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 投稿番号:101679 投稿日:2019年07月27日 18時30分16秒  パスワード
 お名前:則岡流島崎氏
兵庫県淡路島の「正井家」について

コメントの種類 :質問  パスワード

私の友人が兵庫県淡路島の淡路市東浦町出身だそうです。
姓は父方だと「砂田」母方だと「戎」との事です。
共に武家だそうです。
もしそうだとすると両家は、当事彼の地を支配していた「正井家」の一族ではないかと推測されます。
また、この家は菊地一族の末裔とのことで、彼の地にある「松帆神社」を創建しました。
この神社には、「菊一文字」という、国宝の刀を所持しており、刀の柄には「菊水」の紋が刻印されています。
話はそれましたが、「砂田」「戎」両家と「正井家」との関係を知りたいと思います。
よろしくご教示の程よろしくお願いいたします。

[1]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年07月27日 18時40分15秒 ) パスワード

追伸
元々彼の地には湊川の合戦の前日、大楠公の家臣「吉川某」というものが、大楠公の形見である八幡大菩薩の宝物を彼からお預かりし、現在の淡路市東浦町楠本と云うところに祠を建てて、お祀り申し上げたとの事です。
「正井家」がどういう経過で成立したかは、私の勉強不足でわかりませんが、彼の地において、一貫して、南朝方であったとの事です。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 10時49分34秒 ) パスワード

則岡流島崎さま

全く分かりませんが
検索してみました。



正井氏

https://name-power.net/fn/ 正井.html#マサイ
推定では好字の「正」と水を汲む場所から。
兵庫県南あわじ市賀集野田・賀集福井で1470年(文明2年)に記録あり。



https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%AD%A3%E4%BA%95

【名字】正井
【読み】まさい,しょうい,ただい
【全国順位】 4,276位
【全国人数】 およそ2,700人

あわへの路という意をもつ現淡路島の豪族、
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵、現大阪府北部と兵庫県の一部である摂津等にみられる。

近年、兵庫県に多く、特に淡路島に多数みられる。



正井将監公について
http://matsuhojinjya.com/posts/post9.html


             管理人さん、感謝します。無断コピペ、お許しを。


以下コピペ
松帆神社ブログ第10回・松帆神社を建てたお殿様の秘密


松帆神社を建てたお殿様・正井将監

松帆神社の創建は、御由緒のページにも記載のある通り応永6年(1399年)と記録が残っています。

元々は東浦一帯でも一番北部にあたる楠本村の山中に、楠木正成公の家来 吉川弥六達が、正成公が日々尊信されていた八幡大神の神璽(文殊)を御神体とした祠を建て、その御神徳が評判となり現在の場所に奉遷された…との経緯が伝承されていますが、それに深く関わり当時の浦村(現在の淡路市浦)・来馬村(現在の淡路市久留麻・仮屋)を中心とした東浦地域一帯の氏神とする事を主導したのが、当時の領主・正井将監(まさいしょうげん)です。


※(注):正井将監には「向井将監(むかいしょうげん)」という別名もあるようですが、江戸幕府の船奉行として有名な向井将監とは全く関係がないようです。



正井将監の居城は、現在の神戸淡路鳴門自動車道の東浦IC付近にあったそうで、現在も「城の土居」「向井殿」と呼ばれる遺構が残っています。

いずれも、まだ本格的な山城が築かれる前のもので、脇を流れる浦川と周囲を巡らした濠に囲まれた小高い丘の上に居館があったようです。


画像略
+「城の土居」 ※現在の淡路市浦 小田(こだ)・奥地区にあります
+「向井殿」 ※「城の土居」のすぐ東側・向かいにあり、正井将監が住んだ、もしくは一族が住んだとも言われ、詳細は不明です



東浦一帯にこれだけの居城を持ち勢力を誇った正井将監ですが、現存している資料では正確に何時ごろからこれだけの領地を治めたのか分かっていません。

ただ、室町幕府の治世の下、南朝方の象徴でもある楠木正成ゆかりの神社を創建するとは、何とも思い切った行動ではないでしょうか?

しかも、当時の淡路島(淡路国)は、室町幕府の管領(かんれい:足利将軍家を補佐する最高の役職)であると同時に四国全体と淡路国を領地として治めた重要人物・細川頼之(よりゆき)の支配下にあったのですから…。


正井将監の秘密

実は、正井将監の末裔・正井家に伝わる文書に、にわかには信じ難いような正井将監の出自が語られているのです。

その中で、正井将監は元の名を「菊池能平(よしひら)」と言い、南北朝時代の南朝の武将として湊川の戦いにも参戦し、その後領地のある九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を中心に九州南朝軍として戦った武将「菊池武重(たけしげ)」の孫であると書かれているそうです。


菊池武重は、湊川の戦いでの楠木正成の戦死・その後の新田義貞軍の北陸への敗走という逆境下で後醍醐天皇と行動を共にし、一時足利尊氏に後醍醐天皇と共に捕らえられましたが、単身脱出し九州に戻りました。

その過程で、武重の孫がいかにして淡路北部の領主になったのか…不明な事ばかりですが、そもそも足利幕府の世の中で南朝方と言ってよい領主が京都に近い淡路島にいた事が驚きです。


ただ、正井将監のこうした出自・背景を踏まえると、南朝方の英雄である楠木正成ゆかりの八幡神社創建に尽力したのは大変自然な事に思われます。

実は、松帆神社は楠木正成公ゆかりの神社である…という神社に残る伝承の他に、胞洲誌という古文書には「応永6年時の城主向井(正井)将監、男山より勧請、面々氏神として崇め祀る」との記述もあるそうなのですが、これは恐らく室町幕府や細川家に向けた偽の報告がそのまま残ったものであると思われます。


また、調べていくと松帆神社が創建される応永6年(1399年)の頃までは、室町幕府は鎌倉幕府や徳川幕府とは比べ物にならない程、脆弱な体制であった事も分かってきました。

最近、室町時代後期に発生した「応仁の乱」が話題になっていますが、室町時代の初期・いわゆる「南北朝時代」の室町幕府の内情も、応仁の乱当時に全く負けない位ダメダメなのです。

その原因は、天皇が南北朝双方に立てられた事による権威の低下と、足利将軍家と有力武将による権力闘争です。

世に有名な「太平記」ではこうした部分にも言及があるのですが、一般に知られているのは湊川の戦いや楠木正成の長男・正行(まさつら:小楠公とも言われる)が討ち死にした四条畷(しじょうなわて)の戦いまでの辺りで、残りはほとんど誰も知らないのではないでしょうか?

以下に南北朝時代の動乱の概略を記しますが、これだけでも当時の混乱ぶりが想像できます。



<南北朝時代の主な戦い・動乱>

<延元元年(1336年)>
湊川の戦いの後、後醍醐天皇は京都に入った足利尊氏に一旦降伏するが、吉野に逃れ南朝を開く

<正平3年(1348年)>
四条畷の戦いで、楠木正行(小楠公)はじめ南朝の主要な武将が戦死

<観応2年(1351年)>
観応の擾乱(じょうらん):室町幕府の政治面のトップを担っていた尊氏の弟・直義(ただよし)と軍事面トップの足利家執事・高師直(こうのもろなお)が対立、師直が軍事クーデターで尊氏の屋敷に逃げ込んだ直義を包囲、争乱を納めるべく直義は出家。これを見て尊氏の子ながら直義の養子となっていた・直冬(ただふゆ)が九州で南朝方と結んで勢力を拡大、直義も京都を脱出して還俗し南朝に寝返る。足利尊氏、二代将軍義詮、高一族を中心とした幕府軍は直義の元に集まった南朝軍に敗北し、和議の条件として高師直を始めとした高一族を罷免。高一族は京都に護送途中に惨殺される。

その後、直義の報復と勢力拡大を恐れた尊氏は、直義の後ろ盾となっていた南朝を懐柔し直義追討の綸旨(りんじ)を得るべく南朝に降伏し、一時的に北朝の天皇が廃された。直義は鎌倉に逃れたが降伏、間もなく病死。(毒殺の疑いあり)

一方で増長した南朝軍は京都に侵攻し、北朝の光厳上皇や皇太子、三種の神器を当時の南朝の本拠・賀名生(あのう)に拉致してしまうが、室町幕府軍に駆逐され南朝軍は賀名生に撤退。一時的な南北朝統一は破談となり、幕府側は再び北朝の天皇として後光厳天皇を三種の神器なしで擁立。

<文和4年(1355年)>
直義死去後、九州から落ちのび石見に勢力を持っていた足利直冬と南朝方が手を組み京都を奪還するが、幕府軍に攻め返され敗走。

<康安元年(1361年)>
2代将軍義詮の執事・細川清氏が義詮との対立を経て反乱、南朝方に寝返る。南朝方の主力 楠木正儀(まさのり・正成の三男)や清氏の従弟で当時の淡路国守護であった細川氏春と共に京都に侵攻するが、幕府軍の反撃により逃亡先の讃岐で従弟の細川頼之に攻められ戦死。細川氏春は降伏した為、罪を許され淡路国守護に復帰。

<康暦元年(1379年)>
3代将軍義満の後見人であり、将軍就任後は将軍を補佐する管領に就任した細川頼之に反抗する勢力がクーデターを起こし、義満の花の御所を包囲して頼之の罷免を要求、認めさせた。頼之は出家し、本拠地の四国に戻った。

<康応元年(1389年)>
美濃・伊勢国の守護大名である土岐康行の反乱が鎮圧される。

<明徳2年(1391年)>
摂津・但馬・山城国の守護大名である山名氏清らの反乱が鎮圧される。

<明徳3年(1392年)>
南朝方の武将・楠木正勝(正儀の子)が幕府軍の追討を受け敗走、戦力のなくなった南朝方は三種の神器を返還する事に合意。56年ぶりに南北朝の分裂状態が解消された。



以上ですが、どうでしょうか?
これだけ幕府が揺らぐような事態が連続していると、淡路の片隅に南朝方の領主がいても年貢さえきっちり納めているのであれば、不問に付されても不思議はありません。
しかも、淡路国守護の南朝方への寝返りもあって、淡路島は一時ではあるものの南朝の勢力圏に入っているのですから尚更です。



領主 正井将監の退場

ただ、3代将軍義満の代になり、徐々に室町幕府の統制も強まり、四国全体と淡路国を統括する細川家の管理も厳しさを増したようでもあるのです。

正井家文書には、明徳元年(1390年)に細川頼之の下知(命令)に従わなかった正井将監が処罰を受けそうになったが、足利尊氏の三十三回忌の特赦として許された…との記述があり、統制強化を裏付けています。

1399年の松帆神社創建以降に 正井将監は領主としての任を解かれ、その後は浦村より更に山側に入った白山村の庄屋に任命され、代々庄屋の家系として白山地区に根を張ることになるのです。



こうして見てきたように、正井将監が東浦の地に権勢を誇ったのは限られた期間ではあったようですが、松帆神社以外の神社創建にも尽力したとの伝承が残っており、その影響力は大きなものであったようです。

また、正井将監は松帆神社や他の神社創建にあたって、その場所決めや配置に非常にこだわったのではないか…と思われる状況証拠が多数残っているのですが、こちらについてはまた別の機会に…。

【参考文献】「東浦町史」(東浦町史編集委員会著)

2017年05月19日



(正井)向井将監について


http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-aea4.html

             管理人さん、勝手にコピペをお許しください。

2009年4月22日 (水)
向井将監正方夫妻の墓
横須賀は大津の高台にある住宅地の一角に向井将監正方夫妻の墓がある。


この画像に  先祖は南朝の水軍の将として勇猛を馳せた人物  と書かれています。


なので  一致すると良いですね。


コピペ続き
この向井家は南北朝時代から知られる水軍の長で、代々に渡り左近衛将監と舟手奉行を世襲し、「向井将監」の名を継いで江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めたのである。

で、この正方は、向井忠勝の五男で、父に代わって寛永15年(1638)に幕府の船奉行を務め、百余名の同心を預けられて江戸湾の警固を担当した。

正方は、延宝二年(1674)に亡くなるが、墓所は江戸を見渡せる場所がよいと望んでいたので、江戸湾を見下ろす竹林山貞昌寺の裏山に、妻の墓碑と並んで置かれた。

この墓は平成13年に住宅地の造成のため往時の場所から約20m移転している。

海に囲まれている三浦半島、三浦水軍をはじめ海にゆかりのある歴史が残っているのである。



三浦水軍なのか?
それとも瀬戸内海の塩飽衆=勝海舟が咸臨丸で洋行した時塩飽衆が船を走らせた=なのか?
村上水軍なのか?
菊池水軍なのか?

このあたりの史料を各地から取り寄せたら良いのではないかと思います。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 11時12分37秒 ) パスワード


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%88%8E

【名字】戎
【読み】えびす,かい,じゅう
【全国順位】 4,313位
【全国人数】 およそ2,700人

兵庫県伊丹市、
徳島県美馬市穴吹町がルーツのひとつ。
兵庫県、徳島県に多数みられる。 

エビス信仰のある場所が語源。



https://name-power.net/fn/%E6%88%8E.html
エビス 【戎】5 日本姓氏語源辞典

兵庫県、大阪府、和歌山県。
@創賜。福徳を授ける神で七福神の一つのエビスから。
和歌山県日高郡由良町衣奈に分布あり。
A兵庫県淡路市仮屋の小字の戎から発祥。



武家  戎氏 で検索したら

河野氏の歴史と日本の歴史 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/62/0/62_62.../en
- Translate this page
節では、前述のように、河野氏の始祖・伊予皇子を、孝霊天皇第三皇. 子とする。 此 ...... 武家. 家伝というもののあり方を、ここまで具体的に示している資料は珍し. いのでは ...

が出ました。


そして開いたら  「予章記」  が出ちゃいました。
あはっ


懐かしい  山内先生や佐伯真一さん  (その上に  景浦先生のお名前が出たら  平伏せずにはおられません)のお名前が書かれていました。


内容はわたくしのPCでは読めないのですが
モロにわたくしの母方ですね。
「予章記」はまさに    我が家の   つまり  南朝方だった  わたくしの家の記録のことです。

          使用漢字が南朝方の文字が使われていて、そこで、北朝方の河野さんとの違いが分かります。



今宮戎神社のことは知りませんが住吉大社と我が家は切っても切れない関係であり
住吉大社は南朝方でした。



戎さんのことは記憶にありませんが


水軍の正井さんって?河野一族の正岡さんと関係があるのかな?と最初思いました。
正岡子規で有名な正岡氏です。

戎さんと河野水軍とは関係があるのかしら?


村上水軍や塩飽水軍との関係があるのかなと思い始めました。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 12時38分18秒 ) パスワード

砂田氏


分かりませんが、おそらく、西郷さんのご先祖=菊池氏=がらみ、確かに南朝方がらみです。
ウダウダ書いていきます。素面なのになんとなく酔っ払い状態です。
先祖からのパワーが来てるので。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A0%82%E7%94%B0

【名字】砂田
【読み】すなだ,すだ,さだ,さた
【全国順位】 1,359位
【全国人数】 およそ12,500人
現栃木県である下野国河内郡砂田村起源とも言われている。  ← 下の方に肥後国菊池さんも書きます
近年、広島県に多数みられる。

分布図で見ると愛媛県や広島県・岡山県に多いですね。
愛媛と広島の関係でしたら、
伊予の河野家最後の当主が小早川隆景の娘と婚姻して竹原に引き取られたから、このあたりに多いのかな?と思いました。

     竹原の長生寺に行きましたし竹鶴酒造にも行きましたし頼山陽のナントカにも行って
     帰国後水戸さまから「日本外史」をせしめました。あはっ
     

         長生寺でご主君の墓の写真を撮って来て、わたしもオバもその息子も大変な目に遭いました。この子の息子はNYに住んでいる。
         いっぱい殉死した一族の者が写ってました。


アタマの中がグルグルしているのですが
まさに「南朝方」というククリで色々思います。

    ただし  砂田氏についてはサッパリ分からないのですが
    何か  肥後菊池の砂田と伊勢の南朝方48家  が浮かびます。

先祖パワーがアレもコレも語って来るので入力が間に合わないよぉ〜


菊一文字の刀は  まさに  後鳥羽上皇がらみ。
沖田総司も出て来ますね、総司のは恐らく大和守安定だろうと、もうちょっと時代が下がる、らしい。
そして足利家のは愛宕神社で国宝ですし、松帆神社にも社宝でありますね。


後鳥羽上皇はまさに河野家と関係があります。
うちは女紋が覗き菊紋です。
これは後鳥羽上皇がらみで。理由はヒミツ!


    あの人さぁ、と後鳥羽上皇の事を書こうとしてしまいましたっ(赤面)
           後ろで先祖パワーが「あの人さぁ」と言ったから。笑

    後鳥羽上皇は刀打ちが好きで、自分でも刀を打ってた、らしい。
    とんでもない「戦う上皇さま」で、後醍醐天皇の先駆者。
    後鳥羽上皇は「西面の武士」を設け、我が家も西面の武士で、後鳥羽上皇  自ら  お作法  を御教授くださいました。

         うちは母方が後鳥羽源氏で父方が後醍醐源氏。でも母方は越智氏で父方は平家だよ。



砂田家というのはハッキリ分かりませんが
なんとなく北勢48家に関係するように思います。←→さらに肥後の菊池さんとも相乗する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8B%A2%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%B6

このサイトには古くは平家、そして南朝方の家々、さらに反信長の家の名が出て来ます。
伊勢平氏だけでなく、群馬の南朝方の家や、楠さんがらみの家もあるし。


本日改めてこのサイトを見たら  赤堀家は本貫地が群馬になっていました。新田さんですね。
赤堀さんは尾張の津島神社を中心とした吉野朝忠臣4名家7名字そして5名姓の1つだった記憶です。


      日本は名字がコロコロ変わりまくるので
      砂田姓がどこから変ったのか現代から捜すのは難しいですが
      下の方へと読んでいけば答えは出ると思います。



菊池さんでしたら熊本でしょう?
西郷さんもこの菊池氏の末裔だそうです。
菊池さんは新田の指揮下に入ったし。
      

砂田姓については  西郷さんがらみで  砂田  という地名があります。
https://www.kireilife.net/contents/area/history/1190660_1504.html
熊本県菊池市七城町砂田   これが  西郷さんのご先祖さまの出身地!  ジャーン!


西郷隆盛祖先発祥の地
2566 Shichijomachi Sunada
なんでローマ字で出る?笑


だからね
そういう事なのです。


徳川家康最愛の妻「西郷局」は菊池の子孫だから    養父は服部さんね
幕末の戊辰戦争で会津藩が大変な目に遭った時
会津の家老だった西郷さんは必死の思いで新政府軍の西郷さんに会いに行って
会津藩主松平容保の命乞いをしました。

やっぱり先祖は大切にしないとね。


西郷さんのご先祖は懐良親王に従って九州征伐に行って肥後に定住し後に鹿児島に行ったのですよ。
    と、見て来たような書き方
    先祖パワーが「書け、書け」うるさい。

鹿児島の島津の家老だった「小松さん」は平清盛の嫡男の重盛の子孫なんですよ。ここで「平家」が繋がった。


だから  平家=南朝方  が繋がって  菊池さんの一族というのもちゃんと証明されました。
チャンチャン
    って、書け、ってご先祖さまがはしゃいでます。


[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 12時58分08秒 ) パスワード

1つ書き忘れ:

先祖が怒ってる
1つ書き忘れたぞ、
って。


わたしは松浦さんの血は入ってるけど菊池さんには親近感を持ってたレベル。

菊池一族の竹崎季長さんが元寇で活躍した姿を戦後の永仁元年(1293年)に絵巻にして、恩賞を頂いたのですが

当時神埼に土地を持っていたうちの先祖も3人が元寇に出て
叔父は討ち死にし、先祖は怪我をし、その子(私の34代前。14歳で初陣)も怪我をし

竹崎さんの絵巻にも描かれ(お見舞いに来てくれた時の様子も描いてくれてる)

で、うちの先祖は
『予章記』に
肥後国下久具村(現熊本県宇城市)も恩賞地として賜ったと書かれています。今の熊本県宇城市松橋町久具のことかな?市役所のスグ近く?

     (パパが17歳の時に生まれた)わたしの34代前の先祖は新潟の魚沼にも土地を貰っています。
           でもわたしは魚沼産のコシヒカリは好きじゃない。仙台のササニシキの方が好き。


先祖がいろいろ語りかけて来てうるさいけど
ま、
こんなところで良いでしょうか?


つまり砂田さんと戎さんは南朝方でしょうね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 13時45分46秒 ) パスワード

休憩してアタマを休めて来ました:

肥後国菊池氏の正井さんの件でしたね。


こんなブログを見つけました:
https://ameblo.jp/takanohashison55/entry-12458837029.html
菊池肥後三郎頼隆の子孫
2019-05-03 15:01:12


                ブログ主さん、勝手にコピペ、ごめんなさい。


菊池第12代武時の子、
13代武重及び武重弟の三郎頼隆の子孫という
家系があるそうです。

流通科学大学 中山一郎著
「淡路市仁井地区小田の正井家系図」
という論文に書かれています。


以下略


ということで検索に行って来ました:

https://www.google.com/search?ei=3ic9Xem5DIb6-gTpqKxA&q=%E3%80%8C%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%B8%82%E4%BB%81%E4%BA%95%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E5%B0%8F%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BA%95%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%80%8D%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E3%80%8C%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%B8%82%E4%BB%81%E4%BA%95%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E5%B0%8F%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BA%95%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%80%8D%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2964.2964..4654...0.0..0.131.131.0j1......0....2j1..gws-wiz.......0i71.B50JMzndPLI&ved=0ahUKEwjpoNnM5tbjAhUGvZ4KHWkUCwgQ4dUDCAo

[PDF]
淡路市仁井地区小田の正井家系図 - 流通科学大学論集
https://ryuka.repo.nii.ac.jp/?action=repository...
- Translate this page


by 中山一郎 - ‎2018
かつて淡路市仁井地区小田にあった正井家は中世末から近世にかけて庄屋を務めていた北 ... キーワード:プロジェクト N、仁井地区小田、正井家、正井家系譜、正井家々系.


わたしのPCでは読めないです。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 15時45分48秒 ) パスワード

先祖パワーが強過ぎたのか?何故だかエアコンが動かなくなってました。エアコンを自力で直して、その間、アタマ冷やしてたら気が付いた!


松浦さんとは親戚
ヨメが来てる。
これは家書に書かれている。


菊池さんは平家がらみで
だから父方でいろいろあったと思う。
父方は肥後にいたし。
だから父方は菊池さんとは親戚関係にあったろうと想像する。


長いコト、母方は菊池さんとは関係無いと思ってたけど

今日、竹埼さんのことを『蒙古襲来絵詞』にうちの先祖の姿も描いてくれてたなと思い出して
その友情に感謝したのだけど

ヲイヲイ!

なんでウチのことまで描いた?
友情だけで?


と思ったら、それ以上のことが有ったのだろうな、と。


竹崎氏は菊池一族の中では冷遇されていて
元寇で頑張ってもなかなか恩賞を貰えず
それで怒って絵巻を画いたわけ。

その中でうちの母方先祖の姿も描いて
     (うちの母方先祖は源平時代北条時政の娘をヨメに貰って頼朝と相婿という家格)
自分の活躍をアピールしたのだろうと思う。

お蔭さまでわたしの若造だった先祖も土地が貰えたし。


      菊池氏って何か好き。

      今住んでる所で最初に友達になった人も菊池さんだし。
      この菊池さんは「毎週金曜はハワイに直帰する」って家族。平成になってもバブルしてた(もっとスゴイ話があるけど秘密)
     
      で、うちのお隣さんは長尾さんで、上記菊池さんとはお嬢さん同士がお友達。この長尾さんも負けず劣らずのスゴイ家。

            長尾景勝は魚沼の人です。
            で、叔父の上杉謙信の養子になった。

            で、上杉景勝が転封になった時に入れ替わりに来た堀家に
            越後に残ったわたしの親友のご先祖さまや、わたしの魚沼の一族が堀家に嫌がらせをしている。

      うちの近所の友達は今川義元の家臣の朝比奈一族。
      わたしの父方は義元と組んで信長を殺すはずが・・・

                  まだ他にもいるけど、
                  みんな戦国時代にドジったお仲間です

      
    (恩賞を与えるような余分な土地が鎌倉幕府には無かった。敵はモンゴルですものね。恩賞欲しかったらモンゴルまで取りに行け、と   笑)


だから竹崎さんはわたしの母方のことも描いて「恩賞頂戴運動」を展開したのかなと。



こうやってグダグダ書いてたら、いろいろ思い出しました。
ワタシ達の回りって、日本人ですから、日本史がそのまま今に続いているんだな、と。


わたしの大好きな諫早の西郷家(竜造寺に滅ぼされた)
ここの侍大将に服部右京というのがいました。


知らない同士・他人の関係でも、調べてみると、やっぱり先祖がらみで深い意味があって親しくなるんでしょうね。
[8]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年07月28日 16時42分04秒 ) パスワード

空の青海の青 さま

ごぶたさしております。
そして多くの有力情報をありがとうございました
ここに来てまた、私の周囲がざわついてきました。
「砂田」「戎」家は以前ご紹介した、近々結婚する彼女の父方の実家です。
因みに母方の実家は、例の「東根家」です。
彼女の「砂田」方の祖父が、先祖調べを熱心に行っていたようですが、その思いは叶わず、お亡くなりになりました。
一昨日私が誘って、彼女ととあるスポーツ公園に出掛けました。
驚くことに、その公園の正面が、彼女の実家の砂田家の墓地公園でした。
素通りするのも、失礼ですので、お墓にご挨拶に伺いました。
すると、平日にも関わらず、遠方に住む彼女の叔父様が墓参に来られていました。
その日以後、テレビに「松帆神社」の特集など、私の周囲に淡路島に関する情報が集まって来ました。
おそらく、あの墓参をとおして、彼女の祖父が私に先祖を明らかにすることをご依頼されたのだと思いました。
この与えられたご縁を大切にし、出来る限りの事をしたいと思います。

[9]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年07月28日 17時10分05秒 ) パスワード

追伸

彼女の亡くなった祖父は、「砂田」「戎」両家とも「平家」の落人と言ってたらしいです。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月28日 22時56分44秒 ) パスワード

則岡流島崎さま

>一昨日私が誘って、彼女ととあるスポーツ公園に出掛けました。
>驚くことに、その公園の正面が、彼女の実家の砂田家の墓地公園でした。
>素通りするのも、失礼ですので、お墓にご挨拶に伺いました。
>すると、平日にも関わらず、遠方に住む彼女の叔父様が墓参に来られていました。
>その日以後、テレビに「松帆神社」の特集など、私の周囲に淡路島に関する情報が集まって来ました。

そうなのです。
ご先祖さまを敬愛すると、降るように!雪崩のように!いろいろな事が向こうからやって来るのです。


わたくしは母方の事は知っていました。
84代目の自覚がありました。

しかし父方のことは取るに足りないと思って興味も何もありませんでした。
ところが変なオットが「自分はムカシ蟹だった。赤間神宮に行きたい」と言い出し
    赤間神宮なんて名古屋から日帰りするの、面倒じゃないか、と何年も行かずにいて

ある年、気まぐれで連れて行ってビックリ!

チラチラ見て名古屋に帰ろうとパンフレットをバス停で時間潰しに開いたら赤間神宮に七盛塚のあることを知り
驚いて戻り

そして帰りの新幹線で*昼間だったのでガラガラ*オットと遠く離れて座っていたら
バックパックを背負った背中に「来てくれてありがとう」と言う手を感じました。


ここの管理人さんのお話では
ソコのあたりは    赤間神宮の海のあたり?  だったそうで
ココから心を入れ替えて父方を調べるようになりました。


そうしましたら降るように!雪崩のように!父方のことが向こうからやって来ました。


それをわたくしは  平熱はオカルトがかってる  先祖パワーが来る  と名付けています。


知り合う人も意味があるのだな、と。


大学生になった時、6年一貫教育の女子校出身でオトコ解禁になったばかりのわたくしの前に、いろいろな男の子達が現れましたが

やっぱり  意味のある出会い方  をしていました。


中に淡路島の人もいました。
日本最古の場所ですよね。
日本発祥の地。

名前も覚えていない人で学部も覚えていませんが
この人の笑顔は印象に残っていて

今になれば(あの笑顔はどういう意味だったの?)と気になります。
何を言いたかったのかな?


母方が今治あたりから大坂に出るのに淡路島に寄ったからなのかと今は思います。
おそらく先祖繋がりの笑顔だったのでしょう。


どんな人だったのか全く覚えていないです。
    淡路島の人。
    笑顔のステキな人。
これだけです。


当時  大ッ嫌いな人がいて   この人は   父方で  10世紀ごろからの刎頸の朋の家の人   でした。
いちいち構ってくる鬱陶しいヤツで逃げ回っていました。姿を見掛けないように。通りですれ違わないように。


でもオットの話の蟹だの赤間神宮だのが分かってから
何故避けていたのか?
何故大ッ嫌いなのか?


     近親憎悪
     でした。


10世紀からのお付き合いの家ですからね。
当然、わたくし達2人には分け合う血・遺伝子があったのでしょうね。


初めて出会った時に感じた彼の後ろに見えた馬上の黒っぽい武将の姿が
2人が初めて出会った場所が
なんとワタクシの先祖が南朝時代寸前まで後醍醐天皇のお召しに預かるまで住んでた場所でした。
コレがハッキリ分かったのは今年になってからです。
キャハハ


長い長い心の旅路でした。
1180年代からの。
源平の戦いの時からの。
馬上の武将は藤戸の戦いに行く姿でした。平行盛さまの乳兄弟でした。


あの「大ッ嫌い」の意味は   なんでワタシに黙って死んだのよッ  という怒りだったのかな?



なので則岡流島崎さまは彼女とご結婚なさったらお幸せになれますよ。
だって彼女の全てが分かったのですから。ご先祖さまぐるみで。


少なくとも南朝で繋がるし
その前は
地理的に平家と繋がりますから

出会うべくして出会ったのです
恐らく
1000年ほどのお知り合いの家同士でしょう。


あ、わたくしの母方は一応平家に仕えていましたが
平維盛の目代が横柄なヤツで
結局
それで平家を見限って頼朝に呼応したのでした。


日本人で武家なら源平時代や南北朝時代それに戦国時代を経験していますから
それらの時代の血と涙を共有しているのですから
分かり合えますよ。


この平熱の板でも  母方and/or父方で繋がる人  に出会ってます。
【幸せになろうね】
と思います。


お幸せに!
[11]則岡流島崎氏さんからのコメント(2019年07月29日 06時12分34秒 ) パスワード

空の青海のあお 様

ありがとうございます🎵
あなた様のお言葉を胸に、更に調査に勤しみます。
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