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 投稿番号:101680 投稿日:2019年08月01日 02時52分55秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族CXXW:124:現場100回-5
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101674_64.html
長上郡の服部氏族CXXV:123:現場100回-4
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


歴史探求の現在の方向性としては、
「服部家と明智家の関係という最大の謎」
を解明することで、
そのためのいろいろ下調べ、回り道をしているということであります。

いずれにしろ、向かう方向は
「服部家と明智家の関係、その奥に隠されている謎」
でありますので、
時々思い出しながら、軌道修正して行きたい思います。


アチコチ引っ掛かっているとその内に何か重要な発見があるかも知れないです。

秀吉に完全否定され、徳川幕府によって弑逆は儒教精神に合わないので
我々が知っている明智光秀像はかなり歪んだ人物像でしょう。

そこに服部氏が明智光秀とどう関わっていたか
ボチボチゆっくり焦らず調べて行きましょう。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月01日 09時48分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 『文化八年 諸家系譜』によりますと、服部伊賀守宗純は1374年伊賀
の生まれで、1436年に63歳にて亡くなっております(その後の宗純系
服部家の本拠地は津島中心であります)。

 壇ノ浦の戦いが1185年ですから、それからおおよそ200年くらいの
後、つまりその頃の1世代を20年とすると、宗純の時代は、平家の滅亡か
らおよそ10世代くらい経た頃ということになります。

 七千傑様の系図(諸家の系図のスタンダードと言える、もちろん異論はあ
り)に基づきますと、「平家清(いえきよ)」に、服部宗家「服部時定(貞)」
の孫の「保俊」が養子に入った形となっております(ここは、伊賀服部家の
最も重要なポイントでありますが、詳細はよくわかっていない。もちろん、
あを様の推論はあります)。

 その保俊の息子が「保行」であります。平家的な色合いから服部色の濃く
なる保俊(あるいはその息子の保行)が服部家としての先祖と言えるかも知れ
ません。(ちなみに私の本家の惣領も37代目になりますが、一世代22年
くらいで計算しますと、ほぼその頃に遡ります)

 『伊賀市史』によりますと、保行は康行とも書きますが、一級資料として、
1183年に源頼朝より賜った下文(くだしぶみ)が残っておりますから、実
在した人物であることは間違いありません。

 この保行に4人の息子があり、いわゆる戦国時代の伊賀服部家の諸流を生
み出して行きます。
 但し、北条鎌倉幕府の時代には、服部諸家の抗争もあったりなんだりで、
いわゆる「悪党」と言われる時代もあり、その中で、保行の子孫達が、どの
ように世渡りをして行ったのかはよくわかっておりません。ただ、悪党とし
ての服部と、御家人としての服部が併存しており、色々な名前は記録に残っ
ております(ただ、保行の系統とどう関係しているのかはわかりません)。
[2]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月01日 10時18分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:平家的な色合い→伊勢平氏的な色合い
    (平家の概念とは、厳密に言うと「正盛―忠盛―清盛」の系のみ)
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月03日 15時09分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ついでながら、伊賀について、『伊賀市史』の中から要点を抜粋し、まとめ
ておきたいと思います。

 まずは律令時代に分けられた「伊賀国四郡」について――

 @阿拝郡――「北部」に位置。柘植・川合・印代・服部・三田・新居の六郷。
       律令制期における伊賀国の中心部。

 A山田郡――「東部」に位置。木代・川原・竹原の三郷。

 B伊賀郡――「東南部から中西部」に位置。
       阿拝郡に並ぶ古代伊賀国の中心部。

 C名張郡――「西南部」に位置。

 次に「地形」について――

 「四郡は、すべて木津川水系に属していた。正確には、青山高原に水源を
 発する木津川は、北上して伊賀郡に入り、東から来る柘植川や服部川と合
 流して西へ流れ、やがて名張川を合わせる。……つまり伊賀国は、木津川
 水系の名張川以東の地域をまとめたくくりだということになる。」

 「服部川、柘植川など伊賀盆地の水を集る木津側は、下流で平城京や恭仁
 京(木津川市)の近くを通り、さらに大阪湾へ流れ込む淀川につながって、
 古代の政治経済の中心地を結んでいた。
  木津川の上流にある伊賀国からは、平城京造営などに必要な木材が大量
 に筏で流された。伊賀国北部の槙山は古くは真木山であり、かつてはコウ
 ヤマキ、スギ、ヒノキの鬱蒼たる森林地帯であった。……八世紀中頃から
 は、東大寺・興福寺をはじめとする寺社の荘園が増加する。」

――ということでありますが、地図で概観しますと、伊賀国の周囲は、南よ
り時計回りに、「大和国」、「山城国」、「近江国」、「伊勢国」が隣接し
ています。
 つまり、分かり易く言うと、伊賀は奈良、京都、伊勢という重要な地域の
奥座敷(あるいは隠れ里)にあたり、また伊勢湾や東海道といった東国へつな
がる出口でもあったということになります。
  
 こういった「地形」が、伊賀の歴史の様相を形づくる要因となったことは
間違いありません――

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月04日 04時32分25秒 ) パスワード

書き直し:


三つ柏さん

方向音痴のわたしは自分が方向音痴ということを確かに方向音痴とよく分かりました。

そうすると戦国時代に  
       阿拝郡の藤林  
       山田郡の百地  
       伊賀郡の服部半さんの家        ← 服部半蔵のパパ半三の家 
       名張郡の服部保章の家         ← 明智光秀の舅  
が拮抗してたのか。

で、伊賀郡の服部半さんは事情があって三河に行って松平に仕え息子の服部半蔵の時代に最盛期を迎えた?

それで名張の服部保章 and/or 現和歌山と三重県南部である紀伊国在田郡保田荘出身の保田家(後に藤堂家へ)が伊賀郡を采配した?
保田家は場所的に平家方だったろうし当然南朝方だったろう。だから遠縁だろうね。



>まずは律令時代に分けられた「伊賀国四郡」について――
>B伊賀郡――「東南部から中西部」に位置
        阿拝郡に並ぶ古代伊賀国の中心部。
>C名張郡――「西南部」に位置。


ここでレス<1>と呼応したことを書きます:


Bの伊賀郡というのは100%知らなかったです。

ココが千賀地あたりですね
そうすると  服部半蔵さんの家は「伊賀郡」でいいわけか。「伊賀」の頭領と言っていいわけだ?

そうすると  阿拝郡の宗清の子孫(おそらく西湯舟の藤林家)と対立して当たり前だった?


服部半さんの千賀地は予野だよね、花垣だよね、そうすると千賀地は伊賀だよね、ということで

       伊賀の解釈が   どっちの伊賀のハナシ?  ということでこんがらがる。
     
                  伊賀国阿拝郡の都であったイガ
                  伊賀国伊賀郡の都であったイガ

どっちぃぃぃぃぃ?笑


レス<1>をさらに整理してみます:

>「平家清」に服部宗家「服部時定(貞)」の孫の「保俊」が養子に入った
   (ここは、伊賀服部家の最も重要なポイントでありますが、詳細はよくわかっていない)

>その保俊の息子が「保行」であります。
   (平家的な色合いから服部色の濃くなる保俊(あるいは保行)が服部家としての先祖と言えるかも知れません)


ワタクシの持っている系図では

服部公清 ⇒ 養子が保俊 ⇒ 千賀地保行 ⇒ 下服部(江戸時代の桑名の下服部家ではない)保長 ⇒ 保清 ⇒ 9代略 ⇒ 保宗 ⇒ 伊賀守宗純 ⇒ 宗家 ⇒ 宗信 ⇒ 宗政 ⇒ 政家 ⇒ 服部友貞+服部政信のパパ


これで繋がりました!
ありがとうございました。

ただし服部公清って誰?笑


服部伊賀守宗純は当時伊勢国奄芸郡あんきぐんに住んでいたのを後醍醐天皇のお召しで吉野に参上し
伊賀守を名乗ることを正式に許された
ということでしょうね。


 
C名張が西南部というのは  方向音痴なので  全く方向を勘違いしていました。

     わたしは名張は伊賀国山田郡の東だと思ってました。
     伊賀国の東は「長野峠」になるのか。
     それで吉野朝忠臣5名姓の1つに「長野」が入ってたのか。(5名姓の他には藤原と赤堀で、もう2つは記憶に無い)


やっと整理がついた感じ。
感謝です。



>「四郡は、すべて木津川水系に属していた。正確には、青山高原に水源を発する木津川」

ここで「青山」が出て来ますが

千賀地服部保行の次男保親(中服部家)の子孫の服部保遠の子孫が分かれて

          A保長の養子に入った千賀地保元の家が藤堂采女へ
          B三河松平家へ就職した家が半蔵の家になり
          C正清の家が@正信⇒青山成重と服部正尚A名張城主の服部保章

あ〜
ごちゃごちゃしてたのがスッキリしたぁ〜

ここの「青山」というのが
伊賀と群馬両方にあり、
家康の家来の青山家と南朝方つながりと伊賀の地名の「青山」が関係あるのか?無いのか?


木津川畔という場所は平家の公達の平重衡が処刑された場所で(罪状は東大寺の大仏を焼いたこと)
重衡が斬首された木津川畔の京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔があり
また梟首された奈良の般若寺にも供養塔がある。

ということで安福寺には行きました。享年29


イメージとしては  すっごく明るい感じの貴公子。現代的な男の子のイメージ。

南都を焼いたわけじゃなくて折からの強風で燃えてしまったわけで
   「あ、燃えちゃったよ」え?え?え?
とポッカァ〜ンとアッケラカ〜ンとしてるイメージがあります。

キンプリの岸先生みたいな男の子のイメージ。
わたしはこの人が好き ♡ 2人とも大好き ♡
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月05日 15時36分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回は、歴史作家(歴史学者ではないが、中央大学史学科卒のジャーナリス
ト出身)の武山憲明氏の『戦国忍者列伝 日本史の影で動いた男たち』の中か
ら、一歩踏み込んだ興味深い説を紹介いたします。但し、これは学術的な論及
ではなく、かなりアバウトな推論・仮説・私説と考えますが、それにしても、
大変わかりやすく、納得がいくのはある意味真実に迫っているからかも知れ
ません。

 では、それらの要点をピックアップします――

「@義経四天王のひとり、伊勢三郎義盛は伊勢を名乗っているが、実は伊賀
の出身で、認歌「よしもり百首」で知られる忍者(山賊の頭領)だった。

 A伊賀の上忍服部家の先祖は、源平合戦の際に平知盛に仕えた伊賀平内左
衛門家長だといわれる。家長は、伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊帳を務め、
敵将・源義経の奇襲を再三にわたってかわした。その神出鬼没な行動から、
"煙の末"の異名を取ったという。

 Bこうしてみると、源平合戦の水面下では、義経、伊勢三郎の源氏忍軍と
伊賀家長率いる平家忍軍との間で熾烈なせめぎ合いが演じられていたのでは
ないか?

 C『源平盛衰記』によれば、家長は壇ノ浦の合戦の際に、乳兄弟でもある
知盛と一緒に手を取り合って入水したことになっている。
 しかし、『伊賀者大由緒記』によれば、家長は屋島の合戦の後、保長と名
を改めて、伊賀の千賀地に隠れ住んだという。

 D家長は、平治の乱のときに平家方の捕虜になった源頼朝の助命に尽力し
た柘植の住人、平宗清と伊賀つながりで親しかったようで、この宗清が間に
入って赦免してくれるように頼朝に頼んだといわれる。

 Eそして、家長の長男、保清は頼朝に仕え、服部郷に住んだ。保清の三人
の息子はそれぞれ上服部、中服部、下服部と称した。服部半蔵は、嫡流の上
服部の子孫になるという。

 Fこれについては、上、中、下の服部家はそれぞれ別の先祖がいたのに、
信長の伊賀攻めの際に系図などの古記録がなくなってしまったため、みんな
揃って"煙の末"(家長)を称するようになったとも言われている。」

――以上の説でありますが、武山氏はやく三十冊あまりの文献を参考にして
いますので、それらから導き出される点と線をつないだ推論をまとめたもの
と考えますが、いかがでしょぅか――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月06日 05時12分06秒 ) パスワード

三つ柏さんへ


>伊勢三郎義盛

この人は素性が分からない人物で、まさに、個人情報を秘匿した忍者かも。

いろいろ言われてますね、今で言う元祖半グレ?

        頼朝が伊勢三郎を「身分が低いヤツなのに生意気な  怒」と罵っているのは
        まず主人が卑しい女の腹から生まれた義経で、義経が憎たらしいから憎さ100倍で伊勢三郎に悪態をついたのでしょうね。


伊勢三郎が伊賀の出身だったら、鞍馬山で修行した義経とは筋肉自慢の関係でしょうね、
2人は、平家一門には奇想天外の、水平思考だったでしょう。気が合うはずだ。



律令時代に伊賀国が4つの郡から成っていたという部分を完璧に知らなかったのでワタシは伊賀郡は阿拝郡の<部分>と思ってました。

     どうして、そう、思い込んでいたのだろう?
     ワタシの中の800年前のわたしにとって伊賀郡と阿拝郡を支配していたのが家長だから?


            山田郡は平田家継が支配と分かってた
                あそこに明昌寺というのがあって、まだ、石垣に当時の面影が残っている
            だから山田郡は別という認識があった。

            源平合戦で柘植が宗清に与えられ阿拝郡の主人が宗清になった
            阿拝郡と山田郡を貰った宗清の子孫の中保次の家は宗純を先祖とする
                政信と服部家ホンヤさんも、ほぼ、この流れ。

                      ということはワタシは宗清系服部さんなの?


ということで引き算をすると伊賀国伊賀郡が半蔵と貞信の本貫地か?
そして伊賀国伊賀郡で何かがあって
              服部半三は三河へ
              服部貞信は宇治田原へ?  

この「何か」とは足利幕府末期に関わる騒動の余波?
16世紀の初めに隣国の六角氏がゴタゴタした時の。
忍者が活躍した、と聞いてる。




>E服部半蔵は、嫡流の上服部の子孫になるという。

これは恐らく成立しないのかも。

というのは息子の正就がドジったそもそもの事件の時、
仲間の忍者を束ねてエバッてたから、
忍者達が「そもそも我らより下の身分のくせに」とストライキをした時のハナシから
え?半蔵の家って伊賀じゃ大した家じゃなかったの?と驚いた記憶があります。

     たまたま父親の服部半三が松平家に仕えていて
     本能寺の変で半蔵が伊賀越えの案内をしたから
     半蔵が重宝がられた

          伊賀で育ってもないお前が大きなツラをするな!と?


        千賀地服部保行の次男保親(中服部家)の子孫の服部保遠の子孫が分かれて

           A保長の養子に入った千賀地(旧保田)保元の家が藤堂采女へ
           B三河松平家へ就職した家が半蔵の家になり
           C正清の家が  正信⇒青山成重と服部正尚    

       と、栄えたわけですね。

       この辺りで、神職だった貞信とも闇のバトルがあったのかもですね。


服部貞信の家は呉服明神の神職だったということで
半蔵の家がほのはやひの命の子孫で允恭天皇の御世に服部連を称したことからも
貞信の家と半蔵の家は  近かった  のだろうと思う。  


        家長の子孫の服部大膳貞長 ⇒ 佐兵衛時定 ⇒ 佐兵衛美濃別当貞信


全方向でのバトルが臭って来ます。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月08日 21時06分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、東京の深川に行ってきました。目的は、深川に住んだ芭蕉に関する
現地調査や、その他時代劇によく出る本所深川や八丁堀という所について、そ
れが実際どんな所なのか、現地に行ってこの目でよく確かめてみたいというこ
とでありました。
 資料や写真やその他の情報をいろいろ仕入れてきましたので、一度整理し、
また頭の中でストーリーにしてから報告したいと思います。
 それにしても、昼の「深川めし」、うまかったなあ……!長谷川平蔵こと、
中村吉右衛門さんもその老舗を訪れていて、深川めし等を食したということで、
写真が飾ってありましたので、嬉しくなってそれをまた写真に撮りました――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月09日 05時50分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


芭蕉と言ったら
    「一里はみな桜守りの子孫かや」
の句で
元禄3年(1690)芭蕉47歳の作です。


予野の花垣神社の桜のことですが
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/hanagaki.htm
https://ameblo.jp/ohenro-nikki/entry-12378700268.html よりコピペ

故事:
「花垣の庄」については『沙石集』によれば次のような故事がある。
すなわち、上東門院彰子(清少納言が使えた一条天皇の后=藤原道長娘)が、興福寺の八重桜を京の都に移植しようとしたところ、
南都の僧徒らがこれに異を唱えた。

普段無骨で有名な僧徒らにも美を愛でる心があったかとして感服した女院はこの計画を撤回して、
伊賀の国余野の庄に花垣をつくりここにこの桜を植えて、
以後開花の時には宿直をおいて警護させたという。

爾来ここを「花垣の庄」というという。

花垣の庄は、伊賀上野から名張への途中。


神社名 ; 花垣神社
所在地; 三重県伊賀市予野 194


やっぱり方向音痴なのでワケ分からない。
へぇ〜
ここって、伊賀市内になるの?です。

     800年前のわたしはアンキ郡(津とか久居とか鈴鹿)からどんどん西へ行った記憶。



すごい方向音痴なので
昔、大学の卒業式と就職での身柄拘束が重なって卒業式には出ず日本橋にいた記憶はある。
    (みんな絶対にわたしは卒業できなかったって思ってるよね)と考えてたから、当時、どこに泊まってたのかの記憶が無い。

     バブルの時の後輩の身柄拘束はハワイとかヨーロッパに監禁されてたって聞いてる。

日本橋にいた時に記憶している地名が馬喰横山とかお玉が池とか小伝馬町とか八丁堀とか水天宮とか箕輪とか


今になると、あれが隅田川か?ということで
方向音痴のワタシには両国橋と蔵前橋と永代橋の位置関係が全く分からない。
相撲部屋があったのはドコ?駒形だっけ?墨田区か。
なんか「どぜう鍋」だかのお店があった記憶もある。
蔵前は知り合いが東京医科歯科大の学生で下宿してたから遠い記憶にある、ような?

こんな感じ。

なんせ子供の頃に品川の品川プリンスホテルと高輪ホテルを宿にして電車に乗ってうろうろしてたから
銀座に行くにも紀伊国屋本屋に行くにも「都電」感覚。


大江戸線に乗ってどこかに行くのにすっごい下の下の下まで降りて行って怖かった。
高所恐怖症なのに地下帝国には棲めないと思った。


そのかわり深川の江戸資料館にはオットをちゃんと連れて行けた。


その後に深川や木場や銀座の若者と知り合いになって都会の商人の旦那衆というのは垢抜けてるなと感心した。


葛西臨海公園にも行って鳥を見なくてはいけなかったけど(鳥なんか見たって   と思って詰まらなかったけど)
あそこが江戸川区ですぐ隣が千葉(下総国)ということには全く想像もしなかった。


なんせ友人から「東大前駅んとこで」とメモを貰って「ひがし大前えき、ってどこ?」のワタシですから「大前って何区にあるの?」だもんね。


近々両親宅に行かなきゃけないけど  いつも駅を降りてから  迷子になる。
電話して「わたしはドコにいるんでしょう?」と訊かないといけない。


なんせ神戸の恩師宅に行くのに「垂水駅構内」で迷子になったクチだから。
なんせ10年+住んでる今のタワマンの自宅の中で迷子になりますからね。


自分の過去を遡って天慶2年=940年=頃に住んでた国分寺のどっち側さえ混乱してる。
自分では右側=東に住んでた記憶だけど友人に連れられて行ったら左側だった。
あまりの方向音痴なのでご先祖さまがお怒りになったのか物凄い土砂降りに見舞われた。


その前に藤原秀郷公の円墳に行った時は(たぶん大回りしたのだろうけど)すんなり行けた。
近所の人に出会って「秀郷公にご挨拶に来ました」と言ったらものすごい雷鳴に見舞われたことについては「しかと受け取った」と言われた気がした。


こういう感じでビギナーズラックで初めての場所にはスンナリ行けるのに、知ってるはずの場所には必ず迷子になる。それも目の前で迷子になる。なんで?


ということで深川に行ったら絶対に迷子になると思う。
上記に書いたダンナ衆や赤穂浪士事件のゆかりの場所だから行きたいけどね。


「日本橋」の字って徳川慶喜公の書なんですってね。
なでなでしたいので行きたいけど、絶対に迷子になると思う。
徳川慶喜がフランスの力を借りずに大政奉還したことは世界史上の快挙だと思っています。
借りてたらフランスの植民地になったんだろうな、と思います。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月10日 05時55分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉について特に知りたいのは、居住した「深川」という場所と、師の
「北村季吟」であります。詳しくは後で述べたいと思います。一つ思い出
したのは、大学時代の先輩に「北村氏」がいて、滋賀の出身、つまり近江
の出身でありました。近江の北村とはどこにあったのか……その辺もテー
マの一つであります。

 その前に、伊賀の歴史についての大まかなまとめをいたしておきたいと
思っていますが、次回に――

 
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月10日 08時36分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

滋賀県ってホントに「北村姓」が多いですよね。

ということで調べて来ました:
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8C%97%E6%9D%91


【名字】北村
【読み】きたむら
【全国順位】 116位
【全国人数】 およそ158,000人

@現滋賀県である近江国高島郡北村が起源(ルーツ)である。
A清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。
Bほかに宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。
C中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)などにもみられる。
D現滋賀県である近江国野洲郡北村発祥の族は藤原姓を称する。

語源は、本村から北に出た分村から来たとされる。
家紋は三つ巴、丸に二つ引両、丸に蔦など。
現在も滋賀県や石川県に多くみられる。


近江国高島郡北村で検索したら!
なんとヒットしちゃいましたよ!

https://www.google.com/search?ei=sQFOXbOyCuW40PEPmuSaiAU&q=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E9%AB%98%E5%B3%B6%E9%83%A1%E5%8C%97%E6%9D%91%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E9%AB%98%E5%B3%B6%E9%83%A1%E5%8C%97%E6%9D%91%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2785.2785..4409...0.0..0.126.126.0j1......0....2j1..gws-wiz.......0i71.tx_s5_8KrGs&ved=0ahUKEwjzzsbK-PbjAhVlHDQIHRqyBlEQ4dUDCAo

ところがワタクシのマシンでは絶賛文字化け!

姓氏と家紋
www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/61-70/kitamura.html

桓武平氏柘植氏族 柘植系図、江戸系図共に「柘植弥平兵衛尉 宗清の子 某、北村を称す」と。
家紋、三頭右巴、丸内二引。


こんなのが書かれてますが、このサイトに行けません。
読めるといいですね。


この北村さんって名張城主の服部保章の=実は嫡男の保光=の息子が名乗った北村(喜多村)であり
娘=伏屋姫=が明智光秀との間に生んだ子が名乗ったとかの北村内治麻呂弥兵衛保之かもですね。


ということは  やはり  大学時代に思わぬ人物と遭遇なさっていた?

ここでアップ
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月10日 08時53分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

>芭蕉について特に知りたいのは、居住した「深川」という場所と、師の「北村季吟」であります。
>D現滋賀県である近江国野洲郡北村発祥の族は藤原姓を称する。


ここですが、まさに!回答に近いかもです!!!

https://masakishibata.wordpress.com/category/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E9%87%8E%E6%B4%B2%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%9F%8E/
からコピペ:    管理人さん感謝です。ぺこり


在地の土豪・北村氏の居城。

北村氏は永原氏の支配下にあって同地を領していたことから、室町時代中期には城を構えていたと考えられる。

後に丹波国天田郡へと移り、その子孫は江戸時代に筈巻村の庄屋になったとされる。


野洲市北集落の南東端に位置し、城域とされる範囲は水田となって遺構は存在しない。


            集落の中心に北村氏の子孫で江戸時代前期の歌人・北村季吟の句碑が建つ。


同集落の北西には六角氏被官・木村氏の居城である同名の「北村城」が存在するが、
北村氏の後に同地を領したと考えられ、北村氏とは姻戚であったとされる。



場所的には琵琶湖のすぐ近くで、甲賀に近いです。
ということは
伊賀に近いですね。

芭蕉とも、その関係からの子弟関係だったのかもですね。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月10日 09時31分35秒 ) パスワード

野洲って  伊賀の山の向こう側が甲賀で、その琵琶湖方面が野洲ですから  ホントに近いですね。


名張の服部保章の孫息子が近江の北村を名乗り、曾孫が北村を名乗ったハナシは柘植の宗清が絡んでいる?

確かに柘植は山向こうが甲賀だし。



ということで  柘植氏  について検索して来ました:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%98%E6%A4%8D%E6%B0%8F

柘植氏
日本の氏族のひとつ。
桓武平氏に端を発し、
武家として戦国時代から江戸時代にかけて活動した。

通字は「清」(きよ)、「宗」(むね)、「英」(ひで)。     「英」は馴染みが無い。

家祖
平宗俊?

出身地
伊賀国阿拝郡柘植郷

主な根拠地
伊賀国
伊勢国


著名な人物

柘植三郎左衛門保重      織田の家臣ですって。ヲイヲイ
柘植氏の出身で、確証は得られていないが、伊賀国の土豪・福地宗隆の子で、
滝川雄利の姉の夫、あるいは雄利の実父との説がある。

はじめ伊勢国の戦国大名・北畠具教の実弟である木造具政に仕えた。
織田信長の伊勢攻めに際して、具政に北畠家から寝返るよう説得、
滝川雄利らと共に信長に降るが、
その際に保重が北畠家に人質に出していた妻子は磔とされた。

永禄12年(1569年)、信長の軍勢7万(実数は5万とも)が北畠領に侵攻すると、共に国司・北畠具房(具教の子)の居城である大河内城を攻めた。

具房が信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を北畠家の養子に入れることで和睦、これ以降、保重は茶筅丸付きの家老となった。

天正4年(1576年)、三瀬の変では保重は長野左京亮、藤方朝藤の家臣・加留左京らと共に、
北畠具教とまだ3歳の徳松丸、1歳の亀松丸らを討ち取るべく三瀬御所に向かいこれらを殺害した
(ただし、『勢州軍記』では三瀬御所ではなく、小川久兵衛尉と共に大河内御所である大河内教通の宿泊所を襲ったとある)。

天正7年(1579年)、主君・信雄に従い日置大膳亮らと共に伊賀国に攻め込むが、
戦況が不利となり退却する殿軍の最中に伊賀側の植田光次に討たれた(第一次天正伊賀の乱)。




柘植清広
天文9年(1540年) - 寛永6年8月22日(1629年10月8日)

戦国時代から江戸時代初期にかけての伊賀流忍者、旗本。
柘植氏当主。
通称は三之丞。法名は宗伯。
父は柘植宗家、兄は柘植宗能。養子に柘植宗次。

            まさに服部伊賀守宗純の子孫って名乗りですね


鉄砲に秀で、威風流砲術を開く。
天正伊賀の乱に際し、徳川家康に接近する。

本能寺の変発生時、堺にいた家康が伊賀越えを決行すると、信楽と伊勢国白子間を一族で警護した。

                これは服部貞信の警護を引き継いだってことかな?


関ヶ原の戦いで活躍して甲賀郡300石を賜り、
慶長8年(1603年)には伏見城の城番を務める。

慶長19年(1614年)の大坂の陣では、松平正綱の仰せにより鉄砲隊を率いた。
後に幕府旗本となる。
元和8年(1622年)に致仕し、寛永6年(1629年)に90歳で死去した。




              ホンヤさんの敵=わたしの先祖の敵=だね
              兄弟は他人の始まりですね 




支流、分家 
山川氏(武家)
松尾氏(武家)         芭蕉さん
西川氏(武家)
北川氏(武家)
北村氏(武家)         名張城主の服部保章の嫡男の子と孫の家でしょうか?
福地氏(武家)         



出自

伊賀国阿拝郡柘植郷より興ったとされる。

室町時代後期から戦国時代にかけて諸勢力と戦火を交えるが、
それ以前は約400年間にわたり平和な時代が続いていたと言われている[1]。

柘植氏の出自に関しては諸説ある。
しかも系図によって右京権大夫の宗清と、右衛門尉の宗清が混同されている。



『江戸系図』と『柘植系図』によれば、
平信実の子・宗清が伊賀に赴いた際に「柘植」を名乗ったとする。


しかしこの説は年代が合わない。


また『尊卑分脈』によれば、柘植氏の先祖は平氏の家人であったとされる。



他には『古代氏族系譜集成』の服部連系図に、柘植氏の系図が掲載されている。

                       半蔵のご先祖さまですね


それによると、平貞盛の末裔、季宗の子で平頼盛の家人だった宗清が祖にあたるとする。
そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が柘植を名乗り、
清春は「福地」を、
俊忠は「北村」を名乗り、
それぞれその祖となったとある。

しかし『尊卑分脈』に載っている宗清の子は家清のみである。



歴史

室町時代・守護を討つ

室町時代には室町幕府将軍の足利義稙が一門・仁木兵部少輔を伊賀守護として任命した。
しかし伊賀は東大寺や円徳院などの荘園がひしめき合っており、その土地を私有化して武装する悪党が割拠する状態が続いていた。

柘植氏は仁木氏に従わず、兵部少輔は手勢をもって柘植氏を攻めるが逆に討たれ、後に兵部少輔の子・某(実名不明)が攻めるがこれも退けた。



戦国時代

戦国時代に入ると伊賀は諸大名の干渉を受けるようになり、
特に当時幕府を掌握していた三好氏はたびたび侵攻を仕掛けてきたため、
豪族らが連合して対抗することが重要になった。

そこで伊賀惣国一揆が成立すると柘植氏もこれに加勢し、侵攻してきた北畠具豊の軍を打ち破り、
柘植一族かつ具豊の家老であった柘植保重を戦死させた(第一次天正伊賀の乱)。


第二次天正伊賀の乱では同族の福地氏と共に織田軍の案内役を務めたとされるが、
それ以外の動向は不明である。


本能寺の変が勃発して織田信長が横死すると、堺から逃走してきた徳川家康を神君伊賀越えで柘植清広が補佐した。
この功により清広は旗本として召抱えられた。



江戸時代

旗本として召抱えられた清広系の柘植氏は、甲賀に所領を得て庶流を出しながら代々江戸城に勤めたといわれ、
江戸時代後期に勤仕並寄合に列した。

しかし中には伊賀に残った一族もおり、

その一族は津藩では無足人(帯刀を許される農民)として扱われたり、藩士として直接仕えた者もいた。

さらに、同族の福地氏の宗家は姓を「松尾」と改め、この系統から後に松尾芭蕉を輩出した。

                       芭蕉さま御降臨


現在福地氏城跡地には、松尾芭蕉を称える石碑が建っている。


江戸時代以降

江戸時代以降は柘植氏は活発な活動が見られない。
しかし昭和38年(1963年)に柘植氏の子孫・柘植宗澄が全国の柘植氏に関す研究書『柘植姓の研究』を発表し、
他には昭和61年(1986年)には『大阪春秋』に「駅スタンプのルーツを探る」という論文を掲載している。

現在も柘植氏発祥の地・伊賀市柘植には柘植姓が見られる。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月10日 13時40分08秒 ) パスワード

自己レス


>柘植氏の出自に関しては諸説ある。
>しかも系図によって右京権大夫の宗清と、右衛門尉の宗清が混同されている。


>>>右京権大夫

右京とか権大夫とか
思い出すのは   今切の関所奉行だった服部政信  の家です。

               おじいさんの代に信長の父と喧嘩している
               それで家康に仕えることになった


右京とか左京とか
政信の子供達は  信成・信親・政重・政勝などなど
そして、この家のヨメ達の実家がスゴイ


ホンヤさん達の父の妻が横井丹後守の娘

政秀=政光=の妻が千秋式部少輔の娘

政光=政季=の妻が高力河内守清長の娘

政信の妻は加藤喜左衛門正次の娘



政信の4男=信成=の妻は川口久助宗次の娘

信解の妻は大岡備前守清重の娘

養子信隆の母が朝比奈左兵衛利昌の娘
以下略



でも姓が服部ということは伊賀の柘植じゃなくて伊勢国奄芸郡にいたから服部姓を守ったのかな?
伊勢に行った平家貞の子孫は服部姓?もとは伊賀国阿拝郡服部にいたから?


わたしの持っている本では
寛弘3年=1006年=維衡が伊勢に来て伊勢平氏の祖となり

その子正度  ⇒ 5人男子がいて3番目の秀衡または季衡の子孫が盛光で  ⇒ 貞光 ⇒ 家房 ⇒ 家貞 ⇒ 家長 ⇒ 家清 ⇒ 柘植宗清になっています。


この本によると宗清は家長の孫です。
ま、年代的には合います。

だから宗清の子孫が柘植姓や服部姓を名乗るというのもおかしくはない。


      なんでウチは服部なんだぁぁぁぁぁ〜?


うちの家紋は柘植氏の左三つ巴紋ではない
家長由来の車+並び矢紋   これは弓のコンペで優勝して六条院から車一杯の矢を拝領したことから。


やっぱり分からなくなる。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月10日 23時00分22秒 ) パスワード

スッキリ目覚めず
起きて来ました。
4時解錠のジムに行く前にちょこちょこと記します。


わたしの持っている本より:

柘植宗家は戦国時代仁木氏としばしば戦い
宗能・清広父子は信長に反抗したが
徳川家康に仕えた。

寛政重修諸家譜には7家を記載。



やはり柘植氏の中でも割れてましたね。


宗清にすれば、自分が頼朝の恩で守られても、負けた一族を庇護しようとしたでしょうし
仁木には反感があったでしょうし
その後
伊勢伊賀を狙った信長には対抗したでしょうし
家康に従ったのは当然の流れ
ということで落ち着きました。


家紋にも柘植氏の苦悶が見えるな、と。

わたしの本によると 左三つ巴紋は清盛流関氏  と書いてあります。
これは  殿下乗合事件を起こした資盛が伊勢国奄芸郡鈴鹿の関に流されたことによる  子孫使用の紋ということ。

     ということは服部家も関わって来るのか。


              方向音痴なのでいまだに三重県の土地勘が混乱している。

お時間となりました。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月12日 15時09分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「宗」という字は、何か自己主張が強いようにあるように感じます。それは
重く、気高く、反面悲壮感にもつながるような感じがします。
 漢和辞典で調べてみますと、やはり一族・一家を背負って立つ中心人物のよ
うな意味合いであります。宗子、宗家、宗主、宗祖……がよくその意味を表わ
しているのではないかと思います。
 そういえば、芭蕉は「宗房」という名前だった……この宗に込められた意味
は何だろう……宗清の後裔を示しているのだろうか?

 伊賀市史を読んでいると、1300年頃の僧で、「明智房盛誉」という人物
に出くわしました。明智というのは明知ということでもあり、優れた知恵の意
味であるので、明智光秀とは関係ないと思いますが、一瞬色めきました。

 伊賀市史でのポイントを二三記しておきたいと思いますが、ちょっと用事に
て中断します――

 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月12日 17時28分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

テレパシーが来ました。
それで起きて来て今迄ネットサーフィンしていました。
もう寝ます。


>伊賀市史でのポイントを二三記しておきたいと思います

楽しみに待っていますね。



>芭蕉は「宗房」という名前だった……この宗に込められた意味は何だろう……宗清の後裔を示しているのだろうか?

ですね。
まさに「宗清」の子孫だという誇りでしょうね。



>明智房盛誉

どんな僧侶かと思いました。

https://www.google.com/search?ei=sCBRXeHBIcvO0PEP2YKzOA&q=%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%88%BF%E7%9B%9B%E8%AA%89%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%88%BF%E7%9B%9B%E8%AA%89%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...3348.3348..5197...0.0..0.124.124.0j1......0....2j1..gws-wiz.......0i71.rptI-h0GA1I&ved=0ahUKEwjh2bfI8vzjAhVLJzQIHVnBDAcQ4dUDCAo


上方文庫38 河内金剛寺の中世的世界 - 和泉書院
www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id...

Aug 25, 2012 - 明智房盛誉と禅恵と道正 三.高野山宝性院領高石下条・助松 むすびに第七章 河内の国酒「天野」に関する一考察 はじめに 一.天野山金剛寺の僧房酒 ...





久米田寺 - SHINDEN
shinden.boo.jp/wiki/久米田寺

Jul 24, 2018 - 行円房。 2禅爾(1252-1325):安倍氏。八幡大乗院の琳海に師事。金山院で ... 3盛誉(1273-1362):東大寺大勧進。東大寺戒壇院長老6世。明智房。

その他載ってます。



久米田寺長老

1顕尊(1237-1300):叡尊の弟子。勧進で福泊港(兵庫県姫路市的形町)の港湾整備を行う。行円房。

2禅爾(1252-1325):安倍氏。八幡大乗院の琳海に師事。金山院で凝然に学ぶ。無量寿福寺で華厳の講義。興国寺で心地覚心に参禅。凝然の後継者。東大寺戒壇院長老3世。1283年(弘安6年)、戒壇院を捨てて顕尊の要請で久米田寺に入り、1300年(正安2年)長老を継ぎ、盛んに講義を行い、学問寺として興隆。名声を高めた。1289年(正応2年)、久米田池を整備。円戒房。


3盛誉(1273-1362):東大寺大勧進。東大寺戒壇院長老6世。明智房。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月12日 22時55分05秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

芭蕉の家系は、伊賀の有力国人だった福地氏流松尾氏とされる。
福地氏は#柘植三方#の一氏で、平宗清の子孫を称していた。

天正伊賀の乱の時、
福地氏当主・福地伊予守宗隆は織田方に寝返った。
この功で宗隆は所領経営の継続を許された。
しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。


#「つげさんぽう」と読む。
日置氏、北村氏、福地氏から成る。
平宗清の子孫を称したが、仮冒とされる。


へぇ〜

今からジムです。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月13日 12時13分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 このところ、猛暑が続き、その中で東京散策やら芝刈りやらで疲れ、本日は
やっと体調が平常に戻りつつあります。明日あたりには台風の到来で、雨・風
が予想されますが、涼しさも期待されます。

 さて、「明智光秀の首塚」が京都の知恩院のすぐ近くにあることがわかりま
した。知恩院の西、京都華頂大学の北、梅宮町の梅宮社という小さい祠であり
ます。今年の秋に知恩院へまた行きますので、その時に確認してまいります。

 暑いとすぐ眠くなり、思考が持続しません。気力も涌いてきません。すぐに
うたたねとなってしまいます。困ったものです。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月13日 14時31分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

熱中症にはくれぐれもお気をつけください。


知恩院って法然上人ゆかりでしたっけ。
京都に行った時には必ず寄った記憶です。
「明智光秀の首塚」には気づきませんでした。
惜しいことをしました。


今日は  ああ、明智光秀って近江坂本城だったな  と思い出しました。
だから  伊賀や名張の北村氏と関係がソモソモあったのかも  と思いました。


母の従姉妹の夫が甲賀出身で浄土宗でした。家紋は丸に並び矢。長男は浄土真宗の僧侶(笑)

「影の軍団」のような  甲賀忍者 vs 伊賀忍者  の話は本当にあったのでしょうか?
というより
伊賀の中でそもそも仲違いがあったし
甲賀も割れて伊賀の喧嘩にそれぞれが加担していたのかな?と。
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月14日 14時54分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ調べていると、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりと、寄り道
・回り道をするのが常であります。

 今回も、いろいろ回り道しまして、「徳山氏」の再調査となりました。

 @「服部中保次」の曾孫の「保継」の妻は、「徳山五兵衛直政」の娘であ
りました。

 Aその直政の子「重政」は、1660年に初代本所築地奉行となり、本所、
深川の都市計画と埋め立て、掘り割り開削、架橋を行いました。

 Bその重政の子「重俊」は、先手御鉄砲頭、盗賊奉行。

 Cその重俊の子「重舊(しげとも)」は、先手御鉄砲頭、後、火付盗賊改方
に就任。日本左衛門の捕縛に功績を挙げたということであります。

 つまり、「徳山重政」は、本所深川を拓いた歴史に刻まれる開拓奉行であ
ったということであり、また、服部保継の曾孫の保貞は、長谷川家から養子
ということで、長谷川一門、長谷川平蔵ともつながってきます。

 「深川」という所、ますます興味深くなってきました――
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月14日 16時30分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

>徳山姓

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%BE%B3%E5%B1%B1

【名字】徳山
【読み】とくやま
【全国順位】 1,285位
【全国人数】 およそ13,600人

@現岐阜県である美濃国池田郡徳之山村が起源(ルーツ)である、坂上氏。
A清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼光流がある。
B現愛知県である尾張藩。
C津山藩にみられる。


実は母方の先祖が承久の変で負けた後に流された山の中にある墓所
      鎌倉時代の豪族の墓様式   濠がついている  
に碑を建てた人も徳山姓です。わたくしと同じく84代目だとおっしゃってました。

徳山姓でも@からCには恐らく該当しません。
でも、日本人ですから、何らかの形で徳山五兵衛直政に繋がるのかも。
母方は大坂城にいたのですけど。



実は本日は驚くべきことがありました。

他のスレッドに書いた人物の情報が本日届いた大学の同窓会誌に載ってて
なんと  平氏  のようで  確かに  平家系のお名前でした。ガ〜〜〜ン!


え?
ということは・・・

     父方で平家?南朝方?繋がり?
     歴史上+地勢上  母方では何重にも関係してた?と別スレッドで書いたように

と驚いています。


学生食堂にヌシのようにいつも居座ってたデブスのワタシをいつもにこやかに見守ってくれてたヒトで
他のスレッドにこの人のことを書いてから
以来  あの微笑みは何だったんだろう?  と思い始めてました。
     

母方では何重にも繋がっているだろうなとは思っていましたが
今日は
      平氏
と知って

え?父方でも繋がってた?更に、平清盛一族バリバリの公達系のお名前じゃん!
とビックリしています。


やっぱり日本人って結局は何重にも繋がってる?
お互いに全く見知らぬ人間同士でも先祖同士は「YO! ¡Hola! HI!」とか挨拶し合ってる?


本日知ったのは、2学年、上の人だったということでした。
18歳の小娘には(当時はまだネンネだったからね)
すっごい年上というかオッサンというか世界が違うというか貫禄があったというか
向こうは20歳だものね大人だよね

もうホント!
「平熱」ってオカルトパワーフルスロットルで襲って来る。


      他スレにワタクシがご当地時間7月28日に書き込んで
      本日SAL便で届いたので

      まさにワタクシが2学年上の人を話題に出して
      スグに彼の名とコンタクト先が同窓会誌に載って印刷され発送され我が家にはSAL便でチンタラ本日ヨタヨタと届いたってワケです。



こんな事があるんですねぇ。
最近は先祖パワーが来てなかったのですけど
お盆が近いから?
来てくれたようです。


>いろいろ調べていると、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりと、寄り道・回り道をするのが常であります。

それで良いのです。
立体的に考えよう
ということです。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月14日 18時28分03秒 ) パスワード

今夜は眠れそうにないので起きて来ました。


もう1つ本日の驚きの件について書きます:

SAL便の他に親友からの分厚い封書も来ました。
それには  なんと!  わたくしの大昔の少女時代の父?祖父?の名が出てました:平良兼   (平貞盛や平将門のオジ)


市原の国分寺の横に住んでた記憶があって
東側にいたと思うけど
実際は西側だったらしい
この家は良兼の家だったようです。


当時の「我が家」は将門のことを悪くは思っていませんでした。    この場合の「我が家」は貞盛の家とは違う。良兼の家のことです。

そして将門の軍が我が家を襲った時、すごく怖くて
20年前?にこの国分寺跡を見に行った時に、突然、嵐に襲われて  将門に襲われた時の恐怖と重なりました。


      この時の経験については平熱に書いています。20年も前かな?


本日の親友からのコピーによれば  アソコにいたのは  平良兼で  
ムスメが将門の妻になっている。

だから「わたし」は良兼の娘じゃなくて孫なのかな?
まさか将門の娘とは思わない。でもすっごく同情してた。
    将門の父上が亡くなって土地を一族で寄ってたかって奪ったのを恥じてわたしは将門に同情してた。


貞盛は常陸にいた、らしい。常陸掾。
良兼は下総介。


     方向音痴なので  下総国が上総国の「北=上」にあるのがワケ分からない。
     それで親友が方向音痴のワタシの為に旧国名地図のコピーも送ってくれた。   ありがとう、友よ!

            要するに「都」に近い方が【上】総の国、ってことなのかな?
            【上】野国は【下】野国より都に近いから「上」になるのかな?

            左京区と右京区みたいに。笑   基準が天皇さまなんだよね


ということで940年頃の「わたし」は良兼を失った心細さがあったのか、と。


伯父さまの国香は将門に殺され、
将門の妻は我が家の女で
939年に良兼が亡くなり
940年の初めには将門も死に
と、ものすごく「家」の中がグチャグチャで「抜け出したい」という気持ちがあった。
       
        百姓仕事をするのも嫌だったし。


良兼は常陸国羽鳥にも屋敷があったそうです。




親友はワタシの先祖のことで分厚い封書を送って来たのではなく
彼女は彼女のご先祖さまの件でコピーをたくさん送って来たのです。

でも実際には日本史のコピーはワタシの先祖の紹介コピーになってた。


そうか、わたしの先祖は皇籍離脱で平姓を賜って上総国に下向してドンドン勢力を拡大して常陸までを手に入れてたのか、と分かった。

将門が下総国猿島から常陸・下野・上野を攻略したのは知ってた。


やっぱりいろいろな人と情報交換をしないと立体的に理解出来ないなと思いました。
かなりズレて。
今日の友人の分厚い封書の意図とワタシの理解吸収はかけ離れてるということ。


     なんでワタシは良兼の屋敷にいたのだろう?貞盛の子孫なのに。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月14日 23時00分33秒 ) パスワード

こんな話を頂きました:


将門記で,(将門の反乱ですけど) 将門がいとこに惚れて,
オジの良兼に,嫁に欲しいと言ったが,
源護の息子と政略結婚させるつもりでいた良兼が断り,
結婚を急がせた。


ところが,将門といとこは相思相愛で、弟の公雅が手引きして,花嫁を将門が奪ったのが将門の乱の発端とされています。


このいとこの名前は書いてありませんが,海音寺潮五郎では良子と言う名前になっています。


まあ,そんな単純な理由か分かりませんけど,
将門の乱平定後,
この平公雅は,未亡人になった姉と一粒種の甥をかくまい育てます。



この将門の一粒種が相馬氏の始祖になったそうです。


平公雅は武蔵の国司になり,浅草寺と駒形堂を作ったとされていますが,江戸湊と言う港を作りました。
これが現在の東京に続きます。


江戸湊の位置については諸説あります。
日比谷公園説が強いのですけど,豊島園周辺説,飯田橋説があります。


平川と言う川の河口にあったようです。
平川ですけど神田川の上流から中流域と言われていますが,
話がややこしいのは,
家康が神田川の流れを変えて江戸城の外堀としたからで,
元の流れが分からないからです。


平川の下流域も流れを変えて日本橋川になったと言われています。


江戸湊ですけど東京湾の海路のハブ港になりました。
太田道灌が江戸城を作ったのは横に江戸湊があったからだと言われています。


江戸湊がなければ江戸城もなかったと言われています。
この江戸湊周辺に屋形を築いたのが江戸氏です。
江戸氏の館もよくわかっていませんが,
江戸城の本丸周辺と言われています。

飯田橋説もありますけど。


江戸重長(えどしげなが)ですが衣笠合戦で大活躍。
当主の三浦義明を討ち取りました。


その後,頼朝の墨田川渡河に功績があり,鎌倉幕府の御家人になりますけど,
衣笠合戦での大活躍で頼朝から警戒されます。


それで,大崎氏や葛西氏と違って大名になれず,地頭で江戸に残りました。
頼朝の渡河地点は吾妻鏡にも記述がないので分かりませんけど,
蜉蝣日記にも記録がある白髭橋周辺にあった白髭の渡しでないかと思います。


当時は墨田川と利根川は同じところを流れていて大井川と言われていたようですが,
蜉蝣日記には白髭の渡し以外の渡し場書いてありませんので,
唯一の渡し場だったと思います。


江戸氏は江戸に残ったので旗本として明治維新を迎えます。
そして子孫は海軍士官になり水雷を専門とする水雷屋になり,
日本海軍唯一の対潜専門部隊第31戦隊司令官になります。


江戸兵太郎少将と言いますけど,船団護衛等に苦労して,最後は,アメリカ潜水艦カバラに旗艦駆逐艦霜月を雷撃されて戦死しました。


平公雅は東京の大恩人と言われています。
江戸湊がなかったら家康が江戸を本拠地にしなかったと言われています。


今からジムです。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月15日 00時23分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この徳山氏は坂上氏の出身で、「貞信」(阿智王から数えて十六代目)の時
に初めて徳山を名乗ったということです。そして貞信は、美濃守護土岐頼忠
(土岐氏初めての美濃守護・土岐頼貞の孫)の末子・頼長を娘婿とし、清和源
氏・土岐桔梗紋に改め、頼長は貞長と名前を変えたということであります。

 つまり、この徳山氏は、実質「土岐氏」となったわけでありますが、その
二人の子供―貞次と貞友について、貞次の子・貞輔と貞友は「朝倉氏」に仕
えております。
 つまり、実質土岐氏の子供達が、朝倉氏に仕えた。ということは土岐氏で
間る明智光秀が、二十九歳時の落城後に、朝倉家を頼ったという事実の要因
の一つを成すとも思われます。

 さて、服部中保継(保次の曾孫)の妻が徳山家二代目の直政の娘でありまし
たが、保継より四代目が「保貞」で、実は「長谷川徳栄」の長男であり、服
部家に養子に入っております。
 この保貞は「田安家(吉信の子の田安宗武)」の付け家老になります。そし
て田安家の七男が「松平定信」であります。

 さらに、保貞から四代目が「保舊」で、この人は実は徳山五兵衛頼意(徳山
七代目)の次男で、服部中家の養子となっております。

 結論から言いますと、服部中家は、いつの間にか実質「長谷川家」になり、
また実質「徳山家」=「土岐家」になっていたわけであります。

 「鬼平」こと、長谷川平蔵は、松平定信により「火付盗賊改方」を命じら
れております。そこには、田安家付け家老の服部中保貞と田安家七男の定信
の関係、服部中家と長谷川家(正長の子孫)との関係が透けて見えてくるよう
です。

 ちなみに、平蔵こと宣以(のぶため)は、三方ヶ原の合戦で亡くなった長谷
川正長より九代目(正長の次男系)、服部中保貞は正長から六代目(長男系)、
服部中保舊は保貞から四代目、正長からは九代目となり、平蔵と保舊はほぼ
同世代になるかも知れません。

 それにしても、服部中家を初めとして、服部保章・服部正尚、服部半蔵等
の服部党と明智光秀との間には、やはり何か引力が働いているような感じが
してなりません。その引力とは何か……それを知りたいのであります――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月15日 04時25分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

>服部中家を初めとして、服部保章・服部正尚、服部半蔵等の服部党と明智光秀との間には、
>やはり何か引力が働いているような感じがしてなりません。
>その引力とは何か……それを知りたいのであります


時は戦国
光秀は弑逆の罪で彼のまっとうな記録は破棄されてますから
今になってはホントのところは「分からない」のヒトコトでしょうね。

明智光秀は越前の朝倉義景を頼り10年間仕えたということで
越前国に在住していた傍証は、越前の武士の服部七兵衛尉宛の天正元年8月22日付け光秀書状がある
ということで

越前の服部氏と関係があったことは確か。

     越前は平家がらみであり南朝方ゆかりの地ですから
     この服部氏は伊賀伊勢がらみの服部氏でしょうね。


名張城主服部保章の(嫡男の)子や孫が近江で北山を名乗ったということで
明智光秀との関係も類推解釈出来ますね。



ということで寛永20年10月2日(1643年11月13日)に亡くなった天海和尚=明智光秀説はひょっとすると光秀の遺児の内治麻呂だったのかな?と。




面白いサイトを見つけました:
https://senjp.com/tenkai/

天海の母は蘆名修理太夫平盛高の一族の蘆名盛常で
父は舟木兵部少輔景光ですって。
幼名は舟木兵太郎。

                     舟木だって!
                     土岐の一族にいましたね舟木・舩木・船木さん
                     昭和の有名人は舟木一夫!ですね。


チラッ、チラッと事実も入っているのでしょうかね?

蘆名盛高の母は  なんと!  宇都宮持綱の娘だそうです。宇都宮持綱は*武茂むも綱家*の三男で12代当主宇都宮満綱の婿養子
で、
盛高の玄孫が・・・いわゆる伊達家になっていきます。ややこし過ぎてこんがらがる。


だけど伊達家に繋がっていくから徳川将軍家のお家騒動にも繋がるわけで
やっぱり日本って繋がりまくってますね。


*武茂むもというのが昨日親友からの分厚い封書を見て以来、出て来た人で

武茂泰藤は三河国の大久保氏の祖となったと伝えられる
(が、徳川氏が新田氏の子孫というのと同じ類の仮冒とされる)

        大久保と服部は仲が良いのです!


宇都宮家は宇都宮朝綱の子孫で
業綱の妻は  平忠正または子の長盛の娘  です!です!です!



昨日の分厚い封書を読んでから  ナントカ貞能  という人物の名前が出て来て
え?平貞能の関係者子孫?
と思った記憶なのです。

まさか今日ココでこんな風に書くことになるとは思ってなかったので
ドコで出て来た名前かサッパリ思い出せません。

           お盆だから皆さん「ワシのことも書いてくれ〜」と出て来てるのかな?


ま、とにかく日本史は、みんな繋がってみんな良し。


権力者による焚書にしろ、
負ける側も降参する前に重要書類を焼きまくったことにしろ
惜しいことです。今となればね。


明智光秀と服部家の繋がりはいつの時代に遡るのでしょうね。

わたくしは母方でも明智光秀や斎藤利三に関わるから(稲葉家にも繋がるし)   来年の大河ドラマは自分の先祖のお話ということで楽しみです。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月15日 12時32分35秒 ) パスワード

で、思ったのです

長いこと疑問だった服部公清って誰?の  この人物
ひょっとすると  平良兼の息子の公雅・公連・公元の子孫か孫の公正、公雄の子孫なのかなと。


武士の家の構成は
一族の首長=主人=がいて
その下に家の子=一族=がいて
さらに
郎党がいて    ココにも、この人自身の家の子がいるわけで
一番下に
下人とか所従とかがいる。雑役夫ですね、馬の世話や武器の世話や食事の世話なんかをする人間、戦いになれば当然武器を持って戦う。


だから良兼の一族からも国香や貞盛と親しくて伊勢伊賀に同行した者がいたでしょう。
そういう人物の中から
壇の浦の後に服部公清と名乗っていたのがいて服部時定の家へ養子となって保俊を名乗って  ⇒ 千賀地保行になったのでは?と。


今の直系家族ではなく昔は一族が一心同体だったのだろうと。
先祖は同じなのだから
「主人」がいなくなった家に入るのは当たり前だったんじゃないか?と。


これで服部公清という人物についてかなり納得が出来ました。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月16日 00時30分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、池波正太郎の『忍者群像』という七編の歴史短編を集めた本の中
に、『首』という題名の小説があるのを見つけました。それは明智光秀の首、
即ち光秀が小栗栖で討たれたということに関してのストーリーでありました。
知恩院の近くに、光秀の首塚があるということを知ったのと妙にタイミング
があうなと思いながら、その小説を読みました。
 池波正太郎はよく歴史を研究していて、ただの娯楽読み物ではなく、あた
も真実のような印象を与えてくれます。
 もう一つの短編に「本能寺の変」に関するものがありましたので、それも
読んでみて、その後で感想を述べたいと思います――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月16日 07時03分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

池波正太郎って読み易くて好きです。下町の人ということで職人気質を感じます。


本棚から小説や時代ものは捨ててしまったので、何を読んだか記憶に無いのですが
「忍者群像」は覚えていないです。


明智光秀の周りに忍者が暗躍する話は彼の性格から全く想像を超えています。真田昌幸ならしっかり忍者を使ったろうと思うけど。

あの時代に忍者を使わない方がバカだし明智光秀ほどの人物が忍者に狙われたろうことは当たり前でしょうね。
だから忍者が明智光秀の周りで暗躍してたんだろうなと思います。



三成にしても光秀にしても  真面目  という人物像を抱いています。



>知恩院の近くに、光秀の首塚があるということを知ったのと妙にタイミングがあうなと思い

「来てます」ね〜。
是非、般若心経を詠んであげてください。


不当な評価の人には同情します。
ああいう時代に生きたという不運に涙します。


母方に光秀はよくしてくれようとしてた人物で
父方には  何かあった?  と伏屋姫が内治麻呂を生んだ  という話に興味があります。
 

光秀はわたしにはヒトコトで言うと  真面目な人  です。 


>読んでみて、その後で感想を述べたいと思います

楽しみにしていますね。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月17日 09時26分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部保章の娘と孫(少なくとも孫は確実)が近江の「北村」=「野洲」の
内に隠棲したのは、本能寺の変の後であろうか……?

 野洲という所、保章にとっては、どういう由縁・メリットがあったのだ
ろうか。

 また、保章の娘が光秀の妻となったのは、いつのことで、先妻か後妻か、
正室か継室か、それとも側室であったのか……?

 その孫は、大きくなってどうなったのだろうか?
 
 保章には、他にどんな子供達がいたのだろうか?

 光秀と保章は、いつどんな所で出会い、娘を嫁にとるまでになったのだろ
うか……? 松下之綱の娘・おりんが柳生宗矩の妻になったケースがあるが、
島左近邸での行儀見習いのような形が娘にあったのであろうか……?
 それとも、正妻と言われる煕子とその氏族(妻木氏=勘解由氏)に、光秀と
保章を結ぶ隠れた謎があったのだろうか……?

 そんなことを思いながら、野洲という所を『甲賀市史』や地図で調べてみ
ましたところ、野洲は旧東海道の要所であり、野洲川に沿って街道を下る(実
際は鈴鹿峠に向かって上る)と、約50qで関宿に着きます。関宿と言えば、
その西10qの所が「柘植」であります。ほぼ一体であります。
 もちろん、光秀の住んだ坂本から言えば、琵琶湖の対岸・東岸に位置しま
す。

 保章が名張の城主であったのか、あるいは柘植の城主であったのか、そこ
のところも謎の一つであります。柘植と言えば「宗清」、名張と言えば「池
禅尼」――との過去からの由縁が考えられます。

 一方の「野洲」でありますが、隣の守山の知人から以前聞いておりました
が、ここには「服部」という所があると――それは上古の「服部郷」であり、
その関係の服部氏はそこに数多くいると推察されます。

 ひょっとして、上古からの「服部郷」あるいは「服織郷」「羽鳥郷」の間
には、我々の知らないネットワークがあったのでしょぅか?
 もともと「服部連」の下にこれらは管轄されており、その一族・関係者が
指導者として、いろいろな服部郷に派遣され居住したということは、大いに
あり得ます。
 そういった意味でのネットワークが実在したとしたら、ある意味「大発見」
であります。もちろん、伊賀にも上代の服部郷がありました。

 もし、上代に一斉に拓かれた服部郷で神を祀るとしてならば、やはり先祖
神でしょぅ。それは「マラの宿祢」・「服部連」とそのずっと上位の者「ヒ
ノハヤヒ」・「アメノミナカヌシ」、そしてこれは私の推測ですが「ハトリ
の神=ハトリ神」という概念的な神があったのではないかと思っています。

 その「ハトリ神」を祀る宗教的中心が「神服神社」(服部連の神社)であっ
たのでしょぅ。神主は各地へ勧請のため、あるいは指導・儀式・その他の
ため下向したのではないのでしょぅか。そうすると、神主ネットワークなる
ものができていたかも知れません。まだ推理の段階ですが――

 すべては、この「ハトリ」という妙なる響きの言葉に収束するように思い
ますのですが、それを証明するのは、簡単ではありませんが努力したいと思
っております――

 
 
 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月17日 14時30分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「はとり」

【はとり】【服織】【羽鳥】【服部】というのはアチコチにあるようですね。



上の方のレスに書いた  平良兼も常陸国真壁郡羽鳥に屋敷を持っていた。
三重県の秦氏の服部さん一族。
静岡の服織。
高槻の神服。
伊賀の呉服。

ま、衣類は人間生活の必需品ですから、人間が集団生活していた所には存在していたのだろうなと。


名張は平忠盛の正室の藤原宗子さまが滝之原に所領を持っていたのが
源平合戦で敗走した平家の皆さんの受け入れ先になった
ということで平家落人の里伝説がありますね。


名張にはもともと東大寺の荘園=後の長久4年(1043年)頃有名な黒田荘=があって
この母体は天平勝宝7年(755年)に孝謙天皇より東大寺に寄進された杣である板蠅杣(いたばえのそま)が始まりで

    悪党=武士のハシリ=が出て来て

エンエンとゴタゴタやってたところですね。


だからこそ忍者が生まれていくわけですね。


こういう場所にも光秀は行ったでしょうね。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月18日 12時15分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 伊賀と「服部連」の関係について、『伊賀市史』(伊賀市発行)の中にどの
ように書かれているのか調べてみましたが、残念ながらわずかな情報しか書
かれておりませんでした。そこを抽出してみますと――

 「稲作は長田、服部など伊賀盆地中央から周辺の河岸低地に進出し、服部
 川沖積扇状地の扇頂に位置する荒木などは、前方後円墳の分布からも開発
 が早かったことが推測される。
  六世紀から七世紀にかけては、百済を主とする渡来人が、先進の灌漑技
 術を用いて開墾していったと考えられ、服部連、竹原連、長田村主、夏身
 忌寸、佐奈宜氏などが知られる。」

 服部連に触れるのは、とりあえずこんなものであります。『伊賀市史』の
全巻を読んだわけではありませんので、ひょっとして他の巻で出ている可能
性はありますが、伊賀にルーツを持つ服部氏が服部連との関係を述べた割に
は、現代の伊賀には服部連に関する熱情は感じられない。それは、戦国時代
の服部党は、保長を中心に伊賀外部へ出てしまった、あるいは天正伊賀の乱
で大被害を被った結果、伊賀には主要な服部氏がいなくなってしまったから
かも知れません。

 もちろん、服部連に関する情報は、『新撰姓氏録』頼みであり、それ以上
の情報がないように思われます。
 『伊賀市の研究三十年』(佐々木弥四郎著)には、服部連について約三頁に
わたって書かれておりますが、『和名抄』『伊水温故』『伊賀考』『三國
地史』などに書かれている服部連について紹介・分析しております。しかし
ながら、いずれも『新撰姓氏録』を超えるものではありません。

 『新撰姓氏録』がどこまで信憑性があるかの問題もあります。桓武天皇が
作らせ始め、嵯峨天皇時、815年に完成しており、その時代的背景も視野
に入れておいた方がいいのかも知れません―― 
[33]A.AKECHIさんからのコメント(2019年08月20日 20時04分41秒 ) パスワード

 三つ柏服部様
 空の青海のあを様


 いつも「服部家と明智家の関係という謎」の追究に勤しんで下さり、ありがとうございます。

 ところで、「伊賀には主要な服部氏がいなくなってしまった」とは言えないのではないでしょうか?
 服部半蔵則直の次男(で保田家の養子になった)元則が伊予の藤堂高虎に仕えていた時、(高虎ではなく)家康の命で「藤堂元則」を称し、1639年に上野城代に就くとその後子々孫々(明治維新までの)二百年以上の長きに亘って上野城代を務め続けました。この藤堂采女家こそ伊賀に君臨(?)した「主要な服部氏」なのです。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月21日 11時48分24秒 ) パスワード

A.AKECHI様
 
 お久しぶりです。何とか見ていただいているのではと期待しながらも、時
として「まっ、いいか」と極論的に走る傾向があり、AKECHI様のよう
に、釘をさしていただけると大変うれしいです。

 ずっと前に伊賀に調査目的で行った時、「藤堂高虎」という人物がターゲ
ットの一つでありました。『伊賀上野城史』という本を購入し、伊賀の歴史
の把握に努めましたが、1608年に藤堂高虎が伊賀上野城に入城し、伊賀
衆の「懐柔政策」を推し進めて行くために、服部半蔵の縁戚である、余野の
「保田采女」をとりたて、藤堂姓を与え、初めは次席城代家老、次からは城
代家老として世襲させたということはわかっておりました。
 『上野城絵図集成』(福井健二著)には、歴代城主、歴代城代、時代時代の
城地図、城下地図等、さまざまな資料が収録されています。無足人であった
松尾芭蕉の父の家も載っております。

 確かに、AKECHI様のいうとおり、保田(千賀地)則宗は服部宗家であ
るようで、それを再興させたのは、やはり徳川家康の指示だったのではない
かと思います――武田家、土岐(菅沼)家他、名家を再興させていますので。
 ただ、藤堂高虎という人物、深い謎を秘めているように思えてなりません。
上忍は尻尾を出さないといいますが、ひょっとしたら高虎も上忍に匹敵する
人物だったのかも知れませんし、うまく実態を隠しているのかも知れません。
その辺の秘密をあぶり出せたらなあと常々思っております――
[35]A.AKECHIさんからのコメント(2019年08月22日 22時14分17秒 ) パスワード

 まことに、家康、高虎お二人の慧眼には感服させられることが多いものですが、中でも伊賀を実態は服部家である藤堂釆女家に治めさせるという発想が素晴らしいです。
 家康の「天海と藤堂高虎は長くわれの左右にあって徳川家の守護となれ」との遺言に基づいて天海が高虎の下屋敷の土地に上野東照宮を建立しましたが、(証拠はありませんが)天海が明智家の関係者だとするとこのお三方の強い絆には大きな意味があるようです。高虎の墓もすぐ近く(現在の上野動物園の中‼)にありますよ。

 話は変わりますが(大変遅くなってすみません。)、以前に触れられた「光秀の首塚」はこちらhttps://www.travel.co.jp/guide/article/4999/ です。光秀の首塚と称するところは他にもありますが、明智一族としましては、こちらを本物と認定(?)しております。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月23日 13時26分07秒 ) パスワード

A.AKECHI様
空の青海のあを様

 藤堂采女元則(上野城代二代目)の息子・元住は、「藤堂高虎」の姉(妹か)の
孫・高経(津城代二代目)の娘を娶っております。

 芭蕉の仕えた藤堂家は「高虎」の叔父・良政家であり、その息子である良勝
が「新七郎家初代」となります。二代目が「良精」で、三代目が「良忠」であ
ります。芭蕉はこの三代目の近習となります。
 芭蕉の本質的な問題を深く探求して行くと、やはり藤堂高虎に収束いたしま
す。

 もっとも、この話は長くなりますので、煎じ詰めて言いますと、藤堂高虎は
藤堂采女を中心に伊賀・甲賀の諜報者を整理し、いわゆるかつての忍者でなく
新たな時代に即した「諜報供給システムの構築」に大きな足跡を残したという
ことが言えます。柳生宗矩も新たにシステムの構築者となりました――
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月25日 10時28分43秒 ) パスワード


スレッド[34]で、「(家康は)…土岐(菅沼)家他、名家を再興」と書きまし
たが、その主人公となる人は、「土岐定政」であります。
 土岐定政は元々は「明智定政」であります。七千傑様のスタンダード系図
(私の勝手な評価)に基づいて見てみますと、定政と光秀は「明智頼尚」を曾
祖父としております。つまりお祖父さん同志が兄弟――光秀の祖父の方がお
兄さん、定政の祖父の方が弟であります。つまり、本人同士は「はとこ」の
関係になります。

 土岐家、斎藤家の内紛的な話は複雑でありますので、ここでは避けますが、
要するに、斎藤道三を中心とした内紛的な争いによって、1552年に幼き
定政の方は一族と共に外祖父の菅沼定弘をたどって落ち延び、光秀の系統は
その後、道三に忠誠を尽くすもそれがあだになって明智城落城、光秀も落ち
延びるはめになったということになります。

 「定政」と「光秀」の運命を比べてみても、やはり「土岐家」「明智家」
の没落ということが強烈な心象風景であり、その復興のために命を捧げたと
いう人生であったように感じがいたします。

 まだ、調査は途中でありますので、中途半端でありますが、今後更に深く
調べて行きたいと思います。定政の方は、徳川家康に仕え、遠江で大活躍し
ておりますので、私にとっては親近感があります――
[38]A.AKECHIさんからのコメント(2019年08月25日 15時48分07秒 ) パスワード

三つ柏服部様
空の青海のあを様

 [35]で「家康の慧眼」と申しましたが、三つ柏服部様の言われた「土岐(菅沼)家他、名家を再興」したのもその一つと言えましょう。一旦「菅沼定政」になっていた人を「明智定政」に戻し、更には「土岐定政」としたのは、「家康の慧眼」のなせることでしょう。三つ柏服部様の言われるように、土岐家、明智家の「復興のために命を捧げた」定政、光秀の志に家康が応えてくれたのでしょうね。

 
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月26日 04時13分25秒 ) パスワード

結論は「分かりません」です   が


光秀

主君
斎藤道三→朝倉義景のところには10年ほどいたらしい→足利義昭→織田信長


          足利義輝に仕えたハナシもあり。どのあたりで?

          越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日付け光秀書状がある   ということで。



服部正成

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E6%88%90 より

父・保長について(足利義晴と、松平清康と、  の関係)

父の保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。
当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、
狭い土地において生活が逼迫したため、
保長は旧姓の服部に復して上洛。


室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。
その時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、
保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。


伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、

           千賀地の服部じゃなくて、
           荒木又右衛門保知の先祖の一族の阿拝郡服部郷の服部だった?荒木又右衛門が服部一族なのは知ってた


阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある。


また、保長を服部民部の子「守佐」であると記し、
名を「石見守半蔵正種、浄閑入道保長、法名道可」とする史料も存在する。


千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、
その子である正成と徳川家康の接点が無い。

三河へ移った後の保長の記録は少なく墓所などは現在も判明していないが、
大樹寺に縁があったとされ、
同寺過去帳には息子である久太夫の名がみられると共に、
家伝においても正成は幼少期を大樹寺で暮らしたと記されている。

正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。



結局  ワケ分からない  やっぱり  分からない。半蔵と光秀の接点も分からない。


強いて書くと

越前の服部七兵衛尉がらみで
    キイワードは平家とか南朝方とかで
紀伊の保田家=もとは湯浅氏だよ。湯浅は平治の乱で平清盛を助けた湯浅宗重だよ=がらみで

           ご縁が繋がる。


保田 ⇔ 千賀地 ⇔ 服部 ⇔ 名張の服部 ⇔ 光秀 ⇔ 近江国 ⇔ 藤堂 ⇔ 家康 ⇔ 天海和尚


とにかく光秀は秀吉から記録を抹消改竄されているんじゃないかな?
父親の名がいろいろあるのは改名に次ぐ改名があったからだろうし。


光秀が土豪に殺されたというハナシもウソ臭いし。
本当に土豪に殺されたのなら、その百姓達は秀吉によって取り立てられているはずだし。

秀吉は出自コンプレックスがあったから光秀のことを悪し様に改竄したと思う。
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月28日 12時43分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 光秀について、いろいろ回り道・寄り道をして調べておりました。

 確かにあを様の推察は、大局的な流れをつかんでいると思います。
 歴史の過去からの流れは、必然として切り離せないものであります。
 ただ、光秀の場合、正式に歴史的な舞台に登場して来るのが、29歳の時
の明智城落城の時でありますが、これもクリアなものではありません。その
後の10年についてもあまりクリアなものではありません。40歳前後から
足利義昭の足軽衆としての存在が文書にて確認されます。
 つまり、前半生というよりも、昔で言うなら晩年の人生しか我々は光秀の
ことを深く知ることができないということであります。

 あを様の示した明智光秀と服部党との関係(保田―千賀地―服部―名張の
服部―光秀―近江―藤堂―家康―天海)は、大筋の流れとして合っていると
思いますが、更に踏み込んでみますと、近江甲賀から越前一乗谷までの流れ
が重要かなと思われます。
 それはつまり、足利義昭の流れでもあり、義昭とそれに関係する人々との
関わり合いということになります。
 「近江甲賀から越前一乗谷までの流れ」は、将軍家の流れであり、信長の
天下取りの流れの過程でもあり、蓮如の一向一揆の流れでもあります。
 それらの事情が複雑にからまりあい、一乗寺以降の歴史は、信長の天下取
りに収束して行きますが、一歩手前でのあの大波乱・大事件となります。

 服部党と光秀との出会い――それがどういう意味を持つのかが「一番知り
たい謎」であります。
 それは光秀が近江、あるいは伊賀に関係を持った――居住した、部下を持
った、協力したというような関係があったのではないかと推察いたします。

 東の家康と西の信長、家康についた明智定政(明智→菅沼→明智→土岐)、
そして信長についた明智光秀、両者の間には距離的な隔たりがありますが、
そこは服部党がつないでいたかも知れません。明智家・土岐家の再興のため
の暗黙の意志が働き、家康はそれをうまく利用したのかも知れません。 

 服部党と光秀との出会いとコラボレーション――これについてさらに探っ
て行きたいと思います――
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月28日 13時00分24秒 ) パスワード

レスが交錯しました。
またレス<41>に誤字があったので書き直します:



紀州在田の保田家について松平康懿(やすよし?)が「本朝姓氏弁」で慨嘆しているハナシ。
ま、日本史を習った人なら誰でも知っているハナシです。

   子が親を生むニセ系図の巧妙さについて。
   

一部書き写します。瞬殺されませんように!


「近世系図者云ふありて多く諸家の系図を妄作して真を乱るものあり。

たとえば

紀州に保田庄司あり。
何人の妄作せるにや新羅三郎義光の末安田三郎義定の後胤とす。
紀州の保田・関東の安田
其出自違ひあることを不知。

あるひは

江州の人をば皆佐々木一族とし
濃州の人を土岐の族とし
尾州の人を斯波武衛の後裔と妄作す。


    略

井沢長秀が曰(いはく)
「 近世の系図は  子より親を生ずるといへるぞ  格言なるべし」

以上書き写してみました。



特に評判の悪い系図作者は  浅羽昌儀・松下重長・多々良玄信・沢田源内   だそうです。

江戸初期の儒者で中江藤樹に比された  二山伯養(1623 〜 1709)も
多々良玄信にはテキトーなウソをつかれてたことが知られているそうです。





井沢 長秀‖イザワ ナガヒデ  熊本藩士 ・ 国学者
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/izawa.002.html
コピペです:


〔生没年〕 寛文8年(1668)〜享保15年(1730)12月3日 〔享年〕63
〔活動地〕 肥後熊本 : 熊本県熊本市
〔学統〕 垂加流
〔姓〕源
〔名〕節
〔称〕十郎左衛門
〔号〕蟠竜・享斎

             蟠竜さんなら、どこかで読んだことがある記憶。


【 解説 】

熊本藩士、国学者。
井沢勘兵衛の子として生まれる。

幼少の頃より壮年に至るまで、父に従って江戸に在住。
元禄10年2月、家督を相続。
正徳元年6月、御留守居御番方組脇、享保5年2月、御鉄砲拾挺頭を歴任した。
 
江戸に在住の頃、深く神道を志し、山崎闇斎の門に学んで垂加神道を修めた。

                   そうだ!そうだ!山崎闇斎で読んだことがあるんだ。


やがてそれより脱して、広く和漢の書籍に精通し、博学多才をもって知られた。

長秀の学問は垂加神道を主としたものであったが、その主著『神道天瓊矛記』には伊勢神道の影響が見られる。
また関口流の居合術に長じていたこともあって、その主張も神道と武道との調和に力が注がれている。

平易通俗を旨とし、神道思想の啓蒙運動に大きな影響を与えた。

彼の学は高本紫溟に受け継がれた。


『神道天瓊矛記』の他、『広説俗説弁』『俗説辨正』『肥後地誌略』『本朝俚言』など多くの著作がある。

(参照:国学者伝記集成. 第1巻. 続編、 熊本市史、 国書人名辞典. 第1巻、 神道人名辞典)

以上
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月28日 13時56分01秒 ) パスワード

三つ柏さん

そうなのです!

>光秀の場合、正式に歴史的な舞台に登場して来るのが、29歳の時の明智城落城の時でありますが、これもクリアなものではありません。
>その後の10年についてもあまりクリアなものではありません。
>40歳前後から足利義昭の足軽衆としての存在が文書にて確認されます。
>つまり、前半生というよりも、昔で言うなら晩年の人生しか我々は光秀のことを深く知ることができないということであります。


足利義昭との関係がイマイチ納得出来ないのです。
光秀が足利家に足軽衆として参加してたというのが納得いかないのです。

           細川藤孝幽斎に認められ親しくなるまで足軽衆で「その時」を待っていた?


光秀が千里の道を往き万巻の書を読み朋を求め続けたのは納得しています。


道三の娘=のちの信長の正妻=と いとこ関係にあった  というのはドラマティックにするための妄作なのかなと。


光秀については読めば読むほどワケ分からなくなりました。トンデモ説にいろいろ行き着いてしまったし。

越前の朝倉義景の所にいたのは服部七兵衛尉宛の書状から確かだと分かる。
服部氏というのは信用できると光秀は思ったのだろうな、とも推測する。





今回のスレッドで驚いたのは  荒木又右衛門服部保知という人物が思わぬ地の服部一族と?え!でした。
                        通字が「保」ということは  服部保長や半蔵家に近いのかな  とも思います。


荒木又右衛門:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
よりコピペ

慶長4年(3年説もある)、
服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で誕生。
幼名を丑之助、あるいは巳之助ともいうが、これらは俗伝であり、正しい幼名は不明。

父・平左衛門は、藤堂高虎に仕えたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。


                   藤堂高虎ご降臨!


平左衛門には渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいた。

この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があり、
のちに又右衛門はみのを嫁に迎え、
二代目数馬らとは義兄弟の縁となる。



又右衛門は、兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、
12歳のときに本多政朝=本多忠勝系の本多家宗家3代目=の家臣・服部平兵衛の養子となった。


                    名前、似すぎ!
                        実父:服部平左衛門
                        養父:服部平兵衛

                             一族なんでしょうね
                
              
しかし、元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れて浪人し、
生まれ故郷の伊賀に帰っている。

                       浪人するのが好きな家系?
                       なんかワタシの生き方に似てる気がする
                       やっぱりワタシと飽きっぽい遺伝子を共有してる?


故郷でははじめ菊山姓、            菊山さんは服部一族ですよ!下方に書きますね
のちに荒木姓を名乗った。


また、剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだといわれている。
一方、15歳のころ柳生宗矩や柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする説が『柳荒美談』などにあるが
『日本十大仇討録』の考察などにも見られる様に、
既に何か一流を極めた後に柳生の門に入り新陰流を学んだとする説もある[2]。


その後、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、剣術指南役(剣術師範)250石に取り立てられた。

      
            ここまでが   鍵屋の辻の決闘  に至る前の荒木又右衛門の素性。
            「鍵屋の辻」は見ました。行くつもりは無かったけど引っ張られるようにして行って、「目に入った」。
             おお、ここが、あの有名な鍵屋の辻か、と驚いた。
             荒木又右衛門が服部保知とは知らない時だったのが残念です。



で、菊山さんについて:
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8F%8A%E5%B1%B1

【名字】菊山
【読み】きくやま
【全国順位】 6,482位
【全国人数】 およそ1,500人

                     三重県・奈良県・岡山県に多い

現三重県北西部である伊賀が起源である服部氏子孫。
現岡山県南東部である備前、現大分県中南部である豊後に菊山村がみられる。「山」は山の地形を表す。
「菊」は岫(くき)のことで、洞や崖になった谷の意味。    へぇ〜。ビックリ
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月29日 04時49分48秒 ) パスワード

今朝ビックリすることがありました。


Kitamura繋がりがありました。


昨日病院から手紙が来て
担当医(インド人女医)が辞めることになったから
替わりの医者を捜すようにと
書かれていました。

     この女医さんはインド人ですからね
     すっごくアタマの良い人で
     (バカを診るのはイヤ!)って感じ(ワタシのこと)

            インド人がアタマいいのを知ってるのは、インド人と10年ほど一緒に働いてたから


     そこに行くと中国系はホントに心優しい女医さんばかりで
     バカのハナシを理解しようと努力してくれて
     こちらの期待にスンナリ応えてくれるのです。


で、新しい医者を捜すのに
本当はオットの医者の1人である大阪大学出身の男医がいいんだけど
専門がちょっと・・・彼は細菌とかウイルスとかが専門・・・ということで

               ナントカ天皇のお子様達が皇位を争って
               敗れて
               遠江に逃れて大井川の西側に棲み
               後に長野に行って
               大阪に戻った
               と3年ほど前に書いたお医者さんです



さっき病院に
「誰でもいい、男性でも女性でも。その病院の中にオフィスを持ってる医者なら誰でもいい」
と言ったら


なんと!
Kitamura  という医者に決めてくれました。

女医なのか男医なのかも知らないけど、そんなの構わない。
ま、女医さんでしょう、内科は女医としたものだから。



だけどビックリした。きたむら、だって。KIPなんとかって聞こえたからスペリングを訊いたら  KITAMURA  だった。笑


昨日レスを書き込んで
「藤堂って近江の人だよね。 イマイチ素性が分からないよね」

多賀神社に関係が有りそうだし
鈴鹿山脈の西側の人だから
伊賀とか甲賀とか  
忍者しっかり使ってそう。

と、いろいろ妄想してました。

      で、今朝は目が覚めたら4時だった。寝過ごした。


光秀のことも分からないけど
光秀も高虎も理工系なんじゃないかなと。
技術屋さん、というか。


      先祖のお蔭でノホホンとしてた家は潰れて
      苦労して自分の力でのし上がって来た家が戦国時代に生き残って

高虎はしっかり諜報工作に成功した人なのかな?
など妄想してました。

「工作」には自分が伊賀甲賀多賀の忍者系というのを消した、というのも入っているんじゃないかなと。

出自ロンダリングもしっかりやっているんだろうな、と。笑


おそらく古代からいろいろ画策して
戦国時代にやっと日の目を見て
成功したから
周りの家からのヤッカミもひどかったんじゃないかなと。

で、家康にくっついて、虎の威を借る狐、ということで諸侯に一目置かせてたんじゃないかな?と。


藤堂=風見鶏大名
とか?
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月29日 22時59分12秒 ) パスワード

何故伊勢や伊賀が藤堂家のものになったかを考えた。
答えとしては  「父祖の地だから」  じゃないのか?


藤堂高虎が伊勢や伊賀を欲しかった理由は  伊勢や伊賀に固執する<過去>  があったからでは?

と考えると  蒲生家の後の会津40万石より  伊勢伊賀30万石の方が
例え仲の悪い加藤嘉明に会津を譲っても  欲しかったんじゃないかな?
加藤を遠くに追っ払えるし。


     歳だからを理由に  会津を不仲の加藤に譲っても  それだけ伊勢伊賀を欲しかった。
     世間は高虎を評価し加藤は感激してくれた。
     高虎は心の中で  にやり  と笑った。


やっぱり高虎は伊勢伊賀関係の子孫なんじゃないかな?
それが近江に移動して  時  を待ってたんじゃないかな?


ホントは誰の子孫なのかな?
伊勢伊賀=平家の本貫地  なんだけどな。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月30日 03時39分12秒 ) パスワード

書き直し:



で、ジムで「何故伊賀上野城代は保田服部藤堂采女家なのか」と考えた。


     ま、個人主義傾向の反骨気質の伊賀人を纏めるには地元の有力者にやらせるのが良い、とは分かります。
     だけど  甘すぎやしませんか?藤堂の家名まで与えるなんて。


http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=334
侍から足軽まで100人超  〜  津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造

この三重県史編纂グループ 藤谷彰氏のサイト
すっごく詳しいです。



もったいないのでコピペ    (どういうメンタリティ?  恥)

津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。

その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。



そして、二代高次時代の40(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。


伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について紹介したい。



近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。


そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、
采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。
これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。


藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。

例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、
その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。
所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、
おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。


当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。
ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。



なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、
こうした侍層の俸禄合計が664石で、
約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。
 


ところで、これら侍層の由緒については、
藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で
「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」
であったという。


前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。

また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、
代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。

                        すっごく心優しいよね
                        まるで松下幸之助さんみたい



次に、徒士層と考えられる階層について見ると、
禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。

これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられ
そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた
それに、足軽等の武家奉公人がいた。


徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、
支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。

                       予野だと、千賀地あたりのこと?


禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。
伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。



以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。
こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。

以上コピペでした。管理人さん、ありがとうございました。ぺこり



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%97%A9%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3

津藩家臣団


1 名張藤堂家               藩主一門。伊賀名張領主。1万5000石。維新後男爵。
2 藤堂出雲家               初代藩主・高虎の異母弟。 藩主一門。津藩内・7000石
3 藤堂内匠家               藩主一門
4 藤堂仁右衛門家             藩主一門   高虎の甥
5 藤堂数馬家               藩主一門   通字が「光」
6 藤堂新七郎家              藩主一門・伊賀上野城代付5000石。 高虎の従兄弟。通字は「良」
7 藤堂采女家               藩主一門格(藤堂家臣・佐伯惟定の娘婿)。伊賀上野城代。
                     初代はつまり服部元則(服部保長の曾孫)。通字は「元」

                           佐伯さんは神職さんの家で例えば平家がらみだね。
                           豊後佐伯氏=宇佐神宮とか安芸佐伯氏=厳島神社とか。


                          『栂牟礼実録』には、蛇神の末裔大神一族であるため、
                           雨の日を吉日とし、三枚の蛇鱗が生えていたとされ、
                           一族に伝わる
                           「手鉾之太刀(不抜之太刀)」「飛龍之太刀」「神息之太刀」「小屏風長刀」「巴作り之太刀」
                           の五剣を所持していたと記されている。


佐伯 惟定(さえき これさだ)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
豊後佐伯氏第14代当主。
豊後国海部郡栂牟礼城主。
のち津藩重臣。
主君    大友義統→豊臣秀保→藤堂高虎

娘が保田服部藤堂元則の室。



大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘・家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。

日向路の大将・豊臣秀長が豊後に到着すると合流し、先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。

九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を激賞し感状を与えた。

文禄の役にも大友軍の一員として参加したが、文禄2年(1593年)の大友氏改易により惟定も居城を失うと、秀長の後継者・豊臣秀保を頼り、秀保没後はその家臣であった藤堂高虎に客将として招かれ、五百人扶持を与えられた。

文禄4年(1595年)、高虎の宇和島入封に従い伊予に移住、翌年に新知2,000石を与えられた。

のち、藤堂良勝に替って国府城代となる。

慶長の役では板島城留守役を務め、当初家臣のみ出陣したが、後に渡海して海戦で功をあげた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には宇和島城留守居役を務め、家臣のみ従軍した。
翌年以降、高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いている。
慶長19年(1614年)10月の大坂冬の陣には、士隊10騎・卒隊40人を率いて出陣する。
当初は旗本士大将であったが、11月26日より右先鋒・藤堂高刑の合備となった。
翌年の大坂夏の陣では遊軍部隊の指揮を命じられたが、5月6日の戦闘で先鋒が壊滅した為、7日は藤堂高吉と共に左先鋒を務めた。
戦後4,500石に加増される。

元和4年(1618年)6月9日死去。
享年50。
嫡男の惟重が家督を相続し、佐伯家は藤堂家臣として明治に至った。



高虎にとって   佐伯さんとか服部さんとか    どういう存在?
このあたりに藤堂家の秘密が隠されているような?
鍵は平家繋がり?
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月30日 04時12分26秒 ) パスワード

高虎の心の裡を想像すると   
(計算高くて喰えない風見鶏だけど、加藤嘉明にだけは損得じゃない!と、高虎ほどの人物でも計算が度外視になるのか?)  
と。


子や孫のことを考えると  家康が会津をあげるよ  と言うのだからフツーの人なら会津は大藩で名門の土地だから喜んで拝領するだろう

なのに高虎は
「いえ、歳なんで、そんな遠くには行けないです。将軍家に真っ先にお仕えするにはこれまでの土地で」
と恭順を装って遠慮し

家康が「じゃ、誰がいいかな?」と問えば
「加藤のヨッちゃんが相応しいかと」
と即答。


                       家康も(お前はそんなに加藤が嫌いか?)と呆れたんじゃないかな?


でもフツーの人は
「高虎って、会津を蹴ったんだってよ。もったいない!」
と驚いたでしょうね。


アホの加藤のヨッちゃんは
「え?高虎ってオレのこと、大っ嫌いだったんじゃない?なのに、会津をオレに、と家康さまに御進言くださったって?」
と感謝感激。



高虎にしたら(あの加藤のバカを遠い会津に押し込めたる!)。ふっふっふっふっ


こんな事を考えながらベンチプレスやってたら数かぞえるのが狂ったよ。

17・18・19・・・31・32・33?   33???  あれ?
なんて数も数えられない幼稚園エントリーレベル。


30万石から40万石にしてやるってのを断るんですからね。
家康がどう思ったか
臨場感満々で想像してしまった。



あの時、あの人は何を思ったのか?

そーゆーの妄想するの、大っ好き!


だからこそ  なんで伊賀をヨソの家に任せる?
佐伯氏のことは好きだったろう
だったら佐伯の娘を藤堂の一族の者に娶せれば良いだけ。

と、考えると  藤堂と服部の関係が浮かび上がってくる  ような?


こんな感じで2時間半筋肉をパンプアップしてたらホントに筋肉が増強するのが分かりましたよ。
首の後ろの筋肉だけど。分かっちゃった。
今朝は人生最高に調子良かったな。
[49]A.AKECHIさんからのコメント(2019年08月30日 21時26分20秒 ) パスワード

 三つ柏服部様
 空の青海のあを様

 こちらで藤堂さん(我が家は武家ではないためか、先祖代々こう呼ばせてもらっています。)のお名前を幾度も目にするうちに思い出しました。

 初代が丹羽長秀の息子である(桔梗紋の)名張藤堂家の第11代・高節は、(実態は「服部」である)藤堂釆女家の出身です。ですから、高節の代に至って、名張を含む伊賀全土(?)が、服部家の治める土地になった訳です。

 70余年も前のことになりますが、我が家の先代が(通勤途中ではありますが)藤堂高節氏の孫・高伸氏と親しく話す機会を頂きまして、その折高伸氏が仰るには、「(父が)養子なので、藤堂家のことは何も分かりません。」ということでした。残念……
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月31日 05時17分31秒 ) パスワード

A.AKECHIさん

>名張藤堂家の第11代・高節は、(実態は「服部」である)藤堂釆女家の出身です。
>
ですから、高節の代に至って、名張を含む伊賀全土(?)が、服部家の治める土地になった訳です。


ありがとうございます。


フツー「家名」と「血筋」を守りたい武家それも大名家でこういう事態ってどうだったのでしょうね。

考えれば考えるほど不思議に思います。


看板は「藤堂」だけど経営は「服部」だった?
まだ子供の時に素直だったら今頃ワタシは伊賀で大きいツラをしてたのかな?
両方の先祖達が用意し結ぼうとしてた赤い糸をぶっつり切ったのはワタシだから。


>高伸氏が仰るには、「(父が)養子なので、藤堂家のことは何も分かりません。」ということでした。

ご存じだったとしても口外出来ないですからね。
[51]三つ柏服部さんからのコメント(2019年08月31日 08時21分04秒 ) パスワード

A.AKECHI様
空の青海のあを様

 ありがとうございます。伊賀上野城については、初代の城代は高虎の弟
の高清をあてがったけれど、二代目からは、采女家(元は服部家)に任せ、
幕末まで続いたということ、名張藤堂家も十一代目・高節(たかもち 采女
家出身 時代は幕末)が当主になったということ……今までは藤堂家の存在
が印象として強かったのですが、私の認識は変わり、伊賀に於ける服部家
の存在というものが、俄然浮上して感じられるようになりました。
 高虎以下、藤堂家の主筋は津城(伊勢・伊賀城主として)におりましたか
ら、伊賀上野城については城代としての采女家(服部家)が実質の城主のよ
うなもの。名張藤堂家も、幕末に至っては服部家が当主になったというこ
と……ということで、急に何か服部家が生き返ったような感じがしてきま
した――
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年08月31日 10時10分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>急に何か服部家が生き返ったような感じがしてきました


はい。生き生きとしています。

でも、まことに不思議なのです。服部家って何だったの?と改めて考えさせられています。



高虎が「父祖の地」に固執するなら、それは「近江国」じゃないのか?と思うのに実は「伊勢・伊賀」が良かった。

           近江は父祖の地ではないのか?
           藤堂の名は「藤堂村」から名乗ったんじゃないのか?
           藤堂村が属した近江の国にはたいして愛着は無いのか?
           藤堂村には理由があって隠れ棲んできただけの関係なのか?


本日もいろいろ考えながら筋トレをしたものの残念ながらマイオカインは全然湧き出なかった。


家康と高虎の関係はホントのところはどうだったのか?
高虎は家康の腰巾着とかいろいろ悪口を同僚達から言われたろうけど
高虎にとって家康は利用価値があったのは分かるけど家康にとってはどのような価値が高虎にあったのだろう?



今回のスレッドで驚いたのは
荒木又右衛門の件から   
      義元と力を合わせて信長を討つつもりが果たせず  そのまま今川方に残り   
      築山殿+信康の人質交換の時に今川方として戦死した我が家系の服部家が浮上しました。または服部中保次の一族で家康には付かなかった家。

      それで荒木又右衛門の家がパッとしないのはこの事件があったからかなと。

          
     

http://tikugo.com/osaka/busho/toudou/b-toudou-moto.html
藤堂元則
生没年:1582〜1660年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):采女

【増田家の家臣】

本姓・保田。

父は服部半蔵則直。
則直は紀伊保田庄の豪族で元は保田則直と言ったが、伊賀予野の服部氏の養子となり服部姓を名乗った。

則直は千賀地谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれる。

元則は則直の次男として生まれ伯父の保田栄西の養子となって保田姓を名乗り、伯父と一緒に増田長盛に仕えた。


【藤堂家へ】

関ヶ原の戦いで増田家が改易されたため、1601年に藤堂高虎に仕え1500石を与えられる。

1606年に兄・則宗と共に徳川家康に謁見し、彼の命令で藤堂姓に改めた。
大坂冬の陣に従軍し功があって500石を加増される。


夏の陣にも従軍し八尾・若江の戦いで、井伊直孝軍への軍使として向かい、玉串で高虎の言葉を伝えた。
そしてそのまま木村重成隊と戦い首級を得た。    わたしが大好きなオトコ!
この働きを直孝に賞され自身の槍を授けられる。
翌日の戦いでは八尾での先鋒の壊滅により左先鋒の一人となった。


【普請監督】

陣後、それらの功により合計5千石の領主となる。
1628年に大坂城に赴き普請監督を務めた。

1640年に伊賀上野城代の藤堂高清が死亡したため次の城代となる。

1651年に隠居し家督を息子に譲って可休と号した。
その後、病気となり京都で療養したが回復せず1660年5月24日に死亡する。

遺体は京都の黒谷で火葬され伊賀長田村の西蓮寺に葬られた。
妻は佐伯惟定の娘。

管理人さんから・・・元則は土木関係にに強かったようで、高虎の築城の手伝いをよくしています。兄の則宗は家康に仕えて3千石の旗本となったそうです。また父は有名な服部半蔵正成とは別人です。関係もよく分かりません。




で、湯浅五助隆貞という大谷吉嗣の一の家来について:「真田丸」で片岡愛之助の弟子の片岡愛一郎が演じた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E4%BA%94%E5%8A%A9

大谷吉継は自害する前に湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い遺して果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。

埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。


                      
                       藤堂高刑 はレス<47>の4番目に記した高虎の甥と書かれた武将ですね。
                       実は藤堂高虎の家臣。
                       本姓は鈴木氏で、後に藤堂姓を賜る。
                       父:鈴木弥右衛門、母:藤堂虎高の娘=高虎の姉
                       仮名は仁右衛門。
                       室は織田信清の娘(藤堂高虎養女)。





藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。
五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っていたはずだと、高刑を詰問した。

しかし高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わず、自分を処罰するように求めた。

その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという。

墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。
合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、
大正5年(1916年)、五助の子孫により建立された。


なんかすっごく美しいハナシですね。
オトコの美学がある!
家康もリッパ!
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2019年09月02日 09時00分06秒 ) パスワード

新しくスレッドを立てました。http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101687.html
キリの良いところで、どうぞ。
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