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 投稿番号:101587 投稿日:2017年04月08日 06時18分15秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXX\(課題確認32)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LXXX[(課題確認31)市野氏
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101586_66.html
スレッド88の続きです。


     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


前スレは「おんな城主 直虎」に出演の鈴木氏で盛り上がりました。
遠江はやはり南朝方の影響の残る地だったのでしょうか?


とすると内山氏の存在も気になります。
そこで「内山氏」とは
http://folklore2006.jp/153.htm

関東地方・甲信地方・東海地方に多く見られ、特に新潟県と静岡県に多く見られる。
・ 遠江国浜名郡内山(静岡県湖西市新居)をルーツとする。
・ 信濃国佐久郡内山(長野県佐久市)をルーツとする。

# 遠江の内山氏は遠江国浜名郡内山(静岡県湖西市新居)をルーツとする。
# 信濃の内山氏は信濃国佐久郡内山(長野県佐久市)をルーツとする清和源氏の大井氏の一族。

状況証拠的には南朝方に近かったのかも。
知りたい所です。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月08日 21時10分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 内山氏といえば、時代は1700年代後半から1800年の初めにかけて
活躍した「内山真龍(まだつ)」を思い浮かべます。
 この真龍は、『遠江国風土記伝』で有名でありますが、実は『出雲風土記
解』を著し、出雲に実地検証に行った時のことを『出雲日記』として著して
ております。
 ビックリしたのは、出雲大社の「千家清主」「千家清足」兄弟が、1792
年(寛政四年)に、二俣の大谷村の真龍を訪ねて入門し、出雲国風土記につい
て学習し、後、清主は1806年に『訂正出雲風土記』二冊を刊行したとあ
ります。
 この内山氏は信濃国佐久郡に内山城を築き、その後裔が二俣の大谷村へ
移住したとあります。南朝とどう関係したかはわかりません……。

 他には、新居町に内山という所があり、内山氏が出ているようです。堀江
城主大沢基胤に属したとあります。南朝に属した可能性があります――
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月08日 22時57分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。


>ビックリしたのは、
>出雲大社の「千家清主」「千家清足」兄弟が、1792年(寛政四年)に、二俣の大谷村の真龍を訪ねて入門し、
>出雲国風土記について学習し、
>後、清主は1806年に『訂正出雲風土記』二冊を刊行したとあります。


本当に  ビックリ  ですね。



内山氏が分かれば松島氏も分かるような気がしています。

なぁ〜んか、この2氏は関係があるような気がします。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月09日 10時41分58秒 ) パスワード

サイエンスZEROの番組で
炭素14で新しいことが分かるようになった
という中で


5000年前に南極大陸の氷が溶けて海面が3m上がった
というのがありました。
これまでは1万5000年前にこの事が起きたと考えられていたそうです。


つまり「ノアの方舟」は5000年前の事
で良いようですね?
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月10日 06時55分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 5000年前というと、「5000年前のアイスマン」を思い起こさせま
す。このアイスマン、やはり地球的規模の気候変動と関係していたのかも知
れませんね――

 昨日は、満開の桜の下、芝刈りコンペで1日過ごし、疲れて寝てしまいま
した。けれど、「女城主 直虎」だけは夜8時から見ました。
 この中では、「瀬戸」「祝田」「蜂前神社」がキーワードとなっていまし
た。瀬戸は、三ケ日にある浜名湖畔の瀬戸でなく、金指の東にある宝林寺の
あたり、つまり井伊谷から約2キロ南に下ると金指があり、三ケ日と都田を
結ぶ362号線に合流します。そこから東に1.5キロ程東に行った所に、
宝林寺という有名なお寺がありますが、そのあたりということになります。
 祝田の蜂前神社は、鳥飼明神とか羽鳥大明神とか呼ばれていましたが、絹
織物と関係し、また秦氏と関係が深いと言われております。長上の羽鳥の服織
神社とも何らかの関係があったものと推察しております――
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月10日 08時54分12秒 ) パスワード

三つ柏さん

もうすぐ10分ほどで「直虎」が始まります。
しっかりと聞いておきますね。


都田は
直親が暗殺された都田川を連想しました。
土地勘が無いのが残念です。


>祝田の蜂前神社は、鳥飼明神とか羽鳥大明神とか呼ばれていましたが、
>絹織物と関係し、
>また秦氏と関係が深いと言われております。
>長上の羽鳥の服織神社とも何らかの関係があったものと推察しております。


     旧平家や南朝方には大事な土地だったのかしら?

祝田は「しの」さんの「直親」との愛の場所だったような?
どういう展開でしょうね。
わくわく
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月10日 13時05分54秒 ) パスワード

「直虎」を見終わって
録画してあった「ためしてガッテン」の缶詰特集を見て

ビックリしたことを書きます。


ためしてガッテンで紹介されたマグロの缶詰工場の食堂での登場者の1人が父にそっくりでした。

     (この人の先祖は伊勢伊賀出身者だ!)と思いました。
     


「直虎」は(ああいう言い逃れがあったか)と唸りました。
でも結局は「誠心誠意」での「心」の交流でしたね。


驚いたのは「逃散」というのは昔の「ストライキ」のようなものでしたか。



「しの」さんは「おんな」でしたね。
「イヤなものはイヤ!」の女の論理でしたね。

妹の「なつ」の方は
鼻っ柱の強い役の似合う山口紗弥加が演じていることで違和感はあるけれど、
なかなかの女性だったのだろう
と思いました。

    「なつ」の息子の小野家が井伊家の家老になっていく家らしい可能性が彼女から分かります。
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月11日 14時03分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蜂前(はちさき)神社を中心として、この地方の秦氏・養蚕について振り返
ってみました。

 蜂前神社でありますが、勧請されたのは、「応神11年(皇紀940年)」
とありますが、この日本書紀による年代表示は間違っておりまして、某氏
の修正年代によりますと、西暦400年前後となります。それにしても古い
ですね。祭神は「熯速日(ひのはやひ)命」であります。
 蜂前神社の社掌の「萩原元良」調書というものがありまして、その抜粋に
よりますと――
 「旧記に、応神天皇11年、私遠祖「八田毛止恵」と申す者、敕(みこと
のり)を奉じ遠江国へ下向し、八田(祝田村の古名)45町、広田(刑部村の古
名)70町、岩瀬(瀬戸村の古名)8町3反、合せて123町3反を開墾し、
八田郷字神出(祝田村中)に居住、のち子孫代々氏神の蜂前神社に奉仕する、
とあり、これをもって蜂前神社御鎮座の元始する。」(『遠江織物史稿(山本
又六著)』による)
また――
 「服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織物生産の地は、蜂前神社氏子の
 地域で、相当広くまた多数の集団であったであろうと察せられる。そして
 その織物は、絹織物であったことは明らかである。
  麻羅の宿祢が開発以前にこの地方に織物ができたであろうことことが
 察せられる。そう考えると、土地の開発者八田毛止恵の八田は秦氏一族
 ではないか。秦は波多、羽田、幡多等と書かれ、八田もその例であるとも
 考えられる。果たして然りとすれば、八田氏が当地方を開発以来、殖桑
 機織の業をも扶植し、のち麻羅の宿祢によって、改良発展せしめられた
 こととなるがいかがであろう。
  以上述べる所により、蜂前神社が遠州において、最も古い織物の神社で
 あり、その氏子は織物生産の大集団で、遠州織物の先駆者であったと云う
 べきである。」と記しております。
 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月11日 15時03分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

ビックリです。

そんなに昔から

        八田(祝田村の古名)、
        広田(刑部村の古名)、
        岩瀬(瀬戸村の古名)

これらの地域があったのですか。


>応神11年(皇紀940年)

わたしの計算では  皇紀940年 = 紀元240年に相当  です。



>蜂前神社

どうして  蜂  なのでしょうね。
秦 が訛ったから?
それとも  養蜂  もやってたのか?


ロマンですね。
高槻の神服神社との関係がハッキリ分かると良いですね。



[9]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月12日 16時07分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ明後日、高崎・前橋(群馬県)、川越(埼玉県)へ行ってきます。

 目的は――
 高崎では、井伊直政が居城した「箕輪城跡」、また直政が築城した「高崎
城址」を見ること、及び箕輪にある「善地」「上善地」を見ること(私が住
んでいる所が同じく善地でありまして、以前より興味を引かれている)。
及び、「保渡田古墳群」(埴輪に興味を引かれている)を見ること、「多胡碑」
を見ること。

 前橋では、黒川衆の松島氏に関する本を県立図書館で調べること。

 川越では、「服部民族資料館」、「喜多院」等を見たいと思っておりま
す。
 
 今回は、初めての車までの関東圏への旅となりますが、信州へ行くのと
時間的にも距離的にもそう変わらないかなと思っています。帰りましたら、
お土産話をたくさん書くつもりです――
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月12日 22時25分36秒 ) パスワード

三つ柏さん


成果を期待しています!


>服部民 俗 資料館

普通の商店の中にあります。
今の時期は五月人形が飾ってあるかも。家紋が車の中に並び矢です。

川越名物 サツマイモ のお菓子をたくさん買ってお土産になさってね。


道中お気をつけて!
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月12日 22時35分14秒 ) パスワード

服部民俗資料館の服部さんのご先祖は武田に仕え
その後
江戸時代に商人になったそうです。



武田軍団の中にいたことは
武田軍団の絵の中に見つけました。

母衣衆として描かれてました。
母衣衆は去年の大河ドラマの中で主君に仕える「目立つ役割」として描かれてました。
だって  あんな大きな袋みたいなのを背負ってるんですもの  目立ちますよね。
          馬上、疾走すると風をはらんで大きく膨れる風船の原形?


御主人、お元気だと良いのですが。
[12]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月13日 21時10分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ明朝、出発します――

 細江(引佐)の歴史について調べていましたが、結構興味深いものがこの
地には眠っている気配がいたします。特に有名な人物がいたとか、また特
に大きな建物があったとかではないですが(古墳は別として)……。
往古の時代、出雲系の人々がやってきているようです。
それは何故なのでしょう?
長上郡についても同様で、出雲系の人々がまず最初にやって来ているよ
うです……。
 そして、次には物部系、そして次に秦氏系と……。
 時間はかかりますが、これらの流れをまとめてみたいと思っています――
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月13日 22時56分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部民俗資料館で売ってる「おサツ」のお菓子類
たくさん買ってあげてくださいね。


どこかで日本の最初の天皇達8人?は
物部だから
物部が敗れてから
この天皇達は歴史上神話の人物とされた
と読んだ記憶です。


出雲→物部→秦
なかなか興味があります。
[14]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月15日 19時45分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今戻りました。一泊二日、往復730キロの旅でした。
 ちょっと疲れをとってから、報告をいたしたいと思います――
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月15日 22時28分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

ご無事のお帰り
安心いたしました。


ごゆっくり!
[16]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月16日 06時40分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 はやる心がありますので、とりあえずは細かい内容は後にして、簡単に
今回の成果を羅列いたします――

 @黒川衆の松島氏については、かなり理解が進みました。
 A箕輪城跡については、想定外の見ごたえがありました。 
 B善地においては、偶然の巡り合わせがあり、かつプラスアルファがあり
 ました。
 C保渡田(ほどた)古墳群についても、想定以上の手ごたえがありました。
 D多胡碑についても理解が進み、14年前に購入した関口昌春著『羊太夫
 伝承と多胡碑のなぞ 藤原不比等は討伐されたか』の本の理解も飛躍的に
 進みそうです。
 E川越の「服部民俗資料館」では、ご主人と30分程お話をさせていただ
 くことができました。あを様のお話も出ました。
 F喜多院にも想定外の印象を抱きました。

 以上、かなり手ごたえのあった旅でありました。これからその一つ一つに
ついて順次述べてまいります――

 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月16日 10時18分09秒 ) パスワード

三つ柏さん


良かったですね。
やはり現場に行ってみないことにはピンと来ないものがございましたでしょうね。


服部民俗資料館のご主人がお元気のようで
ありがとうございました。


では、楽しみにしていますね。
[18]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月17日 00時42分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一番の目的が「黒川郷の松島氏とは」ということで、真っ先に前橋にあ
る群馬県立図書館へ行ったわけであります。何故ならば、そこには『黒川
衆の戦い』(松島俊光著)という本が一冊あるという(但し国会図書館にも
あるらしい)情報を得ておりましたので。でも、誰かに貸出中であれば、そ
こにはないわけで、ある意味「賭け」でありました。

 著者名・署名を書いて係りの人に検索してもらう――あった! よかっ
た、これでここまで来たかいがあった……とまずは小躍りいたしました。
 その本は、約400頁の単行本で、内容的には論文というよりも、どち
らかといえば歴史物語風の書き方でありました。中身に目を通し、特に関連
していると思われる第1章と最終章をコピーし、持ち帰りました。そして、
その内容を、先ほどまで分析しておりました。
 結論としては、黒川郷の松島氏は、長上郡の松島氏ではないという確率
の方が高まりました。
 それはまず、家紋が「丸に州浜」紋であったということ。「丸一文字」
ではなかった。
 もちろん家紋だけで決めつけるわけにはいきませんが……。

 ここで一旦切ります。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 04時20分29秒 ) パスワード

家紋の世界は奥が深いのでちょっと知恵袋を見て来ました:以下コピペ


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463853189


Q:
丸の中に州浜があり、州浜の下に「一」がついています。
ネット等で調べても見つからないのですが、そんな家紋あるのでしょうか?


A:
手元の資料に【丸に一文字に州浜】が実際にあるのだから、州浜の下に一文字の家紋があるのではないかな。

ちなみにこの【丸に一文字に州浜】の家紋の使用家は、藤原氏流の都筑氏。


【州浜】の紋は、もとは浜辺などにできる島形の州を意味する。
それゆえ、この紋は、浜辺の豪族や、水神に関係する者が多く使用している。
関東では利根川下流の水郷地帯によく見られる。

また州浜は神仙の住む不老不死のユートピアとされる【蓬莱島:ほうらいじま】を意味している。

江戸時代、婚礼の家具調度品に、州浜の形の飾りを用いれられた。


ご存知かと思うが、一文字の意味は一番槍などや「カツ=勝」と読んで縁起を担いだ文字。

星の家紋には三星に下に一文字が渡辺氏の【渡辺星】、その逆の上に一文字の下に三星が毛利氏が使用した【長門三星】がある。
http://www.harimaya.com/kamon/column/hosi.html

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 04時39分25秒 ) パスワード

ということで「州浜紋」を調べたら

なんと!
使用者の姓氏の最初に
<源氏系>阿久沢が載ってて、他に驚いたのは浅羽の名があったこと。


その松島氏は阿久沢氏の関係者あたりかもですね。



で、地名の「浅羽」を検索したら
静岡と埼玉県(坂戸市)にあるそうです。


坂戸の歴史:土屋神社古墳
横穴式古墳の写真と説明があります。

http://aoudaevent.org/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9D%82%E6%88%B8%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B.pdf
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 04時47分38秒 ) パスワード

復習:南朝系でしょうね


http://mori-chan.art.coocan.jp/sakusaku/4_1_0.htm
阿久沢氏と松嶋氏



かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、
永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、
戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、
後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、


後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。


黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、
今回、本当のところはどうなのか、阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、
松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。


阿久沢氏の出自について

阿久沢氏は、黒川郷士の旗頭的な存在であったが、俗に言う奥州安倍宗任の家来(族臣)が源義家の安堵状をもって土着したという話は、戦国時代に周囲の諸将からの侵略に対し、独立を維持するための方便であって、実は加賀の国に名前の由来をもつ桃井氏末流である。
             

安倍氏の子孫という伝承は、同じ群馬県の水上にもあり、やはり源義家の降人云々といった話である。


これは阿久沢氏が徳川家直参の旗本に取り立てられた所以でもあるが、後に幕府に提出された由緒書にも、阿久沢氏は桃井氏の系統であることが明記されている。


寛政重修諸家譜には「先祖は桃井の庶流にして加賀国津々井里愛久沢の邑に住せしより、地名をもって家号とし、のち文字を阿久沢にあらたむ」という阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の系統と「家伝に九条左大臣師輔が三男師高大隈国愛久沢に居住し、愛久沢判官と号す(略)其末孫対馬守直定入道道範上野国深沢城に住し阿久沢にあらたむといふ、此家伝證すべきものなく疑ふべし」という阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の二家をのせているが、後者の家伝は後世に作られたものと思われ、「疑ふべし」の言葉通り信憑性がない。


両系統とも家紋は洲山(須山:州浜)紋が共通しており、

前者はさらに二引両の紋も使用している。
二引両は言うまでもなく、源姓足利氏とその分流の用いた紋であり、桃井氏もこれを使用している。

両家とも、深沢城主であった阿久沢氏の末裔で、いつの頃か分家したものであろうが、室町・戦国の世ならともかく、旗本として徳川幕府の内部にあってなぜ先祖を別々に名乗るのか理由がよく分らない。

何か直富〜直内の系統は、桃井の流れであることを隠す事情でもあったのであろうか。


一方、深沢城址に建つ正円寺に残る阿久沢氏代々の墓の銘には丑助直内などの名前が見られ、阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の方が深沢城主であった阿久沢氏直系と思われる。通字である「直」も、桃井直常の「直」など桃井氏の通字を思わせるのだが。


また、阿久沢氏の旗下にあって戦国期に後北条氏から感状を受けるなどした目黒氏の先祖書でも、阿久沢氏の出自を「本国播州桃井の庶流」とし、武者修行のために上州へきて深沢城主となったとしている(黒保根村目黒八重治家文書)。


これは本国を播州としている以外は、前記の阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の家譜に近い。


桃井氏は北朝・南朝と一族のなかが割れていたようであるし、
桃井直常のような桃井氏主流も、足利直義に従った観応擾乱の後は、足利幕府に対して南朝に降伏して敵対し、数度にわたって京都を占領している。

いわば足利幕府からみれば、お尋ね者であった。

赤城山南麓の宮城村から神梅、深沢にかけて、山中に潜むように室町から戦国期に活動してきたことや、同じ赤城山南麓で新田氏ゆかりの新川には、「桃井の腹切石」(新里村新川字桃井大屋)という南朝についた桃井氏(桃井尚義か)の古跡もあり、阿久沢氏はこの南朝方の桃井氏の出自ではないかと推察する。



新川の鏑木氏所蔵古記録に「三寶院配下、桃井山南善寺照明院 在所新屋敷 當アラ宮 桃井大明神 大屋小社地 祭主照明院 新田旗下 桃井を祀ると云 本村異名村主格式帳中、安養院殿 新田義重公 桃井神社祭主桃井末孫照明院 桃井山照明院 御先祖新田末」とあり、この桃井神社は桃井次郎尚義を祀るという。


明治4年に、前述の阿久沢直富〜直内の子孫である、静岡県少属阿久沢直道が前橋藩庁に提出した由緒書では、

九条家云々ではなく奥州前九年の役で降った安倍宗任の家来が土着したとの伝承に続き、

愛久沢対馬守直定入道道伴の代に至って上杉管領(関東管領上杉謙信)に属す、道伴より愛久沢の愛を阿に改めたとあり、対馬守直定より二代目が阿久沢対馬守貴綱、三代目阿久沢左馬允綱次は北条家に属し、

四代目阿久沢能登守直崇は深沢城主にして北条家に属するため、北条家よりの感状数通あり、天正18年(1590)小田原北条没落の後、深沢城の麓なる神梅に退去、城地に天台宗正円寺を建立したという。

今も正円寺には阿久沢氏の代々の墓があり、寛永14年(1637)6月20日に亡くなったという能登守直崇の墓も大きな自然石に「宗無居士」という戒名が刻されて墓地の中ほどにある。


筆者の母方の本家は、この阿久沢の四天王の一つといわれる家で、阿久沢氏から拝領したという越前下坂の脇差が残っていたが、その脇差は江戸初期のもので神梅に退去した能登守直崇か後代の当主の誰かから貰ったと想像する。


阿久沢氏に限らず、黒川郷士につきまとう安倍宗任の家来が土着したというルーツ話は、後世の「話」であって、これは確たる証拠もなく、あくまで筆者の推論であるが、高草木氏(元は真野氏)が京都周辺の出身であるといわれるなど、黒川郷士には上方から来た人々も多かったと思われ、南朝の影が感じられるのである。


[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 04時54分40秒 ) パスワード

続き
同じく  http://mori-chan.art.coocan.jp/sakusaku/4_1_0.htm   より


五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏


                         松崎というのは松嶋の誤字だろう、と。
                         由良とか里見が出て来ること。



黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。


そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。



ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。


やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、かつて関所があったといわれ、小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、関所防備のために砦程度の単郭の城(通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、真田や由良の手に落ちた後、後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、上田沢辺りの住人と見られ、また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。



権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、膳氏の取込のための政略に利用したのである。

膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが(一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。

その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。その後桐生祐綱からの要請で、祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。



一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。


松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、その他伝承からアウトラインは分かる。すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。

そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は永禄から天正くらいの人で、沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。

一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。

天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。

すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。

したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。

すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。これが五蘭田城址の現況になっている。阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、地域の名望家として現代に至っている。



黒川郷士のいわゆる黒川八城とは、以下の城である。

座間城(群馬県勢多郡東村座間:橋爪修理亮の城)
沢入城(同東村沢入:松嶋氏の城)
草木城(同東村草木:高草木筑前守の城)
神戸城(同東村神戸:小曾根筑前の城)
小中城(同東村小中:松嶋淡路守の城、松嶋氏の本家は小中であり、沢入、小夜戸に広がったという説がある)
三ヶ郷城(同東村三ヶ郷(花輪の近く):東宮修理の城、永禄年間に東宮丹波守が築く)
五蘭田城(同黒保根村関守:もともとは別に松嶋氏が築いた崖端城があったが、戦国期に黒川郷士が山頂に築城、整備、のちに上杉氏、真田氏に占拠され、由良氏に属した後、由良氏が後北条氏から離反するや後北条氏の命により阿久沢氏らが奪回)
深沢城(同黒保根村城:深沢氏ら神梅地衆が永禄年間に築城、天正2年(1573)上杉氏に占拠され、後に阿久沢氏が再び入る)

ほかに、皿窪の砦(同黒保根村上田沢)、手振山の砦(群馬県山田郡大間々町神梅〜大間々)があり、小さな寄居などもあったらしい。




高津戸の要害山にある高津戸城は、上杉謙信に後援された里見兄弟が立て籠もったことで有名であるが、南北朝の頃山田氏によって築城され、戦国の天正期にいたり、一時松嶋式部入道古伯が出城として使用していたことが分っている。高津戸から程近い大間々町塩原の松源寺は松嶋式部入道古伯の子である松嶋図書助創建といわれ、近辺には松嶋姓の家も割合多い。

ちなみに、中曽根康弘元首相が紹介して全国的に有名となった星野物産の「手振うどん」は、手振山から名前がつけられている。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 10時03分08秒 ) パスワード

「直虎」見ました。

ま、ドラマですから、大団円で♪チャンチャン♪


それにしても凄かったですね。
ふぅ〜
手に汗握る展開でした。


「なつ」さん
なかなか、でしたね。

「亡き夫からアッチにふらふらコッチにふらふら弥次郎兵衛のように、と言われております」

     つまり「バランスを取れ」
     つまり「小野家が残れるように一方に傾くな」
     つまり「兄上=但馬守政次=が謀をめぐらしてもうちの家はそれに乗るな」

確かに  玄蕃は 生前 政次とは違うことを終始言ってましたね。


深いわぁ〜
[24]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月17日 14時13分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回、直虎の若武者姿は別人のようで、オカッパ頭の直虎よりよほど男
っぽく、ゾクッといたしました。
 たかが徳政令と思っておりましたが、こんなに政治体制の揺れ動く元と
なっていたとは想定外でありました。
 また、方久も政次もいずれは成敗されてしまう運命にあることを思うと、
戦国の世のはかなさ、今日一日を精一杯生きることの意味、明日のことに
ついては、神様仏様に何とかすがりたいという戦国の世の人々の気持ちが
分かるような気がいたします。特に「十一面観音」はその祈りの中心にあ
ったのではないでしょうか。

 さて、黒川郷(群馬県の渡良瀬川渓谷一帯)の松嶋氏でありますが、『黒川
衆の戦い』によりますと、もともとは奥州の安倍一族に仕えておりました
が、源頼義・義家に攻められた安倍一族の敗戦後、義家に降ったということ
であります。その名前は「鳥海(とりうみ)弥三郎」で、やがてその後裔が
「松嶋」を名乗ったということです。「阿久沢」を名乗ったのは「栗谷(くり
やがわ)次郎」の末裔で、松嶋(松島)と阿久沢は同族であるようです。

 奥州安倍家の残党である阿久沢や松嶋氏は、源義家・義国と代々源家に仕
え、源義重が新田氏を名乗ってからも、新田氏にに仕え、新田義貞が戦死し
た後は、黒川郷で独立し、居住して勢力を蓄えていたということであります。
 戦国時代になってからは、桐生氏に攻められんとするが、その前に家臣に
降る。
 次には由良氏の幕下となるが、小田原城攻めの時に由良国氏は前田利家に
加わり、結果として由良国繁の幕下であった黒川衆も許されることになるけ
れど、それ以後没落し、離散して行く……。結構ややこしい歴史経過であり
ます。

 由良国繁の弟の繁詮(しげあき)は遠江の横須賀城主となりますので、ひょ
っとしたら松島氏の一部がこの渡瀬繁詮に付いて来たという可能性はわずか
ながらありますが、この地で繁栄する程の勢力になれたかどうかは疑問で
あります――


 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 14時47分42秒 ) パスワード

「おんな大名 vs おんな領主」

みごとでしたね
寿桂尼はまたもや直虎を認めてましたね
「出来るおんな」は「出来るおんな」を認める。
きっと自分の若い頃を思い出すのでしょうね。



(オトコってどうしてこうもバカばっかなの?)という寿桂尼の心の裡を聞いたような。



寿桂尼は結婚以来
(オトコなんかアテに出来ないから自分がしっかりしなきゃいけない)と京女の後家の頑張りでやって来たのが
田舎娘の直虎も同じ気持ちを持っているのを知って
自分の若い頃を見た思いだったのだろうな、
と思いました。


義元を有能な大名に育て、尚且つ、京都の公家の優雅さも身につけさせたのに
孫の氏真は優雅さは受け継いだものの武将としては無能。

だから
直虎ならば
虎松を立派な男に育てて、今川の役に立つ武士にさせる、
って見抜いたのかも。



「しの」さんは直虎憎しで感情だけで小野但馬守政次に取り込まれていく女に描かれてますね。


寿桂尼   vs   直虎   vs   しの   vs   なつ
女の4つのタイプが描き分けられてて非常に面白いです。



千賀さん(直虎のママ)は上手に泣いてましたね。
娘が無事に帰って来て本当に安心してましたね。



小野但馬守政次は今回も  メンドーなオトコ  でしたね。

直虎が襲われたのは今川?朝比奈?の仕業?
それとも
但馬守政次の計略?


但馬守政次が直虎の危機に剣を抜こうとした真意は?
今イチ分からなかったです。


    あそこで直虎を助けて自分を好きになってくれるように点数を稼ごうとした?
    直虎を自分の刀で殺そうとした?
    


もう既にこの時には政次は直虎を諦めて憎んでた?
    これは無いような気もする。
直虎の寝所に蛇を入れて怖がる直虎を救って点数を稼ぐつもりだったんじゃないかな?


高橋一生の演技がブキミ過ぎて捉えどころの無い政次が良く出てると思うけど
とにかく
政次は虎松の後見人になんとかなろうとしているから
    1)自分と直虎が夫婦になるのが一番良い解決案だと
    2)もし夫婦になれたら井伊家を存続させる第2案
    3)もし夫婦になれないなら、虎松の後見人になった後で井伊家を乗っ取るのが最終案
そういう計略だったのかな?


まぁ、とにかく
作戦が裏目裏目にと出るところが
小野但馬守政次の甘いところかなと。

その甘さは  ♡直虎ラブ♡  が原因なのかな?と。


虎松の後見人になりたい、なんとしてもなりたい!  というのが政次が身を滅ぼしていく誤った選択だったのかな?と。


寿桂尼さまの「オトコは何でこうも揃いも揃って役立たずなの?!怒」という叫びが聞こえたような。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月17日 15時06分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


「直虎」談義は話が尽きませんね。


徳政令については書きたいハナシがありますが
ここでは書けないのが残念です。
ま、メールで書くかも知れません。その気になったらですが。


で、栗谷川(くりやがわ)次郎 の件ですが



                鳥海とか厨川とか
                まさに
                東北(奥羽)ですね。あ、鳥海は出羽かな?恥

                源氏がらみになって行く、ということなんでしょうね
                源義家が安倍氏を滅亡させてしまって
                義家に従った安倍氏が阿久沢とか松島氏になったのですか。
                へぇ〜


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%A8%E5%B7%9D%E6%9F%B5
    
厨川柵(くりやがわのさく)は、岩手県盛岡市の西にあったと言われている。俘囚と言われる豪族安倍氏が築いた勢力範囲最北の古代城柵である。

衣川柵などと並び、安倍氏の重要拠点であった。

「厨川」は、中世から近世には栗谷川、栗屋河とも記された。


河川の合流点付近にあり、約10mの断崖絶壁の自然要塞上にあったとも伝えられる。所在地は広範囲にわたるとも見られ、明確ではない。現在の岩鷲山天昌寺(盛岡市天昌寺町)のある天昌寺台地が中核部として有力視されるが、農地化・宅地化による地形の変化、度重なる河川の流動により未確定である。昭和56年(1981)以後に推定地域の発掘調査が行われたが、安倍氏の柵跡であるという確証は得られていない



厨川柵は、平安時代の奥六郡のうちの岩手郡に存在した安倍氏の柵の一つで、現在の岩手県盛岡市の西方にあったと考えられている。

その範囲は現在の通称「館坂」以西、盛岡市天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られていた。

旧地形では天然の要害を形成する小河川や沢の痕跡が見られることから、現在の曹洞宗岩鷲山天昌寺を中心とする里館遺跡がその中核であったと推定され、
里館遺跡が厨川柵、北東約800mにある安倍館遺跡(盛岡市安倍館町)が「嫗戸柵」として、一連の柵を形成したと考えられていた。






厨川柵は安倍頼時の次男安倍貞任が拠点とした。

よって安倍貞任は「厨川次郎」を名乗った。                                    へぇ〜。ここスゴイ!



前九年の役において源頼義ら朝廷軍との最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで滅んだ。

安倍氏滅亡後、奥六郡は清原氏の所領となり、さらに安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となる。
岩手郡は奥州藤原氏の一族「樋爪氏」が所管したと考えられている。


文治5年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。
頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、
厨川を訪れ、戦功のあった工藤小次郎行光を岩手郡地頭に任じた(『吾妻鏡』)。

厨川工藤氏は厨川を拠点に岩手郡を統治し、「岩手殿」と呼ばれた。

工藤行光は伊豆の御家人とされているが、甲斐国の工藤氏一族という説もある。

また源頼朝の命に拠り、一帯の精神的支柱である岩手山を神格化した「岩鷲山大権現」の大宮司となり、
安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。

阿弥陀・薬師・観音の祭祀権を掌握し、名実共に当地の支配者となった。

この祈祷所が現在の「曹洞宗岩鷲山天昌寺(かつての天台宗岩鷲山天晶寺)」に相当する。

天昌寺には、栗谷川家の墳墓が現存する。



南北朝対峙争乱のさいに北朝方につき、三戸南部氏により地頭職を停止され、
近郊10ヵ村を領知するに至ったが、厨川(栗谷川)氏は南北朝期以後も有力氏族との婚姻を重ね、最終的には南部家の家臣に組み込まれていった。

天正20年(1592年)、「諸城破却令」により厨川城は廃城された。


現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構であり、工藤氏が司った時代のものと考えられている。

北上川と雫石川の合流点以北、現在の盛岡駅以北はかつての「厨川村」であり、旧名で上厨川(盛岡市西部)、下厨川(盛岡市北西部)に分かれる。

なお、盛岡城築城のとき御菜園(盛岡市菜園地区)も、かつては厨川であったが、北上川改修により城下に組み入れられた。
[27]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月18日 23時28分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日より4年目に入りました。3年間でどれだけ自分自身が進化をとげた
のかは、今の所はっきりとはわかりません。歴史の迷路の中から脱出する道
を推理することが、以前よりは格段とできるようになりつつある――いわゆ
る学習ネズミと同じ心境であります――

 さて、関東の松島氏については、松島俊光著『黒川衆の戦い』の中の一文
をもってくくりたいと思います――
 「現在、群馬・埼玉両県内に住む松嶋・松島を苗字とする家は、三千軒余
 ともいわれている。松嶋の苗字は、全国では、数十カ所から起きているが、
 関東では、松嶋式部一族の、いわゆる上野・松嶋家のただ一つである。

  群馬・埼玉に移住の可能性があったのは、長野県に起きた信濃の松嶋家
 と、愛知県に起きた三河の松嶋家が考えられる。しかし、交通機関が発達
 していなかった当時には、簡単には移住してこなかったであろう。

  そこで、群馬・埼玉両県内に住む松嶋家で、出身が明らかな家は別であ
 るが、出身の明らかでない松嶋家は、おおむね上野(こうずけ)・松嶋家の
 一族か、あるいは同家と何らかの関係を持つ家と思われる。

  松嶋式部の本拠地であった東村・黒保根村・新里村・大間々村を中心に
 二百戸を超える松嶋家があり、特に、東村の沢入・小夜戸・小中などには、
 七十余戸が集中的に居住している。いかにも、かつての松嶋式部の本拠地
 らしい。

  しかし、全部を同族とみることはできない。何故ならば、明治初年の姓
 氏の申告の際、小夜戸地区松島部落で、青木・黒田・星野・金子・東田な
 どを名乗っていた家があり、それらの家が、居住地にちなんで松嶋・松島
 に改名して、紋章まで州浜紋に変えてしまったからである。」
  
  いろいろ示唆するものはありますし、問題もあります。
  @「三河の松島氏」とは何者なのか? (熱田の神職系松島氏か?)
  A交通手段はなかった……? (徒歩が当たり前の世界でありましたが。)
B入って来た松島家には信濃=伊那の松島家があった。(伊那の松島信久
   の弟で、戦乱の末生き残った松島源五郎の一族は、武蔵国比企郡奈良梨
   ・羽生の地で復活した諏訪頼水の元に、孫の仕官に応じて一緒に行って
   いる。その約二年後、諏訪氏とともに上野(こうずけ)国総社に国替え
   で移動。その九年後、諏訪頼水は諏訪高島に戻っているが、松島氏も
   同様か。)

  再度、松島氏について各種資料を熟読してみると、やはり長上郡の松島
 氏は諏訪系・神家系の松島氏の可能性がますます高まってきております。
 宗良親王に味方した信濃武士で神家(みわけ、しんけ)一党三十二家の中に
 松島氏が入っておりました! 南北朝の時代に松島家が存在していたとい
 う事実……縦の移動、天竜川の上流から下流への可能性は高い!

  その三十二家とは――
 「関谷、深沢、皆野、三塚、四宮、若尾、不覚、保科、神野、笠原、千野、
 藤沢、松島、座光寺、栗原、上原、栗林、矢崎、風間、平島、平方、栗沢、
 遠山、向山、中村、西保、真志野、真野、脇間、薗屋、大妻、小島、中野、
 中島、弥津、浦野、大垣、有賀、平井、平出、神田、神内、知久、桓原、
 宮所、小坂、安倍、元沢、高遠、原、安部」
               (松島茂光著『苗字の話 第四章 中世末期
                の南信濃の松島氏』より)
 
  
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月19日 02時22分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました。

徒歩が当たり前の昔の人間世界
ところが
これがナカナカあなどれないのですよね。


      なんせ人間はアフリカのケニアのあたりから世界中に散ったんですから(ハナシ、大きすぎ)


もう4年目に突入ですか。
過ぎた時間というものは速いものですね。


      この3年間に思わぬ事項に巡り合いました。
      服部氏も実にいろいろあること。
      伊賀の服部系が藤堂采女に化けたのは100%知りませんでした。


本当に知らないことばかり。
点が線になった感動。
      面にはなかなか行きつきませんが。



神道とシャーマニズムが混乱すること。やっぱりゴチャゴチャになる。
でも  「磐座」とか「神奈備」とか「磐境」とか「神・・・ひもろぎ・・・草かんむりに離」とか  
お蔭さまで区別がつくようになったこと。  

ハッキリ分かったのは(日本人ってヤッパリ「これだ!」という単純にバッサリ区別ができないな)ということ。


恐らく松島氏も紆余曲折があって南朝方にはつけなくて北朝方についたり南朝方だったけど北朝方だったと系図に書いたりとか、いろいろあるのかなと。

    それが今に存続出来た秘密かも知れないし。


いろいろな人間がいて
そういういろいろな人間を集め+活用したのが家康だったのかなとか。

    伊奈忠次が驚きでした。
    もともとは伊那の人だそうで清和源氏系
    結局は寛政年間に改易に。


人間の勉強をたくさんさせて頂きました。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月19日 07時52分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の直感ですが、日本の歴史の根っこには「出雲」があり、出雲―平家―
南朝はつながっているような気がするのですが……?!
 別の言い方をすれば、饒速日―桓武―後醍醐の「点」をつなぐ一本の「線」
があるように直感しますが、いかがでしょうか?
 この点、仮説として今後検証していきたいと思っています――
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月19日 09時21分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


出雲 → 諏訪 → 南朝
というのは非常に分かるのです。
これは簡単ですよね。


             そこに枝葉がつく。


もう1つの流れが
アマテラス → 物部 → (敗北) → 大陸・半島勢力 →  現代に至る




>饒速日―桓武―後醍醐


これが  繋がる  んですよね。
さすが日本!



【饒速日別名】  物部祖
迩芸速日命、邇芸速日命、天火明命
天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)


十種の神宝を携え天磐船に乗って河内国に降臨された天孫 饒速日命。
物部氏、穂積氏、熊野国造ら有力な豪族の祖神。呪術の神様。



藤原氏の陰謀 → 秦氏と半島  →  桓武天皇即位 → 平安京 → 賀茂氏を味方に付ける  → 藤原氏の全盛へ  → 秦氏消える



後醍醐
母  五辻忠子

父五辻忠継は忠子が生まれた文永5年(1268年)に出家している。内大臣花山院師継の養女として後宇多天皇の後宮に入り、弘安9年(1286年)奨子内親王(達智門院)を産み、さらに尊治親王(のちの後醍醐天皇)、性円法親王、承覚法親王をもうける。その後、舅である亀山院の寵愛を受け、永仁6年(1298年)7月21日、亀山院の沙汰により従三位となる。正安3年(1301年)7月20日 准三宮。嘉元3年(1305年)9月、亀山院の崩御により出家し、法名を蓮花智とした。当時大覚寺統の嫡系は西華門院所生の後二条天皇およびその皇子邦良親王とされていたが、延慶元年(1308年)後二条天皇が崩御し、若年の邦良親王に代わり中継ぎとして忠子所生の尊治親王が皇太子となった。尊治親王は文保2年(1318年)に即位し(後醍醐天皇)、忠子は同年4月12日に院号宣下を受け、談天門院と号した。翌元応元年(1319年)11月15日、52歳で薨去。




後醍醐天皇の母方祖父

五辻忠継は藤原北家五辻家の三代目である。
父雅継は参議になれなかったが、忠継は参議になることができた。

ただし在任期間は短く、
参議を辞した後に従三位以上の位階に昇ることはできなかった。

しかし、忠継薨去後に子孫がはからずも後醍醐天皇と後伏見天皇の外戚となる。



後醍醐天皇と住吉大社の関係:

摂津国の住吉行宮にあった義良親王=後村上天皇=は、
南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。




ここで住吉大社が出て来たことで
物部氏の復活!
饒速日とつながりますね。


     日本ってグルグルグルグル繋がりますね。
     そうかっ  
     我が母方はやっぱり南朝方に決まってたのか。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月20日 08時54分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あを様の理解力は素晴らしいですね。私など足元にも及びません。
 出雲についてまた調べてみました。
 聖徳太子についてもまた調べてみました。
 天武天皇についてもまた調べてみました。
 藤原不比等についてもまた調べてみました。
 桓武天皇についても調べてみました。
 後醍醐天皇についても調べてみました。
 といっても一夜漬けの浅薄な知識でありますので、ここで論述するまで
には至りません。
 ただ、群馬に行って保渡田古墳群や多胡碑を見て、上野(こうずけ)が中臣
鎌足に関係していた地であったこと、またその子不比等が日本の歴史を改竄
してしまっている(好意的に言えばカムフラージュなのか)という事実を再
認識させられたことが今回の旅の大きな収穫ではありました。これについて
は、以後の機会に述べて行きたいと思います。
 後醍醐天皇を理解するキーワードは「スサノオ」のようです。スサノオ
と大国主、そしてそれらの一族、王系と神官系……何か意味深な世界に入
って行きます。
 後醍醐天皇を深く考察すれば、日本の歴史の深い意味がわかってくるの
ではないかとの直感があります、単なる権力争いではないところの――

次回は、保渡田古墳群について報告いたします。
 これから、タケノコ掘りに出かけます――
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月20日 10時51分31秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E6%B8%A1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

見て来ました。
きれいですね。


ただし未だに  前方後円墳  前が四角で後ろが○というのが納得出来ていないです。
前円後方墳  ならストンと理解出来るのですが。


後醍醐天皇と「スサノオ」
http://www.ookuninushiden.com/newpage16.html


第五章 スサノオと天皇家


 祭神がスサノオに変わったのはなぜか

 出雲大社の祭神が平安時代になってから大国主神からスサノオに変わったことは前述したがこのことをさらに掘り下げて考えてみたい。
 実は奈良時代から平安時代にかけて、天皇家にも大きな変化が生じていた。次の天皇の系譜を見ていただきたい。


        系図はURLへ


天智天皇から桓武天皇

 天智天皇の崩御の後、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天皇に即位(天武天皇)し、それ以降、天皇は持統天皇(女帝)、文武天皇、元明天皇(女帝)、元正天皇(女帝)、聖武天皇、孝謙天皇(女帝)、淳仁天皇、称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚)と続く。
 この天武天皇に繋がる天皇を天武系の天皇という。

 ところが、天武系の天皇は称徳天皇を最後に断絶する。
 この称徳天皇というのは例の怪僧弓削道鏡に入れあげた挙げ句、すったもんだを引き起こしたことで有名な女帝である。称徳天皇朝において、天武系の多くの有力な皇族が粛清されてしまったため天武系の適当な後継者がいなくなってしまったのである。

 そこで称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫の白壁王に白羽の矢が立ち、宝亀元年(七七〇)十月一日、天皇(光仁天皇)に即位する。
 光仁天皇は和銅二年(七〇九)の一〇月一三日生まれというから即位したときの年齢は六十二歳とかなりの高齢であった。今では六十二歳の人を老人呼ばわりしたら怒られるが当時としては立派な老人である。

 『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、白壁王は孝謙朝以降、次々と起きた皇位継承をめぐる政争に巻き込まれて暗殺されることを恐れ、酒を飲んでは行方をくらましていたと情けないようなことが記載されている。

 この時代は淳仁天皇が廃位になって淡路島に流され横死したり、長屋王が陰謀にはまって自刃したりと有力な皇族にとっては受難の時代で、そこで白壁王は自分に禍が及ぶのを恐れ、アル中で無能を装っていたのだ。
 ところがその白壁王に突然皇位が転がり込んできた。要するに時の実力者の左大臣藤原永手らによって担ぎ出されたのである。

 光仁天皇以降、天皇家は他の系統に切り替わることなく現在の天皇に続いている。
 この天智天皇に繋がる天皇を天智系の天皇という。
 そして、光仁天皇の子の山部王が次に天皇に即位(桓武天皇)する。この桓武天皇の時、都が京都に遷都され平安時代が始まることになるのである。




 すなわち、奈良時代天武系の天皇の時代には出雲大社には大国主神(天武天皇)が祀られ、天皇が天智系に切り替わった平安時代以降にはスサノオ(蘇我馬子)が祀られていたことになる。
 これはいったいどういう理由からであろうか。天智系の天皇のスサノオに対する崇拝は出雲大社だけにとどまらない。


 上皇達の熊野詣

 平成一六年七月七日に『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界遺産リストに登録され、色々話題になったが、その紀伊山地の霊場の中心に位置するのが熊野三大社(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)、いわゆる熊野三山で、神と仏をともに祀る神仏習合の熊野信仰の霊場で古来より修験道の修行の地とされている。

 延喜七年(九〇七)に宇田上皇が熊野に詣でて以来、亀山上皇までの歴代の上皇たちは熱心に熊野詣(上皇の熊野詣は熊野御幸という)を繰り返し、その様子は「蟻の熊野詣」にたとえられるほどで熊野へ参拝する都人はあとを絶たなかったと言われている。
 宇田上皇の熊野詣から一八三年後の寛治四年(一〇九〇)に白河上皇が熊野を詣で、この白河上皇がじつに九回もの熊野詣をした。この白河上皇の度重なる熊野詣が、熊野信仰が高まるきっかけとなったといわれている。

 多くの上皇が熊野詣をしているが、とりわけ白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇の四人の上皇が熱心に熊野詣をしている。というより上皇の熊野詣はほとんどこの四人の上皇に限られる。
 中でも後白河上皇は三四回、後鳥羽上皇は二八回も訪れている。
 しかしなぜこの時代上皇達は盛んに熊野詣をしたのであろうか。このことは大きな謎とされている。

 この時代の動きは興味深く、また複雑なので簡単に説明しておこう。
 熊野詣が盛んになるきっかけになった白河上皇はそれまで朝廷を支配していた藤原氏から政治の実権を奪い、「院政」を始めた上皇として知られている。
 それまでの藤原氏のおこなった政治は摂関政治と呼ばれていた。 


自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた男子を天皇にする、そして自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、天皇が成人してからは関白として政治の実権を握るというのが摂関政治である。これを繰り返し行うことによって藤原氏は朝廷の実権を長期間にわたって維持してきたのである。

 ところが藤原氏の娘を母にもった後冷泉天皇のときに一人の子もできないまま天皇が崩御してしまったため、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏と外戚関係をもたない弟の尊仁親王が後三条天皇として即位(一〇三四年)してしまった。

 後三条天皇は政治の実権を藤原氏から取りあげ、国政の改革を行う。子の白河天皇は、母は藤原氏の出身だったが、いったん取り上げた政治の実権を藤原氏に戻すことはなく父の路線を引き継いだ。應徳三年(一〇八六)に天皇の位を子の善仁親王(堀河天皇)に譲り、上皇になったのちも政治の実権は手放さなかった。これを「院政」という。

 政治の実権を奪われた藤原氏の地位は完全に下落し、逆に白河上皇は「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉が残るほど権勢を誇るようになった。
 大治四年(一一二九)、白河上皇が崩御すると、その権力と富はそのころ既に天皇を退位し上皇になっていた孫の鳥羽上皇に移る。

 永治元年(一一四一)、鳥羽上皇は子の崇徳天皇を退位させて、崇徳とは異母弟の躰仁親王(近衛天皇)を即位させた。しかし、近衛天皇は久壽二年(一一五五)、わずか十六歳で、子をもうけることなく崩御してしまった。
 そこで鳥羽上皇は崇徳の同母弟の雅仁親王(後白河天皇)を二十九歳で即位させ、その子を皇太子とした。

 翌年、鳥羽上皇が崩御する。するとその直後、これまで鳥羽上皇に押さえられ続け、不満を抱いていた崇徳上皇が実力で政権を奪うべく挙兵し、保元元年(一一五六)後白河天皇の間に戦いが起こる。これが武家の政治が始まるきっかけとなった保元の乱である。
 この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に配流され、京都に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。

 保元の乱からわずか三年後の平治元年(一一五九)、こんどは平清盛と源義朝の間に戦いが起こる。平治の乱である。平清盛が勝利をおさめ,平氏が政治の実権をにぎり、今度は「平氏にあらざれば人にあらず」と言われるほどの平家の全盛時代となってしまった。

 そのため政治の実権を奪われた後白河上皇は武家政権打倒の陰謀を次々に画策し、その手腕は源頼朝をして「日本国第一の大天狗」とあきれさせている。
 その後平氏は源氏によって滅ぼされ、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれることとなる。


後白河上皇の後を継いだ孫の後鳥羽上皇は承久三年(一二二一)鎌倉幕府倒幕のため挙兵(承久の乱)したがあえなく失敗、隠岐に島流しにされてしまった。
 これにより政治の実権は完全に武士に移るとともにあれほど盛んだった上皇達の熊野詣も終焉を迎えたのである。

 このように上皇達が盛んに熊野詣を繰り返していた時期はそれまで政治の実権を握っていた藤原氏が没落し、それに代わって武士が台頭し、朝廷といろいろな軋轢を生じていた時代と重なる。

 そして盛んに熊野詣を繰り返していた四人の上皇達は「治天の君」と呼ばれた天皇家の実権を握っていた実力者達なのである。天皇や「治天の君」ではない上皇はほとんど熊野詣をしていない。

 後白河上皇は三四回熊野詣をしているが熊野本宮大社には毎回必ず参拝しているのに対し、熊野速玉大社、熊野那智大社には十五回参拝したのみである。このことから上皇たちの熊野詣の目的は熊野本宮大社参拝であったことがわかる。

 熊野本宮大社の主祭神は家津御子大神(ケツミコノオオカミ)である。ずいぶん変わった名前だがこの神はスサノオのこととされている。 
 すなわちこの時代、藤原氏や武家たちとの権力闘争の矢面に立っていた「治天の君」達は熊野本宮大社を盛んに参拝し、そこに祀られていたスサノオに頭を垂れていたのである。


続く



[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月20日 10時53分32秒 ) パスワード

後醍醐天皇と出雲大社

 天皇家とスサノオの関係はさらに続く。
 文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位する。
 後醍醐天皇は元寇の役ののち、鎌倉幕府に武士達の不満が募っていたのにつけ込み倒幕を計画したのである。

 まず正中元年(一三二四)に鎌倉幕府打倒を計画したが事前に発覚し失敗してしまった。
 しかし天皇の倒幕の意志は固く、元弘元年(一三三一)に再度倒幕をくわだてたが肝心の兵が集まらず失敗、天皇は捕らえられて翌年隠岐島に流罪となってしまった。
 しかしそれでも倒幕をあきらめなかった後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で再度挙兵したのである。

 その後、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞、楠木正成達の働きで鎌倉幕府を倒すのだが(建武の中興)、隠岐島から脱出した際、天皇は船上山から三月十四日、出雲大社に対して一通の綸旨(紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨、重要文化財)を送っている。 

 その内容は出雲大社に天皇政治の再興を誓い奉り、その成就を祈念したものだがそのわずか三日後の三月一七日に、今度は三種神器の一つである草薙剣の代わりとして出雲大社の神剣のうち一振りを差し出すように命じた綸旨(後醍醐天皇宝剣勅望綸旨、重要文化財)を出している。

 その後、出雲大社から差し出された神剣を手にした後醍醐天皇はたいそう喜んだと伝えられている。
 前述したようにこの頃の出雲大社の祭神はスサノオである。草薙剣の代わりに出雲大社の神剣を所望した後醍醐天皇は自分をスサノオになぞらえていたのである。



明治天皇と氷川神社

 さらに天皇家のスサノオに対する崇拝は明治維新にも及ぶ。
 明治天皇は明治元年(一八六八)九月、長年天皇の住まいであった京都御所を発って江戸に向かい、十月十三日に江戸城に入った。

 その直後の一七日には埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社を「武蔵野国総鎮守」とする勅書を出し、十一日後の二八日に氷川神社に行幸し、祭祀を行っている。
 天皇が勅使を差し遣わして奉幣を行う神社のことを勅祭社というが、明治維新以降近代になってからの正式な勅祭社は、この氷川神社が最初である。

 ちなみに氷川神社の氷川は出雲を流れる簸川に由来するといわれている。
 また、行幸の直前の十月二十日に祭神をスサノオだけとし、それまで祀られていた大国主神、櫛稲田姫を祭神から外している。ただし、のちに元出雲国造であった千家尊福が埼玉県知事に就任した際に大国主神、櫛稲田姫は再び祭神に戻され現在に至っている。

 このようにスサノオは歴代天皇に大変崇拝されていたことがおわかりいただけると思う。それも天皇家にとって大きな節目ごとにスサノオに篤い崇拝をよせていたことになる。
 スサノオは神話の中においてアマテラスに反逆し追放される神として描かれ、その正体は蘇我馬子なのだからこれは一体どうしたわけであろうか。

 それに較べると皇祖神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮への天皇の行幸は江戸時代までは持統天皇しか記録になく、初代天皇の神武天皇を祀る橿原神宮が創建されたのも明治二十三年(一八九〇)でしかない。それも地元の有志の運動によって建てられたというのだから、歴代の天皇の出雲神、とりわけスサノオに対する崇拝は際だっている。

 なぜ歴代の天皇はこれほどまでにスサノオを崇拝していたのであろうか。
 奈良時代の天武系の天皇が天武天皇を大国主神として出雲大社に祀り崇拝していたのは良く理解できる。天武系の天皇にとって天武天皇は偉大な先祖だったからだ。彼らは天武天皇を皇統譜の起点すなわち皇祖として認識し、天武天皇を大国主神として出雲大社に祀っていたのである。

 ではなぜ、平安時代以降の天智系の天皇は出雲大社の祭神をスサノオに切り替え、それ以後スサノオをこれほどまでに熱心に崇拝していたのであろうか。
 考えられる理由はただ一つだ。

 それは「実は天智系の天皇と蘇我馬子は血で繋がっている。それも太い繋がりがある。」と考えるほかない。

 天武系の天皇にとっての天武天皇がそうであったように、天智系の天皇は蘇我馬子を皇統譜の起点すなわち彼らにとっての皇祖として認識していたのではないだろうか
 そう考えれば出雲大社の祭神が平安時代になって大国主神からスサノオに切り替わったことが理解できるのである。

 このように歴代天皇のスサノオに対する態度は明らかに蘇我馬子と天智系の天皇には血の繋がりがあることを窺わせるものがある。
 しかし『日本書紀』の記述では天智天皇と蘇我馬子の間には一切血の繋がりはないことになっている。血の繋がりがあるということは『日本書紀』のどこかに欺瞞があるということになる。
 次に、このことを確かめるために『日本書紀』の記述から蘇我馬子と天智天皇の関係を探って見ることにしたい。


http://www.ookuninushiden.com/newpage17.html
第六章 天智天皇の出自


 謎の皇子 押坂彦人大兄皇子

               略
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月20日 10時57分10秒 ) パスワード

なるほどねぇ〜
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月20日 11時10分22秒 ) パスワード

このサイトの派生サイト:
http://hadokiko.kilo.jp/shoutoku/index.php?%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87


明治天皇と氷川神社

http://www.ookuninushiden.com/newpage16.html
<抜粋>
明治天皇は明治元年(一八六八)十月十三日に江戸城に入った。
その直後の一七日には埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社を「武蔵野国総鎮守」とする勅書を出し、十一日後の二八日に氷川神社に行幸し、祭祀を行っている。
天皇が勅使を差し遣わして奉幣を行う神社のことを勅祭社というが、明治維新以降近代になってからの正式な勅祭社は、この氷川神社が最初である。
ちなみに氷川神社の氷川は出雲を流れる簸川に由来するといわれている。
また、行幸の直前の十月二十日に祭神をスサノオだけとし、それまで祀られていた大国主神、櫛稲田姫を祭神から外している。
ただし、のちに元出雲国造であった千家尊福が埼玉県知事に就任した際に大国主神、櫛稲田姫は再び祭神に戻され現在に至っている。
このようにスサノオは歴代天皇に大変崇拝されていたことがおわかりいただけると思う。それも天皇家にとって大きな節目ごとにスサノオに篤い崇拝をよせていたことになる。


後醍醐天皇の南朝復活

後醍醐天皇の吉野での天皇即位は、天智天皇の北朝に対する、大海人皇子・天武天皇の南朝の復活であったのです。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-7/2013_04_22.htm

しかし、はじめから皇太子・尊治親王は兄・後二条天皇の遺児である邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。その結果、自己の子孫に皇位を継がせることが否定された尊治親王は不満を募らせて、父子の仲は次第に疎遠になっていった。10年後の文保2年(1318)2月、花園天皇の譲位を受けて尊治親王は31歳で践祚、翌月に第96代後醍醐天皇として即位した。だが、実権は院政を敷く父・後宇多法皇にあった。元亨元年(1321)、後宇多法皇が政務を後醍醐に譲って隠棲し、次いで元亨4年(1324)に没したことで、ようやく後醍醐天皇の親政が開始されることなった。



後醍醐天皇と出雲大社

http://www.ookuninushiden.com/newpage16.html
<抜粋>
文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位する。
後醍醐天皇は元寇の役ののち、鎌倉幕府に武士達の不満が募っていたのにつけ込み倒幕を計画したのである。
まず正中元年(一三二四)に鎌倉幕府打倒を計画したが事前に発覚し失敗してしまった。
しかし天皇の倒幕の意志は固く、元弘元年(一三三一)に再度倒幕をくわだてたが肝心の兵が集まらず失敗、天皇は捕らえられて翌年隠岐島に流罪となってしまった。
しかしそれでも倒幕をあきらめなかった後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で再度挙兵したのである。
その後、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞、楠木正成達の働きで鎌倉幕府を倒すのだが(建武の中興)、隠岐島から脱出した際、天皇は船上山から三月十四日、出雲大社に対して一通の綸旨(紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨、重要文化財)を送っている。 
その内容は出雲大社に天皇政治の再興を誓い奉り、その成就を祈念したものだがそのわずか三日後の三月一七日に、今度は三種神器の一つである草薙剣の代わりとして出雲大社の神剣のうち一振りを差し出すように命じた綸旨(後醍醐天皇宝剣勅望綸旨、重要文化財)を出している。
その後、出雲大社から差し出された神剣を手にした後醍醐天皇はたいそう喜んだと伝えられている。
前述したようにこの頃の出雲大社の祭神はスサノオである。草薙剣の代わりに出雲大社の神剣を所望した後醍醐天皇は自分をスサノオになぞらえていたのである。



楠木正成の銅像が証明する天皇家南朝説

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD%E7%BE%A4%E5%83%8F%E5%86%99%E7%9C%9F


                          明治天皇替え玉説の有名な写真ですね


前列右から四人目が坂本龍馬、刀を肩越しに抱えている七人目が明治天皇・大室寅之助
後列一人目が勝海舟、十三人目が西郷隆盛


ウキ抜粋
この写真は古くから知られており、明治28年(1895年)には雑誌『太陽』(博文館)で、佐賀の学生たちの集合写真として紹介された。この「フルベッキ博士とヘボン先生」という記事を書いた戸川安宅は被写体となった人々については一切言及していない[5]。日本滞在経験のある日本学の研究者ウィリアム・グリフィスはその著書『Verbeck of Japan』(1900年)の中で、フルベッキがアメリカに送ったこの写真は「のちに政府の様々な部署で影響力を持った人々」「のちに皇国の首相となった人物」が写されていると述べており、大隈重信と岩倉具定、岩倉具経らが確認できる、としている[6]。その後、明治40年(1907年)に刊行された『開国五十年史』(大隈重信編)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」のタイトルで掲載されている。




<新次元の光>
http://ameblo.jp/ici05876/entry-11515479503.html


さて、話を地家寅之助にもどすと、実際、地家寅之助が護良親王の末裔である話は吉田松陰も書き残しており、幕末には松蔭が天皇としての英才教育をしていたと言われています。地家寅之助は、この後、同じく護良親王の末裔である大室家に養子に入り、大室寅之助と名乗りました。

また、この他の重要な証言としては、梨本宮守正の娘で朝鮮王朝に嫁いだ李方子は、「明治帝は南朝の人だ」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の妹の息子・興光も、「睦仁親王と明治帝は別人だ」との証言があります。

また、愛知県の熊沢宏道は熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝の正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されたが、その後具体的は進展は見られず崩御されたと。

さらに、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。
そして、日本の歴史の中では、南北朝時代以降も長い間の懸案事項として、皇統における南北朝の争いや南朝の復興運動というものがあり、国学者の本居宣長、平田篤胤、水戸光圀、吉田松陰らによって教導されてきました。
ーーーーーーーーーーーー
明治天皇・大室寅之助は幕末の毛利藩が匿っていた後醍醐天皇の第一皇子である護良親王の末裔であるというのです。


                         これも有名なハナシですね


「乙巳の変・大化の改新」のクーデターで、出雲系聖徳太子・蘇我善徳天皇が、「百済皇子ギョウキ・中大兄・天智天皇」と「百済大佐平チシャク・藤原鎌足」によって殺されてから、日本の天皇は権力争いの渦の中に巻き込まれていきました。

その最初が、聖徳太子の子である「大海人皇子・天武天皇」が、百済皇子・「中大兄・天智天皇」のクーデターによって奪われた聖徳太子・蘇我善徳の政冶を取り戻す「壬申の乱」の戦いであったのです。
ですから「壬申の乱」という反乱扱いそのものが、史実の改竄であるともいえるのです。
「大海人皇子」を中大兄・天智天皇の兄弟だとする日本書記の記載は、「壬申の乱」が聖徳太子・蘇我善徳の子「大海人皇子」の弔い合戦であったことを隠ぺいするための大嘘であるのです。

「大海人皇子」とは聖徳太子・蘇我善徳天皇と、皇后である天橋立籠(この)神社の海部氏(アマベ)系の「刀自古郎女(とじこのいらつめ)」との間の第一皇子であったのです。
「刀自古郎女」は蘇我馬子の娘とされていますが、それは真実を開示するための暗号であったのです。
何故ならば、「刀自古郎女(とじこのいらつめ)」が蘇我馬子の娘であるとするならば、聖徳太子・蘇我善徳が自分の妹を正妻として娶り皇后としたという有り得ない話となってしまうからです。


以下聖徳太子のお話へ

   若狭湾には物部氏の祖、「ニギハヤヒ」を主祭神とする天橋立・籠(この)神社があります。

   聖徳太子は若狭湾まで行っているのですから、母親の「物部鎌姫大刀自連公」に繋がる天橋立籠(この)神社を参拝しない筈がありません。


などなど



ウイキより

聖徳太子の母上
穴穂部間人皇女
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E7%A9%82%E9%83%A8%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3

「間人」地名

京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。ただし、『日本書紀』『古事記』などの文献資料には穴穂部間人皇女が丹後国に避難したとの記述はない。


     ややこし過ぎ
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月20日 12時06分10秒 ) パスワード

古代の婚姻関係は、ややこし過ぎて、ワケ分からなくなりますが

       >>>聖徳太子・蘇我善徳が自分の妹を正妻として娶り皇后としたという有り得ない話となってしまう


いえいえ
有り得たかも。
アリエナイと考えるのはごく最近の考え方のようですよ。


ムカシは自分の叔父と結婚したり、兄弟姉妹が結婚って、本当に、あったから。

(ただし時代が下るに連れて、同母の兄弟姉妹の結婚はダメ、という考えが出て来たわけです。
遺伝病がヤバイというのが分かって来てからでしょう)


同母の姉と弟の愛で有名なところでは  大津皇子と姉の大来皇女  があったと記憶しています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90

大津皇子の母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、
姉の大来皇女も斎女とされたため、
大津には後ろ盾が乏しかった。

そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。



それから孝徳天皇の皇后だった間人皇女は同母兄の天智天皇と近親相姦の関係だったと言われてますね。


で、もともと、近親相姦というのは罪じゃないのだとか。
それで<<最近は>>「児童虐待」ということで罰っするようになったのだとか。
だから  近親相姦がアヤシイ、  というのはごくごく最近の思想なんだそうですよ。



ムカシの天皇家なんて
息子の嫁や孫の嫁に手を出したり
ちょくちょくそういうハナシに出遭います。

例えば保元の乱の元となった白河法皇と璋子さんの道ならぬ関係。崇徳院が生まれてしまいました。

璋子さんのオットは鳥羽天皇。鳥羽天皇の父が堀河天皇で祖父が白河天皇。

ややこし過ぎ。



なのでもっともっとムカシの聖徳太子の時代の男女関係は(そりゃ、今の感覚からでは分からないわよ)ということで。



天皇家の近親相姦話なんてマズイから、明治維新後、古代の秘密に手が加えられたのではないでしょうか?
我々は政治的に書き替えられたハナシしか知らないのかも。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月21日 04時30分01秒 ) パスワード

姉と弟の結婚で超有名な世界史的事実で言うと  クレオパトラとその弟  が有名ですね。
もともとはギリシャ系だから
ギリシャもそうだったのかも。


そして息子の嫁に手を出したことで超有名な話ですと  玄宗皇帝と楊貴妃  ですね。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月21日 06時36分09秒 ) パスワード

空野青海のあを様

 いろいろの情報、ありがとうございます。歴史において何が真実かという
問題――何でもありの歴史情報、その中で真実を見極めるのは至難の業であ
りますね。私の持っている知識などは例えていうなれば、スプーン一杯程度。
でも歴史にちなむ玉石混淆、千差万別の情報はプール一杯程もある。それら
の情報の中で、何が真実かは、今後古墳の発掘が進めば、一番の立証証拠と
なりうると予感しています。但し、多くの皇統にからむ古墳は厳重に管理さ
れており、発掘は進みません……。それでも偶然発掘された古墳もあり、そ
れらの情報や文献等、今ある情報を基にした論及がなされ、少しずつ解明が
進んでいる気配ではあります。

 今回、保渡田古墳を見て、初めて継体天皇の今城塚古墳を見た時のことを
思い出しました。その時の特に印象に残っているのは、無数の埴輪群であり
ました。今回、この保渡田古墳群の中の復元された「八幡塚古墳」にも、そ
の埴輪が多数復元、並べられておりました。
 「はにわ」は私たちに何かを語ろうとしています。埴輪郡を見ていると、
声や笛や太鼓の音が聞こえてきそうです――何かを言っているような目や顔
やしぐさをしています――

 なお、あを様の情報に刺激されて、かつてサラサラと目を通した『神社
仏閣に隠された 日本史の謎と闇』(中見利男著)を読み直してみましたとこ
ろ、今回は雪が解けるようにその内容が理解できました。
 不比等を悪者にしている論調が多いですが、不比等の使命感は、すべての
真実を「籠の中」に閉じ込めるためだったということではないでしょうか?
その善悪の彼岸は、いつの日か訪れるものと期待しています――
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月21日 13時05分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


「埴輪」は中国の始皇帝の兵馬俑の真似かなとも思います。
兵馬俑は実物大ということですが
日本はそこまでの技術が無かった?



事実はいくら用意しても真実には程遠い
と聞いています。
事実は断片でしかない、と。


実は我が家の入っているタワマンが6月1日から別のプロバイダーに変わります。

このプロバイダーはIP(?)電話とネットとテレビを提供です。

代金は毎月の管理費で徴収されていて
その他に
テレビは3台目からと特別なチャンネルと電話が別途徴収されます。
    我が家は3台目のテレビと日本語放送とIP?電話をお願いしています。


このIP電話への切り替えが3月30日に行われ
以来
今週末まで(希望)電話が使えない事態になっています。


で、本題に入ります:

うちのマンションは2007年に完成し
我が家は2008年に購入し
実際に定住し始めたのは2009年の8月からです。


2009年8月にビックリしたのは  ハワイのホノルル市内しか  電話が繋がらないのです。
ホノルル市内でも遠くの方には掛からないのです。


普通、電話って市外にも掛けられますよね?
で、電話局に電話をしたら「市外通話?そんなのやってない」と言われたのです。

で、数年間、家電話から市外にかけられませんでした。
でもケータイがあるので無料で掛けてましたが。こちらは AT&T です。


その後、プロバイダーがハワイアンテレコムという電話会社になって
5年間
ハワイアンテレコムを使ってました。


そしたら今年の3月にプロバイダーが変更になる
という話が出て
3月30日にIPに切り替わるために我が家の電話は不通になっています。

    まさか今週末まで不通の予定だったなんて
    来週も不通のまま6月1日まで不通かも・・・謎


こういう中でチラチラと小さな「事実」を知らされます。
そしてやっと2009年8月に市外通話なんてやってないと言われた姿が分かって来ました。
また
何故家電話が今週末(または6月1日まで?)不通なのかやっと分かって来たように思います。


      最新大喜利:
     「天国のようなハワイとかけて何と解く?」
     「南アメリカ大陸の北部高原の世界と解く」
     「その心は?」
     「あるぱかばっか」
           アルパカ
           パカ→ばか
           ばっか


まるで盲人グループが象を語るような世界です。
確かに彼らは象についての感想を述べます:鼻が長い;脚が太い;シッポが短い等


自分が得た「事実」を語ってはいるものの「部分」であって「全体」ではない。


歴史って、そういう、盲人が象を語るようなものだろうと思います。

クレオパトラが何故シーザーの子を生んだのか?
何故クレオパトラはアントニウスと恋愛関係になったのか?
何故玄宗皇帝は安史の乱を迎え楊貴妃を死なせたのか?


歴史探求には、少しずつ真相に近付く喜びがあります。


我が家の場合は2009年8月に
「なんでホノルル市内でも外れた場所には繋がらないの?」
と思ったことの真相が2017年4月にやっと解明出来そうな距離まで近づきました。

     ほぼ7年ですよ〜


戦国時代の真相に近付くには、一体、何年かかるんでしょうね?
ふふふ


>いつの日か訪れるものと期待しています

はい
[40]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月21日 16時11分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 群馬というところは、想像以上の歴史の宝庫でありました。

 もともと「群馬」は「ぐんま」でなく、「くるま(車)」と読んでいたそう
であります。確かに官牧があって馬も豊富にいたので「群馬」という漢字の
意味では当っている訳でありますが、「くるま」は、この地方を支配した、
「地方豪族」の「車持(くるまもち)氏」から来ているという説が有力であり
ます。
 そして、「かみつけの里博物館」の案内係から聞いた話にビックリいたし
ました――それは、中臣鎌足の妻(藤原不比等の母)はこの「車持氏」の娘で
あるということであります! 何ゆえ? その理由については想像が及びま
せんでした。博物館で色々な資料を購入して調べた所、ある程度の理由がわ
かりました。
 それは、車持氏は群馬県出身の有力貴族「上毛野(かみつけの)氏」と祖先
が同じで、古く雄略天皇(五世紀後半)の時代、天皇が乗る輿(こし)を献じた
ため、「車持」の名を与えられたという。
 車持氏は、職業集団「車持部(べ)」を束ねる職務をその名に冠している。
このため、古くからヤマト王権に接近した先進的な氏族だと思われる。奈良
時代には、車持氏の主流は都の貴族となっており、天皇の側近として重要な
宮廷行事を代々にわたって司っていたということであります。

 以前、群馬にある「多胡碑」について調べた時、「中臣羽鳥連」の話が出
てきた訳でありますが、この「中臣〜」は「中臣」氏と同族であり、子孫に
多胡碑にうたわれた「羊太夫」がいたということであります。この羊太夫の
碑を巡って、イエスとの関係が取り沙汰されているということ……。
 つまり、中臣氏と「羊」の関係とは何かという謎……これは、多胡碑を
訪れた時に資料を集めておりますので、あとで言及したいと思います。
 鎌足や不比等の謎を少し解明できればと思います――

 明日は早朝より岐阜へ一泊で芝刈りに行ってきますので、この書き込みの
続きは明後日にいたします――
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月21日 22時45分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


>車持氏
>中臣鎌足の妻(藤原不比等の母)はこの「車持氏」の娘


「かぐや姫」のお話を久し振りに思い出しました:

庫持皇子は藤原不比等(丹比真人島)とされ、
不比等は天智天皇の落胤との説があり、
母の姓が「庫持」であるためといわれる。


以下に部分をコピペ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E

成立年は明らかになっていない。原本は現存せず、写本は後光厳天皇の筆とされる室町時代初期(南北朝時代、14世紀)の古筆切数葉が最古といわれ、完本では室町時代末期の元亀元年(1570年)の奥付を有する「里村紹巴本」、無奥書だが永禄〜天正頃とされる[注釈 1][3]「吉田本」が発見されているものの、いずれも室町時代を遡るものではない。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』、また、『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり」と言及されていることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。

またこの物語に関連あるものとしては、『丹後国風土記』、『万葉集』[4]、『今昔物語集』[5]などの文献、謡曲『羽衣』、昔話『天人女房』、『絵姿女房』、『竹伐爺』、『鳥呑み爺』などが挙げられる。当時の竹取説話群を元に、とある人物が創作したものと考えられる。

作者についても不詳である。作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学(漢語・漢文訓読体の使用)・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。また、和歌の技法(掛詞・縁語の多用、人名の使用)は六歌仙時代の傾向に近いことが指摘されている[6]。

以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、菅原道真[注釈 2]など数多くの説が提唱されている。



竹取物語の本文系統が本格的に研究の対象となったのは昭和に入ってからである。昭和5年(1930年)、初めて徳本正俊によって3系統に分類された[7]。昭和14年(1939年)に新井信之によって「古本系」「流布本系」の分類が示され[8]、そして昭和40年(1965年)に中田剛直がそれまでの研究を受けた上で示した、流布本を3類7種とする分類が現在最も一般的なものとなっている。古本系については、中田は2類2種、南波浩は後光厳院本を加えて3類4種に分類している[注釈 3][9]。

流布本系
通行本系とも呼ばれる。現在最も広く流布している本文。

第1類 第1種 武藤本[注釈 4]・平瀬氏旧蔵本・高山図書館[注釈 5]蔵(田中大秀旧蔵)本
第2種 加賀豊三郎蔵本・武田祐吉蔵本・久曾神昇蔵甲本
このうち、久曾神蔵甲本は極めて特異な本文を有した写本である[注釈 6][10]。第3種 前田善子旧蔵本・山岸徳平蔵本

第2類 島原候旧蔵本・北島家旧蔵本・度会正董書入本・荒木田久老書入本

第3類 第1種 蓬左文庫蔵本・吉田幸一蔵本・久曾神昇蔵乙本・静嘉堂文庫蔵丹羽嘉言筆本
第2種 A群 尊経閣文庫蔵本[注釈 7]・戸川浜男旧蔵本・彰考館蔵金森本・群書類従本[注釈 8]・里村紹巴自筆本[注釈 9]・高松宮旧蔵本[注釈 10]
B群 内閣文庫蔵本・滋岡氏[注釈 11]旧蔵本

第3種 イ種 大覚寺蔵本・書陵部蔵霊元院外題宸筆本・書陵部蔵伊左左米言本
ロ種 徳本正俊蔵本・古活字本[注釈 12]・整版本 など

中田によれば、現存する写本の大半は第3類第3種に属する正保3年版本の転写本である[11]。

現在最も一般的な竹取物語の本文は、第3類第3種に属する古活字十行甲本を底本とするものである。


古本系
上賀茂神社三手文庫に伝わる、今井似閑が宝永4年(1707年)に校合・書き入れを行なった元禄5年(1692年)刊本における奥書に、

          ある古本を以て一校せしめ畢ぬ
          互ニ見合セハ好本と成侍るへし
          宝永四亥ノ八月 洛東隠士


とあることから名づけられた。流布本系と比較すると数多くの異文を有しており、より古態を残すとされる。
第1類 後光厳院本 (断簡) いずれも南北朝時代(14世紀前半)頃[注釈 13][12]の一写本から切断された断簡とみられる。伝承筆者を後光厳天皇筆とする9葉と、二条為定筆とする1葉の、計10葉が確認されている[13]。
第2類 新井本 新井信之が所蔵していたもの。文化十二年(1815年)の写本で、古本系統で唯一の完本である。第3類の諸本よりも第1類の本文に近いとされる。
第3類 第1種 三手文庫本・桃園文庫太氏本
第2種 光藤本・京大本・書陵部蔵恬斎書入本・桃園文庫書入写本・平瀬本[注釈 14]・服部本

            何ゆえに  服部本  ???  笑

全て三手文庫本の転写であり、流布本系の本文に対する書き入れ・校合の形で伝えられる[14]。

上記の他に、伝承筆者を阿仏尼とする古筆切の存在が藤井隆によって報告されている[注釈 15] [15]。

なお、和歌の一部が鎌倉時代の『海道記』や『風葉和歌集』、室町時代の『塵荊抄』に、梗概としての本文が室町時代の源氏物語の梗概書である『源氏物語提要』や注釈書である『花鳥余情』(共に絵合巻についての記事)に、それぞれ引用されている。

古本系本文と流布本(通行本)系本文については、南波浩は『海道記』に引用された和歌二首が、一首が古本系からの引用であるのに対し、もう一首が流布本系と古本系を混用したものになっていることから、鎌倉時代中期頃には既に両系が並立していたとする[16]。

古本系本文に対しては、「中世における改変本文の可能性が強い」(片桐洋一)[17]「江戸時代の学者が『竹取物語』の不審部分を合理的に理解しようとしてテキストをいじくったもの」(保立道久)[18]といった批判的な意見もあるが、中田剛直は『花鳥余情』の梗概本文は新井本に近い古本系の一本に近似すること、古型をもつと指摘される京大本や狩野文庫本などの『風葉和歌集』の竹取和歌が古本系であることから、「現存古本系統系の一本が、通行本系に先行せるものではないか」[19]とし、上原作和も「まさに「古本」と称する価値の本文を有するもの」[20]と述べるなど肯定的な意見もあり、意見が分かれている。




かぐや姫のモデル                                   ココ

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている[注釈 35]。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がいる。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』には開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命または伊志麻命の娘・賀具夜媛命などがあげられている。

イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している[24]。

5人の貴公子のモデル[編集]

竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。

また、庫持皇子は藤原不比等(丹比真人島)とされ、不比等は天智天皇の落胤との説があり、母の姓が「庫持」であるためといわれる。
                                             ココ


石作皇子のモデルは多治比嶋(丹比真人島)と推定され、多治比嶋(丹比真人島)が宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。



時代設定

この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。

また、この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。



時代背景

江戸時代の国文学者・加納諸平は『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある[25]。



由縁の地


日本各地に竹取物語由縁の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っている。また以下の7市町(市町村コード順)では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されているが、行政間での繋がりの交流であり直接「竹取物語の舞台」だということにこだわった「サミット」を行っているのではない。これら地域は、上記に記されたような地名起源説など無く竹林の関係や天女伝説地それに地名に「竹原」とある等の関係からで物語発祥にこだわった団体ではない。



木花咲耶姫を主祭神と祀る浅間神社の総本社・富士山本宮浅間大社静岡県富士市 物語の結末で、富士の山(士に富む山)が登場することと、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという富士市説から麓の富士市にある竹林を由来としている。また、竹取物語と類似の話が富士山本宮浅間大社(富士宮市)の縁起として伝えられており、祭神の木花咲耶姫がかぐや姫のモデルだとする説もあるが、祭神を木花咲耶姫に擬するのは近世からともされる。



京都府向日市竹の子の里であり孟宗竹が多い。孟宗竹は江戸時代からのものである。





奈良県広陵町の讃岐神社拝殿奈良県広陵町 竹取の翁は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていることから、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉)と考えられている。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される藤原京から十分通える距離であり、「竹取物語ゆかりの神社」と称する讃岐神社も鎮座している。

奈良県高取町 古代歴史の舞台である飛鳥や藤原京の南に位置する高取山は、中世には高取城がそびえたち、現在も立派な石垣が残っている。この高取山が、竹取の翁が住んでいた場所だという説がある。鎌倉時代に僧・仙覚が、江戸時代にも国学者・契沖が、「竹取」は「タカトリ」と読み、高取山が竹取説話の舞台であるという説を唱えている。

岡山県真備町(現倉敷市)
広島県竹原市
香川県長尾町(現さぬき市)
鹿児島県宮之城町(現さつま町)
滋賀県長浜市木之本町の辺りは、日本最古の羽衣伝説の舞台となった余呉湖や、背後の山の字名が「香具山」と呼ばれる伊香具神社(いかぐ)、石作の皇子を連想させる石作神社、月を連想させる高月町といった、竹取物語に登場する事物に関係するような神社や地名が多数点在する。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される近江大津京から、馬を乗り継ぐ等すれば通えなくはない距離である。



かぐや姫・衣通姫・李方子さま

オーラがすごかったのでしょうね。
李方子さまは「衣通姫!」と思わず心の中で叫びました。
そして
おつきの女官たちを従えたお姿はまさに「かぐや姫」でした。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月23日 02時26分08秒 ) パスワード

メールで頂きました:


(1)

古墳時代の墳墓からの殉葬の確認はなされて居ません。
弥生時代の墳丘墓からも確認されて居ません。

未だに発見されていないです。
魏志倭人伝の記述に在るのみです。



下記に詳しい記述があります。
http://nihonsinwa.com/page/1081.html

卑弥呼が死んだ後に殉葬をしていると書いてあります。
ちなみに卑弥呼の死は248年。

垂仁天皇の時代は3世紀後半かと思われます。
殉葬の風習があったというのは十分ありうる話です。

ところが、殉葬してある「古墳」がないのです。
つまり「本」には書いてあるが、物証が無い。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月23日 02時33分05秒 ) パスワード

(2)聖徳太子は蘇我氏(秦氏:新羅系)だった


日本の「孝徳天皇」後半5年間の「白雉」と、半島の太和(真徳天皇)の後半5年間「永徽」は、同じであった。

孝徳天皇645年‐650~654年:真徳女王647年 -650~654年は、同じだが。
違うのは、「永徽と白雉」


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/542.html   の抜粋です。下記がです。


聖徳太子は蘇我氏(秦氏:新羅系)だった。
関祐二氏の研究によれば、聖徳太子は蘇我氏(蘇我入鹿)と同一人物だったらしい。



百済人:藤原鎌足を始祖とする藤原不比等が編集した日本書紀では、これを隠すために、
同一人物を善人(聖徳太子)と悪人(蘇我入鹿)と言う二つに分けて、 蘇我氏(聖徳太子)の業績(行政改革)を隠蔽し、業績は自分が横取りしたらしい。



蘇我氏は、出雲王朝系なので、地理的に新羅に近かったのではないだろうか。



朝鮮でも百済と新羅は仲が悪かった(現在も続いている)が、
日本でも九州王朝(百済系)と出雲王朝(新羅系)の対立があり、
朝鮮における対立に呼応している。。



蘇我氏は新羅系か

       金 信は、=金 ?信(ゆしん)の ?の字が脱落しています。

百済と高句麗を滅ぼして統一新羅の基礎を築いた新羅の王族である金春秋と金信と言う二人の将軍がいるが、
金春秋の妻は金信将軍の妹であるが、
それは蹴鞠での出来事がきっかけだったと言う。



日本においても中大兄皇子と中臣鎌足の仲は、蹴鞠の会での出会いであったと言うから、
あたかも新羅での蹴鞠での出来事をヒントとしていると言う説がある。



朝鮮には歴史上3人の女王がおり、全て新羅の女王であった。

最初の女王は善徳女王という名前であり、632年に即位したと言う。

日本の蘇我善徳という人物は、蘇我入鹿であり、聖徳太子でもあるから、 善徳という名前も新羅っぽい名前なのかも知れない。



神功皇后(トヨ)は、出雲王朝(新羅系)だったが、
なぜか九州の熊襲にこだわる 仲哀天皇を武内宿禰と結託して暗殺してまでも、「新羅に行きたい、新羅に行きたい」と 言っていたかが分かってくる。



いずれにしても、出雲王朝(新羅系)にとって新羅はルーツであり、 九州王朝(百済系)にとっては新羅は敵であった。




秦氏は出雲王朝(新羅系)の技術ブレーンだった

秦氏は、新羅経由で来日したかも知れないが、
秦氏自身は新羅人ではなく、
西域(弓月国)から来た帰化人(渡来人)である。



そして、秦氏は西域(弓月国)に伝わる養蚕などの技術に明るかったので、 出雲王朝(新羅系)の技術ブレーンだったと言える。



出雲王朝(新羅系)は、住吉神社や新潟県弥彦神社のような海を航海する技術に長けていた。

これは、通商という面と開拓と言う面があり、
単に物流(当時は少なかった)をしてたと言うより、
船で海岸に上陸しては、その土地を開拓して行ったのである。



商売上手だった秦氏の神社ビジネス

秦氏の特性として、船で海岸に上陸した後は、必ず付近の高い山に登り、 そこに神社を作るとともに、地上を見渡して、次に行うべき内陸部の開拓地域を調べるのである。



              なかなか面白い情報です。
              ありがとうございました。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月24日 06時48分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は遠征疲れのため集中力が戻らなく、論及作業はお手上げでした。
本日の早朝には、また元の雑念のない静かな状況に戻っております。

 不比等について、遠征前に読みました関裕二氏の『わらべ歌に隠された
古代史の闇』という本の内容を、更にもう一度見つめなおしてみました。
 ここで一言にまとめることがまだできませんので、熟読後、まとめを書
かせていただきます。

 但し、一つだけ要約を書かせていただきます――
 「竹取物語に出て来る「くるまもち(くらもち)の皇子」は、藤原不比等
をモデルとして(イメージして)書かれている」と関氏は言っています。
 先日、群馬に行ってビックリしたこと、それは中臣鎌足の妻=藤原不比等
の母が群馬に出自を持つ「車持(くるまもち)氏」であったことであります。
 従って、不比等が「くるまもちの皇子」のモデルであったことは、ほぼ
間違いないであろうと思われます――
 
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月24日 10時12分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


東へ西へ
いくら遊びとはいえお疲れでしょうね。
ふふふ



藤原不比等
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89

天智天皇の皇胤説

前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。



平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。


歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる[2]。

なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。

また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。


                         これも納得がいきます。
                         定恵が嫌われて遠避けられたのは「孝徳天皇」の子だったからか?
                         孝徳天皇は裏切られ続けた「つなぎ」の天皇でしたし。
                         


不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ[3])の家にしばらくかくまわれていた[4]ことと関連する説がある。


もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある[5]。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している[6]。


へぇ〜
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月24日 10時25分39秒 ) パスワード

本日の「おんな城主 直虎」
もうおかしくってギャハギャハ笑いましたよ。


小野但馬守政次
コテンパテンでしたね。
井伊谷に戻れば「しの」さんにまでバカにされて。


「なつ」さんは
言動にナゾナゾの台詞が多過ぎで
今日のは全く分からなかったです。
謙虚そうな女、というのは分かったけど
台詞の意味が分かりませんでした。

来週、彼女の台詞の謎解きがあるのでしょうね。


「しの」さんと「なつ」さんは、確かに政次の言うように「姉妹なのに真逆」。


政次の「しの」さんへの言葉
「噛み付いてばかりだと」友達無くすよ。
これも面白かったです。


やっぱり政次は直虎が今でも好きですね。
でも直虎には「政次なんか大っ嫌いっ!理由なんか無いっ!嫌いなヤツは嫌いっ!」でしたね。


でもキレ者の政次のことは領主としては認めざるを得ない。
直虎の  おんなの悩み  全開でしたね。
アタマでは政次が頼りになることは分かっているけど感情が政次を許せない。

非常に  おんな直虎  面白かったです。


これから多く登場していく「赤ふんどしのオトコ」。
政次の恋敵?
どうなるんでしょうね。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月24日 16時13分41秒 ) パスワード

そうそう直親の母が鈴木の出身と言ってましたよね。


有り得るけど
どこまで史実か
ドラマはしょせんドラマですから。


井伊の親戚になるぐらいですから
やはり南朝がらみかも。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月24日 22時55分25秒 ) パスワード

このようなお話を頂きました:


尾張氏。

日本書紀は沈黙していますが,次の続日本紀では,壬申の乱に天武が勝てたのは,尾張氏のお陰と言う書き方をしています。

でも,尾張氏ですけど,どうも出自がよく分かりませんが,熱田神宮との関係がありそうです。

あそこには,三種の神器の一つ草薙の剣がありますけど,持ち出し禁止の上に,天皇も見れないそうです。


尾張の他に,氏名が国の名前になったのは紀伊の紀氏,それと上野下野になった毛野氏位だと思います。
でも,尾張氏,紀氏,毛野氏はいずれも出自がはっきりしません。


私は,壬申の乱は,大和対出雲の戦争だったと思います。
古代豪族で,蘇我,物部,大伴,尾張,紀は出雲出身だたっと思います。
特に尾張氏ですけど,この氏族,大国主の直系の子孫だったと思います。
大国主の皇子のタケミナカタが,諏訪で大和に対して,出雲再興の大抵抗をしました。
最後は,タケミナカタが出雲から出ません。
と言う条件で,タケミナカタは許されますけど,尾張氏ですが,タケミナカタの子孫で無かったかと思います。
だから,草薙の剣の管理を許された。
タケミナカタが,諏訪で落ち着いた先が,諏訪大社だと言われています。

源平時代は,今の木曽谷から,諏訪までを木曽と言っていたと言う説もあります。
そうなると,名古屋周辺に,タケミナカタが行くことも出来たと思います。

天武天皇の湯沐地(皇子の直轄地,つまり領土です。)は安八郡だったようです。
そして,どうも湯沐地の管理を任されていたのが,尾張大隅と言う人物のようです。
そうなると,天武天皇も,タケミナカタの直系でなくても,子孫だった可能性もあると思います。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月25日 13時29分41秒 ) パスワード

続き


日本書紀の大きな謎に,
尾張大隅,額田王の名前が全く出ていないことです。

尾張大隅は,次の続日本紀,額田王は万葉集で,天武の妃で十市皇女を産み,その後天智の妃になったと言う事が分かりますが,
日本書紀では名前が出てきません。


それに,柿本人麻呂は,日本書紀,続日本紀にも名前が出て来ません。

天武天皇が、一番愛していた子供は,十市皇女のようです。
十市皇女ですけど,天武の先に死にますが,死んだと言う知らせが,行幸に行こうとしたときに,十市皇女が死んだと聞いて,悲しみでその場に卒倒して,その日の行幸は中止になったと日本書紀では書かれています。

ですので,額田王は,天武にとっては重要な女性だったと思います。


「王」は,天皇の直系の孫と言う意味で,
女性の場合,女王とも書かれます。

王と女王の違いは,政治的に大きな力があったかなかったかだと言われています。
ですので,額田王は,政治的にも力のあった女性だったと思います。


ところが,日本書紀にも全く名前がない。
わざと隠したとしか思えません。
それで,額田王ですが,推古天皇の孫娘説もあります。
[50]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月26日 09時59分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代の迷路から脱出するのに時間がかかりました。やっと、大筋が見えて
きました――

 色々な説があり、まるで走馬灯のようにグルグル回っており、一体どれが
正しいのか惑わされてしまいます。
 十年間古代史を研究しても、歴史の正解にはたどり着けないと思います。

 こんな中、何を信じたらいいのでしょうか。様々な情報の中から、自分と
してはこれを信じると、自分の歴史的「直感」に頼る他ありません。

 その私の直感は、大筋として飛鳥昭雄著『聖徳太子の預言書 「未然紀」
が解き明かす真・日本史』と、大杉博著『古代ユダヤと日本建国の秘密』に
書かれている内容を重ね合わせたものに真実があると結論付けました。
 つまり、関裕二氏の言うように藤原不比等一人が悪者ではなく、聖徳太子
を中心として、日本に根付いたユダヤ(ヘブライ)の真実(特に四国剣山に隠
されたアーク等)を、唐(キリスト教関係外国勢力)から守るため、朝廷を挙
げてその隠蔽工作を行ったということであります。
 この隠蔽作業は、記紀のみでなく、その他の諸文書・諸神社・諸神に及び
ますので、日本の古代史は虚構で塗り固められた楼閣……本当の真実をつか
まない限り、永遠に虚構の掌の上の議論から抜け出すことはできません。

 ヘブライ隠蔽工作については、時間をかけてまとめたいと思います――
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月26日 12時47分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


>日本の古代史は虚構で塗り固められた楼閣……
>本当の真実をつかまない限り、永遠に虚構の掌の上の議論から抜け出すことはできません。

本当に古代史はグルグルグルグル回って、また、元に戻って、の繰り返しですね。

で、名前がいろいろあって、またもやこんがらがります。
今は名前が一応固定されてて良いですね。


>ヘブライ隠蔽工作については、時間をかけてまとめたいと思います――

お願いします。
[52]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月27日 11時38分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ちょうど1週間前になりますが、タケノコ堀りに姉の所に行き、帰りに
姉の仲人さんのところへタケノコを届けてまいりました。その仲人さんは
早い時期に既に亡くなっておられますが、御子息が家を継いでおります。
その家は「小野家」であります。ルーツは、「女城主 直虎」に出てくる
小野但馬守政次の4番目の弟・小野五郎左衛門正親であります。
 小野家は政次が処刑され、嫡男系は断絶いたしますが、いくつかの庶流
は絶えることなく名家として続いて行きます。
 仲人宅の御主人とお会いした時、私の頭の中では今までの知識やドラマ
のシーンが浮かび、暫しご主人の顔を見つめておりました。
 小野家全体については、内藤家、青山家、松島家等、色々なつながりが
ありますので、折をみてまとめてみたいと思います。

 さて、群馬を訪れた時の話に戻ります――
 「箕輪城跡」は「かみつけの里博物館(保渡田古墳群)」より北西に約4キ
ロ行った所の山の上にありました。長野氏が1500年代に築城、1590
年に井伊直政が12万石で城主になった城であります。その8年後に直政は
高崎に新城を築き、箕輪城は廃城となりました。
 行ってみて驚いたことは、その広さであります。先だって島田の諏訪原城
跡(武田信玄が築く)を訪れた時、東京ドームの3倍程の敷地にビックリした
わけでありますが、箕輪城跡はさらに大きく、東京ドームの4倍位あるので
はと推測しています。ビックリしたのはその敷地の大きさだけでなく、榛名
山の丘陵の上にあるだけに、180度の展望であったということでありまし
た。
 再建されていたのは、「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」
で、それは要塞の入り口・門という感じでありました。

 本丸跡では、般若心経を2巻、唱え捧げててまいりました――
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月27日 14時54分49秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


小野家は小野但馬守政次の4番目の弟・小野五郎左衛門正親の子孫ですか。
5番目の男子だから五郎左衛門なのでしょうね。

やはり男子をたくさん持つと家が栄えると聞いた通り
現代にまで続いているというのが良いですね。


>長野氏

やはり井伊直弼の懐刀だった長野主膳を連想します。
井伊直政が箕輪にいた以来の関係だったのかもですね?


長野主膳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E4%B8%BB%E8%86%B3

伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐の弟で先祖は上州長野氏とされる。


しかし、これは戸籍だけのことで出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。
歴史に登場するのは天保10年、場所は滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居したときからである。

天保12年、次郎左衛門の妹で六歳年上の瀧女(たきめ。多紀とも)と結婚し夫婦は京都、伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴。

同年12月に近江国坂田郡の市場村にしばらくいたが、翌年には伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居。
ここで国史、和歌などを教授した。滝村、坂田郡とも和歌山藩と縁がある点が共通している。
経緯は明らかではないが、天保13年11月20日に門人と彦根に出て、夜に井伊直弼を訪ね朝方に帰り、これが三日続いてようやく去った。


直弼は主膳に傾倒し弟子となった。
主膳は容貌典雅で和歌に通じていたが、眼光が鋭く油断のならない風であったとされる。
どのような伝手があったのかは不明だが、この後は京都に出て九条家に仕え、妻の瀧女は今城家に仕えた。

関白九条尚忠は英照皇太后の父であり孝明天皇の外戚にあたる。
また九条家は井伊家とは格別な関係にあった。
一方で今城定章の娘が孝明天皇の寵姫、今城重子であり彼女は同時に千種有文の姉でもある。
九条家では家宰を取り仕切る家臣の島田龍章と交際を結んだ。



やがて直弼が兄の死を受けて彦根藩主となると、主膳は直弼に招聘されて藩校・弘道館国学方に取り立てられ、さらに直弼の藩政改革に協力した。
直弼からの信任は厚く、安政5年(1858年)に一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると、主膳は直弼の命で京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推薦する徳川慶福(家茂)擁立に貢献した。
しかし、直後の安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、直弼に次いで恨まれる存在となる。
直弼が安政の大獄を行ったのは、島田左近などを通じて朝廷内部の動向に関する情報収集に当たっていた主膳が、戊午の密勅を察知することに失敗し、水戸藩士の「悪謀」を過度に進言したことが要因になった、と言われている。

安政7年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与したが、直弼の跡を継いだ藩主・直憲からは疎まれ、家老・岡本半介に直弼時代の功績や厚遇などを嫉視されて対立する。
そして文久2年(1862年)、文久の改革で井伊家が問罪されると、半介の進言を聞き入れた直憲によって斬首・打ち捨ての刑に処された。
享年48。
打ち捨ての刑にともない葬礼は禁止されたが、明治期になって直弼が顕彰されると、彦根の天寧寺に墓所が建立された。

主膳や宇津木景福がこの時期に粛清されたのは、島津久光の率兵上京による幕政刷新、井伊政権精算の圧力に自主的に対応したためである。
10万石減封、藩祖井伊直政以来の「京都守護」の地位剥奪など追罰は免れえなかったが、長野らに直弼の「失政」の全責任を負わせた結果、彦根藩では他藩のような内訌は起きず、王政復古後の政局に巧みに対応し、いち早く新政府軍に加わることができた。


             こういう事があったのですねぇ。
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月28日 00時55分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 箕輪城跡の北西約4キロの所に、箕郷(みさと)町善地がありました。私の
住む所と同じ地名ということで、興味があり行ってみました。榛名山の裾野
にある山あいの村。昔は「牧」があったということですが、今は梅林、梅の
産地でありました。私の住む善地と関係するものは特に見つからず、あきら
めかけて、近くに芝桜公園があるというので行ってみました。
 時期的にはまだ早いですが、三分咲き位に白とピンクの花模様が山の斜面
を彩っておりました。地元の物産店や茶店がありましたので、そこのおばあ
さんに訊いてみました――
 「この辺に善地という所がありますが、何か有名なものはありますか?」
 おばあさんは少し考えて――
 「ああ、私は善地だけれど、長純寺という檀家が千人もいるお寺が近くに
ありますよ。隣村になりますが……。」
 そのおばあさんと話をしていると、親戚が浜松に二軒あるという。清水家
と福島家であるという。何と群馬と浜松など遠く離れているので全然つなが
らないだろうと思っていたけれどビックリ。人は動くものであるということ
を改めて感じました。

 そのお寺に行ってみました。寺の近くに看板が建てられており、こう書か
れておりました――
 「箕輪城主の建てたお寺 曹洞宗実相院金富山長純寺」

 そのお寺の墓地の一番高い所に、「長野業政」の墓があったのです!
 おばあさんに教えてもらわなければ、知らずに帰っていたことでしょう!
 まずは、その墓まで一目散に駆け上がり、業政の墓に向かって般若心経を
二巻唱え捧げました。
 帰りがけに墓地の中を見ると、長野家の墓(扇子紋)、設楽家の墓(矢車)、
永井家の墓(一文字三星)、藤原家(下がり藤)、そして福島家、清水家等の墓
がありました……これらはおばあさんの親戚かも知れないと思いながら。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 01時59分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

背筋がゾクゾク寒くなりました。
おばあさんに話しかけて良かったですね。

善地という珍しい地名がヨソいもあったというのが不思議ですが
お墓も結構  あれ?  と思うものがあるものですねぇ。

    設楽家なんてねぇ
    東三河の地名ですよね(東三河しか思い至らない)


小さなご縁ですが
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121800754/
長純寺の長野業政公の像
高崎市にある指定文化財 市指定


長純寺は金富山実相院と号し、長野信業が開基した長野氏の菩提寺で、曹洞宗。

業政は信業の子で、木像は開基堂に安置されています。
高さ約35センチメートル、豊頬円満な容貌は古勇将を偲ばせます。


文化財情報
##指定種別:高崎市指定重要文化財
##名称:長純寺の長野業政公の像 (ちょうじゅんじのながのなりまさこうのぞう)
##指定年月日:昭和48年7月31日指定
##所在地:高崎市箕郷町富岡(長純寺)



ここでアップ

家紋  バッチリ 扇(檜扇紋)でしたので  続く。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 02時01分28秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F


上野長野氏(こうづけながのし)

戦国時代まで上野国西部を支配していた大身の武士である。
上州長野氏とも。

家紋は檜扇(ひおうぎ)
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 02時19分53秒 ) パスワード

長野氏の出自


本姓は在原氏。

『伊勢物語』の主人公であるとされる在原業平が、関東に下向したことが始まりであると伝わるが、もとより伝説の域を出ない。

ただ物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、当初は石上姓だったとみられる。また在庁官人の出身とも指摘される[2]。



長野一族の菩提寺・長年寺や後の居城・箕輪城を含むことから、上野国群馬郡長野郷(現・群馬県高崎市浜川町周辺)が本拠地とみられている。

なお同国吾妻郡長野原館に住んで長野を称したとする「長年寺系図」などの伝承もあるが、内容に問題が多く、また長野郷の名は戦国・江戸期以降に消えているため、長野原由来説は長野郷が忘れ去られた後世にこじつけで作られた誤伝とされる。


長野氏の人物が史料上にみられるのは、長尾景春の乱の最中の文明9年(1477年)5月7日、武蔵針谷原で山内・扇谷両上杉と長尾景春が戦ったときの記録で、この時に上州一揆旗頭として景春方にあった長野為兼が討死している[3]。また永正元7(1504年)の立河原の戦いで、長野孫六郎房兼が上杉顕定方で参加し戦死している[3]。ただし房兼・為兼は現存する系譜類にみえず、彼らの血縁関係は不詳である。また、「兼」の字を長野氏の通字である「業」の誤記・誤読として、正しくは房業・為業とする説もある[4]。

戦国時代中期まで上野国は関東管領の山内上杉氏の領国であり、守護代の長尾氏(白井長尾家、総社長尾家)の本拠地も上野に存在したため、長野氏はその上杉氏の下で上野国西部の豪族を取りまとめて「箕輪衆」を結成し、上杉氏・長尾氏に仕えていた。

上杉家中での台頭[編集]

房兼・為兼の没後、長野氏の勢力は一時後退したと見られるが、長野憲業は箕輪城を築城(父の業尚によるとも)するなど、上杉氏と長尾氏が享徳の乱・長享の乱や長尾景春の乱などで衰退するのと対照的に勢力を拡大させた。

大永7年(1527年)[5][6]には、長野左衛門大夫方斎[7]が厩橋宮内大夫とともに総社城にあった総社長尾氏の長尾顕景を攻撃している。この左衛門大夫方斎と厩橋宮内大夫は誰か諸説あってはっきりしない。


左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。

『日本城郭大系』では箕輪城主の長野信業、『群馬新百科事典』(上毛新聞社、2008年)の「長野氏」(飯森康広著)では長野方業、『箕郷町誌』(箕郷町、1975年)では長野信業(方斎)、『群馬県史 通史編3』では長野方業(方斎)、『戦国のコミュニケーション』(山田邦明著)[8]及び黒田論文[4]は方斎は方業の誤読とする。厩橋宮内大夫は厩橋城に拠った長野氏一族とみられるが、これも諸説ある(後述)。



厩橋長野氏

厩橋宮内大夫の一族は厩橋城(のち前橋城と改称)を築き、総社の長尾氏と対抗した。

この厩橋城主となった長野氏は、『前橋風土記』に歴代城主として初代・固山宗賢(長野左衛門尉)、2代長野道安、3代道賢、4代賢忠[9]と記載される。

黒田基樹の論文(「戦国期上野長野氏の動向」)は、固山宗賢(長野左衛門尉)を長野為業とし、2代顕業(聖仲)、3代賢忠とし、実際に厩橋を本拠地としたのは顕業の時代とする[4]。大永7年の厩橋宮内大夫はこのうちの誰かとみられる。

『日本城郭大系』は長野方業(方斎、賢忠)とみなす。

『箕郷町誌』は長野方業を指すとし、『前橋市史』は天文10年(1541年)にみえる賢忠が該当するといい、

『群馬県史』は宮内大夫を方業(方斎)の子かとした上で厩橋2代の道安のこととする[10]。

『箕輪城と長野氏』は道賢かと指摘する[11]。


黒田論文は、宮内大夫は賢忠で箕輪長野氏を継いだ方業の実兄でもあるとする[4]。



また、厩橋東隣の大胡郷へ厩橋長野氏は進出し、大胡氏に代わって大胡を支配した[12]。
大胡氏を一族化したともいう[13]。
ただし大胡の長野氏の名前は不明である。


天文10年(1541年)厩橋城主長野賢忠は、深谷上杉憲賢・那波宗俊・成田親泰・佐野昌綱とともに金山城主横瀬泰繁を攻めて敗退した。

その後、越山してきた長尾景虎に従う。

しかしその子・彦太郎は永禄3年(1560年)に陣中で誅殺され、賢忠もすぐ没したという。
このとき彦太郎の伯父は大胡を領していたが共に殺されたという[12][14]。

黒田論文は賢忠が永禄年間に没したとするのは、彼の代に厩橋長野氏が滅んだとする誤認に由来するもので、賢忠は天文10年の横瀬氏攻撃後ほどなく没し、道安―道賢―彦九郎(彦太郎・藤九郎はともに彦九郎の誤記・誤伝とする)と継承されたと説く[4]。

永禄4年(1561年)の関東幕注文には「厩橋衆」として長野藤九郎[15]・彦七郎がみえる。

なお「厩橋衆」所属の国人が他より少なすぎるため、上杉謙信の上野進攻時に厩橋長野氏が後北条方につき上杉の攻撃を受けて降伏し、衆が解体されたのではとも指摘される。

このあと厩橋長野氏・大胡長野氏は謙信により厩橋城を没収され没落した。



箕輪長野氏                                      ココですね

箕輪城主となった長野氏は、憲業のとき西上野方面へ本格的に進出し、彼の次男[16]・業正(業政)のときに強大となった。

業正は長尾氏の家督継承に介入するなど山内上杉氏家中で台頭し、河越夜戦で大敗した関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れて上野国を追われた後も、箕輪衆を取りまとめて、婚姻政策などにより西上野の支配圏をなおも維持した[2]。

しかし山内上杉氏に忠誠を誓っていたのは後世のイメージであり、史実とは異なる。
同時代史料によれば、河越夜戦ののち後北条軍が武蔵国の最前線・武蔵御嶽城を落城させると、長野氏は安中氏などとともに後北条方へと離反した。

これにより山内上杉氏は動揺し、憲政の直属である馬廻衆の裏切りとそれに起因する憲政の平井城退去を招いている。

その後、後北条氏が上野を支配したが、永禄3年(1560年)に上杉謙信が憲政を奉じて上野に進攻すると、箕輪長野氏は同盟状態であった総社長尾氏・白井長尾氏と真っ先に謙信に内応した。
以後は越後上杉氏の勢力下を維持している[17]。


永禄4年(1561年)に業正は死去し、同年には甲斐国の武田氏が西上野侵攻を行い、西上野において越後上杉氏と対立する。

武田氏は小幡氏・安中氏・後閑氏などの西上野国衆を勢力下に置いて箕輪城の孤立化を図り、業正の子の氏業は永禄9年(1566年)に敗れて自害、箕輪長野氏は滅亡、西上野は武田領国化される。




鷹留長野氏

業尚や憲業のころ長野氏は鷹留城にあり、のち箕輪城に移ったともいわれる。
その鷹留城は業尚の築城と伝え、箕輪城時代はその支城として機能した。
憲業のあと鷹留城には業正の兄の三河守業氏が入った。
この子孫を鷹留長野氏という。[2]


業氏は永禄5年(1562年)5月8日に、武田方へと離反した大戸城(城主は大戸氏)を攻めた際に戦死した[18]。
跡を長男の業通が継いだ。                               ココで何か胸に訴えるものがありました



永禄9年(1566年)の箕輪城落城のときには、鷹留城には業通や弟の大森別当・業固・勝業が篭っていたが、武田軍に箕輪城との連携を遮断され、内応よって箕輪より先に陥落、城主の業通は長男とともに越後国に落ち延び、鷹留長野一族は離散して没落した。

なお業氏の子・勝業はこの戦いの中で死去したという。[2]



箕輪落城後の長野一族

長野氏業の子・亀寿は落城時に家臣の藤井忠安・阿保清勝に伴われ脱出、のち出家して極楽院鎮良と名乗り、阿保清勝の姪を妻として5子があったと伝わる[2]。

なお極楽院鎮良は徳川家から印状を授与されている。

また別の長野系図によれば氏業の子には業忠という子があり、浜川の善長院を建立したという[19]。


鷹留長野氏では、業通の次男・業茂が落城後に仏門に入り、珠山玄宝となって和田山長純寺住職、
のち井伊氏に従い移住して彦根長純寺を開いたと伝わる(大雲寺記録)。            ヲイヲイ  ですね



業氏の次男・業亮は、長野氏が健在の頃から和田山大雲寺にあり、大森別当・曇廊などという。落城後に住職となり、井伊氏の移動に従って彦根大雲寺を開いた。[19]
                                             ココも


彦根宗安寺の開山・成誉典応も鷹留長野氏で、「大雲寺寺歴書」(天保9年)では曇廊和尚(業亮)の出家前の子だとされる。
「宗安寺記」では珠山玄宝の子とされる。
俗名は業連とも

                                        宗安寺って名前は多いのでしょうか?

                   http://loco.yahoo.co.jp/place/g-rQGUxVXuU4o/   
〒435-0051 静岡県浜松市東区市野町167−1 電話番号053-434-2200


また彦根藩井伊家の記録によると、次席家老の長野民部は長野一族だという。          やっぱりね



家伝では業正の子・業親の子が伝蔵(業実、業真)といい、武田氏の滅亡後、生母が井伊直政と知己だったことから井伊氏に仕えて4000石を得たとされる。
                                             なるほどね


『新編高崎市史 通史編2』は、業親が長野氏の系図にみえないため、業正の庶子か養子ではとする[20]。

一方、徳川家が長野業正の子孫を探した時、長野氏関係の寺院が連署で天保9年(1838年)に提出した報告によると、民部は珠山玄宝の出家前にもうけた次男・業源のことだとされている。[19]



長野一族

長野氏の歴代系譜は複数伝わるが、信頼性があるとされるのは長野乙業からである[2]。

しかし乙業以降も異同がある上、同時代史料上で確かめられる人物も少なく、正確な系譜は不詳である。


長野乙業 - 『箕輪城と長野氏』によれば、系譜中で存在が比較的信頼される最古の人物[2]。長野郷浜川に居住。「箕輪城考」に尚業の父としてみえる。『箕輪城と長野氏』では業尚の大叔父で子は無く、弟の隆業の系統が続いたとする。


長野業尚(尚業)[21] - 関東管領上杉顕定の執事と系図に伝わる。『箕郷町誌』では業尚の子。『箕輪城と長野氏』は方業の子とする[22]。


長野方業(固山宗賢、方斎[23]) − 厩橋城を築城したとも言われる。『群馬県史 通史編3』では業尚の子で憲業の弟、かつ厩橋の長野氏系の祖。『箕輪城と長野氏』は隆業の子で業尚・道安の父[22]。『日本城郭大系』・『群馬県人名大百科』では賢忠のこと。吉川弘文館『戦国人名辞典』「長野方業」項は箕輪長野氏の家督で憲業の後継者で業正の兄[24]。「戦国期上野長野氏の動向」では賢忠の弟で業正の父、かつ憲業没後に厩橋から入って箕輪長野氏を継いだとする[4]。


長野憲業 - 箕輪城主。長野信業とは同一人物[2]とも別人[25]ともされる。

長野業氏 - 鷹留長野氏の祖。鷹留城主。業正の兄。

長野業正(業政) - 「上州の黄班」と伝わる猛将。

長野吉業 - 業正の長子。河越夜戦で死去。

長野氏業(業盛) - 業正の後継。箕輪城で討死。



でも幕末の井伊直弼の懐刀の長野主膳は
前名は主馬(しゅめ)。
諱は義言(よしとき)。
桃之舎と号した。
ということで通字の「業」は使用してないですね。

     ということは上州長野氏とは別氏なのかなという疑問が出て来る???

[58]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 02時22分12秒 ) パスワード

家紋も違いますね:



こちらは剣花菱か?  剣がありますよね。
[59]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月28日 11時44分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 幕末の井伊直弼に関係した長野氏については、下記に載っておりますが、
やはり伊勢の長野氏のようです。でも家老は箕輪の長野氏でありました。
伊勢と群馬の長野氏は何らかのつながりがあったかも知れませんが、未調査
であります。
 私の高校時代の同級生にも「長野」氏がいますが、優秀で弁護士になって
おります。

      http://senjp.com/murakusai/   
     「戦国武将列伝Ω」の「長野無楽斎と長野業実」

 両方の長野氏、多賀大社、井伊氏、藤堂氏、たか女、何か結ぶものがあっ
たのかも知れません――
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 14時12分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


>両方の長野氏、多賀大社、井伊氏、藤堂氏、たか女、何か結ぶものがあったのかも知れません――

やはり  南朝方  の線でしょうね。


[61]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月29日 08時58分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 去年植えた「藤」の花が、見事に(マーベラス)咲き、特大のクマ蜂が2匹
蜜を吸っておりました。
 「藤」といえば、何といっても「熊野(ゆや)の長藤」……ということで、
池田の行興寺へ行ってまいりました。
 今が満開に近い状態で、「熊野の長藤まつり」が開催されており、平日で
はありましたが、結構な人が訪れておりました。
 藤の花は長い方がいい……行興寺の藤は樹齢850年……ということは、
1167年に植えられたということ。その年には平清盛が太政大臣になって
おります。

 「熊野御前は、池田荘の庄司・藤原重徳の娘として生まれ育ち(結構遠江
 には、藤原氏が多く来ています)、教養豊かな美しい女性で、和歌の道に
 も通じ、親孝行であったことから、当時の人々に「女性の手本」とされて
 いました。
  当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、大変寵愛されてい
 ました……。
  行興寺の境内には、熊野が愛した藤の花が植えられています。毎年5月
 3日は熊野御前の供養祭が行われています。」
と祭パンフレットには記されておりました。

 空から垂れ下がるようなしだれ藤の花の色……まるで薄紫と白の雲のよう
で天女が顔を出しそう……しばらくは息を止めて、何ともいえぬいい気分に
時間も止まりました。
 もちろん、熊野御前とその母の墓の前で、般若心経を2巻、心の中で唱え
祈りました。

 その後、竜洋の「磐田市歴史文書館」へ行き、古文書関係で何かいい資料
はないか探しておりました。
 1冊『わが邑 長野』という本があり、「長野」という言葉に魅かれてい
ましたので中を見てみました。長野地区というのは、磐田の中心部から竜洋
(海岸)の方(南)へ行ったところにあります。鎌田と掛塚の中間あたりで、そ
こには「白拍子」とか「千手堂」といった地名があります。平家との関係が
とても色濃く残っております。
 長野という地名には何か特別な意味があるような気がしています……いず
れ、その謎は解いてみたいと思います。

 なお、歴史文書館で、新刊『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』という本を
見付けましたので、アマゾンへ発注しました。明日届きますのでまた――
 
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月29日 10時43分20秒 ) パスワード

三つ柏さん

藤の花ですか
もう5月だったのですね。


藤の花の香りは上品ですよね。
透き通ったような上品さがあります。


ロスの我が家の裏庭にも藤を植えました。
新しい家主に切られてしまいましたが。


熊野御前はきっと藤の花のような美しくかぐわしい女性だったのでしょうね。
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


>新刊『姫街道の宿 市野と周辺の歴史』

ラッキーでしたね。
[63]三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月29日 19時25分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、今まで一度も行ったことのなかった静岡の奥座敷、「梅ヶ島」へ
行ってまいりました。
 ここは、もともと金山があったところ。今後まとめて記したいと思います。
本日はひと風呂浴びて眠くなってしまいました……。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月29日 22時59分13秒 ) パスワード

>眠くなってしまいました


子供のように元気いっぱいでいい事です。
[65]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月01日 00時23分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 群馬での「多胡碑」見学の件に触れます――

 想像していた「多胡碑」は、山の上かどこかにポツンと建てられている
イメージでありましたが、高崎から南の藤岡へ行き、そこから西に進んで
吉井という所に行くと、「多胡碑記念館」という立派な博物館があり、そ
の敷地内の一角に、覆屋(おおいや)で囲われた多胡碑がありました。多胡碑
のレプリカは記念館にあり、そちらの方が刻まれた入る文字がよくわかり
ました。
 資料を2点程仕入れ、家に帰って読んでみましたが、どうもはっきりい
たしません。期待したストレートにズバリという解説ではなかった。
 これらの解説より、以前購入した本――久保有政氏の『日本の中のユダヤ
文化』の中の解説の方が、スッキリとよくわかる(但し、藤原不比等との関係
はこちらも希薄であります)。
 久保氏の解説について、次回記します――
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月01日 07時05分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

あらあら残念でした。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%A2%91

多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。

山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」[1]と総称される。

また、書道史の上から、日本三古碑の一つとされる。


建碑は、その内容から8世紀後半とされる。                       へぇ〜


碑文

弁官符
上野國片罡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成
給羊
成多胡郡
和銅四年三月九日甲寅宣
左中弁正五位下多治比真人     名門 多治比氏ですね   
太政官二品穂積親王        天武天皇の第五の皇子さんですか
左太臣正二位石上尊        石上さんが出てますね
右太臣正二位藤原尊        これが不比等ですか



現代語訳

弁官局からの命令である。
上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡とせよ。
これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。
左中弁・正五位下多治比真人。
知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。




解釈

この碑文は、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置された[3]際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。

多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている。


特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。
現在では人名説が有力とされている。
また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人(中国北方の一族)を意味するものではないかとの見解もある。
近隣には高麗神社も存在することから、この説を有力たらしめている。




歴史

多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から郡衙(ぐんが、郡の役所)が置かれた場所と推定される。実際、平成28年(2016年)に多胡碑周辺において郡衙主要施設の正倉の遺構が発見されている[4]。

8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の永正6年(1509年)に連歌師 宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された『盍簪録』『輶軒小録』の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく。

近代になると明治9年(1876年)に熊谷県改変に伴って群馬県が新設された。楫取素彦が初代県令として就任し、その足で多胡碑を訪れ保護の重要さをうったえ、結果多胡碑周辺の土地が政府買い上げとなった。その後の関東大震災、戦時中の空襲などの被害を受けることも無かったが、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)、文部省通達により多胡碑は付近の桑畑に一時埋められることになった。これは進駐軍による接収を免れるための隠匿であったとされる。

近年には福田赳夫、福田康夫元総理、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹など、多方面に渡る著名人の訪問を受け、昭和50年(1975年)には学習院高等科学生であった皇太子徳仁親王も訪問している。昭和29年(1954年)、国の特別史跡に指定され、平成8年(1996年)には市立の記念館が併設された。現在多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存されているが、覆堂のガラス越しからでも肉眼ではっきりと碑文が読め、非常に良い状態で保存されている。また毎年3月9日近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催され、この日は覆堂の扉が開かれ一般公開される。また多胡碑記念館に事前に開扉申込みし、許可されれば扉を開けてくれる。




書道史上の価値

書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用された。

[67]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月01日 11時12分44秒 ) パスワード

瞬殺された




本日の「直虎」は面白くてギャハギャハ笑ってしまいました。


しのさん役の貫地谷しほり。
うまい!

直虎憎し!の嫉妬に燃え狂った表情が
あやめのヒトコトで憑き物が落ちたようにホッとした表情になった落差がウマ過ぎ!



しのさんは直虎を「おんな」として見て自分で勝手に嫉妬の炎を燃やして狂ってたけど
あやめが「違う!違う!あのヒトは「おんな」なんかじゃないわよ」と言ってハッと目が覚める。



しのさんは疑心暗鬼から
直虎が自分から1番大切な直親や虎松を奪おうとする以上に
直親や虎松が自分を捨てて直虎に走るのを懼れている。


だけど、あやめが
「あのヒトは<おんな>なんかじゃないよ。
あのヒトは<お・と・こ>。
あのヒトにとって直親さまも虎松さまも「同性の同士」なんだよ。
だからあのヒトは虎松さまの「父親代わりになりたいんだよ」
ありゃぁ、女なんかじゃないよ」


ま、こんなトコかな?


とにかく脚本家
うまいっ!
[68]三つ柏服部さんからのコメント(2017年05月01日 21時37分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、初ガツオの刺身をいただきました。やはり、この季節、初ガツオ
はくどくなく、歯ごたえもあってすがすがしい。タケノコもアラメと煮つけ
て、一緒にいただきました。その内、山菜の季節となり、ワラビ、タラの芽、
……いい季節になります。

 さて、上野(こうずけ 群馬県)の「長野」氏、やはり出自は名族の出であ
りました。その祖先は、多胡碑の文章の中に出て来る石上(いそのかみ)氏で
あり、物部氏の末裔であり、石上神社の社家だったようです。
 
 久保有政氏の説は次回に記します――

 ついでながら、瀬戸方久の出自もなかなかのものであったようです――
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月01日 22時38分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


初ガツオとは贅沢な!
そして「たけのこ」は数日前に採りに行った時の物ですか。

季節感満載で、いいですね。



「あらめ」は荒芽として食べたことは無いのですが
蒟蒻に入ってる黒いプチプチでしたか。

http://www.uwabe.co.jp/arame.html

伊勢志摩では「あらめ」は、昔からお供え物として伊勢神宮に献上され、
人々には乾燥させたものを臼(うす)で砕いて魚や野菜と煮て食べていました。

「刻みあらめ」は、この地方の猟師が「あらめ」ほしあを茹でて圧縮したものを包丁で刻み、
干し上げたものを京都方面のお寺に精進料理として売り出されたのが始まりと言われています。

関東では馴染みの薄い海藻商品だと思いますが、
関西では、お盆にあらめの煮物を作り、古くから食べられている食材です。

特に京都では、8月16日の朝にあらめを炊き、あらめの茹で汁を門口に流してお精霊さんをあの世へお見送りする風習があります。


馴染みの食材の中にあらめが!

「あらめ」と言われてもピンとこない方がたくさんいると思います。
実は、コンニャクの黒い点々は、細かな「あらめ」やひじきが入っているんです。
あらめは、昆布科の海藻で昆布に比べてやわらかい食感が特徴で、一度食べたらやみつきになる方もいます。




アラメはコンブ科の海藻。
長く硬い茎を持ちその先端が短く枝分かれし、その先にたくさんの葉が付いています。

海から採れたばかりのアラメは非常に硬く、噛んでみるとものすごく渋みがあることから、漁師さん、海女さんが採ったアラメは工場に運ばれ加工されて出荷します。



「あらめ」の由来は、わかめ(若布)より荒い感じがする「荒芽」からきていると言われています。

                                          あら、そうだったの。


海岸で生育するアラメはアワビなど磯根資源の餌や魚介類の産卵、稚魚の成育場としても重要な役割を占めています。



伊勢志摩特産の刻みあらめ

三重県の「アラメ」の生産量は、年間約200トン前後。主に伊勢志摩を中心とした海域で7月〜9月に採取されます。

伊勢志摩の海ではあらめ漁が7月〜9月の間、伊勢志摩の各浜で行われており、海女さんが海で採取をしています。
あらめを採取している町の海岸には、あらめがところ狭しと天日干しされ、夏の風物詩ともいえる光景です。


へぇ〜
ワカメより硬いからアラメなのか。で、昆布よりは柔らかい、と。
知らなかった。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月01日 22時41分14秒 ) パスワード

>上野(こうずけ 群馬県)の「長野」氏、やはり出自は名族の出でありました。
>その祖先は、多胡碑の文章の中に出て来る石上(いそのかみ)氏であり、
>物部氏の末裔であり、石上神社の社家だったようです。

なるほどね
それで  長野氏とか石上氏とか物部氏が繋がって  時代が下って  井伊氏に繋がるのかもですね。

 

>ついでながら、瀬戸方久の出自もなかなかのものであったようです

ただもの、じゃないですものね。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2017年05月02日 08時35分48秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101588.html

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