語学者サバ兄弟による『出エジプト記の秘密 モー
  ゼと消えたファラオ』によると〜、ユダヤ人と日本人は両方とも古代エ
  ジプト人だったということ。その(古代エジプト人)中の"一神教徒達た
  ち"が"ユダヤ人"と称するようになり、"多神教徒たち"の一部(加えて、
  スメル人、バビロニア人)が、"日本人"になったのです。」
 また――
 「アマルナ(新都)に移動したエジプトの一神教徒は〜、当時エジプト領だ
  ったカナンに強制移動させられた。これが世にいう出エジプトの真実。」
 さらに――
 「カナンに移動を余儀なくされたエジプトの一神教徒たちは、のちに"神官
  一派(エリートたち)"と"その他の人々"が分裂して、南の"ユダ王国"と北
の"イスラエル王国"になった。」
 さらにまた――
 「『旧約聖書』というのは、新バビロニアに幽閉されたエジプト人の一神
  教徒たちが、舞台をエジプトからメソポタミアに移し替えて作り上げた
  物語だったのです。なぜエジプト出身の一神教徒たちは自分たちをスメ
  ルのウル出身のアブラハムの子孫だと偽ったのでしょぅか? それは、
  当時、新バビロニアの最大の敵国がエジプトだったからです。自分たち
  が誇り高きエジプト人だなどと言ったら、幽閉どころか皆殺しにあって
  いたでしょう。そこで、幽閉されたエジプト一神教徒の神官たちは、た
  くみに物語の舞台をエジプトからメソポタミアに置き換えて、スメルの
  伝承をふんだんに織り込んで、なおかつ、エジプトのファラオたちを悪
  者扱いした物語を作り上げたのです。」
 なお、補足として――
 「ツタンカーメンは、即位したときの名前はツタンカーテン(トゥトゥ・
  アンク・アテン)でした。つまり、アテン教徒のファラオとして即位し
  ました。しかし、大叔父・大神父アイの英断により、この国を元どおり
  の多神教であるアメンに戻すこととし、ファラオ名もツタンカーメン
  (トゥトゥ・アンク・アメン)とし、首都もテーベに戻させました。」
  
 これらの説から言えることは、エジプト人て何?、ユダヤ人て何?と言っ
た場合、それは血のつながりというよりも、宗教とか何か同じベクトルを持
った集団を言うように思えます。ユダヤ人は、そのユダヤ人たるアイデンテ
ィティーを、血でなくユダヤ教の信仰に置いている。正にユダヤ教というベ
クトルを持つ人々のことをユダヤ人と言う――  
  
  
   
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月04日 11時26分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ユダヤ人は、そのユダヤ人たるアイデンティティーを、血でなくユダヤ教の信仰に置いている。
>正にユダヤ教というベクトルを持つ人々のことをユダヤ人と言う――  

はい
まさに  コレ  ですね。

ユダヤ教徒がユダヤ人。
だから白人でも黄色人種でも黒人でもユダヤ教徒ならユダヤ人。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F10%E6%94%AF%E6%97%8F

イスラエルの失われた10支族

Ten Lost Tribesとは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、
行方が知られていない10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)を指す。


日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである[1]。



『聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀?)がメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。

孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。

奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が諸部族をエジプトから連れ出し(紀元前13世紀?)、

                       エクソダスですね
                       脱エジプト

シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。


                ここで  偶像崇拝禁止  が始まりますね。
                10戒の1つ


200年程かけて一帯を征服して行く。


ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。

次のソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)は、安定した政治基盤を背景に強権的となり、
『列王記』や『歴代誌』によると彼の代で厳しい苦役や重いくびきが強いられたとされる。

ソロモンの死後、息子のレハブアムが王位についたとき、民はそれらの軽減を訴えたところレハブアムは断り、
さらに厳しくすると答えたため北部の部族は離反し、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とし、
元の王国名を引き継いだ北王国(イスラエル)を立て、
シェケムを再興して都とした。

都は後にシェケムからティルツァ、サマリアと移り変わった[2]。

                      ここら辺からワケ分からない


これによってイスラエルは北王国と、
王を輩出してきたユダ族ならびにダビデの王権樹立に協力したベニヤミン族の南王国(ユダ王国)に分裂した。


北王国では南中部のベテルと最北部のダンに、金の子牛の像をおいて王国の祭祀の拠り所としていたとされる。
これは子牛を崇拝したのではなくエロヒム(ヤハウェ)の台座として置かれたものであるとされる[3]。

                       でも  津島神社の牛頭天王を連想する。たぶんヒンズー教の影響なんだろうけど


一方、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった。


当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。

ソロモン王も特に晩年になるほど、『列王記上』11:4-8 にあるアスタルテ、ミルコム、ケモシュ、モロクなどへの信仰を顕わにしたとされている(ただし、列王記にはダビデは熱心な一神教崇拝だったとある)。

学問的には北王国のエロヒム信仰のみならず、エルサレムのヤハウェ信仰も多神教の一種(拝一神教、単一神教)だったと考えられている。


北王国は紀元前722年に同じセム語系民族であるアッシリアにより滅ぼされ、
10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚)[4]。

サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、
北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されているが、
その行方が文書に残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた。


広義には捕囚とならなかった北王国の住民を含んでいう場合がある。

                        へぇ〜   全然分からない


捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に10部族としてのアイデンティティを失ったといわれ[5]、

周辺の異民族や、アッシリアによって他地域から逆に旧北王国に強制移住させられてきた異民族と通婚し混血することもあった[6]。

サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部の祭祀を同じくする古来の信仰が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。


                       何のハナシかさっぱり分からない



            ここから ↓ は  ユダヤだユダヤ教だ  と理解できる

南王国のユダは、紀元前586年にセム語系民族の新バビロニアに滅ぼされた。


指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、

宗教的な繋がりを強め、
失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、

                        タルムードですね

宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌う声も強くなり[7]、

                        異教徒との結婚は許しませぬ、だね

異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった[8]。


                       今に至るユダヤ人のカタチになりましたね

                  

彼らは新バビロニアを滅ぼしたイラン語系民族のアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した[9]。

                       ふぁるし  バンザイ!


解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、
エルサレム神殿も復興された[10]。


                      そう!ユダヤ人はペルシャが好きなのだ。ふぁるしの一部なのだ


ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、
同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、

      ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、
      北王国の末裔と認めず、
      祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、
      南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった[11]。



ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ヘレニズム時代が開幕すると、
ユダヤ人はアレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。

                      「 大王 言うな! アレクサンダーは Son of a Bxxxx だ!  」だね
 


バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、
ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、
宗教としてのユダヤ教が確立した。

                       はいはい  そうですね


ハスモン朝の時代にかけてはローマと同盟を結んだこともあり、ユダ王国の領土は拡大し、エドム地方なども含まれるようになり、制圧地域のエドム人もユダヤ教の布教が行われてユダヤ人に同化され[12]、後にそこからヘロデ大王がユダヤの王の座に就くほどまでになったが、彼の死後王位の後継者が定まらず、一度は息子達によって分割統治するも、サマリア・ユダヤ・イドメア地区では領主のヘロデ・アルケオラスが統治を失敗しローマ帝国の直轄支配によるユダヤ属州が置かれた。[13]


                       そうしてキリストが出て来る時代なわけですね



「ユダヤ」の名はユダ(綴りは英語などではJudaだがラテン語ではIuda)にラテン語の地名としての語尾変化「ea」がつき「ユダエア(Iudaea)」となったもの、同様に「エドム(Edom)→イドメア(Edomea)」となった[14]。


研究者のなかには、
2世紀初頭のバル・コクバの乱でローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、
サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、
のちにイスラム教に改宗し、
現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。


一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。

                       そりゃ、許せないわな



ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。



失われた10支族の行方

以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説であるが必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。また、いずれも通説には至っていない。



一部はアフガニスタンに。パシュトゥーン人には、ヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであった[26]。



一部はエチオピアに。イエメンを経由して、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)がアフリカに入ったもの。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた[27]。



一部は中国に。宋代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もある。(開封のユダヤ人参照。)

                       秦氏登場 ↓


一部は日本に。詳しくは、日ユ同祖論を参照。大陸からの帰化氏族である秦氏が古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説。一時は国際的にも有名だった説である[28]。失われた10支族のうち、第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が、日本に移住したという説がある。

なお、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、有色人種としてのユダヤ人(セファルディム)を想定したもので、当時の古代イスラエル人は有色人種であったとされ、白人ユダヤ人(ヘブライ語でドイツを意味するアシュケナジム)は8世紀頃、ハザール人のユダヤ教への改宗によってユダヤ人を名乗ったのではないかという説もある。

ユダヤ人に多いY染色体ハプログループJ系遺伝子は白人にも有色人種にもみられるため、
イスラエルの氏族に白人系と有色人系があったのではないかという説もある。


                 これが  ↑  オトコ達のJ遺伝子説だね



以下に挙げる7説は学術的な検証という意味では上記の説以上に問題があるとされるが参考までに列挙する。


一部はインドのカシミール地方に。カシミール地方にキリストの墓[29]とモーセの墓と言われるものがある。


一部はインド東部に。マナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。


一部はミャンマーに。


一部は朝鮮[30]に。



「日ユ同祖論」の一種であるが、富山県には塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く目が鋭い人達がそうでないかと言われた(富山では谷を「タン」と読み、「ヤ」と読む場合は屋の字に置き換えられている。県東部にはアイヌや朝鮮・中東の言葉も見受けられる)[31]。また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。



一部はイギリスに。経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。


一部は新大陸(アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。日ユ同祖論と同じガド族である。


以上コピペ


平熱でご活躍だった小林先生は  ガドとダンの争いが源平の戦いだ  とおっしゃってた記憶。
わたしには分かりません。 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月04日 11時55分36秒 ) パスワード

三つ柏さんの  レス<6>  面白かったです。

モーゼはエジプトを脱出した後、同胞達がスグに偶像崇拝にいくから  ホント  困ってましたね。

やっぱり  元々は原始的に  多神教  だったということでしょうね。
本来  人類は多神教  なんでしょうね。


それが一神教とか偶像禁止になって  ユダヤ教  というのが確立して行った  ということですね。


>子牛を崇拝したのではなくエロヒム(ヤハウェ)の台座

     あの地域での  「牛」  のモチーフというのが実に謎です。
         牛の礼拝というのはヒンズー教の影響なのか?

     台座としても  なんで  牛?

     まだ「羊の足の台座」とか「ロバの足の台座」なら  中東世界  ということで理解できるのですが。


           時代がもっと下がってロココ調の「猫足」というのがワラエル。今度のトレンドは猫かよ、って。
 
           アッチの人にとって台座とか家具とか何かの脚というのは「動物の足」で表すのかな?

           日本だと「擬宝珠」を橋に使って権威(江戸幕府の普請による橋)を表すけど。


とにかく面白い。



ちなみに  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E5%AE%9D%E7%8F%A0

擬宝珠は伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾り。
ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

          葱はニオイがきついから魔除けになると考えられていた


紛らわしいものとしては五重塔、五輪塔などの仏塔の先端に飾られるもので、これは擬宝珠ではなく宝珠である。

神社では伊勢神宮正殿の高欄の五色の宝珠型の飾りが原型とされ、当初は朝廷と関わる建造物にのみ存在したらしい。

古い例としては中国、漢代の画像石や敦煌の壁画にそれらしいものが見られる。日本での例では平城京跡の二条大橋のものとされる、瓦のものが見つかっている。

橋の擬宝珠には、その由来が刻まれている場合もある。銘があり現存するものとしては京都 三条大橋に一部残っているものが古く、天正年間に豊臣秀吉の命で改築した際のものとされる。五条大橋も同時期で橋に用いられた最初のものとされる(ただし現在のものではない)。他に、それを模したものとして江戸時代初期の盛岡 上の橋、下の橋のものがある。

江戸市中で擬宝珠を持っていた橋は、日本橋 (東京都中央区)と京橋 (東京都中央区)、新橋 (東京都港区)のみである[1]。


人類って面白い。      
[9]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月06日 11時17分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗教(信心)は、2000年、3000年の時を超えて存続して行くことが
可能だと思います。
 権力者の血脈は、「奢るもの久からず」で、長くは続いて行かないと思い
ます。
 失われた10支族も、権力者であれば長くは続かなかっただろうと推察い
たします。たぶん、彼らは宗教という信心のリンクを、親から子へと継いで
行ったのだと思います。そのリンクのエネルギーは、どこから来ているので
しょぅか?

 「宗教という求心力」プラス「方向性というベクトル」を持っているとい
うこと――それが失われた10支族のポイントであり、その謎解きの一番の
鍵でもあると思います――
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月07日 11時11分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本当のところ、自分が失われた10支族や秦氏になってみないとわからな
いとわからないと思っていますが、宗教と言う求心力にはただ単純なるもの
だけでなく、もっと厳しいものもあったとは思います。
 「方向性」というものは、「東方へ」という古来からの謎の「東方憧憬(し
ょうけい)」に基づいたものりと、宗教信条に基づいた「ミッション」があっ
たのではないかと思います。
 「ミッション」とは「伝道」という使命感もあったでしょぅが、「使命」
という何かを成し遂げる使命感のようなものがあったのではないかと推察し
ています。
 紀元前722年の北朝イスラエル王国が滅びてより、紀元389年の弓月
王が民と大挙して日本にやってくるまで、なんと1111年を要しておりま
す。
 ただ単に流れ着いたというような「やわな」民族ではないと思うのですが、
いかがでしょう。何かを成し遂げる強靭なベクトルをもっていたと推察する
のですがいかがでしょぅか――
[11]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月07日 21時25分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史学者の書いた本は難しくとっつきにくいというイメージがありまして、
かつて購入した本でほぼそのままになっていた本が何冊もあります。今回、
その中で、京大教授でありました故上田正昭氏(今生きておられたなら93
歳)の書かれた本が3冊ありまして、それは――
 @『帰化人』
 A『私の日本古代史(上) 天皇とは何ものか―縄文から倭の五王まで』
 ➂『藤原不比等』
であります。
 自分の方の理解度が高くなり、また古代に対するモチベーションが高い時
でありますので、結構興味深く読むことができます。この三冊は関連してお
りますので、ちょうど今にふさわしい組み合わせでありました。
 読んでみて、上田先生の博識、奥の深さを感じております――
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月08日 00時52分33秒 ) パスワード

三つ柏さん

>上田正昭氏の3冊
>@『帰化人』
>A『私の日本古代史(上) 天皇とは何ものか―縄文から倭の五王まで』
>➂『藤原不比等』

まとめ
よろしくお願いします。

楽しみにしていますね。


実は不思議なことがありました!
でもいろいろ野暮用で忙しくてご報告出来ませんでした。


             中国人の90歳の友人に中国史の報告を中国語でしたり(当然平家がらみの宋史です)
             コロナでバタバタしたり
             
             やっと以下の事をご報告出来る段階になりました


     だいたいワタシには先祖の事を考えているとオカルトパワーが来ることになってるんだけど

     今回も来ました   ってご報告です。


今回?前回?の「麒麟がくる」の中で

信長が読書してて  
帰蝶が入って来て
信長が本を投げ出して「なんで雪が花なんだ?意味が分からん!」と怒って出て行きましたが・・・

    帰蝶は「雪を花に例えているのですっ!」(何なの?アンタ!そんな事も分からないヤツなの?!怒)とバシッと答えて  
    そのシーンは終わりましたが

    覚えていらっしゃいますか?


フツーの人にはこのシーン

「信長って歌の詠めないヤツだったもんな」
「やっぱり信長って粗野なオトコだったんだな」
「信長  教養無さ過ぎ!」

だった?



いえいえ
ココ
重要なシーンだったんですよ。


    だから  「麒麟がくる」で  ワザワザ描かれた  わけです
        織田家とはどういう家か
    そういう演出だったのです


            と、わたしはワクワクして見てたのです  ってご報告です。


つまり信長パパの信秀が美濃の道三と喧嘩しては負けてた頃
    天文年間=1540年代ですね

       「麒麟がくる」もこの頃から始まってましたよね


天文12年(1543年)信長パパが朝廷に4000貫=今の5000万円あたり?=の皇居修理代を献上していて


そのお礼に  翌、天文13年=1544年10月に  当時の連歌界最高権威だった(宗匠だ)谷宗牧が勅使として来ているのです。


     その直前の9月の終わりに信秀は道三にまたまたボロ負けしています。


そういうタイミングで谷宗牧が朝廷からのお礼を持って那古野に来たのです。
お礼の品は「古今集」の写しです。


     那古野城は6年前に信秀が今川氏豊から謀略を以て奪った城です。



だから  このシーンを見ながら   ヲヲッ  と感動してたのです。


あの時のお礼の品を、信長は一応、目を通してはいたのか!、と感動してたのです。


それがねぇ
三つ柏さんがお書きのことと全く重なるのです。

つまり  わたしはこのシーンを「天下人の父・織田信秀」という本の中で読んで予測出来ていたはずなのに


信長が本を床に叩きつけて出て行って  場面は  この本のタイトルを大映ししました。  


ヲヲッ!
「古今集?あの古今集?ウッソォ〜  あの返礼で拝領した古今集の写し?」
と大感動!


ホントに今回の「麒麟がくる」は  脚本良し  演出良し  出演者良し  の3拍子大満足作です。

もう、ずっと、日曜から大感激大感動の日々で、早く三つ柏さんにご報告したかったです。


この本ですが
何を血迷ったか
魔窟をちょっと片付けしたら
バサッと落ちて来たんですよ。

このタイミングも不思議でした。


前回の暗殺シーンてんこ盛りの「麒麟がくる」で彦五郎さんが暗殺されて
今回の信長が清州城にいたシーンで始まって

    あ〜あ
    とられちゃったよ〜
    うちの先祖が大慌てしてる頃だな〜
    大学1年の時の先輩の家が今川方に走る前振りだな〜

       「麒麟がくる」の現在は桶狭間の数年前ですね


同級生の家の名字もいっぱい出てるし

同級生でも  なんとなくイヤ  って感じだったのはそういう事だったのか
とかね。


ぼんやり字を追いながら読んでた時と
事情が分かって読み直すと
感動が違いますね。

アタマの中にもスンナリ入るし(でもとどまらない  泣)
[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月08日 06時09分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 頭の中に入っても、記憶されずにスルーしてしまう。ぼんやりとは記憶に
残っている場合もありますが、完璧にスルーしてしまっているものも結構多
いですね。その対策としては、こまめに帳面に書き留めるのが一番なのです
が、それも手間がかかるのでおろそかにしてしまう。インターネットの場合
はどこに書いてあったのか全く分からなくなる。本の場合は、それでも何冊
かめくってみれば、なにかしらチェックマークをしてありますので何とかそ
こにたどり着けます。でも一苦労であります。

 信長と古今集のシーンにはそんな伏線というか意味、暗示が込められてい
たということに気が付かれたあを様はさすがですね。和歌は朝廷文化であり
ますので、それに対する信長の考え方・感じ方の片鱗がうかがえますね。こ
こが意外とポイントなのかも知れませんね!

 「麒麟がくる!」は毎回おもしろく、また次回への興味もつないでくれま
す。音楽も実にいいし、ドラマ終了後のジェイク・シマブクロのウクレレも、
単なるハワイアンの楽器のイメージをはるかに凌駕し、「オリエント」をも
感じさせる立琴のような音色を出しています。いわばシルクロード(この場合
は海のシルクロード)をたどって古代ローマにつながるような音色、これも
ローマにつなげる伏線なのでしょぅか。CDがほしくなりました――
した。
[14]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月08日 08時05分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 渡来人についての情報を整理しなければいけないと思って、過去から買い
集めた本の内容をチェックしてみました。それらを比較検討した結果、やは
り、故上田正昭教授の『帰化人―古代国家の成立をめぐって』と言う本が、
一番わかりやすく、スタンダードになると感じました。もっとも上田教授の
本は、どれもスタンダードになると思っています。すべてに深い見識が見う
けられます。ただ、学会の常識のテリトリー(柵内)という制限はどうしても
あります。そこを超えると異端の世界になりますので致し方ないとは理解し
ております。

 まずは「渡来人」と「帰化人」の違いですが、上田教授によりますと、前
者はただ単にわが国に来た人という一般語、「帰化人」は、渡来した人の内、
わが国の秩序に従い、その範囲に入った人(つまり「化内の人」」人のこと)
を言うとしております。
 また、興味深い話として、『古事記』と『日本書紀』のそれらの言葉の取
り扱いについて、前者には「帰化」と言う言葉が見当たらなく、後者におい
て使われているという現象があるということで、それは日本書紀の方により
律令的な精神が反映されているということを物語っていると言う。

さて、その渡来の波については、およそ次の4つの波があると言う――

 @第1波:紀元前200年ごろから続く波
 A第2波:5世紀、特に応神・仁徳朝にかけての波
 ➂第3波:5世紀の後半から6世紀の初め、つまり雄略朝から欽明朝へか
      ての波
 C第4波:7世紀後半、特に天智朝の前後の波

 その内容については、長くなりますので今回は避けますが、他の人の説も
表現の違いはあるにせよ、このパターンと基本的には同じだと思います――
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月08日 15時38分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


>渡来の波
>@第1波:紀元前200年ごろから続く波

紀元前の日本がどんな状態で  どんな人々が  どんな風に人々が日本へ来ることが出来たのか  想像しか出来ませんが


縄文人の考え方  弥生人の考え方  渡来人の考え方  いろいろあったであろう事は  ま  そうでしょう。


日本って  女性に対して  今では差別のような区別が永くありました。


例えば「産屋」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%A3%E5%B1%8B-35086



喪屋,
他屋 (月経小屋) などとともに穢れた者を社会的に隔離する小屋の一つで,

                       これはユダヤ教的だな


出産時の女性を隔離するための小屋。


産屋には2種類あり,
出産の場となるとともに産後しばらく家族とは別に生活する場所となる場合と,
出産後に生活する場所のみの場合とがある。

村落単位で常設の産屋を設ける村が多かったが,出産後臨時に産屋を設ける場合や,また家族ごとに産屋を設ける村もあった。

産婦が産屋で生活する期間は村によって異なるが,
三重県志摩地方のある村では初産は 60日,2回目以後は 40日と決められていた。
産屋はこのほかに山形,伊豆諸島,静岡,愛知,福井,兵庫や瀬戸内海沿岸地域に存在したが,比較的西日本の沿岸地域に多く分布していた。

しかし,病院での出産の増加や医学知識の普及に伴う穢れ観念の衰退によって,第2次世界大戦後急速に消滅した。


産屋の存在は産婦が家族とは別火の生活を送ることに基本的意味があり,出産の穢れ観念の強さを示していたといえる


                    「火」?
                    これはゾロアスター教の影響?



出産のため母屋(もや)とは別に建てられた小屋。
平素の寝室や納戸(なんど)が産室になる以前の姿を示すもので,
〈でべや〉〈たや〉とも呼び,
集落で共有する例も見られた。

産婦は20〜30日間,ここで別火の生活を送り,出産のため家の火のけがれるのを避けた。

                       やっぱりゾロアスターの影響なのかな?



出産をする部屋や施設。
特別に産小屋を設けるものと自宅で出産するものとの二つがある。

産小屋はデベヤ,タヤ,ヒマヤ,カリヤなどとよばれ,月経小屋を兼ねているものもある。

いずれも産の忌により,家の火をけがすのをおそれて,別火の生活をするものであった。


記紀にみられる豊玉姫の出産のように,
古くは出産のための仮小屋を村はずれや山中,海辺などに臨時に建てて,
産がすめば燃やすかこわすかするものであった。

                       へぇ〜
                       これは知らなかった


                       これって  厩戸皇子が馬小屋で生まれたから  馬小屋を燃やすわけにはいかなかった  という意味なのか?
 
                       あれ?と思いました

明治半ばころまでは,村共同の産小屋を設け,
産婦が産の忌の間(21〜75日)ここにこもる風が,
志摩半島,敦賀半島,若狭湾沿岸,瀬戸内海沿岸,伊豆諸島などに見られ,敦賀半島では1964年ころまで使われていたものもある。


                       これまたスゴイ!


以下割愛




日本じゃ、ある期間の女性は小屋に身を隠し、出仕してはいけなかった。

                      これって日本独自と思っていたけど
                      ユダヤ教にも似たような習慣があるので書いて置きます。

                           ココからもクラスターが起きているわけですから。



それは「ニッダー」です。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%80%E3%83%BC_ (%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89)

ニッダー(Niddah、Hebrew: נִדָּה)

ミシュナーとタルムードの一つで、トホロートを構成する文献。
その内容は、主にニッダーのハラーハーにおける法的規定を扱っている。

                       ユダヤ教もいろいろで
                       トーラーしか認めないとか
                       タルムードはつまりラビの権威を守るものだからと否定する派もあります
                            キリストはラビを批判否定したから、ああいう事になったと思っています

                       

で、本題:

ユダヤ教においてニッダーとは月経期間中の女性を意味し、
儀式的水浴であるミクワーを完了していない女性のことも指す。

トーラーのレビ記では、ニッダーの女性との性行為は禁止されている。



       ニューヨーク州でクラスターが起きたのはユダヤ人社会からで
       この町(ニューロッシェル)はなんと文字通りのロックダウン措置になりました。

       ロックダウンというのは  軍隊が封鎖すること  です。

       ニューロッシェルの某シナゴーグ=ユダヤ教会=の半径1マイルをロックダウンし
       この町の住人には州兵が食糧を配りました。

                       これがいわゆる本来の意味の「ロックダウン」というものです。



       で、最近  某ラビが亡くなって  この葬儀にユダヤ教徒が3密をやって  大騒ぎでした。
       集まった数千人のユダヤ人達は  当然  マスクはしてないし  ソーシャル・ディスタンシングもしてないし。



で、ユダヤ教の女性のNiddahについてですが
やはりミクワーで感染が起きるわけです。

                       現在どうなっているか知りませんが
                       ユダヤ教の女性はミクワーを済まさないといけない

                       どうなってんでしょうね?
                       わたしには分からないし
                       ユダヤ女性にしてみれば  毎月の大事な行事です・・・

                            ムカシの日本で産屋でない馬小屋で出産する意味
                            生理中に出仕する意味
      
                                 コレってタブー破りじゃないですか?
                                 大問題ですよね?当時は



Niddahというのは、
生理中の性交は禁止、
だから生理が終わったらMikvahミクワーという施設で「汚れ」を洗い清め、
生理が終わった証明をしなければ

         (沐浴後に白い布かタオルで体を拭いて証明しなければならない)

夫婦生活を再び持てない。




わたしはユダヤ人が本当に日本に来てたとしたら  女性に対して影響が大きかったのあな?と。

    今に至る嫁姑戦争と
    最近まであった産屋や月経小屋が
    その名残りなのかなと。


ユダヤのオトコ達は「失われた部族」だったのでは?と。
つまり  ユダヤ教を失った  と思っています。

オトコは楽な方に流れたのでは?と。ユダヤ教を棄て日本に同化したのでは?と。



それにしてもユダヤママの強さよ!

アメリカでユダヤ人のオトコと結婚して姑にしっかりやられまくってる日本人女性の嘆きは聞いてたけど

ユダヤ人ママは  日本でも  ミクワー  をやってたのか  と。
わたしは1964年あたりまで産屋が存在してたなんて知らなかった。
オンナは穢れというのは知ってたけど。
[16]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月09日 12時05分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「同化」という言葉、秦氏も表面上"日本人"として「同化」し、見えなく
なりました。

 同じことが、中国の「開封(かいほう)に約千年前に来たユダヤ人にも言え
ます(小岸昭著『中国・開封(かいほう)のユダヤ人』)。

 それは、オリエントやヨーロッパと違い、いわゆる「ユダヤ人差別」のな
かった寛容な国においては、その国の中で自由を獲得し、代々の繁栄も可能
となり、異人間の結婚も進む。その土地の言葉を話し、元来のヘブライ語も
使わなくなり忘れてしまうという傾向の中で、同化は自然の流れ、やむをえ
ないこととしてユダヤ人に受け入れらて行ったと、共通して言えるのかも知
れません。

 ただ、民族の伝統と誇り、あるいは何か根源的なものは、なくしたくない
はずであります。それらは地下の「水」や刻印された「石」のように後世に
残し伝えて行きたいと願ったでしょう。
 たぶん、ユダヤ人はトーラーやタルムードと言う形でその精神・伝統を代
々伝えて行こうとしたのではないか。

 でも、一番効果的なのは、宗教そのものを伝えて行くということではない
か。秦氏が色々な神社(宗教の形)を残したことがそれを物語っているのでは
ないか――
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月09日 14時17分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


「失われた部族」

というのは  ある一部の=実際には12部族中の10ですから=つまり大部分の=ユダヤ人達ですが
彼らがどこに消えたか分からない    
という意味で解釈するのがフツーでしょうけど

わたしは  ユダヤ人が世界中に拡散移動の途中で  土地に馴染んで  ユダヤ教を棄て  ユダヤ人でもなくなった  
というのを「失われた部族」と呼ぶ  と思っています。


   つまり今に至るユダヤ人にすれば「失われた10部族のヤツラとは棄教しやがった唾棄すべき裏切者達ってコト」という意味と思っています。


   10部族は拡散して  例えば  中央アジアだったり  南アジアだったり  東アジアだったりに「元ユダヤ人として」  骨を埋めたのだろうと。


日本に来た  元ユダヤのオトコ達は  ユダヤのオンナ達とは違って  ヘタレで痕跡無く  完全に日本に同化したんだろうな  と思っています。


例えば  ユダヤのオトコであるシルシ   これは何か分かりますか?  
割礼です。
これは  ユダヤのオトコのシルシです。


            ま、アメリカは衛生上この習慣を採用して、生まれた時にやっちゃってますが。

            でも日本じゃやらないでしょ?
            日本でやるのは包茎で困ったオトコ限定じゃないですか?

            わたしは  オトコじゃないから  100%  正しく理解しているかどうかは知りませんが
            日本では  生まれた赤ん坊に  割礼をやっちゃう  というハナシは聞いたことがないです。

                  日本でもやってる?



ユダヤ教では、割礼はブリット (ברית/Brit) と言って、
ヘブライ語で   「神との契約」  を意味します。


       だからね  ユダヤの子供が何らかの理由でキリスト教世界に紛れ込むことになった時
       ユダヤの子供ってコトが  スグに身バレ  するのです。


            カラダにシルシがあるから。



うちのオットが言うには  「赤ん坊の時にじいちゃんに皮を盗まれた」   


じいちゃんは産婦人科医だったんで。


                   サンタモニカの1964年以前生まれのオトコはみ〜んな皮をウチのじいちゃんに盗まれてるんだよ〜  笑



キリスト教は割礼をやらなくて良いということで  だから  世界中にキリスト教が広まることにもなったのです。


だから   オトコについては  ユダヤ教である  ということが肉体的にもハッキリしている。

          アメリカは衛生上の理由でやってるけど。



ユダヤ教のユダヤ人として
   オトコにとって一番大事なことは  割礼
   オンナにとって一番大事なことは  異教徒の血を自分の子孫に入れない!
キッパリ


                 日本のオンナほどユダヤ女の矜持を守っている女はいないのかもね
                 嫁姑戦争はこれからもエンエンと続くんだろうな


                 だいたい生理休暇って  コレでちゃっかりスキーに行くとかね
                 日本のオンナ  すごい!




彼らユダヤ人は  エリート  なのです。


              彼らには世俗の法などクソ喰らえ!
              3密?
              アホか!


              ハードコアの彼らはワクチンも打たないから
              毎年  ニューヨークで  ハシカが流行り出したというニュースに  
              ワタシは戦々恐々となります。


                        わたしはハシカに免疫が無い1人だから。
                        ハシカにかかると大変なんですよ。

                              エリザベス女王も1960年代だったかな?ハシカにかかったそうで
                              これがワタシの自慢でもあったりします。

 
                一応  去年  ハシカの予防接種をちゃんと受けましたよ。
                ハシカがNYからハワイにも広がったとニュースを聞いたので、スグに。



ニューヨークって  ジュー・ヨーク  って言うんですよ。
ユダヤ人の支配する町  ってコトです。


イスラエルでもハードコアのユダヤ教徒がイスラエル政府の希望を聞いてくれないから感染がスゴイんですよ。

ハードコアのユダヤ人には  ユダヤ教の教えを守ってコロナに斃れる方が良し
だから。



ジョンズホプキンズより早いサイト:https://www.worldometers.info/coronavirus/

Last updated: May 09, 2020, 04:43 GMT

Coronavirus Cases: 4,014,307   世界の感染者数  400万人超え!
Deaths:          276,236    死者数まもなく30万人


イスラエル  人口 888万人 (2018年)   感染者数  16,436 日本より多い  死者数  245



日本   感染者数 15,575    死者数  590
[19]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月10日 12時05分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代イスラエル王国のいわゆる「失われた10支族」の発生というものは、
紀元前722年にアッシリアがイスラエル王国を滅ぼし、奴隷として10支
族をアッシリアに強制連行し、その後、彼ら10氏族の消息が途絶えたとい
うことによる。

 ユダヤ教というものが今日の組織的宗教になったのは、、紀元前587年
のユダ王国の滅亡とユダヤ人のバビロニア捕囚を契機としているという(『ユ
ダヤ教の本』(学研))。

 従って、失われた10支族のユダヤ教としての宗教的なレベルは、年代的
に言って、まだゆるやかなものであったはずであります。つまり、寛容性や
融合性があったと推測されます。それらの者たちが、何世代にもわたり、ま
た何波にもわたってって日本に来ていたとすれば、当初の宗教的な概念はか
なり変容しているはずであります。

 つまり、秦氏をわかりにくくしているのは、それではないかと思うのです
がいかがでしょぅか――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月10日 15時12分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


大昔のことで  大昔過ぎて  いろいろハナシがあり過ぎで  そこには  民族出自ロンダリングもあるし

    ユダヤ人とは元々はエジプトにいた人々でエジプト人だけど
        アブラハムはメソポタミアのなんちゃらの土地の出だというハナシにして
        自分達の出自をロンダリングした


        実はエジプト最下層のエジプト人だった


    それをモーゼがラムセス2世と交渉して
    奴隷の身分から解放させてもらい
    エジプトから出ることを許して貰った


                 その割にはラムセス2世の軍隊が追い掛けて来たけどね
                 奴隷を失うのが惜しくなって  だったら  皆殺しにしてやろう、と?



レス<7>

>北王国は紀元前722年に同じセム語系民族であるアッシリアにより滅ぼされ、

                 国は滅ぼされても  人は生き延びる

                     平家が源氏に滅ぼされても
                     平家の人間は生き延びている   #わたしだ     # me too


>10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚)

                 <指導者層が>捕虜として連行された<指導者層が>


>サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、

                 その数  3万ほどが捕虜になった


>北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されている

                 この20分の1ってのが  3万人ほどのこと?

                 つまり20分の19は  連行されてない=英語では 旧イスラエル北王国の土地から追放された と書かれている
                 


>が、その行方が文書に残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた。


                       ふむふむ


>広義には捕囚とならなかった北王国の住民を含んでいう場合がある。

              ユダヤ人・ユダヤ教徒としてのアイデンティティを失った  ということで  「失われた」10部族  と呼ぶわけね

                 ↓

               ココに書かれている

                 ↓

>捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に10部族としてのアイデンティティを失ったといわれ、

                    北王国を出てヨソの地を彷徨い  そして  ユダヤ教徒としての信仰も失い  もはやユダヤ人ではなくなった


>周辺の異民族や、アッシリアによって他地域から逆に旧北王国に強制移住させられてきた異民族と通婚し混血することもあった。

                     居残った人々もいたわけだ

                     そして居残った人々は他民族や異教徒たちと溶け合ったんだね

                     で、ユダヤ人として ユダヤ教徒としての  アイデンティティを失った


                          だから、もはやユダヤ人でもなく、ユダヤ教徒とも認められなくなった=アイデンティティを失った=
「失われた10部族」ということ
                         

The ten lost tribes were the ten of the Twelve Tribes of Israel that were said to have been deported =失われた10部族とは紀元前722年から紀元前721年にかけて、征服された北イスラエル王国から追放された10部族の人々のこと=from the Kingdom of Israel after its conquest by the Neo-Assyrian Empire circa 722 BCE.

"In the ninth year of Hoshea, the king of Assyria captured Samaria and he carried them away to Assyria and placed them in Halah, and on the Habor, the river of Gozan, and in the cities of Medes." In the years 722-721 BC, the Ten Tribes who comprised the northern Kingdom of Israel disappeared.


失われた部族の子孫とは現在のどの人達か?

These are the tribes of Reuben, Simeon, Dan, Naphtali, Gad, Asher, Issachar, Zebulun, Manasseh, and Ephraim.

10の部族名の羅列。

で、このうちのダンとかガドとかが日本に渡って源氏と平家になったと、小林先生などがお書きでした。
7000傑とかいう人も同じことを書いてた記憶。


失われた10部族の現在の人達

Peoples who at various times were said to be descendants of the lost tribes include the Assyrian Christians, the Mormons, the Afghans, the Beta Israel of Ethiopia, the American Indians, and the Japanese.

失われた10部族の現在の人達は  
アッシリアのキリスト教徒、モルモン教徒、アフガニスタン人、エチオピアのベータ イスラエル(って これが  ダンの子孫に相当)、アメリカインディアン  そして  日本人(笑)
        

              意味が分からない
         
               特に  モルモン教徒は人種としては白人で19世紀あたりの完璧イギリス系アメリカ人達から始まったでしょ。



イスラエルの13番目の部族

The Thirteenth Tribe is a 1976 book by Arthur Koestler, in which the author advances the thesis that Ashkenazi Jews are not descended from the historical Israelites of antiquity, but from Khazars, a Turkic people.

歴史的に古代イスラエルの民の子孫というわけではないけど
13番目の部族としてアシュケナージ系ユダヤ人がいる。  

つまり 7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた中央アジアに起源を持つチュルク系半遊牧民のハザール人だから。

      一般的にはアシュケナージって  東欧系ユダヤ人  って言うけど  ワタシだけ?


ダン部族

Dan was the last tribe to receive its territorial inheritance. The land originally allocated to Dan was a small enclave in the central coastal area of Canaan, between Judah, Benjamin, Ephraim and the Philistines. To the north the territory of Dan abutted Joppa, the modern Jaffa.

ユダの次に大きい部族だったそうですよ。


12部族のいた場所の地図:
https://en.wikipedia.org/wiki/Tribe_of_Dan


ダンって今のガザあたり?
では  ガドの土地って  今のアンマンとか?

           方向音痴というか地図の読めない典型的おんなだね。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月10日 15時26分35秒 ) パスワード

地図
出るかな?

方向音痴なので  やっぱり  テキトーな地名を書いてしまった。
ダンって  テルアビブ  のあたり?
ガザまでは下がらないか?

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月10日 16時52分13秒 ) パスワード

ユダヤ人はアブラハムから始まってモーゼという偉大な人物が出て
モーゼの10戒が基礎

     なんだけど・・・  ま、人間というのは崩れるもんでしょうね  規則があるから破りたくなる、とか?



下のはプロテスタントの10戒ですが

1.主が唯一の神であること
2.偶像崇拝の禁止  ← カトリックは  コレが無いのよね 未開人を改宗させるのには偶像が必要だからね 替わりにW不倫の禁止「隣人の妻を欲してはならない」か?笑
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
9.隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと


このあたりがユダヤ教でなくても宗教の基本だと思うけど


名前を忘れたけどユダヤ人の伝説によると  アダムの最初の妻はアダムと対等でルシファーと駆け落ち  
その後  アダムは従順なイブを造ってもらったけど  イブの言いなりになり アダムに失望した神は怒って2人を追放  

        オレ様の言うことを守れないなら2人で頑張って生きて行け!と?


日本は  偶像崇拝大好き民族  よね。
中国人も偶像大好きだし
兵馬俑なんか秦の始皇帝が自分の墓に8000体も人間サイズ馬サイズで並べてますよね。
漢代には小さくなって
それが日本に来て  埴輪  に変化したんでしょうね。


     そう言えば  始皇帝の実父の呂不韋は西アジアだかトルコだか系だとか。
     


ゾロアスターは「フヴァエトヴァダタ」<最‼‼‼近親婚>を最善とし   ← 日本の天皇家もコレですねぇ 最近まで


人間とは  こういうもの  かもね。


12部族の父であるアブラハムの孫のヤコブは妻2人に側室が2人がいたそうで。
このハナシがイスラム教になると正妻が4人までオーケーに?


ま、オトコというのはユルくてテキトーなのかもね。
そこにいくとオンナは  NOはNO! とアタマが堅くて  「ゆるせない!」。



面白いサイトを見つけました:
https://blog.goo.ne.jp/02200224/e/bbf85ce7968c6f772f4e2deaf82c8d01
秦の始皇帝はどこの民族だったのか?


URLに行ってください。
面白いですよ。

>「兵馬俑は外来文化、特にギリシャやペルシャなど西方の彫像文化を受け入れたものでしょう」

>秦氏は大陸から渡来してきた技術集団だったのです。ただし、漢民族(中国人)ではありません。

もっと遠くからの渡来人です。泰氏は、いろいろな分野において、他の渡来人とはまったく性格を異にする、いうならば、まことに奇妙な渡来人だったのです。



秦氏の渡来について、『日本書紀』 巻第10「応神紀」に記載があります。

「十四年二月春、百済王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を奉った。・・・・・その年、弓月君(これが泰氏)が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった。それで速やかに新羅に行って、弓月の民を救出した」と記しています。



ここで言う「弓月の民」とは西アジア地域につながり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を引き継ぐ一族に辿り着く可能性さえあるというのです。

ご参考だが、イラン系白人のサカ族は「月氏」と称されていたのです。

以下略

「月氏」というのは知ってましたが
「イラン系白人」というのは知らなかったです。

他にもいろいろ面白いことが書かれています。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月11日 03時23分10秒 ) パスワード

友人のお話
コピペ


奈良ですけど,最近大発見がありません。


明日香に,菖蒲池古墳と言う地味目のがあります。
明日香特別支援学校だったかの校庭にも小さめの古墳あるのですけど,
菖蒲池古墳とこの明日香と支援学校の校庭の古墳なんですけど,
去年発掘してびっくり。


棺桶に朱が塗られていたそうです。
大王級以外ではありえない古墳で,

甘樫丘の横にあるので,蘇我蝦夷,入鹿親子の双塚(ふたつづか)と言う説が強くなっています。


それと,少し離れますけど,
馬子の古墳と言われる石舞台古墳の少し上に,
都塚古墳と言う,これも大変地味目の古墳ありますけど,
これも数年前発掘したら,

エジプトのクフ王のピラミッド位の大きさあることわかり,また大騒ぎでした。


こっちは,馬子の父で蘇我氏の元を作った蘇我稲目の墓と言われています。


ただ,両方とも,去年見てきましたが,大古墳とは思えませんでした。

都塚古墳ですけど,地震で崩れた跡があるそうです。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月11日 10時35分06秒 ) パスワード

「麒麟がくる」が終わったところです。

初めの方は良かったけど
3分の2あたりから  ドッチラケというか滑りまくってたというか

   モッくんは良かった
   帰蝶さんも良かった  さすが  マムシの娘らしい演出だった
   信長も良かった。


だけど道三が討たれた後の明智の庄シーンからが学芸会レベルだった。
こんな低レベルの出来の大河を見たの初めて。


長谷川博己が頑張ってたのは分かったけど

明智方の皆さんが百姓も入れて、みんな、ドッチラケだった。


今日は初めの方から本当に役者の皆さんのセリフが聞き取れなかった。
何か言ってるのは分かったけど
何を言ってるのかが聞き取れなかった。


   陣太鼓叩いてたドラムの一団の、一番手前の若い男性がすっごくハンサムだった。
   なんでこのヒトを何度も映したのだろう?
   わたし好みのハンサムだから嬉しかったけどさ。

      当時の太鼓の撥って木の棒だったの?
      それも気になった。


   なんかド〜でも良いシーンに力が入ってて  配分  間違ってやしませんか?  と何度も思った。


せっかくの明智の庄の別れのシーンも間延びしてて  さっさとみんな家に戻って野良着に着替えたら?  とイライラした  高政の軍が攻めて来るの、分かってるのに。


そして石川さゆりのシーンを作ってあげたんだろうけど  オッカサン  足  引っ張るなよ  と  イライラした。


明智一族が滅びようという大事なシーンなのにドラマ性の魅力、半減だった。

やっぱり演技もセリフも下手だからだったのかな?



あ、帰蝶さんは  たぶん  この「麒麟がくる」では  信長より1回り年上女房の設定なんだろうなと思った。

    信長は15歳ぐらいの時に結婚してるのかな?
    ×2の出戻りの帰蝶さんは信長より7つは年上だろうな、と踏んでたけど
    今日は、もっと年上なのかな?  
    光秀と同じあたりの年齢なのかな?と思い始めた。


    初めの方で彼女が信長に「2000対1万3000では応援に行くなど死ににいくようなものだから意味が無い」と断るシーンに  「帰蝶さま、賢い!」  と感動。

    その後の写経の紙を丸めるて「バカばっか!」と言うシーンもすっごく良かった(オトコって何でみんなバカばっかなの?)と。

          戦国時代に生きたオンナ達はあんなに賢かった!  の?  かな?  と。わたしの反応もデクレッシェンド。わたしには無い発想だったから。


ま、とにかく今回の「麒麟がくる」は尻すぼみだった。  ヘッタくそ!  アタマが良かっただけにね。惜しい
[26]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月12日 09時45分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 海の魚で「ハタ」という魚があります。なかなか釣れない高級魚であり
ます。つまり"うまい"、"おいしい"魚であります。私も一度だけ釣ったこ
とがあります。
 でも、なぜ「ハタ」と呼ばれているのであろうかと、改めて考え、調べ
てみたところ、思わずびっくりしてしまいました。
 それはなぜかと言うと、ハタのことを英語では、"Jewfish"と呼んでいる
であります。何で"Jew"なんだ……?
 
 ハタにはアカハタとキジハタがあり、キジハタを「アコウ」と言う。こ
れも秦氏に関係する土地の「赤穂」という地名に関係するのだろうか(偶然
の可能性は大)。

 そういえば、秋田の名物に、海の魚「ハタハタ」がありました。これも
何で「ハタ」なんだ。しかもハタを二度も繰り返している。
 秋田県には、「大湯のストーンサークル」やピラミッドと呼ばれる「黒
又山」があり、隣県の青森には、例のヘブライが由来とされる「戸来」村
があり、この辺はヘブライ色の感じられる地域であります……。
 
 ハタの表面の模様を見てみますと、魚体の後半部に輪を巻いた縞模様が
見られます。これは、囚人の着る縞模様の服を連想させます。Jewfishと
命名したのは、囚人服(迫害され続け投獄されたユダヤ人の姿)から来てい
のでしょぅか?
 そういえば、秦氏もある時期より迫害されるようになります。

 ハタという魚、かわいそうで食べられなくなりました――
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月12日 11時39分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

>ハタのことを英語では、"Jewfish"と呼んでいるであります。
>何で"Jew"なんだ……?


お答えします:


つまり  コーシャー・フードに合格した魚だから   です。
コーシャーとは、ユダヤ教の食物規定に合格している、ということです。



ユダヤ教にはいろいろな規定があって  戒律があって
コーシャーは食べ物についての規定で

例えば
テーブルに載る場合    鶏肉と玉子が一緒の料理はダメ  です。
両方一緒に殺して食べるということは  絶滅させること  だから。

    日本の「親子丼」なんてもってのホカです。



例えば
肉と牛乳を一緒に調理してはならない


例えば
肉を切ったまな板で野菜を切ってはいけない
血が不潔だから     女性の月経同様血が不潔だから


一番有名なユダヤ人の食についての戒律は  豚肉禁止  だと思います。イスラム教も同じですね。
豚は不潔だから
寄生虫がいるから。


ココでアップします。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月12日 12時14分57秒 ) パスワード

イスラム教徒のラマダンは(断食月)2020年度は4月23日(木)より5月23日(土曜)まで。
日の出から日没までの間、「飲・食」を絶つ。



キリスト教は月の初めの日曜の朝食断ちだったかな?やった事が無いから分からないけど  そんな記憶?



ユダヤ教はYom Kippurってのがありますね。  ヨム・キプール  でいいのかな?

2020年度の新年はユダヤ暦によると9月28日月曜日で
新年の日から10日間は「反省の10日間」として神に対して自分の行いを悔い改める儀式をする。

25時間の断食断水をトーラー(律法の書)に従ってする。

絶対に   夫婦関係ダメ・買い物ダメ・歯磨き洗顔ダメ・革靴も履いてはならないなど。


で、9月27日はイブになるわけで   贖罪の日前夜 Erev Yom Kippur  イブですね
ヨム・キプールの前のディナーは豪勢で  
ユダヤ人は世界中に散らばってるから  その土地その土地の物を食べるわけですが
豚肉や海老・蟹は食べてはいけない。


食べるにしても   女性は雌鶏を  男性は雄鶏を食べる  とかね。
なんか色々メンド臭い規則があります。



わたしはユダヤの家庭については外側から覗いているだけね。
明日医者の日で今日は血液検査を受けたんだけど16時間の断食をした上に6本採血されたので、さすがにドッと疲れた。

イスラム教徒もラマダンの間は大変ですけど
ユダヤ教徒も25時間の断食にはドッと疲れるそうです。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月12日 12時33分32秒 ) パスワード

イスラム教徒の「ハラール」は日本人にも今や御馴染みと思いますが
ユダヤ教徒の「コーシャー」は知らないかな  ということでコピペしますね。




https://kosherjapan.co.jp/fundamentalpoints/
コーシャ規定の基本

コーシャ食品に関するユダヤ律法の規定を、一部ご紹介します。


【動物に関する規定】

1.コーシャ食品として屠殺される動物は、健康な個体に限られます。コーシャの動物は「分かれた蹄を持ち、反芻する」種と定められています。ウシ、ヒツジ、ヤギ、シカが該当します。

                   だから豚はダメ


2. 極めて限られた鳥類(ニワトリ、カモ・アヒル、ガチョウ、シチメンチョウ)だけがコーシャとされます。

                   鳩はエジプトとか中東じゃ人気なのにね


3. エビ好きの方には残念ですが、エビはコーシャではありません。貝類もコーシャに認められていません。


コーシャの魚介類は、「ヒレと、たやすく取ることのできるウロコ」を持っていなければなりません。
多くの場合、ウロコがついたままの魚の切り身でないと消費者にコーシャとして売ることができません。
それだけでなく、魚屋さんが使う刃物やその他の設備もすべてコーシャでなければ、コーシャの食品とはされません。


4. 同じ料理の中に魚と肉を両方使うことはできません。


5. 同じ料理の中に乳製品と肉を両方使うことはできません。


6. 加工食品の製造にはラビの立ち合いが求められます。


7. 鳥類と家畜の屠殺は、シェヒターと呼ばれる厳格な規定に従わなければなりません。動物を苦しませずに屠殺することが求められます。


訓練を受け資格を取得した者だけが、コーシャの動物を屠殺することを許されます。
屠殺後には、別の専門家たちが病気、奇形その他の清浄でないとされる兆候がないかどうか、動物の体内を調べます。
肺は特に清浄であることが求められます。
さらに、全ての血とほとんどの脂肪が除去されます。

                       血は不浄だからね

                       脂身は美味しいのにね


欠陥が見つかった場合には、肉はコーシャになりません。

コーシャのための検査は動物が生きているときから始まり、肉製品が屠殺場を離れるまで続きます。

コーシャ検査員たちが、全工程を入念に注意深く観察し、屠殺から出荷までを管理します。

各工程ごとに継続的に検査が行われます。



8. コーシャの食事だけを摂ろうとするなら、二組の別々の調理道具、鍋、釜、皿などを家庭に備えることが必要です。

一組は鳥と動物の肉の専用にし、もう一方は、それ以外の食品用にします。


両方の皿を同時に洗うことはできません。

コーシャの家庭には二つのシンク(流し台)が理想的ですが、

                        ロスの家もラスベガスの家も流し台は2つありました。
                        ハワイのこのタワマンは流しが1つでビックリしました。笑



シンクがひとつしかない場合には、
一組を洗った後にシンクから水を抜き、
きれいに洗った後でならもう一組を洗うことができます。


食器や調理道具を拭くためのタオル、乾燥棚も別々に用意します。



【野菜、穀物、果物に関する規定】

1.穀物類は基本的に虫の混入をどのように防いでいるかが問われます。

2.果物の中で注意するべきものは、ブドウです。ブドウは神聖なものとされ、「畑を7年収穫して1年休めせる」「ブドウ畑の10%を収穫しないで誰でも収穫できるようにする」などの規定があります。

ワインやブドウ入りの食品を作るときは、この規定に則る必要があります。


食品がコーシャとなるためには、この他にも様々な規定がありますが、加工食品の場合には、パッケージにコーシャ認定マークがあることを確認すればよいでしょう。

「コーシャ・スタイル」という表示は、コーシャではありませんので注意してください。

コーシャマークが付いた商品だけが規定通りの検査を受けていることを保証しています。

コーシャマークには日本のKJ(Kosher Japan)のほか、大手のOU、OK、Star Kなどがあります。



                       アメリカでは既成食品にはコーシャーのKが書かれているならコーシャーとされていると思います

                       コーシャーでないのにKと書かれていたらユダヤ人が怒るから。


イスラム教徒のハラールもこんな感じだと思います。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月13日 04時27分39秒 ) パスワード

別の友人よりメールで頂きました:
以下コピペ


都塚古墳は秦氏の匂いがしますね。
蘇我氏は明らかに「おおきみ」の座についていたと言われて居ます。

天皇と呼ばれるのはずいぶんと後の世のことですからね。


黒又山や位山のピラミッド状遺構につなげるのは無理ですね。
時代がかみ合わないですから・・・。



都塚古墳(6世紀後半)・・・・蘇我稲目に相当する階段状の積み石型の古墳。

ピラミッド・・・・とは少し・・・・言い得て妙成る・・・です。

1辺約41〜42メートルの大型方墳で、階段状に土を盛って高さ4.5メートル以上の墳丘を築いた。

人頭大の石を垂直に積み上げていた

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG1302V_T10C14A8CR8000/  

人頭大の石ですから切石では無いですね。
切石だと高句麗や百済に類似はあるとのこと。

仏教の伝来の地からの伝来では無いと言うことのようです。



似た遺跡があります。
熊山遺跡です。
明らかなミラミッド状を呈しています。

忌部氏の本拠地であり和気氏の土地でもあります。



忌部氏も和気氏も出雲系で蘇我氏系列ですね。
度会氏も加茂氏も同じ先祖からでていますね。



途中の解説を見るとイラン系とかウイグルにイリ川系列とかも出て来ます。
秦氏ですね。


和気氏は渡来人⇔突厥国⇒「イリ」の名前の付く歴代天皇、崇神天皇・垂仁天皇。

熊山遺跡の山中には沢山の積石遺構が散見されています。

私の会の仲間の教授も探して写真撮影していますよ。



ページの中程に出て居ます。http://www.hasukura.com/sensikodai.html#  

唐招提寺(鑑真和尚)の 戒壇。奈良の東大寺頭塔。

土塔山観音院大野寺(大阪府堺市土塔町)の境内にあった日本最大規模の「仏塔」

大野寺の土塔(どとう)。

対馬の八丁郭とヤクマの塔 



さらに、旧新羅領の韓国慶尚北道の安東市(アンドン)北後面石塔里と義城(ウィソン)安平面石塔里

ソウルの石村洞古墳群(ここだけ百済領内)。山清(サンチョン)積石遺構。慶州 陵旨塔。



さらに日本国内に 「大谷(おおや)古墳」と言うのがあります。
終末期古墳で600年代後半の時期です。
竜の透かし彫りの環頭太刀(王族クラスしか持たない)出土。

都塚古墳(6世紀後半)と時期は一致します。

http://kasaoka.sub.jp/14/10/1017-2/7.html  大谷古墳
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月13日 14時49分57秒 ) パスワード

隈さんのお好きなソグド人について

https://www.sankei.com/region/news/170113/rgn1701130059-n1.html
以下コピペ


2017.1.13
シルクロード「謎の民族」ソグド人、飛鳥にも来た


 隊商の民としてシルクロードで活躍した謎の民族・ソグド人などについての国際シンポジウム「ユーラシアからのまなざし」(橿原考古学研究所主催)が14日、橿原市の県社会福祉総合センター大ホールで開かれる。

 日本と中国の研究者7人が最新の研究成果を報告。橿考研の菅谷文則所長は「東アジアのソグド人」をテーマに、「飛鳥時代にソグド人が飛鳥の都にも来ていた」ことを講演する。

 ソグド人は中央アジア・ウズベキスタン一帯に居住していた民族。シルクロードの東西交易にかかわり、「ソグド商人」の異名を持つ。

 独自の言語・ソグド語を持ち、ゾロアスター教(拝火教)を信仰した。


 唐の都・長安にも多くいたとされるが、イスラム教の勃興で民族的な特徴が失われ、現在その末裔はタジキスタンやイランの一部などに住むだけという。



 シンポでは、そのソグド人に焦点をあてる。菅谷所長は約20年間にわたりソグド人を研究、中国国内でソグド人の墓を発掘した。


 これまでの研究から、日本書紀に登場する「都貨邏(とから)国(吐火羅(とから)国)」の関係者の中にソグド人がいた可能性を指摘する。



 日本書紀孝徳5年の条には「吐火羅国の男2人、女2人、舎衛(しゃえ)の女1人が日向に漂着」、

 また斉明3年の条には「都貨邏国の男2人、女4人が筑紫に漂着、(都で)饗を賜った」とあるほか、

 同6年の条には「都貨羅人  乾豆波斯達阿(けんずはしたちあ)」という人名も登場する。



 都貨邏はこれまで南方の国とされていたが、最近では中央アジアの国と考えられるようになっており、

 菅谷所長は「都貨邏人の中にソグド人が同行し、飛鳥の都にもソグド人がいたことが考えられる」と指摘、ソグド文化が、飛鳥文化にも影響を与えたとみている。

 一方、中国からは、橿考研と平成2年から交流している西北大学(西安市)の研究者ら5人が来日して講演予定。同大学の冉万里(ぜんばんり)教授は新疆ウイグル自治区クチャ郊外にあるスバシ仏教遺跡の発掘調査について報告予定だ。


 同遺跡は玄奘(げんじょう)が記した「大唐西域記」に登場する寺院跡とされ、日本の大谷探検隊も訪れており、注目される。



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で、このトカラの国ですが   わたしは九州の南の平家が落ち延びたとされるトカラ列島かなと   方向音痴なので思ったのですが


https://books.google.com/books?id=PIxGKxLT8jcC&pg=PA386&lpg=PA386&dq=%E9%83%BD%E8%B2%A8%E9%82%8F%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%89%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=JpagJjvG0B&sig=ACfU3U0Smo3roajVCARQDpGB2Ax-WSMVWQ&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwjRmfyKjLDpAhVWVs0KHZBeC4AQ6AEwAXoECAkQAQ#v=onepage&q=%E9%83%BD%E8%B2%A8%E9%82%8F%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%89%E5%9B%BD%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

以下コピペ

都貨邏国は、いまのタイ国、メコン河下流にあったドヴァラヴァテイ王国と考えられている。したがって東南ァジァ方面からの南風と黒潮の流れを受けて北進の途次、ァマミに漂着したと考えられる


他には
http://michi01.com/tendoh/402ktg26740415.html
大唐西域覩貨邏国考 

ササン朝の亡命政権が当時トカラ国に所在していたから

トカラの国の諸説

・西域の吐火羅説
・南西諸島の吐噶喇列島説
・フィリピン説
・ビルマの驃国説
・タイ堕和羅国(ドヴァーラヴァティ) 説
・西域の波斯(ペルシア)人説
・スマトラ・ジャヴァ説



https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%A9-105602
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中央アジアの地名、民族名。トカラともいう。

古代ギリシアのストラボンは、ギリシア植民が中央アジアに建てていたバクトリア王国に、紀元前2世紀に北方からトハラ人が攻め入り、これを滅ぼしたと伝えている。

この事実から、バルフ(古代のバクトラ)を中心とするアムダリヤの河南地区をトハラ地方とよんだようで、中国では吐呼羅、吐火羅と写し、7世紀の僧玄奘(げんじょう)は覩貨邏、都貨邏と書いている。

イスラム時代のトハリスタンはそれを継承した呼称である。

この地区は、中国からパミールを越えてきたシルク・ロードの一つと、インドからカイバー峠を経た大道との交会点であり、

また、アムダリヤを下る舟運があり、陸路でサマルカンド方面、東イラン方面と連絡していた。


したがって、南方のインド文化は早くからここに流入した。

また、アレクサンドロス大王の東征によってギリシアの一植民地となると、それらを基礎としてギリシア的、バクトリア的文化を発展させ、インドや中国に大きな影響を与えた。[松田寿男]
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡


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では平家が落ち延びたとされるトカラ列島は?と検索してみました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E5%88%97%E5%B3%B6

吐噶喇列島

トカラ列島 トカラ列島は、屋久島と奄美大島の間、北緯28度50分〜30度、東経129度〜130度に位置し、
七つの有人島(口之島、中之島、諏訪之瀬島、平島、悪石島、宝島、小宝島)といくつかの無人島からなる湿潤亜熱帯埴生に属する島々です。

トカラ列島の島々はすべて霧島火山帯に属する火山島です。


                   鹿  児  島  県?  方向音痴なんで  すまぬ



歴史

地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。


宝島からは縄文後期や弥生中期の土器が出土している。

                        へぇ〜
                        ムカシっからの日本国内じゃん    


『続日本紀』には、699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが記されており、

これらの地名はそれぞれ種子島・屋久島・奄美大島・徳之島に当たるが、

度感をトカラ列島に比定する説もある。


いっぽう、『日本書紀』に吐火羅(白雉5年)、覩貨邏(斉明天皇3年)の文字が見え、
中国西域の人種であるとする説の一方で、
日向や筑紫、「海見嶋」に漂着との記述がある事から、
これをトカラ列島に比定する説もある[2]。


古くは朝廷から南海(南西諸島)に派遣される覓国使や遣唐使の海上目標や休憩地として認識されていた。


中世の日宋貿易においても同様であり、平家の落人伝説もある。

                        それで平家の人々が落ち延びたワケか。

                        では  元々  平家の人々とは繋がりがあったワケだ




列島各島には平家末裔を称する島司があり、島の実権と祭祀を掌握していた。


                        「中島」をナカシマと清音で発音すると平熱に書いてくださった方がいましたが
                         ナカシマなんて  モロに  尾張系だ


十島は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて南薩摩で権勢を誇った薩摩平氏の河邊氏一族の勢力下に入ったと見られる。

河邊氏の差配地として薩南島(河邊十二島)が挙げられ、
河邊十二島は「口五島」と「奥七島」に分けられ、
奥七島をトカラ列島に比定している。


承久の乱(1221年)後は得宗家被官の千竈氏の差配地となる[7]。

鎌倉時代の1227年(安貞元年)に薩摩国川辺郡となる。

ただし、鎌倉時代に朝廷や政権の実効支配が及んでいたかどうかは不明である[8]。


15 - 16世紀には種子島氏の勢力も及ぶ。
1450年(宝徳2年)、朝鮮の船が難破し臥蛇島に漂着、生存者の内2名は薩摩、2名は琉球に連行される。

これをもって臥蛇島などが日琉両属体制にあったとする説がある[9][2]。



中近世(16 - 18世紀)にはトカラ列島の海域を本拠に薩摩と琉球の間の交易を取り持つ海上交易勢力としての七島衆が現れる。

琉球侵攻では薩摩兵の水先案内人を務め琉球にも入り死者も出ている。


一方で薩摩の内情を琉球王府に伝えるなど、日和見的立場を取っていた。
琉球侵攻以降、
トカラ列島は薩摩藩島津氏の支配地となり七島地頭(島津家臣)と七島郡司(七島衆)が置かれる[9]。



文政7年(1824年)には宝島にイギリス船が来島し、
牛を略奪したイギリス人1名が射殺される宝島事件が起きた。
翌年の文政8年(1825年)には異国船打払令が出された。

                これは「西郷どん」でこんなエピソードがあったような記憶(謎)


1944年(昭和19年)8月、疎開船対馬丸が悪石島沖で米軍に撃沈され沈没した(対馬丸事件)。


1946年8月、引揚者や復員兵を乗せ密航(当時は米軍統治下)した宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没、50人の犠牲者を出した。[2]
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月13日 16時05分20秒 ) パスワード

ということは  埴輪のユダヤ人説  はかなり揺らぎますね。


ユダヤ人断定というよりは
     西アジアか  中央アジアか  ペルシャか  突厥か=トルコ
ま、あの辺りの人の姿だったのかも知れない。  



わたしは先週まで宋の国のハナシを読んでて
宋の国はたびたび遼の国から襲われるんですが
  
遼は内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の王朝で  遼の将軍達の姓も「耶律」=やりつ=で 


突厥は 
以下コピペ

契丹より前の682年にモンゴル高原で第二帝国を築き、
独自の突厥文字を作り  当時の唐とも交渉があった。
しかし744年に同じトルコ系のウイグルに滅ぼされた。

      「とっけつ」が一般的だが、「とっくつ」とよむのが正しい。
       テュルクの音を漢字に写したもので、トルコ人のこと。 



テュルクで思い出すのは レス<21>で書いた ユダヤ人の13番目の部族アシュケナージのこと。

      コピペします。

>歴史的に古代イスラエルの民の子孫というわけではないけど
>13番目の部族としてアシュケナージ系ユダヤ人がいる。  
>つまり 7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた中央アジアに起源を持つチュルク系半遊牧民のハザール人。



こうやってツラツラ書いていると


ユダヤ人は元々エジプトにいた人々   と言われ
         ただし現在のエジプトはイスラム人に乗っ取られているけど
     その少し前の紀元前にはプトレマイオス王朝だったエジプトにユダヤ人が大量に入ってる

            プトレマイオス王朝最後の女王のクレオパトラさんはギリシャ人で=マケドニア人ね=ローマに負けた

            彼女はシーザーの愛人となって子供を産んでるでしょプトレマイオス15世であるカエサリオン
            色仕掛けでシーザーを誘惑してエジプトを守ろうとして、その時に出来た子供さん。

            その後お人好しのアントニウスと結婚して

                  (前夫達は実の弟達のプトレマイオス13世と14世なんだよね)

            シーザーの姪の息子のオクタウィアヌスに負けて自殺してる


このプトレマイオス王朝の時はユダヤ人が強制的にも自主的にも大量に入って来て
文化的にギリシャ語化して
ヘブライ語が分からなくなってたユダヤ人が多くなってて  だから  聖書はギリシャ語で書かれた。


                 ミッションスクールに行ってたら聖書がギリシャ語で書かれてたというのはフツー知ってるよね


で  ローマ帝国は  漢字では  大秦  と書かれた。


とにかく日本は小さな小さな芥子粒みたいな国だけど
西の方の世界は   もう  大き過ぎて  グッチャグチャ。


日本人はついつい日本サイズで考えようとするんじゃないかな?
我々が歴史を思う時には21世紀から考えようとするように。


中国は西の人が歴史上かなり暴れてるから

安禄山でも康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。
このヒトのせいで楊貴妃が殺された。


だから  日本に入って来た渡来人がユダヤ人だけじゃなくて  西の方の人達はグチャグチャに混血してるという事も含めて  アッチの方の人  で良いのでは?と。


だいたいワタシのDNAにはパーキンソン病と硬化症の遺伝子があって
こんなのはそもそもは北欧の病気!

ほとんど北欧の病気 >  南欧にも、まぁ、ある > アジアには珍しい

こんな順番なのに  その上  わたしは全然北欧系の顔してないのに  なんでこんな病気の遺伝子があるのだ!怒
どうせなら  イングリッド・バーグマンみたいな可愛い系美女の顔にして欲しかったよ。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月14日 00時05分44秒 ) パスワード

全然関係無いけど暇つぶしに書き込み
今  骨密度を上げる薬を服用中で  カラダを縦にしてないといけないので



イングリッド・バーグマンなんだけど

イタリア人の監督とW不倫してて 1952年あたりに双子を生んでる   ロッセリーニ監督のことね


   この片割れと?  ヘミングウエイの孫娘のマーゴが  サンタモニカのうちの近所に住んでた

             マーゴは42歳の1996年の夏に  7月1日 鬱とアル中で  Barbiturate バルビツレート  精神安定剤  のオーバードースで自殺

             その自殺現場はジェーン・フォンダの家の近く

                つまり  ウチのじいちゃんのサンタモニカの家の近く   ジェーン・フォンダの家と道を挟んで隣同士


             マーゴが自殺したから  35年前にショットガン自殺した彼女の祖父さんのアーネスト・ヘミングウエイの自殺も併せて   7月2日だったからね  当時大騒ぎだった


で、ヘミングウエイの作品に出てたイングリッド・バーグマンのご主人はスエーデン人の医者で  歯医者で(脳外科医でもある)  うちのじいちゃんの親友だった。

リンドストロームさんという人で  ウエストウッドで歯医者をしてた。UCLAのある所ね。うちのじいちゃんはUCLAで教えてたこともあったし。

     西側← 太平洋  サンタモニカ ブレントウッド ウエストウッド  ビバリーヒルズ ロサンゼルス  →東側
     こんな位置関係    ヲイヲイ  方向音痴が大丈夫か?


それでイングリッド・バーグマンがロッセリーニとW不倫してた時にこの歯医者さんはものすごく落ち込んで  うちの両親も含めて  見てられなかった  と言ってた。


イングリッド・バーグマンは67歳で乳癌でロンドンで亡くなってる。1982年。
67歳!
この時も大騒ぎになってた。
3番目のダンナさんと離婚した数年後の訃報で
なんでロンドン?とビックリした。



そいでもってイングリッド・バーグマンの娘の片割れの方が結婚したのが  マーティン・スコセッシ  っていうイタリア人の監督で  離婚したのが1982年。


この監督も  ちょっとぉ・・・  って感じの人だし  ママが乳癌で死んだし   娘としては耐えられなかったのだろうなと

ま、大騒ぎ。


     娘の方は顔はママにソックリだけど女優としては   大根。  種も畑も最高なのに  で  汚れ役でやっと評価されて認められたけど  
     今年68歳。パパとママの血を受け継いでるほどではないかも。



このあたりになると  うちのオットの仕事仲間なわけで。

オットの最初の仕事仲間は  ヘイリー・ミルズ。
ヘイリー・ミルズの  アメリカのボーイフレンドなんて  日本にいたワタシは  聞いてた読んでた。

ヘイリー・ミルズはウオルト・ディズニーの映画に出てたでしょ。
うちのオットもこの作品作りで映画界デビューです。方向性は違うけどね。


それで世間のお嬢ちゃん達はオットを「ビーバーちゃん」Leave It to Beaverのビーバーだと思ってたそうで
サインしてくれって追いかけまわされたそうです。


でもホンモノのビーバーちゃんの方はUCバークレーを出てる超優秀なヒト。
うちのオットはUCLAだから  脳味噌  ぜんぜん違うじゃん。


あ、ちなみにオットの義叔母はノルウエイ系でイングリッド・バーグマンそっくりの可愛い系美女です。
彼女の血統は  乳糖に耐性が無くて  牛乳が飲めないのです。
だから骨粗鬆症で手術してるし
次男は両方の大腿骨の手術をしてる。

だってスカンディナビア人だから先祖代々太陽に充分当たってないから骨がもろい。


それでワタシはパニックになってるわけです
わたしも骨粗鬆症が始まってるから。
高価な薬を週に1回服用してます。
1か月分で保険を使って500ドルのですが買えないので後発の安いのにしてる。
後発のは1か月分  保険を使って  220ドルです。


          薬局のお兄ちゃんを泣き落として  83ドルちょっとにして貰ってるけど
          薬剤師がこのお兄ちゃんとは違う日は83ドルちょっとじゃなかったりする。


あ、うちのオットのミドルネームはスエーデンの名前です。
おばあさんの小学校時代の初恋の男の子の名前なんだって。


だからワタシなんかにパーキンソン病や硬化症の遺伝子があるのかな?
ひょっとしてワタシの前世ってスエーデンの美女だった?
あはは
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月14日 13時16分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ユーチューブの――
「秦氏のルーツ」( https://www.youtube.com/watch?v=V9mso4fw-pE )は、
なかなかよく研究されていて、確度が高いように思われます(たぶん、久保
有政氏が監修?)。

 秦氏については、やはり一線を越えられる人と越えられない人がいるよ
うに思われます。所詮、「伝説である」と超えられない人、「伝説は事実を
物語るものである」と超えられる人があると思います。

 最終的には、考古学的資料か何かで新たな証拠が見つかり、後者のように
事実であったとわかる時が来ると期待しております。

 秦氏の最大のミッションは何だったのでしょう? 「安住の地」を造るこ
と、そしてそこにはレガリアを納めることが必要であるはず。秦氏の謎は深
く遠大なものであったと考えております――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月15日 03時23分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

残念ながら  This video is unavailable. Sorry about that.  が出てしまいました。


うちのご近所の教会の人(沖縄人)が「秦氏はイスラエルの失われた10部族」なんて3月のシャットダウン直前にも叫んでました@キリスト教会で(笑)


秦の始皇帝とか曹操?だったかは  目が青い  とか  どこかで読みました。
ま、始皇帝の場合は、実パパの呂不韋がどこやらの人だとかだから可能性は高い。
他にも中国史に目の青い人のハナシはいろいろ書かれているよね。
学校教育レベルでは「阮籍青眼」って漢文でやったよね?晋書に書かれてるんだったか?



     アフガニスタン人は目が青い人が多いなんて言われてるし
     インドでも目が青い人がいるし

           コレは  紀元前3世紀のアレキサンダーThe Son of a Bxxxx の置き土産だね


漢文で習った白眼視とか青眼とかは   中国って、西の人が進入してるからな   と。

白眼視
阮籍が気に入らない人を見る時は上目づかいをして白目を見せたことから

青眼
は黒目で人を見るということで、喜んで対応すること



うろ覚えなので検索して来ました:
https://hajimete-sangokushi.com/2015/01/08/post-910/
以下コピペ


三国時代末期、魏に『竹林の七賢』と呼ばれる人たちがいました。
今で言う知識階層の人たちで、酒を嗜み、歯に衣着せぬ言動で社会批判をしたことで知られる人物たちです。

その『竹林の七賢』の指導的立場であったとされる阮籍(げんせき)という人物がいます。

役職に進んで就こうとはせず、親類から叱責を受けてやむなく仕官したこともありましたが、病気を口実にしてすぐに辞めてしまいました。

                        元祖ヒッキー


司馬懿が魏の実権を握ると、阮籍を役職に就かせますが、彼は殆ど給料泥棒と言われるほどの働きしかしませんでした。

                        なんか  ワタシ?

酒を大量に貯蔵している役所の職に自ら望んでなり、酒を飲んで過ごしたと言います。

                        ワタシのユダヤ人の親友がコレだった  
                        コレ以上書けないのが残念  ワタシも同罪だろうから。  あ、 わたしはお酒は一滴も飲まない方


当時の中国には、喪中の者は酒や肉を断つ習慣がありましたが、阮籍は母親の葬儀に際しても酒を飲み、肉を喰らいました。

見かねたある人物が、当時阮籍が使えていた司馬昭に阮籍の左遷を進言しますが、

                        いるんだよね、こーゆーチクルのが好きなヤツって


結局司馬昭はやせ衰えた阮籍を憐れみ、

                        モロにアル中じゃん。
                        横山やすしさんがコレだった。40sぐらいの見た目だった


彼の罪を不問に付しました。



晋の時代の歴史書『晋書』の記述によれば、

                       そうそう!コレ!

阮籍は司馬氏の簒奪行為と政争に明け暮れる様を目の当たりにし、
自らに一切政争には関わらないと決心して、酒を飲んで過ごす生活を選んだとされています。

数多くの著作や詩を残し、特にその詩は李白にも影響を与えています。

                       コレは記憶に無かったな〜



『白眼視』は、阮籍が客人に対する態度を使い分けたという逸話が元になっています。

阮籍には青眼と白眼、二種類の目つきを使い分ける特技がありました。


偽善と礼儀を嫌っていた阮籍は、
儒教を重んじる=礼儀を重視する儒家の人間に対しては、軽蔑を隠さず、白眼を向けて応対したと言います。

その一方で、自分の気に入った人物に対しては青眼で応対しました。


この阮籍の逸話から、他人を軽蔑することを『白眼視』と言うようになったということです。

また、『白眼視』ほどには使われることはありませんが、『青眼』も“親しい人を迎える際の喜びの眼差し”、という意味で用いられることがあります。
以上コピペ



だから  中国史で「○○は目が青かった」という記述に遭遇するたびに  素直に納得してました。



楊貴妃についてでも、彼女の体臭のことを「アッチの人だから」というハナシにはすんなり受け入れてました。


わたしの仲の良いジム仲間の香港人の爺さんは  三国志事件のそもそもの原因となった一族だし   爺さんに「アンタんとこが原因だったんか」と言ってやった

その奥さんは遼の皇后の家の一族だし  これを先週知って(なるほど彼女の美しさはアッチの血が混じってるからか)  と納得した。



>レガリア

三つ柏さんのレガリアとはどのレベルのことか分かりませんが
定冠詞のハーのつく  「The聖櫃」でしたら  一応  エチオピアにある  とされてて (謎)


でもキリスト教でもユダヤ教でも認めないでしょうね。


一応  日本では  徳島の山の中でしたっけ?  あそこで発見されたってハナシですよね


                       入ってたとしたら  モーゼの10戒ではなく  いわゆる  トーラーを書いた巻物  かな?


わたしは  モーゼの10戒の  石板に書かれた文字がどんなのか  それは見てみたい。
神が書いた文字なワケでしょ。
どんな字を書いたんだろう?

                       悪筆だったら  「神さまだって下手くそだった」と開き直れるな

                       だけどわたしが受けた印象では  書いたというよりは殴り付けた?刻んだ? 印象。

                       これだと楔文字系?


                            メソポタミアだね
                            紀元前3700年あたりからということで
                            まさにアブラハムはメソポタミアに居た・・・



三つ柏さんには本気でDNA検査をお受けなさいますよお薦めします。

男性はXとY染色体があるから  父方母方  がハッキリします。
     だから天皇は男系でないとマズイと思います


J遺伝子があればユダヤ人認定。


わたしはXしかないわけで
中国に5代ほどいたようです  計算上    小学2年で数学の素養が無いことが決定したワタシだけど


でもホントにDNA検査  すごいですよ


わたしは  痛風の遺伝子を持っているから
父に言ったら  父は尿酸値を下げる薬を処方されてたし  
弟に会った時に言ったら  弟も尿酸値が高い系  
と言ってました

わたしはI型II型の糖尿病遺伝子を持ってるので
ものすごく頑張ってるけど  5月11日の検査ではA1cが  5.5  でした。
自分では  4.9か4.7まで下げたつもりだったけど  
あれだけ頑張って  5.5?  とガックリしました。

空腹時血糖値も  93  だったしね。

過去に一度だけ79まで下げたことがあるけど  今回は  断食16時間前の前日の最後に穴子をタレと一緒に食べたから93だったかも。


        白人なんて食べた後でも90だよ。


名古屋の家の隣のおばさまは60歳でパーキンソン病を発症したのですが
彼女は本当にイングリッド・バーグマンそっくりの美女でした。全くの日本人だけど。
彼女には本当に北欧の遺伝子が入ってるんだろうな  と納得します。


彼女の家は我が家の座敷続きという感じで息子さんの端午の節句祝いを見に行って大暴れした記憶がまだあるけど  わたしは当時4歳かな?

弟が新幹線だけで4時間離れた場所で仕事をしてた時に仕事先の新しい担当が名古屋からの人ということで会ったら
隣の端午の節句の男の子だったそうです。
弟とは幼稚園からの同級生。


こんな感じで忘れてたいろいろな事を次々に思い出しました。


だから三つ柏さんが秦に拘るというのは分かります。
何かあるのだと思います。
でもそれは何かは全く分からない。

現代ではDNA検査が可能ですからDNA検査をお受けになったら良いと思います。


わたしは中国人の友人には  名字からすると  秦(Qin  ちん)だよ〜
でも  2200年も前のことは知らないよ〜  と言ってます。


今の時代DNA検査が一番科学的だと思いますよ。


DNA検査を受ける前はオットはどこかでユダヤの血が入ってるかもな〜と言ってましたが
ただの北欧系でした。


で、北欧系の病気は1つも遺伝子がありませんでした。

白人の病気の遺伝子は1つありますが。
     同じ遺伝子を持っている白人女性と子供を持つと4分の1が発症
     4分の2は遺伝子をもつ
     残りの4分の1はこの遺伝子を持たない
そーゆー白人独自の病気です。

だけど日本人も最近は混血してるから  この遺伝子を持った日本人が将来多くなるかもね。


黒人は黒人で独自の病気の遺伝子があるしね。
黒人がラッキーなのは骨粗鬆症が無いこと。


とにかくDNA検査をなさいますと老後の暇つぶしの完璧な趣味になりますよ。
奥が深いっ


とにかく  桑名の某服部氏は  「うちは秦氏の服部」  とおっしゃってました。
家紋は  笹。
そして秦氏の先祖礼拝もきちんと行って来た家系。

こういう立派なお家が存続してますから   わたしは  パクりました  としか言えません。


あ、でも中国人の友人の中ではわたしは  Qinさんで  発音はチンです。
どっちにしろ我々日本人なんか世界レベルでは  中国人のウチ  ですから。


名字をパクったってことはそこの家とはどこかで通婚してるから血の中に秦氏の血も入ってるってことだと分かっていますよ。
わたしは5代分中国人の血が入ってるから。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月15日 09時38分27秒 ) パスワード

日本人で目の青い有名人って誰だっけ?
と思い出そうとしても思い出せない。

有名女性では1人いますね


安見児さん
飛鳥時代の雑用係の女官。
   ま、女奴隷という感じかな。
 

天智天皇が中臣鎌足に与えた女。
鎌足のよろこびの歌が「万葉集」にありますね。

       我はもや 安見児得たり   皆人の  得難にすといふ   安見児得たり
 
                    (万葉集 巻第二 95 内大臣藤原卿)


安見児さんは美女中の美女だったとかで鎌足は大喜びしている。


名前からすると  「ジャスミン」か「ジャズミン」あたりの中東系の女って印象。
ペルシャあたりに多い名前だ。
わたしの友人にも何人かいた。



だけど鎌足はまた別の女も(こっちは正妻になってるけど)天智天皇から貰ってますね。
鏡王女。額田王のお姉さん。
藤原不比等の生母とか言われる人。


鏡王女については諸説あるけど
例えば王女ともあろう身分の女性が鎌足なんかに下げ渡されて嫁ぐわけがないだろうって。

     ま、天智天皇と鎌足は悪事を一緒にやった仲間だから、  自分の女の1人や2人鎌足に分けてやったろう、と言った人がいたっけ。



この時代というか
まだ原始人の時代なのか
ゾロアスターの影響なのか

     兄弟で女を争ったり

状況証拠は『万葉集』に収められた歌

・茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
・紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

の2首などをめぐって
天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、
池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、
こちらの説も有力視され学会では通説となっている


だけど
天智・天武の妹の間人皇女は叔父さんの孝徳天皇の皇后だものね

彼女の愛してた人は天智天皇  の方  だっけ?


そういう時代を儒教と天皇崇拝を経た現代の日本人は認めたくないのだろうけど
血を純粋に守る
ということではゾロスターみたいに超近親結婚が行われるわけで

叔父姪で結婚とか  伯母甥で結婚とか有り得たわけで
    今でも日本じゃ  イトコ結婚ってあるんじゃない?  
兄弟姉妹でも  母さえ違えばオーケーだったわけで


今では日本史もいろいろ真実が隠されているんだろうなと思う。

一番隠しているのは宮内庁で天皇陵を公開しないし公開するわけがない。

    真実が国民の前に明らかにされるのを一番恐れている機関だろうと思う。
[37]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月15日 13時28分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ユーチューブの「秦氏のルーツ」のURLで検索しても、確かに画面が出ま
せんでした。キーワードの「秦氏のルーツ」で検索していただければ出ます
ので一度見て下さい。

 ほんとかウソかの問題は、「疑わしくは罰せず(なかったことにする)」の
歴史の法則があるのかもしれません。状況証拠を万と並べても、一次資料が
ない限り、永遠に推定無罪となってしまいます。
 歴史の真実を知るということと、人権保護の法律・モラルとは別の次元で
あると思いますので、これではいけないと考えます。
 ただ、いずれにしても、秦氏はただものでないことは明らかであり、秦氏
の真実がわかれば、古代の歴史の半分以上の謎は解けると確信しています。

 秦氏系と言われる服部氏の謎も、秦氏がわかれば半分以上は解けると思い
ます。

 『新撰姓氏録』も万全のものではありませんが、秦氏が蕃別、服部連が神
別に分類されているということは、秦氏と服部連は当時としては筋(系統)が
違っていたということになります。

 服部連と服部氏は必ずしも同一ではありません。同じく秦氏と秦人、秦部
も氏姓制度という身分制度の中で考えると、氏族の垂直関係というよりは、
支配の垂直関係であります。

 また、服部氏も水平関係ではいろいろな筋の氏族がいたでしょうし、秦氏
も水平関係では様々な筋の集まりで、全体として擬制的氏族集団を構築して
いたものと思われます。

 秦氏と波多氏も関係も、同族のようで同族でない関係。でも同族として活
躍したのではないか。あっちのハタさん、こっちのハタさんというように分
別されていたとは考えにくい。古来(ふるき)のハタさん、今来(いまき)のハ
タさんという認識はされていたかも知れません。たぶん、両者とも、根源的
には、同じルーツ・グループなのだと推察いたします。
 そして、波多氏は武内宿祢系、即ち蘇我系に属しています。関係は血族と
いうよりも、どちらかといえば同盟関係にあったと思われます。
 そこらへんについては、澤田洋太郎氏の著作を読んでわかって来ました。

 澤田氏は東大出で、教職にありましたが、古代史に造詣が深い。総合力と
いう点では、ナンバーワンの人だと私は思っています。総合力とは、AI力、
即ち、垣根を取り払ってすべての情報を統合する能力のことです。

 次回以降に、そちらの話をしたいと思います――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月15日 15時17分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

動画
頑張ってみますね。


>秦氏が蕃別、服部連が神別に分類されているということは、
>秦氏と服部連は当時としては筋(系統)が違っていたということになります。


服部半蔵が「服部連の子孫だけど、帰化人じゃない」と言ってますが
この事なんでしょうね。


>次回以降に、そちらの話をしたいと思います

楽しみに待っていますね。
[39]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月16日 17時08分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長上郡羽鳥に鎮座する服織神社は、明治維新前までは服部神社といったと
いうことであります。服部と服織と羽鳥には、ニュアンスの違いがあるよう
な気がいたします。服部を「はとり」あるいは「はっとり」と読むというこ
とは、知らない人にとってはまず難しい。服織は、知らない人でもなんとか
「はとり」と読めなくはない。羽鳥は誰でも「はとり」と読めると思います。

 これらのニュアンスの違いは、年代差、地域差があると思います。さらに
は、「服部連」色の濃淡もあるような気がいたします。つまり、服部連の子
孫達が、各地の養蚕・絹織りの地に指導者的立場で広がり、その地の氏子と
なり、祖先を祀る服部神社を勧請したのではないかと推察しています。

 徳川家康も、この羽鳥の服部神社を尊崇していたといいます。もちろん、
服部半蔵も親近感を抱いて立ち寄ったことと思われます。この地域の式内社
の一つでもあります――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月17日 02時40分55秒 ) パスワード

現在何もアタマに入って来ないことが重なって、目は画面を見てても内容が空中浮遊して、動画を見るという状態にはなっていないです。


友人に不幸せな出来事があって  動揺  しています。
     彼女は入院しているのですが  肺炎で脳梗塞で  こんなんモロにアレじゃないねぇ  
     でもPCR検査でしたっけ  2か月ほど前に陰性だと言ってたんですが

  
           これ以上は友人を使ってバカなハナシを書けない


その上にうちのタワマンも不幸せな出来事があって
     上の方が断水なのです

            下の方の階は問題が無いんだそうです

せっかくだから時間潰しに散歩に行きたいけど
帰宅して  断水のままだったら  アフリカの奥地みたいな  「コロナ対策のために手を洗いましょう」  というハナシになってしまう。


     飲み水も無い世界の人間に  手をしっかり洗いましょう  だってさ
     バカか

一応うちのマンションの6階にある公共の場所は断水時でも水が出るのですけど
そこからエレベーターで自室に戻ったら    スグに手を洗いたい    じゃないね?

それが洗えない

ということは自室から出られない
よね?




これまで自分のDNAのことで   北欧系の病気の遺伝子が2つもあって   と書いてたら
その発症回避の光がチラッと見えたのです。


      ホントにこうやってツラツラと他の人にすれば何バカ書いてんだ?と思われるようなアタマの整理をしていると答えが見つかったりします

       わたくし式ブレインストーミングですね


たくさん読んで
たくさん友達を作って
アチコチ見て回る

そうすると自分の殻を破ることが出来る


香港人の爺さんに「わたしは名字からすると秦一族みたいだよ」と言ったら
「うん、始皇帝は家来を日本に送ってるからな」と返事を貰いました。


朝鮮の人は「日本の天皇は朝鮮の喰い詰めた一族が日本に行って天皇になった」と言ってましたね「だから高天原って言うだろ。高って朝鮮の一族の姓だ」。

そうすると中国の人は「高ってのは元々は中国の名字だ。KAOって言うんだ。KAOが朝鮮に行って、それから日本へ行ったんだ」と。


なんでもいいけど世界で語ると、日本は中国の一部、それも辺境の、それもド〜でも良い見捨てられた辺境でしかない。


中国人の夢は 「中原に鹿を追って」中国を支配して皇帝になること。

ところが今は辺境の燕京が中国の中心なんだよね(北京のこと)
だから余計に中原に都を置きたいだろうね


そろそろ中国統一をやらなきゃということで  ベトナム(西沙だっけ?  南沙がフィリピン?)・香港・台湾・朝鮮・沖縄・日本  が視野に入っている


ベトナムはさんざんこれまで中国史の中では抵抗されて、手強過ぎ

ホンコンは簡単そうだけど、これがなかなか(香港爺さんの一族も抵抗運動の中心。爺さん自身は中共方で習主席バンザイ)

朝鮮はムカシっからの朝貢国だし コッチがヒトコト恫喝すれば震え上がる  ソーユー少数民族

台湾はヒト捻りなのに背後の蝿がブンブンとうるさい

沖縄はかつて知事が歴代中国系で(毛姓と蔡姓)反アメリカ運動を指導して来てるから乗っ取るのは簡単

さて日本だが  
あれは遠い遠い辺境で更に大きな海にも隔てられ  弱小少数民族のくせに  生意気にも  中国へ侵入を図って自滅  ざまァ
倭(チビ)のくせに生意気なヤツラだ!
李鴻章に勝ったつもりでいるけど、あれは李鴻章の私闘。そこを清帝国皇帝に勝った気でいる勘違いヤロウ
さぁ、どうやって叩きのめしてやろう?


そうなのよね
日本って世界から見ると中国の辺境の少数民族でしかない
だから中国が本気になれば一ひねり


中華帝国統一が成った暁には習は中原に都を置き直し皇帝に?


日本国内でも  21世紀から見るから  
熊襲だの隼人だの蝦夷だのアイヌだのと彼らは少数民族扱いだけど
逆に過去から考えたら?
大陸と交易して高度な文化社会を築いていた人々。


で、天地が引っ繰り返る大変化が齎される。


正倉院の宝物は95%が日本産なんて言われてますね。
え?
ペルシャなんかからの舶来モノを収納してるんじゃなかったの?


日本でペルシャの細密技術を再現してた?
親方はペルシャ人で工人は日本人?

奈良の寺の柱はエンタシス
古代ギリシャ様式

   でも日本の場合は木の柱だから  真ん中は膨らませて  上と下は細く削って重さを軽減させる

こうして古代日本人はアッチの物を自家薬籠中のものとした。


今の  日本  から考えるから  迷路に入り込む。


まだ  水  出ない
もう7時半過ぎたのに
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月17日 03時01分48秒 ) パスワード

友人より頂きました:
以下コピペ



イラン系白人やツングース系の話の記憶も新たに入ってきていますね。


三足烏と隠ヶ丘(かくれがおか)の三つ柏の紋

出雲系でしたね、
ですから古いユダヤ系列の集団が出雲族・・・


「小烏丸」や清盛公より拝領の「烏丸の太刀」にちなんで「三足烏」も探っていた時
さぐっていた「烏丸」

京都の「からすま通り」は究極の日本語化した日本の名詞と思っていました。


どうも「烏丸」を背負ってきた渡来人・今来人が居たはずと検索し続けて居ました。

その部分を今回お知らせします。



白人系 ↔ 突厥 ↔ 烏桓=烏丸 ↔ ウーハン(武漢)の武漢も繋がるかも。いずれも「ウーハン」の発音のようです。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月17日 06時28分29秒 ) パスワード

1時間散歩に行って  
帰宅したら知り合いの中国人の奥さんがいて(ご主人はドイツ人) 断水のことで悪口を言ってたら  
白人の知り合いが来て  3人で盛り上がって  文字通り  女3人=姦しい

部屋に戻って6階で水を汲むことにして道具(ドーリーとか)を魔窟から出そうとバトルして
やっと6階に行ける段階になったら  チロチロと水の音がして  水が出ました。

結局  大事な物がスグに出せないというのがマズイのだと思い  断水時セットは手近な場所に収納することにしました。



続き




烏桓・烏丸(うがん):   

烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、拼音: W・huán)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。

『三国志』などでは烏丸と表記する。  


モンゴルを主としツングース系を交えた民族   [とうこ【東×胡】]

今はネット上では消えてなくなりましたが
「倭国物語」石川典朗の力作でコピーすれば一冊の本になる(無料)。


                高句麗の滅亡の時、燕国の一族・・・高氏だったかな?が
                新羅経由で日本に到来したのではと述べていました。



カラフルな地図を時代ごとに追って見ると面白いですよ。

トルコ系列に入るが名称が違うだけ。
部族ごとに中心になる人物構成に白人系とかインド系とかアラブ系とかが入り乱れて居たのではと考えられますね。


次には、濊族や貊族の南下が能く分かります。
いまの朝鮮族ですね。
一番汚い文字の濊の字をあてがわれていますね。
エベンキ族そのものです。

                       古代中国でいろいろな国の代表が集まる席で日本より下の席に置かれたというのが
                       今に至る劣等感 →反日  に繋がってるんだ
                       なんて言われますね




旧新羅は高句麗に滅ぼされています。
一説にはハルピン 吉林省 に近いモンゴルの東南にいたらしいです。
これも南下して北朝鮮辺りで消滅とかです。


慶尚北道の新羅は全くの別物で時代も新しいとのことです。



新羅の鶏林「けいりん・(チーリン)」のチーリンは吉林(チーリン)の事で場所が違う。
また史書に出てくる平壌(ピョンアン)は満州の中程に有る都市。
北朝鮮の平壌では無い。

東京の地名が満州に旧渤海国に沢山有るのと同じですね。


*いわゆる高句麗の版図・・が北朝鮮を含めないのではと言う意見や邪馬台国論争の帯方郡の場所が遼東まで北上するやつです。・・・・
日本の諜報機関が意図的に場所を南下させて、石碑なども移動させているようですからね。


平壌も北朝鮮の平壌にさせられていますからね。
満州に平壌が有るにもかかわらずね。


ここでアップ


    
断水するとエアコンが使えなくなるのですが
やっぱり使えなくなってます。

室内30度あたり。
設定は25℃なのに。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月17日 07時07分11秒 ) パスワード

続き

                       3世紀に入ると古代日本にもかかわるから馴染みがあるけど  その前は  難しい  でも  日本の基礎に通じてるなと思う


烏桓・烏丸(うがん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%A1%93   


2世紀頃の東夷諸国と烏桓の位置 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7



5世紀頃の東夷諸国と契丹の位置。
6世紀頃の東夷諸国と契丹の位置。
7世紀後半の東夷諸国と唐の羈縻(きび)支配。    きび?
8世紀、9世紀の東夷諸国。
10世紀の契丹の版図。



歴史


匈奴からの独立

漢代の初め、匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓と鮮卑になった。
初めは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。

もし定めの時期を過ぎてもその数が揃わないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。

匈奴の壺衍鞮単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代になると、烏桓の力がだんだん強くなり、匈奴の単于の墓を暴いて、冒頓単于に敗れた時の恥に報復した。

                       これが敵に対する最大の侮辱方法なんて言いますね
                       その言動はとてもココに書くわけにいかない


壺衍鞮単于は激怒し、2万の騎兵をやって烏桓に攻撃をかけた。
漢の大将軍の霍光(かくこう)は、この情報を得ると、度遼将軍の范明友を送り、3万の騎兵を率いて、遼東郡から出陣し、匈奴の後を追って攻撃をかけた。

范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。


烏桓は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏桓に攻撃をかけ、6000余りの首級を上げ、3人の王の首を取って帰還した。

その後も烏桓は幾度か長城地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。


                        下記あたりからは学校で習う部分ですね


新の王莽の末年になると、烏桓は匈奴とともに侵略を行うようになった。


光武帝が天下を平定すると、伏波将軍の馬援を送り、3000の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。

しかし何の成果も上げず、馬1000余匹を死なせただけであった。

烏桓は引き続いて勢力を盛んにし、匈奴に略奪や攻撃を仕掛けた。


匈奴は千里の彼方へ居住地を移し、漠南の地(内モンゴル)は空になった。



後漢の時代

建武25年(49年)、烏桓の大人郝旦(かくたん)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。

その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。

彼らを長城の内側に居住させ、遼東属国,遼西,右北平,漁陽,広陽,上谷,代郡,雁門,太原,朔方の諸郡に分けて住まわせ、
同じ烏桓族の者たちを内地に移るよう招き寄せた。

彼らに衣食を給し、護烏桓校尉の官を置いてその統治と保護にあたらせた。

こうした施策の結果、烏桓は漢のために塞外の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。


永平年間になって、漁陽烏桓の大人の欽志賁(きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。


遼東太守の祭肜(さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。


安帝の時代になると、漁陽,右北平,雁門の烏桓の率衆王無何(むか)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡,上谷,涿郡,五原で略奪を働いた。

そこで大司農の何熙(かき)に車騎将軍を兼任させ、近衛兵をその旗下につけ、国境地帯の7つの郡と黎陽営の兵士を動員して、合わせて2万の軍で攻撃をかけさせた。


匈奴は降服し、鮮卑と烏桓はそれぞれ長城の外へ引き揚げていった。


これ以後、烏桓はまただんだんと漢に接近してきたので、彼らの大人戎末廆(じゅうまつかい)を都尉の官に就けた。


順帝の時代には、戎末廆は、主だった配下の咄帰(とつき)や去延らを率い、護烏桓校尉の耿曄(こうよう)に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。

帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、絹を賜った。



蹋頓の登場

漢の末年、遼西烏桓の大人丘力居(きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏桓の大人難楼(なんろう)は、9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。

加えて遼東属国烏桓の大人蘇僕延(そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏桓の大人烏延は800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。


中山太守の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏桓の総指揮者となり、青,徐,幽,冀の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪を行なった。


霊帝の末年、劉虞が幽州の牧に任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。

のちに丘力居が死ぬと、息子の楼班は年が若く、従子の蹋頓に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。

人々はみな彼の命令をよく聞いた。


                       以下は日本人の知ってる中国の歴史ですね

袁紹が公孫瓚と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。

袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓,難楼,蘇僕延,烏延に印綬を与えて、それぞれ単于の称号を与えた。


のちに楼班が成長すると、峭王(蘇僕延)はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。

広陽の閻柔は若い時捕らえられて烏桓と鮮卑のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。

そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、護烏桓校尉の邢挙を殺すと、自ら護烏桓校尉の官に就いた。

袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。

のちに袁紹の三男である袁尚が曹操に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで冀州奪回を目論んだ。


ちょうどその頃、曹操は河北を平定し、閻柔は鮮卑と烏桓を引き連れて曹操のもとに帰順した。

そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏桓校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり上谷郡寧城で職務にあたらせた。



建安11年(206年)、曹操は自ら柳城の蹋頓を撃った。

秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。

袁尚は蹋頓とともに兵を率いて凡城に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。

曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。

敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。

その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた(白狼山の戦い)。


速附丸,楼班,烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。

それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。

これらの者たちを、幽州と并州で閻柔の配下にあった烏桓1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。


彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、曹操の軍に加わらせた。


こうして三郡の烏桓は騎兵としての名が天下に聞こえた。



魏の時代

景初元年(237年)秋、幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)を遣わし、多くの軍団を率いて遼東を討たせた。

右北平烏桓単于の寇婁敦(こうろうとん)と遼西烏桓都督・率衆王の護留とは昔、袁紹に従って遼西に逃亡してきたのであるが、毌丘倹の軍が来ると聞いて、配下の5000余人を引き連れて降伏した。

寇婁敦は弟の阿羅槃(あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。

朝廷は、寇婁敦の配下の主だった指揮者30余人を王に封じ、輿(こし)や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。



習俗

烏桓は騎射(騎乗したまま矢を放つこと)に巧みで、水や牧草を追って遊牧を行い、定住地はない。穹廬(きゅうろ:ゲル)を家とし、入口はみな太陽の方向(東)に向ける。

鳥獣を狩りし、肉を食べ酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、獣の毛で着物を作る。

若者が貴ばれ老人は賤しめられ、その性格は乱暴で、腹を立てれば父や兄をも殺すが、母親には決して危害を加えない。なぜなら、母親には母方の一族がいるが、父や兄は自分と同族で、彼らを殺しても報復をする者がいないからである。

                       へぇ〜
                       日本の母系社会の一端でもあるのかな?


勇敢壮健な者で互いの訴えや争いごとを裁いてゆける者を選んで大人(たいじん:部族長)とするのが通例である。

邑落ごとに下級の統率者がいるが、世襲ではない。
数百から数千の落(らく:集落の最少単位で、約2〜3戸20数人ほど)が集まって一つの部族を作っている。
大人が人を集める時には、木に刻み目を入れてしるしとし、邑落(ゆうらく:落が20数戸集まり、人口約百十数人ほど)の間を回す。
文字はないが、部族民は決して大人の召集を間違えることはない。


定まった姓氏はなく、大人や勇者の名を姓とする。

大人以下、それぞれに牧畜を仕事とし、徭役(ようえき:土木工事)にかり出されることはない。



結婚

彼らが結婚するときにはまず、ひそかに情を通じて女を奪い去ってゆく。
半年あるいは100日も経ってから、仲人をやって馬や牛や羊を贈物として嫁取りの礼を行う。

                       日本じゃ男子が生まれたら結婚という形になる「足入れ婚」もあるけどね


婿は妻について妻の実家に入り、妻の家の者には誰であろうと、朝ごとに拝礼を行う。

しかし自分の父母を拝礼することはないのである。

妻の家のために下男の仕事を2年間すると、妻の家のほうでは手厚い贈物をして娘を送り出す。

その際の住居や品物は、すべて妻の家が整える。

                       日本の結婚の形に似てる




こうしたことから彼らの習わしとしてすべてのことが婦人の指図で決められるが、ただ戦闘に関することだけは、男子自らが決定を下す。

父と子、男と女が、向かい合って立てひざで座る。

みな頭を剃っていて、この方が軽くてよいらしい。

婦人は嫁入りするときになって、髪をたくわえはじめ、分けて髻(もとどり)に作り、そこに句決(こうけつ:帽子の一種)をつけ、それを金や碧玉で飾る。


父や兄が死ぬと、その残された妻を自分の妻とし、あるいは嫂(あによめ)とする(レヴィレイト婚)。

                       これは日本でも父が亡くなって家督を継ぐと継母を自分のものにする、というのがあるわね
                       「家督」ということはそういうことだから
                        明治時代でも  こーゆーのあった


亡夫に弟がなく娶ってもらえぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯叔の次妻となる。彼女が死ねば、元の夫と一緒に葬られる。



産業

彼らはみな鳥獣の繁殖の時期をよく知っていて、それによって四季を区別する。

例えば、畑を耕し種を蒔く仕事は、布穀鳥(カッコウ)が鳴くのを合図にするのである。

その土地は青穄(くろきび)や東牆(とうしょう)の成育に適している。
東牆はヨモギのような草で、実は葵の種に似て、10月に実る。

白酒を作る技術はあるが、麹(こうじ)を作ることは知らない。

米は常に中国からの供給に頼っている。

大人たちは、弓矢や鞍(くら)・勒(くつわ)を作り、銅や鉄を鍛造して兵器を作ることができ、また皮にきれいな刺繍をし、毛氈(もうせん)を織り出すことができる。



病気

病気になると、彼らの知識では、艾(もぐさ)でお灸をしたり、あるいは焼いた石を患部に押し当て、火を焚いて暖めた土の上に寝転がり、あるいは痛みのある病気の個所ごとに、小刀で血管を切って瀉血する。

                       日本も似たようなものですね


また天地山川の神々に病気の平癒を祈願する。
鍼や薬はない。
基本、戦闘で死ぬことが貴ばれる。



葬祭

屍体を納めるのに棺が用いられる。
死んだ当初は哭泣するが、葬儀のときには歌舞によって死者を送り出す。
充分に肥らせておいた犬を、彩りのある綱でつないで、死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品と一緒にまとめ、それらに火をかけて火葬する。

特にその犬は、死者の神霊(魂)を護って、赤山まで導いてゆく役目を負わされている。

埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬を引いて順番にその座を回る。

歌ったり哭したりしている者たちは、肉を投げてやったりする。

死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通り抜け、悪い精霊たちに邪魔をされず、無事に赤山に行きつけるよう2人の者に呪文を唱えさせる。

それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。

彼らは鬼神を敬い、天地や日月星辰や山川を祭り、死んだ大人のうちで武勇に誉れ高い者にも、同様に牛羊を捧げて祭る。

祭りが終わると、奉げものは全て焼いてしまう。

飲食をする場合には、まずその一部を神々への捧げものとする。



刑罰

彼らの間の掟として、大人の命令に背いた者は死刑、盗みを止めない者は死刑の2条がある。

殺害事件が起こったときには、部落の間で報復を行わせる。
互いに報復し合ってやまない時には、大人のもとに出て判決を受ける。
有罪とされたものは、自分の牛や羊を出して生命をあがなうことによって、事件は落着する。

自分自身の父や兄を殺したときには罪にならない。

                       この感覚は日本に似てるね
                       「尊属殺人」だっけ?



逃亡した後大人に捕えられた者は、どこの邑落もその身柄を引き受けようとはせず、みんなして“雍狂の地”に追いやってしまう。
“雍狂の地”というのは、山はなく、砂漠と水沢と草木が生えるばかりで、マムシが多く、丁令の西南、烏孫の東北に当たる。
そこに追いやって苦しめるのである。



民族・言語系統と名称

まず、烏桓族の祖先は東胡であると『三国志』や『後漢書』などの中国の史書は伝えてる。

しかし、その東胡の言語系統については、ツングース説、モンゴル説、ツングースとモンゴルの混合説などとはっきりしていない。

また、烏桓と同族とされる鮮卑についても、モンゴル説、テュルク説、モンゴルとテュルクの混種説など諸説ある。

いずれにしても、烏桓はアルタイ諸語に分類されていることは、はっきりしている。



名称

『三国志』烏丸等伝の注釈『王沈魏書』,『後漢書』烏桓鮮卑列伝などはすべて、東胡の生き残りがそれぞれ烏桓山と鮮卑山に拠り、その山の名前が民族名となったということを記している。

しかし、多くの研究者は逆に烏桓鮮卑族がもともとその山を根拠地としていたために、民族名が山の名前となったとしている。

そこで、「烏桓」という名の語源はというと諸説あり、その中でも3つの説が有力視された。


白鳥庫吉のukhagan(蒙古語:知識・聡明)説…

白鳥氏は北方民族の尊称で「聡明」の意味を使用しているのは少なくないとし、例えば、匈奴では太子のことを「左屠耆王」といい、「屠耆(とき)」とは「賢明(聡明)」の意味であり、突厥,回鶻の君主号可汗(カガン)の尊称「毗伽可汗(ビルゲカガン)」の「毗伽(ビルゲ、bilgä)」とは「賢明(聡明)」の意味で、蒙古の尊号に「薛禅(tsetsen)」とあるのも「聡明」の意味であるとし、「烏桓(ukhagan)」とは、東胡の王より与えられた称号のひとつであるとした。


馮家昇のubusun(蒙古語:草)説…
馮氏はまず、烏桓(うがん、wūhuán)と宇文(うぶん、yŭwén)を同じものと考え、『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝の出自であり、その後、草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、qífén/sìfén)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とあることから、長城付近の蒙古語で草をいうebesu/ebesun、喀爾喀(ハルハ)語で草をいうubusu/ubusun、ブリヤート語で草をいうöbuhim/öböhonより、「烏桓(wūhuán)」 の語源は「草(ubusun)」であるとした。


丁謙のulan(蒙古語:紅)説…
丁氏は、烏桓は烏桓山という山の名前からついた族名であるという史書の記載を遵守し、蒙古語で紅を烏蘭(うらん、ulan)といい、『王沈魏書』に出てくる赤山(上記に記載)とはulan山の意訳であり、烏桓山はその音訳であって烏桓とは「赤」の意味であるとした。



烏桓(うがん、wūhuán)

この3つの説の中では丁謙のulan説が一番信憑性がありそうだが、それを立証する史料がないのではっきりしたことは言えない。

しかし、この3つの説の他に『北アジア史研究』を著した内田吟風は、「烏桓=帰順来降者」という説を提唱した。


                       
内田吟風の帰順来降者説…
内田氏は、3つの視点から「烏桓」は「帰順」という意味であるとした。第一に、匈奴の屠耆単于(在位:紀元前58年 - 紀元前56年)が呼韓邪単于(在位:紀元前58年 - 紀元前31年)に敗れ自殺し、その子である王定が漢に降り信成侯に封ぜられた際、『漢書』景武昭宣元成功臣表第五にて屠耆単于を「匈奴烏桓屠耆単于」と記しているのは、屠耆単于の子である王定が漢に帰順したので「匈奴の帰順せる屠耆単于」という意味で王定らが父を追称したからではないか。第二に、王莽の始建国2年(10年)九月、新の西域戊己校尉史の陳良と終帯が漢大将軍を称し、戊己校尉史の刁護(ちょうご)を殺して匈奴に帰順した際、烏珠留若鞮単于(在位:紀元前8年 - 13年)は彼らを大いに歓迎して単于庭(宮中)に留まらせ「烏桓都将軍」の称号を授けたと『漢書』匈奴伝、王莽伝に記されており、これを「帰義来降の大将軍」という意味でとるのが妥当である。第三に、鮮卑代王の拓跋什翼犍が339年に代国の諸制度を立てたことを、『魏書』官氏志にて「その諸方来附者、総じて烏丸といい、各多少をもって酋庶長と称す」とあり、これを烏丸=帰順来附者の巨証であるとし、これら3つの明証をもって「烏桓」とは東胡人が匈奴に帰服したために「帰順」という意味の「烏桓」という族名を授かったとした。


                        以下は「蛇」がなんたらという話に通じますね




実際、近代蒙古語で投下奴隷をunaganといい、信憑性はありそうである。また、Edwin G. Pulleyblank は、古代中国人は外国語の「a」をしばしば「烏」で写す例が多く、音声上では烏桓の古音はah-hwarでありうる可能性が強く、烏桓はむしろ後世ヨーロッパに侵入したアジアの遊牧民族Awar(アヴァール)を写したものではないかとしている。もし烏桓がAwarを写したものであり、Awarがモンゴル語のabarga(蛇・蠕動)と連結するならば、烏桓族はテュルク・モンゴル族に普遍的にみられる狼をトーテム獣とするが、その狼を虫(蛇)という隠語で呼んだ柔然族の祖であった可能性が高い。いずれにせよ烏桓の原音原義を決定的に断定するには、今後の研究を要するべきであろう。



主な指導者

郝旦(光武帝の時代)…建武25年(49年)に朝貢。

欽志賁(永平年間)…漁陽の烏桓。反乱を起こすが、暗殺される。

無何(安帝の時代)…漁陽,右北平,雁門の率衆王。永初3年(109年)反乱を起こす。

於秩居(安帝の時代)…元初4年(117年)、漢とともに、鮮卑の連休を討つ。<『後漢書』鮮卑伝>

戎末廆(順帝の時代)…親漢都尉として漢朝に貢献。率衆王の位を与えられる。

阿堅と羌渠(順帝の時代)…永和5年(140年)、南匈奴とともに、反乱を起こす。<『後漢書』烏桓伝>

遼西郡丘力居(霊帝から初平年間)

楼班(? - 207年)…丘力居の子。成長してから単于となる。

蹋頓(蹹頓)(初平年間 - 207年)…丘力居の従子で、丘力居の後を継ぐ。袁紹より単于の称号を受ける。

護留(曹叡の時代)…237年に朝貢。

上谷郡難楼(那楼と同一人物か?)(? - ?)…袁紹より単于の称号を受ける。

那楼(建安年間)…単于代行。

遼東属国蘇僕延(? - ?)…峭王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。

速僕丸(速附丸)(? - 207年)…単于。公孫康に討ち取られる。

右北平郡烏延(? - 207年)…汗魯王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。

能臣抵之(? - 207年)…単于。曹操に討ち取られる。

寇婁敦(曹叡の時代)…237年に朝貢。

代郡普富盧(建安年間)…単于代行。216年に朝貢。

能臣氐(建安年間)…218年、軻比能と手を組み、反乱を起こす。

修武盧(普富盧と同一人物か?)…軻比能の配下

骨進(曹丕の時代)…魏の国境地帯を侵攻するが、護烏桓校尉の田豫に斬り殺された。





鮮卑(せんぴ)

モンゴルとツングースとの混血らしい

北アジアで活躍した遊牧民族。五胡の一。2世紀中ごろ、匈奴(きょうど)の滅亡後に檀石槐 (だんせきかい) を君長とする国家を建て,内モンゴルを中心に勢力をふるい全モンゴルを支配した。しかし,3世紀中頃には諸部族に分裂。五胡十六国時代に慕容(ぼよう)氏(燕)・乞伏(きっぷく)氏(秦)・禿髪(とくはつ)氏(涼)らが華北に建国、386年には拓跋(たくばつ)氏が北魏を建て華北を統一した。





えん【燕】

中国、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一。周の武王の弟、召公奭(しょうこうせき)を祖とし、薊(けい)(北京付近)に都して、現在の河北・遼寧省と朝鮮半島北部を領有。前222年、秦(しん)に滅ぼされた。

中国、五胡十六国の時代の国。鮮卑(せんぴ)の慕容(ぼよう)部の建てた前燕・後燕・南燕・西燕と、漢人馮跋(ふうばつ)の建てた北燕の総称。



とうこ【東×胡】Tong-hu; Tung-hu        日本と多いに関わるな

中国,春秋時代頃からモンゴルの東方にいた狩猟遊牧民族。戦国時代,燕はこれと戦い,長城を築いてその侵入を防いだ。秦代にはモンゴルの西方の大月氏 (→月氏 ) と並んで強力となり,匈奴を圧迫したが,匈奴の冒頓単于 (ぼくとつぜんう) がこれを打破し,支配下に入れた。烏丸 (うがん),鮮卑(せんぴ) ,契丹(きったん)は東胡の後裔といわれる。その民族系統は,東胡をツングースの音訳とする説もあるが,胡 (匈奴) の東にいたものの意であるとする説が有力で,モンゴルを主としツングース系を交えた民族であろうと考えられている。



東胡

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%83%A1   

以下略
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月17日 13時50分44秒 ) パスワード

7時前ですが寝ます。

今週この7日間  日曜から本日の土曜までの7日間
ものすごい無駄なエネルギーを使ってしまった。

   A1cを4台にできたと思ったのに5.5でしかなかった落胆とか
   今朝は断水だったので買い置きのペットボトルの飲料水で洗顔して歯磨きしたとか
   断水の後はお約束のエアコンが不調になって無駄な動きを何時間もやったとか

この1週間で3歳は老けた感じ。


   集中できないから録画してあった番組を2回も見てしまったとか
         同じ番組だと気づけなかった。
                      ヲイヲイ  上の空過ぎ

館内放送が何度もあったけど   マンションの住人が皆さん怒りまくってたのが良く分かった。


12時間の間  断水とかエアコン無しとか  アリエナイ。

      断水すると水を使用するセントラルエアコンも止まるわけなんだけど
      断水を直した後にエアコンの水を止めたまま作業員が帰宅する世界だからね
      作業員が戻って来てエアコンを使えるようにするのに5時間ってアリエル?


           ばぁちゃんチのちょっとした手伝いをする高校生の坊や並みの仕事しか出来ない作業員のレベルだからね


ということで頭の中を空っぽ・・・・もともと空か・・・にして
明日から、また、出直そうと思って  もう  寝ます。

動画  明日は見ます。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月18日 06時32分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

秦氏のルーツ:古代イスラエル、東方基督教との関係(久保有政・解説)

見終わりました。



つっこみどころ満載じゃん。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月18日 06時53分48秒 ) パスワード

織田信長は古代イスラエル人の子孫だった:忌部氏の正体(久保有政・解説)


これも  脱力  だった。


どこの宗教や民族が「穢れ」を愛したでしょう?


なんなの  この論理の展開?


初めに結論があって   あっちこっちから  いろいろ持って来て寄せ集めて膨らませた  って感じ。




              日本じゃサルも温泉が好きだ
              でも髪を洗うのは年に2回もやれば良いって時代が日本も永かったよね
             
              簪で頭が痒いと掻いたんだって  東京下町の簪職人のご親戚から聞いたよ。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月18日 10時36分34秒 ) パスワード

ま、とにかくこじつけが凄かった、というのが感想。


例えば

    三種の神器
    壇の浦で1つ行方不明になった説。

    天皇さえ見てはいけない
    とされる説。

    久保氏の説では  
    明治以降  いろいろ  見た人がいるって
    お説。


ま、どうでもいいけど。


ほんとうに鏡に古代イスラエル文字が書かれていたんでしょうか?

こういうの   宮内庁が絶対に公開しない  と思う。
真実が明らかにされるのが一番イヤだという機関と思う。



服織神社のことは静岡焼津の友人から聞いてた。
でもわたしは  全く  知らなかった。

服織(はとり)神社
一宮市真清田1-2-1
尾張一宮、真清田神社の境内摂社。

      真清田神社は蜂須賀小六の奥さんの実家


服織神社(はたおりじんじゃ、はとりじんじゃ)
静岡県浜松市


で、ハトリということで  ハタ!  と思い出すことがあった。
♪チャチャチャ〜ン   チャチャチャ〜ン♪ですぐにゴジラの出現を連想する。

その作曲家が  伊福部 昭。
独学で作曲を学んだそうです。

     才能って素晴らしい。

     サリエリがモーツアルトを妬んで暗殺したという噂には気の毒だけど
     サリエリの「なんで神はあんなクズに才能を与えたのだ。なんで自分じゃないのか」という言葉には涙が出る。



で  伊福部さんですが
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E9%83%A8

【名字】伊福部
【読み】いふくべ,いおきべ
【全国順位】 39,135位
【全国人数】 およそ70人

天火明命の子孫、   あめのほあかりのみこと『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命の子孫

伊福部連、伊福部宿禰、伊福部直、伊福部君、伊福部臣などにもみられる。「伊」は伊勢または伊豆を表す。

           半蔵さんのご先祖のホノハヤヒの命に通じる?
           伊服部は有り得る?


伊福部を「いおきべ」とも読む?

ムカシ「いおきべ」という教官がいたのを思い出します。
歴史?政治?憲法?
何を教えてたんだろう?

出来が悪かったのがバレバレだな。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%B1%8F%E9%A0%AD

【名字】五百籏頭
【読み】いおきべ
【全国順位】 55,267位
【全国人数】 およそ30人

五百旗頭と語源をともにする。
景行帝皇子五百城入彦命の御名代部。



https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E4%BA%94%E7%99%BE%E6%97%97%E9%A0%AD

【名字】五百旗頭
【読み】いおきべ,いおきと,いおりべ,いほきべ
【全国順位】 22,138位
【全国人数】 およそ190人

景行帝皇子五百城入彦命の御名代部。
元は五百城部/五百木部である。
五百城(木)は本来はイフクと読み、伊福氏・伊福部氏と同じ起源をもつ。
古代日本における大豪族。
尾張氏の祖でもある。                            へぇ〜   これは知らなかった

五百の旗をひるがえし、祖神を守護するという意味を持っている。
派生に五百籏頭氏、五百旗部氏がある。



「いおきべ」という音には  漢の国からの武将を連想します。「伊」と書かれた旗印がたくさん風にはためいているシーンが浮かびます。

「いふくべ」には  服  かなぁ。


やっぱり日本の古代史はワケ分からない。
[49]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月18日 12時38分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 総論的には、民族、文化が、西から東へ薄まり混淆しながら、その果てに
ある日本に到達したのは、間違いないことでありましょう。

 各論的には、何を言おうとも、確たる証拠がないので絶対的な正解はない。
 従って、古代については、それぞれが何を信じようと自由であり、信じる
ことが正しいことであるということになります。
 従って、純日本モード、ユダヤモード、シュメールモードの三者となり、
三者は平行線をたどり続けます。

 これらを統合するのが「総合力」、今風に言い換えれば「AI能力」であり
ます。澤田洋太郎氏はこの能力において、ナンバーワンともうしましたが、
古代史の六割くらいは澤田氏の四部作、即ち――
 @『天皇家と卑弥呼の系図』
 A『伽耶は日本のルーツ』
 ➂『ヤマト国家成立の秘密』
 C『ヤマト国家は渡来王朝』
を読めば解けると思います。
 但し、結論的には、天皇家の祖先については、せいぜい扶余国から出てい
るというくらいしかわからないようです。イスラエルの十支族の問題も、一
応こんなこともあります程度で、肯定までには至っておりません。
 つまり、確証がないから肯定も否定もしないということ、これが実情と
いうことになります――


 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月18日 16時39分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


>総論的には、民族、文化が、<西から東へ>薄まり混淆しながら、その果てに
ある日本に到達したのは、間違いないことでありましょう。


<西から東へ>だけでなく  東から西へ  北から南へ  南から北へも日本に民族や文化が入り込んでいる・・・


日本には日本人には  余りにも  いろいろな影響があって


東から西の影響として「音」の単純さがあるんじゃないかな?

     日本語の<音>の余りな単純さには
     太平洋諸島の人々の音の単純さに通じます。

         ただ  日本語には L と R が無くて  中間で済ませているのに対し
             ポリネシア語では L がある
             マオリ語は L じゃなくて  R  
         
             日本語は便宜上  R  でローマ字表記する。
             文字はRを使用しても 音としては 中途半端な L かな?


北から南への影響として
古代に於いて  北海道や青森や秋田に大陸から  文化が入り込んでいる。



南から北へは
和歌の57577のような音律が南アジアにある  



日本語は  膠着語で フィンランド語・トルコ語・朝鮮語 なんかに共通する


日本語の文法が  S+O+V  というのも  中国語やヨーロッパ語とは違って  ペルシャ語や朝鮮語に近い
 
         ペルシャ語は性による名詞が無いのが日本語に似てる。


               朝鮮語は遠くで聞いていると  あれ?日本語?  と思ってしまうほど 音の流れが似てる

               ペルシャ語も  語尾が  なんとかキャルダ〜ンなどと  日本語の  なんとかダヨ〜  みたいで笑える



ヘブライ語は  
文字が簡単で  22+終末語の5  の27語を覚えればいいから読むだけは簡単   本当か?

単語は子音だけだからワケ分からないけど母音をさすシルシ(ニクダー?ニクード?)も覚えれば何とかなる    本当か?

                       わたしは外国語の素養が無いので  途中で迷子になってついていけない

    
冠詞は定冠詞のハーだけだから  ドイツ語のメンド臭い冠詞だけで何種類もあるようなわけでもなく、格に合わせて変えたりする必要もないから楽。    本当か?

だけど  定冠詞が名詞にくっつくから  え?  と混乱する
ま、  ハーがついてるからなと  気づけば大丈夫なんだけど


                
アラビア語は超メンド臭い  文法は  SVO で 動詞の活用が10種類以上あって

   立ってるライオン
   座ってるライオン
   走ってるライオン
   食べてるライオン

の表現が変る・・・  こんなん理解不能

アラビア語には文語と口語があるから、きちんとした席で話す時は、文語で話す      本当か?   日本語も同じか?改まった言い方ってあるものね。


でも文字をそのまま読めば  正しく発音出来る    これはスゴイ。


            英語の場合は文字と発音が全く異なるから
            これが英米での  識字率の低さに繋がる

            それでフォネティックスの授業が重要になる

            日本語はアラビア語に似て平仮名を読めば発音出来るから
            日本人の識字率の高さはココにも理由がある



などなど<純日本モード、ユダヤモード、シュメールモードの三者>に拘らなくても良いと思いますよ。



>A『伽耶は日本のルーツ』

任那と伽耶(加羅)と日本は関係が深く このエリアの人は日本人と同じDNAを持っていると指摘されている。

    韓国の王家につながるリ・シウさんだっけ?歌手  このヒトのDNAも日本人と共通することはいくつか前のスレッドで書きました


伽耶が<日本人のルーツである>と断定することは  わたしは  しないけれど
交流があったのは確かだし  任那に日本府があったのは歴史上  事実。


翡翠は朝鮮では採れず(日本とミヤンマーでしか採れないのに)
朝鮮には糸魚川産の翡翠があるとか
前方後円墳があるとか
日本人の足跡があって


だから   A『伽耶は日本のルーツ』  とはわたしは言わない。
伽耶の人<も>日本に来ていたと思う。
日本の人<も>伽耶に行ったと思う。




久保さんの動画に   ハナシが飛ぶなぁと呆れまくりましたが


例えば
ヨーロッパで香水でニオイを消すハナシがあって

ヲイヲイ

アンタは日本じゃ  お香でニオイを消してたのを知らないの?  と呆れました。

平安時代の文学を読んだことのない人なのかな?
      フツー  日本で学校に行ってたら  知ってるよね?
      帰国子女で現地の日本語学校に行かなかったヒトなのかな?

源氏物語でも  匂宮と薫について  匂ふ兵部卿、薫る中将  と表現して  2人を  こんなに違うんだよ〜   と区別してるのに。

薫くんは  カラダから良い香りが自然に香ってるって
そこへいくと  匂宮は   って。



武士でも死を覚悟して   髪の毛にお香をたきしめてた  という記述がありますよね。


だから日本人だって   臭かったんだよ〜


そして  水に穀物を浸すハナシ
これって  種を発芽させる儀式  じゃないの?と思いました。
農業には  発芽させるって  もの凄く大切じゃない?


     わたしは前世の記憶でも  百姓はイヤ!  と叫んでた気がするけど。


そして  西洋人は風呂に入らないとかの悪口にもビックリした。

フランスとかドイツとか  硬水なんだよ
硬水で風呂入るとかシャワーするとか   この久保ってヒト   知らないんだね。

     オソロシイんだよ〜

あまりにも・・・
なハナシのオンパレードで  このヒト  宗教を語る資格ある?  って思った。


だいたい  日本の便所は  厠なんだよ   川屋。
川で大小便してたんだよ〜
このヒト  カワヤ  って言葉知らないのかね?


日本じゃ台所で食器を洗う場所を  流し  って言うけど
西洋じゃ  SINK  って言うんだよ  沈めるの   食器を泉に沈めて洗うの

だから西洋人は水を日本人のようには  じゃばじゃば  使わないの  使えないの


ホントに呆れて呆れて

だんだん思い出して腹立って来た。


このヒトに宗教を語る資格なんて無いって思った。
そんなにイスラエルに拘るなら  割礼してるんだよね?  と訊いてやりたい。  


腹立ちまぎれ
すまぬ


[51]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月19日 10時11分49秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史好きの友人から
以下コピペ:



南の縄文人ラピタ人に関しては白人系説もありますけど,
ポリネシア人に関しては黄色人種説が強いです。


漢民族に関しては白人系のようです。

孫権や諸葛孔明,秦の始皇帝等,漢民族には白人系の歴史上の人物が多いのです。


また匈奴は白人だったと言われています。

匈奴は,
漢の武帝に追われて消えますけど,

ほぼ1世紀かけてヨーロッパに移動して,アッチラ率いるフン族になったというのが今の定説です。

アッチラの死後,フン族は内部抗争で消えますけど,
最終的にはトルコに行き,トルコに定住したという説が強いです。


トルコ人が匈奴の末裔ともいわれています。
オスマントルコは世界で最初に軍楽隊持った軍隊ですけど,
演奏するのはメルハバ?という曲一曲。
でも強いからキリスト教軍,この曲聞いただけで逃げて行った。(笑)

アルハンブラ宮殿はオスマントルコ帝国の総統府跡です。



日本書紀に,粛慎と言う異民族出てきますけど,
粛慎ですけど,今,海底ですけど,
日本海のど真ん中に大和堆と言う好漁場があります。
海底の大地で,大きさは北九州位ありますが,ここは鍾乳洞とか,海底ではできない地形があるので,海上にあったと言われていますけど,

私は,漢の武帝に駆逐された粛慎が,海上にあった大和堆に逃げてきたと思っています。


粛慎征伐艦隊は,石川県の七尾港,蝦夷征伐艦隊は新潟県の岩船港から出撃しているので,
定説の粛慎と蝦夷は同じ民族とは思えません。

同じ民族なら艦隊は同じ港から出撃したと思いますし,

阿倍比羅夫が北上したら対岸の見えない大河に到達したという記述が日本書紀にありますけど,

岩波版の日本書紀の注釈には北海道の夕張川になっていますが,

対岸の見えない大河,日本にないので,私は,この川アムール川だと思います。


新型コロナ終わっても,
中国人は野生動物を食わないと健康に悪いという俗説がありますので,
中国共産党が法律で野生動物食ってはいけないと言っても,隠れて食うでしょう。
そうなると,数年後,中国発の新たなパンデミック起こるかもしれません。


中国が世界に初めて火薬,羅針盤,活版印刷術を宋代に発明できたのは,不老不死の薬を作るために偶然に発見したのです。
つまり,中国人にとって,「不老不死」はDNAに書きこまれた伝統だと思います。

そうなると今後も野生生物を食うでしょう。
そうなると中国発のパンデミック起きると思います。

大変悲観的ですけど,私は中国人がいる限りは,中国発のパンデミックは起きると思います。

しかも,今度は中国共産党が法律を盾に大弾圧するでしょうから,パンデミック起きたら,スペイン風邪のようになると思います。


最近の中国を見ていると,
中国共産党王朝,
そろそろ滅亡段階に入っているように思います。


中国歴代王朝は,法律で動きをつかなくして大弾圧をします。
そうすると,益々反乱がおきる。
そうすれば,益々政権もタガを締める。

良い例が明王朝でして,この王朝,皇帝の権限が強いですから,大臣いなくても回りました。


それで反乱がおきると大臣は即死刑。


だから明王朝は滅亡し,最後の皇帝の崇偵帝だけが国内に反乱起きていることを知らなかった。

反乱が起これば担当者は即死刑ですから,誰も何も言わない。

それで,崇偵帝ある朝起きて洗面しようと思ったら,紫禁城が反乱軍に取り囲まれている。

泡食った皇帝が,非常呼集の鐘鳴らしたけど,家来ども全員前夜に逃げ散っていて,誰も集まらない。

それで,皇后と娘殺して,自分は煤山と言う紫禁城内の石炭置き場にあった樹で縊死しました。


この明王朝の最後が,中国歴代王朝の最後で,一番劇的です。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月19日 10時26分00秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%94%E3%82%BF%E4%BA%BA

ラピタ人

人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。



https://kitanomizu.exblog.jp/6427598/
ポリネシア人のルーツが縄文人?

以下コピぺ:

京都大学大学院の片山教授は、「ポリネシア人のルーツであるラピタ人には、縄文人が関係している」と、考えているようだ

産経新聞の記事から

〜〜〜ここから〜〜〜
【日本人解剖】ルーツ 日本からポリネシアへ

3000年前の大航海に思いはせ
 「日本人とは何か」と突き詰めて考えていくと、「日本人はどこから来たのか」というルーツの問題に突き当たる。

現生人類(ホモ・サピエンス)が日本列島で生活を始めたのは数万年前のことだが、そのころの祖先の特質がわれわれの体に受け継がれており、そのルーツがわかれば現代日本人への理解はさらに深まる。

第3章ルーツ編では文字資料がない先史時代の歴史解読に挑む。最初のテーマはポリネシア。

日本人の末裔(まつえい)かもしれない人々が住む南太平洋の島々に、人類が分布した歴史の一端を探る。(堀江政嗣)




「ラピタ人のルーツには日本人の祖先である縄文人が関係している」

片山教授の仮説である。
太いまゆ、二重まぶたで立体的な顔立ちだった縄文人はラピタ人同様、高い航海技術を持つ漁労採集民族だった。
そんな彼らが古代の大航海の出発点にいたのではないか、というのだ。



あまり知られていないが、縄文人も高い航海能力を持つ民族だった。
伊豆大島や八丈島にも縄文時代の遺跡が残っており、
縄文人が船を使って数百キロ沖の離島まで行き来していたことがわかっている。

この事実はラピタ人=縄文ルーツ説を支える論拠の一つになっている。



3000年前、この人々が縄文人の末裔とすれば、われわれ日本人と現代ポリネシアの人々は遠い親類のような関係ということになる。
DNAや土器、人骨の年代分析など科学的な証拠はこの問いにどう答えるのか。


■ラピタ人 
ラピタ人は、優れた航海技術と独自の文様土器文化を持った古代民族。
約3300年前にニューギニア北東部の島から東へ航海を始め、ポリネシアの島々に次々と植民した。

基本的には漁猟採集民族だが、東南アジア原産のタロイモなど根菜類を栽培し、イヌ、ブタ、ニワトリを家畜として飼い、食料にもした。

また植民した島々を往来し、盛んに交易も行っていたとみられる。

ラピタ土器は線や円などの幾何学模様や人の顔などが装飾され、窯を使わず、600〜800度の低温で野焼きで焼かれた。

時代が下るにつれて土器の文様が次第に単純化。

ラピタ文化の衰退とともにラピタ人も消滅した。
子孫を含めると、航海範囲は東はイースター島、北はハワイに至る広大なエリアに及び、「石器時代のバイキング」とも呼ばれる。
〜〜〜ここまで〜〜〜

ポリネシアに広がった人たちのルーツが縄文人だというのは面白い仮説。
その頃のラピタ土器が、釜を使わない野焼きで、幾何学模様が入っていたというのも面白い類似性


3300年前と言えば、日本は縄文時代。
三内丸山遺跡が繁栄していた時代より700年は後だから、けっこう新しい時代とも言える。

三内丸山で発見される黒曜石は北海道の白滝村産
これが遠くシベリアまで運ばれていたようだから、縄文時代もかなりの交易範囲があったことは予測できる

ただ、縄文人の身体的特徴が「暑い地方の気候に適応した身体」だと言うことを考えると、わざわざ日本から出発しなくても日本へ渡ってきた縄文人と同じ祖先を持つ人々が、出発点にあるニューギニア島付近に住んでいて古くは日本へ、そして3300年前にポリネシアへ・・とも考えられそうな・・・・(^_^;)
素人考えだね

アラスカに住むイヌイットの人々や、南北アメリカ大陸に住み着いた人々が、日本付近を通過したモンゴロイドであることを考えると、我々の祖先は新天地を求めて遠くまで旅をした冒険家だったのだと言うことがわかる。

日本が出発点であっても、到達点のひとつであっても、同じ祖先を持つ人々が遠い島々に住むというのはロマンを感じるね・・

ヒマラヤの奥地にも、荷物を背負うときに「どっこいしょ」という人々がいると聞く(^_^;)

                              へぇ〜
                              ヒマラヤで「どっこいしょ」と言う人々がいる?

中国から山を越えてきたという伝説を持つ人々だそうだ

                              じゃ、日本と関係がある?

以上部分的にコピペ



全文はURLへ
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月19日 11時00分43秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E_ (%E6%97%A5%E6%9C%AC)

粛慎(みしはせ、あしはせ)

日本の正史である『日本書紀』や『続日本紀』などの中に記述が見られる民族である。

中国文献中の粛慎 (しゅくしん) とは存在した時期にかなりの開きがあり、同一であるかどうかなど両者の関係性は不明である。



『日本書紀』に粛慎が登場する箇所は、大きく分けて以下の3つがある。

1.欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
2.斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐
3.天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと

これら粛慎について、どのような集団かという説はさまざまあるが、おおむね以下のようにまとめられよう。


・蝦夷(えみし)と同じであるとする説。
・粛慎と呼ぶのは中国の古典にも見られる由緒ある名前であるからとする。
・蝦夷とも「中国文献中の粛慎」とも違う民族であるとする説(ニヴフ、アレウトなど、もしくは現存しない民族)。
・「中国文献中の粛慎」と同じツングース系民族であるとする説。
・北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに遺跡が見られるオホーツク文化人(3世紀〜13世紀)という説。


粛慎の訓は「みしはせ」とする説と「あしはせ」とする説とがあり、未だに定まっていない。

見の字を略したミの音を表す変体仮名が、片仮名のアと字形が似ているため、このような混乱が生じている。

                      意味不明
                      そんな字ある?


欽明朝の粛慎

粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇5年(544年)12月のものである。
そこでは、佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。

ただ、このことが本当に起きたことかどうかはにわかには信じがたい。
後の粛慎討伐の軍勢が、佐渡島の対岸の越(こし、今の北陸地方)の国から起こったことを考えると、後世の粛慎討伐の記録から後付けで作られたものであるとも考えられる。



斉明朝の粛慎討伐

斉明天皇の時に代は、さかんに蝦夷を支配下に置こうとした政策が行われた。
その一環として、越の国の国守・阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。
日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。

1.斉明天皇4年(658年)4月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
2.斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明という意味) - 粛慎討伐とヒグマの献上 参考原文・現代語訳
3.斉明天皇5年(659年)3月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する
4.斉明天皇5年(659年)3月 - 粛慎討伐と捕虜献上
5.斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎討伐
6.斉明天皇6年(660年)5月 - 粛慎の捕虜献上

この記事に付されている、実際の『日本書紀』中の粛慎についての記述を見れば明らかだが、これらの記事は内容が酷似しており、例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。

このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては諸説ある。

例えば、本居宣長は、もともと討伐は1回しかなかったとし、4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、
壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、
日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。

なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかは定かではない。

ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道にしかいない。

そして、阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。



天武・持統朝の粛慎

天武5年(676年)11月には、新羅の使節が粛慎を伴って来訪したとの記録があり、
持統8年(694年)には粛慎人に官位を与えたという記録がある。

この官位が与えられた粛慎は新羅の使節とともに来た者たちだと考えられている。

また、持統10年(696年)には、蝦夷とともに粛慎への賜与の記録が残っている。




阿倍比羅夫は知ってたけど。



ということで下記が面白かった:

『日本書紀』中の粛慎についての記述

欽明天皇5年(544年)12月

越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。

越(こし、今の北陸地方)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎人がおり、船に乗ってきて留まっている。春夏は魚をとって食料にしている。かの島の人は人間ではないと言っている。また鬼であるとも言って、(島民は)敢えてこれ(粛慎人)に近づかない。

嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。

島の東の禹武(うむ)という村の人が椎の実を拾って、これを煮て食べようと思った。灰の中に入れて炒った。その皮が変化して2人の人間になり、火の上を一尺ばかり飛び上がった。時を経て相戦った。村の人はいぶかしく思い、庭に置いた。するとまた前のように飛んで相戦うのをやめない。ある人が占って「この村の人はきっと鬼に惑わされよう。」と言った。それほど時間のたたないうちに、(占いで)言ったように、物が掠め取られた。

於是肅愼人移就?波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渇飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。

そこで、粛慎人は瀬波河浦(せなみかわのうら)に移った。浦の神の霊力は強かった。人は敢えて近づかなかった。のどが渇いたのでその(浦の)水を飲んだ。死者は半分になろうとしていた。骨は岩穴にたまった。俗に粛慎隈(みしはせのくま)と呼ぶ。



斉明天皇4年(658年)

是歲、越國守阿倍引田臣比羅夫討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。

この年、越の国守である阿倍引田臣比羅夫(あへのひきたのおみひらふ)が粛慎を討って、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。



斉明天皇5年(659年)3月

或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻虜卅九人。

ある本には、阿倍引田臣比羅夫が粛慎と戦って帰った。捕虜を39人献上した。 この文は日本書紀の本文ではなく、分注に書かれている。



斉明天皇6年(660年)3月

遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側。

阿倍臣<名前は不明>を遣わして200艘の船を率いて粛慎国を討伐させた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗らせて、大河のほとりに着いた。

於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣」。

そのとき、渡島の蝦夷が1000人ばかり海岸にたまって、河に向かって、いついていた。その中の2人が進み出て突然叫んで「粛慎の水軍が多く来て私達を殺そうとしているので、河を渡って(朝廷に)仕えたいと思っています、お願いします。」と言った。

阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。

阿倍臣は船を遣わし、2人の蝦夷を召し、賊の潜んでいるところとその船の数を問うた。2人の蝦夷は即座に隠れているところを指して、「船は二十艘あまりです」と言った。そこで、(粛慎に)使いを遣わせて呼んだが、来ようとしなかった。

阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。

そこで、阿倍臣は色とりどりの絹・武器・鉄などを海岸に置き、(粛慎に)欲しがらせようとした。そこで、粛慎は水軍を連ねて、羽を木にかけて、挙げて旗とした。(粛慎は船の)棹をそろえて近づき、浅いところに止まった。ある船の中から2人の老人が出てきた。めぐって行って、置いてある絹などのものをとくと見た。すると、単衣替えて着て、各々布を一端持っていった。(粛慎は)船に乗って帰っていった。にわかに、老人がまた来て、服を脱ぎ、あわせて持っていった布を置いた。船に乗って退却していった。

阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。

阿倍臣は、いくつかの船を遣わして、(粛慎を)呼んだが、来なかった。(粛慎は)弊賂弁嶋(へろべの島)に帰った。しばらくして、(粛慎が)講和を請うたものの、ついにあえて許さなかった。<弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。>(粛慎は)自分の砦によって戦った。このとき、能登臣馬身龍(のと の おみ まむたつ)が敵(粛慎)に殺された。まだ戦っていやにならないうちに、賊は敗れて自らの妻子を殺した。



斉明天皇6年(660年)5月

又阿倍引田臣<闕名>獻夷五十餘。(中略)以饗肅愼卌七人。

また阿倍引田臣<名前は不明>が夷を50人あまり献上した。もって粛慎の47人にご馳走した。



天武5年(676年)11月

丁卯、新羅遣沙飡金清平請政。(中略)送清平等於筑紫。是月、肅愼七人從清平等至之。

3日に新羅が沙飡(ささん、新羅の8等官)の金清平を遣わし、まつりごとの様子を言上した。(中略)清平らを筑紫に送った。この月、粛慎が7人、清平らに従ってやってきた。



持統8年(694年)1月23日

以務廣肆等位授大唐七人與肅愼二人。

務広肆(むこうし、後の従七位下に相当)等の位を唐人7人と粛慎2人に与えた。



持統10年(696年)3月12日

賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。

越(こし)の度嶋(わたりしま、渡島に同じ)の蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と粛慎の志良守叡草(しらすえそう)に錦でできた袍(上着)と袴・赤い太絹・斧などを下賜した。



『続日本紀』中の粛慎についての記述

養老4年(720年)正月23日

遣渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男等六人於靺鞨国、観其風俗。

渡島の津軽の津司(つのつかさ)である従七位上の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨国(粛慎)に遣わして、その風俗を視察させた。


___________________________________


渡島の津軽の津司?
渡島って北海道じゃなかったの?
北海道の津軽の役人?

え?


ワケ分からなくなる。

こういう部分の空想も楽しい。
どういう意味で使ってるのかな?と。
[54]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月19日 11時15分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 @「秦氏の謎」を解くこと、A「応神天皇の謎」を解くこと、➂「藤原不
比等の謎」を解くこと……これらにより、ほぼ「日本の古代の謎」は解けて
くるものと思っています。

 ただ、この三者は関係しているので、同時進行で捉えて行かざるを得ない
と思います。

 千年、二千年の昔のことゆえ、絶対的証拠に基づく絶対的真実を見つけ出
すのは無理なことであります。よりたくさんの状況証拠、関連証拠を集めて
推理して行くという方法しかありません。

 @アカデミックな実証主義、A他の人の説の応用、➂付会(こじつけ的自論)
と理論展開には色々なレベルのものがあり、@Aはともかく、➂のこじつけ
的無責任なものが多く、まどわされてしまいます。インターネットに於ける
ものは、ユーチューブも含めて、いわゆる"文責"という責任感の重みがない
ので、内容については参考程度に考えております。

 でも、本当のところ、インターネット情報の中には、確かな情報もあるこ
とは間違いないと思います。"文責"、正式名を名乗って掲載しているサイト
もあります。
 そんな中の一つに、中島尚彦氏の「日本とユダヤのハーモニー」は、かな
り説得力のあるものと感じられます。
 純日本史モードでは解明できない古代の謎を、ユダヤモードとの連結にお
いて、違和感なくつなげております。
 秦氏と応神天皇の謎については、かなりわかると思います。ただ、藤原不
比等と記紀の謎については、今後に期待したいと思っています――

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月19日 14時13分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


友人からのコピペです:


藤原不比等は,紅毛碧眼だったという説があります。

蘇我馬子,蝦夷,入鹿も紅毛碧眼だったという説もあります。


上野,下野の国の名のもとになった古代の大豪族毛野氏ですけど,
この氏族にも紅毛碧眼説があります。


中国にも三国志時代までは、結構、紅毛碧眼だったという人物います。
孫権とか孔明,それに古いところでは秦の始皇帝等です。
白人が進化したのが黄色人種です。
遺伝子的には,漢民族は白人系です。


それで,私見ですけど,
私は中国あたりで,
白人が黄色人種になったと思います。


最近ですけど,ラピタ人がモンゴル高原に行き黄色人種になったと言われています。


アメリカ大陸にインディアンが渡ったのは,ベーリング海峡が出来てからだということが証明されています。


最近,北米大陸に最初に住んでいたのは,日本列島にいた南の日本人と言われていて,
フィンランドから発見された縄文土器(北欧型縄文土器と言います)があるので,
縄文人は北欧まで達していたと言われています。


ただ,原因は不明ですけど,縄文人はアメリカ大陸からどっかへ行った。
そのあとに渡ったのがインディアンと言われています。




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鎌足の次男の不比等の実パパには天智天皇説があって
だから子孫は日本史上最大最長の繁栄が出来た、とかね


鎌足の長男の定恵の実のパパには孝徳天皇説があって   
だから  このヒトは長男なのに干されて僧侶にされた、とかね
謎の多い人物でしたね。


    孝徳天皇は、まさに、お飾りの天皇

    定恵は若くして亡くなってるから、その死は謎だらけだったかも


    だいたい中臣氏はもともとが神事祭祀を司どる家なのに  長男が  出家?
    当時はまだ弟の不比等は生まれていない
    そんな大事な跡取りが
    中臣氏は仏教伝来に大反対の立場なのに  大変な出来事ですよね


当たり前ですけど  古代史はワケ分からない。
どこまでが事実なのか   なんでそうなったのか?    
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月20日 09時53分18秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101717.html
に新しく
「長上郡の服部氏族CXXXW:134:いよいよ核心に‐2」
と立てました。

キリの良いところでどうぞ。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月29日 08時15分43秒 ) パスワード

軍事ヲタクで古代史マニアの友人から   ← 日本人男子なら知っていそうな有名海軍軍人の親戚
以下コピペ:


海上自衛隊が出来た時に,アメリカのセコハン軍艦で艦隊編成しましたが,
乗員には旧海軍兵士が多いので,
驚いたのが電気洗濯機,電気冷蔵庫,それと噴飲機と言う足でペダル踏んだら水出てくる機械。


日本海軍時代,真水管制というのがあって,
航海中支給される真水は,1人洗面器1杯程度。

だから,南方で洗濯したとき,石鹸のすすぎ水を喉乾いたから飲んだという話がよくあります。


ですので,噴飲機には驚いたそうです。


真水はアメリカ海軍乗員には自由に飲めますから。
アメリカの軍艦だから,真水のタンクも日本の軍艦の10倍くらいの真水作る能力のある機械積んでいたそうです。


日本人は風呂好きですけど,
これ,昔からでなく,
平安時代は風呂は半年に一回位しか入りませんでした。

      だから,清少納言も紫式部も垢だらけで臭い。(笑)

当時は蒸し風呂しかないのです。
風呂沸かすのが大変だったから。


まだ庶民のほうがきれいで,川に入ったり,湯沸かして行水していますから。



一乗谷遺跡は朝倉氏の遺跡ですけど,
この遺跡には特徴があるのです。


町屋にはトイレありますけど,
朝倉館とか上級武士の館にトイレないのです。


平安時代もですけど,戦国時代まで,上流階級は,おまるに用を足し,使用人が捨てていました。
だから,トイレ要らないのですけど,


町屋は人を潤沢に雇えないので,ぼっとん式ですけど,トイレがありました。



日本人が風呂好きになるのは戦国時代位からです。
戦争の毎日ですから,汗をかきます,しかも汚くしていたら皮膚病になる。
命にはかかわりませんが,痒くて眠れなくなり,睡眠不足で後れを取る。
そうなると,命がなくなることもあるので,
戦争終わったら湯沸かして行水しました。
戦場に蒸し風呂持っていけませんから。


家康の祖父の松平清康は,蒸し風呂より行水が大好きで,蒸し風呂を城内に作りませんでしたが,行水する場所を作ったそうです。

ですので,江戸時代初期には,風呂と言ったら蒸し風呂でした。


これに対して,現代の風呂のように,浴槽に湯を張る形式は江戸時代初期に確立するのですけど,こっちは湯風呂と言いました。


だから,5代将軍綱吉の時代までは,風呂屋は蒸し風呂,湯屋は今の風呂屋でした。

だから,風呂屋に行くと言ったら,今のような風呂屋でなく,蒸し風呂に行くという意味です。


湯を張る風呂を,江戸では湯風呂とも言いました。
ですので,気の短い江戸っ子は「ちょいと湯に行ってくら」になるわけです。



浴槽のこと湯船というのも,江戸初期,湯屋は猪牙舟(ちょきぶね)と言う小型の船に,五右衛門風呂のような浴槽を乗せたものだったからです。

この船を湯舟と言いました。


このような,湯舟が江戸中の川や運河に浮かんでいました。
そして庶民は,1文を払って湯に入るわけです。


ですので,浴槽を湯舟と言うようになりました。


平安時代以前の風呂は,記録がないので,蒸し風呂だったか不明のようです。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月29日 15時21分54秒 ) パスワード

友人の話の続き:


海上自衛隊が出来た時,自衛官だけでなく各地で,アメリカからもらったセコハン軍艦を日本各地に巡行して公開したのですよ。

一番来たのが旧海軍軍人。
中には自衛艦旗(軍艦旗です)を仰ぎ見て,オンオン号泣していた旧海軍軍人の爺さんが多数いたそうですけど,
ウォーター・クーラーを見て腰抜かすほど旧海軍軍人は驚いたそうです。

水が自由に飲めるなんて!と
言うわけです。


それと,シャワーを毎日浴びれると隊員から聞いて,「垢上陸」無くなったのか?と驚いたそうです。

旧海軍の場合,3か月くらい風呂に入れないのは当たり前でした。

それで一升瓶の空き瓶に垢を出してためておく。
そして軍艦が入港する前日,その一升瓶を全員分集めて,誰が一番集めたかを比べる。
それで一位の人は,褒美として一泊上陸できるという制度がありました。

これが垢上陸です。


あと,ネズミを艦内で一匹捕まえたら,褒美でこれも陸上で一泊できるネズミ上陸もありました。


真水を1T作るのに,5Tの重油が必要だと新人の時,厳しく教育されたそうです。

でも,海上自衛隊が出来た時に,海上自衛隊が一番困ったのが飯を炊くこと。
アメリカに白米とみそ汁,漬物ないですから。(笑)


それで,一番大きいのが,スープを作る機械。


それで白米を炊いていたらしいですけど,
スープ出す蛇口がありますから,
そこにも白米が詰まるので,掃除が大変だったらしいです。


海上自衛隊神代記と言う防衛省だったか海上自衛隊の記録文書があって,
そこにスープを作る機械で飯を炊いていたという項目に書いてあるそうです。


海上自衛隊は,アメリカ海軍を手本にしてますので,
昭和40年代の護衛艦まで,アイスクリーム製造機があったそうです。

アメリカ海軍は,アイスクリーム製造機が故障したら軍艦は出撃禁止になるそうです。


志気が落ちて撃沈される可能性高いからですが,
海上自衛隊はアイスクリームがなくても反乱起きない。


それで昭和50年代建造の護衛艦から,アイスクリーム製造機の設置を辞めて,アイスクリームストッカーに変えたそうです。
[59]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2020年05月30日 07時23分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 アメリカ海軍とアイスクリームの取り合わせ、のびやかで自由で(ある意味
幼児性の発現=人間の本性の肯定)気持ちが軽やかになります。アメリカ人の
ユーモアもそのへんに原点があるのでしょぅか?
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月30日 17時41分45秒 ) パスワード

毛利と戦った宇喜多方の友人より頂いたメールのコピペです:

Subject: 蒸し風呂について


戦国時代の蒸し風呂は奈良の時代にも存在したかもですね。
同時に水もかけ流しますからね  冬場は温水も使うことは疑う余地は在りませんね。

天正時代の蒸し風呂の形からすると
外の焚き口で湯沸かしをして
湯や水を掛け流しの部屋へ入れるように成っていますからね。


蒸し風呂の部屋は畳一畳分ほどですかね。
下記の万徳院の湯殿で確認できます。

*風(かぜ)呂(箱の入れ物)で風(蒸気)が出る部屋の意味のようですね。



この情報は地元の出来事です。
何度も調査で登城しました。
「吉川氏」が寄せ手で攻め寄せて居た時の事です。


    (宇喜田と毛利の全面戦争の最前線です。
     我が家は宇喜田方です)


軍記物です。

天正7年、吉川元春自身が攻めていた相手(宇喜多方)の山城の麓の村の「湯室」に入っていたのを宇喜田方に切り込まれた

と、備前軍記に記録されて居ます。


毛利家軍記とも言える陰徳太平記には山城の「近辺ノ民村二湯室有  寄手毎日湯浴シケル」と記載して居ます。・・・

      「湯室」・「湯浴」=「ゆしつ・ゆあみ」ですから
      湯船では無く、蒸し風呂での湯浴み
      と想像します。


吉川館の湯殿や万徳院の湯殿から見てもその範疇でしょうね。


_______________________________


奈良・平安時代の蒸し風呂 http://sendan.kaisya.co.jp/kotobbak200607.html  
月刊「e船団」 「香りと言葉」2006年7月号 からの抜粋です



香水(こうすい)

「古代の公家・僧侶たちの入浴回数」(1)
という論文を見つけたときは目を疑った。

そんなことを調べてみようと思う、というか、調べたら分かると思うヒトがいるとは!


これが見つかったのは「むらさき」という『源氏物語』専門の年刊誌で、
著者はこの文を、いつものことだが、
日本の古典を読むたびに、あの紫式部や清少納言たちの日常生活は一体、どんな毎日を送っていたのだろうかと想像する
と、書き起こしておられる。


まあ、そこまでは私もちょいちょい想像する。
違うのはその後だ。


朝起きて口を濯ぎ、顔を洗い清めるところから、日々の食事、排泄の作法(?)まで、常識の広さ、深さがまるで違うのだ。

何日ごとに風呂(この頃は蒸し風呂)に入ったかを調べてみよう、という発想もこの蓄積があればこそ、と納得、敬礼した。


興味がおありの方はご自分でお読みください。



で、光源氏や紫の上はどれ位の頻度で入浴遊ばしたのか?
答えは、およそ7日〜10日に1度、とのこと。
手がかりは『具注暦(ぐちゅうれき)』という奈良・平安時代に流行した暦本(れきほん)だそうで、
爪を切ってもよい日とか、髪を洗ってもよい日、とか書いてあるそうだ。 


平安貴族の日常生活はさぞ臭かったのだろうなあ、と改めて同情した。


『源氏物語』の登場人物が、ああもやっきになって良い薫香を欲しがったのも、切実な必要に迫られてのことだったのだ、きっと。



同じころ、ヨーロッパでも、まだ今日のようなアルコール溶液の「香水」は生まれていなかった。

そのためにはまず、純度の高いアルコールが作られねばならなかったし、よい香りのする植物から、その香りのエキスである「精油」を採りだす方法(蒸留法)ももっと進歩しなければならなかったのだ。



愛媛の桜井石風呂

空海より以前から在ったようですね・・下記の弘法大師がおいでましてね・・でもわかりますね。


空海(弘法大師)が開基のお寺が全国に在り伝承も数え切れないですね。
実際は空海以前からのもで在ったり、弟子達によるもだったりですね。


*横穴を利用したり窯を利用した蒸し風呂文化も存在したようですね。



「桜井に国分尼寺がありました。今は法華寺と言うんですがね。そこに『法華寺縁起』という文書(もんじょ)がございます。

この文書によると、弘法大師がおいでましてね、石風呂へ。これは本当に病気によく効く石風呂だと『空海が感心して、石風呂へ薬師如来の木像を作られて祭られた。』という伝説があります(写真4-1-10参照)。」


入口の案内板にも、次の文章がある。

       石 風 呂

この石風呂は、平安の昔、弘法大師が石窟を開いて里人の病気を治したのが始まりといわれ、近郷の人ばかりでなく、はるばる京から、公家や高僧が業病・難病の治療に訪れたといわれています。

岩にできた自然の横穴を利用した約50m²の洞窟の中でシダを焼き、その上に海水で浸したムシロを敷きつめ、穴にこもった熱と蒸気で体を温める。

いわば「天然のサウナ」です。

神経痛のほか、美容にも効くとあって、7月中旬から9月中旬までの開設期間には多くの入浴客でにぎわっています。



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吉川館 (凄くデカイお城ですね。小高い田んぼの有る所て言った場所です)

「トイレと湯殿」
https://blog.goo.ne.jp/sebato107/e/1b53d33f1cd95c897adacbe72ce0ee63  

街道・駅のまちを歩く


豊平(とよひら)・・・海応寺集落に吉川元春親子の史跡  広島県北広島町(旧海応寺村)

                        すっごい山の中ですね

3枚目の復元模型の一番上が馬小屋です。
その前にトイレ跡(大型おけ2個)

                        ものすごく大きな便所用の桶?
                        ということは家中みんなで使った便所ってことかな?



拭き取りの棒も発掘され回虫などの痕跡も発見されて居ます。

           あはははは

           古代ローマとかギリシャなんかは拭くのに小石を使ってたとか
           インドは左手で水を流しながら拭く(笑)今でも公衆トイレには水の入った桶が置いてあるとか友人が言ってた

           日本の庶民は「藁」とか「葉っぱ」を使ってたとか


湯殿については説明はなかったです。


いずれも、使用人のものらしいです。

                       でしょうね
                       桶が巨大ですものね

館(殿舎)には便所も湯殿の痕跡は有りません。

馬小屋の湯殿かも知れませんね。
便所はオマル文化かもです。



*吉川元春の館より数キロ北の方に有ります。

万徳院の湯殿(蒸し風呂)

復元されて居ます。
体験入浴も可能です。
私はみて触っただけですが、中は見られなかったです。

写真34枚目 ・35・36・37がそうです。

いずれにしても天正時代で女性の為に作られた湯殿です。



一番下二枚が宇喜多秀家の姉上の墓所です。
勿論、宇喜多方なのでお参りしました。


*宇喜多秀家の姉であり、1588(天正16)年に秀吉の斡旋で嫁いだのです


__________________________________


URL文中に出てた  月山富田城って尼子の城ですよね。  
わたしは吉川より尼子勝久とか山中鹿之助とか亀井茲矩とかに心を持って行かれる方です
母方先祖の<主人>は小早川隆景の娘と結婚して竹原で若死にしてる
母方先祖≪自身≫は出奔して秀吉に走って関ケ原では大坂方で落武者になって住吉っさんに匿われた
母方先祖≪自身≫は尼子方に同情してたんだろうなと。たぶんわたしの≪先祖≫と山中鹿之助と楠正成との共通性=七生報国=からだろうと思う。

こうしてツラツラ見て来ると
        神代の時代で兄弟
        平家方
        南朝方   この部分は触れられたくないでしょうけど、お気持ちは分かります
        母方で反吉川 
        幕末の新選組隊士・御陵衛士で仲間だった*赤穂だけど*服部武雄と我が家の加藤高明の伯父       
の流れで実に何重にも血や涙を同じくしてたようですね。

それこそ  つい昨日知ったばかりの徐福時代から  <2200年前から>  血と涙とが続いているんですねぇ。
日本人  スゴイ!
だからご先祖さまが遣唐使だったのか。宦官制度と科挙を持って来なかったのはミゴトでした!感謝
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2020年05月30日 17時58分37秒 ) パスワード

わたしは徐福は  伝説上の人物  と捉えてたけど
昨日からホントに日本に来た  と信じてる。

日本人  ホント  みんな繋がっちゃう。
神武天皇  ホントに日本人の精神の根源   なんだぁ。

日本人は天皇の赤子って   なるほど   と納得しちゃった。


これが  日本人か  と。
これまで  アホか  と思ってたけど  猿よりずっと遅れて  反省!
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