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 投稿番号:101650 投稿日:2018年12月09日 03時32分27秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏紋の服部さんの代理
長上郡の服部氏族C]Y(課題確認59):116
キーワード:長上郡 服部氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101647_56.html
長上郡の服部氏族C]X(課題確認58):115
の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さんは前スレでは紅葉狩りも兼ねて東奔西走
結局原点に戻ることになりました。
なかなかご先祖さまは正体を見せてくれません。


三つ柏さんのご先祖さまは一体いつから遠江に根を張っていたのでしょう?
古墳時代には既に来てた?
もともとは畿内にいた?

日本人ですから結局は原点に戻ってしまう?
当たり前
ごくごく当たり前。



遠江には古墳時代の応神天皇の第4皇子(後の仁徳天皇)との政争に敗れた
大山守皇子の子孫が逃れて来ていますから
当時を代表する立派な前方後円墳の光明寺古墳の存在は

   ひょっとして大山守皇子の子孫が造った?

と考えても合理的。


ロマンですねぇ。。。(遠い目)

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月09日 12時38分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッドありがとうございます。
 それにしてもあを様の示唆に富んだ分析、いろいろイメージがふくらみ、
またいろいろな事象がつながりました。
 まずは、この10月に宇治へ行きましたが、そこで訪れたのは宇治平等院
でなく、宇治神社と宇治上神社、それに興聖寺でありました。これは計画
したものではなく、あくまで行き当たりばったりの訪問でありました。
 宇治上神社が世界遺産であるということも現地で知りました。説明看板
には――
「宇治上神社 宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体
で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。祭神は宇治神社
の祭神でもある悲運の皇子菟道雅郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の他、
父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています……。」と書かれていました。
 その時には、さほど感じなかったのですが、あを様が「大山守命」の話
を取り上げてくれました結果、私の宇治行きに意味が出てまいりました次第
であります。
 「応神天皇」の後継ぎ抗争事件の主人公達である大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)、
菟道雅郎子命、そして大山守皇子が浮上して来たということであります。
 宇治川で菟道雅郎子命を殺すつもりが、逆にに殺されてしまった大山守
皇子、結局のところ菟道雅郎子命の自害の結末となり、大鷦鷯尊が天皇に
就任した……という経過ではあります。
 応神天皇といえば秦氏と切っても切り離せない関係にあり、はたして秦氏
が古墳造りにどれだけかかわったかということになりますが、もちろん、
秦氏だけではなく、その他の氏族もかかわっているのは当然ですが……。
 やはり、秦氏は目立たない存在ではあるが、日本の根底に根を張っている
――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月10日 22時58分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>応神天皇といえば秦氏と切っても切り離せない関係にあり、
>はたして秦氏が古墳造りにどれだけかかわったかということになりますが、
>もちろん、 秦氏だけではなく、その他の氏族もかかわっているのは当然ですが……。
>やはり、秦氏は目立たない存在ではあるが、日本の根底に根を張っている

大山守皇子の子孫の件ですが
1つは  榛原に落ちて行ったのです。

そして、そのご子孫は  榛の字  を名字に使っていらっしゃいます。


榛から木を取ったら?!
ふふふ


そして真龍のことを調べていた時に
榛原
の地名が出て来て
ずっと気にかかってました。


いかにも  日本  ですね。
結局元に戻ってします。
現代から過去を遡っている内に元から考えていかなきゃいけないって
また堂々巡り。


日本人は過去を断ち切れないんだなって思います。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月12日 15時16分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 年末で、忘年会やら姉の見舞いやら、また急な冷え込みによる体調不良
やら、また年賀状の準備やらバタバタして落ち着きません。歴史探求には
禅僧のような落ち着いて明晰な境地を作り出さなくてはならないのですが、
もどかしい限りです。
 これから医者に行く所ですが、帰りましたら「榛原」に関する話をある
本より抜き書きいたします――
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月12日 22時51分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

寒いですから風邪から肺炎にならないように気を付けてくださいね。


>帰りましたら「榛原」に関する話をある本より抜き書きいたします――

楽しみにしていますね。


我が家も今週は2019年を迎える準備でバタバタやっています。
それが終わったら納税申告の準備が待ってます。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月13日 10時24分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 医者に風邪薬を出してもらい、夕食後早々にふとんに入って本を読んでい
ました。それらの本は、過去に読み、また必要に応じて参考にしている本で
あります――
@『伏見稲荷の暗号 秦氏の謎』関裕二著 2012年刊
A『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』飛鳥昭雄著(共著) 1995年刊
B『古代日本に辿り着いたユダヤ人 失われた十部族の足跡 イスラエルの
  地から日本まで』アビグドール・シャハン 2013年刊

 歴史の真実は一つであります。が、概して表層のみの真実でとどめる傾向
があります。いわゆる学術的な世界――根拠・証拠の裏付けがなければ、そ
れは荒唐無稽な説としてとして揶揄される。
 
 関裕二氏は、古代史スペシャリストとしての嗅覚にすばらしいものがあり
ます。ただし、やはり一線を越すことはない。つまり、学術的である範囲の
すれすれのところで踏みとどめる。だから不完全燃焼感が残る。
 
 飛鳥氏は自らエンターテイナーと割り切っているため、そんな学術的な制
約はなく、大いなる推理力を働かせている。時に「とんでも説」として枠外
に置かれるため、学術的論文には使えない。しかしながら、隠しだてなしに
ズバリと推論をするので、分りやすいしスッキリする。 

 シャハン博士はイスラエル人(ユダヤ人)で、「失われた十部族」のテーマ
がライフワーク。半世紀以上の年月をかけて調査・研究をしています。現在
85歳。日本の著者にはない視点、またユダヤ人としての視点で書いていま
す。ユダヤに関しては、膨大な知識があります。

 結論から言いますと――
 @秦氏の表層の謎解きは関裕二氏。
 A秦氏の深層の謎解きは飛鳥昭雄氏。
 B失われた10部族の大きな流れはシャハン博士。

 これらを統合すると、一連の流れ(失われた10部族、秦氏とは何か、そし
てその変遷)がストーリーとしてわかるようになると思います。
 そのストーリーとは――時間をかけてまとめてみたいと思います。

 榛原(はいばら)については、次回記します。「秦」を「はた」と読むのも、
「榛」を「はい」と読むのも難しいですね。いずれにしても、「秦氏」とは
何者ぞ――
  
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月16日 07時34分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日より三日間は事情により自由な動きが取れませんので、悪しからず
よろしくお願いします――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月19日 06時05分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっと姉の葬儀が終り、身心共平常な日常環境に戻りました。

 さて、あを様、秦氏はやはりこの国の成り立ちの謎を解く最重要な氏族と
いうよりも部族であると言えると思います。部族と申しましたのは、秦氏
全体としては「擬制的同族集団・部族」であって、完全なる「血縁集団」で
はない。ただ中核(コア)部分には血族としての秦氏がおり、またそれに連な
る氏族が取り巻いていたということだと思います。
 そんな秦氏の謎を解く本、関裕二氏の『寺社が語る秦氏の正体』を近日中
に送ります。この本により、秦氏のかなりの表層的な部分の謎が解けるとは
思います。ただ、深層の謎についてはまだまだであります――
 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月19日 06時56分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご愁傷さまでございました。
お姉さまに心の籠った般若心経を唱えてあげることが出来て良いご供養になると思います。
今頃はご先祖さま達と楽しい再会中だといいな。


秦氏って
物部氏って
イスラエルの南ユダ王国の部族、って
とドンドン話が遡り広がってワケ分からなくなっていきます。



日本人のDNAに当然中国人や半島人の遺伝子が混じっていますけど
聞くところによると
半島の人々にも日本人の遺伝子が何%やら混じってて
自分より下に置いてバカにしたい日本人の遺伝子が自分の血に混じっているなんて
とショックを受ける半島の人の話を聞いたことが有ります。

そして確かに「百済」とか「任那」とか半島の端っこにあったなと認めたくない古代史を突き付けられるのだそうです。

中国人は逆に中華思想で日本も中国の一部という世界観を持ってますから
ムカシ倭の国から美女の朝貢があったのだろうと肯定的に考えられるようです。

始皇帝が日本へ子供達を送ったことも知られていますしね。


秦は半島経由で来たのか?福建あたりから来たのか?どっちからも来たんじゃない?で良いのでしょうね。


それにしても古代中国はスゴイです。
最近中国系の薬局からカレンダーを貰って
そのビニール袋に「福」の字がいろいろ書かれているのですが
「福」の字に至るまでの書体の数々に驚かされました。

漢字書体を統一したのも始皇帝。皇帝が用いるのは篆書で臣下が用いるのは隷書とかね。

目で見て「福」の字なんだなというのは簡単に分かります。

      右脳と左脳の話で
      漢字はX脳、アルファベットはY脳を使っている
      というこんな話を10月に聞きました。


こういうところからも日本人の過去を研究するのに役立つかもですね。


だけどまぁ、度量衡の統一とか、そういうのをやったというのはやっぱりユダヤの血かなぁ、と思ったりします。

      日本は戦国時代でしたっけ?検地なんて。



ジョークかも知れないですが
アメリカ人が何か新しい機械だかシステムだかをやらせようとすると
日本人:できません。  しかし後日完成。
韓国人:出来ますよ。  しかし後日
中国人:出来てます。  しかし実は


古代中国人は素晴らしい人達でした。
日本人は良い弟子だったのかもですね。
[9]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月19日 10時50分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。浄土宗では「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽浄土
へ行けるといことで、こちらの方が簡易な信心であると最近思うようになりま
した。しかも宗祖の法然は、れっきとした秦氏であります。

 姉は、結婚して宗派は日蓮宗になりましたので、葬儀でお唱えするのは究極
のところ「南無妙法蓮華経」でしたが、こちらの方が言葉のリズムと音にパワ
ーを感じます。私の感覚でいうと、「守り」の宗教vs.「攻め」の宗教の違い
のようにも感じます。戦国武将が日蓮宗に帰依したということも、このパワー
が一役かっていたかも知れません。脳内ホルモンやアドレナリンが出て来るの
かも知れません。

 さて、先日あを様より指摘をいただきました「榛原」の件ですが、これは実
に奥深いご指摘でありました。
 今、おぼろげながら、この地方の五世紀の歴史背景が見え始めています。

 それは、秦氏(と連携する部族達)の東進と北進であります。
東進は@水路・舟にて、北進はA陸路・馬にて、五世紀の半ば以降、陸路の
方が活発になってまいります。
 具体的に言いますと――
 @は、三河から遠江・駿河への東進
 Aは、三河・遠江から諏訪への北進

 先日見に行った旧天竜市二俣の光明寺古墳・前方後円墳は五世紀後半のも
の……つまり、遠江から信州街道を通って諏訪方面への北進に関係するもの
ではないかと思っております。ここのキーワードは「渡来人」「陸路」「馬」
でありました。

 では、東進は? 次回に記したいと思います――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月19日 14時31分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

いろいろ書きたい事があったのですが頭の中が未整理です。


>では、東進は?

楽しみにしています。



>関裕二氏の『寺社が語る秦氏の正体』

こちらも楽しみにしておりますね。



>榛原

遠江の榛原と奈良県宇陀市の榛原の関係は何なのか?
すっごく気になって来ました。

遠江の榛原の地名がいつ出来たのか知りたいところです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%8E%9F%E7%94%BA_ (%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C)

榛原町(はいばらちょう)は奈良県宇陀郡北西の町。
2006年1月1日に宇陀市となり消滅。2011年3月までは地域自治区として榛原区が存在した。

                      結構三重県の近くですね


名所・旧跡

鳥見山(鳥見山公園)

鳥見山は『日本書紀』神武天皇四年二月条によれば、神武天皇が皇祖神・天神を祀った場所である霊畤(まつりのにわ)という伝承に登場し、榛原という地名の由来である。


桜井市外山(とび)にはもうひとつの鳥見山が存在する。山頂の標高は245メートル。西麓に鎮座している式内社の等彌神社が山上に鎮座していたとされ、神武天皇にまつわる伝承も同様であり、山中に碑などもある。北麓には宗像神社が鎮座する。



墨坂神社


八咫烏神社
建角身命(八咫烏)を祀る。

建角身命は伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられている。

『続日本紀』に文武天皇の時代、慶雲2年(705年)に八咫烏社を祭るとの記述が見え、これが当社の創祀となっている[1]。

このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられている[2]。

しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となり、いつしか「やたがらす」が訛って「をとごろす」という俗称が伝えられたといわれる[3]。

やがて、江戸時代の文政年間に京都の賀茂御祖神社(下鴨社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興が成された。本殿が現在のような春日造に作り替えられたのもこの頃とされる(旧本殿の石造小祠は今も本殿の横に現存する)。



国宝宇太水分神社
社伝によると、崇神天皇7年の創建とされる。
延喜式では大社に列格し、月次祭・新嘗祭の案上の官幣に預かるとし、臨時祭祈雨神祭八十五座の一座に列せられた。


又兵衛桜
2000年のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像で使用された

大坂の役で活躍した、戦国武将後藤基次(又兵衛)にちなんだもの。
豊臣家崩壊後、後藤基次は大宇陀(現 奈良県宇陀市)の地で暮らし、
再興の時期を待ったと伝わるが、桜はその時の後藤家屋敷跡にある。


仏隆寺
奈良県宇陀市榛原赤埴(はいばらあかばね)にある真言宗室生寺派の寺院である。



戒長寺
寺伝では聖徳太子が建立し、後に空海(弘法大師)が修業したと伝わる。



額井岳
別名は大和富士。関西百名山の一つである。
南東山麓に奈良時代の歌人・山部赤人の墓がある。



山部赤人の墓
奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。
姓は宿禰[注釈 1]。
大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある[1]。
官位は外従六位下・上総少目[1]。
後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。

聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。
同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。


万葉集
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける[注釈 4]
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の声かも
吾兄子(わがせこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪のふれれば


新古今和歌集
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

           新古今和歌集に収録された当歌は、後に『百人一首』に採録されている。



赤人を祭神として祀る神社がいくつか存在する。
山部神社 - 滋賀県東近江市下麻生町に所在する。赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺(しゃくにんじ、あかひとでら)に隣接している[3]。

和歌宮神社 - 静岡県静岡市清水区蒲原に所在する。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月19日 14時50分52秒 ) パスワード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%8E%9F%E9%83%A1

榛原郡(はいばらぐん、はいばらのこおり)は、静岡県(遠江国)の郡。

吉田町(よしだちょう)
川根本町(かわねほんちょう) この名前って最近見たドラマに出て来たような?プラスティック・スマイル〜静岡発地域ドラマ〜 の中で?



郡域                すっごく広い!ビックリ!

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域にあたる。
牧之原市、吉田町の全域
島田市の一部(神谷城の一部を除く大井川以西)
焼津市の一部(上小杉、下小杉以南)
藤枝市の一部(源助)
御前崎市の一部(白羽、御前崎)
川根本町の一部(大井川以西)



http://www.geocities.jp/engisiki/toutoumi/bun/to121202-01.html
文字化けして読めない

http://www.genbu.net/data/toutoumi/hatorida_title.htm
服織田神社   はとりだじんじゃ   静岡県牧之原市静波1292
神紋は三つ巴でした。


以下かいつまんでコピペ


御祭神
麻立比古命 天八千千比賣命
合祀
蛭子命 天之忍穗耳命 市杵嶋姫命 木花咲夜比賣命
速玉男命 猿田彦命 石長比賣命 大山祇命 少名比古命



静岡県牧之原市にある。
東名高速吉田I.C.の南8Kmほどの静波に鎮座。
旧榛原町役場の東200mの場所。

参道入口に鳥居が立ち、50mほどの参道を歩くと境内。
境内は南東向き。

境内に入ると右手に御神木らしき、大きな木が茂り、
正面にコンクリート造りの拝殿。
拝殿の後方に、流造の本殿が繋がっている。

参拝が、天気の良い日の午後だったからか、
とにかく明るい境内だった。
青い空と緑の木々が美しい。

社伝によると、景行天皇の七年に勧請。


「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。

で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。

いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。


拝殿のガラス戸に、巴紋が付けられていた。
ということで、神紋は三つ巴だと思う。

赤い境内社が社殿の右手に一つあったことは記憶しているが、
境内の案内では、境内社は稲荷と津島の二つらしい。

『平成祭データ』には、末社として、
西宮神社(蛭子命)、天満宮(菅原道眞)、
八王子社(天之忍穗耳命)、津島神社(建速須佐之男命)
の4社が記載されているが、西宮・八王子は、
案内板では、合祀されていると書かれている。


境内社 稲荷神社 津島神社
例祭日 十一月二日
神職 (宮司)川村五郎 (禰宜)川村忠司


由緒 
服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、 景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。
往古 は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八 年の検地帳に記載されている。

安政元年の大地震直後 建立、明治六年三月郷社に列せられた。
八王寺社・弁天神社・勝間田神社・猪鼻社・熊野社・ 西宮神社・白岩浅間神社・山神社・十二所社・蔵王社 十社何れも明治七年五月当社に合祀された。
明治四十 年三月十五日神饌幣帛料供進社に指定される。

昭和四十四年十月二十三日明治百年記念事業として、 拝殿幣殿が竣工した。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月19日 15時00分00秒 ) パスワード

片岡神社   かたおかじんじゃ  静岡県榛原郡吉田町住吉2212−1
http://www.genbu.net/data/toutoumi/kataoka_title.htm

こちらもコピペ
この神社は仁徳天皇が絡んでいるそうなので。

神紋は三つ巴と53の桐紋



式内社 遠江國蓁原郡 片岡神社
旧郷社

御祭神
底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命 息長帶毘賣命



静岡県吉田町にある。
東名高速吉田I.C.の南4Kmほどの住吉に鎮座。
小学校のそば、道路に面して南向きの境内。

当社の社号は、片岡神社だが、通称は住吉神社。
境内入口の石鳥居には、「住吉神社」の扁額が掛かっている。

鳥居をくぐり、境内に入ると隋神門があり、その奥に社殿。
拝殿の後方に流造の本殿がある。
拝殿の額には、「片岡神社」となっている。

創祀年代は不詳。
一説には和銅六年の勧請。


大和国片岡神社から勧請された古社で、
式内社・片岡神社に比定されている神社だが、
仁徳天皇の御代、摂津国住吉大社から
分霊を勧請し、以後、住吉大明神と称されるようになった。

これは、もともとこの地方の生業が
農耕(片岡神)から漁業(住吉神)へ変化した結果と考えられている。

拝殿には、桐紋と巴紋の幕が掛かっていた。

社殿の右側に境内社が並んでいる。
津島神社・稲荷神社・厳島神社を納めた祠。
船玉神社・星宮神社を祀る小祠。
十二神神社・西の宮神社・琴平神社を納めた祠。
十二神神社は以下の十二の神社を合祀したもののようだ。
神明宮・春日宮・八幡宮・西ノ宮・
稲荷宮・伊雑宮・弁財天宮・天満宮・
山神宮・大黒宮・船玉宮・大海神宮。


神社の概要

名称 式内 片岡神社(通称 住吉神社)
所在 榛原郡吉田町住吉二二一二番地の一
神域 往古は住吉小学校から千日堂 あたりに至る迄社領地であっ たが時代と共に縮小現在に至 った。現在総面積四三四九平方米
創建 明確な資料は無いが延喜式に よる式内の冠称から推考し平 安朝醍醐帝の御代既に 存在し以来壱千数百年の永い 歴史を重ね大正二年本社殿に 改築、今日に至った由緒ある神社 である。
祭神 底筒男の命┐
中筒男の命├住吉の三柱神
表筒男の命┘
息長帶毘賣命(神功皇后)
右四柱を祭祀し摂津の国(大阪) 住吉大社の分霊を勧請、海神並 に諸願成就の守護神として往 昔からこの地域の多くの人達 から崇敬されている。
祭事 主なる例祭
 一月一日
 二月十一日
 四月三日
 八月一日二日
 十月九日十日
 十一月廿三日
 十二月丗一日
元旦祭
祈年祭
舟玉神社祭稲荷神社祭
夏季大祭宵祭本祭
秋季例祭星の宮祭
勤労感謝祭
大祓
右祭事の内、特に夏季大祭の渡 御神事は華麗な大神典に随う 祭員之に続く十万石の格式と 称される古式豊かな道中奴、神 徒士、稚児の大名行列、更に華美 と意気を競う若者達の練る小 神輿と数台の山車、老いも若き も巷を挙げての祭典として絢爛 豪華、他に例を見ない。




                        母方先祖に通ずるキイワードが散らばっていてヲイヲイでした。笑




[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月21日 00時13分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日、例の本送りました。

 さて、榛原についてですが、秦氏の東進と関係いたします。
 大庭祐輔氏はその著書『竜神信仰 諏訪神のルーツをさぐる』の中の「造船
と織物の結びつき」で、次のように述べています。ちょっと長くなりますが、
大事なポイントでありますので記します――

 「遠江国の東端にある榛原町周辺は、すでに述べたように興味をそそられる
 地点である。'榛原'の地名は、記紀神話の「榛原の君」を連想させ、この付
 近を中心として古代小国家を形成していたように思われる。現に榛原町の北
 に隣接する島田市初倉地区は、榛原郡の駅家(うまや)であり、秦氏の居住を
 証明する記述もある。さらに後述するが、榛原町には古代朝鮮の卵生神話を
 連想させる「鶏林」という地名もある。」
 
 「上田正昭氏は、富士川畔の大生部多が秦川勝に処刑された常世虫事件にか
 らめて、駿河の『正税帳』を調べてみると、この地域には秦氏と姻戚関係に
 ある一族の居住が考えられると述べている。また、森浩一氏は京都の保津川
 (大堰川)に堰を築いた新羅系の秦族が、遠江国の大井川の治水にあたったの
 ではないかと推察されている。初倉は大井川の堤防工事にたずさわった秦氏
 から生じた秦倉(はたくら)であったという説もある。
  その初倉地区には、秦氏の祖神を祀ったという敬満(きょぅまん)神社があ
 り、そのすぐ隣に大楠神社がある。敬満社は名神大の大社であり、大楠社は
 小祠に朽ちかけた木製の鳥居が残っていて、憐れをとどめているが、どこか
 から移転したきたものといわれている。」

 「ここから丘陵地を下った所――古代には大井川の川辺と推定される地域に
 '船木'の地名が残っている。この船木と大楠社から、この付近に造船基地と
 港があったことが推察される。それを補足するような決定的な証拠が、仁徳
 紀六十二年の記述にある。」

 「遠江国の国司が申し出てきた。大井川の河口に大樹が流れてきたが、川の
 曲り角にとどまっている。木の周りは三十尺もあり、一本の木であるが、先
 が二つに分かれている、と。そこで国は倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)
を派遣して、船を造らせ、南海道をめぐらせて難波の港に納めさせた。」

 ここで、一旦切ります――
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月21日 06時42分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 続きです――
 
 「この記述では二つのことが注目される。一つは「先が二つに分かれている
 大樹」とあることから、一本づくりの丸木船ではなく、板にして組み立てた
 構造船であったと考えられることである。もう一点は「南海道をめぐらせて
 難波津に……」という記述にある。たいへんな難所といわれる紀伊水道を
 通行する航海術を保持していたことになるからである。」

 「すでに述べたように、榛原町は白髯をはじめ、白羽、麻績、服織等の地名
 もある。だが注目すべきは「船木」と「服織」、造船と絹織物の組合せであ
 り、それはイナベ氏と秦氏の組合せに遠縁があったのかもしれない。」

 ここで一旦切ります――
[15]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月21日 12時43分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前回からの続き――

 「渡来人に詳しい上田氏の説明によると、「京都太秦に本拠をおいた秦氏
 は、当時の大蔵官僚のような立場を意味しており、各地に秦氏系の品部を
 おいて、絹織物の管轄、収納をしていた」と述べておられる。
  天竜川河口近くの右岸、浜松市豊西地区には服織神社が鎮座し、大井川
 河口右岸には服織田神社がある。はらには安倍川の右岸、藁科川にはさま
 れた地点にも服織の地名が現存するが、これは上田氏のいう「秦氏の品部」
 を意味していないだろうか。また榛原の服織田神社の近くに船木の地名が
 あり、静岡市の服織の奥地にある白髯神社に造船伝承が伝わっていること
 は、何を暗示しているのだろう。秦氏系の品部で生産された絹織物を、船
 運によって運んだのではなかろうか。その構造船にたずさわったのがイナベ
 氏系の造船技師であり、奇しくも遠江、駿河の三大河の右岸に服織の地名が
 残ったのではなかろうか。
  そのほかにも池田市の猪名川や北勢の員弁川、さらには服織社をさらに
 遡った天竜川にも織物の生産と関連する地名がある。古代の日本は、我々
 が想像する以上に舟運が盛んであり、しかも川をかなり上流まで遡る航海
 術を心得ていたことが推察できるのである。」

 以上の大庭佑輔氏の考察により、秦氏の東進の陰には「イナベ」氏のよう
な造船技術をもった氏族、あるいは、海人部氏、安曇氏、そして尾張氏等の
海人が運輸あるいは絹織物の生産、土地の開拓を担当したパターンが見えて
きます。
 摂津と遠江の関係について、私は両地間は遠くて交流など想像もつかなか
った訳ですが、こうしてみると、淀川水系、紀伊水道、熊野灘、遠江、ある
いは、一部山越えするとしても伊勢湾、遠州灘を利用すれば、意外と早くま
た容易に交流ができたのかと想像できます。古代の水運・造船・航海術につ
いて、改めて深く考察する必要があると感じました――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月21日 15時05分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。
到着を楽しみにしています。



先が分かれた舟?
ハワイで言う  アウトリガー  のことかしら?
転覆しないようにした船。



【員弁】が出て来て驚いています。
あそこは木曽三川に近いから造船技術が発達した場所なのかな?
ワタクシ的には  モロ  平家一門  南朝方  反信長  そういうイメージです。
まさか員弁がここに出て来るとは。

     伊勢神宮の影響は強い場所だろうとは思います。


参考させて頂いてアチコチウロウロ検索に行きます。



そうそう浜松って鰻の他に今は餃子も有名な処なのですか?
今日見てたドラマで「浜松に行ったら餃子を食べなきゃ」とうシーンがあってビックリでした。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月23日 08時31分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 株主総会も終り、あとは大掃除を待つばかり、今年もお世話になりました。

 浜松餃子は宇都宮餃子と並んで有名になっておりますが、しょせん餃子は
餃子、いわゆるB級グルメ、うなぎにはかないません。うなぎは本当にうま
いと思います。浜松では、うなぎの関東風の焼き方と関西風の焼き方の二種
類の店が混在しております。私は、最近は関西風の焼き方が好きになりまし
た。いわゆる、パリッとした表面の食感であります。

 さて、アウトリガーとはいい発想であります。古代の舟は外洋では転覆し
ないようにアウトリガーを付けたり、双胴船にしていたり、ポリネシアの舟
―「カヌー」―の技術・航海ノウハウが日本にも伝わっていたものと思われ
ます。ポリネシアの舟や航海技術がいつごろから確率されていたのかは、こ
れから調べてみますが、いずれにしても、初期の舟は丸木舟―くりぶね―で、
次に準構造船、さらに構造船と進化して行った。三角帆も四角帆も随分前か
らあった可能性があります。百済は大海洋国だったようで、その辺の影響も
大きかったと思います。
 私の手元に茂在寅男氏の『古代日本の航海術』という本があり、まだ読み
こなしておりませんでしたので、今回はしっかりと理解してみようと思いま
す――
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月23日 12時53分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:確率→確立

 
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月23日 14時32分14秒 ) パスワード

三つ柏さん

>百済は大海洋国だったようで

100%百済が海洋国だったということを忘れていました。


物事を考える上でいろいろな方向から見なくてはいけないということを忘れていました。
若い時にこういう習慣をつけておくべきでした。


最近ドンキに浜松の鰻の缶詰があるのを見ました。
1缶15ドルあたりです。
アナゴの缶詰が5ドル弱あたりです。

鰻と餃子だったら比較がそもそも失礼ですよね。



古代の人って、いろいろ工夫したんですね。
IQの高い人がいたってことですよね。
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月24日 23時02分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、榛原(浜松から東に60q)へ行ってきました。頭の中の論旨が整理
できましたら記します。たぶん、明朝――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月25日 02時01分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>本日は、榛原(浜松から東に60q)へ行ってきました。

60kmあたりですか。
結構遠いじゃないですか。

大井川って遠いんですねぇ。
焼津の近くになりますか。
ちょっと  日常的に  交流はしない距離でしょうね。


またもや古代のイメージが変りました。
もっと近いと思ってました。
20qはないように思ってました。


仁徳天皇の御世には大井川といったら地の果てだったんでしょうね。
仁徳天皇の兄上の子供達は  日本の外れまで   落ちて行ったのか
とシミジミとします。
大井川の向こう側は異民族の世界だったんでしょうね。



>頭の中の論旨が整理できましたら記します。たぶん、明朝――

クリスマスプレゼントになります。
嬉しい
[22]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月25日 07時59分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 操作ミスで消えてしまい、精神力もダウンしてしまいました。もう一度、
精神力をチャージし直します。少々時間を――
[23]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月25日 10時35分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 餃子の話題で恐縮ですが、ダダ今餃子を買いに行って来たところであります。
 九時に行ったのですが、すでに六十人の行列ができていて、四十分待ちでよ
うやく買えました。インターネットの時代で、静岡からわざわざ買いに来てい
る人もありました。たかが餃子、されど餃子。ごはんには餃子が合う(ニンニ
クとキャベツと酢と唐辛子の具合にもよりますが)。うなぎと比較したのはち
ょっと次元が違いました……。
 行列のできる持ち帰り専門の餃子屋さん、今日行ったのは、ややニンニクの
効いた餃子でありますが、キャベツは群馬の嬬恋産を使っております。
 もう一軒よく買いに行く店がありますが、ここは距離的に遠く、でも行列の
できる餃子屋さんです。

 さて、論旨がわからなくなってしまいました。いくつかの論旨がある訳です
が、それを一つのストーリーとしてまとめるのはこの際止め、一つ一つの論旨
ごとにこれから述べてみたいと思います――

 

 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月25日 13時11分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

やっぱり浜松の餃子は美味しいということですね。

ハワイのベレタニア通りの佐野屋さんの餃子も美味しいと評判です。うどんが美味しいお店なんですけどね。
私は質より量の方なので大盛り中華が好みです。
ものスゴイ量なので餃子は遠慮です。餃子も食べたら3か月は体重が落ちないから。

この寒い中を40分も待ったなんて風邪を引かなきゃ良いのですが。



窓8はホントに落ちますね。
アッと思った瞬間に真っ白ですものね。
最近は歳のせいか落ちた瞬間から暴れられないので気力が戻るのを待ちますが戻らないです。

ま、気楽に気長に、人生はまだまだ長いんですから。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月25日 13時50分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服織田神社のある旧榛原町に、「服部氏」はいませんでした。正確に言
えば、一軒のみ電話帳に載っておりました。これは榛原町教育委員会が、
昭和55年(1980)に調べた結果と同じであります(家紋は花菱)。いわゆる
"服織"に服部氏がいない、あるいは少ないという現象は、どうも気になる
のですが、元々服部氏――服部連の正統を継ぐ者――は少なかったのだと
最近思うようになりました。
服織郷の管理者としての服部連の姓(かばね)が、やがて後裔においては
服部姓(せい)となり、そして代々ほそぼそと引き継がれていったのではな
いか。その他の服織郷の管理される側の者達は、服部姓を名乗ることは
許されなかったのではないか……。何かの具合で、服織郷を出た者、出さ
れた者が、かつての服織郷の出身ということで、わかりやすく服部という
姓を血のつながりとは関係なく名乗ったのではないか……これは、全国の
服織郷(服部郷)におけるその傾向の調査をしてみなければわからないこと
ではありますが……。
 あるいは、正統の服部氏は、襲われた、拉致された、追い出された、名
前を変えた……等、いろいろな可能性が考えられるかも知れません。
 秦氏もこの榛原地区には一軒もありませんでした。ただ「畑」は30軒
以上あるということが教育委員会の調査には書かれておりましたので、秦
姓が畑姓になった可能性はあります。
 いずれにしても、服部連の血をひきつぐ正統服部氏は、元々は希少種な
のではなかったのか、ただどういう訳か、伊賀においては、その子孫は爆
発的に増えてしまった――仮冒もあったと思われますが――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月25日 16時21分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


すっごいショックです。

>服織田神社のある旧榛原町に、「服部氏」はいませんでした。(家紋は花菱)。

どこに消えたのでしょうね。
不思議ですね。
秦氏系の服部氏なら来てそうなのに残れなかった?

しかし「花菱紋」とは!



>服部連の血をひきつぐ正統服部氏は、元々は希少種なのではなかったのか、
>ただどういう訳か、伊賀においては、その子孫は爆発的に増えてしまった
>――仮冒もあったと思われますが――


伊賀に服部連系の服部氏がいたのは確かで
その後
桓武平氏系が11世紀の初めに伊勢伊賀に来て
屋号としてその服部の名を名乗ることになった
というのが我が家です。


日本の名字はグッチャグチャですね。
家紋はさらにグッチャグチャ。


花菱紋で服部姓というと
甲斐の武田に仕えた服部家を連想します。
でもこのお宅は家紋はいわゆる「車に並び矢」ですから
花菱紋の服部家は分家あたりで、昔の主人の武田家の家紋を使うことにしたのかな
と想像します。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月25日 20時33分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、武田系の服部氏ということ、十分なほどあり得ると思います 
 駿府から高天神城まで、武田信玄に攻め落とされていますし、武田氏滅亡後
には、徳川による家臣の吸収もありましたから。

 服部氏の消滅は、第一段階では律令制の崩壊と関係し、第二段階では荘園制
の崩壊・武士の台頭に関係しているかも知れません。この辺はもう一度絹織物
の生産と衰退の歴史を振り返って整理してみたいと思います――

 
[28]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月26日 16時14分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 内田旭氏の論文には、相良町にも服織田神社があったと書かれています
が、確認はとれていない。相良町の波津には服部家が四〜五軒はあるよう
であります。旧榛原郡で榛原町とも近く、秦氏や服部氏の一群である可能
性はあります。いずれ、近い内に一度また訪れてみたいと思います。

 榛原町教育委員会の『榛原町の地名』の中で、「榛原君」について、次
のように述べております――

 「古事記の応神段に「大山守命者君、幣妓(へぎ)君、榛原君等の祖」と
 あり、また日本書紀の応神条には、「大山守皇子是土形(ひじかた)君、
 榛原君凡二族之始祖也」とあり、土形は城飼(きこう)郡土形郷の地、幣
 岐(へき)は同郡比木村の地、榛原は榛原郡榛原郷の地と推定される。」
 
 「榛原君は土方系図によれば、大山守皇子の子孫で「加米古王」と呼ば
 れ、大山守皇子の謀反後、子孫は大和朝廷に降り、以後はその組織の中
 に組み込まれていったと思われる。当時は氏姓制度の社会で、朝廷では
 臣・連・造・君・直等の姓(かばね)を与え、朝廷における政治的・社会
 的地位を保障した。」

 「応神朝以降、朝廷は東方へ発展しようと遠っ淡海(とほっあうみ)(浜名
 湖周辺)から天竜川を渡って牧之原東南部から大井川下流右岸をかためよ
 うとし、大山守命の子孫である土方君に城飼・榛原の農業開発と治安の
 維持に当らせた。土方君は山守部と呼ぶ品部(ともべ)(屯田兵で農耕開発
 従事者群)を率いて土方の地名をとり、姓をその下につけて「土方君」と
 名乗り、ちゃくちゃくと名のりとその支配権を広げ、土方の人々が榛原
 (はりはら、はいはら)と呼んでいる地域を支配し、農地を開拓し稲や麻
 の植え方を指導し、既に入植していた服織部(秦氏の一部)や物部と協力
 し、この地域を大和朝廷の氏姓制度の中へ組み込んでいったと思われる。」

 「加米子王は、在地の地名を取って「榛原君」と名のった。榛原とはこの
 地方に住む人々が地域の景観を直感して古来ら呼んできた地名であった。
  従って「榛原」の地名はこの地方に最初に住民によって付けられた俗称
 地名であったが、加米子王が正式にこの地名を姓の上につけることを許可
 されると俗称地名「榛原(はりはら)」は公式地名になり、榛原君はこの
 地域の行政官となった。」

 土方(ひじかた)は高天神城の周辺にあります。土方氏、伊那部氏、それぞ
れがそれぞれの技能を発揮した……つまり秦氏単独の行動ではなく、他氏族
と協調して物事をとりおこなったというパターンが多いのかも知れません……。
[29]今回は「初恋」でさんからのコメント(2018年12月26日 17時35分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


相良町にも是非お出かけになってください。


>土方(ひじかた)は高天神城の周辺にあります

新選組の土方歳三の一族は
確か武田方だったような記憶で
家康から武士に抱えられると言う話だったのに裏切られて
結局多摩(日野)の石田村の豪農で終わったけれど

     だから幕末にどうしても武士になりたかったし、武士以上の武士になりたかったな、と。


高天神城自体が難しい歴史を持ってるし
     今川から徳川に移って武田勝頼との戦があって


ということを考えていると
土方歳三の家って?
松島家って?

と、松島家の秘密にまたまた行ってしまいました。


恐らく土方歳三の家は我々が想像している以上の家だったのかもですね。


NHKの「新選組!」の時に佐藤彦五郎さんの紹介で
蔵にはまだ戦国時代の鎧がある
なんてセリフがありました。

佐藤彦五郎(さとう ひこごろう)
演:小日向文世

日野宿の名主。
土方歳三の義兄にあたる。
近藤勇とは義兄弟の契りを結んでいる。
新選組を支援する。
春日隊を組織し、甲陽鎮撫隊に加わった。
終盤、勇が官軍に捕らわれ斬首されると知ったときには、我を忘れて救出に向かおうとした。


甲陽鎮撫隊という名前からしてもやっぱり武田方と関係があったのかなと。


情報が交錯してしまいます。
高天神城の名が出て来ると松島家は一体どういう家だったのか
またまた気になります。

あの松島家家譜の「高天神城」の記述には何が隠されているのかなと。



     実は実はここ暫くある若手俳優が気になってて
     その人の名前がテレビ欄に出てると勿論テレビにかじりついて見ています。 

         去年?から、今年の初め?からかなり気になってたのですが
     ま、恐らくワタクシの時空を超えた初恋の人の生まれ変わりだろうな
     と思っていたら

         複数のドラマの役名もかなりバッチリ合うし
         そして
         その人が「おばあちゃんがXXにいて」

     と語ったインタビューで
     100%彼のご先祖さまが分かってしまいました。
     ああ、やっぱり!と。


     ココロが落ち着いたらメールで書きますが
     こんな偶然ってあるのか
     と思うほどで


     ま、日本人ですから、殆どの日本人とは繋がっているのだろうと思いますが
     俳優にしても役が実は先祖がらみでブレークしていくのかなと思っています。


     ココロが落ち着いたらカミングアウトです。
     好きで好きでたまらないのです。
     たぶん子育てしてたのかも。子供を産んだ感覚は無いので乳母ではないけど保護というか庇護してたような。


     今生でもう生まれ変わることはないとは思ってたけど
     確信になりました。
     今回生まれて来ていろいろなことが解決したなと。

     最新の番組名を書いたら  あをちゃんって、そんなの見てるの?  と笑われそう。
     コッチでは放送になってないんで見てないです。
     でも役柄もワタクシの時空を超えた初恋の人にピッタリなのです。


こんな事ってあるのか?
とワタシが驚いています。   そんなもんだよ  >  自分

三つ柏さんもいろいろ分かったらいいのにね。
まだ右往左往紆余曲折中だものね。     
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月27日 08時24分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 人を好きになる、特に一目ぼれのように直感的に超短期間で好きになってし
まうということの裏には何かあるのだろうか? 人間の頭脳の中にある、いわ
ばDNA-AIが、一瞬にして「好き・嫌い」の判断をするということだと思
います。そこには、それぞれの個人の生きて積み重ねてきた経験値だけでは
なく、いわば霊的な、あるいは科学的な言い回しにするなら量子物理学的な、
「残存する固有な波動」との共振、チューニングができた、ということでは
ないでしょうか。波動の持つエネルギーは、通常ですと消滅して行くはずであ
りますが、消滅せずに永遠に残る現象があるのかと想像します。それこそが宇
宙の根源であり、また霊的世界でもあると思いますのですが、あを様、いかが
でしょぅか?
 私も、この歳にかかわらず、というよりもむしろ歳を重ねるごとに一瞬で好
きになる傾向にあります。困ったものです。もう枯れていいはずなのですが
……?!

 さて、"服部マルコ"の旅は続きます――
 静岡の安部川と藁科川の合流する所の西側は、小高い山並になっていて、
そこに「丸子」、マルコでなく通常マリコと呼ばれておりますが……丸子の
とろろ汁で有名な所であります(近々食べに行きたい)。
 服部マルコの謎を解く鍵は、奇しくもここにあるのかとも思っております。
 何故ならば、丸子の位置は、藁科川と安部川の交差するV字形の地域――
即ち、「羽鳥(服織)」、の西(先ほどの西側の小高い山側ということ)にあり、
羽鳥を上から見守っているような感じがするからであります。また、そこは、
手越を通って国府へ行く本道と、歓昌院の坂を通って羽鳥に行く脇道があり、
その歓昌院には「丸三つ柏」の服部家の墓が2基程あったからであります。
 電話帳(2000年)で調べると、丸子に服部は4軒、羽鳥には3軒となってお
りました。やはり、羽鳥に服部は少ないという現象が見られます。
 当方の羽鳥にも服部は一軒もなく、南北それぞれ昔風に言えば一里程の所
に、服部が数軒と十軒程存在しております。松島氏や鈴木氏、加藤氏、永井
氏等の、数十以上、百以上の軒数と比べると、何故かまたどこも少ない傾向
にあります。つまり、田畑を開拓して子孫を増やしていったという系統では
あまり思えないような気がいたします――
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月27日 12時13分32秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 榛原の服織田神社のあたりは服織村と呼ばれていたのかも知れません。そう
『日本総国風土記』には書かれているそうですが、服織田は服織の田んぼとい
う意味からしても、そうであったのかも知れません。
 秦氏と服部氏、いずれもある特徴的な職業でまとまった集団で、そういうこ
とからして、一つの血でつながった集団というよりも、何々の一団というくく
りの擬制的な名前の集団であったのかも知れません。
 ただ、秦氏は色々な名前に変名しているという事実があり、それはそうせざ
る事情があったのだと思われます。いわゆる没落させられて名前を隠さざるを
得なかったということがあると思われます。

 秦氏と服部氏、同族であるという説もあり、また秦氏の中に吸収されたとい
う説もあり、一筋縄にいきませんが、服部氏には服部氏のある種のプライドが
あるように感じられます。それはやはり根幹の部分で「絹」と「機」と「女」
と「王」のキーワードに象徴されるものがあると考えます。

 榛原の教育委員会発行の『榛原町の地名』にはこう書かれております――
 
 「服織氏の定住と服織地名
  大化改新(645)と前後して、勝田(かつまた 榛原郡)郷の海岸地域(静波)
に入ってきたのは服織氏であろう。服織氏には四つの系統がある。

 @委文織部(しとりべ): 神皇産霊神(かむすむすび 神魂神)の後裔で、
 「達葉槌(たてはつち)命、天羽槌命、天羽雷命」の子孫で「大味宿祢、
 委文宿祢(しずりのすくね)」は、この子孫である。天照大神が天岩戸に隠
 れた時、倭文の文布を織って奉ったのはこの神である。

 A服織部(はとりべ): 天御中主尊の末裔、天御桙命の後が服織部となる。
 この氏人の中に麻立比古命、天八千々毘売命などが属するのではなかろう
 か。安倍川の中流にある服織も神服織の部民の住地であろう。

 B麻績連(おみむらじ): 長白羽神の子孫に麻績連という族がある。御前
 崎町白羽の白羽神社の祭神は長白羽神とされている。

 C天棚機媛命(あまのたなばたひめ)とその族: 神服部(かむはとりべ)は
 職業部の一つで神衣を織ることを職業とする。神衣祭は伊勢神宮の祭をい
 う。神服部によって神調糸を以て御衣(おんぞ)を作る祭りのことである。
 引佐郡三ヶ日町の「浜名総社神明宮」の境内に、天棚機媛命をまつる社と
 天羽槌雄命をまつる社とがある。また、同町神戸(かんべ)の初生衣(うぶぎ
 ぬ)神社にも天棚機媛命をまつっている。

  当地(榛原)に移住してきたのは、Aの天御桙命の末裔の服織部といわれ、
 現在、服織田神社にまつられているのは、麻立比古命と天八千々媛命であ
 る。麻立とは麻を裁って衣服を作る意味で、麻の衣服を作る部族の長とい
 う意味である。また、天八千々媛は、和妙(にぎたえ)を織る織女の長を意
 味する。とすると、服織に関する部族かこれに関する遺蹟地名はないだろ
 うか。」

ということで、モヤモヤ感はありますが、秦氏や服部氏、麻績氏は同じ仲間
でありそうです。
 絹を扱う服部と、麻をあつかう麻績の違いは、どこにあるのでしょぅか。
たまたま扱う物が違うだけで、同族的な仲間なのでしょぅか。それとも別の
種族が集まったのでしょぅか。麻績王の謎を解けば、それがわかるかも知れ
ません――


[32]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月27日 16時25分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>絹を扱う服部と、麻をあつかう麻績の違い

絹と麻では格が全く違うし
時代も全く違うし            綿はずっとずっと後世

    麻は日本のフツーの身分の人の衣類ですから
    神代からの服部氏関係でしょうね
    絹は渡来物で秦氏関係だろうなと。

    要するに絹織物を麻織物の技術を持っていた人々に作らせたのだろうなと。
    絹織物は蚕だって貴重だし
    ふだんは麻織物をやってたのかなと。

    その後、絹織物を作れる人々には職能給がついたのだろうな、などと連想が行きます。




麻織物のもっと前の時代は麻の葉っぱの繊維を束ねて腰蓑にしてたのでしょうね
やっと人間に羞恥心が出て来たころ。

日本の場合はやっぱり麻(ヘンプ)の繊維をほぐして腰蓑にし
もっともっと後に衣類に発展していったのだろうな、と。


           麻って成長が早いし
           山に行けばいくらでも生えてたろうし。
           そして不謹慎にも  麻の実とか葉とかは  宗教・祭祀にも関係していっただろうし。


>丸子の位置は、藁科川と安部川の交差するV字形の地域――
>即ち、「羽鳥(服織)」、の西(先ほどの西側の小高い山側ということ)にあり、
> 羽鳥を上から見守っているような感じがするからであります。

>また、そこは、手越を通って国府へ行く本道と、歓昌院の坂を通って羽鳥に行く脇道があり、
>その歓昌院には「丸三つ柏」の服部家の墓が2基程あったからであります。
>電話帳(2000年)で調べると、丸子に服部は4軒、羽鳥には3軒となっておりました。
>やはり、羽鳥に服部は少ないという現象が見られます。
>当方の羽鳥にも服部は一軒もなく、南北それぞれ昔風に言えば一里程の所に、服部が数軒と十軒程存在しております。
>松島氏や鈴木氏、加藤氏、永井氏等の、数十以上、百以上の軒数と比べると、何故かまたどこも少ない傾向にあります。
>つまり、田畑を開拓して子孫を増やしていったという系統ではあまり思えないような気がいたします――

もどかしいですね。
見えそうで見せてくれない。


>歓昌院には「丸三つ柏」の服部家の墓が2基

ここが突破口になりそうなんですが。
この服部家と三つ柏さんの服部家の関係が解けたら最高なのですが。


と、こうして書いていると
どうして  三つ柏紋なのか?  と。
伊勢伊賀の服部系ではない、というアイデンティティを示しているのか?と。


島田の服部氏というのも機会があったら調べてみてください。
[33]酔石亭主さんからのコメント(2018年12月27日 18時57分19秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

ご無沙汰しております。服部氏の探求頑張っておられますね。

>大化改新(645)と前後して、勝田(かつまた 榛原郡)郷の海岸地域(静波)
に入ってきたのは服織氏であろう。

この部分は貴平町の内藤家由緒と連動しているかも…。由緒によれば蘇我入鹿の
乱(643年)を避けて秦貴平は三皇子と共に浜松に来たことになります。秦貴平の
実在性は??ですが、秦氏は幾つかの系統の服部氏を随伴させ644年に遠江、駿河
に入ったと推定されます。そして645年に入鹿は討たれますので、秦氏と服部氏は
浜松や榛原及びその他地域にしばし留まった後、本国に帰還したと考えれば、現時点
における秦氏と服部氏の存在感が薄いのは説明が付きます。

浜松の服織神社がその好例で、同社がなぜ出雲から708年に勧請されたのか当初は
不思議でしたが、以下のように考えると納得できるものになります。
服織神社は644年以降に服部氏(と秦氏)が創建したが、彼らは700年頃までに
帰還したので空き家になった。708年になって出雲国造家(後の出雲大社宮司家)
が出雲国の支配者としての地位を奪われ、収入減に直面。その不安を解消する目的で
空き家となっていた服織神社を乗っ取り、それ以前の祭神・由緒を消し去った。

先日浜松の各所を巡り、喜平町の内藤家も訪問。貴重な史料を拝見させていただき、
写真撮影もご許可いただきました。内容は三つ柏さんの書かれたものと基本的に同じ
です。ところで、以前に「浜松の秦氏」シリーズを書く旨コメントさせて頂きましたが、
ようやく構想も纏まってきたので書き始めています。
特に難しかったのが内藤家先祖の秦貴平についてで、現在も書き続けている状態です。
以下の「浜松の秦氏 その12」貴平町の八幡神社辺りからお読みいただければ、お二人
の探求の一助になるかもしれません。いや、却って混乱が増すだけかもしれませんが…。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2759.html

各地の服部姓を調べる場合、「住所でポン」で検索すると町レベルまで出てきます。
簡単なうえに参考になるので、以下で試してみてください。
https://jpon.xyz/
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月27日 23時07分00秒 ) パスワード

酔石亭主様

 驚きのお知らせ、ありがとうございます。さっそく熟読いたします――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月28日 11時39分03秒 ) パスワード

酔石亭主さん


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2759.html
早速拝見しました。


わたくしの場合は真清田神社と服織神社に引っ掛かってしまいました。
織物の一宮ですから当然ですが
いつからこの服織神社があるのかなと。


      若い時に御幸毛織のご家族の方をちょっと存じ上げてたのでネットで調べたら
      今や事情が全く変わってて
      
      でも創業者は祖父江氏ということで宗良親王のお孫の良王君に関係するし
      祖父江氏は戦国時代には尾張の豪族=津島神社の神職さん=つまり真清田神社にも関係するし=蜂須賀家や山内家に関係するし   
      父方のNYの親戚にも関係するし  ← ココの家がスゴイ

やっぱりぐるぐるしちゃう!
ということに落ち着きました。

これ以上はネットには書けない  また一族自慢かよ  となってしまうので自主遠慮。


神代や古代だけじゃない
中世も近世も近代も現代も
日本人は切り離せない。

「立て直し」が何度もいろいろな形で入ってたのだろうなと。


遠江も同じで、空き家になってた神社に入り込んだのがいて、ま、中興の祖でもあるわけで
看板はそのまま続いてても、中身は総入れ替え、になったんだろうな、と。

     Under New Management っての。


力の無くなった創業者の子孫は雲散霧消。この繰り返しかと
いずれ名門御幸毛織さんもそうなっていくのかなと。


すっごく哀しくなっています。
[36]酔石亭主さんからのコメント(2018年12月28日 19時09分19秒 ) パスワード

空の青海のあをさん 三つ柏服部さん 

>力の無くなった創業者の子孫は雲散霧消。この繰り返しかと
いずれ名門御幸毛織さんもそうなっていくのかなと。
すっごく哀しくなっています。

国も家も個人も栄枯盛衰は世の習い。そう思えば少しは気も休まるのではない
でしょうか?

>秦氏もこの榛原地区には一軒もありませんでした。

以下の史料は以前に書いたものですがご参考まで。

『竹下村誌稿: 大正13年 (1924年):五和村三代村長渡辺陸平氏編』
によれば、「兎に角此初倉に正倉ありと云ひ続後記承知十四年(847年)
八月、榛原郡人、秦黒成の女。正六位上・秦忌寸部落長福用云々の記事も
ありて、本郡に秦氏の居住せしと云ひ―中略―。五和村の大字に福用あり古は
相応の家格を有せし部民の住居せし如き大なる古墳あるのみならず現に郡内
福用の字を用いて姓とする家多しと云へば此福用は或は前記秦忌寸福用に縁由
ある部曲の居住せしより起こりたる名なりしやも知る可らず」とあります。

福用の名は葛原親王に同行した秦忌寸福代にちなんでいます。福代は葛原親王の
家令でした。また大井川は秦氏が工事をした京都の大堰川(おおいがわ)の名前
を持ち込んだものですから、流域に秦氏がいたのは間違いないと思います。
[37]三つ柏服部さんからのコメント(2018年12月29日 08時22分02秒 ) パスワード

酔石亭主様
空の青海のあを様

 昨日で仕事納め、本日からは自宅の大掃除やら何やらが始まり、バタバタ
して年の瀬を迎え、雪模様の中で静まり返った知恩院の境内のゴーンという
鐘の音を聞きながら、行く年来る年のお別れお迎えとなります……時の流れ
の必定パターン――

 知恩院の開祖の法然(12世紀中頃)が秦氏であったということを真剣に考
え出したのは、今年の十一月の知恩院への団参からでありますが、何故法然
が浄土宗を開いたかは、やはり秦氏の置かれた歴史の経緯の非情さ・無常さ
にありました。
 もちろん秦氏といっても、狭義・広義、世紀・年代、主流派・枝派の問題
もありますので、簡単ではありませんが、この場合の秦氏は、赤穂に流され
たという秦川勝を中心とした秦氏グループで、全体として貶めら賤民化して
いったものとみられます。
 ある意味で、法然は同族とみなされるそれらの賤民の救済に命をかけたと
言うことができると思います。

 秦氏は、秦河勝(6世紀の終り〜7世紀初頭)をターニングポイントとして、
歴史フィルムのオーバーラップ構造をはがし、整理して理解しなければいけ
ないとは思っております――

 酔石亭主様の声は、いつも天からの声に聞こえ、敬虔な気持ちになります。
文面はいつも澄み切っていて、あまねく隅々まで照らし出してくれます。
 今、ようやくご指示のとおり「浜松の秦氏 その12」から読み進めてい
るところであります。

 レス[33]で酔石亭主様のご指摘の――服部氏と秦氏の創建した服織神社の
奉祀者は出雲国造家がとって替わり(奪い)、祭神も替わった(替えられた)と
いうこと――は、今までモヤモヤとしていた私の頭の中をスッキリとさせて
くれました。服織神社は"服部神"をまつるはずだと疑念を抱いていたからで
あります。平家の時代にも、羽鳥の地が新熊野神社に寄進されていますので、
この時も祭神が替えられたのかと思います。この時に、不満を持つ服部氏族
は羽鳥の地を出て行ったと考えられます。

 いずれにしても、たくさんの情報読ませていただきます――
[38]酔石亭主さんからのコメント(2018年12月30日 18時11分55秒 ) パスワード

三つ柏服部さん 空の青海のあをさん

今回の「浜松の秦氏」シリーズはなかなか難しく、自分の視点に合わせるため
かなり強引にこじつけたような部分もあって、消化不良気味です。服部氏関連など
お二人の方が圧倒的に知見をお持ちと思いますので、おかしい部分などがあれば
ご指摘ください。ただ、幾つかの新しい発見もありその部分では楽しんでいます。
いずれにしても、このシリーズを書く気になったのは三つ柏服部さんから秦氏に
関連する内藤家の記事などをご紹介していただいたからであり、それらがなければ
本シリーズは存在しなかったと思いますので、改めてお礼申し上げます。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月31日 10時38分13秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。
自分で考えられないので助かります。
情けない



[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月31日 11時20分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


録画してあった「関ケ原」をやっと見ました。
身につまされっぱなしで泣いてばかりでした。

     ここでもワタシはすぐに討死組でした。
     生き残る人とか武勲を挙げて取り立てられる人とかってヤッパリすごいんだなと思いました。


三成の盟友の大谷刑部吉継が  向い蝶紋  だったのでビックリしました。
この人もアチコチ流れて落ち着いたということで


越前を貰ったこととか
向い蝶紋使用とか

そこから  平家の子孫ってことか  と。


で、検索したら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99

父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが[注釈 7]、
当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず[9][注釈 8]、                  ココね
六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である[注釈 9]。



どっちにしろ  平家だ!  と思いましたよ。
「豊後」という土地が出て来ることも
「平姓大谷氏」という名乗りが出て来ることも
どっちにしろ   盛俊さまの子孫系  なんだろうなと。

そして南朝方。
越前といえば敦賀。気比神社。そして敦賀は新田の城。金ケ崎城。


彼を好き、ということは
やっぱりね。


それに大谷吉継の介錯をした湯浅隆貞も平家の南朝方でうちの親戚だし。


やっぱりDNA的に好きだって思いました。
「関ケ原」を見て確信になった。

知らなかったもの、向い蝶使ってたなんて。



島左近の子の信勝もチラッとでてました。
小早川に談判に行く役で。
島左近は怪我をしてたから。

やっぱり島左近は逃亡に成功してたのかと確信になりました。



NHK「真田丸」の時に
山本耕史が三成役で机に座って書き物をしてるシーンを
「大一大吉大万」と習字してるんだ
と言ってましたが

あれがホントというのも知らなかった。
三成の信念なんだ、その覚悟を深めるためにしょっちゅう書いてたのか
と今回知りました。


小早川はやっぱり鬱で死んだと思う。
大根の東出昌大が演じたから  カル〜く  裏切ったストレスが紹介されてて残念でした。
もっと悩めよ! でした。ホント!大根なんだから。



家康の息子の忠吉の岳父は井伊直政でしたね。
しっかり忘れてた。



そして関ケ原に修験者を連れて行って祈らせてた(敵に呪いをかけてた?)シーンもありました。


三成の愛した女性ということで初芽が出て来るのは小説で読んだけど
映画では  伊賀者  ということで最上に仕えてた  仕えた家はみんな滅びた  という設定でした。
だから石田家も滅びてしまった。


柳生の息子達も描かれてました。このシーンはよく分からなかった。
宗矩じゃない方が仕官した。   どこへ?理解できなかった。


2時間半ぐらいのドラマで  5時から「シン・ゴジラ」を見るので  時間潰しに見ました。
心が落ち着いたら「関ケ原」を見直します。

    ツラ過ぎる。
    弁当持って見学に行ってた人達の子孫は平気で見られるだろうけど(もっとやれぇ〜って感じで)
    こっちは当事者だったので、お仲間が死んでいくシーンはツラ過ぎました。 

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月31日 18時08分46秒 ) パスワード

ちゃんと正しいことを書いておかないと、と思って出て来ました:


盛俊さまは  越中守  とか  越中前司とか  呼ばれる人です。越中は富山の方ですね。


この人は三重県一志郡須賀の人。

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

津市の一部(雲出、高茶屋、城山、久居、戸木町、森 町、稲葉町、榊原町以南)       久居だって。
松阪市の一部(松ヶ島町、久米町、美濃田町、小阿坂町、嬉野森本町、与原町、後山町、柚原町、嬉野上小川町以北)

但し、現在の津市美杉町太郎生に相当する地域は中世の末期まで伊賀国名張郡に属し、伊勢神宮の神領であった[1]。



隣接していた自治体

久居市                        久居。涙
一志郡三雲町、一志町、美杉村
松阪市
飯南郡飯南町


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E4%BF%8A
「彼の家、第一の勇士」(『玉葉』寿永2年6月5日条)といわれた。

盛俊は盛国の息子です。
盛国は服部家長の父・家貞の死後、平家をまとめた人。清盛の腹心。「NHK 清盛」では漁師・鱸丸を清盛が季衡の養子にした。鱸は平家の出世魚。

平家が滅んで、

   これについてコピペします

寿永4年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、捕虜となって宗盛とともに鎌倉に送られた。
源頼朝は盛国の一命を助けて岡崎義実の元にその身柄を預けた。
その後、盛国は日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を一切絶って文治2年(1186年)7月25日、餓死によって自害した。
享年74。頼朝はこの盛国の態度を称賛したという。


            ワタシが久居にいた理由が分かった、かも。
            「母」の実家だった、かも。
            これは、そうだろう、とは思ってた。
            母の実家か、母方の親戚の家だろうと。



盛俊の最期をコピペ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E4%BF%8A

寿永3年(1184年)2月5日、三草山の戦いで資盛が敗退すると、
宗盛は山の手に増援として通盛・教経を向かわせて、北の守備も固めた。

2月7日の一ノ谷の戦いで平氏軍は全ての防衛線を突破された。

盛俊はもう逃げてもかなわぬと馬を止めて敵を待っていると、
源氏方で鹿の角の「一、二の枝」を簡単に引き裂くほどの剛の者猪俣範綱が駆けてくる。

腕力に自信があった両者は組討をして地面に落ち、範綱が組み敷かれてしまう。

首を斬られかかった範綱は、盛俊の名を尋ね聞いてさらに「命を助けてくれるなら、貴方の一族を自分の恩賞と引き換えに助けよう」と命乞いを始める。

それに盛俊は怒り「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない」と範綱の首に刃を立てようとしたところ、
範綱に「降伏した者の首を掻くのか」と言われて、押さえ込んでいた範綱を放してやる。

二人があぜ道に腰を下ろしていると、人見の四郎という源氏方の武者が駆け寄って来て、それに気をとられた盛俊は範綱に不意に胸を突かれて深い田んぼの中に倒されてしまう。

泥濘で身体の自由が利かない盛俊は、このような騙し討ちによって範綱に首を取られてしまった。



やっぱり  平家って  正々堂々としてて、卑怯なことはしない、
そういう人達だったのだなと。


      源氏って
      壇の浦では水主(舟を漕ぐ人)を射殺したり
      (ワタシの忠俊さまが参加した藤戸の戦いでは)道を教えてあげた若者を口封じで殺したり ← 佐々木盛綱ってヤツ。
      卑怯だ。   喧嘩と戦争と恋愛に「卑怯」という言葉は存在しないそうですが。



平家はみんな親戚だからね。
だから  卑怯なのは嫌いなんだな。笑
卑怯な生き方や卑怯な戦い方は絶対にイヤなんだ。
敵に囲まれたり卑怯なヤツには実力以上にもっともっと強くなって勝ちたいんだな
と納得がいった。

「関ケ原」を見てから今日は暇さえあると  嶋大輔  を聴いていました。笑


大谷刑部のことで思い出したのが1つありました。

UCLAの某教官のクラスが逆アファーマティブアクションで=黒人学生優先で=絶対に取れないことがわかって卒業出来ないから
京大に行って(一乗寺に下宿してたと聞いたような)
そこで日本人は8代も遡ったらみんな繋がるって聞いたよ
と教えてくれた甥っこ

この子が結婚したい女の子が2人いて   ウチに連れて来たのです
ヤバッ
2人とも福井の子で

1人はもともとが尾張の出で
もう1人は大谷さんという女の子でした。

結局甥っこが選んだのは尾張の子で、理由が名古屋のヨメの親は甘いから、でした。
結局東京に家を買って貰ったしね。


ワタシは大谷さんがずっと気になってて
あ、それでか、
と今日気が付きました。
       

きっとこの大谷さんは平家がらみの南朝がらみの反信長がらみのワタシとDNAを共有する子だったのかもね。      


だからかな、甥っこが名古屋の子と結婚して、甥っこが岳父岳母が金持ちで幸せなら、どーでもいいや
と思うようになったのかな?

きっとご先祖さまはワタシに大谷さんの方を推してやれよとパワーを送ってたのかもね。
ずぅ〜っと気になってた。やっと解消です。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2018年12月31日 22時58分26秒 ) パスワード

加筆


ジムに行く前にちゃっちゃっと。


大谷刑部の「大谷」は平時忠の子孫なんですって。
要するに武家の平氏じゃなくて公家の方。堂上家の方の平姓。
桓武平氏高棟流(堂上平氏)。

平時忠は清盛の後妻の弟。
「平家にあらずんば人にあらず」と言っちゃったバカ。


コピペ:
文治5年(1189年)2月24日、時忠は能登国の配地で生涯を終えた。
墓は石川県珠洲市大谷町則貞の国道249号傍にあり、石川県指定史跡となっている。

大谷刑部は能登国珠洲の大谷出身だからでしょうね。


能登とかあのあたりはムカシは「コシ」と呼んでいた。
(加賀はもっと後の世)。

_________________________________

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3

平越中次郎兵衛盛嗣=盛俊の子
妻=気比道弘の娘


これでつじつまを合わせられた、かな?

話が飛んでごめんなさい。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2019年01月01日 12時52分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様
酔石亭主様

 昨日は、旨酒をグビグビ飲んでしまい、NHKの「知恩院の鐘の音」を聞
かずに寝込んでしまいました。そんなわけで、ようやく今朝遅く、頭が働き
出したところであります。

 改めまして、新年、明けまして、おめでとうございます。

 今年の一年はどうなるのか、一歩一歩かみしめ、時間を無駄にしないよう
に生きていきたいと思います。酔石亭主様の勇気ある歴史探求への取り組み
方を少しでもお手本にして、頑張りたいと思います。

 あを様の「大谷」へのこだわり、深いものがあります。大谷刑部の忠義心、
いわゆる徳川封建社会の手本でもありますが、心の琴線に触れるものがあり
ます。

 さて、新年にあたり、この遠江長上郡の服織神社について、鳥瞰的に考え
てみました。
 浜北図書館の蔵書(浜松中央図書館にもあると思いますが)『静岡県 郷土
研究』(静岡県郷土研究協会編 国書刊行会)という本の「第八巻」に、伊藤
源作氏が「浜松付近の上代観」というテーマで論文を書いておられます。
 この論文は古代からの歴史的知識がないと、理解するのが難しいのですが、
私なりに一口でせんじつめますと――
 <浜松地方の歴史的重層構造>
 @海人系―安曇氏の到来
 A出雲系(出雲族、大神族)の到来
 B物部氏族の到来
 C帰化系―秦氏、漢氏の到来
ということになります。

 これに服織神社の祭神の推移をいろいろ勘案して整理してみると――
 @ハトリ(服織、服部)神(海部等海人系にからむ)
 A天穂日命(出雲臣)
B熊野権現
 C諏訪系(がプラスされる)

つまり、氏族でいいますと
 @服部
 A永井(長田)
 B鈴木
 C松島(諏訪系)
となります。
 加藤は別筋として、、この氏族の@ABは正に、当地(私の住む村)にかた
まっておりますし、Cは江戸時代より服織神社の神官を務めております。も
ちろん、当地の主要一族であります。加藤氏は趣が少し違う氏族であると思
います。
 いずれにしましても、上代の歴史層(レイヤー)が、神社の祭神に忠実に残
されているような気がいたしております。
 つまり、それは服織神社を中心とするベクトルの一致する者同士が「類が
友を呼ぶ」ように集まったのかも知れません。
 また、それに加え、@とAとBは南朝関係の同志でもありますし、@とA
は平氏同志でもあり、AとBは熊野信仰でつながっております。
 わが村の氏族構成が、全くの偶然の集まりというよりも、やはり寄せ集め
る何らかの「引力」が働いていたと考える方が自然かなと、強く思うように
なりました。

 これが新年にあたっての、私の感じ、かつ考えた一つの結論=方向性であ
ります。

 本年もよろしくご指導ご鞭撻の程、お願い申し上げます――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月02日 04時42分42秒 ) パスワード

皆さん、あけおめ


三つ柏さん

ワタシは「デメキン」で2018年を〆て
早々と寝ました。

一応紅白はつけてましたが(幼稚園の学芸会か)と思って消して寝てしまいました。
夜中に大きな音がしてましたが(2018年が終わるんだなァ〜)と思いながら寝ていました。

今朝は寝坊。
ジムに遅れて行ったら「新年の決意で頑張ることにしたのか」と初顔に言われました。


元旦は嶋大輔で明けました。
「大人の勲章」
泣ける。


平成の御世がこれから終わって階級社会がいよいよ決定的に定着するんだなと。
これが人間の生きていくってことなのかなと。

江戸時代はその前の時代で徹底的に勝負して階級が成立したから負組は納得するよりなかったけど
これからの時代ってどうやって底辺は自分を納得させるのかなと。
やっぱり犯罪かな?


これからは7040時代って言うんですってね。
70代の親が40代の子世代を養っていく。
70代の親が死んで年金を貰えなくなったら40代はどうやって食べて行くのかな?
先進国のように  生活保護で ?
イギリスなんて30%あたりが生活保護のお世話になっていると言われて久しいものね。

    で、EU圏内の移民受け入れ  →  その後難民受け入れで、本来のイギリスの子供達をどうするんだ?と。
    2018年はEU全体がどうするんだ?と。

    それを日本が追い掛けて真似したいのだものね
    喰えない国から喰えない移民を入れて  その内に半島から難民が大量に。


次の御世は一体どうなるのか?
いえいえ、その前に日本の若い層をどうするのか?
AIを使う方じゃなくてAIの奴隷?


日本は歴史から何を学ぶ?外国から何を学ぶ?

ワタシに分かるのはアメリカの失敗したものはドンドン真似してるなと思う。
暴力教室 → ヒッピー → UCバークレーから始まった学生運動
ゆとり教育  → 学級崩壊  → 多動児
裁判員制度(ワタシは1度も応じなかった。「仕事に行かないと生活できません」で逃げた  笑)
フェイクニュース   有名著名ジャーナリストの皆さんがアメリカの左系メディアの英文和訳
ムーンライティング(仕事だけじゃ家庭経済が維持できず仕事後に副業すること)
家庭の中も離婚再婚再再婚で子供の兄弟姉妹関係がグチャグチャ
7040    就職氷河期ってのがあったのよね。夫婦で派遣とかフリーターとかいるって聞いた


ナルちゃんの御世は(国土巻き込む戦争は無くても大災害が2つもあった)平成時代のようなことにはなって欲しくない。


と願って  新しいスレッドを立てます。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2019年01月02日 05時00分53秒 ) パスワード

新しいスレッドをご用意致しました。http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101651.html

伊藤源作さんの論文をきれいに纏めましたね。
すっごく分かり易いですね。

これに三つ柏さんが後世分の「肉」を足していくことになりますね。
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