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 投稿番号:101655 投稿日:2019年02月20日 03時02分20秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]\:119:三つ柏紋の謎解明成功
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101652_75.html
長上郡の服部氏族C][:118:酔石亭主様ご降臨
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


「姓氏家系大辞典. 第5巻」服部氏
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956
酔石亭主様よりご紹介頂きました。
コマ番号126左頁より参考に。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230028/31?tocOpened=1

 
『伊水温故』の国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208491



以下柏紋について<レス73>より三つ柏さんのレスをコピペ:

「丸に三つ柏」について、ついにわかりました――
レス[34]において、「三つ柏」の表象的な意味について、次の三つの観点から解明を試みました。

@「柏」の意味するもの
A「形象(ほぼ三つ丸の形)」の意味するもの
     「三位一体、あるいは三位三体の神」
B「葉脈(七本と九本がある)」の意味するもの
     「メノラー(七本の燭台)、そしてハヌキア(九本の燭台)」

参考:
川守田英二氏の著「日本へブル詩歌の研究上・下」
 「柏(カシハ):聖語の「カシワ」(QSWH) "cup,dish,bowl" 
 即ち「盃」「皿」「碗」のこと。
「カシワ」の葉で皿を作って食物を盛った。


このことを論理的に整理しますと――

@元々、ヘブライ語で「カシハ」と発音される単語があった。
 その意味するところは、「盃(さかずき、大きな木製の器)」、「皿」、「碗」のことであった。

A木製の盃や皿や碗の代わりに、「大きな手の平のような葉っぱ」をその代用とした。

Bやがて、その葉をつける木を「カシワ」と呼ぶようになった。 

Cある時期、中国からの漢字を当てはめるのに「柏」を選んだ。
この「柏」の文字は、いわゆる「柏餅に使われるカシワ」のみを表わすのではなく、
元来はもっと広い意味、即ちヒノキ科やスギ科の針葉樹を意味するものであった。
  

さて、私はこの「丸に三つ柏」紋を「出雲」の匂いがすると書きましたが、
出雲大社には、その要素のすべてが揃っておりました。

@スサノオの「柏の葉」占い
A古代出雲大社の「三本の丸柱を束ねた三つ柱」
Bメノラー、及びハヌキア

このBについて、
今月発売された月刊『ムー 三月号』において、
飛鳥昭雄氏は

「古代の出雲大社にはハヌキアが安置されていた。
また、メノラーは隠岐の玉若酢命神社にあった。
八咫烏が隠岐に渡り、メノラーを出雲大社へと移し替えた。
メノラーやハヌキアは燭台であり、
そこに灯される火は、
絶対神ヤハウェの栄光を意味する。」


結論――
「丸に三つ柏」は「ユダヤの神の概念を表わす紋章」
また日本でのユダヤの原点は出雲にあった、
と私は推察するに至りました――

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月20日 11時51分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 「出雲」について、また「出雲と平家の関係」について、考察をして行き
たいと考えます。
 その前に、出雲大社の太いしめ縄が三本でできていると誤認しておりまし
たので、訂正させていただきます。写真をよく見ると、二本の太いしめ縄を
ねじって巻き付けています。但し、円錐形の藁が三つ垂れ下がってはおりま
ので、聖数「三」にはからんでおります。

 雑用がありますので、一旦切ります――
[2]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月21日 11時58分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、歯医者にて歯を一本抜きました。麻酔も効いておりましたので、
夕食はおかゆにして、早々と寝てしまいました。乳歯ではありませんので、
「カムバック」はありません――「ただ消え去るのみ」であります。その
内、歯の再生も可能になる時代が来るかも知れませんが、おそらく私の代
では無理でしょぅ――残念ではありますが。

 さて、平家について色々調べております。出雲との関係もないようであ
るのではないかと、直感的に思っております。

 四年前に、熱田神宮で「出雲名宝展」があり、見に行ってきましたが、
その中で私が一番心に感じたのは、濃緑(あを)色の瑪瑙の「勾玉」であり
ました。展示品を照らす小さな光の下で、その光を吸収してまるで生きて
いるかのような輝きを放っておりました。その時、時間は止まり、一瞬が
永遠のように思えました。私は、「永遠の恋人」に出会ったような感じが
して、その勾玉と別れるのはつらい思いでありました。今でも、その輝き
は目に焼き付いております。
 三年前に出雲に行った時、その勾玉と同じ色の勾玉を、形は小さいです
が購入してまいりました――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月21日 14時45分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


抜歯後はインプラントになさるのが良いかもです。
抜いたままにしておきますと歯並びがガタガタになりますから。

わたしは2年前に歯ぎしりから右上奥歯から2番目の歯の内側が割れてしまって
4分の3残っているのでそのままですが。


面白かったサイトのご紹介:

タイトル:
出雲神話は本当です、これが分かれば日本が分かります
http://ondonpi.hatenablog.com/entry/2016/04/23/123615


タイトル:
平安末期の出雲国
        出雲国における親平家勢力の台頭
        時代背景:清盛の祖父の平正盛:平家の繁栄の礎を作った人
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/696.html



ウイキより
平正盛の官歴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B
]

※日付=旧暦
承徳元年(1097年)8月25日現在、隠岐守。位階不明。
康和3年(1101年)9月23日現在、若狭守。
康和4年(1102年)7月21日、若狭守を重任。
嘉承2年(1107年)12月19日現在、因幡守。
天仁元年(1108年)1月24日、但馬守に遷任。
天永元年(1110年)10月12日、丹後守に遷任。
永久元年(1113年)4月30日、備前守に遷任。
永久5年(1117年)11月26日、従五位上に昇叙。備前守如元。
元永2年(1119年) 5月6日、洛中強盗追捕の命を受ける。
5月26日、正五位下に昇叙。備前守如元。

保安元年(1120年) 1月6日、従四位下に昇叙。備前守如元。
12月14日、讃岐守に遷任。(保安2年(1121年)1月26日まで在任確認可能)

保安2年(1121年)4月2日、卒去。(卒去年月は説の一つ)

※宮崎康充「国司補任」続群書類従完成会や中御門右大臣藤原宗忠『中右記』等参照。


そうか
平家の繁栄の基は清盛のおじいちゃんの時からだったのか。


        伊賀の服部家長や嫡男の平貞能さだよし=津島神社の大橋家の先祖=や伊賀の平田家継などの父である家貞は
        正盛の代から維盛の子である六代さまの6代に至るまで  
        文字通り6代に亘って平家の家令(家老)でした。
              正盛・忠盛・清盛・重盛・維盛・六代


宗子さまは忠盛の正妻で清盛の継母です。
清盛の実父は白河院で生母は祇園女御の妹とかって噂です。

平家は忠盛の時には既に日宋貿易をしてたとか。


伊勢平氏の子孫の備中伊勢氏から戦国大名北条早雲(伊勢盛時)を出している
ということで
なるほど!
平家はかなり前から吉備国と関係があったのだな、と。


ここで海軍ヲタクの友人が  「平貞盛が従兄弟の平将門を討って西国と縁が出来て平家の基礎を作った」  と言った背景が分かったように思います。

平貞盛は従兄弟を討つのに藤原秀郷の助けを借りているけど
秀郷は母方の叔父なんですって。お母さんは藤原村雄の娘で秀郷は藤原村雄の息子なんですって。

                       人間関係がホント身近過ぎて大変!
                       みんな親戚関係!
                       ここのところが分かってないから頓珍漢になってしまうのですね。
                       だったら「平」の家の従兄弟間の喧嘩に、藤原秀郷が自分の血を分けた甥の方の味方をするわけだ。

                           この事を伊藤君が言ってたのかと20年後にやっと理解出来た。
                           20年かかった!

                           わたしは将門のテーブルマナーがなってないから藤原秀郷が将門の誘いを断ったと思ってた。


                           平将門が死んだのは天慶3年2月14日(940年3月25日)だから
                           うちと伊藤氏は伊勢で一門になったのではなくて
                           もっとずっと前から東国で既に親戚だったのねぇ。

                           やっぱり日本人って思わぬほどムカシから何重にも繋がっていたのですねぇ。改めてビックリ


                           そうか、ということは藤原千常=松島家の家譜に書かれてた人物=藤原秀郷の子=を通して
                           ワタシは遠江の松島氏とも繋がってるのかもね!千常は貞盛の従兄弟ですから。


三つ柏さんには感謝です。
まるで  ワタシの心の旅路のスレッド  ですね。


平将門討伐以前より もっと前から  伊藤さんと私は血のつながりが本当にあったのか。知らなかった。気づかなかった。避けてて悪かった。土下座
弟が若君さまに似てるはずだ。 
避けてた理由が分かった。でもココには書けない。



三つ柏さんが出雲大社に心惹かれる理由も何かちゃんと有るんでしょうね。
勾玉に心惹かれることについても過去生で何かあったのでしょうね。
[4]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月21日 17時22分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「勾玉」が何を意味するかについて、いろいろな解釈があるよあです
が、ただ公式な見解となると、今のところ確定的なものはないようであ
ります。

 出雲名宝展で見た濃緑色の瑪瑙の勾玉は、長さが「3.3」cmであ
りました。「3」といえば聖数「3」となりますが、当時は「cm」で
はなく、たぶんオリエント起源の「キュビット」か何かであったでしょ
ぅから、そこから推測しなければなりません。出雲族がどこから来たか
がわかれば、勾玉の形象の意味を解く鍵が得られるのではと思っていま
す。

 ヘブライ文字の「,(ヨッド)」(ヘブライ文字が出ないので、"コンマ"
で代用)」は「神」の意味であり、勾玉の形象とも似ていますので、きっ
と神にかかわるものだと確信いたします。

 ちなみに、出雲で購入した勾玉の説明書にはこう書かれておりました
(一部抽出)―

 「勾玉は、およそ玉の概念からはみ出し、とても玉とは言い難い形をし
 ています。それは、太陽と月が重なり合った形を表し、太陽と月のエネ
 ルギーの恵みを日夜受け、大いなる宇宙を崇拝するということを象徴し
 ています。そして穴は、今、自分を生かしてくれる祖先とのつながりを
 持つことにより、その霊力の恵みを受けられることを、その神秘な濃緑
 色は、春の草木の新芽のように生命の発動、躍動を象徴しているのです。」

 この解釈は、たとえ当らずとも遠からず、のところではないでしょぅか。

 @「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
 A「八咫鏡」
 B「天叢雲剣」
は、三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)と呼ばれており
ます。平家の安徳天皇にもからむ三種の神器であり、伊勢神社、熱田神宮に、
それぞれ八咫の鏡、草薙の剣(天叢雲剣)」があると言われております。出雲
との関係も見えて来そうです――

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月21日 22時45分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ヘブライ文字の「,(ヨッド)」(ヘブライ文字が出ないので、"コンマ"で代用)」は「神」の意味であり、
>勾玉の形象とも似ています

ワタシは勾玉は  魂の形  と思ってました。
きっと古代人も人が亡くなった時に魂が抜け出るのを見てたと思うから。


それで 「神」  の象徴か、と連想は行けます。


古代人は勾玉に何を託していたのでしょうね。
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月22日 15時11分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「勾玉」について、いろいろ調べています。とりあえずのところでも、
いろいろな説がありますが、それらについて完全納得できる確証もありま
せんので、もう少し時間をかけて調べてみたいと思っております。

 あを様の言われるように、「魂」を表象することの可能性は高いのでは
ないかとは思います。ただ、魂の形をなぜそのような形に表したのかとい
うことを検証しなければなりません。巴であればまた解釈も変わってきま
す。いずれにしましても、「出雲の名宝展」の解説を読みますと、単なる
装身具というよりも、重要な祭祀場で発見されたという事実もありますの
で、それがひとつの謎解きの鍵となるのではないでしょぅか。

 「魂」があの世に行き「神」になるための媒体と考えれば、「鳥」に関
係するのかも知れません。エジプトに原型があると思いますので、調べて
みます――
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月23日 08時02分53秒 ) パスワード

メールで頂いたのでこちらにもお裾分け:



曲玉も本来は世界共通のものから発生したものかも知れませんね。
・の牙とか玉響(たまゆら)とも言われたりで、
すべては、
後付けの解釈だと思います。


なにせ、下記の様にトリスケリオン=  三脚巴  「いだてん」のイラスト=まで繋がりますからね。


詳しくは、ウィキを開いて見てください。
結構詳しくでています。


・ヒッタイトやスキタイは烏丸でも気になって居る連中であり地域です。



月刊ムーを何年かぶりに買ってきました。
まだ斜め読みの眺めただけ。


日御碕の灯台に上った記憶も有り、日御碕神社にも参拝した覚えが有りますが。
今ほどの認識が無かった若い時でしたからね。



隠ヶ丘(かくれがおか)の二枚目の写真に三つ柏の紋が出ています。
https://kiwomite.blog.fc2.com/blog-entry-232.html  
                       素戔嗚系の鋭い三つ柏紋ですね

http://kamnavi.jp/it/izumo/zhino.htm  
で、摂社の韓国(からくに)神社(素戔嗚命、五十猛命)の中で
国引き神話で、
当の日の御崎はまさに新羅の三埼を国引きして来たものであり、
半島との海路の要衝であったようだ
・・・と有ります。

まさしく新羅の国との関わりですね。

出雲大社の亀甲紋は新羅由来ですね。
                       へ〜



大国主命と少名毘古那(スクナヒコナ)神の国造りでは無くて素戔嗚尊(スサノオノミコト)国造りに成っていますね。

須佐とかも表記ですが表記は様々。
日本語読みに漢字を当てただけですもんね。

                       ムカシはルビの役目が漢字でしたからね


「すが」・・・「すか」・・・「そが」とも表記され、
たしか須佐・素戔の系譜だと記憶して居ます。
三輪氏・蘇我氏・物部氏は確か出雲系でしたね。ですから古い


ユダヤ系列の集団が出雲族として列島に入ったのでしょうね。
部族の中にも幾つかの職種や血縁などの階層集団かが存在して居たのでしょうね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%B3%E7%83%8F   



三足烏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三足烏(さんそくう、さんぞくう)は神話や絵画などに見られる三本の足を持ったカラスのこと。
アジア、アナトリア半島、北アフリカなどに見られる[1][2]。



黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もある。



漢代の壁画。右が火烏(三足烏)。
太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある。

また、
太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。

別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。
ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある。



太陽の中に描かれた三足烏の高句麗の壁画。左は竜、右は鳳凰。

三足烏(삼족오 Samjogo サムジョゴ)は、高句麗では火烏とも言う。
古墳壁画にも3本足の烏三足烏が描かれている。



日本では八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ、
古事記の神武東征において神武天皇を導く役割をしている。



三足烏はエジプト神話の壁画に見られる[2]。
これはリュキアやパンフィリア(トルコ南岸)の三脚巴から考え出されたとされる。
BC15世紀のヒッタイト帝国の隣接地域。


*******イランからトルコにかけての辺りの文化や血筋を引き継いだ連中が東へ移動した後に日本の大地に根付かせたものかもですね。

            

トリスケリオン(三脚巴)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%84%9A%E5%B7%B4   

三脚巴はフランス・ブルターニュのシンボルであり
同様にマン島のシンボルはアイリッシュ海で見られる。
イタリアのシチリアのシンボルでも有る。
アメリカ運輸省のシンボル           全くそっち方向には考えていませんでした。へぇ〜
ドイツの地方自治体デーラウの盾形紋章
ロシア・イングーシ共和国の旗
シチリア独立のための自主管理(EVIS)の旗
アイルランド空軍のラウンデルの基礎
その他いろいろあり

                        へぇ〜
                        ビックリ!


いろいろな国で使われているんですねぇ。
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月24日 17時44分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 「トリスケリオン(三脚巴)」の話、ありがとうございます。

 「三」に関すること――「三つ足」、「三つ巴」……奥深い謎があります
ね。「三が重なって一つになる」という「アトランティスの思想」というも
が、何であるのか、ドネリーの『Atlantis:The Antedeluvian World』とい
う英語の本が届きましたので、これから読み込んでみます。あを様なら、ス
ラスラ読めてしまうでしょぅが、私にはちょっと荷が重そうです。ま、頑張
ってみます。

 昨日は、東京へ行ってまいりました。聖マリア大聖堂(聖マリアンヌ大聖堂)
を見学してまいりました。そこで見たことをご報告いたしたいと思いますが、
一度ここで切ります――
[9]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月25日 15時00分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 聖マリア大聖堂は、椿山荘という老舗ホテルの北側にありました。丹下
健三氏の設計で、教会のイメージを打ち破る斬新なデザインであります。
建物としても一見の価値ありと思って行ったわけですが、やはり教会のデ
ザインは、そんなに進歩しない方がいい、昔のゴシック様式の方がいいと
そんな感想を持ちました。

 キリストの十字架像はありませんでした。マリア像は別途ありました。
 フランシスコ・ザビエルの胸像があり、ルイ十三世の母がイエズス会へ
贈ったものでありました。外部には、ルルドの泉の再現されたものがあり
ました。

 私が、一番感嘆の声を上げたのは、祭壇の左右手前に、二基のメノラー
(七支燭台)があったことでありました!――
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月25日 21時47分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ドネリーの『Atlantis: The Antedeluvian World』を超速読しながら、
聖数「三」に関する事柄が書かれていないか調べました。
 その結果、とりあえず一か所見つけました。そこにはこう書かれており
ました――

 「Poseidon carried in his hand a three-pronged symbol,the trident,
doubtless an emblem of the three continents that were embraced
in the empire of Atlantis.」

 この中の、三つの大陸というのがどこなのか書かれておりませんので、
引き続き調べてみます――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月26日 02時44分31秒 ) パスワード

三つ柏さん

>聖マリア大聖堂

美しいフォルムの建物ですね。
アチコチ画像を求めて彷徨いました。

マリア様の清らかさと優しさがよく表現されていると思います。
でも  何かの  建物という感じで 
これがキリスト教の建物?と思いました。
新しい!
美しいけれど新しいから現代的過ぎて  荘厳さ  は無いですね。
 


トライデントが3つのコンティネントを表すというコンティネントとはどういう意味で使っているのか?

多分ココ↓
http://movies2.nytimes.com/books/first/l/lewis-myth.html

我々現代人が思う「大陸」とは海によって大きく隔てられた土地だけど
古代人の言う「大陸」とはもっとずっと曖昧な意味で使われた。

古代ギリシャ人にとっての世界は  エーゲ海  を中心としている、ということ。



ポセイドーンの三つ叉銛の意味:
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Trident_of_Poseidon

The trident of Neptune was viewed by Roman scholar Maurus Servius Honoratus as three-pronged because "the sea is said to be a third part of the world, or because there are three kinds of water: seas, streams and rivers".[7]

ローマの学者マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス(Maurus Servius Honoratus)
                       4世紀後半に活躍した文法学者。
                       古代ローマの詩人・ウェルギリウスによる叙事詩『アエネーイス』(Aeneid)に施したラテン語の注釈が有名であるが、
                       文学を研究し多数の著作を残す一方、
                       一部は中世の教材を採用している。

によると

海は  世界の3つ目の部分   (つまり  天と地と海???)
水には3つの種類がある:巨大な海・せせらぎの小川・そして滔々と流れる川



According to the second and third Vatican Mythographer, Neptune's trident symbolizes the three properties of water: liquidity, fecundity and drinkability.[7]

キリスト教本部のバチカンのギリシャローマ神話の解釈によると
ポセイドーンの三つ叉の銛とは:
水が水たる水性とは  流動性があり、生命を産み出す力を持ち、更に飲用に適していること  
この3つを水の特性としてポセイドーンの三つ叉の銛が象徴しているとする。


なんか分かったような益々迷路に入り込むような。

3・3・3・という感じで説明しているけど  こじつけ  でしょうね。


要するにポセイドーンの三つ叉の銛は
海と塩・地震と津波・馬
の3つをポセイドーンが支配している、ということかな?


http://greek-myth.info/Poseidon/

ココ面白かった!

【ネプトゥーヌス(ネプチューン):ローマ神話】
ギリシャ神話では海洋の王ポセイドーン。

海・泉・地震・馬・塩の神。
トリトンの父。
妻はアンピトリーテーで、多数の怪物を飼っている。

                       元祖ポケモンマスター


http://greek-myth.info/Poseidon/Caenis.html
はじめて性転換した女カイニス


エラトスの美しい娘カイニス

老将ネストールは、語りはじめた。

「エラトスの娘カイニスは、美貌のほまれも高く、テッサリア一の美しい乙女であった。多くの求婚者が彼女を妻にと願ったが、誰もその願いはかなわなかった
。アキレウスよ、そなたの父ペレウスも、そなたの母テティスと婚約していなければ、求婚しただろう。

ともかく、カイニスは誰とも結婚しようとしなかった。


ある日のことだ、彼女は誰もいない海岸を歩いていた。そこへ、海神ポセイドーンが現れて、彼女を強引に手込めにしたのだ。合意の上とも言われているがな。ポセイドーンはこの情事に満足すると、彼女にこう言った。

『おまえの願いは、すべて叶えよう。なんなりと言いなさい』

カイニスは、こう答えたのだ。
『こんなひどい目にあったので、せつに願うことがあります。二度とこんな目にあわないよう、女でなくしてください』

ポセイドーンは、その願いを聞きいれた。
さらに、どんな刃物によっても死なない体にしてやったということだ。
男になったカイニスは、〈カイネウス〉と名前を改めた」

                       へぇ〜
                       古代ギリシャ人ってものすごく進んでいたのですねぇ。

                       美しく生まれたからと言って幸せになれるとは限らないですからね。
                       逆に美しいからこそ苦しみが待っているということもありますからね。


                       ギリシャ神話、最高!
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月26日 09時54分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様のおかげで、Trident(三つ叉)についてかなりわかりました。解釈
的には、意味においても、地域的広がりにおいても、無限の広がりをみせて
いますので、これが本家本元の源泉だということが特定できないということ
でありますね。
 Bident(二つ叉)というのもあるということ、ますます広がってしまいます
ね。

 いずれにしましても、三つ叉(そこから、三角)は、神と権力・パワーの
シンボル(象徴)であることに集約されることは間違いないようです。それが
アトランティス起源なのか、さらにその奥底にあるムーやレムリアや、ある
いは全く知らない文明か……これだけで一生を費やす研究テーマになってし
まいそうですね。

 それにしても、「出雲古代史博物館」にあった「馬上の黄金の三つ叉王冠
をかぶった大王像」は、まさに権力の頂点に立っていたということが言えま
すね。
 それがスサノオだったのか大国主だったのか、調べてこなかったのが悔や
まれます!

 出雲には、この「三つ叉」、そして「メノラー」と「ハヌキア」があった
ということ……また近い内に、出雲大社と日御碕神社には是非行ってみたい
と考えます。

 三月には、伊勢神宮へ行ってきますが、伊勢と出雲との関係、そして伊勢
出身の平家と出雲との関係、これらについては掘り起こさないとわからない
と思いますので、なんとか手がかりを得たいものだと思っております――


 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月26日 13時41分33秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「出雲古代史博物館」にあった「馬上の黄金の三つ叉王冠をかぶった大王像」

博物館にメールでどなたのことかを問い合わせてはいかがでしょう?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8F%89%E6%A7%8D

道教においては、三叉槍は三清を表す:
ということで
三清とは

三清(さんせい)
道教の最高神格のこと。

「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。

それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、
この三天のことも「三清」と呼ぶ。

             これは「3つのコンティネント」に似てますね。

道観(道教寺院)にはしばしば「三清殿」と称する三清を祀る建物がある。



ユダヤ教の司祭が捧げ物を取り分ける際に使用するフォークも三又である。



インド神話において、シヴァはトリシューラ と呼ばれる三叉の槍を片手に持ち、これを悪しき存在を打倒するために使用した。

3つの先端は、ヴェーダの哲学では、sāttvika、rājasika、tāmasikaと呼ばれる。



鐺鈀(とうは)として知られる三叉槍は、朝鮮半島で17世紀から18世紀にかけて使用された。



また、もともとは漁師が魚を獲るために使っていたこともあり、ローマ時代の剣闘士の一種であるレティアリィはこの武器と網を使用し、主として魚の兜をつけたムルミッロと試合を行った[2]。


ギリシア神話において、ポセイドーンはギリシアの水源や馬を作り出すのに、古代ギリシア語でトリアイナ (τρίαινα) と呼ばれる三叉の矛を使用した[注 1]。

ポセイドンは海の神であると同時に地震を起こす神でもあり、彼が怒り、地を突くときには地震が起こり、トリアイナを使用して大波、津波、嵐を巻き起こすとされる。

ローマ神話においても、ポセイドンと同一視されるネプトゥーヌスはトライデントを使用して水源を生み出し、地震を起こす。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの『ネプチューンとトリトン』が、そのことをよく示している。

こういったことから、海王星を示すマークとして、天文学や占星術で使用される。


へぇ〜
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月26日 22時58分55秒 ) パスワード

海軍ヲタクの友人より:以下コピペ

宗派により違うかもしれませんけど,仏法の場合,輪廻は一劫と言われています。
一劫は,500年ですから,
    (私の前世だったらイイなと思ってるミッドウェー海戦で戦死した,アメリカ海軍士官ではないかもしれませんが)

輪廻は,インドに古くからあった思想ですけど,
日本の場合,輪廻と言う思想でなく,植物が春になったら再生すると言う思想がありました。

特に,赤とんぼがそうで,
赤とんぼは,高山で産卵し秋に平野に下りてきますが,縄文人は,赤とんぼを再生の神様と見ました。

それで,稲作が普及してくると,赤とんぼ=稲になってきます。


それで,日本を秋津洲と言うのは,赤とんぼが多く飛んでいる島で,
赤とんぼが多く飛ぶと言うのは豊作の証拠ですから,
日本の美称になりました。


扶桑は,
中国語で,これは桑が生い茂る国と言う意味ですけど,
桑は蚕の餌ですので,
これも経済的に豊かと言う意味です。


司馬遷の史記なんか,扶桑を争いのない国で飢えるものがいない国と書かれています。
弥生時代に大量の渡来人が,日本に来たのもこのためのようです。
古代中国では,日本は桃源郷でした。


以上コピペ

なるほどね
ということは    トリスケリオン=  三脚巴  もそんな意味があるのかも  ですね。 


「いだてん」のシンボルマークも  東京オリンピックの再来  ということで連続性が分かるし。
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月27日 23時52分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 三種の神器――ここにも聖数「三」が使われております。「三」でなけれ
ばいけないのか……それは、三そのものが神を暗示しているからか。

 今、平家について調べているのですが、手元には信頼できる参考図書が余
りなく、探求が進んでおりません。あを様の言われるように、平家は平氏と
は違うということを、その出自において論究したいと思っているのですが…。

 安徳天皇の壇ノ浦での入水。この時、三種の神器も持ち出されており、海
中に沈んだようですが、これは本当の話なのか、いささか創作的な匂いがい
たします。そんな形で幼い天皇を死に至らしめていいのでしょぅか。そんな
形で三種の神器を粗末に扱っていいのでしょうか――

 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月28日 03時14分34秒 ) パスワード

三つ柏さん

日本で言う「三」というのは中国の道教思想から来てるのかなと勝手に思っています。

日本では「3つの徳表す」「力の象徴」という考えに変ったのかも。



平家と平氏の違いは
平家は桓武天皇の子孫が平姓を頂いた平氏のほんの一部で
伊勢伊賀を本貫地とした平氏のこと
です。

    11世紀の初めに   坂東から伊勢にやって来た平氏の子孫。

    清盛の祖父の正盛の時代から力を持って朝廷にウロチョロ活躍し始めて
    清盛の時に最盛期を迎えて
    12世紀の終わりの壇の浦の合戦で終了。



三種の神器
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))
日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。

また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。


三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。

中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。
皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。

                        笑

    
天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。

だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。

                        だって平家が持ち出したんだもの。
                        誰が後鳥羽や源氏方に渡すものか、って。

                        やっぱりワタシは松永久秀を嗤えない。もはや血。DNAですね。笑



『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。

現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。

しかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。

                       だってそんなモン、もともと、無い   からかも。



伝承

『古事記』では天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。


古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、
「支配者」一般の象徴であったと考えられ、
仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。

また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。

また福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。

                       ということは「三種の神器」はモトモトは普通名詞だった?




儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。



八咫鏡(やたのかがみ)
記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。
天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。
のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。



八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八坂瓊曲玉とも書く。
大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。
岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。



草那藝之大刀(くさなぎのたち)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那藝之大刀と記される。
記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。
後、
ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。

静岡県「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。




記録  

古事記・日本書紀

『古事記』には神宝(神器)またはそれに類するものの伝承はあるものの、格別に天皇践祚に際してとなると、目に付く記事はない。

しかし『日本書紀』には以下のように記述される。
允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。


清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。

顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。

継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。

宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。

推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。

舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。

孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。

【参考】天智天皇七年(668年)是歳の条、新羅の僧による草薙剣盗難事件が起こる。

持統天皇四年(690年)正月の条、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」。


上記のうち最後の持統天皇四年条によれば、
持統天皇即位時に臣下の忌部氏が剣と鏡の二種を献上した。

                        あら
                        「玉」はどうしたんでしょうね。


とある。


『日本書紀』は歴代の即位記事において奉献の品を璽・璽符・璽印と漠然と表現している。


鏡と剣との名をあげたのは、継体紀と宣化紀の2つのみ。


これによって「宝物は元は2つであり後に中臣氏が三種説を主張して勾玉が加わった」のではないかという説もあった[1]。



記紀より後の時代

『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。


足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。


正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。

南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。


南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。


室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。


明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。


今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。
このときは相続税法の非課税規定[2] により、相続税の課税対象にならなかった。
なお生前退位に伴う贈与税については、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年6月9日成立)付則で非課税とすることと定められた。



現存・消失論議

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。
問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。
議論はノートを参照してください。(2010年11月)


神器が現存か否かについては異説が多いが、そもそもの実体や起源を論ずる段階で諸説があるため、どのような情況をもって「現存」とよぶのかすら論者によってまちまちな前提での議論が多い。



また三種の神器は、
「皇室所有とされること」に意味があるとの主張もある。
つまり、「皇室が三種の神器を所有している」というより、「皇室所有のもの」こそが、三種の神器とする。

これは皇室の権威を最大限にみなし、三種の神器を単なる権威財とみなしている。


しかしそれなら、神器が奪われても天皇が所有権を放棄し新たな神器の所有権を取得すればいいことになるので、
過去に天皇を崩御させてまで1つの個体を奪い合ったり、
占領に備えて隠そうとしたりしたことが説明できない。



そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(レプリカではなく神器に準ずるもの)であり、
実物については祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できない。

                        やっぱりそんなものは  無い  のかもね。


伊勢神宮の神体とされる八咫鏡は古来のものが現存するといわれる。
御桶代と呼ばれる密閉された箱状の容器に入って祀られており、神宮式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれる[3]。

宮中三殿の賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、
これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである[4]。

これは源平の壇ノ浦の戦いで回収された。



熱田神宮に祀られる草薙剣は古来のものが現存する[5]とされる。

皇居の神剣(草薙剣の形代)と勾玉は、源平の壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差し勾玉の箱を奉じて入水し一緒に水没した。

草薙剣はそのため現存しない。
が、
この剣は草薙剣の形代(レプリカ)の一つに神道でいう御魂遷しの儀式を経て神器としていた物であり、
後に改めて別の形代の剣が伊勢神宮の神庫から選び出され同様の措置が採られた。


これが現在の皇居の剣である。


一方、勾玉の方はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。
この勾玉は古代のものが皇居に現存するとされる。


福岡県北九州市小倉南区に鎮座する蒲生八幡神社には、高浜浦の岩松という者が海に没した鏡・勾玉を拾い上げたという記録が残る。


鏡も玉も空気が密閉された箱に入っていたため浮かびあがったのであって、剣はついに発見されなかった。


                       剣が現存してないことだけは確か   なのか?
                       平家の呪い、とか?あはっ
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月28日 14時48分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出雲古代史博物館で見た三叉の黄金の冠をかぶった大王(首長)が誰かは、
「出雲弥生の森博物館(その冠を所蔵する所)」へ訊ねてみましたが、今の
ところわかっていないとのことでした。その冠が、上塩冶築山(かみえんや
ちくやま)古墳(出雲市内)から出土していることは間違いないことであり
ます。

 それ以外の古代の大王達の冠としては、意図的に三叉の黄金の冠が描か
れている絵が多いのですが、はたしてそうでありましょうか? 実物があ
ればそうなのでしょうけれど、概して想像の代物であるような気もいたし
ます。

 「出雲弥生の森博物館」には、今度出雲に行った時に訪ねてみたいと思
っておりますが、今回、三叉の冠が出土した『神塩冶築山古墳の再検討』
という資料本を送ってもらうことにしましたので、届きましたら何らかの
報告をさせていただきたいと思っています――
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月28日 15時33分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊勢平治、つまり平家の系図を見てみましたが、

 @維衡
 A正度
 B正衡
 C正盛
 D忠盛
 E清盛

の流れの中で、妻(出自も含めて)が不詳なのがA、B、Cであります。男系
だけで見れば、確かに平氏の流れなのですが、女系を考慮した場合に、平家
の血筋はどうなるのか、これが大きな「謎」となります。妻の出自は大きい
ものと思われますので、もしわかりましたら教えて下さい――
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月28日 17時14分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

一応伊勢平氏=平家=は桓武天皇の子孫で
姓を賜って下放された坂東平氏の1つでも
                       口減らし策で「独立採算でやっていけ」と楽園を追放されたアダムとイブのような立場であっても
平家の先祖の正妻は良い家から貰ってます

とはいえ

実際に生まれた子や実際に成長した子は正妻の腹の子とは限らず
正妻が連れて来た使用人の腹の子だったり
現地調達の身分の低い女の腹の子だったり
そういう場合は母の名はありません。


貞盛の父=国香=の両親は  父:平高望、母:藤原貴族の良方の娘。

貞盛の祖父  平高望 / 高望王 の側室は藤原範世の娘だそうです。異説もあるようですが。


貞盛の母は藤原村雄ということが分かっているけど
貞盛の弟・繁盛の母は  家女房=女性の使用人  つまり  仕事もして側室みたいなもの。

                       日本は最近まで
                       女性の使用人は主人の夜のお相手も仕事のウチだった
                       という理解が前提として必要。
                       

これは万葉集に記録されている古代の日本から戦国時代でも女の使用人は「ただの女」でしかなく名前では呼ばれない。

日本では女性の名前というのは子供の時に親が呼ぶ名前  呼び名  のようなものはあったけど
「名前」
というほどの物は持って無かった。


だから日本では伝統的に家庭の中で自分の妻を「おい」と今でも呼ぶのかもね。
オットが外で自分の妻のことを「うちのが」って言いますでしょ。
外に対して自分の妻を「ヨーコさんが」とか「あをちゃんが」とかなんて日本のオットは外の人に言いませんよね。



              ホントに日本じゃ妻を名前じゃ呼ばないものね。
              コレ、ホントに不思議です。

              例えば三つ柏さんは奥様のことを会社で「○○子さんが」って絶対に言いませんよね。
              もし会社で○○子がなんて言うとすると
              暗黙の了解がある場合ですよね?
              ムカシ同じ職場で働いてて、同僚、みんなが奥様のことを良くご存じの場合限定でしょ?


              おうちの中ではいかがでしょう?
              「おい」とか「きみ」とか「あなた」とか「おかあさん」とか呼んでません?

  
                   なんで自分の妻が「おかあさん」になるのか?これ、日本のオトコの7不思議の1つです。


                    このあたりに日本では特に妻の名や母の名や娘の名前が記録されて来なかった、というのが見えて来ませんか?

              
              
正妻または正妻になれるとか子供が有名人になれば母の名前が記録されるけど
まず  家女房とか、もっと身分の低いハシタメだと、名前は記録されない。


                      「おんな」でしかない。

                       この部分の認識が肝要かと思います。




@維衡     貞盛の4男
        伊勢平氏の祖
        母親の名前が記録されていないということは出自が低い   つまり  家女房かハシタメだったんでしょうね。


A正度     母は陸奥国住人長介の娘     何者?   いかりや長介しか分からない  
        母方祖父はたいした家の出ではないけど、一応、ある程度の役職のある人の下で働いてた人物の娘だったらしい?

        娘は藤原永親の妻になっている、ということから逆算すると平家の家庭では藤原氏から結構正妻を貰っているのかも


B正衡     5男。  母の名は記録に無し。つまり身分が低かった?



C正盛     母の名は不詳   身分が低かった? 
        娘達は公卿などちゃんとした家に嫁ぐ
        ということは息子の正妻もちゃんとした家の娘でしょうね。 

    
D忠盛     母の名は不詳
        娘は源義忠に嫁ぎ、清和源氏のうちの河内源氏と関係を深め立場を逆転させる

        この人の代になると妻達の名前や身分も分かる。
        それだけ押しも押されもせぬ身分が確定したんでしょうね。


E清盛     母親は下賀茂神社の娘  実の父親は公然のヒミツ。





生母の名前は記録されてませんねぇ。
記録されるほどの身分の無い女だったから。
だからこそ育ったのかも。
[20]酔石亭主さんからのコメント(2019年02月28日 20時46分32秒 ) パスワード


三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

>また近い内に、出雲大社と日御碕神社には是非行ってみたいと考えます。
三月には、伊勢神宮へ行ってきますが、伊勢と出雲との関係、そして伊勢
出身の平家と出雲との関係、これらについては掘り起こさないと…

すでにご存知かもしれませんが、伊勢と出雲の関係は日置氏が媒介となり
そうです。伊勢が日の昇る聖地であり、出雲は日が沈む地であることから
共に太陽祭祀に関係し、双方に日置氏の存在が見られます。
出雲の日御碕神社(日沈宮)の宮司は日置氏(後の小野氏)で、伊勢の斎宮
付近にも日置氏がいます。

日沈宮は「伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮
を建て日の本の夜を守らん」と天平七年(735年)の勅にあり、出雲国風土記
編纂のすぐ後の段階で、出雲は日の沈む黄泉の国との位置づけが朝廷によって
なされているようにも思われます。

伊勢と出雲を対置する思想の始まりと日置氏の配置はこの時点なのかもしれ
ません。そして上塩冶築山古墳の所在地は神門郡日置郷でした。西出雲王家の
神門家先祖は古代インドのドラビダ族だとされており、三つ叉王冠は神門家の
首長のものかもしれませんね。或いは日置氏のものかも…。

伊勢からは少し距離がありますが、伊勢平氏の平宗清の長男、日置太郎家清が
伊賀に日置神社を創建しており、三つ柏さんも訪問されていますね。これで
伊勢、出雲、伊勢平氏の三者に日置のキーワードが関係することになります。
三つ柏さんの探求の一助になるのかはわかりませんし、あくまで表層的な見方
に過ぎませんがご参考まで。

それらは別として、出雲はどうもよく理解できない場所です。弥生時代の出土品
は凄いのに、なぜ古墳時代になると影が薄くなるのか、大国主とスサノオをどう
位置付け現実の中に落とし込めるのか、神門家と向家(富家)の存在をどう理解
したらいいのか、など疑問だらけです。大変な難題ですが、ぜひお二人で出雲の
謎解きに挑戦していただければと期待しています。

[21]空の青海のあをさんからのコメント(2019年02月28日 22時59分36秒 ) パスワード

酔石亭主さん

貴重な情報を整理してくださって、ありがとうございます。


>大国主とスサノオ

大国主は悲劇の存在と呼ぶそうですが

お兄さん達にいじめられて
というのは子供時代のお話にもあって
だけどいじけず良い性格の人物だった
という印象です。

ま、大王家に遠慮した人
島根の国は大和に勝てなかった

そんなイメージしかないので、教えて頂いたことを参考にアチコチにネットサーフィンを頑張ります。
[22]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月01日 12時51分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 すばらしい情報、ありがとうございます。本日は、仕事日なので、後で
ゆっくり解読・理解し、応答させていただきます。

 日置氏は太陽の位置を計った氏族、特に夏至に関係してくると思います。
 夏至ラインのことを頭に入れて、出雲の論及をしようと思っていたとこ
ろでありましたので、酔石亭主様の御晴眼には感服いたします。

 伊賀の日置神社とからんでくるとなると、伊勢と伊賀は一体であったこ
とが推察されます。伊勢平氏の平家一門も、いつの時代か猿田彦の時代よ
りの部族に同化したのだと推察しております。

 三月には、伊勢神宮のそばにある猿田彦神社にも行ってきたいと思って
おります。猿田彦―天照大神―平家、このつながりそうもない糸を何とか
見つけてみたいと思っております――
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月01日 23時38分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだ信頼できる情報・資料を得ておりませんし、頭の中の論理も熟成され
ておりませんので、もどかしい限りです。歴史の真実をあばくような資料と
いうものには、なかなか出会うものではありませんので。

 表層の歴史で、しかも「コップの中の日本史」では、日本の歴史の真実は
見えてこないと私は強く思っていますが、それと同じ考えを持つ人が、イン
ターネットのあるサイトの投稿者におられました。
 その人の日本史の論述は、表層の歴史でなく、深層の核心に迫る歴史解釈
で、私も目からウロコがぼろぼろと落ちる程の爽快感を味合せてていただき
ました。但し、出典等、確証の示されない部分も多くあるので、残念ながら
それを引用することにはためらいを感じてしまいます。それでも、ある意味
で、真実を物語っているようにも思えますので、一度覗いてみる価値はある
と思いますのでご紹介いたします(途中から論理がくどく感じるようになる
点が欠点ですが)――
 
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/849.html

阿修羅 神輿の黙示録(21)武士とサムライの戦い「2」
 投稿者:五月晴郎 2015.2.1

 この中には、平家の出自の方向性が書かれています。つまり、「古代海洋
民族フェニキアの流れを汲む民族」と表現されており、秦氏と近縁のように
も思われますが、さらに具体的な確証を探したいと思っております――
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月02日 15時44分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/849.html

「エンタメの歴史」としては面白かった。



それよりも
平家の出自の方向性は  東アフリカの猿の流れを汲む民族  と言い切る方がよっぽどかタダシイんじゃないの?
と。


>フェニキア

フェニキア人は・・・人種としては  セムだから  今の中東系。特に今のレバノンあたりから船出して
黒海〜地中海〜大西洋を北上してイギリスあたりまで、紅海からはアフリカをぐるっと回って
交易して影響を与えた。

      海上ではなく逆に陸上をラクダで商売しに行ってたのはアラム人。
      イエス・キリストが喋ってたのはアラム語。

      日本にはセグド人?セグト人?が入って来てた・・・と平熱で隈さんがお書きでしたっけ。



そりゃあ中東からも古代日本に来た人々はいるでしょうから
中にはフェニキア人の血の混じった中東の人々はいたとは思うし
そしてユダヤ人の中にもフェニキア人の血を受けた人はいたでしょうし
      ユダヤ人というよりはセグド人?セグト人?が日本に来てたらしいですね、隈さんのスレッドを思い出します。


フェニキア人は古代日本に来るとっくの昔にローマにさんざん滅ぼされているんですけどね。
古代(ローマの時代)は戦争に負けると虐殺されるか奴隷にされました。
             日本でも同じですよね、戦国時代5回売り飛ばされた話はNHK大河でもやってましたね。
そしてローマはフェニキア人の土地に塩を撒いてフェニキア人が生きていけないようにした。

紀元前にそういう悲惨な目に遭ったフェニキア人が12世紀の平家と関わる?



1970年代のエコノミックアニマルと呼ばれた交易民族の日本人はカルタゴの商人(フェニキア人)に例えられてましたよね。


世界をまたにかけて商売しまくった日本人は古代フェニキア人の血が目覚めた?

エコノミックアニマルの日本人の800年前には  
平家がフェニキア人の血を目覚めさせていた
???


ま、ロマンを語るのは、いいよね。
夢だから。

銀河を離れイスカンダルへ運命背負い宇宙の彼方まではるばる交易に旅立った俺達はフェニキア人の血が騒いだから?


こういうエンタメって日本人の使命感とロマンを燃やすのだろうな
っと読みながら   ♪宇宙戦艦ヤ〜マ〜ト〜♪  って歌ってしまった。



象を連れたハンニバルのアルプス越えは秦の始皇帝の死よりも前のお話ではありませんでしたか?
紀元前に滅びたフェニキア人が12世紀の平家の交易に関わった?


エンタメとしては面白かった。


今日、弟と、来たる大規模災害に備えて首相をトップとした対策本部を立川に用意する件は庵野秀明氏にお願いすればいいよね、と話してたところです。

アメリカでは「日本に何か大災害が起きたらゴジラが助けに来てくれる」なんてジョークがあります。

ロマンがあっていいよね。

わたしはアチコチ話が飛ぶけど、それでもhttp://www.asyura2.com/09/reki02/msg/849.html  ほどは飛ばない。
ロマンに欠けるな。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月03日 00時15分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平家に取り込まれた血というのは、やはり「伊勢」という土地柄を調べな
いとわからないのではと、うっすらと思っております。
 五月氏が、平家をフェニキアに結び付けたのは、状況証拠の「点」だけを
拾ってそれらを結び付けただけのように感じられます。そこには、「線」、
即ち「点と点を結ぶ論理」が欠けているように思われます。
 どのようなものを「点」として拾ったのでしょぅか――たぶん過去に先行
してそのようなことを述べた人がいた。たぶんそれは「八切止夫」氏なので
はないでしょうか。
 八切止夫氏は「小説家」なのですが、博学博識(のようにも思える)の人で、
歴史の深層・裏側に潜む話を、小説の中にちりばめています。
 氏のある二冊の小説の中で、「平家」に関係する氏の論及を探してみまし
たところ、こんな記述がありましたので、紹介いたします(これも、やはり
「点」の数々は事実かもしれませんが、点と点をつないで結論とする「論理」
の部分で強引・性急であるように思われます)――

 @「安芸の厳島神社の宝物になっている太刀は、いわゆる日本刀ではなく、
  サラセンの細い剣であるし、彼らの船はガレリ船であった。つまり従来
  となえられている騎馬民族の他に、船舶民族というのが西暦四、五世紀
  から十一世紀にかけて日本へ漂着してきて、これが建築その他の高度の
  技術をもって当時のエリートになったことは、これまでの歴史では解明
  していないが、疑えない事実であろう。」

 A「厳島神社の建て方も、今日の建築史でも明白に指摘されているように、
  大陸的であり、それが中近東であることも明瞭である。もちろん、この
  中国地方というのは、鯛漁で有名な備後福山の海面の仙酔島にも、アラ
  ビヤスタイルの極彩色のものがある。
   世に、平家納経として名高い三十三巻の平家一門の経巻や願文が、国
  宝として宝物になったいるこの厳島神社の社殿というのは、平清盛が造
  営し、奉納したものとされている。だから、宝物殿に今ある平家の公達
  のおびていたという太刀も、これまた、まるで日本刀とは違う。刀幅二
  センチの細い直刀で、螺鈿模様のうるし鞘に入っているから外見ではわ
  からぬが、刀身はサーベルで、トルコで三日月刀(ヤガタン)と共に現存
  する棒刀(シッキ―)そのものである。
   〜中略〜
   唐雷家製作と伝わり、平清盛の文字の入った七絃琴が、やはり重要文
  化財となっているが、昔の大正琴と違いシルクロードを通して入った中
  近東の産物であるといわれる。
   しかしシルクロードが開けるより、これが早くから入っているものな
  ら、陸路を考えるより、海からということも考えるべきであろう。とい
  うことは、平家と言う部族は、通説のように桓武帝の裔というのではな
  く、海を渡ってきたものとみるべきではなかろうか。」

 この八切氏の最後の結論は、論理というよりも、短絡・付託・夢想に近い
ものだと言われてもしかたないように思われます。点と点のつながりを論理
的、即ち因果関係を証拠・照査によって証明して行く形が必要であります。
小説家の書く小説だから許されるということなのでしょぅ。
 誘導した結論には、文責という言葉もあるように、責任を持ってほしいと
思うのですが……責任を持てないなら、結論的口調は避けるべきだと思いま
す。
 ――自分のことをさしおいて、ちょっと言い過ぎました!……。
  
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月03日 03時51分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

今朝はジムでずぅっと上記レスの「ロマン」にウットリとしてました。

今朝は弟がさっさと夜明け前からテニスに行ってるので書いています。
危ないから夜明け前なんかに外出するなと言う前にヤツの姿はドロンと消えてた。
                        やっぱり伊勢伊賀の平家の血なのか?笑

                       
わたしは結局は  人間は  東アフリカの猿の末裔  としか言えないです。謙虚だから。笑
もっと前は   宇宙の塵  と思っています。

                      はやぶさ2号?が人間の病を治すきっかけとなる塵を持って来てくれることを願ってます
                      とはいえ、不治の難病を治す薬が開発されるその時にはワタシは逝ってるでしょうけど。


45億年前の宇宙からの塵で人間を造ったとするユダヤ教はスゴイと思う。


ここ暫く弟に連れられてフィリピン人集落に大胆にも通ってました。
     そこは連日のようにテレビニュースで傷害殺人事件発生地とされるエリアなのですからビビッてました。
     あ、勿論、犯罪者には日本人の名字の人間も  ものすごく  いますから  差別発言とは取らないでください。
     日本人の「名字」限定ね。顔は全く日本人の顔とは連想できないから。



で、学校から帰宅するフィリピン移民の子供達を見ていたら
わたしがDNA的に惹き付けられる子は全くいませんでした。

                        ここ200年ほどのハワイは混血が進みに進んで
                        ジムに来る人間の顔が白人に見えても後ろ姿がアジア人なんてしょっちゅうです。逆も然り。


ということで
紀元前に交易で活躍したフェニキア人のDNAが平家に受け継がれて12世紀の平家が海洋交易をした
???本当???
とはいえDNAが共通した部分はあるだろうなと思います。東アフリカの猿の子孫同士なんで。


そして・・・松本零士の・・・宇宙戦艦ヤマト   は1970年代の作品?
ということは20世紀から2000年後にはフェニキア人の遺伝子が銀河の向こうのイスカンダルに使命を帯びて行くんだろうな
などと股割りしながらムヒヒとニヤニヤしてました。


                        松本零士の奥様は牧美也子なんですって。女の子の大好きな漫画家です。



結局人間は全人類は宇宙の塵の子孫なんですから遺伝子もおんなじようなものじゃないのかと思います。

例えば
うちの親の近所の○藤さんの奥さんは60歳でパーキンソン病を発症。
この話を聞いた時は   
日本人がパーキンソン病になんかなる?え?ウッソォ〜 
でも、あのおばさんはイングリッド・バーグマンに似てるから、確かに北欧系の遺伝子を持っているのかもね。           
と思ってました。

パーキンソンなんて北欧系の病気じゃん
だけどうちのオットは遺伝子持ってないな
ラッキー!

ところが!
なんとワタクシがパーキンソン病になる遺伝子を持っているんですよ
なんで?怒
ワタシのどこが北欧系じゃ?!


要するに人類はやっぱり東アフリカの猿の子孫でその前は宇宙の塵だったということで良いのですよ。


                       わたしの先祖は銀河の向こうのイスカンダルよりもっと向こうの宇宙の果ての塵だったのかな?


近い将来日本人なんて絶滅して
でも日本人の遺伝子を持ったヤツもいるだろうけど
日本人としてはワケ分からない姿形の人間に変形してて

2000年後にはイスカンダルまで交易に行って

そのことが漫画になって
「古代フェニキア人の遺伝子が平家に受け継がれ、そのまた子孫がイスカンダルに交易に行った」
と描かれるのかな?

なんて思ってワクワクしてストレッチしてました。


大学1年生でオトコ解禁女子になったばかりのワタシは
「プラトンのなんたらかんたらが」
と学食でワーワー楽しそうに喋っていた男子達を変な動物のように見てたけど

うん

五月氏はフェニキア系遺伝子を持った平家の子孫なのかな?
と。


弟のことは5歳ぐらいまでの弟しか知らないので弟が絵がうまいことは全く知らなかった
でも父方はほとんど絵がうまい。
愛知県とか名古屋市レベルですが。

                       わたしは無芸大食

とはいえ弟は製図の才能が無いことは充分に分かってると言います。


姉はこれまた音楽の人で・・・子供の時からNHKで・・・その後もNHKの番組を・・・と言う人で
                       わたしは無芸大食

弟は運動神経抜群で
                       わたしは無芸大食


わたしは先祖につくであろう形容詞というか枕詞には縁の無い無芸大食だけど
だけど共通の遺伝子を嗅ぎ出すことには才能があるらしい。


八切止夫氏は「8」ということで  ああ、平家の残党か、と。
                       「4」が源氏でしたっけ?



                        平家の「赤」はフェニキアが交易してたインド産の赤とか、ね。



明治天皇は実は替え玉で
実は後醍醐天皇の第11子の満良親王の子孫が長州毛利家で養われてたヒト
とかね


ま、平家であり南朝方の子孫であるわたくしにはロマンがいっぱい。
飛鳥氏も好きだし。


彼ら3人には飛んでも話でも思い入れのある話でしょうね。
イマイチわたしが乗れないのは  わたしは伊勢や伊賀の山の中にいて  都の政治とはほど遠い生活をしてたからかも。


わたしの精神年齢は  15歳〜19歳で  自分の居場所を捜している  そうです。

確かに20歳以降の自分の感じがありません。
誰か子供を育てた記憶の感触はある。
それも命に懸けても守り通すという義務感もある。



今でも伊勢の山奥でひっそりと暮らす平家の末裔の人達は目の大きな目鼻立ちの整った美男美女です。

平家にはフェニキア人の血が混じってると言われたら、確かに、中東の顔だちかも、と思います。


アタマもいいし。あの頭の良さはユダヤ系なのかな?


もう随分前ですが   わたしの職場に新人で入って来た女の子。
すぐに  あなた、阿下喜のもっと山奥の出身でしょ?  と当てたことがあります。

彼女にしても  まさかロスで阿下喜が出て来るとは思ってなかったでしょうね。


そしてフランス系の司法省の役人が「彼女、本当に日本人?」と「日本人というには余りにも美しい」と私に訊いて来ました。

                       え〜ん(泣)
                       わたしも彼女と共通の遺伝子をいくつか持ってるんだよ〜
                       とは言えなかった(泣)



わたしは自画自賛という先祖礼賛は出来ないのであんまりハナシは飛ばせない。

だけど五月氏や八切氏や飛鳥氏には  ああ、平家の同胞だ  とは感じます。
飛鳥氏は南朝も、ですしね。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月03日 09時47分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 興味深くておもしろく、しかも示唆に富むお話、ありがとうございます。

 あを様ならではの卓見の数々だと思います。大食無芸とご謙遜なされれ
るのはとんでもない。反対の小食多芸よりはいいのでは、つまり体内に向
けて物事を最大限にインプットし、芸(知力)蓄えている「能ある鷹」であ
ると考えれば、未来へはばたく夢が涌いて来ます……。

 歴史というのは、「量子力学的真実」だと思います。つまり、見る人に
よって、その人の心・サイパワーが物質・マターに影響してしまう。それ
ぞれの見る歴史は、それぞれの"ゆがみ"がかかった事実の残像である……。
でも、それが真実の七変化なのかも知れません。

 平清盛が安芸の宮島の厳島神社を建築し奉納したのは、十二世紀の後半、
でも弘法大師空海は、その三百五十年も前に、この宮島の厳島神社の裏山
の弥山の中腹に、「大本山 大聖院」の伽藍群を構築しています。

 私は、空海については一時夢中になっておりましたので、だいたいは知
っているつもりでしたが、宮島に高野山のような伽藍群を建てたとはつゆ
ぞ知りませんでした。そんな情報にも出くわさなかったように思います。

 宮島・厳島神社を初めて訪れた時にそのことを知り、でも余り私の心の
中では、それを核として探求心が大きく膨らむことはありませんでした。

 でも、今考えると、その意味するところはとてつもなく大きいように感
じられます。高野山だけでも大仕事なのに、なぜ空海は広島の瀬戸内海の
ちっぽけな小島の宮島にまで来て、大伽藍を造ったのか……たとえ、その
建築物が後世に建てられたものであったとしても、なぜ空海は宮島・弥山
にスポットライトを当てたのか……その意味を改めて知りたい、探求して
みたいと強く思うようになりました――
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月03日 09時58分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:[25]照査→証左
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月03日 10時10分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正の訂正:(内容)出雲大社の太いしめ縄は、二本の中太のしめ縄をねじ
       り巻いたものではなく、やはり三本をねじり巻いたものであ
       ると確信します。二本では、円形的(一種のハニカム構造的)な
       バランスがとれないと思いますので。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月03日 15時03分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

空海と安芸の宮島の関係はもともとが空海の実家関係だから
ではないでしょうか?

そして清盛の側室に厳島神社の女性、厳島内侍がいますし。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E5%86%85%E4%BE%8D

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厳島内侍(いつくしまのないじ)
平安時代末期の厳島神社の内侍(巫女)。
平清盛の妾。
御子姫君の母。

清盛の寵を受けて懐妊するが、清盛は懐妊中の厳島内侍を家人の平盛俊=清盛の右腕だった平盛国の子=に妻として下げ渡した。

長寛年(1164年)に生まれた女子は清盛が自分の娘として引き取り、のちに後白河法皇の後宮に入れている。


『源平盛衰記』によれば、夫盛俊が一ノ谷の戦いで討ち死にした後、厳島内侍は鎌倉方の土肥実平の妾になったと伝えられる。

『平家納経』は彼女の発願とする説もある(小林太市郎)。



空海の実家は讃岐国の佐伯氏。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%9B%B4


讃岐、伊予、安芸、阿波に封じられた佐伯部または佐伯直を祖とする佐伯氏:

古墳時代の中頃に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に設定された佐伯部(詳細は佐伯部を参照)の中、
上記播磨を除いた各地の佐伯部を伴造として率い、
また、各国の国造にも任ぜられた。

ちなみに、空海は讃岐の佐伯氏出身[注釈 1]であり、安芸国の佐伯氏は後に厳島神社の神主家となった。


[注釈 1]
空海の父は、直を賜姓された佐伯田公さえきのあたいたぎみ。

空海を大伴氏(大伴連)の後裔とする系図(『伴氏系図』[5]、『弘法大師系譜』など)もあるが、
連を賜姓されたその後裔が直を賜姓されることは考えにくく、
後世の仮冒とされ[6]、
やはり佐伯氏を出自と考えるべきである。



『日本書紀』によれば、部民としての佐伯部は、もともと東国人の捕虜であったが騒がしいことを理由に景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に送られたのがその祖であるとの起源を伝える[1]。

これらを統率したのが佐伯直である。従って、佐伯直(佐伯連) ― 佐伯氏 ― 佐伯部 という階層関係がある。


古墳時代の中頃(5世紀から6世紀)には、東国人の捕虜を上記5か国に移住させ、佐伯部として設定・編成したのは事実のようで、
「佐伯直」や「佐伯造」といった在地の豪族が伴造としてこれを管掌し、これら地方豪族がさらに畿内の中央豪族佐伯連(後に宿祢に改賜姓された)に管掌されたため、
佐伯部は間接的に中央佐伯氏の部民とされ、その中からは宮廷警衛の任務に上番させられた者もいたとみられている。



蛇足

豊後の佐伯氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%B0%8F_ (%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)

『源平盛衰記』によれば、惟康は従兄弟の臼杵惟隆・緒方惟栄が源氏方についたのに対して、一ノ谷の戦いで菊池高直・原田種直・山鹿秀遠らと共に平氏方に属して戦ったという[5]。鎌倉幕府が成立すると豊後守護として大友氏が入国すると、佐伯氏は大友氏の傘下に入り、承久の乱では佐伯左近将監という者が大友親秀に属して戦い、討死している。

一方で、惣領家の戸次氏と同族の臼杵氏などが養子を送り込まれて大友氏に取り込まれていく中、佐伯氏は大神姓の血統をつなぎ、建武3年(1336年)3月には北朝方の足利尊氏から南朝方の肝付氏攻めへの軍勢催促状[6]を、貞治4年12月15日(1366年1月26日)には、同じく北朝の後光厳天皇から再び肝付氏討伐の命を、それぞれ直接に下されるなど、独自の勢力を保持し続けていた。

そのため、戦国時代に入ると集権化を図る大友氏と衝突し、第10代惟治は謀叛の疑いをかけられて討たれ、第12代惟教は一時伊予国へと亡命した。第14代惟定の時、文禄の役の際の失態で大友氏が改易されると、豊後を去って豊臣秀保の客将となり、秀保没後はその家臣藤堂高虎に仕えて伊予国に移り、以後藤堂氏の家臣として伊勢国への転封にも従い、津藩士として明治に至った。

また伊予白木城主であった惟定の兄・惟照はそのまま同地に残り、緒方蔵人と名乗って緒方氏を称し[7]、弟の佐伯惟寛の系統は備中国足守藩主木下氏に仕えた。惟寛の子孫が緒方洪庵(惟章)である[8]。その他に御手洗氏などの庶家もある。



蛇足の蛇足

いやぁ
ビックリ!
佐伯氏は父方の平家がらみだけでなく母方がらみで弘法大師にも繋がりがあることは知ってたけど
本日は佐伯氏を検索してたらとんでもない方向にも飛びました。

わたしがまだ本当に大学生になったばかりの時に弓の家のオトコから彼の父親が急遽飛行機でわたしに会いに来るというハナシになって
わたしはビックリして逃げたんだけど

いえいえいえ

なんと!
南朝方でも繋がってた・・・


もしコレを知ってたら当時はワタシは母方にしっかり傾倒してたから
このオトコと結婚してた
そして100%平家になんか興味を持つことは有り得なかった
はず。


飛鳥さんの事を上記に書いたから八咫烏がワタシにバラした?
どっちにしろ弓の家の人は父方母方両方で繋がってたオトコだった!
それも関ケ原の役でも繋がってた。


今になっては  あの弓のオトコの家というのをしっかり訊くべきだった  とちょっと後悔。
これがワタシの宿命だったの?


ホントに日本人ってみんな繋がってしまうんですねぇ。
それも父方母方両方で。
武士の家は人口が極端に小さいから当然なんでしょうけど。

彼の父上は飛行機に乗ってわたしに会いに来てくださったのに本当に申し訳無いことをしてしまった。
母方でしっかり繋がってたと知ってたら当然結婚して握力バキバキの赤テープ系の男の子をたくさん喜んで生んだと思う。
[31]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月04日 15時55分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 厳島内侍(巫女)と厳島神主家の佐伯氏の話、ありがとうございました。
 視野が広がった感じがします。

 「宮島・厳島神社・弥山」という所、海の「一丁目一番地」のような
気がしてまいりました――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月04日 21時09分43秒 ) パスワード

メールを頂きました:

五月氏の件
テュルク系(トルコ系遊牧民諸語を使う民族)の突厥に言及している点などをみてもたいしたもんだと思いました。
でも、論理の飛躍がいけませんね。



私も一時期、矢切止夫の本に飛びついて居ました。
が、どうも変な感じがして途中で拒絶しました。


歴史界にも少なからず影響は与えたようです。


上杉謙信は女だった「上杉謙信女性説」
織田信長を殺したのは光秀ではない
徳川家康は二人いた
等・・・
又、
歴史家の井沢元彦氏は「鉄砲の使用には硝石の輸入が不可欠である」と始めに主張したのは八切止夫だと述べている。

など真実の面も有ったようです。


旧制愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)を経て、                  名古屋じゃ最高のレベルの高校です
日本大学専門部文学科を卒業ですって。
大正3年生まれの人
南方のヤップ島に行ったり満州に行ったりと波瀾万丈の人生だった様です。
日本大学芸術科講師、明治大学助教授も勤めていますね。



「宮島」には何度か行きました。
お寺の消えずの火のお堂までは行きましたが、ペトログラフまでは行けてないですね。

今でも、島民は亡くなっても島には葬らないと言って居たのを覚えて居ます。
毛利氏の陶氏が戦った厳島の戦いでは多くの武士達が戦死して居るのにな!。
と当時思って居ましたよ。



やはり、宮島は古代より神聖な島だったようですね。
福岡の宗像神社の沖の島の様にですね。

ただ、どの古代なのか不明ですね。

大陸由来の古代文字なのか、
それとも・・・・
沖縄のロゼッタストーンのようなタブレット(米軍が回収し今の沖縄には一部が残されている)も存在して居るから縄文以前のかも・・・。



宮島厳島神社-弥山2 に出ていますよ。
お寺もペトログラフもです。
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/miyajima/miyajima01.htm  
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月04日 22時48分42秒 ) パスワード

書き直し

昨日は6時に寝て早起きしたので
アタマが頓珍漢なので
バカ書いてしまったので書き直します。



三つ柏さん

母方と空海のハナシは

    10世紀の始めの母方一族の1人が強欲傲慢で
    空海が諭した

という話です。



     寺の縁起では開基は行基と聖武天皇。


この強欲の人物は心を入れ替え、生まれ変わったら、この家にもう1度生まれ、国司になりたいと遺言したそうで
                                     にやっ
 

                                  

                       わたしは次回は母方に生まれ変わるかな〜
                       でも男子だろうな〜
                       女子の方がラクなんだけどな〜  




わたしは「生まれ変わって来たヒト」の54代の後の子孫です。


空海が生まれて150年後ほどの時の事件です。
空海の没後で言うと90年後あたり。


        空海(宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))


そうか
母方の隆盛繁栄は空海のお蔭だったのか。


それが応仁の乱の時に我が家もヨソさまと同じくゴタゴタ内訌があって家勢が衰えていくことになって
結局江戸時代の初めに天領になってしまった。

天領になる前には一族の老中達が再興させようといろいろ力をくれたのですけど。
逆に言うと一族の老中達のネタミで天領になったのかも。



伯母はわたしに84代目として家を守れと望んでたけど
いえいえいえ
だけど弓のオトコと結婚してたら  ある程度の  マシな家にはしてたのかな
と空海さまには申し訳ない。


                        昨日弟にちらっと空海の一族の話をしてたのです。
                        内容は「発達障害ってのだよね」と「だから私も発達障害ってのだ」と・・・汗



やっぱり先祖のパワーってあるにはあったんだね。
先祖が力を貸そうとしてくれてても、それをキャッチ出来るかどうか、
ま、フツー、キャッチ出来ないんだけど。と開き直っておく。


弓のオトコ    <  すまぬ
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月05日 12時16分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「空の青海のあを」様の名前の中から、「空」と「海」を取り出すと、
正に「空海」となります。何とそういう因果関係を含んでいたということ
ですね。
 さらに「青」と「あを」を取り出すと、「碧緑」となり、それは空海が
使用していた「ラピスラりの数珠」ということにつながります。
 何と、大きな構想であることか……驚きです! 五年近くレスのやり取
りをしてまいりましたのに、女性という先入観で、男性の空海とは連想が
つながりませんでした! どうぞお許しを!

 昨日から、空海について色々調べておりましたが、空海と弥山との関係
についての「秘められた大きな謎」は見つけておりません。ただ、あを様
ご指摘の佐伯氏の一族(広義)が、厳島神社の勧請と神主家であったという
ことが、佐伯氏を父に持つ空海と厳島(弥山)を結ぶ唯一の「リンク」とし
て存在するということであります。

 私は、必ずもっと深い謎があると確信します。よって今後の継続課題と
していきたいと考えます――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月05日 15時44分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


このスレッドは三つ柏さんのご先祖さまを探し出すためなんですけど
調べれば調べるほど
わたくしの家の秘密や自分が生まれて来た使命に行き着いてしまいます。

今朝は空海を検索してたら出るわ出るわ自分の先祖の話が続々でした。



ホントに何度  命  を助けられたやら。
無事に五体満足で生きているのが不思議なほど何度も事故に遭って来ました。
実は去年の9月にも事故に遭ってます。


不思議体験は数知れず、ですし。

オットと一緒に行った比叡山の根本中堂でも不思議体験をいくつかしました。
    オットはカメラを操作していたのですが何も映って無かったし。
                      オットはハリウッドの映画関係者ですよ
                      プロなのに撮れてなかった。

    先祖の一族の御影があって、「よく来たね」と、微笑んでくれたし。


    比叡山は空海のライバルの最澄のお寺ですが
    行ったのは、この先祖の一族に会いに、ですけど。
    ここで修行したということで御影が掲げてありました。

ま、いろいろありました。


幕末の先祖は明如上人との関わりで、ある物を寺宝として寄進し
それが寺の縁起に書かれています。



住吉大社と並んで高野山にも先祖の一族が関わるし。

先祖が利用していたという宿坊?建物?に行きたいものですが
女人禁制が解かれていても
わたくし自身が高野山に対して敬意を払う意味で、自主規制、ということで高野山には行けないな、と。


伯母達が誇りにしていることが今朝分かりましたし。
ここには書けない
余りにも時代錯誤の自慢になってしまうから。

ま、落ち着いたらメールででもお知らせすると思いますが。
北条時政の娘が正妻だったことは知ってたけど、それ以上の自慢バナシです。

当然、わたくしにも時政の血が流れているわけですし。


だっけど、まぁ、上記のレスに書いたように、
空海さまがワタシの先祖の願いを叶えてくれてたってコトにはビックリしました。

           うちの先祖、やっぱり強欲じゃん!
           とビックリしてしまった。

           空海さまに諭されて謙虚になったんじゃなかったの? 
           でした。

           それでも空海さまは願いを叶えてくださったし。


そして更にビックリしたのは
結婚って
先祖同士の引き合いで
と思ってたことが今朝またもや分かりました。


わたしの姪なのにオトコの気配が全く無く、行かず後家かと思ってたワタシの姪がアッという間に結婚した相手は
出身地と名字から一族だとは気づいていたけど
             うちより格下の家とずっと思ってたのが
なんと!向こうはうちの先祖の兄上だった。
             え?うちより格上?とビックリでした。

                  この一族は坂本龍馬に剣を教えた家の関係者。

                      坂本龍馬って明智光秀の一族って噂があるし。
                      ここでも帰結する。
                      明智光秀はアチコチから狙われてた母方の家を守ろうとしてくれてた。



やっぱり子供達には自分の家のことは伝えておかないといけません。
知らないで結婚してても、実は、自分の家族の中だけでも何重にも繋がっているんだよ、と。

わたくし自身、いろいろなヒトから守られているのを感じますし。


空海さまが仏教に行ってしまったのがワタクシには謎です。

空海の父方は佐伯氏だから神道系に行かなかったのが不思議です。


豊後佐伯氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%B0%8F_ (%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
なかなか面白いですよ。


今日に伝わる大神姓諸氏に関する系図は内容の差異が大きく、佐伯氏についても諸説紛々としているが、初代・佐伯惟康については、おおむね三重惟家の子であるとしている。『鎮西歴代要略』では鎌倉時代に入ってから緒方惟栄の子孫が佐伯氏を称したとしており、この記述が多く引用されているが、年代的に見て著しく整合性を欠く。


宇佐神宮と平家の関係

豊後の佐伯氏と服部氏の関係
佐伯惟信は服部元住の子。惟定の曽孫
と書かれていますが  服部元住って誰?



緒方惟栄は平家を裏切ったヤツ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%83%9F%E6%A0%84

寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、
筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、
惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、
清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした[1]。

同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、
宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、
源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。




緒方洪庵は豊後佐伯氏の子孫の備中佐伯氏の出ですって。
錯綜しますね。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月07日 04時30分53秒 ) パスワード

エンエンと書いてたのが瞬殺されました。

[39]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月07日 14時34分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、畑の草取りをしたり、倉庫の整理をしたり、棚、本棚の整理を
したりで疲れてしまいました。夜に地元の温泉にてサウナ風呂に入り、帰
宅後は早々に就眠となりました。
 それにしても、雨が降ったりやんだりで、天気になればスギ花粉が一斉
に大気中に放出され、目、鼻、気管支、頭に悪影響をもたらします。ずっ
と風邪症状のような状態が続き、うっとうしい限りであります。

 さて、今から三十四年前に購入した武智鉄二氏の『古代出雲帝国の謎』
という本が手元にあります。武智鉄二氏といえば、映画監督の方が有名に
なってしまいましたが、専門は古典演劇、特に歌舞伎についての専門家で
あります。その武智氏が、何故古代の歴史に詳しいのかの理由については
まだ調べておりませんが、この本を読むと、相当な知識を持っておられる
ことがわかりますし、素人の域ははるかに脱しております。

 古典演劇というのは、外国からもたらされたものが多いので、そういう
観点(史実)から見た歴史というのも、ある意味新鮮な謎解きにつながった
のだと思います。
 もっとも、武智氏という氏族の持つ歴史的系譜というものも、財産(知識)
としてあったのかも知れません。古代の豪族としての系譜、伝承……。詳
しい系譜はわかりませんが、武智氏はどうやら越智氏から発生しているよ
うであります。

 その本の中で注目すべきは、出雲と厳島神社の関係が述べられていること
であります。これについては、帰宅後に要約してお伝えいたします――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月07日 15時08分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

>出雲と厳島神社

是非是非。
楽しみです。


武智氏は
有名な人物として
土佐の武市半平太が挙げられるようです。


映画監督の武智さんのことを比企家の子孫の林原英祐氏が平熱でお書きでした。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月08日 13時20分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 武智鉄二氏の『古代出雲帝国の謎』は、44年前に書かれた本であります
が、どういう訳か、『日本書紀』に対しては、それを鵜呑みするのではなく、
客観的にとらえています。その点だけでも、信頼性は増すものと思われます。

 ただ歴史学者でないので、彼独自の「古代舞踊の研究とフィールドワーク」
によるところの世界観を武器としております。それはレク歴史学的には薄弱
に思われますが、発想の転換的観点から見れば、逆に革新的な推理・仮説で
あると言うことができます。

 これから、何回かに分けて、出雲・投馬国・厳島の関係にかかわる氏の考
え方をご紹介したいと思います。

 ここで一旦切ります――
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月08日 13時23分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:レク歴史学的→歴史学的
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月08日 22時58分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いざ要約をと思い、まとめかけましたが、武智氏の文章は、三段論法的な
文章でない、即ち一つの事実と、そこから展開する次の事実……という具合
に、事実関係を積み重ねていくという論法でないので、要約するにも確たる
証がなく苦労します。
 結果、いろいろ回り道をして、背景の補足をしなければなりませんので、
もう少し時間を下さいませ。まずは投馬国を理解しなければなりません――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月09日 03時39分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

>武智氏の文章は、
>三段論法的な文章でない、即ち一つの事実と、そこから展開する次の事実……
>という具合に、事実関係を積み重ねていくという論法でないので、要約するにも確たる証がなく
>苦労します。



トンでも本ですね。


たくさんの事実を、深い考察と洞察で繋いでいく話の方が、まだ、いいですね。



>投馬国

結局どこにあった国でしょうね。


松浦氏の先祖の国なのか?東の出雲国のことなのか?
伊都国は多分福岡県の糸島かな?とか思います。


邪馬台国 vs 狗奴国  は  ロマンがあってワクワク楽しいけれど
邪馬台国がそもそもどこにあったのか 謎  ですから
3世紀の日本って一応集落がアチコチにあった
あたりしか分かりません。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月09日 09時51分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「空の青海のあを」様の「青」及び「あを」に注目すると、平家のいわゆ
る"ブルー(青・あを)オーシャン"計画とオーバーラップします。
 その"ブルーオーシャン"計画とは、「陸上」での荘園等からの利益追求か
ら、「海上」即ち海上貿易による利益追求を企図したということであります。

 空海とも、平家とも通じる「青・あを」は、あを様の心情をよく表わして
いるのかも知れません。

 「ブルー」は、その明度により、色々な感じ方をもたらします。深く沈み
込む群青色、光を秘めた瑠璃色、淡い幸せ感の水色(空色)……ブルーは人間
にとって、毎日の同行二人の存在なのかも知れません――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月09日 14時16分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>空海とも、平家とも通じる「青・あを」は、あを様の心情をよく表わしているのかも知れません。

ありがとうございます。
HNを決める時の気持ちを思い出しました。


空海は余りにも偉大なので
母方の伝説をテキトーに   おはなしだから  (くっくっくっ  笑   まっさかぁ〜)  とバカにしてました。

でも母方と空海の互いの先祖との関係を考えると
    空海さまは母方を救おうとしてたんだ
    そして母方の繁栄を楽しみにしてくれていたんだ
などなど
                       わたくしにとって空海さまはナカナカ喰えない坊さんで
                       だから母方を呆れながらも結局はかなりの家にしてくれたのでしょう。


そして母方の戦国時代の高野山の宿坊のことも考えますと
思い至ることが有り過ぎます。



今は鎌倉幕府終焉の時に生きていた自分のことがすっごく知りたいです。

気がついたのは1991年?のNHK大河のたぶん「太平記」の時の斬り合いシーンがとても見ていられなかった時です。

      たいていNHK大河の合戦シーンでも普通の時代劇でも   
     (殺陣、下手クソ過ぎ  そんなじゃ人は斬れてないよ  死なないよ)
      って思ってましたが  「太平記」の時は  とても見ていられなかったです。

あれは1991年の作品だったのかな、ということは1991年以降に鎌倉末期の自分の「過去生」を体験したということです。


自分が死ぬシーンに連想がいくし  自分が刀を素手で受けて指が千切れて落ちる感覚があったりして。
でもあの時、死んだのか逃げ延びたのか、ハッキリしません。


                       10世紀前半の過去生の父方の自分が「百姓して一生過ごすのは嫌だ」と言ってるように
                       鎌倉末期のわたしは過去生で「死と血の恐怖」阿鼻叫喚の世界を味わってます。
                       以来、ドラマの手術シーンも見られなくなった。


1333年5月22日
わたしは鎌倉にいた気がする。

実際の母方は南朝方だけど   あの時のわたしは鎌倉にいた。
    だって母方は御家人だし、北条時政の子孫でもあるし、北条氏の皆さんとは親類だし、鎌倉武士の皆さんとは姻戚関係にあるし、
    
    1333年以前に
    母方34代前の先祖は長子だったけど生母が江戸太郎の娘だったから家督を継げなかったから
    怒って本貫地に戻ってしまっていた。
    
    でもわたしは田舎に行くのが嫌で鎌倉に留まった。
    大好きな仲時さまの京都からのお帰りを鎌倉で待っていたかったから。最大の理由はココ。理由はオトコだね。うん。


先立つ1333年5月9日       ← 1991年以前は  5月と聞くと、9日?と、なにか引っ掛かってました。たぶん理由は以下

この日、北条仲時さまが米原の番場で自害した。
   まだ28歳の若さだよ。
   幼い子供達を遺して。

一党432人も後を追いました。
仲時さまは同行してた光厳天皇が一所に死ぬとおっしゃったのを止めました。
家来達には自分の首を差し出して命乞いをするようにと諭しました。 
でも432人の部下は全員自害しました。


その後5月22日
鎌倉に仲時さま一行の死が伝えられました。

そして仲時さまの父上が後を追って自害しました。
その時の時世の句  「待てしばし  死出の山辺の旅の道  同じく越えて浮世語らん」

これは先立った仲時さまに呼び掛けた句です。
父上の基時さまの後を追って家来達も自害しました。
48歳だったそうです。


わたしにはこの時の阿鼻叫喚がまだ整理されない。
仲時さまの嫡子が後に捕まって龍ノ口で処刑されるのを見てたのかな?
竜の口の刑場にすっごく拘る自分がいます。
オットと鎌倉に行った時もすっごく竜の口に何か拘ってました。


生まれて来る使命
生きて行く意味
死んで遺す証

鎌倉末期の自分のことは全く整理がついていない。
生物的には南朝方の子孫なのに、過去生は鎌倉方なんてね。


でも南朝方の母方でも平家の父方でも鎌倉滅亡時の仲時さまも   みんな○○○にやられているわけです。
この○○○氏って大嫌い。
1180年以来の敵です。


最初に○○○という名字をなんとなく生理的に嫌いになったのは「巨人の星」で○○○という名字を知った時。
その時から  イヤな感じ  って思うようになり
わたしの人生の中で出会いたくない名字でした。

どういうわけかわたしの実際の人生の中で、この名字の人と関わったことがありません。

                名古屋には珍しいのかも。


ロスの空港で仕事でこの名字のステキなおじさまと知り合って  「お殿さまみたいなお名前ですね」  と言いました。

そこで○○○という名字の人が生理的に嫌いというのは解消されました。


この家は戦国時代をうまく切り抜けることが出来ませんでした。
分家にはけっこう有名人がいて
分家は結構日本史に輝いています。


平熱では三つ柏さんのスレッドで○○○家がらみが過去に何度も出ました。
ここのところは「出雲国」の名前が出ててニアミスです。

時代が違うので大丈夫です。
あはは
[47]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月10日 00時40分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 投馬国の解釈でも、やはり飛鳥昭雄氏の著作『大邪馬台国の謎』のお世話
になりました。つまり――

 @武智氏の解釈:出雲はかつては投馬国であり、大出雲王国だった。

 A飛鳥氏の解釈:大丹波王国が投馬国であった。出雲はその中の一国であ
  った。

 武智氏は出雲主体で考えており、拡大解釈をし過ぎた。大丹波王国があっ
たことをを知らなかったのだと思います。

 飛鳥氏は大丹波王国を知っていた。それはたぶん『海部氏勘注系図』を知
ることができたので、大丹波王国を投馬国として比定できたのだと思います。

 あとは、簡単にまとめて報告いたします――
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月10日 03時01分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

>飛鳥氏の解釈:大丹波王国が投馬国であった。

「音」からすると  たん→投   ば→馬  と中国語で表記されたのかもですね。


>出雲はその中の一国であった。

 これはビックリ。
 出雲が丹波のエリアにあった、というのは考えたこともありませんでした。


古代日本史に於いて、もともと丹波という国はどういう立ち位置だったのか?
海部氏がどれほどの力を持っていたか?
そこを知りたいですね。

今、瞬間に思ったのは   海幸彦 vs 山幸彦  の兄弟喧嘩。
海幸彦(海部氏) vs  山幸彦(邪馬台国) ってコト?
など。


楽しいですね。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月10日 09時56分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史は本当に難しいということ、つくづく感じます。
 古代史の真実を解明するためには、誰もが次の四条件をクリアしなければ
いけないと思っています。それは――

 @日本書紀の呪縛を解くこと。
 A神話を現実レベルで解くこと。
 B天皇の在位・年代を解くこと。
 C古代丹波(丹後)王国の存在を知ること。

 この四条件をクリアして初めてフラットな歴史探求ができるようになりま
す。もっとも、ここで行き詰っているのが現状ですが。

 関裕二氏はほぼ日本書紀の呪縛を解いております。
 また、神話、天皇在位、丹波にも踏み込んでおりますので、四条件をクリ
アできる第一人者であると思います。但し、慎重派でありまして、国内モー
ドから大胆に飛び出すことはしない。

 飛鳥氏も四条件を超越していますが、関氏と比べるとユダヤ・イスラエル
モードが強く、またエンターテインメント的な色彩も先行するという、いわ
ゆる飛鳥ワールドを醸し出しております。

 それぞれにワールドがありますので、できれば統一してほしいものだと思
うわけでありますが、個性と主張というものがありますので、そこはなかな
か難しいとは思います。

 いずれにしても、北部九州、出雲、吉備、丹波、ヤマト、邪馬台国等の王
国があり、それらの力関係の推移が古代史であると思います。その力関係が
どのように推移したかというのは、それぞれの解釈者によって表現方法的に
も内容的にも変わっているので、そこを見極めたいものであります。私は、
今十冊程の本を同時進行で読んでおりますが、どうもそこのところを探求す
る根気が続きそうもありません。
 従って、先進的で無難な関裕二氏の説に基本的には従って行きたいと考え
ます――
[50]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月11日 23時47分07秒 ) パスワード

小池村のことで探索に引っかかったので
参考にしていただきました。
以下がまとめた内容です。
服部さんや青山さんが浜松時代に使っていた家紋を教えてくれると
ものすごくうれしいです。


明応年間(1492−1501)に入植(伝承)
洲貝総太夫(上総国)・山本彦二郎(加賀国)
内田佐源治(三河国)・間渕重里(近江国)らが入植
小池村としては永禄4年(1561)古文書に初表記らしい(出典元不明)
(平成26年浜松市東区小池町自治会会員名簿内書付)

まとめ

市場神社(永正10年 1513) 洲貝総太夫(上総国)
白山神社(不明) 山本彦二郎(加賀国)
新明宮 (不明) 間渕外記源重里(近江国)
小池神社(不明) 間渕外記源重里(近江国)
荒神社 (慶長16年9月1日 1611)小池村民
金山社 (不明) 間渕五良太夫
白羽神社(不明) 杉浦新蔵

市場神社 五男三女神
白山神社 伊邪那岐尊・伊弉冉尊・菊理媛神
新明宮 天照皇大神・豊受皇大神
小池神社 大己貴命
荒神社 須佐之男命
金山社 金山彦神・金山媛神
白羽神社 白山媛神

市場神社 3石6斗
白山神社 不明
新明宮 1石2斗
小池神社 1石2斗
荒神社 不明
金山社 5斗7升
白羽神社 不明

市場神社 不明
白山神社 上脇・松山・神畑
新明宮 中沢・大道・中・西屋敷
小池神社 一里山・小溝
荒神社 北村・中村
金山社 江原
白羽神社 大下

市場神社 現在の小池神社 須貝屋敷の北
白山神社 長泉寺北側の辺り 山本屋敷の東
新明宮 大養院から北 狢川そば 小池公園
小池神社 龍翔寺隣接地南     間渕屋敷の東
荒神社 小池町北端 村の境         
金山社 大養院から西 馬込川そば
白羽神社 小池村集落南端     34°44'30.9"N 137°45'12.8"E

上記神社名は神仏分離令(1868)後の名称
昭和23年にすべてを市場神社に合祀のうえ
市場神社の社殿地を小池神社と改名
神主の洲貝は須貝に改名している(改名時期不明)

大養院 臨済宗奥山方広寺 天正7年 (1579) 2石
長泉寺 臨済宗奥山方広寺 天正15年 (1587) 1石
龍翔寺 臨済宗奥山方広寺 文禄2年 (1593) 4石2斗
長福時 黄檗宗宝林寺   延宝4年 (1676) 不明

龍翔寺は旧高旧領取調帳の公開データだと0.42石
これは誤表記の可能性が高い
(遠州国風土伝表記 コマ番号93)
(龍翔寺 除地高四石弐斗、同寺脇寮除地高壱石弐斗、臨済宗奥山方広寺派)

長福時は旧高旧領取調帳の公開データに掲載されていない
ただし(西隠院除地 1.2石)これが長福時のことかも
つづけて
(浜松市史 二 年表・索引・附録・奥付 青山御領分絵図解説 674-686ページ)
(青山御領分絵図解説3)
延宝六年(1678)に書かれた絵地図の手書き複製図によると
一里塚そばに曽我寺と表記
享保11年(1726)に二代目住職になった
黄檗宗宝林寺派の北堂が改宗改名したかもしれない

青山御領分絵図はかなり書き込んであるけれども位置関係がおかしい
小池町付近だと
(金山・竜翔寺・曽我寺・曽我松・若一王子・八王子・神明・大養院・村荒神)
曽我寺→長福寺かも
曽我松→大きな松の木らしいが存在せず
八王子→市場神社
若一王子は間渕家が神主をしていた時代の小池神社のこと
近隣村に若宮が数多く表記されていて小池村だけはこだわりの表記
遠州国風土伝表記の同寺脇寮除地高壱石弐斗のこと
村内の中心に八王子社があってすぐ北に龍翔寺と若一王子
なぜこうもお隣さんになったのかは不明
[51]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月11日 23時48分59秒 ) パスワード

小池村はざっくりしちゃうと
応仁の乱後の混乱期に新しい村ができた
隣村の有玉や市野もほとんど同じ時期に入植されている
蒲御厨と美薗御厨との中間地点
きっちり境分けできない空き地
馬込川(小天竜)の氾濫で人間が増えたり減ったりするすごいところだからこそ
新開拓する余地があった可能性がある
そのなかでも市野村の市野惣太夫(近江国)が徳川家康の家来として大出世している
地元の人間にしても別格

浜松が徳川家の支配する所になり
小池村は服部半蔵が地頭として君臨
半蔵さんがほしがってもらったのか、たまたまあてがわられたのか不明
屋敷があったかのかどうかも不明
服部一門の誰がきたのか不明
天正14年に徳川家が浜松を去ったあとも半蔵さんの領地だったのかも不明
現在は、忍者な人もおらず忍者で町おこしすらしていない。

桑名市立中央図書館が所蔵公開している
(元御家人筋并御由緒有之蒙 仰御用相勤候家附服部家畧系)
これの15ページ目に八王子社の棟札の書き起こし図が書いてあって

X天正三年 地頭 服部半蔵 用人 青山源XX
奉造立 大日本国 東海道 遠X 長上郡 小池村 八王子神社所
亥九月吉日 神主 洲貝宗X忠正X 杉浦忠X正重

丙 天正X年X 地頭 服部半蔵 用人 青山源X信次
              旦那 間洲XX秀長
奉X立 大日本国 東海道 遠X 長上郡 小池村 八王子社一X
戌九月ニ十八日 神主 洲貝X忠正

間渕書くべきところが間洲となっている、しかもよみづらい
慶長六xx年x奉。
と〆ているので1601年ころまでは小池村となんらかの関わりはあったはず。

用人の青山さん
この人が小池村への出張代理人かも
(平成26年浜松市東区小池町自治会会員名簿)によると
青山姓は2名、一人は長泉寺隣、一人は小池神社よりやや北西
服部姓は5名、この5人の住居は近隣地ではない
5600人いて5人は同じ集落名(あざ)におらず分散している
町内において間渕一門、須貝家、杉浦家は区別できるほど隣接しているので
たまたま服部青山さんが住んでいる可能性が大だといえる
ただし
旧名 八王子・龍翔寺若一王子があった村の中心は
東名高速道路とそれに付随する南北道路舗装のために分断
土地を手放した人がおおくて(内田さん)は本家が移動している

八王子社が小池村の鎮守神で須貝さんが歴代神主
龍翔寺が間渕一門の菩提寺で
小池町は間渕さんだらけになっている
下の名前もしくはフルネームで呼ばないといけないほどたくさんいる
その中に忍者の一族は残念ながらいそうにない

追加として遠州国学は小池村に限らずちょっとした家では勉強していた
賀茂真淵の弟子杉浦国頭の門下生として洲貝一族の名前が残っている
間渕本家の先々代の爺様も岡部家(賀茂真淵の在所)から教えをうけている。


ネタ元は
先代神主の須貝さんが書いた一枚の伝承図(小池の神々)と
自治会名簿

浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/wagamachi.html
わが町文化誌 ふる里ながかみ

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/01shishi.html
『浜松市史』 一 〜 五

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765205
遠江国風土記伝

桑名市立中央図書館
http://kcl.kuwana-library.jp/archives/digital.html
桑名藩 元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系

今昔マップ on the web
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
浜松・豊橋

旧高旧領取調帳データベースの検索
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月12日 04時24分36秒 ) パスワード

ぷくぷくぽんさん

情報をありがとうございます。



三つ柏さん

間渕氏  間洲氏  
服部中家の家老だった馬淵家のことでしょうかね?


もう馬淵金吾さんのご子孫はいらっしゃらないかも、ですね。
[53]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月12日 20時41分01秒 ) パスワード

浅学な駄文でお恥ずかしいかぎりです。

修正
長福時→長福寺
書き間違えました。

桑名藩 元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系

(まぶち)を誤字や当て字、思い込みで書き間違えている可能性以外に
元々は馬淵だったかもしれませんね。

似たようなこと
小池町では旧家の(すがい)洲貝さんが須貝さんになっています。

長福寺の住職(館)さんは(やかた)さんと呼ばれていました。
平成になって(たち)と読み名乗りを変えています。
もともと(たち)だったそうです。

考えると本当のことがわからなくなりそうです。
(まぶち)に関しては
小池村の成立時期の四氏族の名前にあがっていますが
だれが言い出したのかわかりません
予想ですが、お寺や個人宅に残っている位牌等に書いてある
御初代様達がなくなられた時期を参考にしていると思われます。
小池村の村長の家系なのに
どの郷土史にも四番目にでてきますのがその理由かと

服部家が支配してる時期に
現存するお寺が建てられ神社も安堵
後からきた(まぶち)一族が服部家となんらかの関係があって村が発展
ただし主家徳川家の転封時に移動していないようで
後世まで家名を残しています。
一部はついていったとしても
近所の間渕さんから服部さんがどうのこうのとは聞いていなし
30年前に書き付けられた口頭伝承を一部まとめている
郷土史内にまったくでてきません。
いまのところ服部半蔵さんとは断絶の感があります。

静岡県立中央図書館
静岡県史編さん収集資料探索システム
http://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/kenshi/top

徳川家光朱印状写(遠江国長上郡小池村八王子神領・・・)
慶安元年10月24日(1648年10月24日)

小池村は徳川幕府の直轄地に早い時期になっているので
やはり服部半蔵直系の人々はいないかもしれません。

服部中知行としては、市野村を挟んだ先にある
上石田村と下石田村とを明治まで支配したことが
旧高旧領取調帳にかいてあります。
隣村隣々村から婿養子お嫁にいくものですので
なんらかの服部一族が長上郡に存在していてほしいです。


小池村の八王子社の横に昭和初頭まで小川が流れていました。
つまりは小池村全域が中州としてできた村であって
うすこんもりした土地が点在する場所だったようです。
そのため、お寺を三分割する必要にせまられ、
間渕家、洲貝家は一番上等な高地に住んでいました。

服部半蔵がなぜ小池村の地頭になったのか
小さいどこにでもある1000石の領地をおさめていたのか
それを考えると水利関係が一番可能性が高いです。

馬込川と支流の狢川の合流地点に昭和30年ころまで
人工のダムを毎年つくって田畑に水を引き入れていました。
稲作をやればわかることですが
田に水をいれたら安定して根付くまで細かく管理しないといけません。
しかも当時は(米=金=食料)ですので命のやりとりになります。
有玉村代官高林家の古文書にちょいちょい
小池村と、どこそこの村が喧嘩したと書いてあります。
大きく争ったのを書いてあるだけで
毎年小競り合いをしていたのは間違いなく
下流の蒲地域は米の品種を早稲にかえたとまで書いてあります。

稲作における絶対的なアドバンテージを
服部半蔵さんはもっていました。
水利権利にかかわる場所を徳川家康に意図的に任されたとすれば

遠州布引山麓の村、遠州イサシ村、サハマ村(wiki掲載訳文)

これらの領地の所在地の答えがみつかるかもしれません。

隣村の有玉村に坂上田村麻呂に関する伝承があって
それに関わる蛇の神社が小池村江原の西方向
少し距離がありますが
馬込川をはさんだ反対側に鎮座しています。
古来より水量が集まりやすい場所であり
常に氾濫との戦いがあり
徳川家康の側近達も把握したうえで
服部半蔵を地頭にしたのかもしれません。


乙 天正三年x 地頭 服部半蔵 用人 青山源xx
奉造立 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王子神社所
亥 九月吉日 神主 洲貝宗x忠正 x 杉浦忠x正重

丙 天正十四年x 地頭 服部半蔵 用人 青山源x信次
               旦那 間洲xx秀長
奉xx 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王寺社一宇
戌 九月ニ十八日 神主 洲貝宗x忠正

〜慶長六 辛丑 年x奉。

〜御朱印頂戴中xx仕由右神主忠正子孫xx洲貝数馬ト申x正成屋敷xxxxx〜

がんばって訳してみると洲貝さんがどうやら
服部正成の屋敷にいっているようです。
場所はどこなのか私には解読できません。
これを書いた人の癖に慣れるのはかなりたいへん。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月13日 03時05分20秒 ) パスワード

ぷくぷくぽんさん

お気になさいませんように。

ムカシは漢字表記は文部省がやった今のような縛りは無いし明朝体で書いてくれてないし
ムカシの人の字は音が似てればとか、意味が近いとか、当て字だったり、思い違いだったり、略だったりで
我々現代人には謎ですが
「こんなところ」というのが分かれば良いので、お気になさいませんように。



三つ柏さん

>神主忠正

どなたでしょうね?
忠正=清盛の叔父さん
というのをツイツイ連想してしまいます。




幼稚園以来の友人からの手紙に信長が高野山攻めをしたかった話が書かれていました。
光秀は比叡山攻めに反対してたように高野山攻めにも反対してて信長の死によって高野山攻めが無くなった
そして
光秀と松永久秀との関係もちょっと書いてくれていました。


本当に日本って何重にも関係しますね。

彼女が言うには松永久秀が好きな理由の1つは大きい名前で勝負しなかったところ。
つまり日本には  源平藤橘姓に縛られる世界=なんとか自分も名家を名乗りたい=仮冒したい  というのがあるけど
久秀は  名家?そんなのクソ喰らえ!  と  自分の家の名を守ったのがいい、と。


あ、彼女の家は佐久にいて、木曽義仲の侍大将の家で横田川合戦に描かれていますが、
後に越後に移り、お仲間の樋口さんも越後に行ってますしね=直江兼続の実家、その後
結局、信濃に戻ったという家です。

弟と話していた時に、父は戦争中、野辺山にいた、と聞いてビックリ。
名古屋の学校を出てから甲斐にいたのは知ってたけど信濃の佐久のそれも野辺山?
父は空襲も知らず、終戦で東京に戻って焼野原とか飢餓とかの実情を知ったという話は知ってましたが
甲斐で毎日ホウトウでも食べてたのかな、と思ってたワタシにはビックリでした。


人間って動くというのは分かってたけど、自分の父親がそこまで移動してた?とビックリしました。


ホント!まさか自分の父親のことさえ知らなかったとは、でした。
[55]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月13日 09時20分08秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様
空の青海のあを様

 服部半蔵正成について――実は一番「いたいところ」を突かれました。
 半蔵の足跡、生活臭……これらがいくら探しても出てこないという「謎」
があります。地元での半蔵の情報も、ぷくぷくぽんさんのお調べになったよ
うにヨソからの情報であります。国会図書館に行けば、何らかの一次資料の
類は見つかるかも知れません。
 従って、私的には半蔵の調査の壁にぶち当って、余り前に進んでいないの
が現状です。息子の正就からは桑名藩等での記録が残っていますので、そち
らからの情報から正成に迫ることはある程度できると思っております。

 いずれにしても、泣き所を突かれましたので、心を入れ替えてもう一度目
を向けてみたいと思います。

 家紋については、常識の範囲で考えておりますが――
[56]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月13日 20時11分43秒 ) パスワード

どうでもいい内容ですみません。
たまにおこる忍者ブームにのれそうな土地柄なのに
だれもなにも言わないのが小池町民なのです。
NHK様に1時間番組を作ってもらえれば
そういえばご先祖様が長上の方にいたなあとか
よく読めないけど小池と書いてあったなどと
日本のどこかで手があがるかもしれません。
ものすごく確立は低いですけどね。


徳川家の力が強すぎて
小池村黎明期の代官の名前がすっとんで失伝しています。
服部正成ゆらいらしきお寺も
臨済宗方広寺の名声に埋もれてしまっています。
地元ではかなりの名跡が方広寺派になります。

大養院 先代が放棄して方広寺から新住職が管理
長泉寺 落雷火災により、かなりの古文書を消失
龍翔寺 高度成長期に寺領が整理

大養院や龍翔寺に古文書などがのこっていればいいですが
地元の研究家達が服部正成について調べていないようです。
単なる見落としであるのか
元々存在しないのかはわかりません。

浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/2213005100/topg/gappei.html
浜北市史 通史 上巻
第五章 戦国期の浜北と徳川家康
第一節「屋敷」の分布と歴史の道

長上郡 小池村 西屋敷

どうやらお偉いさんが八王子社の西側に住んでいたようです。
間渕さんの本家は龍翔寺の隣ですので
それとは別の権力者がいたようです。
東名高速道路のために跡形もなくなってしまっています。

中、西屋敷と呼ばれていた集落の片隅
八王子社の西側に弘法大師堂ありました。
20年前くらいまでどうにか残っていましたが
道路拡張のため、お堂は壊されています。
正徳5年(1715)に作られたお堂のようです。
おそらく西屋敷地域にすんでいた権力者の管理地だったと思われます。

浜松市史 ニ
第七章 文化の興隆
第一節 寺院と神社
庶民の仏たち

天保14年(1843)に(新四国八十八か所)と呼ばれる
浜松地域だけでおこなう、お遍路ブームがあったようです。

一番札所(小池村 北堂) 西屋敷弘法大師堂
三番札所(小池村 長泉寺)長泉寺
六番札所(小池村 紺屋門)長福寺

長泉寺は弁才天、長福寺は失念していますがお堂があります。
長福寺の二代目住職が北堂なのでしばらく
一番札所=長福寺だとおもっていましたが
改めて整理するとこれが正解だと思います。
江戸末期に何らかの力をもつ人がいて
それなりのお堂がある小池村を一番にした。
その偉い人は誰なのかは今の所わかりません。

ちょっとした権力者は誰だったんでしょう
もともといる人々は八王子社を中心に村をつくっていて
中(中心)でもすぐ西側に偉い武士がきて屋敷をかまえたので
西屋敷とよぶようにしたのがすんなり収まります。
三方ヶ原の戦い(元亀3年 1573)の手柄で伊賀衆150人をもらっているとすると
小池村に忍者達が拠点をかまえていても不思議ではありません。
服部正成が最初にお堂をたてて
天正14年以降も大事な村の宗教施設として
西屋敷の主に管理人になってもらっていたかも知れません。


上脇→かみわき、小池村の東はずれ、村わきが転じて?
松山→まつやま、松が生えている山?
神畑→しんぱた
中沢→なかさわ、狢川そばの中州
大道→おおみち、街道のこと
中→なか、八王子(村の中心)のやや西より
西屋敷→にしやしき、八王子(村の中心)の西
一里山→いちりやま、街道の一里塚
小溝→こみぞ、小川が流れてできたミゾ(へこんだ場所)
北村→きたむら、村民がたくさんいる北側の場所
中村→なかむら、村民がたくさんいる西側の場所
江原→えはら、
大下→おおしも、大道の下(南側)のおおみちしもが転じて?
[57]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月14日 09時13分09秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様

 服部半蔵正成でありますが、家康にとってみると、伊賀を中心とした
いわゆる「服部党」という集団を形成するいくつかのグループの内の一
つの長として見ていたのではないかと推察いたします。特に「服部中保次」
は、半蔵と相並ぶグループ長になっております。これらのグループは服部
党として協力し合っていたものと思われます。
 小池と市野と石田(上・中・下)の関係は、本坂通が通っており、交通の
要所でありました。
 
 この続きは、本日の仕事の終了後に書きたいと思います――
[58]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月14日 23時57分33秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様
空の青海のあを様

 ここ二日間、ある選挙事務所のお手伝いに入っておりました。
 そこで会ったある人と話をしている内に、その人の祖先のビックリ仰天
の秘密を聞くに至りました。

 その秘密とは――その人の祖先は、戦国時代にどこかから遠江国気賀に
やって来て住み着いたという。今も本家筋が気賀に残っているといい、そ
してどうやらその祖先というものが"草"であったと伝えられているという
ことでありました。

 その人の名前は「上嶋」で、これにもまたビックリしました。世阿弥、
その父観阿弥の祖先をたどれば、服部、杉内、そして上嶋に行き着くので
あります。もちろん、これはただその可能性があるかも知れないというだ
けで、確証がある訳ではありません。ただ、偶然に出くわした話に、いさ
さかビックリすると同時に、やはり世の中には知られていないいことが一
杯あるのだという気持ちにさせてくれました。従って、歴史の謎解きは、
一つ解いたといって終わるのではなく、次から次へと解き、解いても解い
ても永久に続くものであるという、妙な確信が私の心の中に芽生えました。

 「忍者」に対して持つ我々のイメージは、果たして正しいのであろうか。
黒装束に忍者刀のアクロバットアクション、そして手裏剣がヒュルヒュル
と宙に舞う……これは、活劇映画によって作られたイメージなのではない
だろうか。もちろん、そんなケースも稀にはあっただろうけれど、忍者は
正確には「忍び」、即ち「姿を見せない、正体を見せない」ということが
鉄則の職業でありましょぅ。従って、足跡も残さない、記録も残さないと
いうのは当然のことでありましょぅ。
 服部半蔵正成はいわゆる"忍者"ではなく、武将であったとよく言われま
す。小池の八王子社の棟札に名前が残っていたのも、その証になると思い
ます。
 服部半蔵正成の槍の名手としての活躍は、私には誇張されて書かれてい
るような気がしてならないのですが、本当はどうだったのでしょう。四谷
の西念寺に残されている槍はそうとう重い(10s前後)ということでありま
すので、振り回すにはちと重すぎると思います。重さが槍にプラスすると
は余り考えられません。むしろ軽く長い方がよりメリットがでるのではな
いかと思うのですが……。
 つまり、半蔵正成は実在はしているものの、そのイメージは何かの目的
でもって創られた虚像なのではないか……というのが、私の推理するとこ
ろであります。確証は今の所ありません。永遠のテーマになるかも知れま
せん。

 次回は、岡野写月氏の著書『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』の中から、
小池村に関する事項を拾い出してみます――

 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月15日 10時30分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


ビックリです。

能の上嶋氏でしたら確かに平熱で初めの頃によく話題に出てた猿楽関係者と関係があったでしょうね。

とすると、やはり忍者も入り込んでいた。
猿楽や能役者ならいろいろな家に疑われずに出入りできるし。


また松平家と服部家の関係は家康の父あたりからあって
その上に
西郷局の母上の後夫の服部平太夫蓑笠之助正尚から決定的ですし
伊賀から大勢来てたでしょうね。


ホントに歴史は一筋縄では語れないですね。
[60]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月15日 20時13分34秒 ) パスワード

一里塚を基準に考えるんですね。
浜名湖北まわりから東海道に抜けていく途中の道で
(気賀関所)と(天竜川)の中継地点
市野は服部正成が浜松にいた時代は
宿場町としては完成していません。
市野一族が後年にものすごく発展させています。
当時の小池市野石田は、似たり寄ったりのおおきさの村々です。

遠州鉄道自動車学校駅は小池町ですが
昔の村割りだと有玉村の南端集落になります。
鉄道のすぐ西が現在、有玉町市場(いちんば)で
二俣街道と姫街道の交差点です。
浜松城に通じる大事な道で武田信玄も通ったといわれる街道です。
この交差点を南にむかって馬込川を渡った集落が(かみじま)になります。
小池村江原の対岸が(かみじま)です。
現在はかなりの領域を上島としていますが
明治初頭の地図だと上嶋の集落あったようです。

武田信玄軍が現在の二俣街道と姫街道とを利用して
気賀方面に抜けたという学者がいます。
ここから妄想ですが
当時は馬込川の水量が今のそれとは違い
中州の多い台地の下での決戦の場をさけた武田
家康はお城に来るものとまちかまえていたらこない
気賀方面にいっちゃうから後ろから攻め立てようと
三方原台地に進軍中に武田軍に叩きのめされた。
手痛い敗北で、武田軍がまた同じ道を利用するはずだから
監視役を服部にまかせよう
あいつは負け戦なのに手柄たてたし
忍者150人をあずけて小池村に本拠地をつくらせた。
そんな感じでしょうか。


市場(いちんば)は
そのまんま物の売り買いをする市場(しじょう)の方言よみ。
小池村の八王子社が明治の神仏分離令に従って改名したときは
小池村経済の中心の市場だから
市場神社(いちんばじんじゃ)になります。
周辺のアザとしてポピュラーで特に深い意味はなさそうです。


長福寺は延宝4年(1676)にたてられたらしく
当時の浜松藩主の青山氏が書いた地図に曽我寺と書かれています。

曽我山 長福寺(現在のお寺の看板)

アザとしては現在、一里山ですが曽我と呼ばれていた時代があり
名残が残っていました。
服部正成一族と関係があるかどうかは不明です。
[61]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月15日 22時57分33秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様
空の青海のあを様

>三方原台地に進軍中に武田軍に叩きのめされた。
手痛い敗北で、武田軍がまた同じ道を利用するはずだから
監視役を服部にまかせよう
あいつは負け戦なのに手柄たてたし
忍者150人をあずけて小池村に本拠地をつくらせた。
そんな感じでしょうか。

 この推測は当たっているのではないでしょぅか。私も同感であります。

 この当時、家康は、遠州の境目の調略や警備に力を注いでおりまして、
警備すべき「点(拠点)」と「線(防衛線)」に服部党その他を使っていま
す。
 小池村八王子社の棟札は1575年となっていますが、半蔵正成と双璧を
なす服部党のもう一方の党首・服部中保次は、神ケ谷から気賀の南にあ
る刑部(おさかべ)に馬で帰って来る寸前に、残党(今川方と言われている)
に暗殺されてしまいます。それは1587年のことでしたが、その十年前の
1577年に、保次は、家康より刑部を領地として賜っております。気賀に
は関所ができたように、その地域は要所でありました。

 岡野写月氏の著書『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』より抜粋――
 @市野が宿駅として定められたのは、1587年のことだそうです。
 A1564年当時、市野には砦があったそうです。
 B小池村の四家として――
  ア.須貝氏
  イ.内田氏
  ウ.山本氏
  エ.馬淵氏
  この四家が開拓の主役となって、小池の村づくりにあたったとい
  うことです。
 C小池村 馬渕家記録
   馬渕家は、宇多天皇九代孫、佐々木源義秀、五代孫、近江守氏信
  の末流にして、本国は近江国蒲生郡馬淵の郷士、馬淵覚之進義信と
  云い、妻は丹波国船井郡大谷の郷士、大谷刑部の娘にして、山城国
  愛宕郡小野江に住し、武術の達人たるにより、禁裏守護として参内
  した。

   長男覚之右衛門は武芸を好み、武者修行をして諸国を遍歴し、遂
  に上石田村に落ち着き、上石田新田に道場を建て、武術を業として
  居住す。馬淵菅右衛門の祖先である。これより分家したる者近村に
  多く、馬の字を用いて皆馬淵という。下石田、笠井新田、上大瀬、
  その他の処々にあり、皆馬淵である。

   覚之右衛門の弟、外記源重里は、兄を訪ねて来り、滞在してこの
  付近を巡回せしに、広き河瀬の側に二つの池あり、その辺は原野が
  多ければ、開拓せんと欲し、ここに仮家を建て、初めて五反歩開拓
  す。よって後に五反畑と称する。

   (天正十七年水帳記載)南方に大池あり、西北に細々と小さき池あ
  り、このごとき池の淵の間に居住するを以て、間淵と改称せし所以
  である。また、小さき池といえども、この土地を中央に誇るを以て、
  のち村名として「小池村」と号す。

とありました。

 馬淵氏は、服部中家(旗本三千五百石)の知行地の一部である上石田・
下石田の在地代官を務めており、上石田の上河原に「代官山」や「代官
屋敷」という地名が残っております。
 馬淵氏の出自と服部中の出自、あるいは系譜の中で、近江・甲賀あた
りでの出会いが両者をつなげているのではないかと推測いたします――

[62]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月16日 22時01分03秒 ) パスワード

(まぶち)さんが異常に多い理由がわかりました。
市野村ばかりが注目されて
周囲の村のことはおまけ程度の歴史になってしまい
ちゃんと掘り起こせば残っているものですね
武家の次男たちが新しく村をつくったとすれば
小池村に古い伝承がたくさん残らないはずです。

小池神社の中に寄進者達の墨書木札が掲げられていますが
棟札は天井におさまっているのか
それらしき物は外からみえませんでした。
浜松祭りのときに解放されますけど
荒くれ者達が酒を飲んで騒いでいる所に
ヘタに服部半蔵といえば
神社の天井板を抜かれそうなのでいきません。
どちらにせよ神社の基礎がコンクリートで
近年いろいろと手をいれているため
いままで誰もなにも言わなかったので
現存してなさそうです。

乙 天正三年時 地頭 服部半蔵 用人 青山源xx
奉造立 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王子神社所
亥 九月xx日 神主 洲貝宗x忠正 x 杉浦忠x正重

丙 天正十四年時 地頭 服部半蔵 用人 青山源x信次
               旦那 間洲xx秀長
奉xx 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王寺社一宇
戌 九月ニ十八日 神主 洲貝宗x忠正

〜慶長六 辛丑 年x奉。〜

〜神主相願ト申xxヘトモ 五十石以下ハ御沙汰無之x
御朱印頂戴中絶x仕x由 右神主 忠正子孫xx 洲貝数馬ト申x正成屋敷xxxxx尾御門〜

服部正成が死ぬ日付前まで
領地のことがつらつらと書かれているなか
小池村のことは、わざわざ注釈つきで書いてあります。
慶長元年に死去しているのに
慶長6年に奉納ではおかしくなります。

50石無いような者は門前払いしていた
3石6斗の下級神主の洲貝数馬が
江戸の正成屋敷にすぐ入れた、と超訳して

(〜御朱印頂戴中絶〜)と読むと

天正3年時の地頭だった服部半蔵 (だけど今は違う)
天正14年時の地頭だった服部半蔵 (だけど今は違う)

慶長6年頃に新たに小池村が幕府領になり
徳川家に神社のあらましを正されて
正成の名前でお墨付きをもらいにいったのだとおもいます。
それでも
神社の由緒書きがないから
新たに作ってくれなんて、ずうずうしいことです。
洲貝さん自身にしてみれば
一時期的な村の総大将だった服部さんに
お使いにいく感覚だったんだとおもいます。
また、大身の服部家のツテが小池村内にまだ存在して
断れない立場の人間がいたんでしょう。
もしくは、許可をだせる人物が洲貝さんと馴染みだったのかと。
わざわざ正成の縁起に書き込んだのも
それなりの理由がないとおかしいです。

洲貝=須貝としていますが
いまだに神主の男子は、○馬と名乗っています。
洲貝数馬もまちがいなく小池村の人間ですね
八王子=小池神社なので
wikipedia訳の
小池村あたりではなくて
小池村と断定してもいいとおもいます。

あと、西屋敷のあたりに服部さんがいたようなことを
爺様がいいだしました。
いつのどこの服部さんかわかりませんが
どうやらいたようです。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月17日 08時53分34秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様

 貴重なお話、ありがとうございます。半蔵正成のこの地での居住につき、
少しずつ現実味が増してきたこと、今後の探求の一里塚となりそうです。

  
[64]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月18日 23時26分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといは、実は東京池袋のサンシャインタウンの隣の文化会館内七階に
ある「古代オリエント博物館」に行ってきました。
 その存在は、東京の地図を眺めていた時に、偶然に目に入ってきて知った
もので、それまでは全く知りませんでした。
 日本の古代には、オリエント文明の流れが伝わって来ておりますので、そ
ういう意味でも、オリエントを知ることは、日本の古代を知ることにつなが
るものだと考えています。
 オリエントの話は、頭の中が熟しましたら、お伝えしたいと思います。

 さて、ぷくぷくぽん様、服部半蔵正成は徳川家康と同年齢ということで、
浜松では正にその壮年時代を生きたということで、浜松を中心とした家康や
半蔵のリアルな地元での記録(古文書)や伝承があっていいはずなのですが、
余り残っていないのは残念というか、ひょっとしたら消された、改竄された、
捏造されたという可能性も含めて、これからの地元浜松の歴史探求課題なの
かも知れません。
 寺林峻氏の『服部半蔵』というかなりリアルな歴史小説もありますので、
一種のシミュレーションとして、今一度半蔵の生涯、浜松での日々を追って
みたいといと思っております――
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月20日 08時47分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 この際、服部半蔵正成について、持てる情報を整理しておきたいと思い
ます。

 徳川家康と同じ年齢でもあり、浜松時代は二十九歳から四十六歳の間の
十六年間という、一番血気盛んで上昇機運の高い壮年期を過ごしておりま
す。家康の下で作戦を練りながら、諜報及び特殊戦術を駆使して、数々の
難関を突破し、家康の天下取りへの後押しをして行く戦いに明け暮れた日
々でありありました。それは正に血と汗と涙、憎しみと情念と野望にあふ
れた時代でありました。
 今川の地盤に侵入後、今川勢力を自軍に取り込みつつ、諸将とのバラン
スを図りながら、武田軍との表と裏の戦いに全力を傾ける。
 そんな中での、大きな出来事は――
 @三方ヶ原の戦い
 A信康事件
であります。
 それらについて、持てる情報をこれから整理してみたいと思います――
[66]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月20日 20時14分31秒 ) パスワード

時節柄、部外者でもあやしまれないので参拝してきました。

大養院 臨済宗奥山方広寺 天正7年 (1579) 2石
長泉寺 臨済宗奥山方広寺 天正15年 (1587) 1石
龍翔寺 臨済宗奥山方広寺 文禄2年 (1593) 4石2斗
長福寺 黄檗宗宝林寺   延宝4年 (1676) 不明

大養院
間淵→左右上下非対称のなにかのマーク 小さく三日月らしいものが右上に
  →位牌堂正面左右の歴代住職がおかれるべきところが四つの間淵家位牌
堀部→丸に三つ柏
  →位牌堂右側の三段下先頭 戒名なしの一族代表ぽい位牌 

長泉寺
位牌堂正面→右側に歴代住職位牌
     →左側に太平洋戦没者達の位牌
山本→おもだか紋
  →位牌堂正面仏間右の最上段
林 →家紋は失念 かたばみ紋?
  →住職の家系 山本さんのとなり
青山→三つ柏の一枚だけのような形 蔦紋?
  →林さんの隣
匂坂→家紋は失念 かたばみ紋?
  →位牌堂正面仏間左の最上段
高杉→家紋は失念 かたばみ紋?
  →匂坂さんのとなり
稲田→稲穂が左右から生えている形
  →高杉さんのとなり

龍翔寺
位牌堂正面→左右に歴代住職の位牌
雑多のため目立つ家名だけ
大石→ともえ紋 陰陽の2つ形
松野→三段松紋
須貝→失念
杉浦→丸に三つ柏

大養院が小池村の村長一族の菩提寺でした
家紋が特殊すぎるのも格の違いを感じます。
三つ柏だけを探しましたが
堀部さんが一家つかっていました。
位牌の大きさで身分がわかるように統一された綺麗な位牌堂ですが間淵だらけ

長泉寺も位牌の大きさ=いい場所
お寺内での序列がわかりやすいです
めだつ三つ柏さんはいませんでした。

龍翔寺は位牌の大きさが統一されていません
新旧の区別ができて、かなり古そうでも
最上段ではありませんでした
一族ごとにブロック単位でおかれている感じがします。
杉浦さんも一族でまとまっておかれていて
位牌の古さ大きさがまちまち
家紋も統一されていませんが三つ柏を多めに使っています。
雑多な村のお寺の感じが残っています。

墓場を丁寧にみたのは長泉寺だけになります。
三つ柏はありませんでしたが
矢羽を二つならべた家紋の野末さんが一族として三畳ほど
つた紋ぽい青山さんが一畳ほど
ほかの家は似たりよったりの半畳のなか
それなりの序列があるようです。
位牌堂では目立つ位置にみられない野末さんです
場所が広くても、やや古めの小型のお墓が3基で
スペースがかなり残っています。
神さまに宗旨替えしてお寺とは距離を置いているかもしれません。
家に戻って気づいたことです。
全部のお寺のお墓の家紋もちゃんとみるべきでした。

龍翔寺お堂内で、たまたま杉浦一族の方にあえました。
服部半蔵の名前は知っていても
支配者であったことは知りませんでした。
くわえて、八王子社に合祀したあとの社は
馬頭観音としてまつっていたようです。
小池神社に関わりがあることは
すでに失伝しているようでした。
70年でこれですので、400年前のことはなおさらですね。

長福寺はいっていません。
黄檗宗のお寺ですが
近年は神道の方々へ敷地を分譲しています。
なぜか古くから檀家のすくないお寺です。
案外ちゃんと調べたらなにかでてくるかもしれませんが
残念なことに太平洋戦争時にお堂が半壊しています。
[67]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月21日 00時23分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 実は、数か月前、ある古書店で、"参謀本部"編の『日本戦史 三方原役』と
いう本を入手しておりました。三方原の戦いにはどんな人が戦っていたのかと
うことをずっと知りたくて、そんな資料はないものかとずっと探していました
ので、その本の付録として「両軍将士姓名表」という大きな一覧表がついてお
りましたので、小躍りして喜びました。その中には、南軍と東軍の参加メンバ
ーの名前が詳しく書かれており、戦士したのか、負傷したのか、あるいは年齢
までも記されております。南軍即ち徳川軍は三百九十一人、北軍即ち武田軍は
七十七人の武将の名前が載せられております。

 ちょうどよい機会でありますので、それを切りのいい所で区切って載せてみ
たいと思います。参謀本部というのは、陸軍参謀本部のことでありまして、編
集・出版は明治三十五年に行われております。その当時の値段で五千五百円で
すので、今の価値にしたら結構高いものであったでしょぅ。
 この中には、服部半蔵正成も入っておりますのでお楽しみに!
 但し、本日は就眠の時間となってしまいましたので、明日に――
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月21日 02時52分25秒 ) パスワード

三つ柏さん

5500円の本って?
今の価値でも高価なのに。
当時だったら家が買えたかもですね。

瞬殺されないように頑張ってください。
楽しみにしています。



ぷくぷくぽんさん

並び矢とか  源氏車+矢紋とかは無かったですか?
残念です。

                      意外だったな

もう1つ意外だったのは  黄檗宗のお寺さんがあること。


やっぱり世間は広い。
[69]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月21日 08時19分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 それではさっそく、徳川軍の「三方原役(参謀本部命名)」参陣武将を一覧表
の順番(上位よりか?)通り記してみます――

T.
@酒井左衛門尉忠次(参河渥美郡吉田―今の豊橋―ノ城主 四十八歳)
 A佐久間右衛門尉信盛(織田家臣)
B平手甚左衛門正長(死亡 織田家臣)
C滝川左近将監一益(織田家臣)
D石川伯耆守数正(参河額田郡土呂ノ城主)
 E小笠原興八郎長忠(遠江城東郡高天神ノ城主)
F松平甚太郎家忠(参河幡豆郡東絛ノ城主)
G本多平八郎忠勝(二十五歳)
 H鳥居四郎左衛門信元(死亡 額田郡六名ノ城主)
I渡邊半蔵守綱(負傷 参河碧海郡浦邊に住す 三十一歳)
 J柴田七九郎康忠
 K大久保治右衛門忠佐(三十六歳)
L青木四郎兵衛廣次(死亡)
 M中根平左衛門正照(死亡)

今回はここまでにしておきます。
 人物については、色々な"いわく"がある人達です――


[70]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月21日 20時34分48秒 ) パスワード

下準備もせずおもいのままにやっています。
ちゃんと勉強して参拝しなおします。

三方原戦の武将を明治の役人が調べているのなら
かなり確度がたかそうですね
浜松基地は、東西に渡るみちを潰して造成
伊佐地と小池は直通路があったことを思い出しました。


〜○ 天正十(壬午)年六月十五日 御先手頭被 xxxx由 ○〜


知行最初xx不知 千石拝領仕(年月不相知)
其x追x御加増下xx由 知行x之儀 遠州 布引山ノ下xトモ申傳x
同国 イサシ村 サハマ村ノ物共 其頃 x代ニ召仕 子孫x者 x今相勤xxx
右村x知行xニモ有xヤト申傳xx御xx
天正之頃ハ 同国 長上郡 小池村ノ辺 知行xト相見

乙 天正三年時 地頭 服部半蔵 用人 青山源xx
奉造立 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王子神社所
亥 九月xx日 神主 洲貝宗x忠正 x 杉浦忠x正重

丙 天正十四年時 地頭 服部半蔵 用人 青山源x信次
               旦那 間洲xx秀長
奉xx 大日本国 東海道 遠州 長上郡 小池村 八王寺社一宇
戌 九月ニ十八日 神主 洲貝宗x忠正

右 八王子社内ニ納有之 棟札 之趣右ニx之通x御xx
右 八王子ニ 三石六斗之御朱印xx置x儀御xx由 慶長六(辛丑)年x奉。

伊奈備前守 彦坂小形部 大久保xxx xx
御朱印 元和四年 xxx之由xx 慶x元年十月x四日 御朱印ニモ三石六斗
貞享二年六月十一日 之御朱印ニモ三石六斗

xxモxx神主相願ト申xxヘトモ 五十石以下ハ御沙汰無之x
御朱印頂戴中絶x仕x由 右神主 忠正子孫xx 洲貝数馬ト申x
正成屋敷之儀x東武尾御門x内(尾御門 後唱 半蔵御門)
xx赤x御門x内(正徳ノ頃x 松平出羽xxx御屋敷x由)
慶長元(丙申)年十一月十四x病死五十五歳〜

天正三年 1575 正成 小池村地頭
天正十年 1582 正成 御先手頭になる
天正十四 1586 正成 小池村地頭 (家康が駿河国に移動)
慶長元年 1596 正成病死
慶長六年 1601 小池村の神社へ棟札を奉納
元和四年 1618 土地台帳からの転載?
慶x元年 1648(慶安)土地台帳からの転載?
貞享二年 1685 土地台帳からの転載?

寛政四年 1792 遠江風土記傳 長上第五
按棟札天正後服部半蔵領地

超訳
最初に1000石もらいましたが正確な領地わかりません。
のちのち加増されて8000石になりましたが
遠江の牧の原(布原)の周辺を
追加で駿河にいたころにもらったようです。
同じ遠江の小池村の棟札の写しがあるけど
ここも領地だったようですね
そういえば親戚筋の服部中さんの領地のあたり
伊佐地(いさぢ→いさじ→イサシ)と佐原(サハラ)が
領地と聞いたっけ、よくおぼえていないや。
ここの小池村も中さんの領地のそばだし調べてみるか

小池村は980石だしここが最初にもらった領地だろうな
それでも100年たっても神領が3.6石の田舎みたいだな
この書付にでてくる洲貝は田舎神主なのにお目通りかなったのは
苦労した浜松にいた頃の家来だったからかもね。

内山真竜さんが
200年前に桑名藩とは関係ないところで棟札をみているようです。

もう一押しあれば小池を忍者村にできるはずです。
[71]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月21日 23時24分44秒 ) パスワード

ぷくぷくぽん様
空の青海のあを様

 『日本戦史 三方原役』にはもう一つ「三方原戦図」(付録)がついていて、
元亀三年十二月二十二日午後三時頃の、武田軍と徳川軍の位置と陣形が記載
されております。
 現在の地図と比較し、整合性をとってみますと、ぷくぷくぽん様の言われ
た「小池」と「伊左地」を結ぶ東西の道(線)の北側の「初生(はつおい)」あ
たりに武田軍、南側の「萩丘」あたりに徳川軍が、それぞれ違った陣形を敷
いて対峙しております。

 つまり、小池と伊左地を結ぶ道(線)は、地形的に浜松城の北の守りの境界
線として適していたのだと推察いたします。たぶんその当時に戻れば、武田
軍が陣形を敷いた北側地域が、いわゆる「三方ヶ原」で正に原っぱ、徳川軍
が陣形を敷いた南側―ずっと下ると浜松城のある引馬まで―は、一種の低い
褶曲山脈的地形であったのではないかと思われます。
 これは時間をかけて調べれば、解けるものと確信いたします――
[72]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月22日 10時09分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス[69]の徳川軍Tの

J柴田七九郎康忠
 L青木四郎兵衛廣次(死亡)
 M中根平左衛門正照(死亡)

でありますが――

 Mの中根正照は、元二俣城主でありました。
 Lの青木廣次はその家臣と推測されます。
 両者につきましては、しっかりした系図で確認しておりませんので、論
及に少し確実性は欠けますが、この中根氏も青木氏も二俣城の落城という
汚名挽回のため、人一倍必死に戦い討死したのかと推察いたします。

 中根氏は、服部半蔵正成と縁戚関係になります。つまり、半蔵の妹(姉?)
が中根正重(正照の父、あるいは伯父)の妻となっており、また半蔵の娘が
中根正清(正照の子?)の妻となっております。

 次元は違いますが、平清盛の伯父―平忠正は、その子孫に、服部氏、及
び中根氏を輩出しております。その服部氏と服部半蔵とは、直接の系統関
係ではないにしても、多少の縁はあったかも知れません。どちらも元は平
家方でありました。

 もう一方の中根氏は、正に中根正照の祖先であります。

いずれにしましても、服部家と中根家は縁戚関係となり、しかもルーツは
平家つながりでもあったということになります。

 青木氏については興味深々でありますが、まだ調べ切れておりませんの
で、情報があれば欲しいものです――
[73]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月22日 10時27分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 ひとつ忘れておりました――
 
 Jの柴田七九郎康忠でありますが、康忠の子―康長は、永井直勝の娘を妻
にしております。二人の間に出来た娘は、服部中保重(荒井関所番―保俊の子)
に嫁ぎ、服部中保秋を産んでおります。
[74]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月22日 13時49分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 徳川軍Tの続き――

 N本多肥後守忠眞(死亡 額田郡欠ノ城主 忠勝ノ叔父)
O松平弥右衛門康純(死亡)
P米津小大夫正信(死亡 碧海郡米津ノ城主 勝政ノ子 四十二歳)
Q夏目次郎左衛門正吉(死亡 幡豆郡野場ノ城主 五十五歳) 
 R渡邊半十郎正綱(守綱ノ弟 二十九歳)
S鳥居彦右衛門元忠(負傷 碧海郡泉ニ住ス 三十四歳)
 21大久保七郎右衛門忠世(額田郡羽根ノ城主 四十二歳 忠佐ノ兄)
 22戸田三郎右衛門忠次
 23三宅總右衛門康貞(参河西加茂郡梅ケ坪ノ城主 三十三歳 正貞ノ子)
 24本多作左衛門重次(額田郡大平ノ城主 四十三歳)
25高力興左衛門清長(負傷 額田郡高力ノ城主 四十四歳)
26天野三郎兵衛康景(額田郡坂崎ノ城主 三十六歳)

 この中で25の「高力興左衛門清長」の娘は、服部政光(政季)の妻となっ
ています――
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月22日 16時13分30秒 ) パスワード

三つ柏さん


名前を見ていると実に  今に至るご縁  というのを痛感します。
戦国時代の三河の武士の子孫が20世紀の男女共学の学校で恋に落ちたのは当たり前だったのだなと。

                       ここに詳細を書けないのが残念です。


全く別のハナシですが
わたしの好きな太賀を   シティボーイなのに  と表現するそうです。


ムカシ大学生になったばかりのワタシはさるド田舎の男の子に「君の田舎はどこ?」と訊かれて・・・へっ?
今のワタシは  わたしって太賀の女の子版?  とやっと気が付きました。つい2日前に。



     とはいえ
     彼は和歌山のド田舎出身でも
     その地は古代日本史の哀しいエピソードがらみの地で
     それはわたしの大好きな日本史の1つでもあります

     そして、その地は、母方で何重にもご縁があり
          南朝方だったことと私には紀州藩の血も入ってるし
     それに彼の顔はわたしの好みの吉沢悠にそっくりだったし

          だけど!素封家の長男で超旧家とのご縁は絶対にアリエナイ!
     

それで上記の三河の皆さんのお名前を拝見して
ヲヲッ
なるほど三河の共学の学校で起きた恋愛話は有り得たワケだ
と納得してしまいました。


そして三河どころか尾張の旧家の名前も散見。
「青木さん」なんて名古屋の超名家だし。


三河の米津さんは・・・今も名家だし。


上記のお名前を拝見してて「みんな頑張ったけど大名になれず旗本で終わってしまった家も多かったんだな」としみじみ。


夏目家と服部家の関係もココには書けないけど。


すっごく泣ける。


単純に泣けるし
さらに逆にうちは尾張者で反信長だった家だし三河の一族は今川方だったし
そんな我が家の三河の一族の子孫が家康方家来の家の子孫と♡しても結ばれるわけ無かったのかと。

        ヒトの恋愛をココに書くわけにいかないし。


だけどだけど日本人ってホント!
過去からずっと2000年
アレやコレやでご縁があって
一族となって敵同士になって、またご縁があって、涙で別れて
そういうのを繰り返してきたんだな
とシミジミです。


だけど100年後に日本人は半減してるでしょうね。
150年後には日本人なんて   ちょっとは日本人の血が混じってるかもね  になるんでしょうね。

だからこそ、その時代になる前に自分の先祖をしっかり子孫に伝えたい、って
DNAが=ご先祖さまが=要求しているのかも。
[76]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月22日 19時21分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 三方ヶ原の戦いに参陣した徳川軍そのUです――

 @ 石川日向守家成(遠江佐野郡掛川ノ城主 三十九歳)
A 久野弾正宗能(遠江周智郡久野ノ城主)
B 内藤弥七郎信成(碧海郡上野下村ノ城主 家長の庶兄 二十八歳)
C 鈴木石見守重好(参河八名郡吉田ノ城主)
D 松平備後守清善(参河宝飯郡竹谷ノ城主 六十六歳)
E 松平興一郎忠正(碧海郡桜井ノ城主 二十七歳)
F 設楽甚三郎貞通(南設楽郡門前ノ城主)
G 青木所右衛門一重(十九歳)
H 本多太郎左衛門利久
I 松平善兵衛康安(負傷 正親の子 十八歳)


[77]ぷくぷくぽんさんからのコメント(2019年03月23日 23時11分56秒 ) パスワード

日本姓氏語源辞典: 名字の由来、語源、分布
https://name-power.net/

たいくつしのぎに
(まぶち)さんを調べてみました。

馬淵 〜近江国蒲生郡馬淵の郷士、馬淵覚之進義信〜

滋賀県 近江八幡市 馬淵町


馬渕 (浜松市近辺抽出)

磐田市 岩井   200
浜松市 大島町  130
浜松市 上石田町  80
浜松市 寺島 50
浜松市 飯田町 50
浜松市 江之島町 20
浜松市 城北 20
浜松市 豊西町 20
浜松市 曳馬 20
湖西市 新居 20
浜松市 三方原町 20
浜松市 下石田町 20


間渕 (上位のみ抽出)

浜松市 小池町 300
浜松市 早出町 40
牧之原市 坂口 30 静岡空港そば
浜松市 鶴見町 30
浜松市 広沢 20
浜松市 蜆塚 20
浜松市 上島 20
浜松市 富塚町 20
浜松市 曳馬 20
浜松市 野口町 20 

群馬県 高崎市 金古   20
群馬県 高崎市 棟高   10
群馬県 前橋市 元総社町 10



実家の(馬淵)さんは
地名になっちゃうすごい家ですね。

長男の(馬渕)さんは
どうやらお仲間が
磐田市 岩井にたくさんいるようです。
そこはsuzukiの磐田工場があって
見付天神が元々あった
これまたすごい場所です。

次男の(間渕)さんは
全国的に特殊な苗字らしく
本拠地が小池町とされています。
わずかに牧之原市と群馬県とに流れているようです。


遠江国風土記伝
神戸郷中 坂口谷 村八


高尾 高百四拾九石七斗七升
石雲院、朱符之寺高百五拾三石、末寺十四宇、曹洞宗備中国小田郡横谷村洞松寺末、宗芝派
以上八村、属山野、

牧之原市 坂口は、
(榛原郡 吉田村 神戸郷 坂口谷 高尾) が旧名のようです

国境の拠点として
回りに出城がつくられていた場所柄ですね。
小山城 天正10年 1582 武田が放棄 (高天神城が前年陥落している)

服部正成の家来として(間渕)さん達が
ついていってる可能性があるので
高崎市や前橋市のあたりも領地だとおもしろいです。

伊賀者の定義が、
服部家に指図采配されている人々を広くさすのであれば
まぶち=伊賀者でもありそうです。
[78]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月25日 06時54分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 一泊二日で伊勢志摩へ行ってきました。半分は観光、半分は歴史の探求で
ありました。

 「伊勢志摩サミット」会場になりました志摩の賢島にまず行き、「乾杯酒」
でありました日本酒「半蔵」(大吟醸)を購入いたしました。伊賀の酒であり
ますが、服部半蔵にちなんだ酒であり、以前から一度飲んでみたいと思って
おりました。服部半蔵が酒飲みだったか下戸であったかは、興味あるところ
でありますすが、飲んだとしても、その当時はいわゆるどぶろく・濁り酒で
ありましたでしょう。いわゆる清酒は江戸時代に入ってから鴻池(山中鹿之助)
の後裔によって造られましたので……。

 今回の旅行については、おいおい書いていきたいと思っております。

 ぷくぷくぽん様、「馬淵氏は半蔵の家来であった」という発想、正解に近
いのではないかと思います。馬淵氏は、れっきとした服部中家(大久保旗本)
の采地・上石田・下石田の地代官を任された服部中家の家人でもあったとい
うこと、これとリンクいたします。服部半蔵、服部中保次(中は仲とも書き、
識別上の標)達服部党に、どのような経緯で近侍するようになったのか、大変
興味あるところであります――
[79]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月26日 15時03分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 「三方ヶ原の戦い」に参戦した徳川軍の武将達そのV(参謀本部編『日本
戦史 三方原役』より)――

 1. 岩堀勘解由左衛門(死亡 高力清長の女婿)
2. 岩堀勘次郎   (死亡 勘解由左衛門の子)
 3. 岩室勘右衛門  (死亡 浪士 元は織田信長の近臣)
4. 伊藤金八    (死亡)
5. 伊藤七郎兵衛  (死亡)
6. 伊藤忠兵衛   (榊原康政の士)
7. 伊奈源左衛門
 8. 市川用三    (死亡)
9. 犬飼九郎次郎  (死亡)
10. 犬飼甚蔵    (死亡)
11. 井上新五郎   (死亡)
12. 池野十蔵    (死亡)
13. 石原弥三郎   (死亡)
14. 石原十度右衛門 (死亡 酒井忠次の士)
15. 石川半三郎正俊 (死亡)
16. 石川小大夫   (死亡)
17. 長谷川紀伊守正長(死亡 32歳)
18. 長谷川藤九郎栄一(死亡 正長の弟 19歳)
19. 長谷川右近   (死亡)
20. 長谷川十郎次郎 (死亡)
21. 長谷川橋助   (死亡 元は織田信長の近臣)
22. 服部半蔵正成
23. 服部源兵衛保正 (死亡)

やっとここで服部半蔵兄弟が出てまいりました。保正は半蔵家の上から
2番目の兄(次男扱いではありますが実際は長男)。正成とは18歳前後離
れています。
長男(実際は次男)の保俊は、三方ヶ原の合戦の12年前の高橋合戦にて
24歳で亡くなっております。
 
 徳川軍の武将の列挙数はレス69・74・76・79までで73人ですが、その
内の28人が死亡しております。死亡率は38%でありますので、今の所
高いような気配です。
 『日本戦記 三方原役』では、徳川軍の死者数は300人、あるいは、
1180人、の2つの説があると書いております。随分違った数値であり
ますので、何か操作されている可能性があるのかもしれません。

 服部半蔵正成は、これで兄二人を亡くたことになります。半蔵31歳前
後のことであります――

 次回は、このリストの中の長谷川氏について記したいと思います――

 
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月26日 22時38分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『日本戦記 三方原役』では、徳川軍の死者数は300人、あるいは、1180人、の2つの説があると書いております。

2つの説、はしょうがないと思っています。

理由:おそらく
300人説は
家康自身の直接の武将の戦死数で、この人達は家康には名が分っている、ということでしょう。

1180人説は、
そのヒトの身の回りをする各自の家来達=陪臣って言いましたっけ?=を含んでいる数
かも。
 
                       先祖の話を読んでいた時に
                       1人の武将が各自  X人  やら連れていた
                       という話を読んだことがあります。

                       だって食事の世話やら馬の世話やら武器の手入れやら、
                       戦いでやる雑事はたくさんありますからね。

                       


そして忘れてはならない事は、その現場で死んだ人だけじゃない、ということ。
    時差があって
怪我から後に亡くなった人もいた
ということではないでしょうか?

そして現場から脱走したヒトもいたでしょうしね。あ、敵前逃亡って言葉もありましたね。
不名誉除隊は 戦死者  で数えたかも。家康にとってもその人の家族にとってもね。


300人死んだ、ということだけでも充分  壊滅状態だった  と思います。


南北朝時代、母方の一族が義貞軍と合流するのに北国に落ちて行った時
大雪の中  (歴史的な豪雪だった)  馬も動かず  道に迷って凍死寸前  敵に囲まれてムザムザ死んで逝きましたが

「北国下向勢凍死の事」によると350騎が凍死した、と書かれていた記憶ですが
連れていた下男達は何人死んだのかな道連れになったのかな、と想像します。


でも、逃げ延びて今も残る一族の名のついた集落を作ってますから、
350騎は総数で一体どれぐらいの一行だったのかな?と想像します。


家康の家来達のその後の暮らしの困窮がいかばかりであったか想像すると涙が止まりません。
[82]三つ柏服部さんからのコメント(2019年03月27日 08時41分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様
ぷくぷくぽん様

 あを様の見解、その通りだと納得いたしました。総勢で一万の徳川軍の中
には、たくさんの雑兵(百姓もかりだされている)もおりました。この辺の現
実というものを理解しておかなければなりませんね。

 服部半蔵正成の兄保正(実際的には長男)も討死したということは、伊賀か
らもやって来た一族郎党(忍・草も含む)もいただろうと推察されますし、そ
の中にも表に出ない討死者もいたことでありましょう。

 遠江の当地におきましても、どこまでの人がかり出され、参戦したのか、
当家の本家にも鎧や刀があったということは、ひょっとしたら参戦したのか
も知れません。

 ところで、「馬淵氏」の件ですが、かつて一度調べたことがありまして、
詳しいことは既に忘れておりましたが、「松下家ファイル」(自分の資料集)
を見ましたら、松下氏も馬淵氏も、いずれも宇多源氏より発する佐々木氏の
一統であることを再確認いたしました。

 遠江の松下氏といえば、松下之綱が有名です。
 また、松下一族は神ケ谷(大久保の隣村)にも居住しています。
 そして馬淵氏は、小池に多いということ。
 つまりは、伊左地・大久保から小池・上石田を結ぶ線(西の浜名湖東岸か
ら、東の天流川西岸を結ぶ)の西と東に松下氏と馬淵氏がいた……。
 そしてさらに、西には服部中家が、東には服部半蔵家が(後に服部中家が
石田を支配)存在した。
 
 たぶん、服部党、松下党、馬淵党は主従関係というよりも、伊賀・甲賀・
近江での協力関係の流れが、引き続き遠江においてもシンパシィは続いて
おり、協力関係を保ちつづけたのかと推察されます――
 
 
 
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月28日 01時54分49秒 ) パスワード

メールで教えて頂きました:


中世の山城をかじったものですから調べて居ました知識の一部です。



当時で100人の戦死者が有れば、その内の武者(職業軍人)は10人と言われて居ます。

9割は農民兵士ですね。



戦国時代で信長の時代

(全国的には数字は前後するでしょうがかなり似通って居ると思います。米換算です。

武田軍は4倍升で計算ですので数字は4倍になります。仙台藩は5倍升計算です。江戸初期まででしょうね。)

・1万石で軍兵の数は250人  武田だと4万石で250人・・・。

・千石で25人

・百石で2〜3人

正規出兵数1町歩辺り一人がかろうじて出せる計算。

(1町=10反=1h)で4〜50俵で17〜20石

現在でも最高の収穫だと畝(せ)1俵で1反10俵。1町100俵ですが、

7〜8割の出来で平均・・・1町で7〜80俵ですね。

*小間物・中間・郎党などは数に入れない
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2019年03月28日 08時26分19秒 ) パスワード

新しくスレッドを立てました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101660.html
長上郡の服部氏族CXX:120:現場100回

キリの良いところでどうぞ。
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