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 投稿番号:101654 投稿日:2019年02月05日 04時58分16秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
松葉宗益 後裔 平賀氏について+(プラス)

コメントの種類 :その他  パスワード

古代から近世までの歴史の解明を進めて参ります。

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月05日 04時59分39秒 ) パスワード

白石様
お久しぶりです。

2019/02/05 AM4:40頃
こちらに、白石様宛のコメントを書いたのですが
送信後、確認すると前回のスレッドの全てのコメントが削除されていました。

橘紋・柏紋等の
古代に関わるとても重要な内容を書かせて頂いていたのですが
非常に残念です。

復旧しているようであれば、このスレッドは削除させて頂きます。

ちょっと怖いので、内容はこのくらいにしておきます。

久しぶりに御言葉が聞けてとても嬉しかったです。
白石様には心から感謝致しております。
[2]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月05日 10時38分07秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 御無沙汰いたしておりますが、お変わりございませんでしょうか?
 また、白石様もお元気でいらっしゃいますでしょぅか?

「柏紋」についてのお話、是非聞かせていただきたく切望いたします。

 私も柏紋の奥の奥には、何か知らないことが潜んでいると、自称「歴史
探偵」の「鼻」がピクピクとしております。「探偵」というよりも「探偵犬」
といった方がいいのでしょぅか!?

 既にこのところ花粉症で、鼻も目も頭も冴えませんが、「嗅覚」より
「勘(よく言うと天啓、ひらめき)」を大事にして望んで行きたいと考えて
おります。当るも八卦当たらぬも八卦で、結果はトンデモ説になってしま
うかもしれませんが、物事にチャレンジすることが大事だと思います。
 チャレンジの積み重ねで、やっと本当の事実が見えてくるのだと思って
います――
[3]白石さんからのコメント(2019年02月05日 11時04分06秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます

紋に関してこわいことがある
そのことが こわいですね

橘紋は国会でも 首相が頭を下げる紋で
柏は古代で 神聖な紋とされていたもので
誇りに思っていましたが・・・


夫の方の よその家のお墓を近くで見て 
柏紋ですが
㈤本線の
門跡寺院です


別名富田城 佐々木城
佐々貴から 一つの筋として

相良氏は 佐々木
宇多天皇の皇子・敦美親王の系は 道長と結びついた方は
貴族になっていき 京極と結びついた方は 武士化していった

という 話があり
近くの茨木市の総持寺は 道長の母・時姫の父かた 山蔭公に
関与する寺で

山蔭は 伊達氏にも 関与していく
伊達には 白石が 関与していき
伊達は 初期の頃 北家嫡流の筋で

道長の御堂関白家が台頭してから
次第に道長の系へ筋が移っていった
ここらあたりに 那須氏が藤原だった後

武士として
あらわれてくるのかしらん?
と 思います

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
田中氏
みやちゃん 
近くに田中氏が いませんでしょうか?

伊賀上野城に 高田が いたと 以前 うすい
冊子にかいてあったのですが
田中氏をみると 

伊賀臣の 言葉があり
奈良時代に 皇族 田中王がおります
伊賀津臣は 九州の方にあって

この子孫 天皇家の嫁になる人が いたと
記憶しています

父と母の仲人をしてくれた人の
実家は田中だったと記憶していたのですが
なにせ 何十年も前の話で

定かでは ありません
あさぎり町には 高岡の親戚が何軒か 
あります

つまり
歴史の中で かくれているのは
田中 

父の二代前に 田中から 嫁が来ていて
その娘だったかが
市房神宮のお鏡を持つ家に

嫁入り
その 家から 福島家に嫁に行っています
一気に 歴史がおりてくるのですが・・・

私 過去に 秀吉のまわりにいた人たちが
同じく うちの高岡に関与して同じ名前で出てくる
というような 話を他のスレッドだったかで

かいたのですが 

私自身は 祖先が秦であろうが
漢人であろうが 魏であろうが 呉であろうが

はたまた お鼻の高い 別種族と思える人たちで
あろうがかまわないのです
どうせ その先は また 一つになっていくのでしょうし

先ごろの陛下のメッセージにも あったそうですが
歴史を忘れず みんな 友達なんだ
という気持ちが大切だと 思います

ーーーーーーーーーーーーー
ところで ところで
佐賀の方へ 中国の方たちが この頃
やってきていることが 増えているんですってね

東京 大阪 京都などだったのが
進路変更です
佐賀の人たちは ビジネスチャンスですね

現場では 言葉がすばやく
やり取りできなければ せっかくのチャンスも
逃しますが

通販のCMをみていたら
格国の言葉を翻訳する機械が 29800円で 
出ているのです

それに この頃 酒蔵開きの季節になり
甘酒をもとに プリンを頂きました
市販では 甘酒プリンは見かけませんが

発酵食品ですし こんなものなど
売ってみたらどうだろうと 妄想が
ふくらんだものでした

草の根レベルでは 何事もなくおりますのに
どこかで 何かが くるっているのでしょうね
残念なことです


[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月05日 15時49分16秒 ) パスワード

白石様、丸三つ柏服部様
御無沙汰いたしておりました。
最近はブログの方での調査に専念致しておりまして
お二人とこうして、交流出来た事に、あらためて
感謝の気持ちでいっぱいです。

今朝がた、 松葉宗益 後裔 平賀氏について6 の方に4時30分過ぎに
コメントを書いて送信(この時は書いた内容は問題なく表示されていました)
さらに書き忘れていた内容を追記のコメントに書いて送信した所、内容を確認してみると
松葉宗益 後裔 平賀氏について6 の方に書かれていた全てのコメントが削除されていました。
本当に、残念な事で、白石様が書かれていたコメントも全て消えてしまい
お詫び致します。
何故そうなったのか?は解りませんが、白石様に申し訳なく本当にすみませんでした。
実は、「柏紋」に関しての内容は丸三つ柏服部様へのメッセージのつもりで書いていました。

私が書いた内容は、こちらにあらためて「より詳しく」書かせて頂きます。

私はありがたい事に、ブログの方でお知り合いとなる事が出来た方々と
個人的にも連絡を取り合いながら、球磨の古代の真実にようやく近づいた!と
確信出来る段階までに至りました。
今、連携させて頂いている方々は全国に広がる神代古代史の研究をなさっていらっしゃる専門チームの方々です。
全国の神社仏閣を数千箇所に渡り自らの足で廻り研究なさっていらっしゃる方々です。

球磨の真実は「通説」では解き明かす事は出来ませんでした。
「通説」から脱却して「クマソ」のじゅ縛から解放された事によって
真実がしっかりと見えて参りました。
例えば、ずっと「疑問」だった市房山の名前の由来も、数年前から関係性を疑っていた「事」にようやく辿りつきました。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436713225.html


@「橘族」について
「橘族」に至る「一系」が古代の球磨郡久米郷から北上した「久米物部氏(大山祇系クマソ物部)」
ここで言う「物部氏」とは「通説」で言う所の「ニギヤハヒノ尊」様の後裔と言う意味ではありません。
古代で言う「橘族」とは「通説」で言う所の「橘諸兄」の後裔と言う意味ではありません。

『日本一有名な祝詞である天津祝詞(あまつのりと)』の一節
高天原に神留り坐す
神漏岐 神漏美の命以て
皇親神伊邪那岐乃大神
【筑紫日向橘の 小門の阿波岐原】に・・・

と古代の神代に登場する「橘」。この「橘」の言葉に代表される「橘族」です。

「橘族」は天之御中主神様を奉斎する一族です。
御参考に https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12421028635.html
をご覧ください。

橘族の本来の姿を継いだのが「橘諸兄」の後裔の方々「橘氏」です。

後世の「橘族」が皆、家紋「橘紋」を使用していたと言う訳ではありません。
古代九州にあった「王朝」内で縁戚関係が築かれ、「関係した系」との繋がりで
様々な家紋を使用されています。

私の祖母の実家「平川家」にお祀りの氏神様『月讀廿三夜比賣尊』(実は「木花咲夜姫命」様)は「橘族」に直結する神様でもいらっしゃいます。
「木花咲夜姫命」様は九州から関東も行かれたようです。
大国主命様の本拠地は九州から静岡県(伊豆)に移られています。
決して「出雲」ではありません。
静岡県です!
(この辺りは、私に御教示を下さる方々からお伺いして勉強をさせて頂いている最中で、私はまだまだ”ひよっこ”です)

★「橘族」は天之御中主神様を奉斎する一族

白石様のお父様の御実家が「橘紋」を使用されると言う事は、家の宮原家同様
古代「橘族」と何等かの関係をお持ちだと言う事になります。
お父様の「高岡氏」と縁戚関係を持った「益城の平江家」
「平江氏」は非常に重要な姓だと確信致しました。
私のブログに中国の某所の地図を載せています。
画面にマウスをあてて、右方向にドラッグして見て下さい。
「平江」の地名がしっかりと見えます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436957817.html

高句麗系の「高氏」は、確かに弥生時代以降の何らかの時期に「火国」に来られています。
「益城」や「甲佐」が高句麗系の「高氏」と「平江氏」の接点であったのでは?と私は推測しております。
白石様のお父様の「いとこ」の方が、四浦の平川家に婿養子に入られた経緯に
「平江氏」との姻戚関係がとても重要な事なのでは?と考えています。


A柏紋について 「三柏紋」とは
古々代ユダヤの九本の燭台を意味する紋が『三柏紋』と伺っています。
ヘブライ系の方々は縄文時代に第一到来、その後、次々と日本に渡って来られているようですが
『三柏紋』を使用される方々は、第一到来の系の方々だそうです。


丸三つ柏服部様の御先祖様は古代の御先祖様の「証」”三柏紋”を御使用なさり
御先祖様の誇りが「家紋」に表されているのだと、私は感動致しました。
さらに、先にも書きましたように
※橘族、つまり天之御中主神様の「孫」となられる方々の系の一部は静岡県や関東に移動されている。

この事から推測して、橘族と古々代ユダヤの九本の燭台を意味する紋『三柏紋』を使用される方々が古代の『静岡県内』で姻戚関係を結び、
後裔となられる方々が静岡県、遠江国に住まわれる「丸三つ柏服部様」の御一族だと私は考えるに至っております。
この事に気が付いた時に、私はとても感動致しました。
丸三つ柏服部様の御先祖様こそ、天之御中主神様の系の一部の方々が九州から静岡県に動かれた「証」だと思います。
やはり、キーとなる「遠江国」でした。それは私の先祖調査も同じです。

古代の様々な「系」の方々は、国内の至る所に動かれています。
その方々の跡を平安時代なり南北朝時代なりの動乱後「関連する別の系」の方々が
動乱後、動かれて来られて「継ぐ」と、例えば「家紋」なりは本来の意味から大きく変わってしまう事は多々あると考えるのです。
だから、「真実」がどんどん見えなくなってしまうのでしょう。

丸三つ柏服部様は、私の調査、さらに球磨の古代、九州の古代に関心を寄せて下さり
私の調査を応援して下さっていらっしゃいます。
どんなに真実が見えなくなっても「DNA」の中に埋め込まれた「御先祖様の記憶」は確かなものである・・
と、丸三つ柏服部様の御視点の「根元」にあった「真相」に気が付き、私はとても感動しております。

B秦氏についての私の考え
『記紀』と『新撰姓氏録』により「秦氏」を「渡来民族」と、私達は完全に洗脳されているのだと思います。
「渡来」と言う言葉を「秦氏」だけ(を中心)に使うのは非常にナンセンスな事です。
日本の礎を造った方々は、殆どが「渡来」された「系」だからです。
「渡来」の時期が石器時代であれ、縄文時代であれ、弥生時代であれ・・
殆どは「渡来」です。
秦氏が日本に来られた時期は「応神天皇」の時代とありますが
応神天皇様をウィキペディアの「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」で見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

西暦270年〜西暦312年とあります。
殆どの方が頭の中では御理解されていらっしゃるように、西暦270年〜の時代
大和朝廷など、未だ日本には存在していなかった・・
『晋書』によると
泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。
西暦270年とは、わずか、その4年後です。

私は記紀の編纂に辺り、関わった方々は、特に「中国の史誌」を年代の参考にされたのだと考えています。
「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を見ると、その事が良く解ります。

秦氏を応神天皇様の代に「渡来」と記した理由は、同じく同時期に「渡来」した東漢氏と年代を符合させる為だと私は考えています。

秦氏、つまり秦の始皇帝の末裔の方々は、もっと早い時期から、九州にあった複数の「国」の方々と姻戚関係を結び(系A)、また、大陸内、半島内でも、後に九州の王朝と関連する「系」の方々と姻戚関係が結ばれていて、その後裔の方々も(系B)
西暦270年より、もっと早い時代に日本に来られていた。
「系B」の方々が「月読命様(大山祇命様)」※天之御中主神様の御子息を
お祀りされる「秦氏」と関係されている・・
と私は、未だまだ、勉強不足の身ではありますが、そう考えています。
「秦氏」とは日本が「礎」を築く上で、とても重要な方々であった・・
と言う事です。


C球磨と三日月
球磨盆地は上空から見ると三日月の形をしている・・
と言うお話は、過去、私と白石様の間で複数回登場致しました。

月は某国の言葉で「アイラール」と言います。
相良氏は「さがら」ですが、鎌倉時代に相良氏が所領した肥後国の「玉名」・「山鹿」
こちらに残る相良氏の所領地内に「相良」地区があります。
しかし、ここは決して「さがら」ではありません。
相良地区は「アイラ地区」です。

某国の言葉(ここでは国名はあえて書きません。ブログの方で書きます)
アイラール = 月
相良氏 = アイラ
相良氏は月の形をした「球磨盆地」を統治した。
神武天皇様の御后は「アイラツ姫」様

単純なる偶然とは到底考えられません。

私は、相良氏も平河氏同様、球磨の古代、いえ「日本の古代」の真実を
継承された一族だと確信しています。

その相良氏は遠江国にいらっしゃった・・
そして、球磨郡に来られた・・・
来られたのではなく、故国に戻って来られたのだと考えています。

かなり、偉そうな事を次々と書きまして申し訳ありません<m(__)m>
殆どが、古代神代の真実に精通された方々からご教示を頂き
勉強して、自分なりに理解した事です(..)

白石様
お身体、十分にご自愛下さい。
私は、白石様とお知り合いになったばかりの頃、全く歴史には無頓着。
白石様が根気よく私に御教示を下さったお陰で、ようやく、今の自分になれたと
思っています。
白石様には心より感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
久々に御言葉を聞けて、本当に嬉しかったです(^'^)


丸三つ柏服部様
以前、エジプトのお話をお書きになられていたのを拝見させて頂き
メールを送らせて頂いていたのですが、アドレスが間違っており、お届け出来なかった事があります。
エジプトのピラミッドの製作にあたられた方々は確実に古代の九州に入られています。
「阿蘇 ピラミッド」で検索されて頂ければお解り頂けると思います。

丸三つ柏服部様と私は、辿れば「とても近い」関係にあると私は考えています。(^'^)
これからも、ブログの方で頑張りますので
今後ともよろしくお願い申し上げます。

最後に皆様方へ
私は、こちらのスレッドをお借りしての数年間、調査・勉強させて頂いていた事が
とても大事な「宝物」となって、今の調査に結びついています。
皆様方のお陰です。
本当にありがとうございます。

ブログの原稿を書くのにかなりの時間を要していますので
中々、こちらに顔を出す事が出来ないのが現状ですが
これからも、しっかりと「真実」を調べて参りますので
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

皆様方
ありがとうございます。
[5]丸三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月05日 16時52分36秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 さっそく拝読させていただきました。私の方に関する記述には、ジー
ンと来るものがあり、時間がしばらく止まりました。過去からの遠い呼
び声が聞こえて来るような感じがいたしました。ありがとうございました。
勇気百倍の境地になりました。

 伊豆に関しては、特にいろいろな情報があります。やはり、昔は海を
移動したということがよくわかります。
 柏紋については平熱の方で推論してみますので、大国主との関係もあ
りそうなので見て下さい。

 真実を見つけ出すのは並大抵のことではないということ、でもあきら
めない、必ず見えてくるはずと信じて――
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月06日 06時55分05秒 ) パスワード

丸三つ柏服部様
お読み下さり、ありがとうございました。

丸三つ柏服部様の御先祖様の「記憶」に少しでも近づけたのであれば
私はとても嬉しいです。

大国主様との御関係
地元の方でなければ解らない事、さらに伝承等
きっと必ず「過去」からのお声がお導きになられると思います。
楽しみに御調査を拝見させて頂き、勉強させて頂きますね。
「宝珠」・「月」・「兎」の御姿がお近くに在られると推測するのですが・・

〉やはり、昔は海を移動した

そうですね。
古代の方々の移動手段は沿岸部は「船」
そして、内陸部は・・馬ですね・・

魏志倭人伝に古代の邪馬台国には「馬」はいなかった・・と
記されて、殆どの方は当時の”倭国”と「馬」への意識が
固定観念で満たされていると思うのですが・・もちろん私もそうでした。

魏からの使者の方が「移動」した「見聞」した”地域”には
馬がいなかった・・と記されている
と考える事を私はしていませんでした。
固定観念を外して、発想の転換を行う事も、とても大事な事だと最近実感しています。
牛はいたのに、馬がいなかった・・?
牛をウィキペディアで調べたのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B7

歴史 日本列島
日本列島では東京都港区の伊皿子貝塚から弥生時代の牛骨が出土したとされるが、後代の混入の可能性も指摘される。
日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。
古墳時代前期にも確実な牛骨の出土はなく、牛を形象した埴輪が存在しているため、この頃には飼育が始まっていたと考えられている。
古墳後期(5世紀)には奈良県御所市の南郷遺跡から牛骨が出土しており、最古の資料とされる。

★日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。

今までの私を含めて大半の方々は「魏志倭人伝」の記述から
中国から日本へ渡って来られた古代の方々が「ウシ」は連れて来たけど
「馬」は連れて来なかった・・
と「理解」していた・・と言う事なります。

色々発想して見ると、真実が見えて来る
私はそう信じています。

私もあきらめません。

丸三つ柏服部様がおっしゃっている
『過去からの遠い呼び声』に
私も敏感に耳を澄ましてお導きに答えて行きたいと思っています。

これからも、御調査拝読させて頂き
勉強させて頂きますので、よろしくお願い致します。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月06日 09時32分50秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 こちらこそよろしくお願いいたします。社用、雑用、遊び等で生活のリズム
は一定しませんし、やる気(モチベーション)にも波がありますので、どうして
もだらだら、よちよちとなる傾向があります。ミヤハラ様の集中力には、いつ
も感服しております。
 九州に関する興味も行きつ戻りつではありますが、知れば知るほど高まって
きております。中でも、球磨と日田――深い歴史の謎が秘められていると感じ
ております。

 そうそう、三日月の話、尼子氏に仕えた山中鹿之助は三日月信仰で、三日月
に向かって「我に七難八苦を与え給え」と祈ったそうです。まるで地獄の戦士
ランボーのようではありませんか(真相は分かりませんが)。

 過去の歴史に埋もれていることは一杯ありますね。つまり、知ったかぶりを
している学者さんも、その実、知らないことだらけだと思います。浅薄な私も
そういう意味では、"シュリーマン"になれるのかも知れません!?

 では、今後も期待しています――
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2019年02月06日 14時51分24秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 追伸:そうそう、「馬」についてですが、これにもコンフィデンシャルの
封印がされてきたということがあります。もともと、日本には木曽馬のよう
な小型馬は生息していたようです。ある時代より急に増えて行くのですが、
その辺の詳しい資料は、官牧の数で推察するしかありません。
 実は、馬も人間と同じで、姿形を見れば、その出自が推定されてしまう、
つまりどこら辺から来たかわかってしまうということ。でも、わかってもら
っては困るという事情・状況が存在していたということ、その謎も私の追求
して行くテーマの一つであります――
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月07日 23時25分32秒 ) パスワード

三つ柏服部様
コメントを頂きありがとうございます。

昨日、人生で「3本目の虫歯」の治療に行って、心臓に負担が少ない麻酔を
使って頂いたのですが、少し体調が悪くなって、お返事が遅くなってしまいました。
お詫び申し上げます。
(体調は大部良くなりました)

〉尼子氏に仕えた山中鹿之助は三日月信仰

ウィキペディアを見たのですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B

氏族 山中氏(宇多源氏佐々木氏流、又は橘姓近江山中氏庶流)

思わず・・うぉ〜!!と声が出ました。
又は橘姓近江山中氏庶流・・・やはり、こう繋がって来るものなのですね・・

古代が見えて来ると、中世以降の「様々な事」も見えてきます。

「馬」も「知られては困る」事情を抱えているのですね・・
「隠さなくても、もう良いんじゃありませんか〜!!」
って言いたくなる事って多々ありますね。

所で、「秦氏」は正確には本姓は嬴(えい)姓ですね。
嬴(えい)姓
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子(中国語版)が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。
犬丘(中国語版)の非子(中国語版)が馬の飼育に長けていることを知った孝王は非子を召し出して、汧河と渭河の間で馬の管理を任せ、一年後に非子は馬の数を倍に増やした。これに満足した孝王は非子に秦の地を与えた。

※周の孝王(姫姓)
※馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り

嬴(えい)姓の方々と馬

馬は西暦200年代の日本にはいなかった・・・などとは
私には到底考えられません・・
どこかの遺跡から「実証」が見つかる事を期待しております。


三つ柏服部様の御調査『長上郡の服部氏族』を拝読させて頂きました。
こちらの方で失礼致します。

※「九枝の燭台」
(古々代ユダヤの九本の燭台を意味する紋が『三柏紋』)
御存じでいらっしゃったのですね。
やはり三つ柏服部様は、とても深い知識をお持ちの方だと
敬服致しました。

実は、球磨の王宮神社様の大宮司を務めた方の後裔の方を存じているのですが
この方の家紋は「丸に三つ柏紋」でいらっしゃいます。
王宮神社様については最近ブログの方で何度も書かせて頂いております。

「九枝の燭台」と「三柏紋」・「丸に三つ柏紋」
共に「古代の神事」に携わるとても重要な系の方々が御使用になられる
「家紋」であると私は考えます。

これからも、三つ柏服部様の御調査
しっかりと拝読させて頂き勉強させて頂きます。
私の調査ブログの方が今は中心となっていますが、
これからも、前進あるのみ!と頑張ってまいります。
[10]白石さんからのコメント(2019年02月08日 16時55分51秒 ) パスワード

みやちゃん 三つ柏様 こんにちわ

先ごろ 向井さんとしりあいになりました
結婚前は 田中
どうやら うすうすと 向井と田中は
つながっていると感じているようです

名古屋の方から来ているそうです
「観正寺」禅寺という寺から 「普門寺」におばあちゃんが
入ったそうです。
おばあちゃんが 
竹藪の中の ぼろぼろの「普門寺」というお寺を
立派に もちなおしたそうです

田中が 賀茂氏につながっているのでは
ないか? と聞くと あんなところには
つながってないだろうと 言っておりましたが
就職先は 賀茂神社の巫女さんだったと
言っていました


普門寺の作庭の人は 「岩崎清光」
という人だと いうことです。
又 「清鶴」という造り酒屋に関与しているのか
おじいちゃんが そこらから 養子に入ったのが 
田中とか いう話でした。
よその家のことで よくわかりません

こちらは 溝咋神社「神武天皇皇后・ひめたたらいすずよりひめ」の神社

継体天皇陵
 太田という地区にあるが 近年「今城塚古墳」が継体天皇陵だという説が有力

どちらも 近いところにある

赤大路の鴨神社
高倉天皇の安産祈願がなされた

全国の三嶋の大本といわれる

これらの神社のくみあわせから うかびあがるのが 田中
継体天皇には 田中が関与している

ーーーーーーーーーーーー

田中 向井 の組み合わせ
田中
田んぼの中に 家があったから 田中といった
王の字に 日本の線を足して 田 とした

向井
(出雲)向家につながる可能性がある

向井 (春日神主家 伊勢大宮司家) 
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 中臣氏/大中臣氏【4】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109c.htm

姓氏類別大観 《春日神主家/伊勢大宮司家》 中臣氏へ戻る 【大中臣氏】【奥氏】【奥田氏】【中東氏】【正真院氏】【西氏】【向井氏】 【中氏】【中西氏】おあ【大西氏】【河辺 …

田中
いろいろあるようだが 
大友氏の末に田中がある

ーーーーーーーーーーー

作庭師の岩崎
岩崎弥太郎につながるか?だが
弥太郎は 三菱創業者

三菱紋は 丸に三つ柏をもとにつくったという

前に初神集落に岩崎がいた と みやちゃんと 
語らったことがありましたね
[11]白石さんからのコメント(2019年02月08日 17時07分33秒 ) パスワード

田中賢道
 閔妃殺害事件に関与の疑い
岡原に本籍
本籍を残すとは 本貫地であったと認識していたのではないか?
昔の人は 本籍や 寺を移すと 自分たちが何者だったかわからなくなる と いっていた。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 中原氏【1】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm

《中原氏(親能以降)》 有象系中原氏へ戻る 【中原氏】【淵名氏】【大友氏】【久保氏】【得永氏】【元吉氏】【鷹尾氏】【高尾氏】 【豊前氏】※【田中氏】【藤北氏】【藤原氏 …


豊前宇都宮氏・城井氏の一族
概要
一族は豊後国内に門葉を広め、およそ次のような氏がある。
2代宇都宮信房の兄弟からは、中原氏(中原宗隆)、野仲氏(野仲重房)、山田氏、高野氏(山田政房)、深水氏(深水興房)、西郷氏(西郷業政)、廣澤氏(廣澤直房)、那須氏(那須有家)、江良氏(江良業俊)、江里口氏
3代宇都宮景房の兄弟からは、笠間氏(笠間有房)、如法寺氏(如法寺信政)、仲八屋氏(仲八屋家信)、麻生氏、白川氏(麻生国弘)、加来氏(加来正房)、鹿島氏(鹿島康房)、山田氏(山田景長)
4代宇都宮道房の兄弟からは、深江氏(深江盛吉)、増淵氏、横川氏(横川為平)、友枝氏、荒巻氏(友枝信範)、荒尾氏(荒尾範景)、赤熊氏(赤熊範資)
5代宇都宮頼房の兄弟からは、七井氏(七井盛房)、上条氏(上条道氏)
7代宇都宮冬綱(城井冬綱)の兄弟からは、※佐田氏(佐田公景)
人物
城井則房(筑後宇都宮氏の蒲池久憲の子)
野仲鎮兼(城井鎮房の乱に参加し討死)
佐田隆居(城井宇都宮氏庶流)
佐田鎮綱(隆居の子、豊薩合戦で唯一大友方であった豊前の有力国人)
城井氏を扱った作品
松山譲『黒田藩戦国史 豊前・宇都宮氏』ライオンズマガジン社、1986年
小川武志『豊前宇都宮興亡史』海鳥社、1988年
高橋直樹『戦国繚乱』(「城井一族の殉節」)文春文庫、2004年
脚注
[ヘルプ]
参考文献
稲葉行雄編著 『「さつま」歴史人名集』 高城書房出版、1991年6月。ISBN 4924752282。
太田亮、国立国会図書館デジタルコレクション 「城井 キイ」 『姓氏家系大辞典』第2巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1837-1838頁。全国書誌番号:47004572。
“日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏道兼流【2】”. 日本の苗字7000傑. 2010年5月22日閲覧。
“武家家伝_城井宇都宮氏”. 風雲戦国史-戦国武将の家紋-. 播磨屋. 2010年5月22日閲覧


城井氏は 本流であった
つまり 私の母方の佐田氏は 本流のなかにいた
佐田氏は 三つ巴紋
天皇即位万歳旗に使われ 確か 警視庁でも
つかわれると ネットで見たことがあります
[12]白石さんからのコメント(2019年02月08日 17時22分16秒 ) パスワード

田中賢道
 閔妃殺害事件に関与の疑い
岡原に本籍
本籍を残すとは 本貫地であったと認識していたのではないか?
昔の人は 本籍や 寺を移すと 自分たちが何者だったかわからなくなる と いっていた。

日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 中原氏【1】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm

《中原氏(親能以降)》 有象系中原氏へ戻る 【中原氏】【淵名氏】【大友氏】【久保氏】【得永氏】【元吉氏】【鷹尾氏】【高尾氏】 【豊前氏】※【田中氏】【藤北氏】【藤原氏 …


豊前宇都宮氏・城井氏の一族
概要
一族は豊後国内に門葉を広め、およそ次のような氏がある。
2代宇都宮信房の兄弟からは、中原氏(中原宗隆)、野仲氏(野仲重房)、山田氏、高野氏(山田政房)、深水氏(深水興房)、西郷氏(西郷業政)、廣澤氏(廣澤直房)、那須氏(那須有家)、江良氏(江良業俊)、江里口氏
3代宇都宮景房の兄弟からは、笠間氏(笠間有房)、如法寺氏(如法寺信政)、仲八屋氏(仲八屋家信)、麻生氏、白川氏(麻生国弘)、加来氏(加来正房)、鹿島氏(鹿島康房)、山田氏(山田景長)
4代宇都宮道房の兄弟からは、深江氏(深江盛吉)、増淵氏、横川氏(横川為平)、友枝氏、荒巻氏(友枝信範)、荒尾氏(荒尾範景)、赤熊氏(赤熊範資)
5代宇都宮頼房の兄弟からは、七井氏(七井盛房)、上条氏(上条道氏)
7代宇都宮冬綱(城井冬綱)の兄弟からは、※佐田氏(佐田公景)
人物
城井則房(筑後宇都宮氏の蒲池久憲の子)
野仲鎮兼(城井鎮房の乱に参加し討死)
佐田隆居(城井宇都宮氏庶流)
佐田鎮綱(隆居の子、豊薩合戦で唯一大友方であった豊前の有力国人)
城井氏を扱った作品
松山譲『黒田藩戦国史 豊前・宇都宮氏』ライオンズマガジン社、1986年
小川武志『豊前宇都宮興亡史』海鳥社、1988年
高橋直樹『戦国繚乱』(「城井一族の殉節」)文春文庫、2004年
脚注
[ヘルプ]
参考文献
稲葉行雄編著 『「さつま」歴史人名集』 高城書房出版、1991年6月。ISBN 4924752282。
太田亮、国立国会図書館デジタルコレクション 「城井 キイ」 『姓氏家系大辞典』第2巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1837-1838頁。全国書誌番号:47004572。
“日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏道兼流【2】”. 日本の苗字7000傑. 2010年5月22日閲覧。
“武家家伝_城井宇都宮氏”. 風雲戦国史-戦国武将の家紋-. 播磨屋. 2010年5月22日閲覧


城井氏は 本流であった
つまり 私の母方の佐田氏は 本流のなかにいた
佐田氏は 三つ巴紋
天皇即位万歳旗に使われ 確か 警視庁でも
つかわれると ネットで見たことがあります
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月09日 07時08分01秒 ) パスワード

白石様 おはようございます。(^'^)

四浦の北嶽神社様
熊本県神社誌によると 御祭神は「大山祇神」様です。
熊本県神社誌の編纂を行われた方は青井阿蘇神社の大宮司を務めた方でも
いらっしゃいますので、御祭神の記載は間違いないと思います。

大山祇神様 は月讀命様 です。

すみません。私は通説からは解放されました(^'^)

何故?四浦外城に宮原氏が居たのか?
川辺に白石氏がいらっしゃったのか?
謎は解けました(^'^)

「橘族」そして「越智一族」に繋がる 北嶽神社様 御祭神 大山祇神様(月讀命様)が御鎮座です。

現相良村地域は古代に遡ると、久米郷同様、「橘族」・「越智一族」に深く関わる地域だったと
私は推測しています。

宇都宮氏は、「橘族」の橘公業の系との縁戚関係が見えます。
宇都宮氏一族「佐田公景」と言う方のお名前を見ると
宇都宮氏族内で「橘族」の系を継承されたように見えます。

「越智一族」の白石氏を、御実家が「橘紋」を使用されるお父様が養子に入られた。
つまり、正当な理由がしっかりと見えると思います。

ただ・・
お父様の御実家の「高岡氏」が古代に遡ると高句麗系「高氏」に繋がる姓の方なのか?
もしくは、「高岡氏」は「高」から古代に遡ると大伽耶系の高木大神こと高皇産霊尊様の
「高木一族」であったのか?
高句麗系もしくは大伽耶系の方が何故?橘紋を使用なさるのか?
この辺りは、私はマダマダ勉強不足なので、解らない所でありますが
只今、勉強中ですので、もうしばらくお待ちください。
(この辺りの事はスレッドの方では今は控えさせて頂きます(..))

三つ巴紋
三つ巴紋には右三つ巴紋と左三つ巴紋があって
右と左の違いにはちゃんとした意味があり、
右三つ巴紋と左三つ巴紋のどちらを使用なさっていらっしゃるのかが
とても大事な事だと伺っています。
この辺りも只今勉強中です(..)

「古代」と「中世」は必ず繋がって来ると私は信じていますので(^'^)
ただ・・この古代から中世にかけて、隠された事、覆いかぶさった事が大変多く
つまり、藤原不比等と「某流」の中世以降の工作ですね・・
その辺りの見極めに精通なさっていらっしゃる方々と、ありがたい事に私は現在交流させて頂いております。

これからも、しっかりと勉強させて頂き
私だけではなく、白石様の御先祖様の調査にも
役立てて行きたい!
と思っています(^'^)
[14]白石さんからのコメント(2019年02月10日 09時03分35秒 ) パスワード

みやちゃん おはようございます
パソコンが おかしいので 下のブログを ご紹介します
よかったら 覗いてみてください

★『秀真伝( ホツマツタエ)』継体天皇伝承地を訪れ …
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12218658761.html

継体天皇伝承地を「近江」訪れるブログ 近江国〜意富富等王〜謎の継体天皇武烈天皇が、即位八年目で亡くなった。子供が無かったため、後継社問題が持ち上がり、応神天皇… 『秀真伝( ホツマツタエ)』継体天皇伝承地を ...
[15]白石さんからのコメント(2019年02月10日 09時09分10秒 ) パスワード

うちは 昭和16年ころまでは 男は 左三つ巴紋 女は蔦紋でした
宇都宮氏は 幕紋に 右三つ巴だったと 辞典で見たことがあります

母の羽織も 蔦紋です
藤原氏が 蔦紋をつかっていたと辞典にありました
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月10日 11時12分34秒 ) パスワード

白石様 おはようございます(^'^)

ご紹介頂いたブログを後ほどじっくり拝読致します。

お母様の御実家「佐田家」の家紋
男性は左三つ巴紋 女性は蔦紋 を使用。

私と連絡を取り合って下さっている方々に詳しいお話を
お伝え致しますね。

蔦紋と藤原氏の関係・・・
藤原姓は古代豪族が致し方なく「藤原」を名乗る「改姓」せざるを得なかった背景を考慮しなければならないようです。

蔦紋は柏紋・三つ柏紋同様
『ユダヤの神紋と言われるメノーラorハヌキヤ』に由来するようですよ。
九枝の燭台です。

お母様の御実家の女性が使用される蔦紋は
古古代のヘブライに繋がる御先祖様を意識なさっていらっしゃるのかも
しれませんね(^'^)
[17]白石さんからのコメント(2019年02月10日 11時42分43秒 ) パスワード

みやちゃん ありがとうございます

ヘブライ
伊勢神宮の お鏡の後ろには ヘブライ語が書かれている
と どこかの ブログで見たことがあります

高岡系図を みますと
あきらかに ヘブライへつながるすじがあり

過去に 私も ちが 氏でしたかしら?
ヘブライの 話を したことが あったと 思います

又 イシュタルのことから
あきらかとは 言えませんが 
殷の子孫の人の足は 鳥のあしだった
と 書いたことがあります

球磨の 田中なんでしたっけ?
みんぴじけん ? に 関与した人の画像を 
一度だけ見たことがありますが

アラブの首長の御顔でした
今いくら引き出そうとしても画像が
出ませんが・・・・・

[18]白石さんからのコメント(2019年02月10日 16時33分37秒 ) パスワード

※ 丸に剣片喰紋は 田のつく家がおおくつかうという

宇多天皇の皇子・敦美ko親王の系は道長とむすびついた 系は 貴族になっていき 京極と結びついた方は 武士になっていった

こちらの 本照寺には 丸に剣片喰紋の墓と 抱き柏の うちとは違う笹井の墓があります

もうひとつ 城内に 高槻の重要文化財の笹井の住宅があり こちらは 木瓜紋のようです

紺屋町から きたそうです
屋根の形が 古墳時代の神社の本殿に同じというのが 重要文化財指定になった理由ということです

本照寺は 真宗で 五本線の門跡寺院
北家日野家の出の 親鸞の筋で
嫁は代々二条からきていたそうで
今でも系が絶えそうになると 二条から養子をむかえるそうです

近くに 普門寺があり 足利の頃 細川晴元が 奈良から 引っ張ってきたそうです

三輪神社もあり こちらも同じく 奈良から 細川晴元が 引っ張ってきたそうです

このあたりが 経済的に沈んだのは 鉄道がとおったころ 鉄道建設に反対したからと 聞いています
[19]白石さんからのコメント(2019年02月10日 16時55分06秒 ) パスワード

過去に福島神社の社家にある 笹井のことを ブログに見て
新羅の書というのがあるのを知りました

福島大神宮 (福島町)

【所在地】
〒049-1312 
松前郡福島町字福島219番地
電話 01394-7-2062
FAX 01394-7-2088
【例祭日】
9月16日
【祭神】
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
豊受大神(とようけのおおかみ)
【旧社格】
郷社


【社殿様式】 神明造
【社殿面積】 43.88坪
【境内面積】 5,088坪
【氏子世帯数】 1,300世帯
【崇敬者数】 
【交通機関】 函館よりJR海峡線木古内駅下車、函館バス乗継、福島下車徒歩約10分
【由緒】
 創立年代不詳。本州からの渡海者が伊勢皇大神宮の大麻を奉じて「カムイナイ」(アイヌ語)という小沢に鎮座したと伝えられる。天正2年(1574)福島村常磐井家の遠祖常磐井治部大輔藤原武衡再建。更に慶安2年(1649)9月16日村中にて再建。時に3代祠官笹井(常磐井)今宮藤原道治斎主となり、第9代松前藩主松前高広の命により福山神明社より古神鏡を奉遷し遷座祭を斎行。文化4年(1807)社殿焼失し、現在の「鏡山」の地に社殿を遷座。明治9年福島神明社を現社名に変更し、旧郷社に列せられる。
 
【社宝等】
松前神楽用獅子頭
町指定・文化4年(1807)
その他 乳房桧 北海道記念保護樹林(樹齢約500年) 八鉾杉 北海道記念保護樹木(樹齢約350年)
【特殊神事】
「松前神楽」昭和27年福島町無形文化財指定。昭和33年北海道無形文化財指定。
「福島大神宮祭礼行列」昭和30年福島町指定文化財民俗資料指定。
「松前神楽」平成7年12月26日、記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財として選択(文化庁指定)
【境内外末社】
川濯神社(かわそじんじゃ)(合殿)稲荷神社 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉册尊(いざなぎのみこと) 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)(合殿)宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
釜谷神社(かまやじんじゃ) 猿田彦命(さるだひこのみこと)
稲荷神社(いなりじんじゃ) 宇迦御魂神(うがのみたまのかみ)
矢越八幡神社(やごしはちまんじんじゃ) 応神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう) 武内大臣(たけうちのおおおみ)
熊野神社(くまのじんじゃ) 伊弉諾命(いざなぎのみこと) 大山祇命(おおやまづみのみこと)
千軒神社(せんげんじんじゃ) 大山祇命(おおやまづみのみこと) 金山彦命(かなやまひこのみこと) 罔象女命(みづはのめのみこと)
丸山神社(まるやまじんじゃ) 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
【E−mail】mo-mo@gray.plala-or.jp 



岡山の今村の宮の笹井は 孝明天皇にアマテラスの神道を御進講申し上げた

どちらの笹井も アマテラスをきおくしている



[20]白石さんからのコメント(2019年02月11日 14時42分50秒 ) パスワード

ミヤちゃん こんにちわ
巴紋について こちらのブログを見つけました

すでに ご存じかとは 思いますが・・・
おかげで わたくしも 知識を得ました

http://detail.chinahihiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216484227

左三つ巴紋 と右三つ巴紋

平安時代の貴族・藤原実季(ふじわらのさねすえ:1032年〜91年)の子孫、【西園寺(さいおんじ)】家の家紋が、【左三つ巴】。

家紋の最初は、平安貴族が自分の牛車に一目で分るように印をつけたのが始まりといわれ、最初に牛車に印をつけた方が、藤原実季と記録にあります。
実季は、呪力をもつといわれる人間の魂の形をあらわす【巴形】を三個組み合わせたものを自分の牛車に記した。

ちなみに、西園寺家から別れて【徳大寺家】を興した徳大寺実能(さねよし)は、【木瓜紋(もっこうもん)】を用いりました。

平安時代の公家社会には、上級貴族のあいだで、屋敷名を通称のように用いる習慣が作られました。

しかし、邸宅が主に女系で受け継がれたことにより、名称は父子では継承されませんでした。

それにより、【藤原】の姓より、屋敷名である【西園寺】【徳大寺】【山科:やましな】【醍醐:だいご】【近衛:このえ】【鷹司:たかつかさ】【九条:くじょう】【一条:いちじょう】【二条:にじょう】の家ができました。

【九条】【二条】【一条】【近衛】【鷹司】を【五摂家:ごせつけ】と呼ばれ、その五家が藤原氏の嫡流であり、その家の出身者でなければ摂政・関白になれませんでした。

朝廷で五摂家に次ぐ名門が【閑院家:かんいんけ】で、江戸時代末までその系統に属す家の当主は太政大臣にまで昇進することができました。

閑院を本拠とした藤原公季(ふじわらのきんすえ)の子孫であり、公季は藤原道長の叔父で太政大臣にすすんだ人物です。

公季の子孫を【閑院家】とする通称も用いれたが、平安時代末に藤原実行(ふじわらのさねゆき)が【三条:さんじょう】、彼の弟の通季(みちすえ)が、【西園寺】、その次の実能(さねよし)が【徳大寺】の通称を用いり、それが代々受け継がれ、閑院家は三条・西園寺・徳大寺の三流に別れました。

なお、三条、九条、二条などの名称は京都内の地名にもとづくもの、西園寺、徳大寺は祖先が建立した寺院の名前によるもの、山科、醍醐は山荘のある京都近郊の地名から名づけたものです。

西園寺通季がもとの閑院家の家紋【左三つ巴】を継承し、西園寺家の家紋となりました。

たしかに、神紋などにも【巴紋】はありますが、【左三つ巴】から家系を調べるならば、【西園寺家】も調べると宜しいのではないでしょうか。

ちなみに、神紋で【巴紋】を使用しているのは、八幡宮の八幡神が神紋として使用しています。
これは、古代の祭具である勾玉(まがたま)の形と共通する巴の形が日本人に好まれ、平安時代末から鎌倉時代前半につくられた八幡社でも、装飾に多く用いれられて、八幡宮の神紋とされました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西園寺家から別れて【徳大寺家】を興した徳大寺実能(さねよし)は、【木瓜紋(もっこうもん)】を用いりました。


高槻城内の笹井家は 木瓜紋をつかうと 聞きました
短絡的ですが すれば 徳大寺?

資料では 京極道誉が系についていました
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明治天皇から 差別されたとか・・・
西園寺では だまされたんだろう と いっていたそうですが・・・

福島大神宮の常磐井(笹井)は 西園寺実氏子孫としています


[21]白石さんからのコメント(2019年02月11日 15時08分46秒 ) パスワード

追 城内の笹井の屋根瓦が 巴紋なので
聞いてみましたが あんなものは どうでもいいんですよ
という 返事でした

ちなみに 
松本城藩士に 笹井があり
丸に五枚笹です
[22]ミヤハラよりさんからのコメント(2019年02月12日 09時55分36秒 ) パスワード

白石様
沢山の御教示、コメントを頂き
ありがとうございます(^'^)

お返事が遅くなりまして、すみません(..)

実は今、私は、沢山の方々から情報を頂くので、頂いたご教示を一つ一つ読み説きながら
前に進んでいる状態で、すぐにご返事が出来ない事をお詫び致します。
<m(__)m>

白石様の御教示を拝読して感じた事は
全国に、『原点』が広がっている事を感じました。(もちろんの事ですが・・)

『原点』 → 『拡大』 → 『拡散』 を感じます。

藤原不比等の系である『藤原氏』も、姻戚関係により
『原点』を色濃く受け継いだ系の方々が多くあり、その中で
『西園寺氏』・『徳大寺氏』は、原点を強く引継いだ方々であった・・
と理解しました。
ありがとうございます。

『西園寺氏』・『徳大寺氏』は球磨に深く関わりを持たれていますね。
『西園寺氏』は古代から継承されてきた久米郷
『徳大寺氏』は中世に派生した『永吉庄』ですね。
さらに後世、『徳大寺氏』は『相良氏』と姻戚関係を持たれています。

私は、今の調査段階では摂関家について等の『中世』に関しては言及は避けさせて頂きます。
中世に頭を戻すと、『原点』が見えなくなるからです。
きっと『原点』がしっかりと理解出来ると『中世』はおのずから見えて来る!
と思っています(^'^)

でも(p_-) 白石様は『独自』の探求をお願い致します。<m(__)m>
先に書いた
『原点』がしっかりと理解出来ると『中世』はおのずから見えて来る!
は、もちろん!白石様の『探求』に繋がって来るからです。
よろしくお願い致します<m(__)m>

〉福島大神宮の常磐井(笹井)は 西園寺実氏子孫としています

常磐井・・磐井・・やはりな(p_-)

(^'^)・・・古代の真実と繋がっているようですね。
[23]白石さんからのコメント(2019年02月13日 16時19分35秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは
昨日は雪がちらつき 寒い一日でした


≪『西園寺氏』は古代から継承されてきた久米郷
≪≪『徳大寺氏』は中世に派生した『永吉庄』ですね。
≪さらに後世、『徳大寺氏』は『相良氏』と姻戚関係を持たれています。
        
≪高丘は閑院流の族に高丘があります≫


過去にえい姓高丘系図1をご紹介したことがありましたが やはり!!と意をつよくしました。


比良麻呂の子のうち高丘八束の流れが繁栄した。
宗家
京官人として正六位下から従五位下を極位とした。
本貫 河内国古市郡 →★ 摂津国川辺郡梶ケ島村


≪高丘氏分家・高岡家≫

高丘泰友の次男高丘泰良が分家。南朝に仕えた。正平一統後は高丘宗家と共に応仁の乱の頃まで京で活動。江戸時代初期、山城国から武蔵国江戸に拠点を移した。
ーーーーーーーーーーーーーー

天火明命を遠祖とする高岳がいる
池田氏と同祖
摂州多田院御家人高岡系図もご紹介したことがありますね
ーーーーーーーーーーーーーーー


熱田大宮司家 遠祖・天火明命
星の氏遠祖 天火明命

『太宰管内志』に収載されている星野氏の事跡を辿ってみると、「多田蔵人行綱の子大蔵大輔源助能、云云。
    助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の鼻祖で

    幼名を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従(徳大寺実定の項を参照)といって、京都樋口小路の産まれで徳大寺実定卿の子か、或いは
    後鳥羽院の皇子にして実定卿に託して子と成したとか。」とある。


宵町の小侍従は 平家物語にものる?
    
 ※徳大寺実定(後徳大寺左大臣)→≪藤原北家閑院流公実の曾孫≪≫、保延5年(1139年)〜建久2年(1192年)      
     
※黒木氏、星野氏、樋口氏(『遊覧雑藁 巻之二』(P.108から))

星の氏 醍醐源氏略系図

↓過去に醍醐源氏をいうことばを聞きましたが 意外や意外
こんなところで 聞くとは・・・熱田神宮は 頼朝。清和源氏とおもっておりました!!
 
尾張国愛知県西部)の熱田神宮(伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄える)は、尾張国造の一族である
   

 尾張氏が神官としてその勤めを世襲してきた、三種の神器の一つである神剣草薙剣(天叢雲剣)を祀る大社で、
    

尾張氏の始祖、天火明命(アメノホアカリノミコト)以来の古伝系図が今に伝えられている。


、範信の兄範忠の娘は季範の養女となって足利義康(鳥羽院北面・左衛門尉、保元の乱後昇殿、従五位下、
    
検非違使)に嫁ぎ、義兼(八条院蔵人)を産み、熱田大宮司家は後世の足利将軍家との血脈も繋ぐ事となった。
    
義兼は治承四年(1180年)、頼朝のもとに参じ、翌年北条時政の娘を妻室に迎えたことにより頼朝の義兄弟にもなり、ともに熱田大宮司家を出自とする母をもつことから、源氏嫡流、足利氏、大宮司家の関係は一層密接なものとなった。  
しかし範信の兄(嫡流系列)・範忠(季範の長男)の系列〔大江氏、萩氏、野田氏〕は、範忠こそ後白河院の近臣と
    して活躍し、平家にも追従したが、他に朝廷と直接関係を持った人物はあまり見あたらない。範忠の系列は足利家との婚姻関係により強い結びつきがあり、

範忠の長男忠季は実朝の腹心でその孫忠成は幕府政所別当★★大江廣元★★
の実子であった。(※忠季の子の忠兼は大江廣(広)元の子、忠成を猶子とした。)
    
この系列は実朝暗殺後も幕府有力御家人の足利、大江氏との関係から関東に基盤を置いたと見える。
  
戦国時代の末頃、今川義元の家臣福島政成の兄弟に星野二郎成政のいた事が『系図纂要』(江戸時代末期
の系譜集成)に書かれているが、熱田大宮司系の星野氏と由縁があると推察される。
^^^^^^^^^^^^^^^^^

尾張国清洲(愛知県、二十四万石)の大名となり、その後慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの終結後、戦功により
    

安芸、備後二ヶ国(四十九万石)の藩主として広島藩に加増移封された★★福島正則★★《(永禄4年・1561年〜寛永元年・
    1624年)、天正13年(1585年)従五位下、左衛門大夫》は『系図纂要』に星野二郎成政の子で福島正光の養子
    と記されている。

正則はその後経緯があり元和5年(1619年)に信濃国川中島高井郡と越後国魚沼郡の高井野藩
    (四万五千石)に減封、転封され、失意のうちに嫡男忠勝に家督を譲り隠居した。
   
 安芸(広島県)の高田郡星ヶ城の城主に星野市兵衛のいた事が『藝藩通志』に記 されている。福島正則の娘と正則の家臣大野猪右衛門との間に生まれた子は星野市兵衛と名乗り、浅野長晟より百 人扶持、後に千五百石を賜り安芸国に住す。※後に星ヶ城は槇ヶ城主長屋氏の領地となる。
  
熱田宮司系は藤原南家の裔孫だが、この他藤原北家などに連なる星野氏は北関東を中心として次の系伝がある。

武智麻呂の弟藤原房前六代の藤原秀郷の曾孫左馬允兼光の子孫は、北関東の豪族として繁栄し、多くの苗字に分かれて いて、その中心は小山氏である
[24]白石さんからのコメント(2019年02月13日 20時43分09秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちは
昨日は雪がちらつき 寒い一日でした


★『西園寺氏』は古代から継承されてきた久米郷
★『徳大寺氏』は中世に派生した『永吉庄』ですね。
★さらに後世、『徳大寺氏』は『相良氏』と姻戚関係を持たれています。

西園寺の族 閑院流の高丘がいる
藤原氏にわけえられている
        
高丘は閑院流の高丘がおり 西園寺の族です

過去にえい姓高丘系図1をご紹介したことがありましたが やはり!!と意をつよくしました。

比良麻呂の子のうち高丘八束の流れが繁栄した。
宗家
京官人として正六位下から従五位下を極位とした。
本貫 河内国古市郡 → 摂津国★川辺郡梶ケ島村

高丘氏分家・高岡家
★高丘泰友の次男高丘泰良が分家。

南朝に仕えた。正平一統後は高丘宗家と共に応仁の乱の頃まで京で活動。江戸時代初期、山城国から武蔵国江戸に拠点を移した。

この子孫 東京におれれるので うちとは どうも関係なさそうですが 参考までに・・・2000年頃出生の方がおられます


[25]白石さんからのコメント(2019年02月13日 21時34分53秒 ) パスワード

さて 田中
戦争は狂気の世界で やらなければやられる
何らかの事情があったと思われます

戦争に負けて いうに いえなくなってしまった とも
いえるのではないかと・・・・

田中は このスレッドの 一番接点ではないかなと 思います
--------------------------------
★『秀真伝( ホツマツタエ)』継体天皇伝承地を訪れ …
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12218658761.html
を開き 下の方へ うごかすと
田中王 田中神社の言葉が出ます
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\


[26]白石さんからのコメント(2019年02月13日 21時46分13秒 ) パスワード

別のスレッドで 笠井様のところがありますが

関係があるようです

日本書紀』神功皇后摂政前紀では鴨別は吉備臣祖と見え、熊襲国討伐に遣わされたと記されている[1]。
同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」(はくぎのあがた:比定地未詳)に封じられたという[1]。

また『新撰姓氏録』右京皇別 笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。

後裔[編集]
氏族[編集]
前述のように、『日本書紀』神功皇后紀では鴨別を吉備臣の祖とし、応神天皇紀では笠臣の祖とする。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。
国造[編集]
『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。
笠臣国造
軽島豊明朝(応神天皇)の御世に初めて鴨別命八世孫の笠三枚臣を封じて国造に定める、という。
のちの備中国西部周辺に推定される[3]。


笠氏は また えい姓高丘けいず1 によれば
和氏のあと笠氏になす
[27]白石さんからのコメント(2019年02月17日 16時51分43秒 ) パスワード

みやちゃん こんにちわ
書きましたが えい姓高丘系図1に 鴨別命がついております

つまり 鴨別命は高丘のグループです
系図の秦26代 恵文王の子・高陵君参の子孫・贏高軌の女子・眞華姫は百済 蓋鹵王に嫁し  百済第25代武寧王・斯摩をうんだ

斯摩の下のポッチリをおせば 百済・扶余系図がで

その子孫 和氏で 下にスクロール 赤麿の子孫・若狭彦神社の神主になり鴨別命がいる

赤麿の姪が高野新笠
今上天皇は この方のことを 認められた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[28]白石さんからのコメント(2019年02月17日 17時09分48秒 ) パスワード

若狭彦神社
ご祭神・ 山幸 豊玉姫


市房神宮 
ご祭神・霧島神宮と同体
彦火火出見尊ひこほほ
でみのみこと・ほか五神
を祀る


霧島神宮

主祭神
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと) - 天津日高彦火火出見尊の后神。

鹿児島神宮

主祭神
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと) - 天津日高彦火火出見尊の后神。


と これらは 同体である

 
[29]白石さんからのコメント(2019年02月17日 17時43分42秒 ) パスワード

鴨別皇命 後裔[編集]
氏族[編集] ウィキより
  
前述のように、『日本書紀』神功皇后紀では鴨別を吉備臣の祖とし、応神天皇紀では笠臣の祖とする。

また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。

国造[編集]

『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。

笠臣国造
軽島豊明朝(応神天皇)の御世に初めて鴨別命八世孫の笠三枚臣を封じて国造に定める、という。
のちの備中国西部周辺に推定される[3]。


[30]白石さんからのコメント(2019年02月17日 17時45分19秒 ) パスワード

鴨別皇命 後裔[編集]
氏族[編集] ウィキより
  
前述のように、『日本書紀』神功皇后紀では鴨別を吉備臣の祖とし、応神天皇紀では笠臣の祖とする。

また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

右京皇別 笠臣 - 笠朝臣同祖。稚武彦命孫の鴨別命の後。

国造[編集]

『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。

笠臣国造
軽島豊明朝(応神天皇)の御世に初めて鴨別命八世孫の笠三枚臣を封じて国造に定める、という。
のちの備中国西部周辺に推定される[3]。


[31]字喃さんからのコメント(2023年05月11日 11時20分53秒 ) パスワード

沐浴の記事を一読させていただきました。
松葉氏につきましては素人なので今後も勉強させていただきとうございます。
[32]字喃さんからのコメント(2023年07月21日 13時25分17秒 ) パスワード


この間は…
私も姫だけでは分かりづらかったです。
姫姓というより川津姫です

山木とも合わせての話で有難う御座いました。

[33]字喃さんからのコメント(2024年03月14日 15時45分11秒 ) パスワード


熊本の方々もかなり驚かれてたのだと思います。
私としてはたまたま川津が当て嵌まったということでしたが
だからといって問答無用のようなことはすべきでありませんでした。
こちらには上がってない筈ですがそれにしても事実無根のこともありましたのでそこはやめていただきたかったところです。

課題がありましたのでそちらへ向かうことのみに注させていただきます。

[34]字喃さんからのコメント(2024年04月04日 18時09分54秒 ) パスワード


少しだけ整理がついてきました。
姫姓のお話は見させていただきましたが豊玉姫と重なる部分があるようでもあるとの事
市房神社の説明も面白く覚え直させて下さい。
ですので初神につきましても細かく学ばさせて頂くことにします。
[35]字喃さんからのコメント(2024年04月04日 19時04分39秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2024年04月04日 20時09分08秒
[36]字喃さんからのコメント(2024年04月04日 19時45分24秒 ) パスワード


上記は何れ早急に消させて頂きますが
いくらか心残りというものがあります。
機会があれば熊本に行く事が出来ればと考えております。
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