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 投稿番号:101696 投稿日:2019年10月31日 09時22分03秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXZ:127:現場100回-8
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101692_54.html
長上郡の服部氏族CXXY:126:現場100回-7
の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレでは加茂喜三氏著の『"隠れ南朝"の天皇』が富士立図書館にあった、
という大発見がありました。

そして、 津島の図書館で
「服部宗純」の妻は「井出弾正忠正長」の娘であることが分かり
加茂喜三氏著の『富士"隠れ南朝"史』の中に、この井出氏が詳しく書かれており
「大山守皇子」の子孫の正家が、富士宮の富士見城主となり、
そのまた何世代かの末が『浪合記』に出て来る「井出正房」で
その子「正長」の娘が、宗純の妻でした。


さらに時代が下って"隠れ南朝"だった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下統一。


レス<19>で加茂喜三氏の『富士"隠れ南朝"史』に、
何故「富士」なのか、また何故「隠れ」なのか
について三つ柏さんの推論が紹介されています。


服部党、楠木党、井出党は南朝中枢にあり、姻戚関係でつながっており、
しかも井出家は宮下家と同じく大山守皇子の子孫ということで同門であり、
応神天皇の子孫でもある。


以下略
素晴らしいスレッドになりましたね。



そして坂東8氏の1つである三浦氏が家康の妻を出すに至って頼宣、頼房を生む。
紀州家の家老となった三浦氏は浜名郡にも領地を持った。


ここで松島家との関係が謎として浮上した。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年10月31日 10時42分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島家については、その全貌についての解明は、伊那から流れて来たとい
うことはわかりましたのですが、その後の詳細は解明されておりません(市
野氏との姻戚関係のみで)。江戸の後期になっての地元での系譜は少なから
ずありますが、解明には至っておりません。

 『南総里見八犬伝』は結城氏に里見氏が加勢し、里見義実が落ち延びると
ころから始まるということですが、時代的には1440年以降の話。
 この地(長上郡羽鳥庄喜平)には、どういう訳か「結城塚」というものがあ
って、五輪塔が建てられています。内山真竜の『遠江風土記伝』に説明書き
があるということですが、その中に結城朝光を井伊介八郎が今川方の先鋒と
して攻め、朝光いかがこの地に於いて討死云々ということになっております。
 しかしながら、これは事実としては時代錯誤の内容、誤って伝えられたと
考えられます。1440年頃の結城氏といえば、氏朝―持朝―成朝でありま
す。いずれにしても、結城氏に関係した者の建てた墓碑だとは思われます。

 結城氏といえば、結城秀康は浜名湖畔の雄踏町の中村源左衛門の家におい
て生まれておりますので、結城家とはそういう関係があります。

 松島氏は中村家とも関係しますので、『南総里見八犬伝』の大元の結城家
と関連して、八犬伝には少しシンパシィがあったのかも知れません――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年10月31日 14時48分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>結城朝光

頼朝の隠し子とか言われる人ですね。
    正妻の政子の手前、公然と父子の名乗りは出来ないけれど頼朝の「朝」の字を使用することを許された、とか。
だから小山家の庶子だけど最大限に優遇されて  鎌倉以来の名家 名門中の名門 とされてきたとか。


この結城家も南北に分かれて戦ってますね。


そして日本最悪の将軍 足利義教に追われた鎌倉公方(足利持氏)の遺児達を匿って義教に滅ぼされたり  後に  お家再興したり



>松島氏は中村家とも関係しますので、
>『南総里見八犬伝』の大元の結城家と関連して、
>八犬伝には少しシンパシィがあったのかも知れません

はい。

結城家は秀吉の小田原征伐後に徳川家の領地と接するということで
徳川家康の次男=秀吉の養子になっていた秀康(一時期、秀朝)=を養子に迎えて
          結城家の家督を譲って   ← すごい決断ですよね   政治力が高いですね
豊臣・徳川両氏から存続。


以下ウイキからコピペ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%B0%8F

関ヶ原の戦いの後に秀康は越前国に移封されて慶長9年(1604年)には名字を松平に改めることになる。

結城家の家督は秀康の五男・結城直基が継ぐことになる。

越前移封は当時健在であった先代晴朝にとっては先祖の地である結城の地を失うという点から不本意であり、
越前移住後も結城地方の惣社とされていた高椅神社に結城帰還を祈願したり、
『結城家譜』『結城家之記』といった家記を編纂(へんさん)したりするなど、
結城氏存続と結城復帰への強い執念をみせている
(なお、晴朝編纂の家記には秀康の公卿補任までしか記されず、晴朝が忌んだ越前移封には触れられていない)[8]。

しかし、直基も晴朝の没後に松平を名乗り(前橋松平家)、大名の家名としては下総結城家の家名は消えた。

                        これは知らなかった

なお、家名は松平家となったが、下総結城氏の祭祀は代々の前橋松平家当主が継承している。


別系統に白河結城氏の子孫である結城氏のうち一部は、水戸藩士として1000石、家老の家格を有した。

小山氏、宇都宮氏と並び水戸藩御三家として尊ばれ代々家老を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。


                       ↓ココからビックリ   幕末の話です

しかし、結城朝道(寅寿、晴明とも)の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。

寅寿の子・種徳は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。


                       もっと詳しくこの経緯をコピペ:

           藩内の親幕府勢力を回復するため、藩士、そして斉昭と改革派の失脚を実現させると、
           水戸藩の実権を掌握し、
           斉昭の跡を継いだ徳川慶篤の下では専横の限りを尽くした。

           しかし弘化4年(1847年)9月、老中・阿部正弘の命で結城も失脚となり、同年10月24日に隠居処分に処せられた。

           かつて結城朝道によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、
           彼らがやがて復権を遂げると、
           嘉永6年(1853年)10月16日に朝道は拘禁されることとなった。
           やがて朝道は水戸藩の支藩の筆頭・高松藩の藩主で、

                   幕府内においては譜代大名の井伊直弼ら保守派との関係が深い
           松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知り、
           慶篤を暗殺して頼胤を藩主に迎えようと画策した。

           しかし計画は露見し、その3年後に死罪に処せられた。享年39。

           子・種徳も拘禁され、絶食のために獄死した。

           結城家はこれにより藩士としては滅亡の憂き目を見ることとなった。

           ちなみにその後の結城家は、水戸藩士大森氏から養子を迎え、水戸藩領内の久慈郡においてその家系を伝えた。




なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は秋田藩士、仙台藩士として存続した。

その他、常陸伊奈に名主の結城氏が存続。300石を有した。(結城三百石)




すごいね〜
幕末は日本中のいろいろな藩でゴタゴタがあったけど
水戸のはスゴイとアチコチで読んでは来たけれど
こういう事だった
というのは知らなかった。
ピンと来なかった。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月02日 20時39分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 六日前に「しんあいち歴史研究会」の研修で福井に行きましたが、その一つ
の目的が「橋本佐内」の生家跡を訪ねることでした。幕末の混乱期の諸氏につ
いては、まず井伊直弼、そして渡辺崋山を勉強しておりましたが、橋本佐内は
三人目の人物、そしてあを様御紹介の「結城朝道」は四人目となります。
 1839年が「蛮社の獄」、そのちょうど20年後の1859年が「安政の
大獄」、そしてその翌年の1860年に「桜田門外の変」。
 そしてその8年後1868年には明治維新となる訳であります。井伊直弼に
ついては元は遠江の井伊家の出身であり、シンパシィを感じるわけであります
が、どのように評価したらいいのか、今後勉強をしてみたいと思っいます。
 
 さて、何で福井に行ったのか、その第一の目的は、朝倉氏の「一乗谷」とい
うものがどのようなものであったのか知ることでありました。

 今は余り集注力が高くないので、次回にこの一乗谷について記します――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月03日 03時06分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

橋本左内は就職先の上司が大ファンだったので知っていましたが
   わたしは  処刑が決まってから  泣き叫んで逃げ回っていた  という話から好きになれなかったのですが


今は  というか去年の「西郷どん」の橋本左内役が風間俊介だったので  興味深く楽しんで見ました。

     吉田松陰もですが
     ヒトコト多いのよね

     賢い人でも  言わなくて良いヒトコト  が命取りになる。
     今でいう  KY  とか  アスペルガーとか  そういう人だったのかなと。


橋本佐内って   福井だから  だろうなと思ってたけど  桃井氏系なんですねぇ。
バリバリの南朝方じゃないですか。
やっぱりね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E5%86%85


1834年4月19日(天保5年3月11日)、橋本長綱の子として越前国常磐町に生まれる[2]。
母は小林静境の娘。

弟に、のち陸軍軍医総監・子爵となった橋本綱常がいる。


家系は足利氏の連枝・桃井氏の後胤。                       ←ココ
祖先が桃井より母姓を冒して橋本姓に改姓して以来、橋本を称する。


嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事する[3]。
嘉永5年(1852年)19歳の春に父・長綱が病気のため大坂での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ[4]。
11月に父が病死すると、藩医(表医師外科)の列に加えられた[5]。

安政元年(1854年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく坪井の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ[6]。
その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。

窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、
中根雪江、鈴木主税の尽力によって安政2年(1855年)に藩医職を解かれ、
御書院番組に転じた[7]。

やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、安政4年(1857年)正月藩校・明道館御用掛り・学監同様となる[8]。

在任中は、明道館内に洋書習学所(洋学所)と惣武芸稽古所等を設けた[9]。
同8月、江戸詰めを命じられ、侍読兼御内用係を務め、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった[10]。


14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。

また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した[1]。

またロシアとの同盟を提唱し[1]、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。


安政6年(1859年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、
春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、
親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた[11]。


             取り調べの際「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが、
             井伊の癪に障ったらしく(当時は藩主をかばうのが当然という朱子学たる武士の倫理があった)、
             遠島で済む刑罰が重くなり安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった[12]。


享年26(25歳没)。                      たったの26歳?そんなに若いとは知らなかった



本人も死罪は予想しておらず、最後はその無念さから泣きじゃくりながら死んでいったと伝わる。

                       これで最期を穢したなんて聞いてた
                       安政の大獄で刑死した皆さんの中でみっともない死に方をしたヤツって。



墓は福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院にもある。
戒名は景鄂院紫陵日輝居士。
1891年(明治24年)、贈正四位。



性格

かなり高潔で清廉潔白な性格のようで、福沢諭吉は自伝で尾行し、自身の行いを恥じて詫びたり、西郷隆盛もその無私な性格に心を打たれたり、

牢獄でも牢名主に代われるものならかわってやりたいと思われるほどの人格者だった。

一方で野心家な面があり、この世に名を残したいという思いと行動力と頭脳見識があり、その結果が結局命取りになってしまった。


                       相手が井伊直弼ですからね
                       井伊直弼は他の人についても(コイツは助けてやりたい)と思いつつ、決断は「斬首」にしてたヒトですからね。


思想

7歳で漢籍・詩文と書道を[13]、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだ[14]。

左内が15歳の時に著した『啓発録』に、後年、序文を記した矢嶋?によれば、
当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、
自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった[15]。
  
                       幕末という激動の政治情勢の中、黙っていられなかったのでしょうね、惜しい人でした

                      
『啓発録』は、左内がそれまでの生き方を省み、その後の生き方の指針として5項目を定め、著したものとされる[16][17]。

下記はその概要である。

1.去稚心(稚心を去る。):目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。

2.振気(気を振う。):人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。

3.立志(志を立てる。):自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。

4.勉学(学に勉む。):すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛ける。

5.択交友(交友を択ぶ。):同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。

          益友には、次の5つを目安とする。

             厳格で意思が強く、正しい人であるか。
             温和で人情に篤く、誠実な人であるか
             勇気があり、果断な人であるか。
             才知が冴えわたっているか。
             細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。


戦国時代とか幕末とか、世の中が引っ繰り返る時には英雄豪傑秀才天才がアチコチで出現するんですねぇ。
ただ、時が味方してくれるとは限らず、政治の場合は優秀な人材がむざむざ殺されていくのが気の毒です。


こうやって「歴史」が作られて来たのですねぇ。



でも今回の即位式で思ったことは
日本では「伝統」が守られて来たから、世界史の中で特異な国になることが出来たなと。

      東アジアで唯一中華帝国の儀式が日本では残りましたからね。
           中国には歴史は綿々とあるけど伝統は無いものね。

これが日本という国か、と感慨深いです。


橋本左内の弟の綱常は立派な兄を持ってラッキーでした。
1つ間違ってたら弟も処刑されるところでした。


これ以上はココには書けないけど、
幕末の偉人に繋がる皆さんは、子孫を今に至るも、しっかり食べさせられているので、これも日本だなと思います。

気力が湧いたらメールします。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月03日 09時42分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 橋本佐内の話、ありがとうございます。桃井氏が越前にいたということは、
1336年、新田義貞が恒良親王・尊良親王を伴って北陸・敦賀に行った時
に供奉したということかも知れませんね。その時、後醍醐天皇は恒良親王に
皇位を譲っていたということですので、いわゆる「北陸王朝」というものが
実現しかかっていた……が幻想に終わったということになります。
 福井では、結城秀康と橋本佐内、及び藩士の由利公正に対する尊敬心が非
常に高く、誇りに思っているということを、地元の歴史ボランティアさんか
ら聞きました。もちろん、第16代藩主「松平慶永(春嶽)」に対する尊崇も
強い。
 つまりは、結城秀康は次男ではあるけれど、長男信康の自害により、実質
長男、1番目の子と同等ということで、家格が非常に高かった。そんな自負
が、幕末の混乱期に松平春嶽が幕政をリード、佐内や公正も補佐したという
ことにつながったのかも知れません。
 この春嶽=松平慶永は、調べると「田安家」の出身で、徳川吉宗より数え
て五代孫、しかも三代目は一橋家よりの養子であります。

 ここですべてがつながりました!
 @田安家と国学
 A国学の指導者は賀茂真淵
 B家老の一人は服部保貞
 C吉宗の後裔は、将軍家重と田安家と一橋家、ブラス次代で清水家
 D田安家を三代目で一橋家が実質継ぐ
 E田安家で実質一橋家でもある松平慶永(春嶽)が、将軍継嗣問題で一橋家
 を推した
 
 国学とは古代の神の国、天皇の時代への回帰、神道への復帰、つまり国家
的ナショナリズムであったわけで、ある意味、南朝思想と重なるような気が
いたします。

 実は、今回一乗谷を訪ねて朝倉氏について知りたいと思ったのは、朝倉氏
と明智光秀の関係をより深く知りたいとおもったからであります。そして、
その裏には、「南朝関係」が潜んでいるのではないかと勘ぐっているわけで
あります。
 ところが、朝倉氏も明智氏も、南朝関係の形跡はあまりない。朝倉氏の全
くの初代は後醍醐天皇側でありましたが、尊氏派となっています。明智氏は
土岐氏で、かなり南朝に与した氏族でありますので、光秀に南朝の影が見ら
れても不思議ではないと調べているのですが、勤皇であることはわかりまし
たが、南朝との関係の確実な証左に巡り合えておりません。
 明智光秀と南朝関係……これは、永久に仮説で終わってしまうのか?―私
の挑戦は続きます。

 次回は確実に一乗谷について記します――

[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月05日 21時09分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ラグビーワールドカップで応援していたウェールズは四位に終りましたが、
ウェールズを中心としたブリテンの古代文明を担ったケルトのドルイドにつ
いて、鎌田東二、鶴岡真弓編著『ケルトと日本』を読み出したら、結構おも
しろく、環状列石を初め、日本の縄文時代と共通するものがたくさんあると
いうことに大変興味を引かれました。この件につきましては、別途考察して
行きたいと考えます。

 本日は、明智光秀と南朝との関係について、何かそれらしき要素はないか
調べておりました。
 もっとも、光秀は朝倉氏を頼って、越前のあるお寺に十年近くお世話にな
っておりますが、そのお寺は「称念寺」ということで、新田義貞の菩提寺で
あります。
 それだから南朝系だとは決められませんが、光秀がかなり勤皇であること
もわかっております。
 光秀の一族、親戚、家臣、そして最後は、上司の信長とその一族と家臣と
南朝との関係具合を調べて行きたいと考えます。
 たぶん、南朝党という答えは出ないと思いますが、少なくとも精神構造は、
南朝の土壌・風土が母体になっているということを示せたらと思っておりま
す。

 朝倉氏の居館があった一乗谷の概要については、次回記します――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月06日 13時45分39秒 ) パスワード

三つ柏さん



面白い記事を発見しました:

産経の記事です
https://www.sankei.com/region/news/160327/rgn1603270037-n1.html
2016.3.27 07:03更新

【静岡 古城をゆく】
土岐氏屋敷(静岡市) 滅亡したはずの一族が存続?


藁科川最上流部の日向集落には、文和2(1353)年の今川範氏の徳山城攻めに際し、援軍の伊達景宗が落城させた萩多和城がある。

そこを守備していたのは駿河南朝方の土岐(鴇)山城守と、江戸時代後期の地誌『駿河記』は伝える。


                    駿河南朝方のトキ氏(土岐・鴇)?


萩多和城に続き、護応土城と最大拠点の徳山城を攻め落された土岐氏はこの後、滅亡した。

だが、日向からさらに智者山へと向かう最深部の崩野集落に、滅亡したはずの土岐氏を名乗る一族が存続していた痕跡が残る。


『駿河記』は、「法光寺(宝光寺)の地はむかし阜岐(土岐)の屋敷なりとて、寺下に馬屋敷など地名する処あり」と記す。

さらに戦国期の永禄11(1568)年には、藁科郷の土岐二郎助が武田信玄の駿河侵攻に際して一揆を起こし、今川氏真から感状が出されたとする記録があり、滅亡したと思われていた土岐氏一族が200年以上にわたって存続し続けていたとすれば歴史ロマンをかき立てられる。


標高570メートルを超える深山である崩野集落の最上段に宝光寺跡はある。
屋敷地は東西75メートルと広く、石垣も造成され、脇には水源地もある。

周辺には白髭神社、阿弥陀堂が祭られ、「屋敷」「寺院」「先祖墓」「神社」「湧水」をセットにした空間のあり方は、村里を支配した土豪的な権力構成を反映したものと、近年の城郭史研究では評価されている。
(静岡古城研究会会長 水野茂さん)



土岐氏で南朝方って?
だから  鴇氏  なのか?

鴇姓について:
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%B4%87
【名字】鴇
【読み】とき
【全国順位】 14,445位
【全国人数】 およそ400人

時氏が関連姓。
大村藩にみられる。
肥前の秦氏族がルーツ。
奄美群島の一字姓にもみられる。
近年、宮崎県都城市、宮城県黒川郡富谷町にみられる。


                     宮城県なら「鴇氏」がいらっしゃっても分かるような気がする



http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/tokisikyokansizuoka.htm
勝手にコピペ(ごめんなさい)


鴇氏居館跡

所在  静岡県榛原郡中川根町徳山

交通  大井川鉄道駿河徳山駅下車

歴史  鴇氏居館は鎌倉時代よりこの地一帯を治めていた在地土豪の鴇氏によって築かれた。

     

南朝に属していた鴇氏は居館より東へ約3kmに位置する無双連山(標高1083m)山頂に徳山城を築いて駿河安倍城主狩野介貞長らとともに北朝側今川範氏に抵抗していたが、文和ニ年(正平八年・1353)二月に今川範氏軍の攻撃により徳山城は落城。徳山城落城とともに鴇氏も逃散したことから、この鴇氏居館もその前後に廃されたものと考えられる。


ブログ主さんよりの一言  
鴇氏居館跡は駿河徳山駅の東にある徳山郵便局の背後の微高地がその地とされる。

微高地の北側の池が堀跡と思われ、現在、居館跡は幼稚園・茶畑等に転用されている。

居館跡の遺構は残念ながら確認出来ないが、農地に転用する際に所々で出土した五輪塔が1ヶ所に集められ、そのほか鴇氏が残したと伝わる“ときどんの足跡”なる石が近くに残っている。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月06日 13時53分11秒 ) パスワード

ということで狩野貞長について調べて来ました:

http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage384.html


狩野貞長は後醍醐天皇による建武の親政のとき、楠木正成らとともに武者所に名を連ねた。

その後、足利尊氏が反旗をひるがえすと、安倍城を本城として南朝側に属し、入江・蒲原などの駿河の武士とともに南朝側豪族の中心人物として活躍した人物である。

貞長はこの安倍城に興良親王・宗良親王を迎えるなど南朝側に忠節を尽くし、北朝側に属した今川氏と駿河各地で抗争を繰り広げるが、

日本各地で南朝軍が劣勢に陥ると駿河国内における狩野氏の旗色も次第に悪くなり、永享5(1433)年には安倍城も攻め落とされてしまったという。



狩野氏は伊勢の伊藤氏=平家一門=と同族(だった記憶)だから     伊藤氏が狩野氏の出だから
南朝方なのは当然だと思いますが
まさか
>貞長はこの安倍城に興良親王・宗良親王を迎えるなど南朝側に忠節を尽くした
の部分は100%知らなかったです。


                  ブログ主さん、感謝です。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月06日 14時07分29秒 ) パスワード

https://84669014.at.webry.info/201802/article_8.html

2018年02月06日

萩多和城(はぎたわじょう)のブログ


鎮魂碑の画像がすごいです。
宿ってる。
まさに日本古来の神が降りて来てるな、と。


以下コピペ:


萩多和城(別名 日向砦) 
築城年建武三年(1336年) 
築城者鴇山城守 
種別 山城
静岡県静岡市葵区日向城山


南北朝時代、藁科川上流の葵区日向にあった萩多和城。
この山城は、当時南朝方勢力であった土岐氏が支配していたと言われている。

急速に勢力を拡大していた北朝方の今川勢の侵攻を阻んでいました。
記録によると、今川勢は、城の背後から攻撃し、萩多和城を攻略、戦いは熾列を極め、多くの武士が犠牲になった。

昨年、この萩多和城があったと推定される場所に、南北朝の攻防で散った武士のため、地方有志の皆さんが鎮魂碑を建てました。


萩多和城は、戦略上の理由からか、見渡しが良い所に建っていたため、今でも城跡から眺望が楽しめます。


駿河南朝方の当城主鴇山城守彦次郎は、兄徳山城主鴇彦太郎と共に、同盟軍の狩野氏・入江氏・中山氏・佐竹氏・土岐氏・智満寺・建穂寺・久能寺と、北朝方の今川範国氏の駿河入国を阻止していたが、文和元年(1352年)南朝方の土岐、佐竹の大津城が、今川方に落とされた。


正平八年(1383年)二月十日今川方は大軍を用いて、伊達景宗は二月十一日、当城の背後より総攻撃をかけた。

城兵、山民は共に多いに戦ったがついに十二日末明け落城した。

城主は城兵、山民(女、子供含む)を逃がす為、殿(しんがり)を勤め城外で壮烈の討死をしたと言われている。    (現地案内板より) 


この萩多和城の正確な場所については諸説あるようです。

現在日向地区北東の夕暮山の山頂にほど近い林道脇に萩多和城を記念する石碑が建っています。
地図で示しているところは、三枚目の写真の所です。
樫ノ木峠林道の入口付近です。
この道を山に向かって進めば林道の途中に石碑があります。
以上コピペ

 
      なんか泣けて来る。
      訪れることが出来ると良いですね。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月06日 14時27分05秒 ) パスワード

ずっと  明智氏と南朝方の関係についてネットサーフィンをしているのですが
土岐氏自体が巨大な家ですから  ワケ 分からない。


でも   庶流に徳山家があったり  土岐の通字で「光」があったりして  どこかで光秀と接点があるのかな?と。



状況証拠   証拠にもなりませんが  こんな経緯  ということで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F# 明智土岐氏
土岐氏

清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統

斎藤道三の下克上により没落。
庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、
江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。


土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、美濃国内には多治見氏、妻木氏、下石氏、肥田氏、小里氏、明智氏、石谷氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、乾氏、青木氏、原氏、浅野氏、深沢氏、饗庭氏、仙石氏、荻原氏、舟木氏、徳山氏、高井氏など多くの庶流が生まれ、多くの人物を輩出した。著名な、明智光秀・坂本龍馬・浅野長矩(浅野内匠頭)はいずれも土岐支流とされる。


摂津源氏の源頼光の子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着。居館(大富館、一日市場館など)を構えて土岐氏を称したのが始まりである。

頼国の子の国房以降、美濃国内における活動が史料上に見られる。土岐氏の祖については系図類により国房、光国、光信、光衡の諸説あってはっきりしないが、光衡を祖とする説が有力である。



明智土岐氏

美濃守護職を務めた土岐氏は徳川氏の旗本となったが、数多く存在する美濃土岐氏の傍系には大名を輩出した一族がある。

その一族のうち明智氏は、初代美濃守護である土岐頼貞の九男長山頼基の子明智頼重を祖とするという。

戦国時代に存在したとされる明智定明は、内紛により弟の定衡によって殺害された。

その子定政は母方の祖父である菅沼定広を頼って三河設楽郡へ落ち延び、そこで成長した。

当初、奥平氏に再嫁する母とは生き別れたため、母方の叔父の養嗣子として菅沼藤蔵と名乗り、家康に仕える機会を得た。

定政は、徳川が関東に移封された際、下総の守谷で1万石を与えられ、明智姓に復して定政と名乗った。

その後、秀吉の勧めを受けて土岐姓に復し、土岐定政と改称し、明智土岐氏の祖となった。


幕藩体制下では、何ヶ国かの転封を経て上野沼田藩3万5000石として明治維新を迎えた。初祖の定政以来、山城守を世襲していたために「土岐山城守家」とも呼ばれた。


なお、明智光秀の祖父ともされる頼典(光継ともいう)は、定明の父である頼明の兄となるという。


                       アタマ爆発しそう
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月07日 14時20分55秒 ) パスワード

本日の「チコちゃんに叱られる」の「富士山の頂上は何県か?」という問題で
8合目より上は浅間神社の境内であるので
富士山の世界遺産の時から山梨県と静岡県は自領だとの結論を避けている
と解答していました。

     家康が関ケ原の戦勝御礼で浅間神社の境内にしたそうです。


もう1つ驚いたのは「うどんのコシって何?」で
うどんのコシの1番強いものは山梨の吉田うどん、次が稲庭うどんと五島うどん、その次が讃岐うどんだそうで
わたくしが驚いたのはコシの無いうどんとして伊勢うどんが出てたことでした。


我が家のうどんはコシが無くて伸びきってて
歯ごたえのある食べ物が好きなわたしは子供の時から我が家のうどんを拒否していて
食べさせられるぐらいなら食べずに寝る
と強情を通してました。


大人になってから
(あの伸びきったうどんは、父の在所が丁稚と同じものを食べる家だったから
育ち盛りの若者達に食べさせるのに量を増やしてたんだ)
とコタエを見つけた気でいたのですが

なるほど!
父の家が伊勢の出身だからだったのか
と得心がいきました。


やっぱりウチは伊勢の出身ということなのかぁ〜
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月08日 07時42分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 うどんの話、面白いですね。名古屋のうどんは固いですね。伊勢うどんも
食べてみましたが、柔らかく太いですね。私は、やや細めのやわらか麺が好
きで、海老天、天かす等を載せたものが好きであります。昔の学食の天ぷら
うどんが今も恋しいです。讃岐うどんについては、食歴未熟でありますので、
今後研究してみます。

 朝倉氏の居館跡について記そうとは思っているのですが、いろいろ所用も
多く、今もこれから芝刈りに出掛けるところですので、帰って来てから記し
たいと思います。
 明智光秀の青年期〜壮年期にその基本的精神構造が出来上がったと思いま
すので、十何年かを過ごした福井、一乗谷近辺はまさにその揺籃期と言える
のではないでしょうか。
 福井県では、大河ドラマに備えて、明智光秀関係のテーマの講演、イベン
トが多く開催され、また開催されようとしております。
 それは、岐阜においてもそうだと思います――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月08日 16時46分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


>名古屋のうどんは固いですね


たぶん「志の田うどん」のことかも。


実は名古屋で店や物のうどんを食べた記憶が無いのです。
子供の時に食べさせられた実家のクタクタに煮た、伸びきったうどんにトラウマがあって。
思い出すだけで吐き気がします。
          ごめんよ  母上。たぶん母も父の好きな伊勢うどんもどきは嫌いだと思います。


「きしめん」は平たい麺ですが柔らかいように思います。


福井県は石川県や富山県と並んで日本で一番幸福度の高い県だと聞きます。
福井は持ち家率が日本で一番高かったような?

     アファーマティブアクション=逆差別のこと=でUCLAでは卒業出来ないと分かった甥っ子が
     国費留学で京大を出て、東京で働いて、ヨメさんを福井から貰って
     福井のヨメさんのご両親から東京に家を建ててもらったと聞いたような?
     さすが福井人!


わたしには  福井=平家+南朝方  のイメージしか無いです。
その他はせいぜい一向宗。

一応オットと福井には行きました。
北の庄の所とか。敦賀とか。金ケ崎とか。風が強かった。あれは偏西風ですね。コッチは貿易風が強烈です。笑

季節外れの雪が舞って、きっと新田義貞公が歓迎してくれてたのかも。オットは柴田勝家公を想像してたみたいですが。


一乗谷跡のご報告を待っています。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月09日 06時57分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 きしめんはうどんの仲間でありますが、うどんとはかなり違う食感と味が
いたします。山梨のほうとうは、うどんときしめんの中間のようであります
が、煮込みに適しております。これも、うどんの煮込みとは少し違った味が
いたします。
 私は、新幹線名古屋駅のプラットホームにある、立ち食いきしめんが一番
好きであります。特に寒い日のアツアツのきしめん、湯気に揺らぐ鰹節(おか
か)の風味、ピリッと効いた一味の風味、やや濃い目の湯気の立つスープ、割
りばしの軽さと角々しさ、口元で感じるきしめんのべろべろとした振動……
これは一番シンプルで一番おいしい日本食ではないかと思います。 

 さて、土地勘のないあを様に、一乗谷のロケーションについて説明いたし
ます。
 @福井市内にあるJR福井駅から、国道158号線(足羽川と平行する)で
  南東方向約15q行った所に一乗谷は位置します。
 Aこの国道をずっと東に行くと、大野城方面に行き着きます。
 B一乗谷より西は平地、東はずっと山並みであります。
 C一乗谷は、その山ふところにありますが、いわばリアス式海岸の入江の
  ような所であります。
 D一乗谷の北東方向約10qの所に、永平寺があります。
 E一乗谷の南約2qの所に、佐々木小次郎が燕返しをあみだした場所とさ
  れる一乗滝があります(一乗といいますと、宮本武蔵が吉岡道場の門弟
  と戦った京都の場所は、一乗寺(実はここに私も学生時代2年ほど下宿
  をしておりました)であります(一乗というのは何か意味があるのかな?)。
 F福井駅から北陸本線で南に4qくらい行った所から、南東方向に越美北
  線が分かれて走っています。そしてその先に一乗谷駅があります。
 G足羽(あすわ)川は、その駅前からU字型に流れを北東に変えます。
 HそのU字部の基底部分へ、南の一乗谷より流れ出る一乗谷川が注ぎます。
 I一乗谷川に沿った山あいの細長いポケットのような所(長さにして4q
  程か)が一乗谷であります。
 J一乗谷川の河口から約200mの所――谷の入り口に下城戸(城壁に設
  けられた木戸)があり、約1700m南(京都に近い方)には上城戸があ
  り、昔は簡単には一乗谷の主要部分には入れなかったと思います。
 Kがしかし、その上城戸の南約300mの所に安養寺というお寺があり、
  それは御所とも呼ばれ、足利義昭が約9か月滞在し、その後織田信長を
  頼って上洛を遂げ、将軍となったということです。

 さて、上城戸と下木戸で塞がれた一乗谷の区域は、東西約1700mにわ
たっており、朝倉氏の城下町として約一万人の人々が居住していたそうであ
ります。その中心部に朝倉館があった訳でありますが、それ以前には、南東
1500m、標高470あたりに一乗谷城があり、そこに朝倉氏と家臣はお
りましたが、火災にあい、谷野の平地へ移ったということであります。

 次回は、ガイドブック(パンフレット)に書かれている説明書きを、分かり
易く編集し直して記してみます――
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月09日 14時53分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

詳しく書いてくださってありがとうございます。
残念ながらCで早速迷子になりました(赤面) がっ  地図を参照しながら読み直し  足羽川や永平寺も分かりました。丸岡の位置も。
感謝です。

    敦賀って全く方向違いだったんですねぇ。今日まで知らなかった。方向音痴なので。
    

そうか
福井に行った時にもうちょっと頑張れば一乗谷に行けたのですねぇ。
惜しいことをしました。


藤島の戦い:燈明寺畷:新田義貞が亡くなった場所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%95%B7%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E%E6%88%A6%E6%AD%BF%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E5%9C%B0#/map/0
ココも行きたかったな〜



甥っ子も一乗寺に下宿してました。下り松が何たらかんたら言ってましたね。決闘の場所ですね。
それで一乗谷と一乗寺がこんがらがったりします。


    宮本武蔵と吉岡一門の決闘之地の碑があって、
    隣接して『大楠公戦陣蹟』の碑
   (足利尊氏と戦った楠木正成の陣所跡   コレは知らなかった)
    があるんですってね。


今日はずっと「高天神城」について考えていました。


    高天神城の場所が遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)ということで
    ヲイヲイ
    ひょっとして応神天皇のお子様の大山守皇子(仁徳天皇の兄上)のお子様のお1人の子孫(土方氏)が
    初め大井川の西に住んでたけど引っ越した場所?
         風間俊介に似た白い巨塔の先生の先祖と分かれた一族がココに住んでたの?
         ココに住んだ時は南北朝の時代?などと。


とにかく高天神城は伝説的には源平時代からで
戦国時代に武田と徳川で取ったり取られたりを繰り返した城で
武田信玄が失ったのを勝頼が取り戻し
のちに
家康に奪われ   勝頼は滅亡の途に。


       松島家が高天神城とどういう関係があったのか?
       松島家家譜に記された「高天神城落城」の意味がまたまた  アレ?  と気になりました。
       感慨深いものがあったのは確かだなという確信が出て来ました。

              ヨソん家の事だけど

       例えば松島氏は南朝方だった諏訪大社の神家一党33氏の1つで
       さらに諏訪氏は勝頼の母方の実家でもあるから
       そういうセンチメンタルな思いから書かれたのかも、と。 


ということで本日は松島家の「高天神城落城」についてのセンチメンタルな気持ちにシンパシーを感じておりました。

              全然違ってたりしてぇ
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月10日 12時49分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史は重層構造となっておりますので、同じ地面の上に、異なる時代の
人々のフットプリントが残されています。その人達は全くの無関係の場合
もありますが、よく観察すると「過去からの糸」でつながっていることが
多いのではないでしょうか。

 高天神城の東に土方(方形 ひじかた)という所があります。ここは昔は、
小笠郡土方村、更にその昔には、遠江国城飼(きこう)郡土形郷(ひじかたの
ごう)と呼ばれていました。太田亮氏の『姓氏家系辞書』によれば、あを様
の言われるとおり、「応神天皇の息子の大山守皇子」がこの土方氏の祖と
なっております。

 応神天皇と言えば、「秦氏」と一体であります。榛原氏の祖も大山守皇
子でありますので、この辺一帯は秦氏が居住していた。大山守皇子は宇治
川で暗殺されたという説が主流でありますが、生き延びていたという説に
基づけば、こちらへ逃げて来た可能性があります。宇治から遠江までとい
うと、家康の「神君伊賀越え」と同じようなことが、その千百年前にもあ
ったのんも知れません。

 在地の土方氏の系譜は、ある時代以降はかなり残っておりますので、そ
の系譜によりますと、高天神城は1190年頃、土方義起(よしおき)とそ
の弟義政によって構築されたと言われております。今川氏はその200年
後に再構築したということです。

 南北朝期においては、土方右近将監久直は宗良親王に奉仕したというこ
とですが、その二代後からは今川氏に奉仕ということ、何らかの事情とか
圧力があって、南朝臣から北朝臣へと鞍替えせざるを得なかったのかも知
れません……。

 右近・左近と言いますと、「天皇の護衛」が任務であり、南朝方では、
「諏訪氏」がそうでありました。つまり、土方氏と諏訪氏は天皇の親衛隊
として同時代に同志であったかも知れません。

 松島氏の大元は諏訪氏であり、南朝方でもありましたので、戦国時代に
あっても、その南朝DNAにより高天神城辺りにはシンパシィを感じたの
かも知れません……。

 松島氏の解明については、まだまだ時間がかかりますので、この辺にし
ておきます。

 南朝DNAをX遺伝子としますと、平家DNAはY遺伝子で、XY遺伝
子は平家でもあり南朝臣でもある、ある意味最強の人々(?!)……ここを
分析して行きたいと思っております。

 朝倉氏にはなかなか入っていけませんが、朝倉氏には何かシンパシィを
感じております。本日調べていていましたら、朝倉氏の祖は、第三十六代
天皇の「孝徳天皇」であることがわかりました。
 その辺も含めて探求して行きます――
います。
 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月10日 13時39分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

>孝徳天皇

日本史上、気の毒な天皇のお1人でした。

     妻の間人皇女は実は兄の天智天皇と出来ていたと言われていますね。近親相姦。


息子の有間皇子さんは蘇我赤兄に嵌められて19歳で藤白で処刑されていますね。


     大学時代の先輩で藤白あたりから来てたヒトがいて
         ああ、有間の皇子さんが処刑された所?
     と言ったら驚かれました。

         磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
         家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

            この2句を言ったら、感激してくれました。

     当時のわたくしは有間皇子さんに非常に同情していたので
     この先輩との出会いは何か運命的な出会いでした。
     だけどスゴイ田舎の旧家の跡取りさんではワタシなんかは釣り合わず
     今頃
     あれ?母方でも父方でも何重にも先祖が交流してる家の人だった!
     と宿命を感じています。


            やっぱり日本人ということですね


つまり平家とか南朝方とか反信長とか  <<<「過去からの糸」でつながっている>>>  のでしょうね。


オットの主治医とも、こんな所で出会いましたが、
彼のご先祖さまが【大阪に出る前は長野にいた】件も   <<<「過去からの糸」でつながっている>>>  のでしょうね。


           みんな知らないだけで  実は   <<<「過去からの糸」でつながっている>>>  のでしょうね。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月11日 06時58分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「南朝DNAをX遺伝子としますと、平家DNAはY遺伝子で、XY遺伝
子は平家でもあり南朝臣でもある、ある意味最強の人々(?!)……」と申し
上げましたが、もう一つ、「Z遺伝子」があると思います。それは秦氏とい
う遺伝子で、XYZ遺伝子が最強のマグマを持っているのではないかと推測
しています(もちろんこれらは私の直感論であり、実際はもっと複雑だとは思
いますが……)。

「秦氏がわかれば、日本の歴史の全てがわかる」とも思っていますが、未だ
にその全容・本性がわかりません。物部氏、蘇我氏、賀茂氏、藤原氏と秦氏
の関係と流れ……もう一度その辺を深掘り・整理してみます。
 また、継体天皇から天武天皇までの関係と流れも整理してみます。
 何が最強の遺伝子か?……「Z´」の遺伝子があるのかも知れません―― 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月11日 15時17分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

秦氏というのは2種類あったんじゃないかなと。

秦氏とは単体の氏族というよりは  捉えどころの無い「その他」の人々
つまり
文化や技術を持った古代中国およびその向こうの土地の人々のごった混ぜ集団=ユーラシア大陸の人々という意味=なのかな
と最近思うようになりました。


    だからソグド人とかペルシャ人とかユダヤ人とか騎馬民族とかローマ人とか中国大陸を経由して来た人は  秦氏  と呼ばれたのではないかと
    

とにかく古代日本に来た(半島以外の)異民族のことなのかなと。


    半島は  ずっと身近で  日本人と普通に交流と婚姻関係があったんじゃないかな  と。
    

ま、いろいろグチャグチャ考えて収拾がつかなくなります。



昔の倭人・日本人には  大陸のいろいろな民族や国なんて  区別がつかなかったんじゃないかな  と思うのです。


日本人・倭人にとって  半島の人と  そして  中国人と  広い意味の中国人の3つがいたんじゃないかなと。



現在わたしが島に住んで思うことは

A)現地人らしき人々

現地の人々    ポリネシア人の中の区別は全くつかない:ハワイ人・トンガ人・サモア人の3種類   ← トンガとサモアで抗争があるらしい


現地に来た周辺の人   つまりミクロネシア人   かなり後進的な生活をしていることで区別される   クリントン政権が連れて来たって聞いた


移民として現地に来た人  例えばフィジーとか    ココはメラネシア人だね
        

以上の人々についてわたしには誰人が誰人やら区別がつかない。



B)ここ150年以内に来た人々
東アジア系

       東アジア人3種(日本人系・中国人系・朝鮮人系)  わたしの目にはなんか違うけど何が違うかは指摘出来ない  
       特に中国人と朝鮮人の区別は50%の確率

       日本人でも外地暮らしの日本人は日本人に思えない(鏡に映った自分の姿)



東南アジア系
 
       東アジア系とは明らかに違う
       フィリピン人はかなりの確率で分かる

       ベトナム系とかインドネシア系とかミヤンマー系とかタイ系の区別はつかない



白人系
これは白人一択で済ませているな。

      奴隷替わりだった日系人の監督をしてたのがポルトガル人で
      だからポルトガル人は・・・というハナシを日系人から聞いた

      でも白人はまとめて白人と認識される


C)
アフリカ系
同じ黒い肌でもポリネシア系やミクロネシア系やメラネシア系の黒さとは明らかに<雰囲気が違う>から  ああイワユル黒人かな  と思うあたり

本土で黒人を見て来て来たからポリネシア系やミクロネシア系やメラネシア系と区別はつく

     しかしアフリカ人の中で、東系とか西系とか南系とかは全く区別がつかないが、北系は「雰囲気が違う」と思う


そして

D)
ハワイはあらゆる人種がごったごたに混血しまくっているので

1組の夫婦の子供達が  みんな違ったりする  (明らかに黒人系とか東アジア系とか白人系   でもこの3人は同じ夫婦の子供達)


         ハーフの岡田真澄の息子さん達が1人はアジア人みたいで1人は白人みたいであることを思い出してください。


E)
100%東アジア系の顔形なのに苗字がヨーロッパとかも存在する(ごめん)
逆もあるしね。




なので古代の日本に於いて  
半島の人については倭人・日本人じゃないけど半島の人だろうという区別はついても 
中国と中国の向こうの人々は倭人・日本人には   ???  だったんじゃないか?

      中国人というのがハッキリしてる場合は  漢人(あやひと)と呼ばれていたでしょ

      でも大陸の人だろうな、大陸よりもっと向こうの人と思う人のことは  秦人  秦氏  とまとめて呼ばれていたんじゃないかな?


            それで!!!古代倭人・日本人は  漢人(あやひと)と秦氏は区別してたんじゃないかな?



などゴチャゴチャ考えてみる。

今の日本で、これだけいろいろな外国人がワンサカいて、どれぐらい区別がつくか?


     ブラジル人とイラン人の区別がつく?



白人だっていろいろですからね(ヨーロッパ人も肌の色と髪の色で区別差別されますからね  笑)

     イトコの孫なんですけどね  とにかく肌が真っ白で金髪もプラチナブロンドの男の子達がいて(将来成長と共にもっと濃い金髪に変化するんだけど)

     この子達の曾祖母である白人の叔母さんに「この子達、本物の白人だね」なんて言っちゃいましたよ  恥 

     あ、うちのは薄汚いカリフォルニアの白人です=ドイツとイギリスの混血だから  笑
     


ということで  秦氏  というのは狭い意味の中国人の秦氏と  広い意味のユーラシア大陸の人の秦氏  の2種類あるんじゃないのかな?と。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月12日 14時57分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏をはじめ、古代氏族には二面性があるように思われます。表と裏、
あるいは陰と陽、あるいは過去と現在、それはやはり天皇を中心として回
り続けていると思われます。

 秦氏は、弓月の君に代表される流れ(AD4〜5世紀)と、もう一つは、さ
らに遡って徐福に代表されるも流れ(BC2〜3世紀)があると思います。
 両方とも、正に日本の文化のバックグランウンドになっていると思いま
す。
 古代氏族については、すぐに深みにはまりますので、ボチボチやって行
きたいと考えます。

 ところで、朝倉氏と秦氏との関係はあるのか――という命題で調べてみ
ましたが、少なからず関係があるように思われる証左を見つけました。関
係と言っても、血縁関係の発見までには至っておりませんが。

 一つは、古代、2つ目は中世の話であります。
 今、やっとそこに辿り着いたところでありますので、もう少々お待ち下
さい――

[21]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月13日 21時49分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 近々、パソコンを入れ替えます。八年目を迎え、そろそろおかしいところ
が出て来るはず……というよりも、すでにそそういった症状が出て来ており
ます。今度は性能アップで、ストレスも軽減されるものと期待しています。

 さて、朝倉氏と秦氏の近しい関係については、どうも見込みがはずれそう
です。
 というのは――
 @前田豊氏の『徐福王国相模』の中に、相模「波多野」氏が取り扱われて
  おり、波多野氏てのルーツが秦氏であることを証明してくれるのかと思
  い込んだ訳でありますが、それが期待はずれ、論理的な証明がなされて
  おりませんでした。もし秦氏であれば、一乗谷に近い永平寺を中心とし
  て、朝倉氏と波多野氏――つまり秦氏と結び付く可能性がありました。

   前田氏によれば次のような波多野氏と朝倉氏の関係があります。要約
  しますと――
  「相模波多野氏の支流の波多野氏は越前に所領を持ち、1244年に波
  多野重義は道元禅師を開山に真似て永平寺を創建した。波多野氏は朝倉
  氏の配下となり、姻戚関係を結ぶ。朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、
  波多野氏も滅亡したということであります。

   波多野氏が秦氏であれば、もろに関係があったということになるので
  すが……。

 A朝倉氏のルーツは「日下部」氏であることは、太田亮氏の『姓氏家系辞
  典』に書かれております。ところが太田氏は、日下部氏の祖は孝徳天皇
  の子の日下部表米(表米親王)であるということは、先輩方が信用できな
  いものであると述べていることに同調しているようにもみられます。
   ここは重要なポイントであるのですが、信用できないという根拠が示
  されていない。もしも信用できるものであるならば、その後の展開が次
  のようにできると思います。
   つまりは、朝倉氏の祖は孝徳天皇で、孝徳天皇は聖徳太子と考えが近
  かった。つまり改革派であった。そして秦氏とも近かったということが
  言えるのかなあと……。

 いずれにしましても、「日下部氏」というのは、天皇家の歴史の創成に大
いに関係しています。熊襲や隼人と同じ立場かも知れませんが――
  
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月16日 07時59分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日、小川剛正著『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』
という本を送りました。

 ちなみに、その紹介文は――
 「戦乱の続いた中世、武家は熱心に和歌を詠み続けた。宮廷文化への憧憬
ばかりではない。一門や家臣との結束をはかり、また合戦を前に神仏と交流
し、あるいは他国との交渉にと、自らの支配を確かにするために和歌の道は
不可欠であった。
 地方に下った歌道師範の地位の高さは想像を絶するものがあった。武家政
権の発祥地である関東を中心に、鎌倉将軍宗尊親王、室町将軍足利尊氏、江
戸城を築いた名将・太田道灌、そして今川・武田・北条の戦国大名三強を取
り上げて、武家社会における文学伝統の足跡をたどる。」
とあります。

 また、内容の一節をご紹介しますと――
 「秀郷の嫡流で紀伊国仲荘に居住し、都では院や摂関家に仕えて左衛門尉
に任じたのが、西行の出た佐藤氏である。西行も出家以前は鳥羽院の北面の
武士であった。主君の護衛のほか、院の主宰する祭礼での流鏑馬行事に奉仕
することもその重要な職務であった。流鏑馬・笠懸は実践に用いられる騎射
の技の一つであるが、神事における作法として様式化された。その知識は、
この藝を奉仕する家が伝え、他人に教授できるとするのが当時の思考であっ
た。
 近年、日本史学では「武士」の見直しが進んでいる。「武士」とは、単に
殺人や戦闘の術を専らにした武装集団の謂ではなく、騎射の藝に代表される
「武藝」を伝える者である、という。そして「武藝」は宮廷文化に属する藝
能の一つであり、西国に滅んだ平家の武者こそ実は「武士」の名にふさわし
い。
 頼朝は、この頃しきりに京都の文物を取り入れているが、それは粗暴な東
国の領主たちを教育し、「武士」へと引き上げる必要に迫られていたためで
ある。日頃崇敬する鶴岡八幡宮の放生会を政権の枢要な儀礼として整備しよ
うとしていたのもその一環である。実際、西行の伝えた騎射の作法は頼朝に
よって正説とされ、半世紀後の放生会でも参照されている。かつ頼朝が秀郷
流の秘伝を知ることは、秀郷を祖と仰ぐ北関東の領主を帰属させる効果をも
伴ったはずである。
 以上のような頼朝の武芸に対する姿勢は、歌道の場合も同様であったと考
えられる。実際、西行のみならず、「源頼政」や「平忠盛」のように、北面
の武士には、歌人として名をなした者が少なくない。院御所では、おのずと
和歌を詠む機会があり、「武士」には歌道も必要な教養であった。」
というように、興味ある話題はふんだんに詰まっております。
 最初はややとっつきにくいですが、読み出すとおもしろいで、一度読んで
みて下さい。

 明日(十一月十七日 日曜日)は、福井県立若狭歴史博物館にて、「明智
光秀と若越の戦国時代」というテーマで講演会が開かれる日であります。
行きたいけど、ちょっと遠いので無理なので、資料だけでも送ってくれない
か問い合わせてみるつもりです。

 朝倉氏についてもう少し穿ってみて、また南朝関係に戻る方向です(その
時その時で、モチベーションのベクトルがグルグル回り、強まったり弱まっ
たりしますので、それをコントロールするのが大変であります)。
朝倉氏というのは、どういう種族であったのかをまず見極めたいと思いま
すが、DNAとして、孝徳天皇や有馬皇子の弟、その後の取り巻きの日下部
氏と関係があったということ。従って公卿とは近しい関係であったと言える
のではないかと推測いたします。ちょぅど今川義元のような感じ……。

 明智光秀が勤皇であったというDNA、これはどこから来たものであった
のか……本能寺の前の連歌、歌人としての素養、朝廷・歴代天皇の理解……
……信長は清盛か?、光秀は頼朝か?、本能寺の変の前夜、光秀の脳裏には
どんな映像が去来し、乱舞したのであろうか――
 
 本日、使用しているパソコンを新しいものに変えます――

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月16日 09時09分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

>小川剛正著『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』

楽しみにしています。


新しいPC  慣れるまで大変ですね、ふふふ
当分イライラするでしょうね。


歌も蹴鞠も武士の教養ですね。
別に「武士の」と限定するのではなく、もともとは「貴族の」教養であった。

だから平家は貴族に近く、今川氏も朝倉氏も貴族に近い武士であった。
   日本の社会の「上層」の人間だった、ということですね。
歌も蹴鞠も日本の歴史上、上層の人間であるための資格。


   例えば蘇我入鹿を暗殺したクーデター(乙巳の変)も中臣鎌足が蹴鞠の場に入れなかったら有り得なかった。
   きっと鎌足は中大兄皇子に近づくために蹴鞠を一生懸命習ったんでしょうね。



スポーツも結局は上層社会に入るためのパスポートですね。

平安時代の貴族社会で競馬(くらべうま)大会がありましたよね。他にはポロに似た打毬とか。

北面の武士だった佐藤義清(のちの西行)なんかは源渡と競ってたんじゃないかな?

      なんかそんな映画かドラマを見た記憶です。

      源渡の妻が袈裟御前で、遠藤盛遠(のちの文覚)に横恋慕されてオットの代わりに首を掻かれて死んだ貞女。


遠藤盛遠は女にそういう死に方をされて文覚上人となり
佐藤義清は女に振られて自分の娘を縁側から蹴落とし西行となり
こんな感じで都のオトコは恋に生きたけど
東のオトコはスポーツを実用的にして武芸に励むようになったんじゃないかな?



https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B6%E9%A6%AC-56544
競馬
くらべうま

1.
こまくらべ,きそいうま,きおいうまなどともいう。

奈良,平安時代に朝廷や貴族間で行われた馬の競走。
左右に分れ,各1騎ずつが一の鳥居と二の鳥居の間につくられた直線の馬場で速さを競い,
10番の勝負で左右いずれかの勝ちを決める。

また 10騎を並べ駆けさせて争う,のちの競馬 (けいば) と同じような形式のものもあった。

寛治7 (1093) 年5月5日の節会 (せちえ) に宮中武徳殿で行われたのが最初。
平安時代後期にこの行事はすたれたが,以後は春日,賀茂など諸神社の祭儀として引継がれ,
賀茂別雷 (わけいかずち) 神社では五穀豊穰の祈願をこめて現在も5月5日に行われている。




競馬【くらべうま】

5月5日,端午の節句の日に朝廷が催した,馬が走る速度を競う競技。
1回の競技に左方・右方の2頭ずつで競い,全部で10回行う。
左右双方の合計点で勝敗を決する。
馬場は,大きく三つの部分から構成されていて,
第1の木の位置を馬出(うまだし)と呼んで出発点とし,第2の木の位置で鞭(むち)を入れ,第3の木の辺りに鉾(ほこ)を立てて馬駐(うまどめ)と呼んで決勝点とした。

馬駐には審判員が位置し,着順を判定した。 

競馬のもっとも古い記録は《続日本紀》の大宝1年(701年)5月5日の条で,このころにはまだ〈走馬〉(はしりうま)と呼ばれていた。
競馬ということばが定着するのは《類聚国史》の出る寛平4年(892年)ころと考えられている。

初めは朝廷や貴族の間で行われていたが,平安時代末期には衰退し,
それに代わって神社の境内で行われる競馬が盛んになった。

京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)で行われる〈賀茂競馬〉は有名で,いまも盛んである。
この競馬は堀河天皇の〈天下泰平五穀成就〉の勅願(寛治7年,1093年)によって始まったという。

競馬は,今日もなお,全国各地の賀茂神社の系譜に多く伝承されている。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月16日 18時01分44秒 ) パスワード

眠れないので起きて来ました:


日本のスポーツというと  
そもそも日本にスポーツという概念は無いでしょうね  
直接に「武」とか「戦」とか  の実践  でしょうね。

確か英語の時間にスポーツの語源は「遊び」と習った記憶。
Oxford Dictionary defines sport as "an activity involving physical exertion and skill in which an individual or a team competes against another or others for entertainment".


古くは  弓とか狩りとか石礫投げ  なんかですね。
それから蹴鞠?相撲?  
蹴鞠は競技で 相撲は神事  って感じ。
蹴鞠は 特に出世の道具? 笑   そもそもが中臣鎌足で注目されますからね。


石礫投げの名手というと源為義の部下の紀平次という記憶。為朝の部下と言う方が合ってるのかな?
ひょっとすると紀平次という固有名詞は小説の創作かもね?


    今でも中東あたりじゃ石を投げて喧嘩してるな。
    香港じゃ  レンガを投げてる  なんてニュースになってるけど  スポーツじゃなくて戦い  まさに  レンガが武器だね。



鎌倉時代になって武家のスポーツ系というと  犬追物  とか  流鏑馬とか 

日本の犬追物
英国の狐狩り

両方とも現代から考えると  動物虐待スポーツ  ですね。


戦国時代は鷹狩りが軍事訓練ですね。水練も戦争に役立つ1つですね。


江戸時代になると  剣術。戦国時代の実践用の戦いから精神を鍛えるものに?


明治時代に柔術?


いろいろゴチャゴチャ考えてたら眠れなくなりましたよ。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月18日 21時02分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 パソコンはスピードが速くなりました。大満足であります。ウィンドウズ
10は引き続いています。 プリンターもセットで替えました。WiFiでコード
レス……スマホにも乗り換え、タブレットも入手し、今はそれらに慣れるべ
く練習しています……。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月19日 04時05分16秒 ) パスワード

三つ柏さん

四苦八苦なさってるご様子が手に取るように・・・
ふふふ

頑張って慣れてください。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月20日 14時11分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 朝倉氏の祖先について、いろいろ調べておりました。七千傑様の系図を
見てみますと、朝倉氏は――

 ・開化天皇―彦座主王―若筒木王……日下部氏…糸井氏…但馬朝倉氏…
…越前朝倉氏

と、DNAがつながっているように思われます。孝徳天皇につながる説も
ありましたが、それはそれでつながっているのかも知れません。

 その流れの中で、「表米」が日下部氏の初代、「弘佐」が糸井氏の初代、
「宗高」が朝倉氏の初代となっております。

 宗高から数えて四代目が「広景」であります。

 先日行った「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」で購入した『越前・朝倉氏関係
年表』には、A4で225頁にわたり、朝倉氏の年譜が書かれております。
朝倉氏の誰から書かれているかと申しますとは、宗高から数えて二代目の
「高清」が最初で、それ以後はずっと書かれております。
 それによると、1136年(保延2年)に朝倉高清は生まれております。

 この年譜について、次回より私なりにピックアップして記してみたいと
思います。明智光秀についても、少し出てまいります。

 いずれにしても、朝倉氏の表面ばかりが歴史に残っていますが、その古
代における祖先の「日下部氏」の血筋は、深堀りすれば必ずやあっと驚く
ものがあると思っております――
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月22日 10時35分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 来年の「麒麟が来る」のキャストに法を逸脱する行為があり(習慣的にも)、
逮捕されるという事態になりました。それは、ドラマ自体を傷つけ、制作的
にも今後のリカバリーが危うい状態になっております。後釜のキャストは決
まったようですが、光秀そのものを汚したような感じがして、非常に残念で
あります。ま、逆に考えれば、世間に来年の大河ドラマを俄然知らしめ、今
までとは違った意味でも注目させることになったことは、皮肉ではあります
が感謝?!……であります。

 そのキャストが演じるのは濃姫役ということで、ドラマにおいてはある意
味、分水嶺のような重要なポジションであると推測いたします。
 分水嶺と申しましたのは、この濃姫(「帰蝶」の方が本名に近いか。黄蝶の
意味)に侍女として奉仕したのが、明智光秀の妹「褄黄(つまき)」であります。
つまり、光秀―褄黄と信長をつなぐ架け橋が「帰蝶(濃姫)」なのであります。
 具体的には未検証でありますが、その母の出自を調べればわかってくると
思います。

 そして、私が今改めてびっくりしたのは、明智光秀の妹が「褄黄(つまき)」
であることであります。明智光秀の妻は「妻木(つまき)煕子」と言います。
 これは何かのメッセージ(暗号のようなもの)の可能性があります。この謎
は、非常に奥深いものであることは間違いないと思います。今後時間をかけ
て解読していきたいと考えます。

 ところで、朝倉氏と明智氏との関係でありますが、DNA的には何の関係もな
いように思われますが、実は朝倉氏の祖の「日下部氏」を調べますと、「あ
ること」がわかります。
 また一方、明智氏はというと、その妻「妻木氏」は勘解由氏であるようで、
やはり「あること」に関係するのであります。
 その「あること」とは何か、次回に記したいと思います――

[29]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月22日 14時38分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

濃姫
というのは  美濃からいらっしゃった御方さま  あたりの意味でしょう。
美濃の殿さまのお嬢様、とか。


褄黄
というのは  蝶々  の1種ですね。褄黄蝶。


昔の女性の名前については両親が呼んでたホントの名前は公開されてないんでしょうね
日本の古代からの伝統なんでしょうね
万葉集にも「ね〜、彼女〜、名前  なんてゆーの?」とオトコが声を掛けて
オンナが「親からもらった名前、あんたになんか、教えてあげな〜い」と答えるシーンが記録されてますね。

男子の名前も幼名から成長に従って成功に従って変化しますから
恐らく  何らかの呪術かお守りか  宗教的な伝統があるのかもですね。




帰蝶の母上が明智出身の小見の方
武田勝頼の母上が諏訪御料人で、彼女の両親は  諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏出身の太方様。


この共通点  「小見」 に意味があるのか無いのか  非常に気になります。




>明智氏はというと、その妻「妻木氏」は勘解由氏であるようで

妻木は清和源氏系土岐氏の一族ではないのですか?
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月23日 14時43分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の勤め先の創業者は、若い頃、烏丸(光大)侯爵家の書生(カバン持ち)
でありました。この烏丸家を調べてみると、藤原氏系日野流烏丸家で、烏
丸光広の後裔でありました。さらに光広を調べると、子孫は「勘解由小路」
を名乗っている。
 また、「勘解由小路家」には、もう一つの別の系統が存在していました。
それは、賀茂氏系の勘解由小路家でありました。

 Wikiによると、賀茂氏系勘解由小路家は、陰陽道の宗家のひとつで、天
文道を伝える安倍氏に対して、歴道を伝えるのが賀茂氏。室町時代に賀茂
在方の子・在貞・在長が勘解由小路を称したということであります。

 明智光秀の妻・煕子の父は、妻木勘解由左右衛門範煕といい、勘解由小
路家とつながるという説もあるということですが、確証は今のところあり
ません。早く見つけたいと思いますが、一応重要な仮設としておきます。

 この賀茂氏系勘解由小路家と朝倉氏の祖先・日下部氏は、共通の「ある
もの」に従事していたと推測いたします。それは「歴道」であります。
 日下部氏の暦道については、これから記すことにいたします――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月24日 02時44分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

>妻木勘解由左右衛門範煕といい、
>勘解由小路家とつながるという説もあるということですが、
>確証は今のところありません。


三つ柏さん、光秀は吉田兼見と親しかったそうですから
遡って考えると「有り得ます」ね。

土岐氏は室町幕府の超有力大名ですから京都の公家公卿と結婚で結びついていたでしょうから
妻木家のような零細な家でも勘解由小路家がらみで何か婚姻があったのは考えられますね。

     勘解由小路家の姫君でなくとも一族の者か侍女でついてきた女性か



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E8%A6%8B

吉田 兼見(よしだ かねみ)

戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿・神道家。京都吉田神社神主。
吉田神道宗家・吉田家9代当主・卜部氏25代。

『兼見卿記』(かねみきょうき)の著者としても知られる。

天文4年(1535年)、神祇大副兼右兵衛督・吉田兼右の子として誕生。細川幽斎の従兄弟にあたる。

元亀元年(1570年)、家督を継ぎ吉田神道の継承者となった。初名は兼和であったが、後陽成天皇の諱(和仁)を避けて天正14年(1586年)に兼見に改名した。

足利義昭、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家、卜部氏)の家格を獲得した。

慶長15年(1610年)、薨去。





桐野作人『真説 本能寺』学習研究社、2001年、303-310頁

兼見卿記
兼見が記した日記で、特に京の政治情勢に関して詳しく記されており、
他にも北野社の大茶会をはじめとする茶器・連歌などの文芸、天正大地震による若狭湾での大津波の記録など、
織豊政権期の重要な資料の一つとされている。

本能寺の変の起こった天正10年分だけ、以前の記述分が別本として存在しており、
光秀との関わりのある件が書き直され銀子糾問の影響など様々に分析されている。

                        ☝
                      これですね

                        ☟
                      本能寺の変の時の2人のアヤシイ動きについても書かれてますね



光秀と吉田兼見が本能寺の変を画策したのではないか、とのブログ
https://senjp.com/yoshidakenmi/
コピペガード付き
残念っ


銀子事件にも触れてます

吉田兼見を通して
朝廷に銀子500枚
五山と大徳寺にそれぞれ100枚
吉田兼見自身には50枚
バラ撒いてますね


アヤシイですね

本能寺の変の後、関わりを恐れて  勘解由小路家はひたすら  知らぬ存ぜぬを通したかもですね


歴史って面白いし楽しいですね
いろいろな登場人物の心理を想像して悦に入ってます。


秀吉が天下を握ってからは明智光秀との関係を皆さん隠滅改竄隠匿したでしょうね。
だから光秀は出自不明の人になったのかもですね。

        あれだけの人物ですから  父親がハッキリしないとかも含めて  アリエナイ  じゃないですかねぇ。
[32]A.AKECHIさんからのコメント(2019年11月25日 11時06分30秒 ) パスワード

三つ柏服部様
空の青海のあを様

 「明治三大建築家」の一人といわれる妻木頼黄(よりなか)氏の回顧展(?)に行ったことがありますが、その展示の中に(妻木頼久を初代とする)系図や家康の朱印状など妻木氏に関するものがあり、この妻木家には「明智光秀の後裔」である、との伝承がある、との記述を見つけて驚いたことがあります。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月26日 12時32分31秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 お久しぶりです。いつも見守っていて下さると思いながら書いております。
また、いつもながら貴重な情報、ありがとうございます。

 妻木広忠の子が頼久、広忠の弟である範煕の子が煕子という建前になって
おります。頼久を初代とする妻木家が光秀の後裔ということになると、頼久
は光秀の子あたりか、つまり光秀は広忠の子ということか……養子縁組次第
では、いかようにもできる訳でありますが……。

 いずれにしても、光秀と煕子は非常に近い間柄であったということになり
ます。煕子は本能寺の変の六年前に亡くなっているということであります(西
教寺の過去帳)。本能寺の変後、坂本城で亡くなった光秀の妻は煕子でないこ
とはこれよりほぼ断定でき、それは「服部保章の娘」であったと『三河後風
土記』には書かれているという。

 妻木煕子と服部保章の娘の関係は一体どういう関係、そして背景があった
のだろうか。ここが実は「明智光秀の最大の謎」なのであります。

 妻木広忠の妻は、「水野信元の姪」であります。徳川家康の母・お大は、
水野信元の妹であります。従って広忠の妻はお大の姪でもあり、家康とはい
とこ同士となります。

 では仮に、光秀が妻木広忠の子としたら、どうなるのでしょうか……光秀
は家康のいとこの子となります。

 信長につき、のち殺されることになったた水野信元、その弟・忠重は、本
能寺の変の時、織田信長の長男の信忠と二条御所にいたけれど、どういう訳
か本人は脱出できて生き延びています。

 織田と明智、水野と徳川、その両サイドをつなぐ架け橋、それが妻木氏の
ような気がします。あるいは、服部氏も妻木氏と行動を共にしていたかも知
れません。「架け橋」は「諜報」でもあります。ともかく、妻木氏の本性を
つかみたい、それが私の最大の願いであります――
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2019年11月27日 13時42分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 明智光秀と「妻木煕子にからむ勘解由関係」、もしそれが勘解由小路家で
あるなら、その裏には更に「八咫烏」がからんでいる可能性が大であります。

 徳川家康の祖先は「新田家」と建前ではなっていますが、その祖「親氏」
は賀茂在親の子であります(「宮廷公家系図収攬」による)。つまりは「八咫
烏」の系統であります。

 徳川家康と陰陽道との関係についての資料は、今のところあまり入手して
おりませんが、家康は土御門家(安倍系 天門道)を復興させ、途絶えていた
勘解由小路家(賀茂家 暦道)のかわりに、幸徳井家を採用して再建につとめ
たというような事実があるようです。

 考えてみれば、土岐氏、明智氏の祖は源頼光であり、また同族の源頼政も
祖と言えると思います。頼光の時代は陰陽道の最盛期、また頼政も陰陽道と
関係します。としたら、その後裔の光秀も、やはり陰陽道に何かしら関係し
ていても不思議ではない、むしろ関係して当然ではないか。ここを調べてみ
たいと思っています。
 
 頼光の酒呑童子退治・土蜘蛛退治、頼政の鵺(ぬえ)退治……光秀にとって
信長は正に「鵺」だったのかも知れません。
 また、「頼政と神服部氏」の関係は、「光秀と服部党」の原型のような気
がしてきました――
 
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年11月29日 21時48分11秒 ) パスワード

最近やたらと「妻木」がらみのパワーが来てて
ちょっと整理出来ません。


iPS細胞開発に伴う細胞リプログラミング技術の妻木博士とか。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月01日 08時45分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日と昨日は、一泊二日で京都知恩院へ、定明寺ほか遠州の浄土宗の寺々
の合同の団参・奉仕(+観光)に行ってきました。知恩院は浄土宗の総本山で、
京都東山の祇園八坂神社の奥に広大な敷地・寺院群を有しております。

 最近、私が知恩院に深く興味を持ち始めたのは、実家の菩提寺定明寺の本山
が知恩院であることが基盤ではありますが、その開祖「法然」が、まぎれもな
く「秦氏」であったということであります(山田繁夫『法然と秦氏』による)。
 このことについての論究は長くなりますので、後にいたしますが、徳川家康
と浄土宗との絆も、背景には「賀茂氏」(家康の持つ血筋)と「秦氏」の絆の存
在があったのではないかという気がしてまいりました……。

 さて、今回の旅におけるもう一つの目的は、知恩院の直ぐ側(歩いて5分)
にある「明智光秀の首塚」に行くことでありました。昨日の朝に一時間位の
余裕ができましたので、行ってみました。ホテルマンに訊くと、歩いて6分
ということですので、平均のスピードで400メートル位ということになり
ます。多分、そのあたりは今は知恩院の系の華頂短大や高校、中学校やら、
浄土集関係の寺が林立していますが、戦国時代には知恩院の境内か少なくと
も地所であったのかも知れません。何で知恩院の近くに「光秀の首」を運ん
で来たのか……たぶん、知恩院の庇護を受けようとしたのかもしれませんが、
この点については、今後じっくり調べて行きたいと考えます。
 
 「明智光秀の首塚」は、知恩院正門から北西方向に坂を下って華頂短大の
裏の路地を入った所にありました。路地の入口に「餅寅」という和菓子屋さ
んがあり、「光秀饅頭」を作っておりますが、早朝ゆえ、まだ店開きしてお
りませんでした。「光秀饅頭」とは、光秀の最後の悲壮感とは随分落差があ
るな、やや滑稽だなと思いましたが、光秀に対する悲しみより、よくやって
くれましたという思いの方が、民衆の心の中の実際であったのかとも思った
りしました。それにしても商売人のしたたかさか、ま、よいよい(あを様流)。

 ちょっと用事で中断します――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月01日 15時51分46秒 ) パスワード

三つ柏さん

京都旅行のお話をありがとうございました。


知恩院は京都観光の定番の1つですから観光バスでも個人でも何度も行きました。
「うぐいす張りの廊下」がオットのお気に入りだったので。


京都の風は、もう、冷たかったのではありませんか?
体調を崩さないようになさってくださいね。
[38]A.AKECHIさんからのコメント(2019年12月02日 11時38分20秒 ) パスワード

三つ柏服部様

 「首塚」の由来は「餅寅」さんがよくご存知なので、早朝でなければ直接お聞きすることができたのに、残念でした。
 
 代りに(?)明智憲三郎氏のブログ(↓)をご参照下さい。
 https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/09757971be0e55709393c3d6e45775a3
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月03日 22時51分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様

 やっと所用から解き放され、元の状態に戻れました。

 AKECHI様、明智憲三郎氏のブログのご紹介ありがとうございます。
 明智光秀の塚(首塚)に行ってみましたところ、その祠の前面に、やはり
明智憲三郎氏の書かれた雑誌のコピーが張られており、ほぼ同じ内容のこ
とが書かれておりました。
 祠と石碑と五輪塔(というよりも五重ノ塔)風の細長い塔が建てられてお
りました。入り口には、告知板のような説明看板があり、そこにはこう書
かれておりました――

 「明智光秀の塚 天正十年(1582)六月二日、明智光秀は本能寺に宿泊し
 ていた主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は、備中
 高松城から引きあげてきた羽柴秀吉と、十三日に山崎(天王山)で戦って
 敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そして
 その途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重症を負い、
 自害して家臣に首を打たせたといわれています。
  光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが吉田兼見と
 いう公家が記した日記『兼見卿記』によると、光秀の首は十五日までに
 発見されています。十八日からは、粟田口(左京区)で重臣の首とともに
 晒されました。晒されたのは数日で、二十二・二十三日には近くに埋め、
 塚を築いたことも記されています。
  実際、『雍州府志』や『都名所図会』など、江戸時代の京都について
 記した地誌類には、その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側
 にあると記されたいます。多くの書物に記されていることから、当時よ
 く知られた名所であったことがうかがえます。
  その後、江戸時代中期の安永〜天明初年頃(1770〜80頃)に、蹴上の塚
 にあった石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が、明智光
 秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと
 伝えられています。
  また、明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚
 があります。                       京都市」

 この説明書きによるなら、もともとは蹴上の方にあったということです
から、明智光秀と知恩院とは直接の関係はなかったものと思われます。

 「おむすび」を縦にずうーっと長くしたような自然石の石碑には、表と
裏に次のように彫られておりました――

 表「長存寺殿明窓玄智大禅定門」
 裏「明治三十六年四月 市川団蔵建立」

 この市川団蔵とは、名前からして歌舞伎役者のような気がいたします――
 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月04日 02時48分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

>市川団蔵建立

どういう関係だったのでしょうね。



恐らく  この人物?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E8%94%B5_ (8%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

八代目市川團蔵(1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)

歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。
俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。
七代目市川團蔵の次男。


略歴

実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ[1]。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという[1]。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する[1]。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。その後、初代中村吉右衛門一座に加わり脇役を勤める。1943年(昭和18年)歌舞伎座『毒茶の丹助』の丹助役で、八代目市川團蔵を襲名。

『松浦の太鼓』の宝井其角、『石切梶原』の六郎太夫、『河内山』の高木小左衛門など、地味ながらも堅実な演技で舞台を支えた。1965年に勲五等双光旭日章を受勲、1966年には第16回芸術選奨を受賞し、賞金と日本俳優協会から贈られた報奨金に自分の金を足して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄付した[2][1]。

また、父七代目市川團蔵についての著書『七世市川團蔵』(石原求龍堂、1942)[3]を著し歌舞伎研究に業績を残した。孫九代目市川團蔵には『書写山』の鬼若の型を伝えた。また甥にのちに養子に迎えた五代目市川九蔵がいる。



引退及びその死

1966年(昭和41年)4月に歌舞伎座で引退興行を行ない、『菊畑』の鬼一と『助六』の意休役を演ずる。直後に20年来の夢だった四国巡礼に出かけ、巡礼を終えたあと、小豆島に宿泊し、その帰途、大阪行きの船上で消息を絶つ[2]。船室には、市川のネーム入りの紺の背広上着、中折れ帽、レインコート、懐中時計、文庫本などのほか、「この金を費用にあててください」のメモのついた財布があり、播磨灘に身を投げ自殺したと推測された[2]。遺体は上がっていない[4]。東京には、30年連れ添った60代の妻・宏子、養女にした妻の姪一家、息子の敏雄一家、孫、ひ孫があり、小豆島滞在中に「探さないでくれ」といった遺書を思わせる手紙などが妻宛に送られていた[1]。

辞世は「我死なば 香典うけな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」。墓所は谷中霊園。戒名は「巌生院釈玲空」。

團蔵の死について三島由紀夫は、「団蔵の死は、強烈、壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評であつた。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世間から思はれてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭けた批評である」[5]と、團蔵を追悼し、その死の意味を考察した論評を書いた。

網野菊は追悼の中篇エッセイ「一期一会」を同年の『群像』11月号に掲載(のちに講談社文芸文庫『一期一会』に収録)[6]。同作は読売文学賞を受賞した。

また、戸板康二は、團蔵の死の旅を後をたどった中篇「団蔵入水」を『小説現代』1971年10月号に発表している(講談社から『団蔵入水』として単行本が刊行)[7]。



>「おむすび」を縦にずうーっと長くしたような自然石の石碑

定紋が縦長三升だから?

[41]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月04日 07時06分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうそう、忘れておりました。「明智光秀の首塚」の前で、般若心経二巻
を唱え捧げてきたことを申し添えておきます。

 それにしても、団蔵の覚醒した一種の自決……一体何だったのでしょうね。
ショッキングな出来事であります。三島由紀夫も評論を書き、最後は自決し
ている……。
 歌舞伎の中で、明智光秀と本能寺の変(クーデター)は演題となっておりま
して、たぶん市川団(團)藏も、それを演じたのではないかと想像いたします。
三島由紀夫の評論を読んでみないとわかりませんが、団蔵の死と、光秀の「
クーデター」後の死と、三島の例の「クーデター」後の死は、一本の線でつ
ながっているのかも知れませんね……その謎の核心は、ひょっとすると光秀
の内心を物語るものなのかも知れません――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月04日 09時43分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


「團蔵さん」も嬉しかったことでしょう。


8代目さんの父上の7代目さんもなかなかの歌舞伎役者で

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E8%94%B5_ (7%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

7代目さんの当たり役の1つが 『時今也桔梗旗揚』の武智光秀  だそうです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%8A%E4%B9%9F%E6%A1%94%E6%A2%97%E6%97%97%E6%8F%9A

時今也桔梗旗揚


7代目さんは江戸生まれ、父は料理人の丸屋伊三郎。天保10年(1839年)二代目市川九蔵の養子となった人で
全く違う大変な世界に飛び込んだ人のようです。

だから実子の8代目に
父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、
うまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったということになったのでしょう。

父子揃って大変な境地だったでしょうね。


歌舞伎の世界って現代でも「厳しい」世界ですからね
市川中車(香川照之)のことや中村獅堂のハナシを読むと
すごい区別差別の世界だなって思います。


どなたが「明治三十六年四月 市川団蔵建立」の團蔵さんか分かりませんが
父子ともに可能性はあり
その思いの深さもすごいものがありますよね。

7代目さんの苦しみ
8代目さんの父上を思う苦しみ

どちらも光秀への思いに取りつかれていたのでしょうね。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月04日 21時49分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 自決(覚醒した自殺)による死を「一瞬のシャッター」とすると、シャッタ
ーが切られた途端、その人の人生の過去すべてが固定化され、時空に張り付
き、一つの完成体として永遠化するのではないか。それは、人生の否定では
なく、肯定へとつながるのではないか……。
 そんな思いを団蔵、三島に感じます。

 武士・武将にとって、自決とはどんな思いのものであったのか、彼らの死
生観、宗教心も含めて、探求してみたいと思います。

 今年の七月に出た本に、斎藤忠著『天正10年の資料だけが証す 本能寺
の変の真実』があります。これを読みますと、一口に言うと、本能寺の変は
信長の嫡男・信忠を中心とした無血クーデターが、信長の自決という不測の
事態により、あらぬ方向へ走ってしまった。結果として、光秀はその首謀者
になってしまった・させられてしまったというものであります。

 この信長の自決というものが、実は自身のキリスト化・ゼウス化であった
と論じております。つまり、自決というシャッターによって、信長はキリス
トとして、またさらにはゼウスとして昇華したということになります。そし
て遺骸もすべて残さず昇天したということになり、思いのすべてが完結した
訳であります。

 覚醒した自決(積極死)は、人生の否定でなく、人生の肯定となる……そん
な思いを今回抱きました――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月04日 22時57分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

>覚醒した自決(積極死)は、人生の否定でなく、人生の肯定となる

なるほどね
納得します。


でなきゃ  日本人は長々と続く歴史上で切腹はしなかった  でしょうね。
日本人にとって  斬首されるより  自分に任された切腹の方が名誉  という思想が続いた。


>斎藤忠著『天正10年の資料だけが証す 本能寺の変の真実』
>本能寺の変は信長の嫡男・信忠を中心とした無血クーデター

これは全く新しい説ですね。
思ったこともありませんでした。

信忠って人物は全く思い浮かびません。せいぜい信長の最愛の生駒吉乃さんが生んだ男子らしい、あたりです。


光秀と濃姫(帰蝶)がイトコというハナシも  
美濃出身ということで  
遠い親戚じゃないかなと言ってた事からだったのか   本当に近いイトコ関係だったのか  
真相は分かりません。

    2人とも実は本当のところは知らなかったかも知れないし。



信忠が信長に愛されていたのはそうかも知れないし   
とはいえ
武田信玄は自分の嫡男義信を幽閉して(死なせている?)から父子でも殺し合うし

信忠の真相って  全く  分からないです。

新しい説ですね。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月04日 23時00分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

昨日「武士はなぜ歌を詠むか」を頂いたのでメールさせて頂きました。
ありがとうございました。

上のレスにご報告が載ってませんでした。
ごめんなさい。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月05日 08時26分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 辞世の句は、いわば「人生の総括の一瞬のシャッターチャンス」のような
ものと考えます。

 光秀の辞世の句は、本人の創作ではないように思われますが――

 「心しらぬ 人は何とも言えばいへ 身を惜しまじ 名を惜しまじ」

 これは、やはり本人のやるせない気持ち――即ち、冤罪の気持ちを代弁し
たもののように思われます。

 「私は逆賊として名を貶めるけれど、本当は違うのですよ。でもあの暴君
が死んだことは間違いない事実。それでいいのだ、すべては終わった……。」

といった達観の境地を表しているような感じがします。

 娘の細川ガラシャの辞世の句は、まさに「人生一瞬のシャッターチャンス」
であります――

 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 それぞれに人生の最後の一瞬、この世からあの世へのシャッター音、焼き
付けられ刻まれた心象風景、それは時空を超えて伝わって行く――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月06日 08時13分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

> 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

彼女の人間性の強さ美しさが出てますね。


日本人の歌の形というと 5−7−5−7−7  ですね
これが中国人になると 漢詩の  あ、唐詩か  五言絶句とか七言絶句とかで
収まる。


やっぱり「定形」に収まってるのがいいです。
今時の若者の歌は歌えないし歌詞がどう流れてるのか捉えられないです。
[48]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月06日 12時14分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山本博文氏の『切腹 日本人の責任の取り方』という本を読みますと、武士
の責任の取り方として切腹が定着したのは、江戸時代であるということであり
ます。戦国時代までの自害・切腹、斬首と違って、幕藩体制における上司への
忠誠心、また武士の矜持(自尊心)への配慮として、切腹という形が様式化され
ました。その人の身分(位)によって、切腹する畳の畳数・形態も、極上、上、
中、下と分けられて存在したということです。まるで、鰻丼の松、竹、梅のよ
うな区別であります。ちなみに、鰻は関東では腹から開かず、背開きにしてお
り、武士の切腹のイメージを忌み嫌ったのかも知れません。

 私がいつも不思議に思うのは、武士は上司から切腹を命じられると、いとも
簡単にそれを受け入れているように感じることであります。抵抗したり逃亡し
たりということが、ほとんど書かれていないような気がいたします。でも、武
士とて人間ですので、そういうことはあったと思います。それは幕藩体制のた
めに伏せられ、表向きには乱心、狂気、病死などとして処理されたのかも知れ
ません―― 
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月06日 14時03分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小川剛正氏の『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』により
ますと、近年、日本史学では「武士」像の見直しが進んでいるという。「武士」
とは、単に殺人や戦闘の術を専らにした武装集団の意でなく、騎射(弓馬)の芸
に代表される「武芸」を伝える者であるという。武芸は宮廷文化に属する芸能
の一つであり、西国に滅んだ平家の武者こそは実は「武士」の名にふさわしい
ものであるという。
 もちろん平家以外の源氏でも、北面の武士には、歌人として名を成した者が
少なからずおります。いわば「武人歌人」――「源頼政」がそうであります。
土岐氏や明智氏にとっても頼政はルーツ的には同族でありますので、その伝統
・趣向は継いでいたものと推察いたします。

 明智光秀に和歌や連歌の素養があったということ、茶の湯の素養があったこ
とは有名であります。
 本能寺の変の三日前(明智憲三郎氏の年表では、一週間前)に愛宕山で連歌の
会を催した。いわゆる愛宕百韻……。和歌の先生は里村紹巴であったようであ
ります。和歌は一流の先生につかないと詠めないようです。そこには決まりや
作法があるからであります。
 里村紹巴は戦国時代の連歌師の第一人者であり、数多くの武将と交友があっ
たといいます。連歌師は歌だけでなく、情報も多く収集・携えておりました。
 茶の湯では、今井宗久や津田宗及から学び、宗及とは連歌の会にもよく一緒
に参加したということであります。

 連歌・茶の湯と聞くと、文化人のイメージがありますが、これはやはり情報
のネットワークとみて間違いないと推察いたします。
 里村紹巴・今井宗久・津田宗及がどんな人であったか……光秀の内奥を知る
手がかりになりそうです――
[50]A..AKECHIさんからのコメント(2019年12月07日 11時11分11秒 ) パスワード

三つ柏服部様

>連歌・茶の湯と聞くと、文化人のイメージがありますが、これはやはり情報
のネットワークとみて間違いない

強く同意致します。

「ネットワーク」といえば、関西学院大学の早坂先生の新刊「明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか」では、医学関係の「ネットワーク」を提唱されていて大注目です。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月07日 13時18分23秒 ) パスワード

A.AKECHI様
空の青海のあを様

A.AKECHI様、新たなる本のご紹介、ありがとうございます。興味深
々でありますので、さっそく入手して読んでみます。

 さて、愛宕百韻の催されたひにちを、「本能寺の変の三日前(明智憲三郎氏
の年表では、一週間前)」と書きましたが、明智憲三郎氏の年表がなぜそうな
っているのか、その年表の載っている『本能寺の変 四百二十七年前の真実』
をもう一度読み直してみました。

 今からちょぅど十年前に出版され、すぐに購入して読んではおりましたが、
その当時は歴史の知識が浅薄で、読んでも深く理解できない状態でありまし
た。十年経った今、歴史の機微について情報・知識をたくさん得ましたので、
憲三郎氏の書かれていることについて、改めて考察してみると、すべて抵抗
なく納得できるものでありました。体の中に、血がドクドクと輸血され、生
き返ったような感じであります。憲三郎氏の論述は、ほぼ大筋において正し
いのではないかと思います。

 愛宕百韻の催されたひにちがなぜ違っていたのか、それは憲三郎氏によれ
ば、秀吉による改竄があったからであります。細かく書くと長くなりますの
で、この本の二十一頁を読んでいただければと思います。

 憲三郎氏は理科系であり、原因と結果の論理をしっかり構築しておられま
す。その点では、私も理科系の考え方なので、大いに共感できます。

 強いて言えば、憲三郎氏に徳川家康(+服部党)と明智光秀との関係を、も
っともっと探求してほしかったのですが、ここは服部党側に課せられた課題
だと思いますので、引き続き探求にチャレンジして行きたいと考えます――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月07日 16時58分47秒 ) パスワード

起きて来ました。

        隣のスタック(2号室)が今週はパイプクリーニングということで
        今日まで留守番をしてあげることにしてたので  朝から夕方まで  ずっと、じっと、家にいなくてはならず
        今朝はとうとう(ジム後のシャワーの後)眠くなったけれど留守番があるので起きていて
        それで今日は早々と寝ることにしたけれど目が冴えてしまって眠れないから起きて来ました。


つまり三つ柏さんが何故京都の大学に行ってたのか?と考えてしまったからです。

ご先祖さまのどなたかが京都にいた?京都で何かあった?


それは何だったのだろう?と考えているところです。 
もしかするとワタクシの友人宅もからんでいるのかも知れないし。   
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月08日 21時57分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、「しんあいち歴史研究会」の忘年会があり、名古屋の金山まで行っ
てまいりました。会の会長さんともお酒を酌み交わし、お話もできましたので、
とても嬉しく思っております。
 今日は「トラ・トラ・トラ」の日ということを、会の誰かが言いましたので、
マスコミには出ておりませんが、ハワイのことを頭に浮かべました――
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月09日 02時53分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

昨日は真珠湾攻撃78周年記念日でしたね。

負けたとか勝てなかった場合は記憶から消したいようですが
勝った戦争には元気なもので、いつまでもハナシの種で
12月7日は在布日本人には肩身の狭い日です。

在布日系人の場合は当時日本人移民が人口の40%ほどだったので
(人数多過ぎと経済への多大な悪影響ということで)収容されず
  
その後の422部隊のヨーロッパ戦線での貢献と活躍もあって
12月7日は日系人ヴェテランへの称賛の記念日でもあります。


ところが今年は

12月4日に真珠湾の造船修理所で民間人?(軍属って言うのかな?)が2人射殺されて
犯人は自損事故?撃った弾で自分が怪我して、死んでしまうという事件が起き

さらに6日?フロリダのペンサコーラの海軍の飛行機場のところでサウジアラビア人の空軍パイロットが銃撃事件を起こし


こういう事件が重なったのでマスコミはコッチで忙しい記念日となりました。


今日は  ホノルルマラソンの日で  5時からレースが始まり  15分間花火が上がってました。
わたしはマシンの上での参加で30分で早々にリタイアしました。


だいたい3万人あたり参加しているようです。
エントリー料金は3万円前後。参加申し込みで料金が変る(笑)
日本航空  しっかり  儲けてますね。



で、三つ柏さんの京都に対する思い入れというのから過去への一端が掴めるのでは?と思うのですが


東山あたりだったら   平家関連?
太秦あたりだったら   秦氏関連?
その他?

まだ原風景というか  過去への繋がりは見えて来ませんか?
[55]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月09日 15時14分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 難しいテーマをいただきましたが、京都においてどこに郷愁(原風景)を感
じる(?)かといいますと、太秦でしょぅか……広隆寺の秦河勝夫妻の木彫り
の座像、そして蚕ノ社、松尾大社には"at home"感を感じます。

 残念ながら、東山の南部の地域には、"at home"感は感じす、何かギスギ
スして落ち着きません。供養を求めている声が頭に聞こえてきそうです。
 平家の供養のためには、京都のどこを訪ねたらいいのか教えてください!
[56]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月09日 15時24分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様
A.AKECHI様
 
 訂正:感じす→感じず

 早島大祐氏の『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』を、さっそく
取り寄せ読んでおります。
 読了後に、要のポイントをいくつか記してみたいと思っております――
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月10日 15時33分57秒 ) パスワード

https://ironna.jp/article/13918?p=2

美濃土岐氏の末裔か?極限まで迫る「明智光秀」出自のナゾ

『渡邊大門』 2019/12/09


会員限定でログインしないと読めないかも。

コピペします
上手くできるかどうか?



本能寺の変の関連本である。プロ・アマ入り混じって関連書籍を刊行しているが、デタラメな内容のものも少なくない。すでに否定された説を壊れたカセットデッキのように、何度も繰り返し刊行されている例も見受けられる。現在、残っている史料からは、すべての黒幕説は否定されている。




 光秀を語るうえで、重要なポイントは出自の問題である。光秀が土岐明智氏の流れを汲むことは、所与の前提とされている。はたして、それは正しいのだろうか?




 一般的に光秀は、美濃の名門一族である土岐氏の流れを汲む、土岐明智氏の出身といわれている。土岐氏は清和源氏・源光衡(みつひら)の末裔(まつえい)であり、鎌倉時代に美濃国土岐郡に本拠を構えた。以降、土岐氏は美濃に勢力を拡大し、室町幕府が成立すると美濃国に守護職を与えられ、三管四職家(管領または侍所の所司になれる家柄)に準じる扱いを受けた。




 実際に土岐氏は、侍所の所司を務めたこともある。14世紀中後半の土岐頼康の代には、尾張・美濃の守護も兼ねた。ところが、天文11(1542)年に当主の頼芸(よりなり)は、配下の斎藤道三によって美濃から追放された。これにより事実上は滅亡したものの、土岐氏は名族にふさわしい家柄である。




 土岐明智氏は美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族で、室町幕府の奉公衆の一員でもあった。奉公衆は室町幕府における御目見以上の直勤御家人で、五番(五つの部隊)に編成されていた。




 日常の奉公衆は番の隊長である番頭のもとで、御所内の諸役や将軍御出の供奉などを務め、戦時には将軍の親衛隊として出陣する直属の軍事力でもあった。後年、信長に仕え重用された光秀にとっては、相応な出自といえるのかもしれない。


 では、光秀の父はどのような人なのだろうか。その点は、数多くの明智氏の系図に触れられている。次に、代表的な系図を挙げることにしよう。

 @光綱――『明智系図』(『系図纂要』所収)、『明智氏一族宮城家相伝系図書』(『大日本史料』一一―一所収)
 A光隆――『明智系図』(『続群書類従』所収)、『明智系図』(『鈴木叢書』所収)
 B光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)

 これらの系図によると、光秀の父の名は、@光綱とするもの、A光隆とするもの、B光国とするもの、の3つに分かれており確定していない。そうなると、光秀の父の名前が一次史料に登場するかがカギとなる。





 しかし、彼ら3人のうち1人でも登場する一次史料は、管見の限り見当たらなかった。裏付けとなる一次史料がない以上、3人のうち誰が光秀の父であるかを考えても、正確な結論に至るとは思えないので、あまり意味のある作業とはいえないかもしれない。




 史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外に父祖の名前が判然としないケースが多い。系図によってこれだけ光秀の父の名前が違うのだから、その背景を改めて検証する必要がある。『明智系図』のうち、『続群書類従』所収の『明智系図』については、上野沼田藩の土岐氏に伝わる「土岐文書」の写しが書き写されている。




 『明智系図』のように系図や家譜類に古文書が記載されていることは珍しくなく、系図の信憑性を高めることになる。『明智系図』と「土岐文書」などを照合すると、光秀の祖父にあたる頼典とその弟の頼明までは存在を確認できるが、光秀の父の光隆は一次史料で確認することができない。




 この点は、不審と言わざるを得ず、『明智系図』がいかに「土岐文書」を写し取っているとはいえ、光秀の父を安易に光隆とすべきではないだろう。光隆以前の系譜は、不明と言わざるを得ないのである。




 これまでの研究では、上記の二次史料を駆使して、光秀が土岐明智氏の流れを汲むと指摘してきた。しかし、光秀の前半生を一次史料で解き明かすことは不可能で、二次史料に書かれた光秀に関する史実は分からないといえよう。





 これまでの研究の中には、信頼できない二次史料を「信頼できる」として強引に使用しているか、大きな論理の飛躍によって、もたらされた結論である。したがって、現時点では、光秀が土岐明智氏の出自であるか否かは、不明であるといわざるを得ない。もちろん、父が誰であるのかも分からないのである。




 このように父の名さえ分からない光秀に関しては、生年や出生地についても、実に謎が多いといえる。




 これまで、光秀が土岐明智氏の流れを汲むことが所与の前提になっていた。土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田(明智城址がある)だ。互いに「明智」の名を冠していることから、非常にややこしいことになっている。


 岐阜県恵那市明智町には明知城址があり、城内には光秀学問所の跡に建てられた天神神社、あるいは光秀産湯の井戸の跡が残っている。近隣の龍護寺に伝来する光秀の直垂(ひたたれ)など、光秀にまつわる史跡や遺物があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。




 ただし、光秀の先祖が岐阜県恵那市明智町の出身とするのには、難があると指摘されている。実際、恵那市明智町は、遠山明智氏の出身地といわれている。したがって、土岐明智氏の出身地として正しいのは、岐阜県可児市広見・瀬田であるとされている。




 ところで、光秀は、いつどこで誕生したのだろうか。光秀の誕生年についても、諸説あって定まらない。『続群書類従』所収の『明智系図』には、享禄元(1528)年3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したとある。母は若狭守護の武田義統(よしむね)の妹とあり、名族にふさわしい母の家柄となっており、内容がかなり具体的であるといえよう。




 とはいえ、光秀は土岐明智氏の本拠である岐阜県可児市広見・瀬田で生まれたのではなく、多羅城で生まれたのだから疑念を感じる。

[58]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月10日 15時36分54秒 ) パスワード

 『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、光秀が享禄元年8月17日に誕生し、石津郡の多羅で誕生したと記す。ただ、父は進士信周(しんし・のぶちか)、母は光秀の父・光綱の妹だったと記す。病弱だった光綱は、40歳を過ぎても子に恵まれなかった。そこで、光綱の父・光継(光秀の祖父)は光秀を光綱の養子とすることを決意し、家督の後継者にしたという。




 こちらでは、光秀が養子だったとする。進士信周については不明であるが、奉公衆の出身であり、幕府との関係を示唆する。また、光秀の譜代の家臣には進士貞連(さだつら)がおり、光秀の死後は肥後藩の細川興秋(忠興の次男)に仕えた。




 誕生した日付を除けば合致しており、ほかの系図もおおむね享禄元年誕生説を唱えている。後述する『明智軍記』も、享禄元年誕生説である(天正10年に55歳で没したと記す)。ただ、上記の諸系図の記載には、いささか疑問が残る。




 たとえば、光秀の母の兄とされる武田義統の誕生年は、大永6(1526)年である。義統の妹はさらに若いはずなので、明らかに年代的に矛盾している。光秀が享禄元(1528)年生まれであるならば、義統の妹は光秀の母であるはずがない。




 なぜこうなったのか理由は不明であるが、義統の子息・元明は天正10(1582)年6月の本能寺の変で光秀に与した。もしかしたら、そういう縁から光秀と武田氏を結び付けようとしたのかもしれない。




 実は、享禄元年生誕説を唱える編纂物は、ほかにもある。それは、『明智軍記』である。すでに半世紀以上も前、古典的名著『明智光秀』(吉川弘文館)の著者として知られる高柳光壽(みつとし)氏は、『明智軍記』を信頼できない悪書(「誤謬充満の悪書」と記す)と指摘した編纂物である。たしかに『明智軍記』は誤りが多いので、歴史史料として用いるのには躊躇(ちゅうちょ)する史料である。

 『明智軍記』は元禄6(1693)年から同15年の間に成立したとされ、作者は不詳である。光秀が亡くなってから、おおむね100年以上を経過している。光秀を中心に取り上げた軍記物語はほかになく、そういう意味では貴重な史料といえるのかもしれない。




 ただし、『明智軍記』が拠った史料には、『江源武鑑(こうげんぶかん)』のようなひどい代物がある。何より同書にはユニークな話が多々書かれているが、それらは一次史料で裏付けられず、また、ほかの記述内容も誤りが非常に多い。




 『当代記』には、光秀の没年齢を67歳であると記している。つまり、永正13(1516)年の誕生となる。『当代記』は著者が不明(松平忠明?)で、寛永年間(1624〜44)頃に成立したと考えられている。


 当時の政治情勢や大名の動向などを詳しく記しており、時代が新しくなるほど史料の性質は良くなっていくが、残念ながら信長の時代については、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵『信長記』に拠っている記事が多い。したがって、そのような性質は考慮しなくてはならないだろう。比較のうえでは、先の系図類よりも『当代記』が良質であるが、正しいという保証はない。




 小瀬甫庵『信長記』は元和8(1622)年に成立したといわれてきたが、今では慶長16、17(1611、12)年説が有力である。『信長記』の成立が10年ほど古いことが立証され、これにより『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは史料の内容を担保するものではない。



 同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。




 しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。現在、『信長記』は創作性が高く、史料としての価値は劣ると評価されている。




 『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)では、光秀が57歳で没したという。したがって、誕生年は大永4(1524)年になろう。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿がたびたび描かれているが、信頼に足る史料なのだろうか。




 『綿考輯録』は安永年間(1772〜81)に完成した、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の四代の記録である。編者は、小野武次郎である。熊本藩・細川家の正史と言っても過言ではない。これまでの研究によると、忠利、光尚の代は時代が下るので信憑性が高いかもしれないが、藤孝(幽斎)あるいは忠興くらいの時代になると問題になる箇所が少なくないと指摘されている。それは、なぜだろうか。




 その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際しておびただしい量の文献を参照しているが、巷間(こうかん)に流布する軍記物語なども材料として用いられているからだ。




 たとえば、先に取り上げた『明智軍記』は、その代表だろう。『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれている。『綿考輯録』の参考書目を見ると、多くの史料類や編纂物が挙がっているが、玉石混交なのは明らかである。




 『総見記』は『織田軍記』などともいい、遠山信春の著作である。貞享2(1685)年頃に成立したという。甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したものである。史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので、非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。今では顧みられない史料である。




 加えて、『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としていることから、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかである。この点は、大名の家譜類では避けられない現象である。つまり、『綿考輯録』は扱いが難しい書物であり、光秀の記述については慎重になるべきだろう。細川家の正史だから、正しいという保証はないのである。




 結論を言えば、光秀の誕生年については、おおむね永正13(1516)年から享禄元(1528)年の間とくらいしかいえない。しかも、「二次史料に拠る限り」という留保付きであり、今後、光秀の誕生年をうかがい知る一次史料の出現を待つしかないだろう。




 これまでの光秀の先祖や生年については、さまざまな二次史料が使われてきた。それぞれの史料には難があり、にわかに信を置くことはできない。裏付ける一次史料がない以上、光秀の先祖や生年は不明とせざるを得ないのである。




主要参考文献

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)

[59]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月10日 15時56分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

平家関連の場所についてボチボチ読み返しているところです。
東山の南ですか?何か特別な事件があったのか調べてみます。


方向音痴の上に土地鑑が無いので  あれ?アレ?あれ?  です。恥


今回の「いだてん」
神回でした。

   泣けるエピソードが満載だったのに
   来週を最終回にするために「取り急いだ」という感じでした。
   惜

クドカン
改めて・・・天才・・・ですね。
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月11日 07時00分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。

 明智光秀を理解するには、いろいろな面・方向から見なければなりません。
 一番見落とされているのが、戦国時代のいわば必需品であった「忍術」(
戦国時代の人的・物的テクノロジー)との関わり合いだと私は思っております。
忍術関係は裏の世界ですので、あまり見えてこないのですが、人脈、戦い
方を見れば、忍術との関わり合いが伺えそうです。
 松永久秀、柳生宗厳、和田惟政……甲賀・伊賀忍衆……、ここが実は一番
重要なところであります――
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月12日 19時22分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は忘年会で、遅くまで飲んでおりました。
 二日酔いがようやく直りまして、気分が良くなってきたところです。
 でも、まだ思考力が戻りませんので、明日にいたします――
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月12日 23時00分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

友人に京都のハナシをメールしたのですが
やはり土地鑑が無いので  場所が  結局は  アレ?  掴めない!  となります。
地図が読めないけど  地図を参考に  大まかに  と。激笑


来週の「いだてん」が楽しみです。

田畑政治ってヒト、天才ですね。
東京オリンピックを開催するために神が世に出した、って感じ。
でも
浜松のご実家や奥様お嬢様方は大変な目に遭わされたのだなっと
気の毒です。


先週はすっごく泣きたかったのに次々とハナシがてんこ盛りで
特に日本にいる人には分からなかったのは  コンゴの2青年の歓迎式の国歌演奏のシーン  だと思います。

    外国にいて日章旗が掲揚される時とか君が代が演奏される時って
    ものすごく泣けるんですよ。

         望郷

    ってのですね。


航空機の  進水式の(笑)  放水する時でも  関係者は感激の涙  だろうし
娘を嫁がせる時の父親の涙、とか?
あんな感じ。



こういうのって  関係者にしかわからないだろうな  っと、あのコンゴの2青年のシーンを思い出しては涙ぐみます。


とはいえ既にオリンピックをテレビで(見られないから  放送権で)見なくなって久しいです。
それにカナダの時でも  日本選手に対する扱いは  某国に配慮し過ぎで  不愉快だったし。
アメリカの放送の仕方はCMと政治的コメントばっかだし。   政治と言ってもいわゆる政治経済の政治じゃないですけど
オットは「試合を見せろ〜〜〜!」とテレビに怒鳴ります。
わたしは最初っから見ない。


1964年の東京オリンピックの舞台裏
見られて良かったです。


      水不足のことなんて100%知らなかったし


来年のオリンピック、田畑さんのご苦労を知って、観方が深くなりましたよ。
クドカン  ホントにすごい。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月13日 08時49分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の「いだてん」での田畑政治への評価、私の高校の先輩であります
ので嬉しく思いました。ちょうどその時代(五歳年下)には、作詞家となった
「清水みのる」がおります。私の義兄の父親が、清水氏と同級生で仲がよく、
お互いライバル意識をもっていたけれど、自分の方の家は貧しかったので、
大学には行けなくてくやしかったという話を聞いております。

 国歌を聞くと、最近はやはりジーンとくるものがあります。「望郷の想い」
が重なれば、なおさらでしょぅね。歴史を研究し、古代からの流れも知りつく
しているあを様となれば、更に深いものがあると推察いたします。

 さて、明智光秀と伊賀・甲賀との関係、具体的にこうであったからこうだ
と言えるまでの確証はつかんでおりません。また、南朝つながりという面で
もはっきりとした確証はつかんでおりません。どちらもモヤモヤとした感じ
であります。今後さらに情報を収集していきたいと考えております。

 京都の東区の南部地域とは、その昔、六波羅だったあたりだと思います。
数々の戦乱があったところですので、ひょっとして未成仏の霊が漂っている
のかも知れません。六波羅蜜寺へ行ってお経をあげてきたいと思います。
 この六波羅蜜寺、調べてみますと、何と一遍上人(時宗の開祖)の創建した
ものだとわかりました。徳川家の祖・世良田政親(徳阿弥 南朝臣)も時宗の
遊行僧、新田義貞の菩提寺も時宗の称名寺、明智光秀は、この称名寺に十年
近く関係していた……、つまり、南北朝から戦国時代までの戦乱の背後に、
「時宗」という存在があり、そこには何かを超越する未来永劫への力のよう
なものが秘められていたのではないか……と考えております。時宗の深奥、
それを知りたいと思います。それなくしては、南朝・戦国の世の中の謎は解
けないと思っています――
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月13日 13時58分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「清水みのる」

田端義夫を連想します。
そしてこの人の本名は田畑義夫だそうです。
ただし三重県の出身ですが。

https://www.youtube.com/watch?v=-O3qgiWq6kc
田端義夫 別れ船



>京都の東区の南部地域とは、その昔、六波羅だったあたりだと思います。
>数々の戦乱があったところですので、ひょっとして未成仏の霊が漂っているのかも知れません。
>六波羅蜜寺へ行ってお経をあげてきたいと思います。

是非是非行ってください。
わたくしの分も般若心経をお願いします。
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2019年12月15日 07時48分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[63]の訂正:六波羅蜜寺……一遍上人の創建→空也の創建

 空也は踊念仏のルーツ的存在。一遍は空也を先達として崇めていた。

 いずれにしても、中世の宗教は世の中・政治にも影響大であり、ここを
知ることは歴史の謎を解くことになります。
 
 時宗というものは、特に戦乱の世の陰に咲く、清く美しい花であったよ
うに思います。明智光秀も無関係ではありません。信長一族も、秀吉も、
ましてや家康も、また広く文化人も関係しています。

 年末は、何かと忙しく、じっくり費やしている時間がありません――
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月16日 08時43分28秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101700.html
長上郡の服部氏族CXXZ:128:現場100回-9
を立てました。

切りの良いところでどうぞ。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月16日 11時12分58秒 ) パスワード

「いだてん」見終わりました。

泣いて泣いて拍手して拍手して。


あのタクシー運転手、クドカンだったんですね。
エラの張り具合で  あれ?この人  誰?
と思いましたが最後のクレジットで分かりました。


それから  吹浦忠正。
国旗担当の人。

    なんで「忠正」?
    でした。


数々のすごいドラマがあったんですね。

田畑政治の「おれのオリンピック」が「みんなのオリンピック」になって本当に良かった!素晴らしかった!


とにかく泣いた。


浜松の田畑政治のご実家の皆さん、やっと報われましたね。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2019年12月17日 09時04分14秒 ) パスワード

https://news.livedoor.com/article/detail/17201597/

藤原定家が編纂した最古の「源氏物語」写本を発見 青表紙本の「若紫」
2019年10月8日 17時14分


冷泉家時雨亭文庫が8日、最古の「源氏物語」写本を発見したと発表
最古の写本「青表紙本」のうち5冊目の「若紫」が見つかったという
鎌倉時代の歌人である藤原定家が編纂したものだとされる

 平安時代に紫式部が著した源氏物語(全54帖)について、鎌倉時代の歌人藤原定家(1162〜1241年)が編さんした最古の写本「青表紙本」のうち5冊目の「若紫」が見つかり、冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が8日発表した。



 所有者は愛知・三河吉田藩主だった大河内家の子孫で東京都在住の大河内元冬さん(72)。青表紙本は1930年代までに花散里など4帖が確認されており、いずれも重要文化財。平安時代から鎌倉時代の紙が使われていることや、末尾に定家の独特の注釈が書かれている点などから判断した。

 紫式部が書いた原本は残っていない。



元冬氏は大河内家15代目だそうです。
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