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 投稿番号:101633 投稿日:2018年05月16日 02時19分21秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族C\(課題確認52):109

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族C[(課題確認51):108
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101632_64.html
の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

前スレの秦氏の活躍のお話は興味深かったですね。
いまだに感動でクラクラしています。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月16日 11時49分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 新しいスレッド、ありがとうございます。

 秦氏に関する書籍は何十冊もあるのですが、何度読んでも今までは余り
よくわからなかった。つまり、把握できなかった。それは、秦河勝以外に
主人公がいない、いわゆる秦氏の「顔」が見えないということも影響した
と思いますし、全体のスケールの大きさも把握を困難にしていたと思いま
す。
 今回、改めていくつかの書籍を選択して読んでみますと、おおよ秦氏に
ついて、その全体像が把握できるようになりました。
 それらの書籍は――
 @小林久三著『異説の日本史』
 A水澤龍樹著『日本のまつろわぬ民』
 B関 裕二著『伏見稲荷の暗号 秦氏の謎』
であります。
 Bの「伏見稲荷の暗号」という副題はちょっと大袈裟で、宿神としての
河勝を意味しているだけで、決して日猶同祖論を展開するものではありま
せん。ここを抜きにしても、Bは実に秦氏研究の精髄であります――
[2]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月17日 16時31分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏については、細かく言及するのは時間・労力がかかりますので、
止めておきます。ただ、何かの時には言及したいと思います。

 さて、「大久保長安」に戻りますが、大蔵流の猿楽師でもありました
が、曾祖父の「禅竹」は金春姓であり、「秦河勝」から数えて58代目
に当たります。
 従って、「長安」は一番わかりやすい形で、秦氏の流れ(秦河勝=猿楽
の祖)の中にあり、猿楽の精神と共に、「秦河勝」の血を受け継いでおり
ます。

 また、長安の曾祖父「禅竹」の妻は「世阿弥」の娘であり、世阿弥の
父は「観阿弥」、観阿弥の父は、いわゆる「上島の服部(元成)」で
あります。元成から数えて6代遡ると(七千傑様の系図による)「平宗清」
―「服部家」の祖となります。
 従って、「世阿弥」、「長安」には「宗清」及び「服部家」の血が流
れております。

 松尾芭蕉の父系は、「平宗清」を祖としております。つまりは「服部家」
の血が流れております。

 つまり、観阿弥・世阿弥――長安――芭蕉には、「服部家」及び「宗清」
の血が流れていることになり、シンパシィの通じる間柄であります。

 余談ですが、「服部元成」は、楠正成の弟「正遠」の姉(または妹)を妻
として「観阿弥」を産んでおりますので、その子「世阿弥」、及び世阿弥
の玄孫(世阿弥の娘と禅竹の間にできた子信喜)の孫の「長安」にも、「楠
家」の血が流れていることになります。

 さて、「松尾芭蕉」は「大久保長安」の死後31年後に生まれておりま
す。成長した芭蕉は、大久保長安のことも当然知ったはずでありますが、
果たしてどう感じていたのか、これを知りたいところであります――
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月17日 23時00分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


もうビックリびっくりビックリ!
言葉も出ないです・・・
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月17日 23時03分28秒 ) パスワード

あ、そう言えば
川越民俗博物館の服部家は武田の家臣でした。

母衣衆だった絵を見たことがあります。
家紋は服部家の本家を示す車に並び矢でした。


ということは大久保長安が武田にいた話と繋がります。


武田が滅びて川越で商人になったお家です。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月18日 12時56分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川越の服部家について、私も会ってきましたが、まだ分析ができており
ません。亀山の関の服部家にも行ってきましたが、こちらは伊賀服部家の
流れだと思います。
 川越については、天海がらみで、また話題にしたいと思います。

 大久保長安は、反逆者の烙印を押され、一族関係者の粛清がありました
ので、資料も口伝も極めて少ないようです。同じようなことは、明智光秀
にも言えると思います。

 長安と芭蕉、二人の関係を示す資料は見つかりませんが、やはり芭蕉の
奥の細道、越後の「出雲崎」、及び「佐渡」に向かって読んだ句に、その
思いが込められているのだと推理します。出雲崎という名前自体も謎めい
ておりますし、出雲崎には長安の建てた陣屋もあった。また、芭蕉の頃
にはまだ佐渡から金銀が採れ、出雲崎港に舟で運び込まれたようです。花
街もある賑やかな町であったようであります。

 佐渡は、金銀を産出する島であり、一方で島流しという刑場でもあった。
芭蕉は、佐渡を前にして何を思ったか……論理ではない、芸術至上でもない、
詩的感性に基づいて、「佐渡の歴史の悲・暗・混沌・光」を一瞬で言葉で
描いた。世阿弥や長安は、もはや金銀砂子の天の川で能を舞っていた……。

 私の仮説は、「芭蕉は猿楽師になりたかった。俳諧師であったが、あたか
も猿楽師のように、謡曲を唄うように俳句を唄った……」というものですが、
今後、この仮説に基づいて芭蕉を調べて行きたいと思います――
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月18日 14時53分54秒 ) パスワード

消えてしまった・・・


三つ柏さん


>私の仮説は、
>「芭蕉は猿楽師になりたかった。
>俳諧師であったが、あたかも猿楽師のように、謡曲を唄うように俳句を唄った……」
>というものですが


いいですね
いい視点ですね。


かわずの水音
セミの声
天の川   音は無いけど星の煌めきに 音 を感じたかも

など考えました。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月20日 20時01分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、久しぶりの芝刈り、新緑がすがすがしい一日でありました。

 疲れはそれなりにあり、眠くなってきましたので、睡眠後に書くこと
にいたします――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月21日 02時15分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

まるで腕白小僧ですね。




以下は友人から:

日本の場合,六国史を正史と言います。

正史とは政権が,正当性を主張するために作った史書です。
これの反対が,排史(はいし)若しくは卑史(ひし)と言います。

古事記は排史です。
ですので,古事記は,正当な史書ではありません。


六国史とは,日本書紀,続日本紀,日本後紀,続日本後紀,日本文徳天皇実録,日本三代実録のことを言います。
学者によっては,六国史に,大鏡,今鏡,水鏡をプラスする人もいます。


ところが,天皇家の正統性を主張しているのは,正史の日本書紀でなく,正史でない古事記や先代旧辞本紀(せんだいくじほんき・以後旧辞本紀と言います)の方です。


日本書紀は,神武天皇が,それ以前に日本を支配していた,饒速日と言う謎の王から支配権を奪い取ったと言う事を書いています。
ところが,日本書紀以外は書いてないのです。


2代天皇の綏靖天皇(すいぜいてんのう)ですけど,
この天皇は,兄手研耳命(たぎしみみのみこと)を殺して,皇位に着いたと日本書紀に,書いてありますけど,
古事記や旧辞本紀にはこの事実がありません。

しかも,日本書紀には,手研耳命は朝政の経験も豊富でと書いてあります。


朝政とは,皇位についていたと言う意味です。
豊富と言うのは,10年以上と言う意味です。
最も,心映えが良くなかったので,綏靖天皇は殺したと逃げていますけど。

少なくとも,日本書紀では,度々武力で皇位を奪ったことが書いてあります。


これが,水野祐(みずのたすく)と言う,慶応大だったと思いますけど,
日本古代史の三王朝交代説になっていきます。


でも,古事記も旧辞本紀も,万世一系の書き方になっています。
正史が,天皇家の正統性を否定して,
正史以外が,天皇家の正統性を認めているのが,
日本の古代史です。


私は,これが日本古代史最大の謎だと思います。
普通,反対でしょう?
日本書紀は,天皇家の正統性を否定するために,作られた史書と言う事になります。
なんで,政府が自分らの政権を否定したのかと小一時間。(笑)



それとですね,日本は神武から,男系継承できたと言うのも大ウソで,
日本書紀では,天皇の血筋でなく,皇后の血筋の方が重視されました。

皇后が,饒速日の血統でない場合,たとえ天皇が,神武の血筋であっても,必ず排斥運動が起きています。
これも,日本書紀だけが記載してあります。

反対に,古事記と旧辞本紀は,神武から万世一系,男系男子継承できたように書かれています。
これも不思議です。


日本の場合,政府が編纂した正史が,天皇家の正統性に疑問を挟んでいて,正史以外は,天皇家は正当だと言っているわけです。



天皇機関説ご存知でしょうけど,美濃部達吉博士は,あの人,日本書紀の研究家でしたので,天皇機関説が出てくるわけです。
ですので,明治以降,日本政府は,正史日本書紀研究家を弾圧しています。

日本書紀には,天皇の正統性に疑問を抱いているからです。

今,右翼の日本会議の連中も,わざと日本書紀は読ませないようにしています。
日本書紀読んだら,萬世一系も男系男子継承も嘘だと言う事がすぐわかるからです。

そして,怖いのが,安倍内閣になってから,
防大や自衛隊の将官養成機関である幹部学校で,日本の歴史を教えるのに,
日本書紀研究家をオミットしています。

それで,今の自衛隊の歴史教育は,たいへん偏っています。
これが,あの三等空佐の暴言になったものと思われます。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月21日 07時42分37秒 ) パスワード

続き:

正史が天皇の権威を傷つけると言う,不思議な国は,日本位です。
ですから,ウヨは,日本書紀を嫌います。
なんせウヨがよりどころにしている万世一系と男系男子継承を頭から否定しているのが日本書紀ですから。


天智が,大化の改新出来なかったのは,男系男子継承にしようとしたからです。


それまでは,皇后の血を重んずる,女系男子継承で皇統をつないできた。

男系男子継承で萬世一系になった最初の天皇が桓武天皇の父親の光仁天皇からです。

この天皇の父親が,志貴皇子(しきのみこ)ですけど,
志貴皇子の母親が越道君伊羅都売(こしのきみいらつめ)と言う人で,
采女=豪族の娘で,豪族が天皇に服従のあかしとして差し出した女奴隷ですけど,
越道君伊羅都売の意味が,越の王の女性と言う意味ですから,
5世紀末に,新羅から欽明天皇への貢物を詐取した越国にいた道君の娘と言われています。


金沢に21世紀美術館と言う美術館がありますが,
この美術館の下に広坂遺跡と言う古墳時代から平安時代初期にかけての複合遺跡があります。

金沢城の下にもあるので完全に発掘はされていませんが,
ここから直線距離で4km位離れた金沢駅の下位までありそうな広大な遺跡です。


この遺跡ですけど,
最初発見されたとき,不明の加賀の国府跡発見と言う文字が新聞とテレビで踊りましたけど,
国府にしたら広大すぎると言うのと
古墳時代に,加賀の国はないので,
今は道君の館跡説が強くなってきています。


この広坂遺跡とセットなのが,金沢市の隣にある,野々市市の末松廃寺跡です。

野々市市は,
石川県では,倶利伽羅の合戦と共に,富樫の居館として,弁慶が富樫をだましに行くため,野々市の富樫の館に行ったと言う記述が義経記にありますけど,
金沢より古いところで,
この末松廃寺も,道君の氏寺跡と言われています。


古墳時代,石川県最大の大河手取川が,野々市から金沢に流れていて,金沢の外港の金石(北前船の時代までは宮腰と言われていました)で海に注いでいました。

そして,末松廃寺の横を手取川が流れていたようです。
この寺の遺跡も広大で,4km四方位あったようです。

それ以上に,この寺は,法起寺方式と言う伽藍配置ですけど,
金堂と塔の基礎が出土していますが,塔の基礎が,奈良の興福寺の五重塔の倍くらいあるので最低でも七重塔だったと言われています。

多分,末松廃寺の塔が残っていたら,七重塔なんて寺院遺跡でも,末松廃寺以外ないようですし,
現存していませんので,
多分,修学旅行の観光バスで,末松廃寺は門前に市を成していたと思われます。



日本書紀の次の続日本紀,次の日本後紀には,道君が好き勝手なことしていますけど,
軍事力が強すぎるので,朝廷がうっかり手出すと,朝廷が負けかねない。

それで,道君に対して「そんな勝手なことしないでよ」と言うのが精いっぱい。

でも,道君が「なに?戦争するか?」と言うと朝廷の方が,先に「ごめんなさい。」と言う記述が大変多くあります。

どうも,奈良時代,越国(越前,加賀,能登,越中,越後全域です)からの税金,奈良の都でなく,道君の収入になったとも解釈できます。


ただ,末松廃寺ですけど,平安時代初めに改築されたようですけど,改築されたのが,奈良時代以前に作られた寺域の1割程度です。

それで,平安時代初期になると,道君相当貧乏したようです。


加賀藩が,加賀,能登,越中で120万石ですから,それに越前60万石と越後全域加わったら,家康の250万石軽く抜くのでは?(笑)

末松廃寺は,源平の争乱期には既に廃寺になっていたようですけど,道君の末裔が,道上氏と言う豪族だと言われていますけど,
この道上氏,一向一揆で重要な働きをします。

一向一揆を終息させていた,富樫政親の大叔父大介をたきつけて,富樫氏に内紛を起こさせます。

これにより,一向一揆勢の勢いが一気に増して,消火不能の大火になり,加賀は百姓の持ちたる国に,一世紀なります。

道君ですけど,日本史に大変な影響を与えた家系だと思います。
[10]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月21日 13時45分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史については、真実は一つなんでしょうが、二重三重、四重五重、
複雑に入り込み、ねじれ、また粉飾されていると認識しておいた方がいい
と思っています。

 「正史 vs.卑史」という考え方、「朝廷 vs.山の民・川の民・海の民」
という関係ともシンクロしそうで、面白い捉え方だと思いました――

 
[11]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月22日 08時09分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「山の民・川の民・海の民」というのは、大まかな言葉であって、民俗学
的な範疇の用語でしょぅか。
 また、「ワタリ(渡、済)・道々の者・公界往来人(公界人)・漂泊の民」等
も、また民俗学的用語でしょうか。

 工藤章興氏は『秘 独眼龍軍配』の中で、「ワタリ」について、彼なりに
調べた結果をこう書いております――

 「山師、蹈鞴(たたら)師、鋳物師、鍛冶氏、金堀り、木地氏、塗師、炭焼、
 杣人(そまびと)、大工、細工師など、中世の特殊技術者集団のことをいう。
  現代風にいえば、鉱山技術者、土木技術者、山林技術者、建築技術者ら
 の集団で、さらには猿楽師、白拍子、傀儡子(くぐつ)、簓者(ささらもの)、
 河原者などの芸能関係者、車借、馬借などの運送業者などもその範疇に入
 る。
  彼らは、"一畝不耕(いっせふこう)・一所不在"の非農業系職能民であり、
 しかも仕事を求めて各地をさまよい歩いた漂泊の民であった。歴史学者
 の網野善彦氏がいうところの"道々の者・道々の輩"である。」

 こう書くと簡単なように見えますが、ここに歴史の裏の本質が隠されてい
ますので、奥深く底深いところであります――

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月22日 15時36分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>"一畝不耕(いっせふこう)・一所不在"

別称なのは
こういう輩は  農耕に支えられた日本の政府(朝廷や幕府)には許せない存在ですからね。


わたくしの幼いころのことですが  舟に住んでる人達がいました。
水上生活者(現代では蛋民という表現が多いように思います)
です。



下記URLからのコピペ:


日本における「蜑家」

中国の「蜑」、「蜑家」という語、あるいは「蜑女」という表記を用いて、「あま」と読み、日本の漁民や海女を指す例が近世の文書に見られる。

例えば、『南総里見八犬伝』に、「蜑家舟」と書いて「あまぶね」と読む語が登場する。

また、近代から近世にかけて家船と呼ばれる船上で生活する者たちがいた。
漁業を営み、本拠とする海域の中で、陸上に住む者と物々交換などの交易しながら生活していた。
昭和40年ごろまで存在したが、現在では見られなくなっている。

                        小説では宮本輝の「泥の河」が知られてますね

                       

世界的には
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%8B%E6%B0%91

蛋民(蜑民、疍民。たんみん)とは華南の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省、香港、澳門の沿岸地域や河川で生活する水上生活者である。


陸に土地をもたず、主に船を家とし、水上で漁業、水運、商業などの生業を営む。このため船上人とも呼ばれる。岸辺に「棚屋」や「茅寮」と呼ばれる、簡単な水上家屋を築いて住む場合もある。伝統的な材料としては、木材に加えて、サトウキビの茎や皮などが使われた。

漢民族であり、少数民族には分類されないが、生活様式の違いや教育程度の差などによる被差別民であった。1970年代までは、非蛋民との通婚も限られていた。

ジャッキー・チェン、ブルース・リーなどが主演する香港映画などにも密集する船の姿が映されていたことから、香港・アバディーン(香港仔)の水上居民が有名であるが、その数はすでに激減している。現代では中国全体で見てもその数は減少し、広東省の地方の沿岸と海南省周辺を中心に8万人程度とされる。2006年現在、都会周辺で実際に船で生活している住民は、広州市では黄埔涌に、香港では、ほかに西貢などにごく少数残るだけといわれる。

水産物の販売や、輸送の交渉などで、陸上の人たちとの会話が欠かせないことから、在留地域の方言に近い言葉を話すが、発音や語彙など、一定の差異があるのが普通。主に広東語系の言葉を話す人たちと、福建語系の言葉を話す人たちがいる。

水上生活でもっとも困るのは飲み水の確保で、陸上から購入する場合がある。洗い物などの生活用水には雨水なども利用する。

海の守り神とされる媽祖(天后)信仰をもつ点は、陸上生活する漁民や海運従事者と変わりないが、「鹹水蛋民」と呼ばれる、広東省東莞市を中心に分布する人たちは、洪聖(南海洪聖大王)を信奉し、広州市から新会市を中心に分布する「淡水蛋民」と呼ばれる人たちは龍王を信奉している。



伝承によれば、東晋の末ごろ(5世紀)、農民一揆を首謀した盧循が海沿いに南下したが、一揆に失敗し、水上生活を送るようになった。統治者は「上陸して居住しない」「勉強して字を覚えない」「陸上の人と通婚しない」という3つの禁を出し、これが千年あまり続いた結果、特殊な生活をする人たちが生まれたとされる。

しかし、広東省高要市金利鎮からは秦代以前の大規模な水上建築の遺構が見つかっており、実際には南越族が住む時代からすでに水上生活を送る人たちが多数いたことがうかがえる。

宋代の書『嶺外代答』にも記述があり、漁労に長けた「魚蜑」、水に潜ってカキを採る「蠔蜑」の他、山から木を取る「木蜑」の3種があるとしている。

正字は「蜑」とされるが、その起源ははっきりしない。部首が「虫」となっているのは、人と認めないという漢字を使った差別用語のひとつと考えられる。同音の「蛋」の字は宋代以降に現れ、「疋」の下を「虫」の代わりに音を示す「旦」に作り「疍」とする場合もある。

農業を権力基盤とする歴代中国王朝から差別され、科挙の受験資格も与えられなかった。他の漢民族などが、彼らを海上(船上)から陸に上がらせないこともあった。また、教育を受ける機会も、水上では限られ、文盲も多かった。陸上生活者と同等の人権が認められたのは、中華人民共和国成立後で、20世紀後半の社会基盤の整備とともに、多くの水上生活者が陸上生活に移行した。

以下略


哀しいですね。
今どきは  川に住むとか海に住むとか、船で生活するのはカッコいい生活  になってますが。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月24日 05時54分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「ワタリ」とか「山の民」という言葉は、いわゆる一般的概念であり、
その中身はきっちり定義づけられるものではなさそうです。曖昧模糊さ
が、古代・中世の時代の混沌を示していると思います。

 猿楽師もワタリの範疇に入る……花井吉成、大久保長安も猿楽師、忍者
系の服部氏の一部も猿楽師であった、あるいは装っていた……。

 観阿弥・世阿弥、服部正尚、大久保長安、花井吉成……猿楽師でつなが
り、そのDNAと心は芭蕉にもつながっています。つまり、「猿楽師」が
キーワード。このあたりを中心に調べてみたいと思います――
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月26日 17時00分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 東北より、約三時間前に帰着しました。知人の関係のお通夜が発生しまし
たので、これから出かけますが、頭の中が鎮まり、情報が整理できましたら、
パソコンに向かいます――
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月27日 04時40分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご無事でお帰りのこと
安堵しました。

駆け足の東北地方はいかがでしたでしょう?
今頃は田植えが終わった頃でしょうか?


秋に行った時に東海地方とは稲架の形が違ってて違う世界だと思いました。
青森ではすっごく郷愁深い列車に乗って、これまた、楽しい思い出になりました。


三つ柏さんの時間とお金が何倍も価値のあるものになった事を願っています。
楽しみにしていますね。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月27日 09時18分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 何年かぶりで、名古屋の小牧空港(今の正式名は県営名古屋空港)を利用
いたしました。FDA(フジドリームエアラインズ)が主体となっており、
名古屋からは青森、花巻、山形、新潟、出雲、高知、北九州、福岡、熊本
を結んでおります。エンブラエル社製のジェット機で、およそ80人乗り、
12機ある機体を、全部違う色で塗ってあり、とてもカラフルであります。
山形まで、行きは「ドリームレッド」、帰りは「ライトブルー」の機体で
ありました。席は比較的ゆったりとしていて快適でありました。

 雑用にて、中断します――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月27日 16時10分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

使用機材はブラジルのジェット機でしたか。
へぇ〜

ここはカナダのボンバルディアを抜いて今や世界第3位なんですよね。


やっぱり  「イチローの里」  とかの看板が出てないんでしょうね?

チチローさんと不仲だとかで弓子さんのご実家には行くけど豊山には帰って来ないとか。


うちの近くにイチローさんの超豪華マンションがあるとかってハナシで
それに
イチローさんはうちの近くだけじゃなくてアッチにもコッチにも超豪華マンションを持っているそうです。
そうでもしないと何百億円もの契約金を使いきれないですものね。

ちょっとは豊山にも経済効果を分けてあげて欲しいところです。
イチローグッズを名古屋空港の売店で売るとかね。
そしたら日本中からファンが来てくれるでしょうし。
プロなんだから。


とバカ話は止めて

今日は「忍びの国」を見ました。
ふぅ〜ん・・・なるほどねぇ・・・
と感心。


決闘のことを「川」という隠語を使っていたのにはビックリ。
最初は聞き取れず、川という文字を見て、やっと分かりました。

結構面白かったです。
海外でも上映すればいいのに、と思いました。

なんせ忍者人気はスゴイものがありますから。


伊賀の小競り合いとか
あんなものに近かったのかしら?
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月27日 22時59分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 映画「忍びの国」は天正伊賀の乱を描いていて、大変興味がありました
ので、私も以前、映画館にて見ました。
 伊賀攻めに加担した伊賀勢に、福地伊代守や柘植三郎左衛門保重がおり、
この福地氏が松尾芭蕉の父方のルーツであります。福地氏は平宗清の次男
の清春が名乗り、上柘植を領していた。
 今回の東北行きの目的は、芭蕉の『奥の細道』に関しての探求でありま
したので、ちょぅど話題がつながりました。

 まだ、頭の中が整理しきれておりませんし、集中力がまだ戻りませんの
で、本日はこの辺にしておきます。また次回に――
 
[19]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月28日 16時39分35秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 天正伊賀の乱の最期の戦い――「柏原の戦い」では、和平の調停に当った
のが、大和の「猿楽師」であったことを思い出しました。
 猿楽師については、まだまだ把握し切れておりませんので、今後、更に深
く探究して行きたいと考えます。

 七千傑様の系図――「桓武平氏貞季流」の「平宗清(伊賀服部の祖でもあ
る)」を調べますと、宗清から五代目の宗成の孫として観阿弥(世阿弥の父 
服部氏でもある)が記されております。また五代目宗成の弟・宗広の子孫と
して、松尾芭蕉が記されています。系図はあくまで総合推測資料で、100
パーセント正しいという訳ではありませんが、七千傑様の系図には私はかな
りの信頼を置いています。芭蕉の松尾氏は、本来は福地氏であったようで、
天正伊賀の乱にて伊賀の裏切り者となり、松尾姓に変えたと言われておりま
す。

 芭蕉と世阿弥――つまり、同じ血筋でもあった……。芭蕉は世阿弥のこと
をどれだけ認識していたのでしょうか。能(猿楽)をどれだけ理解していたの
でしょぅか。その辺の記録資料は今のところ見つけておりませんが、俳句を
創作するにあたって、故事、古典、を背景としてダブルイメージで書いてい
ることが多いので、そこから逆探知でその背景を知ることができると思いま
す。

 この芭蕉と世阿弥との共通するものは、「現実」の対極である「闇」と、
「現生」の対極である「あの世」なのかもしれません。

 今回の旅で、芭蕉の『奥の細道』のクライマックスと思われる出羽三山、
中でも「月山」は、芭蕉にとって「心の能舞台」であったのかも知れませ
ん――
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月28日 22時55分13秒 ) パスワード





す、すごい、凄過ぎ・・・
[21]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月29日 09時22分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 旅行記を書くのが目的ではありませんので、時間系列的には書かないつも
りですが、さりとてどのように筋を組み立てていいのか、とまどうところで
あります。

 旅の概要を説明いたしますと、二泊二日の旅程――山形空港(南に天童、北
に東根)に到着後、東北中央自動車道を南に向かい、すぐに山形自動車道に乗
り換えて北西に向かう。やがて道は登り坂になり、高所出羽三山の南を通っ
て下り坂になり、鶴岡、そして酒田へと向かう。
 一泊目は酒田でありました。
 二泊目は、酒田を出、鶴岡、羽黒山、そして山形市の西の上山(かみのやま)
温泉に宿泊いたしました。
 三日目は、上山から東根、そして山形空港から帰路に――で、今回の東北の
旅は終わりました。

 この中で、私の主たる目的地は、出羽三山、なかんずく「羽黒山」でありま
した。
 従って、この羽黒山を中心に話を展開して行きたいと思います――
 
 
[22]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月29日 10時14分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様
 
 ここで、大まかな地理について述べさせていただきます――

 南東北(とはあまり言わない?、東北南部か)の日本海側に「山形県」、
太平洋側に「宮城県」があり、両県は背中合わせとなっております。
 その背中の所に、奥羽山脈が南北に長大に走っております。山脈の西
側には「山形盆地」があり、また盆地の西側にほぼ南北に朝日山脈が走
り、その北端に「出羽三山」――南から「湯殿山」(H1500M)、「月山」
(H1984M)、「羽黒山」(H414M)がほぼ並んで存在しております。

 この朝日山脈の北側より、少し間を隔てて出羽山地がやはり長大に北
に伸びており、その南端の日本海寄りに、あの「鳥海山」(H2236M)が屏風
のように屹立しております。

 この出羽山地と朝日山脈(北の端が羽黒山)の間を縫って、あの「最上川」
が流れております。源流を山形盆地の南とし、北へ向かい、「新庄盆地」
を流れ、やがて西に向かって急流となり、ついには河口の酒田から日本海
に注いでおります。

 以上が地形の概略ですが、実際行って見て、地図とも照らし合わせない
と、実態の把握は意外と難しいです。
 芭蕉の『奥の細道』のルートは、今から330年位前ですので、道路事情
もおよそ原始的でありましたので、今の道路とは全く違っており、その通り
にはたどれませんが、ルートについてはほぼ推測がされております――
 
[23]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月29日 16時28分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょっと話は変わりますが、山形へ行って、色々勉強になったことがあり
ます。
 それは――
 @徳川四天王の酒井忠次の孫・忠勝が、庄内藩(鶴岡)を統治したということ。
 A庄内藩は、戊辰戦争後西郷隆盛の温情を受け、以後関係が深いということ。
 B直木賞作家・藤沢周平は、鶴岡市出身であったということ。
 C沢庵和尚は、紫衣事件の後、上山(かみのやま)に配流になったということ。
 D上山城主が、「土岐頼行」であったこと。
 E上山出身の力士「出羽ヶ嶽」は、身長207p体重203sであったということ。
 F詩人斎藤茂吉は、上山出身あったということ。

 東北も、色々歴史が深いということ、改めて認識いたしました――
 

 
[24]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月29日 17時02分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 また羽黒山の話題に戻りますが、この出羽三山の開祖は「蜂子皇子」と
いうことでありまして、ここに既に最大の謎が秘められている訳でありま
す。「蜂子」を「はちのこ」と読んでしまい、奇奇怪怪な名前だなと感じ
ましたが、「はちこ」でありました。それでもなお奇怪な名前には違いあ
りません。一説によると、ペルシア系とも言われています――
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月30日 03時43分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

Dについては100%知らなかったです。


蜂子皇子について検索して読もう見ようとするとPC画面がピカピカ光ります。
醜いとか色黒とか
日本人じゃなかった?
やはりペルシア人だった?
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月30日 16時19分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 羽黒山でビックリしたのは、有名な「五重塔」の寄進者が平将門であっ
たということです――

 さて、蜂子皇子についてですが、「出羽三山歴史博物館」(羽黒山頂上)
で購入した『出羽三山史』(出羽三山神社)によれば――

 「皇子は、三十二代崇峻天皇の第一皇子であった。
  崇峻天皇は、欽明天皇の御子で、第三十代敏達天皇、第三十一代用明
 天皇、第三十三代推古天皇は兄または姉君で、当時は蘇我馬子らが政権
 をほしいままにしていた時代であった。馬子は、妹の堅塩姫と小姉君を
 欽明天皇の妃に、石寸名(いしきな)姫を用明天皇の妃に奉じ、父稲目の
 権力を襲って権謀をほしいままにしたので、崇峻天皇はその横暴をきら
 い、即位元年に大伴糠手連の女小手子媛を入れて妃と定め、蜂子皇子を
 産み給うた。
  ところが、こうしたことが馬子の感情を害して、崇峻天皇は即位後ま
 もなく、倉梯柴垣宮にて害され給うた。
  皇子は皇位に登るべき方であったが、蘇我氏の横暴を避けて、聖徳太
 子の勧めにより仏門に入られ、弘海(こうかい)と称し諸国行脚の旅に出
 られ、推古天皇元年(593年)には、北日本海からはるばる出羽国由良
 の港にお着きになった。
  折柄、三本足の大烏が飛んでいて、何となく皇子を導く様子をするの
 で付いて行くと、やがて老樹の鬱蒼と茂った霊山にお着きになった。こ
 こは、羽黒の阿久谷(あこや)であった。」

 阿久谷の位置は、羽黒山山頂の蜂子神社の北裏側のようです。

 由良という所ですが、丹後にも由良があり、Wikiでは、蜂子皇子は宮中
から抜け出して、まずは丹後国の由良に行ったと書かれております。宮津
の東に位置する由良川の河口付近であります。

 崇峻天皇は、系図を見ますと聖徳太子の母の穴穂部間人皇女の弟にあた
ります。間人皇女は丹後(間人)に由縁がありますので、蜂子皇子は母の在
所に近い方へ向かったのかもしれません。

 三本足の烏といえば八咫烏でありますので、これもまた意味深な謎であ
ります――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2018年05月30日 23時20分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


平将門が出て来ますか。
これまた不思議。

八咫烏・由良
本当に不思議な一致ですね。

でも空想が楽しいですね。
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2018年05月31日 23時51分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様、蜂子皇子の周囲を洗って行くと、またとてつもないパンドラの
箱に行き当たることになりそうです。つまり、日本書紀の裏面史(正史)で
あります。具体的には、「海部氏・物部氏・蘇我氏・秦氏+聖徳太子の隠
された謎」であり、言い変えれば「ヤマト建国の謎」であります。
 古代史については、ラビリンスに迷い込みたくないので、できれば触れ
ずに済ませたいのですが、自分の中でモチベーションの高まりを感じます
ので、概略の推理を述べてみたいと思います。
 世阿弥や芭蕉はどうなったのだと言われるかも知れませんが、その生れ
来たった出自・土壌のルーツは「ヤマト建国の謎」にからんでおり、そこ
を明らかにする必要があると考えます。
 この謎解きは、四次元方程式を解くようなもので、とても難しいのです
が、敢えてこれから挑戦してみたいと思います――

 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月01日 02時07分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

>この謎解きは、四次元方程式を解くようなもので、とても難しいのですが、敢えてこれから挑戦してみたいと思います――

急がないで、じっくり考え空想追及なさってください。


古代、中東から日本に人が来てたのは確かですから。


彼らはヤマト建国に関わってた。
その謎解きは迷路であり魔界でしょうね。

必要無くなった彼らは山へと追いやられ天狗伝説になった。
伊賀や大和や甲賀なんか、彼らの影響が続いたのでしょうね。

    
    平井堅を見ると古代中東人を連想しますし
    知り合い一族はみごとに中東顔で黙って皆さんが立ってたら中東さま御一行と思われるでしょう。


先祖返りかも知れないですが現代にも中東の遺伝子は伝わっててチョコチョコ中東顔が存在を主張するのかもですね。


頑張ってくださいね。


PS
わたくしはあれから5時間かじりついてました。
当然食事なんか忘れて。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月01日 08時21分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の言われる通りだと思います。大局的な目、概観、鳥瞰で捉えれ
ば、月が見えてきますが、細かく見ると、アバタばかり見え、月が見えな
くなってしまいます。
 つまり、色々な情報・説がありますが、それぞれ皆「偏り(かたより)」
があり、一貫性はありません。それらの偏りを解きほぐし、解読・翻訳し
直して諸説間の整合性を取らなければ、正しい論理・真理・真実には行き
着きません。それはスパコン・AIを使って作業しないと、すぐにパンク
してしまう情報量・諸論理であります。
 そこまではとてもできませんので、あくまでも私的「勘ピューター」を
駆使するということになります!

 私の勘ビュータが「蜂子皇子」から感じ取る謎――
 @「蜂」という語の謎
 A「由良」という所の意味する謎
 B「八咫烏」の謎と、その案内人として絡んだ謎
 C出羽三山=トリニティの謎
 D月山=月読神の謎
 E羽黒=「羽根が黒い」の謎
 F父「崇峻天皇」とその姉か妹の「穴穂部間人皇女」の出自の謎
 G穴穂部間人皇女の子「聖徳太子」が絡む謎とその出自の謎
 H穴穂部間人皇女の出生地と思われる「丹後」の謎
 I崇峻天皇を暗殺した「蘇我馬子」と入鹿の乱の「蘇我入鹿」の謎

 一旦ここで休憩いたします――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月02日 02時29分02秒 ) パスワード

三つ柏さんは、只今休憩中、ということで友人からの情報を書き込みます:以下コピペ


今年は能登立国1300年です。

それで,石川県内が大騒ぎ。
るるぶとマップルと言う旅行ガイド雑誌に「能登」と言うのが出版されました。

能登は金沢の付属みたいな扱いです。


加賀藩は,3代藩主利常のころが最大で,加賀,能登,越中で120万石でした。
内訳は,能登20万石,加賀40万石,越中60万石と言われています。


加賀ですけど,能登立国が718年,加賀立国が1世紀位遅れて823年です。
日本六十余州と言いますけど最後に出来た国が加賀です。
ですので加賀はど田舎。(笑)


国を作った時,大和朝廷は国を上中下に分けました。
税金を取る割合は,上国が最大,次が中国,一番安いのが下国です。

どうも税金を納めた額によって分けていたようです。

それで能登は立国の時から中国でしたけど,加賀は立国時下国でした。


租庸調のうち,米である租の納入額で決めていたようですが,
加賀は40万石,能登は20万石ですから,能登が中国だったら,加賀も中国であるべきです。

少なくとも,能登の倍米取れてますから。


これ,どうも加賀郡長道君が原因のようです。
      日本書紀の次が続日本紀,その次が日本後記です。
続日本紀と日本後記で,奈良終わりから平安初め位まで行くのですけど,
この続日本紀と日本後記読むと,
道君,税金を大和朝廷に収めていなかったようです。


多分,自分のポッケにいれていた。


時々,朝廷から「そろそろ,税金納めてよ」と言ってきます,
税金の徴収,郡長の請負ですから。


ところが,道君「馬鹿野郎。加賀が,そんな裕福なわけないだろ,ボケ」で終わっています。
それで朝廷は道君に軍事行動どころか全く懲罰加えていません。
道君の軍事力が強力だから朝廷は手が出せなかったと言われています。

ところが加賀立国直後から道君の勢力が衰えてきます。
多分,それで朝廷に租が納められたのだと思います。

それで,数年後には,加賀は中国になり,数年後上国になりました。


北陸三県の県庁所在地で一番記録がないのが金沢市です。
一向一揆の政庁尾山御坊で少し出て来ます。
それ以前は記録はほぼ皆無です。

でも重要なところであったらしく,
金沢市街には広坂遺跡等の大きな遺跡がありますが,記録がないので,何の遺跡か分かりません。

この広坂遺跡ですけど,
21世紀美術館立てるときに発見された遺跡で,
古墳時代から平安初期にかけての複合遺跡です。

金沢城の下にまで続いていますので,どこまであるか分かりません。
一説には,4km四方あると言う説もあります。
金沢の繁華街片町の地下にも続いているようです。


発見当時,未発見の加賀国府と国分寺跡と言う説もありましたけど
古墳時代に国府ないだろうとと言われて,
国府説と国分寺説は否定されていて,
最近有力な説が,道君の館跡説です。
[32]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月02日 15時53分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代は、日本海側の方が大陸に対し表玄関で、文明・海運も発達していた
ようです。

 さて、蜂子皇子についてですが、色々調べましたところ、結論としては、
「聖徳太子(厩戸皇子)」の子である「長谷部王」の子の「波知乃古王」(は
ちのこおう)のようであります。
 これは、「上宮記下巻注云」から見いだされた系譜であります。
 つまり、蜂子皇子は聖徳太子(厩戸皇子)の孫、穴穂部間人皇后の曾孫で
あるということになります。

 崇峻天皇の暗殺が592年で、聖徳太子19歳の時だとすると、この時
に聖徳太子には孫はおりません。643年の入鹿の山背大兄王暗殺時や、
645年の中大兄皇子の入鹿暗殺時でしたら、孫はおりますので、この
時に孫の蜂子皇子が避難したと考える方が、整合性がとれます。

 「蘇我入鹿の乱」を避けて秦川勝も播磨に避難しております。

 遠江の蛭子森古墳の近くに内藤家がありますが、家伝によると内藤家の
家祖は秦川勝の子貴平で、「蘇我入鹿の乱」を避けて、太子の皇子三人を
伴って遠江長上郡へ避難して来たと伝えられております。

 つまり、「蘇我入鹿の乱」=「蘇我入鹿暗殺事件」=「乙巳の乱」とい
うのは、秦氏にとっても、聖徳太子にとっても、また蘇我氏にとっても、
大変な事件だったようであります――
 
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月02日 23時19分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代の歴史の真実は、大きな流れでは把握できますが、個々のレベルにな
ると、これは百花繚乱、諸説紛々となりますので、本当のところ何が真実か
わからなくなります。従って、これは信憑性があるという論文だなと、自分
で総合的に判断するしかないと思っております。ただ、どの論文も完璧なも
のはないということは、経験から言えます。

 私の勘ピュータが「蜂子皇子」に感じるものは、大きな流れとしては、聖
徳太子(すでに明らか)と秦氏がからんでいるのではないかということです。
蜂子皇子が聖徳太子の孫の波知乃古王であれば、秦氏との関係は当然であり
ます。
 聖徳太子の母は穴穂部間人皇女、その弟は崇峻天皇、その二人の母は「小
姉君」で蘇我稲目の娘と系図ではなっていますが、系図もそのまま鵜呑みに
信じてならないこともあり、慎重に調べてみなければなりません。
 この「小姉君」に大きな秘密があったようです――

[34]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月04日 07時05分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今月の末に、丹後半島の京丹後市(旧丹後国竹野郡)へ行く予定をしており
ましたが、のっびきならぬ事情ができ、延期することにいたしました。ちょ
うど今、蜂子皇子に関して、丹後を調べようとしている所でありますので、
非常に残念であります。

 古代史について、また振り返っておりました。持統天皇以前の天皇の生没
年代、在位年代が正確でない、在位したかも確実でないという問題が一番頭
を悩まします。正確な日本の歴史年表を早く作ってほしいものであります。

 細かくやると、やはり虚構の上の虚構になってしまいますので、細かくや
るのはやはり止めます。大まかな流れにとどめたいと思います――
[35]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月05日 01時16分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蜂子皇子・親の崇峻天皇・その母の小姉君……これらの秘密と謎に関する
記述は、次の三冊の本の中にありました――
 @小林久三著『聖徳太子はどこから来たか』
 A月海千峰著『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』
 B中山市朗著『聖徳太子の未来記とイルミナティ』
 
 これらを解説するのは長くなりますし、それぞれ表現・ポイントの違う所
もありますので止めておきますが、代表してBの『聖徳太子の未来記とイル
ミナティ』の中からその主要部分を抜き出し、まとめてみたいと思います。
 少々時間を――
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月05日 07時08分21秒 ) パスワード

三つ柏さん

ワタクシも古代の天皇のご家族のことを追いましたが結局は訳が分からなくなり轟沈。


まさにレス<33>

>古代の歴史の真実は、大きな流れでは把握できますが、
>個々のレベルになると、これは百花繚乱、諸説紛々となりますので、
>本当のところ何が真実かわからなくなります

はい
本当に。


http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage632.htm
このブログを拝見して、面白いけどワタシなんかにはムリ!
でも「小姉君の生んだ子供たちの素行」部分はなかなか面白かったですよ。
#metoo
です。

                       日本の古代の身分ある人々は近親結婚だから
                       ここで男子も女子もアタマおかしいのが次々生まれたのかしら?



レス<34>
>古代史について、また振り返っておりました。
>持統天皇以前の天皇の生没年代、在位年代が正確でない、在位したかも確実でないという問題が一番頭を悩まします。
>正確な日本の歴史年表を早く作ってほしいものであります。
>細かくやると、やはり虚構の上の虚構になってしまいます

                       ホントに!


>大まかな流れにとどめたいと思います

ですね。



今は「聖徳太子の存在は歴史的謎」扱いになっているとか?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

虚構説


聖徳太子とは日本の古代最大の偉人と思って来たワタシは???
仏教の守護神と思って来たワタシは???


厩戸皇子とか呼ばれたのは
事実は<蘇我馬子の屋敷で生まれたから>で
伝説が<キリスト>にあやかって<馬小屋で生まれた>話に化けたのじゃないか?



>Bの『聖徳太子の未来記とイルミナティ』の中からその主要部分を抜き出し、まとめてみたいと思います

楽しみにしていますね。
[37]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月05日 08時30分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず御礼申し上げます。「崇峻天皇の年齢」(「天武天皇の年齢
研究」)のサイト、神谷氏ですか、世の中にはすごい研究者がいるもので
あると、改めて再認識し、感嘆しております。

 古代史はパンドラの箱に似て、一度開け放つと収拾がつきません。一生
かかっても、正論に到ることは難しいと思っています。
 前に進めて行くには、この人の説は総合的に見て「信じられる」という
くらいのスタンスで臨むしかありません。一種の「宗教」に近いのかも知
れませんね。

 このサイト、たぶん私も「信じる」ことができるのではないかとの予感
がしています。じっくり読んでみます――
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月05日 13時23分54秒 ) パスワード

三つ柏さん

>一種の「宗教」に近いのかも知れませんね。

はい
何かあった  →  噂  → 伝説となり人々に持て囃された → 神話へと昇華  →  宗教として聖域に  →  国是として利用
かな?


>古代史はパンドラの箱に似て、一度開け放つと収拾がつきません

はい
グチャグチャになっていきます。

                       日本民族がそもそも談合忖度の性分の人々なのかも。
                       良く言えば、グローバルレベルでのいろいろな地域の人々と結構仲良くやって来た、ということかも。
                       一神教の激しさ寛容の無さでなかったのが救いかな?
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月06日 13時11分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史はアナログ的であるがため、論理(いわばデジタル)では捉えにくいも
のであることを、歴史書を読むたびに感じます。コンピュータのプログラム
のように理路整然と整理できないものか、できないはずはない……?

 中山市朗氏の『聖徳太子の未来記とイルミナティ』は、オカルト的という
言葉がふさわしいとは思いませんが、古代の歴史の謎のタブーに果敢に挑戦
し解明して行く姿勢は、歴史学者にはない勇気と博学さを感じます。

 その内容を列挙しますと――
 第一章 聖徳太子は預言者だったか
 第二章 四天王寺に秘められた「天皇と牛頭天王と物部」の暗号
 第三章 日本史から抹殺された聖徳太子とメシア信仰
 第四章 四天王寺は大嘗祭のために建てられたのか
 第五章 籠神社に秘められた日本建国・天皇に関するタブー
 第六章 『魔笛』を解読するとモーツァルトとイルミナティのつながり
     が見えて来る
 
 この第五章の中に、「小姉君」の謎が書かれています。表面的な系図を見
ると、小姉君は「蘇我稲目」の娘――つまり血のつながった実の娘として捉
えてしまいますが、本当のところは違った……詳しくは、この本を読んでい
ただくのが一番いいのですが。

 ポイント部分を抜き出します――
 「小姉君は、神に仕える熊野郡市場村(京都府=丹後国 久美浜町)で生ま
 れた竹野媛である。それは、伊勢の豊受大神を祖とした祝の血統を意味す
 る。
  小姉君は、蘇我氏にもらわれ養女となり、蘇我の娘として欽明天皇に差
 し出された。ここで、欽明天皇は、父・継体天皇の問題(血統断)で失われ
 かけていた神威を、取り戻すことができた。その功績で、蘇我氏は朝廷の
 中央に進出できた。
  小姉君は、親戚筋となる物部の本拠地で、穴穂部間人皇后と穴穂部皇子
 を産む(推古天皇も産む)。そして間人皇后は聖徳太子を産む。古代の天皇
 は、母系の血筋を重んじた。
  『古事記』を読むと、第九代開化天皇までの皇后は、饒速日系の血縁か
 ら来ていることがわかる。饒速日は皇室の女系の祖神であるわけだ。その
 古代の血縁がここに蘇ったのである。」

  ここで言う「伊勢の豊受大神を祖とした祝の血統」とは、ずばり海部氏
 であります。さらに言えば、火明命(饒速日)を祖とする海部氏で、丹波国
 を支配した海族の長は、「神服連海部直」であったということになります。

 「用明天皇が崩御し、しばらく皇位が空白となった。物部守屋は穴穂部皇
 子を天皇に即位させようと画策し、それがために穴穂部皇子は、蘇我馬子
 に殺害された。やがて物部宗家も滅ぼされる。
  この時から蘇我氏の矛先は、小姉君の血統に向けられる。海部の血統は、
 蘇我にとって利用価値は十分にあったが、このままでは神威ある小姉君の
 血統によって、朝廷を支配されかねない。
  それを恐れ、馬子等、蘇我の皇子たちによって、純粋な蘇我王朝を朝廷
 に確立しようとした。身の危険を察知した間人皇后は、一旦都を離れ、母
 の故郷である、丹波(丹後)の国へ逃れたのである。」

  結局のところ、小姉君の血の流れる穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、
 聖徳太子、山背大兄王などの一族が消されたということになります。
  蜂子皇子は崇峻天皇の子(あるいは聖徳太子の孫?)として、同じ目にあ
 いそうになり、丹後経由で山形羽黒山へ逃げたということになります。

  もっとも、蘇我氏の悪人イメージは、藤原不比等により創られた可能性
 が高いので、どこまでが本当なのかについては、確証はありません――
 
 
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月06日 14時25分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>丹波国を支配した海族の長は、「神服連海部直」であったということになります

これ、スゴイですね。

以下は連想から:

聖徳太子のお子さまや蜂子皇子や蜂前神社の関係が解明されると良いですね。
ということで、三つ柏さんのご先祖さまに関係があるのでは?と
下記をご紹介。


http://www.genbu.net/data/toutoumi/hatisaki_title.htm
以下コピペ

蜂前神社
静岡県浜松市北区細江町中川9615

御祭神
熯速日命ひのはやひのみこと
左脇宮 甕速日命
右脇宮 武甕槌命


社伝によると、応神天皇十一年三月八日、
八田毛止恵という者が、勅命により、遠江国へ下向し、
八田(祝田の古名)の45町、
広田(刑部の古名)の70町、
岩瀬(瀬戸の古名)の8町3反、
合せて123町余りを開墾し、
八ケ前の地に勧請し、蜂前神社と称していたという。
以後、八田毛止恵の子孫が祝部として奉祀を続けていた。

また、左右の脇宮2社は允恭天皇の御代の勧請といい、
その頃から、鳥飼明神、羽鳥明神と呼ばれるようになった。
三代実録には、「遠江国鳥飼神」に従五位下の
神階が授けられてとある。


本殿には、熯速日命を祀る。

本殿の左右の脇宮祭神は、
左脇宮が、甕速日命を主祭神に、
天忍穂耳命・蛭児命・大己貴命・少彦名命・天穂日命を合祀。
右脇宮が、武甕槌命を主祭神に、
國狭槌命・石凝姥命・市杵島姫命・大山祇命を合祀。
ただし、この「左右」が本殿から見た左右なのか、
本殿に向かって左右なのかは不明。


社殿左手に並ぶ境内社は、
八幡社・玉津嶋明神社・若宮社・仲宮姫命社・豊受姫命社。

参道入口にある、境内後方の丘へ続く階段の側に八田祖命神社。

他に、鳥居の側に小さな祠と、
丘の上の祠の2つが祀られているが社名は確認できなかった。


『静岡県神社志』には、上記の境内社の他に、
天王神社と乳於毛命神社の2社が記されており、
『平成祭データ』には天王神社のみが記載されている。
たぶん、丘の上の祠が天王神社だと思うが、
もう一つの境内社・乳於毛命神社は、なんと読むのだろう。
面白い名前だ。

以上コピペ




YOUTUBEの「魔笛」です。
日本語字幕つきです
https://www.youtube.com/watch?v=N6qtZVE5UOA
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月07日 23時21分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蜂子皇子の「蜂」、蜂前(はちさき)神社の「蜂」、蜂須賀小六の「蜂」、
蜂屋氏(美濃加茂)の「蜂」……この「蜂」は何かの意味を表わしていると
推察しますが、なかなかいい解釈が見つかりません。ただ、「秦氏」と
何か関係しているのではないかと思うのですが……。

 「間人(はしひと)」という名前も何かの意味を表わしていると推察して
おります。

「ハチ」と「ハシヒト」……この秘密に迫ってみたいと思います――

 
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月08日 02時50分10秒 ) パスワード

三つ柏さん

はち・ハチ・蜂・八についてメールで頂きました。
以下コピペ


Subject: 「蜂」地名について

「蜂」地名について地名辞典で見たものです。 *の所はメールさんの所見です。*ハチヤもんと言う差別用語もありますのでね。

*村八分」も同じ語源かもと・・・。八割方は村のことに関われないからと言われていますけどね。



広島の「蜂郷」は果郷(ハツゴウ)の当て字。

栃木の「蜂巣・蓮」(ハチス)は蓮の意味でハスを採取するところ

愛知県の蜂須賀(ハチスカ)は鉢の形に窪んだ砂州の地をいう。

蜂田・八太・八田(ハチタ)は蜂田(ハチタ)郷から八田(ハンダ)となり、
和泉の蜂田の連はこの地の出身であろう。「ハチスタ(蓮田)」の約化で、ハスの多い土地をいう。

            *八田(ハンダ)には土師(ハニ)=埴の粘土を産出する「ハニ」地名もある。

美濃の国の蜂屋・八屋(ハチヤ)は鐘(ハチ)をたたいて巡行した僧の宿屋という。
竹細工を主業とする民家もこのようにいう。

            *竹や笹は古来より神聖視されているものの竹細工等に携わる人々は最下層階級にされています。


            下にも記述しましたが、鉢屋衆(はちやしゅう)も最下層階級とされていますね。

山陰の鉢屋衆は尼子氏に属して忍者集団の働きをして尼子氏の本城である月山富田城内に屋敷を構えていますね。

           風魔衆に成ったのも忍者集団ですね。



ヤフー知恵袋より

『鉢屋』が『部落差別用語』になるので、忍たま乱太郎の『鉢屋』がひらがなで『はちや』と直された。

原作『落第忍者乱太郎』では、鉢屋三郎という表記であり、これは実在する忍者隊である鉢屋衆の忍者、鉢屋 弥之三郎(はちや やのさぶろう)が元ネタであるが、『鉢屋』という姓は山陰地方では差別性なため、『蜂屋』表記になった。

鉢屋衆(はちやしゅう)は祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団であり、兵役も務めた。元は平将門の乱で反乱軍に加勢した飯母呂(イモロ)一族で、平将門の死後、全国に散った。この時飯母呂一族の多くは山陰へ逃れ鉢屋衆となった。筑波山へ逃れた一部の飯母呂一族は風魔衆になったと言われている。

         昔は芸能集団というと売春もする河原者と呼ばれていたからです。
[43]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月08日 06時54分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 基本的には、「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、負けた方が差別を受ける
というのが、歴史の第一法則であるのが実情ですね。

 歴史の真相を正しく把握するには、勝った側の歴史ばかりでなく、その裏
に潜む負けた側の歴史も、同じ価値として把握する必要があると思っていま
すが、「被差別民」という言葉自体が、すでに差別になっているので、この
問題については論及しにくいですね。
 本当の人間の価値というのは、人間性の高さだと思いますのですが……。

 言葉は、元々は口で発声し、耳で聞いた「音」(訓)としての言葉があり、
それに漢字を当てはめた……当てはめた漢字によって随分と違う意味がも
たらされる。ある意味、暗喩・暗号のような場合もあります。
 蜂子皇子の「蜂」は、本当のところ何だったのか?……もう少し時間をか
けて探求して行きたいと思っています――
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月08日 07時31分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

>蜂子皇子の「蜂」は、本当のところ何だったのか?……

恐らく  (古代は動物にあやかって名をつけたから)  ただ、その動物のように、という意味だったんじゃないかな?とも思います。

    馬子、とかね
    蝦夷、とかね    これは動物じゃないね、たぶん  それか「海老」オトコ?
    入鹿、とかね
    それで 「蜂の一刺し」にあやかって「蜂子」だったかも。笑

    ご先祖さまが「稲目」だから、農業に秀でた一族ということで受粉に於ける「蜂」の重要性を知ってたから、つけた?


    そう言えば、「蜂の子」は食料にもなりますね。
    貴重な蛋白源でもありますよね。


どういう意味だったのでしょうね。
蜂前神社の名前が何から来たのか、分かると良いですね。
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月09日 15時30分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本をたくさん読めば読むほど、色々な説が出てきて抜き差しならぬ羽目に
陥ります。崇峻天皇、蜂子皇子、間人皇女、聖徳太子、山背大兄王、秦川勝、
蘇我馬、蘇我入鹿……小林恵子氏の『聖徳太子の正体』を読んだら、よけい
わからなくなってしまいました。聖徳太子は西突厥のタルドゥ(達頭)であっ
たという……。
 ここらで、深く追求するのは、くやしいけれど止めにいたします。

 西突厥はチュルク語であったので、ひょっとしたら「蜂(ハチ)」はチュル
ク語で解けるかも知れません。小林氏は秦氏も突厥民族であったといいます。
 そういえば、広隆寺の前の名前は、「蜂岡寺」であった。ここにも「蜂」
がみられます。

 さて、「蜂前(はちさき)神社」でありますが、宗教法人としての由緒書に
よれば、「八ケ前(ハチガサキ)」という所へ本社を勧請したと書いてありま
すので、もともとは地名であり、当て字として「蜂」を当てたということに
なりますが、「蜂」が何かを意味し、暗示しているのかも知れません――

 ところで思い出しました。蜂には不思議な能力(予知能力)があり、それは
百発百中で当たるそうです。それは、蜂が低い所へ巣を作る年は、台風がた
くさん襲ってくるとのことであります。今年は、蜂が低い所へ巣を作ったの
を既に見ましたので、台風の襲来がたくさんあるのかも知れません――
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月09日 16時09分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

>聖徳太子は西突厥のタルドゥ(達頭)であったという……。

今で言うとトルコ人ですか・・・

          いろいろ説がありますね
          ペルシャ人とかセグド人とかトルコ人とかユダヤ人とか
          でも、まぁ、あの時代、隋の国を経て、いろいろな国から日本に来てますから
          江戸時代に男女関係が厳しくなる前は  
          自由恋愛  だったかも。

          昔の日本は兄弟姉妹おじめいでも「母」さえ違えば オーケー でしたから。
          さすがに「母」が同じ場合は運が悪いと=天皇の座を争う関係ですと=糾弾されてますが。


現在のトルコ語で「蜂」は  Arı  🐜  蟻   え?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81

ハチ(蜂)とは、昆虫綱ハチ目(膜翅目)に分類される昆虫のうち、アリ(ハチ類ではあるが、多くの言語・文化概念上、生活様式の違い等から区別される)と呼ばれる分類群以外の総称。

ハバチ亜目の全てと、ハチ亜目のうちハナバチ、スズメバチ等がこれに含まれる(ハチ目を参照)。


アリとハチ

アリは、一般にはハチとは全く違うかのように扱われるが、分類学上は、アリはハチの中の1分類群である。

アリは一般に翅がなく、多くのハチは翅をもつが、ハチの中でもアリガタバチやアリバチなど成虫(特に雌)が翅を持たない種もあり、それらは外見上アリに類似する。

また、アリの女王と雄アリは翅を持ち、結婚飛行を行う。

このときの姿はまさにハチで、特に雄アリはハチに似ている。

また、一般にはアリは針を持たないが、一部にはヒアリやハリアリ等、針を持ち、刺されると痛むものもある。

アリは、基本的には肉食で、狩りバチの系統から、地上生活へ進み、独自の進化をしたものと思われる。



ということは  聖徳太子のお名前は  アリ  だった?
でも  蘇我一族にしてみたら  🐜  よりは  蜂  の方が  一族の男子の名には良かったのかも。
ふふふアハハ
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月09日 16時24分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

>蜂岡寺
>蜂前神社

>「蜂」が何かを意味し、暗示しているのかも知れません――

ですね


西アジアの男子の名前の  「アリ」 はごくごく普通にありふれた名前ですよね。
例えば  ALI  モハメッドのいとこで政敵に暗殺された人。それで  アラブの男の人の名で  アリ  って多いのでしょうね。


それにしても蜂が低い所に巣を作るなんて  それだけでも危ないじゃないですか。
うっかり藪に入ったらハチの巣があった、なんて恐ろし過ぎ。
気を付けてくださいね。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月10日 01時51分48秒 ) パスワード

三つ柏さん


アリ  ハチ  ari ali  で思い出したのですが
中臣鎌足がゲットした安見児は西アジアの血だと言われてますが

彼女の  やすみこ  って  Jasmine じゃん!  とひらめきました。


昔の知り合いのイラン系ユダヤ人に  ジャズミンとかヤスミンとか という名の女性がいました。 


なるほどね。


それからアフガニスタンには青い目の人達がいるというのも昔知りました。
インドにもいるし
古代中国の英雄にも目が青いという人達がいたし。


当然古代の日本にも西アジアの血の混じった美女が天皇家に仕えていたでしょうね。


だから聖徳太子に西アジアの血が入ってても全然おかしくないでしょうね。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月10日 08時06分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろお調べ下さり、おもしろく拝見させていただきました。蜂は、
一般的には刺す蜂と、蜜蜂の2種類に分けられると思うのですが、英語で
言うと両方とも”bee”なのでしょうか?
 最近ドローンという空中に静止できる小型飛行物体が登場し、世の中を
変えつつありますが、あれも”蜂”の仲間なのでしょぅか?
 ある種の蟻は、ある時期が来ると羽が生えて飛んで行きますが、あれは
まさに蟻も蜂の仲間である証拠ですね。蟻は世界で一番多い昆虫ですので、
蟻と蜂、合わせてまさに世界に君臨する王者であります。

 さて、聖徳太子ですが、実在系の人物としては、日本史上最大の謎であ
りますが、長身で目はブルー(紫?)だったとある資料には書かれていると
いうことです。ある資料とは『先代旧事本記』であります。
 あを様の言われるように、古代は、渡来系の人口が大変多かった、つま
り多民族多言語国家と言ってもいい程、今日の常識とは違う世界であった
ということを頭に入れておく必要がありますね――
 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月10日 09時31分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

香川照之の「昆虫すごいぜ」という番組で
蜂が刺すのは「メス」だけと言ってました。

理由:
http://amaru.me/zatsugakuou/stinging-bee-only-female-but/
ハチはメスしか刺さないが、ほとんどがメスだから大抵刺してくる

ハチの針は産卵管または産卵管が変化したものです。
なのでオスのハチには針がなく刺すことはできません。
しかし巣を作って集団で生活するハチにはオスはほとんどいません。

ハチは役割分担がはっきりしている生物です。
大まかに分けて「女王蜂」「働き蜂」「オス蜂」の3種のハチがいます。
以下略


一般的に蜂は bee で良いのですが  これは honeybee  蜜蜂  ですね。「一刺し」の方ですね。


蜂のことはあんまり知りませんが

wasp    スズメバチ  は恐ろしいですよね。大きいし。これは連続で刺して来るんでしょ?

ロスの家の裏のサンタモニカ山系の山道でタランチュラを喧嘩してるスズメバチを見たことがあります。

これは脚が黒くて羽が透けてて、ゴキに似てて気持ち悪い蜂ですよね。


それから腹が黄色と黒の縞々のイエロージャケットって呼ばれる大きな獰猛そうな hornet   スズメバチ・クマンバチ・足長蜂
これは刺されたら痛そう。


その他にも  藤の花に寄って来る bumblebee  マルハナバチ。


これぐらいしか区別がつきません。


私はまだ蜂に刺されたことが無いのでアメリカ人は「ウッソォ〜!」と驚きます。
刺されたくないよっ!

夫の従兄は蜂刺されの時のために  エピペン  を持っています。
アナフィラキシー・ショック対策に。

夫は山道を走っていると必ず蜂に刺されます。
いいかげん屋根(幌)を下ろして走れ!と言いたい感じ。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月10日 09時38分30秒 ) パスワード

そうそうサソリに刺されると蜂に刺されたような痛みだそうです。

サソリの大きさは玉子の殻に収まる感じ。

サソリはアリゾナにいると聞いてます。
ラスベガスでは見たこと無いです。

アリゾナは  ブラウン・レクルース  とかいう毒蜘蛛もいるそうです。
バイオリンみたいにくびれのある蜘蛛だそうです。


カリフォルニアやラスベガスには  ブラックウイドウ  という腹の赤い真っ黒な毒蜘蛛がものすごくいます。
オーストラリアのは背中が赤くて、こちらは背赤毒蜘蛛です。最近日本にもいますね。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月10日 20時53分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「ブラック・ウィドウ」というと、アーチェリーの弓を思い出しました。
とても芸術的に美しい弓でありました。名前が「黒い未亡人」ということ
で、気持ち的にはそのあやしげな魅惑の虜となってしまいました。「クロゴ
ケグモ」という毒グモのイメージは、つゆぞ持ちませんでした。今は昔の
話であります。

 サソリはどこの国だったか、空揚げを食べたことがありました。今は昔の
話であります。

 スズメバチの胴体の色には、長く見ていると吐き気を催すほどの毒々しい
パワーを感じます。山へ行く時は、いつ出会うかわからないので、短めの
バトミントンのラケットをリュックに入れています。もちろん熊やイノシシ
対策も考えてあります。マムシ対策は現在考慮中であります――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月11日 04時08分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


山道はまむしはホント恐ろしいですよね。

スズメバチも恐ろしいし。
ツバの大きな帽子に養蜂家のような網を取り付けるとか?
いざという時に網を下ろすだけ。


毒蜘蛛も大変ですよ。
夫の母親が庭の枯れ葉を集めていたらブラックウイドウに噛まれました。
ものすごく広い範囲が真っ黒になりました。
半年ぐらい真っ黒だったかも。

気分が悪くて吐き気がして病院に行って手当を受けましたが
「毒蜘蛛」の脅威を知りました。
オーストラリアの背赤こけ蜘蛛はマンホールの蓋の裏なんかにいるそうですから
とにかく長袖で手袋をしてないと
噛まれたら大変です。


カリフォルニアはブラックウイドウがどこにでもいるので
うちの一家のサンタモニカの会社は暗い隅に結構いました。

ある時、1991年、お腹の大きなブラックウイドウを捕まえてガラス瓶に入れて「イゴリ」とかって名前をつけて飼ってたら
たくさん赤ちゃんを産んで
         その時はワタシは銀行にちょっと勤めてた時で
夫がそのガラス瓶を銀行に持って行ってみんなに見せてやれって。

        すぐにクビよね。

アメリカ人には「そんな感覚」。
アメリカの子供が学校に銃を持って行って暴発させてしまうって時々あるけど
「そんな感覚」。

カル〜イ気持ち。
珍しい物を持ってるからみんなをビックリさせてやろうって。

夫もブラックウイドウの赤ちゃんを私の同僚達が「きゃぁ、可愛い〜ぃ!」と喜んでくれると思ってたわけです。

        みんな蜘蛛の子を散らすように逃げて行くと思うけどね、日本人のワタシは。


少年のような心はいいんだけど、カルイ気持ちで山の中に入って行ったらスズメバチの巣にぶつかったり火蟻がいたりするかも。

やっぱり夏の人里離れた山の中は危険かもですね。
[54]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月11日 17時23分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代チュルク語を少し調べてみましたが、「蜂子皇子」の「蜂(ハチ)」
についての手がかりは得られずじまいでありました。

 ただ、調べている内に、「アカハトリ」という言葉に出くわしまして、
これについては、「浄衣」という意味でありました。つまり、「アカ」は
「清浄」、「ハトリ」は「衣(ころも)」という意味であることがわかりま
した。
 元来「ハトリ」という原語(口語)があって、それに「服」や「服部」や
「服織」や「羽鳥」の漢字をニュアンスを考えながら当てはめたのではな
いかと推察いたします――

 ハチは八ッティ族→ハティ族→ハチ族のハチではないかと、全くのヤマ
勘ではありますが、秘かに思っております。いずれにしましても、いつか
はこの謎を解いてみたいと強く念じております――
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月12日 02時28分15秒 ) パスワード

三つ柏さん

紆余曲折をやっていると、思わぬコトに遭遇しますね。「明衣」なんて全く知らなかったです。

>元来「ハトリ」という原語(口語)があって、
>それに「服」や「服部」や「服織」や「羽鳥」の漢字をニュアンスを考えながら当てはめたのではないかと推察いたします――

http://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E8%A1%A3-422782

明衣(読み)アカハトリ

神事・儀式に用いる浄衣(じょうえ)。
もとは天皇の御湯殿(おゆどの)に奉仕する蔵人(くろうど)が用いた湯帷子(ゆかたびら)をさした。
あけのころも。あかは。


こんな意味があったのですねぇ。ビックリ



まごころ。真実。

古代「赤い衣」には何か深い意味があったのでしょうね。


ということでワタクシも「神話・赤い衣」でいろいろネットサーフィンをしてみました:
http://www.google.com/search?ei=ObAeW9rNCYTq9APLxoP4Cw&q=%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%80%E8%B5%A4%E3%81%84%E8%A1%A3%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%80%E8%B5%A4%E3%81%84%E8%A1%A3%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...4477.12527.0.13207.21.21.0.0.0.0.263.2631.0j15j2.17.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..5.7.1159...0i7i30k1j0i7i4i30k1j0i4k1.0.BjabT9KBZlA


で、1つ見つかりました:

http://books.google.com/books?id=tJ6H44NRzOwC&pg=PA49&lpg=PA49&dq=%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%80%E8%B5%A4%E3%81%84%E8%A1%A3%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=5N9Ve4COY6&sig=rnLTe7kUhiG5pWO-c-r6ZTR0tog&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiypp-qkMzbAhWDHDQIHQ-dD4UQ6AEISTAF#v=onepage&q=%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%80%E8%B5%A4%E3%81%84%E8%A1%A3%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


「日本の神話」にありました。
結構おもしろいお話です。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月12日 02時38分02秒 ) パスワード

上記は「土蜘蛛」笑  の章です。

ずっと前の方に  6 ヒルコの再追放  というのもあって
ついつい読み耽ってしまいます。


いやぁ、ホント!神話(とか伝説とか)は面白いですね。
人間の基本的な所に入り込むんでしょうね。

何かを確かに語り伝えているんでしょうね。修飾や演出がどんどん加えられていって荒唐無稽になって行きますが。
[57]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月12日 05時45分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代の歴史……千差万別・諸説紛々であります。古代の真実とは何なのか
――真実は一つであるはずです。いろいろな見方や表現があるかも知れませ
んが、真実は一つであるはずです。
 古代史の真実に近づくには、大いなる概観力、総合的な統合力が必須であ
ると思います。あるいは、決定的な一つの事実から全体をおしはかることが
できるかもしれませんが、その場合も大いなる概観力・統合力が必要である
と考えます。政治思想に左翼から右翼があるように、歴史解釈にも左から右
までの大きな隔たりがあります。この場合の左とは、極論で言いますと、日
猶同祖論、右とは日本民族純粋国産論であります。
 日本は、ガラパゴスのように閉ざされた世界であったのでしょぅか?
 そんなはずがあるはずはありません……。
 日本の歴史・文化を概観すれば、そこには何かが見えてくると思います。
 コアの部分は、神道と天皇になります。コアの氏族は、秦氏と藤原氏でし
ょう。民族の移動・渡来については、まずは朝鮮半島からというのが一番で
しょう。さらには、大陸より、そしてシルクロードの西より、また海のシル
クロードの西より、莫大な影響・結果がもたらされたと推察できます。
 イスラエルの失われた十支族あるいは十部族が東へ拡散したというのも、
事実でしょう。イスラエルのシャハン博士の著作を読みますと、やはり日本
のコアの部分の確立というのは、西方よりもたらされたことは間違いないよ
うであります。
 ここまでくらいはいいでしょぅが、これから先の議論になると、喧々諤々
となるのであります。
 でも、嘘をつかないのは巨大古墳と埴輪だと思います。紙面で争うより
古墳の現場を見る・調べるのが、真実に近ずく一番いい方法だと思うので
すがどうでしょうか? 巨大古墳というのは想像を絶するものであり、紙
面主義の人間の常識をバラバラにし、リアルな現実の姿を突きつけます。
 一体誰が造らせ、誰が指導し、誰が働いたのでしょうか? 徳川家康の
権力や財力をもってしても、あの仁徳天皇陵(墳丘長486m)を造るのは
なかなか難しいでしょう。財力が持たないし、反発が起こるでしょう。
 この古墳作りにあたって、秦氏はどのような働きをしたのでしょぅか?
 応神天皇あたりに秦氏は渡来していますので、当然古墳造りの中核を担
ったのではないかと推察しているのですが――
[58]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月12日 08時30分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 話は変わりますが、「おんな城主 直虎」は終わりまして、時々テレビ
で柴崎コウを見ますが、ハッとする美しさがあります。女性の一番美しい
時期でもあります。
 ドラマが終わって、一つ不満が残りました。それは、信康の死に方につ
いての不満であります。私的には、服部半蔵が介錯できなかったというと
ころを描いてほしかったと思っていたしたのですが、実際には天方道綱が
半蔵の代わりに介錯したということになっております。ここのところを、
ドラマでは信康本人が首をかいた形になっておりましたので、地元の天方
氏の子孫を初め郷土の歴史を研究する人々に、忠実ではないことの不満と、
武将への礼儀を欠くものとして不満を訴えております。時代考証をした人
は誰だったのか、私も服部半蔵はともかくとして、切腹と介錯という形は
武将への礼儀作法としてとってほしかったと思いました――
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月12日 16時45分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

時代考証は  小和田哲男 / 大石泰史  と出てました。


http://dot.asahi.com/dot/2017012000006.html
大河ドラマ「直虎」は“時代考証”泣かせ…担当の小和田哲男氏に裏話を聞いてみた!

http://www.sankei.com/premium/news/170312/prm1703120018-n1.html
大河の時代考証といえばこの人 静岡大名誉教授の小和田哲男さん(73)を困らせた史実の直虎「一番史料が…」


残念ながら信康についての件じゃないようです。


NHKの大河も歴史物と銘打っても演出だらけ脚色だらけで
例えば
伊達政宗は眼帯なんかしてなかったけど
ドラマの演出で眼帯をするようになった
それが定着した
ということで政宗の肖像画は眼帯をしてなくて
右目は確かに焦点が合ってませんね。


もし肖像画の両目が焦点合ってれば「見栄を張って描かせた」ということになります。


焦点が合ってないから眼帯をしてなかったことは確かだと思います。


右目を片倉小十郎にえぐらせた話も「伝説」らしいです。
えぐらせてたら右目に傷があるはずですが肖像画は樹木希林の「不自由」な目のような感じになっています。


わたくし的には政宗の右目はいわゆるロンパリなのかなと思ってました。斜視?
樹木希林の勇気ある行動で  ああ、「不自由」なのか、というのが分かりました。
視力が無いから肖像画にも力の無い目に描かれているのか、と。


NHKの歴史物ぐらい脚色演出は止めて欲しいです。
そうするとメリハリが無くなって「つまらない」のヒトコトですね。
[60]三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月14日 14時11分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「蜂子」に心を囚われてしまい、そこから抜け出せず、あれやこれやと
色々な文献を調べているうちに、完全にスタック状態になってしまいまし
た。つまり、古代についてのいろんな説(イエスがノーだったり、ノーが
イエスだったり)があり、それはちょぅど地裁から最高裁の判決のように、
死刑が無実になったり、無実が死刑になったり、180度逆転したりする。
科学では間違っても数パーセント止まり……それ位の誤差でも許されない
でしょうが、古代の歴史説は違う。信じる基盤がもろもろと崩れてしま
う。いったいどの説を信じていいのか全くわからなくなってしまい、文献
不信に陥り、悶々、鬱々としておりました。やはり古代の歴史探求は止め
にしようと思ったりしながらも、それでもなおあきらめきれず、さらに色
々な本を開いて見たりしておりました。

 結果的に、気持ちの整理もつきはじめ、「自分が信じられる本を信じて
進んで行こう」と割り切ることができました。但し、文献(現代ものも含
めて)には、注意すること、文献主義には往々に間違いの上塗りがあると
いうことを頭におくこと……要注意、ということでカムバックできました。

 「蜂子皇子」は聖徳太子の従兄弟にあたり(一応とします)、蜂子皇子は、
聖徳太子やその時代の謎がギッシリ詰まったパンドラの箱を開けるスペア
キーであると感じています。このパンドラの箱の中身は今後時間をかけて
まとめて行きたいと思っています。今は総合力がありません……。

 従って、今回、ある本から見つけた記述をもって、蜂子皇子については
打ち止めにしたいと思います。そのある本とは、伊藤宏之著『シリウス星
と謎の古代空間』という本であります――

 「『日本書紀』に、雄略天皇が、少子部連(ちいさこべのむらじ)の蜾贏
(すがる)に、三輪山の神を見たいから捕えよと命じます。蜾贏は三諸山の
大蛇を捕え、天皇に見せると雷がとどろきひかり、目が輝いたので天皇は
かくれてしまいます。スガルは名を改め賜って雷(いかずち)としたとある
のです。「蜾贏」とはジガ蜂のことですが、蜂の名前の少子部連が雷のよ
うに恐ろしい大蛇を捕えてくるのです。この蜾贏(小さな虫)と大蛇には、
箸墓伝説の麗しい姿の「小蛇」と大物主の「大蛇」の関係が写されており、
小さな物が大きな物をもどき、小さな精霊が出現することから本体をあら
わしてゆくという神観念を語っているのではないでしょぅか。
 スガルのジガ蜂の小さな毒針は恐るべき力を持ち、少子部連のスガルが
大蛇を捕えるように、小さな針やスガルは大蛇や雷に匹敵する力を秘めて
いるのです。」

 つまり、「蜂子皇子」にはいろいろな暗喩が込められているということ
になります(上記以外も含めて)――ハチ=神、ハチ=黒、ハチ=蜂(鬼を
も倒す力を秘めた)、其の他諸々……。そういえば、「一寸法師」も小さ
な体に針の刀で鬼をやっつけました(実は、私は幼稚園でこの一寸法師を
踊りました……恥ずかしーッ!) 小さなものが大きなものをたおす=弱い
虐げられたものが、強い権力者をたおすという民衆の期待感が込められて
いるのかも知れません。特にまつろわぬ民にとって――

 次回は、「蜂前神社」について記述いたしたいと思います――
 
 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月15日 02時47分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

ジガ蜂・・・
こわ〜
獰猛な感じの蜂ですよね。

でも面白いですね。
すっかり忘れていました。


蜂前神社についての記述を楽しみにしてますね。
[62]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月15日 13時10分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『遠江織物史稿』(山本又六著)は何回も見ていましたが、改めて蜂前
神社(はちさき)の項を読んでみますと、見落としていた事項が書かれて
おりました。その辺を抜き書きいたします――
 
 「由緒 蜂前神社々掌・荻原元良調書抜粋(八田氏は萩原、荻原二家に
 分かれたと伝えられる。
  旧記に、応神天皇十一年(推定西暦390年)、私達祖・八田毛止恵
 と申す者、敕(みことのり)を奉じ遠江国へ下向し、八田(祝田村の古名)
四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反、
 合わせて百廿三町三反を開墾し、八田郷字神出(此字祝田村にある)に
 居住、後孫代々氏神蜂前神社に奉仕す、とあり。抑是を蜂前神社御鎮座
 の元始とする。

  脇宮四柱の大神勧請は、人皇十九代允恭天皇御宇(推定439〜460)、
 熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領
 し、服部の連と云うと『姓氏録』に見える。此の宿祢、此の里に巡回し
 来たって、養蚕織工等の事業を郷党に教授して大いに此の郷を賑給した。
 依って、御本社天照大御神、天上高天原で始め給うた養蚕織工の御神徳
 に基づき、宿祢の祖・熯速日命御親子四柱の大神を脇宮に奉斎して、養
 蚕織工の事業を後世に奨励したと云う。

   〜中略〜 
  
  以上、古文書其の他により、蜂前神社が由緒正しい織物に関係深い神
 社であることが明らかである。服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織
 物生産の地域は、蜂前神社氏子の地域で、相当広く又多数の集団であっ
 たであろうと察せられる。
  麻羅の宿祢が開発以前に此の地方に織物が出来たであろうことが想像
 せらる。そう考えると、土地の開発者八田毛止恵の八田は秦氏の一族で
 はないか。秦は波多、羽田、幡多等と書かれ、八田もその例であるとも
 考えられる。果たして然りとすれば、八田氏が当地方を開発以来、殖桑
 機織の業をも扶植し、後、麻羅の宿祢によって、改良発展せしめられた
 ことと成るが如何であろう。
  以上述べる所により、蜂前神社が遠州に於いて、最も古い織物の神社
 であり、其の氏子は織物生産の大集団で、遠州織物の先駆者であったと
 云うべきである。
  〜中略〜
  本社を中心として、付近の神社の摂社末社に織物の諸神を祀るものの
 多いことなどを考え合わせ、又今の浜松市豊西町羽鳥の服織神社のこと
 も併せ考えて、旧中川村、都田村から浜名平野北部にかけて、庸調時代
 に養蚕、機織の盛んであったことを察することが出来る。又秦氏に関係
 ある地名の多いことも考え合わすべきである。」

  以上を読むと、「酔石亭主」様の「水石の美を求めて 東三河の秦氏 
 その44(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category43-8.html )」
 に書かれている内容を思い出します。
  
  なお、蜂前神社は別名「服部大明神」であります。南が三方原台地、
 東へ行くと宮口に出て、そこからは天竜川大平野であります――

 
  
[66]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年06月15日 17時30分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:服部大明神→羽鳥大明神

    服部もハトリと読む場合がありますが、羽鳥はハトリのみ。
    服織もハトリと読みます。
    服だけでもハトリ。
    神服でカムハトリ、神服部もカムハトリ。

    三河以東に羽鳥表示が多い。服部よりも羽鳥の方が鳥のイメージ
   が強い。鳥をトーテムとするのは、秦氏か?
    
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月16日 03時18分07秒 ) パスワード

移動の上、書き直し:


三つ柏さん

>蜂前神社は別名「はとり大明神」

ここでガバッと姿勢を正しました。

 
何度も何度も蜂前神社はお名前がこの平熱に出て来ましたが  別名「はとり大明神」  だったとは!


やっと蜂前神社と織物業で繋がりました。
ここを突破口に長上郡の服部氏の謎が解明出来ると良いのですが。


服部貞信=伊賀呉服明神の神職=家紋は卍紋=世田谷赤堤の旗本
この家との関係も分かると良いですね。


允恭天皇の御世以降、熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領し、服部の連、と称し

高槻の神服神社・伊賀の呉服明神・細江の蜂前神社・羽鳥の服織神社など各地に織物業の神社が建てられたのでしょうね。
微妙に神社のお名前が異なるところに  
             織物業に於ける中央の「連」を頭に各地の「首おびと」に繋がるピラミッドで  
古代の当事者達の  アイデンティティ  が主張されているのかもですね。

面白くなって来ましたね。
長上郡の服部氏にかなり迫っているのかも。



蜂前神社の神紋を調べています:答:1番下

http://www.google.com/search?ei=w2kjW4KXO6mE0wKH1bXYBg&q=%E8%9C%82%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E7%A5%9E%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E8%9C%82%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E7%A5%9E%E7%B4%8B%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...7470.21741.0.22236.25.20.5.0.0.0.214.2348.0j14j1.15.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..6.1.170...35i39k1j0i4i30k1j0i8i4i30k1.0.JWs059voNPQ



http://blog.goo.ne.jp/ryuzojiryuzoji/e/e6238cefdc652863ed445caaa9baf1df
このブログ
面白いです。



ご神紋
http://iiakazonae.com/407
三つの「火」を合わせたのがご神紋:画像が載っています

ブログより引用

伊邪那美(いざなみ)が火の神(秋葉神社のご祭神)・迦具土神を生んだ際、焼かれて死んでしまったので、夫・伊邪那岐(いざなぎ)は、十拳剣で迦具土神を斬り殺しました。

この時、鍔に付いた血から生まれたのが、蜂前神社のご祭神の「熯速日命・甕速日命・武甕槌」命で、

蜂前神社では、この3柱の神々を(火の神の真っ赤な鮮血から生まれた神々ですので)「火の神」とし、「火」をデザイン化して、「三つ葉葵」のように「3つの『火』」

          (熯速日命・甕速日命・武甕槌命の3柱の神々の象徴)

を組み合わせてご神紋としました。


********************************

ご神紋が三つ柏紋だったら良かったのに
と思いましたが
氏子の皆さんは  三つの火  → 三つ柏紋
にしたのかなと思いました。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月16日 04時01分04秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101637.html
に新しいスレッド  110  をご用意いたしました。


三つ柏さんが  うちは秦氏系で  伊賀伊勢系ではないような  と裡なる感触をお持ちだったのは
レス<62>の事だった可能性が非常に高くなりました。


中央の服部連を頭に地方の服部首(おびと)達のアイデンティティが神社名に刻まれているのでしょうね。


南北朝時代の細江の中心は蜂前神社だった可能性がありますね。
その中心となった豪族が井伊氏。

当然伊賀伊勢尾張の服部一族との交流もあったことでしょう。

しかし三つ柏さんのアイデンティティ=DNAは  うちは秦氏系  とアイデンティティをハッキリさせたい所ですね。

なぜなら伊賀伊勢の服部一族は殆どが平氏系が11世紀の初めに伊勢伊賀に来て
その土地の有力者だった「服部」姓を名乗ったのだから。

そこん所はハッキリさせたい
ガチンコで「うちは平家系ではない」と声を大にして宣言したい

ということではないでしょうか?
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2018年06月16日 04時25分01秒 ) パスワード

服部政信・服部中は平家を称し
服部半蔵の家はホノハヤヒ + 允恭天皇の時代5世紀前半の服部連の関連を称し後に服部家長の子孫を称し帰化系ではないと断りを入れる
服部貞信の家もホノハヤヒの子孫を称し呉服明神の神職だった。
以上は伊勢伊賀関係の服部氏。



三つ柏さんのご先祖さまは秦氏系が色濃いということでしょうね。
それで聖徳太子のお子様などの話が関連する。
つまり聖徳太子の時代6世紀の終わり〜7世紀前半には遠江にいたということでしょうね。
ということでもともと遠江の服部一族でしょうね。
で、住んでたのは  都田川〜細江〜羽鳥  あたり?

もう1度細江に戻って蜂前神社近くのお寺へ墓石見学に行かないといけませんね。
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