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 投稿番号:101625 投稿日:2018年02月15日 02時22分00秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
長上郡の服部氏族CX(課題確認48):105

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101621_52.html
長上郡の服部氏族CW(課題確認47):104
の続きです。



      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。



三つ柏さんが津島市立図書館で紹介された資料:

@『津島ゆかりの素晴らしき人々 津島人物伝』
A『津島叢書 張州雑志抄』
B『津島歴史紀行』
C『近世の津島を考える』
D『海部・津島の歴史とくらし』
E『知る見る歩く つしま街道浪漫』
F『つし丸・マッキ―・ふじかの歴史探検隊』
G『浪合記天野信景戯作説弁駁』
H『南朝秘史』
I『津島を見守る良王さま物語』(漫画)

タイトルからしても尾張南西部を支配した津島人の矜持と独自性が分かります。
感激

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月15日 10時01分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 南朝方が大橋家や津島神社と関係していることは、永井直勝の出自を通し
てわかっておりましたが、「なぜ津島なのか」についての探究までには至っ
ておりませんだした。
 それが谷口克広氏の『天下人の父・織田信秀』を読んだ時、その中に津島
で栄えた人々がいて、それがほとんど浪合記にでてくる南朝臣だったので驚
き、大変興味を抱いた訳であります。(この本、送ります!)

 Iの『津島を見守る良王さま物語』(漫画)を見ると、南朝臣と津島の関係
が漫画というイメージを通してよくわかります。一冊ほしいなと思っており
ますが、手に入りますかどうか……発行したのは、良王君の菩提寺の瑞泉寺
であります。
 ついでながら言っておきますと、この瑞泉寺に行ってみましたところ、車
では、たどり着けなかった。道が昔のままの細さで、またわかりにくく、つ
まり区画整理されていないということであります。しかたないので、車を大
きなドラッグストアに留め、一応買い物もして、暫しの間車を置かせていた
だき、その間に徒歩であるいは走って、犬にほえられながらも、町中をぐる
ぐる回り、やっとのことでたどりつきました。しかしながら、寺の門はしっ
かりと閉じられておりました。ガックリしました。たぶん、お寺が幼稚園を
経営しており、防犯対策のためだろうと推察いたしました。それでもあきら
めきれずに裏手にまわると、路地があり、奥の方に墓が見えましたので、入
っていってみました。金網のしきりでお寺とは一応隔離されておりましたが、
入り口の戸は開けられるようになっていましたので、中に入りました。
 そこで見たものは――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 11時13分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

>『天下人の父・織田信秀』

ありがとうございます。
ぺこり


>瑞泉寺

残念ながら知らないです。




遠江国風土記伝
P317

http://books.google.com/books?id=XiWlHoM7MtwC&pg=PT356&lpg=PT356&dq=%E8%89%AF%E7%8E%8B%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=W4bsm0zUPf&sig=hBR-iKowzVl9AEbhLMFszDbr8pA&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjh6JaA56bZAhUJ2GMKHanfBkAQ6AEIUTAF#v=onepage&q=%E8%89%AF%E7%8E%8B%E5%90%9B%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


右から6行目に  四家七名字  の家々が出てますね。

四家:大橋・岡本・常川(恒川)・山川
七名字:堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村

五家の場合「藤原」が入ります。これは俗姓「伊藤」のことだと思います。


光賀さんは「こうが」って読むんですねぇ。知らなかったぁ〜

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%85%89%E8%B3%80

【名字】光賀
【読み】こうが
【全国順位】 27,325位
【全国人数】 およそ130人   滋賀・岐阜・長野に生息じゃない在住

織田家などを輩出した現愛知県である尾張国海東郡津島村が起源(ルーツ)である、菅原氏がある。 
ほか紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。
宮川藩にみられる。
近年、岐阜県に少数見られる。

へぇ〜



近江宮川藩
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/omi-miyagawa.html

宮川藩は元禄11年(1698年)に堀田正休が、上野吉井から近江国甲賀、坂田、蒲生、愛知4郡内に領地を移され、坂田郡宮川に陣屋を構えて成立した藩である。


宮川藩堀田氏は堀田の宗家にあたり、先々代正盛は家光の寵臣として下総佐倉11万石にまで登りつめたが家光に殉死し、二代正信は無断帰国をして除封された。


正信は狂疾とされ、堀田家は正盛の忠義によって家名存続が認められ、正休に上野国吉井でで1万石が与えられ、さらに宮川に移された。


三代正陳は、延享2年(1745年)7月に若年寄、寛延元年(1748年)10月に西の丸若年寄となって近江国野洲郡、滋賀郡内で3千石を加増された。


最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。


宮川藩というのは知らなかったです。

佐倉の堀田家は知ってました。
尾張藩現藩主(汗)のご出身の家ですし。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月15日 11時46分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 瑞泉寺の由来が書かれた看板がありました――

 「瑞泉寺はかつては津島神社代々の神主邸内にありました。この屋敷は
 中世城郭形式の構造で、屋敷地の周辺を外堀で囲み、邸内には内堀や池
 を構えていたのです。
  寺は屋敷地内南方の池のほとりに建てられ、その池は鏡のようなきれ
 いな水面を持つことから、山号を「鏡池山」としてのでしょう。
  寺の創建年代は、良王様逝去の2年後の1494年、神社境内の御前
 大明神が創建された時、または御子良新様が神主になられた時(年代不詳)。
 この2案が浮かびますが、いずれにしても1500年前後と考えられます。

  神主邸から瑞泉寺が舟戸町に移動した年代は、良新様が神主になられ、
 1代でその職を氷室氏に譲られた直後と思われます。
  当寺には6基の宝篋印塔があり、1基が良王君の塔と伝えられています。
 6基の内、1基は良王君、今1基が良新様、他の4基は家族と考えられて
 います。
  現在の御本尊様は、1751年春に大橋武左衛門の寄進によるもので、
 京都の仏師駒井柳朝師作です。」

 墓地には、墓はそんなに多くなく、次のような名前が見られました――
 大橋、大野、宇佐美、澤村、三輪、阿倍、水野、津坂、後藤、安立、大山、
金田、そしてそして服部……1基でしたが家紋は「違い矢」でございました。

 墓地の中心あたりに宝篋印塔の一画があり、次のような案内看板が建てられて
おりました――
 「良王親王縁起
  当寺は後醍醐天皇の曾孫、良王親王の菩提寺と言われ、父は尹良(ゆき
 よし)親王で菩提寺は市内大龍寺です。菩提寺になった経緯は、江戸時代
 に書かれていた『浪合記』『良王君伝』『信濃宮伝』に記載されています。
  1334年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇が国政を掌握する建武
        政権が成立。
  1336年 足利尊氏が新しく光明天皇を推挙し、天皇家が2家に別れ
        る。後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝政権を、一方光明天皇
        は北朝を名乗り南北朝時代が始まる。
  1392年 南朝と北朝の講和が成立したが、それ以後も両者の対立が
        続く。
  1424年 尹良親王は、山梨県から三河へと向かう途中、長野県浪合
        村で敵軍に囲まれ、自害される。
  1428年 御子良王君は、上野国から信濃に向かわれるが、途中各所
        で武士団の攻撃を受け、津島へお連れすることを決定。
        津島の四家七党(しけしちとう)が主軸となり護衛し、津島
        へ向かわれた。
  1435年 12月29日に良王君を津島に迎え、奴野屋城(市内西芳寺)
        に入御される。
  1492年 3月5日逝去。御年78歳。瑞泉寺殿と号し奉る。  」
  
 ここで私は、良王、その家族、大橋家・服部家などの家臣のために、般若
心経を2巻、唱え奉げさせていただきました。心がスッと晴れたような気が
いたしました――
 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月15日 14時24分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
やっと良王君にも三つ柏さんんの般若心経が届いて安堵いたしました。


>1492年 3月5日逝去。御年78歳。瑞泉寺殿と号し奉る。

コロンブスのアメリカ大陸発見の年でしたか。
知らなかったです。
ありがとうございました。


やはり現地には足を運ばないといけませんね。
事実を知りたいですものね。
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月16日 14時01分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 服部と海部についての良い論文を見つけました。一度ご覧ください――

伯耆の古代を考える会雑誌 > 伯耆の古代を考える会雑誌創刊号へ >
「 因幡国法美郡服部郷について――海部と服部の痕跡をたどる」(黒田一正)
 
  http://houki.yonago-kodaisi.com/HK-Zassi2017-1.html
 
 今日は集中力が戻りませんので、これから運動とウォーキングをして
こようと思います。例の本も送ります。



 
[6]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月17日 20時11分40秒 ) パスワード

天の青海のあを様

 本日の午前中は、みぞれ交じりの風が吹きすさぶ中、浜名湖の焼き牡蠣
(蒸し焼き)を食べに行ってまいりました。
 また、午後はテレビで羽生結弦のフリーの演技にくぎ付けになってしま
いました。
 こういう訳で、なかなか集中力が戻ってまいりません。

 明日には落ち着くと思いますので、雲居寺、及び服部一忠についての話
を書かせていただきます――
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月18日 12時29分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は深夜まで寒風吹きすさび、身も心も震えておりましたが、本日は
風も止み、日の光も差して暖かな晴れ模様となっております。梅の花も三
分咲きとなっており、もうすぐ鴬の鳴く春がやって来る日も近いと感じま
す。

 さて、今回の津島行きの目的は――

 @津島服部氏一族の一人服部一忠(小平太)と服部中保次(はっとりなか 
やすつぐ もう一人の小平太)との関係に関する情報

 A服部一忠の「秀次事件」での「切腹」前後の一族の情報

の2点について探すことにありました。 残念ながら、これらの情報につ
いて、@については全くなく、Aについては、現行の歴史書の常識程度の
情報しかなく、歴史の闇を探ることはできませんでした。

 一旦、ここで切ります――
 
[8]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月18日 17時15分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史を調べるということは、大いに道草を食うということであります。一
つのことに関連して、次から次へと疑問点・不明点・謎が出て来ます。前へ
進めるためには、それらも調査をしていかなければなりません。それらを調
べ終わって初めて次のステップに進む、あるいは筆を進めることができると
いうことであります。

 秀次事件を調べていましたら、秀次が高野山で切腹する時に、他に追い腹
をする人が五人おりましたが、最後の人の介錯をしたのが「服部吉兵衛」と
いう人でありました。この服部吉兵衛が何者であったのか、興味のあるとこ
ろではあります。

 津島といえば「津島神社(津島牛頭天王社)」であります。全国の津島神社
の総本社で、御分霊社が約三千社程あるそうです。祭神は建速須佐之男命、
つまり「スサノオ」であります。津島はこの牛頭天王社の門前町として栄え
たということであります――
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月18日 19時19分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部吉兵衛について:

1. 杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用だそうです

以下http://yourei.jp/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B より引用

服部吉兵衛

秀次に言いつけられるまでもなく、どこからか服部吉兵衛はま新しい菰を運び白砂を運び込んで、白州の上に平らに敷きつめた。
                     

服部吉兵衛も小者ながら、あとを追って割腹しかけた。

隆西堂の介錯は、服部吉兵衛がした。



2.時代が下がりますが
http://www.e-sword.jp/sale/2014/1410_1054syousai.htm

日本刀 刀 下総大掾藤原兼正
越前住
katana [shimousa daijyo kanemasa]

兼正の本名は服部吉兵衛、濃州関兼法五代孫と云い、越前・江戸・彦根にて造る。
「下総大掾藤原兼正」「下総大掾藤原兼正越前住」「越前下総大掾藤原兼正近江彦根住」等と切る。


http://www.google.com/search?ei=eFCJWuufG5XAjwOZkIdw&q=%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E6%AD%A3%E3%80%80%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%81%AF&oq=%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E6%AD%A3%E3%80%80%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.3...59476.81876.0.83179.44.40.4.0.0.0.157.5429.0j40.40.0....0...1c.1j4.64.psy-ab..0.1.154...35i39k1.0.VsIiy_13iIE

延宝(1673)越前下総大掾藤原兼正関兼法五代の孫。本刀は大変貴重な井伊家の城下町彦根打ちの名作です。地金は小杢目肌素晴しく良く詰み、当時大坂で津田越前守助廣が考案した濤乱刃を兼正独特の刃紋として焼き上げ成功しています。あたかも打ち寄せる波が大きく泡と散る様子が大胆に焼き上げており兼正最高傑作の名刀となってい

下総大掾藤原兼正。俗名を服部吉兵衛。濃州関兼法五代孫という。越前、江戸、彦根にて造る。銘は「下総大掾藤原兼正」「下総大掾藤原兼正越前住」「越前下総大掾藤原兼正近江彦根住」等と切る。 小板目杢交じりの肌立った地鉄に、破綻無き直刃を見事に焼き上げた作品。



へぇ〜
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 01時26分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ビックリの続きがありました――

 津島の図書館長の話では、服部小平太の子孫が半田にいて、小平太、及
び小藤太の刀を代々伝えているということで、その解説入野写真をいただ
きました。
 今、その解説を読んでみますと、服部小平太の所持していた刀は「関
兼法」作で、その五代孫が「藤原兼正」(本名服部吉兵衛)ということにな
ります。

 ちなみに小藤太の所持していた刀は、「兼定」であります。
 正確なことはわかりませんが、『刀剣要覧』を調べますと、関孫六(兼元)
は、兼定と兄弟の約束をしたと書かれていました。

 いずれにしても、美濃の関の刀工と服部氏が何らかの形でつながっている
ような気配がいたしますし、秀次事件での介錯者「服部吉兵衛」が刀工であ
ったのかどうか、少なくとも秀次に近い人であったのは間違いありません――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 03時24分51秒 ) パスワード

三つ柏さん

本当にビックリですね。

服部小平太のご子孫が半田在住とは!
ご先祖兄弟の刀を持っていらっしゃるということは正統系ということですね。


でも何故に半田!?!


>美濃の関の刀工と服部氏が何らかの形でつながっているような

刀は馬と共に武士の必需品ですから
繋がっていて当たり前なのでしょうね。

武士なら良い刀を作る人を抱えたいですものね。


本当に現地にはいかないといけませんね。
そして「人」に会う
これは基本ですね。

「知っている人」と知り合う大切さを痛感しました。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 03時42分29秒 ) パスワード

隆西堂

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%B2%A9%E7%8E%84%E9%9A%86


虎岩玄隆(こげんげんりゅう、 永禄3年(1560年) -文禄4年7月15日(1595年8月20日))

戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧。
字は虎岩、諱は玄隆。
僧階が「西堂」であって、隆西堂(または玄隆西堂)とは略称。

東福寺山内法雲寺(後の南昌院で廃寺)の開基であり、南昌院隆西堂や南昌院虎岩玄隆とも言う。


略歴

近江国の出身。
11歳で出家し、法煕春東堂の後を継ぐ。

玄隆は早くより英才として知られていたが、関白・豊臣秀次が彼に師事して帰依したことにより、その恩恵を最も受けた。

天正17年(1589年)に法雲寺を創立されて住職となり、寺領は500石。
天正19年(1591年)に真如寺位、禅興寺公領を与えられた。


文禄4年(1595年)に秀次が高野山蟄居となった際に請われて同行。
『大かうさまくんきのうち』によれば、
秀次が切腹する直前、目をかけて下さった恩義に報いるために彼岸の導きをすると言って、
名刀村雲を貰って見事に切腹して冥土に先に旅立ち、殉死を果たした。
享年35。


参考文献
井村眞栞編 国立国会図書館デジタルコレクション 『秀次公』 井村米太郎、1919年。

白石芳留 『東福寺誌』 東福禅寺、1930年、785-786頁。

小林千草 『太閤秀吉と秀次謀反』 筑摩書房、1996年、185-186, 192-193頁。ISBN 4480082999。


関連項目
秀次切腹事件


背筋がゾクゾクしました。


http://yourei.jp/%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82


それをつづめて、だれもが隆西堂と呼んでいる気さくな老体であった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』

東福寺の僧玄隆西堂げんりゆうさいどうをはじめ、近臣山本主殿とのもら五人が、これに殉じた。 …
桑田忠親『戦国史疑』より引用

大仏前から逃げ去ったはずの、玄隆西堂だったのだ。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

秀次が池田秀氏を呼び立てたのは、隆西堂と縁者であることを承知していたからだった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

返す盃を、つぎに秀次は玄隆西堂に差し、つづいて山田三十郎、山本主殿の順に差した。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

笑いながら、床とこの違い棚から玄隆西堂は将棊盤をおろした。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引
ほうほうの態で二人は大仏の境内へ退散して行ったが、けろりとした表情で、玄隆西堂だけは輿脇こしわきを離れようとしなかった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

隆西堂の微笑には、一点の翳りもない。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

手の土器を、秀次はまず、一つ干し、玄隆西堂に差そうとした。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

下知げち一下、小姓どもに行列の外へ曳きずり出されて、玄隆西堂はしぶしぶのように、これも大仏殿の裏へ姿を消してしまった。
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

秀次の左どなりに雀部淡路、右に玄隆西堂、その次に山田三十郎、山本主殿、不破伴作の順序で居流れ、雛僧の酌で最後の酒宴がはじまった。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

                        「5人」ですね。
                        

秀次は、山本主殿とのも、山田三十郎、不破万作、東福寺隆西堂らの股肱ここうとともに、切腹して果てた。 …
柴田錬三郎『(柴錬立川文庫1) 猿飛佐助』より引用

隆西堂の介錯は、服部吉兵衛がした。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用

隆西堂が介添えに立つ。 …
杉本苑子『影の系譜 豊臣家崩壊』より引用



以下に秀次や家臣の切腹シーンが書かれています:

豊臣秀次: 抹殺された秀吉の後継者
羽生道英 - 2011 - ‎Literary Collections

http://books.google.com/books?id=BGvTYLxZpwUC&pg=PT144&lpg=PT144&dq=%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=XlVozql0rg&sig=UgomFT_kL_WAycY2R1e0xhPzSTE&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiqtODwjbDZAhUJ2GMKHRXGCRcQ6AEIPzAD#v=onepage&q=%E9%9A%86%E8%A5%BF%E5%A0%82%E3%80%80%E3%81%AF&f=false


これがすむと、東福寺の長老・隆西堂が、「それがしの介錯は、近習頭の雀部淡路守どのにお願いいたすといたしましょうか」遠慮深げに淡路守に言った。

すると秀次が、「間塵の庁で将棋を対局せねばならぬご仁である。拙者が介錯してやろう」と言いながら、村雲の巨剣を与えたのである。

「勿体無くも、こんな嬉しいことはござらぬ」隆西堂は、秀次を ...

URLに行ってお読みください。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 11時34分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秀次事件は大事件であったのにもかかわらず、連座した大名や家臣の一族
がその後どうなったのかという研究がなく残念であります。

 「服部一忠」家はその筆頭であります。今回の津島行きでは、新たな情報
は拾えませんでした。

 「一柳可遊」はその次であります。先日、遠州宮口のお寺を訪れた時、「
一柳」家の墓を一基見つけました。加藤光泰とは妻と子とで二重に姻戚関係
となっておりますので、是非とも追跡したいと思っております。

 「渡瀬繁詮」については、その子息が遠州にて身を隠し、帰農した所が
「渡瀬村」になったと読んだことがあります。

 いずれにしても、秀吉と家康のパワーバランス争いのかけひきの中での
事件であり、秀吉側の内紛が豊臣の諸大名の心を家康側に向けさせるという
願ってもない成果をもたらせることになる。たぶん、これは家康の作戦であ
ったと考えます(作戦というより謀略であったのかも知れません)。

 処分された武将達の家族等の情報がないのも、抹消された可能性があるの
ではないか。情報がないというのは、逆に漏れてはいけない秘密があるとい
うことの裏返しと考えた方がいいと思いますのですが――
[14]丸三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月19日 14時37分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さて、服部小平太(一忠)ですが、津島では一介の武士から大名になった
ということで、よそからでは想像できない程尊敬されていることがわかり
ました。つまり、郷土のヒーローとして(悲劇のヒーローか)……。
 また、併せて、南朝の良王の存在もこの地では大きい。津島では、浪合
へのバスツアーが組まれる程、南朝への関心が高い―と館長さんからも聞
きました。さらには関東の南朝関係跡にも関心があるような発展的雰囲気
がありました。

 その服部小平太の菩提寺が「雲居寺(うんごうじ)」で、津島神社の北東
500mくらいの所にありました。
 門前に出ていた小さな看板――
 「雲居寺
   山号は龍寶山。曹洞宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。永享元年(
1429)、服部伊賀守家継の創建と伝わり、戦国武将服部小平太(一忠)
ゆかりの寺として知られています。小平太は織田信長の武将で、桶
  狭間の合戦で今川義元に一番槍を付ける奮戦を見せました。後に、
  豊臣秀次の家臣として伊勢松坂城主となりましたが、秀次失脚に伴い
  連座で切腹となりました。濃尾大震災後に再建された羅漢堂に色彩豊
  かな五百羅漢の像があることも知られています。」

 門を入って行くと、本道両脇に寺紋らしき「竜胆車紋」が2つ。そして
寺の由緒書き――
 「龍寶山 雲居寺史
  本尊 法界蔵身無量寿如来
  開創 永享年間(1429)創建
  開山 宝山玄珍禅師  宝徳元年三月(1449)寂
  開基 服部伊賀守宗純 永享十二年(1440)寂
  津島十一党の随一、服部伊賀守宗純、永享年中、良王親王家の北境に
 一宇創建、服部家の菩提寺と為し、法諱を雲居寺殿蔵叟道珍庵主と号す。
  九代の後裔、服部平左エ門一族郎党を率いて織田信長に従い、桶狭間
 の役にて長子小平太槍を揮い、総師今川義元を突く。尓後、開基家の嘱
 により、当寺に於いて今川氏の菩提を弔い、今に至る。  」

 つまり、服部家継(宗純 むねすみ)が開基(パトロン)となってこの寺を
造り、1440年に没した。その9代孫の服部平左エ門は一族郎党を率い、
信長に付いて桶狭間の戦いに出陣した。長男の小平太は今川義元に一番早
く槍を突きつけた――ということであります。

 実は、小平太にはもう一人の小平太がおり、それが「服部中保次」であ
りました。彼は忍者部隊の棟梁であり、情報力を駆使して義元の近くまで
皆を誘導したと思われます。一番槍の件では一忠と保次は混同されており
ますが、一忠の方が一番槍ということでいいのかと思います。
 服部中保次は桶狭間の戦い後、家康につき、遠州へ攻め入った後、細江
町刑部にて今川方に暗殺されてしまいます。その墓が今も残っております
し、子孫は新居の関所番を経て、旗本(大身)として浜松市西区神ケ谷に陣
屋を持っておりました(明治になるまで)。江戸には下屋敷がありました。

 次に、雲居寺の墓地を訪れました――
   
 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2018年02月19日 14時57分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

続きを楽しみにしています。
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月20日 11時41分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 津島より帰って来てから、よく考えてみた――そういえば服部一忠の
墓がなかった……。もう一つ、大橋家の菩提寺はどこだったのだろう…
…?
 後で気が付く×××とはこういうことである。でもこれは次回の課題
としたいと思います。

 「雲居寺」は服部宗純が開基で、その子孫の服部小平太一忠(春安)の
菩提寺となっている。ここをもう少し深く追求する必要があった。でき
れば地元の歴史研究者に訊けば一番良かった……。
 その墓地には、それなりの苗字の人々の墓が並んでいました――
 @服部家 源氏輪に並び矢…三基 + 古い墓三基
      丸に並び矢…一基
      家紋のないもの…一基 
      判別不能のもの…一基
 A大橋家 抱き茗荷
 その他の墓…三輪、松下、宇佐美、永井、鈴木、大杉、水野、伊藤、
       柏原、江上、柴田…等

 ここで、服部家の墓群に向かって般若心経を二巻、唱え捧げました。

 次に、良王が尹良親王の菩提を弔うために建立したという「大龍寺」に
向かいました。
 次のような墓がありました――
 @服部家 丸に並び矢
 A長井家 三つ盛亀甲に花菱
 B眞野
 C山岡
 D中野
 E佐脇
 F藤本
 G大野
 H市野
 I早川
 J井上
 その他

 ここでも尹良親王の墓には巡り合いませんでした。やはり、地元の詳し
い人に訊かなければいけない……。次回はテーマを決めて、深く探るとい
う方針で臨もうと思っています――


[17]三つ柏服部さんからのコメント(2018年02月20日 11時44分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 前レスの訂正:長井家→永井家
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