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 投稿番号:101712 投稿日:2020年04月11日 12時28分19秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
清盛が相続した御器所の其の後

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

御器所と言ったら清盛が父から相続した土地の1つで
後世の秀吉の母の出身地。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月11日 12時29分29秒 ) パスワード

http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/08hatutori.html

「愛知のお城めぐり」のサイト
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月11日 12時40分48秒 ) パスワード

コピペ

http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/02kawanakita.html

川名北城は佐久間彦五郎と佐久間半左衛門が、城主として名前を残しています。


これは知らなかった


南北朝時代に服部氏が川名の地にいた佐久間氏を頼ってこの地にやってきて、
佐久間氏を助け地域を開発してこの地の有力者となりました。


ということで佐久間氏についてコピペ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F


佐久間氏は、三浦義明の三男である義春(よしはる)の四男・家村(いえむら)が安房国平群郡狭隈郷(現在の千葉県安房郡鋸南町下佐久間・上佐久間)を領したことに始まる[2]。家村の養子とされる朝盛(和田義盛の孫)は鎌倉幕府に仕えていたが、建暦3年(1213年)の和田合戦に敗れ、越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市)に逃れた。その子家盛が承久の乱の功績により上総国夷隅郡(現在の千葉県勝浦市、御宿町)と尾張国愛知郡御器所(ごきそ、現在の愛知県名古屋市昭和区御器所)を恩賞として賜り、そこに子孫が定住した。



佐久間家盛(?-?)承久の乱で功績があり上総国夷隅郡と尾張国御器所を賜る。戦国時代、尾張国御器所が佐久間氏の根拠地となった。家盛は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の曾孫。和田義盛→和田常盛(嫡男)→佐久間朝盛(嫡男)→佐久間家盛(嫡男)。[要出典]


尾張佐久間氏[編集]

盛通(与六)は家村の十世(あるいは十三代[3])の孫と伝わっており、その子孫は御器所、山崎城ほか4家(久六盛重・盛次系、河内守系、奥山氏系、信晴・信盛系)に分かれる。

戦国時代、盛通の孫に当たる盛重(大学允、盛経の子)と信盛(信晴の子)は織田信長の重臣として仕えたが、盛重は桶狭間の戦いで戦死、信盛は石山合戦の後の粛清により天正8年(1580年)に追放された。

盛重(久六)の子・盛次の系統は、盛次の長男で柴田勝家の与力として北陸で戦った金沢城主・盛政がよく知られているが、盛政は賤ヶ岳の戦いの敗戦により捕らえられ刑死する。この敗戦により佐久間氏一族の勢力が没落する。その後、盛政の娘・虎姫が中川秀成(盛政が賤ヶ岳で討ち取った中川清秀の子。後に豊後岡藩主)に嫁ぎ、秀成は四男の内記を盛次の四男・勝之の養子として[4]佐久間家を再興させようとしたが叶わなかった。後に中川資重と勝之の娘との子・平兵衛に新しい佐久間家を興させた。佐久間家は岡藩の客分扱いとして存続した。

盛政の弟は、盛次の次男・安政が信濃飯山藩3万石の藩祖に、勝之が信濃長沼藩1万8,000石の藩祖にそれぞれなったが、飯山藩は第3代将軍・徳川家光の時代に無嗣断絶となり、長沼藩も第5代将軍・徳川綱吉の時代に不敬断絶となった。なお、後に赦されて勝種の子・盛遠が200俵高で幕臣となった。また、盛次の三男・勝政は柴田勝家の養子となり、江戸時代を通じて旗本として存続している。

信盛の子孫は、信盛の子・信栄(正勝)が赦されて帰参し、その後江戸時代を通じて幕臣として存続した。幕末の慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて洋式の幕府歩兵隊の連隊長として戦死した佐久間信久は佐久間信盛の子孫という。 その他、初代飯山藩主の佐久間安政の子孫系統に信濃松代藩士・佐久間象山がおり幕末から明治前期の偉人達(勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、他多数)に大きな影響を残した。[要出典]
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月11日 12時45分11秒 ) パスワード

http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/06goshoyashiki.html

御所屋敷
秀吉の生母・大政所が住んでいたといわれる屋敷


屋敷跡が保存されてたのは知らなかった。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月11日 12時49分40秒 ) パスワード

http://www.oshiromeguri.com/nagoya/088shouwa/08hatutori.html

コピペ
>『尾張志』によると、服部氏は伊賀国(現・三重県北部)の服部郷から尾張へやって来て、
>佐久間氏に仕えた後、福島正則に仕えて馬廻り役を務め、この地に移住したそうです。


>しかし現在の昭和区には、戦国時代から服部氏が勢力を持っており、
>枝分かれした服部氏なのか、それとも同じ服部氏なのかよくわかりません。


>もしかすると御器所東城といわれる場所から近いので、御器所東城の服部氏と同じ一族なのか?


>愛知県中世城館跡調査報告によると、城主は服部源左衛門とのこと。




わたしが知ってる御器所の服部氏とは  服部将監だけど  関係があるのかな?
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2020年04月11日 12時52分30秒 ) パスワード

サイト主さんの  あさちゃんさん  ありがとうございました。
ぺこり
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